第伍部-和信伝-壱拾玖

 第五十回-和信伝-壱拾玖

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

また一人乾隆帝の残した妃嬪の一人が亡くなった。

恭嬪・恭太嬪-林氏(リン)

乾隆五十九年十一月二十日(1794年)甲寅-恭嬪

乾隆五十九年十二月二十九日甲寅-冊封礼恭嬪

嘉慶十年十一月二十七日(1806116日)乙丑-恭嬪七十四歳死去。

子女-

遺骸は東陵裕陵妃园寝へ葬られる。

 

残された妃嬪の数は少ない。

晋妃-富察氏(フチャ)・生年不詳。

寿貴人-氏不詳・生年不詳。

惇妃-汪氏(ワン)-六十歳。

鄂貴人-西林覚羅氏(シリンギョロ)七十三歳。

婉貴妃-陳氏(チェン)九十歳。

 

嘉慶十一年正月初一日(陽暦千八百零六年二月十八日)

 

福恩も十二歳になった。

宜綿(イーミェン)は満語教育のために正紅旗官学へ入学させた。

自分の教える事への限界を感じたようだ。

それとこの年入学希望は三十名に満たず、在籍百の定員を大きく割っていたせいもある。

“国語騎射”はこの時代満州八旗の必須となっている。

 

朝辰刻(八時二十分頃)、豊紳府へ急使が来た。

惇妃危篤の知らせだ、朝使女が起きた様子に気が付くと、目を見開いて譫言を言っていたという。

急いで参内すると普段のしかめっ面から微笑みが浮かんだが、言葉はなく息を引き取った。

 

惇妃(ドゥンフェイ)-汪氏(ワン)

嘉慶十一年一月十七日(180636日)丙寅-惇妃六十一歳死去。

子女-一女・弘暦十女・固倫和孝公主

遺骸は東陵裕陵妃园寝へ葬られる。

 

遺品は公主と二人の侄女(ヂィヌゥ)が受け取った。

宝玉類は侄女(ヂィヌゥ)へ荘園は公主が受け継いだ。

六千六百ムゥ(畝・440ヘクタール)の土地に三人の差配と三百三十家の小作が住むという。

 

1= 240平方歩= 6000平方尺(5尺=歩)。

15畝=1ヘクタール(100m×100m

 

順天府順義縣南彩鎮

順天府順義縣南彩鎮(大興荘)は府第から北東へ絵図で八十里、その東百十六里に直隷順天府平谷縣(胡荘村)がある。

街道をたどれば南彩鎮まで百十里ほどになる。

潮白河を超え二十里ほどの村だ、船便は天津(ティェンジン)へも通じている。

雪の中インドゥは宜綿(イーミェン)と昂(アン)先生、孜漢(ズハァン)の四人が馬で、徐(シュ)、曽(ツォン)は荷馬車で引継ぎに出掛けた。

見るからに貧しい村だ、三人の差配の家も草臥れていた。

昨年の帳簿を見て、村の銀(かね)は銀(イン)三百五十銭(三十五両)と銭百二十吊(串・百二十両)しかないと分かった。

差配の三人には銀五十両をそれぞれに今までの褒賞に与えて、これからも引き続き村の面倒を見させることにした。

差配の家族二十人と使用人三十六人に一人銀二両。

小作三百三十家に銀(イン)十二銭(千二百文)、家族と当主で七百八十人いるというので一人銀(イン)五銭(五百文)を配らせた。

銀(かね)二百六十二両と銀(イン)七千八百六十銭(七百八十六両)が赤子を含めた全村に配られた。

帳簿は正確で漏れは見つからない。

差配の代表を高烈(ガオリィエ)という七十歳の老人が勤めていた。

三人の差配と作物の出来不出来、収入について話をした。

「ここは土地がやせていて、高粱が主な作物です」

「玉米(ュイミィー)はどうだ」

「耕作地では作らせて貰えませんでした。酒屋と契約があるというのです。畔でも作らせては頂けないと断られますので家の前後に家族で食べる分だけです。黍も牛を取り上げられて作れなくなりました」

「惇妃娘娘との間に誰か入っていたのか」

「兄上様の所から人が来ます」

兄は巴寧阿(内務府鑲黄旗)、前職は盛京工部侍郎だったはず、家は長子の景旺が継いでいる。

巴寧阿、景旺父子が此処を受け継ぐのをフォンシャン(皇上)が許さないのは、粘竿処(チャンガンチュ)の調べで悪評でも耳に入ったのだろうか。

「牛はいないのか」

「村では飼えないのです。耕作に貸し出しをする業者が高いことを言うので困っています」

まるで村を富ませることをしないように仕向けているようだ。

「村で銀(かね)を借りたりはしていないのか」

「村自体の借金は有りませんが、戸別では私の知るところではほぼ二千吊(串・二千両)。どうにか利だけは払い続けて居るのですが」

「どこが証文を持っているのだ」

「兄上様の手代が利を集めに来ますので、そこにあると思います」

ニォウグゥァン(牛倌・飼い方・飼育者)は昔飼っていたものが百家はいるという。

「昔とは何時の事だ」

「十年前までは村に三百頭はいました」

古い帳簿を出してきた、当時の様子には富んだ村の様子が窺えた。

牛は五年前までにすべて取り上げられ、耕作時にはニォウグゥァン(牛倌・牛飼い)業者が来るという。

よく反乱に加担せず、我慢してくれたものだと宜綿(イーミェン)は惇妃娘娘の兄上の手代に憤っている。

この時代三十ムゥ(畝)の畑地に牛を飼えば一家族五人が楽に暮らせるが、村の帳簿が正確なら平均は二十ムゥ(畝)で牛も居ない上に年寄りが多すぎる。

差配は年季奉公に娘は売られ、男は出稼ぎで家を支えているという。

インドゥは「公主娘娘が受け継いだから、借金は肩代わりする。牛も資金を出して一家に最低一頭飼えるようにする」と伝えた。 

表が騒がしいので徐(シュ)と曽(ツォン)が見に出て行った。

「五人ほど引き連れた男が借金を返せと小作を脅しています」

差配の于睿(ユゥルゥイ)に清算するからと呼びに行かせた。

太った大男がやってきた、孜漢(ズハァン)が証文を見てすべて言い値で買い取ることになった。

「もう後は無いのかい。後からまだありましたは困るんだ」

騒いでいた割に素直に「元金千八百吊(串・千八百両)、今年の今日までの分で利が九十吊(串・九十両)ですべてです。他の村から借りたかどうかまでは知らんのです」という。

「銭と銀票、銀錠のどれがいい」

「重くない銀票ならありがたいのですが」

十両の銀票百八十九枚を出すと慎重に数え、利の受け取りを書いて帰っていった。

「普段はこんなにおとなしくないのですが」

差配もほっとした顔色に戻った。

昂(アン)先生が「あいつ前は峰勇胡(フェンヨンフゥ)の手下でしたよ。俺の顔を見てやばいと悟ったんでしょう」と笑い出した。

峰勇胡と兮盃(シーペェィ)の夫婦が、今はインドゥと公主に心腹していて無理押しは出来ないと悟ったようだ。

三人の差配に小作から六人呼んでこさせると、見ている前ですべての証文を焼き捨てた。

「今年は高粱を半分、玉米(ュイミィー)と黍(シゥ)で半分のつもりで計画を立ててくれ。ニォウグゥァン(牛倌・牛飼い)の連中に連絡をつけて、いくらで耕作をするか調べて置くんだ」

翌朝、村を見て回り六千六百ムゥ(畝・440ヘクタール)にしては広く感じると差配に聞いた。

「帳簿は畑地のみで、山裾の山林は入会地です。昔の帳簿ではほぼ同じ面積があります」

年寄りたちの話しでは三十年前の台帳は順義南彩鎮で畑地のみが記載されたという。

明のころの古い土地台帳が有り、そこには見取り図と面積、山の境界の目印も記載されていた。

「じゃこの周り全部が南彩鎮の大興荘なのか」

「昔は猟師がいて山を渡り歩いていましたが、今は来なくなりました」

胡桃に栗の古木が数十本有って、子供に年寄りが拾い集めるくらいだという。

フゥーペェンヅゥ(覆盆子・木苺)も山の斜面に自生しているという。

赤は菓子に、黄色は子供たちの好きに食べる山の恵みだ。

馬医者が出入りしていて十年前にムィトォン(木通・アケビ)にシィリォウ(石榴・ザクロ)を差配の庭に植えさせたという。

馬医者は月一度来ては人の顔色を見て回り、薬の世話も見るという。

差配たち三人が「一度公主へお目見えしたい」というので馬車に乗せ、昂(アン)先生が付いて豊紳府へ向かわせた。

馬車は恐れ多いというので「行き帰りに刻がかかるのがもったいない」と宜綿(イーミェン)が説き伏せた。

出掛けたあと差配の手代をすべて呼び寄せ、村の様子を話させた。

「高粱以外は畔では野菜は小作の食べる位はどうにかなるのですが、米、麦が作れないのでどうしても買うに銀(かね)が出ていくのです。今までは村に出入りする業者も勝手には売買が出来きなくなりました」

どういうことか聞くと昔の兄上様の手代は村に良くしてくれたが、一代前の手代になってから村に入る業者も賄賂が必要になって仕舞ったという。

「ニォウグゥァン(牛倌)に差配が脅されないように、三人くらい屈強な男でもしばらく置いた方がよさそうです」

孜漢(ズハァン)は自分たちが居なくなった後の事を心配していた。

宜綿(イーミェン)が好いことを思いついた。

「香山村の牧場に乳の出の悪い牛が二十頭くらいはいるだろう。肉業者が狙ってるやつだ」

「あれをか、農耕には向かないだろう」

「子供は産めるぞ。牡は耕作に使える」

インドゥは手代に牛を飼える家を探させた。

牛のお産を経験したものを集めましたと八人の男に其の妻を集めてきた。

「牛を飼いたくても、今の状況では餌代も不足するというのを抜かすと、八家しか飼いたいと言うものがいませんでした」

孜漢(ズハァン)が牛舎の手入れに一家銀(イン)十銭、当分の餌代に銀(イン)三銭を先渡しした。

人より良い食い物で飼われて来た牛だ、餌代は吝れない。

 

「追いかけて娘娘の許可を取るか」

俺が行くと宜綿(イーミェン)が馬で出て行った。

「孜漢(ズハァン)は、もう牛が来るのは間違いないと思うのかよ」

「宜綿(イーミェン)様が出掛けりゃ決まったと同じですぜ。それに銭が出たと聞けば我先に申し出てきますがどうします」

若い手代が「断りましょう」と憤ったことを言う。

「まぁ、焦るな牛が来ての話だ。それより街道に近い、村はずれの荒れ邸だが人は住んでいないのか」

「あそこは京城(みやこ)で羽振りの良かった年寄りの隠居邸で、村の権限外の土地なのです。風情があると言って塀は直さないそうです」

そんな事もあるのかと興味がわくインドゥだ。

「哥哥、また聊斎志異の話を思い出しましたか」

手代たちも興味のある顔をしている。

「ほら、狐が人と交流する話だよ」

孜漢がいうと手代たちも納得した、どうやら手代とも為ると読み本位は手にするようだ。

「孫(スン)という老頭(ラオトウ)が食べ物に衣類など、時々運んできますが。狐では無さそうです、女手もあるようですが、庭仕事に雇われていく娘たちにも優しいそうです」

段という若い男が孜漢に教えた。

 

牛は公主娘娘の物だとインドゥが証文を作り、八家の者に委託をしたと書き入れた。

「牛の病気やお産に気を置いてくれ。牛は村の共有財産だ。乳を絞れば年寄りの滋養にもなる。入会地の周りで山羊を世話すれば赤子の乳の助けにもなるからそれも探してくれ」

曽(ツォン)は「葉タバコはどうです」と言い出した。

「ありゃ一年おきに耕地を変える必要がある。ここの小作じゃ狭すぎて無理だろう。二十ムゥ(畝)の半分使うといくら手に入る」

孜漢が細かい数字をあげ、徐(シュ)が計算すると四千八百銭だという。

手代の段はそこから諸経費を引くと手取りは半分近くに減るという。

「小作料免除しても年に銀(かね)三両と十ムゥ(畝)で食えるか。着るものまで都合できなくなる。曽(ツォン)は月いくら貰えるんだ」

孜漢は「月三両ですぜ。住まいと衣服は界峰興もちですぜ」というと手代たちが驚いている。

府第の奴婢の方がましな仕事の様だ。

 

そのころ公主の元へ巴寧阿の娘二人と長子の景旺が悔やみと相談に訪れてきていた

「姉上、相談ですが、荘園の管理は引き続き私の方へお願いします。惇妃(ドゥンフェイ)娘娘が父に委託した証書もありますので」

「あらら、一日遅かったわ。昨日哥哥と弟弟が順義縣南彩鎮へ出向いたわ」

「しかし証書もこの通りありますので」

「ヂゥコゥ(住口・おだまり)、私がフォンシャンに謝ってお前達の事を助けなけりゃよかった」

「何もありませんよ」

怒って指さす手も震えている。

「舅父(ヂォウフゥー)が盛京工部侍郎を辞めただけでは済まないのを助けなけりゃよかった。景旺、お前が高利貸を始めたことはフォンシャンもご承知だわ。村が死んでしまうから妹妹のお前が生き返らせろとまで言われたのよ。私によくも恥をかかせて平気で顔を出せるわね」

「あの村の収入がないと私たちが食えなくなります」

「お前の命と八百人の村人を秤に掛けろというの」

「たかが農民です。それと食えないのを二十人も身売り証文で助けたのは私です」

怒りはさらに激しくなった。

「業者で無く、人買い迄自分でしているんだと言うのかい。其の村人の証文を持っておいで、私が倍で買ってあげる。さぁ、すぐに人を邸へおやり、それとも自分で行くのがいいのかい」

三人はすごすごと邸を出たが馬車でほくそ笑んでいる。

「な、公主はお優しい。たかが農民を売りつけるのに倍出しても助けると向こうから言い出した。これで村の方で借金の証書も買い取ってくれれば丸儲けだ」

どうやら資金は惇妃(ドゥンフェイ)が出したようで、実家が困窮しないように荘園の上りは求めずに任せていたようだ。

邸を回って人に証書をかき集めた。

「兄さんに任せて大丈夫」

「世慣れしてない娘娘に負けやしないさ。奴婢などいくらでも安く買える」

三軒から侍女や奴婢達二十人を引き連れ、豊紳府へ来ると、銀(かね)を呼ばれてきていた湯老媼(タンラォオウ)から受け取り、証書と女たちを置いて戻っていった。

一番若いもので十二歳、年上でも二十三歳だという。

人買いに売られたとおびえる娘に「この湯老媼(タンラォオウ)は証書を受け取る手伝いに来てもらっただけで、買われたわけじゃありませんよ」と花琳(ファリン)が優しく教えた。

 

花琳(ファリン)が姐姐(チェチェ)とタァ(榻・寝台)のやり繰りをして西北の八人部屋を一時的に二十の榻(寝台)に増やした。

公主は直々に女たちへ告げた。

「村へ戻るか、此処へ勤めるかは明日聞くからよく考えなさい」

チゥ(厨・台所)の卓へ食事の支度をさせ「後で当番の者が来て始末するからそのままにするんだよ」と年上の女に後を任せた。

 

酉の刻の鐘が響く中、昂(アン)先生が戻ったと門番が伝えに来た。

何事かと心配する中、客を連れてきたという。

「荘園の差配の者たちです。ご挨拶をしたいというので連れてきました」

昂(アン)先生が三人を紹介した。

追いかけるように宜綿(イーミェン)迄がやってきた。

一通り話が済むと花琳(ファリン)に仕切らせることにした。

「西の作業場で逢わせておやり。娘たちには明日改めて聞くけど、この人たちは空いているお小屋で泊れるように支度させなさい」

花琳(ファリン)が手配をしてから作業場で村の女たちに対面させた。

宜綿(イーミェン)が残り、香山村の牧場の牛たちの話を公主とまとめると家に戻っていった。

差配たちは娘たちに「村へ戻っておいで。心配はもうしなくて済むようにしてくださった」としばらく話していた。

昂(アン)先生がお小屋へ案内すると食事の支度も済んでいて「明日の朝にまた話し合おう」と三人に任せて家に戻った。

「哥哥は今度、荘園の仕切りで忙しくなりそうだ。替わりに俺や孜漢(ズハァン)が動かないと厄介が増えそうだ」

「でも娘娘の実家はろくでなしばかりだわ。哥哥に害が及ばなければいいのですが」

「金貸しに人買い業者、いずれにせよ困ったものだ。娘娘も荘園で儲けが入るより出銭ばかりだ」

「何か煙草より良い作物はないでしょうかしら」

一番はミィ(米)だが収穫量が手の掛るわりに少ない土地と諦めた。

宋太医たちの友人、馬医者仲間を軍師にするように話そうと決めた。

「ダァマァイ(大麦・マァイ)、シィアォマァィ(小麦)ガゥンシュ(甘藷)、ガァォリャン(高粱)、ュイミィー(玉米)、マァーリィンシゥー(馬鈴薯)、ダァドォゥ(大豆)、スゥ(粟)、シゥ(黍)などではそれほど儲けにならんしな。牛と人間が食べられても娘娘の収入にそれ程助けにならん」

「リィ(栗)にフゥタァォ(核桃・胡桃)ではいかが」

「胡桃は収穫まで十年かかるし三十年くらいで植え替えないとだめだろう。栗の方がましだな」

「栗は接ぎ木で三年と聞きました」

「そうだな、栗は百年実をつけるというから入会地に沿って増やすのもいいだろう」

「春に収穫できるものがあれば年を通じて売れますわ」

「おい、忘れていたぞ。シィン(杏)、シィンレェン(杏仁)だ」

「産地が多すぎますよ」

「俺たちの知り合いに菓子屋が多い。種を抜いて干せば引き取ってもらえるんじゃないか」

「確かに干した実も美味しいですし。伊太利菓子の熱が入った物は甘みが増しますわ」

「五月に杏、九月に栗か」

「最近シィグゥア(西瓜)が天津(ティェンジン)から来ますが試させますか」

「お前も種子行か苗行の元締めみたいだ」

「あら、気を付けないと娘娘にお暇させられて、仕切りをやらされてしまうわ」

 

翌朝、差配を呼び寄せ、朝の粥をフゥァ(喝・食べる)しながら入会地の扱いについて相談した。

「小作達ともよく話し合ってくれ。それと差配の三人の農地はどうなっているか聞きそびれたんだが」

「代々この三家は姻戚に為らんうように仕手きました。それぞれ小作の十軒が二十ムゥ(畝)を耕作し一割が私ども差配の報酬に与えられ、自家の農地は百ムゥ(畝)とされています」

「それぞれ百家の小作を監督し、予定収穫に満たないときは、差配がその分を負担仕手きました」

「姻戚にならぬようにと言っても中には好き合う子供たちも出るだろう」

「その時は小作の中で養子縁組をさせて小作に落としてきました。長い年月で小作の二割は私たちの姻戚で村は一族です」

差配の家が富の貯えができない仕組みは古くからされていたようだ。

船着き通用門から入ると西の作業所へ行くように伝言が来ていた。

娘たちは差配に「村へ戻りたい」と訴えた。

「娘娘はきっとその言葉を喜ばれる」

昂(アン)先生も容易に此処へとどまるより、家に戻らせる方が良いと思われるだろうと確信していた。

娘娘が作業場へ出てきて娘たちの言葉を聞くと、湯老媼(タンラォオウ)が証文を出して名を読み上げた。

差配に本人かを確認させて火鉢で燃やさせ、戸籍簿は差配へ預けた。

五台の馬車を昂(アン)先生が先導し、辰(九時頃)に府第を出て安定門(アンディンメン)から順義縣南彩鎮へ向かった。

差配には姐姐(チェチェ)と公主から渡された牛飼いに応じた八家を小作から自営農家へする指令書が渡された。

さらに村で相談をして二軒の差配を新設し、栗園、杏園の賛同が得られたらそれぞれの差配に付かせるよう頼んだ。

公主と姐姐(チェチェ)はわざと小作を振り分けるように言わずに任せた。

今の差配に、村を富ませる腕があるかどうか見極める必要がある。

昂(アン)先生には哥哥と相談し、入会地との境に栗園、杏園を開くについて村の意見を尊重するように頼んだ。

 

そのころ宜綿(イーミェン)は公主の指令書をもって香山村北側の宿舎へ向かっていた。

牧場の差配四人に集まるように先へ人を出してあるので、のんびりと馬に揺られていた。

「隠居牛に子を産ませるですか」

「どうだね。何回くらい可能だね」

「今いるのは七歳が八頭、九歳が二頭、十歳が十五頭で皆四月の末に子を産みます。全部ではここに仔牛が居なくなります」

「いや今は八頭でよいのだ」

「それなら七歳ではどうです。十歳は肉屋が産後に引き取りたいというのですが、私たちはここで余生を送らせたいと娘娘にお願いしています。今更知らぬ土地ではかわいそうです」

「分かった。余生の事は娘娘がきっとお許しなさる」

馬方八人を集め四台の馬車に八頭を乗せ、公主御用の旗をなびかせて牛飼いが四人つき、百里の道を順義縣南彩鎮へ向かわせた。

温楡河を超え李橋鎮で一晩泊まった。

潮白河を超え李遂鎮を抜けて午の刻に南彩鎮に入った。

村では新しい牛たちをお祝いで出迎え、綺麗になった牛舎に送られた。

牛の寿命は二十一世紀では二十歳と言われているが、十九世紀では十二年ほどと思われていた。

インドゥは宜綿(イーミェン)が着くと昂(アン)先生、孜漢を呼んで四人で組織図の作成を始めた。

差配三家、自営八家はすぐに決まり、新しい二家の相談に差配の三人を呼び寄せた。

「実は一人候補がいます」

差配の李宇(リィユゥ)が申し出た。

「于睿(ユゥルゥイ)の所に手代の段淡寶(タンダァンパァオ)という二十一歳の若者がいます」

「若すぎないのか」

「李橋鎮という村の差配の樊家の五男ですが、妾腹で正妻に母子共に追い出されてこの村に来ました。樊を名乗るなというので実家の段を名乗っています」

于睿の小作が母親の実家だという、幸い売られたわけでなく、実家に戻されただけで済んだという。

子供ながらに頭が良く、字も奇麗なので五年前手代にしたという。

人望もあり手代ではもったいないが母親を置いてまで出稼ぎには出ないという。

「杏の樹を植えて村を豊かにしたいとかねがね申し出るのですが、ガァォリャン(高粱)の買い付け問屋が兄上様の手代と結託し許してもらえませんでした」

三人の差配は自分の小作を半分出してでもやらせたいという。

相当村の将来を担う人望がありそうだ。

インドゥは娘娘の手紙を出して見せた。

「任せると言ってきたからそれでいいが、差配の小作はそれぞれ十軒を維持するようにして、指図する百家を九十家に減らし、そこから十家を段に着けよう。杏園の管理をその者たちにさせてもよい」

栗園も入会地の手前を徐々に広げて行くことは差配も賛成だという。

一人栗園の差配を選んで同じ十家を小作、八家が牛飼いの自営。

栗園、杏園はまだ収穫は先の話し、植樹で今年は終わりだ。

段(タン)が呼ばれ、北の斜面と東南の斜面のどちらを使うかよく調べるようにと伝えた。

家をどこへ建てるかも差配三人と相談することにさせた。

「哥哥、二家余ります」

「見て回ったが山羊と馬がいない。それを飼う家を自営に引き上げるのはどうだ。山羊、馬は村の共有財産にして管理代を村で出せばいい」

三人の差配に均等になるように指図の家を配分させることになった。

孜漢は徐(シュ)と曽(ツォン)へ勉強になるからと村の新しい組織図を作らせている。

「おいおい、ひと月はここへ泊り込むようだぜ」

段が「私がお手伝いします」と笑っている。

「できるまで此処で勉強だと脅しておきました。あいつら旅で旨いもの食い過ぎて自慢が多い」

「そういや王均(ウヮンヂィン)の奥方には驚かされた。六月黄の大盤振る舞いに香槟酒(シャンビンジュウ)と白蘭地(ブランデー)迄出てきた」

「聞きました。王昭君でも現れたかと驚いたそうです」

「こいつらは戻って来ていなかったが、宿の門口へ入ってきたとき王均(ウヮンヂィン)の嫁だと聞いた與仁(イーレン)など、開いた口がふさげずにいたくらいだ」

差配の高烈(ガオリィエ)が独り者では不便だから嫁取りを考えるようだとインドゥに申し出た。

「まぁ、そんなに一時に攻めるな。家が出来上がるまで待つことだ」

新しい差配で手代はまだ置けないとしてもそれなりの家を建てる必要がある。

村の銀(かね)は少ないので使えない。

「それなりの家を建てられるものはいるのか」

「近在の村同士で人を出し合っていますので、材料費さえあればひと月で建てられます」

「おいおい、やっつけ仕事では嫁が泣きを見るぜ。それで段は惚れた女はいないのか」

「姑のいるところはきてが少ないですから。辛抱強くないと」

本人でなく于睿(ユゥルゥイ)が言ったので皆が笑い出した。

「なんだ」

「いえね、こいつの家は姑が厳しいのですよ。嫁いびりで有名でして。でも子供を三人産んで、今じゃ嫁に太刀打ちできません」

高烈(ガオリィエ)に言われて困っている。

材料費に百五十両でできると請け合うが、いくら田舎の家でもあまりにも安い、あとで嫁が泣くことに為るといけないと孜漢が言っている。

「二軒分で五百両、差配の祝い金で一人五十両。村で預かってくれ。段への五十両は銀錠で出してくれ。嫁取りに銀(かね)も必要だ」

インドゥはそう決め、孜漢が銀錠百両、銀(イン)千銭(百両)と十両銀票三十三枚、銭二十吊(串・二十両)を出して改めさせ、段へは布で包んだ銀錠で五十両を板に乗せて渡した。

「細かくて悪いが銭はこれで全部なので置いていきたいのだ」

三人の差配と新しく差配とされた段が「ありがたく使わせていただきます」と一同に拝礼した。

 

花琳(ファリン)と姐姐(チェチェ)は宋太医の仲間の馬医者たちに触れを出し、相談に乗ってくれる人探しだ。

 

村へ馬二頭に馬車と徐(シュ)と曽(ツォン)を残して京城(みやこ)へ戻った。

夜に宋太医が友人という馬医者に従僕を連れてやってきた。

「触書が来て急いでやってきました」

「この男李橋鎮が根城で周りの牛馬の世話をしているのですが、たまたま薬剤集めに都に来ていて触書を見て私の所へ来ました」

柴信(チャイシィン)という馬医者は四十歳で四代続く馬医者だという。

順義縣が主な診療地域だという、水害の時に苗などの集積に協力した一人だそうだ。

「南彩鎮のあの村は気にかけていましたが牛、馬を借金の利に取り上げられても私には助けることができませんでした。この度果樹園の手助けということですが、杏の老木を間引きする村がありまして収穫後に間引きする予定が二百本あります」

「それまだ何年かは収穫できるの」

「その村では十五年で寿命としていますが、あと五年は収穫可能です。接ぎ木、をすれば翌年には実がなりますがまだ台木がないのでそれが出来ません。苗木もその村で買えば安く手に入ります」

「どこの村なの」

「張鎮(チョンヂェン)という娘娘お持ちの平谷縣の荘園の西側です。杏の苗木の販売でその道では高名です」

五十四里ほど西の街道沿い、南彩鎮迄四十五里ほどだという。

「樹はともかく輸送費ね」

「収穫後の農家の男は暇ですので一人一日銀(イン)二銭なら働きます。脚夫(ヂィアフゥ)たちの半分以下で済みます」

インドゥは荷車に乗せられるかを心配している。

「収穫が終われば接ぎ木用に枝切りをしますのでそれほど枝も広がりません。一台三本三人で朝出れば日暮れ前に着きますので手当は三日分見てください」

村で五十人は若い男手があるという、後押しなら子供老頭(ラオトウ)でも済むという。

「九十九人を仕事に雇えば九十九本の樹が運べます。宿がないので雑魚寝でも泊まれるところさえあれば雇えるはずです」

「三十三台の荷車はどこから調達するの」

「お任せ下されば私が集めます。樹と車で銀(イン)百九十八銭(十九両八百文)出していただけるでしょうか」

「そんなに安くて大丈夫なのかしら、銀(かね)五十両も掛らないわよ」

娘娘は二百両以上かかるかと想像していたようだ。

「二百本全部は無理かしら」

「受け入れる方が出来れば可能ですが、一ムゥ(畝)十本が理想です、十ムゥ(畝)百本になります。南彩鎮の段(タン)という若者に相談を受けたことがありますが、苗木を植えるにしてもあとで間引きが必要になると話し合いました」

段(タン)を知っているなら幸いと経緯を話すと焦りだした。

「それはいけません」

「段(タン)ではだめなの」

「いゃ、これは。そうではなくて果樹園を二手に分けることです。段(タン)に負けまいと栗園で無理をすればいさかいも起きます。また反対に段が焦れば村にとって大きな損失になります」

南彩鎮へ行く余裕はとれるか聞くと此処十日は予定がないという。

「牛馬の診察は父でも済みますし、弟弟も近くに居りますので」

孜漢と宜綿(イーミェン)へ連絡を取り南彩鎮へ明日の卯の下刻(八時十分頃)に出るが付き合えるなら馬で来てほしいと伝えた。

昂(アン)先生と花琳(ファリン)も呼びよせた。

宋太医は来てほしいはいかにも哥哥らしい言いようだと笑っている。

宋太医が「馬と人は家で泊らせて朝飯の後連れてきます」と出て行った。

「かわいそうなのは徐(シュ)と曽(ツォン)ね」

「どうして」

「今日作った資料また書き直しが出そうでしょ。いつ帰れるかしら」

「孜漢は前の旅で好いもの食い過ぎたのを自慢した罰だ、なんて言っていたが本当は手代から番頭にする試験だろう」

「受かればいいですわね。悪戯っ子の曽(ツォン)も成長したわね」

「そういえばフゥーペェンヅゥ(覆盆子・木苺)を食べて甫箭(フージァン)に怒られたのは五年も前だ。十五にもなって何をするんだと怒鳴られていたな」

黄色(熟れればオレンジ色)の実は如何にも旨そうに見える。

「あの時とりなしたのは箏瓶(ヂァンピィン)だったな。自分で世話したものを食べられたのに、泣きながら許してやっては可愛かった」

「まだ子供が出来ないのかしら。双蓮(シィァンリィエン)もそうよ。まどろっこしい娘たちだわ」

「まだ一年目だ、もうじきだろうさ」

「だといいけど」

昂(アン)先生と花琳(ファリン)に柴信(チャイシィン)の話を聞かせた。

「差配たちも期待していましたが、二十家の小作は反感を持たれないでしょうか」

「でも差配は自分たちを半分削るとまで言ったんでしょ」

公主は期待には応えられる機会を与えないといけないという。

「明日向こうで差配三人に任せようと思うのでそのつもりでいてほしいのだ」

出がけに集まった男たちは、口出しを控えて向うへ任すと納得した。

 

「それで買い取れるのですね」

「俺に任せられるかい」

「その値なら村でも出せる」

高烈(ガオリィエ)の言葉に三人が頷いている。

インドゥはおもむろに口を開いた。

「栗園、杏園は確かに村の共有財産だ。しかしまだ娘娘は村が豊かになるまで投資のつもりで銀(かね)を出すつもりでいる。村が豊かになれば自然娘娘へ入るものも増える。村の財産はまだ肥料代、耕作費に取っておく必要がある」

柴信(チャイシィン)が娘娘に頼りなさいと説得した。

「これは俺の意見だが、果樹園を二手に分けるのは賛成しないが、皆の意見を聞きたい」

李宇(リィユゥ)が口を開いた。

「わっしはまだ一昨年差配を引き受けたばかりですが。段(タン)の此処五年の働きはわしたち以上です。ぜひ両方引き受けさせたいのです」

于睿(ユゥルゥイ)が「わしたち老頭(ラオトウ)は村を食わせることで手一杯です。ぜひとも娘娘へとりなして両方やらせて下され」とインドゥに頭を下げた。

高烈(ガオリィエ)は「この村の将来は果樹園にかかっています。いくら考えても段(タン)に匹敵するものはこの村に居りません」

「待ってください。私は確かに杏園が必要と行動してきました。でも栗園は考えたこともないのです。にわか勉強では虻蜂取らずに陥ります」

「いや、お前ならできる。人手ならいくらでも使えるようにする。わしたちが後ろ盾だ遠慮することもない」

「そうだ、この間栗園の差配に小作もつけるという話でした。二十家の小作なら生活も安定する。十分果樹園に腕が振るえるというものだ」

「しかし娘娘の方へ了解を」

「わしたちが行ってお願いする」

押し問答が続いたが段(タン)が折れた。

「娘娘のお許しが得られればお引き受けさせてください」

山羊と馬を飼おうという小作が十軒も出たという。

差配の手代たちも集められ皆で話し合った。

ある程度話を聞いて両方の面倒を見たいという二家の夫婦を呼び寄せた。

「どうして両方面倒見るのかね」

柴信(チャイシィン)が代表して聞いてくれた。

山羊は雑草の整理で順に村を回ればよく、馬は荷を動かす以外は囲いの中で遊ばせれば朝晩の面倒を見れば済むので片方では余裕が出過ぎると両方の主が話した。

農地も少ないので、差配の農地の手伝いで糊口をしのいでいると高烈(ガオリィエ)が話した。

強(チァン)という高烈(ガオリィエ)の小作は十二ムゥ(畝)の農地。

于(ユゥ)という于睿(ユゥルゥイ)の小作は十一ムゥ(畝)の農地。

ほぼ最低の畑地で街道から東の道で村へ入ると、于(ユゥ)が北側、強(チァン)が南側に三代前から家があるという。

共に裏に牛舎が残っているという。

「ここは小作も村支配というだけで特に誰の小作というわけではないようです」

宜綿(イーミェン)と昂(アン)先生に説明している。

徐(シュ)と曽(ツォン)が呼ばれ下書きの村内図と誰の差配の下かを説明した。

差配の家と指示する小作が複雑に入り組んでいる。

「これでは覚えるのも大変だな」

「前の兄上様の手代が農地の数字の積み上げだけで振り分けてしまわれました」

まるで農家の事を考えない振り分けをしたようだ。

「急に分けなおしては面倒になる。今は果樹園や牛馬の世話する家の抜けた分の調整だけにしてくれ」

「任せていただけるので」

「当たり前だ。農地は農家の方が熟知している。大きく動かないようにすればいい」

「それで、馬方はどうしましょう」

「差配の方で他に良い家をあげられるなら検討しよう」

「この二家でもよろしいと」

「村で馬を四頭、山羊を牡二頭に牝六頭くらいでどうでしょうね柴信(チャイシィン)さん」

「いい数字ですよ。そのくらいなら餌代も馬に月銀(イン)三銭の四倍で十二銭。山羊は銀(イン)二銭の八倍の十六銭で済むでしょう」

「そんなもんで済むんですか。京城(みやこ)の一割にも満たないですよ。私用の馬一頭に六両も取られます」

「そりゃひどい。私の家では四頭の世話を銀(イン)八十銭も取るというので父が怒っておりますが、馬喰じゃないのですからここでは餌代で済みます」

インドゥが笑って「手間賃にならなきゃかわいそうだ餌代はそれで賄うにしても馬の餌を食べられても困るから小屋の手入れに銀(イン)十銭。牛飼いもそうだが一頭月銀(イン)三銭の費用を出してくれ。同だ孜漢」

「それでも安いと思いますよ。吝らず五銭出しましょう。牛、馬、山羊合わせても月銀(イン)百銭(十両)だ。そのうち乳も買い取り業者が高額で持っていきますよ

これには柴信(チャイシィン)も驚いている。

「そんなに出したら全村牛を飼うと言い出しますよ」

「一年の仔牛を銀(イン)十五銭で買い入れ、二年飼って売れば京城(みやこ)の相場は銀(イン)百八十七銭。儲けは出ないが損はしないという数字ですぜ」

「そういえば、ここへ来た牛たちを銀(イン)百五十銭で売れと言ってきたそうだ。年を取って肉が堅いからというそうだ」

「だが、そんなに出して肉屋は儲かるのですか」

「いやだすぜ于睿(ユゥルゥイ)さん。一番は革屋ですよ。馬、牛で五歳なら上等品で高値がついています、尾っぽの先まで無駄にしませんよ」

インドゥが一堂に決定として伝えた。

「娘娘の決めたように牛、馬に山羊の世話する小作を自営に引き上げて飼育費用は村で一頭月銀(イン)五銭負担。餌代は柴信(チャイシィン)先生と相談のうえで適宜支給。村の基金に銀(かね)三百両を預けるので今年はそれでやりくりすること。段(タン)は差配の一人として娘娘へお目見えに出ること」

馬に乗れるか聞くと小さいころに教わったという。

「李橋鎮まで行けば馬宿で借りられますよ。余分がなければわが家の馬もあります」

明日先に先生の下僕と李橋鎮へ出て、馬に慣れればその先のお供に不自由無いだろうというのでそうすることにした。

子供のころ馬に乗るのを覚えたなら大丈夫だと安心した。

先生は下僕が戻ればチョンヂェン(張鎮)へ回るという。

「ならば俺も一緒に行こう、孜漢も来てくれ」

宜綿(イーミェン)が孜漢と杏の下見もしてくるということに為った。

「三つ子の魂百まで」

 

府第へ戻ると新しい差配の腰牌が五枚届いていた。

そのうち四枚を段(タン)が預かった、漢字で“順義縣南彩鎮”満字で“大興荘”とされている。

「五枚目はここからの使いに持たせるからまず用向きと腰牌は必ず確認するように。不審が有れば必ず柴信(チャイシィン)先生に相談することだ。今日までに顔を出した六人は持ち歩くことなく出入りと覚えてくれ」

「かしこまりました」

娘娘は差配へ下げ渡す服も用意していて、特に段(タン)には帰り道に錦が飾れる立派な服を下げ渡した。

「今まで手代では服まで手が回らなかったでしょう。これは媽媽(マァーマァー)と叔母へのお土産。後は京城(みやこ)のお菓子を明日出るまでに届けると約束してくれたわ」

 

昂(アン)先生が自宅で泊らせ、土産は二段の葛籠に入れて一緒に南彩鎮迄同行した。

馬を一休みさせる間、段(タン)のことをいろいろと聞きだした。

「媽媽(マァーマァー)の苦労など知らずに育ちました。わが家は貧しくても舅父(ヂォウフゥー)も叔母も優しい人で従姉弟たちと兄弟同様に育ちました。恩返しのできる立場に為れたのも家族のおかげです」

李橋鎮の馬宿では行きと違う立派な様子に驚いている。

昂(アン)先生が「南彩鎮迄馬方を着けてくれ。清算も頼む。向こうで馬を渡すので頼むぜ」と申し込んだ。

「先生、私ならここから歩きます」

「だめだ。新しい差配の一人だ。腰牌が泣くから乗っていくんだ」

一人で帰せば歩くと思って付いてきたのだ。

村へ入る道のわきの邸の門から二人の若い娘が通りを見ている。

街道から村までは三里ほどある、此処の南の荒れ地は今の邸に付随する土地で個人の物だという。
北側は子供でも燃料の小枝が拾える低い雑木が多く、入会地になっている。

馬方がいうには「都の絹商人の隠居が荒れた庭に風情があると門から邸までは手入れをしませんが、裏の庭には立派な花園が二十ムゥ(畝)は広がっていますぜ」と自分の庭の様に自慢した。

月一度くらい京城(みやこ)や天津からの食べ物に切り花が来るという。

「さっきの若い娘は」

「天津のお孫様でさぁ、船で来て波止場からここまで何度もお供しましたぜ。お供の話しじゃ十五になったそうでね。降るほどある縁談を片端から断るそうでね。お転婆で困ると言ってましたぜ、晴れてるときは馬車にわ乗りませんと駄々をこねます」

「若い娘がそれでは日焼けしてしまう。親は困るだろう」

「トォウフゥ(投壺)は名人ですぜ」

「見たのかよ」

「八年前くらいですかね。村の秋のグゥァンディーミィアォ(関帝廟)の祭りの投壺で子供の部で勝抜けましたぜ」

「八年前じゃ、七つくらいだ」

「あっ」

「どうした」

「あなたでしたか。自分の娘二人連れてきましたよね」

「ありゃお嬢様と小間使いですよ」

「初めて投壺で女の子に負けました。あの娘ですか」

「小間使いの方が色白でね。お嬢様はあっしの娘でどこでもばれませんでした」

二人で村へ乗り入れると曽(ツォン)が昂潘(アンパァン)の馬を引き取った。

徐(シュ)が馬方に銀(イン)二銭を渡して帰した。

「宜綿(イーミェン)先生は明日帰ると伝言が来ています」

「街道の荒れ邸に若い娘がいたぜ」

「いよいよ、聊斎志異らしくなりましたね」

「哥哥は残念がること請け合いの展開だな。段(タン)は名を知ってるか」

「名は知りません」

「それだけか」

「何か気になりますか」

「おまえさんと恋仲なら芝居の登場人物は揃いだしたということさ。これで紅娘でも誘いに来れば完璧だ」

「それはそれは。期待はずれな男で申し訳ありません。投壺の時しかあった覚えもないですね」

切り返しも旨い男だ、京城(みやこ)なら持てて困るだろうと徐(シュ)が請け合った。

段(タン)は三人の差配に来てもらった。

「呼びつけて申し訳ありません。実は娘娘からの預かり物をお渡しするについて少し形式ぶらしてしまいました」

三枚の腰牌と自分の物を出し、もう一枚あり府第からの使いは今来られている六人以外は必ず持参してくることを伝え、一枚ずつ手渡した。

「私もそのマンジュ(満州)文字は読めませんが大興荘を表しているそうです」

そのあと娘娘の字で差配の名が記された服の包が渡された。

「あともったいなくも私へ、この馬上服に皆さまと同じ差配の服も頂戴し、その上マァーマァー(媽媽)とイー(姨)へ服がいただけました。菓子も最初はわが家だけのものが菓子屋のご厚意で四家分頂くことが出来ました」

二段の葛籠の下から菓子の包を五つ出して分けた。

「一つは曽(ツォン)さんへと、わざわざ言われたのですがどうしてでしょう」

「きっと中は伊太利菓子ですよ」

「伊太利菓子」

「あいつが好きな甘い干し杏入りでしょう」

「それはいいですね。私たちもきっと同じでしょう」

「気を使ってくださった」

三人の差配は見もしない内から泣いている。

「ちょっと。ねぁまだ杏入りと決まってないですよ。こまったなぁ」

徐(シュ)は慌てているが曽(ツォン)が来て開けるとクロスタータ(餡餅・Crostata)で杏が使われていた。

二人が来てインドゥはすぐに使いを出して呉れたのだ。

「よく曽(ツォン)の分まで間に合ったものだ。お前が茶を入れろよ」

差配に段が家に戻り三人は一つずつ食べると曽(ツォン)は「宜綿(イーミェン)先生たちの分に残します」と葛籠にしまい込んだ。

「曽(ツォン)。杏の煮たのは何年くらい持つのだ」

「徳海(ダハァイ)さんが言うには砂糖を吝らなければそのままで十日、菓子で焼けば冬でひと月、壺で油紙の封で二か月、瑠璃の瓶に蝋で密封すれば二年だと聞きました」

「それ以上は難しいのか」

「氷室のようなところなら五年は持つだろうと聞きましたが、凍ると瓶が割れるかもと言っていましたよ。後はもぎたてを酒に漬けるのが一番いいぞと言っていました」

干し杏にしてからの方が日持ちも良いという。

「ところで見取り図はいつごろできる」

「下書きはほぼ出来ています。後は村の者たちの年齢の確認が済めば京城(みやこ)で大きな紙へ書き写すくらいです」

「明日では無理なのか」

「自分の生まれた年があやふやなものが三人いて古い台帳と突き合せるのにあと二日はかかります」

「あれだけ正確な台帳でも無理なのか」

「先生、聞くたびに違う年を言うぼけたのがいるんですよ。八十八を過ぎてから年を取るのを忘れたようで、いくら台帳だと九十二だと言っても八十八だと頑張るんですよ」

「しまいには帳面の干支が間違っていると怒るので手に負えません。息子も困っています」

「それなら八十八の最後の年を書いておくしかないな」

「それじゃ娘娘に笑われてしまいます」

二人も困り抜いているようだ。

 

(ヂャオリァン)が六代康親王となって半年が過ぎた。

愛好文史の仲間だが遊びが多い、その分銀(かね)も掛る。

借金しても稀覯本に目がないのはインドゥに近い性分だ。

子供の頃からの我儘はなおらない上に、有名文士と付き合いをしたがる。

十代で袁枚等と同等に付き合おうとしていた。

フォンシャンは第三代禮親王に任じた。

父親は五代康親王永恩で二代禮親王(和碩礼恭親王)だった。

禮親王家は禮烈親王代善から始まる。

第八子鎮国公祜塞・第三子康良親王傑書・第五子康悼親王椿泰・長子康修親王崇安と続いていた。

崇安が亡くなり、雍正帝は伯父巴爾圖(康良親王傑書第四子)に家を継がせた。

巴爾圖が亡くなると乾隆帝は崇安の子永恩に襲爵させて康親王とさせ、乾隆四十三年には二代禮親王を継がせた。

つまり昭(ヂャオリァン)は生れながらの鉄帽子王であり親王家であった。

名門という名の穀潰しに近い。

三月十三日(陽暦五月一日)、その親王家から火が出た、西四牌楼と西安門の間の南側だ。

丸焼けとなり後を始末するのも百人がかりで十五日かかった。

フォンシャンは恩賜の銀(かね)一萬両を下げ渡し、多くの衣帛も賜給したうえ、ほかにも救済の一萬両を送った。

まれにみる優遇処置に驚くものも大勢いた。

(ヂャオリァン)には幸い人的被害はない、家財には執着はないが、書誌のすべてを失った。

長子錫濬(シィヂィン)は二十歳、あまり丈夫な質(たち)ではないが頭は切れる。

指揮を任されると、まず大工に左官の小屋を幾棟も外を囲うように北側に建てさせた。

広大な敷地に作業は西の庭と東南の正門から始まった。

外形が出来ると門番、奴婢、使用人と家族の住居、親王家の館は最後に回した。

そのころには腕の良い棟梁たちが参加し規定通りの邸となった。

 

親王府制為正門五間,正殿七間。

前夕護以石欄,殿内設屏風和寶座。

兩側翼樓各九間,神殿七間,後樓七間。

正門殿琉璃瓦。正殿脊安吻獸、壓脊七種。

門釘九縱七橫六十三枚。其餘樓房旁廡均用筒瓦。

 

解放後に正殿は取り壊され保存はされていないが、花園は現存している。

2003禮親王府大門や、古い時代の正殿の写真は“壹讀”などが載せている。

乾隆全図-乾隆十五年1750年)頃の康親王府

 

鉄帽子王親王家は年俸銀(かね)一萬両に米一萬斛(五千石=五十万リットル)が支給される。

昼火事で火器營と鼓楼大街、宣武門外からの水会の水龍(シゥイロォン)が協力し、邸外への延焼は食い止められた。

丐頭(ガァイトウ)に水屋、脚夫(ヂィアフゥ)たちは西安門から内へはいり大液池の水を水龍迄運んだ。

真冬なら運ぶ水に困ったはずだ。

大光明殿内の池、西の大明濠からも運ぶ人の姿は多くみられた。

三百人にも上る人海戦術は西隣の定王府を守る必要もあり、豊富な水源の近くで起きた火事の広がりを防いだ。

範文盧(ファンウェンルゥ)は預かる資金から、丐頭(ガァイトウ)三組織へそれぞれ八十吊(銀八十両)と酒代十吊(銀十両)を配った。

文盧は親王府近辺と聞いて、駆けつけると銀(かね)役に手伝う男、女を問わず、一人銀(イン)一銭を配らせてもいた、銀(イン)三百五十銭(銀(かね)三十五両)担いでいって五十五銭が残った。

乞丐(チィガァイ)達も二度手を出すものは出なかったようだ、これは物売りの親父たちにとってもいい実入りとなったようだ、男気のある奴が何人かで買い切りして振舞ったという。

物売りが出なければ一息もつけない火勢だったという。

水屋二軒にはそれぞれ銀(イン)三十銭(三両)を出した。

脚夫(ヂィアフゥ)寄せ場十軒二十六人には協定で一人銀(イン)三銭が手当てされた。

水会(シィウフェイ)の出役には一人銀(イン)五銭が決まりだ、店主、店員の区別はない。

手当の差はあるが、何度も話し合った予算で決められた。

宣武門(シュァンウーメン)外の台車八両(四寄り合い所)の水龍(シゥイロォン)、鼓楼大街(菓子市)台車八両(二寄り合い所)の計十六両の水龍は大きな鎮火能力を認められた。

親王府からは火器營、水会(シィウフェイ)へ礼の一言も無かったという、隣の定親王綿恩(ミェンエン)は各方面へお礼の挨拶回りを忙しくしていた。

火器營は貝子(四等爵)綿志の指揮下、水会は民で“役に立てました”が当然と思っているようだ。

 

綿志の父親は八阿哥儀慎親王、六十一歳でいまだ元気だが酒が過ぎると評判だ。

綿志は嘉慶帝の信頼も厚い、掛け持ちの役が増える一方だ。

宋太医の話しではいくつもの護軍統領を渡り改革をしているという。

十五善射大臣などはすでに六年、火器營事務大臣は五年務めている。

第三子の奕績は戊午(嘉慶三年)生まれだがイーシァン(医生・医者)、ィアォディェン(店・薬屋)の手が欠かせないという。

長子、次子と亡くしているという、相談は受けるのだが綿志はいたって丈夫だという。

(淑嘉皇貴妃・嘉妃-金佳氏ギンギャ)

 

インドゥの伯爵復位は持ち越しとなり、代わりに頭等侍衛、正白旗満州副都統に任じられた。

これは鑲、正黄、正白上三旗六十人(旗二十人)の規定に従い正紅旗から移動させたものだ。

頭等侍衛(一等侍衛)を盾に満州(マンジュ)、蒙古(マァングゥ)への派遣は見送られた。

頭等侍衛平儀藩(ピィンイーファン・満州正白旗)が右足骨折で引退をし、其の穴を埋めさせるための起用だ。

皇帝直属上三旗とし政争の具となるのを防いだ処置だ。

本人侍衛處へ出るのを喜んではいない、夜間宿衛が三日に一度ある不規則な勤務体系が面倒なようだ。

武進士の猛者の間に並ぶといかにもひ弱だ、剣技は並み、弓術は人並み、馬術はやっとこ。

棍位が抜きんでいても目立たない、武進士の武術には棍も拳も含まれていないがそれなりに学んできている。

なぜか侍衛仲間に人望は有る、故事来歴、詩編、聞けば明確に答えてくれる。

書は人並みと思っていても、侍衛の中では抜きんでている。

拳での申し合いを望まれ、二等侍衛の大男を投げ飛ばしたときは頭等侍衛でも驚いていた。

投げられた方も「どこを掴まれたか覚えがない」というほどの早業だった。

上半身肌脱ぎでも筋力がある体に見えない。

拳の指導を頼まれると藍翎侍衛が三人がかりでも打ち込めない内に、左右に動かれ、体を入れ替えて投げ飛ばされてしまった。

「打ち込もうとすれば隙が出る。その隙をついただけだ」

なんのことはない、棍に拳の指導に通うような塩梅に成ってしまった。

 

頭等侍衛張聯元(直隷献縣)という嘉慶十年の武進士状元の男はさすがのインドゥでもてこずる拳の名手だ。

「棍を所望」

そういうので獲物をもって打ち合うが勝負がつかない。

剣に替えると、インドゥに分が悪く押され気味だ、受けは持ちこたえるが打ち込むすきがつかめない。

四半刻後双方汗みずくで座り込んでしまった。

託津(タゥオヂィン・托津)が見ていたが、不満顔で戻っていった。

「どこが並みの剣技ですか。噂は当てにできない」

「逃げるのが上手くなっただけですよ。実戦の役には立ちませんよ」

してみると皇族の剣技は侍衛以上の腕の持ち主が多かったということだ。

少年のころの先生に受けは好い、型は奇麗だと言われた。

剣を持たせたら奕紹(イーシァオ)に遠く及ばないので、普通以下だと思い込んでいた。

見抜いていたのは平儀藩くらいだろうか。

其の奕紹は喀喇沁(ハラチン)の争いの裁定に出向いて留守だ。

格格の趙氏は三月には出産というこの時期に「ご苦労なことだ」と皆が労って送り出した。

鑲黄旗護軍統領ともなれば移動にも三十人の兵が付いてゆく決まりだ。

 

フォンシャンは劉權之を遊ばせては置かない。

三月に入ると光祿寺卿(漢)を命じた、何か思惑でもあるようだ。

侍衛の間には都察院左都御史へ転任の噂もある。

 

信(シィン)は四月に京城(みやこ)へやってきた。

関元に京城(みやこ)が初めてだという康演の二儿子の関栄(グァンロォン)と何度も来ている三儿子関玉(グァンユゥ)も来ている。

三兄弟で京城(みやこ)の結の仲間への顔つなぎもあるようだ。

他には邸の男たち四人だけだ。

趙(ジャオ)哥哥の顔も見える。

双子の趙延壽(ジャオイェンシォウ)と趙延幡(ジャオイェンファン)もお供に付いてきた。

共に十七歳の青年で、十九歳の鄭四恩(チョンスーエン)より一回りガタイが良い。

皆が居間へ呼ばれ「奴婢は今年六人まで引き受けます」と公主が伝えた。

関元と信を残し「十二人迄は受けられるようにしますけど、表向きは六人というのですよ」と打ち明けた。

公主使女から二人婚姻で抜け、新たに三人入ってきたこと。

さらに年内二人使女から嫁に出すことなどを話し合った。

 

嘉慶十一年三月乾隆花園掌事宮女より豊紳府公主使女へ。

江麗穎(ジァンリィイン)二十五歳。

嘉慶十二年三月嫁入り予定。

史佳寧(シーヂィアニン)二十五歳。

嘉慶十二年四月嫁入り予定。

黎梓薇(リーヅゥウェイ)二十五歳。

嘉慶十二年三月嫁入り予定。

 

三月二十日、府第から嫁入り。

武環梨(ウーファンリィ)二十九歳。

-二等侍衛(満州正白旗)・紀佶崇(ジーヂィチォン)二十九歳

 

夏玲宝(シァリィンパォ)二十九歳。

-二等侍衛・管麟歓(グァンリィンファン)二十九歳。

 

陸鳳翔から密書が来た。

蔡牽(ツァイヂィェン)が台湾へ本格侵攻をかけたが、李長庚が金門鎮総兵官の許松年、澎湖協副将の王得禄を使い撃退したという。

福建省側へ戻った海賊船団の動きは潮陽(汕頭・シャントウ)では、つかめないという。

黄崗(ホワンガン)鎮副将へ任命され移動とのことだ。

蔡牽からの防衛を任命されたというが、守備範囲は拓林湾一体と広い。

 

福州の結の伝文書は蔡牽(ツァイヂィェン)と台湾北部の有力者が、手を結ぶ交渉をして居るという。

乾隆五十三年1788年)台湾出征の際の屈辱を晴らそうとしているのだろうか。

首謀者は北路の秘密結社天地会(三合会)の指導者は林爽文。

総兵柴大紀と陝甘総督福康安(フカンガ)に郷勇の協力で、三年抵抗したが、とらえられて処刑された。

 

李長庚(リィチァンガァン)は嘉慶十一年二月(18064月)には、福寧沖で蔡牽の海賊船団を撃破するも取り逃がした。

三月、これら台湾の戦役に関する論功行賞が京城(みやこ)で行われた、

愛新泰(伊爾根覚羅氏)は、反乱鎮圧の功を認め提督銜へ昇格。

武隆阿(瓜爾佳氏)が台湾鎮総兵官へ昇格。

王得禄は(臺灣府諸羅縣)、澎湖協副将から福寧鎮総兵官へ昇進。

許松年(浙江瑞安)は初戦時に槍傷を負い、早々に戦線を離脱し恩恵を受けていない。

邱良功(福建同安縣)は弾劾をされるも潔白を認められ、台湾鎮副将に任命された。

勢力が弱ったと言え、蔡牽(ツァイヂィェン)、朱濆(ヂゥフェン)の被害は脅威に値していた。

 

玉徳(ユデ・満州正紅旗、瓜爾佳氏・グワルギャ)から病が重く任に堪えないと上奏が来たという。

劉權之(リォウチュァンヂィ)の御史への移動の噂が福州(フーヂョウ)迄届いたのだろうか。

四月に都察院左都御史(滿)の英善(薩哈爾察氏)が西蔵駐留時に国庫資金を流用したことを問われ、降格されたことも関係があるようだ。

都察院左都御史(滿)の替わりは賡音(姜佳氏)と博興(博爾濟吉特氏)の名が上がっている。

玉徳(ユデ)は嘉慶十一年五月十九日(180675日)に病気を理由に辞任した。

阿林保(舒穆禄氏シュムル・満州白旗)が玉徳の後任として閩浙総督に抜擢された。

フォンシャンに李長庚(リィチァンガァン)が海賊と癒着していると上奏して、反対にけん責された。

インドゥ、粘竿処(チャンガンチュ)、阮元(ルゥァンユァン)などの報告の正当性をフォンシャンは信じてくれた。

状況を理解した浙江巡撫清安泰が手をまわしていて、李長庚には影響は起きていない。

 

各地で頻発する匪賊、民衆反乱の影響で海賊討伐の国家予算を組めていない。

劉權之たち漢人官僚は「せめて和珅の横領が講談師の言うほどにあれば、銀の苦労などありはしない」と「話し千倍、白髪三千丈ものだ」と嘆いている。

地方政府の負担、特に巡撫、総督の負担は重くのしかかっている。

結、御秘官(イミグァン)の資金も当初予算の壱百萬両を使い果たす寸前だ。

地方官への貸付金だけで銀(かね)二十萬両を超えてしまった。

四半分は李長庚の個人借り入れで、そのうち半分は戦死者の遺族への見舞金に消えた。

平儀藩(ピィンイーファン)は動かせる満蒙の御秘官(イミグァン)の銀(かね)のうち二十五分の一に当たる遊休銀二十萬両を海賊退治資金に使わせた。

棒引きした三千萬両があればと平儀藩は悔やんでいる。

今動かせないが結と御秘官(イミグァン)の銀(イン)はまだ二千五百萬両相当が満蒙二つの地域の経済を支えている。

 

劉權之(リォウチュァンヂィ)は 嘉慶十一年九月十六日(18061027日)都察院左都御史(漢)に任じられる。

結句、玉徳(ユデ・瓜爾佳氏)は蔡牽(ツァイヂィェン)との談合は罪に問われずに逃げ切った。

 

その後の玉徳(ユデ)は烏什(ウシュ・新疆ウイグル)辦事大臣に着いている。

嘉慶十二年十月十二日(18071111日)任

嘉慶十三年六月二十四日(1808815日)因病回旗辞任。

その後嘉慶十四年(1809年)に亡くなったと伝わるが、正確な死亡日は不詳。

 

家系は桂良(グイリャン・瓜爾佳氏グワルギャ・1785年~1862年)という傑物が継いでいる。

出だしは捐納で官に付き、各地の総督を歴任、頻発する反乱を撃退、吏部尚書、兵部尚書等についている。

清朝では身分も金次第と言われた、災害が起きるたびに範囲は広くなった。

裕福な商人にとって金銭で官員に準ずる資格を得ることができ、幕末の和国も同じような時代に入っていった。

桂良は辛酉政変(1861年)で恭親王・東太后・西太后のグループを支持、軍機大臣へ上り詰めた。

娘は恭親王愛新覚羅奕訢(アイシンギョロイヒン・鬼子六1833年~1898年)嫡福晋瓜爾佳氏。

その長女が西太后の溺愛した“大格格”荣寿固倫公主(1854年~1924)。

長男は追封恭果敏親王載澂(ヅァイチァン・1858年~1885年)内大臣・鑲紅旗蒙古都統。

桂良(グイリャン)と同時代の清国の瓜爾佳氏(グワルギャ)には大勢の洋務運動の推進者も出ていて、ほとんどが西太后に付いた。

・文祥(ウェンシャン・満州正紅旗1818年~1876年)-軍機大臣・総理衙門大臣。

・栄禄(ロォンルゥ・満州正白旗1836年~1903年)-軍機大臣。

娘の幼蘭(イゥラァン・1884年~1921年・母親-劉佳氏)は醇親王載灃に嫁ぎ宣統帝溥儀の母となった。

子供たちに溥儀、溥傑、韞瑛、韞龢、韞穎がいる。

・勝保(・~1863年満州鑲白旗・蘇完瓜爾佳氏スワングワルギャ)-鑲黄旗満州都統・正藍旗護軍統領。

 

浙江巡撫に阮元(ルゥァンユァン)が戻るのはまだ先の事だ。

服喪のためと表向きはそうなっている。

福建巡撫(嘉慶十一年十月)へと書類は出来たが、病気を理由に着任せずに終わった。

 

嘉慶十一年丙寅十月に婚姻予定の二人の公主使女が十一日と十五日に婚姻をした。

十一日は郝紅花(ハオホンファ)二十六歳。

-二等侍衛(満州正紅旗)・安鄰鵬(アンリィンパァン)

西城下后廠平胡同

乾隆四十五年十一月十二日誕生二十七歳。

十五日は孔林杏(コンリンシン)二十六歳の婚礼だ。

-二等侍衛(満州正紅旗)・邸欧理(ティイオゥリィ)

西城下大椿胡同

乾隆四十六年一月二十日誕生二十五歳。

 

十二月一日には約束の御秘官(イミグァン)の上皇付き奴婢がすべて乾隆花園から豊紳府へ引き取られた。

夏茄宝(シァチィエパォ)

二十五歳。

夏玲宝の妹妹

江蘇(ジァンスー)-無錫(ウーシー)

乾隆四十七年六月十五日誕生。

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十三年三月婚姻予定。

 

江麗榮(ジァンリィロォン)二十五歳。

乾隆四十七年六月十五日誕生。

江麗穎(ジァンリィイン)の妹妹。

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十三年三月婚姻予定。

 

姜雲麗(ジァンユンリィ)

乾隆四十七年十月初五日誕生。

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十三年三月婚姻予定。

 

武環華(ウーファンファ)二十五歳

乾隆四十七年九月十一日誕生。

武環梨(ウーファンリィ)の妹妹。

山西(シァンシー)-呂梁(ルーリャン)

上皇付き奴婢・乾隆花園掌事宮女

嘉慶十三年三月婚姻予定。

 

第五十回-和信伝-壱拾玖 ・ 23-03-20

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

Kanon-0-1.htmlへのリンク

kanon5-20.htmlへのリンク