旧制第一高等学校寮歌解説

駒場野に

昭和17年第52回紀念祭寄贈歌 東大

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 駒場野に春は萠えたり    柏木の嫩枝手折り
 織り成せよ八重の友垣    祝ぎ頌へ正義の歌を
 荒み魂時の嵐よ        心なく丘をな吹きそ
 眞理(まこと)の子自治燈護る     星空の啓く宮居ぞ

 夕霞彌生ヶ丘に         花の雲穹窿(おほぞら)懸けて
 焰燃え昔の色の         (べに)掃くや(かな)しき頬に
 篝火に心も傷み         踏み慣れし木蔭迷へば
 橄欖樹花の褥か        朧月()(むせ)ばざる

        (3番略)

 鹿島なる葦原漕ぎて      荒川原軍鼓響けり
 漣や瀬田の唐橋         勝軍共に讃へぬ
 夕陽(いりひ)なほ波に散れども     ()しき者面わ變りて
 (つぶら)なる瞳慕へど         旅衣捨てし身なれば

 曠野原(あれのはら)流浪(さすら)へど       求道(きうど  う)象徴(しるし)忘れず
 茜きす沈淪の深淵に      顯正の两刃を揮ふ
 いつの日か運命(さだめ)の儘に     いづちにか憩ふと聞かば
 聳り立つ(あららぎ)(もと)        わが名をば葬らましを
*「茜きす」は昭和50年寮歌集で「茜さす」に変更。
譜に変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じである。

 16音符が続くと舌を噛みそうで、寮歌としては歌いづらい。めったに歌うことのない寮歌だが、実際のテンポは80以下だろう。
 ミファソーミーレーーの主メロディーは、軽快なリズムで、明るく素直であるが、戦死した場合は、「聳り立つ塔の下、わが名をば葬らましを」と死後にまで向陵を切々と慕う悲傷の詩には、長調より短調の譜が似合うかもしれない。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
駒場野に春は萠えたり 柏木の嫩枝手折り 織り成せよ八重の友垣 祝ぎ頌へ正義の歌を 荒み魂時の嵐よ 心なく丘をな吹きそ 眞理(まこと)の子自治燈護る 星空の啓く宮居ぞ 1番歌詞 向ヶ丘に春が来て、若草が芽を出した。柏木の緑の若枝を手折って、友情を築き、友垣の輪を広げよう。そして、時世に阿ることなく正義を貫こう。軍国主義の無情の嵐よ、向ヶ丘にだけには吹かないようにしてくれ。向ヶ丘は、自治の教えを守って籠城し真理を究める一高生が、星空を仰いで黙示を得る神聖な丘であるのだから邪魔しないでくれ。

「駒場野に春は萠えたり」
 「駒場野」は、駒場・向ヶ丘。「春は萠えたり」は、若草が芽を出した。

「柏木の嫩枝手折り 織り成せよ八重の友垣 祝ぎ頌へ正義の歌を」
 「柏木」の葉は、一高の武の象徴。「柏木の嫩枝手折り」は、向ヶ丘の起き臥しの中で、一高の伝統や精神を学び、また対校試合に情熱を燃やしての意。「嫩枝」は、若い緑の枝。「友垣」は友達のこと。交わりを結ぶのを垣を結ぶのに喩えていう。
 「手折りてし橄欖の枝」(昭和8年「手折りてし」1番)
 「友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ」(明治40年「仇浪騒ぐ」4番)

「荒み魂時の嵐よ 心なく丘をな吹きそ」
 「荒み魂」は、荒御魂、物事に対して激しく活動する神霊。ここでは、軍国主義の嵐。「心なく丘をな吹きそ」の「な・・・そ」は、禁止の意をやさしく表す。どうか・・・・しないでおくれ。
 後鳥羽上皇 「我こそは新島守よ 隠岐の海のあらき浪風心して吹け」
 「活動的な荒々しい神霊がおこしている、時代の嵐よ(軍国主義全体についていっている)。向陵にだけは軍国主義の悪風は吹き荒ぶなの意。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「眞理の子自治燈護る 星空の啓く宮居ぞ」
 「星空の啓く宮居」は、星が黙示を与える神聖な丘。「宮居」は、神が鎮座すること。また、その場所。
 「今はた丘の僧園に 晨の鐘も鳴り出でて」(大正2年「ありとも分かぬ」3番)
 「神宮の邊に新しく 傳統の法火かゝげんと」(昭和10年「橄欖香る」黙示)

 「第一節に於て、時局の心ない嵐が、向陵の地に吹き荒んで、可惜かけがえなき頭脳が戦場に瓦礫の如く拉致されることをいたみ、・・・向陵を窮理のための宮殿と讃えている。当時の検閲の状況を考えると、之は相当以上の勇気ある表現だ。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
夕霞彌生ヶ丘に 花の雲穹窿(おほぞら)懸けて 焰燃え昔の色の (べに)掃くや(かな)しき頬に 篝火に心も傷み 踏み慣れし木蔭迷へば 橄欖樹花の褥か 朧月()(むせ)ばざる 2番歌詞 夕霞のかかった向ヶ丘に、咲き連なった桜の花雲が夕陽に映え、まるで空に懸かった虹のようだ。赤く燃え上った篝火の炎に、愁いに沈んだ一高生の頬が、紅を掃いたように照り輝いている。その姿を見ていると、血潮を滾らせ、頬紅に燃えていた頃の一高生の昔の姿が思い出され、心が痛む。通い慣れた彌生道の木蔭を逍遥すると、橄欖の花は道に敷きつめ、春の月は、朧に煙っていた。こんな世の中に生きていると思うと、悲しくなって、咽び泣かない者など誰もいないだろう。

「夕霞彌生ヶ丘に 花の雲穹窿懸けて」
 「彌生ヶ丘」は、本郷一高が彌生町にあったことから、向ヶ丘を彌生が丘ともいう。「花の雲」は、咲き連なった桜の花が春霞と重なって、雲のようになったさまをいう。「穹窿」は、大空。
 「彌生岡に夜は更けて 風爛漫の花を吹き」(昭和14年「光ほのかに」1番)

「焰燃え昔の色の 紅掃くや愛しき頰に」
  「昔の色」は、頬紅に輝いていた頃の元気な顔色。

「篝火に心も傷み 踏み慣れし木蔭迷へば」
 「篝火」は、寮歌祭の篝火。

「橄欖樹花の褥か 朧月誰ぞ哽ばざる」
 「橄欖」は、一高の文の象徴。「褥」は、座る時などに敷くもの。
 「綠もぞ濃き柏葉の 蔭を今宵の宿りにて 夕べ敷寝の花の床 旅人若く月細し」(明治36年「綠もぞ濃き」1番)
 「(戦争勃発で心を痛めるとき)おぼろ月にむせび泣かない者があろうか。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
かたみにぞ笑まひ交して 湧き出づる悦び湛へ 幻の感激の日を 雄々しくも止めむ我は 今宵また若き生命ら 五十年(いそとせ)の謎に()くらし 灯火もやがて盡くれど 秘めし夢我は語らず 3番歌詞 互いに笑って挨拶を交わして、毎日が喜びに溢れて過ごした向ヶ丘の感激の日々は、今や遠い日の幻となったが、男らしくこの胸に秘め、嘆くようなことはしない。
今宵もまた、若き一高生は、真理追究の旅に出かけ、先輩たちが50年の間、追究してきた人生の謎を解こうとして、解くことが出来ず、すすり泣いているようだ。灯の火はやがて尽きても、胸に秘めた夢は誰にも打明けない。

「かたみにぞ笑まひ交して 湧き出づる悦び湛へ」 
 「かたみ」は、互いに。
 「みな我がために笑ひして」(大正5年「わがたましひの」2番)

「幻の感激の日を 雄々しくも止めむ我は」
 「幻の感激の日」は、今は幻となった感激の日。向ヶ丘が向ヶ丘らしくあった昔。

「今宵また若き生命ら 五十年の謎に歔くらし」 
 「五十年の謎」は、一高生が五十年間探究してきた真理、人生の奥義。「らし」は、推量の助動詞。

「灯火もやがて盡くれど 秘めし夢我は語らず
 「灯火もやがて盡くれど」は、灯の火がやがて尽きるけれども。「灯火」は、消灯時間の灯か、向ヶ丘三年の灯か、あるいは紀念祭の祭りの灯か。「今宵」が、この句にもかかるとすれば消灯時間の意だが、向ヶ丘三年の意も捨て難い。「秘めし夢」は、「幻の感激の日」を取り戻すこと。自由で活気の満ちた向ヶ丘の夢。
 「『秘めし夢』は、今は胸に秘めておかざるをえない、かっての『感激の日」の夢をいうものであろう。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
鹿島なる葦原漕ぎて 荒川原軍鼓響けり 漣や瀬田の唐橋 勝軍共に讃へぬ 夕陽(いりひ)なほ波に散れども  ()しき者面わ變りて 圓(つぶら)なる瞳慕へど 旅衣捨てし身なれば 4番歌詞 端艇部の大利根遠漕では、鹿島の葦原の夕景色を眺めて漕いだ。荒川の尾久では、三高水上部を迎え太鼓を打ち鳴らして大應援合戦を繰返し、京都に遠征し三高に勝利した時には、せゝらぐ岸辺に立って瀬田の唐橋を眺めながら、仲間と昼間の勝利を讃えあったものだ。凛々しい端艇部員は、なおも三高戦に備え、夕陽に輝く荒川の金波銀波を切ってオールを漕ぐが、対三高戦が中止となった今、つぶらな瞳に落胆の色は隠せない。

「鹿島なる葦原漕ぎて 荒川原軍鼓響けり」 
 「鹿島」は、端艇部の大利根遠漕を踏まえる。江戸川から運河を経て利根川に出て、河口の銚子まで下る。途中、佐原、布佐、潮来等に泊まる。香取、鳥栖、鹿島神宮に勝利を祈願したりした。最終目的地の銚子では、よほどうれしかったのか宿所「大新」(現在も営業)で飲み明かしたようである。一高最後の大チャン(対校選手)による利根大遠漕は、昭和12年に行われたが、帰りは佐原から汽車で帰寮し、復路は理チャン(理科代表選手)が艇とオールを引き継いで遠漕した。
 「波逆浦、潮来、與多浦の清流を乱して、水鳥の夢を驚かし佐原着」(「向陵誌」端艇部部史昭和7年大利根大遠漕復路)
 「九つと出たわいなヨサホイノホイ 漕ぐ手休めて眺め入る ホイ 潮来出島の夕景色 ホイホイ  十と出たわいなヨサホイノホイ 遠い旅路を恙なく ホイ 今宵大新飲み明かす ホイホイ」(「一つ出たわいな」)
 「荒川」は、荒川で行われた対三高端艇戦を踏まえたものであろう。組選(クラス対抗レース)、対科レース(文端・理端の対抗戦)や、東大主催のインターハイなど、数多くのボート戦が荒川で行われた。この頃の端艇部艇庫は、昭和20年の東京大空襲で全焼するまで荒川の尾久にあった。ちなみに、一高艇庫としては他に、古い向島艇庫があり、幻と終った昭和15年東京オリンピック用に整備された戸田コースに600坪の艇庫用土地を確保していた。

「漣や瀬田の唐橋 勝軍共に讃へぬ」
 「瀬田の唐橋」は、京都遠征で、三高水上部(端艇部)と熱闘の対校戦を行なったところ。「勝軍共に讃へぬ」は、昭和15年の対三高端艇戦を踏まえるか。 この年の四部(野球・端艇・陸運・庭球)の対三高戦は、三高に3勝1敗(野球のみ0-1Aで負け)の成績であった。端艇部は瀬田で試合を行い、15挺身・40秒の大差で三高に勝利した。先輩として、または応援団として京都まで応援に行き、味方の勝利に選手共々酔いしれたことであろう。ちなみに、昭和14年の対三高ボート戦は、東京・尾久で行なわれ、これも8挺身差で一高の勝利であった。(端艇部は、昭和2年から昭和22年まで対三高戦無敗)。 なお、昭和16年の対三高戦は、7月12日の文部省通達により、中止された。
 「夢遙かなる石山の 瀬田の唐橋仰ぎつゝ」(昭和14年「光ほのかに」2番)
 柿本人麻呂 「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのにいにしへ思ほゆ」
 平 忠度 「さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

「夕陽なほ波に散れども 美しき者面わ變りて」
 「夕陽なほ波にちれども」は、川面に映った夕陽が、波を切るオールに散らされるけれども。三高戦が諦められず、なおも練習を続けている様をいうと解す。「美しき者」は、可憐な一高端艇部員。「面わ」は、顔。「わ」は輪郭の輪の意。
 「せゝらぐ岸邊に佇めば 晝の戰の跡もなく 月影冴えて銀と散る」(昭和14年「光ほのかに」2番)

「圓なる瞳慕へど 旅衣捨てし身なれば」
 「旅衣」は、ここでは試合衣(ユニフォーム)。この年、端艇部の試合は、9月、東大と覇を争い惜敗した尾久最後のインターカレッジがあったが、一高生が最も燃えたのは、対三高戦であった。血の滲む練習と若き情熱の全てを注ぎ全寮挙げて臨んだ対三高戦は、前述したように、文部省通達により、突然、中止された。この事を踏まえる。
 昭和16年7月12日、村上教授の出征壮行会の席上、全寮生寝耳に水の衝撃の禁止令が佐藤主事から発表された。
 「昨日、校長が文部省に呼ばれ、今年の運動の様々な試合、合宿は不可能な旨申し渡された。・・・これにつき思うのは三高戦である。四部完勝を逸し、また雌雄を決せんものと一途に精進してきた者、とくに三年生諸君は残念であろう。だが、事態はいかんとも仕方がない。・・・・一同、呆然として佐藤主事の話に聞き入ったが、そのときまた食堂部料理人助手笹川修一郎の応召が伝えられ、集会はそのまま同君の壮行会に切り替えられた」(「一高応援団史」)ちなみに、対三高戦は、戦前では、2日間限りであるが翌年昭和17年に、一度だけ復活している。
曠野原(あれのはら)流浪(さすら)へど 求道(きうどう)象徴(しるし)忘れず 茜きす沈淪の深淵に 顯正の两刃(もろば)を揮ふ いつの日か運命(さだめ)の儘に いづちにか憩ふと聞かば 聳り立つ(あららぎ)(もと) わが名をば葬らましを 5番歌詞 思想昏迷の厳しい世の中であっても、一高生は、使命である真理の追求だけは忘れない。多数の犠牲を払ったにもかかわらず泥沼化し、いつ果てるとも分からない支那事変に、一高生として正しい真理を示そう。何時の日にか、自分にも召集があれば、運命として受け止め、戦地に赴こう。戦死して、どこに永眠したいかと聞かれれば、そそり立つ時計台の下に、我が名を葬ってほしい。

何処にわが魂が憩うかと聞かれれば、それは聳え立つ時計台の下、その時は我が名を時計台の下に葬ってほしい。

「曠野原我流浪へど 求道の象徴忘れず」 
 「曠野原我流浪へど」は、思想昏迷の世にあっても。「求道」は、真理を求めること。
 
「茜さす沈淪の深淵に 顯正の兩刃を揮う 
 「茜きす」は、おそらく誤植。昭和50年寮歌集で「茜さす」に変更された「日」「昼」「照る」「君」「紫」にかかる枕詞だが、ここでは、夕陽に赤く染まったの意。「沈淪」は、沈む、落ちぶれるの意。「沈淪の深淵」は、深い淵に沈む、泥沼化した支那事変をいう。「顯正」は、(仏)正しい真理をあらわし示すこと。破邪顕正と使う場合が多い。「顯正の两刃を揮う」とは、戦争批判を意味する。非常に勇気のある詞である。
 「『茜さす沈淪の深淵に』は、中国との戦いのことをさしているか。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「いつの日か運命の儘に いづちにか憩ふと聞かば」 
 召集を受け、戦地に赴き、戦死することもありうべしとの悲壮な覚悟を示す。戦争という大きな壁が若き学徒の将来ある前途を遮り、生命をも脅かしたのである。悲惨である。
 「『いつの日か運命の儘に』は、戦場に駆り出され戦死の運命に陥ることを暗にこう表現している。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)

「応召生徒第1号をさかのぼれば、三年前の昭和13年9月15日、突如として赤紙をもらい、小倉の野戦重砲隊に入隊した理甲三年山田公吏〔理端、昭和11年度急先鋒〕だったと思われる。昭和16年、7月に入ると、まず理甲岡田章に赤紙が来た。7月5日、嚶鳴堂で壮行会が開かれ、9日、同君は向陵を去った。7月10日、教練の近藤義男講師〔陸軍中尉〕の壮行会。11日、体操の桑折久助教授〔陸軍中尉〕の壮行会。そして12日午後1時から数学の村上成一教授〔昭和6年理甲〕の壮行会が嚶鳴堂で開かれた。」(「一高応援団史」)

「聳り立つ塔の下 わが名をば葬らましを」
 「塔」は、一高のシンボル時計臺のこと。「あららぎ」は、斎宮(天皇の即位毎に選定されて、伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王または女王)の塔の忌詞で、アララ(粗)キ(葱)の意といわれる。「まし」は、願望の助動詞。

 「終節は、・・・どんな苛烈の時局の中でも、求道、究理、顯正の志は堅持することをうたい、最後に人間だから、まして出征を控えている吾々だから、いついかなる処で死ぬか判らないが、・・・ わが名は、愛する時計台の聳える向陵の土に葬って貰いたい、と結んでいる。この章、愛寮の極致というべきだろう。この言葉を生んだだけでも、一高というものが、いかに貴重な存在であったかを知る。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
 
                        

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