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「ネット興亡記」を読む7

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第8章:「ライブドア、迫る破滅の足音」
(承前)

「フジテレビ買収の本当の狙い」
ライブドアはポータルサイト事業でのユーザー獲得を優先させて赤字に目をつむった、その考えはある程度理解されるが、粉飾決算が疑われる事になった。
その過程で球団買収騒動でテレビの広告効果を知り、テレビ買収に固執した。
ライブドアはポータルサイトのユーザーを課金型に誘導するその後の狙いから、テレビの影響を求めた。
「村上ファンドの誘い」
村上ファンドの村上世影がライブドアにニッポン放送株取得を勧めた。後に売り抜けたが、インサイダー取引を疑われ、裁判でも判断が揺れたが最終的に有罪になった。
「孤独な「生涯投資家」」
村上は裁判に敗れてシンガポール移住した、2017年に自伝を出版して投資に復帰した。
ライブドアでニッポン放送とフジテレビ買収の検討が本格化した。
2005年1月にフジテレビがニッポン放送TOBを発表、ライブドアはあきらめず劇場型M&Aが行われた。
(続く)

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第8章:「ライブドア、迫る破滅の足音」
(承前)

「大物仲介者」
園田崇がライブドアに入社した>フジテレビとの提携交渉を担当した。
園田と堀江はトヨタ社長・奥田に会った。
「冷たい握手」
堀江とフジテレビ・日枝久とが会談した>だが平行線のままだった。
ホワイトナイトの登場でライブドアとフジテレビは対立したままに決着した。
その結果でライブドアには「フジテレビから得た1500億円、知名度、経済界からの不信感」が残った。
「選挙に出たい」
堀江が郵政民営化に賛成して衆院選出馬を決めたが、自民党と民主党との会談不成立で無所属となった。
「尾道での敗北」
堀江は本気で議席獲得を目指すと言ったが、ライブドアのアピール目的の報道が多かった>結果は落選した。
(続く)

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第8章:「ライブドア、迫る破滅の足音」
(承前)

「幻のソニー買収計画」
堀江はソニーを買収してスマートホンを作る計画を持った。
宮内は英ボーダフォンの日本法人の買収で携帯電話に進出する構想を持った。
「破滅の足音」
ライブドアは知名度があがりユーザー数は増え、株価も順調だった。
東京地検特捜部が粉飾を調査開始した。
2006年1/16に地検がライブドアを家宅捜索した。
「容疑者ルーム」
強制捜査2日後に東証が全銘柄売買停止=ライブドア・ショックした。
平松庚三(元会計ソフト「弥生」社長)は買収後にライブドア副社長だった、堀江から「万一の時のライブドア」を頼まれる。
(続く)

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第8章:「ライブドア、迫る破滅の足音」
(承前)

「ソニー創業者の教え」
平松は、堀江と宮内の逮捕後にライブドアの新社長になった、ポータルサイトの広告収入が9割減少して社員の退職が急増して、危機的に状況になっていた。
「「ナベツネ」の激怒」
平松は読売新聞外報部でアルバイトして、ワシントン支局に移り支局長の渡邊恒雄に出会った。
渡邊の勧めでソニーに入り、盛田昭夫に出会った。
「ライブドアはお断り」
ライブドアの社員らは幹部2人の逮捕後に、クライアントらから非難されて落ち込んだ、平松は決定的な打開策は無く、その後に株主になった外資系ファンドと折り合いがつかず1年後に退任した。
(続く)

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第8章:「ライブドア、迫る破滅の足音」
(承前)

「ハゲタカの手先」
コンサルタント会社社員・高岳史典は、上場廃止後のライブドアの解体目的で内偵調査へ行く>そこでモバイル事業部の出澤からプレゼン受ける>目的とは異なるがライブドア株主に再生を提案した>その結果で契約解除された>だが別のファンドと契約した事で再建を目指した。
 ライブドアは「ライブドアホールディングス」と「ライブドア」に分離し、出澤が後者の社長になった。
「奇襲トップ・ジャック」
新ライブドアはポータルサイトの広告収入が激減していた>国内の広告代理店から除外されたので、外資系企業に「トップ・ジャック」広告を売り込んだ>それが当り広告代理店を通らず広告主を得た>黒字化した。
「涙の再会」
ライブドア社員は粉飾決算は知らない内容だったが、世間からは会社と社員全体が虚構と言われた>その中で残って生き抜いた者らから後にLINEが生まれる。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」

インターネット上でのソーシャルネットワーク「SNS」は革命的な巨大なデータ経済圏を生み出した、そこでは巨大プラットフォーマーと国家が、対立したり協力したりしており、個人のプラバシーと個人データが扱われている。
人類の歴史では新技術は光と影を生んできたが、ソーシャルネットワークもまた同様に二面性はある。

「ミクシィ創業者の再出発」
笠原健治はソーシャルネットワーク「ミクシィ」を創りだしたが、その後不振になり、経営者から開発者に戻っていた。
2015年に写真共有アプリ「みてね」をリリースして後の「家族アルバム」となる、だが過去の栄光とは遠かった。
「僕には何ができるのか」
笠原は大学時代に進路に迷い、1996年にゼミでNHK「新・電子立国」を読み起業家にあこがれた。
求人広告誌を見て、インターネットの求人サイト「Find Job!」を作ったが学生の個人事業レベルだった。
(続く)


「ネット興亡記」を読む8

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「ビットバレーとの出会い」
笠原は、インターネットの起業者らに出会い刺激された。
「Find Job!」は軌道に乗り始めた、1999年に「イー・マーキュリー」を創業してeコマースに目を付けた。
オン・ザ・エッジの堀江を誘いオークションサイト「eハンマー」を始めた。
「乱戦模様のオークション」
1999年はオークションのブームで、DeNAの南場智子の「ビッダース」や、楽天が「1坪ショップ」を創り後のメルカリ創業者・山田進太郎が担当した。
ヤフーの孫正義は「ヤフオク」を、アメリカの「イーベイ」の進出から守る為に対抗した。
「ヤフーの猛威」
「eハンマー」「1坪ショップ」「ビッダース」らの中小オークションは、ヤフーとイーベイの競争のあおりを受けた。
2002年にイーベイが日本を撤退した、それを受けてヤフオクは有料化を行った、オークションの乱率はヤフーの勝利で終わった。
(続く)

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第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「mixi誕生」
2002年にヤフーがリクルートと組んでネット広告に本格参入した。
2003年にカナダのエイブラムスがSNSの元祖と呼ばれる「フレンドスター」を開発して公開した、その結果アメリカで多数のSNSが生まれた。
笠原は新しいビジネスとしてフレンドスターに日々のコミュニケーション機能を追加した閉ざされたネット空間の開発を行い、2004年に和製SNS「mixi」が誕生した。
mixiは成功して2006年に社名を「ミクシィ」に変更した、ネット空間で人がつながる仕組みにより、急激に成長して、ヤフーが2年遅れて参入したSNSはmixiに追いつけなかった。
「フェイスブック前夜」
2003年にアメリカのボストンでザッカーバーグが顔を比較するサイト「フェイスマッシュ」を開発した、そこから2004年に「フェイスブック」の原型を作った。
 この大学生交流サイトはハーバード大学から東海岸の大学に広がり、2006年に一般公開された、そして2008年5月に日本にも上陸したが、そこでは自然発生的に広がるのを待った、だが広がらなかった。
(続く)

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第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「ネット広告の大転換」
フェイスブックは当時は自分から友達のページに飛んでいた、だが2006年にニュースフィード形式を導入した、これにより広告もページビュー主義からターゲット広告へと転換した。
ヤフーの児玉太郎は転換に興味を持ち、さらにフェイスブックとの合弁設立交渉役に任命された、それは頓挫したがアメリカに招かれた。
「ザッカーバーグからの誘い」
児玉はプレゼンを行い、面接を受けら、オファーを受けてフェイスブックに入社して、3人のエンジニアと共に帰国した。
「ガテン系の男」
児玉はヤフーの佐藤完と松本に、フェイスブックからの引きぬきを伝えると喜んでくれた。

ニュースフィード形式:画面を下にスクロールしていくと次々と友達の投稿や広告が出てくる形式。
(続く)

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第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「熱血ラガーマンと漫画女子」
児玉は帰国して仲間を探した、その結果としてヤフーの同僚・森岡康一と、売り込んで来た仲曉子がフェイスブックジャパンに参加した。
「キテる感を出せ」
児玉が代表となって、6人でフェイスブックジャパンを始めた、日本での認知度は低いので最初はリピーター獲得を目指した。
そして、日本語版フェイスブックの改善や、ガラケーのユーザーの取り込みや、機能の用語「いいね」の採用を進めた。
2010年からリクルート、電通、KDDIと提携を打ち出して行く。
ユーザーが繋がりを求める仕組み「コネクションサーチ」機能を追加して、「リクナビ」と提携した。
「電通から来た元DJ」
電通と提携した、そして電通の黒飛功二朗が出向して企業向きにフェイスブックの広告を売った、同時にフェイスブックページ作成を企業に持ちかけた。
そしてその過程で、ミクシーの切り崩しを狙い始めた。
(続く)

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第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「電話帳を解き放て」
2010年の日本の携帯電話市場は、ソフトバンクがiPhoneの独占販売を行い、KDDIはシェアを奪われていた、携帯電話会社はドメインにキャリア名が入るキャリアメールを提供して顧客を囲い込みしていた、だがスマートホンの登場でそれが崩れ始めていた。
児玉と森岡は、当時の状況からKDDIと提携して、電話帳とSNSを連動させる作業を行った、個人データとプライバシー等の微妙な問題が絡み契約は慎重に行われた。
「7人衆の旅立ち」
リクルートと電通とKDDIとの提携で、日本でフェイスブックが一気に普及した、その後にフェイスブックの7人衆は解散して、バラバラにそれぞれの道を進んだ。
フェイスブックは、その後にアメリカ等でのプライバシー問題に直面した、だが新サービスのインスタグラムを展開した。
フェイスブックの日本での普及は、ミクシーの苦境にもなった。
(続く)

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「ツィッターの船出」
1999年にエバン・ウィリアムズが始めたブログが広がり始めて普及し、日本にも到来した、グーグルがブログの成長性に注目して、エバンはブログを売却してグーグルに入社してクリストファー・ストーンと出会った。
ウィリアムズとストーンはグーグルを辞めてオデオ社を創設した、そこにジャック・ドーシーが加わり、ノア・グラスを加えた4人がツイッターの創業者となった。
2007年に米のイベント「SXSW」でツィッターは大賞を受賞して話題をさらい、一気に拡散した。
その後は4人は抗争を行う事になる。

「ジョーイ」 伊藤穣一はジョーイの愛称を持ち、ブログ時代のウィリアムズと出会った、ツィッターが登場した時に、その新コミュニケーションツールの受け入れられる市場としてガラケーが普及していた日本を考えた。
そしてツィッターは、日本からのアクセスが急増した。
(続く)

 

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