旧制第一高等学校寮歌解説
青旗の小旗にゆれて |
昭和22年第58回紀念祭寮歌
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1、靑旗の 春 夕 2、 ふる里の丘を嘆きて 虹のごと 5、山いゆき海に 凋落にまなこ 6、衰ろへは忍び迫りぬ 向陵に |
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譜に変更はない。嬰へ短調・4拍子で最初の小節が不完全小節のアウフタクトの曲である。速度記号andantinoは、「やや遅めに」という意味である。 五・七調6行の歌詞を、24小節(除く最初のアウフタクトの小節)3部形式の歌曲とする。歌詞4行(第1・2大楽節)までは弱起とするが、最後の5・6行(第3大楽節)の「夕月夜丘に燎ゆれば 故知らね涙あふゝる」は強起とし、力強く締めくくる。「悲しみにまなこ」(昭和21年)のように、五語、七語に係わらず各語句=1小節に無理に押し込まず、前半を弱起とするなどしてリズムに余裕をもたせた。全体にゆったりと落ち着いて歌えるのは、そのためである。「夕月夜」(4段3・4小節)は、五語の短い歌詞でありながら、すぐ前の小節に4分休符を置いて、たっぷり2小節をとる。連続2分音符の「ゆーーうーー」は、他の小節と比べ特異のリズムで、圧巻である。寮歌としては、決して多くない嬰へ短調の煌びやかだが、張り詰めた緊張感のもとに、「故知らね涙あふるゝ」と歌い終われば、一度に緊張がほぐれ、一高生の頬に思わず涙が零れる。戦後卒の一高生には人気が高い。この寮歌は、通例、1番、2番、6番を歌う。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
靑旗の |
1番歌詞 | 紀念祭の幟が向ヶ丘に風に揺れ、時計台はめでたい光に輝いている。花誘う趣深い春の宵、一高寄宿寮は、第58回紀念祭を迎えた。夕月の下、祭りを祝う篝火は今ともされ、向ヶ丘に赤々と燃え上れば、わけもなく涙が溢れてくる。 「靑旗の 「靑旗の」は枕詞、「小幡」「葛城山」「忍坂山」にかかる。木の繁ったさまが青い旗を立てたようにようにみえることからいう。歌詞の語は、「旗」であるが、立てる「幡」あるいは「幟」と解した。「あららぎ」は、斎宮の忌詞で、塔のこと。アララ(粗)キ(葱)の意。「瑞しき光」は、めでたい光。昭和21年9月2日全寮制が復活し、第58回紀念祭を迎えた。 万葉・倭太后(天智天皇の皇后」148 「靑旗の小幡の上を通ふとは 目には見れども直にあはぬかも」 「『青旗』は木幡山の枕詞というだけではなく、もともと祭具として用いた旗であり、また『木幡』は天智天皇陵のおかれた所であるという意味で、倭太后の歌は哀痛の極致を歌っている。この寮歌もこの挽歌を下敷きに悲しみの感情を表さんがために喜びの表現を用いた、いうなれば、この句はドゥブル アンタントと考えてよいのではないか。したがって『故しらね涙あふるる』も単純なうれし涙などではあり得ず、屈折した哀痛の涙であり、その悲しみの感情こそが、この『靑旗の』の歌全篇を流れる通奏音になっているのである。こう解することで始めて2節以下と平仄が合う。 なお、枕詞としての「靑旗の」は、樹木の連なる状態を旗のごとく見たことから用いられるようになったもの。また、旗は横になびくハタ、幡は立っているハタの意。」(井下登喜男一高先輩「一高寮歌メモ」) 「春 「春甘美き」は、花誘う情趣深い春。「五十八年」は、第58回紀念祭のこと。「祭り火」は、篝火。「夕月夜」は、陰暦7日頃までの夕方に出る月。夕月の頃の夜。月の入りが早いので、夜半には闇となる。「故知らね」は、『故知らねど」の意。「涙」は、多感で繊細な若者故に流す春愁の涙である。 「第一節の『青旗の木(小)旗にゆれて』は万葉の倭姫皇后の天地天皇を崩御を悼んでのお歌よりとったものだろうが『眼には見えないけれど、かそかに』の程の意に使われ、時計台即ち向陵に復興の光りがかすかに現われたことの好表現。この節の末行の『故知らね涙あふるる』も、紀念祭の宵の祭り火と夕月夜を通して、複雑な向陵の前途と自己の生との相乗のうちにわく涙で、それは純粋の青春そのものである。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「第一節では紀念祭の晩餐会の復活が、涙なしには語りえぬ喜びをもって詠まれている」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |
2番歌詞 | 敗戦でどん底に沈んだ国日本、昨日まで神であった天皇は、人間であると宣言した。天皇を現人神とする狂った時代に繰り広げられた悪夢のような戦争は終わったけれども、学徒出陣で戦死した友は、二度と故郷向陵に帰ってこられない。虹のように輝いて天上から丘を眺めては、荒廃した様を嘆いているのであろうか。 「 「杳」はくらい、ものさびしい。「沈淪」は深く沈む、落ちぶれるの意。 「遠つ神人とのらして」 「遠つ神」は人間を遠く離れた存在である意から「大君」にかかる枕詞だが、ここでは「大君」。「のらして」は「宣らして」で、神や天皇が聖なる意向・判断を人民に表明すること。昭和21年1月1日、天皇は神格を否定して人間であると宣言した。 「 「狂火の繪巻」は、大東亜戦争(太平洋戦争)。 「逝きし伴 「逝きし伴」は、戦死した学友。「天歸りこぬ」は、神やその子孫である天皇などが天界から降りてくる「天降り」に倣い「天歸り」といったか。「こぬ」は、「來」の未然形「こ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」。神のように天上から帰って来られない。「かがよふ」は、静止したものがきらきらと光ってゆれること。 「第二節も敗戦後のGHQに強要された天皇の人間宣言を最後に、神国日本は終ったが、南の海に、西の大陸に、戦死した友人達はその日本に帰って来ない。然しその魂魄は故郷の丘を歎いて『虹のごと耀ふらんか』と、類稀な表現を与えている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「第二節では転じて、敗戦と同時に天皇自身の『人間宣言』が行われ、狂信的な超国家主義は消滅したものの、出陣し散華したまま帰らぬ今は亡き寮友たちの霊への思いが詠まれている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |
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3番歌詞 | その日の食にも事欠く、極端な食糧難のひどい世の中は、一体、何を恨んだらいいのか。一高が廃校になるかも知れない時に、寮生はボヘミアンのように一高の伝統にも従わず、放恣な生活をしている。難しいことであるが、孤軍奮闘の天野校長を支えて一高存続を強く訴え、一高に栄光あらしめよう。あるいは、戦争には負けたが、日本人は、ジプシーのように国を持たない流浪の民ではないのだから、困難な任務ではあるが、なんとしても荒廃した日本を復興しなければならない。国を護る一高生の使命は重大である。 「 「もひ」(盌)は椀のこと。「たまもひ」はその美称。通常、水を盛る椀、また飲料水のことだが、ここでは食料全般を意味すると解する。「一高寮歌解説書」は、「玉杯の悪しき」の係りが不明とする。素直に「濁り世」に係るとする。井下登喜男一高先輩は、「玉杯」を一高ないし酒と解し、次のように解釈する。 「難解だが、伝統を誇った一高も沈淪の淵に沈んでその存続さえも危ぶまれている末世。あるいは『紀念祭の酒の悪さ』に掛けたドゥブル アンタントかもしれない。」(井下登喜男一高先輩「一高寮歌メモ」) 昭和21年4月5日 茨城県神立(現土浦市)に神立農場を開き、「和耕寮」と命名。 「 昭和21年8月教育刷新委員会(委員長安倍能成)が設置され、戦後の教育改革(教育基本法の制定・6・3・3制、公選制の教育委員会の導入など)が議論されていたが、多くの一高生が無関心であったという。 「 「父のみの日の本つ國」 「父のみの」の解釈について、3つの説がある。 1.枕詞とする説 「父」にかかる枕詞「ちちの実の」とする。ただし、「日の本つ国」に続ける例は見当たらない(井下登喜男一高先輩「一高寮歌メモ」)。 「『父のみの』は、父にかかる枕詞であり、ドイツ語のVaterland(父の国=祖国)である『日の本つ国』にかかると解する」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) 「父の国日本を愛し」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 2.天野校長とする説 天野貞祐校長のみが一高存続に孤軍奮闘している日本。 「父とも頼む天野貞祐校長だけが、一高の存続の努力をしているような日本、ここの句難解」(井下登喜男一高先輩「一高寮歌メモ」) 3.天皇とする説 万世一系の天皇を上に戴く日本の国。 「『父として天皇を仰いでいる』という、天皇中心の意識があり、その上で国民としてのベストをつくすことが、一高の柏葉の栄光に繋がる、との意識の表現と見るべきか。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 枕詞説は、「祖国日本」と解するので、天皇とする説とそれほどの差はない。つまるところ、日本、一高どちらを中心にして解釈するかの違いである。 天野貞祐は、昭和21年2月9日に一高校長となった。昭和21年11月11日、前記教育刷新委員会で天野校長は旧制高校の長所を生かす「前期大学構想」を主張した。しかし、この主張は採用されることなく、天野校長は、紀念祭直後の23年2月7日、突然辞職をし、一高生に衝撃を与えた。 「 「荒磯」は、海中や海岸に露頭している岩。ここでは障害、困難。「よばふ」は、こちらに注意を向けるように何度も呼ぶこと。「柏葉」は、一高の武の象徴。 「第三節は、この戦後の汚濁混乱の世相を、自業自得と諦めつつ、猶、父の国日本を愛し、いかなる困難をも凌いでゆく任務を自覚し(『荒磯ゆく任をし呼ひ』)、向陵の徒がその使命を担って、往年の栄光の回復することを希っている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「第三節では敗戦に基づく国家・社会の汚獨、乱脈への恨みは今や抜きにして、祖国日本への愛情をもって尽くすべき任務を果たすことで、向陵の栄光を回復せんとの覚悟を示し」(一高同窓会「一高寮解説書」) |
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4番歌詞 | 戦争で荒廃し古ぼけた向ヶ丘に、青々と若草が芽を吹き、元の姿を取り戻してきた。復興の機運が生じて、彼方此方に花も咲いて、前途に明るさが見えてきた。一高生は自治を復興しようと寄宿寮委員制度や全寮制を復活した。自治は、不死鳥の如く甦るのである。 「 「滓」は、液体の底に沈殿した澱物。これをどう解釈するか? 一高同窓会「一高寮歌解説書」は「古びたさまを強めたのであろう」とし、井下登喜男一高先輩メモでは「戦災で廢墟と化した一高キャンパス」とする。「古るび」は、古ぼけた。 「 「たいひらぎ」は、平常どおりになる。直る。「すだま」は「精」で、心身の力、努力、不思議な力。復興の機運が生れて。 「豊けくも萌ゆる小草や」 向ヶ丘に青々と若草が芽吹いてきた。戦後の復旧・復興が進んだことをいう。 昭和21年3月9日 寄宿寮委員制度、1年半ぶりに復活。 9月2日 全寮制復活宣言(寮生約1200人) 「花はらゝ夢を語れば 自治守の鐘鳴出でて 眞實は甦がへるもの」 「はらゝ」は、ちりぢり、ばらばらになることだが、ここに「花はらゝ」とは、あちこちに花が咲いての意であろう。「自治守」は、自治を守る寮生。「鐘」は、自治の復興の鐘。「眞實」は、自治の真の姿。 「第四節では向陵生活の平和と繁栄の兆候、全寮制復活による自治の精神と真実探究の甦りを示す」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |
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山いゆき海に |
5番歌詞 | 学徒出陣し、若くして大陸の山や南方の海で戦死した友は、敗戦で荒廃した祖国を目にすることがなくて、ある意味、 「山いゆき海に失せける 「夭人」は、若くして死んだ人。「 「羨し=『珍しくて心が引かれる』の意もあるが、この歌では文字どおり、『羨ましい』と解すべき。戦場に散った友に託して自らを悼み悲しんでいる。」(井下登喜男一高先輩「一高寮歌メモ」) 「凋落にまなこ 「凋落」は、草木の葉が萎んで落ちること。ここでは、日本の敗戦による経済的思想的混乱、人心の堕落。「まなこ塞ぎて」は、世の惨状、人心の堕落に染まることなく、超然としての意と解す。 「 「 「『凋落』は戦争中の爆撃など惨憺たる社会情勢を指し、『群騒を射つる』は、戦時中の多くの騒乱の中で、けなげに生きた友の行動を指すか。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「この濁世では戦死した人を一応羨ましいとも思うが、然し、当面する世俗の堕落には眼をふさぎ、むらがる事象の中から、核心を射とめ、人生を寂しく清く、遍歴していこうという心の屈折をうたう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「『凋落』は、開戦当初の勢いが衰えて戦況が著しく不利になったことを指すと解する。そうした逆境下にありながら、『ノー文句』で(「まなこ塞ぎて」)、群る敵軍に攻撃を挑んだ(「群騒を射つる」)戦没寮友たちの純粋な精神(「清けさ)を偲びつつ、これからの寂しい人生を歩んでいこうとの決意を披歴している。」(森下達朗東大先輩「一高寮歌解説書の落穂拾い」) |
衰ろへは忍び迫りぬ |
6番歌詞 | 終戦直後の極端に切迫した食糧不足のため、食うものも食えず、体力が衰え、骸骨のようになってしまった。なんと悲しいことか!やせ細った身体で、骨ぼねが軋むような音がして体力もないが、今宵は一生懸命に篝火を回りながら舞い歌おうではないか。篝火が音を立てて赤く燃え上がっているので、今宵、この一夜、苦しいこと辛いことなどは一切忘れ、向陵にどっぷりと浸かって、友と舞い語り、そして飲んで、青春の命の花を咲かせよう。 「衰ろへは忍び迫りぬ 「たぎり」は、はげしくたかぶること。「響へど」は、身体を動かすと、やせ細っているので、骨の擦る音がするけれども。 「凡そ60年の寮歌の歴史を通じ、かくの如く悲しい歌が外にあるだろうか。痩せて痩せて、舞えば、骨が鳴るという体験は、明治、大正、昭和の20年まではうたわれなかった。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「さゆらげる篝赤けば」 「ゆらく」(揺らく)は音をたてるの意。「ゆる」(揺る)は、物全体がゆらゆらと動く意。「さ」は接頭語。「『さゆらげる』は、寮歌ではよく使われるが、古例を見ないという(一高同窓会「一高寮歌解説書」) 「向陵に 「今宵は醉ひて」は、今宵は何もかも忘れて。向陵のことだけを思って。「青春のいのち華咲け」は、若者らしく躍り歌って青春を謳歌しよう。 「第六節は、この寮歌の核心ともいうべきもので、当時の寮生活の食糧事情の窮乏をまのあたり見るようだ。寮生達はおおかた衰えた体力を回復するまでにいってないが然し、紀念祭の夜ともなれば、その衰えた体の骨々の命にしみる軋みの音を響かせながら、もえさかる篝をかこみ唯に舞いうたおう、今宵ばかりは大いに飲んで、青春のいのちよ、花と咲け、と結んでいる。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) 「最も感動的なのは第六節で、ここで作者は、食糧難のための骨身にしみる衰えと悲しみを訴えつつも、今宵の紀念祭においては、歓楽に酔い『青春のいのち』の華を咲かせようではないかとのけなげな思いを唱い上げている。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」) |