亥の刻の太鼓が火の用心を告げて回りだした。
“ 亥の刻でござぁ~~い。どなた様も火の用心さっしゃれな~~
”
表ではあちらこちらで「お下りなれば今出船がござります」の声が響いている。
“ 淀のうわての千両の松は
売らず買わずの見て千両 ”
下りだした船から船頭の歌声がする。
“ 伏見下がれば淀とはいやじゃ
いやな小橋をとも下げに ”
淀小橋は長さ七十六間、両岸は繁盛地だが“ 程なう淀の小橋なれば、大間の行燈目的に、船を艫より逆下し
”と西鶴が“ 世間胸算用 ”に書くほど橋げたへぶつからぬように気を配る場所だ。
「おせんどしゅ 仕切りを随分ゆるりと取(と)て気をつけさんせ」
橋の両側で声が聞こえる。
二刻(三十分ほど)たつと支度を始めた。
「どちら様も御仕度宜しうに為されてくださりませ。お忘れ物なきよう確認なされますよう」
女中の告げる声で支度を済ませた。
勘定は新兵衛とチィェンウー(銭五)で半々持ったと吾郎が信と次郎丸へ告げた。
「俺たちの船が最後かと思ったがまだ十艘じゃ聞かないくらい用意してる」
「昨年の時は一晩百五十艘下ったと大坂で聞きましたぜ。今日の込み具合じゃそれ以上に為りそうだ」
この時期夜船は戌の下刻(九時三十分頃)に出れば、大坂の船宿で飯を食べて日の出(五時二十分頃)とともに旅立てる計算で、戌の下刻からの出船で込み合うのだ。
次郎丸の時計と和信(ヘシィン)の時計は十一時十五分だった。
「おや揃ってますね。私のは日に五分進みます」
「私のは気まぐれと云うより合わせるのが午の鐘と云う頼りないもので日によって五分から七分くらい進む様です」
「昼に宇治の午の鐘の捨て鐘の後で合わせておきました」
ようやく月が出てきた、半月が欠けてきている。
船宿で宴会をしている声が響いてくる。
「二十三夜講の集まりの様だぜ。そういえば京(みやこ)に入った次の夜が更待月(ふけまちづき)だった」
「四郎にそんな風流っ気が有るとは知らなんだ」
船では隠居を囲んで宇治の平等院鳳凰堂や宇治橋の話で場が弾んだ。
「次郎丸様たち瀬田の唐橋を渡りなされましたか」
「きれいな橋だった。擬宝珠(ぎぼし)を見て回った」
「それは良うございました。守護神橋姫様はやきもち焼きだそうでほかの橋を褒めるとつむじ風を起こすそうでな」
「宇治の橋の話では」
「宇治に大坂は長柄橋の守り神ですじゃ」
「赤染衛門の詠んだ橋ですか」
“ わればかり長柄の橋は朽ちにけり
なにはの事もふるが悲しき ”
「それですじゃ」
「宇治の方は詠み人知らずで見た覚えが有ります」
“ さむしろに衣かたしき今宵もや
我をまつらん宇治の橋姫 ”
「唐橋は威勢の良い軍記物ばかりで、そうだ宗匠なら芭蕉の句でも」
「ご承知の方も多い“ 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 ”それと“ をのが光 ”の句集にも一句有りました」
“ はしげたの
しのぶはつきの なごりかな ”
「これくらいで橋姫を唄う句に詩は覚えが有りません」
「ほれ、龍神様」
「乙姫ですか」
幸八が大きな声で訊いている。
「そうですじゃ。聞いたことあるでしょうに」
「すっかり蜈蚣退治の時の髭の老人に騙された様だ」
橋姫明神を祀る社が有るのだという。
秀郷は龍姫に請われて蜈蚣(むかで)を退治し、竜宮城へ案内された話もあるのだという。
宇治の橋姫は次郎丸様に聞きましょうと話しを強請った。
「源氏物語に出ていたのは覚えています」
“ 橋姫の
心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞぬれぬる ”
「そうだ“ さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫 ”というのが古今和歌集に有りました。こちらの方が百年は古そうです」
和信(ヘシィン)も次郎丸の朗詠に聞きほれていた。
次郎丸の頭には次々と宇治の歌が浮かんでくる。
「兄貴浮かびすぎて絞れないのか」
「なんです四郎さん」
和信(ヘシィン)は不思議そうに聞いている。
「今兄貴の頭には和歌集はじめいろいろな歌集が浮かんでいるのですぜ。浮かびすぎて絞り込めていないんですよ」
「まるで私の父親と同じだ。和の本に清の本、古い写本などいっぺんに浮かんでまるで洪水に飲み込まれたようだと母から聞きました」
「詠み人知らずに有ったが橋姫なのだろうか」
“ ちはやぶる
宇治の橋守 なれをしぞ あはれとは思ふ 年のへぬれば ”
隠居が鬼女にまつわる話、神が恋して通った話を楽しそうに語ってくれた。
「太閤はん、伏見へ城を築きなさってなぁ、宇治川の水ぅ気に入らはって毎朝汲みに人をやらはって三ノ間でくみ上げたそうや。でもな堤の工事で橋ぃ取り壊されて水に困ったそうでっせ」
余談
大化二年(646年)元興寺の僧道登が建立と伝わる。
鎌倉時代の「帝王編年記」に記録が有り、行方不明の碑が寛永三年(1791年)上の1/3ほどが見つかり復元された。
康和四年(1102年)白川上皇は興福寺の宗徒の強訴を阻むため橋桁を引いた。
公安四年(1281年)洪水で流失し西大寺の僧叡尊により再建。
応仁元年(1647年)東軍が西軍の入京に備え、宇治橋ほか洛南の橋を引かせた。
天正八年(1580年)織田信長による架橋。
文禄三年(1594年)豊臣秀吉による撤去。
慶長四年(1599年)徳川家康により架橋。
寛永十三年(1636年)架橋。
寛文十二年(1672年)修理(もしくは架橋)。
(橋の修理、架橋の時は通圓も建て直し、修理をしている。この年の建物が現在の通圓なので江戸時代は寛文十二年以降の架橋は無いはずだ)
宝暦六年(1756年)宇治市歴史的風致維持向上計画(第2期)のページに九月に流されたと出ているが再建の記録は無い。
(浮島十三重塔の流失の誤謬、誤記だろうか)
「あにい、都名所図會だ。あっこに“三間の水 瀬田の橋下 龍宮より涌出る水此所へ流来るなりと 又一説には、竹生島辨財天の社壇の下より流出るといふ”これが橋の三ノ間の事だ」
「橋寺宇治橋通圓の茶屋ですか。つまんねえ画だ」
「そうだ、だが通圓は古いぞ。六百年ではきかない位前の記録が有る」
「狂言にあるやつですかい」
「そうだ、見世を題材にしたそうだ」
「よかった狂言や舞を当て込んだと思っていましたぜ」
「どうかしましたか」
「いえね此の道中、本当らしく作られた話ばかり聞きましてね」
「芝居は当てにはできませんよ。それは私の国でも同じでね。芝居を当て込んで此処の話だと名乗りを上げる寺に道観が多いんですよ」
どういう話があるのか銭五も知りたがった。
「都からの修行者が三百人もおしよせ、通円は一人残さず茶を飲まそうとした、茶碗、柄杓も打ち割れて、辞世の和歌を詠んで死んでしまったと亡霊が語ったそうだ。能の頼政から話を持って来てわらかしてやろうと云う事さ」
“ 名乗りもあへず三百人
口脇を広げ茶を飲まんと ”
ぴしっと背筋が伸びた。
途端に噴出して「ここで舞ったらお笑い草だ」と言った。
船の苫は低い、膝たちがやっとだ。
「今のところも能に有るのですか」
隠居は知っているなら聞かせてくれと云う。
“ 名乗りもあへず三百余騎
くつばみを揃へ川水に 群れゐるむらとりの翼を並ぶる 羽音もかくやと白波に ざつざつと打ち入れ 浮きぬ沈みぬ渡したり ”
「ざつざつと打ち入れは講釈も取り入れていますな」
茨木屋はもろ手を打って皆と一緒にほめあげてくれる。
通圓は宇治に入った日と、茨木屋の隠居に連れられて毎日立ち寄ったと和信(ヘシィン)は次郎丸に話した。
「気に入りましたか」
「抹茶があれほど美味いとは初めて知りました。香りもよいものでした」
「茶葉の選定、挽きたて、温度いろいろあるようですね。私は兄と違い茶の湯はいまいちしょうに合いません」
「通圓では形にこだわりませんから、ただ茶を喫するそれでいいそうです。宇治の煎茶は我が国の茶好みにも好かれる味でした」
銭五から贈られた寧波のボォゥチャフィ(博茶会)の扱うニンポーバァイチャ(寧波白茶)、五斤の壺で三口は薬研掘りの屋敷を喜ばせた。
その話は銭五以上に和信(ヘシィン)も喜んでくれた。
「私の妻も株を持っているんですよ。英吉利へ売るより京(みやこ)へ送ってだいぶ儲けているようです。和国の茶も広州へ来ますがまだ高くて量を多く扱えていません」
だし茶が和国で広まり、煎茶の名で急速に市場をにぎわせてまだ百年たっていない。
薬研掘りでは客用は十七匁ほどの茶だという。
上屋敷の指図は安倍茶鏡山で一斤銀八匁を使うように言われている。
出入りの茶屋は鏡山で受け取りを出してくる、一斤は鏡山を納めるので上屋敷から使いが来たときは鏡山を出してやるのだ。
「我が家敷の普段使いは宇治青柳一斤銀三匁ですが、近くの川端の茶店は三百文の安茶で茶碗一杯四文取ります」
量や値段は和信(ヘシィン)にもわかるようだ。
庫平両銀一両の重量は和国の両(十匁)とほぼ近い重さの値が続いている。
だが斤については地方でまだ重さが違う秤が有り、品物よつて違う秤が持ち出されている。
和国の茶は重さの平均の変化が激しくて統一されていないという。
唐目と云う取引では和国の十両、山目がこのところ十六両前後に為ったという。
一斤十六両百六十匁、十匁=一両(37.5g)だが茶の取引は複雑で、唐目の一斤は十両百六十匁(600g)、山目一斤は二百五十匁前後(937.5g前後)。
季節で違うことを茶の業者が言うので取扱いが難しいという。
広州の取引に参入できる量と値段は今難しそうだ。
「伊勢茶、駿河茶、これと筑紫の茶畑を十倍にしなけりゃ売り込めませんな」
庸(イォン)が言うと和信(ヘシィン)が笑って「筑紫は大きな島で台湾の五倍ほど有ると聞いた」という。
「肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅」
ご存知でしたかと新兵衛たちは驚いている。
「大小取り混ぜて多くの大名個別に茶を生産し、長崎へ売り込めは難しそうですな」
和国の実情も知っている。
阿蘭陀の現実、唐人の目先の儲け、長崎出島は貿易品で苦慮している。
「茶は百に一つも及ばぬ取引ですよ」
銭五は和国の茶は高くて清国では相手にされないという。
「ですがね清国は高い茶は際限が有りませんや」
「一斤銀五十両は確かにひどい値段ですね」
庸(イォン)もさまざまな茶の値段を話した。
「英吉利人が買うのは主に百二十斤銀十五両の取引値です」
銀十五両は和国の銀五百六十二匁、唐目一斤四匁七分程度だという。
「太刀打ちできそうだが」
「長崎へ買いに来れたらですよ。広州へ送るについて半分以下にしなきゃ食いつきませんよ」
「その値段の茶を取られたら町の者が困る」
「そうですぜ若さん。やるなら新規開拓しか有りませんや」
銭五もそれで手を出さないという。
「寧波では貿易用に取られた安茶の穴埋めをするために京(みやこ)へ送る茶を増やしているのです」
「銭五さんに頂いた茶は良いものでしたよ」
「あれは一番茶で二番茶の五倍は値が付きます。今度は三番の安茶か四番の乳茶用にしますかね」
「四種が揃うのが良いな」
「乳茶用の牛の乳が手に入りますか」
「馬に羊、山羊でも作れると聞いたが」
「まいるなぁ、必ず年内に届けますよ」
阿蘭陀人は細々とアメリカ船で貿易を続け、まだ茶の取引は贈呈品程度だ。
阿蘭陀人は茶よりも入れ物の陶器へ目が行きそちらの貿易へのめり込んでいた。
話しは清国の狛犬から最近稲荷の狐像がさまざまな形で稲荷の鳥居前に奉納されてきた話になった。
狛狐ですなとは叶庸助の言葉でそのとおりだと皆が賛成した。
稲穂に巻物、鍵に玉が組み合わされることが多い。
逆立ちするものは竹筒を咥え手水舎に多く、子狐を従えるのは子宝祈願かと話は弾んだ。
清国の狛犬は邸宅の門前に置かれ、位階がそれでわかるのだという。
和国では神社仏閣に置かれ様式での位階は分からないのだと聞いた。
和信(ヘシィン)の言葉にうなずく次郎丸達だ。
船はのんびりと淀川を下っている。
「吾郎さんよう。早とは言いながら船足は遅いもんだね」
「早舟でも流れに逆らえば船頭が疲れるだけだよ」
京橋より淀小橋まで半刻(はんこく・小一時間)は必要だ、橋を過ぎると真夜中でも茶屋の明かりが船を誘っている。
船を橋の手前で半回転させて橋を潜って岸へ寄せた。
船頭が「二刻(ふたとき・三十分ほど)で出しやすから一休みさっしゃれ」と厠と茶屋を教えた。
刻(こく)は平均二時間、刻(とき)はほぼ十四.五分。
一同は甘酒を頼んで体を温めた。
いつの間にか十二時を過ぎて二十四日になっていた、二十分くらいで船に戻った。
桂川が右手から、淀城の先で木津川が合流してきた。
船の速度は自然と早くなり船頭たちは気を揃えるように船唄を始めた。
“
ここはどこよとナー 船頭衆に問えばエー ”
“
ここはひらかた 鍵屋浦エー ”
(ヤレサ ヨーイ ヨーイ)
“
鍵谷浦にはナー いかりはいらぬエー ”
“
三味や太鼓で 船とめるエー ”
(ヤレサ ヨーイ ヨーイ)
「次郎丸様は大坂で回られたい場所でも」
「和泉国一之宮大鳥大明神へぜひ寄りたい」
新兵衛が「白鳥の降りたという場所の一つですよ」と補足した。
「書紀の最後の地では河内、留舊市邑と有りますが」
「明神の伝説ではさらに飛立ってそこへ降りたと伝わるそうだ」
新兵衛が幾つもあるので行っては無駄足踏んでばかりだったと言う。
「三か所じゃないのですか」
和信(ヘシィン)が新兵衛に聞いた。
「えつ書紀を読んだことが」
「古事記は無理ですが日本書紀に続日本記(しょくにほんぎ)なら庸(イォン)先生と何とか読み下しました」
「続日本記(しょくにほんぎ)で目を引いた記事が有りましたか」
「道鏡と云う人が帝位の簒奪を企てたというのは違うとわかりました」
次郎丸以外は驚いている。
「そんな。色仕掛けで皇位を奪う策謀をした話は作り話ですかい」
疑問が有ると言われて答えてくれた。
「聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を得ようという心を抱いて、永く日を経てきた。そう書いた後で法に従って刑を与えるのは忍びない。これ可笑しいでしょ。皇位簒奪以上の悪行ってあるのでしょうか。それを刑は与えられない。いくら読み直してもそう書いてあるんです。如聞(じょもん)っていうのも自信のない現れですし。とっくに道鏡は死んだあとの続日本記が証拠も見つからないで済ませています」
余談
神護景雲四年八月四日(770年)、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御。
八月四日、白壁王立皇太子。
称徳天皇の遺詔に「宜しく大納言白壁王を皇太子に立つべし」。
八月二十一日、皇太子「道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ派遣する」との令旨を下される。
十月一日、立太子から二か月で「即位改元の宣命」。
神護景雲四年は即位改元の宣命の日まで続くが、慣例で年初より宝亀元年としてある。
続日本記(しょくにほんぎ)・延暦十六年(797年)に完成。
宝亀元年八月庚戌(神護景雲四年八月二十一日・770年)。
皇太子令旨。如聞。道鏡法師。窃挟舐粳之心。為日久矣。陵土未乾。姦謀発覚。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野国薬師寺別当発遣。宜知之。
庚戌。皇太子令旨。
聞く如く。道鏡法師、竊に舐粳の心を挾んで、日爲たること久し。
陵土未だ乾かず、謀發覺しぬ。
是れ則神祇の護る所、社稷の祐くる攸なり。
今先聖厚恩を顧みて、法に依り刑に入ることを得ず。
故に造下野の國藥師寺の別當に任じて發遣す。之を知る宜く。
「若さんは。道鏡をどう見ていなさる」
「浮かれ坊主さ。身内を引き上げたのもその証拠だ。帝位を狙うには油断が多い。自分の敵を反対者にしか見つけていない」
「どういうことで」
「継承権のある男子が居れば道鏡には出番はない。本当に狙うなら白壁王にその子供たちを排除しているさ。他戸親王が排除されたのは白壁王が皇位に就いてからだ。おまけに偽の宣託事件が道鏡の仕業とされたからな。正確ではないがその時七十歳くらいのはずだ。看病禅師の時で六十歳を超えている。身分を引き上げた道鏡の一族が余分な策謀をしたのさ」
「一族に足を引っ張られたと」
「そういうことだな。そういうのを昔から身の程知らずという言葉で表されている。若しかしてそいつ等を操るものが居たは考えすぎか」
輔治能真人清麻呂から別部穢麻呂への改名など、帝の意地悪に耐えた忠臣と和気
清麻呂を持ち上げる話は人々に深く浸透し、道鏡の事は幾ら貶めても反発をされないと見極めている。
この時以来物部氏、弓削氏の中央復帰は望めなくなった。
伝説を作り出した者達は、道鏡の年を知らないまま話を作り上げたかもしれないのだ。
清麻呂は神護景雲三年(769年)から三十年後の延暦十八年(799年)二月二十一日に亡くなった記録は残るが年は不明のままだ。
姉と言われる帝の側近和気広虫(藤野別真人、吉備藤野和気真人)は天平二年(730年)の生まれとされている。
隠居は和信(ヘシィン)にこの国に住む者とは違う見方が有ると感じている。
次郎丸と和信(ヘシィン)は考え方が似ていると思ったようだ。
「奈良から京(みやこ)へ政治が移るにも大きな陰謀が絡んでいるようですね」
上手く話を持ちかけてきた。
栄枯盛衰は世の習いで、身内の権力争いは何時の世でも起きると次郎丸は話した。
「源氏と平家の争いと云うが、敵と味方双方に親子兄弟で別れて戦った保元の乱、勝った者同士が争った平治の乱、敗走し流罪の頼朝公の後ろ盾は源氏より関東平氏の力が大きい。和信(ヘシィン)殿のご先祖の九郎判官様も平氏を倒してその後、兄の頼朝公に追われて落ち延びたくらいだ」
話しは元の井上内親王親子に戻した。
「光仁帝は実権を握るとなぜか皇后とその子の他戸親王を追いやった、親子は呪詛したとの嫌疑で幽閉され、同じ日に奇しくも亡くなったのが三年後だ」
「そうでしたね。兄の山部親王が皇太子に成り皇位を継ぐと同母弟の早良親王を皇太子にたてました。早良親王を大納言藤原継縄暗殺の犯人にして配流しました。弟二人を排除して政権を安定させています」
崇道天皇は怨霊として桓武帝に祟り続けたのは殆どの者が知って居る話だ。
「若さん、私もそう呼ばせてください」
「いいですとも」
「崇道天皇の怨霊、崇徳上皇の怨霊は叶庸(イエイオン)先生からよく聞きますが他戸親王は怨霊にならないのですか」
「面白いところに気が付きましたね」
四郎に新兵衛達は何が聞けるか耳をそばだてて居る。
「実は親王一人でなく母親の井上内親王(いのえないしんのう・いがみ)と一緒に奈良にある御霊神社にも祀られているんですよ。母親ほどひどく恐れられた話は読んだこと無いのですが、母親は龍になって藤原百川を蹴り殺したと愚管抄と云う本に出ていました」
「笑っていますね。その本信用できないのですか」
“百川ノ宰相イミジク光仁ヲタテ申シト、又ソノアトノ王子立太子論ゼシニ、桓武ヲバタテヲホセマイラセタレド、アマリニサタシスゴシテ、井上ノ内親王ヲ穴ヲリテ獄ヲツクリテコメマイラセナンドセシカバ、現身ニ龍ニ成テ、ツイニ蹴コロサセ給フト云メリ。
”
百川の宰相がいみじくも光仁を立て申すと、またその後の王子立太子を論じた際に、桓武を立ておおせ申し上げたけれど、あまりに選り分けが過ぎて、井上の内親王を穴を掘って牢獄を作って押し込めなどしたので、その身のままに龍になって、ついに蹴殺しなさったと云。
「慈円という天台の座主が書いたのですが実家の父親は関白太政大臣。この時代の人は信じやすいのですよ。特に坊主に脅かされて極楽往生が生きがいですから。それとこの人も十二歳で亡くなった四条天皇を祟り殺したとする噂を書かれています」
前島に船が付いた、隠居が船頭に着けてくれるように頼んだのだ。
一刻(いっとき・十五分くらい)ほどで戻ってきた。
赤前掛けの女が二人甘酒の桶を持って来て船頭にも椀を与えて飲ませている。
船を出したのは二時四十五分だった。
「少し寝ておかぬと明日がつらい」
隠居に言われ長柄まで仮眠をとることにした。
夢うつつで枚方“
くらわんか ”の声を聴いた。
長柄三ツ頭に着いたのは四時四十分頃だ。
「そろそろ卯の刻だろう。もう直に夜が明ける」
船着きの灯籠も朝霧にぼんやりしていた。
十艘以上の船が泊まっていて、ざわめく声で皆が起きてきた。
隠居は川下の林を差して「あのあたりが桜の宮と言いまして半月ほど前は遠くからでも花がきれいに見えました」と教えた。
「ほぼ十里下りました。天満まで一里ほどです」
吾郎も起きてきた。
「予定より半刻(はんこく・約五十分)遅れて出ると、やっぱり時間がかかりましたね」
「あれだけ美味いの食えたんだ一刻(いっこく・百分ほど)なんて惜しくないさ」
傍で庸(イォン)がにこやかな顔で外を眺めている。
吾郎は「八軒屋の尼崎屋市兵衛で粥でも食べてお別れでしょうかね」と名残惜しそうだ。
和信(ヘシィン)が「名残はつかないが。それぞれ仕事が有りますから」そう言って膝たちで次郎丸へ拝をした。
「明後日には堺の西湊から馬関へ向かいます」
こんな時、和では辞儀をするだけですなと云って形を改めた。
八軒屋で船を降りて尼崎屋市兵衛へ揃って入った。
塩昆布をたっぷり乗せた朝の粥は旨い。
次郎丸一行六人は和信(ヘシィン)たちと別れ船越町“ さのや ”へ向かった。
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