花音伝説
第四部-豊紳殷徳外伝 安徳帝と遮那王

第二十六回-安徳帝と遮那王

御秘御用秘文・安徳帝の秘密

        阿井一矢


 此のぺージには性的描写が含まれています、
18歳未満の方は速やかに退室をお願いします。

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

豊紳府00-3-01-Fengšenhu
 公主館00-3-01-gurunigungju 

        

「御秘官」に伝わる文書にはなぜに頼朝が弟の義経を執拗に追い詰めたのかその理由が詳細に書かれている。

 

平時忠

悪別当-平大納言、平関白

-平時信・母-令子内親王半物(使女)

大治5年(1130年)誕生

文治5224日(1189312日)能登国の配地にて死去。

「平家にあらずんば人にあらず」

「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」

 

平徳子(のりこ・建礼門院)

久寿2年(1155年)誕生。

承安元年1214日(1172111日)十七歳で入内・高倉天皇十一歳

承安2210日(1172313日)十八歳-立后・中宮

治承2115日(11781222日)二十四歳-言仁誕生・高倉天皇十七歳

治承5114日(1181130日)二十七歳・高倉天皇二十歳崩御

寿永4324日(1185425日)三十一歳

建保元年1213日(1214125日)六十歳死去

 

義経

平治元年(1159年)生誕。

安元384日(ユリウス暦1177829日)改元

承安4年(1174年)頃、遮那王十六歳。

治承2年(1178年)頃は奥州平泉潜伏。義経二十歳

治承4年(1180年)頃に頼朝と再会

文治5年閏430日(1189615日)奥州にて三十一歳死去。

 

安徳天皇-言仁

在位

治承4221日(1180318日)~寿永4324日(1185425日)

治承2115日(11781222日)誕生          

寿永4324日(1185425日)崩御

 

行宮-寿永2年(1183年)-現在の高松市牟礼町六万寺に遷宮

(のちに屋島東町檀ノ浦浜に遷宮)

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。

 

平家物語はこのように語るが、実際は矢を防ぐと、巻いたおくるみは空で義経の手の者に渡されていた。

 

承安四年遮那王は十六歳の時、弁慶の導きで高倉天皇にまみえた。

徳子の柔かな佇まいは鞍馬の山育ちのこの男には心ときめく女性と映った。

帝は気の強い六歳年上の従三位の徳子より若い殖子に夢中で冷たくあしらうのが常だった。

その夜も少しの酒で女御と戯れていたが、徳子のお付きに言われ仕方なしの夜伽を務めた。

 

自分の館へ足早に戻るとまた殖子と夜も更けるのも忘れてたわむれた。

形ばかりの房事に物足りない風情の徳子の寝床に遮那王が忍び込んだ。

 

鞍馬で教わったのは経文よりも武芸と忍びの業だ。

徳子は高倉帝が戻ったかと思ったが、いつもより激しい動きに我を忘れてしがみついた。

十六歳で元服した遮那王は奥州へ下る前に幾たびも徳子を訪れた。

奥州へ下るという夜も仕方なしの夜伽を務め、遊びに出る高倉帝の後、不満を解消して呉れるのは義経だった。

その晩もそうだがどうしてお付きの女官たちは居眠りしているのと、不思議だったが性の喜びに不安もなくなるのだった。

 

二度、三度と遮那王に合わせて気が行くのが気持ちを高ぶらせ、もっと高みへ連れて行くようにせがんだ。

四度めの時には床が抜けて体が地中に落ちていく気がして、背中に回した指の爪が食い込むほど遮那王にしがみつくと遮那王もたまらず精をこれでもかと今までより多く強く徳子へ注ぎ込んだ。

徳子は喜びの声を上げ気が遠くなった。

気が付くと乾いた布で体が包まれ布団が掛けられているのに気が付いたが遮那王はもういなかった。

徳子にとって義経ではなくいつまでも遮那王だった。

それ以来遮那王には会えなくなってしまった

 

徳子が気付いたのは不思議と遮那王が現れるのが、帝が訪れ館を抜け出る晩に限るということだ。

寝屋の不満は遮那王が解消してくれる、それだけで満足な徳子が妊娠した。

「この子の親は遮那王」

そう思うだけで幸せな徳子だ。

 

 

壇ノ浦

檀ノ浦浜に移った行宮で帝を乳母に預け寝屋に入ると衣を衣文にかけて寝床に横になった。

蔀に揺らぐ明かりが映り夢の中へ徳子をいざなった。

「遮那王推参」

高倉御所で華奢な要望に似合わぬ大人びた遮那王が、そう声をかけて部屋へ忍んで来る。

治承二年(1178年)の正月の事だった。

 

「ああ、あれから八年もたっている。いまさら何を夢に見るのだろう」

そう思いながら手は秘所をまさぐる男の背に回して抱きしめた。

「これは夢よ。しっかりしなさい」

太ももを擦る手の感触は思い出のあの手だ。

懐かしい匂いで夢から覚めた。

ニッ、あの時より逞しくなった遮那王の顔がそこにあった。

気が付くと薄物のまま抱かれていることに気が付いた。

「早く」

「昔より気持ちいい」

「アッ」

二人の体が入れ替わり上になった徳子が頂点に達した。

 

朝の眼ざめ、徳子は昨夜のことは夢かと思うのだが、あれが夢なら今夜も夢を、源氏に追われさすらう一門とともに彦島まで落ちてきての逃亡生活。

疲れた体が、昔の栄華の夢を見させている、父や高倉帝よりもう一度でいい、遮那王に会いたい、抱かれたい。

夢見ているとしか思えないのは、敵方の大将が厳重な警戒の此処まで来られるはずがない、そう現実が教える。

 

わびしい夕餉も終わり、夕焼けの海を眺め、夢の続きが見たいと早めに床に入った。

「遮那王推参」

ああ今夜も夢に現れてくれた。

夢と思えば意識的に大胆になれる徳子だ。

願いははかなく、男は徳子を弄り尽くすかのように何度も頂点へいかせた。

 

また夜が来る、期待に胸が膨らむ徳子。

転寝から覚めてみれば、わびしい仮御所のわが部屋に一人。

女官がまた居眠りをしている。

「あぁ、また寝ればいいのね」

その徳子の背後から「遮那王推参」の声が、愛しい男の懐かしい香のにおい。

公達姿も凛々しい姿は誰もが恐れる敵の大将義経とは思えない。

「夢」

「夢ではありませぬ。今晩推参したのは帝の事」

「そなたの御子じゃぞえ」

「梶原をようやく説き伏せ、明日は先陣を賜り平家方水軍を打ち破る所存」

「別れを御言いにお出でかえ」

「いくたりか犠牲に為っていただきますが、まずは和子のお命を守るための相談に参りました」

「和子は」

言い淀んだが「助けて頂くことが可能かえ」

「その為には今宵和子をお預けいただきたい」

「和子は二位尼がひとには任せぬと」

「其方へもわが手のものが参っております」

 

二位尼が按察使局伊勢と帝を連れて部屋へ来ると「宗盛殿が御秘御用のものと参り一門の最後の戦いはもう勝つには無理と」そして清盛が作り上げた御秘御用の長を連れた宗盛もやってきた。

 

「再起を図るにも筑紫が落ちては蝦夷地へ参るより他手もござらん」

清盛に命を救われた義経は平家終焉を図る頼朝の手先、しかし義経はわが子を助けるという。

「いずれへ、蝦夷地までは遠い」

「和子に安住の地はこの国にはありません。御秘御用の長と宋へ渡っていただく」

「わらわが犠牲に為れば良いのかえ」

「運しだいでござる。和子を人から見えぬように、矢を防ぐと申して掛けの布にくるんでいただく。もちろんその前にこの地を抜け出し身代わりは巻いた衣服」

浮かばぬように重しを付け海へ身を投げていただくと、話しを御秘御用の長が説明した。

自分が和子を抱いて身を投じたいと三人が言うので話がまとまらぬうちに夜が明けるか長鳴きとりの声が聞こえてきた。

「時間がありませぬ。夜が明ける前に」

長が何やら帝に手をかざすと眠りに落ちた。

幾人かの浅黄の頭巾の男たちが帝を連れ出しいつの間にか義経の姿も消えている。

 

見事に梶原は目の前で海中に飛び込む女官と二位の尼、徳子に騙された。

兵船の熊手を持つ兵士が女たちを救い上げている間に錨を巻き付けた安徳帝は按察使局が抱いて海の底へ消えた。

梶原は徳子が助かったと聞いて舌なめずりを隠す様子も見せずにんまりとした。

御秘御用の長が仕組んだ救出劇は見事に成功した。

元暦二年三月二十四日(118552日)乙巳

壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したと歴史は伝える。

 

 

生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送された。

徳子は罪に問われることはなく洛東の吉田の地に隠棲する

元暦二年五月一日(118567日)には徳子(のりこ)が出家し直如覚尼と名乗った。

この年三十歳を迎え梶原をはじめ食指を伸ばすオオカミは多い。

大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔っている徳子に毎日のように文が届く。

忍んで来るものは、御秘御用の長が選んだ女武者に叩き出されることが相次ぎ、それはもう無駄だと浮気心の公家は諦めた。

梶原が贈り物を届けた後を追うように得意げにやってきた。

聴けば義経のあら捜しをして頼朝に知らせているという。

得意げに自慢をして引き上げていく。

義経は鎌倉まで護送の平宗盛・平時忠と腰越まで来たが、頼朝は会わず腰越でわび状をかいて送っても、梶原の讒言を信じた振で、兵の信頼厚い義経を排除することにした。

 

京に戻った義経にますます疑念を抱く頼朝は、義経追討の機会を窺った。

宗盛は斬首、時忠は配流となった。

 

「遮那王推参」

その声を待ち望んでいた徳子の前に愛しい男が表れた。

「奥州へ参ります」

「いつ」

「梶原の眼を欺くため十月の半ばには」

三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏方が確保。

草薙の剣は沈んだと言われ-伊勢神宮から献上された物が伝わる。

 

ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。

これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。

 

平家物語は語る。

捕えられ播磨国明石まで来たとき、わたしは夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。

 

義経と郷御前

元暦元年九月十四日(11841027日)、頼朝は河越重頼の娘十七歳を都に上らせ、頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁がせた。

名は伝わっていないが郷御前と呼ばれ、河越では京御前、平泉で北の方と称した。

文治元年十月十八日、後白河法皇は頼朝追討の宣旨を出すも、義経都落ち後、頼朝の詰問に知らないと言い抜けた。

十月二十九日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣する。

十一月三日、義経は郎党ら二百騎を率いて京都を退去する。

義経捜索のために各国に守護を置く、各荘園・国衙領に地頭を置く。

頼朝が管理することを朝廷は認めた。

文治三年(1187年)二月、奥州へ落ち延びる。

郷御前は義経の娘を連れていたという。

 

義経の最後

文治三年十月二十九日(11871130日)藤原秀衡死去、六十六歳と云う。

文治五年(1189年)閏四月三十日(1189615日)泰衡の襲撃を受け衣川館で自害。享年三十一歳。

泰衡は家人を勝手に征伐したとされ、鎌倉方の襲撃を受けると呆気なく敗走した。

 

文治五年九月三日(11891014日)河田次郎に裏切られて殺害された、享年三十五歳。


磯禅師の娘静御前

文治元年十一月六日義経は、京都を離れた、義経の側には静御前がいた。

雪の降る大和国(現在の奈良県)吉野山の山中で、静御前は義経と別れる。

文治元年十一月十四日、山中をさまよっていた時に、蔵王堂にたどり着くが山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡された。

白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%8B%8D%E5%AD%90

「吾妻鏡」文治元年十一月十七日

十七日丙申。予州籠大和国吉野山之由。風聞之間。執行相催悪僧等。日来雖索山林。無其実之処。今夜亥剋。予州妾静自当山藤尾坂降到于蔵王堂。其体尤奇怪。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。静云。吾是九郎大夫判官(今伊予守)妾也。自大物浜予州来此山。五ケ日逗留之処。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者仮山臥之姿逐電訖。于時与数多金銀類於我。付雑色男等欲送京。而彼男共取財宝。棄置于深峰雪中之間。如此迷来云云。

文治二年(1186年)三月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

四月八日鶴岡八幡宮、若宮の回廊の舞台で静御前が舞を披露し歌ったという。

工藤左衛門尉祐経は鼓、畠山二郎重忠為銅拍子を務めたという。

よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

「吾妻鏡」文治二年四月八日

八日乙卯。二品并御台所御参鶴岡宮。以次被召出静女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之処。申病痾之由不参。於身不屑者「者」。雖不能左右。為予州妾。忽出掲焉砌之条。頗恥辱之由。日来内内雖渋申之。彼既天下名仁也。適参向。帰洛在近。不見其芸者無念由。御台所頻以令勧申給之間被召之。偏可備大菩薩冥感之旨。被仰云云。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓。是生数代勇士之家。雖継楯戟之塵。歴一臈上日之職。自携歌吹曲之故也。従此役歟。畠山二郎重忠為銅拍子。静先吟出歌云。

文治二年閏七月二十九日(1186918日)に男子出産。

子供は安達清常が由比ガ浜で海へ沈めたと云う。

九月十六日、磯禅師と静御前は京へ送られた。

「吾妻鏡」文治二年九月二十二日

十六日己未。静母子給暇帰洛。御台所并姫君依憐愍御。多賜重宝。是為被尋問予州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。

 

 

義経は帝と共に逃れてきた女官をその兄の出雲神官の手に預け、帝は義経の意をくんだ吉次の手によって寿永四年十月五日(1185111日)田儀の港からひっそりと隠岐に向かって船出した。

船は隠岐の西ノ島焼火(たくひ)神社の神官が仲介し、外海に耐える船に乗り換えると寧波に向け西へと船出した。

吉次は浙江の金買いに一行を預けると和国へ戻った。

追いかけるように平時忠の子平時宗を主と仰ぐ残党は筑紫宗像神官の用意した船で寧波へ到着し帝を擁して広州は宝荘厳寺の庇護を受けた。

一行は広州と蘇州(スーヂョウ)で塩業を始め宋の政府からその良質な塩を庇護された。

広州、蘇州、南京(ナンジン)を結ぶ航路を使い塩の利益で運糟業務の一部に食い込んだ。

金持ちに銅銭、鉄銭の大量保有が禁止されると、金持ちから買い集めるや清盛時代の伝で和国へ茶に絹製品とともに密輸し金と交換し、平氏残党の支配下の石見の隠し銀山の銀とともに持ち帰ると隠匿した。

鎌倉も北条氏の代に代わり、西国の武士にも天下泰平のゆるみと奢りがでた。

これに朝廷までが密輸に頼って利を求めていたので、備後を中心とした海賊(運糟)集団も協力している。

 

この時代宋の財政は八千万貫、塩の専売が行われ千五百万貫が税として支払われている。

後年税収入の四割が塩の税となった、茶税・酒税の倍はあったという。

家族四人で十貫あれば生活できた時代だ。

 

 

和国との連絡は途絶えることなく続き、信長は宣教師から聞き取った秘文の中身を信じ、新しい皇統による日本を作ろうと中華の地を目指していた。

後を継いだ秀吉も自分の血脈を「御秘官」たちと婚姻によって受け継ぎ、日本をわが子孫が安徳帝を祖と仰ぐ集団と婚儀により我が血筋を正統にするべく侵略へ踏み切った。

それと同時に嫡男秀頼以外の男系を排除にかかった。

 

宋の時代に長江周辺に定着し、運送業、輸出入業者の結社を立ち上げた。

元の時代は倭寇と府庁から言われた和国の商人の結社が加わった。

西はチンハイ(青海チベット)・東は寧波・南は広州・北は蒙古までほぼ清国全土に勢力範囲を網羅すべく一族は婚姻による結束を強くした。

明朝終焉期に満州、蒙古、漢人(浙江省)の婚姻による秘密結社を構築した。

漕幇(ツァォパァ)・青幇(チンパン)(長江デルタ)の一部と清国政府要人に一族を分散させて生き残りを図った。

和珅(ヘシェン)の処刑後も、寧波集団のみ解散の求めに応じず豊紳殷徳(フェンシェンインデ)を統領に仰ぎ、死後は大君和信(ヘシィンHé Xìn)と密輸、密出国などを仕切った。

 

七百年かけて作り上げた財産は和珅(ヘシェン)が劉全に隠匿させた五千万両の銀と「御秘官」が隠した銀換算千万両と和国の金貨にして百万両の金塊。

 

疲弊した出雲松江藩と手を組み御用商人を隠れ蓑に使う、表向きは日本海貿易(北前船)の銭五と手を組む海運業者。

密貿易はお手の物だ。

 

   第二十六回-安徳帝と遮那王 ・ 2021-08-21
   
自主規制をかけています。
筋が飛ぶことも有りますので想像で補うことをお願いします。

   

功績を認められないと代替わりに位階がさがった。

・和碩親王(ホショイチンワン)

世子(シィズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅郡王(ドロイグイワン)

長子(ジャンズ)・妻-福晋(フージィン)。

・多羅貝勒(ドロイベイレ)

・固山貝子(グサイベイセ)

・奉恩鎮國公

・奉恩輔國公

・不入八分鎮國公

・不入八分輔國公

・鎮國將軍

・輔國將軍    

・奉國將軍

・奉恩將軍    

・・・・・

固倫公主(グルニグンジョ)

和碩公主(ホショイグンジョ)

郡主・縣主

郡君・縣君・郷君

・・・・・

満州、蒙古、漢軍にそれぞれ八旗の計二十四旗。

・上三旗・皇帝直属

 正黄旗-黄色の旗(グル・スワヤン・グサ)

 鑲黄旗-黄色に赤い縁取りの旗(クブヘ・スワヤン・グサ)

 正白旗-白地(多爾袞により上三旗へ)(グル・シャンギャン・グサ)

 

・下五旗・貝勒(宗室)がトップ

 正紅旗-赤い旗(グル・フルギャン・グサ)

 正藍旗-藍色(正白旗と入れ替え)(グル・ラムン・グサ)

 鑲藍旗-藍地に赤い縁取りの旗(クブヘ・ラムン・グサ)

 鑲紅旗-赤地に白い縁取り(クブヘ・フルギャン・グサ)

 鑲白旗-白地に赤い縁取り(クブヘ・シャンギャン・グサ)

・・・・・

   
   
     

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  





カズパパの測定日記