旧制第一高等学校寮歌解説

武蔵野の

昭和12年第47回紀念祭寄贈歌 東大

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1、武藏野の草深き野に    移り來てすでに三年(みとせ)
  よすがとて倚れる木蔭に  (をのこ)らは盟ひて言ひぬ
  世を守り世をば救ひて    武夫(ますらを)の道に生きんと
  燃え沈む日にまみ向けし  向陵(をか)の兒の思は如何に

2、つゆじもは白く置けども   眞理(まこと)見る眼を閉ぢず
  風すさぶ曠野に立ちて    氣を練りし夜は幾夜ぞ
  世を生きる心の(のり)は     凛として今胸に燃ゆ
  越え行かむ山のすだまも  海靈(わたつみ)もおそれず我は

3、打寄する時の渦潮(うつしほ)      けはしき世日本(やまと)を襲ふ
  一億の民をし率ゐ      物怯ぢず進むは誰ぞ
  我おきて我をしおきて    流轉(るてん)の世(みちび)くなけん
  腰に帯ぶ劍を鳴らし     向陵(をか)の兒ら今こそたたん

4、丘を立つ一日はせめて   若き日の(うたげ)()れん
  遭はむとき期すべくあらず  いざ友よ(ほぎ)酒くまん
  丘は今盛りのさなか     さくら花旭に匂ひ
  橄欖の翠まばゆく       野のはてに富士の()白し
*「痴」のルビは昭和50年寮歌集で、「し」に訂正。
譜に変更はない。MIDI演奏は左右とも同じ演奏である。
 ハ短調3拍子の曲で、Moderato espressivo(中位の速さで 表情豊かに)が付く。向陵にも軍靴の音の忍び寄る暗くて厳しい社会情勢では、寮歌も斯くの如き哀痛の調べとなるか。名曲である。ただし、年老いた今は、高音部、たとえば「世を守り世をば救ひて」は段々声が出なくなってきた。また、最後の「思は如何に」の「おもい」の「い」の音がどうしても馴染めない。
 作曲は、一条茂。わずかに顔が浮かぶ数少ない寮歌作曲者。若い頃、部長の鞄持ちで業界の会合に参加した時に、部長から紹介された。しかし、あの方が寮歌を作曲していたとは知らなかった。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
武藏野の草深き野に 移り來てすでに三年(みとせ)ぞ よすがとて倚れる木蔭に (をのこ)らは盟ひて言ひぬ 世を守り世をば救ひて 武夫(ますらを)の道に生きんと 燃え沈む日にまみ向けし 向陵(をか)の兒の思は如何に 1番歌詞 武蔵野の草深い駒場の野に、本郷から移ってきて、すでに三年がたった。旅寝の場所として身を寄せている柏の木蔭で、一高生は誓って言った。世を守り世を救う雄々しい丈夫の道に生きようと。向ヶ丘に立ち、真っ赤に燃えながら西の空に沈んでいった太陽を見つめた一高生の嘆きは、如何ばかりであったろうか。

「武藏野の草深き野に 移り來てすでに三年ぞ」
 一高は昭和10年9月14日、東大農学部との土地交換で、本郷から武蔵野の郊外駒場に移転した。

「よすがとて倚れる木蔭に 男らは誓ひて言ひぬ」
 「よすが」はたよりや助けとなるもの。「木蔭」は橄欖または柏の蔭。人生の旅の途中、向ヶ丘に立ち寄って、若い三年間を旅寝する木蔭、すなわち寄宿寮。

「世を守り世をば救ひて 武士の道に生きんと」
 「世を守り世をば救ひて」は、済世救民。「武士の道」は、雄々しい武士道の道。「武士の道」は、まことの心を持ち、義を守る雄々しい丈夫の道。

「燃え沈む日にまみ向けし 向陵の兒の思は如何に」
 「燃え沈む日」の「日」は、眞理・正義。「まみ」は目見。目の表情。目もと。「向陵の兒」は、一高生。正義が失われた闇の世、すなわち軍国主義の到来に、一高生の嘆きは如何ばかりであったろうか。
 「光無き日を喘ぐとき」(昭和12年「春尚淺き」2番)
 「かゞやきし日はしづみゆき 光なき夜は來りぬ」(昭和9年「綠なす」1番)
 「燃え熾る忿怒抱きて 壯大なる日の没つ見れば」(昭和12年「遐けくも」1番)
 
 「第一節は、作詞者の体験した一高の伝統が、『世を守り世をば救ひて』という高邁な理想に在り、決して出世主義の発想に基づかないことをいい」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
つゆじもは白く置けども 眞理(まこと)見る眼を閉ぢず  風すさぶ曠野に立ちて 氣を練りし夜は幾夜ぞ 世を生きる心の(のり)は 凛として今胸に燃ゆ 越え行かむ山のすだまも 海靈(わたつみ)もおそれず我は 2番歌詞 晩秋の露霜のように厳しく思想が取り締まられようとも、一高生は真実を見る目を閉じない。思想取締りの風が荒ぶ向ヶ丘で、友を思い我が身を案じ、胸を痛めた夜が幾夜あったことか。そのような辛い経験を経て、淋しくとも、この厳しい世に強く生きていこうと覚悟が出来た。その思いは、今、胸に凛然として燃えている。山に住む怪物も、海の怨霊も、何ものも恐れず、自分は、ひたむきに真理を追究してゆくと決めたのだ。

「つゆじもは白く置けども 眞理見る眼を閉ぢず」
 「つゆじも」は、秋の末に、露の凝って霜となったもの。秋の季語。「白」は、思想を取り締まる権力、生徒主事を喩える。
 「白き風丘の上に荒る」(昭和4年「彼は誰れの」2番)

「風荒ぶ曠野に立ちて 氣を練りし夜は幾夜ぞ」
 「風すさぶ曠野」は、思想統制の風が吹き荒ぶ向ヶ丘。「氣を練りし」は、心をくだいた。胸を痛めた。
 「風荒ぶ曠野の中に 古木たヾ黙して立てり」(昭和8年「風荒ぶ」序)

「世に生きる心の法は 凛として今胸に燃ゆ」
 「世に生きる心の法」は、この厳しい世に生きる覚悟、方法。真理から目を離さないで、何ものも恐れない覚悟。「凛として」は、固くて勇ましい決心をいう。
 「この世のいのち一時に こめて三年をたゆみなく 淋しく強く生きよとて 今はた丘の僧園に」(大正2年「ありとも分かぬ」3番)

「越え行かむ山のすだまも 海靈もおそれず我は」
 「山のすだま」は陸軍、「海靈」は海軍を喩える。文字どおりの意味は、「すだま」は、山林・木石の精気から生ずるという人面鬼身の怪物。「靈」は、人に祟りをもたらす怨霊。禍神。昭和7年の海軍将校による5・15事件、昭和11年の陸軍将校による2・26事件を契機に、帝国陸海軍は、日本の政治経済社会のあらゆる分野で軍による統制を強めていった。それを「おそれず我は」と、真理追究の必死の覚悟を示す。

 「駒場に於ける心身の鍛錬を、「風すさぶ曠野に立ちて、気を練りし夜は幾夜ぞ』と省み、それによって得たものを、『世に生きる心の法は凛として今胸に燃ゆ』と回想している。」(井上司朗「一高寮歌私観」)
打寄する時の渦潮(うつしほ) けはしき世日本(やまと)を襲ふ 一億の民をし率ゐ 物怯ぢず進むは誰ぞ 我おきて我をしおきて 流轉(るてん)の世(みちび)くなけん 腰に帯ぶ劍を鳴らし 向陵(をか)の兒ら今こそたたん 3番歌詞 英米との対立が激化して行くとともに、日本は国際的に孤立を深めている。一億の日本国民を率い、物おじせず前に進むことの出来るのは誰か。一高生をおいて、我等一高生をおいて、今の世を変え、世を正しい方向に導く者はいないのだ。一高生よ、尚武の心を発揮して、今こそ起とうではないか。

「打寄する時の渦潮 けはしき世日本を襲ふ」
 「時の渦潮」は、英米との深刻な対立。「けはしき世」は、日本の国際的孤立をいう。
 昭和11年1月、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退で英米との対立が鮮明となった。日本は国際的孤立化を避けるために、独伊枢軸側に接近して、昭和11年11月、日独防共協定を結び枢軸側陣営に入った(伊は翌年参加)。しかし、かえって国際社会で孤立を深める結果となり、英米連合国との戦争への道を進んでいった。
 「昭和11年時代の波は駒場の上にもひしひしと押し寄せ、2・26事件、日独防共協定等々、軍国主義に連なるただならぬ雰囲気が、学問の自由、籠城主義を守る一高をも包まずにはおかなかった。すでに昭和初期、左翼系学生の跳梁に驚いた文部省・学校当局は、全力を以て左翼思想の弾圧に乗りだし、その一つの手段として、生徒に極力体育活動を勧めていたのであるが、その傾向がますます強まってきていた。」(「向陵誌」弁論部昭和11年度)

「物怯ぢず進むは誰ぞ」
 「物怯ぢ」は、怯えておどおどすること。権力、特に軍部に対してである。現実には難しいことであるが、一高生の済世救民の意気を示すものと解す。
 
「我おきて我をしおきて 流轉の世導くなけん」
 「流轉の世」は、世の中を変える。軍国主義の世を正すこと。旧制高等学校生、なかんづく、護国を建学精神とする一高生には、憂国護国の念が強かった。ただし、明治の寮歌、たとえば、明治35年「混濁の浪」5番の「我等起たずば東洋の 傾く悲運を如何にせむ」と比べ、悲壮感の漂うのは如何ともし難い。
 「我等求道に懈怠して 誰が新世を導かむ」(昭和12年寮歌「春尚淺き」2番)

「腰に帯ぶ劍を鳴らし 向陵の兒ら今こそたたん」
 「劍」は、一高の伝統である尚武の心を喩える。「向陵の兒」は、向陵健児。一高生。

 「第三節は、前年の2・26事件後、日本の情勢は一変し、民政党斎藤隆夫氏の勇気ある粛軍演説も、軍の独走を阻止する力とならず、満洲国の外郭として華北五省に防共親日地帯建設をすゝめて、列国の風当りは益々厳しくなった情勢を『けはしき世日本を襲ふ」といい、之に対し『我おきて、我をしおきて、流転の世導くなけん』と古事記の日本武尊の言葉を偲ばせる蓋世の気慨を示している。之は、前年吉沢氏(「春尚浅き」の作詞者)の前出『我等求道に懈怠して、誰が新世を導かむ」と、絶妙な対照をなしている。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
参考:昭和11年1月13日、政府は、第1次「北支処理要綱」を決定して、河北五省の自治化を企画した。2・26事件後の同年5月7日に、斎藤隆夫は、衆議院で所謂粛軍演説を行い、軍部の政治関与を痛烈に批判した。
 
丘を立つ一日はせめて 若き日の(うたげ)()れん 遭はむとき期すべくあらず  いざ友よ(ほぎ)酒くまん 丘は今盛りのさなか さくら花旭に匂ひ 橄欖の翠まばゆく 野のはてに富士の()白し 4番歌詞 向陵を旅立つ一日は、せめて日頃の憂さを忘れて紀念祭の宴に酔い痴れたいものだ。卒業して向陵を離れれば、二度と会うことも期待できないのだから、さあ友よ、紀念祭を祝って、酒を飲み交わそう。向ヶ丘は、桜が今を盛りと咲き誇り、花びらは朝日に美しく輝いている。橄欖の葉は緑濃く、まぶしいくらいに立派だ。遠く武蔵野の西の果てには、霊峰富士の嶺に白雪が光り輝いている。

「丘を立つ一日はせめて 若き日の(うたげ)()れん」
 「丘を立つ」は、向ヶ丘を旅立つ。「若き日の宴」は、紀念祭の宴。「痴れん」は、酔い痴れよう。
 「痴れん」の「痴」のルビは、誤植であろう。昭和50年寮歌集で、「し」に訂正された。

「遭はむとき期すべくあらず いざ友よ祝酒くまん」
 「遭はんとき」は、再会の機会。
 「いま別れてはいつか見む この世の旅は長けれど 橄欖の花散る下に 再び語ることやある」(明治44年「光まばゆき」4番)

「丘は今盛りのさなか さくら花旭に匂ひ 橄欖の翠まばゆく 野のはてに富士の嶺白し」
 「丘は今盛りのさなか」は、向ヶ丘は、桜が今を盛りと咲いている。「匂ひ」は、色美しいこと。「橄欖」は、一高の文の象徴。「橄欖の翠まばゆく」は、自治の礎が固いことを意味する。「野のはて」は、武蔵野の西のはて。「富士の嶺白し」は、一高生に真理を黙示する。
 小野老 「あをによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今さかりなり」

 「第四節の後半は、寮の朝富士をうたった好叙景。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
                        

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