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「ネット興亡記」を読む
杉本貴司著「ネット興亡記」は、日本経済新聞電子版と日経産業新聞に連載された後に出版された、さらに2分冊で文庫化された。
本文より「本書で描くのは、そんな混沌とした時代のうねりのなかで始まった新産業創生の物語である。」
インターネットの技術史ではなくて、その中での人間ドラマを描いた。
インターネット技術とその業界は、変化が激しくて成長も衰退も激しい、技術や業界や事業者らは短い期間で変わって行く。
日本のインターネットはアメリカに比べて30年遅れた所からスタートした、それ故に変化はより急激でもあり、独自進化もあれば、アメリカ等の影響を受けた部分も多い。
本書は全体で12章に別れており、注目した人物とその事業内容を描いている、そこでは多数の人が関わり結びついて行く、同様に離れて行き、さらに競う事になる。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
・新産業創生の物語であり、IT長者と成金が登場する。
・インターネットの担い手たちの人間ドラマ。
・技術ではなくて、登場する人間と人間関係の歴史とドラマ。
・一人の中心人物の時間の流れを見る、それの積み重ねと繰り返し。
・ただし章ごとに時間が流れる、章が変われば時間は巻き戻る。
・書き方は章ごと・登場人物ごとに異なる。
・登場人物名>所属と肩書き>そこから読者が対応する技術とサービスを思い浮かべるならば技術史にもなる。
・そこで関わりで登場する人物と会社名が並ぶが、ジャンルについての記載は少ないので可能なものは追記したい。
第1章「いつか全員を黙らせたくて」藤田晋、若き日の屈辱
サイバーエージョント社長・藤田晋を描く、仕事は営業であり、起業して経営者となった。
インターネットのビジネスでは、技術の人間が多く販売・営業面では得意ではないと見て、営業代行・広告代行ビジネスを始めた。
1998に起業してインターネットバブルの中で莫大な投資マネーを得た、だが直ぐにバブル崩壊して危機に直面した。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第1章「いつか全員を黙らせたくて」藤田晋、若き日の屈辱
(承前)
日本経済成長のインターネットバブルでIT企業に投資が集まり関連株の株価が高騰した、それで投資資金が集まったが使い道は不明かあるいは見つからなかった。
新産業創生の動きがあったが、さらに直ぐにバブル崩壊して、急落・崩壊が起きて新規事業の倒産・廃業・買収が起きた。
サイバーエージョントもその流れの中で、新規事業が定まらず事業存続の危機に面していた、藤田は諦めて辞めるか継続するかを模索する中で、当時の多数の会社と事業者に会う。
そこでは事業の推移が見えるとともに、人物も見える、それのいくつかがこの本の次章からに登場して来る。
創業したサイバーエージョントは投資で集まった多額の資金が有ったので、事業は停滞して廃業の危機だったが、結果的に生き延びて行った。
登場する人物の出身会社や、IT関連事業にはリクルート、オックスプランニング、インテリジェンスの名があり、既に成長中のIT企業にはヤフー、ソフトバンクの名があった。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第1章「いつか全員を黙らせたくて」藤田晋、若き日の屈辱
(承前)
登場する人物の出身会社や、IT関連事業(続き)
バリュークリック:クリック保証型広告>広告効果があると当時に話題になった、例えばメルマガ広告に使用した。
オン・ザ・エッジ:藤田が技術系の堀江貴文と出会った、のちのライブドア。
サイバークリック:藤田と堀江が作り販売したクリック保証型広告システム。
クレイフィッシュの松島庸:電子メール関連。
セブンテーニの七村守:ライバルのインターネットの広告・営業代理店。
村上ファンドの村上世彰:投資家。
インターキュー(GMOインターネット)の熊谷正寿:インターネット接続ビジネス>インターキューは都度課金制の接続局を展開した。
有線ブロードワークスの宇野康秀:大阪有線放送運営。
楽天の三木谷浩史:ネット通販市場。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第2章:インターネットをもたらした男ーー知られざる霞ヶ関との苦闘
日本での初めてのインターネット商用接続事業を始めたインターネットイ二シアティブ(IIJ)の創業者の鈴木幸一とその事業開始を描く。
章の冒頭に「インターネット産業は常に米国がリードしてきた」として歴史を示している、その内容は下記だ。
1960年代前半>インターネットの起源の構想が出る。
1969年>最初の通信。
1990年>スイスでWWWによる初のページが公開。
>米国でUUNETがネットワーク接続サービス開始。
1992年>日本でIIJの企画が起きる。
1993年>米国でブラウザのモザイクが公開。
1994年>日本でIIJがインターネット接続サービス開始。
1995年>米国で「ウィンドウズ95」発売されインターネットが普及。
1996年>日本でヤフー・ジャパンがインターネットサービス開始。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第2章:インターネットをもたらした男ーー知られざる霞ヶ関との苦闘
(承前)
1992年に深瀬弘恭と村井純が鈴木を訪ねた、
>鈴木幸一:経営コンサルタントで投資家だった。(後に政治家へ)
深瀬弘恭:UNIXを日本に導入したエンジニア。
村井純:1984年に3大学を繋ぐネットワークを築いた=インターネットの日本の起源>村井はインターネットの父と呼ばれる。
2人は鈴木に>商用インターネットで日本はアメリカに遅れている>ビジネスインターネットの開設を持ちかけた。
当時の鈴木の知識としては、本による認識「コンピュータとはメディア」:エンゲルパートがあり、内容は「情報革命は、頭脳の拡張だ」があった。
>ただしインターネットの事業化・ビジネス化には課題があった。
「ネット興亡記」を読む2
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第2章:インターネットをもたらした男ーー知られざる霞ヶ関との苦闘
(承前)
商業化の課題:資金問題・郵政省の認可問題>深瀬が目途が付いていると答えた事で鈴木が事業化に乗り出した。だが現実は違った。
・資金は無かった。
・郵政省は公共事業故に、IIJが倒産しなく事業が順調に進む証明を要求した。
>双方の悪循環になった。
>時間をかけて、郵政省から具体的な要求内容を聞き出す。
>銀行から郵政省からの認可を条件に、融資保証を得て条件を充たした。
1994年にIIJが「特別第二種電気通信事業者」の認可を受けた。
>事業化が始まった。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第3章:Iモード戦記ーーサラリーマンたちのモバイル革命
1998年からNTTドコモが起こしたモバイル革命「iモード」をこの章で描いて行く、それは大企業が起こしたイノベーションであった。
だが急成長したイノベーションは日本の大企業の内向性等の問題の中で、停滞して行き、次第に衰退して行った、その過程を描いている。
登場する人物は、榎啓一と松永真理と夏野剛のiモードトリオだった。
夏野はベンチャー企業・ハイパーネット副社長だった、社長の板倉雄一郎はインターネットのターゲット広告を先取りしたインターネットの広告画面「ホットカフェ」を展開していた。
夏野と板倉はこの広告モデルでマイクロソフト(当時Windows95を発表していた)のビル・ゲイツから興味を示された、だが実現せずハイパーネットも停滞した、その中で夏野はドコモと関りを持った。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第3章:Iモード戦記ーーサラリーマンたちのモバイル革命
(承前)
NTTエンジニア・榎啓一>1992年にNTT移動通信網に異動した、そこは無線屋が集められていた。
「携帯電話とインターネットを繋ぐ」構想の資料がマッキンゼーから出た。
榎の部署ではポケベルのみの時代だったが、それ故にモバイルが若者に拡がるイメージがあった。
榎は、新戦略ゲートウエイ戦略「携帯電話+インターネット」の担当になった。
当時は携帯電話の初期で成長していた、だが固定電話は頭打ち状態になっていた、そこからは携帯電話もいずれ頭打ちになると予想された、数の成長
ではなくて、携帯電話のバリュー化を求める必要があった。
榎の最初の課題は、新事業を誰と組んで、誰と始めて進めて行くのかが大きな課題だった、そこでは人材探しが必要であり、ヘッドハンテイングを考えた、それは自社技術に拘るNTTと異なる考えだった。
それが結果的にiモードに繋がった。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第3章:Iモード戦記ーーサラリーマンたちのモバイル革命
(承前)
榎:社内公募に加えて、橋本雅史に外部人選と推薦を依頼した。
榎:1997年にリクルートの松永真理をヘッドハンティングした。
松永は、ハイパーネットの夏野を誘った。
夏野は、コンサルタント契約を希望したが榎は移籍を望んだ。
夏野はプレゼンした、だが榎の「携帯電話とインターネットを繋ぐ」を聞いてから移籍を決めた。
榎+松永+夏野は、のちに「Iモード・トリオ」と呼ばれる。
榎らは「ゲートウエイビジネス部」として法人営業部から独立して、東京・神谷町に移った。
松永は、「成否はコンテンツが一番」であり、「外部クリエイターが担い手になる」と考えた。
それには場が必要と考えて、「クラブ真理」を設置した、そこから多数のアイデアが登場する。
>画面サイズの問題、携帯電話の制限問題、ネーミング問題、・・・・。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第3章:Iモード戦記ーーサラリーマンたちのモバイル革命
(承前)
松永:
・ネーミング「Iモード」決める。
・「コンテンツは王様」>「ユーザーはサービスを買う」
>携帯電話でコンテンツを見るブラウザの選択>携帯電話の世界標準WAPは技術が抑えられていた。
>日本の通信会社は世界標準と離れていた、NTTは世界標準を望んだ。
榎:
・携帯電話の標準ではなく、パソコンベースを選択=コンテンツ優先だった。
・BtoBでなくBtoCを選択。
夏野:
・コンテンツ集め>4つの系統「取引系」「エンターテイメント系」「生活情報系」「データベース系」を選ぶ。
・「取引系」コンテンツとして、「銀行」で住友銀行をパートナーへ。
マッキンゼー「リスク減らす」=パートナーを絞らない、それに対して松永・夏野は「パートナーと重点突破」と考えて、対立した。
杉本貴司著「ネット興亡記」を読む。
第3章:Iモード戦記ーーサラリーマンたちのモバイル革命
(承前)
1998/11に「Iモード」公開記者発表を榎と松永が行うが、少人数の通常発表扱いで注目されなかった。
>松永が大規模の2回目を要求して、1999/02に再度の記者会見を行った>その結果で大きな話題になり、一気に広がった。
>モバイル・インターネットの時代が始まるサービスとなった。
だが2007にスマートホンが登場して、その後に日本にも広がった、それが普及した事により「Iモード」搭載携帯電話はガラケーと呼ばれる様になり、急速に衰退して行った。
2006にグーグルから提携打診があった>夏野は提携を望むが、NTT内は反対が多かった>結果的に提携は成立せず、世界進出のチャンスを逃した。
NTTの旧体質と、Iモードを進めるドコモの開放・独立体質が馴染まないという社内事情があった。
>松永が退社>榎、2005子会社へ異動>夏野、2008退社。
Iモードはスマホに押されて衰退してゆき、2019に実質的に終了した。
大企業が外部の人材で行った「Iモード」開発は、会社内部の体質と考え方と外部人材の「外様」扱いの疎外性等で、事業自体の海外進出に失敗した、そして新しいスマホの登場でサービスは終了した。