旧制第一高等学校寮歌解説

おゝ呼ぶ聲す

昭和14年第49回紀念祭寄贈歌 東大

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1、おゝ呼ぶ聲す     呼ぶ聲す
  どうどうと湧く     嵐より
  アジアに起り      狂ひては
  世界を碎く       嵐より
  若き力に        たけびつゝ
  歴史は進み      嵐呼ぶ

    思ひ出
4、ふるさとの丘     祭とぞ
  遙かに聞けば     さやけくも
  湧立ちいづる     胸の中
  豊かに香れ      若き夢
  武蔵野原よ      秩父嶺よ
  豊かに抱け      若き日を

5、くちずさむ歌      なつかしき
  思ひを結ぶ      夕比叡
  生命をかけて     戰ひし
  涙をひむる      夕ぎりか
  何思ふらむ      遠き友
  ふるさと向陵     とはに生く
ヘ長調・4分の2拍子、譜に変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じ演奏です。

 単純・明快な2拍子の元気なリズム。七・五の六行と歌詞は長い。単調なメロディーとなることを避けるために、「呼ぶ聲す」と16分音符を4つ続け、「呼ぶ声」に注意を喚起するとともに、曲の途中、歌詞3.4行(第2大楽節)と、歌詞の最後6行の終わりに三つの細工を施し、メロディー・リズムを転換した。一つは、「アジアに」、「起こり」、「狂ひては」を弱起としたこと。二つは、「世界を碎く嵐より」を短調気味のメロディーとしたこと。三つは、歌詞5・6行では、「ドードララ」とヘ長調の主メロディーに戻り、最後の「荒し呼ぶ」を現行譜の「筑紫の富士」や「春尚浅き」と同じように弱起としたことである。歌詞1番には、「嵐」が3回出てくるが、それぞれに工夫が凝らされている。少なくとも今は、誰も歌わない寮歌ですが、以上の三点に留意しながら歌って見て下さい。


語句の説明・解釈

 作曲は、昭和9年「空虛なる」の作曲者で駒場初代寮委員長の小林健夫、作詞は駒場2代目寮委員長の猪野誠治で、ともに陸上部の選手であった。対三高戦の廃止と復活問題では、寮委員長として、また陸上部選手・OBとして、復活に向け、さらに何かと問題の多かった一高・三高間の調整に苦労した仲である。5番歌詞「夕比叡 生命をかけて 戰ひし」に対三高戦に懸けた両者の意気ごみを感じることができる。作詞者の猪野誠治は、太平洋戦争が終わった直後の昭和20年8月29日に戦病死(一高同窓会「一高寮歌解説書」では戦死)した。
 この寮歌は、寄贈歌であることは確かであるが、昭和18年寮歌集では、寄贈大学名はない。歌詞の冒頭に「寄贈歌」とあるのみである。昭和50年寮歌集で、末尾に他の寄贈歌と同じよな形で、(昭和14年東大)と記載されたので、東大寄贈歌とした。

語句 箇所 説明・解釈
おゝ呼ぶ聲す   呼ぶ聲す
どうどうと湧く   嵐より
アジアに起り   狂ひては
世界を碎く     嵐より
若き力に      たけびつゝ
歴史は進み    嵐呼ぶ
1番歌詞 堂々と湧き起る嵐の中から、一高生を呼ぶ声がする。アジアに起こった民族解放の嵐が狂うように欧米列強が支配する世界の現秩序を砕いて行く。一高生よ起てと勇ましく叫びながら、アジアの民族解放の歴史は進み、アジアに嵐を呼んでいる。

「おゝ呼ぶ聲す 呼ぶ聲す どうどうと湧く 嵐より」
 「嵐」は、歴史の嵐。アジア民族解放の嵐。支邦事変もその嵐、「呼ぶ聲」は、嵐が呼ぶ声、民族解放の声。昭和13年11月3日に行った「東亜新秩序建設の声明」(第2次近衛声明)、同月16日の興亜院設置を踏まえるか。
 「第2次近衛声明」とは、日本の戦争目的は、「東亜新秩序の建設」にありとし、蒋介石の下野、汪兆銘の引き出しを図ったもの。「東亜新秩序声明」ともいう。
 「この歌詞は第三節までは時局 ー 日支事変の進展 ー への積極的対応を後輩達に強く求めてやまない期待感の表明」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「特に第一節は、『おお、呼ぶ声す、呼ぶ声す』と、豪快荘重に、世界の歪んだ秩序に対するアジアの抗議をうたっている。この二年後に起る太平洋戦争は、半分は、仕掛けられた戦さ、且、結果として、欧米の植民政策によって縛りつけられていた東亜からアフリカに至る諸民族の今日の解放の引金となった意義は大きいのだが・・・」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

「アジアに起り 狂ひては 世界を碎く 嵐より」
 「嵐」は、前述のとおり、歴史の嵐、民族解放の嵐。「狂ひては」は、怒涛のごとく。「世界を碎く」とは、アジアを植民地化し、アジアの民を搾取する帝国主義が支配する世界体制を粉砕するの意。
 「作者が最も力を込めて詠んでいるのは前半の三節で、ここでは中国大陸での戦闘を『世界を碎く』『アジアの嵐』として意義づけ」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「若き力に たけびつゝ」
 「たけぶ」は猛ぶで、勇ましくふるまう。「若き力」を一高生と解し、アジアの解放に積極的に参加するように呼びかけている。

「歴史は進み 嵐呼ぶ」
 いつまでも西洋列強の恣にはさせない、列強支配の歴史は終わり、次は興亜の時代である。1・2・3番は全て、この「歴史は進み嵐呼ぶ」の語で終わる。作者が最も言わんとするところであろう。
荒潮みつる    力にて
アジアの嵐    地を捲けば
生命碎けて    土ちぬる
曉 近く       雲 深く
聞かずや男兒   彼の聲を
歴史は進み    嵐呼ぶ
2番歌詞 荒々しく満ちる潮のように力強く、アジアに起こった民族解放の嵐は、土を巻き上げるような猛烈な勢いで、敵を粉砕し、地面を血潮で染める。アジアの夜明けは近い。一高生よ、欧米列強の搾取に苦しむアジアの民の助けを求める叫び声が聞こえないか。アジアの民族解放の歴史は進み、アジアに嵐を呼んでいる。

「荒潮みつる 力にて」
 荒々しい満ち潮のように力強く。アジアは満ち潮、西洋列強は引き潮。
 「荒潮の潮の八百路ゆ 打ち寄する」(明治45年「荒潮の」1番)

「アジアの嵐 地を捲けば 生命碎けて 土ちぬる」
 「地を捲けば」は、土を巻き上げるような強い勢いであるので。「地を捲く」は、捲土重来の捲土である。「ちぬる」は、生贄または敵の血を祭器や刀に塗って神を祀ることだが、ここでは戦闘・殺傷で血を流すこと。

「曉 近く 雲 深く 聞かずや男兒 彼の聲を」
 「曉」は、アジアの夜明け。「雲」は、アジアの国と民を搾取する欧米列強諸国。「彼の聲」は、助けを叫ぶアジアの民の声。
 「三節すべて最終行を『歴史は進み 嵐呼ぶ』の語句で結ぶことによって、後輩たちの蹶起を促している。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
護國の旗よ    紅よ
秘むる誇りの   數いくつ
今あたらしき    向ヶ丘
生命に充ちて   匂ひ立ち
熱き血潮に    ひたさずや
歴史は進み    嵐呼ぶ
3番歌詞 護國旗よ、その燃えるような紅よ。一高生には誇るものが数多くあるが、何はさておき護國の心が一番大切だ。新向陵・駒場は、今、生き生きとして光り輝いている。その新向陵を唐紅に燃える護國旗の色に、一高生の熱き血潮で染めようではないか。アジアの民族解放の歴史は進み、アジアに嵐を呼んでいる。

「護國の旗よ 紅よ 秘むる誇りの 數いくつ」
 「護國の旗」は、一高の校旗。唐紅に燃える深紅の色。「護国」は、一高の建学精神である。
 「人生意氣に感じては たぎる血汐の火と燃えて 染むる護國の旗の色 から紅を見ずや君」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)

「今あたらしき 向ヶ丘 生命に充ちて 匂ひ立ち 熱き血潮に ひたさずや」
 「今あたらしき 向ヶ丘」は、新向陵・駒場。昭和13年の新向陵の建設は、嚶鳴堂、同窓会館、倫理講堂が完成し、第4棟(明寮)の工事完成を残す程度であった。遅れていた、「一高創立60周年」も同年11月1日に記念式が挙行された。「ひたさずや」は、「浸さずや」で、唐紅色に染めるの意。
ふるさとの丘   祭とぞ
遙かに聞けば   さやけくも
湧立ちいづる    胸の中
豊かに香れ    若き夢
武蔵野原よ    秩父嶺よ
豊かに抱け    若き日を
思ひ出
4番歌詞
故郷の向ヶ丘は今日紀念祭ということだ。遠くから紀念祭のざわめきが聞こえてくると、もう胸がわくわくして居ても立ってもいられない。一高生よ、豊かな心を育てよ。武蔵野よ、秩父の山よ、一高生の青春を豊かに育んでやってくれ。

「ふるさとの丘 祭とぞ 遙かに聞けば さやけくも 湧立ちいづる 胸の中」
 「ふるさとの丘」は、向ヶ丘。「さやけし」は、さえてはっきりしている。
 「『思ひ出』と題された第四・第五節は、一高在学時代への懐旧の情の表白である。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「豊かに香れ 若き夢 武蔵野原よ 秩父嶺よ 豊かに抱け 若き日を」
 本郷寮歌の筑波山に変わって、駒場寮歌に秩父の山が登場。富士山は本郷駒場両方に登場している。
くちずさむ歌    なつかしき
思ひを結ぶ    夕比叡
生命をかけて   戰ひし
涙をひむる     夕ぎりか
何思ふらむ     遠き友
ふるさと向陵    とはに生く
5番歌詞 寮歌を口ずさむと、互いに青春をかけて戦った三高戦の激闘が思い出す。懐かしさに涙が溢れてきた。向ヶ丘に立ち込める夕霧よ、お前も泣いてくれるのか。昔、三高戦を一緒に戦った仲間は、今頃、どこで何を思っているだろうか。わが故郷向陵よ 永遠なれ。

「くちずさむ歌 なつかしき 思ひを結ぶ 夕比叡 生命をかけて 戰ひし」
 「生命」は青春。作詞者猪野誠治は砲丸投げおよび円盤投げの陸上選手として、マネージャーとして、また卒業後も先輩として対三高戦を応援し、とかく揉め事の多かった三高との間の調整役を務めた。「夕比叡」は、京都で勝利した夕という意味であろう。矢野誠治は昭和12年理甲卒であるが、「向陵五年の怪男児」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)であるので、入学は昭和7年である。昭和7年から11年までの対三高戦で京都(加茂・植物園競技場)で陸運戦が行われたのは、昭和8年7月18日の第14回と10年7月22日の第15回(マネージャーとして参加)の2回であり、いずれも一高の快勝であった。
 「大正12年7月21日22日京都に遠征の勝戰をあげて以來、彼地に凱歌を聞かざる事正に十歳を算す。而して我等此處に遂に十歳の臥薪空からずして加茂原頭に快勝せり。・・・あな嬉し、10年にして、京洛の地に凱歌上る。白旗亂舞して赤旗地に伏して聲なし。正に10年。『十歳の臥薪空からず』を聲高らかに唱ふ。」(「向陵誌」陸上運動部史昭和8年度)
 「感激の祝勝会、小田村委員長の開会の辞に始まり、中村生徒主事、石川剛陸運部長、小林健夫陸運主将(この寮歌の作曲者)、阿部滋忠選手監督らが挨拶したのち、最後に井上応援団長が次のように注意を述べた。『これより上総町電停で電車に乗り、四条河原町で下車、新京極通りを行進する。その際、一高生の体面をけがすことがあっては断じてならない。隊伍は絶対乱さないでくれ。宿舎についてから三々五々出てゆくときが最も危険だ。10人以下では絶対出かけぬよう』。先輩もまじえて約120名、応援団長を先頭に新京極を行進した。寮委員と応援団幹部は隊列左右の警備につき、警官もまたこれにつき添って警戒した。ここ十数年来、毎年のようにくり返してきた京都での小ぜり合いや乱闘は、この年は見られなかった。」(「一高応援団史」昭和10年)
 「第139期寮委員長猪野誠治は自身熱心な復活論者であって、四部や、旧応援団幹部と協議を続け、(前年度昭和11年)3月25日には麓教授宅で三高代表と私的に懇談して、復活の下工作を行った。」(「向陵誌」昭和昭和11年度)
 「かくして三高戦史上初めての5年連続優勝が、全種目における勝ち越し、且つ未曽有の圧倒的大差をもって達成された。閉会式を終え、「あな嬉し」を高らかに歌う応援団の前に、整列し感謝をこめて『玉杯』を二唱する頃は夕闇が既に濃かった。」(「向陵誌」陸上運動部昭和11年度)
 「昭和13年度の対三高戦の危機を回避できたのは、先輩猪野誠治の誠実で温厚な人柄と、その良識に負うところがきわめて大きかった。」(「一高応援団史」昭和12年)
*昭和12年の対三高陸運戦は日取り問題で対立休止となった。猪野誠治は先輩として、一高三高の間に立って、調整に当たった。
 「第五節の『生命をかけて戦ひし 涙をひむる夕霧か』は小林氏(主将、棒高飛び)達と、陸運の試合に全靈をかけた思い出であろう。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

「涙をひむる 夕ぎりか 何思ふらむ 遠き友」
 「涙をひむる 夕ぎりか」は、向ヶ丘に立ち込めた夕霧は涙をそっと隠している。夕霧よ、お前も泣いているのか。「涙」は、対三高戦勝利を思い出して流す涙。「何思ふらむ 遠き友」は、一緒に対三高戦を戦った仲間は、今、どこで何を思っているだろうか。

「ふるさと向陵 とはに生く」
 「ふるさと」は、こころの故郷。思想揺籃の地。「とはに生く」は、永遠たれ。
 「わがたましひの故郷は いまも緑のわか草に」(大正5年「わがたましひの」1番)
 「あゝ向陵よ向陵よ」(大正15年「烟り争ふ」6番)
 「榮ある首途祝はなん あゝ向陵よいざさらば」(昭和10年「嗚呼先人の」5番)
 「まさに猪野氏の全身的の希いであり、又信仰だったろう。この母校を心のふるさととして抱きしめて、猪野氏は応召出征、そして再び還らなかった。夜ふかく、小林氏の作曲に随って低誦する時、感慨はふかい。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
                        

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