花音伝説 | ||||
第三部-魏桃華の霊 | ||||
第十五回-那恋心-1 | 第十六回-那恋心-2 | 第十七回-那恋心-3 | 第十八回-寿華峰-1 | 豊紳府00-3-01-Fengšenhu |
第十九回-寿華峰-2 | 第二十回-固倫和孝公主-1 | 第二十一回-固倫和孝公主-2 | 阿井一矢 | 公主館00-3-01-gurunigungj |
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富察花音(ファーインHuā yīn) 康熙五十二年十一月十八日(1714年1月4日)癸巳-誕生。 |
西六宮 平面図 |
東六宮 平面図 |
第十五回-那恋心-1
四川省でも厳しい取り立てに抗議する反乱が起こり、乱は直に鎮圧。 信徒は白蓮教に吸収された。
瑞貴人嘩蘭(フゥアラァン)を亡くして十年、啓祥宮は徐々に華やかさを失い黄昏ている。 七公主-固倫和静公主二十歳は皇太后が育て上げ、乾隆三十五年(1770年)ラワンドルジへ降嫁した。 京城の公主府に住んでいてもめったに来ない。 九公主-和碩和恪公主十八歳も皇太后が育て上げ、乾隆三十七年八月(1772年)札蘭泰へ降嫁した。 女子が生まれたが一度その子に会えたが、公主は年に三回も来ない。 十五阿哥-永琰(ヨンイェン)十六歳は静麓(ジンルー)が面倒を見ていてくれたが、ジンルーは昨年五十一歳で亡くなった。 十七阿哥-永璘(ヨンリィン)十歳は今、穎妃(インフェイ)が預かっている。 タァファから出てくるのは愚痴ばかりだ。 ヨンイェンが幼いときは静麓(ジンルー)がよくここへ連れてきて一緒に遊んだが、穎妃(インフェイ)は厳格だ。 フォンシャンの御成りは遠のいて、子供に毎日会えるわけでもない。 容貌の衰えはもう隠せない、せめて天狐に力が戻ればと思うが自分が死ぬまで戻らないと言われて絶望した。 七公主は最近具合が悪いと聞いて、自分の寿命を分けたいがそれも叶わぬ運命だ。 天狐もタァファと七公主どちらの寿命が尽きるのが先かわからぬと、妖力の衰えは隠せない。 せめてとファーインに頼んで様子を見に行ってもらったが、悲しい知らせを持って帰ってきた。 それは十公主誕生で「フォンシャンが喜んでいる」との話しがタァファまで届いてすぐの事だ。 西六宮と東六宮に別れてはいても自分の余命が付きそうだと、誰でもが知っているための様だ。
翊坤宮惇妃-汪氏(ワン)が十公主を出産。 公主はグルニグンジョとなる定めだと天狐は言う。 乾隆四十年一月三日(1775年2月2日)乙未-十公主誕生 天狐はもう直ぐ産まれる和珅(ヘシェン)の子に嫁がせようと見守ることにしたが桃華(タァファ)と花音(ファーイン)には伏せている。
乾隆四十年一月十日(1775年2月9日)乙未-七公主固倫和静公主二十歳死去。 二十歳死去とやはり皇太后の寿命を延ばす犠牲になって、余命を減らされていたようだ。 固倫和静公主と名前だけは皇后の娘でも、三公主固倫和敬公主とは比べようもない低い扱いの為、夫のラワンドルジにも不満はあったようだ。 五年の結婚生活の間モンゴルへは一度出かけただけでほとんどは北京で過ごしていた。
倭国貿易 乾隆二十二年(1757年)ヨーロッパ諸国商人との取引を広州(グアンヂョウ)一港に限定し、公行(コホン)と呼ばれた特権商人に独占貿易を行わせる広東貿易体制が開始される。 乾隆二十四年(1759年) 糸類海上積み出しの禁止 乾隆二十九年(1764年) 糸類禁輸の解除。 乾隆四十年(1775年)-金川諸国への遠征。 乾隆四十年(1775年)-混元教の教主劉松が捕えられた。 刑は殺さずに蘭州へ流刑とフンリは断を下した。 劉松の弟子安徽省出身の劉之恊は三陽教と名を変え弥勒下生を唱えて活動を始めた。
和珅(ヘシェン)の子に豊紳殷徳が誕生した。 この名は六歳の時(乾隆四十五年五月-1780年)にフォンシャンが与えたもので元の名は和孝(ヘシィアォHé Xiào)だが正史と言える物には伝わっていない。 固倫和孝公主の名も正史に伝わっていない。 和孝の母親は歴史ある一族の馮霽雯(ファンツマン)。 此の一族こそが「御秘官」の要を占める各部の指導者を何人も務めている。 祖父は内務府正黄旗統領だった、今も七十八歳ながら矍鑠としている。 刑部尚書に戸部尚書を歴任する学者だ。 阿公も寧波の一族で、阿公は和珅(ヘシェン)の亡くなった母親と姻戚だ。 何世代も満、蒙、漢の八旗間の婚姻で一族間では家柄より人物で長の候補を出してきた。 ただ罪を得て落剝した家では宦官への道しかない 乾隆四十年一月十九日(1775年2月18日)乙未-和孝(ヘシィアォ)誕生。 和珅(ヘシェン)二十六歳・馮霽雯(ファンツマン)二十五歳
天狐が見たとおりに男と聞いた桃華(タァファ)は魂魄を天狐へ預けることにした。 令皇貴妃魏氏が亡くなると、抜け出した天狐に憑いて桃華(タァファ)の魂魄が出てきた。
乾隆四十年一月二十九日(1775年2月28日)乙未-令皇貴妃四十九歳死去。
桃華(タァファ)は那常在譚氏(タンTan)が最善と考え、ファーインの霊に自分も一緒に入れてくれと頼み込んだ。 なんせ十一歳で入宮していきなり弘暦(フンリ)が常在にしたほどだ。 このころ妃嬪たちは那常在は産まれた年をいくつか下げてると噂していた。 壬申(乾隆十七年)の八月二十日の生誕だと内務府に記録が残るというが、気付いた妃嬪は居ない、これだと十四歳だ壬申と甲戌を間違えるお間抜け太監でもいたのか、それとも本人が干支を間違えるお馬鹿なのか。 当時舒妃(シューフェイ)は「絶対に信じない」と言っていた。 しかし美人とは言われてもフンリはお馬鹿さんとみてすぐに飽きてしまっていた、十一歳で美人と言うには相当のおませさんか十四歳が本当の様だ。 舒妃(シューフェイ)自身にも似たような噂が奴婢の間で広がった事がある。 乾隆六年の選秀入宮の時の「十三歳にしてはませてる」や「舒(シュー)貴人は本当に今年十四歳なの、陸答応がチェチェと呼ぶのはおかしいわよ。陸答応は十八歳何でしょ」や「本当は八旗選秀の時十六歳だったけど背が低いから年を胡麻化したそうよ」と姦しい。 噂が消えたのは高綏蓮(スイリン)が「貴方たち年を胡麻化してない」と聞きだそうとした。 「私が七歳の時、チェチェの三歳の元宵節に呼ばれたので間違いありません」 珠鈴(ヂゥーリィン)の言葉は信じなくても、静麓(ジンルー)の言葉には重みがある、高綏蓮(スイリン)も納得した。 高綏蓮(スイリン)をごまかすなんて怖すぎて誰もできない、永寿宮(ヨンショウゴン)からあっという間に奴婢の間に広がり噂話は消えた。
いきなり三つの妖力が潜り込んで来た那常在、タァファの力が及ばないうちに若さ美貌を鼻にかけて先輩の同じ承乾宮の主、愉妃や年老いた弘暦の言うことを馬鹿にし、答応へ降格されてしまった。
那恋心(ナァリィエンシィン) 乾隆四十年四月二十五日(1775年5月24日)-降格・那答応-譚氏(タンTan)二十二歳
これには桃華(タァファ)も困り、天狐とファーインに謝り、手綱を自分が確り取ると約束した。 タァファの心はフンリよりも子供に向いている、ファーインも贅沢に溺れるフォンシャンを見限った。 桃華(タァファ)はフォンシャンに未練はないと天狐とファーインに約束した。 フォンシャンの眼にとまり出世をしたのは皇太后の一族で衛士に仕官して苦労していた和珅(ヘシェン)だ、今は乾清門侍衛だ。 「御秘官」の仕事もこのままではフンリへ報告できないと焦っている。 那恋心(リィエンシィン)の姪の馮霽雯(ファンツマン)が嫁いでいて、子が生まれたとの報告に休みの此の日紫禁城へ来ていた。 御花園で那恋心(リィエンシィン)が非番の和珅(ヘシェン)と話をしているとフォンシャンがやってきた。 桃華(タァファ)に任せ、花音(ファーイン)は抜け出て和珅(ヘシェン)の後ろへ回った。 那恋心(リィエンシィン)がフォンシャンに声をかけると和珅(ヘシェン)の顔がフンリには昔の知り合いに似て見えた。 「どこかで会ったかな」 「衛士で乾清門侍衛でございます。本日は叔母に家の事で報告に来ております」 フンリは英廉から「結婚の許しをお願いします」と前に言われた男がこの男かと思い出した。 男から紫羅蘭(ヅゥルゥオラァン・菫)の花の香りが漂い、なぜかファーインを思い出し、懐かしくなったフォンシャン(皇上)は、和珅(ヘシェン)に「御前侍衛になる気はあるか」と聞いた。 「フォンシャン(皇上)の為にお役に立ちたいと存じます」 供をしていた福康安が和珅(ヘシェン)を御前侍衛に付かせた。 乾隆四十年十一月(1775年)-和珅(ヘシェン二十六歳)乾清門侍衛から御前侍衛昇進。 和珅(ヘシェン)に月のうちに新しいお役が告げられた、兼授正藍旗滿洲副都統。 「何があった」 人々が驚く上諭だ。 フォンシャン(皇上)にしてみれば親の常保が福建副都統で亡くなっている、正紅旗鈕祜禄氏と家も立派だ、おまけに英廉と縁戚だ。 何処が悪いくらいの気持ちだ。 承乾宮の愉妃はすでに六十二歳、婉嬪六十歳、永寿宮の舒妃が四十八歳。 フォンシャン(皇上)も六十五歳の老年だ。 那恋心(リィエンシィン)の中で天狐は男の精を取り込めず、不満が爆発しそうで桃華(タァファ)はそちらのご機嫌を取るのも苦労している。 福隆安(一等忠勇公)や福康安(軍機大臣・武英殿大学士)の反対を抑えて和珅(ヘシェン)は出世し続けた。 馮英廉(ファンインリィェン)六十八歳のこの時、刑部尚書という重職だ。 傅恒亡き後の富察一族に「御秘官」の事は教えられていない。 英廉も刑部尚書を乾隆四十二年十月まで勤め、隠居するつもりが、戸部尚書へフンリが横滑りさせた。 こうなると「御秘官」の組織も和珅(ヘシェン)の事を助けてくれる。 リエンシィンは巧みに和珅(ヘシェン)に持ちかけ、老年のフンリを夜伽に誘い込んだ。 こうなればタァファの床上手の思うがままの振る舞いに、フォンシャンはお溺れこんでいくだけだ。 六十五歳を過ぎて技巧も力強さも自信はなくなったが、若いときに覚えた手管を頼りに女を善がらせ、いつでも征服できると思っていた。 ファーインは寝床へ腰かけ、息も荒くなってゆく夢で興奮する二人を見ていた。 二人は見させられている夢と同じ行動をしている。 タァファのわらい声が寝屋に響くと外の夜番は「さすがフォンシャン(皇上)は違うものだ」と感心する。 天狐とタァファの操り芝居の夜も更けた。 しかし天狐は位階を動かさぬようフンリに吹きむことも忘れなかった。 承乾宮の主は愉妃佳玲(ジィアリン)だが偏殿は豪華に装われてきている。 三体の霊魂に乗っ取られたエンシィンは、緩やかに変化し、それまでと違い佳玲(ジィアリン)を母親のように敬い孝養を尽くしている。 蝴蝶(フゥーディエ)には叔母の面倒を見るがごとくとなり、二人はすっかり懐柔された。 和珅(ヘシェン)は地方を遊歴したとき、道人と知り合いその老人が造る「保精丹」という名の延命薬を思い出して買い求めてフンリに献上した。 乾隆四十一年三月(1776年)-和珅(ヘシェン二十七歳)軍機処、軍機大臣。 乾隆四十一年四月(1776年)-和珅(ヘシェン二十七歳)内務府総管、内務府大臣。 名門富察家の福康安でさえ三等侍衛から階段を上るように軍機大臣・武英殿大学士まで五年掛かっている、父親の傅恒は六年。 それを四年で登った、しかも御前侍衛に就任後わずか半年足らずで登った。
弘暦(フンリ)は各地から和珅(ヘシェン)が取り寄せる老化防止の薬が頼りで夜伽も途絶えがちだ。 それでもリィエンシィンが微笑むと男の精気が蘇る気持ちになる。 入り込んでいる桃華(タァファ)の技巧にあふれた寝姿に天狐の妖術は、フンリに房術の限りを尽くして奉仕させた。 フンリは男としてリィエンシィンを征服していると信じていたが、天狐が見させる夢で、リィエンシィンも同じように夢の中だ。 物足りなくなれば和珅(ヘシェン)が最近献上した薬でフンリを奮い立たせ、残り少ない精を取り込んだ。 余命二十五年とは気付かない様だが死にたくはないと和珅(ヘシェン)に頼っていいなりだ。 那恋心(リィエンシィン)のもとへ通うフォンシャン(皇上)の輿は和珅(ヘシェン)の息のかかったものに入れ替わっている。 弘暦(フンリ)には那恋心(リィエンシィン)が昔の桃華(タァファ)に似てきたことに気が付いていない。 和珅(ヘシェン)は道人の紹介で知った「活精丹」という名の性秘薬があることをフンリに話すと持ち帰れと命令された。
ファーインは冷静にその様子を影に入り見ているだけだ、房事の始まる前に抜け出し佳玲(ジィアリン)か蝴蝶(フゥーディエ)の部屋へ遊びに行けば二人の話す街の噂話で時が過ぎる。 年取った二人の話題はファーインの事にも及ぶことが多い。 やはり西二所、今の重華宮(ヂォンフゥアゴン)の事が懐かしいのはファーインの若いままの霊魂が放つ、ほのかなスミレの香りが二人に届くのだろうか。 同じように老年になった依諾(イーヌオ)や桂英(グゥイィン)に璃茉(リームオ)が泊りがけで訪ねてくれる。 依諾(イーヌオ)は佳玲(ジィアリン)が子供もここから嫁に出したが、夫が天津の知事に出世して京城には出てこれないそうだ、イーヌオは三人子供がいて孫が八人居るという。 三代続く掌事宮女を狙ってると娘婿が言うので困るイーヌオだ。 桂英(グゥイィン)は見ないと思っていたら昨年亡くなったと話題が出て聞いていたら、六十一歳だったという。 それで気が付いたタァファの中で歳を忘れていたが「私が死んで四十年以上経つんだ」と改めて佳玲(ジィアリン)や蝴蝶(フゥーディエ)を見れば六十過ぎのおばあさんだがしわくちゃというほどでもない。
乾隆四十一年八月十日(1776年9月22日)丙申で何歳だろうと二人に話させようと念を送ってみた「私にも少しぐらいできるかも」すると二人は歳の話を宮女に助けられながら始めた。 まずタァファから始まりジンルーで躓いた。 舒妃(シューフェイ)はまだ四十九歳、これには二人は宮人に冊子を持ってこさせるほど驚いている。 格格になった時のことは鮮明に覚えている様だが、最近の事はよく忘れると承乾宮掌事宮女の桂茉(グゥイムオ)が笑ってる。 「馬鹿におしでないよ」 口では言うがすでに友達扱いしている。 珂里葉特佳玲(ケリェテヂィアリン)愉妃六十三歳に陳蝴蝶(チェンフゥーディエ)婉嬪六十一歳だと分かった。 「チェチェ、那恋心(ナァリィエンシィン)を出世させて他へ出しません。そしたら私が後釜に偏殿に入りたい。交換でもよくてよ」 「妹妹(メィメィ)、あなた五十年前もファーインチェチェにそう強請っていたでしょ」 「ファーインチェチェが亡くなってまだ四十二年にならないわ。五十年は大袈裟よ」 じれったいファーインだが割って入るわけにもいかない。 「と云うことは延禧宮に四十年以上居るわけね」 延禧宮掌事宮女の華児(ファアル)は聞いて驚いている「娘娘、私が来てから十年ですが、その前にも多くの宮人が延禧宮で仕えているのですか。他の寝殿に入られていないのですか」吃驚眼とは此の事だ。 「春李(チゥンリ)に聞いてごらん」 「えっうそっ」と耳を疑ったが思い出した蝴蝶(フゥーディエ)が懐かしがってつけた名だ、入ってきたとき桃李(タァオリTáolǐ)なんて欲張った名前だった「困ったわね桃は使えないのよ」って変えた、もう三十歳は過ぎたはず。 ファーインはいろいろ思い出してきた。 「桃李不言,下自成蹊からとったと言ってたわね」 蝴蝶(フゥーディエ)の声でまた聞き耳を立てた。 「あの子はもう二十年も私に仕えてくれてるから、代々の掌事宮女くらい覚えてるわよ」 そういえば格格のころから璃茉(リームオ)は二十年は仕えていたはず「物持ちがいいわね」と言ってやったが耳には届かない。 「みんな欣妍(シンイェン)には苦労したわね」 佳玲(ヂィアリン)はお茶を啜って言い出した、それもいい思い出に代わってしまったようだ。 欣妍(シンイェン)の子が蝴蝶(フゥーディエ)の養子になったことで悪い思い出は捨てて満足してるようだ。 璃茉(リームオ)はファーインが桃華(タァファ)に潜り込んでいたころ、二等侍衛の嫁に乞われて一緒になったと思い出した。 あの侍衛はその後一等侍衛で楽隠居したはず、子供も二人産まれて居たはず。 桃華(タァファ)のおかげで飛び飛びだわと愚痴ってみた。 お茶を啜るたびに顔がほんのりと桜色に為っている、また露西亜の酒でも混ぜているようだ。 「所でなんで承乾宮(チァンチェンゴン)の偏殿に住みたいの」 「夜中に行列して外を歩く必要ないでしょ。チェチェだって此処へ来たら長っ尻だもの」 「なんだ不精なだけじゃないの」
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第十六回-那恋心-2
和珅(ヘシェン)と手を結んだ淡鵬(ダァンパァン)が養心殿を取り仕切った、ダァンパァンだってもう六十歳、弟子の嘉淵(ジャユアンJiā Yuān)に代わっていていい歳だ、老公入り目前で欲が出たようだ。 嘉淵(ジャユアン)は三十歳、ダァンパァンの三人目の弟子だ。 和珅(ヘシェン)はまだ二十七歳。 弘暦(フンリ)はこの年六十六歳、後宮も年寄りが増えた。
乾隆四十一年五月~八月
寶月樓 容妃
咸福宮(シャンフーゴンXiánfú gong) 柏常在・柏佳氏(パァイギャ)
長春宮(チャンチュンゴン・Cháng chūn gong) 長春仙館
啓祥宮(チィシャンゴンQǐ Xiáng gong) 金常在→乾隆四十一年十一月金貴人
麗景軒 空き
儲秀宮(クシュゴン・chu xiu gong) 順貴人・乾隆四十一年六月順妃 明貴人(芳妃)乾隆四十一年四月常在から復位-偏殿
翊坤宮(イークゥンゴンYì Kūn gong) 惇妃
永寿宮(ヨンショウゴンYǒng shòu gong 舒妃(シューフェイ)珠鈴(ヂゥーリィン) 誠嬪-偏殿 平常在-平得子(ピィンディズゥ)・偏殿→後殿へ
鍾粋宮(ユンツイゴン・jung t’sui gong) 空き
承乾宮(チァンチェンゴンChéng qián gong) 愉妃-佳玲(ジィアリン) 林貴人(恭嬪)・後殿 那答応-盧氏・偏殿
景仁宮(ジンレンゴンJǐng rén gong) 穎妃 陸(禄)貴人・偏殿
景陽宮(ジンヤンゴンJǐng yáng gong) 鄂常在
永和宮(ヨンホゴンYǒng hé gong) 循嬪(循妃)・乾隆四十一年十一月 宁常在
延禧宮(エンシゴン・yan xi gong) 婉嬪-蝴蝶(フゥーディエ) 慎貴人・偏殿 晋答応-富察氏(フチャ)-後殿
伊爾根覚羅氏(イルゲンギョロ)のお姫様登場。 乾隆四十一年十一月十四日(1776年12月24日)丙申-冊封循嬪(シィンピン) 十九歳こぼれんばかりの笑顔で紫禁城に登場。 フォンシャン(皇上)はカスティリオーネの残した工房に似顔絵を描かせた。 カスティリオーネの残した満人特有の型にはまった顔に出来上がり丸顔に近いのに何でと不満だ。 景仁宮(ジンレンゴン)偏殿に入り、穎妃に規範を習い、毎日楽しそうに十一歳になった永璘(ヨンリィン)と蒙古語に満州語、漢語入り混じって会話をしている。
「御秘官」の組織は年老いた皇帝に仕えるか、馮氏(ファン)が嫁いだ和珅(ヘシェン)が組織を改めた方へ従うか決断を迫られていた。 内務府は馮氏(ファン)の一族の力が強いが、軍機処は富察一族が抑えているが和珅(ヘシェン)の台頭以来押され気味だ。 那恋心(リィエンシィン)が和珅(ヘシェン)とともに「御秘官」の幹部を集めた。 今の長は洪亮、老公入り後、もしくは永琰(ヨンイェン)が皇太子と披露されれば次の長は袁洪玄が適任と選ばれた。 「御秘官」もまさか六十六歳の弘暦(フンリ)が後二十年も皇位を継承させないとは読んでいなかった。 次の皇帝に永琰(ヨンイェン)十七歳が最適と今からその工作をと告げた。 幹部にとって永琰(ヨンイェン)を頭に頂くことは、弘暦(フンリ)が後継者を永琰にするよりも「御秘官」が次の皇帝を永琰に選ぶという都合の良い口実となった。 なにより永琰に何の利害関係のない那恋心(リィエンシィン)の言うことに反対するものは居ない。 それだけ今の「御秘官」の幹部は弘暦(フンリ)を信頼していないのだ。
桃華(タァファ)の思惑通り天狐が操る那恋心(ナァリィエンシィン)は、フンリと和珅(ヘシェン)を虜にした。
和珅(ヘシェン)は英廉の忠告を聞かず「和第」と自慢する屋敷を建築中だ。
後世、人は賄賂による蓄財という。 和珅(ヘシェン)が「結」から一万両の銀を資金に与えられ、劉全がそれを運営し、十年もたたずに五十万両の資金が集まった。 二十年以上誣告も弾劾もないなら真実ではない。 嘉慶四年の和珅(ヘシェン)逮捕の時、罪を見逃していたと敵対勢力の福長安(正紅旗満州都統・鑲白旗満州都統・一等侯爵)が下獄したのはなぜか。 一気に皇室の勢力拡大を図ったとしか考えられない。
「和第」の基本設計をフンリ自ら絵に描いて、それを見せられては反対の理由もない。 和国にも似たような事例は柳沢吉保が徳川綱吉をもてなすため、自ら設計した庭園に六義園となずけた。 場所は后海を背にし、東に前海が臨む場所。 和珅(ヘシェン)二十七歳、いきなり何十万両の賄賂が飛び込んでくるはずもない。 これが嘉慶帝即位後完成なら蓄財の一部と言えるだろう。 「月牙川が龍のように敷地内を巡り、遠くに見える西山はうずくまる虎の如し」 湖心亭のある湖の水は玉泉湖から引かれている。 独楽峰・蝠池・安善堂・福字碑・邀月台・蝠庁が整然と並んでいる。 風水師が選んだのだろうか、邀月台の手前は滴翠岩という岩山、秘雲洞という通路が東西に通い。洞中に康煕帝の筆の「福」の字の刻石がある。 この岩は弘暦(フンリ)が贈った。
乾隆四十一年十一月(1776年)丙申-和珅(ヘシェン二十七歳)国史館副総裁。 乾隆四十一年十二月(1776年)丙申-和珅(ヘシェン二十七歳)総管内務府三旗官兵事務。 英廉はまだ刑部尚書を務めている。 福康安は四川への出征の準備を命じられ京城(みやこ)を後にした。 英廉の力は和珅(ヘシェン)も一目置く存在だ。
ジィアリンの元へ阿公の死が告げられた。 阿公の呉智雷が老公隠居所から依諾(イーヌオ)の実家の離れに引き取られ、五人のお付きに見守られての大往生だった。 死の日の朝、餃子に鳥の白湯が食べたいと昼に用意させ、食べ終わるといつものように昼寝をした。 起きないのを心配して見に行くと大往生していた。 乾隆四十二年一月九日(1777年2月16日)丁酉-呉智雷九十七歳死去 康熙二十年辛酉に産まれ、康熙帝から康熙五十年辛卯の年に三十一歳で弘暦(フンリ)のお付き太監を命じられ、弘暦(フンリ)に仕えた人生は恵まれていると他人に見えたはずだ。 ファーインは約束を守れなかったが、佳玲(ジィアリン)が八十歳の時、老公の隠居所から移して呉れていた。 春李(チゥンリ)は二人の使女を雇い入れ阿公に仕えさせた。 関玉(グァンユゥ)もその時八十の祝いに銀百両を送って生活に疎漏無い様にしたのだ。 ファーインは天狐から教えてもらえた「御秘官」の長の話にそれほどの驚きもなかったが永璜(ヨンファン)も自分も、阿公に報いることなく死んだことが悔しかった。 弘暦(フンリ)から正式に「御秘官」統領、長として乾隆元年(五十六歳)から乾隆十年(六十五歳)までの十年間務めて隠居していた。 ファーインは那恋心(リィエンシィン)から抜けて佳玲(ジィアリン)や蝴蝶(フゥーディエ)の昔話を聞いて偏殿に戻ると、放心したように那恋心(リィエンシィン)の隣へ座った。 霊になって初めて涙が流れていることに気付いた。 「お前、おい、霊魂に涙があるなんてどういうことだ」 「知らないわよ」 永璜(ヨンファン)が亡くなっても出なかった涙が、出ることにファーインも自分がどういう存在なのか不思議に思うのだ。 傍に掌事宮女の藩凛(フアンリンHan Líng)がいてリィエンシィンと会話が弾んでいても霊の会話は二人には届かない。 藩凛(フアンリン)元の名が藩玲(フアンリン)、さすがに佳玲(ジィアリン)の玲は使えず凛に改めた、那恋心(リィエンシィン)の懐刀だ。 「御秘官」の漢族の譚氏(タンTan)の出だ。 和珅(ヘシェン)の嫡妻馮氏(ファン)は那恋心(リィエンシィン)の姪。 馮霽雯(ファンツマン)の母方祖父は譚氏(タンTan)、藩凛(フアンリン)の祖父の兄。 譚氏(タンTan)と馮氏(ファン)は何世代も婚姻で絆は深い。 その一族の要の英廉は阿公の後の「御秘官」の長を務め終え、今は七十一歳にして戸部尚書に就任予定だ、弘暦(フンリ)の信頼は厚い。 今晩はタァファも大人しい。 「今抜け出ればまた千年は修業が必要かもね」 そうタァファに脅されて勢い那恋心(リィエンシィン)が駄々を捏ねるのも、天狐の不満が募るせいだ。 やっぱりぬけ出て駄目だったは怖いらしい。 強がりを言ってもまだ自信というほどの物は湧いてこないようだ。 見ているファーインは天狐も美人に弱いのかなと思うのだが、亡くなる前のタァファは、子供に寿命を与えたせいで五十前なのに蝴蝶(フゥーディエ)に比べたら皺皺の老婆一歩手前。 潜り込んだころの面影などどこにもないが、弘暦(フンリ)には三十歳のころのままに見えていたようだ。
その天狐の不満を弘暦(フンリ)が那恋心(ナァリィエンシィン)をなだめ、和珅(ヘシェン)ともどもリィエンシィンの機嫌をとるのを年老いた皇太后は心配するが、その皇太后も天狐は後二年も寿命はないと見ている。 那答応は位階に野心はないと分かれば、妃嬪たちもやりたいようにやらせるほうへ傾いた。 すべて和珅(ヘシェン)に懐柔されてきたようだ。 天狐は穎貴妃(イングイフェイ)巴林氏(バリン)や容妃(ロォンフェイ)-和卓氏(ホージャ)に贈り物攻勢が効かないと見るや、和珅(ヘシェン)に深入りしないように求めさせた。 あれだけ活力に優れ、人付き合いも過剰なほど贈り物攻勢の珠鈴(ヂゥーリィン)だが、子供を亡くしてからはずいぶんと気弱なことも見せるこの頃だった。 特に静麓(ジンルー)が亡くなってからは若い妃嬪に甘く見られがちだった。 佳玲(ジィアリン)に蝴蝶(フゥーディエ)がいなかったら寂しい後宮生活だったろう。 相次いで貴妃、皇貴妃、妃と亡くした後宮は世代交代が進んだでかたずけられない寂しい時代だ。 乾隆三十九年七月十五日静麓(ジンルー)慶貴妃五十一歳死去。 乾隆四十年一月二十九日桃華(タァファ)令皇貴妃四十九歳死去。 舒妃(シューフェイ)が亡くなった。 静麓(ジンルー)が居なくなり、桃華(タァファ)も亡くなり、佳玲(ジィアリン)と蝴蝶(フゥーディエ)くらいしか昔を語れない。 若い時の威勢良さはすっかり影を潜めていて、亡くなるときもあっという間に苦しまずに逝ってしまった。 乾隆四十二年五月三十日(1777年7月4日)丙申-舒妃五十歳死去。 最後のわがままは静麓(ジンルー)のいた永寿宮(ヨンショウゴン)へ移りたい。 弘暦(フンリ)は珠鈴(ヂゥーリィン)が独り立ちしたのも永寿宮(ヨンショウゴン)だったと思い出して快く了承し、珠鈴(ヂゥーリィン)は乾隆四十年に引っ越した。
最近妃嬪の寝宮の移動が多く、新米の宮女に太監は今どこにお住まいですかと情報交換に忙しい。 例えば舒妃(シューフェイ)の永寿宮は穎妃-巴林氏(バリン)。 承乾宮偏殿に婉嬪(ウヮンピン)、空いた延禧宮へ循嬪。
十一阿哥永瑆(ヨンシィン)は二十六歳、富察氏と大婚の礼を上げて十一年が過ぎた。 フォンシャンの許しを得て承乾宮(チァンチェンゴン)へ佳玲(ジィアリン)と蝴蝶(フゥーディエ)にお土産付きで富察音寶(インバォ)と子供を伴って訪ねてくれる。 五十五歳と五十三歳の老年の二人には楽しいひと刻が訪れる。 十歳になった綿懃(ミェンチィン)は二人を実の祖母のように懐いてくる。 綿懿(ミェンイー)は七歳のやんちゃ坊主、そのほか側福晋も多くの子を産んで一家は賑やかだ。 富察音寶(インバォ)は子供たちを置いて永瑆(ヨンシィン)と二人で長春仙館へ拝礼に向かった。 二人の子は佳玲(ジィアリン)が預かった、昔の英鶯(インイン)のお手本の手習いを父親から言われて残ったのだ。 それ私の形見分けだぞってほんとあんたは物持ちいいよね、永瑆も延禧宮へ出向いてくれる佳玲(ジィアリン)からその手本で書を習っていたっけ。 永瑆が能筆なのは有名だし、手紙をもらうと額装して残す人も多いそうだ。 花音(ファーイン)が付いてゆくと御花園では手をつないで歩いている、わざわざ重華宮の門まで行って二人は懐かし気に何事かささやいている。 富察音寶(インバォ)が俯いている、見たら、永瑆が周りを見回している「ゲッ、やっぱり噂通りに気に入らないと叩くのは本当か」緊張したら肩を抱いて唇を吸ってる、心配して損した気分のファーインだ。 仙館で拝礼を終えて儲秀宮(クシュゴン)の前を抜けて長康右門から御花園へ入っていった、長康左門から廣生左門で承乾門へ出てまた抱き寄せて唇を寄せている。 何て夫婦だ此処でそんな事するなよ、こっちが誰かに見られてないかドキドキするじゃないか。 太監の間にいまだ欣妍(シンイェン)の事をよく思わない者が残って居て、永瑆(ヨンシィン)が富察音寶(インバォ)を虐待しているなど噂をしていた。 絶対に嫻皇后の元で働いていた奴らだよ。 フゥーディエだってジィアリンだって欣妍(シンイェン)にはいい印象なんてないけど、四歳の子供に罪などないと桃華(タァファ)の頼みを快く引き受けて親身に面倒を見ていた。 花音(ファーイン)は蝴蝶(フゥーディエ)の為に王府へ様子を窺いに行くと夫婦喧嘩など見た事もない円満な家庭だった。 家では吝嗇で富察音寶は粗末な衣服で暮らしているなど、でどこ不明のうわさはフォンシャン(皇上)まで届いていた。 「御秘官」に捜査を命じ、誤解と分かり噂が出ぬよう身を引き締めよと永瑆に言ったことが尾鰭を付けて泳いでいる。 洪亮という太監が永瑆が養心殿を出た後で福康安に捜査の報告もしていた。 ぼんやりしてるように見えて英廉の後の長を務めて九年目の男だ。 その場に福康安もいたのは、妹の事を心配していたのでフォンシャンが呼んだようだ。 奴婢たちも家政を仕切る袁という老人も夫婦の仲の良いことを自慢している。 噂は怖い、このままでは後世に批判する人も多く出そうだ。 蝴蝶(フゥーディエ)に届いてくれと念じたがフゥーディエはそもそも噂を信じていないことが意識として帰ってきた。 佳玲(ジィアリン)に話して居たのが聞こえてくる。 「だって少しでもほんとなら、妹思いの福康安が黙っゃいないよ。いくら親王でも富察と争うわけにゃいかない事くらい永瑆も承知してるよ」 天狐曰く「軍機大臣」後は教えて呉れない。
世の中も変動があいついでいる。 乾隆三十九年(1774年)の八月、山東省で清水教教団を率い王倫が蜂起した。 「御秘官」の中核を占める運送業者にとって大事な地域だ。 和珅(ヘシェン)はその際、其処へも手を伸ばし自分の経営する店へ参加したものを優遇した。 家僕として和珅(ヘシェン)の子供時代から仕えている劉全が精力的に事業をまとめ、和珅(ヘシェン)と和琳(ヘリン)の金の管理はこの男に委ねられている。 質屋は有名だが配下に金貸し、抜け道の美術商まである。 一番の儲けは運送業だ、河族まで配下に加わる者達が出てきた。
乾隆四十二年十月(1777年)丙申-和珅(ヘシェン三十八歳)満州八旗、警察権、裁判権を掌握。 英廉は刑部尚書から横滑りで戸部尚書へ移動した、すでに七十一歳の老年だ。 司法官から財務官へと移動したのは司法を和珅(ヘシェン)が任されたからだ。 戸部尚書は土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を司掌する大事な職だ。
惇妃(ドゥンフェイDūn Fēi)は嬪に降格。 降格理由は翊坤宮(イーケンゴン)の宮女を殴り殺した事だ。 穎妃(インフェイ)は憤り、処罰を迫るとフンリは「生殺与奪は自分のものだ」と穎妃に憤った。 「話しが違う」怒るなら惇妃を怒れと、満州、蒙古系の妃嬪は連絡を取り合って集会が開かれた。 容妃は西苑の宝月楼にいて惇妃は怖いものなしだったようだ。 「話しがおかしくなってる」 ファーインはタァファと手を打つ相談をして那恋心(リィエンシィン)は漢族の妃嬪を糾合して処分を迫ると、ようやく妃嬪たちに押し切られるようにフンリは降格を決めた。 乾隆四十三年十一月(1778年)戊戌-降格惇嬪(ドゥンピン)三十三歳
乾隆四十四年八月(1779年)己亥-福長安-工部右侍郎 乾隆四十五年正月(1780年)庚子-福長安-軍機処行走 富察の一族は福康安が戦場に赴くと福長安に期待をかけた。
乾隆四十四年十月(1779年) 弘暦(フンリ)はパンチェン=ラマ六世を京城へ招いた。 清朝の宗主権の確認をしたことで皇帝の面目は保たれた。 十公主は吉祥天母の生まれ変わりだとフォンシャン(皇上)へ言上した。 有る説にはダキニ天の化身として特別に扱いリソナム・ペルキ・ドルジと言う名を授けたという。 京城(みやこ)で流行った天然痘で乾隆四十五年十一月一日(1780年11月26日)パンチェン=ラマ六世が西黄寺で亡くなると、残された遺産を巡り争いが始まった。 ゴルカ朝ネパールの武力介入を招いて第一次ゴルカ紛争に発展した。 ロサンペルテン=イェーシェー・パンチェン=ラマ六世-四十三歳入寂。 乾隆三年(1738年)~乾隆四十五年(1780年) 3世ロルペー・ドルジェ「ジャサク・ラマ」が葬儀を仕切って盛大に行われた。 乾隆四十五年三月(1780年)庚子 豊紳殷徳(フェンシェンインデ)六才、十公主六歳と婚約。 此の婚約に疑問を待たぬものは皆無だ。 空狐は先読みしていたのだろうがファーインとタァファは仰天した。 いかに和珅(ヘシェン三十八歳)が満州八旗、警察権、裁判権を掌握しても公主を降嫁それも共に六歳という年齢で婚約とは。 皇貴妃も皇后もいない後宮に異議を申し出る力もなくなっていた。 英廉は此の婚約を置き土産に七十四歳で隠居した。
弘暦(フンリ)は皇太后の死後後宮の力が強くなることを恐れた。 七十歳という老皇帝は子供たちも信用せず、政権から離れることを恐れた。 自分の手足となる和珅(ヘシェン)三十一歳とその弟和琳(ヘリン)三十歳を指揮しているつもりだ。 必要な資金は二人が都合をつける、三百万両程度は軽くひねり出してくる。 信頼しない方が可笑しいと弘暦(フンリ)は自慢する。
永琰(ヨンイェン)の格格劉佳氏が子供を産んだが三月足らずの命だった。 乾隆四十四年十二月二十九日(1780年2月4日)大晦日巳時大阿哥を出産。 乾隆四十五年三月六日(1780年4月10日)に夭折,追封穆郡王。
毓慶宮(イーチンゴン)は悲報の後はおめでたが続いた。 長公主 次公主
穎妃の腹心武常在が貴人に冊封。 ファーインのように痩せてきて顔に赤みが差し、下膨れになっていく。 太医からもフゥアラァンと同じ病で、手当ての方法が見つからないと穎妃(インフェイ)に非情にも告げられた。 乾隆十二年(1748年)蒙古からお付き女官として十二歳でやってきた。 弘暦(フンリ)が乾隆二十九年常在にしたのは働きを称賛しての事だった。 この時二十九歳、蒙古からお付きで出てきて十七年目の事だ 乾隆四十五年十一月二十日(1780年12月15日)庚子-冊封武貴人。 乾隆四十五年十二月一日(1780年12月26日)庚子-武貴人四十五歳死去。
翊坤宮惇嬪(ドゥンピン)が位階を戻した、いつの間にかと言うしかない。 乾隆四十五年十二月六日(1780年12月31日)庚子-惇妃(ドゥンフェイ) 六歳になった十公主の可愛さにフンリが負けたようだ。 それと殴り殺した遺族に銀百両が贈られたこともあるようだ。 給与も止められていて馮霽雯(ファンツマン)が手を回さなければ太監にも逃げられるところだった。
乾隆四十六年(1781年)辛丑二月-西巡四回目 青雲法師に対し、五年後に再び五台山を訪れると約束した。 「台頂まで登らずに、五方の文殊菩薩を拝したい」 七十一歳の弘暦(フンリ)は全てを回れるには年を取りすぎたが、後五年は生きられると自信があるようだ。 西巡のたびに雨続きの五台山は今年も雨が続いた。
桃華(タァファ)の姿を拝みたい人々は六年前に亡くなったと聞いて寺に供養を頼む富豪たちで溢れた。 伝説となり人々はもう一度お姿を見たい、拝みたいと願いは強まっている。 絵姿を売る店まである。 那恋心(リィエンシィン)は、タァファの意思で媽を訪ねたが後ふた月は戻れないという話だ。 乾隆通宝で千文を後を任されていた女に手渡した。 那恋心(リィエンシィン)は、お馬鹿なりに野心もあり「御秘官」の押しで力もある。 ラマの寺院五か寺にそれぞれ銀百両、そのほかにも五つの寺院を選んでそれぞれに銀百両を届けた。 弘暦(フンリ)は金の出何処(でどこ)を怪しんだが馮氏(ファン)から預かった銀をさも自分の銀のように装ったと知って笑うのみだ。 それでも自分で出した振りで譚氏、馮氏一族に加えて皇室安泰と書かせたのは上出来だ。 まさかファーインが操って供養させたとは弘暦(フンリ)もリィエンシィン本人さえも気付かなかった。 円明園に戻つた後で夜伽をリィエンシィンと決めて、酒を飲みながら位階に望みはと本心を探った。 「フォンシャンの寵愛だけで十分です」 自分でもすらすら出る言葉に戸惑いながら計算高く「位階よりも真珠が欲しいです」と強請った(ねだった)。 和国から小粒の真珠と亜剌比亜(アラビア)の大粒の真珠が来ていることを承知でのおねだりだ。 「そのくらい安いものだ」 天狐は瞑想中、仕方なくタァファがお手伝い、花音(ファーイン)は椅子で囲碁の棋譜をなぞっている。
永琰(ヨンイェン)に三公主誕生。 乾隆四十六年十二月十七日(1782年1月30日) 生母は格格劉佳氏 喜塔腊氏(ヒタラHitara・喜塔臘)が、永琰の二阿哥を出産。 紫禁城南三所擷芳殿は永琰の大阿哥は早世し長公主もひ弱で、此の嫡福晋の出産には紫禁城すべての期待がかかっている事に緊張している。 そんな重圧の中、皇子は無事に誕生した、弘暦(フンリ)は父親の永琰以上にはしゃいでいる。 擷芳殿(シィエファンディェン)は元は弘暦(フンリ)の皇子養育に使われた場所だ。 大阿哥永璜(ヨンファン)も乾隆六年からここで育った、南三所に在った「御秘官」の訓練場所を勧めたのは阿公と公孫静麗(ジンリ)だ。 阿公の引退後、乾隆十一年擷芳殿(シィエファンディェン)が建てられて正式に皇子養育施設とされた。
二阿哥の名を綿寧(ミェンニィン)と永琰は決めた。 乾隆四十七年八月十日(1782年9月16日)綿寧(ミェンニィンmián níng)誕生。 弘暦(フンリ)が洪亮の意見を受け入れ、小康子(康藩カンファン)という十七歳の太監を綿寧に付けた。 天狐はこの子は永琰(ヨンイェン)の跡継ぎだと告げた。 タァファはこの手で抱き上げたかったと嬉しい悲鳴を上げている。 「タァファは変わってる、嬉し泣きなら私もあるけど嬉しいって喚くのはなぜよ」
乾隆四十七年(1782年)-和珅(ヘシェン三十二歳)は乾隆帝から宰相、並びに人事担当大臣を拝命した。
乾隆四十八年八月(1783年)-英廉七十六歳死去。 弘暦(フンリ)は白銀五千両を送ったと謂う。 乾隆四十九年(1784年)三月二十四日-福隆安死去。 乾隆四十九年(1784年)三月-福康安-兵部尚書・一等嘉勇侯 和珅(ヘシェン)と富察氏の勢力図は拮抗している。
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第十七回-那恋心-3
雪晴れの日 佳玲(ジィアリン)の孫の綿億が久しぶりに承乾宮へやってきた。 この年二十歳、父親も第五子だったが綿億も第五子。 子供はまだ居ない。 空狐は榮郡王と言って居たがまだ冊封されていない、花音(ファーイン)が再度聞くと貝勒(ベイレ)でさえ来年と告げた、ただ家系は見える限り続いているという。 佳玲(ジィアリン)にとってはただ一人の孫だ、目に入れても痛くない。 書は祖母譲りの能筆、フォンシャン(皇上)が尚書房で学ぶように命じた。
孫の世代に能筆家は多い、頭の良さはフンリの血筋を受け継いでいる。 父親-大阿哥永璜(ヨンファン) 第一子綿徳(ミェンドゥ)乾隆十二年七月六日(1747年8月11日)誕生
第二子綿恩(ミェンエン)乾隆十二年八月十四日(1747年9月18日)誕生 父親-四阿哥永珹(ヨンチェン)
第一子綿恵(ミェンフィ)乾隆二十九年九月二十五日(1764年10月20日)誕生 父親-五阿哥永琪(ヨンチィ)
第五子綿億(ミェンイー)乾隆二十九年八月十五日(1764年9月10日)誕生 父親-六阿哥永瑢(ヨンロン)
第五子綿慶(ヨンチィン)乾隆四十四年五月四日(1779年6月17日)誕生 父親-八阿哥永璇(ヨンシァン)
第一子綿志(ミェンシー)乾隆三十三年三月十七日(1768年5月3日)誕生 父親-十一阿哥永瑆(ヨンシィン) 第一子綿懃(ミェンチィン)乾隆三十三年九月六日(1768年10月16日)誕生 第二子綿懿(ミェンイー)乾隆三十六年九月二十日(1771年10月27日)誕生 第三子綿聰(ミェンツォン)乾隆四十年一月十五日(1775年2月14日)誕生 第四子綿偲(ミェンスー)乾隆四十一年二月二十九日(1776年4月17日)誕生 第七子はまだ誕生していない、成人公子は全てで五人 父親-十五阿哥永琰(ヨンイェン) 第二子綿寧(ミェンニィン)乾隆四十七年八月十日(1782年9月16日)誕生 第三子他はまだ誕生していない、成人皇子は全てで四人。 父親-十七阿哥永璘(ヨンリィン) 公子はまだ誕生していない、成人公子は全てで三人 毓慶宮(イーチンゴン)は相次ぐ悲報とおめでたに揺れている。 次公主 乾隆四十八年八月十日(1783年9月6日)四歳死去。 母-嫡福晋喜塔臘氏・孝淑睿皇后 四公主誕生。 乾隆四十九年九月七日(1784年10月20日) 生母は嫡福晋喜塔臘氏 長公主 乾隆四十八年十一月一日(1783年11月24日)四歳死去。 母嘉親王府格格關佳氏;
乾隆五十年一月一日(1785年2月9日)乙巳 弘暦(フンリ)七十五歳。 那恋心(リィエンシィン)とフンリは相変わらず天狐の操る房事に夢中だ。 和珅(ヘシェン)が持ってくる秘薬「活精丹」が頼りだが残りは少ない。
乾隆五十年(1785年)九月十日(1785年10月12日) 木蘭囲場へ初めてやってきた十一歳の和孝公主は大はしゃぎだ。 永璘(ヨンリィン)が普段弓の先生で褒め上手に乗せられ、半日稽古場に詰めることも度々だ。 数を放つより正確に狙うことだというのが兄の教えだ。 あまりにも次々矢を番えて(つがえて)は放つので狙いが定まらない「数うちゃあたるではお供に矢を持つ者が何人も必要になる」と自分で背負える矢の残りを忘れずに扱うように教えた。 乗馬は弘暦(フンリ)が自ら三歳の時から鞍前に載せて教え込んだ。 その日の十公主の獲物は小鹿と野ウサギを射止めて大得意だ。 ただ小鹿は永琰(ヨンイェン)が足を止めた獲物を任されたので半分は兄のおかげだ。 「野兎のような小さくて当て難いのに良く仕留めた」 弘暦(フンリ)が褒めてくれた。
乾隆五十一年三月(1786年)-西巡五回目
七十六歳の乾隆帝は黛螺頂の寺院に来て五体の文殊像を拝した。 さすがに全てで拝礼を行う体力はない。 即興で『登黛螺頂作(黛螺頂に登りて作す)』という七言律詩を作った。
「私が最初に五台山へ来たのは、二回目の西巡だから乾隆十五年のはず。あの時黛螺頂の名にさせたのだからその時から考えて漸くできたのを即興なんて笑わせてくれるわね」 「ファーインよ、お前タァファから出てもタァファの口調が抜けなくなったな」 「そんな事、うつる、何てある」 不安そうだ。 「タァファに潜んでいるとき、気を張り詰め過ぎたのさ」 五台山は桃華(タァファ)の姿を見たくて集まってきた参詣者は今回も数多くいた。 「十年も前にお亡くなりに」 土産物を商う店主も「子供の時に拝ませてもらいました」など云って絵姿まで売りつけている。 噂を聞いて好奇心に駆られて買いに行かせる弘暦(フンリ)も、あの頃の桃華(タァファ)に会いたいと願っている。 前回も買い求めたはずだ、呆けは進んでいる。 天狐は乞丐(チィガァイ・乞食)の中に子供連れの母子がいると聞いて那恋心(リィエンシィン)に土産(毎度同じ銭一千文)持参で媽を伴って小屋へ尋ねさせた。 母子は那恋心(リィエンシィン)の姿を拝んで子供を助けてくれと頼み込んだ。 媽は二十五年前先代の媽から受け継いだ仕事の一つが里子だ。 人買いに渡せばどんな目に合うか一目瞭然だ。 張はあれから若死にが続いて三人入れ替わり、今の張は強欲と評判は悪い。 媽から五年前に天狐が来た時に比べ、人が増えすぎて上りが少なくなったと聞かされた。 そのせいで張の力が弱まわったようだ、食い扶持が十分でなければ不平も出る。 那恋心(リィエンシィン)は興味無さそうだったが藩凛(フアンリン)が「主児、何とかできませんか」の一言で助かったと思い「誰か自分の実家で里子を育てるなら銀(かね)は工面するわ」と約束した。
その話は来ていた大同の淵(ユァン)の耳に届いた。 六十過ぎてあの時の桃華(タァファ)の姿を追い求める一人だ。 その日のうちに那恋心(リィエンシィン)の太監と話を付け、母子を自分が引き受けると約束をし、人を付けて自分の家に向かわせる事にした。 妻女の袁氏は夫以上に慈悲心があり率先して母子を身ぎれいにした。 磨き上げられた女乞丐(チィガァイ・乞食)は、誰もが今日まで物乞いをしていた、あのよれよれのみすぼらしい者とは信じられない程の美人だった。 袁氏はお供の中から気の利いたものを付け、先に家まで送らせる準備をしてから媽に会いに行った。 「私が全部引き受けたなんて大口は叩けないないけど、強力(協力)はするわよ」 「はあ、子は利発ですし、母親は自分からは言わないでしょうが、元は西安の織物問屋の娘です」 「なぜここに」 「賄賂を知事に渡せずに家は潰されました。銀州で行倒れていたのを助けられて此処まで連れてきました」 「そんな遠くから」 媽は乞丐(チィガァイ・乞食)にもそれなりの連絡網で人の割り振りしてくれる人がいると伝えた。 「それで早速お願いですが、助けた親子は仙女だったと噂を流していただけませんか。参詣人が増えれば私たちも助かります」 「良いわよ、人助けにもいろいろあるわ。送り出したら後を噂を流すお節介に西安に銀州へと仕事に出すわよ」 宿に戻ると母子に男一人と女二人付けて五人で大同へ向かわせた。 淵(ユァン)はその話を聞いて、「よし来た」とばかりに予定していた絹の買い付けに供をしてきた番頭を呼んで、二人の手代を付けて送り出すことにした。 「明日の昼に発って、下の妓楼で一晩遊んでから一度大同で本式に支度をして出て呉れ」 袁氏は番頭に「旦那様には内緒」と耳打ちで「あの母子娘娘廟でお告げを受けて、この世で修業中の仙女らしいのよ」と笑った。 「本当かしらね。丐頭(ガァイトウ)の媽は信じていないそうよ」 否定されれば本当らしいと思うのが常の世の中。 番頭は宿が別なので腹ごしらえの菜店で、連れとその話を聞いてる者が居ても平気で大声での笑い話だ。 噂は「好事門を出でず、悪事千里を行く」がごとくあっという間に広まり、番頭まで話が回ってきたのが次の日の朝。 女中から「噂で乞丐(チィガァイ・乞食)に為って修業されていた仙女の親子が、情け深いお方のお世話で旅立ちましたとさ」自分で蒔いた種とは知らずに「おいおい、本当らしいぜ」と連れと出立の支度をしながら話して居る。
那恋心(リィエンシィン)め自分の事のように自慢し始めた。 話しをさせなきゃ美人で通る、媽のところへついていった宮女から「お優しい」とこれも奴婢の間に直ぐ広まって、リィエンシィンまでが仙女話しを信じ始めた。 果ては自分が仙女かのごとく振舞うので、ファーインは大笑いだ。 夜に一人抜け出して媽のところへ行くと酒盛りの真っ最中、ファーインを感じたか自分の隣へ誘った。 老婆と見える女は「媽あんなに簡単に引っ掛かりますかね」と言いかけて口をふさがれた。 「壁に耳ありだ余分なこと言うと今度は京城(みやこ)へお使いだ」 「勘弁してくださいよ。此のかっこで行きたきゃ無いですぜ」 「フン、奇麗なおべべでお供付きなら、出かける気はあるかよ」 「何か儲け話でもありやすんで」 「お前さん、下絵を描いて京城で版にしておいでよ。色でも乗せりゃ高く売れる」 どうやら此の老奶奶(ラオナイナイ)は絵心もあるようだ。 魏桃華(ウェイタアォハァ)の絵姿もこの連中の仕掛けの様だ。 「誰の絵で」 「あの親子の事さ。お前出る前に挨拶されたろ」 「ありゃ本当に仙女だと言えば通りますぜ。大同あたりじゃだめですか」 「あったりまえだ。ばれちゃ元も子もない。あの子が大きくなって恩返し何て言い出されても困る」 二人付けるよと銀の小粒を入れて香袋を腰の紐に下げさせた。 「いつもの家で着替えをしておいきよ。五十両も用意させりゃ良いだろ。手紙を書くから出る前にね」 老奶奶め「今度は楽隠居で気休め旅が出来ます」と嬉しげだ。 小屋へ戻るときやすげに「聞いたでござんしょ」とかってに独り言だ。 「わっちには見えも聞こえもできないが、傍へ来ればあんただと分かりますのさ。普段からぶつぶつひとり事をいっていると思われてるのでね。聞いても聞こえませんのさ」 二十五年ぶりのはずだが天狐が気を入れ直した時に紛れこんだか。 なんか天狐の言うことと似てる。 「今お狐さんの事考えたね。今度の女はだめだよ。お馬鹿すぎる」 見抜いてる、また来るよと念を送って小屋を出ると見送ってくれた。 外では火の番が燃え残りに砂をかけている。
三世ロルペー・ドルジェ「ジャサク・ラマ」が五台山で亡くなった。 今回もフォンシャン(皇上)はジャサク・ラマが同行したいという願いに気をよくしている。 その日の朝の勤行で声がしないと後(うしろ)の僧が気付いた。 前に回ると手を合わせたまま亡くなっていた、七十歳と云う。 別名イェシェー・テンペー・ドゥンメ。 康熙五十六年(1717年)誕生~乾隆五十一年(1786年)入寂 微動だにもせず、仏に召された姿は呼ばれた弘暦(フンリ)を感動させた。 蒙古の多倫諾爾(ドロンノール)彙宗寺(フフスム・青の廟)から七歳で京城(みやこ)の雍親王府へやってきて、トゥケン・フトクトゥ二世の薫陶を受け育った。 満州,蒙古,漢の三ヵ国語を習得し、『仏教述語解』『宗義大綱釈』の著述のほか,テンギュルの蒙古語訳を完成し,大蔵経の満州語訳監修も行った。
天台山から戻ると、天狐はそろそろ那恋心(リィエンシィン)とお別れだとタァファとファーインに告げ那恋心(リィエンシィン)から抜け出して勝手させた。 「抜け出ても大丈夫なの」 ファーインは無理に出れば妖力が減ると聞いたというと「ここまで来れば大丈夫だタァファで苦労した分、那答応で力はみなぎった」と自信ありげだ。
また那恋心(リィエンシィン)の我儘が始まり惇妃(ドンフェイ)と対立が激しくなった。 いくら寵愛を受けても妃(フェイ)で十公主の母と答応(ダァイ)では勝負にならない。 三十歳を過ぎてフンリの寵愛も天狐なしでは難しい、いくら美人でもお馬鹿さんと一度思われれば、なかなかフォンシャン(皇上)の信頼は取り戻せない。
乾隆五十二年(1787年)-福康安は台湾の林爽文の乱を鎮圧した。
那恋心(リィエンシィン)を我儘にさせたのはフンリの失敗で、落ち度をとがめられたのをはかなんで自害すると、掌事宮女藩凛(フアンリン)はじめ宮女たちが後追いで自尽した。 ひとたらしのタァファに乗り移られ、宮女たちもリィエンシィンに心酔していたための行動だ。
乾隆五十三年三月十六日(1788年4月21日)戊申-那答応(ナァダァイ)譚氏(タンTan)三十五歳自尽。 那答応以下官女五名受責後投井自尽。
不思議なことに保泰門の太監が大井戸にかけた錠前はそのままで、どうやって五人がそこまで辿り着き、井戸へ入り込んだか不明の儘に処理され、太監は慎刑司送りとなった。 井戸は火災の時の他は使えないように厳重に蓋をし、門衛が交代時に鍵の受け渡しをした。 答応(ダァイ)に従う宮人が五人も出たことにフンリは仰天した。 いくら寵愛をしても、たかが答応(ダァイ)にと思うのだ。 それより答応に宮人五人というほうに驚く人が多いようだ。 十一歳で入宮直後常在(チャンザイ)、二十二歳で答応(ダァイ)に降格、天狐たちの力でここまで寵愛を受けたが、意識の交流ができるほどの霊力知力は備わっていなかった。 実際の年齢は三十七だという噂が奴婢から広がった。
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第十八回-寿華峰-1
出入りは今まで以上に自由自在となり、その妖力はすさまじく、若い女に取り付くと相手の男は閨房の魔力に溺れた。 花音(ファーイン)の見るところ、陝西巷あたりの妓楼のそれほど売れていない妓女に入って男をたらし込む様だ。 瞬く間に売れっ子になり、客も金のない若い小商人(あきんど)あたりから金持ちの老人となると入り込むのを止める。 そのころには伎女のほうもとりなしもうまくなり、空狐が居なくても十分売れることになる。
「ねぇ、毎日来て呉れるのは好いけど。お金は有るの」 「親からせびった銀(かね)はもう直なくなるよ。その後は来れない」 「この簪と手巾を売れば三回位は揚がれるから、来てくださいな」 この色男めと空狐も興味がわいた、男の頭に幾人もの女の顔が浮かんだ、何時もと違う韓家譚(ハンジャタァン・胡同)の韓宣号(ハンシュアンハォ)という店だ。 「いらねえよ。女に貢がれて妓楼通いなど御免だ」 女を突き放して立ち上がった。 隗(ウェイ)という妓女は脚に取りすがって泣いて謝った。 「もう言わないから帰っちゃいやです」 「おい、最近陶の爺さんに大分入れ込まれて大層売れっ子じゃねえか。俺のような若造に関わるんじゃねえ」 小さな妓楼で次の間なぞ無い、まだ明るいうちから妓楼へ揚がるとは、書生にしては色黒でいかつい肩だ。 布団の脇での戯言もそのままもつれて口を吸い、手は小言を言い裸になった女は大きな乳房をいじられてもう喘いでいる。 「ハハン、この女両天秤か、さぞかしこの男の家は金持ちなんだろう」 騙し合いはどちらが勝つか興味がわいた。 ひと試合、事が終わって店を出る男の後をつけてみた。 空狐、自分で言うほど先は見えていない様だ。
寿華峰(シュウフゥアファン)は入宮すると永寿宮(ヨンショウゴン)偏殿へ入り、厳格な穎妃(インフェイ)が規範を指導する事になった。 乾隆五十三年三月二十日(1788年4月25日)戊申入宮-寿常在(ショウチャンザイ)十三歳 出は浙江省余姚の邵氏(シャオShao)、学者を多く出している。 空狐は取り付いた寿華峰(ショウフゥアファンHuā Fēng)に普段はタァファにファーインとともに潜み、半月の夜になると抜け出すのが常となった。 花音(ファーイン)の見たところ瞑想中の振りで何度も出ているようだ、空狐に為って影を置いて抜け出るようだ。
ファーインは偏殿から出て承乾宮(チァンチェンゴン)へふらふらと出かけ、佳玲(ジィアリン)の部屋でくつろぐことが多い。 そこにいなければ蝴蝶(フゥーディエ)の所にいる。
十一阿哥永瑆(ヨンシィン)からの付け届が多くなったと二人は喜んでいる。 特にお気にいりは薩摩から入ってくる米が原料の焼酎の壺と、ソイと呼ばれる醤油壺だ。 料理人が歳を考えてうす味の野菜炒めが出てくると、ちょっぴり振りかける。 永瑆は四歳で母を亡くして、兄たちもこの小さい子を面倒見る余裕もないとき、蝴蝶(フゥーディエ)が引き取って大事に育てた。 今では子供たちも大きくなってフォンシャン(皇上)の許しが出ればお土産を抱えて家族総出で此処へやってくる。 乾隆十七年産まれの永瑆(ヨンシィン)もすでに三十七という壮年。 一番上の子は男で綿懃(ミェンチィン)、すでに二十一歳の立派な男。 子供のころから祖母に甘えるように蝴蝶(フゥーディエ)が大好きだった。 綿懃(ミェンチィン)の母親は永瑆の嫡福晉富察音寶(父親富察傅恒)。 そういえば佳玲(ジィアリン)はいつ永和宮(ヨンホゴン)から引っ越したんだっけと二人の会話に耳をそばだてた。 「すっかり私も呆けたわ」 空狐に聞こえたようで呆れられてしまった「何度同じことを聞かせる気だ」。 どうやら蝴蝶(フゥーディエ)の同族の明貴人-陳氏(チェン)が入宮したころの様だ。 明貴人も気が短くなった弘暦(フンリ)と何度も衝突する爆裂娘だ。 ファーインが覚えてるだけでも、三回は貴人から答応へ降格と復位を繰り返している。 早く寿常在の位を上げようとタァファは躍起となるが、弘暦(フンリ)は四十近い落ち着きだした儲秀宮の明貴人がお気に入り、駄々っ子好きはあいかわらずだが、いつ弘暦(フンリ)が爆発するか最近は読み切れないと妃嬪たちは腫れ物に触るように慎重に為っている。
十三歳で入宮したての世間知らずに、すれっからしのタァファの技巧なんて理解出来るはずもない。 やはりファーインが前に出たほうが無難で、ファーインは仕方なく空狐になだめられてタァファを後ろに隠した。 いざとなればファーインの霊力は空狐さえもたじろぐ程強いが、ファーインはそれほどに思っていない。 今はフォンシャンの血筋が絶えないことだけでタァファに協力している。 房事にいそしむより七十八歳の弘暦(フンリ)には、至れり尽せりと話しの面白い明貴人のほうが気が休まるようだ。 それに寶月樓の五十四歳の容妃(ロォンフェイ)のほうが魅力的に思っているのだ。 そのウイグルから来た容妃-和卓氏(ホージャ)が亡くなった。 名は法蒂瑪(ファティマ)-イリ出身だと云われている。 寶月樓に住んで二十八年、終生その美貌は衰えを見せなかった。 ひっそりと亡くなった、掌事宮女が気が付いた時は、椅子に座り寝ているかと思ったという。
乾隆五十三年四月十九日(1788年5月24日)戊申-容妃五十五歳死去。
ようやく桃華(タァファ)にも昔のフォンシャンと違い、わがままを許す度量は無いと分かったようだ。 タァファにファーインは空狐に和珅(ヘシェン)の家の奴婢翠凛(ツゥィリン)に取りついて、永琰(ヨンイェン)の覚えをよくしろと和珅(ヘシェン)が動くように頼み込んだ。 まず手始めに豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の母親馮霽雯(ファンツマン)に取り付きツゥィリンを格格にさせた。 和珅(ヘシェン)は思った以上にツゥィリンに溺れこんでヘシェンはツゥィリンの言いなりになった。 子供としか見えない寿華峰(フゥアファン)に思いを寄せているのが分かると、空狐の妖力で寝床では顔つきが替わり、まるでフゥアファンがヘシェンのところへ忍んできたかのように錯覚するくらい空狐の技巧に溺れた。 今日は半月の夜、蘇州へ出ていたヘシェンは四か月ぶりの我が家だ。 美女に囲まれ接待、そんな噂がフォンシャンの耳に入れば、寵臣と言えど最近の弘暦(フンリ)は容赦なく断罪する。 なんせ官員が妓楼へ出入りするだけでむち打ちだ。 杖三十何て軽いほうだが、鞭十回は悪くするとひと月は寝込む。 それで取り入ろうとする者たちから逃れるのも一苦労だ。 勢い賄賂攻勢は劉全へ向かう、この男噂が踊っているが、賄賂は断るが仕事はきっちりと回してやる、自分の儲けは貧民にその仕事を回して手下を増やしている。 貧民というのが曲者だ、「御秘官」とは違う弘暦(フンリ)子飼いの粘竿処(チャンガンチュ)は眼を光らせているが、此処をとめれば反乱に結び付く恐れがある、チャンガンチュも眼を瞑っているわけではない。 和珅(ヘシェン)と和琳(ヘリン)は賄賂太りではなく劉全が行う事業の上りで潤っていく。 弘暦(フンリ)がいくら呆けても、和珅(ヘシェン)が賄賂を懐へ入れたりすれば見逃しはしない。 昨年臘月の選秀の時に見かけた嘩蘭(フゥアラァン)が子供から大人への一歩を踏み出していた「子供っぽいが良い女だ」が、この日は征服したい女に見えて焦ってしまった。 寿常在(ショウチャンザイ)十三歳 「接して漏らさずが極意ですじゃ」 不思議な老人は「此の仙丹一つで五人は乗りこなせるが、十日に一回が限度じゃ」そういって一粒の仙丹に銀三十両を要求した、これだけ造るのに半年かかるなど御託も並べて買わされた。 「余分に飲めばどうなる」 「寿命が縮む。恐れがないなら試すことじゃ。七十まで房事がしたけりゃ十日に一度、八十までが望みなら月に一度新月の日に飲むことじゃ」 それ以来フンリに毎月三錠をもったいぶって献上した。 十五粒の小さな丸薬。 「たった四百五十両にたいそうな御託を」 四度目の訪問、老人を尋ねたが家は無人で隣の夫人が「半年ほど見ない」と不審げにヘシェンを見た。 戻って薬が今回は手に入らなかった報告するよりと、残っていた七粒から三粒の仙丹を渡した。 閏四月八日(1189年5月31日) 「寿常在(シォウチャンザイ)来てくれたんだね」 「抜け出すのが大変なの、嫌ですはフゥアファンと名前で呼んで下さらないと」 「わしの事なんてわすれていると思った」 「いやです、忘れはしませんわ」 ツゥィリンとの房事が終わった寝床に、裸で迫るフゥアファンに、色ボケをしてるヘシェンは本当に来たと思っているのだろか。 年の割に彼方のほうは老化が進み、フンリに届ける薬を、若いツゥィリンを満足させる為に今夜は服用していた。 「備えあれば患いなしとは此の事だ」 「あぁ、いけませんわ」 息が上がったヘシェンは冷めた茶で落着きを取り戻した。 白い肩が呼吸のたびに上下している「フゥアファン」と呼びかけようとして、それがツゥィリンと気が付いた。 「もう、こんなに私をいじめてぇ」 ヘシェンはまた自分と行っている女の顔が、フゥアラァンに見たえたり、ツゥィリンに戻ったりと二人との房事をしている気持ちに為っている。 あれだけ「接して漏らさずが極意」と聞かさていたが、我慢できずこれで枯渇したかと思えるほど精を放出した。 「ふん、馬鹿どもが」 空狐はたっぷりの精を自分のものにしてツゥィリンから抜け出た。 ファーインと違って自由にフゥアラァンから出入りできないタァファにも、フゥアラァンの生霊が抜け出たかと思えるほど鮮明に房事の様子が見えていた。 幾分かはフゥアラァンの意識が空狐に憑いて和府へ行って居たのだろうか。 まだ房事の楽しさを覚えていないフゥアラァンの秘所も潤っていた。 弘暦(フンリ)の夜伽は二回だけ、仙丹を続けて使用していたフンリはフゥアラァンの時、教えられた服用に従って飲むのを控えていた。 房事も簡単に行事のごとく処女を味わって満足していた。 タァファにしてみれば七十八歳になった弘暦(フンリ)に、それだけの力があるのが不思議だ。 新月が待ちきれない弘暦(フンリ)は、思いつくことがあって暮れに穎妃(インフェイ)を景仁宮から永寿宮へ移ったお祝いと称しておとずれた。 元の順妃は啓祥宮へお引越しだ。 順貴人-鈕祜祿氏(ニオフル)・住居-永寿宮→啓祥宮偏殿 頴妃(インフェイ)の六十歳の寿は盛大に行おうと嬉しがらせ言って抱き寄せた。 まさかこんな年寄りをそう思って油断していた穎妃(インフェイ)だ。 「こんな皺だらけの顔を見ては嫌です」 「昔と変わらぬよ」 二人は若い頃のお互いを頭に描き、それぞれの良い思い出だけを見ているようだ。 さすがに息が上がる穎妃(インフェイ)も久ぶりの房事に満足している。
韓家譚の韓宣号に今日も空狐がいる。 隗(ウェイ)という妓女の客のあの男は飯店を幾つか仕切っていた。 昼と夜に店を回り女主人たちから店の状況を聞いたり、忙しいときは厨房で鍋を振っていた。 集金するわけでもないのは女たちに任せているようだ。 壱軒、老太太(ラオタイタイ)が居たのが男の母親らしい。 どの店も繁盛している、東は前門大街に西の瑠璃廠西街など胡同の周りを囲むように五軒あった。 客を泊めはするが飯屋のほうが忙しそうだ。 その昼と夜の間のお遊びだった、丁度隗(ウェイ)に飽きが来ていたようだ。 あの日を最後に遊びを止めて真面目に店を回っている。 「なんだ、期待して損したな、色黒なのは日中店回りのせいか」 空狐が男の頭の中を見たのは女の家を回る様子だったので「色男め何人女を泣かしてる」と興味津々で付いて行った。 隗(ウェイ)は空狐が入らなくても客あしらいが上手だ。 一日三人くらいの客と陽気に騒いでお床入りだ。 もうあの飯店を仕切る男の事など思い出しもしない様だ。 たまに陶の爺さんという男が来ると買い切りで、店は客を断わるのに大忙しだ。
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第十九回-寿華峰-2 乾隆五十四年一月一日(1789年1月26日)己酉 暮れに永寿宮での出来事は奴婢の間の噂話で、ひそやかに広がりを見せている。 承乾宮では佳玲(ジィアリン)と蝴蝶(フゥーディエ)が驚きを隠せない。 「押しかけて来たら、どうしますチェチェ」 「お断りするのが普通よね、普通よねぇ。七十六歳になっても手を出すかしら」 「私だって七十四歳よ」 二人は自分で言ってそれで可笑しくなって笑い出した。 「噂はそれだけ」 二人の寝酒のつまみは最近奴婢たちの間の噂話だ。 「寿華峰(フゥアファン)の噂も飛びかわっています」 「フォンシャン(皇上)は二回呼んだだけ」 「今のところそれだけですが。和珅(ヘシェン)様が贈り物をフォンシャンのお許しを頂いて送ったそうです」 「あらま、あんな若い娘が好きなのかしら」 寿華峰(フゥアファン)まだ十五歳の誕生日前。 佳玲(ケリェテヂィアリン)事、愉妃、珂里葉特氏(ケリェテ)氏は海佳氏(ハイギャ)と子供が授かったときに実家の家格も上昇。 本人は控えめで自分の位階は乾隆十年一月二十三日(1745年2月23日)-愉妃となって以後据え置かれたままだ。 まぁ、本人も貴妃を頂いてもそれに見合うお仕えが出来ないと今は気楽に過ごしている。 蝴蝶(フゥーディエ)の婉嬪-陳氏(チェン)と「西二所の生き残り、忘れた壺の古漬の搾菜のようなものよ」が口癖だ。 墨西哥(メキシコ)のお酒だと林貴人がお土産付きでやってきた。 後殿の林貴人五十七歳は十六歳の乾隆十三年一月林常在、その年乾隆十三年五月林貴人、更に乾隆十三年十二月林常在に逆戻り。 「一生飼い殺しだ」なんてフォンシャン(皇上)の怒り爆発。 乾隆十六年に貴人に復活したときは佳玲(ジィアリン)も蝴蝶(フゥーディエ)も喜んだ、若い友人大歓迎って騒いでいた、降格したころは二人のほかにお付き合いする人皆無なんてこともあった。 富察皇后のお気に入り、嫻皇貴妃に目の敵にされていた。 輝發那拉氏が嫻皇后になって抱き合わせで貴人に戻れたけどフォンシャンは忘れたように無視。 最近は角(かど)も取れてみずから「古漬の搾菜のお仲間」なんて言っている。 先読みもできるかもとファーインは気を込めたらフォンシャンが嬪にすると言っているのが見えた。 この間順貴人の運勢は何て試したら皇太后に睨まれて将来性見込みなしだった。 「覗くのやめないと」 ファーインは反省するが噂を聞くと試したくなる。 タァファが提案して寿華峰(フゥアファン)の寝宮巡りが始まった。 フゥアファンが生意気言わなきゃいいんだがと心配して、周りをふわふわ付いて行った。 妃(フェイ)は三名 愉妃(七十六歳)・穎妃(五十九歳)・惇妃(四十四歳) 嬪(ピン)は二名 婉嬪(七十三歳)・循嬪(三十八歳) 貴人(グイレン)は四名 林貴人(五十六歳)・順貴人(四十歳)・陸貴人(四十四歳)・明貴人(三十九歳) 常在(チャンザイ)は三名 柏常在(五十八歳)・鄂常在(五十七歳)・寿常在(十四歳) 答応(ダァイ)は一名 晋答応(四十一歳) 空いてる寝宮が増えたけど妃嬪が増えても今のフォンシャン(皇上)では扱いきれないだろうなと思った。 寿華峰(フゥアファン)だけかけ離れて十代なかば。 乾隆五十四年(1789年) 西六宮 咸福宮(シャンフーゴンXiánfú
gong) 偏殿-柏常在-柏氏(パァイ)・柏佳氏(パァイギャ) 長春宮(チャンチュンゴン・Cháng
chūn gong) 長春仙館 啓祥宮(チィシャンゴンQǐ
Xiáng gong) 順貴人-鈕祜祿氏(ニオフル) 儲秀宮(クシュゴン・chu
xiu gong) 明貴人-陳氏(チェン)・陳佳氏(チェンギャ) 偏殿-鄂常在-西林覚羅氏(シリンギョロ) 翊坤宮(イークゥンゴンYì
Kūn gong) 惇妃-汪氏(ワン)・住居-翊坤宮 永寿宮(ヨンショウゴンYǒng
shòu gong 穎妃-巴林氏(バリン) 偏殿-寿華峰(フゥアファン) 東六宮 鍾粋宮(ユンツイゴン・jung t’sui gong) 空き 承乾宮(チァンチェンゴンChéng
qián gong) 愉妃・佳玲(ジィアリン) 偏殿-婉嬪・蝴蝶(フゥーディエ) 後殿-林貴人-林氏(リン) 景仁宮(ジンレンゴンJǐng rén gong) 陸貴人(禄貴人)-陸氏(リォウ) 景陽宮(ジンヤンゴンJǐng
yáng gong) 空き 永和宮(ヨンホゴンYǒng hé
gong) 空き 延禧宮(エンシゴン・yan xi
gong) 循嬪-伊爾根覚羅氏(イルゲンギョロ) 偏殿-晋答応-富察氏(フチャ) 昨年末に穎妃(インフェイ)が景仁宮から永寿宮へ移って後、本殿に陸貴人が入った。 二月三十日、景仁宮(ジンレンゴン)-陸貴人-陸氏(リォウ)に夜伽の知らせが来た。 このところフォンシャン(皇上)が寿華峰(フゥアファン)ばかり呼ぶと後宮で奴婢の噂が高くなり、一回り呼ぶ気になったようだ。 一年ぶりの呼び出しに少し緊張して養心殿へ向かった。 フンリは布団にくるまった喗漣(フゥィリィェンHuī Lián)をみて怪訝な顔だ。 漸く思い出した舒妃(シューフェイ)の子供の頃の顔立ちにそっくりだ。 普段の如意の姿からは思いもつかない。 「珠鈴(ヂゥーリィン)と親戚だったかな」 「納蘭チェチェとは大分遠いですが姻戚では有ります」 「聞いた覚えがない」 「私が十三歳で入宮するとき、堅く口止めされましたが。もうチェチェもおりませんのでお話します」 聞きながらフンリの手は秘所へ向かった。 「私の祖母が納蘭チェチェの祖父と兄妹です」 ジンルーと比べられてヂゥーリィンと比較されないのを幸いに黙っていたそうだ。 美人顔、背の低さ「そういえば似ているところは多い」と今更の様に気が付いた。 ほとんど子供時から老けが来ない顔立ちは、惇妃が若い頃から揶揄いの標的だった。 弘暦(フンリ)も少しとろい、お馬鹿、と判断して足は遠ざかっていた、お馬鹿の皇子、公主は困る。 陸氏特有の引っ込み思案は顕著に表れている。 乳首は薄茶色、大きめな乳房は顔には似合わない。 やはり今日まで「活精丹」を出し惜しんで使わずによかったと思っている。 どういうわけかフゥィリィェンは両手でフンリの肩を押し上げてくる。 夢中で何をしているか気が付かない様だ。 「俺は冷静だ」 可愛い顔をじっくりと眺めながら腰を使い奥まで届けと力を入れた。 「ひゅっ、ひゅっ」と声が口笛のように漏れ「あぁあぁ。行ってしまいます」と腰を勢いよく使いだした。 そのまま力が抜けてゆく様子を見て弘暦(フンリ)は満足だ、人形のように力の抜けた喗漣(フゥィリィェン)の腰を引き寄せた。 大分続けて少し疲れた頃、眼が開いて「あっフォンシャン(皇上)」としがみ付いてきた。 あまりにもかわいい顔にどっと精が漏れた。 足を絡げてきて仰け反る様に反ると首で体を支え「ふぅああ」とまた息が漏れたような声で到達して気を失った。 体を戻して乳房を思いっ切り吸うと気持ちが良いのか声が漏れる。 あまりの気持ちよさに「行くぞ」と声を出すと「駄目、駄目ですぅ」と精を受けると同時に気を失うように二人は達した。 夜番の藩徹(ファンチュァ)は静かになってほっとしている。 藩徹(ファンチュァ)も、もう五十八歳、夜伽の漏れる声は聞き飽きているが今晩はフォンシャン(皇上)もまだまだ現役と胸をなでおろしている。 「これで四十を過ぎたとわな」 寿華峰(フゥアファン)とは違う蜜壺の妖気に当てられたように、体を起こして抱き寄せた。 気が付いたのかしっかと両の手を背中に回して抱きしめてきた。 表では藩徹(ファンチュァ)が声もなく悲鳴を上げている。 疲れた弘暦(フンリ)の上で腰を動かしてファンチュァは自ら高みを目指している。 さすがに疲れたフンリは抱きつくファンチュァと眠りについた。 この後は十日と間を開けずに夜伽が命じられた。 フンリも「活精丹」を言われた月一度以上は飲まなくても、ファンチュァが満足するので自信に繋がった。 景仁宮(ジンレンゴン)の陸貴人(禄貴人)-陸氏(リォウ)が突然亡くなった。 遊びに訪れた柏常在が慌てて太監を佳玲(ジィアリン)のところへ寄こした。 掌事宮女静宇(ジンユー)の話だと昼に「めまいがする」と横に為って休んでいて、太医が来た時には安らかな寝顔で亡くなっていたそうだ。 蝴蝶(フゥーディエ)もやってきて「こんなに可愛いのにかわいそう」そりゃそうだ「あんたの年から見りゃ孫みたいだ」と言いながら悲しくなってしまった。 乾隆五十四年五月六日(1789年5月30日)己酉-陸貴人(禄貴人)陸氏(リゥ)喗漣(フゥィリィェン)四十四歳死去 他人の話を鵜呑みにして何度痛い目を見た事か、タァファが庇ってもフォンシャン(皇上)は許さず、貴人と常在を何度も行き来していた。 此の十年は落ち着いて物事を見られるようになってきたが、危うくて見ていられないことも何度かあった。 フォンシャン(皇上)が一番嫌う「お馬鹿」と思われていた。 最近は惇妃に睨まれて、何度佳玲(ジィアリン)が飛び出していったことか。 昔、惇妃がまだ常在だったころ「まともなのは顔だけ」何ていじめて、静麓(ジンルー)も一緒に走り出して間に入って止めたことがあった。 「同じ常在なのに偉ぶるのはやめなさい」 あの時はタァファの中で手をたたいて褒めたぞ、静麓(ジンルー)があの頃から引っ込み事案で無くなっていった。 同じ蘇州人、同じ陸氏、守る人が出来て強くなっていった。 その静麓(ジンルー)も、もういない。 此の蘇州生まれのお嬢様は家格が低く、お金持ちだけじゃどうにも出来ないことが多い紫禁城の生活は、辛いことが多かったはずだ。 静麓(ジンルー)とは違って背は低いが顔立ちが派手で、睨まれやすくてルゥー(Lù)は陸だが、禄とわざと書かれて泣いていたことも有った。 静麓(ジンルー)に「そんなことで泣いちゃダメ」と何度言われていたことか。 同じ蘇州の陸氏でも静麓(ジンルー)のほうは家が貧困、片やお嬢様、根性が違ったようだ。 ジンルーが亡くなり、タァファも死んで、惇妃に睨まれると何も言えなくなっていた。 佳玲(ジィアリン)達とは話が合ってよく行き来していたので鉢合わせはよく有った、なぜか急いで入ってくるので体をすり抜けられた事が度々あった。 せめてもの慰めは、死因は不明だったが、眠るように痛みも苦しみも無いまま逝った事だ。 そのフォンシャン(皇上)が来て寿華峰(フゥアファン)に目をとめた。 何か見つめる目の色がいつもと違う。 「怪しい」 蝴蝶(フゥーディエ)にもそう見えたようで寝宮に戻るとき林貴人と議論していた。 敬事房から回ってきた連絡は寿華峰(フゥアファン)が夜伽に召されたということ。 空狐も今日は居るし、自分は好いかと承乾宮で時間をつぶすことにした。 あの三人ほろ酔い気分で寝るのが楽しみで、内務府を当てにしないで街に出回る露西亜の酒をお茶で割って楽しんでいる。 最近はそれを知った十一阿哥が人に頼んで送ってくれる。 「そんなに薄くちゃ酔えないよ」 そうは言っても味を試せない。 露西亜に墨西哥の酒ってどんな味なんだろうと今日も見ていた。 タァファの意識が飛び込んできて慌てた。 何事かと気を養心殿へ送ると大騒ぎだ。 フォンシャン(皇上)が房事でのぼせてひっくり返った。 空狐が「心配ない。あそこへ血が下りて頭が空になりかけただけだ」どんな症状だよそれと送ってもタァファじゃ何を言っているか訳が分からない。 ふらふら行ってみたら昔と違って侍衛の気が緩んでいる。 「なんだ、もう起き上がっているじゃん」 「心配いらないといっただろ」 「のぼせと同じなの」 「近いな、よく急に立ち上がると女はめまいが起きることが多いだろ、あれとそうはかわらん。薬でもたくさん飲めば毒になる、年を考えずに欲望を薬に頼ったせいだ」 人払いして呼ばれた和珅(ヘシェン)と内緒話をしている、城内軍機処の泊り番だったのかな。 気を向けたら話が聞こえた。 「二種の薬を飲んだら房事の後眩暈がした」 「それは危険です。飲むのは片方だけで、仙丹はせめて十日は間を明けてください」 「朔の日に仙丹を一粒、今夜一粒とそれと健康維持を申したら処方された薬湯だ」 まるっきりの色ボケ爺さんになってしまった。 「これで後十年も生きなけりゃ死ねないんだぞ、哀れなもんだ」 空狐の笑いが聞こえた気がした。 弘暦(フンリ)七十九歳、寿華峰(フゥアファン)十四歳。 タァファの意識がはっきりしだした。 「気が行くのとは違って気持ちはよくないわ」 「薬を飲まされたの」 「口移しで仙丹の味がしたわ」 まだ寿華峰(フゥアファン)のほうは朦朧としている、太医は寿華峰(フゥアファン)のほうは気付け薬しか飲ませていない様だ。 「あの気付け薬、霊にはよくないわ」 そんなことあるかいって思ったがタァファが気持ち悪いというなら飲み合わせがよくないのかも。 気がついた寿華峰(フゥアファン)は目がうつろ。 「子供に精力つけるなんて、まったく何考えているんだか」 怒っているんだぞと教えてやりたいファーインだ。 どうやらフゥアファンのほうはフォンシャンが大放出してひっくり返るときに魔羅が膨れ上がって、気が行ってしまったようだ、タァファが潜んで居なけりゃもっと大変な事態に巻き込まれたかもしれない。 空狐はまた何処かへ出て行った。 「最近百順胡同(バイシュン)に可愛い子が入ったみたい」 桃華(タァファ)に読まれている、空狐もたわいがない。 「繁牌老(ファンパイラォ)だ」と空狐が送ってきた。 「妓女は蝉環(チァンフゥアン)よ。胡弓が上手らしいわ」 桃華(タァファ)に筒抜けだ。 「最近は精を取り込むより胡弓に夢中よ」 「蘇州二胡」 また返ってきたどうやら胡弓にも流儀があるようだ。 繁牌老には二胡を聞くために十人ほどが集まっていた。 「悲しい曲でもやってくれ」 しんみりしたところで「次は陽気に」と客もわがまだ。 九連環が福建から盛んになりついに京城(みやこ)でも流行りだした。 「月琴(ユエチン)も呼びましょうか」 蝉環が言うと「蝉陽(チァンイァン)か」と客が聞いた。 「先ほどいつもの老爺が帰ったから、空いているはずですよ」 「なら二人で陽気に頼む」 呼び出して演奏が始まると客も手をたたいて歌いだした。 日本で流行った九連環
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第二十回-固倫和孝公主-1 フンリは自慢するが遠征の費用は莫大で国庫は疲弊していった。 乾隆五十四年(1789年)-西山党に制圧されたベトナムへの遠征。 乾隆五十四年(1789年)、三十歳になった永琰(ヨンイェン)は和碩嘉親王になる。 祖廟の祭祀をフンリは任せることにした、理由は自分が七十九歳と高齢のためだ。 フンリには永琰(ヨンイェン-母親・孝儀純皇后)を含めても皇子は五人残るのみだ。 四十七歳の六阿哥永瑢は質親王-母親・純恵皇貴妃 四十四歳の八阿哥永璇は儀親王-母親・淑嘉皇貴妃 三十八歳の十一阿哥永瑆は成親王-母親・淑嘉皇貴妃 二十四歳の十七阿哥永璘は貝勒のちに慶親王となる。 母親・孝儀純皇后 十公主が豊紳殷徳(フェンシェンインデ)に降嫁した。 乾隆五十四年十一月二十七日(1790年1月12日)固倫和孝公主-十五歳降嫁 母親は惇妃(ドゥンフェイ)、空狐が馮氏(ファン)と工作してやっと今年嫁に迎えられた、ヘシェンは息子以上に有頂天だ。 婚約は成立していても和珅(ヘシェン)は気が柔(やわ)い。 母親以上と言われる和孝公主の気の強さはフンリの猫可愛がりによって増長されている。 馮氏(ファン)は息子と嫁の為に思いっきり贅沢をさせるだろうが、そのくらいでは性格が治らない、天狐はそう見ていた。 天狐は思いついたようにファーインに和孝公主の初夜に這いこんでくれるよう頼んだ。 形式ばった儀式も終わり、フェンシェンインデは公主の母親のような満州族特有の顔を思い浮かべながら顔の布を持ち上げた。 翊坤宮から公主に付いてきた宮女でさえ驚く、輝くばかりの初々しい公主がそこにいた。 フォンシャン(皇上)と狩りへ行く時の勇ましい公主、フォンシャン(皇上)に平気で打ち解ける傲慢とさえいえる公主、母親の前で取り澄ました公主、様々な公主を見て今日の支度も悪戯を仕掛けるような、お道化た公主を見てきたが、信じられないくらいうぶな可愛げに溢れた公主を見たのは初めての事だ。 初夜の寝床でフェンシェンインデも輝くばかりの肢体に手が震えた。 紫禁城の作法で裸の公主を目の当たりにすると、小さな胸もまだ小さく堅い乳頭も、格格たちと違う美しさに、気持ちが昂るのを抑えて「初夜の作法は習った」ときいた。 小さくうなずく公主の胸を優しくなでると桃色の乳首が堅くピクッと突きあがった。 左利きの彼は優しく公主を抱き上げて自分のやりやすい形で、足を広げる手伝いをした。 そういうやり方までは教わっていない公主はちからが入って膝をそろえて足を閉じたので、フェンシェンインデは自分の子供の時の名前を教えると「えっ」と小さく声を上げた。 気持がそちらへ向いている間に足の間に自分の膝を割りいれた。 和毛は柔らかくまだ疎らだ、上から見下ろすと公主は恥ずかし気に手で顔を覆った。 「聞いていたより気が弱いのか」フェンシェンインデは安心して胸から腹へ摩り下ろした手に、公主は思わず膝を曲げ閉じようとした。 フェンシェンインデは高まる気持ちを抑え秘所が潤うまで、和毛を撫でてはまた胸をさすった。 乳房というにはまだ発達しきっていない、手で覆うと指の間から可愛い乳首がのぞいてぴくぴくと動く感触が伝わってきた。 ファーインはもっと頑張れよという気持ちで公主の中にいたが「あっ、あっ」という公主の声がたかっまてきたので、足を開いてフェンシェンインデを向かい入れやすく誘導した。 激しすぎるようなら、少し奥の手でもと思ったが若いフェンシェンインデは思っていたより技巧者だった。 高まりゆく公主は初めてとは思えない寝屋の仕草を見せ始める。 体を離すとき教わっていた様に手巾を当てると、自分の精と一緒に血が流れ出た。 少し血が多いかと「痛みはないかい」と優しく聞いた。 「うれしい」 それが答えだった。 フェンシェンインデはそれまでの格格たちに大金を積んで嫁に出すほど溺れこんだ。 それまでしなくてもと馮霽雯(ファンツマン)は云うが和珅(ヘシェン)は大賛成で、一人持参金に銀千両に田地まで二人の名義でフェンシェンインデの出す銀(かね)に上乗せをして贈った。 十五歳のフェンシェンインデに二人の格格がいるのは固倫和孝公主も知っていたが、自分一人に尽くしてくれる豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が許せる存在になった。 それに産まれたときの名が和孝(ヘシィアォHé Xiào)と聞かされて、なおさらに気を許していった。 馮霽雯(ファンツマン)は大喜びだ。 ファーインは「後は空狐に任せる」と公主から離れた。 フェンシェンインデも処女を征服し、俺が女にしたからこそ、此処まで妻が技巧に優れたと自信を持っての房事だ。 普段はおしとやかになり、空狐が入る十五日ごとの激しい房事にフェンシェンインデはますますのめりこんだ。 「これが毎日続いたら三年と豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の命が持たない」 空狐はファーインにそうは言うが、フェンシェンインデの精は父親とは大違いに、味が濃くて美味いそうだ。 生まれが半月ほど早い公主だが、共に十五歳の二人は夜の房事が待ち遠しく、楽しくて仕方ない。 フェンシェンインデが、お役の泊りで豊紳府に居ない時は一人寝の寂しさを「まるで未亡人だわ」と嘆いて、それを言うと笑う夫が愛おしくなる。 三等輕車都尉と軽いお役でも代々の家格はそこから始まる。 自分の力で這い上がれと父親はそう思っている。 知力学力は自分並みだが武術はそれほどとは思えない、和珅(ヘシェン)は案外と厳しく子供を育てている。 若くても地方へも出かけているフェンシェンインデの話しは面白くて楽しいひと刻を過ごし、床へ誘われれば更に嬉しい時間が来る。 普段から優しい夫に媽の馮氏(ファン)が尽くしてくれ、紫禁城とは違う自由に、固倫和孝公主は嫁いでよかったと幸せを感じた。 市へ二人で出れば二人を知らない街の者も、若い二人に親切に対応してくれる。 貧乏人も金持ちも行きかう街の人々はこの若い二人を好意的に迎えてくれる。 街へ出るとき義母の馮霽雯(ファンツマン)は雅よりも清楚な街着を用意してくれる。 その心使いが嬉しい公主だ。 紫禁城から付いてきた使女も町育ちで、こういう時は便利に動いて案内してくれる。 使女たちも翊坤宮(イークゥンゴン)や公主府にいたときより生き生きとしている、二人を案内しながら楽しい時間を過ごしていた。 固倫和静公主の結婚は不幸に終わりをつげ、和碩和恪公主も政略結婚と聞いていて自分も「和珅(ヘシェン)に売られたんだ」と父親を恨んだが、今はこの幸せがいつまでも続いてほしいと願った。 更に十公主は夫に尽くすのが義務とばかりに、人が変わったように従順になっていった。 固倫和敬公主の公主府に招かれると、三人の娘たちが着飾って偉ぶるのが子供ながらに嫌で嫌っていたが今は気にならなくなった。 自分の母親より年上の姉、固倫和敬公主はもう五十九歳、姪たち三人も自分より年上、今の固倫公主(グルニンジュ)は私の事よと心の中で留飲を下げることもたびたびだ。 固倫公主(グルニンジュ)として固倫和敬公主が年壱萬五千両も皇帝から支給されたと聞いた五年前は、自分たち親子にその年は年三千両と聞いて、悔し涙を浮かべるウーニャンが可愛そうだった。 その後ウーニャンは荒れていった。 宮人を怒りにませて叩いた時、倒れた先が柱の角、確かに行き過ぎだ。 馮氏(ファン)の助けで遺族への補償も生活への給付も復活した。 小さい公主は難しいことは分からなくとも、それで婚約が纏まったと思い込んでいたのも過去の事になった。 皇帝にたびたび招かれ顔を出すと、とびっきりの笑顔で迎えてくれる父親も昔より好きになった自分に驚く公主だ。 固倫和孝公主の悩みはただ一つ、子供にまだ恵まれない事だ。 乾隆五十五年(1790年)-ゴルカ朝ネパール遠征。 パンチェン=ラマ家の内部抗争に武力介入したネパールに対し、チベットの宗主国としての出征。 将軍巴忠(バジュン)がチベットからの歳幣供出によって講和し、朝廷にはネパール撃退と報告。 ネパールが旧貨の切下げを行なったことでダライ政府が償金供出を拒んだ。 乾隆五十六年(1791年)に第二次ゴルカ戦争に発展していく。 乾隆五十七年一月一日(1792年1月24日)壬子 雪晴れの朝。 和珅(ヘシェン)の元へよれよれの老人がやってきた。 「昔の知り合いに頼まれましたんじゃ、活精丹を今でも必要ですかな」 すでに同じような秘薬は試したが「活精丹」ほどの効果はなかった。 フォンシャン(皇上)の元へ手に入れる見込みがあると報告した。 フンリは「手に入れろ」と和珅(ヘシェン)に命じた。 八十一歳の弘暦(フンリ)に秘薬が必要か疑問だ。 弘暦(フンリ)よりも自分のためにもほしい和珅(ヘシェン)は弘暦(フンリ)に願ってフェンシェンインデを派遣させた。 十八歳のフェンシェンインデは呆れたがフォンシャン(皇上)の命では従うしかない。 名目は「七か月の休暇と江南への旅」の許しが出た。 父親は自分の年にはチンハイへ向かって旅をしたという。 子供の頃劉全に連れられてティェンジンにチンタオまでは行った事がある。 江南は初めてだ。 南昌で三日掛かったが、家が見つかり昂先生と五人の供を外で待たせて話をすると「一粒銀百両」と吹っ掛けてきた。 大事そうに一粒ごとに木の箱に入れてある。 「商売上手な奴だ」 そう思いながらも「有難い、これでフーチンに顔向けできる」と二人の共を呼び入れ背の葛籠から金を出して渡した。 「一年以内に来ても無駄だよ。簡単に仙丹の材料は手に入らない」 そう言って「いつできるか約束はできないから来た時の運しだいだ」と送り出した。 昂潘はじめ共には延命薬「保精丹」と話はして有るがどうせ昂先生は知っていて知らんぷり何だろうとフェンシェンインデは思っている。 「保精丹」は供に任せず自分の葛籠へ着替えと入れ替えて持ち帰ることにした。 供の陪演は重みの違う荷で嬉しそうだ。 空身で帰れると喜んでいる環芯は南京で重い本を背負わされるのをまだ知らない。 「何かあれば、人のせいにはできない」 フェンシェンインデ責任感が強い。 帰りは南京へ三泊したが、他へ寄り道をせず都へ戻った。 乾隆五十七年七月十九日(1792年9月5日) 昼に京城(みやこ)の東宣門から入り、豊紳府と和第へは帰着連絡だけで、朱家胡同に開かせている老椴盃(ラォダンペィ)へ宿を取り着替えを届けさせた。 翌朝、威儀を正し昂潘に葛籠を担がせて神武門から入った。 フェンシェンインデは十五の箱を持参していてそれを「休暇のお土産です」と旅の報告とともに渡した。 嘉淵(ジャユアン)は恭しく受け取り机に置いた。 乾隆五十七年(1792年)-ネパールに対し再征を行った。 歳幣を停止したチベットに対するネパールの侵攻に応じた対応だ。 京城に戻った巴忠(バジュン)は自尽、四川総督・四川将軍が相次いで敗退。 福康安指揮下の軍勢7000人、海蘭察指揮下の軍勢8000人がカトマンズを包囲、ネパールの朝貢を承認して講和に持ち込んだ。 結果ネパールは朝貢をすることになった。 承乾宮の珂里葉特佳玲(ケリェテジィアリン)が亡くなった。 乾隆五十七年五月二十一日(1792年7月9日)壬子-愉妃-七十九歳死去。 フンリは二日後に愉貴妃を追封した。 ファーインは五十三歳の時、五阿哥を二十六歳で失い、それから二十七年もたつのに健気なジィアリンの人生を走馬灯のように思い浮かべた。 そういえば西二所へ移ってきた花音(ファーイン)の事を知っているのはもちろんフォンシャン(皇上)、隠居した関玉(グァンユゥ)と養心殿を仕切る淡鵬(ダァンパァン)に蝴蝶(フゥーディエ)くらいになって仕舞った。 ファーインは西二所での生活を思い出したが、フォンシャン(皇上)はもうぼけているも同然だ、ファーインにヨンファンを思うことがあるのだろうか。 婉嬪と林貴人が承乾宮にいる事を覚えているのだろうか、心配になるファーインだ。 黄若兮(ホアンルオシィー)黄嬪は雍正十三年-十九歳死去。 高綏蓮(ガオスイリン)高皇貴妃は乾隆十年-三十五歳死去。 富察英鶯(フチャインイン)皇后は乾隆十三年-三十七歳死去。 金欣妍(ジンシンイェン)嘉貴妃は乾隆二十年-四十三歳死去。 蘇景環(スージンファン)純皇貴妃は乾隆二十五年四十八歳死去。 輝發那拉祥曖(ホイファナラシィアンアィ)嫻皇后は乾隆三十一年-四十九歳死去。 珂里葉特佳玲(ケリェテジィアリン)愉妃は乾隆五十七年-七十九歳死去。 陳蝴蝶(チェンフゥーディエ)は七十七歳の喜寿だ。 婉嬪になって四十三年、ほおっておかれたも同然だ、タァファも和珅(ヘシェン)に何とかしろとせがむ事にした。 四十歳の時はお祝いしてもらえないほど忘れられていたのだ。 フンリはそれで五十歳の時はこれでもかというほど盛大に祝ってくれた。 ファーインはと言えば死後に位階は上がったが子供を産んでも格格のままだった事を思い出していた。 富察花音(フチャファーイン) 雍正十三年七月三日(1735年8月20日)乙卯-二十三歳死去-追封哲妃(ジゥーフェイZhé)。 乾隆十年一月二十四日(1745年2月24日)乙丑-追封哲憫皇貴妃(ジゥーミィンファングイフェイZhé mǐn)。 固倫和敬公主が京城の公主府で亡くなった。 乾隆五十七年六月二十八日(1792年8月15日)壬子-六十二歳死去。 フンリは気落ちして一遍に年を取ってしまったと見えるくらいだ。 寿華峰(フゥアファン)はここぞとばかりに寄り添い気を取り直したフォンシャンに「婉嬪も年を取って寂しそうだ」とささやいた。 月が替わって朔の日にフゥアラァンに夜伽が告げられた。 最近は酒を少し飲んで話をしているうちに眠りにつくこと多い弘暦(フンリ)だ。 ファーインは二人に要注意と見張らせた八十超してもまだやるかとタァファも呆れている。 やっぱり「活精丹」を夕食後にそれでも冷ました茶で飲んでいる。 この間氷を浮かべた水をがぶがぶ飲んで腹下しをして太医に止められている。 和珅(ヘシェン)から「保精丹」を服用した日は「活精丹」を使用しては命を縮めると脅かされて素直に従っている。 朔が近づくと男の欲望が蘇り薬を頼りにフゥアラァンを呼び寄せた。 八十二歳と十七歳の寝屋が想像できるかと空狐も自分の年を顧みずに呆れている。 空狐はフゥアファンに弘暦(フンリ)の手がすべすべの若い手と錯覚させた。 半分以上は空狐が見させる夢だ。 それでも若いフゥアファンはタァファの気を受け、立ち上がると身の始末をしてフンリの皺だらけの体を甲斐甲斐しく濡れた柔らかい布で拭って、同じ布団にくるまって寝に付いた。 外にいる空狐にファーインも「やれやれ」と疲れている。 タァファが不平を送ってきたがさっさと退散するファーインだ。 空狐は何処へ行くかと念を送ると「臙脂胡同、鼓捷老」と返ってきた。 最近「揖姫(イージュ)」というのがお気に入りで殻に入らないときでも傍にいるらしい。 二胡の腕が京城(みやこ)一との評判が街へ流れている。 |
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第二十一回- 固倫和孝公主-2 乾隆五十八年一月一日(1793年2月11日)癸丑 豊紳府へ格格として寧寧(ニィンニン)という十五歳の娘がやってきた。 フェンシェンインデが乗り気ではないとみて、公主は母親の惇妃へ頼んで汪氏(ワン)の一族の娘を格格として仕えさせた。 実家は満州正白旗包衣佐領下人だった汪氏(ワン)の実家に比べ、上三旗正黄旗都統の佐領と格はうえだ。 乾隆五十九年(1795年)に劉之協は捕らえられるが、護送中に脱走した。 報告書には護送兵は皆殺しにあったと記されている。 固倫和孝公主が妊娠したとフェンシェンインデに告げたのは四月下旬。 「あなたお話が」 妊娠を告げ寧寧(ニィンニン)と馮氏(ファンFéng)の三人で男の子なら和珅(ヘシェン)に知らせずに隠し育てたいと相談した。 三人から打ち明けられた話は和珅(ヘシェン)が何時弾劾されもおかしくないという話だ。 公主と馮霽雯(ファンツマン)の手の者となった妾-翠凛(ツゥィリン)は和珅(ヘシェン)が公主に男子誕生の際、皇位を望んでいるという事を伝えた。 和第に秘密の部屋が二つあり、一つは金銀財宝、一つは皇帝の衣装部屋。 「あり得ない」 フェンシェンインデは考えておくと言った。 馮氏(ファン)は男ならここで決断しなさいと迫った。 「父を裏切ることになる」 「私はあなたを守りたい。でも兄たちは爺爺を許さないでしょう」 馮霽雯(ファンツマン)は話が拗れた時の為に来て待っていた平文炳と平儀藩が呼ばれ詳細を説明され、フェンシェンインデは従うしか道がない事教えられた。 寿華峰(フゥアファン)と和珅(ヘシェン)に促されて思い出したように婉嬪は婉妃になった。 すでに七十八歳の蝴蝶(フゥーディエ)は可愛いおばあちゃんだ。 乾隆五十九年十月十日(1794年11月2日)甲寅-婉妃(ウァンフェイ)。 大晦日婉妃の冊封の礼が盛大に行われた。 乾隆五十九年十二月二十九日(1795年2月18日)甲寅-冊封婉妃(ウァンフェイ)。 固倫和孝公主から難産で生まれた子は女子、産まれ落ちてすぐ亡くなったと届けがあった。 身代わりに死期の迫った娘を買い取って供養を念入りにした。 フェンシェンインデと固倫和孝公主の間に男子誕生。 乾隆五十九年十二月十九日(1795年2月8日)-和信(ヘシィンHé Xìn) 産まれ落ちると「御秘官」の倭国への密輸を仕切る平文炳へ預けられた。 公主もわが子と分かれるのは辛いが何より生きながらえてほしい気持ちが勝った(まさった)。 乾隆六十年九月三日(1795年10月15日)十五阿哥永琰(ヨンイェン)は正式に皇太子と宣示された。 皇太子は顒琰(ヨンイェン)と名を改めた。 弘暦(フンリ)は養心殿を明け渡さず、毓慶宮(イーチンゴンyu qing gong)が皇子住居だったのをそのまま住むように命じた。 桃華(タァファ)は皇后と正式に追贈された。 乾隆六十年九月三日(1795年10月15日)-永琰(嘉慶帝)皇太子となり孝儀皇后と追贈。 孝儀恭順康裕慈仁端恪敏哲翼天毓聖純皇后 「良かったではないか」 空狐の言い方がおかしい。 「本当ならもっと前に花音(ファーイン)に皇后が贈られたはずよね」 「なんだと。花音(ファーイン)が話したか」 「天狐の頃は今以上に気が緩んでいたわよ。私の中にいた頃は駄々洩れですもの、阿公の夢枕に立つのを助けたでしょ」 「知ってて黙っていたのか」 「だってせっかくファーインが助けて呉れているのに、私が出しゃばれば永琰がどうなるか心配だったわ」 「良い判断だ。あの時出しゃばればフンリは永琰を諦めたはずだ。静麓(ジンルー)に養育させて正解だ。永瑆(ヨンシィン)に永璇(ヨンシァン)も綿恩(ミェンエン)に従い顒琰(ヨンイェン)を助けるはずだ」 「はず、確実ではないの」 「気が弱いうえにしつこい。皇子がそれを補うまで無茶をしなければいいが」 「綿寧(ミェンニィン)が助けになるの」 「そうだ」 綿寧この時十四歳、書も詩経も先生が絶賛していて祖父の覚えもいい。 綿恩この時四十九歳、親王の叔父たちも一目置く存在でフンリの信頼は厚い。 和珅(ヘシェン)が恐れる一人だ、何事も無理押しはせず皇室の安泰を図っている、見る人によっては「昼行燈」にしか思えない控えめな存在だ。 兄の綿徳(ミェンドゥ)は山っ気があったが、綿恩は質実剛健そのままの武人でもある。 「四歳の時、父の死の前、皇室の藩屏となれと言われた」 次子の奕紹(イーシァオ)に四歳の時同じことを教えた、その奕紹も今は二十歳で親王、群王の多くに信頼される存在だ、特に永瑆(ヨンシィン)は期待を込めて指導してきた。 「俺より能筆家だ」 嘉慶元年一月一日(1796年2月9日) 嘉慶帝は即位し、フンリは太上皇として廷臣を指揮した。 湖北に動乱が起こった。 首謀者は逃亡した劉之協、一時は官軍は攻勢だったが四川の教徒も反乱に加わった。 官軍は拠点の攻撃を重視してまたもや攻勢に転じた。 河南・湖北・陜西・甘粛・四川の五省十数県に反乱は広がり、八旗兵は太平になれ弱体している、緑営(漢人の軍隊)も力が及ばない。 郷民による自衛軍が組織され四川の三十万を筆頭に、湖北や陜西をふくめて、五十万の義勇軍が集まった。 食い詰め物も多く兵による略奪も起きた。 和珅(ヘシェン)の弟、和琳(ヘリン)は白蓮教徒の大反乱の鎮圧を命じられたが、配下の官吏は捜査の名目で金銭の収奪を行った。 朝廷の国庫は動乱で蓄えを失い、和珅(ヘシェン)の一派は私腹を肥やした。 空狐とファーインは桃華(タァファ)に提案した。 「約束通り顒琰(ヨンイェン)は守った。タァファの希望通りに皇位にも就いた」 「それで」 「歴史には揺り戻しが必要だ。フンリはもう駄目なのはわかるだろうな」 「譲位したでしょ」 「顒琰(ヨンイェン)には和珅(ヘシェン)の組織に対抗する近臣が少ない。御秘官の組織を新しくしなければ国が亡ぶ」 「どうするのよ」 「こういう時こそファーインの出番だ」 「うそでしょ。何が出来るというの」 「タァファよ。お前には見えないだろうが、ジャサク・ラマは死んで生まれ変わった。もう直にファーインを見つける」 「生まれ変わりはまだ子供でしょ」 「菩薩頂のラマはもうファーインの為に動いている、京城に居る生まれ変わりは乾隆五十二年丁未の生まれですでに十才に近い。ジャサク・ラマがファーインを見つけた歳と同じだ、雍和宮の僧も従うはずだ」 「それでどうするの」 「フンリはまだ政治に未練がある。だが和珅(ヘシェン)の言いなりだ。だから公主を使ってヘシェンの身内から離反させる。豊紳殷徳(フェンシェンインデ)は公主の言いなりだ、父親の搾取を手助けしていても根は正直だ」 「親子を離反させるの」 「お得意だろ。それにお前の孫の綿寧(ミェンニィン)なら、跡継ぎになる覚悟を植え付ければ父親と違い、フンリを怖がらないはずだ」 簡単に言うわねとタァファは考え考え空狐に伝えた。 「時間は」 「フンリは後四年持たない。それだけあれば出来るだろ」 「ファーインに任せる」 「なんだ、顒琰(ヨンイェン)が即位して安心したか」 「だって綿寧(ミェンニィンmián
níng)も十五歳になるし、後が継げるならもう十分」 話しは決まり、空狐は寿貴人と固倫和孝公主を同時にファーインと操ることにしてタァファは寿貴人の周りに居残ることにした。 三世 「ジャサク・ラマ」康熙五十六年(1717年)~乾隆五十一年(1786年) ロルペー・ドルジェ(チャンキャ・ルルペー・ドルジェ) 四世「ジャサク・ラマ」乾隆五十二年(1787年)~道光二十六年(1846年) イェーシェー・タンパギャルツェン 「無生老母」の使いに弥勒菩薩が顕現して人々を救う。 昔からの信仰は形を変え支配者から夢の平和な国へ誘ってくれる。 小さな反乱が各地で相次いでいる。 郷紳と呼ばれる義勇兵は勇敢だ、朝廷に忠ではなく自分たちの郷村を守る、その気持ちで集まった仲間たちの結束は固い。 白蓮教徒の反乱鎮定後天理教徒と名を代えて一部は各地に散った。 ファーインの心配をよそに空狐は無くなった金(銀)は、和珅(ヘシェン)一人からだけでも十分間に合うほど取り返せると請け合った。 今、和珅(ヘシェン)を排除しても清の官員の汚職は止まらない。 「世の中なんざぁそんなもんさ」 まるで天台山の乞丐(チィガァイ・乞食)連中と同じ考えだ。 喜塔腊氏(ヒタラHitara・喜塔臘)は景仁宮に嘉慶元年移り住んで皇后となったが嘉慶二年二月七日(1797年3月5日)三十六歳で亡くなった。 綿寧(ミェンニィン)は悲しみよりもファーインたちの導きで和珅(ヘシェン)に対抗すべくひそかに富察一族と手を結んだ。 「御秘官」たちも後継者は綿寧と見定め和珅(ヘシェン)の一派を排除するために新しい長を探し始めた、袁洪玄は三年しか長をしていないが、八十歳と老齢でお飾りは自分で承知だ、乾隆帝に合わせた結果老齢で引き受けたものだ。 後継者は若手で序列は無視して綿寧(ミェンニィン)についている康藩(カンファン)を推薦した。 三十二歳という年齢に異議を唱える者はいない。 すでに馮霽雯(ファンツマン)は夫を見限って息子に将来をたくす気で英廉に縁のある康藩に従う士を糾合している。 康藩(カンファン)は馮霽雯(ファンツマン)に、皇帝の許しがあれば長に豊紳殷徳(フェンシェンインデ)かその息子を据えると約束した。 固倫和孝公主は二十三歳の女盛り、ファーインは自分が死んで生まれ変わったばかりのように思うのか生き生きと公主を操った。 空狐が「居なくてもいいか」と聞くとフェンシェンインデの精を欲しいときは入れ替わる」と柔軟な答えだ。 空狐にファーイン、更に公主自身の技巧にフェンシェンインデは夢中で、父親の勧めた二人目の格格は「必要ない」と話しに見向きもしなかった。 公主が勧め豊紳府に入っていた格格の寧寧(ニィンニン)が妊娠した。 子供は嘉慶二年五月十一日(1797年6月5日)事故による難産の末、その日のうちに親子ともども亡くなった。 一時は公主が親子で亡くなったとの噂が出て、和珅(ヘシェン)は何時妊娠したのかと仰天して豊紳府へ駆けつけたほどだ。 噂のでどこは公主府と見たが追求するわけにもいかず、フンリの耳に噂が入る前にと和珅(ヘシェン)は養心殿へ急いだ。 嘉慶二年閏七月十一日(1797年9月1日) 穎妃も六十六歳、手足の武貴人が亡くなってからは永璘(ヨンリィン)の養母に専念していたが、その永璘(ヨンリィン)も三十一歳の立派な大人。 男子は二人無くしたが三人目の綿愍(ミェンミィンmián nín)は二月に生まれたばかりだ。 空狐はタァファに頼まれて観に行くと四十歳から先が見えないと伝えた。 前に女の子を見たときに二十歳と非情な言葉に嘆き、次女も夭折。 ファーインは一時永璘(ヨンリィン)と綿寧(ミェンニィン)に手を結ぶようにと考へたが天狐はやめたほうが綿寧(ミェンニィン)のためだと云われてその線はあきらめた。 「其れよりもお前の孫の綿恩とその子の奕紹が頼りがいがある」 綿恩は兄の定親王綿徳が亡くなった後の家を継いでいる、五十一歳の人望の厚い親王だ。 それを聞いているタァファはため息をついている。 かって綿徳が幼いころにこの子が皇位を継ぐと噂が出たほどの逸材だ。 綿恩は第二子、その子の奕紹も第二子で今二十二歳の青年で人望もあり「御秘官」の間に皇室を支える一人として期待される存在だ。 「皇位を継げてもすべて良しは無いのね」 「それより綿寧(ミェンニィン)が陥れられないように見張るんだぜ。俺とファーインは今手いっぱいだ」 「何よ。ラマは助けてくれるんじゃ無かった」 「おい、俺たちと付き合って寝ぼけるんじゃない。向こうさんはこっちが困れば道を開いて逃がしてくれて、後追いの手から門を閉じて守ってくれるのが役目と心えている。余分なことをすれば見放される」 「よくわからない話ね」 「ファーインを見ろよ。フンリを守る、単純だろ。タァファが複雑にするから難しくなるんだ」 世のなかの騒然とした動きにも弘暦(フンリ)は年寄りとは思えぬ贅沢に溺れ、国庫が枯渇してもラマに、薩満、あらゆる宗教に自分に寿を授けよと喜捨を続けている。 白蓮教徒たちも組織的な行動が無くなりだした 嘉慶三年(1798年)に王聡児・姚之富が自害。 嘉慶五年(1800年)に劉之協が捕らえられる。 嘉慶六年(1801年)には四川の指導者の徐天徳・樊人傑が自害。 嘉慶七年(1802年)頃ほぼ鎮圧された。 嘉慶四年一月三日(1799年2月7日)、弘暦(フンリ)は八十九歳で薨去。 誕生は康熙五十年八月十三日(1711年9月25日)。 乾隆帝・高宗-愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ) (アイシンジュエルオ・フォンリaisin
gioro hung li) 嘉慶帝はすかさず動いた。 嘉慶四年一月三日(1799年2月7日) 乾隆帝逝去のその日のうちに寿華峰(フゥアファン)を寿太貴人に冊封。 嘉慶四年一月四日(1799年) 佳玲(ジィアリン)を嘉慶帝養母として慶恭皇貴妃が追封された。 嘉慶四年一月十八日(1799年2月22日) 嘉慶帝は追いかける様に和珅(ヘシェン五十歳)を自尽に追い込んだ。 和珅(ヘシェン)の弟、和琳(ヘリン)は三年前に亡くなっている。 「御秘官」は和珅(ヘシェン)を見殺しにした。 嘉慶帝は妹の十公主の夫豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が家を継ぐことで和珅(ヘシェン)も納得しての服毒死だ。 没収された財産は銀に直すと、二億二千四百両が見つかり、そのほか各地にある財産は八億両分有るとみている。 清政府の年間の歳入額がこの当時約七千万両、現金(銀)だけで三年分近くもあった。 ただこれは都市伝説に過ぎず嘉慶帝が手にしたもは少ない。 正確な数字は金二万六千両、個人金庫には金六千両、地下室には銀百万両あまりが隠されていた。 これに劉全の二十万両を加えても上記の数字には遠く及ばない。 広大な和珅(ヘシェン)の「和第」は慶親王(十七阿哥永璘)の所有となり、半分は固倫和孝公主が住むことが許されて、死後に慶親王が此処へ住むことになる。 表の筋書きは綿寧(ミェンニィン)が父親の嘉慶帝と組み立てたことに為っている。 実際はファーインが空狐に頼んでラマにつなぎを付けての作戦だ。 花音(ファーイン)の孫、綿恩(ミェンエン)とその子の奕紹(イーシァオ)に夢のお告げとしてラマ寺院雍親王府で四世「ジャサク・ラマ」に会ってもらった。 そこでファーインから頼まれた大筋の政権交代時の皇室継続のための作戦が渡された。 ジャサク・ラマは三世「ジャサク・ラマ」の頼みだと親子に告げた。 綿恩(ミェンエン)は父親から聞かされていたファーインの言葉としてそれを信じて子の奕紹(イーシァオ)に作戦への参加を求め、ラマの立ち合いでイーシァオは父親に従うことを約束した。 綿寧(ミェンニィン)への繋ぎを取り、ひそかに会合を持ち、綿恩(ミェンエン)が大筋を描いたファーインの作戦を伝えた。 乾隆上皇の生前は行動を起こさない。 薨去が確認されたら嘉慶帝を動かし上皇最後の寵姫を寿太貴人として尊称を与え、残された妃嬪に動揺を起こさせない。 (妃嬪の信頼は太監、宮人の支持も取れる) 和珅(ヘシェン)の一族は豊紳殷徳(フェンシェンインデ)が束ねることで妄動を抑える。 それには豊紳殷徳と固倫和孝公主に養子-福恩(父豐紳宜綿)を迎えて家系は残すこと(将来子が出来ても分家させるか養子に出させる)。 隠された和信(ヘシィンHé
Xìn)は追求しない事。 この事について綿寧(ミェンニィン)から提案があった父の嘉慶帝には話さないと。 一同は皇帝が猜疑心の塊の事は承知だ、直ぐに話は決まった。 隠匿財産について豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の差し出す財産で後は追及しない事、それによって次は自分と恐れる者を帝への忠誠を誓わせて安堵させる事。 綿寧(ミェンニィン)は了承したので、「御秘官」(イミグァン)の長が自分付きの康藩(カンファン)と初めて知らされた。 それは自分が時期皇帝と臣下が押していると実感した日だ。 和信(ヘシィンHé Xìn)については「御秘官」の中でも三人しか伝わっていない極秘事項だと知らされた。 そして乾隆帝の孫としてではなく和国へ向かうことも見逃すと綿寧(ミェンニィン)が約束した。 綿寧(ミェンニィン)と奕紹(イーシァオ)は共に皇室繁栄を誓った。 そして二人は嘉慶帝が動いてくれたら真っ先に成親王永瑆(ヨンシィン)を味方にすることに賛同した。 親王の中で一番頼りに出来ると綿恩(ミェンエン)が強く推した為もある。 それだけミェンエンは人に信頼されている。 永瑆(ヨンシィン)は実兄の儀親王永璇(ヨンシァン)と共に皇室の要だ。 嘉慶四年正月初八日、内閣が命令を受けた。 「成親王永瑆・刑部尚書董誥・兵部尚書慶桂は軍機処で業務に当たれ。戸部侍郎の那彦成と戴衢亨は軍機処に留任させる」 嘉慶帝は和珅(ヘシェン)一族のみならず、富察(フチャ)一族にまで弾劾の手を伸ばした。 和珅(ヘシェン)には二十の大罪を犯したとして捕縛が命じられた。 一時は福長安も斬刑との処分が下されるほどであった。 嘉慶帝の大芝居の幕は上がった、嘉慶帝の描いた一幕が追加されその主役は福長安で先付けで平儀藩(ピィンイーファン)が特赦の詔書を預かった。 先帝へ和珅の罪を直接申し上げたならば、ほかのものとは違い、確固たる証拠があったはずだ。 先帝もすぐに和珅を重く罰して処刑したはずであり、以前の訥親断罪と同様、寛容に扱うことがあろうか。 軍務・国務をここまで誤らせることもなかったはずである。 先帝がご高齢であるため煩わせたくはなかったとしても、朕に直接話せばよいではないか。 しかしこの三年間、和珅の罪状について上奏がなかったことは、和珅を庇っていたも同然であり、その罪はあきらかである。 福長安は和珅(ヘシェン)と同時に拘束され、私邸の財産を調査・押収された。 和珅(ヘシェン)の自尽に立ち会わされ獄へ戻されたが、その後釈放された。 では福長安の罪はと言えば和珅(ヘシェン)を弾劾しなかったというものだ。 では和珅(ヘシェン)の罪は、越権行為、不正蓄財が主だ。 和珅(ヘシェン)は最初、群臣から凌遅刑が求められたが先帝の喪中のため、多くの資料は和珅(ヘシェン)が首をつられたと記し、一部は服毒死を選んだとされた。 福長安-乾隆25年(1760年)誕生~嘉慶22年(1817年)57歳死去。 乾隆四十四年八月福長安-工部右侍郎 乾隆四十五年(1780年)正月福長安-軍機処行走 乾隆四十八年七月(1783年)福長安-戸部左侍郎 乾隆五十九年四月(1794年)福長安-正紅旗満州都統・鑲白旗満州都統 嘉慶三年(1798年)七月福長安-一等侯爵 嘉慶二十二年(1817年)福長安-死去 豊紳殷徳は固倫公主の夫であり、先帝は固倫公主を特にかわいがっていたため、先帝のお気持ちを慮り、まげてこれを責めることをしない。 和珅の公爵の位は、王三槐を捕えた功績に対して与えられたものなので、提案通り剥奪する。 ただし、特別に伯爵にとどめ、豊紳殷徳に継承させる。 豊紳殷徳は自宅にこもり、外出して騒ぎを起こすことのないようにせよ。 富察錫麟-満洲鑲黄旗人。福長安の子、福霊安継子。 錫麟は特別に以前どおり雲騎尉とするが、侍衛を解任し、今後は乾清門での活動を禁止し、出身旗にもどして閑散差使とする。 豊紳伊綿-満洲正紅旗人。和琳の子。 豊紳伊綿は公爵の位を剥奪し、侍衛を解任する。今後、乾清門での業務は許さないが、特別に雲騎尉を授け、出身旗にもどして閑散差使とする。 劉全の家産を調べたところ銀二十万両があった。 綿恩たちが隠匿財産について豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の差し出す財産とした物について正史は沈黙している。 都市伝説の話半分はおろか総資産二億両程と空狐は見ている。 「結」の結社は郷紳への資金提供に五千万両を出しても見返りは請求しないので和珅(ヘシェン)との繋がりを粘竿処(チャンガンチュ)も追求せずに嘉慶帝の決済を受けた。 綿寧から追求すれば「御秘官」と粘竿処(チャンガンチュ)が郷紳と手を組んで満、蒙の八旗では押さえられないと奏上し、慎重な嘉慶帝が決断した。 漢族の緑営が「御秘官」、粘竿処(チャンガンチュ)と密接な血縁に結ばれていることは乾隆帝から教えられていることも判断材料となった。 女性問題も和珅(ヘシェン)は追及された。 宮人を妾にした事だ。 フンリでさえ「青い眼の女か、いい処に目を付けおって」などとともに笑ったくらいだ、ということはフォンシャン(皇上)も目には留めていたい様だ。 年季明け、寡婦、子連れ(養子に出したとは言っても養育費の為に働いている)、誰が聞いても世話した方をほめる。 嘉慶四年弾劾二十の大罪 宮廷から暇を出された侍女を妾とした。廉恥を顧みない行為である。大罪その四である。 此の弾劾文を知った多くの宮人を妾にして居るものは恐れおののいた。 豊紳殷徳(フェンシェンインデ) 嘉慶七年(1802年)十二月-散秩大臣上行走。 (長史奎福誣告- wikiwand) 嘉慶十一年(1806年)四月-正白旗蒙古副都統。 (ウリヤスタイ派遣中に病を得る-維基百科)。 嘉慶十二年(1807年)一月-鑲藍旗満州副都統。 嘉慶十二年(1807年)十二月-伯爵。 (復位は嘉慶十一年-維基百科)。 嘉慶十五年(1810年)四月-公爵。 嘉慶十五年五月二日(1810年6月3日)三十六歳死去。 豊紳殷徳(フェンシェンインデ)亡き後、嘉慶帝は固倫和孝公主に銀五千両を贈った。 嘉慶四年四月(1799年)-嘉慶帝は二阿哥綿寧(宣宗・道光帝)を秘密建儲制によって太子とした。 蝴蝶(フゥーディエ) 十一阿哥永瑆(ヨンシィン)がフォンシャン(皇上)の死後も色々と面倒を見てくれる。 嘉慶帝も「自分に代わってよろしく頼む」と兄に自筆の手紙で言ってきた。 陳蝴蝶(フゥーディエ)・婉貴妃-陳氏(チェン)は延禧宮から承乾宮へ移り住んだのはまだ佳玲(ジィアリン)が元気なおばあちゃんだったころ。 嘉慶六年正月(1801年)-嘉慶帝尊封婉貴太妃 嘉慶帝(仁宗)は弟の十六阿哥永璘を恵郡王に封じ、さらに慶郡王と改めた。 寿貴人は嘉慶帝尊為寿太貴人となり寿安宮へ移り住んだ。 弘暦(フンリ)の亡骸が嘉慶四年九月(1799年)に裕陵(清東陵)に納められ、魏佳氏桃華(タァファ)に富察氏花音(ファーイン)の霊は天上界から迎えが来て紫禁城を後にした。 裕陵の棺は正面中に皇帝、左側(西側)に孝儀純皇后-令皇貴妃包衣魏氏・満州姓、魏佳(ウェイギャ)と哲憫皇貴妃・哲妃-富察氏(フチャ)。 皇帝の右(東側)に孝賢純皇后-富察氏(フチャ)と慧賢皇貴妃・高貴妃-高佳氏(ガオギャ)。 手前左に淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏(ジンギャ)の棺も置かれ、嫻皇后-烏拉那拉氏(ウラナラ)「輝発那拉氏ホイファナラ」の棺はおかれなかった。 純恵皇貴妃の園寝には嫻皇后も眠っている。 稲成空狐となった九尾狐は銀色に輝き、娘娘の誘いで泰山娘娘を祀る碧霞元君宮のお使いをする役目を与えられた。 陳蝴蝶(フゥーディエ)が寿康宮で亡くなった。 可愛い年寄りは代々の掌事宮女たちに見守られ、穏やかな顔で眠るように死んでいった。 十二歳格格で始まった人生のほとんどは紫禁城だった。 嘉慶十二年二月二日(1807年3月10日)戊辰-婉貴太妃九十一歳死去 嘉慶帝尊封婉貴太妃。 嘉慶十三年(1808年)綿寧(宣宗・道光帝)に大阿哥奕緯が産まれたが、皇位は道光十一年産まれの四阿哥奕詝が継いだ(文宗・咸豐帝)。 妖力の亡くなった寿太貴人には穏やかな日々が巡ってきている。 嘉慶十四年二月二十一日(1809年4月5日)甲戌-寿太貴人死去。 寿華峰(フゥアファン)まだ三十四歳という若さだった。 那答応の生まれ変わり、いや本人だとの噂が絶えなかった。 |
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追記-乾隆帝譲位後の後宮の妃嬪 嘉慶四年一月三日(1799年2月7日)己未-愛新覚羅弘暦八十九歳薨去。 慶貴妃-陸氏(リゥ)・静麓(ジンルー) 乾隆三十九年七月十五日(1774年8月21日)甲午-慶貴妃五十一歳死去。 嘉慶四年一月四日(1799年2月8日)己未 嘉慶帝養母として慶恭皇貴妃追封。 循妃-伊爾根覚羅氏(イルゲンギョロ) 乾隆五十九年十月二十四日(1794年11月16日)甲寅-循妃 嘉慶二年十一月二十四日(1798年1月10日)丁巳-循妃四十一歳死去。 追封-循貴妃 子女無し 穎貴妃-巴林氏(バリン) 乾隆二十四年十二月十八日(1760年1月23日)-穎妃 嘉慶三年四月十五日(1798年5月30日)戊午-乾隆上皇勅旨穎貴妃 嘉慶三年十月(1798年)戊午-冊封穎貴妃 嘉慶五年(1800年)庚申-嘉慶帝称為穎貴太妃 嘉慶五年二月十九日(1800年3月14日)庚申-穎貴太妃七十歳死去。 子女-無し 慶親王永璘養母 芳妃-陳氏(チェン)・陳佳氏(チェンギャ) 嘉慶三年四月十五日(1798年5月30日)戊午-芳妃 嘉慶三年十月(1798年)戊午-冊封礼芳妃 嘉慶六年八月十三日(1801年8月30日)辛酉-芳妃五十二歳死去。 白貴人-柏氏(パァイ)・柏佳氏(パァイギャ) 乾隆五十九年十月二十四日(1794年11月16日)甲寅-白貴人 嘉慶八年五月二十六日(1803年7月14日)癸亥-白貴人七十三歳死去。 子女-無 恭嬪・恭太嬪-林氏(リン) 乾隆五十九年十一月二十日(1794年)甲寅-恭嬪 乾隆五十九年十二月二十九日甲寅-冊封礼恭嬪 嘉慶十年十一月二十七日(1806年1月16日)乙丑-恭嬪七十四歳死去。 子女-無 惇妃-汪氏(ワン) 嘉慶十一年一月十七日(1806年3月6日)丙寅-惇妃六十一歳死去。 子女-一女 ・弘暦十女・固倫和孝公主 婉貴妃-陳氏(チェン)・蝴蝶(フゥーディエ) 乾隆五十九年十月十日(1794年11月2日)甲寅-婉妃 乾隆五十九年十二月二十九日(1795年2月18日)甲寅-冊封礼。 嘉慶十二年二月二日(1807年3月10日)戊辰-婉貴妃九十二歳死去。 嘉慶帝尊封婉貴太妃。 子女無し 鄂貴人-西林覚羅氏(シリンギョロ) 乾隆五十九年十月二十四日(1794年11月16日)甲寅-鄂貴人 嘉慶帝尊為鄂太貴人 嘉慶十三年四月二十五日(1808年5月20日)戊辰-太貴人七十六歳死去。 子女-無 寿貴人-氏不詳・生年不詳 嘉慶四年一月三日(1799年2月7日) 乾隆帝逝去・嘉慶帝尊為寿太貴人 嘉慶十四年二月二十一日(1809年4月5日)甲戌-寿太貴人死去。 子女無し 那答応と同一人物とされる事が多い。 晋妃-富察氏(フチャ)・生年不詳 嘉慶三年七月九日(1798年8月20日)戊午-晋貴人 嘉慶二十五年八月二十三日(1820年9月29日)庚辰-晋妃 道光帝即位後,道光帝上諭-皇祖晋太妃 道光二年十二月八日(1823年1月19日)壬午-晋太妃死去。 (死去年齢は四十歳台らしいが特定できていない、父親は嘉慶六年(1801年)に七十四歳で記録が残る) 子女-無し |
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自主規制をかけています。 筋が飛ぶことも有りますので想像で補うことをお願いします。 |
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功績を認められないと代替わりに位階がさがった。 ・和碩親王(ホショイチンワン) 世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅郡王(ドロイグイワン) 長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。 ・多羅貝勒(ドロイベイレ) ・固山貝子(グサイベイセ) ・奉恩鎮國公 ・奉恩輔國公 ・不入八分鎮國公 ・不入八分輔國公 ・鎮國將軍 ・輔國將軍 ・奉國將軍 ・奉恩將軍 ・・・・・ 固倫公主(グルニグンジョ) 和碩公主(ホショイグンジョ) 郡主・縣主 郡君・縣君・郷君 ・・・・・ 満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。 ・上三旗・皇帝直属 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ) 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ) 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ) ・下五旗・貝勒(宗室)がトップ 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ) 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ) 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ) 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ) 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ) ・・・・・ |
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第十五回-那恋心-1-2021-6-24 | 第十六回-那恋心-2-2021-06-25 | 第十七回-那恋心-3-2021-06-26 | ||||||||||||||||||||
第十八回-寿華峰-1-2021-06-28 | 第十九回-寿華峰-2-2021-07-05 | 第二十回-固倫和孝公主-1 -2021-07-14 |
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第二十一回-固倫和孝公主 -2-2021-07-16 |
第三部 完 |