一高寮歌解説書
 昭和の一高寮歌 駒場

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 一高が本郷から駒場に移り、いよいよ駒場・一高寮歌の時代に入ります。しかし、昭和11年2月26日、所謂2・26事件が起き、斉藤内大臣・高橋蔵相が陸軍青年将校らによって殺害されました。軍が政治経済のあらゆる分野で統制を強め、ますます自由のない暗い時代となりました。翌12年には支那事変が勃発、日本は国際的孤立を深める中、独伊枢軸側と結びましたが、英米連合国側と激しく対立し、英米との戦争は必至の情勢となりました。昭和13年9月には、向陵からもついに初の応召寮生を出すに至り、寮生は、「生」と「死」と真剣に向き合わざるを得なくなりました。自分の力ではどうしようもない運命に翻弄されながらも、なおも一高の伝統に生きんとして、真理の追求に固執し懊悩する一高寮歌、「新墾の」、「春尚淺き」、「夕霧は」、「光ほのかに」、「あゝさ丹づらふ」等を解説。
 支那事変は長引き泥沼化している中、昭和16年12月8日、日本は米英を相手に、ついに太平洋戦争に突入していきます。一高からも応召者が相次ぎ、戦死者も増えました。軍国主義の大波が向陵にも押し寄せ、一高の自治と自由は未曾有の危機に直面しました。校友会は解散させられ、軍隊組織の報国隊に改編、戦時要員確保の為、高校の年限も2年に短縮させられました。一高そのものが時の権力により潰されそうになったのです。寮生は安倍名校長の下、必死に向陵を守ろうと努力します。しかし、今次の大戦は、明治の日露戦争・大正の第1次大戦とは異なり、その影響は直接一高生に及び、悲惨さは比べものになりませんでした。前途に學徒出陣を控え、国民の義務として応召の覚悟はありながら、なお内面では軍に対するレジスタンスを隠し切れない若き学徒の苦悩し絶叫する戦時下の一高寮歌、「時計臺に」、「彌生の道に」、「運るもの」、「寒風颯颯」等を解説。

紀念祭 昭和 年  寮歌名  備考 
第46回 昭和11年 若駒の嘶く里に  駒場での最初の紀念祭寮歌
紫の叢雲  
春や朧の夕まぐれ 
東天淡し   東北大寄贈歌
陽は黄梢に  千葉醫大からの最初の寄贈歌
第47回 昭和12年 新墾の   駒場の代表寮歌
遐けくも
春尚淺き 
武藏野の  東大寄贈歌
春の日晷に 東北大寄贈歌
第48回 昭和13年 怪鳥焦土に  支那事変勃発 飾り物・催し物廃止・紀念祭非公開 
蒼溟の深き静謐に 
雪鎖す   東大寄贈歌  矢内原忠雄、東大教授を辞す。
春こそは  東大寄贈歌
夕霧は    千葉醫大寄贈歌
第49回 昭和14年 光ほのかに  向陵から初の応召者
仄燃ゆる   飾り物・催し物復活・公開
上下茫々
春毎に   東大寄贈歌
丘の雲  東大寄贈歌
ああさ丹づらふ 東大寄贈歌
おゝ呼ぶ聲す   東大寄贈歌(寄贈大學名は昭和50年寮歌集による)
第50回 昭和15年 清らかに   皇紀2600年、寄宿寮50周年。
嚴白檮の  ノモンハン事件 第2次世界大戦勃発
朝日影  
瑞雲罩むる 
不知火の 九大寄贈歌
時は流れぬ五十年  「平沙の北に」のコンビ靑木得三・大島正滿寄贈歌
人の世の岨しき路に  東北大寄贈歌
第51回 昭和16年 時計臺に   一高駒場ブルースの異名あり。
あさみどり 
ほのぼのと 
北海浪は高うして   日独伊三国同盟締結
第52回 昭和17年 彌生の道に  歌詞の最も長い一高寮歌。
障え散へぬ 
向ヶ丘に吹き荒るゝ  京大寄贈歌 兄弟で作詞作曲
駒場野に   東大寄贈歌
特別募集 曙に捧ぐ  征米英歌 太平洋戦争勃発。一人で作詞作曲
寒風颯颯  征米英歌 征米英東大寄贈歌「嗚呼東の」は譜はなく省略
第53回 同年6月 運るもの  繰上げ卒業のため、この年は2回の紀念祭有。
若綠濃き橄欖の  
榛薫る野の末に   東大寄贈歌
第54回 昭和18年 天つ日を 
第55回 昭和19年 曙の燃ゆる息吹ゆ  向陵史上、初めて2会場で紀念祭。
嗚呼悠久の  勤労動員先の日立・望濤寮での紀念祭。
第57回 昭和21年 悲しみに   敗戦後、最初の寮歌祭。
あくがれは高行く雲か 
第58回 昭和22年 靑旗の   全寮制の復活
りょうりょうと
第60回 昭和24年 日のしづくここまで改訂 一高最後の紀念祭寮歌

一高寮歌や向陵誌等の一高同窓会の資料は、一高同窓会の許可を得て、掲載しております。
また、寮歌の歌詞の解釈、語句の説明は一高の諸先輩、特に井下登喜男一高先輩、森下達朗東大先輩の
優れた寮歌研究を参考にさせていただいた。衷心より厚くお礼を申し上げたい。

 
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