第伍部-和信伝-壱拾捌

 第四十九回-和信伝-壱拾捌

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

八月に入り、綿懿が賞封を受け鎮国将軍から一気に貝子に任じられた。

「まぁ、名目はこじつけだ」

弟弟(ディーディ)の綿偲はそのようにインドゥへ話した。

インドゥや宜綿(イーミェン)の遊び仲間の綿偲(ミェンスー)は将来有望と言われてきた。

綿懿(ミェンイー)の身分が落とされた時もひどかったが、褒賞されるほどの働きもない。

只、坊主どもは嘆願書一枚に銀(かね)二千両の寄進を宜綿(イーミェン)に匂わせてきた。

遊び仲間でかき集め、権孜(グォンヅゥ)が祈願の寄進に出向いて鉄観音一擔を添えた。

「まるで屋根から地に落ち、そのはずみで廂に飛びついたようだ」

「ともあれディムゥ(嫡母)は一安心だ。これで援助も打ち切りはないだろうが負担は少なくなるはずだ。俺の鎮国公より下では気も休まなかったろう」

綿懿の実母は嫡福晋富察氏、その父は富察傅恆、綿偲は第四子でその母親は側福晋李佳氏。

産まれながらに多羅貝勒家(十二阿哥永)を継ぐことが決まっている。

 

康演と寶燕は余姚(ユィヤオ)からの娘たちと京城(みやこ)へやってきた。

公主から「今年は六人まで」と言われた奴婢の娘たちの付き添いだ。

趙延石(ジャオイェンダァン)、妻の汪鶯寶(ワンインバァオ)と、鄭四恩(チョンスーエン)、妻の呂玲齢(リュウリィンリン)も付き添っている。

娘たちは十歳から十三歳で鹽商人たちの娘だ。

甫箭(フージァン)は幹繁老(ガァンファンラォ)で康演と公主府へのお目通りの相談をしている。

「実は明日から十日にかけて雲嵐(ユンラァン)様の出産予定日なんですよ」

「ずらしても長引くだけか」

「哥哥もそう言っていましてね。予定通りでいいと」

 

寶燕は二人の付き添いのお目見えの服の調整をしている。

それが済むと三人で娘たちの着付けを手伝って覚えさせた。

公主は着飾ってのお目見えは好かない、そのまま住み込むのだから普段働く服装で来てほしいのだ。

遊びに来てもらうわけではないのだ、覚悟は通用門を入った瞬間に奴婢として持つべきだと思っている。

九月とはいえ閏が入った分、陽の落ちるのも早くなった。

九月三日(陽暦千八百零五年十月二十四日)朝卯の刻(六時四十分頃)に食堂で今日のお目見えのあらましを甫箭が話し、疑問が残らないようにした。

時計を指して「今日からは、鐘や太鼓の刻ではなくこの針の時刻で生活が始まる」と教えた。

娘たちも船の旅で時計の刻が分かるようになり理解できている。

卯の下刻(七時三十分頃)、甫箭も付いて、娘たちの荷を積んだ荷車が先導して崇文門(チョンウェンメン)から入り、東四牌楼を左へ入った。

府第の通用門では公主使女が出迎え居間へ導いてくれた。

男たちは外で待ち女九人が中へ入った、なかではインドゥに公主が迎えてくれた。

四恩は表に並んだ奴婢の中に曾藍桃(ツォンラァンタァオ)が居たので姚杏娘(ヤオシィンニャン)に断って話をさせてもらった。

「信様が曾藍夏は来年必ず府第へ勤めてもらうからと約束してくれたよ」

嬉しそうにほほ笑む藍桃は「ここは皆さま親切ですし、妹妹にもきっと良い勉強の機会となるはずです、そう伝えてくださいね」と頼んだ。

お目見えが済むと六人の娘は呼び入れられた姚杏娘の手にゆだねられた。

「私は姚杏娘、奴婢掌事女で取り締まりは花琳(ファリン)様。ここには営繕の奴婢掌事女の袁夢月(ユァンモンュエ)様がいてそちらは姐姐(チェチェ)と、皆さまが呼ばれている格格の潘寶絃(パァンパォイェン)様が取り締まりです。今はこのことだけを必ず覚えてくださいね。では新しい住まいへ案内します。部屋は曾藍桃(ツォンラァンタァオ)姐姐(チェチェ)が先輩としてあなた方が府第に慣れるまで同居してくださいます」

そう告げると公主使女に見送られ、西南にある奴婢のお小屋へ案内した。

此処は八人部屋で娘たちの荷はそれぞれの榻(寝台)へ置かれていた。

小食堂、厠所(ツゥースゥオ)、風呂場が説明され、明日からの作業場でのあらましも伝えられた。

「この時計に合わせての生活に早く慣れてくださいね。曾藍桃から時間割を聞いて書き留めてください」

早くも字が丁寧かをさぐり出している。

 

そのころ公主は「康演は息子に会ったの」といつもの聞きたがりが始まった。

康演のいない間の嘉慶十年四月四日、姚翠鳳(ヤオツゥイファン)に男子が産まれた。

名は翠鳳が決める約束で“姚頼鵬(ヤオライパァン)”と名を付けた。

蘇州の東源興寶燕へ宛て、色白で父親似だと書き送っている。

「まだ、あっていないんです」

甫寶燕の方が答えている。

「私も早く会いたいのです」

「ならここへ一緒にいらっしゃいな。別に康演は来なくてもいいけど。日が決まれば馬車をまわすわ。哥哥は会ったことは」

「いや、まだだよ。どうせなら明日来ないか。新しい菓子屋も出入りしているので菓子で接待もできる」

康演は姚翠鳳(ヤオツゥイファン)の都合もと言ったが公主は「明日にして」と決めた。

甫寶燕は「亭主の子というより孫に会うようなものなんですよ。妾というより娘みたいに手紙もよくくれるんですよ」と乗り気だ。

明日の巳の下刻(十一時五分頃)頃においでなさいとなり、辰(八時三十分頃)に幹繁老(ガァンファンラォ)へ馬車を差し向けると決まった。

 

甫箭(フージァン)の方はまだひと月足らずなのでお目見えは年内と決めているだけだ。

周甫箭(チョウフージァン)・阮富富(ルアンフゥフゥ)男子誕生。

周永箭(チョウイォンジァン)嘉慶十年八月十三日生まれ。

 

宣武門(シュァンウーメン)から入り、西四牌楼を右へ抜ければ西安門(シィウェンメン)北側へ出て、荘親王府で地安門(ディウェンメン)へ向かい、府第の通用門へと十六里ほど、馬車で一刻強の道中だ。

甫箭(フージァン)が残り、康演たちが通用門から出て間もなくのことだ豊紳府は大騒ぎだ。

雲嵐(ユンラァン)が産気づいた。

 

康演(クアンイェン)と寶燕は與仁(イーレン)と相談して楊閤(イァンフゥ)へ手紙を届けてもらった。

火器營の方はだいぶ良い手ごたえだという。

孜漢(ズハァン)とは馬が合う藍翎長クラスはもちろん、営総のうるさ型迄交換に好意的だという話だ。

戦闘部隊は八旗に分かれ、その下に満、蒙の護軍参領、烏銃、騎馬の護軍参領がいる。

護軍参領は営総と同じ正三品で普段は藍靛廠(昆明湖南側)に常駐する決まりだ。

営総は積水潭(ヂィシゥタァン・什刹海)の西に役場を設けている。

藍靛廠と軍機処との連絡窓口だ、十四里を半刻以内に連絡を付けるのが決まりだ。

 

範文盧(ファンウェンルゥ)と権鎌(グォンリィェン)の二人をもうしばらく様子を見て結へ年内には推薦したいという。

趙延石(ジャオイェンダァン)と妻の汪鶯寶、鄭四恩(チョンスーエン)に妻の呂玲齢はお腹の大きい汪美麗と出産時の心得など話し合っている。

汪鶯寶は三人の母親で呂玲齢をわが子の様に可愛がっている。

雲嵐様が産気づいたと門番が来たので手代を二人、連絡係として門番詰所へ行かせることにし、界峰興(ヂィエファンシィン)へも連絡員を送るように頼んだ。

幹繁老(ガァンファンラォ)へ六人が戻ると姚淵明(ヤオユァンミィン)が来ていた。

明日のお目見えの連絡を受けて、服を寶燕から受け取りに来たという。

馬車を頼んでいる間に寶燕が蘇州から姚翠鳳(ヤオツゥイファン)へ持ってきた服をもちだしてきた。

姚淵明と康演が歩き寶燕、呂玲齢、汪鶯寶の三人は馬車で楊閤(イァンフゥ)へ向かった。

母親の潘翠鈴(パァンツゥイリィン)の意見も尊重し、母親らしい地味な色合いにした。

話し合いの結果、寶燕と母親が付いて四人で府第へ参上することにした。

 

雲嵐は初産も胥幡閔(シューファンミィン)の予定の日時に狂い無く陣痛が来た。

六刻後、徐々に陣痛の間が縮み、夜中、亥の太鼓が聞こえてすぐ産声が府第に響いた。

その夜のうちに甫箭(フージァン)の手によって関係各所に府第で女子が生まれたとの連絡が届いた。

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)・龍雲嵐(ロンユンラァン)女子誕生。

和景清(ヘジィンチィン)嘉慶十年九月三日生まれ

 

道が混みあうことなく予定通りに府第へ着いた。

公主は姚頼鵬(ヤオライパァン)に会えてご満悦だ。

「昨夜は府第で女子が誕生してうれしくてたまらないのよ」

皆が生まれた子の長寿を祝いの言葉で述べた。

姚翠鳳(ヤオツゥイファン)に「お祝いよ」と鳳凰の簪をかわいい両把頭(リャンパァタァオ)に刺してあげた。

母親に「孫が産まれたお祝い」と自分の両把頭の菊の簪を抜いて紙で拭うと小さな両把頭に移し替えた。

「そういえば寶燕にはお祝いの口実がないわ」

「私にとっても孫と同じです」

「そういうなら茶花(チァフゥア・山茶花)でいいかしら」

七月に平儀藩(ピィンイーファン)が乾隆華園の奴婢二人を送り込んできて六人に増えた使女のうちから新しい二人に付いてくるように言いつけた。

共に二等侍衛が婚約者に選ばれていて、来年丙寅十月に婚姻させてくださいと頼まれている。

三月までに参人送り込みますと言われている、乾隆帝の使女だったものたちで御秘官(イミグァン)の流れを組む家庭の娘たちだ。

本来嘉慶帝が年齢制限をしなければ十一人のうち「残りのものも引き受けたい」と請願したが、例外は許さぬというので二十五歳の年季明けを待ち、最低一年を府第で教育することにインドゥと儀藩が取り決めた。

二人に一箱簪六本入ったものを持たせてきた。

「特別に選ばせてあげるわ」と寶燕に選ばせた。

四季豆(クランベリービーン等)の餡が入った月餅(ュエビン)には、胡桃の風味がした。

今日のために特別に昨日頼んで作らせたという。

無理の利く菓子舗は何軒もある。

お茶は武夷正岩茶(ウーイーヂァンイェンチァ)肉桂が用意された。

「月餅とこんなに合うお茶があるんですね」

寶燕も驚く相性の良さだ、このお茶のために用意した月餅なのだ。

伊太利菓子から丸輪で揚げた甜甜圈(ティェンティェンチゥェン)も来ている。

お土産に菓子の箱も用意されていた。

 

「寶燕から趙(ジャオ)哥哥の方へ良い知らせを伝えてほしいの」

「はい、どういう話でしょう」

「余姚(ユィヤオ)からの娘のうち、二人を私の使女にするつもりなの。いろいろと都合が合って嫁入りが続くので、できれば五年以上勤めてくれそうな子を姐姐(チェチェ)と花琳(ファリン)がいろいろと試験して二人選んだら、余姚(ユィヤオ)からの娘から二人及格(ヂィグゥ)と今朝言われたのよ」

二人は花琳(ファリン)へ「二十までは置いて頂きたい」と常々話すという。

曾藍桃(ツォンラァンタァオ)嘉慶十年十三歳。

父親-曾驍霖(ツォンシィアリィン)紹興府の鹽問屋。

鄭蓬旛(チョンパァンファン)十一歳。

叔叔(シゥシゥ・叔父)鄭(チョン)は余姚(ユィヤオ)邸元庭番で三艘の三百石船の船主だが、蓬旛の父親は雇われ庭師で風采が上がらないという。

共に奴婢掌事女姚杏娘(ヤオシィンニャン)の代筆もするほどで、字も読みやすく丁寧だという。

二人が杏娘に付き添われて居間へ来た。

花琳(ファリン)から公主付き使女が申し渡され、九月十一日から勤務に着くように言われた。

「それまでに今の仕事の引継ぎを終えなさい」

杏娘が一番喜んでくれた。

「二人は今日中に手紙を書いておくこと。明日の朝、趙(ジャオ)哥哥の宿へ届けて親もとへ渡してもらいます」

花琳(ファリン)がそのように告げて引き取らせた。

 

嘉慶十年九月の固倫和孝公主使女

嘉慶九年から引き続いている使女

方小芳(ファンシィァオファン)十七歳

乾隆五十四年十月初二日誕生。

東城下草廠胡同生まれ。

父満州鑲黄旗、陳仁成(チェンレェンチァン)-兵部員外郎。

 

温芽衣(ウェンヤーイー)十六歳

乾隆五十五年七月初六日誕生。

東城下王作児胡同生まれ。

父満州鑲黄旗、陳關延(チェングゥァンイェン)-工部郎中。

 

宮人より公主使女へ(年季明け二十五歳)

武環梨(ウーファンリィ)二十八歳。

山西(シァンシー)呂梁(ルーリャン)

乾隆四十三年八月十五日誕生

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十一年三月後任に職を譲り嫁入り予定

-二等侍衛(満州正白旗)・紀佶崇(ジーヂィチォン)

直隷天津府(ティェンジン)

乾隆四十三年十月二十一日誕生二十八歳。

 

夏玲宝(シァリィンパォ)二十八歳。

江蘇(ジァンスー)無錫(ウーシー)

乾隆四十三年一月十五日誕生

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十一年三月後任に職を譲り嫁入り予定

-二等侍衛(満州正白旗)・管麟歓(グァンリィンファン)

直隷順天府香河県(シャンホー)

乾隆四十三年一月二日誕生二十八歳。

 

郝紅(ハオホンファ)二十五歳。

直隷天津府の生まれ

乾隆四十六年三月十一日誕生

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十一年丙寅十月に婚姻予定

-二等侍衛(満州正紅旗)・安鄰鵬(アンリィンパァン)

西城下后廠平胡同

乾隆四十五年十一月十二日誕生二十六歳。

 

孔林杏(コンリンシン)

直隸高陽縣の生まれ、二十五歳。

乾隆四十六年五月初五日誕生

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十一年丙寅十月に婚姻予定

-二等侍衛(満州正紅旗)・邸欧理(ティイオゥリィ)

西城下大椿胡同

乾隆四十六年一月二十日誕生二十五歳。

 

嘉慶十年九月使女に抜擢。

曾藍桃(ツォンラァンタァオ)嘉慶十年十三歳

父親-曾驍霖(ツォンシィアリィン)鹽問屋-紹興府。

鄭四恩(チョンスーエン)の従兄妹(姨表妹)。

 

鄭蓬旛(チョンパァンファン)十一歳

叔叔(シゥシゥ・叔父)鄭(チョン)-三艘の三百石船の船主、余姚(ユィヤオ)邸元庭番。

父親は紹興府に住む雇われ庭師。

 

四人は雲嵐(ユンラァン)とその娘に目通りの許可が出て可愛い寝顔を見て賛嘆の声を上げた。

寶燕たち四人は、来た時と反対の道中で戻っていった。

宣武門(シュァンウーメン)外で馬車から降りるのが惜しいほど話が弾んでいた。

幹繁老で一堂に集まってもらいまずお目見えも無事に済んだこと。

雲嵐(ユンラァン)の娘は産まれたばかりとは思えないほど輝いていること。

そしてとくに趙(ジャオ)哥哥に「明日手紙が届くので、宛先へ届けるように言われました」と思わせぶりに話した。

「何か起きたのでしょうか。今年の娘たちに不都合でも」

「まさか、そんな事じゃ有りませんよ。今朝になって正式に公主娘娘の使女に二人選ばれたのが、曾藍桃と鄭蓬旛でしたのさ」

一同喜びの声を上げる中、鄭四恩(チョンスーエン)が特に喜んでいた。

 

ヂャオタァンヅゥ(趙堂子胡同)の徐頲(シュティン)は最近蟋蟀の本を読んでいる。

シュゥリュイ(書律)には何種類も置いてあるが、金文錦の促織経はあるが違う本の様だ。

明代に書かれた、促織志 (劉侗)、促織志 (袁宏道)なども読んでみた。

栗を勧める書誌が多いことに気付いたが、黄米飯(ファンミィ・黍きび)を勧める書誌も多い。

永定門(イォンディンメン)外五里、胡家村の蟋蟀が優れていたと「帝京景物略」に出ていたが二百年ほども前の話しだ。

繁殖物より野生の活力を信じる闘蟋(ドウシィ・蟋蟀)使いは、毎年同じ地区の蟋蟀を捕まえて來る。

 

まだ一部にしか写本が出回っていないという、王孫經補遺は錫山无悶道人が作者だという、細かすぎて理解できないが江蘇常熟の産を勧めている。

(光緒十八年千八百九十二年校印本現存という)

王侯貴族の子を指す王孫を使って如何にもらしく作られたようだと徐頲(シュティン)は考えた。

糞についても細かく観察したようだ。

“鈴門以尖小明淨為入選,即出屎亦要細小堅結。鈴門大者,出糞必粗,多不中用。蓋蟲身細結,子門亦小,粗則通體皆鬆,故出糞大,其理甚明。鈴門上不可有毛,有則不貼鈴,並要結糞,謂之毛臍,尖圓長衣等往往有之。毛臍亦能健鬭,終屬不能耐久,平蛩而不貼雌者,亦貴。若鈴門紅若塗硃,則稱無敵矣。”

 

促織經という名の宋の時代の写本は古書を探すようだと言われた。

作者は賈似道(ヂィアスゥダァオ)、あの蟋蟀宰相だと分かった。

ジンピパ(金琵琶・鈴虫)の鳴き合わせに、シィーシゥアィ(蟋蟀)の季節もあっという間に終わりが近づいて来た。

 

四条胡同の陳鴻墀(チェンフォンチィ)先生から徐頲(シュティン)、王均(ウヮンヂィン)、孫原湘(スンユァンシィァン)の三人名指しで固倫和孝公主の夕食会に招かれたと通知が来た。

それぞれの下僕も別室で供応するから、留守居を頼んで連れてくるようにと但し書きもある。

上役へ報告すると通達が来ているという。

指定された九月二十二日(陽暦千八零五年十一月十二日)、三人は上役からうらやましそうに「昼で下がって支度しろ」と告げられた。

徐頲(シュティン)は指定された申の刻(午後三時四十分頃)隆福寺街東鎌酒店(ドゥンリィエンヂゥディン)へ出向くと店に“本日休業”の札が出ている。

表にいる老頭(ラオトウ)が断りを言っている。

豊泉が表で徐頲(シュティン)を内へと戸を開けてくれた。

人がそろうと與仁(イーレン)が来て豊紳府へ案内にたった。

通用門で顔見知りの昂(アン)先生が出迎え「お供の人は與仁(イーレン)と一緒に」とそこで別れた。

豊泉たちは食堂へ連れてゆかれた。

與仁(イーレン)は「ここは奴婢の人たちの食堂だが、あと一刻は俺たちだけのために空けておいてくれた。十分楽しんでくれ。ただし酒は最初と最後の二杯で勘弁してほしい」と話している間に冷菜と乾杯用の瑠璃杯が置かれた。

当番の奴婢を従えた双蓮が、瑠璃杯を香槟酒(シャンビンジュウ)で満たして回った。

最近、とみに女っぷりが上がった双蓮(シィァンリィエン)に豊泉、一鳴、曹の三人は見とれてしまった。

奥で永徳(イォンドゥ)はしてやったりとにんまりしている。

厨房には桑小鈴(サンシャオリン)が入っている。

馮元錫(ファンユァンシィ)は「家の奥様といい勝負だ」と注がれた杯を大事そうに支えた。

與仁(イーレン)は「さぁ、旦那方はさておいて料理を十分楽しもう。干杯(ガァンペェィ・乾杯)」と飲み干した。

「初めて飲む酒だ。素敵に旨い」

曹(ツァオ)と一鳴(イーミン)は驚いている。

「與仁さんは一杯と言いましたけどお二人の口汚し程度ありますよ」

双蓮が少ないと言いながらも二人へ注いだ。

「えこひいきだ」

「與仁さんが許せばもう一瓶開けますよ」

「そりゃまいった」

與仁が引き下がったが、そのころには次々料理が運ばれ、誰も気にせずに箸が出ていた。

東坡肉(ドゥンポゥロ)

清炒菜心(チンチャーツアイシン)

全寿鶏(チュアンシォウヂィ)

蝦餃(ハーカオ)

鶏風味の素湯(スータン)

一通り食べつくし最後の干杯(ガァンペェィ・乾杯)を済ませると門番詰所へ案内して茶で菓子を摘まんだ。

大食いと知れ渡った一鳴は次々手が出て「こんなうまい菓子は久しぶりだ」と大はしゃぎだ。

「気に入ったら同じのを皆に包むぜ」

当番の奴婢がきれいに包んでくれた、皿にはまだ十分残っている。

「門番詰所は、いつもこんなに贅沢を」

「まさか、格格の雲嵐(ユンラァン)様に女の子が誕生した内祝いだ。今日は使女、奴婢を問わず大盤振る舞いさ」

赤ん坊を見た宜綿(イーミェン)は「府第随一の美女の誕生だ。長寿間違いなしのうえ、子々孫々繁栄の顔相だ」そう手放しで褒めていた。

それぞれの胡同の様子に近所の顔役とでもいうか古手の住人の事も話題にした。

一番若い馮元錫(ファンユァンシィ)は近所の子供たちの先生で、六人ほどの五歳から八歳の子が午後に通ってくる。

午前は家を磨き、授業は一日一刻半、置き時計で一時から三時間と決めてある。

大きい子は官学に通い、疑問は王均か近くの孫原湘が夜間に教えに来る。

紙は貴重なので與仁(イーレン)から石板に筆が寄付された。

 

徐頲(シュティン)達は昂(アン)先生の案内で公主の居間でお目通りした。

王均(ウヮンヂィン)に「噂通りのお方のようね。見た目と違いお若いのでしょ」と遠慮なく聞いた。

「戊戌の生まれで二十八歳になりました。初めて会う方は五十くらいと間違われます。十五くらいで三十と間違われました」

「奥様が王昭君と噂ですわよ」

「よくできた妻で、許嫁というのでこんな私に十六で嫁いできてくれました。よく尽くしてくれ最高の伴侶です」

「御子は」

「先の子が女で八歳、次が男で五歳と二人おります。うれしいことに妻と似てくれました」

見目形にとらわれない強い心を持った優しい女だと知れる。

 

一回り近況を話し終わるとインドゥの部屋へ案内された。

飾り棚に虫籠が飾られていた。

瓢箪を繰り抜いたもの、玉だろうか小さいが細かい細工が目立つ。

竹籠は手入れが良いのか、黒光りのするものと竹の艶を際立たせたものに街で見かける青竹を無造作に組み立てたものまである。

徐頲(シュティン)の眼が棚を見ているので「虫籠に興味がありますか」と聞いた。

「いえ、私の拝領邸の近くに虫好きの人がいまして、つい目が行きました」

「ああ、趙堂子胡同の劉大人(リゥダァレェン)」

「ご存じでしたか」

「都では有名な闘蟋(ドウシィ・蟋蟀)使いですよ。金魚池にある一族の種雄は高価で有名でね。雄十匹十両出しても手に入れたい人で大賑わいだ」

 

商売人は十匹買いいれ、種雌と交尾させて子が千匹生まれそこから選別するという気の長い話だ。

其の千匹に雄が多く出れば小商人も儲けにつながる。

年に二回が最適、欲張って三回産卵させれば噂が出て値が下がる。

同好者でも銀(かね)をあまり掛けられないものでも、一匹銀(イン)一銭から三銭で取引されているという。

街の虫屋は一匹五文の雌に十文の雄、仕切りのある籠を二十文で売っている。

たまにここから地区の将軍と呼ばれる雄が出る、銀(かね)两両、さらに目利きが認めれば五両と値を吊り上げる。

大概、外城の大きな胡同に一人くらいはペェイドゥ(配闘)をする老人がいて吊り篭、秤など一式を門の前に持ち出している。

さすがに内城では路上でやる者はいない。

 

劉大人(リゥダァレェン)の二儿子(アルウーズゥ・次男)が金魚池を仕切っていて、今年東城将軍と名が付いた八月十日から三十日間で十五回勝ち続けた大興縣黄村鎮の産雄を百八十両で買い取り、張飛(ヂァンフェイ)と名を付け、選び抜いた雌二匹(ディアォチァン貂蝉・ダァヂィ妲己)と交配した。

来年の話しなのに雄に銀(イン)二十二銭と指値が付いているという。

まだ成約は無いとインドゥが話した。

信頼関係がなければ指値も出来ないと次男の名が高まった。

次男を劉趙之(リゥヂァオヂィ)という。

小屋を三つに区切り、此処は他人を入れずに夫婦で管理しているという。

真ん中に張飛(ヂァンフェイ)一匹で飼われている。

普通十一月ともなれば寿命を迎えるという、元値なら買い受けたいとの申し出もいよいよ無くなった。

あとは卵が孵化するまでの最大の敵は乾燥だという。

 

「宋の賈似道という人が促織經というのを出したそうですが、街では見かけませんでした」

「散逸したという話で、写本だというのを持っているが出来が悪い。画が不味いうえにありふれた飼い方ばかりだ」

持ってはいるようだが、インドゥに「画が不味い」と言わせるとは相当不出来の様だ。

「促織論。論曰:天下之物,有見愛於人者,君子必不棄焉」

「蟋蟀論。序屬三秋,時維七月,稟受肅殺之氣,化為促織之䖝」

とまあこんな始まりで博識ぶりを自慢していると本も見ずに教えてくれ、気に入ったのがと次の言葉を伝えてくれた。

「禁忌。硫黃橘氣最難當,煎藥須教莫近傍,頓處常教遮得暗,切須休露太陽光。」

「王主簿養法。用栗子煮熟喂之,或方蒂柿子、鰻、雞、鵝、蟹、魚、蝦,煮熟和飯喂之。」

「浴蟲法。鬪勝下盆,須用浮萍草搗爛,絞汁浴之,付水蝦三二個與蟲吃,吃須隔退三尾子。」

戦い方も八の法則が説明されていたという。

「飯は人間様以上に気を配り、戦い終わって雌蟋蟀と引き離せは面白い。だがこの本の様にできるのはフォンシャンくらいしかいないだろう」

昂(アン)先生が大笑いで「だから国を滅ぼしたと言われるんだな」と言っている。

「実際ヂィアスゥダァオ(賈似道)は、蟋蟀宰相のあだ名が悪かったし、蒙古の勢いを止める力は南宋には無かったのさ」

 

花琳(ファリン)が支度も済みましたので姐姐(チェチェ)の館へおいで下さいと呼びに来た。

鉢植えの黄色のバラに薄桃色の山茶花の道の先に姐姐(チェチェ)の館がある。

枝を広げたムゥーグゥア(木瓜)が好いにおいを撒いている気がした。

「茶花(チァフゥア・山茶花)の香りがいいですな」

陳(チェン)先生の言葉でああそっちの香りかと正気に戻った。

「やぁ、見破られましたか。まだ冬バラの香りが薄いので茶花(チァフゥア・山茶花)に助けをさせました」

陳鴻墀(チェンフォンチィ)は機嫌よく部屋へ入っていった。

公主が「木瓜と間違える方が多いのによくお分かりに」そう言って席へ案内させた。

一同が席に着くと「今日は府第に女の子が誕生して二十日目、内祝いを兼ねて府第のものと共に祝ってください」と願った。

陳(チェン)哥哥が代表して「長寿を願ってお祝い申し上げます」と祝いの言葉を述べた。

「もう一人赤子が産まれたのは、ご存じの方も居られるはずの取灯(チィーダァン)胡同の富富(フゥフゥ)というものに男の子が産まれました。徐頲(シュティン)先生は夫の甫箭(フージァン)と顔見知りのはず」

「ああ、あの男に子が出来ましたか、めでたさが重なりましたな」

孫(スン)哥哥が干杯(ガァンペェィ・乾杯)の音頭を取り祝いの料理が運ばれてきた。

「実は皆の期待をそぐようだがこの邸では王侯貴族の食卓とは違うのだ。街の料理人が腕を振るってくれる料理を楽しんでほしい」

昂(アン)先生が「皆様に集まってもらった酒店(ヂゥディン)の料理人が腕を振るうので期待してください」と持ち上げた。

色鮮やかな冷菜の皿を見て「見事な腕だ」と徐頲(シュティン)がほめている。

「まず、料理人の腕を試す温野菜を頼んである。そのために九人の卓が限度だと言われたのでこのような人選をさせてもらった。料理人の言葉をそのままいえば熱々をかっ食らってほしい」

公主、インドゥ、昂(アン)先生、花琳(ファリン)、姐姐(チェチェ)の五人に四人の招待客、権鎌(グォンリィェン)は九(ジゥ)を目出たいからと選んだという(久しい、永久の久(ジゥ))。

熱々の皿に一人分が調理され配られた公主も遠慮なく匙で餡を「熱いわ」と言いながら啜り込んだ、下の皿は手で触れられる程度に温められ、料理の皿が冷め難くしてある。

金華火腿(ヂンホアフオトェイ)がとろとろに野菜と溶け合い旨さが倍増している。

「ウ~」

昂(アン)先生が思わずため息をついている。

「ここまで腕を上げたか」

「やぁ、ただの野菜をいためて火腿(フオトェイ)を入れたとは思えぬうまさですな」

熱いですななど言いながらも箸と匙が止まらない、冷めさせてたまるかとの勢いもあるようだ。

宮保鶏丁(ゴンバオジーディン)は辛いが熱さは控えてある。

権鎌は鱶鰭(ユイチー)の皿をすかさず出させた。

漸く話が飛び交いだして場が盛り上がった。

無錫排骨(ウーシーパイグー)が出て一息付けた。

最後ですと玉米(ュイミィー)のスープが出た。

上品な味に一同が賛嘆の声を上げた。

「あっそれでか」

インドゥが声を上げた。

「なんですの」

「権鎌(グォンリィェン)が来れば判るよ」

今日の礼を言うために出てきてもらった。

「素晴らしい料理だったわ。何か哥哥は気づいたようなの」

「見破られましたか、最初と最後」

「なに」

「実は最後のスープ」

「上品な味で驚いたわ」

「出汁のもとは金華火腿と鳥の骨ですが。金華火腿はすぐ取り出して八寶菜(パパウツァイ・八宝菜)に使いました」

それで火腿がとろとろに煮崩れていたのかと納得した。

「始まりと終わりがつながっているということね」

一同が料理の出来をほめて最後の干杯(ガァンペェィ・乾杯)は昂(アン)先生が〆た。

 

最近の軍機処の動きはインドゥの復位についての議論が上がっている。

託津(富察氏)は復位させて烏里雅蘇台(ウリヤスタイ)派遣を主張している。

聞こえて來る様子では英和(索綽絡氏・父徳保)もその派だという。

漢人の三人は派遣には反対している。

董誥(浙江富陽人・尚書董邦達之長子)六十六歳。

劉權之(進士・湖南長沙)六十七歳。

戴衢亨(狀元・大学士-江西省大庾縣産まれ)五十一歳。

肝心の慶桂(章佳氏-尹繼善子)六十八歳がどっちつかずで宙に浮いたままだ。

どうやら玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)の一派の揺さぶりに富察氏が同調していると聞こえて來る。

うるさ型の劉權之を解任の噂まで出ているが、満人の一人を道連れにとも聞こえて來る。

劉權之の支持をする者たちは替わりを推薦しない方向だ。

結句、劉權之と英和をフォンシャンはやめさせた。

 

楊與仁(ヤンイーレン)・汪美麗(ワンメェィリィー)の所で嘉慶十年十月十八日、三男が誕生した。

老大(ラァォダァ)楊興(ヤンイーロォン)、嘉慶五年七月十日男子誕生。

二男-楊興英(ヤンイーイン)、嘉慶八年六月一日誕生。

三男-楊興永(ヤンイーイォン)、嘉慶十年十月十八日誕生。

 

與仁(イーレン)は弟の楊與樊(ヤンイーファン)を西城永光寺西街に家を買って大平街常秉文(チァンピンウェン)の出店(地元は山西楡次県)との連絡所兼脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場を開かせた。

姚淵明(ヤオユァンミィン)の水会(シィウフェイ)の役にも立つと孜漢(ズハァン)から勧められ、界峰興から独立させた。

崇文門(チョンウェンメン)近辺は予定の半分、まだ二か所しか活動していない、人集めは容易ではない。

場所と留守居は見つかったが、火事の時の人手が足りないので会所が機能していないのだ。

此処は脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場の何徳(ハードゥ)通称徳老爺(ドゥラォイエ)の持ち家だった。

引退して家を売りたいという話はあったが、帳付けの老頭(ラオトウ)と脚夫(ヂィアフゥ)五人を引き取ってくれというので話が長引いていた。

権利に五十吊(銀五十両)、家が五十吊(銀五十両)、帳付けを二十吊(銀二十両)で隠居、五人の人足を引き取った。

昔は脚夫(ヂィアフゥ)二十人いたと聞く。

帳付けの羅(ルオ)が與樊(イーファン)に泣きついてきて仕方なく月两両で雇ったという。

孫娘がせめて勤めに出られる年に為るまでと言われたようだ。

昂(アン)先生は人の好いにもほどがあると驚いていた。

「隠居銀は帰って来たのか」

「そのままでさぁ。ちっさい孫娘をだしにされちゃ人情脆い弟弟(ディーディ)には断り切れなかったようでね」

與仁(イーレン)だって直に幼い子を眼にすりゃ断れないだろう。

與樊(イーファン)には十一になる娘と二歳の男の子がいる。

つい妻と小さな娘に媽媽(マァーマァー)の四人で京城(みやこ)へ来た時を思い出したのだろう。

人情味がある親方の噂が広がり、それが功を奏したか、新たに常雇いが五人増え、十人で仕事は三倍に増えたという。

大平街の仕事も増えて與樊の所へも回してくれだした。

脚夫(ヂィアフゥ)たちも、水龍(シゥイロォン)の使い方を学べば手当ても増えるので訓練に出てくれるようになった。

「荷車を押したり、引いたりが仕事だ。のっけてるものが違うだけでさぁ」

そういう体力自慢も増えてきた。

そうこうしているうちに帳付けの爺さんが脳溢血で急死した。

近所の顔役虞(ユゥ)、丐頭(ガァイトウ)黄(ホァン)が葬儀を引き受け、盛大に執り行われたが、請求は誰もしてこない。

聞き合わせると「ガキの頃世話になった恩返しだ」という話だ。

さて孫娘だが、母親が腹ぼてで家に戻って子供を産んで亡くなった。

父親は誰も知らないという。

顔役虞が與仁(イーレン)と與樊(イーファン)に引き取ってほしいと頼み込んできた。

二人の媽媽(マァーマァー)が「私が引き取る」というので反対できなくなった。

娘は羅英亮(ルオインリィァン)六歳だという、まるで男名だというと「男に負けないようにと付けられた」という。

媽媽(マァーマァー)に襤褸を渡し「ここに私の全財産があります。老爺(ラォイエ)の頂いた銀(イン)二十両も手つかずで入っていますので、お預けいたします」とかわいい顔で信頼を伝えた。

中には銀(イン)二十六両と金錠两両があり銀(イン)二十五銭と五十文程の銭、板に庚申正月初九日、父樊嶺(ファンリィン)、母篤亮(ルオドウリィァン)としてあった。

少なくとも父親が樊家の嶺(リィン)だと分かった。

「父親を捜すかい」

「お腹が目立ってきた母を捨てたと老爺(ラォイエ)が言っていました。会いたくもないわ」

「ならこんな婆(ポォ)の娘でいいかい」

「孝養を尽くします」

素直な様子に一同は媽媽(マァーマァー)に任せることにした。

 

姚淵明(ヤオユァンミィン)と西城の丐頭(ガァイトウ)の黄(ホァン)が手を結び残りの二か所も開設できた。

火器營の方も追加納入二十台、下賜十一台とおかしな数字で押し付けてきた。

前の物は引き取って手を加えると良い水龍(シゥイロォン)になった。

六台新調、三台下賜と合わせて二十六台が合格すれば下賜は十四台になる。

一台八十五両の二十六台は大きいが、火器營と繋がりが出来たということの方が大事だと大商人たちも納得した。

二千二百十両で十四台引き取ったと同じだ、勝手に同じ水龍(シゥイロォン)が作れない以上それしか手はない。

十二か所の会所すべてに配置し、範文環(ファンウェンファウン)へ二台を余分に回し、地安門(ディウェンメン)付近の体裁を整えた。

徐々に土地の丐頭(ガァイトウ)とも融和が出来、助け合うことで一致した。

 

直隷葉タバコの農地を雲嵐(ユンラァン)の娘の和景清(ヘジィンチィン)へ莱玲の隣村に百万本の植え付け可能な土地を分与することにした。

莱玲の土地で百万本、景清に百万本、高叡は二十万本の作付け。

残りは二百八十万本分の煙草農地だ。

十万本で三万斤は収穫できる、百万本なら三十万斤八十万銭が相場だ。

小作とはいえ五人働ける耕地を割り振らせ、十人が贅沢しなければ暮らせるようにした。

葉煙草農地は苗や肥料も共同購入させ、差配は均等に割り振って調整する。

差配に一割、諸税に三割、六割が手に入れば農家が半分で三割二十四万銭、莱玲、景清にも三割二十四万銭、それぞれに二百四十串(吊)の銭(銀(かね)二百四十両)が入ってくる。

小作は半分が葉タバコの農地、ほかは自由裁量(葉煙草以外の換金作物)にして小作料は集めていない。

買い戻したときに差配(自営農家)を六人置いた、手を離れていたわずかの間に不当な利を貪っていたものは小作にした。

それぞれ十人の小作を指導させ、できるだけ収入の均一化を図り、差配だけで食うことを考えるものは追い払うと通達した。

六人の差配から毎年栽培者の名入りの箱で蟠桃と栗が府第に贈られてくる。

ここは平谷縣、直隷順天府、豊紳府から百九十里の地にある金海湖の北側だ。

北京の東辺を防衛したのは平谷(ピンゴウ)で癸亥(千七百四十三年)に順天府に帰属している。

北二十里に長城平谷将軍関、東四十里に長城黄崖関。

イェンチァオ(烟草・煙草)の製品は勝手に作れない。

イェンイエ(烟叶・葉煙草)の横流しは罰棒が待っている。

 

第四十九回-和信伝-壱拾捌 ・ 23-03-08

    

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

 

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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