「イマヌエル・カント」について
イマヌエル・カントは1724年、現在のロシアのカリーニングラードで生まれ、生涯の多くをそこで過ごした。
ラテン語学校に進み、その後にケーニヒスベルク大学に入学して初めは神学を目指したがニュートン等で発展中の自然学に関心を持ち、哲学教授クヌッツェンのもとでライプニッツやニュートンの自然学を研究したが、家庭の事情で中途退学したと言われている。
1755年に最初の論文「天界の一般的自然史と理論」で太陽系は星雲から生成されたと論証し、次ぎにケーニヒスベルク大学哲学部で学位論文「火について」で学位を取得、その後に就職資格論文を経て同大学の私講師で職業的哲学者となった。
いくつかの小著作を出版と哲学教師を続け、46歳にケーニヒスベルク大学の哲学教授になり引退まで続けた。
カントは大学教授として哲学の他に、地理学・自然学・人間学など色々な講義を担当したが、「純粋理性批判」の出版でドイツ哲学界の論争の中に入り込んだ。
「純粋理性批判」は難解かつ斬新な思想で理解され難く議論が起き、誤解を解くための活動が増えた。
「純粋理性批判」は時間制約で理論哲学のみとなり、後に「実践理性批判」「判断力批判」が出版されて「三批判書」と呼ばれる。
カントは批判は形而上学のための基礎付けで、関心は形而上学へ向かい、道徳への関心が強く宗教哲学にも向かったが、プロイセンの宗教政策から発売禁止にも遇った、カント自身は学者同士の論争への政府の介入に反対だったとされている。
カントが72才で「永遠の平和の為に」を出版したが直前に締結された「パーゼル条約」への批判を含んでいると指摘されている。
「永遠平和の為に」の内容
原著
「永遠平和の為に」 1775年 ドイツ
「Zum,ewigen Frieden」
日本語訳
「カント著作集 第12号、一般歴史孝其他」
1926 高阪正顕 訳
「永遠平和の為に」*
1949 岩波文庫 高阪正顕 訳
*の目次
第1章 国家間の於ける永遠平和の為の予備条項を含む
・将来戦争を起すやうな材料を秘かに留保してなされた平和条約は、決して平和条約と見なされてはならない
・独立して成立しているいかなる国家も、継承、交換、買収、或は贈興によって、他の国家の所有とせられてはならない
・常備軍は時を追うて全廃さるべきである
・国家の対外的紛争に関連していかなる国債も起されてはならない
・いかなる国家も暴力を以つて他国の体制及び統治に干渉してはならない
・いかなる国家も他国との戦争に於て、将来の平和に際し、相互の信頼を不可能にせざるを得ないやうな敵対行為は、決して為してはならない。例へば暗殺者や毒殺者の使用、降服条約の破棄、また敵国に於ける暴動の扇動等々。
第2章 国家間に於ける永遠平和の為の確定条項を含む
第1追加条項 永遠平和の保証について
第2追加条項 永遠平和の為の秘密条項
付録
1 永遠平和の見地よりせる道徳と政治の不一致について
2 公法の先験的概念による政治と道徳との合致について
感想
最初は同地点から始まった、哲学と数学は現在は、前者が社会科学で後者が自然科学に分けられる傾向がある。
哲学は対象を限らなく、数学は言語と同様に人工で作った閉じた範囲で矛盾がないツールなので、これも本来は利用される対象を限らない。
従って、自然科学を対象にするか、自然科学がその研究に使用するかは制限されない。
哲学・数学が自然科学かどうかは、単独では否定的だが広く応用を見ると肯定的だ。
哲学者は数学も自然へも興味は高い、それはカントも同様だ。
ただ学問は時代と共に進歩するが、その結果としてそれ以前の著作が歴史資料以上の内容を保つ可能性は少ない。
一方では哲学や方法論は、内容自体が一部であっても出版当時の内容のままで現在でも参考にされる例はあり、カントの批判と言う方法論とその具体的実践書は現在でもそのまま読まれている。
本著は、カントの方法論を「パーゼル条約」という秘密条約を念頭にして、国家や平和や条約から入り政治や道徳まで語った内容だ。
自然科学的な内容ではないが、あるいはそれ故に現在でもかなりの部分が無視出来ない内容となっている、10年経てば技術的に古くなる分野が増えた自然科学の論文・教科書との差はあまりにも大きい。
自然科学の方法論の取扱や読みかたに再考を要求されているようだ。
「永遠平和」という言葉は造語かと思ったが、訳注によれば当時に普通に使用されていたという、あるいは皮肉的な使い方もあったとされている。
現在に使用すると、同様に皮肉と捕らえる人が居そうだ。
さて、カントの本書の第1章の6項目のいくつに賛同しますか。