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井上力・もう一つの史話



 「表記」で語られた歴史上の人物の話です。
20稿くらい続けたいと思います。各々、A4、15頁内外のものです。

 文中〈前著〉となっているのは、拙著 「もう一つの」 〈桶狭間〉・〈戦国時代〉・〈鎌倉時代〉・〈鎌倉物語〉・〈大河=完結編〉 の五著作のことです。                       

               目    次                
            
  1、太田牛一と奥の細道        2003・ 8・30

  2、武井夕庵と曾良日記        2003・ 9・30
  
  3、明智光慶と面八句(表八句)   2003・10・30
                  
  4、不破河内守と蜂屋兵庫守     2003・11.30
                  
  5、岩室長門守              2003・12.30
                  
  6、木村兼葭堂のこと          2004・ 1・30
                  
  7、森蘭丸と後藤又兵衛         2004・ 2・28
                  
  8、出雲の阿国と上杉景勝       2004・ 3・30
                  
  9、大谷吉隆の出自           2004・ 4・30    
                  
 10、平手政秀                2004・ 5・30
  
 11、織田信秀のこと             2004・ 6・30 
                  
 12、朝倉義景の最期            2004・ 7・30
                 
 13、森可成と丹羽長秀           2004・ 8・30

 14、信長と鉄                 2004・ 9・30
                    
 15、明智左馬助               2004・10・30

 16、千利休                  2004・11・30
                    
 17、木村又蔵                 2005・ 1・30
                    
 18、織田信澄                 2005・ 2・28

 19、佐久間右衛門尉            2005・ 4・30

 20、三好清海入道              2005・ 6・30

 21、明智光秀夫人(熙子)          2005・07・30

 22、石田三成・島左近の出自        2005・09・30

 23、高山右近の出自             2005・12・30

 24、高山右近と松尾芭蕉          2006・07・31

 25、古田織部・大村由己の出自      2007・08・30

 26、宮本武蔵・真田大介           2007・08・30

 27、柴田勝家・支倉常長の出自       2008・12・30

 28、伊東マンシヨ・九鬼右馬允の出自   2009・04・25
 
 29、山県昌景・一刀斎・イエヤス公の出自 2010・08・29

 30、堀久太郎・卑弥呼の出自(その1)   2011・12・31

 31、堀久太郎・卑弥呼の出自(その2)   2012・07・20

 32、崇峻天皇・聖徳太子の出自(1)     2014・07・20

 33、崇峻天皇・聖徳太子の出自(2)     2014・07・20

    1・2では、芸術的に完成された古典文学の代表といわれる
    奥の細道は、芭蕉の時代に大きな影響を与えた戦国時代
    のことを述べた政治的といってもよいものであるということに
    ついて述べたいと思います。
    たとえば現代に至るまでに太平洋戦争があり、現代の詩人
    もそれと無縁ではないでしょう。芭蕉はそういうことに無関
    心で芸道の完成に余念がなかったということではないとい
    うことが述べたいことです。〈前著〉で述べた明智三兄弟の
    存在を松尾芭蕉が証明してくれるという一見ありそうもない
    と思われる珍妙な話です。

    目次3 の表八句は奥の細道のはじめに出てくるもので、
    芭蕉が新居の庵の柱に八句を書き連ねたと書いています。
    しかるに、その八つの句が、いまは失われてわからないと
    いうことです。そんなことはないはずで読めていないだけだ
    という話です。地中や土蔵から「面八句」と題して句が書い
    たものが出てきたら世紀の大発見とかいって大騒ぎとなり
    ますが、市販されてる文献にチャンと出ています
    というと、嘘だろう、そんなはずはない、とんでもないことを
    いうとなってしまうのはどういうことでしょう。

    目次4の結論は不破河内守が竹中半兵衛の継母、蜂屋兵
    庫守が武井夕庵夫人の活動名ではないかというものです。
    名前からみれば、主役の脇を固める地味な存在のようなの
    で、そういう人物がいたのだろう、と思われて看過されやす
    いものですが脇役のような存在が重要人物に早替わりする
    例が今後いっぱい出てきます。

    目次5は知る人ぞ知る、桶狭間合戦のとき信長と清洲城を
    飛び出した小姓衆の筆頭の人物です。徳富蘇峰の語る桶
    狭間の戦いは筆者の〈桶狭間〉と同じことを、わかりにくく云
    っていたのではないかというものです。

    目次6、の「木村」という人は芭蕉のあとの時代、寛政のころ
    の人です。この話は本当は芭蕉に入る前置きとしたいもの
    で一番はじめにもってくるべきものですが馴染みが薄すぎる
    ので少しずらしました。この人物は太田牛一に関係があるか
    ら木村姓を名乗ったようです(信長公記の木村次郎左衛
    門)。後藤又兵衛と木村重成の子孫といっており夫人は森
    氏です。
    その才能からみても自称ではなく本当の子孫と思われ
    ます。

     目次7は芭蕉〈奥の細道〉に出てきた「挙白(木下長嘯子)
     」から辿っていくと森蘭丸・後藤又兵衛が出てきたという
     ものです。

     目次8は前稿の挙白で出てきた大村由己という人物が
     阿国と景勝を語っているのではないかという話です。

     目次9は、関ケ原役で戦死した大谷吉隆の両親は誰か
     という話で名将として好意をもって語られる有名な人物
     なのに出自さえわからないというのでは史家の怠慢とい
     われても仕方がありません。そんなことはないはずです。

     目次10は、信長の家老で、若い頃の信長を語る場合さ
     けて通れない人物なのに、謎の多い、よくわからない人
     のようです。これはその平手政秀のまとまった話です。

    目次11は、織田信秀の死因に関するものです。ここは原
    文の引用が多く、よく知らない人物が出てくるので読みに
    くいはずです。
    しかし重要なところですから敢えて入れました。読み泥んだ
    場合は飛ばして(漢字だけみて)あとから見て下さい。全部
    にわたって、同じことをお願いするものです

    目次12は、浅井長政の最期の場面は語られているのに
    朝倉義景ははっきりしていません。家老にごまかされて詰
    め腹をきらされた、浅井に比して家中もよく治まっていなか
    ったという印象をうけますがそうではなかったということが
     語られていたという話です。

    目次13は、予想外の組み合わせですが、必然があります
    。表記でここまで語れるという例です。ある程度ここまで読
    めていないと〈前著〉は書けなかった、といえます。

    目次14は、織田信長の天下布武の構想に関わる重要な
    ことと思われます。これは〈前著〉の段階では全然考えが
    及ばなかったものです。

    目次15の人物は、誰からも好かれている戦国の英雄で
    す。
    ここの光春は皆がよく知っている謎の人物ですが、その
    墓誌など出てきても歴史好きしか関係ないとかいって、
    新聞の三面記事どころか、まず載らないかもしれない扱い
    となるでしょう。墓誌的規模以上の経歴を太田牛一が書い
    ていました。この読解手法は世界の文献の読み方に関わ
    るもので、その紹介です。

    目次16は、千利休のことです。利休は〈信長公記〉という
    主要文献に、一回しかそれも名前だけしか出てきません。
    これほど有名な人物がその程度の扱いとなっているのは
    おかしい、そんなはずがないのではないかというものです。

    目次17は、「又」の字から〈戦国〉で注目した人物です。
    後藤又兵衛と同じで講談の英雄ですが、なぜか又兵衛と
    違って断片しか話が伝わっていない、隠されたところが多
    かったのでわかりにくくなっていると思われます。その辺の
    事情を探ってみたものです。

    目次18は、信長弟の信行の子息です。文武両面でたいへ
    ん重要な人物だと思われます。木村又蔵を追っかけていた
    ら、どうしても出てくる人物で、太田和泉がその活躍場面を
    別名を使って拡大させていると思われます。

    目次19は、佐久間信盛父子のことです。桶狭間で善照寺
    砦に居陣していた織田第一等の大将ですが、追放され、
    高野山で亡くなったとされています。それはこの人ではな
    かったのではないかという話です。賤ケ嶽の戦いに顔を出
    すのも年代が合いません。
    太田和泉守が、この人に寄生して自分の断面を語っている
    ことが多いのでとくに重要な人物ではないかと思います。

    目次20は、真田十勇士の筆頭の豪傑ですが、この人の原
    型とされる人物は、俵屋宗達・千利久・狩野永徳などと並ん
    で安土・桃山文化を開花させた超大物といってよい人では
    ないかと思います。その文化人が大坂城へ入城して戦死
    したという話になっています。
    教えられてきた日本史は、わからないところが多すぎる、
    それを文献の著者の力不足の結果だとしています。それは
    そっとしておこうということからきています。壁画の損傷が
    話題になっていますが秘密主義がもたらしたものです。
    また墓は発掘したから損傷したのではなく損傷は長年の
    自然劣化というものが一番大きいはずです。
    まあ地下で自然に劣化するものには誰にも責任がないので
    そのままにしておこうというのは問題でしょう。調査したあと
    で劣化しても記録は残る、解釈は残るということになって
    それも文化財の保護でしょう。
    文献のなかの巨大な未発掘文化遺産にも注目。戦前もそ
    うですが戦後の民主主義も歴史理解を継続して抑えてき
    ました。マッカーサ将軍の日本人12歳(14歳)の話も15歳
    元服前の年齢で一人前でないということですが、議会での
    発言だから重要でしょう。 

    目次21は、明智光秀夫人(熙子)です。〈信長公記〉〈甫庵
    信長記〉に出ていないとされており、何もわからない謎の人
    物となっています。太田和泉守は光秀の兄弟ですから、
    この人とは特別親しかったはずです。最低必要なことはわ
    かるように書かれているのに読めていなかっただけです
    が、多様な叙述手法が駆使されてわかりにくいことも事実
    です。重要人物として特別に隠される必要があったためと
    思われます。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に出てきています。

    目次22は、有名な石田・島のコンビです。日本史上最大
    の戦いである関ケ原の戦といっても、この人がいなかった
    ら起こらなかったのか、と問いかけたくなるほどの石田三成
    もその前半生がよくわからない、その右腕といわれる島左
    近にいたっては謎多き人物とされたままです。そんなはず
    がない、ということで採り上げました。
    皆が知っている人物で、具体的に語ると、揉めやすい、誰
    からも異論がでやすい、有名人で語る意味がそこにありま
    す。後藤又兵衛の連れ合いは誰か、という具体的なことが
    まずわかることが先決です。又兵衛などは歴史的に重要で
    ないというのは合っておらず、史家は身辺のものをダシに
    して世の中のことを語っているのですから、当時の世界に
    通ずる話にもなりうるものです。

    目次23は、有名であるのにこれもまたよくわかっていない、
    謎だらけという人物です。高山右近は敬意をもって語られ
    ている、そのイメージ通りの人物ですが、古人は高山を特別
    有名な人物に仕立て上げています。高山から多くのことが
    わかるようになっているといいたいのではないかと思いま
    す。

    目次24は、取り組みがおかしいような感じですが、もっとも
    適切な組み合わせです。高山右近は加賀、加賀は古九谷、
    高山右近の名前に「等伯」というのがあります。誰かがこう
    いういたずらをしたことは重要です。
    江戸期後半、加賀九谷焼の中興の祖、青木木米が出てき
    ました。青木木米と高山右近をつなぐものが、松尾芭蕉の
    奥の細道ではないかという変な話です。戦国期、筋金入り
    のキリシタンの武将というのは高山右近と明石掃部ですが、
    この二人は少なくとも知り合いでなければおかしいはずで
    す。本稿で触れた人物は

     明石掃部助、松野主馬、平塚為広、大津伝十郎、
     戸田重政、薄田隼人、岩見重太郎、熊沢番山、
     湯浅常山、御宿勘兵衛、熊谷大膳、牧村長兵衛、
     佐々木助三郎、渥美角丞、嶋左近、野々村仁清、
     俵屋宗達、長谷川等伯、山上宗二、青木木米、
     酒和田柿右衛門、石川五右衛門、大槻伝蔵、
     荻野主馬・・・・
    などです。
    〈桶狭間〉刊行から七年、信長と清洲城を飛び出した勇壮な
    五人  
      岩室長門守、長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八、賀藤
     弥三郎 は一応結論は出しました。

    目次25、26は、一つのものです。
    前稿に引き続き、桶狭間戦の中盤で登場の〈信長公記〉
    「前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金
    右衛門・佐久間弥太郎・森小助・安食弥太郎・魚住隼人」
    全九人の人物を一応、確定しました。「前田」は知っている
    という人が多いから人物比定など要らないはずということ
    になりやすく、そこが目の付けどころです。
    昭和の大事件、太安万侶の墓が発見され、銅版墓誌が出
    てきました。没年齢が書かれていないので残念で、したが
    って生年もわかりません。これは特別な大物ですから、この
    銅版墓誌を高円山の墓に埋め込んだ人物が抜けているわ
    けです。それは誰かというのが知りたいということです。日本
    史に記録があるとは聞いていません。
    〈奥の細道〉で、高さ六尺、巾三尺、文字幽かとなっている
    多賀城 の壷の碑(いしぶみ)は、天平宝字762の建立とさ
    れています。
    しかし近世のものという説もあるそうです。巷説というのは間
    違いとされやすいものですが果たしてどうか探ってみました。
    これはなぜ壷がでてくるのかわかりません。・・・・
  
    目次27、前稿で太田和泉守の子息七人を出しましたが柴
    田権六に率いられた七人もあり、「森可成」の生存伝説な
    き生存もあり、これらが、残っています。また、明智光秀も
    子息七人のようです。明智光秀周辺を語る場合どうしても
    明智→石田の流れが中心になってきます。
    これは戦国の一つの要のものですが、それを述べようとす
    るとなぜか二つの海外飛躍の話が引っかかってきました。
    支倉常長、その前の天正少年による、遣欧使節のこと
    です。
    27・28でその話です。
     派生事項として、いろいろの人物が出てきますが
    27では「大野治長」「池田恒興」「海北友松」や「青山与三
    右衛門」「寺沢又八」「毛利藤九郎」「岩越喜三郎」「天王寺
    屋竜雲」「大文字屋」などにも範囲を広げてみました。

    目次 28では「宮本兵大夫」「木村伊小介」「宇喜多与太郎」
    「山中鹿介」「古田重勝」「本阿弥光悦」「山部赤人」・・・など
    です。

    目次 29、は、前項に引き続き、遣欧使節の話です。
    登場人物は、「兼松正吉」、「策彦周良」、「蒲生郷舎」、
    「山中鹿介」、「松永久通」、「古田織部」、「馬場信春」、
    「小幡信景」、「青地駿河守」、「円空」などです。

    目次30・31は「堀久太郎・卑弥呼の出自(1)(2)」で
    「堀久太郎」が出てこないと、卑弥呼も見えてこないと
    ところがあるのかも。受け止める側からみれば「ひみこ」は
          ひ+「美」「久」(「久・美」)
     かも。「ひ」は「日」「姫」で、「び」もあって「美」「弥」「彌」も
     「ひ」の中に入っています。「久」は「きゅう」「こ」「く」で、
        「宮」「弓」「九」
     もあり、「宮」があった方が感じがよく、「卑弥呼」の「弥」は
       「久」=ひさしい=「弥」
     で 「弥」→「み」=「美」=「羊」にいきます。
     「呼」も「久(こ)」ですが「誇(こ)」もあり、これは「呼ぶ」とい
    うことと「呼びかけ」の「や」とか感嘆の「乎」の字がふくまれ
    て「乎」=「平」も似ています。
     「(卑)弥弓呼」「(卑)弥呼」「弓遵」の「弓」があって
     これは「久」の読み方となっている、と取ると「倭の五王」
     も中国側は一字で表してたので「久」(狗・拘・句)といっ
     てたともいえます。こうみないと、弓徳左近=久徳(きゅ
     うとく)左近がなぜ出てきたのか説明しにくいということ
     です。
       俾弥呼
       卑彌呼
    などあるので一人ではないのは確実で「卑」が入ってるの
    は宮廷内の慣用語で皇帝を意識してるものでしょう。書き
    手の本心は違ってた、良きようにとってほしいというのが
    あったかも。こんな字主体としたことを書いてますが、これ
    は合ってないかもしれないが太田牛一を信頼して読んだ
    ので中味の読解部分はわりかし合ってるといえるのかも。
 
   目次32・33は「崇峻天皇・聖徳太子の出自(1)(2)」
   ですが、本邦、最古の史書「古事記」の話です。「古事記」
   にまぶされた数字が「日本書紀」で受け止められていて、
   両者影響しあって「記紀」の解明が一層進むことになりそう
   です。
   太田和泉守のやりかたに近づいてくるので、〈信長記〉の
   読みが〈古事記〉によって一段と深化することにもなります。
   〈古事記〉の前身が燃えてしまったという〈天皇記国記〉
   です(620年成立)。〈古事記〉の92年前(〈書紀〉の100年
   前)のものですが92年が少し残念、100年としたいかも。
   8年が問題として浮上しますが〈天皇記国記〉の〈書紀〉への
   組み入れが「序」で、推古にも「序」の推古がありえることに
   んるのでしょう。これが8年間というのかも。
    これほど高く買われたこの〈天皇記国記〉の編著者が
        崇峻天皇と聖徳皇子
   というのがいいたいところのことです、国語の成立と同時期
   ということになります。通説とはほとんど違ってしまいますが
   太田和泉守のものに準拠しながらやってるから大きくそれ
   てるものではないというのが本人の評価です。芭蕉の
   〈奥の細道〉の大きなテーマが〈古事記〉ともいえそうでそこ
   からも照射してみました。

   〈吾妻鏡〉方式・〈信長公記〉方式の叙述の仕方は、約束であ
   ったということがわかれば、また今、「わからない」とされてい
   ることは「読ま れていない」ことであることがわかれば、古典
   の著者が信頼されることになります。著者や文献が信頼され
   るためには、その約束を明らかにすることですが、それは学
   問の殿堂が認めない以上は容易に一般には知られないこと
   で、殿堂外の世界では100万例を積み上げて語り続けるしか
   ないようです。
   読み方を変えた結果、変えたというよりも普通に読んだ結果
   「いま、わからないとされてそのままとなっていることは、著者
   によってちゃんと書かれていた。」という例をしばらく積み上げ
   てみたいと思います。昨年機械を16年ぶりに変えました。
   上手くきりかえられるず四苦八苦ですが、記号などかわって
   いることなどあり過去のものが切りかわらないのではないか
   とも思いますが、操作能力的に器用にもできないので、とりあ
   えず上に乗せていくことにしました。
   
                              以上
                                 







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