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抜き取り検査

商品の不良は原則はゼロが前提だが、最終検査は全数検査で無く抜き取り検査の採用は現実的に行われている。
この品質保証分野は確立されているが、それを適用しない分野も増えている。
そもそもは、標準偏差(シグマ)とか2シグマが中心の時代で、3シグマの要求になっても継続した。
ただし、4シグマや6シグマが必要時代になると、抜き取り検査という手法自体の見直しが必要になる。
不良をいかに省くかの思想の問題で、検査で除く考えが抜き取り検査であり、別の考え方も増えている。

抜き取り検査も統計手法であり目標は不良ゼロだが、安全度=危険率=間違う可能性が存在しかつそこそこ大きい。
部品点数が多い組み立て商品の部品を例にすれば、安全度が高くともそれの部品数乗では有意な数字となり、不良率となる。
そこで、統計的に良品率を2シグマ>3シグマ>4シグマ>6シグマと要求が高くなる。
上記の部品数が増加した時の組み込み製品の不良率という根拠があれば、それはもはや安全率ではなく、現実の不良をなくす要請となった。
ただし、抜き取り検査手法でどこまで対応出来るかは問題となった。

抜き取り検査の建前は最後の確認だが、どうしても製造工程で不良は最後で見つけると間違った考えを持たせがちだ。
それは、確認ではなく選別作業という製造工程に変わってしまう事になり、品質保証的には望ましくない。
製造は良品を作る所であり、不良が発生すればそこで取り除く(不良マークも含む)考えが必要だ。
これの積み重ねで、4シグマ>6シグマ等が考える事が出来る。
具体論は製品で異なる。
ただし、製造で良品のみ作る方法の現実的アプローチは、やはり検査という言葉と無関係でない。

現在の製造では各工程が、次工程に不良を流さないという考えで設計と製造を行う。
言葉に捕らわれないで、発見した不良で省けないものはマークする事も含む、本来は避けたいが技術的に難しい場合は多い。
各工程で良品のみ作る事を前提とする事で、その積み重ねとして最終工程後に4シグマ>6シグマ等が可能と考える。
設計・設備に変わりが無ければ、工程毎に全数検査(実質は抜き取り検査)を行う事になり、最終工程後の抜き取り検査の数を増やして精度を上げる事と同じに考えがちだ、だが不良率の高い集合からの抜き取り検査をいくら繰り返しても不良は無くならないので良品ロットなしになる、検査工程に戻し全数検査を繰り返す事になるが効率も精度も悪い。

各工程内検査が最終検査よりも効率的かは、一応の検討が必要だ特にシート・ブロックで生産する場合は不良品を単純に除けない。
工程の自由度とかプログラム化とか、不良品を除く方法の開発が必要になる、それが無ければ劇的に効果が出るとは限らない。
また、不良モード解析データ収集用と不良品分離では、工程内検査の設計が異なる。
例えば、電気関係で導通検査工程を考えると、それ以前の工程不良のバッドマーク(不良マーク)を導通チェック端子上に貼ると導通不良になりまとめて不良認識を導通検査機器で行える、ただし細部の不良モード解析には向かない。
当然ながら全数検査工程に他の不良を検出する機能を設計する工夫が有効だ。

不良モードの中に原因が判っており、ある程度の単位で起きるものが有る。
材料不良や装置不良やツール不良等だ。
それぞれ、入荷検査や定期メンテナンスや試し稼働などで不良除外が建前だが現実は連続稼働と多量の材料利用を考慮すれば、発生リスクはゼロにはならない希に起きるが、見逃すと不良が急増するモードは早期の検査・工程中検査で止める必要があり、具体的には抜き取り検査の考えが適し、希に起きる+被害が大きいの二つの不良モードは、工程検査に抜き取り検査を行う内容にいれる事が向いている。
確率的に発生が少ない事を、確率的検査方法の抜き取り検査で発見し対策する事は効果が期待出来る。


記憶

記憶という言葉は日常的には人間の物事を覚えている事を指す。
情報分野では、ログなどのアクセスや作業履歴を指す。
そして、自然科学全般では全ての物質の過去の履歴を指す。
憶えているという概念ではなくて、物質自体の運動や質量やエネルギー等の性質の中に含まれているとする。
時間の経過・・・プラスとマイナスに関わらずに・・・・と共に増加するもの、分野によればエントロピーとして表現され、それに増大の法則が存在する。

物理学法則では、位置と時間に対して物理法則は対照=同じ式が使用出来ると言うのが、相対性理論だ。
この点に関しては、過去にも未来へも移動出来そうだが、記憶・履歴が非対称ならば、位置と時間が移動した時は、記憶・履歴は増加している。
時間に関しては、タイムマシン・パラドックスと呼ばれる事がある。
それ自体は不思議でなく、有名な不確定性原理が存在する。
それによれば、あるものを観測するとその観測手段があるものに影響を与えて観測しない場合と、した場合でその後の挙動が変わる、その為に純粋な観測は存在しない。
例えばハイゼンベルクの顕微鏡では、ある小さな粒子を目で見ると光=光子が衝突して観測者に戻って来て観測出来るが、ある小さな粒子は光子が衝突する事でその後の挙動が変わるので観測結果は確定しない。
その時に、小さな粒子と光子の記憶・履歴ともに変わったとも言える。

記憶は積み重ねられるが、その観測や読み出しは難しい事が多いという話しはマクロとミクロで分けて考える必要性・必然性を示す。
ただしマクロな記憶という物が存在する訳でなく、ミクロな記憶の集まりとしてマクロなものが生まれる、そしてそれにはバックアップの有無と部分破損の対策の有無が問題となる。
マクロな記憶でも多くは一部の破壊で済むが、ある部分が破損すると全体の機能に大きな影響を与える事がある、それは記憶が同等のデータではない事を意味する。
自然界でも人工な物でも、バックアップと破損修復機能が必要な事を示す、それは破損が全体の機能に影響がある部分に限られる事もある。
例を情報機器の記憶装置に取ると、ハードディスクの記憶はその管理マップに依存していた、それが破損するとシステム破壊となった、それを受けてマップのコピーが作られる様になり、次ぎに自動または手動である時刻の状態のバックアップを作るシステムになり、次第にそれが多重化されている。

遺伝子の記憶とコピー方式がワトソンとクリックで解明され、研究が拡がっている、ミクロからマクロの個体が成長する仕組みが加わり個体の分化が起きて、そこにダーウィンの進化論が成り立つ事になる。
ダーウィンの進化論では、希に生じる突然変異の中で環境等に対し優位性があると生き残り次の世代に伝わり、進化が起きるとされる。
これに対し、ミクロの分子進化論ではミクロ状態では突然変異は度々生じているが、それがミクロからマクロに移る段階で淘汰されて、マクロの突然変異は希にしか生じないと考える、それはマクロの進化論と矛盾しない。
遺伝子というのは、生物の機種の元も情報・記憶であり、それが正しくコピーされてマクロな個体に成長するのがマクロの進化論の考えであり、誤ったコピーは度々起こるが修復なり淘汰なりされて最終的にマクロの個体が成長すると言うのがミクロの進化論だ。
遺伝子の情報・記憶の面からどちらが考え易いか、あるいはコンピュータの情報のシュミレーションで考えるとどうかとすると、ミクロの考え方の方が理解しやすい。

記憶のクリアまたは初期化は、本当の最初の状態という意味では否定的だ。
マクロでは生物ではその状態はイメージできない、記憶障害という形しか考えられないがそれは初期化とは異なる。
ミクロでも、万能細胞とかを作る研究が行われているがどのような定義かが問題で、本来の初期化とは異なるようだ。
 細胞を酸に付けたり、擦ったりすればクリア出来るとする考えもあるようだがマクロの記憶障害と同じ現象に思える、ショックで外見はクリアに見えるが異常現象なので、例えば細胞の癌化等の問題が生じ易い。
コンピュータの初期化は、記憶障害に対応するマップの破壊と、意味のないデータの書き込みというクリアとは異なる方法がある、それ以外はハード的に記憶媒体の再生があるが記憶部は、新規製作に近い。

記憶エリアが無い状態での「記憶なし」は可能性はあり、その時は記憶エリアの付加と記憶の追加は可能だが、ミクロの生物でも可能性は不明だ。
記憶を情報としてとらえると、憶える・書き込むエリアが存在する事が前提で書き込まれる前の状態は不定=不明だ。
クリアする=初期化するの意味は、エリアまでを除去する意味でないので不定状態にする事を表す事になる、そしてそれは無ではなく何かは存在するのでクリアとするのは単に都合上の意味だ。
忘れるという事、あるいはコンピュータの磁気記憶が劣化で不定状態になる事等はクリアになったあるいは無になったのではなく、通常の行為で取り出せなくなった事だ。
何かがある状態は記憶が残っているとも考えられるし、不発弾が埋もれている状態と似ている何も起きないかも起きるかもしれない、ミクロ生物ならば異常細胞が発生する癌化現象が起きやすい状況だ。


幾何学

数学を習うと代数学と幾何学と接するのが多いのが標準だ、ただし内容は絶えず見直されている、数学は言語と同じで生活や他の学問のツールで、昔から「読み書き、算盤」と呼ばれていてコミュニケーション手段の言語と同等で、古代では哲学と数学は近い分野だった。
それが、義務教育で学習順序や選択が行われると、日本語・外国語・数学・哲学では差が付けられた、同時に優先度が高くされた日本語・外国語でも文法関連と会話関連で差が生じ、バランスが崩れたままで外国語に反映された。
数学は算数という異なる物が前段階で入り、哲学は省かれた、結果は義務教育のみでは必要なツールが学び切れなくなり、ツールなしで応用である個別分野に立ち向かう事が要求された。
幾何学は古代から続く数学の1分野だが、ツールとしての学習を省かれる事も増えて無意識に利用する事も同時に減少した。

算数の幾何や初歩の幾何学は、古代に成立した「ユークリッド幾何学」を対象にする。
現在の数学では「非ユークリッド幾何学」は常識であり、近代に普及した方法を利用した幾何学も多い。
数学は閉じた空間で矛盾がなければ成立するので無数に作る事が出来る、その中で注目されるのはやはり有用性であり他への波及や応用性だ。
数学は証明しない複数の設定を設けて、そこからそれ以外を導き出して全体を矛盾なく構築できれば成立する。
古代に成立した「ユークリッド幾何学」は5つの公準が証明なしに設定されておりそこから他の全てが導き出されている、公準は証明されなくとも納得出来る内容と思われて来たので、長く広く採用されて来た。
ただし、その5番目・いわゆる「ユークリッドの第5公準」は長く不要=他の4公準から導きだせると考えて、試みる人が繰り返し登場した。

数学は閉じた空間で矛盾がなければ成立するのだが、現実の生活する社会や空間で成立する程に判り易いし、生活上で有用になる。
ユークリッド幾何学は上記を求めて作られたもので、5つの公準も証明されなくとも実感として受け入れられる内容だ、「ユークリッドの第5公準」もその意味では同様に実感として受け入れられる内容だった。
ただし、他の4公準ほどにシンプルでなく他の4公準から導けると思わせる内容でそれ故に証明への挑戦者が続いた。
「1つの線分が2つの直線に交わり、同じ側の内角の和が2直角より小さいならば、この2つの直線は限りなく延長されると、2直角より小さい角のある側において交わる。」=第5公準>簡単に言えば「平行線が引ける」で正しいと思われた。
これの証明が失敗する中で、「平行線は引けない」と置き換えて矛盾が発生する事を証明しようとした人達が出て来て、そして矛盾がない閉じた空間が出来た、非ユークリッド幾何学の誕生だ。

「平行線は引けない」を公準とする非ユークリッド幾何学は元々は否定されると予想して出発されたと言われる。
だが、複数の人が成立する結果に達した、その中で間違いではないと確認した人が非ユークリッド幾何学を発表した、直感とは異なるので直ぐに受け入れられた訳でないが、現実の有無に関わらず閉じた矛盾のない空間で成立する事は次第に理解された
色々な非ユークリッド幾何学が登場して、むしろユークリッド幾何学は単なる1つと捕らえられる、だが直感的な生活空間の記述に有効なので、初等幾何では依然有効だ。
非ユークリッド幾何学の中には、リーマンの球面幾何学が登場したが、それは地球の様な球面を対象とする、そこでは南北に引いた平行線は南極と北極では繋がり(緯度と同じ)直感的にも、平行線が引けない事が判る。

幾何学は図形を統一的に取り扱う学問で、ユークリッド幾何学は直感から始まったとはいえ大きな成果だ、中世の非ユークリッド幾何学の登場等から始まった数学という閉じた無矛盾性の追求の結果はユークリッド幾何学は不完全となり直感性の問題の指摘もあったが、過去も現在も充分に働きはあると言えると思う。
幾何学は元々が直感性から始まったが、それの可否が問題化され同時に多数の異なる手法が登場する事になった。
その実態は高度の数学理論であり、直感的な2次元・3次元を扱う現実の世界で直接にどの程度有用かは明確に示し難い、勿論科学全般で見れば有用な理論や手法であるのだが。
例えば、図形と数(座標)を結び付けた=図形を数値化する微分幾何学、図形と代数とを結び付ける代数幾何学、図形と遠近法を結びつける射影幾何学、位相幾何学等が有名だ。

位相幾何学はトポロジーとも呼ばれ、異なる図形の見方を行い、図形(平面・立体・その他)を連続に変形した時の類似性・同一性を比較する、連続とは伸ばしたり曲げたりするが、切り貼りや穴開けはしない方法を指す。
例えば、球と立方体は変形すると同じになるが、ドーナツ系は変形しても中心の穴は同じ形にはならない。
一筆書きも例に出される、一筆書き出来る線の繋がりと出来ないものとを分ける、それは1本のひもを折りたたんだり絡ませても元の1本に戻せるが、一度結び目を作るとそれは両端を固定すればほどけなく、別の物と考える。
位相幾何学は幾何学と集合論と合わせたもので、色々な分野での事象のモデル作成に有効だと判り、併行して進んでいる。
図形に性質を持たせて分類して集合を作りまとめて調べる手法だと言える。

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