信(シィン)は四月に京城(みやこ)へやってきた。
関元に京城(みやこ)が初めてだという康演の二儿子の関栄(グァンロォン)と何度も来ている三儿子関玉(グァンユゥ)も来ている。
三兄弟で京城(みやこ)の結の仲間への顔つなぎもあるようだ。
他には邸の男たち四人だけだ。
趙(ジャオ)哥哥の顔も見える。
双子の趙延壽(ジャオイェンシォウ)と趙延幡(ジャオイェンファン)もお供に付いてきた。
共に十七歳の青年で、十九歳の鄭四恩(チョンスーエン)より一回りガタイが良い。
皆が居間へ呼ばれ「奴婢は今年六人まで引き受けます」と公主が伝えた。
関元と信を残し「十二人迄は受けられるようにしますけど、表向きは六人というのですよ」と打ち明けた。
公主使女から二人婚姻で抜け、新たに三人入ってきたこと。
さらに年内二人使女から嫁に出すことなどを話し合った。
嘉慶十一年三月乾隆花園掌事宮女より豊紳府公主使女へ。
江麗穎(ジァンリィイン)二十五歳。
嘉慶十二年三月嫁入り予定。
史佳寧(シーヂィアニン)二十五歳。
嘉慶十二年四月嫁入り予定。
黎梓薇(リーヅゥウェイ)二十五歳。
嘉慶十二年三月嫁入り予定。
三月二十日、府第から嫁入り。
武環梨(ウーファンリィ)二十九歳。
夫-二等侍衛(満州正白旗)・紀佶崇(ジーヂィチォン)二十九歳
夏玲宝(シァリィンパォ)二十九歳。
夫-二等侍衛・管麟歓(グァンリィンファン)二十九歳。
陸鳳翔から密書が来た。
蔡牽(ツァイヂィェン)が台湾へ本格侵攻をかけたが、李長庚が金門鎮総兵官の許松年、澎湖協副将の王得禄を使い撃退したという。
福建省側へ戻った海賊船団の動きは潮陽(汕頭・シャントウ)では、つかめないという。
黄崗(ホワンガン)鎮副将へ任命され移動とのことだ。
蔡牽からの防衛を任命されたというが、守備範囲は拓林湾一体と広い。
福州の結の伝文書は蔡牽(ツァイヂィェン)と台湾北部の有力者が、手を結ぶ交渉をして居るという。
乾隆五十三年(1788年)台湾出征の際の屈辱を晴らそうとしているのだろうか。
首謀者は北路の秘密結社天地会(三合会)の指導者は林爽文。
総兵柴大紀と陝甘総督福康安(フカンガ)に郷勇の協力で、三年抵抗したが、とらえられて処刑された。
李長庚(リィチァンガァン)は嘉慶十一年二月(1806年4月)には、福寧沖で蔡牽の海賊船団を撃破するも取り逃がした。
三月、これら台湾の戦役に関する論功行賞が京城(みやこ)で行われた、
愛新泰(伊爾根覚羅氏)は、反乱鎮圧の功を認め提督銜へ昇格。
武隆阿(瓜爾佳氏)が台湾鎮総兵官へ昇格。
王得禄は(臺灣府諸羅縣)、澎湖協副将から福寧鎮総兵官へ昇進。
許松年(浙江瑞安)は初戦時に槍傷を負い、早々に戦線を離脱し恩恵を受けていない。
邱良功(福建同安縣)は弾劾をされるも潔白を認められ、台湾鎮副将に任命された。
勢力が弱ったと言え、蔡牽(ツァイヂィェン)、朱濆(ヂゥフェン)の被害は脅威に値していた。
玉徳(ユデ・満州正紅旗、瓜爾佳氏・グワルギャ)から病が重く任に堪えないと上奏が来たという。
劉權之(リォウチュァンヂィ)の御史への移動の噂が福州(フーヂョウ)迄届いたのだろうか。
四月に都察院左都御史(滿)の英善(薩哈爾察氏)が西蔵駐留時に国庫資金を流用したことを問われ、降格されたことも関係があるようだ。
都察院左都御史(滿)の替わりは賡音(姜佳氏)と博興(博爾濟吉特氏)の名が上がっている。
玉徳(ユデ)は嘉慶十一年五月十九日(1806年7月5日)に病気を理由に辞任した。
阿林保(舒穆禄氏シュムル・満州正白旗)が玉徳の後任として閩浙総督に抜擢された。
フォンシャンに李長庚(リィチァンガァン)が海賊と癒着していると上奏して、反対にけん責された。
インドゥ、粘竿処(チャンガンチュ)、阮元(ルゥァンユァン)などの報告の正当性をフォンシャンは信じてくれた。
状況を理解した浙江巡撫清安泰が手をまわしていて、李長庚には影響は起きていない。
各地で頻発する匪賊、民衆反乱の影響で海賊討伐の国家予算を組めていない。
劉權之たち漢人官僚は「せめて和珅の横領が講談師の言うほどにあれば、銀の苦労などありはしない」と「話し千倍、白髪三千丈ものだ」と嘆いている。
地方政府の負担、特に巡撫、総督の負担は重くのしかかっている。
結、御秘官(イミグァン)の資金も当初予算の壱百萬両を使い果たす寸前だ。
地方官への貸付金だけで銀(かね)二十萬両を超えてしまった。
四半分は李長庚の個人借り入れで、そのうち半分は戦死者の遺族への見舞金に消えた。
平儀藩(ピィンイーファン)は動かせる満蒙の御秘官(イミグァン)の銀(かね)のうち二十五分の一に当たる遊休銀二十萬両を海賊退治資金に使わせた。
棒引きした三千萬両があればと平儀藩は悔やんでいる。
今動かせないが結と御秘官(イミグァン)の銀(イン)はまだ二千五百萬両相当が満蒙二つの地域の経済を支えている。
劉權之(リォウチュァンヂィ)は 嘉慶十一年九月十六日(1806年10月27日)都察院左都御史(漢)に任じられる。
結句、玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)は蔡牽(ツァイヂィェン)との談合は罪に問われずに逃げ切った。
その後の玉徳(ユデ)は烏什(ウシュ・新疆ウイグル)辦事大臣に着いている。
嘉慶十二年十月十二日(1807年11月11日)任
嘉慶十三年六月二十四日(1808年8月15日)因病回旗辞任。
その後嘉慶十四年(1809年)に亡くなったと伝わるが、正確な死亡日は不詳。
家系は桂良(グイリャン・瓜爾佳氏グワルギャ・1785年~1862年)という傑物が継いでいる。
出だしは捐納で官に付き、各地の総督を歴任、頻発する反乱を撃退、吏部尚書、兵部尚書等についている。
清朝では身分も金次第と言われた、災害が起きるたびに範囲は広くなった。
裕福な商人にとって金銭で官員に準ずる資格を得ることができ、幕末の和国も同じような時代に入っていった。
桂良は辛酉政変(1861年)で恭親王・東太后・西太后のグループを支持、軍機大臣へ上り詰めた。
娘は恭親王愛新覚羅奕訢(アイシンギョロイヒン・鬼子六1833年~1898年)嫡福晋瓜爾佳氏。
その長女が西太后の溺愛した“大格格”荣寿固倫公主(1854年~1924年)。
長男は追封恭果敏親王載澂(ヅァイチァン・1858年~1885年)内大臣・鑲紅旗蒙古都統。
桂良(グイリャン)と同時代の清国の瓜爾佳氏(グワルギャ)には大勢の洋務運動の推進者も出ていて、ほとんどが西太后に付いた。
・文祥(ウェンシャン・満州正紅旗1818年~1876年)-軍機大臣・総理衙門大臣。
・栄禄(ロォンルゥ・満州正白旗1836年~1903年)-軍機大臣。
栄禄の娘、幼蘭(イゥラァン・1884年~1921年・母親-劉佳氏)は醇親王載灃に嫁ぎ宣統帝溥儀の母となった。
子供たちに溥儀、溥傑、韞瑛、韞龢、韞穎がいる。
・勝保(・~1863年満州鑲白旗・蘇完瓜爾佳氏スワングワルギャ)-鑲黄旗満州都統・正藍旗護軍統領。
浙江巡撫に阮元(ルゥァンユァン)が戻るのはまだ先の事だ。
服喪のためと表向きはそうなっている。
福建巡撫(嘉慶十一年十月)へと書類は出来たが、病気を理由に着任せずに終わった。
嘉慶十一年丙寅十月に婚姻予定の二人の公主使女が十一日と十五日に婚姻をした。
十一日は郝紅花(ハオホンファ)二十六歳。
夫-二等侍衛(満州正紅旗)・安鄰鵬(アンリィンパァン)
西城下后廠平胡同
乾隆四十五年十一月十二日誕生二十七歳。
十五日は孔林杏(コンリンシン)二十六歳の婚礼だ。
夫-二等侍衛(満州正紅旗)・邸欧理(ティイオゥリィ)
西城下大椿胡同
乾隆四十六年一月二十日誕生二十五歳。
十二月一日には約束の御秘官(イミグァン)の上皇付き奴婢がすべて乾隆花園から豊紳府へ引き取られた。
夏茄宝(シァチィエパォ)
二十五歳。
夏玲宝の妹妹
江蘇(ジァンスー)-無錫(ウーシー)
乾隆四十七年六月十五日誕生。
上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女
嘉慶十三年三月婚姻予定。
江麗榮(ジァンリィロォン)二十五歳。
乾隆四十七年六月十五日誕生。
江麗穎(ジァンリィイン)の妹妹。
上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女
嘉慶十三年三月婚姻予定。
姜雲麗(ジァンユンリィ)
乾隆四十七年十月初五日誕生。
上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女
嘉慶十三年三月婚姻予定。
武環華(ウーファンファ)二十五歳
乾隆四十七年九月十一日誕生。
武環梨(ウーファンリィ)の妹妹。
山西(シァンシー)-呂梁(ルーリャン)
上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女
嘉慶十三年三月婚姻予定。
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