烏里雅蘇台等処地方参賛大臣は二百四十人の緑営兵が指揮下にいて、五年ごとに交代している。
交代時は二十人ごとに三日おきに移動させるのだという、駅站にはそれ以上引き受けることができないからだ。
参賛大臣蒙古はドルジ(多爾濟)が引き継ぐと定められている。
訪問時に不機嫌なのは袖の下を期待していたと分かった。
インドゥは相当期待されていたようだと感じ、金錠五十両をアルヒ(乳酒・蒸留酒)を届けるときに三人連名で贈っておいた。
将軍ともう一人の参賛大臣にも劉榮慶が三人連名で同じように送った。
木造の柵で囲った定辺城の西二里に人家が密集した所が市場だ。
南へ一里ばかりの道沿いに並んでいる。
ゲル(パオ・包)の前に日除けを出して商品を並べている。
道端の東の店は十二軒、みな雑貨を売っている、香皂(シィァンヅァォ)があるが蒙古人は買わないという。
京城(みやこ)、天津(ティェンジン)、山東(シァンドン)から来た者が商いをしている。
張(チャン)という元締めが通りの東を支配して、品物を仕入れて来ては各店へ卸しているという。
使用人ではなく店子に近い。
通りの西は妓楼が二軒に酒楼のほかは薬坊、茶坊と馬の飼料などを扱っている店だけだ。
此処の薬房はルゥロォン(鹿茸)の元締めだという。
妓楼と酒楼には湯あみの設備もあるそうだ。
裏手に回ると屠宰(トゥーヅァィ)人が五人ほど家を構えている。
店で無いのは注文だけで陳列はしていないのだ、駱駝の去勢も請け負っている。
只、紐で睾丸の根元を縛るだけだが技術があるようだ、駱駝の睾丸は食うものがいないと聞いた。
三年目に入ったものから行われるそうだ。
蒙古人の商人は隊商も小さく、三十頭から五十頭でインドゥたちが巡回しようと考えて将軍に上奏した順路が、主な取引場所だ。
十人くらいが行動を共にしている。
もっと小さな隊商となるとコブド(科布多・ホブド)までの駅站を回っている。
インドゥ達は肉が必要な時はボウという男に頼めば必要量を集めて来る。
ボウの本当の名など、誰も気にしていない。
アイラグ(馬乳酒)は毎日ドンと呼ばれる夫婦が持ってくる。
二十人も人を使っているとは思えぬ低姿勢の夫婦だ、アルヒ(乳酒・蒸留酒)も頼めば調達してくれる。
葡萄酒(プゥタァォヂォウ)を飲んだ空き瓶へ詰めて保存した。
商店街を抜けて少し緩やかな坂を上る、山(丘程度に見える)が狭まって先が見通せない一帯が野営地だ。
崖沿いに西北へ行くと小川がある、小川の先は広い牧草地だ。
野営地は馬と駱駝を囲うには最適地だが牧草地というほど草はない。
アルタイから来る道の山上には池と言うよりは、湖という方が良い水源があり、枯れることはないという。
西の崖下の井戸は水が美味いが、当分は沸かしたものを飲む様に宜箭(イィヂィェン)が申し渡した。
インドゥは小ぶりのゲル(パオ・包)二つを湯あみ専門にした。
もう一つ、オンドルを造れると聞いて馬車を利用して蒸し風呂にした。
野営地がそのまま集落になり、周りに土地の隊商達も集まって来た。
二十ほどのゲル(パオ・包)に三十三人が暮らしている。
インドゥとチョンシラァン(鄭紫蘭)は早速遊びに行って友人になり、玉米(ュイミィー)の粥に鹿の干し肉持参で食事に行くようになった。
その家族は去勢された牡駱駝を八十頭に牝牛三頭を保有している。。
羊に山羊、馬は持っていない。
商人の妻が作るウルムが美味しくて行くのが楽しいようだ。
アルヒ(乳酒・蒸留酒)を五瓶(かめ)お土産に持っていったら隣近所の女たちも集まって来た。
ツェべグマァという名の年寄りも鹿の干し肉をしゃぶりながら陽気に歌を聞かせた。
マァは母さんなのかと思ったら坊さんがつけた名で、坊さんがつけると最後にマァをつけるのが決まりらしい。
後で知り合ったラマ僧は「皆がそうするとは限りません」と笑った。
台鐘(タァィヂォン・置き時計)を置かせたが、捩子巻きが面倒らしく、止まったままだ。
ゲルは円形に作られ芯は二本の柱「バガナ」が支えている壁は「ハナ」。
屋根棒は「オニ」、天窓が「トーノ」、扉は「ハールガ」。
天井の「トーノ」の真下に炉が置かれている。
「トーノ」から煙突を出して暖をとり、料理を作る。
日中暑ければ「トーノ」を開け、床部分をめくって風通しを良くする。
インドゥのゲル(パオ・包)は四丈(963センチ)という大きなものを組み立てた。
二十人はそこで会合が開ける大きさだ、商人たちの倍はある。
材料を集めるのに十日で済んだのは売り込む商人がいたからだ。
普段の軍務は参領の宜箭(イィヂィェン)のゲル(パオ・包)の隣のゲルで取る。
豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の八旗満州鑲藍旗と八旗護軍鑲藍旗の旗は朝に掲げられ、日没時に当番兵が取り込んでくる。
総監の劉榮慶(リゥロォンチィン)のゲルが会計事務となった。
馬車は繋げて倉庫にし、その周りをゲル(パオ・包)で囲んだ、入り口は慧敏の意見を入れて東向きにした。
野営地になった当時は厠所(ツゥースゥオ)も少なかったが、十台の馬車の車輪を外して五か所に分けて設え(しつらえ)た。
そうなると、毎朝馬糞と共に集める業者も現われた、ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)の紹介だ。
シゥ(黍)にスゥ(粟)の畑に敷き込むと効果が表れるという。
五月に撒いて九月末の収穫と話している。
鶉に実を食べられる前に収穫と聞いて、鶉が手に入る可能性に紫蘭たちは興奮している。
この辺りでは居ないだろうと聞いて居たのだ。
銀(かね)は要らないので出入りさせてくれというので、朝来ると白箏芳(バイヂァンファン)が一人にリャンコ(两個)の饅頭かヤゥティウ(油条)を渡している。
受け取る前に井戸で手を洗ってくる律義さもある家族だ。
ムンフエルデネというツェべグマァの老大(ラァォダァ)は九日にアルタイ(阿爾泰)へ向け、十二人の仲間と打ち物(主に包丁と農機具)を売りに出るという。
アルタイ(阿爾泰)、コブド(科布多・ホブド)は農地の開墾が進んでいて農機具の売れ行きは良いという。
北のザブハン(札布噶河)河岸(ボグディン・ゴル河岸)の向うに鍛冶屋が五軒あるそうだ、クーロン(庫倫)方面へ持っていく隊商も同じ時期に出ると教えて来た。
「そんなものだけで商売になるのかよ」
「売りたいものを持っていても、駱駝や馬を持たないものは多いからな、そいつを買って違う集落で売るからどうにかなるんだ」
同行するテムーレンという老人は「塩を最期は持ってるもので買い入れて来る。こいつを手に入れるには、金ではあまり効果がないんだ」と変なことを言っている。
クーロン(庫倫)の方へ行く隊商では普段は石炭を買って戻るそうだ。
リィェンヂィアォ(炼焦・コークス)にして鍛冶屋へ売るという。
フゥイミィン(慧敏)と交渉して残りのベネチァビーズの首飾り二十二本を金錠四両で手に入れた。
紫蘭からは組紐で飾り付けた鮫皮の剣三本を金錠五両に値切り倒して手に入れた。
王神医(ゥアンシェンイィ)の薬酒の追加が早くも届いた。
話の三倍以上の薬剤と漬け込み用の白酒(パイチュウ)も届いた。
紹興酒(シァォシィンヂウ)も三十瓶(かめ)来たがすぐにツェべグマァ達に飲まれてしまった。
瓶(かめ)を女たちが欲しがるので持って行かせた。
よくこんなにというくらい多くの物を送って来た、ひと隊商雇われたとチァンピンウェン(常秉文)の手紙が付いてきた。
ツァイ(乳茶)用のツェンチャ(磚茶)も来ている。
洞庭碧螺春(ドンティンビールゥオチゥン)、寿眉(ショウメイ)も来た。
ツェべグマァは紫蘭が飲む武夷肉桂にはまって分けてもらった。
それでツァイ(乳茶)をつくることが日課のようになった。
慧敏たちと違ってクーロン(庫倫・フレー)へ回って戻ると言って荷が下りるとすぐ出発した。
王神医(ゥアンシェンイィ)の手紙に烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)(漢)が交代の噂があると書いて来た。
達祿というらしいが満州鑲紅旗(クブヘ・シャンギャン・グサ)というだけで情報がないという。
速報が届いたかどうかでその噂が出るということは、すでに粘竿処(チャンガンチュ)の報告が出ていたとしか考えられない。
参賛大臣のシャンバォ(祥保)の後ろ盾が同じ満州鑲黄旗(クブヘ・スワヤン・グサ)の軍機大臣トォオヂィン(托津)なら横滑りさせるのがせいぜいだろう。
遠隔地を回される運命(さだめ)かもしれない。
危ないのは後を引き受けたものが、前任地での落ち度を探られることだ。
五月十日、慧敏の率いる隊商が“ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)からサイル・オソ経由で張家口へ戻る”と一同そろってインドゥに挨拶に来た。
予定の毛皮が揃ったようだ。
林宗徹(リンヅォンチゥ)がインドゥの後ろから前に出て跪くので植玄冬(チィシュァンドォン)が「何かしでかしたのか」と驚いている。
駱駝引きが一人前に出た。
フゥイミィン(慧敏)が林(リン)に並んで跪いた。
駱駝引きのジャオハァオミィン(趙皓敏)が「この二人一緒にさせて下され」とインドゥに拱手して頼んだ。
フゥイミィン(慧敏)の父親で隊商の親方だ。
旅の始まりは恥をかいたが、商売を手伝ううちに心が通ったという。
「いい商売になったようだ」
「はい、娘が男に惚れるなんて思いもしませんでしたが。夫婦で隊を率いる例も多くありますから」
懐中時計をフゥイミィン(慧敏)とヅォンチゥ(宗徹)に祝いに持たせた。
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