オオウラギンヒョウモン考(再び)

                        遠藤英實 作



0 はじめに
1 「嘗ては普通種」説
2 不器用な蝶
3 産卵数と食草
4 広大な草原
5 ランダムウオークと遠心力モデル
6 夏眠の問題
7 終わりに 


0 はじめに

 鳩山邦夫さんが亡くなられた。著書「チョウを飼う日々」を読んだ。
蝶との凄まじい格闘の日々に圧倒された。
“政治家だから大雑把な思考の持ち主”と思っていたけれど、そうではなかった。
謎は謎として(つまり知ったかぶりをせずに)、
事象を素朴にそして緻密に追跡していく。
観察―>推理―>飼育の試行、意図通り進んだ時の
鳩山さんの笑顔が目に浮かぶ。
多分ロスチャイルドのような方であったと思う。(面識はないけれど。)
私がこの本で特にオオウラギンヒョウモンについて学んだことを、
   「オオウラギンヒョウモン考(再び)」
というタイトルで記す。
他にもウェブサイトから、お二人のプロフェッショナルの蝶屋のデータを借用する。
「蝶・雑記」さんと、(http://www.geocities.jp/n25nmori/oouraginnhyoumonn.htm)
「千蟲譜物語」さん(http://choyukkuri.exblog.jp/13509536/)」
である。
そして、私の拙い体験と・・

なお、「オオウラギンヒョウモン考」
http://www.satotokkyo.jp/src/info_teatime11.html
も参考にして欲しい。
また、「蝶・雑記」さんについては、本考で既に紹介している。


1 「嘗ては普通種」説

 鳩山さんの蝶屋としてのスタートは小学1年生の頃というから1955〜56年頃ということになる。
テリトリーは主に軽井沢で、追分ケ原の地名も出てくる。
文献ではこの地はオオウラギンヒョウモンの生息地にもなっていた筈だが、
鳩山さんの採集品にはない。
(正体不明のヒョウモンが1匹いたが、いつのまにか標本箱から消えていったらしい。)
最初の採集は1985年の秋吉台であるから、30年間出会わなかったことになる。
つまり氏にとっても、幻の蝶だったのだ。

次の例として、「蝶・雑記」さんのウェブサイトには、以下の記述がある。要約すると、

 ・時期 1951年
 ・場所 京都木津川堤防
 ・特徴 群棲しており、何頭でも採る事ができた。
     珍しいと言う感覚は全く無かった。
     他の場所では見かけることはなかった。

流石に百戦錬磨のプロフェッショナル、説明が必要にして十分である。
これは私の青森県、岩手県での拙い体験とも一致する。―>「オオウラギンヒョウモン考」
こういう蝶だから、生息地の傍に住んでいる蝶屋には普通種と思われたのだろう。

 オオウラギンヒョウモンの衰退を、一般的な草原の衰退に結びつける主張がある。
これは受け入れがたい。例えば鳩山さんはその後も、オオウラギンヒョウモン以外の
(今では絶滅危惧種になっている)草原性の蝶は沢山採集しておられたのだから。

私の体験でも1970年頃までは、(今では岩手県で絶滅危惧種になっている)草原性の蝶を、
然るべき時期に行けば、盛岡市郊外で必ず目撃できた。
ヒョウモンチョウ、ゴマシジミ、クロシジミ、チャマダラセセリ、ホシチャバネセセリ・・
ヒメシロチョウの乱舞は今でも目に浮かぶ。
ちょうど、1966年発行の切手「藤島武二の蝶」で、全ての蝶がヒメシロチョウになっているイメージである。
それ以降は盛岡市で蝶を追わなかったので分からないが、今は勿論いない。

やはりオオウラギンヒョウモンは、当時から別格の稀種であったと思う。
だからオオウラギンヒョウモンの衰退は、オオウラギンヒョウモン固有の問題として
議論されるべきである。(草原衰退の一般論ではなく)
最早あまり期待も出来ないが・・


2 不器用な蝶

 3人の方が飼育記録を書いておられる。直接読んで頂くのが良いのだが
「不器用」についてコメントを書く。

鳩山さんは、
  ・幼虫が直ぐ隠れてしまうこと
  ・蛹が落下してしまうこと

「蝶・雑記」さんは、
  ・幼虫が行方不明になること。
  ・他のヒョウモン(例えばウラギンスジヒョウモン)に比して
   著しく成長が遅いこと

「千蟲譜物語」さんのウェブサイトには 
  ・幼虫が歩行時、10節の尾脚をすぐに放してしまうため、
   移動中に直ぐ落下してしまい、元の葉に戻れないこと

などを挙げている。

 お三方が過保護であるか否かはさておき、
不器用な蝶、生きていくのが下手な蝶であるのは確かなようだ。
私も中学生の頃、アゲハチョウ、カラスアゲハ、ヒメギフチョウ等を飼育したことがあり、
失敗だらけだったがこういう心配はしなかったように思う。
「不器用な蝶=生きていくのがつらい蝶=種の寿命が尽きつつある蝶」と
考えて良いのかどうかは分からないが、何となく考えたくもなる。
パンダやトキはいかにも不器用なように思える。アレキサンドラトリバネアゲハや
ゴライアストリバネアゲハも不器用で、メガネアゲハに意地悪されていると聞いた。
どの種も未来は明るくない。


3 産卵数と食草

 鳩山さんの産卵記録は以下のようになる。

      採集日(羽化日)  産卵数
       1985/9/23	    1540
       1986/9/22	    1683
       1987/6/6	    1509
       1987/6/22	    1289
       1990/9/15	    1857
       1990/9/15	    1285
       1991/6/27	    2589

色々な蝶の(飼育下の)産卵数は各種資料に示されているが、
300程度が多いから、オオウラギンヒョウモンは突出している。
(モンシロチョウ100〜200個、アゲハチョウ200〜300個)
特に最後の年は、(氏の卓越した飼育技術によるとしても)凄まじいとしか言いようがない。

 原理的には、1ペアから2匹羽化すればいいわけだから、
これ程産卵数が多いということは、羽化率が異常に低いということだろう。
つまり圧倒的多数が草原に屍を曝していくのである。
オオウラギンヒョウモンの、「種としての弱さ」を意味しないだろうか?
(勿論飼育下だから天敵は考慮外になるが、無い物強請りをしてもしょうがない。)
 
 1990年春は、350匹羽化させたという。
その時の食草の量は
 「直径40cmの漬物樽100個」。
これがどれ位の量なのか私には想像もつかない。
阿蘇高原のスミレの生息密度を使うと、何平方kmになるのだろうか?
鳩山さんはその大食漢相手の難事業をぼやいておられる。
また、オオウラギンヒョウモンに限らず、一般に雌の方が成長は遅れる。
だから大きな従って大食漢の雌が終齢に近づく頃には
食草も尽き始めるという事態にもなるわけだ。
どうも、尋常ならざる蝶のようだ。

 鳩山さんは、
「食草は無茎スミレに限る」
という。
一方、「千蟲譜物語」さんは、
「V.sororia でも問題なく摂食している」
という。
「食草」の問題は相当に難しい。野外と飼育とでは違うだろうし、
幼虫の前期と後期とでは、好み、許容範囲が変化するということもあるらしい。
例えば前期では受けつけなかったスミレを、後期では受けつけるとか・・
いずれにしろ、丈夫な親が羽化するのを確認しなければならないわけだから、
オオウラギンヒョウモンに関しては、誰も鳩山さんには敵わない。

 「食いつきの問題」で、白い紙の上のゴミのような幼虫を拾い続ける。
周りの人は、鳩山さんに鬼気迫るものを感じる。
私なら「眼光紙背に徹す」という陳腐な表現しか思い浮かばないが、
ご本人は
「人間、興味と欲と集中力で達人域に達する」
と書いておられた。
流石に練達の政治家のボキャブラリ、表現力は違うと思った。
そう云えば、「友達の友達はアルカイダ」発言も可笑しかった。
大方の人にはこういう発言しか耳に入ってこないだろうから、
“ふざけた政治家”という印象をもつかも知れないが、
この著書を読むと、“端倪すべからざる人物”であることが良く分かる。


4 広大な草原

 鳩山さんのお考えを忖度した。

 「戦後の農業の変化(化学肥料の使用、焼畑農法の衰退等)によって草原は衰えていった。
 そしてスミレのうち、ひ弱な無茎スミレが最も打撃を受けた。
 その結果、無茎スミレを大量に喰うオオウラギンヒョウモンが急速に姿を消していった。」

 鳩山さんは最高のオオウラギンヒョウモンの研究者であるし、
 私もその通りと思っているけれど、この見解には多少違和感がある。

 ・それなら、どうして1950年代に盛岡市から姿を消したのか?
  その頃既に、無茎スミレが衰退していたとは思えない。
  岩手県の植物の専門家に尋ねても、同じ感想である。
  (もっとも、当時の県内の無茎スミレの分布を調査した人は
   誰もいなかったと思うけれど。)

 ・また、京都での無茎スミレの発生地は、当時木津川だけだったのか?
  やはり、そうとは思えない。
  それにしても、この報告は意外であった。
  当時の京都ならオオウラギンヒョウモンは各所で豊産していたと思っていたから。

 オオウラギンヒョウモンの衰退のスタート時は、原因は食草の減少ではなかろうと思う。
蝶にとって勿論食草は必須だが、行動(生態)が食草に規定されるわけではない。
例えば、

 @アサギマダラの渡りは、単純に食草を求めてではないと思う。
  体内に生成されるホルモンが、かれらを旅に駆り立てるという説を読んだことがある。
  このホルモンは、単純な食草探しの為ではなかろう。
   
 A都心でもエノキは豊富に生えているが、オオムラサキはいない。
 「蝶・雑記」さんの報告では、
  「奈良付近では数は少ないですが、幼虫のいる範囲から考えると思っていたよりも、
   広範囲に棲息している。(03年10月15日)」とある。
  つまり、幼虫と成虫では生息範囲が異なる。成虫は食草(=エノキ)の廻りにだけい
  るわけではないのである。(←全く当たり前のことであるが)

 Bヒョウモン類を2群に分ける。
    a ミドリヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモン
    b ウラギンヒョウモン、ウラギンスジヒョウモン、メスグロヒョウモン
   前者は東京都心にも進出しているが、後者は山地(例えば高尾山付近)周辺の
   草原の蝶である。
   <― オオウラギンヒョウモン考 参照。
  食草は(多分)同じであるにも拘わらず、環境への適応力によって行動範囲が全く
  違ってくるわけだ。
  因みに、サイト(http://butterfly.diasjp.net/guest/view_pub2_list.php)
  が面白い。東京都下の蝶の目撃記録を紹介している。

5 ランダムウオークと遠心力モデル

 以上から、食草に拘泥し過ぎてはいけないように思う。
然らば、成虫の行動(=飛翔)を規定しているものは何か?
誰にも分らないことだが、以前二つのモデル(=遊び)を考えたことがある。
ランダムウオーク遠心力モデルである。

・ランダムウオーク
 大勢の酔っ払いが飲み屋街をゆっくり彷徨っている。
 あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、方向性はまるでない。
 酔客はゆっくりとしかし着実に遠ざかっていく。
 蝶について考えると、生息地の面積が広ければそこで十分に交尾・産卵できるわけだから
 そのエリアでの種の存続に支障はない。
 面積が狭くなっていけば、エリア内での産卵数も減り、
 エリア外で(つまり彼らにとって生存できない地で)空しく屍を晒すことになる。
 結局そのエリアから姿を消してしまうのである。
 このモデルは、飛翔が緩やかでエリアが狭い蝶の解析(=遊び)に向いている。
 私はかって、ヒメウラナミジャノメで計測の真似事をしたことがある。
 結局ランダムウオークは見られなかった。
 彼らが姿を消すのは、単純に環境破壊の故であった。

 (なおオオウラギンヒョウモンには、このモデルは適切ではなさそうだ。)

・遠心力モデル
 タコの糸を猛スピードで振り回す。
 糸が切れればタコは飛んでいくがエリアが広ければエリア内に落ちる。
 そこで更に飛ばす。
 蝶に関していうと、エリアの面積が広ければ、エリア内を縦横に駆け巡り、
 従ってそこで十分に産卵出来るから種は存続出来る。
 狭くなっていけば滅亡してしまう。
 嘗て、都会を放浪するオオウラギンヒョウモンの目撃例が数多く報告されていた。
 これは飛び出していったチョウ、即ち、再び帰らぬチョウであったと思う。

   オオウラギンヒョウモンは大草原を謳歌していた。
   ところが、人間による草原の切り取りと分断化には彼らは抗すべくもなかった。
   産卵数と大食漢ぶりから相当広いエリアが必要な筈であったから、
   驚くべきスピードで衰退していった。

 (オオウラギンヒョウモンは、遠心力モデルの方が相応しい。)


6 夏眠の問題

 鳩山さんは、「夏眠」ではなく「夏期活動不活発現象」と呼んでおられる。
そして、自らの観察に基づいていろいろ考察を加えておられるが、
最後に
「理屈、へ理屈の類はここまで。」
と書いて、その後
「オオウラギンの現実に戻ろう。」
と書いておられる。
この辺りのペンの捌きが、何とも絶妙である。
(私は、理屈へ理屈現実も、どれも好きだ!)

以前から、夏眠なるものに興味を持っていた。
単純に、“目撃したことがない”からである。
鳩山さんのオオウラギンヒョウモンの飼育では

     羽化	  産卵開始
   1987/6/5	  1987/7/10
   1987/6/22	  1987/7/28

である。つまり「夏眠」していないように思われる。
一方野外では、図鑑による解説によると、
  初夏、羽化――>しばらく活動――>盛夏、夏眠――>初秋、産卵
とある。
氏の考えを要約する。

 「冬眠は体内で生理的変化が起きるが、
  夏眠はそれ程大げさなものではなく、不活発状態が続いているだけ。
  そして、気温の高低によって、全体個数に対する不活動個体の割合が異なってくる。」

この見解の素晴らしい点は、観察の結果から、割合(=確率の概念)に到達したことである。
現場での観察からくる凄み、迫力を感じる。

“統計的に有意である、何たらかんたら・・”なる蝶の“論文”を見ると腹が立つ。
統計諸量を計算出来るような、野外での蝶の観察データなど不可能だから。

 残念ながら私は、冬眠、夏眠を野外で目撃したことがなかった。
ただし、夏に草原で蝶を追いかけていると、農具用小屋などにミドリヒョウモン、
ウラギンヒョウモンなどが入り込んでいるのをしばしば目撃した。
勿論当時は追跡調査など思いも寄らなったけれど、
今にして思えばあれが「夏期活動不活発現象」ではなかったか?
半日位遊びまわって覗いて見ると、まだじっとしていた。

往時楽しい観察を悉くスルーしてきたように思う。
今その場所は、直ぐ傍がダンプ街道になっていて、排気ガスと砂埃が充満している。
人間の私でさえ、二度と近づきたくない。
況や、蝶においてをや! そして高くなり過ぎた樹木!
その場所は当時、大珍品ウスイロオナガシジミが多産した。
今、排気ガスと天まで届く樹木を見ていると涙が出てくる。


7 終わりに

 久しぶりに蝶の本を堪能した。プロフェッショナルの蝶屋諸氏との交友録も楽しかった。
書く人が書くと、人物描写にも凄みが現れる。
もっとも、批判もなさっている。
「・・斯道の諸先輩たちの立てた証明不十分な学説を鵜呑みにして・・」

そもそも蝶の生態学で「学説」を打ち立てるのは相当難しいと思う。
融通無碍、千変万化のデータから「法則」を見出そうとすると、
どうしても、牽強付会、針小棒大、我田引水、に陥ってしまう。
そして、スタップ論争のような内部論争がないから、
泣きたくなるような“自然科学の論文”が罷り通っているのである。
また、名の知られたアマ諸氏も、相手の肩書に卑屈になっているのは情けない。





 
	ティータイム(その1) 「不思議なシマヘビの物語 (野川で出会った“お島”)」

ティータイム(その2) 「ミノムシ 《皇居外苑北の丸公園の蓑虫》」

ティータイム(その3) 「ゴイシシジミ讃歌」

ティータイム(その4) 「空飛ぶルビー、紅小灰蝶(ベニシジミ)」

ティータイム(その5) 「ヒメウラナミジャノメの半生(写真集)」

ティータイム(その6) 「蝶の占有行動と関連話題」

ティータイム(その7) 「ヒメアカタテハの占有行動」

ティータイム(その8) 「オオウラギンヒョウモン考」

ティータイム(その9) 「ヒメウラナミジャノメの謎」

ティータイム(その10) 「コムラサキ賛歌」

ティータイム(その11) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ」

ティータイム(その12) 「”お島”ふたたび」

ティータイム(その14) 「謎の蝶 ヒメアカタテハ」

ティータイム(その15) 「我が隣人 ヒメアカタテハ」

ティータイム(その16) 「オオウラギンヒョウモン考(三たび)」

ティータイム(その17) 「姿を顕さない凡種、クロヒカゲ」

ティータイム(その18) 「微かに姿を顕したクロヒカゲ」

ティータイム(その19) 「不可解な普通種 ヒメジャノメ」

ティータイム(その20) 「散歩しながら動物行動学を学ぶ ― 蝶の知的生活―」

ティータイム(その21) 「オオルリシジミを勉強する」

ティータイム(その22) 「集結時期のヒメアカタテハを総括する」

ティータイム(その23) 「毒蛇列伝」

ティータイム(その24) 「東京ヘビ紀行(付記 お島追想)」

ティータイム(その25) 「ヒメアカタテハやクロヒカゲの占有行動は交尾の為ではない(序でに、蝶界への疑問)」

ティータイム(その26) 「ヒメアカタテハの越冬と発生回数」

ティータイム(その27) 「鳩山邦夫さんの『環境党宣言』を読む」

ティータイム(その28) 「蝶の山登り」

ティータイム(その29) 「蝶の交尾を考える」

ティータイム(その30) 「今年(2019年)のヒメアカタテハ」

ティータイム(その31) 「今年(2019年)のクロヒカゲ」

ティータイム(その32) 「蝶、稀種と凡種と台風と」

ティータイム(その33) 「ルリタテハとクロヒカゲ」

ティータイム(その34) 「ヒメアカタテハ、台風で分かったこと」

ティータイム(その35) 「「蝶道」を勉強する」

ティータイム(その36) 「「蝶道」を勉強する 続き」

ティータイム(その37) 「ミツバチを勉強する」

ティータイム(その38) 「「蝶道」を勉強する  続き其の2」

ティータイム(その39) 「里山の蝶」

ティータイム(その40) 「岩手の蝶 ≒ 里山の蝶か?」

ティータイム(その41) 「遺伝子解析、進化生物学etc」

ティータイム(その42) 「今年(2020年)の報告」

ティータイム(その43) 「徒然なるままに 人物論(寺田寅彦、ロザリンド・フランクリン、木村資生、太田朋子)」

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