第伍部-和信伝-伍拾壱

第八十二回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  


白川“ やなぎや ”柳下源蔵

文化十一年四月二十九日(1814617日)・白川

大井源蔵と足軽の近井金治は、道中役場へ届を出し、先に元矢之倉へ帰った。

迎えが来るまで、甲子郎と道中の日程に宿を話し合った。

「喜連川と千住はどうしましょう」

「師匠へ手紙を出しておけば向こうで用意してくれるさ。千住は無理なら足を延ばせば済むことだ」

氏家“ ほていやいちべえ

越堀“ さかいやよへいじ

小金井“ はしやこえもん

幸手“ たわらやとうじろう

甲子郎は次郎丸の手紙と、道中の旅籠へ予定日の連絡の手紙を出してきた。

生沼文平は午の刻前に迎えに現れた。

城内用部屋で未の刻に報告を聞くという、金策については今朝早くに五百両を会計方へ伝えたところ次郎丸の予想とおり運び込んでほしいという。

五人で持ち別けようとしたが生沼が四人でもつと分け合った。

次郎丸、川添甲子郎、忠兵衛、弥助、生沼の五人はまず会計方へ預けて受け取りを書いて貰ってから三之丸へ回り、北小路御門内用屋敷で待つ酒井、吉村、三輪の三家老と面談した。

「殿の要望とはだいぶ違うようだが」

吉村はそれ見た事かという顔だ。

「実は江戸に於きまして金策が付申した。拙者が戻り次第上屋敷へ届けさせて頂き申す」

「江戸で千五百両出来たのか。借り入れたのか」

「来年の養子祝の先付に集まり申した。四日までに白川で都合が付いた分は出立前に会計方へ届けさせて頂き申す」

三郭御園を巡り、生沼文平とは大手門を出て分かれた、今晩暗くなったら南湖の見取り図を持ってくるという。

やなぎや ”柳下源蔵へ戻ると銭五の使いが待っていた。

切り餅二十を村上から、新発田を廻って四人で運んできたという。

小判ではなくがさばるが一分判で持参したという。

一分金百枚で二十五両、一人五個で百二十五両、四百三十八匁(1624グラム程度)程になる。

傳馬と違い歩くには辛くなる重みだ。

三人は次郎丸へ挨拶もそこそこに別間へ引きさがり、藤吾という若い男が残った。

「信様の申し出で五百両養子祝い金をお届けに参りました」

「もう知れましたのか。江戸でなくこちらとご存知でしたか」

「信様は其処まではご存じないようでした。御養子が本決まりに為れば届けるように言いつけられたと聞き申した。主人の方から白川で会えなければ江戸と言われて参りました」

銭五は信に下関で別れ、村上で藤吾というこの男へ金を預けたという。

越後街道で会津若松、其処から白川街道で此処へ来たと話した。

「御苦労をおかけしております」

「何のこれしきお気に架けるほどでもござりませぬ。私(わたくし)め、これより若さんへの繋ぎを申し付かりましたので顔つなぎでもありますので、お気に留め置き下されましょう」

「わかり申した。此の金は明日城へ運んで会計に預けておきましょう」

ご相談が有り申すというので甲子郎に部屋外で見張りをしてもらった。

信様の方で若さんの海禁への和国の現状をどうお考えか知りたいという。

次郎丸はこの男加賀藩の息も掛かっていて、銭五は見抜いてわざわざ此方の担当へ回したなと思った。

「明の頃、一時海禁に為り、海賊が増えて行った。海賊と手を結ぶ役人を排除し貿易港を増やしたが、清国は耶蘇を恐れて広州のみの貿易とした。我が国の長崎の例に倣ったと言われる。ただ清国は海賊退治で膨大な資金を浪費して国が疲弊した」

「わが国も密貿易が多くなり申して御座る。幸い海賊とまでは為らぬようで」

「幕府が貿易港を増やせば密貿易の旨味は無くなる。依って大奥が先だって反対する。後押しは寺社の坊主たちだ。耶蘇に国土を踏ませるなと声を上げている」

「海禁を解くべき、続けるべきどちらが国の為でしょうか」

「長崎以外にもう一港は必要だろう。江戸から遠すぎて連絡に時間がかかる。伊豆下田、相模三浦、相模灘の大島、いずれかに早めに連絡場所を開設すべきであろう」

「反対は出ませんか」

「でるさ」

「その時は」

「老中の方たちの見識次第さ」

「若さんは海禁を解くべきとお考えでしょうか」

「大樹が阿蘭陀、清国以外にも大きな国がある事を御知りに為ればね、海禁なぞ無駄だと分かるはずさ。ただね、侍は商人ではないなど、見栄を張るひと、商人農民を絞ればいいという人も居られるうちは難しい」

「算盤侍と陰口が怖いのでしょうか」

「鋤鍬持たずに喰えるうちは駄目だろうな」

「清国は明にならって海禁を解きませんのか」

「あの国は基本が道教、国は喇嘛教という仏教を信奉している。ともに耶蘇に反対しているのは我が国と同じだ」

「国の方針にかかわらず神社仏閣は賛成しませんか」

「お伊勢様が国の為に海禁を止めよと御宣託でも出せば早いのだがね。お公家様御一同が進歩を望まないうちは難しいのさ」

「清国は海賊の勢力も衰え、宗教反乱も収まったと言いますが」

「あの国は二千年前から宗教反乱が多いのさ。黄巾の乱などは太平道の信者が多く参加して国が亡ぶ原因を作った」

「結は幕府に従うという事でしょうか」

「就かず離れずと言いたいところだが。一番は国民の幸せが先だよ、そのために必要なことは幕府、大藩、小藩を問わずお手伝いする。たとえば加賀藩とその支藩へ高田屋殿、銭五殿を通じての支援もその一つだ」

「主人銭五と歩調をとらるとおおせですか」

「それも有るが、絹物、真綿、木綿などでお力添えを考えている」

「売れましょうか」

「国内の需要が賄えれば異国へ売る算段を考えればよいで御座ろう。幕閣がその頃には海禁を緩やかにするのを期待しようではないか」

次郎丸はあくまで密輸品については語らずに済ませた。

康熙二十三年(1684年)-康煕帝は其れ迄の遷界令を廃止。

康熙二十四年(1685年)-海外貿易の受け容れ港、江海関(江蘇省上海)、浙海関(浙江省寧波)、閩海関(福建省漳州)、粤海関(広東省広州)四ヶ所に海関をおいた。

乾隆二十二年(1757年)-外国貿易は広州一港に制限され、広東十三行(公行)の独占的取引へ移行していった。

「主は城端(じょうはな)へ資金を投じると話しています」

「金沢の近くだね」

「左様で」

「いいものが出来ると聞いているが、京への売り込みが減っているとも聞いた」

「三年後には立ち直させると言っておりました」

「真綿が余る様なら松代で引き受けたいと伝えてください」

「かしこまりました。三人は明日江戸へ先に向かわせ、私(わたくし)藤吾は若さんのお供で同道させてください」

「いいだろう。甲子郎入ってくれ」

甲子郎を紹介した。

「銭五殿との新しい連絡人の藤吾殿は江戸まで一緒の旅になる。四人一緒に弥助と忠兵衛にもひき合わせてくれ。こちらの予定も教えておいてくれ。明日は生沼殿と南湖へ行く前に城の会計に此の金を預けておこう」

「承知仕りました。藤吾殿は明日南湖へ行かれるなら貸馬を増やしておきますが」

「一緒にお願いします」

暫くすると藤吾は三人とともに来て「松吉、吉太郎の二人は先に松代で小間物見世を開きます。江戸は此の洋栄(ひろはる)と藤吾で銭屋の小間物見世を受け継ぎます」と其々の名と住まいの所を書いてきた。

次郎丸は「儂の定栄(さだよし)のよしは栄(さかえ)の字でよしと読ませるのさ。清国通事と話したが、和国の名は同じ字でも読みが多くて苦労すると言われた」と親しげに話した。

「支那(しな)では読みは多くないのですか」

「いやいやそうでもない。方言が多いので掴みどころがないそうだが、名前は京城(みやこ)に合わせることにするそうだ」

「李(り)、陳(ちん)、王(おう)、劉(りゅう)が多いそうですね」

「漢人と言われる元からの人たちさ。満洲の人は氏とは違う名を付けるので此方から見るとどこの家系かよく解らぬ。信様は和とかいてヘを名乗るが父上は豊紳(フェンシェン)を皇帝より賜り、祖父は和(ヘ)でその父上は李(リ)と言う」

「信様は豊紳(フェンシェン)家を継がないのですか」

「従兄弟の福恩(ふくおん)殿が皇帝の命令で豊紳福恩(フェンシェンフゥエン)を名乗り家系を継承されたよ。従兄弟の家系は福恩(フゥエン)の弟が継いでいる。この人達は氏が鈕祜祿(ニオフル)だそうだ」

「徳川様が一族で松平を使うのに似ておりますね」

「加賀様も松平を使われるのが許されたので氏(うじ)と名乗りと二つあるに似ておるな。菅原氏の前田公なのか、源氏の松平公なのか、両立されるおつもりと噂が有る」

この話題に深入りを避けるように藤吾は南湖に話題を振った。

洋栄(ひろはる)と藤吾はやはり前田家から送り込まれているようだ。

松代へ配置される二人はあまり口を開かないので様子は知れない。

夕飯後、酉の刻(正刻七時三十六分頃)、暗くなって生沼文平が南湖案内の為に簡単な見取り図を持って遣って来た。

甲子郎が貸馬を頼んだと聞いて呆れている。

「歩きで片道半刻、若さんの時計では六十分で着き申す」

「新兵衛からも聞いているが大沼を二回り(ふたまわり)するつもりだ。一里有るか無いかだと言っていた。馬にしたのは目線の高さが欲しいからだ。遠眼鏡で見るたびに肩車とはいくまいし、高台へ上るのは面倒だ」

白川“ やなぎや ”柳下源蔵

文化十一年五月朔日(ついたち)1814618日)・白川

宿の朝は一汁二菜だ。

「花月様に殿の御食事一汁一菜は今も続いておる。ある人々は花月様、殿が質素で、儂が贅沢していると讒言するものが居るそうだ。屋敷へ監察が来ると十五人の一日の朝飯、昼食(ちゅうじき)、夕飯で予算が九百文なので驚いておる。それではお二人の一日の食事が作れぬそうだ」

「そんなに差が出ますか」

藤吾は驚いている。

「旅に出ればそうはいかんが、屋敷で昼にたまには贅沢に一人小肌の鮨か鯵二貫に十六文だ。一番贅沢は其処の忠兵衛のように四貫食べるやつで三十二文。殿の汁ものに百二十文、菜が二百四十文と賄いの予算が出ている。お二人がいくら倹約しても房総警備で金が足りない」

南湖秋水夜無煙 むしろ流れに乗じて直ちに天に上るべし しばし洞庭に就き月色をしゃし 酒を買いて白雲のほとりに船ゆかん

「誰の詠んだ詩でしょう」

「唐の時代に李白が詠んだ洞庭湖の詩(うた)の第二章だよ。南湖はこれにちなんで大沼を洞庭湖に見立てて呼び替えたそうだ。あちらは八百里の洞庭と言われるくらい大きな支那(しな)最大の湖だが年々河からの土砂で小さく為っているそうだ」

「支那(しな)は何事も大げさですから」

「雨の多い時期は和国の里でも二十里の幅で、長さが四十里は有るそうだ。昔の支那(しな)の里だろうかな。洞庭湖南岸付近一帯は瀟湘(しょうしょう)と言って近江八景の元になるほど有名だ」

・平沙落雁(へいさらくがん)・遠浦帰帆(えんぽきはん)

・山市静嵐(さんしせいらん)・江天暮雪(こうてんぼせつ)

・洞庭秋月(どうていしゅうげつ)・瀟湘夜雨(しょうしょうやう)

・煙寺晩鐘(えんじばんしょう)・漁村落照(ぎょそんらくしょう)

洋栄(ひろはる)が次郎丸に訊いてきた。

「お江戸が入る以上の大きさですかね」

「江戸どころか、武蔵、相模、上総、下総が入ってしまうほど有ったそうだ」

「近江の海が幾つも繋がっているくらい有りますか」

「近江で五里半の十六里だそうだ。そうそう江戸日本橋から小田原宿迄二十里有るそうだ」

藤吾が急いで計算した。

「同じ里程なら幅がほぼ四倍、長さが二倍半」

「江戸から白川が街道で五十里を切るからその見当で良いだろうさ。話半分でも宇都宮だな」

瀟湘(シァオシァン)は清らかな湘江(シァンヂアン)の水とでも言おうかと、次郎丸は支那(しな)語の発音と言いながら話した。

藤吾は「若さんはずいぶん詳しそうですね」と言う。

「俺の古今の師匠が昔の事を教えてくれたし。昨年正式な道筋で洞庭湖付近の君山銀針茶(ジュンシャンインジェンチャ)が百二十斤長崎へ送られてきた。大樹へ一箱三十斤、花月様へ一箱三十斤そのうち儂が一斤だけ分けて貰った。その時洞庭湖の事を教えていただいた」

六十斤は伊万里の壺に一斤ずつ分けて入れられ、六十人に配られていった。

銭屋の三人とは大手門手前で別れ、藤吾は馬方と残り五人連れで城内へ入った。

会計方に待月が早々と来ている、五月が月番だそうだ。

横目付の連絡網は素早いなと感じた。

酒井孫八郎と吉村又右衛門が遣ってきて会計方の受け取りを一読して次郎丸へ渡した。

「知らせでは越後からの祝い金と噂だが、分領からであろうか」

白河藩実髙は雄藩と言える。

寛保元年(1741年)-越後高田から領地替えで白川へ移り、陸奥五郡と越後五郡で実高十六万四千石ほどだった。

安永四年十二月一日(17751223日)-田安賢丸(まさまる・定信・十七歳)、徳川家治の命により、白川藩二代藩主松平定邦養子となる。

安永八年二月二十四日(1779410日)-家治嫡男徳川家基十八歳急死。

天明の飢饉

天明二年(1782年)-奥羽冷害、九州冷害。

天明三年三月十二日(1783413日)-岩木山噴火。

天明三年七月八日(178385日)-浅間山大噴火起こる、諸国飢饉、奥羽冷害。
(打ちこわし-幕府記録三十件・東北十一件、関東十二件)

天明四年(1784年)-諸国飢饉。
(打ちこわし-記録十件)

天明五年(1785年)-奥羽飢饉。

天明六年七月十二日(178685日)-関東大雨続く、特に小石川・下谷・浅草・本所・深川に被害甚大。

天明六年八月二十五日(1786917日)十代将軍家治病死「公表九月八日」

天明六年八月二十七日(1786919日)-田沼意次老中解任。

在職老中(天明六年九月)

・井伊掃部頭直幸(天明四年十一月二十八日大老~天明七年九月十一日辞職)

・水野忠友(天明元年九月十八日老中格~天明五年正月二十九日老中~天明八年三月二十八日解任)

・鳥居忠意(天明元年閏五月十一日西の丸老中~天明六年閏十月一日老中~寛政五年二月二十九日辞任)

・牧野貞長(天明四年五月十五日老中~寛政二年二月二日辞任)

天明七年(1787年)-奥羽飢饉、江戸、大坂打ちこわし横行。
米価高騰・物価高騰。
(打ちこわし-記録六十九件・東北七件・関東十七件・近畿三十件)

天明八年正月三十日(178837日)-京都大火、“ どんぐり焼け ”。

天明三年十月十六日(17831110日)-定信(二十六歳)白川藩主となる。

天明七年四月十五日(1787531日)-徳川家斉(十五歳)将軍宣下。

天明七年六月十九日(178782日)-定信(三十歳)、老中首座就任。

天明八年三月四日(178849日)-老中首座松平定信(三十一歳)、十一代将軍家斉(十六歳)の将軍補佐となる。

・長男・次郎丸(さだよし・定栄)-真田幸貫(ゆきつら)、寛政三年九月二日(1791929日)誕生。
母親-側室 貞順院(中川氏)。

・嫡子・太郎丸(さだなが・定永)、寛政三年九月十三日(17911010日)誕生。
母親-継室 至誠院 隼姫(伊予大洲加藤泰武女)。
-伊予大洲七代藩主加藤泰武は明和五年(1768年)二十四歳で死去。

寛政五年(1793年)-定信(三十五歳)、老中首座解任。

文化二年(1805年)-越後蒲原郡、三島郡内に五万石が預かり支配として加わる。

文化八年閏二月(1811年)-房総警備拝命後の白河藩の本領支配実高十六万九千石余。

文化八年(1811年)-上総国天羽・周准郡内、安房国安房・朝夷・平郡内三万二千石余が与えられ、越後岩船七千石余、伊達信夫二万石余は幕府収公の後白川藩預かりとされた。

預かり支配地は実高七万七千石余。

実高二十四万六千石余と結は調べている。

文化九年四月六日(1812516日)-定信(五十四歳)隠居、家督は嫡男定永(二十二歳)相続。

「領内ではござりませぬ。渡邊家などが越中、越後、出羽の方々よりの祝い金をまとめてくださいました。前日分は陸奥の方々の祝い金を須賀川の市原家が纏めてくださいました」

「本川殿、定栄(さだよし)様御養子は前月本決まりと聞いたばかりじゃが」

「吉村様、三年前、いや五年前よりいずれ養子と為った日の為、無尽のように貯めてくださったそうで御座います。あり難き心がけと感謝で一杯の気持ちに御座ります」

待月は「遊びすぎて約束の申の下刻(六時十八分程)に遅れませぬ様」と「松風亭」という茶室での夕餉の約束を念押しした。

四日の予定だったが待月の方から二日にするように言われたのだ。

「李白の洞庭に遊ぶは秋の月夜でござる。今は朔で月もないですぞ。陽の陰る前にお邪魔させて頂き申す」

大手先で馬方が藤吾と待っている、馬に乗って次郎丸は李白の詩を思い出している。

追分から棚倉街道に入ると吟詠を始めた。

「若さん、今日は気分が乗って居なさる」

甲子郎と生沼文平が話している。

どうてい にしにのぞめば そこうわかる みずつきて なんてん くもをみず ひ ちょうさにおちて しゅうしょくとおし しらず いずれのところにか しょうくんをとむらわん

其一 洞庭西望楚江分 水盡南天不見雲 日落長沙秋色遠 不知何處弔湘君

其二 南湖秋水夜無煙 耐可乘流直上天 且就洞庭賖月色 將船買酒白雲邊

第三首に入ると南湖が見えてきた。

其三 洛陽才子謫湘川 元禮同舟月下仙 記得長安還欲笑 不知何處是西天

其四 洞庭湖西秋月輝 瀟湘江北早鴻飛 醉客滿船歌白苧 不知霜露入秋衣

其五 帝子瀟湘去不還 空餘秋草洞庭間 淡掃明湖開玉鏡 丹青畫出是君山

「吟ずるに、区切る場所は俺の師匠に倣ったが、お公家様や高家の方は少し違うさうだ」

ていし せいしょにさってかえらず しゅうそうむなしくあます どうていのま たんそうめいこ ぎょくきょうをひらき たんせいえがきだす これくんざん

漱玉泉(清国済南にある名水の名)など名所に見立て、花月様が名を改めて親しい大名、公家、儒学者に和歌や漢詩を依頼している。

ときわ(常盤)清水、玉花泉の名で牧野公へ依頼したという。

右手の千代の松原には遠駆けで出て来たのか、若侍が五騎、此方へ向かってくるので馬を降りてやり過ごした。

右手まつむしの原あたりから山際に大豆の花が咲いた畑が続いている。

左手中腹に共楽亭が有るという。

「花月様のおかげで出来た万人共楽の休み所に御座る。

小さな岬の向こうに茶邸が見える。

湖月亭では生沼が馬を寄せて「南湖開削の工事を指揮された吉村又右衛門宣温様が湖月亭を賜って、東里翠山様が又右衛門を継がれて引き続いて花月様より賜っており申す」と声高らかに次郎丸へ伝えた。

「東里翠山様とは宣猷様で有ろうに」

生沼は「宣浚、宣濬とも名乗りを次々お替えに為るので」と小声になった。

明鏡山の端を廻って火薬庫へ出た、島の周りに舟が三艘出て水練をしている姿が有る。

「三郭御園で習っていた者達で御座る」

「大分と達者になったようだ」

浮襷(うきたすき)は着けていない様だ。

「明日は舟で出たいが、頼めるだろうか」

「十里塘の堤に番所が有り申す。何人乗りましょう」

「弥助、忠兵衛、藤吾は荷物番だ」

「三人なら一艘で済むので頼んで於きましょう」

山端を先へ進むと柳の木陰で先ほどの若侍が休んでいる。

生沼が「騎乗で失礼仕る」と会釈して過ぎようとしたが陣笠を上げるようにして「無礼者が。町人、中間の分際で騎乗にて通るか」と声を荒げた。

「ここは万人享楽の場、身分を問うなと花月様お許しの場で御座る」

「我らを知らぬか。花月なぞ知るか」

「横目付職分にて方々を存じ上げる。はて本日の遊覧をご存じないのか。花月様をご存じなきとは御油断で御座る」

生沼文平が降りたので一同は馬脇へ並んで様子を窺った。

馬方は不安そうだ。

後ろから三騎早駆けでやってきた。

「大關殿お待ちあれ」

兵藤十郎と三輪大輔と見知らぬ若侍だ。

「いい所へ、こやつら花月様とやらを持ち出して横柄(大柄)な口を叩く」

「是、太四郎殿。花月様は大殿で御座るぞ」

絶句している、二十歳を過ぎただろうか精悍な顔立ちをしている。

「本川様。若年故ものが判りませぬ。御容赦くだされ。生沼殿も御内聞に」

生沼は次郎丸を見て「今日は横目付の仕事ではござらぬ。遊山にて気散じにてそうろう」と笑った。

「大輔殿、しかしこやつら中間、町人まで騎乗でとおり抜けようなど横柄(大柄)な奴らで御座る」

「申し訳ない。実は殿と花月様の仰せにより南湖に三郭御園の様子を見取、定栄(さだよし)様御養子先、庭園造営の助けにせよとのお達しで御座る。此の者達も作庭の手助けをするので馬の上からの目線を参考にするで御座る。御容赦くだされ」

次郎丸が腰をかがめて言うので「それなら我らも許さねばならぬな」と後ろへ下がった。

大關とその一同等は本川次郎太夫の事も知らぬようだ、三騎増えて先へ進んだ。

千代の堤に番所が有り、船着きもあるので其処で生沼が明日の巳の刻から午までの舟を手配した。

紅楓の入江には遊覧で出したのか船の上から歌声が流れてきた。

「小鹿山(をしかやま)は凝霞峰(ぎかほう)とも言います」

就いて来た景山三蔵(かげやまさんぞう)という少年が教えてくれた。

南湖勝覧の地名とこの十年で大分違いが出ているそうだ。

「土地の百姓たちも次々違う名を聞かされて戸惑っており申す」

有明の岬で残りは四半分ほど。

「馬なら、早駆け半刻以下で廻れると云う者も居り申すが、馬の脚が痛みまする」

「一回り一里足らず、二十五丁から二十七丁と聞いたが」

「曲がりくねって居りますから正確ではござらぬ」

生沼も「新兵衛兄いがおれば一緒に計れたのですが」と言う。

「兄いはだべりながら歩数も覚えていると言う器用な男さ。伊能様のような輪を廻して距離でも計からにゃ正確にはいかないだろう」

「あの機械も道の凸凹を入れてしまいます」

これは大輔の云う通りだ。

「歩数のほうが正確でしょうか」

「一歩が何尺か正確な人が居なきゃ難しい」

量程車(りょうていしゃ)は道悪では役立たなかったと生沼がいう。

導線法と交会法などと言われるが歩測も初期には重要視された。

「誰が書いたか覚えていないが、一町百五十八歩と記録を読んだ事が有るよ」

「六十間で三百六十尺という事ですね

「支那(しな)での里程を計るのは復歩と言うやり方で三百歩支那(しな)の一里、伊能先生は大体半歩二尺二寸七分で歩いたようだ」

二尺二寸七分・68.78cm(一歩137.56cm

一里3927mだと五千六百八十八歩(半歩)、半歩69.04cmほどになる(一歩138.08cm)。

清国は三百歩一里、五尺が一歩(量地尺五尺172.5cm)だと千五百尺に為る。

(千八百尺一里の記述多し・360歩一里も花音伝説-和信伝では取り上げた)

量地尺一尺=34.5cmだとして517.5m、500m一里に近い数字が出る。

清国一里300400mから逆算、一歩133.6cmで伊能先生の歩幅に近い。

400360111.1cm

500360138.8cm、これを参考にでもした記述のようだ。

天体観測も行われ、緯度経度を出している。

うんいは はんしゅくが きちうのおくりもの ふうろは せうしやうの なみのうへのふね

「若さん今日はよく詠いますね。誰が詠んだ詩ですか」
和歌は詠い、漢詩は吟じろと言うのだが。

雲衣范叔羈中贈,風櫓潚湘浪上舟

雲衣(うんい)は范叔が羈中(きちう)の贈(おくりもの)

風櫓(ふうろ)は瀟湘の浪の上の船

范叔(范雎)-秦の昭襄王に対して遠交近攻策を進言。 

「村上天皇の第七皇子、具平親王(ともひらしんのう)だよ。のちの中書王だ

千代の松原まで来た、松風の里には茶見世が有る。

座敷で六人、外で四人と馬方六人が茶と牡丹餅で一休みだ。

「大輔、先ほどの太四郎殿とやら精悍な顔立ちで腕も立ちそうだ」

「中西派一刀流の国元道場免許です。起倒流柔術も免許を授かりました」

「中西派一刀流の師範が国元に居るのか」

「江戸で免許を受けた者が国元免許をやたらと出しています。立教館とは違い荒っぽいので有名です」

立教館では甲乙流、山本流居合が主な武術で優しいとは言い難いが、次郎丸も笑うしかない、あえて誰それと追及は止めておいた。

花月様は新陰流を木村佐左衛門是有より習い、柔術は鈴木清兵衛に起倒流、絶えたと思われていた甲乙流剣術も習いうけると、剣と柔術を組み合わせた甲乙流を立ち上げて家臣へ自ら指導した。

「若さんは中西派一刀流と甲乙流剣術の免許でしたな」

「お情けさ。山本流居合も花月様には叱られてばかりだ」

山本流居合術は山本自見斎源助が流祖、関口流居合を継承したと伝わる。

「大輔、俺たちはもう一廻りしてから松風亭でお茶にするよ」

「先に九番町へ行きます」

「手伝いかい」

「荒れた風情が良いと三日ほど前に掃除してあり、今日は顔出しだけでございます」

十郎が「若さんに空豆の甘煮と鮎の甘露煮を出すと母上と叔母上が張り切っています」とすっぱ抜いた。

「姉上が仕切りたがって父も困っていました。十郎も口が軽いぞ。罰で三蔵と若さんと松風亭蘿月庵まで同行しなさい」

どうやら初手から次郎丸へ三蔵と共に引き回してもらう積りだったようだ。

三蔵は十郎の従兄弟で十四歳、兵藤八右衛門の姉の長男だという。

大輔の長女佐紀十二歳が許嫁だという。

皆桑名藩当時からの名家だと生沼が教えてくれた。

茶室「共楽亭」を望んで吟じた。

  むかしきく どうていのみず いまのぼる がくようろう ごそ とうなんにさけ けんこん にちやうかぶ しんぽう いちじなく ろうびょう こしゅうあり じゅうば かんざんのきた けんによりて ていしながる

岳陽楼に登る「登岳陽楼」 杜甫

昔聞洞庭水

今登岳陽楼

昔聞く洞庭の水

今登る岳陽楼

呉楚東南圻

乾坤日夜浮

呉楚東南に坼(さ)け

乾坤(けんこん)日夜浮ぶ

親朋無一字

老病有孤舟

親朋(しんぽう)一字無く

老病孤舟(こしゅう)有り

戎馬関山北

憑軒涕泗流

戎馬(じゅうば)関山(かんざん)の北

軒(のき)に憑(よ)れば涕泗(ていし)流る

岳陽楼(がくようろう)-岳陽市古城西門城壁の上にある。

唐の開元四年(716年)中書令張説は岳州に左遷、楼閣を建て岳陽楼と命名した。

乾坤(けんこん)-天地(てんち)

親朋(しんぽう)-朋友(ほうゆう)

「杜甫ですね」

「十郎、よく知って居たな。たしかに杜甫の岳陽楼に登るだよ。杜甫晩年五十七歳で詠んだそうだ。解釈は幾通りも有ると師匠の言(ごん)だ」

「実はにわか勉強です。三蔵と若さんが南湖へ行かれると知って祖父から教わりました」

「韻を踏んでいると言うが唐の時代の発音なので今とは少し違うらしい」

杜甫に李白の詩が伝わった頃は、遣唐使が行き来して居たので貴族の間でも発音が出来たようだと教えた。

五言律詩『登岳陽楼』の押韻、楼(ロォウ)、浮(フゥ)、舟(チョウ)、流(リウ)で韻を踏む。

「千年前ならともかく、これが正しいのか師匠も疑問であったよ。李白は杜甫より十一歳年上で、六十二歳で亡くなった」

「古希というくらい七十歳は長生きなのですね」

「医術が発展しなければ子供の時に少しの病でも助からないことが多い。寿命を延ばすには飢饉の対策には冷害に強い食料、日照りの時の水源、洪水を防ぐ堤など武士も武道だけでは成り立たない時代だ」

三蔵が「古希を詠んだ文章や詩(うた)は有るのですか」と馬を寄せてきた。

待月様は教えなかったか」

はい左様です」

「爺は六十六歳に成ったか、もう直に古希だな。杜甫に曲江と言う詩が有って、中に酒債(しゅさい)は尋常(じんじょう)行く処に有り、人生七十古来稀(まれ)なりと言う言葉が有る。杜甫は四十七歳で此の詩(うた)を詠んだが五十九歳で亡くなっている」

李白「詩仙」、杜甫「詩聖」と言うのが師匠の教えで、李白は「青蓮居士謫仙人(せいれんこじたくせんにん)」と自称していると馬上で紙に酒債尋常行処有 人生七十古来稀と書いて三蔵へ渡した。

李白-嗣聖十八年(701年)~寶應元年(762年)六十二歳死去。

杜甫-先天元年(712年)~大暦五年(770年)五十九歳死去。

安禄山の変(安史の乱・安禄山とその部下の史思明)

天宝十四載(7551216日)~宝応二年(763217日)。

・聖武二年一月五日 757129日)-安禄山五十五歳死去。

・上元二年三月(761年)-史思明死去。

・宝応二年正月(763年)-史朝義(史思明の子)死去。

玄宗皇帝(李隆基)-垂拱元年八月五日 68598日)~上元二年四月五日 76253日)七十八歳死去。

即位-先天元年八月三日(71298日)。

天宝十五載六月十三日(756714日)-長安(宮廷)を脱出、蜀へ敗走。

退位-天宝十五載七月十二日(756812日)。

楊貴妃-開元七年六月一日(719622日)~天宝十五載六月十四日(756715日)三十八歳死去。

「玄宗皇帝の時代、美人は楊貴妃、その時代を生きた詩人、杜甫に李白も詩を詠んでいる。杜甫の詩は古代の悪女に例えたようだ。元詩の北征と言うのは長すぎて一部しか覚えていない」

きかずや かいんの おとろえしとき うち みずから ほうだつを ちゅうせしを しゅうかん さいこうするを えたるは せんこう はたして めいてつなればなり

杜甫 北征から

憶昨狼狽初 事與古先別 奸臣竟菹醢 同惡隨蕩析

不聞夏殷衰 中自誅褒妲 周漢獲再興 宣光果明哲

桓桓陳將軍 仗鉞奮忠烈 微爾人盡非 於今國猶活 

吟じながら馬上でこの一節を書き上げて三蔵へ渡した。

「吟じたのが一部でこれが全体文ですか」

三蔵と十郎は短いので不思議そうだ。

「いやいや此の十倍以上はあるよ。ここだけ覚えるのが背一杯だ」

馬を歩ませ、十里塘の堤では遠眼鏡で千代の松原から共楽亭の方向を仔細に観察した。

「この分なら明日は一回りゆるりと回れば十分だ」

時計を見ると二時「さてここからは対岸まで一時間で行くようだ」と生沼を先へ出させた。

有明岬で二時四十分、千代の松原で五十分。

空豆が実をつけている「此処のはもうじき収穫だな十郎。お前さんの母上は何処で手に入れたんだね」と振り返った。

「家の女中の親元が芦野で大きな農家でして、其処から今朝早くに届きました。大豆の枝豆はまだひと月先だと言っています」

「芦野から早朝に出てくるのは大変だ、前日か夜中に採取して遅くも寅に出てくるようだ。五里程も有るか。此処の大豆もその位には食べられそうだ」

「芦野でも白坂に近いので三里は無いそうです」

五時には漱玉泉を右手に街道へ出た、遠くで申の鐘が鳴っている。

馬頭観音で五時四十五分、大きく道がくねり鉤手(曲尺手・かねんて)の先が江戸口見附。

九番町左手に見える寺の伽藍の手前を生沼が入った。

そこで甲子郎が四文銭十枚を括った物を六人の馬方へひとつずつ配り「明日も同じ時刻に脇本陣へ来てくれ」と別れた。

「どうやら時刻に遅れずに済んだな」

「陽が落ちるまで一時間は有りまするな。まだ大分明かるう御座る」

生沼もほっとしている。

三蔵と十郎が馬を中間に渡して案内に立った。

松風亭蘿月庵の手前で生沼が「甲子郎殿だけお供を」と言って二人を残し、十郎が先に立って母屋へ向かった。

「本川次郎太夫。南湖より戻りまして御座る」

「お二人ともそのままお入りあれ」

大輔が蹲(つくばい)と筧(かけひ)脇から声を掛けて母屋へ向かった。

一応手を洗い、口を漱いで中へ入った。

西日は障子を照らし、中は意外と明るく見えるのに驚いた。

花月様の書いた“ 蘿月 ”の水盥、“ 垂桜 ”の掛け軸を拝見した。

型通りの作法が終わり、雑談となり甲子郎は母屋へ去った。

「蓁姫(しんひめ)様はご懐妊の兆しは有りませぬか」

「肥前守様にお目に掛かったが国元に男子一人と言うので蓁姫を気にかけて居られた」

その日の松浦(まつら)下屋敷、自然居合の話しになったのは源太夫が一緒だったからだ。

隠居の静山(せいざん)公に居合の機微を窺うという事だった。

その場に肥前守事松浦熙(まつらひろむ)も同席していたのだ。

静山(せいざん)公は心形刀流、田宮流居合の達人でもあった。

「剣術の奥義に達するには三路ある。心を磨くこと、姿や動きを磨くこと、刀法を磨くこと」

源太夫とその事を突き詰めていた。

「座敷での剣談ばかりで達人になるなら楽でござる」

肥前守の言葉で皆が笑った。

「定栄(さだよし)殿は山本流居合術を花月様より伝授された由」

「形だけで御座る。源太夫殿にも後の先の奥義は我では今だ形にもなりませぬ。本来私より先に生まれた筈が弟だと言い張り申す。それゆえ肥前守様が一番の兄で御座る」

「儂も騙された、うまく弟に為って此方を持ち上げるのが極意であろうや」

源太夫は「兄では外で出会っても奢らされるばかりで御座るでな」とまるで卜伝流だ。

塚原卜伝「勝ちを制するを欲せず 敗れを取らざるを期す」。 

直心影流では抜剣の術を称して「鞘の内」と言う。

その意味を戦う前に勝を得ると同じかを話し合った。

松浦静山が学んだ田宮流居合術は打太刀九寸五分の小刀、仕太刀三尺三寸の長刀、居組む形を稽古している。

待月が声を掛けた。

「最近信親様とはお会いになりましたか」

「うむ、京へ発つ前に一度、五つの祝いも済んで姉も一安心だ」

姉の寿姫は先の相手と三年で死別したが、再婚先の嫡男内藤信方(ないとうのぶかた)は今年十三歳に成り頼もしい少年だ。

「信方殿は信親を可愛がってくれている。信親も儂のようにいい所へ養子にでも出られればいいが。姉も紀伊守(きいのかみ)様も考えてもいない様だ」

「それは本川様が先走りでしょうな。控えが居ないと困るのが大名家と云う物で御座いますぞ。定栄(さだよし)様とて御養子先で先々の事を手当てされるべきでしょうぞ」

待月は大名の心得を諄く言った。

「それより紀伊守(きいのかみ)様に若年寄と言うのは本決まりでしょうか」

白川に居ては江戸の情報も途切れがちだと言う。

「寺社奉行に為って間もないゆえだいぶ先だろう。奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代と階段は出来ているはずだ」

「老中まで行かれるでしょうか」

「仕事の出来る人だから京都所司代を飛ばさないと後十年は掛かるだろうし、五十台に為ってしまうな。比べて儂は細々したお役目には向かぬな。信親は子供ながら紀伊守(きいのかみ)様のようにお役に立つ風情が見えたよ」

何時の間にか陽が陰り灯(あかし)が目立ってきた。

「二人で食事と行きますかな」

紐を引くと女たちが膳を運んできた。

白川“ やなぎや ”柳下源蔵

文化十一年五月二日(1814619日)・白川

卯の下刻(五時十五分頃)前には馬方も来たので六人は南湖へ向かった。

桝形の先追分を棚倉街道へ入ると三蔵と十郎が馬から降りて休んでいる。

「随分早いな」

「卯の刻の鐘で出てきました」

次郎丸達が早く出てくるとは思ってもいない様だ。

「朝の南湖を見るために早く出てくるとは思わないのか」

「桝形の番人は通っていないと教えてくれましたので、ここで待っておりました」

四日の朝日を南湖で見たいから、近くで泊まるが付き合うか訊くと「お願いします」と二人が喜んでいる。

「ついでだ、明日の三郭御園へも付き合うか」

「宜しいので。水練の時に入っただけで見学の余裕も有りませんでした。三蔵は私の所へ泊めますので何刻に門前へ出れば宜しいですか」

「朝は辰に大手を通れるように出るよ。水練は卒業かい」

「二人とも南湖での試験も受かりました」

十郎は十八歳だが三蔵は十四歳、何歳から調練に駆りだされるのだろう

生沼に聞くと「十二歳から三郭御園での水練を始めます。十五歳までに受からぬと罰役に回され申す」と言う。

棚倉街道から東、山の西斜面に大きな屋敷が見えている。

九番町桝形からわずか五丁程の所だ、共楽亭迄この家(や)から十五丁だという。

生沼が先導でその家へ向かった、母親の実家だという。

「あにさ、手紙で伝えた人たちだ。明日は三人の積りが五人に為ったよ」

谷五郎(やごろう)と言う生沼の叔父だという。

藤吾に弥助、忠兵衛は明日から勝手歩きだ。

「馬に博労さはどうするね」

「歩いてくるから心配いらんよ。そん替わり七つにゃ起きだすようだ」

「戻って朝飯にするかい、それともおらが握り飯でも届けるかね」

「巳の下刻(十時三十分頃)過ぎには戻るからその時世話してくれ」

「引き受けただよ」

生沼が先に立って崖地を使った“ かきつばた ”の群落を案内してくれた。

「祖父と祖母が此処を使って増やしました。まつむしの原の奥にも群落が有るそうですが見たことは無いのです」

花菖蒲(はなあやめ) ”と言われて東勝寺で見た物に似ている。

「江戸で言う“ かきつばた ”とは違うようだ。江戸の“ あやめ ”は花弁に丸みがある、“ 花菖蒲 ”は中心が黄色で“ かきつばた ”は白かったが、ここのは黄色で膨らみも有る」

江戸の“ 杜若(かきつばた) ”は水辺を好み、東勝寺で見た物も水辺に咲いていたがここのは水はけのよい崖地だ。

「どうも郡山辺りの“ あやめ ”とも違うようだな」

生沼も詳しくはない様だ。

「北齋戴斗でも連れて来て書き別けさせるのが良いようだな」

谷五郎も「爺も婆もこれが“ かきつばた ”だと信じていました。まつむしの原のは白だから別だろうとも言っていました」と言う。

「東勝寺で“ 花菖蒲(はなあやめ) ”で“ はなしょうぶ ”とは言ってなかったような」

「同じ字で読みが違うのも困りものだ。おまけに“ はなかつみ ”がどれだか知れやしないと来ている」

大和、飛鳥の“ 花かつみ ”は水辺では無さそうだと次郎丸が言うと、郡山では水辺の花と思われていると多代女が話していた。

杜若 ”は水中にあり“ 花菖蒲 ”は水際に“ あやめ ”は陸地で網目が有る。

「松平様に師事されれば江戸の分け方だけでも区別がつきましょう」

甲子郎は興味が薄いようだ、花園はほかの者に任せる様だ。

大井源蔵のほうが適任かなと次郎丸は心に留め置いた。

谷五郎は両親のいる離れへ次郎丸と生沼を連れて行った。

爺(じじ)婆(ばば)二人は大笑いだ。

「やごよう。まつむしの原の白筋が“ 杜若(かきつばた) ”だ。家のはその裏山で六十年前におらたちの親たつが見っけたもんで“ かきつばた ”で通しているだよ。おまえが聴いたのは大分と昔だべさ」

「おらが七つの時だ」

「うだべさ。その後(ご)のこんだが、これさ“ はなかつみ ”がもとの“ はなしょうぶ ”だとその頃来た新二郎先生さまが言うとったで」

「その新二郎先生、何時頃来られたのですか」

「知り合いかの」

「私の知る物知りの新二郎先生は松平で四十歳くらいの方です」

「苗字はすらねだが、一緒にぎた服部丹後様がそう呼んでいただが、天明四年の今時分だすらな、見たところ四十過ぎているようでしたら。今なら七十は過ぎている筈じゃな」

「違う人の様ですね父君なのかな」

「三十年前の事でな。服部丹後様も代が替わられ取るで」

「よく天明四年と覚えておられますね」

「だどよ。前の年の暮れに飢饉の最中(さなか)殿様が御代替わりに為られただ。忘れりゃ困るだな。出羽から陸奥は餓死したもんも多がったが、ここあ越後はまずまずだで米を分けて貰えただ」

「まつむしの原の“ かきつばた ”は沼地ですか」

「そうだんだ。一段上の小川の縁に生えていたんがうちらの花だ」

「水の手は良いのですか」

「近くへ行けばみえるだね。真ん中で水の路が掘ってあるだよ。花畑に入ると少し土地に湿りが出るでな。水遣り過ぎたり、雨が続いたりすれば余分は流れいくだ」

「新二郎先生という方は持ち帰られたのでしょうか」

「服部丹後様が後でまつむしの原で種を集めて送られましただ」

「じゃ、ここの種では無かったのですか」

「谷五郎やい。この若い人に種を半分遣っていいかのう。江戸で咲くならここいらより変化(へんげ)して綺麗かもよ」

「文平様の親戚ならわいらとも親戚じゃ。やっとくんなされやとっさま」

次郎丸は知らないが、その時の新二郎先生は肥田頼常と言い、天明の頃は表祐筆から奥祐筆へ移るころだ。

その後(のち)奥祐筆組頭に為り、寛政十一年から八年間も長崎奉行を務めている。

小普請奉行、作事奉行を勤め、今は文化七年から四年目の勘定奉行すでに七十五歳と云う高齢だ。

「残しているのは二升も無いだで半分ですまねえだ。今年の秋の彼岸頃に種が採れますで、文平様に頼んでそれも送らせて貰いますだ」

「有難うござる。良き先生も居られるので大切に育てさせて頂きます」

二つに分けて弥助、忠兵衛二人の笈摺(おいずる)へ入れさせた。

笈摺(おいずる)から奉書紙と筆に墨壺を出して縁側を借りて劉禹錫“ 望洞庭湖 ”を四枚に分け書くと爺(じじ)、婆(ばば)に贈った。

湖光秋月両相和

潭面無風鏡未磨

遥望洞庭山水翠

白銀盆裏一青螺

思いついて細筆と紙をもう二枚出させ本川次郎太夫と左下に書いてから訳詞を書いて渡した。

「本名は都合で書けぬのでこれで勘弁してくれ」

 

劉禹錫 望洞庭湖 ” 

湖光秋月 両つは相和し 潭面に風無く 鏡未だ磨かず 遥かに望む 洞庭の山水翠なり 白銀盤里の 一せいら

 

洞庭湖を望む 劉禹錫

湖と秋の月の光ふたつあい和し みなもに風は吹かずいまだ磨かぬ鏡のごとし 遥かのぞむ洞庭の山水はみどりにして しろがねの盆に転がるひとつの田螺のごとし

 

「二十八文字を大和言葉で説明すると倍以上に為ってしまう。湖に映る月の光が見事で、田螺は君山という山の緑が湖面に映えていると例えたのだ」

はなかつみ ”がもとの“ はなしょうぶ ”と教えたのが新二郎先生と確認して「後とくに気を配ることは」と訊いた。

「まんず初手から始めるだが、春彼岸の前に肥料の無い花壇に薄く蒔くだ。朝夕の灌水(かんすい)を怠らないことだ。鉢植えなら植えつけは秋の彼岸が良かっただ。鉢の底に穴は必要だ。あとはお江戸に合ったやり方に従うこった。肥料は土地によって違うそうだで調べておんなさい」

婆が「餅を昼から搗く用意してあるで、帰りも寄って下されや」と誘いをかけた。

「午の下刻に向こうを出ることにしよう」

「未なら十分此処まで戻れますな。ばっぱそれで良いかい」

「文平様が言うだらそうすべえな」

孫でも士分で横目付の文平に敬意を絶やさぬ家族だ。

「ぺろも用意しとくべ」

「大食らいが居るので五人前は余分に踏んでくれ」

十郎が笑っている「ぺろは久しぶりだ。大根をかぁぺごと摺って辛くしてほしいな」と谷五郎に頼んでいる。

次郎丸は何のことだと考えている。

「饂飩(うどん)ですよ、渋紙に包んで足で踏むんです。柔くするも腰を強くするもばっぱ次第です。ばっぱ馬方の分も頼むよ」

うんうんと嬉しそうに頷いている、孫は可愛いとは此のことだ。

「ならかぁぺは皮ごとという事か。十郎、家の忠兵衛は辛い物が好きでな、矢吹の大根蕎麦五鉢食って物足りなそうだった

「若さんは」

「俺には辛くて一枚がやっとだ」

次郎丸の時計は八時になった「丁度いい時間に千代の堤に到着できそうだ」

「いま辰の下刻あたりでしょうか」

「五月の今頃は一刻(とき)が百五十分くらいだ。今出れば余裕をもって番所に着く」

三蔵は文平と話しながら先頭を進んだ。

「夏至を過ぎれば昼間が短くなるのですね」

「そうだよ。須賀川で元禄二年に閏が有って夏至は今年と同じというので気に為っていろいろ調べたら、暦によって一日ずれていた」

「今年の夏至は何日です」

「五月五日だったり六日だったり」

次郎丸が後ろから「来年は十日ほど後に為る」と声を掛けた。

生沼が「再来年も後に為って、八月に閏が入るので次の年は又五日前後に為る」と教えている。

「天文方の暦なら狂わないだろうが、町で出すのはいい加減な物も有るな。伊勢暦の贋も有ると噂だ。御師のおかげで全国の半分は伊勢暦と自慢された」

「少しくらい狂っても影響はないのでしょうね」

「領内同じ暦じゃないと祭日の日取りに困るよ」

「縁起担ぎ位な物ですよ」

若いだけに暦を頼っては居ない様だ。

 

文化十一年五月五日(1814622日)夏至

文化十二年五月十五日(1815622日)夏至

文化十三年五月二十六日(1816621日)夏至(閏八月・清国閏六月)

文化十四年五月七日(1817622日)夏至

元禄二年五月六日(1689621日)夏至(閏一月)

 

南湖を対岸まで進み、藤吾たち三人は馬方と一刻(こく)程茶見世で遊ばせた。

「餅と饂飩を食えるくらい腹は空かせておけよ。九人分の茶代だ」

甲子郎は忠兵衛に四文銭十枚を通した物五つに南鐐二朱銀を手渡した。

千代の堤の番所で藩の役人に「二人増えたので儂が船頭に為る」と生沼が伝えて小舟を借り受けた。

兼葭洲を右手に見て舟を進めた。

今日も水練の舟が逗月浦に三艘出ていた。

次郎丸は遠眼鏡でまつむしの原から千代の松原を見渡したが、“ 杜若 ”の群落は見つけられなかった。

有明岬の渚には幾種類もの鳥が漂っている。

五徳村は鶏鳴村だという。

「此処の詩は読んだ事がある。儒者広瀬豪斎殿作だ。和歌を土井様へ頼まれ為されとも聞いた」

 

鶏叫林霧気消

鶏 林嘘に叫(な)いて

霧気(むき)消え

東方初旭赤如焼

東方の初旭(はつあさひ)

赤きこと焼(も)ゆるが如し

青山界断晴湖外

青山 界断(だんかい)す 

晴湖(せいこ)の外(そと)

穿破松間路一条

穿破(せんぱ)す 松間 

路一条

 

「花月様はもう国元への御出で(おいで)はないのでしょうか」

「殿の御参府、儂の養子縁組の後になるだろう。早くも来年の秋だろうな。この度手に入れた深川の作庭が一段落するころだ」

「和名、漢名の十六勝十七景も造られるとか」

「いろいろご用意はされているようだ、南湖十七景の花月様の和歌は見せて頂いた」

谷文晁の描いた文化二年(1806年)南湖勝覧から南湖十七景へと名称は大きく変化している。

-千代の堤・千世の堤(和名)・使君堤(漢名)などが有る。

 

  南湖十七景

・関の湖・共楽亭・鏡の山・真萩が浦・錦の岡・月待山

・月見浦・常盤清水・松風の里・松虫の原・下根の嶋・みかげの嶋

・千世の堤・小鹿山・八聲村・有明崎・千代の松原

 関の湖(せきのみずうみ)・近衛基前(このえもとさき)従一位左大臣

影うつる 山もみどりの 波はれて 見わたしひろき 関のみつうみ

共楽亭(きょうらくてい)・松平定信(まつだいらさだのぶ)白河藩主

やま水の 高きひきゝも 隔なく  共にたのしき 円ゐすらしも

 鏡の山(かがみのやま)・松平定信(まつだいらさだのぶ)白河藩主

湖の こゝもからみの 山なれや こゝろうつさぬ 人しなけれは

 真萩が浦(まはきがうら)・芝山前大納言持豊(しばやまさきのだいなごんもちとよ)

かけひたす 波も錦に よせかへる 真萩が浦の 花ざかりかな

 錦の岡(にしきのおか)・加納久周(かのうひさのり)伊勢八田藩主

さざ波の なみに浮める 花紅葉 にしきの岡の 春秋の色

 月待山(つきまちやま)・広橋伊光(ひろはしこれみつ)従一位准大臣

うちむかふ 月まつ山の きり晴て さきたつひかり そらにくもらぬ

 月見浦(つきみがうら)・鳥丸資薫

たくひあらし 出しほの影も 秋にすむ 月見かうらの なみのみるめは

 常磐清水(ときわしみず)・牧野忠精(まきの ただきよ)越後長岡藩主

萬代を 懸てむすはん 深みとり ときはの清水 たへぬ涙に

 松風の里(まつかぜのさと)・小笠原長尭(おがさわらながたか)陸奥棚倉藩主

世のちりは よそにはらへる 松風に この里人や 千代おくるらむ

 松虫の原(まつむしのはら)・佐竹義和(さたけよしまさ)出羽久保田藩主

旅ころも ゆきゝかざねて いく秋か めてみん千世を 松むしの原

 下根の島(しもねのしま)・大久保忠眞(おおくぼ ただざね)相模小田原藩主

せきのうみや 下根の嶋の 秋くれて 月かけさゆる あしのむら立

 みかげの島(みかげのしま)・有馬誉純(ありましげずみ)越前丸岡藩主

神のます みかけのしまの 松か根に とはにそよする なみの白ゆふ

 千世の堤(ちよのつつみ)・堀田正敦(ほったまさあつ)下野佐野藩主

雨風に ゆるかぬ千世の 堤こそ くにを守りの すかたなりけれ

 小鹿山(をしかやま)・阿部正精(あべまさきよ)備後福山藩主

をしか山 月にはなれも つまこひの うらみやふかき 関のみつうみ

 八聲村(やこえむら)・土井嘯月(どいしょうげつ・利徳としなり)三河刈谷藩主

明けぬよの 夢や覚ると 庭つとり やこゑのむらに 行てねましを

 有明崎(ありあけざき)・廣橋胤定(ひろはしたねさだ)従一位

しら川の 関のやま風 ふくるよの 月かけてらす 有明かさき

 千代松原(ちよのまつばら)・三條實起(さんんじょうさねおき)従一位右大臣

立ならふ みとりの色の さかへつゝ すゑ限りなき ちよの松原

 

鳥丸資薫は烏丸資董であろうか。

薫(クン・かおる)は常用漢字で、董(トウ・ただす)は表外字の別字。

 

烏丸資董(からすまるすけただ)
安永元年・明和九年九月十五日(17721011日)誕生
文化十一年五月二十日(181477日) 四十三歳死去。
父親-烏丸光祖(からすまるみつもと)正二位権大納言。
母親-家女房。
藤原氏・幼名-象丸・号-清浄院。 
-飛鳥井雅威(正二位・権大納言)女。
文化元年41日(1804510日)任参議。
文化十年~文化十一年権大納言・正二位。

 

采梁渚(さいりょうのなぎさ)へ回り関山を遠眼鏡で見た、此処から東南三十丁ほど先に見えるのが関山(せきさん)。

共楽亭からは真西に那須の山々が見えるという、距離にして六里程だという。

「そうだ、須賀川で見せて貰った曽良日記には関山へ登ったと出ていた。那須から回り込んで関の明神から古関を廻り関山にある寺を参詣して白川を抜けて矢吹まで出たと有った。どうも東西南北行きつ戻りつしたように書いてある。山から白川へ一里半とあった」

那須湯本~芦野の遊行柳~境の明神~小坂~白坂~旗宿~古関~関山~白河~矢吹~須賀川。

 

四月二十日より

 一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。

 一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル

一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。

  ○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下一里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。  

 

「甲子郎、古関に有る花月様の碑を見ていないぞ」

手控えを出してみている。

「五日旅立ち、白川~越堀迄七里十二丁と有りますから遠回りしますか」

「白河から関山、古関を廻って街道へでて芦野でどのくらい見ればよかろう」

生沼は「棚倉街道から関街道で芦野まで遠回りで七里二十丁程。街道は五里一丁」と甲子郎へ伝えた。

甲子郎は控えを見ながら計算している。

「二里で一刻(百二十分)、道が険阻の分と山へ登れば半刻、見物に刻が掛かれば半刻、〆て二刻、のんびり五刻の予定でいたので急げば六刻半ですか」

卯の刻に出て酉の下刻だが十二時間なら大丈夫だろうという。

「遠回りしても九里二十七丁とみれば十分。四時に出て越堀に十六時、悪くも夕暮れ前の申の下刻でも十八時」

「ホトトギスも聞き飽きたから茶見世で名物でも食いながら回り込むか」

生沼も板屋の一里塚迄付き合うという。

「板屋の一里塚からなら桝形が閉まる前に戻れそうで、悪くても祖父母の家に泊まります」

道順は生沼が言うのを甲子郎が書き取った。

「棚倉街道から別れて南湖で関街道へ入るのが近道だ」

白川“ やなぎや ”柳下源蔵~一番町~九番町桝形~南湖千代の松原~五徳村~関山成就山満願寺~古関~芦野宿~越堀宿

「先ほど関山から白川一里半とおっしゃりましたがこの道順だと二里半は有るはず。五徳村で一里に為るでしょぞ」

「確かに。采梁渚(さいりょうのなぎさ)から遠眼鏡で三十丁は先に見えた。曽良の白川で尋ねた家しだいなのだろう」

境の明神の南側に黒羽藩と白川藩の境が有り、古関のあたりにも領境が有ると言う。

領内を出るまで監視しないと報告が不十分と笑わせた。

三蔵と十郎にも生沼は同行を勧めている。

「行く気が有るなら横目付の頭への許可は明日儂が取るよ」

「明日の朝までに親の了解を取り付けます。今日閉門に遅れても三蔵の家に泊まると言って有ります」

二人が言うので次郎丸も了解した。

共楽亭から見える明後日の朝日は、屏風山事問月峯の北へ卯の刻の後で出るか峯に邪魔されて明るくとも朝日が見えるのが下刻頃だろうと生沼が言う。

「それで屏風山ですか」

「三蔵は良い事を云うが、秋には山に邪魔されないだろう」

「昔月の出を待って、邪魔された人でもいたんじゃないですか」

機転が利くと十郎に褒められている。

「確かに城下で見る中秋の月は出が東に近い三蔵は正しいよ」

生沼も認めている。

十郎は自分の屋敷からは、東の小山の頂きに酉の鐘の一刻(いっこく・15分程)後に昇って来たという。

玉女島(ぎょくじょとう)は松嶼(しょうしょ)、漕ぎ寄せて辯天社に参詣した。

午の刻に近くなり前に見える番所の船着きで番人に舟を戻した。

馬を連ねて棚倉街道へ出ると爺(じじ)婆(ばば)の家へ向かった。

爺(じじ)婆(ばば)の子供に孫たちが集まって賑やかな振る舞いだった。

申の下刻には大手門の前で三蔵と十郎に分かれて やなぎや ”へ戻った。

源蔵は「白川近辺で百二十両に為りました」と祝い金が増えていると顔がほころんだ。

「予定の半分国元に預けたから分けて持ち帰ろう」

「では明後日の夕刻までで締めて御預けいたしましょう」

「明日は三人此処に置いてきぼりだが、特別御馳走でも出してくれとは言わんよ」

甲子郎がそんなことを言って巫山戯(ふざけ)ている。

 
 

白川“ やなぎや ”柳下源蔵

文化十一年五月三日(1814620日)・白川

大手門の堀端に三蔵が待っている。

生沼が呼んで並ばせた。

突き当りを鉤手(曲尺手・かねんて)で待月の屋敷へ出ると十郎が大輔と門前に居る。

「私も三郭御園は久しぶりなのでお供を」

六人で園の表山門を入った、園の管理の関戸鼎が待受けていた。

「どちらから廻りましょうや」

西園露台へ出てから書院前へ回るというと案内に立った。

右手へ回り、西湖橋を渡り露台へ出た。

月池の噴水が噴き上げた「うまく合わせたな」

「西園管理の者が早朝から来ておりました」

瀧へ流れ落ちる水音も趣がある音量だ。

「洗耳渓とつけるだけの事はあるな。三郭御園が三郭四園と組分けが機能している証拠だ」

斐亭へ回り池を渡った。

安土の手前、観魚橋を渡り、池の様子を見ながら不諠斎清風亭まで出た。

いつの間にか時計は十時を過ぎていた。

「入るときが七時。三時間も経ったとは思えんな。関戸さま午後は午の刻に北園、東園を廻りまする」

「委細承知。表山門からお入りあれ」

 

門を入ると老人が控えていた。

「これは富田氏。案内をして頂けるのでござるか」

「左様、梅の実の収穫をしておるのでその様子もご覧いただきたく。本川氏、拙者東園、北園管理を受け持つ富田久八で御座る」

「ご苦労に存じる。定栄(さだよし)様付き人を命じられた本川次郎太夫で御座る」

書院裏手を抜け、梅林では女たち十人ほどが梅の実を集めていた。

招隠門事余語の関へ案内した。

竹林の根曲り竹の藪では男たちが筍を探している。

萩の細道で朝日山を抜けて借月亭へ出た、北園でも建物は掛かりが違うと富田老人は次郎丸へ教えた。

南へ回り込み砂州に見える赤い鳥居に天女祠を観て松月亭へ向かった。

清音渓は、梅雨前にも関わらず水量は豊かだ。

蓮の花がもうすぐ咲きそうだ。

「殿のお国入り前には咲きだしそうだ」

「今は殿のお国入りに満開になることを願っております」

二時三十分未の太鼓が聞こえてきた。

馬場へ向かいそちらへの通用門から北小路へ出た。

大輔は「二人の仕度は家に置いてありますので一服してください」と誘った。

 

やなぎや ”で源蔵に見送られて爺(じじ)婆(ばば)の家に向かった。

「生沼殿、爺(じじ)婆(ばば)の家の屋号か苗字は有るのかね」

甲子郎は今更のように聞いている。

「屋号はいかけ屋と言います。苗字は榊田と言いますが普段は使いませぬ」

「今でも鋳掛屋(いかけや)をしているのかね」

「百年ほど前は鍋釜の修理をしていたそうですがね。植木に凝った人が出て商売替えしたそうです」

夕日がまだ落ちそうもない。

六時四十分に家に着いた。

白川“ いかけや

文化十一年五月四日(1814621日)・白川

次郎丸は目が覚めると時計を見た。

部屋の隅にある行燈の灯(ひ)はまだ点いていた。

「二時二十分、もう寅の刻近くだ」

生沼は目が覚めていたようで、布団を剥いで起きると「少し冷えますな」と言って雨戸をあけた。

その音で皆起きてきた。

月はとっくに落ち、星明りが庭先をぼんやりと照らすだけだ。

「真夜中の星は綺麗な物だ」

「須賀川で何度も見ませんでしたか」

「月は見ても星は今日ほど気にして観ていなかったよ。これなら朝日輝く南湖が楽しめそうだ」

 

共楽亭は番役の夫婦が迎えてくれた。

「ご苦労だね」

「私ども朝は寅からお役目に着きまする。月の方は息子夫婦が受け持ちますので夜明かしの事も御座います」

茶の仕度もしてくれた。

卯の刻の鐘が聞こえてきた、空が薄明るくなってきた。

「四時だ。あと二十分しないうちに夜明けに為る」

屏風山の北斜面の稜線に出た陽は、すぐに山の陰に入り、湖面に黒い影を映している。

少しして湖面が明るくなり、陽は山の南斜面を越えて出てきた。

共楽亭に陽の光が溢れ湖面の反射で目が眩しい。

遠眼鏡で西から東を見ると畑地で働く農夫が見えた。

 

この日は巳の刻まで付近を見て回り、白川“ いかけや ”へ戻った。

途中小雨が降りだしたが、濡れて困るほどでもなかった。

「天気雨、狐の嫁入り。いろいろあるが我が母は日和(ひより)雨と言っていたな」

雨が通り過ぎ晴れていた空に雲が出たが、水気がもう切れたのか雨は落ちてこない。

婆は雑炊を用意してくれた。

のんびり食べて雑談をしているうちに陽が差してきた。

 

午の下刻過ぎに家を出て やなぎや ”へ戻った。

三蔵と十郎は生沼が付いて横目付へ遠出の届を出しに出向いた。

源蔵の所へ正式な書面ではないと苦情が来たためだ。

「何でも御領内を一歩でも踏み出すに、口頭だけではならぬと苦情が出たそうで」

「うるさ型は何処にでもいるさ。さ、甲よ俺たちも道中奉行に江戸へ戻ると届けに行こう」

二人が戻ると少し遅れて三蔵と十郎が旅支度できた。

「一日の遠出に大変だな」

「山へ登るのにこの方が良いと父がうるさいので」

生沼がやはり道中支度で現われ、二人は喜んで燥(はしゃ)いだ。

夕餉が済むと源蔵が帳面と箱を持ってきた。

「先ほど締めましたら百五十五両二分に為りました。あと集まるようでしたら三月後に薬研掘りお屋敷へ京屋の為替を組んで送らせて頂きます」

小判で切り餅五つに一分金の切り餅一つに一分金二十二枚出した。

帳面に受け取りの次郎印を捺し、本川次郎太夫ではなく定栄と書き込んだ。

「甲子郎だけに持たせるに重いから、分けてもとう」

小判の切り餅を五人で分け、残りは藤吾が引き受けますと預かった。

「まずまず此処まで集まり面目が発ちました」

「宿銭だけでは済まぬほど世話に為った。何か礼をせねば」

「お役に立てただけで満足です。強いて言えば忠兵衛さんから聞いた洞庭湖の詩を書いて頂けませんでしょうか」

「お安い御用だ。紙と筆を用意してくれ、それに合わせた物を書こうではないか」

用意されたのは額に白紙が張られている。

「おいおい、いきなりこれに書かせるのか」

笑って二段に書きだすと皆が驚くほど紙に余白が旨く出ていた。

帝 子 降 兮 北 渚,目 眇 眇 兮 愁 予

嫋 嫋 兮 秋 風,洞 庭 波 兮 木 葉 下

次郎の印を隅へ捺しておいた。

「皆が聴いた李白の詩ではなく屈原が湘夫人について書いた詩の中のものだ。

「意味はどういうことで」

奉書を出させて吟じながら本川次郎太夫と下へ書いて渡した。

湘夫人

ていし ほくしょにくだる 目 びょうびょうとして予をうれへしむ じょうじょうたるしゅうふう 洞庭 波たちこのはくだる

「湘夫人とは誰でしょう」

「湘江に住まわれた水の神の事だ、水神湘君が北の渚に降りて目で見渡すと私を悲しませると始まる長い詩だ。湘夫人の気持ちを詠ったとされている」

も一枚に“ 湘君 ”と書いて吟じながら書き上げた。

君行かずしていゆうす ああ たれか中洲に留まれる 美しくようびょうとしてぎしゅうに はい としてあれけいしゅうに乗る

「湘君から見た詩(うた)で、あの人はゆかずにためらっている、ああ、中州に留まるのはだれ、美しく雅に装いもととのえ、私は桂の舟に乗るでいいのだろう。いゆうすは猶夷(ゆうい)ともとられて、ためらうと教わった」

「厚かましいとお思いでしょうが。訳す前の漢詩も御願(おねがい)出来るでしょうか」

笑いながら奉書紙に書いて渡した。

君 不 行 兮 夷 猶 蹇 誰 留 兮 中 洲 美 要 眇 兮 宜 修 沛 吾 乗 兮 桂 舟

「同じ字が何度も使われていますが」

「読み上げるときは読まない字で、けいと読むのだ。老子や楚辞を習うと出てくる。語調を整え風格が増すと言われている」

明日も有るので戌の下刻(九時四十分頃)には床に就いた。

 
 

 第八十二回-和信伝-拾壱 ・ 2025-03-29

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記


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