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「ネット興亡記」を読む9

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「ツィッター日本進出」
林郁と伊藤が1995年にデジタルガレージを創業した、ソフトバンクとヤフーが成長した事で、伊藤らはヤフーに変わるものを探して、ツイッターの可能性に目を付けた。
2007年にデジタルガレージとツィッターは資本提携して、2008年から日本進出して一気に広がった。
2008年はフェイスブックのザッカーバーグが来日した年で、ミクシーが追い詰められる転換点でもあった。
2007年はiPhoneが誕生した年で、アメリカではフェイスブックとツィッターはスマートホンへのシフトを進めていた。
2008年にiPhoneが日本に登場したが、ミクシーは日本のガラケーからのスマホへの変化に悩む事になった。
「崩れたSNS三分の計」
ミクシーは親しい友人40人程度の集まりであり、フェイスブックは仕事関係や友人が中心の200人程度の繋がりで、ツィッターは有名人やインフルエンサーからの1方向の繋がりで、思想が違った。
ミクシーは変化しようとしたが戦略ミスもあって、利用者から反発を受けて迷走した。
(続く)

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第9章:「元祖SNS・ミクシィに立ちはだかった黒船」
(承前)

「たそがれのミクシィ」
フェイスブックやツィッターの日本での攻勢の中で、ミクシィは立て直しに苦労していた、ヤフーからの出資交渉や、ミクシィの身売り話が噂された、さらに2013年には赤字に転落した。
木村弘毅は2008年にミクシィに入り傍流のゲーム部門に配属された、当時のミクシィのゲームはオンラインゲームに押されて人気が無かった、木村の挽回案の「ミクシィパーク」は経営陣に受け入れられなかった。
「最後のチャンス」
木村は最後のチャンスとして新しいゲームを計画した、スマホ対応の「モンスターストライク(モンスタ)」を2013年にリリースした。
「モンストの大ヒット」
木村は最初に普及させる限定100名を慎重に選び、チームでモンスタのプロジェクトを進めた、2014年から人気が出て成長モードに入った、4年後にはモンスタを中心にしたエンタメ事業で売り上げの9割を占めた。
木村は2018年に社長に昇格した。
「目指すはディズニー」
木村はSNS頼みで衰退したミクシィの過ちを繰り返さないために、ディズニーをモデルにXFLAG構想で垂直統合型を目指した。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」

「宴のあと」
2000年問題が無事に済んだ後は、ITに多数が参入して成長した、だがバブルが崩壊して、それらのIT企業は危機に陥った。
その2000年に韓国人・千良絃はオンラインゲームのハンゲームジャパンを創立した、それが後にLINEに繋がった
「紫陽洞のなじみ」
千は留学して、アルバイトしながら修士を取得した、家庭の都合で帰国したが当時の韓国は通貨危機になっていた。
1998年に帰国した千は幼馴染の金範朱と再会した、金は後にハンゲームや「カカオトーク」を運営するカカオの創業者となった。
二人は起業を目指し、ネットカフェを経営して資金を得た、それでインターネット産業での日本での起業を考えた。
(続く)

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「ハンゲームの成功」
2000年頃にハンゲームは韓国の検索ベンチャーのネイバーとの合併を決めていた、ネイバーは韓国でのシェアは高いが広告収入は少なかった。
 ハンゲームは成功していてネイバーとの合併を有利と考えたが、ハンゲーム・ジャパンの支援の余裕は無かった。
千は日本に戻り仲間を探して、佐野裕、大下泰高、室田典良が加入した。
「ソニーから来た男」
ハンゲーム・ジャパンは本社の支援もなく苦しかった、だがポータルサイトのヤフーやgooにゲームを提供した事で事業が軌道に乗り始めた。
2002年にアバターの有料化(ゲームを無料で始められるが、途中でアイテムに課金する仕組み)を始めて、ユーザー数が伸び始めた。
森川亮はアップルの様な会社を夢見てソニーに入った、だが社長・出井伸之とメーカーの現場とのギャップとの疑念を持った、そこでベンチャーがやりたいと考えて、2003年にハンゲーム・ジャパンに加わった。
(続く)

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第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「覇者グーグルの誕生」
日本でもネイバーとハンゲームが合併した、だが検索のネイバーには巨大なライバルであるアメリカ生まれのグーグルが立ちはだかっていた。
スタンフォード大のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは「ページランク」のアルゴリズムを使用した検索エンジンを製作してグーグルと名ずけた。
当初はポータルサイトへの売却も考えていたが実現せず、1998年に自ら起業した、2000年にはヤフーが採用したが、のちに脅威とみなして2004年には自社製に切りかえた。
「日本は甘くない」
グーグルは日本でもシェアを伸ばした、対してネイバーは韓国で定着していた自社の検索技術を日本に持ちこんだ、それは「統合検索」「知識iN」だったが日本では定着しなかった。
ネイバージャパンは2005年に日本からの撤退を決めて出向者を引き上げた、社員・島村武志は千から選択を迫られて、新規のサービス立ち上げを決めた、そしてSNSに目を付けた。
(続く)

杉杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「韓国のグーグル」
2006年に韓国でネイバーが、「韓国のグーグル」とも呼ばれた創業1年の会社のチェンヌンを買収した。
チェンヌンにはグーグルが先に注目していたが、チェンヌン創業者のシン・ジュンホはネイバーを選んだ。
ネイバーは一度撤退した日本への第二次進出作戦を始めた。
「検索のエース投入」
シン・ジュンホはコンピュータサイエンスを大学で専攻してAIの研究を行った大学同僚とチェンヌンを創業した、そしてネイバーの李から日本での再挑戦を託された。
シンは李から「韓国企業が日本で成功する事は難しく、特に一般消費者向けのビジネスでは目に見えない壁を感じる」と聞いた。
 シンには日本人の心の壁に加えて、グーグルの壁があった。
「グーグルの壁」
島村武志はシンと度々デスカッションする中で、韓国で成功した「知識iN」ともグーグルのロボット型とも異なる「NAVERまとめ」をつくった、のちに有名になるが2009年リリース時には全く受け売れられなかった。
(続く)


「ネット興亡記」を読む10

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「もう一度やりませんか」
舛田淳は中国検索大手・百度の日本法人幹部だったがグーグルの壁により退職した、2008年にネイバージャパン・森川亮から入社を誘われた。
 舛田はシン・ジュンホに会い、本気度を知って入社して、後に「LINEの軍師」と呼ばれる様になった。
「遠回りしてきた「LINEの軍師」」
舛田は1990年代にインターネットにのめりこみ、大学を辞めてフリーランス的に働き、政策系のシンクタンクに転じていった。
「グーグルには歯が立たない」
舛田は2006年百度日本法人に入社したが、日本の検索市場はヤフーとそれに取って変わりつつあるグーグルが強く支配していた、百度中国本社は北京で作ったシステムをそのまま日本に持ち込もうとして失敗した。
舛田はネイバージャパンに移ったがそこでもグーグルの壁は高かった。
(続く)

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第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「売りに出されたライブドア」
舛田はネイバージャパンで雑用を引き受けて、次第に社内を掌握していった、さらにマーケティングを立ち上げた。
1年後に舛田はライブドアの窪島からライブドアの買収を持ちかけられた、社のデータを調べて「現在のライブドアは手堅い経営で、エンジニアがほとんど残っている」と知り、買収を考えた。
舛田の買収提案に、森川とシン・ジュンホも同意した。
「5つの約束」
ライブドア社内は思惑が分かれていて独立の考えもあった、だが株主の投資ファンドは売却を決めた。
舛田は買収提案書に5つの約束を盛り込んだ「ライブドアのブランド、雇用、経営体制、経営ポリシーの4つを守る。そしてライブドアの成長を支援し続ける」だった。
2010年にネイバージャパンは、NHNジャパンの名目でライブドアを買収した。
ネイバージャパンに来たライブドアの残党たちは主軸の検索に加えての、局地的な検索サービスを次々投入した、だがグーグルに跳ね返された。
(続く)

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第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「初めて明かした弱音」
ネイバーの親会社NHNの検索事業の中心人物のイ・へジンからネイバージャパンを託されたシン・ジュンホは、成果が見えず、さらにイから不退転の決意を聞いて、ストレスを感じた。
「東日本大震災」
東日本大震災が起きて、スマートホンでの電話は繋がらず、ネイバージャパンの社員はメッセンジャーツールのカカオトークやMSNメッセンジャーで連絡を取りあった、これがのちに「LINEは震災で生まれた」伝説になった。
震災以前からメッセンジャー開発のリサーチは始まっていたが、震災後に集中する事になった。
コ・ヨンスがプロジェクトマネージャーになり来日して、「みどりトーク」の総力開発が始まった。
(続く)

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第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「検索を捨てた検索屋」
震災後にシンと舛田は「みどりトーク」を「親しい人とだけ繋がれるアプリ」にすると考え、SNSと人間関係で最も繋がりが強い領域を狙った。
それは検索では出てこない人間関係繋ぐことだった、検索屋のネイバーが検索を捨てた意味があった。
類似アプリの開発競争のなかで短期間での発表にこぎつけた、そして広告していたリリース日になると、こんどは新規登録者の認証作業が追いつかなくなった、だがメンバーには充足感があった。
「スタンプ誕生秘話」
LINEは成長してシンが設定した勝敗ラインの登録者数を達成していった。
LINEはサービス開始の4月後にユーザーの感情の代弁としての「デコメ絵文字」としてスタンプの機能を追加した。
イラストレーターのカン・ビョンモクはネーバーの応募を知って、その後のLINEの顔となるイラストを描いて採用された。
(続く)

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第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「ライブドアとの溝」
舛田は、LINEをメッセンジャー・ツールで終わらせるつもりは無く、そのメッセンジャー機能で人を集めて、色々なサービスやコンテンツを繋いで行くプラットフォーム構想があった。
だがネイバーが作ったメッセンジャーから、プラットフォームへの道に上るには人的リソースが足りない。
ライブドアはエンジニア集団だったが、ネイバーとの間には買収時の5つの約束という溝があった。
「「残党」が示した矜持」
2011年末にネイバーとハンゲームとライブドアの集会で、ライブドアの出澤は5つの約束を自ら放棄して、LINEに飛び乗った、そして次々に新しいサービスを投入していった。
(続く)

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第10章:「逆襲のLINE 敗者がつないだ物語」
(承前)

「「もうひとりの創業者」の襲来」
LINEにはライバルが存在した。
韓国ハンゲームの創始者のキム・ボムスはネイバー合併後のNHNから独立して、カカオ社を起こして、メッセンジャーアプリ「カカオトーク」を開始した、だがカカオトークは伸び悩んでいた。
2012年にヤフージャパンがスマートホンへのシフトでは「集客には受信が有る度に最初に見るアプリ」としてのメッセンジャーが起点と考えた、そしてLINEへの対抗としてカカオと組んだ。 LINEは、ヤフー・カカオ連合の追走を受けたが、それに対して、ライブドアの力を得て振り切った。
「もっと遠くへ」
LINEは日本で国民的アプリの地位を確立したが、そこに参加した人物はそれ以前には敗北を経験していた。
LINEは東南アジアに拡がった、そして次のステップではかってに争ったヤフージャパンとの経営統合だった、ヤフーも念願のSNS進出だった。

 

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