項目別バックナンバー[1]:インターネット情報:78
「ネット興亡記」を読む11
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
「才能ってなんだ」
山田進太郎は1990年代末の早稲田大学生時代から、「自分は何をなすべきか、何ができるのか、どうやって生きていくべきか」を自らに問い、「才能とは何か」を問うた。
「山田進太郎の原点」
山田は中学から大学まで進学校の優秀な人の中で目立たず、周囲との格差に落ち込み、自分にできる事は何かを考えた。
その中で起業家を考えたが一度は諦めた。
「ニーチェとの出会い」
山田はサークルで尾上友男に出会った、そのサークルでは多様な情報を発信していて、メディアやインターネットもその対象だった。
山田はニーチェに出会い、リーダーシップの原点を見つけた、そこでインターネットを通じて早稲田のデジタル化を進めた。
山田は楽天でインターン生として働き始めて、楽天フリーマーケットオークションに配属された。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「サンフランシスコの誓い」
山田進太郎は楽天への就職を撤回して、フリープログラマーとなった、さらに渡米した。
2004年に山田がいたサンフランシスコはテクノロジーで世界を変えようという才能が集まり、次々と新しい会社が生まれていた、そこでの敗者はあたり前のようにリターンマッチに挑む雰囲気があった、そこはインターネットを志す若者があこがれる街だった。
2005年に山田は東京に戻り、ゲーム会社「ウノウ」を再開した。
「世界一周旅行」
ゲーム会社の評価が高まり、アメリカのジンガに買収された、ジンガジャパンになるが山田は本社と意見が対立して2012年に退職した。
山田は退職後に世界を回り、1年後に帰国するとスマートホンが急速に普及していた、世界で見たモノの配分の不足の格差、モバイル・インターネット、12年前のフリマの原型等を結びつけて、メルカリが生まれた。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「3人の創業者」
富島寛は山田の後輩でベンチャーに興味を持っていた、山田のゲーム会社「ウノウ」がアメリカのジンガに買収されて驚き、山田に憧れはじめた。
世界一周から帰国した山田からフリマアプリの構想を聞いた富島はすぐに企画案を作り、2人は新会社設立へ動いた。
石塚亮はアメリカで大学卒業後にシリコンバレーで働き、会社の日本進出で東京に移ったが、売却が決まった。
石塚は経営者としての山田を認めていた、その山田から新会社の計画を聞いて受けた。
山田と富島と石塚は、2013年にメルカリ(当時はコウゾウ)を設立した。
「いきなり迎えたピンチ」
3人はヤフーの参入を恐れて、メルカリのアプリ作成を急いだ。
無事にメルカリのアプリが公開されたが、ダウンロード数は伸びなく、危機的状態になった。
石塚はユーザー獲得のために資金を集中的に広告に使うことを考えた、しかも新規登録者にポイント還元するブースト広告を考えた。
この賭けの広告戦略で、ユーザーが伸びてメルカリはピンチを脱出した。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「メルカリの野望」
山田は、元ミクシーの小泉文明をメルカリに誘った。
「Lineモール」と「ヤフーのクロシュ」がフリマに参入した。
小泉は資金調達と併行して、テレビCMを行った、資金が集まる前提での実施は賭けだったが、結果的にダウンロード数は一気に増加した。
3人の創業者と小泉は10年後のメルカリを思い浮かべて野望を抱いた。
「アメリカ進出」
山田と石塚はアメリカに視察に向かった、2人は日本市場を押さえる前にアメリカへの進出を狙った。
その理由は、アメリカでライバルの類似サービスが育つ前に、アメリカへの進出を目指すためだった。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「『一発屋』で終わるのか」
メルカリは石塚をアメリカに送っていたが、2015年にはさらに富島もアメリカに送った、山田は日米を行き来していたが、日本が軌道に乗るとアメリカにいる比重が増えた、その後にほぼ全員がアメリカに集中した。
2016年にアメリカで突然にダウンロード数が急増した、理由が判らないままで、その後に下降した、理由が不明なままでユーザーは定着しなかった。
当時のアプリは日米で同じソースコードを使用していたが、それぞれが負担になる意味もあった、リスクもあるが結局は日米でソースを分ける決断した、そして山田はアメリカのCEOになる決断した。
「非情の決断」
山田の決断は、事実上の石塚の更迭でもあった。
創業者の一人の石塚には屈辱だったが、山田は社内に不退転の決意を示した意味があった。
(続く)
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第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「不正出品問題」
アメリカで山田らがメルカリ拡大に苦労している頃に日本で事件が起きた。
ヤフオクやメルカリで現金の出品が続出した、そのからくりはクレジットカードの仕組みにあり、お金を借りる「キャッシング枠」がなくなっても買物用の「ショッピング枠」が有ればフリマで現金を買うと実質的にお金を借りられる事になる、金額の上乗せは利子になるという。
メルカリは記念硬貨の取引もあり現金を禁じていなかった、現金を禁止したが次はスイカ等が出回った、さらに色々な手口が登場した。
不正出品の対応は今も続いているが、当時はメルカリは自覚が弱かった、既にメルカリが社会的に根ずいていた事にそれまでは気ずいていなかった。
「フェイスブックから来た男」
アメリカで山田は、ジョン・ラーゲリンを熱心にメルカリに誘った。
ラーゲリンはフェイスブックの要職にあり、当時のメルカリに移る理由はなかったが、山田を信用してメルカリに移った。
(続く)
「ネット興亡記」を読む12
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第11章:「メルカリ創業者の長い旅」」
(承前)
「ヤフー井上雅博の教え」
ラーゲリンは「ヤフーが日本で成功した秘訣」を、ヤフージャパンの井上雅博に問うた、井上は現地に合わせるローカライズの重要性を説き、「本家の米ヤフーの成功モデルはリスペクトするが日本向けに徹底的に作り直す」と教えた。
2017年にラーゲリンはメルカリに入り、3月後に山田に代わり米メルカリのCEOになった。
「『売るアプリ」への転換」
ラーゲリンは、グーグル時代の同僚のスコット・レビタンを引き抜き、ブランド戦略を練り直した。
インターネットでモノを「買う」サービスは米国で溢れていた、メルカリはフリマの「売る」機能に焦点を当ててそれを米国のローカライズと考えた。
アメリカでのメルカリは再建を始めたが、成功に関してはまだ懐疑的に見られている。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第12章:「ネバー・ギブアップ--敗れざる者たち」
「釘師からのし上がった男」
GMOインターネット創業者の熊谷正寿は名家の生まれだが、父の方針で経営する会社は兄が社長まので、自身は稼業を継ぐことは無いと言い渡された。
「僕はコンプレックスの塊」
熊谷は高校を中退したが、後にそれを後悔し、コンプレックスと周囲への焦りが混ざった感情のなかにいた。
コンプレックスの塊だった熊谷は、むさぼるように本を読み始めた、さらに手帳に書き込む習慣を始めて、多彩なことを書きこんだ。
将来が見えない父の会社から独立しての起業を考えた、資金のために株式投資を考えて、さらにパソコンで株価チャート自作した、それを機にパソコンを多用して「起業はパソコン」と考えた。
起業後の1994年にインターネットに出会った。
(続く)
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第12章:「ネバー・ギブアップ--敗れざる者たち」
(承前)
「父への反発」
宇野康秀の父・宇野元忠も起業家で大阪有線放送社を起こした、有線で喫茶店等でかかる音楽を提供していて、大阪から始まり全国に展開していた。
元忠は電柱に有線ケーブルを設置したが、電柱の持ち主に使用料を払い、さらには道路の占有料を払う義務があった、だが無届で設置して違法行為で逮捕歴があった。
宇野康秀は父の金儲けのやり方に複雑な感情を持っていた、さらに松下幸之助の著書で「社会を豊にする」経営者の考え方を知った。
「インテリジェンス創業」
宇野は東京で大学に入り、前田徹也と鎌田和彦と峰岸真澄らと出会った、彼らは起業を目指した、だが短期間企業に入り、そこで仲間を探した。
3人に加えて島田亨が加わり1989年に集まって、企業を辞職して、インテリジェンスを創業した。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第12章:「ネバー・ギブアップ--敗れざる者たち」
(承前)
「母からの電話」
創業したインテリジェンスは「人材採用の総合代理店」を掲げて「リクルート社」を目標にしたが現実は競う事は難しく、その隙間を狙った。
採用プロセスの情報を集めて「スチューデント・リポート」を作り、徐々に売り上げが生じた。
その時期に宇野は母から父の余命3月と聞いた。
「インターネット鉄道経営論」
熊谷正寿はインターネットを研究して、「インターネットでやるべきは鉄道系財閥が築いたビジネスモデルだ」と考えた。
民間鉄道会社は線路を敷くと都心に近い駅の周辺から百貨店や、住宅やスーパーを作る、郊外に遊園地等の余暇施設を作る、このようにして人の流れを確保する。
熊谷はインターネット回線の上に様々なサービスが生まれて行くと考え、線路に当たるインターネットのインフラとして「プロバイダーに参入する」と考えた。
先行するインターネット・プロバイダーのIIJと異なる道を探して、NTTの代金回収システムのダイヤルQ2とプロバイダーとを組み合わせて、1995年にインターキューを創業した。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第12章:「ネバー・ギブアップ--敗れざる者たち」
(承前)
「父の遺言」
宇野は末期ガンの父・元忠から会社・大阪無線の跡継ぎを頼まれた、だが自身の会社・インテリジェンスがあり一度は断った。
だが大阪無線は、多額の借金をかかえて社長・元忠の個人保証になっていた、さらに日本全体の電柱の違法使用で業務停止を受ける可能性があった、その状況の会社を継げる者は宇野以外になかった。
宇野はインテリジェンスの創業メンバーに事情を話して、その結果で代表権を返上して社長から会長になり、そして大阪無線の社長となった。
「二代目の『正常化宣言』」
宇野は大阪無線社長になり、父の死後に、電柱の違法利用問題への正常化宣言を行った、だが管轄官庁には相手にされず、社内の多数からも強い反発を受けた、さらに正常化に350億円が必要と判った、だが押し進めた。
1年半後の2000年に全国11の電気通信管理局から大阪無線の届け出が受理された。
(続く)
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第12章:「ネバー・ギブアップ--敗れざる者たち」
(承前)
「ナパで見つけた『もうひとつの線路』」
プロバイダー事業に乗り出した熊谷正寿は次の事業・インフラを探し始めた。
リチャード・リンゼイは熊谷の誘いでインターキューに転じた、熊谷はアメリカでリンゼイからサーバーを見せられた、日本国内のレンタルサーバー市場を分析して価格破壊を仕掛けて、専門知識が不要の「まるごとサーバー」をヒットさせた。
「『メール・メディアでナンバーワン』」
熊谷はインターネット鉄道論経営によって、事業内容を周辺事業へ拡大してゆき、「メール・メディア」を手掛けて、「まぐまぐ」創業者の大川弘一に提携を持ち掛けた。
合弁で創立した「まぐクリック」は短期間でナスダック・ジャパンへの上場を果たした。
熊谷はサイバーエージェントの藤田晋に接近した、それが村上ファンドを含めたM&A騒動になった、それは熊谷が藤田の独立独歩の意思を尊重して終結した、しばらく熊谷の栄華は続く。
(続く)