旧制第一高等学校寮歌解説

天つ日

昭和18/6年第回紀念祭寮歌 

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天つ日を見上ぐるまなこ    人の子に與へられずて
天地(あめつち)()れにしときゆ     人みなは地上に群れぬ
その地球(つち)軌道(みち)(めぐ)れば   (はろ)かなる日々のいとなみ
耐えつぎつ虚しと()ひぬ

ときありて(おご)れる男の兒    穹窿(おほぞら)征矢(そや)を放てど
白き矢は靑きを(さか)り       さだめある生命老いにし
かゝる日のかゝる生命の    追憶(かたみ)とて建てし碑文(いしぶみ)
いみじかる言葉朽ちにし

さはれ見よ星辰(ほし)(ほろ)びず    そが光り大地(つち)にそゝげば
われもまた若きひとひを     過失(あやまち)征矢(そや)や放たん
(まなくら)(めし)ひせむとも       人の子の郷愁(おもひ)擔ひて
うなじあげかの天日()(もと)めん   

たまゆらなればとことはの   その靑春は逝かんとするを
上の譜は、ソフトの反復記号の制約(小節の途中で繰返せない)で、反復記号等1部に原譜と表示が異なる。5段4小節の2音を削除し、不完全小節とし、アウフタクトの最初の小節から繰返すように変更しているが、実質はまったく変わりはない。
MIDI演奏は、左右の演奏とも1番を2回繰り返し、「たまゆらなれば」(リフレイン)へと続く。

平成16年寮歌集で、昭和50年寮歌集が間違っていたとして、次の変更があった。
1、調
 変ロ長調からハ長調に変更された。キーが2度上がり、高齢化した寮生には少しきつくなった。
 
2、「そーのつちの」(3段4・5・6小節)
 ミーファソードーミーミー ミーー  「そーのーつーちーのーーー」と歌っていたのを、「そーのーつーちーーのーー」と
「ち」を伸ばすように変更された。しかし、歌い崩された結果の変更ではないので、元のままで歌う人が多い。
3、音符下歌詞
 「はーるかな」(4段2・3小節)を「はーろかな」と変更。

長内 端最後の14曲目(含御大典奉祝歌)の作曲寮歌である。ただし、最初に作曲した曲は、活発過ぎて寮生が好まず、長内作曲の「手折りてし」(昭和8年)とよく似た曲にと、再度、お願いして作曲し直してもらった曲で、譜が出来たのは、その年の秋のことという。ということは、5月の第54回紀念祭では、当選寮歌は歌われなかったということになる(あるいは最初の曲で歌ったか)。
 「この寮歌は、本来ならば、昭和18年5月15日を中心とする紀念祭のために作られるものであるから、その前後に発表されなければならなかったのにスケジュールが大幅に遅延してその年の秋になってしまった。そのため、歌詞、歌曲ともに誠に優れていたにもかかわらず、普及愛好の実績をみないまま、単に寮歌集の中に埋没する結果を招来し、末代の痛恨事となってしまった。」「歌詞を公示し、歌曲の募集をしたところ、これも応募作は数篇寄せられた。楽友会の人々に集まって戴き、部屋において逐次ピアノ演奏し選定作業を行なった。・・・矢田君(19年文丙矢田光輝)にお願いして、とにかく譜面に忠実に演奏してもらって全員で聽き比べ、協議の結果、別宮貞雄氏(昭和18年理甲)の応募作を推す声が有力であったが、何しろ前年度寮歌の『めぐるもの』が余りにもポピュラーだったせいもあり、這般の事情から今回は『入選作なし』と決定された。善後措置として、作詞者の希望もあり、第43回紀念祭寮歌『手折りてし橄欖の枝』の作曲者で当時手風琴(アコーディオン)の名奏者として屢々放送に出演して令名高かった長内端氏(昭和6年理甲)にお願いしてみたらどうかと衆議一決し、早速当ってみることにした。」「長内氏からやがて曲が郵送されて来たので、前と同じくピアノ部屋で譜面どおり打鍵してもらったが、曲の調子が活発に過ぎ、凡そ思索ムードに沈潜する一高的なものからは程遠い軍靴調。このままでは到底寮生に受け入れられる見込みはなかった。」「長内氏は『一高と雖も今や時局に即応し、ダラダラした寮歌から脱却し、より發溂したものを求めているものと確信して、今ラジオでお馴染みの《大建設の歌≫のリズムに倣って局づけした。』と弁明された。私達は『いいえ、こういう御時世なればこそ一高は世に阿らず冷静である。寮歌の格調は今までといささかも変りない。』と言葉を返し、更に、『先輩は手折りてしに不朽の名曲をつけられ寮生の愛好歌の一つを生んだ名士である。その手折りてしに似たものを作っていただきたい。』と注文をつけて辞去した。嚶鳴堂に寮生の参集を求めて発表会を開いたのは五月の紀念祭を過ぐること実に半歳、すでに涼風の身にしみる頃であった。『六日の菖蒲、十日の菊』というもおろかである。その時、寮生間に交わされたささやきが何故か気になった。この寮歌は手折りてしの生き写しだナ。そして、十七年入学の私達は間もなく、学徒動員により戦の庭に駆り立てられてゆくのであった。」(「続星霜四十年」『戦争と寮歌』一高十九年会角田泰正一高先輩)


語句の説明・解釈

昭和18年紀念祭は、前年に続き繰り上げ卒業のため、5月15日に行なわれた(寮歌集では6月となっている)。太平洋戦争開戦当初、快進撃を果たした日本も、昭和17年4月には東京・名古屋・神戸で初空襲を受けた。6月のミッドウェー海戦では、米海軍に空母4隻を失う大敗北を喫し、激戦を繰り返したガダルカナル島の戦いも、翌18年2月、甚大な損害(戦死餓死者2万5千人)を出して敗退した。4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六が、前線を視察中、ソロモン上空で搭乗機が撃墜され戦死した。5月29日、アリューシャン列島をめぐる日米の攻防戦では、日本軍守備隊2500人が、増援も撤退もない悲劇の全滅を遂げる。大本営が初めて”玉砕”と発表した戦いであった。レーダーや無線解読器等、当時のハイテク機器を駆使し、かつ物量を誇る米軍に圧倒され、日本は、勝ち戦から負け戦に転じ、日に日に敗色が濃くなっていった。
 このように厳しさを増す戦局に、戦時体制は益々強化された。昭和18年4月、「敵性スポーツ」と呼ばれた野球部・庭球部は廃部となり、伝統の三高戦は中止となった。戦時要員確保のため、昭和18年の入学生から高等学校の学年が2年に短縮され、また起床から就床まで高等学校生活をこと細かに規制する軍隊式の修練要綱が導入された。これは伝統ある一高自治寮の存亡に係る非常の事態であったが、「一高を残す」ための安倍校長の必死の説得により、修練要綱に沿っって寮生心得が改正された。4月27日、門限を平日午後7時、休日午後10時、朝晩の点呼実施などを定めた「新体制」が発足した。一高のシンボル・時計臺の針は、電力不足のため、この年の1月25日から止まった。自治の歩みが止まったのにあわせるかのように。
 
 このような内外の厳しい状況の下、5月15日、第54回紀念祭が挙行されたのであったが、紀念祭当日の「向陵時報」巻頭の三重野委員長の一文が当局の検閲にかかり、三重野委員長・宇田博副委員長以下寮委員が総辞職する異例の事態が起った。この時、宇田博が、寮の壁に「北帰行」の歌詞を墨書し、忽然と姿を消したという。そして、紀念祭後の6月、寮委員の任命制が、総大会の否決にもかかわらず、学校当局の意向によって決定された。「安倍校長が任命制に最後まで固執したのは・・・・軍部に干渉の口実を徒に与えないためにも任命制は最低の条件と考えていたからである・・・・・事実安倍校長は次期委員以降の任命にあたっては寮生が選出した委員をそのまま認め、委員の人事に意見をはさんだことは一度もなかった。任命制によって校長は外部に対する『形』を整え、寮生は自治の実質をとったといえよう」(「向陵誌」から第164期寮委員長談)

 「第54回紀念祭は、5月12日夜以来の警戒警報発令下に14日のイーブ(イブ)で始まった。・・・そして幸いに午後4時、警戒警報が解除されたので、7時から8時半まで寮歌祭が行われた。翌5月16日午後6時から午前3時まで、全寮晩餐会が開催され、紀念祭は無事終了した。」(「向陵誌」昭和18年5月紀念祭)

語句 箇所 説明・解釈
天つ日を見上ぐるまなこ 人の子に與へられずて 天地(あめつち)()れにしときゆ 人みなは地上に群れぬ その地球(つち)軌道(みち)(めぐ)れば (はろ)かなる日々のいとなみ 耐えつぎつ虚しと()ひぬ 1番歌詞 この世に天と地が誕生した創世の昔から、人は、この地球上で村とか国家とかを作り集団の生活を送ってきたので、そこには支配ー服従の関係が生じた。人々が真理や自由を欲しても、支配者は、それを認めなかった。自由のない生活は続き、その苦痛は頂点に達した。人々は、これ以上耐えられない、ただ空しいだけだと嘆いている。

「天つ日」は、太陽。真理、自由、正義を意味する。「時ゆ」の「ゆ」は、・・・から。時の起点。「群れぬ」は、人類は集団生活をしてきた。集団生活では、村なり国家なりの統制があり、ある程度の自由の制限は致し方ない。「地球の軌道を周れば」は、時の推移を地球の自転公転で示す。「杳かなる」は、自由のない暗い。戦時統制で、自治・自由が大きく制約された状態を暗示する。
 「人の住む星は轉びつ」(昭和17年6月「運るもの」1番)
 「運命ある星の轉べば」(同2番)

 「第一節は『天つ日を見上ぐるまなこ 人の子に与へられずて』と、地上の人間は、元来皆自由と平等で、太陽を仰ぐことができる筈なのに、力の支配が原初から行きわたり、人間は皆、地上の生活では、支配と被支配の関係に置かれていると嘆き、支配される者達は、忍従しつくしつつ、常に絶望を味わされてきたといっている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
ときありて(おご)れる男の兒 穹窿(おほぞら)征矢(そや)を放てど 白き矢は靑きを(さか)り さだめある生命老いにし かゝる日のかゝる生命の 追憶(かたみ)とて建てし碑文(いしぶみ) いみじかる言葉朽ちにし 2番歌詞 ある時、勇気がある男児がいて起ちあがった。権力に対し戦闘をしかけ大空に向かって正義の矢を放ったが、的を射ることなく矢の勢いは尽きて、落下してしまった。このように果敢に抵抗を試みた勇敢な男の事績を記録にして後世に残そうと碑文を建てたが、権力により、その碑文さえも破壊され、立派に彫られた銘文は葬り去られた 。

 「伉」は、ただしい、まっすぐ(直)なこと。また、手向かう、あたる(抵抗の抗)の意味もある。「征矢」は、戦闘に用いる矢。「白き矢」は、純白の誠の心。本心をいう。正義の矢と解した。「青きを離り」は、空から離れる、すなわち落下。権力に対する抵抗は失敗したということ。「純白の矢が蒼天を遠ざかってゆく。つまり矢は的である天日にあたらず空しくそれていったということ」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)という説明もあるが、真理・正義である「天日」に向かって矢を射るわけはない。「生命老いにし」は、矢の生命が尽きる、勢いが尽きること。伉れる男の生命とも解することが出来るが、矢と解した。「碑文」は、事績を後世に伝えるため、文字を刻んで建てておく石。ここでは、「向陵時報」などを指す。下に引用する向陵誌の検閲記事は、寮歌の応募の後のことではあるが、このように当局の検閲を受け、削除された向陵時報などの記事を「碑文」と言ったのだろう。
 大正2年5月1日、嚶鳴堂で行われた新旧校長歓送迎会で、新渡戸校長は、ロングフエロウの次の詩『矢の歌』を引いて告別演説を行った。そして「私の言つた言葉も空しく大空に消えていつた箭かも知れない。併し誰かの胸にはそれがさゝつて、そして其處から愛と希望と信仰との瑞々しい若い芽が出れば幸ひである」と結んだ(「一高魂物語」”恩師の留任運動”)。 森下達朗東大先輩は、この告別挨拶および引用したロングフエロウの詩が、作者の念頭にあったのではと推測する(「一高寮歌解説書の落穂拾い」)。
 「 私は幼いとき、或る日の夕方
  大空に向って弓を引いて箭を放った。
  箭は果てしなく遠く遠く飛んでいった。
  そして、遂にそれは夕雲の中に消えていった。
  何十年か經つたのち、私はひとり寂しく森の中を散歩した。
  さうすると一本の樫の木の幹に小さい箭がさゝつてゐた。」(「一高魂物語」より引用)
「ところがその(紀念祭)直後、18日夜、緊急総代会が開かれて第162期委員が突然総辞職した。直接の原因は紀念祭当日に発行された『向陵時報』151号の巻頭に載った三重野委員長の『第54回紀念祭に寄す』との一文が当局の検閲にひっかかったことにあった。この文は、現実のきびしい情勢下にたくましく進むべしという所感を述べた、至って格調の高い文章であるが、その中の、
 『一国家の立場はつひに世界に対するエゴイズムに他ならない』
 『われわれの周囲には既成道徳を型のまゝに圧しつける無智者なしとしないのであって、さうした虚しい彼等の判断を静かに軽蔑する強さを養はねばならぬと思ひます。』
などの言句が当時の当局者の考えでは穏当を欠くとされたのであった。・・・
 この筆禍事件のいきさつは一般寮生には知らされず、寮委員たちの間にのみ真相が伝えられたが、軍部を背景とした言論や行動への弾圧、統制が、一高にもきびしく向けられてきたことを示す、一つの象徴的な事件であった。」(「向陵誌」昭和18年年度)

 「第二節は、然し、時に勇気がある男児があって、自由のために起ち上がったが(穹窿に征矢を放てど)、その放った白き矢は青空のなかに空しく消えて、桎梏の宿命を逃れるすべもなく、命は老いて朽ちてしまう。然し、このような自由束縛下の勇気ある人のかたみとして築いた心の紀念塔に、刻みつけておいた人を搏つ言葉も、すっかり朽ちはててしまうと、言路圧迫をながく憤っている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
さはれ見よ星辰(ほし)(ほろ)びず  そが光り大地(つち)にそゝげば われもまた若きひとひを 過失(あやまち)征矢(そや)や放たん 眩(まなくら)(めし)ひせむとも 人の子の郷愁(おもひ)擔ひて うなじあげかの天日()(もと)めん    3番歌詞 そうではあるが、太陽は姿を隠したわけではない。太陽の光はこの地球の大地に燦々と降り注いでいる。真理を求める若き一高生である自分も、勇気ある先人にならい、若気の過ちと人は言うかもしれないが、失敗を恐れずに、権力に対し闘いを挑もう。たとえ目が眩み目が見えなくなっても、一高生は求める真理のために身を捨てる覚悟で、堂々と自治自由を回復する戦いに挑もう。

 「さはれ」は、そうではあるが。サハアレの略。「星辰」は太陽で、真理・正義・自由を象徴する。「過失の」は、若気の過ちと人は言うかもしれないが、失敗を恐れず。「郷愁」は、自治・自由、真理探究に対する郷愁。「天日」は、太陽。自由・正義・真理を象徴する。「殉めん」は、身命を賭して求める。
 「オモヒを『郷愁』と記したのは、天日(自由)を求める気持ちをノスタルジアに擬えているのだろう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

 「第三節は、然し、自由と平等とは人類の究極の目標で、その理法は不滅であり(さはれ見よ星辰は亡びず)、その啓示により、私もまた若き一日を、目的を達する当もないながら、自由のために征矢を放った。それは眼がくらみ、めくらになるような精神的圧迫をこうむると判っていても、わが首をあげ、嘗ての服従の民の仰ぎ見ることを許されなかった太陽(自由)を求め、それに殉ずる意気をもとうとうたう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
たまゆらなればとことはの その靑春は逝かんとするを 結行歌詞 青春は、ほんの短い間であるが、その過ぎ行く青春に永遠の生命を込めて、一高生は真理を追究しよう。

 「たまゆら」は、ちょっとの間。ほんのしばらく。「とことは」は、永久。永遠。
 戦時下である。學徒出陣で、いつ戦地に征き、死ぬかも知れぬ身の上である。また、国家の施策に意を唱えることは、即ち国賊として処罰を受け、生命すら危うい時代であった。

 「タマユラは、ほんのしばらくの間。青春は時間的にほんの一瞬に過ぎないが、しかし、だからこそ永遠に通ずるものがあるという気持ち。」(一高同窓会「一高寮解説書」)
 「最後に、万葉の長歌に対する短歌の如く(之は林陽一氏の第53回の東大宿(寄)贈歌に例あり)『たまゆらなればとことはの その靑春は逝かんとするを』と、現在の瞬間に永生を見つつ(之は、宗教を求める人間の本能と同じく、有限の人間は、その有限のさびしさを、その中に無限を包摂する事により、克服しようとする知性の希求だ)今、不可避に襲ってくる出征---死の公算大なる未来に対し、この現在の青春に、汲めどつきせぬ永遠を見ようとしている。以上のような複雑な、屈折した当時の寮生の国家への忠誠と、自己の生命愛情との相克と苦悩とを、検閲に備えつつ、それを文学的に非常に秀れた表現でうたいのけているのは見事である。普通の検察官では、到底かくのごとき詩の真意を掴むことは出来なかったであろう。」(井上司朗大先輩「移築寮歌私観」)
                        
先輩名 説明・解釈 出典
井上司朗大先輩 (作詞の)田中氏は、戦局漸く苛烈となった18年の紀念祭(2月 そのまま。2月は文化祭)に、この寮歌に万感を託した。検閲に備えて、発想は、二重三重に抽象化されている。・・・・複雑な、屈折した当時の寮生の国家への忠誠と、自己の生命愛情との相克と苦惱とを、検閲に備えつつ、それを文学的に非常に秀れた表現でうたいのけているのは見事である。・・・
 昭和12年頃から、旧制一高は、自由主義、共産主義の温床と見られ、当局の圧迫が、多くの大先輩達の想像以上にきびしかったことも肯ける。
「一高寮歌私観」から
一高同窓会 その大意を示すとすれば 、「天つ日(=太陽)」は、暗に人類の至高・究極の理想・理念である「自治」「自由」を意味しており、「ときありて伉れる男の兒 穹窿に征矢を放てど」とは、時に精神的誇りの高い勇気ある人物がいて、真の自由を目ざして戦いをいどむが、その放つ矢は的を射ぬくことができないまま、生命を全うしえずして終わる宿命を担っている。そしてその人がそのような自由と真理追究のあとを記録として遺した文献も、世俗の圧力によって朽ち果ててしまう、という意味にでもなるであろうか。
一高同窓会「一高寮歌解説書」から


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