二重らせん

「ジェームズ・D・ワトソン」について

ジェームズ・D・ワトソンは、1928年生まれで、アメリカのシカゴ大学卒業後に、インジアナ大学で遺伝学の研究で博士号を取得した。
イギリス等の欧州に行き、デンマークで1年化学研究で在籍するが、
イギリスに戻りケンブリッジの研究所に移った。

ケンブリッジで2年過ごし、多数の人と会った。
特にフランシス・クリックと出会い、共同研究を行った。
理論派のクリックと、DNAの分子模型作りを行い、最終的に1953年に、DNAの二重螺旋構造を発表した。

その後はハーバード大学の生化学・分子生物学教授となった。

193年に、「DNAの二重螺旋構造」の研究で、フランシス・クリックとモーリス・ウィルキンスと共にノーベル医学・生理学賞を受賞した。

本書は、アメリカから渡欧した時期からDNAの二重螺旋構造までの時期を描く。
技術的な問題だけでなく、他の研究者との関係や日常生活等の多岐に渡る記録だ。
特に国によるあるいは、研究者個々の考えの違いや、競争と協力という人間的な問題にも踏み込む。

細分化した現代化学での個人や仲間の限界と、名誉をかけた競争と失敗も描かれる。

「二重らせん」の内容

「二重らせん
  DNAの構造の発見についての個人的記録」
 The double helix
   A personal account of the discovery of the structure of DNA
   ジェームズ・D・ワトソン
       1968年 James D. Watson

「二重らせん   DNAの構造を発見した化学者の記録」
      ジェームズ・D・ワトソン
      江上不二夫・中村桂子 訳
       1968年:タイム ライフ インターナショナル>本書


・目次

ローレンス・ブラッグ卿の序文
原著者序文
プロローグ










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エピローグ
訳者あとがき

感想

本書は、研究者の「協力」か「独自研究」かのジレンマを描いている。

いきなり、イギリスでの研究風土の「フェアプレー精神」=長く研究を続けている人のテーマに途中から割り込まない、から始まる。
そして、フランスやましてやアメリカではその様な考えはないと来る。
日本でも後者だろう。

長くテーマに取り組み、早くからX線構造解析で「DNAの螺旋構造」を突き止めていた・キングスカレッジ大学のモーリス・ウィルキンス、
そして、途中から理論的に「DNAの分子模型作成」手法で「DNAの二重螺旋構造」に辿りついた、ケンブリッジ大学のフランシス・クリックとジェームズ・D・ワトソンが、
同時にノーベル賞を受賞した事を序文で喜ぶ。
その理由と、個々の役割は本書で明らかになる。

そもそもはこの分野は色々なアプローチが交わっていた。
遺伝学ではDNAが遺伝子と考えられ、その組成や仕組みが研究されていた。
そこでは、遺伝子情報の複製という大きなテーマの解明がひとつの最終目標だった。

ウィルキンスのX線構造解析で、DNAはタンパク質と判り結晶として扱われていて、螺旋構造は知られていた。
アメリカのライナス・ポーリングの分子模型によるアプローチは大きなライバルであった。
クリックは理論研究から独自に「分子模型作り」に着手したが、化学的な情報が欠けていた。
今では広く知られている、4種類のヌクレオチドが如何に関わるかは、誰も興味を持つ・・構造や遺伝に関係するか考えなかった。
ひとえに、個々のジャンル内のテーマとして研究し、完成した結果だけを発表した。

クリックとワトソンは螺旋構造から始めたが、情報不足で2−4重構造のどれかは判らなかった。
細部の構造も手掛かりがなかったが、オーストリアのシャルガフが見つけた4種類のヌクレオチドの法則性が手掛かりになった。
そこから、遺伝子の複製の前提から、ヌクレオチドの繋がりの種類に注目したが細部を決める情報がなかった。
2種類のヌクレオチドの接合力や体積が同じの組み合わせを、ウィルキンスのX線構造解析情報と検証で決定に辿りついた。

複製可能な逆並びの、二重螺旋構造が成立し、同時に遺伝子の複製も可能な構造を得た。

データは欲しいが、大発見の先陣争いは少数で狙う心理状態と、ライバルチームの対抗意識が絡み、まさしく研究者はジレンマばかり抱えている。
アイデアに詰まると、気晴らしに遊ぶが協力者には不満だし、それが他のチームとなると発表方法等の多数の調整になる。
本書が全てでないだろうが、相当なジレンマを理解出来るし、同時に他分野の協力なしでの限界も感じる。