第伍部-和信伝-弐拾陸

 第五十七回-和信伝-弐拾陸

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

烏里雅蘇台等処地方参賛大臣は二百四十人の緑営兵が指揮下にいて、五年ごとに交代している。

交代時は二十人ごとに三日おきに移動させるのだという、駅站にはそれ以上引き受けることができないからだ。

参賛大臣蒙古はドルジ(多爾濟)が引き継ぐと定められている。

訪問時に不機嫌なのは袖の下を期待していたと分かった。

インドゥは相当期待されていたようだと感じ、金錠五十両をアルヒ(乳酒・蒸留酒)を届けるときに三人連名で贈っておいた。

将軍ともう一人の参賛大臣にも劉榮慶が三人連名で同じように送った。

木造の柵で囲った定辺城の西二里に人家が密集した所が市場だ。

南へ一里ばかりの道沿いに並んでいる。

ゲル(パオ・包)の前に日除けを出して商品を並べている。

道端の東の店は十二軒、みな雑貨を売っている、香皂(シィァンヅァォ)があるが蒙古人は買わないという。

京城(みやこ)、天津(ティェンジン)、山東(シァンドン)から来た者が商いをしている。

張(チャン)という元締めが通りの東を支配して、品物を仕入れて来ては各店へ卸しているという。

使用人ではなく店子に近い。

通りの西は妓楼が二軒に酒楼のほかは薬坊、茶坊と馬の飼料などを扱っている店だけだ。

此処の薬房はルゥロォン(鹿茸)の元締めだという。

妓楼と酒楼には湯あみの設備もあるそうだ。

裏手に回ると屠宰(トゥーヅァィ)人が五人ほど家を構えている。

店で無いのは注文だけで陳列はしていないのだ、駱駝の去勢も請け負っている。

只、紐で睾丸の根元を縛るだけだが技術があるようだ、駱駝の睾丸は食うものがいないと聞いた。

三年目に入ったものから行われるそうだ。

蒙古人の商人は隊商も小さく、三十頭から五十頭でインドゥたちが巡回しようと考えて将軍に上奏した順路が、主な取引場所だ。

十人くらいが行動を共にしている。

もっと小さな隊商となるとコブド(科布多・ホブド)までの駅站を回っている。

インドゥ達は肉が必要な時はボウという男に頼めば必要量を集めて來る。

ボウの本当の名など、誰も気にしていない。

アイラグ(馬乳酒)は毎日ドンと呼ばれる夫婦が持ってくる。

二十人も人を使っているとは思えぬ低姿勢の夫婦だ、アルヒ(乳酒・蒸留酒)も頼めば調達してくれる。

葡萄酒(プゥタァォヂォウ)を飲んだ空き瓶へ詰めて保存した。

商店街を抜けて少し緩やかな坂を上る、山(丘程度に見える)が狭まって先が見通せない一帯が野営地だ。

崖沿いに西北へ行くと小川がある、小川の先は広い牧草地だ。

野営地は馬と駱駝を囲うには最適地だが牧草地というほど草はない。

アルタイから来る道の山上には池と言うよりは、湖という方が良い水源があり、枯れることはないという。

西の崖下の井戸は水が美味いが、当分は沸かしたものを飲む様に宜箭(イィヂィェン)が申し渡した。

インドゥは小ぶりのゲル(パオ・包)二つを湯あみ専門にした。

もう一つ、オンドルを造れると聞いて馬車を利用して蒸し風呂にした。

野営地がそのまま集落になり、周りに土地の隊商達も集まって来た。

二十ほどのゲル(パオ・包)に三十三人が暮らしている。

インドゥとチョンシラァン(鄭紫蘭)は早速遊びに行って友人になり、玉米(ュイミィー)の粥に鹿の干し肉持参で食事に行くようになった。

その家族は去勢された牡駱駝を八十頭に牝牛三頭を保有している。。

羊に山羊、馬は持っていない。

商人の妻が作るウルムが美味しくて行くのが楽しいようだ。

アルヒ(乳酒・蒸留酒)を五瓶(かめ)お土産に持っていったら隣近所の女たちも集まって来た。

ツェべグマァという名の年寄りも鹿の干し肉をしゃぶりながら陽気に歌を聞かせた。

マァは母さんなのかと思ったら坊さんがつけた名で、坊さんがつけると最後にマァをつけるのが決まりらしい。

後で知り合ったラマ僧は「皆がそうするとは限りません」と笑った。

台鐘(タァィヂォン・置き時計)を置かせたが、捩子巻きが面倒らしく、止まったままだ。

ゲルは円形に作られ芯は二本の柱「バガナ」が支えている壁は「ハナ」。

屋根棒は「オニ」、天窓が「トーノ」、扉は「ハールガ」。

天井の「トーノ」の真下に炉が置かれている。

「トーノ」から煙突を出して暖をとり、料理を作る。

日中暑ければ「トーノ」を開け、床部分をめくって風通しを良くする。

インドゥのゲル(パオ・包)は四丈963センチ)という大きなものを組み立てた。

二十人はそこで会合が開ける大きさだ、商人たちの倍はある。

材料を集めるのに十日で済んだのは売り込む商人がいたからだ。

普段の軍務は参領の宜箭(イィヂィェン)のゲル(パオ・包)の隣のゲルで取る。

豊紳殷徳(フェンシェンインデ)の八旗満州鑲藍旗と八旗護軍鑲藍旗の旗は朝に掲げられ、日没時に当番兵が取り込んでくる。

総監の劉榮慶(リゥロォンチィン)のゲルが会計事務となった。

馬車は繋げて倉庫にし、その周りをゲル(パオ・包)で囲んだ、入り口は慧敏の意見を入れて東向きにした。

野営地になった当時は厠所(ツゥースゥオ)も少なかったが、十台の馬車の車輪を外して五か所に分けて設え(しつらえ)た。

そうなると、毎朝馬糞と共に集める業者も現われた、ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)の紹介だ。

シゥ(黍)にスゥ(粟)の畑に敷き込むと効果が表れるという。

五月に撒いて九月末の収穫と話している。

鶉に実を食べられる前に収穫と聞いて、鶉が手に入る可能性に紫蘭たちは興奮している。

この辺りでは居ないだろうと聞いて居たのだ。

銀(かね)は要らないので出入りさせてくれというので、朝来ると白箏芳(バイヂァンファン)が一人にリャンコ(两個)の饅頭かヤゥティウ(油条)を渡している。

受け取る前に井戸で手を洗ってくる律義さもある家族だ。

ムンフエルデネというツェべグマァの老大(ラァォダァ)は九日にアルタイ(阿爾泰)へ向け、十二人の仲間と打ち物(主に包丁と農機具)を売りに出るという。

アルタイ(阿爾泰)、コブド(科布多・ホブド)は農地の開墾が進んでいて農機具の売れ行きは良いという。

北のザブハン(札布噶河)河岸(ボグディン・ゴル河岸)の向うに鍛冶屋が五軒あるそうだ、クーロン(庫倫)方面へ持っていく隊商も同じ時期に出ると教えて来た。

「そんなものだけで商売になるのかよ」

「売りたいものを持っていても、駱駝や馬を持たないものは多いからな、そいつを買って違う集落で売るからどうにかなるんだ」

同行するテムーレンという老人は「塩を最期は持ってるもので買い入れて来る。こいつを手に入れるには、金ではあまり効果がないんだ」と変なことを言っている。

クーロン(庫倫)の方へ行く隊商では普段は石炭を買って戻るそうだ。

リィェンヂィアォ(炼焦・コークス)にして鍛冶屋へ売るという。

フゥイミィン(慧敏)と交渉して残りのベネチァビーズの首飾り二十二本を金錠四両で手に入れた。

紫蘭からは組紐で飾り付けた鮫皮の剣三本を金錠五両に値切り倒して手に入れた。

王神医(ゥアンシェンイィ)の薬酒の追加が早くも届いた。

話の三倍以上の薬剤と漬け込み用の白酒(パイチュウ)も届いた。

紹興酒(シァォシィンヂウ)も三十瓶(かめ)来たがすぐにツェべグマァ達に飲まれてしまった。

瓶(かめ)を女たちが欲しがるので持って行かせた。

よくこんなにというくらい多くの物を送って来た、ひと隊商雇われたとチァンピンウェン(常秉文)の手紙が付いてきた。

ツァイ(乳茶)用のツェンチャ(磚茶)も来ている。

洞庭碧螺春(ドンティンビールゥオチゥン)、寿眉(ショウメイ)も来た。

ツェべグマァは紫蘭が飲む武夷肉桂にはまって分けてもらった。

それでツァイ(乳茶)をつくることが日課のようになった。

慧敏たちと違ってクーロン(庫倫・フレー)へ回って戻ると言って荷が下りるとすぐ出発した。

王神医(ゥアンシェンイィ)の手紙に烏里雅蘇臺參贊大臣満州(定辺等処地方)(漢)が交代の噂があると書いて来た。

達祿というらしいが満州鑲紅旗(クブヘ・シャンギャン・グサ)というだけで情報がないという。

速報が届いたかどうかでその噂が出るということは、すでに粘竿処(チャンガンチュ)の報告が出ていたとしか考えられない。

参賛大臣のシャンバォ(祥保)の後ろ盾が同じ満州鑲黄旗(クブヘ・スワヤン・グサ)の軍機大臣トォオヂィン(托津)なら横滑りさせるのがせいぜいだろう。

遠隔地を回される運命(さだめ)かもしれない。

危ないのは後を引き受けたものが、前任地での落ち度を探られることだ。

五月十日、慧敏の率いる隊商が“ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)からサイル・オソ経由で張家口へ戻る”と一同そろってインドゥに挨拶に来た。

予定の毛皮が揃ったようだ。

林宗徹(リンヅォンチゥ)がインドゥの後ろから前に出て跪くので植玄冬(チィシュァンドォン)が「何かしでかしたのか」と驚いている。

駱駝引きが一人前に出た。

フゥイミィン(慧敏)が林(リン)に並んで跪いた。

駱駝引きのジャオハァオミィン(趙皓敏)が「この二人一緒にさせて下され」とインドゥに拱手して頼んだ。

フゥイミィン(慧敏)の父親で隊商の親方だ。

旅の始まりは恥をかいたが、商売を手伝ううちに心が通ったという。

「いい商売になったようだ」

「はい、娘が男に惚れるなんて思いもしませんでしたが。夫婦で隊を率いる例も多くありますから」

懐中時計をフゥイミィン(慧敏)とヅォンチゥ(宗徹)に祝いに持たせた。

 

旅で毎朝の拳の修練の様子を見ていた馬丁たちも、いつの間にやら参加している。

馬は多いが兵は少ないので、馬丁たちにも馬術の訓練をさせた。

劉榮慶(リゥロォンチィン)が兵と馬丁に正式給与以外に三日に一度銀(イン)一銭を給付した。

棉布(ミェンプゥ)が王神医(ゥアンシェンイィ)の荷と共に二百匹来たので紫蘭たち三人は毎日痛みの激しい兵と馬丁のための服をこしらえている。

馬車で百五十匹持ってきたスゥチョウ(絲綢)は五十匹残して配った。

五十匹は総監、参領、騎馬校の女たちに預け、将軍に二十匹、参賛大臣二人に十五匹ずつ献上した。

結局四人の料理人は全員の飯を作ることに為ってしまった。

周りに住み着いた商人の娘を六人雇わせた、三人はツェべグマァの孫だ。

一月いくら出せばいいかツェべグマァに聞いたら「満月ごとに銀(イン)三銭」だという。

月日の概念はない様だ、いくら何でも安いが娘達は大喜びだ。

十人いる劉榮慶、宜箭、張緒燕、潭絃の女たちは自分の主の世話をするだけで、兵や馬丁の世話は見向きもしない。

そのくせ飯は紫蘭たちの所へ朝晩食べにくる、男は兵や馬丁と食べるので自分の分を用意すればいいのにそれもしない。

宜箭(イィヂィェン)が剣、劉榮慶(リゥロォンチィン)が槍術、張緒燕(チョンシィイェン)と潭絃(タァンシィェン)が馬術と毎日の日課になった。

「弓術師範が居らん」

「将軍に頼みますか」

晉昌はカシュガル(喀什噶爾)で空を飛ぶ猛禽を撃ち抜いて落としたと自慢話を兵がしている。

 

この1808年は和国文化五年閏が六月、清国は嘉慶十三年で閏は五月。

達祿が任じられたのは嘉慶十三年閏五月二十四日(1808717日)。

本文の日付は天保歴(寛政暦)に従って換算しております。

1808717日は逆算で嘉慶十三年六月二十四日としてあります。

 

六月十二日、将軍からコブド、アルタイの視察を命じられた。

潭絃が馬丁四十名と留守居と決まった。

インドゥ、劉榮慶、宜箭、張緒燕が正規兵十二名と俄か仕立ての騎兵十七名、植(チィ)と范(ファン)はインドゥの従者で三十五名となった。

騎兵が聞いてあきれるが、ゲル(パオ・包)、食料に馬の飼料などを積んだ三十五頭の馬の世話と食事の当番が目的だ。

七十頭の馬のひと月分となると費用も膨大だが、将軍銜署からは、口譯(クォイィー)兼案内人ビヤンバドルジ、燕麦一石に銀(イン)三百銭が支給されただけだ。

参領の宜箭(イィヂィェン)は怒りまくっている。

三人、四人で回って来いと言う支給だ、怒るのももっともだ。

インドゥは野営地の作業で毎日忙しい。

将軍銜署には総監、参賛大臣定辺城には参領が、毎日御用窺い(ご機嫌伺い)に出るのでインドゥは兵の要望で棍を教えている。

コブド(科布多・ホブド)北回りと決まった。

案内人を含めて三十六人になった。

「内務府会計司資料のウリヤスタイからコブド六百里はどうやって出した数字かよくわからんね」

「空でも飛んだんでしょう。山を越え湖を超え、道なき道を進む」

「確かに呉れた見取り図にはまっすぐ線が引いてあるからな」

ビヤンバドルジと宜箭がやってきてその話になった。

主なところはウリヤスタイ(烏里雅蘇台)、西召、胡都克烏蘭、珠爾庫珠、阿爾噶曼根淖爾、哈勒占和碩、哠爾納、捜吉、哈溂烏蘇、コブド(科布多・ホブド)だという。

「道はあるのか」

「いえ、在りません、山越えのほかに、砂漠が三百六十里続いています。ドルゴン・ヌールの鹽商人に小さな隊商が使う回廊で大人数では野営できません。十四の駅站が設置されていますが、十人以上は賄えません」

「じゃ今回の支給はその駅站の分だけ支給か」

「そうなります。将軍府は規定分だけで後は任せると言っておりました」

「駅站をたどっていては視察にはならんね」

「何を視察されるのでしょうか」

「決まっていないので困るのだ。将軍銜署や定辺城では何も言わんしな」

「困りましたね」 

オラーンゴムにコブド(科布多・ホブド)アルタイ(阿爾泰)では食料に飼料も手に入るという。

ウリヤスタイと違い秣も簡単に手に入るらしい、念のため口譯(クォイィー)にも懐中時計を持たせた。

 

嘉慶十三年六月十二日180875日)

駐屯地の北へ行くと川幅半里の砂利河原の浅瀬、向こう岸に同じような川がある

総監がインドゥにこれは川の中州だと教えた。

川向うにも集落と商人たちの店がある、北の道はクーロン(庫倫)方面へつながる街道だ。

川向うの西北には広大な平原が広がっていた、一望千里は大げさでも羊の集団がいくつも見える「万は超えそうだ」宜箭(イィヂィェン)はインドゥにそう言って「駐屯地が向こうでよかったぜ」と笑った。

川沿いに二十里ほど西へ行くと川から離れて山沿いの道になった。

さらに百里ほどで小川を見つけ野営することにした。

ゲル(パオ・包)と云っても、夜露に濡れないで寝られる程度のものだ。

火起しでリィェンヂィアォ(炼焦・コークス)で火を焚いて、湯を沸かし、ヤゥティウ(油条)を齧った。

九時三十分漸く山の向うへ夕陽が沈んだ。

当番は夜中に起きだして湯を沸かし、麦と玉米(ュイミィー)の粥を作った。

陽が出たので出発の準備をした。

十四日、六時に出て集落へ午後五時に入った。

集落の先に井戸があるというのでその先に野営と決まった。

口譯(クォイィー)のビヤンバドルジはウリヤスタイから三百里だという。

ビヤンバドルジが村の者から羊二頭を買って屠宰(トゥーヅァィ)もしてもらった。

皮と骨をやる約束だという、アルヒ(乳酒・蒸留酒)があると誘ったら妻まで連れてきて焼いた肉を旨そうに食っている。

植(チィ)が胡椒の瓶を一つ上げたら大喜びで集落へ戻っていった。

朝はまた麦と玉米(ュイミィー)の粥だ。

馬糞拾いは居ないのでリィェンヂィアォ(炼焦・コークス)は大切だ。

十五日、六時に出て夕六時に二十五棟のゲル(パオ・包)集落が見えた。

何、道を下るとき五列に奇麗に並んでいたのですぐに数えられた。

川が大きく広がっている、幅二里ほどもありそうだ。

百零五里は今日一日で来たはずだという。

草地が広がっているのでビヤンバドルジが交渉したら羊二頭の肉と、草を馬が食べるのに金錠两両欲しいというので宜箭(イィヂィェン)が支払った。

川の脇に湧水があるというのでそこから水を運んで飯にした。

ュイミィー(玉米)の粥にシゥ(黍)の飯、羊の串焼きの支度が出来たというのでアルヒ(乳酒・蒸留酒)で酒盛りになった。

朝は肉入りの湯でヤゥティウ(油条)を浸して食べた。

食事当番の馬丁も腕が上がって、火の入った肉を寸胴に保存して湯に入れている。

遣り繰りも上手くなってきている。

十六日、今日も六時に出発した。

三時頃、川を浅瀬で越えた、ウルガマルという地だとビヤンバドルジが宜箭に教えている。

砂地を西へ行くと三里ほど北の崖下に井戸があるという。

路らしき跡から崖下を目指した、石組みのしっかりした井戸がある。

六時に野営となった、今日は百四十里ほどになるという。

十七日、キヤールガス・ヌールを目指した。

此処も塩湖だが鹽商人は見当たらない。

ザブハンという集落へ上がるには暗くなるというので近くても宜箭はやめにした。

草地があるのでまだ一時だが、そこで野営となった。

十八日、久しぶりに雨が通り過ぎたので出たのは八時になった。

岩山を迂回して、ザブハンの集落に午後三時に着いた。

十九日に出て二十三日にウブス・ヌールの湖畔で一泊。

鹽商人たちと情報の交換をした、太古の昔、此処は海だったという。

遠目の利く兵が山の斜面にシュエパァォ(雪豹)を見つけた。

人間どもを見下している、湖の北の端はロシアの領内に属しているという。

しかし暑い、塩が陽の光を反射してくる。

オラーンゴムの集落には旅に必要なものはそろっているという。

二十四日にオラーンゴムの集落へ入った。

道筋には早くも麦の若い葉が揺れていた。

ウリヤスタイとは大違いに作物が豊富に取れるという。

馬の放牧、羊の放牧、雪を頂く山が遠くに見える。

暑さを忘れるくらい皆景色に見とれている。

「牛も居るぞ」

茶色が鮮やかな牛が十頭ほど歩いてきた。

こぶが萎れかけた駱駝が五十頭ほど追われてきた。

後ろから子供たちが馬で「フレー」「フレー」と言いながらやって来た。

ビヤンバドルジは「隊商で戻ってきてこれから休養に入る駱駝です」と宜箭に説明している。

三百六十里を五日かけて集落へ入り、南の牧草地を勧められて野営した。

劉榮慶が十三日目で九百六十五里来たと日記を見せてくれた。

その夜、昨日の鹽商人がひそかにやって来た。

何を使ったかそれほど飲んでいない植(チィ)と范(ファン)はぐっすりと眠りこけている。

「どうやった」

「口譯(クォイィー)も御秘官(イミグァン)です」

平儀藩(ピィンイーファン)が“ツァォ(草)”と呼ぶ人たちだ。

ユァンウェン(元文小判)だという割符を出した。

此の世に二十枚、合うものがあるというその一つだ。

イーファンとウェンピンが仕切った時、劉全(リゥチィアン)が和国で作らせた。

一両小判二十二枚への細工だが、細工代が二百両かかっているほど精巧に作られている。

刻印をどのように合わせたか劉全(リゥチィアン)も知らなかった、本物の和国の小判に間違いはないという。

下半分は今康演とインドゥが持っている、普段は銅の鞘へ納めてある。

表向きは結に参加し、平氏の一族は御秘官(イミグァン)へも加わっている。

「哥哥の方には情報は上がらないでしょうが、富察氏(フチャ)の託津と博爾濟吉特氏(ボルジギト)、瓜爾佳氏(グワルギャ)が裏で手を結びました」

「玉徳(ユデ)の一派の悪あがきか」

「噂で銀(イン)十万両。一族で三十万両あると言います。京城(みやこ)へ出た額駙(エフ)に貝子辺りが銀(イン)を借り出したそうです」

「贅沢に染まると止めどがないからな」

「裏で羊を売らぬように工作を始めたようです」

一頭銀(イン)一銭懐に入れれば年に銀(かね)一万両にはなる。

「壊せるかな」

「金次第でしょう。資金が足りません」

「どのくらいいるのだ」

「金两万両」

「クーロン(庫倫・フレー)はどういっている」

「傍観しています」

「銀票で十万両ある。これを活用出来るか」

「隊商に一割出せば金錠に交換してきます」

「時間がかかるな」

「ヒィ(否・フォウ)。俄羅斯商人なら五日あれば交換してきます」

「まずそれで工作を始めてくれ」

自分の葛籠から百両の銀票の束を出して渡した。

さっとなぜて、もろはだを脱ぐと自分の腹巻へ入れた。

「もう一つカザフから人が山中へ潜入している者が増えています」

「兵か」

「ヒィ(否・フォウ)。農民に樵です。猟師もまぎれています」

「参賛大臣は承知しているのか」

「報告は上がっていますが、将軍銜署が動きません」

ジュンガルがイチェ・ジェチェン(新疆)となって紛争が収まって五十年以上たち往時の事を知る者も少なくなった。

カレン(卡倫線)の設置も軍を派遣できない現状では微力だ。

「原因はわかるかい」

「俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)に追われたものが多いそうです」

二人は頷いて別れた。

インドゥは固倫和敬公主の子孫たちに相当恨まれていると感じた。

豐紳濟倫は死んでも祟ってくる、今度は瓜爾佳氏(グワルギャ)の進出が起きそうだ。

コブド(科布多・ホブド)でも飼料は買えるというので宜箭は三日分だけ買い入れた。

二十七日、七時にホブド川手前のミャンガドを目指してオラーンゴムを旅立った。

嘉慶十三年閏六月一日1808723・閏は下記参照

四日目でホブド川の砂州に着いた、ハル・ウス・ヌールは淡水湖だ。

すれ違うのは隊商の駱駝ばかりだ。

畑も多いが麦の仲間が多く、野菜畑は見かけない。

二日、浅いところを探して川を渡った。

川の向こうは牧草地が広がっている、ほとんどが羊で山羊は見えない。

夕方五時に街が見えた。

石垣が積んである場所が参賛大臣定辺城だという。

緑営の兵は二百四十名がここへ割り当てられている。

所属の各旗に割り当てられた兵は合計百名に満たない数だ。

 

街の手前に小川がありゲル(パオ・包)が並んでいるのでビヤンバドルジに聞くと新ホシュート(新和碩特旗)佐領のアルタン・スフのゲルだというので、牧草地での野営の許可を求めた。 

快く求めに応じてくれたうえ、羊を三頭屠宰(トゥーヅァィ)して焼き上げてくれた。

大事そうに何かを振り掛けている。

植(チィ)が利くと塩と胡椒だという。

土産用に持ってきた瓶を二つ上げたら女たちが大喜びで笑っている。

インドゥがアルヒ(乳酒・蒸留酒)を八本出すと一族総出で歌って、踊り迄披露してくれた。

京城(みやこ)を出るとき持って出た葡萄酒(プゥタァォヂォウ)の空瓶三十に詰めてもらって来た。

どこかアルヒ(乳酒・蒸留酒)の蒸留所で買わないといけない。

三日、定辺城へ張緒燕を伝令に送った。

戻ってきて報告があった。

「出来うれば現在地にとどまり、六名が明日午前中に定辺城へ来るようにとの事です」

宜箭は佐領のアルタン・スフに懐中時計と家族に京城(みやこ)の髪飾りを贈った。

インドゥが今回の旅用に渡しておいたものから選んだ。

「明日から三日野営するようになったが、いいところはないだろうか」

「なにをいうのだ。ここが一番だ」

「幾ら支払えばいい」

「羊を三日で食う分だけ払いなさい。その方がどちらも面目が立つ」

「有難い、そうさせてもらうよ。馬用の秣に飼料を売る業者に知り合いは居るだろうか」

「妻の弟弟が扱っているからそこで買ってくれないか。フルル・トゴーと言えば町の者が知っている」

必要量を言うと使いを出して呉れた。

野営地にアイラグ(馬乳酒)売りが来たので、劉榮慶が買い切ってサラントヤという佐領の妻に半分渡した。

「明日は城へ行くので強い酒は控えよう」

アイラグ(馬乳酒)なら酔うこともない、京城(みやこ)にいたときは夏しか飲めないと聞いて居たが、馬乳酒売りは二月には売りに来た。

それを言うとアルタン・スフはアルヒ(乳酒・蒸留酒)が作れるならアイラグも作れると気にもしていない。

「家で造るには今の時期が一番よく出来る、家には牝馬が少ないので、ご馳走が出来ない」

さも残念そうだ、三頭の牝馬では子馬から横取りも難しそうだ。

一日六回ほどの授乳の半分取れば家の分は出来ると言うが子馬の為には人間が我慢するのだという。

インドゥは子馬たちを見ていると末っ子のオトゴンバヤルが来て「この仔馬は僕のだ」と額の星の有る子馬を指さした。

「早く走れそうだ」

「本当。兄ちゃんたちのように競争で一番になりたいんだ」

「なら、馬と仲良しにならなくちゃだめだよ」

初めて自分の馬を与えられたようだ。

宜箭とフレルバァタルという老大(ラァォダァ)が来た。

「こいつが三歳に為ったら町一番の馬に成れそうだ」と末っ子の馬をべた褒めだ。

「実はあなた方の馬の中に欲しい馬がいるのですが、聞いたら金錠五両はすると教えられました」

「そんなに高いのかい」

「哥哥の馬だと言われましたよ」

「俺のか。あいつ六歳だが。もう一頭は三歳の若いのが来ているがどっちだ」

「六歳の方です」

聞かれた男が五両は三歳の方の値がその位から判断して教えたようだ。

産まれて半年ほどの時、気に入って銀(かね)二百両出したお気に入りだ。

宜箭は「置いていきますか」と気楽なことを言う。

「乗ってみるか」

そう誘うと喜んで付いてきた。

「タァ」

囲いの外から呼ぶとさっそうとやって来た。

「こいつはタァォシィン(桃星)というんだ」

この馬の馬丁の張(チョン)が鞍を柵に置いた。

「この鞍でもいいが、自分のを使うか」

そういうと小屋から自分のを持ってきて装着した。

簡単ななめし革の鞍だ、縁を赤い布でかがってある。

こっちへ来て、よく見る木製の鞍より乗りやすそうだ。

丘の向こうまで馬をなだめながら歩いていたが柵沿いに走らせて通り過ぎた。

戻ってきたタァォシィン(桃星)は鼻息も荒く嘶いている。

「癇性ですがいい馬ですね。俺の馬より腹も締まっている」

この家の馬たちは腹が膨らんでいるのが多い。

「鞍の感触がまだ気に入らないのさ。直に為れるよ」

意味が解らなかったようだ。

見かねた宜箭が「貰えたということだ」と教えた。

オトゴンバヤルが首筋をたたいて「お前ダァグァ(大哥)の馬だぜ」と誇らしげだ。

「哥哥、いつか聞こうと思っていたんですが。なんで桃星なんです」

「額の星をよく見てごらんよ」

頭を下げさせて三人でのぞいた。

「ありゃパァンタァォ(蟠桃)ですね。薄く色がある」

「ダァグァ(大哥)、パァンタァォってなに」

「桃を見たことないかい」

「ない」

孫悟空が蟠桃会で大暴れの話しなど知らない様だ。

「ゲレルマァの爺様の家にあるから今度見に行こう」

フレルバァタルの妻の名がゲレルマァだそうでウルギーの生まれだと言う。

きいたら馬で五日は離れている、子供が簡単に行ける場所ではない。

四日

定辺城へインドゥ、劉榮慶、宜箭、張緒燕と兵一人にビヤンバドルジが出向いた。

城塞は三か所の門があるとビヤンバドルジが教えてくれた。

道沿いの東の門から中へ入った。右が公舎で左が銜署の裏側になる。

突き当りの右が営舎でその手前奥に関帝廟が置かれているそうだ。

中ほどを左に折れて南門手前を又左に折れれば銜署の正面へ出る。

南門の方から入れば左が広い演習場に為っている。

一同は門脇へ馬を繋いだ。

科布多参賛大臣扎克塔爾は低姿勢で一行を出迎えた。

ザクタァル(扎克塔爾)張氏(チョン)満州(マンジュ)正黄旗、四川人。

嘉慶四年那彦成に見いだされたという男だ。

「今回はどのような趣でのお見回りでしょうか」

「駅站の方ではなく、隊商の使う回廊がどの様なものかの視察で、特別なお申しつけは受けておりません」

インドゥも慇懃に受け答えした。

挨拶が終わり街を見てくれと言われ、南門から出た。

東の道を南へ向かった。

大きな店と小さな店が混在していた。

馬を降りて歩いた、鹽商人もいたのだが、挨拶の片手手印に反応はない。

ビヤンバドルジは宜箭に此処の商人のほとんどが山西の商人ですと大きな声で話している。

お決まりのように酒楼に妓楼、関帝廟があった。

それでも片側三十軒ほどが西を背に建っている。東は馬宿に駱駝囲いだ。

その先にゲル(パオ・包)が五十ほども点在していた。

先に行けば五百人ほどが住む集落だという。

そこにフルル・トゴーのゲルやアルヒ(乳酒・蒸留酒)の酒造りが住んでいるという。

植(チィ)達に買いに行かせる様だ。

「アイラグ(馬乳酒)やホルモグ(駱駝乳酒)はこの付近じゃないのか」

「銜署の南門を東へ八里ほど行くと三軒の酒作りが有ります。去年来た時は五十程度のゲル(パオ・包)が有りました」

 

五月九日にアルタイ(阿爾泰)へ向けて十二人の仲間とウリヤスタイ(烏里雅蘇台)を出たムンフエルデネは、この少し前四百里離れたウルギーで交易をしていた。

乾隆帝によってこの地に移されてきたオリアンハイは今ロシアに追われたカザフの越境者に圧泊を受けている。

飼育されたヤクに山羊はいるが、野生種の毛皮が手に入りにくくなった。

その分穴埋めに農地の拡大を始めた、住民の中にはカザフの越境者に同情して共存を図る者も出ている。

ナウルズ・クジェという粥が浸透している、麦と肉という簡単な粥に家々で様々な工夫が加えられる。

ムンフエルデネ達はヤクの毛皮を三百五十枚手に入れた。

ここまで持ってきたベネチァビーズの首飾り五本と組紐で飾った鮫皮護身用の刀一振りを金錠五両で売り(仕入れ値だと強調)、アルヒ(乳酒・蒸留酒)が効力を発揮して予算の半分で手に入った。

コブド(科布多・ホブド)へ出ずにオラーンゴムへ出て、鹽商人と毛皮百枚で二千百斤の塩を手に入れた。

七月十日にウリヤスタイ(烏里雅蘇台)の家に戻ってきた。

出るときに仕入れた分の現銀、現金に儲けた毛皮二百五十枚、鹽二千百斤を持ち帰れた。

鹽は待ちかねた張(チャン)が金錠十両で二千斤引き取っていった。

大同へ戻る隊商がヤクの毛皮を百五十枚金錠十五両で買い入れた。

十二人の儲けにしては少ないが百枚の毛皮に金錠二十五両なら次の仕入れはもう少し増やすことができる。

駱駝一頭、京城(みやこ)と張家口では六日で銀(かね)五両に比べ、ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)からコブド(科布多・ホブド)は銀(かね)八両だという。

ムンフエルデネ達十二人で六十六頭の駱駝は回り道を考えなければ銀(かね)五百二十八両手に入るはずだ。

帰りの荷を探せば儲けが増える。

パァンリィン(潘玲)がそれを言うと「そんなうまい仕事は回ってこないよ」という。

六人の食事の世話に雇った娘たちがパァンリィン(潘玲)達の針仕事を見に来るようになった。

ゲル(パオ・包)の外に日除けを張り、その下での作業は笑いが絶えない。

王神医(ゥアンシェンイィ)の送って来た下着用の棉布(ミェンプゥ)を紫蘭が与えて自分用の下着を作らせると縫い目がきれいだ。

母親の手仕事を手伝うこともあるという。

次の隊商も着いてまた棉布(ミェンプゥ)が百五十匹来た。

夢月(モンュエ)からの贈り物だと書いてある。

女物の旗袍が二百五十着来た、こちらは興延と芽衣からだ。

インドゥの物は府第から二十着ついてきた。

次の便は九月の発送でミィ(米)に玉米(ュイミィー)、シィアォマァィ(小麦)の粉を送るとある。

夏場の輸送はチァンピンウェン(常秉文)の手代に止められたそうだ。

女物は総監たちの女に一人四着選ばせた。

将軍、参賛大臣の家族に三十着を振り分けて贈った。

 

閏六月十六日にインドゥたちはアルタイ(阿爾泰)へ入っている。

ここでは佐領アルタン・スフのタンディ(堂弟・従兄弟)を紹介されているのでそこへ野営した。

トモル・スフという二十代の男だ。

桃星を贈ったフレルバァタルと同じ年だという。

六十九頭の馬の燕麦も積めるだけ買い入れた。

植(チィ)が軽くなった分があるので一頭六十斤、三十四頭で出すと二千零四十斤だという。

穀物を扱う商人は六十斤入り五十袋で金錠六両欲しいという。

一袋銀(イン)十二銭は安いと宜箭が即刻買い入れた。

今年の収穫前で投げ売りしていたようだ、大分品質が劣るが仕方がない。

閏六月十九日にトモル・スフに懐中時計を贈ってアルタイ(阿爾泰)を出た。

アルタン・スフと同じように屠宰(トゥーヅァィ)した十頭の羊代金銀(イン)百四十銭しか受け取らなかった。

コブド(科布多・ホブド)で買ったアルヒ(乳酒・蒸留酒)は全部飲み切った。

空瓶(あきびん)が欲しいというので置いてきた。

閏六月二十三日朝九時にウリヤスタイ(烏里雅蘇台)将軍銜署で帰着報告をした。

ジィンチャン(晉昌)は少し疲れているようだ。

シャンバォ(祥保)に帰京命令が来たという、六月二十四日に京城(みやこ)へ向かったという。

その三日後、ダァルゥ(達祿)が着任した。

満州鑲紅旗(クブヘ・シャンギャン・グサ)、前職は吉林副都統、五年近くその任に当たっていた。

ジィンチャン(晉昌)は知っているかと聞いてきた。

劉榮慶も宜箭も知らない男だという、インドゥも聞いた覚えがない。

駐屯地へ戻る前に定辺城へ出て、ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)へ帰着報告をした。

「次の巡回時にはついてゆく。新しい参賛大臣が留守はお任せ下さいと言っていたぞ」

「承知しました」

劉榮慶は世慣れている、付いて来ても邪魔には成るまいと思っているようだ。

ダァルゥ(達祿)の銜署も訪ねてあいさつを交わした。

大きな男だ見覚えがある、笑ってインドゥを抱き抱えた。

納喇氏(ナラ)だ、葉赫那拉氏(イエヘナラ)、納蘭氏とも家系は伝える。

スクサハ(蘇克薩哈)の名誉回復によってよみがえった一族だ。

「ナラハラ、サウァンシゥ(蘇完壽)じゃないか。何時ダァルゥ(達祿)なんて名にした」

「六年前だ。副都統になった時だ。吉林ではス(蘇)は不吉だからな」

「それにしても久しぶりだ」

「哥哥が婚姻する前だからな。フゥチンが死んだあと、城子鎮へ引っ込んでいたんだ。二十年ぶりだぜ」

二人が知り合ったのはイーシァオ(奕紹)の紹介だ、宜綿(イーミェン)も弟弟のように可愛がっていた。

丁度二人の邸の中間にウァンシゥの邸があった。

拳の先生と書の先生が同じだったせいもある。

当時のインドゥはまだ府第ではなく豹子胡同の邸から和第へ移る前後だ。

ニングタ(寧古塔)へ副都統として父親が赴任して以来の再開だ。

劉榮慶たちは積もる話もあるだろうと先に駐屯地へ戻った。

広い部屋は涼しい風が通り抜ける。

従者を外で見張りに立たせて内緒話だ。

「じつはな。吉林副都統になる前に寧古塔という話もあったが、吉林将軍の秀林大人(ダァレェン)から呼び出されて下へ付いた。哥哥の縁故だそうだが、知らせるなと厳命だ。理由は将軍と同じ富察の中で哥哥たちを目の敵にする者がいるからだと聞いた」

「一番の黒幕は亡くなったがまだくすぶってる」

「それで俺にここ一番で手駒に成れと頼まれた。宜綿(イーミェン)哥哥にインドゥ哥哥の役に立つなら時期を見ようと吉林で役についていたんだ」

「情報でも持ってきてくれたのか」

「銀(かね)を預かった。銀票で二十万両」

千両でも二百枚になる、また鹽商人に交換を頼むようだ。

「馬鹿だな。懐へ半分淹れてもばれやしまいに」

「出来りゃ、もっと出世してるさ。こんな不便な僻地とは知らなんだ。寧古塔の方がましなくらいだ。吉林でさえ京城(みやこ)に思えるくらいだ」

一度でも京城(みやこ)の風に吹かれた身にはつらい風土だろう。

吉林将軍秀林の族兄成都將軍觀成その子に満州鑲白旗(クブヘ・シャンギャン・グサ)貴慶がいて、嫡妻はインドゥの下の妹妹だ。 

成都將軍觀成は一月に亡くなったという、御秘官(イミグァン)の使いが来て“ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)への派遣を工作中”と伝えられダァルゥの活動資金に銀票五万両、インドゥの資金へ銀票二十万両を預かったという。

康演が上手く回しているようだ。 

「おまえ、これからは危ない目に会う覚悟がいるぞ」

「五年前からできてるよ。妻子は置いてきたが、年銀三百両で二十年は食えるようにしてきた。あまり多いと出処(でどこ)を探られる」

同じ富察でも沙濟富察氏と筋違いの者は各地にいる、沙濟富察の中でも仲たがいは起きている。

嘉慶帝は富察氏(フチャ)と鈕祜禄氏(ニオフル)を如何しようと思っているのだろうか。

「土産だ」

渡された紹興酒(シァォシィンヂウ)の壺が入った肩掛け袋には、渋紙で包まれた銀票の重みもある。

暇なときに遊びに行くと達祿が言ってその日は分かれた。

「その革袋持ちます」

「いや、大事な酒だ。俺が持ってゆくさ」

嗤いながら馬に跨り、野営地へ植(チィ)と范(ファン)を従えて戻った。

 

ボウが馬に引かせた荷車でいろいろなものを運んできた。

「豚肉もありますぜ哥哥」

この男も気安く呼びかけるようになった、滅多に手に入らないものの一つが豚肉だ。

まだ家鴨に牛の方が入手しやすい、川向うの北の街道を十里ほど行くとヤーツ(鴨子・家鴨)を飼う農家がある。

牛はその先に山羊と一緒に飼っている、豚はそこから十里先の岩山が迫る狭い畑地の主が五十頭ほど飼っていると聞いた。

馬と駱駝は川向うの西に多い。

広い平原が際限もなく続いている、馬が二千頭、羊が五万頭、駱駝が二千頭と将軍銜署に記録されている。

潭絃(タァンシィェン)の話しでは三百ほどのゲル(パオ・包)が点在しているそうだ。

紫蘭と料理人はカァォィア(烤鴨)迄作るようになってツェべグマァを驚かせている。

わずかの間に日干し煉瓦で炉を組んで焼き上げるほどになった。

メェイタァン(煤炭・石炭)、リィェンヂィアォ(炼焦・コークス)は高いが炭よりはるかに安い。

いろいろな国者がいる馬丁も、わが故郷ではこういうものを焼くと教えてくれる。

青物は少ないがシャーツォン(砂葱)と呼ばれるツォン(葱)らしきものが手に入ると満州(マンジュ)式のお焼きが作られる。

ここ何年か酒楼の主が増やしていたものを簪二本で篭絡した。

ヂォウ(韮)は川向うへ行けばこの時期毎日売りに来ると分かった。

ナンゴンシィイ(南宮夕依)に魏星紅(ウェイシィンホォン)と馬丁三人が、買い出しに毎日行くのが知れると、チィアォマァィ(蕎麦・ソバの実)迄売りに来ていたので、持っていた二升を銀(イン)十銭で買って来た。

升と秤は星紅が持参して合っていれば少々高くても買い上げて來る。

ツェべグマァたちが臼で突いて粉にしてくれた。

柔らかく練って一口にちぎり肉の湯に入れて、女だけで食べた。

九月には収穫期に入り安くなるそうだ。

白菜(バイツァイ)に玉米(ュイミィー)はまだ育てられないと言うが、酒楼の主が毎年種は撒いて観て居ると教えてくれた。

ボウの荷車は馬車の車輪を使ったものだ、前は小さな手押し車三台しか持っていなかったので紫蘭が渡した車輪に荷台を乗せた。

紫蘭と料理人が手伝いの娘たちと大騒ぎで支度に入った。

総監の女たちも宴会の支度で出てきている。

その晩の飯は豪華だ、昼前から煮込んだ東坡肉(ドンポーロウ)、胡椒面包(パンペパート)、焼餅(肉入りお焼き)、鱶鰭(ユイチー)に干鰒魚(ガァンフゥーイ・干鮑)、インドゥのゲル(パオ・包)の周りで好き勝手に飲み食いした。

ヤーツ(鴨子・家鴨)も二十羽手に入れて貴重なジャンイォ(醤油)を塗って焼き上げた。

羊の串焼きも鐵串を借り集め、五つの火の周りに差し込んである。

串を差す丸太は此処では貴重品だ。

任兩柳(レンリャンリィオ)が二人連れて火を回っては、串を回して焼き加減を見ている。

「ここは大丈夫だよ」

待ってましたと子供たちがぼろ切れを串に絡ませて持ってゆく。

「板の上に肉を刀でそぎ落とすんだぞ。慌てて食べて口の周りを火傷するなよ」

大人に言われて磨き込んだ板の上で刀を振るって削いでいる。

鐵串は竹と違って中も火が通っている、鐵串は桶の水に入れるとジュッと音がするほど熱を持っていた。

公主から来た洋河大曲(ヤンハーダーチィ)と信(シィン)の楊梅(ヤンメイ)の白酒(パイチョウ)漬けも持ちだして商人たちへも振舞った。

ツェべグマァを筆頭にみなのん兵衛の一族だ。

馬丁に兵はアルヒ(乳酒・蒸留酒)の飲み放題に大喜びだ。

商人達は洋河大曲(ヤンハーダーチィ)を十六瓶(かめ)飲み干した、駱駝一頭で二瓶を荷駄に加えて三百瓶運んできた。

紫蘭の話しでは妓楼と酒店が三軒で百二十瓶を金錠三十両で買ったという。

酒もそうだが瓶(かめ)も貴重品だ、いろいろなものを塩漬けに出来る。

「それでも安いもんだ、京城(みやこ)の五倍ならせいぜい西城の妓楼の値段だ」

「客の多くは定辺城の兵ですから、安けりゃ喜びますわ」

「そういう考えもありか」

兵は一人での赴任だ、女も欲しくなる。

翌日、報告書の作成の下準備をした。

宜箭は「新任の参賛大臣はお知り合いでも例の物は送っておきましょう」と相談してきた。

「お付き合いだ、そうしておこうか」

「結局。前の方には選別に贈ったようなもんだね」

総監は無駄にしたという顔だ。

四十六日で一回り出来た、二千八百六十五里になると劉榮慶の日記に有った。

駅站での往復の倍だがそれなりの成果は有った。

習うより慣れろで近くに商人のゲル(パオ・包)があるおかげで、兵に馬丁(騎兵)も土地の言葉が通じるようになった。

 

七月になりムンフエルデネがクーロン(庫倫)迄スゥ(粟)を買い付けに行くという。

別の目的もあるようだ、粟だけならコブド(科布多・ホブド)、アルタイ(阿爾泰)でも手に入る。

インドゥが聞くとアマルバヤスガラント寺への巡礼を兼ねているという。

巡礼に行くのを恥じるとはおかしな奴だ。

ウリヤスタイ(烏里雅蘇台)とクーロン(庫倫)の北回廊で行き来する者は多い。

南回廊は砂漠の道だ。

二千五百里近い道で六十日での往復とテムーレンが話している。

供物にヤクの毛皮を五十枚持っていくそうだ。

不思議なのは砂漠で行き倒れた駱駝を見るが、ムンフエルデネ達の駱駝で死んだ話を聞かないことだ。

テムーレンは年を取って歩くのが遅くなると砂漠へ置いてくるそうだ。

野生の群れで生きられるかは仏の御心だという。

インドゥは慌ててヂョオロゥ(酒楼)へ行くと張(チャン)を呼び出した。

ヂョオロゥ(酒楼)の汪(ゥアン)と三人で、シゥ(黍)や玉米(ュイミィー)、スゥ(粟)の収穫が少なくて銀(かね)にならないと言うが本当かと聞いた。

「馬糞に、駱駝の糞も燃料に多くとられて畑の肥料に足りない」

馬糞は牛が近くにいれば先に食べられてしまう。

「問題はそっちじゃなくて骨粉だ」

「骨がどうかしたのか」

「お前さんたち、本物の農民を雇っていないのか」

「そんな奴此処にゃいない」

馬に駱駝が死んだら骨を焼いてその灰を農地に撒くんだと教えた。

持ってきた農本を出して「後でよく読んで置けよ」と渡した。

「羊じゃダメか」

「骨ならどれでもいいが焼き場は無いのか」

呆れる話だ、乾隆帝の時代に農作物の育成事業が行われて、五十年近い日が立つはずだ。

ボウを呼びに行かせた。

「前に俺が骨の焼き場を作らせてほしいと定辺城の役署に申し出たらお叱りを受けた。埋めるより焼いた方がいいはずだ」

「そうかラマ僧しか火葬は許されていないからな」

「だれが権限を持っているかわかるか」

コブド(科布多・ホブド)は五畜の死骸を焼いているとボウが話した。

三年前まで向こうにいたという。

張(チャン)とボウを連れて定辺城へ出向いた。

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)はダァルゥ(達祿)を呼んで協議している。

古手の漢人が呼ばれた。

「反対されたのはサムピルドルジ(薩木丕勒多爾濟)様です。それまでは許可など必要ないものでした。農地拡大の方針の時焼成した魚粉、骨粉使用と規定されています」

将軍銜署に定辺城に煙、匂いが及ばぬ場所と云うので、駐屯地の北西五里、北のザブハン(札布噶河)河岸の地が選ばれた。

(ボグディン・ゴル河岸)

屠宰(トゥーヅァィ)人は協力して組合にした。

農本を頼りに炭焼きの窯のようなものが三基つくられ稼働を始めた。

焼いたものを臼で粉にして分配した、来年には銀(かね)になるはずだ。

汪(ゥアン)の畑の白菜(バイツァイ)と玉米(ュイミィー)はすくすく育っている。

川沿いの燕麦も今年は豊作だと喜んでいる。

インドゥが見て“これで豊作だと言うならコブド(科布多・ホブド)の畑の農民に笑われる”と可笑しかった。

これでユィフェン(魚粉・魚粕)、ダァドォゥポォ(大豆粕)が手に入れば農地は拡大できる。

ュイミィー(玉米)が百本は採れると二十五本持って汪(ゥアン)が紫蘭へ届けてきた。

来年は人を使って十倍は種をまくという。

早速十三本を焼いてジャンイォ(醤油)を塗りつけ、料理人と六人の手伝いの娘も加えて食べた。

十二本はインドゥ達が分け合って食べている。

シゥ(黍)、スゥ(粟)の農家も分けてもらい畝に撒いている。

本当は漉き込んだ方が効果は出ると知っていた。

鶉と共にムンフエルデネ達が戻ってきた。

鶉と闘いながらのスゥ(粟)とシゥ(黍)の刈り入れに多くの者が協力した。

その合間に鶉を手づかみで子供たちが籠に足を結わえて放り込んでいく。

晩はその鶉を焼いて食べ翌朝また同じことが繰り返された。

三日目に鶉が去り刈り入れも終わった。

チィアォマァィ(蕎麦・ソバの実)の畑には一羽も現われて居ないという。

ムンフエルデネ達が買い入れてきたスゥ(粟)は六千斤、税を込々で金錠六十両だという。

張(チャン)が五千斤八十両で買い上げた。

鶉との戦いの後役署が調べるとスゥ(粟)一万二千斤、シゥ(黍)三千三百斤、税が銀(イン)七百五十二銭かかった。

麦はあまりとれないようで記録されなかった、最も欲しいのは麦より麦藁の方だ。

牧草を伸ばして刈り取りも始まった。

直隷の農家の負担する税に比べれば緩やかだ。

税が重ければ将軍府は食料を入手するのに莫大な経費が掛かる。

将軍府の九十六人、参賛大臣旗下二百四十人の三百三十六人に加えて官吏も三十人いる。

現地調達が原則で税を重くすれば農地が草原、最悪荒れ地と化して遊牧に出られてしまう。

定着させるのも大事な将軍府の仕事だ。

コブド(科布多・ホブド)が上手くいっていて、肝心のウリヤスタイ(烏里雅蘇台)に人がいなくなれば一大事だ。

嘉慶帝がインドゥに御秘官(イミグァン)の銀(かね)を吐き出させようとしているのも、蒙古の安定を望むからだ。

七百年の蓄積を十年足らずで半分使われてしまった。

軍機大臣トォオヂィン(托津)の策謀をうまく使ったとしか考えられない。

南の海賊にも結の銀(かね)が出ていくばかりで下賜は薄い。

救いは満、蒙の貴族への貸し付けを棒引きして、手を切れたことだろう。

頭等侍衛、荘園経営はこの地での農地確保の為の練習の気がした

砂漠の農地は無理でも、盆地の草原を一部農地へ転換できれば現地の参領、佐領も定着へ動くだろう。

伊犁將軍と烏里雅蘇台将軍が連携し、戦が起きないことが一番の大事だ。

俄羅斯(ウールゥオスゥ・ロシア)は四方八方へ触手を伸ばしトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンが狙われている。

満蒙の地へ追われた民族の移住も密に行われていた。

今の大清にその民を兵として国境警備につかせる余力はない。

十月に入ると気温は日ごとに低下してゆく。

雨は極端に減り、雪も恐れていたほどには降ってこない。

京城(みやこ)のような温度差が朝晩で極端に違うという日はない。

紫蘭の温度計だと朝日の出の七時十五分に戸口で零点下十線(-12だという。

一日のうち昼間は十時間になった、京城(みやこ)の同じ時期と一時間短いという。

朝の粥の時刻を四月まで八時にした。

冷たい南風が谷間を抜けて駐屯地へ吹きおろしてくる。

駐屯地の周りの駱駝や馬たちも小屋へ引っ込む日が増えてきた。

北の風に乗って時々雪が舞う、ゲル(パオ・包)に駱駝小屋、馬小屋、牛小屋の入り口はすべて東を向いている。

西を向いているのは馬車を改造した厠所(ツゥースゥオ)と倉庫くらいだ。

ムンフエルデネによれば冬至の頃が一番寒いそうだ。

商人のゲル(パオ・包)は三十家族四十三に増えた。

馬が三十頭に駱駝が三百頭いるが牛は二十頭ほどだ。

駐屯地も馬小屋が新たに百頭収容の大きなものが完成した。

広い駐屯地の四半分に隊商の商人たちは住んでいる、まだ駐屯地と同じくらいは西北の小川の先に草地があり羊飼いが草を食べさせに来てもよいとされている。

境界の囲いは無く、所々に石が積んである、そこで右左を見れば次の石積み迄の線が境界となる。

 

ニィンバァオドルジ(凝保多爾濟)の紹介でリィェンヂィアォ(炼焦・コークス)にメェイタァン(煤炭・石炭)を扱う家族が南の端を選んで住み着いた。

ムンフエルデネたちが巡礼したアマルバヤスガラント寺の手前の鉱山から運んで来ると言っている。

エルデネトという集落の銅鉱山近くで往復三千二百里だという。

カラコルムの北のジャルガラントで掘っていたのを誘われて此処へ来たという。

「ジャルガラントのは扱わないはなぜだ」

インドゥの問いに「品質がいいのでクーロン(庫倫)で高く売れる」と当たり前だろという顔で答えられた。

好いことに定辺城へリィェンヂィアォ(炼焦・コークス)を三日に一度二百斤納入し、そこから二十斤が駐屯地へ配布された。

インドゥは二斤割与えられたが、自前のものが多いので兵の方へ回した。

料理番へはほかの業者が一日おきに十斤持ってくる。

その分は総監の会計から出ている、駐留費は将軍銜署も定辺城も負担はしてくれない。

内務府会計司が認めた年二千両で間に合うのか総監は頭が痛い。

年十二両の馬丁に二十四両の兵、いくら飯に衣服、住まいがついても遊びもまともにできない。

その分は京城(みやこ)を発つ前に別会計でフォンシャン(皇上)の許可が出ている。

宜箭は遊ぶ場所もまともにないから使うこともないなど言っている。

総監の手当てから出す、三日に一度の銀(イン)一銭でさえ貯めるものがいる。

今回、総監は養簾銀提督並みの二千両だが、参領は総兵並みで千五百両しか支給されない。

どうしてもインドゥの懐次第となる仕組みだ、養簾銀が文官の一割では武官は割が合わない。

インドゥは羊の肉用の竹串が残っていたのでファンヂァン(凧筝・凧)を作った。

ヂャンチェ(粘貼・糊)を作るのに小麦粉を一椀分けてもらった。

関帝の顔を墨絵で描いた、ぼろ切れを集めて裏地に使って強化した。

南風だと高く上がらず苦労したが、北風はめいっぱい糸を繰り出すほど昇っていく。

三本足が北風に合うようだ。

二つ目は蝉型にして目を丸く描いた。

子供たちが欲しがるので凧の作り方を教えた。

糸が足りないので五台ずつに分けて上げた、二人ほど上手な子がいてうまく昇ってくれた。

上がり切らない子の凧は手直しをしてどうにか様になった。

後から来た子の分のヂャンチェ(粘貼・糊)が無く、考えて十字型にして尾は一本にした。

ヂャンチェ(粘貼・糊)がない分縛りは手伝って強(きつ)くした。

ムササビのようにふわふわにした動きで上がった。

見るからに不満そうだ、それでも風向きが南になるとふわふわと揺らいで昇ってゆく。

子供たち皆で応援している。

ツェべグマァが鍋でツァイ(乳茶)と作ってくれた。

ウルム(バター)がたっぷりと入ったツァイ(乳茶)は紫蘭も大好きだ。

良い茶を分けてもツァイ(乳茶)にしてしまう。

今日は鳳凰茶を使うというぜいたくさだ、ウルムだけでも楽しめる。

子供たちは「エヌーけちけちしないでもっとおくれよ」と二杯目を催促している。

この子もツェべグマァの孫の様だ。

不思議な老媼(ラォオウ)でいろいろな食材がいつも豊富にそろえてある。

紫蘭は足りないものは街へ行く前にここで探してみるくらいだ。

ウリヤスタイは銀(かね)がわくと噂でいろいろな隊商が来るようになった。

張(チャン)の商店は皆繁盛している。

汪(ゥアン)は息子に十月の初め、北のザブハン(札布噶河)河岸(ボグディン・ゴル河岸)の東端へ酒店を出させた。

ヂョオロゥ(酒楼)とは呼べないお粗末なものだが、蒸し風呂を造ったら意外と人気で順を待つ男がいるほどになった。

新月と満月の昼間だけ女に銀(イン)一銭で使わせた。

ラマの巡回が来て街はお祭りだ。

京城(みやこ)のラマ僧以上に衣装は派手だ。

エルデネゾーから来ているという三十人以上の僧が来た。

ムンフエルデネが巡礼したアマルバヤスガラントと同じ宗派だ。

京城(みやこ)の雍和宮はゲルク派でこちらも同じ宗派だ。

牛が引く荷車にはゲル(パオ・包)が積んである。

北のザブハン(札布噶河)河岸(ボグディン・ゴル河岸)から中州へ入り草地の中へゲル(パオ・包)と礼拝所を組み立てた。

この中州、南北二里、東西四里程もありほとんどが草地で人は住んでいない。

巡回時の寺の敷地に確保されているのだろう、紫蘭につられて参拝した。

京城(みやこ)の言葉が通じないが、インドゥの蒙古(マァングゥ)語で十分意思は通じた。

三体の仏像は現代仏を中に、過去仏が左、未来仏が右と説明があった。

京城(みやこ)の雍和宮の様子を聞きたがるので、駐屯地を教えると三人でやって来た。

ツェべグマァが鳳凰茶を入れるとうれしそうに飲んでくれた。

ツェべグマァとムンフエルデネが同席し、通じないところを補ってもらった。

今はチャンキャ・ホトクト四世、“ジャサク・ラマ”も彼らは知らなかった。

イェーシェー・タンパギャルツェンがその名だ。

只大清が雍和宮を通してラマ僧の支配をしているということを知っていた。

チャンキャ・ホトクト三世チャンキャ・ルルペー・ドルジェはインドゥが十二歳の年乾隆帝に随行した五台山で没した。

ツァイ(乳茶)をつくるとそれも旨そうに飲んだ、ツェべグマァは鉄観音でつくっていた。

京城(みやこ)のラマの事を二刻ほど話して別れた。

ゲル(パオ・包)を出て列をなす信者一人一人に声をかけ、周りの商人たちは馬二頭に供物を乗せて後に従った。

僧の一行は五日滞在してトソンツェンゲルへ向かった。

十一月五日、インドゥが持ってきた二十四節季の冊子によれば戊辰の今年の冬至は六日だがツェべグマァ達は九日だという。

大した差はないが書き込みにイタリアの新年は十六日だと有った。

明け方雪がやんだのでインドゥと紫蘭は朝の粥を抜いて馬で川向うへ行った。

北の道へ入ると西は岩のがけで立派な角の山羊が見える、東の草原はゲル(パオ・包)と掘っ立て小屋の間に雪山がある。

付いてきたビヤンバドルジはアルガリ(牛の糞)だという。

ビヤンバドルジはツェべグマァの孫の方だ、少なくとも十人はウリヤスタイで巡り合った。

京城(みやこ)の言葉を覚えて“張家口への隊商を組みたい”と夢を語る十歳の少年だ、大分慧敏たちに刺激を受けたようだ。

熱で昼には雪が溶けるという。

弟弟のバトエルデネの方はまだ五歳。

ムンフエルデネの子はほかに三人の娘がいる。

一番上が十三歳のサラントヤ(月の光)十二歳のオルツィイクトゥグ(幸運)十一歳のエルデニーンチョロー(宝石)で次がビヤンバドルジと四人続いての年子だ、しかも同じ母親、間が空いてバトエルデネだ。

牛小屋から男たちが籠を担いでその雪山へ歩いていく、中身を撒くとまた戻っていった。

牛と山羊が小屋から出てきた、朝の餌を食べて散歩ですと言う顔つきだ。

してみるとさっきの牡山羊は野生だろうか。

馬を還して中州まで戻り今度は西北の道の平原へ出た。

南の弱い風で寒さも強(きつ)く無い、何列も有る小屋から羊が追い立てられて出てくると雪の合間の枯れ草を食べている。

見ているとそれを追い越すとそこで止まってそこの枯れ草を食べる。

また後ろの羊が回り込む、その繰り返しで後ろはいつも閊えている。

扇形に広がっていくのが面白くて見飽きない二人をつまらなそうにビヤンバドルジが見ている。

川岸へ戻ると対岸の骨焼き場が薄い煙を上げている「今日のはウフル(牛)だ」ビヤンバドルジは匂いをかぎ分けた。

ホニ(羊)やガハイ(豚)だと多くはスープを取った後なので、肉の匂いがしない事が多い。

「ほかの匂いは」

「ないよ」

ということはボウが牛肉を持ってくるだろう、牛と豚は注文がなくとも持ってきてくれる。

最近汪(ゥアン)のヂョオロゥ(酒楼)で人気はニォウウェイの湯(テールのスープ)だ。

一頭買って好きなとこを取るとあとは売りに出すのだ、今日は何頭も纏めて屠宰(トゥーヅァィ)したようだ。

二筋の煙が上がっている。

もう一つ火が入ったようだ「モリ(去勢馬)だ」と叫んだ。

「グゥ(牝馬)じゃ無いとどうしてわかるの」

鼻をかいて「昨日夜に肉が届いたんだよ」と笑った。

冬用の保存処理をしたようだ、毎日女たちは羊の油を処理したりと、忙しい日が続いている。

インドゥはあまり馬肉を食べない、山羊も苦手だ。

 

第五十七回-和信伝-弐拾陸 ・ 23-05-03

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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