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「ネット興亡記」を読む3

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第4章:巨人ヤフーと若き革命児たちの物語

登場人物
ジェリー・ヤン>ヤフー創業者:ポータルサイト
デビッド・ファイロ>ヤフー創業者:ポータルサイト
マーク・アンドリューセン>「モザイク」ブラウザ開発

孫正義>ソフトバンク創業者>ヤフー・ジャパン立ち上げ
孫泰蔵>ヤフーサイトの日本語版立ち上げ
井上雅博>ヤフー・ジャパン社長
宮坂学>ヤフー・ジャパン二代目社長>後に東京都副知事
松本真尚>ヤフー・ジャパンの社長室>後にWilパートナー
川邊健太郎>ヤフー・ジャパン3代目社長
佐藤完>幹部・インターネット界の世話役>ジオシティーズ

鈴木覚>元官僚 村上臣>スマホシフト>「村上の乱」>リンクトイン代表

1995年マイクロソフト「ウインドウズ95」発表で、インターネットが一般に普及し始めた>ブラウザ「モザイク」等>見た若者が集まり始めた。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第4章:巨人ヤフーと若き革命児たちの物語
(承前)

川邊健太郎は青山大学生中心で学生ベンチャー・電脳隊を立ち上げた>そこでの繋がりで田中祐介と出会った。
さらに続いて村上臣が加わった、そこでの業務はホームページ作成代行が中心であり、下請け業務だった。

ソフトバンクで孫正義がソフトウエア流通業を行っていた、そこでヤフー日本語サイト制作を目指した。
その実作業は、孫泰蔵が指揮して学生を集めて作業した。
1996/04/01にヤフージャパンが公開した、それはカテゴリー別のポータルサイトだった。

電脳隊のメンバーは1997年にシリコンバレーに行って見学した、そこでベンチャーのアンワイヤード・プラネットに出会った、そこの業務はWAP技術推進だった、それが川邊らのモバイル・インターネットとの出会いだった。
川邊らは帰国後にアンワイヤードと正式提携して、その提携先のDDI(第二電電)と契約した、そこで「ezweb」のプロジェクトに参加して、1999/04サービス開始した。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第4章:巨人ヤフーと若き革命児たちの物語
(承前)

松本真尚は「ヤフーBB」が始まった後も、別部門でヤフーショッピングの立て直しを担当していた。
親会社の孫正義のソフトバンクは携帯電話参入を目指していた。
その中で、携帯事業へ2004年に参入した、その中で基地局建設不足を補う為にボーダーホン日本法人に提携を持ち掛けた、だが逆に提携ではなく買収を持ち掛けられた。
松本は、孫により買収へ関わらされる事になった、さらに2006年に買収が成立した後にはモバイル事業部長になった、そのころにはヤフー社長・井上から社長就任を持ち掛けられたが断った。
2011年にヤフーはモバイルシフトを目指して執行部更新した、その結果で社長・宮坂と副社長・川邊になった、そして井上と松本はヤフーを辞めた。 ヤフーはスマートホンへとシフトして行った、そして2018年に川邊はヤフー社長に就任した

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第4章:巨人ヤフーと若き革命児たちの物語
(承前)

松本真尚はヤフー本社に行き、そこでグローバル展開の規模の違いを知った。
ソフトバンク全体としては、インターネットビジネスに注力していた、具体的には孫正義はネットインフラであるADSL「ヤフーBB」に注力した。
 そこでは、回線網を持つNTTとの関係が問題となっていた、そしてその中で松本にヤフージャパンの全権を任せる形とした。
ソフトバンクとヤフージャパンのビジネスは「ヤフーBB」が中心となり、その結果としてモバイル関連には乗り遅れて行く。
 そこにはモバイルに関しては「イノベーションのジレンマ。企業の成功のために重要な、論理的で正しい経営判断が、企業がリーダーシップを失う」状況になった。
2006年に佐藤完がヤフーを去った、2009年に川邊はGYAO社長に転じた。
その後に2012年にソフトバンクは体制変更を行い、モバイル・シフトに向かって行く。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第4章:巨人ヤフーと若き革命児たちの物語
(承前)

松本真尚は「ヤフーBB」が始まった後も、別部門でヤフーショッピングの立て直しを担当していた。
親会社の孫正義のソフトバンクは携帯電話参入を目指していた。
その中で、携帯事業へ2004年に参入した、その中で基地局建設不足を補う為にボーダーホン日本法人に提携を持ち掛けた、だが逆に提携ではなく買収を持ち掛けられた。
松本は、孫により買収へ関わらされる事になった、さらに2006年に買収が成立した後にはモバイル事業部長になった、そのころにはヤフー社長・井上から社長就任を持ち掛けられたが断った。
2011年にヤフーはモバイルシフトを目指して執行部更新した、その結果で社長・宮坂と副社長・川邊になった、そして井上と松本はヤフーを辞めた。 ヤフーはスマートホンへとシフトして行った、そして2018年に川邊はヤフー社長に就任した

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第5章:語られなかった楽天誕生秘話

楽天は日本のインターネットの初期に産まれて、楽天市場のEコマースから始まり、その後に多数のエリアに進出した。
例えば、旅行、ネット証券、クレジットカード、スマホ決済、動画配信、プロ野球、携帯電話等に参入した。
その結果として、総合インターネットカンパニーに産まれ変わろうとしている。

三木谷浩史は日本興業銀行を辞めて経営コンサルタントになり、さらに経営者を目指した、インターネットに投稿サイトを開いて、学生との意見交換を行った。
1996年に、本城慎之介は大学OBである三木谷に会った、そして直ぐにもう一人の創業者となった。
この時期に、下山晴子(三木谷晴子)や伊藤将雄も参加していた。


「ネット興亡記」を読む4

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第5章:語られなかった楽天誕生秘話
(承前)

楽天の創業者の三木谷浩史は1988年に一橋大卒後に日本勧業銀行に入社して、1991年に2年間にハーバート大学に留学した、そこでアメリカの起業家精神に触れて考え方が変わった。
帰国後に1994年にソフトバンクの孫正義が行うM&Aを知り、孫と会った。
孫と澤田秀雄(HIS)と南部靖之(パソナ)は当時にベンチャー三銃士と呼ばれていた。
三木谷は阪神大震災をきっかけに人生のルールを変えた、興銀を退職して経営コンサルタントとなった、その中で三木谷とその仲間の本城慎之介はカルチャーコンビニエンスの増田宗昭と出会いインターネットでのパソコン教室を始めた。
三木谷はインターネットを知り、3つのアイデアを出した>「ビールレストラン」、「パン店フライチャイズ」、「ネットもモール」、そしてその中から「モール」を選んだ。

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第5章:語られなかった楽天誕生秘話
(承前)

三木谷はインターネットのショッピングモールのアイデアを選んだ。
理由は、・サーバーだけではじめられる、・インターネットならば三木谷自身が飽きない、事であり、名称は織田信長の楽市楽座から「楽天市場」と  なずけた。
1996年に始めたが、当時は既に大企業のショップも多数あった、だだどれも空きが多く、「デジタル・ゴーストタウン」と呼ばれた(当時のショップ以外のウエブサイトも同様だった)。
楽天は状況改善策を考えた。
・1:価格破壊:安価な登録料の市場>人を集める。
・2:没個性から脱却>当時は型の強制によりどれも似たホームページになっていた>アメリカのバイアウエブ=ショッピングサイトのエンジンをモ    デルにして、インターネットのブラウザ上で直接にオンラインストアを開設できるシステムを構築した。
   そして、モデルにしたバイアウエブの創始者がポール・グラハムだった。

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第5章:語られなかった楽天誕生秘話
(承前)

ポール・グラハムは天才ハッカー(プログラムでソフトウエア等を作る人物)で起業家でコラムリストで投資ファンド経営者でのあった。
 ロバート・モリスとともにEコマースのバイアウエブを創設(lisp言語でソフトを書いた)した、のちにヤフーに買収されて「ヤフー・ストア」となった。

三木谷の指示で本郷慎之介は、1996年に天才プログマー・増田和悦を探して、バイアウエブをコピーした楽天市場のシステム作りを行った。
三木谷と本城は楽天市場への出店者の勧誘を計画してその担当者を探した、杉原章郎・小林正忠が加入した。
上記5名に経理担当の三木谷晴子を加えた6名の創立メンバーが揃った、1997年にMDMが発足した(のちに楽天に改称した)。
メンバーらは出店者を探しまわったが、1997年5月にわずか13店で楽天市場はオープンした、だが徐々に増えて1997年12月に100店を超えた、そして1999年末には1800店に到達した。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第5章:語られなかった楽天誕生秘話
(承前)

三木谷は「Eコマースの二段階戦略」を考えた。
・「戦争型」>資金投下で赤字でもユーザーを獲得して大きくする>アマゾン等の戦略だ。
・「戦闘型」>局地戦ですこしずつ領土を拡大して行く。
そして、楽天は戦闘型から始めて、その後に戦争型に次第に切り替える。
 2002年に戦争型への移行を考えたが、出店者からの反発があった、三木谷は戦争型へのタイミングを計り続けた。
 「戦闘型」の戦い方も合わせ持つことが楽天の強みと考えた。

エピソード:「クラフトビール」が売れない>ネットでしか買えない商品を目指した>楽天と出店者の二人三脚で、楽天市場で展開して成功した。
ただし、店舗側の負担が増す楽天市場への出費が回収できずに撤退も多い、さらに楽天方式は手がかかりスケールアップに繋がりにくい、それは海外で壁になった。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第5章:語られなかった楽天誕生秘話
(承前)

2000年前後に楽天は事業が急成長して社員が増えた、そのことで度々本社が移転した。
三木谷は幹部社員をヘッドハンテングで集めた、そこでは一般社員との間で待遇差が起きた、三木谷は報酬を補うためにストックオプションを利用した。
だがなかなか理解されなかった、三木谷が金を貸して社員がストックオプションを買ったが理解されにくかった、だがその後に2000年に上場されて大きなキャピタルゲインになった。
楽天は上場して急成長した、だが会社の拡大で三木谷は社外の対応に追われて、その結果で社内に分断を起こした、三木谷には孤独感があった。
会社分裂の危機が生じた、三木谷は「スタートアップ時にはいずれ直面する成長痛で、最適解がないかもしれない」と思った、そこで新たに無謀的な目標「流通総額1兆円」をだして亀裂のある社内を刺激した。

杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。

第6章:アマゾン日本上陸

「ビットバレーの総本山」
ベンチャー「ネットエイジ」は、1990年代末のネット起業ブームの象徴的存在だった、そこには多数の起業家が集まった。
 ・笠原健治:ミクシィ創業者、 ・千葉功太郎:ココブラ創業者
 ・佐藤完:ヤフー幹部、 ・田中良和・山岸広太郎:グリー創業者
 ・山田進太郎:メルカリ起業、 
 ・小澤隆生:ビズシーク創業(中古品売買)>ヤフー、
 ・川邊健太郎:電脳隊>ヤフー 等。
西野伸一郎:ネットエイジ創業者が、1999年に起業家の集まりを始めた。
 2000年2月に2000人が集まり、ピークに達した。
だがその直後にインターネットバブルは崩壊して、熱はしぼんで行く。

 

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