蝶の山登り
                        遠藤英實 作 0 始めに 1 モンキアゲハの山登り 2 オオムラサキの山登り 3 アオバセセリの山登り 4 ヒメウラナミジャノメの山登り 5 蝶研究の“統計学的手法”なるもの 6 終わりに 0 初めに 蝶の山登り(ヒルトッピングと云うらしい)に関していろいろ取り沙汰されている。 確かに、(私も観察しているが)蝶は山登りをするようだ。 ところが、「その目的は?」となると、皆目分かっていないのではなかろうか。 “学説”としては、  ・交尾の為。  ・麓が高密度ならわざわざ登山しなくても良いが   (交尾が困難ではないから)、    低密度なら狭い場所に集まって出会いを高める為。  ・交尾なんぞ関係ない。頂上に食草があるから。  ・出会いの場所は、そこここにある。   山の頂上もその一つに過ぎない。  ・etc など、百花斉放(大げさ?)だが、 肝心の交尾がさっぱり目撃されていないのだから、 例によって、プロのから騒ぎと思ってしまうのである。 それに、どこまで確かめれば定説になり得るかの基準がないから、 それが、立派な学問なのか、ダボラなのか、データ捏造なのか、 素人には分かりにくいのである。 それでも、実験室内でのデータの計量分析と違って フィールド調査は、素人にも(つまり私にも)理解出来る。 私は数値、数式に関しては、並みの昆虫学者よりは勉強してきたので、 この方面に関する数学好きのプロの“学術論文”に関しては、十分理解出来る筈だが、 あまりにも馬鹿馬鹿しいのが多いから、大体途中で読むのを止めている。 だから私にも進歩はないのだが、あれこれ並べ立てていてもしょうがないから、 取りあえずタイトルに述べた話題について雑文を提供したいと思う。 1 モンキアゲハの山登り 私は、昭和45年頃は静岡市に住んでいた。 故郷(盛岡市)にはお盆の頃帰省して野山に虫を追いかけたものである。 近郊に高洞山という500m弱の山があった。 色々な蝶を惹き付け、従って虫屋も惹き付けた山である。 或る日、帰省して高洞山に登ってみると頂上でモンキアゲハがバタバタと飛んでいた。 静岡ではモンキアゲハは珍しくはないけれど、岩手県では珍しかった。 (当時北限は、茨城、福島辺りだったと思う。) 多分当時は、現存する岩手県の唯一の採集品のようだった。 (バックアップファイルが壊れて採集年月日が不明になってしまったのは遺憾。)   高洞山 採集年月日不明(多分S45年頃) ♂(後翅の赤紋が希薄だから?) 高洞山は、頂上は極狭いのだが(3,4人で鬱陶しい)、 頂上まで植物に覆われているので、各種の蝶が集結していた。 モンキアゲハは「放浪性」のある蝶として知られているから、 放浪の果てにこの地に辿りつき、そして高地を目指したのだと思う。 が、それにしても不思議なのである。 岩手県なら、山は殆ど無数にある。 ところが、蝶や私を惹き付けてやまないこの山に、そして正しくこの山に、 わざわざやってきたのだ。 天から舞い降りて来たのか、或いは天へ旅立とうとしていたのか? 当時はあまり(というか全く)考えなかったけれど、 今は捕まえたことを大層後悔している。 いずれにしろ、“交尾の為に遠路はるばるやってきた”訳ではではあるまい。 ましてや、“交尾効率”を計算していたわけではなかろう! 英国の登山家ジョージ・マロリーは、 「なぜあなたはエベレストに登りたいのですか?」と問われて 「そこに、その山があるから」と答えたとのことだ。 そして、「エベレストに登る目的」を自問して、 「山頂の一個の石を欲しがる地質学者を満足させ、 人間がどの高さで生きられなくなるかを生理学者に示す以外、 何の役にも立たない」と自答したらしい。 モンキアゲハも問われたら、そのように答えたような気がする。 2 オオムラサキの山登り この頂上は、オオムラサキが登って来る山として良く知られていた。 私や友人が採集した個体は全て雄であった。 だから、この地は雄の縄張り争いの場(というよりも息抜きの場)であったと思う。 集結してくる樹は一本の大木で、種名は分からない。 (つまらない針葉樹ではなかった。) その大木が既に占拠されていれば、他のオオムラサキは周囲の木々で我慢をする。 多くても、集まって来るのは(同時に目撃出来るのは)3〜4匹ではなかったろうか。 他の蝶(カラスアゲハ、アゲハチョウ、アカタテハ、ヒカゲチョウの類、 吹き上げられてくるゼフの類etc)とは飛び交う高さが違うので、 あまり諍いはなかったように思う。鳥との闘いは見た記憶がない。 オオムラサキは、巷間云われる程にはあまり戦闘的ではなかったような気がする。 雌については、麓の樹液を探し回った。 産卵場所(つまり生息地)も知られていたけれど、そこは公有地で、本来入場禁止の場所であった。 蝶友によれば、今ではこうした場所でも目撃出来ないのだそうだ。 排気ガスのせいではないかと蝶友は云う。 幼虫は乾燥を嫌うとウェブサイトに書かれていた。 だから私は、都市の乾燥化も一因ではないかと思っている。 高洞山の頂上の雄は、今はどうなっているのだろう。 実は、平成23年、40年ぶりにこの山に登ったのだが、 オオムラサキの到来時期から外れていたので、残念ながら目撃出来なかった。 平地では衰退しているのに、もし今でもオオムラサキが山登りしているのなら どこか別の場所から飛来して、相変わらず山登りしているわけだ。 そうなると、交尾なんぞ関係がない。オオムラサキもマロリーと同じなのである。 山(気に入った山)がそこにあるから登るのだ! 3 アオバセセリの山登り 往時高洞山には、アオバセセリも登ってきたのである。 大体2匹、稀に3匹が猛烈な勢いで互いの廻りを飛び回っていた。 古びた個体が多かったし、麓には真新しい個体も沢山いたから、 採集はしなかったが、多分雄ばかりではなかったろうか。 そして平成23年、40年ぶりにこの山に登ってみた。 驚いたことに、アオバセセリが2匹、猛烈な勢いで互いの廻りを飛び廻っていたのである。 往時と全く同じであった。 これ程感激したことは多くはない。 頂上から盛岡市を一望に見渡せるのだから、 アオバセセリが直線距離で飛んで来れば、 高さ500m、斜辺1000m、秒速10m/sec(オリンピック選手なみ)とすると、 100秒もかからないが、 こんな計算は意味がないのは、私にも分かる。 彼らは毎年毎年40年間、何を求めて飛んで来ていたのだろう? オオムラサキが求めていたものと同じなのだろうか? オオムラサキもアオバセセリも、その一部(少数?)がマロリーと同じ気持ちなのだろう。 全部がマロリーと同じで気持ちではないと思う。 人間だって極一部(コロンブス、マゼラン、伊能忠敬、海賊キッドetc)が 冒険家ではないか! スミナガシは麓に今でもいるが、頂上に登って来たことはない。 つまり、スミナガシは皆、マロリーと同じ気質ではない。 とは云っても、彼らもおとなしい蝶ではない。麓を縦横に飛び廻っている。 前述の如く、高洞山の頂上には沢山の蝶が集っていた。 が、私は彼らの交尾を目撃した記憶がない。 (統計学的には)交尾は無視しうる行動なのである。 外国人の論文に扇動される、或いは都合よく便乗してはなるまい。 アオバセセリの山頂の飛翔に関する論文を読んだ。 占有場所が「少しずつ」変わっているから、「占有」とは云えないのだそうだ。 高洞山では、40年間全く同じ位置であった。それじゃ、この場合は何と云うのだろう? 私のヒメアカタテハの調査では、場合分けすると、  a 毎年同じ場所で諍いをおこす。  b 諍いをおこすが、場所としては一過性である。  c 諍いが2、3日続くことがある。(この日数は変動する。)  d 諍そわない。 ということになる。(勿論種によって、これらパターンの重みは違ってくるだろう。) いずれにしろ、こうした議論は、(例によって)外国人が持ち出してきたものらしい。 やれやれ・・ ついでに 東京生田緑地でクロヒカゲを追いかけ、疲れて休んでいたら ひょっこり足元にアオバセセリの子どもが現れた。私を激励するつもりだったのか? これにも感激した。 蝶追っかけ屋の本懐、これに非ずや!    H29-09-27 5令?    4 ヒメウラナミジャノメの山登り ヒメウラナミジャノメの山登りというのは、あまりピンとこないだろうが、 定義を変えればどうにでもなるものだ。 反面、定義によってどうにでもなるというのは、あまり自然科学らしくはない。 それなら、自然科学の呪縛から逃れれば良いのに、 何としても入れて貰おう と卑屈になるのは情けない。 それはさておき、 @ヒメウラナミジャノメが山登りをしていると私が主張する所以を述べる。  a 毎年、少数(私の観察では1日1匹程度)が山(私のレポートに登場する生田緑地内)に登る。   「登る」といっても、私の登山中にいつの間にか一緒になっているのである。  b 現れる時もあれば、現れない時もある。現れない時の方が多い。  c 登るのか降るのか明確ではないが、山の上部で見かけることが多いから   多分登っているのではないか。  d 途中の林道は、樹幹に囲まれた暗い環境である。   つまり、ヒメウラナミジャノメが好まない環境である。   そういう環境をしぶとく登って来るだから、何か理由がありそうだ。   ないかも知れない。  e 私が目撃した範囲では、殆ど雄のみである。雌が偶にはいた。  f 出発地点が分からない。いつの間にか私と一緒になっているのである。   廻りは殆ど立ち入り禁止だから調べようがない。  g 頂上で、何をしているのか分からない。   1日で姿を消すようでもあり、2〜3日いるようでもあり、もっと長いようでもある。  h 生田緑地の麓全体のヒメウラナミジャノメの個体数は、下表の通りである。   多摩川や野川に比べれば多いとはいえないが、滅びつつあるというわけでもない。   ここから1、2匹が、未だ見ぬ頂上へと旅立ってくるのである。  i 頂上では、ウラナミアカシジミやミズイロオナガシジミを目撃したことがある。   (それぞれ1回だけ)   これらは明らかに、風に吹き飛ばされたのであろう。                      桝形山頂上のウラナミアカシジミ(風に飛ばされた?)             生田緑地のヒメウラナミジャノメの個体数            A頂上(桝形山)への遊歩道を示す。      頂上桝形山(84m)西側        東側      飯室山展望台(頂上のいささか下部)       途中の遊歩道(ヒメウラナミジャノメにとってはつまらない環境)   登り口 B 以下に観察例(写真)を示す。撮影順である。 他にも写真はあるのだが省略する。       H24-08-03 桝形山頂上西側       H24-08-07 同        アベリア   H25 5-15 枡形山と飯室山の中間付近で吸水     H25 5-23 飯室山への登り途中   H25 7-9 同     H25 8-2 桝形山頂上西側       H25 8-27 同   H25-09-01 飯室山     H25 9-9 ヒメ♂ 枡形山と飯室山の中間付近  同♀ 珍しくペアがいた。とはいっても、交尾関連行動は見られなかった。      H26-05-10ヒメ♀桝形山頂上東側      ハルジオン      H26-07-14 枡形山頂上東側     H26-07-29 同 ヒメウラナミジャノメの吸蜜はいつ見ても楽しい。   H26-08-04 飯室山   H27-05-10 枡形山頂上東側     H27-08-24 飯室山       H27-09-14 同     H30-9・18桝形山東側                       H31-5・13 桝形山東側 前日(H31-5・12)も同じ場所で確認している。多分同一個体だろう。 C 総括の弁 ヒメウラナミジャノメ如きで大騒ぎするな! と云われそうだが私としては、 “だから面白い。” 摂った写真はもっと多いし、摂り逃がした光景も多い。 H28、H29は、クロヒカゲに感けて撮れなかった。 それでも、彼らは着実に山登りしている! ヒメウラナミジャノメの他の観察地では、発生地から極一部が放浪の旅に出るようである。 雌の方が多いように思うが、多分産卵の旅ではなかろうか? そして、それを雄が追いかけて・・ ところが今般のケースでは、彼らにとっては得手ではない環境を長駆登ってくるのだ。 毎年、毎年、粘り強く!! そして、頂上で楽しそうに吸蜜している光景が、また何とも云えない。 彼らは、交尾可能性の多寡”を勘案しているわけではなかろう。 ヒメウラナミジャノメも、マロリーと同じ気持ちなのだろうか? マロリー程恰好良さそうではないのが、何となく良い。 5 蝶研究の“統計学的手法”なるもの 以前から気になっていたことがある。 蝶学(生物学全般か?)の数学的手法(論理学的手法?)、統計学的手法についてである。 私も、統計学について知ったかぶりをしてみる。 先ず簡単の為に、工場の出荷製品について考える。     毎年、100万個製品を作るとする。出荷する前に品質検査をしなければならない。     全部は検査出来ないから、例えば1万個を抜き出して(サンプリングして)検査をする。     偏りなく抜き出さねばならない。例えば熟練工の作った製品のみを検査して     “合格”というのでは、インチキと見做され後で叩かれる。     (今はなによりも、内部告発が怖いのだそうだ。)     整理すると、      a 製品の合格の基準を決める      b 合格率が何%以上なら、全製品が出荷可と決める      c 検査用の製品を“バランス良く”抜き出す      d 厳しい製品ならばサンプルの数も多くし合格率も高くしなければならぬ。      e“バランス良く”というのは、担当者の悪知恵、浅知恵、後知恵、手抜き、がないことである。       工場製品なら全てコンピュタに登録されている(筈)だから       手順に従って機械的に誠実にやれば良い。       とは云っても、検査の対象によって難易度は違ってくる。       飛行機や薬の検査は厳しいだろうが、蝶の研究如きはどうでも良いのだろう。       (蝶の場合、そもそも全くこのような手順を踏まないで、        仮説は有意であった、なかった、        つまりインチキを宣うているような気がする。) 以上なのだが、生物の統計学を考えると、 植物は動かないから、生育状況の判断など、動物に比べれば楽そうである(無責任かな?)。 そもそも統計学というのは、米国の農学者が貢献してきたらしい。         **************************************************************************                        閑話         素人は確率・統計学というと、パスカルやベルヌーイのバクチの理論を思い浮かべるが、         今はそうではない。ソ連の数学者コルモゴロフを以て始祖とする。         コルモゴロフは、ソ連の独裁者ブレジネフにも自由に電話をかけられたそうだ。         **************************************************************************** 動物は難しい。蝶は一層難しい。 何故難しいかを説明するために、先ず、確率・統計の一般論を述べる。 以下に定義する。  ・母集団     :自分が調査しようと考えている対象全部  ・見本(標本)集合:全部は多すぎる(あるいは把握できない)から            その一部を調査対象とする。これが見本(標本)集合。  ・サンプル    :見本(標本)集合の各要素(例えば、捕獲した各蝶)  ・確率      :計算に使うための数値           (例えば蝶で、見本集合1000匹なら各蝶に1/1000の確率を与える。            勿論目的に応じて値を変えても良い。) ある仮説について、この見本集合に対してあれこれ計算をして、母集団での結論と見做す!のでる。 (母集団全体を使っての計算は、大変あるいは不可能だから現実に妥協するわけである。) だからと云って、10個程度のモンシロチョウをプロットし、ついでに回帰直線を引っ張って “これが、モンシロチョウの法則である”と主張するのは、怪しからん話なのだが、 蝶界では通るのは不可解千番なのでる。 “蝶の法則なんてどうでも良い”と云うのなら、税金を使うな!使わせるな!と云いたい。 例題を取り上げてみる。 例題:或る観察対象域の或る蝶の個体数を数えたい。    但し、個体数は、調査期間中は増減が無いとする。     (私は、「素朴に数え挙げていけば良い、そしてそれしかない」      と思うのだが、それでは“自然科学の論文”にはならないらしい。)   X:知りたい個体数(これは未知)   m:捕獲された1回目の個体数(観察者が捕獲する)     捕獲時はランダム(偏りなく)に取り出す必要はないが     放した後はランダムに(偏りなく)散らばっていなければならない。     それなら最初から(捕獲時においても)ランダムに獲る必要があろう。    (集中的に捕獲した蝶が、放してからランダムに散っていく可能性はまずない。     そのままその近くに留まっているであろうから。)     「偏りなく」というのは、多い場所ではそれに応じて多く、     少ない場所ではそれに応じて少なく という意味である。     イメージは湧くと思うが、調査で実現するとなると不可能な程に難しい。     捕獲された蝶にマークをつけてその都度放していく。つまり、m個にマークがつく。   r:2回目の捕獲数。     これは最初からランダムに捕獲しなければならない。     2回目の捕獲の中から、1回目のマーク済みの個体を確かめていく。   s:2回目の捕獲数r個のうち、1回目のマーク有り の個体数    「X中のmの散らばり程度は、rに制限した上でのmの散らばり程度つまりsの散らばり程度と同じ」 と考えてもそれ程狂いはないであろうから     m/X=s/r これからXが求められる。 Petersen法とJolly-Seber法があって、上で紹介したのは“簡単な”Petersen法である。 つまり、Xに変化がない場合(出生・死亡・移出・移入がない場合)なのであるが ちょっと考えても、決して簡単ではないことが分かる。 (因みに、Jolly-Seber法(出生・死亡・移出・移入がある場合)には、  3回以上の捕獲が必要なのだそうだ。想像を絶する。) Petersen法でも簡単ではないと云うのは、  @ 2回もランダムサンプリングもしなければならない。     学者は気楽に語るが、実践しようとすると雲を掴むような話なのである。     しかも、1回目と2回目とは独立でなければならない。説明が難しいのだが、       ・1回目は全体の中でランダム       ・2回目も全体の中でランダム      ・1回目は2回目の中でランダム      ・2回目は1回目の中でランダム     ということだ。     どうやれば、現場でこのようなことを実現出来るのだろう。     1回目と2回目を同じにするというのは話にならない。  A 蝶は、母集団内を移動している      ・或る部分集団は活発に      ・或る部分集団は緩やかに      ・或る部分集団は殆ど静止     どうやって現場で、ランダムサンプリングが実行出来るのだろう。    B 観察者はそれでも、自ら現場を廻って(自分の足で)試行錯誤で数え挙げていかねばならぬ。     学者はこのような作業をせず、空論を(しかも他人の空論を)     気持ちよさそうにぶち上げているのである。 云わば三重苦の難行苦行なのだ。だから私は、プロの使用法に関心を持っていたが、 どうも全数調査を行っているようなのだ。 つまり、毎回、(近似的にでも)全数調査をおこなっているのである。 これならこれでスッキリしている。計測結果を毎回素朴に披露すれば良い。 毎回素朴な全数調査だから、ナンタラ手法よりは精度が良いに決まっている。 ところが、全く余計な分散値を付け足すから、かえって訳が分からなくなってくるのでる。 どうも、分散の計算も載せないと論文の価値が減る(或いは論文として認められない) と思っているようだ。 また、“分散値を計算することによって、計測精度の悪さも評価する”ことになるらしい。 分散値というのは、その理論の提唱者の仮定と近似手法が独断的に使用されているものだ。 受け付けない人間にはちっとも分からないのだ。 客観的にどちらが精確な近似か?と云われたって、そんなこと誰にも分からない。       ************* 「偏りなく」の意味 ***********             ここで、「偏りなく」の意味について説明する。       実践の場では甚だ難しいのだが、パソコンのプログラムで実験してみれば       「偏りなく」の雰囲気が良く分かる。       例えば、平面上にある領域を設定し、10000個のデータを対象とする。       100個のデータを、乱数プログラム(沢山ある)を使って散りばめる。       それなりに偏りなく散らばってくれる。       200個のデータを散りばめる。それなりに偏りなく散らばってくれる。                ・               ・       10000個のデータを散りばめる。       10000個では多すぎるから、例えば300個を研究対象とする。       この300個が全体10000個の代表=見本集合なのである。       この例では、散りばめていくのだが、観察の現場では、逆になる。       現場では、逆に「偏りなく」取り出していかねばならない。       これもパソコンで実験出来るのだが省略。       ************************************ 審査の先生方にしたって、計算の意味なんぞ分かるものか! “調査の現場では、微調整が必要になる” と書いていた本があった。 「微調整」というのは、例えば或る機器を作り上げて、最後に音量・輝度調整のボタンを いじることなのである。その程度の作業なのである。微調整だって! 自分の著書に、どこかから引っ張ってきた他人の凄まじい分散計算式を書き散らしておいて、 “詳しくは何たらを読め!” だって! 先ず自分が読め! “数理モデルで解析した”、“コンピュータ・シミュレーションをした” なる文言を良く見かける。 “如何にも、真理に肉薄している”ように素人は考えるだろうが、 前述のデータ例のように、 パソコン通なら(蝶なんぞ何も知らなくても蝶屋の希望に沿って)、 どんなデータでも“製造してくれる”。 だから、このような“研究”はデータ捏造に等しいと云える。 たかが蝶のカウントに、高等数学(?)を駆使する必要がどこにあろう。 家庭菜園に集まってくるモンシロチョウにしたって、 ・家庭菜園の個数 ・家庭菜園の配置状況 ・作物の種類 によって、 変化自在に(つまり予測不可能に)飛び回るのである。 蝶学者は、そんな”研究”をする前に自分の子や孫のハイハイ運動を解析せよと云いたい。(自腹を切って。) 6 終わりに 最近、学者の論文不正事件が話題になっている。 蝶屋の論文にもいかがわしいのが多いけれど、 蝶の生態研究なんぞ、どうでも良い と世間は思っているから、騒がないのかな? ただどちらも、外国の論文が絡んでくるのは面白い(というか悪質というか)。 “外国の文献なら、どうせ誰も読まないだろうからばれない” というわけで、 引用がインチキだったり、捏造まで罷り通るのである。 或いは、“外国の文献”自体がインチキだ。 ところが、やっぱり妥当か否かを確かめる人は現れる。 何か狙いがあるのかも知れないし、純粋に正義感からかもしれない。 私も無関心派ではないが、私の場合は単純に、 “こんな連中に税金をつぎ込むな!”ということだけである。 その点、ファーブルは偉いなぁとしみじみ思う。 (自費でこつこつ観察していたから。) “ファーブルの著作は論文ではない。エッセイに過ぎない” なる夜郎自大の御託がある。 それなら、自分の“論文”はどうなのだ! 支離滅裂、牽強付会、我田引水のオンパレードではないか! 例えば(頻繁に見られるのだが)、 “有意であった、なかった”なる主張が“論文”に入っていることである。 これは本来、 「前記見本集合に対して、或る事象或いはその否定の確率を計算し、  自分の(或いはその道のプロの)想定範囲であった、なかった云々」 なる議論なのである。 読む人が読めば、そういう手順を踏んでいないことは直ぐ分かる。 そもそも、最初から計算すらしていない。 (実際に踏もうとすれば、それはそれで大仕事だ。) 何故そのようなインチキをするかと云うに、 論文としての体裁をつける為なのである。 こういう手合いに、ファーブルを馬鹿にされたくないものだ。 とは云っても、私もファーブルはあまり読んでいない。 ファーブルについては、いずれ又。 ティータイム(その1) 「不思議なシマヘビの物語 (野川で出会った“お島”)」
ティータイム(その2) 「ミノムシ 《皇居外苑北の丸公園の蓑虫》」
ティータイム(その3) 「ゴイシシジミ讃歌」
ティータイム(その4) 「空飛ぶルビー、紅小灰蝶(ベニシジミ)」
ティータイム(その5) 「ヒメウラナミジャノメの半生(写真集)」
ティータイム(その6) 「蝶の占有行動と関連話題」
ティータイム(その7) 「ヒメアカタテハの占有行動」
ティータイム(その8) 「オオウラギンヒョウモン考」
ティータイム(その9) 「ヒメウラナミジャノメの謎」
ティータイム(その10) 「コムラサキ賛歌」
ティータイム(その11) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ」
ティータイム(その12) 「”お島”ふたたび」
ティータイム(その13) 「オオウラギンヒョウモン考(再び)」
ティータイム(その14) 「謎の蝶 ヒメアカタテハ」
ティータイム(その15) 「我が隣人 ヒメアカタテハ」
ティータイム(その16) 「オオウラギンヒョウモン考(三たび)」
ティータイム(その17) 「姿を顕さない凡種、クロヒカゲ」
ティータイム(その18) 「微かに姿を顕したクロヒカゲ」
ティータイム(その19) 「不可解な普通種 ヒメジャノメ」
ティータイム(その20) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ ― 蝶の知的生活―」
ティータイム(その21) 「オオルリシジミを勉強する」
ティータイム(その22) 「集結時期のヒメアカタテハを総括する」
ティータイム(その23) 「毒蛇列伝」
ティータイム(その24) 「東京ヘビ紀行(付記 お島追想)」
ティータイム(その25) 「ヒメアカタテハやクロヒカゲの占有行動は交尾の為ではない(序でに、蝶界への疑問)」
ティータイム(その26) 「ヒメアカタテハの越冬と発生回数」
ティータイム(その27) 「鳩山邦夫さんの『環境党宣言』を読む」
ティータイム(その29) 「蝶の交尾を考える」
ティータイム(その30) 「今年(2019年)のヒメアカタテハ」
ティータイム(その31) 「今年(2019年)のクロヒカゲ」
ティータイム(その32) 「蝶、稀種と凡種と台風と」
ティータイム(その33) 「ルリタテハとクロヒカゲ」
ティータイム(その34) 「ヒメアカタテハ、台風で分かったこと」
ティータイム(その35) 「「蝶道」を勉強する」
ティータイム(その36) 「「蝶道」を勉強する 続き」
ティータイム(その37) 「ミツバチを勉強する」
ティータイム(その38) 「「蝶道」を勉強する  続き其の2」
ティータイム(その39) 「里山の蝶」
ティータイム(その40) 「岩手の蝶 ≒ 里山の蝶か?」
ティータイム(その41) 「遺伝子解析、進化生物学etc」
ティータイム(その42) 「今年(2020年)の報告」
ティータイム(その43) 「徒然なるままに 人物論(寺田寅彦、ロザリンド・フランクリン、木村資生、太田朋子)」


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