第伍部-和信伝-参拾捌

 第六十九回-和信伝-参拾捌

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  


文化十一年二月二十三日(1814413日)

江戸を出て二十八日目、ようやく京(みやこ)から大坂へ向かった。

卯の下刻(六時十五分頃)五条橋東詰から伏見道へ入った。

伏見から三十石船で大坂は八軒家浜三十石船船着き近くの船越町、やはり佐野屋へ二泊、都合によっては三泊するつもりだ。

一日目には蔵屋敷を訪れることに成る。

「伏見稲荷で昼でも食べて京橋北詰角の澤田喜助へ日暮れまでに着けば飯をのんびり食べて、相乗り仕立てで亥の刻に出て、八軒屋の尼崎屋市兵衛へ寅の刻には着きやしょう」

「三刻とは聞いたがずいぶん早いな」

この季節の亥の刻は十時二十分頃、寅は三時二十分頃で五時間、三刻と云えば普通は六時間だが不定時法ならどうしても夜の三刻が短い時期だ。

「枚方でくらわんか鉤爪で足を止められなきゃそんなもんですぜ。早の下り船は淀に長柄は決まりで合わせて二刻(ふたとき・三十分程度)止まりやすぜ」

厠休憩は必須だ。

さのや ”などの横のつながりで乗客を早舟仕立てで送る仕組みが有るという。

「一人豆板銀三匁出しても虱の湧いてるような船を嫌う者は多いですからね」

一艘銀六十五匁で請け負うので、二十二人は集めないと請負人が負担するのだという。

「上るにゃその三倍くらい取るのか」

「今は七匁だそうですぜ。上りの半分は荷ですから」

四郎も贅沢なもんだと言うが、軽尻(からじり)を乗り継いで二日の道を一夜(一日)で済む。

京(みやこ)四条小橋に七条小橋から伏見まで高瀬川を午後に下る船に乗る手もある。

二百年たって利用は増える一方だ、幅四間、延長五千六百四十八間の工費に七万五千両掛かったという。

大きいもので十五石積六間一尺の幅が六尺八寸、小ぶりのものは十石積五間五尺で幅六尺五寸に作られた。

船賃は、伏見から二条舟入りへの上りが二朱、下りはその半分一朱。

淀川の三十石船から見たら高額だが、貸切で伏見稲荷近くへの便は需要が多い。

高瀬川の荷船の通行料は角倉が二貫五百文集めた(この時代銀二十二匁七分見当)。

・幕府納入金一貫文・維持費二百五十文・角倉家手間賃一貫二百五十文。

角倉家は入る通行料から積み立てた金で高瀬川の維持をし、護岸工事もしっかりしたものにしていった。

淀川の過書船三十石船は時代によって大きさに違いが有る。

全長五十六尺、幅八尺三寸の造りが多かったようだ。

竹田街道、鳥羽街道は牛車(うしぐるま)専用路が有り伏見からの荷車はそちらへ回っていた。

正面下がる赤玉は今日も雲助が客待ちをしている。

「近頃客が増えて取り合いは客のほうですぜ」

京(みやこ)らしく駕籠かきも穏やかな顔だと四郎は笑っている。

あこをや ”の看板も風情のある漬物店が有る。

元禄十二年創業だと道中記に有った見世だ、四郎は道中記三巻を覚えたから要らんと義助に渡した。

幸八に「上手いこと言って重いんでしょ」とすっぱ抜かれている。

一之橋先に瀧野社が有る。

豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建てるとき此処へ移された。

最近元の名の多景の社から瀧尾社に社号を変えた。

「この西への橋は竹田街道を横切って東寺まで行く道ですぜ」

「男山は」

「伏見からもいけますが戻りのほうがいいですぜ」

「そうしょう」

一之橋より一町ばかり南へ下ると二之橋、この辺りは広大な東福寺門前で朝早くから参詣人が出入りしている。

是より伏見領の道標が小さな稲荷の社の前にある。

土産物屋と休み茶見世が軒を連ねていた。

犬張子に鳩にお狐さんの土偶、隣では米俵を積んだ馬に牛の陶器が売られている。

三之橋は二町ばかり南にある、伏見稲荷の大鳥居から橋が見える。

稲荷は三之峰稲荷とする絵図もある。

冊子で少々違いはあるが鳥居の型と常夜燈は同じだ。

どちらも“ 永常燈 ”とだけ彫られていた。

鳥居をくぐると門内に茶屋だろうか風雅な建物が有る。

楼門をくぐると拝殿があり先へ進むと階段左手に絵馬堂。

「あにい、ちと変だ」

「どうしましたえ」

「この絵馬堂、都名所図會になかった」

「そういやぁ」

考えていたが「松の木と芭蕉が有ったな」と思い出した。

「都名所図會は安永九年、三十六年も前だ、新しいから最近できたんでしょうぜ」

絵馬堂の北側に愛染堂の聖天。

階段を上り本社で参拝し、左手の若宮へも参拝した。

此処は社殿を造営や修理する際の御祭神を奉安する仮殿に使われる。

先へ進むと階段が有る、上ると茶店が有る。

また階段を上ると上の社だという、左手に有る白狐社は元の命婦社。

雌狐の“ あこまち が祀られている。

稲荷流記 ”船岡山に狐の老夫婦と五匹の子狐が棲んでいた。

狐一家は稲荷山に参詣し、使者になることを祈念し、牡は上社に仕えて小薄(ヲススキ)牝は下社に仕えて阿古町(アコマチ)と名乗った。

遷宮記 ”上社一之峯に小薄、中社二之峯に黒烏、下社三之峯に阿古町という狐を祀る末社があった。

アコマチに女官である命婦の名を授け、命婦専女神となり、元禄年間にアコマチは上の社左側の白狐社に祀られた。

右へ行くと奉納鳥居が並んでいる。

かぎや ”と暖簾にある休み茶見世で一休みし「甘酒を出しとくれ」と頼んだ。

此の上を一回りどの位か聞くと「男衆(おとこしゅ)ばかりなん、一刻あればお参りしながらでも本殿まで降りられおすえ」と言う。

鳥居の中へ入ると次郎丸は「九時五十分だ」と皆に聞こえるように告げた。

途中から階段に為り奉納鳥居が途切れた。

「俺たちが奉納するのはこの後(うしろ)あたりにするのかね」

「新兵衛さん。俺もどこになるか知れねえのさ。話じゃ下から上に順に建てていくそうだ」

「どこに頼むか聞いてるのかい」

「本殿の脇の“ たけや ”と聞いてきた。本殿から左へ来たが、その先の右隅に幟が出ていたよ」

階段の右手には小川が流れている、石組で水路は守られていた。

池が出てきた、この付近小さな社がいくつも出てくる。

三股が有る、左が本殿へ下る道で右は四つ辻と言う峰廻りの起点の場所だ。

「おいおい御剱社がないぜあにい。大きな石のある社なぞ見ていないぜ」

「若さんこの上に有るのかね」

分かれ道が多いが見逃して居ないはずだ。

「小狐丸の古事にはいくつも話があるが、行方知れずだ。三日月宗近は八代様が御調の時三条の銘を確認された」

四郎もさすがに三条宗近は知っていた。

「今剣、岩融は名前だけだが、弁慶の長刀(なぎなた・薙刀)がそれだというが本当かね」

「“ 義経記 ”にゃ脇差だと書いてあるぜ。長刀にするにはちぃと弱そうだ」

「八代様は何処から手に入れたので」

「あにい、それが二代様の頃から御蔵にあったのさ。あの山中鹿介幸盛が太閤殿下の北政所へ贈ったとか、お返ししたかと伝わるが、御形見として二代様の手に渡ったのさ。拝見とは簡単にいえないところに有るのさ」

次郎丸は歩きながら名物帳を諳んじた。

「刃長二尺六寸四分、反り九分。細身反り高く踏ん張り強く。刃文小乱れ小足入。小沸つき、匂口深く、三日月形の打のけ入。茎生ぶで雉子股形となる。目釘穴は三つ」

「げっ」

四郎は呆れている、いくら好きものでも度を越えている。

「父上が加わって古物の画を集めた集古十種には河内國愛宕山蔵小鍛治宗近太刀圖が載っているがね。刀身の写しは無かった」

「そりゃ定信様でも御宝蔵は簡単に開けられませんや」

三之峰、二之峰を過ぎて一休みした。

反対から来る一行に吾郎が御剱社の場所を聞いた。

「一之峰から御膳谷へ下る途中だよ」と聞きだした。

時計はまだ十時三十五分。

一之峰から石段を下ると注連縄が何重にも巻きついた巨岩が聳えている。

下に井戸が有り此処の水で小狐丸を鍛えたと伝わる場所だ。

「こんな山ん中で鍛冶場を造るたぁひでえ話だ。もちっと人里近くだと思っていたぜ」

「“ 小鍛冶 ”には鍛冶場が此処だと断定してはなかったぞ」

これより直に稲荷に参り。祈誓申さばやと存じ候

「ここへは来たのだろうが、童子の言葉に従って壇を設えるのは此処では無理だろうぜ」

「“ 小鍛冶 ”はよく兄が草薙の御剣の所を唸っていた」

唸っていたはひどいと次郎丸が言って唄い出した。

汝が打つべき其の瑞相の御剣も いかでそれには劣るべき

「どうだね此の辺りだろ」

「童子が稲荷という処は出てこないのか」

天下第一の 二つの銘の御剣にて 四海を治め給へば 五穀成就も此時なれや 即ち汝が氏の神 稲荷の神体小狐丸を 勅使に捧げ申し これまでなりと言ひ捨てゝ 又群雲に飛び乗り 又むらくもに 飛びのりて東山稲荷の峯にぞ帰りける

「少し長いか。全編やれば半刻じゃ終わらない」

「稲荷の峰に童子が帰ったのですかい」

「気が付いたか。誰かが此処に鍛冶場でも有ったように書いたかもしれねえ。雷石のほうが本当だろうぜ」

昔、この岩に雷が落ちたので、神人が雷をこの岩に封じ込め縄で縛った

「祭神は賀茂玉依姫で下鴨神社の東本殿の祭神でな。ほかには稲荷の大元の秦氏の祖神を祀ったとも言われていたそうだ」

「なんでそんなに多くの話がこの小さな社に」

「ここが東寺の支配を受けてからいろいろ変わったようだ」

氏の長者、雷石は剱石、小狐丸由来の宗近の井戸。

稲荷大明神流記は龍頭太が稲荷山で修行をしていた空海の前に現れたと伝える。

我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり 願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし 然者愚老忽に応化の威光を耀て 長く垂述の霊地をかざりて 鎮に弘法の練宇を守るべし

「どうだいこれで東寺と結び付けられた。小鍛冶は三条坊粟田口に住まうと書いたものを読んだぜ」

次郎丸は父のおかげで藩に集まる多くの古書を目にすることが出来るし、藩の御書物奉行は勉強家で、聞けばどこに載っているか答えが返ってくる。

参詣人が現れたので階段を下って先へ進んだ。

「清滝と言うのが有るそうだ」

「そこの小さな滝ですかね」

二丈程度の高さから水が流れ落ちている。

四つ辻が思ったより近いので驚いた。

三つ辻まで降り、先ほどとは違う道を選んだ、道は“ たけや ”の前に通じていた。

午の鐘が聞こえてくる。

甘酒を頼んで座ると吾郎と新兵衛が鳥居の相談を又やかわしている。

「どうした」

「四郎さんのも頼もうと思うのですがね。名をどうします」

「寺受けのとおりがいいよ。良いだろ俺も奥州白河藩本川次郎太夫で出すよ」

決まりの型で一基銀三十二匁と六十四匁だという。

「一両六十匁で受けています」

受付慣れしている亭主は換算率の書いた板を出してきた。

「そういえば俺と兄貴は丁銀を使っていないぜ」

豆板銀、丁銀どちらも秤量貨幣でいちいち量るのでは旅では使いにくいが、豆板銀は丁銀に比べ受け取る方も手慣れていた。

張出は小玉銀としてあり一匁が銭百十文での換算だ。

一両が銀六十匁から六十四匁が大坂の現況だという。

張出は両替屋では守られても世間相場は活き物だ。

奥州津軽藩喜多村新之丞、奥州白河藩本川次郎太夫、武蔵江戸今川町四郎。

武蔵江戸天王町吾郎、奥州出羽酒田新兵衛、藤五郎、幸八。

「鉄之助様に頼まれていまして」

七基分を七両と豆板銀二十八匁で頼んだ。

「早けりゃひと月後に寄るつもりだが」

「特別製での注文ではないので十日で設置させていただきますえ」

「どの辺りかわかるように書付でも残してくださいよ」

「任せておくんさい」

新兵衛は耳ざとい。

「今、特別製と聞いたが」

「金持ちは人と同じじゃ嫌だと言いますんで、その時は禰宜様と相談で際限無しで賜りますぜ」

新兵衛は「そんなの頼んだら勘当される」と言っていた。

余談

伏見稲荷・三ケ峰・三之峰

祭神-伏見稲荷大社公式

下社・中央座-宇迦之御魂大神。

下社摂社-田中大神。

中社・北座-佐田彦大神。

中社摂社-四大神。

上社・南座-大宮能売大神。

 

本殿

応仁二年(1468年)三月二十一日・稲荷山山中の社は合戦の際に、稲荷社の堂塔・社人家等焼失。

明応八年(1499年)十一月二十三日・再建遷宮。

wikipedia-明応三年(1494年)本殿再建)

楼門

天正十七年(1589年)豊臣秀吉再建。

権殿

明応八年(1499年)建立。

天正十七年(1589年)建立。

寛永十二年(1635年)改築。

昭和三十四年(1859年)東北側へ移築。

内拝殿 

元禄七年(1684年)本殿に付随。

昭和三十六年(1961年)本殿と切り離される。

外拝殿(拝殿・舞殿)

天保十一年(1840年)再建。

白狐社(元命婦社)-命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)。

元禄七年(1694年)建立。

移設日不詳。

能楽殿(神楽殿)

明治十五年(1882年)建立。

供物所

安政六年(1859年)建立。


神仏習合(wikipedia・稲荷大明神流記)

一、大明神。本地十一面。(上御前是也)

二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也)

三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也)

四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前)

五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也)

 

東寺の守護神とされていた稲荷大明神を祀るとされた。

社家の秦氏、荷田氏、神宮寺愛染寺(東寺末寺)の真言別当の共同管理時代。

愛染寺

地蔵院別当学円(円雄)、文禄三年(1594年)二月五日、稲荷本願所住職。

長識(賢雄)、寛永四年(1627年)正月、本願所預住職証文を出す。

天阿上人、寛永十年(1633年)四月二十一日、就任、愛染寺と称した。

三天和合尊(辰狐王菩薩)

上社を歓喜天(日天)、中社を弁才天(月天)、下社を荼吉尼天(北斗星)。

浄土宗は浄安寺(大雲院末寺)と西光寺をも設けている。

 

明治神仏分離で伏見稲荷から仏教色は一掃された。

三天和合尊は忘れられつつある。

愛染寺は廃寺され、滋賀長浜神照寺は天阿上人由来の荼枳尼を祀ると云う。

稲荷心経は天阿上人の著作と伝わる“稲荷一流大事”の中で礼拝作法の最後に唱えるとある。

稲荷真言とされる“ オン キリカク ソワカ ”は荼枳尼真言の一つ。

仏教系は白狐に乗る荼枳尼を祀る稲荷を境内社に残した。

 

祈祷の仲介も出来ると云うので吾郎が頼みに店主と出て行った。

店主がすぐ戻ってきて「今は空いてるので、すぐ始められます」と言う。

道々「宗匠は願文のお手伝いをされておりますえ」と言う。

「前から知っているのかね」

「今日初めてどす。吾郎はん本名か未雨(みゆう)にするか悩んではったんどす」

鳥居と同じにすればよいものを悩むとは可笑しな男だ。

祝詞は上手く結の合言葉の流行、話、ありがた、駆け出しを盛り込んであった。

流行りものには目がない

ゆっくりお話がしたいものです

ありがたやでございます

駆け出しでございます

結を知らぬものなら聞き逃してしまう、前から文面は練っていたようだ。

大政所の病平癒の秀吉の命乞いの願文が拝見できた。

どんな手を使ったのか手妻を見たような気持ちだ。

大政所殿病悩平癒祈願成就一万石奉加

伴僧はそういって広げたが、だいぶ遠くて良く見えない。

「生命を三年、だめなら二年、それでもだめなら三十日の延命。平癒はされたが太閤殿一万石を半分に値切り申したが楼門を寄進なされた。霊験あらたかで四年生きはらましたがな」

霊験という処から大分と言葉に芝居が掛かった。

付き合ってくれた店主に礼を言って別れた。

「太閤はんつながりで名を付けた休み茶見世、行かはったらいかがですかいな」

門前近くにある“ 祢ざめや ”を教えてくれた。

門前を出て右手を見ると小さな旗が揺らめいている。

稲荷と鯖寿司を頼んだ。

稲荷の揚げの中には、酢飯に混ぜ込んで麻(お)の実、牛蒡、胡麻が入っていた。

予定は後一か所御香宮が有るので酒は控えた。

直違橋とある木橋を渡った。

宝塔寺の総門まえを抜ければ藤森社の西門。

四郎が寄ろうと鳥居をくぐった。

元は伏見稲荷の地に有り、永享十年稲荷山から稲荷を麓へ下ろした際に、この地へ移った。

名水“ 不二の水 ”に駆馬神事、菖蒲の節句は武運長久を願う武士の尊崇を古来より受けている。

中央座舎人親王(いえひと)、東座早良親王(さうら)、西座伊予親王(いよ)。

六人は本殿へ出て参拝を終えると各自の瓢箪に水を汲んだ。

余談

祭神は明治以降大幅に動いてきた。

本殿東殿(東座)御祭神は舎人親王、天武天皇の二柱。

本殿中央(中座)御祭神は素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱。

本殿西殿(西座)御祭神は早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱。

京都市Webサイト蒙古塚に以下の文章が有る。

(但し神社公式ページではこの説を取り上げていない)

『拾遺都名所図会』巻五によれば,天応元(781)年に「異国の蒙古」が日本へ攻め寄せ,早良親王率いる軍勢がこれを退けた。その時の蒙古軍の大将の首を藤森神社に埋めた塚が蒙古塚と呼ばれて残っていると記す。

(拾遺都名所図会では見つけられず、都名所図會巻五22ページに藤森の社(藤森神社)、24ページ藤森社(藤森神社)、25ページに藤森の祭(藤森神社)が有ったが記事は“ 藤の森の祭は毎年五月五日にして、当社の神蒙古退治の為出陣し給ふ日なり。祭の日は一橋稲荷藤の森にて朝より走り馬あり。 世に端午の佳節に武者人形をかざるは、蒙古退治の吉例より始る。”とあった)

 

藤森社から伏見京橋まで二十二丁。

街道は伏見の京橋十町目から数が減って四丁目で大手筋の四つ角。

左手に大きな朱塗りの鳥居が有る。

  ごこんさん ”御香宮(ごこうのみや)は清和天皇の命名だと伝わる。

貞観四年社殿修複に際し、香りのよい水が噴き出たことによるという。

「太閤殿下伏見城鬼門除けに伏見城内へ移したそうな」

「宗匠、此処も城内」

「いやいや、慶長十年に権現様が故地であるこの地へ戻されたそうだ。この門は伏見城取り壊しの時に移されたそうだが、年代がずれている」

「水戸の頼房公が元和八年に頂いて寄進してるのさ、水野忠直と云う人が境内に東照宮を創建したのもその年だ。だがその時代に水野忠直と云う人がどの人かわからない」

御香宮の東照宮は記録上も正式のは無いのだという。

「船橋のでも記録は有りましたぜ」

「旗本で水野でも名を変えたか記録違いもあるからな。だが現に東照宮として都名所図會にも出てるしな」

門を入ると大きな石鳥居が有る、吾郎が「この石鳥居は紀州家の寄進だそうだ」そう言って一礼して潜った。

徳川頼宣が参道へ石鳥居を寄進したのが万冶二年、その石鳥居が損傷し、造られた木の鳥居を修理して大手筋へ移し、紀州徳川宗将が石鳥居を奉納したのが延享四年。

「街道の鳥居は此処に有ったそうだ、修理して移した後に寄進されたと聞いた」

参道には数十の石灯籠が並んでいる、正保二年の徳川頼宣公寄進もあるそうだ。

参道の右手に宮の名のもとの御香水がわき出ている。

頼宣公はこの御香水が産湯に使われたという。

千姫様も使い、尾張藩主となる義直公、水戸藩主になった頼房公も使っている。

世に聞く“ めくら石 ”が参道にある。

「ここで賽銭を上げたり、礼拝すると有るが、神功皇后の古事にでも習っての安産祈願なのだろう」

石段を上ると極彩色の拝殿が有る、拝殿は紀州藩初代頼宣公寄進の拝殿で舞殿を兼ねては居らず、中央を抜けて本殿へ出た。

二つの建物の間は屋根が有る渡り廊下だ。

本殿は慶長十年権現様の造営と伝わっている。

拝殿の右手には絵馬堂が有る。

「これだこれだ」

新兵衛が喜んでいる、

「絵馬堂を画馬堂としてあった。難しく繪を使う者もいるが画は珍しいので覚えていた」

「兄貴、字で書かなきゃ何のことかしれねえ」

地面に煙管で書いて教えている。

桁行四間、梁間二間、切妻造でまだ六十年はたっていない。

「あにい、こいつはおれの記憶違いかな、右左取り散らかってるぜ」

「竈殿(つへいでん)と反対に描きやがったんだ」

画を思い出したようだ、三間二間の竈殿は木柵で囲まれ、四間二間の絵馬堂は柱の間を通り抜けることが出来るつくりだ。

四郎も暇の様だ。

「幸八よ。兄いがつへいでんと言っただろ、何かわかるかい」

「竈(へっつい)の事でござんしょ」

「その通りだ。前に御と云う字を付けると読み方が変わるのを知ってるか」

「おへっついにおつへいでんは有りませんね」

「御が付くとな、みかまどのと読みが変わるのさ」

祭神は神功皇后、絵馬堂の気長足姫(おきながたらしひめ)の画は極彩色で彩られ、見とれるほどだが算額の奉納画は難しすぎる。

天和三年山本宗信の物だとあるが簡単に解けそうもない。

「おしいな風雨にさらされてこれじゃ百年もたちゃ何のことかわからなくなりそうだ」

末社の先に東照宮が有る「船橋よりは大きいですぜ、なんで記録があいまいなんですかね」。

大きいのは覆い屋が有ってそう見えるだけだ。

伊勢の大神宮が有る、左手へ進むと辯天池が有る。

大手筋の四つ角まで戻ると三時二十分をわずかに過ぎていた。

「申迄後一時間くらいある」

大手筋を西へ向かった。

「大仏殿方広寺の廬舎那仏六丈三尺にゃ及びませんが近くに大日如来様結跏趺坐状態で、一丈六尺と大きな木造が有りますぜ」

「深草少将第宅の寺かい」

「御知りで」

「小町つながりで調べた時に読んだ覚えが有る」

幸八は「また小町ですかい。こんだァ若い時分の小町でしょうね」と期待している。

「若いとも、深草の少将の邸宅跡の寺でそこから小町の元へ通った話だ」

「話ってまた作り事ですかい」

「百夜(ももよ)通いも少将も能の作り話さ。未雨(みゆう)宗匠ご存知の向井去来師は狂歌で笑い飛ばしたぜ」

「ああ、あれですか」

深草の 少将団(うちは) 安ければ 京の小町に 買ひはやらかす

深草団扇は安価で京の小町に買ってやると詠んでいる。

「作り事でないとっときのが近くにあるぜ。撞木町の廓は大石内蔵助良雄が山科から通った場所だ」

「万屋は祇園でしょ」

伏見撞木町萬屋、実は笹屋だと次郎丸が幸八と話している。

角にある駿河屋本店で吾郎は練り羊羹を十棹買い求めた。

「半分は大坂の“ さのや ”へ土産ですよ」

何の言い訳だと四郎は笑い顔だ。

四つ辻を左へ行けば南浜の京橋はすぐそこ、中書島の遊郭も豪川を蓬莱橋で渡ればすぐそこだ。

伏見宿には本陣が四軒ある。

南浜町の本陣は木津屋與左衛門、大津屋小兵衛。

京橋丹波町は北国屋新右衛門。

尼ヶ崎町は冨田屋四郎兵衛。

大津から来れば伏見を通り過ぎて淀へ泊まりたいが本陣がない、枚方も一軒、守口も一軒。

参勤を仕切るものがどう予約を取るか難しい道筋だ。

京橋へ出ると、大坂から上ってきた船に混ざり、大小の高瀬舟が人や荷を降ろしている。

大坂からの三十石船(過書船)、笠置の淀二十石舟、宇治の柴舟、高瀬川を下ってきた高瀬舟には引き綱人足も乗っている。

京橋の北詰には高札場、南詰には過書船番所、船番所、船高札場。

船宿の澤田喜助は大きいのにまず四郎は驚いた。

大きくても自分の寄宿していた“ さわや ”を大きくした程度を想像していた。

角見世で帳場が八畳、着いた客をもてなす小座敷、通路の奥へはこれから乗る客の休憩座敷もある。

二階は泊り客にあてがわれると吾郎が話してくれた。

同じ規模の船宿が西浜の阿波橋西詰過書町から、南浜豪川(ほりかわ)の南北に三十軒は有るという。

過書船の中でも夜船で有名になった三十石船は舳先に船頭が乗る板場が組み込まれている。

船頭四人で二十八人の客を乗せる、吾郎が契約したのは船頭六人の早舟と云う物だ。

「こいつにはくらわんか船も寄らぬ取り決めでの運行ですぜ」

多くの役人に淀川筋支配の角倉家、木村家などへの根回しも伏見奉行の後押しで決まりが付いたという。

「若さん伏見奉行と云えば本田様」

「実家は銭五と繋がっているからな」

加賀前田藩家老本多阿波守政礼は五万石を頂く木端大名の上を行く大物だ。

伏見奉行本多大隅守政房は五千石の旗本で政礼の叔父になる。

文化七年に伏見奉行について四年目になる、一時廃止されていた伏見奉行に選ばれた能吏だ。

加賀本多家は本多正信次男の本多政重が初代になる家系だ。

余談

所司代支配下にはいる。

前代は加納久周、若年寄より伏見奉行、一万三千石の大名。

次代は丹羽式部少輔氏昭、大番頭から伏見奉行、一万石の大名。

その後も大名がこの職を受け継いだ。

堀田正民、大番頭から、伏見奉行、奏者番へ就任、一万三千石。

本庄道貫、伏見奉行から奏者番、若年寄、一万石。

加納久儔、大番頭から、伏見奉行、奏者番へ就任、一万三千石・

内藤正縄、大番頭から、伏見奉行、一万五千石。

林忠交、大番頭から、伏見奉行、一万石。

在任中の慶応3624日(1867725日)死去。

次代は任命されないまま大政奉還を迎える。

申の鐘の捨て鐘が聞こえた、相船の客が十人やってきた。

顔ぶれを見て新兵衛と次郎丸が驚いた。 

茨木屋の隠居に岩井野清治郎達だ、辮髪を隠していない。

藤當英司郎こと叶庸助も笑いかけてきた。

「長崎で清国身分の往来手形を頂いたんですよ。しかも奉行署名入りで。銭五さん着いてませんか、まだなら後から来ますよ。大津で用事が長引いてましてね」

二十一日辺りに宇治でと隠居と約束して若狭敦賀へ、其処から小浜へでてから今津経由で大津へ出て宇治へ出てから船で此処へ回ったという。

「最近、妻にまで歩くことが少ないと怒られます」

余姚(ユィヤオ)、寧波(ニンポー)にいるより和国に広東が多いのだという。

岩井野清治郎は和信(ヘシィン)の日本名、藩札も侍身分だ。

“ 雲州松平家中岩井野清治郎平信孝 ”

叶庸助は“ 富山藩前田家中藤當英司郎 ”だ。

長崎奉行は別紙で通事勉学に付きと書いたという。

この度叶庸事道中差し許し候

この度和信事道中差し許し候

「どこでも形式は大事ですからね。万一の時は和名の方が助けてくれます」

次郎丸は二回目だが和信(ヘシィン)の落ち着きに安心感を覚えた。

さすがに京(みやこ)へ入ることは遠慮するように言われたという。

「京(みやこ)人はカピタン通事の辮髪を見慣れていると思うのですがね」

「どこからどこまでを聞くとこの伏見の北三十丁と言われましたが、東は山科追分。では西と北を聞くと笑われました。それで若狭小浜から大津は大丈夫とチィェンウー(銭五)さんが言うので今回はそうしました」

新兵衛が「大津で鮒ずしを食べましたか」と聞いている。

「やぁ、ありゃ凄いですね。酒で流し込む様でしたよ。庸(イォン)さんは私の分まで食べてチィェンウー(銭五)さんの手代に恐れられていました」

吾郎とは初めての様だが茨木屋の隠居から話は聞いているという。

吾郎たちは昨年の富津織本家での出会いの後、今日に向けて準備をしたと云う。

「私たちが長崎入りしてその後に日程が立てられたそうでね」

庸(イォン)は「江戸長崎往復ひと月で日程が決まったと松江で連絡を受けてそこから沿岸の名所めぐりをしましたよ」とにこやかに新兵衛に話した。

「杵築の宮も行きましたか」

「もちろんですよ。温泉浸かって美味いの食って土地の芸者衆を遊ばせてね」

遊ぶんでなくて遊ばせて憂さ晴らしをさせて来たようですよと隠居が四郎を喜ばせた。

「そういゃあ兄貴、俺たちは芸者遊びが一回しかないぜ」

「舞妓の小いちの奴(やつ)だいぶ義助に色目使ってたな」

熱田は勘定に入れない気だ。

「義助は気が付いたんでしょうかね」

吾郎は「義助はああ見えていろが居ますから」と言うではないか。

「おいおい。十四だと言っていたぞ」

「祇園新地に二つ上の舞妓から芸子に為ったのが居てね。向こうさんは置屋の一人娘ださてどうなるやら。去年の話じゃ婿は困ると“ さのや ”がごててましたが今年になって“ さのや ”は養子を取ろうと手を回しています」

「別に“ さのや ”を継いで女の方は色と云うことにゃできないので」

藤五郎は男の理想なのだろうか、そんなこと言いだした。

新兵衛に「そんなこと言うから親父に尻(けつ)をけられて旅に追いやられるんだ」と強い事を言われている。

「そういやぁ、藤五郎さん嫁はいないのかね」

「一人います」

「参った嫁は一人で十分だ。あっ、そうか色が多いのか」

隠居の言葉に幸八は大笑いだ、図星らしい。

「二人目をはらんでいまして七月が産み月だと産婆が言ってます」

銭屋五兵衛たちが六人でやってきた。

次郎丸が一瞥以来の挨拶を交わした。

吾郎とは今回の事で一度顔合わせをしたと云う。

「爺さん俺には黙っていたぜ。新兵衛あにいは聞いていたのかい」

「あっちは茨木屋の隠居に紹介しろだけでしたよ」

「上手く日が揃ったが京(みやこ)に長居したときゃどうするつもりだったんだい宗匠」

「そんときゃ伏見での名所めぐりで潰していただくことにね」

「名所と云っても稲荷位だろ」

「それがね今晩も出るだろうが鯉の素揚げに鮒の姿揚げで引き留めろと」

「それなら鶏の素揚げの方がいいな」

庸(イォン)はそういって舌なめずりした。

「この髷だ調理場で作らせろとごねてみるか」

銭屋五兵衛はそんな大きなものは出来ないだろうという。

「鯉が出来りゃ三升炊きの窯にごま油二升もありゃ十分だ。丸だと人数分面倒だが半分に割けば半刻もいらない」

「長崎でやったでしょうが」

「あん時は葱だけでニンニクもウーシャンフェン(五香粉)も手に入ら無かった」

「長崎に無いんだここではなおさらだ」

「探しに出れば薬屋に有ったそうだ」

銭五は呆れている。

「八角と胡椒、肉桂、丁香は宇治に売っていたので磨り潰してもらった小茴香がなくてもニンニクは干してあるのを見た」

銭五と二人で宿に掛け合ってきた。

「夜が少し遅れるが二時間待ってくれ」

「そんなすぐに支度ができるのか」

次郎丸は驚いた。

「宿や飯を炊く釜を使うのでその後になるだけだ。鶏も十五羽手に入った。熱い飯が必要なら別のところで炊かせるとさ」

庸(イォン)が料理番で色々珍しい料理が並んだ。

豆腐の餡かけにせせりを油で揚げて煮込んだものは次郎丸大絶賛だ。

富翁と神聖の樽が置かれ酒も進んだ。

最後に鶏の骨と昆布の出汁の汁は、煎り酒と醤油をわずかに差しただけだが旨すぎて大人気だ。

「酒が体から抜けて行く。酒飲みには天敵だな」

四郎は席に着いた庸(イォン)に褒めているんだぜと言いながらそんなことを言っている。

亥の刻の太鼓が火の用心を告げて回りだした。

亥の刻でござぁ~~い。どなた様も火の用心さっしゃれな~~

表ではあちらこちらで「お下りなれば今出船がござります」の声が響いている。

淀のうわての千両の松は 売らず買わずの見て千両

下りだした船から船頭の歌声がする。

伏見下がれば淀とはいやじゃ いやな小橋をとも下げに

淀小橋は長さ七十六間、両岸は繁盛地だが“ 程なう淀の小橋なれば、大間の行燈目的に、船を艫より逆下し ”と西鶴が“ 世間胸算用 ”に書くほど橋げたへぶつからぬように気を配る場所だ。

「おせんどしゅ 仕切りを随分ゆるりと取(と)て気をつけさんせ」

橋の両側で声が聞こえる。

二刻(三十分ほど)たつと支度を始めた。

「どちら様も御仕度宜しうに為されてくださりませ。お忘れ物なきよう確認なされますよう」

女中の告げる声で支度を済ませた。

勘定は新兵衛とチィェンウー(銭五)で半々持ったと吾郎が信と次郎丸へ告げた。

「俺たちの船が最後かと思ったがまだ十艘じゃ聞かないくらい用意してる」

「昨年の時は一晩百五十艘下ったと大坂で聞きましたぜ。今日の込み具合じゃそれ以上に為りそうだ」

この時期夜船は戌の下刻(九時三十分頃)に出れば、大坂の船宿で飯を食べて日の出(五時二十分頃)とともに旅立てる計算で、戌の下刻からの出船で込み合うのだ。

次郎丸の時計と和信(ヘシィン)の時計は十一時十五分だった。

「おや揃ってますね。私のは日に五分進みます」

「私のは気まぐれと云うより合わせるのが午の鐘と云う頼りないもので日によって五分から七分くらい進む様です」

「昼に宇治の午の鐘の捨て鐘の後で合わせておきました」

ようやく月が出てきた、半月が欠けてきている。

船宿で宴会をしている声が響いてくる。

「二十三夜講の集まりの様だぜ。そういえば京(みやこ)に入った次の夜が更待月(ふけまちづき)だった」

「四郎にそんな風流っ気が有るとは知らなんだ」

船では隠居を囲んで宇治の平等院鳳凰堂や宇治橋の話で場が弾んだ。

「次郎丸様たち瀬田の唐橋を渡りなされましたか」

「きれいな橋だった。擬宝珠(ぎぼし)を見て回った」

「それは良うございました。守護神橋姫様はやきもち焼きだそうでほかの橋を褒めるとつむじ風を起こすそうでな」

「宇治の橋の話では」

「宇治に大坂は長柄橋の守り神ですじゃ」

「赤染衛門の詠んだ橋ですか」

わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき

「それですじゃ」

「宇治の方は詠み人知らずで見た覚えが有ります」

さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫

「唐橋は威勢の良い軍記物ばかりで、そうだ宗匠なら芭蕉の句でも」

「ご承知の方も多い“ 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 ”それと“ をのが光 ”の句集にも一句有りました」

はしげたの しのぶはつきの なごりかな

「これくらいで橋姫を唄う句に詩は覚えが有りません」

「ほれ、龍神様」

「乙姫ですか」

幸八が大きな声で訊いている。

「そうですじゃ。聞いたことあるでしょうに」

「すっかり蜈蚣退治の時の髭の老人に騙された様だ」

橋姫明神を祀る社が有るのだという。

秀郷は龍姫に請われて蜈蚣(むかで)を退治し、竜宮城へ案内された話もあるのだという。

宇治の橋姫は次郎丸様に聞きましょうと話しを強請った。

「源氏物語に出ていたのは覚えています」

橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞぬれぬる

「そうだ“ さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫 ”というのが古今和歌集に有りました。こちらの方が百年は古そうです」

和信(ヘシィン)も次郎丸の朗詠に聞きほれていた。

次郎丸の頭には次々と宇治の歌が浮かんでくる。

「兄貴浮かびすぎて絞れないのか」

「なんです四郎さん」

和信(ヘシィン)は不思議そうに聞いている。

「今兄貴の頭には和歌集はじめいろいろな歌集が浮かんでいるのですぜ。浮かびすぎて絞り込めていないんですよ」

「まるで私の父親と同じだ。和の本に清の本、古い写本などいっぺんに浮かんでまるで洪水に飲み込まれたようだと母から聞きました」

「詠み人知らずに有ったが橋姫なのだろうか」

ちはやぶる 宇治の橋守 なれをしぞ あはれとは思ふ 年のへぬれば

隠居が鬼女にまつわる話、神が恋して通った話を楽しそうに語ってくれた。

「太閤はん、伏見へ城を築きなさってなぁ、宇治川の水ぅ気に入らはって毎朝汲みに人をやらはって三ノ間でくみ上げたそうや。でもな堤の工事で橋ぃ取り壊されて水に困ったそうでっせ」

余談

大化二年(646年)元興寺の僧道登が建立と伝わる。

鎌倉時代の「帝王編年記」に記録が有り、行方不明の碑が寛永三年(1791年)上の1/3ほどが見つかり復元された。

康和四年(1102年)白川上皇は興福寺の宗徒の強訴を阻むため橋桁を引いた。

公安四年(1281年)洪水で流失し西大寺の僧叡尊により再建。

応仁元年(1647年)東軍が西軍の入京に備え、宇治橋ほか洛南の橋を引かせた。

天正八年(1580年)織田信長による架橋。

文禄三年(1594年)豊臣秀吉による撤去。

慶長四年(1599年)徳川家康により架橋。

寛永十三年(1636年)架橋。

寛文十二年(1672年)修理(もしくは架橋)。

(橋の修理、架橋の時は通圓も建て直し、修理をしている。この年の建物が現在の通圓なので江戸時代は寛文十二年以降の架橋は無いはずだ)

宝暦六年(1756年)宇治市歴史的風致維持向上計画(第2期)のページに九月に流されたと出ているが再建の記録は無い。

(浮島十三重塔の流失の誤謬、誤記だろうか)

「あにい、都名所図會だ。あっこに“三間の水 瀬田の橋下 龍宮より涌出る水此所へ流来るなりと 又一説には、竹生島辨財天の社壇の下より流出るといふ”これが橋の三ノ間の事だ」

「橋寺宇治橋通圓の茶屋ですか。つまんねえ画だ」

「そうだ、だが通圓は古いぞ。六百年ではきかない位前の記録が有る」

「狂言にあるやつですかい」

「そうだ、見世を題材にしたそうだ」

「よかった狂言や舞を当て込んだと思っていましたぜ」

「どうかしましたか」

「いえね此の道中、本当らしく作られた話ばかり聞きましてね」

「芝居は当てにはできませんよ。それは私の国でも同じでね。芝居を当て込んで此処の話だと名乗りを上げる寺に道観が多いんですよ」

どういう話があるのか銭五も知りたがった。

「都からの修行者が三百人もおしよせ、通円は一人残さず茶を飲まそうとした、茶碗、柄杓も打ち割れて、辞世の和歌を詠んで死んでしまったと亡霊が語ったそうだ。能の頼政から話を持って来てわらかしてやろうと云う事さ」

名乗りもあへず三百人 口脇を広げ茶を飲まんと

ぴしっと背筋が伸びた。

途端に噴出して「ここで舞ったらお笑い草だ」と言った。

船の苫は低い、膝たちがやっとだ。

「今のところも能に有るのですか」

隠居は知っているなら聞かせてくれと云う。

名乗りもあへず三百余騎 くつばみを揃へ川水に 群れゐるむらとりの翼を並ぶる 羽音もかくやと白波に ざつざつと打ち入れ 浮きぬ沈みぬ渡したり

「ざつざつと打ち入れは講釈も取り入れていますな」

茨木屋はもろ手を打って皆と一緒にほめあげてくれる。

圓は宇治に入った日と、茨木屋の隠居に連れられて毎日立ち寄ったと和信(ヘシィン)は次郎丸に話した。

「気に入りましたか」

「抹茶があれほど美味いとは初めて知りました。香りもよいものでした」

「茶葉の選定、挽きたて、温度いろいろあるようですね。私は兄と違い茶の湯はいまいちしょうに合いません」

「通圓では形にこだわりませんから、ただ茶を喫するそれでいいそうです。宇治の煎茶は我が国の茶好みにも好かれる味でした」

銭五から贈られた寧波のボォゥチャフィ(博茶会)の扱うニンポーバァイチャ(寧波白茶)、五斤の壺で三口は薬研掘りの屋敷を喜ばせた。

その話は銭五以上に和信(ヘシィン)も喜んでくれた。

「私の妻も株を持っているんですよ。英吉利へ売るより京(みやこ)へ送ってだいぶ儲けているようです。和国の茶も広州へ来ますがまだ高くて量を多く扱えていません」

だし茶が和国で広まり、煎茶の名で急速に市場をにぎわせてまだ百年たっていない。

薬研掘りでは客用は十七匁ほどの茶だという。

上屋敷の指図は安倍茶鏡山で一斤銀八匁を使うように言われている。

出入りの茶屋は鏡山で受け取りを出してくる、一斤は鏡山を納めるので上屋敷から使いが来たときは鏡山を出してやるのだ。

「我が家敷の普段使いは宇治青柳一斤銀三匁ですが、近くの川端の茶店は三百文の安茶で茶碗一杯四文取ります」

量や値段は和信(ヘシィン)にもわかるようだ。

庫平両銀一両の重量は和国の両(十匁)とほぼ近い重さの値が続いている。

だが斤については地方でまだ重さが違う秤が有り、品物よつて違う秤が持ち出されている。

和国の茶は重さの平均の変化が激しくて統一されていないという。

唐目と云う取引では和国の十両、山目がこのところ十六両前後に為ったという。

一斤十六両百六十匁、十匁=一両(37.5)だが茶の取引は複雑で、唐目の一斤は十両百六十匁(600)、山目一斤は二百五十匁前後(937.5g前後)。

季節で違うことを茶の業者が言うので取扱いが難しいという。

広州の取引に参入できる量と値段は今難しそうだ。

「伊勢茶、駿河茶、これと筑紫の茶畑を十倍にしなけりゃ売り込めませんな」

庸(イォン)が言うと和信(ヘシィン)が笑って「筑紫は大きな島で台湾の五倍ほど有ると聞いた」という。

「肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅」

ご存知でしたかと新兵衛たちは驚いている。

「大小取り混ぜて多くの大名個別に茶を生産し、長崎へ売り込めは難しそうですな」

和国の実情も知っている。

阿蘭陀の現実、唐人の目先の儲け、長崎出島は貿易品で苦慮している。

「茶は百に一つも及ばぬ取引ですよ」

銭五は和国の茶は高くて清国では相手にされないという。

「ですがね清国は高い茶は際限が有りませんや」

「一斤銀五十両は確かにひどい値段ですね」

庸(イォン)もさまざまな茶の値段を話した。

「英吉利人が買うのは主に百二十斤銀十五両の取引値です」

銀十五両は和国の銀五百六十二匁、唐目一斤四匁七分程度だという。

「太刀打ちできそうだが」

「長崎へ買いに来れたらですよ。広州へ送るについて半分以下にしなきゃ食いつきませんよ」

「その値段の茶を取られたら町の者が困る」

「そうですぜ若さん。やるなら新規開拓しか有りませんや」

銭五もそれで手を出さないという。

「寧波では貿易用に取られた安茶の穴埋めをするために京(みやこ)へ送る茶を増やしているのです」

「銭五さんに頂いた茶は良いものでしたよ」

「あれは一番茶で二番茶の五倍は値が付きます。今度は三番の安茶か四番の乳茶用にしますかね」

「四種が揃うのが良いな」

「乳茶用の牛の乳が手に入りますか」

「馬に羊、山羊でも作れると聞いたが」

「まいるなぁ、必ず年内に届けますよ」

阿蘭陀人は細々とアメリカ船で貿易を続け、まだ茶の取引は贈呈品程度だ。

阿蘭陀人は茶よりも入れ物の陶器へ目が行きそちらの貿易へのめり込んでいた。

話しは清国の狛犬から最近稲荷の狐像がさまざまな形で稲荷の鳥居前に奉納されてきた話になった。

狛狐ですなとは叶庸助の言葉でそのとおりだと皆が賛成した。

稲穂に巻物、鍵に玉が組み合わされることが多い。

逆立ちするものは竹筒を咥え手水舎に多く、子狐を従えるのは子宝祈願かと話は弾んだ。

清国の狛犬は邸宅の門前に置かれ、位階がそれでわかるのだという。

和国では神社仏閣に置かれ様式での位階は分からないのだと聞いた。

和信(ヘシィン)の言葉にうなずく次郎丸達だ。

船はのんびりと淀川を下っている。

「吾郎さんよう。早とは言いながら船足は遅いもんだね」

「早舟でも流れに逆らえば船頭が疲れるだけだよ」

京橋より淀小橋まで半刻(はんこく・小一時間)は必要だ、橋を過ぎると真夜中でも茶屋の明かりが船を誘っている。

船を橋の手前で半回転させて橋を潜って岸へ寄せた。

船頭が「二刻(ふたとき・三十分ほど)で出しやすから一休みさっしゃれ」と厠と茶屋を教えた。

刻(こく)は平均二時間、刻(とき)はほぼ十四.五分。

一同は甘酒を頼んで体を温めた。

いつの間にか十二時を過ぎて二十四日になっていた、二十分くらいで船に戻った。

桂川が右手から、淀城の先で木津川が合流してきた。

船の速度は自然と早くなり船頭たちは気を揃えるように船唄を始めた。

ここはどこよとナー 船頭衆に問えばエー

ここは枚方ひらかた 鍵屋浦エー

ヤレサ ヨーイ ヨーイ

鍵谷浦にはナー いかりはいらぬエー

三味や太鼓で 船とめるエー

ヤレサ ヨーイ ヨーイ

「次郎丸様は大坂で回られたい場所でも」

「和泉国一之宮大鳥大明神へぜひ寄りたい」

新兵衛が「白鳥の降りたという場所の一つですよ」と補足した。

「書紀の最後の地では河内、留舊市邑と有りますが」

「明神の伝説ではさらに飛立ってそこへ降りたと伝わるそうだ」

新兵衛が幾つもあるので行っては無駄足踏んでばかりだったと言う。

「三か所じゃないのですか」

和信(ヘシィン)が新兵衛に聞いた。

「えつ書紀を読んだことが」

「古事記は無理ですが日本書紀に続日本記(しょくにほんぎ)なら庸(イォン)先生と何とか読み下しました」

「続日本記(しょくにほんぎ)で目を引いた記事が有りましたか」

「道鏡と云う人が帝位の簒奪を企てたというのは違うとわかりました」

次郎丸以外は驚いている。

「そんな。色仕掛けで皇位を奪う策謀をした話は作り話ですかい」

疑問が有ると言われて答えてくれた。

「聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を得ようという心を抱いて、永く日を経てきた。そう書いた後で法に従って刑を与えるのは忍びない。これ可笑しいでしょ。皇位簒奪以上の悪行ってあるのでしょうか。それを刑は与えられない。いくら読み直してもそう書いてあるんです。如聞(じょもん)っていうのも自信のない現れですし。とっくに道鏡は死んだあとの続日本記が証拠も見つからないで済ませています」

余談 

神護景雲四年八月四日(770年)、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御。

八月四日、白壁王立皇太子。

称徳天皇の遺詔に「宜しく大納言白壁王を皇太子に立つべし」。

八月二十一日、皇太子「道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ派遣する」との令旨を下される。

十月一日、立太子から二か月で「即位改元の宣命」。

神護景雲四年は即位改元の宣命の日まで続くが、慣例で年初より宝亀元年としてある。

続日本記(しょくにほんぎ)・延暦十六年(797年)に完成。

宝亀元年八月庚戌(神護景雲四年八月二十一日・770年)。

皇太子令旨。如聞。道鏡法師。窃挟舐粳之心。為日久矣。陵土未乾。姦謀発覚。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野国薬師寺別当発遣。宜知之。

庚戌。皇太子令旨。

聞く如く。道鏡法師、竊に舐粳の心を挾んで、日爲たること久し。

陵土未だ乾かず、謀發覺しぬ。

是れ則神祇の護る所、社稷の祐くる攸なり。

今先聖厚恩を顧みて、法に依り刑に入ることを得ず。

故に造下野の國藥師寺の別當に任じて發遣す。之を知る宜く。

「若さんは。道鏡をどう見ていなさる」

「浮かれ坊主さ。身内を引き上げたのもその証拠だ。帝位を狙うには油断が多い。自分の敵を反対者にしか見つけていない」

「どういうことで」

「継承権のある男子が居れば道鏡には出番はない。本当に狙うなら白壁王にその子供たちを排除しているさ。他戸親王が排除されたのは白壁王が皇位に就いてからだ。おまけに偽の宣託事件が道鏡の仕業とされたからな。正確ではないがその時七十歳くらいのはずだ。看病禅師の時で六十歳を超えている。身分を引き上げた道鏡の一族が余分な策謀をしたのさ」

「一族に足を引っ張られたと」

「そういうことだな。そういうのを昔から身の程知らずという言葉で表されている。若しかしてそいつ等を操るものが居たは考えすぎか」

輔治能真人清麻呂から別部穢麻呂への改名など、帝の意地悪に耐えた忠臣と和気 清麻呂を持ち上げる話は人々に深く浸透し、道鏡の事は幾ら貶めても反発をされないと見極めている。

この時以来物部氏、弓削氏の中央復帰は望めなくなった。

伝説を作り出した者達は、道鏡の年を知らないまま話を作り上げたかもしれないのだ。

清麻呂は神護景雲三年(769年)から三十年後の延暦十八年(799年)二月二十一日に亡くなった記録は残るが年は不明のままだ。

姉と言われる帝の側近和気広虫(藤野別真人、吉備藤野和気真人)は天平二年(730年)の生まれとされている。

隠居は和信(ヘシィン)にこの国に住む者とは違う見方が有ると感じている。

次郎丸と和信(ヘシィン)は考え方が似ていると思ったようだ。

「奈良から京(みやこ)へ政治が移るにも大きな陰謀が絡んでいるようですね」

上手く話を持ちかけてきた。

栄枯盛衰は世の習いで、身内の権力争いは何時の世でも起きると次郎丸は話した。

「源氏と平家の争いと云うが、敵と味方双方に親子兄弟で別れて戦った保元の乱、勝った者同士が争った平治の乱、敗走し流罪の頼朝公の後ろ盾は源氏より関東平氏の力が大きい。和信(ヘシィン)殿のご先祖の九郎判官様も平氏を倒してその後、兄の頼朝公に追われて落ち延びたくらいだ」

話しは元の井上内親王親子に戻した。

「光仁帝は実権を握るとなぜか皇后とその子の他戸親王を追いやった、親子は呪詛したとの嫌疑で幽閉され、同じ日に奇しくも亡くなったのが三年後だ」

「そうでしたね。兄の山部親王が皇太子に成り皇位を継ぐと同母弟の早良親王を皇太子にたてました。早良親王を大納言藤原継縄暗殺の犯人にして配流しました。弟二人を排除して政権を安定させています」

崇道天皇は怨霊として桓武帝に祟り続けたのは殆どの者が知って居る話だ。

「若さん、私もそう呼ばせてください」

「いいですとも」

「崇道天皇の怨霊、崇徳上皇の怨霊は叶庸(イエイオン)先生からよく聞きますが他戸親王は怨霊にならないのですか」

「面白いところに気が付きましたね」

四郎に新兵衛達は何が聞けるか耳をそばだてて居る。

「実は親王一人でなく母親の井上内親王(いのえないしんのう・いがみ)と一緒に奈良にある御霊神社にも祀られているんですよ。母親ほどひどく恐れられた話は読んだこと無いのですが、母親は龍になって藤原百川を蹴り殺したと愚管抄と云う本に出ていました」

「笑っていますね。その本信用できないのですか」

“百川ノ宰相イミジク光仁ヲタテ申シト、又ソノアトノ王子立太子論ゼシニ、桓武ヲバタテヲホセマイラセタレド、アマリニサタシスゴシテ、井上ノ内親王ヲ穴ヲリテ獄ヲツクリテコメマイラセナンドセシカバ、現身ニ龍ニ成テ、ツイニ蹴コロサセ給フト云メリ。 ”

百川の宰相がいみじくも光仁を立て申すと、またその後の王子立太子を論じた際に、桓武を立ておおせ申し上げたけれど、あまりに選り分けが過ぎて、井上の内親王を穴を掘って牢獄を作って押し込めなどしたので、その身のままに龍になって、ついに蹴殺しなさったと云。

「慈円という天台の座主が書いたのですが実家の父親は関白太政大臣。この時代の人は信じやすいのですよ。特に坊主に脅かされて極楽往生が生きがいですから。それとこの人も十二歳で亡くなった四条天皇を祟り殺したとする噂を書かれています」

前島に船が付いた、隠居が船頭に着けてくれるように頼んだのだ。

一刻(いっとき・十五分くらい)ほどで戻ってきた。

赤前掛けの女が二人甘酒の桶を持って来て船頭にも椀を与えて飲ませている。

船を出したのは二時四十五分だった。

「少し寝ておかぬと明日がつらい」

隠居に言われ長柄まで仮眠をとることにした。

夢うつつで枚方“ くらわんか ”の声を聴いた。

長柄三ツ頭に着いたのは四時四十分頃だ。

「そろそろ卯の刻だろう。もう直に夜が明ける」

船着きの灯籠も朝霧にぼんやりしていた。

十艘以上の船が泊まっていて、ざわめく声で皆が起きてきた。

隠居は川下の林を差して「あのあたりが桜の宮と言いまして半月ほど前は遠くからでも花がきれいに見えました」と教えた。

「ほぼ十里下りました。天満まで一里ほどです」

吾郎も起きてきた。

「予定より半刻(はんこく・約五十分)遅れて出ると、やっぱり時間がかかりましたね」

「あれだけ美味いの食えたんだ一刻(いっこく・百分ほど)なんて惜しくないさ」

傍で庸(イォン)がにこやかな顔で外を眺めている。

吾郎は「八軒屋の尼崎屋市兵衛で粥でも食べてお別れでしょうかね」と名残惜しそうだ。

和信(ヘシィン)が「名残はつかないが。それぞれ仕事が有りますから」そう言って膝たちで次郎丸へ拝をした。

「明後日には堺の西湊から馬関へ向かいます」

こんな時、和では辞儀をするだけですなと云って形を改めた。

八軒屋で船を降りて尼崎屋市兵衛へ揃って入った。

塩昆布をたっぷり乗せた朝の粥は旨い。

次郎丸一行六人は和信(ヘシィン)たちと別れ船越町“ さのや ”へ向かった。

荷を置くと次郎丸と四郎は、吾郎の案内で東横堀川を今橋で渡り、築地蟹島遊廓脇から土佐堀へ出た。

淀屋橋で中之島へ渡り、水戸殿と唐津の蔵屋敷の間(あいだ)から堂島川へ出た。

大江橋で川を越えて米市場の喧騒を抜け白河藩の蔵屋敷へ着いた。

吾郎が羊羹を二棹「土産に渡してください」と風呂敷ごと寄越した。

用人の倉田光衛(こうべい)へ取次を頼んだ。

渋い顔で藩札の名を見て「なに用で参られた」と渋い声で尋ねた。

「上屋敷御用人吉田様、若殿屋敷用人大野様よりもうしつかり、房総警備の助けになる様、摂津、河内、紀伊の状況と人気の有様を見てみれとの仰せで殿様よりも御庭先で直に仰せつかりました」

「どちらのお役を務めて居られた」

「定栄様お屋敷警護を相勤め居り申す」

駿河屋の羊羹を二棹出して伏見で求めてきたと手渡した。

「警備視察と云うからには、砲術を学んだか」

「大殿様直々の伝授を受けもうし、昨年は大野様とともに房総警備の視察へまいりました」

道中支度を見て「お小屋に空きがないが、宿は決まったか」とそれでも気を置いてくれた。

「はい、伏見より三十石で下りまして、船宿の紹介の宿へ泊まることに成りました。こちらへは、これから紀州へ向かうのでその報告に寄らせていただきました」

「では日誌にそのむね記帳いたしておく。道中つつがなく見聞せよ」

「有難うござります。では御免仕ります」

二刻たらず(ふたときたらず・二十分程度)の挨拶で蔵屋敷を出た。

塀外の右手の田蓑橋で中之島へ渡りまっすぐ土佐堀まで進んだ。

筑前橋へ出て土佐堀を築地蟹島遊廓まで戻った。

今橋を渡らず東横堀川の川端を歩いて高麗橋まで来た。

「もうひとつ先の平野橋は一六夜見世の盛んな場所で日用品やら骨董まで並びます」

「夜に骨董じゃまがい物も多いのかな」

「買う者のがん力次第で」

大坂三明神のひとつであった日中神明が有るという。

「明神なのに神明社かい」

「良いでしょ大坂らしくて、夕日神明は難波神明宮、日中神明が平野町神明宮、朝日神明が朝日神明宮なんですぜ」

「どこも明神じゃないのに三明神は不思議だ」

その平野橋を渡って明神(日中神明)の前をとおり、四つ角で左へ入れば二十歩足らずで“ さのや ”が有る。

今日、明日と泊まって明後日大鳥大明神へと決まり、宿が有るか調べた。

「近くに行基菩薩の誕生寺が有るはずだ」

「行きますか」

「堺で泊まって大鳥大明神、誕生寺、近くで一泊かな」

「羽衣の松もあるしいい宿もあるでしょう」

大伴の 高師の浜の 松が根を 枕き寝れど 家し偲はゆ

 良い声で朗誦した。

「万葉集の置始東人(おきそめのあずまびと)のこの歌の松原か」

「歌は知りませんが難波宮の故地だそうですぜ」

「なら間違いなさそうだ。景色のいい松原には羽衣の松がつきものだ」

新兵衛は「なら後何処かで一晩泊まれば、無理なく和歌山へ入れる」と安心した顔だ。

「そうと決まれば幸八に藤五郎は今日明日気ままに遊んで来いよ」

二人は小遣いだけ懐に出て行った。

「山中宿か、信達宿あたりだな」

「山中といゃあ、所払いで悪人、病人が寄り付かぬように町の結束が固いと評判だ」

宿の主人が紀州街道の里程標を持ってきた。

西湊町の地蔵尊まで四里二十丁。

大鳥大明神五里十八丁。

~十八丁~

家原寺(えばらじ)六里。

~一里十七丁~

高石神社六里十七丁。~六里三十丁~信達宿・~九里三丁~山中宿。

助松宿七里一丁。~六里十二丁~信達宿・~八里二十一丁~山中宿。

信達宿(しんだち)十三里十一丁。~六里三十五丁~和歌山城下。

~二里九丁~

山中宿十五里二十丁。~四里二十六丁~和歌山城下。

和歌山城下二十里十丁。

「堺は西湊に“ はつのや ”、高石神社の近くの“ ふでや ”が宜しおまんな。半里先には助松の宿(しゅく)もおまんねんで」

「どうやら治寶(はるとみ)様暇の前に大坂へ戻れそうだ」

参勤道中は紀州藩では最近千五百人を超しての道中に二千人近い人足、伝馬百匹が必要で長い行列と行き会わない工夫が必要になる。

「熱田、名古屋で情報集めてまずけりゃ中山道へ」

「そうなりゃ面白い」

日が暮れて幸八と藤五郎が戻ってきた。

「どうした昼遊びだけでもう飽きたのか」

「面白い話は無いかと聞きましたらね。昔紀文の上手を行った大金持ちの話を聞きまして」

「藤五郎さんおまさんの兄さんは大金持ちの仲間だろうに」

「それをいゃあ兄いだって大金持ちの家の婿でしょうが。和信(ヘシィン)様の爺様もすごい金を持ってたと前々から聞いてますがそれを上回るかと云う話で」

「なんだ淀屋辰五郎にあてられたか」

「あにいは知ってたのか」

「昔な和珅(ヘシェン)と云う人の真相を若さんと調べたついでに紀文や奈良茂に淀辰も調べた」

金と銀だけでも、ものすごい数字だと驚いて資料を集めたら元ネタにたどり着いたという。

「“ 元禄宝永珍話 が底本の様だ。勘定奉行所の聞き取りを装ってるが、いくつか有る話では小判十二万両、銀で十二万五千貫、小判にして二百八万三千三百三十三両。ひどいのは大名貸しが一億両なんてのが有った」

「ほんとならすごい」

「若さんに聞いてみな。享保二年になくなつたと聞いたが。宝永二年に没収されたなら御金蔵へ入らなきゃ可笑しいだろうに、そんな形跡ないそうだ」

二人は少し気落ちした。

「あの後に出てきたものも入れりゃ四十は資料が有る。いろんな与太話ばかりだ。家屋敷は大したものだが鴻池だって自宅に二百万は積んじゃいないさ」

「今日の女が持っていた冊子は西国大名に銀一億貫目、将軍家へ八十万両、公卿へ十三万両」

新兵衛は可笑しくなった。

「一億貫目で驚いて戻ったか、小判にしたら十六億両なんざ国中の金銀財宝かき集めてもあるはずないぜ」

次郎丸も加わってきた。

「先ほどの和珅(ヘシェン)さんで清国庫平両八億両だ、こいつが銀で三千万貫だ。その三倍貸せるなんざぁ和珅(ヘシェン)さんも墓から飛び起きるぜ」

新兵衛と次郎丸に交互に言われてがっかりしている。

「和珅(ヘシェン)さん国家予算の十年分くすねたも白髪三千丈の口ですか」

次郎丸は二十の大罪の文書を結の手で鉄之助が手に入れていて、それを写させてもらったという。

「全部並べられるほど記憶していないが金の分は覚えている」

和珅の私邸にあった銀両や衣服などは、一千万件を越えている。大罪その十七である。

さらに夾牆には金二万六千両あまりが、個人金庫には金六千両あまりが、地下室には銀百万両あまりが隠されていた。大罪その十八である。

京師付近の通州・薊州などで質屋や両替商などを経営しており、その資本は十万両あまりにのぼる。首輔大臣でありながら、小民と利を争っていた。大罪その十九である。

和珅(ヘシェン)の家人劉全は、下賤な家奴の身でありながら、押収したその財産はなんと二十万両あまりに及ぶ。大小の真珠の腕飾りも見つかった。横暴なやり方でせびり取ったりしなければ、ここまで豊かになることはない。大罪その二十である。

「どうだ、一千万件を越えているを一千万両、金庫には金六千両、地下室には銀百万両、資本は十万両、家人劉全から押収した二十万両。全部足して」

新兵衛は計算が早い。

「金は銀の十倍で六万両、全部銀錠にして千百三十六万両で銀四百二十万貫、こちらの小判で二十五万二千百九十二両」

「そんなもんですか」

「そんなもんさ。長男の豊紳殷徳さんには公爵は剥奪、特別に伯爵にとどめて継承させるという処分だ」

一千万件をすべて衣服だと大きな倉庫で千倉は必要だと四郎が大笑いだ。

「昔の大久保長安って人の方が蓄財は大きそうだ」

「可笑しいのはなそれだけじゃない。宮廷から暇を出された侍女を妾とした。廉恥を顧みない行為である。大罪その四である。ってもあるんだぜ」

「そんなぁ、大奥や宮中に務めた人は妾にしたら罪ですかい」

「縁なぞ無いだろうが」

「ああれわが君、はや陽も中天になんてのはだめですかね」

「嫁さんならいいんだろうぜ」

それにしても一千万件の品物何人で調べたんだと四郎と吾郎は呆れている。

「一日十万件調べても百日かかる」

「十万は無理でしょう」

「目録でも有ったのでは」

二人は喧々囂々と勝手に話が飛び跳ねている。

次郎丸は結の手で調べた情報では、家人劉全宅に有った二十万両のほとんどが和信(ヘシィン)の母親グルニヘシィアォグンジョ(固倫和孝公主)が金庫がわりに置いてあったものだという。

和珅(ヘシェン)宅の財宝の多くも公主の財産で、父親の乾隆帝からの贈り物だと云う。

「本当かどうかわからない話だが、輿入れの時に銀で三十万両、財物が三百万両分有ったと銭五さんが話したと鉄爺が言ってたよ」

大久保長安は慶長十八年(1613年)に中風で病死。

子供の男子七人はことごとく死罪にされた。

巷に流れた噂では金銀五千貫、当時の慶長小判七十万両相当と云われている。

鉄之助の話では長安は結と手を結ぶのではなく、追い払ったという。

「権現様も長安の生前には手を出せないとは、陰の力を持っていたのでしょうかね。後継者を育てぬ慢心も有ったのでしょう」

豊臣秀吉に協力したのは堺の小西隆佐、今井宗久、津田宗及、博多の島井宗室、神谷宗湛。

堺の納屋助左衛門は石田三成に疎まれ邸宅を没収され、呂宋へ脱出した。

千利休も秀吉に最後は疎まれて七十歳の時自害を命じられたが、明確な理由は判然としていない。

権現様の時代は京都角倉了以、茶屋四郎次郎、堺の今井宗薫、長崎の末次平蔵、荒木宗太郎、博多の大賀宗九、摂津国の末吉孫左衛門・平野藤次郎の朱印船貿易が始まった。

時代が替わり“ 紀文 ”紀伊国屋文左衛門、“ 奈良茂 ”奈良屋茂左衛門、西廻り航路、東廻り航路を開いた河村瑞賢、が台頭した。

淀屋は豪奢な生活を咎められてというがそれなら紀文、奈良茂にまつわる放蕩の限りを尽くした伝説は作り事だろうか。

本人より二代目が豪遊の限りを尽くしたものが混同して大きな話となったようだ。

銭五にとって河村瑞賢が開拓した水運は生命線でもあった。

今回の大津へ入り伏見、大坂への道筋は河村瑞賢が捨てた敦賀、小浜からの米の道でもある。

小浜と京(みやこ)は四本の鯖街道で結ばれている。

周山街道、針畑越え、若狭街道、西近江路。

小浜で京(みやこ)へは十八里が最短、大津へ回れば遠回りで二十五里ほどになる。

大津まで二十一里三十丁、途中の今津から大津、伏見、大坂へは水運はあるが三十石以下の過書船、丸小船が主流だ。

近江には五百石の船まで有ったが需要が減って運行しなくなった。

今回の和信(ヘシィン)の目は小浜から今津の間をどうすれば大量の荷を運べるかの視察となった。

船を敦賀で降りて西へ七里で小浜へ入った。

丸一日小浜の現況を見て歩いた。

「鯖なら背負って九里半街道、途中で朽木へ行くか今津だが、牛車(うしぐるま)に馬の背では金が掛かる。近江の丸小船は西回り航路以来半減してしまって荷送りにも支障が出ている」

元禄九年千二百十六艘が従事し、享保十九年でも千三百四十八艘有った船は寛政二年六百四十五隻にまで激減した。

百三十年ほど前の延宝九年には千五十五艘の船が沿岸交易で小浜を訪れていた。

小浜は足利義満への贈り物の象などが南蛮船で着いた湊町だ。

古くは御食国(みけつくに)と言われ朝廷へ天皇の御食料である御贄(みにえ)を納めていた。

塩漬けの鯖は朝小浜を出て、熊川で昼になり、若狭街道の朽木を抜け、夜通しかけて大原に入り、錦市場の朝市で取引された。

殆どの荷が熊川を経由して運ばれていた。

荷継ぎをさせる問屋と脇問屋で十五軒有ったという。

巡礼も此処を経由することが多く三十軒の巡礼宿が有る。

高田屋に銭五は本間家の後押しを受けて、蝦夷地の物産を此処でもう一度中継したいと準備中だ。

「何人かやってはいるが一艘分を引き取れる店がないのだ」

「誰か育てるようですね」

「探させます」

「頼みすよガンジィエ(干爹・義父)」

「どうにもそいつね慣れないといけませんかね、チィェンウー(銭五)の方がいいんですがね」

「ガンバァ(干爸)とも言いますが」

「からかわんでくださいよ。いつラォイエ(老爺)と海燕が言い出すかひやひやしてるんだから」

爾海燕(ゥァールハイイェン)十九歳は半年前に和信(ヘシィン)と婚姻した。

チィェンウー(銭五)はまだ四十一歳だ。

若狭、今津、大津の間を通そうというのは加賀藩の要請もある。

敦賀の湊から七里半で海津の湊への道が加賀藩のいま使う道だ、此処は残しての新しい通商路だ。

海津は元の天領でいまは加賀藩領と大和郡山藩柳沢家領に為った。

海津東町・海津中村町・海津中小路町とありその内の中村町の二百二十五石のうち百七十二石が加賀藩の飛領。

加賀藩蔵屋敷は秀吉から海津を与えられた当時から加賀藩の米を京(みやこ)、大坂へ送る大事な拠点だ。

海津から北へ向かうと疋田宿が有る。

此処はもう小浜藩領だ、百五十年ほど前の承応元年に市橋から小河口の間を開削し街道の往来が楽になった。

古くは平清盛が命じた淡海から海への運河計画が有った。

敦賀、疋田を抜ける案は馬借、農民の反対で挫折を繰り返している。

小浜から熊川まで船で登れるように川を広げる計画も起きているが資金の当てがないのだ。

三ノ口で街道は若狭、敦賀、越前へ分かれている。

敦賀へ向かえば気比の松原が先にある。

敦賀湊までのんびり景色を楽しんで四刻(八時間)あれば到達できる。

敦賀は小浜藩の支藩で一万石、藩主は酒井忠藎(ただえ)三十四歳江戸上府。

余談

酒井忠菊の時立藩。

鞠山へ陣屋を置いたが管理は本家小浜藩が仕切った。

安政六年酒井忠(ただます)の時、財政難に陥り本藩へ領地返上を考えたが領民の反対で実現していない

「今津は米じゃなく換金用の産物の集積所にしたいようだ」

「それもチィェンウー(銭五)さんにやれと言うのですか」

「儲かるようになるまでさ。今津の代官と海津の蔵屋敷で目を光らせているさ」

湖岸に今津村、弘川村および梅津村の一部が飛び領で加賀藩領、今津中浜に今津代官所が有り代々今津甚右衛門を名乗る今津家が管理している。

大津と今津は陸で十三里、銭五は湖上輸送と陸路輸送の両立を主題としている。

急ぎの荷を小浜から五日で大坂へ届けるには、普段の荷運びを充実させる必要が有る。

牛車(うしぐるま)や荷駄で大津と今津は一昼夜、荷積み荷降ろしを三刻入れ丸小船百石積で順風六刻と計算した。

三十石程度ならそのまま伏見まで行くことも可能だ。

牛車の主な荷は米俵だ、四斗の米俵で九俵(百四十四貫)積むと車とで二百貫。

三十石船で米換算七十五俵千二百貫、牛車八台分以上は運ぶことが出来る。

江戸の蔵米取の旗本、御家人は一俵三斗五升(十四貫)で支給される、百俵三十五石が基本だ。

支給は複雑だが扶持米のひとり扶持は一日玄米五合、年間で五俵と計算された物を月割りで支給したのでややこしくなる(年百七十五升)。

蔵米取りの支給は「春借米」「夏借米」「冬切米」だが札差が手数料を引いた金銀で支払われていた。

小浜藩も藩財政は苦しく幕府は米切手の発行を認め、寛政十一年三月十一日に通用が開始された。

十年とかぎられていたが再度延長が認められていた。

藩内はどうにかやりくりが出来る程度だ、江戸送りの費用が毎年捻出できなくなって借財が増えて行った。

特に御手伝い御用を命じられた京(みやこ)加茂社に貴布禰社の修復費用は二万両を越えた。

すでに負債総額が二十五万両を越えているとも銭五の耳に届いている。

「この分を補える産物など有りません」

大坂方でもさじを投げてしまったという。

藩は家中借米でしのいでいるが、限度を超えているとみる向きも多い。

大坂の住友家は閉山した野尻銅山に目をつけ銅山稼ぎ方の願書を出し、採掘の独占を狙いだした。

藩主の京都所司代就任後、出費は増える一方だ。

昨年は財政の窮迫を理由に課せられた二万両の冥加金で、藩内は窮乏している。

結は銭五と加賀藩を仲介して立て直しを図ろうと模索中だ。

信は不思議に思うのは窮乏している藩を痛めつけて幕府に得になるのか、人民の得か、寺社はそれを喜んで受け入れているのかと、聞くたびに納得できないと庸(イォン)に話した。

「しかし熊川の番所には参りましたね」

二人の役人と足軽数名が控えていた。

長崎奉行の添え書きを見せたにかかわらず、「奉行は誰か(旅の差配)」、「いつ出立したか」「何人連れか」、「同行の者がいるか」、「どこに向かうのか」、「どこの国から来たのか」と十人すべてに聞いたのだ。

「あれじゃ将軍の手形を出したら、反対に牢にでも入れられてしまう」

庸(イォン)はそういっている。

荷の通行にも厳しく対応していた。

道案内の手代は「最近やけに厳しいそうですぜ。今津と木津が中の悪いせいでしょうかね」と首を捻っている。

「荷専用の通行手形を藩に出させる方がいいだろう。いちいち荷改めさせていては時間の無駄だ」

「塗箸なら担ぎでも労賃になりますか」

「十人動かしても儲けが一分、二分では手を出さないほうが小商人の為になります。いくら大坂でも百人分の荷を売ることは難しいですよ。信様の考える単位が大きすぎるんですぜ」

孝 子 輿 七 碑 ”を見て和国も孝行な子を褒めるのは同じでも碑(いしぶみ)まで建てますかねと和信(ヘシィン)は不思議そうだった。

小さな水路の小さな水車では里芋を入れ、洗っているのをしばらく見ていたら何十人もの人だかりが出来た。

和語で「どの位入れれば綺麗になります」と聞かれた女の方が驚いていた。

「通事の勉強で言葉を覚える旅だ」

そう銭五の手代が言ってようやく口をきいてくれた。

水路は毎朝掃除するので芋のごみも翌朝には奇麗になる。

「京(みやこ)へ送る鯖や小鯛をここでも押しずしにします」

皆で食べた小鯛の鮨は気に入ったようだ。

鯖鮨は昆布が分厚くて外して食べ「薄く削いだので包んである方が好きだ」とそっと言って剥がした昆布を食べた。

「この藩はなかなか人々も豊かですが、大きな産業が育ちにくそうですね」

「湊としては良いのですが人の数が少ないので消費も少ないのですよ。売る物も塗り物、葛に菱では儲かりませんよ」

手代はこの付近に詳しかった。

「物を運ぶのに女でも二十貫は担ぎますから」

二人は寧波で茶の擔を運ぶ男たちでも大変だとみていたが、ここの女たちなら運んでしまえそうだ。

近江のお金の伝説は今も生きているという。

一箱三十斤で四箱を一擔で唐目一斤百六十匁だと十九貫二百匁になる。

「雇える伝手が有れば考えましょうや」

今津から茶箱を担いで九里半休憩を入れて丸一昼夜見ればと云う。

「待ってくださいよ広州では四十里交代の宿を造ったでしょ」

清の一里はこの頃は五丁程で十里が五十丁ほぼ一里十四丁。

「三交代ですか一人三里なら小休み二度で二刻(ふたとき・四時間)女でも働きやすそうだ」

宇治の茶を小浜経由で奥州へ運ぶことが可能だ、往復の荷を用意できれば多くの者を雇うことが出来る。

前から行われてはいたが、運送に金が掛かりすぎて儲けに繋がらない。

「出来るかどうかが難しいところでね」

「鯖や海産物は運べるのでしょ」

小浜から熊川は五里、熊川から四里半で今津、京(みやこ)までは此処熊川の先で朽木を抜ける若狭街道で十五里。

和信(ヘシィン)の一行は朝小浜を月明かりの中、寅の刻(三時十分頃)に出た。

熊川で昼を食べ関所を通過したのが巳の下刻(十時五十分頃)の少し前だった。

此処までは上り下りの少ない道だ、遊山旅のように寄り道したりして居たので二時間は余分にかかっていると銭五が関所を抜けた後で言っている。

熊川越と云われる峠の手前に小川が有りそこからが近江になると云う。

この付近は旗本朽木(くっき)氏領だと手代が話してくれた。

元は九千五百九十石という大身だったが寛永九年ころに三家に分かれたという。

別れた本家は朽木(くっき)を領地とした。

分地した三男の朽木稙綱は若年寄を務め加増を受け、土浦で三万石の大名に出世した。

その後福知山へ領地が変わり現藩主は朽木綱方、三十八歳に成る。

水坂峠を越えた保坂(ほうさか)で朽木(くっき)を通る京(みやこ)への鯖街道が右手にある。

今津の代官所で長崎奉行の証書と家老本多阿波守政礼の証書を出した。

代官の当代今津甚右衛門はさながら町役人のような物腰だ。

まだ宿も決まって居ないというと手代を案内につけてくれた。

朝早く宿を発ち海津へ向かった、湖上はだいぶと波が騒がしい。

前日の九里半街道の分かれ道へ出た、弁柄の家並が続いた。

「塗なおしはどのくらいの周期です」

「一代一度と云うのが普通ですが。この辺り三十年に一度が良いみたいですよ」

蔵屋敷の手代は腰が低いが、用人だという真田と云う武士はやたらに横柄だった。

挨拶をして今津へ戻り木津(こうつ)へ向かった。

町は昔栄えた名残はあるが活気は少なく女巡礼の姿が目立った。

南無大慈大悲観世音菩薩 ”に混ざり“ 南無阿弥陀仏 ”の笈摺(おいずる)姿もあった。

同じ梵字の入った菅傘は同じ講中の様だ。

「あれは梵字と云います。あの五人ほどの人は十一面観音菩薩。字の右に二つの点が有るのが千手観音菩薩の講中ですが、良く似たものが多いので判別が難しいのですよ」

手代の幸四郎が教えてくれた。

竹生島への渡し場は喧騒に包まれている。

沖の二つ石の頭に波が覆いかぶさるように打ち当たっていた。

河原市宿で午の刻の鐘が聞こえてきた。

安曇川は橋が架かり二十間ほどの水路が有った。

酒蔵の先に休み茶見世が有り、焼きもちと甘酒で一休みした。

「塩津まで船で十一里、大津までは十里」

手代が海津の東の湊への便船が有るという。

惣門を抜けると大溝湊、遠くに未の鐘が聞こえる。

「ここの殿様はまだ六歳だそうですぜ」

銭五の手足として陸を仕切る男は情報通であった。

河原市宿から三里二十丁あまりで北小松の宿場を通り抜けた。

大きな道しるべは白髭大明神が近いと教えてくれる。

「ずいぶん古そうですね」

「二百年以上はたってますよ」

「そろそろ新しくしないと字が読めなく為りそうですね」

二里ほど進むと木戸宿(しゅく)で、和信(ヘシィン)の時計は六時十分だ。

宿は先行した常永と常典という坊主上がりの手代が“ そうすけ ”という大きな旅籠を抑えていた。

二人は安永七年三月豊前小倉で行き倒れ寸前のところを銭五の父親に助けられた。

十一歳と九歳で、修行に出された石見未山町大憐寺が焼失し、縁故を頼ってここまで来たという。

落雷で寺が焼け、大地震で周りの家屋もつぶれてしまったという。

三十五年あまりも銭屋で働いている忠義ものだ。

翌日十人で大津へ入ると銭五は下東八軒町百石町通手前脇本陣播磨屋へ入った。

関札に“ 長崎通事 叶庸様 和信様 御宿 ”と出ていた。

部屋割りが決まり銭五は和信(ヘシィン)、庸(イォン)と三人で予定の突合せをした。

主が茶を持ってやってきた。

「お頭は今朝京へお立ちになりましたぜ」

「どこへ泊まったんだい、大津へ入ったとは昨晩きいたが」

「結とは関係ないが上宿でしてね、此処より京へ寄った布施屋町道通角に有る“ おおはらや ”と云う処ですぜ」

三日ほど前から番頭が客を引くでもなく午後になると街道へ出ていたという。

「気になったものが多いようで話を聞いたら親戚筋から此処を通る人を世話してほしいと話しが有ったそうでね」

「なんの縁だろうな」

銭五も首をかしげている。

「京(みやこ)に三日、四日先が伏見か」

庸(イォン)はその日に伏見へ出ればいいなとチィェンウー(銭五)と相談した。

「隠居は昨晩伏見で今日中に宇治へ入ったはずです」

「では隠居と宇治で明日にも話をまとめるかね」

「銭五さんは三日ばかりこっちにいて貰わんと。丸小船の親方連は明日、明後日とばらばらの様です」

主は今回の道中の目的の一つの茶に興味が有るようだ。

「信様、どこか新しい茶畑でも作れそうでしたか」

三か所有ると言って見取り図に点をした。

「今津なら加賀様の飛び地だ。話はつくでしょう」

「見たところ山畑に開墾できる余地はあるがね。清と和国では面積の表現が違うのだ」

和国の一畝は三十坪、一反が三百坪。

清の一畝はこちらの六畝百八十坪だと説明した。

今仲間内では一ムゥ(畝)あたり千鳥に植えて五十六本の茶木を育てると説明した。

「一反九十四本見当ですか」

「その位だが十六本一列六段として九十六本、十五本一列六段なら九十本。その計算で土地の者との相談だ」

「列でなく段とは」

「東南に開けた傾斜地の方が日当たりも良くなる」

「高級茶は覆下茶と言いますが」

銭五も話に加わった。

「あれは栽培の許可が厳しい。私たちは普通茶が欲しいのだ。良いものにするなら早摘みを仕手もよいだろう」

覆下茶は御茶師三仲ヶ間(さんなかま)にしか許されない特権だ。

千鳥に植えてなら十六本、次が十五本、また十六本ではどうだろうと主が提案した。

「面白そうだ、三十一本一組なら一反九十三本で苗木を分ければいいだろう。作業に十分の隙間も出る」

銭五は千反分まで決まればすぐに渡せると豪語した。

米作反収二石で五公五民なら一石、それを上回る手取りなら庄屋、大百姓も反対はしないだろうと考えている。

翌朝、和信(ヘシィン)に庸(イォン)は常永と手代の半次郎が付いて四人で牛車(うしぐるま)の道に沿って海道を上った、坂で牛の歩みが遅くなった。

「こいつを旦那は小浜と今津の間で出来ないか調べなさったが無理だそうでね」

「一里、二里ならいいが九里は難しいだろう。一年通じてそれだけの荷が動かない」

「そう言ってましたぜ」

京(みやこ)へ向かう列はだいぶ先まで続いている。

月心寺門前立場に“ 走り井餅 ”ここで一息入れた。

走井の一里塚を過ぎた。

髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)の道しるべだ。

ひだりハふしミみち

みぎハ京のみち 

参勤は京へ入ることが許されず伏見へ回ることに成る。

「俺たちも同じだな」

庸(イォン)は苦笑している。

その先の道しるべは“ ひだりおゝつみち ”“ みぎうじみち ”。

大宅(おおやけ)の一里塚が有る。

「まだ二里しか来ていないのか」

醍醐寺の門前は休み茶見世が並んでいる。

朝から参詣人が大勢来ていた。

石田の一里塚を過ぎた。

「卯の下刻(五時五十五分頃)に出て三里足らずに三時間半も掛かったぜ」

「まだ巳の刻の鐘も聞きませんから上等でさぁ」

常永は昼前には宇治へ入れるだろうという。

路ばたに道しるべにしては面白い石に“ ひだりおおつみち みぎうじみち ”とある。

「少し遠回りします。」

街道の右に“ 愛宕山常夜燈 ”が有る。

大津から三里二十丁来たという。

山の際には茶畑が広がっている。

「卯の下刻(五時五十五分頃)に出て、ぶらぶら歩いたわりに午には着くようだな」

「午には楽に宇治橋です」

六地蔵宿立場高札場を過ぎた、六地蔵より宇治橋まで一里ほどだという。

宇治へ入ると覆下茶用の葭簀が掛かっている、これを信に見せたかったようだ。

昨年十一月に閏が有り、おととい十九日が雨水だった。

和国も宇治辺りは晴明の頃から摘み取るという。

「清国では違うのですかね」

手代の半次郎は昆布から茶へ乗り換えることに為っている。

明前茶の方は二月二十六日から十五日目にあたる節日三月節の十一日が南京付近の一番茶で向こうでは高地の茶に高値が付くと教えた。

昨日までは幸四郎と云う五十年配の手代が和信(ヘシィン)付きで教えてくれたが今日から馬関で別れるまで勉強に付くと決まった。

「閏は関係しますか」

「和国と清国では閏が違ってくるが二十四節気は一日か、二日しか狂わないよ」

「じゃ、もう寧波あたりでも摘み取りが始まっているのですかい」

「俺たちが寧波へ戻る前に三番は終わっているはずだ」

常永は茶見世へ三人を連れて入り、いれてくれた茶を褒めた。

褒められ馴れているようでそれほど嬉しそうでもない。

「私の国では抹茶は無いので出せるだろうか」

辮髪に見とれていてまさか通じる言葉を話せるとは思っていなかった様だ。

主らしき壮年のにこやかな人が「こちらへ」と座敷へ呼んでくれた。

囲炉裏で熱い湯が沸いていた。

「茶の湯はご存知ですか」

「作法は知りません」

「では構わず出したら呑んでください」

茶碗へ抹茶を二杯入れた。

柄杓で鉄釜へ一杯の水を差し、音を聞いて最初の茶碗へ注いで茶筅で軽く回した後ささっと泡を立てた。

まず和信(ヘシィン)へ寄越したので飲むと熱くない、口当たりがよく温かく感じた。

一まわり終わると「いかが」と聞いた「もう一杯」と言うと嬉しげに同じ手順で出した。

先ほどより熱いが小気味よい味がするのでそう伝えた。

ほかの三人は遠慮したので「三日ほど宇治を見て回るのでまた寄らせてください」と約束した。

半次郎が勘定をして出てきて橋を渡りだした。

しばらく歩くと「銀一匁で済みましたぜ。儲ける気はなさそうだ」と言ってきた。

「抹茶は高いのかい」

「俺らの飲む茶の百倍はしまさぁ」

常永は大げさだと笑った。

お薄茶一斤で人気の高いもので銀十匁から十五匁、高価な物は五十匁の値が付く。

支那(しな)でも昔は抹茶を飲む習慣は有ったと和信(ヘシィン)は言う。

「時代とともに変わって来たのさ」

御茶壺道中は小大名の参勤をも上回る規模で行われた。

徒歩頭が宇治まで茶壺を運ぶと戻りの道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めている。

御茶壺道中に権威を付けるため、例え御三家の当主でも駕籠から降りたというが、そんな迂闊なことをする道中奉行などあり得ない話だ。

それに御三家の紀州、尾張は三月が参勤で、四月の茶壷が江戸を出る時期とは合っていない。

特に参府は中山道、暇は東海道を選ぶことが多い。

将軍家に準ずるように大名家も自家の茶師を抱えた。

橋から浮島十三重塔の跡を見ながら話を続けた。

「うちの旦那そんな人たちと取引できるんですかね」

「まさか。二番三番の安茶を売りたい処と取引をする予定だ。宇治の名で売る必要もない」

「売れますかね」

「欲しいのは越後から北の人たちだ。大名は江戸で手に入れられるが、小金を持ってるくらいで江戸に支店を置いていない人たちが顧客になるはずだ」

「そういう人は味にうるさいですぜ」

「この茶が美味いというとそう思い込んでくれるまでが勝負さ」

「どの位この付近から運ぶので」

「日に千斤を半年」

「これだから和信(ヘシィン)様にゃかなわねえ」

「一人二百斤若狭まで運ぶについて今津までは丸小舟で運ぼうというのさ」

「運べますかね」

「百二十斤なら女でも大丈夫だ」

「女衆は運べても、男の二百は辛いでしょう」

「十斤いくらで運ぶかお前さんが仕切るんだぜなぁ、常永さん」

「あっしは大津、弟は小浜の支店と決まっていますぜ。半次郎さんが茨木屋さんとの窓口だ。今津か熊川を拠点にするかい」

「おんやぁ、此のあいだぁ、茨木屋さんにも大津に支店を置くように頼むと言ってましたぜ」

「だからつなぐ役目が半次郎に為るのだ。茨木屋さんは産地との交渉に集荷、その手助けも必要だぜ。銭屋が搬送と販売だ」

口直しに甘酒に団子でもと常永がいいだした。

「お薄は口に合わないか」

「どうもね、安茶に口も喉も馴れきってますぜ」

代官所先は茶師屋敷が並んでいた。

常永は左へ曲って平等院方向へ行くと休み茶見世が並んでいる。

甘酒を売る店が見当たらない。

「茶所だ。甘酒は無いみたいだ」

庸(イォン)に団子だけで我慢しろと言われている。

適当に入った見世で聞くと有るという。

女は「だって甘酒を商いますは気恥ずかしい」と朱くなった。

醤油の香りの団子は予想外に美味い。

茨木屋が泊まっているという“ はらのき ”という旅籠を訊ねた。

店の前で「その突き当りを左へ行きはるとどん詰まりに塀が出てきはりやす。そしたら右へいかはるんどす。おおけな松の木が塀の外へ伸びてはる家の隣どす」と教えてくれた。

「左、次が右ね。助かったよ」

信はわざわざ拙い言葉使いで礼を言った。

はらのき ”へ行くと「連絡の来る前に網代へいくと御供さんたちと六人で出はりました」と言う。

「申の鐘で切り上げてくるそうでございます」

どの辺りが良い場所なのか聞くと「ここの船着きから十町ばかり川上櫃川のわたしのほとりに三か所簗場が御座います。鮎汲みは今が一番で御座います」

「型は大きいのが上がりだしたのかい」

網ですくえるのは小ぶりだという。

「大きいのんは威勢がようおまっさかい」。

献上鮎も出たので鮎鮓など今晩おたべに為りますなら取り寄せるという。

庸(イォン)は「そいつぁ良い。ぜひ頼む」と言うので亭主が驚いた。

半次郎が「庸(イォン)先生、どこで覚えなさった」と助け舟だ。

「長崎から二十日も船頭衆と一緒ですよ。やまと言葉もだいぶ覚えましたよ」わざわざ区切って言うので亭主が落ち着いた。

「通事と云うのはあちらこちらの言葉を覚えるのも仕事なんでしょうね」

「書いていてはまどろいと怒られますから」

本当に申の鐘が響いて二刻もしない(二十五分ほど)うちに茨木屋の一行が戻ってきた。

番頭一人に銭屋との約束した手代三人と荷物持ちの小僧が来ていた。

庸(イォン)が連絡担当の半次郎と大津を受け持つ常永を紹介した。

手代たちは誰が大津を受け持つか相談は出来ていたようだ。

銭五から任されてきた半次郎は小浜、熊川、今津、大津へ人を置くことに同意し、茨木屋が大津、伏見、淀へ支店を置くと決まった。

「人が多すぎて鮎の割り当てが少なく往生しました」

庸(イォン)は鮎鮨が解禁されたと亭主が言っておりますよと煽った。

「今日はもう沢山。体中焼き鮎の匂いが染みつきました」

「おっ、若鮎も育ってきたようですな」

「先生は鮓と焼き鮎どちらが好物で」

「両方ですよ。余姚(ユィヤオ)付近でも探し回っていましたから」

信に先に言われている。

「最初は言葉が通じないので字を書いて頼んだらナマズ料理が出てきました」

「ニューンと云うのですが鮎(あゆ)はシャンユイと行って香魚(かおりうお)と書きます。屋敷の周りの小川には三月過ぎると上ってきます」

「同じ字でも意味が違うので困りましたが、食べ物から入ればすぐ覚えられました」

二人で交互に鮎の話をした。

茨木屋は「鮎は昔年魚と書いたそうです」と庸(イォン)に話した。

庸(イォン)は「書紀を読んで何のことかと思っていたら鮎だと寧波で教えられました」という。

「向こうでも書紀を勉強する人が居るのですか」

「古い時代には和国との貿易も盛んな街ですから」

想定の値段と最大耕地面積、引き取り予算を話し合った。

二反の茶畑で一番十斤、二番三十五斤、三番七十斤と計算してきたと半次郎が話した。

「四番はどうするね」

「屑茶集めの業者を入れます」

「儲けを分散する気かね」

「あまりよくばるより抜け穴を付けるほうが次の年に頑張るでしょう」

隠居が可笑しそうに笑っている。

一番一斤銀二匁五分、二番一斤銀一匁二分、三番一斤銀六分。

一番(千斤銀二千五百匁)、二番(三千五百斤銀四千二百匁)、三番(七千斤銀四千二百匁)合計十一貫五百斤銀十貫九百匁

去年の米の値は米一斗小売りが千二百文、単純に増やせば一石十二貫文。

昨年の上田の収穫は反収一石五斗、二反で三石、五公五民、一石五斗で十八貫文になるがあくまで町の小売値だ。

手代たちが計算をしている。

「二反の茶畑で百九匁です。米相場は先月高値が一石六十八匁でした一倍半だと銀百二匁です」

三人で算盤を確認している「張出は一石銀五十二匁八分でした」と一人が帳面で確認した。

「去年の高値は」

「備前米一石八十八匁です」

そりゃずいぶんと高い値だと半次郎が驚いている。

昆布を買うのに運ぶ米の値には敏感になっている。

箱館に米が集まりすぎては値が落ちて昆布を買うのに赤字になってしまうからだ、

水飲み三反と町場で笑うが、小作にとって三反から得られるのは一石が精々だ、不作ともなれば食う物は雑穀頼りになる。

銭五と和信(ヘシィン)は一家で二反の茶畑を庄屋が半分とっても現金になれば衣食に困らぬだろうと考えている。

入会地、山林を畑にするには庄屋、大百姓の力が必要になる。

加賀藩は米に影響が出なければ領内茶畑一反銀二匁の税で三十年保証すると家老連名の念書が出たので引き受けた。

五百反分一貫の銀は領内で、他領への作付けも必要ならと表向きは寛容だ。

「ただ銭五さんは年百両の冥加金を負担させられました」

上手くいけば後追いで乗り出す者も出ると踏んだようだ。

「何年目なら茶で食えます」

「三年目から始める茶摘みで売れるものに出来れば四年目から。一番茶をお城に献上して初めて売り広めることに成りますから、反当り三両を十年賦無利子で結が持ちます

「三両で苗木を買えるのでしょうか」

「まだ聞いていませんか」

「そちらの方面は何も、今のところはご隠居様の小仕事のお手伝いとしか」

「今千反分の苗木は各地で養生させています、五百軒の農家の分は二反の整備が付いた分無償で配ります」

「ただで配っちまうんですか」

半次郎は唖然としている。

「そこで半さんお前さんの出番なのだ」

「あっしですか」

「手入れをする約束、植え付けから十年の間の四番は任せるが一番、二番、三番摘までは茨木屋さん、銭屋さん以外に売らないという証文と、売れば木を引きあげる契約を一軒ごとに交わすんだ」

「五百軒もですか」

「いっぺんに五百軒来るものかよ。精々最初は百軒だ」

常永に言われてほっとしている。

「茨木屋さん、和次郎さんが大津へ店を出したらまず土山をあたってほしい」

「土山と云うと東海道」

「あそこも元は大徳寺の親木の別れです。寧波と云っても私の妻たちが手助けしているのは山中です。同じようなやり方が出来れば生産力も上がります」

今津のように木の世話をせずとも済むので、一軒の親木を中心に十軒ほど後押しをしてほしいと頼んだ。

部屋にいる一同に庸(イォン)がボォゥチャフィ(博茶会)で印刷した指南書を配った。

「十年たったらどこへ売ってもいいんで」

手代三人は良いのかと云う顔だ。

「縛りは緩くしないとね。その間に信頼関係を結べばあなた方が分店として独立も可能になる」

「それからね半さんは、寧波の栽培方法を書いた指南書を覚えて、わかりやすく教えるんですよ」

「あっちの字なんざ、よめねっすよ」

「これから馬関まで行く間に自分の読めるように冊子に作るんだね。庸(イォン)さんが教えるから」

「そんなこんだぁ、農作業迄やるんですかい」

「茶はね、肥料はたくさんやっちゃ駄目なんだ。見た目に良い葉っぱが付くけど味が悪くなる。木綿と反対さ、だから金は掛からないんだ」

隠居に飽きても茶を飲んで勉強だと笑われている。

清ではこういう振り分けだと話しをした。

茶商は緑、白、黄、青と産地で振り分けるという。

緑茶

杭州(ハンヂョウ)龍井(ロンジン)、

蘇州(スーヂョウ)碧螺春(ピーローチュン)、

徽州(フゥイヂョウ)黄山毛峰(フアンシャンマァォファン)、

廬山(ルシャン)雲霧(ユンウー)、

上饒(シャンラオ)婺源仙枝(ウーユアンシェンヂィ)。

白茶

福建(フゥヂィェン)、湖南(フゥナァン)

高級茶が白毫銀針(パイハオインヂェン)。

普及品としての寿眉(ショウメイ)。

ニンポーバァイチャ(寧波白茶)-ボォゥチャフィ(博茶会)では清明節までが一番茶、穀雨前が二番茶で揉捻をしない茶にしたこと。

黄茶

洞庭湖(ドンティンフゥ)付近の君山銀針(ジュンシャンインジェン)、君山島が本物として知られている。

青茶

広東(グアンドン)の潮州(チァォヂョウ)鳳凰山(フェンファンシャン)に

福建(フゥヂィェン)武夷山(ウーイーシャン)を中心に生産される茶をいう。

新興の鉄観音は三か所、福建内で売り出した。

翌日は隠居と名所めぐりだ。

蜻蛉石を見た。

「噂じゃ郭巨が堀出せし黄金の釜と同作也なんて云いますぜ」

常永が本に載っていた画と同じだという。

「二十四孝の郭巨といゃぁ、本に載ってからでも五百年以上も前で、はるか昔の孝行息子だ。唐と貿易していて運び込んだのかな」

庸(イォン)の言葉に信が反応した。

天賜孝子郭巨、官不得奪、人不得取

ティエンチシャオズゥグゥオクゥ グヮンブゥディディオ レンブゥディグゥ

「まるっき分かりやせんぜ」

「釜はかっきょの物だというくだりだよ」

庸(イォン)に言われて納得した。

戻り道通圓でまた茶を飲んだ。

「今日は濃茶を飲みなさらんか」

隠居と二人で奥へ入った。

翌日は離宮八幡宮へ船で渡った。

亀石を近くで見たが「昔は亀に似ていたのかね」と不満そうだ。

笈埃随筆には、亀石、梅見淵、行燈岩、鍋居淵、米炊、重岩、会石、紅葉淵、不動岩、千束岩、泉水出岩、あせ岩と出ているがわしゃ風流人に縁遠いようで見ても風情が伝わらんと一行を笑わせてくれた。

戻り道で通圓に寄った、この日は煎茶にした。

二十三日次郎丸の一行が伏見へ入る日だ。

京橋北詰角の澤田喜助へ入るとの連絡を受けているので日暮れまでに付けばいいのだ。

今日も通圓で茶を呑んだ。

未の刻に通圓を出て伏見への便船の出る湊から船で伏見へ下った。

蓬莱橋の寺田屋の前に船をつけて降り立ったら申の刻の捨て鐘が鳴っている。

文化十一年二月二十五日(1814415日)・三十日目

いい天気に恵まれ新兵衛と次郎丸は古本屋を巡ることにした。

吾郎と四郎は適当に町歩きだと出て行った。

新兵衛は幸八と藤五郎にそれぞれ三両渡して野放しだ。

「そろそろ懐はたいて買い物をするかい」

「若さん、いくらあるんで」

「天王寺屋五兵衛店へ行けば千両は即日出てくるよ」

「そんなにゃいりませんが銀六十貫位買い物しますか」

「おいおい、おんなじだぜ」

「ここんとこ六十四貫だそうですぜ」

「贅六に足元見られちゃこっちの負けだぜ」

次郎丸が懐へ小判で二十両、新兵衛は背に銀二貫担いで出た。

高麗橋から上人町へ向かった。

淡路町の“ ふんどうや ”という古書店が目当てだ。

秋里籬島と云う人の“ 和泉名所圖會 ”の四巻本 が有る、新兵衛は二組を一分判十二枚で折り合った、竹原信繁の画で書肆高橋平助寛政八年の初版の物だ。

江戸で出た“ 雲妙間雨夜月 ”(くものたえまあまよのつき)を見つけた。

「揃ってないのか」

「河内屋茂兵衛はんのなら揃いまっせ」

新兵衛が買い入れた。

「若さん読みなさったかね」

「悪人が改心する話だ。五冊揃いは良い買い物だ」

次郎丸と新兵衛は江戸で手に入れたものより先に摺られたものだと驚いている。

「発行元へ行ってみるか。今刷りでも揃うなら酒田送りでもいいだろうぜ」

店を聞いて心斎橋筋博労町迄急いで出かけた。

店で五巻もの十組をまず集めさせた上客とみて三人ほど手代が寄ってきていろいろ進めるので新兵衛はまず周りに並べさせてさっと見て買う買わないを決めていった。

三余斎麁文の“ 華実年浪草 は決め手がないと次郎丸へ回した。

「十二巻揃いでいくらだ」

「銀七十二匁で」

「五組揃うか」

「探します」

すっ飛んで蔵へ向かった。

「若さん買うんで」

「俺と未雨(みゆう)に織本の家に贈る分で三冊だ」

小僧と四人で大荷物を持って来て仕訳を始めた。

十組あるので次郎丸が検分した。

「これならどの山でもよさそうだ」

そういって五つの山を扇子で示した、松代の佐久間先生に二組送ってもいい。

小僧の一人が手代に何やら言っている。

「どうした」

「いえね。こいつが値を引いて十組買い上げて欲しいなど寝言を云う物ですから」

「引けるのかよ」

小僧が耳元で何やら囁いた。

「十五組買い上げていただければ一貫でどうだろうと」

「たけえよ」

「へ、なんち言いましたん」

「高い。九百二十匁なら十五部百八十冊値切らず買おう」

「そんなぁ、銀百六十匁も引いておいて値切らないはひどうおますやん」

「そうかな。新兵衛兄い例の本は有るかよ」

「刷りが年度違いです」

「何組ある」

向こうの手代が「五十組でも揃えまっさ」と言っている。

冷やかしと踏んだようだ。

「ほう、そいつはすごい」

新兵衛もやる気が出たようだ。

「いくらだい」

「一貫と二百五十匁です」

「一貫にしないか」

「そんなに同業でもあらしませんやん」

「そこらにある雑本取り混ぜて二十両ほど余分に買い付けてもいいんだ」

「持って行けまへんでそんなに」

「江戸へ送り出してくれ。そっちで無理ならこってで手配する」

主があわてて飛び出してきた。

「御客はん。ごてては困りまんがな」

新兵衛は葛籠を開けて二貫の銀と本を出した。

「こいつを古本屋で見つけて買い付けに来た」

「二十両足りまへんで」

次郎丸が二十両をざらっと巾着から出した。

一両六十匁で交換すれば銀一貫二百匁だ。

銀三貫二百匁は五百石船が江戸まで雇える金高だ。

「こいつは見世を信用して勧める本をいい値で引き取る金だ、送料分は誰か天五へ使いに出てくれ、請求分は用意させる」

さっきの小僧が口を出した。

「値切りはったのをそのまま受けるのですか旦那様」

「なにが言いたい」

「二貫三百三十を一貫九百二十に値切りはったので八十匁残ります」

店主は小僧と手代を脇へ連れだした。

「送料込みで二十両と銀二貫で余分はこちらで本を選んで宜しいでしょうか」

「金を調べて納得したら送りの本の仕分けをしてくれ。三駄もしくは四駄で江戸送りできるだろう。安い本を混ぜるなら五駄でもいいが問屋弁銀込でも銀五十匁くらいで送れるはずだ」

送り先は猪四郎の新川にある酒田屋にした。

「若さん、天五に使いを出さなくても済みましたぜ」

「ふん、おれたちゃ百貫使うのも出来やしねえ」

さっきの小僧が仕分けをしてやってきた。

「御客はん、送り人のお名前はどうします」

筆入れに懐紙を持って来ている。

「酒田、駒井新兵衛、受取人は江戸新川酒田屋猪四郎」

云いながらさらさらと懐紙に書いて渡した。

「百貫使うとか聞こえましたが、本にそんなに金を出すんですか」

「出羽酒田は江戸に京(みやこ)、大坂の新しい品に飢えてるのさ」

「家でも役者絵に名所の絵本も出していますよ」

先ほどの手代たちがわらわらとやってきた。

弟子でも書いたのか歌麿風の美人絵まである。

表が賑やかだと背伸びしたら信の顔が見えた。

入ってきて「堺へ行く途中で、長崎への土産を探していたんですよ」と次郎丸へ笑いかけた。

庸(イォン)が「今隠居が十貫取りに行かせましたよ」と言い出した。

「そんなに土産を買うんですか」

新兵衛が驚いている。

「ひどいですよ。金なら家で済むのに天五だなんて」

隠居にすっかり筒抜けだ、次郎丸と新兵衛に用立てるつもりだ。

店主め十貫と聞いて店じまいするかと思うくらい並べだした。

大八の人足に手代が一人ついて江戸送りの分を出しに行った。

手代が式亭三馬の“ 四十八癖 ”三冊本を持ってきた。

「三馬の物なら浮世床に浮世風呂もあるんじゃないのか、江戸の鶴屋の物は酒田でも人気だったぜ」

隠居も笑いが止まらない「全部買いますか。足りなきゃ追加でも」と信と大笑いだ。

「堺であすの朝の積み込みに間に合うなら馬関で酒田への便もありますぜ」

銭五まで興に乗っている。

「それじゃこれからの分は銭五さんへ頼もうか」

「そうしなさいよ。荷の代は駒井屋さんへ請求しますよ」

「こっちで支払わなくても宜しいので」

店主も乗り気だ。

銭五は堺の代理店を教えて今晩の内に持ってくるのが一番だと煽っている。

新兵衛はさっきの小僧を使って買いまくっている。

帳場の番頭は次々くる伝票を整理するのでてんてこ舞いだ。

「紀伊国名所図会ひと揃いは俺が持って行くよ」

十冊の揃いを次郎丸が風呂敷でくるんだ。

茨木屋の手代が三人銀を背負ってやってきた。

河内屋の三人の手代が受け取った銀の勘定をしている。

八駄の荷づくりが終わり閉めたら八貫と七百五十匁だという。

隠居は「貸は十貫。残りは持って行ってくだされ」と言っている。

新兵衛本十三冊で軽くなったところへまた銀を入れることに成った。

本馬四頭を呼んで「ここから先は銭屋が引き受けましたよ」と河内屋を安心させた。

次郎丸と新兵衛は博労町から堺筋の長堀橋まで送って信の一行と別れた。

隠居は軽尻で堺まで行くという。

 

第六十九回-和信伝-参拾捌 ・ 23-12-28

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記

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