オオウラギンヒョウモン考
                遠藤英實 作


    
    0 はじめに
    1 オオウラギンヒョウモンの思い出
    2 衰退の原因説紹介
       @ 白水隆博士の説
       A 「嘗てはウラギンヒョウモン並の普通種」説
       B 種の寿命説
       C 移動説
    3 終わりに
    追記 ウラギンスジヒョウモン


0 はじめに

オオウラギンヒョウモンという不思議な蝶がいる。
ヒョウモン類最大の見事なヒョウモンだが、
戦後の早い時期に日本各地から姿を消し始め、
今では日本の数ヶ所に生息しているのみなのだ。
その理由は誰も分からない。

私は小学1年の時に友人の影響で蝶に興味を持った。
(その友人には、親戚に名だたる蝶屋がいたらしい。)
そして以下に述べるように、私の蝶屋のスタートは、
殆どこのオオウラギンヒョウモンとの付き合いから始まる。
何としてもこの日本で生き永らえて欲しい。

1 オオウラギンヒョウモンの思い出

@ 小学生時代(〜1955)
私は昭和19年生まれ、小学生の頃は青森県八戸市に住んでいて蝶友と走り回っていた。
2年生の時、蝶友が巨大なヒョウモンを私に見せびらかした。
青森県名久井岳高原で採ってきたオオウラギンヒョウモン(以下、オオウラ)である。
ピンポイントで数ヶ所の採集地を教えられて、
私も以後3年間、この地でオオウラを採集した。
稀種などという観念はなく、ただ大きさを競ったのである。
図鑑では北方のオオウラは小型と書かれているが、
決してそのようなことはない。私は巨大な1♀を今ももっている。

  
             
 オオウラギンヒョウモン♀ 1953/ 8/ 17 前翅長 47mm
右側は メスグロヒョウモン♀ 比較参考用

この頃を思い出してみるに、

 ・家の周りには無数のヒョウモン類が飛び交っていた。

 ・オオウラだけはわざわざ遠方まで採りにいったのだから、
  多分、他の地にはいなかったのであろう。

 ・名久井岳高原では子供でも採れたのだから、そこでは普通種の類だった。

つまり、当時からオオウラは別格で、広大な草原にのみ棲む(棲める)蝶であったと思う。

A 中学生〜高校生時代(〜1961)
盛岡市に住んでいた。当時オオウラの岩手県の生息地としては、

  ・盛岡市内の岩山地区(市内に突入している丘陵)

  ・北方の竜ヶ森高原(現安比高原)

が人口に膾炙されていた。
岩山地区は、私の採集のテリトリーであったが、結局採集出来なかった。
多分この頃には既に姿を消していたのだと思う。

岩山丘陵は当時、市街地と外部とに二極分解されていた。
市街地は、
  各種施設(競技場など)、農地、牧場、住宅など
が諸所開発されてはいたが、まだ十分草原は残されていたと思う。
それでももはや、オオウラの棲める環境ではなかったのだろう。
もっとも、他の蝶は(他の大型ヒョウモン類も含めて)当時は十分繁栄していた。
今でも、ヒメシロチョウの大群舞などが眼に浮かぶ。

岩山丘陵の外部は、人跡未踏の密林状態であった。
二、三度探検に出かけ、ほうほうの体で逃げ帰ってきたのを覚えている。
オオウラどころか他の蝶も眼にしなかった。

(閑話 かくの如くで、大多数の蝶は人間とは付かず離れずの関係が良さそうに思えた。)

竜ヶ森高原には、まだ発生していて、私の友人も複数頭採集している。
私といえば、小学生時代に熱中しすぎたので、この頃は遠出をせず盛岡市周辺のみであった。
今思えば残念なことをした。
勿論他の大型ヒョウモン(ウラギン、ウラギンスジ、ミドリ、メスグロ、etc)は、
県内至る所で無数に飛び交っていたのであるから、
やはり岩手県にあっても、オオウラは別格の蝶(=大草原の蝶)だったと思う。

(なお、1979年の竜ヶ森高原の標本が岩手県の最後の記録と云われている。)

2 衰退の原因説紹介

  種々の説を紹介する。

@ 白水隆博士の説

原論文は読んでいない。
福田晴夫氏の著書「鹿児島のチョウ」春苑堂出版 から引用する。
(他の文献、ウェブサイトでも、ほぼ同じような引用・解説である。)

白水博士の論文の大要、

「農業機械の普及によって・・採草は行われなくなり・・シバ草原がススキ草原へと変容
し、その結果食草たるスミレも減少し・・」

これは放談レベルの仮説であって、わざわざ入手して読むには及ばない。
たった一つの種の盛衰に、
どうしてこのような超マクロな学術用語《シバ草原/ススキ草原》が必要なのだろう?
このような大舞台を必要とするのなら、論旨も緻密に、例えば、

  a シバ草原型蝶を先ずリストアップして、その盛衰を論じ
  b 次に大型ヒョウモン類をリストアップして、その盛衰を論じ
  c 最後に、オオウラの盛衰を論じる

べきである。
ところが、このような論旨の流れは成立する筈もない。
何故なら、オオウラと他の大型ヒョウモンとは、その盛衰の様相が全く異なっているからこそ、
世の蝶屋は不思議がっているのだから。
そして福田氏も疑問を呈しているのだが、
スミレ(特に無茎スミレ)はオオウラに壊滅的な被害を与える程に激減したのか?
岩手県の植物の専門家によれば、NOである。

「確かに現在草原そのものが衰退しているけれど、無茎スミレだけに選択的に打撃を与え
ている訳ではない。ましてや1950年代なら《草原の衰退》そのものに疑問符が付く。」

確かに当時野山を駆け巡った私にも、この仮説は受け入れがたいのである。
私の中学時代に岩手県に農業構造の変化などあるわけもなく、
ススキ草原への変容なんぞ全くイメージ出来ないのだ。
当時は、馬糞が市内のあちこちに転がっていたのである。
嘗ての大産地(例えば長野県の杖突峠)も同じような状況だったのではなかろうか?

この仮説は蝶生態研究界では“定説”として祭り上げられているようだけれど、
然らば、蝶生態研究界とは何ぞやと思いたくなるのである。

A「嘗てはウラギンヒョウモン並の普通種」説

《嘗てはウラギンヒョウモン並みの普通種》なる主張がある。
衰退説と直接結びつくわけではないのだが、大いに異論があるので言及したい。
勿論これを否定できる根拠はないけれど、私は甚だ疑問に思っている。
ウラギンヒョウモンは、里山、山麓の草地の蝶、つまり今でもどこにでもいる蝶である。
それに対して、オオウラは今も昔も大草原の蝶であると思う。
その理由はと云うに、

 ・青森県、岩手県では、(私の体験から)大草原の蝶であった。

 ・前掲「鹿児島のチョウ」でも、その滅びゆく姿は描写されていても、
  《ウラギンヒョウモン並みに普通種》なるイメージは湧いてこない。

 ・現在の生息地は、阿蘇高原、秋吉台、自衛隊演習林(2か所)など全て大草原である。

 ・ウェブサイトで報告されている嘗ての生息地、例えば
  木津川(京都府)、若草山(奈良県)、杖突峠(長野県)は、今見ても大草原である。
  ウラギンヒョウモンが飛び交っていた家の周りの草地とは比較のしようもない。
  若草山の現況をウェブサイトで見たが、
  整然としていてあれではオオウラの生息など論外であろうと思った。

  盛岡市の岩山地区は往時、茫々たる草原は未だ残っていたが、
  それでも既に姿を消していたのである。
  草原は当時から、虫食い状態になっていたから
  あれが気に入らなかったのだろう。
  やはり、相当に気難しい蝶だったのだ。

オオウラは発生地では、個体数は多かったように思う。
(小学生の私でも、それなりに採れたのだから。)
このような蝶は、どうしても普通種の方へと印象が引き摺られていくようである。

B 種の寿命説

福田晴夫氏+高橋真弓氏の著書、「蝶の生態と観察 築地書館」に、
オオウラの《種の寿命説》が紹介されている。寿命説まで話を広げると
《神学論争のレベル》になってしまいそうだが、案外そうでもないような気がしてきた。
それは、次の2種類の資料による。

 a http://www.geocities.jp/n25nmori/oouraginnhyoumonn-kobetusiiku.html

 b 「蝶の生態と観察」、「日本産蝶類標準図鑑 学習教育出版」  

aは、オオウラの幼虫の飼育記録である。
オオウラの幼虫の不器用にして頼りない生き方が見事に描かれている。
著者は、自分の飼育の不手際のように書いておられるけれど、そうではあるまい。

の「蝶の生態と観察」には、

     産卵数=1776

同じくの「日本産蝶類標準図鑑」には、

     産卵数=2589
     交尾回数=1回(調査7♀について)
     交尾継続時間=1時間45分〜3時間25分

が記述されている。

産卵数は他蝶に比べて異常に大きいのである。(他の大型ヒョウモンは、300〜500)
つまり、羽化率は異常に小さいことになる。
沢山の卵を狭いエリアに産卵しても意味ないのだから、
広いエリアを飛び回らねばならない。
つまり、オオウラには広い飛翔領域が必要なのだ。

次に交尾について考える。
常に、交尾回数=1回なのだろうか?
交尾回数は多い方が(常識的には)種の存続に有利だろう。
(「アゲハチョウの交尾回数は数回」という文献を読んだことがある。) 

交尾継続時間も長すぎる。長ければ種々のトラブルで交尾どころか命も中断される。
(例えば、ヒメウラナミジャノメの場合、私の観察では最短18分であった。)

結局オオウラは、交尾効率が悪く、しかも折角産んだ卵の羽化率も小さいのである。
だから、他種に比べて相当多数の雌が広いエリアを飛び回らなければ、
種の存続は難しいように思える。

以上のことからオオウラは、《タフな種》ではなく《ひ弱な種》のような気がしてきた。
だから、オオウラの《種の寿命説》も私には十分リアリティが感じられるのである。
(活発に飛び回るから、いかにもタフなように見えるけれど。)

C移動説

前掲「鹿児島のチョウ」で、福田氏は《移動説》を述べておられる。
多分、福田氏はこの説が最も気に入っておられるようだ。

もっとも、《移動》といっても、
《日常的飛翔の延長程度》から《本格的な渡り》まで種々の段階があるようだ。
福田氏の著書には、鹿児島県での各地の目撃例が報告されているが、
あれは各地での故郷を追われて放浪している特別な移動、
云わば《滅びへの最後の移動》だったと思う。
今でも、例えば鹿児島県ならば、あの演習林内で活発に移動しているのではなかろうか?

もっとも、《移動》《日常的飛翔》とは区別して使うのならば、
オオウラの場合なら、《他に例を見ない程に活発な日常的飛翔》と云ってみたい気がする。

以下の2群について、その移動を考える。

  T群 ミドリヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモン

  U群 ウラギンヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン

「T群は森林性、U群は草原性」と、
恰も棲み分けされているような記述に出会うことがある。
ところが盛岡市に住んでいると、この2群はいつも混然一体となって飛び回っているから、
この記述は私には意味不明であった。
しかし、東京都でこの両群を追ってみると、その違いが良く分かるのである。
T群は区部にも進出していて、大きな緑地では毎年必ず目撃出来る。
ビジネス街の路傍花壇でも報告されている。
つまり、区部内にも十分適応しているのである。

一方U群は、西部地区に限定される。
食草に違いがあるようにも思えないから、この差は、《環境適応能力の差》であろう。

U群は分相応に古巣に留まっており、
T群は、その能力を発揮して新天地を開拓していけるのである。
もし、オオウラならどうだったであろうか?
勿論、新天地を開拓出来る筈もなく、
さりとて、その《ひ弱さ》故に狭いエリアに留まっていることも出来ない。
結局、滅びの道を辿ったと思うのだ。

3 終わりに

衰退の理由を推測する。
オオウラは、その《ひ弱さ》故に(或いは他の理由(?)も加味されて)、
広い草原にしか棲めない蝶であったと思う。
それは、《蝶屋の常識的なスケールを遥かに超える広大で且つ条件の厳しい草原》であった。
広い草原は使い勝手が良いから人の手で切り刻まれ、早い時期に消滅してしまい、
従ってオオウラもそれと共に姿を消していく。
平原よりは高原の方が開発は後廻しになるから、
その分高原の方でより長くオオウラも命脈を保っていた。
今、“自衛隊に守られている”のも、開発の魔手が伸びないからである。

《条件の厳しい草原》の意味を、往時の名久井岳高原、岩山丘陵を思い出しながら考える。

 ・草原は整然と管理されていてはいけない。人間の散策向きに変えてはならない。
  人間の為のほんのチョットした変更でもオオウラは嫌う。

 ・草原を虫食い状態にしてはならず、連綿と続いていなければならない。
  往時の岩山丘陵は、未だ十分草原は残されていたように思うけれど、
  如何せん至る所断絶していた。
  このことから(あまり根拠はないけれど)私は、
   《オオウラの方向感覚は脆弱ではないか?》と思っている。
  だから、一旦草原から 飛び出すと、なかなか戻って来られない。
  前掲「鹿児島のチョウ」の放浪の描写も、
    そのことを示しているのではなかろうか?

オオウラの未来はどうなるのか?
なんとしても日本から姿を消して欲しくない。
かくなる上は、飼育増殖計画を進めてもらいたいものだ。
アレクサンドラトリバネアゲハやゴライアストリバネアゲハは、
成功しているやに聞いている。


追記 ウラギンスジヒョウモン
 
             

 ウラギンスジヒョウモン♀ 2015/9/5 盛岡市 

いつの間にか、ウラギンスジヒョウモンが奇妙な衰退を始めているらしい。
東京都西部での観察はしていないけれど、盛岡市周辺では確かに減少している。

ヒョウモン類には、
    《山地性/平地性間移動》、《樹林帯性/草原性間移動》、《夏眠の有無》
の問題があっていろいろ難しいらしいのだが、
いずれにしろ嘗て、ウラギンスジヒョウモンは、
    ミドリヒョウモン、ウラギンヒョウモン、メスグロヒョウモン
と混然一体となって飛んでいた。
個体数でも前記2種と遜色がなかったような気がする。
今ではウラギンスジヒョウモンは、
(私の観察の範囲では)樹林帯近くの草原から全く姿を消している。
樹林帯近くの草原を飛んでいるのは、上記3種とオオウラギンスジヒョウモンだけなのである。

それでもウラギンスジヒョウモンは今でも、
市内を流れる川の河川敷には少なからず目撃出来る。
ミドリヒョウモン、ウラギンヒョウモン、メスグロヒョウモンと
混然一体となって飛び交っているのだ。

果たして、
   ・ウラギンスジヒョウモンにとっては、
     《本来の生息地=日当たりの良い草原》、
     《遠征地=山地や樹林帯の草原=直に日が陰ってしまう草原》
   なのだろうか?

  ・今は、本来の生息地に回帰しているのであろうか?

  ・種の存続にとって致命的な何らかの理由により、
   《本来の生息地》からも、やがて消えていくのだろうか? 

  ・この問題は、上述の移動性の問題と関係があるのだろうか?


もっとも、「減少していない!」と主張する盛岡の友人もいて確かなことは未だ分からない。

付記
  ・オオウラギンスジヒョウモンは、昔は稀種だったように思うが判然としない。
  ・クモガタヒョウモンは、現在でも(目撃時期は異なるが)健在である。


 〔戻る〕 



	ティータイム(その1) 「不思議なシマヘビの物語 (野川で出会った“お島”)」
ティータイム(その2) 「ミノムシ 《皇居外苑北の丸公園の蓑虫》」
ティータイム(その3) 「ゴイシシジミ讃歌」
ティータイム(その4) 「空飛ぶルビー、紅小灰蝶(ベニシジミ)」
ティータイム(その5) 「ヒメウラナミジャノメの半生(写真集)」
ティータイム(その6) 「蝶の占有行動と関連話題」
ティータイム(その7) 「ヒメアカタテハの占有行動」
ティータイム(その9) 「ヒメウラナミジャノメの謎」
ティータイム(その10) 「コムラサキ賛歌」
ティータイム(その11) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ」
ティータイム(その12) 「”お島”ふたたび」
ティータイム(その13) 「オオウラギンヒョウモン考(再び)」
ティータイム(その14) 「謎の蝶 ヒメアカタテハ」
ティータイム(その15) 「我が隣人 ヒメアカタテハ」
ティータイム(その16) 「オオウラギンヒョウモン考(三たび)」
ティータイム(その17) 「姿を顕さない凡種、クロヒカゲ」
ティータイム(その18) 「微かに姿を顕したクロヒカゲ」
ティータイム(その19) 「不可解な普通種 ヒメジャノメ」
ティータイム(その20) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ ― 蝶の知的生活―」
ティータイム(その21) 「オオルリシジミを勉強する」
ティータイム(その22) 「集結時期のヒメアカタテハを総括する」
ティータイム(その23) 「毒蛇列伝」
ティータイム(その24) 「東京ヘビ紀行(付記 お島追想)」
ティータイム(その25) 「ヒメアカタテハやクロヒカゲの占有行動は交尾の為ではない(序でに、蝶界への疑問)」
ティータイム(その26) 「ヒメアカタテハの越冬と発生回数」
ティータイム(その27) 「鳩山邦夫さんの『環境党宣言』を読む」
ティータイム(その28) 「蝶の山登り」
ティータイム(その29) 「蝶の交尾を考える」
ティータイム(その30) 「今年(2019年)のヒメアカタテハ」
ティータイム(その31) 「今年(2019年)のクロヒカゲ」
ティータイム(その32) 「蝶、稀種と凡種と台風と」
ティータイム(その33) 「ルリタテハとクロヒカゲ」
ティータイム(その34) 「ヒメアカタテハ、台風で分かったこと」
ティータイム(その35) 「「蝶道」を勉強する」
ティータイム(その36) 「「蝶道」を勉強する 続き」
ティータイム(その37) 「ミツバチを勉強する」
ティータイム(その38) 「「蝶道」を勉強する  続き其の2」
ティータイム(その39) 「里山の蝶」
ティータイム(その40) 「岩手の蝶 ≒ 里山の蝶か?」
ティータイム(その41) 「遺伝子解析、進化生物学etc」
ティータイム(その42) 「今年(2020年)の報告」
ティータイム(その43) 「徒然なるままに 人物論(寺田寅彦、ロザリンド・フランクリン、木村資生、太田朋子)」


佐藤特許事務所(世田谷区太子堂)のサイト 〔トップページへ戻る〕