旧制第一高等学校寮歌解説
春の日晷に |
昭和12年第47回紀念祭寄贈歌 東北大
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1、春の 夢は遙けき橄欖の 盡きぬ 2、 假寝の旅に *「澗谷鶯」は昭和50年寮歌集で「澗谷の鶯」と変更。 5、星飛ぶ夕べ月黑く 人の *「憤慨」のルビは昭和50年寮歌集で「いかり」に変更。 6、さはれ今宵ぞ 丘の *「矜恃」は昭和50年寮歌集で「矜持」に変更。 |
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ト短調・4拍子の調・拍子他、譜に変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じ演奏です。曲頭のテンポ表示Andanteは、「歩くような速さで」の意味である。 七・五調四行の歌詞を4小楽節に1行=1小楽節でぴったり合わせ起承転結がはっきりした曲。リズムは、各段(小楽節)2小節のみ、2分音符が入る(各段4小節を除く)。しかも1・3段はターーターター、2・4段はターターターーとひっくり返す。4分音符を連ねた他の小節のリズムといい、時計のように正確である。そのためか、せっかくの哀調のメロでディーに若干の固さを感じるが、3段1・2小節の高音で、「夢は遙けき橄欖の」とクライマックス(起承転結の転でもある)にもってゆくのは見事である。エンディングの「盡きぬ胸懷を誘う哉」の徐々に1オクターブ上げ伸ばし、いったんブレスを置いて、逆に下げて伸ばして終わる、向陵を夢にまで追懐する思ひがひしひしと伝わってくる。東北大寄贈歌には、名歌「嗚呼先人の」があるためか、この寮歌も一部の愛好家を除き、それほど歌われていない。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
春の |
1番歌詞 | 春の陽射しにうとうとと青葉城のほとりの木陰で微睡んでいると、遠く離れた向ヶ丘三年の日々が夢に出てきて、向ヶ丘への思慕が尽きることなく胸にこみ上げてくる。 「春の日晷に靑葉なる 丘のほとりに假睡めば」 「青葉なる 丘のほとりに假睡めば」は、故郷の向ヶ丘を離れ、仙台の東北大学に遊学している意。 「青葉をかけて春のひかげになっている仙台の青葉城のことをさしている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「夢は遙けき橄欖の 盡きぬ胸懷を誘ふ哉」 「橄欖」は、一高の文の象徴。「盡きぬ胸懷」は、向ヶ丘への尽きぬ思慕。 |
2番歌詞 | 広瀬川のほとりに鳴く鶯の聲は老いてしまって、向ヶ丘に紀念祭の慶びを伝えようにもせせらぎの音にかき消されてしまう。何か伝える方法がないものかと思って、青葉城を逍遥していると、春を告げる杜鵑が今年初めて鳴きだした。そうだ、この杜鵑に託して紀念祭の慶びを伝えて貰うことにしよう。 「澗谷鶯舌聲老いて 歡喜傳ふ由もがな」 「澗谷鶯舌」は、昭和50年寮歌集で「澗谷の鶯舌」に変更された。 「澗」は水が流れている谷。青葉山の畔を流れる広瀬川とした。「鶯」は、東北大に学ぶ作詞者を喩える。「澗谷鶯舌聲は、昭和50年寮歌集で、「澗谷の鶯舌聲」と訂正されている。「もがな」は、・・・が欲しい。 平家物語巻7『竹生島詣』「 「『澗谷鶯舌聲老いて 歡喜傳ふ由もがな』という句に、東北大学に遠く学ぶ者の侘しさを見た。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「假寝の旅に彷徨へば 初音の郭公に託さんか」 「假寝の旅」は、東北大学に遊学していることである。「郭公」は、ここでは 「青葉の山に 杜鵑鳴き」(昭和4年「小萩露けき」2番) |
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蔵王の峰の木枯しに 靈寺の疎鐘斷ゆるとき |
3番歌詞 | 蔵王の嶺から吹き下ろす木枯しに、遠くかすかに聞こえていた山寺の鐘の音がかき消されてしまうので、遊学中の仙台でも真理を求めることが難しくなった。向ヶ丘で学んだ自治の清い伝統に希望の灯を求めながら、寮歌を高誦することの何とわびしいことか。 「蔵王の峰の木枯しに 靈寺の疎鐘斷ゆるとき」 「蔵王」は、宮城・山形両県にまたがる火山群の総称。最高峰は1841m。山頂に蔵王権現を祀る。樹氷が有名。「木枯し」は学問の自由や思想取締りを暗喩する。「靈寺」は、山寺の名で親しまれている山形県山寺にある天台宗立石寺。860年円仁の開創と伝う。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句は有名。「鐘」は眞理を傳える。その鐘の音が、木枯らしに=取締りによってかき消されるのである。「疎鐘」は、遠くから聞こえる鐘の音。「疎」は遠く離れた意。 「吹く木枯に橄欖の ふるふ梢の響かな」(昭和7年「吹く木枯しに」1番) 「希望の清流求めつゝ 高誦す歌のわびしさよ」 「希望の清流求め」とは、一高の伝統、すなわち自治に答えを求めての意。「 「 |
4番歌詞 | 太陽が輝く丘の上で真理を追究してきた向ヶ丘三年の日々は、気楽な夢だったのであろうか。夢が醒めて世間に出てみると、まるで太陽のない汚れた黄泉の国のようで、真理も正義もない暗い世であった。故郷を離れてから、心を悩ませる運命が待っていようとは、思いもよらなかった。 「光榮と正義の岡の邊に 安き三年の夢なれや」 「岡の邊」は、向ヶ丘。「安き三年の夢」は、気楽に向ヶ丘を三年を過ごしたこと。 「友と理想を語りてし 三年の夢は安かりき」(明治43年「藝文の花」3番) 「知惠と正義と友情の 泉を秘むと人のいふ」(大正15年「烟争ふ」1番) 「醒むれば空し黄壚山 魂迷ふ運命とは」 「醒むれば」は、向ヶ丘三年が過ぎて、世間に出てみると。「黄壚山」は、黄泉の国。汚れて、暗くて真理・正義が見えない。「魂迷ふ」は、魂の落ち着き先のない。気がおかしくなる。 「『黄壚』は地下の黄泉をさしているが、そのほかに『過ぎ去ったことを悲しみなげくことの意がある。かっての『向陵』の生活をなつかしみ、悲しく思い出している。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |
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星飛ぶ夕べ月黑く |
5番歌詞 | 流星が落ち、月が隠れて、夜空に輝いている筈の星も月も姿を消した。闇の中、横暴な梟が餌の小鳥を追いかけて喧しく鳴いている。人は恐れ慄いて、物音ひとつ立てず、ただ黙っている。ひとり、一高生だけが悲憤慷慨しているのを誰か知っているだろうか。 「星飛ぶ夕べ月黑く 梟聲闇に喧びすし」 「星飛ぶ」は、流星。不吉の前兆。諸葛孔明が死んだときは、赤い大きな星が流れたという。「黒い月」は、月食。「星飛ぶ夕べ月黑く」は、夜空に輝いておるべき星が落ち、月は姿を消して。「梟聲闇に喧びつし」の「梟」は軍を喩える。性質が荒く、昼は隠れ、夜出て小鳥などを捕食し、長じて親鳥をも食うといい、悪鳥・不孝の鳥として憎まれる。「喧びすし」は、やかましい。うるさい。5・15事件や2・26事件を起した陸海軍が政治経済のあらゆる分野にまで喧しく口を出し始めたこと。軍国主義の世のさまをいう。 「月も隠ろひ星落ちて 大陸闇に迷ふ時」(昭和13年「怪鳥焦土に」1番) 「霧深き沈黙の森に 梟のめ覺むるころよ」(大正14年「橄欖の梢の尖に」1番) 「『星飛ぶ』は流れ星、『月黒く』は月食を象徴していると解されることから、当時のまがまがしい不吉な世相を含意しているのであろう」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 「人の社會静寂聲もなく 若き憤慨を誰か知る」 「人の社會静寂聲もなく」は、時の権力、特に軍に恐れおののき黙っている。「若き憤慨」は、一高生が、軍国主義に流れ行く時勢に悲憤慷慨していること。「憤慨」のルビは、昭和50年寮歌集で「どうり」から「いかり」に変更された。 |
さはれ今宵ぞ |
6番歌詞 | とはいっても今宵は紀念祭の宴の日である。おいしい酒を酌み交して、向ヶ丘を誇りに思う喜びに、杯を高く上げて乾杯して第47回紀念祭を祝おう。 「さはれ今宵ぞ饗宴なれ かたみに美酒汲みかはし」 「さはれ」はサハアレの約。そうはいっても。「饗宴」は、紀念祭の宴。「かたみ」は、互いに。「美酒」は、酒の美称。美味しい酒。 「丘の矜恃に欣悦の 羽觴あげん四十七」 「羽觴」は、さかずきの一種。雀が羽を広げた形にかたどったもの。「矜恃」は昭和50年寮歌集で「矜持」に変更された。「矜恃」は、自分の行いに誇りを持つ意であるのに対し、「矜持」は、自分をおさえ慎む意 「羽觴を月に飛ばさなむ」 (昭和12年寮歌「春尚淺き」6番) 「羽觴を飛ばせ月に醉ふ」 (大正7年寮歌「悲風慘悴」2番) 李白 『春夜宴桃李園序』 「瓊筵を開いて以て華に坐し 羽觴を飛ばして月に醉ふ」 |
見よ陸奥の春の宴 蘭燈淡き花影に 駒場の丘を偲びつゝ ことほぎ祝ふ祭かな | 7番歌詞 | 見よ、陸奥で開く春の宴を。祭りの灯がほのかに照す桜の花の下で、遠く駒場の丘を偲びながら、寄宿寮誕生を祝う紀念祭である。 「見よ陸奥の春の宴 蘭燈淡き花影に」 「陸奥の春の宴」は、陸奥で催される仙台一高会の紀念祭。「蘭燈」は、「蘭燈」は美しい灯籠のことだが、ここでは祭りの灯。自治燈。 「蘭燈あはし宵の陣」(昭和5年「春東海の」6番歌詞) 「駒場の丘を偲びつゝ ことほぎ祝ふ祭かな」 「ことほぎ」は、祝いの言葉を述べて、長命や安泰を祈る。「祭」は、紀念祭。 |