自らの創作スタイルと継続 中町信の作品について
(1)
推理小説は愛好者が増えると共に、小説という世界全体の中で「推理小説」という言葉が使用される範囲も拡大してきている。これは、日本推理作家協会でも言っているので検討するまでもない。
同様に「本格推理小説」という言葉が示す範囲も曖昧または拡大してきている。最近では、「狭い意味の本格推理小説」(これも曖昧だが)を読もうとする場合、看板(帯)と内容が異なり何が原因か分からないにも関わらず、一番に作者に責任があるかのごとく思ってしまう事も多い。
たぶん複数回(度々)の類似経験が、読まず嫌いを発生させる原因と考える。また逆に華やかな新人が数々の新人賞と共に、続々と登場しその新作の出版がともすると地味な作家まで読む時間がないということも生じていると思う。
当然ながら、逆の事態も発生する。ようするに、ある意味ではうれしい事ではあるのだが、全ての推理小説を読む時間がないのである。
元々「狭い意味の本格推理小説」は地味で、相対的にページ当たりの読む時間が長めになり、かと言って流し読みでは全く面白くない傾向にある。筆者は、中町信の作品のほぼ全てが「狭い意味の本格推理小説」と言ってよいと思うが他の同じタイプと目される作家と同様に、その面白さが簡単に分かるとはいえない。
このような作者について、その小説のスタイルや特徴などを整理しておくことは、「狭い意味の本格推理小説」の読みたい小説を探している人や、本は持っているが読もうかどうか迷っている人には有用であろうと思う。
そしてもう一つのポイントは、中町信がプロ作家になり数量的に増えた長編の発表時期が一般に現在「新本格」と呼ばれる作品群と時期的に重なっていることである。しかしながら、一部で類似点もあるにもかかわらず「新本格」に分類された事は全くないと思っている。「新本格」は、「新しいジャンル」なのか、「新しい作家による本格(特に狭い意味)」であるかを考える上でも参考になるであろう。
個人的には、「新本格は新しい作家による本格(特に狭い意味の)である」と考えている。ただ、「新しい」が「デビューした年月日」と言う意味か「専門的にかつ継続的に作品を発表しはじめた年月日」か、あるいは単に「年令が若いか」は、はっきりせず曖昧である。
そもそも「新本格」という言葉はかなり以前(昭和30年頃)から使われている。「新」とは「旧」と区別する意味で、それ以前と異なると言う意味であるので、当然といえば当然である。今回の「新本格」が「それ以前の本格と異なる」のか、「作者が新しいだけ」かはまとめて区別できない。個々の作者が、どれだけ本格推理小説を読んでいるのかで異なると言える。年令が若いと読んでいないとは言い切れないが、笠井潔が「脱格」とよぶ世代が登場している事は否定できない。
結局、中町信は、「新本格」と呼ばれた事は全くない。デビューのみ早かったためか、年令的な理由か、他に理由があるのかは明確にされたことはない。
(2)
「狭い意味の本格推理小説」の定義が必要である。ここでは
<1>はじめに謎がある。
<2>謎の解明のための捜査が行われる。
<3>その過程で読者も謎を推理する必要な情報が全て提出される。
<4>最後に提出された謎が論理的に解明される。
とする。
これにシリーズの天才型の名探偵の存在を加える人もいることも予想される。天才型・凡人型と、シリーズキャラクターの有無は意見が分かれる所であり、個人的には今は省いておく。
これらは非常に制約が大きく、一部の欠落及び拡大解釈を含めないと該当作品が非常に少なくなるので代表的な目安として解釈するべきであろうと思う。
「新本格」について明確に定義している作家は島田荘司であるが、より強調する部分は異なるが本質的に異なっている訳でない、ただし「本格」についての認識は差がある可能性がある。
(1)で述べたように、「新本格」という言葉自体は新しくない。昭和30年代以前から既にリアリズム指向はあったが、細部の検討を別の機会に譲ると、歴史的にはその一つとしての社会派の台頭が具体的に見られる。それと共に、「狭い意味の本格推理小説」でも昭和20年代の内容と比べて傾向の異なる作品が書かれるようになり、それに対して「新本格」と呼んでいる。それでは昭和20年代の作品が「本格」かどうかは厳密に見ると、「本格」「変格」の言葉は合ったが「本格」という言葉は現在よりもかなり広い意味で用いられていたように見かける。
しかし、この検証も別の機会に譲るとする。昭和30年代の社会派が注目される頃には、新しい作家に対してだけでなく、昭和20年代の作家に対してもそれ以前と異なる部分が存在するという意味で「新本格」は使用されている。従って「新」「旧」の比較の結果の表現であるから、昭和30年代以後も時代と表現や色々な変化と共に繰り返し「新本格」という言葉は使用されることになる。いくら制約が大きくても根幹を変えずに変貌する事は可能であるからである。
(3)
中町信の小説スタイルを多数決的にまとめて見る。当然ながら作品全て同じではない為であり、どの作者についてもいえる事である。
デビューは短編からであり、長編を書くようになっても(正確には長編ばかりをに近い)長く兼業作家であった。江戸川乱歩賞候補作にしばしば名前をみかける。専業作家になる以前は発表は多くない。時間的な制約が大きい。
色々な職業についていたと紹介文にあり、その経験が作品にも反映されていると言うことも同様に指摘されている。これから考えると、若くしてプロの専業作家になった人と一線を引くことが考えられ、始めに「新しい作家による本格」とのべた中の「新しい」が年令的な事を指すならば、「新本格」に入らないのも当然といえるであろう。また、デビューが古いと言う意味でも同様である。専業作家として、作品発表が安定した時期が現在「新本格」と呼ばれる人と同じという事だけである。
(4)
ところで、本格推理小説の愛好家から望まれることはなにであろうか?。
1:まず、犯人ができるだけ小説の早い時期に登場する事がある。古典的とも言えるが、割と多くの人に支持されていると思う。
2:次に早い時期に事件が発生する事を望む人も多い。死体でなくても謎は早くに提示されて欲しいものである。最近は、いつまでたっても事件も謎も発生せず長く前段階が続く作品を多く見かける。一部には工夫をこらして、読者を退屈にしない作品もあるが、かなり多くの作品が途中で読むのを止めたくなる程に苦痛になることも有る。
3:読者のこのみにもよるが、最近では叙述トリックが多く使用されている。一種のブームとも言える。最近、ピエール・バイヤールの「アクロイドを殺したのは誰か」が出版されて問題点が指摘されている。この問題は、深く検討するべき内容であるが、作品をあまり読まないと思われる人が表面的にのみとらえて、コメントしているのは極めて遺憾と思う。
4:名探偵への願望も大きいが、謎解きゲームとも推理競争ともいえる小説内の、登場人物の推理のやりとりが用いられることも多い。特に作者が若い時に、「学生物」とも言うべき舞台が登場して結果的に、パターン化の方向に向かってしまう傾向が一時あった。全ては内容次第ではあるが、内容が似てくる傾向は避けられず舞台設定だけで読書を避ける傾向が生じた事も事実である。
5:また、専門知識トリックはあまり歓迎されないと思われるが、医学・法律に関しては推理小説の場合は特別扱いとも考えているし、実際に多くの作品で見られる。むしろ、これらを省いては推理小説を成立させることが困難とも言える。
6:特に最近ではないが、作品中で過去の事件が再度調査される展開が多く見られる。理由としては、過去の事件の推理はかなり安楽椅子探偵的要素があるからと思う。安楽椅子探偵設定を好む人は何時の時代でも多い。
7:エラリー・クイーンはダイイング・メッセージにこだわった作者と言える。広義であれ、狭義であれダイイング・メッセージは推理小説にはつきものである。推理小説に登場する頻度は、非常に高い。従って読者の側にも要求は多いと判断する。理由としては、解釈が複数に可能であり、大なり小なり複数の推理が飛び交う展開になりやすいからと判断する。
(5)
次から次へ期待とも要望とも、高望みとも言えることがだされる。作家側では意表を突くことも必要ではあるが、典型的であっても出来るだけ多くの事を満足させる事も手腕の内と考える。
そこには完全でなくても、有る程度合致させる努力が必要である。
上記の事を、ある程度満足させる手法を見いだし、ほとんどの作品に用いることで独自のスタイルを確立した作家が中町信であると考える。
(6)
中町信の作品の外見を広くみると、
あ:冒頭の叙述トリック。
い:過去の事件と現在の事件の交叉。
う:身体的特徴又は錯覚によるトリック。
え:凡人型の探偵役がしばしば検討はずれの推理を繰り返す内に小説が進行する。
お:事件の要点が明確に示される内容ではなく何がポイントになるか事態を読者が読みとる必要がある。
か:ダイイング・メッセージもしばしば大きな比重を占める。
また、主たる事件が旅行などで複数の人間が集まる場所で生じる事も傾向としてあげてもよいであろう。つまり、純粋な不可能犯罪派でもアリバイ崩し派でもないといえる(初期の短編ではアリバイ崩し物が多い)。
トリック派であることは間違いないが、読者はどこにトリックが潜んでいるのか、から推理して行かなければならないのである。同時にフーダニットの作者であることも言っておかなければならない。犯人は意外であったり、予想される容疑者の中にいたりする。小説の書き方や登場人物の描写比重から「根拠はないが慣れると雰囲気でなんとなく分かってしまう」、とはいかない。
(7)
中町信作品の上記の外見と、先に述べた本格推理小説に望む事(あるいは望まれる事)を繋いでおこう。
1:については、冒頭のプロローグで叙述トリックを絡めてあり、名前は当然不明であるが犯人が登場する、極めて早い。
2:についても同様である犯人が登場して犯行を行うシーンであるからこれも極めて早い。
3:は、ずばりプロローグが叙述トリックに相当するのであるから検討するまでもない。
4:は、外見の「え:」で示したように素人の凡人探偵が色々な的はずれの議論を行うのであるからぴったり該当する、当然天才型の名探偵は無縁である。
5:過去の複数の職業歴をいかした?医学トリック・法律トリック・アリバイトリックが登場する。
6:は素人探偵が仕事の合間に調査するのであるから過去に遡ることは小説の展開上も都合がよく、ほとんどの作品がとりいれている。
7:も、ずばり作品自体が左右されるほどに重要な位置を占めている。
(8)
個々の作品を離れて、スタイルのみを見ると独創的なものは無い。また、現在の他の作者もいずれかは使用している。
では何が個性と確立したスタイルかと言えば、無理なく本格推理小説のなかに溶け込ませた事にある。「無理なく」の判断は、多数の作品に用いられててしかも作品にプラスになってもマイナスになっていない事で行う。
一度スタイルを確立すると、はじめて安定してかつ持続して、内容勝負の本格推理小説に取り組む事が出来るのである。従って、中町信の作品はスタイルが確立した頃から、奇抜・奇妙とは縁がなくなり、安定・余裕・作者と読者の信頼が生まれている。
中町信の初期の作品には、構成に工夫を凝らしたものがあるが(例えば、新人文学賞殺人事件・「心の旅路」連続殺人事件)、次第に毎回異なる構成で作品を書くことはなくなった。スタイルが確立して内容勝負の作品に取り組みはじめたためと解釈している。
この事は、本格推理小説ではプラス面が多いと考えるが、必ずしも全ての読者を満足させる訳でない。結果として、中町信という作家を地味な印象で見る読者が増えたと思う。上記の初期作品をより好む読者も、かなり多い。これも、他の多数の作者でも該当することである。
(9)
島田荘司以降の「新本格」と時期的には重なる。しかし、中町信がその中に含まれることがなかった理由のいくつかは先に述べた。
「新しい作家」ではなかった事であるがそれとともに、「新本格と呼ばれる作家が書く作品と中町信の作品が、まったく異なるスタイルと内容である」ことも理由である。現在の「新本格」では謎が奇抜で奇妙なことが期待される(島田荘司の定義による)が、作品の完成度と持続性という面では成功例は対象作家数に比べて多くはない。作者が原因か島田荘司の定義が原因かのふたつの理由がある。
中町信が目指したものは、全く逆で謎の種類にはこだわらない、あるいは読者に謎の全貌を簡単に示す事も行わない。しかし、作品の構成は奇抜でない代わりに安定性は高い。そして専業作家になった時期が遅いことを考えると充分に持続性もあるといえる。また飛び抜けた一作もないかわりに、失敗作もない。ベストを選ぶとバラバラになる。
(10)
中町信のスタイルでは、いわゆる名探偵は登場させることは出来ない。現実にレギュラーの探偵役は複数存在するが、すべて凡人タイプである。また、専業探偵も登場せず副業探偵ばかりである。結果として、探偵役はクローズアップされる事はまったくなかった。もし、読者が名探偵を期待し、作者がそれに応えることを作品スタイルとすれば、中町信の作ったスタイルは取りえざるものである。
凡人タイプの探偵がクローズアップされるとすれば、登場作品の多さであろう。このためには、普通人がたびたび事件に遭うという不自然さを回避するために専業探偵を登場させる必要がある。
例えば、鮎川哲也の鬼貫(刑事)、土屋隆夫の千草泰輔(検事)、島田一男の南郷次郎(私立探偵)、仁木悦子の三影潤(私立探偵)、津村秀介の浦上伸介(ルポライター)、内田康夫の浅見光彦(ルポライター)など多数存在する。また警察官と親しい探偵役の設定も若干非現実ではあるが存在する。赤川次郎の永井夕子(刑事のガールフレンド)、深谷忠記の黒江壮(刑事と懇意)、都筑道夫の退職刑事(息子が刑事)など例も多い。これらの探偵のなかにも作品の進行中に議論とあいまいな仮説をたたかわす例があるが、探偵のキャラクター設定との兼ね合いで限界があると考える。
従って、中町信が専業探偵が少なく、それを含む複数の探偵役を登場させ、しばしば検討ちがいの推理を作中で議論するのは、無理のない設定と言える。少なくても推理小説を書く上で障害にはなっていない(名探偵を望む読者を充分に満足させてはいないが)。名探偵を設定する事としない事は、作品のスタイルを全く変える分岐点といってよいであろう。
(11)
(6)(7)の内容を具体的に見てみる。固有名詞は伏せ字とする。
「XXは言い知れぬ戦慄を感じ、思わず仔ネコの体を強く抱きしめた。
『し、死んでる・・・』
XXは声にならない叫びをあげ、反射的に仔ネコをほうり出していた。・・・」
「私は日記帳から眼を上げ、正面の遺影を再び見つめた。
あの日のことは、いまでも正確に記憶している。その一齣一齣が、私の脳裏に鮮明に焼きついている。」
「旅行先でこの夫の遺書を警察の係員から手渡されたとき、あの夫が何人もの人間を殺めていた狂気の殺人犯だったとは、私にはとても信じられなかった。」
「・・・・・
XXが完全に息絶えているのを確認した私は、その場から立ち上がり、急ぎ足でドアに向かった。」
別に伏せ字にする必要はないが、どの作品か記憶している人は少ないと思う。異なる意味つけでプロローグは始まるが、意味がわかるのがエピローグだからである。トリックか紹介か、それとも他の何かかは分からないが、本文と切り離されたプロローグはいつもの事であり、特別の事でもなくても印象的である。
「・・・・」は省略であり、エピローグで内容が明らかにされる。このような表現がある時は特に注意深い読みが必要になる。また日にちをあいまいにする場合が多く、本文は月日が正確に述べられるだけに綱渡り的な面もある。
プロローグとエピローグの使い方は、作家によって異なるが、両者の強い繋がりと言う面では中町信は非常に効果的に使用している。上記に対応するエピローグをあげたい気持ちが強いが未読者の興味をそぐので、のせない事にする。
なかには、結局はあまり強い意味がない場合もあるが、無駄な場合は全くないと言える。あえて言えば初期は、意味付けが弱い場合もある。
またプロローグのない作品もあるが、作品の中に流れているテクニックは、変わりはない。文庫書き下ろしの「社内殺人 課長代理深水文明の推理」の解説で作家の山沢晴雄は中町信の叙述トリックのテクニックを詳細に説明している。(正しくは記述トリックと述べている)「中町信の仕掛けは、高級で品格がある。地の文の記述は正確である。ただし、登場人物の会話は、作者がそのまま書くしかない。犯人はヌケヌケと嘘をついていることだろう。善意の第三者の証言にしても、錯覚があるかもしれない。犯人でなくても、しゃべって都合のわるいこともあるだろう。作者のこのへんの呼吸は絶妙である。用心してかかっても、いつのまにか心理的に間違った方向にむけられてしまうのだ。」。この後も中町信の作品論を詳しく述べている。全部引用すると、本論の意味がなくなってしまうので、この部分のみにする。
(12)
それでは、中町信作品の探偵役はどうであろうか。
二人探偵といっても良いものがある。九作に登場する作家の氏家周一郎と早苗夫婦である。中町作品の舞台の関係もあるが旅行好きでトラベルミステリーと言ってもよいほどに旅行先が絡む。氏家夫妻が、中町信夫妻自身をモデルにしている事は、既に複数の人が述べているし、推察もできる。著者近影写真と、氏家周一郎が重なっても何も不思議はないのである。
翻訳家の和南城健と作家の千絵夫妻も同様である。三作に登場するが氏家ほどは旅行のイメージはないが雰囲気は似ている。
浅草を舞台に活躍する鮨屋の山内鬼一は母親のタツとのコンビとの見方もできる。二人探偵と言ったが作中では、しばしば他の人たちを交えて推理談義をすることも多い。
一方、一人探偵も登場する。サラリーマンの深水文明である。四作に登場するが会社内の事件を扱うために登場させたのでは無いかと思う。型破りのサラリーマンではあるが、キャラクター先行かどうかは不明である。出版社で探偵を変える場合もあるので断定までは出来ない。でも、やはり温泉旅行にも行く。
一応の専業探偵が多門耕作である。三作に登場する。専業といっても小さな探偵事務所の下積み調査員である。殺人事件に関しては、専業ではない。それに事件で温泉には出かけるし、堀田晴代とのコンビは一人探偵と言ってもよいか疑問もある、まあ親戚コンビで無いことだけは言える。
中町信の小説には、探偵コンビと温泉旅行が似合うと言ってよいだろう。作品の構成上も必要と考えることが出来る。
(13)
何時の時代でも、地味な作家は存在する。職業と見れば損であると共に、作者の責任もあるといえる。しかし、派手な広告や演出に振り回される時代は過ぎたと考える。しからば、表面的ではなく内容で作家を再評価するべき時期と考える。中町信は、まだ現役であるが最近は作品が減少している。従って、勝手ながら、再評価という言葉をつかわせていただいた。誤解があれば、申し訳ないと思う。
推理小説でも、繰り返し読む程に新しい発見があり、楽しみがある作者は存在する。中町信も当然にそのひとりである。読者の注意力は、周到にかかれた中町信の文章をしばしば、あるいはほとんど見逃す。別に読者のせいではないが、再度読み返して、見逃した所を拾ってゆくのも楽しみである。ただ、二回読んでもまだ見落としが発生することも、避けることはできない。
(14)
現在でも中町信の本は、かなり入手しにくくなって来ている。先を考えるとかなり心配である。
また、これは原因は何か分からないが、中町信の小説には改題がかなり多い。複数回の改題もある。これは、本を探す人には厄介な問題である。ノベルス間の改題もある。一番多いのは文庫化時の改題である。ほとんどの本のどこかに、改題についての記述はあるが最近の様に、インターネットで本を入手する時代になるとかなり困る。逆に、インターネットを使う人は中町信の作品リストを見つけて読む事ができる。
自信のない人は、作品リストを先にチェックしてから本の入手を行うことを薦める。厄介と思うかもしれないが、作品のレベルは安定しておりだぶって入手しなければ満足な読書ができるだろう。
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中町信著書リスト
(2017/05:現在)
氏家周一郎 #
深水文明 $
和南城健・千絵 @
山内鬼一 &
新人賞殺人事件 1973/06 >新人文学賞殺人事件>模倣の殺意
殺された女 1974/04 >「心の旅路」連続殺人事件
殺戮の証明 1978/02 >女性編集者殺人事件
自動車教習所殺人事件 1980/02 >追憶の殺意
高校野球殺人事件 1980/12 >空白の殺意
散歩する死者 1982/06 >天啓の殺意
田沢湖殺人事件 1983/03
奥只見温泉郷殺人事件 1985/11
十和田湖殺人事件 1986/05
Sの悲劇 1987/06 作品集
「Sの悲劇・死の時刻表・裸の密室・カブトムシは殺される
・サンチョパンサは笑う・312号室の女・動く密室」
榛名湖殺人事件 1987/12
殺人病棟の女 1988/01 >悪魔のような女
佐渡金山殺人事件 1988/06 >佐渡ヶ島殺人旅情 #
阿寒湖殺人事件 1989/02 #
四国周遊殺人連鎖 1989/03 #
山陰路ツアー殺人事件 1989/07 #
下北の殺人者 1989/12
南紀周遊殺人旅行 1990/02 #
草津・冬景色の女客 1990/04 #
天童駒殺人事件 1990/08 #
不倫の代償 1990/12 >夏油温泉殺人事件 #
飛騨路殺人事件 1991/02
津和野の殺人者 1991/07
新特急「草津」の女 1991/07 >萩・津和野殺人事件 #
小豆島殺人事件 1991/09 $
社内殺人 1991/01 $
推理作家殺人事件 1991/11
能登路殺人行 1992/04
湯煙りの密室 1992/08
奥信濃殺人事件 1992/09 #
湯野上温泉殺人事件 1992/09 $
秘書室の殺人 1993/04 $
越後路殺人行 1993/04
人事課長殺し 1993/06 $
奥利根殺人行 1994/01
目撃者 1994/03
老神温泉殺人事件 1994/06 #
密室の訪問者 1994/01
信州・小諸殺人行 1995/04
浅草殺人案内 1995/05 &
五浦海岸殺人事件 1995/07
十四年目の復讐 1997/08 &@
浅草殺人風景 1998/05 &
死者の贈物 1999/07 @
錯誤のブレーキ 2000/06 @
三幕の殺意 2008/01
暗闇の殺意 2014/01 作品集
「Sの悲劇・賀状を破る女・濁った殺意・裸の密室
・手を振る女・暗闇の殺意・動く密室」
偽りの殺意 2014/10 作品集
「偽りの群像・急行しろやま・愛と死の映像」