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文化十二年五月五日(1815年6月12日)熱田
藤川宿“ 森川久左衛門本陣 ”を明け六つ(四時頃)に旅立った。
藤川一里塚(七十九里目)が出てきた。
吉良街道追分の道しるべ石は四角柱だった。
右面“ 文化十一年甲戌五月吉日建 ”
正面“ 西尾 平坂 土呂 吉良道 ”
左面“ 東都小石川住 ”
藤川宿から一里二十五丁で岡崎宿。
西大平村先に大平一里塚(八十里目)。
筋違橋に“ 従 是 西 岡 崎 領 ”の標石。
伝馬町に入ると左手に問屋場、右手に東本陣服部小八郎本陣、西本陣中根甚太郎本陣。
東本陣はおよそ百年で三家目となる、服部小八郎本陣は本陣職を継いで十五年たっていない。
伝馬町の西堀川の橋先籠田総門でまた鉤手(曲尺手・かねんて)となる。
「岡崎宿に一里塚が有るという書物を観ましたが」
「私めも見ましたが、宿内には無いそうですな。何かの間違いを書き入れたのでしょう」
進藤常吾郎と叶庸(イエイオン)は列の最後を歩いている。
八十一里目 - なし
材木町口角から鉤手(曲尺手・かねんて)が続き、岡崎城の北に商人町。
柿田橋角を抜け松葉橋を渡り、松葉総門を出た。
八町村突当り鉤手(曲尺手・かねんて)角先に矢矧橋(矢作橋)がある。
長さ二百八間、吉田大橋が幅四間、長さ九十六間で矢矧橋は、はるかに長い橋だが。
「長さ二百八間は昔の話で、今は百五十一間五尺一寸と記録が御座ります。東海道名所図会が古いので御座ろう。江戸の両国橋で幅四間、長さ九十四間で御座る。倍は有りませぬ」
「東海道名所図会には高欄頭巾金物橋杭七十柱、東海第一の長橋なりと出ておりました。図絵は土産に二十冊買い入れましたよ」
叶庸(イエイオン)の土産は本が大半を占めている。
東海道名所図会は寛政九年の発行、最近の架け替えは十六年前の寛政十一年。
発売元小林新兵衛は須原屋新兵衛見世、通二丁目に有る。
橋を渡り右の鉤手(曲尺手・かねんて)に矢作一里塚(八十二里目)。
岡崎城下二十七曲は此処まで。
「藤川一里塚から矢作一里塚まで百町足らずでした。三里には九町ほど足りませぬが間に岡崎を入れたい気持ちは分かりますな」
「一里も時代によって違いますようで、清も前の明国とは大分違います」
進藤常吾郎の歩幅は正確の様だ、叶庸(イエイオン)も大平から一里二十三町とみている。
「藤川、大平の間も昔の里に近く少し離れておりました」
遠江に入って一里塚の間は一里五町から一里十町近いと進藤常吾郎は教えてくれた。
「間が空くと人は昔一里塚が有ったはずと言いたいでしょうな」
「左様でござる。一里塚は街道整備で間が短く為ったり、長く為ったり致します」
武蔵保土ヶ谷から信濃坂がこれまでで一番短く三十町無かったと手控えを見せてくれた。
「百十年程昔、宝永四年十一月二十三日に起きた富士の噴火の影響で保土ヶ谷宿が移転したそうで御座る」
「一里塚も新規に造りましたのか」
「そうとしか思えませぬな」
ニッと笑った。
余談
寛政十一年(1799年)にできた橋は幅四間三尺九寸、長さ百五十一間五尺一寸と記録がある。
寛永十一年(1634年)の架け替えでは二百八間。
延宝二年(1674年)には幅四間、長さ百五十六間。
菱川師宣の東海道分間絵図は元禄三年(1690年)
長さを長短二つ記入している(百六十・二百八)。
江戸時代の架橋
初代矢矧橋(土橋)・慶長七年(1602年)
二代目矢矧橋(土橋)・元和九年(1622年)
三代目矢矧橋(木橋)・寛永十一年(1634年)二百八間。
仮橋時代・寛文十年(1670年)百七十五間。
四代目矢矧橋(木橋)延宝二年(1674年)幅四間、長さ百五十六間。
五代目矢矧橋(木橋)・正徳五年(1715)
六代目矢矧橋(木橋)・延享三年(1746年)
七代目矢矧橋(木橋)・宝暦十二年(1762年)
八代目矢矧橋(木橋)・天明元年(1781年)
九代目矢矧橋(木橋)・寛政十一年(1799年)幅四間三尺九寸、長さ百五十一間五尺一寸。
十代目矢矧橋(木橋)・文政元年(1818年)
十一代目矢矧橋(木橋)・天保十年(1839年)
尾崎一里塚(八十三里目)は尾崎村の西外れにある。
宇頭茶屋村(うとちゃやむら)には休み茶見世、茶屋本陣があった。
此処までが岡崎藩領“ 従是東岡崎領 ”、少し西の大浜茶屋村領境石柱に“ 従是西福嶋領 ”陸奥国福島藩の領地に為って二十年ほど経つが元は苅谷藩の領地だ。
村は隣の大浜茶屋村とつながり間には、挙母、足助へ通じる挙母道、大浜湊へ通じる大浜道がある。
猿渡川橋を渡る。
八橋無量寿寺への道しるべが有る。
“ 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 ”“ 元禄九丙子年六月吉朔日 施主敬白 ”
一里塚は来迎寺村にあった、来迎寺一里塚(八十四里目)。
叶庸(イエイオン)の時計は十時三十分。
先にまた八橋無量寿寺への道しるべがあった。
“ 従是五丁北 八橋 業平作観音有 ”
“ 元禄十二年巳年三月吉日 施主敬白 ”
牛田村までが陸奥国福島藩の領地。
岡崎宿から三里二十九町二十二間で池鯉鮒宿
池鯉鮒宿の東、街道の右手北側は四月末に馬市が行われる原だ。
池鯉鮒宿は刈屋藩の領地だという、刈屋藩が役人を馬市番所へ出して管理するそうだ。
「昼食(ちゅうじき)ですが池鯉鮒が満杯で鳴海に未の下刻と約定してあります」
山本仁之助が和信(ヘシィン)に謝っている。
東見附を入った、山町から右へ行く小路は挙母城下へ通じる駒場道の追分。
街道右手中町問屋場があり左へ入る小道は吉良道追分。
街道左手の本町に脇本陣木綿屋新右衛門、問屋場、真向いにも問屋場。
永田清兵衛本陣が左にみえた、本陣の先にまたも問屋場。
右へ鉤手(曲尺手・かねんて)に見えたが本町と西町の境に刈谷道追分が左へ伸びている。
街道を進むと名所図会に出る池鯉鮒大明神。
池鯉鮒宿京方外れ、逢妻川に架かる池鯉鮒大橋、桜の馬場から此処までで十八町。
刈谷一里山とも言われる一ツ木一里塚(八十五里目)。
今岡の立場をとおり今川村に着いた。
阿野一里塚(八十六里目)を通り、有松一里塚との間に桶狭間古戦場。
鎌研橋の有松一里塚(八十七里目)。
池鯉鮒宿から二里三十町で鳴海宿。
有松から十町ほどで鳴海宿に入ると秋葉山常夜燈。
“ 秋葉大権現 ”“ 宿中為安全 ”“ 永代常夜燈 ”裏には“ 文化三丙寅正月 ”
鉤手(曲尺手・かねんて)に左へ折れる札の辻に問屋場と高札場がある。
作町の左手に“ 西尾伊左衛門本陣 ” 今日の昼食(ちゅうじき)の約束だという。
叶庸(イエイオン)の時計で午後の三時三十分。
未の下刻は三時四十五分頃のはず、藤川宿から九里程を五度の休憩、十一時間三十分で歩いてきた。
進藤常吾郎の手控えに間口二十一間半、奥行二十八間、建坪二百三十五坪、総畳数百五十九畳とある。
本陣の大広間(八畳四部屋)に有松絞、鳴海絞が並べられている。
鳴海の老舗が三人の手代、有松の老舗からも三人の手代が来ていた。
叶庸(イエイオン)が木綿の白地を取って「二反物かな」と手代に訊ねた。
「左様でございます」
「これが上物かね」
三百五十六匁(一疋重量三百匁以上)はなさそうだと全(チュアン)に計量器を出させた。
「二百八十八匁ですよ」
「幅と長さがいい加減なのだろう。長崎でこれを見せては笑われるぜ」
次に幅を図り一尺三寸を切ったのを和信(ヘシィン)に確認させた。
「ついでだ長さも測ってやろうか。将軍様、尾張様に恥をかかせたいのか」
寛永三年(1626年)の「反物制」では、反物の長さと巾が、厳格に規定されている。
絹・紬では一反の長さを三丈二尺、巾を一尺四寸、一疋が二反で六丈四尺。
木綿一反を三丈四尺、幅一尺三寸、一疋が二反で六丈八尺。
「欲しいのは端切れじゃないんだ。白地木綿五十疋、柄入り絞五十疋。値は言い値で買うが、上物でなければ買えない。柄は派手なほど喜ばれる」
今日中に集めると二軒の手代六人が頭を下げたので「宮は伝馬町小出太兵衛脇本陣の泊まりだ。会計の都合で金額だけは荷より先に使いを寄越してくれるようにな」と優しく頼んだ。
山本仁之助は「叶庸(イエイオン)殿は反物にも詳しいので」と驚いている。
「有松では手拭い小売り、三尺豆板銀一匁だと伏見で出会った商人が言って居りました。指南役の兄いと云う人が白木綿上級品一反銀三匁、普及品一反銀二匁五分くらいが大卸の取引値だと教えてくれました」
「大卸三匁が小売り十一匁ですかね。儲けが多いですな」
「山本様、間に模様付けが入るのでそんなに儲けられませんよ」
それもそうだ安物の生地に安物の柄付けでもしなけりゃ儲かりませんなと一同で大笑いだ。
本陣の時計で申の刻(午後五時過ぎ)に宮宿へ向かった。
鳴海宿から一里二十四町で宮(熱田)宿。
今日は藤川宿から十里二十二間で宮(熱田)宿。
天白川にかかる天白橋を越えてしばらく行くと笠寺村の手前に笠寺一里塚(八十八里目)。
呼続(よびつぎ)の道しるべは前面に“ 東海道 ”左は“ 富部神社 塩付街道 ”と彫られていた。
蛇毒神天王が見えた、祭神は蛇毒気神(だどくけのかみ)。
裁断橋の東側鉤手(曲尺手・かねんて)手前に伝馬町一里塚(八十九里目)。
築出鳥居が街道の海側に見える。
裁断橋を渡ると姥堂おばんこさんは八尺の坐像が街道を見ている。
街道右手は鈴之御前社(れいのみまえしゃ)、熱田社に参拝する際に、身を清めてお祓いする宮だと進藤常吾郎が叶庸(イエイオン)に教えた。
伝馬町には左に森田八郎右衛門本陣(白本陣)、脇本陣の小出太兵衛家、脇本陣は一軒だが脇本陣格は十軒有るという。
今日の宿の伝馬町“ 小出太兵衛脇本陣 ”は重厚な造りだ。
汗を流して食事に着くと酉の鐘(午後七時四十分頃)が聞こえてきた。
有松、鳴海の二軒から使いの手代が来た。
其々の見世が白木綿二十五反、絞二十五反を厳選して見世を出たという。
打合せをしてきたのか価格が同じ書付を出してきた。
白地木綿二十五疋銀百二十五匁、柄入り絞二十五疋銀二百五十匁だった。
「江戸の小売りで白木綿一反六百文から八百文だったよ。卸値段とは気に入った。最上級の絞を買うから二十疋ずつ明日の午前の四つ刻(九時十五分頃)までに届けられるかな。乗船の為四つ半(十時三十分頃)には此処を出る様だ。買値は二十疋銀四百八十匁、できれば小判で八両にしてほしい」
和信(ヘシィン)が「今日の分は六両を小判、豆板銀を十五匁でも宜しいかな」と金庫を全(チュアン)に持ち出させてきた。
一両は銀六十四匁が高値、安値で銀六十匁と江戸で確認してある、安値なら小判で貰う方に損はない。
手代は二十四匁と三十二匁儲けが増えると判断した。
一軒当たり金六両と豆板銀で十五匁を、量りにかけ確認させてから渡した。
二人の手代は有松へ急いで戻った。
有松まで一里三十四町程、戌の刻について品物を揃え、寅に出る気なら余裕がある。
「彼ら寝る間も有りませぬぞ」
「知らぬふりで撥ねものを掴ませようとしたせいですよ。儲けが少なくとも良いものを客に勧めるようになれば宜しいです」
まさか抜け荷商売で眼力を鍛えたとは言いにくい。
松前藩の扱ったのは金だけでなく蝦夷錦(サンタサランペ)なども貴重な贈答品(賄賂)だ。
清国官員の制服龍袍(ロンパオ)が遠回りしてやってくる。
山丹服(さんたんふく)は幕府への献上品に欠かせないが蝦夷地から遠ざけられた松前章広は賄賂攻勢で返り咲きを望んでいる。
賄賂を手に入れたいばかりに復帰を長引かせているとも噂が出ている。
陸奥梁川藩九千石に為っても、蝦夷地に連絡館を置いているというしたたかさもある。
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