本格推理探偵小説の長大化への危惧ーー津村秀介の危険な挑戦

”探偵小説のスタイルは単刀直入・単純・平坦で、他から邪魔をされぬものでなければならない。:ヴァン・ダイン”

<1> はじめに

大正・昭和初期及び昭和20年代では、紙の入手困難の事情もあったかと思うが、長編と言っても0400枚を越える作品自体が少なかった。 「陰獣」「パノラマ島奇談」「高木家の惨劇」「初稿刺青殺人事件」などが全て該当する。 また、その後の実施されたいくつかの長編公募も規定枚数は0350枚から0600枚程度である。 1200枚の「黒死館殺人事件」「ドグラマグラ」「石の血脈」「虚無への供物」が単に長さだけでないとしても、奇書と呼ばれた時代は今や昔の話である。 現在とそれらの時代は、文章全体に占める漢字の多さ少なさ、会話の少なさ多さの影響も当然に考えられる。また原稿用紙を使う時代とワープロを使う時代の差の影響も少なくないと考える。 従ってページ数の大小のみで比較は出来ない。しかし、一冊の本を読む時間に直しても必要な時間はやはり長くなっている事は事実と思う。長いとだめなのかの質問も当然に予想される。 私は、#1:推理小説は必ずしも読後に読者の満足を満たすとは限らない事や、#2:読書時間が制約されるべき分野が存在する事、を考えている。後者が本論のテーマである謎解き本格推理小説を指している事を、まず指摘しておきたい。

”探偵小説は本質的に短編小説です。いわゆる長編といえども、ポーの狙 う効果以上のものを望んでいないように見えます。ただ複雑多岐にわたる データを提示し解析するために多くの枚数を食っているに過ぎません。 :天城一”

<2> 謎解き本格推理小説とは

現在では、異様にページ数が長く、読書に長時間を必要とする作品が多い事にとまどう。異様と言うのは、#1:何故長いのかが分からない事と、#2:長いゆえに読むのをためらう事と、#3:長い事自体が問題であると感じる事、を指す。長さに慣れた読者もいると思うが、長編と言っても昔の様な適度の長さを望む読者も多いと思う。 特に謎解きを目的とした本格推理小説(定義自体が問題ではあるが)では長ければ良いとは言えず、謎と推理・捜査と解決が過不足なく表現されている事が、謎自体を読みながら推理する読者にとっては非常に望ましい。 易しい謎でも複数の組み合わせでより難しくする方法もあるが、謎が簡潔に整理され読者に謎を解く楽しみを与える事も大切である。謎解き推理小説は読者が謎を解けなければ作者の勝ちといった単純な物でなく、読者が謎を解く・解けないにかかわらず読書後に読者に謎の解決と言う面で満足感を与えねば意味がない。 一つの考え方として、謎自体の難しさと意外な真実・結末の驚きで満足を与える方法もある。 一方では小説中の適度の時点で、読者におおよその推理をさせ謎を解かせる事で読者に満足を与えることも謎解き推理小説のひとつの有力な作り方である。むしろ、論理的に謎解きが可能でフェアに書かれた本格推理小説では謎は読者にとって完全では無くても解かれるべきであると言っても良い。 通常の読者の読書量は百枚を1時間と仮定すると、4百枚程度が一度に読める長さではなかろうかと考える。一度に読めると言う事は記憶も鮮明で読者が謎を推理することにとって好ましいと言えるだろう。今の時代に書斎でメモを取りながら読書を行うべきだとは読者限定と言うよりも時代錯誤といわれかねない。ただし、枚数が少ないので謎が不十分で捜査も解決も不完全では問題外である。従って読者にとって望ましい長さで、しかも完成した謎解き本格推理小説を書く事はかなり困難な課題と言える。これらが少ないと嘆く事自体が時代錯誤かも知れない。しかし、本格推理小説と言うジャンルは存在し、論理的な謎解きを支持する読者が存在する事も事実である。 それらを読みたければ1930年代の英米の作品を読め、現在の日本には存在しないと言う立場は私は認める事をしない。

”本格探偵小説というのは、このトリックがある小説といいかえることも出 来るし、そのトリックを見やぶるところに読者の側からいえば、最大の興 味がある。そしてその読者の立場を代表するものが物語中の名探偵なので ある。<中略>探偵小説の場合でも、実際犯罪の場合でも、罪を逃れよう とするためには、アリバイを証明する以上に強力な方法はない。<中略> 実際問題としては、なかなかこれほどうまく行くかどうか、私にも自信が ないけれども、探偵小説のトリックというものは、なるほどそんな方法も あるなと、読者諸君に思いこませれば、まずまず成功といえるだろう。 :高木彬光”

<3> フェアプレイ精神

最近の話題作に4百枚の複数倍の作品が多い事は驚きをこえて常識になりつつある。かなりの速読者や、謎を考えずに作者のストーリーに身を任せる読者もいるとは思う。しかし反面、本来は本格推理小説が持っていた謎の設定とその論理的・合理的解決を作者と読者で競う楽しみはかなり減少している、または論理的根拠のない推測に限られているのではないかと思う。あるいは全く無くなってしまっている可能性も高い。 まず作者が勘違いなしに全編を書きこなしているのか疑問が有る。たぶん読者もわざわざ調べる事もしないと思われ、超長編(ページ数を限定しないのはフェアではないが、通常1日では読めない長さの小説ぐらいに考えて欲しい)では本格推理小説はその論理的・合理的完成度が十分に調べられる事がないと予想される。 次にフェアプレイ精神で有るが、「木は森に隠せ」の実行で長い作品の一部に手掛かりを隠す事は読者に発見される可能性が少なく作者に極めて有利である。逆に偽の手掛かりがほとんどのページを埋めていることが推定される。もし作者が、読者にフェアプレイで望むならば作品の長さが既に、読者に大きなハンデを与える事になり手掛かりの有無にかかわらずフェアとは言えないと考える。 従って私は、平均的読者が容易に1日以内で読める長さが、本格推理小説では適当と考える。謎解き本格推理小説では、大は小をかねないのである。

”そのトリックがその人物の生活、思想、心理、意図より完全に割り出され て来たものでなくてはならぬ。:木々高太郎”

<4> 新たなる要求

一方、本格推理小説に対してプラスアルファの内容を求める読者も多い。人物の描写・犯罪の動機・時代の背景・通常の社会では考えられない大きな仕掛けなど数々ある。 この矛盾した要求は作者を悩ませる事になる。これに応えようとすると、本来の謎とその解明の部分に比べて多くのページを必要とする。矛盾した要求の一般的な回答はないと思う。ただし、困難だからと言ってこれから目を背けてしまっては、本格推理小説の作家として心ざしが問われると思う。 長くなる事を受け入れ、その中にいかにフェアプレイ精神を入れるかを目指す進め方もひとつの方法として考えられる。 一方、いかに短くするかに工夫を盛り込む進み方も別の方法である。 書きたい内容を出来上がった長さを気にせずに自由に書くことは、謎解き本格推理小説に限るかぎり私は賛成できない。もっと言えば、読者を意識しないで書かれる謎解き本格推理小説というもの自体がジャンルとして成り立たないと考える。

”探偵小説は、僕に言わせれば、読者を作品に参加させるものだ。途中まで 謎のままに提出されている材料は、名探偵が推理するのとは別に、読者の 方でも推理してみなければ作品を愉しんだことにならない。つまりすぐれ た作品は、否応なしに、読者に参加を強要する。そして読者が全力をあげ て彼自身の解釈を発見した場合に、たとえ作者から見事にいっぱい食わさ れたとしても、読後に爽快なカタルシスがある。:福永武彦”

<5> 津村秀介の方法

本論は後者の手法(いかに豊富な内容を短く書く)を目指した作者「津村秀介」の方法を解析する事によって、成功とリスクを明らかにしてゆく事が目的である。津村秀介の作品、特に後期の作品からは明らかに作者の意志を明確に読みとることができる。 ここでははじめに、いかに上記の条件を成立させたかを示す。次にこの方法の持つメリットとデメリットを整理する。実は非常にデメリットの大きい試みである事が後で分かる。しかし、このデメリットを承知の上の試みに対して、メリットを理解しない評価がいかに無意味であるかを理解する事から津村秀介の作品の正当な評価が始まる事を理解するべきである。 津村秀介の作品も初期には試行錯誤が有る。また、未完であるが「裏街」からの3部作もある。ここでは中期から後期の「スタイルと登場人物の固定した」時期を中心に考察する。後期といっても完結した訳でなく作者の死により突然に中絶した。ただし中絶しなかったならば特別なシリーズの終了があった可能性は少ない。具体的には独身のフリールポライターの浦上伸介・毎朝新聞横浜支局社会部デスクの谷田実憲・神奈川警察の地方幇助係りの淡路警部・週刊広場編集部の細谷編集長と青木副編集長などのシリーズ、特にこれに、大学生の前野美保が週刊広場のアルバイトで加わった「浜名湖殺人事件」(実際は次の「最上峡殺人事件」から)が顕著である。前野美保は事件があると浦上伸介のアシスタントとして働く。津村作品の著作リストはほとんどの作品の末尾にある。最終作の「水戸の偽証」が一番新しい内容である事は当然である。

まず、フェアプレイの本格推理小説についての津村秀介の方法をまとめる。

(1)シリーズキャラクターの固定を行う。

(2)シリーズキャラクターの、個別小説ごとの紹介を必要最小限に抑える。ただしシリーズ全体を読むことによって読者は主人公たちに十分な親しみを得ることができる。

(3)シリーズキャラクターは歳を取らない。津村作品特有手法では無いが、後の項目と矛盾があることから作者の意志が伝わる。偶然ではない。

(4)しかし、前回の小説で起きて得た経験は登場人物は受け継ぐ。

(5)まず事件から小説が始まる。

(6)そして推理の完成で小説は終わる。事件の解決結果・推理の解決と無関係のエピローグ類はほとんどない。

(7)小説全体の登場人物が少ない。犯人を隠す事を目的にはしていない事が分かる。

(8)小説の進行に伴い、探偵役自身が状況の整理を小説内で行なう。作品自体、読者が内容を整理して読み進める事が出来る様に出来ているが、作者は親切に整理も行ってくれている。

(9)交通機関を使用したアリバイ崩しがメインになることが多いが、使用される時刻表・地図・交通機関の路線図は小説が書かれた最新版である。もちろん時刻表以外の小道具・社会の仕組みも最新の時代の進歩による事項を使用する。

”(テレビドラマ、弁護士高林鮎子シリーズについて)、原作でのアリバイ 崩しの名人はルポライターの浦上伸介。これが弁護士に代わると立場上、 筋は少しずつ変わってくる。ルポライターは取材の為に積極的に事件と関 わっていけるが、弁護士は依頼人なしではそうはいかない。:真野あずさ”

<6> なぜ矛盾する内容と方法を選んだか(1)

いままでの内容を見ると、一目で実際にはありえない状況にあることが分かる。何故このような方法をとったのか?。これで小説の推理の部分を省略なしに小説自体を何故短くできるのか?。以下はこれらを検討する。 登場人物が駒の様にだけ動いても、本格推理小説は成り立つ。しかし、人間としての個性と感情を持つ事によって、読者に親近感を与え場合によっては実在の人物の様な存在にもなりうる。また動機探しや異常心理をテーマにする場合は人間の描写・感情が優先される。小説一般にはプロレタリア小説・私小説を中心に発展してきたやや歪んだ日本の状況を無視しても後者であるが、本格推理小説に限定すれば後者が前者をさまたげれば後者はむしろマイナスになる。 故に本格推理小説作家は言う、小説でありしかも本格推理小説であることはのぞましいが実現は困難である。もし片方を捨てる必要があるならば、小説で有ることを捨てる。 津村作品は多くがテレビドラマ化がされている。しかしその内容は独特である。一般には推理小説が本格小説であろうと映像化されると、登場人物・背景・ストーリーなどが原作と同じで、結末・犯人などが変えられることがしばしばみられる。結果として、作品の魅力と論理性は消えてしまう。一方津村作品は弁護士高林鮎子シリーズでドラマ化されている。そこで原作に忠実なのは、謎とトリックと事件解決経過と犯人のみである。登場人物や細部の出来事・探偵役の事件への関わり・エピローグなどはすべて異なる。本格謎解き小説で一番大切なことは、実はすべて原作通りで残されているのである。当然原作の論理性・フェアプレイ性はそこなわれていない。津村秀介自身も色々な内容に、小説的には書き方は多くあったが、あえて津村秀介とドラマが別の手段を選んだと考えるべきである。ドラマを見たことのある人はエピローグが無いと困る事は理解できるであろう。小説では、謎の解明で終わることも可能である。なお、ドラマの主人公の弁護士高林鮎子を演じているのが、真野あずさである。

”慣習小説というものは、作品の本質に与えられた呼称ではなく、作品の 風姿に与えられたものであり、つまりそれは「仕立て」の名なのである。 作家は慣習小説仕立てで、どのような深遠な人生観も展開できようし、ど のような低俗な娯楽品も製造できようというものである。:中村真一郎”

<7> なぜ矛盾する内容と方法を選んだか(2)

既に本格推理小説では短く簡潔な事が望ましい、過度に謎の解明を妨げる内容を含みすぎることはフェアとは言えない事は述べた。上記の津村秀介の方法で小説を短くして簡潔化している部分はどれであろうか?。 次の項目である、(4)(8)(9)を除く全てで有る。それでは登場人物の人間性や個性はいかにして持っているのであろうか?。(7)は一般の登場人物について過度にあるいは必要以上に頁数を取らないことを示している。決して省略では無く整理と無駄の廃止である。一方、毎回登場するキャラクターたちであるが、(1)(2)(3)を注目して欲しい。ここが問題になる、メリットとデメリットが共存する部分である。長編小説であるが、短編集のごとき手法を使用している。全てとはいわなくても多くの登場作品の読者にとって、機械でも駒でもなく、個性をもった人物として十分に描かれている。ただし、1作のみ読んだ場合は「いつもの様に」「口癖のように」「何もいわなくても」「今回も」だけでは主人公たちが非常に人間的に薄い印象を持つことは明らかである。逆になじみの読者にとって、余分な紹介が無くても他の作品群からなじみであるから、登場すると共に個性と感情を持つ親しみのある人物として動き始める。

”主役を女の子にしたのも、年令的に近く性格もわかるからです。<中略> 次にワトソンに当る相手役がほしいのですが、それには親しい間柄、たと えば親友か兄弟が適切です。私の小説では主人公が女の子ですから、性格 描写や会話の都合などを考えると相手役は男性のほうが都合がよい。親友 の男女では、いずれ恋愛に発展するので困ります。それで、ようやく、「 兄妹」という設定が生れたのです。<中略>本格の基本は、(1)よみや すいこと、(2)読者をたのしませること です:仁木悦子、大伴秀司”

<8> 成長しない、歳を取らない、時間がとまった?、主人公たち

それでは(3)は何を目的としているのであろうか?。これは他の作者も使用している手法であるが、登場人物の成長や環境変化が無ければ、一度、作者が最善に設定した状態が保たれ、しかも人物紹介がより簡潔にでき、読者も混乱が無く読める事がある。 ところが(4)は何を意味するのであろうか?。これは(9)と深い関係がある。謎解き小説であるから、謎の設定は重要で有る。これを最新の時点に置き、新しいものを取り入れて行くことは読者にとっても理解しやすく、謎のマンネリ化を防ぐメリットもあり有効である。登場人物も(9)を解明する能力は成長する必要がある。ただし、この場合の読者はリアルタイムで新作を読んでいる読者を指す。しばらく時間を過ぎてからの読者にとっては、最新も少し前もほとんど変わりがない。登場人物が歳をとらない事を含めると、謎と成立時点が余り深くかかわるとかえって混乱する可能性もある。 この時点で既にメリットとデメリットが明らかになってきた。継続してリアルタイムで読む読者に取っては理想に近い設定である。逆に、たまに1作ぐらい読む人・特に後の時代に少数作品を読む人(極めて多いと推定される)にとっては、デメリットかあるいは贅肉を落としすぎた本格推理小説で人物が薄く駒の様に感じられる事が予想される。 (6)(8)は明らかに、謎の解明を読者と共に行う謎解き推理小説特有の内容である。従って、読者を限定した作品群で有ることが鮮明にわかる。勿論、謎解き本格推理小説を論理的に推理しながら読む読者の事を指している。 津村秀介もアリバイくずしの先駆者の鮎川哲也と同様に、男性のみのキャラクターではじめた。途中から、浦上伸介に前野美保という理想的アシスタントがつくことになった。10才離れたふたりの関係が恋愛関係に進むのでないかと通常は気にかかる筈である。しかし、経験を積み互いの信頼関係が深くなっても、小説の設定上時間が進まず、歳も取らないのであるから、ふたりの関係が変わることはあり得ないのである。

”非常に緩やかに動いている1トンの自動車が(運動エネルギーは殆ど0 と考えられる)道路で高さ1フィート長さ0100フィートの正弦型の突起に 出会う。古典的には、車は通過できない、しかし、透過度の式から、実際 は、車が突起を通り越す有限の確率(W)があることが分かる。 Wは10の-6.2X 10の88乗秒  (筆者注:10の2x10の79乗年に1回);フェルミ”

<9>本格探偵小説の偶然性

時刻表トリックについて、時刻が正確である前提が必要であり、また乗り換えにころんで失敗する可能性を考えていないなどの指摘がある。鉄道を利用している人は多いと思うので、個人でどの程度の確率か見積もって欲しい。犯罪に利用出来るほど高いかどうか微妙なレベルと考える。上記のフェルミの計算は量子論的には、トンネル効果で密室はあり得ないと言う事で有るが、あまりにも確率が低い。しかしどの犯罪にも不確定確率はつきまとうことは避けられず、時刻表の正確さのみが疑問視されることは間違いであるといえる。本格推理小説の設定では、十分に許容されると思う。 時刻表トリックの不確定性で正否の疑問を指摘する人々は、謎解き本格推理小説のトリック、ストーリーの偶然性を確率論的に考察していないとほぼ確実に思う。詳しく述べると謎の説明になってしまうが、可能な範囲で述べる。 時刻表トリック以外でも、精度・偶然性から疑問があるのが通常である。中には通常あり得ないと言ってよい作品も数多くある。意外性を要求される本格推理小説で避けられない事項であり、通常の常識で可能と判断できる範囲はジャンルとして認められるべきである。読者には理系の人も多くいるのであるから、あまりにも無知・またはあまりにも読者を甘く見過ぎた作品は文系の人には受け入れられても、理系の読者から極端に無視される事は覚悟すべきである。作者が万能である事は要求されないが、子供だましの作品といわれて仕方がない作品は作者は避けなければならない。

”つまり、作者が読者に提出した謎はいつか必ず解かねばならないというこ とである。<中略>結局、謎の限界が推理小説の限界になってしまってい る。<中略>かえって作家は大長編をきらう傾向があり、短編こそミステ リーの本領と考える人が多い。<中略>やはりミステリーというものは、 伏線の連続である。<中略>読み始めたら最後まで一気に読みたくなるの がミステリー。三日たっても読み終わらないときは、その作品が一気に読 ませるほど、ミステリー性がない駄作なのか、それともあなたがいそがし すぎるのか、まああきらめた方がよい。:中村勝彦”

<10> あなたは謎を論理的に解きますか?

謎解き本格小説を愛する読者はどのくらいいるのであろうか?。自分自身でも謎を解きながら読み進む読者はどのくらいいるのであろうか。そして、フェアプレイを望んでやまない読者はどのくらいいるのであろうか。 そして、何よりも作者が読者に謎を解いてくれと望んでいることを理解している読者はどのくらいいるのであろうか。 そして最後に、それ故に小説的な過度の描写や必要以上の人物の紹介を省くことを良しとする読者はどれくらいいるのであろうか。 私はこのような読者は存在すると信じているが、決して多く無いとも思っている。従ってリスクの大きい方法であるとあえて述べる訳である。 逆に言えば、津村秀介の選んだ方法自体が謎解き本格小説としてみると、極北の位置にある非常に特殊な方法であると言って間違いない。本格小説についてしばしば語られることが多いが、何故か津村秀介について語られることが少ない。津村秀介の選んだ方法について明確な意見を持たずに、あるいは単に少数の作品(極端には1冊)のみ読んで評価することは全く見当違いで意味がない。シリーズの多数を読むことによって、本格謎解き小説の歴史にいかに影響を与える作品群か、正当な評価が初めてあたえられる。 津村秀介は継続して作品を発表していたので需要はあったと判断する。しかし、いわゆるベスト選びに縁がなく、本格的に論じられることもなかったと思う。果たして評論を書いている人のどれだけが、まともに読んでいるのか疑問に感じて本論を書いた次第である。

”人々が「手作り」という言葉に一も二もなく酔う傾向も労働価値説風の価 値観の表れであると言える。そこで苦労して作られたものには「心」がこ もっており、「心」がこもっているものは拙くても素朴でもそれでいいと いう観念ができあがって、これが高じると評論家も世間も努力の塊のよう な力作、大作はそれだけで称賛に値すると見なすに至る。<中略>文学の 方でも、いくつかある賞の受賞作のいくつかは本来この「努力賞」と呼ぶ べき性質のものらしい。:倉橋由美子”

参考
 探偵小説の美学          1974 鈴木幸夫 訳
 密室の系譜(別冊シャレード61)  2001 天城一    甲影会
 随筆・探偵小説          1956 高木彬光   鱒書房
 深夜の散歩            1978 福永武彦・中村真一郎・丸谷才一 講談社
 葡萄 夜行列車が運ぶ殺意     1997 津村秀介・真野あずさ  徳間書店
 ある作家の周囲17 仁木悦子の周囲 1962 仁木悦子・大伴秀司   宝石社
 原子核物理学        1954 エンリーコ・フェルミ 小林稔 訳 吉岡書店
 推理小説雑学事典         1976 中村勝彦    広済堂
 あたりまえのこと         2001 倉橋由美子   朝日新聞社

 

津村秀介作品リスト(2017/05/14現在) 2017/05/14:追記
 
#:浦上伸介シリーズ
 
偽りの時間(1972/06)
影の複合(1982/06)
時間の風蝕(1983/02)
黒い流域(1983/04)
虚空の時差(1983/11)
山陰殺人事件(1984/05) #
紅葉坂殺人事件(1985/04)
瀬戸内を渡る死者(1985/04)
仙山線殺人事件(1985/09) #
宍道湖殺人事件(1986/04) #
京都着19時12分の死者(1986/07) #
寝台特急18時間56分の死角(1986/11) #
偽装運河殺人事件(1987/01)
猪苗代湖殺人事件(1987/05) #
新横浜発12時09分の死者(1987/07) #
天竜峡殺人事件(1988/02) #
北の旅 殺意の雫石(1988/02) #
諏訪湖殺人事件(1988/04) #
大阪経由17時10分の死者(1988/07) #
昇仙峡殺人事件(1988/09) 作品集
 「野木沢峡殺人事件・昇仙峡殺人事件#・疑惑の標的・殺意の報酬
  ・復讐の撮影・状況証拠・蟻とジャックナイフ・闇の箱根路」
人を乗せない急行列車(1988/11) #
異域の死者(1989/02) #
洞爺湖殺人事件(1989/05) #
保津峡殺人事件(1989/08) #
西の旅 長崎の殺人(1989/10) #
松山着18時15分の死者(1990/01) #
寝台急行銀河の殺意(1990/03) #
浜名湖殺人事件(1990/05) #
最上峡殺人事件(1990/10) #
小樽発15時23分の死者(1990/12) #
恵那峡殺人事件(1991/04) 作品集
 「恵那峡殺人事件#・神戸の医師・松山の誘拐・虚飾の大阪
  ・真夏の薩摩・殺意の北上・逃亡の広島・新宿の標的」
琵琶湖殺人事件(1991/05) #
横須賀線殺人事件(1991/11) #
雨の旅 角館の殺人(1992/03) #
能登の密室(1992/04) #
湖畔の殺人(1992/05) 作品集
白樺湖殺人事件(1992/09) #
伊豆の死角(1993/02) 作品集
海峡の暗証(1993/04) #
裏街(1993/07)
真夜中の死者(1993/07) 作品集
 「密室のバースデー#・沼の偽り・白い心の旅・濡れた男・赤い背中
  ・過失・混血孤児・ローマに散った恋・美貌という名の仮面」
東北線殺人事件(1993/08) #
奥入瀬・十和田湖殺人事件(1993/11) #
飛騨の陥穽(1994/04) #
霧の旅 唐津の殺人(1994/07) #
定山渓・支笏湖殺人事件(1994/11) #
山陰の隘路(1995/04) #
孤島(1995/06) #
葡萄ー急行列車が運ぶ殺意(1995/07) #
非情(1995/09) 作品集>迂回の殺意
 「迂回の殺意#・非情・誘惑の代償・広島の黒犬・偽名の求婚
  ・長い髪の女・虚飾の周辺・殺意の青春」
上高地・芦ノ湖殺人事件(1995/11) #
巴里の殺意(1996/04) #
古都の喪章(1996/09) #
長崎異人館の死線(1996/10) #
逆流の殺意(1997/05) #
山峡の死角(1997/07) #
加賀兼六園の死線(1997/11) #
仙台の影絵(1998/04) #
目撃 早朝新幹線が運ぶ殺意(1998/07) #
札幌 寒西の死線(1998/10) #
伊豆の朝凪(1999/04) #
毒殺連鎖 志摩の旅(1999/09) #
京都銀閣寺の死線(2000/03) #
水戸の偽証(2000/10) #

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