土屋隆夫論

作家論は小説と異なり無限に有るわけでは有りません。連続企画の最終回には、もはや何も残っていないのが普通と予想される。

今回の作品集成ではすべての長編が集るが現時点(2001年6月)では、発表は11作のみである。

一方短編は1冊にまとまる範囲のみ出版の予定である。収録作不明でもあり矛先が鈍る。

土屋隆夫を論ずる場合、いくつかのキーワードが常識的に登場する。

著書「推理小説作法」、「一人の芭蕉の問題」、「割り切れるまたは足し算の解決」などが有り、これらに「旅情性」と「エロス」などをかけ合わせると論ずる結果に類似性が生じてもやむを得ないとも言える。

そもそも11長編を分類して、共通点を求めグループ分けを行う事に無理があるとするべきである。

長い作家生活の中の11作はその少なさ故に1作ごとに異なる内容を目指していると考えるのが正しい考え方と思う。

実際に詳細に作品を読むとこの事は明らかになる。従って、代表作や失敗作などを選ぶ事はすべてことなる内容・分野から選ぶ事に近いのであるから、単に選ぶ人の好みを聞く事と同じである。

この事が生じるのは、内含する変化が表面的な表現に必ずしもならないので気づき難い面があるためと思う。

「天狗の面」は興味深い作品である。地方=古い風習=怪奇性の本作以前(昭和20年代)の作品から、普通の農村を舞台にした作品への移行を目指した。

しかしこれに続く作品の収穫は見られず、鳥井可南子「天女の末裔」で逆行し、内田康夫「沃野の伝説」・永井するみ「枯れ蔵」で一度に農村と都会の結合に飛躍してしまった。

結果的に歴史的に独自の位置付けとなる孤高の作品となった。寡作で絶えず異なる試みを目指す作者に、同じ位置の作品を求める事は正しくない。

ただし作品中で解決を行う探偵役が登場する場面で、作者がやむをえず登場させたような表現をしたために、一部に失敗作と勘違いする読者が生じた事は作者の責任かもしれない。

「天国は遠すぎる」からは農村よりは地方というほうが合う舞台設定になる。

平凡な警察官を探偵役にしているものの、本格の色合いが一番濃い。

本格への拘りと共犯設定など、読者の好みが分かれる面は存在するが、やはり大きな足跡である。

作者がどの程度の読みがあったか推定するのは難しいが、捜査側の夫婦と容疑者側の夫婦の人間像が記憶に深くのこる。

容疑者側が深く書ききれないといわれる本格での本作の成功はもっと研究されるべきである。

成功しても次作で変わるのが土屋隆夫の世界である。「危険な童話」は紛れもない本格であるが全く異なる側面を見せる。

一般的には、挿入される童話トリックに注目される。しかし、容疑者の逮捕から話が始まる作品構成の特異性を忘れてはならない。

依然本格パズラーへの比重が大きいが作品構成の特異性と有効性が記憶に残る作品となった。

最終章で感情を抑えずに動機・真相を語る部分は次作への方向を予知させる。

本格と小説としての明確な融和へ挑戦は、前作の最終章から始まり、「影の告発」から次第に比重が小説的なふくらみに傾く。

これ以降の3作はまとめて扱われる事があるが、トリックが、機械的なトリックから方言へそして人間間のコミュニケーションへと変わってゆく。

個人的には一部の「機械的トリックよりも心理的トリック優位」の意見を認めてはいないが、作者の視点の変化は注目しておくべきである。

また、アリバイを中心に構成されていた作品が「赤の組曲」「針の誘い」と次第に変貌してゆくことも重要である。

なぜならば、機械トリックよりも心理的トリックの方が論理的試行錯誤によって真相にたどりつく構成が多いからである。

この事を抑えておかないと、次作が突然の変貌と錯覚してしまうからである。

「妻に捧げる犯罪」は全く異なる構成の作品に見える。発表時に、「本格でないのでがっかりした」との意見もあったと聞く。本作は些細な出来事から試行錯誤で話が進んでゆく。この事はすでに前作から芽生えていたが、一見して大きな変化に見えるために読者の予想外だった可能性が大きい。作者に取っては意外な読者の反応だったと予想する。

作者は短編でも芥川龍之介・有島武郎などを取り上げた作品を書いているが、大手拓次の詩を題にして田中英光をテーマに取り上げた「盲目の烏」は文芸シリーズとも呼ばれる作品群の中で、いつかは書かれるべき作品であった。

作者の構成の比重の変化が依然続いていることは言うまでもない。ただし、結果に割り算に剰余がない作品から、剰余とも余韻とも言えるものが残りはじめた感じが受けるのもこの作品あたりからである。

そしてより進めた「不安な産声」が登場する。本作は一面では倒叙作品と見る一面もある。倒叙自体定義が曖昧で有るので無理に枠決めする必要は無い。

本作には捜査を遮るトリックは無いに等しい。逆に、動機と言うポイントが最後まで読者を引っぱる。またテーマがかなり現代風な視点から求められている事も注目すべき事である。

またここで思い返せばほとんどの作品で、犯人の設定が極悪人では無く作者も読者もある面で共感出来る人物が非常に多い事に気がつく。無理に犯人を隠すのでは無く、読者に犯人の心情にも入って行って欲しいと思っているのでは無いかと思う。個人的には最後のどんでん返しはあっても無くても大きな影響は無いと思う。

前作と同様に犯人側に重点を置いていながら、倒叙的な表現をとらなかった作品が「華やかな喪服」である。

代わりにもう一人の登場人物の心情にも深く入ろうとした作品である。本作ははっきり言って、2回以上読むべき作品である。

作者がほぼ全般で隠した、主人公二人の心情とその変化を最終部のみから読みとるのは易しくない。作者が再読に耐える推理小説ではなく、再読を求める推理小説を目的として書いたのではないかと考えたくなる。

まるで読者を選ぶがごとき作品であり、私としては個人的にどのように思うかは逆に答えたくない。作者自身にも読者にどのように伝わったかを推理して欲しい気がする。  理解に苦しむ作品としては「ミレイの囚人」はより強い。一読は「閉ざされた部屋」「叙述トリック」など最近の新しい推理作家の作品を読む思いがした。作者の変化は、ついに最近の新本格といわれる人の好む作品に近づいたのか、あるいはもっと深いメッセージが存在するのか理解が難しくなっている気がする。

全般に作者の変化は、トリックを中心にした推理の重みから、次第にそれ以外の内容の比重が高くなる方向であることは間違いないと思う。

推理の部分が強く複雑な作品でも解決が複雑であっても理解出来ないことは全くない。しかし、それ以外の面の比重の増加は必ずしも読者が容易に読みとれる内容ではないと思う。

長編全集などにしばしば見られる「自作作品ノート」のたぐいで作者自体の自作解説または外題を読みたい読者は私だけではないと思う。

さすがに短編は寡作家であっても、長編よりは多く個別には論ずる事は無理である。基本的には、長編で見せている変化が短編でも生じている事がわかる。ただし、「『罪深き死』の構図」でデビューしてから、第一長編までの期間は短編のみであるから、短編から作者の視点を追う必要が有る。はじめは本格であると共にプラスする何かを求めていた。その後で、朝霧一平シリーズや「私は今日消えてゆく」などのパズラー生の強い作品が主体になり、長編の執筆とともに長短編ともに同じような変化を遂げてゆく。デビュー作の頃と「影の告発」の頃に重なる部分が感じる。ただ作者から「天国は遠すぎる」にすでに余韻を感じるならば、なぜこの作品からと言わないのかと指摘されるかもしれないとも思う。

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