16、千利休

(1)二人が一つと、一人が二つ
前稿で明智左馬助二人のことに触れましたが、会社での副社長二人というように、肩書きなら
わからないではないが、同じ名前の人間が、つまり、同姓同名のものが同じ職場に二人いるという
のが常態とすると、これはわかりにくいではないか、そんなことはされないはずだと思ってしまいます。
 しかし現実では、そういうことが有り得る、同姓の場合などは常におこっています。そうなれば、あだ
名をつけたり、適当に区別の材料をみつけて、まあ問題も起こっていないのが大半でしょう。しかし
それでも、それは引継ぎの項目にも入るぐらいのものとなっているはずです。
 そういう不便が想起されるためそれを利用したと考えられる、というのは前著で述べたことですが
これは基本的には、一人が二人いるのではなく、二人いたのを表現上一人に括ったということで
、書物に作意のあるものは、そういうことをしたわけです。
 これは日常二人一組とか三人一組とかいう場合に起こる結果責任の問題が意識されていたから
とも考えられます。
 今でも、夫婦は外からみれが一体だから、一人の行動が呼び起こした結果は一家というものに
降り懸かってきます。とくに姓も同じだから、よそからわかりにくく、意識も別ではないからよけい
そうなります。
 武士の社会での夫婦は、もともと二人という認識があったのが、責任は一緒に負わねばならな
いわけだから、例えば、二人の反対の性格から生ずる結果は、どうなるかという問題が降りかかっ
くる、そういう現実的な認識があったところからもきていると思います。
 これが合っているかどうかは別として、とにかく、武士の世ではもう一人、常に独立した人間と、
一家をなして、家の名誉とかいう枷のもとで奉公していた、という現実があります。夫婦同姓の場合
もあるから、隠れていても不思議ではない存在があった、それは今でも有り、昔でもあったという
ことになります。
 ややこしいのはそこにもう一人表記ではカタカナにした方がわかりやすいという存在がいたので
基本的三人がもとからあり、これに表記上では親子が重ねられてたりして、もう一人あり、主要な
人物には仮面を着せているのもありというようなことになります。
島左近、坂崎出羽守などの名前の多さもこういう[一人ではない]というのを暗示しているものでしょ
う。それにしては名が多すぎるのではないか、ということになります。
 これは他人を島・坂崎で表現することもあるからかと思います。例えば「福富」という人物の立場
からいえば、明智左馬助の秀俊という表記は、意味があるよといっているかもしれないわけです。
これは表向きよりもっと地味なことを述べている、そういう氏族が実際あったということも述べようと
した、と思えるものです。
 二人いるのを表現上一人に括った、というのは人物が増えることにもなる反面、一人の人間が、
別の名前で語られるということになると、人物が減って行くということになりますから、事実を述べる
ために人物が増え、主張という大事実を述べるための物語では、極端に人物が集約されていく、
ただ前者では夫婦という一体のものというのも基本となっていますから、結局は大きく収斂された
比較的狭い範囲のものでの人間の動きとなってくる、主要人物とそれを取り巻く人物が、細かく述べ
られるので見聞もたしかで、たいへん面白い話になってくる、こういう人物史の宝庫が日本史文献
です。全国レベルで同じようなものがあり、そこに主人公がおり、中央の主たるものとも呼応してい
る、しかも政治的関心が高いものが日本の文献といえるかもしれません。
 現在では頭から振りかざせる公式のようなものがあって、それを使って答えを出す、それにもと
づいていれば万人が安心感を覚えて納得する(公式がみつかったのは学問の進歩があったと
みなす)からそれを探そうとするわけです。みんなの拠り所とする「定義」も同じで〈吾妻鏡〉とはなにか
という定義をもとめられると、鎌倉時代の国選の史書だ、と答えるとそれが研究成果だから正解でそう
いう定義があれば納得して、そこからはみ出したのは、トンデモないということになってしまいます。
すると〈信長公記〉はお墨付きがないから正史ではない、ちょっと頼りないということになってきます。
 例えば憲法とはこういうものだという定義をして、現に憲法という字が入っている成文法があれば、
憲法のある国ということになる、そういうまとまったものがない場合は憲法のない国というものにして
しまって、それで一安心ということになる。憲法の定義を知らないものや、世界の憲法例など知らない
ものは、憲法を論ずる資格がないというような錯覚が生じたりします。
 いま古典の読み方において、「表記」とか「言葉」で読むなどということが、一般に認められていません。
そういうものの「公式」のようなものが確立されてないという、その前の段階にあります、こういう場合は、
こんなこともあるのかという予想外のことを抽出して解釈を積み重ねる、そういうことを多数やっていく
必要があります。そういうことに慣れていく、とともに小さいことでも納得できたことは認めていくという
姿勢が必要となります。
 筆者は変なことをいっていそうだが、「物取新吾」というわけのわからない追記の解釈は、なんとなく
合っていそうだ、というような判断の積み重ねも必要です。今までもそういうのばかりを、有名人で、
とりあげてきました。
  以下の話に出てくる人物は来歴のない人物(一匹狼)が多いので、戸惑いますが、一人が多くの
人物を示していくという代表例といってもよいところで、そこから多くのことが出てきます。
 出てきた結果は単なる推理想像にすぎないということになるのか、表記で語るということであれば
一概に無視できない、本当にそうかもしれないと思うようになるのかが、問題です。しかし、
いずれにしろ、そんなのおかしいという前に、そんことはおかしいという基準は、どこに置いたか、
ということを考えてみることが要ります。あまりに何もわかっていないというのが今の状態ですから
そのことを不思議と思わないということがスタートとなっているように思えます。みな基本的には事実
を知りたいと思っているのですから、自分と著者は同じ人間ですから、自分が知りたいと思った
ことは、著者が書きたかったことで、書いたはずだ、というのが自然ではないか、と思います。
 また知りえた知識は文献から得たのですから、文献の読み方に疑問が出されたら、やはりそれには
聞く耳がないとどうにも仕方がないと思います。筆者がいっているのであれば、そんことはないと
否定されても仕方がないのですが、過去の文献の著者が、そういっているから、至るところで匂わせて
いるのだから仕方がないと思います。
 〈甫庵信長記〉に『鏡屋、天下一号の事』という一節があり何をいおうとしているのかわかりません。」
本を読んでいる以上、わからないので、こういうことをいっていると教えてほしいのですが、わからない
ことは仕方がないからそのままとなってしまいます。
 
   『(鏡屋宗白の持参奉呈した鏡をみて、いと明白なり、と云って)・・・かくて鏡の裏を御覧ずれば、
   天下一と銘せしなり。
   公御気色変わり、去んぬる春、何れの鏡屋やらん捧げしにも裏に天下一と銘じつる。天下一は
   唯一つ有ってこそ一号にてあるべけれ。二人有ることは猥(みだ)りなるにあらずや。・・・・』
 
 これは天下一は自分であって、他のもにに使われるのはけしからん、といったような解釈がされる
ところでしょうが、それにしては、怒っていないのでおかしいのです。
初めに「明白」が出てきて、このあと、鏡屋を連れてきた「村井長門」の「不明」、予の「不明」が続いて
、「事の外にも痛み思しめし給いける。」で締められています。これは
「裏・・・・・一号・・・・・一つ・・・・・・二人」を云っていると取ると、主要文献がこのことを匂わせたもの
といえると思います。これよりはっきりした例はすでに前著でも木村世粛のところでも触れています。
 時代は離れていても、著者は人間だから、書いた以上は分ってもらおうとした、今日でも、わかって
貰おうとしているから、今日流の文章の書き方を、学校やら、文章教室やら、本などでみな習っている
わけです。だから、約束のようなものを知れば誰でも読めるはずのものとして文というものがある
と思います。だから誰がやっても読むことは出来ますが、時代背景などがあり、すこしとまどうだけです。
今日でさえ、回りくどい言い方が新聞紙上を賑わしています。今日は失言があっても地位を失ったり
することはありませんが、昔は社会的に抹殺されてしまうことが往々にしてあるわけです。
だから昔は昔なりの約束が有ったと考えるのは自然です。ただ今日民主主義といってる時代でさえ
まわりくどい言い方が活きている、と感じなければ、昔を理解することが出来ないのではないかと
思います。
 本題の千利休はたいへん有名な人ですが、権力に逆らった人だといわれています。こういう人は
あまりおおっぴらに書けないからなのか、〈信長公記〉では「宗易」が一回出てくるだけです。〈甫
庵信長記〉でも「宗易」一回、「千宗易利休」一回で終わりです。主要文献にこれだけしか出ていない
のになぜこれほど有名なのか、おかしいと思うのが、まず調べてみようという第一歩となりました。
 

(2)遠野孫次郎
次の太字の人物の内、石田主計は〈信長公記〉だけに登場する人物です。
(天正七年)
      『▲七月十八日、出羽大宝寺より駿馬を揃え、御馬五つ、ならびに御鷹十一聯(もと)
      この内しろの御鷹一足(いちもと)これあり、進上
     七月廿五日、奥州の遠野(トオノ)孫次郎と申す人、しろの御鷹進上。御鷹居(おんたかすえ)
     石田主計北国通り舟路にてはるばるの風波を凌ぎ罷り上がり進献。誠に雪白容儀勝れて
     見事なる御鷹、見物の貴賎も耳目驚かし、御秘蔵斜めならず。又、出羽の千福と申す所の
     前田薩摩、是も御鷹居(す)えさせ罷り上がり、御礼申し上げ進上。
      七月廿六日、石田主計前田薩摩両人召し寄せられ、堀久太郎所にて御振る舞い仰せ
     付けられ候。相伴は津軽の南部宮内少輔なり。御天主見物仕候て、かように結構の様(タメシ)、
     古今承り及ばず、生前の思い出忝きの由候キ。
      遠野孫次郎かたへ、先ず当座の御音信として、
     一、御服拾{如何にも御結構御紋織付き、色は十色なり。御裏衣、是又、十色なり、}
     一、白熊二付、
     一、虎革二枚、
         以上三種。
     一、御服五つ、ならびに黄金路銭として使いの石田主計に下され、忝く御拝領なり。
     一、御服五つ、黄金相添え前田薩摩守に下され、忝き仕合せにて罷り下り候キ。』
      〈信長公記〉

 他愛ない名前についても、意味がある表記だということを今まで紹介してきました。 記事を見て、
一見あまり重要性がなさそうだと感じます。とくに意味が判からないところが少しでもあれば、いらいら
してくるので、記事にする素材の選択がおかしい、文も名文ではない、論理的でもない、全体も頼りない
ものだ、と思ってしまいます。
〈信長公記〉で、もっとこれ以上におかしな記事が意味があったという例が多数あったことは述べて
きましたが、この例をみれば、また手元のメモから発生事実だけを書いてみたもので、こういう信長
政府の日常をとりあげた例ということになります。それはそれで太田牛一がそこにいたということで
重要だと思いますが、太田牛一が書記役であったということからみれば妥当な記事だということに
なってしまうものです。
 ただここも太田和泉は信頼できる書き手で、完璧を期して書こう、歴史専門家とかいう人以外でも
わかるように書こう、としてるといえそうです。太田牛一がそうであれば、太安万侶もそうですから、日本
史はたいへんな伝統の上に立っているといえます。果たしてわかりやすくて広がりのある話となって
いるのかどうか見たいと思います。
 
(3)甫庵の補足
   これについて甫庵は
          『波多野、誅せらるる事』
 の一節の後半に少し付け加えています。 

   『▼同十八日に出羽の大宝寺より勝れたる駿馬を揃え五匹、逸鷹(いつよう)十一モト、内白の
   鷹一足(もと)上せ進上す。大宝寺方へ、黄金二百両、緞子廿端、虎の皮五枚、使者には銀子
   二百両下し給うだりけり
    又、奥州の遠野孫二郎、白の鷹一足(もと)之を進ず。
   出羽の千福前田薩摩守、罷り上がって、逸鷹三足捧げ御礼も申しけり。逗留の間は、堀久太郎
   承って饗応(もてな)し玉いけるが、殿守見物として召し上げられ、色々の引き出物給うて御返し
   有りけり。
    八月二日に・・(宗門争いの御褒美の話=信長公記にある記事を受けるもの)・・・・・・・
   八月廿日に信忠卿・・・・堀久太郎も相従い奉る。
   九月二日の夜、荒木摂津守女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壷を持たせ、伊丹を忍び
   出で尼崎へぞ落ちにける。』 〈甫庵信長記〉

 九月二日の記事以外は、これが、〈信長公記〉のものに対応しています。
甫庵のこの一節の前半には、
             「惟任日向守」、
             「波多野三兄弟(脚注では、波多野秀治、秀尚となっていて、一人合わない)」、
             「青山与三」、
             「敦賀の武藤弥兵衛尉」、「その子助十郎」
 というような名前が出てきます。いづれも何かを含んでいそうな人名表記です。後半にも
             「遠野孫二郎」
             「前田薩摩守」
             「堀久太郎」
             「荒木摂津守」「女房」
             「乾助次郎」
というのが出てきて、他のところからいろいろ拾ってきてはじめて、ここの人名が理解できそうだと
いう感じがします。ここの 「遠野孫二郎」は〈信長公記〉では「遠野孫次郎」で、最後に出てくる「助
次郎」に対応しています。二番目です。

(4)隠れた人
 下線部分、〈信長公記〉の▲と〈甫庵信長記〉の▼には主語がなく、地名のような感じです。ここに
誰がいるのかということを調べなければなりませんが、こういうのは判るように書かれているのか、
いないのか、書かれているならばどこに載っているかを一応調べなければなりません。過去の研究
から調べようとなるのですが、まず同じ文献の他の所に出ているか、繋がっているらしい他の書物
で出ているかを調べるのが先決です。しかしこれは「地名の索引」がないから、全部もう一回読んで
探す以外にはないわけです。こういうことのために全部見直したという例は多々あり、それで別のこと
見つかるということもありましたが、それでは不完全であり、第一眼が持ちません。
さいわい〈信長公記角川文庫判〉には社寺地名索引がありますので、「大宝寺」を地名で見ますと出
ていません。社寺名で見ましても出ておらず、当然人名注にも出ていない、ということになっています。
したがってこれは、どちらともいえないから抜けてしまっているものです。
 もう一つ「前田薩摩」で出てくる「千福」も同じです。人名注に「千福遠江守」が出ていますがこれ
は本能寺前の人名羅列に出ているものを指しておりますから、一見した段階ではつながらないようです。
 ただ、下線部分は、出羽の大宝寺が行動をした、ということを書いており、誰かを隠した、個人名で
書かれる部分であろうと考えられます。戦国資料においてこういう索引が揃っているのは、〈信長公
記角川版〉だけで、これは〈吾妻鏡=新人物往来社〉と同じです。〈甫庵信長記=現代思潮社〉〈明智
軍記=新人物往来社〉には人名索引があります。桑田博士校注の岩波文庫版の〈甫庵太閤記〉に
人名ほかの索引がまったくありません。必要を感じながら省かれたと思われます。
〈甫庵信長記=現代思潮社〉に付録として〈清須合戦記〉やら〈道家祖看記〉〈南蛮寺興廃記〉〈総見
院殿追善記〉が付いていたことは多くの発見につながりました。対比すればもっと多くのことが掴める
という一つの指導でしょう。表記、言葉による文献の解読にはちょっとした親切が大きなものを生
み出せるものです。

(5)大宝寺と千福
 こういうようなものを知ろうとする場合、現代の学者によって、研究されたものを使うのは最後の
手段であって、江戸までの文献に載っているものから知るのがよい、何かほかのことをいっている
かもしれない、連合艦隊が編成されているかもしれないからです。もしそれが感じられると、元文献と、
のみならず、後世文献の価値も高められる、両方の価値が相乗されると史実の把握の最も基本的
な部分である文献評価に大半成功したといえることになります。
 〈常山奇談〉によってこのわからない部分を教えてもらうことにしました。

    『本庄正宗(ほんじょうまさむね)の刀の事
   本庄越前守繁長は越後の勇将なり。後景勝上杉十郎憲景が禄を本庄に与えらる。本庄出羽
   の庄大寶寺義興(だいほうじよしおき)と戦い勝ち、二男千勝丸(せんかつまる)に庄内を与え
   けり。
    本庄最上義光(もがみよしみつ)と出羽の千安が表(おもて)にて軍(いくさ)しける時、最上(もがみ)
   の軍敗北せしに、義光の士大将東漸寺右馬頭・・・・・繁長を目にかけて・・・・かけ寄せて正宗の
   刀を以って冑を打つ。・・・(討たれた右馬頭のこの刀は)・・・後故(ゆえ)有って東照宮の御ン刀
   となり、本庄正宗(ほんじょうまさむね)といえるは此の刀なり。』〈常山奇談〉

 大宝寺というのは大宝寺氏というものがあり、出羽の国は、越後上杉景勝と最上義光が争奪戦
を繰り広げた地域であったことがわかります。これによれば、出羽の大宝寺は上杉のことになるでしょう。
 もう一つの「千福」は「千安」であればちょうどピッタリしますが、〈甫庵〉のいう
        「出羽の千福前田薩摩守、」は、〈信長公記〉では
        「出羽の千福と申す所」
 となっており、地名であるのは、確実なようです。一応「千福」は「最上」と宛てられます。
「千福」は「千安」の「千」を生かしたとしますと「出羽」「千千代」「福太夫」とみれますが、これは言って
おいて損はない程度のものでしょう。
 この〈常山奇談〉では、ルビは必要以上に打ってあり、わずらわしいのでかなり省きまたが、肝心
の「千安」についてはルビがありません。適当に読んでくれというようですが、「ちやす」「せんやす」
「ちあん」「せんあん」などの読み方となり、漢字にすれば、「千」・庵・易・保などが思いつくところです。
とにかく
       「千」
を無理にもってきたともいえます。
 もう一つ重要なのは、この書を理解するのに現代の研究が利用できることです。つまり常山は
   「本庄出羽の庄大寶寺義興(だいほうじよしおき)」
 を出してきました。これで大宝寺の地名感が消え「大宝寺」は大名家の名前で、大宝寺を地名と
取ってはいけないと思ってしまいますが、テキスト〈信長公記〉の脚注では
  『出羽大宝寺→武藤義興』
となっています。すなわち
       「武藤氏」
も常山はいいたかったことがわかります。これは先ほどの〈甫庵信長記〉の、(3)で出てきた
     「敦賀の武藤弥兵衛尉」、「その子助十郎」
に対応するものかもしれないというのが出てきます。またこの「助十郎」が「助次郎」への関心を呼び
起こしているようですが、この段階ではいっておくという程度のものです。
 又〈常山奇談〉から、伊達政宗と徳川家康が出てきたと思われます。この二人は出てくる必然が
あったようです。
 
(6)石田主計と遠野孫次郎
  先の〈信長公記〉記事再掲   
      『▲七月十八日、出羽大宝寺より駿馬を揃え、御馬五つ、ならびに御鷹十一聯(もと)
      この内しろの御鷹一足(いちもと)これあり、進上
      七月廿五日、奥州の遠野(トオノ)孫次郎と申す人、しろの御鷹進上。
     御鷹居(おんたかすえ)石田主計北国通り舟路にてはるばるの風波を凌ぎ罷り上がり進献。
     誠に雪白容儀勝れて見事なる御鷹、見物の貴賎も耳目驚かし、御秘蔵斜めならず。
      又、出羽の千福と申す所の前田薩摩、是も御鷹居(す)えさせ罷り上がり、御礼申し上げ進上。
      七月廿六日、石田主計前田薩摩両人召し寄せられ、堀久太郎所にて御振る舞い仰せ
     付けられ候。相伴は津軽の南部宮内少輔なり。御天主見物仕候て、かように結構の様
     (タメシ)、古今承り及ばず、生前の思い出忝きの由候キ。
      遠野孫次郎かたへ、先ず当座の御音信として、
     一、御服拾{如何にも御結構御紋織付き、色は十色なり。御裏衣、是又、十色なり、}
     一、白熊二付、
     一、虎革二枚、
         以上三種。
     一、御服五つ、ならびに黄金路銭として使いの石田主計に下され、忝く御拝領なり。
     一、御服五つ、黄金相添え前田薩摩守に下され、忝き仕合せにて罷り下り候キ。』

   〈甫庵信長記〉記事再掲
     『▼同十八日に出羽の大宝寺より勝れたる駿馬を揃え五匹、逸鷹(いつよう)十一モト、内白の
     鷹一足(もと)上せ進上す。大宝寺方へ、黄金二百両、緞子廿端、虎の皮五枚、使者には銀子
     二百両下し給うだりけり
      又、奥州の遠野孫二郎、白の鷹一足(もと)之を進ず。
     出羽の千福前田薩摩守、罷り上がって、逸鷹三足捧げ御礼も申しけり。逗留の間は、堀久太
     郎
承って饗応(もてな)し玉いけるが、殿守見物として召し上げられ、色々の引き出物給うて
     御返し有りけり。』

 登場人物は〈信長公記〉では
    「出羽大寶寺」、「遠野孫次郎」、「石田主計」、「前田薩摩」、「堀久太郎」、「南部宮内少輔」
であり〈甫庵信長記〉では
    「出羽大寶寺」、「遠野孫次郎」、「      」、「前田薩摩」、「堀久太郎」、「         」
となっていて、「石田主計」と「南部宮内少輔」という人物が〈甫庵〉に出ていません。したがって
〈信長公記〉での挿入ということが考えられます。

献上したものと、お土産をまとめてみます。〈甫庵〉のが一般に知ってもらおうというもので、それを中心に
まとめます。(太字が〈信長公記〉の記事

     献上者             献上物               土産        使者

   出羽大宝寺         駿馬を揃え五匹、         黄金二百両、    銀二百両
                   逸鷹(いつよう)十一モト、     緞子廿端、
                   内白の鷹一足(もと)        虎の皮五枚

   遠野孫次郎         白の鷹一足(もと)         御服拾         御服五つ
                                       白熊二付、      黄金路銭
                                     虎革二枚
 
   千福の前田薩摩      逸鷹三足              接待、
                                       御服五つ、黄金

 これからみると二つの書物で一つの完成表が出来るということになっています。
他のところが使者がないのに、遠野だけ、石田主計という使者があり、かつそれだけ道順まで
書いてあります。
 遠野次郎については今ではよくわからない人物ですが、テキスト人名注では
    『遠野(岩手県遠野市)の土豪』
 とされています。また、ここが〈吾妻鏡〉にも出てくる「阿曽沼氏」の領地だから、阿曽沼孫次郎
だろうとされているものもあり、いずれにしろよくわからないから、そういう事実があったのだろうと
いうことで終わっています。これは「」があり、〈信長公記〉の念の入れ様から伊達政宗(正宗)を
表しています。湯浅常山もそのように読んだから「正宗」を出してきたのです。(結果は阿曽沼氏は
伊達氏に吸収されてしまう)

(7)石田主計
 ここの前田薩摩という人はテキスト人名注によれば、『前田利信』という人とされていて、前田氏は
      『秋田県仙北郡大曲(大曲市)の前田氏(〈秋田県史〉)。』
となっています。ここで「仙北」が出てきましたので先に出た「出羽千福」について
      『出羽千福は「出羽仙北」の宛て字か。』
と書かれています。結局こういう「宛て字で読む」という方向も、読みの問題の解明においては、必要
ではいかということをいわれていると思います。筆者は「千福」は「千安」のことで「安」を「福」にした
といっていますが、これもあながち駄目だというものではないということになります。
すなわち、「千福」は出羽で、出羽というのは羽前・羽後(今の秋田県・山形県)を指すのは確かで
すが、(出羽仙北)すなわち大曲市は羽前(もしくわ羽後の北)、「千安」は羽後、出羽といえば最上で
しょうから最上の北に、前田氏がいたという事実が踏まえてあるということはいえます。
 「前田利信」という「利」は加賀の前田の「利」なので、この原本が〈吾妻鏡〉式であって「利」をことさら
付けたものかわかりません。一応それはないという前提でいくのはよいのですが、一方でまたややこし
い、まどわしが出てきます。
 ここの「北郡」というものがあってこの字が相撲の場面でよく出てくる「万見千代」、これが
再掲文の「堀久太郎」ともつながるとややこしくなってきます。大曲「北郡」は、「仙(千)北(福)」
となり、ここから連想されるものは何か、といえば
     「万見仙(千)千代(世)」であり「福太郎(福富)」
 でもありますから、偶然のいたずらでこうなるか、ということが一方では出てきます。この辺りも太田和泉
が通った場所とみられますから、地名も克明にノートに取られていたとみてもよいといえます。
記録好きというわけでもないのですが、日本の古人は細やかに日記などを付けてきている、それは
親から引き継いでいる教えといってもよいのではないかと思われます。そういうのが動員されて
ここに反映されていると思います。
    「千」「仙」
を出してきたとは思います。しかしこれはいま援用できるものでもないから脇においておきますが、
ここに前田を持ってきたのは二つの意味があるのではないかと思います。
 それが石田主計であり、これは〈信長公記〉の創作といえる人物です。奥の細道に大石田で出て
くるのと同じもので、石田三成(光成)(三也)を暗示した人物です。ここは、その書物が述べている
時代より後代の話が、その書物に織り込まれたのではないか、と思えるところです。表記がそれに
伴ってどうなっているのかをみる恰好の話となっていると思います
 すなわち関ケ原の合戦の構図が(信長公記に)描かれているのです。関ケ原の合戦は石田を取り
巻いて
       上杉・最上・伊達・南部・森(毛利)・前田・島津
 が敵となったとのがいいたいところです。とくに上杉と毛利、島津は味方らしかったのでよけい始末が
悪かった、といえると思います。まあ余分なことですが、常山奇談には次のような記事もあります。

   『○直江山城守伊達政宗に加勢を乞う事
   直江長谷堂を責めるとき、義元加勢を伊達政宗に乞う。石川弥兵衛に兵衆二千余騎をさし
   そえて遣わす。石川兵を三手に分けて長谷堂におもむく。戦うに及んで最上勢石川が兵を
   上杉勢と見違えて、味方討ちに遭うもの多し、石川始め我が一隊の相印(あいじるし)最上方
   にしらせざりしが故なり。援兵にさされては先相印を示し、制禁を問(とう)と定れる軍(ぐん)の
   法にて知慮にも及ばざることなり
。然るに石川拙(つたなく)して無益の兵衆を亡(ほろぼさ)れ
   たり。』

 構図は上杉が石田方で、伊達と最上は徳川方です。石田方の挙兵で徳川が退くや、直江は家康
を牽制するのでなく最上の長谷堂を攻めます。表題は直江が伊達に加勢を頼んだ、本文では義元
(最上義光?)が伊達に加勢を乞う、となっていてよくわかりませんが、結果、伊達と最上が衝突して
しまいました。太字は意味がわかりません。石川は考えてもいなかったことで失敗したといっている
のでしょう。まもなく最上がお家取りつぶし、上杉、伊達が生き残ります。〈当代記〉では毛利輝元も、
   『内府公へ味方の人質が大坂に居たのを森居城広島へ遣ったので、』
つまり保護をしたので、七カ国返上して二カ国は取り返したというようなことを書いています。前田
は、金澤城に二十万石の城領を添えて、内府公子息を養子にしてこれを譲るということを約束し、
これに利長母と家老の人質が江戸に下ることになったので、内府公はたいへん悦んで、金澤城領
と養子のことは取り消したと書いてあります。、みな完全屈服してお家の安泰を図っているような状態
で、上杉の恰好よさはくさいのです。上杉景勝については、
    『この陣、留守中会津景勝少の行いに及ばず。』
とあり、関ケ原の役の間は留守だったので不問とされたというような書き方がされています。
すなわちこれを書いているときは、関ケ原合戦の終わったあとだ、ということがわかる一節だといえ
ます。あとから思い出してこの天正7年にはめ込んだわけで、関ケ原で松野主馬が、小早川の先陣
に居たのに、戦闘に参加しなかった、という結果を踏まえて本能寺で松野を出してくるという操作と
同じことをやったと思われます。
  「孫」から重要人物と推定され、かつ政宗は二番目ということもいっていると思いますが、関ケ原
の一方の親玉が顔を出していなければ関ケ原の縮図だというわけにはいきません。
これは両書の対置ということをやらねばなりませんが、〈前著〉でくどいほどいってる嵌め込んで読む、
という感覚でやらねばならないと思います。

(8)徳川イエヤス
 先ほど再掲した大宝寺や遠野、前田、石田、堀、南部などが出てきた記事は〈甫庵信長記〉では
         『浄土宗と日蓮宗と宗論の事』のあとの
         『波多野、誅せらるる事』
という一節に出ています。
〈甫庵信長記〉のこの一節に登場する人物は、再掲
          「惟任日向守、          「波多野兄弟三人」
          「青山与三」            「敦賀の武藤弥平兵衛尉」「助十郎」
          「信長公」              「大宝寺の使者」
          「奥州の遠野孫二郎」      「出羽の千福前田薩摩守」
          「堀久太郎」            
          「霊譽上人」            「貞安上人」 
          「南禅寺秀長老」         「浄厳院」 
          「信忠卿」              「堀久太郎」
          「荒木摂津守」           「その女房」
          「乾助次郎」
 です。甫庵のこの一節の期間は、巻十二、天正七年のうち、「六月四日」、「七月三日」、「同十八日」、
、「八月二日」、「九月二日」という日が鏤(ちりば)められている部分です。この一節のはじめは
「波多野」の記事で、終わりは荒木村重の次の記事です。

    『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には※葉茶壷を持たせ、伊丹を
    忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉

なおテキスト〈甫庵信長記〉の脚注では※について
    『荒木村重は茶人利久の弟子。』
となっています。なぜここで、この注をいれられたか、というと「茶壺」と「荒木」だから、「利休」を思い出さ
れたと思います。すると「乾助次郎」は茶人かもしれないというのが当然出てきます。ただこれが利休と
いうのには材料不足と感じられたと思います。ただこの直感が重要で、そうかもしれないと思ったら当た
ってみることです。はずれてもともと、これは利休であれば物語が大きく展がってゆきます。
 あの茶人、「千宗易」は「千利休」もあり「千利久」もあるようです。
「宗易」の「宗」は「今井宗久」とか「津田宗及」とかと、「宗」で共通していますが、こういうのは堺の
茶人に共通の名前だということで納得させられてしまいます。「宗」を付けたのはこういう書の著者
の書きようもあるかもしれないとみるのも要るかと思われます。例えば次のようなことはありえないと
いうことは今まで述べてきたことです。テキスト脚注、

  『今井宗久(1520〜1598)和泉堺(堺市)の商人で茶人。入道して昨夢斎。〈今井宗久茶湯
  日記抜書き〉がある。』
 で78歳とはっきりしています。

  『津田宗及(そうぎゅう) 和泉堺(堺市)の豪商で茶人。信長および秀吉の茶頭。〈津田宗及
  茶湯日記〉の記録主。(〈信長公記〉では天王寺屋宗及としても出てくる)』
 つまり後者は生年・没年不詳です。これは茶湯日記の抜書きの方でなく、完本を書いたようなのに
わからないというのはおかしいと思います。 特に引っ掛かるのがこの「津田」という姓で「織田信澄」
が「津田信澄」であったようにこれは織田の人かも知れないということです。この「織田信澄」も、すぐ
前の一節に顔をだし、次の★も津田姓が出てくるように〈信長公記〉のこの期間に出てくるのです。
 この甫庵の期間に対応する〈信長公記〉の記事は巻十二の(五)と(六)の記事にあたりその内容
は下の通りです。

   『(五)去程に・・・・丹波国波多野・・・・惟任日向守・・・・・波多野兄弟三人・・・・
     六月四日・・・・・・・・・・三人の者・・・・
     六月十三日、丹後松田摂津守・・・・・
     六月十八日、中将信忠卿安土・・・・・
     六月廿日、・・・・・滝川・蜂屋・武藤・惟住・福富・・・・・青山与三・・・・
     六月廿二日、羽柴筑前・・・・竹中半兵衛・・・病死候。・・・・竹中久作・・・
     六月廿四日、惟住五郎左衛門・・・・周光・・・・長光・・・
     七月三日、武藤右衛門・・・病死なり。
     七月六日・七日両日・・・・・・(安土御山で御相撲)・・
     七月十六日、家康公より、坂井左衛門尉御使として御馬進(まいら)せ候。奥平九八郎
          坂井左衛門尉両人も御馬進上なり
     七月十九日、中将信忠卿・・・・★・津田与八・玄以・赤座七郎右衛門両三人・・・・・井戸才介
           深尾和泉・・・・・
     七月十九日、維任日向守・・・・・維任・・・。
       
    (六)八月九日、赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸け推し詰め候処に、人数を出だし候。
            ・・・種々降参候て退出。維任右の趣一々注進申し上げられ、永年丹波に
            在国候て粉骨の度々の高名、名誉比類なきの旨、忝くも御感状成し下され、
            都鄙の面目これに過ぐべからず。  
      七月十八日、出羽大宝寺・・・・。
      七月廿五日、奥州の遠野(トオノ)孫次郎・・・・・・・・・・・・・・石田主計・・・・・・・・・・ 
            ・・・・・・・・・・・・出羽の千福・・・・・前田薩摩、・・・・・・・・・・・・・・。
      七月廿六日、石田主計前田薩摩両人・・・・・・・・・、堀久太郎所・・・・・・・・・・・・・
          ・・・・・相伴は津軽の南部宮内少輔・・・・・・・・・・・・・。遠野孫次郎かたへ、・
          ・・・・・・・・・・・石田主計に・・・・・・・・・前田薩摩守に・・・・・・
      八月二日、以前法花宗と法文仕候貞安長老へ、
             一、銀子 五十枚、貞安へ下さる。
             ・・・・浄厳院長老へ、・・・・日野秀長老へ、・・・・霊誉長老へ、・・・・・
      八月六日、江州国中相撲取り召し寄せられ安土御山にて相撲とらせ、御覧候処、
            甲賀の伴正林と申す者、年齢十八・九に候カ、能き相撲七番打ち仕候。
            次の日、又、御相撲あり。此の時も取りすぐり、則、御扶持人に召し出さる。
            鉄砲屋与四郎、折節(おりふし)御折檻(セッカン)にて籠へ入れ置かる。
            彼(かの)与四郎私宅・資財・雑具共に御知行百石、熨斗付(ノシヅケ)の
            太刀、脇指大小二つ、御小袖・御馬皆具(かいぐ)共に拝領。名誉の次第なり。
      八月九日、柴田修理亮、賀州へ相働き、阿多賀・本折・小松口迄焼き払い、・・・・・
      八月廿日仰せ出だされ、中将信忠攝津表へ御出馬。其の日、柏原泊り。次日安土御
            出。廿二日、堀久太郎相添えられ、古屋野に至って御在陣。

    (七)●九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召し列(ツレ)伊丹を忍び出、尼崎へ移り候
       九月四日、羽柴筑前守秀吉、播州より安土へ罷り越され、備前の宇喜田御赦免の
       筋目申し合わせ候間、御朱印なされ候様にと言上の処に、御諚をも伺い申されず、
       示し合わすの段、曲事(くせごと)の旨、仰せ出され、則、播州へ追い還えされ候なり。』

 一応甫庵の記事が、下線●のところと似たような記事で終わっていますので、このあたりまでが
甫庵の記事の範囲でしょう。●は甫庵では(再掲)

   『九月二日の夜、荒木摂津守女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壷を持たせ、伊丹を忍
   び出で尼崎へぞ落ちにける。』 
  
 となっていました。
 ここで下線太字の家康公坂井左衛門尉が出てきました。この家康公は「イエヤス公で本能寺前
に登場したのと同一、、坂井左衛門尉は表向き活動する人物、本当の家康卿は家康公の下で、あま
り動けないが、表向き徳川責任者という構図です。常山は東照宮ー正宗から遠野孫次郎に結び
つけています。イエヤスーマサムネ、強者のテロ行使という色合いがあり、どうしようもない枢軸と
して攻撃対象とされているものです。荒木事件のように凄惨な結末を迎えたものに秀吉奥州征討
での九戸政実の事件があります。これは堀尾や、蒲生や、秀次に嫌疑を向けさせてはいますが、
実際あの騙まし討ちはこの枢軸の仕業です。〈当代記〉

   『天正十九年辛卯正月廿一日、大和大納言{秀吉弟、美濃守事、}死去、この春中、浅間山
   夥しく焼上、此の春夏、奥州九のへい一揆蜂起、
    七月、中納言秀次奥州出勢あり、家康同じく之に先(だち)出陣給う、九のへいの城主虜
   (とらえ)て召し連れ、一の関において之を伐る
、すなわち静謐して、十一月秀次、令上給
   (打ち上げしめ給う?)
   同七月、秀吉若君八幡太郎殿逝去、{年三歳、}・・・・・・・
   十二月、秀吉公三川国為鷹野、下向し給う。・・・禽獣三万・・・御帰洛。・・・・・大和大納言死去
   以後、多武嶺、且々(多いさま))寺僧還住、但寺領は前々の十物一也、これはこの度大納言
   逝去の事、大織冠之罰を蒙る之由、時の人、之を云う間、この如しと云々、
   此の夏、三州吉田の城門の辺に新き首を落とす、その日同時に同国武節と云う所にて人の首
   をねち切れると云々。去六月、大雹降る、』〈当代記〉

 この太字の所が、それです。一の関は伊達領地で、奥の細道では石巻から平泉への道中の途中に
にあるところ、既述のように芭蕉が

     「思いがけず斯かる所にも来たれる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)
     まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又しらぬ道まよい行く。・・・・・心細き長沼にそうて、
     戸伊广(といま=今の登米町)と云う所に一宿して、平泉に至る。」〈奥の細道〉

 と書いているところで、この「戸伊广(といま)」が曾良日記にあり
     「戸いま(ルビ伊達大蔵)、宿不借(ルビ儀左衛門)、仍て検断告げて宿す。{検断庄左衛門}」
 とあり、伊達大蔵が出てきます。登米町は「とよま」と読むようで「伊」が伊達の伊に注目というの
 でしょうか。
     「(翌日)・・・・一ノ関黄昏に着。合羽もとおる也。宿す。」
 途中で雨が降り出して、合羽を通す強い雨にやられたといっています。したがって、このあと、
平泉で、和泉が出てきて、三堂、三将、三代、三尊と来て
       五月雨の降(ふり)残してや光堂
 と出てくるわけですから、この句には、家康公と政宗それに続く、「五月雨」の「光」の光秀三兄弟という
ものが出てきている、政治性も入っているのではないかというのが前著で述べたことでしたが、
芭蕉の文藝作品には政治的主張が織り込まれていたといえます。いまでは政治と文化が別々に
語られており、文化面は息抜きのような感じでみられていますが、昔は違っていたのではないかと
思います。「三尊」のなかに「明智」が入ってくるのはおかしいといわれるかもしれませんが、それは
藤原三代も「三尊」と並びになっているから同じです。芭蕉がこれを詠んだときは明智光秀らも故人であり、
藤原と同じです。この人物(イエヤスとマサムネ)の影があって、それが奥の細道のこの節で、対比を
出すことによって、鮮明に出てきたとみられます。
 荒木村重の事件があまりに凄惨な結末でおわりましたが、これも九戸の事件と同じ性格を帯びている
わけです。前著〈戦国〉でふれたように、〈当代記〉では

    『信長自愛之小性谷河藤五郎頻りに慮外を企て、去年三川国岡崎へ御出之時、荒木
    門に立居たりしに、二階より長谷川尿をしかけたり、傍の人是を荒木に告申、荒木不苦
    とて不立去(苦しからずとて立ちさらず)、かくの如きが故に違心と云々。』〈当代記〉

 となっています。徳川色の「長谷川」に関与させています。二階から尿をしかけるようなことはしな
いだろうと誰でも思いますから、この話はウソ、全体も採用できないとなってしまいます。「二階か
ら尿」というのは、竹中半兵衛が斎藤竜興に反旗を翻したときの侮辱にも出てきますが、龍興も
長谷川もこういうことはさせません。荒木が「苦しからず」といったのはたいしたことではなかった、
傍の人」が最も問題で事件を引き起こそうとしているのです。竹中半兵衛の語るトーンからは、
小寺官兵衛も荒木事件に絡んでいてそれも念頭にあると思われますが、とにかく徳川の手が信長
に及んでいるようです。ここで「信忠」が出てきますが、〈信長公記〉では、本能寺につながる話として
「信忠卿」と区別されているようです。
 〈当代記〉記事の、この期間に対応する部分では

    『・・遠野白鷹進上・・・・・千福の前田・・・霊譽貞安・・・・・八月二日信忠摂州出馬・・・・八月五日
    岡崎三郎信康・・・・坂井左衛門尉・・・家康・・・・家康公(このとき西尾の城へ移る)・・・・・・九月
    十五日・・・・三郎主(信康)・・・生害、三郎主母公も・・・生害、九月廿二日、荒木摂津守伊丹城を
    忍出{女房一人侍一人召し具す、壺を持つ、}尼か崎落ち行く、』〈当代記〉

 があります。「遠野など」と「荒木村重」に挟まれて「坂井」が登場します。〈信長公記〉では贈り物の話で
出てきましたがここでは突然、信康死亡記事が出てきています。家康と家康公の表記もチャンと区別されて
います。
 余談ですが上の〈信長公記〉の日付がおかしい、太字八月九日が二つあって、前のほうに一つ
飛んで出てきています。前の方は明智光秀の活動記事で、あとが柴田勝家です。これは「柴田日向守」
という表記があって二人は重なることがあることをいってきましたが、この場合はそれがはっきり分けられ
ます。
つまり北国征討軍の総大将は柴田の属性ということを示していると思います。またこの辺りの日付には
あまり拘泥しなくてもよいということもいっていると思われます。

 なお〈信長公記〉再掲
    『八月二日、以前法花宗と法文仕候▲貞安長老へ、
             一、銀子  五十枚、 ▼貞安へ下さる。
             一、銀子  三十枚  浄厳院長老へ、
             一、銀子  拾枚、  日野秀長老へ、
             一、銀子  拾枚   関東の霊誉長老へ、
            かくのごとく送り遣わされ忝き次第なり。』〈信長公記〉
   
 〈信長公記〉のこの文は、いま話をしている一節のなかのものですが、この前節は安土宗門
論争の記事になっています。この前節で、「貞安」や「浄巖院」のことなどが語られ、ここの内容が
解説されているという構成になっています。

(9)田中の洪水
「浄土宗」と「法花宗の論争において、前節の記事

   『浄土宗(側)は、・・・・・関東の長老、田中の貞長老二人、・・・・出でらる。関東の
   霊譽長老は・・・・(私が)申すべしと仰せられ候を、田中の貞早口にて、初問を置かれ候。
   それより互いの問答書書き付く。
   貞安問いて云(いわく)、・・・・貞安云、・・・・貞安云、・・・・貞安云、・・・・貞安云、・・・・貞安云、
   ・・・・貞安云、・・・・貞安云、・・・・・・貞安亦云、・・・・・』

となっています。貞安のパレードです。さらに論争に勝ったあと

   『関東の長老扇を披(ひら)き、立って一舞(ひとまい)まわれたり。・・・・法花宗四方へパつ
   と逃げ散り候。・・・・・・・・信長公時刻を移さず、午の刻に御山下りなされ、浄厳院へ御座を
   移され、法花衆・浄土宗召し出だされ、先ず関東の霊譽長老へ御扇を出だされ、田中の貞安
   長老へ御団(うちわ)下され御褒美斜めならず。秀長老へは、先年堺の者進上仕候、東坡が
   杖参らせられ候。』〈信長公記〉

とあり、「貞安長老」は「田中」の貞安ということがわかります。テキスト脚注では
    「滋賀県蒲生郡安土町田中の●西光寺聖譽貞安」
 となっています。
  再掲文の書き方もおかしく▲▼と二回貞安が出てきて、一旦それで完結しています。
貞安五十枚の内訳があとの三人五十枚というような書き方です。
実際は

   『霊譽上人へ銀子二百両、貞安上人へ銀子五百両、南禅寺の秀(しう)長老へ銀子三百両、
   浄厳院へ銀子三百両恩賜せられたり。』〈甫庵信長記〉

 ですから貞安重視に変えたといってると思います。すなわち
次の「 一、銀子  三十枚  浄厳院長老へ、」となっている、浄厳院については、本文に

    「安土町未浄土宗の寺浄巖院仏殿にて宗論あり。」〈信長公記〉

 となっているので仏殿が山の上で、「浄厳院」は下にあったのでしょう。脚注では
    「滋賀県蒲生郡安土町慈恩寺に浄厳院がある。」
 とされています。この「慈恩寺町未に三人の者(波多野三兄弟)張付(ルビ=はりつけ)に懸けさせ
られ、」となっている、こういう関連があるのが「浄厳院」です。ただテキストの注●がなければ、「浄厳
院」の長老が貞安ではないかと思ってしまいます。まあ安土が八十枚で重点は「安土」にあります。
 また、「銀子 拾枚 関東の霊誉長老」も〈当代記〉では

   『去五月宗論に勝たるとて、霊譽貞安に銀子下さる』

となっていて●で貞安が「聖譽」であるというのがわからなければ、貞安も霊譽ととってしまいます。
〈当代記〉がエイヤとやってしまったのも根拠がないとはいえないと思います。テキスト〈信長公記〉
脚注では

   『聖譽貞安(1539〜1615)後北条氏の一族。小田原の大蓮寺尭譽に学び、のち飯沼の弘経
   寺に移った。近江に在ったとき、信長に招かれ、創建した西光寺に入った。(辻善之助〈安土
   宗論の真相〉ー日本仏教史之研究所収ー)。』

 と書かれています。いわばこの人も関東の出身であり、譽長老とは一見、兄弟弟子、もしくは
兄弟といった密接な関係があったわけで、〈信長公記〉の銀子の分け方は貞安がもらったもの
50枚を皆に分けてしまったということをいっているのかもしれません。
        要は土・貞
の「安」で「千安」と結びつきます。
秀(しゅう)長老は南禅寺の人、審判役のような存在です。当時は南禅寺は五山の中では格が
一番上だったそうですが臨済宗の寺で、一休、宗易に関係の深い大徳寺も臨済宗の寺です。
 ここで「貞安」に伴われて、「田中」が、夥しく登場してきたことがポイントになります。
  
   『浄土宗(側)は、・・・・・関東の長老、田中の貞長老二人、・・・・出でらる。関東の
   霊譽長老は・・・・(私が)申すべしと仰せられ候を、田中の貞早口にて、初問を置かれ候。
   それより互いの問答書書き付く。
   (安土田中の)貞安問いて云(いわく)、・・・・ (安土田中の)貞安云、・・・・(安土田中の)貞安云、
   ・・・・ (安土田中の)貞安云、・・・・ (安土田中の)貞安云、・・・・ (安土田中の)貞安云、
   ・・・・(安土田中の)貞安云、・・・・・(安土田中の)貞安云、・・・・・・(安土田中の)貞安亦云、・・・・・』
   ・・・・・・・・関東の長老扇を披(ひら)き、立って一舞(ひとまい)まわれたり。・・・・法花宗四方へパつ
   と逃げ散り候。・・・・・・・・信長公時刻を移さず、午の刻に御山下りなされ、浄厳院へ御座を
   移され、法花衆・浄土宗召し出だされ、先ず関東の霊譽長老へ御扇を出だされ、田中の貞安
   長老へ御団(うちわ)下され御褒美斜めならず。秀長老へは、先年堺の者進上仕候、東坡が
   杖参らせられ候。・・・・・・・・・
   八月二日、以前法花宗と法文仕候(安土田中の)▲貞安長老へ、
             一、銀子  五十枚、(安土田中の) ▼貞安へ下さる。
             一、銀子  三十枚 (安土の) 浄厳院長老へ、
             一、銀子  拾枚、  (田中貞安と関連ある)日野秀長老へ、
             一、銀子  拾枚   (田中貞安と対の)関東の霊誉長老へ、
            かくのごとく送り遣わされ忝き次第なり。』〈信長公記〉

すなわち、「田中」「安」のパレードをつくった、これは「千安」と「千福前田」「千千代」「仙千代」の
「千」と表記による連携が図られました。つまり
        「千安」は「千易」であり、「田中の貞安」は「千」の「貞易」
ともいいたいのではないか、と勘ぐられます。テキスト〈信長公記〉脚注によれば

   『千宗易(?〜1591) 天正十三年(1585)十月正親町天皇から利休居士の称号を与え
   。信長の茶頭としてはじめてあらわれた人物である。(桑田忠親氏〈日本茶道史〉〈千利休〉)
   千氏田中氏。和泉堺(大阪府堺市)で興った名族。利休の名は与四郎
   魚問屋で納屋という(〈宗及他会記〉の校注)。』

 と書かれています。ネット記事一件借用、(www.tabiken.com/・・・・/.K/K237L・・)

   『千利休   1522〜91(大永1〜天正19)戦国・安土桃山時代の茶人で、茶道の大成者
   として著名である。堺の問屋田中与兵衛の長男として生まれ、与四郎と称した。家名の
   「千」は足利義政・義尚に同朋として仕えた祖父の田中千阿弥(せんなみ)からとったとされる。
   幼少のころから茶湯を好み、武野紹欧らに学び、また堺南宗寺大徳寺において大林・笑嶺・
   古径の三和尚に参禅し、和敬静寂の侘び茶の世界に到達した。・・・大徳寺の山門上に寄進し
   金毛閣(きんもうかく)に自像を安置したことや、自作の茶道具を高価で売ったことなどを口実
   に、秀吉に処罰され切腹した。利休の茶道は、子孫である千家によって代々受け継がれ、本流
   には表千家(不審庵)、裏千家(今日庵)、武者小路千家(官休庵)の三系統がり、傍系はすこ
   ぶる多い。』

 となっています。ネット記事もう一件、

   『千利休 1522〜91(大永12年〜天正19年)
            本      田中与四郎
            法      千宗易
            号      不審庵・拗筌
    堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれる。
   早くから茶の湯に親しみ、北向道陳、武野紹鴎に師事。南宗寺の大林宗套に参禅し、宗易の
   号を得た。能阿弥系・珠光系の両茶道を併せ、利休流茶道を樹立。・・・・・・・
    
    石垣山で利休・秀吉が大茶会を催した頃、悲劇的な出来事が利休を襲う。
   秀吉は小田原攻めにあたり、まず箱根湯本にある早雲寺へ本陣を構えた。その頃小田原北条
   家には「山上宗二(1544〜1590・天文13年〜天正18年)」が客分として滞在していた。

    山上宗二は堺の豪商 薩摩屋に生まれた。飄庵という茶号である。利休の高弟で、織田信長
   に仕えた茶人であった。1582年(天正15年)10月、京都大徳寺で行われた信長の法要には
   千宗易(利休)、博多屋宗寿とともに三人の主催者の中に名がのせられている。信長の没後
   利休と共に堺衆茶人として秀吉の茶頭となった。

    宗二は純粋に茶道を極めようとした人物である。権力に結びついた高級サロンの文化になった
    茶道は「茶道のための茶道ではない」と批判、自分の信念を曲げない人物であり、さらに
    嘘をつけない、思ったことをすぐ口にする性格だったことも手伝い、秀吉の怒りを買った。宗二
    は京を追われ、小田原北条家を頼り小田原へやってきて、茶道を広めたのである。

     そこへ秀吉が小田原攻めを行い、利休も早雲寺へやってきた。宗二は師である利休が早雲
    寺にいることを聞き、懐かしさも手伝って包囲網をくぐりぬけ、利休と再会を果たす。宗二に
    再会した利休は喜び、秀吉に執り成しをした。秀吉も宗二を許し、茶会がもよおされた。しかし
    宗二はまたここで秀吉の機嫌を損ねる言葉を吐いてしまう。怒り狂った秀吉は「その罪に耳鼻
    そがせ給ひし」という残酷な刑で宗二の命を絶った。天正18年4月11日であった。

     その後、石垣山城が完成、秀吉は本陣を移す際に早雲寺に火を放ち、寺宝の多くを奪い、
    京へ流した。
     天正18年7月5日、小田原城開城。
    宗二の死から10カ月後の天正19年2月13日、利休は秀吉の勘気を受け、堺に追放され、
    同年2月28日切腹した。』〈ネットodawarapr/fc2web/com〉

 があります。
この山上宗二の死は有名ですが、原著において少し無理(実際とかけ離れたもの)があると思い
ます。ここで山上宗二の「薩摩屋」が出てきました。
前田薩摩の薩摩かもしれません。利休といえば山上宗二が出てくるほどで、利休の高弟というから
そうなります。しかし利休七哲とかいう名前には山上宗二は出てきません。
 前田からも利休が出てきそうです。尾張、荒子城主、前田利昌(〈武功夜話〉では利春)の跡は
嫡男の利久が継ぐべきなのに、武将としての出来が悪い、他家から養子をとってあとを継がせよう
としたなどという一見、もっともらしい理由により廃嫡となり利家にお鉢が回ってきたという、かなり
知られた話があります。この「利久」から「千利久」を思い出させようとして前田を持ってきたことが
一つ考えられます。前田の系図は〈武功夜話〉では一風変わっています。

   前田利春ーーーーーーーー左馬助ーーーーーーー源助
    荒子城主     |
               |ーーー利 家ーーーーーーー利長
               |     金沢城主
               |
               |    藤八
               |ーーー●良 之ーーーーーーー源助 (森家と姻戚) 
                   佐脇藤左衛門養子
 
 ●は桶狭間のはじめに出てくる佐脇藤八です。前田利家が左衛門というので、早くから養子に
出たようですが、利家の兄の子と名前が同じだから、本来は利家の兄だったといっているのかも
しれませんが、「左馬助」は、「源助」を通じて、●と重なるとすると●は二男となります。この、上の
「左馬助」は本来なら「利久」をさすのでしょうがそれは書いてありません。
  「利・春」は「俊・春」なので「左馬助」と繋ぎますと、あの明智の「左馬助光春・光俊」とボンヤリ結び
つきます。
 「千福」の「前田」は「千千代」の「左馬助」の「前田」となり、ついでに「福」が呼び起こされたことに
なります。前田の「利久」が、千の「利久」の「利久」などに結ぶのは、おかしいといわれるでしょうが、
その前に竹中半兵衛の死の記事で「竹中作」を出してきているので、あながちおかしいとも言え
ません。
 この前田の利久の眼力はきわめて確かであって、この養子が前田慶次郎という傑物で、晩年は
山上宗二の号と同じ「瓢」を使った「瓢戸斎」(ひょっとさい)というようです。
 この話は信長の裁断で利家の前田相続が決まったようでこの間のいきさつも確かな説明はありませ
ん。これは当時の制度的なものと関わりがある話ではないかと思います。
つまり利昌(利春ともいう、ボンヤリ夫婦二人いるとみる)の夫人が滝川一益の滝川出身の人で、その
人の実子が利久であり、あとから当主利昌に実子が生まれた(利家)ケースだと思われます。利
久の血は、男性を通じて同じ前田であり、本来、前田・滝川というのはおかしいのでしょうが、利昌
夫人は滝川に拘りを示して、慶次郎を養子に迎えたと考えられます。
まあとにかくここで利久が前田から出ました。竹中からも「久」が出ましたが、同じく病死した武藤宗
右衛門からは「」が出て、この「宗」の系譜は堺を述べる場合に触れざるをえないものです。
この「宗」が、「易」の「宗」につながります。

(10)「宗」の系譜
 丹羽五郎左衛門が安土築城の際に、周光茶碗を拝領しますが、このときの〈信長公記〉テキスト
脚注では

    『珠光茶碗は中国製の青磁。珠光(1422〜1502)が好んだと伝えられる。』

 となっています。また〈信長公記〉では別のところで「周光」に(しゆくわう)というルビを付けています
から、周光は珠光 (辞書にも「周」は呉音で「シュ」とある)と見てよいのでしょうが。普通はそれだけ
では同じといえないはずです。
 周徳は珠光の門人であり、「周徳は珠徳」とされており、〈甫庵信長記〉脚注でも「周光」のことを
「珠光」とされています。こういうのがどういう根拠で一般的なものとなったのかが知りたいところです
が、今はわかりません。いいたいことは、これが通るなら「久作」は「九作」と書いてもよいということが
同じ発音だからより確かな自明の前提として承認されてもよいといえるではないかということです。
 とにかく「珠光」は信長公が最も高く評価した器物で、

   『(山崎の)片岡鵜左衛門尉、周光香炉所持せしを召し上げられ、銀子一千両下さる。』
   〈甫庵太閤記〉

 と書いてあるほどのものです。わび茶の開祖、村田珠光についてはネット「随書作主(36)」を
引用させていただきます。

   『架空の人物説も・・・・・・四畳半の考案者? 茶室の大きさは珠光宗珠の頃から四畳半
   という狭い部屋が求められているが・・・・この十八畳の4分の1の大きさを考案した人物こそ
   村田珠光と伝えられ・・・・・・』

とあり、例によって「架空の人物説」というのがあるようです。

   『一休宗純禅師に参禅
   “利休の茶は珠光(村田)に道を得て、(武野)紹鴎に術を得た。”ともいわれている。珠光は
   茶の開祖といわれているが、珠光についての記録とされる大乗院、蔭涼軒、近衛家、三條西
   実隆らの残存する日誌などには、その姿は一切なく、死後になって僅かに文献にその名を留
   めているところから、学者の中には架空の人物というショッキングな説もある。一休宗純禅師
   に参禅したこと以外、その生涯において不詳な点が多い。・・・・紫野大徳寺・・・・真珠庵に珠
   光の墓地がある。』

 ここで、「村田珠光ーーー武野紹鴎ーーーー千利休」がこの流れの中心として捉えられています。
つまり「珠光」は大徳寺「一休宗純」のあとを受けた人ですから、「利休」の「休」は、誰かが「一休」
を想定して付けた名前ともいえます。これはどうかとしても、このあと「宗」の流れにいる人が京都と
堺で出てきます。上の宗珠もそうですが、
  「宗套」「宗亘(こう)「宗悟」「宗伍」「宗陳」「宗理」
などが出てくる、堺では、大徳寺の「大林宗套」が「南宗寺」を開き、ここから
  「宗瑞」「宗湛」「宗宅」「宗安」「宗室」「宗叱」「宗達」「宗陽」「宗悦」「宗久」「宗左」「宗二」
  「宗易」「宗及」「宗恩」・・・・・
のような人物が輩出します。
 堺の、「今井宗久」「千宗易」「津田宗及」は戦国の茶の三大宗匠とされ、このあとも「宗旦」とか
南宗寺を再建した沢庵宗彪など連綿として「宗」が続いていきます。
この「宗純」から利休の「宗易」が出てくるということで、これが武藤宗右衛門の「宗」と繋がっていま
す。
 ここで「宗達」(その子が宗及とされる)が出てきていますが、今ではあの「俵屋宗達」については
なにもわからないといって、そのままになっています。この俵屋宗達と関係がないか、ということを
探るのが先決で、この宗達と同名異人だろう、すこし時代が違うなどといっていて何も出てこないと
思います。まぎらわし名前を史家が使うはずがない、親子が重なっている場合もあるから、など文献
を信頼してあたるということが必要でしょう。それでないと珠光のように実在しなかった、という話ばか
りになってしまいます。
 こういう茶人の話となると、先に述べた
          周光=珠光
 ような括りはまったく行われておらず、例えば「宗室」は「宗叱」ではないかと見るほうが、周光=珠
光とみるよりも確かなことではないかと思えますが、字が違うから違う、ということになって拡散された
ままとなっています。名前の炙り出しは、普通の「三成」=「三也」=「光成」という同音のものから、
「珠光=周光」という字の違う場合に現に広がっています。「周光=珠光」というのは、かけ離れた
別名を使う一匹狼の名前にいたる中間的なものとさえ思えます。要は先に出てきた「珠光」「宗珠」は
別人扱いでよいのか、という疑問がでてくるわけです。
 堺の茶人でよく出てくる、一匹狼的な名前、鳥居引拙・武野紹鴎・北向道陳・道叱などが「宗」の付く人
の間に出てきますが、これも「宗」が付いた人と同一人であるかもしれないと考えなければならないのでは
ないかと思います。侘茶の系譜の
       「村田珠光ーーー武野紹鴎ーーーー千利休」
といわれる表記でいえば、「宗易」は、千利休とはつながらない、〈信長公記〉では「茶道は宗易」として
しか出てこないので、本当は「宗易」は千利休への引き当ては無理という状態です。甫庵でも二回だけで
「宗易」と「千宗易利休居士」が出てきますの甫庵の親切によってやっと二人が同一人として認められる
というような状態です。
村田珠光も同じことがいえる、つまり、別名表記が当然考えられることで、名前が羅列してあっても
別人とはかぎらないわけです。「珠光」を述べているのは、山上宗二で、利休が珠光を語っても不自然
ではないと思われます。
利休の高弟は七哲人というのがいるようですが、山上宗二と、佐久間甚九郎(信栄)のような人物も
このなかに入っていません。甚九郎の「九郎」というのも他に引き当てが可能のような感じで気になり
ます。
 「今井宗久」「千宗易」「津田宗及」の三人の関係も考え直す必要があるのでしょう。「今井宗久」「津田
宗及」が「茶湯日誌」を残し、肝心の「千宗易」が何も残していないなどというのは考えられないことです。
利休ら堺衆は、信長・秀吉・家康など出てきて世の中悪くなったと思っているのですから、それ相当の
文献を、〈信長公記〉方式で残しているはずです。
寄り道しましたが、あの十二人の中の「長谷川宗仁」も誰のことかもよくわからない、「松井夕閑」も
重要人物のはずなのに孤立して出てくるなどあり、ここを読めないと読んだとはいえないから、少し
触れた次第です。

(11)与四郎
 ここまで述べたので次の〈信長公記〉の文がわかりそうです。〔再掲〕

     『八月六日、江州国中相撲取り召し寄せられ安土御山にて相撲とらせ、御覧候処、
            甲賀の伴正林と申す者、年齢十八・九に候カ、能き相撲七番打ち仕候。
            次の日、又、御相撲あり。此の時も取りすぐり、則、御扶持人に召し出さる。
            鉄砲屋与四郎折節(おりふし)御折檻(セッカン)にて籠へ入れ置かる
            彼(かの)与四郎私宅・資財・雑具共に御知行百石、熨斗付(ノシヅケ)の
            太刀、脇指大小二つ、御小袖・御馬皆具(かいぐ)共に拝領。名誉の次第な
            り。』〈信長公記〉

 「千」「田中」「宗」「易=安=貞安・道安」から、テキスト脚注でいう「千氏田中氏。・・・・・
利休の名は与四郎。」というものに結びつきます。ここの「与四郎」は「千与四郎」であり、田中
与四郎すなわち後の千宗易ということになります。
 鉄砲屋というのが気になりますが、ネットの

   『千利休  堺の問屋田中与兵衛の長男として生まれ、与四郎と称した。』
   『千利休 1522〜91(大永12年〜天正19年)
            本      田中与四郎
            法      千宗易
            号      不審庵・拗筌
    堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれる、という。』

 の「ととや」ことから、鉄砲が二つの意味に引っ掛かっているのではないかと思います。
  「魚屋」との関係ですが、 鉄砲について、「当たれば死ぬ」ということで河豚(ふぐ)のことを鉄砲
といいます。鉄砲汁などあり、また魚に鉄砲と呼ぶ種類のものもある(「鉄砲魚」=広辞苑)、ようです
が、武器の鉄砲が出てくる前にフグに当たって死ぬことが伝わっていましたから、江戸の人としては、
鉄砲は魚という比喩をしたといえるかもしれません。
 利休を魚屋与兵衛の子として、この魚屋を「ととや」と読ませています。広辞苑では

  『ととや「魚屋」  抹茶茶碗の一。高麗焼で泉州堺の商人「ととや」というものが所蔵
  したとも、利休が魚屋の店先で見出したからともいう。斗々屋』

とあり
  『ととやのちゃわん 魚屋茶碗・・・・河竹黙阿弥作の世話物。・・・・・道具屋の手代与兵衛(実は
  遊び人まむしの次郎吉)・・・・・』

となっていて、この世話物の主人公が「与兵衛」となっています。利休の親と名が同じです。
 黙阿弥は江戸期の人なので、一連の話しは江戸の人が、鉄砲屋も利休をあらわすよ、といって
太田牛一の鉄砲から「ととや」の「与兵衛」ーーー利休を暗示する挿話を作ったといえると思います。
利休は名族の出身と書いてあるので魚屋とは少し合いません。小田原=田中の貞安=大徳寺=
三好長慶=宗の系譜、という意味でも、名族ではないかと思えます。「千」というのはネットであり
ましたように利休の祖父の千阿弥からとったので、利休独自(から始まった)の号だと思いますので
「田中」が利休の出自を表すものとすると、聖譽貞安上人は父方か母方か、養家の人かは判りませ
んが、その筋の人ではないかと見られます。
 もう一つ、この鉄砲は、太田牛一が、武器の鉄砲を、実際利休の世話によって手に入れたということ
をいっていると思われます。下線の部分の主語は伴正林で、与四郎が牢屋に入れられていたので、
その財産を貰ったという意味にとれます。この

   「私宅・資財・雑具共に御知行百石、熨斗付(ノシヅケ)の太刀、脇指大小二つ、御小袖・御馬
   皆具(かいぐ)」

 などというのは相撲の勝者に与えられるものであることは、前年荒木事件がおこったときの相撲の
記事でわかります。したがって「与四郎」というのは以前相撲で勝ったので賞を貰い、さぼったりして
信長公の怒りにふれ没収された、と取れるわけですが、その解釈には「折節」というのがあるので、
そういう偶然がたまたまあった、ということになるから信長公の相撲に対する関心の高さをいっている
だけではないという解釈も出てくるはずです。
 要は、「与四郎」が牢屋(この「籠」は「牢」と読んで良いのは太田牛一が云っている)に入れられた
理由を知りたいのか、どうかということがまず第一で、別にどうでもよいということであればこの程度で
よいのでしょう。しかし与四郎が利休という人物を表しているかもしれない、しかも鉄砲という重要な
言葉が出てきていますので無視できない、やはり結果はどうあれ探らないといけないと思います。
 「熨斗付(ノシヅケ)の太刀」というのを与四郎が持っていた、この語句が首巻で出てきてよくわ
からないので適当にお茶を濁して理解するよりなかったわけですが、それだけに頭に引っ掛かって
いるものです。

   『一、去る程(脚注では永禄二年=桶狭間前年)に、上総介殿御上洛の儀俄かに仰せ出され
   、御伴衆八十余人の御書き立てにて御上京なさる。城都(京都)・奈良、堺見物候て、・・・・
   御在京候キ。爰を晴なりとこしらえ、大のし付きに車を懸けて、御伴衆皆のし付きにて候なり。』
   〈信長公記〉

脚注では「熨斗付(のしつけ)の太刀」の意とされていますが、これと連動した〈武功夜話〉の記録
があり、堺へ行っています。このあと丹羽兵蔵が美濃の暗殺隊を見破った記事がありますので、
太田牛一が居たことは確実で鉄砲を持ち帰っています。このとき利休は37歳ですからもうそういう
役割は果たせる年齢です。このとき信長が「泉州堺町長(おとな)衆に」に会った、「織田鉄砲隊は
佐々内蔵介(成政)初めなり。」(〈武功夜話〉)と書いてあり、この佐々が太田牛一とみてよいはずです。
 ここで、〈信長公記〉で千利休が、出てきましたが。この与四郎に対する〈甫庵信長記〉の記録は
一つだけしかありません。

    『九月二日の夜、荒木摂津守女房一人召し具し●乾助次郎には葉茶壷を持たせ、
    伊丹を忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』
  
 この●の一匹狼が千与四郎ではないかと一応考えられます。これは、江戸期までの人がみれば、
●が調整役であって、茶壷が差し出し品である、つまり降伏の記事と読まれたのではないかと思い
ます。
〈信長公記〉の記事では

   ★ 『九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召し列(ツレ)伊丹を忍び出、尼崎へ移り候。』

 となって、戦闘中の行為とみられます。忍び出るというのは伊丹城で、その後、織田の介入に
より反乱が起こってしまいますので、その動向がキャッチされたからでしょう。
与四郎は名前からいえば若いようですが、このときは57歳にもなります。荒木摂津守の茶の師匠
であるのは知られたことで、「乾」がキーワードでもあるのは首巻での

  『坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛・丹後守・山口官兵衛・堤伊予』

 でもわかります。〈当代記〉では日が九月廿二日、と違っているのと乾を侍といっているのが重要で
す。ここで降伏し城兵の人的被害を少なくしようと図ったようです。
荒木に寄せられる非難を〈信長公記〉がまとめています。

  『今度、尼崎・はなくま渡し進上申さず、歴々の者どもの妻子・兄弟を捨て、我が身一人宛(づつ)
  助かるの由、前代未聞の仕立てなり。』

ということですが、尼崎・はなくま進上の話は荒木自身の口から出たもので、降伏の条件に入っていた
と思われます。主立ったものは、尼崎へ移ったとき抑留されてしまったので戻れなかったということで
しょう。

(12)池田和泉
この荒木の城始末の叙述は、日が前後して、また同じ日が前後に出てきたりして特別判りにくいよう
になっています。全体を振り返った話しが途中に入り、またほかのことが途中に入って、前後一貫した
読みが出来ない、また部分的にも相当入れ替えを前提とした文構成になっています。
 ★の文もあとでもう一回出てきます。これは回想だから仕方がないと思ってしまいますが、文が
少し違い、あとの方は尼崎・はなくま進上の話が前に入っています。
順番を追っているような形で、
  11月19日から12月16日の話しが出て、もう一回
  11月(霜月)19日と12月16日の話が出ますが、内容が異なっています。例えば初めに出てくる
11月19日の話、

   『十一月十九日、荒木久左衛門、その外歴々の者共、妻子を人質として伊丹に残し置き、あまが
   崎へ罷り越し、荒木に異見申し、尼崎・はなくま進上仕り、その上、各々の妻子助け申すべきの
   御請け申し究め何れも尼崎へ越し申すなり。此時、久左衛門一首・・・・・と読みおき候。織田
   七兵衛信澄
伊丹城中御警固として御人数入れ置かれ、櫓々に御番仰せ付けられ候。いよいよ女
   ども詰籠(つめこ)の仕立てにて互いに目と目を見合わせ、あまりの物うさに、たし、歌よみて荒木方
   へつかわし候・・・・荒木返歌・・・・・』

あとの方、
   『伯々部(ほうかべ)・吹田・池田和泉、女共の警固に置き、
   霜月十九日、■尼崎へ各年寄り共罷り越し候。かくのごとくなり果て候わん事を見及び、池田
   和泉は鉄砲に薬をこみ、おのれのあたまを打ちくだき果てられ候。世の中に命程つれなき物なし。
   ・・・・・歴々の侍共、歴々の侍者どもの妻子・兄弟を捨て置き、我が身一人づつ助るの由申し越す。
   この上はとてものがれぬ道なれば導師を頼み申さんとて、思い思いに寺々の僧を供養し、・・・・』

第一感ではこれは、■があり、前の同日のこうしようという少し元気な話があるので、「各年寄り共」
のことをいっているようですが、よく見ると、■は孤立した状況説明で、もうすでに捕らわれの身になって
いる人の情態を述べています。つまり、池田和泉を伊丹に残した主語は「年寄り」です。したがって池田
和泉が自殺したのは、伊丹城でのことですから、あとのことも伊丹の人質の様子を述べています。
 はじめの下線は他人がいっている話で、あとの方は、当人がいっていることで、こうなってしまって個々
に無事だと便りをよこしたという客観的事実をいっているにすぎず、思っていたことは、すぐそのあとの死
の準備に出てきています。
 織田と結託した伊丹城の反乱が十月十五日に起こっていますので、もう伊丹城中は織田の手にあり、
侍共は隔離されたに過ぎないのでしょう。
 12月16日の話も前後内容が違っています。
初めのは

   『十二月十六日、荒木一類の者、都にて御成敗なさるべきの旨仰せ出さる。』

となっていますが、あとの方の12月16日は、処刑当日の様子を述べています。霜月十九日の話
の前にある文章が特に難解でわかりにくいのです。十月十五日反乱の記事のあと

  『惟任日向(ルビ=これとうひうが)、尼崎・花くまを進上候て、命たすかり尤(もっとも)の由候。かたじけ
  なく存知、荒木方へ申し送り候えども、一途(いつと)もなく候間、妻子人質として残し置き、その断(こと
  わり)荒木に申し聞かせ、両城進上申すべく候。もし同心これなく候わば、御人数申し請け、先(さき)を
  仕り、即時に申し付くべしと御請けを申し究め、伯々部(ほうかべ)・吹田・池田和泉、女共の警固に
  置き、霜月十九日、・・・・』〈信長公記〉

   惟任日向(ルビ=これとうひうが)が、尼崎・花くまを進上すれば命たすかる、といっているのか、
進上して命たすかるのがよい選択といっているのか、よくわかりませんが、ありがたく思ったので前者
でしょう。そのことを荒木にいいたいが道が封鎖されているので、行って申し聞かせたい、もし荒木が
聞き入れなければ、自分らが先陣となって即時に荒木にそうするように申し付けるととって請けてもら
えるのを確認して、池田和泉らを残して出て行った、ということでしょう。
 これは荒木久左衛門が計ってということですから作戦でこういうことをしたといえます。荒木方の主導
で終わらせたい、幹部が責任をとるという形の当時の常識的な戦後処置で戦を終息させたいと考えた
と思われます。
 荒木事件は述べ方が難解なので、途中でいやになって、こうだろうと決めてしまいやすい、ポイント
だけ述べると危険でもあります。知りたいのはどこか、それは答えられているはずということです。
挙兵の原因については冤罪であることは前著で触れました。戦の経過などについては知りたくもない
わけですが挙兵から終着まで一年以上かかっており勝敗はきまっているようなものなので、利休が出
てきた以後の経過がしりたいところです。つまり

@荒木村重自身がどうなったのか。

A荒木村重の年齢はどうなのか。

という二点です。

@については
    『九月二日の夜、荒木摂津守女房一人召し具し●乾助次郎には葉茶壷を持たせ、
    伊丹を忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉
   
    『九月廿二日荒木摂津守、伊丹城を忍び出、{女房一人侍一人召具、壷を持、}、
    尼か崎落行。』 〈当代記〉

    『九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召し列(ツレ)伊丹を忍び出、尼崎へ移り候。』
    〈信長公記〉第一回

    『九月二日夜に入り、荒木摂津守、五・六人召し列(ツレ)忍び出で、尼崎へ移り候。
    〈信長公記〉第二回

 があり、尼崎へ行ったという以外に記述がない、このあと尼崎の情況を書いた記事がない、という
二点でわからなくなっています。
11月19日・12月16日の記載が違っていることを申し上げましたが、ここにも
  @〈当代記〉の日付と、内容が〈信長公記〉の記事と違っている。
  A〈信長公記〉の記事に違いがあり、四番目の文には伊丹がない、
@は致命的な違いであり、Aは二字があるかないかという微細な違いですが、著者は読者が気づく
ように細工したといえるのかも知れません。このあと尼崎での記事がないことも問題で、意図的だと
思われることは、一つ「行方知れず」、「忍び出」という摂津守の背景が書かれていることでもわかり
ます。この記事を信頼しないようにいってているかもしれません。
もう一つ重要な記事がダブっています。

 〈信長公記〉第二回
     『伯々部(ほうかべ)・吹田・池田和泉、女共の警固に置き、霜月十九日、尼崎へ各
      年寄り共罷り越し候。かくのごとくなり果て候わん事を見及び、
     池田和泉鉄砲に薬をこみ、おのれのあたまを打ちくだき果てられ候。』

 この太字の部分、第一回では、12月2日ころ

      『去程に、伊丹の城に女共の警固として、吹田・泊々部・池田和泉両三人残し置き候
      処に、城中の様体(ようだい)何と見究め申し候やらん。
      池田和泉一首をつらね、
        露の身の消えても心残り行くなにとかならんみどり子の末
      とよみ置き、その後、鉄砲に薬をこみ、おのれとあたまを打ちくだき自害仕候。』
  
 となっていて、記事が二回あって、池田和泉という人が自害しています。これが荒木村重であろう
と、一応直感的にそう思えます。
その理由としては、
 @〈信長公記〉の記事で、「七月十六日」、家康公・坂井左衛門尉登場のあと、「七月十九日」が
並んで二つあり、惟任日向守の出てくる「七月十九日」の前に、わけの判らない記事があります。
    再掲
     『七月十六日、家康公より、坂井左衛門尉御使として御馬進(まいら)せ候。奥平九八郎
          坂井左衛門尉両人も御馬進上なり
     七月十九日、中将信忠卿・・・・・津田与八玄以赤座七郎右衛門両三人・・・・・井戸才介
           深尾和泉・・・・・
     七月十九日、維任日向守・・・・・維任・・・。』
 
 深尾和泉の反抗に井戸才介(井上才介)が加担したので井戸を生害させた記事です。井戸は明智
光秀の古い表記なのでそれを消したと取れますが、和泉が出てきます。これは最重要の表記ですか
ら、また反乱していますから、突然ここだけしか出てこない、池田和泉を、荒木とするといっている
ようなものです。
信忠卿は、信長公か信忠かは別として何となく出てきた津田与、(前田)玄以、赤座は、それぞれ
役目を持って出てきたと思います。津田は「宗及」から「宗易」の「宗」につながり、与八の「与」は
「与四郎」を呼びますが、特に重要なのは赤座です。これは六条合戦の野村越中と出てきましたので
あの一節とここを結んで考えるようにというヒントを与えています。ここで荒木は「伊丹池田」といっていま
すから池田和泉は荒木村重でよいわけです。六条の合戦の一節

  『・・・細川・・・野村・・・・赤座・・・池田伊丹・・・・池田伊丹・・・・・・・・・先ず一番に、伊丹兵庫頭、
  二番に、池田八郎三郎勝政、馬を静めて通りける。其の殿(しっぱらい)は池田が郎党池田周防守、
  同豊後守、同備後守、その比(ころ)は久左衛門尉荒木摂津守、その比(ころ)は弥助。左右に
  意賦(こころくば)って打たせける。・・・・池田伊丹・・・・池田八郎三郎、伊丹兵庫頭・・・・・・兵庫頭・・
  ・・・兵庫頭未だ十八歳。・・・・』〈甫庵信長記〉

 この池田は摂津の池田(〈信長公記〉で「古池田」といわれるのがこれだと思いますが)「池田備後守
が、久左衛門尉」であるといっていそうで、この久左衛門が「荒木久左衛門」を指していそうだから、
荒木は池田ということになります。
 また「荒木摂津守が当時は弥助」といっていたというのは間違いないでしょうが、どこに懸かるのかが
判りにくい、久左衛門が池田に懸かるので、荒木摂津守が伊丹兵庫に懸かりそうです。
つまり
   『先ず一番に、伊丹兵庫頭、荒木摂津守、その比(ころ)は弥助
  二番に、池田八郎三郎勝政、馬を静めて通りける。其の殿(しっぱらい)は池田が郎党池田周防守、
  同豊後守、※同備後守、その比(ころ)は久左衛門尉。左右に意くばって打たせける。』

 となると思います。「そんなことはない荒木弥助と伊丹兵庫頭は併記されていて、伊丹兵庫頭すな
わち荒木摂津守とはいっていない、」とすぐ否定が出そうで固執する積りはないのですが、入れ替えを
実際やったものには 
    『先ず一番に、荒木摂津守、伊丹兵庫頭、その比(ころ)は弥助。』
という順番もあったわけですから、こういう「すなわち」という読み方にも余り抵抗を感ずることはなくなる
ものです。今知りたいのは荒木についてですから、そのヒントがないか、と探しているものには下線の
部分が目に付く、これに着目しなければこの年齢は、あらぬ方向に浮遊したままのものになってしまい
ます。しかも伊丹兵庫頭とも池田兵庫頭ともいえない単なる「兵庫頭」ですから、どこかに付けてください
といっているようなものです。独立して、拡散されたままの「兵庫頭」の年齢というのでは著者は著述に
苦心していないことになるではないか、というのがいいたいところです。
いま一番知りたいのは、荒木村重の年齢です。荒木村重は、この六条の戦い(永禄十二年)では
まだ「弥助」といっていて、若かったわけです。そしたら幾つだったのか、という疑問がすぐ出てきます。
ここに
                  兵庫頭未だ十八歳
というのが出てきています。単に「兵庫頭」となっていますので「池田伊丹兵庫頭」という意味もあるで
しょうが、池田と伊丹に挟まれた「荒木」ということでもこれは荒木兵庫頭です。
 なお「池田八郎三郎勝政」は「八郎三郎」の二人でしょうから「津田与八」の「八」が示すものが一人
、「三郎」が荒木兵庫を指すのかも知れません。
 〈信長公記〉では、他のところで能州の「同弟・伊丹三郎」という人物が、用意され、その一節では、
※に対応する「弟備後守」も用意されています。したがってここまで云っているとすれば、村重が
摂津池田当主、池田勝政(勝正)の弟といっていることになります。
 現代の文明が進んだ時代の書き手なら荒木村重の年齢ぐらいは当然書く、太田牛一などはそこまで
は頭がまわらない、というのはスタートが間違っており、明治以後の大学の近代の学者とかいうものが
そう思わせてきただけのことです。
 この永禄十二年の十八歳は、〈当代記〉の、天正七年12月16日の処刑者名簿

    『六番荒木与兵衛妻十八歳・池田和泉守{廿八歳、此二人は出しか妹なり、}、八番・・・』

 の注の「廿八歳に」合うわけなので、とりあえず、年齢的には池田和泉は伊丹兵庫頭と一致する
ようです。ここにいう「出し」は見事な振る舞いを見せた女房「たし」と読むことが期待されているようで
もあります。
 この太字の注が、次の〈信長公記〉の記事を受けているものです。
 
    『・・・・・・・
        六番十八 荒木与兵衛女房、村田因幡娘なり。
           廿八 池田和泉女房
    ・・・・・・・・』〈信長公記〉
 
 〈当代記〉の記事が、注のいたずらの効き目を露骨に示すものでしょうが、この注の解釈と、〈信長公
記〉の表記の食い違いを説明すればよいわけで、それは踏み込んでやれば解けると思われますので、
、ここでは基本的に池田和泉は一匹狼の表記で荒木村重を語っている、荒木村重は何らかの形で天正
七年に亡くなったいう結論であとを続けたいと思います。
 荒木村重の年齢、これが今では判らないとされているので荒木村重の台頭までの話も、この人物
の仕業とされて、英雄神話が出来上がっています。
 荒木家は、摂津池田家の身内とも家臣ともいわれ、そこから台頭したのだから豪腕の人物がいたかも
しれませんが、それは荒木村重の先代の事績が入っているかも知れないというのが出てきます。池田と
確執があって、村重の時代には落ち着いていたという可能性が大です。
 元亀四年に「細川兵部大輔・荒木信濃守」が織田に随身して、信長がたいへん喜んでいますが、
「大ごうの御腰物荒木信濃に下され、名物の御脇指細川兵部大輔へ。」となっており、摂津池田
の帰服を喜んだと思いますが、これが父の荒木とも考えられます。細川幽斎と荒木は親戚といって
もよい関係があったのでしょう。
 荒木和泉が「鉄砲」、「薬」で亡くなったという鉄砲は「鉄砲屋」与四郎の鉄砲につながる、薬は
「乾助次郎」の持っている壺に入っていたという暗示かも知れませんが、鉄砲屋与四郎と対置される
「乾助次郎」は「次郎」というのが出てきます。
次郎は何となく今井宗久と利休との関係に及びそうです。一応通説としては
    『今井宗久(1520〜1598)』
    『千利休 1522〜91(大永12年〜天正19年)』
となっており、今井宗久の没年は幾通りかありますが、生年はこうなっています。利休と二つ違いと
いうのが出てきますから兄弟かもしれないということになります。またおかしいことですが津田宗及は
生没年がわからないが、ネットでは没年は利休と同じ91年としているのが多いのです。〈当代記〉では

    『(元亀二年)八月廿一日・・・・・家康公・・・・・・家康公一男・・・・・
    此年、小田原北条の氏康病死、{年五十七}、父氏綱も{五十七にして}逝去、
    此年、二頭の亀出、』

 という表現があるように、早雲ー氏綱ー氏康の流れにも、こういう何かいいたげなものもある、それと
同じような感じのものであるといえるかもしれません。乾助次郎の乾は「半兵衛」ともつながるわけです。
 再掲
 首巻での記事

     『坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛丹後守・山口官兵衛・堤伊予』

 があり、先ほど病没で「竹中半兵衛」が出てきましたが、半兵衛は竹中氏の半兵衛だけではあり
ません。
 ここでネット記事を借用します。これは「山田」と「半兵衛」がセットになった記事ですので、目に付いた
ものです。(sannet/ne/jp/gutoku2)

   『山田半兵衛  時代:戦国時代  年代:????年〜????年
   内容:戦国時代の織田信長の武将。信長の馬廻。永禄11年(1568年)9月、信長の上洛に
   従い、12月二日摂津池田功城戦に敢闘した(公記)。また元亀元年(1570年)6月22日小谷
   退陣の時、殿軍の佐々成政に協力したという(甫庵)。「公記」に「隠れなき武篇者」と書かれて
   いる。天正2年(1574年)1月23日の津田宗及茶会にその名が見える(宗及記)。』

 下線の部分は、少し注釈がいると思いますが、このときの合戦の甫庵の人名表記は、太田孫左衛門、
太田和泉守、森三左衛門尉、坂井右近、山田半兵衛尉、簗田出羽守、佐々内蔵助、中条将監、
佐久間信盛など太田牛一近辺の名前を総登場させたといってよいもので、

  『山田半兵衛尉も能き首取ってけり。互いに(功名を)辞しける程に、佐々突き伏せたる首はついに
  取らざりけり。誠に武士たらん上、こうこそあらまほしけれと感ぜぬ人もなかりけり。』〈甫庵信長記〉

〈信長公記〉では
  『山田半兵衛是も隠れなき武篇者なり。』

 と山田、佐々を褒めています。これは自讃しているのです。〈甫庵〉の次の一節に登場する人物
も怪しいものです。この一節は「浅井郡へ発向せらるる事」というタイトルのものですが、次の名前が出て
きます。
何回も登場する人もありますが、一回だけにして書き出してみます。

   『信長卿・・・堀次郎、樋口三郎兵衛・・・・森三左衛門尉、坂井右近、斉藤新五、市橋九郎右衛
   門尉、佐藤六左衛門尉、塚本小大膳、不破河内守、丸毛兵庫頭・・・・・佐久間右衛門尉信盛・・・・
   柴田修理亮・・蜂谷・・佐々内蔵助、簗田出羽守、中条将監・・・・・島弥左衛門尉、太田孫左衛門
   尉、・・・織田金左衛門尉、生駒八右衛門尉、戸田武蔵守、平野甚右衛門尉、高木左吉、野々村
   主水正、土肥助次郎、山田半兵衛尉、塙喜三郎、太田和泉守・・・・佐々藤左衛門、北村一郎、
   前野小兵衛・・・・・戸田半右衛門尉・・・中条又兵衛・・・・・某(それがし)・・』〈甫庵信長記〉

例えば「佐々内蔵助」は「佐々」も入れて12回も出てきますから、先ほどのネット記事に佐々成政が
取り上げられたと思われます。佐久間5回、梁田4回などが目立ちますが、先ほどの山田半兵衛尉は
2回です。
 今まで述べてきたところでは、本人(太田和泉守、太田孫左衛門、森三左衛門尉)、本人の近い一族
が入ってるのはまず気がつくところですが、市橋、佐藤、塚本、佐久間、柴田、簗田、中条などのように
他にいる人物の名前を借りて自分も出ているというのもあります。したがって今まで述べていない
人物についてもそういうのがあるかもしれない、ということをいっていると思います。不破河内守、丸毛兵
庫守、蜂谷というのも、別に引き宛てるべき人物はいるが、例えば、ここにいないはずというような場面
で出てきたらおかしいところでは、本人を指しているというようなことが考えられます。これは羅列されて
いるのが、別人とは限らないことからも察せられます。
 信長卿もここで三回出てきていますが、中国の故事を持ち出し滔々としゃべるようなものは、著者
自身が語っているということがある、というのも出ていると思います。したがってここにあるような人が
出てきたときは太田和泉守の影があるのかどうかをみる必要があると思います。なお「某」というのも
入っているので覚えておく必要があり、官兵衛もあるわけです。つまり「平野甚右衛門」は「平野勘右
衛門がいて「勘兵衛」「官兵衛」になりうるので重要かと思います。
それは別として、ここの「山田半兵衛尉」は太田和泉その人であるというのは「山田」や、首巻の「野村」
「乾」「海老」のあるところに「半兵衛」があるなどの暗示、たいへん褒めていることなどでわかります。
ここの「堀、樋口」は竹中半兵衛の懇意な人ですから、竹中半兵衛も連想できます。つまり竹中半兵衛に
寄生した太田牛一というものになると思います。
 ネットの記事では、この山田半兵衛が、津田宗及の日記で茶会に出ているということがあります。
山田半兵衛の主要文献での事跡を調べるのだったら筆者でも出来ますが、主要文献だけみている
だけなので、これは教えてもらわないとわからないことです。つまり太田牛一と津田宗及は知り合いだったという
ことになります。少しおかしいのは「山田半兵衛」は〈信長公記〉では、永禄11年、一回だけしか
出てこず、『魚住隼人・山田半兵衛是も隠れなき武篇者なり。』とあるものです。しかしそれも脚注では
     『底本、「山田半兵衛」を「魚住隼人」の左側に註記。』
 と書いてあるような、確かな存在でもなさそうなことです。この戦いで魚住隼人は「爰にて手を負い
罷り退かれ」となっていて、桶狭間でも顔を出す魚住の名に寄生して出てくるのです。
 したがって、日記の主「宗及」はどうして山田半兵衛を知ったのか、ということが問題になります。
いろいろ考えられますが、結局、関ケ原以後、太田牛一が「山田半兵衛」を主著に書き入れたように、
津田宗及も〈甫庵信長記〉などをみて、あとで日記に書き込んだといえる、と思います。
つまり津田宗及の日記は、利休か乾助次郎の書いた日記かもしれないというのが、まず思い浮かぶこと
です。それは、ここに出てくる「土肥助次郎山田半兵衛尉」の羅列から感じとられることです。
「土肥」というのは甫庵が一時名乗った姓です〈甫庵信長記解説〉、また矢島六人衆に土肥孫左衛
門尉という怪しげな人物もいます。
つまり甫庵の「乾助次郎」と「山田半兵衛」の接近は、茶会の宗及と太田牛一の接近を意味する
      土肥・助次郎は、山田半兵衛と利休又は乾の重なりを示し、
      山田半兵衛は、利休(又は助次郎)と宗及を重ねる、
という形となると思われます。利休が乾助次郎と別人とすると、宗及は、乾助次郎であるということに
もなってきて、利休の門人として師の動きを中心に書き残したものが宗及日記といえると思います。
 太田牛一が山田半兵衛であることは間違いないことで、太田牛一は竹中半兵衛のシャベリを代行
しているかも知れません。〈武功夜話〉で竹中半兵衛は黒田官兵衛を痛烈に攻撃していますが、
これをあの竹中半兵衛とするとやや違和感があり、太田牛一かもしれません。まあそんなことは細かい
ことだ、と思ってしまいがちですが、太田牛一がどこにいたかということは重要なことです。
 先ほどの〈甫庵信長記〉の長い文章にある名前からは、たいへんな話が出てきそうで無視できません。
「野々村主水」と「北村一郎」がそれです。主水は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉で「野々村三十郎」
としてたびたび出てくるので、気になりますが、本能寺戦死者として出てくるので、それで終わった
とされて話題にしたいのにあとが続かない人物です。「福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎」
の対でよく登場します。これに古田左介が加わった四人もあります。福富について説明をすでに済ませて
いますので、三人とも本能寺で消えたのは表記を消したという意味があるとすると復活させてもよい
話ともなります。これは芸術と武者という二足の草鞋をはいた人物の組み合わせのような感じです。
とにかく野々村仁清などという人物を知っていてそれが伝不詳ではなんとも気になることです。
  俵屋宗達が、こういう「宗」の連鎖から出てきます。
    津田宗達の子が津田宗及であり
    俵屋宗達は野々村とか喜多村を名乗ったそうです(ネット)。喜多村は「北村」でもあるでしょう。
 宗達は親子が重なっているかもしれないのでその観点からも調べる必要があると思いますが、津田
宗及は山田半兵衛に接近し、山田半兵衛は土肥につながる、福富は「野々村」に近い、そういう中
から「喜多村」が出てきたということです。あの「風神雷神図」の俵屋宗達については何もわかっていない
ということですが、太田牛一の周辺の人物といえると思われます。まあ太田和泉が絵を描かなかったと
決め付ける筋合いもないので太田和泉の作品かもしれないということにもなります。と、たちまち“書記
だからそんなことはない”となってしまいますので、一応、周辺のきわめて近い人物と決めて探してみると
必ず文献が残っていてわかるようになっていると思われます。   
 後年秀吉の小田原攻めの際、伊達政宗が帰服してきましたが、利休が、小田原の秀吉陣にいて
とりなしたようなことになっています。このとき伊達政宗がまっすぐ小田原に来ず、石田主計の通って
きた北国ルートを経由してやってきたという話ですが、ルートのこと、利休との接触のことなどが遠野
孫次郎によって早くも語られているというようなことになっています。そのときの情景が、こんな早い時期
に、ここに織り込まれているというのはおかしい感じがしますが、後年において、越し方をあとでよく考え
て、前後の繋がりから隠したことのヒントを提供すべく、仕掛けを設定してゆくとやり方になっているので
仕組まれていることを前提に掘り下げていくことが必要です。
 小田原での山上宗二の態度や、その死もおかしい、津田宗及の日記が、利休もしくは弟子の日記と
すると、茶論を書いたという山上宗二は、利休もしくは乾助次郎のペンネームかもしれない等のことにも
発展しますが、一匹狼の存在が証明された以上、「宗及」というような表向きの名だけ重視するというな、
読みの常識のみを押し通すというわけにはいかないのです。
 利休を信長近辺から探すとき、引っ掛かってくるのは、荒木が謀叛する年の天正六年の正月、
お茶会で

     『・・・・・・荒木摂津守・市橋九郎左衛門尉・長谷河入道宗仁、以上十一人なり。』

というものの宗仁だけで、それ以外には一応痕跡を見出すことができません。この
      「宗仁」は誰か
ということもよくわかっていません。「宗仁」は一匹狼の名前で「宗」の系譜からも全く見当たらないと
いうやっかいなものです。長谷川だから、長谷川等伯かもしれないと思ってしまいますが、長谷川は
接頭語とみて、つまり明智・日向というような対立した中での「長谷河・入道宗仁」と捉えるべきだと思
います。
この「宗仁」が利休であれば荒木との和の仲介も可能です。ただそれが利休なら「宗易」という名で
語られるはずではないか、となりますが利休はもっとも隠したい名前であることからそうなります。
 荒木村重の事歴が、親の信濃守と重なっていたのと同様に利休も今井宗久と重なる場合が考えらます。
もちろん宗仁が宗久かもしれないということもありますが、仲介したのは利休なのでこの宗仁を利休
ととるのが仕向けられている筋に合いそうです。どこかで利休と宗仁との接点があるはずですが、〈甫庵
太閤記〉に少しそれらしい接近がみられます。

    『名護屋城普請を担当の人々
     一、本丸数奇屋(茶室)            長谷川宗仁法眼
     一、山里丸数奇屋              石田木工頭(もくのかみ)(澄)
      老松がそびえているのを生かして趣が深かった。
     一、本丸より山里丸への裏路地(茶庭)  寺西筑後守(正勝)
     一、山里丸書院(五間に六間)       太田和泉守(牛一)   』〈甫庵太閤記教育社訳本〉

があります。〈甫庵太閤記〉では、人物表記はそれ以前のものとは変わってしまいますので継続して
前の感覚で読むのは無理で、例えば〈甫庵太閤記〉の佐々成政は太田牛一を表しているというような
ことはないようです。
ここの太字の(正勝)は桑田忠親校注岩波文庫〈甫庵太閤記〉では省かれてしまっています。
これが肝心のところで木村又蔵の名前は正勝だから、寺西と木村は違うといっても表記上、太田牛一
に極めて近い存在として意味があります。この寺西の「正」、石田の「正」はここの
     「伴正林」の「正」
ですからおろそかにできないと思います。
「正」で太田牛一と長谷川宗仁は繋がっているようです。天正六年の茶会と、ここ名護屋で太田牛一と
の接点がある「宗仁」は利休ではないかと思われます。〈信長公記〉のここで利休の屋敷を頂戴した
伴正林もそのことを証明できるかということが次の検討事項として出てきます。
 この名護屋陣での出来事は利休の死の年のことで、年表的にみると利休はこのとき亡くなっている
はずという議論がすぐ出てきますが、死の年の操作は一年違い、10年違いは普通でありとくに重視する
には及ばないと思われます。また死人が復活しても不思議はないわけです。第一、とっくに配所で
亡くなっているはずの「佐久間右衛門尉信盛」が志津嶽の戦いで柴田軍で出てくるのですから、ここで
利休の亡霊が出てきても大したことではないようです。〈甫庵太閤記〉では、明智挙兵ののち、使者を
遣わして秀吉に連絡している長谷川宗仁が出てきますがこの「法眼宗仁」とは別人ではないかとみられ
ます。
それはそうとして今「長谷川宗仁」は誰のことかわからないのですから、探そうとしようとしないのでは
どうしようもないといったところです。
ネットによれば堺の南宗寺に利休と荒木村重の墓があるということで、〈信長公記〉のここで利休と村重
が交錯したことを伝える挿話だと思われます。
 茶屋四郎次郎という人が戦国期の茶人として家康の近くで出てきますが、これもよくわからない人物で
す。
ひょっとしてここの与四郎と助次郎を引っ付けて茶屋四郎次郎を作って引っ掻き回したということでは
ないかと思います。四郎と次郎が、二人して荒木との和平に協力したということになりますが、実際は
先の記事のように乾助次郎が動いています。それは与四郎が牢に入れられていたからだと思われます
が、なぜこの鉄砲屋与四郎が牢に入れられていたのか、という疑問があります。
 これは次のつながりにみられるのではないかと思います。再掲
 
   『(七)●九月二日の夜、荒木摂津守、五・六人召し列(ツレ)伊丹を忍び出、尼崎へ移り候

       九月四日、羽柴筑前守秀吉、播州より安土へ罷り越され、備前の宇喜田御赦免の
       筋目申し合わせ候間、御朱印なされ候様にと言上の処に、御諚をも伺い申されず、
       示し合わすの段、曲事(くせごと)の旨、仰せ出され、則、播州へ追い還えされ候なり。』
       〈信長公記〉

 秀吉は宇喜多の赦免を勝手に決めてしまって、います。このころ、

     『羽柴筑前一身の覚悟を以って、大敵をかくのごとく退治なされ候の事、武勇と云い調略
     と云い、弓矢の面目これに過ぐべからず。』〈信長公記〉

 の語句が目に付き〈戦国〉でも言及していますが、信長公を無視してやっているのが多いのです。
このとき追い返されていますが、そのあと三木城へ無理な戦いをいどみ、その成果で、信長公は
機嫌を直したようなことになって不問となってしまいます。北陸柴田の下から無断で帰ってきても赦
される結果となります。これは、今でいえば織田株式会社、羽柴株式会社にトクガワ持ち株会社と
いうものがあって、そこの長の顔を窺って仕事をしているという現代進んでいる企業や役所の構造改
革とやらの方向と同じことが起こった結果で、人事権を握っているものの意思ですべてが決まること
です。世間からは、よりわかりにくく目に見えなくしていく形が、ここに現出しています。
 このことを表すのが、〈甫庵信長記〉の記事です。『波多野、誅せらるる事』の一節の最後のもの
です。
    、
 『九月二日の夜、荒木摂津守女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壷を持たせ、伊丹を忍び
   出で尼崎へぞ落ちにける。』 ●  

 何か一件が落着した、題の「誅せらるる事」というのがこの終わりにもかかりそうです。この一節の前が

    『日光みけん真実打ちわられ四十余年恥(耳に止めるのハジ)かきけり』
 
 で終わっています。〈信長公記〉では「法華」と「法花」の戦いでしたが甫庵では浄土宗と日蓮宗にして
あります。
脚注では、ここの歌の「日光」は日蓮宗の僧日光、と書かれていますが、どうもそのことをいっていそう
ではないのです。
〈甫庵〉では、長い文章なのに「日光」は出てこない、〈信長公記〉をみるとやっと、長命寺の日光が
一回出てくるだけです。
 みけん真実は脚注では
     「眉間真実を本文の未顕真実にかけている」
となっていて、みけんが眉間となり、未顕となるようですが、未顕が本文にあり、顕われていないもの
があるといってそうです。●のあとが関係のなさそうな
         『座頭直訴の事』
で目明き「座頭」の話がでてきます。
目が見えるのに検校のトップになって儲けて訴えられて、信長公が処罰せず、お金で解決してしまう
。寛容さを皮肉っています。坂井左衛門尉忠次は鑑真のように晩年目が見えないとされましたが、
目明きだったかもしれない。ちょっとおかしいというようなことをいっていると思います。〈当代記〉では
   八上城のこと、
   武藤の死、
   遠野、前田らの鷹献上、
   霊譽貞安に銀子与える、
   酒井左衛門尉が絡んだ信康生害の話
   9・22、荒木摂津守尼か崎落行のこと
   座頭直訴の話
と続いており、下線が挟まれて出てきているわけです。
利休は秀吉と話をつけて村重を降伏させたわけです。これが裏切られたということになりました。池田
和泉守は〈当代記〉では、自殺ではなく「出し(たし)」などと同じく処刑されたということになっています。
 三木城の場合は飢餓の大悲劇がありましたが、城主ほか幹部が自殺してあとは助けられていますが
荒木事件の場合は、城内の人も大量虐殺しています。これは、徳川の意思の入ったものだから、
その奥の院の意向に迎合する、しっかりやっています、という傘下企業の社長の競争があったことから
生まれたものです。
 利休の牢屋入りは、おそらく荒木事件についてかなりはじめの段階から積極的に和平に乗り出し
それが信長公には目障りであったというのが考えられます。したがって実際動いて利休の意思を実現
させようとしたのが乾助次郎であったと思われます。
 利休を導き出すための大がかりな仕掛けを十分述べられたかどうかは疑問ですが、一応利休を浮き
出させることは出来たと思いますのでこの辺りで本稿を終わりたいと思います。
 まだ、ここで洩れてしまった、伴正林、津田信澄、乾助次郎という人物については次稿で話をしたいと
思います。
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