6、木村世粛(兼葭堂)の話

(1)はじめに
これは江戸時代の人の話ですが、私が著書で述べたことについて、後世の文献による支援が思わぬところにあったという例です。

徳川政権下の寛政、松平定信の時代、大坂に木村世粛(兼葭堂=けんかどう)というたいへんな文人が出ました。酒造業を営むかたわら学者としても知られ、本草学者としての分類によって知られているようですが、そういう分類は全く意味のないほど大きい人物です。中村眞一郎氏に「木村兼葭堂のサロン」という書物(新潮社)があるので一般にも知られています。本稿はこの書物に拠っています。中村氏がこの人物を知ったのは「僻見」と題する芥川龍之介のエッセイで「斉藤茂吉・岩見重太郎・大久保湖州・木村」が述べられているからです。筆者がこの本を読んでみようと思ったのは、最近のことで、「木村」という苗字に著書で述べた「木村」がひょっとして関係があるかもしれないということでした。

(2)人物像
名は孔恭(孔キョウ=キョウ龍に共)、通称は壺井屋吉右衛門(坪井屋)、号は(そんさい)(遜斎)、当時の有名な文化人はほとんどこの人の世話になっているといってよく、例えば池大雅・頼春水・中井竹山・上田秋成・皆川棋園・与謝蕪村・高山彦九郎・大槻玄沢・司馬江漢・谷文晁・佐藤一斎・太田南畝・田能村竹田・平賀源内・本居宣長・松浦静山・円山応挙・・・などが知人です。
 兼葭(兼は草カンムリあり)というのは荻・葦のことで「兼葭堂」は書斎の名前で、これを図書館・博物館に発展させたようです。
この人の名前が幾通りもあることについて著者は

       「
当時は、近代とは異なって、世間も場合によっては当人さえも、人名について
          宛字を用いる呑気な風があった。これは新聞雑誌などがないから活字情報が発達
          せず、人名は耳で聞くことが多かったために、自然に発生した習慣だったろう。
          現に管茶山のような学者でさえ、同じ自分の詩集中に、同一人物の名を、同一発音
          の別の字で記している場合が、例外でない、」

とされているのは間違いで、著書で縷々のべましたように炙り出しがされているものです。しかしこのこと
は著者は百も承知で、管茶山を出してきたのは逆のことをいっているということです。

(3)出自
 この人物は家系について語っていて、著者が紹介されています。

    「今日と異って、この時代のことであるから、家系というものを重んじ、彼の家も
     その家祖は大坂陣の勇将、後藤又兵衛基次ということになっている。しかし、
     彼の気質のなかに、この戦陣の猛者の面影を探ることは、もとより無駄である。
     基次のあとを継いだ嫡子は医を学んで、京に出て近衛家に仕えた。その二子の
     うち、長は父の業を継いで医師となったが、弟は大坂の町人となった。
     その町人の四代目が吉右衛門重周であり、即ち兼葭堂の父である。ところで祖父
     までは後藤姓であったが、父重周の代で木村重直の養子となり木村姓を冒した。
     つまり木村は彼の母方の姓である。
     しかし、こうした戸籍調べからは、今までのところ、私たちの主人公についての
     性行などに関して、何の参考資料も出てこないようである。」

このように述べられていますが、後藤又兵衛となると軍人と決めつけすぎと思われます。ここがたいへん参考となるところです。もう少し著者のものを引用補足しますと

     「更に、家系についてであるが、私は世粛の父の代から、後藤氏を改めて、母
     方の木村姓に転じたと記したが、これも水田(紀久)氏によると、母方の木村
     姓は、かの木村長門守重成の血筋かも知れぬということになる。
     父重周は母方の祖父、木村重直を継いだので、木村重成の名の重の字を伝えて
     いて、この関ケ原(大坂陣)の勇将木村長門守の血を引くとなると、十八世紀
     を代表する世粛の中に、大坂方の二人の猛将の血を、父母両方から伝えていた
     と、時勢の変遷を示す愉快なことになる。」

死後、雪斎候(伊勢長島領主)という人の文には
     「先祖は『後藤隠岐守基次』であるとし、『河州道明寺』に戦死した。その子
     の『吉右衛門基房』は、医術を学んで玄哲と号し、『京師に遊んで近衛殿に仕
     えて医官となる。』『その子、玄篤、箕裘(父の業)をつぐ。玄篤の弟、五助
     芳雅。芳雅の子、七郎兵衛芳矩。芳矩の子、延助芳昌。芳昌子吉右衛門重周。
     重周、浪華木村重直の家を継ぐ。翁はすなわち重周の子なり。』」

 となっています。母方父が重周で、代々、大坂城の名将二人の血を引き継いでいるのを誇りにしていたようです。
この一家が後藤から木村に姓を変えたのは、「もう一つの大河」で書きましたことを世粛が裏付けをしてくれたもので、講談の木村又蔵・木村重成・後藤又兵衛の関連を世間に知らしめるためでしょう。さらに世粛の妻女は氏の示子ですから、木村二郎左衛門・森三左衛門・後藤喜三郎・金工、後藤平四郎などとの関連がいっそう明白になり、世粛は太田牛一の子孫だったことを本人が言っていると思います。実際その万能の才は血のつながりを暗示するものでしょう。後藤又兵衛といっても湧いて出てきたわけではないので、その先が隠されているのが微妙なところです。博物館を作るような大金の出所が問題とされているようですが、金座後藤のバックとするとすんなり解けそうです。


(4)家庭生活
 家庭生活については、幕末の勝海舟などと同じことが書かれています。

     「次に彼の家庭生活について、今日の私たちに最も興味のあるものは、その妻
      妾同居の状態である。」

 著者は妻妾同居について当時の慣行とされています。

      「二十一歳の時にめとった妻、森氏示子が、・・・・十年たっても子を生まな
      かったので、彼の母のはからいで彼の三十歳の時に妾として山中氏某女を家
      に納れた。こうした妻妾同居はこの時代では近代の私たちが想像するほど異
      常ではなく寧ろ社会的習慣に属していた。・・・現に、彼が妾を家に納れて
      数十年後の文化年間に福山藩の儒医伊沢蘭軒も若くして側室を家に入れたが
      、この場合は主人が脚気に悩んでいたので、看護人が必要だったのだと森鴎
      外はその蘭軒伝中で主人公の妻妾同居の現状を何の道徳的疑問もなく受け入
      れている。」

 鴎外はこういう今日と違う感覚でものを書いたのなら、鴎外の読み方を少し変えねばならないのでしょう
      「長崎に妻妾を伴い、身の回りの世話をさせるだけでなく、博物学の教養を
      身につけさせて兼葭堂博物館の学芸員に妻妾二人ともを仕立てたというのは
      、・・・・私もこの逸話を愉快に思う。」

      「当時のことで、遠来の客、江戸から来た者には、しばしば、宿泊させて応
      対した。当時の客は今日の客に比べて一般にはるかに長っ尻だった。時間の
      流れが二十世紀末の今日より、比較にならぬくらい緩やかだったことを思い
      起こすべきである。」

 時代の流れもさることながら、こういうのは社会の担い手が違っていたようです。
世粛にはパトロンのような感じの、木津屋雪、自称三好正慶尼、あだ名「奴の小万」という武勇と地位のある女傑との交流があります。これは母公を暗示しているのかもしれませんが、こういう女本位の社会であることを示したものであるとともに、一族は戦国から武士の家系であったことをことを表したものでしょう。三好正慶尼は三好長慶(三好秀次かともいう)という天下人の後裔ですから、素性は身分が高い、三人重ねて同性といっており、三好秀次とその係累の人の無念の思いを引き継いでいるという示唆のようです。例えば秀次の重臣、山口常陸介は木村重成の父という話も講談ではありますから、木村又蔵と常陸介は当時でいう夫婦かもしれないわけで、そうすれば常陸介も太田和泉の義理の子ということになりかねません。まあ三好の女傑などを出してくるのは、世粛一族と太田和泉との関係をいっていると思われます。

(5)江戸文化=吾妻鏡方式
 林羅山・賀茂真淵・荷田御風ついて学んだ幕府家臣、江戸の山岡明阿入道(信長公記にある山岡氏の流れと思われる。世粛の二まわり年長)との交流が語られていますが、世粛は山岡の六十九才のとき(山岡死の年)に会っています。この人物は「類聚名物考」という膨大な書物を書いていて
   「フランスの同時代の百科全書家たちのそれを連想させる科学的趨勢の産物である」

とされています。兼葭堂の博物館もそういう時代の流れにあって西欧と期を一にしているのが重要と思いますが、ここでいいたいのはこの書物の中に次のことが書かれていることです。ごく付けたりのような扱いですが「人物部」に「同名異人」の項があるようです。そこに

     「『右大臣実朝二人』とか、『人麻呂九人』とか、『右大臣信長二人』
      とか『よしつね同時二人』とかが集められている。」

 となっています。もう江戸期には筆者の縷々述べてきたようなことがわかっていた、常識であったということになります。
「よしつねの同時二人」というのはおそらく同じ行動をした場合しか書かなかったということで、分けにくいことが多いのに無理に分けたところがありましたがその必要はなかったようです。例えば頼朝と初めて会った場面など、どちらの義経か判りにくいところでしたが、それぞれに当てはめてもよかったようです。
「人麻呂九人」も大津皇子、大友皇子、世代をまたがって穂積親王、長屋王、草壁皇子、長忌寸意吉麻呂などで出てくるようです。大友皇子は京都府の大山崎につながり山前王、大伴にもつながるから、太安万侶に繋がりかねませんのでたいへんなことです。
 どうして現代だけがこのように読まないのでしょうか。中村氏も、世粛の知人「福石室」という人は二人か、というテーマで論じておられます。「福石室」も単なる例外ということで済ませるのでなくまともに取り上げる(手法の一部として拡大する)必要があったようです。織田信長が二人ならば、豊臣秀吉・徳川家康も二人でしょう。

(6)江戸文化=古典の理解
 世粛が本居宣長を訪問したのは秋成・宣長論争があった時期のようですが、これは馴れ合いの論争であることが内容でわかります。私の著書の支援材料になる箇所があるので少し触れますと、

      「一体この論争のはじめは、京都の考証学者、藤貞幹が衝口発(しょうこう
      はつ)という書で、中国文化中心の史観に立って、神代の年号は信じられな
      いので六百年、繰り下げること。」

などを論じたことから始まったと書かれています。

      「世粛は貞幹と共通する実証主義者で、おそらく貞幹の言うように、わが年
      紀を六百六十年下げれば、外国の歴史の年紀と歴史的に合致すると信じ
      ていたろうが
、一方で古事記伝の解釈の新しさにも好奇心を抱いていたろ
      う」

 と著者が書かれています。これは貞幹の言うように干支の連続のことから六百年に補正しなければならず、年齢三倍の根拠として筆者の論を支持しており、世粛も中村氏も気づいているような常識の線であったようで、60年の違いは干支のいたずらまで到達すればわかったことです。
 このようなことは江戸以前の文人の信頼性を増す材料なので一言、三分の一操作を教科書などでいうかいわぬかどうかがたいへんな違いになります。おそらくセム族のものは7で割れば実年数になることが仮説として出てくるのでその根拠を探ればよいはずです。太安万侶は大陸に学んでおり、そこにも同じ操作がされたとみるのが妥当です。とくに太字のところは重要で慈円がヒントを与えてくれているように、太安万侶は西暦を意識していた、神武天皇の即位年を西暦元年に合わせたことが世粛をダシに中村氏によって示されています。知らぬは一般の人だけです。太安万侶はよく考えて記紀を書いたのかどうかはその著書の信頼性を上げるかどうかのポイントとなるところです。

(7)世粛の評価
 中村眞一郎氏によれば世粛の残したものは膨大で、日記からだけでも彼の日常を再現するのに数十年かかるとのことで
      「無駄にきまっているマニアのような努力が必要である」
とされて

      「自分の生きた足跡を、一歩も消すまいという、流れる時間に抵抗しようと
      する、そのこと自体が、何かの目的のための手段でなく、それ自身が目的
      であるという奇怪な情熱
は、一体、どこから出てきたものであろうか。
      こうした現実肯定の精神が発生するのは、その生きた時代が、急激な変化と
      か、革命とか、天変地異とかと縁の少ない、大地が揺らぐことなく、いつま
      でも自分と外界との平衡した関係が続いて行くという、幸福な生活感覚に
      恵まれた時代の人間の特徴
なのではなかろうか」

 と書かれています。
 太字の部分は間違いなのは明らかで、強圧政権下で呻吟し、過去や現世のことを伝え残そうと書いているわけです。世粛の活動が弾圧された、世粛が配流されたことが述べられながら、こう書いてあります。
 歴史の研究の先後をいえば、目的のはっきりしない発掘よりも、金をかけるならばこういう文献の方の解読が先でしょう。文献の結果を発掘で確かめる、という方が効率的で、発掘して文献が合っているか確かめて満足するというのでは逆です。
 兼葭堂に限らず膨大な書が意味つけられることなく眠っています。著者のいわれる次のようなことが当然のこととして受け止められてしまいます。平凡社版の世界百科事典の望月信城氏執筆の「むらけんかどう」の項目では彼の多くの著書を挙げている、と書かれたあと、

        「私、中村の紹介したのはそのうちの『一角纂考』と『銅器来由私記』の二点であるが、
       他の著書は今日では好事家の興味の的にはなろうが、学術的にも、文芸的にも、
       歴史的にも読むにあたいするとは思えない。
(事典は)最後に「兼葭堂日記」の現存を
        記している。全く余すところのない、全身像である。」

とされています。浅野梅堂によれば「大友皇子が日本の詩の開拓者であるというような考証もあったようだ」と記しているそうです。これは大津皇子として日本書紀や、慈円や、紀貫之が書いていますが、世粛の理解では、これが大友皇子となっており、「もう一つの大河」の読みと符合しています。だから太字のところはこのようにいえないことであり、また次の文とも矛盾しています。

        「享和二年(1802)、時代は十九世紀に入り、主人は六十七歳の頽齢を迎えた。
        その正月は、死を二旬目にひかえて、社交人世粛は相変わらず賑やかな年賀の客の
        応対に追われている。それは死の当日まで、習慣通り、ひいきのブーティクを一巡し、
        帰宅後、長椅子に憩って、『私は息絶える』と呟いて、『妖精のように世を去った』と言
        われた、今世紀フランス社交界の女王であった女性、ルイーズ・ド・ブィルモランのこの
        世との訣別の様を連想させる。」

すなわち、なぜ女性を連想されたのか説明はありません。それなのに読むにあたいしないとはいえないと思います。こういうところが現代の著述が判りにくいわけです。

(8)現代との関わり
 寛政に入ると、世粛は幕府に睨まれて、町年寄の役を奪われ、伊勢長島の増山侯(雪斎)の領内に逼塞しています。川尻村というところが気に入っていたようですが、これは川尻という織田武将のことが念頭にあって戦国とのつながりを意識させたものと思われます。長島と伊賀は織田信長に徹底的にやられた、本能寺のあと、甲斐でやられた川尻も同じで、背後に徳川の手があったというのが意識されていると思われます。
幕府は世粛の生前に社会的活動の基盤を奪ったと同時に死後にもう一度攻勢にでて財産の没収などやっています。世粛の死後こういう全国的な知性の活動機運は一挙に衰退したようですが、維新まで70年ほどしかなく惜しいことになりました。兼葭堂を訪れた九万人というものを、そういう時期にリード役になってもらおうとしていたのかもしれません。とにかく一筋縄でいかない人物で警戒されたのでしょう。明智政権の太田牛一らがどういうことを目指して決起したか、世粛が答えを出そうとしたかのようです。坂本龍馬の策や、五箇条御誓文の「万機公論に決すべし」とというようなものにつながる土壌はチャンとあったわけです。著者の言では、世粛十三才のときにモンテスキューが三権分立で有名なあの「法の精神」を書いたとされ

        「大坂の隅に世界を視野においた博物学のジレッタントが生長していくのである。」

と述べられています。太字は「好事家」「趣味人」という意味でしょうか。フランス革命に先立つ百科全書派といわれるディドロやダランベールなどは、そのように訳されるのでしょうか。こういうのは一言で、江戸期の学問の社会的意味を減殺してしまう恐れがあると思います。

(9)世粛と松尾芭蕉
 大江丸(大伴大江丸=安井政胤)という俳人が世粛の死の年に、特別の待遇されたような形で会っています。この人物と俳句談義をやっていて、世粛がそれに特に関心を持っていたということを物語っています。その中心は松尾芭蕉のことだったと思われます。世粛の知人、池大雅に「芭蕉翁」の肖像画があるのも世粛らが芭蕉を受けているのでしょう。
 言葉の大家、芭蕉にも語句の宛字、間違いが多いわけでおかしいと思わねばならないところです。吾妻鏡・信長公記を踏まえていたことは述べましたが、奥の細道という芸術的に最高度の水準に到達したといわれる書にも、政治の話、明智・徳川戦が織り込まれているのです。とにかく誰も指摘されているように、蓮如の歌を西行の歌と間違えるようなことをしている、これは、二人を重ね、戦国を意識している・・・・のであり、芭蕉から世粛に戦国からの伝言があるようです。
奥の細道における戦国の話が世粛からみても頷けるものだと思います。
                  
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