学問の方法

「ヴィーコ」について

ヴィーコは1668年にナポリで生まれ、幼少時は自学自習で行った。
1686年から侯爵家の家庭教師なり城内の膨大な書物で、哲学・文学・歴史学・法学・自然学などを学ぶ。
1699年に王立ナポリ大学の修辞学(雄弁術)教授になった。
1744年死去。
著書には、「学問の方法」以外に
「ラテン語の起源から導き出されるイタリア人の太古の知恵」
「普遍法」
「新しい学」
「本人の書いたヴィーコの生涯」
がある。

「学問の方法」について

原著
 「われらの時代の学問方法について」 1709年 イタリア
  「De Nostri Temporis Studiorum Ratione」
    Giambattista Vico

日本語訳 
 「学問の方法」
    ヴィーコ
    1987 上村忠夫・佐々木力 訳


ナポリ大学で行った講演を元にしている

ナポリ大学では年度最初に新入生を対象に定例で行われた
修辞学教授が「学問のすすめ」の内容の講演を行った


講演内容の出版を狙っていたとされる。
第7回目の内容を元に、翌年に出版されたものが本著だ。


「学問の方法」の内容

献辞
1:講演の構成
2:諸科学の道具から得られるわれわれの学問方法の利点
3:新しいクリティカの不都合
4:幾何学の方法が自然学に導入されることによる不都合
5:解析について(機械学との関連による)
6:われわれの学問方法は医事にいかなる不都合をもたらすか
7:われわれの学問方法がそれの目的と関連して道徳と政治の学および雄弁にもたらす不都合
8:詩作について
9:キリスト教神学について
10:賢慮に属する諸主題について技法集が編まれていることの不都合
11:法賢慮について
12:芸術作品の最良の手本について
13:印刷について
14:大学について
15:講演の結論

感想

ヴィーコは「真理を求めるのが学問で、その方法は数学的知識以外の知識はあり得ない」というデカルト派の認識論に反対した。
デカルト派の認識論はその時代の学問に成果をもたらし、その問題点への関心は薄かった。
しかし次第に、デカルト派の方法が行き詰まりを見せた頃に、方法論の見直しが行われて、その中でヴィーコの考えも次第に注目される事になった。
まさしく、「方法序説」は出版直前に書いた序文になるが、それ自身が論文として成立するとして、現在でも読まれている。
方法が1つとか、数学知識への偏りは、現在の目ではあり得ない事だ。
ただ、方法論はその時代で有効なものが圧倒的に利用される。
特にその時代に於いて新しいものならばなおさらだ。

「方法序説」とデカルト派が、発表後の時代で力を持った事は、時代的に当然とも言える。
ただし、哲学と数学をまとめても、閉じた世界の中で完結させる学問だ。
それが、あらゆる事に有効になる筈がない。
ただし、有効な場合も多いから、最初は急激に広がり、その後に徐々に限界を感じた事は自然だ。
ただそれを説明する必要があった時代の、具体的な反対論で、一般に注目されるのがデカルト派が行き詰まってからなのも仕方ない。

目次を見れば、「不都合」が並び反対だけかと思いがちだが、数学から真実が導ける考えだけでない事を示す事から始まる。
そして真理に対して、事実とその観察からでも知識が生み出される事を示す事はそれも新しい方法論だった。
現在の時代では、「理論」「実験」という学問方法に繋がる。
どちらが先になる事もあるが、理論は実験で証明されて完成する。
実験結果は理論で武装されて、そこから新しい応用が生まれる。
その出発点の時代とも言えるだろう。