24、高山右近と(一)高山右近から明智光慶

24、高山右近と松尾芭蕉

(1)高山右近から明智光慶へ
 太田和泉守は〈信長公記〉を著して織田信長とその時代のことを書いたといわれています。本能
寺の戦いが済んだところで〈信長公記〉は終わっていますから、それは合っているといえます。
 筆者は太田和泉守はアフター織田信長のことも意識して筆を進めているということをいってきまし
た。
時代の流れというもののなかから考えを述べようとしたものだということもいいうるところです。
 しかし今まで理解されている段階では、五奉行の、石田三成、大谷吉隆、増田長盛、長塚正家、
七本鑓の加藤清正、福島正則など後に重要な役割を果たした秀吉子飼いの人物は若いから出てこ
ないのは当たり前だということで済んでいました、またそういう人物が出てきていないから関ケ原くらい
までのことが著書に含まれているというのはおかしいという論理にもなってくるものです。
前二稿は、そうではないといいたいところから、必然の流れとして出てきたといってよく、石田三成
(関ケ原のとき死亡)、高山右近(大坂の陣のころ死亡)にまで話が進みました。
 話しを進めてきた段階では次のようにいえるかと思います。
 「信長記」における、石田三成と高山右近の違いは、石田三成はストレイトにその名前が出てこな
い、「石田」とか「佐吉」などの間接的表記からしか、その存在が出てきません。一方、高山右近は本
人が本名で出てきて直接人と事件にぶつかっています。石田三成という名前をストレイトに出さなか
ったのは、徳川家に対する直接的敵対者というのでその名が出てしまっては具合がわるいと思ったと
いうのが一つあると思います。すなわち石田三成は関ケ原の戦いというのが重要な属性であり、徳川
政権との武力対峙がまず第一に思い浮かぶところです。大谷吉隆、増田長盛、長塚正家などもそう
ですし、島左近(清興)、明石掃部助(全登)などもその部類に入ると思います。高山右近は、明智
直系といってもよいのに堂々と名前が出ています。
 太田和泉守は子息の世代については、高山右近を表に出して語ろうとしたと察せられます。
 高山右近は一応表立ってはキリスト教が属性であり最終的に右近を国外に追放したのは徳川政
権だから、そういう対峙はあると思いますが、逆らったといっても武力を用いてではなく、甘んじて
処分を受けたといえるので反徳川が直接的でないということもできる、高山右近によって多くの次世
代の人と事件を語ろうとした節がある、つまり高山右近に多くの人物や事件の真相を引き出す役目を
負わせているといえます。
 太田牛一が子息世代の代表者とするにふさわしい人物と高山をみていたともいえるので高山を知
ろうとすることは特にその過程において判ってくることが多く重要ではないかと思います。
 高山右近はその身辺を語る表現には工夫が多く、本名が出てくるわりには出自さえ述べられて
いないということになっていました。それだけにまだ多くが隠されているのではないかと勘ぐられます
ので、叙述手法の確認などには、好例を提供されているといえると思います。
 しかし太田牛一が織田信長の軍事、政治を述べその業績を讃えているという見方が常識的で説得
力があるため、百万言費やしても、太田牛一が高山右近にも重点をおいて述べている、というのはど
うしても納得してもらいにくいことでもあります。主観的な話だ、ということで終わってしまいますので、
現代では松尾芭蕉とかの応援を得て話をしたほうがよいといえます。つまり芭蕉が高山右近につい
て多くを語っているということであれば、太田牛一の考えも掴めるということになります。
こういうわけで高山右近と松尾芭蕉との組み合わせになった次第です。高山右近はキリスト教だから
松尾芭蕉とは合わないはずだ、この組み合わせはおかしい、奇を衒(てら)う話ととられそうですが
そういうものでもないというのが当時のことです。松尾芭蕉は高山が亡くなったとされる大坂の陣終結
の年から30年後に生まれていて、現代では知りえないものがあったはずです。

表記の世界による文献の解明は、結論に達するに多くの道があるのが特徴です。松尾芭蕉から
高山右近を語ることができるし、高山右近から武井夕庵、石田三成にも行き着くことができます。
ここでは松尾芭蕉が〈奥の細道〉で高山右近を大いに語っていると見られるので松尾芭蕉に教えて
もらって高山右近の別の一面を語ろう、というものです。それで太田牛一の思いが芭蕉から浮き出て
くると思います。高山右近をやっている過程で出て来るものの一つに戦国時代の謎の一族、青木氏
があります。
これも芭蕉から語らないと納得するものがでてこないという感じです。青木氏の表記は、次のようです
が、各一回限り、挿話もほとんどないという登場なので謎となるのは当然のようです。青木の表記は

   〈信長公記〉   「青木所右衛門」「青木隼人佐」「青木鶴」「青木」
   〈甫庵信長記〉 「青木所右衛門尉」「青木隼人佐」「青木加賀右衛門

両方にあるのは「所右衛門」と「隼人佐」ですが、「所右衛門」は「嶋田所介」の「所」であり、秀満と
いう名前だから三宅(宮笥)弥平次にも行きつきます。「明智弥平次」という表記もありました。
この「青木所右衛門」は越前の「真柄十郎左衛門」を討ち取ったという注書だけの登場ですがそれだ

    「真柄」
は重要かもしれません。なお〈信長公記〉の人名索引では「青木」のあとに、同じ「青」つきの
    「青貝」
が出てくるので、これも出番があるのか、使えれば青木を重視しているといえるのでしょう。
 もう一つの「隼人佐」は「原隼人」の「隼人」を通して「原和泉守」(信長公記)という表記につながり
原彦二郎を呼び出します。
         原隼人 ← 原和泉守→ 原彦二(次)郎(人名録では政茂)
「彦二(次)郎」は、越前衆で夕庵や高山周辺、郡上などに出没します。要は青木は身内であること
を表しますが上の表記からみれば
     「青木鶴」=「青木加賀右衛門
という対置となっているような感じです。つまり、「青木」は「加賀」の人といっていそうで、
     高山右近=加賀=青木
という関係が暗示されていそうです。このほかに孤立表記といってもよいもので高山を表わすものが
多いのも目立つところです。〈常山奇談〉に長たらしい
     「御貝吹(かいふき)貝福(かいふく)右衛門」
 が登場しますが、これは前の「かいふき」が形容詞であろうと取れます。
     「貝吹右衛門」
という表記もありますので、「貝吹」「貝福」の二通りある、といって終わりたいところですが、まだ
     「貝 吹右衛門」か「貝吹 右衛門」
かはよくわかりません。これが、「青貝」の「青」から「青木」と
                   「吹田(ふきた)」から「深田」の「高山」
とをつなげているものですが、高山右近には、こういう孤立表記で迫っていくというのが多い、また、
高山は「高山」と「右近」という表記上の武器をもっていますのでそれが最大限に生かされるということ
で表記で語るということが特に目立ってくるものです。本稿では高山右近の最も知られざる部分、その
芸術の部分と関ケ原の戦の部分を語ろうとするものです。
 
 フロイスは明智光慶のことを述べていますが、その前に高山右近に言及しています。
前稿の一部再掲。

   『安土を去った明智の武将は坂本城に立て籠もったが、そこには明智の婦女子や家族、親族
   がいた。・・・・・・・・、すでに多数の者は城から逃亡していた。
    そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が最初に入城した
   者の先発者であるのを見ると、「▲高山(タカイヤマ)、ここへ参れ。貴公を金持にして進ぜよう」
   と呼びかけ、多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。・・・・・・・・、最高の塔に立て籠もり、
   内部に入ったまま、彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。
    その時、明智の二子は死んだが、
   非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ▼長男は一三歳
   であった。』〈フロイス日本史=中央公論社〉

 フロイスは
   かの明智の)武将→→▼明智の長男光慶
まで語っていますが、その途中に▲を入れています。こうなると、
   明智光秀→→高山右近→→明智光慶
 となってきますので、これだとフロイスの著書にあることもあって、二人の間にキリスト教というものが
絡んできます。実態は別としてフロイスを背景に、このように並べてみることがまず必要と思います。
 類書では石田三成がキリシタンということがあり、そうとすれば、高山右近が石田三成と親しいので
はないかというのが出てくる、もし、二人が姻戚ということにもなると、一層無理がなくなってきます。
これは実態面のことですが、語りの面においても明智光秀と石田三成というやや遠い感じのある
二人を、高山右近を介在させてわかりやすくしようという意図があったのではないかと思います。
つまり
        @明智光秀ーーー高山右近ーーー明智光慶
というものと
        A武井夕庵ーーー高山右近ーーー石田三成
において、例えば明智光秀と武井夕庵がすぐには結びつきにくい場合、高山右近が入るとつなぎの
機会が広がることになります。@はフロイスが書いた、フロイスは「武井夕庵」という表記を出している
フロイスも全体のことを語ろうとしたともいえます。高山右近を介在させて明智光慶と石田三成をむす
ぶ線を強化したのが先稿ですが、権威ある人のお墨付きが要ります。松尾芭蕉は高山右近を使って
うまく@Aの相関を説明をしているのではないか、それから探ってみるということが本稿の立場なので
松尾芭蕉が思わぬところで出てくることになります。

(2)「高山」の「高」
「高山右近」は「高」い「山」、「高」き「山」ですから、当然「高」が重要ですが、前稿でみた通り、明智
の終わりにあたって
     フロイスは高山を出し
     兼見卿も高山を出し
     秀吉の「明智弥平次」は高木文書が出し
 ということで、三者の間には、打ち合わせがあったかどうかは別として、「高」で明智が語られようと
しています。しかし「高」という字は、
      明智光秀も、武井夕庵も、明智光慶も、石田三成も、中をとりもつ太田和泉
にも直接関係がないわけです。
 高山の存在が仲をとりもつということになったといえます。すなわち、この五人を例えばキリスト教で結
びつける役目は高山が担うというようなことにされている、そういうものが、高山右近にあった、と思わ
れます。当時を語るキーマンの一人が高山右近といえるのでしょう。ただ高山右近が特に有名なのは
昔がそうであるからで、いま余り知られていない部分も昔の人が知っていたからというのもあると思い
ます。つまりその人自体が偉大であったので太田牛一が多くの頁を割いたといえるのではないかと
思われます。
 「中川」も「古田」も「高山」から見えてきた、「内藤」というのはこの五人からは出てきませんが高山
と内藤が近いというなら、そこから関係が敷衍できそうでもあります。松尾芭蕉も武井夕庵と石田佐吉
を結ぶのに高山右近を利用していると思いますが高山の記述の方が二人より多いという感じがします。

(3)「三宅」と「宮笥」
「明智弥平次」という表記は「三宅弥平次」と「明智左馬助」というものを結んだのだから、また「明知」
というものも出てきたから、「弥平次」は「左馬助」だけでなく広く「明智」に拡大されるというのが一つ
の意味としてあると思います。
 「宮笥(みやげ)」というのは、〈信長公記〉だけでなく〈武功夜話〉にも使われていますが
     「宮笥」=「みやげ」「みやけ」=「三宅」
 であり、「宮」は鍵となる字であり、「宮」は「く」とか「きゅう」と読むから「久(きゅう)」も「九」も含んで
いるものです。
 「笥」という字は、〈信長公記〉〈武功夜話〉から「け」と読むことはわかりますが、字引をみても
      「け」
 という読みは載っていません。筆者が「け」という読みを知っているのは〈万葉集〉の有間皇子の次の
一四二の歌にあるからです。 「 挽歌 後岡本宮・・・・」云々の(題目)のもと、一四一から一四六の
六首が載っていますが、一首目と二首目が「有間皇子」の作品で、その内の二首目●がこの歌です。

       『 挽歌  後岡本宮(のちのおかもとのみや)・・・・天皇の代
                  天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)・・・・
             
        有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首
   一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
 ●一四二 家にあれば(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

         長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)結びを見て・・・・歌二首
   一四三 岩代の岸のが枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも
   一四四 岩代の野中に立てる結び こころも解けずいにしへ思ほゆ 未だ詳ならず

         山上臣億良(やまのうへのおくら)の追和する歌一首
   一四五 鳥翔成(ツバサナス)あり通ひつつ見らめども 人こそ知らねは知るらむ
                                  右の件の歌どもは・・・挽歌の類に載す。
         大宝元年辛丑、紀伊国(きのくに)・・・・結びを見る歌一首  
   一四六 後(のち)見むと君が結べる岩代の小がうれを また見けむかも』〈万葉集〉


   ここの「(け)」というものを太田牛一が利用したと思われますが、これは多くの効き目を生じ
 させたと思います。
    三宅と宮笥で、
 「三」と「宮」というキーワードを結びつけたといえます。次に「三宅」の「宅」ですが、これは「たく」
 ですから例えば「沢」と同じ読みとなっています。
 一方〈武功夜話〉には
      「成(ルビ=なるたけ)」
  というのがあります。「なるたけそうなるように努力する」のような「なるたけ」ですが、
      「沢」は「たけ」
 と読めるわけです。先稿では、「言継卿」と親しかった「飯田弥兵衛重(いえしげ)」という人物が
 出てきましたが、この「」は「たく」ですから、「沢」の「たく」でもあります。「たけ」にもなりますので
 「飯田宅重」は「飯田武(たけ)重」にもなりかねません。「三宅」は「三武」「三竹」にも代わりうるとも
 いえます。
        『春日原のはずれ』の『天寺』の『天沢』〈信長公記〉
 の『天沢』は「天武(たけ)」「天竹」にも変換できそうです。そういえば『天沢』にはルビが入っていま
せん。
 味鏡(アチマ)村という田舎村という感じの村に、「天」の付く寺と住職がいたというのはやはり驚きで
す。
  次に「(け)」という字ですが、「笥」は、「竹」と「司」になりますから 、
         「竹」の方から「宮笥」は、「宮竹」「宮武」・・・・・・武井が出てくる
         「司」の方から「宮笥」は、「宮」・・・・・・・・・・・・千秋とか紀伊守が出てくる
 ということにもなるのでしょう。後世の人も、ここに注目し、利用した、と思えるところです。例えば
 下は〈曾良日記〉「卯の花」から「夕庵」が出てきて(既述)、「竹」がそれを支援しているところです。

   『(七月)十五日・・・・・高岡・・・・・埴生八幡・・・・源氏山、卯ノ花山・・・・金沢・・・・京や吉兵衛
   ・・・・竹雀・一笑・・・竹雀・牧童・・・一笑・・・竹雀・・・川原町・・・宮竹や喜左衛門・・』

  ここで「宮竹」が出てきて、「竹」に「宮」も参加してきたことになっています。「喜左衛門」というのは
       「遠藤喜右衛門」(先稿)
 のことが想起されてていると思います。これは竹中久作が
    「作是を討ちとる、・・・と高言・・」〈信長公記〉
 した人物です。まあ「遠藤」が、「竹」「久」に接近しましたが、ここで「宮竹」と「喜」の組み合わせに
なったといえます。
 ここの「金沢」の「沢」も「たけ」と読めるし、「吉兵衛」の「吉」も堀尾吉晴の「吉」であり、「川原町」の
「河原」は伊丹布陣表で「芥川」が陣したところで「伊賀氏」とセットになつています。「伊賀」は
「伊賀(安藤)伊賀守」を想起してしまう、このように広がっていくわけです。すると牧童や埴生八幡は
関係あるのかということになりますが、これは松尾芭蕉が考えて書いているのだから関係はあります。
いまから回りまわって関係があるということですぐにはわからないというだけのことです。
はじめの「高岡」というのも、まあいえば「高」は高山の「高」、岡は「春日九兵衛」のところで出ました
「岡飛騨守」の「岡」です。字でいっても「高岡」は先の〈万葉集〉の字をつかうと「高崗」であり「高山」
と同じようなもので、〈曾良日記〉のここは芭蕉は「高山」を想起して書いているのは明らかです。

  それなら「宮司」の「」はどうかということになりますが、〈奥の細道〉は「図左吉」を出してき
 ました。
        『図司左吉と云う者を尋ねて、・・・・・・』〈奥の細道〉
 
 これは「近藤左吉」のことだと〈曾良日記〉でいっており

        『●長山五良右衛門縁者 図司藤四良、近藤左吉舎弟也。』〈曾良日記〉

 があります。〈曾良日記〉に、「近藤」を書いたときは〈信長公記〉の「遠藤」が頭にあったと思われます。
右近左近と同じで遠近というものが作用してきます。また遠藤は「作」とセットになっていました
から、
    「竹」=「久」=「藤」=「武田」=「佐吉」=「近・遠藤」=ーーーーー郡上八幡
というように関連付けていると思います。 「近藤」といういう二字表記が〈信長公記〉ででてきます。
今の桑名市のあたりでの戦のくだりで「ふかやべの近藤」です。これはテキスト脚注では
     「近藤  深谷部(桑名市内)城主。」
 となっています。「ふかやべ」とひらかなにしたその心は、宛てる漢字を探して下さいということ
でしょう。脚注の桑名の桑は「丹波桑田郡」の出てきたところで「三又」であることは既述です。
しかも首巻の終わりに出ていました。

 『去程に、丹波国桑田郡穴太村のうち、長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前守
    与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。・・・』〈信長公記〉

ここに「長谷」というのが「桑」の近くにありました。近藤の出てきた「ふかやべ」の近くにも「桑部(くはべ)」
が出てきて「部(なんべ)」「長ふけ」という地名が続いてでてきます。「深田」は「ふけ」という
読み方も示されているので、「長深田」というのもありうるので「深谷部」というのは
  深田+長谷+(南部)の部
の合成のような感じとなります。図司の図はもちろん図画の図、絵図の図です。「高山飛騨守」の
名前が既述「図書」〈辞典〉ですから、高山と「図」が結びつくと思います。芭蕉が〈信長公記〉の
この辺をみて
           図司左吉〈奥の細道〉
           近藤左吉〈曾良日記〉
を出してきたというのがいいたいところのことです。●の「長山」は〈信長公記〉にも「長山九郎兵衛」と
いう漠然とした表記の人物があります。

(4)角鷹
 次の〈信長公記〉首巻の終わりの他愛ない記事の「角鷹」というのは「角高」でもあり、「角」というのは
高山右近の属性かもしれません。加賀守も出てきます、再掲

 ★『去程に、丹波国桑田郡穴太村のうち、長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前守
    与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。・・・角鷹二連求め・・・・』〈信長公記〉

 赤沢加賀守が内藤と抱き合わせで出てきました。
「赤沢」は「明+沢」で「沢」は「たく」「竹」でもありますから「明竹」「明武」「明鷹」「明高」にも替わり
えます。「角鷹」は前掲訳文では「くまたか」とされているのが参考になりました。「角」を字引で引い
ても「くま」は出てきませんが「鷹」に「熊鷹」というのはあります。角鷹→熊鷹の転換は
   角=(すみ)=(くま)=熊
ということになるのでしょう。つまり音(おん)が同じ(「角」は「書く」)、或いは似ている(「こう」は「こ」)
から変換されるというのと同じで、字が似ているから読み方が変えられるというのもありうるということを
太田牛一が示した例といえると思います。「角鷹」は
     「角高」「角武」で、「熊鷹」ですから「熊高」「熊武」
でしょう。
 信長が、道三に援兵を依頼し安東(藤)大将は千ばかりを引き連れて来援しましたが、
   「田宮・甲山・安斎・熊沢・物取新五」〈信長公記〉
もやってきました。これは全部他につながる表記の人物ですが、ここの「熊沢」は
     「熊たく」「「熊たけ」「熊たか」で「熊武」「熊高」
に変えうるので〈信長公記〉のこの首巻にある「角鷹」を意識して入れられたということも考えられます。
「熊沢」といえば、のち
     「熊沢蕃山」
 という治績優れて幕府に睨まれたという池田家の傑物が出てきますので一応はその人物を想起
してしまいます。これは湯浅常山が詳しく書いているので頭に残っているから気になったといえるの
かもしれません。太田牛一が熊沢蕃山を意識して書いたというのはありえないことですが、熊沢蕃山
はここの「熊沢」を意識したかもしれないわけです。つまり湯浅常山は蕃山がここの熊沢を意識した
かどうかに関心をもったかもしれないのです。
「田宮」は、〈常山奇談〉では「水野丹宮(ルビ=みづのたみや)」があり、この「田宮」に関することを
いおうとしたのかもしれません。「水野」はテキスト脚注では

    『(家祖の尾張小河郷の重房)の子重清が尾張春日井郡山田荘に移って水野と改めた。』

 ということですから太田和泉守の故地と「重」の組み合わせが「水野」ということになります。信長と
鉄のところで出てきた、佐々蔵佐に信長暗殺の方法を教えた「井口太郎左衛門」は「水野太郎左
衛門」といってよく、太田和泉守の役者での登場といえますが、その水野が高山に関係ありといい
たいので出したといえないこともないようです。田宮をひっくり返すと「宮田」となり
     「宮田彦四郎
という人物が出てきます(〈甫庵信長記〉)。〈信長公記〉も「宮田」を気にしており「宮田彦次郎」を出し
ています。どこの誰やらわからない人物です。しかし高山右近重友は「彦五郎」だからその前の人を
示したのではないかといえる、となると無視できないことになります。
 先稿で高木文書の「高木貞久」の跡取で「高木貞俊」という人物が出てます。前稿一部再掲
  
   高木貞久ーーーー長男  高木貞家(彦七郎)ーーーー子 高木貞俊(祖父貞久の養子)
  (直助・丞助      二男  高木貞利(彦六郎、権右衛門)
   彦左衛門・      三男  高木貞秀(勝兵衛)
   無楽)         四男  □□□□
                五男  高木貞友(彦助・彦之助・藤兵衛)
 
 四男が空いているのは長男の嫡男(貞俊)がここに入ってくることになるので貞俊がポイントの
人物ですが貞俊の名前は前稿では
      「彦太郎・次郎兵衛・四郎左衛門・好春
で「貞俊の好春などは重要かもしれません。」といっております。次郎も四郎も同じ人物というのでは
困るではないかといいたいところですが一緒になっているから仕方がありません。すなわち
      〈甫庵信長記〉の「彦四郎」はここの「四郎左衛門」
      〈信長公記〉の「彦次郎」はここの「次郎兵衛」
でこれが「好春」ですから「堀尾茂助吉晴」がでてきます。高山右近の兄は堀尾茂助ということに
なります。常山が丹宮を出して、ここの田宮ーー熊沢ーー角高に注目といったということもいえそう
です。しかしこういうとすぐにそれは偶然の一致だという反論がなされるのは目に見えています。
 この「水野丹宮」(これは水野隼人正)の出てきた、同じ「常山」の次の節が重要で「安藤彦四郎」
が出てきます。

   『安藤彦四郎討死の事
   安藤彦四郎重能は帯刀(たてはき)の子なり。・・・・・成瀬豊後守が組(くみ)・・・・・武士★長生
   (ながいき)・・・・彦四郎・・・・彦四郎・・・・・彦四郎・・・・彦四郎・・・帯刀(たてはき)・・・・
   彦四郎・・・』〈常山奇談〉

 があり、彦四郎は帯刀です。堀尾茂助は帯刀先生でした。相撲で「たいとう」という四股名の人が
六回も出る(信長公記)のは重要な人物だからと思いますがこれは堀尾茂助であると思われます。
一応この人物がわからないので「たいとう」を(帯刀)とみて決めておけばよいわけです。ただ「堀尾茂
助」の帯刀が先生というのがよくわかりません。先に生まれた「帯刀」というのなら次の高山右近も
「帯刀」というのかもしれません。とくにここで
    「安藤」
を出してきたのが重要でしょう。「安藤大将」ーー「熊沢」を睨んで彦四郎を出してきたタイミングは
すばらしく、重能の能(よし)は熊に似ているのもあとで利用されそうです。★長生の「生」は「牛一」を
一つにしたものであり、著者の考えと行動の大本(おおもと)にこれがありそうです。〈甫庵信長記〉には
「いけ」というルビもあり「池」を表すとすればやはり
      「生」は「牛一」
といえそうです。
 この「安藤」は重要ですが、実態面は別として表記が二つあり「安藤」「安東」です。テキスト人名
録では一人の「安藤」は「安藤伊賀守」で「美濃本巣郡北方城主」ですが「安東」については

   『安東愛季  秋田(秋田市)城主。・・・・下国安東・・・』

 と書かれており〈信長公記〉本文中では
        「阿喜多の屋形、下国方より御音信。」 「下国方へ御返書」
という文例で出てくる、「下国」が安東の属性化されて理解されています。つまり、これは一表記、一人
格でとらえることにしょうという合意があるかのような解説となっています。これはおかしく

    『安伊賀守陣所へ信長御出候て、今度の御礼仰せられ』〈信長公記〉

 というように、安藤伊賀守と同じゾーンでの別表記となっていますので、あぶり出しと捉えるべきもの
で、要は一人に二つの表記があるわけです。この「下国」の登場する場面が重要になってくるのでは
ないかと思われます。次の下国は脚注では人名とされています。

 ★★『出羽大宝寺より・・・御鷹・・進上。阿喜多の屋形、下国方より御音信。御取次、●神藤右衛
   門。 黄鷹五モト、生白鳥三つ、・・・・巣鷹一つ・・・。
  下国方へ返信・・・黄金枚、は使の小野木と申す者に下さる由なり。
  ・・・・森乱。・・・作北野藤四郎・・・・作しのぎ藤四郎・・・・』〈信長公記〉

 「出羽大宝寺」については、脚注には「出羽大宝寺城(鶴岡市所在)主の大宝寺氏(武藤氏)。」
とされており、「鶴岡」「武藤」が出てきます。これは著者にも意識があり、そのように表示しなかったと
いってよいものでしょう。鶴岡は「鶴」(青木鶴の鶴)があり、「岡」は「崗」となれば高さも出てきます。
「武藤」には次のように

     『武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門・・・・・・大津・・・摂津国(つのくに)中嶋・・』〈信長公記〉

 太字の孤立的な表記があり、「五」は「丹羽五郎左衛門」の「五」でもありますが、彦五郎の「五」でも
あります。セットの「肥田」も孤立表記で「肥田」は「飛騨」を連想し「彦左衛門」は高木文書の高木貞久
の名前です。あとに続いている「大津」「津」は、伊丹布陣表の高槻ゾーンに飛騨と彦と五を持ち込もう
とする魂胆があるのでしょう。
 鷹がたくさんあり「高」が想起され白鷺(白鳥)もでてきました。これは鶴の白でもあります。
人名が二人出ています。小野木は〈武功夜話〉では「小野木清兵衛」で「武藤清左衛門」とともに出て
きます。大宝寺氏の「武藤」が「清」を通じて「小野木」に懸かっているのかもしれません。つまり中川
重清、清秀の清ですから高山関連です。
 ●の人物はテキストでは「しんどう」と読ませていますが不詳の人物です。「かみ」藤右衛門とも読め
るでしょう。佐脇藤右衛門という人もいますから。もう一つ
 「しんどう」と読む場合は登場回数がかなりある「進藤山城守」が想起されます。信楽(シタラ)口で
        「丸岡民部少輔・青木玄番允・多羅尾彦一」〈信長公記〉
などと出ています。青木は既述ですが、多羅尾は甲賀の多羅尾で「多羅尾右近」という一回限りの
表記があり、丸岡民部少輔はテキストでは何も書かれていませんが〈奥の細道〉
        「丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又金澤の北枝といふもの・・・・」
 となっている「丸岡」と関係します。芭蕉はここは永平寺のあるあたりだから「松岡」というべきを「霞
ヶ城」といわれる坂井市の「丸岡」をもってきています。太田牛一はこの「丸岡」を意識していたので
「白井民部丞」「白井民部少輔」の「白井」と同じ名前にしたのでしょう。またここの「北枝」も油断のな
らない登場でこの人は
    「立花氏、小松の人、金沢に移って研刀を業とし、通称研屋源四郎」〈芭蕉全句〉
 で〈山中問答〉という刊行物もある人のようです。「研屋源四郎」などというのは松永が献上した「脇指」
の製作者「薬研(やげん)藤四郎」に似ている名前を付けています。先ほどの★★の一文に二人の
「藤四郎」が出ているのは、高山の流れのあとですので注意といったのかもしれません。まあ「進藤
源四郎」という赤穂浪士の中には入っていない人物の物語がありますが、「北枝」はそれと同じ名前
を付けて高山右近ー神藤ー進藤ー丸岡などのことを示唆したのかもしれません。他にそんな変な例
があればの話しですが。
 松永弾正父子は最初降ったときは
   「赤松家の重代吉元小虎といふ名剣を公方義昭公へ献じけり。」〈三河後風土記〉
となつています。赤松に関係がある人のようです。

この進藤は「近江六角の将」と考証されていますがこういう丸岡のような人物と登場してくる、「山城」
「八幡」に関係している、というので一応は高山右近に該当しそうでもあります。●はこの「進藤」とあ
ぶり出しがされていると思いますので、ここは「神藤 右衛門」と思いますが、「神」という字と「藤」と
いう字をくっ付けたり、離したりして、まどわせていると思います。「藤」は例えば「藤五郎」というのは
「高山右近」に宛てられるかどうか問題になってきますが、「神」もそういうことがありうるかもしれません。
 高山右近はキリスト教ですから、今でいえば、「神」という語とキリスト教は不可分ですので当時、
 「天帝主様(ルビ=ゼウス)」(武功夜話)のことを神と読んでいたのなら高山右近の属性ともいえま
すが、いまの段階ではそこから高山とは結べません。しかし、この●における、神と藤とのイタズラ
は高山右近に「神」と「藤」は意識させていると思います。伊丹布陣表の記事で

   『高山右近・・・・・又・・・家老の者人に金子四枚・・拝領。』〈信長公記〉
 
が出てきます。家老二人がわからないので探さなければ恰好が付かないというので、伊丹布陣表、
高槻で出てきた「大津伝十郎」と「牧長兵衛」のことを指すのかもしれないとも思ってみますが、これ
は引き当てがすまないとなんともいえません。これは高山右近自身のことかも知れない、つまり取次
ぎの●を「神藤 右衛門」と「神 藤右衛門」とに分けるようにヒントを与えたといえるのかもしれません。
 また「小野木」がでてきましたから、「進(藤)山城守」と「小野木」が家老といえるのかというのも
あるのかもしれません。これなら外戚でもありうる大物ともいえるわけです。しかし「小野木」は苗字だ
け一回限りの登場で使いをしただけで黄金弐枚を貰うという珍妙な出方をしています。〈甫庵信長記〉
もあほらしくなったのかこれは出ていません。
 「小野木」は、「小谷」=「大谷」の例からいうと、「大野木」になるので油断がならないと思います。
大野木は山田村に大野木城があり、安食村などとならんで出てくる、蛇池のところで二度登場する
村の名前です。

   『比良・・・・安食村福徳郷・・・・比良より大野木村・・・・・
   比良の郷・大野木村・■高田五郷・安食村・味鏡村百姓共・・・・・』〈信長公記〉

の大野木です。ここで■が「不詳」とされていますが、やはり入れ替えないとつかめない感じがします。
上に「福徳郷」が浮いていますから
   「比良の郷・福徳の郷・大野木村・安食村・味鏡村・■高田五郷百姓共・・・」
 となるのでしょう。太田牛一は「高田」「高野「竹田」「武田」などに繋がる「高」の名前を本拠の村に
付していたといえます。高田という表記の人物はないようですが、それがあるのと同じ効果を生じてい
るものです。「高野藤蔵」という孤立表記も「藤」は「高」に結べるようです。なお味鏡(アヂマ)村と安
食村を併記すると
      味間村
      味木村
で「真(間)木村」などがでてきそうです。つまり「鏡」のカタカナルビ「マ」はいたずらがありそうです。
 「小野木」氏は、関ケ原でも出てくる、また「大野木土佐守」という表記も姉川でてくる、大野木土佐
守などは地名を名前にしたような感じです。太田牛一の本拠から採られた名前だからが太田和泉が
乗っかったりするのかもしれません。

「弐」という字で高山右近家老のくだりと、●神藤、小野木の「下国」のくだりが、一瞬繋がりましたが
 ここで一つの結論をいえば
     「高山右近」は「下国」の「
がトレードマークであるというのがいいたいことです。「下」といえば反射的に「上」もそうなりますが、
ここでは★★の一節が高山色濃厚で、高山と「下」が抱き合わせにされている、つまり「上、下」が高
山の属性化しているという感じということで通り過ぎたいと思います。あとでも出てくることなのでこれが
切り口なのか決定打なのか、今の段階では「神藤右衛門」などの表記の役割がつかめていないと
いうことです。
いま安藤大将と出てきた「田宮」から横道に入ってきましたがもとに戻ります。

 つぎの「甲山」は「林甲兵衛」が「林兵衛」に変換されて「」が打ち出されている、芭蕉も小松
の「かぶと」は「甲」を利用しているので太田神社のところで「」を出したのかもしれません。
 「安斎」も「安西」が出て「福富」が炙りだされ「物取新五」を意味付けされたりしています。その次が
        熊沢
です。そういう二字のならびの中にある「熊沢」ですから、これが何にも利用されないことは考えにくい
のです。
  湯浅常山はここの熊沢を解説していたのではないか、表記の遊びをやりながら、いろんなことを
を述べていく、この「熊沢」も、元があったといえます。次の文は高山右近色が打ち出されているので
はないかということは、〈先稿〉終わりの「信長記補記」(〈川角太閤記〉)に「高山南の坊(右近)」が出
てきたことから、推察したものです。

再掲
   『去程に、丹波国桑田郡穴太村のうち、長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前守
   与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。・・・角鷹二連求め・・・・』〈信長公記〉

さきほど「巣鷹」もありましたように 「角鷹」というのは、「角高」なので、高山色であり、また「赤沢」は
「明沢」なので、明智色ということですが、結果から見て「長谷」、「加賀守」、「内藤」の高山色、「丹波」
「桑田」、「備前」、「丹羽」の明智色の首巻の、この一節だから、目のつけどころでもあります。
 「角鷹」は「熊鷹」でもあり、「熊沢」は「熊武」「角武」にも変換できます。武井の中の高山右近を
あらわすものとして、湯浅常山は
      「熊沢蕃山」
から高山右近を語ろうとしているかのようです。
 
(5)熊沢
常山は熊沢蕃山の長い略伝を残しています。

  『池田の家にて政を執り、四海にほまれ高き熊沢次郎八伯繼了介(りようかい)は本姓野尻なり。加藤嘉明
  の士野尻藤兵衛一利が子にて、外大父(ははかたのおほじ))熊沢半右衛門守久養うて嗣となす。守久
  初めは喜三郎といふ。喜三郎父を平三郎とて尾張の人なり。・・・』〈常山奇談〉

で「野尻一利(のじりかずとし)」という見慣れない姓の人の子だから、まあ何のこともないとなって
しまいますが、太田牛一はチャンと「野尻清介」という人物を用意しています。完全なる一匹狼ですが
     『生駒外記・野尻清介』〈信長公記〉
で生駒と連記で出てきます。「生駒」は「生駒市左衛門」「生駒三吉」が伊丹布陣表の高槻に出て
います。前稿で既述のとおり伊丹布陣表は高山ワールドともいえますが、その中の高槻に出るから
「生駒」意味有りといえます。この二人は能の地謡(ぢうたい)として出てきますから武士に関係が
ないといって無視されやすので注目されませんが表記だけ独り歩きさせると見えないものも見えて
きます。表記の一人歩きというのはどういうことか、例えば常山から話をひっぱってきますと次の細字
の又蔵、五右衛門のようなものです。

   『(森寺)政右衛門美濃の竹が鼻に居しころ木全(きまた)又蔵という士、ゆかり有て森寺がもと
    に居たり。
      又蔵が父(ちち)は五右衛門とて大剛の者なりしが・・・・・・・・・
    政右衛門又蔵に心を合わせ、同国高木何某(なにがし)討たん計りけり。又蔵竹が鼻の竹林
    にかくれ待ちしに、高木夜中に打ちすぎける処を走り出て唯一槍に突き殺し・・・・。』

この細字の又蔵と五右衛門は、普通の大きさの字の人名とは全く関係がないもので、一人歩きして
います。つまり又蔵といえば木村又蔵、五右衛門といえば石川五右衛門に決まっているわけです。
解説はいらないものですが、そうはいっても一応それを匂わす材料は用意されています。
    「木全(きまた)又蔵」は「木又又蔵」
でもありますから木村又蔵と一字違いのあぶり出しといえます。また、その父は丹羽五郎左衛門です。
 ここの細字の「五右衛門」は「五郎左衛門」からきていますので、太田かもしれないといえます。
〈信長公記〉に一匹狼の「石川長門守」という表記があり、これは長門守だから、太田和泉としても問題
はない、
     又蔵父→石川長門守→五右衛門
で、五右衛門は、石川を使用せざるをえない、石川五右衛門は、太田和泉であることが確実になり
そうです。そんなことはいえないといわれるのは当然予想されることですが、著者は、現にある程度
知られた名前を使って書いているのですから、著者に何らかの意図があったのは確実なことです。
 一方「長門守」は「長間寺」であることから「寺」を、つまりここの「森寺」を引き出したともいえます。 
 また森寺政右衛門が「森」と「政」と「右衛門」で太田和泉守(五郎左衛門)を指しているのでそこからも
五右衛門は太田和泉守とわかるともいえます。
 この文に、「池田の森寺」と「鼻」という字があり、池田の「鼻熊(鼻隈もある)」を想起させ、「熊」、「隈」
「高」から「角鷹」も出てきます。また、「竹」「竹」「竹」と三つも「竹」がでましたから、これは「高」でもあり、
殺された高木は「高山」といってよさそうです。またこの「又蔵」は
     「森」「政」のところにいて「竹が鼻の竹林」に隠れていて、高木を討った
のですから、もう「森」「池田」「武井」「高山」の関係者というこを示しており、「木全」を呼び出したという
役割があったともいえそうです。「木全」は〈信長公記〉だけにある表記です。
 常山のこの一節は、こういう人物が織りなす他愛ない話といえますが、常山はこれで

○「五右衛門」で「丹羽五郎左衛門」→太田和泉守であることを示している。
○又蔵は「五右衛門」の子息であることを示している。
○石川五右衛門は太田和泉守であることを示している。「大剛」は「大の五」。誰かが石川五右衛門
 を作り太田牛一をその役者に仕立てたものといっている。
○森寺政右衛門は森寺清兵衛という池田の家臣に乗っている太田牛一を指している。これにより
 常山は太田和泉と池田との特別な関係を話している。
○木全又蔵を他の語りに使う。(高山との関係)
○高木何某で高山を語ろうとしている、
(省略した部分「山の中」「山の上」「中へん」「中へん」も問題)

などのことをしたと思いますが、この場合「又蔵」、「五右衛門」のようなものが一人歩きしたので、いろ
んなことが判ってくるというのが重要です。この高木と五右衛門がむすびつきますと、化学反応が
起こって高山藤五郎というようなところまでいってしまうことがあります。なお熊沢半右衛門守久の「守
久」は〈武功夜話〉三輪氏(秀次)系図の正体不明の「越中守守久」かも知れず、常山は「高木筑後守
守久」を出してきており、ここの高木何某は高木守久としても、三輪氏の「越中守」ならば武井夕庵の
一族という関係となります。
事実関係をさぐろうとすると簡単に無視されてしまいそうなものですが表記を追っていくと別のものが
みえてくる、ということがいいたいことです。ここの「木全(きまた)又蔵」の「木全(きまた)」は〈信長公記〉
の「木全六郎三郎」の「木全」を受けているからここから延々とした話をしなければならなくになつていき
ます。

熊沢蕃山のところで出てきた「野尻」氏の前後〈信長公記〉の表記は次のようなものがあります。

  「たまの井(竜宮)」「三輪(三輪氏がある)」「小二郎」「張良」「松風(風は西風)」「大蔵新三」「とをる」
  「生駒外記」「野尻清介」「伊徳・高安」「大蔵二介」「彦三郎」「彦右衛門」「日吉孫一郎」「久二郎」
  「三蔵」「又二郎」「笛 伊藤宗十郎」「春一」「飛弾国司」「北畠」「畠山殿」「あしかり」など

まわりたいへんな表記に固められています。「二郎」は「小二郎」「又二郎」「久二郎」「二」と揃って
おり、「彦五郎」の「彦」や「弥」「孫」「吉」もあります。わかりにくいものでは例えば「大蔵」がありますが、
これは高山右近は「大蔵少輔」です(辞典)。
「伊徳・高安」も〈信長公記〉では二人になっていますがテキスト人名録では「威徳高安」と一人と
考証されていますから、そういう注釈をした人がいるわけで、太田牛一が操作したということをいって
いると思います。「伊徳」の「伊」は「山内猪(伊)右衛門一豊」がありますから「猪」と変換すればより
わかりやすい、「徳」は高山にからんで「徳庵」が出ますし「狩野永徳」の「徳」があり「狩野」は「イツキ」
と出てきました。「庵(安)」というのは親子を一つにしたものにもなります。
 「張良」は、桶狭間で「十祖百張良」〈甫庵信長記〉というのを出してきています。これは無理に
出してきたという感じのものですが、「張良」の形容が「十祖百」で、10×ですから「高」が多いと
いうものでしょう。しかし一番判りにくいのは「生駒」「野尻」の前にある
     「とをる」
 です。これは「高」など関係がないではないか、ということになりますが、太田牛一は「とをる」という
三字で多くを語ろうとしたと思われます。それは前後がどうしても意味ありげだからいえることです。
それを常山が察した、「熊沢蕃山」は野尻である、野尻が〈信長公記〉のここにある、つまり熊沢蕃山
の紹介の一節にこのことを反映させたのではないかと思います。「とをる」はテキスト脚注では
  『融。能楽の曲名。世阿弥作』
となっています。

(6)とをる
能の「融」には、「融」という元になった人物がいて、ネット記事「Wikipedia」によれば

   『源融(みなもとのとおる、822年〜895年)は嵯峨天皇の12男・・・別名河原左大臣。・・・・
   紫式部〈源氏物語〉の主人公で美男子の光源氏の実在モデルとされる。陸奥国塩釜の風景を
   模して作庭した六条河原院(現在の渉外成園)を造営したといい、世阿弥の能〈融〉の元となった。
   また別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清涼寺である。

   ●六条河原院の塩釜を模すための難波の海(大阪湾)の北(現在の尼崎市)のを汲んで
   運ばれたと伝えられる。そのため源融が汐を汲んだ故地としての伝承が残っており、尼崎の
   神社の祭神は源融である。・・・・・・・

   源融流嵯峨源氏
   嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み地方に下り武家となった融流嵯峨
   源氏である。
    その代表が攝津(大阪)の渡辺氏であり祖の源綱(みなもとのつな)は源融の孫の源仕の孫に
    に当たり母方の摂津国渡辺に住み、・・・渡辺氏は・・・滝口武者・・・瀬戸内の水軍の棟梁
   氏族と成る。
    渡辺綱の子あるいは孫の渡辺久は肥前国松浦郡の宇野御厨の荘官となり松浦久と名のり、
   松浦郡の地頭の松浦氏は九州の水軍松浦党の棟梁士族となる。・・・・』

 とあります。〈源氏物語〉の光源氏のモデルであるといわれる人で、世阿弥が採り上げたから、とくに
重要でしょう。紫式部は例によって生没年不詳で、それで世界の紫式部ですから、そのギャップたるや
日本の史家のよほどの頼りなさが示されているところです。紫式部より100年も前の源融でさえ、
822〜895は〈日本紀略〉というのではっきりしているのにどうしたことか、と思います。
世阿弥はまあ「融」は二人いますよというのを出したのではないかと思います。

  冷泉天皇(2年)〜★円天皇(16年)→花山天皇(2年)→一条天皇(24年)の三代(969〜1010)

の約40余年が紫式部の活躍のときにあたるのは間違いなさそうで、紫式部日記が一条天皇の終わり
の年に終わっている、式部がその年から14年あとくらいに亡くなっていそうだというのでも察せられます。
とにかく、紫式部は太安万侶の著書をみており、太田牛一は紫式部から真似ているのです。
○表記でみると、ネット記事の「源融」も、★円融天皇の「」も「融」で、表記上では「とおる」二人となる
 ので気になる、100年ほど前の「融」を書いたのなら小説でしかないが、★などの時代を書いたの
 なら史書といえるのではないか。
○紫は帝王、天子の色と聞いているから著者は自己顕示欲が強い人かもしれない
○日記風のものと物語の組み合わせがある、
○紫式部が太安万侶、太田牛一のようにペンネームであれば、正史に名前が載っているかもしれない
○紫式部と清少納言はたいへん親しかったはずだがそれらが出てきていない
○石山寺を使っている、地位が高い人かもしれない
などあれば一筋縄でいかないものがあるでしょう。その観点からみれば
  「いずれの御時にか、女房・更衣あまたさぶらひたまいけるなかにいとやんごとなききはには
  あらぬがすぐれてときめき給ふありけり。」(記憶による)
というのは誰か、というような読み方になりますが、やってみなければ、大損してしまうかもしれません。

 このネット記事から要の語句を拾い出しておきますと

   『嵯峨・・・・河原・・・・栖霞・・・・清涼寺・・・・・塩・・・・難波の海の北・・・・・塩・・・琴浦神社・・
   渡辺氏・・・・肥前松浦・・・・』 

 あたりになります。筆者はこういう記事でいま教わりましたが、太田牛一は、これ以上の知識は
すでに持っていたというのは論証の必要もないことです。ただ●の部分はかなり戦国の世のことも
踏まえていそうでもありますが、そうとすれば後世の人が太田和泉の躍動する尼崎近辺とここを結んだ
ということになりなお結構なことです。ネット記事によれば芭蕉〈奥の細道〉氣比神社で遊行の砂持ち
の話がありますが、この琴浦にも同じような話があります。
 
湯浅常山は「熊沢蕃山」の名前である了介を「りょうかい」と読ませていますが、この「了(りよう)」を
「とをる」と読ませて、世阿弥の「とをる」と関係づけ、熊沢-熊鷹(角鷹)を太田牛一が意識していたと
いうことをいおうとしたと思います。とうぜん野尻の「清介」の「介」も熊沢の「了介」の「介」ですから、それ
を補強できているといえます。
 「京」は高い丘という意味のようです。「京」という字は、(こういう言い方はないが)[京篇]+「小」
からなっています。「小」という縦三本が[京篇]を高く持ち上げている、建物のある丘を「小」が高くして
いるので高い丘となるということのようです。
 「亨(きょう)」という字は、「京篇」+「了」ですが、「りょう」とは読まないが「とおる」と読みます。蕃山
は、高い丘と「了」が結びついたこの字を想起したのではないかと思われます。京をなぜ持ち出した
かということですが、辞書で「とおる」で引くと出てくる「亨」の字は「了」が入っていても「京篇」だったら
「きょう」と読む、しかるに「京」の入った字は「りょう」になります。了介(りょうかい)は「了解」で、これは
「諒解(りょうかい)」です。すなわち「諒」の右の「京」は、「清涼」とかもあるように「りょう」と読ませる働き
があります。
湯浅常山はネット記事にある摂津の渡辺を出そうとしたと思います。そのため「了介」の「了」の字を
名前にもつ藤堂の有名人物
    「渡辺勘兵衛(をはる)」
を出してきて、長い一節を用意していますが、(をはる)のルビ入り、とルビなしの「了」を40余回だして
います。いやがおうでも目立つわけですが、熊沢の「了介」も、渡辺の「了(をわる)」も、常山ワールド
のなかの話ですから、熊沢了介の「了」を意識して出しているのがみえてきます。

芭蕉にこの辺を意識しての句があります。
     『明亭
     しきをにうつしけり嵯峨』〈芭蕉〉

 ネット記事の「嵯峨」はもう「竹」と結ばれており、また源融の「清涼殿」も織り込まれています。句の解釈は
「野明亭」への誉め言葉として絵に描きたくなるような嵯峨の竹の涼しさ、となるようですが、いろいろ
解釈があるようです。しかしその背景をもみなければならない句です。解説に
  「野明」というのははじめ奥西氏、のち坂井氏。黒田家の浪人・・・、野明の号は芭蕉によって
  与えられたもの。」
とあります。野は野尻清介の野を重ねているのでしょう。明は、明智の明で坂井、黒田を結ぼうとした
と読めるところです。「融」も「了」も「明らか」という意味はあるようですが、それは折り込んだかどうか
はわかりません。
この句の解説によれば「中七絵にうつしけり」の「けり」は「鳧」とすべきところを「梟」と間違っている
ということが芭蕉周辺で自覚されているようです。これは〈奥の細道〉で「鳧」という字のあるところと連動し
ているという意味でしょう。そうとるとこの字が出てくるところには「山中」「加賀」「越前」が背景で、
    『・・・書置・・・・書付・・・ 書捨』
があります。泉屋の菩提寺「全昌寺」や「大聖持(寺)」「うらの山」といった語句があるところです。
高山飛弾守の図書の「かく」が反映されていると思います。「かく」は「角」もあります。
〈信長公記〉首巻に
     『柴田内・・・うらの口・・・』
がありこれは「角ーー柴田」で、「高山飛弾守ー青木鶴ーー柴田」の組み合わせがありました。
もう一つ〈信長公記〉首巻に
     『(ツノ)田新   松浦亀介討とる。
      大脇虎蔵、かうべ平四郎 』
というのがありますが、これはネット記事「松浦」に関係がありそうです。すなわち「角」と「松浦」の組み
合わせが「虎」とか「頭かうべ」にもつながる、「」は高山の五であり、角鷹は「書く高」であり、「くまたか」
は「熊沢」へと行きそう、と常山も見ていると思います。常山は芭蕉よりかなりあとの人ですから芭蕉も
織り込んで話ができます。
 松浦の「亀介」は何かということも問題となります。またあとで亀が角と関係があるようになって出てき
そうですが、ここで常山と亀に触れておかないとこの松浦亀介が源融のネット記事と角とに関係が
ある、芭蕉の嵯峨の竹もそうだということが納得が得られないものとなってしまいます。
常山は「亀田大隅」という人物についてもかなりページを割いています。この人物は若い頃「幽霊
半の丞」という異名をとった剛勇の士ですが、塙団右衛門と一騎打ちをして討ち取ったという伝説で
有名な人物です。亀田の大隅(すみ)だから大(すみ)で「大角」と書けるし、隈(くま)もあるから
角(隈・熊)鷹もいけるでしょう。そういう「亀」が「越前丸岡の城」「岩槻の城攻め」で武功をたてる、
つまり、「霞ケ城」と「高槻」が、視野に入ってきます。
「霞」というのは源融のネット記事にある「栖霞」と関係はないとはいいきれません。岩槻も意味がある
と思います。「岩槻」も「高槻」と同じと芭蕉が云っていそうです

(7)高槻
高槻は高山右近の属性ですが、高槻の「槻」は「いつき」の木です。

   『今村掃部助・遠藤喜右衛門 {此頸を討ち取る・・・高言あり。}浅井雅楽助・
    浅井斎(イツキ)・狩野次郎右衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、』〈信長公記〉

 ここで「遠藤」と{竹}{久}と斎(ルビ=イツキ)が結び付きました。一方〈信長公記〉首巻の終わり
他愛ないところ次の一節で加賀守が出てきます。「岩槻」は「高槻」ではない、といわれるかもしれ
ませんが、岩槻は芭蕉の世界では高槻です。芭蕉は〈奥の細道〉「立(りう)石(しゃく)寺」のくだりで、
間違ったことをいっています。
    『・・・・岩に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし・・・・・』
これは入れ替えて
    「岩に山を重ねて巌とし・・・」
としなければならないところです。辞書によれば、「巌」というのは「厳+山」で、厳は「厳根(いわね)」
というような例があるとおり「いわ」とも読むわけです。
 石も「いわ」と読み、岩も「いわ」で、「厳」も「いわ」です。この文言の背景には、「石」に「山」を重ねて
「岩」になる(石+山=岩)というのが頭の中にはあり、「巌」は「厳(いわ)+山」=「石+山+山」で
けわしい、いわっぽい高い山を指すことになります。
 辞書をひけば「厳」は「厳島(いつくしま)」という例があるように「いつき」とも読むようです。岩槻と
いうと「いつき+いつき」ともなり、山篇つきの「巖」も「いわ」とも読むから「岩槻」は「巖槻」で摂津の
高槻を想起してもよいのでしょう。(厳島は常山でもでてくる)
 常山はもう一つ、亀田大隅を徳川秀忠と出してきます。『亀田大隅江戸の石垣を築きし事』の一節
です。
   『・・・浅野長晟・・・亀田大隅高綱を奉行とす。石垣成りて後崩るる事三度に及べり。台徳院殿
    (秀忠)打ち廻り御覧じて、何とて崩れしや、と仰せ有りしに、亀田謹んで其の事に候。・・・・』

 これが石垣崩れの話で安土城の石垣崩れの叙述を想起するということで書いていると思います。
 天正十年   
   『百々(どど)の橋より惣見寺へ・・・高山へ積み上げたる築垣を踏みくずし、石と人と一つになって
   くづれ落ちて死人もあり。手負いは数人員(かず)を知らず。』〈信長公記〉

 この高山は地名でもない人名でもない、索引に載らないやっかいな高山ですが、惣見寺はテキスト
脚注では妙心寺派ですから、高山の属性をいっているのかもしれません。「どど」も「土々」かも。
蔵(倉)という人も場所も出てきます。場所では安土城のところで出てきますが、ここの
     高山と百々と「土」
の関係は重要ではないかと思います。城の石垣は、亀田ほどのものがやって、将軍のお膝元で
こんなに崩れることはありえない、と思います。安土城も太田和泉が造営に関わったことがわかると、
こういうことは起こりえないというはずです。要は頼りなくみせる、という叙述手法がとられる、その
手法の説明になるものですが、織田信長の城の石垣が崩れるということが衝撃的なので常山が
二つを結べるよう布石したといえそうです。
 〈信長公記〉「角鷹」について、いろいろややこしい説明をして高山との関連をいってきましたが、
亀田大隅を使えば安土城の高山と結べるし、亀田大隅(すみ)は亀田大角(すみ)だから「角」は
「隅」で「亀」も結びついてくるということで簡単に説明できます。しかし亀田は事実そういう名前で
あったので「松浦亀介」の亀とは一緒にできないはずだ、という疑問は出てきそうです。しかし常山
の亀田大隅は細字で延々と書かれていることで操作の説明として書いたというのが見え見えですし、
父は溝口半左衛門だったと書いていますから溝口でもよく、また亀田の表記が二つあり、亀田と
亀田(ルビ=かめだ)が何回も出てくるということで目的的「亀」とみて使えばよいようです。
 亀田など有名人は、その必要があれば使えるということでもあるし、使う場面が出てきそうだという
予感がするというものでもあります。「角」は加藤清正旗下の飯田覚兵衛は飯田角兵衛もあります。
「福富平左衛門・丹羽覚左衛門」というセットがありましたが「丹羽角左衛門」になるということであれば
ボンヤリ高山と結びつく、伊丹布陣表には「福富平左衛門」が高槻で出てきたのでそのことを早くから
暗示していたということにもなるのでしょう。

 あと「源融」のネット記事にある「琴浦神社」というのは重要な場所のようですが、太田牛一は〈信長公
記〉に書いていないではないかという疑問が出てきます。琴浦神社に関してネット記事をみますと
地元ではさびれた神社ということで余り記事が出てきませんがいろいろ断片情報を組み合わせますと
太田和泉守の跡が濃厚に出て来るようです。
ネットではチャンと琴浦城(大物城)というのがあり建部氏というのも出ています。「建部」というのはテキスト
人名録では「部氏」となっています。まあ「竹」ですから夕庵の身内ということも考えられますが
建部というのは
      「建部紹智・大脇伝助」
というセットが出てきます。テキストでは相棒の「大脇伝助」は「塩屋伝助」であるとされています。しかし
塩屋伝助というのは〈信長公記〉の表記ですが、どこにも大脇は塩屋という記事はありません。これは
しかるべき文献に載っていたからそれを利用されたと思いますが源融のネット記事に汐の伝説がありま
からそれが「塩屋」という名前に使われたと思います。先に
大脇虎蔵が、かうべ平四郎、角田新五、松浦亀介と出てきましたが、これは大脇伝介の身内か同
一人といってもいいのでしょう。同一人のあぶり出しとも解すると大脇伝蔵にもなります。
加賀騒動の物語がありますが主役の大槻伝蔵という人物は、この〈信長公記〉の大脇伝蔵から
持ってきたのではないかと思います。つまり、
           大脇伝介
           大脇虎蔵
           (大脇伝蔵) →  大槻伝蔵
という感じですが、高槻の高山右近が前田家の本多、村井、奥村などの重臣と交錯する物語を作って
高山の前田での存在感をアピールしたといえると思います。まあ、大谷=小谷ですから
     大槻伝蔵→小(お)槻伝蔵→小(こ)槻伝蔵→高(こう)槻伝蔵→槻伝蔵
という感じで変形したのでしょう。
またこれは
  「とおる」の記事→「琴浦城」→建部(武部)→大脇伝介(塩屋伝介)→大脇虎蔵→角田新五
ということで大脇伝介が高山にからんでくることと表裏の関係にあります。大脇伝介のもとは
再掲  ( 熊沢蕃山のところで出てきた「野尻」氏の前後〈信長公記〉の表記)

  「たまの井(竜宮)」「三輪 ワキ小二郎」「張良」「ワキ新三」「松風(風は西風)」
  「ワキ新三」「とをる」「生駒外記」「野尻清介」「伊徳・高安」「大二介」「彦三郎」
  「彦右衛門」「日吉孫一郎」「久二郎」「三」「又二郎」「笛 伊藤宗十郎」「春一」「飛弾国司」
  「北畠」「畠山殿」・・・

にあると思われます。
高山右近は大蔵なので「蔵」をピックアップしますと四つ出てきますがそのうち二つの
   「ワキ新三」
が重要で、この「ワキ」=「脇」が「大脇伝介」の「脇」になったと考えられます。
大蔵二介の考証は「大蔵虎家」とされており、これが大脇虎蔵にもなるのでしょう。「三輪 小二郎」
にも「ワキ」がついており、高山に三輪氏がからむのかもしれません。いいたいことは高山右近が
人知れず登場してきている、ということです。〈甫庵太閤記〉の文禄二年の能の場面では
   「大蔵亀蔵・・・大蔵平蔵・・・大蔵平蔵・・・・大蔵亀蔵・・・大蔵亀蔵・・・大蔵平蔵・・・・
    大蔵平蔵・・・大蔵平蔵・・・・」
 が、「弥三郎」「深谷金蔵」「大蔵弥右衛門尉」「大蔵弥右衛門」「弥右衛門」「大蔵六」などの思わ
せぶりな名前の人物と役者として出てきます。これらも大槻伝蔵を生み出す過程にある表記といえ
ないこともないようです。高山右近には加賀騒動物語のような多くの挿話があり、予想外によく知られて
いたということができます。

 伊丹布陣表Aでは
        『●四角屋敷  氏家左京亮
        河原取出、稲葉彦六・芥川』

 がありました。「四角屋敷」についてはテキスト脚注に「不詳。」と書いてありますのですでに考察を
のべていますが、「河原取出」はなにもないから判っているということだと思います。つまり河原という
地名が尼崎にあるので掴めるというのかもしれません。
「河原取手」というのが唐突すぎますので、また「芥川」と「稲葉」とセットにされましたので、これは
意図ありとみるのがよいようです。河原取出=琴浦取手ではないのか、つまり「河原」とは武庫川の
河原であり、その辺が琴浦地方ではないのか、ということです。ここに陣していたのは「彦」の「六番
目」の人物ということであれば身内の武将ということになると思います。

    『高山右近、郡山へ参じて御礼・・・・当国芥川郡領知すべき旨、御朱印成し下されけり。』
                                                 〈甫庵信長記〉
 にあるように高山右近は芥川郡が属性ですから上の人名の「芥川」も一応右近の色ありといえます
ので彦六は高山彦五のあとの彦六というのでしょう。このあたり常山が熊沢蕃山を利用して述べてい
るようです。熊沢蕃山を「大和の郡山」に移し、「熊沢助右衛門{後に了介と号す}」を出したあとに
「稲葉一徹」をだしたりしています。渡辺勘兵衛了の最も有名な事績は増田長盛の居城「郡山」の城
明け渡しですが、常山はこまかく書いています。了介と了で血を通わせ「融」の記事の渡辺党などに
もつなげた常山の手腕はみるべきものがありそうですが、そういうのは肝心なわからないことが解って
くるという実績の積み重ねがいるのであと彦六が判明するのかというのが関心事になります。
●がわからないということは操作があるというのが明らかなのでここになぜ「氏家」がある
のかというのも併せて見当をつけてみるとよいと思います。そうでないと、本来同じ結論に達するはず
というのが表記の叙述法なので、それを明らかにできないことになります。 
伊丹布陣表の前後にも地名は多く、このあたり太田和泉守が荒木のことを心配して東奔西走した
ところです。琴浦神社も当然太田和泉守の足跡のあるところでしょう。ネット記事では源融は河原左
大臣です。この河原がここに使われたと思います。「源」「河原」は「とおる」関連で、芭蕉には「徹」
という人名も見られます、これは「高+とおる」です。
  「河原町・・・宮や・・・・・・・・・・薬・・・北枝・・・・・・薬・・・・・・・・・薬・・」
                                                〈曾良日記〉
 このように目で字追っていく読み方となるのでしょう。漢文で書かれていればもつと一字ごとに目に
付いてきます。「北枝」→「研屋」→「薬研」→「薬」と並べた意図はここにで出ているのかどうかですが、
   徹
が芭蕉に薬を渡していますので、これは医者であり、ひょっとしてこれが高山右近の暗示かもしれませ
ん。そらおかしい、とすぐなりますが、時空を越えて出てくることもあります。そうとすれば北枝も薬を打
ち出したということになるのでしょう。山中になぜ「薬師堂」〈曾良日記〉を出したのかというあとで引っ
掛かる問題に至るのがここの「とおる」と「薬」と高山関連語句の配列です。
 太田和泉守が医学者というのは忘れがちですが、〈信長公記〉で度々出てくる山中はいろんな面で
コダワリがあるのかもしれません。

 「とをる」は「通」もあります。これも太田和泉の属性語句のような感じで出てきます。

   『★姫路は西国へのり手寄(たよ)りなり。』〈信長公記〉

 という一文がありますが、ここの「通り」がちょっと納まりがわるい、「とおる」を意識して入れられているという
感じがします。この前に「高山節所」という語句があって、すぐ後には「姫地」(〈信長公記〉)という珍妙
な表記が出るのでこの文は惑わせようとするものと思います。テキスト脚注ではここは
    姫路は「往還路(街道)拠点。」
という訳になろうということです。これは「手寄(たよ)り」というのが「拠点」と訳され、まあ「頼りどころ」
という感じでその通りしょう。しかし、それならば「西国への通り道(往還路)手寄(たよ)りなり。」と
入れ替えた方がわかりやすいと思います。この「通り」は、行ったり来りする、往還(通う)の意味を
もたせる役割があるともいえますが、原文は入れ替えをさそうようにゴツゴツしている、注目させよう
としている、つまり、通りがなくても通じないことはないというのがいいたいところです。
ここは前後のつなぎ(省略)から姫路の構え(姫路城)のことをいっていると思います。★「姫路」に
脚注があり
   『姫路市。姫城は白鷺城ともいい、指定特別史跡。後出「姫」は宛て字。』
 となっています。突然姫路城、白鷺城というのが出てきています。「白鷺」というのが勢いで出てきた
ようなのは姫路の路は鷺に織り込まれているからだろうと考えられます。つまり姫路といえば白鷺城と同義と
もとれるほど密着した関係にあるといえます。
 結局★は姫路城のことであり、そのあとの文は、道と拠点の両方を云っている、つまり「道路」という
「道」と「西国の押さえの要所」というものが頭に入っていると思います。また姫路城の位置までも語って
いるというのであればもう一つの意味として、「姫路城は西国への通い道の近く」というようにも訳せる
と思います。
 姫路城は、白鷺城として、池田輝政の創建として語られるものですが太田和泉の拠点の一つでも
あります。池田三左衛門輝政は森長可や中川清秀を通してみても判るように太田和泉守の子と言って
もよい位置にいる存在であり、また竹中半兵衛、黒田官兵衛、後藤又兵衛らの名とともにある城です
から太田和泉思い入れの城といってもよい、城の造営などにも関係があったとみる方が自然です。
白鷺城の「鷺」というのは、姫路の「路」に「鳥」ですが、字引には「路」は「露」に通じ、白いの意味と
あります。全身が白く、雪客、白鳥、雪鷺などの当て字のある水鳥ですが、鶴の白と結びつけると
いう場合があれば
           「角」←かく→「鶴」
ということで高山引き出しもされるのかもしれません。
 太田和泉は自分を出しながら高山右近を道連れにして紹介ようとしているといえます。高山右近
は高岡城縄張りをしたということで知られていますが、姫路の城などは恰好の勉強材料になっている
と思います。 ★の一文は
     「・・路・・・・西・・・・・道・・・・・通・・・・寄・・」
という語句があり、路も「路次」がよく出てくる、「通」も意味ありげに出てくるなどあり太田和泉の属性
登録がされているようなところがあります。
   「手」
というのも無視できません。〈信長公記〉首巻、森三左衛門登場の場面

   『(卅一)軍終わり、頸の実検して、信長御陣所大良口へ人数を出し候。則、大良より三十町
   ばかり懸出し、▼および河原にて取合ひ、足軽合戦候て
       山口取手介、討死、
       土方彦三郎、討死、
       森三左衛門、千石又一に渡し合ひ・・・・』〈信長公記〉

 この取手取出に懸かっています。なぜ「砦」を使わず「取出」か、なぜ「取手」を出してきたのか、
という疑問は残りますが、取出が出てくるときはその名前などに注意というようなこともあると思います。
「山口取手介」は、「山口又二郎」〈甫庵信長記〉という一匹狼の表記もあるので、著者が乗り出して
きたとみておけばよい、「千石又一」の意味は「又」の一番上の人、とみると、森三左衛門の重要さ
がわかってくると思います。すると「土方彦三郎」は明智光秀とみるのもいいかもしれない、ということ
にもなります。山鹿素行がこれは下方弥三郎の間違いといったのも案外でたらめといいにくいもの
があります。その場合、「下」と「土」の変換が可能であることがわかっておれば人名探索のヒントが
いれられていると感じるはずです。
万見の「千千代」と「仙千代」があるので「千石」は「仙石」でもよいといっているのは感得できるところ
ですが、天正六年
   『寅八月五日、奥州津軽の南部宮内少輔鷹五足進上。
   『寅八月十日に、万見仙千代所へ南部めし寄せられ・・・・』〈信長公記〉

という「南部」に挟まれた「万見仙千代」は高山右近の気配ありといっていると思います。万見仙千代
所となると森蘭丸の管轄の所となるのでしょう。ややこしいというわけではなく重要人物表記の
共用があるだけです。相撲の場面

   『永田刑部少輔・阿閉孫五郎・・・・初めには堀久太郎・蒲生忠三郎・万見仙千代・布施藤九郎・
   後藤喜三郎
とられ候て、後に刑部少輔・阿閉暫し手相(てあひ)にてくまれ候。・・』〈信長公記〉

 では、太字は次世代三兄弟を打ち出したとみてよく森乱丸の積りでしょう。初めの「堀久太郎」は
前の二人を受けたということで初めにもってきたといえます。この場合、高山右近とみてよくここの
「手相」の脚注は「適当な組み合わせて」となっています。これは
        「適当に組み合わせて」と「適当な組み合わせで」
の両義あり、操作された一文であることをいうものでしょう。逆に言えば永田刑部少輔、阿閉孫五郎は
高山関連でみることも必要になってきます。「布施藤九郎」の「九郎」が漠然としているので「蒲生」
を挟んだのは絶妙でしょう。
千石又一の「千」と「一」というのは、桶狭間で「千が一」というのが出ましたのでそれがあるのかもし
れません。二つの数字に挟まれた「石」と「又」はいろんな意味で重要なのでしょう。「石」は「いわ」
で巌の原型ですから、ここも高山の匂いが出されたところと思われます。太田和泉守の特別出演の
ような感じの「山口取手介」は「山口飛弾守(飛騨守)」という表記もよびだすから、飛騨守となると
高山が想起されるということになります。これは

  A 『山口飛守、長谷川橋介、★河尻貝、彼等三人・・・・』〈甫庵信長記〉

で出てきました。「飛騨」の「騨」は〈信長公記〉では「弾」です。この人名羅列の意味は二つあると
思います、一つは本稿はじめに出ました〈信長公記〉人名索引の「木鶴」など四表記の「青」の
次にあった「貝」についてのことです。ここ★では名前のようですが〈信長公記〉では

  B 『●川尻・貝に仰せ付けられ・・・越前・・・・柴田・・・・』

というように別人になっているものでこれについては既述です。一方、飛弾守が出てきた場面に

  C 『高山飛弾守・・・伊丹・・・・・・・柴田・・・北国・・・山崎・・八幡社・・・武田佐吉』

がありました。●の川尻は肥前守で夕庵の肥後守と同じことです。まあ「尻」というのは特殊なもので
熊沢蕃山の「野尻」にもつながるのでしょう。A、B、Cから「飛騨守」「柴田」を媒体として青木鶴は青貝
と結びつくわけです。
柴田というのは「柴田日向守」とか「柴田三左衛門」とかの表記もありました。この場合も「二字の
「柴田」です。「柴田角内」にも行きかねません。そうすると高山にからんできます。一匹狼の表記に
    「安見右近」
という人物が出てきます。

 『・・■摂津(ルビ=つ)国(ルビ=のくに)国・・・・片野(交野)の安見右近伊丹・塩河・茨木・高槻
、何れも城々堅固に相抱え・・・・』〈信長公記〉

 実際はともかく表記上は伊丹、塩河・茨木・高槻に接近し出てくる人物です。塩河は「塩川伯耆
守」という人名もあり、そこに森乱丸と中西権兵衛尉が使い行きましたが、この場合は地名に利用
されています。この「安見」が「右近」という名前であることが重要です。安見の「安」は夕庵の「安」、
「見」は貝野が見野であったように「貝」です。
安貝は右近ですから、青も右近に、木鶴も右近に接近というようになるのでしょう。考証では安見右近は

   『安見直政  高屋城畠山高政・・・を追放し、弟昭高を城主にした。・・・安見(やすみ)氏
    は河内国の豪族で畠山氏の重臣。』(テキスト人名録)

となっており、「右近」はどこからも出てこないようです。しかし直政と畠山を使えるようにしています。
太田牛一は「安見氏」の存在は記録し、右近という名前を勝手につけてこの人物を高山ー青木をつな
げる操作に使ったといえると思います。
 「青木鶴」の「鶴」(かく)は次の文の(かく)「角」につながる、「角かく」(鶴)は「赤沢加賀守」を通じて
「長谷」につながるのでしょう。再掲

 『去程に、丹波国桑田郡穴太村のうち、長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前守
    与力なり。一段の鷹数奇(すき)なり。・・・角鷹二連求め・・・・』〈信長公記〉

それは「加賀守」にも行き着きそうですが「加賀」は「賀加」もあります。

  『賀加・越前・越中三ケ国・・・』〈信長公記〉

とありますようにこの三ケ国はセットで捉えてみられています。北国は「柴田勝家」の属性ですが、
また二字の「柴田」の属性でもあります。テキスト人名注では、ある二ヶ所の「柴田」について
  「勝家とも断定しかねる。」
と書かれており、今でもそういうものがあることがいわれているのです。Bの越前も高山右近の属性
です。越中が書いてないのですが、これも活動の中心地といえます。
 表記では前・中・後も同じ役目を果たすものとされます。上の内藤備前守は備中守、備後守と
あってもほぼおなじような意味として機能します。ただ表記は違うから何が打ち出されているのか、
をみなければならないと思います。越前・越中・越後というのもセットになるので越後も同じような
ことになりますが、越後は一回だけ「越後より長尾(ながお)喜平次を呼び越し・・」というのがあるだけ
です。一応上杉の領域のことだからと軽視してしまいますが、そうはいきません。「越後」という人名
が越前、越中を引き出す場合があるかもしれないわけです。そうはいってもそれはどれくらいあるのか
というのがすぐにはわからないのが今の現状です。つまり「賀加」は「加賀」の索引に入らない、「山中」
の索引には「中山」が入らない、「越後守」というのは、大抵中間にあるから(すなわちエ行にないから)
カウントもできないし、そこからも直感できるようになっていれば、その機会を失うようなことになります。
索引のない史書は論外ですが索引のあるものでもこうなります。表記の一人歩きがある以上これでは
どうにもならないことです。

 (8)「つのくに」(摂津国)
 「高槻」は摂津国にありますが「摂津国」を「つのくに」と読ませているのは意味があるのかもしれ
ません。表記の大修正ですから問題です。
〈信長公記〉で9つの「摂津国」がありますが、そのうち3つにルビが付いていてルビは全部「摂津」
二文字の真ん中に「つ」が入っています。一応これは〈万葉集〉に「摂津(ルビ=つ)」というのがありま
すから、それをもってきたといえばそれまでです。しかし

@〈万葉集〉を継承しているという証拠があるのは重要なことで、解釈の参考にしなければならないと
いう面はあるはずです。
 〈万葉集〉で摂津国(つのくに)が出てくるところ、「高安王」とか「史生丈部竜麻呂(ししやうはせ
つかべのたつまろ)というような人名が出てきますから「高」「安」「丈」「竜」「史」「はせつかべ」なども
読み方のヒントとして役立つのかもしれないわけです。「はせ(長谷)つ(津)かべ(下部)」ともなると
高山右近の属性のようなものとなりますが、それはないよ、というのも合っているでしょうが、とにかく
太田和泉守はルビをつけないのと(つのくに)のルビを付けているのがあるから、〈万葉集〉のここを
みているのは歴史的事実です。著述の構想をするのに取り入れられた可能性はあります。また、

A「真中(まんなか)」という場合の「真」は、「中」の接頭語で、「中」を強調するものだから、そのように
「摂」を軽く考えて、「津」を強調したかったのだろう、ということも考えられます。これは、なぜ「津」を
強く打ち出すのかを考えねばならないことです。これは一応わからないことでもなく、一つは
      「角」
の強調がありそうです。登場回数四回の
   「角田(ルビ=つのだ)新五」「角(ルビ=ツノ)田新五」
があります(角田という二字もある)から、それを想起させる「ツノ国」「つの国」「津国「角国」
で高山=角をみるのもひとついえることです。
「摂」が接頭語という例なんかは聞いたことがないといわれるでしょうが、適当な言葉が見あたらない
だけのことで「摂取」というのは「取る」という意味ですから「取る取る」とダブっている感じがするという
ようなことです。

B〈信長公記〉には「摂州」というのが九つあり、摂津国を摂州とみているのは間違いないようです。
テキスト脚注では兵庫県の「和田山町竹田」のところで出てきた「山口洲」の注が「岩(洲)」と
なっています。洲=津で、まあ「摂洲(津)の国」という意識があるのは確実ですから、「摂津国」は
「摂洲(といってもよい)摂津国」ということを表現しています。そういう中で(津)を機械的でない意味を
もった津としてだしてきたのが「摂洲」の効用といえます。
したがって、布陣表、高山ワールド摂津国から「津」が出てくる
「山口岩洲」=山口岩(津)」というように「岩」「洲」から、つまり実態から「津」が出てくる
「摂洲」からも「津」が浮かびあがてくる
というのとがあり、その「津」がよほど重要なのであろうと思います。
     角鷹=高山右近=「角(つの)田新五」、
を結びつけようとしていることはいいましたが、もうひとつ高山ワールドの伊丹布陣表のうちの高槻の国
に出てきた次の●の人物が大津であることがあります。
伊丹布陣表再掲

        〈信長公記〉                 〈甫庵信長記
 一、高槻の城御番手御人数、                 高槻の城に、
               ●大津伝十郎・                ●大津伝十郎
                牧村長兵衛・                  牧村長兵衛
                生駒市左衛門・                 生駒市左衛門
                生駒三吉・                    同三吉、
                湯浅甚介・                    湯浅甚介

 「大津」というのは 「大津」ーー「津」ーー「小津」
             「上津」ーー「中津」ーー「下津」
 というもののなかにある一つですが、当面この大津伝十郎が誰なのかということが必要というのでしょう。
太田牛一の世界ではマイナーとかいうものがなくどれも重要な役割を持って出てきます。5人とも
比定していかなければ高山右近もわからないようになっていると思います。

Cもう一つ重要なことは太田牛一はそれまでの古典を解釈して自分が掴んだことを後世に残していこう
いうものがあるのが世界でもまたとない史家といえるところです。それを戦国時代という重要なときに
受け止めて伝えたというのですから重要度でも希有な存在といえます。
ここの「山口岩津」から津=洲というのが出てきました。つまり「津」というのは単に「湊」というような
ものではなく一定の広がりをもった国といってもよいということをいっている、つまり津の国というのは
別にあるといっているのではないか、と思います。
太田牛一の邪馬台国はすでに紹介しています
   「間」=門+日
という絶妙のあぶり出しがありました。太田和泉は〈魏志倭人伝〉の「投馬国」を「長門国」といつている
と思います。

  A 太田牛一は「長門守=長間寺」という落書きのようなものを残しています。
                 長 門 守           
             長   × − −
             間   − ○ −
             寺   − ー △
 ○のところが「門間(とま)」になります。長門の「と」と間の「ま」ですが、「と」は「とう」でもあります。
「登山」となれば「と」ですが「登場」となれば「とう」になります。〈辞書〉によれば、とくに
     「門(もん)」は「問(もん)」
である関係からか「問う(とう)」という意味が共用されているということですから、読みも「とう」で「投間」
とあててもよいことにもなります。
「ま」は馬、間、真、摩などがありますが〈信長公記〉では馬が圧倒的に多く「とう馬」にもなります。
とにかく「投馬」が出てきますが〈魏志倭人伝〉では「投馬国」はルビがないので「とま」でもよければ
それに越したことはありませんが、まあ、「投」は「とう」でしょうから、太田牛一の「とうま」を出そうとする
意思が読めるか、というのも見る必要があるのかもしれません。
△は「守(もり)寺」を構成しますが、先ほど石川の五右衛門を引き出した森寺政右衛門は太田牛一と
いえますが森(守)寺政右衛門、森森寺政右衛門となって、一層それらしくなります。

  B、促音の場合、摂津を「せつつ」と書くののと「せっつ」と書くのと二通りありますが、促音の場合
「投馬」は「とゥま」というのであれば「TouMA」ですから「TUMA」になります。「津馬」です。
「投馬」=「津馬」であれば「津の国」「角(つの)国」「長門守」の「門(かど)」=「角」につながり、
長門国=投馬国となります。

  C、山口をことさら出してきていて、太田牛一しか考えられない、いたずらっぽい
      山口取手介と、地名、山口岩津(洲)
 が出ました。摂津国という場合の「摂る」は「る」で「篇」です。「取手介」の取手は「摂」の積りで
出してきたと思われます。取手=摂は山口と結びつき、山口攝(津)介=石川長門守ということですから、
山口を出してきたことは長門守を意識していたといえます。
逆に摂津国といえば取手津国ということになり、取手注意といっています。実際はまちがって取手、
取出を使っていますから、これはに取+手(篇)+出は、取「拙」となるのでしょう。これは砦とすべき
であって、そういうのは、類書に批判があるようです。

  D、これが決定打ですが太田牛一は
     「東馬二郎」〈信長公記〉
 を用意しています。つまり「投馬」の二郎を意識したといえます。相撲の場面だから軽視されますが
対戦相手がいるから、関連が掴みやすいともいえます。ここの相撲行事のくだりは余りに多くを語って
いるので省略するのは惜しいところで、ごく周辺だけでは下のとおり「づかう」が相手です。

    『 ・・・・・
     三番打  長光    三番打   地孫次
     三番打  づかう   三番打   東馬二郎
     ・・・・・・。・・・永田刑部少輔・阿閉孫五郎・・・・・堀久太郎・・・万見仙千代・・・・
     東馬二郎たいとう・づかう・妙仁・・・・・・』〈信長公記〉

 「づかう」は「図工(絵図工芸)」か、また「頭(づ)」と「かうべ平四郎」(角田新五らと出てきた)の
「かう(神)」の合成か、まだ読んでいないところからでてくるのか、よくわかりませんが、もう一つ「づこう
という表記でも出てきます。

    『東馬二郎・たいとう・日野長光・・・平蔵・・・・・づこう・・青地孫二郎・・・・太田平左衛門・・・』
                                                   〈信長公記〉
があります。「図工」に近づいてきました。太田牛一は「づかう」は現代式の「づこう」もあるはずと知って
いたようです。高山図工についてはまだ触れていませんが「等伯」からもってこれます。またここの
「平蔵」は〈甫庵太閤記〉に長谷川平蔵が出てきますのでそれも勘定に入っていそうです。「づこう」も
あるとすれば「かう」にも意味があり、あとで出てくるかもしれません。東馬二郎は「青地」の「青」とも
接近し、「たいとう」(帯刀)が、下にきています。「東馬」の「二郎」は青地と違って「二郎」だけですので
「二」の意味があるのかもしれません。いずれにしても
   東馬==太田(長門守)・高山(津の国)=投馬
になってきますので長門は津の国で投馬国といえると思います。なお五右衛門とその子又蔵が出て
きた常山の一節は木全又蔵が活躍しましたが、〈信長公記〉にも「角田新五」「松浦亀介」出てきたところで

   『山口又次郎  木全(きまた)六郎三郎討取る。』〈信長公記〉

 があり、山口の又次郎=太田牛一=(石川長門守)=「五右衛門」が、「木全(きまた)」に絡んできましたので
常山の五右衛門の一節は邪馬台国の「投馬国」を意識しているともいえると思います。

D最後に、「摂津国」(つのくに)としたのは「津」の重視にあると思いますが、織田一族の人が津田の
表記に変えられているのも、それにあたるのかどうかです。これについては割愛します。

(9)岩見重太郎
石川五右衛門を捕らえたのは岩見重太郎ですが、岩は高山、見は貝、重太郎は重友の重というようになると、これは
太田牛一もありますが高山右近も該当するのかもしれません。
 岩見重太郎の岩見は〈万葉集〉の石見を意識していると思われます。〈万葉集〉を著書に生かしたい
というものがある、また自分の古典読解の成果を紹介しておいた方がよいというようなものもある、岩見
重太郎伝説は、太田和泉周辺を語り、太田和泉守が長門国についても述べているということを示そう
としたものともいえます。岩見重太郎には、天の橋立があり、これは「丹後」とか「宮津」とかがすぐ
想起されるところですが、「丹後」は「丹波丹後守」という表記の人物などが出ますし、「丹波」までも拡大できる
できるとすれば「長谷川丹波守」もあります。母方だったと思いますが「小早川」家中の「薄田」という
人の名前をとって大阪城へ入城したということです。〈武功夜話〉では「薄田伝兵衛(古継)」が早くから
出てきているので実態は太田和泉守がよく知っていたこの人物であろうと思われます。入城はしましたが
大坂陣で女郎買いに行って留守に蜂須賀に攻められて砦を失い大笑いの対象になってしまいました
がこういうのは話の材料にされただけのことで、ヘマをした本人として太田和泉を登場させた話題として
ということが重要か思われます。この話が岩見重太郎、太田牛一を表した話となりますが、(石川)五右衛門
は又蔵の親だからこれを捕まえる役だから岩見重太郎はウエイトとして高山右近に近づきそうだといえま
す。それは岩見ーー大津の線からもから妥当のようです。
        「角田石見守」〈甫庵信長記〉
という表記もありますから、大津が出てきても柿本人麻呂が出てきてもおかしくはない、太田牛一に
自分の見解も伝えておこうというもう一つの側面があるといえるものです。
 太田和泉守は長門国(守)にからんで〈万葉集〉をどう読んだかという面ですが、岩見を
         近江大津の石見(潟の石見)、と
         高角山(高津の山かもしれない)の柿本人麻呂の歌のある地の石見(海のいわみ)
の二つがあるということになるのではないかと思います。地名が二つあるのはわかりにくいではないか
といわれるでしょうが、太田和泉守はあちこちの地名を利用して一本の糸でつなげて語るというやり方
をしていると思います。例えば
中嶋(島)は
       「摂津国(ルビ=つのくに)中嶋(なかじま)」、
       尾張(桶狭間)の「中嶋」、
       近江大谷あたりの「中嶋」、
       真木嶋あたりの「中嶋」
などがあり、
       地元の於久地は「中嶋豊後守」
の中嶋がある、そこにあったのだから仕方がないではないかといいたいと思いますが、広く取ったり狭く
取ったりすれば中嶋はかならずしも使わなくても位置関係はつかめるはずです。意識して中嶋が使
われたという方が合っていそうです。それぞれが人物、地名など意味づけていくようにされてる、それで
著者の意向をいままでも探れてきたわけです。岩見重太郎で「いわみ」を取り上げた、それが長門守
とか高山にたどりついた
  
   角鷹ーー角高ーー高角山ー高山ー(摂)津の国
                     角山ー(高)津の山
から「津」が出てきて大津・・・・大津皇子・・・・柿本人麻呂
                   大津郡・・・・・長門
を考えますと
     @投馬国は長門国であり東西の邪馬台国の入口、つまり山(耶馬)口、殷賑を極める長門なら
      人麻呂の足跡もありそう。
     A大津皇子は柿本人麻呂でありそう。
     B伝承上の石見と隠された石見を示した(〈信長公記〉にある「関口石見」という表記の「関口」
      は下関の「関」と思われる。)      
といえると思います。Bは高津の山のある地は長門国ではないかというのがいいたいところのことです
が、それは、石見国二つというややこしいことになるので、いいたくないことでもあります。
 「石見」とか「石見(いわみ)」とかいうように似た表記を使って述べられると、また細字や注を使って述
べられたりすると、一つのものとて捉えてしまいやすい、もう一つのものが炙りだされているのが見えな
い場合があります。いろんなケースがあり、例えば鎌倉の大仏の記録は〈吾妻鏡〉にないということに
なっています。あんな大きな物体なのに、記録がないとは考えにくい、一方〈吾妻鏡〉にはかなりの
大仏の記録があります。「深澤」の大仏ですが「深澤」の里にあるのが記録の大仏、本物は今の大仏
というようになると思われます。これも場所のあぶり出しという手法があるそれを伝えるというものでしょう。
火事もないのに火事がある、この人の墓がここにあるはずがないのに、ということで目くじらをたてること
もないといえると思います。二宮尊徳の墓も神奈川」県が福島県にあるのがおかしい、というのもこう
いう手法を教えているということのなせるわざというのがいいたいところのことです。

(10)松野主馬と薄田隼人
 岩見重太郎のようなマイナーのしかも実在性云々の人の話を書いていると疲れて書き泥みますが、
それだけにここでやめると、もう取り上げることもなくなる、いまの勢いでもう少し進めてみようと思います。
ありえない話も引き出せるというエネルギーを潜めているかもしれない、というので心残りです。
 いま書いていることは終戦間なしのころ、小学校の低学年のころ買ってもらった講談本「岩見重太
郎」から覚えていることが主体で、記憶違いであれば恥を掻きますがまあ仕方がないことです。
 岩見重太郎は、親の代までは毛利の小早川家中で、世話になった親戚の人の姓「薄田」を名乗って
大阪城へ入城したということになります。まあ「小早川」の人だから先祖はもうわからないだろうと、遠い
存在になってしまったのが残念だったので覚えているのかもしれません。「小早川」浪人で大坂城へ
入城した、と記憶しているのは「荻野道喜」で、本には関ケ原で勇戦した人物として有名と書いてあり
ました。小早川は寝返った方なのに勇戦もくそもない勢いで勝っただけではないのかと思って覚えて
いたわけですが、大阪城へ入城した動機が何か、ということが知りたくなるのは当然のことです。
筆者は小早川の関ケ原は、小早川秀秋に抗命した松野主馬と裏切りさせた稲葉某しか知らないわ
けでそのままになっていました。しかし、今となって岩見重太郎ーー高山右近が近づいてくると
     ●薄田隼人=松野主馬=荻野道喜
が、つながってきました。どれも有名だが前身がはっきりしない、欲求不満のままですので結んで
みたくなったといえます。つまり
   小早川浪人で大坂入城したもの、「岩見重太郎」「薄田隼人」「荻野道喜」
   小早川浪人で大坂入城不明、  「松野主馬」
 ということで「松野主馬」が大坂入城しておれば一応、小早川を軸にして重なります。
薄田隼人は岩見重太郎が前身ですが、岩見重太郎が物語り的人物なので岩見重太郎は高山右近・
・薄田隼人の一面を語る人物として、つまり岩見重太郎二人(高山右近・薄田隼人)として一応ここから
除外して考えます。また荻野道喜は西美濃三人衆の氏家氏というのは〈辞典〉などにもあり確定事項
です。何をいいたいかといいますと●が成立するということです。これを解明しようとすると、薄田・松野
・荻野の共通点を探していくわけですが、決め手は表記によるということです。

  @三人とも「小早川」に関わりある有名人である。
  A松野主馬は関ケ原後、田中吉政に高禄で仕える。〈川角太閤記〉の著者、川角三郎右衛門は
   田中吉政の家臣とされている。〈川角太閤記〉の終わりに「高山右近」「内藤徳庵」の名前があり
   「赤沢加賀守・・・内藤備前守・・・角鷹・・」〈信長公記〉の記述との関連から高山右近と田中吉政
   はかなり近づけて見てもよい。松野は高山を通じて薄田に接近する。つまり「田中」「吉」「政」を
   共有する。
  B松野主馬は下記の通り明智一族の関連であり、これは高山右近(岩見)を通じて薄田と重なる。
    〈信長公記〉松野平介のくだり
      『安東伊賀守・・・伊賀守・・・・松野平介・・播(ほどこし)・・・松野平助・・・妙顕寺・・・斎藤
      内蔵佐・・・内蔵佐・・・明智日向守・・・・平介、信長公・・・・爰に又、土方次郎兵衛・・・』 
    〈甫庵信長記〉松野平介のくだり
      『・・・爰に松野平助・・・・・西美濃・・・・伊賀伊賀守・・・清白の士・・・・・信長公・・・八幡・
      惟任・・・・斎藤内蔵助・・・日向守・・・・信長公・・・・喉笛・・・土方次郎兵衛・・白河辺』

  C松野主馬は上に見るように安東伊賀守に関係あり、西美濃三人衆関連であり、氏家(荻野)に
   つながる。また安藤大将→熊沢→角鷹→安藤彦四郎などで、高山を通じて薄田に近づく。
   
  D松野主馬の妙顕寺は高山につながる。安土城石垣崩壊のくだり「百々(どど)の橋・・・・
   惣寺(心寺派)・・・高山へ積上げたる・・・・」〈信長公記〉、の妙心寺が意識されている、また
   石垣崩壊→亀田大隈→角からも高山が出てきて薄田に近づく。
  E松野主馬からみの斎藤内蔵佐の内蔵佐が、佐々内蔵佐から佐々権左衛門を経て高山にくる、
   また内蔵は「とをる」からも高山が出てきて薄田に近づく。
  F松野主馬の「播(ほどこし)」は播州の「播」、播州と摂州と間違っているので「摂州」の「摂」で
   高山が出てくる、とつとりの「因播」もある。八幡は「薄田隼人」の「誉田八幡」と関連する。「八幡」
   は高山右近の属性といってよいもので、「薄田」ー高山ー「松野」の関連がはっきりしている。
  G松野主馬の「喉笛」は奈良左近の「笛」に関係している。「深田」とそこからくる「吹田」が高山右近
   の属性であるが〈甫庵信長記〉は「笛吹峠」を用意して関連を示している。「笛吹峠」の「笛吹」の
   ルビは、「うすひ」とされており「薄氷」が想起される。「氷」は「永」に通じ夕庵ー右近を呼び出して
   いるととれる。笛で松野と薄田が接近する。
  H高山を「下」、つれて「上」とすると「上中下」の「中」も注目される。〈辞典〉では
         「中路宗西(中路入道)」(山城)
   が出ている。この人物が、松尾三位と言継卿に会ったという記事を言継卿が残している。
   「伊豆守」の一族でもある(笛吹峠に真田伊豆守が出てくる、また〈曾良日記〉に山王神主、藤井
   伊豆が出てくる)。
   「宗西」は「宗」の系譜と「西」という重要表記であり、「松尾三位」の「三位」は織田三位、平田
   三位、平手三位しかなく特に重要だと思われる。「宗西」は「松尾三位」を出すために言継卿
   が使ったと思われ、〈甫庵信長記〉にも
       「松尾若狭守」「松尾尾張守」
    の孤立表記があり、これは大ものと予想され、言継卿は、この「松尾三位」を「太田和泉守」の
   の積りであったといえるかもしれない。
    
   「松野平介」の「松野」と「平介」については「松野」は「松尾」とあぶり出しであり、平介は「平尾
   平介」(〈甫庵信長記〉)という表記の人物がある。(〈信長公記〉は「平尾久助」)
       松野平介
       平尾平介     →  松尾の平介
    という感じのものになる。高山右近はこの「尾」の一字が重要となってくる。(高屋=高尾)
   〈信長公記〉の信州で「松尾」の表記が
     「松尾掃部」「松尾掃部大輔」「松尾掃部大輔」
   と出て、土地の松尾が
     「松尾の城主小笠原掃部大輔」「松尾の城主小笠原掃部大輔」「松尾の城主小笠原掃部大輔」
     「信州松尾の城主小笠原掃部大輔」
   何もなしの「小笠原掃部大輔」が出てきて
        松尾の人と地名
   の突然の登場がある。〈甫庵信長記〉では「松尾掃部助」一つだけで小笠原もないので、小笠原
   はダシであり、(小)(尾)「笠原」は「竹+立(隆、竜、柳・・・)で、松尾の平介は「掃部助」を介
   して「高山右近」に接近する、つまり同族であるといっていそうである。もうすこしいえば、「松」
   つまり、松野、松尾の「松」を出して、あの「明石掃部助全登」の「掃部」が出てきたので、この二人
   は関係がないこともないといっているとは思われる。

  I松野平介のあとに「土方次郎兵衛」が出てきた(本能寺)。これはすでに高山関連で「土方彦三
   郎」が出てきている。

 このようなことが思いつきでいえますがいくらこういうのを積み重ねても「松野主馬」=「薄田隼人」
とはいえないではないかということになります。しかしこれは表記の工夫で二人を重ねようとした、と
いう背景が見えてくる、つまり著者の意思が汲み取れるということで必要なことです。
  「薄田」については「薄田与五郎」〈信長公記〉という表記が一つだけあります。これは「五郎」付きの
一人で、「与五郎」は他にはないということで重要表記といえます。〈武功夜話〉の薄田伝兵衛(ルビ=
古継)という「古継」も、大谷吉隆の前名(本名)である「吉継」に似ています。伝兵衛というのは、大津
伝十郎、市橋伝左衛門の「伝」のように伝わる、伝えるというような感じがあります。薄田□□古継という
ようなものが頭にある表記かもしれないとも取れます。

「すすきだ」で人名索引を引きますと、隣や近くに
        鈴主馬〈信長公記〉
        鈴主馬〈甫庵信長記〉
 があり、〈信長公記〉テキスト脚注では

      『鈴木主馬  鈴村主馬。尾張愛知郡の名族の鈴村氏であろう。』

 とされています。「鈴村」を「鈴木」に変えたのは、一つは上のように並べると「木村」が出てくる、
というのがあります。「鈴」を接頭語とすると「木村主馬」が炙りだされてくるといえます。〈甫庵信長記〉
には「木村隼人正」という表記があり、それを使えば
   「木村隼人正=木村主馬」
となり、名前の方では、(薄田)隼人正=(松野)主馬、となりそうです。
 もう一つは
      すすきだはやと→すずきだはやと
                  ‖
                 鈴木 の 隼人
 としたかった、つまり 「薄田 隼人」の語源は「鈴木村の隼人」であったということをいう意思が
あったといえます。

 湯浅常山は著書で「郡主馬が事」という一節を設けています。講談では豊臣秀頼が真田幸村を
迎えるべく密書を高野山九度山へ届けますが、そのときの使者に選ばれ、山伏だったかに変装
して無事大役を果たしたという人物です。
      「郡」は「薄氷」の「氷」もありますが「郡山」が想起されます。常山は太田牛一が
         「高山 主馬」
 を出そうとする意思があったといっているのが感じられます。また〈信長公記〉の孤立表記で
      「松田摂津守」
というのがありますが、松田は松野でも同じようなものです。高山を仮に「摂津守」とでもしますと
(「摂津守」は「小西摂津守」もあるが、「つの守」と読めば高山で通りそう)
      「松野 摂津守」
で高山=松野、という意思がありそうだといえます。テキスト脚注では

   『松田摂津守   この松田氏は丹後与謝郡日ヶ谷村(京都府宮津市日ヶ谷)の豪族。』

 となっています。ここに「丹後」の「宮津」、岩見重太郎がでてきました。本文では

   『丹後の松田摂津守、(ハヤブサ)巣子二つ進上。』〈信長公記〉

 がありますのですでに松野 人正が太田牛一によって認識されていたといえます。隼人は「はやと」
「はいと」として打っても出てこないので「はやぶさ」で入力することにしています。それがここで出てきまし
た。「松田源大夫」という表記もありますがこれは「源」は源融(とをる)にいくので高山がらみです。
「松田源大夫」から、「高山」がらみの「百々」(どど)「土々」から「土橋平次・鈴木孫一」(雑賀の大将)が
出てきます。
高山ワールドの布陣表において郡山近辺は「芥川」が出てきているので確認しておきますと、

   布陣表@
      『刀根山、稲葉伊豫・●氏家左京助・伊賀平左衛門・芥川。
      郡山、津田七兵衛信澄』〈信長公記〉
   布陣表A
      『四角屋敷  ●氏家左京亮
       河原取出、稲葉彦六・芥川
       賀茂岸 塩河伯耆・伊賀平左衛門・伊賀七郎・・・』
   〈甫庵信長記〉
      『刀根山に、稲葉伊予守、●氏家左京助、伊賀伊賀守、
      芥河城に織田七兵衛』

 すぐ気が付くのはポイントの「郡山」「芥河城」の「津田七兵衛」と「織田七兵衛」でしょう。これは
別の話で津田の「宗久」「宗及」、とか織田津田の問題とか、に高山がどう絡むか、というようなものへも
いくかもしれません。ここでは一応、「織田」、「津田」という場合、「津田」の方が民間という感じで、且つ
高山の「つ」なので布陣表@の郡山の「津田七兵衛信澄」は「津田七兵衛信角」という高山右近と
近い関係を示す表記にかえられることを示すものかもしれません。今のままでは津田宗及と人物が大き
すぎるので分かち合うということになるのかどうかはわかりません。
とにかくここで「松野平介」の周辺人物「伊賀伊賀守および伊賀」「(荻野)の氏家」が集中しています。
荻野が明智と外戚なので直接でも伊賀を通してでも松野に結びつきます。赤井悪右衛門の黒井城は
テキスト脚注によれば
     「兵庫県氷上郡春日町黒井」
でここは春日局の伝説があるところ、住所からも高山につながるところでしょう。なお「赤井悪右衛門」
は「荻野悪右衛門」(辞典等)ですから、赤井は荻野道喜の氏家氏といえるのでしょう。
 松野主馬はのち駿河大納言忠長に仕えたという挿話がありますが、忠長は家光、春日局と死に
至る対立があったと語られていますので、これは春日局と荻野の繋がりを語る挿話かも知れません。
また松野主馬Aの存在を考えよといっているのもありそうです。親、関ケ原50歳としても、もう35歳の
子息がそのときいるわけでしょうから、それをおろそかにできません。
 ここまでで著者などの
          関ケ原の松野主馬=大坂陣の薄田隼人正
を語る意思は確認できたと思いますが、ここまででいえそうなことは、
   ○松野主馬は氏家氏出身で安東を通じてかどうか、太田和泉、高山右近と親戚である。
   ○松野主馬の前半生がわからないので〈武功夜話〉は薄田伝兵衛で語った、早くから太田和泉守
    の軍陣にいた。
   ○松野主馬は、また鈴木氏でもあり、鈴木氏と姻戚関係にあった。
   ○松の主馬は大阪城に入城した。
   ○薄田隼人は松野主馬を語るとともに高山右近も語る役割があった。
というようなことです。
 あと、一つの表記で二人が重なるというのがあります。松野平介も本能寺に出てきたのは兄で、
関ケ原の松野主馬はその弟という話しもあり、大坂陣の松野主馬は連れ合い、子息とかと入城した
ことは当然考えられることであり(荻野道喜が年配であったことは知られている)、それらは又別に
膨大な資料があり、それによればよいわけです。知っている知識からすぐにおかしい、とかいうので
あとを続けないのでは、何も出てきません。そのあともやってからまたここに戻ってきて点検するという
息の長い作業が入ります。とにかく今は前から詰めていくことをやっています。

 主要文献にある(つまり正史にある)三つの●「氏家左京助」という人物が、「主馬」と「隼人正」を兼
ねている、というということであれば、太田牛一は同一人として描こうとしたということになるのでしょう。
 岩見重太郎(薄田隼人)に捕まった(石川)五右衛門が、その子(木村)又蔵と出てきた常山の
語りの主役は
      木全(きまた)又蔵
でした。この「木全」は「ぼくぜん」と読めます。木刀(ぼくとう)の「木(ぼく)」です。「ぼくぜん」といえば
一応〈信長記〉の世界では西美濃三人衆の一人「氏家ト全」「氏家常陸介入道ト全」とかいう「ト全」
しかありません。「ト」というのは珍しいものですが「朴」が二つにわかれて「木全」と「ト全」になったもの
でしょう。〈明智軍記〉では「朴木隼人」という孤立表記もあります。〈甫庵信長記〉の氏家の表記は、
テキスト人名索引によれば
  「氏家左京助」「氏家常陸介」「氏家常陸介入道ト全」「常陸介入道ト全」「入道ト全」「ト全」
  「氏家ト全」「氏家殿」「氏家源六」
があります。

 〈信長公記〉本文にも常山の「木全」の表記が出てきます。山口又次郎を討った
      「木全(きまた)六郎三郎」
 です。一応(六郎)と(三郎)の二人を内包した表記といえます。「六」は氏家にもあります。

 常山の「木全」には「又蔵」から木村を内包していました。太田牛一の「木全」にも「木又」というところ
から、また「又次郎」(二番目の又だから木村又蔵といえる)を討った「木全」ということで木村が出て
います。また、
         鈴「」主馬 〈信長公記〉
         鈴「」主馬 (テキスト人名録)、〈甫庵信長記〉では「鈴木主馬允」
 で「木」から「村」へ気が走っています。こういう「木村」への意識を通じて「木村」の表記をあたってい
くと次のようになるのでしょう。
木村全表記〈信長公記〉   木村いこ助・木村次郎左衛門・木村源五  
       〈甫庵信長記〉  木村隼人正・木村次郎左衛門・(同)源五・木村小四郎
 両方に一応「(鈴)木村主馬」も(頭の中で)付け加えておきますと

        「木村隼人正」 「木村常陸介」 「(鈴)村主馬」 「(薄)木主馬」
             ‖         ‖            ‖       ‖
             薄田       氏家          松野     (薄・主馬)   
 
 というようなものになります(「薄」は〈信長公記の表記)〉。木全六郎三郎との相関でみますと

         木村いこ助・・・・・・・・ → ・・・・・ 木村小四郎
           ‖                    ‖
        木全(常陸介ト全)=氏家(荻野)→→六郎(三郎)の方の左京助→→松野薄田
          ‖                   |
        ト全=(登全・全登)=明石右近 →→(六郎)三郎の方の左京助→→明石掃部助
                                ‖
                               木村源五
                               木村次郎左衛門
 
 ということになりそうで松野薄田は氏家と結びつきました。「木村いこ助」は「たいとう」などと相撲で
出てくる人物ですが「木村(小)四郎」という総領表記と結びつけると木村常陸介Aということにな
るのでしょう。相撲巧者の伝説がある加藤の木村又蔵といえます。また右側に二、三、四、五、六が
並ぶようになっていて、これjからいえば、「木全六郎三郎」の「六郎三郎」は「木村」の内に入っており
また、常山で出てきた「五右衛門」「又蔵」登場の一節の「木全(きまた)又蔵」は
     「木全六郎三郎+木村又蔵」
ということになり〈信長公記〉の「木全六郎三郎」を解説したということになります。
なおここでボンヤリ明石掃部助全登も出てきました。

 結論的にいえば松野主馬という人物は氏家の出身で、●の表記の一人として〈信長公記〉に出て
きていたと思われます。本能寺のとき「松野平介」として登場させ、氏家左京助を解説したと思われ
ます。関ケ原で小早川を浪人し、外戚の関係にあった薄田氏の名前を使って大坂城へ入城したと
思われます。実際は薄田氏は鈴木氏(おそらく雑賀の)のことではないかと思います。大藩の先鋒
として実績をあげているので雑賀鉄砲集団の人材の起用やノーハウの導入があったのでしょう。
関ケ原で松野の鉄砲が徳川向けに炸裂しておれば戦況は変わったかもしれません。つまり松野主馬
の存在は石田三成、島左近の計算に入っていたといえます。太田牛一が本能寺に松野平介を出して
きたのは〈信長公記〉が関ケ原までのことを含んでいるという証しになるところでもありますが、その辺の
ところもあると思います。
 松野主馬の解明は鈴木がポイントでしたが、この
   鈴木=薄
の関係の確認は、テキスト脚注の「薄殿」という一回だけ登場の公卿の表記の解説でもできると思われ
ます。それによれば
 
   『薄 以継  のち諸光。山科言継の子。薄(すすき)氏は橘氏。』

となっています。この「薄」は本文では「薄殿」の一回、もう一つ筆で書いたような草書の部分から読み
取られるものが「薄橘以継」で、その横の「廣橋(橘?)左(右?)少弁勝」とペアです。橘は崩しすぎ
てよくわからない「橋」にもみえるので、このように書きましたが、草書を読める人に聞くと、また原書を
みると決められるのかもしれません。見た目を信じて橘(立花)=橋(端)を懸けたとみますが「橋」は
「高山色」で「小林瑞周軒」=「(小)林端周軒」の「周」も「軒」も巻き込みます。芭蕉の門人、小松出身の
金沢に本拠のある北枝(研屋源四郎)は立花氏でしたが、これはこの橘に同じでしょう。
  ○〈明智軍記〉人名注では「橘正茂」は「楠正茂」となっており、楠木から「長安」がでてくる、「正茂」
   から「原政茂」が出てきて「長頼」「前田」「越前大虫神社権宮司家の出身」というのが出てくる。
  ○「橘」から「橋」が意識されていうかもしれない。
  ○「しのぎ藤四郎」「北野藤四郎」(脚注は二人とも粟田口吉光)は〈信長公記〉にしか出ておらず、
   「しのぎ」は篠木で、〈信長公記〉の「篠原(長房)」「篠川兵庫」「篠岡(ささおか)」につなげていそう
   だ、「北野」の「北」は「北枝」の「北」もありうる、「粟田口吉光」は後で利用される、
というようなことを考えると北枝は〈信長公記〉を読んでいるといえます。

 「薄」は確実に「すすき」と読みますので「鈴木」につながり、「以継」の「継」は「薄田伝兵衛古継」の
「継」ですし、「兼勝」の「兼」は「薄田隼人正兼相」の「兼」です。
〈武功夜話〉の薄田伝兵衛(ルビ=古継)の表記がこういうところに利いてくるのですが、仮になかって
もよいわけです。納得材料に使っただけですから。しかしここから気が付いて推していく人もあるから
あった方がいいといえます。ここの「以継」の「以」が「もつ」ということで「遊行砂持ち」の「もち」や
「用いる」の「用」などで威力を発揮することが出てきます。

芭蕉の句に、
   『本間主馬(しゆめ)が宅に・・・・・ただこの生前を示さるるものなり。
       稲妻や顔のところが(すすき)の穂 』
 があり、主馬と薄の出ているものです。

 木全の六郎三郎の三郎に気が付くのは、次の文の▲▼の人物の登場によります。
 再掲
  『(卅一)軍終り、頸の実検して信長御陣所大良口へ人数を出し候。則、大良より三十町ばかり
  懸出し、および河原にて取り合い、足軽合戦候て
        山口取手介 討死、 
       ▲土方彦三郎 討死、
       ▼森三左衛門、千石又一に渡し合い、馬上にて切り合い、三左衛門ヒヂの口きられ
        引退く。』〈信長公記〉

 ここの「ヒヂ」は「啓」の下の「口」が「月」という字でルビが「ヒチ」のようでもあり紙の擦れによって読解
が困難ですが、「三左衛門」は肘(肱)にも膝のも傷があるようです。パソコンで「ひじ」を入れると
    日出
も出てきます。木全六郎三郎六郎は山口又次郎を討っていますから、ここの土方彦三郎の三郎が、
六郎三郎の三郎だろう、あと六郎もあるはずだということに考えか行き着きますが、それでよいようです。
それは何故かというともう一ケ所、その「六郎三郎」が出てくるから判るわけです。〈信長公記〉本能寺
のくだり
   『小沢六郎三郎・土方次郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・・・井上又蔵・松野平介・・』

があり、このあと、先ほど取り上げた「松野平介」と、「土方次郎兵衛」が特別に再登場するということ
になっています。再登場の「松野平介」の内容は既述ですが、「土方」は
     「松野平介・・・・・・追腹仕候・・・・・・爰に、土方次郎兵衛と申す者、譜代の御家人
      なり。・・・・尋常に追腹仕り・・・」
となっていて、もこれは「又」付の「土方次郎兵衛」といえるものです。ここで土方次郎と三郎が、かち
合ったといえます。テキスト人名録ではここの土方次郎兵衛は上の▲の人物に引き宛てられています。
つまり森三左衛門(太田和泉)の仲介によるのでしょう。「小沢」は
   「大沢」「中沢(沢)」「小沢」
の一つとして「小竹」ともいえそうです。「中沢」はメインの両書にはないではないか、そんな意識は
ないといわれるかも知れませんが〈明智軍記〉ではチャンと利用されています。
   「中沢越後守」「中沢豊前守」
などの表記があります。「豊前守」は既述ですが「丹後竹野郡竹野神社」の「桜井」→「桜井豊前守」
「別所友治(豊前守)も出てきました。この中沢の越後も「越前・越中・越後」とセットの越後ですが、
高山の登場を促します。

 越後騒動の物語があり「小栗美作」という家老をめぐるお家騒動です。湯浅常山がくわしく書いてい
ます。小栗というのは〈信長公記〉に「小栗二右衛門」という表記があり、これば幕末の小栗上野介関連
の人でしょうが、太田和泉守が乗っているから「二右衛門」です。「栗」と「粟」が似ているということも
あり、この小栗の「美作」は重要です。
     「平美作」〈信長公記〉
という孤立表記がありますが、これは「平蔵」+「美作」とみてよく、この「美作」という表記を使って高山
を説明したという人もいるようです。延々とした話しになりますので、ここでは常山の例だけですが、
越後騒動の主役が
     「永見大蔵」と「荻田主馬」
 です。永見は長貝でもよし、大蔵は「大蔵少輔高山右近」で、これは
     「高山右近」と「荻の主馬」
の取り合わせです。氏家行広という人が「荻野道喜」と名乗ったという話は有名ですから松野主馬は
氏家主馬ということを示して高山に大接近させているわけです。顛末はこの二人は「八丈嶋」へ流罪
などの処分がありました。

   『此の取扱いに付渡辺大隈(わたなべおほすみの)守八丈嶋(はちぢやうじま)へ流罪、松平(これは
   松野平介の松・平を指すか)大和守閉門仰せ付けられ、翌年二月閉門御免、姫路十五万石召
   し上げられ
      豊後日出(ひぢ)
   にて五万石下され、松平上野介広瀬三万石の内一万石召し上げられ、酒井雅楽頭、久世大和
   守、御老中職召放(らうぢうしよくめしはな)されけり。』〈常山奇談〉

となりました。松平大和守と久世大和守はどうちがうのかわかりません。松平上野介は何のために
出てきたのかわかりません。十五÷三、とか三÷三とかはあるでしょうが、一つは松平二回出したと
いうのはありますから松野平介は織り込まれています。ほかにいろいろ意味があるからこれくらいは
小手調べといったところでしょう。例えばルビをいうと「守」「御」というものにはありません。浮田秀家の
「八丈島」も絡めています。小栗美作の子は「大六」というようです。なお筆者のもっている〈常山奇談〉
は古書店で買った岩波文庫です。「校訂者 森 銑三」の1940年 第一刷、1988年 第三刷のもの
で第二刷はどうなったか知りませんが、とにかく戦前の校訂刊行のものです。この人名索引の要領は
よくわかりませんが「永見大蔵」は出ており、200頁と書いてあります。実際は200頁になく、203頁に
あります。なにげなくとか、ねんのため、まあ見ておこうという人にはこれは大きなことになります。なかった
から、まあいいや、ということになるでしょう。一方ここの渡辺大隈守、久世大和守などは索引に出ていま
せん。渡辺は「渡辺勘兵衛了」「渡辺図書」など8人、久世は久世三四郎はあります。検閲があったで
しょうから「永見大蔵」を核心からはずすと気くばりがあったとされたのか、永見大蔵を違わせて注目
させるという手法であったのか、よくわかりません。よくわからないところも問題です。少数の当局者は
自己の社会上の地位擁護がからむので動きが敏、その他一般はどんよりしている、そのずれの間に
あって報道や知識人は煽りと自粛を繰り返していたというのが戦前の姿だったのでしょう。戦後はそれ
がより目立たず、巧妙になったといえそうです。
 
 「中沢造酒(ミキノ)助」まで出てくるのでオヤオヤと思っていますとこの人物は「荻野彦兵衛重基」、
「中津海(ナカツウミ)左京」「加治石見守」「氷上郡」「高見の赤井五郎」「保月の赤井悪右衛門」や
「小沢六郎三郎」まで呼び出してきます。小沢は
      「小沢六郎三郎・奥田三川両人・・・・」〈信長公記〉
という出し方があり、6+3=三×三(九・久、宮)
      「小沢六郎三郎・服部六兵衛・水野九蔵・・・・張良・・・小沢六郎三郎」〈信長公記〉
というように「六」と「九」を挟むような出方もします。「木全六郎三郎」の6・3を生かして受けたことは関係
づけようとする意識十分と考えられます。
「六郎」は〈日本書紀〉長狭六郎以来大ものの「六」で、真田十勇士には海野六郎、望月六郎と二人
いる、甚六、孫六、久六などは重要人物でしょう。これがもう一人の左京助A高山右近といいたくて
準備してきたといえます。湯浅常山は浮田秀家は、浮田六郎秀家としています。秀家を打ち込んだら
日出が出てきて、「豊後」のヒジと三左衛門の「ヒジ」や六郎三郎の六が宇喜多の六郎に絡む、
    関ケ原宇喜多の大将、明石掃部助全登は高山右近
というのが表記による読み方のいきつくところといえそうです。テキスト人名注では「右京助」単独で
見出しとなっておりしかも二つあります。
  「右京助→狩野光信」
  「右京助→稲葉貞通」
です。「狩野光信」は「永徳の子」とされ、「稲葉貞通」は「稲葉彦六」という表記になっているようです。

(11)明石掃部助全登
 先ほど、土方次郎兵衛が松野平介に接近しました、これは次郎という表記が何だということや、よく
出てくることや、既出の土方彦三郎と違うのか同一か、ということなど、本能寺で脈絡なく飛び出して
きたということもあって、まあやっかいな存在といえます。この彦の面から高山右近を表すために出て
きた、三郎との関係にも注意とかもあると思われます。
 山鹿素行は土方彦三郎は下方弥三郎の間違いだろうといっているようです(〈辞典〉)。これも
そういうことをいっていて注意を喚起したといえるのでしょう。両方とも〈信長公記〉の表記だから、氏家
左京助が松野高山につながったように土方も高山につながるのか、また三郎が「木全六郎三郎」とあっ
三郎にヒントをあたえるものかなどが出てきます。太田牛一が二人を重ねたのではないかと、山鹿素
行がいっているので高山関連の重要なところではないかと思います。
 いままで見てきたのは「土と彦」は高山、「津」「(大)津」が岩見とかで高山に関連し、高山の大津は
大津で一人歩きできる人物の「柿本人丸」につながるとかいうように高山というものの触手を広げてきて
います。表記が一人歩きしている場合はデジタル的だから、はじめから、おわりまでのどこに埋設さ
れているかわからないから、とりあげる順序によって、厄介な存在という印象をうけるということだけのこと
です。
              土  彦 三 郎
              ‖
              下  弥 三 郎
後の三字は同じで「弥」とか「彦」は大きな違いはなさそうだ、としてみると、土と下の一字違いが炙りだされる
ことになります。二つは重ねたかったといえそうです。「土」=「下」というのが相互乗り入れをすると
いうことではないかと思われます。「彦」と「弥」は〈吾妻鏡〉にも「彦次郎」「弥三郎」があるので深い
意味があると思いますが、ここでは「弥」は同類の一般的な呼び方、「彦」は例えば兄弟の分類に
使われるということと決めて話を進めてみます。武井夕庵でいえば安井氏と姻戚ですが、安井氏の
前は前田氏と姻戚だったと思います。これは前田玄以が子息ということや高山右近が前田に極めて
接近した生涯を送っているという逆の面からも知られるところです。
 したがって血の濃淡は別としても、前回の姻戚関係から生ずる子息、当今の姻戚関係から生ずる
子息全部が子息ということになってきます。
 何か徴をつけないと親疎とかの表現が困難になってくると思います。
高山右近も内藤(小西)如庵とそういう関係がありそうと見えますが、15歳くらいのときは、まだ親と
される松永長頼(久秀弟)という人とは接触がないという感じです。家と家との結婚という形式がある
ので、両家をとりまく状況の変化とか、短命の時代とかいうことで再婚ということが今以上に起こりうる
という可能性があります。高山の場合は「彦五郎」ですが、「彦四郎」が出てきました。布陣表には
「稲葉彦六」があり、前に「彦進」がありました。今先に出た「彦三郎」は他の目的をもったもののよう
で何ともいえませんがそのようにとらえておくと便利だということで振り返ってみればそうでないかもしれ
ませんから過程の段階でそうみておくということです。高山右近は「右近」だけ覚えておくのでは展開
力がなくなります。「彦五郎」ですからそこからもみることが要ると思います。例えば江戸寛政のころ
出てきた、高山彦九郎は高山右近を過剰に意識した名前というのもいえることで、夕庵牛一が背後に
ある高山となると世間の見る目は独自の名前というわけには行かなくなります。いま意識していることは
伊丹布陣表@で「福富平左衛門」と出てきた
      「下石(おろし)彦右衛門」
が誰を表しているのがわからないから知りたいということです。高山は「彦」ですから、また高山は
「下国」で、「下」という字が属性らしい、「石」は「せき」とも読むので「下石」は「下関」も想起される、
また岩見(いわみ)は石見(いわみ)らしいから、芭蕉流にいえば、石(いわ)→岩→巌の高山にいき
そうだから高山右近を表してそうだといえます。
ここまでくると、出てくるのには何でも飛びつけばよいわけです。〈信長公記〉は「下方弥三郎」と
「下方左近」という表記を用意しています。二人は別人だという根拠もありません。左近は右近で
      下方弥三郎→ 下方  右近
      土方彦三郎→ 土方(彦)右近
  と書き直してみると、下と土との対比が目立ってきます。
一つの切り口として、この山鹿素行の挿話を持ち出したというだけのことですが、何かの理解に一歩
近づけたら儲けものです。
 彦三郎の「彦」は、高山右近と同じ「彦」で
       「土」=「下」
となる、「下」も「土」も高山右近の属性と考えたらよいというのが素行がいいたいことかもしれません。
 まあ今まででも「百々」「度々」は「どど」、これは「土」で「高山右近」が顔を出すという場面があり
ましたが、そういう場面がもっと出てくるとみているといっているので待ってみるということも手です。
 結論的にいえば、「土」=「下」としてよい、「方弥三郎」=「方彦三郎」ということであればそういえる、
「彦が(高山)右近」で「弥が(下方)左近」であり、「右近=左近」だからそうなる、といえます。

 まあこれは「土」は「上」に似ているということでもよく、「土」は「上」も意識して出されています。
〈甫庵信長記〉では、文中では「井土才介」となっているのが、
          人名索引では「井上才介」となっています。
これは間違い易いからこうなった、といえます。しかしながらこの間違いはよく読んだ人の間違いでは
ないかと思います。まあ〈甫庵信長記〉の文自体が間違いかもしれないから調べたらどうかというのが
あると思います。要は〈甫庵信長記〉と〈信長公記〉を比べると徳富蘇峰や桑田博士などの誘導に
よったこともあり、圧倒的信頼が〈信長公記〉にあります。つまり
 〈信長公記〉には二字の「井上」があり、「井上又蔵」「井才介」もあるが、「井土」はありません。
 〈甫庵信長記〉には、「井上七郎次郎」「井上又蔵」「井才介」があります。
だから、これは〈甫庵信長記〉の本文が合っており転写、誤植はなく、索引が間違っていたということに
なります。これほど間違いやすいといえます。
 山鹿素行は、下石彦右衛門に限り、土=下でよいのはないか、といったのかもしれません。こうすると
「土石彦右衛門」となり一層、高山右近に近づくというので引っかき回しに懸かったのでしょう。

両書は一つのものを分割したのでその積りでみなければならないところです
@両方にあるのは「いど」という読みのもの「井戸(土)才介」であり、「井上又蔵」です。
井上又蔵は両方において死者列挙の名簿で登場し死だけの役目ですから著者太田和泉の出番と
いえます。井上又蔵は〈甫庵信長記〉では「井土才介」を消し、井戸(土)氏の残像を残して、この人物
が太田和泉守にとって重要な関係がある、筒井の井戸を示唆することにより縁戚を強調したといえます。
一方〈信長公記〉では、次で井上又蔵が戦死したことにより、二字の井上を消し、本願寺の中におけ
る明智の残像をのこし、井上又蔵が戦死したことにより、マイナス又蔵を生じさせたと思います。

   『・・小沢六郎三郎・土方次郎兵衛・・・・井上又蔵・松野平介・・・(以上討死衆)
    ・・・・爰に、土方次郎兵衛・・・・・・・・上京柳原・・・・』〈信長公記〉

 「爰に又」、という「又」はこの「又蔵」が入ってツジツマがあう、といっているのかもしれません。
井上(土)又蔵が一応太田和泉守と取れるとすると「木村」というものも出てきます。一方この強調形
の「又」は上段一回目の「小沢・土方」のセットをここでもう一度繰り返すのをやめるためのもの「小沢
六郎三郎」の代わりに入ったものと取れます。「木村」「又」というものが浮遊して「木また」(六郎三郎)
を呼び出そうとしたいうことになると思います。。
    『(木村に)(小沢六郎三郎)・土方次郎兵衛・・・・上京柳原・・・」
として「(木全)(六郎三郎)」と「土方(下方)次郎兵衛」を短絡させたと思われます。これは「土方
彦三郎」と「土方次郎兵衛」を「三郎」を通じて重ねようとするもので、テキスト人名注では同一人とされ
ています。これは六郎三郎二人なので三郎の方を述べたのかもしれません。もう一つ
   木全六郎三郎と小沢六郎三郎
は六郎三郎を共有しています。「沢」は「沢」「木竹」「木武」であり、つまり
            木全六郎三郎
            木武六郎三郎
の一字違いの炙り出しともいえる感じのものになります。「全」と「武」は同じとはいえませんが、変えて
よいのかもしれません。その上に、「全」を「たけ」と読む例が一つだけあり、「明石全登」という人物は
     「たけのり」「てるずみ」「ぜんとう」
などとされています。有名人なので広く知られています。したがって小沢六郎三郎と木全六郎三郎は
まあ同一人といいたくて少し違わせたという感じです。これで「木全」も、土方、又蔵、松野、上京柳原
などと繋がったようです。
土方の属性は
   「上京(柳原)」
となっていますから、「上」は「下の上」で「上も下」も高山右近の属性となりそうです。笛吹峠の「山」の
上も下もということです。〈信長公記〉に「ふとうげ」という地名の索引にも出てこないところがありますが
三回も繰り返されていながらよくわからないのでひっかかったままです。

  『佐々内蔵佐・・・加賀国白山の麓ふとうげ・・・卒度(そつと)・・・・・ふとうげ・・・・・佐久間玄蕃・・・
  佐久間玄蕃頭・・・・・・・ふとうげ・・・』〈信長公記〉

 この「ふとうげ」について脚注では「不動」の「ふとう」とされ
      『小松市不動島町。白山の麓。底本の付箋「二曲」。』
となっています。これだと「不動」(本来はふどう)」というそのようにう読みにくい方を「ふとう」と読んだ
ことになります。「島」の方はすんなり「とう」と読めます。
 「ふとう」は「不動島」の「不動」と「不島」の二つがある、「不とうとう」とならないか、つまり付箋の「二曲」
がなにかわからないから、二×「とう」ではないかと、つい変なことを考えてしまいます。 「二曲」というのが
一つの問題であるらしい、この「曲」をどう読むかということですが、一つは千曲(くま)川という有名な川
があります。辞書によれば、曲は、「くま(隈)」「湾曲した所。」「すみ。」があります。また「ふし。音曲の
節まわし。」というのもあります。まあこれは「笛」「琴」などの音曲の曲で関連でしょう。これは「高山」の
出てくる「節所」というのがついてくる、また「折節」などの言葉もよく出てくるように見受けますので、その
「節」まわしの節に意識があるかもしれませんが、とにかく「二曲」は「二×くま」「二×すみ」ですから
   「熊熊」「角角」
高山がでてくることが考えらます。
 また「曲」の含まれている重要な字があります。
    豊=「曲」プラス「豆」
です。つまり
    「二曲くま」=「二豊」マイナス「二豆(とう)」
です。これで、「くま」=「熊」=「隈」=「角」で「角鷹」、と、「豊」が出て高山をだしたと思われます。
同時に二曲の二が出てきて、角鷹が二連となり「二とう」も出てきたので「不動島」は現在は「ふどう
しま」と読む、当時もそういったのかは別として太田牛一は、「ふとうとう」として利用し、麓は「林プラス
鹿(山中)」、「加賀」「白山」、「佐々内蔵」も同じで高山を出した一節といえると思います。「動」は「と」
と読む根拠もここに出ています。「卒度」(脚注では「少しばかり」という意味)の「度」を「と」と読ませて
いますから「不動」は「ふとう」と読んでもよい理屈です。また濁点は二倍の意味があることは、別途
安土城のところのネット記事で既述の通り「でう数」は「てう数」の二倍というのなど(黒ばねは黒はねの
二倍)がありますように、「動」は「どう」と読めば2×「とう」になります。「とうとう」です。
したがって額面どおりやれば「不動」は「ふどう」ですが、「どう」を「とう」と読ませると「ふとうとう」になり
ます。結論でいえば「ふとうげ」という、ややこしい表記は、
   「不動峠」(ふどうとうげ)
といいたかったわけです。つまり、この「とう」は「動」でもありますから、また「動」は「とう」と読んでもよい
、「動どう」ならば「とうとう」ですから
 「ふとうげ」は「不動げ」で「動」は「とうとう」ですから、「不動げ」は「ふとうとうげ」で「不動峠」です。

 こういうややこしい言い方をして注目させたわけですから何かいいたいことがあるとみて意味を探ら
ねばならないでしょう。合っているかどうかは別として考えてみることがやはり肝心なことです。
○「とうげ」つまり「峠」を隠して「峠」を結果的に出してきたといえます。峠から何かを出そうとしたと
いうのは一ついえそうです。「峠」は山上と山下を含んでいます。山上は高のイメージがあり、山下は
谷とか麓(梺)があり、高山の属性の(上)下、と山があります。
高山につながるのは、「笛吹(うすひ)峠」があります。「うすひ」は「薄氷」です。「薄」は「薄」(すすき)
はここでは見逃した方が無難でしょう。
 桶狭間で峠が出ていました。沓懸の「到(タウ)下」と書いてあったのをを思い出しますが、別書
では「到下(タウゲ)」もあると脚注にあります。高山右近は桶狭間7歳くらいというので実態的には関係は
ないかも知れませんが表記では「深田」とか「長谷」とかで関係があり、ここの「タウ下」の「下」もそうで
あると思います。下の豆は同じ読み方の「タウ」ですから、太田牛一の世界では「豆下タウゲ」まで入って
しまいかねません。「登」が重要表記で「豆」は入っており「真田伊豆守」も笛吹峠で出てきます。

○太田牛一は峠というのを「とうげ」というルビの方がよいということを知っていたということがいえます。
昔の人は「とうげ」を「たうげ」と「ひらく(ひらかな化)」ということにしていたと聞いていますがそうでは
ないようです。「惟任」は「これたふ」というルビを入れてるのがありますが、その延長からいうと、「到下」
は「タフゲ」になるはずですがそうなっていません。要は広く活用できるように工夫したといえます。
「惟任越前守{丹羽五郎左衛門長秀}」という表記がありますが訳本(教育社新書)はではチャンと
「任」という字に「とう」とルビが入っています。桑田博士の校注のもの(岩波文庫)はルビがありません。
これあるのとないのとではたいへんな違いです。つまり「惟任」と「惟住」の「任」と「住」は、点一つの
違いで似ているから、転写ミス、印刷ミスとかの疑いがあるといえば通るわけです。なにかにつけて長い
変形したということを強調する書物がありますから、そう思ってしまうわけです。「とう」と読みを甫庵が
していたといえます。惟任は二人で丹羽五郎左衛門もあった、といえますが、惟任ともなると「惟澄」、
「惟角」もありえますから、織田信澄、高山右近は太田和泉守に近い人ということはいえそうです。
 満年齢と数えの年齢のことも同じで満年齢の方がよいというのを知っていたといえます。太陰暦、
太陽歴の差もおなじで生かしているわけです。
 歴史と文化、文化と伝統かという言葉がよく出てきますが、近代以降やってきたことは、何でも近代の
功績にして、太古以来やってことに、ケチをつけて壊してきて、事実すら認知しようとしなかった、いま
も明治政府のそれを引き継ぐべく努力している過程にあるといえます。

○ここの「動」ですぐ想起されるのは本能寺後の前田の戦いの場として〈甫庵太閤記〉で、長々と語られ
ている能登国「石動山」(ゆするぎやま)の「動」です。
  「温井三宅」、「温井、三宅」「又左衛門先手高畑石見守(いはみのかみ)」「丸尾又五郎」、
  「利家の小々姓篠原出羽、そのころは勘六とて十七歳」「小塚淡路守」
などが登場してきます。前田から高山を出したともいえると思います。
 「石動山」の「動」はここの「不動」の「動」に繋がっているのは、間違いなさそうです。「能登加賀」と
いうのをくくるのがここの白山でしょう。白山を「白□山」としますと、□には「石」が入ると
      白 □ 山  → 白 石 山  
      石 動 山  → 石 動 山
となり、「白石」が出てきます
この「石動」の「石」と「加賀国白山」の「白」とが、「石は白」ということでもセットされたと思われます。
   
 まあいいたいことは、先の高山右近として比定した「下石彦右衛門」の「下石」が、なぜ「おろし」なの
かということです。「下白」でも「おろし」ではないか、
    「おろし」は「下(おろ)す」と「石(い)」の後の字「し」
    「おろし」は「下(おろ)す」と「白(ろ)」の前の字「し」
ともなりますので、「下白石彦右衛門」ということになり高山右近により近づくことになります。
結果的には高嶋打下(うちおろし)の林与次左衛門(太田和泉)があり、高嶋一向(ひとむき)の津田
(織田)信澄があるので、下石彦右衛門は、津田信澄と高山右近の二人、佐和山の石田の「石」が
付け加えられたといえる姓と思われます。

芭蕉は〈奥の細道〉で「白石(しろいし)の城」を出していますが、「白川(しらかわ)の関(せき)」の
場合のように「しら」としていません。〈奥の細道〉では、「しろ」は「城」「白」の両方を表わしている
(「このしろ」のように)ようですが、これは「白石の白」という意識もありそうです。「関(せき)」のように
ルビが入っていないのはまあどう解釈するにしても引っ掛かりがあるわけです。
「石」が「白」に染まったといえますが、「白石(田)の城」もありえます。また「石」は「右」に似ている
ので「右」は出ていないのか、と見ますと「白石の城」のあとに「郡(こほり)」が出てきてそこで道を聞く

   『・・人にとへば、是より遥かに見ゆる山際の里をみのわ笠嶋と云ひ道祖神の社(やしろ)、
   かたみの薄(すすき)今にありと教ゆ(ふ)。・・・・』〈奥の細道〉

 があり、テキスト脚注ではこの「右」は
        「右は左の誤り。」
 とされています。「石」から(高山)右近の「右」と「白」の「薄」を入れたのでしょう。一応「松野・薄田」
連合軍のことが頭に入っていたといえそうです。「みのわ」は三輪、蓑輪もあり、
      上野→谷中→三ノ輪→千住
ですので、初めにここへ来ることが決まっていたといえます
笠は「竹」「立」、嶋は「島」、「不動島」の「島」もあるのかもしれません。この薄は「西行」の歌にあり、
脚注では
   「朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置き枯野の薄(すすき)かたみとぞ見る」
の句が引用されていますが、この句により「後人の付会して作った名所の薄」ともなっています。それを
ここで出してきていますが、「東行」というものを意識した「西行」が〈奥の細道〉本文の「西行」であり、
あの西行に重なってもう一人の西行が意識されているのでしょう。。
 芭蕉は東行、つまり「支考(蓮二)」に餞別の句(「五」「一」を織り込んだもの)
    此の心推(すい)せよ花に五器一具(ごきいちぐ)
を送りましたが、解説(ちくま学芸文庫=芭蕉全句)では支考はこの句からなぜか「西行」のことを語
っているようです。

  〈信長公記〉は、加賀国白山とともにこのあたり「松倉城」(魚津市鹿熊)、「小井手の城」(新川郡
水橋)などの地名を出しています。「熊」は「角」、「水橋」の「水」は「氷」、「橋」は「百々橋」とかの
必ずしも川の橋を指すかわからない「橋」につながっていそうです。とにかく加賀の白が出てきたので
高山を意識して出したのは確実といえると思います。

○もう一つ加賀国白山の「ふとうげ」は
   「不動げ」「不島げ」
があるのは確実で、これは
   「不動下」「不島毛」
がありえます。「不動毛」「不島毛」というのは何になるのか、ということですが、ここで佐久間玄蕃が
二回も出てきたのが重要ではないかと思います。のち志津ケ嶽で佐久間盛政と、中川清秀・高山右近
との間に確執が生じました。佐久間盛政が中川清秀を討ち取り、高山右近を敗走させたという語りが
残っているのが意識されたものということができます。
「不動(島)下(げ)」の方はこれは「到下(タウゲ)」の「下」ですが「不動(島)毛(げ)」の方はやはり
〈川角太閤記〉に詳しく語られている
   「毛受勝助」
がこの毛を受けたと考えられます。柴田勝家軍の中に二人の人物が語られて柴田家の最後に華を
そえた人物が「佐久間玄蕃盛政」と「毛受勝助家照」ですが、〈川角太閤記〉では「面受勝助」となって
いる人物で二人とも太田和泉守の身内衆です。これは高山右近=川角の一つのヒントが出ているの
ではないかと思います。

○「卒度(ソツト)」という〈信長公記〉のという語句は「度」が「土」になるのかもしれません。

(12)木全六郎三郎
とにかく高山右近は武将という面では明石掃部助全登ということであればこれ以上ない戦上手という
側面があったといえます。それはおかしいというのはすぐ出て来るでしょうが前提が変わっているわけ
で、石田三成が明智代表として挙兵したというのであれば、高山右近が様子を眺めているということは
ありません。大谷吉隆が三成の挙兵に賛同したのは宇喜多秀家の家中に騒動が起こって、戸川達安
や坂崎出羽守やらが徳川に引き抜かれて骨抜きになっしまって、こういうことが引き続き起こってくると
各個撃破されてしまうという危惧だったようで、それは〈当代記〉に書いてあるので事実でしょう。
もと大名の高山だったら軍勢的にも補いがつくかもしれないし、太田和泉守の直弟子だから技量は
全く問題ないといえます。結果的には穴を埋めてしまいました。
 そうとしても両書から明石掃部助が出てこないのでは何ともならないわけですが、木全六郎三郎に
よって出てきました。それは何からわかったかといいますと常山の木全又蔵からで、木全又蔵を太田
和泉守と木村又蔵につなげたのは、細字で書かれた苗字なしの「五右衛門又蔵親子」でした。一方
石川五右衛門は岩見重太郎(薄田隼人)に捕らえられ釜茹にされたということになっています。この件
は太田和泉守の役者としての登場があったということは既述ですが、〈常山奇談〉の索引が不完全で
石川五右衛門が出ていないため常山の書きたかった顛末が掴めないことになっています。石川五右
衛門を課題として見ようとした場合このことは致命的となります。つまり全部をみないとでて来ないため
保留となってしまうだけです。石川五右衛門そのものが出てくるのはおそらく一回だけで、
  「肥後国宇土城攻め杉本次郎介夜討ちの事」
の一節です。登場人物六人の主役は三人で
    @「十文字鑓」の杉本(すぎもと)次郎介」と
    A「日下部(くさかべ)平介(ルビ=イ兵又與)」
    B「田中(たなか)兵助」「二十六歳」
の二人の「へいすけ」です。
@は「肥後」「土」「白」「杉」「十文字」から「岩見重太郎(高山右近)」で、Aは「平介」から「岩見重太
郎(松野平介)」で「平介」のルビから、Bの兵助はAの別名、薄田与五郎の與といえます。
石川五右衛門を救い出したのはBの兵助(薄田与五郎)です。つまり薄田隼人は五右衛門を救出
したというのがその顛末です。一連の石川五右衛門の話しは一応決着がついている話です。
 表記では「大田五右衛門」と「石川長門守」の重ね合わせが「石川五右衛門」です。

(13)取手
 「土方彦三郎」の続きです。次で一応表記が消えるわけですが、高山右近という一面を語るのが
この表記です。

  再掲
   『(卅一)軍終り、頸の実検して信長御陣所大良口へ人数を出し候。則、大良より三十町ばかり
  懸出し、▼および河原にて取り合い、足軽合戦候て
        山口取手介 討死、 
        土方彦三郎 討死、
        森三左衛門、千石又一に渡し合い、馬上にて切り合い、三左衛門ヒヂの口きられ
        引退く。』〈信長公記〉

 この「山口」の「取手介」は意味ありげな感じであり、土方彦三郎も、下方弥三郎と重ねた人が
出てきた上に「大良」という地名にも心当たりがある、、「河原」もが河原取出が伊丹布陣表にあり、
「とをる」で河原左大臣も出てきた、それだけでも要注意というべきところですが、さらに、ここの文
にはわかりにくいところがあります。まずこれは(卅一)という一つの節の初めですから主語がある
はずですが、見当たりません。ウッカリ信長を主語にすると話がわからなくなります。前節からみると
前節で信長が大良に陣した次の記事があるので、大良口にいるのが信長です。

   『信長・・・大良の戸嶋東蔵坊構えに至て御着陣。▲銭亀(ぜにかめ)もかしこも銭を布(しき)
    たるごとくなり。』〈信長公記〉

この前節を受けて(卅一)の文は斎藤義竜が主語で、信長の陣所大良へ攻めてきたわけです。
ここの「大良」は場所は違いますが、「だいらこへ」(大良越え)が、石田西光寺が出てきた北国の
戦いにもありました。そこで出てきた「すい津」の「すい」は、「吹田」の「吹」であり高山関連であること
は既述です。ここの「河原」が伊丹布陣表(高山ワールド)にある「河原取出」につながっていると
思います。それは▲の亀があるからそういえると思います。
「河原」の前の▼の「および」はテキスト脚注では「不詳」となっています。「および」の前は何かが
抜けているわけで、それは▲亀の前の
    「(大良の戸嶋)東坊構え」
 を挿入しなければならないのではないかと思います。これは
    「構え」(つまり砦)および「河原」(川の原っぱ)
で合戦があったといえます。ここの「」は「とをる」のところに出ていた「蔵」付きの人物「大蔵新三」
「大蔵二介」「三蔵」を意識しているのかもしれません。「大蔵少輔」は高山ですから。また山口取手
介と出てきた土方彦三郎も「とをる」に彦右衛門、彦三郎があり、これも高山の「彦」です。
(卅一)の短い一節の前の節は美濃、斎藤道三が子息(義竜)に討たれる(信長が道三の加勢に出陣する)
場面ですがここにも高山関連の記事があります。
 そこでは「長良川」は「奈加良川」とされています。これは、「奈良左近」の「奈良」が入っていると
とれます。また、「鶴山」もでてきますがこれも「角」が意識されている、「長屋甚左衛門」や「柴田角内」
「小真木源太」などの人名もあとで高山関連として出てくることになります。
とくに何回も出てくる「山城」は八幡があり高山関連です。芭蕉にも高岡のところで八幡がありました。
ここでも旗本に「幡元」が使われているのでもそれがわかりそうです。要は表記で追っかけていると高山
重視がみえてきます。とくにこの亀が高山右近に決定的な影響を与えるものです。
 先に、この「河原取出」の場所を武庫川に近づけましたが、武井夕庵の丸毛兵庫頭や「明智兵庫
〈武功夜話〉」の「兵庫」はなんとなく武庫川の「武」+「兵庫」で、兵庫が明智の意味を付与する語句
として採用されるもとになったことも考えられます。
 ネット記事に出ていた「琴浦城」の「建部」はとりあえず〈信長公記〉に出てくる「建部紹智」とする
しかなく、この人物は「建部紹智・大脇伝介」というセットで出てきます。
 テキスト人名録では大脇伝介は、〈信長公記〉の孤立表記である「塩屋伝介」とされていますが、
これがよくわかりません。「大脇伝助」は「塩売の身」というのがあるから、塩屋ともいえますが「とをる」
のネット記事の塩の伝説によるのかもしれません。ネット記事「大脇伝介」の「貞徳研究のための資料
集」によれば「塩屋(大脇)伝介」となっているので、こういう権威あるものだから、とにかく同一人物で
あるとされてきているわけですが、こういうのは大脇が殺されても塩屋が生き残っているということにも
使われると思います。一方「大脇はどこから来たのか探るということも要求されているのかもしれません。
     塩屋ーーー伝介ーーー大脇
は「伝」という語り伝えるものがあるのではないかと思います。〈信長公記〉のここに「不伝」と「普伝」
というものがありこれは同一人物とされるのは無理ですが、まず同一人物と認定されるようになっている
ともいえます。テキスト人名録でも「不伝」は説明が出ていません。つまり、二つは読み方が同じ
「ふでん」で
     不伝ーーーー伝えず
     普伝ーーーーあまねく伝える
というものがあるのではないかと思います。〈信長公記〉に
     伝内
という孤立表記があり、これは「内」を伝えるというものであろうと思われます。要は大津伝十郎の伝は
伝えるという意味がありそのため「十郎」になっていそうです。
  大脇伝介のほかに大脇虎蔵という表記がある
  大脇伝介の脇は、「大蔵」が「ワキ大蔵新蔵」〈信長公記〉となっているのでそのワキが脇になって
  いる
 と考えられ、大脇伝助は大脇伝蔵に替わりえます。これが加賀騒動の主役となった大槻伝蔵のモ
デルとなったのではないかと思います。
 これは大槻の槻はイツキで高槻の高山右近、蔵は大蔵の高山右近、伝蔵は、大津伝十郎の伝と
いえる、要は大槻伝蔵は高山右近が前田の高山右近であることを打ち出した挿話です。ネット記事では

   『村指定史跡  大槻伝蔵の碑
    富山県東砺波郡平村祖山 熊野神社内』

 というのがあります。この砺波郡というのや熊野など重要だと思います。大槻伝蔵の物語は事実
あった話ではなかったというのがネットでも出ていますが、大槻伝蔵と本多を筆頭とする前田家老衆
との交錯を描くことにより高山右近を想起させようというものであろうと思われます。大槻で高山を偲んだ
、信長記をうけた誰かの創った、藩ぐるみかもしれない物語ともいえるのでしょう。

 大脇伝介の「脇」は「月」篇であり、大槻の「つき」につながりえる、大槻=大月ともなりうるものです。
また「脇」を辞書でみると、「能楽で仕手(して)の相手をする人」となっていますので「とをる」の出て
きた「ワキ大蔵伝蔵」に結んだと思われます。
「脇」というのは「脅威」の「脅」の変形ですが、「三つのカ」は何か意味するところがあるのかはわかり
ませんが、おびやかほどの人物というのはありえるのかもしれません。大脇伝介は自由人といった感じ
の人物で、太田牛一がこの人物にも乗っかっていると思われます。
 「源融」のネット記事「河原」「琴浦神社」などは播州が舞台ですが、太田牛一は播州と摂州を
間違っており、攝州もそうですが播州も高山右近の跡が色濃く出ています。高山右近は荒木攻めに
反対だったのは自分の人質問題などではなく、攻めるのがおかしいというのがあり信長公が慌てたの
ではないかと思います。現代思潮社〈信長記〉所収〈南蛮寺興廃記〉は「杞憂道人鵜飼徹定」による
慶応活字本が定本だから信用できます。ここに高山右近の態度が見られます。荒木が自分の意思で
毛利方に付いたのなら、信長の命令を拒むことはないと思います。、

   『摂州荒木摂津守村重中国毛利に与力すと注進す。・・・・・
   天正六年十一月、高山右近敵に組して信長の命に応ぜず。』〈南蛮寺興廃記〉

 鵜飼氏の名前徹定の「徹」(とおる)は偶然なのかどうか、鵜飼も「鵜飼」(信長公記)や「鵜飼内蔵」
「鵜飼重兵衛」などという表記があり、あの長良川の鵜飼い、に関係して重要ではないかと思います。

(14)四人衆
四角屋敷が□の意味があるということで、「花」など字を入れましたがもう一つこの四が「角」を伴って
意味をもってくると思われるもの一つあります。次の▲の特別な賛辞のある4人です。
 前提の四角屋敷のある伊丹布陣表のところは
     「一、田中、中川瀬兵衛・古田左介
     一、四角屋敷、氏家左京亮
     一、河原取手、稲葉彦六・芥川」
となっており、氏家左京亮の右にある、「田中」は常山の「田中兵助」を生んだと思いますが、この四角
の角にもいいたいことがあり角四天王のような意味があるかもしれないということです。

   『十一月廿四日・・・・石田・渡辺勘大夫両人加勢の者を追出し、中川瀬兵衛御身方仕候。
  調略の御使
        ▲古田左介・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎、四人
  の才覚なり。右四人茨木城御警固・・・・・上下満足・・・・・・
   十一月廿六日、・黄金三十枚中川瀬兵衛に下され、小使仕候家臣の者三人に黄金六枚
  御服相添へ下さる。
  高山右近、是又金子弐十枚、家老の者弐人に金子四枚、御服相添え拝領。』〈信長公記〉

〈甫庵信長記〉でも四人挙げており、ここを賛辞四人の場面と呼びますが中川、高山も出ています
ので六人登場です。
日の前に寅があるのとないのとあり、これは両方あるから繋げて読んでほしいというのがあるのかも
しれません。
 ▲の四人が出てきて四に意識があるのは四が二回使われているのでわかります。四角屋敷と関わり
がありそうと一応取れます。
使者は四人のはずですが、小使三人のものに黄金を与えていますので一人合いません。
統率したいのならこういうことは公平にやらねばならないところでおかしいことを書いています。理由は
付けられないこともないようです。内の一人、古田が伊丹布陣表@では、茨木近辺ではなかった
からといえそうです。しかし四人は御使となっており、三人は小使となっているから、使者を出
したのだろうということになりますが、それなら古田も使者をだせばよいことですから、小使も四人と
書いて置けばよいはずです。結局、この小使は降った中川の使者のことで、それで問題なかろうと
いうことになります。要は家臣の者が信長の家臣か中川の家臣かになりますが、合理的な読みは
中川の家臣ということに落ち着きそうです。しかし書き方がおかしいので、四と三になにか拘(こだわ)
りがありそうです。中川の家臣とすればするでまたおかしいことが出てきます。
 中川には黄金三十枚で小使三人各六枚、という書き方ですから、高山右近に、金子弐十枚で、
家老の者弐人に金子四枚、と書くのはおかしいわけです。高山も
     「二十枚」「各四枚」
と書くのが筋です。まず高山には「各」が抜けています。つまり「□四枚」となっており埋めなければ
ならない「各」=「角」か何かが抜けています。「各四(枚)」=「□四(枚)」=「四角(屋敷)」と繋がって
ここにきていそうです。もう一つ
高山は両方「弐」を使っています。要は、本来的な意味ではないが単位の統一ということをしないと
計算ができないという前提に沿ってここが書かれたといえます。つまり
  中川は30=6×
  高山は20(弐×10)=4(弐×2)×
という計算させようとする意思が働いている書き方で「5}を出したいとうことになります。
再掲、人名の「布陣表@マイナス布陣表A」〈信長公記〉の結果が下記です。つまり消えないものと
いうことですから実際に布陣してここにいなかったものということができますが厳密に言えば表記がちが
っているのもあるので問題にすべきものを炙りだしたといえます。                            

               @ 神戸三七信孝。              、
               A織田上野守・                  
               B 北畠信雄卿           
               C津田七兵衛信澄                         
               D 中将信忠卿                     
      (一、高槻の城御番手御人数)、           
               E 大津伝十郎・                  
               F 牧村長兵衛・                  
               G 生駒市左衛門・                 
               H 生駒三吉・                    、
               I 湯浅甚介・                    
               J 猪子次左衛門
               K 村井作右衛門
               L 武田左吉。                   
     (一、茨木城御番手衆、)
               M 安部二右衛門                         
               N 下石彦右衛門・                
               O 野々村三十郎。                
     一、中嶋、   P ■中川瀬兵衛。                 
     一、ひとつ屋、 Q ●高山右近

PQの■●は布陣表@にダブって出てきているのでここで残ることになりました。というよりも賛辞四
人の場面に出ていたので、注意信号、まあ説明は一応いま済んだ、あとMNOが布陣表@だけに
あり、そのまま残ってきたものですが、茨木衆では「福富平左衛門」だけが@にもAにも載っており
厳密にいうと、福富平左衛門の痕跡はあり、これは古田も同じでプラマイでゼロです。したがって
賛辞4人衆で問題なのはMNOだけで操作がありそうといえるところです。まず
                 古田左介、プラマイゼロ
                 福富平左衛門、プラマイゼロ
               M 安部二右衛門                         
               N 下石彦右衛門・                
               O 野々村三十郎。

において賛辞四人衆から安部二右衛門がはみ出しです。二右衛門は
     2×右衛門
ですから一人は太田牛一です。もう一人は「大矢田」の「城主安部二右衛門」です。

   『爰に大矢田と申し候て、尼崎の並(ならび)にこれあり。大坂より尼崎へも伊丹へも通路肝要の所に
   候。彼の城主は安部二右衛門と云う者なり。』〈信長公記〉

とあります。この「大矢田」はテキスト脚注では
  『大和田であろう。大阪市西淀川区大和田町』
とされています。つまり現地の「大和田」という地名が利用され、大田は「和田」であるといっていそう
です。通路肝要というのも表記が独立させて語られる場合は「通路」という字が肝要といっていると
みてよいと思います。つまり「大和田」というのは実際もそういう肝要な場所であることはいえると思い
ますが、そういう地点だといえなくてもよいのではないかと思います。尼崎の「並び」に起用したい
名前を探して、大矢田を出すと大和田だろうということになるといったことでこれが「並(ならび)」
ではないかと思います。以前にも出てきました。大屋甚兵衛という庄屋のでてきたところで、

   『ならび村一色と云う所に、左介と云う者あり。』〈信長公記〉

というのは「一色」というのを探してきて話の材料にしたといえると思います、したがって大和田というの
は意味があって参加した地名といえると思います。
 またこの「安部」は「阿部」でもあり古い時代の「阿倍」「阿閉」に行きますが、太田牛一も「阿閉孫
五郎」を登場させています。「阿倍」の出てくるところは〈愚管抄〉でありますが、摂津、倉橋が出てくる
ところの表記からとりますと

   『孝徳天皇・・・軽・・・弟・・・摂津碕宮・・・左大臣阿倍倉橋麻呂・・・・
   右大臣蘇我山田石川麻呂・・・・』〈愚管抄〉

 でとくに高山とセットで「難」が出るのでつながるかもしれません。また大和田は「大和」「大倭」
でもあり〈信長公記〉で「大ケ原」と書いているのはテキスト脚注では「台ケ原」というところとされています。
「大」が「台」に変えられるそういう意識があります。
  後漢書では、すでに「邪馬台国」というように「台」が使われている。万二千里というところの女王が
いるところは「大和」「大倭」とみなしたのではないかと思われます。つまり近畿の山都に引き宛てられる
のが「耶麻都」「大和」ではないかということです。それは別として、
   大矢田→大和田→和田→和田惟政→伊賀守→安部二右衛門
は高山ワールドで確認させたといえそうです。〈甫庵信長記〉の孤立表記
    「阿閉加賀守」は「阿閉孫五郎」(信長公記)の一つの引き当てとして高山右近は確実です。

(15)野々村仁清
賛辞四人衆に安部の太田和泉守を加えて、福富平左衛門、古田左介、下石彦左衛門、野々村三十
郎が、布陣表からあぶりだされましたが野々村には野々村仁清がいて門外漢でもその名は知ってい
るから一応芸道、もうすこし砕くと「陶芸」ということの五人ではないか勘ぐられます。古田はいわなくても
わかっている、下石は高山右近ではないかといってきました。最後の野々村は誰かというのが残りました
この表記は本能寺で消えましたので、誰かを表した表記といえそうです。
四人衆は三人しか使者を出さず、一人は結局使者を出せない使者になれないわけですから実在しない
人物といえます。結論は
    「野々村三十郎」は @「野々村三郎仁清」
                 A「野々村三×十郎」の三人
ではないかと思われます。安部二右衛門は@を認識させるために出してきたといえます。

      安倍二右衛門、 太田牛一(夕庵も含む)・・・・・@野々村三郎仁清

      福富平左衛門  明智左馬助 |
      古田左介     古田織部  |・・・・・・・・・・・・A野々村三×十郎
      下石彦右衛門  高山右近  |

 野々村三十郎は四人の総称で工房があったと思われます。野々村三郎仁清→太田牛一で仁清は
仁清@、仁清A、仁清B、仁清Cと引き継がれて行くべきものだったが、世情それが許さず、この
戦国四人衆の作品で終わりとなったのではないかと思われます。
〈甫庵信長記〉の孤立表記
     「陶五郎隆房」
は、一つは超大物、厳島の陶晴賢ですが、表記の一人歩きは、もう一つの世界「陶」を映すわけです。
この五人を指すものか、芭蕉は高山右近と取ったようです。予想外に高山右近を取り上げていると
思います。             
                 
 さきほど「角」「各」が出ましたが、高山飛弾守が出てきたところで「柴田」「青木鶴」が出てきたので
柴田角内登場の場面をみますと

    『坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位談合を究め、今(こそ)能き折節なりと・・・・四方より・・・
   何あみ申す御同朋、是は謡を能く仕候仁にて候。・・・働く事比類なし。又はざまの森刑部丞
   兄弟切ってまはり・・・討死。頸は柴田角内二つとるなり。うらの口にては柘植宗花と申す仁・・・・
   比類なき働きなり。四方屋の上より・・・・』〈信長公記〉

 で「柴田」「角内」の出るところ「能」、「能」、「謡い」が出てきますから、「とをる」の場面が意識されて
います。「能」は「熊」に似ており「熊見川」は山中鹿介の
    「上月(コウヅキ)」
の城が出てきます。これも「高槻」の城になります。「はざま」というのは桶狭間の「深田の足入れ」が
あり、「柴田角内」が森兄弟を討ち取ります。「柘植」というのは、芭蕉の〈曾良日記〉
    「高岡・・・埴生八幡・・・卯ノ花山・・・」
の「植」、つまり「直篇」というものが効かされてきます。「四方」というのも二つ出てきていますが
     「神戸伯耆守」
     「(同)四方助」
     「神部四方助」
という表記が〈甫庵信長記〉にあり、ここから「四方」を通じて「神戸」は「神部」となり、「塩川伯耆」は
一応武井夕庵にも宛てられることもあり、それが逆にここの「神戸伯耆守」からもいえるということに
なります。なお「深田」は「織田右衛門尉」にからみますが、それが織田三位のことで、織田五郎右衛
門とも同じということになりますが、これは「武井夕庵」でもあり、ここの伯耆をはじめ神戸なども武井色
に染めるものです。角(ツノ)田新五 松浦亀介 大脇虎蔵 かうべ平四郎と続いた「かうべ平四郎」の
「かうべ」もここの「神戸」が宛てられそうです。つまり高山右近には「上」に加えて「神」の字が接近
しますが、当時キリスト教で、天主のことを今のように「神」と呼んでいたかどうかはまだわかりませんのでそこ
からきたかどうかは別として「上(かみ)」と同音で「神」の字が高山関連に使われるようになってくる
のかもしれません。
 ここで付け加えておきたいことは「今社」の「社」に「こそ」というルビが付されていることです。この
字を「こそ」呼ぶ例は筆者は「村社(むらこそ)」しか知らず、これは人名だということだからか辞書に
は出ていません。「広辞苑」のようなものにもありません。ネットで村社で検索すると「神武天皇を祀っ
た神社」というものがはじめにあります。これによれば「社の格」として出ています。「郷社」、「村社」、
「無格社」があり、この場合の読み方は「村(そん)社」でもよいのでルビもなしでよいのでしょう。
しかし読み方が知りたいので「むらこそ」で引くと「赤井村今昔」という記事があり、これによれば
   「村社(むらこそ)赤井神社」「赤井の村社(むらこそ)氷川神社」
が出てきます。太田牛一は神社の「村」の格のことを「むらこそ」ということを知っていてここに今社を
出してきたのではないかと思います。つまり

   『今村掃部助・遠藤喜右衛門{・・・・・竹中久作・・・・}・・・・浅井斎(イツキ)・・』〈信長公記〉

の「今村」をここに引っ張ってくるために、「村社(こそ)」の「社(こそ)」を持ってきた
       今 村        
         村 社(こそ)
 掃部助=高山右近を打ち出した、と思います。今村掃部助はテキスト人名録では「今村氏直」と
いうことだけがわかっています。この「直」も武井高山色が出ており、両方で「角」の人物に近づくよう
です。

(16)増田長盛
高山右近は「郡山」も属性といえます。

  『高山右近郡山へ祗(伺)候致し・・・・』〈信長公記〉

 常山の熊沢蕃山の話の中で、一つだけここで取り上げますと熊沢蕃山は大和郡山が属性になっ
ています。「熊沢了介」の「了」から、「了」という名をもつ渡辺勘兵衛了が熊沢蕃山から出てきました
が、渡辺勘兵衛も大和の郡山が属性といってもよいほど郡山とともに知られています。
 渡辺勘兵衛は五奉行の増田長盛に仕えており、長盛は石田三成に組していたので関ケ原合戦の
終結とともに大和の郡山城の明け渡しの問題が起きました。郡山城を預かっていた、渡辺勘兵衛が
この大役を見事に果たしたというので名声が揚ったわけです。
 常山は高山と蕃山と渡辺勘兵衛を郡山を睨みながら増田長盛を語ろうとしたのかもしれません。
長盛も出自が知られていない有名武将といえます。
  再掲 伊丹布陣表Aの一部

      『四角屋敷  氏家左京亮
       河原取出、●稲葉彦六・芥川
       賀茂岸 塩河伯耆・伊賀平左衛門・伊賀七郎・・・』〈信長公記〉

 ここの芥川の前にある●の人物が増田仁右衛門長盛ではないかと思います。芥川は地名では郡山
と炙り出しになっていましたので、河原取出も含めて高山関連とみてよいと思います。ネットで確認して
いただいても分かりますように増田長盛の増田は「ました」と読みます。高山を
      「下」としてその「真下(ました)」
ということで、六番目つまり彦五郎の一つ下です。
 増田長盛はネット記事によれば「長曾我部盛親」の烏帽子親となったそうです。長曾我部と斎藤
内蔵助との外戚関係はよく知られていますが〈戦国〉ではそのあと稲葉と長曾我部との間に姻戚
関係が生じたことに触れています。つまり盛親は稲葉の身内です。まあ今わかていないのですから
こうときめてあたってみるとよいのではないかと思います。ただ稲葉彦六というのが余りにも思わせぶり
名前ですので●の一人が増田長盛といった方がよいのかもしれません。表記では増田長盛はなんと
なく杉原氏の出身のようでもあります。算勘の天才武将、長束正家も杉原氏ではないかと思われます。

「郡」は「氷」です。天永寺の「永」、「永田」「永原」の「永」は、「氷」「水」と似ているので、バックに流れる
ものが暗示されているいえそうです。〈信長公記〉に
       『長山九郎兵衛』
という一回限り登場の表記の人物が出ますが、テキスト人名録では

   『永山氏は●加賀の豪族。能美郡虚空蔵山城に拠るという(〈越登賀三州志〉)』

 と書かれています。これは太田牛一が間違えたと、〈三州志〉の著者がいっていると取ると、太田牛一

      「郡山」→「氷山」→「永山」=「●加賀」→「高山」
をだそうとした、と同時に
      「永=長」
という使い方をするといっている、と三州志の著者が解説したといえます。細川を表す「永岡兵部大輔」
は「長岡」もあります。「永岡」の「永」は上の永山の「永」と同じ感じですが、「長岡」ともなると長岡京
つまり山城に関係してくる、ということになります。森蘭丸長定もちょっと永定と変えてみると天永寺の
「永」もボンヤリとつながってくる、森蘭丸が幼時天永寺で遊んでいたというようなスト−リーがあれば
それは納得できることになります。
実際はこの長山は太田牛一がわざと間違ったわけで、伊丹布陣表で〈甫庵信長記〉が「芥河の城」
と書いているのに〈信長公記〉はわざと「郡山」を対置させている、意識して違わせるという操作性が
強いのが〈信長公記〉といえます。しかしそれ以上に、ここの
       虚空蔵山城
から、予想外のことが出てきますので、そこからでも太田牛一と〈三州志〉の連携動作がでてきます。
三州志の著者は只者ではない、
     虚空をみつめた三州志
 とでもインプットしておきます。●の加賀も赤沢加賀守の加賀につながる、高山は加賀が属性といえ

     赤沢加賀守の「加賀」と内藤備前守の「内藤」、角鷹の「角」と「鷹(高)」
が結びつくと、高山右近がのべられていないか、
内藤備前守は、明智光秀が明智光慶に付けた後見の一人内藤三郎右衛門につながっていないか
これは三郎右衛門であり、川角太閤記の著者
     川角三郎右衛門
とうしろが同じ、高山は川角内藤三郎右衛門とならないか、というのが本稿の一つのテーマでもあり
ます。
加賀と太田牛一は、簗田=別喜右近で結ばれています。高山右近も加賀が属性らしいのは別規
右近の「いつき」と「右近」です。加賀守と高山をつなぐものが簗田です。

(17)簗田と別喜右近
高山が加賀というのは今までの知識でも十分つながりがあります。すこし遡りますと首巻にあった
赤沢の「加賀守」はのちに「別喜右近」(別規右近)がなりました。天正六年
 
  『・・・浅井新八・和田八郎・中嶋勝太・塚本小大膳・簗田左衛門太郎番替(かはり)に・・・』〈信長公記〉
  
 という記事がありますが、この太字の人物「簗田」は脚注では
      『別喜右近の誤記(一九一頁)。』
 と書かれています。当然のことで梁田は天正三年、七月の記事で

    ★ 『簗田(やなだ)左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ』〈信長公記〉

 があり、もう天正六年では「簗田」ではなく、別喜右近でないといけないわけです。これが加賀国を
拝領します。天正三年八月〈信長公記〉の記事で

     『別喜右近・佐々権左衛門・・・・十余日の内に賀越両国仰せ付けられ、御威光中々・・・』

となっていますから、加賀守は別喜右近といえます。太田和泉守は「簗田」に乗って「簗田出羽守」
になっていますので別喜右近=太田和泉守でもあるわけです。
太田和泉が簗田をもって自分の一面を語るのにした、というのは初登場の場面で、自己紹介したよう
なところがありますのでわかります。

  『去程に、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて一僕の人あり。面白き巧みにて知行過分に取り、
   大名になられ候。・・清洲那古野弥五郎・・・・・●若衆かたの知音(ちいん)・・・』〈信長公記〉

●は〈信長公記〉唯一の男色が出てきたところでここにダシとなって出てきたのでこれは本人といえる
と思います。〈信長公記〉の叙述の立場は今と同じような社会が前提されているといえます。〈甫庵
信長記〉は言葉、表現が変えられていますが、それと違ったトーンになっています。
「面白き巧み」で特徴が表われ「知行過分」は表向き卑下したような言い方としても大大名という意味
でもあるのでしょう。
「弥次」と「弥五」の突合せがあるのも、信長、清洲城の乗っ取りの重要場面に出てきたのも意図あって
のことです。太田和泉は信長に属する前は清洲城那古屋氏に仕えていたのではないか勘ぐられるところ
です。
 桶狭間では簗田出羽守は信長作戦の説明をしています〈甫庵信長記〉。出羽守については
テキスト補注では
    「(佐久間右衛門尉)信盛は出羽介の時代がある(〈尾張田島文書〉)」
とされており出羽で信盛と簗田も結べるようです。
芭蕉も〈奥の細道〉で『図司佐吉』が出てくるところで
       『出羽といへるは・・・・・鳥の毛羽(もうう)・・・・・』
ということで出羽三山を出してきています。「毛」とか「鳥」(取り)が出てきています。
要は和泉守を述べるために「簗田」が利用され、簗田には太田和泉守が乗っている、
  別規右近=太田和泉=加賀守
を示す重要な表記です。簗田の表記は、

           〈甫庵信長記〉            〈信長公記〉
            「簗田出羽守」、
            簗田右衛門太郎         「簗田左衛門太郎」
             簗田彦四郎            簗田彦四郎
             簗田弥次右衛門         簗田弥次右衛門 
             簗田
となっています。例えば、常山は「安藤彦四郎」を使っており、
   安藤=  「彦四郎」  =簗田
と結び、「彦四郎」を通して簗田=安藤をいいたかったのでしょう。「左」「右」のあぶり出しもあり、二人
もありえるのかもしれません。

 〈武功夜話〉では、桶狭間戦などで梁田鬼九郎という諜報に長けたと思われる人物が活躍してい
ます(のち前野家に仕える)。
 一方梁田弥次衛門が出てきて重要な働きをしています。微妙な違いがありますのでこのあたり工夫
が見られるのでしょう。〈武功夜話〉のは竹冠(かんむり)なしのもので「はり」と読むのが一般的な読み
方のものです。また梁田弥次右衛門と弥次衛門とは大きな違いといえないこともないようです。
  「簗田」と「梁田」
があり本来は梁田かもしれない、類書では「簗田出羽守」は「りょうだ」というルビが付しているものも
あります。(ルビには「やなた」「やなだ」がある)。竹冠は戦国期に入ったのかどうかよくわかりません。桶狭間戦はいずれにしても「やなだ」が大活躍します。

   『先に梁田弥次衛門、いとたという処まで罷り出で案内仕るにより、信長様熱田より急度(きっと)
   山中へ分け入りなされ注進待ちに候。その後の様子如何にと鬼九郎馬にむち入れ飛び
   来るなり。』〈武功夜話〉

 登場した二人同一か別人かわかりにくいというような場面ですが、はじめの梁田が太田和泉で、あとの
鬼九郎が、若手の鬼九郎、「簗田」二人を表すということでしょう。実際は梁田鬼九郎親子という語句
も出てくるし、ここは前野衆の動向を書いている様子なので、そうではないようですが、表記だけが生き
、二人を直感できればよいのでしょう。
〈信長公記〉の簗田表記の一つが最初に出てきた「簗田弥次右衛門」です。これは
  
  ○「弥」「次」「右衛門」がある。
  ○桶狭間戦の中心人物で戦略を語っている。
  ○男色が出ている唯一の人物である。
  ○清洲城の攻略の場面ででてくる
  ○略歴を書いている
などで太田牛一であると読むことにより、多くの表記が意味をもってくると思います。ここの
      「梁田鬼九郎」
という名も、毛利水軍をやぶる主役となった「九鬼右馬允」と繋いでいる、・・・・といったことで太田和泉
が「梁田」という前野家中で目だった活躍をしていた人物に乗ったことが語りの広がりを生んだのではな
いかと思われます。

「簗田」二字の表記があり、大事なところで、二字の「梁田」が、三回も出てきています。
殿(しつぱらひ)の場面〈甫庵信長記〉

    『初めは簗田・・・・・・簗元来大剛の兵なれば・・・・簗田、目はききつ巧者にてはあり・・・』

ここは二字の簗田で「簗田」を強調しているのではないかと思います。他の姓のものが二字では
ないようです。元亀元年の記事、三回の簗田が出るところ

   『簗田、・・・佐々内蔵介・・中条将監・・・島弥左衛門、太田孫左衛門・・・・織田金左衛門、生駒
    八右衛門、戸田武蔵守、平野甚右衛門尉、高木左吉、野々村主水正、土肥助次郎、山田
    半兵衛尉、塙喜三郎、太田和泉守、此の者どもは・・・』〈甫庵信長記〉
 
 これを分解して姓だけ表示すると

    『簗田、・・佐々・・中条・・・島、太田・・・・織田、生駒、戸田、平野、高木、野々村、土肥、
    山田、塙、太田、此の者どもは・・・』

となり当時こういう姓があった、ということは示していると思いますがどれも太田牛一を表しそうです。
名、つまり肩書きのようなものの表示しますと

  『(簗田はなし)・・・内蔵介・・将監・・弥左衛門、孫左衛門・・・・金左衛門、八右衛門、武蔵守、甚右衛門尉、
  左吉、主水正、助次郎、半兵衛尉、喜三郎、和泉守、此の者どもは・・』

実態は姓も名前も必ずしも一門とはいえませんが、組み合わせてそうしか考えられないというのが
出来上がるのでしょう。表記を一人歩きさせてみた場合は全部一族を語る材料になりそうです。
テキスト人名録では
    「西春日井郡西春町九之坪字西城屋敷が簗田出羽守居城の城址として県の文化財(史跡)」
となっていますがこれは太田和泉守の故地でしょう。同様に、
    「名古屋市北区味マ(あじま)の鈴木氏宅が丹羽長秀宅址として県史跡」
となっているのも、ここは天永寺のあるところで太田和泉の本拠ともいってよく、安食、山田から丹羽
長秀は出てきません。ここを丹羽長秀と認定されたのは太田牛一が丹羽を名乗ったということを知っ
ている人であるといえそうです。

   「簗田左衛門太郎」=「別喜右近」=「弥次右衛門」
を、まとめて指摘したのが初めの★の文の間違いといえるのではないかと思います。ここで「右近」という
のは「高山右近」の「右近」かもしれないと誰でも感ずるであろうというのが命名の際の著者の思惑
といえるかと思います。右近などは何人もいるではないかというのは、太田牛一の世界に
いまいるのですから、一概にいえないことでしょう。さらに重要なのは
  別喜右近=別規右近
で二つとも〈信長公記〉の表記です。著者は「規」の字を使ったのは
     「高槻右近
 というのがいいたいことです。これは分解すると、まあ「槻」は「木+規」ですので
    「高・木・規・右・近
となり、「高槻」から、なんとなく「高き右近」→「高き山右近」が出てきそうです。
      高木  規右近
       ‖
      別    規右近
 でこの「別」は「高木」以外にも別のことを語りたいのかもしれません。
「別規右近」という表記は「別喜右近」という表記もありました。この「喜」は「遠藤喜右衛門」の「喜」
を持ってきたと思われます。考証では「遠藤直経」という人物が「喜右衛門」とされていますが、直継
は誤りとされています。これは「直助」の直をいいたかったので継も大谷吉継がいるので合っている
のではないかと思います。遠藤喜右衛門は細字の{竹中久作}が接近しました。つまり高槻の右近
と竹(武)久のつまり高久の右近もでてきたということになります。
 語りたいことは、別キ右近から「加賀国」の「高山右近」が重ねられて出てきたといえます。加賀と
いうと「前田」であり「金沢」でもあります。
 もう一つ「別」といえばなんといっても「別所」でしょう。〈奥の細道〉では「別墅(べつしよ)」に変形
していました。ひょっとして「別処」にも「別書」にもなるのかも知れませんが、「別」の字は「別規」や
「別喜」をいうまえに「別所」が想起されるものです。〈信長公記〉の「別所」に「別所左近尉」という
いう表記の人物がでるので、この別所=別喜は一字違いのあぶり出しともとれるほどです
 「別所左近」も出てきたことは「高山右近」の右近への意識と、別所と高山右近は近い関係にあつ
たということを示したものといえると思います。
 予備知識的なものでも「前田」と関係深い高山右近というのは、いまでもよく知られており後半生
前田家の世話になっているのは知られています。これはこの加賀の右近でも暗示されていますが、
それがどこからくるかということがはっきりされていません。これは武井夕庵が前田と関係が深いつま
り前田の外戚が明智であることからきていますのでそれがどこに書いてあるのか、を探すことが必要
となってきます。いまは前田玄以という存在がそれを示したものであるということになります。

(18)親子
首巻の終わりの
       赤沢加賀守ーーーー長谷ーーーーー内藤備前守
の関係から、親子が重なって
     親、明武加賀守牛一ーーー長谷ーーーー武井夕庵
     子、明高加賀守(右近)ーー長谷ーーーー内藤(小西)如庵
というように両方のことをいっていいるのではないかと思われます。親子が重なるのはそのようにすでに
知られて読まれているのに現実にはそうなっていません。たとえば

  @芭蕉の「笈の小文」
     『●網代民部雪堂(あじろみんぶせつどう)に会(あふ)
        梅の木に猶やどり木や梅の花 』
    のテキスト脚注の訳は
     「網代民部(あじろみんぶ)の雪堂に会う」
    とされていて●の人物の注は
     「網代民部は足代弘氏。神風館一世。天和三年没。雪堂はその息弘員。胡来ともいう」
    となつていて「花」の注は
       「父の民部は俳名が高かったが、その息子の雪堂も父の風雅をついで、風雅な花を
    咲かせている。」となっています。要は芭蕉が子息と書かないのも不親切だし、訳注も突然
    子息を持ちだすのはどうかと思われます。こういうことが普通だとどこかでいわなければ他の
    古典を読む場合不親切となるのではないかと思います。

  A不破彦三武備の事
     『加賀中納言利常の士不破彦三(ふはひこぞう)、四千石の禄を受けて武名知られたり。
      其の子も同じく彦三といふ。』〈常山紀談〉
    不破彦三@と不破彦三Aがあるわけです。

  B〈武功夜話〉
     『前野小兵衛勝長三男前野嘉兵衛の事
      ・・この度同道の末弟嘉兵衛どのいまだ十五歳なり。・・・・・・・当家裏屋敷の小二郎丸
      に住居する嘉兵衛(吉田)は今人なり、嘉兵衛嘉兵衛の事なり。今人嘉兵衛
      いう、・・・・・・前野嘉兵衛はのち吉田と改む、・・・・・前野小兵衛尉供養塔一基 これは
      嘉兵衛の建立に候なり。この武功記を作書の時、嘉兵衛存命なり。・・・・』

   これも一見しただけでは親子が同じ名前のようですから、重なってよくわからない、武功記を
   書いている人も嘉兵衛なら三代嘉兵衛にもなりかねないといったことになります。よくわからない
   という部分は、周囲を固めることによってわかってくるというのでしょう。ここの目的外のため省いた
   部分に
     『嘉兵衛の兄又五郎(前野吉康)尉、親小兵衛尉の跡を襲い加賀守となる。前野小兵衛
     は越中国利波の城主なり、一万五千石の食邑なり。』
   「又五郎」は「又一郎」「又二郎」「又三郎」「又四郎」に続く「又五郎」ですから、「五」の「又」です
   から重要ですが、それに、加賀守、砺波城主も出ましたから無視できないところでしょう。
   大槻伝蔵の碑が砺波郡にありました。前野の人ならこういうことをやることもありうるかもしれません。

  Cテキスト脚注「長光」について
    『(備前)長船(おさふね)。岡山県邑久(おく)郡長船町付近に住んだ長船の鍛冶は近忠を
     始祖としその孫が長光。この後三代長光を称す。』

  刀工、陶工などこのように同じ名前で技法が相伝されていきます。重なっていても区別できるように
  なっているのでしょうが文献では区別できないのもある、それは目的があってそうする場合がある
  @〜Cの例をみるまでもなく重なっているの現に多いわけですが、実際にはあてはめて考えにくい
  ようです。それを原則としてそれで考えるということをしないからそうなります。
  高山飛弾守は、高山飛弾守@ 高山飛弾守Aがあるはずで、〈武功夜話〉に明石飛騨守という
  表記がありますよ、といってもそれは明石飛騨守景親のことのはずだから、親の方だ、明石飛騨
  守Aが存在するのかもしれないというのは考えない、大事なことを見逃してしまうことになります。
   湯浅常山も元禎と明善の二人のようです。赤沢加賀守も赤沢加賀守@と赤沢加賀守Aが
   あると見た方がよいと思います。 

(19)図工
   高山飛弾守の「図書」という名前や「角鷹」が表わすものは、武井夕庵・高山右近に懸かかって
いる、遠藤・近藤などは内藤にもかかっていくわけです。高山右近(加賀守)は「長谷の城」」の「長谷」
にも懸かっているともいえます。つまり
   長谷川等柏
 は高山右近と仮に決めてもよいのではないか、といえます。長谷川等柏@Aの問題はあるかも
しれませんが「長谷川宗仁」を仮に千利久とすると、利休に接近することなると思います。高山右近
は利久の高弟といわれており、利久と等伯はすでに挿話があって知り合いであろうといえるところ
まできています。長谷川等伯を、謎の多い、経歴不詳の人物と取るよりも、高山右近は等伯という
名前をもっていることはわかっているのだから、昔そう云った人がいるのだから、それを取り上げるのも
不自然ではないと思います。

 「宮司」の「司」も「図司」の「司」ですから「図」というのもどこかにつながりそうです。〈辞典〉では
     
   『高山飛弾守   書(ずしょ)、諱は「友照」とあるが、文書の裏付けはない。洗礼名ダリヨ
    これは「大慮」と書かれている。右近の父。・・・・・』

 で名前が「図書」となっています。これはめずらしい名前で、〈信長公記〉も〈甫庵信長記〉も、名前
については知らん顔をしてますが、ヒントは与えていると思います。
〈信長公記〉では「高山飛弾守」が使われ、「飛騨」もあることも前提に「飛弾」となっていますから
太田和泉守と二人、親子重なって高山飛弾守@Aが考えられ、二字の高山がそれを表していた
感じがしますので、図書は子息の高山右近もありうると思われます。先ほど
     「狩野次郎右衛門・狩野三郎兵衛」
が出てきていますし、高山右近は

   『中国因播郡とつとりより、高山右近罷り帰り、彼表堅固の様子、絵図を以って具(つぶさ)
    に言上候。又、御祝着(ごしうちゃく)候なり。』

 高山右近は絵図を書く(描く)のが得意だったわけです。「図書」というのはそれにふさわしい名前
 です。〈川角太閤記〉の〈川角〉というのは「かわすみ」と読むようですが、「角」は「書く」「描く」とも
読めます。著述、芸術面で抜けている明智の御曹司ということであれば空白の部分は他の名前で
活動しているということが考えられることです。
 他の名前で描かれ今日に高山右近が残した足跡があるのではないかと一応探さねばなりませんが
〈万葉集〉からも名前がとられたというものもあるのかもしれません。さきほど
      「箪笥(たんす)」の「「笥(す)」
 という「笥(け)」は「竹」と「司」に別れ、このように高山に懸かってきましたので、先の〈万葉集〉の有間
皇子が出てくるところ念のためみておくことも要るかも知れません。芭蕉は有馬温泉を有明温泉と書いて
温泉間違いをしている、と解説がありましたが、〈万葉集〉では「有馬温泉」は、有間皇子の「有間」を
使った「有間の温泉」が使われているようです。
 
 (20)松
 松は「松尾掃部助」とか「松田摂津守」「松野平助」などの表記がありました。
 先の〈万葉集〉の部分は、表記で語るという面の教科書となるようなところです。「笥」もそうですが、
太田牛一などの後世の人が、取り入れているところであると思います。

再掲
  『 挽歌  後岡本宮(のちのおかもとのみや)・・・・天皇の代
                  天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)・・・・
             
        有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首
   一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
 ●一四二 家にあれば(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

         長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)結びを見て・・・・歌二首
   一四三 岩代の岸のが枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも
   一四四 岩代の野中に立てる結び こころも解けずいにしへ思ほゆ 未だ詳ならず

         山上臣億良(やまのうへのおくら)の追和する歌一首
   一四五 鳥翔成(ツバサナス)あり通ひつつ見らめども 人こそ知らねは知るらむ
                                  右の件の歌どもは・・・挽歌の類に載す。
         大宝元年辛丑、紀伊国(きのくに)・・・・結びを見る歌一首  
   一四六 後(のち)見むと君が結べる岩代の小がうれを また見けむかも』〈万葉集〉
 
〈万葉集〉のここを取り上げるのは日本文化史に目に見える多大の貢献をした謎の名前の人物の
正体を探ろうとするためでもあります。表記で語るという面は往々として孤立表記の人物を登場させ
ます。命名のいわれを遡ってみようとするのも正体を探る場合のヒントになると思います。
ここの主役は柿本人麻呂と山上憶良だと思われます。この部分で目立つところは

 @同じ字句の繰り返しがある
   ここでがたくさん出ているのは一見して明らかです。
        「」「松」「」「松」「松」「」「松」「松」
  六首のところには五つで、詞書に三つ(太字)と計八つの「松」があってそれが一つのテーマに
 なっているといえるところです。上の二首目の句だけには松がありませんが、はじめの詞書(説明書
 き)の「松」は二首目にも懸かると思われますから全体は、「松」がらみ、松が意識されている一連の
 歌群といえます。
  またなぜか「」が七つもあり、「岩代」も繰り返されています。「松」と「結」「岩代」が集中して出て
 きたことは〈万葉集〉の編者が企図したところでしょうから一応そのことは考えてみなければならない
 ところです。

 A字句が違わせてある(あぶり出しがある)
   「岩代」に着眼すれば、四つもあります。

     一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝
    一四二 ・・・・・(け)・・・・
    一四三 岩代の岸の
    一四四 岩代の野中に立てる結び
    一四六 岩代の小がうれ

  ここの「岩代」は、〈万葉集〉内において、「磐代(いはしろ)」があり、あぶり出しがあるということでも
 特筆すべきものでしょう。「岸」も「崖」使用したものがあります。太田牛一も「崖(きし)良沢」と「岸勘
 解由左衛門」を使っています。

  B題目、詞書とか注が入っている。
    題目 「後岡本宮(のちのおかもとのみや)・・・・天皇の代」
    詞書 「有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首」
    注   「右の件の歌どもは・・・挽歌の類に載す。」

  というように本文を歌の部分とすると、説明といったものが、細字でこまめに書かれていて、文献と
  同じ体裁のものとなっています。注の示す意味の大きさも同じです。

  C一匹狼が登場する     
    次の●の人物は誰かわからないはずです。現に{未だ詳らかならず}いうのが付いています。   
  
    『●長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、結び松をみて哀しび咽(むせ)ぶ歌二首
     一四三 岩代の岸の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも
    ◎一四四 岩代の野中(のなか)に立てる結び松 こころも解けずいにしへ思ほゆ{未だ詳らかならず}』

   テキスト〈旺文社文庫〉には

   『◎この歌の作者に疑問があって、未詳の注がある。〈拾遺集〉では人麻呂作とする。』

   という脚注があります。これは、後世の人が、●の人物が人麻呂を指すのではないか、ということを
   云っている、ということの紹介でしょう。●が人麻呂であることは、ほかのところで人麻呂に挟まれて
   この人物が出てきますから確かに人麻呂といいたいのは明らかです。しかし一四三の歌は、どうみる
   のかという問題が出てくる・・・・などがあります。

  D例外が出てくる
     ○一四二 だけは「松」「岩代」「結」から離れたものとなっています。

       一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝
       一四二 ・・・・・(け)・・・・
       一四三 岩代の岸の
       一四四 岩代の野中に立てる結び
       一四五 人こそ知らねは知るらむ
       一四六 岩代の小がうれ

     ○山上臣憶良が特別に登場し引っ掻き回します。●のようなややこしい人物が出てきたあと
      すぐに追和するというタイミングのよさがあります。

  Eルビの活用
     ○カタカナルビを出してきました。「一四五 鳥翔成(ツバサナス)あり通ひつつ見らめども」
      早期の編者か校注者がその必然を感じたのでしょう。作者がルビを入れたとは考えにくい
      ことです。
     ○ひらかなルビで別の読みを示しています。「忌寸」は「いみき」であり、「意吉」は「おき」で
     すから「寸」は「き」と読み「意」は「お」と読むのかということになってきます。

  F意味不明語句がある。
     一四五の歌、「鳥翔成(ツバサナス)あり通(がよ)ひつつ」や注などは意味がわかりません。
 
  Gその他、
     ○岡本宮は人か、場所か、両方になるのか、
     ○一四六の「大宝元年」は有間皇子の死から四十三年後で(テキスト脚注)、世代がまた
      がった話、柿本人麻呂は二代目かどうか
     ○「後岡本宮」の「後」の意味は何か、
     ○崗本宮が〈万葉集〉他のところで出てくる、それとの関係ははどうか、
     ○何よりも
        岡本宮(後岡本の宮)
        天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
        有間皇子
        柿本人麻呂
        山上臣億良
        の関係はどうなるのか
  など基本的なところの問題がいやがおうでも目の前にちらついてきます。ここだけみても歌書
 よりも国史に詳し万葉集というものが出てきます。この面からみると〈万葉集〉は全的にみなければ
 ならず、歌の鑑賞としてみると多少わからないことは飛ばしても問題ないというようなものが通用
 しなくなってきます。つまり分からないところ、下手な歌もよくみなければならないということになって
 くるわけです。大昔のことなので適当に書かれた部分があるのは仕方がないというように見てしまい
 勝ちですが、編集する人にその目的があったということで見ると、目的に照らして完全を期そうという
 ことになります。まず当時の編者が後世に歌を残そうとしたことは明らかなことですから、伝えたい
 ことなどはなかったと見てしまうのはどうかと思われます。
  太田牛一などがこれらの手法を駆使してのべていたことは既述ですが、ここでは、利用された
 かもしれないというものを二三点挙げてみたいと思います。
  〈万葉集〉と同時代に〈風土記〉というのがありますが戦国期でもこれを真似して〈風土記〉という
 書物が出てきました。〈三河後風土記〉を作って、戦国時代を述べています。
 〈信長公記〉は「岡本宮」の「宮」と「(け)」を引っ付けて「宮笥」にして、利用したのかもしれない
 「笥」を利用したようにほかの文字も活用していると思います。

(21)「竹」の読み方
  ここの〈万葉集〉の六首のうち一四二の歌は、「松」も「岩代」もない例外となっていることをいい
 ましたが、それは似た歌がありそれを持ってきたからだと考えられます。つまり似た歌というのは
 聖徳皇子を引っ張ってこようとしていると思います。次の聖徳太子の歌の一部を有間皇子が利用
 しました。次の歌は〈日本書紀〉にも載っている有名な話の一こまです。

    『上宮聖徳皇子(うえのみやしやうとのみこ)、原井(たかはらのい)に出遊(いでま)しし時、
   竜田山(たつたやま)の死(みまか)れる人を見て悲傷(かなし)びて作りませる歌一首{小墾田宮
   (おはりたのみや)に天の下知らしめしし天皇の代、小墾田宮の御宇(みよ)は豊御食炊屋姫天皇
   (とよみけかしきやひめのすめらみこと)なり、諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古}

      四一五 家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人(たびと)あはれ』

    再掲、有間皇子の歌
     一四二 家にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

   一四二の歌を残した人(有間皇子)は、四一五の歌を詠んだ人(聖徳太子)の子・孫という世代でしょう。
   歌の継承がこの二人の間にあるわけです。継承がないといっても別に差し支えないですが、
   歌人ともなれば類似に気がつく、という程度のことでもよいわけです。四一五の歌のあることを
   前提として、一四二の歌があることは明らかです。そのため「松」を入れた歌を持ってこなかった
   といえます。岡本宮と聖徳太子を結ぼうとしたかどうかは別のこととして、太田和泉守などは
      「原井(たかはらのい)」
  というルビの打たれ方に注目したのではないかと思います。つまり「竹原井」のルビで「竹(たけ)」
  が「たか」という読みになっているということです。「たか」であれば第一に浮かぶ漢字は「高」です。
  芭蕉が「宮竹や喜左衛門」と〈曾良日記〉に書いたときは
     「宮や喜左衛門」
 という意識があったということです。「竹」は「たか」=「高」と読めるそういう使い方をしても文句は
 出ないはずだと思ったといえると思います。同様に「徳」は「とく」であるが「とこ」もある、「御宇」は
 「みう」もあるが「みよ」もある、といえます。漢字もあると思います。

 (22)「有」の字
  有間皇子の、一四一、一四二の歌からでてくる文字は
     「」「」「浜松」「」「(を)」
 があります。
 再掲
    『 有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首
   一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
   一四二 家にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る』 

 〈三河後風土記〉には、次のような一文があり、一概に偶然の一致とはいいえないものが感じられます。

   『下嘉兵衛尉之綱(ゆきつな)時引(ルビ=浜松)の城主尾豊前守へ)』
   『引(後に浜松と改む)の飯尾豊前守・・・飯尾が後家淫乱・・』
   『遠州引{今の浜松}の飯尾豊前守をかたらひ』
   『飯尾弥右衛門』

 こういうのがありそうだというのは、「岩代」が〈三河後風土記〉の対武田戦のポイントのところの記事
に出てくるからです。太田和泉と武田勝頼が登場する場面で、
  
   『段々に押し出し●清井田原に本陣をすへ、惣軍は瀧川のすへ、いわしろ「ルビ=(岩代)東」川
   を越させ田原の近所、さきた・竹広・・・・・大海・ありしよ原(ルビ=有海原)に・・・・・・』

 があります。すなわち
  ○「いしろ」という、現代式の仮名遣いになっている(〈万葉集〉は「いしろ」)、
  ○岩代という漢字がルビになっている
 ので、とくに目立つものです。〈三河後風土記〉の著者が〈万葉集〉を利用しているようです。
また「有」の字も変わった形で出てきますので、すんなり通り過ぎるわけにはいきません。

      『ありしよ原(ルビ=海原)』〈三河後風土記〉
      『あり(ルビ=海)原』〈三河後風土記〉

 があり、「ありしよ」を「有海」で宛てています。下の方で「有海」を「あり」と読みながら、「海」を「しよ」
と読ませています。どこにこの記事のもとがあるのか、と聞きたくなるものです。筆者は〈万葉集〉のこのくだりで
あると思ったわけですが、「有海」と重なると「有明海」というのをやはり思い出します。また「有海原」
の「海」がやや不安定で●など「田原」の続いたあとなので「有田原」に変形させたいという感じがします。
「田原」は「俵」とは関係ないにしても〈信長公記〉の終わりの方にきて、
 伊賀の「東田原」(高畠四郎兄弟登場)、西田原(よしはらの城主吉原次郎登場)、宇治田原(徳川
 家康公、長谷川竹登場)というもののあるのは田原です。 芭蕉は〈奥の細道〉本文で
    「有馬」温泉を「有明」温泉
に間違っています。「有馬」が意識にあれば、確実に「有間」が頭に浮かんでいます。〈万葉集〉にも
温泉(ルビ=ゆ)がありますからそれは確実でしょう。また〈奥の細道〉の千住のくだり、

  『弥生も末の七日、(あけ)ぼのの空朧々として、月は明(ありあけ)にて光おさまれる・・・』

 の文があり、「有」=「在」という使われ方をしています。これは〈信長公記〉「荒木久左衛門」の一首
 
   『いくたびも毛利を頼みにありをかやけふ(今日)おもいたつあまのはごろも』

 これについてテキスト脚注では
        『「在岡」と「有り」、「天羽衣」と「尼崎」とをかけてある。』
となっていますが、そのようなことが芭蕉の脳裏にあると思います。ここの「在岡」の「岡」にも、「崗」
という字があるというのは、〈万葉集〉に「崗本天皇」も出てくるので、それは太田和泉や芭蕉にも
確実に想起されているはずです。山+岡となると、〈信長公記〉に「山岡氏」(テキストでは大伴
氏とされている)が出てきますし、山と岡が重なって「高い」というイメージも出てきます。したがって
「有」は「明」を伴い「有明海」となり、「有」も「明」も「海」も目的に適う漢字としてとりあげたといえると
思います。
 「有」は「在」も意識されているから、有明「ありしよ」といえば「在所」もあるかもしれません。「所」と
いうのは「嶋田所助」があり、「青木所右衛門」という一匹狼もあります。高山飛弾守と出てきた青木鶴
への波及にも利用されるたかもしれないわけです。
 「有明」+「海」「原」とあるのに加えて、「ありしよ海」ということになると「所」のほか「塩」「汐」とかの
ことがあるのかもしれません。「有塩海」「夕(有)汐海」というようにもなります。原も原和泉(〈信長公記〉)と
いう表記もあります。こういうのは行き過ぎだと感じられれば、あとで取り消してもよいわけですが、
こういう 『ありしよ原(ルビ=海原)』というものの読み方がわからない場合はなにがしか考えて
みるのも必要です。ただそんな必要がないというのはこれは転写ミスとか書きミスとかいう場合ですが
それは、『あり(ルビ=海)原』で「み」と読むべきと著者は知った上での話ですから否定される
と思います。
  「有」から「夕」「友」、「有」から「明」と「所」と「海」を出しきたといえます。有海(ありみ)は有宮でも
あります。「宮門」は「御門」=「みかど」でもあります。

 〈万葉集〉聖徳の皇子が出てきた詞書のキーとなる字は「宮」と「田」でしょう。
   「上宮」「竜山」「小墾宮」「小墾宮」「額
 があります。また、この〈万葉集〉の「竹原井」は、〈三河後風土記〉●「清」にもつながる
ものでしょう。〈甫庵信長記〉では「飯河(かう)山城守」というのは「河山城守」です。また

    『爰にて・・・・長九郎左衛門、(ルビ=イイ)の山に陣取り・・・・』〈信長公記〉

 とありますが脚注では「石川県羽咋市飯山(いのやま)」とあるように「い」です。「飯井の山」という
のと同義語とみてもよいようです。つまり●は「飯田原」ともなります。
〈武功夜話〉では〈信長公記〉のざれ歌を引き継いで「美濃尾張」のルビを「(身の終り)」としたりして
いますから、かなりそういうイタズラがあるわけです。
 〈三河後風土記〉は例えば「和田八郎」は
       「笠之助」
 と改名したというように書いています。「和田八郎」は和田惟政のところで出てきた「和田八郎」で、
     「和田新介・中嶋豊後守」「和田八郎、中嶋勝太」
というように出てきた人物です。
 明智三羽烏の「箕浦」は「蓑裏」もあります。したがってこの「蓑笠之助」の「蓑」は明智三羽烏の
「箕浦次右衛門」の「箕」であり、「美濃」でもあります。「笠」は「竹」ですから、竹の次右衛門が
「蓑笠之助」といっているようでなかなか油断がならない、ことをいっています。
 いま和田惟政と特に高山飛騨守が、高山右近を解く鍵と成るので、信頼できる人芭蕉に教えて
もらおうとして追っかけているところです。
 
 この豊前守は〈甫庵信長記〉の桶狭間直前

   『笠寺には、義元が兵葛山播磨守、岡部五郎兵衛尉、三浦左馬助、飯尾豊前守、浅井小四郎
    、彼等五人を入れ置きたり。』

 の飯尾豊前守の説明になりうるものです。はじめに挙げた
    『下嘉兵衛尉之綱(ゆきつな)時引(ルビ=浜松)の城主尾豊前守へ)』
 というのは、ここに藤吉郎が表われますので重要なところではないかと思います。

(23)憶良の役目
  
  〈万葉集〉のここ、聖徳皇子が出てきたところで、「額田」「推古天皇」が出てくるので注目されるところ
です。
      聖徳皇子==額田==推古天皇

  の関係が説明されねばならないところです。聖徳太子は推古天皇の皇太子で、推古天皇が額田
 ですから、推古天皇が「額田@」、聖徳皇子が「額田A」となるのでしょう。
  岡本宮のところとこの額田(聖徳)のところが繋がっているというのは、一四二と四一五の歌の類似
 ということがあるのでわかりますがそれ以外に、両方に山上の憶良が関係するということがあります。
 憶良は〈類衆歌林〉の編者ですが、「額田」の登場について回る人です。額田の登場する次の歌
 にも出てきます。

    『    額田王の歌 未だ詳(つまび)らかならず』
    七 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治のみやこの仮盧し思うほゆ
         右山上憶良大夫の類衆歌林を検(かんが)ふるに曰はく・・・・
      ・・・・・・・・・
         額田王の歌
    八 熟田津に船乗せむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
         右山上憶良大夫の類衆歌林を検(かんが)ふるに曰はく・・・』〈万葉集〉

 このように額田にしつこく付き纏っているのが憶良です。
         岡本宮==憶良==額田(聖徳A)
 というように関係づけがされている、いわば憶良は太田和泉守のようにあちこちに走り回り、人と
 人を結びつける役目を果たしているといえます。

  憶良も多様な名前をもっています。
     「山上憶良大夫」「山上憶良」「山上憶良臣」「山上臣」「憶良」「良(ら)」
     「憶良臣」「山上大夫」「山上」「憶良大夫」・・・テキストから
  この名前「山上憶良」というのは「柿本人麻呂」式の名前であるのは明らかでしょう。人麻呂式の
 名前ということは係累が出てこない名前ということです。柿本人麻呂から系図は作れません。憶良
 も阿倍仲麻呂も同じです。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉から太田牛一の系図は作れません。太安万侶
 も同じです。この一匹狼の表記は他の本名をもっているわけですが、それを考えようとしなければ
 こういう人がいたという説明だけで止まってしまいます。この「山上」は、戦国期の茶人で、貴重な
 記録を残した山上宗二に利用されたと思われますが、もちろんその山上宗二も孤立した姿しか出
 てきません。
  有間皇子を調べると必ず孝徳天皇の子というのが、出てきます。それで終わり、ということになって
 しまいますが、親二人いるのだから、もう一方の視点からもみないといけないのは、現在でも同じこと
 です。また聖徳太子は用命天皇の皇子で、推古天皇の皇太子になるというのはどういう意味がある
 のよくわからなくなります。もう一人の親の視点からもみなければならないということです。森蘭丸は
 森可成の三男ということでそうかということになりますが「森蘭丸{森可成二男}」というのが〈甫庵
 信長記〉にあるのだったら、注書の可成が別人ということであるかもしれないわけです。
 また、 
    「有間皇子、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首」
 とあるのは、「有間皇子が自ら悲しんで松の枝を結ぶ歌」と解釈されています。これだけみれば
   「有間皇子が、(自ら傷んで)松枝を結ぶ」
 というのと
   「有間皇子が、自ら傷んで(松枝を結ぶ)歌二首
 というのと
  二つの意味がありそうだと感じます。通常は「松の枝」というのが合っていると思いますが、松が
 主語で「松が、枝を結ぶ」というのがありそうだというのは、山上憶良が変なことをいっているので
 そうではないかというのが勘ぐられるものです。つまり憶良の歌は松を主語としています。
    「一四五 ・・・・・・・・・・人こそ知らね、松は知るらむ」
  というように松を主語にした歌をだしてきています。次の一四四の歌の「結び松」などは松が
  その枝を結んだものでしょう。
    「一四四 岩代の野中(のなか)に立てる結び松 こころも解けずにいにしへ思ほゆ」
 これは人が結んだものではなさそうです。この例は先ほどの
    「長谷の城と云うを相抱え候赤沢加賀守、内藤備前守与力なり」
 テキスト脚注では「赤沢加賀守は丹波長谷城主で内藤備前守与力」となっています。内藤備前守
 与力」というのを、「内藤備前守与力」と読んだわけで、よく読めばたしかにこう解釈できます
 が、まだ二人が与力という線も残っているともいえます。二人の関係をわかりにくく表現したことは
 明らかです。例えば
    「織田信長臣」という場合、織田信長より上の人はいないのだからこの場合は柴田勝家や
    佐久間信盛などのことというように解釈してしまいますが、つまり「織田信長臣」としか
    読みようがないということになっています。しかし信長は大納言にもなり右大臣でもあります。
    朝廷から官位を貰っているので「織田信長臣」というのは「織田信長という臣」ということに
    なります。「織田信長が臣」という意味になって二通りに取れるようなことになります。
    「蘇我入鹿臣」などは逆で、「蘇我入鹿という臣」だけしかとられませんが、蘇我入鹿が「みかど」
    ならば「蘇我入鹿臣」は「蘇我入鹿の臣」という第三者がいるということになると思います。入鹿二人
    でもよいのですが、「入鹿が臣」と置き換えて二つ読めるということでも、よいと思われます。
    昔に遡るとやはり暴力を行使するといった方に大勢が靡くというようになりやすい、憶良の時代
    もそうだったということは容易に想像できるところです。
このように憶良が出てきて太田牛一のようにいろいろ引っ掻き回しているのでこの辺りの編者は山上
憶良とみるのもよいのではないかと思います。山上憶良は額田に焦点を絞っているようです。
 
   有間皇子の松が枝を結ぶ歌は一四二の歌が全然あっていません。

      有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首
   一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
   一四二 家にあれば(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

         長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)結びを見て・・・・歌二首
   一四三 岩代の岸のが枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも
   一四四 岩代の野中に立てる結び こころも解けずいにしへ思ほゆ 未だ詳ならず
 
 一四三の歌と入れ替えれば

    有間皇子、自ら傷みてが枝を結ぶ歌二首
   一四一 岩代(いはしろ)の浜が枝を引き結び ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
   一四三 岩代の岸のが枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも  

       ▲長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)結びを見て・・・・歌二首
   一四二 家にあれば(け)に盛(も)る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る
   一四四 岩代の野中に立てる結び こころも解けずいにしへ思ほゆ 未だ詳ならず

       ▼山上臣億良(やまのうへのおくら)の追和する歌一首
   一四五 鳥翔成(ツバサナス)あり通ひつつ見らめども 人こそ知らねは知るらむ
                                  右の件の歌どもは・・・挽歌の類に載す。
   ・・・・・・・・      』〈万葉集〉

のようになります。
  ▲の人物は「長忌寸奥麻呂」もありますので、「奥」は「憶」ですから▲▼はつるんでいて一四二の
 歌を聖徳太子を呼び込んでくるために作って入れたということも考えられます。異動させると分かり
 やすくなるのは〈万葉集〉でも同じだという意味で述べましたが、こういう手法が時代を超えて連続
 されているわけです。
 要は歌書としてすばらしい〈万葉集〉ですが、それを構成して、文を入れて歌物語に組み替えて語り
を後世に伝えた人が多くいたということなので、歌として名作といえないもの、誰でも作れそうだ、説明
的過ぎるというものがあるのです、それを読むのが歴史的なことの理解に不可避ということにもなって
います。
 ここまでは高山右近と関係のある話があるということで長々と述べてきました。とりあえず「竹」が「高」
となりうるという話では「武井夕庵」が「高井夕庵」にもなりうることを示します。

(23)肥後守、兵庫頭、越中守、丹後守
武井夕庵というのは〈甫庵信長記〉では
     「武井肥後入道夕庵」「武井肥後入道」
     「武井夕庵」「夕庵入道」「夕庵」
     「妙印入道武井肥後守」
     「武井肥後守夕庵」「武井肥後守」    以上表記で10回登場
     「二位法印」                          9回登場
 が武井夕庵と認められてきました(巻末人名索引による)。〈信長公記〉では
     「夕庵」4回と「二位法印」5回見当です。他に校注者注として「武井爾云」があります。

 これに筆者が述べてきたのは「丸毛兵庫頭」です。これは登場回数が13回となり巾が広がって
きました。これの根拠は、「武儀」とか「武芸」とかの土地を追っかけて得られるものとかもありますが
〈甫庵信長記〉人名索引では「野村」があり「野村越中」「野村丹後守」「野村肥後守」「同兵庫頭」
「野村与一右衛門」という野村が出てきます(これで全部)。したがってこの二字「野村」の意味は

   「野村」==@野村越中守(登場は、味方少人数の激戦に勝利した六条合戦の戦闘大将として)
           A野村丹後守(登場は人名羅列のうち)
           B野村肥後守(同上)
           C同兵庫頭
           D野村与一右衛門(登場は曰く付き、すなわち加工された感じの人名羅列のなか
                        にでてくる。)

 を包摂した意味のものとなり、
  @は、その人物の重要性、周辺人物、〈信長公記〉との関係やらで人物の見当がつけられる
    明智の総帥として捉えられていることがわかる、といえますが「越中」は高山右近も思い浮かぶ
   ものです。またなぜか細川越中守(忠興)もあります。
  Aからは「細川、明智」が出てきて
  Bから「武井肥後守夕庵」が出てくる
  Cから「兵庫」が使われる人物は「丸毛兵庫頭」しかいないことを知る
  Dはこれらの応用を考えていそうだ、
ということなどが出てきます。Dは与一というと那須与一が出てきますからそれを利用して夕庵を
語るという人物もでてきます。こういう一触即発のところ、〈三河後風土記〉から

    『野村(ルビ=丸毛)兵庫頭(ルビ=)』〈三河後風土記〉

というのが出てきます。既述の部分だからここは割愛して、ここで野村兵庫頭は丸毛兵庫頭を指し
ますから、多芸(たけい)郡の丸毛兵庫頭は「長照」ですから、ここの「友」は、「夕照」でもあり、
「友」はあの高山右近重友の「友」ですから、〈武功夜話〉の「高山右近太夫」というのは、親子の二人
を表した、また細川の外戚にあたる二人なども表した、たいへんなことを語る表記といえます。先ほど
Bから、野村と夕庵が繋がり丸毛にいきますが、「夕庵」には「高山」が意識されていることがいえ
るかどうかも、気になるところです。これについは、武は高ですから夕庵は、高山夕庵といってよい
存在です。また「高山飛騨守」が「夕庵」というのが何かを解してわかれば、夕庵と右近が親子として
重なるといえることになります。まず「高山」の「高」です。

 (24)高岡   
 〈奥の細道〉の「金沢」のくだり「卯の花」が出て、〈三河後風土記〉で武井「夕庵」が「卯の花」を
読み込みました。ここのところ〈曾良日記〉では、下のように「竹」がたくさん出てきました。これは
第二稿で既述です。
 再掲、
  〈曾良日記〉

   『七月十四日・・・・氷見・・・高岡・・・・ナゴ・二上山・イハせノ等・・・高岡・・・少□同然・・・
   (七月)十五日・・・・・高岡・・・・・埴生八幡・・・・源氏山、卯ノ花山・・・・金沢・・・・京や吉兵衛
   ・・・・雀・一笑・・・雀・牧童・・・一笑・・・雀・・・川原町・・・●宮や喜左衛門・・・・・・
   源意庵・・・・斎藤一泉・・・・徹・・・・北枝』

 先ほど●の「宮竹や喜左衛門」について触れました。これは〈万葉集〉から出たような結果になり
ましたが、このあたり、やはり〈万葉集〉も加わってきて、巾が広くなってきました、〈万葉集〉の「有」
「海」も意識されているようです。〈曾良日記〉のこのあたり、〈奥の細道〉本文では、那古の浦から金沢
へ入ったところにあたります。すなわち「★(ありそうみ)」が出てきました。「ありそうみ」は通常
は「荒磯海」のはずですが「有田」の「有」をもってきました。


     『くろべ四十八(しじふ)が瀬(せ)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(なご)と云(いふ)浦に出(いづ)。
   ■擔籠(たこ)の藤浪(ふじなみ)は春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あはれ)とふべきものをと人に尋
     (たづぬ)れば、是(これ)より五里いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)
     ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじといひを(お)どされて
     かゞの国に入(いる)。
        わせの香や分入(わけいる)右は★(ありそうみ)

     卯の花山くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日也。に大坂(おほざか)より
     かよふ商人何処(かしよ)と云(いふ)者(あり)。それが旅宿をともにす。一笑と云(いふ)もの
     は、此にすける名のほのぼの聞こえて、世に知人(しるひと)も侍りしに、去年の冬早世
     したりとて、其の兄追善を催すに、
       塚も動け我が泣く声は秋の風
          ある草庵にいざなはれて
       秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜(うり)茄子(なすび)
          途中吟
       あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 
         小松と云(いふ)所にて
       しほ(を)らしき名や小松吹く萩すすき
    此所、太田(ただ)の神社に詣(もうづ) 』〈奥の細道〉

 テキスト(旺文社文庫)では「那古」というのは「奈呉の海、名古浦ともいう。・・・・」となっており、
〈万葉集〉の
     「港風寒く吹くらし奈呉の江に妻よびかはし鶴(たづ)さはに鳴く」
 という(大伴家持)の歌が引用されています。まあ佐々の「余呉の海」も思い浮かべられていそうです。
注目点は■のところです。
テキスト脚注では「たこ」は

   『多古(示篇あり)、田子、多古などとも書く。いま氷見市宮田に田子の字(あざ)が残っている。
   藤の花の歌名所として知られ〈万葉集〉にも
      多古の浦の底さへにほふ藤波をかざしてゆかむ見ぬ人のため(内蔵忌寸くらのいみき縄麻呂
   とある。』〈奥の細道〉

 とあります。
まず、「呉」は「古」となるのだから
        「ご」=「こ」
といえます。
 芭蕉のここは明らかに〈万葉集〉の歌の引用がされています。「たご」というと山部赤人の
   「田子の浦ゆうち出でて見れば」という富士の歌が思い出されますが、こちらは富山、いま富山の話
でそんなこと関係がないということになりやすいのです。

  『高岡へ出ル。二里也。ナゴ・二上山・いハせノ等ヲ見ル。高岡に申の上刻、着テ宿。』〈曾良日記〉

 となっていて、〈万葉集〉3985番には「二上山(ふたがみやま)の賦一首{この山は射水郡にあり}」
とあるので二上山は射水郡(高岡市、氷見市も含む)にありますが、ここに「荒磯(ありそ)」もでてきます。
人麻呂にも荒磯(ありそ)、赤人にも荒磯、片貝川の大伴家持の荒磯、芭蕉の〈奥の細道〉の荒磯が
あります。場所はどこでもよいようです。高岡あたりの荒磯から人麻呂が想起される、田子からは赤人を思い出す、
    「二上山」
ときけばここに墓がありますから大津皇子を思い出すわけです。〈三河後風土記〉の著者は人麻呂から
すぐ赤人を思い出す、そういうようなものがあるといえます。〈三河後風土記〉にある挿話ですが
 細川幽斎が庭の柿を懐中にしたのをみた秀吉公は
     「柿の本に人まろくこそ見えにけり 爰はあかしの浦かしら波
      ・・・とありければ幽斎・・・・柿を取り出し
      太閤の御前ではじを柿の本 人まろならで顔は赤人・・・・」〈三河後風土記〉

 というのがあります。なにもかも織り込まれて混然としているということです。恥を掻きという「かき」を
「柿」としています。これなら柿は書く描くの方がより近いともいえます。
その上に先に出た★の「有」もあり、忌寸(いみき)などもあるから〈万葉集〉の中でも、有間や柿本人
麻呂が出てきた、はじめに揚げた〈万葉集〉の一節はここの部分につながっているといえます。とくに
    有馬・有間・有明もある「有」
が、有明海、有磯海、有宮、田子などから「有明」「有海(宮)」「有田」というのがキーワードとして意識されて
いると思います。芭蕉の〈奥の細道〉にもどりますが
 「いひを(お)どされて」というのがありますが、テキスト脚注では「人々からおどされて氷見へ行く
 ことをやめた。」と書かれています。〈曾良日記〉にも「ヒミ」が出ていました。脚注の「氷見市宮田に
 田子の字(あざ)」というのがありました。要は「氷」が宮と田に接近したということでしょう。
     「永」ーー「氷」ーー「水」
 が似ているわけです。「永原」とか「永田」という「永」の字が夕庵の属性語句といってよいのでしょう。
太田和泉守の「又」のようなものです。「天永寺」の「天沢」といいますから「天」「永」に「沢」も入る、
「沢」は「たけ」と読みますから「竹」「武」となります。  「いひを(お)」から飯尾も連想されていると
思われます。
「金沢」というのも「金色」の「竹」という感じでよいのでしょう。
「商人何処(かしよ)と云(いふ)者(あり)。」の「何処」がわかりません。テキスト脚注では「大坂の
商人で蕉門。」とされています。大坂の「一笑」という人と、金沢の「一松」という人が重ねられている
と思いますので、ここは一元的に取ると読み間違えるということは既述です。昔馴染みの「一笑」
ならば亡くなったときに連絡を受けているはずですから、去年早世した人は大坂の「一笑」ではない
ようです。
 ここの「大坂」のルビも「おほざか」となっておりますので「おおざか」も地元のどこかという可能性は
あります。なにしろ「卯の花山・くりからが谷」というように「山谷」対置されているような土地柄ですから
いたるところ坂が地名にとりいれられていることも考えられます。ここの
      「何処(かしよ)」
も問題です。門人の名前が書いてありませんので、ほかの意味があるのかもしれません。
  ○場所の「どこ」という意味があるとすればよくわからなかった次のことが絡むのかと思われます。
      『ありしよ原(ルビ=海原)』〈三河後風土記〉
      『あり(ルビ=海)原』〈三河後風土記〉
 がありましたように、ここの「何処(ルビ=かしよ)」の「しよ」というものも「有」とか「海」に関わります。
 「有」は「夕」「友」に、「海」は「北海」「天海」につながるわけですがここは何処(どこ)の海という問い
 かけの「有明海」というのも出したかったと思えます。
  ○「に」というのが出てきましたから誰かが登場してくるはずです。     
 「何」は「か」と読みますから漢字が一字呼び出されますが、「処」というのは名前で使われる場合は
「すみ」と読むようです。すなわち「すみか」というのは「住処」と書きますので、
     「何処」=「かしょ」=「かすみ」=「霞」
 ではないかと思われます。「す・み・か」から「かすみ」がでるでしょう。霞角というのも「かすみ」です。
この霞というキーワードに加えて「一笑」というのが太田和泉守が使用している語句でもありますが
「一」は「市川大介」の「一」や「由宇貴(喜)一」とかの「一」でもありますが
     「笑」は「竹」と「天」
でもあります。一応この加賀のあたりの〈奥の細道〉本文のキーワードを拾ってみますと

   『くろべ・・・・・瀬(せ)・・・・・那古・・・云(いふ)・・・・・・■擔籠(たこ)・・藤・・春・・・初秋(はつあき)
    ・・・・・是(これ)・・・・いそ伝ひ・・・・蜑(あま)・・・・・・蘆(あし)・・・・・・・いひを(お)、・・・
    かゞの国・・・・・・わせの香・・・・・・・・・・・・・・★(ありそうみ)

   卯の花山くりからが谷を・・・・、金沢・・・・・・・・・大坂(おほざか)・・・何処(かしよ)・・云(いふ)
   ・・・(あり)。・・・・・・・・一笑と云(いふ)・・・・此・・・・・・・早世・・・・・兄・・・・・塚・・・・・
   ・・・・秋の風・・・・・・草庵・・・・・・秋・・・・瓜(うり)茄子(なすび)・・・・あかあかと日・・・・・
   難面(つれなく)・・・・あきの風 ・・・・・・小松・・・云(いふ)所・・・・・しほ(を)・・・・・小松・・
   ・萩・・・此所・・・・太田(ただ)・・・・ 』〈奥の細道〉

 「くろべ」の黒は黒田の黒ですが、〈万葉集〉の黒と〈信長公記〉の黒がこのあたりでかち合います。
 〈信長公記〉では
      「石黒左近」(これは脚注では越中砺波郡木舟の人物)
      「石黒与左衛門」(家老)
      「黒瀬左近」(脚注では、加賀江沼郡黒瀬の人物)
      「小黒(ヲクロ)の西光寺」
という黒もあります。「左近」とつながった黒なので高山右近の意識が芭蕉にある、といえます。
〈万葉集〉では大伴家持が越中国に赴任してここで詠んだ豊富な歌群があり、太田和泉、芭蕉など
に取り込まれたのは明らかです。家持には

   『二上山・・・射水郡・・・・射水川・・・荒磯・・・・奈呉の海・・・水海・・・藤波・・・・卯の花・・・・
    砺波山・・』
などがあり、
   『・・・鷹を思いて・・・山高み・・・・・草こそ茂き・・・鵜養(うかひ)が伴は・・・・清き瀬・・・鷹はしも
   ・・・・吾が大黒に{大黒は蒼鷹の名なり}・・・・・』

と鷹も大黒も出てきます。黒部は〈信長公記〉「黒部源介」、〈甫庵信長記〉では「里部源助」で出て
きます。「里」が右近近辺で使えるのかもしれません。大黒あん〈信長公記〉はテキストでは「武野
紹鴎」とのことです。武田氏の子孫〈藩カン譜〉。」とされており、武野は「武田」「武井」で夕庵か
牛一、「紹鴎」は大松永という二人が重なった表記といえそうです。
家持もここでそれを使っています。

 「瀬」は「中川瀬兵衛」の「瀬」で、瀬戸地方、瀬戸内海とかがすぐ浮かびますが、これは直接的には
大伴家持の例えば4000番「立山の譜一首」にある長歌の中の「片貝川の清き瀬」とか短歌の
   「片貝の川の瀬清く行く水の 絶ゆることなくあり通ひ見む」
 を踏んでいるのはあきらかです。一方「瀬兵衛」は「清兵衛」からきている感じがあります。加藤
二十四将のなかに加藤清兵衛というと表記の人がいたと思いますが、加藤清正と、中川清秀の
「虎之助」が関係ありそうという表記なのかもしれません。太田牛一が「とをる」の場面で「野尻清介」
を出してきましたが「清介」という名は「平手清秀」「中川重清、清秀」「知人太郎国清」などの「清」
で、武井夕庵と結ぼうとしたといえます。常山は
野尻は熊沢蕃山の本姓であり、もう一人の加藤である加藤嘉明の士、野尻藤兵衛の子といっていま
す。まあうまいこと野尻が出すぎるので、蕃山は自分は高山の関係者といいたいのかもしれません。
 熊沢蕃山は備前に住むのは当然としても転居の好きな人で「播磨の赤石に移り居る。」となってい
ます。高山右近は、高槻城が属性と思いますが、そのあと明石の船上城にいたということです。常山
は赤石(あかし)と書いてあの「明石氏」への当たりを和らげたのかもしれません。転居先をみると高山
を語るための転居とも勘ぐられます。
 「加藤」の「藤兵衛」も高山がらみで出してきたというのが結果的にいえることです。「加藤嘉明」は
塙団右衛門の旧主として知られていますが、「孫六」ですから「関の孫六」というのが頭に入っている
かも知れません。「関」は〈奥の細道〉のキーワードの一つです。
ネット記事(n-p-s/Mogoroku.htm) 『孫六の斬れ味』をみますと、この孫六は刀鍛冶、正宗、村正と
ならんで大衆に親しまれている人で
        「関の孫六三本杉」
というのが、その刀の刃紋の名称のようです。杉は「すい」で「杉津」は〈明智軍記〉にも「スイツ」「スイヅ」
二通りがあります。木三本+津の国、角(ツノ)国ともいえます。太田牛一は「すい津」と書いています
から、「すい」は何かを宛てることを前提としている、「笛を吹く」という「吹く」つまり「吹田」の「吹」を思
い浮かべているかもしれないといいましたが、「吹田」→「深田」で「高山」ということでした。「すい津」
は「吹津」などは例がないといわれるでしょうが太田牛一の活動一つの中心地、姫路には「魚吹津」
(うすきつ)があります。ネット記事(siromegu/usukitu)と(asahi/hyougosiro)によれば赤松、三木
興亡の場所でもあります。これは「魚杉津」の方が当て字としてはよいようです。「すい津」は水津
もあるはずだと思っていたらネット記事で、室町時代は「水津」だったというのもありました。
 藤兵衛は「明智次右衛門・三宅(ミヤケ)藤兵衛・・・」〈明智軍記〉もあり加藤二十四将に三宅角左
衛門もいたと思いますが、それなどはうまく加藤と高山、明智を結んでいる感じがします。
高山右近は加藤氏と関係が深いようです。
 那古は「奈呉」のようで「余呉」「余語」に行き着きそうです。
 「云(いふ)」の「云」はあと三つあり、伝えるの「云」もそうでしょうから武井爾云の「云」につながりえ
ます。雲は「雨+云」です。
ここから 雲竜という名前とか宇雲(三河後風土記)とかいう地名も出てきて夕庵との関連も匂わされ
ることになります。
 「たこ」は氷見市大宮田子、の地ですが、田子というのは「たご」でもあり「赤人」が出てきますが、
「たこ」は「蛸」→「蛸壺」→「源氏物語」→明石→赤石→赤人というのも意識されていそうです。
蜑(あま)・は海人ですから、天、海をあらわすでしょうし、「蘆」は「あし」であり「よし」であり「葭」でもあり、
葦もあります。穂の出さないものを葦というようです。
 葦の類が荻で、これは蘆荻(ろてき)というものもあります。「荻」は「萩」にも似ているといえます。どちら
 もよもぎですからまあ同類なのでしょう。
〈信長公記〉「とをる」の出たところで「又二郎」「大蔵二介」「大蔵新三」など多くの名前を揚げましたが、
「大蔵新三」には、次のように「あしかり」が付いていました。
   「あしかり ワキ大蔵新三   金春・・・・・・紅葉がり ワキ大蔵新三 金春・・・」〈信長公記〉
「ワキ」は小文字です。本来「あしかり」も太字にしなければならないところですが、この「あしかり」を
あのとき省きました。これは、高山関連から外れるではないかということになりそうなのでそうしました
がこの「蘆刈」という「世阿弥」の曲名も関係があります。「刈」は「たけくらべ・かりやす」〈信長公記〉
という地名と関連づけられます。テキスト脚注では
   「たけくらべ」は「長比。滋賀県坂田郡山東町長久寺のうち」となっており
   「かりやす」は「刈安尾。坂田郡伊吹村」
となっています。また「蘆」はすでに出ました。荻・萩につながるので、氏家の荻野道喜にその関係が
示唆されたといえます。荻は丹波の春日につながっていそうです。赤井直正(赤井悪右衛門)は荻野
氏でこれは明智光秀と因縁のある人物です。丹波氷上郡黒井に拠って戦い降伏しています。
 黒井城というのは「氷上郡春日町黒井」にあり、春日局の幼時に関係が深い城のようです。
 黒井城が落ちて
       『維任・・・・・永永丹波に在国候て粉骨の度々の高名・・・・』
 ということで光秀が誉められていますが、ここの「永永」というのは「長長」も使われるものです。
「長」は「丈」のような意味で「たけ」とも読まれます。森長可・森長定(蘭丸)・などの「長」は「竹」「武」
が含まれているといえます。

(25)桶狭間の高山
 この黒井の「黒」、黒部の「黒」の出てくるところ「黒田」の「黒」が意識にあると思いますが、夕庵と右
近を結ぼうとする意識がみられるところがあります。桶狭間の前の一節です。

   『鳴海の城、黒末(くろずえ)の川とて入海、塩の差引き城下迄これあり。
   谷合(たにあひ)打ち続き、西深田(ふかだ)なり。此よりへはつづきなり。
   城より廿町隔て、たんけという古屋しきあり。是を御取手(とりで)にかまえられ
    水野帯刀・山口えびの丞・柘植(つげ)玄番頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉
   に善照とて古跡あり。御要害候て、佐久間右衛門・舎弟左京助をかせられ、中嶋とて小村
   あり。御取手になされ、梶川平左衛門をかせられ・・・・・』〈信長公記〉
     
 黒末のところ脚注では「天白川」となっています。いま天白区があり、そういう広域の地から流れて
くる川でしょうが、なぜ黒というのかよくわかりません。黒・白一対で左近は右近とかいうことをいいたい
ため反対を出したのではないかとも考えられます。
また方角が東三つ、南二つ、西一つで、情況、地形説明なら北がないのがおかしいという感じです。
「海」「海」「塩」があり、谷・山の対置があり、「深田」があり、これに関しては「取手」が二つ、似たような
施設では城が三つ、要害があります。深田に関連して中嶋があり、中嶋は中川瀬兵衛が陣し、ひとつ
屋高山右近があったあの布陣表につなげようとしているのは感じられるところでしょう。
 「古」「古」「小」という「こ」があり、「右衛門」「左京助」「平左衛門」の登場となっています。
ここでは水野帯刀以下の名前が重要でしょう。水野というと徳川家康の生母の出だということで徳川
の水野、三河の水野となってしまいますが太田和泉守に軸足をうつしてみると織田、尾張の水野が
浮かびあがってきます。水野の表記は「水野帯刀」という比定不可能な人物のほか
  「水野九蔵」「水野久蔵」「水野藤次郎」「水野宗兵衛」「水野宗介」「水野国松」「水野金吾」
  「水野大膳」「水野下野守」「水野監物」 以上は〈信長公記〉のもの
 があります。この表記の整合が要るわけですが「水野帯刀」というのは黒母衣の一人ですから、
織田の中核的人物です。読者から教えてもらったところによると、
        「水野太郎左衛門家」
というものが信長より朱印状を拝領し鋳物の統括をしていたようで、水野家の祖は春日井郡上野
村(現愛知県春日井市上野村)であろうということです。ここは小瀬甫庵の出身地です。
 それはともかく、水野の「水」は「永」に似てるので感覚的には「永野」というくらいにして読めば、
徳川ー三河ー水野という呪縛から免れると思います。「水野」だけでも延々とした話となるのでしょうが
「真木」姓の人は二人もいて「十郎」です。いま気にしていることは伊丹布陣表にここの
黒末の記事が関係しているということをいったのでどこでそれが結びつくのかということです。

(26)大津伝十郎
伊丹布陣表再掲

        〈信長公記〉                 〈甫庵信長記
 一、高槻の城御番手御人数、                 高槻の城に、
               ●大津伝十郎・                ●大津伝十郎
                牧村長兵衛・                  牧村長兵衛
                生駒市左衛門・                 生駒市左衛門
                生駒三吉・                    同三吉、
                湯浅甚介・                    湯浅甚介
               ▲猪子次左衛門
               ▼村井作右衛門
               ★武田左吉。                   ★武田左吉。

 〈信長公記〉布陣表@から布陣表Aを引いて上のものが残ったので、〈信長公記〉は実際いない
人をここに出したといえます。現に▲と▼とは〈甫庵信長記〉に載っていません。
〈甫庵信長記〉では二字の「高山」と高山右近がありますので

  二字の高山==高槻の城にいる人物==六人(大津・牧村・生駒・三吉・湯浅・武田)

 と括ってしまったと思われます。この6人は誰かという問いを出したといえます。
●の人物は布陣表@のときにはいましたが、そのあと

  『三月十三日、高槻の城御番手おして大津伝十郎遣わさるるの処に、病死の由候キ。』

 となっていて、これは〈甫庵信長記〉にないものです。一般の読者は大津伝十郎の死は知らなかった
といえます。「キ」というのも気になるものです。「候。」「候なり。」「候キ。」というのがあるから度々出てくる
違った表記になっています。
テキスト人名注では
     『大津長治  実名長治(永禄十二年正月十九日附折紙)〈鹿王院文書〉 』
 となっています。別所長治と同じ名前なので夕庵関連と見てよく「長昌」もあるようです〈辞典〉。
 この「昌」という字が重要で夕庵が卯の花を入れて読んだ歌のところに武田四郎(勝頼)と山県昌
 景が出てきます。武田には内藤昌豊という大将もいてまたそのあたり夕庵和泉の物語が出てくる
 ことになりますが、そういう武田ワールドに入る一つのきっかけともなる字が「昌」です。したがって
 「長(なが)(たけ)」とくっ付いた「昌」というのが及ぼす結果からみて重要な名前を付けられたと
 いえると思います。つまり、本人の名乗りか、文献上の名前かどうか、ということを考えさせる名前
 といえます。

  結論でいえばこの「大津長治(昌)」という人物は高山右近の一時期を表す別表記ではないかと
みられます。
   ○「伝」というものがあるから「伝える」というものがある。「十郎」も「(九+一)郎」であり、ややあいま
    いである。
   ○この高槻ゾーンは、見慣れない名前で引き当てがむつかしい人物ばかりである。
ということから高山右近を明らかにするためのヒントを与える、周辺の人物を紹介する、高山右近の属性を
増やすというようなことをしようとしたと思われます。まあ
    「大津伝十郎」=(高山右近周辺)
というようなことになるということです。

高山右近の初登場は天正六年で比較的遅く(25歳くらい)、大津伝十郎は、天正四年の登場になり
ます。この天正四年は
      「原田備中・塙(はのう)喜三郎・塙小七郎・蓑浦(みのうら)無右衛門・丹羽小四郎」〈信長公記〉
が大坂本願寺との戦いで戦死しますが「原田」「塙」などの表記が誰かを表して用済みになって消した
といえるのでしょう。
 「蓑浦無右衛門」は「蓑浦次郎右衛門」という表記を消したといえます。これは明智三羽烏の一員で
した。「丹羽」も「丹羽兵蔵」「丹羽勘介」「丹羽右近」「丹羽源六」とかいう怪しい表記がありますが
これが代用表記というような感じのものなので消し合っているといえますが、この戦死の前後に
大津伝十郎が初登場するわけです。

   天正四年  @「佐久間甚九郎・惟任日向守」「(検使)猪子兵介・大津伝十郎」
   同じく     A「佐久間甚九郎・惟任日向守・猪子兵介・大津伝十郎」
   天正六年   B「矢部善七郎・大津伝十郎・大塚又一・青山虎。」
   同じく     C「大津伝十郎・水野九蔵・大塚又一郎・・・・万見仙千代・祝弥三郎、」
   同じく     D「宮内卿法印・大津伝十郎」
   同じく     E布陣表    前出
   天正七    F年死亡記事   前出
というものです。
@とAは大物と行動している、大茶人の佐久間甚九郎、明智光秀、猪子兵介は太田和泉と取っても
よいから、部隊長にまじった織田の中堅どころといった感じがします。猪子兵介はEの布陣表の「猪
子次左衛門・・・大津伝十郎」の相関を意識したものでしょう。
BCは@Aと比較して次世代の人と登場という感じです。この「水野九蔵」が「久蔵」でもありますし
桶狭間の「黒末川」の「取手」がEに関係しますし、出てくる人名羅列のはじめ「水野帯刀」に
つながりました。すなわち

   『合(たにあひ)打ち続き、西深田(ふかだ)なり。此よりへはつづきなり。
   ・・・・・・・・・
   水野帯刀・山口えびの丞・柘植(つげ)玄番頭・真木与郎・真木宗郎・伴左衛門尉・・』

という人名羅列に津伝十郎が呼び出されるわけです。 ここは海などの夕庵色、深田などの高山色
があるところで「取手」がEとつながっています。
「大津伝十郎・水野九蔵・」という並びは水野九蔵がやや諸口的(一から九までがどれでも入る)
ので伝十郎もそのようなものととれそうです。布陣表において「大津伝十郎」を「高山右近」と書くと
他地域で出ている高山右近と重複する、六人(大津・牧村・生駒・三吉・湯浅・武田)の操作性が出て
こず、語りに差し支えるということでこのような表記にしたといえます。操作性というのは、大津の次の
(牧村)の(牧)が上の二人の「真木」の「十郎」の「真木」に繋げられていそうだ、というようなことです。
Dは全体を読んできたあとでは武井夕庵とペアということ出てきます。

 @〜Dの、こういう登場から若手の官僚らしい、検使ということから信長の側近信頼の厚い人という
のが出てきて、〈辞典〉では「信長の代表的側近」となっており、「馬廻」ともされています。

〈辞典〉では「大津長昌」として

   『中島郡府中宮の住人(高野山過去帳)、妻は丹羽長秀の娘という(重修譜)。』

 となっており、これは「中島」「府中」「宮」「丹羽長秀」となると夕庵和泉の関連になるので、物語
的ですし、丹羽長秀の娘などがでてくるのは、大津伝十郎に接近して出てきた「丹羽小四郎」など
に意味を与えようとしたものかもしれません。まあ丹羽長秀を武井夕庵と置き換えてみると、ここの妻は
武井某となるのでしょう。はっきり言えば妻が武井夕庵の娘ならば連れ合いもその子になります。
 大津伝十郎は単に著述のために使った名前かどうか、太田牛一は長昌とか長治とかいう名前は
使っていないが考証されているこの名前既述の通り重要な字が使われています。状況では高山右近
は、確実に大津伝十郎といえます。

 ここですぐ異論がでそうです。天正六年から高山右近で出てきたのだから、天正四年あたりでも高
山右近を隠す必要はなく、高山右近と名乗ってもよさそうなものではないか、ということです。これは
合っていることですが、このため大津伝十郎をほったらかして誤解を生んでしまうことになりました。
つまり隠したかったのはその出自ですから、地方豪族高山飛弾守の子息として高山右近は出てきて
います。二段構えの登場をさせて「大津伝十郎」で「信長の側近中の側近」、信長の親戚にも当たる
かもしれない人物として、高山右近の事前紹介をしなければならなかったと考えられます。もう一つ
大津伝十郎には、「長治」「長昌」とも文書の裏付けがある(辞典)とされている点です。
     永禄十二年、〈鹿王院文書〉、〈尊経閣文庫文書〉
などあり、「この頃は伝十郎長治と署名している」(辞典)となっています。前者は南禅寺関連の文書
のようですが、後者では
            「■天竜寺意足軒周悦の世話に努めている。」
となっていて「意足軒いそくけん」という人名が出ています。
「天竜寺」は芭蕉に「丸岡天龍寺(脚注は天竜寺)の長老」があり、「丸岡民部少輔」を使った太田牛
一には北国の天竜寺はもちろん天王寺屋竜雲や魚住竜文寺・・・など「竜」や「天」は自己を表現す
るものとして取り込んでいます。
「意足」は「松本為足」の「いそく」もあります。(〈戦国〉)
「意」は「長忌寸(ながのいみき)吉麻呂(おきまろ)」の「意」があり、これは「奥麻呂(おきまろ)」
もあり柿本人麻呂に接近してくる人物であり、人麻呂は「大津」が属性です。
「足」は既述「不破河内守」の不破矢足の足でこの人物は竹中半兵衛と事績が重なっていました。
「軒」は俵屋宗達の「対青軒」、「屋斎軒」の「軒」です。貝が出ましたが貝原益軒の「軒」もあります。
「周」は「小林瑞(端)周軒」があり単独表記「周永」があり、これは「平蔵・宗永・木村いこ助・周永・・
・・太田平左衛門・・・」というようなところで出てきます。
天竜寺のネット記事には戦国期の話は何もないようです。秀吉も造営しているはずでそのときには
多くの画家も参集したはずです。大津伝十郎がここにいたというのは大きい話です。〈信長公記〉に
六回も登場している人物ですから。あの英雄「黒田官兵衛」でも「小寺官兵衛」で一回だけです。

 要はこういう文書は太田牛一が〈信長公記〉を完成させたあと、それをよりよく説明するために作
られた作品の一種というのがいいたいところのことです。太田牛一は当時高山右近が大津伝十郎と
名乗っているのを知っているから使ったということであれば一番すっきりすることですが、目的のある
表記と思わせるのが「大津」「伝」「十郎」ということでここまできました。生駒市左衛門とか生駒三吉は
どうなるのかということも含めて決まることでもあります。すこし補足すれば

  ○大津伝十郎は「三月十三日・・・病死の由候。」〈信長公記〉となっており、近くの出来事なの
   にやや伝聞形となっている。〈辞典〉では
    「〈高野山過去帳〉は、その没月日を十一月十日としているが〈公記〉の方を採るべきであろう。」
   となっている。すぐ亡くなって消えてしまうので高山右近の断面を語ったとみるのは妥当である
   が、太田牛一の早く消してしまおうという意図を見抜いて、引っかきまわしてやろうとして引き伸ば
   したのが〈高野山過去帳〉といえるので大津伝十郎は実存在ではないとみてもよいと思われる。
   また甫庵の読者は大津伝十郎が亡くなったことは知らないので、「伝」で察するようにさせたとする
   しかない。
  ○大津伝十郎が長治を長昌にする必然はないと思われる。
  ○■の名前が不自然なので文書は同世代、または後世の‘作品‘と考えられる
  ○のち「大津宰相」と呼ばれた京極高次という人物がいるが、「高」という字がつくので、大津伝十
   郎と「高」を結ぶために、「大津宰相」と呼ぶようになったのかもしれない。
  ○大津は柿本人麻呂があり、伝十郎ということで語りのために入れられた。後世の人は大津から
   柿本人麻呂を引き出している。

 などからも、太田牛一は大津伝十郎を、高山右近の説明をするために出してきたといえそうです。
まあここでは
         @大津皇子 = 柿本人麻呂・・・〈前著〉
         A大津宰相 = 高次
         B大津伝十郎= 高山右近
 というものが太田和泉守の頭にあった、ということになるのでしょう。@を教えようとするものもあると
思います。

(27)牧村長兵衛
  布陣表の牧村長兵衛について考えてみるのもヒントになるのかもしれません。「牧」という字に
は著者がこだわった操作があります。尾張の小牧山には城がありましたが〈武功夜話〉では表題は
    「小牧の事」としながら中身は「駒来山」
が使われルビは、当然「駒(こま)来(き)山」となっています。「小牧山」となると「こ まき やま」という
ルビになります。つまり「こま き」でも「こ まき」でも口でいえば同じで書くときに、漢字を宛てている
から違ってきます。これが〈信長公記〉では読み方が「こ ま き」となるように漢字が宛てられています。
 〈信長公記〉首巻に小牧山に城を築き清州より移る話があります。

   『後に小牧山へ御越し候はんと仰せ出され候。小真木山へはふもとまで川つづきにて・・・・
    小真木山並びに・・・・・・』

 「小真木」を二度使い、「小牧」は一度です。この一節はいろいろ懸かっているところで〈戦国〉でも
既述ですが、一つはこの
        小牧=駒来=小真木
のことがあります。この一節には「高山」が出てきます。
     『山中高山二の宮山へ御あがりなされ、此山にて御要害仰せ付けられ・・爰の嶺かしこの 
      谷合・・・・・・・』
 ここの「二の宮」は脚注では「犬山市内の二之宮」とされており、それならば犬山の「二ノ宮山」へ
上った、ということになるのでしょう。嶺と谷合が出ているから、「山中高山」の意味は「山々の中の高
山である、二の宮山」となるのかもしれません。しかし表記で読もうとする場合はこれで通り過ぎるわけ
にはいきません。
    「山中」「高山」「二ノ宮」=「小牧」「小真木」「古真木」
となり、高山は高山右近(拡大すると高山飛弾守)があるからこれを中心に据えると高山は山中と小牧
二宮に近接したといえます。「二宮」は甫庵が「二宮弥次郎」という表記を用意しています。余談ですが
人名索引では「二宮弥太郎」となっています。これは「弥次郎」ではないかなあと思って確認すると
やはり本文では「弥次郎」でした。これは単純ミスでとやかくいうほどのことはないのですが、「太郎」
が「次郎」「二郎」となるとやはり大きな違いとなります。「牧」でいえば「牧庵」という説明のしようがない
表記の人物を太田牛一は〈信長公記〉で用意しています。山中高山犬山の二宮山という山との対比
で谷合が出ていましたが桶狭間の戦いの前でもこれが出てきます。 
  再掲
  『合(たにあひ)打ち続き、西深田(ふかだ)なり。此よりへはつづきなり。・・・
  水野帯刀・山口えびの丞・柘植(つげ)玄番頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉・・・
  ・・・古跡・・・・・小村・・・・』〈信長公記〉

「小真木」というのは「小」は接頭語のような感じの「真木」であり「牧」となります。
「牧村長兵衛」というのは「小」の「真木村長兵衛」となりここの「真木」と繋がってくるわけです。ここの
「十郎」「十左衛門」というのは物語の「十(じゅう)」と取れます。「十郎」といえば朝倉の「真柄十郎
左衛門」という人物が出ましたが「真柄」は「真」+「木」+「丙」ですので「真」「木」が意識されている
かもしれません。関係付けたのかどうかわかりませんが、「丙」は前漢の名相「丙吉」の「丙」で
     「丙吉(へいきつ)の喘(あえ)ぐを問う」(牛が喘ぐことから政治のことを考えた)
 というのがあり「牛」が「真木」から出てくるのかも知れません。なお「真柄十郎左衛門」という
剛勇無双の魅力ある人物は〈信長公記〉では「直元(直基もある)」という人物一人ですが〈甫庵
信長記〉では「真柄十郎左衛門父子三人」となっています。

    『真柄が嫡子十郎も返し合わせて戦いけるが、郎等馳せ来つて、父はかく討たれたると告げ
    ければ、涙をはらはらとこぼして・・・・同じくは一所にと認(とめ)行(ゆ)く。』〈甫庵信長記〉

 とあり、この子息も「十郎」です。これで終わっていますので、もう一人は記述がない、不完全な著書
だ、といいたくなるかもしれませんが、そうではありません。〈三河後風土記〉では子息の名前を
「★真柄十郎三郎(直澄)」としています。つまり★は二人ですよ、という解説をしているのです。
〈甫庵信長記〉では、同じことを別人を使ってもう一回解説しています。同じ場面、真柄十郎左衛門
に戦いを挑んだのが徳川家の「勾坂(さぎさか)式部」です。式部は
      弟「五郎次郎」と、「六郎五郎」と、郎党「山田宗六」
とで真柄に対抗します。これは、二人、二人、一人ですが、「五郎」は「式部」と考えられるので
  式部次郎と六郎式部つまり 「式部」「(式部)次郎」「(式部)六郎」
の三人懸かりであったといえるかと思います。ここの「山田宗六」は式部の連れ合いのようですが、
これは孤立表記としてみた場合は、「(安食郷)山田村・宗の系譜・甚六孫六の六」で特別の大ものに
変わりそうです。「勾坂(さぎさか)」も〈三河後風土記〉では「長坂」と「長坂次郎太郎」になっています。
「さぎ」と読ませた「勾」は「こう」とも読むので「」がいいたいのか、「鷺」にも意識があるのか、あと
「青木加賀右衛門」、嫡子「青木所右衛門」「青木」「青木の某」という高山右近に絡んだ名前が出て
きます。ここは山田宗六が出たこともあり太田牛一が真柄と渡り合い「五郎次郎」「六郎五郎」を解説
するとともに高山を打ち出したといえるのではないかと思います。ここで〈信長公記〉に続いて二回目の
   「総角(あげまき)」
という語句が出ます。「角」を「まき」と読ませています。芭蕉の牧童の牧、牧村長兵衛の牧でしょうか。
「巻き」も「牧」に通ずるようです。テキスト人名注
   「水巻采女佐  水巻は越中(富山県)砺波郡水から興った土豪。」
というのがあります。「牧」は「ぼく」とも読むと覚えておけば便利です。

黒末川のところで
   「大津伝十郎・水野九蔵・・・・・」〈信長公記〉
があったからここの「水野帯刀」も「水野十郎」というような意味もあるかと思いますが、とにかく
牧村長兵衛は真木村長兵衛であり
        「真」+木村長兵衛
で「長兵衛」は「大橋某」「大橋長兵衛」という表記があり、夕庵和泉関係表記となります。つまり
牧村長兵衛は右近に接近し、夕庵にも近づく人物として描かれているといえます。
まあここでは次のことでそういえると思います。
〈甫庵信長記〉に牧村牛(ノ)助が登場します。永禄五年の話

  『多芸(ルビ=たぎ)山の麓、洲俣に要害・・・九条の要害・・犬山の城主織田十郎左衛門が舎弟
   勘解由左衛門尉・・・・一陣牧村牛(ノ)助、二陣稲葉又右衛門・・・・先陣池田勝三郎、二陣
   佐久間右衛門尉信盛、其の次柴田権六勝家・・・・・・・・勘解由左衛門尉・・・・・・・・勘解由
   左衛門尉・・・福富平左衛門・・・・牧村牛(ノ)深田を前に当て・・・・勘解由左衛門尉
   ・・深田やうやうに打ち越え・・・牧村是を時を咄と作り懸け・・・・稲葉又右衛門・・・大将勘解由
   左衛門尉・・・・野々村三十郎・・・・池田勝三郎・・・稲葉又右衛門・・・・池田勝三郎、佐々内蔵助
   ・・・・稲葉又右衛門・・・・』

 織田、斎藤の墨俣、九条要害をめぐる戦いで斎藤方が牧村と稲葉で勘解由左衛門は織田方です。
結果は、牧村と稲葉が池田と佐々に討たれ、勘解由左衛門が野々村三十郎に討たれ

   『真牛(ルビ=まごかく)なる合戦なりとぞ申しける』〈甫庵信長記〉

 という珍妙なことを書いています。まあ、真は接頭語で、ま(まこと)「互角」といいたいのでしょうか。
「牛ノ助」は「木村の牛一」、「真」は「真木」の真、「牧村」は「真木村」となりうる、
   太田牛一と牧村
がここで重なっている、これが、高山の「」を表す、「角」は「川角」の「角」、「熊高」の「角」もあります。
つまり牧村長兵衛は太田牛一と高山右近の重なったものだとかいうことになるのでしょう。
このように
   牧村+牛ノ助
はたいへん重要ですが、どうしたわけかテキスト〈信長公記〉人名注は下記の記事が〈信長公記〉に
あるのにここの
   「真木村牛介」
が載っていません。「牧村牛介」もありません。〈甫庵信長記〉が頼りないと通説では決めつけられて
いますから、牧村=真木村が目立たないのはこのためかも知れません。首巻

   『井口・・・・十四条・・・則洲俣・・・瑞雲庵おとと・・・・北・・・西・・・西かるみ村・・・古宮・・・東・・
   真木村牛介・・・稲葉又右衛門・・・池田勝三郎・佐々内蔵佐両人・・・・』〈信長公記〉

 「井口」は「井ノ口」という岐阜とも懸かると思いますが、蛇(ジャ)が出た記事では井口太郎左衛門
が出てきました。安食村、味鏡村などの話だからこれは、そこに出てくる「佐々蔵人佐」「又左衛門」
「鵜左衛門」も含め太田和泉守である可能性が高いと思いますが、この「井口」は「飯河」でもある、
従って「井口太郎左衛門」は太田和泉を指すのではないかと思います。「和田和泉」「和田伊賀守」
が出てくるところで「飯河」が登場します。

   『・・・・和田伊賀守、同雅楽助、飯河(いかう)山城守、同肥後守・二階堂駿河守・・・』〈甫庵信長記〉

 このペアの間柄がわかりにくいことは触れましたが、別の場面で二階堂駿河守などと連れ立つて
      「井河山城守」
が出てきます。の前後の人物とからんで「井河山城守」は「飯河(いかう)山城守」と同一人物である
ことがわかります。 これは同一ですから「井口」は「飯(井)口」といえます。「口」は昔も「かう」と
読んでいました。また「飯河」は
      「飯河虎松」〈信長公記〉
 という人物が一匹狼の表記が出てきますから、これは「飯」「井」「口」「虎」「松」つまり
太田牛が登場する前触れというのがこの「井口」です。
 十四条村は「岐阜県本巣郡真正町十四条」です。この本巣郡は安藤大将のいるところで、安藤守
就はテキスト人名注では
   『(〜1582)美濃三人衆のうち。伊賀守。岐阜県本巣郡北方(北方町)城主。その子が尚就。
   伊賀氏の分家(〈新撰美濃志〉)』
 となっています。他に「安藤伊賀父子」と「安藤右衛門」という表記がありますが重要なのは、
   「伊賀伊賀守」
 という表記の人物が出てくることです。〈武功夜話〉に「藤堂様」が前野但馬守と昵懇というのがありましたが

    安藤(東)大将ーーー伊賀伊賀守ーーーー藤堂高虎
                  ‖(伊賀範俊、安藤範俊ともいう)
                  太田和泉(竹中半兵衛に乗る)

ということであろうと思われますので、これであれば、「竹中半兵衛は安藤大将のむこ」という挿話に
合致しそうです。あの竹中半兵衛は不破河内守のむこではないかというのは既述です。
太田和泉は藤堂高虎の義理の親ということになります。姉川合戦の真柄十郎左衛門のでてきたあたりに
   「藤堂与右衛門高虎十六才」〈三河後風土記〉
がでます。〈甫庵信長記〉では
   「(坂井右近)嫡子坂井久蔵いまだ十六歳、」
がありますので、〈三河風土記〉がこの甫庵の記事の解説をしたのかもしれません。つまり坂井久蔵
二人、〈三河後風土記〉では藤堂高虎の年齢がでてきたすぐあと、

   『是は織田家の長臣坂井右近長高が一子久蔵長恒という者、当年十八才の若年ながら・・・・』

 が出てきて磯野丹波守秀昌とやりあいます。これが森蘭丸の年齢といえます。おかしいところはどこかで
修復されることになっています。
 
 〈信長公記〉で「真木村牛介」が出てきたところの十四条村から安藤大将が出てきたので脱線しました
が、村木砦攻略にあたって斎藤道三に留守番として援兵を依頼し、安東大将が人数千ばかりに、
   「田宮・甲山・安斎・熊沢・物取新五、此等を相加え」
 が出てきましたが、ここの安斎は安西につながり福富を指すことになりますが同時に安西平右衛門
安西八郎兵衛という表記の人物に繋がります。ここから「神応但馬守」という人物が出てきます。テキスト
人名録では「神尾但馬守であろう。」とされています。これは覚えていかないといけない名前です。
また、「神尾(応)」の近くに
     「勝マタ主税助」
 という人物が出てきます。「マタ」という字は「(投の字の手篇が人篇の字、役という字に似ているもの)」
です。脚注では「勝俣であろう。」とされています。しかしこんな変な字を書いた意図はあるだろうと思われ
ます。真木村牛介の出てきたところ「・・則洲俣・・・●瑞雲庵おとと・・」があり、●の人物は場面の
如何に関わらず太田和泉を表し「洲俣(すのまた)」はその属性といってよいものです。遠州表で
「二俣の城」がでますが、そこで先ほどのややこしい「マタ」が出てきます。

   『武田信玄水マタの者と名付けて、三百人ばかり真先にたてつぶてを打たせて』〈信長公記〉

が出てきます。この「マタ」にはルビがありません。これは「二俣」があるので「水俣」と解するのが普通で
しょうがそれでも意味がわかりません。〈三河後風土記〉では「二股」を利用してうまく説明しているよう
す(後述)。
 とにかく真木村牛介のでてくるところ討たれたのも太田牛一(牛介、又右衛門)、討ったのも太田牛一
(勝三郎、内蔵佐)ともいえます。しかし小真木山=高山でしたから、
      牧村+長兵衛=牧村牛介+太田牛一
                   ‖
                 高山右近+太田牛一
 ということでよいのでしょう。 「長兵衛」は平井久右衛門と出てきた「前野長兵衛」があり、
、または、美濃多芸郡高畠に在所をもつ〈辞典〉人物「大橋長兵衛」があり太田牛一に宛てられますが
まあ太田牛一は介添え役のようなものですから、牧村長兵衛=高山右近といいたいところでしょう。

 珍妙なことですが小牧山の記事と桶狭間黒末の記事と伊丹布陣表とこの洲俣九条要害の長い
記述は関係があるということははっきりしています。はじめから高山を述べようとしていることが察せ
られるところです。しかしこれも大津伝十郎と同じことが疑問として出てきます。
 
テキストでは、牧村長兵衛は

     『牧村利貞(1544〜1593)  稲葉重通の子で牧村政倫の養子。茶道を嗜み利休七哲の
     一人(〈茶人大系図〉)。牧村氏は美濃安八郡牧村の住人。』

となっています。
 「利貞」という名前は「利久」の「利」、貞光久左衛門の「貞」であり「稲葉重通」については〈甫庵信
長記〉に稲葉又右衛門が出てきたので、その解説をしたといえそうです。
「牧村政倫」というのは「真木村政友」でもあり「牛介」を出してきたのは、太田和泉が仮親ということも
いっていると思います。利休の七哲には牧村利貞も高山右近も入っていますが、これは、三羽烏や
四天王、七本槍などの類で、くくる、とか一つ外したほうがよい、とか、一人抜けているとかいうものも
ありえます。賎ケ嶽(志津が嵩)七本槍は〈川角太閤記〉にくわしいものですが、どうみても「桜井左吉」
が選に漏れている感じです。「桜井」はテキスト人名録で「丹後竹野郡竹野神社の神主家」という
のがありました。小豆坂七本槍についても文句をつけているようです。〈甫庵太閤記〉では二つの七
本槍をくっ付けて論じています。賎ケ嶽七本槍については

   『彼七人よりもはやきも有り、又及ぶべきもありしなり。桜井左吉伊木半七郎なども、倫(なみ)を
    離れたる働き有り。殊に石川兵助は七人より早く鑓を合わせたりしが・・・果てにけり。ながらへ
    有るほどならば、此人一番鑓の名のみ高くして、七人は其の下に立んとなん。
     評曰、・・・望みおもうは、小豆坂之七本鑓前田又左衛門尉堤の上の鑓等なり。・・・・・・
    のき口の鑓、前田が鑓も味方軍の色あしく見みえて引きしを突き返しぬるとあれば、のき口の
    鑓なり。・・・・・』〈甫庵太閤記〉

があり、小豆坂まで話が及んでいます。「倫」は「とも」もあり、ここの「なみ」もあるようです。後藤又兵衛
が加藤清正の陣中で出てきた(前著)ときは「倫(ルビ=りん)」ですから、いいたいことが違うのでしょう。
石川兵助と桜井左吉は近い関係にあるようです。小豆坂の七本鑓は「織田造酒丞」「織田孫三郎」
幼名「孫助」「そち」などがいました。前田又左衛門が出てくるとなると誰に当たるのかという問題も
でてきます。すくなくもあの前田又左衛門は一人では表しえないことがわかります。このように利久弟子
に「牧村」「高山」が併記されていることは別人であるべきということにはなりません。
「牧村氏」も美濃安八郡の住人となっていますが、美濃安八郡は「明智十兵衛」が永禄九年に与え
られ、安八郡の前田は「前田玄以」の故地です。またテキスト脚注では
  「青木玄蕃允」が「美濃安八郡青木村の住人であろうか。」
とあり、どこかで安八郡と青木がつながっているようです。そういう意味もある牧村の安八郡ですから
ここで明智、前田、青木、高山が鉢あわせになったととれます。とにかく真木村とよめば太田牛一に
つながる、稲葉重通は西美濃三人衆の稲葉一徹(一哲)の子とされていますが、稲葉重通@稲葉重
通Aの親子の重なりで捕えると、稲葉重通@=稲葉伊豫がありえます。
武井夕庵の子息を牧村政倫が養子としたと解釈することは可能です。
このテキストの牧村は真木村とよめば「牛介」が出てきたおかげで太田牛一につながるなど、物語的
となる略歴といえます。この生没年からいうと、(テキスト人名録による)
      牧村長兵衛  1544〜1593  49才(1593は秀次事件の二年前、文禄役の一年後)
      高山右近    1553〜1615  62才
高山右近のテキストの生年とは11歳の差があり、右近が年下となっています。

 結局いろんなことをいいながらここまできましたが一応、伊丹布陣表の「牧村長兵衛」は、はじめから決め
ていました。太田和泉と高山右近が重なった感じのものですから、そのまま表記を利用して引き宛てれば
よいようです。大津伝十郎が若い感じですので、この牧村長兵衛も
    「真木村牛介」+「(大橋)長兵衛A」
ということになると思います。つまり「木村」が出て来て「牛介」という子息という感じのものが出てきました。
「木村又蔵@」=「木村常陸介」と見ればよいのではないかと思います。

朝鮮役で亡くなったとされる牧村長兵衛は、時期が木村常陸介の死亡の時期とほぼ重なり、牧村氏の
存在が稲葉家中にあったという稲葉は稲葉伊豫のことではないかと思われます。木村常陸介が利久の
高弟であったとしても不思議ではないことです。こうはいってもよく調べた人からは文句がでるはずです。
〈甫庵太閤記〉に文禄朝鮮の役の軍編成記録があり、牧村兵部大輔は700人率いています。

   『三千五百人  木村常陸介       七百人  牧村兵部大輔』

というものが、人数人名の羅列に出ているからです。別人ではないかといわれるのが筋です。しかし
これは今、牧村長兵衛は木村常陸介だという引きあてを曲がりなりにもやって、他のところで、牧村が
見つかりその上に木村常陸介が出ているのだから合っていると喜ばなければならないところです。理屈
をいえば
  ○「牧村長兵衛」と「牧村兵部」は表記が違うのだから別人ではあるが「牧村」が木村常陸介に
   接近させられたとみてよい、
  ○牧村兵部大輔は木村常陸介Aの可能性が大きい、とみれる
  ○両方とも考えられる、
というのと三通りあるわけですが、両方とも駄目だという一通りはやはり劣勢です。木村常陸介父子
で四千二百人の部隊を編成したというのが妥当です。これは天正19年のことで、そのころ高山右近は
改易となっている(天正16年といわれる)ので高山がこの名をかたって参陣したとは思われません。
名護屋に詰める人員として前田利家の横に
     羽柴右近
という人物が出ていますが、あるいはこれかもしれません。岩波文庫、桑田忠親〈甫庵太閤記〉は
膨大な人物が登場しますが人名索引もなく、全体が見通せないので部分的に参考にするのは危険
なのでこれ以上は立ち入れませんが、前田の一員として参加していたのかもしれません。高山右近
を述べるために牧村の名前を使った、牧村は「小牧」「駒来」「小真木」が利用できるからということで
したが、これは大津にもいえることで、大津伝十郎の場合も「大津」という人はいた、といえますがなぜ
大津という人の名前を使ったのかというのが気になるところです。これは太田牛一は、高山右近を語り
やすかったといえると思いますが一応、後世の人の理解の仕方はどうだったかと見るのも必要です。
要は筆者のいうように柿本人麻呂がらみなのかということを点検していかねばならないと思います。

(28)大津
天正19年の記事、〈三河後風土記〉には
   戸田左門一西(ルビ=かつにし)
   戸田左門一西(ルビ=かづあき)
   戸田左門一西(ルビ=かつあき)
というのが出てきます。これは「酒井左衛門尉忠次」の組下ということで設定された人物です。
   大津与左衛門
がこれに付随してでてきます。またこの大津与左衛門は名を変えて出てきます。

  『戸田左門一西(ルビ=かつあき早)・大津土左衛門時高両人真先のり入て・・・・』
  『戸田左門・大津土左衛門・堀田右近・今泉孫三郎・鳥居彦右衛門等・・・』

 というように「土左衛門」に姿を変えて出てきます。「土左衛門」「どざえもん」は辞書で調べても出て
きません。ただ俗語として知っている人は少なからずおられると思いますが、筆者は知っていました
のでいまはネットで教えてもらうしかありません。[gogen allguide.com]を借用しますが、水死者、溺死
者の意味で「成瀬川土左衛門」が語源のようです。享保の頃の「山東京伝」の随筆〈近世奇跡考〉
に出ているそうです。筆者の見ている〈三河後風土記〉は寛政「正説」版で図書館で必要と思われる
部所だけコピーした程度のものですが、この版は京伝の話を反映させうる時代にあたりますので
京伝が取り入れられたということが考えられます。
 水死者を悼んでその悲しみを歌った人は柿本人麻呂です。

  『溺れ死にし出雲娘子(いずものをとめ)を吉野に火葬(やきはぶ)る時、柿本朝臣人麻呂の作る
   歌二首』

などがあります。
 人麻呂には人の死にあたって悲しんだ歌があります。
  
  『柿本朝臣人麻呂、香具山の屍をみて悲慟(かなし)びて作る歌一首
    四二六 草枕旅の宿(やどり)に 誰(た)が夫(つま)か・・・・・・・・』

 「草枕」「旅」が出てくる歌ですから、一四二の「笥」が出てきた歌「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅
にしあれば椎の葉に盛る」を踏襲しています。これは有間皇子の歌のような、そうでないような感じの
ものでしたが、山上憶良が入れた歌としても有間皇子と人麻呂の関係は暗示されたものです。
一方旅人の死に遭遇して歌った歌ということで聖徳皇子の「草枕旅」の歌がありますのでこの二つは
次の歌を踏襲しているといえます。要はこの二つに人麻呂の流れがあつて、次の聖徳皇子の歌が
気になってきます。

  『上宮聖徳皇子・・・・竜田山の死れる人を見て悲傷して■作りませる歌一首・・・・・・
    四一五 家にあらば妹が手っまかむ 草枕旅に臥せるこの旅人あはれ』

であり、このあと水に関係する歌が出てきます。

 『大津皇子(おほつのみこ)、●被死(みまか)らしめらゆる時、磐余の池の(つつみ)にして(なみだ)を
 流して★作りませる歌一首
     四十六 ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや雲隠(がく)りなむ』
       右、藤原宮の朱鳥(あかみどり)元年冬十月なり。
 
 の歌です。要は聖徳太子ー人麻呂がピックアップがされているはずのなかの大津皇子です。
 この詞書の訳は
     「大津皇子が処刑される時に、磐余の池の堤で涙を流してお作りになった歌」
とされています。
 大津皇子が刑死であったことを知っていて出てきた訳で●のややこしい表現をこのようなう訳にまとめ
られています。
  しかし、この細字の注がなぜ入っているかというと、この前の歌が聖徳皇子の歌だからと思わ
れます。四一六の歌はこの四一五の歌のあとに続いたものですから、★の主語が下手すると■の主語
と同じと解釈されてしまうからそれを防ぐためにしたものということができます。聖徳皇子もあの聖徳太子と
思わせることになる役目も果たしているといえます。誰がそんなことを思うもんかと、いわれるでしょうが
表記のイタズラをしている人には必要なことと感ずるわけです。つまり読み手がそういうことに馴れて
いるのですから、聖徳皇子という特殊な表現は聖徳太子という誰もが知っている人を前提にしていますが
現に表記が違うのですから、聖徳という皇子と解するか、聖徳の皇子(つまり聖徳太子の子)と解する
か、で句の置かれた位置がかわり、解釈も変わってくることになりかねません。さらに聖徳皇子@Aも
あるとすると大津皇子を大来皇子が悲しんで歌ったととれないこともないわけです。大来皇子という
のは
  『大津皇子の屍(かばね)二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時、大来皇女哀傷(かなしび)て
 作りませる歌二首 (一六五、一六六の歌二首省略)』

 というので出てきている人です。芭蕉などが、北国射水郡の二上山を日記に書き込んだとき、これを
想起しなかったとはいいきれない有名な二上山です。この二首の一首目の中に「兄弟(いろせ)」がありま
すが今現代の「弟」と訳してそのまま通り過ぎて平気です。ルビの意味が何かは解説がいるところ
でしょう。また二首目の歌に「右一首、今案(かんが)ふるに、移し葬る歌に似ず。・・・伊勢神宮・・」
とあります。「伊勢神宮」から「大伯(おおく)皇女」が大津皇子に贈った歌に行き着きます。

   『一〇五 わが背子を大和へ遣(や)ると さ夜ふけて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし
    一〇六 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が一人越ゆらむ』

 このあと一〇七は、{大津皇子}が{石川郎女}に贈る歌があり、歌の文言は
  「・・・山のしづくに・・・・・立ち濡れぬ 山のしづくに」
 このあと一〇八は、{石川郎女}
が和した歌で
  「・・・濡れけむ・・・山のしづく・・・」
があり、句の語感やらでこの四つの歌の連続はあきらかです。いまこの石川郎女は大津皇子の侍女
の人とされており、それで納得ということになっているのでしょう。「石川郎女」は四人ほどいますが、
侍女というのはどこから出てくるのか、学者の推理想像の産物でしょう。
 研究され尽くしているといっても単純な疑問に応じきれないものもあるわけで、聖徳皇子に主語が
もっていかれないように、この細字の注が入っているといっても一概にそんなことおかしいというもの
でもない、というのがいいたいところのことです。。
 大津皇子は聖徳皇子の後に出てきて柿本人麻呂の洪水のなかにいますので、聖徳太子と関係が
深く、柿本人麻呂というペンネームで作品を残した人といえます。
 人麻呂ー大津皇子は水に関係がある人ということでも共通しています。後世の人はこれを利用し
    大津土左衛門→柿本人麻呂→大津皇子→大津伝十郎
 としたさらに、
    二上山ー射水郡二上山ー高岡ー高山右近
などのことで「小真木山」や「牛介」などからから「牧村長兵衛」が出てくるように「水」と「二上」「岩(石)
見」などから、「大津伝十郎」は高山右近に近くなると思います。
「伝」は爾云の「云」をみてもよいのでしょう。大津土左衛門は
 再掲 
  『戸田左門一西(ルビ=かつあき早)・大津土左衛門時高両人真先のり入て・・・・』〈三河後風土記〉
  『戸田左門・大津土左衛門・堀田右近・今泉孫三郎・鳥居彦右衛門等・・・』(同上)
 がありましたから、左門と右近に挟まれて出てきます。今泉孫三郎はおまけでしょう。左門は別の意味
がありますが、右近は大津=右近というようにつながり「堀田」が入っていますから、堀田=夕庵=大津
という線もでるでしょう。左門については、
  再掲〈三河後風土記〉
   戸田左門一西(ルビ=かつにし)
   戸田左門一西(ルビ=かづあき)
   戸田左門一西(ルビ=かつあき
 があり、「一」を「かつ」と読んでいます。これは「かづ」と読むのはしられたことですから「かづ」=「かつ」
はありえることです。一方「西」は「にし」「さい」「せい」の読みは誰でも知っていますが
     「あき」という読み
は知られていません。間違いでないことは離れたところの「一西」に「あき」という字が振ってあるので
わかります。二ヶ所にあることは意識されている証拠といえます。まして転写ミスではないことは明らか
です。
 これは夕庵の歌に、信長卿がつけた語句「秋風」の解説です。風はまず西風か秋風のことをいいます
のでそれが芭蕉の〈奥の細道〉に活用されていますが、それを踏まえて夕庵の歌が出来ているという
のが〈三河風土記〉のいいたいところでしょう。
  松たへて たけたぐひなき五月哉  御
  わかふも見えぬ卯の花かさね   夕庵
  入月も山かたうすく消はてて    紹巴
  おだのさかりと見ゆる秋風     信長卿
 の秋風注意ということをいっています。

要は〈奥の細道〉の解釈に当たって秋風というのは西風つまり夕庵風として理解しなければ読めません
よ、と戸田左門を出してきて〈三河後風土記〉の著者がいっています。一体戸田左門を出してきたその
心は何でしょうか。戸田左門は氏鉄といって寛永十二年から大垣城主になった、名の高い人物で
す。鍵は「大垣」「大柿」つまり「柿」です。また菩提寺全昌寺もあり、これは〈奥の細道〉でおなじみの名前
です。
    高岡・二上山・大津皇子
           ‖
          大津・土左衛門ーーー柿本人麻呂
              ‖         ‖
           戸田左門 ーーー戸田左門

 大津皇子が柿本人麻呂であることは戸田左門が橋渡しをして、戸田左門、右近、孫三郎、彦右衛門
が大津土左衛門に接近して、太田牛一、高山右近が「恥を掻きのもと」の掻く、角、書く、描く、柿などの
表記で人麻呂と関わりがでてくるということになります。
 「大津」はこのようなことですが、大津にはもう一つの捉え方があり
    大津・中津・小津    上津・津・下津   摂津、水津・杉津・高津・・・・・・・
のような接頭語としての大津の大があります。
 「津」は摂津の国を「つのくに」といったり、伊勢にも津があるなどのことで夕庵牛一属性語句ともいえ
ると思います。津田は織田とは名乗らないが「津田」と名乗って親類筋と言っているのかもしれません。
「津田掃部助」などという表記はもう高山右近といっているのではないかと思います。津田小平次
なはど子息の世代が使っているような感じです。中に出てくる「津」も重要で前の字と後の字を結び
つけて、高山(飛弾)色を出そうとしています。

    『浅井備前鯰江の城へ・・・市原の郷・・・・・日野蒲生右兵衛大輔・布施藤九郎、香津畑(かうつはた)
    の菅六左衛門・・千草越え・・・』

 の「香津畑」はテキスト脚注では
          「滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑」にあります。
 これは近江の「神崎」で、「神崎」は兵庫県の真ん中「貝野」で出ました。「後藤」の故地のようで藤九郎の
「藤」のあとが「後藤」です。香は「鯰江香竹」があり「鯰江」は「鯰江又一郎」も出て、キーワード「又」
 にセットとなり、「香」は高山の「」が意識されていますが、「津」の香りもその変換を助長するもの
といえます。ここで実際の土地名が生きてきて、
       「香」は本当は「」だった
 というのがわかります。「香」を武井、高山の属性化しようということで、「香竹」もその表われといえます。
「香坂又八郎」〈甫庵信長記〉は武田の高坂(甲陽軍鑑)を想起するのは自然ではないかと思います。
 〈信長公記〉に「香川」という二字の孤立表記が出ますが「白井・松宮・寺井・香川・畑田」と続くので
重要です。そのもの自体「香川右衛門大夫」〈甫庵信長記〉という「織田右衛門」「佐久間右衛門」と同
じ大物の名前をもっていて、それはそれで使えますが、「香川」は「川」「甲河」「江川」にもなりうるので
その面でも利いてくるかもしれないということにもなります。〈信長公記〉などの表記は一見詰まらなさそうな
ものでも意味あるものとしてどれも一回以上は利用できるようになっています。もちろん「香川」という姓が
あつたというのは前提としてあることでしょう。

 「香津畑」の「畑」は「畠」で「畠山総州」という人物が出ますし、「畠山殿」というのもでてきます。テキスト
人名注ではこれは「畠山昭」という人物に宛てられています。

   『河内守護畠山政国の子。河内高屋城(大阪府羽曳野市高屋)は畠山累代の拠点である。』

 とされていますが、この「畠山殿」は武井夕庵と取るべき場面で出ているので、二つの「高」
と「河内守」が夕庵に利用されたといえます。「高畠三右衛門」「高畠四郎兄弟」「高畠のおあい」(信長
公記)とかも高と畠が接触し、畠に「高」「武」「竹」の関連を匂わせるものとなります。「高畠のおあい」
は「武田勝頼の侍女=テキスト人名録」だから関係ないはずでそんなことはいえない、といわれるかも
しれませんが、当時の武士の中から二千余が抽出されたなかのこの人物ですから、著者の記述目的
に適って糾合されているはずで、勝頼周辺に高畠色があったかもしれないわけです。
 一般に漢和辞典などでは「畠」が一番上についた語句の用例だけがありますが、表記で読もうとする
場合は、実際は二番目、三番目に畠がついたものも挙げられているというようなものが要るわけです。
一般にはそこまで要求できないことなので〈信長公記〉内では人名地名くらいは自分で作っておく
くらいのことは必要となってきます。山中、中山は表記では同じですから。
 「甲津畑」の畑の方からも「畑野源左衛門」「畑田」が出てきて畑野は畑田と同じというような感じと
されています。「畑田」は「松宮」「塩河伯耆」に接近しています。「波多野弥三」などが出てきます
ので畑=畠=波多は語りに利用されています。例えば
     畑野源左衛門
はテキスト人名録では解説がないので考証しようがない人物といえるのでしょう。
しかし人名録ではこの左に「波多野」「波多野兄弟」が出ており、「畑野」は「波多野」から取られた当て字
ということがわかります。一方人名録では「畑野源左衛門」の右は
     「畑田」
が出ており、これは「畑田加賀守」だと解説があります(若狭守護代記)。つまり「畑田」については
〈信長公記〉には二字の人名しか出ていない(二回)が、丹波の「波多野」に絡めて「加賀守」をよって
たかって出してきているということになります。もちろん「蒲生源左衛門」「山内源右衛門」という表記も
あり〈甫庵信長記〉をみれば「畑田修理亮」がありますのでここでも考証され「畑田加賀守」に行き着く
ことになりますが、修理亮となると柴田が出てきます。
    「高山飛弾守」ー「伊丹」ー「青木鶴」ー「北国」ー「柴田」ー「修理亮」−「加賀」
ということで高山右近にいき着きそうですが一方「内藤修理亮」という表記もあり「内藤」にも関わりが
生じそうです。それは内藤修理亮昌豊だろう、武田の有名な武将ではないか、それはなんぼなんで
も暴論だということになりやすいわけですが、「内藤」「修理亮」「昌」「豊」として分解して、詰まらない
表記になってしまったものを役立てたらよいといえます。現に両書には一字として役立てようとする
意味のなさそうな表記があります。「岩」「熊」「犬」「坊」・・・「内藤」「高山」「森高」「小泉」・・・・とかが
あります。一方で内藤昌豊という一つの人格をもった武田の武将がいたのは事実だからそれはそれで
みていけばよいでしょう。ただ内藤昌豊は類書では登場回数の多い人物ですがこの重要字を名前
にもっているというのはあると思います。ついでですが「小泉」というのにもわからないところがあります。
両書の信長公が足利義昭に出した17条の詰問書のようなものの中に出てきます。文中では明らかに
   「小泉女房・・・・・小泉・・・・・」
というようになっていて二人のはずです。が
    〈信長公記〉の人名禄では「小泉女房」だけ、
    〈甫庵信長記〉人名索引では「小泉」だけ
が載っているということになっています。女房の人格が無視されたわけではなく両方合わせれば
     「小泉女房、小泉」
という索引が出来上がる理屈ですが、それぞれが二つでないとおかしい、辛気臭いことですが、その
とき太田牛一は、よく考えて書き落としたのだから、両方一緒くたに考えてしまうのは具合が悪いのでは
ないかと思います。三木の場合には「別所山城」「山城女房」が亡くなったということになっています。
「別所小三郎」「彦進」の場合も同じです。これは一緒と考えてもよいかもしれないが、前者はやはり
同姓の夫婦のように人格が分かれていたとして書いたといえるのかもしれません。「小泉四郎右(左)
衛門」という表記などは、時空を度外視すれば和泉の総領ですから「森蘭丸」と読んだ人も必ずあると
思います。

 先ほど永源寺町甲津畑がでましたが永源は永原に似ています。この少し前に「永原」が出てきて
「佐久間右衛門」と「永原」が結ばれます。永源寺は神崎郡にあり「後藤」や「貝野」につながって
いました。「甲」は「」、「」は「高槻」の「」ですが、大津の津という字が、竹に繋がるという例も
あります。岩津(岩洲)というのも「竹」で出てきます。

天正五年の記事
   『羽柴筑前守秀吉、直(すぐ)に但馬国(たじまこく)へ相働き、先(まづ)山口岩洲の城・・・●小田垣
   楯籠る竹田へ取り懸け、是又退散、則、普請申し付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候。』
                                                     〈信長公記〉
 脚注では山口岩洲については
    「兵庫県朝来(あさこ)郡朝来町山口。その小字に岩津(洲)がある」
で、竹田は
    「兵庫県朝来郡和田山町竹田。」
となっています。「和田山」「田」は現実の地名の利用です。すなわち
   「朝来山口」「岩津」「小田垣」「和田」「竹田」
 となるとここから色々な連携が語るものがでてきます。
○朝来の「あさ」は「浅井朝倉」の「朝浅」ですからここからは「石見守」「雅楽助」「斎助」「小四郎」
「備前守」「下野守」「掃部助」「権守」「土佐守」「孫三郎」「長」「政」・・・・・というような重要表記が
くっ付いてきます。こういうのは背景としてあるわけです。
○「太田」「和田」「竹田」となると、やはり和田惟政の「和田」が一連の武井表記のなかにあるという
いうことです。
○ここから高山を出してくるつもりです。まずここの●は人名注には

 『田垣氏。但馬竹田(兵庫県朝来郡和田山町竹田)に太田垣氏が鎮した(〈但馬考〉)』

 となっています。「太」は「大」ですから太田牛一は「大」を「小」に変換しているわけです。
つまり「大」は「おお」と読めますから「おお」が詰まって「お」になる、だから「太田垣」が「小田垣」
になることを示したと云っています。一方この「小田垣」が地名にも取り上げられています。三年後

天正八年

  『{庚辰}四月廿四日、播州の内しそ郡に宇野民部楯籠る。・・・・宇野民部構えは★高山節所に候、
  ・・阿賀の寺内・・・姫地は西国への道通り手寄(たよ)りなり。・・・・・姫地に羽柴筑前守秀吉在城あるべしと
  相定め、普請申し付け、是より羽柴筑前守、舎弟木下小一郎に人数差し加え、但馬国へ乱入
  (らんにゅう)・・・木下小一郎は■小田垣居城に拵え、手の者共見計らい所々に入れ置き、両国
  平均に候。・・・併しながら、羽柴筑前守一身の覚悟を以って両国滞りなく申し付けられ候事、
  都鄙の面目後代の名誉これに過ぐべからず。』〈信長公記〉

ここで●が五年後■で出ましたから関連つけられいるといえます。そういう中にあって★が出ています
から高山登場ということです。「岩津」を「岩見」プラス「大津」としますと、つまり
  「山口」「石見」「大津」「太田柿」
というようになって、人麻呂伝説の残っているもう一つの石見がでてくるということになります。
要は高山右近がなぜ「柿」に繋げられているのか、ということが一つの疑問として出てきます。

〈信長公記〉には「洲賀才蔵」という一回限りの登場で説明のできない人物が出てきます。「才蔵」という
のは「可児才蔵」「霧隠才蔵」「沢村才八」などが想起されますが、「洲賀(すが)」は「菅屋角蔵」の
「すが」、「(蜂)須賀」「大須賀五郎左衛門尉」もあるかもしれませんが、やはりここの「岩洲」→「岩津」
で「洲賀」は「津賀」となると思います。
それはテキスト脚注がいっていることで太田牛一はいっていない、というのではなくて地図を見ながら
そう書いたといえるからです。「津賀才蔵」となると「洲賀才蔵」よりかなり高山に近づくといえます。
あえてそれを「洲賀才蔵」にしたのはなにか、といえば「図画(ずが)才蔵」というのを出したかったと
いえます。それはもう論外といわれるでしょうが、とにかくこういう表記を考えたのだから一応はこうだろう
とやってみて、人がもっといいことを考えてくれるだろうから待っていればよいわけです。岩津に「いわつ」、
「いわづ」という二つの読みが在って、「岩洲」は「いわつ」ではありえない、「いわづ(ず)」しか考えられ
ないというのが根拠です。
 ここで★高山が出てきて、小田垣を出してきたわけですが、これはやはり不自然です。太田垣が
合っています。こういうのは何かがあるとみてよいわけです。余談ですが、他のところにも「高山節所」
が出てくるので、一応内容をみておかないといけないのかもしれません。

(29)小田垣
再掲

天正五年の十月の記事
   『羽柴筑前守秀吉、播州に至つて出陣。・・・播磨国中、夜を日に継いで懸けまわり、悉く人質
   執り固め、霜月十日ころには播磨表隙明き(戦争終結)申すべき旨、注進申し上げられ候処
   早々帰国仕るべきの趣、神妙に思食させられ候由、忝くも御朱印を以って仰せ出され候。
    然りといえども、今の分にても差たる働きこれなしと羽柴筑前守秀吉存知(ぞんぜ)られ、直
   (すぐ)に但馬国(たじまこく)へ相働き、先(まづ)山口岩洲の城・攻め落とし・・●小田垣
   楯籠る竹田へ取り懸け、是又退散、則、普請申し付け、木下小一郎城代として入れ置かれ
   候。』 〈信長公記〉

この三年後

天正八年

  『{庚辰}四月廿四日、播州の内しそ郡に宇野民部楯籠る。・・・・宇野民部構えは★高山節所に候、
  ・・阿賀の寺内・・・姫地は西国への道通り手寄(たよ)りなり。・・・・・姫地に羽柴筑前守秀吉在城あるべしと
  相定め、普請申し付け、是より羽柴筑前守、舎弟木下小一郎に人数差し加え、但馬国へ乱入
  (らんにゅう)・・・木下小一郎は■小田垣居城に拵え、手の者共見計らい所々に入れ置き、両国
  平均に候。・・・併しながら、羽柴筑前守一身の覚悟を以って両国滞りなく申し付けられ候事、
  都鄙の面目後代の名誉これに過ぐべからず。』〈信長公記〉

 ここで、また羽柴筑前守、木下小一郎が但馬国へ攻め込み、小田垣城を造って入城しています。
同じことをしている記事を入れて二人の羽柴、小一郎を出しているのでしょう。

           天正五年の記事         天正八年の記事
 
 播洲策      人質とり固め             二百五十余討ち捕り、数多切捨て

 但馬策                         秀吉・小一郎
                             (但馬国(たじまこく)へ相働き攻め落とし)
                              但馬国へ乱入(らんにゅう)

 指揮官      播磨表戦いの集結報告       一身で両国平均
           朱印でもって帰国の指示 

などとなって様子が違っています。三年前、太田和泉守が乗り込んで播州を問題なく固めたのに
、職制上の筑前守があとで出てきて強行策で臨み、かえって事態を紛糾させたということを云って
いるわけです。煽って反抗させて、ねじ伏せるというやり方です。荒木村重の離反は天正6年ですから
そういう流れのなかのできごとです。このとき向(ムカイ)駿河の存在が筑前守の後にあったと思われます。
 なおテキスト地名索引では■「小田垣」は522頁とされていますが、これは322頁にあります。522頁
は本文のない部分の指定になっています。上の●の小田垣は人名ですから地名索引にはないのは
当然ですが、322頁の小田垣を見落とすと、この天正五年と八年の記事の相関を見落とすことにな
ります。そういうミスをあげつらうのはよくないといわれるかも知れませんが、これは明治以降の書物の
手法であり、こういう例は他にもあります。

(30)高山節所
★があちこちに点在します。小田垣=太田垣の大小の問題は小谷大谷でありました。
元亀元年 
    『六月廿一日、浅井居城(いじょう)大谷へ取寄り、森三左衛門・■坂井右近・斎藤新五・・・・
     丸毛兵庫頭、雲雀山(ひばり)山へ取り上がり・・虎後前山(とらごぜ)・・・・・丹羽五郎左衛門
     ・・・・・在々所々谷々入々迄放火候なり。』〈信長公記〉

 ここの大谷の脚注は
    「小谷。・・・湖北町小谷山(四九五米)。浅井氏の本拠。」
となっており小谷を大谷と言いくるめているわけです。たぶん小谷の小は「お」と読む、尾谷といっても
よいのでしょう。「おお」は「お」です、したがって大谷にもなるというわけです。。
こうなれば丹羽小四郎は丹羽大四郎や丹羽四郎に、大津も小津とか津とかにもなりかねません。
 子と思っていたら親の方もついでに姿をあらわすということにもあるかもしれません。次の太字のものが
上の★とつながっていますから、大谷とか横山なども高山とつながるかと一応考えざるを得ません。

   『遠藤喜右衛門{・・・竹中久作・・・}・・浅井斎(イツキ)・狩野次郎左衛門・・・・早崎吉兵衛・・
   ・・・・大谷迄・・・・然りといえども、大谷高山節所(せつしよ)の地に候間・・・横山へ・・・
   横山の城・・・』〈信長公記〉
  
 ここで大谷は高山に接近しました。大谷吉隆が高山の大事なところで登場してきそうです。
雲雀山のくだりは「大谷」「森三左衛門」「■坂井右近」「丸毛兵庫」・・「虎・・・・丹羽五郎左衛門」
であり、
  遠藤喜右衛門のくだりは「大谷」「高山節所」「横山」
という連携がありました。
■の人物は〈三河後風土記〉では
      「酒井右近(長高)」
という表記で出てくることがあります。これは「長」も「たけ」で「高」ですから、「高」「高」となり、「右近」
も「高」を考えて出してきたともとれます。「高々右近」というイメージになります。当然
      「坂井右近長高」〈三河後風土記〉
 という表記もあり、このときは(  )の付いてない長高です。
   酒井(坂井)の高山節所の右近
とでも覚えておくとよいのかもしれません。
 「酒井右近(長高)」が出てくる場面では
       「藤堂与右衛門高虎十六才」
       「磯野丹波守秀」「磯野丹波守秀
       「織田家の長臣坂井右近長高が一子久蔵長恒といふ者、当年十八才・・」
 越前勢の中では
       「真柄十郎左衛門直隆・其子十郎三郎直基父子」
       「前沢新郎・同新郎・」
       「魚住兵庫・龍門寺(りゅうもんじ)典膳(てんぜん)・小林瑞周軒・谷熊之助・同鹿之助」
 などが出てきます。
 いずれも〈信長公記〉〈甫庵信長記〉を意識して設定された人物群です。
磯野丹波守は員昌ですが「秀政」「秀昌」は長秀の秀です。「政」は「重政」の政にしても「昌」は
これから武田関連で出てくる重要表記でしょう。
夕庵の「卯の花」の歌のところに「武田四郎」「山県昌景」があったから当然です。
久蔵の年齢は〈甫庵信長記〉では「生年未だ十三歳なりし」と書かれていますから五さいの差が
出ています。久蔵は同書に「いまだ十六歳」もありややこしいものです。それだけ重要な人物といえ
ます。「歳」は「才」という字の方が書きやすいのですが、「藤堂」では「才」が使われ両方使あるようです
坂井久蔵の「久」は「宮」に通ずるでしょう。一般的にもう「九」にもあてることができます。〈信長公記〉
テキスト人名注では「水野九(久)蔵」」となっていて「久」があるかのようですが〈信長公記〉では「九」
だけで〈甫庵信長記〉も「九」だけです。類書にあるものをここに参考として入れられたと思いますが
〈三河後風土記〉では
         「水野藤郎政信」
 があり、水野に「久」もあります。「藤」と「久」とはセットかと思うとそうではなく
    「河合又五郎・・・・都築藤九郎・・・」〈三河後風土記〉
 があり「藤」に「九」が付いています。さらに水野は
    「筧又蔵・水野藤十郎忠重・・・山上彦右衛門・・・・」
 というように十郎にもなります。幡随院長兵衛と水野十郎左衛門のセットも後年有名になりますが、
これは〈信長公記〉の次のものに牧村の長兵衛がからんだものかもしれません。
    「水野帯刀・山口ゑびの丞・柘植(つげ)玄番頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉、」
〈三河後風土記〉では
木村は木村三左衛門があり、木村日向守は下野守祐政に会いにいっていますが、この下野に姓が
ない、遡れば水野下野守信元があるというような、恰好となっています。

   『美濃近江の国境(さかい)に丈くらべ山・刈安(かりやす)に砦をかまへ・・・・・・・其外に洲口
   (すこう)の長意懸(けん)に要害をかまへさせ堀次郎を入れ置けり。然るに渠(かれ)は
          当年未十八才(ルビ=八歳東・京)
   の若年なれば、其従臣樋口三ノ丞・多々羅右近等両人を差添長意けんの助けとして本郷
   城に黒田長兵衛を込め・・・・★三田村左衛門(秀俊)・大野木土佐守(国定)・野村肥後守(直元)・
   同兵庫(直次)・・・・・秀吉は竹中半兵衛・・・・堀次郎・・・長意けん・・・堀が居城本郷より・・・・・
   「北洲」・・・堀次郎・・・・水野下野守信元・織田上総介(信包)・丹羽五郎左衛門(長秀)等・・・
   則小谷の城・・・・』〈三河後風土記〉

 竹くらべ刈安は竹武長くらべ刈庵で武井夕庵色を出しています。
洲口の口はこうと読みます。「井口」は「飯河」でよいのでしょう。
ここの長意懸は「ながいけん」「ちょういけん」かはわかりませんが、右近が出てきたところでは
長意けん」となっていて適当な「けん」を探さなければならない、「永意軒」「武井軒」などまで意識
されたものかわかりません。〈万葉〉に「長」の「意吉(おき)麻呂」がありましたから「意」は「お」だから
長意けん」は「長尾軒」もあるのかもしれません。これは実際は「鎌羽の堀、長享軒の樋口」と
いわれる「長享軒」ではないかと思いますが、
    長享軒軍師竹中半兵衛
という表記が有りますので「竹」がやはりあるのでしょう。
 堀次郎は、ここでは織田方でなく浅井、朝倉方で帰参したわけですが、「堀」+「次郎」ですから
「堀」は実在の姓でもありますが堀+太田牛一ということで「堀久太郎」が意識されているのではない
かと思います。敵方に見方の身内の表記があるわけですが、〈日本書紀〉の壬申の乱の戦闘でも、
敵味方錯綜してわかりにくいというのは伝統的でもあるようです。
  ここの十八才という年齢のところが重要で、十八が本当か八が本当かよくわかりません。
太田和泉守子息の年齢は10才上乗せさせて読んできていますが、根拠があってそうするならば
その読みで良いということを云っています。当然、重要人物に限るといえます。
 年齢ルビの「東、京」はよくわかりませんが「土左衛門」で図らずも出てきた「山東京伝」の「東」と「京」が思い
浮かぶ程度です。なにかよくわからないといってほっているならば一応こう考えられるというのがあれば
そうしておけばよいと思います。
「多々羅右近」の「多々羅」は甲賀の人の姓です。「右近」が出てきて黒田の「長兵衛」につながるのかも
しれません。
 本郷の黒田長兵衛とありますが、〈信長公記〉で「本郷」は「太田保の内本郷」に接近する「今和泉」
などの出る一節で「新五」「豊前守」「小四郎」が出てきますがとりわけ神保越中という人物がでてくる
ので重要と思います。〈三河風土記〉は一応、太田和泉を 黒田長兵衛の積りで出した、そうとして
真木村牛介ーー牧長兵衛というようになっているというヒント与えたといえそうです。
★三田村以下の四人の大将は、〈甫庵信長記〉と同じですが、(秀俊)以下の名前を書いているのが
〈三河後風土記〉の親切なところです。大野木は、大野木村、安食村、味鏡村と羅列された太田牛一
の本拠にもある名前です。また三田村は兵庫県に「三田」もあるのを踏まえていますが、

  『爰に横山城には大野木土佐守、三田村左衛門尉、野村肥後守、野村兵庫頭、彼等四人を侍
  大将として浅井籠置きたるに・・・』〈甫庵信長記〉

となっているように、これは浅井方の人物です。特に野村越中という人物が光秀の表記として出てきま
したのでその解説書としての役割を担っているといえるのが特徴です。大野木と三田村は地名を
いつている、大野木が太田牛一地元、三田村は戦場の地名で、太田牛一が「土佐守」と「左衛門尉」
ということを表して三人が出てきたということだと思います。

問題はこの高山節所などはなんとなく高山右近を表しているかもしれないといいいましたが、人名
ではない、地名でもなさそうだ、ということで索引には出てこないということです。宙ぶらりんをどう
とらえるかということです。要は
  高山飛弾守は高山右近の父
というのが通説ですが、なにしろ高山飛弾守が一回しか出てこないのにそういう重要な位置を占め
させているのが通説です。いいたいことは、まず「高山」というのは、いままでたくさん出てきていて
高山飛弾守の高山につなげてありますよ、ということです。地名にも人名にも関係のない高山が
たくさん出てきます。〈信長公記〉首巻

  @『飛弾川を打ち越し・・・大沢次郎左衛門・・・・飛弾川・・・・犬山・・・伊木山とて高山あり。』

 高山というのはフロイスのいう高い山も高山です。表記があの高山と同じです。
    高山・・・・飛弾・・・・・飛弾川
となって、いま高山で確実に名前として取り入れているのは「高山右近」だけですから、
     高山右近==飛弾守
の結びつきはここであるわけです。また
    「次郎左衛門」が飛弾(飛騨)の高山が夕庵とつながるということを示す重要語句です。また
 「犬山」からは「吉」が出てきます。夕庵の出てくるところ、山県下野守、山県昌景が出てきますが
「山県吉兵衛」という表記が〈三河後風土記〉で出てくるのもこの犬山に関係がありといっているの
かもしれません。伊木は池田がでてきそうです。次のも丹羽五郎左衛門が出てきて、飛弾と高山が
出ています。

 A『猿はみの城、飛弾川へ付いて高山なり。大ぼて山とて猿はみの上にはえ茂りたる「カサ」あり
  或る時大ぼて山へ、丹羽五郎左衛門先懸(さきがけ)にて攻めのほり・・・・・水の手を御取り候て
                                                  〈信長公記〉
 表記を追つかけてくると、次郎右衛門、五郎左衛門登場し、高山飛弾が語られていました。
このように見てきますとあと必然的に次ぎの三つの記事につきあたります。

 (佐藤)紀伊守・右近右衛門、という親子が出てきました。三回もペアで出てきますので目に付き
やすいようにされている、重要記事ととって問題ないと思います。すなわち先ほどの記事と
あわせてみると、これが武井夕庵と高山右近が親子という決定打といってもよいものです。

  B『山中北美濃の内加治田と云う所に、佐藤紀伊守・子息右近右衛門と云いて父子これあり。
    或る時崖良沢(きしりょうたく)使いとして差し越し・・・丹羽五郎左衛門・・・』〈信長公記〉

  C『猿はみより三里奥に加治田の城とてこれあり。城主は佐藤紀伊守・子息右近右衛門とて
    御身方として居城候。・・・岸勘解由左衛門・・・名にしおう鍛冶の在所と云う所・・・・・・堂洞
    ・・・太田又助・・』〈信長公記〉
  
  D『丹羽五郎左衛門・・・・岸勘解由左衛門・・・其の夜は信長かぢた(「加治」は「鍛冶」も
    あるのでひらかな?)へ御出で、佐藤紀伊守・佐藤右近右衛門両所へ御出・・・則、右近右
    衛門所に御泊。父子感涙をながし・・・・・』〈信長公記〉

 似たような記事をよく書いたものだ、と感心します。
紀伊守は和田惟政の名前が「伊賀守、紀伊守」となっていたことを思い出してもよいと思いますが
紀伊守=右近のセットの登場です。崖は〈万葉集〉の岩代が磐代があったのと同じで岸は崖もあります。
「良沢」は荒木山城守、森乱丸と出てきた丹波の「良琢」もあり、夕庵というのは既述しました。「良琢」
は〈甫庵太閤記〉でも出てきてそれなりの役目も果たしています。さらに良沢は「りょうたけ」とも読める
でしょう。 山中、関、鍛冶のところで
   紀伊守ー右近ー右衛門ー岸良沢ー丹羽五郎左衛門
などが動きまわっています。
 なおここの「右衛門」も織田信秀の兄弟の羅列のところで「織田右衛門」がありこれが五番目だから
(五郎)右衛門なので平手政秀の長男にあたるのではないかというのも既述ですが、夕庵が絡んで
きそうな雰囲気もするところです。岸は崖も岸も使われています。この岸勘解由は

   『美濃可児郡の蜂屋村岸勘解由(ルビ=信周)』〈武功夜話〉

 の人物であり、この「堂洞の岸勘解由(ルビ=信周)、犬山の織田十郎(ルビ=信清)左衛門とは
 縁者なり」と書かれています。このルビ信周というのは明智系図で
       光秀
       信周
       康秀
 となっている「信周」であるのは既述です。犬山と親戚というのが何としても重要であとに響いてきます。
 @の記事とAの記事は、BCの記事の間に入っており、
     @Aに飛弾と高山があり、BCDに右近がある、
わけですが通しで読むと飛弾高山右近と周辺をとりまく夕庵牛一がまぶされているといえます。まぶす
という表現をしましたがそのものでない場合もあります。つまりここの岸の良沢・勘解由などは敵方の
人物であり佐藤父子も、太田和泉、高山右近とは別人ですが、表記で語る場合はそれでよい、あら
ゆるものを利用する形をとります。
ここの高山も姓とはどうしてもとれない「高山」です、フロイスが「タカイヤマ」というルビを付したのは
太田和泉守の手法を知らされていた結果ともいえるものでしょう。あとで触れますが、この@のはじめの
「山中」は「小牧山」「小真木山」の一節のはじめ出てきた「山中高山二の宮山」を受けており、芭蕉が
〈奥の細道〉の加賀の「山中」で受けました。

(31)大ぼて山
 再掲、次のAの記事は 、太田和泉の記事を松尾芭蕉が咀嚼して自分の俳句に組み入れ、それを
寛政の〈三河後風土記〉の記者が高山右近父子の解説に利用したという一見ありえないと思われる、
しかし当然の継承を窺わせる連携動作がありますので少し回り道をして触れてみたいと思います。
再掲
    A『猿はみの城、飛弾川へ付いて高山なり。大ぼて山とて猿はみの上にはえ茂りたる
    ●「カサ」あり。或る時大ぼて山へ、丹羽五郎左衛門先懸(さきがけ)にて攻めのほり・・・
    水の手を御取り候て』〈信長公記〉

 「高山」というのはまた「嵩(かさ)」になるのでしょう。つまり「高山」を一字でかくと「嵩」になる、字引
をみれば
       「嵩は山+高
となって、「山がたかいの意味をあらわす。」となっています。丹羽五郎左衛門大活躍の〈信長公記〉首
巻の猿はみの城のくだりは、飛弾・高山が語りの眼目です。ここの、
   大ぼて山
に著者が足跡を残したということで、この山の重要性はいうまでもないのですが、テキスト脚注では
   未詳
とされています。ここに「カサ」というカタカナルビの付いた特殊な漢字がでます。パソコンで出てこない漢字で
    山の下に則
が付く字です。「崗(おか)」とか「ャ(りゅう」のような字の「岡」「立」という「山」の下の部分が「則」という
字が使われている漢字です。以下は「山則」としますが、こういう見慣れないものを太田牛一が使用しますと、
後世の人がすぐ着目して利用する、即ち継承のサインとしたり、それで高山周辺の人物を炙りだすと
いうような使い方をするということになりそうです。
上に山のある字は〈松〉の連発のあった〈万葉集〉有間皇子、柿本人麻呂が出てきた冒頭のくだり
にも「岸」「崖」がありました。これは「岸勘解由」となり注目字として芭蕉は黒羽町の「うんがんじ」に
     「雲岸(岩)寺」(〈奥の細道〉テキスト表記)
を宛てました。異本では「雲岩寺」もあるからこういう表記になったと思われます。また「山」の下に「松」
のある字、も先ほどの「嵩」と同じ読み、同じ意味とされていて同じ字扱いになっています。、
したがって高い山というのは、松などの木が伴った、通常一般に認識される木々生い茂る山を思い
浮かべればよいようです。テキスト脚注では
    「山則」に「嵩」
が宛てられ「高所」と解説されています。これはおそらくその前の「高い山」という全体像のなかの、
「茂」が連想されるその高所一部のことをいっていると思われます。
    『猿はみの城、飛弾川へ付いて高山なり。』
というのはやや遠方から捉えた感じで、そのあとの
    『大ぼて山とて猿はみの上にはえ茂りたる「カサ」あり』〈信長公記〉
というのは入れ替えて
    『猿はみの上にはえ茂りたる大ぼて山とて「カサ」あり』
 となるのではないかと思います。高山=大ぼて山ではなさそうですが、猿ばみの城は高山に
あり、それが山の頂にあるわけではなく、すこし下の台地に造られている、大ぼて山の一角が城で
大ぼて山の山頂に丹羽五郎左衛門が攻めのぼったということでしょう。これは水の手を切ったという
ことですからそういえます。だから遠くからみれば一番高い山が大ぼて山ということで、従って名前が
付けられているということのようです。
この「大ぼて山」は脚注では「未詳」ですが太田牛一はその山の名前は知っていたのにこういう名前に
変えた、もしくは、現地で記録も、伝承もなかったということからそうなったという二通りが考えられると
と思います。したがって太田牛一がなぜそういうわかりにくい名前をつけたかということを考えないと
いけないと思います。ここで「猿はみ」が二つ出て、「猿」という字が宛てられていません。これは
「はみ」にコダワリがあるわけで「岸良沢」「良」が意識されているのは明らかです。芭蕉は「雲岸寺」
のところで
   「木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立」〈奥の細道〉
の句を作り、柱に残しました(この動作は冒頭の表八句に繋がる動作)、「啄」と「庵」と「夏」で岸良琢
を解説したということになると思います。この「夏」は表八句の二句目、行祐という人の
    「水上まさる庭の夏山」 行祐
の句の「夏」です。太田牛一はこれを受けて、〈信長公記〉で
    「水上まさる庭のまつ山」西坊
と改竄して、作者も夕庵と思わせてしまったわけです。だから「猿はみ」で高山が出て「大ぼて」に
繋いでいるわけですが、「茂」にもそれがあるといえます。

 「丸毛(茂)」を意識して「ほて」を付けたと思われるます。
  テキストでは丸毛は“「丸茂」に通じ「まるも」と訓じる”と書いてありますから、一応この「茂」を打ち
 出そうとすると、「丸」が出てこないと納まらないということです。
  ○「ぼ」は無条件で「ほ」と変えてもよい(多数の使用例による)、
  ○「ほて」は、「たけ」は「たけい(多芸)」から派生したことを鑑みると、「ほてい」となる。
  ○「大」は「大島=中島(島)=小島」、「大西=中西(西)=小西」とかの「接頭字」と考えてみると
   抜いてもよい、嵩(かさ)が高いというのの形容となる。 
  
など考慮しますと、
           「ぼて山」は、「ほてい山」となり、「ほてい(布袋)山」
とも考えられ、「布袋さん」から連想されることは、丸い腹で、荷物も真ん丸ですから
           「丸」
が出てくると思います。芭蕉には「布袋(ほてい)の絵賛」と題した句があります。
         「物ほしや袋のうちの月と花」
 でこれは「物ほしや布袋のふくろ月と花」もあるようです。芭蕉では七福神の名が入った句はこれだけ
かとも思いますが代表選手が布袋といえます。
桶狭間で
    「深田の足入れ」「深田の足入れ」「高みひきみり」「節所と云う事限りなし。」「深田へ・・」
となっていいます。
    「深田」で高山、「高み」で高山、「節所」で「高山」
それが「茂」「毛」につながって、これで「丸毛」が「高山」と結びつくといいたいと思います。しかしこれだ
と「布袋(ほてい)なんて他愛ない、そんな呼び名の山の名前などない」とかの文句が出てくるでしょう。
たしかに「布袋山」など例がない、現地に布袋の伝説が残っていない限りおかしいといわれるとその通りです。
芭蕉でも出る山名なら文句もでないだろうとすると、「ぼて山」に比定できる山が芭蕉にでてきます。
       「たけい」=「たけ」でしたから、「ぼて」=「ぼてい」
です。
「菩提」は「ぼだい」と読みますが、本来は「菩薩」の「菩」と「提携」の「提」ですから「ぼてい」と読める
はずです。提携の提に似ている「堤防」の「堤」も「てい」と読むので、なぜ「是」がそうなるかはわかり
ませんが、とにかく「ぼてい」と読むのは明快で確実な読みといえます。

   A「ぼて山」から、「ぼてい山」「菩提山」が出てきます。芭蕉では

   『菩提山(ルビ=ぼだいさん) 
      の山のかなしさ告げよ野老(ところ)掘り』

 という句があります。この菩提山はあの西行に関係があるとされています。神宮寺、西行谷にあって
行基の開基の寺です。初案は上の語句「山寺の」のようです。つまり
   「菩提山(ルビ=ぼだいさん)   山寺のかなしさ告げよ野老(ところ)掘り」
というのが初案で、解説では初案の「山寺の」よりは「此の山」のほうが、句はぐっと生動してくる。
「山寺の」は傍観する姿である・・・・「此の山の」となると・・・・・・その境地の中に深く入り込ん
でいる・・・」となっています。いまとなれば「此」「是」「爰」などは戦国の文書でのキーワードとなって
躍動していることを見てきました。例えば「引間(浜松)の一節では

    (二 股)早
    『またの城を守るは松平伊織・・・・』〈三河後風土記〉

のような「此」が出て来ます。前後に「辺は兵庫」をはじめ「兵庫」が五回も出てきます。その前に
飯尾豊前守が出てきて、「飯尾が後家淫乱」や酒井左衛門尉忠次も出てきますから、事実関係より
なにか別のことをいいたい感じです。「またの城」というのはルビから二股(二俣)の城といっていると
思いますが、「伊織」という字を入力しようとすると「庵」が出てきましたが、これはその意味で出したか
どうかはわかりません。ただ「伊」と「織」は周囲の夕庵色が濃く打ち出されているならば説明に使って
みたいものでもあります。これがまた出てきます。

             (二 股)早
    『において、またの城をも責め取給い・・・』

 なぜ「ここ」において、「これ」というように念を押してるのかよくはわかりませんが、まあここの理屈を
いえば、「此」のルビが「二股」ではなく、「二」ですから、「此」=「二」といっている、したがってルビ
は(此 股)といっています。したがって本文は「二またの城」といっています。「二またの城」というと
    「またまたの城」
といえます。
一方「此また」という「此」はこれぞという強調ですから、これに相応しい「また」といえば、行きががり上
    「又」
という字でしょう。「又又の城」もしくは「二×又」の城、つまり「双の城」を二回打ち出したといえるの
かもしれません。
芭蕉のいう菩堤山は「の山のかなしさ・・・・」といっており、遠い昔の菩提山ではなく、美濃「竹中
半兵衛」の、また太田和泉の「菩提山」を想起しているのでしょうから、ここの「ぼて山」は、太田和泉
が美濃菩提山の城を想起して「ぼて(い)」「菩堤」山という名をつけた、というのを芭蕉が感知して
この句を作ったというのが真相でしょう。それが「竹中」の
     「竹」と「ところ」(所)と「野老」「掘り」
でしょう。
 「所」とは「嶋田所助」があり、真柄十郎左衛門×青木所右衛門
 「野老」については、「老」は夕庵の属性語句といってよいようです。夕庵は御馬揃で
       山うば(山姥)仕立て
 とあり、夕庵という名前がはじめから付いており、そういえると思います。〈信長公記〉では「高山」が
「長老」のなかに出てきます。

       『・・・東光寺の藍田(ランデン)長老・高山の長禅寺の長老・・・』〈信長公記〉

 が出てきます。テキスト人名禄では
       「長禅寺長老→高山(こうざん)」
 とされています。しかし〈信長公記〉の記事からは「高山(こうざん)」という名前は出てこないはずです。

       『・・・東光寺の藍田(らんでん)、長禅寺の高山(ルビなし)等・・・・』〈甫庵信長記〉

 が出てくるので個人名だろう、「らんでん」の読みからすると「こうざん」と読みそうだということになる
のでしょう。両書突き合わせてみると
      「高山の長禅寺の、長禅寺長老の高山(こうざん)」
 となるから前の部分、高山が地名と取れそうで、長禅寺も目に写る形のある長禅寺といえそうです。うしろ
 後が、長禅寺理事長のこうざん(高山)、というような個人名になっていそうです。高山を打ち出そう
 という意思が感ぜられるところです。いずれにしても「高山」という字が二発出てくることが重要です。

   『・・・・長老・・・・長老高山禅寺の長老・・・和尚長老・・・円寺長老・快川長老、』
                                                  〈信長公記〉
 というように「長」「老」と結びつわけです。長は竹、禅は下人禅門(太田和泉)という表記のいう禅宗という
側面もあるのでそれを打ち出したものかと思われます。芭蕉は「長=たけ」と読ませていますから、
芭蕉一門の人が、この文を読むと「・・武老・・・・武老・高山の武・・・武老・・・和尚武老・・・」というよう
になってしまいます。〈万葉集〉では「竹原井(たかはらのゐ)」だから、さらにこれが「武」→「竹」→「高」
で「高」の連発になりえます。
芭蕉に
   『大通庵(だいつうあん)の主(あるじ)道円居士(どうえんこじ)・・・・
     其のかたち見ばや枯木の杖の長(ルビ=たけ) 』

 という句があります。「長」は「たけ」と読むようにされています。杖も「木+丈」ですから「たけ」「たけ」
ともなります。「竹」「竹」とか「武」「武」です。解説では
             『「道円」は未詳』
となっています。「庵」「道」は夕庵の属性を表す語句で「通」も「とおる」です。「円」は「丸」ですから
重要で、相撲で「力円」というのが出てきますが、これは「力丸」になりそうです。
ここの「道円」というのが問題ですが句の上五は「其の方(かた)を」と間違っているのもあるようですから
道家の人であり、上の長老にも結びついており、高山ー夕庵を出したというのが、この「道円」でしょう。

いまいってきたことは再掲
   A『猿はみの城、飛弾川へ付いて高山なり。大ぼて山とて猿はみの上にはえ茂りたる「カサ」あり
    或る時大ぼて山へ、丹羽五郎左衛門先懸(さきがけ)にて攻めのほり・・・・・水の手を御取り
    候て・・』

 の「カサ」=「山すなわち」「山則」という珍妙な字から「大ぼて」が芭蕉では「大ぼてい」つまり
大きい菩提につながった、この山則をみて
   「菩提山  此の山のかなしさ告げよ野老掘」
の句が出てきた、すなわち夕庵和泉と高山と高山右近も意識して作られた句ということをいおうとして
きたわけです。高山右近も指してそうなのはこの子息の右近が出てきているということでした。

   @『飛弾川を打ち越し・・・大沢次郎左衛門・・・・飛弾川・・・・犬山・・・伊木山とて高山あり。』

  B『山中北美濃の内加治田と云う所に、佐藤紀伊守・子息右近右衛門と云いて父子これあり。
    或る時崖良沢(きしりょうたく)使いとして差し越し・・・丹羽五郎左衛門・・・』〈信長公記〉

  C『猿はみより三里奥に加治田の城とてこれあり。城主は佐藤紀伊守・子息右近右衛門とて
    御身方として居城候。・・・岸勘解由左衛門・・・名にしおう鍛冶の在所と云う所・・・・・・堂洞
    ・・・太田又助・・』〈信長公記〉
  
  D『丹羽五郎左衛門・・・・岸勘解由左衛門・・・其の夜は信長かぢた(「加治」は「鍛冶」も
    あるのでひらかな?)へ御出で、佐藤紀伊守・佐藤右近右衛門両所へ御出候て御覧じ、
    ●右近右衛門所に御泊。父子感涙をながし・・・・・』〈信長公記〉

 Aへ続くDの●の「則」は「すなわち」「即ち」であり、すぐに決まったということで、しごく当然という
意味があると思いますが「父」ではなく子の「右近」がもう主人公という感じです。

       ★『   菩提山(ぼだいさん) 
          此の山のかなしさ告げよ野老掘(やろうほり』

 の句意は〈芭蕉全句=ちくま学芸文庫〉によれば
   「野老(いも)掘る里人よ、この山の荘厳の滅び去っていった悲しさを我に語り聞かせよ」
の意とされており、あの西行が昔この伊勢の菩提山を歌った句があるのを踏まえて聖武天皇のときの
荘厳との比較をして詠んだものとされているものです。解説によれば

   『「笈日記」「泊船集」「蕉翁句集」には「菩提山」、真蹟懐紙には「菩提山即事」と前書して、
   上五「山寺の」とあるこれが初案であろう。』

 とされています。同じようなものを二つ作り、違わせて別のことを述べるという手法が取られますが
解説によれば★の句がもう一つあったわけです。「即」一字の追加がまず重要です。

        『   菩提山
         山寺のかなしさ告げよ野老掘(やろうほり』〈真蹟懐紙〉

 前書に(すなわち)の「即」が入りました。すなわち「則」=「即」ですから、あの「高山」「飛弾」「飛弾A
(右近)」「岸」「丹羽」「丸茂」「良琢」などが出てきた「大ぼて山」は「菩提山」を崩してつけた名前だ、と
いっていると思います。そのためこの句が生まれたといってよさそうです。二つ懸けられるのが普通です
ので「布袋山」のこともあるでしょう。要は「菩提」を生み出せばよいので、その過程として「ほてい」は
出るし、「丸茂(毛)」の「丸」は重要です。
とにかく高山飛騨守親子を匂わせたイタズラが「カサ」=嵩=山則=「大ぼて山」で、こういうのを利用
してもらうべく仕掛けをしたともいえると思います。
 次に「山寺」という初案とされる二字が重要です。これは一応誰もが
     山寺=立石寺
ということは知っています。すなわちこの「大ぼて」の周り一切のことを「立石寺」のところへ投入せよ、
といっています。芭蕉の戦いは大掛かりなものだったといえるところです。こういうのはあり得ることで
   「古池や・・・」の句は初案が「山吹や・・・」
ということです。これは「古池田」の太田和泉守と「吹田(因播)」の高山というのがあって、「古池や」
に決めているのにチャチャを入れるわけです。「行く春を近江の人と惜しみけり」にも「丹波の人」では
どうかという人がいます。「丹波」は「丹羽」も出てくるので露骨ですから駄目で、「兵庫」も無理でしょう。
「近江」は「琵琶」もありますが、安土城、坂本城、光春の湖水渡り、大津伝十郎などあって〈信長公記〉
の華やかな舞台を提供しているので出したいものを引っ込めたわけではないという妥協点が見出せた
地域といえると思います。「近江守」も「飯尾近江守」と「京極近江守」二つしかありませんので「昔を
想う」の対象も案外絞れた形になります。「古池」のよう芸術的に完成されたものにそういう解釈を付与
するのはよくないというのは有ると思いますが、音楽や絵画のようにその物自体は何も喋らないのに、
弾圧を加えた政権があるのです。主張があったのが多かったわけでしょう。それはそのものの価値を
減ずるものではありません。

なお地元ではもう「大ぼて山」の名前はないのではないかと思います。まあ「さるばみ山」と呼ばれて
いる程度のことでしょう。〈武功夜話〉ではこの山は
        「大ぶて山」
 と書かれています。

   『美濃加茂郡大ぶて山、当今は知る人もこれ無し。亀斎話あり(小坂雄善)、大ぶて山古代の
    貴人の墳墓なり。無数の小丘あり。南北大きく巾あり、巾下は深田あり、・・・・』

 ということで「カサ」のあだ名ではないかとも思われます。太田牛一の「ぼて」は「墓」があるから実際
もそう呼んでいたのかもしれません。亀斎(次世代の人)が「武」を入れて読めといったのかも。

 太田和泉守の足跡が明確な古戦場がこの大ぶて山です。大島茂兵衛が案内、佐藤右近が先導、
丹羽五郎左衛門が先手と〈武功夜話〉にありますが、大島、佐藤という実在の人物の裏に、太田牛一
周辺の人物の動きもみなければならないところで、大島茂兵衛は斉藤新五郎、丹羽長秀の手に属した
とか、若いときに栗山氏を継いだとかが書かれています。栗山といえば黒田一の家老栗山備後利安
その子息栗山大膳がいるので無視できない名前です。講談では黒田長政が粗暴といわれて黒田家
の後継者にふさわしくないと危ぶまれて、弟を当主にしようという意見をのけ右衛門佐忠之を無理に
跡目に据えてその忠之の乱行のために起こった事件ということですが、忠之を陥れたという倉橋十大
夫という人物は天草の乱の城側の人として出てくるという珍妙な話も付いている事件です。伊丹布陣
表の倉橋には椋橋という付箋が付いていたのは既述ですが関係あるのかどうかはわかりません。

なおこの句の終わりの「野老掘り」というのがたいへん重要な役割を果たしていきます。後世の人が
これを利用するからです。

(32)則
 太田牛一の「山則(カサ)」は「嵩」なので「則」はその後の文献でも活用されています。
「カサ」は「嵩」で「笠」がもっとも出てきやすい漢字です。
一方「嵩」は山高ですから高山がでてくるのは自然です。
〈三河後風土記〉で「則」の字句を少しとりあげてみます。高山、夕庵とかにつながるということでみる
わけですが「豊前」や「兵庫」や「宇雲」や「刑部」、「勝」「長」「竹」「」なども出てきて、もつれ合い
ますので、役に立つ情報を持ち出したいところで、そちらの方を取り上げていくほうがよいのですが、
もっとも役に立たなさそうなものを一つ取り上げてみます

 @ 『此ものを御頼みあらば、渠(かれ=刑部)(ルビ=すなわち)御請け仕つるべし。』
 A 『主従わずか七騎に刑部方へ御越しありしに、県(刑部)御目見えをとげける・・』

この二つの則は「即時」にやるという「すなわち」でAは@に近いので、ルビがありませんが、ほとんど
ルビが付いています。ルビが付かないのが一つ出てきます。

  『信長卿は奥平九八郎貞昌を召して・・・「此度の軍に勝利せしことはひとえに貞昌の忠勇ゆえなり、
  よって其の方を武者之助と呼ぶべし」とたわむれ給い、則信の一字を給わり信昌と改めけり。』

 があります。太字のところ筆者ははじめ「則信」の一字「信」という字を与えた、と解釈して「信長卿」が
「則信」と名乗った例があるのか、いずれ調べないとここの解釈は確定できないと思っていました。
しかし上の@Aの例をみると、「則」の前に「、」がないので、解釈としてはすこし苦しいが
   (すなわち=即ち)信の一字を給わり・・・・
としたいのであろうということがわかります。そんなのははじめからわかっていることで取り立てて
いうほどのことでもない、といわれるかもしれませんが、その場では「武者之助」という名誉の名前を
与えたわけですから、この「則」は後日このようなたわむれのあったことを前提に、といったような感じ
にもなります。まあ「則信の一字を給わり・・・」というのはわかりにくい書き方をしたというのはいえる
のではないかと思います。

    『是三州市場村の鳥居強(すね)右衛門勝高とて身の丈・・・・・』

 というのはルビはありませんが「これすなわち」と読んでよいようです。ここで「是」と「則」が密着して
います。これは芭蕉が菩提山の句で、菩提の「提」は「是」ですから「山則カサ」を受けたという証左
となるものの一つといえます。「鳥居」は勝高というようです。
          
   『(信玄)下知して、「(ルビ=すなわち)信玄病気になって帰陣なりと披露すべし。」・・・・・・
   かくて神君は三州取山まで・・・・』〈三河後風土記〉

 がありあの「山則カサ」=「嵩」は「笠」につながってきました。「笠寺」の「笠」です。

   『勝高則(ルビ=すなわち)領掌して急ぎ支度して・・・・ 』 『(すなわち)★青木尾張・・』

 この勝高の高も、青木も「スナワチ則」に結びついてきました。嵩=高山に多くが集まってきつつ
あります。「青木」はマイナーですが他書では「青木勘兵衛(一矩)」「青木又兵衛」「青木勘左衛門」・・
・があり万石取りの豪傑大将として有名です。まあこれは「青木鶴」「青木加賀右衛門」などに「青木
尾張」も加わったといえるものでしょう。
「山」+「則」の笠、嵩を意識して〈三河後風土記〉が書いていることがわかります。

〈信長公記〉では「青木鶴」が出てきたところで高山飛弾守が顔を見せましたが、〈三河風土記〉の★
のあとでも怪しげな人物がでてきます。天正三年、武田勝頼の長篠大敗の場面に
      「笠井肥後守利高」〈三河後風土記〉
が、出てきます。
       笠は嵩でもあり、笠は竹+立
でもあります。竹は武になり「立」は隆で竜、柳でもあるわけです。立は立木久左衛門尉(丹羽郡の人)
などもあります。笠木(井)久左衛門にもなりえます。つまり
    「笠井肥後守利高」=「武井肥後守利高」
であるということをいっていると思います。利高の高が高山の高、利高の利は利久の利、で久にも
つながるといえます。

     『勝頼・・・「今は此所にて討死すべし」と申されける時、笠井肥後守大きに諌めて「いまだ
     大将の死し給う時にあらずとくとく落ちのび給え」といい捨てその身は馬を引きえし大音声
     に、「元弘、建武のむかし新田義貞の命にかわりたる家に十二代肥後守、先祖
     の事跡を追いて主人にかわり討死す、しるしを取りて名にせよ」と呼ばはり突てかかり
     敵兵二騎突きおとし三騎にあたる敵と引き組みてさし違え死しけり。』〈三河後風土記〉

 となって派手に取り扱われています。これは勝頼が武田なので、「武」「笠」「井」「肥後守」という
のが一つありますが、高という字もあります。両三騎もあるかもしれませんし笠寺ーー飯尾豊前守も
考えられる、なによりも
     「笠井肥後守」は「武井肥後守」に似ている
ということが、重要なところではないかと思います。一字同じで全体同じというような学説もあるくらい、
しかも通説となっているというほどですから、この類似はもう二人を結びつけているのは明らかでしょう。
 宋書倭国伝の「珍」は反正天皇のイミナ(生前の名前)「多遅比瑞歯別」の「珍字形似る」という
ところから「反正天皇」だ、宋書の「武」は雄略天皇の「大伯(泊)瀬幼武」の武が同じだから雄略天皇
だ、というのでさえ学術書に出ているのですから、まだ筆者の言うほうがマシでしょう。「多遅(たじ)の
花は、いまの虎杖(いたどり)の花」というのは〈日本書紀〉に載っています。
「肥後」は〈信長公記〉では
  ▼「野村肥後」
だけではないかと思われます。見間違いだったら恥かきますが〈信長公記〉に「肥後守」は「肥後」と
いう不完全表記が一件しかないということは、重要ではないかと思います。両書の作戦が見えそうな
ことになります。これは〈甫庵信長記〉には
   「★武井肥後入道夕庵」
   「武井肥後入道」
   「妙印入道武井肥後守」
   「武井肥後守夕庵」
   「武井肥後守」
   その他「▲野村肥後守」「山崎肥後守」「千秋肥後守」
があります。「肥後守」については〈甫庵信長記〉の独壇場といえます。〈信長公記〉とは▼=▲と
いう一本でかろうじてつなげてあります。〈信長公記〉「野村肥後」の人名注では
   「野村直隆   浅井長政の旧臣、近江国友城将、信長に仕え、のち秀吉に属した。肥後守
   (〈豊鑑〉三)」
となっています。〈信長公記〉の野村表記は
     「野村越中」「野村丹後」「野村肥後」「野村」
上の直隆が宛てられているのは「肥後」です。〈豊鑑〉の編者が「直隆」を「肥後」に宛てたのは重要で
姓が「野村」なのに「直」をもってきたということは野村にも武井が乗ってくる場合があることを示して
いると思います。この観点からみれば一応明智光秀で比定出来る「野村越中」は「武井」プラス「高山
右近」ということも表わしうる表記であると思います。〈信長公記〉の孤立表記で
   「牧庵」「高安(庵にもなる)」
というのと同じで、右近プラス夕庵の感じが出ているものです。こういうのは「牧」「真木」、「高」から「庵」
のつく人に迫れといっているのかもしれません。武井夕庵は〈信長公記〉がはじめから「夕庵」という隠
居のような名を使い登場回数を抑えていて、作戦があるのかもしれませんが、直接的にはわかりにくい
ので類書には解説が多くなっている感じです。
〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の両方とも、
       「笠井」
という二字を用意している(武田軍で戦死)のでこれを解説したのが笠井肥後守であったといえます。

     「笠井」=「笠井肥後守」=野村肥後=直隆=武井肥後守
というような連携で
         笠井・武井肥後
になりうるわけで、笠井肥後守利高などという表記は、〈信長公記〉の見逃してしまいやすい部分の
指摘をしていると解釈できます。後世人はそれぞれが部分的に取り上げるのでその面に関しては
奥が深いので油断できません。例えば、一つは笠井は武田軍で行動し、〈三河後風土記〉は夕庵らし
いのを武田勝頼の忠臣の位置に置いているのです。また〈戦国〉で出ましたように佐久間右衛門を
長篠役で武田に内通させているわけです。要は二人ともに違乱させているわけです。こういうのは
どうとるのかという問題が派生して出てくるようなことにもなります。また〈信長公記〉の人名索引では
「笠井」のとなりに二字の「笠原」がでています。これは〈三河後風土記〉の著者は見ていますから
「笠井」を述べたときにもう関連づけてみているのは確実といえます。こういうからみから
  「(小)林瑞周軒」
という表記を作ったと思われます。すなわち「(小)笠原」ともなるということです。ここからは「松尾城主
小笠原掃部助」「松尾掃部助」が出てきて明石城主という高山右近と結べるといえます。
「笠原」は「笠原越前(守)」〈信長公記〉という表記がでて、テキスト人名注では「笠原藤左衛門」という
人も考証から出てきています。越前の藤ともなると高山が一番近くなってきます。「笠井」と人物の他愛
ない言動を書いていても波及するところが大きいのですが、どこまでかと究める必要はないわけで
思い出して都合のよいところで活用すればよいといえます。

この部分は
  「笠」「山則(カサ)」「嵩」「高山」「丸毛」「ぼてい」「竹半」=武井
ということでした。これが飛弾(川)につながる話になっていました。それは〈信長公記〉が首巻で、
早くから「高山飛弾守」が重要な表記であると語っていたということです。「山則」という珍妙なものも
みのがしてはならない記事というのは〈三河後風土記〉がいっているのでわかりました。高山飛弾守
は一回限りの登場と言ってもたいへんな準備がされたうえの登場であったといえます。しかも右近と
いう表記も首巻でいやというほど出ていました。
 以下、高山、飛弾守、飛弾国守の順に見て行きたいと思いますが、「山則」のような字の分割活用
例がまだでてきますので少し触れたいと思います。

(33)二俣
「等」は「竹」プラス「寺」で、「体」というのは「にんべん」と「本(ほん)(もと)」の組み合わせですが
「投」は「手篇」プラス「投篇」(右の方をこう呼ぶ)で「役」は「(ぎょう)にんべん」と「投篇」です。
なぜ「投篇」というものを出すかといいますと〈信長公記〉「身方が原」で「にんべん」つまり
    「イ」に「投篇」
という字を出してきたからです。「寺」とか「本」というようなものの分離だったらまだわかりますが「投」篇
というようなものまで分離させて利用しようというものがあります。これは「役」に似ているので「」という
表示をすることにしました。
再掲
           (二 股)早
    『において、またの城をも責め取給い・・・』〈三河後風土記〉

先ほどのこの短文は〈信長公記〉の「身方が原合戦の事」の中にある次の意味不明の部分の解説にも
なっている、この方も重視されていると思います。この「股」は、つぎの〈信長公記〉の「俣」を勝手に変え
ています。「イ」→「月」です。まあとりかえてみたらどうかといっているととれます。

  『遠州二俣の城・・・・早(はや)二俣の城・・・・武田信玄水(左側は人篇)の者と名付けて・・・
   彼等にはつぶてをうたせて・・・・』〈信長公記〉

 「水」は「水俣」とか「水股」とか訳されるのは普通でしょうがそれでは文意に合いません。
 「水の者」は「石投の者」にしたい、というのはまずはっきりしています。石を投げる役ですから。
〈三河風土記〉は「此」を重視しなければならないといっているのは明らかです。

○「此」と「石」は「砦」で、「此」は「(砦(取手)」から「石」が分離されたものです。ぼんやりと石が
出てきます。
○「水股」は「みなまた」であり「皆股」で「皆股砦」です。
 「皆」は「此」プラス「白」です。また
 「砦」は「此」プラス「石」です。
「水」が白石に変わると「水」は必然的に「石役」か「石投」に変わると思われます。
「水」を「皆」と置き換えるのはテキスト人名録で「皆川広照」の横に
  「水巻采女佐」
 が出ているので気が付きました。水巻はテキスト人名録では
    「水巻は越中(富山県)砺波郡水から興つた豪族」
とされています。この「牧」が牧村につながるのでしょう。
   「皆」=「此」+「白」=「このしろ」
は「白」は「城」に懸かりますが、とにかく〈奥の細道〉の「将(はた)このしろ」の「このしろ」にもつながる
とすると「室の八嶋」の一節にこが絡んでくるのかもしれません。
○「砦」は「取手」です。「(手)プラス取」ですから「掫」(手に取る)の字そのものです。つまり手篇の
「石投」というのが妥当です。

 もう一件、「勝主税助」(信長公記)が使われており、テキスト脚注では「勝俣であろう」とされていま
す。これは「水嶋」と出てくるの「水俣」「皆俣」が意識されていると思われます。こんなややこしいこと
をして何を打ち出そうとしたかということですが、山口取手介からの継続手でつまり「投馬国」の「投」を
〈信長公記〉のどこかに入れたかったということと思われます。

「投」の「山口」「長門国」は早くから意識され〈明智軍記〉で「明智十兵衛」は「山口」「長門国」に漫遊
しています。〈信長公記〉の「早」が〈三河後風土記〉のルビの(早)の意味かもしれません。
「室の八嶋」の一節に石投の長門が絡むと「石室長門守」が出てきますが、岩室長門守という表記が
ほかにも重要な意味合いをもつのか、そういう場面が出てくるのかということに注目しておく必要がある
と思われます。いまとなればもうその表記自体で
      陶器の窯+(村井)長門守
という太田和泉守の属性を語っているとはいえますが、ほかにあるのかもしれません。

(34)高い山という高山
 〈信長公記〉では高山右近は14回ほど出てきて「丸毛兵庫頭」と同じくらい出てきますから、多いほうであり
重要人物扱いといってもよいわけですが、「高い山」という意味の「高山」は人名でも地名でもないので
人名、地名として名寄せできません。右近でない高山というものが多いのが両書の特徴です。フロイス
が「タカイヤマ」と高山右近を表現したのはまことに当を得た表現をしたことになり、太田牛一とかなり
意思疎通が出来ているといってもよいと思います。
拾って見ると次のようですがこれが高山飛弾守の高山にぶら下がっているわけです。

       @「山中高山二の宮へ御あがり・・・」
       A「伊木(いぎ)山とて高山あり」
       B「飛弾川へ付いて高山なり。」
       C「高山節所」「高山節所」
       D「大吉寺・・・高山能き構え」
       E「高山大づくへ取上り・・・」
       F「東は高山伊吹山」
       G「高山の長禅寺の長老」
       H「是又、高山にて茂りたる・・・・」
       I「女坂(をんなざか)高山
       J「高山に雪積って白雲のごとくなり」
       K「足高山(脚注=愛鷹山とも)左に御覧じ」
       L「高山嶮(サカシキ)所を」
       M「多芸山茂りたる高山なり。」
       N「とつとりの東に・・・並ぶほどの高山あり。」
       O「高山峨々と聳え、深山ハエ茂り・・・」
       P「高山比良の嶽」
       Q「高山を下下(クダクダ)つて谷を隔て」
       R「一宮の上に国見山とて高山あり。」
       S「高山大づくへ取上り・・・」
 全部拾いきれませんのでまだありますが この外に高山右近の「高」は高、鷹、隆、嵩・・・などがあり、
上の表記などと背景を形作り躍動する周辺の人物に影響を与えていくわけです。EとSのように全く
同じものもあります。また「節所」というものだけが出てきた場合Cの例があるので(高山)が意識されて
いないかというものもあるでしょう。例えば
天正十年
   『田四郎・・こがつこ山中・・滝川左近・・・嶮難・節所山中・・・田子(たご)と云う所・・・』〈信長公記〉

 ともなれば、節所は山中に近接して@もあるから、(高山)節所と解してもまあ問題はないかもしれませ
ん。前に「嶮難」もあります。桶狭間では節所は「高み」「茂り」「深田」「深田」というように「深田」という
面からも高山に近づくことができます。そのほかこの文には高山に繋がるものが意識して取り上げ
られたといえます。
 ○「武田」の「武」は、「武井」の「武」(竹、高・・・・)、「武田佐吉」の「武田」です。
 ○「滝川」の滝は多芸(たき・たけ)だから「武」、「滝川」の「左近」は右近左近の右近に通ずる、
  これも「高」といえます。
 ○田子は〈万葉集〉の「田子」、後年〈奥の細道〉の高岡のところで使われる「たこ」に繋がる、これ
  は、〈奥の細道〉の「擔籠(たこ)」で既述です。ネットによれば高岡の城跡には高山右近の銅像が
  ある由、城の縄張りの話もありました。右近は太田和泉に近いので十分あり得る話となるのでしょう。
 ○「山中」はここに二つ出ています、@があるから「高」とセットの意識があると思われますが「こがつこ」
  につながる「山中」と、「節所」に近づけた「山中」とがあると思われます。「こがつこ」は脚注では
      「飼。山梨県東山梨郡大和村のうち。田子(田野)も同所」
  とされており、田子は本当は田野かもしれないわけですが、ここで「駒」が出ました。この「こま」は
  地名、人名に確実に生かされ、「駒来山」「小真木山」の「こま」でもあり、「くま」「熊」につながっ
  ていきます。「公家」というのは「こうけ」ではあるが「くげ」とよみ、「木工」は「もっこう」ではある
  が「も(む)く」とよむ、「工夫」は「くふう」でもある、テキスト脚注では「久我中納言」の解説に
  「こが」を使われています。〈信長公記〉はルビがなく、「こ」とも読むことを認めていることになります。
  したがって「駒」は「こま」ですが、「くま」でもあり、角鷹二連は、駒高二連になりそうで、この「駒」は
  「狛犬」の「狛」でも表されることになります。駒飼がなぜ「こがつこ」になるのかわかりませんが
  太田牛一はここで「駒」を出したかったのはひとついえることで「駒」がたいへん気になってきます。
  〈武功夜話〉の「小牧山=小真木山」に対する「駒来山」の当て字はなかなか面白いものですが、
  これには根拠があったというのがここの「駒」ともいえます。
  これは山城などにある「高麗(こま)寺」(明治以降「高麗(こま)神社」となった由)から取ったもので
  しょう。これは別名「寺」です。高麗が来で「こま」寺に使われ「こまき」「高(こま)来(き)」に
  なったというのかもしれません。芭蕉の「竹駒明神」「武隈の松」などが「高」と結ばれてきます。
  太田牛一は「山中高山」の出てきた「小牧山」「小真木山」のところで「駒木(来)山」もいれようと
  していた、つまり駒も高と繋げようとした芭蕉の「竹駒明神」「武隈の松」などが「高」と結ばれると考
  えてよいのでしょう。駒は狛であり、この字の人が、明智の人物を語るのに使われます。

  長坂助一という人物は、山城の代官として
       天正七年 『田佐吉・林兵衛・■長坂助一』〈信長公記〉
       天正八年 『田佐吉・林兵衛・長坂助一』〈信長公記〉
       
 という〈信長公記〉二回の登場のある人物です。これが何故ここで出てくるかということですが
 ■の登場が高山飛弾守の登場のすぐあとに出てくるからです。〈辞典〉ではこの「長坂助一」は
 生没年不詳は当然ながら、まったくわけの分からない人物で、内容は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉
 の登場場面が出ているだけです。しかし一つだけ変わった情報が入っています。

   『(長坂助一は)天正五年(1577)頃か、五月十四日付けで、堀秀政より、狛綱吉領を横領した
   ことを責められている。』

 これだけが目新しい記事といえます。なぜか違乱の話がでますが、「堀秀政」はいわくありげです。
まあ明智衆の若手代表と見てよいのでしょう。これと「こま」がぶつかったわけです。
「狛綱吉」が誰かという問題になってきます。〈辞典〉では狛綱吉(こま つなよし)は

   『山城。生没年不詳。左馬進、左京助。諱は「秀綱」とも。山城相楽郡狛郷を本拠とする土豪。
   元亀三年(1527)十一月、信長より狛郷の領知を安堵されている(古文書纂)。
    同年と思われる、十一月二十八日付の柴田勝家書状で、延命寺に対し違乱のないよう命じ
   られている(斎藤献氏文書)。・・・・・・・
    同二年五月より南山城は、塙直政の支配下に入っているが、この年かその翌年であろう。
    十二月四日付で、直政の老臣塙安弘よりの、神童子村の本知の安堵を確認した書状も
   見られる(小林文書)。
    本能寺の変の後、居城を破却し、浪人となったという。おそらくは山城衆として明智光秀
   加担したのであろう。』〈辞典〉

 まあ一言でいえば山城と明智衆関連というような人物です。実態的には駒井日記で秀次側から
政権を糾弾した駒井重勝の父のような感じの人です。この〈駒井日記〉は黒田官兵衛の病気の記事
が頻繁にでます。この場面ではマイナーと思われる「黒田官兵衛」の記事は不自然と思われますの
で黒田官兵衛の名前を使って太田和泉の病気を語っているのが印象に残った日記です〈前著〉。
 ここの違乱というのは、〈戦国〉で、すでに書き様の不自然さから、指摘していることですが、丸毛
兵庫頭を武井夕庵とみるように注意をうながすために操作があるわけです。
    中条又兵衛と中野又兵衛と大橋長兵衛
が炙りだされて出てくることからはじまっています。
 〈信長公記〉羅列
     『梶原勝兵衛・毛屋猪助・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門、先懸けにて・・・』
 〈甫庵信長記〉
     『梶原勝兵衛尉、毛屋猪助、富田孫六郎、滝川彦右衛門、大橋長兵衛、併に中条又兵衛

 梶原、毛屋、富田、滝川も重要で、例えば「毛屋猪助」というのも「毛屋」という苗字はあったことは
わかりますが、「毛屋」は「毛尾」でもあるわけです。〈信長公記〉は
    「狩野永徳・息右京助、・・・・・竹尾源七・・・・」
というように竹尾ですが、〈甫庵信長記〉では
    「狩野永徳息右京助、・・・・・・竹屋源七・・・」
です。これは「高屋」などが「高尾」になりかねませんから重要なことです。なお序でながら上の文は
同じ人物羅列の場面ですがすこしおかしいことに気付きます。つまり狩野永徳が子息と別れている
のと引っ付いているのとの違いがあります。
次の文は〈甫庵信長記〉の羅列です。
  「木村次郎左衛門、同源五、狩野永徳息右京助、岡部又右衛門尉、遊左衛門、竹屋源七・・」

同じく、〈信長公記〉の羅列
  「狩野永徳・息右京助、木村次郎左衛門、木村源五、岡辺又右衛門・同息、遊左衛門・子息、竹尾源七・・」

 になっており、とりあえず一見して超大物「狩野永徳」が浮いています(〈甫庵信長記〉にはない)。
つまり〈信長公記〉が浮かせたというのが妥当かもしれません。そこだけ〈甫庵信長記〉をベースに補正
してみると
〈甫庵信長記〉
   「木村次郎左衛門、同源五、狩野永徳息右京助、岡部又右衛門尉、遊左衛門、竹屋源七・・」           
                 ‖       ‖                   ‖
〈公記〉による       木村源五
補足            狩野永徳   息右京助               同息  子息

となります。つまり親、子、孫三代を描いています。
木村次郎左衛門(太田和泉)の子が狩野永徳、その子松永貞徳となりますが、狩野永徳は森えびな
の子なので孫となります。このあたり貞久の子高木兄弟の形に似ています。
  木村源五二人、
   一人は、太田和泉の子が四人で、森えびなの子は、五番目にカウントされるから源五の五となり
   ます。孫相続にこだわったという古代の女王の話などはこの類のものでしょう。
   もう一人は、彦の五番目、高山右近です。(現代の美術史などではどういう捕え方をしているかは
   知らないが)この時代、狩野永徳と長谷川等伯が並び立った時代というのが語られてきている
   ことです。長谷川等伯も@A・・が考えられるので、高山右近が見落とされてしまうことになっている
   と思われます。油断のならない話がたくさんあります。〈甫庵太閤記〉
     
      『山里御座の間        同人(観音寺)
      児童の絵図あり、長谷川平蔵之を図(えがく)。・・・・・』〈甫庵太閤記〉

   親子が同じ名前でわかりにくいというのはありますが、時の流れの面からみるとルーツが捉えやすいこと
   もあります。ジャンル階層を問わず、江戸時代のリード層は戦国時代のことは市販された〈甫庵信長記〉
  〈甫庵太閤記〉によって大体マスターしていた、もう一つ〈信長公記〉のようなものが、書かれて
   いたはずということも知っていたので、そういう伝統に誇りを感じ先人に信頼を寄せていた、後世
   にも現在はこうだったと伝えねばならないと思っていたといえます。その気になれば、現代人が
   現代のことを知れる以上のことも知ることができるというようにされていると思います。

「長坂助一」と「狛氏」の違乱、「牧村長兵衛」の「長兵衛」と同じ名前の大橋長兵衛〈信長公記〉の
あぶり出しの話から脱線しましたが、この三者の炙り出しは目に付きます。高畠の違乱について少ない
史料から牛一、甫庵の操作を述べたことについて、読者から、筆者の指摘はありうるということの一文
です。要は、基本文献を解説するには色んなやり方があり、文献外の文書とか、手紙、などはすぐ事実
と認定されやすいので、事実らしく見せるためにその形式も利用されるということがいいたいことです。
内容的には喧嘩などするのも関係の濃密さを示すものとなります。

       『「丸毛が大橋長兵衛の多藝郡内の所領を違乱した」と伝わる文書ですが、これは秀吉が発
    給した文書二通のことです。・・・専門家にとっても内容が不明確な文書です。
    まず一通は
     「(秀吉配下で)横山城勤番衆であった大橋長兵衛の多藝郡高畠の領地を大橋の現地の家臣
    が一揆方に属したので闕所処分とした(大橋の領主権を否定した)のはどういう事情ですか」
    という問い合わせと善処を依頼した菅谷長頼・塙直政・市橋長利・塚本小大膳に送った公文
    書です。そしてもう一通は秀吉から大橋長兵衛に宛てた
     「闕所処分にしたのは丸毛光兼であった。横山在番の者は、所領安堵が信長から認められて
    いるので、多藝郡高畠の領地は従来通り大橋長兵衛の領地です。丸毛光兼にもその旨断って
    おります」
     という内容です。どちらも初期の秀吉の文書ですが、なにかしら不自然な雰囲気がただよう
    内容です。特に興味深いのは「丸毛不心斎」宛ての禁制状(織田信長文書の研究所収)
    です。・・・・・・・宛名が不自然です。
    わざわざ宛名の右肩に「多藝」と書いてあります。〈織田信長文書の研究〉を少し見た範囲内
    でいうと、こういう宛名の書き方の例はありません。また信長の署名が無くて朱印だけが押して
    あるようですが、これも他の例は発見できませんでした。またこの文書は京都の吉田神社の
    社領に対する禁制状ですが、こういう内容の文書を丸毛不心斎に出す情況が想定しがたく
    、またそれが吉田神社に残っているというのも不思議な感じもします。

   丸毛光兼・兼利親子と不心斎ですが、〈信長公記〉は丸毛を多藝郡に結びつけようとしていま
    す。丸毛光兼が多くの異名を持ち、しかも土岐明智の「光」を持っていることも重要かもしれませ
    ん。息子兼利も異名が多いですし、「兼」の字も土岐氏に顕著な字といえなくもありません。』

   『・・・この疑わしい文書は「丸毛の近くに“多芸”と書きたい」「丸毛は“多芸”の関係者である」
     という意志が反映されたもの、と私には感じられます。したがって〈信長公記〉と共通する
     目的意識があるようです。吉田神社は由緒ある神社ですし、津島の大橋家にしても古記録・
     文書の保存に熱心で、ともに文書が後世に伝承されやすい点では共通です。・・・』

 〈辞典〉によれば、大橋文書には
    「(美濃多芸郡)高畠の在所を塙直政に違乱されたことがある」
    「やはり留守中に、丸毛光兼(長照)に侵され」
 などのことがと書かれているようで、「塙直政」は山城の狛領でも出てきました。テキスト人名注に
よれば「武田左吉」は

  『天正二年正月二十三日左吉は、塙九郎左衛門直政の客人として津田宗久の茶会に招かれた
   (〈津田宗久日記〉)』

 とだけ書かれていますが、ここで塙直政が出てきて意味付けています。つまり太田和泉が動きまわ
って実体のない表記を意味づけているわけです。
        「武田佐吉」「林甲兵衛」「長坂助一」
の「武田左吉」は人名録に上のことしか書けない存在、「林高(甲)兵衛」「長坂助一」も実体はなさ
そうで・人名録には何も書かれていません。考証した人がいないという存在といえます。ただ違乱が、
よく出てきて笠井肥後守のところに出てきた長坂助一は違乱と関係があります。「武田」関係の違乱に
つながるわけですが、「(甲)兵衛」の「」は「こがつこ」から
        駒=
 の関係を呼び出す、「駒」「角」「隅」「隈」「熊」「駒」「高」「鷹」が「山中高山」にも「節所」にもつながり
かねない、横道に入りましたがこれほど高山が語られているというのがいいたいことです。
いきつくところ〈奥の細道〉の加賀の「山中」が待ち構えています。

(35)高岡の岡
 再掲、〈曾良日記〉

   『七月十四日・・・・氷見・・・高岡・・・・ナゴ・二上山・イハせノ等・・・高岡・・・少□同然・・・
   (七月)十五日・・・・・高岡・・・・・埴生八幡・・・・源氏山、卯ノ花山・・・・金沢・・・・京や吉兵衛
   ・・・・雀・一笑・・・雀・牧童・・・一笑・・・雀・・・川原町・・・●宮や喜左衛門・・・・・・
   源意庵・・・・斎藤一泉・・・・徹・・・・北枝』

 ここで「永見」「永原」「永田」に「ナゴ」は「奈呉」、「二上」は「大津」、「イハせノ」は「岩瀬野」、離れて
「川原町」は「河原取出、芥川」、「一笑」は「竹+天」、「牧童」は「牧村」の「牧」があり、「徹」は
「高山」ワールドの「とおる」、などがあったといえます。
ここの「京や吉兵衛」は「吉」もさることながら、〈信長公記〉「早崎吉兵衛」と合わせて〈三河後風土記〉
の「早・京兵庫頭」につながるのかもしれません。金沢は金竹というように武井高山色にちかづいて
きます。
高岡の高はやはり高山右近も織り込まれているいるような感じです。高岡は〈奥の細道〉の本文には全然
ないのですが、〈曾良日記〉には三回も出てきます。
高岡というのは「」と「岡」と分けられると同時に「高岡」は「高崗」ですから「高山」ということも含む
表記でしょう。人名としては「高岡」はなく「高い山」をあらわすものとして「高山飛弾守」と「高山右近」
しか使われていないという特徴があります、また「右近」(左近)という表記が非常に多く一応この
高山を意識しているということになると、また織田の早期の時期にあたる首巻の中に「右近」がでてくる
となると、高山なるものは美濃というのが地盤となっており高山飛弾守も摂津高槻あたりの豪族、その
子息が高山右近ということが出てこなくなってきます。また「飛騨」というのが「肥田」で引き当てされ
そうだというのも早くから分かっていることです。
「高岡」は、また「岡」が「崗」でもありますから、「山岡」という大きな丘のイメージになります。
岐阜の「阜」も同じ意味のようです。山岡は山岡対馬守が出ますし、山岡美作は
   「中条将監・山岡美作・牧村長兵衛」
 というような出方もします。「岡田右近」という表記もあるから「山岡→岡田右近」で高山というものも
暗示されます。勢田の橋で「山岡美作」は太田和泉と重なります。秋田城介信忠も「山岡美作(やま
をかみまさか)所」宿泊があり、信長公も「勢田山岡美作守所御泊」となっているようなものが「山岡」
ですが、高木文書の高木とか、この「山岡」などは明智三兄弟とその周辺を語る人材配置という面が
あると思われます。つまり考証が出来ていないという面からの推測ですが、そうとすると高木とか山岡
は「高山」に近づく表記だから高山を語ろうとする意思が濃厚といえそうです。

また既述、丸毛兵庫頭の弟春日九兵衛の就職のことで「岡飛弾守」の登場と解説がありました(〈常山
奇談〉)。
「岡飛騨守」という表記が〈信長公記〉に出てきます。
元亀四年
    『・・・・三好左京大夫殿非儀(ひぎ)を構えらるヽに依って、家老の衆多羅尾右近・池田丹後守・
     野間佐吉、両三人別心を企て・・・・・・其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき働き、
     哀れなる有様なり。
           御相伴(しょうばん)人数・ 
        ●那須久右衛門・岡飛弾守・江川、
     右三人追腹(おいばら)仕り、名誉の次第此節なり。若江の城両三人御忠節に付いてあづけ
     置かれ、』〈信長公記〉

 という「右三人」の一人です。「ひだ」は〈信長公記〉は「弾」の字を使っていますが〈甫庵信長記〉は
「騨」を使用しています。あぶり出しがあり、「飛弾国司」「高山飛弾守」〈信長公記〉は重要でしょう。
 「江川」という二字は、ここだけみれば「三人」とあり、人の名前ですから、何もない場合は、直前の
ものを入れるしかないわけです。
      江川□□□で、江川飛弾守
が入ることになります。すなわち「飛弾守」が強調されることになります。丸毛兵庫頭の弟、春日九兵衛
に絡んで「岡飛騨」出してきた常山は三好の家臣の岡飛騨守を、武井明智(春日)にもってきたのでしょう。
「江川」というのは「江口川」を想起しますがそれでもよいのではないかと思います。
      「江口と申す川」
では元亀元年、和田伊賀守が〈信長公記〉最後の登場で、柴田修理亮と出てきますので、これにも
懸けたと見て取れます。すなわち右三人は、
      「久右衛門」「飛弾守」「伊賀守」
の武田(井)兄弟三人ということも暗示するともいえます。これは上の甲賀の「右近」、「丹後守」、「佐吉」
の両三人に対置されるということになると思います。丹後守が誰かということになりますが、ここでは「池田」色
を加味すると、また「右近」「佐吉」という若い世代の名前もあるので、(池田)伊丹兵庫頭とするのが
妥当ではないかと思います。つまり荒木にいた明智長女で奈良左近と年齢の合う人、若い方の明智
左馬助Aというべき人物を宛てていると思われます。つまり
         奈良左近@奈良左近A石田佐吉
といえるのでしょう。いまとなると
         高山右近(明石掃部助)・島左近A・石田三成の関ケ原前線トリオ
を暗示するものといえそうです。ここまでくると「けしからん」というのが出てくるでしょうが、いずれ引き当
てを必要とするわけですから、「池田丹後守」はわからないではすまないと思います。
 〈甫庵信長記〉「伊丹兵庫頭」「十八歳」で出てきた人物は〈信長公記〉には出ておらず、〈信長公記〉
では、「伊丹源内宗祭」のほか
        伊丹孫三郎
        伊丹安大夫むすこ
        伊丹安大夫女房
があり、伊丹という実体を掴むのはむつかしく伊丹、荒木を包摂するのが「池田」といえます。
 明智光秀の長子といえば早くから光秀に従い苦楽をともにしていること、荒木の家に入り現に荒木
は興隆していること、また〈武功夜話〉では誉めていることなど考えると優れた人材であったと思われ
「佐吉」が信頼して高禄を与えたことは当然のことと思われます。この「丹後守」は細川も想起される、
こと、また〈武功夜話〉では本能寺後、甲賀多羅尾氏に匿われていたというような話もあり、ここの
「多羅尾」と交錯しています。島左近は明智光秀を褒めており明智の人であるのは問題ないところで
しょう。ただ〈名将言行録〉に61歳の年齢があるのが混乱するところですが@Aがあると考えると反って
一人に多くのことが盛り込まれすぎという矛盾点が解消してくることになります。
奈良左近の奈良は〈甫庵信長記〉が責任を取っており「奈良清六」「奈良但馬守」を用意しています。
なお「左近」という二字表記もあり、これはテキスト人名索引は「奈良左近」の左近とされています。左近
といえばまず「島」です。
「清六」は「とをる」の「野尻清介」、「掃部」の「岩瀬清介」、「中川清秀」の「清」で高山関連、「六」は
「弥六」「孫六」「大六」「甚六」「彦六」など大もの表記であり高山の「五」にカスっている感じです。
「奈良但馬守」は「奈良田島守」で「多島」「多嶋」でもあり「島」の登場となります。〈甫庵信長記〉
では「田島」は「田島千秋」、「田島肥後守」があり、先ほどの丹後守、
         「田島丹後守」
 が用意されています。現に太田牛一が書写材料、環境いまよりはるかに困難な中、書き落としたのが
「丹後守」という文字だったのだから、「丹後守」ぐらいはチェックしてみる必要があるでしょう。
「丹後守」はみたところ「野村丹後守」「小原丹後守」「大戸丹後守」くらいです。
 「野村丹後守」は先ほど人名索引から「野村」に括られて「越中守」「丹後守」「兵庫頭」「肥後守」が
あることは既述です。
     丹後守=野村=兵庫頭
というのは、念頭にあるものです。野村越中が主役で出てきたのは六条の合戦で、ここで池田と野村
がはげしく交錯しました。「野村」という二字表記もあり、これは「池田」も同じです。どこかへ引っ付こうと
している粘着力ある浮遊表記という感じです。
 「小原丹後守」は「大嶋城」をめぐって出てきます。また
    『逍遥軒・日向玄徳斎・小原丹後守・安中越前守等』〈甫庵信長記〉
というような登場で、後(うしろ)に「安中越前守」を伴って出てきます。「安西」「庵」と「越中」に接近し
ます。〈信長公記〉では「あん中」で出てきますが、テキスト人名注では「あん中」は

   「安中左近将監景繁(生島足島神社文書)か。或いは景繁茂の次代かもしれない。安中氏は
   碓氷郡安中(群馬県安中市)の住人。平姓余吾将軍維茂の末。」

となっています。「左近」「島」「島」「親子同名」「薄氷(笛吹)」「安(庵)「余呉」「維」「茂(毛)」という
ように関連表記ばっかりの解説となっています。また「小原丹後守」の前の
   「逍遥軒・日向玄徳斎」
は、「正用軒」は「武田」であり「日向」は明智光秀が「日向(守)」で「玄智」という名前で辞世の詩を
書いたということで明智光秀を暗示しているととれます。佐吉・明智とならびの「丹後守」といえます。
とにかく「嶋」の付く「大嶋城」で出てきたのが小原丹後守で「野村丹後守」→「池田丹後守」という
意識の流れが著者にありそうです。
 「大戸丹後守」は先に「水俣」「長門守」の話のところで出ました「水嶋」と出てきます。

      「森川備前守・・・・・・・・・・水嶋・山上備後守・・・・大戸丹後守」〈信長公記〉
      「森川備後守・・・・水島備中守、山上備後守・・・・大戸丹後守」〈甫庵信長記〉

両書間で出方が違っています。「水嶋」の「水」は水股の「水」と「皆」に懸かっていましたがここでは
「嶋」が「丹後守」と「山上」に懸かってきたといえます。
 「水嶋」は瀬戸内海の水嶋ではないかと思っていましたが、ここで「備中守」であったことがわかりま
した。ここで「備後」「備中」「備前」が揃えられていますので、「長門国」へ潮の流れが向っていると
いってよく、あの水(皆)股物語は、投馬国、長門国を語っていたといってよく「岩室長門守」が顔を出す
のも不自然ではなかったといえると思います。

 この「大戸丹後守」についてテキスト人名注では

     「この大戸氏は上野(群馬県)吾妻郡大戸に興り、のち信濃(長野県)に移ったのであろう。
     ★大西208」

とされています。★は文中の「大西」という表記が「大戸(丹後守)」を指す、という意味でしょう。
人名注「大脇伝介」の中に「・・・・・・・塩屋伝介276」となっている書き方と同じで、もう大脇=塩屋と
いうのは、同じ〈信長公記〉に説明がなくても認められている、それが通説といえます。テキスト索引に
は「浦兵部(信長公記表記)→乃美宗勝」というようなものがたくさんあります。これは二書の中にそう
してよいというものがあるわけではないわけです。そうなれば「黒田官兵衛=太田和泉」「高山右近=
明石掃部助」はありえないとはいいきれないと思います。テキスト人名注では
   「大嶋  長野県上伊那郡高森町にあたる地方の土豪。185・204」
   「大嶋  丹後の土豪。194」
というのがあり、一表記別人がありうるのは、いわれていることです。なおこの「二つの大嶋」は
       高・森=嶋=丹後
というのも表わしており、表記の一人歩きという別面の読みを工夫した例ということでも貴重なものであると
いえます。大西=大戸がどこからくるのかということは別として、まあ「大戸=大西」であれば「大西」
「中西」「小西」のような感じで、「池田丹後守」は武井明智の係累の中に入れてもよいといえます。
また「丹後守」は「(丹波)丹後守」〈甫庵信長記人名索引〉という表記もありますので「丹後守」だけでも
明智に引き宛てても大過はないはずです。

 嶋左近は関ケ原の合戦という場で、明石掃部とならんで陪臣で大名たちより有名という特別な存在
なので、それだけにむつかしいので長くなってしまいましたが、一応こういう過程で嶋左近Aが出てき
ました。もう一つ61歳の嶋左近というのが名将言行録にあるので、無視できない、該当を探るという
過程でいろいろのことがわかってくることになるというのでしょう。
 61歳の年齢に一番近く、表記からみても、実際もそれにふさわしい経歴実績をもつというのは、明智
左馬助光春です。
 「嶋左近A」に対しては連れ合いということでは@というのにふさわしい、隠岐五郎兵衛が後見という
も妥当である、・・・・などがありますが石田三成、織田信澄より高山右近を語るのが簡単だということと
同じ問題をクリアーしなけれならない、つまり、そのとき亡くなったとされている人物なので、著者と復活
折衝が必要ということになる人物です。太田牛一は明智左馬助は死んだとは書いていないので聞いても
知らないというだけでしょうが、本能寺の変までの叙述には責任があり、もっと太田和泉守の意図が折
りこまれていた動きだったというようなことだったら、周囲を固めていくということが当面必要ということに
なります
〈戦国〉でも述べていますように、本能寺の変は、始皇帝や、ジンギスカン、シーザーなどの最盛期
に旗下の一武将が軍を催して打ち倒したというような世界で類例がまだ発見されていない、日本でしか
起こらなかった事件です。太田牛一の二層史学の二層目から本当の姿が表われたとき、それは日本で
しか起こらなかった、これぞ日本というものが出てくると思います。しかもそれは太古からの流れを戦国
という時代で受けた、西からの流れを極東で受けたという自覚があり、後世に伝えようとする意思ある人に
人によって書かれているものです。それをよってたかって誉め殺しをしたまま、隠蔽してしまっています。


(36)那須久右衛門
 なお〈信長公記〉の記事の●の那須も夕庵につながりますから注意が要ります。
再掲
    『●那須久右衛門・岡飛弾守・江川、
     右三人追腹(おひばら)仕り、名誉の次第この節なり。』

常山は、次の一節で
      「大関の那須夕安」
という人物を出してきました。語句だけ拾い出したみます。

  『那須(なす)の臣大関(おおせき)夕安深慮(しんりょ)の事
   野州宇都宮・・・・那須・・・・・那須の長臣大関夕安(おおせきせきあん)・・・・北(にぐ)る・・・
   宇津宮・・・夕安
      雲はみなはらひはてたる秋風を松に残して月をみるかな
   宇津宮・・・小田原・・那須・・・・那須・・・宇津宮・・・小田原・・・那須・・・小田原・・』〈常山奇談〉

 大関の「関」は夕庵の「夕」と云ってしまっている感じです。野洲は「安」を受けていると思いますが
もう一つの「野洲」、江州の「野洲川(やすがは)」「やす川」から「柴田修理」「佐久間右衛門」
     「三雲父子」「高野瀬」「水原」
 が出てきます。常山は「せきあん」から二つの“うつのみや”「宇都宮」「宇津宮」を出してきています
ので、一応は見ておいたほうがよいということになりますと、出てくる表記は

  『宇津の宮の貞林(テイリン)・立川(タチカハ)三左衛門(「たち川三左衛門」もある)』〈信長公記〉

です。「貞」が「定」でもあり「貞安」など夕庵の関係を注目させたと思われます。「立川」の「立」などは
「立石寺」のように「りゅう」とよみ「竜」、「隆」、「柳」、「笠」などの字を役立てようとするなどのことも
あるのでしょう。3×3もあり「三左衛門」は太田牛一の臨場もありそうです。こういうのはここでいうと冗長
で退屈になりますが、覚えておいて適用できそうなところで出してくればよいようです。たとえば
「立川」の「立(たち)」は「たち」と読むと、「達」もありますがこれは「たか」とも読むようです。
      「戸川肥後守達安(たかやす)」〈常山奇談〉
の場合がそれです。戸川肥後守は宇喜多秀家の有力与力大名で、花房助兵衛、坂崎出羽守、岡越前
守らが徳川に引き抜かれたあと明石掃部助全登の孤軍奮闘になったといういきさつがあります。
この「達」を「たか」と読ませたのは常山ですから、「宇都宮」を出したのも常山で、それにひっかかった
わけです
 「立川」と「戸川」は違うにしても「肥後守」と「たか安」というのはやはり高山に絡んできます。岡飛騨
守についてさきほど思い付きをいいましたが、戸川らの中に「岡越前守」(甫庵太閤記)という人物がいま
すので「飛騨守」は「明石飛騨守」ですから
                   明石飛騨守
                   岡飛騨守
                   岡越前守
 の相関図が常山に描かれていたといえると思います。まあこういうのは、
        「明智掃部」、「明石右近」、「岡部帯刀」、「岡田右近」、「松倉(蔵)右近」
とかの角度からも出てきますがここでいいたいのはやはりあの「宗達」の「達」です。この「達」が両書に
ないようです。そんなはずがないというところからきています。
   立(タチ)川三左衛門=立川+三左衛門=立+三・三左衛門=達+九左衛門
   たち川三左衛門=達川+三左衛門=たか川+三左衛門=高川+三左衛門=三+三左衛門
 「立」が「たち」と「タチ」の二つある、ここから
    立三=達三=三(さん=杉)+三左衛門=森三左衛門
 という感じのものになります。
理屈をいいましたが
       「」・「川(三)」・「三左衛門」   「肥後守」・「」・=「安(庵)」   「」=「高」
です。これで
         〈信長公記〉    那須久右衛門     たち川三左衛門
         〈常山奇談〉    那須大関夕安
         〈奥の細道〉    那須の与市       何がし    玉藻の前
                        ‖           ‖        ‖
         〈同上脚注〉    那須与一宗高     高・勝     金毛九尾の狐
 「達」=「高」だから
        「那須与一宗高」=「那須与一宗達
となります。〈信長公記〉「福田与一」「福田三川」はおそらく太田和泉守と思われますので「与一」
「たち川三」を受けられると思います。脚注に筆者の知らない那須与一の「宗高」までが載っていまし
たので利用してみただけです。

 先ほど「嶋」から高森と丹後がでましたが「丹後」がこの「宇津宮」の「宇津」に懸かります。
〈甫庵信長記〉人名索引では「宇都宮貞林」のあとは「宇津呂丹波守」です。これはテキスト人名注
では「加賀能美郡波佐谷の豪族(★〈越登加三州志〉)。」となっています。
 「宇津呂」は「虚ろ」ですから「虚空」でこれは「長山九郎兵衛」で出できます。テキスト人名注では
     「長山九郎兵衛   永山氏は加賀の豪族。能美郡虚空蔵山城に拠るという(★〈越登賀三
      州志〉)。」
となっており、★が〈信長公記〉の長山を永山と解釈した、また「宇津呂」を「越登加(賀)」の「丹波色」
を表わす表記として使ったことを解説しているといえます。ここから一つだけ、それはおかしい、と
いわれそうなことを挙げて置きますと、「長山九郎兵衛」は人名索引では「中山」の前にあります。
 “ながやま”は“なかやま”ですから「中山中納言」が注目されます。テキスト人名注では
      「中山親綱    天正七年十一月中納言。中山姓は洛東中山(黒谷)に基づく。・・・」
となっていて「中山(黒谷)」が一応基礎知識として知られていたということはいえます。〈奥の細道〉
山中にも「黒谷」がありますがこれと関係がありそうです。
黒谷中山は山中と表記が同じですから、次のように話しが続いていきます。

  @『持舟と云ふ城あり。又山中路次通り・・・・・宇津の山辺・・・田中・・・藤枝・・かい道・・・・東山の
   尾崎・・・花沢の古城あり。是は昔小原肥前守楯籠り・・・・・武田信玄・・・勝利を失いし所の城
   なり。同じく山崎に、とう目の虚空蔵まします。・・・・田中・・・・藤枝・・・・・・瀬戸・・・瀬戸川・・・
   ・・・・せとの染飯・・・・皆道(かいどう)・・・・嶋田の町、是又、鍛冶の在所なり。・・・・真木のの
   城右に見て、諏訪の原を下(クダリ)、きく川を御通りあつてのぼればさ夜の中山なり。・・・・』
                                                    〈信長公記〉
 ここに「宇津」と「虚空蔵」が出ています。旧今川領の様子を語りながら北国にも意識があるわけで
す。セトも三つあって鍛冶もあるから、ここにいながら美濃のことも語ろうとしています。山中はすこし離れ
れてまた出てきます。

  A『吉田川・・・五位・・・・本坂・長沢皆道(かいどう)山中にて惣別石高なり。・・・岩・・・石・・・・平
   ・・・・爰に山中の宝蔵寺、・・・・橋・・・水野宗兵衛・・・』〈信長公記〉

 この@とAの間は2ページも離れているのですが、「かいどう」が三つあるから 繋げて読めばよい
といえます。@から分岐されているだけです。ここで@で山中と中山、Aで山中、山中があります。
「花沢」にはその昔、小原鎮実が武田信玄を撃退したという故事がり、それを書いていますが、これを
 著者が当時を偲んで懐旧の想いを述べたということであれば「是」が生きてこないわけです。武田信
玄という巨像が読みの邪魔をしてきます。「武田信玄」は表記としてとらえ、これを
 「武田」は「武田佐吉」の「武田」だ、武井にも竹野にもなる、
 「信」は太田牛一は「信定」ともいう、
 「玄」は日向玄徳斎の「玄」、前田玄以の玄だ
というように理解しなければならないと思います。これで「小原」が「肥前守」(つまり肥後守)となる必
然が出てきます。ここで@Aの山中以下を染めてしまうことができます。「瀬戸」も「虚空蔵山城」の「越
登賀三州志」の世界も同じです。「小原」は「小田原」にもなるでしょう。「花沢」だけでも「池田」の
「鼻熊」「花隈」の「ハナ」+「竹」や、「霞沢」などが出てきてそれだけでも十分ですが、武田信玄が
利用されれば強く打ち出せるというものが出てきます。思わぬところで武田信玄が出されたというのは
武田信玄も他のことにも利用されるという例としてであると思われます。「松平」はあの、「徳川」だと
考えてしまいますが「松」とか「平」が使われる場合があります。秀・吉とか家・康とかいう名前もそうです。
天皇名でも、公卿名でも同じことです。
Aの「水野宗兵衛」は「永野」「氷野」+「宗」の系譜」という大物といえます。
 「小原」は常山の小田原につながるのか、小田原から山中がでてきますが、こういう山中、中山が
「黒谷」と関連していることが「虚ろ」「宇津呂」を介して出てできたということから脱線してしまいましたが、
藤枝、山崎は焼津市で「焼く」、「瀬戸の谷」、「染」とかから「焼き物」というイメージが何となく出てきて
います。芭蕉は山中へいって「黒谷橋」へ行っています。ここの「きく川」は脚注には「静岡県小笠郡
菊川町」にあります。〈信長公記〉からボンヤリと
      高山ー加賀山中ー黒谷ー焼き物ー菊
がでてきたのかもしれません。

〈甫庵信長記〉は「立川」は「たてかわ」と読ませており「たて」と読む場合は、人名索引の場所が
変わってくるとか前後の人名との繋がりの意識に差がでるとかのことになります。例えば「たて」で
あれば後の「伊達」「建部」の「たて」が何か関係するのか、ということになってきます。「たてかわ」
のあとの建部采女正は鈴木出羽守の子の采女正もあり、武庫川琴浦城の建部につながります。伊達
は二字の伊達と「伊達出羽守」が出ますが、「伊達」はテキスト人名録では出羽米沢の伊達ですが
    「伊達氏ははじめ“いだて”といった。」
と書かれています。これは「達」が変形したということで、常山が「達」を意識していたといえるのかも
しれません。つまり立川(たてかわ)というのが単に貞林の郎党というのではないということもいっている
のかもしれません。貞林の表記が両書で異なっています。〈信長公記〉は「宇津宮貞林」ですが甫庵
「宇都宮貞林」です。

「宇津」という二字も〈信長公記〉にありますが、テキスト人名録では
      「宇津頼重」という丹波の宇津荘(北桑田郡)の人」
とされていますがこれは大きな暗示があるのではないかと思います。「頼」は菅谷九右衛門長頼の頼ですか
ら。 〈奥の細道〉「卯の花(山)」は武井夕庵を表わす重要語句ですが「卯の花」が「うつぎの花」なの
で「宇津(木)」が重要になると思われます。

 また両書に「宇津呂丹波守」の子も出ており「藤六」というようですが、これも大物かも知れません。
常山記事の 「北」は芭蕉の北枝の北、歌の「雲」は夕庵の「爾云」に似ている、秋風は西風、松は
「とをる」の記事に能の出し物「松風」もあります。
 夕安は宇都宮を滅ぼせるのにそうしなかった。小田原に対抗するためには、宇都宮を生かして
置かなければならないというような趣旨のことを云ったというのがここの文意ですが、表記の面だけで
いえば〈信長公記〉の那須久右衛門の解説をしているといえます。高山飛騨守のことを〈辞典〉では

   『洗礼名ダリヨ、これは「大慮」とも書かれている。』

と書いてありました。これはここの「深慮」で受けていると思います。どこかで使われるべく布石されて
いるので虎視眈々と狙っているとどこかで引っ掛かる、そういわれてみると一概に否定しきれない、
というものの積み重ねといえるのかもしれません。
    
 あたりまえのことですが、常山は〈信長記〉を見ています。常山は「平田和泉」に関して

   『光源院殿(足利義輝)の弟(おとうと)に鹿苑寺の周ロ(しうかう)という有りしが、平田和泉の守
    という者迎(むかい)に遣わし、北(ルビ=きた)山より出たる道にて討ちとりしに、供せし
    十三四の童(わらは)忽ちにかの平田を討ちとりければ、世の人ほめあえり。
      是れ・・・・扶桑拾葉(ふそうしふえふ)に見えたり。されども童(わらは)の名見えず。後に
      信長記を見しに、此人の姓名をしるせり。小川の住人美濃屋(ルビ=みのや)小四郎とて
      容貌世に勝れしが供(とも)したりしに・・・・和泉が首を打ち落とし・・・原切って死せしと見
      ゆ。』〈常山奇談〉

と書いています。小川の住人は 〈甫庵信長記〉では「美濃屋の小四郎」となっており、〈信長公記〉では、
  「美濃屋(ルビ=みのや)小四郎
 となっているから〈信長記〉も〈信長公記〉の方を常山は見ているといえます。まあこれは筆写違いの
範囲内ということであっても、太田牛一が池田家に〈信長公記〉を献呈したのは知られたことであり
常山が筆写したとみて間違いないところでしょう。また「那須久右衛門」は〈甫庵信長記〉にはなく、
 〈信長公記〉に登場した「那須」があまりに唐突なので、解説がほしいところです。それを常山が
とりあげたと取ってよいところと思います。「岡飛騨守」も同時に出てきましたが、常山が解説してくれ
たから述べられたわけですが〈甫庵信長記〉では「岡」がないから解説できません。ただ「岡田」
「岡田右近」があります。もし「岡田」を「岡」としますと、表記だけでは
              岡飛騨守=岡右近
となって飛騨守=右近、となってしまいます。「石田」というのが「石野」とか「石井」とかと共通して
いるのと同じようなもので、〈甫庵信長記〉だけでも解説できないことでもないということになると思い
ます。
 「木全(きまた)知矩(とものり)」という人物が常山で出てきますが、この「木全」は「木全六郎三郎」
が〈信長公記〉にだけあって〈甫庵信長記〉には出てきません。従って常山は〈信長公記〉をみている
というのが分かります。
〈甫庵信長記〉は市販されたものですからみているのは確実ですが、〈信長公記〉は門外不出という
ことである可能性もあるので、それをみているということは人に説明できる専門家であるということです
から江戸も天明元年(1781)74歳で亡くなったいう晩期の人ではありますが、戦国時代のことは十分
に教えてもらえる人といえます。
この「木全知矩」を出してきたことは芭蕉も踏まえているといえます。芭蕉が山中で述べている久米之
助の父が「武矩」です。
〈武功夜話〉では「木全六郎右衛門」という表記があり油断できない書物といえます。序に言えば
「下石三郎右衛門」という表記の人も出ています。「下石三郎左衛門」だったかもわかりませんが二度
と出てこないのでいま確認できません。これは「下石彦左衛門+川角三郎右衛門」のことかとなりま
すからたいへんな表記です。


(37)飛弾国司
高山飛弾守というと飛騨国司ということであろうということがまず第一に思い浮かぶことです。武井夕庵
が「飛騨高山」の国司であったかどうか、が問題です。これは国司であったから「高山飛弾守」と太田
牛一が名付けたといえます。天正六年記事
 原文
     『戌寅四月七日、越中神保(じんぼ)殿二条御新造へ召し寄せられ、此比御対面御座なき
     子細、二位法印・佐々権左衛門を以って仰せ出だされ、黄金百枚併に志々良百端参らせ
     られ、輝虎相果てらるるに付いて、飛騨国司へ仰せ出され、佐々権左衛門相添え越中へ
     入国候なり。』〈信長公記〉

 ここに飛弾国司が出ていますので重要な部分と思われますが、すこしわかりにくいので、何回も
読まなければなりません。それは古文であるためではないようです。現代文にしてもわかりにくい
ので、訳文でも、かなりの補足がされて四行が六行になっています。
 訳文
     『四月七日、信長公はご縁者の越中の神保殿(長住)を二条の新邸へお召しになって、
     しばらく対面できなかったわけなどを、二位法印・佐々権左衛門(長秋、また政祐とも)を
     介して伝えられ、黄金百枚ならびに絹織物百反を差し上げられた。そしてこの三月十三日
     に越中以下を支配していた輝虎(上杉謙信)が亡くなったので、信長公は飛騨国司(三木
     自綱、また嗣頼とも)へ神保殿の護衛を命じられ、佐々権左衛門を添えて、越中へ入国させ
     られたのである。』〈ニュートンプレス現代語訳本〉

原文をみればこのような訳になるのは当然のことですが、神保殿に時々会わねばならない必然が
あればこのような読み方になります。そのため訳ではご縁者という形で、そのようになるはずという
ようにされています。また派遣の目的は上杉謙信がなくなたので今後神保氏を支援して現地の
安全を図るという意味に取れます。謙信は怖い存在と思っていたというのは事実でしょうから、
これからは上杉と友好を強化したいと思って神保殿の起用を考えたといったところでしょうか。これは
一つの意味でもう一つの意味が隠されていると思います。
 ゴツゴツした原文は一回入れ替えて見るとよいのではないかと思います。なお訪問目的は御霊前
に供えるものを神保殿に託したといえます。つまり

  入れ替え文
      『戌寅四月七日、、此比御対面御座なき子細、仰せ出だされ
      二位法印・佐々権左衛門を、二条御新造へ召し寄せられ、以って
      飛騨国司へ仰せ出され、
      輝虎相果てらるるに付いて、黄金百枚併に志々良百端参らせられ、
      越中神保殿佐々権左衛門相添え越中へ入国候なり。』〈信長公記〉

 二位法印と佐々権左衛門が国司に任命されたということをいっていると思います。二人を国司に
任命するのはおかしいということになりますが、一つはこの二人が夕庵牛一の場合であれば問題ない
はずです。
 夕庵牛一は特別な関係だから、信長公も不公平だといってごねられるわけではないけれど、野村
兵庫頭と野村肥後守とどっちがどっちやといわれても表記を共用する場合があるので実際区分が
されにくいということがあるので、表記上一体だから、という意味で二人任命ということも考えられます。
 ただこの場合はもう一つの場合が考えられます。つまり、二人が親子の場合は問題ないはずです。
飛騨国司@飛騨国司Aの二人として、同時に任命したと考えられると思います。神保殿は太田和泉守と
いうのが一応妥当ではないかと考えられます。「狩野永徳・息右京助」という書き方は、高山右近の
場合は無理で「武井夕庵とその息右近」とは書けないわけです。こうすれば佐々権左衛門は高山右近
ということになるのではないかと思います。
佐々権左衛門の佐々は夕庵の佐々孫助ということの延長線上にあり、権左衛門は権丞からきている
と思われます。
ここでは「二位法印・佐々権左衛門」は「武井夕庵と高山右近」となり、その場合「越中神保殿」は敬称
つきなので、もちろん、太田和泉守となります。太田和泉守が弔問の上使、右近が副使のような恰好に
なるでしょう。このような表記になるのは背景には現地の勢力が協力してやっているという構図があると
思います。
 太田和泉守はこういう役割にはうってつけの人物であり、北国の情況変化にものそなえて富山へ
行ったというのは、上杉とのあとあとの関わり上重要ではないかと思います。つまり上杉景勝、直江
山城にも会っているといえます。
 この飛弾国司任命のくだり、二つの読み方がありましたがどちらも神保越中が重要な役割を果たし
ています。前者の場合、こういう表現になるのは背景には現地の勢力を手なづけながらやっていると
いう構図があるのかもしれませんが、とにかく不自然です。
後者の方が、とにかく先ず弔意を表わす、友好策の強化という具対的なものが強く出てきたということ
になります。
 まあ結果は佐々権左衛門が入国したからそれでよいだろうというわけにはいきません。過程が重要
で、単なる事件の報告だけに終わってしまうと後が続きません。とくに人物や事件から、作意への目的
的収斂度合いが強烈なのが特色となっている以上、結果出てくる人物像を描けないといけないわけ
です。つまり神保越中は以後高山右近を表す表記となります、
越中の神保殿はテキスト人名録では

   『神保長住  越中守。神保氏は越中(富山県)の大豪族だが、出身については真相が不明。
    守護畠山氏の部下として繁衍(えん)。越後上杉氏の侵入に対抗。富山城を拠点とした(越
    富賀三州志)』

とあり、「長住」というのは、一つは「惟住(五郎左衛門)長秀」への適用を考慮された名前であり、もう
一つは「高山右近長角(すみ)」を意識した名前といえます。「越中」とか「畠山」とか「富山城」がすでに
物語化されたものです。出身については真相が不明とされていますが「神保」「畠山」を名乗る豪族は
いて一族といえる関係があったということはありえますが名前の借用というのもありえます。テキストでは
 地名索引に
        「高山城
があります。そういうものがあるのか最も知りたいところですが
       『高山城    越中ーーー』
となっていて期待はずれとなっています。「越中」を引くと「越中富山の城」となっていますから、ここ
「ーーー」は「富山城」が入るはずで、   

    『去程に、越中国富山(トヤマ)の城に神保越中守居城候。』〈信長公記〉

があります。高山右近富山城主というのが何らかの都合でいわないことになっているのかもしれません。
神保越中は神保越中守と神保越中の二通りがあり、ここの使者のような役目の「神保殿」は太田和泉
で、もう一人は高山右近といえます。地もとの神保氏というようにも重ねて見て行くるのがよいと思い
ますが、それは地元の姓の紹介と活用というのがあって採用されたととれます。つまり高山右近を表す
ためにもっともよい姓が選ばれる、必ずしも地元一の勢力といったものではないと思います。もちろん
姻戚関係があったというのが第一番の着眼点ですがいまわかりません。
 登場回数の多い神保越中は高山右近を主体に考えるのでよいのではないかと思われます。こういう
地方での実戦経験があとで生かされたのでしょう。
 なおこの飛騨国司任命の記事は〈信長公記〉だけの記事であり、一回限りの目的的記事といっても
よいようです。〈信長公記〉だけに「高山飛弾守」という表記があるということとも関係がありそうです。
〈甫庵信長記〉には任命の記事は載っていないのでなかった事件かもしれません。飛騨高山城で、
高山伊賀守という表記があるのは、もう物語化された段階の話しといえます。
 「越中高山城」といってもよいものがあり、高岡城も高山の縄張りしたものということですから、この
あたり(富山城)、高岡城と合わせて考えると高山色は濃厚です。

   なお〈甫庵信長記〉では神保越中守は一回だけしか出てきません。三年後、天正九年二月には
   
   『同十二日に佐々内蔵助、神保越中守、安土に参着して』
   『同廿四日には佐々神保も越中国に参着して』
  
 があります。あとの方は一回、二字であり、佐々神保となっているので佐々成政の姻戚かもしれませ
んがとにかく〈信長公記〉では、「神保越中(守)」は9回も出てくる、高山右近と重なっていて、高山右近
の活動が活写されたのでしょう。飛騨の領主のナンバー2として北国の軍事、領国経営に携わった高
山右近があるのかもしれません。

(38)立石寺(1)
 北国の高山というのが余りに語られていないので触れてきましたが、芭蕉が高山について予想
外に多くを語っていますのでそこから高山についての空隙が埋まっていくのかもしれません。

「笠寺には・・・葛山播磨守、岡部・・・・三浦・・・・飯尾豊前守・浅井小四郎、彼等五人」〈甫庵信長記〉
「笠寺と云う所要害を構え、岡部・・かつら山・浅井・・・・飯尾豊前・三浦・・・在城」〈信長公記〉

において「笠寺には」というのと「笠寺と云う所」というあぶり出しがあるところが大きいのではないかと
思います。ほかに「かつら山」、「飯尾豊前(守)」に違いがあり、それらからもいいたいことが枝分かれ
して何通りもの話が出てくるということになるのでしょう。ここの「笠寺」は「笠寺砦」とか「笠寺城」と
書いてないわけです。ここでは「笠寺には」とか「笠寺と云う所」ですが
    「笠寺の並び中村の取出に構え」〈信長公記〉
にもなっています。ほかに適切な呼び方があるかもしれない、これをという単位で取り上げるとする
と、中村の名前を使ってもよいはずともいえます。要は「笠寺」は必然ではない、物語の必要上の起用
といえます。笥が竹と司になるごとく、梁田も簗田にすると竹が浮き彫りされるということにもなります。
「やなだ」と読ませると「柳」も出てきます。
「笠」は「りゅう」とも読み「柳」などが出てきますが「竹」と「立」ということで太田牛一が特別に取り出した
として「この立」を取り上げたのが芭蕉ということになると思います。次第によっては「笠」と「中村」が
意味のある接近となつているかもしれないものです。
         「笠」からは「竹」と「立」
が派生しますがこの「立」は「りゅう」ですから「隆」とか「竜」にも使いかねないことになります。
芭蕉の「立石寺」にその「」がありますよ、というと、それは関係なさそうだ、立石寺がそこにあるから
そういう名前だから仕方がないということになりやすいものです。
現にその寺がそこにあってそこへ、人が「すすむるに依りて」行ったに過ぎない、といつているではないか、
といわれるでしょう。その通りですがそれにしては準備が周到なものです。立石寺へ行く前は
   @尿前の関ーーーA尾花澤ーーーB立石寺ーーーC大石田(左吉)
の文の流れがあり、前段三つ@〜Bは高山右近ー夕庵和泉がまぶされ、C石田三成に繋がっている
と思います。@〜Aは高山が出てきて清風が出ます。高山は「高山飛騨守」が〈甫庵信長記〉に
出てこない人物なので高山は右近の高山しかないので次の●の高山は貴重です。すぐこれは人名
扱いにあらずという反論がでるでしょうが、高山地名か人名かはもうはじめからわからないわけです。
「タカイヤマ」とルビを付した人もいるのですから。

   『南部・・・・尿前の・・・守にあやしめられて、漸(やうやう)としてをこす。大をのぼつて
   ・・・よしなき中に逗留す。・・・あるじの云う、是より出羽の国に大を隔て・・・・・・・・・
   あるじの云うにたがわず、●高山森々(こうざんしんしん)として、一鳥声きかず、木(こ)の
   下(した)闇(やみ)茂りあひて・・・・最上の庄に出づ。・・・・此(この)みち必(かならず)不用
   (ふよう)の事有(あり)。・・・尾花澤(おばなざわ)にて清風(せいふう)と云う者を尋ぬ。・・・・・』

 山が四つあり「大山」「大山」「山中」「高山」です。大山からは間接に「大谷」が伏せられている
と思いますが、なぜか「山中」「高山」の組み合わせは〈信長公記〉によく出てきます。
 
    『山中高山二の宮山・・此山・・・かしこの合・・・・此山中・・・・』〈信長公記〉

 この「山中高山」は前掲ですが、これは「小真木山」=「小牧山」があった一節にありました。つまり
伊丹布陣表に出ていた「牧村長兵衛」のところで「高山」にからみました。
この「嶺」は辞書(大修館)では
  『「山」+「領」で「領」はすべる(統)の意味で、多くの山々をしめくくる、いただきの意味を表す。』
 となっています。まあ連れの山があって遠景において一番高いところ「いただき」という意味でしょうか、
 連山の風景には、「谷」の存在が常についてまわるものです。ここの「谷合」というのは訳すのがむつ
 かしいのによく出てくるので気になるところです。山中と対置される語ではなく、高山群に対置される
 語という方が合っていそうです。要は山中に対置される語ではないのに、山中に谷合だから山谷一対
 となるのでしょう。〈奥の細道〉のはじめに出てくる「上野・谷中の花の梢、又いつかは心ぼそし」と
いう突然出てきた「上野・谷中」は一つは「千じゆ」の背景となるものでしょうが、上野山と谷中(入谷、
下谷などを含んでいると思われる)の山谷の対比があると感ぜられます。つまり、松永貞徳が出てくる
「山中」に行くことはこのはじめにもう暗示されていそうです。山中の地図をみますと「山中町上野」「山中
町下谷」などが出てくる、上野、谷中、下谷の小世界ののような感じのものです。谷合は鳴海「大高」
から「谷合」、「深田」、「山つづき」というようになっていました。「高山」と関連付けられています。
  山中が一番出てくるのは関ケ原の位置に関してです。山中は索引がありますが上の小牧の山中
は出ていません。地名ではなかろうということで、名寄せされていません。高山と同じです。関ケ原のは
地名で出される山中の一つです。

  『美濃国と近江の境に山中と云う所あり。・・・・当所山中の宿(しゆく)・・・山中の猿・・・山中
  
(ヤマナカ) の宿(シユク)・・・・・山中町中・・・・・・・佐和山』〈信長公記〉
があり、山中の連発は山中高山→小牧というのにも関わっていそうです。そのあと
  『信長公御下り。路次は山中より坂本へ・・・・』〈信長公記〉
 があります。
この脚注は「大津市の旧山中町。京都市左京区北白川から近江に出る道。山中越。」となっており
大津市の山中です。太田和泉守に現在の大津市という感覚などはない、といわれそうなので
、大津を調べますと
   『四ケ国の御人数、勢田・松本・大津陣取りなり。』
があり
   『大津松か崎辺り、』『諸勢大津の馬場・松本陣取り。』いずれも〈信長公記〉
があり、
   『明智の城・・・・・みたけ(脚注=御嵩町御嵩)・・・野(かうの=神箟)・・・山中・・・・・・
    嶮難節所(けんなんせつしよ)・・・・・・』〈信長公記〉
となると
    『野口・・・山中谷合・・・』〈信長公記〉
のように高山(高、難=南、節所、大津、小牧)ー山中谷合
というのが〈信長公記〉において誘導がなされいる、といえます。〈奥の細道〉もこれに着目されているのは
当然です。

 南部(なんぶ)道(みち)がはじめにでますが、「此(この)みち」まで、「道」が四つあり、
 「関」が三つ、「あるじ」、「出羽」が二つ、というようになりますが「越(こえ)ん」「こす」「「越(こゆ)」
 があり「云(いふ)」も四つあるというのが目立ちます。
 「尾花澤」が問題です。「尾」はなんといっても、尾張の「お(を)」、濃尾平野の「び」です。飯尾
 近江守、豊前守の「お(を)」、竹尾源七(竹屋源七)の「尾」、松尾、中尾源太郎、堀尾の「尾」で
 す。太田和泉守が絡む「尾」は例えば「深尾」があります。〈信長公記〉に
      深尾和泉
      深尾久兵衛
      深尾又次郎
      深尾長介
  の四つがあり、〈辞典では〉
      深尾二郎兵衛
があり、「生没年不詳。美濃山県郡の豪族(信長文書)。」〈深尾文書〉というのがあるようにこれは
名前の部分が太田和泉色であるのは明らかです。〈甫庵信長記〉には
     ■深谷左兵衛尉{深谷城主}
     ●深野平左衛門
 「深」は「笛(奈良左近関連)」の「吹」、「笛吹峠」の「薄氷」で高山右近が出てきますが、この●の人物
周辺から、陶磁器の五郎
        「陶(すえ)五郎隆房」
につながり、これが「三沢高橋」という“三竹高”の人名を呼び出し、「宮崎長尾」という人名も「宮」は
「久」、「長尾」は「長尾喜平次(景勝)」がでてきます。これも有名な上杉景勝と考えてしまうと何も出
てきませんが孤立してどこかに引っ付こうとしている表記として捉えますと「美濃」加藤氏の「景」も見え
て来ます。〈吾妻鏡〉の世界では有名な「加藤次景廉」がこのあたり守護になったことから「加藤氏」が
多いということになるそうですが、「長尾」つまり「たけ尾」はいずれ「景」にも行きつきます。そのほかに
「長尾」から
       「長尾新五」〈甫庵信長記〉
という表記にも行き当たります。「長尾新五」は{立林城主}となっていますから〈甫庵信長記〉では「
「立(たち)川三左衛門」を「立川(たてかわ」と読ませたのが利いてきて、「館林」であることがわかり
ましたが、これが「宇津宮の貞林」につながりますから、最終「丹波守」に行き着きこれは
     「丹波国桑田郡・・長谷・・・・赤沢加賀守・・・内藤・・・角鷹二連・・・」
で「高山右近」でしょうから「長尾新五」(竹尾・竹屋・高尾の新五)=高山右近でよいということになり
ます。なお■人物からも「長尾新五」は出てきます。「陶五郎隆房」の名前は高山右近の長房とされる
名前にも接近しますが「陶五郎」からは地名では「山田山中」が出てきます。こういうのは「和泉守」の
地元と山中の引っ付いたものですから芭蕉が利用しようと考えるのが自然です。「井上七郎次郎」も出て
くるのは深尾和泉は井戸才介(井才介)が処罰される切っ掛けを作った人物で井戸からの謀書の
受取人ですから、そういう関係で井上がここに出てきたのでしょう。深尾和泉の姓の深尾は
      「深田+松尾
 ぐらいのものになるのでしょう。
「深田」は「吹田」でもあり「笛」を吹くの「吹き」にも通じる、貞光久左衛門の笛の弟子が「奈良左近」
であったから「笛」は「深田」に行き、角鷹の高山に関連する、というようなことを繰り返しいってきました。

〈奥の細道〉の大石田のところで
   「芦角一声(ろかくいつせい)の心をやはらげ」
 (訳は、芦笛を吹くくらいの風流しか知らぬ人々の心を潤す、となっている)
というのが出てきました。テキスト脚注では「芦角」は
   「芦の葉を巻いて吹く笛。胡茄。」
とあります。「あし笛」という意味でしょうが、筆者にとっては字引をひっくり返してみても「芦角」から、
「芦笛(ろてき)」は出てきません。意味は芦笛のことをいっているとなんとなく感じられますので、芭蕉
「角」と「笛」を間違って書いてその意味を探って欲しいといっているのではないかと思います。
 「松尾」の「松」は「小松」もあり、〈奥の細道〉の「武隈の松」があり「武」「竹」「熊」「角」「鷹」「高」に通じ、類書の
     「松尾三位」
という表記は「三位」からも夕庵和泉とみる以外になく、深尾が太田和泉を指していそうだから、松尾
の尾がこの「尾」といえそうです。つまり重要な表記が松尾から出てきます。おまけに表記が違うのに
人物は同じだとテキストではいわれています。登場回数はそれぞれ3回ぐらいで多いからそれも驚き
です。
    松尾掃部大夫=小笠原掃部大輔ーーー〈信長公記〉
    松尾掃部助=小笠原掃部助ーーーーー〈甫庵信長記〉
 つまり小笠原掃部という人物が信州松尾の城主だから二人は同一だということです。まあ松尾掃部
助は「小笠原掃部」の呼び名で、地名が「あだな」になった例ということかもしれません。あちこち引越し
そこの地名を属性としてしまうと、その地名がその人とともに躍動してくる、有名人ともなれば、本人が
語るためにそうする、またその有名人が利用されてして語りに使われるというようなことがあるわけです。
何回も引っ越している、落ち着きのない人だというのは、よく見る必要があります。

〈奥の細道〉では例えば「武隈の松」というのがあるから「松尾」は「武尾」「竹尾」「長(たけ)尾」、
「永尾」などにも頭の中では変換されてうるものです。「竹尾(屋)源七」のところで「木村源五」が
出てくると、「松尾源五」「小笠原源五」と入れ替えてみるという茶目な読者をもつている環境下で
書かれている、そういう背景が読み取れるのがこの松尾ー小笠原の他愛ないことへのまともな取り上げ
ということからも察せられます。

つまり「掃部助」を通して松尾=小笠原です。もうすこし付け加えると
      松尾=(明石)掃部助=小笠原
 となりますが、こうなると「掃部助」は明石とは限らないという反発がでるのは明らかですが、著者が
どう考えているかが問題です。何百万の武士が蠢きまわるなかでの取り上げられた人物群像ですから
著者の設定した舞台の上での役者の限定登場となるのは仕方がないことでしよう。しかしここで小笠原と
松尾が重ねられたのは事実でしょう。
     
「小笠原掃部助」はテキスト脚注では
      「小笠原信嶺  十郎三郎、信濃松尾(長野県飯田市)城主。」
 とあります。「嶺」は「多くの山を統べるいただきの意味」と辞書に書かれてあり、「山篇」の一つで、
す。こういうのは他の名前を持っている人というのを暗示するものでしょう。〈三河後風土記〉では、
「小笠原掃部介信峯」としていますが、こういうのは「嶺」がむつかしすぎるので、そうなっていそうだと
いうことでその例の存在が予見できるものです。またこれは一人を表しているのでない、「十郎三郎」
などは物語的です。文献を考証するモト資料の作成者が太田牛一は「松尾」と「飯田」を重ねたと
いっているといえるのかもしれません。
  両書に「小笠原」と「笠原」がありますから「小笠原」の「小」は接頭語のような感じで「小さい笠原」
というものが含まれているのかもしれません。普通の「笠原」は「二字」と「笠原越前(守)」があります。
「武田勝頼」を退かせた「高家に十二代笠井肥後守利高」の「笠」はすでに越前にも飛んでいたと
いえます。
「笠原」の「原」も「原和泉」がありますが、常山に「小田原」の連発のあったので「田原」「たわら」も
重要となつてくるのでしょう。

 いま「尾花沢」の「尾」についてのことで長くなってしまって、ここまできましたが、「尾」があとで効いてく
るからということもありますが、松尾芭蕉の松尾の尾だから仕方がないといえます。わからないのは信州
の松尾がなぜ何回も出てきたかということです。太田牛一が将来の松尾芭蕉の登場を予言している
という感じがします。これは勿論ありえないことで「松尾」「小笠原」の絡みになにかありそうです。
まあ結論は、わからないということですが、松永貞徳と太田和泉の生存ラップ期間が長かったというのは
このことに限らず頭に入れておいてよいのではないかと思います。

○松永貞徳は狩野永徳の子で、太田和泉の直系の孫でもあり、本能寺のとき13歳、関ケ原では満30
歳くらいの働き盛りとなっている。となると、
○松永貞徳が太田和泉の生存中に「松尾氏」を名乗っていたとすれば、長尾新五がそのヒントになり
そうでもある。松永は実名としては避けたことは考えられる。
   松  (長頭丸)
   松  (長頭丸)   の「永尾」→「長尾」となる。
○本能寺で派手に戦死した「中尾源太郎」は文筆に秀でた人物で、この「中尾」は「長尾」である。
 〈信長公記〉「長尾甚右衛門」はテキストでは注釈なしの人物であり、孤立しているなりに使い道を
いずれ見つけねばならない。「甚」は「甚兵衛」「甚九郎」の独立表記があり、平手、佐久間、大屋(庄
屋)の「甚」、何よりも「大田甚兵衛」〈甫庵信長記〉があるから、長尾甚右衛門は、甫庵の長尾新五で
 高山右近・松永貞徳の新世代の書き手を表わすかもしれない。なお「大田五右衛門尉」〈甫庵信
長記〉があるので、あの五右衛門は太田和泉守の役者としての姿といえる、同じ盗賊の蜂須賀と親しか
ったという小説などは核心を突いていると思われる。
○小笠原は「高天神」城の城主、小笠原長忠など、徳川の陪臣にその名があるので、それが邪魔に
なっている。〈信長公記〉では「小笠原」三字が三つあり、テキスト脚注では「小笠原」について

   「・・・小笠原氏は天下の大族で、その分布は全国にわたり、しかもみな同一族を称しているのは
   例が少ない。」

となっている。つまり松尾氏は小笠原氏流といいたいのが松尾と小笠原の交錯といえるが、この小笠
原氏流というのは、源平の昔から伝えられる氏流というようなものでなく、太田和泉守を起点とする
小笠原氏流と思われる。小笠原は笠原でもあり、この笠原を基点とする(小)笠原も考えられ、それが
ここで創られたと思われる。そんなことをするのはけしからんというのはあるかもしれないが、自己顕示
欲の最も旺盛な人間が書くことになっているのでそれはそれでよい、ここからそれでわかりやすくなる
のだから結構なことだということと思われる。実名で全然出てこない太田牛一は最も謙虚な人間という
評価をえているのかもしれない。「掃部助」を媒体として、そういう語りをしているので、これはやはり
一族のホープ「高山右近」に宛てるのが妥当といえる。
○言継卿が松永貞徳が松尾を使っているのを知っているから、太田和泉守を「松尾三位」と呼んだ
と思われる

「尾花沢(澤)」の「花沢」については先ほどの〈信長公記〉「花沢」の古城、「小原肥前守」、「武田」「信玄」
を受けているからこれも「高」「武」関連といえます。ここでまた文句がでるでしょう。いま「尾花沢市」が
あり、〈曾良日記〉にも「尾花沢」と書いてある、ネット記事をみても「小花沢」「御花沢」など書いている
のはない、「尾花沢」という地名があったからもってきたもので、「尾」とか「花沢」などにわけて意味づける
必要はないというものです。これは、筆者のテキストは「尾花」となっていて、脚注では、「今の尾
花沢市」となっています。当時はどうなんだろうというのでネットで調べても「尾花沢」しか出てきません。
しかし「沢」と「澤」は違うじゃないか、といってもそれは原則同じだから、その疑問の答えにはならな
いといわれるでしょう。ただネット記事の殆どは今の尾花沢市をスタートとして松尾芭蕉で確認して、
歴史的な詮索にも耐えうるものとして書かれたと思われます。それでいいのですが、例えば御花沢だ
ったら地名に意味が出てくるのでそういうものがあるのかと期待したわけですがなければ仕方がないこと
です。ただ「尾」が利用される字だから気なるだけです。
〈奥の細道を読む〉「講談社学術文庫」巻末の「素龍清書本」では
        「尾花沢(ルビ=をばねざは)」
となっています。読みようのないルビです。これは後世の校注者は手を加えられません。
    「ばね」= 二×「羽(はね)」
で二羽=丹羽が出てきます。「花」が目的に向って動員されたといえます。「を」というのも多少気になる
ところです。恥ずかしい話ですが、どこかで「尾去沢」という地名があるのを知っていたので、一字違いの
の炙り出しかなあと思っていたのですが場所が全然違うようです。

このあと「清風」が出てきます。「清」は「とおる」の「野尻清介」の「清」、「清秀、清正」、「風」は「西風」
「秋風」で、これは一つ「清風」自体から受けるイメージがあり武井夕庵が出されたといえます。
これは「清風」が鈴木道裕といい、通称島田屋八右衛門というので
  「道」「島」「(生駒)八右衛門」
が、関与してくると思います。ここに句が四つあり、行き着くところ、山中があることを考慮すると、今の読み
と違うものも読み込まれていると思われます。
    @涼しさを我宿にしてねまる也      
    A這出よかひやが下のひきの声
    Bまゆはきを俤にして紅粉の花      
    C蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉
 @「涼」は「とおる」、「宿」は宿泊の「泊」、「ねまる」の「まる」は円形で陶器の皿壷の円さが入っている
  もちろん意味は「寝」とか「居(すわる)」かもしれないが、まるくなって寝るという状態もあるし、
  「ねまる」の「まる」はまず目につくところであり、「丸」・「円」はセットで想起される。
 A「這い出る」は「虫」、「かひや」は染料の灰で「灰屋」「紹由」、「下」は「上下」の「下」、「ひき」は
  「引き」「疋」であり〈信長公記〉「引壇六郎二郎」が想起される。テキスト人名注では
      「引壇(疋田、疋壇)氏は、越前敦賀郡疋田の出身。」
 となっている。越の三国をが想起されているとみれる。なお人名索引ではこの「ひき」のあとは「彦」が
 四つ出てくる。「比木」は「ひき」でもあるが「ひこ」でもあり、「彦」の声もするのかもしれない。
 B「まゆ」は「眉」で「毛」とか「目」、「繭」は「蚕」の「虫」に懸かる、「はき」は「刷き」「掃き」があり、
 俤は「兄弟」「面」がイメージされ、紅は朱槍の柄などにつながる、
 C「こがひ」は「蚕飼」で納得してしまいやすいが、清風のことをいっている面があり、清風は紅花商
 なので清風をみて「粉買いする人」も養蚕のように「古代」からの営みを続けているのではないか、
 何時から始まったのであろうか、というのに代わる表現となったと思われる。

Aの引壇の壇は「土を盛り上げて築いた高い所」の意味が主で、これは「土」+「平地」、一段高く
なっている平地というものです。〈武功夜話〉に頻出して両書にない「坪内」の「坪」は「土」+「平」で
すので、「土」を打ち出そうとする名字だったかもしれません。これは木村世粛(兼葭堂)の苗字の「坪」
「壷」です。「坪」は両書に「坪坂新五郎」があり、「五郎」だからこれは重要です。「坪内」+「坂井」と
いえます。この人物は、テキスト脚注では

    「加賀石川郡来の住人(〈越登賀三州志〉)」

 とあり、この資料は煮ても焼いても食えない資料といえますが、それは別として「青木鶴」の「鶴」が
出てきました。この「来」も「き」「こ」と読める、「小牧」「小真木」の「駒来」にもなった、高来(こうらい)に
もなる、というような字ですがそれとセットされたのが「鶴来」です。人名索引でこの「坪坂」のあとが
    「鶴松大夫」(信長公記)
です。浅井家の人ですが、表記単独で見た場合は、これ高山右近でしょう。鶴が山中で舞うことに
なるのでしょう。
Cの「蚕飼」(こがひ)にもう一つの「こがひ」があります。天目山で武田勝頼が最後を迎えますが、その
一節に「こがつこ」という語句があり、脚注では「駒飼」となっていました。芭蕉はこれを見ていますから
馬を飼うのも古代の姿といいたかったと思いますが、このこがつこの出てくるところ山中が出てきます。
  「こがつこ」は「山梨郡大和村駒飼」ですが
 一回目の「こがつこ」
    『・・・小山田・・・勝沼と申す山中より、こがつこと申す山賀へのがれ候。・・小山田・・・』
 二回目の「こがつこ」
    『こがつこの山中へ引籠らるる・・・・・険難節所の山中・・・田子・・・・平屋敷・・・』
となります。「武」のなかでの山中です。両方に「田子」「平屋敷」がでてきます。こうい流れの中で
「立石寺」に行きます。

(39)立石寺(2)
芭蕉のルビは
   「りふしゃくじ」です。
立石川もあるようだし、この読みは不自然であり、本来は「りつしゃくじ」ではないかと思います。「山
寺」と略称されるのも曰くがあるのではないかと勘ぐられます。多くの寺が山の中にあり、全部が全部
山寺で「山」寺という固有名詞は他にはなさそうです。この一節は「山」が問題です。

   『形領に立寺(りふしゃくじ)と云(いう)寺あり。慈覚大師の開基にて、殊に清閑の
  地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花澤よりとって返し、其の間七里ばかり也。
  日いまだ暮れず。梺(ふもと)の坊に宿かり置て、上の堂にのぼる。
  (いわお)を重(かさね)てとし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、
  土老いて苔滑(なめらか)に、上(がんじよう)の院々扉を閉じて、物の音聞こえず。
  をめぐり、を這いて、仏閣を拝し、佳景寂マクとして、心すみ行くのみおぼゆ。
     閑(しずか)さやにしみ入(いる)蝉の声   』

 「立」はルビは「りふ」で「隆」「竜」「笠」の字も思い出すような読み方にしたと思います。
 「石」は「磁石」の「しゃく」になっています。「(りふしやくじ)と云う山寺」とあり「笠寺と云う」という
表現と同じです。必ずしも最適ではないのかもしれません。「並び」に適切な読み方のものがある
という含みもありそうです。芭蕉には「石(いし)」も「石(せき)」もあります。
 「山」は、「」が四つもあり、山篇が「岩」「巖(いわお)」「岩(がん)」「岸」「岩」「岩」で六つ
があり、
   「瑞岩(巖)寺」や「雲岸(岩)寺」が用意され、「巖」は「岩」であり、「岸」も「岩」だから、山が山
のまま、山篇になったりして語りの中心になっています。「嵩」も参加します。もちろん前段の

   『高山森々(こうざんしんしん)として、一鳥(いつてう)声きかず、』

 とは、本人が直前に書いたものだから無縁というわけにはいかないものでしよう。「森々」は「深々」
も合っており、この「一鳥声」は、「立石寺」を越えて、そのあとの「大石田と云(いふ)所」の「芦角一声」
を「芦角一(鳥)声」にしたい、というものでしょう。つまり「角」を「角鷹」と結び付けて読みたいという芭蕉
の意思が汲み取れますので、「高山森々(深々)」が連続しており、立石寺の山々は、高山の山を叙述し
ていると読めるものです。
 なお、この「一鳥声きかず」は「王安石の鐘山即事」の「一鳥不啼山更に幽なり」を踏んでいるとされて
いますから、この「一鳥」は「山」を語るための「鳥」と、「安」(庵)「石」(夕)を語る「鳥」の二つがセット
になった「鳥」「取」といえます。ここの
    「岩に巌(いわお)を重ねて★山とし」〈奥の細道〉
となっているのは、 表記上おかしいというのは既に触れました。「岩に巌(いわお)を重ねて」出来る
「山」は一字で表せない、「厳山」か「岩山」「巖山」くらいにしなければならないところです。
              石に山を重ねて岩
 がベースです。山には山と山篇の山がありますが★は完成した「山」というならば、もうこれは「高山」
といってもよいものです。「岸」の下の字を則とする「山則」に、則=高 として嵩(かさ=笠)を創る、
「高山(右近)」がここで打ち出された、と思われます。
  それは、ここの「山上」と「松伯」と締めくくりの「長閑」があるところからも察せられます。

    ◎山上は「山上備後守」(両書)、「山上彦右衛門」(三河後風土記)が用意されている
       山上宗二
    で、高山右近を指していると思われます。山上宗二は、利久の一面を表しているとも取れまし
    たが、利久の高弟というという面がありますので、それにふさわしい高山右近という存在が見えて
    きました。
     高山右近の断面を表して消えた人物が山上宗二になると思われます。「山上」は
    文献では「山上憶良」がいますので重要表記です。山上宗二というもので高山右近を語った
    工夫はすばらしいといいたいところです。
    ネットなどで知ったところでは二人の生年は、高山右近1553年山上宗二1554となつています。
    一年違いは合いです。山上は堺の山の上であるかもしれませんが、もう一つ北国の山の上も
    ありえます。那谷寺(小松市)に「伝山上右衛門造」の立て札がある建物があります。前田
    利常建造のものですが、
              「・・・土屋備前守・和気兵衛・馬場美濃守」〈信長公記〉
    の「備前」「和気」「善」などが利用されるわけです。「伝」というのも「伝蔵」のことを申しましたが
    甫庵は「牧野伝蔵」という表記も用意しており、「善」とともに高山右近を出そうとする意思が見ら
    れるところです。逆に言えば「山上」「善」とかを調べよといっている人がいるということでしょう。
     これに関して常山から、あほらしくて誰も云わないだろうというころだけ取り上げておきます。

      『秀忠公三州田原御狩の事   
      ・・・・本多中務大輔、九鬼図書・・・・・・図書、忠勝・・・・図書・・・・・忠勝の曰く、されば
      高山より平原へ押し並べたる人数は、小勢も多く見え、谷に集まりたる人数を山上より見れ
      ば、多勢も小勢に見ゆる物に候。・・・・』〈常山奇談〉

    本多は太田和泉を介して前田に関係が深い、それが九鬼で表わされ「図書」は高山右近で
    高山ー平原ー少−多ー谷ー山上ー多ー小、となっていて高山^−山上です。

       『△相図の旗・・・・相図の旗・・・・山上・・・相図・・・相図・・・相図・・・・相図・・・・
        △相図の旗・・・・・高み高み・・・・相図・・・出る出ざる・・・
        △・・・・又山上・・相図・・・・・相図の旗・・・』〈常山奇談〉

     これは△ごとに一節になっており、三節に渡って、相図の旗が出てくるものですが「又」とある
    のでもっと山上が出ている、図と山上の交錯ということでしょう。要は山上も高山と同じで地名でも
    人名でもないので目立たず見逃されているものです。相図は合図であろうと皆が知っています。
    まず「相」にしたのは何かというとやはり「あい」注目というのはあるでしょう。相は「木」+「目」
    で両方「もく」で「杢助」、「木工助」、「本目助」というように漆器の高山を匂わす表記です。
    「合図」の「合」を隠したのは意図が見え見えだということからでしょう。〈甫庵太閤記〉小田原陣
    山中で「山上」の新顔「山上郷右衛門」が出てきます
                郷=ごう=合
    ですから、ここの「合」と山上の「郷」一致しました。「郷・・・郷・・山上・・・・郷・・・郷・・・・・・」
    というわかりやすいものが出てきます。「図」は「としよ」の「と」ですから
       「郷と・・・・郷と・・・・・山上・・・・郷と・・・・郷と・・・・」
    というあやしげなものがでてきます
    こういうとまた文句が出てきます。「郷」と「合」は、「ごう」だが何となく何でもありという感じで、
    もしそうならなかった場合はいわないだけのことではないか、というような感じのことでしょう。
    つまり、山上郷右衛門を山上宗二、高山右近に近づけるなら、「山上」「山の上」という言葉
    と「郷=宗」「郷=彦」「郷=右近」とかいうものを匂わせている文であるならばわかる、「合」
    をもってくるのは拡大されて際限なく広がってしまう印象をうける、というのは肯ける話しです。
    「宗」「彦」「右近」とかいうのは二書の周辺の世界における高山に通ずる語句です。江戸の
    常山は常山ワールドにおいて「合」を山上郷に通ずるものに創り上げて、それを使っているから
    問題ないわけです。以後の人はそれを使えるということになります。当然「山中谷」という
    ものを根底にしているから、〈信長公記〉と繋がりがあります。太田牛一などを解説するにしても
    自分独自のものを創り上げて解説しているものです。常山に次の一節があります。

      『同役田中兵部太輔長胤の中間水練の事
       同役長胤戸(がふど)を渡らんとするとき・・・浅瀬・・・渡り兼ね・・深し・・・浅く候・・・・
       わたりし・・・深かりし・・・浅し・・・浅き・・・渡り・・・深き・・・浅き通りを渡り・・・郷戸(がふど)
       三郎左衛門・・・・細川家・・・・』〈常山奇談〉

    「郷戸」(がふど)二つ、「浅」が五つ、「深」が三つ、「渡り」が五つ、
   他に「體(てい)」も四つあるから、「豊」がまぶされています。「浅」に着眼すると「浅」が八つ、「深」
   に着眼すると「深」が八つになります。「浅」からは「浅井石見守」とか「浅井斎(いつき)助」など
   が出てくる、「深」からは「深田」「深谷」「深々」「吹田」・・・・が出てきます。「渡り」が五つあります
   から「郷戸」は「合渡(川)」を出したいといえます。これは関ヶ原役、後藤又兵衛とともに有名な
   地です。常山が「相図」と書いた時点で
      相図→合図→「ごうと」→「郷戸」→「合渡」→「相図」
   という布石が敷かれて「山上」が入ったといえます。 「合」も「郷」も常山の世界では「がふ」と読ま
   されています。
        『後藤又兵衛決断の事
       渡(がふと)川・・・高虎・・・・・・渡川(がふとがは)合戦・・・黒田三左衛門・・・・
       渡(がふと)・・・・』〈常山奇談〉

   があり、似たような話を入れて変な「合渡川」を創っています。
    
        『岐阜攻め・・・後藤又兵衛尋問の事
        江土川(がふどがわ)・・・・高虎・・・・江土川(がふどがわ)・・・・』〈常山奇談〉
 
 これで@「合渡川」を「郷戸川」とするような、さらに「江土川」とするような、コロッと変えるようなことを
      する、
     A全部「がふ」という字で「合」「郷」を語る、常山は「郷民(がうみん)」というのも使っているから
      自分はそれの方が合理的であることは知っているがこの場合はそうしたといっている、
     B「川」も「かは」と「かわ」を使った、旧仮名遣いとの使い分けは、目的があったといっている、
  ということで重要な手法のことが語られていると思います。直接影響があるのは〈信長公記〉
    「那須久右衛門・岡飛弾守・江川」
 とある「江川」を常山が「江土川」と「土」を入れて理解したかということであり、常山の世界で「江戸川」
 が出てきたら「江土川」という含みもあるのか、ということなどがあると思います。

 旗はもちろん「波多」「畠」「畑」とくに高山の「幡」で高山色が出てきます。次も山上郷右衛門を高山と
 語った一節といえます。

      『三好・・泉州岸和田・・・堺の津・・・高政・・・上なる山・篠原右京進・・・長房・・・一宮長門守
      ・・・久米田・・・山上・・・・摂州高槻・・・入江左近太夫・塩田采女正・・・・高政・・・南山・・・
     ・篠原・・高政・・・南の山・・・高政・・籠中の鳥・・・・篠原・・・高政・・・長房・・・上の山・・・雑賀
      孫一・・・・高政・・久米田合戦・・・実休・・』〈常山奇談〉

   三好も高山に関係がありますが、長房は高山右近の名前、入江左近は高槻城主、篠原は前田
   の外戚などで高山関係のなかでの山上がはいっています。

     『天正十八年、秀吉南禅寺より黒谷(くろだに)へ出らるる山ぎはの道にて・・・(以下細字)天
     正十九年利久を誅せられけり。利久小座敷に茶の湯をしかけ、弟子の宗巖(そうがん)と常の
     如く茶の湯終わりて、それぞれに形見をわかちやりて後自害しけるとぞ。』〈常山奇談〉

    堺は早くから夕庵和泉と関係が生じ二人の属性になっており、「宗」の系譜も引き継いでいる
    といえます。「宗達」の「達」も戸川肥後守達安(たかやす)から「高」となり太田和泉色が強く
    なります。この「宗」は高山も使って然るべきものでここの「宗巖」が芭蕉の立石寺の一節から
   高山右近であることがわかります。利久の最後にあたって側にいたのは高山右近(山上宗二)
    一人であったことになります。そのときの思いが秀吉に反発した山上宗二の言動に反映した
   といえます。

    ◎「松栢、年旧」(しょうはくとしふり)
    山上で脱線しました。
    テキスト脚注には「柏はコノデカシワであるが広くヒノキ、カヤなどをふくめて常緑の喬木をいう」
    とされていますが、「柏=栢」と頭から変えられています。「栢」は百だから、多くの種類のもの
    を含む感じであり、実際もそうであろうから範囲をひろめて捉えられていると思います。
    これは「栢」=「柏=「伯」=「泊」・・・のあぶり出しが出てきている、百マイナス一=白であるという
    ことも踏まえられている、泊とは伯は雄略天皇の大泊瀬を大伯瀬と書いた人もいる、などのことで
    かなり自由に字が往還することも前提になっているものです。文中の
          「岸をめぐり、岩を這ひて」
    は、まわり山中の出来事ですから「岸」はおかしい、山の中の渓流のことをいうのでは「岸」は
    は不自然と思われます。「岸」は「がん」だから「岩をめぐり岩を這ひて」となるはずで字の変換
    は可とされているととらざるをえません。
    〈信長公記〉テキスト人名注で「横田備中」という人物は
        「横田綱松(つなとし)  備中守高松(たかとし)の養子。」
    とされており、「松=とし=年=利」と転換される例が載っているといえますがそういうことであれば
    ここの「年旧」も「松旧」ということになります。その観点からみると、「松伯、松旧」という続き
    具合になり「旧」も「白」の変形にみえてきます。つまり「栢」=「柏」とされていますが、その違いは
    は横棒一本です。「白」は「日」に「ノ」ですが「旧」は「日」に縦棒があるという違いしかない、
    といえます。
    つまり、松泊、松白と「ハク」を並べたといえるものです。要するにここに「等伯」が織り込まれて
    いるというのがいいたいところです。長谷川等伯の代表作は松の図です。
     年(とし)というのは前田利家・利長・利常の「利(とし)」でこれは「利根川」「「天の利鎌」の
    「ト」です。「ト」は登山の「ト」、登頂の「トウ」です。松=年ならば
        「松栢、年旧」は「等伯、等伯」
     ともなりうるものです。当然「松=年」はどこからくるのかということはあるでしょう。等伯の等は
    「竹」+「寺」ですからその場の雰囲気に合うわけですし、この「竹」は「武隈の松(奥の細道)」
    から「松」も出てきて「柏」にもつながるということになります。「長谷川」という「谷川」も雰囲気に
    合うものです。「武隈の松」からは「角」も出てきますし「鷹」、「高」もここに出てくる、また福島県
    「阿武隈高地」の「武隈」でしょうから「阿」を省いたという意識があるかもしれない、そうすれば
       阿閉孫五郎(一人は高山右近)
    というのも芭蕉の脳裏にあるといえるでしょう。ここの
          「山上」
     には確実にその意識があると思います。この文、「岸をめぐり」というのがどうしてもおかしいわけです。
    山上の前に高山を持ってこないとおさまらないわけです。入れ替えて「□□□□山上」となると
    いうことに納得が得られるかどうかです。

         原文              入れ替え文
    『・・・・日いまだ暮れず。             『・・・・日いまだ暮れず。
     梺(ふもと)の坊に宿かり置て、         梺(ふもと)の坊に宿かり置て、
                                ●をめぐり、を這ひて、仏閣を拝し
     上の堂にのぼる。               山上の堂にのぼる
     岩(いわお)を重(かさね)てとし、  岩に巌を重ねて山とし
     松柏(しようはく)年旧(としふり)、        松栢年旧、
    土老いて苔滑(なめらか)に、         土石老いて苔滑に、
    上(がんじよう)の院々扉を閉じて、     岩上の院々扉を閉じて
    物の音聞こえず。                  物の音聞こえず。
    ●岸をめぐり、を這いて、仏閣を拝し、
    佳景寂マクとして、心すみ行くのみおぼゆ。  佳景寂マクとして、心すみ行くのみおぼゆ。
    閑(しずか)さやにしみ入(いる)蝉の声 』  閑さや岩にしみ入る蝉の声』

 ●を移動させただけですが、下から上までのことを書いたのではないかと思います。山篇の山の字
二つを、「山上」の前にもっていくと「山則」の「嵩」になり、岸良沢や右近の出てきた高山が「山上」
に懸かってくることになります。こうすると「物の音聞こえず」と「寂マク」がつながると思います。

  ◎一番下の句の「閑」は〈明智軍記〉の著者の心象には、明智光慶が入り込んでいました。これは
 大石田が出てくる直前ですから、重くのしかかってくる示唆の一つです。つまり今となってはあの
 三句の延長にこの句があるとみなければならないので、あの三句に戻らないと仕方がないということ
 になります。天正十年五月廿八日に西の坊にて、(両書同じ)

         は今天が下る五月かな   光秀
         水上まさる庭の松山        西坊(西坊行祐の作とされる)
         花おつる流の末をとめて    紹巴(里村紹巴作とされる)

 の百韻が終わり亀山へ光秀が帰りました。ここまでくればここの「西坊」は西は「西行」があり武井夕庵、
「紹巴」は建部紹智もあり和泉守が乗っかっている表記ですから、「牛一」であることがいえる、三兄弟
を山場で打ち出すという工夫もあって然るべきところでしょう。光秀は真面目に句を作りましたが、二人
は句は自分で作らずに人のを改竄して、間に合わせています。
 一方〈明智軍記〉では細かい描写があります。

   『則ち西坊威徳院行祐(ぎやうゆう)が許に一宿して、連歌興行しけるに、内々京都より彼の道の
   達人紹巴(じようは)・昌叱(しやうしつ)・兼如(けんによ)・心前(しんぜん)など云う者共を召し寄せ、
   併に上の坊大善院宥源(ゆうげん)を招いて、百韻の連歌を催しける。其の句に云く、

       ときは今天が下知る五月哉     光秀
       水上まさる庭の夏山          ▲行祐(きやうゆう)
       花落る池の流れを堰き止めて    ▼紹巴(ぜうは)
        ・・・・・・・・・・・・・・・         宥源(ゆうげん)
        ・・・・・・・・・・・・・・・         昌叱(しやうしつ)
        ・・・・・・・・・・・・・・・         心前
        ・・・・・・・・・・・・・・・         兼如(けんによ)
        ・・・・・・・・・・・・・・          行澄(ゆきずみ)
        ・・・・・・・・・・・・・・          行祐(ぎやうゆう
        尾上の朝気(あさけ)夕暮のそら  光秀
   以って之を略す。        』

 これだけ見てもはじめの〈信長公記〉〈甫庵信長記〉歌は夕庵・牛一の作品ということが分かります。
 光秀は真面目に句を作りましたが、二人は句は自分で作らずに人のを改竄して、間に合わせてい
 ます。
  〈明智軍記〉では「行祐」が三回出ており、そのルビが三つありますが、はじめの三句▲のルビだけ
 は違います。「き」に濁点がない、虫眼鏡で確認しましたから間違いはない、紹巴も▼は、はじめの
 紹介文のルビと違っています。他の人はルビが合っています。
 また句の内容も▲▼は上の両書のものと違いますから、この二人のものを書き換えて記載したと
 いえます。「下知る」を「下なる」というように書き換えたという伝説もあります。内容が写実的なもの
 から象徴的なものに変わっている感じです。
 なおこのあと

   『此れ執筆(しゆひつ)は惟任が臣東六郎兵衛行澄とて、東下野守常縁が子孫にて、歌・連歌
    の道に心得たる者也。』〈明智軍記〉

 たいへんな一匹狼の表記が出てきましたが、これが高山右近でしょう。東は太田牛一の世界では
南にもなる、東殿縁戚でもある、六郎は木全六郎があり、行は西行の「行」、「澄」は「隅」「角」、下野守
は、山県、宇都宮などありますが、索引のない文献が多く直接今はわかりませんがいずれ判ってくると
思います。
この句の「閑」という字は百韻の挙句にも使われましたのでその線から大石田につながる立石寺の面から
見ましたが太田和泉守も「長閑斎」を使っています。「長閑斎笑岸」に乗っかっていました。太田和泉守は、
長閑斎を長竿斎とも書いていて「閑」にこだわりがあります。また「竿さお」ですから竹も出てきました。
蝉の声が、岩にしみいる、というのはそのとおりのことですが、故人の声という設定もあるとすれば
武井夕庵太田和泉もそにいる、その声を聞いているというのもあるのかもしれません。それほどこの
一節は戦国期の文献と直結しているところです。このあと大石田に入って行きますが、立石寺の
「りふ」(立)と一体になった「石」や「土石老いて」という「石」が大石田の石につながっていくものです。
「土」は後世では「大津土」として引っ掻き回した文献もでました。先ほど「梺(ふもと)」という「林+下」
という特殊な字がでました。機械では「麓」しか出てこないので、手書き検索という手間をかけて
出てきたものです。いま転写がままならないためもう一回出すのもたいへん苦痛といえるものですが
それだけに芭蕉が字を探したかもしれないという思えるところでもあります。「ふもと」の字は「雲岸(岩)
寺」という「立石寺」の岩、岸に直結するところにありました。「ふもと」から「立石寺」の前段があった
ことがわかりました。あまり目立たないところです。なお「雲岸(岩)寺」というのは珍妙な表記ですが
テキストの表記で、「岸」は間違いといわれているようです。

  この連歌興行の前に明智光秀は
    「心知らぬ 人は何とも云えば云え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」〈明智軍記〉
と打詠して重臣に挙兵のことを明かしています。これが〈明智軍記〉にもあるということが重要でしょう。
著者を信頼するなら、この歌からはノイローゼ説やら、天下が欲しかった説などは出てきません。
ここの「心」を〈明智軍記〉で読みとってほしいといっていそうです。

(40)雲岸寺
  『当国(たうごく)雲岸(岩)寺(うんがんじ)のおくに佛頂和尚(ぶつちやうをしよう)山居跡(さんきよの
   あと)あり。
     竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
        むすぶもくやし雨なかりせば
  と松の炭して岩に書付(かきつけ)侍(はべ)りというぞや聞(きこ)え給ふ。
  ・・・雲岸(岩)寺に杖・・・道・・・彼(かの)梺(ふもと)に至る。・・・谷道遥かに、松杉黒く、苔したたりて、
  卯月の天今猶寒し。十景尽く所、橋をわたつて山門に入(いる)。・・・さて、かの跡はいづくのほどにや
  と後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきじやう)の小菴(せうあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。
  妙禅寺の死関、法雲法師の石室をみるがごとし
       木啄も庵はやぶらず夏木立
  ととりあえぬ一句を柱に残し侍りし。』〈奥の細道〉

「岩」と「岸」と「石」があるので立石寺とつながるのはあきらかですが地味なところです。
しかし雲・頂きという語句を背景とした高山という印象があり、「谷」「下」との対比もあるところです。
 〈信長公記〉に高山和尚が出てくるので、佛頂和尚は高山和尚と重なります。
こういうとすぐ文句が出るところです。和尚が同じだからといって、佛頂と高山が重なるとはいえない
ということになります。〈信長公記〉の世界というのがあってそこではこうなります。重力の法則が真空の
状態で成立する、夾雑物空気抵抗を除いて真といえますが、現実には真空のところなどないから
それは事実でないとはいえないのと同じでそういう設定された場所ではということです。
 佛頂和尚はテキスト(旺文社文庫)では「鹿島根本寺の住職。芭蕉参禅の師。」となっております。
一方〈信長公記〉テキスト人名録では、「高山和尚」というのが出ていますから、「高山和尚」という固有
名詞が認識されている、といえます。芭蕉も同じ認識に至ったということでその和尚をここで使つた
のでしょう。
テキスト人名注では、本文にある「長禅寺の長老」という項目について
   「長禅寺の長老→高山(こうざん)  ページの表示なし」
 となっています。これがどこからとってきたのかということですが本文に「長禅寺の長老」があり実際は
   「★高山の長禅寺の長老」
になっています。
これを踏まえて「こ」行に「高山和尚」とう見出しがあるわけです。いいたいことはルビが振っていないの
だから、「たかやま」と読んでほしいということです。
 「こうざん」という「こ」の項目にあるから後進の人は「高山」は「こうざん」と呼ぶ人名というのが
通説だろう、細かいところだからそれでもいいだろうとなってしまいます。しかしこれはどう読んでも
個人名は出てこない、細かいことをいうようですが「の」が二つあるから異動させても人名として出てこ
ない、地名でもなさそうで「地名索引」には「高山城」しか乗っていないということです。「高山和尚」
は人名録注では
   「高山和尚   ●(〈長禅寺回答書)〉。長禅寺はいま甲府市愛宕町。臨済宗」
となっています。この文書で「高山和尚」があったので決定ということにされたと思いますが、芭蕉も
これで高山和尚というのが出て来たので使えるということになつた、という説明でよいのかどうかで
す。「和尚」というのはどこから出てくるかといいますと「長老」六人の連記のなかの一人に和尚が
紛れ込んでいる、つまり★のあとに
   ■「大覚和尚長老」
 という周囲から見ればわけのわからない語句が入った人物が出てきますがそこからです。●の〈回
答書〉はそれを使ったから「高山和尚」が出てきたとと思われます。〈回答書〉というまじめそうなもの
に「山寺の和尚さん」のような語句が合っているかどうか、多少は疑問です。
 また「大覚」というのは加藤の大将「飯田覚兵衛」→「飯田角兵衛」の例がありますから「覚」=「角」
だ、太田牛一は「大角」というつもりであった、そうすると「大高山和尚長老」が出てくる、大(おお)谷
は小(お)谷で、小高山も出てくる、ということもできます。「角」は重要で、ちょっと「角」をいれると戦場活
躍ペア
   「福富平左衛門・丹羽覚(角)左衛門」
から高山が出てくるし、丹羽(二羽の鷹)まで出てきます。
結局「大覚和尚長老」は実際そういう人がいたからここに書かれたのだ、それで十分だということに
なりますが、高山色をもった和尚を浮遊させるため■を入れたというのがいいたいところのことです。
〈信長公記〉では「和尚」はここのこれだけだと思いますので汎性はあると思います。もし他に出てきた
ガクンとなりますので、ないように祈るしかないようです。人名録では「大覚和尚長老」は

    『甲斐寺住持。〈甲斐国志〉では慧林寺で災に遭った僧を「快川並に大綱、睦庵、高山
    (長禅寺住持)、藍田(東光寺住持)以上五人紫衣の東堂五人」とし、大覚は所見がない。』

 まあ住所不定、わからない人物です。ここだけで云えば表記の一人歩きの高山をサポートした操作
上の人名といえると思います。
テキストも芭蕉も高山和尚を認識していた、テキストではわかりにくくしたといえると思います。
   佛頂=和尚=高山で、佛頂と高山を重ねるのは問題ないと思います。
なおここの東堂という語句が気になります。

(41)東堂
これは早くに使われテキスト人名注では「東堂」は「織田信秀」とされています。
これも「ページ」の表示がありません。
     
    『当寺の東堂桃巖(トウガン)と名付けて、・・・・』〈信長公記〉

 これは「@この寺の東堂(という人)が、桃巖と名付けて、」とか、
     「Aこの寺の東堂(という人)を桃巖と名付けて、」とか、
     「Bこの寺の東の堂(の人)を、桃巖と名付けて、」
などくらいで余り読む余地はありません。これがあの戦国期を終結に導いた英雄、織田信秀の臨終の
記事にあるので解釈が揉めることになりました。

   『備後守・・・・御遷化。・・・・去りて一院御建立、万松寺と号す。当寺の東堂桃巖(トウガン)と
   名付けて、銭施行(せぎょう)をひかせられ・・・』

 施しを眼目にした葬儀を行ったわけです。つまり「桃巖」というのは信秀の法名だったのです。
ニュートンプレス訳本では
   「当寺の前住職が故備後守殿の法名を桃巖と名付け申した。」
となっています。要は@で東堂が前住職ということですが、東堂を主語とする読み方は第一感では、
つまり素直に読めば出てきにくいと思います。また今の住職は本堂にいるはずだから違うと
いうことでしょうか。かならず今の寺院の最高責任者が死者の名前をつけるはずで、前人者が、
信秀の逝去の前に法名をつけるのはありえないわけです。
 テキストでは東堂は信秀ですから@はありえない、ABを一つにして
   「この寺の東の堂に安置されている東堂という人を桃巖と名付けた」
 という意味で東堂=信秀とされているものでしょう。さらに付記すれば主語がありませんから
    東堂二人で一人は「前住職」、一人は「信秀」
 前住職が桃巖と名付け密葬していた信秀公の本葬を執り行った、というのがいいたいところで、訳文
で突如出てきた前住職というのがこの読みの急所です。もう読まれていることをいっただけです。武田
信玄が3年死を伏せよという云ったという挿話がもうありますから、織田でもそれがあったことはありうる
ことです。というよりも信玄は織田がそうしたといったのかもしれません。慧林寺の東堂は高僧のこと
でしたから、テキストからでは、信秀や織田の高僧を想起することは考えにくい、ので一応触れた次第
です。
 筆者のいいたかったのはもう一つあり、この「東堂」が人名索引に出て前後の脈絡なしに見られた
ときに、著者は早くから読みのヒントを出していたということが判ることが重要だということです。
    東堂は藤堂
ですから、当然ですが、東堂がどこから来たかもわかります。つまり「安藤」大将と「安東」大将が
ありました、それが「藤堂」「東堂」に分かれ藤堂も宣伝でき、東堂も利用できたと思われます。
     安藤の婿竹中半兵衛は、太田和泉
    東の安東(不破河内)の婿の竹中半兵衛はあの重治の半兵衛
 というように伝説も生きてきます。ここで先ほどの「東六郎兵衛」が「藤六郎兵衛」に変わるとやはり
大きな接近が出来ます。藤ならば
    藤蔵、籐大夫、藤四郎、藤吉郎、籐八、藤丸、藤五郎、藤九郎、藤次郎、藤市
があります。藤吉郎は別だろうということになりやすいのですが表記の一人歩きとして捉えると利用し
やすいものとなってきます。なにしろ藤+吉ですから。

(42)雲岸寺(2)
芭蕉の文に戻りますが、ここの雲岸寺は妙心寺派ですから佛頂和尚も同じです。
本文ではあと妙禅師と、法雲法師が登場します。
妙禅師は「原妙禅師」というようですが「原」が抜かれて妙を打ち出したのか、もとが玄妙禅師というの
と炙り出しになっていると思ったのかよくわかりません。とにかく妙心寺の妙をだしてきたのでしょう。
字は高峰で「高」。天目山に関係がある人のようで、高と武田(勝頼)につなげ死関というのも夕庵を想起
させるものです。「夕庵」の二字は最も原初的な、強力なトレードマークで、ここでも「庵」「菴」「庵」の三
つの「あん」が出てきてこの「関」ということでも妙禅師がここにここにもってこられたと思います。
また法雲法師は訳注では
    『梁時代の高僧。マツ陵県に法雲寺を建て、晩年庵を孤巖に結び、終日談論して倦まなかった
    という。●「石室」は石のほら穴ではなく石上の庵室という意。』
 となっています。法雲法師をなぜ出してきたかということが重要ではないかと思います。
     ○ネットでみて知ったことですが法雲は、「光宅寺」の孤巖、ということのようです。「光」は
      「」にも通じますが、「光」は平泉の光です。宅は「沢、澤、竹、三宅」に通ずる字です。
      孤巖の巖は高山といえるのでしょう。
     ○雲は高い山にマッチするといえます。
     ○雲は「雲巖寺」からの必然のようです。雲岸寺が「栃木県那須郡黒羽町雲巖寺」ということ
      と「臨済宗妙心寺派の禅寺」というのにつながるものです。妙禅師は妙禅寺だったのかも。
     ○雲は雲竜の雲、に、法は二位法印の法を出してきたとも取れます。
     ○そもそも武井爾云の爾云(じうん)が「雨プラス云」にも似ているので、雲が武井を表わすの
      かもしれません。雨篇注意で、大谷(小谷)、横山、丸毛兵庫、蜂屋兵庫の出てくる雲雀山
      ひばり山注目といっていそうです。

予備知識も何もないのに法雲に過分に触れてしまいましたが、もう一つ●が一見して法雲のところに
あり、内容もよくわからない奇妙な解説なので、わからないことは一応調べてわからないということだけ
でもいっておくのもよいのでしょう。もう一人の人物が出ているよという訳注者の注意かもしれません。
つまり●は石室は石のほら穴というのは間違いといっていますが、岩窟という語句もあり、どうみても
これはおかしいと思います。芭蕉の文章の中では間違いということですから文章がおかしいのかもしれません。

    『さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上の小菴岩窟に
    むすびかけたり。妙禅師の死関、法雲の石室をみるがごとし。」〈奥の細道〉

 前に「石上小庵」があるから、小庵=石室とみて、「石上の庵室」となるべきということですがこの
石室は岩窟と同意ですからその必要がない、つまり小庵というのは「小さい庵」というのみではない、
浮いた語句であると予感させるものです。ここは例の山上を打ち出した一節といえます。山が四つも
あり、山を強調した一節でもあります。入れ替え文
 
   『さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、石の小菴岩窟に
    むすびかけたり。妙禅師の死関、法雲の石室をみるがごとし。」〈奥の細道〉
 
「石上」の「上」が余分なので上だけ移動させる、のでよいと思いますが、石も余分というのなら
  「うしろの石山の上によぢのぼれば、小庵岩窟にむすびかけたり」
 となります。訳にある「寺のうしろの山」というのではやや山が大げさになりそうで、別の山上から見た
という感じをだすのがのがうしろになるのでしょう。もとのままで「小庵」が浮いたのが問題で「小の夕庵」
を出していると思います。常山ではこのむつかしい方の「庵」を使った
   小瀬甫
 が出てきて前田の「横山山城守長知」と接触します。この長知が「太田但馬守」を討ち果たすという
珍妙な話です。ここでも平手政秀が出てきて妙心寺にその墓があるなど無理に持ってきた作話が
細字で出ています。ここの一節の終わりは句
      「木啄(きつつき)もはやぶらず夏木立(なつこだち)
      ととりあへぬ一句を★に残しはべりし」
 となっています。この句の訳は
   『寺つつきといわれる木啄もさすがにこの佛頂和尚の庵には遠慮してつつき破らずにある。
   「夏木立」は樹木のうっそうと茂ったその場の情景をいう。』
とされていますが、まあこの「夏木立」のことは蛇足でしょう。これは四月五日のことなので初夏とはいえ
あまり強調するべきところでもなさそうです。きつつきも「啄木鳥」なのにひっくり返したようです。「啄」
は「良琢」の「琢」に似ており、「たく」は「沢」で句の庵は夕庵の庵も指すのでしょう。法雲法師の石
室のごとし、というのは戦国期に真田幸村に会いに来た石庵という人物を想起します。ここの「木」の
読みが、「き」と「こ」の二つあるので、木立を特別に言及されたことではないかと思います。つまり
「木立」は、「小立」もありそうです。ここは「りふ」と読むわけではないのですが「小竜」もあり、「小達」
もあるのかもしれません。もう一つ★は〈奥の細道〉はじめの
     「草の戸も住替る代ぞ雛の家
        面八句をに懸け置く」
を受けていると思います。したがってこの「夏」は「西坊行祐」の二区目に「夏山」があるのを知っていて
入れたというのもあるのかもしれません。そのときの「ひなの家」の「家」に、ここの「啄」→「たく」→「宅」
の「沢啄」がつながるといえます。きつつきに物部守屋の伝説があり、寺をつついたようですが、この
「佛頂」も「物長」とでもするとつつかれずに済むのでしょう。熊沢と出てきた「物取新五」の五も物鳥
も出てくるのかもしれません。

 ここのはじめの佛頂和尚の「草の庵」の庵が、終わりの「きつつき」の庵につながり、雛の家の「草」
がはじめの草の庵の草につながっているからそういえそうです。雲岸(岩)寺のここには
     「ときは今天が下知る五月哉
 の「今」「天」「下」「卯月」「五」「雨」が織り込まれています。二句めの「松山」三句目の「関止め」
もあります。まあここのところは、〈曾良日記〉をみても
  「鷹」「沢村」「沢村」「太田原」「黒羽根」「図書」「光明寺」「図書」「篠原」「吉」「津久井」「八幡」
  「図書」「重之」「図書」「弾蔵」「野間」「高久」「宿角左衛門」「図書」「角左衛門」「野間」「太田原」
  「高久角左衛門」「松子村」「松子」「湯本五左衛門」「図書」「角左衛門」「黒羽」「神主越中」
  「与一」「宿五左衛門」
 夕庵(和泉・光秀)・右近・佐吉関連表記のパレードといってよいのでしょう。

 ここの「十景」は「山中高山」の「山中温泉」につながり、また「松杉黒く」の黒は

  『那須の黒ばねと云ふ所に知人あれば是より野越・・・直道・・・一村・・・明れば又野中を行。
    野夫・・・此野・・・・ちいさき者ふたり・・・・』

の黒羽にいたります。黒羽と黒ばねとあり、先ほどの〈曾良日記〉に「黒羽」と「黒羽根」があったのが
絶妙という感じです。「黒ばね」ともなれば「は」が二重になり、「黒羽羽」=「黒二羽」=「黒丹羽」で
丹羽の登場となります。この知人は「黒羽館代の浄坊寺何がし」(本文)です。この人物の名前は
脚注では 
       「浄法寺図書高勝」
であり、図書、高、つまり高山を出してきいます。那須は篠原、八幡宮、那須与市、などがでてきます
が、常山は那須の大関夕安をだしているというように多く方へ枝分かれします。「十景尽くる所、橋を
わたつて山門に入(いる。)」というのがありますが、脚注によれば雲岸(岩)寺に五橋があって瑞雲橋
があります。五というのは「五尺」の「五」、五橋の五があり2×5がありそうですが五は、うち出されて
いそうです。高山右近の五は「木村源五」「阿閉孫五郎」「長谷川藤五郎」(甫庵太閤記)の一人で
あろうということでも推測されますがそれが出ている、「松の炭して岩に書付侍りし」の「書く」はあとで
柳の「卯」にもかかりかねないしここでも「卯」が出ている、といういうようにもなりますが図書というのが
直接響いてくることにもなります。「松」「炭」(墨)「岩」(巌)(岸)「書く」(覚)、となると高山が出てきそう
です。「入(いる)」は後年にも使われますが加賀に分け入るの「」です。〈甫庵信長記〉の「江左近」
などは誰かがどこかで、解説してくれないと困る、高山暗示があれば、話の筋通ってくることにな
ります。
 「雲岸(岩)寺」から「瑞雲寺」が出てくると、「雲」とか「岩」とか「法雲」、「山居」とかが、ちりばめ
られている「雲岸(岩)寺」ワールドから、「瑞岩(巖)寺」、「雲居禅師」の世界に飛んでいくのは
必然になってしまいます。要はそこへも、ここの、庵とか高山とか表八句など表記が醸し出す色合いや
雰囲気が、繋がっていますよというわけです。この短い一節のあと平泉(和泉)へ入り、和泉三郎が
登場してくることになります。そういうのが、「雲居禅師」伝説を生んだ背景となるのでしょう。ネット記事
「戦国群像Xフアイル」や「盤司盤三郎を想う」(yahoo見出し)もこういうものの表れといえるものです。
両方とも「妙心寺」が出てきて、大坂城へ入城した経歴が書かれています。前者では「塙団右衛門」の
子だという説もあるとされています。雲居禅師にこういう伝説があるということは少なくとも芭蕉が
太田和泉とつなげた雲居禅師をここに出してきた、という人がいたということでしょう。
 前者では雲居禅師は「慈光不昧禅師」とされていますが、これが重要ではないかと思います。この
曖昧の「昧」という字を「黒」で宛てて「黒谷」は「昧谷」だというネット記事をどこかでみましたが、この
雲居禅師の記事には「白黒入れ替わり」の話が載っており、昧は黒とよみ不昧は白というのをいったの
ではないかと思います。もともと「くらい」という意味のようで「黒」にもなりうるものですが辞書では出ていま
せん。これが雲居禅師から山中高山に飛べという合図と筆者がとっただけのことかもしれません。
前者では「松島瑞巖寺中興開山となる」とあり、後者も、開山堂に鎮座する禅師の像があり、蕃山の麓
にもある開山堂も出てきます。これは奥の細道瑞巖寺の一節に「開山す。」というのがありますのでまあ
必然のことともおもわれます。また「徳化」という語句も出てきています。立石寺にも開山堂がありますが
こういう開山堂などはどこでもある、普通名詞だということで無視されてしまいますがこれは間違いでは
ないかと思います。高山と同じようにあの高山を著者が指していたということもありえます。

(43)開山
開山が固有名詞として出てきているから、その意味でいけば表記の一人歩きとなったと考えて然る
べき人を指すということになってきます。天正五年、

   『一、★化狄(クワテキ)、天王寺屋竜雲所持候を召し取り上げられ、
    一、開山(かいざん)の★蓋置(フタオキ)、今井宗久進上
    一、二銘(ふたつめい)の★さしやく、是又召し上げられ、
    三種の代物金銀を以って仰せ付けらる。』

ここの「開山」が宋の「圜悟(えんご)」という高僧です。三つの★は茶の小道具のようで、そういうものを
買い取ったという事実を踏まえた話ですから、それでよい、ということになっており、それはそれでよいの
は間違いないところです。しかし
   @天王寺屋竜雲という人物を誰も知らない。
   A三段目に「是又召し上げられ、」があるから二段目と三段目を入れ替えなければならない。
    「さしやく」は「竜雲」所持のものであるといいたいと思われる。
   B「さしやく」は「茶杓」だがそれはここでそう解釈されるだけのことで物品索引として孤立させる
    とわからなくなる。★のカタカナルビのものも同じ。ただフタオキは蓋を置くというその役目を
    いっているが、「クワテキ」はむつかしい。現行は「貨狄。・・・・名物茶入れ。」となっているのは
    名物であるから本来のものの解説をした人がいるということになるが、「てき」はわからない。
   ・・・・・・
などのことで表記を追っかけるという別面のものを示すものがありそうです。
「狄」は字引をひくと、「東夷・西戎・南蛮・北狄」が出ており、「えびす」で昔は蔑称でもなかったのでしょう
が「北」とセットのものです。「化」は「ばける」ですが辞書では
   「指事。左右の人が点対称になるような形に置かれて、人の変化・・・かわるの意味を表わす。」
となっています。「人+人」=「人篇+人篇」=「イ+イ」となるならば、化は右の方が北の構成要素で
す。
 「イ+ヒ」の面があり、対称にすると「北」にもなりかねません。「北」というのを大修館辞書で引きます

   「会意。人+ヒ」
で二人の人が背を向けているから、そむく、にげるの意味もあるとされていますが「人篇+ヒ」だから
「化」と同じです。ややこしいことをいいましたが「化」をくずして書いたり、いそいで書いたりしますと
「北」にもみえてくる、似ているということでよいのかもしれません。〈甫庵太閤記〉に唐の名宰相、狄仁
傑が出てきます〈前著〉。この見慣れないテキという字は利用されるべく浮遊しているわけでそれをここ
で利用すればよいようです。いいたいことは、★は「北荻」で、「北」「北方」(信長公記)などの「北」
が属性の、「狄仁傑」のような宰相二人を描いた絵であったということです。天王寺は佐久間右衛門尉
の属性で、天王寺屋竜雲所持というのは太田和泉守の作品といえると思います。芭蕉は「徳化」を
使っていますが、「化」は「化狄」を意味し徳で「化」を染めたのかも知れません。

 天王寺屋竜雲のテキストの人名録(索引)をみますと
     「●天王寺屋宗及→津田宗及
      ○天王寺了雲   津田宗達の一族。(宗達茶湯日記ほか)・・・■天王寺屋竜雲 226
       ・・・・・・
      ○津田宗達     ・・・茶人・・・・・●天王寺屋宗及 104」
 となっています。●はそのものズバリの表記が104ぺージに出ているから、104と書くべきですが
津田宗及をみれば、●の表記が出てきて、そこに104が出てくるというやり方になっています。
天王寺了雲という文中にないものが先に出て、■があとで出てきます。○という文中にないものが
見出しになっているから見るほうは視力を浪費してしまってたくたになるわけです。上のものを文中
のものを主体にして書くと次のようになってしまいます。

  「■天王寺屋竜雲   226、天王寺了雲   津田宗達の一族。(宗達茶湯日記ほか)
   ●天王寺屋宗及   →津田宗及   ・・・茶人・・・・・津田宗達

 ここからだと簡単に「宗及=宗達」でまず考えてみてははどうか、というのが出てきます。
「竜雲」が、ややアヤフヤですが、今井宗久も出ているから「竜雲」は「宗久」とでもしておくと、「竜雲」
が浮遊し北にも懸かる、蓋の「双」、二銘の「二」、「銘」なども浮き上がってきて宰相の属性とも繋がって
くる、短絡しますが、あの「風神雷神図」は宗達@、太田牛一の作品というのがいいたいところです。
風は西風秋風でもあり、秋の火が萩の火にも行くのでしょう。薮というのは籔です。これは〈信長公記〉
世界でも同じです。竹冠の萩もありうるとしておいたほうが無難です。
 したがってここの開山ももう一人の開山がいる、夕庵・牛一の属性としての「開山」が、「盤三郎」に
つながったということもできます。
 「磐司磐三郎」の「磐」ははじめに挙げた〈万葉集〉の「いわしろ」の「いわ」ですが、
    万事万三郎、磐次磐三郎、磐司磐三郎、万二万三郎、万治万三郎
があり表記のことを語っているようですから、〈奥の細道〉の雲居禅師に関するものの語りととれます。
日本一の弓の名人、万事万三郎登場ですからそのあとの「和泉三郎」を意識した「三郎」と思われます。
またこれは二郎と三郎が兄弟なので二郎三郎というような名前は二人を表わすことも判らせようとしている
と思います。マタギ伝説と引っ掛けたのは「木全(きまた)六郎三郎」のクローズアップの「又木」「全木」
ということではないかと思います。またこれをみると磐代というのが万代にもなりますが「万代」は「もず」
と読むようですが、ネット記事「とやまネット」によれば「備前国和気郡益原村(和気郡和気町益原)」
に「万代(もず)掃部助」という人がいたそうです。これは、苦し紛れのカモンかな、といったところですが
この磐三郎伝説の記事も雲居禅師や地名らしい「蕃山」というのが載っていなければ見逃してしまいま
す。東北地方の猟師の話か、となってしまいます。しかし説明の一つとして、 こういうのはあるのです。
東北は遠いから中央との関係が希薄だろうということでそうは思われないと否定的になりやすいので
す。二宮尊徳の墓が福島県にあるのがおかしいと神奈川県は文句をいっていますが、一方からいわ
せれば、福島県には郡山があるし武隈の松がある・・・〈信長公記〉には「山中高山二の宮」がある、
福島県へきて二宮と高山が結べないようでは駄目だと変な人が言っているわけです。この人はネット
記事によれが「富田高慶」という人のようです。二宮尊徳にしてから足利尊氏の高ですし、「徳」は例えば
   岸田常徳
とい表記があります。「岸」は岸良沢の「岸」「徳」は徳善院前田玄以、五常兼ね備えた人は
斎藤内蔵助、東下野守常縁の「常」で高山かも知れないわけです。

(44)野間佐吉
 高山右近は〈奥の細道〉でみるように、夕庵牛一ーー高山右近ーー佐吉という流れの中間的役割
を担っているといえます。
「佐吉」は「野間佐吉」も出てきて
   「多々羅右近・池田丹後守・野間佐吉」
が接近しました。ここに「右」と「左」の対置があります。島左近と松倉右近の右近左近は有名ですが、
「土倉」と「土蔵」のあぶり出しのあるところから「松倉右近」は「松蔵右近」とすればわかりやすく、表記
で云えば高山右近のことであり、島左近と高山右近の対置が意識されていることです。これは松倉右近
は「豊後守」とか「重政」であることもあり、常山でも、長尾為景、宇佐美駿河守が、
    「松倉城(まつくらじやう)主唐人兵庫、山下左馬介」
を攻め落とす場面をいれており、北越に松倉を出して来ていることでもわかります。この長尾為景の
子が上杉謙信であり、常山はここで謙信の幼名「猿王」、元服名を「長尾平三景虎」としています。
「猿」の表記は〈信長公記〉にあり、常盤御前を殺したものの子孫「山中」の「猿」があります。いまとなれ
ばこの美濃の「猿」は独立表記で信長とやりとりをする役者としての太田牛一と取れるでしょう。もう
一つ、「猿荻(サラウギ)甚太郎」があってこれが重要です。「荻」でいえば「荻野道喜」、赤井氏の「荻野
城」(氷上郡春日町黒井)、の「荻」、これは赤井が黒井と重なるから重要でしょうが、こういうことが
芭蕉の〈奥の細道〉「萩」にいき、これはどうか知りませんが荻生徂徠、木村兼葭堂の名前までに行き
かねないものです。湯浅常山は、稿本を太宰春台〈前著〉に送って教えを乞っております。常山は
春台の門人ということですが、常山は春台より27歳くらい若く一世代以上の差があります。どちらかか
両方に親子の重なりがありそうです。また春台は荻生徂徠の門人ですから、常山の手法なども徂徠
譲りのものといえます。なお「サラウギ」の「うぎ」は「卯木」で「うつぎ」の木に懸かるのかもしれません。

この謙信の「長尾平三景虎」を少しもじると「永尾平蔵景虎」とすると「加藤」の「景」と、「加藤」の「虎」
を考慮すると「太田和泉」はもちろんですが、絵の長谷川平蔵ですから「高山右近」が出てきます。
宇佐美駿河守は、謙信の姉婿で謙信と対抗しうる実力者長尾政景(景勝の父)と舟で刺し違えたと
いう人物ですが、これは常山ワールドでは明智左馬助と関係が生じます。ほかに、ここでは
  「徳大寺殿は越中国畠山尾張守尚慶の外孫・・・・・・畠(はたけ)山留守居(るすい)、推名(おしな)
   神保(しんぼう)、遊佐、那須等」
の名前が背景として出てきますからここの「山下左馬介」は
       「山上」+「(明智)左馬介」
となりかねません。つまり「多々羅右近」「池田丹後」は「高山右近」「島左近A」という組み合わせを
暗示するということになります。同様に、ここの「右近」は石田の「左」をみていそうです。石田の石が
右に似ているので「左右吉」というのもあるのかもしれませんが芭蕉などは二人を引っ付ける可能性は
早くからあったと思われるのは、、左・右をやはりセットで見ようとしたというのがあると思います。
野間佐吉は人名注では
  「天正八年五月二十二日、佐久間定栄、津田宗及を招き茶会を開いている(宗及他会記)。」
 となっています。茶会記にしか出てこないという厄介な人物です。本能寺の二年前ですから石田
三成とはいえないでしょう。人名索引「野間佐吉」の前後の表記は
   「野口」「能島」「野尻」「野木」「野村」「野々村」
 があります。
「野口」はテキストでは「現神戸市生田区の住人。」となっています。これは「花くまの野口」ですから
「池田」です。つまり「生田」→「池田」→「野口」→「野間」でしょう。
「能島」はテキストでは「掃部助武吉か(村上文書)。伊予(愛媛県)の水軍(愛媛県)。」となっていま
す。「右近」→「熊」→「角」→「明石掃部」→「野(能)間」でしょう。「石田伊予」も絡みそうです。「武」
は「武井」の「武」で、「吉」は「藤吉」の「吉」です。
「能島」の「島」は「島左近」の「島」で「島」→「池田」→「野間」でしょう。
「野尻」は「とおる」から高山など→「野間」でしょう。
「野木」「野村」は「野木村」となってこれが「野間」の「野」になりそう。「下村」という表記が六条合戦
で浮いておりそれを考慮すると、次の「野間」が語源と思われます。
      村
     下 
六条合戦で両書間のあぶり出しで「奥村」と「下村」がはみ出しましたが、あとで利用する人がいたよう
です。いろいろいって来ましたが
    A 「多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉」は
         ‖      ‖       ‖
    B 「高山右近・島左近A・武田佐吉(三成)」
A、の引き当ては、B、になるといってよいかと思います。ただ、一表記二人が原則ですから、また、
多羅尾右近は坂井右近も想起され、池田丹後守@もあり、武田佐吉もありますので、AをCとして引き
宛てることも可能です。
    C、「太田和泉守・惟任日向守・武井肥後守」
これも利用できればそれにこしたことはないわけです。例えばこれは甲賀に太田和泉守が足場を築い
ているということですから、前にした引き当ても合っていそうだというのも出てきます。甲賀は和田で
      「和田和泉・和田伊賀守・同雅楽助」
が和田のメイン表記として既出です。
 ただ、もう少しいいたいことがあるのかも知れません。〈信長公記〉の「多羅尾」に
       「多羅尾」「多羅尾右近」「多羅尾彦一」「多羅尾相模守
があります。テキストでは
   「多羅尾氏は近衛家領の近江甲賀郡信楽荘のおそらくは地頭職を持った氏族であろう。」
となっています。地元の有力者であるのは間違いないことですが「彦一」は「彦市」「光太」に宛てられ
「右近」は、甫庵では「常陸介」とされていますが、こういうことで太田和泉守が姻戚関係による足掛かりを
築いていたとみてよいと思います。甫庵は佐々木義弼と後藤父子の確執を描いています。
「羅」という字は「四」と「維」なので他のところで「羅」が出たらそれを使う人もあるかもしれません。
〈信長公記〉に
   信  楽(シタラ)口
   志多羅郷(設楽)
があるのも地名索引があるのでわかりますが、多楽尾もあるのか、まではよくわかりあせん。こうなると
焼き物の匂いもしてくる、「志」という字はすぐ前に「志立」という地名があり、これは〈信長公記〉
  『和泉の内●香庄・・・香庄・・・佐野の郷(脚注=泉佐野市)に・・・・志立(泉南郡泉南町)へ・・・・』
「和泉」の地名が利用された中にありますので志多楽にも和泉が寄せて来ていそうですが●は脚注
では「岸和田市神於町あたり」とされています。「和田」と「神尾」がでてきたといえます。
 ここで「相模守」をどう使うのかという大きな問題が残ります。「相模守」は両書に他に該当する表記
がなく特別な目的があって出てきたようです。相模ー三浦という関連で考えざるを得ず、三浦を見ますと
と両書に三浦は三つあり
    イ 「三浦右近」  ロ 三浦左馬助 ハ (同)雅楽助
です。要はこれはAがBに引き当てられるようなヒントを与えたものといえるのではないかと思います。
イは、高山右近、ロは、嶋左近A、ハは三成、といったようなことになります。
Cの場合でいえば、
イは、和田和泉(坂井右近)、ロは、和田(明智)伊賀守、ハは(同)和田某
となり参考になることも出てくるといえます。結局〈甫庵信長記〉と通しで見ると「多羅尾右近」が二人、   
              「多羅尾右近」「多羅尾左近」
 と対の左近を入れて、
           A「多羅尾右近・池田丹後守・野間佐吉」は
                ‖       ‖     ‖
            「嶋左近@・  嶋左近A ・石田三成」
             高山右近
ということになりそうです。とにかく関ケ原前線の四人が出てきました。「相模守」は「(嶋)左近」=「(三
浦)左馬助」というヒントを出してくれたということですが、こういうのは太田牛一が後世の人にこれを使って
甲賀のことを述べて欲しいという手ががりを残したといえるものです。これを利用したケースがあると思いま
す。「相模守」は「土屋相模守政直」という人物を思い出します。「政直」にはスタンドプレーがあり、忠臣
蔵赤穂浪士討ち入りのとき、隣りの屋敷から明かりを高々と上げ、浪士を元気つけたなどのこと
があります。相模守=土屋で「土屋」を見ますと「土屋備前守」〈信長公記〉が出てきます。これは
     ○「備前守」は、「塙直政」の「(原田)備前守→太田和泉である。
     ○「土屋備前守・和気善兵衛・馬場美濃守」の連記から和気善(全)兵衛から高山右近に及ぶ。 
     ○「土屋」から「土」が出て「屋」から「奥」「谷」が出て高山右近に及ぶ。
というように甲賀多羅尾から太田和泉、和田和泉や、高山右近を呼び出すヒントを与えたということになりま
す。「備前守」だけで「和気善兵衛」を呼び出すのでは根拠が薄いといわれるそうなので、後世の人が
相模守を使って「備前守」を補強したといえます。こういうこういうものに例えば
    「星名」〈甫庵信長記〉
があります。これ自体は飯田の城に「伴西・星名」が立て籠もったという他愛ないものですが、「飯田」も
「伴西」も重要です。「塙」「斎」などにもなります。「星」のつく「名」が重要だ、と後世の人受け取った
と思います。「野」「野左衛門」という人物がいますが、これは「池田勝三郎与力」です。後年荒木
又右衛門が伊賀上野で三十六人斬りをしたという話がありますが、そこで赤星太郎兵衛を討ち取って
いる(今となっては確認ができない)と思います。又右衛門が星を討ったわけで、赤星太郎兵衛は、
加藤24将の一人で有名ですから、記憶に残るものです。赤は明に通じます。元禄のあのときに、赤穂
浪士の応援に駆けつけるのが俵星玄蕃です。玄蕃といえば柴田の猛将、佐久間玄蕃(盛政)、湯浅
五助を討った藤堂玄蕃を思い出します。佐久間、藤堂、=「俵」に行き着きます。「たわら」を入力すると、
「田原」がでます。俵=田原ですがテキストでは地名索引に載っていません。「宇治田原」「東田原」
「西田原」ですからそれぞれが、その頭文字で索引に載っているので「俵」との関連がやや掴みにくく
なっています。「宇治」は「今は目にも見よ宇治河の先陣梶川弥三郎」の宇治であり、「東田原」は
「高畠四郎兄弟二人」、「西田原」は「吉原次郎」が出てきますが、これは「伊賀」です。
 「星名」は人名索引から「保科」がすぐ出てきます。「保科弾正」という人物ですがこれはテキスト脚注
では「保科正直  保科氏は信濃の大族。・・・正直はのちに徳川氏に仕えた。」となっています。
保科正□ともなれば、保科正之が想起されますがこれは別として「弾正」というのは「松永弾正」の
「弾正」です。松永弾正は太田和泉守と極めて近い親類で、太田和泉守が松永弾正に乗っかっている
場合が多いわけです。一方「弾正」といえば先代萩の「仁木弾正」が有名です。〈甫庵信長記〉に
            「仁木伊賀守」
 があり、これは一匹狼の表記でよくわからないわけです。ただ「伊賀守」というのは二書では
   「安藤伊賀守」「安東伊賀守」「伊賀伊賀守」「和田伊賀守」「柴田伊賀守」
だけではないかと思いますが、太田和泉守と直接繋がっています。「柴田伊賀守」というのは「(甥)
三左衛門」付きの柴田ですから太田和泉守とみてよいようです。二書以外では「高山伊賀守」とか
「藤堂伊賀守」があり「仁木」は「二木」で林であり、安部二右衛門の「二」、仁は「増田(益田)仁右衛門」
「藤堂仁右衛門「狄仁傑」の「仁」です。〈甫庵信長記〉の一般読者が悪役原田の「仁木弾正」の名前を
聞くと「仁木伊賀守」のことかと疑い、たとえば、和田伊賀守を惟任日向守と解するようになるかもしれ
ない、というような期待を込めた解説の意味の側面もある出し物が「先代萩」ですが、そういう語りができ
る材料が〈信長公記〉に上手く仕込まれているというのも見逃せないところであろうと思われます。

(45)嶋左近
 石田三成が嶋左近に禄の半分を与えた話は、「可児(かに)才蔵吉長」にもあり、

     『福嶋・・・才蔵が下人に久右衛門といふ剛の者あり。才蔵其の禄の半分を与え、竹の内
     久右衛門という。・・・才蔵・・・廣嶋・・』〈常山奇談〉

 この「久右衛門」は〈信長公記〉にある「那須久右衛門」にリンクしそこに先ほどの「嶋左近」が出ている
るのは合っていることになります。このあと「石田三成が事」の一節があり石田三成が4万石のうち
2万石を嶋左近に与えた話が載っています。

   『秀吉・・・・深く感ぜられ、嶋を呼び出して手づから羽織(はおり)を与えて、是より三成と能く
   心を合わせよ、といはれけり。』〈常山奇談〉

 この羽織が「明智左馬助」の羽織です。

   『明智秀俊湖水を渡して坂本城に入る事
    ・・・・秀俊は白錬に雲龍を狩野永徳にかかせたる羽織を着、二の谷という冑を着、・・馬・・
    安土より光秀が奪いとり来たれる・・・・名物の器を唐織の肩衣に包み天守より投げおろし
    ・・・・火をかけて自害せり。二の谷の冑に羽織と黄金百両添えて,坂本の西教寺に送りけ
    り。後に山中山城守長俊が孫作右衛門友俊、冑をのぞみ乞ひて得たりしが程経て紀伊の士
    宇佐美造酒助孝定が許に伝わりぬ。羽織は行方をしらず。・・馬は・秀吉・・・』〈常山奇談〉

 この羽織が明智左馬助と嶋左近をつなぐものです。おかしい、という場合は常山ワールドにおける
羽織をまず調べてからでしょう。二の谷というのは一の谷が高山右近というのを前提としています。
山中長俊は〈甫庵太閤記〉小田原攻めの山中で出てきますが秀吉の右筆です。太田和泉とみていま
したが、二人がこれにからむのはここでわかりました。宇佐美孝定は先ほど出ました「宇佐美定行」を
受けています。三人の関係は

  山中山城守貞俊・・・・・・・・□□□□・・・・・・・作右衛門友俊
  (明智秀俊)           ‖
                  宇佐美造酒助孝定
のような感じで表面に出ない人の子と取れます。
 紀伊がなぜ出てきたか、ということですが、「佐藤紀伊守・子息右衛門」の紀伊、「和田紀伊守」の
紀伊、紀伊国奥郡、御三家紀伊頼宜などが考えられますが姻戚関係があることによって紀州家に
仕官した人もかなりいたのではないかと思われます。
「宇佐美は「宇佐山」プラス「賀州能美(ノミノ)」のような感じですが、とにかく「宇佐山」は「森三左衛
門」と「山中」と「坂本」です。「志賀の城宇佐山」は「大津市山中町」であり

  『森三左衛門・肥田玄蕃先懸けにて山中谷合にてかかり合い・・・』〈信長公記〉

があり、森三左衛門は造酒丞とも関わりがあります。孝定の名前は、〈三河後風土記〉では岩室長門
守の名前が「定孝」なので常山はそれを想起していると思われます。作右衛門も村井ですから全体
太田和泉守を出して、山中山城守貞俊は、明智左馬助と二人というのを語っているようです。福富平
左衛門でも重なっていそうな感じです。
 明智左馬助はここでも秀俊となっていて死亡の表記が全部マチマチでその間隙をうまく突いて生き
抜いてこれたようです。

    『嶋を呼び出して手づから羽織を与えて、より三成に能く心を合わせよ、といはれけり(ここ
    まで再掲)。三成佐和山を賜りたる時、★嶋に禄増し与ふべきよしいひけれども、禄更に不足
    にも候はず。他の人々に賜り候えと辞退しけり。■左近が父もと室町(むろまち)将軍家に仕え、
    江州高宮の傍にかひなきさまにて隠れ居たりしを、三成招き出しけり。』〈常山奇談〉

 「是より」というのが気になるところです。例えば今までは秀吉に心を合わせた、是からは三成に
合わせよ、といったともとれます。★も主語がはっきりしません。「★嶋に」という語句の切り方によって
よって違ってきます。嶋に「禄増し与ふべき」よしいひ、となると三成が左近に言ったということになり
ますが、そのまま読むと秀吉または第三者ともよめます。要は秀吉が三成・左近のことを気にしていた
というのは窺えるところです。その延長上にある■以降の文が、煮ても焼いても食えないものがあります。
 ○額面どおり読めば、三成は左近の父を知っていて、左近とは別に招いたということのようですから
その評判も聞いて知っていたといえます。まあ親族か、父の代からの因縁があったいうのは見て取れ
ることです。筒井での働きの能力が買われたというのは筒井がローカルで地味すぎるので無理な
ような感じがします。
 ○「左近の父」というのは、子が「左近」ということですから、親の方の左近が、室町将軍に仕え、高宮
に隠居していたのを三成が招いたというのもありえます。
 ○いま見てきたところでは嶋左近Aが光秀子息ですから、又嶋左近@はその連れ合いですから
二人の父は明智光秀になります。三成が光秀を招いたということですから、大接近が生じた、ということ
になり。ただ三成の父は「近江国石田村の百姓佐五右衛門」というのは初めに書いていますから、すぐ
どういうこともないのですが、「高宮の傍(かたはら)」と「石田村」の関係が何もない場合は同じということ
になりかねませんから調べなければならないことでもあります。
 ○まだありますが一番穿った、しかも合理的な読みもできそうです。文の入れ替えというのは古典から
許されていることですが「左近」と「三成」を入れ替えると別の情景が出てきます。

    『■三成が父もと室町(むろまち)将軍家に仕え、江州高宮の傍にかひなきさまにて隠れ居たり
     しを、左近招き出しけり。』〈常山奇談〉

 元の文では、「三成招き出しけり。」というのはダブっており、嶋左近を招いたという繰り返しはいらな
いものです。
三成はすばらしい決断をした、今度は嶋左近がどうしたか、という方に切り替わるのがいいわけです。
嶋左近がまたすばらしい判断をした、石田三成がのし上がっていく理由もわかってくるということに
なります。結局「石田」の「佐五右衛門」が誰かということになります。残念ながら今の段階では■を
太田和泉とするしかないわけです。室町将軍云々というのも和田伊賀守を共有していますからありえな
いことでもないでしょう。惟任日向守もこの二人です。
 明智光秀の最後は、もちろん二書にはなく、あと〈明智軍記〉を除いて人名索引すらない膨大な
文献の中にあります。拾い読みでお茶を濁している程度のことです。半面有名な生存伝説がありま
す。
 石田三成が一方の旗頭になれたのは本人の資質もありますが、こういう補佐もあったからというのは
いえそうです。

(46)佐吉表記
伊丹布陣表再掲

        〈信長公記〉                 〈甫庵信長記
 一、高槻の城御番手御人数、                 高槻の城に、
                大津伝十郎・                  大津伝十郎
                牧村長兵衛・                  牧村長兵衛
               ●生駒市左衛門・               ●生駒市左衛門
               ●生駒三吉・                  ●同三吉、
               ●湯浅甚介・                  ●湯浅甚介
                猪子次左衛門
                村井作右衛門
               ★武田左吉。                    ■武田左吉。

 ●三人の引き宛てが残っていますが、★、■が同じ表記ですが★には上に解説の人名を入れたと
みえます。
 〈信長公記〉の伊丹布陣表@から布陣表Aを引いて残ったのが左のものです、したがってこれは、
実態ではなく操作上のものであることを示しています。★はその上の二人の怪しい人物と合して、■
の人物に括ったと思われますので、 そうとすれば、まあ簡単にいえば、一字違いのあぶり出し、例えば
  「岩成主税」=「岩成主税」、「岡」=岡」、「猪子」=「猪(送りガナ)子」
と似たようなことで同一視できる、ということもいえます。つまり
                        武左吉
                          ‖
                        武左吉
と捉えてよく「野間佐吉」のところですでに「武井左吉」と変えて話しています。つまりこの高槻、高山
ゾーンにも「武井」が睨みを利かしているというのが■の役割です。重要ではあるが実体のない表記の
代表が「武田佐吉」「野間佐吉」ではないかと思われます。

「武田左吉」は〈甫庵信長記〉は「吉」だけですが〈信長公記〉には「左吉」のほかに、人篇の
           「武田吉」
 いう表記もあります。これだけでより石田三成色がでてきたといえますが、「野間佐吉」ともつなげやすく
なりました。
つまり〈信長公記〉〈甫庵信長記〉ともそうですが、「石田」というものを出していることは石田三成と
いうものが念頭にあったということを前稿で縷々述べましたが、また別に「佐吉」「左吉」を出した
ことは「さきち」の「石田」というものも出したことになり、いずれにしても
        石田三成
も念頭にあって両書は書かれたということを表しています。

この武田の左吉はやや取ってつけたようものとして目だっているといえます。
 「武田左吉」は〈信長公記〉では三回出てきて、〈甫庵信長記〉でも二回出てきます。

〈信長公記〉
   @『高槻の城・・・猪子次左衛門・村井作右衛門・武田左吉
   A『山城の代官武田佐吉・林高兵衛・長坂助一召寄せられ、』
   B『やはた八幡宮御造営御奉行として、武田佐吉・林兵衛・長坂助一両三人・・・』

まあこれは三人衆と言う感じですが臨場というものではないようです。長坂助一は太田和泉守の
ようなので、語りたいことがあるため、三人が変名で出てきたともいえます。問題は「武田佐吉」と
「林(甲)兵衛」に「石田佐吉」と「高山右近」が著者によって意識されているかということですが
「山城」ー細川ー左吉、「八幡」−高山など、あとで繋がりが出てくるのでこれはありえます。
〈甫庵信長記〉
   C『高槻の城に、大津伝十郎、牧村長兵衛、生駒市左衛門、同三吉、湯浅甚助、武田左吉
   D『武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けられたり。』

Cは高槻全体に睨みを利かすもので武井佐吉といったものですが実体のないもので、DはBと同様
ですがBの「両三人」というのは何回もでましたが、やはり無理に三人を出す用法といえます。
 これで全部ですが、テキスト人名注では 「武田左吉」は
 
  『天正二年正月二十三日左吉は塙九郎左衛門直政の客人として津田宗久の茶会に招かれた
  (〈津田宗久日記〉)。』

 ということです。「野間佐吉」と同じように、茶湯日記でしか語れない人物といえますが、塙直政に
接触しています。つまり「九郎左衛門」というやや諸口的なものは、書物に書かれる表記として使われ
るはずですが、宗久日記にも使われているのは一つの狙いからであり、直政は太田和泉を表していそう
というのが出てきます。ここは「宗及」でなく「宗久」となっているのが要注意と思います。利久が何と
なく出ています。この直政は原田備中(前)ですが表記が「直」「政」という重要なものなのであちこち
使われます。〈信長公記〉でもあります。なお「田」というのは「太田」の「田」ですから重要です。
これとセットの「原」も同じで、表記で追えば
       「原田」=「田原」=「俵」
です。
 「高」のつく人名には「高畠」「高宮」「高安」とか「高屋」「高野」があり、その周辺の人物が重要です
が地名の「高」からも「高山右近」を呼び出すものが出てきます。例えば「高屋と父子」という人名から
は「荒木の竹野屋左近」という重要表記が出てきて右近左近と揃ったということになりますが、こういう
のがあとで高山右近を表すために効いてくることになります。高屋という地名から、

    『高屋に畠山殿・・片野に安見右近・・・茨木・高槻・・・・・』〈信長公記〉

のように「畠山殿」が出てきますが、「片野(交野)」「右近」も出てきます。「片野」は「猪飼野甚介」が
出てきた大津市の「堅田」の「土篇」を想起して、布陣表高槻ゾーンの●の甚助、大津伝十郎と繋ごう
としています。ここの、「安見右近」はテキスト人名注では
     「安見直政」
と考証されていますから「塙直政」から持ってきたのは明らかです。「安見」は「高安」の「安」と「貝」だ
から、これに「右近」がくっ付いたのだから、「安見」という武将に高山右近が乗っかっているといって
いるのでしょう。これは「直政」が仲介したという例です。これは「あみ」という字が「阿見」ともなるし、
「阿身」「阿弥」ともなるので、しかも甫庵が「福阿弥」「輪阿弥」「金阿弥」「林阿弥」など出してきて
います。「林阿弥」などは分解すれば「木阿弥」でしょう。何も進めなければ、もとの木阿弥になって
しまいます。まして「台阿弥」「「松阿弥」「慶阿弥」「竹阿弥」と大勢出ているのですから、戦国で「阿弥」
を見逃したらなにをやっているのかわからいということになりそうで、「直政」「右近」で注意させたのかも
しれません。「福阿弥、」「輪阿弥」の出方は

     『治部三郎左衛門尉、其の弟福阿弥、輪阿弥、武田兵衛佐・・・・・』〈甫庵信長記〉

となっています。はじめの人物は「山田治部左衛門(両書)」に似ており「山田三左衛門(両書)」との
合成のような感じであり、後はもう一人の武田吉ともいうべき人物です。何となく気になるのは「治部」
という表記でこれは石田三成の代名詞のようなものです。したがって、この〈甫庵信長記〉の羅列は
     「直政ー石田ー安見(阿弥)ー右近ー武田左(佐)」
というような羅列となって
     ○「□阿弥」という人は太田和泉ー高山右近のラインの人である
     ○武田佐吉という表記は、「武井」と「石田三成」というものをも包摂した表記である
といえると思います。
 〈信長公記 〉は武井とおぼしき武田を使い「武田」+「佐吉」をだして

   「左は多芸山茂りたる高山(ルビ=たかやま)なり」〈信長公記〉

というような、ややすんなりとは読めない文などを出して、「多芸山」は
   「たげい山」「たけい山」「たけ山」「たぎ山(実際の読み)」「たき(木)山」
などの読みも念頭に
     「・・・美濃多芸郡の住人。丸毛(茂)兵庫頭。」
につなげ
     「多芸山茂りたる高山」は「山(武井山)茂りたる山」

 となるような工夫をして武田と佐吉の間に高山を挟もうとした
   「武田」ー「高山」ー「佐吉」
という叙述の筋がみえているといえます。
予想外に信長公記〉などの文献に高山に占める位置が大きいといえます。森蘭丸や、木村常陸
介や、大谷吉隆などは武の世界にいるかもしれないが、茶道、陶芸などにも造詣が深かったという
ことは環境からしても肯けることでそれを代表して高山をのべる、また高山自身の大きさを述べる、
著者と石田三成とつなぐ適任者として高山をのべる、ということでこうなったと思われます。
 これは一般の人に読まれる〈甫庵信長記〉にも同様の工夫があるので察せられるところです。

〈甫庵信長記〉の「武田佐吉」は 再掲
   C『高槻の城に、大津伝十郎、牧村長兵衛、生駒市左衛門、同三吉、湯浅甚助、武田左吉
   D『武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けられたり。』
の二件しかない、Cが伊丹布陣表の高槻のゾーンにあり、これが周囲の人物との相関でみなければ
ならないメインのところですがこれだけでは何とも手がかりがありません。Dがあるのは、重要人物かも
知れない、この周辺にヒントが隠されているとは取れますが「林兵衛」も漠たる存在です。
      「左吉」
で調べるしかなく、ここに「高木左吉」(甫庵信長記)という表記が用意されています。同書に「高木」は
もう一つ「高木右近大夫」があるから
        高木  左吉
        高木  右近(大夫)                
 というように並べると、これで高木が右近でもあるから、「高山右近」がボンヤリ出てきます。〈武功夜話〉
には「高山右近大夫」という表記があるから、昔の人は「「高木右近太夫」といえば「高山右近大夫」
と読んだと思われます。ここで先ほどの
      「武田左兵衛佐」と「治部・三」
という接近が見られると、「佐吉」は「石田」かもしれないと思うはずです。「高木左吉」「高木右近大夫」
という表記が〈信長公記〉にはなく〈甫庵信長記〉だけにあるというのが重要です。一般の読者にも
   「武田」ー「高山」ー「(石田)佐吉」
 という構図を提示していたといえます。

(47)考証の心
 以上は二つの表記を並べて、そこから出てきた結論というようなものです。後世の人のこの二つの
「高木」に対する考証はどうなっているかというのも知りたいところです。〈辞典〉はどうなっているか、
といいいますと、下に抜書きしたとおり
      親が「高木左吉」でその子が、「高木右近大夫」である
と考証されています。どちらも小法師です。(下の★のところ)が、童名となっているのが苦心したとこ
ろでしょう。似て非なりといっていそうですが、「剃髪号」を書いた「小法師」と、「童名」を書いた「小法
師」ですから何となく親子という感じも出てきそうです。親が幼い感じになるので「左吉」という名前に
しなくてもよいはず、というのがあります。石田佐吉、高山右近とはかけ離れているようです。

    『高木佐吉   小法師。剃髪号斎・・・河合某の子。・・・(信長の早い時期に活躍)浮野の
    戦いで活躍(甫庵)・・・・元亀元年佐々成政に協力(甫庵)・・・本能寺の変後は丹羽長秀に、
    その死後は蒲生氏卿に属した(太閤記・重修譜)。・・・』〈辞典〉

    『★高木右近太夫   童名小法師。助六。・・「由政」・・・左吉の子。・・・信長・・・信雄・・・・
     その後、蒲生氏郷、加藤清正に転仕するという(重修譜)。』〈辞典〉

 ★は〈甫庵信長記〉だけに、一回限り、ちょこっと出てくるだけなのによく引っ掻き回しているといえ
ます。
 @まず二人の相関のことですが、どちらも小法師となっているから小法師@、小法師Aという感じの
ものであり、また二人とも蒲生氏郷に仕えているということからまあ親子重ねてしまっているともいえ
ますが、これは事実としては起こりうることですから、そのことは看過されてしまっているといえます。
事実関係重視が邪魔になることが多々あります。例えば60歳の人に5歳の子があったとしても、男性
本位の社会だからあり得る、一休の場合もそういうことが起こりうる例だ、ということで終わってしまいます
が、当時子供の立場から考えるということしていたら、これはいいとはいえるかという問題になるでしょ
う。子供は早くに父を失ってしまいます。子が父親を慕うのは今も昔も同じでしょう。また二親で子供の
扶養するのは普通ですから、親が一人にいなくなると子供に生活苦が待っています。またもし若い母親
がなくなってしまうとあっという間に一人になってしまいます。社会全体がこういうことはあってはならな
いと見ているとすれば、これは親子の重なりがあると見るとか、連れ子などの特殊例とかと見た方が
合っているかもしれないわけです。とにかく高木左吉は河合某の子だから
       河合某ーーーー高木(佐吉)ーーーー高木(右近太夫)
という関係で、「丹羽(五郎)長秀・蒲生(飛騨守)氏郷・加藤(肥後守)清正」がバックにあるという内
容になっています。両方「小法師」ですから「大法師」が後方で睨みを利かしていそうです。この
二人の親子関係はあとみなければなりませんが、「親子」というのは印象付けられたといえます。
 A高木佐吉に立ち入ってみますと
   「小法師」だから「法師の子」で武井夕庵が出てきます。
   「道斎」は 「道家」と「斎藤」、有楽斎、長閑斎などの斎号はこの時代から増えているような感じ
          で〈吾妻鏡〉では出てないようです。
   「河合」は 〈信長公記〉伊賀陣の河合郷、そこの河合の城主田屋ですが、そこから「高屋」が
          出てきて、荒木の竹野屋左近が出てきます。この河合某が大物で夕庵牛一を指す
          のでしょう。この河合は〈奥の細道〉の曾良の「河合」につながり、〈三河後風土記〉
          に「河合又五郎」が出てくるその「河合」になります。〈川角太閤記〉には「河合又五郎」
          はなかったので前の稿を訂正します。
   「佐々成政」は「佐々孫介」から武井夕庵、鉄砲担当などから太田牛一ですが要は「佐々成政」
           二人です。
   「丹羽長秀」から「丹羽」や「五郎左衛門」の太田牛一
   「蒲生氏郷」「加藤清正」からは「木村」「中川」(清・虎)がでてきます。
   「由政」の「由」は「油」でもあり、「由」は「吉」に通ずるから「大谷吉隆」の「吉」になり、「吉政」とも
          なり、三成に関係が深い「田中吉政」もだそうというのかもしれません。

というようなことを〈重修譜〉の著者が解説をしたと思われます。これは引っ掻き回したといえるのは
明らかで高木左吉は、武田左吉を意識して出されたというのは間違いなさそうです。高木→武木
多芸→武井→武田という、高山色の入った武田という感じのものです。「高木左吉」は〈甫庵信長記〉
で三回登場ですが、次のように太田牛一らしき表記と並んで出てきます。

   『高木左吉、生駒勝介・・・金松牛ノ助、猪子三左衛門、同加助、同才蔵、角田小市郎』
   『生駒八右衛門・・・・戸田武蔵守、平野甚右衛門、高木左吉、野々村主水正・・・・太田和泉守』
   『佐々内蔵助・・・岡田助右衛門尉、其の子助三郎・・・高木左吉、福富平左衛門尉、湯浅甚助』

また「高木左吉」伊丹布陣表高槻ゾーンの「●生駒市左衛門、●同三吉、●湯浅甚介、■武田左吉」
の■と同様に、「生駒」「湯浅」を伴って出てきています。次に
 B「高木右近大夫」ですが、これは〈甫庵信長記〉では、一回だけ出てきて、しかも登場場面は足利
義輝将軍が三好勢に攻められて敗死した場面にその近習として出てきます。永禄八年、御所が襲われ

     『当番の面々、畠山の九郎、一色淡路守、同又三郎・・・・▲彦部雅楽頭、舎弟孫四郎、
     高木右近太夫、▼小森左京亮、河端左近太夫等,一命を捨てて防ぎ戦ふ間・・・』                                                                 〈甫庵信長記〉
とある一回限りの登場です。このとき「御簾屋(みすや)小次郎」や「摂津国の絲丸十六歳」も戦死し
 ています。この人物も多分戦死しているのでしょうが、そんなのはお構いなし、要は〈辞典〉の「高木
右近大夫」という人の説明にはこのあたりことが入っていません。考証は、時代錯誤の典型のような
形になっています。ここで闘った人のことを書いてほしいところではありますが、それはそっちのけで
太田牛一周辺の人物として解説しています。こういうのをどうみるか、ということですが、これが表記を
一人歩きさせて論じられているということになると思います。つまり人物を語るよりも、その表記を解
説しているということになります。結論的にいえば、山鹿素行などの江戸の学者や、重修譜(江戸寛政
期=木村世粛と同時代)の著者は、甫庵が
      「高木右近太夫」
という表記の人物を出してきた意図を見破っていたということができます。表記から「高山右近」を思い
起こしてほしいといっていることを見抜いていたわけです。高山右近だということは直接的にはいわな
いがついでに右近周辺のことをある程度見ぬけるようにしたということだと思われます。一般の人も
    武(田)井(佐吉)ー高山の右近ー(武田、高木の)佐吉
という流れのようなものを理解できたと思います。まあ〈甫庵信長記〉の読み方を寛政の学者が解説
した ということにもなりますが、とにかく「高木」は「高き」だし「高井」は「高い」「武井」になるという
ことですから、高い山右近は武(高)井夕庵に限りなく近づいてくる、ここで先ほどの「親子」という
ものが印象付けられたそういう江戸の学者の考証というのが、光っているということになるのでしょう。
 
 高木右近大夫が、高木佐吉の身内だろうとして書かれたということで理解すればそれでよい、として
内容は深くはとがめない、参考事項だけ吸収すればよいということになるのでしょう。つまり〈辞典〉
のような話も一つの作品ができあがったものといえるようです。しかしこの手の話もまともに取り上げら
れてしまっているものが多いのも事実です。しかもそれが頼りなさの証明にもなってしまう場合もありま
す。今よりよくわかっている昔の人が書いたのに資料評価とかいうことをやって偽書などという分類をし
捨ててしまっている、こういう傲慢なところは、いつ生まれたのかというのが知りたいところですがそう
遠い昔でもなさそうです。
 今、いいたいのは、この二つの「高木」は高木文書という一連の作品を生んだのではないかということ
です。秀吉の手紙などが入っているから本当と取られてしまいやすい、それは本当らしくみせる手法で
あるにかかわらず金科玉条となりやすい、本当らしく見せる手法として手紙形式にしているのが多い
ようです。本当らしく書いた怪文書より、メール一本の写しの方が効き目があるというのと同じです。
 また「高木右近太夫」は高山右近の暗示表記ということができます。高木文書との関連においては
例えばその「彦」の系譜は、上の「▲彦部雅楽助、舎弟孫四郎」の「彦」が出ており、彦部というのが
高木貞久の名前が「彦左衛門」だったから子に彦がついていろので暗示がありそうです。
周辺の人物も▼の「森」やら「瑞」やら「左近大夫」「又三郎」など考えた配置がされていると思います。
 ▲は弟が四郎だから「雅楽助」は「三郎」というのかもしれません。そうなると
    「和田伊賀守、同雅楽助」
という御家人らしき表記が「和田伊賀守(三郎)」といいたかったといえないこともないといえます。
要は足利義輝の記事の中だから、「高山右近」などは出てこないはずだというのはなく
    「摂津国の絲丸十六歳」
なども出てきます。「糸」というのが高山右近の属性になるとすれば、年齢が主要文献で語られている
ということになります。芭蕉は〈奥の細道〉尾花沢でを出していると思いますが、それなら、高山に
に結びつきそうです。芭蕉は太田牛一とつないで見なくても〈甫庵信長記〉を見ているのは確実です
から、この糸丸だけを十六才と知らされるのは一体なんのためだと感じたとは思いますが、「糸」を手繰
れば馬揃えで「たいとう」と出てくる「糸若」〈信長公記〉に行き着いたりしますが、案外「糸」と「絲」とは
使い分けがあるのでしょう。入力するときに手間がかかるものは大抵何かありそうです。

〈辞典〉の「高木左吉」の項目では
   『(〈武家事紀〉に高木佐吉)は「武田左吉」とならべて「両左吉」と称されたとあるが、武田の方
   は奉行衆なのに対し、高木左吉にはそのような実績はなく、この話は疑わしい。』

となっています。これはきわめて妥当な見解ですが、疑わしいという話しを載せたところにたいへん
な意味があります。赤穂浪士の討ち入り山鹿の陣太鼓で名前をだす山鹿素行が無関係らしい両方
を併置させたので話がおかしくなってきた、同時に素行ほどのものが変なことをいうはずがない、つま
り山鹿素行は表記に着目して両者を重視した、「左吉」を通じて高木と武田と結んだといえます。
まあ云えば、文中の「高木左吉」は「武田左吉」と変えて読んでも大差ないということだと思いますが、
「高木」は「高」の字が重要なのと同じように「武田」に大きな意味があると思います。武井夕庵の姓
は斎藤、遠山(明智)だといえますが武井にしたのは創氏か著述目的のためかは別として「武田」
というのが意識されていると思います。武田信玄の「武田」と毛利元就と争った安芸の「武田」があり
ます。そこへも物語が広がる布石が敷かれているともいえます。

要は山鹿素行のように予想外のところから割り込みが入ってくる、このように〈甫庵信長記〉〈高木文書〉
〈兼見卿〉〈フロイス著書〉などの間にはなんとなく書きぶりへの合意があったといえますが、表記のこと
などで多くの人の議論、打ち合わせがあったというとウソのように聞こえます。しかし皆、古典の読み方
をしっているからそれが求心力となっていたと考えるとわかりやすいということです。

(48)湯浅甚助
 布陣表高槻で「湯浅甚助、武田佐吉、」があり、先に「高木左吉、福富平左衛門尉、湯浅甚助」が
ありました。
こんなマイナーの武将はどうでもよいというわけにはいきません。湯浅常山は、本名かペンネームか
知りませんが、これを意識したのかもしれません。
 これをみたときに感ずるのはこの人物がマイナーすぎる、ここにいたのだから載せておこうということ
にされているのではないかということです。しかしここは布陣表@から布陣表Aを引いて残った部分で
大津伝十郎の伝も利いてきて、また武田佐吉の作為性も考えると物語のゾーンにある人名羅列と考え
られます。つまり語りのためのものであり、また名前も猪飼野甚介の「甚」であり、脇坂甚内安治の「甚で」
あり、とりわけ平手政秀の子息とされる
    「平手甚左衛門」の「甚」
で平手郎右衛門、平手清秀、平田和泉、平手三位、平田三位などと繋がりがある「甚」ですから
夕庵和泉に直結しそうな「甚」です。そのような「甚」であり本能寺では「松野平介」「土方次郎兵衛」
「小倉松千代」「中尾源太郎」と同じように個人武勇が書かれている人物です。
これが解決されて人名引き当てされないと生駒の三吉と市左衛門もいつまでも宙に浮いた存在と
なってしまいます。

これがなぜここに出てきたかという問題ですがやはり身内の人ではないかというのが解決の糸口に
なりそうです。一見幼い名前のように感ずるのは佐吉などとの付き合いかもしれずとにかく「甚助」と
なると、既述の猪飼野の「甚助」という大物の親類かもしれない、思えばよいのでしょう。「石田が出て
くる場面ならば、ひょっとして関ケ原のあの人物か、ということになれば
       「湯浅」という有名人
 はあります。。これなら、本能寺のはでなプレイもわかる、松野平介が繋がったように関ケ原と
本能寺が連続し、太田和泉と石田佐吉などにつながってくるというようなことになります。石田で
「ウンザリ」して、ここでまた左吉でウンザリすることもないかもしれません。〈辞典〉によれば、湯浅甚介
には〈湯浅甚介直宗伝〉という文献がチャンとあるそうで「桶狭間の戦いに功」と書かれています。
桶狭間(22歳)から関ケ原まで40年間くらい戦い続けたという、まさに歴戦の将といえそうです。甚介
のことがわかれば桶狭間から、関ケ原まで直結だから、またここで佐吉と甚介を交錯させているのだから、
太田和泉守は信長の記を書きながら、関ケ原の石田左吉を見据えていたという証になるではないか、
といえるでしょう。甚助はマイナーながらそういうキーマンといえる立場に居る人物といえます。
〈辞典〉によれば湯浅甚介は「直宗」といい、猪子、滝川などと働いていて、
    ●「妻が中島主水正の娘」
ということです。主水正は上に高木左吉と出ている名前だから大物といえる人物でしょう。
           「湯浅□介」
 となるのであれば「甚」にかわる重要字があるのかどうかです。丹羽五郎左衛門、平手五郎右衛門、
五右衛門の「五」はそれにふさわしい字といえます。大谷吉隆の最後を語る場合に欠かせない人物に
           「湯浅五介(助)」
が出てきます。大谷吉隆の頸を隠したが藤堂仁右衛門(藤堂玄蕃もある)に見つかり、所在をいわ
ない様に頼んで討たれる、家康は五介あるところに大谷の首ありということで藤堂仁右衛門を問い詰め
たが仁右衛門は最後までに明かさなかった、という話です。この仁右衛門(玄蕃)こそ太田和泉守と
いえそうです。一方「主水正」が大物かどうかは「野々村主水正」がありますので、姓に付属する肩書き
的なものを探してみるしかありません。
〈武功夜話〉だけでも「野々村弥兵衛」「野々村越中(ルビ=三十郎)」「野々村三左衛門」というのが
出ており、「仁清」は「野々村清右衛門」といわれています。
この人物についても語ろうとする意識がありそうなことは汲み取れるところです。
 野々村仁清という伝説上の人物も姿をみせようとしているのかもしれません。この主水正は太田和泉
と、同じ位相にある人物ということになりますので、湯浅甚助直宗@がそれにあたり、子息を通じて大谷
吉隆の外戚というのが、直宗に関していえるではないかと思われますが、いずれにしても●のような
わかりにくい一言が戦国期のなぞを解く鍵になりやすいものです。仁清などというような人物は工房の
ようなものをもっていたのかもしれません。それに屋号をつけていたら、太田和泉の活動領域が広がって
いるはずです。
 
(49)生駒三吉
湯浅伍助(岩佐五介)が出てきたとなると伊丹布陣表の生駒の二人が決まりそうです。大谷吉隆の連れ
合いは誰かと考えたとき何んといっても、関ヶ原戦の戦死の直前、歌を交換し合った相手がいるので、
その人にせざるを得ません。関ケ原敗色濃厚の場面

    名のためにすつる命は惜しからじつひにとまらぬうき世と思えば  平塚因幡守為広
    契りあらば六のちまたにしばしまておくれ先だつ事はありとも    大谷吉隆

 歌は常山のものを使いましたが常山は湯浅五介のことを「岩佐五介」と書いています。

 平塚為広の出自を探らねばなりませんが、一件ネット記事を借用します。一応こうではないかと決めて
いましたが「5b.biglobe/leaper/hiratuka1平塚為広の部屋」で確認できました。
初めの部分だけ引用させていただきますと、

   『平塚為広がいつどこで生まれたのか、明確な史料で確認することはできない。〈寛政重修諸
   家譜〉1347では、家伝によると武蔵国平塚を領した三浦平丞為生を祖とするというのだが、
   同書の性格からしてあまり信用はできない(武蔵国平塚郷は今の熊谷市)。』

とあります。
 これで一応決定です。つまり、平塚=熊谷、というのが欲しかったわけです。ほかに「為広(藤三)」
「平塚三郎兵衛」という表記がこの記事に出ており、ここの「生駒三吉」の「三」に繋がりそうです。
 またここに、〈前田家所蔵文書〉に「谷衛友・田中吉政」と平塚為広が関わるということが書かれてい
ることが紹介されていますがこれも重要かと思います。また秀吉に仕えることとなったのが「福原氏」
との戦での戦功であり、黒田官兵衛の推挙によるものであることなどの話があり、援用したい話が詰
まっています。さらに、大坂の陣辺りの表記にも見るべきものが、挙げられており、例えば
    「平塚左助」(因幡子)、「平塚五郎兵衛某」(木村重成隊右備)、●「平塚熊之助」
があります。この「左助」というのは当然〈信長公記〉の武田左吉を意識しているのはあきらかでしょう。
平塚五郎兵衛も五郎にあわせたものです。●は、これで決定といってもよいくらいの的を得た表記の
創造です。〈三河後風土記〉の谷熊之助に匹敵するものです。
〈黒田家譜〉孝高記に平塚為広のことが詳しいとのことですが、まあこれは太田和泉記といい変えても
よいくらいのものでしょうから、平塚為広に関する限り、十分語られた資料は存在すると見てよいので
しょう。 

 さきほど出ました谷氏のことですが、三木城との戦いで武勇を讃えられた人に「谷大膳」という人物が
います。これは三木ではよく知られた人物のようで、竹中半兵衛、谷大膳の墓があって、半兵衛と並び
称されるほど剛勇伝説のある人です。墓があるのでわかるようにここで戦死した人物です。
 筆者が注目したのは、どこで出てきたのか覚えていないのですが全く突然の出現で誉められている
のでいずれどこかででてくるという予感があった人物だからです。なんとこれが秀吉の九州陣の話で
索引がないから通常は見つけられないものです。坂小板など八人が誉められて、

    『・・・・坂小板・・・金銭を下されけり。谷大膳も下知の致しよう宜しく侍るとて御褒美厚かりし
    也。かくて是よりおくに小と云う城あり。・・小・・・山之事・・山は豊前豊後筑前三州
    バン根して有りし高山なり。衆徒多き寺と云ふ、節所と云、』〈甫庵太閤記〉

 となっています。小熊には後藤基次の城があったと思います。高山も「豊」も出てきて大膳を盛り立てて
いるようで、それらも重要ですが、つまり墓があるのに10年ほど後でも生きています。ここで常山が次のような
変な記事を書いたといえます。

この「谷大膳」は勇戦して討死したとき秀吉もその死を悼んでいます。〈常山奇談〉にも『谷大膳武勇
討死の事』の一節があり

   『播州三木の別所長治・・・谷大膳・・・・大膳・・・・かさの丸{出丸の名なり}・・大膳・・・竹中半兵衛
    大膳・・・大膳・・・蜂須賀彦右衛門・・・大膳・・大膳・・・大膳・・・・大膳・・・大膳・・・大膳・・・大膳
    ・・・由井小兵衛・・・大膳・・・大膳が嫡子出羽守十七歳・・・大膳・・・・秀吉が大膳が討死せし
    由を聞きて、せめて死骸なりとも対面せん、とて陣屋に行、惜しき人を討たせけるよ、とて涙に
    むせばれけり。
        秀吉家譜に載せたるとは大いに異なり。然れども此の一条は、谷の家に伝えたる説なる由
          なれば、家譜は誤りなるべし。


とあります。谷大膳の属性が書かれてあると思われますが「かさの丸」は「笠の丸」か「嵩の丸」でしょう。
関わりある人名のうち「由井小兵衛」は〈信長公記〉「由比」で庵原郡の由比や、藤大夫の由比を意識して
いそうです。ここで嫡子出羽守が出ますがこれも簗田出羽守や、〈信長公記〉の「出羽の羽黒(山)」
(鶴岡市)を受けているものでしょう。
細字の部分はここでも重要で、どうやら谷家では大膳が戦死したといっているが真相は違うようだと
いっているようです。

 要は問題の端緒は〈甫庵太閤記〉に「熊谷大膳亮」という人物が秀次事件のとき、嵯峨二尊院で
切腹したという記事があり、この「熊谷大膳亮」という人物が突然出てきて、一匹狼でどこにも繋がら
ない人物ということからきています。これが同じ〈甫庵信長記〉の九州陣で誉められた「谷大膳」と
表記が似ており何となく同一人物ではないかというものが背景にあって谷を調べ出したということから
きています。
〈信長公記〉人名録ではには「谷衛好」という人物が出ており、これが文中の「谷大膳」とされています。
この谷衛好が先ほどのネット記事の「衛友」と考えられます。
〈信長公記〉〈甫庵信長記〉で「熊谷伝左衛門」という人物が出てきますが、テキスト人名録では、
「大膳亮」とされています。三者まとめると下のとおりです。

         人名               テキスト人名録内容
      @谷衛好         近江甲賀郡谷の郷の人   谷大膳
      A熊谷直之        大膳亮 若狭武田氏の将。のち秀次に仕えた。熊谷伝左衛門 

      B熊谷大膳亮      秀次事件のとき嵯峨二尊院で切腹。身元が不明。

 ABが「大膳亮」でありBが不明だから、AはBの説明の為に設定された人名であると思われます
(伝がそれを示す)。
 @の「谷大膳」はBが三木城に居たことを示すために設けられた表記とみられます。〈甫庵太閤記〉
九州陣でほめられた「谷大膳」という表記の人物と、嵯峨二尊院「熊谷大膳亮」という人物の事績
がわからない、一匹狼の表記の人物というので、両者の表記が似ているということで繋げようとしたと
いえると思います。ここで類書を綜合した人名索引を作ってみます。この際参考になるのは
    〈信長公記〉「小林端周軒」という表記が〈三河後風土記〉では「小林瑞周軒」「(小)林瑞周軒」
 となっていることです。つまり「小」は接頭語のような感じで捉えられています。これで人名索引を
作ると「林」の「は行」には載りませんから、「林」という重要表記と相関が感じとられないことになります。
また両書には「笠原」と「小笠原」という表記がありますが、か行とあ行に分かれて実際引っ付けて理解させ
ようとした(つまりあぶり出しのつもりの)著者の意図を見失ってしまうことになります。

   総合的人名索引
 両書には「熊」という孤立表記があり、索引も「熊」「熊谷」と隣り合わせとなり、これは
     □
     熊
となって出るので大体このいたずらは分かります。熊谷大膳亮がで「(熊)谷大膳亮」という感じで、
         熊□
         □谷大膳亮
         熊谷大膳亮(伝左衛門)
 となり、谷と熊谷が同一人物であるといいたいと思われます。つまり「谷武勇伝」は、三木城に「熊」
「駒」「武隈」つまり夕庵の痕跡があったことを示す材料にもなる挿話といえます。とくに「竹中半兵衛」
との併称は、「竹」と、太田牛一が武井にも行きつものです。
〈辞典〉では先ほど出てきた「谷衛好」が出ており「大膳大夫、大膳亮」「姓は谷野とも書く」となって
います。「谷野」を「谷」に仕立て上げたのかもしれません。〈辞典〉では他に「熊谷治部丞」「熊谷直
之(大膳亮)」「熊谷伝左衛門」がありどういう人物か、おなじなのかどうか争われているそうですが、
もう一人の隠れた人物の語りに使われたのでまあいえば同一人物といえると思います。「治部丞」と
いうのは何となく石田三成と無縁でない人という引っ掛けがあるようですし、大膳というのも「塚本小大
膳」(信長公記)の「塚」に懸けようとする魂胆があるのかもしれません
 〈信長公記〉に「谷大膳」はあり、〈甫庵信長記〉にはなく、一般の人は〈甫庵太閤記〉に「谷大膳」が
あるのでその名前を知ることができるということになっていますが、「熊谷」では
       「熊谷伝左衛門」
だけが両書にあり、「熊谷」の中心は「伝左衛門」であり、これはテキスト人名録では

  「熊谷直之。若狭武田氏の将(若狭守護代記)、井崎城主、大膳亮。のち豊臣秀次に仕えた。」

となっています。ここまでくると、これは秀次事件に連座して切腹した人物、熊谷大膳亮と繋がっている
るのがわかり夕庵牛一関連にもなります。考証において
   「武田(佐吉の武田)」と「大膳亮」と塙団右衛門の「直之
が利用されています。「伝左衛門」というのは「市橋伝左衛門」の表記でもあり、「市橋丸毛」という表記
がありますので、これも夕庵関連といえます。脚注では、若狭武田の人という限定があるではないか、
これはどうなるのか、ということになりますが、これは若狭武田の有力者のうちに熊谷という人がいた、
そういう姓があったということの事実認識を得られればよいということはあると思います。これは後代の
武士階級の人に読んでもらう場合には不可欠のことでしょうから誰もが意識してその積りでやったことは
否定できません。しかしそれだけでは目的的姓名の投入の側面をみおとしてしまうことになります。
これは松の丸などで有名といってもよい若狭の
      武田大膳大夫義統(甫庵信長記)
という表記をそのもの自体で活用し疑問解決につなげていくというを前提としています。木下藤吉郎
秀吉というのはあの実在の人物と思ってしまって表記の一人歩きの面からはつい除外してしまいますが
木下は木下闇に使われ「藤」「吉」「秀」などが目的に沿って使われています。例えばこの義統は
大友義統の場合は大友吉統として使われ大谷吉隆の「吉」を通して夕庵関連としてしまうというようなことが
ことがあります。
 先ず、武田義統の「大膳」を辿つていかなければ話にならないわけです。両書だけ目に付いたところ
だけ触れますと
     ○織田彦五郎家老の家老として
        「坂井大膳(坂井大膳大夫という表記もある)、同甚助(甚介もある)・・」
      があり、伊丹布陣表の湯浅甚助にいきます。また坂井右近は牛一、高山を想起します。
     ○「坂井大膳」から「坂井孫八郎」が出てきて「孫八郎」は熱田の田島肥後守のところへ落ち
      「佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門尉・・・」などに殺されますが、このあたり重要な
      ところで織田孫三郎が大膳と「密約」を結んでいます。三吉の三やら肥後守や孫介となると
      武田佐吉の「武田」に繋がります。
     ○「端山大膳大夫」もありますがこれはまた「端」という字が「瑞」と炙り出されているので、両書
      内だけでも「武田」につながって行きます。
     ○武田からは当然「武田左吉」が出てきてここの「湯浅甚助」につながり、「高木左吉」からも
      「湯浅甚助」が出てくる、ついでに「生駒(勝介)」かも生駒もでています。ネット記事の通り
      番外から「平塚左助」が出てきたら、武田佐吉はもちろん、平塚と湯浅甚助まで繋がって
      しまいます。
           
その他、「義統」という表記からは、大友義統が〈甫庵太閤記〉で出てきます。たしか義統だと思って
訳本を見ましたら「吉統」となっているので、また原文を見ましたら「義統」でした。大谷吉隆のところ
で既述のとおり大谷吉隆の親は大友盛治でしたから、やはり大谷吉隆が、「吉統」の「吉」を持つ
「三吉」のところで顔を出すということにしてあると思います。「生駒市左衛門」も自然に決まってきます。
 幾通りもここまで辿れる道はあるでしょうが、確実に歴史上の人物と目される武田大膳大夫義統と
いう難しい方からやったので長くなりましたが
      「塚本小大膳」
という重要表記があって、これは「平塚の塚と大膳」を含んでいそうだということもあるので秀次事件で
奇禍に遇った「熊谷大膳亮」(甫庵太閤記)の子息が「平塚為広」ではないかと網を張っているとネット
記事が熊谷=平塚としてくれたので一応確定したといえます。まあ一つ難点があって子息というのが
どこにも書いていないではないかといわれるところでしたが、常山が谷大膳嫡子出羽守を年齢まで出して
て触れていましたので、常山も子息を意識していたということでこうなります。塚の「小大膳」というのも
それが出るのかもしれません。平塚の「因幡守」はもともと「因播国とつとり」が属性と言ってよい高山
右近のワールドに入ってもよいものです。

 いま「大膳」を武田大膳大夫義統から入ったのは一つは熊谷大膳亮と「若狭」とは必ずしも結ばねばならない
というものでもないということをいうためですが、もう一つの面もあるのでそういえるということもあります。
熊谷大膳亮が嵯峨二尊院を切腹の場所としたいと和尚に依頼しますが、その少し前「木下大膳亮」と
いう表記の人物が出てきます。結局
       木下大膳亮吉隆(甫庵太閤記)
 という人物が総まとめとして登場しますので、大谷=平塚の関係のことをいっていることは一つある
といえます。
もう一つ熊谷大膳亮は木下という名前でもその一端を知ることができるようになっているのではないかと
思います。芭蕉はこの人のことを読んでいるのではないかと思います。

     須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇(こしたやみ)
     (須マ寺やふかぬ笛きく木下やミ{笈の小文})

 これは「熊谷直実が敦盛を弔う謡曲」から取られており、熊谷=大膳亮=木下という相関から大膳亮
が読み込まれていそうです。「マ」は「林・石」が抜かれた珍妙な字を書いていますし、「ミ」という字も
太田牛一の「キ」を思い出すものです。笛吹がありますから高山→角鷹→熊谷ともなりそうです。熊坂
長範の句を加賀の三木村で詠んだというのもこの熊谷が頭にあったと思います。嵯峨の二尊院を
ネット記事でみましても、慈覚大師法然上人、藤原定家くらいしか出てきませんが芭蕉はむしろ近い人
人熊谷直之を想起して嵯峨の寺をみていたといえるといます。なお平塚為広が最初に福原氏と交錯
するのはあとで福原右馬助と木下大膳亮吉隆とのセットによると思われます。

 結局、熊谷大膳亮は三木城の別所山城守のことであり、夕庵の子息といってもよい人です。
三木城落城のとき
     『一、別所小三郎   首一ツ  廿三歳
      一、別所彦之進   首一ツ  廿一歳
      一、別所山城守   首一ツ  五拾二歳
      一、女房        躯三個  ●{何人の女房なるや定かならず}
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・』〈武功夜話〉

 というのがありますが、●のような文言があることは、〈信長公記〉の視点と違った視点から〈武功夜話〉
が見た結果が表われています。つまり三人とその女房というのではなく、三人だというわけですから、
見方が違うといえます。要は今までの解釈の土台が変わるわけですから、結果が変わってきます。
ここの別所山城守が熊谷大膳亮といえます。

 熊谷大膳亮(伝左衛門)は実名「熊谷直之」とされていますが「熊谷」という姓はあったというのは
争えない事実としても「直之」でなくてもよいわけです。つまりこれは塙団右衛門直之の名前と同じ
でこれを常山が利用して別のことを話しています。常山は
      番大膳
という人物を出してきます。〈常山奇談〉(岩波文庫版)の人名索引はまあいえば洩れだらけですが
この番大膳のものだけ三回登場が全部漏れなくあります。そこから
「武蔵守」「武蔵坊弁慶」「木下肥後守」「東照宮」「「源君」「本多三弥」「本多佐渡守正信」などが
出てきます。二回に出てくる本多佐渡守正信がやはり熊谷大膳の死に関連があるといえそうです。
熊谷伝左衛門は二ヶ所出てきて、二字の人物と関わりがあり別のこともいいたいのかもしれませんので
一応熊谷のラストにあたって当たっておきます。

(50)熊谷伝左衛門
  一回目、天正三年
    『播州の別所(べつしよ)小三郎・別所右左衛門・三好笑岩・武田孫犬・逸見(へんみ)駿河・
    粟屋越中(あはやえつちゆう)・熊谷(くまがへ)伝左衛門・山県(やまがた)下野守・内藤筑前・
    白井・松宮・畑田在洛。塩河伯耆是は御馬拝領。』〈信長公記〉

 最後の「塩河」が「汐」「大塩」などの関連からも、武井夕庵が塩川氏に乗っていると思われ、これが
全体を受けた形となっていて夕庵和泉関係の人物がここにあるといってもよさそです。熊谷のルビは
すこしおかしい、「替える」の意味が含まれていそうですが、それはともかく、別所と併記とされています。
「逸見」は普通では「はやみ」と読んでしまいそうです。ここの「粟屋越中」と熊谷の接近も重要だと思い
ます。この人物はテキストでは福井県佐柿の国吉城の城主で「粟屋勝久」という名の人とされています。
「勝久」という名前はまあ目的的なのかもしれません。

  二回目、同年、下間和泉、石田の西光寺、三宅権之丞、阿波賀三郎兄弟、大塩、若林長門守、
            山内源右衛門、専修寺、向井駿河などが出てきた場面
再掲
   『 ▼海上を働く人数
    粟屋越中守・逸見(へんみ)駿河・粟屋弥四郎・内藤筑前・熊谷伝左衛門・山県下野守・
    白井・松宮・寺井・香川・畑田
     ▲丹後より働きの衆
    一色殿・矢野・大嶋・桜井、
    数百艘相催し、旗首打立々々、浦々、湊々へ上がり、・ 』〈信長公記〉
  
 はじめの粟屋の三人は、〈甫庵信長記〉に粟屋弥四郎がないので、実際は二人で、一人は〈信長
公記〉の追記です。その心は三人にした、四郎の意味を考えてもらう、弥で明智系を表す、とかあとで出て
くる「駿河」に目を向けさせる、というのもありますが、三人目が「粟屋」姓なので、「逸見」が親戚
他家へ出てその家の姓が逸見であったとか、弥四郎の義理の親が、逸見という人かもしれないなど
取れるものです。逸見は「へんみ」とは読めないのに〈信長公記〉はそう読ませています。「はやみ」なら
「早見」「速水」となり、大坂城で有名な速水甲斐守の速水が隠されているのかもしれません。
ここでは一回目の「塩河」がなく、最後の桜井はテキストでは「丹後野郡野神社」の人と考証
され、甫庵は「桜井豊前守」であるとしており(別所友治が豊前守)、初めの「越中守」と、そのあとの
表記には共通のものがあって纏められたものといえそうです。

 ここで叙述に筋から外れたところがあるのはすぐ気づくところです。▼は海上から、すなわち策動
地を書いているのに▲は出身地を紹介しています。だから明智細川に絡んだ話だということは感じ
ますが▼についても出身地が知りたいよ、ということになります。したがってこの「海」は特別の意味
を持った「海」を出したといえます。つまり「天海」「北海」の「海」といえます。ここの人物は、夕庵の関
係を強く持たせて読むということでよいはずです。海上と丹後のことは勝手読みだという反論もでるか
と思いますが、〈甫庵信長記〉では、▼は
       『若狭よりは、粟屋越中守、逸見駿河守・・・・』〈甫庵信長記〉

 と書いてありますので、「▼海上を働く人数」というのは、おかしいわけです。桜井のあとは
       『数百艘相催し、旗首打立々々、浦々、湊々へ上がり、・・・』
という海上の話ですから、次ぎの●を入れて一行離せば▼はいれなくてもよかったわけです。したがって
ここは
      ▼海上を働く人数 ●若狭より働きの衆
                  ▲丹後より働きの衆
という叙述体系にしなければならない、ということになりますが、そうしなかったのは、「海」の展開
を考えたといえます。またおやッと思わせて注目を呼び起こす手法でもあり、必要なら文言を追加して
抜けたところに、埋め合わせて読むという手法も解説しているといえます。さらにここの二字は〈甫庵
信長記〉をみれば全部埋まるので、両書連携している、嵌め込んで読むというようになっているといって
いると思います。ここの「寺井」は「源左衛門尉」ですが、「山内」の「源右衛門」とまあ同じ部類に入り
そうだということもわかります。「寺井」から「寺沢弥九郎」が出て「寺町左近」ときますと、「香川」は
右近ですから、それなりに配列の意味がわかってくることになります。それだけここも注意しながら
書かれたものだということが感じられるところです。二字が多いから手を抜いてあるというものでは
ないようです。次ぎに「内藤筑前」ですが「内藤」は〈信長公記〉で
     「内藤三左衛門・内藤備前守・内藤備中」
というのがあります。いずれも下の方の名前が太田和泉がらみ(従って夕庵がらみ)の名前になって
います。内藤筑前もそういう感じでテキスト人名録では「内藤重政(若狭守護代記)」となっています。
「筑前」は「重政」といいかえればいいと(若狭守護代記)がいったという感じです。この若狭という
のは実態という面では関係がありますが、表記で語るという面では「筑前」とか「備前」「三左衛門」が
利いてくることになります。それにしては「重政」というものを入れているこの資料は、誰かが〈信長公記〉
を読んで疑問を感ずるだろうことを見越して、書いていたといえます。夕庵に近い内藤は「内藤如庵」
がいます。これは小西如庵のことで小西如庵は、小西摂津守行長の家老として文禄の役を収束させ
たたいへんな事績があり、高山右近の相棒(多分右近の連れ合い)という人物です。これが「飛騨守」
ですから高山飛騨守@の子ともいう関係になります。
 熊谷伝左衛門のうしろにある「山県下野守」はやや漠然たる存在です。もちろん若狭から出てきた
のでテキストにあるとおり若狭武田氏の将というのでよいわけですが、他の役割があるということでみると
読みが深まってくるということがあります。まず下野守は先ほどの内藤の場合の備前備中などと同じ
で夕庵を指すと見て良いと思います。つまり白江備後守が切腹した記事のあとに熊谷の和尚との
やり取りの記事があり、これは「高山和尚」からきている夕庵としてもよいものです。
  ここの〈信長公記〉    熊谷伝左衛門ーー山県下野守ーー白井
  〈甫庵太閤記〉      白江備後守ーーー和尚ーーーーー★熊谷大膳亮
という同じような場面の再現という感じのものになります。これはまた重要なことにいきつきます。という
より筆者にとってある手がかりが得られたといったほうがよいのかもしれません。すなわち〈甫庵太閤記〉
では★熊谷大膳亮のあとに完全な一匹狼の人物
     「粟野木工助」
が登場し、〈信長公記〉の記事との比較など無意味となりそうで和尚の話を消しかけましたが、はみ出し
同志が引っ付くことになりました。★の記事のあと

    『粟野木工助は、粟田口吉水之辺(ほとり)、鳥の小路所にて、秀次公いささかも御謀叛にては
    なかりし由を申し立て、腹十文字にかき切て終わりぬ。』

があります。これは先に粟屋弥四郎が追加されていたので結びつくわけです。つまり小粟屋(弥四郎)
プラマイ1でゼロ、一瞬の光芒を放って消えたわけです。これは高山右近でしょう。
   ○小粟屋は「越中守A」であり「神保越中守」と重なる。
   ○吉水は「大谷吉隆」の「吉」と「水」であり、「水」は「永」「長」に重なる。
   ○鳥は属性、「とつとり」「因播」からくる。
   ○十字は属性であろう。
   ○「粟」を分解すると「西」+「米」、西は夕庵を示す。米は八幡の「八」、生駒の八右衛門の
     「八」、白江備後守の「はちす」もある。
   ○木工助は「石田木工頭」の木工で、石田木工頭、平塚因幡守、太田和泉は醍醐之花見で
    隣り合わせで出てくる。
   ○粟は栗に似て、栗田彦兵衛も出てくる。これは「鶴寿」という人物に突き当たり「青木鶴」が
    出てくる。
 などがあります。もちろん今の段階で高山右近と決め付ける必要がないわけで、これはどこにも
引っ付かない浮遊表記として好奇心の強い当時の人々悩ませたとみていればよいのでしょう。

「山県下野守」の効果はまだあると思います。人名索引で山県下野守のあとは「山県三郎兵衛」
です。これは武田の大将で馬場美濃守信春と並び称される「山県昌景」ですが表記は「三郎兵衛」
となっており、これは、熊谷伝左衛門Aである「(平塚)三郎兵衛」をみているものです。また
「尼子下野守」という表記も関わってくるわけです。〈甫庵信長記〉人名索引ではこれは
    「尼子伊予守経久」「(的孫)右衛門尉晴久」
が出てきたあとに載っています。「伊予守、右衛門尉」という表記は太田和泉守が自分の著述に利用
しますよという意思表示と取ればよいのではないかと思います。石田伊予守、稲葉伊予守や、佐久間
右衛門尉がありました。また尼子を持ってきたのは領主の「久」「久」というこの並びを生かそうとしたと
考えられます。「九」「宮」「休」「及」などはよく著者周辺との関連を表わすために使われます。もう一つ
経久と晴久との間が一代飛んでいるので経久のいまでいう長男の子が晴久となるのかもしれない、
そういう例をもってきたともいえます。これはその積りで調べればよいことですが一見しての話です。
 一部既述ですが、この「尼子下野守」の周辺の記事が「高山」と「熊谷」につながりそうです。
〈甫庵信長記〉に陶隆房、毛利元就(後年、二人の間には厳島の戦いがあった)の語りがありますが
中国路の情勢を語っていると取られて終わっています。それにしては内容がないので他のことをいって
るととった方がよいようです。つまり、ここの表記を追っかけて下さいというのが主眼の一節となっています。
陶器の「陶」が眼目で、高山右近周辺の語りとなっています。
 人名では
  「陶五郎」「五郎隆房」「●三沢三郎左衛門尉為幸」「深野平左衛門」「三沢高橋」「井原の樋爪」
  「宮川」「杉次郎左衛門」「井上七郎次郎」「湯原弥次郎」「渡辺太郎左衛門尉」「(同)十郎三郎」
 地名では
  「青山三塚山」「風越山」「坂豊島」「青山」「山田山中」「天神山」「宮崎長尾」

 などあります。「陶」は陶器の陶ですから、その五郎 ということで、太田和泉守、高山右近という
ものが出ています。●は「三」「三郎」と「為」があるのは平塚為広をいうのではないかとも取れます。
「三沢」は「三竹」で「三高」、高山というのにもなりますがやはり平塚の「為」がわからないとがいうので
は平塚因幡守の出自は判らないと思います。「為」は少なくて、あれば目立ちます。まず、「下野守」
には「三好下野守入道釣閑斎」、「山城守」には「三好山城守入道笑岸(巖)」がおり、どちらにも
太田牛一が乗っかっていそうですが、「三好笑岸」は秀次の養父とされる人物です。この近親者で
「三好為三(正勝)」という人物がおり、これは真田十勇士の「三好伊三入道」にも擬せられる人物で
すが、この人の「為」が平塚為広の一字に入ったと推測されます。つまり、三好正勝が熊谷大膳亮
の連れ合いでとなるのではないかと思われます。〈辞典〉では「三沢秀次」という人物が、明智光秀の
重臣の「三沢昌兵衛」「溝尾少兵衛」であろうとされています。これは「三沢+秀次」でここの●三沢を
秀次とむすび、熊谷ー平塚を想起させようとした人名ではないかと思います。「三沢昌兵衛」「溝尾庄
兵衛」などは太田和泉が乗っているという感じです。

 地名は、高山とセットなっている「山中」がここでも「山田山中」として出ていますが、「風越山」の
「越」が粟屋越中守の越を意識して入れられたのではないかと思います。高山を見る場合にこれが
一つの鍵となる点でもあります。結論で云えば粟屋越中守や神保越中守から高山右近は越中守で
すがもう一人有名な越中守がいます。越中守二人
        細川越中守
        高山越中守
です。高山右近は長谷川らしいということをいってきましたが、長谷川がおかしいことはいままでも折に
述べてきました。越中守二人、長谷川が二人ということになります。長谷川のもう一人は細川忠興では
ないかというのがここから思い当たることです。
 
〈当代記〉に荒木摂津守を陥れる長谷川が出てきました。また、最後に本能寺のあと「長谷川竹」が
徳川家康公の供をして脱出します。徳川に忠誠心を持っている「長谷川竹」が浮かび上がってきます。

   『徳川家康公・穴山梅雪・長谷川竹、・・・・穴山梅雪生害なり。・・・徳川殿・長谷川竹、桑名より
   舟にめされ熱田の湊へ船着なり。』

 二回登場で幼名を使っているというところから、また〈甫庵信長記〉に長谷川竹はでてこないので、
この長谷川に関しては〈信長公記〉の挿入のような感じがします。ただ家康公と長谷川竹、徳川殿と
長谷川竹があり、一人か二人かわからないというような感じはここにでています。
 高山右近は「長谷の城」とか長谷川等伯というようなヒントがあり「等伯」は長谷川なので、長谷川を
名乗っていたと思われますが、まあ強いていえば 長谷川丹後守と長谷川丹波守のふたつがあるので
         長谷川丹守   細川忠興(忠沖)
         長谷川丹守   高山右近
という 切り口もありえるかもしれません。〈甫庵信長記〉に「長谷川藤五郎」という引き当ての難しい
表記の人物がでます。これが細川忠興をもう一人として考慮はしなければなりませんが、大部分は
高山右近その人であろうと思われます。ネット記事に芋掘り藤五郎伝説がでていましたがこれは高山
右近のことを語っています。こうみてくると
     木村源五 → 狩野永徳   阿閉孫五郎→藤堂高虎  長谷川藤五郎→細川忠興   
            → 高山右近           →高山右近          →高山右近
ということになって多彩な語りの中心にいるのが、しかも「五」をバックにしているのが高山右近といえ
ます。
 芭蕉の高弟に榎本基角という人物がいます。赤穂浪士の大高源五の師匠は宝井基角という人です
がこれが榎本基角だそうです。討ち入りの前日だったか、この二人が両国橋で会い歌のやり取りがあり
ました。基角「年の瀬や水の流れと人の身は」、大高源吾「あした待たるるその宝船」というものですが、
この話は高山右近が「源五」であることをいいたいために後世の人が作ったものでしょう。大高源五を
あの赤穂浪士の人物と考えるとわかりにくくなります。大高は「高」とか「大高城」の大高と見ればよく
そうなるとズバリ高山=源五となってしまいます。役者は大高源吾と芭蕉門下の有名人でなければ
ならなかった、芭蕉が高山をよく語っているのを知っている人が、その弟基角をも投入して語った
と云えそうです。「船」も高山右近には明石の「船上城」がありますがこの「船上」は今も土地の人は
「ふなげ」といっています。「ふとう」の「下」「毛」でしょうか。「峠」を出したくて、「上」を字で、「下」
を読みで、同時に表出したといえるのかもしれません。〈甫庵信長記〉の「笛吹(うすひ)峠」は影響力
の大きい表記です。

(51)山中の話
 〈奥の細道〉の山中のくだりは高山右近が織り込まれているといいたいので、今まで山中が〈信長公記〉
によくでているということを努めて取り上げてきました。小牧山(小真木山、駒来山)が出てくるところが
代表的なものです。再掲

『山中高山二の宮山・・此山・・・かしこの合・・・・此山中・・・・』〈信長公記〉

 で山中が繰り返されいます。山中は山の中という意味で固有名詞ではないので注目されませんが、
高山もそのため等閑にされたといえます。山があれば谷があります。山中には谷中があり、〈奥の細道〉
の冒頭で上野山、谷中がでてきたとき、この加賀の山中温泉が訪問計画に入っていたといえます。
本文のみでなく脚注の部分までみても「大津」の「山中(山中越)」も出ていた(既述)ので、これは
伊丹布陣表にもつながってそこに高山の高槻がありました。
もちろん有名な山中鹿介の山中というのも山中温泉に関わっているのは前の稿で述べていますが、その
鹿介からも高山が出てきます。〈信長公記〉の山中鹿助登場の場面

  『・・・御敵城上月(ルビ=コウツキ)・・・・上月・・・上月・・・上月・・・上月・・・山中鹿介・・・』

このカタカナルビ「コウツキ」は「月」=槻となるのでしょう。もう一件、鹿介はコウヅキ城が属性
です。

  『上月(ルビ=コウヅキ)の城山中鹿介・・・倉山(脚注南光町に所在)・・・・高山下下(クダクダ)
  つてを隔て・・・・・播州の儀は嶮(ケンナン)を抱え、★節所(せつしよ)を隔て・・・』〈信長公記〉

これをみても分かりますように、上月=こうづき=高月=高槻となりますがこれが
  山中ー高ー南ー光ー高山ー谷ー播ー難(南)ー(高山)節所
となって「高山」に近づくことになります。山中、高山に似たようなことが「大谷」にも起こっています。
大谷=小谷といってしまえばそれまでですが、小谷を大谷に変えて、その大谷が10回以上も出て
くるのですから、やはり大谷吉隆が匂わされていると見てよいわけです。つまり、大谷を重要人物と見て
いますということです。
   「大谷は高山節所(せつしよ)の地に候間、」
 というのが、ありますから★の「節所」も高山を入れて考えるというのが筋目になって「難」というのが
「南」にとるべきというようになってきます。

    『抱えく存知、高山(たかやま)大づくへ取上がり居陣なり。』〈信長公記〉
    『高山大づくへ取上り入城し、堪(なんかん)に及ぶ・・・・・』〈同上〉

「大づく」は脚注では「大嶽」「大岳」とされています。「山田山の南方」にあるそうです。甫庵によれば
ここに「大づく城」があるようで地名か高台というのかよくわかりません。「大月」をもじったものかもしれま
高山と難がセットのようで、「南」が高山とされているので「南の山」でも出てくれば高山のなにかヒント
がでてくるのか、と身構えて見たほうがよいともいえます。

   『東百々(ドド)屋敷・・・丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎左衛門、南の山に水野下野
    (みづのしもつけ)、西彦根山に河尻与兵衛、四方より・・・・・』〈信長公記〉

 というと、熊谷が出てきた山県の下野守がやはり繋がってきている感じがしますしまた「西」の「彦」と
いうのも高木文書の彦です。ドドも「土々」となりうるとすれば高山に行きます。こうなれば北も意識的
であり「四方」、東西南北を太田和泉守(夕庵)@Aを属性化して物語にしようとする意思が感ぜられる
ところです。南が出てきたのでAの世代までも含めてそうするというのが感ぜられるところです。

 「難」もそのようなものがあります。これも直接ではありませんが付随的なことがあると思います。

  『南方表御出勢。・・・・・・南方へ御働き・・・天満が森・川口・渡辺・崎(かんざき)・難波(かみ
  なんば)・下難波・浜の手、・・・信長公は天王寺に御居陣なり。』〈信長公記〉

 この「難」は「南」の流れの中にありますが、必ずしも高山右近がここに顔を出しているなどというの
はいえないでしょうが、「上・下」というのが高山について回る、というのは打ち出されていると思います。
「山上、山下」「山谷」「上野、下谷」とかですが、その上でここでは「かみ」の次の「かみ」すなわち
「神」の次ぎの「上」、というものもあると思います。
脚注では、「上難波・下難波ともに大阪市南区。」となっているので「難」には「南が」意識されています。
こういうとたちまち「大阪市南区」などは現在の地名ではないか、と言う文句が出てきます。しかし
「天満が森」は脚注によれば「大阪市北区大工町に鎮座の天満宮の森。」と書かれています。要は北から
南へ下って書いていそうだとみられますから「難波」は今の大阪市の南の方だという意識があったとも
取れます。それを表わすのが、その前の「川口・渡辺・神崎」と思われます。
 川口は、脚注では「大阪市西区川口町。淀川の川口。」となっています。淀川の河口とすると西岸
でしょう。
 渡辺は脚注では「大阪市東区渡辺町」とあり、チャンと川の東西の地名が選ばれています。
それが現在の区の名前に反映されているといえます。東西南北をここでもうまく出したといえそうです。
すると問題が神埼になります。
脚注では「神崎」は「尼崎市神崎」とされています。神崎は今まで播磨、近江で出てきて重要なヒント
を与えていましたが、尼崎にもあるようです。しかしこれは見当外れで今、大阪市の中央区にある
神崎町まわりは、船場、久太郎町、和泉町、松屋町、安堂寺町などがあります。太田和泉守は、天満
から天王寺までの布陣を指揮したと思われますので「神崎」の地名は先刻承知でしょう。それをここへ
持ってきたのには意図があって「神」→「上」の流しがあったと考えられます。これはあとで効いてくる
ことです。東西南北をここでもうまく出したといえそうです。なお「難」は〈万葉集〉に「難波高津宮」があり
ますので「なん」という読みを「高」「津」「宮」で補強しているといえます。

〈奥の細道〉山中の本文
    『温(いで)泉(ゆ)に浴(よく)す。其(その)功(効=こう)有明に次(つぐ)と云(いふ)。
         山中や菊はたお(を)らぬ湯の匂(にほひ)
    あるじとする物は久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(しようどう)也。かれが父俳諧を好み
    洛(らく)の貞室(ていしつ)若輩の昔、爰に来たりし比(ころ)、風雅に辱(はずか)しめられて、
    洛に帰りて貞徳の門人となつて、世にしらる。功名(こうみやう)の後、此一村(このいつそん)
    判詞(はんじ)の料を請けずと云う。今更(いまさら)むかし語りとはなりぬ。・・・・・』

 はじめに「泉(ゆ)」があり、句のおわりに「湯の匂」がありますので、「和泉の匂い」が出ています。
あとの人物をほんのり包んだという感じです。
脚注では「有明」は「有馬温泉の間違い。」とされています。ここの訳はテキストでは
   「その効能は有馬温泉につぐということである」
ともなっていますがこれは著者の作意に適合しない感じです。
  ○スタートのとき「上野山」「谷中」があり山中の地名が頭に入っていることはいいましたが、そこで
  「あけぼのの空、」「月は在明」がでており、ここの「有明」というのは必然のことです。
  ○山中温泉と有馬温泉とを比較しているわけでない、そのため「有明温泉」という一般には馴染み
  のない名前を出し「云々」というような意味の語句を使ったと思います。これが「有馬」としても「次ぐ」
  というのは「継ぐ」もあるので、「次(ルビ=つぐ)と云」とした意味があるといえます。
  ○有明は有明海、有田の海を想起していると思われます。有馬温泉は有間温泉であり、柿本人麻呂
  山上憶良、松、岩代なども「有間」と出てきました。

戦国時代関連で言えば、温泉宿の主人が泉屋又兵衛なので「其次」は後藤又兵衛を出していると
いうのは既述ですが、いまとなればルビの打ち方で「泉(ゆ」が独立しており、句の「湯の匂(にほひ)」
の「湯」に懸かっている、つまり太田和泉守の匂いがするといっている、という中の後藤であり、山中
の九谷焼の祖といわれる後藤才次郎も含んだものといってもよいものでしょう。
この湯は陶五郎が出てきた「湯原弥次郎」の湯や、伊丹布陣表で出てきた「湯浅甚助」の「湯」に
つながる、「匂」は「勾」に似ているから、真柄十郎左衛門を討ち取った「勾坂式部(さぎさかしきぶ)」三兄弟
の「勾」を意識しているなどというと、けしからん、そこまでいっているはずがない、ということになってしまい
ます。
しかし、芭蕉など昔の人は、書物を転写して自分の物としたり、事故に備えたりしているのでしょう。
人名索引などを自分で作ってそれを見ているから、そこからみればありえるわけです。「勾(さぎ)」は
「かぎ」というルビになっておればまだ納得したのでしょうが、一応そう書いてあるから、仕方がない、別
の写本を見せて貰って確認して、書き入れたりしたはずです。
 「青木加賀右衛門嫡男、青木所(しよ)右衛門」もまたこの「真柄」に挑み討ち取りますが、この「所」
だけ「しよ」というルビを付けている、これもおかしいが、まあいいやと手間をかけてルビを打つという
ことになります。ルビを入力するのが、たいへん煩わしく筆者も文の大意をいう場合などは省いていま
すが昔の人はそんなことはしていません。この「しよ」が
    「ありしよ原=ルビ(有原)」「ありみ=(ルビ=有)」
 というのを出した〈三河後風土記〉の戯れの元(もと)でしょう。「しよ」は「み」だから、「青木加賀右衛
門守の嫡男」は「青木見右衛門」で、これは「青木貝右衛門」となる。「所」は「海」なら「青木海右衛門」
が創れる。二つの「かい右衛門」から「山中」は「青(木)貝」で青木高山がここに関係がする、というこ
とまでいってしまいます。こんなところまで行ってしまってよいか、というと、そこまでは無理かもしれない
結論は、なんともいえないというのが合っているということになっておわるでしょう。
 ただここでは「青(木)海」は援用したいところです。つまり「有明」が温泉として出ましたから「有馬
(間)」じゃないのということになりましたが、「有海原」「有海□」が出ているので「有明」となるとこれは
       有明海、有田の海
というのもでてきそうです。芭蕉は「有明」は有明温泉と同時に有明海のことも懸けていったと思いま
す。
     『其功(効)(ルビ=そのこう)有明に次(つぐ)と云(いふ)。』

は、山中の功業は有田に引き継がれたということになります。「海」が出てくるのは
    「黒末(ずえ)入海の向ひに、なるみ・大だか、・・・」〈信長公記〉
の「鳴海」が「大高」とセットで出てくるので、これを受けていそうです。芭蕉には次のような句があり

    「(前書)・・・・・鷹・・・・南のの果て・・・鷹・・・・
         一つ見付けてうれし伊良湖岬(いらござき)」
    「 鳴に泊りて
         星の闇を見よとや啼く千鳥」

太田和泉守の「なるみ・大だか」を「海」と「鷹」で受けたといってもよいと思います。呼続、笠寺、星崎
のあたりはあの日、織田信長、太田和泉が脇目もふらず決死の勢いで駆け抜けたところですが、
〈信長公記〉を書き留めたころには、「なるみ」の「海」で、高山の「高」、万葉の海の千鳥を想起して
いた、というのが芭蕉の解釈であったと思われます。そうとすれば、それは、一応重視しなければなら
ないと思います。後年の湯浅常山は「太田」「鳴海」「万葉の千鳥」を結んでしまっています(後出)。
とにかく芭蕉の山中で「海」が出てきても不自然ではないというのがいいたいことで有明海が重要では
ないかと思います。

 「泉」が出てきましたので、明からは「夕」「遊」も出てきます。有明の明も冒頭の「弥」とか「光」とか
と組んだ「明ぼの」「在明」の「明」を受けていると思います。
 山中の前に“なちたにぐみ”「那智・谷組(本当は「汲」)」がありますが、これを「那谷(なた)」にして
いますので、「智」と「組む」が浮遊しています。ここの「明」と「智」を組ませ「明智」を出したと思われ
ます。それほどのコダワリの一編が〈奥の細道〉といえます。
こういう政治的、社会的なものがのが織り込まれていないと当時の人は満足しなかったのではないか、
と思います。人間生まれてきたときには、好むと好まざるにかかわらずいまある社会の一員になって
しまう。親兄弟などは選べないがこれはよい、社会は人為的なものだからこれは何とかなるはずだ、
というようなものがあったといえます。経験に先だつ考える能力があって封建時代と言っても安藤昌益
だけが孤立して不平等,不公平な社会はいけないと思っていたわけではないはずです。具体的には
対立軸でみると蘇我入鹿と中大兄皇子、畠山重忠と源頼朝、あの織田信長と、徳川家康の治世、
などでどちらがどうというものがあったといえます。考え方,行き方はいろいろあってしかるべし、それ
ぞれ功罪があるだろうというものではなかった、暗殺、テロ暴力的武力の行使をすれば勝つわけですから
評価は決まっていたといえます。
 
   「山中や菊はたおらぬ湯の匂(におい)」
 句の意味は〈芭蕉全句〉では
  「湯の匂いが高いから菊を手折るにはおよばない、という意味であるが、それだけではなく、山中の
  湯は延命の効験があるので、命をのばすという菊を手折る必要がない、という意味もかけている。」
とされています。
 どの参考書もこのように延命伝説のことが書かれていて概ねこういう解釈とされています。ちくま学芸
文庫〈芭蕉」全句〉では「菊は湯をたたえる道具立てとして使われただけで実体が生きていない発想
である」とあります。菊を見ていないのかもしれませんがまあ名句とはいえないのでしょう。
 これは「菊」が命の句で、鑑賞にはもう一つの巨大な「菊」が抜けています。「菊」といえば「これ」と
いう詩があります。
   淵明 「菊を採る東籬の下、
         悠然として南山を見る。」
 があります。「」というのは、あの陶五郎を受けており、陶淵明のえんめいは延命を受けています。
東は蜂須賀(夕庵)、前田関連であり、南は「高山南の坊ー但し右近のことであるー」(川角太閤記)
と書かれている高山右近です。この南山は南谷(図司左吉が出てくる)と対といえます。句の出来具合
を犠牲にして高山を出してきたといえます。余談ですがこの詩をみると晴耕雨読という言葉を思い出し
ます。何となく悠々自適という感じですが、これは曲解されているのではないかと思います。
   晴耕は働かなければ生きられないという生活を表わし
   雨読は陶淵明や太田牛一や芭蕉がやっている理念の継承をいう
と思います。農作業は特に当時は苦しいものであり、生きる糧を得るにはそうするより仕方がなかった
税もついてまわるものであり生活の厳しさをきれいな言葉で表わしたといえます。陶淵明の「南山」も
「難」を思い出すとちょっと変わってきます。岩波文庫〈陶淵明全集〉の訳では
  「東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折りつつ、ゆったりとした気持で」
南山を見る、というようになっています。咲いている菊を愛でるために手に取る、という動作と決めて
しまいがちですが、前段が孤独な鳥の悲しい姿をえがいており、それでよいのか、という疑問は出て
きます。咲かせた菊を採るなら生活問題になってきます。なぜ東と南の対比なのかという問題もあります。
表紙に「酒を愛したのんきな田園詩人といったイメージを描くだろう。ところがどうして、そんなイメージ
もってしては到底おおえぬ複雑な振幅の持ち主であることを何よりも作品が語っている。」というように
なっています。
 ここで句の解釈ですが脚注にある「湯の匂いが高いから菊を手折るにはおよばない」というのは
菊を折って匂いをかぐという所作が一般的でないので、これはないのではないかと思います。もう
一つの方は温泉が延命効果があるので、菊の枝折伝説にあるように、菊を折って延命を願うことは
いらないという意味はあったと思います。宿の主に温泉を誉めたということでしょう。問題は山中の
持つ意味です。〈ちくま学芸文庫〉では、
   『「山中や」は両様の意を含めた用法。地名を意味するとともに、下の菊の縁で山の中の意をも
   含む。』
 両方の意味をもっているのではないかというのは、ほぼ確信的なものになっているからこういうことが
いわれますがこの場合菊はやはり季節外れ(旧七月二十七日山中)のため山の中というのは無理では
ないかと思います。延々と話してきた「山中高山(深谷が対)」の「山中」でしょう。
      「菊を手折らなかった陶淵明や和泉高山の匂いがする延命伝説の山中温泉」
といいたいと思います。
これは飛躍だといわれそうですが、「菊は手折らぬ」の「折る」というのも重要な構成文字であるのは
いうまでもないことです。同書に
   「菊は手折らぬ」は「慈童が菊の枝折も知らず」の心で「菊水の故事を念頭においての表現」
とあり、
   『謡曲の「菊慈童」あたりが念頭にあったのであろう。』
とされているようにこの「折らぬ」の「折」は「枝折」の「折」からきています。これは昔の故事の「折」で
あって、芭蕉が使っている「枝折」そのものがあれば、そこからまずここの解釈ができないかと考える
のが普通ではないかと思えるわけです。「枝折」を合図に他のところへ行ってエネルギーを注入して
また戻ってくるということをまずしなければなららいということです。同じ〈奥の細道〉福井のくだりにこれ
があります。芭蕉化されたものですから適合性はありそうです。「夕」とか「道」とか「立」もありますが
「爰」があります。

   『福井・・・・三里・・・夕飯・・・たそかれ・・・路・・・・爰に等栽・・隠士・・・小家に夕(ゆうがほ)・・
   鶏頭・はは木(き)ゞに戸ぼそをかくす・・・・・道心・・・何がし・・・・たび立(だつ)。等栽・・・・路・・・
   枝折(しおり)・・・・うかれ立(たつ)。』〈奥の細道〉

 この「枝折」から等裁の「等」が出てきました。脚注では「神戸氏。洞哉・等哉とも書く。」とされて
います。この「哉」は「や、か、かな、」として文末に使うぐらいしかない「さい」です。「快哉を叫ぶ」の
「さい」があるのでここでは強くいえませんが、芭蕉は栽培の「栽」に変えてしまっています。裁縫の
「裁」もあります。似ていればかえてしまうというのもありえます。「等□」としてもよい「さい」です。
「夕皃」も脚注があり、源氏物語の夕顔の巻にある「かの白く咲けるをなむ夕顔と申し侍る。」からもって
きているようです。「白」に点が二つのこの白と取り込んで等伯がでるようにしたと思われます。ここに
「夕」が三つ出ているように、書いてませんが「尋(たずね」が三つも出ているわけです。またここに
「はは」「木ゞ」がわかりにくいので脚注を見ますと、「帚木」(ははき)という草木の名前ということです。
 つまり「はは」「木」+「ゞ」となります。 
すると「木」を前に引っ付けたから「ゞ」が浮いて文にならなくなりました。「帚木」と「木々」を引っ付けて
「はは木(き)ゞ」にせずにもう一回丁寧に「木」を書き足せ、と誰かが言いそうだいうことをいっている
ようです。「もう一回丁寧に字(木)を書き足せ」という法則とインプットしておきますが、ここでいいたい
ことは「ヨ篇」のことです。「尋」ねるのヨ、「帚木」のヨ、「妻」もありそのヨが「掃(はく)」を呼び出して
掃部助が出てくる、というようになっていると思います。山中のあとの全昌寺のところで

    『●大聖持(だいしやうじ)の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜
    此(この)寺に泊(とまり)て・・・・・』

 で脚注では●について「今では大聖寺と書く」という珍妙な注があるのは手篇を除けば寺になる
という意味で、短い文に寺が四つもあることになります。最後の「寺に泊」は「等泊(伯)」といっている
ようです。「等」が「竹+寺」ということは案外みおとしやすいわけです。したがって終わりの寺に
   「此+寺」に「泊」
としたようです。
また三里というのもツボのことで「壺」になるのでしょう。灸すというのもツボから出てきましたが「火」が
下で燃えている炉という感じの字です。路が二つあり、にわとりがあり、組み合わせて「鳥+路」で鷺が
出てくることになると思われますが、山中に白鷺橋がでてくるので対応していると思います。書い
ていませんが「出」も二つあります。「とり出(手)」が出てくるので「とり」に注目ということから「にわとり」
が見つかることにもなります。とつとりは取鳥もあるので「鳥鳥」となり高山右近をのべるときにでてくる
ようです。まだあると思いますが、枝折から高山右近が山中の主人公として出てくると思います。

(52)山中の久米之助
 陶淵明をいれて句をこのように解すると陶器の「陶」が句にボンヤリ加わり
         「陶、菊、匂」
という「匂篇」の三字が揃い、その上、山中から谷中もでてきます。匂篇は両手ですくうという様な意味
が有るそうで、菊の草がんむりのない字もそのいみがあるようです。手折るの手が陶芸を語るものと
いえるのかもしれません。手折るの折が枝折につながるのは見てきた通りです。「菊」は、当面、菊の
中の「米」に注目というのもあるのでしょう。久米之助の「米」に重点をおいているといえます。
 また「匂篇」の「匂」は真柄十郎左衛門を討った
    「勾(さぎ)坂式部」
から青木加賀右衛門、青木所右衛門を出してきます。これであるじの久米之助が喜ぶという算段に
なります。久米之助とか、図司佐吉などという個人名は芭蕉だけの世界で一般性がありませんの
で突然出てきては読者が困るのです。清風という名だとまあ周囲の雰囲気にうまく溶けてしまいそうで
読み流してもよさそですし、仏五左衛門も「仏」というのがあだ名のようですから一般性があり、「五」は
語調がよいのだろうということで目障りにはなりませんが久米之助となると何かこれだけで意味がない
と使用するのがおかしい感じがします。久米之助については脚注は

      『山中の温泉宿、泉屋又兵衛。姓は長谷部氏。幼名久米之助。芭蕉がここへ
      来た時は十四歳で、芭蕉は「桃妖」の号を与えた。』

となっています。要はこれを見なくてもある程度人口に膾炙したような話がありそれに依拠している
ということのはずです。つまり「久米之助」という4字がそれ自体で持つ響きといったものがある、つまり
「あるじとするは久米之助とて」となっているので枠組み、団体の長、家元という地位のようなもの
を前提としているではないかと思います。
 
山中、泉屋又兵衛、長谷部から高山が出てきますので米の字が入っていて高山右近のような感じ
といえば、粟野木工助という人物がいました。これは「西+米木工助」となります。一方久米之助は
  長谷久米之助
  青木久米之助
となります。「木工」というのがキーワードのようになっていますので拾い出して見ますと、両書では
     福島本目(ほんめの)助、与田木工左衛門
     中村木工(たくみの)丞、中村木工丞(むくのじよう)
 があり、木工を合わせて「杢」の字があり、「木」も「目」も「もく」です。福島の本目は〈信長公記〉では
ルビが入っておらずおそらく「木目」で「もく」と読ませる積りと思われます。中村は両書で読みが違って
います。「与田」は両書ともルビはないので「木(も)工(く)」と読むようです。結局「久」は「工」だから
 「青木久米之助」→ 「青木工米助」となり「福島」の「木目」「木木」を借りて、また「もう一回丁寧に
字(木)を書き足せ」という法則」によって
        「青木木工(もく)米助」→「青木木米助」
 となると思います。また脚注では、芭蕉が知っているらしい彼の父について
        かれが父は『久米之助の父で、俳号を武矩といった。』
となっています。
 要は父も久米之助ではないかと考えられます。青木木米はずっと後年1800頃、加賀春日山に窯を
開き古九谷再興の人として知られていますが、芭蕉はすでにその名前を知っていたといえます。
「木」は「もく」とも読み上の例では「も」とも読みます。芭蕉は
         □久米(之助)
      青木□久米
まで用意した(青木も用意できた)のですから、また「木(も)」さえあれば、名前が浮き出てくる状態を作
っていたのですから、また「木」に細工をしていたのだから、その大きな名前は知っていたといえる
わけです。つまりあの青木木米に戦国から続く名前があったということが判ったといえます。
 
  秀次事件のとき粟田口吉水のあたりで切腹した粟野木工助の表記はやはり重要だったようです。
常山の注目を促す手法は、ルビの付け方に細工を加えたことです。(極端にずれたルビ)

   『其後粟野(の)木工頭、白江(の)備後守、熊谷(の)大膳亮直澄三人に』

という文に次のようなルビが入っています。この三つの(の)もルビです。
 「」に「あはの」というルビ
 「工頭」に「ひでもち」
 「」に「しらえ」
 「後守」に「なりさだ」
 「」に「くまがや」
 「膳亮」に「なほずみ」
ということをやって目に付くようにしています。こんな出鱈目なんだから常山なんどの三流のものを取
り上げるのは駄目だ、転写ミス、印刷ミスの発生可能性はかくのごとしだ、といいたいかもしれないが
三流とか転写ミスに法則性があるのか、といいたいところです。少なくとも編者の森はみているはず
ですから間違いでもないわけです。はじめの「の」に「あはの」のルビを入れたのが重要です。これで
平地に異物がある感じで、おかしいな、というのが出てきます。またこの「の」に「あはの」を代入して
読むわけですからもとの文は
    「其あはの後(のち)粟野木工頭秀用・・・・・」
ということで「木工助」が後年「木工頭」になったその人ということで文章としても通ずるし、とにかく
粟野注意という著者の意向も出ているといえます。何しろ「西米の木工頭」ですから。

(53)索引違い
 泉屋久米之助又兵衛の親の「武矩」の「矩」の字が重要で一番目に付いて関係がありそうなのが
〈武功夜話〉で登場回数の多い「青木勘兵衛(ルビ=一矩)」です。したがってこの武矩は青木氏の
一矩の一族、子孫といえそうです。
既述〈常山奇談〉で木全知矩(きまたとものり)をだしてきたのは〈信長公記〉木全六郎三郎の関連という
ことで高山関連の「矩」を示したといえます。この木全知矩は「宗甫(口篇のある甫)」です。また
柳生但馬守宗矩がいますが、あの心陰流の将軍家指南役の宗矩ではなく表記だけをみると、簗田の
柳、但馬守、宗の系譜で太田和泉守が呼び出されその「矩」は高山関連でとらえられます。また
「山中鹿介弟亀井新十郎」の名前が「茲矩」ですから、この「矩」を思い出す人もいるのではないかと
思います。余談ですがこの亀井の「茲」は木村常陸介の「重茲」もあります。
1988年刊の〈常山奇談〉岩波文庫版ものでは「木村常陸介」の人名索引も二件のうち一件二ぺージ
違わせてあります。これは1940年初版にあたって森銑三か岩波書店の官憲に対する出版の際の
挨拶のようなものであったと思われます。戦後の出版もこれに準拠していてそのままになっているのは、
歴史的経過を記録するということでよいのかも知れませんが、不親切という面もあります。こういうのは
はじめにことわるか、こういう事実があったとことわって正すというような一見くだらない動作も必要と
なるものでしょう。索引のイタズラなど知らなかった者も「そんなの常識だ」といいだしかねない、専門
学者内という閉鎖した社会で常識を作っていたらそんなことになってしまう。あっさり全部の常識にして
おいた方がよいでしょう。
森は「この人名索引は・・・目次の検索に便ならしめんが為、目次を補うような意味で作成したものである。
従って巻中の人名を片端から挙げず、比較的重要なものを主とする方針を執った。全巻にわたる夥しい
人名を網羅することは、作成者がその煩に耐えぬばかりではない。読者にとってもさのみ必要では
あるまいと信ずるからである。索引に加えた人名といえどもその名前が出てくるごとに悉くこれを挙げて
あるとは限らぬ。長い一章に同じ名前が頻出する場合の如きは、最初の一を挙げて他を略したが、
一方では又飛び飛びに散在する名前を丹念に拾ったところもある。・・・」
となっており、これは、こう書きながら索引ページを間違っているので、せねばならないところをしなかった
欠陥を露呈させたといえます。
 森は著書や著者の解説をしていますが上・中・下巻に散在させており分かりにくいこと甚だしいものが
あります。この三冊に分かれていること自体が、参照、確認をためらわすものですが、解説までそうされて
いるのをみると長いから別けられるというのはあっているのかどうかわかりません。テキスト〈甫庵信長記〉
などとなると確認は手抜きできない、何回余分な方を取り上げたことか、そのたんびに一冊だったらどれだけ
よいかと嘆きながらやっているわけです。しかし、このテキストの出版がなかったら、何も生まれてきて
いない、といつも思いながら手に取っている次第です。森は
  「常山奇談は内容に忌諱に触るるものがあり・・・」
 と書いています。これは江戸時代の話ですが、今(戦時下)もそうだ、といいたいようです。今はそんな
ことはないにしても中味は理解されていないといえるのでしょう。むしろ資料評価を避けているとこから
そうなったという方が合っていそうです。まともに向き合うということが多くのことを学べるということになり
ます。著者は文だけで語ろうとしたとはいえないと思います。一つだけ解題の中から取り上げてみます
と、常山は「湯浅元禎」と書きながら「湯元禎」とも書いていて指摘されても変えなかったそうです。
太宰春台の書簡には、三字は唐めいて面白いので世間でもそうするようだが、やはり
日本通例によって湯浅某として然るべきで湯井、湯川などいう氏族もあるので、知らぬ人は取りまぎ
らかす、というような意味のことを書いてありますが、常山は無視するわけで、極端な言い方をすれば
「とうげんてい」と読んでくれてもよい、自分は日本人ではないかもしれない、帰化人の子孫でもありうる
 そう思うならそれでよいといっているのかもしれないわけです。昔のことだから、こうでなければな
らないというものはない、事実がわかればよいはずです。春台は、
    湯浅元禎=湯井元禎=湯川元禎
というのはありうるといっていそうです。だから古典を読むという人は高田、高野、高井と並んでいれば
繋がっていると見なければならないし、
  湯元禎=湯□元禎=□湯元禎=□湯□元禎
もあるから、谷大膳は谷山大膳ともいうとありましたから省略がありうる、山谷でも熊谷でも「谷」姓と
されるがありうることにもなります。
とにかく、明治に全部が苗字をつけることになったのでそれぞれが適当につけたと聞いているので、
いまの感覚で読んでいると、歴史をあるように読んで名字帯刀の誇りを持っている当時のリード層の
著述から表記のことを論ずるのはどだい無理なことかもしれません。
 〈明智軍記〉では「湯」という孤立表記があり、常山は湯元禎に固執していたとすれば泉元禎とか
陶元禎という積りだったとも考えられ、とすれば自分は高山右近など山中人の後裔と思っていたとも
いえそうです。

(53)山中の亀井
 山中鹿介弟亀井新十郎のセットは、芭蕉のこの山中のくだりにに多大の影響をあたえます。
もちろん山中はそのものずばりですし、亀井の「矩」もありましたがなによりも亀が大きな役目をもつて
臨んできます。まず、この二人の出てくるところは、

   『因播・伯耆の境目に山中鹿介弟亀井新十郎御身方として居城候。・・爰より伯耆へは
        山中谷合にて節所
   と云ふ事大方ならず。即時に南条表相働き、●羽衣石(ウエイシ)と云ふ城、南条勘兵衛
   ・・・おなじく舎兄小鴨左衛門尉岩倉・・・・吉川・・・馬の山・・・・張陣なり。』〈信長公記〉

となっており「山中谷合高山」が出てきます。ここの南条の南、小鴨の鴨も大津皇子から高山です。
●は鳥取県東伯郡東郷町で高山とか、富山和泉郷の近く太田本郷、神保越中進出で高山とかが
出てきます。あわせて上石は下石と対で彦右衛門を想起しこれも高山です。
ここに弟、兄が出てきました。脚注によれば山中鹿介について

   『・・・・「亀井鹿介幸盛」という署名があり、また山中鹿介幸盛のは、亀井秀綱のといわれ、
   亀井新十郎茲矩も幸盛の婿だという説もあって、幸盛と茲矩とには親族的な続柄もあったらしい
   。したがってこの弟説もあながち牛一の誤聞とはいえないであろう。』

となっています。もう弟のことについても読まれております。二、三歳くらいの違いですから、紛らわしい
わけです。亀井秀綱は亀井茲矩とは取れません。まあ、通説といっても、わからないところは放ってある
るわけですが親族関係だから重要です。〈信長公記〉などもう読み取られているような感じで通ってきて
いますのでそれではすまないといえます。誤聞どころか、太田牛一と亀井家とはどいう親類かという
ことを述べないといけないぐらいのことでしょう。
 亀の部分についてすでに
     ○「角田新五」と「松浦亀介」の接触、
     ○「奈賀良(長良)の川」「山県という山中」「鶴山」「東蔵坊構え」における銭亀のザクザク、
     ○亀田大隅と城、岩槻の接近
 などで高山との関連に触れてきました。ここに
      「久々利亀」
という珍妙な表記の人物が両書に登場します。亀だから高山関連ですが、久々利は美濃の村の名前
です。ここから山中高山が青木と繋がっているというのがでて来そうです。まあいえば久米之助が「青木」の
人、つまり高山右近の業を継いだ人ということが出てくると思います。ネット、久々利村の(yahooイントロ
の部分)を借用します。「まぐまぐー陶芸なんでもかんでも、blog.mag2.com」のものを借用しますと

    『加藤五郎左衛門景豊・・・天正年間(1573〜95)に父基範の命で美濃国可児郡久々利村大平
    (岐阜県可児郡可児町久々利)に移り、陶業を開いて、同地の開祖となりました。』

 とあり、加藤がこの地の陶業を開きましたが、この基範の外戚が高山右近かもしれません。この五郎
左衛門という表記が注目さるべきであり、「景豊」の「豊」も含めて太田牛一の史書を踏まえた表記といえ
ます。
 まずこの記事は久々利は加藤である、といっていますが、太田牛一は加藤の位置をもって青木を
出しているのではないかと思います。
加藤というのは加藤次景廉とこの地方のもと守護の加藤であり、賀藤弥三郎、加藤兵庫頭のある加藤
で、多分地名からきていると思われます。青木又兵衛、重直、一重、一矩などの名前を持つ、青木とは
高山右近を介さなくても近い親類であろうということはわかります。しかし別面からも補強があればこれに越した
ことはない、ここでは「亀」によって「久々利」が加藤に結びつくという程度のことをいえば、それで話を
進めてもよいのでしょう。両書に
   「種田亀」
というマイナーの代表的な人物が出てきて本能寺で消えてしまいます。この人物には意外に気が使われて
いて〈信長公記〉にはルビがないので「たねだ」になって、「タ行」になってしまいますが、〈甫庵信長記〉は
では「種田(おひた)亀」というルビが付けてあります。したがって「ア行」になってしまいますので、両書
に「種田亀」が載っています、という一言にも時間と手間が掛かっているといえます。〈甫庵信長記〉
では次の四種の「種田が用意されています。
     @「種田亀」      ルビは「種田」に「おひた」
     A「種田信濃守」   ルビは「種田」に「をひだ」
     B「種田助丞」     ルビは「種田」に「おひだ」
     C「種田助六郎」    ルビはなし
Cにルビがないのは「をひた」が抜けていることを知っているという意味であり、もし「をひた」を入れたら
企図と戦闘性を見破られてしまいます。絶対優勢下で城を囲んでも必ず一方を開けておくの心がけ
でしょう。また、分類に慣れない学問的でない人はこれだけ「タ行」に入れるかもしれない、〈信長公記〉
の人物と同じではないかということもわかり、逆にそこから操作性に気づくという一石三鳥を狙った、懐
の深い本当に戦闘的な一着といえるのでしょう。
 このルビは偶然のものではない、人工的なものです。100人に聞いて100人がそういうはずです。
これは石器と違って誰でも目視できる人工の痕のあるものです。神武天皇などが120歳以上も生きたと
いうのは1/3に計算されるようになっているのではないか、太田牛一にも、数式が使われている、などの
わかりやすことは強調せず、著者に不信感が行くような語り方は、もうやめねばならない・・・。

〈信長公記〉には「種田亀」と「種田助丞」の二種類ですが、これは「亀」がやや操作的ですので同一
人物でしょう。もう一つ
    「賀藤助丞」〈信長公記〉
という表記があります。ここで亀を媒体として加藤と久々利が結ばれたようです。
         種田亀= 亀  =久々利亀
          ‖           ‖
         種田 = 助丞 = 加藤
 青木の久々利というのは決定打があって、あとで出てきますが表記の面で同じのような布石がありま
す。青木玄蕃允がテキスト脚注では「美濃安八郡青木村」がでており、同じく種田助丞も「美濃安八郡
豪族。」、「美濃安八郡」は「明智十兵衛」が拝領した土地であるし前田玄以が「美濃安八郡前田郷」
でこの安八に青木と亀が入り込んで、久々利の亀もここにくるのでしょう。美濃安八郡は大垣(大柿)に
あり可児郡の久々利とは離れていますが亀があれば寄っていけます。久々利村は北に「明智」「御嵩」
があり、南に「柿下」があるようなところですが、必ずしも久々利でなくてもよかったと思います。太田和泉
守の地元ですからもちろん存在を知っていてまわりには「土田村」「平牧村」「春里村」などがあることは
知っているはずです。「平」はもう一つの地元「比良」があり、「里」は「黒」とか「里村」は紹巴の姓です。
使えるのがあるのに久々利にしたというのは、その字「久」を表わしたかったともいえます。これは久米
之助の「久」であり、「九」であるのかもしれません。

(54)青木木米
 芭蕉はすでにこの久米之助の先代の久米之助のを知っていてここを書いたと思われます。先祖
がここ古九谷焼、山中漆器の創始者というのが芭蕉のいいたいことです。
芭蕉が10歳ころ、1655年、古九谷が、大聖寺領主によって後藤才次郎が活躍して生まれたと
いわれます。これが50年ほどして消えてしまったようですが、芭蕉がこの地へ来たのが46歳ごろ
1689年ですから、ここではまだ九谷焼が焼かれていたといえます。つまり〈奥の細道〉の芭蕉と
九谷焼は関係があるので山中のくだりでは述べられていなければならないはずです。これが、1806
年青木木米によって再興されたということになっていますがこれは違うのではないかと思います。つまり
当たり前のことですが、青木氏が連綿と続いたなかの1806年(文化3年)の青木木米です。
青木加賀右衛門、青木鶴の後裔ともいえる青木木米といえます。
青木木米ネット記事(awatayaki.com/awatayaki-kakuierekidai.htm)を借用します。

     『明和四年(1767)京都祇園新地縄手町の茶屋「木屋」の長男として生まれる。
     幼名は八十八。後に家督を継いで代々の名、青木佐兵衛を名乗り、これらにちなんで
     青木木米といった。彼の用いた号は数多く、●父の出身地美濃国久々利に因んで「九々鱗」
     青木の姓から「青来」、古器鑑賞の趣味から「古器観」、晩年に耳が聾したことから「聾耳」
     などと称した。
      少年の時に芙蓉の許に遊び、古器物を鑑賞する事を学ぶ。・・・・・・木米の人生を大きく
     変えることになるのは、京阪第一の蔵書家であった木村兼葭堂を訪ねて、その蔵する龍威
     秘書の中に朱笠亭の陶説を読んで大いに感銘を受け、それより陶を志すことになったのである。
     ・・・寛政8年頃(1796)粟田口東町に開窯。・・・・・文化三年(1806)には加賀窯業復興のため、
     加賀に招聘されて、青磁、金襴手、色絵などを焼く。それらの作品には木米印のほか「金府」
     あるいは「金陵辺」の刻銘、「金城精製」などの署名がある。
     木平は先述の木村兼葭堂や頼山陽、田能村竹田、その他の文人と交際があり・・・・
     比較的数は少ないが茶の湯の道具も手がけている。天保4年(1833)没67才。洛東鳥辺
     山に建てられた彼の墓碑には篠崎小竹が「識字陶工木米之墓」と題し、彼の生涯を物語っ
     ている。』

 「木屋」という社中のようなものの長の長男ですから、「木」を使ったと考えられます。代々青木を名乗っ
た、しかも「佐兵衛」ですから、「木兵衛」という積りであったとみてよいのでしょう。問題は木米の父も
すでに京都の人であったと思われることです。しかるに木米は●で父は久々利出身だといっています。
これで青木氏代々が久々利出身と言っていることになると思います。「青来」は「駒来山」を想起させる
名前です。「生駒」の駒は熊→隈→隅→角→鷹→高へ連なり青来に戻ってくるというものです。
木村兼葭堂から全てを教えてもらったようですから、太閤記の粟田口の粟野木工助のことを当然聞い
ているので■のようなことをしたわけです。実際加賀では春日山窯を開いたということですが、これも
中々よく出来た話で、太田牛一の春日が想起されます。春日丹後、春日井の春日、貝野にあったという
春日山などがあります。これからみても
   久々利、粟田口、春日山
というのは必ずしもそこでなければならないということでもないとも思われます。その近辺の最適の地と
いうこともあり得ると思います。芭蕉が山中へ行ったのは九谷焼のことも述べようとしたのは間違いない
ことでしょう。山中温泉は
    温泉に浴す。其功(効)有明に次と云。
       山中や菊はたお(を)らぬ湯の匂
     あるじとする物は久米之助とて、いまだ小童也。
というだけのことで、あと俳諧のことが出ていますから極めて短いなかで陶器のことをいっているという
のは考えにくいわけです。しかし歴史的人物、青木木米まで行って戻ってくるとこの句も二様に解する
こともできそうだということになってきます。湯は「とう」で「陶」ですから、
  山中や陶淵明の陶の匂、
ともなるし、山中の焼き物が〈信長公記〉の久々利亀や種田亀が関係してくるとなると、山中鹿介、
亀井新十郎が出てきますから、
       山中や亀矩はたおらぬ泉(ゆ)の匂
となったりします。このお(を)は種田亀のルビの付け方が芭蕉の頭にあるといえるのでしょう。芭蕉が
ここで九谷焼を意識したのは
  ○現にそのとき見られたからもある
  ○其次、又兵衛から「後藤」を認知していたといえる
  ○木(工)久米を意識していたこと
  ○「黒谷橋」(小久谷という字も宛てられると思われる)行っている、
  ○はじめに上野・谷中をだしている、
ことなどからいえると思いますが、問題にしてきたことは太田牛一、小瀬甫庵が山中の九谷焼を認識
していたか、ということです。それは、山中高山などの執拗な暗示があり、「久々利亀」、「木工(もく)」
などの苦心の表記を青木木米が受けとめてくれたことによって太田和泉守、高山右近の時代にほん
とうに古九谷と呼んでよい焼き物が生まれていたといえます。
1650年ごろ後藤才次郎が始めたものを古九(久)谷焼といい、まもなく廃れたのを1800年ごろ青木
木米が再興しその後吉田屋などが出てきて繁栄したということですが、後藤才次郎は本当の古九谷
がおそらく政治的な理由で閉鎖のやむなきに至ったのを再興したといえるのではないかと思います。
山中の温泉の効は「有明(有田)」に次ぐ、有田に継がれたという意味でしょう。これは古典にある人麻呂
赤人、上下論争と同じで優劣をつけるものではないということは明らかです。
 こうなるとやはり「後藤才次郎」という人物は明かされていると思います。一応長谷部武矩という
この泉屋又兵衛久米の助の父という人物と思います。可児才蔵の才で久々利村です、後藤も大坂
陣で戦死しておそらく英雄になっているはずで誰でもその名前は使えるというわけにはいかない
と思います。すると身内である、又兵衛という名前だったから可能性は高いと思います。この人物は
 そのあとに出て来る洛の貞室と関わりのある人でこの貞室という人は
    
『安原氏、いみなは正章(まさあきら)。貞徳の門人で、花の下二世をついだ。』
となっており、このへんからも武矩という人がでて来るのでしょう。松永貞徳もでてくるのでここは重要
ではないかと思います。収斂的なのが特徴なので出てきた人名から推測をつけておくというのが解決
への近道だと思います。

(55)伝説的人物
 高山右近が長谷川流で絵付けをして青木一矩、一重近辺の人が陶作した、前田と鍋島は姻戚関係に
あり、技術が移設されたといえますが、有田焼で
       「酒井田柿右衛門」
という人が元祖として有名です。これはある程度表記で見当をつけるということが必要と思います。それ
でないと永遠にな謎の人物となってしまいます。

    酒井田  +    柿       +     右衛門
      ‖         ‖               ‖
   坂井右近 + 柿本人麻呂(大津)+ 織田(五郎)右衛門(神藤の右衛門でもよい)

くらいのところで太田和泉が背後にありますが一人に限るとすれば高山右近となるのではないかと思い
ます。
常山奇談の次の長い記事の酒和田が酒井田に似ているので、無視できず、これも意識して高山を追っか
けてきました。この「酒和田(さかわだ)喜六」の一節が高山色なので酒井田=酒和田で高山右近と
いうわけです。ザット見て八幡と信濃守ですが「八幡」は「とつとり郷若宮八幡」、「因播国とつとり」
などで「高山」、「信濃守」は種田亀=種田信濃守から亀の「高山」ということで高山色といえます。

     『古の名将学問和歌を嗜(たしな)まれし事并酒和田(さかわだ)喜六器量(きりやう)の事

     太田・・・杉・・・鷹野・・蓑・・・山吹・・枝折・・・山吹・・・みの・・・蓑・・・書・・・山崖・・・山の上
     ・・・潮・・・・通・・・・・難・・・節・・・潮・・・・・・・通・・・・鳥・・・潮・・・・・・鳥・・・潮・・・・・
     利根川・・・瀬・・淵・・瀬・・・・瀬・・・・難・・・・
     八幡太郎義家・・安倍貞任・・・糸・・・八幡殿・・・八幡殿・・・八幡殿・・・八幡殿・
     ・・・・八幡殿金澤・・・・・鳥・・・苅田・・・・八幡殿・・・鳥・・・・八幡殿・・・・飛騨守・・・越中守・・
     ・櫛田の宮・・・一の谷・・・・・
     文・・・信濃守・・・・酒和田喜六・・・文・・・喜六・・・酒和田・・・酒和田・・・・信濃守・・・・喜六
     喜六・・・信濃守・・・・蔵・・・・信濃守・・・喜六・・上・・下・・・上・・・・信濃守

 この話はまず始めに基本的なところで、そんなのおかしい、とされるところがあります。つまり
         酒井田柿右衛門(伝説)
         酒和田喜六   (常山)
とは「酒」と「田」が同じであるというだけではないか、ということでしょう。しかし「酒和田」と「喜六」を
きりはなして、それは「八幡太郎」でも同じで「八幡」が切り離されています。「姓」と「名」の部分は働きが
違うという認識の下では「酒井田」、「酒和田」の三字の一字違いということで常山の目は「酒井田」に
向けられているといってもよさそうです〈吾妻鏡〉「朝夷名」は「朝比奈」と見ざるを得ないし〈信長公記〉
        「和根川雅楽助」
はテキスト人名録では「わ行」では見当たらず、念のため「と行」を見ると
        「利根川雅楽助」
になってでています。〈甫庵信長記〉では「和根川雅楽助」はそのままで「わ行」で出ています。
一字違いはこうではないかというものがあれば変えてもよいといえるほどかもしれません。それはとにかく
表題の「並びに」に意味に使われていそうな「并」は「併せて」の意味の方が強いと思いますが、「并」
は原文は「井戸」の「井」と、「どんぶり」の「丼」を合成をしたような字、井の左下を刎ねています。
つまりこれは
          酒井田
          井酒和田
としてもうすこし接近させた操作といえます。またこの「丼」は「並びに」ではなく併合ですから、
ここのタイトル「名将・・・」云々の部分は酒和田に合わせてあるという意味で、「酒和田」に宛てられる
人物のことをいっていて、この人が名将であって学問和歌を嗜(たしなみ)のある人といっています。
〈曾良日記〉でもこれがあります。
      『関・・・関・・・関山・・・行基(土がの字)菩薩の開基(土がの字)・・・山門有、本堂有、
      奥に弘法大師行碁堂有。』
 基礎の基が、三箇所あり、みな間違っていますテキストでは、丼の字は頼まないのに太字になって
いて、中の点が右下に出されている字です。これは二人合わさったお堂です。ここは我田引水すれば
よいと思います。山中の「功有明に・・」を後藤の基次が隠れているといってきましたが
   「木」を入れるべき「其次」、木ベエの後藤
が隠れているといいたいのではないかと思います。「酒和田喜六」の出てくる長い文の文中名将の
例は
     「太田持資{道灌}」  →        和歌三つ、
     「八幡太郎義家」             和歌一つ、
     「蒲生飛騨守」               和歌一つ、
     「菊池寂阿入道」             和歌二つ、
     「梶原」(一の谷にてとあるから景時) 和歌二つ、
         計                     九つ
の五人があります。
    十句目が歌人の酒和田喜六の歌で、
      「芳野山花さくころの朝な朝なこころにかかる峯の白雲」
があり、合計六人、十の和歌が出ています。喜六の歌は
「朝」は「朝倉掃部助」「朝倉孫三郎」などの「朝」であり「朝比奈」でいえば「摂津守」「弥四郎」「弥六
郎」があります。
「芳野」は「吉野」で、白雲は桜の花く咲くころの霞の白も入るのかもしれません。吉野は〈万葉集〉の
人麻呂想起と言ってもよいのでしょう。
「峯の白雪」は高山の白雪でしょう。
 あとでここの九つの歌も効いてきますので、酒和田喜六が主役となって出てきたこの一節を
「十和歌のくだり」としておきます。
    伝承の「酒井田柿(歌喜)」は、常山の「井酒田和(歌喜)」
となる、常山の「和田」の「和」が「和歌」の「和」というと、常山は和歌を十句も出しているから納得できる
ところです。まあ「和田惟政」「和田伊賀守」などの「和田」だというとそれは無理だということになりそう
ですが、これは、太田{道灌}がトップに出てくるから仕方がないもので、「和田」そのものが出ている
ので一応取り上げるのがよいようです。

(56)酒和田喜六の由来
「和田雅楽助」〈甫庵信長記〉という人物が出ますが、これは和田伊賀守と出てきます。酒和田といえば
      酒和田=酒井+和田(伊賀守)
でしょう。これは
      酒和田=(酒)和田雅楽助
 ともなりえます。つまり「和田雅楽助」〈甫庵信長記〉という人物は存在しますが、表記上では完成
した形では存在しない人物です。登場が一件だけで、人名羅列
     『・・・・和田伊賀守、同雅楽助・・・』
 ででて来ますから、人名索引では「和田伊賀守」の横に「(同)雅楽助」とするしかないわけで、テキスト
の人名索引もそうなっています。これは表記の独歩性をいっていると推測されるものです。つまり
      「雅楽助」
となっていますから、自在性があり、あちこち飛ばして語りに使えばよいというのでしょう。
この「雅楽助」から「浅井雅楽助」が出てきます。姉川の合戦

    『・・▲桑原平兵衛・・・浅井雅楽助、舎弟斎助(いつきのすけ)・狩野次郎左衛門・同次郎兵衛尉、
    細江左馬助・・・・早崎吉兵衛・・・・・・・中にも哀れを留めしは浅井雅楽助兄弟ぞかし。・・・兄の
    雅楽助、斎助・・・雅楽助・・・遠藤喜右衛門尉・・・竹中久作・・・・久作・・・遠藤・・・遠藤・・・
    遠藤・・・富田才八・・・・五六町・・・喜右衛門・・・弓削六郎左衛門尉・・・今井掃部助・・・才八・・
    ・遠藤殿・・・・・猶妙印入道武井肥後守・・・・・』〈甫庵信長記〉

 と続いてきます。要は「浅井雅楽助」となりますと「浅井」というのが制約になってきます。浅井長政と
どういう関係にあるのかなどというのを、まず述べねばならないというようになってしまいます。自由自在
にみますと「雅楽助」から武井夕庵まで出て来て
    (いつき)、(「狩野」の絵)、(遠藤)、(竹)、(久)、(富田)、(才八)、(「」)、(六)
なども出て来ます。これ以外でも「細江」は「細川」でしょうからここから「越中守」もありえます。
 「吉兵衛」は芭蕉の「京や吉兵衛」に使われたと思われますが、この「吉」は「伴正林」を呼び出す「吉五」
がありますので油断ができません。「木下藤吉郎」の「吉」で「木下雅楽助」があるから「吉」を出したと
いっているともいえそうです。それなら「吉」から「藤」を呼び出したともいえますが「遠藤」だけではなく、
「近藤」「佐藤」「後藤」「藤次」「藤五」「藤九」などもあります。例えば「近藤」からは「名の深谷部」
の「平右衛門」が出ますが、「吉」「桑」となると「桑原吉蔵」が出てきます。この桑原は
     「桑原吉蔵」
     「(舎弟)九蔵
     「桑原助六郎」
     「桑原土佐守」
     「(同)右近
     「桑原平兵衛」     (〈甫庵信長記〉人名索引から全部)
があります。「角鷹」は「丹波国田郡」と出てきます。

 桑原には「九蔵」と「右近」に姓の付いていない例があり、この索引にある桑原平兵衛は、上と下の
▲の桑原平兵衛として出てくるので、単独の「雅楽助」にくっ付き、「九蔵」「右近」の雅楽助も出来上
がりそうです。笛の奈良左近=雅楽助=高山右近というもう一つのものもでてきます。

  『真柄十郎左衛門・・・・・小林瑞周軒、魚住、竜文寺、黒坂備中守・・総角(あげまき)・・・・
   ・勾坂(さぎさか)式部・・・勾坂五郎次郎・・・・勾坂六郎五郎・・・・山田宗六・・・青木加賀右衛
  門尉  嫡男、青木所右衛門・・・青木・・・坂井右近・・・▲桑原平兵衛・・・・浅井雅楽助』

 ここに「青木」「宗六」などがあり、坂井右近(酒井右近)の酒、もう「喜六」の喜も出ており、
後の方から●の和田雅楽助が働き出して「和田」も出てくる
    酒和田喜六=和田和泉・高山右近
とするに十分なものがでてきています。

この雅楽助は笛をともなう芸道的な意味合いのある語句の集積であり、「和田伊賀守・同雅楽助」
という名字のない「雅楽助」から見ていくとよいといういうヒントがあるのでそうしたといえますが別に
下のように雅楽助が用意されているので取り上げた方がよいということで▲が出てきて反ってやや
こしくなりました。しかし桑原は無視できない表記でどこかで触れなければならないものです。
人名索引ワ行に
      「若林長門守
      (其の子)雅楽助」

    ● 「和田伊賀守
       (同)雅楽助」

      「和根川雅楽助」

 の三件の雅楽助があります。ワ行は25人ですからそのうち3件の雅楽助というと目立つともいえますが
姓のない雅楽助も三つあるといってもよい、つまり「和根川」の「和」は「ノギ篇」だから、利根川では
ないかと、見る人が感ずるような名前の設定がされているいますから、「和根川」は姓ではないので
はないかと思うと取れます。つまり和根川の和は「酒和田」の「和」にするために常山が利用したとい
えます。太田牛一が利根川を和根川にしたのは和田兄弟を意識させ明智兄弟を暗示させるための
ものであったといえます。このほかに既述の三浦の(右近、左馬助と連なった)「雅楽助」もあります。

 ここで、常山は酒和田雅楽助宗六、としたと思われます。「笛」で一層高山に接近できたと思われ
ます。もう一つ甫庵が「勾坂」を真柄の相手に持ってきた意味を直感できたのではないかと思います。
「酒和田」とパソコンで入力すると「酒匂だ」と出て来ます。〈吾妻鏡〉でよく出てくる、「さかわ」がここで
出てくるわけです。本来この「さかわ」は「酒勾」で中が「ヒ」ではなく「ム」のものです。甫庵はこれを
意識して「酒勾」をひっくり返して「勾坂(さぎさか)」としたと思います。
 まあ酒井は坂井だから何もなしでも転換できますが「坂井」の「坂」を出してきたといえます。した
がって酒和田の和は「さかわ」から必然であったといえます。
一方太田牛一は「酒井田柿右衛門」という名前を創っていたが、それは坂井から作ったと思われま
す。「勾坂(さぎさか)」を出してきたのは「青木鶴」をだしていたので「白鳥」を持ってきたのかもし
れません。酒井田というのは堺田でもあり、堺は「宗」の系譜の本拠でもあるので「山田宗六」が似合
うといえそうです。
もうすこしいえば真柄という大剛の士を討ち取ったのは誰かという事実関係もほしいわけですが
「勾坂(さぎさか)」を反対にすると
    「坂勾」(さかさぎ)→→(さかざき)「坂崎」
となるのではないかと思います。戸川、岡、花房などとならぶ宇喜多の大将であり、書ができたときは
徳川家の人物というので徳川の人となっていると思います。こういう反対にする例は山中から中山が
でてくるようなことになります。
利根川姓は希であるのに、そういう姓があったので記録したというのはある意味で重要かもしれません。
太田牛一のものは〈吾妻鏡〉でもみられますが全体の中のこの部分という俯仰性、俯瞰性があるので
当時の姓について目に付く一部を挙げたというものでもないような感じです。柴田、丹羽を合わせて
羽柴としたというのは創氏の例なのか、いまは創氏がないので、江戸と明治時代の変わり目が重要な
ことになりますが太田牛一のものは教えてくれるところがあるのでこの面でも見逃していることが一杯
ありそうです。

(57)有田の酒井田
 「桑原吉蔵」は「吉五」があり、「(舎弟)九蔵」があり、「右近」があり、「助六」「介六」が「関」に接近
するなどあり、また桑は三又の木であり、桑田郡は長谷となっていて、太田牛一が乗っかっているの
で雷神も「桑原桑原」と言って避けそうな重要な名前で多くの面に利用できるものです。一つだけ
酒井田=酒和田を否定しそうなものといえば「喜六」というものの表記です。
 「青木所右衛門」や「(和田)雅楽助」が遠藤の「喜」に接近する、亀の種田助六郎や桑原介六の
六が喜六の六だというのもよいということもいえます。
 表記のことと伝承のことがあれば問題がなくなります。桑原吉蔵の吉は「吉篇」として「喜」の構成部
分ととなっています。また「吉」も「き」と読みます。吉利支丹(辞典では後に切支丹とある)、吉師、
「吉里吉里」があります。
 伝承と結びつかないのではないか、佐賀に喜の影もないということになりますが、それはよくしたもの
で自然と解消されてしまいます。
有田焼ネット記事「名産の成立、エピソード高校日本史(126−02)」によれば、1646年(正保)
  「酒井田喜三右衛門」
という初代とも取れそうな、後柿右衛門という名にした、という人物が出てきています。初代のような、
尊敬を受けているという感じの人ですが、しかしこの人の前には赤絵はすでにやられていたという
ことが書かれています。常山はこの挿話を的確に取り入れたといえます。
その上で大物表記「六」を出してきたといえます。「大六」「久六」「孫六」「弥六」「甚六」「小六」・・・・
があるうえに喜六は基六、亀六、鬼六も加わってきます。
 「喜三郎」を出したという心はやはり、両書にある「後藤喜三郎」でこれは「蒲生忠三郎」「阿閉孫五郎」
「布施藤九郎」などと相撲で出てきます。「阿閉」は「阿部」「安部」であり〈甫庵信長記〉は「安部仁右衛門」
     「阿部加賀守」
を用意しています。さらに人名索引には「阿閉(閑)淡路守」が用意され、例えば

   『・・・不破彦三、高山右近、中川瀬兵衛、阿閉淡路守、都合其の勢・・・』〈甫庵信長記〉
   『・・・阿閉淡路守、子息孫五郎、不破河内守、子息彦三、・・・・』〈甫庵信長記〉

というように利用されていきます。この「不破河内守」が高山関連として「酒井田柿右衛門」物語にも
利用されるのが「石井兄弟」物語です。なおこの「阿閑淡路守」は「淡路守」という単独表記が人名索引
に出ています。
      「阿波賀三郎兄弟
       淡路守
       粟津甚三郎
       (同)仙千代
       粟屋越中守
       粟屋大夫  」〈甫庵信長記〉人名索引
 というようになると前は「あわ」で三兄弟とつながり、うしろは粟田口吉水の栗野木工助や平手の甚を
暗示しますし、「仙千代」「越中守」ともなると高山右近が出てきて、やや使いすぎで、漠たるものとなり
やすい三兄弟よりも新世代の具体性がでてくることになります。「粟屋」は、「竹屋源七」=「竹尾源七」
から「粟尾」にもなり「竹野屋左近」があるから「粟野屋」にもなり「栗野屋」にもなり「栗野」に屋号も
つきそうです。まあいえば
  「石田」
 というのも「石野」「石屋」「石尾」「石井」などに変化するのが前提とされていると思います。「石田」
というイメージがあっての「石井」かもしれないというものです。
 またこの「竹野屋左近」ですが、テキスでは、これは「竹谷氏」とされていますので、「屋」が「谷」から
変わっているようですから、「竹井谷左近」のイメージもあります。またこの人物は上野市「荒木」の
「木興(きこ)」の城の人ですから、「木工」につながるものはあるわけです。したがって「酒井田」と
いうのも「酒野屋」にもなりうる、また竹野の「左近」から「右近」にも繋がるとなると、
       坂野屋・・・・右近左近・・・竹野屋
 というようもにも考えてみると、つまり「酒井田柿右衛門」側からも、孤立性が消えて歩み寄りできる
ようにされている、前に「勾(さぎ)坂」を使ったような工夫が太田牛一にあった思われます。
また粟野を 「栗野」とすると「久利」ともなるので「利久」やら、前田の「利久」(利昌の子とされる)
も出てきますので、「前田」と「鍋島」の関係などを考慮する必要性が出てきますが、それは「石井兄弟」
伝説という面から、語るに留め、太田牛一には有田の伝説的人物の名前は脳裏にあった、すでに
「酒井田柿右衛門」という名前も意識下にあった、加賀と佐賀の陶器の関係も高山の存在が大きかった
ことも知っていた、今日ではつまらない話が、そういう重要なことを解く鍵となるものであるというのが
のがいいたいところのことです。

(58)二つの石井兄弟
佐賀鍋島に名の高い外戚「石井兄弟」が出てきます。「茂里」「茂賢」の兄弟でそういえば「茂」の字が
ついています。テキストに「丸毛は丸茂に通ずる」で「丸毛」の「茂」かもしれません。そんなことはない、
藩祖は鍋島直茂というのでその「茂」と取るのが普通だということになりますが、直茂は「彦法師」
「信安」「信興」「信昌」というとされていますから物語の世界にあるのは同じです。鍋島は朝鮮役に
功あり大身なったとされていますが、養子とされている「茂里」が実質の指揮者だったと書いてあります。
あとで嫡子勝茂が生まれたようでお家騒動にもならずうまくいったようです。二人は藩政を仕切る立場に
あり「茂賢」は正保のはじめのころに亡くなったということですから、喜三右衛門と名乗った柿右衛門
の頃の人です。

〈常山奇談〉には石井兄弟仇討ち事件という長い記事があります。ネット記事にもあり(mirai.ne.jp/hisago)
「美濃の国不破郡室原村(現養老郡養老町室原村)残っている伝説のようですが、常山がどこで仕入れて
長文にしたのかはわかりません。 これは
     「美濃不破郡(養老)」にある「石井兄弟」仇討ち物語
です。佐賀の鍋島の石井兄弟とは時空において全然関係ないものですが「石井兄弟」という表記が
同じです。表記で語る場合は、美濃で佐賀を語ることもありうる、ということをいってきていますので、
この場合で検証してみたいと思います。石井は石野、石田にもなりうることは言ってきており、今日
でも「石田」という人が偽名を使いたい場合、「石井」とはしないでしょう。
 石井兄弟を石田兄弟と読み替えて、ひょっとしてあの石田ということで読もうとする人もいるかもしれ
ない、と物語作成者が考えたかもしれないわけです。
 物語は、青山因幡守の士、石井政春という人物が赤堀源五右衛門に討たれ、石井の嫡子、三之
丞が、仇討ちを狙って返り討ちにあって、その子の源蔵、半蔵がまたその仇を討つという話ですから世代
がまたがっ長い話で、これだけの説明をするのに何回も読まないといけないというほどの込み入った
ものです。多くの人物、地名が出てくる上に繰り返しが多いので読みにくいのですが出だしが

   「因幡守宗俊の士に、石井宇右衛門政春といふ者あり。・・・赤堀右衛門・・」

 とありますから、高山関連だということがすぐわかります。「亀」も「源」もたくさん出てくるし松浦亀介の
(肥前)と亀で「とおる」につながるということや従者に「孫介」が出るのもそれが感じられるところです。
ここでは関係のありそうな表記を、一回だけあげましたが、下のようになります。
 
   『■石井兄弟報讐(はうしう)の事
   「青山因幡守宗俊」、「石井宇右衛門政春、」「因幡守」「赤堀遊閑」「源五右衛門」「赤堀」「安芸守
   「石井」「三之丞」「彦七郎」「青山」「大津」「美濃室原村」「瀬兵衛」「犬飼」「孫助」「安芸」「茂七」
   「十文字」「伊豫」「亀山16回」「青木安右衛門」「水之助」「友時」「吉政」「田中左近(さこ)右衛門」
   「石井九大夫」「丹羽大夫」「酒」「田上某」「下部」「平井才右衛門」「摂津守」「伊豆守」「周防守」
   「夏目八兵衛」「厳蔵」「半蔵」「広嶋」「福嶋」「太神宮」「兄弟」「兄弟(きやうだい)」「備前岡山」
   「下村一学」「石黒仁右衛門」「「鈴木柴右衛門」「八幡宮」「所」「板倉杢右衛門」「関川」「神」「四郎
   兵衛」「伊賀上野」「山城笠置」「越前守」「石井清大夫」「青山下野守」「筑後守」・・』

ネット記事、ウィキぺディアによれば佐賀鍋島の石井茂里は
  「安芸守」の子、「四郎兵衛」「太郎五郎」「平五郎」「左衛門大夫」「主水祐」「家俊」
で下の方「茂賢」は「しげまさ」と読み
  「七左衛門」「孫六」」「忠俊」の女の子、「伊豆守」「茂忠」「安芸守
となっており、茂賢はとくに深堀氏であることが重要で、のち鍋島に変えました。これが先ほどの赤堀
の元(もと)でしょう。
 一例だけいえば「安芸守」が■美濃室原にもあり佐賀の二兄弟の名前にもありというようなことですが
それだけで■は佐賀の石井兄弟を意識して作られたと見当をつければよいと思います。あとは佐賀
石井兄弟の伝承を調べるときに表記の注意をすればよいわけです。
 いまいってきたこと、これからいおうとしていることは
     1、佐賀焼き物の元祖は、酒井田柿右衛門である。
       酒井と柿がポイントで「酒井」は「坂(酒)井右近」であり、柿は大津の柿本人麻呂の柿で
      であり地名では大柿(垣)の「柿」である。
     2、湯浅常山は、この人物を酒和田喜六でのべようとしている。
       和歌十首あり、はじめの三つは太田の歌である。これは坂(酒)井の説明であり、右近の
       の説明は高山右近が全般に折りこまれている。太田和泉は大垣に関係し、高山と大津
       の「柿」「土」などに係わる。
     3、大垣に関わる石井兄弟の仇討ち物語は佐賀の石井兄弟の周辺を語る表記がまぶされて
      いる。〈奥の細道〉は高山→石田の流れがあり、石井の石も其の流れの中にある。大柿には
      戸田氏の菩提寺「全昌寺」があり芭蕉が加賀でとりあげている。
      加賀、夕庵→高山から佐賀の酒井田、鍋島への流れが読み取られるべきであり、最近有力
      とかいう逆の流れではない。
というようなことです。

 他のネット記事のイントロからは柿が出てきますが、「室原」も大垣(柿)近在のようで柿がからんで
います。また「宗俊」のことを「宋俊」とも書いてあるものがあります。「示」を「木」に変えた人がいると
いえますが、これは我田引水にしても明智光春(=光俊)は有名ですから、「石井政春」の「春」は「宗俊」
の「俊」を受けたといえないこともないようです。ネット記事のお蔭で「ウ冠」の字が三つ出されました
    宗  宋  宇
です。常山の記事で「石井宇右衛門政春」は石井と宇右衛門に分解され石井は何回も出てきますが、
「宇右衛門」は四回です。「宇」も大事な字で「右」「卯」「鵜」・・・・〈信長公記〉にも「由宇貴(喜)一」
や「宇津」という二字などが出てきます。テキスト人名注では「宇津」は
   「宇津頼重  宇津氏は丹波宇津荘(京都府北桑田郡京北町から興る。」
 と書かれています。「加賀」の「宇津呂丹波」につながり「虚ろ」は焼津の「とう目」の「虚空蔵(菩薩)」
を呼び出し「目」は「木工」「杢」で「本目助」から「嶋」の「福嶋」、「とう目」は脚注では「堂目」という
地名ということですから「堂」を「とう」として読んでるのもわかりますが、近くに藤枝があるから「藤」が
意識され「藤堂」も出てくるのでしょう。
 藤枝の瀬戸(の谷)から、「染」が出て、嶋田から「鍛冶」が出て、中山から「茶屋」が出てきて抜けて
いるのは瀬戸の陶でしょう。「宇津呂丹波」〈信長公記〉から(虚うつろ)→「虚空蔵城」を出してきて
解説を加えた〈越登加三州志〉の睨みは全体に及んでいるようです。「鵜飼」という二字の表記があり
ます。苗字としてだけなく、行事そのものも語りに利用されます。

4回目(ラスト)の「宇右衛門」の「衛門」の辺りに「イ十」というルビがあり、これがなんだかよくわかりま
せん。カタカナの「イ」と、数字の「十」という組み合わせは何としても不自然であり、これを読まないと
前へ進めないような感じをもたせています。
常山という人物がこれを現に書き落としたという心の働きと、手の動作があったというのが重要なことで
す。偉大なる先人がやったことですから文化遺産の一つです。これはおそらく
       「イ」
       「十」
ですから、引っ付けて「千」(干)としたかったと思われます。つまり「ウ冠」を省いた
       「示」「木」「千(干)」
に意味を持たせようとしたと思われます。ネット記事の元になった文献の著者は「宋」を使って「木」を
出したのは「青木木米」の「木」を出したかったといえますが、常山は酒和田喜六の出てきた「十和歌
のくだり」の太田道灌の二句目の歌から「鳥」を出そうとしたと考えられます。二句目の歌は「千」と
「干」の両方が含まれています。

   『★遠くなり近くなるみの浜千鳥なく音に潮の満干をぞしる』

 これは「遠近」がでていて「遠藤」の「喜」と「喜六」の「喜」
                  近藤(図司)の佐吉と石井
を結んだといえます。石井兄弟仇討ちの記事には「江戸」が十一回くらいでてきますが、これは太田
道灌の記事に連結させようという意思のあるものです。つまり石井と酒和田を結ばなければならない
といえます。もちろん太田{道灌}は、「太田」「道」で太田和泉守の「太田」をみています。
 この★の歌は、〈万葉集〉の人麻呂、赤人の次のものを折りこんでいます。
    近江の海 夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
    若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
 これで柿とか赤とか海、鳥、潮、鶴なども高山に懸けようするものでしょう。もう
なるみ」は〈信長公記〉の「鳴海」が酒和田にかかるといっています。なるみは重要です。
一部再掲
   『一、鳴海の城、南は黒末(天白)・・東へ谷合・・西又深田・・・東へは山・・・古屋しき・・・・・
      取出・・・・帯刀・・・真木・・・十・・・・真木・・・・十・・・・伴十・・・東に善照寺・・・・古跡・・・
      佐久間右衛門・舎弟左京助・・・南中嶋とて小村・・・取出・・・梶川平左衛門・・・』

 これは高山右近の属性といってよいものが多く出ています。「取出」が二つあるのは「とつとり」は
「鳥取」「取鳥」があるので「鳥出」でもあるといっているのでしょう。「古」と「小」が出ているのは「こ」の
読みのことをいっており、「小谷」は「古谷」でもある、久我は「こが」ともよむので「古谷」は「久谷」
でしょう。ここの「梶川」は酒和田の記事の「梶原」につなげて「一の谷」を出したといえます。ここで
出てくる「善照寺」が意外に重要ではないかと思います。常山は「石井」の記事で
    丹羽大夫と石黒仁右衛門と筑後守(青山下野守の嫡子)
を出していますが、別のところでこの三人を別の名前をつけて出してきています。
    丹羽左平太、石黒八十郎、高木筑後守
です。筑後守は青山から高木に名前を変えていて、これは高山を意識しているといえますが、石黒
についてさらにもう一人、石黒善内を出してきています。小牧、長久手の戦いが背景ですから、ここの
善を意識していると思います。「石黒」は〈信長公記〉に砺波の「石黒左近」がありますから「善」で
高山を語る積りでしょうが、ここでは善照寺が狙いではないかと思います。すなわち、「ぜんしやうじ」
は「善照寺」もありますが後世の人には「全昌寺」もあります。

先の石井兄弟仇討ちのネット記事に「北尾春甫」(甫に囲みあり)という人物が出ています。不破郡の
「室原」出身なのでここに出ていると思いますが、芭蕉より十五年ほどあとで生まれて83の長寿を保っ
た人のようです。
知る人ぞ知る有名な医(学)者だそうで、朝鮮通信使の医官と大垣の全昌寺で会ったということです。
この人物は「大垣全昌寺」で検索すると出てきます。ここでは見出しが「凌北尾春甫」で出てくるから
重要で、中味を見ますと
     勒北尾春甫
でも出てきます。余分な「勒」という字が引っ付いています。芭蕉の「全昌寺」では

   『大聖持(だいしやうじ)の城外全昌寺という寺にとまる。★猶(なほ)加賀の地也。曾良も前の夜
   此(この)寺に泊(とまり)て
      終宵(よもすがら)秋風聞(きく)やうらの山
    と残す。一夜の隔(へだて)千里に同じ。 』

 「大聖持」の「持」については手篇があるからわかりにくいだけで「寺」だから、またはじめの「持」を
寺にしなかったのは、手篇に城を入れ「大聖寺城城外」としたかったと思うので
   「(寺)・・・寺・・・寺・・・・寺」と「(白)=(城)」・・「しろ」・・「(泊)」・・・「泊」
の対比となり、特に最後の「此寺泊」で「等伯」(機械では東伯・藤伯もあった)が出ていることをいいま
したが、「竹」がないのが欠点です。
 「猶妙印入道武井肥後守、」という表記が〈甫庵信長記〉の文中にあったことは既述していますが、
この猶も表記の一部として採用すべきなのか、とまどうところです。酋長の酋篇は「大猷(ゆう)院」(家光
とされる)というのもあるから一概に「なお」という繋ぎの語句と決めてしまうわけにはいきません。
 北尾春甫は全昌寺が属性ですが名前の前に一字を入れています。後世の人が入れたのかどうかは
別として「凌」とか「勒」とかは名の一部とみなされています。場合によっては「凌雲」とか「弥勒」とか
いうのも属性になりそうで、そういうのが本来の意図かもしれませんがおかしいのは事実です。武井
肥後守の「猶」も名前の一部とみなしてはどうかと北尾春甫が云ったとすると
    「猶加賀の地也」
というのは武(竹)井が加賀に顔を出した、といえます。「阿部加賀守」や「青木加賀右衛門」などが
武井夕庵に繋がってきます。またこれだと「句」の「秋風」が「西風」ともなり、夕庵の声を聞く、夕庵を
偲んでいたという句意にもなり、この「聞」も「菊」にもなりかねない、というようになってきますが、何よりも
〈三河後風土記〉が戸田左門一西(西を「あき」とも読ませている)を出してきたのが意味深長であった
といえるのかもしれません。
またこの「竹」は「寺泊」を「等伯」にする働きをしたといえます。要はこの★の文の意味が不明といって
よく、これを解釈できないとこの一節がよくわからないということになるので北尾がそれを示したといえます
。次の@が原文でAに変えたいのではないかと思います。「直」は「猶」より武井肥後守夕庵にちかい
といえます。
   @「大聖持  の城外 全昌寺  という寺にとまる。★猶(なほ)加賀の地也。」
   A「大聖寺城の城外(ぜんしやうじ)という寺に泊る。 直(なほ)加賀の地也」

「持」は「寺城」の方が合っていそうです。@の「全昌寺」にはルビがないのが重要だと思います。なぜ
これを(ぜんしやうじ)と読むのかはわかりませんが「昌」は「しょう」と読みますので、また一般的にそうい
っているので間違いないなさそうです。@の「大聖持」には省略しましたが「だいしやうじ」というルビが
ついています。したがって実際これが「ぜんしやうじ」と読んでよいのは
       大  しやうじ
       全  しやうじ
ということなので、OKということではないかと思います。したがってAの「全昌寺」は一応ひらかなに
しておいた方がよいといえるとかもしれません。つまり「全昌寺」という漢字の「ぜんしやうじ」は加賀で
は幻か、という疑問も出てきます。
 「全昌寺」は読み方からすると次の▲を想起して、芭蕉の全昌寺の一節に「帯刀」「真木」の高山
を呼び込むことができました。このことは「酒和田喜六」の「十和歌のくだり」の二首目の「鳴海」からも
出てきたことです。怒涛の流れのなかに関係のなさそうなものもあるので見逃してしまいますが、ほん
とうは一つづつみないといけないのでしょう。
一部再掲
   『一、鳴海の城、南は黒末(天白)・・東へ谷合・・西又深田・・・東へは山・・たんけ・古屋しき・・・・・
    取出・・・・帯刀・●山口ゑびの丞・・真木・・・十・・・・真木・・・・十・・・・伴十・・・東に▲善照寺・
    古跡・・・佐久間右衛門・舎弟左京助・・・南中嶋とて小村・・・取出・・・梶川平左衛門・・・』

一つだけいえば●が重要で含みが多いようです。「山口」+「えびな」になっています。 ★の意味は
      ○思い出したように、付け加えるという本来の意味
      ○「武井」を加賀に打ち出す
      ○「ぜんしやうじ」(全昌寺)というのは尾張にもある、いまやっているのは加賀の話
      ○関ケ原で前田が大聖寺城の山口を討ったという前田(加賀)の当時の動きに対する非難
       であり、加賀はいやだ、早く通過し越前へ行きたい、まだ加賀かというもの
      ○「ぜんしやうじ」というのは加賀の地の話しで大垣にも「全昌寺」はあるという意味合いのもの

があると思います。
 なおネット記事で「全昌寺」という検索をしても芭蕉の記事をそのまま受け入れての語りが出ているだけ
なので、これには異論がつけにくいところですが「全昌寺」というのは一般性がないので芭蕉が創った
寺名ではないかという感じがはじめから持っていました。全昌寺への疑問の話ですが、芭蕉資料には
    「なにがし全昌寺といふ寺は先師一夜の秋をわびて」〈芭蕉全句〉
があり、〈曾良日記〉には、
   「大正侍に趣。全昌寺・・・・・菅生石(ルビ=敷地と云、)天神拝。・・・・全昌寺」
があり、「大正侍」という字もおかしいし、「大正寺」に行ったのなら「全昌寺」がでてくるのがおかしい、
地図をみると大聖寺に菅生はあり、菅生石部神社はありますが、全昌寺はなく敷地の意味もよくわから
ない・・・などがあります。「善□寺」というのが「善光寺」もあるから自然でもあると思います。つまり芭蕉は
「全昌寺」というのが大垣の戸田氏の菩提寺だということを知っていてつけた、というのがいいたいこと
です。〈三河後風土記〉も戸田一西を派手にだしてきていました。これによって高山ワールドがさらに広
がりをみせることになりますが、戸田は外せないと芭蕉が思ったからでもあると思います。

(59)戸田武蔵守重政
 湯浅常山もこれらを受けて「其の戸」とか「江戸」で「戸」を出したと思いますが。関ケ原で、大谷、平塚
の与力大名として戦死した越前の戸田武蔵守重政を取り上げていますので、この大垣の戸田氏は
一族であるといいたいと思われます。これは、ここで芭蕉が「全昌寺」を出した、北尾が受けたことで
そういえると思います。さらに常山は〈奥の細道〉のここに関わりがある話をだしています。

   『戸田半右衛門山口小弁佐々清蔵功名の事』〈常山奇談〉

この半右衛門が重政、武蔵守です。ここに山口がセットになって出ているのが重要で、これは
     戸田が全昌寺
     山口が大聖寺城
に関連しているということです。芭蕉が〈奥の細道〉の旅のここまできて関ケ原の攻防で大聖寺城で
戦死した山口父子のことが頭にないはずがないわけです。常山もこのことを補足しています。

     『慶長五年八月、山口玄蕃息右京之亮は石田に一味して、大聖寺の城に籠れり。前田肥前
      守利長大軍を率して攻めらるる。城兵わづかなれど、山口父子聞こゆる勇士なれば、度々   
      突いて出て戦ふに、・・・・・・・・・山口父子自害して落城にぞ及びける。』〈常山奇談〉

 長い文の初めと終わりだけですが、ここに「大聖寺の城」とチャンと書いてあります。「前田肥前守」
となっていますが「肥前守」は「河尻青貝」の「河(川)尻肥前守」があり、もちろん肥前は鍋島ですが
鍋島はおかしいことに「鍋島加賀守」があります。
    「八千人  加藤主計頭  一萬二千人 鍋島加賀守」〈甫庵太閤記〉
 となっていますから、これは本家本もとの鍋島です。省いた中に、「利長」らしき人物が「右京之亮」
に鉄砲で撃たれる場面があります。「二ツ玉」をもって利長の胸板を打ち抜いたわけです。「右京」が
大音で「大将利長を吾打たる、」と呼ばわりますと大騒ぎになりましたが
    「能々聞ば利長にはあらで奥村助十郎にて有ける。」
となっています。これが等伯を解く鍵でもあります。「能々」の能は能登の能でもよいし、「能々」は熊々、
隈々、隅々、角々、がありますし、「聞」は句の「秋風聞」を想起しているともいえます。「有」は「夕」です。
文中「利長、利政」兄弟というのも出ており「まさ」も意識されています。「助十郎」は「武藤」で
  (同)助十郎
がありますが「武藤」は「武藤五郎右衛門」があり、この「武」「藤」が助十郎にも懸かっていきます。
前の稿で六条合戦の人名で、両書のあぶり出しをしたときに〈甫庵信長記〉で奥村、下村が残ったままに
になっていました。下村については「下石」の「下」だから高山関連でよいといっても通るかもしれませんが
常山は石井兄弟の仇討ちの挿話で「下村一学」を出してきました。これで「学」という字が関係ありそうという
のが出てきます。一方常山は
    『沢村大学朱柄(しゆえ)の槍(やり)(金篇の槍)を持する事』
を用意しています。「朱の槍の柄」と「朱の柄の槍」があるから「柄」は絵の意味であり「槍」の「倉」が
「蔵」を意識しています。内容は

    『・・・・皆朱・・・柄・・・・たいまい(王篇に毒と王篇に冒=亀の一種)・・・皆朱の柄・・・菖蒲・・・
    越中守が士沢村大学・・・若き時才八・・・・小牧・・・●二重ぼり(シ篇に白と王つまり皇)・・・
    ・青塚・・・吾小牧・・・猶目の前・・・』

が出てきます。「沢村」は「天沢」の「沢」「宅」「良琢」(これは甫庵太閤記にもある)の「たく」「竹」「高」
にもなり得ますので「高村」=学=「下村」といえるのでしょう。「一学」は「いっかく」というルビがあり、
沢村を持ち出さなくても「氷山の一角」というから「夕庵+右近」がでますし、一書く、一画で高山右近に
ふさわしいものです。「見下墨」(みさげすみ)というのは高台から墨で一筆する絵にするというという
意味のような感じがします。●は「二重堀」で小牧長久手の戦いでの取出は
   黒田勘兵衛  木村常陸介  明石右近
が守りました。登場人物は知られたところでは
   神戸田半左衛門、細川越中守忠興、後藤又兵衛基次、本多平八郎忠勝、高山右近
ですが、細川与一郎(ルビ=忠興)が同時に出ますので、忠興二人でしょう。高山右近は秀吉の意見
に反対しています。結果は右近のいうとおりになったようですが、講談調の語りの中にもいっておきたい
いことはチャンと入っています。中でも神戸田半左衛門がここに出てくるのが重要かと思われます。
ここでは逃げ役だから太田牛一(黒田勘兵衛)が載っていますが、本当の神戸田半左衛門はあの
戸田半左衛門重政ではないかと思われます。つまり神は接頭字であり、(神)戸田半左衛門であり
経歴を語る人物として、また語りを広げるために別人とされたということになります。
高山右近はまた明石右近を受けています。また意図をもってこの神付きの戸田半左衛門を出された
と思います。戸田重政は〈辞典〉では、戸田勝成とされ

   『半右衛門、武蔵守。諱は「重政」「勝重」とも。「勝隆」の弟。・・・・(丹羽)長秀の越前移封に伴い
    松岡城主・・・・・秀吉死後の慶長4年頃・・・越前安居城主・・・同五年の戦役では西軍に応じ
    兵五百で北国口を防衛、九月十五日、関ケ原での戦闘に参加。(戦死)・・・・・・・〈武家事紀〉
    には天文永禄の頃、下方左近・岡田助右衛門・赤座七郎右衛門と並んで武名を謳われた、
    とある。』〈辞典〉

 一見、人物の重複があるようで、山鹿素行は世代の跨りを言っているようです。ここの松岡は芭蕉が
丸岡と間違っています。芭蕉もこの戸田重政のことを想起していたといえます。〈武功夜話〉で戸田
が併記されて出てきます。天正元年

   『一、一番手、夜討ちなり。・・・・・・・戸田三郎四郎(ルビ=三郎の横に勝隆)・・・・・・
   一、二番手、これも夜討ちなり。・・・・・戸田半左衛門(ルビ=勝成)・・・・・
   一、三番手、六百有余人
    ■浅野弥兵衛尉(ルビ=長政)、神戸田半左衛門(ルビ=正治)、木村常陸介(ルビ=重茲)』

 これで神戸田の神を「勒北尾」の「勒」と取ると戸田が三人居ることになります。神戸田を別人と考えても
三郎四郎が二人だから三人居ることには変わりありません。つまり
      戸田三郎勝隆ーーーーーー四郎半左衛門正治
      勝隆弟半左衛門勝成
 となりそうです。これは天正六年の一覧表で70人ほど載っているなかで
     「一、神戸田半左衛門(ルビ=正治)   {伊勢衆}尾張衆  壱千四百石
      ・・・・・・・(これより25人目)
      一、 戸田半左衛門(ルビ=勝成)         尾張衆  六百三拾石」〈武功夜話〉

 があり、始めの方は、二人含まれている感じが出ています。この親子は評判通りの武功の士であった
ので、太田牛一が乗っかって、神戸田半左衛門が秀吉にたてついて切腹させられるという破目に
至っても、これはまた太田和泉守のことだろうと、戸田と信ずる人がなかったといえます。織田初期の
頃、竹中半兵衛か、神戸田半左衛門か、と謳われたという挿話などは親の勝隆の方ではないかと思
われます。子息の「重政」は■の前後にある「長政」と「重茲」の合成されたものと見たほうがよいよう
です。つまり「正治」「政治」が「重政」ということをいいたい、苦心の配列を編著者がやったというのを
受け入れればよいと思います。
 ここで越前松岡の戸田重政が芭蕉の脳裏にあり、その芭蕉が加賀の全昌寺を書き、大垣に戸田氏の
菩提寺全昌寺がある、つまり二つの全昌寺の符合があったということは、大垣の戸田氏がこの戸田氏
の一族であるというのは確実といえそうです。〈信長公記〉の次の一文などは「高山」が意識されている
のがよくわかるものですが、同時に戸田武蔵守重政の出自も語っているものではないかと思われます。

    『其日、土田(ルビ=ドタ)の御陣取。十三日、野(ルビ=コウノ)に御陣を・・・・』〈信長公記〉

 カタカナルビ同志だからなにかありそうですが、土田については脚注では岐阜県可児(かに)郡
可児町と書いていますので地図をみると、太田という名前が(地名といってもよい)がたくさんあり深田
もあります。これが後世の「大津土左衛門」の「土」に利用されたと思いますが、もともとここで野の
「」「高山」と関係付けられていました。「高山」=「土」=「大津」です。
 「土」は「ド」で「土々」も「度々」「百々」も「ドド」という読みになり高山で「ドド」がよく出てきました。
「大津土左衛門」の「土」でいえば、例えば、大津市の「堅田」から「土田」も出てくる、ここは猪飼野
甚助の本拠ですが、坂井右近に関係付けられた(戦死の場面に出てくるからそういえる)場所です。

    『猪飼野甚助・馬場孫次郎・居初(イソメ)又次郎、』〈信長公記〉

が出てきます。居初には「いぞめ」「いそめ」もあり、「又二郎」もありますから、テキスト人名録の「大津市内
堅田地方の豪族。」と片付けられないものがあります。
 
    『猪飼野甚助・●山岡玉林・馬場孫次郎・居初(いぞめ)又二郎、』〈信長公記〉

というものがありますから●は挿入で、山岡(山+岡)と坂井(酒井)右近とで大津に高山右近を出し
てきたといえます。またここの「又」と絡んだ「居」を誰かが解説してくれるはずだと思っていればよい
のでしょう。 「山岡」はテキスト補注では「山田岡」の略とされています。山岡には「美作守」があり、
越前騒動「小栗美作」にも利用されたかもしれません。テキストでは山岡氏は「甲賀武士の名族」と
されており、「山岡対馬守」(信長公記)の考証には、
     「母は和田惟政の女」(寛政重修諸家譜)
というものがあることが紹介されています。太田牛一は「山岡」を通じても甲賀との関わりを語っている
ようです。とにかくここは、太田和泉の登場で
     「堅田へ中入(なかいり)仕候」
 があり、〈信長公記〉の「中入」語句があるところです。〈甫庵信長記〉〈武功夜話〉にも一つづつありま
した。したがって重要なところで、「太田和泉」「二郎」「甚」「高山」が出て、馬場からは「美濃守」「信
春」「信房」(信房は織田造酒もある)があり、「いそめ」の「そめ」は「染」がありそうです。「居」は雲岸寺
の山居や、瑞巖寺の雲居禅師の「居」にここの「居初氏」が関わるのか気になったので回り道してきま
したが、雲岸(岩)寺のところで、芭蕉の句に
       「竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵・・・」
がありました。これは「縦横」の意味に「竪(たて)」を使っていましたから、「立」が採り出されていると
思われます。この「立」がこの一節の終わりの句
   木啄(きつつきも庵はやぶらず夏木立
の「立」に繋がったと思いますが、伊丹布陣表、高槻で大津と甚助は関係がありましたから「竪(たて)」
から〈信長公記〉の「堅田」の「堅」のことにも芭蕉の意識があつたと思います。どちらも「堅篇」ですが
これ幸いと「堅田」という地名を利用したか、もと加太田とか、片田、交田だったかもしれないのを別表
記にしたのかは別として「土田」を出そうとする意思があったといえると思います。これは、〈奥の細道〉はじめの
    『杉風(さんぷう)が別墅(しよ)』
 の「しよ」の字の土篇にも表われて、「土」から高山も出て来るのかもしれません。脚注で杉風は

   「杉山元雅(のち一元)。鯉屋市兵衛。小田原町の魚問屋。杉風の別宅は深川元木場平野町
   と深川六間堀あつた。これは六間堀にあつた採茶(草冠に余の字)庵(さいだあん)か」

 となっています。
杉風からして三風ですし、杉山は「石田三成」が想起されますし、「雅」も「一」も太田和泉関連です。
「鯉」は「魚」と「里」にわかれ「里」は「三里に灸すゆる」の「三」、「灸」につながり、これは黒田、里村
の「里」です。「魚」は魚問屋のトトヤに行き着き利久も出てきます。「住竜文寺」という表記は「小林
端周軒」を呼び出しこれは「小林瑞周軒」のことでここから瑞岩寺の瑞がでますが、「瑞雲庵のおとと」
が出てきて、ここは真木村牛介が出てきましたから太田牛一・高山ワールドといってよいところへ出て
きます。ここの「小田原町」というのも「小田原」から「山中」「小原肥前守」「小原丹後守」などが出て
「大田原町」「太田原町」とみてもよい、深川は深田の「深」ですから、こういう場所が偶々あったのを
生かしているのでしょう。、深川に二つ候補地があって、ここでは、あとの「六間堀」の方だろうという
ことですがこれは間違いかもしれません。すなわち「深川六間堀」というのは「深川」も「六」も「間」も「堀」も
生かせるわけです。そこへも転居したことにして痕跡を残して、例えば「芋掘り」の「堀」、久太郎の堀
を思い出させたり、文に使えばよいわけです。杉風の杉からはもともと「すい」「吹」から高山が出ますが、
「べつしよ」の「しよ」の「所」から青木、「野土」からも高山が出てきます。まあ「杉山杉風」という名前
が「石田三成+高山右近」と抱き合わせたものとなっている感じです。
 
   ○大津市「堅田」から「土田」も出てくる 
   ○大津土左衛門を創った人物がいた
   ○大津は柿本人麻呂、柿本は大柿(垣)
   ○大垣は全昌寺、全昌寺は戸田、戸田は「ドタ」、「ドタ」は「土田」
です。再掲
 『其日、土田(ルビ=ドタ)の御陣取。十三日、(ルビ=コウノ)に御陣を・・・・』〈信長公記〉

で、ここの「ドタ」は「トダ」「トタ」「ドダ」に変化し「戸(と)」は「網戸」「雨戸」の「ド」、「とう目」=「堂目」
は「と」=「ど」の互換を示すものです。とにかく
        土田=トダ=戸田
 で「高」に接近しました。「野」は「神野」にもなりえます。

つまり、戸田武蔵守重政は織田信秀夫人の実家、土田氏の出ということになりそうです。土田氏は
土田弥平次が戦死し、その夫人が吉野という人です。それ以後表面には出てきていませんが、
織田の名門の家です。織田信長弟、信行(信勝)も「武蔵守」(甫庵信長記)といいますので、また
戸田勝隆が「勝」の字を共有しており係累の人といえそうです。「信行」には「津々木蔵人」という人
が付いていますので次第によっては高山右近と近い親類ということが出来ます。
なお芭蕉が「全昌寺」というのが大垣の戸田氏の菩提寺だということを知っていた、ということを前提に
話し進めてきましたが、芭蕉に次の句があります。〈芭蕉全句〉から

    『恕水子(じょすいし)別墅(べつしよ)にて即興
      籠もり居て木の実草の実拾はばや』

 この木の実は、先に藤の実が出ているのでそれにつながるものですが、この恕水は解説では

    『恕水は如水とも書く。戸田氏、通称権太夫。家老格の大垣藩士。』

 と書かれています。つまり大垣の全昌寺はもう知っていたわけです。北方宗甫がこの人の知り合い
であったかどうかはわかりませんが、この縁で全昌寺が加賀に生まれたのかもしれません。別墅は、
杉山杉風の別宅でしたが、この如水は太田和泉守を暗示するものでしょうから、重政である戸田重政
がこのとき想起されていたと思われます。
       木の実から藤の実、そこから藤白(古歌の藤白坂=関の藤白に懸かる)、全昌寺へ
       木の実から如水、そこから重政、戸田の菩提寺、全昌寺へ、
 とい流れで東泊が全昌寺の四つの寺白に、藤白も全昌寺の四っの寺泊に合流したといえます。
出発の段取りのところですでに「別墅」から戸田全昌寺の意識があったとすると、杉山杉風の名前から
も高山右近は頭にあったのかもしれません。後年、教科書で出てくる「前野良沢」「杉田玄白」が出ます
が、こういうのは偶然の一致といえるのかもしれません。
 「如行」(近藤氏)という人も〈奥の細道〉に出てきますが、この人が大垣藩士で、長旅の終わり
に大垣の如行宅で集っています。
     胡蝶にもならで秋ふる菜虫かな
という芭蕉の句に脇句を付けたのが如行で、この句の菜は草冠なので前出の採茶庵(さいだあん)の
二字の合成になっています。さいだ庵→全昌寺→不破大垣(関ケ原)という始終の流れにおいて戸田
氏があったといえます。もちろん「近藤」も「図司左吉」を出してくる役割がありました。〈芭蕉全句〉は時
系列で句が採用されているようですがこの前の句が〈奥の細道〉旅中の作とされているものです。

    『 赤坂の虚空蔵(こくぞう)にて、八月廿八日、奥の院
       鳩の声身に入(し)みわた岩戸(いはと)かな  』

 不破郡の赤坂町に虚空蔵が出てきました。岩戸の戸は如行がここにいるので戸田氏の戸が読み込ま
れたと見るのは合っていそうです。岩も「石+山」で「巌」もあるから、石田、高山もあるかもしれません。
本稿の虚空蔵は「長山九郎兵衛」の虚空蔵城から出てきましたが、〈奥の細道〉本文で「長山氏重行」
が出てきます。この人は五郎右衛門といいますが、ここからいろんなことが出てきます。一つ
   「あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すずみ」
という句が出ます。「等窮」につれて出てきたのは檜皮(日和田)の北「あさか山」ですが「安積山」
とも書きます。これは「あつみ山」とも読めそうです。「吹」(福のあて字)「夕」「涼」「虚空蔵」「永山」
つれて「あつみ」は高山の色が出ている感じです。芭蕉は「虚空」を「こく」と読んでいますので、
「羽黒」から「黒蔵」が出てきます。この「蔵」がたえず気になっています。
   「角蔵」「平蔵」「伝蔵」「清蔵」「虎蔵」「藤蔵」「才蔵」「九蔵」「三蔵」「満蔵」「久蔵」「勝蔵」「又蔵」
どあり真田十勇士の「筧十蔵」は、筧が竹と見だから「武」「高」「貝」となって高山右近が出てきそうです。
「橋本十蔵」〈甫庵信長記〉の「橋」があるのでそうとれるところです。苗字などで「土蔵」が出ますが
物体としても「土」で高山の関連とみるのも合っているかもしれません。

(60)幻の全昌寺
 常山に安芸の人「木全(きまた)知矩」という人物が表題となった一節があります。この人は、のち
「宗甫(日篇あり)」と名乗っています。連歌に秀でて毛利元就が賓客扱いにした人のようです。これを
なぜ出してきたかということですが、「木全(きまた)」は〈信長公記〉だけの表記であるので重要で、
わかりにくいからであろうと思われます。ここに出たのは
      ○「木全(きまた)は「木(村)又」である
      ○「矩」は久米之助の父の「武矩」、「柳生但馬守宗矩」の「矩」で重要である
      ○甫庵の「甫」が名前の一字になっている
      ○「木全」の「木」は「木兵衛」の「木」である
      ○「木」=「ぼく」で「牧」や「朴」でもある
などがありますが、重要人物らしい、どこかで役に立つはずだというのであろうと思われます。しかし
      ○「全」に注目させる
というのはあったと思われます。前者の人物の面ですがこれは前後重要人物に挟まれた「木全知矩」
であるので結論では「太田和泉守」の登場といえます。 まず
    「A・元就伊豫の河野に船を借られし事」、「B・那須の臣大関夕安深慮の事」
が続いて出て、Aで、元就と陶と伊豫が出て、Bで、夕庵が顔を出します。このあと続いて
     C、「太田持資(もちすけ)歌道に志す事」
     D、「持資京に上りし事附かかるときの歌の沙汰」
     E、「木全知矩連歌の事」
     F、「輝虎私市(きさい)の城を攻められし事」
     G、「輝虎太田三が子を質に取られし事」
があり、これで〈常山奇談〉「巻之一」が終っています。Eの前二つは「太田」があります。重要なことですが、
Cには、酒和田喜六が出てきた「十和歌のくだり」の初めの大田道灌の歌三首の話しがそのままでて
います。
     一首目「七重八重花はさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞ悲しき」
にまつわる話しも歌も同じですが、似て非なり、少し違うのは、予想されるところのことです。次の二首目も
既述ですが前回は「鳴海」の高山や善照寺に結びつける話しをしました。。
     二首目「遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴音(なくね)に潮のみちひをぞしる」
 本来これは戦の巧さの話しで、山際の海辺を通り抜けたい、「山の上」から、オオユミを射掛けられる
潮の干満が問題、折りしも夜中という場面で千鳥の鳴き声が小さくなった、潮が引いた、と判断した
これも古歌を知っているおかげというものです。後藤又兵衛が土煙の動きから敵の退却を予想した
というのと同じような話しです。次ぎも同じで、夜の利根川、「くらさはくらし浅瀬もしらず、持資又、」
     三種目「そこひなき淵やはさはぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて」
の歌がある、といって「波音あらき所をわたせ」と指示して事無く渡したということです。これは〈信長公記
〉の江口の渡しでの「奇特不思議」の解説になっているものでしょう。自分の見立てと「下知」で難なく
河w渡った、翌日は巧くいかなかったと書いています。要は三つの歌も、話しの内容も同じですが、書き
振りが違っているわけで、常山の世界では二つのことをする太田がいる、ということをいっています。
こういう戦の仕方などのことは大田道灌の名前で太田和泉守のことを書いています。

D、も「持資」ですが「持資」六回、「慈照院殿」三回、「猿」九回の登場となっています。人に飛び掛って
傷つける猿が、持資に平伏したので皆が「唯人に非ず」と驚いた話しです。「猿戸」が二回あり、「彼の
猿繋ぎたる戸を猿戸(さるど)といふ」ようで何のことかよくわかりません。一応、色を出した一節ですが
   「持」「資」「照」「戸」
が重要な字ではないかと思います。「持」は「用」、「資」は太田牛一は「資房」と名乗ったことは知られて
いることです。「照」は「輝」と同じで、「戸」は「戸田」の「戸」と思われます。FにもGにも「武蔵」が
出てきます。

E、の元就と木全の接触では、Aからみても「陶」「山中」があります。「知矩」の「知」は「明知左馬助」
 の「知」であり、名前の「とも」では「尾藤知宣」の「知」です。「宗甫」というのは「北尾春甫」の「甫」
 を見ていると思います。時代が違うというのは、表記で語る後代の常山には関係がないことです。
 文中に
        「秋風にかたき木またの落ち葉かな{一説。秋風にまだき木またの落葉かな}」
 というのがありますが、これは〈奥の細道〉の北国で吹く「秋風」でしょう。柳が散るというのもありました。
「また木木また」で「又木木又」もあります、表題から云えば「全木木全」ともなりそうですが「全」を
隠しているようでもあります。

Fの輝虎にも太田和泉守が乗っています。「地を白く、もん(紋?)を黒く染めたるもの」を「地白のかた
びら」というそうですがこれは、女の着るものと見て、城攻めの作戦を編み出したという話しです。
輝虎の観察は細かいところまで行き届いていたようです。ここで「武蔵」という地名と剛勇無双の上杉
の大将
      「柿崎和泉(かきざきいずみ)」
が出てきます。登場人物は輝虎とこの柿崎和泉の二人だけです。「柿」と「和泉」の組み合わせが出ま
した。

Gで太田三楽が出てきます。北条上杉戦武蔵の「忍」が舞台です。ここで三楽は上杉の与力だったと思わ
れますが
    「此時太田美濃守資房入道三楽ひそかに謀を北条に通ず。」
が出てきます。これを聞いた輝虎は
    「唯一騎三楽が陣に行きて、三楽が三男安房守十二歳なりしをひしととらえて、よくもおひたち
    つるよ。いざわが子にせん、とてうちつれて帰られける・・・・・」
 となっており三楽も心服してしまったようですが、この話の中の「太田美濃守資房」が重要でしょう。
太田和泉守が三楽に乗っかったという証拠が「資房」の名前です。高木文書の高木貞久は無楽と
いい織田有楽もおり、太田牛一も楽号を持っていてそれを三楽というのか、とにかく違乱のような感じ
の三楽は太田和泉でしょう。するとこの12歳の子が誰かが問題になってきます。
 「木全知矩」の人的な側面は、前後の記事から連歌に堪能な太田和泉を語ろうとしたものといえま
す。もう一つ
   ○「全」を強調するという側面のことがあります。
何としても「全」が特殊で、常山は芭蕉以後の人なので「全昌寺」の「全」として重要といったのかもしれ
ません。
「大聖寺城城外の寺」ならば「大聖寺」のはずですし、寺としてならば「全」より「善」「禅」の方が一般
的です。「掃」とか「書」とか「柳」「萩」などが役に立つてくるのは、加賀に「全」が入ったからで「全昌寺」
がその引き金を引いたといえます。
すなわち、「木全」は「ぼくぜん」と読むので「氏家」の「ト全」から戸田の「ト」と「全」とが、出てきました。
 全は、@木全(きまた)の全、
     A「ト全」(ぼくぜん)→「木全」(ぼくぜん)の全、
     Bト全→登全→全登→全等の全
になります。
「昌」は「政」「正」「雅」であり、「内藤昌豊」の「昌」であり、「山県と云ふ山中」というのを伴っている
「山県」は「昌景」があり、「真田安房守昌幸」の「昌」、「島左近昌仲」の「昌」、尾張の「福昌寺」の
「昌」などがあります。
 余談ですが島左近の昌仲などは何の使い道があるのかということになりますが、おそらく〈奥の細道〉
関連で後世の人が引っ掻き回したものだと思われます。芭蕉は、木曽義仲と太田和泉を重ねました。
多田神社に夕庵の甲を奉納したときの添え文を木曽義仲のそれに仮託しました。一方本能寺のとき、
関東にいた滝川を助けたのが木曽義昌(政)で、義昌に太田和泉守が乗っているものです。

    〈両書〉〈三河風土記〉ーーーーー木曽義
    〈奥の細道〉ーーーーーーーーー木曽義
                           昌仲 
これで島左近の左近から、坂井右近、高山右近、奈良左近の「右近左近」を呼び出したたらどうかと
いった人物がいたといえるのではないかと思います。もう一つ島左近は嶋左近ですが、この「嶋」は
「山」と「鳥」ですから、取鳥の高山が出てきますまた、山鳥からは
    あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ、
がありますので、大津、柿本人麻呂、大垣などが出てくることになります。嶋(しま)という字は山篇と島
ではなく「鳥」なのでまたあとで珍妙なことを述べなければなりませんのでここで一言言っておく次第です。
このように二つの名前を組み合わせるのが、〈奥の細道〉でもあります。「しのぶ」のあと「飯塚」の前
に佐藤庄司兄弟が出てきますが
           佐藤
           佐藤
             忠次
 というものもあります。それはおかしい、兄弟逆ではないか、兄を上に書くべきだ、といわれるかもし
れませんが、兄たり難し、弟たりがたし、というような文句があったかと思います。関可平次、関与平次
もどちらが兄かよくわかりません。太田牛一は加賀を、賀加としていますから表記の語りでは次忠でも
忠次でも同じです。
 地名でもこういうのはあります。昌仲の仲は奈加、奈賀でもあります。
テキスト地名索引にも載っていますが太田牛一は「長良川」のことを
                奈良川
                奈良の川
 と書いています。「山県と云ふ山中」や「鶴山」「銭亀」が出てくる場面です。ここで加賀を出してきました。
つまり美濃を北国に写した、背景を遷したともいえます。邪馬台国でも地名が北九州と大和で似ている
というような感じのものです。
尾張山中と青木鶴や亀に加賀がくわわると、青木加賀右衛門、阿部加賀守で高山右近が出てきます。
また「奈□良」もここから出てきますから、もう一人の奈良左近は高山右近と取って正解だったといえ
ます。「奈良左近」が出てきたところで序ですが〈甫庵信長記〉は『六条合戦の事』で

   『奈良左近という者の挙動を知りたる者の云いけるは、・・・名・・・・・類なき働きして、
    その名を得し・・・』〈甫庵信長記〉

といってかなりのページをさいていますが始めに、つぎの二人がペアで出てくるのに気が付きます。
    
   『三好が郎等に奈良左近吉成勘介進み出でて申しけるは、夫(それ)人の世の末に成って、
   亡ぶべき験(しるし)には、必ず軍を起こすべきに当たって起こさず、罰すべきを罰せず賞すべき
   賞せず、或は佞人権に居り、或は賢臣職を失し善人は口を閉じ、阿臣のみ威を専(ほしいまま)
   にし、唯長詮議のみに年月を過ごし、徒らに酒宴を長(とこしな)へにし、終に善に止まり悪を去る
   事もなき物と承り及び候。今又此の如く、加様の不順なる事を見んよりは、いざ六条に懸け入って
   討死せばやと思うはいかにと、憚る所もなく申しければ・・』〈甫庵信長記〉

 あとで「吉成勘助」は「兄弟一所にて討たれけり。」となっていますので、これが兄弟といわれる関係
にあるといっているのでしょう。どうも連れ合いのような感じです。内藤如庵に引き当てできそうです。ここで
二人は、太田和泉も顔負けの内容のことを話しています。奈良左近、吉成勘介はたいへんな学が
あり、おそらく文章書かせても一流の人物というのがこの発言をみてもわかります。要は二人は怒って
いるわけで義昭方が不順なことをしたといっているようです。この文の前には
   「先年義輝公に御腹召させ候ひし上は、優恕の義嘗て有るべからず」
 ということで皆が評議している席での発言です。奈良左近を高山と解すると敵方だからおかしいでは
ないかということになりますが、表記で語っているから別に問題はないわけです。思い切った発言をする
のが高山右近の属性です。常山の太田{道灌}が出てきたところで「文」という字がでてきますが、これは
は「坂井文介」ー「坂井彦左衛門」という表記から受ける印象の高山の側面をいっていると思います。
 もうひとつ、奈良左近は二人で、島左近Aと高山右近となる、ということは既述です。二歳くらい
右近が若いようですがほぼ同年輩といえます。嶋左近Aは結論として、奈良左近つまり明智光秀の
子息の一番上の、荒木村重(のち明智左馬助)の連れ合いだった人物で、本能寺の年(1582)「生年
三十二歳」で、関ケ原50歳くらいになります。奈良左近は永禄十二年1569「行年廿計」ということ
でしたから本能寺は13年後ですから33になりますので年齢的はあっていそうです。
 このときに、坂本城に火を放って自殺したという「明知(智)左馬介」は死亡記事の表記がマチマチで
脱出して、〈名将言行録〉の61歳の島左近にあたるといえます。死亡記事が邪魔をしている場合が多い
のですが、永徳の雲龍の羽織、二の谷の冑、大鹿毛という馬、の明智左馬助の芸道の面を追ってくる
と生存の目が出てきます。そうなれば左近に宛てるに最もふさわしい人物が出てくるということになり
ます。坊丸、力丸、光慶など表記を別にして生き返ってくる例を積み重ねてきていますが引き続きそう
いうものが出てくるのはありえます。これは継承されてきた述べ方だから仕方がないことです。考え方と
としても死んだ方が潔いという一方の見方はいつもありますが、死ぬことないじゃないか、というのが
大勢をしめる時代であれば表向き殺しておこうというのは普通程度の知恵でしょう。
 常山は明智左馬助(秀俊)行動について
   「年久しく坂本に有りて大津より唐崎までの遠浅(とほあさ)はよくしりたり。・・・唐崎・・・一つ松(まつ)
   ・・・十王堂・・・明智左馬助湖水をわたせし馬なり、札に書いて・・・・安土より光秀が奪いとり来たれる
   ・・・乙御前の釜などいえる名物の器を、唐織の肩衣に包み、天守より投げおろし、・・・・」

 と書いています。常山ワールドのなかの話しですから「遠浅」は太田道灌の二首目、三首目の「遠」
「浅」は受けられていると思います。大津(この前に粟津もある)もそうなっていますが「唐」が三回も
出ており「たいとう」がありますから「帯刀」だけではなくて「大唐」もありうるのかもしれません。そうすると高山
と左馬助が重なるということになります。本人は「明智左馬助」という名前を使ったようでこれは〈信長公記〉
の表記と一致します。この表記をフロイスはじめ皆が使わなかったのが問題です。常山は「明智秀俊」
を使っています。財宝は安土にあったものと書いています。これは文化財の保護のための持ち帰り
または山分けであったことがわかる一文です。
この「木全知矩」の「全」「木」の組み合わせから、「高山右近」が出てきて「全昌寺」から「昌」の島も
戸田も出てきて、酒和田喜六から蒲生も菊もでてくるとかいろいろな布石があって陶器などの文化面
のことと関ケ原のことが混然一体となって出てきた感じです。
 何となく「石田と高山」「高山と嶋」というものをセットにしようというものが随所に見られる動きと思いま
す。そういう軸を作ると説明がしやすいということでしょうか。  

(61)嶋左近の面影
 石井、北尾春甫などで「不破郡室原村」の「室」がでました。これは岩室長門守の「室」ですが「岩室」
は「石室」でもあります。〈奥の細道〉に「室」が出てきて「嶋」も同時に出てくるところがありますから
  嶋左近=右近=石室=長門守
というものがないのか、という疑問がでてきます。

     『の八嶋に詣す。同行曾良が曰く、此の神は木の花さくや姫の神と申して、富士一躰也。
     無戸室(うつむろ)に入りて焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生まれ
     給ひしより、の八嶋と申す。
     又を読み習し侍るもこの謂れ也。●将(はた)このしろといふ魚を禁ず。』

 ここで親子がでてきています。木花姫神と火々出見尊です。それと無戸室、焼く、火火、煙から陶磁
器の窯での作業が浮かび上がってきます。脚注では「無戸室」は、
      「四方に壁を塗り、出入り口のない部屋」
となっています。これはもちろん窯のことでしょう。「焼給ふ」については
      『「我が身を焼き給ふ」ではなく「無戸室を焼き給ふ」であろう。』
とされています。また「火々出見のみこと」は「彦火々出見尊」であって、「彦」が入っていますから、
また〈日本書紀〉では火の三兄弟の話ですから、その子でいえば高山などのことをいつているといえま
す。
 「室の八嶋」は〈曾良日記〉では「毛武」という村の近くらしいのですが、脚注では、今の「六所明神」
で「大神(おおみわ)神社」というようですが「八嶋」が出てきません。矢島六人衆の故事もあるというの
は既述ですが、「うつ室」は「虚空室」で「黒」「宇津」ですのでまた「戸」もあり一族を呼び出してもよい
のでしょう。「嶋左近」がでてきますから左近右近で高山が出ますが八嶋は「八山八鳥」ですから高山の
山と鳥、八右衛門も出てきます。「室」が三つ出ていますが「洛の貞室」の室と連携しているとすると
貞室は、陶器の修行にきたのかもしれません。また「神」が二つ「神」の右側の「申」が二つで「神」と
いう語に意識があると思います。
 
「富士一躰」というのは「高」と「土」が一体というのかもしれません。また「身」「本」も一体になっていま
す。ここに出ている「曾良」は「河合氏」で、〈甫庵信長記〉には「河合安芸守」がありますから芭蕉は鍋島
の石井兄弟を認知していたといえます。
既述の通り太田牛一が鍋島の石井兄弟を認知していたからそれは当然ですが
    飯田左橘(さきち)兵衛尉〈甫庵信長記〉
がありますから直接的にもっていけそうです。飯田の飯は「い」です。飯河山城守は井河山城守で
他にも例があります。したがって
    酒井田柿右衛門→坂飯田左橘(さきち)兵衛→坂井田佐吉兵衛
 となります。また石田三成には有名な柿の伝説があります。刑死直前に柿は腹に悪いといって断っ
たというものです。この挿話の作者は、石田三成を賞揚するとともに、柿本人麻呂、柿右衛門の柿、
とか「腹」とか、日本の文化、伝統のことを語ったといえます。石田から石井兄弟のことも考えよという
注意も入っているのかもしれません。いまこの表記は「橘氏」のことしか使い道がなく「さきち」のルビは
目立つのでここで使ったものです。
 ●の部分の訳は「またここではこのしろという魚をたべることを禁じています」とされていますが、魚を
焼くことを禁じているということではないかと思います。「この魚を焼くと人体を焼く臭気があるという」
となっていますので、人体を焼くところではないという意味があるのではないかと思います。つまり陶器の
ことをいっていると思われます。ここの「このしろ」の「しろ」が全昌寺のところにおける「しろ」と同じで
(将とか)城の「しろ」ではなく「白」い、といっているようです。しろい「こはだ」と言っているような感じもし
ます。
要は「将」が大将の「将」とルビの「はた」で創られているので「しろ」も「城」を連想するし、魚の名の
ひとつの部分にもなっている、そう取るのではなくて
      「明けほのや白魚白きこと一寸」「藻にすだく白魚やとらば消ぬべき」
という句もあるから、しかもこれは本人の作品だから、どの段階での白かはっきりしませんが、小魚は
白らしきものにもなりえるといえます。
 どうやらこの「室の八嶋」の一節は、嶋左近と高山右近が重ねられた、また「岩室」→「嶋」→「高山」と
いう人名の流れが出された、というものであろうと思われます。前者では丸毛三郎兵衛がこの二人に
なるのかもしれない、後者では伊丹布陣表の高槻ゾーンのつぎ、「野々村三十郎・(安部二右衛門)
・福富平左衛門・下石彦右衛門」というものが浮かんできそうです。今となればマイナーの代表のような
「安部二(仁)右衛門」でも「大和田」の城主ですし、「安部加賀守」(考証では「勝宝」)、「阿部加賀守」
という表記につながり「阿閉(閑)淡路守」へ行く表記だからメジャーの代表のようなものになっています。
これはインチキゾーンでのことだから「十郎」三人を束ねた「野々村三・十郎」がありえますが、この解釈
だと、本能寺で戦死したのは、これは表記を消したと取っても問題ないと思います。この三人が本能寺
で戦死したので芸道で才能がある人物と推定されるのに一巻の終わりになってしまったわけです。
陶器が佐賀から語るしかないというのもこの後が続かなかったからです。

(62)ベタ誉めの人物
 全昌寺の一節の隠し文字「(城)」と「城外しろ(城)」は「白」で等伯を創っているということをいい
ましたが、ここも「このしろ」その「白」が出された、その読みの根拠がここで出ている、というのがいい
たいところのことです。
 もう〈辞典〉に高山右近は「等伯」と書いてあるのですから、その方向で考えているという
ことだけです。長谷川丹波守、長谷川藤五郎、(絵を描いた)長谷川平蔵という表記があり、長谷川
等伯はこれらとは別のものだろうと決め付けてしまう必要はないでしょう。
 高山右近は絵図で戦況を報告して信長公を感心させています。地図を描いたというのではなく、
地図に加えて洛中洛外図のようなものを描いたのでしょう。想像に過ぎないとなるかもしれないので
ここで、もう一回その場面を出してみます。これは、テキスト〈信長公記〉では365ページにある
次の文で一つの鍵となる情景です。

 ●『中国因播国とつとりより、高山右近罷り帰り、彼表堅固の様子、絵図を以て具(つぶさ)に言上
   候。是又、御祝着なり。』

 一つは「具(つぶさ)」というのは「詳しく、細かく」という意味ですから、この場合かならずしも必然
ではない、絵図があるから、絵の具というものが出て、彩色を表わしている、地図、略図とは考えにくい
ものです。また御祝着とありますから感心して喜んだのは事実でしょうが、「着を祝う」というのがあります
から、かなり深入りして帰ってきている感じです。勇敢とか手を抜かない性格を現しているとともに
建屋木々人物とかが、まあ手に取るような絵図というものが感じられるところです。まあそんなの屁理
屈だということになりますが、常山も敵の絵図といっているようです。

     『東照宮と越前少将忠直卿御不和の起原の事
     ・・・越前少将忠直卿{後号一伯}東照宮と不和の起原は、大坂にて諸手の持ち口の図を
     銘々にしるして見よとの上意のとき越前の持ち口の敵城のかまえをさもことごとしく彩色図
     して出されたるを神君一目御覧有って、役に立たぬ男なりと有て御見限り有て其ののち
     御不和なりしとなり。そうじて敵城の図などは・・・ざつと図して出すこと古法なりとなり。
     神君はかようの古法よく御覚えありて、武の法くはしく御吟味ありたる名将なりし故に、天下
     も御手に入りし、と申されしなり。』

 越前{一伯}となっているので高山右近を意識した話です。これは常山も第三者に語らせています。
皮肉が入っていますが、今からいっても、東照宮の天下は要らない、高山右近のこのときの絵図が
欲しいところです。

●の文で重要なのは「中国」「因播国」「とつとり」です。これが高山右近の属性となるということです。
こういうことでとにかくこの文が高山を右近の本質を表わす重要なところです。

しかるに、この文が目につきにくいようにされています。この文をもう一回みようとすると「高山右近」
の項目では十四もページ数が出ていますから、それでは検索しないわけです。地名索引に「とつとり」
があるのを知っているからそれでみるのが手っ取り早いわけです。
           項目           ページ数
   と行    とつとり表         361ページ
          とつとり川         361
          とつとりの郷        224
          とつとりの城        356
 全部見ましたが365ページは出てきません。おかしいなということで繰っておりますと「因播国」を
思い出しますのでそれを見ますと
   い行    因幡                325
          因幡国中             356
          因幡国とつとり(とつ取・鳥取)  361・367・372
          因幡国とつとり表         360
          因幡・伯耆の境目         368
 ここでも365ページは出てきません。三番目で出てきてもいいではないかと思いますが出てこない
わけです。
「と行」で重要なことがもれています。「とつとり」が356に二つあるので「とつとり  365」すべきものが
抜けています。これは地名ですから「と行」にいれないといけないものです。「とつとりの城」があるから
いいじゃないかというわけにはいかないと思います。まあしかしこれは、どうせその頁を皆見るのだから
見つかることです。
 ここの「因幡」が全部間違っています。全部上の文のように「播磨」の「播」です。また「取鳥」があるのも
抜けています。これはどちらの字でも同じだというのが通説になっているということがわかり、ありがたい
ことでもあります。

最後にお目当てのものが「ち行」で出てきます。

   ち行     中国因幡国とつとり       365 → ■因幡国とつとり

しかしこれは気が付きませんから、もうあきらめて、また「高山右近」をはじめから検索するということに
なります。
最後の■はないほうがよいわけで、またもう一回「因幡国とつとり」の三頁を検索してしまうものです。
そこに365が書いてないからまたスカ喰らうということになります。ただこれでチャンと書いてある
のも事実じゃないか、いわれるとそのとおりです。
 「中国」に三つあり「中国」「中国安芸」「中国因幡国とつとり」
ですが、これもみないといけないわけです。すなわち「中国安芸」くらいに「とつとり」の高山が及ぶ
かもしれないということもありえます。〈甫庵信長記〉では中国の紹介があり、毛利、尼子が述べられて
います。陶五郎が出てきたことは既述ですが、安芸毛利については
   「安芸国毛利陸奥守大江朝臣元就・・・・・先祖・・鎌倉の三代将軍の執権因幡守広元
   「・・・大枝(え)を改めて大江の姓を賜う。・・・・江家嫡流・・・」
   「元就の父をも亦広元と曰ふ」
   「兄を興元といふ」「興元の子幸松丸」
   「・・・毛利・・・元就・・・・・郡山・・・・多治比・・・・毛利・・・」
 と続いたあと

   「★宍戸安芸守隆家を聟に取りしかば、隣交の盟(ちぎり)弥厚うして光彩門戸に生(な)る。」

という一文がでてきます。
 これによれば毛利は
           広元ーーーーー興元ーーーーー幸松丸
                     元就
となっています。毛利の興隆はこの人の御蔭と書いてある★の位置づけが、逃げている話しだから
さっぱりわかりません。江戸期の名うての人物がみな〈甫庵信長記〉を読んでいるのですから著者が
頼りないというわけには行きません。元就の父が「広元」だから先祖に大江を持ってきたのかもしれま
せん。毛利は森であり、陸奥守は〈甫庵〉ではこれ一つしかなく、「太田和泉守」を「毛利元就」に重
ねています。したがって「幸松丸」というのは兄の子だから「高山右近」にあたります。常山では高山
右近は「幸任」で「酒和田喜六」の出てくる「十和歌のくだり」では太田道灌の後は奥州八幡太郎義家
と安倍貞任が登場し、その次が「奥州会津百万石」「蒲生飛騨守氏郷」などで高山が不思議に奥州
にからんで出て来ます。梶原は一の谷で歌を詠んで、また奥州で歌を詠んでいます。
 ★の人物は「安芸守」であってこれは高山右近でしょう。つまり幸松丸と高山右近を重ねたら、太田
和泉守は武井夕庵の子を養子にして、色々仕込んで自分著述の後継者にした、それが小瀬甫庵だと
いうことを〈戦国〉でいっておりますが、高山右近が出てきそうです。また「安芸守」は石井兄弟仇討ちの
の物語と、佐賀の石井兄弟の名とで出てきましたので、鍋島石井兄弟は太田和泉守の婿養子という
ようなものかもしれません。
 鎌倉の執権大江広元は
   「安芸介」「因幡前司」「因州」「兵庫頭」「掃部頭」「大膳大夫」「陸奥守」「別当前因幡守」
というような表記で出ています。利用されているものもあり、自分の家の先祖の一つと思っていたの
かもしれません。

(63)等伯の匂い
抜けた「とつとり」からは重要な文がでています。

    『とつとりの東に七・八町程隔て、並ぶ程の高山あり。』

があり鳴海で東が出てきたのに対応するものでしょう。なるみでは黒末川に隠れ天白川(脚注)が
ありました。先ほどの「室」で「富士一体」というのがありましたので、入力すると「富士」は「藤」が先ず
出てくきます。芭蕉に藤の句があります。

    『草臥(くたび)れて宿借る比(ころ)や藤の花』

一つがこれですが、解説に初案の話が載っていて次の芭蕉書簡が引用されています。

   「・・・なつかしきままに、二十五丁分け登る。の景色言葉なし。丹波市(たんばいち)、八木
   (やぎ)と云ふ所、耳成山(みみなしやま)の東に泊る。“ほととぎす宿かる比のの花”と云ひて、
   なほおぼつかなきたそがれに哀れなる駅(むまや)に到る。」

「滝」は「竜」があり「多芸」もある、「八木」は「米」になりますが「焼き」というのには材料不足でしょう。
ただ「八木」は「云ふ所」となっていますから必ずしも「やぎ」とは限らないとおもわれ「やき」すると、
「焼」ぐらいしかないようです。耳はミミで三三で九の山(谷)が出てくるのかもしれませんが、ここの「東」
泊」が、とつとりの東、なるみの東を受けて、高山から等伯に到ると思います。
  ここの藤も芭蕉においては「白」とセットになっていて藤白が出来上がっています。次の句は大垣
も、武儀郡も出てきます。

    『関の住、素牛(そぎう)何がし、大垣の旅店を訪はれ侍りしに、彼の「藤白御坂」といひけん
    花は宗祇の昔に匂いて
        藤の実は俳諧にせん花の跡』

解説では
    『「関」は岐阜県武儀郡。現在関市・・「素牛」は俳号、後に惟然。広瀬氏。関の人。
    「藤白御坂云々」は宗祇の「関越えて爰(ここ)もふじしろみさか哉」にもとづいた表現』
となっています。
宗祇の句は、初めに挙げた万葉の有間皇子の藤白坂の故事を踏まえた為家の句によったものです。
素牛という人は関に弁慶庵を結んで住んだという人物で、「牛」といい「惟」といい、太田牛一ファンの
ようですが、関に、弁慶だと富樫になりますが〈武功夜話〉に出ている得体の知れない加州の浪人
富樫宗兵衛は「宗」なので気になるところです。

(64)長谷川等伯
 二つの「とうはく」藤白、東泊が「藤の花」「藤の実」「芭蕉の手紙」からでてきましたが、こういうのが
いくら揃っても、研究では
   長谷川等伯は(1539〜1610)で
   高山右近は  (1553〜1615)で
違うからどうしようもないということで終わっていると思います。踏み込んで表記で読もうとしない限り
何時までたっても出てこないといえます。
ネット記事で見ても長谷川等伯は長谷川家に養子に入ったと書いてあります。若いときの話だから
高山右近がそうしたかもしれないわけです。ネット記事「謎の絵師・長谷川等誉」によれば

  『長谷川等伯は、能登畠山家の家臣・奥村文丞宗道の子として七尾に生まれました。幼名を
   又四郎といい、帯刀と称しました。幼い時、一族の染物屋奥村文治の斡旋で、七尾の染物屋
   長谷川家(長谷川宗清{道浄}に養子として出されたのでした。地元七尾で活躍している頃は
   信春と署名、上京してから等伯を名乗ったらしい。』

 となっています。又四郎というのは小瀬甫庵の名前として特別な意味を持つものです。甫庵は
ほかに長大夫、道喜という名前をもち、姓は坂井、肥田、小瀬と変えています。両書本文でも
     金松又四郎
しかないようです。本文でも特別の言及があります。

   『信長年来御足なか(足半=かかとのない短い草履)を御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて
    金松又四郎武者一騎山中を追懸け・・・・・生足(スアシ)にまかりなり、足はくれないに染みて
    参り候。(信長)御覧じ・・・・・御足なか・・・金松に下さる。・・・冥加の至り・・・面目の次第なり。』
                                                    〈信長公記〉
「金松牛助」という表記もあり、これは太田牛一Aくらいのことでしょう。又四郎を通じて等伯と太田牛一
の次世代の誰かがが重なったといってよいほどです。

足が四っありこれは深田の足入れを想起しています。刀根山は高山ワールド伊丹布陣表で稲葉伊豫
芥川が陣した取手です。山中がここに出てきました。帯刀は高山右近です。「たいとう」もあります。
これだけみても太田和泉、小瀬甫庵、等伯、高山右近が重なったといえます。寄稿者が参考にされた
文献の著者は「又四郎」という名を書いたとき必ず両書の「金松又四郎」をみたから話しが符合して
くることになると思います。
 親の名、奥村文丞宗道は、畠山家の臣ですが「畠山殿」というのが出てきたら武井夕庵かどうかを
疑わなければならないものです。「畠山総州」がでましたし「畑野源左衛門」=「波多野兄弟」などへ
波及します。テキストでは温井氏も三宅氏も神保氏も畠山氏の臣で、室町の斯波、細川、畠山の三管
領から引用されるものです。しかしこれは戦国期文献用に脚色された畠山で、奥村ともども武井色を
出すものです。
 「奥村」は、「伊豫」で稲葉や石田につながります。これは前田の外戚ですが、その意味で「武井」
と同じです。実態的には奥村は前田の筆頭に近い家老で前田、明智と外戚という関係があります。
直接的には常山などに載っている奥村、能登末森城籠城の

  『奥村助右衛門永福(ながよし){後に伊豫}、』〈常山奇談〉

 です。この助右衛門の嫡子が「助十郎」で両書では「助十郎」は「道家助十郎」か「武藤助十郎」
しかなかったと思いますが、その「助十郎」と同じです。「道家」は武井でしょうが、武藤は五郎右衛門
があり、武・竹と藤で武井肥後守と重なるといってもよいと思います。籠城戦では夫人の方が有名で、
夫人を通じて前田、武井と親戚ではないかと思われますが、とにかくこの「奥村伊豫」の属性は
能登の末森です。〈甫庵信長記〉で「奥村」「奥村平六左衛門」が孤立表記になっています。
「六」は喜六の「六」、「平」は長谷川平蔵の平くらいでみておけばよいのでしょう。
 常山は不破の石井兄弟のところでここの奥村の「伊豫」を出していました。
     伊豫ーーー稲葉伊豫=・太田和泉守
です。〈甫庵信長記〉では太田肥後守という表記も出ますので武井肥後守といってもよいのでしょう。

「文丞」は「文」が
     「坂井文介」=「坂井彦左衛門」=「坂井孫平次(テキスト注は喜左衛門の子)」=
     =「坂井右近」=「坂井甚介(甚は平手=平田三位で夕庵)」
であり、「文」が「彦」「甚」「右近」「平」などと通じています。これは〈信長公記〉の表記ですが、甫庵は
     「坂井越中守」
を用意していますから一発で必中です。「丞」は竜門寺の「三宅権丞」、「賀藤三丞」などがあります。
「宗道」はもう語るまでもなく「宗祇」「宗達」「宗久」「宗二」など一休の「宗純」からくるのか知りませんが
無数にある「宗」の系譜の「宗」と、「道喜」やら「道家助十郎」「道家清十郎」の「道」の組み合わせになって
います。甫庵はチャンと
     「長谷川宗兵衛」「畠山道誓」
 という表記を用意しています。この「誓」が「誉」に似ているか、等誉がこれをみて名前をつけたといえ
るか、ということになりますが、そうとすれば、次の世代である等誉がこういう話を残したのかもしれませ
ん。この地は〈桶狭間〉で出てきた前野義康の領地があるところのようですから書きものも信用が置け
るものが残っているのではないかと思われます。
 養親の長谷川宗清(道)は、苗字が違っているだけでほとんど実父と重なっています。「清」は
「道家の清十郎」の「清」、中川の「重清」「虎之助」「瀬兵衛清秀」の「清」があります。「浄」は播磨の
「浄土寺」は「きよたに」というところにありますので「きよ」と読ませるのでしょうが、「道清」という名前
でもあったのでしょう。「光院」は「山岡光浄院」でこれは「備前守」「道阿弥」という人を指すよう
です。安土の浄土宗の寺「浄厳院」には「寺中警固」に「長谷川竹」の名前がある(信長公記)、ので
それを借用すると「高山」にも繋がります。七尾の「七」なら「織田七兵衛信澄」も警固の一員です。

   『等伯は32歳で上洛するが、それまでは信春と名乗って、七尾を中心にして活躍していました。
  等伯は最初、絵の心得のあった義父・奥村文丞宗道から手ほどきを受け、そののち雪舟の弟子
  等春からあ指導を受け、一字をもらい等伯と名乗ったとされています。』同ネット記事

 要は 雪舟の高弟=長谷川等春=長谷川宗清ですから長谷川等伯@がこの人物といえます。
雪舟の系統の人ですから両書の単独表記で「雪峯」、甫庵は「雪岑」というようなのが高山とか長老
という語句に接近して出てきますので、これは「雪+高山」なのでこの人に該当するのかもしれません。
 はじめの32歳で上洛した人は「等春」という名前だから理屈からいえば長谷川等伯@といえます。
高山右近は長谷川等伯Aという存在になるといえます。「雪岑」の「岑」は辞書では「小さい」という
意味があるようなので、これを高山右近に宛てるため違わせたのかもしれません。これも武井夕庵が
北陸にいたという前提があって成り立つ話ですからいままで延々と述べてきたのが生きてきたといえます。
 斡旋した染物屋の奥村文治は、世話好きの太田牛一でしょう。長谷川家も染物屋と書いてあるから
「染める」というのが気になっているわけです。これは先ほどの記事をもってこないとわかりません。

 『金松又四郎武者一騎山中を追懸け・・・生足(スアシ)にまかりなり、足はくれないに染みて・・・』

 この「山中」「くれない」「染まる」というのがキーワードです。奥山中で「小九谷間中」があります(後出)。
この間中と絵と朱が〈信長公記〉でセットになっています。
   
   『三間間中柄の朱やり五百本ばかり』
   『三間柄・三間間中柄(まなかえ)などにさせられ・・・色々余多(あまた)付けさせられ、ちやせんに、
   くれない糸・もえぎ糸にて巻立て・・・大刀朱ざや・・・・朱(あか)武者(むしや)・・・・』

絵付け、色付けがあったのでしょう。染物屋というと〈信長公記〉で
    「佐野    一、雁(かり)の絵」
というものがあり、苗字か屋号かよくわからないものが絵を献上しています。テキスト脚注では
    「佐野は屋号を灰屋という。・・・紹由か。」
とされています。しかし人名録では「佐野」の表記はなく「佐野衆」として
    「泉佐野市にあたる地区の国衆(くにしゅう)」
とされています。〈信長公記〉で「佐野」という地名は「泉佐野」のことです。この灰屋というのは紺灰商
人で、これは、藍玉から紺色の染料を取り出すための触媒となる炭灰を売る商人ということのようです。
奥村文治から、染物屋佐野を思い出せばよいわけです。常山に次の一節があります。

  『関白宇都宮(うつのみや)にて佐野天徳寺(さのてんとくじ)と物語の事
  秀吉★陸奥に趣く時、宇都宮(うつのみや)にて佐野天徳寺(さのてんとくじ)を呼び、(以下細字)
         野州佐野辛澤山の城主佐野小太郎藤原宗綱天正十三年討死して子なし。家臣
         連判の起請文状を小田原に送り(北条氏政の弟氏忠が家を継いだ)。宗綱が伯父
         天徳寺了伯は佐竹の一族(の中から佐野の家を継がせようとしたが用いられず)
         了伯はそれより京都に赴き黒谷(くろだに)に閑居せし(を案内役にした)
  物語りさせて聞かれしに・・・・天徳寺・・・』

 中の細字の部分は出仕する前の動向の説明ですが、細字の天徳寺は別人で、それがどう行動したか
ということは歴史的に見て余り意味がないことですが「黒谷」に住んだということが重要といっていると思い
ます。すなわち「寺」が三つ「伯」が三つ、「竹」も入っています。等伯が折りこまれている上に
  「宇津」「陸奥」「佐野」「天」「徳」・・・・があり「黒谷」は「こくたに」なので「奥村」を使った理由が
でてきそうだということです。

一応次のように纏めました。@がネット記事、Aが〈信長公記〉、Bが湯浅常山のものです。

      A                  B             C             D
  @奥村文治(小九村文春)→    染物→      長谷川等伯(等春)→ 古九村・黒村
  A和泉佐野→          佐野→灰屋紹由    △△△         □□□
  B藤吉→                佐野→      長谷川等伯     → 黒谷

となります。AのC・D(△、□)が空白になっていますが、灰屋紹由から多くの芸術家が繋がって出て
きますし、灰屋は前田とつながりがある人物です。灰からは貝や、火(焼)が出てきますので埋めよう
とすれば出てくることですが、太田牛一が△や□のところに等伯と、久谷を入れようとする意識があった
かどうか、それが高山右近と結びついているかということが問題になります。
 前掲の佐野天徳寺のくだりは、「小田原や宇都宮」が出ていて、既述の大関夕安と連動した一節です
Aに灰屋の佐野の線以外に、地名の佐野の線を持ち込んだ、つまり夕安色の△が、泉佐野を
補強したといえます。つまり常山は△△△に一応、「天徳」と入れておくとよいといっている
ととっておけばよいようです。□□□はここでは高山右近「一の谷」というのを想起しておけばよいので
しょう。

(65)「奥」の使用
 もう一つの問題は「A@」と「AA」の連結がなるかという点です。つまりネット記事の「奥村」という
のは前田の姻戚の奥村ということでその名を使っただけか、ということです。前田には本多、村井、
横山などの家もあります。これはA@で「奥」を「小久」と分解しているようなことですが、ここでは
ややこしい方の話をしてみようと思います。さきほどの「佐野」と一緒に出てくる人物があります。
次の記事は、夕閑と丹羽五郎左衛門が使いとなって名物を買い上げる場面の一部です。

       『佐野     一、雁の絵
      ■江村     一、もくそこ(脚注=百底の花入れ)』〈信長公記〉

 脚注によれば、■が「不詳」となっています。今までも分からないから時々挙げて来て欲求不満になって
いる部分ですが、ここまでくると輪郭が見えてきました。
 「■江村」は「江」の字が「大きい川」という意味で「揚子江」の「江」で代表的な読み方は「こう」です。
「江村」そのものも辞書にあり杜甫の詩の「江村」は「川ぞいの村」という訳になっています、〈信長公記〉
では「江口」「江口川」「「江口通」「江口の渡り」があり、「和田伊賀守」がそこに出ています。また先
ほど「鎌倉執権大江広元」の「江家の嫡流」の「江」がありました。
そういう「江」(こう)ですが漢字に直すと「」「甲」「行」「興」・・・・などがあり、それもイメージされるところ
ですが、小谷(こたに)は小谷(おたに)ですから、
       「こう」は「おう」
です。ここで、★が効いてくるようです。「陸奥」はルビ省略しましたが「みちのく」となっています。
まあ「陸の奥」「道の奥」「未知の奥」のように「奥」が出てきます。もう一つが重要です。
 「陸奥」の「奥」は「おう」と読むのは誰でも知っています。「奥州」「奥羽」の例です。
      「江村」は「奥村」
といいたかったということを@とBの著者が察知して書き残したと見るのがよいようです。まあそんな
ややこしいことはしないだろうと思いがちですが、この著者たちは、どちらかというと世をリードする
立場にある人で、比較的恵まれたいわば体制側という立場にある人々ということでしょうが太田牛一
の残したものを後世に伝えるべく解釈をのこし、必ずしもいまある状態が当時の人たちが考えていた、
望んでいた過程で招来したものではない、本当はこうだったということを語りかつ残したといえるの
です。
太田牛一もいたるところで「奥」を書き残しています。
 次の記事は「熊谷大膳亮」の最後の様子を書いたものの抜粋ですが、辞世の句に「おく」が入って
います。

    『熊谷大膳亮・・・・嵯峨二尊院・・・寺・・・侍・・・問ふ・・・・・住持・・・住持・・・和尚・・・御寺・・・
    和尚・・・因・・・御寺・・・・黄金三拾・・・・和尚・・
    ・・・・・・
      あはれとも問ふひとならでとふべきか嵯峨野ふみわけておくの古寺
    ・・・・・
    粟野木工・・・粟田口吉水・・・・鳥・・・・小路所・・・十文字・・・・』〈甫庵太閤記〉

  この重要な場面の「おく」が、ひらかれているので、宛てる漢字に頭をひねることになります。一応
「奥村」という二字の表記が〈甫庵信長記〉にありますのでこれに引っ付けようとしてして待機しておれ
ばよいと思います。ほかに「奥平」「奥津(興津)」「奥田」がありますが「奥田」は「奥田三川」で「九」、
「奥平」は「九八郎」、「奥津(興津)」は「十郎」で「九」「十」が出ています。
「おく」は「小九」ですから「大九」、「古九」にもなります。熊谷の「谷」が背景にあります。
「奥」が「寺」に結びついているのが重要でしょう。短い文章ですが寺が七つあります。芭蕉が全昌寺の
ところで使っている侍(人篇+寺)・持(手篇+寺)もここにヒントがあるのかもしれません。この文のすぐ
前に「白江(白井)備後守」の記事がありますから、この「白」と「寺」とあわせて「等伯」を創ったといえま
す。「とふ」も三つあります。「竹」は芭蕉が「野明亭」で
    「涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹」
と詠んだので「竹」は甫庵も意識していたと思われます。この「野明」は西氏、坂井氏で、黒田家
浪人ですから「おくの古寺」は「古くのお寺」「黒の小寺」で芭蕉は太田和泉を見たのかもしれません。
「涼」から「とおる」のこととわかりますから熊谷の嵯峨は「佐賀」の意味があるのも確実です。
  「住」は「墨」「角」「隅」「隈」「熊」にもなり、「持」は「寺」でもありますが「もち」で「用」でもあります。これが粟野
木工助の名前に利用されました。
「和尚」は高山和尚を指すのでしょうし、「因」は平塚やとつとりの因幡の「因」で、「黄金三十」は(信長
公記)中川、高山へ行き着く、もしくは「三十郎」の「三十」かもしれない、となります。また
芭蕉に 再掲
     『恕水子(じょすいし)●別墅(べつしよ)にて即興
      籠もり居て木の実草の実拾はばや』
     『恕水は如水とも書く。戸田氏、通称権太夫。家老格の大垣藩士。』
 
があって、この木の実は、先に藤の実が出ているので、藤伯が出てきて、加賀の(戸田)全昌寺の
四っの寺泊に合流したということになりましたが、この●も問題で、杉山杉風の別墅(べつしよ)と戸田の全
昌寺ははじめから計画で繋がっていたと思います。一方別墅(べつしよ)からは三木の別所も出てきます。
別所山城、熊谷大膳亮が出てきているのは当然といえますが著者は熊谷からキーワードを使って
高山はじめ関係者を全部呼び出したといえると思います。
 気になって追っかけきたのは、等伯を全昌寺の加賀ではなく佐賀にむけて発信したといえるのでは
ないかと思われます。 歌の意味がよくわからない熊谷大膳亮の辞世の歌。
       あはれとも問ふひとならで
              とふべきか嵯峨野ふみわけおくの古寺
 風情があるけれども訪ねる人のない「おく」(奥、小久)の寺を訪ねるべきか、ということでしょうか。
「嵯峨野」が佐賀と嵯峨に懸かるのはまちがいないところでしょう。句意がわからないのは能力の問
題、最近の学説などの研究不足の問題ということで仕方がないことですが、同時代、すこし後世の
人にもわからなかったということもないとはいえません。こういう場合は挿話が有って解説されている
かもしれないわけです。ここの「ふみわけ」が
     「奥山にもみじふみわけ鳴く蛍」(下の部分が未完?)
 という(幽斎=太田牛一)の句を生んだのかもしれません。この句は、前に柿本人麻呂が出てくる
流れがあり、おそらく、この「奥山」の「奥」は、ここの「おく」、あの「奥村」の「奥」を解説するためのもの
であるかもしれません。つまり柿右衛門、大柿の柿に関わる「奥」でもありうると思われます。甫庵は
この「おく」から、この方面に堪能な、佐賀を暗示する熊谷大膳を出してきたといえますが、これは
太田和泉守が「奥山中」〈信長公記〉を出しているのと無縁ではないと思われます。

(65)奥山中
「奥」は「山中」ともセットになっています。〈信長公記〉に
      「吉野の奥(ルビ=おく)山中」
が出てきます。これは「磯貝新右衛門(考証=久次)」が隠居した場所として挙げています。この「吉
野」の「吉」は先ほど「吉水」でもでました。この人物は「磯野丹波守」とともに太田和泉守が乗っかって
いて、天正6年吉野の「奥山中」で隠居していて殺されてしまいしまいます。これで表記が消えたわけ
ですが派手な立ち回りとなっています。
この「貝」の付く字の人は山中に縁があり、このまえは「紀伊国山中」〈信長公記〉にも蟄居していました。
芭蕉はこの紀伊国も利用しており、前掲の「藤白」の句があります。
   ●藤の実は俳諧にせん花の跡
 解説では「美濃の国の関を超えてみるとここも藤が白く咲いていて、紀州と同じく藤白御坂と称す
べき眺めであるよ、の意」とされています。芭蕉が使った宗祇の句は
    「関越えてここも藤白御坂かな」
で太田牛一がこの句を知っていたのは明らかでもう論証の必要もないことです。「ここも」は紀州の藤
白坂を想起しており、紀州国山中を太田牛一が書いた時点で、「藤白」も頭に有ったと思われ、太田
牛一も陶器の山中を意識していたということがいえるのではないかと思います。●の句の前に
    「・・・・宗祇の昔に匂ひて」
という前書きがあり、芭蕉の山中のくだりおいて使われる「匂」には明らかに「藤白」もあったということ
がいえると思います。

 もう一つ「奥山中」からも「小久山中」などもあるでしょうが、ここはこのあと例をだされているのでそれに
準拠しなければ著者に叱られるかもしれません。

   『奥(おく)山中・・(磯貝)・・・(秀吉)・・・嘉古川(かこがわ)の賀須屋内膳(かすやないぜん)
   城を借(カリ)、・・』〈信長公記〉

 播州の話ですから「古川」は脚注にあるとおり「古川」です。この通り「山中」の三字は、変え
てみてはどうかといっていますので、「小久」もあるといいましたが「屋山中」もあります。賀須屋は賎ヶ
岳七本槍の糟谷(糟屋)氏です。奥山中もこれでかえてみてはどうか、といっています。
「屋」は例を出されてみると
          「屋」(や)から、「谷」(や)が出て、「谷」(こく)になり、「黒」「(こく)に至る
  小谷(おたに)は小谷(こたに)だから
          「屋」(おく)から、「小久(おく)」が出て、「古九」(こく)になり、「黒」(こく)に到る
となります。例えば、「おくやまなか」は「おくや・まなか」とでも切ってみると
     「奥谷真中」「小久谷間中」「古九谷間中」「黒谷真中」
 というようになります。「間、「真」の「ま」は「馬」が圧倒的ですからそれを入れてみてもよいのでしょうが
位置関係というのがぴったりしそうですので「間」「真」が適切かもしれません。ただ、山中では有馬(間)
温泉が成り行きで出てくるので、芭蕉以後では「馬」がよいのかもしれません。詰まらないことをいって
いますが、この「間中」はすでにでましたように「朱」「柄(絵)」と結びついたものであり、安土城で猛威を
振るう「間中」ですから、ここも中ほどという地理的な意味があるのかもしれないので持つてきました。
ただどうやっても「まなか」では、これくらいしか出てこないようです。ここで常山に教えてもらう
と、出したいものがでてきます。出したいのは
      「古九谷山中」「黒谷山中」
ですが、その前の段階で
      「小九谷ゝ真中」 「古九谷ゝ間中」「こくやゝマナカ」
の「ゝ」という繰り返しが手法として許容されていないといけないわけです。これが誰かによってなされて
いれば問題ないわけです。

(66)御宿越前
 湯浅常山は「塙団右衛門」を「重之(しげゆき)」としています。通常は熊谷大膳亮と同じ「直之」です
がこれは
     夕庵表記「直」、牛一表記「重」
の両方を使ったということでしょう。塙団右衛門は大坂冬の陣で蜂須賀陣営に夜襲をかけますが、この
とき郎党の「木村喜右衛門」が蜂須賀の士大将「中村右近」を突き伏せます。中村右近の戦ぶりなどが
細字で本文の中に書かれています。
 
    『塙団右衛門阿波の陣へ夜討の事(木村喜左衛門一回目)
     ・・・・・中村右近・・・・右近・・・・右近・・・・右近・・・・・右近・・・・・右近・・・・右近の子若狭・・
     ・・右近・・・右近A・・・・右近・・・・右近A・・・・右近父次郎左衛門・・・』〈常山奇談〉

「右近A」というのは「右近が子」となっている部分です。まあこれは確実に高山右近の暗示でしょう。
塙団右衛門も次郎左衛門の子というのもあるでしょう。「中村」は「木村」に通ずるのかは分かりません。
この木村に相棒がおり別のところで、
   「木村喜(きむらき)左衛門、畑角(はたかく)太夫、牧野(まきの)湖太、田屋右馬介」(木村三回目)
で紹介され、又別のところで、

   『木村畑田屋牧野(きむらはたたやまきの)四士(し)武功の事』(木村二回目)

が出てきます。ここで、ルビを見ていただくと分かりますように
    「ゝ」
が牧野のあとに入れられて、うしろの(し)もその意識を継続したものでしょうから「・・・牧野々」、
「・・・・牧野能」にもなりそうです。とにかくこの四人の出る一節は
  木村 喜 畑(畠)、角、牧(真木)、古、太、屋(谷・奥)、野々(野村)
など、高山右近に繋がる重要語句が折りこまれているといえます。またここの一節の内容は今でいえば
他愛ない話しとなっており主役は田屋右馬助で、その名前に注目(屋もある)ということでしょうが、
それは別として、二つ重要な語句がでてきます。
   『・・・・一等近し。・・・』の「等」と、『御宿』の「宿泊」です。短いのが取り得の文章ですからわりかし目に
つきます。
    木村喜→中村右近→等伯
が出ました。なお「田屋左馬介」は五郎左衛門と名を変え紀伊大納言に仕えました。「五郎左衛門の
あとは「田屋半右衛門」となったようです。また「木村喜左(右)衛門」のでてくるところ必ず
     「御宿(みしゅく)越前(守)」
が出てきます。これは天下三勘兵衛の御宿勘兵衛のことと思われますが、越前・越中・越後はワン
セットで、御宿の越前は二人の越中を注意させていると思います。
    高山の越中=御宿の越前=細川の越中
ということになります。この戦いは塙団右衛門が大将で、元細川筆頭家老というべき家の米田監物が
副将ですが、そこに御宿越前が出てくるわけで、しかも次の●のように細川色です。文は

   「(塙)団右衛門は、●長岡監物御宿越(ながおかけんもつみしゆくえち)前守に向って・・・・・
    いかが、と問(とふ)。」

というものです。つまり、●は同一人物のようで、そうでもないようでという感じのものです。まあ似て非なり
というのでしょう。ルビの入れ方がおかしいといえます。これは意識されていてこの一節では
       「木村喜(きむらき)左衛門」「畑角(はたかく)太夫」
ですが前にある(二回目)本文■の一節では
       「木村(きむら)喜左衛門」「畑(はた)角太夫」
となっていて、違わせてあります。一回目にある中村右近が出てきた「木村喜右衛門」にはルビが
ないので読み方をわからせようとしてルビをつけたのではないことがわかります。
 日本の文献が外国のものと違うところ、このルビの活用があります。この場合は操作にも使っていま
すが、その前提になる信頼性の向上にも役立てようとしていると思われます。細かいところに気を配っ
ているということを述べることは説得力がついてくるということにもなります。湯浅常山のやっていること
はすでに太田牛一のやっていることの踏襲ですが太田牛一はカタカナルビやルビの位置やら、ルビ間
違いなどを利用して、外国文献の表わしえないのものまでを利用して史書を書きました。これは誰で
も確認できることです。従って内容はそれだけに多様で、広く深いものがあります。しかるに、肝心の
地元では、まともに見ようとしていません。

 細川色の中で(米田)監物に近い人物、大阪城へ入城した御宿勘兵衛は細川総領、細川興秋を
表わしているのではないかと思います。渡辺勘兵衛が誰かを表わし歴史の断面をかたって
いるのと同じ役割が御宿勘兵衛にもありそうです。
 御宿という名前で「宿泊」がでてきたように、二回目木村喜左衛門と三回目木村の記事において
御宿越前の発言が同じようなことを言いながら微妙に違っています。
表記の部分だけ触れますと
        二回目                 三回目
   @田屋は薙刀(なぎなた)なり。   田屋右馬介持道具長刀(もちどうぐなぎなたな)之圖(り)
   A薙刀も柄は樫の      鑓も樫の柄、長刀も樫の柄

 二つだけ採り上げましたが@の右側は「なぎなた」そのものでなく「図」です。Aも左は「柄」で、右
は絵といいたいわけです。 太字のところだけルビがないものでまあ左が実体、右は絵の中の道具
と取れそうです。@の右の長いルビは疲れた目には、まあいいやということになりそうです。要は
      「な之り」つまり「名乗り」
が問題といっており初めに「塙(ばん)団右衛門重之(しげゆき)」、二回目「塙」、三回目「塙団(ばん
だん)右衛門重之(しげゆき)」という変化に対応しているとともに(重之)がおかしい、と言っています。
塙団右衛門は熊谷大膳亮と同じ「直之」です。「直」「重」はこれも同義といってもよいほどのものです。
田屋の名前「右馬助」も「左馬助」と同じです。
 「之(ゆき)」は「行」「幸」にもなり「こう」からは「興」が出てきます。「ゆき」ならば「雪」にもなりうる
などのことをいっていると思います。高山の「右近」はこの「右馬」とほぼ同義です。
 御宿勘兵衛は面白そうな人物ですが、とにかくここから等泊とか、絵図が出てきました。田屋は紀伊
の士ですが、(左馬介)には紀伊も出てきました。
 これは紀伊大納言の母「於萬の方」が塙団右衛門を扶持する話しと関連しています。まあいわば
紀伊大納言頼宣と近い親類といえます。
 なお一回目のところで塙団右衛門の師は「妙心寺大龍和尚」と書いています。塙団右衛門で多くを
語ろうとしています。つまり団右衛門は渡辺勘兵衛と同じ役目を負っているといえます。

(67)「奥」のこころ
 脱線しましたが、いまいってきたことは
    『木村畑田屋牧野(きむらはたたやまきの)四士(し)武功の事』(常山奇談)
の一節などの記事により「奥山中」(おくやまなか)、という表記は、その前の段階で
      「小九谷ゝ真中」 「古九谷ゝ間中」「こくやゝマナカ」
の「ゝ」という繰り返しが手法として許容されていますので、奥山中で
      「古九谷山中」「黒谷山中」
が、出てくるということを想定されていたということです。
 「奥(おく)山中」は周囲むつかしい字を並べながらルビがないものが多いのに「おく」という字にわざ
わざルビを入れる必要はないのにやっています。山中にもルビをつけよということであれば「さんちゅう」
とはならないでしょう。「黒谷山中」や「古九谷山中」などが出てくる、またそれに伴う工夫などは以上
のようなことになりますが、熊谷の「おくの古寺」はひらかなになっていますので巾広く、熊谷をとりまく
まものの内容が、山中に、高山右近つまり等白に繋がるといっていそうです
今なにをやってきたのかといいますとネット記事にあった長谷川等伯を取り巻く人が「奥村」だったので
この記事の元となった記事を書いた人物は、なぜ「奥村」という表記を使ったか、「奥」の心を探るため
に回り道をしてきたわけです。いままで等伯の実家が奥村というと決め付けていたからわからない、
某氏Xを「奥村」と呼んだとするとそれはなぜ「奥村」かということです。
どこかの「奥」を利用してやろう、と思ってやったわけではない、太田和泉守が加賀の山中の久谷に
等伯の絵が動いたといいたかったので奥谷の奥を出してきているのを知って奥村としたというのが
ほんとうでしょう。「奥山中」の「奥」だから、それは「奥山」でもよかった、むしろ「奥山」の方がよかったと
いえるかもしれません。ただ、「奥山」であれば、「奥山中」そのものだから、すこし接近しすぎている
感じです。七尾は菅屋の故地であり、七尾に奥山がでてくると、加賀色山中が露骨に出てくることに
なります。
「奥村」生かせば「山中」の方が希薄になりそうです。さきほど「中村と木村」がありましたが「奥中村」
となれば「山中」の「中」にもつながるし「奥木村」となれば菅谷にもつながる、やや薄めになりますが
関連性が保たれるということになります。

 ここで本命「奥村」が出てきたと見てよいと思います。必然であったということで二つだけあげてみます。

@〈甫庵信長記〉に「奥村」という二字の孤立表記があります。加賀の奥村か、と思う人は多かったと
思いますがそれも重要なことです。しかしこれは注目させられていた表記で、六条合戦のところで
〈甫庵信長記〉の
       奥村と下村市丞
が〈信長公記〉になく宙に浮いていました四字の「下村」は別として、この六条合戦の主役は「野村
越中」であり「野村」という二字表記もあります。「奥村」は「奥村」として捉えてしまいますと、狭くな
ってしまいますので「奥・村」という分解もされますが、これは「奥の村」で「奥野村」「奥+越中」と
なりこれはかんたんでよかろうと採用したと考えられます。それなら「奥野」もええじゃないかという
ことになりますが、一応「下村」と炙りだされたのですから「村」にもこだわりがあるともいえそうです。
「奥村」と「下村」と捉える人には迷惑な話で「下村・市丞」は何者かわからないわけです。したがって
                   「奥 ・ 村」
                   「下 ・ 村」
いう感じで「奥」を睨んだ「下」を配置したということで見ればよいのでしょう。はじめに「下」は高山右近
の属性だといっていますが、「安東(藤)大将」から「阿喜多の屋形下国」「下国」が出てきました。「阿」
は奥州の安倍貞任の「安」を想起しても間違いではないことですし、喜多は宗達の喜多、不破氏の喜
多村その他あり、屋形からはは「奥州会津の森高」がでてきます。結局常山に教えてもらった方が
手っ取り早く、「下村」を説明しようとして常山は石井兄弟の仇討ち物語に
       「下村一
を出し、そこから「沢村大学」につなげて朱を出ました。先ほどの塙団右衛門の「大龍和尚」はこれ
と関係して〈三河後風土記〉でも出てきます。

   『・★武藤助十郎、不破彦三郎、高山右近、浅井淡路守、中川瀬兵衛・・・・岐阜のながら(ルビ=
   長柄)河原・・・・・小山田孫助・・・・・小山田大学・・・・大龍(ルビ=天)寺閑和尚・・・・』

 大学と学が出てきて長柄(ながら)の柄(がら)も出たので絵柄というのが出てきます。(小)山田大学
は(小)山田孫助がありますから夕庵が出て大龍の天から高山右近などに行き着きます。下村はこの
ようになりますがこういう回り道をしなくても
           下村→上村→神村    下石彦右衛門→山上彦右衛門
 ということで高山右近が出てきそうだから待っているということでもよいのでしょう。伊豆の山中で
山上郷右衛門が山中山城守貞俊と出てきます。山中と山上が勝手に接近してくれます。伊豆山中
では渡辺勘兵衛大活躍でつれて青木新兵衛正玄という新しい青木も出てきます。奥村も同じで
奥山中から磯貝がでて「久貝因幡守」という表記もあるから、「久」は「九」「宮」、貝は青貝ー青木、
因幡はとつとりの高山へと行くということでもよいと思います。
芭蕉は山中を「一村」といっていますからそういう意味の「村」も「奥村」に有るのかもしれません。

 A「奥村」は「置村」です。
     「奥村」→「置村」→「置き村」→「小木村」→「奥木村」
というように「木村」は必ず含まれていたと思われます。というのはどうしてもこの「置」の字を使わなけ
ればならないわけです。〈甫庵信長記〉に
    「日置(へき)清十郎」「日置五左衛門尉」
があります。「清十郎」は「道家」であり「道家助十郎」は★や「奥村助十郎」とつながります。奥村は
「武井(道家)「や「武」「藤」に繋がります。逆に言えば「道家」を「武井」と読むのは合っていたといえ
ます。「日置清十郎」の「前には「臼田喜平次」が出ていますが、これは「長尾(喜平次)」があり「白田」
でもあります。「日置五左衛門」の前後の表記が多くを暗示します。
   「富田喜太郎、牧野伝蔵、日置五左衛門尉、谷崎忠右衛門尉、栗田金右衛門等・・」
があり栗田は
   「岩田市右衛門、其の弟平蔵、・・・・栗田金五右衛門尉、大田五右衛門尉・・・小塚七、岩田
   虎・・・津田篠岡・・・一益・・・一益・・・・津田篠岡・・・淡路守・・・淡路守・・・」
を呼び出してきます。
こういう「日置」のような材料が置いてあり活用するようにされています。いちどは活用しなければならない
のでその積りで見ておく必要があります。安土城でも素材が置いてありそれを使い切らないと城の輪郭が
みえてこないようです。

(68)九谷焼
太田和泉守が九谷焼を意識していたかどうか、別の観点から考察してみます。 小牧、真木、高山
山中、嶺に並んでよく出てくるのが「谷合」です。

    『上総介信長、奇特(きどく)なる御巧(おんたくみ)あり。清洲と云ふ所は国中真中にて▲富貴
    (ふつき)の地なり。或時、御内(みうち)衆悉く召列(めしつ)れられ、山中高山二の宮山・・
    ・此山・・・かしこの▼谷合・・・・此山中・・・・小牧山・・・小真木山・・・小真木山・・
    於久地・・・犬山・・・犬山・・・五里奥に山中・・・・佐藤紀伊守・子息右近右衛門・・・崖良沢・・』

谷には深谷あり長谷も谷中もありました。また高山ワールドで「一つ屋」「ひとつ屋」があり、これは、
高山右近が陣し、塚口郷にも高山右近が陣し、これは一谷の高山右近が塚口郷に引き上げたという
ややこしいことになっていて「一つ屋(谷)」は高山右近の属性になります。人名索引で
 橋本一巴は橋本十蔵という表記が必然的に並びます。一+九=十でこの場合は二人出したら
十分で橋本九□という表記はないのではないかと思いますが、常に10マイナス1=9、100マイナ
ス1=99というのが出て、百マイナス一=白、でここでもこれが出てきます。つまり
          一谷 + 九谷 = 十□
です。この□が「谷」相当ならば太田和泉守は九谷を意識しているといえます。

 一方「谷合」は「谷+合」です。「合」は十合百貨店の「合」ですが〈信長公記〉では
    十河(そごう)百貨店=十合(そごう)百貨店
で通るようです。

この□には触れざるを得ない表記の人物がいます。初登場は二字です。
  
   『細川六郎殿・三好日向守・三好山城守・安宅(あたぎ)・十河(そがう)・篠原・岩成・松山・
   香西・三好為三・竜興・永井隼人、』〈信長公記〉

 初登場が二字という特異な出方をしています。この十河についてテキスト人名録では

   『十河存保(1554〜86) 存の養子。十河氏は讃岐(香川県)山田郡蘇甲郷東十川
    西十川の名族。阿波三好氏の三好長基の子一存が十河氏を継いだ。十河113 』

 二字の十河の解説がこれです。1554という生年は偶然かどうか分かりませんが「高山」が「1553〜
1615」とされていますから一つ違い、まあ同年です。「十河一存」という表記が重要で「十」と「一」
すなわち「九」というのが利用されていると思います。「山田郡」も尾張の山田に近づけてみてもよい
のかもしれません。「蘇甲」も「そこう」で「十河」「十川」だから、二字の「十河」は当て字かも。
 伊丹布陣表で高山右近の陣した「ひとつ屋」の前に中川の陣した「中嶋」がありますが、これはいま
の大阪の北部の「十三(じゅうそう)」です。
「東十川」「西十川」は、「東十三」「西十三」としても利用されたようです。
先ほどの「一谷+九谷=十□」は一つは
    「一谷+九谷=十(三)(川)=十(3×3)=十(久)」でしよう。
「久(く)」=「工(く)(こう)」=「江(こう)」=「奥(おく)」=「小久(おく)(こく)」=「谷(こく)」です。
〈信長公記〉では「奥田三川(3×3)」という表記が用意されており「奥は九」だとすでにいっている
ようなものです。この「三川」(横3縦3)は既に
    〈甫庵信長記〉     河上三蔵
    〈信長公記〉      大子原、川三
    〈我自刊我本〉     大子原川三蔵→★奈良川三蔵
 という操作度どの高い表記のところで触れました。
 〈信長公記〉の川三蔵は前の与田三人の三兄弟を暗示することは申しましたが、テキストの注の
通り蔵でもあり登場は、高天神城の場面ということで高・天神は高山の属性をみてよく★奈良
左近とか★長良(柄)川の銭亀の場面につながっていると思われます。「十河」とか「九」とか「蔵」とか
も高山右近を語つているようです。

 あまり、まわりくどく「一谷+九谷=十谷」を出したのでインチキ臭いという非難も出ると思われますので、
もう少し簡単にやりますと「河」は「合」ですから出来合いのものを利用して
    「一谷合+九谷合=十谷合」で「一合+九合=十谷
というように重点のおき方だけを考えれば、完成します。

 太田和泉守は加賀山中の九谷焼き認知していたといえます。野々村三十郎、福富平左衛門、下石
彦右衛門、古田織部などの人々がやり始めたといえます。この「四人」の前三人は本能寺の戦いで戦
死したのではなくこの表記が、お目当ての人物の断面を表わして消えただけです。それはおかしい、
考えられないということはできません。つまり古田はわかりますが、この三人は読者には誰だかわからな
いのですから、やってみてからの話しとなります。極端にいえば
   「何某」、「某」、「なにがし」、「古田織部」とか、「X氏」、「Y氏」、「Z氏」、「古田織部」
   「三浦右近」「奥田三川」「平美作」「古田左介」とか「日本介」「たい阿弥」「おやや」「古田左助」
とかいわれているのと同じで、しかも史書だ、といわれているのです。「野々村」という名前があるので
古田というのが氷山の一角として出された感じがします。氷山は見えてない部分も氷ですから。
 少しの例を表に出して、見えない部分を覚らせようという氷山の一角手法もあります。クロスワードパ
ズルも2・3の正解が入っています。安土城の場合も各階にそういうものを見せているわけです。
江戸期の人は、こういう名前の人が誰かを知りたくていまもって咀嚼しきれないほどの考証を残したわ
けでそれを今使っているに過ぎないものです。いまの
人はわかろうとしていないだけのことで、それは〈記紀〉などから来るものなので明治時代以後一般の
目から遮断されたことからきており、著書が頼りないと押してきた成果が表われてきているものです。
 西欧はダ・ビンチの完壁性を賞賛している、イギリスはシェークスピアを大々的に宣伝し、本邦では
稀有の才能と経験をもった、見聞が確実な文献を残した太田牛一は知っている人は少ないという
ことになりました。愛郷心、愛国心がないのは本当はどの層なのか。

(69)「富」の字
「十河」が重要であり、いま二字の「十河」について述べてきましたが、二字の「十河」のほかに
〈信長公記〉全部で三つあって
  @十河(ルビ=ソカウ)越中
  A十河(ルビ=そう)因幡守、ただし文中では「十河因幡(ソカウイナバ)」と二通り。
  B十河左馬允
です。テキストではいずれも「十河存保の一族」となっています。@は今となれば高山関連とみて
よいでしょう。

 Aの十河因幡守は(そがう)ですが、もう一つ「ソカウ」の十河因幡二通りあり、つまり「そがう」は二つ
  の「そかう」包摂しているといえます。
    そがう=(そかう)×2
  これは安土城で「てう数」「でう数」で出ました。
   芭蕉でもありました黒ばねと黒羽の二つが奥の細道本文で出ています。この「因幡」は、字が
「因播」と両方ありますが、
   「とつとり因播、」や「吹田因幡娘」
というものに懸かるもので、十河=越中の面から高山が出てくるものです。

 Bは前田の左馬允です。高山右近は前田だということをいっています。

 十河から九谷が出てくるという珍妙なことになりましたが、谷合という語句は使わざるを得ないほど
目立つ語句ですが、この@が「神保越中」の「越中」につながるものです。「越中富山の万金丹」と
いうように富山です。テキスト人名録では
「神保越中」は「富山城」を拠点としたと書かれています。本文にも

     『去程に、越中国富山(トヤマ)の城に神保越中守居城候。』

がありますが、地名索引では「富山城」が出ていないのです。(出ていないというのは語弊があって
あとで気が付いてみると「え行」「越中富山の城」で出ている。しかしその瞬間が重要。)
然るに本文に載っていない高山城が索引に出ており
     「高山城     →越中━━ 」
とされています。すなわち、カタカナルビの「富山城」は「高山城」と読むべきと太田牛一がいっていると
いうことでしょう。
 高山やら山中、谷合、真木、牧が出てきた前掲の一節にわからない語句があります。再掲

    『上総介信長、奇特(きどく)なる御巧(おんたくみ)あり。清洲と云ふ所は国中真中にて●富貴
    (ふつき)の地なり。或時、御内(みうち)衆悉く召列(めしつ)れられ、山中高山二の宮山・・
   ・此山・・・かしこの合・・・・此山中・・・・小牧山・・・小真木山・・・小真木山・・犬山・・』

 ここの●富貴のルビ(ふつき)の意味です。(ふうき)と読むのは皆知っていますので違和感があるだけ
かもしれませんが一応は引っ掛かるところです。「つ」まあ一番考えられる当て字は「津の国」、つまり
摂津の津です。辞書によれば「富津」で「ふっつ」という読みもあります。「津」となれば高山がからんで
くることにもなります。周り高山色ですからそれでもよいのかもしれません。
 「貴」は「たか」で「高」です。毛屋猪介は富田弥六とセットで出てきますが、
      毛屋猪介→毛屋村六介→貴田孫兵衛→貴田神社
かもしれません。貴田孫兵衛は木田孫兵衛もあり、喜田孫兵衛もどこかにありそうですが、高田孫兵衛
もありそうです。「高田又兵衛」という槍の名手の名前は知られているのかよく覚えています。毛谷村六助
は無敵の相撲巧者ですが木村又蔵に負けました。負けてもこれは相手が強いから是非に及ばずと
いったのでしょう。要は
      富・貴=富・高
 です。富山城は高山城でありえます。富田からは喜六につながる
    「富田喜太郎」「富田孫六」「富田弥六」「富田孫六郎」「富田才八」
が出てきます。この「才八」は「沢村才八」に利用されて「朱」とか「絵」が出てくることになり、●の前の
「真中」の朱、絵などに結ばれて山中に至るということになりますが、これも富田才八を高田才八と
頭の中で読み替えておくと唐突感が緩和されることになります。

(70)松栢
富田から「左近」も出ます。
       「富田左近将監一白(さこんしようげんいつぱく)」〈甫庵太閤記〉
ですが〈甫庵信長記〉が「一栢」という単独表記を創りましたので、それを受けたのではないかと思われ
ます。つまり高田左近の「一栢(伯)」となると「等伯」にも近づいてきます。芭蕉が立石寺のところで
「栢」を受けました。
         『梺の坊に宿かり置きて山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、
         ●松栢年旧(しようはくとしふり)土石老いて・・』

ここは●の「松栢」の「栢」に「高田右近」を導入しますと、松の高山右近となります。ここは高山のこと
をいっているかと思うほど、それらしい伏線が敷かれたといえる字がつらなっています。「ふもと」は
「林」+「下」であり、「坊」は「杉の坊」「坊丸」「栄螺(さざえ)坊」の「坊」があり、「宿」は「宿泊」に通じ、
「山上」は「やまがみ」であり「ふもと」の「下」も受けています。「堂」は東堂が出ました。「置」は「奥」で
あり、「登」は「ト」から「ト全」「全登」「能登」になり「ト全」は「木全」を呼び出すのでしょう。こいうことが
いえるのは次の山篇の字の重なりがあり高山がでてくる、それが山寺の寺、等伯の寺にとけこんでいると
みられるからです。●によってさらに高山色がでてきて、土石の土は百々(どど)があり、宿、栢の百に懸
かり、石は白でもあり、岩にもつながります。老は笈がまず浮かんでくるところでここでやっと「竹」が出
てくるということでもあります。
〈信長公記〉「栄螺坊」は甫庵は「鷦鷯坊(ささいばう)」として珍妙な炙り出しをしています。脚注では
石馬(場)寺(滋賀県神崎郡五個荘町)の住人のようですが「神崎」と「五」が関係するのでしよう。
 前者が貝、虫後者が鳥をあらわすもので高山に関係しそうです。まあ一応ここでやっておきますと
    〈信長公記〉      石
    〈甫庵信長記〉     石
                    馬場
 となり、馬場は@馬場孫次郎の線から「馬場ー坂井右近ー右近ー桑原ー藤右衛門ー木工丞ー
 −氏家ト全」などが出て高山が出てくる。A武田の大将馬場美濃守の線から「馬場美濃守」が
         「信春」(テキスト人名録)
 という名前であることに結びつきます。前掲ネット記事
    「長谷川等伯は・・・・七尾の染物屋長谷川家(長谷川宗清{道浄})に養子として出されたの
    地元七尾で活躍している頃は、信春と署名、上京してから等伯と名乗ったらしい。」
 とあるのとピッタリ符合します。太田牛一は高山右近が信春と名乗っていたことを知っていたことに
なります。この七尾は特別重要で次の記事があります。天正九年

   『三月廿八日、菅屋九右衛門、能登国七尾城代として差し遣わされ候なり。』〈信長公記〉

となっています。この菅屋九右衛門は一応太田和泉守と引き当てをしておいてよい人物です。この
長頼という名も記憶しておく必要があるものです。ただこれは天正九年(本能寺一年前)の話で、ネット
記事の話しは等伯若年の頃のことだから七尾は関係がないということはありません。太田和泉守の
属性が七尾ということの利用された話しがネット記事なっているということでしょう。例えば信長が本能寺
で討たれてその情報が秀吉に齎され、秀吉が動転したとされるとき黒田官兵衛が今がチャンスだと
いって激励して事態を好転させたが、反ってこれは危険な人物だ疑われたという話しがあります。
これは黒田官兵衛に乗った太田和泉守のしわざですが、和泉守が中国の秀吉陣営にいるとは限ら
ない、太田和泉守の本能寺戦の主役という属性から生まれている話ということで時空の一致は関係
がないといえます。秀吉の中国大返しのことも、当然、二書には書いていません。秀吉の顛末は
〈戦国〉で触れた通りですから、電光石火の離れ業で帰ってきたという大部隊指揮官は
    丹羽の「羽」・柴田日向の「柴」・筑前黒田の「筑前」・丹羽長秀の「秀」・日吉の「吉」
という表記で固めた「羽・柴・筑前・秀・吉」であったのです。表記で読むところではこの太田和泉守は
池田、中川、高山という身内を味方につけて、光秀を討ち取って(これは極めて親しい間柄を示す)、
徳川を臣下にして天下人になったわけです。昔の人は、カムフラージュというものが不可欠と思って
いたから、時空の正確性は犠牲にせねばならない、ということは知っていた、それはやや軽視され
ても、話しが本質をついておればそれでよいということだったと思います。例え話のようなものの集積
から、うまく実際を把握する能力があった、それは、好奇心が旺盛で、想像力があったからでしょうが
時局下、いいにくいことを語ろうとする語り手の苦心がわかっていた、それを無駄にはしないというもの
があったと思われます。

@の話しは理解できるがAの馬場美濃守の話しはインチキ臭いといわれるかもしれませんが、これは
確実な話しといえます。馬場美濃守のもう一つの名前「信房」が〈信長公記〉の首巻の初めの人名羅列
の読み方のヒントを与えることに使われますので、これは信長の生まれる前のことに及びますので特別
な役目を持って出てきた名前といえるものです。
テキスト人名録では、「菅屋九右衛門」は

   『長行。九右衛門。元亀二年(1571)六月には長頼(その資料は)
       (▲〈越前大野郡石白村観音堂鍔口〉▼〈石徹石神社文書〉。
   長行ともいった時期がある。信長の吏僚。菅屋氏は尾張の豪族。(24回登場の頁数省略)
   ★能登国七尾城代 351』

 となっています。★の351は24回のページ数に入っています。つまり特別重要ということでこうなって
いる。能登の城代ということが中を見なくてもよくわかることになります。一方これが地名索引からは洩れ
ています。地名索引は「の」(全部)は
   「能州七尾の城」「のうみ川」「野瀬郡」「野田」「野田原」「野田・福嶋」「■能登」「能登越中城々」
   「能登国四郡」「のとの末盛」「のの市」「野間」「野村の郷」「のりもと川」
があります。「能登」を課題として調べようとする人には、その瞬間★が抜けることは、核となる「長行」
「長頼」「菅屋(谷)」「城代」「七尾」などが結果として抜けてしまうことになります。これは痛いことです。
 次いでですのでここでは、二つのことがいいたいところです。
まず長頼という名前は〈道家祖看記〉に
    「山中の磯貝・・・立入・・・安井・・・・道家・・・・村井・・・・村井・・・道家・・・・九右衛門{菅谷
     長頼}久太郎・・・村井・・・道家・・・磯貝・・・・立入・・・立入・・・・道家・・・・村井・・・磯貝・・・
    村井・・・・磯貝・・・・・道家・・・・」
でチャンと「長頼」が出ています。これ上洛の前の話だから、久太郎も久太郎@とも云うべき時代背景で
しょう。いいたいことは▲▼の二つの資料は元亀二年の資料ではないということです。「徹」「石」「白」
「大野」は、目的的語句を羅列したものという感じです。菅谷の「管」と「石天神」の組み合わせはすでに
〈曾良日記〉の全昌寺のところにあった「菅生石天神」でみています。まあこれは、そういう村にそういう
神社があったのだといわれると、それに反論するのはむつかしい、書いた方は本当と思われるに越し
たことがないから、こうしたといえますが、この現地のことはさておいても文書の「元亀二年」と「鰐口」
組み合わせはそうはいかないでしょう。
   元亀元年、鰐口の記事、杉谷善住坊信長狙撃事件、管六左衛門
   元亀四年の先年、鰐口の記事、狙撃事件のくり返し、菅屋九右衛門
があり、この両方の文に「山中」があり、「千草」があり「千種」から「種田亀」が出てくる、「峠」も出てくる、
藤九郎、高嶋、磯野なども登場してきます。高山にも接近してくる特長がある一節ですが、これが
「石神社」の菅谷長頼の記録と関係がないとはいえないでしょう。元年と三年を足して2で割ったのが
「石神社」の記録で、種田亀の亀を使わなくても年号の亀を利用しているといえます。寺に残っている、
利害関係がないものが書いたとみられる古文書といえども目的的なものでありうるというのがいいたい
ところのことです。手紙、文書形式にすると本当らしくみえるいうことで、よく利用されるものですが引っ掛からないようにしないと
いけない、日記も同じです。
 とりあえず重要なのは「杉谷」と「善」ですが「善」は別として杉谷の「杉」は「木に(が)三本」であり、
「すい津」「水津」「吹津」で、高山色がでてきますが「杉」は「さん」と読み「三」とかいてもよいようです。
「杉谷善住坊」の「杉谷」は〈奥の細道〉の「杉山杉(さん)風」の名前を借りれば
     杉山
     杉谷
となります。こう並べてみると、右近は左近という式でいけば同一ともいえるもので、牛一、杉風両者の
命名が巧妙であるといえますが、芭蕉はそれを利用したと考えられます。〈奥の細道〉では
   尾花澤のくだり、「尾花澤にて清風と云(いふ)者を尋ぬ。」
   立石寺のくだり、「山形領に立石寺と云(いふ)山寺あり。」
   大石田のくだり、「大石田と云(いふ)所に日和を待(まつ)」
が続いています。清風は、脚注では、鈴木道祐、通称島田屋八右衛門といい、これは道夕(友)
でもあり、島左近の島、八右衛門は生駒(大谷)八右衛門が出てきています。また「清風」は「重清」
「清秀」「野尻清介」「国清」「清花(せいぐわ)〈信長公記〉」などの「清」に、西風秋風の「風」です。
 それを受けて「山形領」が最初にあります。これは「山形藩の領内に」と訳されていますが
石田に流れていく重要な一節なのでこれでは単純でもう一つの意味が隠されていると思います。
 芭蕉は自分の句では、「形」は多くは「なり」と読ませています。

    「松茸やかぶれたほどは松の形(ルビ=なり)」
    「秋もはやばらつく雨に月の形(ルビ=なり)」
    「晋(しん)の淵明(えんめい)をうらやむ
     窓形(ルビ=まどなり)に昼寝の台やタカムシロ(たてに竹西早とならんだ一字)」

四つほど形で「なり」となっていて、もちろん「かたち」も一つありますが、この場合は「山なり領」と読ませ
たいことになります。万葉の山上憶良の既出「鳥翔成(ツバサナス)」の「成す」の字が適切な当て字と
なると思います。つまり
    尾花澤で「清→杉→三風」、と来て、立石寺「山形→三形→山成→三成」
 となり、これが大石田の左吉の登場を予告しています。これらは我田引水といったものではなく、怒涛
の勢いといえるもので、水が勝手に畦を越えて、我が田にドッと流れ込んできて収拾がつかないと
いった感じのものです。例えば、三句目の句の解釈は

   「あの陶淵明は、清風通う窓の辺に台を据え、悠々として盛夏の昼寝を楽しんだのであろうが、
    その台も中国のこととて涼味豊かなタケムシロであったろう。その自適の境涯がほとほとうら
    やましく偲ばれてならないことだ」〈芭蕉全句〉

 となっています。この「清風」がどこから来たかわからないわけです。これは陶淵明の伝記である晋書
陶潜伝に「・・・夏月虚閑、高臥北(?)之下、清風颯トシテ至る、・・・・」
があり、「このことばは〈蒙求〉の“陶潜帰去”にも引かれ、広く知られたものであった。」と書かれています。
太田牛一と〈蒙求〉は〈戦国〉で触れたような関係にあって芭蕉が採り上げる必然があります。したがって
清風と山形とは繋がっているといえます。また石田三成の「成」は類書に「也」もあり、この「也」も
立石寺で用意されています。また、「タカムシロ」は「竹で織った★莚(むしろ)」とされています。
解説では
   「〈至宝抄〉に“水草、浮き草などを紋に織りたる莚にて候。涼しく見えんために敷き申し候。”
    と誤った解説を施しているのは、これが書物による知識にもとずく季語であったためであろう。」
というようになっており芭蕉周辺の解釈を間違っていると断定されてあります。これは現代人が断定
できることではないと誰でも思います。「むしろ」は「莚」と「筵」の二つある、芭蕉の句が竹冠の高い
「むしろ」で、〈至宝抄〉の解説したのは草冠の地べたに敷いた「むしろ」だから間違っているという
ことでしょう。著者の加藤氏は★を「竹冠」の「筵」にしないといけない、自分は筵と書くべきを★と
書いて解説した自分が一番抜けているといっていると思われます。二つの筵はどこから来たのかと
いうことですが、陶淵明の詩を芭蕉が額面どおり取っていない、つまり「夏月閑・・・」という「虚」
というものを読んだのではないかと思います。つい最近までの風景でしたが農村では草取りをやって
いたのでしょうか、炎天下麦藁帽かぶって真っ黒けになって
野良仕事をしていた風景を思い出すわけです。働いても働いても楽にならなかった、もっとひどい状態が
陶淵明の時代でしょうが、それを美しく表現したのでしょう。とにかく今の人が書くものでも額面どおり
読めないということがいいたいところです。
  〈甫庵信長記〉は「山形」の「形」を「あり」と読ませています。山形県が山あり県の意味になるのか、
どうかはわかりませんが意味はとにかく芭蕉のときに山形領というのがあったのだから、それが県の
名前になったのは明らかです。常山では武田の大将、山県昌景は山形昌景とも書いており、芭蕉が
山県とも読まれることを期待したというのはいえそうです。常山は太田下野を出してきており、夕庵表記の
のかの山県下野守は太田和泉守とみているようです。
 一方「山梨県」の「梨」は果物の梨、山が無し(盆地だから)の梨とかの説があるようですが、芭蕉の
読みが古くからあるとすると「山成し」もあるのかも知れません。結局、どういう当て字があったのかわかりませ
んが、とにかく笛吹川流域を「山梨郡」といい、山梨郡周辺が甲斐国の中心地として栄えたというのが
命名の根拠であるとされています(笛吹市ネット記事)。
 
(71)笛吹
〈甫庵信長記〉では「山形」の「形」を「あり」と読ませていることを幕末・明治初年の地元の人は知って
いたと思われ、山形が山ありならばこちらは山なしでいこう、山なしならば、「山無、山成、山梨」になるが
〈甫庵信長記〉「笛吹(うすひ)峠」の「笛吹」は「薄氷」という字が宛てられ高山(右近)の属性ですから
「笛吹川」の流域を「山梨」というならばこれが使われるいう形になったのではないかと思われます。
常山は上杉謙信とのからみで「高梨山(たかなしやま)」を出しており、これこそ完全な一匹狼の表記
で存在しない山のようです。つまり高山と結びついた「梨」です。これは幕末の人に読まれているはず
です。「山梨岡神社」もあります。この名前も「山岡」に挟まれた梨です。ネット記事によれば郡石があ
るよし春日居もあり、どことなく尾張色があります。これも当然のことで笛吹峠は
   「滝川、武蔵野合戦の事」
のことの「一益」連発す一節にあり、表記で読むべく設定された典型ともいうべきところにあります。
   「長尾新五{立林城主}」、「深谷左兵衛尉{深谷城主}」「内藤大和守{蓑輪城主}」「由良信濃
   守{新田城主}」「倉賀野淡路守{倉賀野城主」・・・・・
   「堀田武介」「富田喜太郎」「牧野伝蔵」「日置五左衛門尉」「平蔵」「栗田金五右衛門尉」
   「大田五右衛門」
 などが出ているところです。
   「一益は・・・十文字・・・・十余度・・・十騎・・・一益も十死一生の合戦は爰なり。」
 とあって倉賀野、松枝から笛吹峠に至ります。
   「笛吹(うすひ)峠」→「信州小室(こむろ)」「▲人馬の息を休めんとてゆるゆると」「▼津田小平次」
   「小平次」「小室の城を■足田の某に渡し置き」「真田伊豆守」「一益」「真田」「滝川」「祝」
   「上下諏訪」「木曽義政」「すねびたる状」「祝」「木曽殿」「福嶋」「尾州長嶋に至って帰城・・」
というような表記の積み重ねの上で長嶋に至ります。
「笛吹」は「竹+由」「吹田因播」の「笛吹」ですが、「貞光久左衛門」「奈良左近」は「笛」の師弟で出て
きました。ここで「膝の皿」と「樋口三蔵」などが出てきたところから桶狭間の今川義元の最後の状況が
語られていることは既述ですが、ここの▲が桶狭間における今川義元の動作ですから〈前著〉、それが
笛吹峠のところで繰り返されています。したがって信州の「笛吹峠」といっても、そこの単なる地名で
なく、桶狭間とか奈良左近、樋口とか「謡い」の[笛」などを含んだものとなっているといえます。
これでそのあとの▼は今川義元を討った二人「毛利(森)新介+服部小平太」の「小平太」を意識した
ものです。〈奥の細道〉の「樋口の次郎」はこの「樋口三蔵」を受けています。赤穂浪士番外の「毛利小
平太」はこの二人を合成したらよいという表記で、木村常陸介(木村又蔵@)が出てきます。一方、
服部新介ともいうべきもう一人の人物の存在もそこにあったのでしょう。テキスト脚注では
   「服部小平太  実名春安。のち秀吉に仕え伊勢松坂城主となったが、文禄四年秀次事件に
   連座して改易。・・・自殺。」
となっています。桶狭間の英雄がどうしてこうなったかのか、知りたいところですが、わからないという
ことで説明がないのです。分からないのは仕方がないが説明がないのが多すぎるのが問題です。
「うすひ」は「臼田喜平次」の「臼」もありますが、あとの「室」との関係で「氷室」が想起されますから、
「薄氷」が主たる当て字となるでしょう。「氷」から「永(長)」や「水」が出てきて、「水」から「水巻(砺波
郡水牧)」「水無瀬(水無瀬治部)」「水原重久」「水野帯刀」などが出てきます。「氷」は「郡」もあり
ます。上の「福嶋」は唐突ですので「福嶋」の「郡山」があるのかもしれません。もちろん「福嶋」「長嶋
は「嶋左近」の「嶋」で奈良の左近に繋がっています。
「峠」は「山上+山下」です。
■がキーマンで誰か判らないというのであれば読めないわけです。一応いままでの読みから、桶狭間
の「深田足入れ、高みひきみ茂り、節所・・・」がありますので「高山右近」と見るのが妥当でしょう。
「足田」は疋田に似ています。これは次の〈信長公記〉の引壇(ひきだ)のことですが、

  「(越前)手筒山・・・・彼城高山・・・引壇(ひきだ)の城・・・滝川彦右衛門・・・・金か崎の城・・
  ・朽木越(くつきこえ)・・・・朽木信濃守・・・明智十兵衛・丹羽五郎左衛門・・・武藤・・・」〈信長公記〉

 朽木の「越」と「信濃守」に繋げてあります。高山(右近)の流れの中「信濃守」があります。「信濃守」
は「種田信濃守」と「由良信濃守」とこの「朽木信濃守」の三つです。「種田」は「種田亀」→「久々利
亀」にという「亀」に至るものです。「由良」は先ほど出ました。「由良」というとどこかで聞いたような感じ
のものです。
大石内蔵助のことを「由良之助」と言っていたように思いますが、そういう馴染みがあります。これは
〈信長公記〉ではないのですが代わりに「油比可兵衛「油比藤大夫」という表記の人物にでくわします。
「藤」→「富士」という連想がされるようにテキスト人名注では
   「由比氏は駿河庵原郡由比(静岡県由比町)から興った。」
と書かれています。「由」が「油」と同じだということは認められおり、且つ「油比」は「由井」であることも
語られているわけです。

    「高山(脚注=「愛鷹山とも。」)左に御覧じ、富士川・・・神原(庵原郡蒲原町)・・・吹上げの
    松・六本松・・・深沢(フカサワ)の城・・・・神原の浜辺を★由井て、磯辺の浪に袖濡ぬれて・・・
    清見関・・・興津の白波・・長閑にて・・・江尻の南山・・・久能の城・・」〈信長公記〉

 ここの★は脚注では「庵原郡由比町。“行(ゆいて)”に掛かる。」となっています。後年の「由井正雪」
の語りに使われた表記ですが高山色のなかの油比です。ついでですが「可」というのもたいへんな一
字です。「森可成」「関可平次」の「可」ですし、さらに斎藤道三の子息で道三を滅ぼした斎藤義竜の
「范可」の「可」もあります。〈信長公記〉では「はんか」とひらいてありますが、誰かの当て字が「范可」
です。テキスト脚注では「はんか」は
   「范可(●備前桑原文書)。飯賀(〈天正事記〉)。斎藤義竜の入道名。・・・→斎藤義竜」
となっており、「斎藤義竜」は
   「新九郎義竜」「■新九郎はんか」「山城子息一男新九郎」「濃州の義竜」
というようになっています。「飯賀」という当て字を使った人もいるわけです。当て字も二つあり、義竜の「
名前が一筋縄ではいかないことは容易におわかりますが、ここでは●の資料が岡山の桑原という人
に関係ある資料と取ってしまい易いというのが一ついいたいところのことです。「原田備前(中)守直政」
は「九郎左衛門直政」であり、桑原九蔵(助六、平兵衛)の桑原です。■にも人名注の見出しがあり、
「■→斎藤義竜」となっています。したがって■は脚注があることになり、
   「范可(〈美江寺文書〉、★弘治元年十二月附禁制)、〈天正事録〉では「飯賀」に作る。」
となっています。〈美江寺文書〉となると信頼性が増しますが〈天正事録〉の「録」の字が違っています。
似た資料があるのでしょうか、もしそうとすると中味の問題がでてきますが、これは別として、〈信長公記〉
では、「四月廿日」「新九郎義竜」が「道三」を合戦で討ち取ったあと「罪なりと得道(度)」しましたが
   「是より新九郎はんかと名乗る。」
となっています。一方、この「四月廿日」は脚注に
   「弘治二年(1556)道三の画像(常在寺所蔵)の讃にもその戦死は、弘治二年四月二十日
   とある。」
となっています。★では戦死の一年前にもう「范可」と名乗っているから、食い違いが生じます。この
矛盾を説明しなければなりませんが、基本的に資料の信頼性が問題だということが誰も気が付くことな
のでそれをやってわからない仕方がないで終わっています。この矛盾が本来の手法なので、それから
見ようということでないと進みません切り口はいたるところにあり、大きな、初歩的なものが語られてい
るということで、見る必要があります。誰が見ても至るところにおかしいことありといえます。例えば二人
の二書間の連携の問題などです。おかしいことで言えば〈甫庵信長記〉には斎藤義竜が出ていな
いことわかり、その観点から見れば〈信長公記〉にも斎藤義竜はないということが分かります。即ち■の
あるところの四つだけが、あの義竜ですから「斎藤」がありません。テキスト人名注にある見出だしの
    「はんか」「新九郎はんか」「斎藤義竜
 というのはおかしいことになりますが道三の跡を継いだのだから現実は合っているともいえます。
つまり表記では
                    一代目       二代目    三代目
      〈信長公記〉        山城道三・・・・・義竜・・・・斎藤右兵衛大輔竜興
      〈甫庵信長記〉  斎藤山城守道三・・・・・□□・・・・斎藤右兵衛大夫竜興
このようなことになり、一般の人は義竜という人がいたのは認識できていないといえます。挿話では
深芳野という人の子で両方とも実の親子か疑っていたというような変なものがあったりして知られてい
たとは思いますが一種の浮いた感じの人になっています。要は■の四つは浮遊しているもので、引っ
付く斎藤を探すということになります。「斎藤」は〈信長公記〉では
   「斎藤喜平次」「斎藤内蔵佐」「斎藤孫四郎」「斎藤五八」「斎藤新五」「斎藤六大夫」
があり〈甫庵信長記〉では
   「斎藤刑部少輔」「斎藤内蔵助」「斎藤五(新五・新五郎)」
 があり本能寺まで行ったのは斎藤内蔵助(佐)と斎藤新五(郎)です。結局、年代など考えると
     「斉藤内蔵助(利三とされる)」
が残るというようなことになつたりします。つまり表記で言えば、斎藤内蔵助は斎藤道三の子息という
のも出てきそうですが、やはり親と争った経緯が説明される必要があります。
もちろん表記の一人歩きの面もあり「斎藤内蔵助」となると「斎藤」という二字表記があり、「佐々内蔵
助」から太田和泉がすぐ出てきます。
 「斎藤新五」というと「長尾新五」があり、「斎藤喜平治」というと「長尾喜平治」がある、このように
みれば「斎藤」からは「武尾」「永尾」も出てくるでしょう。また「斎藤刑部少輔」には「永田刑部少輔」
「武藤刑部少輔」があり、「武藤」などは「五」もあり、「武・藤」となると、「斎・藤」とは「斎(藤)=武(藤)」
ということになり、「信長記」のもう一人の主役「武井直助」からみる、「斎藤」というのも出てきます。
 「斎」(いつき=槻)、「藤」(ふじ)の「斎藤」と武田を結ぶために若狭武田の旗下の豪族、知り合い
だったと思われる武藤氏の「武藤」を起用したといえるのかもしれません。

この斎藤に関連してちりばめられている二字の表記が重要です。単独で語りかけるものです。
「斎藤」「道三」「竜興」「義竜」「西村」です。
「斎藤」は「いつき」+「後藤」「藤九郎」「藤五郎」の「藤」であり、
「道三」は道家の三人、
「竜興」は「竜文寺」「竜雲院」の「竜」+「忠興(沖)」の興、
「義竜」は武田義統→大友義統(吉統)で「吉」+天王寺屋竜雲の竜
「西村」は北村、南村、東村・・・・のように「奥村」の奥のように村をを形容するもの

というようなことになるでしょう。
「竜興」といえば「竜」と「興」でも語るというようにされているといえます。これだけで夕庵と高山右近が
匂わされるように、一族を表わす暗号文字の例ともいえます。
 道家について鎌倉の九条の道家がありますが、道家尾張守の「道家」と繋がりは、やはり、鎌倉の
摂政家というのを、この尾張守の「道家」に掛けたいというのが有ると思います。道三の
「道」というので仲介が出来た感じですがこの「尾張守」というのは滝川の関東から長嶋への帰還の
くだりに〈甫庵信長記〉
   「松田尾張守、大寺駿河守、芳賀野伊予守」
   「甲山の先陣松田大寺芳賀野は・・・・」
の二つがある松田尾張守が出ます。「松田」は「松野」・「松尾」・「松井」にもなり、松野からは平介、安東
が出る、松尾から笠原、掃部が、松井から友閑、甚介が出てくる、また「松田摂津守」があって
高山も出てくる、道家尾張守は武井尾張守というのが出てきます。この松田のうしろ二人に炙り出しが
ありそうで
    太陽寺左平次      倉賀野淡路守
    大道寺駿河守      芳賀野伊予守
というような対比になると思います。「太陽寺左平次」は「日置清十郎」と出てきたので「大道寺」→
「松田」→「太陽寺」ということで「道家」が出ます。「左平次」は一応太田和泉とみてよいでしょう。
「伊予守」→「稲葉伊豫」→太田和泉もあります。太陽が出されたのは〈甫庵太閤記〉のはじめの記事
  「秀吉公素生」
を受けたという意味のものでしょう。ここに太田和泉守の幼少期を語る記事があります。

   「母が懐の中に太陽が入る夢を見て妊娠して誕生したという。そのことから日吉丸と名付けたと
   いう。立ち歩きができるようになったときから、日吉丸はたぐいまれな優れた性格で、世間なみの
   幼児と違い非常に悧巧だったので父親は彼を僧として禅宗の寺に入れ仏教の道に付かせよう
   と考え、八歳の頃地元の光明寺門弟として入れた。・・・」〈甫庵太閤記〉教育社新書訳本

 これで仏教のことなど全然勉強しない、軍談とか戦ごっこなどしたりして手に負えないので体よく
寺から追い出されてしまいます。
   「その気持ちは人より勝り、小さいことにはこだわらず、誇りが高かった・・・太つ腹で小さい
   ことにこだわらず寛大で慈悲深かったため、将来すこぶる有望な少年だと評判が高かったのは
   当然のことであった。」〈太閤記〉
 これは自画自賛ですが自分が語らずに甫庵が語っているから客観性があるといえます。これで「日」
「吉」の字が重要なものとなります。「日向」の「日」などです。ここの「光明寺」が
   「鎌倉の道家(九条)」(摂政、太閤、光明峯寺殿)、
   「道家尾張守」(光明峯寺殿御名乗)、
   「太田和泉守」(光明寺)
をつなぐものと思われます。
   倉賀野淡路守
   芳賀野伊予守
のことは倉賀野は蔵賀野のことで「蔵」と「芳」のあぶり出しかも知れません。脱線しましたがそういう
ものをと思わせる由良信濃守{新田城主}です。
 この「信濃守」が重要というのは常山の「酒和田喜六」の出てきた「十和歌のくだり」の最後の喜六
の和歌
    芳野山花さくころの朝な朝なこころにかかる峯の白雲
のあとに「信濃守」の連発があるので気付きます。
   「永井信濃守の家臣酒和田喜六・・・・喜六・・・酒和田・・・・林道春・・・・信濃守江戸・・・喜六
    ・・・喜六・・・信濃守・・・信濃守江戸・・・喜六・・・・信濃守・・・」
といったものです。
 信濃と高山の組み合わせは予想外ですが、「笛吹(うすひ)」は高山(右近)の属性ですから山梨で
高山(右近)を想起できるように山梨県としたというイタズラがありえたのではないかと思います。もともと
このあたりは現在の理解とは違って反徳川であり、また明治のごく初めあたりまでは、明治新政府にも
すんなり従わないというものがあったと思われます。
〈甫庵信長記〉がよく読まれていたときは、「笛吹」が与える印象は、いまと大きく異なるから仕方がないこ
とで、滝川左近、高山右近の「笛吹」であり〈甫庵信長記〉のここで使われた「伊豆守」、「諏訪」、「木曽」
、「神主」などの語句が芭蕉が奥の細道で再現されている、そういうのが読み解かれていた、時代の人が
した判断があったかもしれないわけです。観光バスの案内でも面白いものがありました。
  ○山梨は梨が付いているがいまあまり梨とは関係がない
  ○卯の花の匂う垣根の・・・の卯の花は、「うつぎの花」
  ○笛吹川→石沢→鵜飼
のようなことです。奈加良川の鵜飼は有名ですが、読者に教えてもらったところによれば、その上手
の小瀬村にもう一つ鵜飼があったようです。こうなれば長良川→小瀬甫庵→鵜飼ということになり、これ
を移したような山梨の鵜飼です。地元にとっては不純なものが入る話で迷惑だということになりそうで
すが、笠井肥後守利高なる人物が勝頼を逃して戦死する、佐久間右衛門が武田に内通するような
話しを残した人物もいるわけで、当時の人はそういうのも読んでいた、常山を読んでいた、常山では
明石掃部助に関係して備前磐梨郡を出してきています。
 要は「武田佐吉」の表記が物語るものが何かということまで行く話となるのでしょう。そういう人がいた
から、ということだけでなく工夫を重ねた表記というものがあるといえます。「武井」と「武田」とは似てい
るし中国毛利に吉川駿河守がでてきたり、吉川元春の一族の因幡鳥取城主「吉(橘)川式部少輔」
はいわゆる斎藤義竜の別名「一色式部大輔」と似ている、まあ一辺確認して欲しいというものが、出て
くる大は少を同時に想起するからこれは同じにしているといえます。まあそういうものがあるわけです。
 馬場美濃守から「等伯」の「信春」というのが出てくるというところ脱線しましたが、美濃と信濃は「濃」
を共有しており、滝川の一節も美濃の匂いがありました。〈信長公記〉には「濃州」のルビは
   「ぢようしう」
となっています。等伯に戻ります。

(72)年旧
テキスト人名注では「伯中将」は「白川雅朝」となっており、「伯」は「白」であり
   「吹田・泊々部(ははかべ)・池田和泉」〈信長公記〉
の「泊々部」は甫庵は「伯々部」としていますから、結局「白々部」といっていることになります。ダイナ
ミックに変換されているという感じがします。したがって〈奥の細道〉立石寺の一節
 再掲
       『梺の坊に宿かり置きて山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、
         ●松栢年旧(しようはくとしふり)土石老いて・・』〈奥の細道〉

の●はもう一つの意味があると思います。在原行平の有名な歌の「まつとし」が読み込まれていると思い
ます。テキスト人名注で「横田備中」は「横田綱松(つなとし)」で「備中守高松(たかとし)の養子」となって
います。ここから「松」は「年」であることがいえるというのは既述ですが、この「横田備中」〈信長公記〉
は重要人物なので、芭蕉はこれを知っているのはあきらかです。親も備中守ですから養親といえども
親子含めて考えていると、いうこともわかります。●の「栢」は脚注では「柏」となっており、また冒頭の
「月日は百代(ルビ=はくたい)の過客にして」のルビからいっても「白」になりうる、その流れから言うと
「旧」は「白」の変形と取れます。つまり●は「松白年白」ということになると思います。等伯の「伯」が
「松」と「年」に懸かったというのがいいたいところで、もし松=年ならば「松松白白」「年年白白」という
強調形にもなります。「まつ=とし」などということはどこから来るのかということになりますがやはりよく知ら
れたものから引っ張ってきた

  「立ち別れいなばの山の峰に生(お)ふるまつとし聞かば今帰り来む」〈古今集〉

この歌は語句が二つの意味に掛かっていることで有名です。一般には
 「いなば」は行平が「因幡守」だから「因幡」と「往(い)なば」に掛かっている
 「まつ」は「松」と「待つ」に掛かっている
というものです。後者では「待つ」と(し)聞かば、ということで(し)は強調形というものです。しかしこれ
では多少手抜きではないかと思います。つまり「まつ」もひらかなの二字であり、「とし」もひらかなの
二字です。
「とし」も「年」と「と し」とに掛かるというのがありそうです。まあ「松年」が「待つとし」にかかるといった
ことでもよいのかも知れません。「まつとし」が一つになっているようでもあります。いずれにしても「松」と
した場合の意味が判りにくいのは同じです。同じことが「ふる」にもいえると思います。「ふるまつ」と
読んでみた人もいるかもしれません。そんなことをしたら意味が通じなくなるではないか、といわれる
でしょうが、「因幡」を「去なば」と読み替えてもあと「山の峰」に繋がっていますから意味が通じにくいの
おなじです。「立ち別れ去なば」と続くではないか、ということになりますが、それならば「年(歳)を聞
く」というよくある行為がつながりますし、「立ち別れ」は「松(の枝)」の状態の表現に適っているともいえ
ます。芭蕉はこの歌の「ふる」を「旧(ふ)る」ととっているのではないか、と思われます。年も松も、「ふる」
といえます。
        年ふる・・・・・旧(ふる)年
        松ふる・・・・・古(ふる)松
で「ふる」を媒体とすれば松=年でもありうるとしてこの一節を作ったといえます。つまりこの歌から
「白」に懸かる、「とつとり因幡」の「松」を持ってきたといえます。

 「年旧」「年伯」の方の意味は、「年旧」は「とし」「きゅう」だから「利久」想起(狩野)でよいのかも
しれません。
   「年」→「利(とし)」→「利(と)」→「登(と)」→「登(とう)」→「任」→「藤」→「等」
 で「等伯」が出てきます。常山は「後藤又兵衛年房」という表記を使っています。この珍妙なものは
どこかで使わねばなりませんが、「年」はここを意識したと思われます。「藤」や「泉屋又兵衛」に繋が
後藤すが「房」は高山右近が長房ですから、そこにもつながるものです。また高山右近大夫幸任
という表記を常山は用意しており「松年」はダイレクト「松任」にもなり、「任(とう)伯」が顔を出すことに
なるのでしょう。

 在原行平のこの歌も高山を表わすために〈奥の細道〉に援用されたといってもよいものです。
    「立ち(竜・隆・柳・・・)」、「別れ(別しよ・別墅)」「いなば(とつとり因幡)」「山峰(高い山)」
    「松年(栢旧)」帰る(かえる)・・」
などと引っ掛けて、ここを書いた、高山右近を表わすべく等伯と結び付けるべく古典も動員した、と
いえます。そんなことまでしていないだろう、自然観照としても古典の援用はありうるといわれるかも
しれませんが、それならば「松柏(まつとかしわ)」を「松栢」とする必要はありません。松柏というのは
     「松柏之寿(長命)」
     「歳寒くして、松伯の凋むにおくるるをしる」
     「すでに見た、松柏がくだかれて薪となるを、更に聞く桑畑が海と成るを、」
漢語新辞典に引用があるものだけを挙げましたが、唐詩に松と柏(かしわ)という標準的なものがある、
つまりこれは
    松+木(篇)×白
です。芭蕉は「白=百マイナス一=99」を用いました。これを代入すると松栢は
   @松+白(篇)×(百マイナス一)×木
   A松+木(篇)×99
ということになり、@は一本の松と九十九本の白木(柏)であり、Aは一本の松+99の木々つまり
松林となります。松をめぐって、白をたくさん、木をたくさん出そうとしたのが●の文言でしょう。

 芭蕉では「百」は「はく」であり「栢」は「10×10白」の木です。百伯=10伯×10回で
10回も等伯がでてきます。又
      「一栢」〈甫庵信長記〉
という孤立表記は、結局「等伯」を多数内包していたといえます。芭蕉はこれに目をつけて〈奥の細
道〉で利用したというのが●であったといえます。立石寺に等伯が、高山が、ぼんやり石田でてきた
ということになるのでしょう。

(73)山中十景
 〈信長公記〉の小牧(真木)山の一節は「山中」が二回でて人名表記はないにもかかわらず高山、
はもちろん富田もが出てきて、山中へ行き着きましたが「二の宮」も同じです。「二宮弥次郎」という
単独表記も用意されています(甫庵信長記)。これはまあ太田牛一でしょうが、後世の二宮金次郎に
も影響を与えるものでしょう。金次郎は勉強家だから戦国時代の動向はよく知っているわけですが、
有名になると周囲がそれを利用してこの場面を思い出し墓を創ったりするわけです。富田で有名な
のは剣客の富田勢源で、小太刀で一派を興したという名手ですが佐々木小次郎がこの人の孫弟子
とされています。芭蕉に「山中十景」が出ますが有名な尼子十勇士は常山では

  「山中鹿(しか)之介、薮原茨(やぶはらいばら)之介、五月早苗(さつきさなえ)之介、上田稲葉
  (うへだいなば)之介、尤道理(もつともだうり)之介、早川鮎(あゆ)之介、川岸(かはぎし)柳之助、
  井筒女(いづつをんな)之介、阿波鳴戸(あはなると)之介、破骨障子(やれぼねしやうじ)之介なり。」

 になっています。佐々木小次郎は「岸柳」といいますがその名の由来はここの「川岸柳之介」で
しょう。この人名羅列は「岸柳」を特別呼び出すものがあります。こういうのは面倒ですが並び替えてみると
出てきます。
   @山中鹿(しか)       之介、
    薮原茨(やぶはらいばら)之介、
    五月早苗(さつきさなえ)之介、
    上田稲葉(うへだいなば)之介、
    尤道理(もつともだうり)之介、
   A早川鮎(あゆ)      之介、
   B川岸(かはぎし)柳    之
    井筒女(いづつをんな)之介、
    阿波鳴戸(あはなると)之介、
    破骨障子(やれぼねしやうじ)之介
 
 ○いまここで「之介」が邪魔なので動かしました。動かしたのは@ABだけです。それで用が
   足りたわけです。まあいわばこの三つはルビが短くしてあります。「あはなると」も「かはぎし」と
   一字違いで短いですが漢字が増やしてあるので動かさなくてもよいようです。
  ○山中が中心ですから、それに関連する語句はここでは「川」です。忠臣蔵の合言葉は「山」「川」
   といわれています。「谷」があればそれも入るでしょうが風景といった括りでは@ABです。
   @→A→BとBに行き着くようになっています。
  ○苗字だけにルビがついているのはBだけです。「岸(きし)」止めで「岸」に注目といっていそうです。
  ○名前の最初にルビのないのはBだけで、「柳」にルビがないので特別扱いと言えます。
  ○どうしても読みが納得できないものもありそうです。
などあり、岸柳が山中に出てくるとともに「岸・隆」が強調されています。山中鹿之助は毛利と、尼子の
富田城をめぐって攻防を繰り返したわけです。
     山中ー富田ー岸柳ー芭蕉(立石寺全昌寺)ー芭蕉山中ー陶器・木工・絵画
細い線を辿っても、行き着くことができそうです、〈奥の細道〉の立石寺のところ、山の中の話し
なのに「岸をめぐり、岩を這いて」というやや不自然なものが出てきました、また全昌寺のところに
「散(ちる)柳」というのが出てきたのは「柳」をここで出したのではないか、無理があるような感じがし
ましたので、既述しましたが、立石寺と全昌寺の等伯は山中に繋がるということは常山が云ったの
ではないかと思います。
なお「之介」の十連発があるのもこのようにしてみると判ってきます。見直してみるとチャンと
      一 + 九=十
というのが出ています。橋本一巴は橋本十蔵を意味づけ、一栢は十(とう)泊を予想できるといえます。
先に出た十河も同じです。「之介」については常山は「小牧の陣」で
    「高山右近(たかやまうこんの)大夫幸任(ゆきたふ)」
 を出してきます。「之」は「雪」「行」「幸」・・・・になります。菅屋長頼の長行などはひっくり返すと
「行長」となり摂津守行長が出てきます。「幸」は「全昌寺」「昌景」の「昌幸」も出てくるのかもしれません。
「任」は松任の「任」で立石寺のところで折りこまれているような感じで既述しました。まあおかしいと
いわれそうでも云っておいたほうがいいわけです。もし誰か第三者が述べているかもしれない、
二人が同じことを述べておればそれだけで十分です。松任=松等でもあり、松任より出てきた人物
ならば芭蕉のここをどう読むか、などの関心が出てきます。常山に「松任」の三連発もあり、太田和泉守の
故地と高山右近を引っ付けた常山の企図は受け止めるべきであろうと思います。
この「松任」の「任」は「惟任」の「任」なので重要なもので、これは太田和泉守の表記でもあるわけです。
〈甫庵太閤記〉には、天正十一年(本能寺翌年)

      『一、越前若狭賀州半国  惟任越前守{丹羽五郎左衛門尉長秀}』

 という一文があります。{丹羽}は「惟任」だといっています。これは無視できません。江戸の学者、教養
人、政治家など皆読んでいますから、これは頼りない資料だと断定してほったらかしにしているのは
学問的でないといえます。〈甫庵太閤記〉で伊豆山中あたりで「狩野一庵〉」などの人物も出ますが
夕庵牛一庵の合成のような感じです。「山中」をバックに「山中山城守(長俊)」や「中山備前守」(のち
水戸後見役)家などを睨んでいる感じです。この北条戦、山中に太田肥後守という人物が出てきて、
松田尾張守の二男左馬助秀治などと宴を催し茶室で茶をのみます。とにかく〈甫庵太閤記〉の表記
油断がなりません。これに索引がないのは余りにも痛いことです。
日本史で百人を選ぶとすれば文句なしに真っ先に挙げられべきは太田和泉守でしょう。それはおかし
いとすぐ異論が出るでしょうが、信長、秀吉、家康の時代の史書を書いたのですから、それだけでも
指折りです。しかも徳富蘇峰、桑田博士などがベタ誉めしている史書です。有史3/4経過、絶妙の
時期に、先人の叙述手法を再構築、判りやすくしたというのも大きい、明治時代、大戦を挟んだ今で
は、太田和泉守のものしか、その再発見の切り口になりそうなものはないといえるほどです。字が間違
っているのなどはどれもあるのですが、記紀や、吾妻鏡や、松尾芭蕉からだけではその意味の理解は
むつかしい、太田牛一のものは単独で理解できるわけです。主人公が二人いそうだ、太田牛一が臨場
している、名文と悪文の落差が大きいなどのことがすぐ判ってきます。太田牛一のものから他の書物
を照射すればみな生き生きとよみがえってくるという感じです。こういうのは外国の文献にもないもので
す。教科書的ということであればコンパクトであることも重要なことですから。
そういう太田和泉守の故地が松任といえます。
      松任が消えてさびしき加賀のくに

(74)山中の貞徳
芭蕉が10歳ころ、1655年、古九谷が、大(74聖寺領主によって後藤才次郎が活躍して生まれたと
いわれます。これが50年ほどして消えてしまったようですが、芭蕉がこの地へ来たのが46歳ごろ
1689年ですから、ここではまだ九谷焼が焼かれていたといえます。つまり〈奥の細道〉の芭蕉と
九谷焼は関係があるので山中のくだりでは述べられていなければならないはずです。現に芭蕉の
記事から九谷焼に言及されているのがありますがごく少数です。
高山右近の亡くなった年は1615大坂落城の年くらいということですが、芭蕉はその30年後生まれ
たということで、時代が近い尊敬する人物といえます。山中のくだりの登場人物は四人ですが、久米
之助父子に近い方の人が「矩」の「青木木兵衛」から高山右近がでるのは必然であったといえると
思います。あと二人も芭蕉に近い人という意味で考えるのがよいのではないかと思います。洛の貞室と
貞徳が問題です。
 山中で出てくる松永貞徳は芭蕉の10歳の時に亡くなっていますから高山右近よりもっと時代の近い人
で、〈奥の細道〉で、戦国期以後ではそのものズバリの名前で出てきたのは、松永貞徳だけで芭蕉に
とってよほど重要人物といえます。松永貞徳は 本能寺のときに〈甫庵信長記〉に顔を出しています。

   『爰に尾州の住人梶原左衛門尉が続子(ぞくしー脚注:あとつぎの子)松千代丸、生年十三になり
   、其の折しも病に冒され・・・・同名の家(の)子又右衛門と云う者・・・・・終に討たれて失せにける。』

 石田三成のところで出てきた一門のホープ松千代丸ですが、正味で十三才の方が松永貞徳でしょう。
又右衛門が二人の申し開きをして二人を戦場に出さず、「主の代官」として敵を防ぐと豪語し、空前
絶後の奮闘をして、戦死します。この又右衛門は江戸期の人からはヤンヤの喝采を受けたはずです。
 山中における貞徳は間接的に出てきます。

    『かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、ここに来たりし比、風雅に辱しめられて、
    洛に帰りて貞徳の門人となって、世に知らる。功名の後、★此一村(このいつそん)判詞(はんじ)
    の料を請(うけ)ずと云ふ。
    ●今更昔語りとはなりぬ。』

 テキスト訳によれば「洛の貞室」は「京都の貞室」となっており、脚注では
  「安原氏、諱は正章。貞徳の門人で、花の下二世をついだ」
となっています。★の部分は
  「この山中村の人々からは、俳諧の点料を申しうけなかったということである。」
となるようです。ああそういうこともあったのかという事実報告というものとして軽く流そうとしてしておられる
のは「貞室」というものの説明が一切ないところから感じられるところです。訳を一見した段階では、
貞徳の門人で跡を継いだほどの優秀な京都の貞室は、この村の人には、今日の自分があるのは、この
村のお蔭という感謝の気持ちがあったので判詞料を無料にしたというような程度のことです。
 洛の貞室は貞徳夫人ではないのか、「料」が料金という意味なのか、「請けず」の「請」が受領なの
かどうか、などが疑問のところですが、疑問がなにもないと、疑問を踏まえないとあとのことが出てきま
せん。訳が「点料」とか「申しうけなかつた」というようなボンヤリしたものになっているのは「料」は「材料
」の「料」にもなり、「申しうけ」は「請負」の「請」けにもなり、「なかった」というのは拒絶にもなりえます。
辱められると通常怒りますからそちらの村は武矩のような人がいるんだからやってもらったらいいじゃないか
と判詞のもとを受けなかった、請け負はなかった、ともいえないこともないのです。喧嘩のようなもの
ですが殺しあったり、諍いがあったりするのは、注目させるための手段であり、本当は親しいということ
を示すものです。狩野永徳と長谷川等伯、明智光秀と森蘭丸の諍いやらもそうですし、佐々木義弼が
後藤但馬守父子を、中川重秀が和田惟政を討ち取ったという類の話しと同じです。
    「此一村」
が「此一孫」にも懸かるとなるとたいへんです。●は芭蕉が自分の昔語りをしたといえるのでしょう。
一村で読む場合は、前者の場合で、一孫で読む場合は後者になり、芭蕉の作品には批評をしなか
ったと取れます。
自分は貞室の孫といっているとも取れるところです。松永貞徳は、狩野永徳の子で、森えびなを介して
太田和泉守の孫(表向きは子とするのかもしれない)といえる人物です。その男系の孫とかいうのが芭蕉
といえるのかもしれません。松永貞徳のことを語るのに「貞室」という言葉を使ったともいえますし、両者を
重ねたともいえるのでしょう。
 芭蕉は、談林や松永貞徳の貞門の俳風に物足りなさを感じ、あたらしい俳風を打ち立てようとして
試行錯誤し、蕉風ともいうべきものの確立に成功したということですが、松永貞徳たち先人の業績
を継承しようとした、先人の偉業を伝えようとしたという側面が大きいのではないかと思われます。
芭蕉のことを語るときはかならず談林、貞門がでてくるのもそれに成功した例といえます。芭蕉のもの
が判るためには、少なくも太田牛一に遡らなければ理解できないということをいってきましたが、両者
の対比だけではやや飛躍するところが出てきて説明に窮するところもあるわけです。芭蕉が松永貞徳
の解説をしているところもあると思われるので本当はもっと上手く説明できるはずだといえると思います。
いままで太田牛一と芭蕉とが関連付けて読まれていないのは、松永貞徳を誰も真剣に読んでいないと
ころからきているのでしょう。有史時代を判ろうとするのに地中から出てくるものだけに期待し待ってい
るのはピンと外れです。
 芭蕉以後の加賀九谷の現地の伝承を挙げてみたいと思います。

(75)黒谷
「黒谷」もしくは〈曾良日記〉に出ている「黒谷橋」で検索しますと出てくるネット記事のyahooイントロの
部分だけを見ても、やはり高山右近がでてきますので確認しておきたいと思います。まず「橋」が出て
きます。

 (@)蟋蟀(こおろぎ)橋
 これは黒谷に今こおろぎ橋があるから記事に出てくるのは、当たり前のことだというものではないと
思います。これはどこから来ているかといえば、山中温泉の少し前小松のところで
     むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
 のキリギリス(吉利吉利す)が蟋蟀ですからこれを受けて黒谷の橋がこおろぎ橋と名付けられたと思い
ます。
「甲」は「兜」「冑」にしなかったのは、林甲兵衛が林高兵衛になるところから「」を出して、高山は
「下石」であり、この「下」が「甲の下」つまり「()の下のきりぎりす」とイメージされたと思います。
また蟋蟀の虫篇も重要かと思います。虫は〈奥の細道〉で山中で出てきます。

       『尿前の関・・・・よしなき山中に逗留す。
           蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと』

でここでも虫篇二つです。雲岩寺でも虫が出てきます。

   『雲岩寺・・・・・道のほど打ちさは(わ)ぎて・・梺・・・おく・・谷道・・・松杉黒・・・卯月・・・天・・猶
   ・・・十景・・・橋・・・』

 「さわぎ」は「騒ぎ」ですから「虫」です。〈三河後風土記〉の歌のやり取りで
    幽斎の歌:「太閤の御前ではじを柿の本・・・・」、
    太閤の歌:「奥山にもみじふみわけ鳴く蛍」
があり、太田牛一はこの太閤にも乗っていると思いますが、「恥を掻く(柿)」の「虫」と、蛍の「虫」が芭蕉
の解説として入れられていると思われます。大村由己は藻虫斎というので一つ太田和泉に懸かっている
て、「蟋蟀」の橋の語源は芭蕉の〈奥の細道〉の小松、山中のくだりにあり、といえます。

  (A)あやとり橋
   〈信長公記〉の伊賀陣で「阿閉郡」が出てきますが、これにカタカナルビが付いており、
       「阿閉(アヤ)郡」
となっています。脚注では「いまの三重県阿山郡」とされています。これはおそらく当時も「阿山郡」で
あり、おそらく、読み方も「あやま」であったのではないかと思われます。つまり
   ○このあとに続く人名に「阿閉(あつぢ)淡路守・・・・青木・・・」があり、太田牛一はこれは「あや」
    とは読まないことを知っている。
   ○ 「阿閉(アヤ)郡」のルビの付け方が、
           ア    ヤ□   
          阿   閉
    というようになっていて一字無理に空けている感じがするので創られた「あや」郡といえると
   思います。その心は、
      あや=文
 でしょう。文化とか文字とか文民などの「文」ですから、また「あや」は模様、いろどり、というようなもの
ですからこの結びつきはよほど重要です。具体的には
   A坂井文助ーB坂井彦左衛門ー坂井越中守ー坂井甚助ー坂井久蔵ー坂井右近
というように関連させてA、Bの孤立表記は目的に照らして創ってある、というようなことを云っている、
、また「青木」という二字を、阿閉のあとに並べています。

       『阿閉(アヤ)郡、滝川左近・堀久太郎・・・・阿閉(あつぢ)淡路守・不破河内守・・
       多羅尾・青木・青地千代寿・甲賀衆、』

 「青」「青」の連発で「千代寿」も重要ですが、甲賀の多羅尾は右近で、「右近」と「甲=高」に挟まれた
「青」というようになっていて「阿部加賀守」にも「阿閉」を通じて結べるものでしょう。「不破」などは
意味がないではないかということになりますが、利用する人が出るわけです。不破は彦三がいます。
また常山は不破郡と石井兄弟を繋げましたが
    「不破杢兵衛」
 という表記の人物を用意しています。これは細字だからか、索引には出ていませんが、広がりをもって
いそうな名前です。これを上の「不破河内守」のところに代入すると、この一連の人名羅列に
    「木工」「木米」「山中のアヤとり橋」
というのが関わってきそうです。
「不破」の「彦三」と繋がると「あやとり橋」の「とり」は、「とつとり」「取鳥」「鳥取」の「取」ではないかと
いうのが出てきます。つまり「彦三」から
     『山口取手介 討死、
     土方彦三郎、討死、
     森三左衛門・・・・三左衛門・・・』〈信長公記〉
 の土方→取手→森、とつながりうることからいえることです。ここで「土」と「取(鳥)」「彦三」「山(中)
口」「森」などで一応「土」「鳥」で高山右近の関わる「あやとり橋」といえます。高山右近は「土」という
一字で表わされるということのようです。常山が
     「土方三九郎」(六左衛門)
の一節を用意して
  「大垣」「有馬」「豊」「森有所(もりあるところ)に東(ひんがし)」「森(もり)の南(みなみ)」「国澤掃部」
  「藤堂」「渡辺勘兵衛」「八幡」「池田」
など出していることがあります。〈信長公記〉の
     「土川(ひじかわ)平左衛門」
 という一匹狼の表記も同じです。周囲
   「横山」「堀」「下長沢」「多羅尾」「又下坂」「八幡(ヤワタ)下坂」「さいかち(地名)」
などの表記を伴っており「大津土左衛門」や長谷川埃介という「土」が高山右近を、あやとり橋へ向わせ
るものです。三九郎=六左衛門は、算数の計算もされているようですが、先ほどの「滝川、武蔵野・・」
の一節では
      「三九郎八丸{一益長子二男}二人・・・」
という「三九郎」が出ます。これを読めないと滝川のことがわからないということになりますが、これを常
山が警告したともとれます。そんなの関連があるとはいえないと思ってしまいますが書き手が今日の
書き手と違う、特に目的が違うのですから、その積りで見ないといけないようです。

 〈信長公記〉のこの伊賀陣は「河合」が出てきて
    「河合の城主田屋」「高屋父子三人」「荒木の竹野屋左近」「糟屋蔵人」「木興」「服部」
が、「河合」の周辺にあります。一つ目に付くのは「屋」ですが、「屋」=「谷」です。
「河合」は「河合安芸守」があります。高山右近から安芸守に行く流れがあるのかもしれません。
結果的にはこの一節は「曾良」の「河合氏」に行き着き、全昌寺の曾良が出てきます。ネット記事に
あつたかと思いますが曾良という名前が
     木
     長
の「曾良」というのはよくできた挿話と感心させられます。こういうことで「あやとり橋」と名付けた人物は
相当な人ではないかと思われます。

  (B)鶴仙渓(鶴ヶ滝)
  これは「青木鶴」、また「鶴山」の「鶴」です。鶴山は、「奈賀良川」「山県と云う山中」「銭亀」など
と出てきました。仙は万見仙千代の仙といえます。森蘭丸と二人になるのでしょうが、「南部」に会った
方は高山かもしれません。「滝」は竜もあり、多芸(たき)、武井になります。
なぜここ黒谷に「鶴」の命名があるのか、ということです。

  (C)小才橋
 これは後藤才次郎でよいのかもしれません。「才」が付くのは「可児才蔵」がすぐ思い浮かぶものですが
常山は可児才蔵吉長を二つ作っています。ルビが全くない方は
   「原氏にて越中の出所なり・・・・(小牧の陣のあと)高野山に入。・・・青竹を差者にして」
となっており、可児郡を山中の方へ向けさせたのではないかと思います。朱柄の沢村才八の「才」
もあります。

  (D)柏野大杉
 これは〈奥の細道〉の「立石寺」の「松栢」が、脚注では「松柏」となっているように本来の字であり
「コノデカシワ」ですが少し拡大して解釈したようです。「大杉」が問題ですが「すい津」などで高山に
関連付けて話ししてきました。常山を借りるともう少しはっきりしてきます。尼子、毛利戦

   『・・廻藤十郎元豊・・・・面も手足も毛生えて熊の如し。・・・大杉抜右衛門・・・・此もの杉の木・
   ・・・大杉抜右衛門・・・・此大杉・・・・此庭前の杉大木・・・此木・・・・廻神藤十郎・・・庭前の杉・・
   大杉殿・・・廻神・・・・一介の杉の木・・・・庭中・・・大杉・・・』(常山奇談)

「神」は高山右近の属性とみてもよいようです。当時キリスト教で、太田牛一が「神」という語句を使っていた
ようでもありますがそれは別として「神藤右衛門」などがありました。毛は丸毛の毛、熊も高山の属性で
す。「高山右近友能」〈三河後風土記〉という表記もあり、「能登」の「能」でもあり、「熊」もありえます。
「丹羽」も三つ出ています。単に杉ではなく大杉ですから地名ピッタリです。

  (E)白鷺大橋
 これは黒坂とか黒谷とかの黒と対の白でもあり等伯の「白」があり、また「匂う」に似た、勾坂(さぎさか)
三兄弟を受けたものでしょうが、姫路城がここに出てきたのは解せません。姫路城の縄張りが高山
右近によってなされたということをいいたいのかもしれません。城の創建にあたっては、池田の城だから
太田和泉守が池田輝政から相談を受けたはずです。

  (F)長谷部神社
 長谷部神社があります。これは「長谷川」の「長谷」ではないかと思います。首巻の終わりに「長谷の城」
というのがありました。しかし平家物語に長谷部信連という人物がでますのでその人を祭ってある、と
いうのは自明のこととなっています。ややこしい話しですが、テキスト脚注に「泉屋又兵衛(久米之
助の姓は長谷部氏。」となっています。これではその辺の地名が長谷部というのでなければ、泉屋は
長谷部の名前を僭称していたということになります。泉屋の菩提寺は全昌寺のようです。
幸いネット記事「長谷部信連」(geocities.co.jp/6989/)があり、この長谷部神社は明治五年の創建と
書かれています。この地の繁盛の源泉は初代の久米之助あたりに負っており、300年の昔のことだから
ら祭神長谷川氏のつもりで長谷部氏としたのではないかと勘ぐられるところです。

両書の「長谷川」で三回くらい登場する「長谷川橋介」という表記が高山右近として使われているのでは
ないかと思われます。これが「橋」など今までの現地伝承に大きく関係するところです。〈辞典〉によれ

   「〈張州雑志抄〉所収系図によると(長谷川)丹波守の弟で、別称右近とある。」
となっています。「右近」がこんなところに出てきました。
 こういえばすぐ文句が出てきます。つまり桶狭間の戦いで清洲城を飛び出した五・六騎の小姓に
「長谷川橋介」が入っている、1560マイナス1553=7歳ではあの激務は無理だというようになります。
これは表記を一人歩きさせて大事実を語るということをしているとみればよいわけで構成もそうなって
います。「長谷川橋介」は桶狭間、身方が原以外の登場が二つあります。
   @「長谷川挨介」(首巻で登場する)という表記は間違いではなく「挨拶」の「挨」の手篇は土篇
    として理解して欲しいという気持ちが入っている。「因播」は「因幡」と同じように使われており、
    「掘」と「堀」の両方が使われている。「埃」ともなれば「埃土」「埃塵」となり焼き物のイメージが
    出てくる。「挨」としたのは「持」というやはり手篇の意味を出していると思われる。もちろん
        長谷川橋介
        長谷川挨介
    という一字違いのあぶり出しをして、こういうのがいたるところで出てくるということやら、長谷川に
    注目させる、とか一人とは限らないというような手法の説明の意味もある。また、挨介の場合は
    前後登場人物は
       「あらかわ又蔵」「あら川与十郎・あら川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川挨介・内藤勝介・
       青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞」
    であり、「又蔵」三兄弟以下、苗字だけ辿ってみても久々利の加藤まで、橋介を表わすものが
    出てきています。また「般若」「挨」という遊びのような表記も使うということまでといっていると
    思われる。
   A「長谷川橋介」は信長弟、信行暗殺の場面に出てくる。〈辞典〉によれば
       「永禄元年、信長の命により、信長の弟信勝(信行)を討ったことが〈甫庵〉〈織田系図〉に
       載っている。信勝を討ち取ったのは河尻秀隆と青貝某であったと〈公記〉にあるからそれは
       誤りであろう」
     とされている。要は青貝と長谷川橋介と間違ったのだから二人を関連づけたといえる。
 長谷川橋介を高山右近とするとこのように周辺が固まってくるといえます。桶狭間もそういう性格のもの
が出ています。高山右近周辺のことがよくわかるわけです。桶狭間の信長出陣のくだり

     『其時の御供には御小姓衆、岩室(いはむろ)長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・
      山口飛弾守・賀藤弥三郎、等主従六騎、・・・・』〈信長公記〉

すなわち桶狭間でも長門守や飛騨守と出てきます。太田和泉守、高山飛弾守、明石飛騨守や蒲生
飛騨守と関連付けてみることができます。うしろの佐脇藤八は前田です。まあ高山(長谷川)に懸かる
のは、他に「岩室」も「室の八嶋」で出てきた意味から、山口は取手介だから、加藤は久々利亀の里
から、弥三郎は鷺の舞いからもありそうだ、というとそんなことはおかしいとなりそうで控えた方が無難で
す。しかし加藤肥後守清正という感覚から言うと「山口」が小姓なのに「飛弾守と名乗っているので
自称なのかどうかが気になるし、このヒダは入力すると、いつも「飛騨」というのが出てきて「弾」と打ち
かえる、ヒダンと打てばいけそうだとやっても「被弾」が出てくる、毎回煩わしくて仕方がない、賀藤も
加藤でないことがつい引用を避けるというほどであり、なにか引っ掛かりを作ったとみるのは妥当なとこ
ろでもあります。
山口を「飛弾守」としたのはやはり、「高山飛弾守」の「飛弾守」とつなげやすい、「守」の一字があるの
とないのとでは大きな違いがあるといえそうです。また加藤に「賀」を使うのは「加」が同時に意識され
るから「加賀」「賀加」が「飛弾守」に及ぶのかもしれない、となると引っ掛けも効いてきたといえます。
 後世の人はこの加藤の引っ掛かりを弥三郎→鷺の舞→白鷺橋→長谷川の橋につなげたかもしれな
いし、山口の飛弾、前田の被弾として利用したのではないかという物語もでてきます。まあ今日の人が
、昔の人はそこまで考えていないだろう、我田引水だなどとというのは、自分の尺度でいっていること
なので、枠を広げて思ったことは書いておく方がよいようです。
 以上は表記の一人歩きのことで、長谷川橋介が高山右近であると見てよいというヒントなどがでてき
ました。
ここで言いたかったことは次のことです。すなわち七歳の高山右近ではどうしようもないではないか、
という点です。つまり、太田牛一は、一体誰のことを書きたかったのか、ということが根本的に重要な
問題として出てきます。
 実際はどうなんだということがみなの関心でもありますが、信長は会議で「明日合戦を遂ぐべし」と
いっているのですから、いずれ当日のこの時には5、60騎はもう先に出て信長の出陣を待っている
状態でしょう。そこから五騎を書いても本来歴史的には意味がないわけです。また誰をとりあげて
も一部であり、不公平は付いて回ります。結局、自分と、自分の子を書けば、全的であるし、反って
公平であるし、最も確実である、といえます。この五人は太田和泉守と四人の子息であるととれます。
 けしからん話しではないか、そんなことなら誰も読まないよ、といわれるかもしれませんが、自己顕
示欲が特別大きい人間が書くことになっているので問題ないはずです。逃げたり、行方くらましたり
とかいうことも書く、つまり題材になるわけですから、脚光をあびさせなければならないともいえるわけ
です。また絶対的なエースが書くことになっているから、その人やその子息の動向は皆が知りたいこと
ですから自画像の一部として喜ばれたということができます。まあ聖徳太子が自分や子息の業績だけ
を自画自賛して細かに書き残してくれていたら、それだけでたいへん貴重な資料になりえたはずで
す。実際そういうのがあったから、それが記紀などに投影されて比較的太子周辺ことがよくわかると
いうことになっているのかもしれませんが、そういうことが太田牛一中心で全体像が完度が高く実現し
たといえると思います。太田牛一の作品はそれ自体体系をなして完結しており、しかも全体の中の
部分の位置づけ常に意識されており、それはそのまま、広い世界のことを語っているといえるもので
す。また、その後江戸三百年の解説考証という作品も加わって全体像が出来上がったというほどの
時代を超えたものです。結局人名はどうなるかということですが

    岩室長門守   長谷川橋介   佐脇藤八   山口飛弾守   賀藤弥三郎
       ‖         ‖         ‖       ‖          ‖
    太田和泉守   森 蘭丸   前田又左衛門A 木村常陸介   後藤基次

となります。前田の佐脇藤八がここに出されたのは絶妙で、又左衛門Aは森えびなで、狩野永徳、
前田利長等のつれ合いといえる人でしょう。つまり松永貞徳、前田利常などの父ともいえる人です。
      「前田犬千代」
については既述ですが、「犬」という表記の人物が出ます。

   『信長公より聟・犬両人、信州御陣へ差し遣わされ・・・』〈信長公記〉

 となっていて、脚注では
   「信長は、2月15日に滝川一益にあてて小者両人を派遣したと報じている(〈建勲神社文書〉)。」
 この文書は〈両書〉の解説書というものであることがわかります。こういう人物は誰かというのを読もう
としないのは関東管領、滝川一益などのことを知ろうとしていないのでしょう。そういう要職ともなれば、
太田和泉守を任命するはずです。
この「犬」は「犬千代」というこの人物でしょう。剛勇をもって鳴る木村又蔵、後藤又兵衛といえども闘い
ではこの人物には歯が立たない、太田和泉守の軍団が精強なのはこういう人が軍隊の下部機構を
がっちり押さえているということも預かっていると思います。前田又左衛門の人気はこの又左衛門A
によるものです。佐脇藤八が「山口」の前にあるのは布石があり、「なるみ・大だか」の出てきた高山
ゾーンに「山口えびの丞」が出ています。山口を使ったのは「山口左馬助」「山口太郎兵衛」「山口
取手介」などの表記と「飛弾守」との関連もありますが「山口えび」というのが準備されていたということ
もあります。
 木村常陸介は服部小平太が膝の口を切られたあと、義元の首級を挙げた毛利新介に該当するので
しょう。森(木+村)小平次という名前に合成されそうです。「飛」は意味があるかもしれません。
 後藤基次については「後藤喜三郎」「後藤又三郎」というような表記が効いてきてここの「弥三郎」
にフィットさせようとしたと読めるところです。桶狭間で江州の佐々木が援軍を派遣したというのが不思
議なので〈前著〉から取り上げていますが、後藤但馬守、「(の子)又三郎」父子が江州の佐々木内
で出てきますので〈甫庵信長記〉、いまはそれと結ぶしか説明のしようのないところです。そんな細い線
ではどうしようもないとなりますが、後藤のくだりは叙述が長く、「又三郎」は、「後藤」離れ単独表記
で、浮遊しているとみるべきであり、あちこちに繋がりが生じかねないので油断できないと思います。
桶狭間の、加藤弥三郎の前に引っ付くと、「山口飛弾守又三(蔵)賀藤弥三郎」というような暗示も
創りえますし、
   「岡田助右衛門尉・其の子助三郎・・・」〈甫庵信長記〉
の助三がわからないので又三に翻訳してみようというようになりうるものです。
 太田和泉守は後藤又兵衛を通じて佐々木の有力者、有力地に橋頭堡を築いていたと考えられます
が、そうなると類書の桶狭間で佐々木、佐々木と繰り返されるのも分からないことではないということに
なります。太田和泉守からみた桶狭間というと、こういうものが入ってきます。同じようにこの五人をこう
捉えるということはこの世界で全的、トータリスティックであるということです。素粒子の世界を究めなければ
宇宙の全体も見えてこないというようですが、この窮めるということが、この部分つまり太田牛一の身辺とも
いえる世界で確実になされた、それが体系的全的完結的であるならば、全体の姿を写した部分でありう
うるということになります。小説なども主人公とその周辺人物を通じていろいろ語ろうとするものですが
太田牛一のは極東にあって世界を、その時代に在って有史以来を語ろうとする意識が濃厚なので
こういう意味で時空を越えて他の世界の理解にも関わることができるのが太田牛一の世界といえるもの
です。
 ここでいいたいことは子息と自分の公的生活を細かく述べたという完度の高さで、それをベースに読
めるという信頼性のことです。近代国家建設の功労者とかいう、伊藤山県などの元勲の身辺のことが
明治のことなのにがさっぱりわからないというのとは雲泥の差です。
 
勿論表記で読めば「岩室」の「室」が生きてきて、信長夫人も出てくるでしょうし、長谷部の橋も出て
きます。   
この橋が高山右近の属性になったといってよく「百々(どど)の橋」二件から「神保越中」、「高山」が
出てきます。「神保安芸守」という表記もあります。〈奥の細道〉「小菴」が出てくる雲岸(岩)寺では
五橋がでてきます。
「東百々(ドド)屋敷」から大谷、高山、横山、佐和山や丹羽五郎左衛門が出てきて、北・南・西も属性
化しされたといえます。もう一つの「百々(ドド)屋敷」からも大谷、横山、佐和山、丹羽五郎左衛門が
出てきて、「どどどど、ドドドド」は土土土土となって、土が高山右近の属性となっています。

  (G)黒谷橋
芭蕉が行ったのは黒谷橋ですが「橋」が付いています。これは属性の橋で当時は橋がなかったの
ではないかと思います。
属性の意味というのは例えば「小林端周軒」の「端」などとの繋がりがあるのではないかということです。
〈甫庵信長記〉は「小林瑞周件」で「端」は「橋」で「瑞」にもなっています。「瑞雲庵」という人物も出て
きます。
後の書物では「(小)林瑞周軒」となっているのもあり、これは「林」で、「林」からは
    「林越前守」〈信長公記〉
が出てきます。これは「小河亀千代丸」とセットの人物で「小川」は滋賀県ですが「神崎郡能登川町
小川」です。表記だけで見れば「神」「能登」「河」「亀」「千代」「長円」などで高山右近が越前に登場
するのかもしれません。「林」は「林弥七郎」もあり、これはねね殿の父ですが、佐脇藤八に討たれる
というような話しも〈信長公記〉に出ています。
黒谷は常山によって特別認識されていたというのは佐野天徳寺の隠棲場所として出ました。まだあり
ます。

     『(山本)義、(天野)義豊後守家臣なり。・・・難波の役・・・。二士の碑の銘洛東
      黒谷に是あり。義安の碑は人見鶴山の述作にして、・・・・天野了古の銘は野間三竹法印
      の述作、三閑の墨痕なり。・・石川丈山の筆跡なり・・・・』〈常山奇談〉

 黒谷が唐突です。鶴山だけでも十分ですが「野間(佐吉)」「三竹」「法印」などが黒谷に懸かっています。
「石川重之」といい前田利常と関係が深い石川丈山まで出してきて黒谷へ繋げています。黒谷が
出てきたのが、他の意味で必然というならば、あまりに多くのこと(実在性とか、相互の関連)を証明しな
ければならないところです。この中の人で常山奇談に出てくるのは松倉重政と石川重之だけです。
後の人はどう説明するかというたいへんな問題が出て来るでしょう。ここは、黒谷(古九谷)が
石田、野々村3、夕庵が関わるということの決定打と言ってもよいほどの一節ではないかと思います。 

  (H)東山神社
 これも東のほうにある山の神社だからそういう名前が付いたとはいえないのではないかと思います。
〈信長公記〉の「なるみ・大だか」のくだりの東が印象的です。
   「・・・南は黒末(天白)の川・・・・へ谷合、西又深田なり。此よりへは山・・・・たんけ・・・
   ・・・・・・・帯刀・・・・えびの丞・・・・・真木・・・十・・・真木・・・十・・・伴・・・十
   に善照寺・・・」
 があり、先ほど「東百々(ドド)屋敷」があり、陶淵明の「東籬」も注意をうながしたいところでもあります。
他にまだありますが現地伝承は原初の九谷焼の存在を今に語っていると思います。
最後に城の高山右近のことです。

  (I)医王寺
 これが重要ではないかと思います。〈曾良日記〉に判らないところがあります。

    『一、同晩 中・・・・・・・の方、の方よりる。
                 ★方、薬師外町辺を見る
     一、廿八日 快晴。夜に入、雨降る。』〈曾良日記〉

 ★は28日の文のルビで細字です。快晴日の、雨の降る気配のある夕方薬師堂を見に行っています。
前後快晴の日が続いていますが、それは天候不順の地域だということでもよいでしょう。
薬師堂だけなぜ書いてあるかということが問題です。そんなことはもう薬師如来の信仰のために決まっ
ている、というのは、当世代風ではないと思います。薬と薬師(くすし)とかには何時の時代でも病気を
治してくれる、苦痛を和らげてくれるという期待が寄せられています。これは〈甫庵信長記〉の
  「薬師院」「薬師寺九郎左衛門」「薬研藤四郎」
を受けたもので、太田和泉守、小瀬甫庵をここに登場させたものといえます。ここで有志が医・薬の
議論を闘わせていたという場がこの薬師堂であったので懐かしく、立ち寄って往時を偲んだという
ことでしょう。これが北国で、日本の薬が花開いた元(もと)のようです。〈明智軍記〉に曰く

    『元来光秀は医王・山王を信仰しけるに付き潜に二十一社併諸堂仏閣を形計り経営し、・・・』

があり、この解説は、高柳博士の
  「医王は薬師如来の異称で、山王は薬師如来の垂迹である。・・・光秀が薬師如来を信仰して
  いたということは、他に所見がない。・・・」
が引用されています。表記で読まないとこれで終わってしまいます。芭蕉はこの山中の前に「山王」
を出しています。この山中に残る医王寺は二十一社の単なる一つではないのかもしれません。〈奥の
細道〉では佐藤庄司の丸山に医王寺が出ていますがこれはこでは「古寺」となっています。隠された
呼び方かもしれません。
 薬といえば昔お世話になった富山の薬を思い出しますが薬の現物がいつも手元にあるというのは優
しいシステムだったと思います。どこからきたものか、気になるところです。

(75)高岡城の話

(1)ネット「幻の高岡城を探そう」(www.city.takaoka.toyama.jp/kikaku/0204/)によれば
別表3.古記録(記者発表資料)で古文書一覧が出ています。神尾図書の高岡城建造をめぐる文書
が多く残っているのが確認できます。これは高山右近ではないかというのが当然湧いてくる疑問です。

  古文書         あて先               内容
1 徳川家康書状  前田利長宛         富山大火の火事見舞いと、新城地は「何方
                              にても其方次第」と許可。使者は宮崎蔵人。

2 前田利長書状  小塚淡路宛        木町文書内。上記の使者が帰り次第、まず
                             最初に木町に土地・邸を与える旨。

3 篠原一孝等連署状 中条村又右衛門宛  加賀藩家老の篠原出羽守一孝・横山山城守・奥村
                             伊予守永福連署。築城人夫についての申し付け

4、前田利長書状   神尾図書         新城や町割りの絵図につての指示
             ・稲垣与三右衛門宛

5、前田利長書状    神尾図書宛      新城の地鎮祭を倶利伽羅明王院に命じてとり行った
                            ことを母芳春尼(まつ)に伝えさせている。

6、前田利長書状   山崎長門守宛     高岡築城工事の進捗状況の報告と、贈り物に対する
                            お礼など
7、前田利長書状   神尾図書宛       神尾図書之直・・松平伯耆安定

8、前田利長書状   神尾図書宛       以下略(ただし人名など固有名詞があれば転載)

9、前田利長書状   松平伯耆・神尾図書宛

10、前田利長書状   松平伯耆・神尾図書宛

11、前田利長書状   神尾図書宛

12、前田利長書状   神尾図書宛

13、前田利長書状   神尾図書宛

14、前田利長書状   神尾図書宛

15、前田利長書状   松平伯耆・神尾図書宛

16、前田利長書状   松平伯耆・神尾図書宛

17、前田利長書状   神尾図書 稲垣与三右衛門宛        
               
18、前田利長書状   神尾図書・松平伯耆宛

19、前田利長書状   神尾図書宛          大工橋本惣左衛門 献上された魚は図書に与える。

20、前田利長書状    駒井守勝              守勝は利長側近

21、前田利長書状    小塚秀正宛

22、前田利長書状    村々肝煎中宛

23、前田利長書状    近所村々百姓中宛   』

 そのものズバリの表記はないので保留するのが合っているということになりますが、現に長谷川
橋介と長谷川挨介は同じだとみているし、つぎのものも当然同じとみなされています。
      〈信長公記〉    →     竹尾源七
      〈甫庵信長記〉   →     竹屋源七
こういうのはとくに重要ですが〈両書〉ともに価値を認めないと無視されてしまいます。
神尾図書はなぜ「高山右近」かということですが、これは基本的にもう高山右近は高岡城の縄張り
をしたことで知られており、銅像まであるのですから、最も多くの文献を残している神尾図書は高山
右近かもしれないということぐらいが語られておればよいはずなのにそれもないのです。いろんな面
からの補強材料がないからそんなことはいえないというのは合っていますが、表記面での話しでは
問題にならないというのであればあと何を待つのかということになるでしょう。

(2)まず図書は〈辞典〉で 高山飛騨守の名前「図書」で出てきました。厳密にいえば、高山飛騨守A
が高山右近ですが、図書は高山と最初から結びついています。
 芭蕉では〈奥の細道〉黒羽で「浄坊寺何がし」がでます。これは脚注では
   「浄法寺が正しい。大関氏家老で、浄法寺図書高勝をいう。」
 大関、図書、高勝が出てくるのを知っていて「何がし」といったのでしょう。この高勝の弟が「鹿子畑
(かのこばた)氏」ということも関係ありそうです。「山中」や「谷熊之助、同鹿之助・・・」というような「鹿」
と「高畠」の「畑」でもあります。この黒羽の一節から那須の「篠原(しのはら)」が出ますがこれは上の
の、3の前田の外戚の「篠原」を意識したものといえます。篠原は〈信長公記〉に出てきてその考証
では高山右近と同名の長房でした。こういう那須は〈信長公記〉「那須久右衛門・岡飛騨守・江川」
の「那須」を受けており、そこから常山は那須の大関夕安を作りました。ここで芭蕉は「八幡宮」「八
まん」も出しており、この図書は高山ねらいといえるものです。常山で「図書」は二つあります。
  「広田図書が事
   ・・・水野勝成(みずのかつなり)・・・・明石掃部(あかしかもん)・・・簗瀬(やなせ)又右衛門・・」
 登場人物この4人で「水野」は「水野帯刀」もあり、「永野」に近く、また簗瀬は簗田のつもりで、柳瀬
にもなるというのでしょう。
   「・・・・渡辺図書即知の事
    ・・・・加州・・・・。渡辺竹束(たけたば)竹一本・・・・隍際・・・・」
短い文なので、これで十分だと思われます。隍はルビがない、(ほり)と読める人はなかなかいないの
で調べると高山右近が出てくるようにしたのでしょう。

(3)このように図書は高山右近が絵図を書いて戦況を説明したというので付けられたといえるので高山で
よく之直も塙団右衛門直之、熊谷直之がいるので、高山の特徴を表していると思われます。

 A、先に出た「竹尾源七」=「竹屋源七」を意識した表記で「竹野屋左近」〈信長公記〉がありますので
      「竹野尾左近」(竹谷氏と考証されている)→「竹尾左近」→「高尾右近」
は原型としてあり、
           神尾右近
           高尾右近
という一字違いにまで太田牛一は迫れるようにしていたといえます。

 B、神応但馬守という孤立表記を用意している
    「神尾田島守」で、千秋から熱田に、武井肥後守夕庵につながる、
    「神尾」+「前野但馬守」で「神尾(前田)但馬守」

 C、「神」という字を高山飛騨守につなげようとしたとみてよい
   両書の、一番上に「神」がつく人物は
   「神応但馬守」「神林十兵衛」「神保越中守」「神保安芸守」「神戸加助」神戸賀介」「神戸四方助」
   「神戸甚介」「神戸将監」「神戸伯耆守、同四方助」「神戸市左衛門」「神戸市介」「神戸三七」
   「神戸二郎作」「神藤右衛門」「神吉民部大輔」「神吉藤大夫」
 がある
    @神林十兵衛は「神+林+(明智)十兵衛」で「惟任」に繋がる(のかもしれない)
    A 神保越中は、十河越中=十河因幡(吹田ー深田)=十河左馬允(前田)というつながりと
     となる、神保安芸守は河合安芸守とつながる、また安芸の地にも目が向くようにする
    B 「神戸★加助」
      「神戸★賀介」は「★加賀」を創る
    C 神戸四方助は東西南北を神と同じような意味で使うという
    D 神戸甚介は猪飼野、湯浅、平手などとの繋がりを意味する
    E 神戸将監は高山右近将監、入江左近将監を結ぶ役目を負う
    F 神戸伯耆守は、塩川(河)伯耆、石川伯耆につながり、あとの神戸市左衛門、市介を
       巻き込む
 テキスト人名録「神戸市左衛門」は
      「神戸(かんべ)伯耆守の光明寺城址が愛知県一宮市光明寺字本郷にあり(尾張志)、県
      史跡。市左衛門や賀介も伯耆守の一族か。」
となっています。つまり伯耆守の神戸氏が「光明寺」「本郷」などの地名と結びつき、市左衛門、市介
賀介(加助)などを同類として括っているといえます。
 そのあとの「神戸三七」というのは織田信孝として考えてしまうので、またテキストでも
      「織田三七→織田信孝」
とあるので、ああそうかということで見過ごしてしまいます。まず孤立した表記として捉えますと、「三」は
「彦三郎」の「三」とか「若林長門息甚七郎」の「七」というものを想起することになり、伯耆というもの
から武井に接近してきます。
 同じことは「神戸市左衛門」にもいえる、「市左衛門」が「生駒市左衛門」「賀藤市左衛門」に関連付
けられて高山につながることが考えられます。また太田牛一は「神戸市左衛門」を小豆坂で出して
きていますので織田信秀のころからの有力御家人とも考えられます。伊勢の豪族神戸氏の養子に
なったという話ですが人名索引から見る限り、神戸氏は織田の縁戚のようです。本能寺のとき大坂で
織田信澄を殺したのは神戸信孝とされており、このとき丹羽五郎左衛門も噛んでいます。殺すという
のは接近の最たるものという意味もあるのでこの三者の関係要注意といえます。
      神戸信孝は織田三七と神戸三七
      津田信澄は織田七兵衛と津田七兵衛
であるので、織田一族を調べるときはこういうのから何か出てくる可能性はあります。
神戸二郎作は本能寺戦で戦死しますがこれはどれかの神戸を用済みとして消去したと考えられます。
これは二郎(太田牛一)の作といっているのかもしれません。語感というのが、五感に通じ、全身で
物を感じ取って書いている、作というのは、創るという感じは否めません。
      神戸
      津田
は「戸田」を生むのかもしれません。つまり「戸」を挟んで前後があり、接頭語(的)ー戸ー接尾語(的)
という感じで
      「(神)戸田」と「神戸(田)」
となり、「神戸」が生まれたと考えられます。著作上の意味か創氏かはわかりませんが、前者とすれば
「戸」=「土」ですから「土田氏」信長弟信行の筋がでてきます。
      信孝→織田三七
      信澄→織田□七
ですから「七」で血を通わせようとしたのかもしれません。「信孝」を入力するときは、「孝行」と打ち出し
てから「行」を消すわけです。長(永)岡の「藤孝」も同じです。そんなの太田牛一は意識してないよ、
というかもしれないが、甫庵は信澄と前田玄以が後見した三法師(信忠の子)と重ねていますから、
「信行(勝)」の「行」は生きてきそうです。滝川一益は先ほど「武蔵野」が出てきましたから「武蔵」が
属性ですが、「織田武蔵守信行」、「戸田武蔵守重政」という「武(多芸)」の流れも三者を結び付けそう
でもあります。
信行の排除は織田の弱体化に繋がったことなので、触れたくないとされる部分なので著作上の意味
はあったと思われます。
とにかくここで「戸田」に引っ付いて「神津」まで出てきました。

 次の「神藤右衛門」は既述で、神+藤右衛門か神藤+右衛門かの問題がありました。ただこれが
テキスト人名録では洩れています。高山右近ではないかと勘ぐられるものでしたから、これは洩れる
と痛いのです。これは、そんなことはない、よくみろ、注意力散漫だと、いわれるとギャフンです。
チャンと、「し」の見出しで「神藤(しんどう)右衛門 358」で出ています。358ページにはルビがない
ので著者は両方の読みを要求したと考えられます。「しんどう」と読めば「進藤山城守」がすぐあとで出
てきますので、こちらも重要です。要は自分なりで索引を作るということが要るとなってしまいます。

(4)最後の神吉藤太夫、神吉民部少輔はそれぞれ一回づつの登場ですが、神が「吉」、「藤」、
「民部少輔」などと染めあうといういうことになります。
    「民部」は「村井民部丞」「白井民部丞」、前田玄以の民部卿法印」
などを呼び起こしますが、見慣れない飯嶋民部少輔は神林十兵衛を呼び出したりします。
 この神吉の二人は、降参と戦死にわかれますので一応別人で「神吉」という二字表記や、「民部少輔」
が「佐久間が家の子」〈甫庵信長記〉に討たれるという記事がありますので連れ合いというに当たると
思いますが二人の出てくるところ、やはり高山飛騨守の関係事項がでてきます。テキスト人名注では
 神吉民部少輔は『神吉則実』で
   『神吉(かんき)氏は播磨神吉(加古川市東神吉町神吉)から興った赤松氏の一族(図説三木戦記)。』
となっています。これも一族ですし戦死したのかどうかは疑問で、「藤大夫」が生きているので両方生き
だと思いますが、神吉を利用していろんな意味で重要な表記を乱舞させたといった感じのするところです。

   『・・・・神吉の城・・・あらゝゝ・・・神戸三七・・・・虎口・・・竹たば・・・塀(ヘイ)際・・・築山・・・・但馬国
   ・・・竹田の城・・・是より書写・・・神吉の城攻めくち南の方・・・・織田上野守御陣よせられ・・・
   ・神吉東の口・・・城楼(セイロウ)高々・・・大鉄砲・・・・堀を填(ウメ)・・・築山を築上(つきあ)げ・・・
   ・滝川左近南より東へ・・・かねほり・・・・・大鉄砲・・・・・塀・矢蔵打くづし、・・・・兵庫と明石の間、
   明石より高砂の間、道の程遠く候間、・・津田七兵衛・・・万見仙千代・・・仙千代・・・和田八郎・
   中嶋勝太・・・簗田左衛門太郎番替わりに御警固候なり。
   ●去程に洛中四条道場、戌寅七月八日巳刻、寮舎より火を出し回禄(くわいろく)の時節到来
    なり。
     寅七月十五日、神吉の城へ滝川左近・惟住五郎左衛門両手より東の丸へ乗り入れ、十六日
    に中の丸へ責め込み、神吉民部少輔討とり、天主に火を懸け、・・・其の間に天主は焼け落ち、
    過半焼死候なり。
     西の丸は荒木摂津守攻め口なり。是には神吉藤大夫楯籠(たてこも)る。・・・・御赦免なされ、
    並(ナラビ)志方の城へ罷退く・・・又しかたの城へ惣人数取り懸けられ・・・降参申し・・・・』
                                                 〈信長公記〉
 となっています。省いたところがはるかに多く、省いた部分の方に重要なものがあるのかもしれませんが
話しが急に京都に飛んだ●の部分だけがここでいいたいところです。テキスト人名録では
     『神吉藤大夫は神吉則実の同族。』
とされています。一応神吉は「藤」につなげられました。神吉というので「神」は「吉」とセットになりまし
たが、吉は別所吉親、大谷吉隆、木下藤吉郎、田中吉政、粟田口吉光の吉であり、吉光からも「薬研
藤四郎」「北野藤四郎」「しのぎ藤四郎」が出てきて神と藤が吉を通じてドッキングされます。
ここの「回禄」(火事)が重要です。〈信長公記〉では
この安土の回禄は「福田与一」宿から出火し、妻子を引越しさせないため起こったということで、安土へ
強制移住の命令が出ましたが、「井戸才介」は従わなかったということで生害させられたという話がで
ています。その中に
   「津田与八・玄以・・・深尾和泉、井戸才助」
などが出てきます。すなわち
     回禄 → 「前田玄以」「深尾」「和泉守」 → 四条道場
ということになります。四条道場は〈甫庵太閤記〉次の記事に繋がるものです。

    『白江備後守四条貞安寺にて切腹なり。同(おなじき)妻四条道場において、自害せしが、
    一首かくなん。
         心をも染めし衣のつまなればおなじはちすの上にならばん。
    丸毛不心(まるもふしん)は、相国寺門前にて・・・うたれにけり。』

とあり、熊谷大膳亮も、粟野木工助の最後の記事もあります。木工助は「粟田口吉水之辺(ほとり)」
にて切腹しますが、神吉の吉と藤と白江民部などが、この吉水の吉につながっているという、まあ
時空の遠隔があっても、一字さえも、いい加減にしていないということがいえると思います。
 神吉というマイナーの人物からもこの場面に行き着いたことが特に重要です。

(5)神には「神崎」、「神崎川」もあります神崎郡は貝野にありました。近江にもあり「滋賀県神崎郡永源寺
町があります。
         「あひ谷よりはつふ峠」
とあるところです。ここは信長と太田牛一が休みなく駆け抜けたところですが、太田牛一の臨場を示すの
は、天候もありますが現地の土地名などの組み入れにも見られるところです。永・源も何かに使えると
思われますし、脚注にある実際のコース
         「相谷ー(黄和田)−八風峠」
という場合の「谷」「峠」は高山と関係つけられるようにされている、そのために「かな」にしてあるとみて
一応語句をひろっておかねばならないところです。「神吉戦」のところの「かねほり」は桑部、桑名表を
呼び出し太田牛一、高山右近と桑を結びますが桑名で東別所も出てきます。
 
(6) 「神尾」は「上(かみ)尾」とおなじですからこの線からも考察してみます。天正八年
  
  『正月六日、播州三木表、別所彦進楯籠(たてこも)る宮の上の構(かまへ)、・・・別所小三郎と一手
  になるなり。
   正月十一日、羽柴筑前宮の上より見下墨(さげすみ)  給ひ、別所山城が居城(いじやう)鷹の尾
  いう山下へ人数付けられ候。・・・・心ばせの侍共・・・・。』〈信長公記〉

この「宮の上の構え」と「鷹の尾」は脚注では「〈播磨鑑〉などにも未見」となっています。ここは首巻
終わりの「丹波桑田郡」「長谷」「赤沢加賀守」「内藤備前守」「角鷹二連(二羽)」の「鷹」がからんで
きて、この鷹の尾は
     (角)高の尾
でしょう。太田和泉守が下墨したというのは(簡単な図を書いた)のではないか、そうすれば「角」「書く」
というのも出てくると思いますが、それはともかく「高」は「こう」です。
    北(ルビ=コウキタ)〈信長公記〉
もあります。つまり「神戸かんべ」は「コウベ」、「神々しい」は「こうごうしい」ということになりますから、
現実には存在しない「鷹の尾」は
     「高の尾」→「神の尾」
に変化して理解されたと思います。これは岩室長門守の戦死の情景からも、この変換が頭に在ったのでは
ないかと思われます。

    『・・・岩室長門、かうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。・・・』〈信長公記〉

 この「かうかみ」は直感的は「こめかみ」のことですが、漢字を宛てると「・神」くらいであろうと思って
いたのですんなり高尾から神尾が出てきたといえますがそれは著者の意図したことではないといわれる
るとその通りです。テキスト脚注では
         「こうがめ(〈三河物語〉の中)に同じ。こめかみ」
と書かれています。大久保彦左衛門は従って、太田牛一の「かうかみ」を「こうかみ」とすべきだと思
たと思います。それに「かみ」は「かめ」「がめ」にもなりうると言ったと取れます。太田牛一が何故
こめかみと書かなかったのか、というのは最初に浮かぶ疑問です。広辞苑によれば、米を噛んだとき
に動く場所ということで、こめかみというと、和名抄にあるようです。つまり当時も「こめかみ」といっていた
のに「かうかみ」としたわけです。 太田牛一は「米かみ」を「かうかみ」としたので
       「米」=「」
       「噛」=「神」
 が頭にあって、「岩室」の名を使ったときに「木米」の「米」も意識していたといえます。
大久保彦左衛門は「=米」はうそと思われやすいから「こうがめ」として
  「かめ」=「香(か)め」「甲(か)め」=「香(こう)め」「甲(こう)め」=「こめ」
から「米」として太田牛一の意図を解説したといえます。大久保では
       「米」=「」
       「噛」=「甕」「亀」
となり「岩室」がらみ「甕割り柴田」の「瓶」で陶器が出てくる、
   「岩室」がらみ青木「久々利」の「亀」、鶴山などの出てくるところの「銭亀」、松浦の「亀」があり、
大久保が「かめ」を出したのは大きいのではないかと思われます。「かうかみ」に漢字をあてはめていると
「上々」「光神」「神々」などでてくるので〈奥の細道〉の室の八嶋に「神」が出てくるのも頷けるところ
でもあり、そこで「火」が出てくるのは大久保の読みが芭蕉に影響を与えたのかもしれません。

上の「正月十一日」の文から「上」が一つ抜けています。「宮の・・見げ・・山・・・ 
では上が抜けており「宮の上」は二回目だから「上」が意識されています。ここに
   「別所山城居城(いじやう)鷹の尾」
となっていて「鷹の尾」に該当の地名が見当たらないということですから、いまでいう「以上(いじやう)」
当時の「巳上」の「上」を入れて「居城上(アゲ)の尾」と創ってやってみてもよいのでしょう。
    「上松(アゲマツ)蔵人」〈信長公記〉
という表記もあります。こうなれば「上の尾」→「神の尾」です。脳内で「いじやう居城」が「以上」に変換
されていればよいわけです。
また  山城は「進藤山城守」があり、「進藤」=「神藤」で「神高の尾」というのでもよいでしょう。

(7)とにかく「上山(こうやま)」=「神山(こうやま)」=「高山(こうやま)」であり、
     鷹尾→高尾→神尾
で、神尾図書之直は高山右近を表わすものといえますが、〈両書〉にはズバリその名前が出ておらず
後世の人がそれを認知しているか、ということも気になるところです。神尾図書=高山右近というものの
決定打というと芭蕉が神尾氏を尋ねていることを挙げたいと思います。〈曾良日記〉では

   『五月朔日・・・郷の目村にて神尾氏を尋。三月廿九日、江戸へ被参由にて、御内・御袋へ逢う。』
 
があります。逢えてないのは初めからストーリーとして決まっていたのではないかと思われます。3月29
日には、芭蕉は室の八嶋に行っています。〈曾良日記〉〈奥の細道〉とも月日はわかりにくくうんざりする
のは〈甫庵信長記〉などと同じですが、〈奥の細道〉本文では、(神尾氏を尋ねたとすれば)五月朔日
ではないのは明らかです。判りにくさに便乗して「廿九日」を生かしたいと考えているとすれば、前日
(〈曾良日記〉は三月四月は晦日がない)、4月29日の〈曾良日記〉の内容をみるのも意に適うのかも
しれません。
     「・・・郡山(ルビ=二本枩領)・・・・・・郡山・・・・・・郡山・・・・」」
 もあります。神尾氏の御内・御袋が大物だったのかもしれません。
 両書にない「神尾」というのを芭蕉はどのようにして認識したかということですが、〈川角太閤記〉から
もそれは可能ではないかと思われます。同書に
     『尾藤神右衛門』
という表記が出てきます。これは〈信長公記〉テキストの索引に洩れていた
     「神藤右衛門」
がないと解読できない表記であろうと思われます。つまり尾藤の「神右衛門」というのはやや不自然です。
      神□藤右衛門〈信長公記〉
      神尾藤右衛門〈川角太閤記〉
 と理解したと思われます。これで神尾は高山右近であることがわかり、それは高山の著書から見つけ
ようとしたといえると思います。
 結局、高山右近が神尾図書であるという決定打は、ここまで「神」やら「長尾」や「松尾」や「神藤」・・
・・・などをこれだけ挙げながら、両書に「神尾」がないのが決定打です。核心は外すのが鉄則です。
信長公の狙撃を命じたのは誰か、秀頼の父親は誰かというのや、坂本竜馬の暗殺犯は誰か、というの
などは暗示がありますが的ははずすわけです。坂本竜馬の暗殺犯人は見回組、新撰組、薩摩藩など
に容疑がかかっていますが出てこないのが犯人でしょう。いま21世紀ですから、当時の諸政権の思惑
からもっと自由になってもよい、終戦後はとくに前の政権が志向したものと縁を切ったはずです。

(76)「角」の字
太田牛一は、高山右近が大名の地位を失って、前田の藩政に力を貸していたころ「神尾図書」という
変名を使っていたことを知っていたといえます。これら多くの手紙は文献の一部として、物語として語る
ために手紙形式されて残ったものということができます。
 ネット記事をみても、前田関連の資料はたいへん多くの資料が残っているのでびっくりするほどですが
これで前田から何も出てこないのは、このままにしておこうという意思が働いているとしか考えられない
ところです。・・・
 ここの古文書に山崎長門守が出ており、明治までの資料の中に出てくる人名には高山南坊(右近)
長如庵(連龍)が出てくる、ということになると〈川角太閤記〉で寄り合い、雑談した顔ぶれ
  「高山南の坊ー右近ー、長九郎左衛門、山崎長門守、内藤徳庵」
が顔を出してくることになります。長如庵というのは「長九郎左衛門+内藤徳庵」といえる、長氏は
テキスト人名注では「長谷部姓」となっています。また「伯耆」が神尾図書とならんでよく出てきてます
が、これも〈川角太閤記〉で活躍著しい人物がいます。「磯伯耆守」です。これらは、地元資料
は〈川角太閤記〉などの中央の資料を受けているということを示すものです。
とにかく、川角の「角」は
   「丹波」「桑田郡」「穴太(亀山)」「赤沢」「加賀」「内藤」「備前」「長谷」「一段」「鷹数奇」
   「角鷹二連」「二連の内一もと」「十ヶ年」
という並びで、脚注にも「角鷹」は「クマタカ。連(もと)は鷹を数える言葉。二羽の意。」となっているように
「角鷹二連」は「角鷹二羽」でもありますが、「角鷹」「角鷹」でもあり、高と角はセットになって重点が
置かれているので「角」は「高山右近」を表わすものとしてきました。
   ○「柴田角内」は、「はざま森兄弟」と、角田新五は松浦亀介と関係を生じ、
   ○「角」は「すみ」と読むことによる「隅」「住」「炭」・・・などに拡大し、「亀田大隅」「神保長住」
    などに関連が生じ、芭蕉は「炭」を利用している
   ○「角」はクマから「熊」「能」に広がり
   ○「角」は「覚」などになり「飯田覚(角)兵衛」、「福富平左衛門」と行動する「丹羽覚左衛門」
    という次世代も生む
   ○かくは「書く」「描く」「柿」「掻く」である
   ○〈信長公記〉が「菅屋角蔵」という表記を用意している(これは菅屋九右衛門長頼(長行)の
    子息)、また〈甫庵信長記〉は「角蔵」(ルビ=すみくら)という単独表記を用意している

 などから二つのことがいえるわけです。一つは後世の
      「角さん」
は高山右近であったといえます。渥美角之丞というようですが「温海」「安積」も用意されているようで
す。水戸光圀は元禄三年領国を譲って程なく辞表を出し、
   『是より常陸の久慈郡太田郷(おほたのがう)の西山(にしやま)に引籠り給ひし・・・・』〈常山奇談〉
となっています。まあこの地名は特定がむつかしい感じのものですが表記で読めばいいのでしょう。
光圀は頼房の子ですが〈甫庵太閤記〉に中山助六郎の弟、中山左助{後号備前守助}が1万石で
頼房の後見役にされたという記事があり、「中山勘解由狩野一庵」などという怪しい表記が明滅して
よくわからないところですが、とにかく、聖徳太子は用明天皇の子、森蘭丸は森可成の子、光圀は頼
房の子ということで納得してしまいがちですが古来より人は親が二人在って生まれてくるもので、いま
戦前から引き継いだ戸主の感覚でみようということになっていそうだから、まあ欠落の多すぎる理解が
生まれるのは仕方がないことでしょう。
 一方の「助さん」は「佐々木助三郎」で「助三郎」は「又三郎」「弥三郎」とまあ同義でしょうから、やは
り、これは大坂へ入城して徳川と戦い、武の明智の最後を飾った後藤基次でしょう。「三郎」はその親
とダイレクト繋がるものがあります。
   「後藤但馬守・其の子三郎・・・・」〈甫庵信長記〉
   「岡田助右衛門尉・其の子三郎・・・・」〈甫庵信長記〉
「岡田」は「岡」であり、常山では「春日九兵衛」→「岡飛騨守」で後藤又兵衛伝説では「後藤」は
「春日(城)」です。また「岡田助右衛門」の登場(二回)の一回目は要所にあります。

   「下方左近、其の時は弥三郎とて十六歳、岡田助右衛門尉、佐々隼人正・・・」〈甫庵信長記〉

 で表記では「右近」「三郎」「佐々(木)」に囲まれています。
助三郎は助十郎を想起しますから、岡田は武藤に変えてみるとより後藤に近づきます。
 「又三郎」の「又」と「助三郎」の「助」は「又助」を創りますし、「佐々木」を「沙沙貴」などと書いている
のですから「佐々」は佐々木の後藤父子とつなげてもよいのでしょう。
西山公は夕庵にふさわしい名前で、葵の御紋の「葵」は「向日葵(ひまわり)」から「日向守」・「日吉」
の「日」を出したかもしれません。
諸国漫遊できなかった水戸義公に代わって、太田和泉、後藤又兵衛、高山右近が時空を越えて復活
してきたことになりますが、とにかく親戚というのが出したいところともいえそうです。

(77)宗巖
「角」のもう一つは「川角太閤記」の「角」で、これだけでこれは高山右近の関係の人の著書ではない
かということで話しを進めてきました。もちろん勉誠社の訳本には
  ○〈川角太閤記〉は「前田氏の復権と正当化」の書物といわれる、
  ○川角三郎右衛門は田中吉政の旧臣とされる
などのことがあり、「田中吉政」などは表記でとらえておればよく「田中」は利久の田中、「吉」「政」は
夕庵につながり、旧臣は家之子もあり筑後柳川も出てきます。また高山が前田のことを書くのは、世話
になった話しは知られているので必然でもあります。結局〈川角太閤記〉に登場する表記のことが
この問題に決着をつけると思います。
 「前田肥前守(利長)」「鍋島加賀守(直茂)」となると、相互乗り入れしている感じです。「野々村掃部(
かもん)」、「芳春門院高畠氏」、「三宅角左衛門」、「長谷川藤五郎」、「尾藤甚右衛門」、「前田右衛門
佐(正)」ともなると自画像になるのかもしれません。
     「陶(すえ)尾張守ー★巖島(いつくしま)ー巖石(がんじゃく)」が出てきて
     「(秀吉?)★巖石はこの山の上のそのまま下であるときいている。その通りか。」
など出てきます。筑後柳川の立花氏も出てきますが、立花宗茂という有名武将がいますのでそれが邪
魔をして事実関係を述べようとしていると取られてしまいます。が、これも表記で語るという捉え方をすると
また違ってきます。立花は立石寺の立であり。竜であり隆、柳です。花は「か」で、香、鹿、下、霞、甲、
になり、「宗」は宗の系譜、茂は毛に通じます。また立花は高橋です。川角は「高橋右近」「立花左近」
を出してきています。加藤清正も加藤肥後守としてあり武井肥後守と同じ表記で立花統虎、鍋島加
賀守と交錯させています。ここに出てきて引っ掻き回す黒田如水(黒田官兵衛)の言動がカギと
なるようです。

 立花では宗茂義父の「道雪」は「とうせつ」とも読めますが「道白」という感じです。〈甫庵信長記〉の
単独表記「宗白」はどこに使うかということで考えていました。

 首巻の終わりの少し前に「美濃国加賀見野」〈信長公記〉がありました。脚注では
    「各務野。各務原市にあたる。」
とされています。これは「加賀貝野」というのに変換できることは既述です。「宗白」は鏡屋宗白として
村井長門守と「天下一」の話ででてきます。つまり「鏡屋宗白」は「加賀貝野宗白」となるようです。
〈奥の細道〉北国で「西行」という人物がでますが、芭蕉の門人で「東行」という人物がいるのは、これと
無関係とはいえないでしょう。東行は「各務支考」ですが、これは〈信長公記〉の
    「美濃国加賀見野」=「岐阜県各務野」
から、これも「加賀見」野「支考」ということで加賀が属性といいたかったのでしょう。「各務」とした
のは鏡屋宗白の係累というのかもしれません。
常山は利久の最後を
   『利休小座敷に茶の湯をしかけ、弟子の●宗巖(そうがん)と常の如く茶の湯を終わりて、それぞれに
   形見をわかちやりて後自害しけるとぞ。』

と書いており●を高山とみるのが妥当とみてきました。★は7回ぐらい出てきており
  厳島  陶五郎  陶器  イツキ  斎  高槻、
高山への変換に執心したとみられ常山は●を自分のオリジナルとしてここから採用したと思われます。
実際は宗白なので、もう一回表記は変えず文章で転換させたと考えられます。

  『巖石(がんじやくの)城合戦、坂小坂(さかこさか)先登(さきがけ)の事
   秀吉嶋津を伐たるる時、蒲生氏郷、前田利長巖石の城を攻めらるるに、氏郷の先陣蒲生源
   左衛門此頃は坂小坂といひけるが、真っ先に進んで、・・・白き吹貫(ふきぬき)・・・・■吹貫は
   芭蕉の秋風に破れたるがごとし。・・・・・・小坂といえる大剛の者よと口々にぞ誉めたりける。
   寺嶋美濃守・・・黒き吹貫おし立て坂に続きたり。・・・(以下細字)一説に、小坂を一番と記せり。
   ・・・・坂申しけるは・・・一番の賞は栗田(くりた)・・・・栗田は黒き吹貫にて候ひき。坂が吹貫
   白くて目に立申したるなるべしと譲りければ・・・』〈常山奇談〉

 はじめの宗巖の部分も細字で、その前に、黒い頭巾とか「黒谷」という細字の黒があって、「宗巖」
が出ています。ここは細字の部分は、黒、白となっています。厳石なら岩石で黒白、巖石はどうか、
という問題ではないかと思います。つまり石は、常山にとっては■の芭蕉の秋風と結びついたもの
です。〈奥の細道〉の
           「石山の石より白し秋の風」
があります。岩は黒と見るのはどうか、ということになりますが芭蕉では
       「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福嶋に宿る。」〈奥の細道〉
で一応黒とセットになっています。ここは「等窮」が出て来る「あさか山」のくだりで「かつみ」が四回も
出てくる謎めいたところです。「あさか山」は「安積山」ですがここから高山が出てきそうな重要なところ
で、等久(九)が出たので岩屋が石屋であれば都合が良いと感ずるところです。また理屈をいえば
       「石山の石」=「岩(石+山)の石」
で、もう一つ「石山の山」もないとおかしいから
       「石山の山」=「巖」
も隠れているといえます。「岩」より「石」が取り出せるように、「巖」より「石」を取り出し秋風を石に
吹きつけ「白」に変換したといえるのではないかと思います。
      「石黒左近」(考証:成親、越中砺波郡)〈信長公記〉
も出るので常山でも「石×黒」で捉えられていそうです。これは〈奥の細道〉「石の巻」のように、石田
と高山の接近もあると思いますが、白黒、石岩、などの転換もあり、白の高山右近=等伯=能登半島
もありそうです。

 まあ理屈を並べましたが常山のオリジナル「宗巖」は〈川角〉の厳石の石の白から〈甫庵信長記〉の
「(鏡屋)宗白」であり、「黒谷」「陶」「加賀」も引っ付いて出てきたのでこれは山中の高山右近を表わ
していないか、高山右近に対する各書のコダワリの大きさがいいたかったことです。いずれにしても
千利久の最後にあたって、高山右近が側に居たということは何となくホッとすることであり
高山右近の剛直さが偲ばれるところです。佐賀(九州の嵯峨)などの陶業について聞かされているところ
では朝鮮半島から陶工を連行してきてノーハウを盗み働かせて・・・云々のような印象をうけますが、
高山右近などのリードがあったというのが日本史から抜けており、したがってそんな無体なことには
なっていないはずです。太田和泉守などの才能から日本の固有の陶業が開花した上に、朝鮮半島
の優れたものが取り入れられ、更なる飛躍があったのがこの時期といえると思います。

  論説のように起承転結言いたいことをまっすぐ述べる場合は、いかに省くか、であり、表記で語る場合
は、いかに拾い上げるかということが、課題となります、
 本稿は太田和泉守周辺がいまでいう文化的なことにいかに深く関係しているかという妥協できない部分
に関わるので、延々とした話しになりました。
 日本文化の恩人、山上宗二,酒井田柿右衛門と、芸術学芸の都、北国の山中の物語を終わります。
               以上        
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 「大正侍