第伍部-和信伝-弐拾捌

 第五十九回-和信伝-弐拾捌

阿井一矢

 
 
  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  
 

嘉慶十五年七月初一日(1810731日)

鄭四恩(チョンスーエン)は二十三歳になった。

舅父(ヂォウフゥー)曾驍霖との約束で“五年辛抱したら四恩を結に推薦してやる”と言われていたがついうかうかと日が過ぎてしまった。

マァー(媽)が嫁いだ先の絹商人が二月前に亡くなり、後を継げる男の子がまだ五歳の外甥(ゥアィシァン)だけだという。

その子の父親は廻船問屋で三人の男の子がいるが、次男は養子に出て三儿子(サンウーズゥ・三男)しか候補がいない。

自分の商売が忙しくて今更小商人への転職など考えられないという、妻の実家を乗っ取りする気も起きない。

絹行のファンリィンシャン(幡菱祥)は番頭一人、手代二人に小僧五人で、堅実な商売をしている。

曾驍霖(ツォンシィアリィン)が間に入り鄭四恩を結へ参加させ、五歳の外甥(ゥアィシァン)へ年三百両の養育費を十年父母(フゥムゥ)へ出すと決まった。

それを貯めれば大概の商売に十分な資金になる。

三百両とは幡菱祥昨年の販売荒利益三百八十両に匹敵する金額を提示した。

経費を抜けば夫婦で八十両ていどしか使えなかったようだ。

店のわりに儲けが少ないと四恩は思った。

姻戚に連なる者に四恩が店を継ぐことへの不満は起きなかった。

四恩は寧波(ニンポー)生まれ、余姚江(ユィヤオジァン)左岸張公祠の脇を入った胡同で生まれ育った。

土地の者は姚江(ヤオジァン)と縮めて言うことが多い。

船問屋(川筋・沿岸貿易)湯閑(タンシェン)の旦那には子供のころから可愛がられた。

四恩の父親と幼友達だと聞いた。

余姚江(ユィヤオジァン)桃花渡しを左岸へ渡ると川沿いは遊び場で友人も多い。

張公祠の渡しは数も少なく和義門へ回る様になるので遠回りだ。

呂玲齢とは間に三軒挟んだ幼馴染だ、父母(フゥムゥ)は子供の頃無くなり、祖父母が育てた。

四恩一家が近くに来てからは、孫に土産をもって遊びに来てくれる。

船を雇えば店の近く(半里もしくは西門から一里半)まで来られるのも気楽に尋ねられる理由だ。

四恩は知らない様だが付近の土地を大分持っていて暮らしに不自由していない。

というより四恩はそういうことに関心が無いのだ。

ゆくゆくは半分玲齢に継がせると詳しい配分の書かれた証書も、六十を迎えたときに作られている。

四恩には呂玲齢(リュウリィンリン)との間に二人の女の子が生まれている。

マァー(媽)には当分店を手伝ってもらわなければ、素人の四恩夫婦にはどうにも始末が付かない。

八月末、余姚(ユィヤオ)邸の会計の引継ぎも済むと、家族で寧波(ニンポー)へ移り住んだ。

子供たちは慣れない街場で戸惑っていたが、隣家の七歳の娘とすぐに友達になれて街に馴染んでいった。

関元は二月ほどの間に三度寧波(ニンポー)へきて顔を出して呉れた。

信(シィン)も一度顔を出して呉れた。

店に入って帳簿の整理から始めた。

判らないところ不明な処は番頭を呼んで整理し、年内の分は自分の流儀に直した。

不明な銀(かね)も小さく、違いは銀(イン)二銭程度の付け忘れだった。

受け取りが有りすぐ判明した。

番頭だけが通いで、手代小僧は裏の小屋みたいな処に住んでいた。

近所に手ごろな売り家を見つけ手直しをし、そこへ留守居の老夫婦を雇い七人(九人)を住まわせることにした。

寧波は広州に座を奪われて小店の商いは低調だった。

マァー(媽)が飯の支度もしていたというが、空いた小屋は手直しをし、料理人を一人に女中二人を雇って住まわせた。 

マァー(媽)には店の顔になってもらった、客は亭主が死んで妻が店を仕切ったと思っている。

番頭の家は一里ほど東へ寄ったところにあるという、二人の子供を含め四人家族だという。

其処も持ち主の張刺司廟で売るというので、買い取ってそのまま住まわせた。

粛王廟付近から西へ三十軒ほども貸家を持っていたようで、銀(かね)二十八両でいいと馬鹿に気前がいい。

「天后宮のお告げが有った。人に施せば十倍になって戻ると言われた」

“不味いぞこういう手合いとは今回だけだな”と四恩は思ったが「それはそれは。必ずいいことが有りますよ」と煽てておいた。

四恩は自分が無信心だと思っているくせにお参りはしてしまう。

ヂァンフェイ(張飛)を祀る廟の持ち主が天后宮を信心している、子供の頃近くの張公祠にお参りしていたおかげかと思うところが有った。

どの天后宮かを聞いてみた。

当然だという顔で「東渡門外だよ」と教えてくれた。

子供のころから父親とよく行っていた記憶が戻り、近いうちに一度お礼を言いに行こうと思った。

城の内外を問わず関帝廟に張公廟に天王廟(托塔李天王と毘沙門天)、天后宮などは大きいものから小さいのは道端にツゥ(祠・社)が置かれているものまで数えきれないほどある。

四恩が玲齢に言うと行きたいというので、翌日娘の麗華(リィファ)と夢華(モンファ)を連れて東渡門(東門)外の天后宮へ向かった。

夢華は四恩が背負って出た。

サンヂィァンジァン(三江口)には大小の商船に混ざって、三千石級の大船が五艘も舫っていた。

「あれは龍莞幡(ロンウァンファン)さんの旗だ。ヂァポゥヂェン(乍浦鎮)から来たようだ」

龍莞幡は拠点を杭州湾の乍浦鎮へ一昨年移した。

信が海へ出るとき関元か莞幡の船で出られやすくした、関元の船は杭州(ハンヂョウ)が本拠地だが半分を寧波(ニンポー)へ移した。

此のサンヂィァンジァン(三江口)には和国からも交易商人が多く来ていた記録がある。

倭寇の襲来による被害の記録も多い。

倭寇同士の争いと伝わるのは、大内氏と細川氏の勘合符の取り合いが発端だ。

旧い勘合符を持つて後着の細川氏が役人を抱き込んだ。

大内側は当然怒り、細川氏方の船を焼き討ちした。

明の役人が細川氏方についたため矛先は役人にも向かった。

細川方の副使宋素卿は紹興まで逃げたが、明の役人が殺害された。

宋素卿は投獄され獄死、事務を所管する官署の市舶司が廃止されるに至った。

事件後十七年にわたり遣明船は送られていない。

 

遣唐使の時代から勉強の為の僧侶などもここへきている、雪舟もこの地へ上陸した。

滞在二年、足掛け三年と言われている割に逸話も多い。

“天童山景徳禅寺四明天童山第一座”

明国渡航の記録は錯綜している。

大内政弘の船“寺丸”に朝貢使節として乗り込み、寧波(ニンポー)には五月到着、滞在三か月と云う。

大運河で京城(みやこ)へ二月かかったと云う、雪舟の記事を書いた人が1467年(応仁元年・成化三年)122日北京到着としてある。

(ウイキペディアには遣明船は応仁二年1468年。正使天與清啓。幕府・細川氏・大内氏。と出ている。)

(ウイキペディアの天與清啓のページに応仁二年(1468年)に北京に到着とあるが日付がない)

別の記事には六月に正使より先に北京へ入ったとしてあった。

別の記事に14696月頃、寧波(ニンポー)から帰国としてあった。

困ったことにわざわざ旧暦を陽暦に換算しているので正確な事が分からない。

勘合貿易による利益は大きく大内氏が明正徳帝即位後勘合符を独占した。

明末期の後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などもいたと記録が残る。

彼らは肥前の五島、平戸、薩摩の山川に拠点を構えたという。

 

ティンハウゴン(天后宮)で祈祷迄あげてもらった。

玲齢が銀票十両出して一家の安全祈願を頼んだのだ。

玲齢は四恩の食生活も管理して、火を通さないものを禁じているくらい夫思いだ。

自分の父母(フゥムゥ)が早死にしたのは生物好きのせいだと思い込んでいる。

シァォシィンヂウ(紹興酒)漬のスイシエ(醉蟹・酔っ払い蟹)など絶対食べさせては貰えない。

ホンガオチャンシィエ(紅膏蟹)、ニンボーシエフゥ(寧波蟹糊)、ズイニィルオ(醉泥螺)、など雇った料理人に厳禁だと言っていた。

四恩にすれば見た目も怖いツゥシャオティァオユィ(醋焼跳魚)などは玲齢の大好物だ。

ティァオユィドウフータン(跳魚豆腐湯)はもう三度も出てきた。

スゥオヅゥシィエ(梭子蟹)のシエジャン(蟹漿)の季節が終わると、蘇州の大閘蟹(ダァヂァシエ)が入ってくる。

炒めたり茹で上げれば食べさせてもらえる。

案内人はどこで土地の者と見たか、近寄りもしない。

天后宮后街の土産物屋を見て回った、子供たちは物珍しそうに眺めているが欲しいものはない様だ。

四恩たちは浮橋方面へ回り靈橋門から内へ入り、天主堂跡の前を抜けて府城隍廟の牌楼迄来て茶亭で一休みした。

牌楼巡りをしながら平橋廟へ出た。

「だれを祀っているのだろう」

覗いたら対聯に多くの神名が書かれている、思いつく限りを書き連ねたようだ。

平橋頭の塀脇を抜けて大通りへ出て、左へ曲がればフゥトォンシァン(呼童巷)のファンリィンシャン(幡菱祥)はすぐそこだ。

今度はドゥチュァン(渡船)で向うへ子供たちを連れて行こうと夫婦で相談した。

タォファドゥ(桃花渡)で渡ればヅゥフゥムゥ(祖父母)の家だと子供たちに言うと行きたいという。 

手紙を書いて脚夫(ヂィアフゥ)に頼んで都合を聞きにやった。

ラォグゥン(老公渡)でフゥチャオ(浮橋)の向うへは夫婦とも渡ったことが無かった。

脚夫(ヂィアフゥ)は日暮れ前に戻って来た。 

明日から五日の間はお出でを待つと書いてきた。

子供たちも早く行こうというので明日朝に出ることにした。

タォファドゥ(桃花渡)まで歩くよりは船の方が早いと川船を頼みに出た。

白馬廟門前に有る顔(イェン)という川船船頭の家族はワァイズゥフゥムゥ(外祖父母)のお供もする顔なじみだ。

川船を十三艘支配して、連絡場所は周辺に五軒もある。

朝はゥオンチァン(瓮城・甕城)の外の方がいいというので辰刻(七時五十分頃)に望京門(水路・西門)外北の北斗河船着きを約束した。

銀(イン)二十二銭を先払いした。

西門の出入りは面倒で、朝は船が出るのに待たされることが多い。

朝の粥もそこそこに四人で家を出た。

門の混雑も終わっていて船着き付近も空いていたが、西門の船溜まりは二十艘以上が列をなしていた。

顔(イェン)の老大(ラァォダァ)が若い衆と乗り込んで待っていた。

屋根は菰かけだが急な雨でも濡れずに済む。

永豐門(西北・北斗河)、和義門(東北・余姚江)の外回りで余姚江(ユィヤオジァン)北岸へ向かった。

タォファドゥ(桃花渡)の手前の船着きで老大(ラァォダァ)が飛び降りて岸の石段へファン(舫)を繋いで舳先を抑えた。

玲齢が若い衆に銀(イン)二銭渡して先に降り、四恩が娘達を手渡して最後に降りた。

「何時戻られるんですか」

「東渡門(東・天后廟)が閉まる前にわたるつもりさ」

「今の時期六時頃に締まりやすからね。五時の船に乗るつもりで無いと危ないですぜ」

「都合によっちゃ泊まるかもしれないのさ。どっちにしても子供しだいだ」

「分かりやした、ありがとうござんした」

巳の刻(十時頃)呂(リュウ)家へ着いた。

子供たちは広い庭に大喜びだ。

よたよたとソンシィ(松・チャウチャウ)が玲齢の元へやって来た。

インリィン(応霊)という名の犬は寧波へ戻った時、玲齢と五年以上会っていないのに覚えていて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

その時子供たちが体中をこすってあげて以来子供達にも懐いた。

玲齢とヅゥフゥムゥ(祖父母)以外懐かなかったのに、子供たちと初見で友達になって仕舞った。

今日も四恩には見向きもしないので玲齢は笑い転げた。

まるでアカンベェをするみたいに青い舌を見せる。

赤茶けた雄犬だが四十頭いる子供たちは白や黒が多いという。

この家に子犬の時来て十年目、玲齢が当時は世話をしていたのだ。

嫁入りの時連れて行けないので、二日ほど前に十里ほど離れた家に一時預けて出てきた。

普段吠えない犬だが家に戻って玲齢がいないのに気付くと十日ほど遠吠えをしていたという。

犬の調教の先生が身に着けたものを小屋へ置くことを勧め、急いで取り寄せた。

それからは落ち着いたという。

越して来た時、近くに住むことが分かるみたいで帰るときそれほど騒がなかった。

子供たちと昼寝をしている様子は微笑ましい。

子供たちも聞き分け良く呂(リュウ)家を後にし、タォファドゥ(桃花渡)で城内へ戻った。

家作料分、手取りが良くなった番頭は喜んでいる。

のんびりしているがやることは早い、四恩の仕事は邸の時と同じ帳付けで、実務には向かない男だと見る人も多い。

帳付けをしている姿を見ない者には遊び歩いている若旦那に見えているだろう。

関元と信(シィン)が来て定海衛(ティンハイウェイ)の総兵を紹介した。

浙江水軍提督府は海賊と死闘を繰り返して来た名残で気が荒い。

総兵と言えば正二品の高官だ。

信(シィン)と関元(グァンユアン)二人は敬意をもって接している。

邱良功も同席した。

江南(駐松江)、浙江(駐寧波)、湖南(駐辰州)に置かれた緑営の三人の長官の一人だ。

海賊の残党の討伐は課せられた任務だ、そのための相談だという。

四恩は何のため呼ばれたか解らなかったが、話は結の貸金の清算をするための証人に付き合わされたと気が付いた。

「この分は結が引き取るという事でしょうか」

「はい、亡くなったフゥチンの意向もあり、私の責任で引取ってまいりました。一読の上其の壺の火で燃やさせていただきます。この四恩は少し前まで我が邸の経理でしたがここへ店を出しましたので連絡員にでも使ってやってください。今までの質屋の方は、続けて営業をしておりますのでお困りの節はご相談をしてください。担保の預かり証書については有る筋より本人、もしくは家族にお返ししてありますので現金分だけです」

邱良功(チウリィァンゴォン)が一読して無言で総兵に渡し、さらに四恩に回して寄こした。

関元が顎で壺を差すので上蓋を開けて一枚ずつ火に焼べた(くべた)。

「本人や残った家族へは知らせますか」

「本人、家族から問い合わせが無ければ不問に」

文官と違い武官の養簾銀は少ない。

海賊への戦の費用も大きな負担だった、巡撫、布政使の文官の助けがなければ、ここまで戦い続けてこられたか誰にもわからない。

「分かり申した」

四恩が頭で足した数字は大きなものだけで二十万を越していた。

 

嘉慶十六年正月初一日(1811125日)

年が明けて春めいた日が続いている。

タォファドゥ(桃花渡)の左岸の街は昔からの家も多い。

貿易商が軒を連ねている、広州(グアンヂョウ)に海外貿易が取られてから内陸へ目が向いて、長江(チァンジァン)下りでの荷が増えている。

和国の俵物は広州からと称して多くが入り込んできている。

税の支払いがされている以上追及はない、砂糖はだいぶここでの取引も増えた、これが乍浦鎮なら簡単にはいかない。

昔住んでいた家の北側半里ほどに売り店が出たと玲齢の爺爺(セーセー)から連絡が来た。

小商人に、川筋の船問屋が並んでいる場所だ。

番頭の牟珠湛(モウチュゥタァン)に買ったらどうだと相談した。

「自分には無理ですよ。旦那がお買いになって支店になさったらいかがです」

「珠湛が其の店を仕切ってくれる気があるなら買うが、支店でなく分店の主では。資本は俺が出すが店は好きにできるよ」

しばらく考えていた。

「どうでしょう手代の祁(チィ)を新店の番頭、寧(ニィン)をここの番頭、小僧の五人を手代にして二人私が連れて出るのは」 

全員を呼んで今の話しを教えた。

四恩が見て祁と仲の良い小僧を連れて行くと決まった。

寧は小僧とは気が合わないように見えて指導はしっかりしている。

牟(モウ)には見抜けない様だが、寧は商売人として番頭に向いている。

一月の末には新店が開店し、寧(ニィン)の嫁も決まり、牟(ムウ)のいた家を洗い出して新居にさせた。

手代三人に新しい小僧三人となって新しい客が増えてきた。

船問屋(川筋・沿岸貿易)湯閑(タンシェン)の後押しもあり新しい店も繁盛している。

京城(みやこ)、開封、南京、蘇州で仕立てたハンフゥ(漢服)にチィパオ(旗袍)も届きだした。

絹布(ヂュァンプゥ)だけでなく、棉布(ミェンプゥ)もマァー(媽)の勧めで扱うことにした。

仕立屋と契約も結んで注文から十日以内で仕上げて来る。

蘇州、南京と棉布(ミェンプゥ)、絹布(ヂュァンプゥ)に高級品のスゥチョウ(絲綢)迄入って来た。

人手が足りないと新番頭の寧(ニィン)が嫁を働かせてよいか聞くので承諾した。

司柳(スゥリォウリィ)は十七歳、小僧たちの受けは良い。

手代にした三人も妹妹が来たようなつもりになっている。

一番楽になったのはマァー(媽)の様だ、四恩ではそこへ気が行かないし、玲齢は店に出ていないのでわかるはずもない。

本来玲齢の役目だが寧(ニィン)が気を利かしてくれた。

寧波(ニンポー)へ戻って来て、半年たって四恩一家もようやく落ち着いた。

玲齢が妊娠したという、マァー(媽)は産まれるのは十月の末頃だろうと言っている。

大女儿(ダァヌーアル・長女)の鄭麗華(チョンリィファ)は「弟弟が欲しい」とお腹に耳を当てている。

産婆へ相談して十日に一度見回ってくれると決めた。

「遠出は駄目ですよ。毎日四半刻でいいですから歩くことです」

出来るだけ油分の多いもの、甘いものは控えるように言われた。

四恩は、三回目だから本人も自覚はあるだろうと安心している。

子供たちと四人で片道一里程度の範囲は天候を見て出歩いた。

四恩は帳付け以上店に係る気は起きていない、自分ではマァー(媽)に生きがいを持たせているつもりだ。

インドゥとウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ出ていた料理人の戴宝玉(ダイパァオユィ)と白箏芳(バイヂァンファン)は寧波(ニンポー)へ嫁入りした。

婿は二人ともそれぞれの実家の近くの茶舗の跡取りだという、二人の実家は南門外の市場にある。

四恩は店の名で祝いの品を贈っておいた。

共にウリヤスタイで働いていた二人は公主府へ残った。

魏星紅(ウェイシィンホォン)と任兩柳(レンリャンリィオ)は京城(みやこ)で生まれ育ったという。

府第も東の公主府と言われる方が多くなった。

娘娘は月一度ほどしかやってこない。

花琳(ファリン)と昂潘(アンパァン)に姐姐(チェチェ)が、留守を預かっている。

鄭蓬旛(チョンパァンファン)と曾藍桃(ツォンラァンタァオ)は方小芳(ファンシィァオファン)と共に公主府へ移った。

他は主がウリヤスタイ(烏里雅蘇台)へ出ていた時とほとんど変わらない。

変わったのは余姚(ユィヤオ)から、新しく京城(みやこ)へ出る者を制限されたくらいだ。

営繕の者たちによる裁縫所は相変わらず貧民救済で忙しい。

 

南京(ナンジン)の爾海燕(ゥァールハイイェン)は十六歳になった。

平大人(ダァレェン)は関元(グァンユアン)に頼んで寧波(ニンポー)で飯店を二月の末に開かせた。

宿を兼ねていたのだが、半年前に主が老齢で売りに出していた。

客室は自分用に三室、女中用、料理人用に二部屋に分けたあと三部屋空いている。

離れは掃除して客を呼んだら使えるようにしておいた。

リャンアル(两爾)と土地のものは旗を見て読んでくれる。

この地には和語を話せるものが大勢いるので、言葉の勉強のためだ。

出入りさせるにも飯を食いに来たというのは言い訳になる。

近くの天一閣は七万冊の蔵書があるという。

阮元(ルゥァンユァン)は“天一閣書目”を編纂したという。

清真寺という回族の寺もある、月湖の西側になる寂れた場所だ。

寺の門番は百十年前に建てられたと教えてくれた。

好奇心溢れる海燕が聞くと、先祖は六百年前にエスケンデレイヤから此処へ来たという。 

今でも一族は船乗りが多いという、ほらが多いが楽しいおやじだ。

「海燕はクレオパトラそっくりだ」

良く聞くと大昔の美人で有名な王妃だという、気分が良くなった。

少し、いやほらでもいいわと暇になると遊びに行く。

「アースィム」

「どうした海燕(ハイイェン)」

「私の生まれた街の回族はお酒を飲む人もいたけど、アースィムは飲むの」

「いや飲まないね」

これもほらだ、馮(フェン)という名のかみさんに年中怒鳴られている。

門番のくせに敬虔な信者ではない、日除けの下で絨毯をひいて水煙草を楽しむ男たちとひがな無駄話をしている。

しゃきっとするのは夕刻の礼拝時間からだ。

寺は泗水(スーシュイ、スラバヤ)や南京(ナンジン)とは趣が違う造りだ。

回族の風呂は大尚書橋牌楼の三軒先に有る、月湖からの水路が裏手に有る。

経営者はなんと馮(フェン)だ。

兵舎が多く非番の者は此処で汗を流してゆく。

使った湯に水は昔から水路に流すのは禁じられている、池を作り土地に浸透させる取り決めだという。

その池は冬でも湯気が出て有名だ。

女用の蒸し風呂へは毎日通って馮(フェン)が喚く夫の悪口の聞き役になった。

三人の娘にそれぞれ三人の娘がいる。

娘の夫は三人とも馬(マー)なので鵬(パァン)、齢(リィァン)、亮(リィャン)と呼ばれている。

大尚書橋の陸家のグイファーヂィン(桂花井)も近くにあり風流人がたまに訪れている。

海燕の飯店がなぜここかと言えば城の西門事望京門から船が入れる、月湖の西側の大尚書橋へヨォゥジァン(甬江)の港から小舟に乗り換えれば歩かずに済む。

余姚(ユィヤオ)からも北斗河へ三百石船なら乗り入れてこられる。

宿はやっていないので、夜初更、戌の太鼓で店じまいだ。

正味四時間程度しか営業しない、その分料理は凝っている。

料理人には「いいものを使って安く提供して儲けを出せ」と言ったら呆れていた。

「どのくらい儲ければいいんだね」

段(タン)の給与は月五両で康演が探してくれた。

「段(タン)の給与にかみさんが店を手伝う気になれるくらい」

「リィェンリェン(蓮蓮)に月三両」

「いいわよ。八両は最低でも儲けてね」

三十人程度で一杯の店で無理かと思ったら回転は良く売り上げも順調だ。

プゥタァォヂォウ(葡萄酒)、バァィラァンヂィ(白蘭地・ブランデー)、ウェイシィヂィ(威士忌・ウイスキー)が毎日のように出る。

一本銀(かね)一両は必ず儲かる。

酒屋も毎日現銀での支払いに無理を聞いてくれる。

最初の月にあまり儲かるから、料理は中身を良いものにさせたほどだ。

それで余計上客が増えた。

平大人(ダァレェン)は生涯かけてやるわけでもないから、人付き合いの勉強だという。

儲けを優先していないのは客足に見えている、シャォチィ(小気・ケチ)な客でも疎かにしない。

海燕は見る人によってどこの国人か様々に言われている。

葡萄牙(プゥタァォィア・ポルトガル)人の爺爺(セーセー)の先祖にも混血の可能性はあるようだ。

庸(イォン)は和国の筑紫という地には似た顔の者は多いという。

「そりゃ父親が和国の男だ、似てなきゃ不味い」

関元はチィェンウー(銭五)には似ていないというくせにそんなことを言う。

龍(ロン)のおっかさん裴雲玲(ペイユンリィン)は自分たちに似ているという。

関元はいろいろな土地へ行くくせに区別がつかないという。

「泗水(スーシュイ、スラバヤ)で似ているのはウァール・ワールのおっかさんしか知らない」

マァーマァー(媽媽)は老爺(ラォイエ)は葡萄牙人、姥姥(ラァォラァォ)は清国人(寧波)とジャワ人の混血だと話した。

うれしいことを言うのは信(シィン)だ。

「龍雲嵐(ロンユンラァン)に一番似てる、雲嵐は娘娘に似てる。娘娘は容妃娘娘に似ているそうだ。皆国も違うが似ているのは美人と言われていることだ。だから海燕(ハイイェン)も美人という人種だ」

「美人ならお嫁さんにしたら」

「いいね。そうしよう」

そのくせ嫁入りの支度をしろも何も言ってこない「馬鹿にしてるわ」と怒った。

気性が船乗りに合うらしく各地の船乗りが来てくれる、ヨォゥジァン(甬江)サンヂィァンジァン(三江口)へ船を着け、城内へ来るのは銀(かね)に余裕がある証拠だ。

陽が暮れる前には満員になる、そうすると庭の南北のティン(亭・東屋)へ勝手に料理を運ばせる客もいる。

この日も申の鐘で店を開ける予定が、すでに表で騒いでいる。

料理人夫妻は店の上に住んでいる、四十くらいの段(タン)という小太りの男に十八くらいに見えるが、二十六だという王(ワン)という丸顔で愛嬌のある女だ。

子供は十歳になる女の子、段春月(タンチゥンュエ)がいる、店へ出て愛嬌を振りまいてくれる。

「姐姐(チェチェ)」と子供が呼ぶと「妹妹(メィメィ)」とふざける親子だ。

信じているものまでいて仲間に揶揄われていた。

店の調理場は二人見習いがいる、洗い物は五十くらいの老媼が二人来てくれる。

店の時計は午後の四時三十分になるところだ、来ているのは大概月湖の周りに定宿か家が有る川船連中だ。

漸く鐘が聞こえて開店した。

客は鐘で開けるのか洋時計で開けるのかを聞いてきた。

「気になるのなら決めなきゃね」

「開けるのは申の鐘」

「いいわ」

「閉めるのは洋式時間で今日の初更に合わせる」

きいていた客がどっと沸いた。

「いつもと同じよ。なぜ笑うの」

船乗りが「初更は午後八時半頃だ」と言ってくれた。

「不思議でも何でもないわよ」

「四月から八月は、ほぼ同じだ。正月は一時間早くなる」

「あっ、ずるいわよ」

「客は福の神だ。いうことを聞くと良縁に恵まれる」

また笑いが起きて文人風の客が壁に閉店洋時刻八時三十分と墨書した。

「だれか正月の申の刻の洋時刻を教えてくれ」

「三時三十分」

船乗りは洋時刻に堪能している。

書こうとしたのでやめさせた。

「一年中同じ方がいい」

一斉に言って文人風の男に書かせてしまった、明日からその時刻に客が来る。

予定は四時間だったものが五時間になった。

海燕は口説かれることも多いが「婚約してる」というとそれ以上は迫らない。

一人天津から来たという男がしつこく口説いたが、知り合いらしい船頭の鄭(チョン)に耳打ちされて諦めたようだ。

何を言われたのか気になったが聞くわけにもいかない。

その船頭は四恩を連れてきた。

「珍しいわね。子供は元気なの」

「もう直に三人目が産まれるよ。たまには笛が聞きたいな」

直にとは言うがまだ半年も先の事だ。

そういえば最近忙しくて吹いて居ない。

居合わせた客の承諾を得て賑やかな音調の曲を続けて吹いた、吹いていると楽しくなるのは前と同じだ。

報恩光孝寺の近く呼童巷に四恩の店があるが嫁さん、娘にべったりで来たのは初めてだ、二里も離れてはいない。

寺の東には城内の子城が有って南門が有ったというが、乾隆帝が壬寅の年に取り壊させた。

城門跡は様々な市場で人がごった返している、鼓楼を作ろうという動きもあるが銀(かね)が無いのが実情だ。

海燕(ハイイェン)は女中の胡香蝉(フゥシィアンチェン)と昼間よく出歩いている。

月湖の西側は兵営が多いが、湖の東は廟に寺ばかりだ、天主堂跡もある。

今は十軒ほどの小商人に大きな質店に為っている。

天主堂が出来たのは「百年以上も前だが五十年もたたずに壊されたんだよ」と門前の布行の女主(おんなあるじ)が教えてくれた。

女主が「ティェンファンタァ(天封塔)と云う高い塔もあったが、十年ほど前に燃えたよ」という、女中は子供の頃、対岸から城壁越しに六角塔の上二階が見えたと教えてくれた。

まだ子供のくせにという海燕だって同じ十六歳だ。

東渡門(東門)を通り抜け、望京門(西門)まで四里ほどしかない城で、南北も八里は無さそうだ。

海燕は越してきてからは、城門の外へはまだ出たことがない。

浮橋の先は雑多な商売の寄せ集めと聞いて泗水(スーシュイ、スラバヤ)のパサァ(市場)を思い出した。

よそ者には三倍、五倍の値を言って駆け引きを楽しんでいた。

三江口はヨォゥジァン(甬江)の左右への渡船が有る。

余姚江側が桃花渡、奉化江は老公渡だと香蝉は言っている。

ヨォゥジァン(甬江)は三江口から川下へ碼頭(埠頭)ごとにあり、さらに下流の鎮海まで十か所は渡し船があるそうだ。

余姚江、奉化江ともに渡し船の需要は多いので二里から四里おきに渡し場が有る。

人は担げる荷と共で銀(イン)一銭(百文)、空馬銀(イン)二銭。

荷を乗せた馬は目分量で銀(イン)二銭から五銭取る、荷車も同じで人一人分は只になる、馬車は仕立てで十二銭が協定だ。

月湖というが満月でなく三日月だという、大分変形した三日月だと言うと女主はこの近くまでが湖で此方は日湖だよという。

二つの湖は人造湖で水源は四明山と信じられている、日湖は小さくなったという、大きかった時でも三十対一位の大きさだったそうだ。

昔、延慶寺、観宗寺は此処に有ったいう、この女主は物知りで有名だそうだ。

ティェンファンタァ(天封塔)の上から見た景色じゃないのかね。月の方が大きいのさ」

ティェンファンタァ(天封塔)の上ならと言ったが本人は高いところが嫌いで昇っていないそうだ。

確かに南門へ向かう水路は幅が太い、船が下を通れる橋には水月橋、日湖橋と名が付けられている。

家井巷に美味しいお焼きの店があると噂を聞いて、行ったら病みつきになって通っている。

今日は五月四日昼にはそこへ行くつもりだ。

黒豆を練りこんであるもの、野菜を巻いたもの、蝦を巻き込んだもの、胡麻団子みたいなもの、とにかく何でも平底鍋で焼いてしまう。

叉焼(チャーシュウ)が包まれて焼いたのは特に美味しかった。

「これでお茶が美味しければもっと食べられます」

ちっとは遠慮しなさいと思ってしまう海燕だ。

「お茶も一杯五文取るのよ」

「茶碗に葉も入れないのにシャォチィ(小気・ケチ)だわ」

「きこえるわよ」

タンユェン(湯圓)に似ているものまで焼いている。

一皿に二つで十文じゃ茶に文句を言ったら悪い気がしたが、香蝉に乗って文句を直接言う老媼(ラォオウ)もいる。

「俺んとこが上手い茶を入れて一杯十文も取るようになったら客が来ない。文句を聞くのも商売だ」

“茶が不味い”は言われ慣れ、聞きなれているようだ。

二人分で百二十文だという、銀(イン)四銭出してお土産を満遍なく選び、持ってきた二段の提げ重に入れさせた。

この店季節にかかわらずなんでも平底鍋で焼いてしまう。

「桂花(グイファー)が咲きだしたみたいね」

川筋の樹が匂っている。

「家の裏の樹が明日にも咲くからそうしたらタンジャンピィ(糖漿皮・月餅)に入れるよ。何のドウシャ(豆沙・餡)がいいね。明日もおいでよ」

女将さんは商売上手だ。 

普段なら七月に咲く花も閏が入って五月に咲きだした、南京(ナンジン)だと八月に咲くのに大分早い。

それを言うと「立秋の十日前頃が普通さ。今年は夏至を過ぎたばかりで咲くのは不思議さ」異変の前触れかなどと笑っている。

「ホォンドォウ(紅豆・小豆)」

香蝉はホォンドォウが一番好きだという。

この間は別の店で大きなリュダァグン(驢打滾)を六個も食べた、此処のドウシャビン(豆沙餅)なら際限なく食べそうだ。

リュダァグン(驢打滾)はルゥ(驢馬)が転がって汚れたとでもいうのかシャゥビン(餡餅)にホァンドゥフェン(黄豆粉)をまぶしてあった。

飯店を開くとき南京から連れて来るより寧波(ニンポー)で雇おうと探していたら、いい具合にハオジィドゥディレェン(好嫉妒的人・焼きもち焼き)のヌゥーヂゥーレェン(女主人)に追い出された香蝉を見つけた。

焼き餅焼かれるような美人とはかけ離れている。

やせっぽちで大食いで笑い上戸だ“她怎么吃都不胖”だと気が付いたのは雇って十日目だ。

お腹が空いたというわけでも、お腹が一杯でもない様だ。

段春月(タンチゥンュエ)と同じくらい食べるだけで、もっと食べたいというわけでもないが、「どうぞ」と言われれば次々食べられる。

好いことに朝早くから懸命に働く。

「お腹が空いたということは無いの」

「空っぽの方が美味しく食べられる」

「じゃたくさん食べると美味しく無くなるの」

春月に揶揄われても「食べてるときは美味しいからよ。不味けりゃ食べない方がまし」なんて言い返していた。

街の案内も出来るというのであちこちと案内させている。

店の客の話しだと焼き餅というのは作り事で、やせっぽちなのは飯を満足に食わせていないと噂が出て、気にしたヌゥーヂゥーレェン(女主人)が口実をつけて追い出したようだ。

お土産は飯店に半分置いて、残りは馮(フェン)に届けた。

孫を呼んで一緒に食べているのでお茶当番を引き受けた。

娘たちも赤ん坊を抱いて出てきて大賑わいだ、どうにか全員に行渡った。

「海燕(ハイイェン)の淹れてくれるお茶はなんで美味しいの。同じ壺から入れても姥姥(ラァォラァォ)より美味しいわ」

「それわねこの砂時計を信じるか信じないかよ」

馮(フェン)は適当に入れるので、海燕(ハイイェン)が持ってきた砂時計を見ていない、量もいい加減だ。

「じゃ、これからは馬凛麗(マーリィンリィ)が淹れなさいよ」

「いいわよ姥姥(ラァォラァォ)。私やりたかったの」

海燕は壺の茶の名と砂時計を合わせることを教え、壱、兩、参と書いてあるのを見せた。

「ほかのお茶の時は」

「もっと知りたいの」

「うん」

「じゃ、明日別のお茶とお菓子を持ってくるから少しずつ覚えて行こうね」

「ありがとう姐姐(チェチェ)」

馬凛麗(マーリィンリィ)は大女儿と鵬(パァン)の大女儿で今年十二歳になった。

明日午の刻に約束した。

ヅォンヅゥ(粽子・ちまき)にタンジャンピィ(糖漿皮・月餅)。

この店の季節感の無さはどこから来るんだろう、泗水(スーシュイ、スラバヤ)でもマァー(媽)は季節を気にしていたのを思い出した。

今日は此処で食べないで家で食べると言うと「お茶のいいので食べる気だね」と親父が怒鳴っている。

「知り合いの家族と約束があるのよ」

三段一杯にしても銀(イン)七銭で済んだ。

ヅォンヅゥにタンジャンピィはさすがに一個十文だという。

ヅォンヅゥはドウシャ(豆沙・餡)にゲェンヅァオ(干し棗)、タンジャンピィはドウシャ(豆沙・餡)に桂花(グイファー)の花を練り込んである。

リャンアル(两爾)で一段置いて、用意しておいた一斤の茶壷に砂時計、店用の着替えを持って馮(フェン)の所へ向かった。

此処のところ暑い日が続いてひと雨欲しいところだ。

「まるでスラバヤと一緒だわ」

「どこの事です」

「私の生まれた町。ずっと南に有るのよ。南京(ナンジン)も暑かったけど私の生まれた街は暑いけど、雨が少なかったのよ」

「今年は雨が少ないですが普段は月の半分雨ですよ」

「南京と同じね」

「南京も六月七月は暑いのですか」

「強烈ね」

「なら大丈夫ですかね」

「どうかしたの」

「京城(みやこ)から来る人は逃げ出したくなると言っていましたよ」

「南京で聞いた話ではそれほど京城(みやこ)と夏は差はないと聞いたわよ」

「京城(みやこ)自慢でもしたのかしら」

馮(フェン)の所でも天気の話しで持ち切りだ。

雲がわいて雨が来た、四半刻ほどで通り過ぎたが大分涼しくなった。

凛麗(リィンリィ)は教えられた通りに茶を淹れて皆に褒められた。

ひと汗流し着替えをし、化粧も決めて店へ向かった。

酒屋がニコニコ顔でバァィラァンヂィ(白蘭地・ブランデー)を木箱で持ち込んできた。

シァォシィンヂウ(紹興酒)などのほかにシャトー・ド・ラキー(拉基城堡)にレミーマルタン(人頭馬)を五本ずつ出した。

「何時頼んだの」

「先ほど関元さんの使いが来て用意してくれと。食材も奢ったのを頼みましたぜ」

「じゃ、大分踏んだくれるわね。十本で二十両は儲けなくちゃ」

酒屋の請求は白蘭地(ブランデー)十本銀(イン)二百九十両だ。

「これでも三年前の半分になったんです。儲けが出ませんよ」

「嘘つき、倍は無いでしょ」

「ほんとですよ。他の酒問屋に聞いてみてくださいよ」

段(タン)が銭函を持ってきて銀票混じりで三百十二両支払った。

その日の夕刻関元は二十人ほどの船主連を連れてきた。

「本当は船長たちも連れてきたかったが、此処では入り切れないと別行動にしたんだ」

常連たちは庭で勝手に飲み食いし始めた。

関元は香蝉に杯を持たせて「お詫びだ」と人頭馬(レミーマルタン)を注いで回った。

ブランデーを飲み切ると「勘定」と声が上がった。

段(タン)と計算した王(ワン)が「二百九十五両」というと「安すぎる」と船主たちから声が上がった。

この後新街という旧街の宿で続きがあると話している。

関元の会計係が銀票で三百二十両出して「こいつで家でも買ってくれ」なんてほざいたので「簪一つ女中に買えばおしまいだよ」と言ってやった。

三時間近く飲み食いしても、次へ行く元気がある連中ばかり選んだようだ。

店を閉まって、两両分の銀(イン)二十銭をそれぞれに配った。

洗い場の老媼(ラォオウ)など大喜びで「家に戻るまで護衛でも頼むようだ」なんて浮かれている、二人とも手巾に包んで袖の隠しに入れようとしたが、重いので懐へ押し込んでいる。

二人とも紫微街に家がある、調理場の見習いも近くなので一緒に戻っていった。

海燕とフゥシィアンチェン(胡香蝉)が自分たちの部屋へ戻ったのは午後十時に為ってからだ。

関元が連れてきた船主は結や漕幇(ツァォパァ)の顔役だろうと思った。

信(シィン)が“美人なら嫁に”と言うのを本当にしてくれた気がした。

バァ(爸)の喪が明けたらと思っているのだろうか。

好きには違いないけど惚れたとは違うようだと思っている。

香蝉は海燕の寝支度が済むと自分の部屋へ引き取った。

明日は東渡門(東・天后宮)のティンハウゴン(天后宮)へ行くと言って置いたので、昼に何を食べるか考えているだろうと思うと可笑しくなった。

 

フゥシィアンチェン(胡香蝉)の実家の場所はヨォドォンユィ(甬東隅)と呼ばれている。

南門三市場と違い小商人に工賃稼ぎの工場の寄り合い所帯だ。

ティンハウゴン(天后宮)から見える家並の一角を指さして“あのあたり”だと教えた。

生家は銅の壺を代々造っていて、今はバァ(爸)と老大(ラァォダァ)が仕事を受け継いでいるという。

銅板は相当買い置いてあり近所へ卸してもいるそうだ。

家にはあとマァー(媽)と弟弟が二人いるのだそうだ。

前の仕事に比べれば天国へ来たようだという。

朝、自分の部屋と海燕の部屋の有る別棟の掃除をして、粥を海燕と食べる。

三か所ある厠所(ツゥースゥオ)に空いている離れ、ティン(亭・東屋)などは通いの女中が来る。

昼はお供、庭の掃除、夜飯店の掃除の手伝いに海燕の身じまいの世話。

二人分は働いている。

困るのは毎日のように回族の蒸し風呂へ付き合わされることだと言う。

給金は良いし、昼はいろいろな物を食べさせてもらえる。

お仕着せは仕事着とお出かけ用と二通り出ている。

マァー(媽)が弟弟とたまに顔を見せると小遣いを渡せる余裕も出た。

酔客は鷹揚に王(ワン)や香蝉に春月にまで釣りを与えてくれる。

夜は飯店の賄いだが、残り物とは違って見習いの手料理が出る。

時々段(タン)の試供の味見をさせられる。

春月に洗い場の老媼(ラォオウ)も同じものが出るので差別はない。

大食いが知れてからは店が終わると段(タン)夫婦や海燕とまた食べられることに為り、満足して寝られる毎日だ。

東渡門を出て右側がティンハウゴン(天后宮)だ。

表門へ回り、二人で昨日の船主たちに関元(グァンユアン)の為に、海上の無事を祈った。

案内人が暇そうなので海燕が頼むと、マァツゥ(媽祖)の本名、生い立ちからなぜに天后かを説明してくれた。

マァツゥ(媽祖)にティンハウ(天后)と名をつけたのは康煕帝だという。

媽祖婆・阿媽・天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などなど説明は流暢に続き半分以上覚えられない。

銀(イン)二銭渡して門を出た、天后宮后街へ入って土産物屋を見て歩いた。

ピィンヂィァンミャオ(濱江廟)に面条の美味しい店があると聞いてそこへ向かった。

ミェンティアォ(面条)の旗が川風に揺らいでいる。

昼には早いので最初の客たちが噂話をしている。

ピードウミェン(皮肚面)が有名な店だという、店の名はない様だ。

「南京の名物じゃないの」

聞こえたみたいで「南京の生まれだよ。十年前に来たのさ」と店主が顔を見せた。

ぎよっとして店へ出てきた「まさか、いや違うな」と呟いた。

「イーフゥ(姨夫)、もしかして南京の龍雲嵐(ロンユンラァン)の知り合い。私似てるらしいの」

海燕は本人を知っているとは言わずに聞いた。

「爺爺(セーセー)が兄弟で子供の頃遊んだことが有る」

「私四月前まで南京(ナンジン)に居たので噂は聴いたわ。似てるという人が多かったわ」

「驚いたよ。俺たちと親戚じゃないよな」

「曽祖父が寧波の人だそうだけど、南京に親戚は居ないわ。ピードウミェン(皮肚面)二つお願いね」

面条が出る前に雨が降り出したが食べ終わる前に止んだ。

二杯で八十八文だという、香蝉が数えて盆に置いて渡した。

女中がざらざらゆすると浮いた銭を八文数えている。

「其の盆どこで売ってるの便利ね」

主が「南門三市場へ行けば銀(イン)三銭で買えるよ。商売でもしてるのかい」と教えてくれた。

「大尚書橋の近くでリャンアル(两爾)という飯店(ファンディン)を始めたの」

「昼は暇なのかい。それとも今日は休みなのかい」

「毎日申から始めて戌までなの。仕込みは料理人がいるので昼間は暇なのよ」

雨が止んだら客が混んできた「また来るわ。美味しかったわ」と店を出た。

市場へ行くと急いでも申には戻れないと香蝉が言うので明日出直すことにした。

翌日も朝から暑い、長春門の関帝殿で商売繁盛を願い奉化江沿いの道を市場へ向かった。

途中の休みどころで饅頭を食べた。

たまには餡の入っていない饅頭も美味しいものだ。

南門三市場へ回って銭の盆皿を探して五種類買うと店に戻った。

一回り十一里ほども歩いたようだ。

懐中時計で朝の十時十分に出て戻ったのは午後二時だった。

今日は七の日で和語を話すラォレェン(老人)が夕食を食べにくる。

香蝉も一緒に三人はティン(亭・東屋)で食事をしながら和語だけで会話をした。

香蝉もだいぶ言葉を覚えてきた。

和語の時間は終わりだ。

「この位話せれば長崎へ通事に出られる」

「この程度で」

「和国側ではもっとひどいのにあたることもあるよ。字を書いてあげてようやく通じたりするくらいだ」

香蝉は「字を書く方が難しいわ」と困っている。

「通事にならないなら覚えなくてもいいが、簡単な本位は読めた方がいいよ」

「和国の人は子供でも字が書けるって本当なの」

「和国の字はいくつもあって此方の字を簡単にしたものがあるんだ。侍は大抵此方の字も和語で読めるそうだ」

庸(イォン)が詩を読めるように為るのが早かったのは、素養があるためだったと思うのだった。

海燕は南京(ナンジン)で秀才に家庭教師に為ってもらったが、四書も卒業できていない。

詩は李白、杜甫はうろ覚えだ“西遊真詮”“聊斎志異”が読めるようになり本人は満足している。

挿絵の入った本は書棚に積んである。

 

戴宝玉(ダイパァオユィ)のヂァンフゥ(丈夫・夫)はラァオゴォン(老公)というにはまだ若い。

房恒徳(ファンハンドゥ)今年十九歳、宝玉と年は同じだ。

ランシァン(蘭祥)の一人息子で父母(フゥムゥ)が三十過ぎて授かったので、少し我が儘だが茶の味はわかる様だ。

宝玉がチゥ(厨・台所)を任されたが、家計はまだポォポォ(婆婆)が抑えている。

祖父母と大爷(ダァィエ)が本店で此方は分店だと教えられている。

宝玉の実家は馬園の南にあり二里も離れていない、今は老大(ラァォダァ)が仕切って諸国の名産を卸している。

白箏芳(バイヂァンファン)の方は大家族だ。

シェンリィン(絃林)の茶舗は六十台の苟聖旺(ゴウシュンワァン)が仕切っている。

岳父(ュエフゥー)は苟朗旺(ゴウラァンワァン)、近所じゃ怠け者の遊び人で通っている。

その分孫の苟聖亨(ゴウシュンフゥン)がまじめに見える、まだ十七歳だ。

ポォポォ(婆婆)はずいぶんと苦労したようだが箏芳には優しい。

聖亨の祖母はまだ五十三歳だという。

十六で嫁いで朗旺を筆頭に三人の男に二人の娘、朗旺の方は四人の男を授かった。

家は二軒有り、ヅゥフゥムゥ(祖父母)が店の上、見世裏に父母(フゥムゥ)、聖亨とその弟弟三人がいた。

女三人で女中、料理人がいない分仕事は多い。

嫁が来て少しは楽になったようだ。

箏芳の方も大家族で育ったので苦にはならない様だ。

実家は半里南で船問屋だ、父母(フゥムゥ)に老大(ラァォダァ)夫婦に子供が四人。

アグゥ(二哥)とその家族は同業の本家へ養子に出た。

箏芳の姐姐(チェチェ)二人は奉化県渓口鎮と大堰鎮へ嫁に出て、滅多に実家へ戻れない。

それで末っ子の箏芳を近くへ嫁がせた。

宝玉と箏芳の嫁ぎ先は裕福ではないがそれなりの暮らしは出来ている。

市場で買い入れの時に顔を合わせると、話題はウリヤスタイ(烏里雅蘇台)のことに為る。

「それにしても暑すぎるわ。子供の頃もこんなだったかしら」

「ほんとよね。雪で寒いと震えていたのが懐かしくなるわ」

そんな日は汗をかきながら屋台店のツァイ(乳茶)を飲んでしまう。

回族の人が多いのでここでは普通の飲み物だ。

そのような日が続いていたある日、娘娘から自筆の手紙が来て四恩の元へ漢服と旗袍の夏服を送ったから取りに行くようにと有った。

婚家から遊びに出る機会も少ないだろうとの配慮だ。

女二人で南門から入った。

ヅゥウェイヂィエ(紫微街)迄道なりに進んだ、牌楼を五つ潜ればファンリィンシャン(幡菱祥)はもう少しだ。

店で久しぶりの挨拶をかわし、荷を見せてもらった。

二人へはスゥチョウ(絲綢)と棉布(ミェンプゥ)で四着、家内の女性の事も把握しているようで同じように送られてきていた。

「自分たちの分だけだと思っていたけど、これじゃ持ちきれないわ」

四恩に小僧二人が一人分ずつを持ち合って家までおくるということに為った。

望京門を出て渡しで西へ出て馬園を南へ歩けば南門三市場はすぐそこだ。

宝玉の実家の前で立ち話をしてランシァン(蘭祥)へ向かった。

荷を置いて「手直しが必要なら、出入りの仕立屋がいつでも只でやらせていただきます」と四恩がポォポォ(婆婆)へお愛想を言って次へ向かった。

シェンリィン(絃林)ではポォポォ(婆婆)たちが恐縮して受け取った。

此処でも手直しを約束し、小僧を連れて南門へ向かった。

雨雲が沸き上がって来た。

茶店が並んでいるので一軒の休みどころの屋根の下へ入った。

あれよあれよという間に雷が聞こえて来る。

「茶と饅頭三人分」

亭主が蒸し器から熱々を皿へ出してきた。

食べ終わっても雨が長引きそうなので「ほかに何が入っているんだい」ときいた。

「すぐマァツゥ(麻糍)にできるよ」

「良いね三人分出して呉れ」

小女が茶を注いでくれた。

一皿に箸を三人分出してきた、まず一つとって「後は二人で分けて食べな」と小僧へ渡した。

小止みになりやがて雲は東へ去った、百二十文だというので銀(イン)二銭を渡した。

釣銭を数えるので「良いよ休み代だ」と店を出た。

人の銀(かね)には細かいが自分のはおおざっぱだ、最近は銀(イン)十銭は必ず持ち歩いているし、銀票二百両分は常に懐に入れている。

四恩は花琳(ファリン)へ二人の嫁ぎ先へ一緒に向かった事、店の様子にポォポォ(婆婆・義母)達の様子など詳細に手紙に書いて送った。

 

六月に入り宜綿(イーミェン)と與仁(イーレン)が二人の若い男とやって来た。

寧波は久しぶりだと與仁(イーレン)が懐かしがっている。

「昔来た時はこの近くの按閤酒店(アンフーヂゥディン)へ泊ったんだ。回族の寺や風呂も近くにあった」

四恩は柄にもなく大笑いだ。

「なんだよ」

「その店売り出されて宿は無くなりましたよ。今は夕刻から開くファンディン(飯店)だけです」

「よく行くのかよ」

「まだ一度しか行っていません。持ち主は爾海燕(ゥァールハイイェン)」

與仁(イーレン)に宜綿(イーミェン)二人は呆れている。

話を聞くと昔靈橋門(東南・浮橋)迄船できて、長春門(奉化江・南門)で城内へ入ったようだ。

「何時頃の話しです」

「十八年前だな。俺も若かった。あの頃は茶の仲買いを始めるとは思ってもいなかった」

與仁(イーレン)十八年前でも中年の親父だ。

「茶に用事でも」

「代理店に成れそうな店を探してるんだ。やるか」

「無理を承知でよく言いますぜ」

「冗談だよ。宿を見つけて、海燕(ハイイェン)の顔でも拝みに行くか」

蘇老師(スゥラオシィ)こと蘇松籟(スーソォンラァイ)は汕頭(シャントウ)で荷の都合で手代一人と遅れてくるという。

「そんなに買い入れたのですか」

「茶じゃないんだ。潮州(チァォヂョウ)の名産品を此処の東源興(ドォンユァンシィン)の支店へ届けるのさ。いつもの船と違うので荷の付き添いだ」

宜綿(イーミェン)は別口の話しだがと断った。

「信(シィン)が喪明けに嫁として迎えたいと言って来たそうだ」

袖から冊子を取り出して「大尚書橋两爾」だと言った、四恩が間違いなくそこにいますと請け合った。

「婚約は本当でしたか」

「まだ口約束だけだそうだ」

賑やかで人の出入りの激しい府城隍廟の小梁街、近くの新街は遅くまで飲める。

永寿菴なら静かに過ごせるが格式が高い。

見てから決めようというので四恩が付いて出た。

永寿菴の二軒は気に入らないようで、南門跡の雑踏を抜けて千歳坊から府城隍廟へ向かった。

小梁街の宿は人の出入りが多くみられる、ヂョオロゥ(酒楼)が日中から繁盛している。

一っ町内南の新街のファンディン(飯店)は五軒ある、どれも一目で気に入ったようだ。

二軒並んだ小体な宿に落ち着いた、薬房を挟んで南へ三軒ある。

四日分先払いした。

三時三十分になっているので「リャンアル(两爾)が開く時間ですよ」と教えた。

「此処の日暮れは何時頃だ」

亭主が「六時五十分頃だね」と教えてくれた。

「尋ねるところがあるから飯は良いよ。四恩は今晩付き合えるかい」

「大丈夫ですよ。汗を流して一杯やりますか」

「腹一杯食いますかじゃないのか」

「子供の時とは違いますよ。酒豪には付き合えませんが、お付き合い位は飲めますから」

哥哥が亡くなって十三か月がたった、明日は忌日後満一個月(月命日)だ。

宜綿(イーミェン)は與仁(イーレン)にこの旅に出る前、「俺はあと二年、算命では蘭玲(ラァンリィン)にそのころ子が生まれると出た」と伝え昂(アン)先生達と共に固倫和孝公主(グルニヘシィアォグンジョ)を支えてくれと頼んだ。

回族の風呂の場所へ五人で出て汗を流してリャンアル(两爾)へ入った。

店で五人分は卓が無いというのを小さな娘が四恩へ言っている。

「庭の方は」

「蚊燻しが効きすぎて煙いんですよ」

「蚊よりましさ」

海燕(ハイイェン)が聞きつけて顔をのぞかせると飛び上がって喜んで宜綿、與仁の手を引いてティン(亭・東屋)へ案内した。

店では大騒ぎだ「なんだ、バァ(爸)でも来たのか」と遅れた四恩に聞いて居る。

「京城(みやこ)へ出たときに世話に為った人たちですよ」

「若旦那の知り合いかい」

「私もね。子供の頃の大食いを知られて、大分ご馳走していただきました」

王(ワン)に香槟酒(シャンビンジュウ)と料理はお任せと頼んでティン(亭・東屋)へ向かった。

池の石に何か所も蚊やりの煙が立っている、まるでイェンフゥオ(焰火・花火)の後みたいだ。

ティン(亭・東屋)の中は涼しくて蚊もいない。

「どういう事」

「蚊やりの熱で風が抜けるのよ。蚊もお利口じゃないから風下へ行ってしまうのよ。そこで煙にいぶされて慌てて池の向うへ逃げ出すというわけ。南のティン(亭・東屋)は此処の犠牲で蚊が多いのよ」

四恩は判ったふりをした。

「今ね、昔此処が宿屋の頃に與仁(イーレン)さんが泊ったことがあるってお話を聞いて居たの」

「海燕の部屋辺りがあそこなら哥哥と陪演が泊った部屋辺りだ」

「いやだ、陪演さんには言わないでね。三部屋繋げて私の部屋にしたのよ」

林陪演(リンペェイイェン)、いまは南京貢院街・林黄興(リンホァンシィン)の主だ。

「結の会合はのっぽの塔のすぐ脇だったが、今日はそんなのどこにも見えなくて面目丸つぶれだ」

「見えなくてよかったですよ。十年ほど前に燃えたんですよ。川向うの私の家からでも火の手が見えました」

「十年前は確かか。なら俺たちが来た時は有ったわけだ」

「鹽問屋の舅父(ヂォウフゥー)に呼ばれて奉公に出た年です。間違えっこありませんよ」

海燕も香槟酒(シャンビンジュウ)を注ぎながら「布行の女主人も十年前だと言っていました」と助け船を出した。

冷えていておいしい。

「地下の倉庫は穴倉でお酒が良く冷えるんですよ」

宜綿(イーミェン)が「まずは久しぶりの再会だが、哥哥の冥福を祈って献杯」と池の方へささげてから皆で飲み干した。

香蝉たちが次々と料理を運んできた。

冷菜の盆は飾りも奇麗だ。

紅焼肉(ホンシャオロウ)は宜綿の好物の一つだ。

南京風の焼鶏(カァォヂィ)、椒鹽蝦(ヂィアォイェンシィア・海老の花椒揚げ)と出てきた。

「海燕、此処は高給店並みの味に食材だな」

「儲かりすぎるので良い食材で安くしたら、いいお酒を飲む人が増えてさらに儲かるの。泗水(スーシュイ、スラバヤ)のお店以上だわ」

「いい料理人に当たったようだ」

「康演さんが探してくれたのよ。先月から給与も増やしてあげたの。何時かはお店を閉めるから譲ってもいいわね」

香蝉が料理を運びながら聞いて居る。

「蟹もあるけど如何します」

「蟹なら四恩の大好物だ」

四恩は蟹が大好物だというのは蘇州で何度も奢られて数多く食べたからだ。

「妻がうるさくて、生は食べたら大騒動になるので、火を入れてあれば何でもいいです」

バイシエチャオニエンガオ(白蟹炒年糕)がすぐに出てきた。

「あと二月は土地の蟹で、そのあとダァヂァシエ(大閘蟹)になるそうです」

「六月黄は入れないのか」

「土地のスゥオヅゥシィエ(梭子蟹)が安いのにわざわざ入れるのは金持ちの道楽くらいですよ」

海燕はシァォシィンヂウ(紹興酒)漬のスイシエ(醉蟹・酔っ払い蟹)が好きだ、それを生ではなく潰し切りにしてから強い火でジャンイォ(醤油)で炒めるのも好きになった。

段(タン)は「わざわざ手間をかけるなんて」と言っていたが工夫して今では店の名物になった。

五人は先を争うように食らいついてくれた。

シエジャン(蟹漿)にスイシエを使うなんてなんて贅沢だと四恩は呆れている。

「だれよ、生は駄目というから気を効かせてあげたのに」

海燕にぺこぺこ頭を下げて謝る四恩だ。

「信(シィン)と一緒になるのか」

「何時になるかわからないわ」

「遅くもあと二年。あいつ哥哥と似ずに生真面目だからな」

「そうなの」

「俺や、哥哥はラァォファトゥ(老滑・すれっからし)だからな」

「なにそれ」

「子供の時からずるがしこいからだよ」

與仁(イーレン)が異議を唱えている。

「海燕、そう思ってるのは哥哥と宜綿先生だけだよ」

宜綿(イーミェン)も認めるしかない。

「確かにな、あれだけ王神医(ゥアンシェンイィ)に駄目だと言われていた辺境へ飛び込んでいくのは、狡猾なら逃げを打つだろうな。それにおれが同じ目に会わないように連れて行かない」

そのあとは京城(みやこ)で悪餓鬼との争いや、妓楼へ子供のくせに潜り込んで遊んだ話に打ち興じた。

「與仁(イーレン)さんは福州(フーヂョウ)から、それとも此れからなの」

「戻り路だよ。汕頭(シャントウ)でな。今手を出していない紹興近辺を紹介されたんだ」

「紹興と言っても御茶なら会稽山の方でしょ」

「知り合いでも居るのかい」

「お客の噂話程度よ。茶畑を広げたくとも資金が足りないと話していたわ」

四恩も「会稽から天台迄大きな茶畑は無いようですよ」とげんなりさせることを聞かせた。

「せめて三十万斤は欲しいが」

與仁(イーレン)大分はったりをかませている。

「近辺全部で二分の一が良いところですよ。箏芳にでも調べさせたらどうです」

「この近くへ嫁に出たと聞いたが」

「ほんの三里ほどですよ。宝玉とも近所ですから明日にでも案内しますよ」

「店は大丈夫なのか」

「ふらふら出歩く若旦那と評判ですよ」

海燕が笑って言っている。

「辰は何時ごろだ」

南京、河口鎮、福州、汕頭と巡ってきた、旧の刻との兼ね合いが曖昧になっている。

「ほぼ七時十五分ですね」

「その時刻に迎えに来れるか」

「行きます」

勘定は四恩がして店を出て宿へ送った。

 

朝は雨が通り過ぎて爽やかだったが、辰刻にドンファンファンディン(東鳳飯店)へ行くともう待ちくたびれた顔をしている。

「今、鐘が聞こえてますよ。何時から支度をしてたんですか」

「待たせちゃ悪いと十分前だ」

それにしてもと思ったら若い衆が「あれからまた飲んで寝そびれたんですよ」とすっぱ抜いた。

「大丈夫ですか」

「昼寝でもすりゃまた飲める。おごりの酒じゃ生酔いで気持ち悪いからこれからはこっち持ちだ」

結局飲むんだと四恩は呆れている。

南門を出て右手へファンファジァン(奉化江)沿いに上った。

市場迄の道沿いには小商いの屋台が店を開いている、休み處には人がたかって粥を食べていた。

南門三市場の手前を右へ入ればランシァン(蘭祥)の茶舗だ。

房恒徳(ファンハンドゥ)が一人で店にいた。

「四恩さんこの間はわざわざ家内を送ってくださってありがとうございます」

「どうってことないさ。小僧たちに市場を教えるのに丁度よかった。今日わね、京城(みやこ)のお邸のお世話をされてる方々のご紹介がてら相談があるのだ」

声を聞きつけて宝玉が顔をのぞかせた。

「首領(ショォリィン)様、お懐かしい。與仁(イーレン)さんも一緒ということは鳳凰山(フェンファンシャン)のお帰りですか」

「元気そうだな。その通りだ」

「旦那様。何時も話す茶の仲買いの與仁(イーレン)さんです」

「お話は良く聞かされますが。私どもでは高級茶は扱いきれません」

「卸す相談じゃなくてね、茶を売ってくれそうな仲買いを探しに来たんだ」

「この辺り出来そうなのはゴウ(苟)さん位ですかね。広州へ船が出せないので生産が増えないところばかりですよ」

「どこの人だい」

「ご存じのバイヂァンファン(白箏芳)のゴォンゴン(公公、義父)になる人ですよ」

宝玉が驚いた顔で口を開きかけたがやめた。

「あのラァンワァンですか」

四恩も知っているようだ。

「なんだ四恩迄驚いた顔だな。危ないやつか」

「いえね、ぐうたらで遊び人と有名ですから」

「しかし、そいつの息子へ嫁に出したのはダァグァ(大哥)が見込んだと聞いたぞ。宝玉(パァオユィ)は経緯を聞いて居ないのか」

宝玉もうわさは聞くが箏芳(ヂァンファン)はゴォンゴン(公公)の事は出会っても言わないという。

「こちらからは聴きにくいですから」

婿の恒徳(ハンドゥ)は笑っている。

「男の見る目と女の見る目は違いますから。同業者に奢るのは男の甲斐性、おごり返すのも男の甲斐性ですよね」

「そういう事か」

「なんです。わかりませんよ。首領(ショォリィン)様」

「何時も遊んでるのは付き合いが広いという事さ」

「旦那様、それが茶の仲買いとつながるんですか」

宝玉には理解できない。

「遊んでる相手はこの付近へ茶を卸す人たちなんだよ。まさか買い入れ先が奢るわけにも行きゃしない。自然奢られることに為る」

「旦那様、それなら奢られっぱなしじゃないですか」

「自然相手先の人足、手代に奢ることに為る。いつも相手が違うので遊び歩いているように見える。四恩さん迄知ってるということはそうとう昔からの噂のようですね」

「ずいぶん昔ですが父親と友人で、よく銀(かね)の貸し借りもしていました。遊びではなく商品の急な買い取りのようでした」

四恩が子供の頃は銀票に信用が無く、銀票一両は乾隆通宝七百文から八百文を行き来していた。

「父親と当時は銀ではだめだと言われると、三吊入った擔を担がされて出向いたものです」

一吊(串)九百八十文で重さが六斤十両二銭五分はある、三吊は刺し紐の重みも加わり二十斤を越す、小さな子には負担だったろう。

「庫平両十両より銭十吊(串)といわれりゃ銭でかき集めるのがバァ(爸)の仕事みたいでした」

大人一人で十吊(串)は重いよりもがさばる、それで助させたようだ。

「子供にゃ大仕事だ。それでラァンワァンと聞くと重さを思い出すのか」

十五年くらい前まで、公定庫平両銀(かね)一両が銭千文(銭)だが銀では商人は受け取ってくれない。

今なら刺し一本(百文)より銀(イン)一銭の方が喜んで受け取る。

天秤で量る手間ぐらいわずかなものだが、指でつまんで百分の一違うと分かるものは多い。

乾隆通宝、嘉慶通宝で一文新銭の重さは一銭一分が普通、銀一銭の方が軽いのだ。

銀(かね)一両とは言うが庫平両の製造地で基準に差がある、秤は必需品だ。

銀票に信用が付いてきたこの時代、大きな取引でも割り引かずに取引に応じる大商人が増えた。

十年前まで銭の貸は銭で、銀の貸は銀で清算が行われていた、今でもそれに固執する質屋は多い。

“本洋”は西班牙が墨西哥で作る銀貨だ、広州(グアンヂョウ)から徐々に広がって来た、銀に直せば十枚六十七銭五分で通用した。

贋金が出回り始め、広州の大商人の刻印入りは銀以上(貨幣重量)十枚七十二銭五分で取引が出来た。

この銀貨の信用は秤不要と信じられてきたことが大きい、和国でつくる輸入銀錠でも秤は必要だった。

マニラ交易で大量に入ってくる、結の密輸(和国俵物)の決済もできる。

英吉利商人もどこで手に入れて来るのかこれで茶に絹の決済をした。

話はラァンワァンに戻った。

「信用は出来る男ですよ。私の茶の先生です」

恒徳(ハンドゥ)は若いが落ち着きもある、我が儘との噂は茶に妥協しないところからでも出た話だろうか。

恒徳の両親も挨拶に出てきた。

父母(フゥムゥ)が店番を引き受け、恒徳と宝玉が先に立ってシェンリィン(絃林)へ案内した。

シュンフゥン(聖亨)が客の相手をしていたので、ヂァンファン(箏芳)に話を先にした。

客が帰り聖亨に恒徳が経緯を話し、與仁と宜綿の二人を四恩が紹介した。

「バァ(爸)ならうってつけですね。今日も近所を飛び回って買い手を探していますよ。昔からの良茶は京城(みやこ)へ良い値段で売れるのですが、寧波(ニンポー)の安茶と言われる一芯二葉の雨後茶が二百擔家の倉庫などに眠っています。一芯三葉は擔三両ならと言われて纏まりません」

業者は買い入れてツァイ(乳茶)用のチャァヂゥァン(茶磚磚茶)にする手間も考えての付け値だ。

この年穀雨は閏二月二十九日、龍井一芯一葉は十斤四十両の値が付いたという。

龍井一芯二様でも雨前は一擔二十両、だが雨後は一擔十五両でも引き受け手が見つからない。

一芯三葉ともなると福州からの売り込みに勝てないという。

杭州(ハンヂョウ)の方での値段の動きは、寧波(ニンポー)の取引の相場にも影響している。

茶に名をつけるほどの銘茶は生産が少なく需要を満たせていない。

寿眉(ショウメイ)の生産拡大は寧波(ニンポー)の茶産業を脅かしだしたという。

寿眉(ショウメイ)一芯二葉三葉混ざりで百擔三百二十両に始まり十年で五百五十両に跳ね上がった。

その分を運送費の削減で補うのは無理になっている。

「茶業農家で反当り四両では手放さなくなったよ。京城(みやこ)へ持っていけば運糟費で三倍になる。広州は引き受けてくれるが京城(みやこ)では不人気だ」

「バァ(爸)は付近の茶農家から五両で引取りました。でも元値でも難しそうで当分抱えておくようです」

「龍井なら兎も角、茶畑に値打ちが付かない物では寿眉(ショウメイ)に勝てないぜ。汕頭(シャントウ)の業者にまで寧波(ニンポー)は値崩れしてると噂だそうだ」

苟朗旺(ゴウラァンワァン)が店へ戻って来た。

それぞれの紹介が済んだ。

「鄭四恩(チョンスーエン)か中々の羽振りだと評判だぜ。鄭宇蝉(チョンユゥチャン)に似ずにいい男だ」

四恩、父親とそっくりだとマァー(媽)も認めている。

茶の話しになると目の輝きが違う、苦労しているのだろうが面には出ていない。

どうやら抱えていた分の茶の引き取り先は折り合いがついたという。

「寿眉(ショウメイ)が擔六両で入ってきます。それと同じでは名前負けしています」

「そんな値段で入るのか、後摘みの値段としか思えないな」

福州相場百擔五百五十両に船賃を入れたら儲けなどでない価格だ。

「安茶の寿眉(ショウメイ)に偽茶が出るだろうか」

「福州を通さない問屋が有るのかもしれません。」

白毫銀針(パイハオインヂェン)春前茶一芯二葉と明前茶一芯二葉は擔二十二両に二十両だという。

「まいったな。福鼎(フゥディン)から直に入るのかな」

一芯二葉-十擔百三十四両から始めた取引は擔二十一両になった、寧波(ニンポー)へ運ぶ手間を考えれば破格な安い値段だ。

「実はここ五年、白毫銀針(パイハオインヂェン)茶の味が低下しています。広州(グアンヂョウ)へ良いものが取られたせいかとおもっていました」

「大分違うのか。一芯二葉に三葉が混ざることはないのか」

「それは有りませんが味が堅いというのでしょうか、蒸れた香りがわずかに出るようになりました。昔は柔らかい甘みでしたが。売れ残りが回って来たかと思っていました」

逮捕された喬(ヂアオ)に行方不明の仲買の蘆(ルー)のような連中が絡んでいるのだろうか。

以前は武夷洲茶(ウーイーヂォゥチャ)と偽って安物の寿眉(福建省建陽、建甌、浦城)で売り込んだものがいたが、そのての常習者なのだろうか。

だが寿眉(ショウメイ)に値打ちが出て、今度は寿眉(ショウメイ)に偽が出たのかもしれない。

北は龍井、南は白毫銀針と人気に乗って闇取引でもある様だ。

教徒の残党、海賊の残党は、いまだ多くが隠れ住んでいる、阿片の資金稼ぎでもしているのだろうか。

宜綿(イーミェン)が與仁に聞いた。

「海燕の所に本物があるだろ」

「ええ、昨年の物で平大人が揃えましたから」

「味見できますかね」

苟朗旺(ゴウラァンワァン)と房恒徳(ファンハンドゥ)は飛んでいきたいくらいの顔をしている。

宝玉は此処へ残り、三人が先導して大尚書橋へ急いだ。

出ようとしていた海燕は、仕方ないという顔で茶用の鉄瓶で湯を沸かさせた。

ティン(亭・東屋)へ白毫銀針(パイハオインヂェン)と武夷肉桂(ウーイーロォゥグゥィ)を用意した。

「これは南京(ナンジン)で普通に売られているものです。高級茶は持ってきませんでした」

朗旺、恒徳の師弟は「昔の味に香りだ。柔らくて温かみを感じる」と絶賛だ。

「與仁(イーレン)さん、福州(フーヂョウ)周りならこれと同じものが手に入りますか」

「俺たちの仲間の問屋では同じものを卸してるよ」

「どうやれば連絡が付きます」

「甬江のジェンティェンマァトォウ(江天碼頭)に東源興の分店が有るのでそこへ言えば一擔から取り寄せてくれるよ」

「ひと月はかかるようですね」

「上海(シャンハイ)取引だと割高だが早い。毎日船が出ているから往復十日で品物が来る。贅沢をする気があるなら福建鉄観音の四番摘みの安物を一緒に入れれば良いさ。」

流通はしていても鳳凰茶、鉄観音、武夷肉桂茶は普通の茶舗では売り切れない値段だ。

話をしている間に武夷肉桂が淹れられてそれぞれの前に置かれた。

飲み干して「寧波は田舎になって仕舞った。南京で普通に手に入るものがここでは入っても来ない」と朗旺はうつむいている。

龍井の名に杭州、寧波は甘えていたようだ。

「曲毫は増やせないのかね」

「有名になりすぎて増やすと値が下がるとやらせてくれません」

シェドゥシェン(雪竇山)一体で三千斤がせいぜいだという、二十五擔では商売に向かない。

奉化県渓口鎮の張(チャン)氏の一族が“もとは同じ樹”からと言い張っているが名乗ることは許されていないという。

「奉化曲毫茶と言えば緑茶で龍井と争える銘茶だ。惜しいものだな」

四恩が「俺は茶は詳しくないですが、張(チャン)氏のソンフゥン(宗風)という人が箏芳のダァジィエ(大姐)の婿ですよ。茶畑も持っているはずです」と言い出した。

「あの偏屈め」

「どうした」

「いえね、前に尋ねたときに喧嘩になりまして」

奉化曲毫は俺の家の樹を分けた、だからこっちが本家だと言い張るという。

「どうだね。本家争いを言わずに白茶で勝負しては」

「どういうことです」

「ここではどうあがいても龍井という名に勝てない、奉化曲毫もあれだけ僧侶が喧伝していては勝てない。それなら寧波(ニンポー)白茶で売り出してはということだ」

杭州(ハンヂョウ)龍井、蘇州(スーヂョウ)碧螺春に対抗するには、同じ緑茶ではなく新興の白茶に乗るなら、近くに対抗できる茶園は無いと判断できた。

それでも不安はある様だ。

「百擔まとまる茶畑など在りません」

「鳳凰山(フェンファンシャン)がなぜ有名か知ってるだろ」

「茶の最高峰と言われています。三度しか飲んだことが有りません」

「普及品も出てるよ」

「でも一擔二十五両では商売になりません。ランシァン(蘭祥)の本店は小売りしています」

恒徳の言葉に聖亨も扱っていないという。

「家ではまだ扱えないんですよ。数が来ないと言われて仕舞いました」

「鳳凰水仙の名だったかい」

「そうです」

一擔十両が十二両になったが間でもうけ過ぎたようだ。

「あれは鳳凰鎮(フェンファンチェン)付近の茶畑の葉を師匠という配合師が調合している」

「えっ、同じ親樹の茶ではないと」

「そういうことだ。系図争いより味、風味を優先させている」

「伝説は」

「あるよ、献上茶は三百年以上の老木から摘まれている。此方の宜綿様の伝手で七十五斤だけ百年樹の葉を分けてもらっている。普段は二番摘み、三番摘みをまぜて鳳凰水仙の格を上げているので単独では出てこない」

茶畑別は良いが其れでは地元消費でしか売れる見込みはないだろうと言われて頷く三人だ。

「どうだね、宗風と手を組んで配合して売り出すのは。今年は無理でも来年からならば順次畑も増やせる」

「良いものを作れるやつは嫌がります、特に宗風などは真っ先に反対に回ります」

「仲間から撥ねることだと言ってはまとまらんな。その男と手を組めれば寧波の茶の名が上がると煽ても必要だ」

「引き込むにはそれだけの裏付けの銀(かね)が要ります」

三人にはそれだけの資金力はない。

「なぁ、四恩。千両投資するか。俺があと千両出す」

「いいですよ」

あまりに簡単に言うので三人が呆れている。

「私に遣れは無理ですから宝玉と箏芳が代人。朗旺さんが差配人、助で聖亨さんと恒徳。この五人でボォゥチャフィ(博茶会)とでもしますか」

「なんでバァイ(白)じゃないのよ」

海燕は不思議そうだ。

「売り出すまで内緒」

「内緒にするなら私も千両出してあげる。上手くいったら結へ入れるんでしょ」

朗旺が鼻を掻いている。

「実は結ですが妻の父は象山縣の鹽行でして、結へは代々入らせていただいています。聖亨は祖父が結の者ということに為ります。私は信用が有りませんが息子は出来が良いみたいです」

嫁となれば箏芳の実家に、宝玉の実家も結の一員だ。

「その人の承諾が取れるか第一筆がもらえればあとは引き受けるよ」

それにはまず茶農家たちを纏めることだと話し合った。

一度散会して七時にリャンアル(两爾)集合と別れた。

與仁が手紙を上海瓔園(インユァン)の陸環芯(ルーファンシィン)へ書いて朗旺と一緒に江天碼頭へ向かった。

懐中時計は一時だが腹は減っていない。

靈橋門から出て浮橋付近で船を雇った。

東源興の支店で上海(シャンハイ)急ぎで十二両の連絡費用が掛かる。

與仁は博茶会の経費に付ければいいことだと言っている。

手紙には海燕(ハイイェン)に贈るつもりで今年の茶の名前も書いてある。

ヂゥオヅゥ(卓子)で茶の名前を書き出して、届いたら届けるように朗旺に頼んで置いた。

汕頭(シャントウ)からの船はまだ着いて居なかった。

ドンファンファンディン(東鳳飯店)の名を書き出して店に預けた。

陽が陰り涼しくなってきた七時に與仁達四人がリャンアル(两爾)へ行くと、宝玉夫婦、箏芳夫婦、朗旺夫婦が来ていると海燕が告げた。

あとを追うように四恩も着いた。

人が多くなるというので普段使わない離れが用意されていた。

海燕が百両の銀票十枚を朗旺に預けた、四恩は百両三枚、二十両二十枚、十両二十枚、五両二十枚と使いやすく用意してきていた。

與仁は百両十枚を出した。

これで三千両、朗旺は帳面に記入し、通信費十二両と船雇いとして銀(イン)三十銭を書いてから與仁に十五両の銀票を渡した。

「さてこれから同じ仕事をする仲間だ。今日は飲み過ぎないようにしないと銀(かね)番が困るだろうから酒は控えめにしよう」

 

茶商は緑、白、黄、青と産地で振り分けるという。

緑茶

杭州(ハンヂョウ)の龍井(ロンジン)、

蘇州(スーヂョウ)碧螺春(ピーローチュン)、

徽州(フゥイヂョウ)黄山毛峰(フアンシャンマァォファン)、

廬山(ルシャン)雲霧(ユンウー)、

上饒(シャンラオ)婺源仙枝(ウーユアンシェンヂィ)。

白茶

福建(フゥヂィェン)、湖南(フゥナァン)

高級茶が白毫銀針(パイハオインヂェン)。

普及品としての寿眉(ショウメイ)。

黄山毛峰や白毫銀針は名前が付いたのはつい最近で取り扱う茶商は限られているという。 

黄茶

洞庭湖(ドンティンフゥ)付近の君山銀針(ジュンシャンインジェン)、君山島が本物として知られている。

青茶

広東(グアンドン)の潮州(チァォヂョウ)鳳凰山(フェンファンシャン)、

福建(フゥヂィェン)武夷山(ウーイーシャン)を中心に生産されるという。

 

第五十九回-和信伝-弐拾捌 ・ 23-05-20

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     



カズパパの測定日記

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