第伍部-和信伝-

 第三十四回-和信伝-

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶九年十月二十日18041121日)の陽はすでに暮れたが、王念孫は家族のことも信(シィン)に教えてくれた。

二人は龍井茶で杭州(ハンヂョウ)名産の胡桃入りの菓子を食べながら考え方が近いとしり意気投合した。

二人が喫している龍井(ロンジン)茶はこの屋敷が康熙帝玄燁から与えられ、その当時より引き続いて同じ畑の樹から採取しているという者が納入している。

 

父親は雍正二年(1724年)に一甲二名榜眼及第、吏部尚書王安国。

息子は嘉慶五年(1799年)の一甲三名探花、王引之で今年三十八歳の男盛り。

自分は乾隆四十年(1775年)の第二甲進士。

その年の一甲に選ばれた三人。

一甲一名状元には呉錫齡、六品に任じられたが年内に死去、肺結核と伝わる。

一甲二名榜眼は汪鏞、嘉慶十二年(1807年)大理寺少卿、光祿寺卿,后任順天府府丞まで進んでいるが生没年不詳。

一甲三名探花は沈清藻、翰林院編修に選ばれたが年内死去

 

「すでに六十歳、早く引退したいが再度の召し出しでな。河道の整備も重要じゃによってやめたいともいえんのじゃ」

王念孫はそういうが昔話に沈徳潜(シェン・トーチェン)という人は六十七歳で第二甲進士に及第したという。  

乾隆四年(1739年)のことで選庶吉士,散館授翰林院編修。

乾隆十二年(1747年)礼部侍郎に抜擢されたが辞職が許され、九十七歳の乾隆三十四年(1769年)になくなった。

 

話しは飛んで京城(みやこ)南城の金魚池での品種改良に、近くにある紅橋の話を面白おかしく話してくれた。

戻りの船で関元(グァンユアン)達から聞いて、すこしは都の地図にも詳しくなりゥオンニィェンスン(王念孫)のいう場所も理解できた。

舒慧蓮(シュフゥィリィェン)が「屋敷の習慣で1800分が食事時間なので」と部屋へ届けてきたので、食べながら話を続けた。

 

家族は赤や黒の凸眼金魚(トゥーイェンジンユィ・出目金)を改良するのが楽しみで金魚池にはなじみの店もあるという。

様々な金魚から後宮の納品に漏れた出物は好事家の垂涎の的だそうだ。

祖父王曾禄の代から始めた琉金飼育は赤白の模様が華麗で、好事家に業者までが大金で買い取っていくという。

突然変異の三匹の黒凸眼金魚に二匹の紅凸眼金魚は王念孫が七歳の時偶然見つけ、自分で交配できるように庭の隅に番人を付けて池まで祖母が拵えてくれたという。

幸い稚魚の両親(張飛・園園)は記録があり、毎年何匹かがこの父母(フゥムゥ)から誕生した。

「赤いものは何代も続けて出るのじゃが、黒は中々遺伝してくれんので苦労しましたものですじゃ。今は十人ほどの仲間で増やしていますので黒の数も増えて交配も楽ですじゃ」

今でも琉金は弟弟が丹精し続けて飼育し、六十代前の絵姿まで残されているという。

「それは曹操という雄と、趙飛燕というちっぽけな雌から生まれた一族だそうですじゃ。我が家の琉金、凸眼はこの二匹の子孫ですじゃ。昔は上からの模様が珍重されたが、今は瑠璃板(ガラス)越しに横から観た模様の美しさが喜ばれますじゃ。代々凝った名前を考えるのが最大の息抜きですじゃ」

後に高名になった画家もあり「琉金でなく画を売れ」と言われて困ることもあるという。

 

紅橋(フォンチャオ)には宝石、貴重品以外にも小遣い稼ぎに金魚の裏取引まであるという。

どうやら王念孫は河道の整備に加え、裏取引の動きにも通じているようだ。

「わしのように古手の学者官員は余裕も出るが、若いうちに賄賂に負けてしまう者も多く出る。賄賂を受け取らせるのは受け取るのと同じくらい危険ですじゃ。賄賂欲しさに出鱈目を言うものまで出るので身を慎んで眼を凝らしてくだされ」

・紅橋-THIEVES MARKET(スィーヴズマーケット・泥棒市場)

話しは信(シィン)を指導した孫星衍にもおよび山東督糧道に着任と聞いて喜んでくれた。

孫星衍(スゥンシィンイェン)は服喪の為帰郷したとき阮元の頼みを引き受けて五歳になった和信(ヘシィン)を嘉慶四年から三年間教えに来てくれていた。

馬車の迎えが来て宿舎へ王念孫が戻ったのは戌(余姚旧暦十月末730分頃)の刻が過ぎた頃だ。

 

清国の正式な刻は九十六刻制(一刻は十五分)が採用されている。

一時辰を初刻と正刻の二つの小時に分けた。

午後11時台を例に取ると以下このように分けた。

初初刻(1100分・子の初刻)・初二刻(15分)・初三刻(30分)・初四刻(45分)・正初刻(1200分・子の正刻)・正二刻(1215分)・正三刻(1230分)・正四刻(1245分)

民間では不定時法の地域が有るように話を複雑にした。

 

卯の鐘(旧暦十月末545分頃)が聞こえて間もなく陽が出てきた、大分陽の出る時刻が遅くなってきた。

運動して体から湯気が出る体をふきながら食堂に集まる子供たちが席に着きだした。

この屋敷では季節を問わず700分が朝食の時間だ。

信(シィン)が生まれて間もなくこの屋敷へ来たときに、700分、1230分、1800分が食事と決まった。

 

子供たちが増え教科も増えて一日の行事は多い、大の月は10日周期で、小の月は一日分が削られた日程で学んでいる。

子供たち、いや屋敷の朝は早い、この時代陽に合わせた時刻で生活は営まれているが、ここでは西洋の24時間ですべてが動いていた。

5時起床。

530分から630分までが拳、槍、棒術、剣などの武道の時間。

8時から12時まで休みを入れて学術、年長者は邸外での馬術も入る。

14時から邸内の掃除。

15時から講師が来邸すれば授業で、普段は自由時間となる。

20時までに湯浴みを済ませ自室へ戻る(16時から湯殿に入れる)。

22時消灯し榻(寝台)に入る。

信(シィン)は幼児の時から慣れているが甘やかされてきた子供は慣れるまでが一苦労だ。

特に掃除は奴婢、下僕の仕事と思って家族へ苦情を謂い立てるものもいたが、逆に親に「独り立ちしたければ十五歳まで辛抱しろ。挙人に為れる学力があるなら即日退塾のお願いをしてやる。まず十三經をすべて読破してから言いなさい」と諭されている。

 

「秀才(生員)」「挙人」「貢士」「進士」と学士の道はあるが、なまじ地方名士が一生を棒に振る話を聞いて育った子供たちは「此処のほうがまし」と諦めも早く順応している。

県、府、省で全て合格して初めて秀才(生員)、この辺りから井の蛙と気が付けば人生もやり直せる。

村に一人くらいは秀才がいても挙人が出るのは田舎の府ではめったにいない。

 

年末二十二日にやってきた平康演(クアンイェン)によれば、王念孫は二十二歳で挙人だそうで父親がその時には亡くなっていたそうだ。

「天才の家系でもそのくらいですから、普通じゃ受かりませんよ」

家に来た時に凸眼金魚の話を聞いたというと喜んで話が弾んだ。

「家の爺様が昔知り合いから分けてもらって今でも妻子(つま、チィズ)が子孫を増やしていますぜ」

蘇州(スーヂョウ)には金魚の愛好家(好事家クラスの人たち)が三百人ではきかないくらいで、交換会も仕切る家が三軒あるという。

康演は観るのは好きだがチィズ(妻子・つま)と息子が手出しを拒むと嘆いた。

「前に水盤の苔を奇麗にしたらどやされましてね。それからは観るだけにしました。フゥチンに関元(グァンユアン)も金魚に興味は無いようです」

次男関栄(グァンロォン)が商売上手の上、金魚の扱いも丁寧だと顔がほころんでいる。

三男の関玉(グァンユゥ)は関元(グァンユアン)に気性が似ているが、船より陸の商売が身に合うようだという。

「京城(みやこ)からの戻りの時に孫が増えそうだと聞きましたが」

「九月三日になります。関栄に二人目の男が生まれました」

これで六人の孫の内五人が男だ。

 

「関元(グァンユアン)さんは今頃福州(フーヂョウ)ですか」

「イエイォン(叶庸)さんとは気が合うようですぜ。しばらく一緒に行動すると決まったようです。二十五日にこちらへ戻って二十八日に都へお供と聞いています」

大分忙しい日程を組んだようだ、三十日で都入りは余裕がない旅になりそうだし二十五日までに戻れないときは康演(クアンイェン)がお供だというので「暫く逗留します」と言っている。

叶庸(イエイォン)こと叶庸助は年も近い関元(グァンユアン)と十一月半ばに福州(フーヂョウ)で船を受け取り杭州(ハンヂョウ)で総兵官へ引き渡した後また福州へ関元の船で向ったと聞いている。

献納された海賊退治の船は三艘から五艘に増え、最後の船の引き渡しも済んだ。

護送船団のほうも予定より早く人員の訓練が済み、十の船団の護衛に二十艘がついている。

商船の防御は徐々に弩(ヌゥ)が配備されてきている。

それでも海賊は引きも切らず沿岸へ現れるという。

「一体全体どのくらいの船が参加してるのですかね」

「二百艘はいると云いますが、まともなのはせいぜい八艘だそうですぜ」

「すべて台湾あたりでしょうか」

「範囲は掴み切れませんが、教徒の残党でルソン近くに根城のあるものが砲を積んでアヘン貿易に手を染めているとも聞いています」

「私も討伐に出てもいいですかね」

「今はまだその時期じゃありませんよ。まず手足になる船乗り、砲手の育成と軍師を選ばないとね」

「関元(グァンユアン)さんを軍師では」

「哥哥はそのつもりの様ですが、大雑把すぎますぜ。もう少し慎重な人材を見つけないと。和国へ行きましょうなんて連れまわす方が多くなりそうで」

「康演(クアンイェン)さんとの間位の人がいいですか」

「その方が安心できます。軍師には勇猛であっても慎重さがかけては船員が困ります」

「一番難しい人選ですね」

「イエイォンさんが船戦(ふないくさ)を学んでくれれば、いい人(適任)だと思うのですぜ」

「機会があればフゥチンの耳へ」

「任せてください。哥哥と私のフゥチンの耳に入れておきます。関元(グァンユアン)の軍師より信(シィン)様のほうがうまく使えそうだ」

「私を買いかぶらない方が好いですよ」

信(シィン)は勇敢さと慎重のつり合いがまだとれていない。

「何ね軍師と言えど大将に引きずられるより、耳を貸してくれる人のほうが上手く作戦が立てられますから。昂(アン)先生と哥哥のようなつながりが一番ですよ、関元(グァンユアン)が財政を学べば三人でうまく人に金が動きます。人に銀(かね)を集めるのが上手ですがね、使いっぷりにはひやひやされてしまいます」

 

信(シィン)が船で外洋へ出ても酔わなかったと龍莞絃(ロンウァンシィェン)から聞いて安心もあるが、若いだけに血気にはやっても困ると心配性の康演(クアンイェン)でもあった。

「チィェンウー(銭五)とお会いしたそうで」

「和語でぜにごというそうですね」

「言葉を覚えましたか」

「和語は難しいですが、イォンさんから大分勉強しました。娘を預かってくれと莞絃(ウァンシィェン)さんが頼まれていましたよ」

チィェンウー(銭五)が惚れた女はイレーネ、ウァール(ワール)というポルトガル人が父親、清国とジャワの混血が母親。

頼んでいたのはそのイレーネの娘で「その」だという。

子供の母親イレーネは泗水(スーシュイ、スラバヤ)で飯店を仕切る人だそうで爾という字を当てはめた榮爾飯店(ロォンゥアールファンディン)で清国人向けの宿を経営していたという。

爾は和語では「その」とも読むのだそうだ、母親を火事の後に亡くし船へ乗せたが和国より清で学ばせようと決めたそうだ。

爾海燕(ゥァールハイイェン)が呼び名と康演(クアンイェン)も知っていた。

「南京(ナンジン)では結の人気者だと蘇州(スーヂョウ)まで響いてきましたぜ。笛(ヂィー)が大層上手だそうで、妹妹なぞ自分で育てたいと大乗り気だそうでね。だけど龍兄弟のおっかさんが手放しません」

和国の横笛に似ている、祖父ウァール(ワール)の形見だそうだ、船で信(シィン)も直に聞いている。

縦笛とは違う異国の音色に聞きほれる人が多いという、太めの竹ひごが巻き付いていて和国の笛とも違うという。

「笛の名はトラヴェルソと母から聞いたけど、どこの言葉か誰も知らないの

蘇州二胡(スーヂョウアルフゥ)と合奏すると音色に哀愁が漂い、古琴(クーチン)奏者に合わせて即興で吹くと聞いているものは感動で打ち震えたという。

 

「その」

「なに父様(とうさま)」

「お前の容貌では和国へ連れていくのは難しい。教育を知り合いの清国人にゆだねようと思う。幸い広東語に達者なそのならば人々に受け入れてもらえる」

泗水(スーシュイ・スラバヤ)では身寄りもありませんでしたから、どこに住んでも同じですわ

「すまん」

「火事はもらい火と言っても誰も保証してくれませんから、父様(とうさま)が謝ることはありませんよ」

火事で昨年七月に飯店が燃えた後、飯店で下働きをしていた水夫の後家の家に避難し、一年近くを持ち出したわずかな金(かね)で世話をしてもらっていた。

三年ぶりに泗水を訪れ、飯店がなくなっていた上、母親は火事の二月後に死んだと聞いて、子供の行方を懸命に探し出した。

八歳の子がよく人さらいの手に落ちずに過ごせたと銭五もほっとしたものだ。

後家は秘密小島の噂も承知で「身寄りもないから連れて行ってくれ」というので船に乗せてきた。

インダと呼べという痩せた中年女は便利なことに、広東語にポルトガル語、片言ながらスペイン語、ジャワ語が話せるので広州語に近い言葉の通用する島で重宝されている。

 

十一月初頭、秘密小島から荷を積んで出たガレオンの船上で別れの宴が開かれた。

外洋に耐えられる千石積の北前船が俵物を満載してガレオンと五島沖で落ち合い西へ向かった。

北前船三艘とガレオンはチェジュの南で莞絃の船団を待った。

予定は五百石積み二艘、千石積み三艘に莞絃の三千石積みの船団だ。

目印は指南針(羅針盤)の北を示す方向に見えるチェジュのハルラの形と星の位置だ。

二日後、チェジュが北に見える海上で龍莞絃(ロンウァンシィェン)の率いる六艘の密輸船と落ち合い荷を交換した。

「家の妹妹の雲嵐(ユンラァン)の子供の頃に似ている」

「噂の三美人の」

チィェンウー(銭五)さんにもうわさが

「小島へ来た南京(ナンジン)の船乗りが自慢していた」

「家の媽媽(マァーマァー)が喜んで預かりますよ」

二人の会話は商人の広州(グアンヂョウ)語だ、広東語に各国の言葉が混ざって使われている。

「結(ユイ)」「御秘官(イミグァン)」「漕幇(ツァォパァ)」に入るとこの言葉を覚えるのが必要で、ある程度まで話すことが出来ると結と共通の手印も教えられる。

結はヂィエだが仲間内ではユイを使っている。

そのはそれを聞いて清国には自分に似た異国風の人が多いのだと感じた。

「名前をどうしましょう」

「ウァール(ワール)が媽媽(マァーマァー)の姓なので爾(ゥアール)」

銭五が母親の飯店から爾の字を取ろうと云った「和国で爾はそのとも読めるんだ」。

「名前は海燕(ハァイイェン)が好いわ」

海燕は燕と尾の形が似ているがミズナギドリの一種だ。

「じゃゥァールハイイェン(爾海燕)」

銭五にもできる発音で字は漢字で書き出した。

話しが決まり九歳の「その」は爾海燕(ゥァールハイイェン)として莞絃(ウァンシィェン)の船に乗り移った。

 

この航海は関元が企画し、別行動がよいと判断し、ひそかに蘇州(スーヂョウ)へ信(シィン)と護衛で四人が向い船に乗り込んだ。

目的は銭五との顔つなぎだ。

信(シィン)は銭五に気に入られたようだ。

北前船はガレオンから胡椒に南瓜、莞絃(ウァンシィェン)の船団から米、麦、白砂糖、絹物、高級茶、紹興酒など雑多な荷を三艘に振り分けて積み込むと対馬へ向かった。

 

莞絃(ウァンシィェン)は青島(チンダオ)へ向けて船団を率いた。

信(シィン)と海燕(ハイイェン)は気が合って密輸船の探検を楽しんでいた。

信(シィン)は広東語も自在に操れると知った海燕(ハイイェン)が「シィン哥哥、シィン哥哥」と後をついて回った。

天津(ティェンジン)からの船団(十二艘)と落ち合うとしんがりを務めて長江(チァンジァン)へ航路を取らせた。

この辺りにはまだ海賊が現れた情報は無いが慎重に進ませた。

上海(シャンハイ)、蘇州(スーヂョウ)へは荷を下ろさず、信(シィン)と供(護衛)の三人を降ろして一気に南京(ナンジン)まで遡上させ、漕幇(ツァォパァ)の港へ天津からの船団を停泊させて自分たちは結の港で荷下ろしをした。

今回一番喜ばれたのは時季外れの塩に埋もれた鮭の塩引き、鰤の味醂干しだった。

売れないとみて莞絃(ウァンシィェン)が安く値を付けたら即座に三軒の業者が全部引き取って分配していた。

「あいつら示し合わせていたな」

「哥哥の前だが合図を決めていたようだ。指を握り合っていやがったぜ。これで正月過ぎの荷も欲張らなければ売れそうだ」

莞幡(ウァンファン)はよく見ていたようだ。

「次は十二月の二十二日の交換でお前の出番だ」

「十四日に上海(シャンハイ)集合で、七艘約束してあるよ。哥哥」

ひと月以上信(シィン)が留守でも、時々関元が杭州(ハンヂョウ)を通り抜けて蘇州(スーヂョウ)、上海(シャンハイ)を連れて回ったので不思議とも思われないようだ。

 

銭五はこの年三十一歳、潰れた海運の店を再興するのはもう少し先のことだ。

銭五は祖父の代から五兵衛を名乗ったが金融業、醤油醸造業が家業だ。

父親が店じまいした海運業を盛り上げるのは、十七歳で家督を継いだ時からの目標の一つだ。

杭州の海運業者の密輸船団と交流のあった船頭たちを次々と配下にしていったのも、家業の貯えが豊富にあったから出来たことだ。

加賀藩への貸し出しも膨大で、幾割かを棒引きする代わり、外洋へ乗り出す密約が交換された。

藩の重役も強か(したたか)で銭五に三年に一度は古い証文を破棄させた。

それでも北前船での俵物の密輸はあまりある利益をもたらした。

特に九谷焼、加賀蒔絵の漆器は清国で長崎周りが高価なので、よく売れる品の一つだ。

銭五は出羽の本間、西国の小倉屋、薩摩の御用密輸船とも手を結んでいった。

ジャワでくすんでいたスペインの船乗りも配下に加わり、琉球の東の島に基地となる集落を拵えた。

中にはカリブの海賊の子孫だという年寄りもいる多様さだ。

薩摩の品を扱う代わりにその島の秘密も守ってもらう約束も出来た。

瀬戸内は赤間関の小倉屋が加わり通行が容易になった。

 

関元たちの仲立ちで和国にある「御秘官」に「結」の資金の一部も使える権利が移されてきた。

最初聞いた時にはその膨大な資金力に呆然としたものだ「ジャワ往来が楽になるのでガレオンを買えるように」との関元の言葉に嘘はない。

船を手に入れ、まだ余裕がある資金が関元の手に有るというのも銭五には信じられなかったほどだ。

おまけにスラバヤで船を座礁させ、荒れていたジョーと配下を取り込む人たらしでもあった。

ジョーの手引きでマニラ、アカプルコ貿易(呂宋~アカプルコ・デ・フアレス)の妨害をしない約束の元、手に入れた八百トンという中型船は千石船五艘に相当した荷が運べる。

・重量換算千石船-百五十トン(容積換算千石船-百トン)。

関元、龍兄弟の三千石ジャンクよりもさらに大型だ。

「結」に漕幇(ツァォパァ)の旗を揚げれば清国の商船も友好的に取引してくれる。

話がこじれれば「御秘官」の証書を出せばすぐに漕幇(ツァォパァ)の友好商船ならば纏まるという。

そうして銭五と「結」の協力関係は強固に為っていった。

 

この時代の五十五年後、日本人が蒸気船(外輪船)を操り太平洋を横断した。

安政七年正月十三日(千八百六十年二月四日)品川出航。

安政七年正月十九日(千八百六十年二月十日)浦賀出航。

安政七年二月二十六日(千八百六十年三月十八日)サンフランシスコ到着。

コルベット型六百二十トン英六百二十五トン

乗員九十六名・ブルック大尉以下十一名の一零七名が乗っていた。

勝麟太郎艦長、遣米副使提督木村摂津守(ジョン万次郎談)。

福沢諭吉も乗り組んでいた。

勝の悪口を言うものはこの航海で勝は艦長としての責務を果たしていないと書き連ねている。

幕府が派遣にさい隠密を入れないはずもなく、ブルック大尉が手助けしたにせよ、事実無能であれば帰国後に昇進はさせないはずだ。

 

幕府がオランダから四十万ドルで購入と調べた人がいるのだが当時のサンフランシスコの新聞記事に船長のKat-Lintaroは、航海の間、ずっとsickであり、優秀な医師によって看病されていた、建造費は七万ドルであったと有るという。

この記事を見つけた人が勝は病気で役目をはたしていないと言い出したのだろうか。

安政三年当時の為替、天保一両小判は四ドル。

安政七年当時の為替、安政一両小判は三ドル四十一セント。

安政七年当時の為替換算

四十万ドル=十万千七百三十両。

七万ドル=二万零五百二十七両。

どうやら四十万どるが正しそうだが国会図書館の海軍歴史巻之二十三に十万ドルとしてあった。

姉妹艦のは朝陽丸も十万ドルに為っている。

支払日をいつにしたかで大分差が出る(発注安政二年、受け取り安政四年)。

別の資料には安政四年の為替は十万ドルが七万五千両になるという記述があるそうだ(前後の年度とは差が大きすぎる)。

 

マニラガレオンには二千トンなどという大型船も就航していた、小さいものは新造船の資金に二艘銀十二万両で売ると聞いて関元が飛びついた(清国銀一両37.3グラム・洋銀1ドル銀貨23.76g)

「大型船は乗組員も大勢必要だし積み荷より食い扶持の食料で倉庫が使えない」

スペイン商人はそう言って売り込んできた。

東インド会社などのインディアマンと呼ばれる千トン以上の帆船は武装商船、戦艦としても重宝され手放す国は現れなかった。

襤褸船だというが関羽(グァンユゥ)、張飛(ヂァンフェイ)と名を変えたガレオンは手入れもよく修理に銀八千両かけて泗水(スーシュイ・スラバヤ)で外回りも新造船並みに仕上がった。

修理業者のポルトガル商人は銀一万五千両で大砲も新式と言って十六門売り込んだ。

一艘十六門に増えた大砲はすごみがある。

それでもあまりに大きすぎて入れる港はほとんどないので、東の岬から南側に円を描く砂浜の有る秘密小島は重要な積み替え拠点だ。

昔は四百五十人以上の水夫が必要だったが、半分ほどで操作できる体制を組んだのは自称ジョーと呼ばれるベネツィア出身のイギリス人という船長だ。

その後同じ型の船を一艘手に入れ趙小龍(ヂァォシャオロン)と名がつけられ、秘密小島に常時一艘が待機して船員の訓練ができるようになった。

子供の方がすばしっこくマストの天辺の見張り台へ登っている。

ジョーは必ずロープを繋いで登らせる、言う事を破ればひと月船から降ろされるので子供たちは素直に従っている。

「外洋へ出て眼が回るのは恥じゃない。マストから落ちれば大怪我もするだろう。それまで無駄飯を食わせたことになる。大損だ」

三艘の水夫に女子供を入れれば千百人が住む島の維持は「御秘官」と「結」が請け負った。

島の砲は三十門だが女も子供を含めて弩(ヌゥ)を扱えるように教えられていた。

投石器はスペイン人が教えて絵を描くと大工が一里は届く物を拵えて見せた。

砲の近くに徐々にそろえることにした、砲弾と違って石塊は錆びずに積んで置けるので子供でも海で拾っては運び上げられる。

砲は昼に訓練がてら東の見張り所で一発発射される。

西洋歴の月替わりの一日は西の見張り所もそれに続いて発射した。

食料を積んだ船が近づくと東の見張り所から二発響いて浜辺に人が集まり出迎える、ほぼ西洋歴の十五日頃に漕幇(ツァォパァ)の船と「結」の船が二月分の食料を届けて来る。

備蓄が半年分に増えると残りを北前船が陸奥へ運んで売りさばく。

外敵と判断されれば東西の見張り所で友好的と判断できるまでは撃ち続ける決まりで最初の二発は合図で見当違いへ撃たせた。

弩(ヌゥ)は大工仕事ができるものが子供たちを仕込んで作らせ、結が漕幇(ツァォパァ)にも売り込んでいる。

島の一番の危機は七月、八月に突如襲い掛かる台風だ。

南の浜の家は浚われることを覚悟で柔いつくりだが、嵐とみれば北の頑丈なつくりの五十の館に全員が避難してくる。

荒れる前に煮炊きを済ませ全員で宴会が始まる。

子供たちは和国の団子、清国の餡入り饅頭に舌鼓を打ち、大人はわずかだが酒もふるまわれる。

塩漬け肉の饅頭は普段は口に入らないおお御馳走だ。

能登から来たという元海女だというばあさんが潜って取ってくる海老は囲い場から取り出して振舞われる。

牛、豚はいないがヤギが二十頭いて乳は大事な栄養源だ。

作物は玉米(ュイミィー・唐黍トウモロコシ)に蘿蔔(ルゥオポォー・大根)、四季豆(クランベリービーン等)くらいだがどうにか賄えている。

関元(グァンユアン)と知合ったのは乾隆五十八年1793年)、十一年も前のことだ。

当時銭五は二十歳、関元は十四歳だった、船長は大事に育てすぎているようなので銭五は心配して「もっときつい仕事与えないと曲がってしまう」と諫言した。

三人で話し合って双方が納得したのは泗水(スーシュイ)への航路で一緒になった時だ

それからは会うたびに成長していくのが見え、会えば兄弟同様の付き合いが始まり、銭五は長い付き合いになるなと思うのだった。

「哥哥(ガガ、兄さん)」と言えば銭五。

「弟弟(ディーディ)」と言えば関元。

二人の乗る船ではそれで通じるようになっていった。


嘉慶十年正月一日(1805131日)

年が明けて平大人が南京(ナンジン)で爾海燕(ゥァールハイイェン)に「京城(みやこ)見物がてら信(シィン)哥哥に会わないか」と聞いてきた。

「信(シィン)哥哥、今都におられるの」

「いや二月二日の龍抬頭の祭りのあたりに両親への挨拶に行かれるのさ」

「いつまでにご返事すれば」

「三日後には出るのでそれに間に合えばの話しさ」

集まっていた者たちは「出かけた方が好い」と口を揃へて勧めた。

「大人のご家族も一緒ですの」

「チィズ(妻子・つま)と五歳の娘が来ているよ」

そう言って片隅で子供をあやしている若い女を「チィズの春苑(チュンユアン)と娘の春麗(チュンリー)だ」と紹介して挨拶を交わさせた。

「京城(みやこ)の言葉が話せません」

「大丈夫だよ。船でチィズと娘に教わればいい。それに雲嵐(ユンラァン)に蘭玲(ラァンリィン)と会いたいだろうから二人の父母(フゥムゥ)もつれてゆくから賑やかだぜ」

似ていると評判の雲嵐(ユンラァン)に会えるならと楽しみな海燕(ハイイェン)だ。

 

話しの通り一月四日に南京(ナンジン)の結の港を三艘が縦に並んで船出した。

信(シィン)の異母姉の檀香鴛(シャンユァン)が乗り込んでいて紹介された。

二つ年上だという香鴛は活発で船頭とはすぐに意気投合し、持ち込んだ笛子(ディーヅゥ)で船旅を盛り上げた。

 

五日朝、長江(チァンジァン)から運河に入り淮安(ホァイアン)で宿に入った。

平大人が申し出、香鴛と海燕が食後のひと時をそれぞれの笛の音で楽しませてくれた。

「春苑も習ったらどうだ」

「二胡ならつたないですが」

宿から借り出して二人と交互に合奏した。

香鴛とは浮きだって踊りだすものまでいたが、海燕が相手だと涙を浮かべる船頭も出た。

「陽気に行きましょう」

海燕が立ち上がって足を踏み鳴らして演奏すると、二人もそれに合わせて即興で場を盛り上げた。

龍夫妻も海燕の陽気な音に合わせて踊りだし、船頭たちも喜んで歌いだすものまで出てきた。

「コリや楽しい船旅で、お供は辛いはありませんな」

 

八日に黄河(ファンフゥ)を越え濟寧(チィニン)に九日の日中についてみると「明日も船止めで出られない」と通達が来ていた。

大人が町を案内し笛を扱う店を見つけると五本買い入れて娘に渡した。

「一人で五本は吹けないわ」

「一辺に咥えなくても自分に有った笛が見つかればいいのだ」

やっぱり親ばかなんだわと海燕と香鴛は見つめあって微笑んだ。

女連れの年寄りとみて大人の懐を掏りが狙った。

子供をかばった大人の隙に袖口の巾着を抜き出したが、見とがめた香鴛がその手を巾着ごと抑えた。

大人は落ち着いて巾着を取り戻して香鴛の手を優しく叩いた、放されて男はコケツまろびつ人ごみに消えた。

「いい反応だね哥哥以上かもしれないね」

「フゥチンには及びも付きませんわ。黙っていてくださいね。媽媽(マァーマァー)が心配すると困るわ」

「誰に指導してもらった」

「宿に三か月泊まっていたお年寄り。解繊(ヂィエシェン)なんていい加減な名前だったわ。その人から笛も習ったのよ」

濟寧(チィニン)の舟止めが解けたのは遅れて十三日になった。

龍抬頭に間に合いますの

運河の旅が初めての海燕(ハイイェン)は気になったが香鴛(シャンユァン)は「まだ余裕がありますよ」と気楽だ。

聊城(リャオチェン)に十五日に着いてその晩は舟止めが有っての影響で飯店がいっぱいだというので港に着けた船で泊まった。

大人に夜半まで何十人もが挨拶にきて港の酒店は大繁盛だった。

翌日に港を出た三艘の船は徳州(ダーヂョウ)に十七日の昼について「十九日の船出だ」というので十八日は一同で街見物に費やした。

この付近は済南府だという、宿の環酒店(フゥァンヂゥディン)は「今晩、徳州五香脱骨扒鶏(ダーヂョウウーシアントウオグーパーチー)だからお腹を空かせて戻ってきて」そう言って送り出した。

乾隆帝までがほめたというがその料理人の伝統は守られているのだろうか。

その期待は適えられ一同の舌をうならせるほど美味だった。

「今まで食べてきた鶏は何だったの」

龍のおっかさんが大きな声で叫んだので酒店の女主人は喜んで料理人に挨拶をさせた。

大人が代表して「息子が褒めた店だけのことはある。これからもひいきにさせてもらうよ」と赤い袋の祝儀を差し出した。

康演(クアンイェン)にこの店を勧められていて、祝儀も用意していたようだ。

十九日に徳州(ダーヂョウ)を出て二十一日に天津(ティェンジン)に着いた。

二日街を見物して二十四日に出て京城(みやこ)入りは二十六日昼の予定だと一同は船頭から告げられた。

運河沿いは「春の花が奇麗で見ごたえがありますぜ」と船頭も予定に余裕が出て安心している。

「麻花(マーファ)は日持ちもいいのでたくさん買っておいた方が好いですよ」

旅慣れた香鴛(シャンユァン)は龍のおっかさんに話している。

「おや、其れじゃ娘や孫のお土産もそれにしよう」

二十二日は日差しがきつく宿で店を紹介されて日傘を買い求めた。

大人が結の連絡網で信(シィン)一行は関元(グァンユアン)が附いて十二月二十八日に余姚(ユィヤオ)を出ているという。

正月二十八日京城(みやこ)到着の予定で、二十五日までに天津(ティェンジン)へ着くと聞いてきた。

二十三日の夕刻、二人は海燕(ハイイェン)が驚くほど大きな荷を男に持たせて帰ってきた。

見つめる海燕に「フゥチンや公主様は普段はこんな下世話なもの食べていないかもと思って」そう言って笑いだした。

「大げさすぎたようね」

今度はおっかさんと二人で大笑いだ。

 

第三十四回-和信伝-参 ・ 2023-01-17

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   

 

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。

時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

     
     
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  




カズパパの測定日記