29、山県昌景・伊藤一刀斎・イエヤス公の出自
       
     (123)清水又十郎
        あちこちに24となる人名が羅列されていますが、予告されていた清水又十郎の出る
        ところは、数字が合計24になる三つのグループに分けられています。〈信長公記〉

           「一、御敵、山口九郎二郎・・・・
            A:先手(さきて)あし軽、
             清水又十郎・柘植(つげ)宗十郎・中村与八郎・★萩原助十郎・成田弥六・
             成田助四郎・芝山甚太郎・★中嶋又二郎・★祖父江(そぶえ)久介・★横江孫八・
             あら川又蔵、」・・・・・・・・・・11名

            B:御さき手あしがる衆
             あら川与十郎・あら川喜右衛門・蜂屋般若介(はんにやのすけ)・長谷川埃介・
             内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞、」・・・・・・8名」

            C:★A萩原助十郎・★A中嶋又二郎・★A祖父江久介・★A横江孫八・水越助十郎、」
                                           ・・・・・・5名

        があり、A+B+C、合計24になります。
        
        ★が、A−C間でラップしており、★が4人・★Aが4人だから、これが伊東マンシヨなど四人を意識
        したものと取れそうです。しかし総数24人で、そのうち4人が同じ表記とすると、この一節は人名引き
        当てに利用できないということにもなります。
        Cの、四人は、ここでは一応、数合わせに使われたと、すると、ヴァレンチアーノの推薦した四人は
        民間の人として別枠となるということになりますが、それも一つの見方となるのでしょう。ここは
        〈首巻〉の(十一)節の、「一」という十個の番号で、構成されている一節で、この節は、当然他のこと
        も述べいるところですが、ここに出ていない登場人物だけをみると、上の24人以外に
          @「かづら山・岡部五郎兵衛・三浦左馬介、飯尾豊前守・浅井(あさゐ)小四郎、五人」
          A「織田上総介信長公・・山口左馬介・子息九郎二郎・・・織田備後守・・」
          B「赤川平七」 C「上総介信長公衆・・三十騎」 D「上総介信長」
        が出てきます。@〜D計は、42です。Cの四人は同じのがあるからこれを除くと、
              A+B+1=20で、42プラス20、計62
        になり一応トータルは渡海が意識されているともとれるところです。つまり四人はカウント外といって
        いるかも。
         トータルの話をすると確かでないので苦しいところですが、Cと@が見合いになっている感じがします。
        @は太田牛一は、五人といっていますが、四人と取れる、すなわち4人か5人となるところで、合致
         というのがいえるように仕向けたものと取れるものです。太田和泉守は細かいところに気配りをして
         いて、(そのため)トータルの押さえも確りしたものとなっているので、一致というのは偶々のよう
         ですが、例えばこの山口父子など使わねばならないところも出てきます。
 
         細かくていいにくいことですが、祖父江のルビありとルビなしが気になります。また「そふえ」の読みが
        「そぶえ」になってるのも気になります。理屈をいえば、C の五人の人が民間の人であれ
        ば、別枠であと五人あるかもしれない、
           「つけ」「つけ」「そふえ」「そふえ」「はんにやのすけ」
        という五人がひょっとしてプラスになるというヒントかも・・・というのがあります。それもソフトな感じの
        五人です。つまり
        A Bは「あし軽」「あしがる」となっていて、「あし」はどういうことでヒラかれたか、も問題ですが、これ
        は基本的に、「軽皇子」の「軽」が連想できる「足軽」−男性という項目になるのでしょう。海の仕事の
       たいへんな激務ということで、その独壇場といえますが、ライン業務とスタッフ部門という分担で考えま
       すと、例えば正式な使いとかいうものは、そうでない人もあるといえそうです。五人そういう人がいた
       のかもしれません。
        もう一つ五人が含まれている可能性があるところは、十郎が「又十郎」はじめ五人出てくることが
       あります。十郎=一郎プラス九郎(三郎プラス七郎)などの二人です。はじめの「清水又十郎」は
           「太田和泉守・(金松又四郎)」
      と見ることができますが、二人目の「柘植宗十郎」は、今は手のつけられないところにあります。しかし五人
      は十郎に含まれているとみて合いますから、この柘植も清水の延長のようなものが出てくるかどうかやって
      みるしかないことです。総数では、
          追加 5人、  A、11人   B、8人、 C、5人、   計29人
      になり、ここに「上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。」があり、なんとなく60も出てきています。
       したがって織田家中がA・Bの19名+追加5人、プラス民間人5人、29名で、残り31人が熊野を主
       体とした伊勢、常滑の水軍の乗組員といえそうです。Cの5人
       が僚船(招待の意を伝えにやってきた使節の帰任する欧州船)に乗っていて(若年の使節と
       スタッフも交流があって)時には本船が増える場合もあるということとも考えられます。それは別のところ
       と照らし合わせればよいことです。ここは二つすんなりいかない引っかかりが織り込まれているので
      重要なところというのがわかります。一つは「祖父江」で
       
         Aのは、「祖父江 久介」で、苗字「そふえ」で「久介」という名前の仮名の人物、これは
              祖父江孫丸〈信長公記〉
         があるので、「祖父江」の「孫丸」−「久介」にもなるもので、孫七という場合の一人ともなります。
          C のものは「そふ」と「江(ごう)久介」
        ともなるのでしょう。これは、「(祖父)江孫丸」の操作がなされ〈甫庵信長記〉の索引になったので
        渡海というものに結びついたといういわくつきのものです。もうひとつが
         Bの「蜂屋般若介」で「蜂屋兵庫頭」と「「長谷川橋介」の変形「長谷川挨介」をつなぐ
            般若介(はんにゃのすけ)
        でこれも、「祖父 江孫丸」に匹敵する大きなものの語りがありそうです。「かな手本」というのがあり
       ますが、これは「ひらかな」手本ということで理解されています。ここは「仮名(かめい)手本」ともいうべく
       ちょっと見ただけでは見当もつかない名前の羅列となっていてむつかしいところです。渡海は爆竹
      Aで語られていることは既述ですが、ここはもう少しわかりやすいものとなっているので対比などして
      読み込んでいくことになるのでしょう。
        
        爆竹(左義長)Aにおいて、主な人数が
  
         「北方東一番、   平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・山岡孫太郎・蒲生忠
                     三郎・京極小法師・山崎源太左衛門・小河孫一郎、(8人) 
          南方、       山岡対馬守・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・
                     阿閉(あつぢ)淡路守・進藤山城守、(7人)

         となっていました。これは
              「御爆竹江州衆へ仰付けらる。御人数次第、」
         とあって15人が出てきましたが、爆竹@は
               「御爆竹申し付くる人数」
         として15人出てきて4人の位置が違っていました。つまり招待状を届けた船を迎える
         立場の15人が一年後見送られる立場になったということでしょう。帰国する船の出航に
         に合わせて本船を出させたと取れます。九鬼右馬允という人選は最高の選択であった
         とは思いますが、右馬允に、この海域の経験があったことは記述がないわけです。
         水先案内人がいる、それが
         水越助十郎Aで表されたかもしれません(水越の助十郎は「助一郎」と「助九郎」がありう
         る)が、二隻であれば、その必要がなく、二隻による安全担保も図れます。遣唐使なども
         よく一隻しか着かなかったというような話があります。

          前から三番目の「後藤喜三郎」は、宮本兵大夫=宮本武蔵@であろうと、いうのも余りに長い
        追跡の結果でやっと到達したというところですが、「清水又十郎」の一節では一応前から三番目
             「中村与八郎」(中村一氏連想)
       かもしれないというのも述べてきたところから見て当てられるところです。直感や断片情報でもわかる
       といっても、この三つ通してわかるというのは、ここの「青地千代寿」は続子「松千代」があり、「明智光慶」、さきほどの「清水又十郎」の
       一節では★の4人の筆頭、萩原助十郎となる、ということぐらいしか、でてきません。高山もここでは
        京極、進藤は高山右近周辺といえますが、清水の一節ではどれが該当するかわかりません。また、
        「対馬守」は、「山内一豊」でここの
                     山内対馬守
                     山岡対馬守
          の一字違い、山内一豊の連れ合い(妻)も渡海関係があるのか、ということなども出てきますが
        清水又十郎の一節では、見当たらなさそうです。
         「阿閉(あつぢ)淡路守」だけにルビが入っていて、これがちょっと、
         引っ掛かるところで、「あつぢ」「阿閉」の二人がいるかというのも一つ出てきます。こう
         取るのは、おかしいようでもありますが一応は合っていそうです。つまり
              合計(15人)
          ですが、実際は16人としたいというのがありそうです。歴史の一節に
            「尼子伊予守経久が的孫、・・・中国十六箇国の権柄・・・」〈甫庵信長記〉
          があり、16という数字もあちこちにまぶされています。この中国というのは、日本の
         中国ですが、中の国というのに、日本列島からみると、かなり西に偏った感じがあります。
         一応、与えられたのが九州=9、四国=4、西国33というのが知られているのでそれで
         やってみると
                 西国          三十三ヶ国
                 九州     マイナス   九ヶ国  
                 四国     マイナス   四ヶ国
                −−−−−−−−−−−−−−−
                 差し引き計        二十ヶ国 
          となり、この20国は有名な文献にあります。つまり、魏志倭人伝の
             斯馬国〜烏奴国の20国です〈大河〉。これは いま中国で
                 十六ヶ国
          がでましたから、近畿にはみ出すのが
                   四ヶ国
          で、西国計(20+13)の三十三ヶ国を構成するということになりそうです。中国16は、
         〈前著〉の表紙の裏の国名で見れば、
             長門・周防・石見・安芸・出雲・備後・備中・備前・美作・伯耆・因幡・播磨・
             但馬・丹後・丹波・摂津で16
          で東への、はみ出しは
             山城・近江・和泉・河内・大和 で5      計20+1(邪馬台国)  
          (20国の次に入り口にもあった「奴国」が出ている、これは漠然として1を創る))
          くらいのところになりそうです。

           その余の「旁国」は「詳かにすることは得べからず」と書いていますが、おおよそは
           わかっていて、後世の国名とは一致しないかもしれませんが
             紀伊・伊勢・志摩・伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・相模・甲斐・武蔵・安房
             上総・下総・常陸              16
             若狭・越前・加賀・越中・能登・越後   6
             美濃・信濃・上野・下野・岩代・磐城   6
             羽前・羽後・陸奥・陸中・陵前       5
                   計                 33 
                  
           となり、66カ国という場合の、それと何となく一致しています。〈甫庵信長記〉には「日域
           六十六州」があり、〈南蛮寺興廃記序〉では

            「天正十六年・・・・天正十六年より同二十四年を経て慶長十六年・・・加藤肥後守
            清正病死・・・肥後国宇登郡(騒動)・・・関東より官吏下着して、徒党を糾明して
            宇登郡静謐す。慶長十六年より十六年過ぎて、・・六十六部・・」

         などがあり、16というのは、あの渡海の16人を意識しており、またこの文献にはこの66が
         三回も出てきます。
              「・・松樹六十六本・・・神主攝津守三位・・・松樹・・本数六十六本・・・」
         もあります。「六十余年」もありますから伊織の碑文の「六十余」とも関係がありそうです。
         また「松樹」というのが「松寿」も考えられ、これは「小倉松寿〈信長公記〉」があるので、気に
          なります。テキスト人名注ではこれは
             「小倉松千代   ・・・松千代の母は鍋。・・・甚五郎・松千代(兄弟)・・・」
         となっており「松千代」でもあります。
             松寿ー松寿(松樹)ー小倉ー柏原鍋ー宮本ー続子松千代
         へと行きます。松寿=松樹などは著者は言っていないなどというのは、この六十六と
         爆竹の一節との関係で否定されるでしょう。特に重要と思われるのは四十二がたくさん
         出ていて

              「(数珠、紫金)四十二あり{■キリシタン国四十二国あり是に擬ふ。}」
              「四十二箇国」「四十二」「四十二相」「四十二国」
              最後に、付けたりの部分で「四十二州」   (〈南蛮寺興廃記〉)
  
        という六っの42が出ています。細字の■によって当時のキリスト教国は42ということが
        わかりますので前稿で引用しましたが、ここで、世界の国数の見当が出ていないとおか
        しいから二段目の42×4=168(いろは)がそれらしい、ととれます。織田信長は、
        世界の1/4(42/168)の国に、新たに、日本を認識してもらうべく打って出たといえそう
        です。いいたいことは、このようにストーリーでは何かよくわからない「粒」とか「相」とか
        を出して、それにカコツケて必要な数字を出してきているということで、16もヒントがある
        ものでしょう。(24+42=66(「六十六」)もあるかもしれない)
        この六十六は、爆竹の一節が海外渡航のことをいっているということを示すものにもなって
        います。つまり爆竹Aの一節の数字は
            「十五日・・・・東一番・・・三郎・・・三郎・・・一郎・・・一番・・・九右・・・七郎・・・二番・・
            ・・五畿内・・・(●三番)・・・三位・・・源五・・・一門・・・四番・・・三疋・・・十六日・・九郎・・・
            三位・・廿一日・・・・百枚・・・一々・・・」〈信長公記〉   (●の三番が抜けているのは既述)
        となっており、計、15+1+3+3+1+1+9+7+2+5+(3)+3+5+1+4+3+16+9+3+21+100+1=216
        です。古代、徐福、邪馬台国、神武東征などどならんで海外がらみのもっと重要なものの一つ
        倭の五王の上表文は
            「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すうこと六十六国
             渡て海北を平らぐること九十五国・・・」
        となっており、55+66+95=216で、数字合わせがしてあり、古代の海外文献の解説をしているとい
        うことが明言されています。「六十六」を多く打ち出した江戸期の〈南蛮寺興廃記〉は太田和泉守の
       意思を受け止めて著わされたもので信用するに足るものです。爆竹(花火)の記事が大航海のことを
       語っているものだということもこれでわかりました。念のため爆竹Aの正月十五日、登場人員総数を
       カウントしますと
          @(北方東)平野土佐守以下8名   (南方)山岡対馬守以下7名       15名(既述)
          A一番、(御馬場入)菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹・矢部善七郎・     4名   
           御小姓衆・御馬廻、                                    2(名)
          B二番、御畿内衆・隣国大名、小名 (人名なし)                   3(名)
                       (小計)                              19名(24名)
          C    三位中将信忠卿・北畠中将信雄卿・織田源五・織田上野守信兼    4名
          D四番 信長公、屋代勝介 (仁田)                           2名
              計                                       合計 25名
        となります。本文ではCの「三番」が抜けているので、一応@〜Bで一旦締めよか、という
        ものが著者にあったといってよいのでしょう。これでみれば
               15+4+2+3=24名(名)
         となり、トータル(24名)がどういう形であれ出たことが重要です。Cは三番が抜けているので、一応
         前のものとは切断となっており、またこれは一門衆で人名引き当てには利用できない感じです。
         Cはカウント外とも考えられ、爆竹@の15人の位置との対照から4人出てきて、この4人は埋められ
        ることにもなります。あの少年4人は意識があるのは確実というのはここでもいえそうです。
「        Dは「信長公」は除外するか(仁田)を入れるかの問題があり、一応これは両方除外すれば合計24
         になるが、25か26にに変わりうる根拠が用意されているかも、とかになります。爆竹@とか本文の
         全体からもみないといけないところです。1とか2の違いの差でもめるのは、1つを気にして重視して
         正確を期していることの表れです。あやふやで信用できないとはなりません。相手は段違いの
         上・下なので・・・。念のため本節は正月十六日、正月廿一日があり登場人物は、
          E「正月十六日・・佐久間右衛門父子・・・・・子息甚九郎・・・・三位中将信忠卿・・」
          F「正月廿一日・・宇喜多和泉・・・羽柴筑前守・・・・信長公・・・」
         があります。ここにも位相の違うもので16、21がでています。計37が出ています。25プラス37=62
         だから(仁田)は一応なんかに取つとこ、というのもいいのでしょう。ここの37は覚えとこ、おぼえとこ
         でよいのでしょう。

        戦後昭和になってからも、宮本武蔵と柳生十兵衛(三厳=みつよし)を対決させようとする人が続い
        ているのも根底にこのときの十兵衛、又兵衛の二人の乗船の記憶が、語り継がれて残ってきている
        ことの結果といえそうです。この二人を乗員代表として、その周辺から、航海を語ってみようということ
        も可能です。         
         明智光慶は、A、では、「★萩原助十郎」、爆竹Aでは「青地千代寿」相当という感じが
        しますが、A が全体に漠然としているので、字の根拠もなくそれはおかしいというのも合ってそうです。
        ただ「★萩原助十郎」は
              ○四人の範囲内にある人物である、
              ○A、Cにあり、ともに四人の一番はじめに出てくる、
              ○Aは数が多いので政府の関係者、Cは宣教師推薦の民間の四人の内
               と考えられる
         ということで「萩原助十郎@」と捉られて、一応明智光慶とするのもありえます。なお
         「助十郎」で括れば
              A萩原の「助十郎」=C水越の「助十郎」=C萩原「助十郎」
        となってあり、Cの萩原はひょっとしてC水越と関係がある人かというのも出てきます。
        Cの「萩原」は「助十郎A」として民間の人の中での代表と取れそうで(マンシヨ相当)、
        ひとまず、「萩原」は渡航に関係ありということになる、「水越」という人もそうかもしれない
        ということも出てきます。
         芭蕉では〈奥の細道〉で
             「曾良は・・・伊勢の国長嶋と云ふ所にゆかりあれば・・・
                 行(ゆき)行てたふれ伏すとも萩の原  曾良 」
        で「萩原」が出ており、さらに
             「小松と云ふ所にて
              しほ(を)らしき名や小松吹(ふく)すすき
              此所、太田の神社に詣。真(さね)盛の甲・・・」
        があり、「萩」と「松」の組み合わせが出ています。「しほ」は
              「越前・・・舟に棹・・汐越の松・・・波・・・汐越の松 西行・・丸岡・・」
        があり、「西行き」、「松」、「舟」「波」「夕庵」に通じていますが「越」「越」「越」
            「水越助十郎」と「松」「萩」
        とも結ばれていそうです。「越後」において「伊勢参宮」の遊女が
            「一家(ひとつや)に遊女もねたりと月」〈奥の細道〉
         で「萩」と「越」「伊勢」と繋げられています。「ひとつ屋」−高山右近ー「高槻」「月」ともなっ
         ています。近江にも「高つき」=「高月」があってこれは「上(こう)月」に至りますが、
         山中鹿介の月に祈るの「月」でもあります。遊女の「遊」」は鹿介も「遊客」で関係があり
         そうですが
                 「遊左衛門」「宮西遊左衛門」〈信長公記〉
         があり、索引では
               遊左衛門
               祐乗坊(「法王寺」「池上如慶」「大文字屋」などと登場)
         となってなっています。「祐坊」が「乗」ったわけですが、伊藤マンシヨの本名は
             「祐益」、(「伊東祐青の子」「伊東義祐の孫」)
         です。(ウィキ)では「義祐」の子「祐勝」が安土にいて間に合わなかっ
         たのでその代役として「祐益」が行くことになった、ということですが、子の
         代わりに孫、「安土」と「長崎?」のような食い違いがあり、孫の親に注目とか、二隻出航に
         時間差があったというようなこと出ているとも思われます。
         が、こういう挿話の解釈はいずれされねばならないから、今ではこの程度のことを考えたと
         いうだけのことです。「祐」が渡り歩いているから、文献が頼りないというわけにはいかない、例え
         それが、かなり後世の文献であっても、ということです。とにかく「伊東」がでてきました。

        (124)剣豪「伊東一刀斎景久」
         古田織部の生まれた地は美濃の本巣でここの文殊に織部の故地、山口山の(山口)城址
        がありますが、ここに苔むした梶原景時の文字のある碑があるのが、誰がやったか、何とも
        いえない玄妙な仕業というものが感ぜられます。すなわちテキストでは
              「梶原」〈信長公記〉
        というのを「梶原景時」と考証されています。
        佐々木・梶原の宇治川の先陣の話だから、この「梶原」は嫡男「源太景季」と思いますが
        「景時」が使われています。これはテキスト人名索引で
            織田信時(文中では「安房殿」)、(「守山」、「織田安房守秀俊?」)
            織田信張(文中「織田太郎左衛門」(「藤左衛門」、「尾張小田井・岸和田」領主」)
            織田信治(文中「九郎」ー実は織田九郎)(「信長の弟」)
         の並びがある、この考証名「織田信時」の「時」を見ているものといえます。
             「時」=じ=「治」、   「張」=はる(春)=「治」
         という関連はあり、また、「並び」の、ぼんやりした関連がこの三者にあるようです。この観点か
         ら人名索引の景時をみると、「梶川平左衛門」「加治田」のあと
              梶原景時(文中「梶原」)
              梶原景久(文中「梶原平次」)
              梶原勝兵衛
              柏原鍋
              春日河内守/春日源八郎/春日丹後
         となっています。古田は「景安」があって、これは「梶原」の「景」があります。「柏原」は
         「かじ(梶)」−「かし(は)」でこの流れにはいります。「景久」があるということは剣豪の
 「            伊東(藤)景久 (一刀斎)
         があるということで伊東=梶原=柏原鍋=日向の「伊東祐」と繋がります。この本巣の
         山口に佑向山城跡があり「佑」=「祐」、「向」もあるとすると、何となく、〈両書〉と明智光慶、
         ・小倉の小栗をつなごうとしているものが山口城址の梶原碑といえます。一方この有名な
         剣豪も〈甫庵信長記〉の索引
               梶川平左衛門
               梶河(川)弥三郎
               ◎柏原鍋丸兄弟 (「鍋」は「小倉松寿」の母、つまり小倉松千代@))
               (祖父)江孫丸(これは祖父の名前が「柏原(梶原)江孫丸」とするしかない)
               梶原左衛門尉
               ●(続子)松千代丸
               (同名の家子)又右衛門
               梶原次右衛門尉
               梶原勝兵衛尉
               梶原平次(梶原平次郎)ーーー(考証は「梶原景久」)
               春日(三人)
         の◎●の渡海に到る流れを説明しているといえます。ここで伊藤一刀斎景久は何者か、と
         いう、上泉伊勢守と同じような問題が出てきます。実在か、虚構か、虚構の部分をどう除くか
         というようなことです。
         太田和泉守が伊東一刀斎に乗っかって周囲の人物の関係を説明したという解釈
         も有用です。すなわち「伊東弥三郎」、「梶川弥三郎」は太田和泉守の別表記とみてよく、
         そこから「伊藤武蔵守(常山奇談)」のような表記があって、梶川「平」−梶田(加治田)の
          「平」と「田」があり、この「一刀」「平田」というのは宮本伊織の碑にに出ており、「平田
          和泉(両書)」があり、「平田(手)和泉・一刀斎(太田和泉守)」が出てくるから、それで
          してもよいということにもなります。ただ、それだと語りのための架空の人物となってしま
          います。皆は、ここまで有名になっているのだから実在の人物であろうとみていますから、
          それに答えを出さないといけないということでしょう。太田和泉守にとって実存的な人物と
          して誰なのかというのが分かればそこから語りが広がっていきます。
         剣豪フアンの問題だから、まあどうでもいいだろうというわけにはいかない、有史以来の
         叙述手法の説明を受けているということで、見逃せないところです。さしもの伊勢守・一刀斎
        という二人も亡くなった時点ではそう有名ではなかったからか死亡時の年齢もはっきりしません。

         伊東の「祐」の問題ですが、「祐乗坊」の「祐」も広がってきて「目黒」の「祐天寺」の「祐」も気に
         なってきます。「明顕山 祐天寺」という寺号は、紀州の殿様、八代将軍吉宗より与えら
         れたそうですが、それまでの将軍も尊重しています。座主は「天海」が出てきそうな
                開山      祐天上人
                二代      祐海上人
          という人です。名前の付け方が大きいので圧倒されます。一方で江戸の侠客、祐天仙之助も出
       てきます。ここ目黒の地はもと荏原郡にあってこれは「武蔵国」の一部のようです。「えばら」は
                「江原」「縁原」「永原」
          もあるようで「永原」は「永原筑前(信長公記)」があって索引では「な行」

             ・・・長嶋大乗坊/長嶋本坊主/●中嶋又二郎/・・・・/中条又兵衛/・・・・/中野又兵衛/・・・
             ・・/永原重康(文中「永原筑前」)/長光(説明は「備前長船」の「長光」)/長光、(相撲の
             長光で、蒲生郡日野の長光氏?)/・・・/中村新兵衛/・・・/■中村与八郎/・・・

        があり、「長」「中」「永」「長」「中」のような配列となっていて、「なが」は「なか」でもあり、漢字は発音
        で置き換えて見るのも必要というのが解説として出ているところでもあります。●(■も)が「清水又
        十郎の一節で出ました。甫庵は、「長嶋大乗坊(信長公記)」を「長崎大乗坊」としていますので●は
        長崎又二郎ともなりえます。あと、「船」「長光」の「刀」「相撲」の蒲生の「長光」と続きますので
            「蒲生」−「木村」
        の線から、同年輩の、木村伊古介(木村山口与一)が又二郎として出されたようです。索引では
            木全六郎三郎(中島郡)/木村いこ助(「相撲)/木村重章(「佐々木氏」「蒲生町桜川」)
         のならびがあり、「永原筑前(重康)」は本文で「蒲生忠三郎」を伴って出てきて、ここで蒲生の、
         流れのもとにあり、●を蒲生とすると、蒲生関連の人ということになりそうです。また、又二郎は二人
         というヒントもあるかもしれないから清水又十郎
         の一節の「横江孫八」を年少、横山ということで付け加えるとすると
                 蒲生氏郷(蒲生忠三郎)ーーーーー伴正林(長光・蒲生忠三郎A・横江孫八)
                 ‖蒲生郷舎(横山喜内)
                 ‖木村重章(木村常陸介)
                 山口飛弾守ーーーーーー木村伊小介(木村いこ助・中嶋又二郎)
                    
          のようなことになるのかも。相撲も23人の羅列があり「長光」・「木村いこ助」があります。横江と
          中嶋は清水又十郎の一節にあり、いろんな側面から、仮名がなんとなく引き当て出来てくれば
          よいということです。〈類書〉で名高い蒲生郷舎は水野氏かもといってきましたが、ここの渡海、蒲生
          の流れで出された「永原筑前」から出てきそうで、またあとで出したいと思いますが、伊藤一刀斎も
          この蒲生氏周辺から■などと絡んででてくるので、まだ流動的ですが、この蒲生の三角の公式が
          重要と思われます。          
   
       (125)佐久間ー平手の語り(火とぼしの祭り)
         ネット記事、「祐天仙之助」(314html)に
         「侠客と十手」という文言があります。二束のわらじ、というわけですが清水次郎長などの
         のように治安業務の下請けもやっていた感じです。「十手」というのが伊織の碑文にたくさん
         出てきます。五つで五十手あるわけですが、碑文に
               「新免無二・・・十手を改めて二刀の家を為す。」
         というのがあり、これは、無二が十手術の名人であったといわれている(ウイキの「十手」という項目
        にある話)、ということに結びついていますが、これは、この場合の「二刀」の取り方を、二刀流の「二刀」
        でなく、二本差(日本差)という読みでないいけないということをいっている、警察の下請けから
        武士となったということではないか、つまりこれは荒唐無稽の話で、ほかのことを言おうとしたと
        取れます。十手=「平手の手」をたくさん出すとか、十字の「十」とか、十握(とつか)剣
       (天下を平する剣〈日本書紀〉)の「十」、「当」「刀」の「とお」を出すためのもので、二刀は
       寛永の武蔵の「二刀」とかの伏線として出てきたものと取れます。伊織は「二刀は腰間の
       具」といっており、二本はいつも腰にありそれの活用というのではないかと思われます。伊織は「一刀」
       という語句を使っており、武蔵の二刀、一刀の伊東というのが、何となく出ていそうです。この「伊」とい
       う、のは伊織の「伊」でもあり、 ここの、5×十手の五十手は、〈日本書紀〉仲哀紀の 
               「五十迹手(いとて)」(伊都国のこと)ーーー(「伊」の「都」もある)
         をみていそうです。祐天は「祐天吉松」というそうですが「吉」「松」が出てきます。仙(千)之助の
         物語には「桑原雷助」が登場しますが、「三×又」「雷」で、こうなると太田牛一も顔をだし、渡海
         鉄船も出てきかねません。同様に講談のほうで有名な一刀流伊東の「景久」というのはどこから
         出てきたか、というのも問題となりますが、これは〈吾妻鏡〉〈平家物語〉〈曽我物語〉に
         出てくる有名な、(相撲も取った)
                「俣野景久」の「景久」
          があります。この「俣」はテキストでは「木全(きまた)六郎三郎」の説明に使われ
              「きまた=中嶋郡(稲沢市)木俣」
         ということで出ています。この人物は佐奈田与一義忠との激闘があり、歌川国芳の絵にもなって
         います。これは確実に「真田」が出ていますが、伊織の碑文を見据えたものかもしれません。
               「秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功の佳名は縦(ひとえ)に◆海の口、渓の舌にあり、
               寧ろ説き尽し、簡略に之を記さず。・」
         があり、「秀頼公」が出てきて、この◆の文言が何のことかわからないので、取り上げないと、しょうが
         ないということにされてしまいます。
          「海の口」は海の向こう、と真田の「海野」、武田信玄の初陣の武名の地(平賀源心)を入れたの
          かもしれない、とまず表記だけから出てくるものです。ストーリを追うとその意味にはならず、「渓の
         舌」とは何か、ぜんぜん「海ノ口」と対にならないということになります。これは文では
                海の口
                渓の舌
         で「海景」「口舌」がでてきますから、「海のように広く、渓流のよううに途切れない弁舌でもとても
         述べ尽くすことができないという意味であろうと思われますが、これだと普通の文になり
         ます。海ノ口、渓の舌が別の意味を語らないと、伊織の武蔵を語る文にはならないのでしょう。
         「吉」は「舌」や「告」に似ていますので
               「渓の舌」→「渓の告」→「渓の谷」
        であろうとも思われ、武蔵の佳名は、海の口と渓の谷(耶馬の渓谷「やばかげ」)にあり、と
        いうのもあると思われます。爆竹の一節には「仁田のやばかげ」があって「かげ」が「鹿毛」
        「景」→「けい」→「渓」と変化することが考えられます。爆竹Aの
              「仁田のやばかげ」
        を捉えたものが頼山陽の「耶馬溪」の「やばかけ」といいましたが、伊織なりの、「爆竹」の一節の捉え
        方というものではないかという疑問です。
         「渓の舌」は「渓の千口」であり、
               海の口     海ノ口
               渓の舌     渓ノ吉  →  渓の谷   
        とかやっていると「会稽」の「口舌」=耶馬溪谷も出てきます。
       とにかく漢字ばかりのものを「海ノ口、渓の舌にあり」(ウィキ)と読み砕いた
       人もあるからそのこともあります。つまり伊織は〈日本書紀・仲哀天皇紀〉を、碑文の一部とし
       ているということです。邪馬台国「耶馬」がその証しではないか、ということですがこれは
       爆竹の一節が古代の日本をとりまく環境について語っているかどうかということにかかりますがこれは
       既述、爆竹Aと古代の文献との 数字の合わせがあり確実なことです。
        〈仲哀紀〉のこの一節は、動物では「越の国」の「白鳥」と、「熊鰐」が出てきてきますが、海の「口」
       をみていると
            「鰐口(わにのくち)」〈信長公記〉(地名索引は「和邇」で出ている)
       も思い出します。またここ〈仲哀紀〉には「大田」の二字、「敦賀(角鹿)」「気比神社」「紀伊の国」もあり
      ます。芭蕉は、敦賀の条、脚注では「藤沢の遊行寺」が関係する一節

            「・・つるがの津・・・あるじ・・・越路の習ひ・・けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。・・・・
            往昔遊行の二世・・・・遊行・・・・遊行・・・」〈奥の細道〉
    
      で仲哀天皇を出して「遊」と結んでいます。先ほど〈信長公記〉索引で
             遊左衛門/祐乗坊/湯川(「紀伊国高郡湯川荘、湯川直春」)/弓削・・・
      の並びがありましたが、「祐乗」の「祐」を芭蕉は出したといえます。「祐乗坊」は
           「大文字・・・・祐乗坊・・・・法王寺・・・」〈信長公記〉
     があり、「祐」は「伊東」と「日向」と結びついて渡海の伊東マンシヨ(満所)を表すものとなっています。
     またこの遊行寺は「俣野五郎景平」の創建と伝えられるところで「景久」が関係します。芭蕉は
         「伊東」「景久」「佐奈田」「東堤人」「鯰」「鰐の口」「鯰江又一郎」「鯰江」「佐々木右衛門督」
     などは念頭にあります。一方宮本伊織は
           「十手の利は一刀に倍する・・・・十手を改めて・・・・二刀」の家を成す
      と「一刀」「二刀」は書いていますが
        「伊東」(「祐」「日向」含む)と「佐々木」
     を出していません。武蔵の決闘相手は佐々木小次郎だろうと誰も思いますが「岩流」を使っています。
     東夷の「夷」は使っており、「伊東」⇔「東伊」−「東夷」はあるかも。〈常山奇談〉は「伊藤武蔵守」を用意し
       「秀頼公」「速水時之」「真田大介」「真田隠岐(守)信尹(のぶたか)」「父安房守」「後藤」「千畳敷」・・・
    など複数回で出しています。この速水の「時」が
           梶原景時/梶原景久
     の人名索引の流れに乗って「景久」に至り、同じく
           織田信次(本文は「右衛門尉」=佐久間もある)/織田信時(本文は「安房(殿)」)」
     の流れに入り、織田信時は、注では
           「信長の弟。安房守。喜蔵・・・(関係者として)佐久間信盛・・・・織田安房守秀俊・・・雲興寺・・」
      というのが出ています。甫庵の索引では
           真田安房守信幸/安房守/真田伊豆守/真田源太左衛門尉/・・・・
      となっており、通常「真田伊豆守信之」が昌幸嫡男として知られており、初めの表記はちょっとおかしい
      というのがありますが、通常フルネームの表示はないので、真田安房守昌幸という人は、兄弟の戦死に
      よる緊急の事態における登場だったということもあり、
      それも計算のうちになるのでしょう。とにかく「伊藤武蔵守」は「伊豆守」(真田)も巻き込んできました。
      地名の「伊豆」は、「夕庵」は「駿豆」を使っており「駿東」という語句もあり、駿河とセットで意識されていま
      すが一方で、鎌倉の語りに多く登場してきます。伊豆半島に「伊東」がありますが、伊藤(東)一刀斎の語り
      には、いまでは確認できませんが、秋葉山で剣術の奥儀を会得したというのがありました。それはともかく
      いまいいたいことは「伊東一刀斎」という人は「佐々木一刀斎」、つまり佐々木(小次郎)@ではないか、
      ということです。あの佐々木小次郎はのち戦国の伊東一刀斎の名跡を継いで父子で一刀流の名を高から
      しめたということになっていそうです。
       「真田大介」に日向、伊東の「佐土原」での生存説がありましたが、伊織=真田大介A
      であるので「伊織」は「伊東」に関わることを除いたと考えられます。「伊織」に「伊東」の意識があった
      とすると
       常山の「伊東」−「武蔵」に、「景久」が加わり、伊織の「伊東」−「武蔵」に、「岩流」が加わると
          「伊東武蔵守・景久」と「伊東武蔵・岩流」
      というものが出てきます。これは関連の語句を並べたに過ぎないものですが、〈両書〉で確認したいことが
      わかればやりやすいということです。「信尹(たか)」の「尹」は「伊尹」があり、これは平手(田)政秀が使った
      殷の宰相の名前です(〈甫庵信長記〉)。これは人名索引には出てきませんが「伊伊」ということです
      から
        「伊賀」「伊勢」「伊丹」「伊藤」「伊東」「伊予」「伊知地」「伊徳」「伊木」「伊太利」「伊豆」「伊那」
        「伊場」「伊庭」「伊吹」「紀伊」「井伊」「伊万里」「伊助」「伊蔵」「伊織」・・・
      などの「伊」を意識したものといえます。「伊織」の文には「平田」があり、「手」があり、「平手」を意識
      していますので、常山は「伊織」の碑文を前提に話をしている、名付けられた「伊織」の「伊」に「伊藤」
      「伊東」「伊豆」などをみている、それを前提にしているので「伊東」を出していないといえます。
 
      湯浅常山は「海の口」城の「平賀源心」から「平賀源内」−「尾藤源内」を関係付けたということは
      既述ですが、この平賀源心のいた海の口城の場所は「長野県南佐久郡南牧村海の口」で
      武田信玄初陣の大戦果の物語の中で有名です。平賀源心は平賀玄信もあって、信玄が玄信
      を討った話です。玄信は小倉碑文にあるから、この挿話は伊織以降にできたもの、織田にも「武田
      左吉」が作られているので太田和泉守も乗せて作られたものいえそうです。
      一方、大糸線の昔「白鳥の見える」までが駅名に入ったという「海の口」駅があります。
      住所は「大町市平字下海道」、長野県には珍しい海が感じられる駅ということですが、これも
      仲哀紀が、船と海一色、の一節といってもよいところからきていそうです。
         「・・筑紫の伊ト(者+見)・・五十迹手・・・伊蘇の国・・・新羅の国・・御船・・水田・・大田・・」〈仲哀紀〉
       であり新羅(しらき)の「羅」があり、「羅馬」の「羅」も意識されたと思われます。水田は永田に似ていま
      す。これは関係なさそうですが芭蕉が仲哀天皇を〈奥の細道〉で出だしているから見ないとしょうがない
      ものです。伊織の武蔵の記事が始発ということもある、「海ノ口」はそうではないかと
      いうことになるのでしょう。
            「佐久」の「南牧村」の「海の口」
       は一つは「佐久」が重要で、平手ー佐久間の「佐久」、伊織が「平手」を出したことと関係がありそうです。
       また「南牧村」でみればこれは群馬県にもあり
            「群馬県甘楽郡南牧村大日向」
       という地ですがここは「火とぼし」の大きな祭りがあり、これは「大日向ひとぼし」ともいわれ、「日向」が大
       きく出てきます。また「甘楽郡」となると「下仁田」の近くというのがわかり、ネット記事にもある「松明」と
       いう語句は「続子松」の「たいまつ」が・・・となると、航海の日向と繋がっているというのが出てきます。
       それは、「佐久」の「海ノ口」の「南牧村」から来ていますから、そうとらざるをえません。しかし
      言い伝えが、「小幡領主」に反抗した住人が武田信玄を応援して、松明をつけて大軍の襲来
      を装い領主を追い出して、それを喜び祝ったのがはじめ、となっています。これは伊織始発の話だった
    ら渡海があったということの伝承をのこすための行事と取れます。伊東一刀斎が、秋葉山火祭りの行事と
    関係づけられるのであれば、伊織の海の口−南牧村の線から、宮本武蔵と伊東一刀斎の関係も見たほうが
    よいというのも出てきます。渡海と伊東(伊東マンシヨ)は関係があるのだから、渡海と伊東一刀斎(佐々木
    小次郎@は関係がないとはいえないのかもしれません。「火祭り」というような言外のものの語りも踏み込む
     場合のヒントとして役立つこともあります。秋葉山火祭りは名古屋熱田の「円通寺」においてもあるようです。
     芭蕉が「円通寺」の道円居士を出しています。
    「火とぼし」の由緒において小幡氏が圧政者として、悪役で出てきます。武田信玄は征服者なのに地元の
     住人がわが領主を追い出すためその力を借りるという話もちょっとおかしい、小幡信貞は武田の勇将で長
    篠の戦いで戦死しており山県・馬場相当の大将としてこのころでは人気の高い人物のはずです。小幡注目
    というのかもしれません。
     
     (126)後藤喜三郎
       真田が出ると後藤が出てきますが、「爆竹の一節」に「後藤喜三郎」が出てきます。
      「岩越喜三郎」があり、その係累というのも考えられますが、これが誰かというのがまだ出来ていません。
      桶狭間「加藤弥三郎」を「後藤又兵衛」と比定してきましたが、「箇所」=「個所」で「か」=「こ」もありま
      り「賀藤」→「後藤」はいえます。常山では関が原、後藤又兵衛一番槍の「郷渡川(がふとかは)」がださ
      れていますが、これは音では「ごうとがわ」です。
         「おうごうの城」〈信長公記〉
      があり、脚注では「未詳」となっています。これは確実に「淡河の城」ですが、それだったら「あふがふの
      城」となるはずだから「未詳」ということになっていると思われます。もう一つ「おふごうの城」〈信長公記〉
      が次ページにありますから、こういえるようです。昔から「おう」は「おふ」、「ごう」は、「がう」→「がふ」と
     ルビをつけることになっていますが、これは語りの幅を広げるためのための工夫というのもあるのかもしれ
     ないとみたくなる、引っ掛かりです。要は「河」「合」はルビは「がう」、読めば「ごう」、で「が」=「ご」で
     「加藤弥三郎」も頭の中で「後藤弥三郎」に切り替わります。「伊藤弥三郎」も出てくるので「後藤喜三郎」
      の周辺が渡海の絡んで重要になってきます。既述の部分もありますが「後藤又兵衛」や「佐々木小次郎」
      などという表記は〈両書〉と注にもないので、変換前の表記でやって見たほうがあとやりやすくなります。
      まあ直感では
              後藤喜三郎A=(清水又十郎の一節の)中村与八郎(宮本兵大夫)
      というところです。
       「後藤喜三郎」はテキスト注では
         「後藤高治 もと近江六角氏の将。滋賀県神崎郡能登川町佐生(さそう)の住人。」
       となっています。ほか周辺で与えられた人物は
          「六角義賢(文中「佐々木承偵」)」
          「六角義治 義賢の子。初名義弼、文中「佐々木右衛門尉」)
          「六角次郎 (▲「義治」)とする説と、義治の弟、▼「賢永(高定)」とする説がある。)
      があります。これは「後藤喜三郎(高治)」を入れて考えると▲の場合

       義賢(承偵)ーー佐々木義治(義弼)ーーーーーー|★鯰江又一郎ーーーーー(佐々木)小次郎
                 ‖■後藤喜三郎           |佐々木次郎(▲義治A)
                 ‖(高治@)
                 加藤弥三郎(後藤又兵衛)ーーーー後藤喜三郎A
                                       (宮本兵大夫)ーーーー寛永の宮本武蔵
 
       となりそうです。▼の場合、もう一つの舎弟として■の上に、もう一つ「賢永(高定)」が入るのかも。
       つまり「承偵」の「賢」、
      「高治」の「高」が「賢永(高定)」にあります。これで★が伊東一刀斎(佐々木小次郎@)となるのでは
      ないかと思われます。「伊東(藤)」は〈信長公記〉で11個あって、どれも解説がないものです。戦国で「伊東」
      「伊藤」は、「伊東マンシヨ」もありますが、一刀流の開祖としての伊東一刀斎が一番有名かもしれませ
      ん。伊東一刀斎景久は
           「伊東九郎兵衛(「越前」で登場)」〈両書〉
      といえるのでしょう。伊東一刀斎景久と佐々木小次郎が併記されて出てくるのは二人は鐘巻自捻斎の
      弟子であるという話においてですが、鐘巻自捻斎は
        「印牧(かねまき)弥六左衛門」〈信長公記〉、「印枚(いんまい)弥六左衛門尉」〈甫庵信長記〉
     が原型です。索引では
         金山信貞(文中では「金山駿河」)/印牧(かねまき)弥六左衛門/金松久左衛門/兼松正吉・・
     となっていますから印牧は一応金松又四郎相当の人物といえますが、鐘巻自捻斎は、
           「(かねまき−かねまつ)久左衛門」→「荒木久左衛門むすこ自念(ジネン)」
     となる「念」を取り入れた存在でもあります。まあ「牧」=「枚」は似ているということで、変な名前を出して
     きたのかもしれませんが、「印(金)牧(枚)」という苦心の操作のもと「伊藤一刀斎−佐々木小次郎」の
     セットが出たということであれば、まず両者、同一またはそれに近いということで見るのはスタートして
     あっています。
     印牧(枚)の姓は珍妙なものであるので利用するものが多く芭蕉もその一人です。姉川の陣
          @「坂井池田・・・道の辺(へ)の清水流るる柳陰(やなぎかげ)すずみとるさへ耐え難き折・・・
          火花を散らし戦ひければ・・・伊勢をの海士の潜(かづ)きして息つぎあへぬ風情なり。」
                                                         〈甫庵信長記〉
          A「又、清水流るるの柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の郡主、戸部
          某(こぶなにがし)の、此柳みせばや・・・・・・折折・・・今日此柳のかげにこそ立ちより侍りつれ。
              ▲田一枚植えて立(たち)去る柳かな 」〈奥の細道〉
      があり、テキスト脚注では
          『〈新古今集〉に「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」という西行の歌が
         ある。〈西行物語絵詞〉によると、この歌は画賛であるというが一般には西行がこの国に下ってよん
         だものと信ぜられている。』
      となっています。西行は空海のような扱いになってきているようですが、芭蕉のAと〈新古今集〉の間に、
      よく読まれてきた、〈信長記〉の@があります。脚注では、芭蕉の「蘆野」は「芦野」、「郡主」は「郡の領
      主」で、芦野民部といわれる人ですが「民部の唐名が戸部であるから、戸部某、といったのである。」と
      されています。今では、この句の解釈に、ここには載っていない「早乙女」が登場し、それが主語となっ
      ています。この句のあと須賀川で
              ▼風流の初(はじめ)やおくの田植うた
      という句が出てきて、ここは乙女の「うた」でなくてはならず、植えて立ち去る、のも乙女でよいことになり
      ます。それに異論はありませんが、
         「昔日(そのかみ)、天乙女、此所に天降りしなど、世の諺に云ひあえる・・・」〈甫庵信長記〉
     の乙女、天の羽衣の乙女が出てきているというのがいいたいところのことです。
      ここに「唐名」「戸部」「郡主」→「領主」、「蘆」→「盧」、など外国の匂い、別の意味の「西行」の物語が
      でていそうです。三重奏くらいになっている一節かも。
       「清水又十郎」の「清水」の流れが、宮本伊織の「岩流」の流れに合し、佐々木
      「岸柳」の「柳」が出されたいうことで、渡海に絡んで
         「六角義治」=「佐々木義弼A」=佐々木小次郎=「伊藤景久」=「鯰江又一郎」
      が芭蕉によって出されています。これは「印牧」=「鐘巻」が絡んでいました。「鯰」の「念」は
         「荒木久左衛門」「久左衛門」「むすこ十四歳の自念」〈信長公記〉
      の自念から、「又一郎」の「又」は清水の「又十郎」(又一郎+又九郎)から。
      
      ▲の「柳」は▼の「流」を「柳」に変え、「柳のゆれ」で風が感知される、▼の「風流」を「風の流れ」にも変え
      奥(欧)の歌が風に流れて聞こ
      えてくるという感じも出されてきます。もちろん「風流」の意味もあります。〈芭蕉前句〉では▲の句は
            「田一牧(ルビ=ママ)植て立去る柳かな」
      も出されており、田一牧、田一枚は「印枚」「印牧」〈両書〉をみていることは明らかで、国文学の学者と
      もなれば、こういうことは判っているはずで、伝えるのだけはやめとこ、となっているものです。
        〈芭蕉全句〉によれば
         『〈蕪村句集〉の「柳散(ちり)清水(しみず)涸(かれ)石処々(いしところどころ)」の句は同じ遊行
         柳(ゆぎょうやなぎ)での作であるが・・参考になるものがあろう。〈奥の細道〉に殺生石の記事に
         つづけて、「又、清水流るる・・・・柳のかげにこそ立ち寄り侍りつれ。」とあって掲出。(要は殺生石
         の記事と合わせてここを論じなければいけないといってる)。・・・中七「植えて立寄る」の句形も
         あったというが疑わしい。』
      となっています。「植えて立寄る」と「植えて立去る」とは大きな違いで、早乙女の存在が消え、主語が
      芭蕉にかわりそうです。〈蕪村句集〉の「句」では「柳」にルビがなく、柳が主語にもなっています。また蕪村
      の「石」は前の「殺生石」を受けるものかもしれません。「散柳」は全昌寺の一節、
           庭掃いて出(いで)ばや寺に散柳(ちるやなぎ)
      にあり、脚注の訳は「折から庭の柳がはらはらと散ってきた、せめてこの落葉でも掃き清めて出かけたい
      ものだ、となっています。「落葉の清水」というのもあるかもしれませんが、曾良はここで
           「湯を結ぶ誓も同じ石清水   殺生石   石の香や夏草赤く露あつし」
       を出していてこれは、蕪村のものと似ています。蕪村の「石」は殺生石もあり。清水の石・香の石もいいた
      ようです。「香」は戦国時代の「香(甲)」があり、この「香」は
           「鯰江・・・日野蒲生・・・布施藤九郎、香津畑・・・千草越・・・杉谷善住坊・・・佐々木左京大夫
           承偵・・・・千草山中・・・鰐の口・・」〈信長公記〉
       の「蒲生」・「佐々木」、に通ずるものです。また「香」は「地蔵山」(脚注=滋賀県伊香郡木之本)、
      「中野河内口」(脚注=滋賀県伊香郡余吾村)、などで間接、別口で出てくる「伊香」があり、これは
     「伊賀」相当のものです。また「香」は「高」です。索引でも

         @香川/岳雲軒賢範(文中「下曾禰)/景清→平景清/陰山一景(文中「陰山掃部助」)
         A下方九郎左衛門/下方貞清(文中「下方左近」)/下方弥三郎/下川弥九郎/下国/下条九兵衛
           /下条伊豆守」/下曾根覚(岳)雲軒/下津権内(「細川」)/清水又十郎/下間(しもづま)/・・

       となっており、@の「岳雲軒」が「下曾禰」なのに突然入り込んできておかしいわけです。Aの「下曾禰」
       に「香」を繋ぎたかったわけです。すなわち
           下方(明智)など「しも」/香(香川の)/下津/清水又十郎/下間(しもづま)
       となってくると「清水又十郎」の位置がおかしくなっているのや、「香」と明智光秀や明智ミツヒデと
      つなぎたいというのが何となくわかってきます。ここで漏れたのがあります。つまり
            下石彦右衛門〈信長公記〉
      が索引から漏れており、「香(下)」と「下石」を繋いだらどうか、というのがあることがわかります。「石の香」
      というのは「石田」の「香」というのが出ています。清水又十郎、下川弥九郎(相撲23人のうち)などは
     渡海関連なので、「下方弥三郎−伊東弥三郎」、「下方、下条、下川の九郎」=「伊藤九郎兵衛」などが
     出てきます。
      蕪村の「石」は、「柳」を取り入れており
        「大石田・・・・芦角一声・・・・種・・・一巻・・・風流ココに至れり。」
     の、「石田」−−−「芦野(蘆野)」−−−「風流」「柳」で、「種」=「草」、「一巻」=「一牧」=「一枚」、で
     印牧印枚に至るものです。かくて明智光秀の本能寺への行軍の山場である、「三草山」がここの「千草越
      」「千草山中」に、懸り、〈奥の細道〉はじめの「面八句」の「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」の「草の
      戸」に至ります。この連歌の最後は不在の「光慶」の句のよって締められました。明智−石田の香という
      のがいいたいところの一つです。一方「殺生石」の「石」もあります。〈芭蕉前句〉によれば、これは
        「鳥羽天皇」の今で言う連合いが「もと天竺(インド)の金毛九尾の妖狐であった・・・その霊が石と化
        し・・・・、これが殺生石」
      とされています。印牧(枚)の「印」は「インド」の「印」もあるでしょうが、鳥羽も伊勢志摩鳥羽熊野の紀伊
      圏にあります。両国がここで重ねられた、渡海関連の記述にこれが利用されそうです。こういう話は多く
      〈曽我物語〉には、楊貴妃について
         「我朝尾張国に天降り八剣大明神と現れ給ふ。楊貴妃は熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬
         莱宮は即ち此所とぞ申し候。」「四十五代聖武四十六孝謙帝の間」「貴妃・・・・舟に乗りて尾州
         智多の郡宇津美の浦に着き熱田に帰り給云々。」
      など長い文があります。中国の文献にあるものを我朝の人が紹介したというもののようですが、玄宗が
     推薦状を出したら、楊貴妃は尾張国領主になることができたということになるのでしょう。祭政一致と
     いう時代のことを聞いているから、宮とか、寺は政庁を表すものかもしれないわけです。この前が王昭君
     のことが書いてあり、これは〈漢語新辞典−大修舘〉にも載っている有名人ですが、「前漢の元帝の女官。
     ・・・非常な美人であったが、匈奴の王妃として遣わされ、その地で死んだ。後世さまざまな文学作品の
     題材として取り上げられた。」となっています。美人であったが故の、また故国に戻れなかったという悲劇
    は文学作品の格好の題材となりますが、一方当時の社会制度などは除外した話となっていることは否めず
   政治家として君臨し、漢との融和を図り安定をもたらした人かもしれないのです。玄宗と楊貴妃の話も白楽
   天のような詩人の作品ということで詩的な語りとされてしまいますが白居易という冷徹な史家が詩的に書いた
    ものかもしれないのです。 柿本人麻呂、清少納言
   藤原定家などは文学の題材に入りますが、行政の一翼を担い、史家でもあるのでその面から見る話となると
   多くの例のことを一例の、別面の誇張で語るという手法の一つであるかもしれないわけです。「熱田」に帰り
   給ふ」とあるから出身が尾張だったかもしれません。本能寺のとき「徳川殿」は、
      「和泉堺」から「伊勢路」をさして、「四日市」から「智多郡大野」に著津し遠州浜松
   に帰城しています(〈甫庵信長記〉)。(〈信長公記〉では「熱田の湊へ船着なり。」)
    「智多郡」の連携が〈両書〉間にあるのでしょう。〈曽我物語〉では「伊東」の物語が目次に七つもあり、この
    「▲玄宗皇帝の事」「▼王昭君の事」の一節は
          「頼朝伊東におはせし事」「若君の事」「▼」「▲」「頼朝伊東を出で給ふ事」
    のように「伊東」に挟まれているものです。「若君の事」が入っているからそうはいえない、といいたくなりま
    すが「王昭君」とか「楊貴妃」には子女が付いて廻るわけですから「伊東」の内部を頼朝が変質させて出てき
    たということになるのでしょう。那須に追放された天竺からきた人の子孫が当時の那須の領主だったかも。
 
    (127)伊藤
    〈信長記〉の「伊東」「伊藤」は〈曽我物語〉から取り入れられた表記ともいえますが、我朝に天降ってきた人の
   話と相関がありそうです。熱田は桶狭間スタートで願文が捧げられ、突然ここで
   「馬上六騎」が出てきました。「馬上」は「六騎」しかいなくて、これが、女人だったという社会です。
    「祝(はふり)弥三郎」は鷺の舞、織田信長は、
       「天人の御仕立ての御成り候て、小包みを遊ばし、女おどりをなされ候」〈信長公記〉
    がありました。各地に残る天の羽衣伝説は、外からやってきて、土地に執着せず、惜しまれて去っていくと
   いう話です。、太安万侶などの語り部が残した苦心のものかも知れませんが、全体的に好意的なものが表れ
   ているのは、社会が同一であったということが背景にある好意というのがあったと思われます。
    芭蕉のこの「立ち去る柳」の句をどう解釈するかということですが、往時の、羽衣伝説が踏まえられて、その
    背景のもとで
    「柳」が主題となっているものと思われます。柳が変幻して、別のものを表し語るというものです。功利的には
   佐々木岸流(柳)、湯浅常山の、「尼子十勇士・・・山中鹿(しか)之介・・・川岸(かはぎし)柳之介・・」の
   の「流」→「柳」がでないと納まらない感じです。「柳」は「竜」「龍」で大物でもあり、「風流」の「流」でもあり
        田一枚植えて立ち去る柳(早乙女)かな
    というのが背景にあり、
        田の畦(くろ)に●柳の一枝を植えて立ち去る柳(芭蕉)かな
    という柳に注目させた動作をよんだというのがありえると思います。●は「印枚(佐々木岩流)」の柳」であり
    「やなぎいろ(信長公記)」の柳、柳駅の「柳」、全昌寺の「散る柳」、「清水」「西行」の柳、でもありえます。
    蘆野の一節は
    柳が四つあり、柳のかげは前の殺生石のところの「山陰」を受けており、
       「殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰(やまかげ)にあり石の毒気(どくき)いまだほろびず。」
    があります。脚注ではこの毒気について、
       「毒気は、毒を含んで立ち上がる気。東京衛生試験場の実験の結果、この石の毒は、硫化水素、炭酸
       ガス、亜硫酸ガス、酸化炭素、硫酸化炭素、青酸ヂチアン、砒化水素の七種という。」
    細字で、白内障症が出てきた眼にはよくみえないがザッと読んでみたら、衛生試験場は「硫化水素」二つを書い
    ていると見みえたので、これはおもしろい、と思ったが、そうではなく虫眼鏡で見直してみると
       硫酸化炭素     硫化水素   亜硫酸ガス
       □酸化炭素     砒化水素   □炭酸ガス    青酸ヂチアン
    となっていました。これで「酸」が5、「硫」は4、「化」は4、となりますが、「酸」は化学品の学名の都合で入れざるを
    えないものでしょうから、仕方がないとして、「硫」は六つにも拡大しそうです。まあ、「硫化水素」の「硫」に
    あぶり出しがあって「硫」に注目ということでよいのでしょうが、この毒天然のものであれば、それほど多くの
        「蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」〈奥の細道〉
    があるのかどうか、生物ははじめから、この危険は察して寄り付かないはずです。宮沢賢治は、鉱物の知識
    が豊富だったのでその詩に多く取り入れられているということですが、この毒気の分析を脚注に載せた校注
    者の意図はよくわかりません。ただ、この「硫」
     は、「石」プラス「流」れであり「石」プラス「柳」で、毒気は「岩流」「岸柳」の「石」を出しましたが、ここに
          「七種」=(くさ)=「七草」
   も注記されています。〈奥の細道〉はじめの「草加」=「早加」のあぶり出しはここで「早乙女」の「早」を出し、
   「田植え」の句につないでいます。「種」は
       「大石田・・・・ココに・・・俳諧の種・・・一巻(印牧の巻)・・芦(蘆)・・・・風流ココに至れり。」
   で「石田」の「流」も出てきます。ここ石田が出たところで「伊東九郎兵衛」の登場場面をみると

      「・・ほそろ木治部少輔・■伊東九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛・{金松又四郎}
      長嶋大乗坊・・・・印牧(かねまき)弥六左衛門、」〈信長公記〉
      「・・・細木治部少輔、■伊東九郎兵衛、中村五郎右衛門、同三郎兵衛、同新兵衛、長崎大乗坊、・・・
      ・・・印枚(いんまい)弥六左衛門・・・」〈甫庵信長記〉
 
   があり■は「治部少輔」(石田三成の属性)と並びで、これは索引の並びと同じ効果をもつものです。中村新
   兵衛は中村式部少輔(一氏)相当とすると長崎乗船で、■と義理の兄弟、宮本武蔵@が出てきます。
   印枚は■の流れで、芭蕉で出た印枚の柳は、佐々木小次郎へ行き着きます。「細木」は「ほそろ木」で
   「細川」と「呂」「炉」「艪」がはいります。また「清水又十郎」の一節に
         「戸田宗二郎」〈信長公記〉
    があり、誰かわからないので一応これを「清水流るるの柳」がある蘆野の郡守で「戸部某」(脚注=「芦野資俊」)
   )がでて、「戸」が出ているので、■に引き当てておくことにします。「戸田」は「富田」でもあり、
       「富田弥六」〈信長公記〉 「富田孫六」〈甫庵信長記〉
   もあり、「印枚」の「弥六」と繋がりストーリで「前波九郎兵衛」(長俊)と関係が生じます。
       「前波弥五郎」〈信長公記〉
   がありますが伊東一刀斎は「弥五郎」(ウイキぺデイア)です。佐々木小次郎の師が「富田勢源」だったと記憶
   していますが、「勢」は、「勢州〈信長公記〉」があって、これは伊勢のことです。「宗二郎」の「二郎」は「佐々木
   次郎」、「小次郎」の「二郎」ともいえそうです。索引では「戸田宗二郎」は
       徳田小次郎/土蔵弥介/土佐掃部助/戸田宗二郎/戸田忠次/戸田与次
    となってり、徳田の小次郎を引っ張ってきており、「次郎」の「次」も続いています。「印牧」の「いん」は「伊尹(いい
   ん)」の「いん」かもしれません。「伊」は「伊部(インベ)」もあって「伊尹」は「いんいん」でもあり、「伊東」は「印
   東」でもあり「印枚弥六」の影響下にあります。土蔵弥介の「弥」もそういう関係かも。伊尹は「これただ」でも
   あります。この「伊」は「伊ザナギ」「伊ザナミ」の「伊」と同じ、「伊蘇普」「伊曾保」(イソップ)の「伊」です。
   「印枚」の「イン」は「伊太利」の「伊」ともいえますが、常山奇談は、索引で
       「伊藤武蔵守」「伊藤七蔵」「伊藤金右衛門」「伊藤伊右衛門」「伊丹康勝」・・・
    を作って「伊丹」を引っ付けています。ここに「金」がありますが「印牧(かねまき)」の場合はこの「金」が出て
   きてインドの「金毛九尾」の「狐」につながりますがこの狐を取り入れたのは、摂津の池田の
       「池田せいひん」〈信長公記〉(考証名「清貧斎一狐」)
    で「伊丹」と「池田」は「池田伊丹」と書かれる近い関係があります。康勝は寛永の勘定奉行筆頭で、せいひ
    んAともいえる人物と思われますが多くの影響を与えているのがこの「印枚」「印牧」です。索引で
    「伊藤九郎兵衛」は      五辻為仲 (読み「いつつじ」、「治部卿」「宇多源氏」、文中「五辻」)
                      五辻宜仲 (「元仲の誤り。」「為仲の子」、文中「新蔵人」)
                      伊藤九郎兵衛(「越前の侍」)
                      伊藤三丞
     となっています。前の「五辻」は京都の公家のようですが、「五」+「十とう」=五十=「後藤」関連ということ
     で「後藤喜三郎A」に近い人、佐々木小次郎となるのでしょう。そらおかしい、ということになるのでしょうが
     甫庵の索引では       五辻殿
                      ▲後藤但馬守
                      ▼(其の子)又三郎
                      後藤
     となっていて「いつつじ」を「ごつじ」と読んで、うしろに「後藤」をもってきています。
                 伊藤=「五辻」の後ろ=後藤
     として、セットで考えればよいような関係となっていそうです。また「為仲」は「治部卿」で(石田三成)が
     ヒントとして出てきて、さらに、先ほどの「宇多源氏」からは
         「宇多源氏の末流佐々木源三が苗胤、尼子伊予守が的孫・・・」〈甫庵信長記〉
     がありました。ここで「佐々木」が出てきます。為仲の子は石田三成Aに該当しますが、それはここの「的
    孫」であらわされていました。明智光慶と伊藤九郎兵衛の同船という接近が出てきます。「為仲の子」の
    「新蔵人」は
           「新蔵人   かみ(脚注では上、下の上)  ★やなぎいろ  」〈信長公記〉
     があり、この★が伊藤九郎兵衛を修飾します。つまり「岸(岩)柳」の「柳」です。★に脚注があって
         「柳色。縦糸はもえぎ、横糸は白色で織り出した色」
     となっています。こうなると〈奥の細道〉「殺生石」の一節
         「野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす」
     の解釈が凝っているのと関係がありそうです。進む方向に直角に横から時鳥が横切ったので馬を横に
     ひきむけないかん、というようなことです。縦横が出てきます。この★の出てくる一節で太田牛一は「かみ」
     を19個だしています。最後は「かみ・下京衆」で「上」という解釈になりますが、ヒラかれた「かみ」は気に
     なります。先ほどの「伊丹播磨守康勝」はこの「かみ」に目をつけたのか「紙」で財政心得を述べています。

       「・・はな帋(がみ)・・・帋(かみ)・・盗・・紙(かみ)・・はな帋(がみ)・・紙(かみ)・・紙(かみ)・・貧(ひん)
       ・・はな帋(がみ)・・はな帋(がみ)・・上(かみ)・・盗・・盗・・盗・・盗・・貧・・上(かみ)・・盗・・盗・・上
       (かみ)・・盗・・」〈常山奇談〉  (次の一節は「佐藤直方直言の事」)

      この「帋(かみ)」は「佐藤庄司・・・義経・・・弁慶・・」のところで出た「帋幟(かみのぼり)」の「帋」ですが、
      「はな」は「鼻」でこれは池田の属性(鼻熊・花隈)です。「貧」があり、池田清貧一狐関係と取れます。
      それは別としても、この「紙」が太田牛一の「かみ」、「やなぎいろ」、が根拠だったといえると思います。
      伊丹池田−やなぎから伊藤も出ますが、渡海の観点からの叙述が、「はな(鼻)」も出してくる、これが又
      話を広げる材料になるというようことになります。次の「伊藤三丞」は
           「賀藤三丞」〈甫庵信長記〉
       があり、賀藤は後藤で、これは既述です。後藤又兵衛は賀藤弥三郎といってきましたがその「三」が
      伊東弥三郎ー九郎兵衛に懸かるということになるのでしょう。また「辻」は十字路という意味もあります。
       

       (128)佐々木領、観音寺騒動
      「やなぎいろ」を受けて出てきた▲▼は佐々木の重臣ですが、主人の佐々木承偵に討たれというのが
      「観音寺騒動」という事件です。〈信長公記〉巻一、永禄十一年の三年前、将軍足利「義輝(照)」を
      「三好」が「清水参詣と号し」御殿に乱入し討ち取るという事件が発生し義輝の舎弟は「平田和泉」が
      討ち取りました。ここで「清水」に脚注があって
        「清水寺(京都市東山区)。(法相宗)参詣。清水寺は音羽山といい、平安朝以来観音の霊場として
        名高く、また“清水の舞台”で知られた洛中屈指の名所。」
      となっています。「清水又十郎」のところで「観音寺」を述べるというのは必然ともいえます。佐々木の城は
        A「箕作の城」「箕作」「観音寺の城」「観音寺」「和田山の城」「和田山」★「観音寺和田山」〈甫庵信長記〉
g       B「箕作山」「みつくり山」「箕作」「観音寺山」〈信長公記〉
     というのがあり、「和田山」はBにはなく、★が特異です。これは清水−和田と繋げたもので
           「和田伊賀守」(考証名「和田惟政」)、「和田和泉」〈甫庵信長記〉
     は太田和泉守としてみてよいということにしたと取れます。

      ▼の「又三郎」は〈信長公記〉になく、〈信長記〉唯一の「又三郎」で、清水又十郎の一節、「中嶋又二郎」
       をたどると「又一郎」の「鯰江」が出てきます。こう言った途端、甫庵の索引に「同又三郎」が見つかり
          「畠山九郎、一色淡路守、同又三郎、上野兵部少輔、同与八・・・」〈甫庵信長記〉
       がありました。大抵は唯一ではないが珍しいと思ったものは何かあり、いおうとすることを補強する材料
       となるものです。「一色」の「又三郎」も後藤を強化します。〈信長公記〉索引
           一色右兵衛大輔/一色殿/一色藤長(「式部少輔」)/一色満信/一色義有(「一色五郎」)/
           五辻為仲/五辻宣仲/伊藤九郎兵衛/伊藤三丞/・・
       となっており、先ほどの「五辻」の前は一色なので、「同又三郎」が一色の中に入ってくることになり
       「三丞」の「三」に紐をつけ、「(後藤)又三郎」の「後藤」も取り込んだといえます。さらに
            一色右兵衛大輔=右兵衛大夫=蒲生右兵衛大夫
            一色式部少輔=式部少輔=中村式部少輔
        蒲生と後藤、後藤と伊藤、がよけいに近づくことになります。    
        ▼「又三郎」は「やなぎいろ」の「又三郎」で姓はなし、風の又三郎は、渡海の又三郎かもしれま
        せん。
            佐々木家当主承偵は義賢、蒲生右兵衛大輔は賢秀、▲の後藤但馬守は賢豊
        で「賢」が共通で、三角関係でとらえらるような密接な関係がありそうです。今のところ後藤賢豊と蒲生
       賢秀は姻戚で後藤賢豊の、親が未詳、「妹」が蒲生賢秀の連合いということのようです。
           佐々木義賢の子は義治、
           後藤賢豊の子は高治、
       で「治」が共通だから義賢の兄弟が賢豊ぐらいのことにしておくと後藤の勢力の
       大きさが、蒲生のバックアップからも理解できるところです。足利将軍に近い、後藤氏(装剣金工)と
       の姻戚関係の発生によって「後藤氏」となったとしておきますが、まあ纏めると
            畠山氏
            ‖ーーーーーーーーーーーーーーーーー初名義弼(義治)ーーーー佐々木小次郎@
            佐々木(六角)承偵                  ‖
            |                    ・■壱岐守  ‖
            弟・(後藤)●賢豊(親未詳)ーーー・次男高治(文中「後藤喜三郎」)ーーー宮本武蔵@
            |       (佐々木次郎)    ・甫庵の「★又三郎」              又三郎A
            妹・名前未詳
            ‖ーーーーーーーーー蒲生氏郷(テキストでは文中表記「忠三郎」兄弟7人くらい)
            蒲生右兵衛大輔賢秀 
 
       ということになります。くどいことになりましたが「観音寺騒動」はなかった、ということを言いたいので
      仕方がないことです。〈甫庵信長記〉しか記載のない、この騒動で殺されたのは
           ●(文中「後藤但馬守」)と★(文中「其の子又三郎」)
      の二人で、死によって〈甫庵信長記〉の仮名的な表記が消されたことになります。●の下、佐々木次郎は
         「六角次郎。承偵の子義治に比定されているが、義治の弟賢永に(高定)とする説もある。」
      があり、この場合、義治@は承偵のことでもあります。「妹」が賢永でしょう。★は■と高治に懸かり説明
      するためのもの。■は不明ですが、これはあの後藤又兵衛を指しており、壱岐守は隠岐守の積りと
      いえそうです。「壱岐守」は「毛利壱岐守」(勝永の父=豊前小倉)があり
         「米田壱岐守宗賢」〈甫庵信長記〉
       もあり、この「賢」は佐々木一族の「賢」で「米」は「印枚」(いんまい)の「まい」であり、「田一枚」の「柳」
      にも通じています。要は     佐々木義治
                          ‖次男高治(後藤喜三郎)
                          後藤又兵衛
      という関係が成立したので、これをすんなりと公表できればよいわけですが大阪城の後藤又兵衛であり、
      親がまた問題なので、まあ又兵衛も親だけはいたことにしとこ、と●を創って丸く治めたといえそうです。
      ただ●は創作ではなく、    妹六角次郎賢永ーーーーーー次男高治(「春」に直せる)
                         ‖蒲生右兵衛大輔
                         ●(後藤)賢豊ーーーーー金工、後藤平四郎(安土城)
      という関係が成り立つのをちょっと筋を違えて表示しようとしたと思われます。つまり次男高治は無名に
      しては、この関係の中枢に位置する非常に重要な人物なので、〈両書〉にそれがないとおかしいこと
      になります。さらに、これは「忠三郎」〈信長公記〉がもう一つあります。索引〈信長公記〉では
                父勝三郎→池田恒興
                忠三郎 →蒲生氏郷
     があり、これはもう一人あるという意味のもので、父勝三郎=太田和泉守(後藤但馬守)で「忠三郎」は
        「後藤喜三郎@」=「後藤源四郎」(以上〈信長公記〉)、「高治」=「氏郷」弟「重郷」(〈類書〉)
     で後藤又兵衛のいまでいう連れ合いは氏郷弟「重郷」となるのでしょう。
     後藤又兵衛は郷戸川が属性で、この「郷」は氏郷の弟のうち重郷がいるのでこれが高治に該当すると
     思われます。「俵藤太秀郷」「西郷」の「郷」、とくると「東郷」の「郷」も、ここを思い出してくる論者もでてき
     かねません。
      「高治」は観音寺騒動がなかったとすると生きてるわけですからどこかで確認できると思いますが、
     これは後年、次のようなことで出てくる場合があります。 秀吉の対島津戦の時、於豊前、

         「大手は羽柴飛騨守氏郷、・・・・飛騨守内、坂小板{一番乗之旨、秀吉卿別して御感状有後号
         ■蒲生源左衛門尉}、那古屋三三郎、蒲生四郎兵衛尉・・秋月居城小熊と云城有。・・」〈甫庵太閤記〉

      の■の人物(「坂小板」という珍妙な名前なので既述)といえそうです。これは「源」が効いてくるわけで
      すが「小熊」がでています。
      「小熊」−「後藤」は後年関が原後黒田長政が大身になったあとの話です。「三三郎」というのは「佐々」
      −「九郎」で「佐々木」の「九」という人を表している感じです。テキストでは既掲、「後藤高治」の注で
         「神崎郡能登川町佐生(さそう)の住人。」
      というのがありましたが「佐生」は佐々木の「佐」を「生ずる」というのがありえるものです。「柳生」というの
      もこの当て字でないものが多くそのモトがわかりません。「三三」は「佐々」として「那古屋」といえば
         「那古屋弥五郎」〈信長公記〉(「名古屋」の語源だろうから、この一人は「太田和泉守」)
     がすぐ出てきます。「伊東一刀斎」は「弥五郎」で、うしろに「後藤平四郎」も出ていそうですから、「三三郎」
     は「佐々木小次郎」かも。
           「小次郎」〈甫庵信長記〉
      は索引に漏れていますが、もし入れると、
         「幸若(八郎九郎)大夫」(考証名「義重」)、脚注=「幸若舞の大夫」)
     の前に納まり「印枚(いんまい)」の(舞)も出て、ここの「枚」→「板」に繋がります。そこまでは、おかしいという
     ものがあるでしょうが、小次郎は
        「江南源五」〈信長公記〉 (愛東鯰江ー永源寺ー日野ー甲(香)津畑ー江州南郡と話が進んでいる)
     や、後ろには「後藤」〈両書〉がある位置にすわることになります。「蒲生忠三郎」登場で

        「小相撲 五番打 {京極内} 江南源五・・・{木村源五内} 深尾久兵衛・・・{後藤内} 麻生三五・・
         大相撲 三番打 {木村源五内} 木村伊小介}・・・{後藤内} 麻生(ササウ)三五・・・」〈信長公記〉
      があって、「佐々生・三五」も出てきます。
       「後藤」−「蒲生」−「板」−「佐々(三三)」−「源五」−「■深尾久兵衛」
      がでてきます。
      「坂小板」や「深尾」がよくわからない、という人もいるから、湯浅常山も、明らかに、ここを

        「巌石(がんじやくの)城合戦坂小坂(さかこさか)先登(さきがけ)の事
       氏郷の先陣蒲生源左衛門・・・坂小坂・・・墨黒・・・白き吹貫・・・吹貫は芭蕉の秋風に破れ・・小坂
       ・・・寺嶋美濃守此頃半左衛門・・・・黒き吹貫・・坂・・利長の士◆松原久兵衛・・・秀吉氏郷・・・小坂・・
      (以下細字)・・小坂・・坂・・刀・・栗田其一人・・栗田は黒き吹貫・・坂吹貫白・・刀・・栗田・・」〈常山奇談〉
      
      として取り上げています。この「登」は「佐生」(後藤高治、能登川)の「登」でしょうが、ここでは「小板」を
      「小坂」に変えてあります。
       「坂」「板」は「印枚」の「枚」を受けた話、「小坂」は「大坂」などもいってるようです。また芭蕉も取
      り上げているので参考に、というのもいっていそうです。「坂」は「栗田」に一番乗りを譲り、二人一番で、
      秀吉は両方に刀を与えました。「栗田」は「栗山」暗示でしょう。ここで「巌石」を出して「巌流」、「岩流」、
      「石田」を打ち出したといえるところです。 ここで一つわからないのをやってみると◆があります。これは
      ■を述べるために入れたと取れるということをいってきたわけですが、
      松原=久兵衛=深尾 で 「松原」(地名索引にあり)と、■の
     「相撲」とは渡海ということで括れます。また別に、もう常山のときは芭蕉が読み込まれていますから、

     三保松原−羽衣−印枚(舞)−柳−植える−柘植(清水又十郎の一節「柘植宗十郎)−石田・海外
       の線もあります。 深尾久兵衛は索引では
             深尾和泉  注:和泉守。岐阜県山県郡太郎丸城主。麻生城井戸氏関連」
             深尾久兵衛
             深尾又次郎 (これは「又一郎」「又二郎」「又三郎」関連)
             深尾長介(本文では「深谷長介」となっており意識した間違い)
             福嶋本目助
      という流れのなかにあります。本文では
               「深谷長介・・・幸五郎二郎・・・一色式部少輔・・・」
     で登場、「一色」は「五辻」経由「伊藤九郎兵衛」にながれました。この「幸」は索引もれ、と一見思わせます。
    これは「幸若義重/久我(こが)」の前になかったからそう思いましたが、これは「こ行」の前の方にあって

      高坂(「香坂」)/高坂又八郎/幸正能(文中「幸五郎二郎」)/高山和尚(文中「高山の長禅寺の長老」)
    という流れの中にあります。「高」を「こう」と読ませる「高山」の中にあるから、 
       「深谷」は「深田」+「久谷」の「谷」、 「深」→「福」→「吹」→「杉(すい)」
     などで「高山(八)」の人が出てくる感じです。「深尾」の「尾」は
          梶原の梶=木+尾
     も考えられます。ということで、「深尾長介」というのは、校注者の作品ということになります。誰か一匹狼登場
     ということでしょう。

     (129)山県昌景
    「幸二郎」となれば「小次郎」が入ってくれば繋がるかもしれません。とにかく、ここで、「山県」が出てきます。
    山県は索引では
       山県★盛信  若狭守護武田氏・・・・武田元光の男下野守盛信(文中表記「山県源内」「山県下野守」
       山県昌景   ・・・美濃山県氏の子孫。飯富(おぶ)虎昌の弟源四郎が山県氏をつぎ昌景と称した。
     となっており、長篠の戦い武田の先鋒大将の山県昌景(文中「山県三郎兵衛」)は「源四郎」なので
    常山は
        「後藤源四郎」〈信長公記〉
     を持ってこないと山県の出自を説明できないと思ったので、「白い吹貫」(なんで出てきたかわからない)
    を持ってきたと思われます。〈甫庵信長記〉ラストに「馬験(うまじるし)」で11人出ていて
        「一、升形に金のきりさき               信忠卿
            ・・・・・・
         一、(四人目)瓢箪に金のきりさき         秀吉卿
         一、(五人目)白い吹貫(ふきぬき)     佐久間右衛門尉信盛 (★の反対の名前)) 
         一、(六人目)絵鶴竹に金の短冊      丹羽五郎左衛門尉長秀
         一、(九人目)金の分銅            大和(ルビ=の)大守筒井順慶
         一、(ラスト)白紙のしでしなひ        明智日向守
         此れの外数多有りつれども、同篇なるはこれを閣(さしお)く。信盛の吹きぬきさへに、ココに及ぶ事
         いかがなれども大臣なれば之を記す。」〈甫庵信長記〉
   があり、結局、本書は「信盛」の「吹きぬき」で締められているものです。結論から言うと、けしからん、が出てきま
   すが、これは太田和泉守が乗っかった表記の例示というものでしょう。そういうものがあるという公式がどこかに
   出ているかもしれませんが今はとりあえず、これで進めることにします。「同篇」というのに脚注があって
        「同じ事」
   となっています。「同篇」という語は字引にはなく「同じ事」ではわかりませんが、同じ事になる、というのは、同類
   でここに並べたもの、と解すると、「数多」マイナス「同じ事」=さし置いたもの(とりやめたもの)はある、という
   ことでしょうか。この十字はとにかく珍妙な文でもあり、書いた本人が、意外なことかもしれないが、と言ったの
    かもしれません。「筒井順慶」があるのでそれは考えにくい、というのはあるかも。この「信盛」が「★」の
   逆というのが話の導入の部分とも取れます。これは常山のこのあたりにひっくり返す話がでてくれば、こうみても
   よいわけです。「白き吹貫」に「小熊」の「しろ」、山県昌景は、テキストでは、一応飯富虎昌の「弟」ということに
   なっているので
          飯富虎昌@ーーーー飯富虎昌A
                       ‖源四郎・山県昌景(マサカゲ)(美濃)を婿に迎える
                       山県三郎兵衛
                        
    というのが成立したのかもしれません。「三郎」→「四郎」という流れがあるから。また「虎昌@」の夫人が
    山県氏で、その子息が山県三郎兵衛というのもありえますが、その場合は「山県三郎兵衛」の姻族がいる
    ことになります。それ等は追ってわかってくるにしても、〈信長公記〉で身方ヶ原、長篠、武田軍団最強時の
    先鋒大将「山県昌景」のことが出ているか、ということが問題です。湯浅常山はそれが出てるということで白
    い吹貫を出してきた、というなら出てることになります。「源四郎」は「後藤源四郎」が出ましたが、これは
         「蒲生氏郷(文中「蒲生忠三郎)」〈信長公記〉
    の次の弟、四番目の「重郷」を表すために、また、「源」を活用するために設けられた表記と考えられるから、
    山県昌景と同一ではないと見てよいのでしょう。蒲生氏郷の兄弟はウイキぺデイアなどによれば
          蒲生右兵衛大輔−−−1番 氏 信 
                         2番 氏 春
                         3番 氏 郷(「忠三郎」)(よく知られている人物)
                         4番 重 郷(源四郎)−先ほど後藤又兵衛の連合いとみた
                         5番 貞 秀
                         6番 お 虎   豊臣秀吉の室(三条殿)
    となっていてなぜ氏郷が三番目で家督を継いだかというのが問題です。これは忠一郎、忠二郎という表記
    が頭にあって、「忠」は有名な「忠次」の「忠」なので使用は控えたいというのもあって、3番を「ただ三郎」と
   いう積もりで「忠三郎」としたと思われます。「忠」は語感から受けるものは八公というものでしょうが氏郷は
   なるべくしてなった蒲生当主といえそうです。
    この氏信という人が、虎昌と結ばれると氏昌、昌信などとなりますが、「氏」というのは代々北条の当主に使
    われていて氏綱・氏康・氏政などで知られています。蒲生にその気配がない(今は見当たらない)ので
    まあ「昌信」くらいになりそうです。「昌信」では武田の「高坂昌信」が有名で、武田の史書〈甲陽軍艦〉で高坂
    昌信(祖述)−小幡景憲の名前が出てきます。景憲は講談などでは大阪城へ関東方の間者として入り込ん
    だのはいいが、バレてしまって講和で助かったというような人ですが、「景」を「高坂」に繋げたことは否定
   できないところです。こうなると「昌景」もでてきかねません。もちろん順序としてこれを先に述べたらいけない
   のですが、氏信→昌景というのもまったく脈のない話でもないと感ずることでも無駄なことでもないわけです。
   人名索引〈信長公記〉では
      ・・・香西/高坂助吉(「高坂氏はもと香坂氏。文中「高坂」)/高坂又八郎/幸正能/高山和尚・・
   となっており、幸正能は、「高(山)」に繋げたいということがわかりますが注では
        「国立国会図書館所蔵の〈幸正能口伝〉によった。・・・文中「幸五郎二郎」)」
    となっており、「幸」自身でも「図書」が出ており、これは高山右近の「図書」です。「幸五郎二郎」は
        「二番八嶋(やしま)大つづみ ●深谷長介 小鼓 幸五郎二郎・・・一色式部少輔・・・」〈信長公記〉
    となっており、●が索引では「深尾長介」となっていて、前出
        「深尾和泉(注・・「山県」・・)」
     と繋げられて「山県」
    が出されました。「昌信」−「景」−「山県」まで出れば、その勇名によりボンヤリ「山県昌景」がでます。織田
    を離れて武田の人になりきる決意があったとすれば、「信」は使わないことも考えられます。
    氏信は北条氏でも北条氏信がおり、これはネット記事によれば「祐泉寺」「北条幻庵」の名前が出てきま
    す。高尾山の「景信山」の地は、北条氏照・大石源三ゆかりの地で、北条景信がこの山で戦死したという
    伝承がありますが、     昌信
                     景信
    でも「昌景」が出てきます。これは「信景」を逆にしたものですが、「香川信景」(前名「之景」)〈参考:ウィキ
    ぺデイア〉 という人物がおり、これは
         「香川(名前はなし)」〈信長公記〉  (テキスト注:「若狭(福井県)の香川氏であろう。」)   
     の当人と思われます。索引では既掲
         香川/岳雲軒賢範(「甲斐八代郡下曽根・・」)/景清→平景清/陰山一景「注:美濃山県郡の住人」
    となっており、この「香川」は、注では
         「若狭の(武田の)香川」
     といってますから「武田」で、次の「岳雲軒」が
    「甲斐」で、景清が出て武田の「景」が出てきました。その次が「一景」の「陰山」ですが、これが「山県」の
    人で、「香川信景」は「山県信景」にも変わってきます。香川信景は改名後で、前の名前は「之景」です。
    これは、いわゆる真田伊豆守信之(幸)の「之」ですが
          「真田伊豆守」「真田安房守信幸」〈甫庵信長記〉
    の「信幸」は「昌幸」と間違っており、「信→昌」で、「之」→「信」→「昌」で、この「香川」の線からも、「香坂」
    (「高坂」の前)の「香(高)」からも「昌」(と山県が)出てきます。蒲生の氏信=山県昌景(マサカゲ=一景)
    ということになりそうです。この場合の「氏」は北条の「氏」が使われたということでみてきました。

    (130)馬場信春
     山県昌景は蒲生氏郷の今で言う兄で、武田家に於いて身を立てた人といえます。蒲生氏郷も常に軍の
     先頭にいた大将ということで知られていますが、それはこの猛勇山県昌景のことも想起されていたもので
     しょう。蒲生次男の
    「氏春」も行方が不明ですが、これは「氏」と「春」が直接出てくるのでわかりやすいと思います。索引に
         馬場信春(文中「馬場美濃守」)〈信長公記〉  (注・名前「信春」「信房」「氏勝」)
    があり、氏春=氏勝は、氏信を見てきた今では直感的に出てきそうです。これは

      長谷川等伯=長谷川信春 →「信春」→「馬場信春」=「馬場美濃守」=「ふかし(深志)の城」(松本)
      →松本→大津馬場→天神馬場−天神山・陶五郎(隆房)−長谷川藤五郎=高山右近
     などのことで長谷川等伯Aを出すために「信春」を援用してきました。ここに、佐々木・蒲生郷の後藤が
    加わってきますと、もっとこの関係が深まって確かなものとなってきます。後藤光乗とか本阿弥光悦などの
    参加もあります。テキストで信春の子息「昌房」というのが出ていますが、高山の「長房」、ここの「信房」「昌房」
    という「房」のつながりが確認でき「信房」の「信」は「氏信」「信春」の「信」、織田の「信」、「佐久間の「信」が
    あり、「昌房」の「昌」は「山県昌景」の「昌」に宛てるために作られたといえそうです。
     長篠五番隊の知勇兼備の大将、馬場美濃守信春(ノブハル)は
    山県昌景のいまでいう実弟となると思われます。高尾山の景信山は山県昌景・馬場信春を語るために名
    づけられたものと取れます。二人は北条の「氏」と織田の「信」が絡みます。

     漢字は表意文字だと教えられてきまし
    たが、こういう人間の間の係累というものも表し、また逆にして信景・景信、正勝・勝正で違わせるというよう
    ようなこと、もあります。英語で一節目にafterがでて五節目にafterが出た場合特に意識して両説をつなぐ
    というようなことは聞いていないことです。漢字では突然難しすぎる漢字が使われると緊張するので自然に
    繋ぎを見る必要を感じることがあります。むつかしい読み(難読字)も同様です。文献間の、連合艦隊として
    の呼応の合図も、一字(特にルビが工夫されたものとの)だけで察知することができます。

     二人が武田氏へ行ったというのはワケがありそうです。信州松本でのこと
        「・・・■織田源三郎殿・・・又ココ・・・深志城・・・・・馬場美濃守・・・」〈甫庵信長記〉
    があり、■の人物が出てきます。これは「織田御坊」ともいわれ
        「是は信長公の末子なりしを去んぬる永禄三年の比(ころ)ほひ、武田信玄より養子に申し請け・・」
                                                           〈甫庵信長記〉
    があり、武田信玄の養子になっています。「和睦の為」となっており、これは額面どおりでよいと思いますが
    当主の子が甲斐に赴くというのですから、大変な準備が要ります。付き従う人の人選がとくに問題でしょう。
    甲斐において、特に軍事で、織田から来たものの働きが期待されるところで、功業を挙げ、信頼をえることが
    和睦の目的が果たせる前提ともなる、そういう立場におかれる人を選ぶということです。結果的にも,
    武田にとってこの上ない人選であったと思われますが織田信長の天下布武の構想では武田信玄と事を
    構えるというのは、入っていなかったと思われる人選で、織田の長短をよく知るこれらの人物(他にもいる)
    は武田軍の強化と脱皮に多大の貢献があったとみてよいようです。もちろん、両家の手切れが
    あったときの講和への道筋をつけられる有力者としても期待されているものでしょう。
 
   (131)蒲生氏郷(文中の「蒲生忠三郎」が宛てられている)
    馬場には「氏(勝)」が用意され、「氏春」の「氏」は「信春」の「春」へと無理の
    ないものでしたが、氏郷の「氏」はどうか、ということになります。「蒲生氏郷」のテキスト注では
      「天正十八年頃までは賦秀と称した。賢秀(文中「蒲生右兵衛大輔」)の子。」
    となっています。安土城のくだり、「富士と喩(タトへ)し三上山、」があり、この山は脚注では
      「滋賀県野洲郡野洲町三上に所在。四二七米。俵藤太秀郷の故事で名高い。」
    となっており、蒲生氏郷はこの藤太秀郷の後裔と称しています。「氏郷」は「賦秀」だったということははじめ
    「秀郷」の名を取って「郷秀」だったということかもしれません。「忠三郎」のイメージの払拭が重要です。「賦」は
    「(税を)とる」があり、「与える・配る」があります、
        「賦秀」は“とる(消す)積もりのない郷を取るの「賦」” プラス「秀」、であり、また
        「秀」を配るという「賦」 プラス「秀」です。
     配ったのは今で言う父「右兵衛大輔」が「蒲生賢秀」となっていることがあり、5番目の前出「貞秀」もあり、
    関係のある佐々木義弼が義秀にされたり秀忠にも影響があるかもというのがあります。
    名前に、そんな理屈はおかしい、というのもありますが、特別な大物だから、公式の確立のため、多くの役割
    を引き受けていることが考えられます。
     氏郷は秀郷を尊敬していたことはあきらかで、氏郷という名に戻したのだから「郷」に
    執着があり、蒲生郷舎、蒲生郷可などの名も出てきます。氏郷にしたので秀も消えますが子息に秀は
    引き継がれました。「氏」は通常は親の一人の筋というのが考えられますが、北条との関係がよくわかり
    ませんので、今はその必要があったということでみないと仕方がないところです。まずはじめの兄弟三人「氏」
    にしたことが奇異に感じられます。「氏」は、もう一つあり、
        「氏家左京助」「氏家常陸介」「氏家常陸介入道ト全」〈甫庵信長記〉
    等があり、「氏郷」の「氏」はこの氏家の「氏」とつなげるために設定されたととれます。「左京助」は重要です
    がここでは常陸介が出ていてこれが「木村常陸介〈甫庵太閤記〉」の「常陸介」です。ここの三上山が出る
    少し前に「天主御普請奉行、木村二郎左衛門」がでてきて、この蒲生と木村の組み合わせは本能寺のとき
    の安土城の状況を述べたくだり

      「二丸番衆 ▲蒲生右兵衛大輔・▼木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・・」〈信長公記〉
      「★蒲生右兵衛太輔・・子息蒲生忠三郎・・・蒲生右兵衛太輔・・・蒲生・・・木村次郎左衛門・・」〈信長公記〉
      「二の丸の御番・・蒲生右兵衛大輔、■森次郎左衛門尉、雲林院出羽守、鳴海助右衛門・・」〈甫庵信長記〉
 
   で出てきます。ここの▼は、信長相当ともいうべき太田和泉守というわけにはいかず、二番目の子息、桶狭
    間、「山口飛弾守」が抵抗なく受け取れるところで、今まで言ってきた、▲A、▼Aのペアの証明となるとこ
    ろで、これが〈信長公記〉の最後の段階で出てきたといえます。すなわち
           蒲生氏郷(▲A) 
           ‖蒲生郷舎(「郷」は氏郷の「郷」・「舎」は氏家の「家」)
           ‖氏家(木村)常陸介=木村隼人正=木村重章(「源五」)
           山口飛弾守(▼A=■) (森九郎次郎=可成=山口左馬介は既述で山口⇔森)
    となることはいってきました。支倉常長=木村与市ですから常長は▼Aの子となります。「木村伊古介
    (相撲)」=支倉常長というのも「伊」が出されて「常」は常陸の「常」ということなどで合っていそうです。
    ▼の後ろの伊勢の「雲林院」は「うじい」で「氏郷」「氏家」の「氏」を指しているといえそうです。この本能寺
    のときの★や子息忠三郎の出てきた一節は「六月二日」のことで、前半「勢田」が出てきて、
        「明智日向・・・勢田・・・・勢田の橋・・・・勢田の橋・・・明智日向・・・」〈信長公記〉
   があり、この後が、氏郷の父★右兵衛太輔が木村次郎左衛門に安土城を明け渡して「退(ノケ)申され」の
   場面です。この時期、武田は滅びあの、昌景・信春はもう故人ですが、人々は前後の蒲生登場の場面を
   をみて、武田信玄の臨終の言を思い出したのでしょう。うろ覚えですが「勢田に武田の旗を立てよ」です。
   これは織田に天下を取らしめよ、ということといってきましたが、このとき武田勝頼・蒲生三兄弟勢田へ参陣、
   向かうところ敵なし、の図が作らせた遺言といえそうです。太田和泉守のあのとき脳裏に浮かんだ図ともいえ
   ますが、山県昌景・馬場信春の出自が語られ、武田織田間の戦国の真の関係を浮き出させる白眉の挿話
   といえるのではないかと思われます。ウイキペデイアによれば、太郎信勝(勝頼の子とされる)を立て勝頼が
   後見すること、越後の上杉謙信を頼ることなどが載っていますが、勢田のところは
       『山県に対しては、「源四郎、明日は、瀬田に(我が武田の)旗を立てよ。」と云い残したという。』
    と書いてあります。山県の名前が「源四郎」というのはテキストの注にあります。「源四郎」は
         「後藤源四郎〈信長公記〉」
    もあるから、後藤=源四郎=山県 となって近い関係がでてきそうです。この一文があるのとないのとでは、
   武田と織田の関係の解釈に雲泥の差
   が出ます。片言隻語の部分がカットされたら、話の解釈が間違ってしまいます。刑事がどんな些細なことでも
   よいからいってほしいといってうのはよく聞くセリフですが、学者とか小説家など仲介する人が塵芥情報とし
   て自分の判断で、意識的、無意識にか、捨てる情報が、ほしかったということです。〈三河後風土記〉では
         「また織田□□徳川は強勇の大敵なれば一身の力におよぶまじ、よって輝虎を頼むべし・・・」
    があり、二字の空きなどに合理的な解釈の必要が感じられます。徳川を意識して、山県の部隊は先発して
   織田方に付いて武田の旗幟を鮮明にせよ、といったと取りたいところです。上杉謙信は〈三河後風土記〉で
   は「輝虎」となっていて「輝」は「足利義輝」、「池田(勝三郎)信輝」の「輝」で両方とも「照」と炙り出しがある
   字です。「義輝」は、巻一の三年前の「清水詣」で登場で「岩清水八幡宮」の「輝(カガヤカシ)」は「清水又十
   郎」が出てきた今では引っ付けられるもので、一つは「太田和泉守」のことです。「三年の喪の秘匿」「諏訪湖
   に遺骸を沈める」というのは「織田」に近づける話です。
    本能寺のときでみれば、織田信長から出動要請がありいま進撃中、望んでいた形になる時期が今やって
    きた、というのが本心というのでしょう。関東の滝川左近などが命からがら戻ってきたというのは、召集、結集
    かも知れなかったということなどと引っかかっている話かもしれません。氏郷の父、蒲生右兵衛太輔は
    本能寺の後、日の出の勢いになってきた羽柴秀吉に氏郷の妹「とら」殿を差し出したとか、安土城をの守り
    を放棄したとかのことで評判のわるい人物だったようです。しかし、子息のお陰だろうと思いますが賢秀という名
   前で通っています。佐々木領は結果蒲生の一人勝ちのようになりましたがこれも右兵衛太輔の功績による
   ものでしょう。つまり、徳川家康公ーー三淵大和守のラインに乗って動いたのでその恩恵を受けたという
   ことになりそうです。この本能寺のくだりの蒲生行動のところはもう一つの語りがありそうなところです。

    (132)六角氏
    佐々木氏は〈信長公記〉考証では「六角氏」と勝手にかえられています。これはその祖が
        「京都六角に住したことによる。」
    ようですが、戦国の近江の佐々木を語るために特別に利用された表記と考えられます。このため
         鹿苑院(ろくおんいん)殿→周ロ/六角義賢/六角高治/六角次郎/六条有親
    という索引ができて「佐々木」が「鹿苑院」「周ロ」とか、に接触してきました。「周ロ」はルビがなく「すこう」
    と読むらしく「す行」に入れられて探しにくくなっています。「義輝の弟。」とあり、どういう弟かというのがまた
    問題になってきます。「平田和泉」がこの「鹿苑院殿」を討ったということから、語りが広げられますが
        総角(あげまき)〈甫庵信長記〉
     というのがあって、角=(まき)=牧 で「六角」というのは「六牧」で「印牧弥六左衛門」の延長の上に
    「六角」が持ってこられた、ということになりそうです。昔の六角の故事があとから作られる場合もあります。
     平田和泉、美濃屋小四郎などのややくだけ過ぎた感じのする人物の登場は、観音寺騒動の後藤但馬守
    や又三郎のの登場に似て、話がなかったということになる場合が多いようです。太田牛一は本来か物語を
    作るのが得意で、歴史をかいたと思われるのは、日記風にしてそう思わしめたというように取ったほうがよい
    と思います。あることないこと書いてけしからんといいたくなりますが、本来が伝奇小説、怪奇物語の作者で
    幽霊やお化けなどや、また万能の怪物を出して語ったのではなかったが、自ら俳優として出てきてあらゆる
    人物を演じて時空をうまく超越して、怪しまれなかったということかと思われます。
 
    (133)もう一つの後藤
     武田信玄の遺言のもう一人の「源四郎」ですが 索引では
        後藤源四郎/後藤高治(「能登川町佐生」)/後藤光乗(文中「後藤平四郎」)
    となっていて「高治」と「平四郎」をも繋いでいるのも「源四郎」です。ついでですがテキストの「後藤光乗」の
    校注の文章は、長く、「乗」の連打があります。
      「光乗  乗・・・・乗・・・後藤・・・乗・・・乗・・・乗・・・乗・・・乗・・・後藤・・・乗・・・後藤・・・・乗・・・
       乗・・・蓮台寺・・・乗・・・」  
     で、始祖「祐乗」「宗乗」「乗真」「光乗」「徳乗」「長乗」の説明だからこうなります。「光乗」は
       「元和六年(1620)三月十四日九十二歳で死亡、蓮台寺石蔵坊に葬送された。その作風は祐乗に
       近似しているという。」
   というようなことが出ていて長文となっています。近代ではこういう死亡年月日、とか年齢を大上段に振り翳されて、
     本来あるべき読みが封殺されてきました。この場合だと祐乗・光乗親子合わせて92年間もあるし、また
     「祐乗・祐ジョウ・光乗」三代92年間などもありえます。これだと光乗は天正10年では54才くらいで30代
    後半の子と20代前半の青年の孫がいることになります。
     祐乗⇔光乗間は乗り入れがあり親子のような感じですが、「祐」・「光」ともに渡海のキーワードです。
    とにかく「乗」が、計12個出ています。「乗」−「乗船」、「一乗寺」−「蓮台」となってくると、長崎・長嶋、京
    都「蓮台野」などへ飛び火しそうです。安土城の石倉の金工「後藤平四郎」は、高年だったため、また光
    乗は、たおやかな人だったため声援するしかなかったのかも。応援のため「ふじなすび」を提供したのか
            「大文字屋所持の 一、初花
            ●祐乗坊の     一、ふじなすび 
            法王寺の       一、たけさしやく・・」〈信長公記〉
    があります、解説なしの●を明らかにしたといえそうです。●=「後藤平四郎@」で、「光乗」は後藤平四郎A」
   となるかも。「光乗」に二子があって、「徳乗」の家は「下後藤」、「長乗」の家は「上後藤」の家というようです。
   「長乗」は長崎乗り、長嶋乗り、深谷長介−幸−高山、とくるので、また「上」−「上京」−「艪庵(馬偏)」と
   なると、たいへん怪しい存在といえそうです。ついでが長引きましたが、「後藤源四郎」は表記でいえば
            後藤高治=氏郷弟重郷=後藤源四郎@(宮本武蔵@のいまでいう父)
    であるらしい、といえますが、ストーリーでは信長公は木曾義政に刀を与えて、その刀の刀飾をいうのか
       「梨地蒔、◆かなぐ所焼付け、地ぼり、目貫コウガイは十二神、後藤源四郎ほりなり、・・」〈信長公記〉
    というところで出てきます。これだと後藤の「長乗」かもしれないというのが出てきます。ここの登場人物は
    取次ぎなどで「菅屋九右衛門」「滝川左近」がでてきますから渡海に関係があります。結論的にいえば
            後藤源四郎A=本阿弥光悦
    ではないかというのがいいたいところのことです。安土城で大物が揃って出てきてその中に
         「上一重のかなくは後藤平四郎・・・・二重目より京の■だい阿弥かなくなり。・・」〈信長公記〉
     があり、■は注では「躰阿弥永勝」となっています。ここは後藤や渡海も係っていて述べにくいところで、
    操作がエスカレートしたことが考えられ、「躰」もその一つでしょう。。これは「本阿身・永勝」か、もしくは
         「針阿弥(しんあみ)」〈両書〉 (ルビは〈両書〉にはなく、索引が〈両書〉で「し行」に入っている)
     があるので、「針阿弥+本阿弥永勝」とも取れます。筆者は「はり阿弥」と読んでおり、「しんあみ」と
    なると重箱読みになると思っていましたが「阿修羅」「弥陀」の「あみ」だから、そうではないようです。 ■は
         「台(大)阿弥」〈甫庵信長記〉  索引では(「台阿弥/大華(中国の易者)/大蔵坊・・」となっている)
    かもしれません。注で「躰」があるので、本阿弥ですが、一つは「大蔵」へ流れるというヒントがあるのかも
    しれません。大蔵の先は「高木」「高野」「高山」へと行きます。とにかく
         後藤平四郎家=かなく=■本阿弥家    後藤平四郎家=刀剣=■本阿弥家
    という共通性があり、後藤平四郎は本阿弥家で修行して独立した、両家に姻戚関係が生じたかもしれない
    が太田和泉守の仲介があって、近江に家を興した思われます。あの本阿弥光悦は、寛永三筆
    などといわれるように、書画、陶器、茶などが主体です。
         ★本阿弥こうえつ
         ‖◆(本阿弥光悦)
         長谷川家?
    というような位置にあったと思われます。高山右近の今で言う弟の高山長房(この表記は〈武功夜話〉では
    高山右近として出てくる。)であろうというのがいってきたことですが、ここで「後藤長乗」「後藤源四郎」が
    出ましたが、どうもこのままではやられ放しなので、★本阿弥こうえつ=高山長房、◆(本阿弥光悦)=後藤
    平四郎A、二人併せて安土城の
          「たい阿弥かなく」〈信長公記〉  (考証名=「躰阿弥永勝」)
と  としとこ、というところです。通常は苦し紛れでやっても合うのですが、これはくるしいままです。光悦の作品な
   ど何も知らず、光悦を論じている弱みもあるのかもしれないが、光悦のおよそは確実に文献だけから捕捉できる
ど  ものです。
   「永勝」というのは大阪城の毛利豊前守「「勝永」を見ている感じですが、
   「勝永」は武井夕庵の一族でしょうから、高山右近と近い関係にあります。寛永の三筆は
        「松花堂昭乗」と「近衛信尹(のぶたか)」、「本阿弥光悦」
   の三人ですが「昭乗」の「乗」が出ています。この「乗」は文中で「大文字屋(宗観)」を出してきます、大文字の
    送り火の由来に出てくる名前は、
        「弘法大師(空海)」、「足利義政」、とこの「近衛信尹」
  の三人です(〈京都新聞〉まとめ)。「空海」は〈信長公記〉索引では
          空海(・・・「三筆」・・)
          九鬼嘉隆(文中「九鬼右馬允」)
  となっており、航海の「九鬼」に接近しています。この近衛公は、高麗国へ渡航したい
  と言い張り、周囲を困らせた、「近衛殿」というのはこの本人だと思われますが、前田玄以、秀吉公が、勅書を
  出して貰って引き止めたそうです〈甫庵太閤記〉。「尹」=「伊」で、海外に関心が高く航海した人に声援をしよ
  うとしたのかも知れません。「真田隠岐守信尹」の名前を使って後藤色もだしています。「近衛」は三筆と送り
  火二つとも出ています。近衛は本阿弥光悦と
       「足利義政」(文中では「東山殿」)、
   を出してきました。これは京都の地名「東山」から来ていると思われます。「清水寺」の属性でもあります。

    (134)越智玄蕃
   次の「東山(御鷹)」も出され、これも東山での鷹狩の意味と取れます。天正五年「霜月十八日」、
      「御鷹御叡覧の後・・・直ぐに東山御鷹つかはされ・・御鷹・・・大和国内之郡迄飛び行く。・・・次日
      大和国◆越智玄番と云ふ者・・・進上仕候。・・・年来旧領の知行欠所・・・安堵の御朱印・・・。」
                                                        〈信長公記〉
  があり、内容は信長公の気に入りの鷹が、「雪」「風」の中、大和の方へ飛んで行き、行方不明になったが
  翌日、◆が見つけ出し進上したので大変喜び、◆の家が取り潰しになっていたのを、モトの戻したというやや
  他愛ない話ですが、「鷹」「大和国」「筒井」のなかに「東山」が出てきます。◆は注では
      「大和高取城・・・筒井氏と大和国を■両分した豪族・・・」
   となっており、脚注では越智の「玄番」は「玄蕃の宛字。」となっています。また、東山は
      「しろの御鷹・・・北野・・・鷹・・・★東山より一乗寺・・・一乗寺・・・・鷹野・・・上京・・」〈信長公記〉

  もあり、脚注では★は「南葵文庫本“車山“」とあり、車に乗るか、船にのるか、という「一乗」の「乗」を指し、意味
  規定した人もいるということが示されていることになります。この二つの東山はやや引っかかりのあるもので、太田
  和泉守も「東山殿」となりそうな気配です。索引では「足利義政」は特別に「ひ行」に出てきて
      東村大和/東山殿→足利義政/引壇六郎二郎
   となっており、東の大和、山都殿のような「東山」で足利義政がもう一人潜んでいます。引壇は
      「・・三段崎六郎・・伊藤九郎兵衛・・・中村新兵衛{金松又四郎・・}、長嶋大乗坊・・引壇六郎二郎・・
      印牧弥六左衛門、」〈信長公記〉
    という登場になって、また「印牧(かねまき)」に戻ってきました。循環しながら理解が深まってくるわけで
、   こんどは引壇がつなぎ役です。
            引壇の「引」=(いん)=「印」(いんまい「印」)
    というのがこの索引の意味かもしれません。索引の「東村大和」は@Aの東・大和・筒井を踏まえているので東山殿
    の足利義政が変質していそうです。先ほどの太田和泉守が、筒井順慶に乗ったという、おかしい所は再掲
        「一、金の分銅  大和(の)太守筒井順慶  」〈甫庵信長記〉
     となっていました。■の「分」はここの「分銅」の「分」で繋げられていて、「金」は「秀吉卿」「滝川左近将
    監」の「金」と横にらみで、なんとなく太田和泉守が引「壇」をしてきたといえそうです。「三段崎六郎」の「段」
    と「六」から、壇ー段ー団が考えられ「団右衛門」「団平八」も出されようとしたのかも。ここの「長嶋大乗
    坊」は甫庵では「長崎大乗坊」に変えられ、「引壇」は★の「乗」に長崎、金松(印松)、などを取りいこみました。
    「引壇」は「疋田」、「匹田」もあり、「上泉伊勢守」の高弟、疋田文五郎の「疋田」です。柳生石舟斎が、疋
    田にぜんぜん歯が立たず入門したことで有名で、この石舟斎のところに宮本武蔵が訪ねてくるという小説
    (吉川英治)があります。
              柳生=(疋田)=大和筒井  筒井氏=(島左近)=石田三成
   、という関係で筒井をみれますが ここで、
             大和国筒井=「鷹(が峰)」=本阿弥光悦、
    もでます。目がかすんでくると、「伊香郡木本」など読みづらいものですが「本阿弥」も「木阿弥」にみえて
     これを「本(もと)の木阿弥」というのかもしれません。
    そら、ちゃう、としても「もとの木阿弥」は、筒井順昭、順慶親子にまつわる話で、意味は判るにしても、なぜ
    洞が峠の筒井の話か、というのをいって貰わないと、本当はわかってるかどうかわからいわけです。
       「堂洞・・・続松(たいまつ)・・・堂洞・・・たえ松・・・二の丸・・天主・・太田又助・・黙矢・・・」〈信長公記〉
    で、太田又助(森えびな)=黙(木)「阿弥」というのが出てきます。太田又助Aともなれば宮本兵大夫も
    出てきて渡海に繋がることにもなります。このとき信長が感心して
       「御知行を重ねて下され候キ。」〈信長公記〉
    となっていて、増えたのか、もとのままか、ちょっとわからないので、元の木阿弥という解釈すべきかといって
    るとも取れ
     そうです。「キ」がまだよく判りませんが、生一本という「生=キ」で太田和泉守が登場しているという意味
     があるのかもしれません。これは「銅」=「洞」で筒井の話といえますが、筒井ズバリの話があるのではない
     かと思われます。本阿弥光悦には松花堂の「昭乗」が絡んでおり、ここの筒井の「順昭」の死を隠した木
     阿弥が主役です。ここでは足利義政という表記でも足利義政ではないという例が出ましたが、(大変いい
     にくいことだが)この◆は古代から戦国まで大和の豪族として知られた越智家の人「越智玄蕃」本人では
     ないということです。これは一応脚注で「玄番」と誤記されているとあり、ヒントが与えられています。筒井順
    慶ではないか、ということで一応いってきていますが、二人しか出ていないから、そう取るのも妥当です。が
    筒井Aができるはずで
         越智玄番→筒井順昭@
         越智玄蕃→筒井順昭A(木阿弥)→筒井順慶
     となるのではないか、ということで、もとの「木阿弥」ともいえる状態になった、ということは、どういうことか、
     別の話があるのではないかと疑われるところです。越智玄番が信長公から大変ほめられる契機となった
     鷹の大和国飛来は天正5年「霜月」18日のことですが、この一カ月前、大和で大事件が起こり、

        「十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間・羽柴・・・・信貴の城へ攻め上られ、夜責にさせられ、
        ・・・松永天主にに火を懸け焼死候。奈良の大仏殿、先年十月十日の夜炎焼。・・・・・高山嶮所を
        ・・●城介信忠、鹿の角の大立物ふり上げふり上げ攻めさせられ、日比案者(あんじや)として聞こへし
        、松永詮なき企して己(ヲノ)れと猛火の中に入り・・・」〈信長公記〉

       の記事があります。つまり松永がひそかに一月後に回復したということで、これは本の木阿の最たるもの
     でしょう。●が太田和泉守で、信忠卿に乗るという例示がありました、それがここで出たといえますが、
     「平田和泉」・「美濃屋小四郎」「鹿苑院」「清水参詣」が出たところ、「小川」を伝って、東浦村木の城攻め
     の戦(「難風渡海様躰」の戦)に飛びますが、ここで
       「外丸(そとまる)一番に六鹿と云ふ者乗り入るなり。東大手(脚注=正面)の方は水野金吾攻め口なり」
                                                             〈信長公記〉
     があり、この「六鹿」は「六六」「鹿々」でもあり、「鹿六」もいたかもしれませんが太田和泉守相当となりそう
     です。「鹿苑」「清水東山」は金閣・銀閣、の「閣(さしお)く」から「信忠」に乗るとともに、六鹿=六=六角
     で「鹿の角の大立物」というのも太田和泉守にふさわしいものです。攻める側、攻められて、平蜘蛛の釜を
     微塵に砕いてしまう松永久秀(〈類書〉)にも乗っかる形になっています。
             筒井順慶=松永弾正
     ということで、筒井順慶の表記で松永が出ていることになっていそうです。太田和泉守が乗っかる11人が
     ありましたが、一つが隠れて12人で出ているのではないかと思われます。
      索引〈信長公記〉では    項目       文中表記
                      筒井順慶     「■筒井順慶」
                                 「筒井」
     となっており、■の名前は、「明智光秀」「佐久間信盛」「丹羽長秀」相当の名前(いわゆるの名前)で
     これは文中で使われません。「筒井順慶」は例外で、従って、これは
                      筒井   筒井順慶
                            筒井□□
     という意味のものであろうと思われ、一人分空けてあると取れます。〈甫庵信長記〉最後の馬験のくだり
          「金の分銅  大和(ルビ=の)大守筒井順慶  」
     となっており、これは「大和の太守筒井順慶」、「大和大守筒井順慶A」となりそうです。このAが松永
     久秀で、松永久秀にも乗っかることになるというものが出されています。また、ここの「案者」は脚注では
         「智恵深い人。「アンジヤ、シアンノフカイヒト」〈日葡辞書〉
     となっており、こういう辞書の作成が船中での作業に入っていたと考えられ、その成果が本文に採用され
     たともいえそうですが、「案者」が辞書に入っているのも不思議です。越智の節の終わりにも、越智が
     旧領を回復したことについて、カタカナ文字で
         「禍福ハ天ニアリとはこの節なり。」〈信長公記〉
     があり、これも〈辞書〉の項目にあるのかもしれません。

     本阿弥光悦の本阿弥は、
     〈広辞苑〉でも「ほんなみ」である、とされています。「慶阿弥」〈甫庵信長記〉があり、本来、本波慶阿弥
     光悦ともつけるべき名前を「本阿弥光悦」と名乗って、この間の事情を語ったのかもしれません。ネット記事
     には「本波慶太郎」(題・一件しかない)という慶応元年に生まれた農学者の名前が目に付きます。石川県
     の「鵜坂村分田」の「浦山村浦山」の人ですが、「分」、「浦」のダブリが目に付く因です。「慶太郎」の「慶」が
         「慶阿弥」「●筒井順慶」〈両書〉  「如慶」〈信長公記〉 「光慶」「慶次郎」〈類書〉
     という名が戦国にありよくわかっていないだけに、「慶太郎」という名前が説明の役目を果たしているから
    本波という姓と併せて異色のものです。「本阿弥」という「本」は熊野「本宮」、「秋葉山本宮」、「宮本」の
    「本」に通ずるというと揉めるかもしれませんが、「本阿弥」を「木阿弥」と間違えたままで話が通っているという
    と、まあそれはありうる、といいたくもなるのが本当は「ほんなみ」という通説です。「本」=「一木」で
         「一木阿弥」
    も一応は出てきます。筒井順慶成長まで、父順照の死を隠すため順照として振舞った「木阿弥」は順慶の
    成長により元に戻ったというならば格別な大物とみるのが順当なところです。
 
    (135)「六」・「左衛門」   
    甫庵の松永の一節(徐福の一節)
       「金甲・・隠埋(いんまい)す。・・松永弾正少弼久秀・・金言・・慶幸・・順帝の朝に・・・」〈甫庵信長記〉
   があり、「印枚」が絡んできていて「印」は「印度」「法印」「印章」「朱印」「印籠」「印伝」「因果」「因幡」「引壇」
   ・・・などに影響
   を与えていくかもしれませんが、引壇の六郎があるように「弥六左衛門」という名前の方も、展開力がありそう
   です。佐々木の「六角」が利用されましたから、「鹿苑院殿」(「平田和泉」が出てきた)の「ろく」が「六」にくっ
   付き、「六鹿」〈信長公記〉が印枚(牧)につながって来ました。この名前「弥六左衛門尉」は
         弥六左衛門尉−−−− 弥六・弥左衛門・六左衛門・●左衛門尉
    という合成ともいえますが、「弥六」は、
          「(越前)富田弥六」〈信長公記〉   「弥六」〈甫庵信長記〉」
    があります。一方で、「弥六」は〈甫庵信長記〉人名索引では
          山中鹿介(助)/弥六
    となっており、この意味が判りかねますが
    重要らしいというのもあります。まあ、渡海の富田勢源というものかもしれません。松永を攻めた城介信忠の
    鹿の角の大立物(立物は兜の鉢に付ける装飾)は山中鹿介−弥六−印枚の関連で太田和泉を指すという
    こともいっていそうです。また「弥左衛門」は、全部で
          「島弥左衛門」「世木弥左衛門」「同弥左衛門尉」(「同」=「下曽根」)
    があり、独立して動く、「弥六」と同じような機能のものがあるといえます。「島」はわかりますが「世木」は「関」
    でこれが利いてきそうです。世界の「世」というのがあるかもしれません。三つ目の●の前の「六左衛門」は
          「佐藤六左衛門」〈両書〉(考証名「佐藤正秋」)
     があります。「佐藤」は「佐藤紀伊守」もありますが、これは〈信長公記〉だけです。尼子の山中鹿介一党は
     紀伊を想起させる尼子新宮党を別面で語ったものかもしれません。「印枚」はその登場場面で
         「膝の口をしたたかに突かれ」〈甫庵信長記〉
    て捕虜になりますがこれは桶狭間で、服部小平太が、今川義元に「膝の皿をぞ割ったりける。」〈同上〉を
   思い出します。これは太田和泉守ですが、この服部にもう一つの
         「同六左衛門」〈甫庵信長記〉
    があり、「印枚」は太田和泉守として語っているということがわかります。例えば「服部六兵衛」は索引では
        ■服部左京進(友定)/服部平左衛門/服部六兵衛/伴天連(注=「ヴァリニヤーノを指す」)
    となっていて、大物と接触します、これは太田和泉守でしょう。服部平左衛門は「津嶋」と「足立六兵衛」を
    呼び出し、これは頸取足立だから「八」へ行く方の「六」の人でしょう。服部六兵衛も同じでしょうが、これは、
    (どっちつかずとして)ヴァリニヤーノに繋いだといえそうです。ヴァ氏は「伴正林」と「伴とも」を共有していま
    す。「友定」があるので「伴」を「とも」と読むようにされたといえそうですが「高山右近」の「重友」の「友」とも
    つなげようとしています。服部がなんとなく渡海に関わって来ましたが、■は「海部郡弥富町」「二の江の
    坊主」で、注では「長嶋の砦によって北畠に通じていた。」となっています。「長嶋」は一揆の奴原で「長崎」
   にも通じ、北畠は「伊勢国司」です。索引では■の前は
       蜂須賀正勝/蜂屋伯耆/◆蜂屋般若介/▲蜂屋頼隆/服部小藤太/▼服部春安「服部小平太」/■/・・
    となっています。▲は文中では「蜂屋兵庫(守)(頭)」で「越前敦賀城主」です。▼は桶狭間で膝をやられた
    当人ですが
         「伊勢松阪城主となったが、文禄四年(1595)豊臣秀次事件に連座して改易。・・・自殺・・・・」
     となっていて、これに悩まされてここで止めていますが「印枚」まで絡んでくると話を進められそうです。
     ▲▼が繋がりにくい、◆の人物が何のために入っているか、ということです。◆は「清水又十郎」の一節
    にあり、渡海のことが絡んできます。▼を、▼@▼Aの二人と取りたいというのがあり、そうしてよいというもの
    がありそうですが、そうまでして出したい人物があるのか、といわれるとちょっと決め手がないということです。
       ▼@は「伊勢松阪城主」ということで蒲生氏郷の家之子で、「秀次事件」連座となると「木村常陸介」
        が該当します。「服部小平太」は今川義元に槍を付け、軍功抜群でこれが木村常陸介であっても
        不思議ではない、ということですが、膝をやられたという不名誉が語りに利用されているので太田
        和泉守と解釈するのでよいようです。結局この場面はなかったわけで、義元は鉄砲で撃たれ
        たというのが事実です。▼の前の
              「服部小藤太」〈両書〉 (解説なし)
        は、ストーリーでは本能寺で出てきて即
        討ち死しました。御所での討死衆、討死衆全体のまとめの二箇所で登場し、前後の人物4人と
        関わりが出てきますが上の索引においては▲と▼に関係していることになります。
       ▼Aがあるかもしれない、ので、その注意喚起として「服部小藤太」が作られたというのが考えられる
       ことです。つまり一表記二人の公式の提示があったようです。〈甫庵信長記〉の索引では
                    蜂屋
                    服部小藤太
                    (同)六左衛門尉  (これは印枚弥六左衛門からも来ている)
                    服部小平太
       となっており、この「(同)六左衛門尉」は確実に太田和泉守で前後の二人に乗っかることが確認でき
       るところです。太田和泉守が乗っかる公式もここで(印枚)を取り込んで出されたところといえます。
 
      (136)逆川と桜川
        「小平太」と「小藤太」が今で言う兄弟ではないかというのを打ち消すのも、この「印枚」
       からくる表記の頼りなさ、不完全さがあります。服部小藤太は
          A 「・・・村井作右衛門・服部小藤太・永井新太郎・・」〈信長公記〉
          B 「・・桜木伝七・団平八郎・服部小藤太、永井新太郎・・」〈甫庵信長記〉
          C 「・・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・小沢六郎三郎・・」〈信長公記〉
          D 「・・逆川(さかがは)甚五郎、服部小藤太、(同)六左衛門尉、水野九蔵・・」〈甫庵信長記〉
       が全てですが、Aの「作」の後ろにあり、Dの「(同)」の前にあるから(ここは「小平太」に掛かっていない)
       語りのための表記(死亡で消える)だといえます。Bで「団平八郎」がでますが「桜木」の「伝七」とどう
       繋がるか、ということになります。これだけの間に名前の五六七八九は揃っており「伝七」はそういう
       「七」でもあり、印枚と絡んで「甚五郎」を「藤太」と挟む役目があると取れます。
        また「桜木」が絡んでくると航海のこと
       が出てきそうで、そうなると服部小藤太に反応して、木村(太田和泉守)−「(服部)小平太」が出てき
       て「(塙)団右衛門」の「団」が一つ出てきます。「桜木」が重要で索引では

              〈信長公記〉       〈甫庵信長記〉         〈信長公記〉
              佐久間弥太郎      ■逆川甚五郎          木全六郎三郎
              桜井            勾坂(さぎさか)三件     木村いこ助
              桜木伝七         桜井豊前守          木村重章(「佐々木氏」「●桜川」)
              座光寺           桜木伝七・伝七郎      木村次郎左衛門
              佐々以下「佐々木へ」  佐久間右衛門尉信盛    久二郎 以下「弓徳きゅうとく」

   となっています。ここで「さくま」→「桜」、「さくら桜」→「佐久間」の二通りがあって、ここの「甚五郎」C・Dの
   「甚五郎」の「甚」は佐久間=平手の「甚」で、「桜」は「松」のように「佐々木」「佐々」「木村」「六左衛門」など
   「森」の語りにとりこまれてきます。芭蕉で桜と松が揃っているのは
         「武隈の松・・・遅桜・・    桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越(ご)シ」〈奥の細道〉
   があり、〈泊船集〉では本阿弥の話ではないが、「二木」は「二本」と間違っているそうです。「船」が出てくる
   と、「桜」も「桜の碇」を思い出したりします。●は木村重章が
        桜川(滋賀県蒲生郡蒲生町桜川)の住人。
   となっているもので「桜川」と(桜川)がある感じですが、ウィキでは「佐久良川」(日野川支流)出てきていま
   す。桜井、桜木も書かれていて●に注目、というのは「■」の「逆川」が暗示するところです。この「逆」を受けて
   ■の下は「坂ざき」となるのでしょう。「勾坂」は(こうさか)とも読めますが「勾坂」の三人
       「式部」「五郎次郎」「六郎五郎」     
    が、当時の代表的剛の者「真柄十郎左衛門父子」と格闘する長い場面があり、「奴原」とか「十文字」
    などがでてきます。真柄は索引では
       前波弥五郎/真柄十郎左衛門尉/(嫡子)十郎/真柄十郎左衛門父子(三人)/真柄/牧左兵衛・・
    となっており、本文には「三人」というのが入っているのに索引には漏れていて、表記上の問題が反らされ
    ている感じです。そんな細かいことまで考えてやってるはずがないというのはありません。誰にも目に付く
   ところのことで、あちこち問題含みの「父子三人」です。真柄の前に「弥」があり、後ろに「牧」があるから一つ
   「印牧」の「弥六」の延長にある真柄というのが出ていると見たほうがよく
    真柄は「三間真中柄」などの印象から、「真柄」−「間柄」−「眞辺」−「間部」−「真鍋」−「真鍋」などで
        「間鍋主馬兵衛」〈甫庵信長記〉  「まなべ七五三兵衛(シメノヒヤウへ)」〈信長公記〉
   がでてきて、これは織田の海将で、「鍋」の伝説、「主馬」は、索引では
          鈴木/薄田/鈴村主馬、
    となるから雑賀、第一義的
   に宮本武蔵が出てきてそうです。これは真柄十郎左衛門の「九郎左衛門」部分に重ねられても文句の出ない
   ところ。要はここに出ている■とか桜井・桜木伝七などを引き当てなければならず、服部小藤太のように技術
   的な表記も何・誰をを表して消えたか、ということをいわないといけないわけです。六角界隈に、宮本武蔵を
   中心に五人いるのかも知れません。「七五三」を「シメノ」としたものが出てきたので物議をかもしたことは
   想像に難くなく、芭蕉も
        皆拝め二見(ふたみ)の注連(しめ)を年の暮〈幽蘭集〉
   を詠んでおり、解説では
   「伊勢の二見浦の海上にある夫婦岩に張りわたした注連(しめ)縄のこと。注連(しめ)縄は七五三縄とも書く。」
   となっています。〈老人雑話〉では道三、信長会見場面の「七五三の式法(信長には不都合)」という語句が
   ありますが、三:七、五分5分、などのこともありそうです。戦国の城の三層五層七層とか、七+五+三=15
   (爆竹の15人総括)、とかが、海将の名前の仮名を、七五三にした、というのもありそうです。まあ太田和泉
   守の時代以後衣替えした七五三もありそうです。 

    (137)「世木弥左衛門」
    索引の●の次に
          「久二郎」〈信長公記〉  (注:「能楽師。」)
   が入っているのが(「き」とは読めないはずで)、ちょっとおかしいようです。「久我」は本来「くが」ですがテキス
   トでは「こが」があり、「きが」はなかろう、ということですが「来ない」「来る」「来た」があるので、また「木」も「こ」
   「く」「き」と読めるのでこれは「木二郎」に変わるのでしょう。ちょっとおかしいというのが、やっぱり校注のいた
   ずらがあるからか、「久二郎」の出るところで、脇能の「小次郎」が出ますから、索引にこれがないとおかしい
   わけで、もしあれば「小次郎」/「小寺4件」/「後藤3件」という並びを構成することになるから、ここからも「小寺」
   を からめて語りがありそうです。しかしこれは、
      「観世小次郎」〈信長公記〉(文中「小次郎」「観世小次郎」)
   で出てきているから、間違いでもなく「小次郎」を援用すれば語り口が広げられることになっているといえそう
   です。〈甫庵信長記〉にしか「小次郎」「又三郎」は出ていないと思っていましたが「観世小次郎」の横に
      「観世又三郎」〈信長公記〉(文中「又三郎」「観世又三郎」)
    があり、この「又三郎」が索引漏れになっています。「又三郎」もここに出ていたことになり、(観世)を幻として
   みれば(観世)を通して「小次郎/又三郎」は直接繋がっていたことになり、マイナーだから手を抜くということは
   ない、マイナーというように考えていなかったといえます。「観世又三郎」は「勧世又三郎」でも出てきて
       「・・・勧世左近大夫・・・勧世小次郎・・・勧世又三郎・・・八嶋(やしま)大つづみ 深谷長介・・」
   があり、この「左近大夫」は〈常山奇談〉では「久世三四郎坂部三十郎」の一節で
       「観世左近・・・剃髪して安休(あんきう)と号す。」
   などに利用されていて、前後太田和泉守が顔を出していそうな一節です。「八嶋」は〈奥の細道〉の「室の
  八嶋」に採られていると思いますが
       「室の八嶋(やしま)・・・曾良・・・・此神(このかみ)・・木(こ)の花さくや姫の神・・・富士一躰也・・・
       無戸室(うつむろ)・・火々出見(ほほでみ)のみこと・・・将このしろ・・・・世に伝ふ・・・」(奥の細道)
   があります。「久二郎」から「小次郎」だけをいってきましたが、ここは脚注〈信長公記〉の
       「玉井・・・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)の竜宮行。古い神話(説話)。観世小次郎作。・・・
       世阿弥作・・観世小次郎作・・世阿弥作・・世阿弥作・・・観世小次郎作・・・世阿弥作。・・・」
   というというものを、芭蕉が汲み取って、能の世阿弥の「世」「阿弥」と、「木二郎」(「久二郎」「小次郎」から)を
   「八嶋」の一節に組み入れたと思われます。
    「木(こ)の花さくや」の「花」というのは「桜の花」を指すのでよいのでしょう。索引で校注のコダワリが出て
   太田牛一のものは
        佐久間弥太郎/桜井(丹後竹野神社の神主)/桜木伝七/座光寺(「飯田」「為清」「貞房」)/佐々/・・
    とつなぎ、甫庵のは
      逆川甚五郎/勾坂3件・・/桜井豊前守/桜木伝七/桜木伝七郎/佐久間右衛門尉信盛/・・/佐久間弥太郎/・
    となってて印枚の「弥」も利かされて
               ○桜「さく(ら)」= 「さく」 =佐久「さく(ま)」
               ○この花(桜)咲く= 「さく」 =この花(桜)佐久
   という懸かりで、桜を八嶋の一節に取り込んできたといえます。「曾良」というのも名前が〈奥の細道〉で
      「惣五郎(そうごろう)」・・・・「惣五(そうご)」改めて「宗悟(そうご)」とす。  
   となっており、江戸初期の義民、佐倉宗悟郎をあやかって名付けたのではないかというのは既述〈前著〉で
   すが、その「佐倉」=「桜」も応援しているといえます。桜井の神主の神は「此神」「さくや姫の神」の神に懸け
   られていて、「ほほでみ」「世」「阿弥」「躰」「伝」「木(こ)二郎」などでも繋げられていて八嶋「六所明神」の
   芭蕉の一節は太田和泉守の「桜木伝七」の付近の解説をしているのは明きらかです。要はこの人物を引き当て
   なければならないのも一つあります。
      「桜木伝七」〈信長公記〉
    は、前に「豊前守」が出てるからやはり豊前小倉、小栗の宮本武蔵が出ますが、後年佐々木小次郎が
    武蔵に挑みましたのでこれも豊前が属性です。また佐々木小次郎は太田牛一が知ってるので、この渡海
    の蒲生郷に生まれた二人がまあ「桜木伝七」といえるのでしょう。一方で白き吹貫、「佐久間右衛門尉信盛」
    の七人の孫をまとめて「伝」えるという表記もあるかも。そうすると「桜井」は
       武井代表(「竹野神社」)−神主−神林十兵衛−明智十兵衛−明智光慶
   となり、「伝七」は、義理の孫も含むとして、
      「伊東景久小次郎@」「宮本武蔵@」「伴正林」「木村伊古介」「松永貞徳」「千与四郎」「前田慶次郎」
   あたりとなるのかも。「前田慶次郎」は今はテレビであったように「船」という人と接近したことだけが頼りです。
   甫庵では「桜木伝七」「桜木伝七郎」二人に分かれていますので一人づつとなり、桜木伝七が二つの役目
   を果たしていることになる、7人の「七」と誰かというのがありそうで、また〈両書〉間で数あわせがあったこと等
   が考えられます。清水又十郎の一節、同じ表記で4人・4人が
   あり、これは若そうな人のようでしたが、それも含めて合計24でしたので、一応内容は違いますがこれと数合
   わせしとくというのがあると思います。芭蕉では「八嶋」のあとは「佛五左衛門」がでてきますが、日光だからこの
      「逆川甚五郎」〈両書〉
   は「左甚五郎」を思い出すものとなっているはずです。「逆川」→「川坂」となってくるはずだから、「川坂甚
   五郎」というもので検索してみると「掛川観光協会」のものが出て
     「竜の彫刻の作者は飛騨の名匠・・・左甚五郎ともいわれ・・・」
    が出てきて、これは山内一豊所縁の「永江院」のことで、そこに彫刻が現存しているそう
   です。また「横田甚五郎伊(イなし)松」という表記もこの掛川あたりに明滅します。とにかく逆川甚五郎は
   平手(佐久間)の人でしょうから左甚五郎もそう点からみないといけないのかも。 本能寺のくだり
       「・・坂井越中守、桜井伝七郎・・」〈甫庵信長記〉、「坂井越中・桜木伝七・逆井甚五郎・・」〈信長公記〉
   という並びがありますが、「さか」=「さく」というものも出ていて、「花咲(さか)爺さん」となるのですが、これは
  絵本で見てても無条件で桜になっています。

   (138)〈古今集〉序
    紀貫之が〈古今集〉序で
     「難波津(なにはづ)の歌は(歌なし)、帝の御初めなり。(以下細字){おほさざきの帝(仁徳天皇)・・・
     この花は梅の花をいふなるべし。・・・}・・・・・・おほさざきの帝をそへ奉れる歌
       難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花  」
   と書いており、この歌の「花」は「梅」だと解釈されているのでしょう、訳も「花」としてあるだけです。春だから
   梅が出たから桜もある、梅は咲いたか、桜はまだかいな、という端歌も江戸時代に出て来ています。前の
   {この花}{梅の花}は(括弧)のなかの細字だから後ろの花と違うことが考えられ、太田牛一はこれを「桜」
   と解して、佐久間−桜を繋げ、芭蕉がそれを引き継いだのが先ほどの「木の花咲くや」の一節と思われます
    すると貫之はなぜ、そんなことを書いて混乱させたのかということになりますが、〈万葉集〉に
         「  大宰少弐小野老朝臣(おののおゆあそみ)の歌一首
         328 あをによし奈良の都は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり
            防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴(おおともの)四綱(よつな)の歌二首
         329 やすみししわが大王(おほきみ)の敷きませる国のうちには都し思ほゆ
         330 藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君
    があり、内容は大宰府などから都のことを思って歌ったものと見られているものです。この328の歌の花も
    桜井氏の訳では「花」とされているだけです。しかし巻末で、万葉仮名で出されたところでは
       『平城京賛美の歌。・・・なお「咲く花」はあとに続く四綱の歌(330)に「藤波の花は・・・」とあるところ
       から藤花とみられやすいが、やはり桜を中心にした「花」なのであろう。』
    とされています。筆者などは328は目の前に咲いている花を見て詠んだと取っていましたから奈良にいた
    と思うのですが違うようです。小野老が大宰府にいたというなら、そこにも花は咲くはずで「奈良」が額面
    通りでなくなってしまうからそれも違うようです。万葉仮名では「寧楽(なら)の京師(みやこ)」となっている
    から「奈良の都」は脚注で表示しないといけないのかも、とも思いますが、こういうのが「貫之」「四綱」が引っ
    かき回すモトになってると思うわけです。したがって、芭蕉の富士一躰というのは訳にあるように
    「(ここの祭神は)富士の浅間神社と同じ神である。」という意味もあるかもしれませんが、(噴)火で共通の
   浅間山が隠れていて富士浅間一体というのがあると思います。隠れた「桜」があって「藤桜一躰」ということ
    で〈両書〉など戦国文献で多用される「藤」をここで「富士」で出したと思われます。
    いま、この紀貫之の「梅」はそのまま通しとこ、桜などよけいなことをいうなということになっているのも、都と
    いうのも今で言う奈良とも限らない、遠いところの都もあるというように論議を呼んでもいけないというところに
    あるのでしょう。それに戦国の「白の吹貫」−佐久間−桜−「紀」「貫之」というものにつながってくることなど
    への警戒があったといえます。結局紀貫之は〈古今集〉序の後半で「なら」は
       細字で{平城(ルビ=なら)} 普通の字「平城(ルビ=なら)」
    を出しています。

     (139)「関」−「世木」−「関口」

     伊東一刀斎=佐々木小次郎というのは直接出ているものは少なく、ネット記事に「関口流について」と
    いうのがあり、ここでは伊東一刀斎・佐々木小次郎・宮本武蔵が一同に会しての物語が出来上がってい
    る大正時代の書物の紹介がありますが、これで決定的なものとなりそうです。なぜ関口(柔術)か、というこ
     とですがこれは索引に
       正林(相撲)/夕庵/関可平次/関口石見/関長安/世木弥左衛門/関与兵衛
     があり、この「関口石見」は「羽柴筑前守秀吉・・・山中鹿介弟亀井新十郎・・・」の「伯耆表」のくだりで
    これは渡海に濃厚に関わる一節ででてくることは既述ですが
        「黄金 壱枚、是は使者に参り候関口石見と申す仁に下され候なり。」〈信長公記〉 
     の関口がもってこられたと思われます。これはストーリーでは予想外の「夕庵」が入れられているから
    武井セキアンと思いますが、関口は「世木」の「弥左衛門」と「金」「枚」につながるから「印枚弥六左衛門」
    と繋がったものととれます。ここの関の「長安」(「楠木長安」がある)というのは文中では
           「関十郎右衛門」「関小十郎右衛門」〈信長公記〉
    とされており、前の十郎を一郎九郎うしろの小十郎を五郎五郎とするとこれは
        戦国の伊東景久・宮本武蔵、 寛永の佐々木小次郎・宮本武蔵
   ともなりますが、これは印牧のひ孫になるから生年の問題がからむので一世代繰り上げて佐々木六角の
   二組ととることになるのかも。関口流柔術が絡んで出てきたからこうなるかということです。伊藤(東)の表記が
    @九郎兵衛A三丞B次右衛門C二介D清蔵E宗十郎F彦作G孫大夫H夫兵衛I弥三郎J与三右衛門
   があり、これらは大なり小なり六角の伊藤(東)周辺に関わると思いますがEの「伊藤宗十郎」は「世」「阿弥」
   「小次郎」など出た能の一節にでています。「世木弥左衛門」は特殊な表記ですが「木世」というのは考えな
   いといけないところで「久二郎」−「木二郎」がありましたから「木世」は先ほどの「久世三四郎」の「久世」に
   変わりえます。「久世」と対の「坂部三十郎」は「(桜部)三十郎」という感じで常山は「蒲生」の「坂小阪」に
   「白き吹貫」をもたせたのも、佐久間信盛の「白き吹貫」−「桜」がありそうです。先ほどの人名の「桜井」は
   ストーリーでは「桜井」衆という意味ですが、地名の奈良の「桜井」は当然考えられるところです。世阿弥の
   一節に「三輪」も出ています。
         桜井−三輪−泊瀬(初瀬)−長谷−長谷寺−長谷川(河)
   となって、戦国のキーともなる姓である長谷川が出てくるのかもしれません。長谷川は佐久間の一族という
   のを表すのに「桜」が役立てられたと思いますが、〈吾妻鏡〉で「長谷川」
   が地名も、人名も見当たらないので、太田和泉守の中でとくに顕著なものといえそうです。「桜」−「長谷川」
   というのは「松」「桜」「梅」「藤」「萩」がなどが太田和泉守周辺の語りに利用されているという例の一つになって
   いると思われます。
       「此木(このき)・・・松・・・今将(はた)千歳・・・松・・・松・・・松・・・遅桜・・・白・・・桜・・・松・・」〈奥の細道〉
    の「千」から「千本桜」とかが出てきます(これは今川の「千本(ちもと)の桜」〈甫庵信長記〉からきていると
    思われる)。ここの「将(はた)」も八嶋の「将(はた)このしろ」に通じています。

   (140)鉢屋般若介−長谷川挨介
    清水又十郎の一節に
     「・・・・蜂屋般若介・長谷川挨介・・・・戸田宗二郎・賀藤助丞、」〈信長公記〉
   があり、この長谷川挨介は特殊で一応、長谷川藤五郎に近いということで、本阿弥光悦とみて、佐々木小次
   は              賀藤助丞
                 A伊藤三丞
    という二字違いで、一応「賀藤助丞」と当てておくことにします。賀藤=後藤で、助と三は
       「助三郎」〈甫庵信長記〉
    があるので行き来してよいのでしょう。ここの「蜂屋」が「長谷川」とつながるのは「佐久間」を通じてですが
    珍妙な表記ということでも共通しています。再掲〈信長公記〉索引

     蜂須賀/@蜂屋伯耆/A蜂屋般若介/B▲蜂屋頼隆(「越前敦賀城主」)/服部小藤太/▼服部春安「小平太」/
 
    があり、索引では▲の文中表記は「蜂屋」とC「蜂屋兵庫」「D蜂屋兵庫頭」「E蜂屋兵庫守」の4つが書か
    れています。ちょっとおかしいので▲の文中表記を「鉢屋」としますと〈信長公記「鉢屋」の全表記は〉
    @ABCDEと「蜂屋」の七つとなります。▲だけが考証のものという特異なことになっています。これを
    組み合わせると
                     C蜂屋兵庫       (@蜂屋伯耆)
                     ‖D蜂屋兵庫頭    ‖A蜂屋般若介
                     ‖鉢屋          ‖(▲B鉢屋頼隆)
                     E蜂屋兵庫守      蜂屋(▲BA鉢屋頼隆)
    ということになり一表記二人ということを言外にいったと取れる、ところでもあります。「鉢屋」に二つの役目
    がある感じです。それが▲にも反映されているといえそうです。左右は、二世代に跨った
    二人ともいっていそうですが、同世代の名前を変えたということでもあります。つまり左の説明が右という
    ことでもありえます。また「蜂屋兵庫」が一時「武井夕庵」になると「蜂屋兵庫頭」が「丸毛兵庫頭」となると
     いうようなことがいわれていそうです。蜂屋も二人というと揉めるので後ろに小藤太と小平太を入れた、と
     いうことに
     なります。▼は秀次事件連座と伊勢松坂城主ということですが、これが木村常陸介なら一つは筋が通り
    ますが、秀次事件はこの服部春安、「丸毛不心斎」「東殿」「白井備後守夫妻」などの連座もあり、だれが誰
    だれやらわからない、つまり仮名のままわかったような顔をしていることで納まっています。
    ここでこの索引が利いてきて
          蜂屋の▲→→服部小藤太(服部小平太@)
                          (服部小平太A)▼(木村重章−常陸介)
    ということで「常陸介」も二人がありうることになりそうです。すると▲の前の蜂屋般若介は、武井夕庵(蜂屋
    兵庫頭)の関連で「大谷吉継(隆)」も出てきます。大谷吉隆の父は大友氏(盛治)というのもあったので
    「蜂屋兵庫頭」の内容に「大友宗麟シソク」 が入るというようなことがいわれていたかもしれません。
       麟角和尚〈甫庵信長記〉 大竜寺麟岳〈信長公記〉
    があり、この「麟」は「大友宗麟」の「麟」もありえます。今は渡海に関係があるので大友氏からもってきたという
    ことにして
    爆竹の一節に「永田刑部少輔」がでており「刑部少輔」は大谷吉隆が有名なので一応大谷に引き当て
    が可能で、すでに、再掲
        「村井作右衛門・服部小藤太・永井新太郎・野々村三十郎・・・」〈信長公記〉
     で「永」がでていました。大谷吉継(大谷ヨシタカ)のペアの軍団の強さはすでに定評のあるところで、秀
    吉は、大軍をもたせて指揮させたいといったというのは戦略面にも優れたものがあったということでしょうが、
    石田三成は大谷吉隆に全幅の信頼を寄せていて、関が原では大谷吉隆の意向が色濃く反映されたと
    思われそれは実現していたことをいったともとれます。記憶では、西軍の陣は鶴翼の陣で大谷考案による
   もの、必勝の陣形と書いた本があったと思いますが、明治に指導に来たドイツ参謀本部も西軍必勝をいって
   います。まあ大谷が「蜂屋般若介」相当としてここに出てくるのはおかしい、ということがすぐでてくる疑問で
   すが、▲として二人が出ているというで「般若介」というのは▲のBのヒントであるといえます。つまり
   、また清水又十郎の一節
       「蜂屋般若介(はんにやのすけ)・・・・賀藤助丞A」〈信長公記〉
    ともなると大谷吉隆の舎弟と弟が出てきているということにもなります。すると大谷吉隆の登場は間違いない
    ところで、これが「蜂屋」「BA」で出されtていそうです。
   結局、あと般若介とか挨介とか妙な名前の採用意図という問題が残ります。▼のあとは
       服部友定/(文中■「服部左京進」)/服部平左衛門/服部六兵衛/伴天連(「本書ではヴァリニアーノ」)
   と続きますが、この■が実は「服部左京助」もあるのに索引では漏れています。従って■は二人、見方によって
   は、そのため「平左衛門」が設けられたといえます。つまり平左衛門=左京助、ということもできます。■は
   桶狭間で海から信長を攻撃し撃退されたわけですが、これを察していたのが「河内の服部左京助」といえ
   ます。これは「六兵衛」と繋がっているから、これは「太田和泉守相当」といえますが、ヴァ氏と繋がっている
   から単に法王への土産物を届けた、というような付き合いということではなくキリスト教公認からくる、使節派遣
   のことがでてくると思われます。「印牧弥六左衛門」を駆使して「六角」周辺のことなどが語られましたがこの
   「服部六兵衛」も同じで、〈甫庵信長記〉では▼に関して切り離された「六左衛門」が出てきて
      服部小藤太/同六左衛門/服部小平太
    という索引の並びが出ました。これで「服部小藤太」という幻の表記も「太田和泉守」に直結して、蜂屋兵庫守
    を表現できる働きを持たせられるということです。表現がうまくできなかったので、本人が人に乗りうっつて
    言動して相対化しがちな他人を主体にして感情や場面を語るという感じのことができるという変わったことを
    いってきましたがそれが公式として出てきたといいたいところです。

    〈両書〉には幽霊とか、お化けのような怪物は出てきま
    せん。万能の力をもったものはいませんから時空は超越できない、立場は変えられない、加害者であり被
    害者であることなどはできないはずです、表記(人間であるとは限らない)に二つ、三つの人格を持たせて
    それを可能とし、ストーリ以外の世界を作ってそこで表記が、自由に語り、行動して意味を示し、あった世界
     を表出したということになります。人の表記は、変えたり消されたりして跡形もなくなりますが、残像が別の
    世界を描いた、事実と真実の両方が出てきて、これが主張のわかりやすさへと繋がっているものでしょう。
    ここにある蜂屋般若介、長谷川挨介はお化けが出てきた感じでこの変な字はまだ話が終わって
    いないことを示していそうです。
  
    (141)金山信貞
         田一枚植えて立去る/柳かな
    は立ち去ったのは芭蕉か、という説がありますが芭蕉は〈奥の細道〉の読者と同時代人でもあるので、後世
    の人の視線に傾きすぎている感じです。この句を、後ろ「柳」を主体でみれば、風に柳が微かに揺れ、誰か
    この柳の下に佇んでいた、とみえたが今はいない、あるいは柳がだれかにみえたというものがあったかも。
    太田和泉守といいたいのだろうが、そらない、というでしょうが、「田」は「太」に同じ、「立」は「達」「舘」、「去」
    は「去程に」が太田牛一のくせでもあり、一枚=印枚 にもなります。八場(やつば)は八ン場、八場(はちば)
    としても「八ン場」で、「いちまい」は「いんまい」はあり現に「一牧」としたものがあります。現に「般若」とか
    「挨」をどう読むかというのが問題ならば、場ちがいの人物の登場は勘定に入れておかねばならないという
    ことになるのでしょう。清水流るる柳かげだから
          「印牧(枚)弥六左衛門(尉)」
    がいたといえますが、これは太田和泉守が乗っかるというものがあるということを示す代表的な例の一つで
    すが公式化されたものともいえます。索引では
       金森甚七郎/金山信貞/印牧弥六左衛門/金松久左衛門/兼松正吉/狩野永徳・・
     があって
         金山信貞(文中「金山駿河」、「はじめ長信」)/印牧弥六左衛門(「丹波守美満」)
    というくくりで見ると、これは「六左衛門」を切り離すことでみることもできましたが
         金山信貞/●印牧弥六/左衛門(尉)」
    という区切りも可能です。注の信貞=長信というのは驚異的なもので信長⇔長信ですから逆形です。
    駿河の金山、久能山東照宮を思い出させる表記で、右の左衛門尉と直結します。一方で
       「駿河路や花橘もの茶の匂ひ」
    が、あり「駿河守」に「橘川(吉川)」があります。またテキストでは森可成は美濃兼山の住人です。
    太田和泉守は金山(兼山)駿河でもあり、「左衛門尉」でも
   ありそうです。今までもこれは言ってきましたが、ここでもそうなっています。「吉川」の表記は
       「吉川」「吉川元春」「吉(橘)川式部少輔」〈信長公記〉
       「吉川(ルビなし)駿河守元春」〈甫庵信長記〉
    がありますが「駿河守」が「吉川」というのは隠されたのでしょう、「吉川駿河守元春」は「よしかわ」と読まさ
    れているのか「よ行」に入れられ関連が気づかれにくくなっています。しかし「よしかわ」と読んだため
          吉川駿河守元春/吉田の某(それがし)
   という関係が生じ、これも三州吉田、坂井左衛門尉、と太田和泉守ということになりそうです。
   ●はこの両者を包括する「殺生石」になった「玉藻の前」のような大変な名前のものですが、「印枚弥六」も
   あるので一表記二人というのがいわれたということになりそうです。これは他のところでも出ており
        @「原□賀左衛門・・・印枚弥六左衛門尉と云ふ兵を生捕り・・・」〈甫庵信長記〉
        A「原野賀左衛門・・・印牧弥六左衛門□を生捕り・・・・・・・・・・」〈信長公記〉
  があります(□は挿入)。これは
        @坂井左衛門尉(原賀左衛門)/印牧弥六/左衛門尉→坂井忠次
        A坂の井左衛門(原野賀左衛門)/印枚弥六/左衛門→太田和泉守
   という感じで「原(野)賀左衛門」も出して「印牧(枚)弥六左衛門」を説明して「金山駿河」二人、ひいては
  「東照宮」二人などのことが出されて、そんなことおかしい、となるのを牽制した公式の一つとしたと考えられ
  ます。ここで初名「長信」である金山駿河の「信貞」が出てきました。この「信貞」は、武田の大将で
          「小幡」〈信長公記〉
          (考証名「信貞」「上総介」 「(鉄砲の戦として有名な)長篠の戦いで戦死」)
   があります。長篠では、山県昌景(一番)・馬場信春(五番)・小幡信貞(三番)で武田軍団最強の時代の
   大将で、太田牛一は
         「西上野小幡一党」「赤武者」「関東衆馬上の巧者」
    として紹介しています。
   金山の「信貞」が出て、「信」が付いていて、太田和泉守も「信定」か、ということもあって、有名な武田の「信
   貞」にこの辺りで触れないとしょうがないといったところの登場です。
      
      (142)火とぼし悪役「小幡」
       「佐久」という地は本能寺の年の三月、知行割
             「甲斐国、河尻与兵衛・・・・駿河国、家康卿・・・上野国、滝川左近・・・。信濃国、
              ・・・四郡、森勝蔵・・・。同チイサカタ・サク、二郡、滝川左近に下さる。・・・」
                                                   〈信長公記〉
      で出ており、この「サク」が、航海の推進母体、伊勢の滝川左近に与えられたということから森の関係地
      (属性)として語りに利用されることが多くなっています。この佐久(長野県南佐久郡)に「南牧村」という
      地があります。一方「群馬県甘楽郡南牧村大日向」に「火とぼしの行事」という祭りが続いており、ここで
      小幡の悪役の挿話がのこっています。領主の小幡の圧政に住民が怒って立ち上がり、武田信玄を迎え
      入れて領主を追放したという喜びがこの行事のはじめというわけです。
      
      この記事の五日前に、
           「上野国小幡(オバタ)・・・信忠卿へ帰参・・・滝川左近同道・・帰国・・。」
      というのがあって、本能寺の年では小幡は関東管領の旗下にはいっています。故人信貞は長篠の山県、
      馬場、小幡という三人ですから、武田の忠臣として人気があるはずですが、悪役になっているので不思議
      な感じです。武田氏にも領地拡大の時期があって、その統一過程での、征服ということで武田への反発
      もあって、小幡が小領主だから(また信貞の時代だったかもしれないから)逆の話ともとれないこともな
      さそうです。とにかくここで
          武田−「小幡」−佐久の滝川左近−南牧村−「火の行事」
      が、繋がりました。「小幡」は「信長」の「信」が入っているのでこれが利用され人名索引〈信長公記〉では

           小幡  →    「信貞、信真」 (下記のネット記事では「信定」「信実」も入っている)
           小幡一党   (「小幡信貞、信真を中心とする小幡氏の同族連合」)
          ▲小幡因幡守/小幡五郎兵衛/小幡清左衛門
           小幡信貞   (文中「小幡」。  「小幡上総信貞」  ・・・「長篠合戦討死」)
           小幡信真(のぶざね)  (文中「小幡」 「上総介。上野嶺城主。信真は武田氏。
                  のち織田信忠に仕え、また北条氏直に属し、さらに徳川家康に属した。」)
           小波多父子兄弟三人   三重県名張市(上小波多・下小波多がある)
           小原下総守
           小原鎮実 (「三河吉田城」「松平家康」の関連。文中「小原肥前守」)
          ▼御袋様 → 土田(つちだ)氏
           小原継忠  (「信濃伊那郡小原から興る。」 文中「小原丹後守」)
           おほて    (「荒木村重の娘」

      となっている、七人の小幡を出しています。「信」「上総介」「因幡」の「幡」などで重視されている上に
     伊勢の「小波多」にもつないであります。「小原下総守」は、「下総守」が一応上総に対する下総で太田
     和泉守でよく、また、
     「小原」=「大原」で、(森)三左衛門が「きよす衆土田の大原」を討ち取っており、三左衛門としておいて
     よいのでしょう。小原下総守の今で言う弟が「小原鎮実(肥前守)」、連れ合いが「小原継忠」のような感じ
     です。
        「花沢の古城あり。是は昔小原肥前守楯籠り候時、武田信玄此の城へ取懸け攻め損じ、人余多
        うたせ勝利を失ひしところの城なり。」〈信長公記〉
     があり、聞いたこともない話です。小原と武田信玄が接触することにより、信玄にかわる玄信が、登場した
    というのが、あるのかもしれません。つまりあの信玄だったら負けないというのもありそうです。

      ここになぜ▼が出るのかと
      いうのが重要な古人の索引の謎です。筆者がこれをここに入れたら納まりませんが校注された
      方は入れておられるわけで、もう読まれているのが出ています。「小幡」(おばた)の継続手で出てきて
      るのもおもしろく、あらためて「こばた」でないのに気がつきますが金山の「信貞」が効いて来ている
      感じです。「信長の御袋様」と「御袋様」という二つの表記があって、索引では
        @土田氏(文中「信長の御袋様」「御袋様」) A御袋様→(土田氏) B信長御袋様→(土田氏)
    の三つの見出しがあります。「信貞」などはBに掛かることになるのでしょう。「小原継忠」の位置がおかしい
   から、Aも今日で言う、父でもありうるということをいっていそうです。次の「おほて」という人物も、わかりにくく
   されていそうなことは否定できません。「おほて」というのは「大手」となると「平手」の「手」も出されたとも
   とれます。「娘」は今日で言う「息子」の場合もあるというのかも。「太田」は「おお
   た」として「お行」の前のほうに出ていますが、「おほた」とすれば、「荒木村重の娘」というのも太田和泉守の
   子息というのも出ているか、つまり「小原継忠」に影響があるのかどうかです。
     この「小原」は「大原」で
           「造酒丞・三左衛門両人はきよす衆土田の大原をつき伏せ、・・・造酒丞下人禅門
            と云ふ者、かうべ平四郎を切倒し、造酒丞・・・」〈信長公記〉
       があり、「きよす衆」に
           「尾張海部郡甚目寺土田(つちだ)出身の大原氏だろう。」
     という脚注があります。
        造酒丞ー土田ー大原ー平四郎、が出てきて、小原で「鎮実」「松平」が出ています。
       これで▼は織田造酒丞が出てきているといえます。「鎮実」というのは「金・真・実」ですから
              真=さね=実
       が出ており「小幡」というのは▲の三人以外は本文「小幡」だけとなっているのと無関係では
       なく、「火とぼし」に利用されたのも当然という大仕掛けのものといえそうです。
        ネット記事「小幡領主」で検索してみると、
        「貞義社、篠塚社を訪ねて(1)群馬県北甘楽郡史」がありこの案内に
        「小幡領主の織田氏が正保二年(寛永のあとが「正保」、芭蕉が生まれたのは正保元年)
        当郡高田村から八幡宮を勧請して鬼門よけとしたため。付近の住民はその氏子となった。
        しかし村民は由緒の古い本社を昔と同様に尊敬して・・・」
      となっています。織田家(織田信雄の筋)がこの年にこの地の領主になっています。すなわち
      小幡領主というのは固有名詞のような感じのもので、その後年の施策に反感があって武田氏(信玄)
      を懐かしんだ、と取れるものでもあります。宮本伊織の碑文には「海の口」(佐久郡)、
     がでますが、武蔵は
          「正保二年乙酉暦五月十九日、肥後国熊本に於て卒す。」
      と書かれています。この「正保二年」の連携からみると「火とばし」の行事は「日向」−「伊東」
      を睨んで伊織の碑文を始発とする、あの「祐乗坊」−「大文字」のラインに添った行事といえそう
      うです。このネット記事は中味は別のことが書いてあって、「信貞」「信真」に加えて
        「信定」「信実」
      を出してきたというのが重要です。「信定」となると「信長」の祖父の「月厳」のことでこれは
      霜台というようで、霜台なら太田和泉守もそうで、そこからかどうか「信定」は太田和泉守とも
      されています。これはやんわりと利いているはずですが、信定の子が信実ということのようです
      から重要です。小幡の「信貞」「信真」の関係からもそういえます。テキスト索引でも
            織田信長の●御袋様 →「土田(つちだ)氏」
            織田信実   (文中は)四郎次郎、織田信長の弟(信秀の4番目の弟)。」
     とするのがあって、別の所で
            「織田信房   造酒丞。 (文中は)■織田造酒丞 。」
     があります。これでは、言ってきた
            織田四郎次郎=織田造酒丞    
     と、いうことは出てきません。信房=信実 もいえないことになり、拡散策の成功といったところです。
     またテキスト別のところで
            「上総介 → 織田信長」
            「小幡信貞 信真の父であろう。」
     があります。ここにこのネット記事で「信真=信実」が出されてきました。「信真=上総介」でした
     から「信実(真)ー上総介ー信長」です。
        月厳信定(貞)ーーー子「信秀」   信定の4番目の子、四郎次郎
                      ‖ 子「信実」(四郎次郎でない、造酒丞という子)
                      □□   ↓
                           信秀の連れ合いという子
     を出してきたといえます。それは●が土田氏とするのが普通でそれならば
                信秀ーーーーーー信長
                ‖織田造酒丞(信実)
                ‖
                土田御前
     となりますが、●は信秀を指すことも考えられます。また●は「八」の人でもありうるから、織田信実の
     説明ともなります。強いて言えば「織田信長」を「信長@=信秀」と解釈でき、それならば月厳
     が●となります。そんなややこしいことはないだろうというのはありませんが親子が重なっているので
     過程として述べるかどうかだけのことです。●の前は「織田信長」
     が索引の項目になっていて大きく分けて文中8通りの表記があるということで載っています。
     そのなかに 
        「御父織田弾正忠」〈信長公記〉
     という表記があり(ストーリでは足利義昭が信長をこのように呼んだ)、それも「織田信長」の中に入って
     います。
     この場合は祖父となって、信秀と血縁関係のない継子の婿は子ということになるのでしょう。
    上の四郎次郎のキーマン「次郎」も子のなかに入れられています。「信実」を何のために創った
      のかということですが
          @■の表記は一つにまとめられていますが実際は二つあって、「織田造酒丞」と
           「織田造酒正(カミ)」(「甚兵衛」の主人)があります。二人いるのをわかりやすくする
           ために出してきた(信房ー信実)と思われる。
          A信定(さだ)信貞、信実(さね)信真、を出して何かの語りに利用しようとした。「小幡」
           がそのため利用されている。
          B「真田」を意識して「実(さね)」を出した。
          C信秀の関係者を表した。
      などが考えられます。ACは、重要人物
           今川氏実〈甫庵信長記〉、今川氏実(ウジザネ)〈信長公記〉
      が一般には、氏真とされ(テキスト考証名は「今川氏真」)ており、この「真」「実」の共用と差異
      を語るものがあるといえます。今川義元の子が今川氏真という場合、全然表記に関連がなく
      係累を辿れないので、
            「今川孫二郎〈信長公記〉」「今川孫次郎〈甫庵信長記〉」
      というものが説明しにくくなっています。今川義元は兄二人が早世したので順番がまわってきて
      当主になりましたが信長に三郎五郎という庶兄がいて揉めたのと同じで重臣福島氏の子息
     であった庶兄、恵広玄探がいて「花倉の乱」という相続争いの戦いを経て、今川家を継いだことが知られ
     れています。雪斎と寿柱尼(義元の母)が事態を収拾したようですがこの二人は優れた人物と
     聞いており、この際も無理しなかったのではないかと思われます。つまり福島方に良真と
     いう人がおり、この人を当主の後継にするという妥協案が成立した、義元の子息との婚姻に
     よる次世代での、妥協ともいえるのでしょう。織田に来ているのが次郎なので上の人が今川氏
     の後裔と考えられます。今川次郎が何者かというのも問題になりそうです。ここで平手と織田造酒
     丞と結ぶものが一つでているようです。平手は
          「平手甚左衛門」〈両書〉
     があり、「甚目寺」の「甚」が土田の大原で、大屋甚兵衛の「甚」が織田造酒正で出てきました。
     
     (143)円空
      「大日向火とぼし」の南牧村の住所は「甘楽郡」で「相楽郡」とよく似ています。「相楽郡」も
      今となれば、
         「須賀川・・・越行(こしゆく)・・・相馬・・・等窮(相楽伊左衛門)・・・栗・・・弥三郎・・・
         栗・・・西・・・西方・・・栗・・・・・・」〈奥の細道〉
      の「伊勢」「伊東」の「伊」(伊右衛門)など渡海のことにも関わってきて、山城の「相楽郡木津川」も
         「・・まなべ七五三兵衛・・・宮崎鹿目介・・・大船・・・木津川」〈信長公記〉
      の大船にも繋がってきたこともあります。「まなべ」は「間鍋」も宛てられます。「甘楽」の「甘」も
         「美濃国・・・竹が鼻・・・あかなべ・・・・虎口(こぐち)を甘(くつろ)げ、井の口・・」〈信長公記〉
      があり、「甘」→「あかなべ」が出て、これは「鍋」も想起されるところですが脚注では
         「岐阜市茜部。もと奈良東大寺領茜部荘の所在地」
      となっています。奈良東大寺は手向山八幡宮ですが、これは別に関係ないとしても人名注
      「堀秀政」では
            「堀氏は曽祖父の時代から美濃斎藤氏に仕え秀政は茜部(岐阜市茜部)に生まれた。
            (文中表記「堀久太郎」は30頁に渡って出ている)」
       となっています。また「甘」→「竹が鼻」も出ますが、これは地名索引では
            多芸谷国司(伊勢国司)の御殿/滝山/多芸山/竹が鼻/たけくらべ/竹嶋/竹田
      の位置をしめるもので、「多芸山」は「大田口」とか「多芸山茂りたる高山」の面から「たけい」
      に結びつくものとして捉えてきましたが、いまとなれば
          「川西多芸山」(岐阜県海津郡大田)、
          「滝川左近・・・北伊勢、、」「長嶋・・・舟・・・越し多芸山・北伊勢口・・・」
     の航海の面の、伊勢の流れの「たけい」も出てきて、それを受ける「竹が鼻」です。人名索引では
            滝川/多芸谷国司/詫(佗)美越後/武井/竹内(長治)/竹屋源七
       で「武井」は「多芸」「滝」「多喜」も受ける、「たくみ(詫美)」が入っているだけに、「宅」−「竹」と
         「ジャ(虫+也)」ー「蛇がえ」ー佐々ー味鏡村ー天沢ー武田信玄ー玄信
      が入ってきて、伊織ー武蔵も含んだ「武井」「竹内」に流れていることにもなります。竹内
      長治は文中では「竹内左兵衛佐」で「織田・津田」の「左兵衛佐」につながり、長治は
         「大津長治」(文中「伝十郎」)、「別所長治(文中「小三郎」) 〈信長公記〉
      があります。この「竹が鼻」というのは特別のものがありそうで、脚注では「羽島市内」と書
      かれており、羽島市も広いのでそのままとなってしまいますが、後年では羽島市の竹が鼻と
      なると、あの木彫り仏像の
            「円空」(寛永9年から元禄8年)
      が出てきます。円空は〈信長公記〉のここを見ていたと思われるところです。「鼻」となると「畠
      山総州」の「畠」がよく似ていて人名索引〈信長公記〉では
         畠山(河内「高屋」の)/畠山総州/畑田加賀守/畑野源左衛門/波多野秀治(「波多野三
         兄弟)/波多野弥三/蜂須賀正勝(小六ー阿波ー海部郡美和村)
      となっており、この「波多野」は「小幡」の索引の
         小幡信貞/小幡信真(のぶざね)/●小波多父子兄弟三人/小原/御袋様・・
     の●と繋がっていますから、小幡も畠山と関連があります。ウイキペデイアによれば長篠勇戦の
     「小幡信貞」は「小畠信貞」が合っているようですが、それもこのつながりがありそうです。また
     甲斐の信玄の父「武田信虎」の「虎」を貰って「虎盛」という名で通したと書かれています。
      こうみると蒲生兄弟に「貞」とか「とら」とか言う人もいました。
         氏信・氏春・氏郷・貞秀・とら(虎・三条殿・豊臣秀吉側室)
     ですが、「貞秀」はまだ行方がつかめません。どうやらあの小幡信貞がこの人かというのが出てきます。
     「虎」(盛)も出できますから。この信貞の子がテキストでは「信真」だろうとされいて小幡信真は注で
        「上総介」
     とされていて●から「御袋様」に流れます。ここからは今川氏真=氏実のことが出てきましたが、織田
     「四郎次郎」「信実」「信房(造酒丞)」のところは課題として残っています。「虎盛」となると、これは「信盛」
     という名前だということ
     でしょうがそうすると佐久間というのがボンヤリと利いてきそうです。佐久間信盛は長篠の戦い前に
     武田と内通していたという話がありますが、こういうのは太田和泉守が乗っていることで、文献の評価
     の材料にするのは今となれば要らないことです。「小幡」−「小原」−「大原」−御袋様(造酒丞)という
     流れも佐久間信盛−虎盛の線から考えられます。「竹が鼻」は「武が鼻(畠)」というのが出ていそうです。
 
     (144) 象・鼻
      一方「鼻」となると「象」が出てきます。「象」というのは「伊藤若冲」の「象と鯨図屏風」が出て
      きて有名になりましたが、日本人に馴染みのない象というのでも注目されました。しかし象牙
      というものは正倉院にもあるそうで、そうだとするとこの元としての象には関心があったはずで
      吉宗の時代に象がやってきたときまでの空白はどういうことか戸惑います。足利将軍の時代
      に小浜にやってきた象があり、一応知られています。この象と鯨の突然登場の不思議は、
     最近本邦初公開という長谷川等伯の絵の中にも象が出ていたということなども不思議のモトです。
     円空も芭蕉も若冲も知っている
        「象鼻山」(別庄山)  岐阜県養老郡養老町橋爪、揖斐川支流牧田字岡山
      という古墳群のあるところが一般に知らされておらず、また〈甫庵信長記〉に「鯨波(ときのこえ)」
      という「鯨」が「鼻隈」の池田の記事の所に出ていることなどが語られていないからです。
          「池田勝三郎二子働き併鼻隈の城落去の件」
       で、
         「伊丹・・・荒木志摩守・・・紀州雑賀・・・向城(むかひじやう)・・・紀伊守・・・伊木・・・森寺
         生田の森の向城・・・西・・・勝三郎子息池田紀伊守・・・四角八面・・西・・・鯨波・・東西・
         外構(とがまへ)町屋・・四方八方・・・」〈甫庵信長記〉
      
       があり、池田の鼻隈の城などが、紀伊の(田辺〜熊野太地)辺りの鯨と結びついています。
      もちろん大渡海となると、「鯨」はつき物のようなものですが、ローマの歴史、ハンニバルの象
      の大軍の話などは、相手国に関わる、基礎知識として必要でしょう。たとえ航海がなくとも宣教
      師はキリスト教と密接な関係にある、ローマの歴史は語っていて、みな耳をそばだてて、
      聞いていたはずです。ネット記事「Wanderー象鼻山」によれば登山口に
           「丸毛兵庫頭 稲葉備中守奮戦の地」
       の石柱があるということですが、これは明治以後の人は書けないものでしょう。前者は〈両書〉
      にある表記ですが、後者はよくわかりません。「塙(原田)備中守」と「稲葉伊予守」との合成の
      ような感じです。なぜ「稲葉」が出てきたか、ということですが、

         「備後守殿・・・西美濃に乱れ入り、竹が鼻に推寄せ、それより稲葉山に相働き、・・・敵
         案に相違し、仰天して虎口(こぐち)を甘(くつろげ)井口の城へ引き退きけり。・・・織田
         彦五郎殿・・●因幡守の子・・・清洲三奉行・・・其の家老に坂井大膳、同甚助、河尻左馬允・・・
         平手中務大輔所・・坂井大膳・同甚助、河尻左馬允・・・」〈甫庵信長記〉

     があり、稲葉備中という名前は、この「竹が鼻」の「鼻」ー「象鼻」と、「稲葉山」の「稲葉」から、出て
      きたものと取れます。すなわち、石柱の戦いはどの戦いか、という問題についてはあの信秀
      が道三に大敗した戦いのときに、丸毛兵庫頭の奮戦があったと取れそうで、これがこの
      「稲葉備中」の役割とも考えられます。なぜ「丸毛兵庫頭」かということについては我田引水
      ながら、丸毛兵庫頭の一回目の登場、尺限廻番衆24人が出ている伊勢陣において
            「・・梶原平次郎・不破河内・丸毛兵庫頭・丹羽源六・不破彦三・・」〈信長公記〉
       があり、不破との並びがあるからと思われます。円空ー竹が鼻ー象鼻山とくると「竹鼻祭」に
      行き着きます。ネット記事「竹鼻祭」によれば、天正九年ころの竹が鼻城主として
          「不破源六広綱」
      が出てきます。「試楽」「本楽」の二日に亘る八剣神社に関わる祭りですが、この領主らしくない
      名前の人のときにはじまったようです。ここで不破と源六に挟まれて、梶原平次という渡海の
      暗示ともみえる「梶(柏)原」を伴っています。たまたまこういう配列があったのだ、というでしょうが

         二回目、「佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破河内・丸毛兵庫頭、雲雀山・・」〈信長公記〉
         三回目、「平手・・・不破河内守・丸毛兵庫頭・浅井新八・丹羽源六・水野大膳、(8人)」〈同上〉
  
       もあり、やはり「不破」(「源六」も)が付いてきています。二回目は「たけくらべ・かりやす」の
       要害の「堀・樋口」のところで出てきます。「堀・樋口」は、やはり「不破」「竹中」に関係する
       かも。また「広綱」も無視できない感じです。テキストではあの桶狭間の「梁田左衛門太郎」は
       「広正」で出ています。梁田は「政綱」の方が一般的で、
           「梁田広正」
           「梁田政綱」で「広綱」も出てきます。
       「綱」は「朽木元綱」の「綱」があります。三回目の「不破・・・源六・・」は、元亀元年九月廿四日で
       
          「九月廿四日、信長公城都(じやうづ)本能寺を御立ち・・・はちが峯・あほ山・つほ笠山・・稲葉
          伊豫守・・・三王(さんわう)廿一社・・・・香取・・・平手(監物)(8人)・・」〈信長公記〉

      のあと、同日で出てきます。ここは平手など8人と、そのあと梶原平次郎など「十六首(かしら)」が
      出て24を構成しているところでもあります。「城都」というのが都の城というのを意識しているかも
      しれません。信長公は城のような本能寺を「御立ち」しています。「都城」とひっくり返すと「日向」
      の「島津荘」などが浮かぶところです。島津では維新公の島津兵庫頭(義弘)が有名で、関ヶ原
      での勇戦があります。日向佐土原城(もと伊東氏の城=田島城ともいう)主、島津豊久がこの戦
      いで戦死したこともよく知られていて、島左近との作戦をめぐる激論の場面もあります。宮本伊
      織も一時、日向佐土原に難を避けてたのかも知れません。日向、伊東から宮本武蔵をのべる
      ため手向け山の地へ北上してきたともいえます。渡海も絡んできた「竹が鼻」ですが「島津」と
      なると、「津島」が出てきて、津島の堀田道空、堀田孫七も出そうです。「はちが峯」というのも
      丸毛=兵庫頭=蜂屋、があると思いますが、脚注では「権現川上流、鉢が滝付近」となってい
      ます。権現といえば何となく徳川家康が出てくるのが、「はち」とヒラいた意味でしょう。「八」の
      ことでは「つほ笠山」もおかしくて、脚注では「局笠山」となっています。しかしネット記事
      「山名地名考」「南主稜とその支稜」によれば、
          「つぼさかやま」(「壺阪山」「壺坂山」「局笠山」)
      となっており、「笠」=「坂」 → (さか)=(かさ)となる理屈です。逆に見たり、読んだりする
      のは蜂須賀正勝→海老名勝正、や、信広=織田=広信などがあり、一応同一とはいえないが
      性を替えているとみてきました。しかし、こうなると
         「三笠山」=「三坂山」
      とも同時に変換していた、ということになるのでしょう。「あかね襷に、すげの笠」というのは、瞬間
      確実に女人ですが、菅の笠となるとどうなるのかちょっとわかりにくいところです。明智十兵衛
      も十兵衛@と十兵衛Aでは、表現はいいかどうかはわかりませんが「筋違い」になっています。
      編笠十兵衛は二人を内包する、そういう「笠」が出ていそうです。芭蕉の〈奥の細道〉の
         「壺の碑」(「多賀城」にある)
      のくだりに「笠」が出ているのではないか、と思われます。「十符」とは「十編(とふ)」(脚注=
      編目が十あるのをいう)で
          「おくの細道の山際に十符(とふ)(草へん=竹篇のものもある)の菅(すげ)あり。今も
          年々十符(とふ)(草へん)の菅菰(すがこも)を調て国守に献ずと云り。」〈奥の細道〉
       があります。「編笠」というものがあり
              「十編の菅(すげ)□」
              「十編の菅(すが)菰」
      ともなると□に「笠」を入れたくなります。「十」「市川」で戦国をみて壺の碑の一節には
      「泪も落つるばかり也。」があり、平泉のくだり「和泉」をみて「笠打敷きて・・泪を落し侍りぬ。」
      があります。「草」に意識があり、本能寺への道の山場、「三草越えを仕候」(脚注=三草山)
      の「草」、相撲の「草山」の「草」(の明智に)に繋がっています。関係がない、というのも合って
      いそうですが、「山際」に言及しなけばならないといっているかもしれないわけです。桶狭間の
      「山際」のところ「十」が出るのかどうかです。「みかさやま」「みくさやま」一字違いだから芭蕉の
      「壺」は、〈信長公記〉のここの「つほ笠」もみていたかもしれません。芭蕉は壺の碑の一節では
              「聖武皇帝」「大野朝臣」「恵美アサカリ」の三人
       を出してきており、大野氏の光明皇后、光明子のアサカリを出したととれます。芭蕉の時代は
      中国の「皇帝」という呼称を使っても差し支えがなくなったのでしょう。一般向けの〈甫庵信長記〉
       には「日本」「天皇」という呼称は使われていますが、〈信長公記〉では国名としての「日本」
       「天皇」は使われていません。前者の「日本」は一件だけ、冒頭の日本史の流れの叙述のなかで、
       織田信長の功業を語るくだりで初出、後者の「日本」は、「日本介」という吉(橘)川式部等鳥取城
       の守将(海賊「奈佐日本介として考証された人物)の登場と地名索引にある「日本」があるだけです。
        これは大坂の話の中で(328)ページ
         「西は滄海漫々として、●日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟海上に出入り・・」
       があり、●は(日本の地「の舟」は)、と読まざるを得ず、あとの三つが国名と読もうとすればできるのと
       違っています。地名索引では
              二の江/二の宮山/日本(328)/如意がたけ(217・277)
     があり、ここでも「にほん」と読ませようとしています。前の「二の宮山」は「山中高山二の宮」の前を抜いて
     持ってきており「山中高山」が消えてしまいますが敢えて、こうしています。〈日本書記〉に「大日本豊秋
     津洲」、大日本・日本を冠した天皇名があるのに「国」らしさを抜いています。後ろは「大文字山」のことです
     (277)には出ていません。60年後か、60人を無意識に足してしまったのかも。また「日本」は(327)にも
     あるのに抜けています。本文は
        「抑も大坂(おざか)は日本一の境地なり。」 
     で、天下一のような感じの書き方になっています。日本国一の境地ではなく、境地は仕切られた領域の
     意味もあり、日本の地一の境地、日本境地一の境地とも取られそうで、このあとに●があります。中国の
     歴代王朝との関係は、昔、王が貢物などして臣従を近い地位を保証してもらっていて、唐の時代以後もその
     ままできており遣唐使やめても相手の認識が変わらない地位確認もせず、ずるずる来ているという状態は
     、太田和泉守の語りに大きな位置をしめていたということの表れといえそうです。ここで
               「あほ山」
        が出てきて困ることになりました。

      (145) あほ
       脚注では「青山」で、これでは「森」を表すかも、ということで、それはそれで合っているかも
       しれませんが、前後の語句の持つ、語りきれえない筈の広さ深さ、複雑さと合わない感じです。
       なんでこれが、広綱がでてくるところで「はちが峰・あほ山・つほ笠山」という挟まれ方をして
      出てきたのかということなどのことです。

       「あほ」は「阿呆」でしょうが〈信長公記〉では、尊敬すべき人の代名詞となっていそうです。
             「修羅(しゆら)」〈信長公記〉
        があり、海の叙述の名文の中に出てきます。脚注では
          「阿修羅。常に戦闘している悪臣の一種。須弥陀山下の大海底に居住するものと考え
           られた。」
        となっています。しかし両者は違うはずで、「阿」は接頭字でしょう。太田牛一では「阿弥陀」
       を分けて「阿弥」と「弥陀」として使われている感じで、「住阿弥」、「針阿弥」などが登場して
      「弥陀」も出ています。戦闘とか山下というのと、戦闘が苦手、山上、とかいう対もありそうで、男性
      的な語句であるとみれます。「呆」というのは既述の「口+木」=「朽木」で
          「朽木信濃守」〈両書〉 (考証名「元綱」)
       が出てきます。城代菅屋九右衛門、つまり兼松正吉ということになるので太田和泉守の最大の協力者
       、尊敬すべき存在ということです。先ほどの桶狭間、梁田広正(政綱)のテキスト注では
           「出羽守・・・四郎左衛門・・・別喜右近・・沓掛・・(豊明)・・沓掛・・出羽守広正・・(出羽守)・(広
           正)・・別喜右近・・・九之坪字西城屋敷・・・出羽守・・九之坪・・出羽守・・豊明・・・九之坪・・」
       があり、「喜」とか「九」「坪」(壺)とかの明快なものがあり、また〈両書〉索引では
         @安見(阿弥が当て字として考えられる)右近/梁田広正/柳原淳光(権大納言)
         A安見新七郎/梁田右衛門太郎ほか梁田5件/矢野藤市/矢部善七郎
       となっておりAの甫庵のものでは「新七郎」「藤市」に挟まれて「梁田」の属性が直接出ています。
      「出羽守」というもので太田和泉守と重なって、兼松というのがわかると思いますが、豊明で桶狭間が
      出て兼松が(豊明)@にて戦闘集団と戦い、太田和泉守が豊明A(田楽狭間)を襲って、ということ
      を表していますが、そういう兼松相当の重要人物が竹が鼻城主「広綱」であることをいっていると思わ
      れます。辞書では「阿父」(あふ)というのがあって
           「父、おじを親しんで呼ぶ語」
        とあり、「阿母」もあって「母、乳母を親しんでいう語」となっています。「阿呆」は「おろか」と
       なっています。「阿父」は「あほ」とも読むのではないかと思います。安土城のくだり
                「そうほ」(脚注=「巣父」)
       が用意され、「ほ」と読まれています。これは索引には、戦国時代と関係ないだろうというこ
       とで出ていません。もし載せるとなると
             宗永     相撲
             宗易 →   千宗易
             相州氏政の舎弟大石源蔵氏直 → 北条氏照
             (巣父)
             宗陽  紅屋 信長に高麗茶碗進上  」〈信長公記〉索引
       となります。進上の「宗陽」は金松ではないかということは言ってきましたが、その前に「巣父」
      が位置します。本巣の父としては北方の「岩越喜三郎」が出ました。「そ行」大石源三が大変な飛び込
      みですが、兼松が源蔵の義父であるためかもしれません。「紅屋」は女性的ですが「陽」でもあります。
      紅屋とは商家の屋号か、業は何か、宗陽との関係がよくわかりません。本文は「宗陽」となっているだけ
      で校注者の作品といえるものです。「紅」は
         「御髪(おぐし)はちやせんに、くれない糸・・・朱さや・・・朱武者(あかむしや)・・」〈信長公記〉
       があり、これは信長の風姿ですが、「太田和泉守」の「くれない」でもあります、続いて
          「・・市川大介・・弓・・・・橋本一巴・・鉄砲(火へん)・・・平田三位・・兵法・・・」
      が出ています。「内儀」と一緒に出場というのでしょうか、三人兄弟の連れ合い色が濃厚で、
       「紅」は弓の名人の「市川大介」を引き出し、「弓」は「太田又助」、身方が原の「家康公」で出さ
      れているので太田イズミノカミということになりそうです。又助の「黙矢(あだや)なく」は脚注では
          「むだ矢なく」
      となっていますが、それはストーリーで、今となれば、これは音のない弓=鉄砲と取れます。
      すると鉄砲二人は重複しておかしい、などとなってきます。要は三兄弟は「平手」の「三人」
      であって、戦いの機能を、三つに分けて三人に振ったということで、このころ信長の側にいたの
      は太田和泉守一人が確実、三つともに優れた自分がいたといってるとも考えられます。要は 
              ○三兄弟の紹介
              ○連れ合いがいることの暗示
              ○自身の持ち味の顕示
              ○その他あとの話への道具の設定
       などのことが、この仮名の三人の登場といえそうです。
       三人に分けて「市川」や「平田」が出されたから宮本武蔵
      の語りにも利用されることになります。「市川大介(弓)」、は「大川市介」→「大江(枝)市介」(大江
      広元想起)で弓の名人「兼松正吉(太田又介@)」にも近くなってきます。このため宮本伊織は
      「小倉碑文」に
            弓の「養由」(中国の伝説的弓の名人)
      を出すことができ、碑文と弓の名人「兼松正吉A(太田又助)」との関連を出せたといえます。
      この「養由」は、〈類書〉の「大島光義(光吉)」の属性として使われ、八坂神社の弓の誉れのよ
      うな荒唐無稽とも思える大武功譚もある、まじめなものもある、半分太田和泉守のものとも思える伝記
      に繋げてあります。栗山氏(親類)や、(みつよし)を出し「島」と結ぶ役目を与えています。
      「平田三位」でいえば宮本武蔵の父は一般に
           「平田無二(武仁)」
      とされており        「平田」
                      「太田」 
      で「平田」が横・縦。斜めの三つ出てきます。これは「平田」→「平手」にもなるかということについては
      〈武功夜話〉に「平手三位」があるのでありうるといってきていますが、「そら、ちゃう、ちゃう」といわれる
      と、お終いになってしまいます。「宮本伊織」は、そうなったら困るだろうということで
          「手向(たむけ)山」 (「宇佐八幡宮」→奈良「手向山八幡宮」想起)
      に碑文を建てており、「た」→「て」はありうるから「平田」は「平手」だと言ったと取れます。つまり
      伊織は「平田無二」は容認していると思います。しかし碑文には「新免無二」と書いてあるだけな
      ので「平田」説は消滅の危機にあります。しかしこれは親が二人あるので書き様だけのことでも
      あります。
              新免(宇喜多想起)
              ‖ーーーーーー無二ーーーー無二A(宮本武蔵)
              平田(平手)
     で、下の方の姓をとれば十分ありえます。ただ「新免」だけがわかりにくくされたというところです。「新免」
     は「免」が珍しく、最も多い異名のある表記で
     柴田修理亮勝家の身代わりになった「面受勝助」「毛受庄助」などがあるのは既述です。「毛」は
     「丸毛兵庫頭」の「毛」と「兵」があり、「平手」にすこし接近します。「面」は「近松田面」しか心あたり
     りがありません。出所は
         「・・・平(イノ)美作・近松田面・宮川八右衛門・・・」〈信長公記〉
     の「田面」(脚注=「頼母」)です。「母」は「母里(毛利)太兵衛」の「母」−黒田だというとそこまでは無理
     となってしまうので、本文でいえば、「田面」の前の「美作」は宮本武蔵の語りの故地でもあり、それは
     多分に新免氏の地「美作」ということからくるのでしょう。ただ「伊織」の碑文の「新免」というのが
     始発になってるというのが十分考えられることです。宮本武蔵は関が原では新免部隊に拠って
     戦ったということになっていますが、新免が「毛」=丸毛に接近ということであれば宇喜多の明石掃部助
     全登隊にいたとするのが妥当なところでしょう。平□美作がここにあるのが重要で、平手の美作と
     でも取ると、美作明石氏が作られていることもあって、「新免」の新しい面がでたともいえます。
         「平(ルビ=イノ)美作」〈信長公記〉
     という珍妙なルビは「平イノ美作」→「平井の美作」とするのではないかと見られ4回登場の
         「平井久右衛門」〈信長公記〉 (解説なし)
     につなぐものでしょう。これは〈類書〉で美濃尾張で活躍する歴戦の大将なので、太田和泉守(イズミノ
     カミ含む)相当になるのでしょう。桶狭間翌年、梅が坪で足軽合戦があり、
         「●前野長兵衛討死候。ココにて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長
         も御感なされ・・・大うつぼ・蘆毛御馬下され面目の至(いたり)なり。」〈信長公記〉
     があり、これは太田和泉守が栄誉に浴したということでよいと思いますが、実際は「金松(兼松)又四郎」
     とか「金松久左衛門」相当の人のことと思われます。が、ちょっと様子が違うのは「信長」が喜んで表彰
     してくれたことで、堂洞の戦い「天主構へ」「二の丸の入り口」での太田又助の活躍と関連が生じてしまい
     ました。堂洞の戦いは、梅が坪の戦いの後のことで、
         「太田又助只一人あがり、黙矢(あだや)もなく射付け候を、信長御覧じ、きさじに(気味よく)見事
         (あるショウ)を仕候と・・・御感有て御知行重ねて下され候キ。」〈信長公記〉
     があり、ここで2回目の「信長」の感激があって、「重ねて」の意味がわかってきました。つまりこの平井久
     右衛門は「森ゑびな」でもあったといえそうです。敵にも喝采を浴びたというから武技の競いのようなショー
     があったのかも。堂洞でも「射付け」となっており「見事」を見世物ととることが脚注の「きさじ」=「気味よく」
     が生かせそうです。弓だから那須与市の故事が念頭にあるかも知れません。「大うつぼ」は脚注では「大
     空穂。(矢を入れて背負ういれもの。)」とあり、これはストーリーとしてはそうですが、「空穂(呆)」「宇津
     保」もありうるかも。なお蘆−馬はローマも可能です。この●前野長兵衛が問題の人物です。太田イズミ守
     相当の人となると本巣北方城主、伊賀定治か伊賀平左衛門あたりとなりますが、いまのところは不明です。
     前野孫九郎が太田牛一とジツ懇だということもあるので、前野(田)を使ったのかもしれません。
      「田面」からでる「面受勝助」は、柴田修理亮(「勘十郎」「武蔵守殿」)の身代わりとなった「武蔵」を示すと
      という役割もあります。田面の「面」の後ろの「宮川」は紀伊から伊勢へ流れる河で、甫庵の人名索引で、
      「平田和泉」を討ち取った「美濃屋(の)小四郎」(小四郎は「木村小四郎」がある)から
         美濃屋の小四郎/宮居眼左衛門/宮川/宮川但馬守/・・/宮崎鎌太夫(海将)/・・/宮本兵大夫
     へ至る途中にあるのが「宮川」「但馬守」で、それは「八」の流れです。「面」の、前の近松の「松」は碑文で
     よく出てくる「赤松」の「松」であり、また「松田」でも捉えられ、これは本文中で
       雑賀の七人
        「土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・▲松田源三大夫・▼宮本兵大夫・嶋村・・栗村・・、」
                                                     〈信長公記〉
     の▲▼の並びの松田があり、「松田摂津守」もあります。▼の後ろは、葉栗郡嶋村(一宮市)の
     「兼松正吉」に、つながる「嶋」と「栗」があります。葉栗郡には今の羽島市が含まれているから、
     羽=葉でもありますが、この「羽」が〈奥の細道〉の「黒羽」の一節「黒羽の館代で出てきます。
      一方ここの宮川の「但馬守」は「前野但馬守」がおどり「張行」で「弁慶」で出ていました。これが
         前田与十郎/前野長康(文中「前野但馬守」)/前野長兵衛/前波長俊
     という索引の流れの中にあり、「森乱(丸)」(考証では「森長定」)は「長康」もあるのは既述ですが、
     前野長兵衛に懸かるとすると本巣の伊賀定治の「定」につながり、「張行」の「治」も出てくるとなると、
     長兵衛と森乱丸の関係も浮かび上がってきます。要は「前野」というのが「前田」を受けて、「前波」−
     渡海につなげる表記と(したもの)いえそうです。森蘭丸の活動、交友などの記録は少なく、前野長康(泰)
     の詳細な記録に乗って、その足跡もわかるようにされたものが、〈武功夜話〉というくらいのことでみた方が
     よいようです。前野長康という尾張の一村(前野村)の長が信長、秀吉、家康などのトップや有力武将と
     若いころから接触があるのがおかしい、宣伝臭がぷんぷんとしている、いい加減だというのが偽書という
     根拠になっています。前野郷の周辺から人物、地名などの借景が話をちょっと複雑にしているだけで
     しょう。
     阿呆から話が長引きましたが、ネット記事によれば阿呆は始皇帝の阿房宮からきているというのがありまし
     た。これは南化和尚の「安土山記」〈甫庵信長記〉の詩にに「阿房殿」が出ており脚注では、「始皇帝が築いた大
     宮殿」となっています。これは「阿房どの」という個人名と取られて「安房殿」「阿波殿」と読み替えられた
     ものと思われます。この詩には「◆六十扶桑」「蓬莱三万里」があり、海を越えた読みが要るところです。脚注
     では◆は「日本六十州」、となっており「蓬莱」は書いてありません。詩の前の文に
         「日域六十六州之一州を江(かう)と曰ふ。江左に山有り、名づけて安土と曰ふ。」〈甫庵信長記気〉二地域解説がほ
     があり、「江左」に安土だから北とか西から安土山をみていますが66という一州を「江(かう)」というというもの
     が含まれている、ともとれます。つまり「江孫丸」の「江」があるので、あのころの江、太田和泉守の宰相時代
     の「江」の「州」が意識にあるのでしょう。
      太田和泉守のころに固まってきていた国の範囲などの歴史の流れが、南化和尚の
     述べようとしたこと、ということもできますが、南化和尚は当代のことの理解に必要なことも、例えば有効な
     数字や、漢字などを鏤(ちりば)めた文を書いたというのもあるかも。
       阿房殿→安房殿(「安房守殿」脚注=織田安房守秀俊)→「淡(路)」「阿波」、池田・蜂須賀→阿呆
     という連想があったのでしょう。「利口」というのを太田牛一が使ったのも阿呆が生まれた元かも。
         「其弟に安房守殿と申して利口なる人あり。・・・佐久間右衛門・・・安房殿・・・安房殿・・・安房殿
          佐久間右衛門・・・」〈信長公記〉
      があり、これは珍しく、主観的なものなので、物議を醸したのかもしれません。

     (146)黒 羽
     先ほど「黒羽の館代」が出ましたがこれが渡海にからむのが顕著な一節です。
     日光の「岩窟に身をひそめ入て・・・うらみの瀧・・・・夏の初(はじめ)・・・・」のあと「那須の黒ばねと云ふ
     所に知人があり、
           「黒羽の館代、浄坊寺何がし・・・其弟桃翠(たうすい)・・・逍遥・・・犬追物・・・那須の篠原
           ・・・八幡宮・・与市扇の的を射し時・・・正八まんとちかひし・・桃翠・・光明寺・・首途・・」
                                                         〈奥の細道〉
      の「黒羽」の与市が出ます。これは「奥羽」「羽黒」の「羽」であり、羽島市となると、「羽」が「島」と結び
      付いてくるから、この芭蕉の文に「嶋」「島」が入ってくると、視界が広がってきそうです。当時、
      「羽島」という地名があれば古人によっても利用されたと思われます。しかし
           「葉(栗郡)嶋(村)」→「葉嶋」→「羽島」
      として自然と出てくるものでもあります。茨城県、霞ヶ浦に「小美玉(おみたま)市」がありますが、
         小川町、美野里町、玉里村
      が合併した市で旧町村の頭文字を取って「小・美・玉」となったようです(朝日新聞記事)。価値ある一字と
      いうことですが、一字の手がかりで繋いでいくこともやれのはこのあたりの一字の執着が元にある
      ことに負うています。これは頭を取っていま
      すが昔の人は二番目も同じウエイトをおいており、この場合「川・野・里」市というのもあるわけで、
      それも別の形で温存されてきたというのもありそうです。「稲沢市」「一宮市」とか新名が割り込んできて
      いるのが殆どですが、「羽」などは周辺の地名の「葉」から出してきてもよいでしょう。つまり「稲葉」
      =「稲羽」−「羽島」くらいは出てくる、明治の地名で「稲沢」が出てきたとしても「稲宅」「稲竹」が上乗せ
      になって語りを広げるということになっているようです。この「羽」を芭蕉がよく使っています。
       
       「黒羽」があると、「羽黒」がすぐ出てきます。〈奥の細道〉に「羽州里山」、「羽州黒山」(「羽黒山」)、
       「出羽」があり、〈甫庵信長記〉にも「出羽の羽黒山」が出ています。
      「黒羽」は「羽黒」から、その反対語として出されたのではないかと思われます。
      前後ウエイトは同じで、この場合、内容の色の変化が、暗示
      されていそうです。ここの「桃翠」というのも脚注では
            「桃翠は翠桃が正しい。浄法寺図書高勝の実弟・・・」
       となっており、ひっくり返されています。脚注には那須「与市」は「那須与一宗高」となっており
       与一は与市を包摂するのかも、あの場面、義経の打診に応えたのは与一といえそうです。ここ
       は
         「羽黒の左吉」「浄法寺−円浄寺源七(相撲)」「館−(たて)−伊達」「代−城代」
         「逍遥−貞徳」「犬−犬千代−前田−篠原」「扇−宗達」「光明寺−日吉丸」「的−的孫」
         「桃翠−桃妖−山中−伊勢・曾良・長嶋・萩」「山中−山中鹿介弟」
        などが、想起され、「石田」「俵屋」「兼松」「松永」「武井(丸毛)」などが出てきますが、まあ
        、ここのスターは「那須」の「与市」であり、常山は「那須」
で      「大関夕安」(丸毛兵庫頭相当)をだして時代を繋いでいます。「山中」は人名では「鹿介」
       だけですが、人名の「山」では「山田」、「山口」が中心です。「山中」のくだりでは「伊勢」と「長嶋」を
       「曾良」が繋ぎましたが、「松嶋」「雄嶋」のくだりでは「曾良」は「山口」を出してきました。
            「松嶋や鶴に身をかれほととぎす  曾良
             ・・・口・・・・●素堂松嶋の詩あり。原安適松がうらしま・・・」〈奥の細道〉
        があり、この「ほととぎす」も殺生石のくだり
            「殺生石・・・館代・・・馬・・・・此口付のおのこ・・・・馬・・・ほととぎす・・」〈奥の細道〉
        の「ほととぎす」−「館代」を通じて「与市」のくだりに渡されています。
        ●の人物こそ「山口素堂」で「黒羽」の「与市」の一節に「口」を通して割り込んできました。
             山口与市=支倉常長(墓は「光明寺」にある)
        というのは既述ですが、芭蕉はもう山口与一は支倉常長というのは知っていた、ここに
       「我国」「光明寺」があるのでわかります。つまり「山口素堂」は那須与市を山口与市に転換させる
       ために出てきたといえそうです。「素」=「巣」でもあります。すると「与一」は他にはいないのかという
       ことも見ないといけませんが、索引では「よ行」のはじめ
             与一郎 → 細川忠興/横江孫八/横井雅楽助
       があり、いわゆる細川忠興でない、もう一人の与一郎がいそうです。また
           細川忠興(文中「長岡与一郎」「永岡与一郎」/細川昌興(「忠興の弟」、文中「長岡頓五郎」)
      があります。細川ガラシヤ=「与一郎」もあり得ます。横江孫八は清水又十郎の一節にあるので与一
      郎は航海に関係はあることになります。
       また「首途(かどで)」もあります。これは本文、

          「那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより■八幡宮に詣ず。
              与市扇の的を射し時、
                 別しては我国氏神正八まんとちかひし
          も此(この)神社にて侍(はべる)と聞けば、感応殊にしきりに覚えらる。・・・・・・・・
          光明寺・・・夏 山 に 足 駄 を 拝 む 首 途(か ど で) 哉(かな)」〈奥の細道〉

        にある門出ですが、〈芭蕉全句〉では「足駄を拝む」というのは、
           「これから遠い旅を続けるにあたり役行者の健脚にあやかりたいと祈願する心をこめた
           もの」(ここの光明寺に祭ってあるのは「役小角=えんのおづめ」の像)
        となっています。遠くに出かける、役目をもって行く、その門出に祈る、という感じのものが
        でています。■が参詣した八幡宮で、名前が知りたいところですがテキスト脚注にも〈芭蕉全
        句〉の解説にもありません。ネット記事「大田原資料写真の解説」によれば
             「金丸八幡宮那須神社」
        となっており、天正五年、大関氏によって再建されたと伝えられる建物もあるそうですが、
        古くは八幡太郎義家の参詣もあったあったようです。ほかに
          「(この)神社の宝物殿に那須与市が文治三年、1187年に奉納した太刀が収められて
          いる。」
        と書かれています。支倉常長参詣祈願のあったことが語られているのでしょう。文治三年は
        塩竃の「宝燈・・・文治三年和泉三郎寄進」でも出てきます。文治三年は義経が奥州藤原
        氏を頼り、二年後衣川で死というような年です。「文治」といえば塩竃や那須とか「奥」が舞台
        となるのかも。

         筆者は「文治」といえば幼い長谷川等伯を「長谷川宗清(道浄)」の養子に斡旋し絵を学ば
        せた一族、染物屋の「奥村文治」しか思い浮かばないところです。二回目の遣欧使節の
        成否のことは、雑事から建艦まで、孫世代の高山右近Aの双肩にかかってきたといえそうですが、
        支倉常長は何を土産物として持参したのか、主たる献呈品は何か、というのも興味がある問題
        です。永徳の絵に匹敵するものかもしれないから、日本史の大問題ともいえます。高山右近
        は大事を前に些事にも手を抜かなかったであろう、自ら絵を描いて献呈したのではないか、
        と思われるところです。
              浄法寺図書高勝(桃翠)
              ‖翠桃
              ‖浄坊寺何がし
              鹿子畑氏(黒羽西郊に邸)
        というようなものがあり、この一節は「高山右近」(文治、浄・道、那須など)登場もあると取れます。
        「山口・素堂」「原・安・適(的)」は応援出場ともいえそうです。

       (147)雲岸寺の黒羽
        〈奥の細道〉で「(山口)素堂」が出てきた「松嶋」「雄嶋」の一節は
           「船・・磯・・・里・・・磯・・・洞・・西・・・海・・・江・・三里・・江・・・嶋嶋・・・天・・・波・・・はら・・・
           磯・・・海・・・雲居・・・松・・・松笠・・・草・・・庵・・閑・・・月海・・・江上・・破・・素堂・・原・・
           ・杉風・・松嶋・・・鶴・・・ほととぎす・・」
         などもあり、「三里」「草」「江上」「庵」「松嶋」「笠」「杉風」などがあるから、スタート時点の
             「面(おもて)八句を庵(いほり)の柱に縣置(かけおく)。」
        の一節の写しともいえる、連結が顕著にでており、また先ほどの黒羽は「雲岸(岩)寺」
        (脚注=「黒羽町字雲岸寺」)という続きがあって
           「雲岸寺・・・佛頂・・・山居・・・草・・・庵・・・松・・杖・・十景・・法雲法師
             木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立
            と、とりあえぬ一句を柱に残し侍りし」〈奥の細道〉

         というようになっています。句同士でいえばここで「八句」−「柱」−「一句」、「夏山に足駄」−
         「夏木立」の繋がりがあります。おなじ著者のものだから繋がりがあるのは当たり前といえば
         それまでですが、語句でやるというのは他の文献との繋がりもあるのでみておかないと
         いけないものです。山口素堂に
            「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」、(字余りで「目には青葉・・・」もある)
          があります。「目」は「木」「木工」であり、「木つつき」の「木」、「青」は「青山」「森」「青木−鶴」、
          「葉」は「葉栗」「羽・栗」、「ほととぎす」は
            「殺生石・・・館代・・・口付・・・野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす」
          から「那須野」の「縦横」につながり、ここで(山口)与市が出てきました。「初鰹」で
          は、〈両書〉の海戦のくだりの
              「堅田」〈両書〉の「居初又次郎・馬場孫次郎」〈両書〉
          が想起され、「馬場信春」(「信春」=長谷川等伯A)というものにつながります。山口が出た所は
              「磯」
          も二つ出てきて、(磯野丹波守/居初)という索引の並びがありました。「居」もここで「雲居」
          、黒羽で「山居」があり、支倉の渡海が、等伯とセットで意識された結果が出ています。
           また(山口)素堂は「信章」といいますが、人名索引〈信長公記〉
                 木全(きまた)六郎三郎 (中島郡木全ー現稲沢市木全)
                 木村いこ助  相撲(支倉相当)、長谷倉もありうる
                 木村重章   蒲生町桜川
           となっており、簡単に言えば、「木村」=(章)=「山口」、としたと思われます。支倉は
          木村与市としたいところ身元がバレてしまうので山口与市とされたようです。
              山口飛弾守(木村常陸介)→常陸介→氏家常陸介ト全→ト全→木全(きまた)
          というような変換が一字で簡単にされたものともいえます。「洛(楽)の貞室」も、安原氏
          の「正章」で、ここでは「貞徳」が出てくるから、木村連想ということになるのでしょう。
          湯浅常山は、既述、「木全又蔵」を出しています。池田の「伊木森寺」の「森寺」と一緒
          ですが「竹が鼻」が舞台で、
              「(森寺)政右衛門美濃の竹が鼻に居し比(ころ)、木全(きまた)又蔵という士、ゆ
              かり有て、森寺がもとにいたり。(以下「中へん」まで細字)
                {又蔵が父は五右衛門・・・・一揆・・・木全(きまた)山の中・・・中へん・・・・
                一揆・・・・通る・・・山の上・・・一揆・・・木全(きまた)・・・中へん・・・}
              政右衛門、又蔵・・・・高木何某(たかぎなにがし)を討たん・・・又蔵竹が鼻の竹林
              ・・・」〈常山奇談〉
          があります。この細字の「又蔵」は、稲沢の「木全」のあとに「木村いこ助」があるから、
         一応、〈類書〉で有名な「木村」の「又蔵」と取れます。このまえに政右衛門が
              「稲葉伊豫守一鉄から備前の陶(すえもの)とてとくりを贈られけり。」〈常山奇談〉
         があり、「伊豫守」が何回も出てきます。
         「伊」は「伊木」対応でもあり、「伊勢」「紀伊」の「伊」を出しています。これが長嶋、
         「紀伊国退治」の「一揆」とつながりますが あわせて「稲葉」
         が出されたので、「稲沢市」の「稲」は稲葉でみてよいのかも知れません。そうなれば「沢」
         −「たく」−「宅」−「竹」−「武」がありえます。木全(俣)の「中・嶋・郡」も「嶋」が重要ですが、
        中嶋又二郎が清水又十郎の一節で出てこれは居初の又次郎にも繋がります。いつ、
        どこから付けられたかわかりにくい現地名の「稲沢」もプラスαしてよいようです。要は「木全六郎
        三郎」が出たら、「全」が明石全登の全で高山右近=竹が出てくるということです。ここにある
               「竹が鼻」
        は常山の時代になれば当然「円空」は確実に意識されているはずで、「象鼻山」
        の「丸毛・・・稲葉・・」の案内も、円空意識でよいのでしょう。芭蕉の「とりあえぬ一句」の
            ★木啄(きつつき=啄木)も庵はやぶらず夏木立
        は「やぶらず」−「不破」は出ていそうです。さきほど表八句の一節にも「破」がありました。

        (148)山居・岩窟
        黒羽の雲岸(岩)寺の一節に「杖」が出ていましたが芭蕉に、
           「大通庵の主道円居士・・・一夜の霜・・・けふはなほひとめぐりにあたれり・・・
             其のかたち見ばや枯木の杖の長(たけ)」
        があり〈芭蕉全句〉でも「道円は未詳。」とされておわっています。あっさりしたものでとりつく
        しまもないものです。解説などをみながらここをみると
            「石霜禅師」「霜=霜台」「幽蘭集」「夕菊」「庵」「長=竹」「其」「雲」「岸」
        などから夕庵牛一の感じも出ています。円空は歌も多く詠んでおり、円空の空は空海の「空」
        を見ているのは確実でしょうが、戦国の「空」もありえます。
                堀田 道空                    
                    円空  → 道円             
        があるかも。「(堀田)孫七」、「津嶋」、「空海」「円空」「道空」などは「竹が鼻」の「又蔵」など
        からも航海に結びつくようです。★の句の「夏」は、同じ黒羽の
                ▲「夏 山 に 足 駄 を 拝 む 首 途(かどで) 哉」
        の「夏」に繋げて「やぶらず」が「不破」として働いていますが、「夏」の句は
                「夏草や、兵(つはもの)どもが夢の跡」〈奥の細道〉
        があります。解説では、これと
                「秋風や藪も畠も不破の関」〈野ざらし紀行〉
        とが関係づけて論ぜられ、
          「発想の性格としては・・・・同じ傾きのものであるが一層渾熟の度を加えていると思われる」
        となっています。まあ、これは「跡」の懐旧の想いは同じとして
        も、ちょっと無理でしょう。心は「不破」が★から繋がってきているということと取れます。つまり
        畠=鼻と似ているので竹が鼻−不破氏といいたい、「藪」は「竹+数」だから
        忠臣蔵の不破数右衛門の不破も援用した、となるのでしょう。狗奴国にあるともされる象鼻
        山の「象」、〈奥の細道〉象潟のくだりにある
            「松嶋は笑ふが如く、象潟(きさかた)はうらむがごとし。」
        の「象」、つまり「松嶋」=「山口」にもつながっている「象」、は、円空を通しても渡海とつながる
        ということになります。このため円空を出したわけではないのですが、まあ行きがけの駄賃という
       か、深入りしてしまいました。円空は生まれたすぐ「円空」という名前だったのか幼児、青年時の
        名前が一切なく、肝心の表記の手がかりがない、というものです。ちょっとみたところのこと、
        思い浮かぶことを、忘れても勿体無いので気ままに記しておくしかない、ーーーつまり一字
        の力をたよるしかないのではないか、ということで、すこし立ち寄ってみます。

        (149)門出の足駄
         ここに▲の門出祈願の句に「足駄」(「夏」も)が出ましたのでちょっと当たってみますと、芭蕉の
              「夏の夜や木魂(こたま)に明くる下駄の音」〈嵯峨日記〉
              「手を打てば木魂(こたま)に明くる夏の月」〈嵯峨日記〉 
        があります。「木魂」は「山彦」のことで「谷+牙」の字もあります。「山彦」は「彦山」→「彦三」
        →「不破彦三」、「牙」は昔から象牙がありますが、関係ないというのでもでもよいのでしょう。
       「下駄」といえば「加賀千代女」(「松任」「笠間」「白山」「各務支考」などが属性)に
              「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」
       というのがあることは小学校で習いました。小さいころに、これほどの句を作ったということで
       したが、今となれば「雪の朝」も「下駄」「二」「字」も全部芭蕉の句にあるもので、「雪」を爆竹
       の雪と見立てると、「二=日」、「二=日」、「二=日」・・・・・となると日本の「日」が出てきて
              「(前書)曾良何某(なにがし)・・・居・・・朝な夕なに・・・閑・・・夜・・・雪・・
                   君火を焚け よき物見せん雪まるげ  」
       の雪の「丸」と合して、船の出発の日章旗の林立する情景にも変わりかねません。この「火」
       は爆竹の火に通じ、夜の火は「明」−「赤」で、解説では「丸毛」も出てきています。前の句
       から、この情景に変化するためにはどうしても、前の句が「松任」(惟任に同じ)の(加賀)千代
       女のものであることが必要で、「笠」や「通信使」も効き目があります。また「白山市」でもあり
       「白山」は「円空」の属性です。師、各務支考の「支」は「支倉」の「支」です。各務は各務原
        =「美濃国加賀見野〈信長公記〉」を意識していると思いますが、美濃と加賀、「貝野」ー
       「貝塚」から「紀伊」をみていたのか、支考は
          「東華坊」「西華坊」
         という東西を使った名前にしています。貝には蛤があり、支考は
       桑名の名物、はまぐりの煮物を、「時雨蛤」と名づけたようです。山口素堂の「初鰹」は堅田の
       居初又次郎想起といいましたが合っているといっているかもしれないものです。芭蕉に
円           初時雨(はつしぐれ)初の字を我が時雨かな 〈粟津原〉
             旅人と我が名呼ばれん初時雨(はつしぐれ)〈笈の小文〉
       がありここの「字」という「字」は芭蕉俳句でここだけかも。「千代女」の「二の字」「二の字」に
        対応しているもので支考の意思も感ぜられるところです。蛤は
             蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ
       という伊勢の句があり、それと繋がる旅人のための時雨というのが、名付けの心境かも。
       この千代女の句も研究が進んできて千代女のものでないことがわかったのか、いま加賀千代
       女として検索してみても出てきません。小学校で聞き間違いだった、記憶違いだった、先生
       の勘違いなどということで、終わってしまいます。これは確実に加賀千代女で語られいたと
       思います。次の句の語りが、同時にされたので、なーんや、とみなが面白がって、それが記
        憶にあるからです。句作にこまって夜が明けてしまって、愚痴のようなことを言ってそれが先生
       に大変褒められたというものです。いまでは加賀千代女からはなかなか出てこないものですが
             「ほととぎす ほととぎすにて 明けにけり」
       という句です。これは▼の句の「明くる」から出てきているといえます。この「ほととぎす」が
          再掲   「・・館代・・・馬・・・・口付・・・
                  野を横に馬牽きむけよ@ほととぎす」   (脚注では「時鳥」)(景時の時)
                     
                「松嶋や鶴に身をかれAほととぎす  曾良 (脚注訳では「ほととぎす」)
                ・・・口・・・・素堂松嶋・・・原安適松がうらしまの和歌・・・・杉風・・」
       という〈奥の細道〉で二つしかない@Aにつながっているとすると、やはり、渡海とか山口に
       また円空に繋がるとするとたいへん大きな、@Aで支考が課題を出した意図も読めてくると
       いうことになってきます。この句が、今加賀千代の句から消えそうになっています。他愛ない
       句だから学問的でないということでしょう。ネットでも別の検索方法でやらないと出てきません。
        二の字 二の字の句はいま「田捨女」(「捨女」もある)の六歳の句とされていますが、それも
      どうかわからないということになっているようです。田捨女→田ヌキ→捨女 というような「田ヌキ」
      「中ヌキ」の問題がここにでてきているようです。つまり「素堂」は「山口(ヌキ)」にもなっており、芭蕉
      は「口」を入れていますが「山とナシ」もありえます。「山はナシ」もあるかも。「口」は「くち」と「四角」
      があり、姓では「山」を誘導して「山口」、ほかに「鰐口」「虎口」などもあります。要は
      「山名」もしくは「素堂」で山口与市をだすため 「山口素堂」としたと取れます。ここで「口」と「素堂」
      と「杉風」が出てきたから、この杉山杉風が「さんさんさん風」だから「山山山風」「山々々風」だから
      「山」を過剰に意識してると窺がえるものです。(もちろん「三三木三風」「佐々木山風」などにもなる)
      すると「山−」では「山岡」「山上」でもあったかもしれませんが、「山中」「山田」もありえる
        「山田」→「田抜き」=山ナシ=山口 (もしくは□□)
        「山中」→「中ヌキ」=山ナシ=山口  (もしくは□□)
        「山田山」→「中ヌキ」「田ヌキ」=山ナシ山=山口山(せん)=山口川 
ミ    などのようになるのかも。「竹が鼻」「木全又蔵」{五右衛門}{又蔵}が出てきたところ
        {中へん}という語句〈常山奇談〉   
    が出てきましたが何の意味かよくわかりません。やむなく「中変える」と読んで{木全山の中}(高山想起)の
    「中変」をして「木村、山の中」も、というようなことにしました。根拠は索引の
          「木全六郎三郎/木村いこ助」に
   にあるということになります。「田捨女」という場合も、「山田」の「田ヌキ」で「山口捨女」、もしくは「山
    も無し」となって単なる「捨女」となるかも。「捨女」も語りの戦線に参加してくるのでしょう。太田山
    は、「田」ヌキがされると、「太山〈奥の細道〉」が出てきますが、これは太田山想起でよいので
    しょう。    太田山
            山田山
     でも「太山(みやま)」がでてきます。杉山杉風というのは「三山」「山風=嵐」など織り込んでおり
    紀貫之〈古今集〉序の六歌仙の歌の一つ「文屋康秀」の
        「吹くからに野辺の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」
     の、「吹」=すい=「杉」、「山風(嵐)」を取り入れたものと取れますが、康秀とは、秀康の逆で、戦国の出
     自の話においては
     戸籍上も、実際も、天下人が約束されたような結城秀康の名前を想起したのかもしれません。「むべ」と
     いうのも、大伴黒主のところで「薪(たきぎ)を負へる山人」が出ており、芭蕉は「曾良」の説明に「薪」を
     用いているので、雄嶋が磯で
           「松嶋・・・ほととぎす・・・曾良・・・原安適・・・杉風・濁子(ぢょくし=中川氏・甚五兵衛)」
     と出されると、杉風=山風は「むべ山風」となって
         「無辺」〈両書〉 (「廻国の客僧」「弘法大師の再誕」「出羽の羽黒山」などが属性)
     を出そうとしたのか、どうか、です。これはわかりませんが索引〈信長公記〉では
               武藤6件/無辺/村井9件
     となって平手がらみの大物として扱われています。天正13年に信長公に殺されたということです。

       「橡ひろふ太山・・・書付・・・詩・・栗・・・文字・・・西・・木・・・西方浄土・・・行基菩薩・・一生杖
       ・・・柱・・・花・・・・栗・・・」〈奥の細道〉
       「{大通庵道円居士・・・ひとめぐり・・・  其のかたち見ばや枯木の杖の長(たけ)」〈芭蕉庵小文庫〉
  
    があり、「杖」が効いてきて、これに「太山」「浄」「道」「長(たけ)」など「太田」色が出ると、「下野」の「国」の
    「黒羽」の「雲岸(岩)寺」の「おく」の一節
       「・・佛頂和尚山居・・・松・・・書付・・・杖・・・山・・松杉・・・山・・・石上の小庵●岩窟・・・石室
       ・・妙禅師・・・法雲法師・・・木啄・・・木・・・庵・・・夏木立・・・一句・・・柱・・・」〈奥の細道〉
    の妙禅師、法雲法師にも影響が及びます。また「きつつき」が出るから脚注の「物部守屋」も出て
    「森尾」もありそうですが、佛頂和尚は「物頂」、「仏彫」もありえます。昔の百科事典には「円空」
    のことを、「岩屋の中に住んだので」
            「窟上人」
     といわれたというのがあり、これが最も端的に円空を現すものですが、ネット記事「円空」では出て
     こず、「窟上人」で見ると円空が出てきます。
      この「窟」が、●(ルビ=がんくつ)の「窟」ででています。これは、ここでは一つですが日光
     のくだり、
        「御山・・空海・・青葉・・黒・・霞・・・雪・・・白・・・曾良・・曾良・・・松嶋・象潟・・・二字・・岩窟
         (がんくつ)・・・夏(げ)の初(はじめ)・・・那須の黒ばね・・」〈奥の細道〉
      で「空海」の「空」を伴って「窟」が黒羽にすなわち●の雲岸寺の「窟」に来ています。山口素堂
     の所の「曾良」「松嶋」(青葉)へもここから繋がっています。「象潟」はこのあたりに出るのは考えにくい
      ところですが、「象」−「竹が鼻」−「円空」となるのでしょう。前書き、で道円居士が出てきた
           「其のかたち見ばや枯木の杖の長(たけ)」
       の「杖」というのも、ずっと出てきていますが、句の上五は「其の方(かた)を」と誤ったものもあり
      、また「枯木の杖」を「遺愛の杖」そのもの見る説もある、とされていますが、この句の訳は「故人の
       杖をひいた姿を想像しよう。」となっています。こうなると「其のかたち」というのは「像」のことで、
       杖の長さほどの木目のついた、虚空蔵菩薩のような仏像を見たといっているととれます。支倉常長
       の墓は「円福寺」がありますが、岡崎市岩津町にも「円福寺」があります。これは円空違いの円空関
       係の寺で、百科事典〈小学館〉では
           「浄土宗西山派四か本山の一つ。深草流の本寺。・・・円空立信(えんくうりゅうしん)が
           山城の深草に建立・・(15世紀に)・・勅願円福を賜り、寺号を円福寺と改めた。・・1661年
           には常紫衣の寺となった。・・・明治維新のとき・・三河にある同宗の妙心寺と寺地を交換・・
           明治16年現在地(岩津)に移して今日にいたった。」(昭和40年版)

       となっています。太田牛一、芭蕉などは春日井や、飯沼山などの「円福寺」もあるから、15世紀の
      「円空」という名は知っており、あの円空もこのことは知っています。「岩津」には、江戸後期、岩津
      天満宮があり、ここにも菅原道真伝説があるということですから、明治16年に円福寺が出てくる素地
      があります。「岩津」は〈両書〉で間接に出てきており、兵庫県の朝来(あさこ)郡朝来町(山口)の
      「山口岩洲」の「岩洲」が「岩津」というわけです。「山口・岩津」か「山口の岩津」か「山口岩津」か
      上月城のところで出てきたから「山中」も絡んで重要視されたのでしょう。〈信長公記〉岡崎のくだり
      (この辺り、「虚空蔵」もでてくる)
          「吉田・・・五位・・・長沢皆道山中・・・惣別石高・・・・金棒・・・岩・・・石・・・ココに山中の宝蔵
          寺・・・・正田・・大比良川(大平川)・・・岡崎城の腰むつ田川・矢はぎ川・・・」〈信長公記〉
      があり、ここも周囲も意味のわかりにくいころが多いところです。五位は脚注では「御油」という地名で
      すが、「五位」とした意味がわからないなどのことがあります。後世では
         「五位−醍醐天皇−藤原高光(「岐阜県郡上郡美並村」円空伝説のあるところに登場)」
         「五位−醍醐天皇−藤原義孝(「君がため惜しからざりし命さえ・・・」の百人一首の作者)」
      のような、ものに利用されて円空の説明がされたと思いますが、太田牛一がそれを知って「五位」に
      したか
      という問題などがあります。前者は、郡上郡粥川村に、土用の日には鰻を食べないという習慣がある
      というのはこの地の円空の虚空蔵菩薩(丑年の神)像によるものと思われ、また、嵩田村(美並村改め)
      には、熊野神社があり「神の御杖杉」があるとのことで「杖・杉」は「枯木の「杖」や「杉風」の「杉」などで
      で出ました。後者は先ほども「曾良何某・・・君火を焚け・・雪丸げ」が出ましたが「君」といえば
          ●「君・・・代・・・・千代・・・八千代・・・さざれ石・・・巌・・・・苔・・むす・・」
      の国歌になる前の古歌が出てくるのは仕方がないことで「梶原松千代」「小倉松千代」「青地千代寿」
      などの千代に繋げられるのはありうることです。「君」には芭蕉の
          「武蔵野やさわるものなき君が笠」
      もあり、君は武蔵野を出しています。これは解説では古歌の
          「武蔵野は月の入るべき山もない草より出でて草にこそ入れ」
      を踏まえた句ということですが「山なし」や、相撲24人一人「草山」、「三草山」の「草」も含まれていま
      す。「七草」の草は、江戸時代引き継がれるにあたり、追加の意味が付加されうる場合もありえます。
           ●の歌の「君」
       は藤原義孝の父が「伊尹」というようで(ウィキぺディアなど)、その「尹」と似た感じです。これ
      は甫庵の平手のくだりで出た殷の宰相「伊尹」と同じと見受けられます。
       〈奥の細道〉「素堂(脚注「山口信章」)・・・口・・」が出たところ
           「はらばふ」−漢字は「(門+甫)+(門+富)」の字、(外が「匂へん」もある)
      というルビの字があり、甫庵の「甫」が出されています。門構えでは「閹」という字もあり、この中の字は
      黒羽の「雲巌寺」のところで「小菴」がでますが、ここでは●の歌の「代」「石」「巌」「苔」「結」も出ます。
         「さざれ石」
      が、特殊なものなので、全体のつながりを阻害するように思われますが、芭蕉に
           「さざれ蟹(がに)足はひのぼる清水かな」
      があり「足」は「足駄」の「足」でしょうが、解説では『「清水むすぶ」の心で夏季』とされています。「むすぶ」
      がどこにもありません。「清水」は芭蕉に「苔清水」があり、
           ■「湯を結ぶ誓(ちかひ)も同じ岩清水」〈曾良随行日記〉
      があり、ここの「むすぶ」もその一つでしょう。解説では、
        「与市扇の的を射し時、・・・正八幡と誓ひし」のときの「誓ひ」とも結ばれています。また
      〈平家物語〉には
         「別しては我が国の神明、日光の権現、宇都の宮、那須の湯泉大明神、ねがわくは、あの扇の真中
         を射させてたばせ給へ・・・」
       となっているそうで、そうとすれば〈奥の細道〉は日光から那須へきており〈平家物語〉に準拠している感
       じです。芭蕉は〈奥の細道〉で「日光」で「空海」を出してきています。〈信長公記〉人名索引では
              「空海」   (「弘法大師」「高野山」「真言宗」「書道の三筆」「綜合種智院」)
              「九鬼右馬允」  (「志摩国」「熊野別当流」)
       という並びとなっており、空海はは渡海と絡んできます。また「空海」は文中では
         「岩淵の権枢僧正」「槇尾」「阿波国」「大滝峰」「結願」「虚空蔵菩薩」
       などの文と関わり、海とつながりますが、「阿波」=「安房」もあります。「空」は「円空」とも那須で絡みそ
       うです。また〈芭蕉全句〉ではこの「岩清水」の句は、
          「湯」と「清水」の対応、「むすぶ」の掛詞等・・・句としては燃焼度の低いものというしかない。
・・      と書かれていますが、「むすぶ」は
          湯を「掬(むす)ぶ」(手ですくう)意と、誓を「結ぶ」意との掛詞。
       とも書かれてあり、こうなると「山中温泉」の「菊」にもつながり、かなりの影響が周囲に及びそうです。
           掬(むす)ぶよりはや歯にひびく泉かな〈都曲〉
       という句も芭蕉にあり、和泉守も顔を出しかねません。この句は下五「しみづかな」もあり「清水又十郎」
       もでるのでしょう。「歯」は下駄の一枚歯は役(えんの)行者や天狗のものですが「二の字」「二の字」の
       出る普通の下駄もあります。この下駄の「歯」は覚えておいたほうがよいようです。■の句の同時期
       の句、〈芭蕉全句〉では直前の句は
            「鰹売りいかなる人を酔わすらん」
        があり、この解説では「初鰹」が出てきますから(山口)素堂が意識されています。直後の句は
            瓜作る君があれなと夕涼み
        があり、〈山家集〉の「夏熊野へ参りけるに・・西住上人のもとへ・・」と前書した歌
            松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなとおもほゆるかな
       を踏まえている、と書かれています。『「君があれな」は君がいたらよいのになあの意。』とされて
」      います。「君」は「君が代」の歌の「むすぶ」に繋げられているから■の句の直後にあるわけでしょう。
       また芭蕉は(「熊野」−「夏」)を援用しています。〈芭蕉全句〉では「黒羽」の一節の解説に「羽黒(ママ)」
       が入っており逆にするというのは一つのテーマとなっています。黒羽は男系とすると羽黒はその逆となる
       ようなことです。ここの熊野と夏木立などの「夏」とのセットは芭蕉の世界に紀伊の「熊野水軍」が登場し
       たといえます。 「宮本兵大夫」=「宮本武蔵@」の「宮本」はどこからどこからきたか、という問題があり
       ますが、渡海の宮本を語ったもの
            「本宮」=「熊野本宮大社」
       から逆にして持ってきていると思われます。「本宮」で検索すれば熊野本宮が出てきます。紀伊から
       伊勢へ宮川があり、「宮川但馬守」「宮川八右衛門」「宮川但馬守」があり、
         前野(田)但馬守=但馬守=宮川但馬守(「太田但馬守」も後世で作られる)
       で「宮部善祥房(坊)」「宮脇又兵衛」の流れの中の「宮本兵大夫」です。湯浅常山は宮部善祥坊の
       出てくるところ嶋津の大将
         「新納(にひろ)武蔵守(むさしのかみ)忠元(ただもと)」(タイトルは「新納(にひろ)武蔵(の)守・・」
        を出しています。この「忠元(ただもと)」の「元」は「宮本」の「本(もと)」で「基次」の(もと)があるかも。
        「新納」の「新」は「新免」「新面」の「新」とはいえないが小倉碑の宮本伊織の「新免武蔵」まで入ると
        意識されているといってもよさそうです。「面受」→「田面」(「太田」の「田」)ここで
             「・・有名をもて指を折る時第一なりとて、大指武蔵と称しけり。・・・秀吉・・・新納は肥後の
             堺泉の城にあり。{一説に大口と有り}・・・秀吉・・・武蔵守・・・(以下細字)・・秀吉・・新納・・・
             秀吉・・・新納・・・武蔵守・・・新納・・・新納日向口・・・宮部善祥坊・・・新納肥後口・・新納・・」
                                                              〈常山奇談〉
          となっており、「大指武蔵(おほゆびむさし)」が出てきました。「親指武蔵」ということでしょうが、
            「武蔵」=「六指(むさし)」
         となるようです。芭蕉に「無用の指を立(たつ)るがごとし」がありますが、脚注には、意味の解説は
         なく故事の紹介だけです。「六用の指」とでもすると指折り6番目は小指でも使いますが、そんな
         こといってない、というでしょうから、判っていれば教えてもらいたいところの一つです。辞書には
         無用の用はありますが「無用の指」はでてません。〈広辞苑〉で、このあたり見ますと「村井」があり
         ますが小説家の「村井弦斎」と、「村井長庵」の二人だけしか出ていません。〈信長記〉を彩った
        「村井」は、当然ありません。当然というのは太田和泉守牛一も出てませんから出るはずがないもの
       です、河竹黙阿弥の世話物「村井長庵」というのは重要と思われます。「無辺」を信長公のところへ
        連れて行ったのは「楠長庵」「長庵」です。〈両書〉索引では「武藤/無辺/村井」となっています。
        〈信長公記〉索引では
              楠木正虎(文中表記「楠木長安」「長安」)
              朽木元綱(文中表記「朽木信濃守」)
         となっています。元綱の「元」は「忠元」と同じです。
            能登国七尾城代「菅屋長頼(文中「菅屋九右衛門」)」=爆竹Aの「菅屋九右衛門」
         の「長」につながりこの「長」は「永」でもありますが「信長」、「長秀」の「長」、「杖の長(たけ)」の「長」
         です。新納武蔵守は、肥後口の大口の城と聞いていましたが、ここでは「堺泉」の城にいて
         {日向口}も出てきます。「新納」がたくさん出てきて、題が「武蔵」だから「新免」はあるだろうと見れ
         ますが、省いたところに、
          「一面目」があり、「新」を「面」が受け小倉碑文の「新免」とつなげているといっているようです。「納」
         は、はみ出しますが、省いたところに武蔵守の「大言」があり「大納言」として納まるのでしょう。また
         省いたところに、
              「日本(にほん)」「日本国(にほんごく)」
         が出ておりこれは、通常文と、細字にそれぞれルビ付きで一つづつ出ており、「日本」の意識と江戸
         時代の読みが窺えるものです。「三四」もあり講談などで宮本武蔵の養子に「宮本無三四」という人
         物がいたような記憶がありますが「無」−「六」−「武」があるようです。ここは長い文章で、この前の
         一節が「小熊の城」で、楢柴の茶入れを手に入れて
         満足して戦いを辞めてしまった秀吉がでています。このあたり湯浅常山は
             ○[坂小坂先登の事」で氏郷の先陣蒲生源左衛門白き吹貫
             ○野矢甚右衛門功名の事(「氏郷」家中)
             ○秋月種長降参のこと(「小熊の城」)
             ○新納(にひろ)武蔵守豪気の事(「武蔵守」「大指武蔵」)
         というように節を立てています。つないでいるはずですがそれなら二番目が何のために出てきたか
         わからないわけで、そのままだと頼りないものだとなってしまいます。これは野矢⇔矢野としていて
               「矢野藤市」〈甫庵信長記〉
         の説明ではないかと思われます。平手の「甚」で大阪城の矢野氏の出自が出ているのかも。つまり
         平手=佐久間(信盛)=太田ー後藤ー武蔵の流れがありそうです。
          
         とにかく、武蔵ー肥後ー日向ー宮部ー日本などで
         航海と小倉碑文と太田和泉守と嶋などをつないだのが、常山の新納武蔵の一節ですが、宮本武蔵
         は渡海を語るキーマンとなっているのがわかります。幕末のイギリス外交官・史家のアーネスト・サトウ
         は薩摩藩の家老「新納刑部(ニイロギョーブ)」と親しいようですが、「三四」でいえば新納刑部が出
         た「土佐と長崎」という章では「佐々木三四郎」がでてきます。「佐々」−近江「佐々木」は渡海−海外
         を語る場合には不可欠のことで、ここでは
            「後藤象二郎」「後藤」「伊藤」「小松帯刀」「山内容堂」「伊達伊予守」「海援隊」
         などが出てきます。サトウは宮本武蔵を新納から出したと思われます。つまり〈常山奇談〉はよんで
         いたはずです。ここで
            「木戸準一郎、別名桂小五郎に初めて会った」〈一外交官の見た明治維新〉
         と書いていますが、これは改名か、別名かという問題は残ります。
          いまネット記事でも確認できるように、自身も「アーネスト・サトウ、別名佐藤愛之助」
         ともなるようですから「佐藤紀伊守・子息右近右衛門」「佐藤六左衛門」なども知っていたかも。「佐藤
         六左衛門は「武儀郡上有智村鉈尾(なだお)」の城主であることは先ほど出ました。ネット記事、「円空
         さんを訪ねる旅(12)」によれば「円空記念館」は今は「関市洞戸」ですが、以前の地名は「武儀郡
         洞戸町奥洞戸」(高賀神社)だったようです。また「尾張鉈薬師堂十二神将」という語句もみえます。
         「美濃の円空仏ー2」によれば「松の根を鉈でレリーフの様に刻んだ大黒天。」「台座に象の線刻の
         ある普賢菩薩。」などの断片的に取り上げた情報があり、
            「鉈(なた)」−「武儀郡」−「堂洞」−「佐藤」
         なども「円空」と関係ありでしょう。〈一外交官・・・〉の岩波文庫版の著者紹介では「サトウ」に日本名が
         あったことは書かれておらず、表記のこと、抜いとこ、というのは、関係づけの元ともなる表記の、
          その威力を知っているのでやられることでしょう。
         「後藤象二郎」は「象」で「山内容堂」は「酔翁」とあり、これは「鯨海酔侯」のことで「鯨」も出てきます。
          同書巻末にサトウの著述目録があり、「日本遣欧使節の日記の英訳」が載っています。日本遣欧
         使節というのは四人の少年使節のことか、誰の日記なのか、とにかく日記が残されていたとは
         現在の解説ではどこにも書かれていません。
 
        (150)雲岸寺(雲岩寺)の山居跡
        〈奥の細道〉(山口)素堂の出たところ
             「和歌」(歌は欠なし)
         がでたことは重要ではないかと思われます。雲岸寺の一節冒頭「佛頂和尚」「山居」のあとに和歌が
         でます。
             「▲縦 横 の五 尺 に た ら ぬ 草 の 庵(いほ)
                   むすぶもくやし雨なかりせば
             ・・・・・松・・・書付・・・杖・・・苔・・・十景・・・松杉黒・・・天・・・小庵岩窟にむすぶ・・・
              ▼木啄 も 庵 は や ぶ ら ず 夏 木 立
               ・・一句を柱に残し侍りし・・」〈奥の細道〉
         となっており、▲と▼の「不足」−「不破」が結ばれている感じです。日光からの「岩窟」があり円空は
         「五尺」で表されたのかも
         知れません。解説では「黒羽」のくだり「羽黒」(ママ)があり、触れていませんが「両」ー「雨」という間
         違いもありました(ここの「雨」に関わるかも)。
              「五尺」⇔「尺五」
          が、ここで満を持して出てきたと思われます。テーマの一つとして流れてきたものが、ここで出た、
          松永貞徳の子ともいわれる「松永尺五」は名前がおかしいから印象が残っているので出てくる可能性
         はあります。世代のことはあとで考えればよく、一応尺五の@Aなどが円空に関係あるかもしれない
         というのが出てきます。表記だけの手がかりでこういっているので、否定するのも正解ですが、わから
         ないから、ほっとく、というのは故人にはなかったので、ほかのことで探そうとなるだけです。
         
          前後に伏線が敷かれていて「尺五」の「五」については
           「佛五左衛門・・空海・・曽良・・惣五郎・・惣五改て宗悟・・岩洞の頂(いただき)」→「佛頂」「五」
           「岩洞の頂(いただき)・・・飛・・・尺・・・千・・・(日光の)岩窟・・・瀧の裏・・・うらみの瀧・・・(日光
           の)夏・・・・(雲岩寺の)書付・・・(雲岸寺の)小庵岩窟・・庵・・・・(山中温泉の)うらみ・・・今日・・
           ・(山中温泉の)書付・・・」→「今日」「庵」「小庵」「裏」「千」
           「黒はね・・・(黒はねの)一村・・・(山中の)一村・・・貞徳・・貞室・・曽良・・」→「松永」「千」「五」
         などがあり、また芭蕉の「五尺」は
              ほととぎす啼くや五尺の菖草(あやめぐさ)
         があります。「ほととぎす」は殺生石の一節、
              「館代・・・野を横に馬牽(ひき)むけよほととぎす」
        がありここの「牽」は雲岸寺の「曳(ひき)」でしょうが、この句は正岡子規が非難したものです、それも
         古歌の「五月(さつき)のあやめ草」から「五月」=「五尺」と持ってきただけのものというわけです。
          子規の酷評も合っていると思いますが、〈芭蕉全句〉の加藤氏は、これだけ転じただけで
              「十分な俳趣を生み出し得ている手腕は、並々の力ではない」
        と褒めています。昔はあやめ草から受ける印象は背が高いということだったのでしょうか、訳では、
           「地にはあやめ草がもう五尺にも伸びて、まことにすがすがしい初夏の候・・」
         という趣があるそうです。尺八は一尺八寸ですから尺五は一尺五寸になるのでしょう。しかし最後には、
         菖草は「アヤメ科のアヤメとはまったくの別物、端午の節句に用いるショウブのこと」とされており、
         「草カンムリ+昌」+「草」、が出されたということになるようです。これは松永尺五の別名
              「昌三」
          につなげられていると思われます。芭蕉では六尺、五尺、三尺が出ており、三尺の句では
             大津にて   三尺の山も嵐の木の葉かな
         があり「昌三」の「三」が出たかとも感じられます。この句は前書「大津」ですが「大津」は人名では
         「大津伝十郎」があり、名前は「長昌」です(テキスト人名索引では「長治」)。三尺は「小さな低い
         山」を強調したものとされています。「尺三」=尺×3もあるかも。この句の解釈は、句外の言葉が使わ
         れています。「低」とか「木枯」ですが「低」でいけば〈奥の細道〉象潟のくだりに出る
            「{みののくにの商人}低耳(ていじ)」(脚注=宮部弥三郎)
         の「低」があり、下五「夕涼(すずみ)」の句があります。夕=(せき)=尺で、尺五は(せきご)と読む
         ようです。「夕涼み」を少し拾い上げてみますと
               飯あふぐ嚊(かか)が馳走や夕涼み
          があり竹が鼻の「鼻」が出てきます。「口へん」付きではないか、と文句が出そうですが、〈木枯〉
          という句集には『「食あふく鼻か」と表記』という解説がでています。また
               四条河原涼み  川風や薄柿(うす柿色のかたびら)着たる夕涼み
          があり、解説では「昌房宛去来書簡に、この前文を芭蕉作と知らず加筆しようとした失敗談を記す。」
          とあり、「昌」が出されています。また「〈泊船集〉許六書き入れに上五“川風に”と訂正するが、根拠
          不明、許六の思い違いか。」とあります。芭蕉も頼りない門弟を持ったもので、日本の文献の頼りなさ
          と似たようなものです。が、芭蕉は「三尺」の句の「嵐」=山風と繋ぐため「川風」をもってきたとも取れ
          ます。許六のは、前文が生かされていないので「川原に」としたいということを間接に言ったとも取れ
          そうです。薄着したことを気にしている人(芭蕉など)には、川風がよく、風景的なものでは、川原が
         よいことになりますが、「夕涼み」間の連携も見ないといけないのでしょう。「夕涼み」はもう一つ〈奥の
         細道〉にあり
              あつみ山や吹浦かけて夕涼み
         があり、「羽黒」「鶴が岡」「酒田」「左吉」「長山氏」「淵庵(えんあん)不玉(ふぎよく)と云医師(くすし)」
         「巻」「船」「乗」「海」などが出たところにあります。「あつみ山」は紀貫之も出しています。「長山」は
              「加賀・・・・永山・・・能美郡虚空蔵・・・」〈信長公記〉
         が出てきます。ここの「不玉」は脚注では「伊東氏」ですが、この「不」は雲岸寺の一節の初めの和歌
             「竪横の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば」
         の「不足」と終わりの句、
             「木啄も庵はやぶらず夏木立
            のとりあえぬ一句を柱に残し侍りし。」
         の「不破」の「不」をむすんだもので、「とりあえぬ」という珍妙なものの「ぬ」は「たらぬ」の「ぬ」で本義の
         「とりあえず」の「ず」は「やぶらず」の「ず」で、こういう繋ぎが芭蕉の意図したものととることができる
         もので「不玉」の意味の大きさもでてきます。「淵庵」の「庵」は解説では「潜淵菴不玉」とも書かれ
               「少菴」
         のアンとも対応しています。(くすし)というのは「薬師」もありえます。みのの国の低耳の句には
            「虫へん+延」(あま) 「板敷」
         があり、「あま・エン(延)」はむつかしい字を出されてこまりますが、脚注では「象潟」は「(虫+甘)潟」
         とも書くようです。「あま」は「甘い」の「甘」だから、〈信長公記〉では「甘(くつろ)げ」から「竹が鼻」や
        「薬師」が出てきたといおうとしたのに虫プラス甘の感じが出たので助かったといえるところです。
         「延」(えん)は「淵庵不玉」の「淵」にもつながるのでしょうが「円」-「丸」→「玉」はありえます。「敷」は
        「四条河原涼み」に「桟敷」があり、「川原」「川風」の問題は低耳も三尺を重視しているところです。
          「夕涼み」は
                「瓜作る君があれなと夕涼み」
         がありこれは〈伊勢物語〉や「古園」にも広がりますが、「君」は「君が代」があり、千代・八千代・巌・苔
         むすぶ、は「五尺」の一節や航海にも繋がるものです。一方「木枯」も「三尺」の句の解釈に使われて
         いました。「木枯」関連で一部あげると
             @「竹画賛   木枯(こがらしや)や竹に隠れてしづまりぬ」
             A「蔦植えて竹四五本のあらしかな」
             B「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」
             C「木枯らしや頬(ほほ)腫(ばれ)痛む人の顔」
             D「武蔵野の月の若ばえ(へ)や松島種(だね)」(左ルビ=ダネ)
             E「其のかたち見ばや枯木の杖の長(たけ)」
          などがありますがEが既述で、円空仏像のような感じとみてきました。「大通庵道円」の一周期の句
         です。これは「木枯⇔枯木」で、(たけ)から「竹」「武」もでています。円空は「武儀郡洞戸町洞戸」、
         つまり「不破の関」の「関」の洞戸(高賀神社、虚空蔵菩薩像、熊野神社、粥川村などがある)が本拠
         の一つで「武」はあるところ、@で「竹」ともつないであります。Aは三尺の「嵐」をみて、Bの「竹」は
         雲岸寺の和歌(「欠」なし)
               むすぶもくやし雨なかりせば
       の「雨」−「五尺」をみてのもの、ここに「竹」が入った瞬間ともいえます。「蓑」−「美濃」、「笠」−「竹・建」
        でもあり、美濃の「嵩(山)」(「堂洞」・「佐藤紀伊」・「右近」「飛弾」「丹羽」「岸良沢」などの一節)に
        むすばれます。Cは木枯らしで頬が痛いという状態ですが、「人の顔」を主役にすえると、「木」が二つ
       利いて、つまり「枯れ木」も効かされ、「木の人の顔」になりそうです。「腫」はDの「月+種」=「腫」ということに
       なるのでしょう。ここで「武蔵」の「月」が出てきて、若々しいといっています。松島の月を種としているとい
       う意味のようで、解説も「まったく道具立に終わっている。」とつれないものです。「松島種」に「松(山鳥)種」
       (縦に山鳥のシマ)もあり、芭蕉では「種(いろ)の浜」=「色の浜」「種(いろ)の月」もあるので、松も
            「松兼・待兼」⇔「兼(金)松」
       のようにもう一つあるかも。松島の少しまえ「末の松山は寺を造りて末松山といふ。」があり、これも
            「(末の)松山」⇔「末松山(まつしやうざん)」
       ということで余分なものをつけて色をかえるというのがありえます。「種」については
               松永氏に「永種」という人物(松永久秀養子とされる)
        が出るのでその「種」もいいたいのが松島種の「種」というのも考えられます。
       Eの句の前書に「大通庵」の「道円居士」があります。句は「木枯」⇔「枯木」の転用があり、「長」−「永」
       −「竹」もでています。〈信長公記〉索引では
             「快川紹喜・・・・大通智勝国師の国司号を賜った。(文中「快川長老」「円常国師」)」
      となっており「大通」は「快川」、「円常」の両用と取れます。「円常国師」はもう一つあり、索引で
           江村(京都)/円常国師/円浄寺(相撲)/円浄寺源七(相撲)
      という並びになっています。「円常国師」は「大通」の「道円」に通じ
             「円空」=「円常国師」の系譜
「     というのかもしれません。江村=絵村 でもあり、「円浄寺源七」からみれば「円浄(常)国師」ともなり、この
     人物は森の一族の長老ということになりそうです。
      
      「江村」の周辺の「絵」でみれば、永禄12年
          @「佐野(灰屋紹由)     鴈の絵
            江村            もくそこ(百底花入れ)」〈信長公記〉
     を献上しました。この「もくそこ」は「木(目)底(低耳)」として後世では利用されそうです。一年後
          A「天王寺屋宗及       一、菓子の絵
            薬師院           一、小松嶋 
            油屋常祐(「由」もある)  一、柑子口
            松永弾正          一、鐘の絵」〈信長公記〉
       があり、この二つの信長の買い物の記事は、離れていますが両方「夕閑・丹羽五郎左衛門」が使者で
      すから、繋げてあります。つまり人名・物体の索引がもう一つあるようなものということです。ここに「松永
      弾正」が、締め切りで出ており、松永弾正は@の前年
           「松永弾正は我朝無双のつくもがみ・・今井宗久・・松嶋の壺、併(「イ」なし)紹鴎茄子進献。」
                                                            〈信長公記〉
      があり(甫庵は「つくもがみ」→「吉光の脇差」、「紹鴎茄子」→「菓子の絵」に変換している)、
          ○松永スタート、松永で終わる
          ○佐野の絵→松永の絵の流れがある(「宗久」の絵は茄子に変えうる。水流のなかの伝い石のよう
           な役目を果たして消滅。) 
          ○最後の「鐘の絵」も(紹鴎)茄子に変えうる、「松島」→「小松嶋」→「茄子」の流れは一貫して松永。
          ○@の「ジョウユウ」、Aの「ジョウユウ」を経て松永にいたる。円常の「常」が松永へ。「灰屋」と「油屋」
            は親子(義理も考えられる)のような関係が読み取れる。ここの「佐野」は脚注で
              「灰屋紹益の養父紹由か」
            となっている。「油屋常祐」が「常由」でもあるのは人名索引に出ている。祐益は「伊東」があり、
            「佐野」の前の「祐乗坊」を受けている。「快川」の「紹」、「円常」の「常」が効いている。
          ○薬師寺(薬師院)の薬師は「小口を甘候(くつろげ)」から出てきた、油屋常祐も「柑子(小)口」で
           あり、「甘」「甘」→松永に来ている
              「竹が鼻・・・あかなべ口・・・虎口を甘(くつろげ)、井の口居城・・」〈信長公記〉
           で後世「円空」の属性ともいうべき「竹が鼻」も出てくる。「あかなべ」は脚注では「茜部」。
           また「井の口は岐阜の別名。稲葉山の上にあったので稲葉城という。」〈脚注〉とあるが「口」は空キ
           もあり、「井口山」の上にあって「井の葉山」→「稲葉山」となったといっているかも。「井」は
                「井戸才介」(「美濃 加茂郡麻生城の井戸氏)
            もあるので重要。筒井の井戸氏もあります
       など松永の周辺、円空に関わるものがあります。
       芭蕉の「井」は
              「岐阜山にて  城跡や古井の清水先づ問はむ」
       があり「喜三郎何がしは稲葉山に閑居をしめて納涼のために・・」という前書もあるものです。
       「井」「清水」「稲葉」が登場しますが
              「稲葉山  撞鐘も響くやうなり蝉の声」
       もあり、「鐘」も稲葉で出てきます。〈信長公記〉の「松永の鐘の絵」につなげるものかも。
              「(前書)稲葉山の松の下涼みして・・・・山陰や身を養はむ瓜畠」
        では稲葉山−「松」で瓜二つの真桑瓜が出て
               「立ち別れ因幡の山・・・松年聞かば・・」
       の因幡の「松」もあり、「稲葉」から「松」−清水−井口−松永の「松」−竹が鼻の連携がありそうで
       すが、「清水」は
             「露凍てて筆に汲も干す清水かな」「苔清水  凍て解けて筆に汲み干す清水かな」
       もあり、清水又十郎=太田和泉守の「筆」もあります。この「露」は「西行」を通じ「稲葉山
       (岐阜山)」の「清水」に通ずるもので「松の露」がよまれています。

       (151)兼松正吉(金松又四郎)
       「西行の草鞋もかかれ松の露」
       があります。「松」は、明智の語りに利用されるものですが「松永」の「松」があり、また「金松」「兼
       松」の「松」もあります。芭蕉に「(末の)松山」⇔「末松山」がありましたが
               「松山」〈信長公記〉
       が、三好勢の中に出てきて孤立、不完全燃焼のままに残されています。索引では
                     松本為足
                     松山
                     万里小路光房(「充房の誤字か」)
                     万里小路充房(文中「万里小路蔵人右少弁」「権右少弁」))
                     まなべ七五三兵衛
       という並びの「松山」で上の「為足」は「佐治八郎為興」の「為」、「不破矢足」の「足」で太田イズミ守
       と取れそうで、兼松正吉はその代表です。万里小路は惟房が道家尾張守と朝廷との間を取り持ち
       信長の京都進出を図っています。「まなべ」は織田の海軍の将で、この流れからいえば松山は男性と
       みて書かれたとみれます。この三好か細川の一族ともとれる不明の「松山」は〈甫庵信長記〉の
            「三好日向守、同下野守、松永弾正少弼、岩成主税助、●松山新入松謙斎にて・・・」
       という、永禄八年ころの畿内遠近の執権として出てくる●の人物だけです。まあ、これだけでは
       とりつくしまもないので、一応関係付けてみると
               三好日向守
               ‖・松永弾正少弼
               同下野守  |
                      ・岩成主税助
                      ・●松山・・・松兼
        ということも考えられます。「松山」は●とはいえないというのは尤もなところですが、松永は
          「三好修理大夫が家の子に松永弾正少弼といふ者・・・」〈甫庵信長記〉
        の一文があるので間違いともいいきれないものがあります。松永弾正の「弟」に「松永長頼」という傑物が
        いるのは〈類書〉で知られていますが、「弟」というのが二通りあるというのがこの場合でもありそうです。
        「弟」と、連れ合いがありそうです。
              (松永)長頼=「岩成」=内藤氏
        ではないかというのは既述ですが、今日で言う「弟」が●の人物で、表記からいって、これが「兼松正吉」         ではないかと思われます。つまり
               城代菅屋長頼=(長頼)=松永長頼
        というのがこれをいっていると思われます。金(兼)松は、「葉栗郡島村(一宮市)」の住人しかわかり
       ませんでしたが、松永弾正とは兄弟ということになります。目に付くところ並べましたがkいいたいことは
       兼松の出自ということで、越智玄番(玄蕃)で松永再生がでましたが、玄蕃として兼松が奔走したという
       ことが考えられます。あの松永弾正に今日でいう弟が二人いたということであれば説明がしやすいとい
       えます。
       芭蕉の
            あさよさを誰(たれ)まつしまぞ片心(かたごころ)
       は「誰まつ島」は、“「松」と「待つ」をかけたいい方“”、で、この句は「鼻紙の端に書かれし句」で松永
     に関わるかも。大坂府の石橋にある「待兼山」は「兼松」を見ているのでしょう。松永弾正、生存説を言っ
     たままとなっていましたが、越智玄番への本領安堵があって、その後は円常国師として手がかりがあるの
     かも、というところまできました。一方、無辺という廻国の客僧がいて、円空という名前は平安時代からある
     名前で戦国の円空があって、芭蕉のころの円空があるということです。地名索引で
            多芸谷国司の御殿/滝山/多芸山/竹が鼻/たけくらべ/竹嶋/武田信玄館/竹田の城
       があり「御殿」を地名に入れるのはおかしい、「多芸谷国司」は別に人名索引で「北畠具教」とされており、
       美濃の多芸郡、多芸山(養老山)のあたりに、その後の「国司(国師)」の御殿があったというのかもしれ
       ません。芭蕉に
          「橋木子(けうぼくし)にて  土手の松花や木(こ)深(ぶか)き殿(との)作(づく)り」
        があり、この訳では、[花]は「庭の桜」、「殿」は「家居」となっており、藤堂修理という人の奥深い屋敷を
       称えている、ということですが「少し作意があらわに過ぎて感銘が薄い」とされています。しかし作意は語
       られていません。解説では「殿作り」は「御殿の作りよう」となっていて「御殿」が出ています。「子」という
      のは「光明子」のような「子」と思われますが、この際は「木(こ)」にもなりうるもので「ぼく」は木×2であり、
      全体「木」が四つ、「ぶか」は「深」「深」で、屋敷は(松)木で囲まれている情景が浮かんできます。中に
      いるのでなく、外から屋敷をみると「土手の花、松や木深き殿作り」というのもありえます。つまり
         「松花」⇔「花松」
      の交換で御殿が感じられるというのがありそうです。解説にあるように「花はもちろん桜の花」「花が春季」
     というものでもないと思われます。土手の松とすると木ですが、土手の花となると、「木」とは限らないことに
     なります。
         ○「修理」と「松(永)」は先ほど出されている
         ○句から「木作」〈信長公記〉が出されている「木作」はテキスト人名注では
             「長政。木造氏・・・伊勢壱志郡木造荘(現「久居町木造」)から興る。」
          となっており、「家居」の「居」がでている。索引で「小作」の前に「国司父子」が割り込んできている。
         ○花=鼻はハナクマがあり、〈信長記〉では、「鼻熊」「鼻隈」に決まっている。
         ○修理の屋敷は伊賀上野城の「二の丸」である
         ○「木」「松」「橋」「居」など雲岸寺の一節につながる、
         ○「土手」は「土田」「平手」、「庭」は「丹羽」がある。
      など松永を出すものがありますが「二の丸」から
           「堂洞」−「洞戸」−「洞が峠」−「筒井」
    と、松永から円空、空洞、竹筒、円筒、筒井といくような「同へん」の流れがあります。大和筒井で再生した
    松永で円空という名前は必然といえます。

      (152)洞が峠
     足利から織田へ政権が移る過渡期
      に三好長慶の政権があり、松永久秀の奈良進出にともない筒井家との熾烈な戦いがあったようですが、
      硬軟両用の施策が打たれていたはずです。
      筒井順昭が三歳の筒井順慶を残して死亡、順慶よく一族、家臣の補佐を得て、戦国大名として生き残った
      ということですが、織田が太田和泉守の時代であり、松永久秀が順慶を後見したことが十分考えられます。
      松永が滅んだあと、その遺領10万石を、高取にいた筒井順慶が入部し引き継いでいます。松倉右近、
     島左近の存在や、明智光秀と筒井との関係の深さなどは松永氏が順慶の父の筋というのも考えられる
     ところです。光秀の次男、十次郎が順慶の猶子となっており、(筒井の「井戸若狭守」が使者)、
         長慶=(慶)=光慶
     という表記的なものも無視できません。筒井の二人の名臣、松倉右近(重政)・島左近(勝猛)は芭蕉の松島
     にも影響が及んでいますが、筒井の外戚のような感じの織田の有力者、一応、坂井右近、滝川
     左近(太田和泉守、明智左馬介)の右近左近の支援があった、という実態をあらわし、個別の引き当てとして
      は軍事支援が中心なので、今となれば、兼松正吉、安房守秀俊相当人物と見るのが妥当であろう、伝説的
     人物ではあるが実体を表しているというのがこの二人というのがいいたいところのことです。立本寺に島左近
     の墓があるというのは、斎藤立本が斎藤内蔵介の子息であるとすると、明智左馬介と義兄弟ということになる
     というのでしょう。明智左馬介→島左近を証するものでもあります。世代のことはあとで考えればよいことです。
     三万余の大軍を率い洞ヶ峠で待機したのは、明智光秀の号令待ちということになるのでしょう。

     (153)松永弾正の別表記
      〈甫庵信長記〉では「池田伊丹」という表記は集中的に5回ほど出てきますが、「三好松永」
     という表記はなさそうです。松永は「三好が一党」に入っているのか、「三好日向守が家来に某と云ふ者」
     〈甫庵信長記〉などで表されているのか、武将としては余り出てきません。早い時期
         「芥川の城には、細川六郎、三好日向守、楯籠りたりける・・・」〈甫庵信長記〉
     があるので、         三好日向守
                      ‖松永弾正少弼(松永弾正)
                      細川六郎
     はあるかもしれません。甫庵の人名索引には、いわゆる細川氏のなかに「な行」では(全部で)

        永岡兵部大輔藤孝/長岡兵部大輔/細川兵部大夫藤孝/細川兵部大輔/兵部大輔藤孝/藤孝/
        (子息)与一郎忠興/越中守/与一郎/長岡与一郎/(舎弟)頓五郎/長岡兵部大輔藤孝父子/永岡/
     があり、上の細川六郎などは「ほ行」に入っており、ここでは

        細江左馬助/細川(三管領)/ 細川右馬頭/右馬頭/細河宮内少輔/細川左馬頭/左馬頭/細川/
        細川六郎/細河六郎/ 細木治部少輔/堀田道空/堀田武介/堀久太郎・・、
     となっています。「六郎」の「細河(川)」などは上段の「細川」と遮断してあります。上段の細川が全部、今で
     は、いわゆる
           細川(藤孝)、忠興
     父子関連とされ歴史文献の裏づけある重要人物が、明治まで家を保った、先見の明ある、
     世渡り上手、有職故実に長じた英雄として名声を欲しい侭にしています。「藤孝」が五つもあり「藤」は
     松永弾正が、刀の「薬研藤四郎」「藤重」「筒井藤四郎藤政(順慶の別名)」などに接近していることをみる
     とき、松永を表していることも考えられます。「永岡」の「長」は、松永の「永」は当然考えられます。
        細川六郎
    は佐藤六左衛門のような役割を果たしている感じで重要表記といえそうです。すなわち「治部少輔」「堀田道
    空」「堀」に索引の流れにおいてもつながっています。
     「円空」は江戸初期のあの「円空」だけとは限らず鎌倉時代に、国師とも言うべき「円空」がいた
     ということは、太田和泉守が
        「円常国師」「円浄寺」「長円寺長老」〈信長公記〉
     などをみるとき、松永弾正に「円」の字を宛てたかったと取れます。「空」は「空海」の「空」、「道空」の「空」
     ですが鎌倉時代に「空也」がいて、「円空」の「空」に関わらせようとしたと思われます。
                 円空
                 空也
     で鉢叩きの空也も戦国の木下長嘯子に絡んで出ました。「空」は「木喰」の「喰う」でもあり、〈信長公記〉に
     「とう目の虚空蔵」がでて「虚空」の「空」は「円空」の「空」はありそうです。円空の虚空蔵菩薩があります。
      「柴田」「賀州」「松原町」関連で
          「宇津呂丹波・{子}宇津呂藤六郎・岸田常徳・・(鈴木五人など)・・●長山九郎兵衛・・・」〈信長公記〉
     がありこの●の人物はテキスト人名注では
          「永山氏・・・虚空蔵山城に拠る・・」
     とされています。「虚空」と「松永」の「永」、「前波九郎兵衛」の「九郎兵衛」を属性とする「長山」は、〈奥の細
     道〉、象潟の前に登場する「長山氏重行」(「船」「海」「湊」「乗」「佐吉」「淵庵不玉(伊東氏)」など伴ってい
     る)に通じ、ここの「うつろ」(宇津呂)に結びついてきています。ここでも「藤六」が出ており松永にも関係づけ
     られていそうです。「岸田常徳」はこの19人のなかに「徳田小次郎」がいるので「徳」を辿ると
          「日向玄徳斎」〈両書〉
     に行き当たります。これは、索引では
             日野長光 (「相撲。」)
             日比野清実  (文中「日比野下野守。」「美濃安八郡西結村。」)
             百済寺の鹿・百済寺の小鹿  (「相撲。」)
             日向宗栄 (文中「日向玄徳斎」「日向氏は信濃佐久郡日向邑から興った。」)   
             平井越後→平手へ続く
      となっており、渡海の「日向」や、「前田玄以(徳善院)」や、「佐久」が絡んできますが、一見「日」と「日」
      に挟まれた「百」がおかしいようです。「百」=「日」かも。甫庵は「白済寺」となっています。
          百(白プラス一)=百(百済の「百」)                                     
          白(百マイナス一)=白(白済=白羅の白)
          日(百マイナス二)=日(小日本=日本の日)
      ということが〈日本書紀〉の「大日本」という天皇名の意味かもしれません。百済も新羅も東方の「日出づる」
      の国に入るのではないかと思われます。それは太田和泉守の述べようとする範囲にも関わります。
       ここで「宗栄」が出て、テキスト補注では、信盛は定盛で、甚九郎は「信栄」=「不干斎定栄」で、永徳父
      は「松栄」という「栄」の流れとなり、
                     佐久間信盛(平手政秀A)ーーーー|正勝(「定栄」)
                     ‖                     |利久(「信栄」「甚九郎」)
                     ‖日向玄徳斎(宗宋)
                     武井夕庵ーーーーーー日向玄徳斎A(玄以)

        狩野法眼(元信)ーー松栄ーーーー|永徳
                              |宗秀(家督を継ぐーー何家の家督かは書かれていない)
      において狩野の「松栄」が永徳の父として、突然出てきて、説明がないので、ここに新たに出てきた「宗
      栄」がどこに位置を占めるかが問題となります。テキスト「千宗易」の注では、
         「・・・利久居士の称号を与えられた・・・・千氏は田中氏。」
      となっています。利休は「田中」というのははどこにも出ていますが、何のことやらわかりません。ただ
         「田中利久」
     は使われないことだけが決っているということです。「太田」は「多田」、「多太(たぶ)」「田々」であり、「田」
     は重要で「田中」は意識していないといけないはずのものです。石田三成を逮捕したという「田中吉政」が
     おり、この名前が秀吉の「吉」、太田和泉守の「政」です。
            「前田徳善院田中兵部大輔」〈甫庵太閤記〉
     という表記があります。また「田中」は「中田」でも捉えられ「中田」→「中野」であり〈奥の細道〉那須の黒はねのくだり
          「野越・・・農夫・・・野中・・・野飼・・・野夫(やぶ)・・・此野・・・」〈奥の細道〉
     があり、「道」「馬」「一村」などと一文を構成していますが「中野」「(「又兵衛重吉」)の「野中」もあるかも。
     「野」は「はなくまの野口」(注=神戸市生田区の住人)がいますがこれは海軍の将です。「栄」は「狩野」
     で使われますが、「狩野」は「正信」ー「元信」と来て「松栄」で受けています。が
      「栄」という字が画家の号と、ほかの領域の人をつなぐ役目のようなものになっています。「松栄」の兄弟が
      いて、それが「宗栄」とすると、永徳の家系と平手・明智とが太田和泉守の世代で繋がってきます。
      桶狭間戦大高城に兵糧を入れた「松平元信(元康=広忠の子)」や桶狭間で太田和泉守がとくに言及した
      「岡部五郎兵衛(元信)」の、「元信」があることは、「永徳」の世代に二世代上の「元信」を持ってこようと
      いう意思が働いている感じです。「永徳(画の号)」の「徳」は徳川の徳、「徳田」(得田)の「徳」でもあり、
              @正信 → 元信 (徳川家の親子のこと) 
              A元信(元康) → 岡崎三郎信康・岡部五郎兵衛元信 (徳川家の親子のこと)
              B松栄 → 永徳・宗秀
      というのがあり、 岡部の「元信」が「宗秀」と対応して、「永徳」ひいては「松」を浮かび上がらせたと取れ
      ます「長(永)山九郎兵衛」の流れにあった「徳田(得田)小次郎は「松山城の城主」です。岡部には
          「岡辺(武)」〈信長公記〉
      の二字の表記があり、テキスト注では「岡部元綱」の名前が出ています。「朽木元綱」の名前だから、その
      イメージを生かしてやるということでよいのでしょう。つまり、今で言う徳川家康の前身
      松平元康は岡部氏とも姻戚関係があって、岡崎三郎(信康)・岡部元信という二人の子息がいたということ
      を表すのが「元信」−「元信」の連携で、
            広忠ーーー松平元康(叔父が水野信元とされる)ーーー信康(岡崎三郎)
                   ‖岡部元綱
            関口ーーー築山殿ーーーー岡部元信
      という関係が一時、あったのかもしれません。このため「岡部五郎兵衛」が桶狭間で出され、「岡部帯刀」、
      「岡部又右衛門」という高山などとの関係を窺わせる表記が「岡部」にあるのではないかと思われます。
(     「徳川」=(元信)=「狩野」、で「松永」の「永徳」を語るというのに、岡部の「元信」と「松栄(永)」が用意さ
      れといえそうです。雑賀七人の侍の中に「岡崎三郎大夫」がいるので築山殿と殺されたという「信康」が
      気になるところです。

      (154)藤の宰相
      松永をだすために「永」が重要な字ですが、「藤」も無視できないものです。索引に
         藤宰相殿 → 高倉永相
      があり「藤宰相」だけでとれば太田和泉守、往時の松永弾正少弼もありそうです。テキスト人名注では
      「高倉永相」−「高倉水孝」の親子がでており、かなりの検討の結果の引き当てになっています。すなわち
         「高倉永相  ・・・中納言・・・(文中表記、「藤宰相」「藤宰相父子」「高倉藤中納言」)
         「高倉永孝  ・・・・右衛門佐、永相の子。(文中表記「藤宰相御方永孝」「永孝」「高倉右衛門佐」)」
      となっており、一見重要と感ずるのは
           高倉=右衛門佐=松永
      であり、二人の高倉の「永」ー「藤」のは、「松永」の「藤」も出されていそうです。「藤四郎」ー「藤宰相」は
          「{法華の乱}・・・藤原朝臣松永弾正少弼久秀、国家の政柄を執り権威畏服す。・・・衆宝悉く
          集る。・・・無上の宝・・・求めずして自(おのずから)得る・・・集めて以って大成す。・・・慶幸・・・
          嘉(よみ)んずべく尚ぶべし。・・・順帝の朝に、▲孟嘗伯周・・・人となり道徳清行・・・前弊革(あらた)
          め易(か)へて、去(つた)珠、後(のち)還る。・・・今や久秀、徳行の化する所・・▼孟伯周を観(み)ん
          とは・・・」〈甫庵信長記〉
       というので宰相にふさわしいのが松永で、宝物などの保護にも大へんな功績があったことを示していそう
       です。
       「孝」は、「藤孝」という表記があるので、「藤孝」は「松永」もありえます。「相」は「藤宰相父子」が「相国寺」
       で出てきます。甫庵は「相国寺の惟高和尚」を出しています。これは「松永」とでてきます。従って上の
       「国家の政柄を執った」松永朝臣が定年後、相国寺へ入ったということであると惟高和尚の説明も出来て
       しまうことになりますが、そうなるのかどうかです。

       「高倉」は上月城のくだりに「高倉山」があり、ここでは「楠長庵」「朱印」「山中鹿助」などが出ていたこと
       のことは既述です。「順帝」というのはよくわかりませんが、筒井順慶の順はありえます。要はいわゆる
       松永弾正少弼は芸術の保護者であり狩野の始祖正信と近いことが考えられます。
        一般にいわれる狩野の系譜は、
              狩野正信ーーー法眼元信ーーー松栄ーーー永徳・宗秀
        で永徳は元信の孫というから、父は画家ではない、或いは有名でないから、こうなるというのは、わかり
        にくく、永徳は今で言う父狩野法眼元信(連れ合い「松栄」)の子という表現ではないか、と
        と思われます。つまり下の■を隠しているから、「松栄」をもってきたと取れるわけです。

                                  (元綱)=(家康A)
        徳川の流れ=     正信@(忠次)ーーー正信=家康ーーー岡部(元信)
        松永の流れ=     弾正少弼ーーーーー弾正=久通■ーー永徳
        狩野の流れ=     正信ーーーーーーー元信=松栄ーーー永徳
        
        ということで「通」の字が大きいためにこうなると思われます。岡部元信が永徳を元信の位置に持って
        くる役目を果たしていて、文中では「宮本兵大夫」と
        出てきた「岡崎三郎大夫」は織田の五徳殿の連れ合い岡崎信康という実体があり、それを出してくる
        ことにも貢献したといえます。太田和泉守の孫世代という岡部には、「岡部」の「又右衛門」「岡部帯刀」の
        存在があります。「松栄」の中身は二人の「右衛門佐」で
                       □□□高倉右衛門佐(永孝)?−−−宗秀
                       ‖狩野法眼元信
                       松永久通(右衛門佐)−−−−−−−永徳

        となるかも。「永徳」は「源四郎」「州信」〈ウィキぺデイア〉、となっていますが、「源」は主(あるじ)でない
       方で、「州」=(しゅう)=「秀」でもあり、これは永徳A=宗秀を指しているかも。相撲廿三人に
          「・・・宗永・木村いこ助・周永・・・・」〈信長公記〉
       があり、「州」=(しゅう)=「周」「宗」であり、前者を「永徳」、後者を「宗秀」として、渡海の「木村」と近接
       している構図が読み取れます。「狩野」の〈信長公記〉索引は

         兼松正吉/狩野永徳/狩野三郎兵衛/狩野次郎左衛門/狩野又九郎/狩野光信(文中「息右京助」)
       となっています。今となれば兼松と永徳は「松永」で渡れるのかも知れませんが、戦場での「三郎兵衛」
       「次郎左衛門」は、それぞれ「永徳」「宗秀」が宛てられると思われます。「永徳」は他家に出たので
       「三郎」としたとも取れます。狩野又九郎は南化和尚への使いとして出てきます。これは既述のことですが、太田
       和泉守よりも兼松正吉が妥当ということになるのでしょう。策彦和尚へは二位法印が使いなので、南化和
       尚へは次世代、森海老名かも。化荻の一節に「今井宗久」が出ました。天竜寺策彦和尚は「謙徳」なので
       「謙斎」と名づけられたようですが、これは「兼松正吉」の方の「謙」でしょう。孝謙天皇二人の初めの方の
       「謙」といえそうです。「光信」は文中、「息右京助」で捉えられています。本文は
          「狩野永徳・息右京助、木村次郎左衛門、木村源五、岡部叉右衛門・同息・・・・」〈信長公記〉
        の「息右京助」ですが、これなら人名索引〈信長公記〉の
                そ行
             祖父江孫(「清水又十郎」と出てきた「祖父江久介」に続く。)
            ★息忠三郎 → 蒲生氏郷
                た行
             躰阿弥永勝(文中「だい阿弥」)
        の並びの★の前に納まります。★は文中「蒲生忠三郎」が「蒲生氏郷」と考証されているので、そこから
         きており、本文に「蒲生右兵衛大輔・息忠三郎」というのがあるから一つは氏郷でありえますが
         「右兵衛息忠三郎」と区切ってみると「右衛門佐→松永久通」「右京助→狩野光信」というような
         索引項目もあるので★は航海の「祖父江孫」を受けて「息右京助→松永貞徳」もありえます。
         続きの「永勝」も航海の流れとなると
            身本 阿弥 光(光信の「光」)悦
「        が航海で出てきそうです。永徳の子に「松永貞徳」と「狩野光信」の今で言う兄妹があったのかも。
         〈甫庵信長記〉の狩野の索引は
              金松又四郎/金松/狩野永徳/狩野永徳息右京助/狩野次郎左衛門尉/(同)次郎兵衛尉/
              狩野又九郎/鎌田五郎左衛門尉/鎌田助丞/賀茂次郎左衛門尉兄弟/蒲生右兵衛大夫・・
         という並びとなっており、一般の人には永徳の近辺のことはこれでわかるというのでしょう。

          松永右衛門佐ーーー|狩野永徳(狩野又九郎)ーーーー(子息)狩野永徳息右京助(松永貞徳)
                       |(永徳弟)狩野次郎左衛門尉(宗秀)
                       |(永徳舎兄)同次郎兵衛(総領)
         となるかも。〈信長公記〉で「狩野永徳」「狩野次郎兵衛」「狩野三郎兵衛」を三兄弟の暗示とし、永徳に
         「狩野又九郎(松永貞徳)」「息右京助(光信)」の二人の子息があることも考えられます。テキストでは
         「息右京助」=狩野光信としていましたが、「永徳息右京助」で捉えると、「え行」のはじめの
           永孝→高倉永孝
           ▲江川
           恵光寺高森(文中「竹雲恵光寺」)・・・このあと「海老名」などあり
           ▼江村
           円常国師
         という索引の並びにおいて、永徳は永孝の前にくることになり「永孝」のもう一つは「永徳」ということも
        考えられます。高倉=藤なので、「藤永孝」があり
               「藤孝」〈甫庵信長記〉
         という表記もあり、すくなくとも「藤孝」はあの細川藤孝の独占でないことは、はっきりしています。
          狩野のあと、二条御所で三位中将信忠卿の最後のとき側にいたという
             「鎌田五郎左衛門」「鎌田助丞」
         が出てますが、これは「兼松」の「兼」の系譜の人物とみて探せばよさそうです。
             賀茂次郎左衛門尉兄弟
         の前にありますから、この二人は兄弟かもしれません。賀茂兄弟の後ろに「蒲生」がでていますが、蒲生
       兄弟に注目というのかもしれません。蒲生は「がもう」と読むのを示してるともいえます。これは
               狩野=次郎左衛門尉(兄弟)=賀茂兄弟
        で先ほどの永徳の兄弟のことを示唆しているとも取れます。「賀茂(神社)」は「鴨」に通じて太田和泉
        守の属性のようなものですが、「茂」も「毛利」=「森」だから「毛」に通じます。先ほど松永のところ
         で「合浦」の「孟嘗伯周」「孟伯周」が出ましたが、この二つは別のもので「伯」「周」は生かされると
        思いますが、これは人物なのに索引には出されていません。「孟子」も〈甫庵信長記〉にありますが、
        索引には洩れており入れると、「も行」のはじめ「毛利」の前に入り
            孟子/孟嘗伯周/孟伯周/毛利・・・/森・・・
        となり、松永ー丸毛(孟)が関係者として出てきます。

        (155)円・通
        丸毛兵庫頭は武儀ー武芸ー武井ですが「丸毛」
        の「丸」は「円」があり、「松永」=(円)=「丸毛」が「毛」を通じても出てきました。
                ▼から「円」への流れ
        は特異ですが▲からは「円光寺」が出されそうだというのが想定できます。「恵光寺高森」は人名で
        、〈甫庵信長記〉では「高森恵光寺」と反対になっており考証名はここから創られています。円光寺は
        元佶和尚の開山、徳川家康の開基(慶長元年)ということですが書物出版の寺で、「伏見」ー「相国寺」
        ー「現、京都左京区一乗寺小谷」と場所が変わっていますが江戸時代の一乗寺(詩仙堂の近く)が
        意味がありそうな選定です。円山応挙「竹林図屏風」があり「丸」「竹雲」「正林」などが効かされていそう
        です。開山の「元佶」は「円通寺」出身で、芭蕉の道円居士は「大通寺」でした。
        「通」という字は松永久通の「通(みち)」があり、〈信長公記〉人名索引「う」の中に
             「右衛門佐→松永久通」「右京助→狩野光信」「「右京助→稲葉貞通」「氏家源六」「氏家直通
             (文中「氏家左京亮」)
        があり、稲葉、氏家に「通」があります。久通は一応稲葉の出身か、とも取れるところです。稲葉は
               「良通」「貞通(一鉄)(右京助)」「典通」、「重通」「通明」
        があって「通」の稲葉となっています。
         「尼子」「毛利」登場の「的孫」の一節に
            「渡辺太郎左衛門尉、通(とおる)本城と渡し合わせ、・・・本城を打捕りたり。同十郎三郎・・・
            高橋が首を取る。・・・渡辺源十郎打たれぬ。・・・」〈甫庵信長記〉
         があり、「渡辺」は「太郎左衛門」「十郎」「三郎」「源十郎」がいるのかも。長子は
              「渡辺太郎左衛門通」、つまり「渡辺綱」の後裔「渡辺通(とおる)」
        を登場させていると取れます。これはウイキペデイアによれば
        恩人「山内直通」の「通」を取って「通」を使った、また毛利元就の身代わりとなって「島根県大田市
       温泉津町小浜の七騎坂」で戦死した7人の一人となっています。「直通」は先ほど「氏家直通」がありました。また
       荒木に「渡辺四郎」「渡辺勘大夫」があるので、「渡辺通」が荒木に入った「渡辺勘兵衛(了)」ではない
       かいうのも出てきます。「氏家源六/氏家直通」というテキスト索引の並びはいまやっている、「竹鼻祭」の
       沿革の説明に出てきた「不破源六広綱」(竹が鼻城主)の「源六」でもあり、またこれは氏家ー稲葉の
       「通」ー松永ですが、象鼻山の立て札に「丸毛兵庫頭」「稲葉備中」の奮戦の地という説明があった
       ことは「丸毛」「稲葉」と「竹が鼻」をつないでもよいということにもなります。
        時代はそう古くはないのに茫漠としている「円空」から、これもはっきりしない「松永」へと入ってきた
       いう無理はありましたが、「永徳」は「久通(松永弾正A)」家、の子で、「松永永徳」といえる存在でしょ
       うが、「狩野元信」という場合は「元信A」になり、「元信@」=松永弾正A(室町の宰相松永弾正少
       弼の子息)となるのではないか、と思われます。「円」は松永というのは改めて索引でみると
       再掲    「え」 (前は「海野信親」)
          @永相→高倉永孝
          A江川  「河内国」〈長禄寛正記〉 164
          B恵光寺高森  〈乾徳山恵林寺〉「甲斐国」「「竹雲恵光寺」
          C越前(牢人)衆
          D江戸右馬丞  〈恵林寺雑本〉では「江戸左馬允」、「武蔵国の江戸氏」
          E江戸力助
          F海老半兵衛
          G海老名勝正   源八郎〈細川家記〉  〈松井家譜〉には実名を記していない 「えびな」
          H江村  京都の富豪
          I円常国師 → 快川紹喜(前妙心寺住持、甲斐恵林寺住持、大通智勝国師)(塩山市)
          J円浄寺  相撲
          K円浄寺源七 相撲
          L遠藤直経 喜右衛門。直継は誤り〈近江阿部文書〉 姉川合戦
          M延念 近江永原(野洲郡野洲町永原)の東善寺住持    
             (あと)「お」 (次は「大石源蔵」)
        となっています。@の前に「永徳」が入っても文句がでないところ。「竹雲恵光寺」も「恵光寺」で
       出ているので「狩野永徳息右京助」という表記があるので「狩野栄徳」でも「永徳」が出ても問題は
       ないところです。@→Aは「永」⇔「江」であり、H→Iは「江」⇔「円」であり、「永」⇔「円」「遠」と
       なり、FGの海老名は
           「松永弾正一味として・・片岡・・・・森のゑびな・・・永岡兵部大輔・惟任日向守・筒井順慶・
           山城衆。・・・片岡・・・▲永岡与一郎・同弟(おとと)頓(とん)五郎・・・・森・ゑびな・・・・討死候。
          ・・・永岡・・・▼与一郎・頓五郎兄弟高名なり。・・・」〈信長公記〉
        があり、「松永」を出す役割で出ています。「永」−「円」の間に「松永」を割り込ませたといえます。
        勝正は、荒木の親族にもいます。
            「池田勝正 八郎三郎  摂津の池田城主。(文中「池田筑後守」)」
        で荒木(村重)氏と明智(光秀)との間の姻戚関係の関連して渡辺四郎などとともに考慮の対象と
        しなければならないかもしれない人物です。余談ですが▲▼は同一とは限らないわけで、
        索引で
            与一郎 → 細川忠興
            横江孫八 (清水又十郎と出てきた)
            横井雅楽助  (「時延か。・・・横江を横井と改めた。」)
        があり、細川忠興(ガラシヤ夫人の夫)だけが与一郎とは限らず、永岡と細川は無関係でもない
       ないのでしょうが、文の流れから「松永」でみると
          永岡兵部大輔(松永久秀A)−−−|永徳(与一郎)ーーーーー|横江孫八(松永貞徳)
                                 |弟頓五郎          |●横井雅楽助
       となり、索引@〜Mの「円」「遠」「塩」「延」の「えん」が●の「延」に至るのかも。●は光信相当という
       ことになり、ここでは頓五郎は渡辺通相当となりますが、狩野だとすると宗秀が欠けているので違うの
       かもということにもなります。ここで次の索引の並びが、問題になります。
          @長井道利  (「道三の弟ともいう。 美濃金山城主。」 文中表記「長井隼人正」)   
          A長尾喜平次 → 上杉景勝
          B長岡頓五郎 → 細川昌興 
          C長(永)岡兵部大輔 → 細川藤孝
          D長井藤左衛門(斎) 66  (解説なし、@の前に「長井忠左衛門」「永井新太郎」がある)
          E長(永)岡与一郎 → 細川忠興
          F中川清秀(荒木の与力大名)/中川金右衛門/中川重政  
       となっていて、@は美濃「兼山城主」もあるので、どこかで聞いた名前で「森可成」は一応出てくるとこ
       ろです。森可行が可成の父ともされるので、世代は別として関係はあるかも。森可成の索引の前は
           「森下道与」(文中表記「森下道祐」)
        となっていて「森」と「与三」の「与」で繋がっています。これは
          「〈江系譜〉では森下出羽守通与で、〈細川家記〉では道与に創る。」
        となっており、「江」の中の「細川」はこの@ーMの流れをみていそうです。「通」−「道」は松永でも
        利用されています。Cはあの藤孝は想定されていないのでしょう。これで「永」を生かしていけば
          Cの松永久秀ーーーーーーーE永岡与一郎 
           ‖□□□
          Dの長(永)井藤左衛門ーーーーーーーE長岡与一郎 
       とも取れそうです。そらおかしい、というのはすぐ出てくるでしょうが、C−Eの間柄はここでは親子だから
       中に入るのは連れ合いであり、Dは@の領域の人物だから「斎藤」のはず、というのが、まず出てし
       まいます。しかしCEをみると「永井藤左衛門」も「永井新太郎」もありえます。こうなると
       「永」「藤」の組み合わせですから松永が出てきてる(松永に繋げたい)ということがいえます。次の(156)
       に「藤左衛門」を入れたいから無理に出したので、これはおかしいというのは合っています。

       (156)松永父子
     松永を今と違うものからみないとウイキペデイアのものなどの話と整合できないところがあります。思うに一人
       大物が抜かれている感じです。
          松永弾状少弼ーーー松永久秀@−−−★松永久秀A−−−狩野永徳ーーー松永貞徳
           法華の乱      ダンジョウヒサヒデ   ‖松永久通(永種)
                       三好長慶関連     ‖(氏家)源六
                                    (ながい)藤左衛門(稲葉)ーーー宗秀
                                     
      のようなこととなり★がその人であり、その実子が永徳で、@の人と異性のため隠されたのではないかと
      思われます。隠すというよりも@の人は表示しなくてよい(別の形で表示する)ことになっているともいえ
      ます。こうみると松永をみる場合、養子というものが必然的に出てきます。松永弾正は「松永永種」を養子
      にしており、これが松永をわかりにくくしています。稲葉から、今は弾正の嫡子とされている松永久通を
      養子に迎え、戦国生き残りを図るとともに、★の天稟の芸術的才能も開花したといえそうです。松永久通
      の立場を説明するため「松永永種」をもってきたと考えられ
          松永久通=松永永種(永徳を松永永徳であることをも暗示する)
       であろうと思われます。永種の「種」は芭蕉で「松嶋種」があるように「種」=「胤」で精子を想起するもの
      でしょう。したがって
            狩野正信ー狩野法眼元信ー松栄ー永徳 は
            狩野正信ー狩野法眼元信ーーーー元信
                              松栄
       で「松栄」は「松・永種」「松永A」など隠れたものの説明ととればよく「正信」は徳川の「正信」と同じ
       と面白がっているので、区切りなしで 正信法眼元信松栄永徳、とみれば
         狩野正信ー(正信)狩野法眼ー元信(松栄)−松栄(元信)永徳
                                       (永)
       となる、「松栄」が前後に掛かれば「元信」と「松永(栄)」が永徳に掛かります。★の下の「源六」は
       「氏家源六」が〈両書〉にあり。これが「竹鼻祭」ででてきた「不破源六広綱」のもとでしょう。
       〈信長公記〉の索引では    雲林院出羽守(「藤保」「伊勢の雲林院(うじい)氏」)
                          氏家源六
                          氏家直通(「ト伝の子」)
       となっており、「通」は稲葉一鉄(一哲)の「良通」(長通もある)から来るのでしょうが、テキストでは一鉄の
      妹は斎藤道三夫人とあり、美濃斎藤の外戚といえるのが稲葉です。一哲の子息が「彦六」(貞通)で、
      この庶兄が
          「稲葉勘右衛門(重通)」〈信長公記〉
       ですが「久通」はこのあたりの人かも。このあたり覚えとこ、おぼえとこといっても忘れるかも。
             「稲葉又右衛門」〈両書〉
       があり、「彦六郎」(貞通子)接近、本文
      では「真木村牛介」「山口海老丞」登場で、これが木村又介=森えびなを松永一員にみれるのかも。
        松永久通は「久道」もあり、改名前は「義久」もあるようで、一体のものとして松永久秀Aの存在は
       暗示されていそうです。
       Dの「長(永)井藤左衛門」の「藤左衛門」からは稲葉・因幡が出てきます。

       (157)織田因幡守・藤左衛門
         尾張下四郡は、清洲城の大和守の統括でしたが幕下の三奉行
           A・岩倉筋の織田因幡守  B・小田井の藤左衛門家  C・勝幡の織田信秀
       が台頭し、とくにこの中から織田信秀が頭角を現し、大和守家の那古屋弥五郎が、信秀の下で小豆坂
       で戦死、、Aが稲葉山の信秀の大敗で戦死、結果は大和守家は信長に清洲城を取られて終わってし
       まいました。このあたりがよく語られますが、この前の段階が重要で、国内で激甚な勢力争いがあって、
      消耗し尽くして今川に利を与えるではないかといたいところですが、これは逆で、戦慣れという別のエネ
      ルギーが生まれて、大国今川に対抗しうるものが培われたという感じがするほどのものがあったわけで、
      この辺りを述べないと太田和泉守の辛らつな作戦も、実現しうる力も説明しにくいということになりそうで
      す。知らない人名の人が戦っているわけですから、読み泥み飛ばしてしまい勝ちですが〈武功夜話〉の
      述べ方は繰り返し繰り返し出してきて慣らしてしまおうとしています。多くのものが、二人の池田勝
       三郎などが足跡をきざみましたが徳川イエヤス公もこの葛藤の渦中から出てきますので、出てくる影
       響は大きかった前哨戦といえます。それをみないいけないわけですが、人物がわからないというのは、
       甫庵の人物索引(織田)をみただけでわかります。
          小沢六郎三郎/(織田)安房守/織田伊勢守/織田伊勢守信安/織田市介/のあと
              織田因幡守     (清洲城、「大和守」那古屋弥五郎の筋)の三奉行の一
                 因幡守
              (同)藤左衛門     同上、三奉行の「藤左衛門」家「小田井城城主」
              〈織田〉●右衛門尉    同上三奉行の弾正忠信秀の兄弟の五番目 
               織田右馬助
                 右馬助
               織田越前守 
                ・・・・・・(項目68個の織田)
               織田大和守
               (同)主水正
               織田与次郎
               与次郎(最後)   計83(この外に「津田」が23ある)
       のようなものになっています。並びでみれば「安房」「伊勢」スタートで大航海がそれとなく出てる、後ろ
      四つが、〈前史〉の波乱(収束)の中心といえるものです。特に「与」は森ですから。ここで (同)は
          「織田藤左衛門」
       と解するのが普通で、織田藤左衛門家は平手・松平の筋で松平元康(元信)の母、お大の方の出生で
      、水野と親類の家と思っていますが、一方「因幡守」が「藤左衛門」の「(同)」とも取れます。
       前項、Dの長井藤左衛門は一応稲葉と結んでもよいともいえそうです。すなわち、本文では
          同藤左衛門
       となっています。また次の●の織田が特別
           〈 〉の括弧
      となっており、「織田」だけにこの括りがあるものの例が●です。●の下は普通の「織田」となってい
      て、共存されて「織田」は80程ある(津田も、別に30ほどある、これは校注者の意図も入っているから
      100にしようというものがあったかもしれない)というややこしさというものの、一つの整理が
      あります。●の例は
        「〈織田〉勘十郎」「〈織田〉四郎次郎」「〈織田〉信雄」「〈織田〉信孝」「〈織田〉信忠」・・・
      などですが何となく今までのことでみれば異種がまぜっているものという感じです。●からは
          「平手五郎右衛門」「佐久間右衛門」の「右衛門」
      をみても掴めることはありましたが、実際は●に対応するのは〈信長公記〉では次の■で索引では
             大和守(考証「織田達勝」「彦四郎」)
             ■織田右衛門尉(考証「織田達順(右衛門尉)」)
             織田主水正
      となっています。これは尾張下郡の棟梁、三奉行の主筋の並びですが■に舎弟らしき人物がいてそれが
     下に出ています。この家の「那古屋弥五郎」が信秀の下で出陣し小豆坂で戦死しますが、これは「五郎」
     ですから●の五番目と重なってきます。〈武功夜話〉では織田中興の祖、清洲城の秀敏が出て、このあたり
     から三奉行の家が分岐しましたが、本家は
         織田秀敏ーー織田彦五郎ー織田彦五郎ー織田彦五郎
     となてよくわからないということは既述ですがこの「五郎」を太田牛一は那古屋の「弥五郎」に纏めたと
     思われます。信秀との姻戚関係があって五番目にいるのかはわかりません。●の上の因幡守の背景は
     このようなものですが、これは稲葉と関係ないということにはならないでしょう。

     (158)織田(信長)前史の尾張の構図
      形としては〈両書〉にあり
        「天文年中、尾張守護は武衛、中ごろより天下に武衛(兵衛府の唐名−斯波氏))、細川、畠山とて三
        官領・・・其の比は尾張八郡を半分して
              上四郡・・・織田伊勢守信安・・・岩倉・・・在城・・・
              下四郡・・・織田大和守下知・・・清洲の城・・・武衛公・・・・わが身も城中・・・・
           彼大和守下にて・・・三奉行と云ひしは、織田因幡守、同藤左衛門、同弾正忠なり。・・」
                                                      〈甫庵信長記〉
      の通りです。人物本位で行けば〈武功夜話〉に図があって

                            伊勢守
         伊勢守     伊勢守    ▲千代夜叉丸
     A   織田常松−−−敏広−−−−寛広 
         下津在城   |岩倉在城   岩倉在城
                  |
                   広近−−|与十郎
                 小久地城主 |▼千代夜叉丸
                           与九郎             
                                     伊勢守      伊勢守      伊勢守
                                      敏信−−−−−信安−−−−−信賢
                                     |          |
                                     |          ◆因幡守
                                     |月巌
                                      信定−−−−−●信秀−−−−−信長
                                     |          |
                                     |     犬山城  信康
                                     |                    大和守
         出雲守     大和守    大和守      |大和守      大和守      彦五郎 
     B   織田常竹−−−久長−−−敏定−−−−−清須五郎@−−−清須五郎A−−−広信
         清須在城          | 清須在城    清須在城     清須在城     清須在城
                 楽田築城  |
                 於台城主   弾正左衛門    藤左衛門     藤左衛門
                            常寛−−−−−寛故−−−−−●寛維
                           於台城主     於台城主    於台城主  
    
     のようなことになっています。〈武功夜話〉で〈両書〉の補足説明をするのは適切ともいえます。すなわち
      ▲▼のような名前を付けて語るのは「般若介」のような名前で語る太田牛一とベクトルは合っている
      といえます「小久地の与九郎が敏広の猶子になって寛広となるようです。全体A、Bに分けましたが「松」
     組(伊勢組)と竹組(出雲組)の二つの勢力があって、Aが岩倉、下津、Bは、清須に本拠がありました。
     AとBは姻戚関係にあり、B、は、Aから
     分かれて守護大和守を補佐することで勢力の拡大を図り、Aは斎藤などと組んで対抗などして熾烈な
     戦いを繰り返しています。◆●三人が「清須三奉行」ですが、◆因幡守の上の三人は本来A伊勢守の筋の
     はずですが、人はBから枝分かれしています。これは久長と敏定が強力だったということですがAの血が
    濃厚に入っているので、どっちがやられたかなどということはわからないわけで、それは「広」=「寛」ですが
     あちこち散らばっているのでもわかります。◆●三人のうち信秀が台頭して、二人はその幕下に入ることに
    なりました。

     (159)因幡守二人
      この◆因幡守家に不幸があり、信秀の絶頂期の稲葉山、道三攻めの大敗があり
         「織田与次郎・織田因幡守・織田主水正(もんどのカミ)・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十
        郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして歴々五千ばかり討死なり。」
                                                          〈信長公記〉
      という仕儀に立ち至りました。青山以後はいままでも、かなり触れましたが、この「織田因幡守」は、これ
      だけではよく判らず、素通りしました。テキスト注では織田因幡守は
          「教順と達広の両説がある。両者とも根拠はうすい。」
      という愛想のないことになっています。 次の「織田主水正(もんどのカミ)」は舎弟と取れます。いまでいう
     弟と連れ合いどちらにしても当主と舎弟が戦死で家は壊滅です。「達広」というのは大和守の人のように
     見受けられますが、因幡守二人とすると
            織田因幡守(教順)                もしくは 織田因幡守
            ‖★★織田主水正(もんどのカミ)             ‖織田主水カミ
            ★織田主水正(もんどのかみ)(達広)           ‖織田主水正
                                              □□□
      ともなりそうです。それは先ほどの■の下も「織田主水正」なので、織田右衛門尉と関係が深い主水正
      もいるからです。甫庵では戦死の記事、本文は、
           「織田因幡守、同主水正・毛利十郎・・」
      で索引は
           @織田因幡守/因幡守    A 織田大和守/(同)主水正   
      の二通りがありました。通常「主水正」は「八」の人の表記ですが、〈信長公記〉は珍妙なルビをつけて、
      「もんどのかみ」を作ったということでしょう。そうすると、今日で言う弟でない「弟」か、夫人か、という問題
      が出ます。これは
         「清洲城に居(すえ)られし織田彦五郎殿と云ひしは去んぬる九月に打死せし因幡守の子なり。
         清洲三奉行の其の一人なり。其の家老に坂井大膳、同甚助、河尻左馬允・・・・」〈甫庵信長記〉
      の記事があり、B、の右端のところに「彦五郎」というのが出ていますが、これの説明です。すなわち
      三奉行の因幡守の子息は大和守家の当主となっていて、五郎ではなく彦五郎ということだから、傍系と
      いう感じでもあり、夫人ということになる、織田因幡守は三奉行の一人というだけのことはあって、大和守
      家の当主、図の清洲五郎A(つまり★)を片袖とする世帯をもったということになります。これで尾張が
      信定ー信秀ラインに傾きつつあるのを抑止しようとしたと一応はとれるところです。その意向は、清洲
      の本家の地盤沈下の危惧と合致しそうな感じがするものです。ただその気宇壮大と戦死とが合わないので
      ちょっと戸惑うところです。権謀は得意だが
      戦が下手なので安全なところにいたのか、★★は生きていて、これが、彦五郎
     の後見役になったとも考えられます。親だから自然でもあり、因幡守家の軍勢など引き継いで力もつけて
     いる、ので可能といえます。清洲城落城の一節、冒頭
          「一、清洲の城守護代織田彦五郎殿とてこれあり。領在の坂井大膳は小守護代なり。」〈信長公記〉
     があり、これのモトの説明がいるはずです。脚注では
        一、南葵文庫本では「両在」以下十四字を欠く。小守護代は又代。守護代の下。なお領在は
          領主の誤写であろう
      と書かれています。落城に際し身の危険を感じて、今川義元のところへ逃げ込んだということです。
      「領主」というから城のことを仕切っていたといえます。義元は重用するはずです。織田彦五郎はこのあと
      織田孫三郎(信長の伯父)が切腹させたということですが、織田信長は助けるはずでそれは見越している
      のでしょう。ただ坂井大膳が一人かどうかはまだわかりません。
 
      (160)織田信定(月巌)の子    
      織田因幡守の戦死と同じようなことが那古屋弥五郎についても起こります。那古屋弥五郎はテキストでは
         「尾張守護代織田達勝の家臣・・・(小豆坂)戦死・・・。弥五郎と称する人物は二人いるが、その
          一人は実名勝泰。また那古屋又七教久や那古屋因幡守教順もいるがこれも勝泰の一族でろう。」
     とされています。これだけではわからないが、織田達勝と因幡守とつながりがあることだけはわかります。
     那古屋弥五郎は図の「清洲五郎@」の仮名かも。索引にある
           「織田信次」(「織田信秀の弟。」 文中「右衛門尉」「津田孫十郎」「織田孫十郎」)
     が信秀の五番目の弟という人物の第一義的引き当てですが、この人物と「織田達順」と同じではないかと
     いいたいのですが、織田信次は「右衛門尉」で、「織田達順」は「織田右衛門尉」となるようです。
        「清洲彦五郎(織田広信)の大人衆、酒井大膳なる者逆意候。宿老大膳ともに備後様を相憎み
        備後様の★別腹織田右衛門尉(信次とされる)と相謀り大逆なり。」〈武功夜話〉
      があり、「備後様」二つあり★が問題となります。〈武功夜話〉系図では「付けたり」として、兄弟が出て
      いて
         (与三郎)                 子(=但しこれは本文になし)
         月巌−ーーーーーーー白巌(右ルビ「与二郎」、左ルビ「信康」)(上郡木の下犬山)
         (弾正忠信定)      桃巌(右ルビ「弾正忠備後守」、左ルビ「信秀」)
                                
        があり、      「与二郎」ーーーーーー「信康」
                   「弾正忠備後守」ーーー「信秀」  
       という対置があります。何となく「与次郎信康」と「与二郎」の二人がいるという感じが出ています。
       信康:信秀の対比はわかりますが「与二郎」:「弾正忠備後守」の対比はわかりません。「与二郎」が
       「犬山城主」であればわからないことでもないともいえます(但し今で言う父と子という対置とも取れる)。
       〈信長公記〉本文で
          @「月巌・今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎・・・・」
          A「備後殿御舎弟衆御舎弟衆(しゆ)与二郎殿・孫三郎殿・・・」
          B「織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・・・・」
          C「備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・・」
       となっており、C「与次郎」と@AB「与二郎」の二つがあります。〈武功夜話〉では信康と信秀は同腹
       兄弟と書いており、「与二郎」が異腹かも、というのが出てきます。つまり、坂井ダイゼンという人はひょっ
       として、弾正忠信定の子(コ)、二重の意味で公にはされなかった信秀の兄弟かも、というのが一応は
       出てきます。与二郎と与次郎は表記が違いますから、理屈では
            広義       狭義
            与二郎−−−与次郎 
                  −−与二郎 
       があって頼りない話だけれども、説明の必要などから状況に応じてどちらかを採るということになってる
       と思われます。図で▲▼の「千代夜叉丸」の出てきた岩倉系の小久地のところ、織田常松次男の方
          常松ーー敏広ーー寛広         遠江守         ーーーーー与十郎
                広近 → 右に拡大     与十郎        |       小久地城主
                                  広近ーーーーーー|      
                                 小久地城主      |       千代夜叉丸
       *(「敏広」も「与二郎」)                         ーーーーー与九郎
                                                       敏広の猶子となる
      のようになっています。駿遠三の遠が出ている処、「与十郎」が出ていますが、長男も「与十郎」で、出て
      いますから、おかしい、つまり人格がないという感じです。広近は与一郎+与九郎=与十郎くらいに
      なるのでしょうが語りの十郎ほどのことでよいのでしょう。常松と二人守護代といわれる出雲守常竹も
      「与十郎」としています。広近の二男が敏広のもとでは「寛広」(もしくは寛広の連れ合い)となったのかも。  

      信秀の表記は〈信長公記〉索引では
       四つくらいにまとめられいますが当たってみると
         「織田弾正忠(だんじやうのちゆう)」「弾正忠」「今の備後守」「備後守」「織田備後守」「織田備後
         守殿」「備後守殿」「備後殿」「桃巌(トウガン)」  「東堂」
       があり、「備後殿」が八つもあり、「器用の仁(じん)」もありますから、あの信秀と覚しきもの、全部挙げよ
       うとしても、これで全部と自信をもっていえるところまではいきません。微妙な違いもあって、多すぎます。
       つまり親の信定が「月巌」だけというのも影響がありそうです。★の左の「備後様」というのは信定のよう
       な感じのものです。あの大敗のあと
           「此留守に、尾州の内清洲衆、備後殿古渡新城へ人数を出し、町口放火候て、御敵
            の色を立てられ候。」〈信長公記〉
       となると、この「備後殿」は信長でもありえます。13才のとき、ここ(古渡の城)で元服しています。
         ★の人物=白巌筋ノブヤス=与二郎=織田達順(の連れ合い)=織田主水正=因幡守A
       ともなりそうです。これは、索引
                織田達順(文中「織田右衛門尉」)/織田主水正
       があるのでこういえそうです。もう一つ〈武功夜話〉では
            「▲織田因幡守は伊勢守(上郡岩倉織田信安)の御舎弟に候。」
        があり、この▲は図からいえば三奉行の因幡守@と取れます〈信長公記〉人名索引では
               織田  未詳   (文中の脚注は「通称を脱しているのであろう。」「織田孫十郎」と連記)
               織田因幡守  「教順と達広の両説がある。両者とも根拠がうすい。」
               織田大炊助(文中「津田与八」、「柘植大炊助」)
        があり、まあとりあえず「織田因幡守@」は教順、織田因幡守Aは達広としておくのもよいのでしょう。
        さきほどのCの文例では
              「織田与次郎、織田因幡守、織田主水正」
        となっていたので一応「織田因幡守」の連合いは「織田与次郎」「織田主水正」と取れる。すなわち
        Cからは    織田与次郎
                 ‖織田主水正
                 織田因幡守
        となり、一方、人名索引では
                 織田信安  伊勢守(要は上郡の岩倉)
                 織田信康  「与次(二)郎、信秀の弟」(文中「与二郎殿」「織田与二郎」)
       の並びがあり、同じ「のぶやす」だから異母兄弟、という繋がりや、「安・康」男女という違いも同時に出て
       いそうです。すなわち、Cなどから
                      織田与次郎
                      ‖織田主水正(織田信安)(与二郎殿)
                      ‖織田主水カミ(与二郎)=因幡守A
                      織田因幡守
       となり、これなら▲の文のこと、普通の弟になります。ただし連れ合いというのも考慮の対象にはした
      ということになります。つまり、この場合の「主水(カミ)」は「★の人物」の横にある「主水正」(達広)となる
      のかどうかといういえるところまできました。

      (161)織田彦五郎(広信)
       先ほどの〈信長公記〉索引   織田信安/織田信康/ のあとは
           織田信行 (勘十郎・武蔵守・信秀の子・信長弟)
           織田播磨守
           織田彦五郎 (「信友」、一説では「広信」しかしともに文書の裏づけはない。)/
           織田秀勝 (「御次(おつぎ)。信長の子。羽柴秀吉の養子となり・・」)(文中表記)「御次公」
        と続いており、清洲城落城のときの当主織田彦五郎があります。この流れやや回路が欠けている
        感じで円滑に流れにくい、それだけに強力なエネルギーを秘めていそうです。
        「信行」は、ここの普通の注からみれば時代、位置など異質なので(要はテキスト注では
        「信勝」という表記があることなどが抜かれている)、ここに何かあるとも取れる
        、信秀大敗直後一回だけ登場の「播磨守」という一匹狼とつながるといっている、それで
            「織田彦五郎」〈信長公記〉
        (〈武功夜話〉では「広信」に引き当てている)
        をみるとよいといってるような感じです。年表で清洲城落城のとき、弘治元年、1555年
            「織田信長、織田広信を殺し尾張清洲城を奪う(信・甫庵)」〈東京堂年表〉
         となっていますが、この場合は当主、織田彦五郎が「信友」ではなく「広信」と解釈されています。
          信友ではなく「広信」を採ったということです。「広信」という表記が、「織田」の「信」、上郡の織田
        常松子息「敏広」の「広」をはじめ全体に拡散している「広」が使われています。この「敏広」の「敏」
        は大和守の「敏定」の「敏」、月巌信定の兄の敏信の「敏」だから、連れてこの敏広の「広」の意味が
        大きく隠然たる勢力を感じさせるものでもあります。「広信」は「坂井大膳」として表現された、と一応
        取れる、のちの豪腕、頭のよいイエヤス公の「坂井」「酒井」とつながるものを含んでいます。頭のよ
        さというのは「与」が全体を形容しているわけで、先ほど「織田敏広」=「与二郎」(〈武功夜話〉の前野家
        の先祖はこれに随身している)、織田信定の「与三郎」がで出ていました。あの信秀大敗の戦いで
        織田因幡守と戦死した青山与三右衛門も、森可成(与三)も「与」で、酒井も、本能寺の年、信長公に
          「酒井左衛門尉、子息与四郎、大方ならぬ馳走申し上げ・・・」〈甫庵信長記〉
        があり、「与」があります。こういうイエヤス公ですから頭が切れると見たほうが無難です。
         「広信」という表記にもう一つあって
        清洲城は、信長庶兄「織田三郎五郎」(信広)が那古屋弥五郎の遺児(織田彦五郎)を擁して信長
        に逆らったりしましたがこの「信広」というのを逆にして「広信」としたのが技法ととれます。
        ウイキペデイアによれば織田信友は「織田因幡守」が実父であるともいわれる、とありますが、織田
        因幡守を検索すると何も出てきません。〈武功夜話〉では三奉行の一人で、岩倉信安(七兵衛)の
        弟とされており、織田因幡守@はすんなりした方の弟、で子息が信友
        織田因幡守Aは月巌信定(信秀の父)の岩倉筋の夫人の子「与二郎」
        岩倉七兵衛と信康の子は信賢
         であの大敗で戦死したのが、次の×の人物でした。この場合の「×主水正」は岩倉の七兵衛信安
        と取れそうです。
        
                    弾正忠家ーーー嫡男信秀 ・ 次男与次郎信康×ーーーーーー信賢
                    |信定               ‖×織田主水正=織田信安
                    岩倉織田氏----与二郎    ‖ (■■与二郎=織田因幡守A)織田主水カミ
                                        織田因幡守@×ーーーー信友 
        のような関係で、■■は戦場へいったかどうかもわからない、というのはもう一つ兼け持ちしていて
        (前後があるかもしれないが)
                   織田達順(清洲五郎@)ーーー清洲五郎Aーーー織田彦五郎(広信@)
                   ‖(■■与二郎)(「彦五郎」=広信A)
                    織田右衛門尉(信次)?信秀弟
         坂井■■は下郡名門大和守家にも根城があり広信@の後見役でもあったと思われます。大和守の
         家は信秀
         におしまくられ、清洲城を織田信長に乗っ取られ、岩倉の城も、桶狭間の前に落とされ、敗者に
         終わってしまいましたが、この側にいたのが「酒井大善」(〈武功夜話〉表記)=イエヤス公で、あの
         信長、太田和泉守に終始敵対意識があったと思われます。「坂井大膳」は清洲城落城で放逐され
         今川義元を頼りましたが、織田の名門、内部熟知の、実力者であり、今川義元にとってこれは重宝
         な人物で、信長と近い藤左衛門家の徳川に楔が打ち込まれる可能性もあります。


        (162)表記の公式
         わかりにくいものの解説がされているところが、間々ありますが、〈信長公記〉索引で
             坂井越中(注:「坂井政尚Dの同族であろうか」)
             坂井喜左衛門(注:坂井政尚の同族であろうか)
             坂井七郎左衛門(注:なし)
             @坂井甚介   注:「清須城の織田達勝の老臣。」
             A坂井大膳   注:「清須城の織田達勝の老臣・のちの坂井右近尉政尚かもしれない。」   
             B坂井忠次   注:「左衛門尉・・・西三河衆の組頭」(文中表記「坂井左衛門尉」)
             C坂井利貞   注:「文介。坂井氏はもと愛知県中島郡祖父江町に住していた・・酒井と改姓・」
             ・・・
             D坂井政尚   注:「右近尉。元亀元年・・・浅井(戦で)・・戦死。」(文中表記「坂井右近」)
        のような羅列があります。まずA−Bは関係密接だから、いままで言ってきた「大膳」→「忠次」の流れ
       での捉え方は合っていそうです。が、前後@CD
        などとの繋ぎがよくわかりません。わからないところが自己の主張の見え隠れするところです。評価に
        値するかどうか、採点すればよいのでしょう。これは
        Bの「坂井左衛門尉」が「イエヤス公」「太田和泉守」が重ねて表されている、イエヤス公の出自が
        いってきたことと、まあ近いのではないか、ということを表すものといえそうです。Aの後半がDを指して
        いるというのは、まったく別人で見当はずれの感じですが、わざとこうしたと思われます。これはAが
        二人をいうためのものでしょう。Bが二人というのに対応させたものです。
         @は注に漏れがあり、Dの同族かというのを入れねばならないところです。
        Cは二人で、祖父江は久介が清水又十郎のところで出ました。つまり太田和泉守の家中の(兼松相当)
        人です。また「酒井と改姓」したのはBの酒井忠次を指しています。要は「織田因幡守」などを二人で
        みるというのの延長戦上のことです。
         Dの「坂井右近」は姉川の合戦の織田方の先方大将ですが、これは引き当ての難しい人物で
        「右近尉政尚」という、嫡子が「坂井久蔵」だといわれても、誰だか意味合いがよくわかりません。
        このとき、〈両書〉では  
              「森三左衛門・坂井右近・・・」〈信長公記〉
              「森三左衛門尉、坂井右近・・・」「森三左衛門尉・坂井右近将監」「森坂井」〈甫庵信長記〉
        という並記があり、要は太田和泉守の同族、連合いの坂井右近ととれそうです。「将監」という付属語
        句もあります。つまりここでいえば
           「坂井越中」「坂井甚介(甚は平手系)」「坂井右近」「坂井大膳」「坂井利貞」
       のAは「兼松正吉」=「金松又四郎」相当の人物の閲歴、活動記録を述べるための「仮名」であろうと
        と一応は考えられます。「右近」は高山(飛弾守)に近い、利貞は斎藤(道三利政)、(内蔵助利三)や
       「利休」の「利」、「貞」は「小幡信貞」「貞徳」「洛の貞室」の「貞」、「大膳」は「大善」「栗山大膳」「塚本
       小大膳」の「膳」などの、構成する因子を示しながらの一人格を述べている可能性もあるのでしょう。

       (163)簗田弥次右衛門
        清洲城の攻防にこの人物が突然出てきます。梁田といえば桶狭間ですが、何か簗田がこのあたりの
       読解に役立つのかもしれません。後世の人がこれに悪乗りすることも考えられます。兼松正吉などの
       人物は太田和泉守のいまでいう連れ合いだから、日記風とはいかないが出没状態が
       こまかく述べられていてこそ、本人の身辺の状況が語られたということになるので、こういう小刻みの
       仮面を被った人物の登場ということが不可避となります。ヒットラーの政権は,ユダヤ人を差別しまし
       たが、長年、結婚やや養子などで同化し区分するのは困難な部分は国民の戸籍を遡って調べて基準をもう
       けて、具体的対象を決めたということです。この場合届け方(書式・項目)、とか表記とか、当時の形
      に依存するから難しいとは思いますが、政権はそれを維持するためにはこういう努力もするわけです。
       太田和泉守の、こういう政治記録は政権によって直接党派区分に利用されそうです。新井白石は大名
      にその藩の歴史をださせたそうですが受けた方は、困ったと思われます。ただ初代家康公に認められた
      経過などを書けばよいはずです。太田和泉守がいわゆる信長・秀吉というやんごとなき超英雄を創って
      いたから信長公に認められ秀吉公にも買われて家康公に拾われたという筋書きの伝記が書けました。
      大名家に残ったものは確実だから学問の対象になって、今日の人口に膾炙される戦国武将の像ができて
      います。その裏とも(表とも)いうべき話が豊富にあって、桶狭間で勲功第一の、考証名
           簗田広正〈信長公記〉 (文中「簗田左衛門太郎」「別規右近」など)
       の場合がそうで、これ
       も今となれば兼松正吉(簗田左衛門太郎)の引き当てとなりそうです。桶狭間戦、作戦立案、要所で
      戦況を語り、進言していたのは太田和泉守(簗田弥次右衛門相当)でしょうが、戦闘の終始は金松の
      領域で、直答もOKでやられていたと思われ、兼松の桶狭間戦の参加は証言があります。桶狭間は
      今は、梁田政綱の今川義元の動向報告に的確なものがあった、という話になっていますが、まあ
      土豪の一人が大活躍してその子孫が重要な地位を占めたということであれば、無難な説明といえる
      のでしょう。
      この簗田弥次右衛門が十六・七の那古屋弥五郎を伴って清洲の興亡戦に関わってきます。
         「武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて一僕の人あり。・・・清洲に●那古屋弥五郎とて、十六・七
         ・・・若衆かたの知音(脚注=男色の関係を持つ)を仕り、清洲を引きわり・・・・・」〈信長公記〉
         「弥次右衛門上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣内々申し上る。」〈信長公記〉
       があり、一つは、太田和泉守の関与があるということですが、●の親代わりというようなものもありそうで
      す。あの一刀流の伊藤景久は弥五郎だから、この年齢を利用してるとみれます。一つを重視している
      とともに、曖昧さを残しています。この広正の「広」と、あの「広」と「広」の連携があります。また
      「那古屋弥五郎」が清洲五郎、彦五郎のことを表すともいっていそうです。

      桶狭間では、簗田の情報が勝ちに導いたということは、義元が窪地(狭間)にいたということの報告による
と     いうことですが、これは額面どおり取って合っているということでしょう。敵の目に付きにくい陰の地にいたという
      ことで、これは戦闘の指揮の中心所ではなく(それはヨシモトの管轄のこと)、安全な地=討たれた場所
      というにすぎないものです。当時の今川の戦の布陣の慣行を突いた太田和泉守の作戦の厳しさと、そこ
を     をキャッチした広正の功績ということでしょう。義元一人が目指すところという、いままでの語りでされてる
      信長発言も額面どおりとすれば合っているわけです。織田も信長が討たれたら敗戦です。今川ヨシモト
      が誰かというのが問題です。義元の弟というのを探さなければなりませんが、ウィキぺデイアなどで  
      ば、義元の「弟」に「氏豊」という人物が出ており、これは織田信秀に、那古屋城を追われたという話もあり、
      今川氏実の「氏」であり、「義元塚」(〈信長公記〉)の「豊明」の「豊」はこの「豊」かどうか、など表記でつな
      がるものがあります。戦のことは、信頼して委されていたのでしていたということでしょう。一方織田彦五郎は
         「信友」、諱「広信」、また「信豊」、通称「彦五郎」  〈ウイキ〉
      となっており、この「信豊」という名前が、桶狭間の風に乗って「氏豊」−「今川」へ飛ぶのかも。とりあえず
      こうしておいて様子をみるということにしておけばよいのでしょう。
               氏豊
               信豊 →  氏信   はどこかで出ました。

       (164)猪子兵介
      このとき太田和泉守に簗田広正が実際付いていて、桶狭間へと繋がって、兼松が両方にいたかも知れ
      ないというのは、考えられることですが、兼松相当人物というものの目くらましであるというのがあっていそう
      ます。「猪子兵介」もこういう人物ではないかといってきています。初期のころでは、
          「伊賀伊賀守」〈両書〉(考証では「伊賀定治」「本巣郡北方(北方町)城主」)
       が、今で言う連れ合いではないかといってきました。もう一つ、
          「安藤守就(文中「安藤伊賀守」)、美濃三人衆のうち、・・・岐阜県本巣郡北方(北方町)城主。
          その子が尚就。伊賀氏の分家。旧安倍氏。」
       があり、両方が、「本巣郡北方城主」であり、「定治」と「尚就」は同一人物かも、ととってきましたが、北方
       (北方)があり。安藤が伊賀氏の分家となっていて表記が「伊賀」は
            「伊賀」「伊賀伊賀守」「伊賀七郎」「伊賀平左衛門」
     があり「安藤」は「安藤(東)伊賀守」「安藤右衛門」があるのでとりあえず                             子
         「伊賀」家ーーーー@伊賀定治(伊賀守)ーーーー伊賀七郎・伊賀平左衛門
               ーーー弟A安藤伊賀守ーーーーー子息■尚就
                    (安東伊賀守)
     となり、太田和泉守の連れ合いは■の人ということになりそうです。「安藤右衛門」は■の説明表記かも
     しれません。竹中半兵衛に繋がる
            「不破河内守」〈両書〉(考証名=不破光治)
     は、注では美濃の「安八郡北方村の住人」となっており、「治」もつながっており、これは@の家の出の人
      といえそうです。藤堂高虎や、竹が鼻の不破広綱も同様と思われます。それはともかく人名索引では
      「伊賀」のあとは「池」が続き「池田」が出てきます。
      まあ「家」のように「か」とも「け」とも読めるところから、続きというものでよいのでしょう。伊賀ー山家という
     のが芭蕉の解説にあります。猪子兵介は道三の傍にいたので美濃と思いますが、池田で
          「猪子高就  兵介。のち高然。猪子氏は摂津池田(神戸市生田)に住し生田といい、のち猪子
          に改姓。兵介は織田十郎左衛門信清に仕え、犬山で戦死したという。(本能寺で討ち死にとも。)
          ・・(猪子石村出身説もある)・・・(文中「猪子」「猪子兵介」)」
      となっています。つまり、
          伊賀伊賀守(定治)の筋 →尚就=生田(摂津池田)=猪子兵介(高就)
     となるのではないかと思われます。安藤の「就」→猪子の「就」に通じています。

     (165)猪首元就
     猪子は安藤尚就であり、
     美濃猪子で索引では「猪子」の前後は
          井上又蔵/猪子賀介/猪子高就/猪子次左衛門/茨木(未詳)/今井宗久
     のようになっており、「井」⇔「猪」と見ているようであり「今井」の「井」が流れてきており、それは「伊賀」「伊
     賀守」の「伊」から来ているととれそうでもあります。すなわち、「猪子賀介」が介在し「賀」「介」の「賀」は、
     「伊賀」の「伊」をもってきて「伊勢」「伊舟」の「伊」、「介」は「兵」を呼び「兵大夫」も出そうです。
      「茨木」が一連の流れを邪魔しているので、何の意味かわからないと、今井宗久まで届きませんが、
        「茨」=草冠+次左衛門の「次」、 「木」=猪子の「子」
     で「化荻(草冠なし)」の「今井宗久」に繋がります。ほかに今井宗久は「松永弾正」「松島」「竜」「虎」「宗
     陽」「宗及」などと出てきました。これは詭弁の類、ということになるでしょうが、ここの「茨」というの
     が「井上」の「井」が出た以上は「井原」と宛てるというのが妥当です。「就」と「井」「猪」が出てる歴史一節
     に「井原」があり、この一節は中国16ヶ国、尼子の的孫がでますが、吉備真備の「井原」の地です。
          「井原・・・坂豊島・・足軽・・・坂・・・元就加勢・・元就・・朽葉・・甲を猪首・・・栗毛の馬太う逞しき・・
          ・軽々・・為幸・・・三沢・・井上七郎次郎・・・・山田山中・・・宮川・・・元就・・・」〈甫庵信長記〉

     があり、「守就」、「尚就」の「就」をもつ「元就」は「朽木」の「葉」とか、「猪首」「井上七郎」などと出てきて、
    元就の色合いが出ていそうです。毛利元就は毛利存亡の危機のときにピンチヒッターとして出てきて、その
    まま居座ってしまったもので、隆元と二代それが続くと、反発がおこり収拾がつかなくなるので、孫を当主に
    早めにして、隆元の退陣を早めた、といえそうでそれが珍妙な食中毒の語りになったとみれます。隆元を
    排斥したといっても、二代で共同で、領国経営に当たったものととれ、この一節
        「宍戸安芸守隆家を婿(知+耳)に取りしかば・・・光彩門戸に生(な)る。」〈甫庵信長記〉
    があり、誰が婿を取るのかとなると、よくわかりませんが「陶五郎隆房天神山」もここにでてくるので、
        大内義隆の「隆」、陶五郎隆房の「隆」、毛利隆元の「隆」、宍戸安芸守の「隆」
     となり、(大内系)毛利隆元=毛利重臣、宍戸隆家、となったのかもしれない、というのも出てきます。
    毛利家の表向きは、元就の姻戚吉川氏が代表ということになるので、吉川夫人が上手く表面を取り繕った
    のかもしれませんが、こういうのがある一節の「井真井(成)」を呼び出すのが「今井」というのはいってきまし
    たが、これらを「井原」=「茨」−「今井」の並記が示すものです。索引では「今井宗久」のあとが、また切断
    になっていて続かない感じのものとなるので、索引の人名羅列などは著者の意識にないということになって
    しまいます。

     (166)今村氏直(尚)
     そうならないように、予想外の挿入が校注でされているといえそうです。〈信長公記〉索引は

        稲葉伊豫/犬・・/井上・・/猪子・・・/茨木/今井宗久(文中は「今井」)/今川氏真/今川孫二郎/
        今川義元/今福昌和/今福又左衛門/★今村氏直/いも川/伊豫父子/岩/岩越喜三郎/岩崎丹羽源六
     のように続いていますが、「今川氏真」は本文では「今川氏実(ウジザネ)」となっているのに、その記載
     なく不自然な形です。「氏真」が常識で誰も納得するだろうというのでもなく甫庵は氏実を使っています。
      「今川氏真」は注では
         「義元の子。上総介。入道して宗ギン。・・・相国寺で信長に謁見。 178(頁)」
     となっていますが、「上総介」は信長と同じで「相国寺」は今井宗久も関わりがありそうです。氏真の「真」
     は「今井」=「井真井」とみるための「真」、「宗ギン」の「宗」は「宗久」の「宗」、今井宗久も「入道して昨夢
     斎」となっており、「入道して」は両者同じです。太田牛一は「今井」だけしか書いておらず、今川⇔今井
     が並びの意味でしょう。
      今川(ごう)→今江→今枝 であり〈甫庵信長記〉索引では
            猪子兵介/★★今井掃部助/今井宗久/今枝弥八/今川氏実/今川孫次郎/今川義元/義元
     となっており★は文中表記は「今村掃部助」で注では
            「(考証名)今村氏直   越前朝倉の将〈金光寺文書〉。掃部助。」
      となっており、つまりは★★と同一人物ということになります。すなわち、一般向けの甫庵に合わせなけれ
      ならないから、★は「今井氏直」になりますから「今井」から★まで「井」が流れています。したがって
      ★と★★が今川を語るキーマンにもなります。
         今井(川)宗久(今川氏真の案内役)―今川(井)氏真―今川孫次郎―今川義元―今川氏直
      となるので 今川氏は
            今川義元
            ‖ーーーーーーーーーー(子)今川氏真
            (舎弟)氏豊           ‖ーーーーーーーーーー今川孫次郎
                               今川氏実(大石源三氏直)
      となるのではないかと思われます。大石源三氏直は〈信長公記〉の表記で「氏直」は間違いとされている
      ワケありのもので、これを出すため、「今井」(考証今井宗久ー森海老名相当)が出されていると思われ
      ます。
 
      (167)猪子の前後
      次の稲葉伊豫からきて「伊豫父子」という珍妙な挿入があるのは(「稲葉伊豫父子」はある)索引で語ら
      せるということが一つの手段である、ということを指摘したものの一つといえます。
         稲葉伊豫/犬(「信長使者」)/乾丹後守/犬飼大蔵/犬飼助三/犬飼孫三/・・井上又蔵/猪子賀介/・・
         ・・・茨木/今井宗久/今川氏真・・・/伊豫父子・
    
    の間に「犬」が入り、これは今井宗久−今川氏直・・伊豫へ戻って全体に「伊勢」の「伊」を被せていますが
    「犬」や「乾」は先に引き当てていますが、合っていたかどうかもここでわかりそうです。「乾」が「犬」の間に
    突然でてきますが本文では
       「・・黒部源介・・海老(えび)半兵衛・乾(いぬい)丹後守・山口勘兵衛・堤伊予、」〈信長公記〉
    のような登場ですから、前は「森えびな(海老名)」相当で、「犬」に該当ということが一応出てきます。「蘇我
    蝦夷」の「蝦」(えび)でたいへんな名前ですが、ここで「犬」−「犬井」が今井宗久にも流れています。
    荒木の一節
       「九月二日夜、荒木摂津守、女房一人召具し、●乾助次郎には葉茶壷を持たせ、伊丹を忍び出で、
       尼崎へぞ落ちにける。」〈甫庵信長記〉
    があり、ストーリイではこの文の役割がよくわかりませんでした(つまり、三人の内、二人が誰かわからない、)
    両三人とでもすると    あの荒木村重
                    ‖女房
                    ●乾助次郎
    くらいとなってきますが、これも今となれば(航海の視座が加わると)
         「乾平左衛門」〈甫庵信長記〉(索引では 「・・・乾助次郎/乾平左衛門尉/犬飼孫三・・・」)
   も参加してくるので、これは池田色(「(池田)紀伊守」「鼻隈」「生田の森」「鯨波」などの出る一節に登場)
   の「乾」であり、「助」と「次郎」、「女房」の不確かさがあるので、●は重要人物として、これはこれとして別の
   話となるのでしょう。が、既述の部分では
   ●を茶葉などから利久もありえるとしましたが、これもストーリーに捉われない語りとしてはありそうです。
   「女房」は表示しないことになる人物となると、九月二日の文は、
      A荒木摂津守@(太田和泉守)、 B荒木摂津守A(えびな)=海老名、 C千利久
   ということであれば合っているかも。九月二日の文、〈信長公記〉では
      「九月二日夜、荒木摂津守、五・六人召列(ツレ)伊丹を忍出(しのびいで)尼崎へ移り候。」
   となっています。大きく食い違っていて、語りを広げる一つのチャンスが与えられいると取れます。「乾平左
   衛門」の出てくる一節は「五六十人」「五六十騎」「十倍」「十倍」も出ており、この五・六人は10倍してみる
   ことも与えられた一つの課題かもしれません。
      ○太田和泉守、五・六人の兵士を率い「伊丹」を忍びでて尼(安満)崎へ移動した
      ○兼松正吉、五六十人(60に近い人数)を率い、「伊」勢を忍び出て、尼(天ー外国)へ移動した
    というのもないとはいえない、他日の事件の転写を関係なさそうなところへしていることがあるので、ここは
    ついでではいかないところです。摂津守は「荒木摂津守」しか〈両書〉になく「摂津守」で有名なのが
         「小西摂津守」〈甫庵太閤記〉
    で、関係づけられているかわからないところがあります。とにかく「乾平右衛門」の出てくる一節は
         「池田勝三郎信輝息紀伊守」「勝三郎子息池田紀伊守」
    があり「池田紀伊守、同古新」の兄弟も、「尾藤源内、舎弟又八」の兄弟を見ていそうです。「犬」の流れで
    「犬飼孫三」が出ていますが、これは滝川の船に乗っていて既述です。索引からみれば「前田慶次郎」
    が渡海の孫七の一人というのが一応考えられます。〈甫庵信長記〉索引では
        荒木摂津守/弥助
     という並びがあり、この「弥助」は注目すべき抜き出しで、「弥助」は単に一応あの荒木村重の幼名という
    紹介に過ぎないものですが、多くの効果が出てきそうです。即ち、荒木摂津守親子が並んだということも取り
    様では出てきます。一方、 
         「黒坊主」〈信長公記〉
    の注が何もなく、文中の脚注に「弥介」と載っているので、この「弥助」と結び付かないきらいがあります。
     〈信長公記〉索引では
         黒田半平/黒部源介/黒坊主
      があり、黒田の坊が「黒坊主」や「黒部」−「海老半兵衛」と重ねられており、「黒田半平」は〈甫庵信長
     記〉にもあり、甫庵にも黒坊主のことが
     載せられていた、といえます。乾は森えびなを呼び出し、そのリットルとして宮本兵大夫と犬飼孫三の
     渡海を語ったのかもしれません。
     
     (168)神戸
      伊豫から伊豫への索引の流れで「猪子賀介」が出ましたが本文では
       「尺限廻番衆」(「菅屋(すがや)九右衛門」以下24人)の
     次の羅列の中で出てきます。
        「・・・神戸賀介・荒川新八・★猪子(ゐのこ)賀介(がのすけ)・野々村主水(もんど)・・」〈信長公記〉 
      この人名の中では、
           A・一切ルビのないのが16人、 B・「菅屋」など苗字だけにルビのあるのが5人、
           C・★のようにフルにルビのあるのが1人、 D・★の後ろの「主水」のように名前だけのルビは2人
     となっており、計24は、本能寺「廿四人」の森の24であり、清水又十郎〜水越助十郎までの24で、渡海の
     人数の内訳として何かいってるかもしれませんが、それらは別として、★が特別で、
        神戸=(賀助)=★猪子 
     で「神戸」注目、と「荒川新八」を挿んだ意図が一つありそうです。「猪子」は太閤記などによって美濃の
     出身と思いますが、テキスト索引では「猪子賀介」のあと「猪子兵介」(考証名「猪子高就」)があり、
         「のち高然。猪子氏は摂津池田(神戸市生田)に住し生田といい、のち猪子に改姓。」
      となっていました。「賀介」の「賀」は「伊賀伊賀守」の「賀」と思われますが、本巣の安藤一族の「就」や
      、本巣山口城の古田の「然」などを引きずっています。一応「猪子」は
         「摂津池田」=「神戸」「生田」=「伊賀」の「賀」「就」
      となり且つ「荒川新八」が「神戸」と★の間に入りますから「荒木」氏も同類項になる、また神戸氏というも
     のが、小豆坂の戦いで「神戸市左衛門」が出てきて、そのままになっているので、「伊賀伊賀守」とか「金
     松又四郎」というような太田和泉守の連れ合いのような部類の人物となるのかも。伊賀伊賀守天正6年、
     まで記事があり(生没年未詳)、金松又四郎はこの五年ほどまえに二回登場しているだけで、今日でいう
     連れ合いの間断ない生活、活動記録がないというのでは、細胞のことを除外して身体という全体を述べよう
     というに等しいことになり、太田和泉守の著述の土台が崩れかねません。すなわち「菅屋九右衛門」「朽木
     信濃守(考証「元綱」)」「簗田出羽守(考証「広正」)」・・・などがこれに当たるかもしれないということで、
     その都度いってきましたが、ここで神戸や荒川、荒木などが瞬間的なものとして出てきているといえます。
      「神戸」は(かうべ)かどうか、索引で
            快川紹喜 (文中「快川長老」「円常国師」、「前妙心寺住持」「大通智勝国師の「国師号」)
            かうべ平四郎
     という並びがあり、一応これは「神戸信孝」の「神戸」と取らざるを得ません。ただ「神部」が〈信長公記〉に
    もあるのに人名索引から洩れており(抜かれており)、〈甫庵信長記〉の「神部四方助」と協働する形は外され
    ています。外すという意味は、注目もあり、避けるもあり、両方に意図があります。上泉伊勢守の「上」は「かう」
    でしょうが、〈信長公記〉「伊勢太神宮」のところで「上部大夫・堀久太郎」「森乱」が出る、その「上部」は
    「神部」がないとわからないのではないかも。「かうべ」というのは「頭」もあって、「平四郎」は「兵四郎」も
    あって、「頭」と「兵」は
      「丸毛兵庫頭」〈両書〉(考証名「長照」)、子息が「三郎兵衛」(考証名「兼利・兼頼・安職・親吉」)
    がありますが、この索引の並びは「円」(丸)、「通」、と「頭」「平(兵)」を繋いでおり、丸毛兵庫頭と「かうべ
    平四郎」が繋がれた感じですが、神戸信孝は信長子息という一面だけではないようでもあります。伊勢関連
    「孝」というのは永岡などの「藤孝」の孝もあります。    
    文では
        「造酒丞下人禅門と云ふ者、かうべ平四郎を切り倒し・・・」〈信長公記〉
        「  角田新五□□松浦亀介討取る。
           大脇虎蔵、□かうべ平四郎、□初めとして、歴々頸数四百五十余あり。」〈信長公記〉
     があり、下の文、不自然な□(空き)があり、「大脇虎蔵□□かうべ平四郎(討取る。改行)初めとして・・」
     となるべきもので、校注で「、」が二つ入れられたのがこの意味と思われます。つまり「下人禅門」は「大脇
     虎蔵」で・伊賀伊賀守・兼松など相当人物の仮名ということにもなります。「太田」と「脇」、「虎」の組合せ
     のような名前ですが、「脇」は宮脇又兵衛・大脇喜八(両書)・脇坂安治などの「脇」、「虎」は加藤虎之助
     青山虎などあり、脇坂甚内安治の「治」は「伊賀伊賀守」(定治)の「治」でもあります。こういってる一方で
         「大脇虎蔵をば織田勝左衛門尉討ち取りける。」〈甫庵信長記〉
    があり、「大脇」は相手方となり「かうべ」を討ち取るのはありえないということになります。表記の一人歩きの
    面で話しているところにところに敵味方というストーリーが入ってきて修正せんと話がおかしくなるということ
    になりますが
      「かうべ」は「下人禅門」と「大脇虎蔵」にやられ、「大脇虎蔵」は「織田勝左衛門」に殺られた
    のだから「かうべ」と「大脇虎蔵」の表記は消え、織田勝左衛門と下人禅門が残ったわけです。

    (169)下人禅門
    要は、弘治二年(1556)「柴田権六」と「林美作(守)」が攻めて込んできたとき、
       「上総介信長の御手前には
       ●織田勝左衛門・織田造酒丞(さけのじやう)・森三左衛門、▲御鑓持の御中間衆四十ばかりこれ
       あり。造酒丞・三左衛門両人は、きよす衆土田大原をつき伏せ・・上総介殿・・・造酒丞▼下人禅門
       ・・・かうべ平四郎・・・造酒丞・・・。」〈信長公〉
    
     の面々が登場していますが、●を曖昧にしてきたツケがきているところです。一応、はじめの三人は
     ●は池田勝三郎の「勝」もあるので、また池田勝三郎は弘治四年(脚注では「弘治三年1557」)信長
     弟勘十郎・武蔵守を手にかけており、悪役の「勝」は太田和泉守であろう、ということで、父子の紹介
     くらいのことでみてきました。つまり
          今で言う父(織田造酒丞)ーーー(子)森(太田)和泉守
                              子の連合い(義理の子)森三左衛門可成
     の三人です。間違いというわけではないが、追加があるこのかも。▲が40人くらい鑓持ちがいたという
    ことと、40才くらいの中間、すなわち▼がいたということもありそうです。ここに「織田造酒丞」と「造酒丞」の
    二通りのものがあるのでそれを使うと、
        織田造酒丞ーーーー太田和泉守(●)
                     ‖造酒丞(▲▼下人禅門)
                     森三左衛門可成
    が併せていわれて▲▼は「伊賀伊賀守」「金松又四郎」「菅屋九右衛門A」などの存在をいったということ
    ともいえます。「禅門」というのは、甫庵で「時頼禅門」が使われて、〈明智軍記〉で、いわゆる明智光秀に
    「禅定門」が使われています。時頼の場合も、二人いてこの禅門の人は、トキヨリのことをいっていて、ここの
    造酒丞と重ねてよいものでしょう。光秀の場合は「禅門」に似ているということだけですが、出方が、小栗栖
    (ウグルス)の里での最後の場面の辞世で出きます。
        タイトル「明智日向守」、上の脚注(つまり題目)「光秀」、辞世の署名 「明窓玄智禅定門」
    となっています。これはミツヒデといってる感じで、この場合は「禅定門」、〈武功夜話〉で、信忠、信雄、徳姫
    三人の母公である永禄9年に亡くなった俗名、吉乃については「久庵柱昌大禅定尼」となっており、「門」
    ではなく「尼」となっています。
     〈武功夜話〉では「清助門」など「門」つきでいわれるのが多く、男性をいっているのでは、といって
    きましたが故人の男性かもしれません。辞世の句は
        逆順無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元    明窓玄智禅定門
    で「門」が二つあり「門」という意味は考えねばならないと思いますが、「逆順」が「順逆」の逆となっており
     この年、五十五は光秀と同じで、55は当時の停年かもしれず、名前は出ない俗に言う影武者の人という
    ことではないかと思われます。光秀は生存といえる場面です。ほたら他に例はないのか、となりますが
    戒名書いてくれてるのがなかなかないのです。が、信秀の場合は
       「備後様(織田信秀)・・・天文己酉(十八年、一五四九年)三月日御逝去了(おわる)、桃巌禅定と
       いう。」〈武功夜話〉
    となっています。「了」が御ご逝去の完了というような感じですが、逸らしたところが、「門」「尼」の意識があると
   いうところです。●が太田和泉守をみているとなるとこれが一番の大物ですから、それだけでは終わっていない
   と思われ、もう一つ●の@がありそうです。

    (170)造酒丞
      また、ややこしいところへ来ました。
      つまり
       織田勝左衛門●@
       織田造酒丞(父)ーーーー(子)太田和泉守●A
   ということの紹介、つまり織田造酒丞(平手氏)にいまでいう兄弟があったということであろうと取れそうです。
   ●@の人が一時、信秀の連れ合いで、あの信長の父かもしれないということがあります。ネットなどで信長の
   お袋とされる「小島日向守信房」という表記の人物が出てきます。この名前は案外使われていますが「小島」
   と「日向守」がわからないので「信房」の権威がなくなって援用されなくなっているところです。渡海という視点
   が出てくると「小(大)島」の「島」、日向伊東の「日向守」という意味があるかもというなかでの「信房」ということ
   になります。テキスト人名注をみますと
        織田信房 (「造酒丞」 文中「織田造酒丞」)
        織田信光  孫三郎、信秀の弟 三河小豆坂七本槍の一人 文中「孫三郎」
    があり、もう一つ
        織田信長の御袋様 → 土田(つちだ)氏
        織田信実   四郎次郎 織田信秀の弟  (文中「四郎次郎」)
    があります。この信房と信実は同じとみてきました。というよりも「小幡信貞・信真(実)」の線から「信実」が
    新たに出てきたので折角固まりかけたこのあたりのところが、また課題が増えて迷惑してるというところです。
    ただ太田牛一は、索引には抜いてありますが、織田兄弟の羅列の中で、ちゃんと
         ■「四郎二郎殿」「織田四郎次郎」〈信長公記〉
     を入れています。「二郎」は二人がありえます。「四郎次郎」という場合「四郎」という人と「次郎」という人
    と「四郎次郎」というトータル人格を持つ人と三人あるということです。「織田造酒丞」についていえば
      「造酒丞」「織田造酒丞(さけのじよう)」「A織田造酒(サケノ)丞」「B織田造酒正(カミ)」〈信長公記〉
    がありますから、テキストの索引のページによってますから漏れてたら困るのですが、■は「四郎」「一郎」
    「一郎」とトータルのいはゆるという■の四人で見たほうがよいということになりそうです。江戸期の人は
    これで見て、今の人は一つで見るということにされています。どうしようもない固さ、単純さが根付き、黒白つ
    けて見るのに慣らされています。ここでは要は、
              織田信長ーーーー信実
              太田和泉守ーーー信房
      というようなものが出てきたら二人は親類ということになり話が進んでいきますがそうなるかどうかです。
     織田勝左衛門などを入れてまとめると、
       A織田造酒丞(さけのじよう)@=信秀?
            ‖造酒丞@=A織田(サケノ丞)=織田勝左衛門●@=織田信実=信長父
       B織田造酒丞(さけのじよう)A」=内藤勝介
            ‖造酒丞A=B織田造酒正(カミ)=織田信房=太田和泉守父
     のようになるかも。年齢は後で考えたらよいですが、年表などによると織田信秀と織田信長の間は24年
     あるので、15歳くらいから9年間の間に、庶兄が一人しかいなかったということになってます。これらも
     ぼちぼちとみないといけないかもというところです。

    (171)那古屋弥五郎
    これは信秀の兄弟で
      @「今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。」〈信長公記〉
      A「織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、▲織田造酒丞・・(説明)・・、▼内藤
        勝介・・・(説明)・・・、◆那古屋弥五郎、清洲衆にて候、討ち死に候なり。(このあと8人の人名羅列)」
                                                            〈信長公記〉
    の@Aの紹介があって、Aで4番目の人の後ろは「、」で一旦切れており、転調があって、▲▼で四郎次郎
  主  の説明をしたと取ってきました。◆は五郎だから@の「右衛門尉」該当で、別の説明となるということですが、
    @は「四郎二郎」となっていて何となく男性の二人が表されている感じです。Aの「四郎次郎」は、二人の
    合成で二人に分かれる、とともに「四郎次郎」という個体が一つある、ここでは
        四郎=▲、次郎=▼、四郎次郎=▲▼で醸し出される人格
    の三人に説明がされているととれます。
    @の右衛門尉は、織田信次とされる人物ですが、天正2年伊勢長島で戦死ということで、つなぎがなくなった
    ままの人物です。何もよくわからないのでやりにくいことこの上ないのですが五人目(五郎)を出して表記を
    消してしまったと取れます。つまり信秀の父、信定に、一般的に五人の子があるとされていてそれの記録
    を残したということになるのかも。しかし重要人物四郎に近い人なので影響がないとはいえないはずです。
    何もわからというのでは進まないので、多分戦死しておらず、二人の子がいて一人が利口なる安房殿(信時)
    ではないかとみとくことにします。根拠は「由宇喜一」が「織田三位」を討ち取ったことです。織田三位は
     「一、八月十五日・・・織田三位・・・織田伊賀守・・・深田と云ふ所に●織田右衛門尉居城・・・」〈信長公記〉
    のように●「右衛門尉」に接近しており一応「織田三位@」=●であろうとみれます。仲を取り持つ★が
    一匹狼、解説なしの大物で注では「織田信氏」となっていて
          「・・御田井(於台)城主・・・幼名竹千代。伊賀守。母は信長?の妹。・・・」
   があります。織田藤左衛門家の人でこれは平手水野松平に関係ある筋とみれますが、織田伊賀守(「松葉」
   が属性)という表記だけからは太田和泉守を第一に想起してもよいぐらいです。織田の
          「信氏」(逆は「氏信」)
    の名前は覚えとかなしょうがない、とおぼえとこ、ですが、「由宇喜(貴)一」は前著で明智左馬介とみてい
    て、安房殿ともども、討ち取ったのが織田三位だからきわめて近い関係が示唆されているということです。
    ここの「八月十五日」は年が書いてないが、脚注では、やや余計なこと
          「天文二十一年(一五五二)。この年清洲の織田氏の坂井大膳等が信長に叛いた。」
    があり、著者において爆竹@Aの「十五日」につなげられるものでしょう。30年後1582の航海出発というのは
    桶狭間誤記「天文廿一年」の三発の著者の解説があるのかも、と校注者がいってるのかもしれません。
    ここの「深田」は脚注では
         「海部郡。〈愛知県史〉では不明としている。」
     となっており、「松葉」は脚注では「海部郡大治村付近」となっています。〈愛知県史〉はわかっている
     はずなのに、「不明」といったわけでもっと奥深いものがある、ただ直接的な「海」はやめとこうと思案した
     ととれます。とりあげて何も書かない場合、脚注では「未詳。」が使われ、「不明」は「不明を恥じる」という
と    言葉もあります。はじめから取り上げなかったら、何ごとも起こらないから。
     「深田」は桶狭間、古池田の陣などで「高山」と関連が生じ、「ふけ」→「吹」(福)→「杉」と活用が広がっ
     いくものです。 ●は
           明智左馬介(安房殿)−海部郡治(次)−「伊」−「高山」・・・・
     という渡海関連という観点から見ないとなかなか捕捉できないもので、今となれば出てきたということです。
      これではじめの五人の兄弟の筋は通ったのであとは「四郎次郎」「▲▼」から語りを進めていったという
     ことになるのでしょう。「右衛門尉」は、
       「佐久間右衛門尉」「平手五郎右衛門尉」「菅屋(谷)九右衛門」「いいばさま右衛門尉」(飯場左馬?)
    などがでてきます。二番目の人は「五郎」で、平手の嫡子で、「右衛門尉」だから平手氏の養子に
    になったのではないかとみてきました。
     下段では全然関係なさそうな◆が5番目に出てきます。五郎だから「右衛門尉」の延長の「那古屋弥五郎」
    と見ることになります。これは〈武功夜話〉の系図では清洲五郎@で信定の弟となるようですが、この人が
    小豆坂で戦死したということかもしれません。ここは斯波氏を補佐して清洲城にいる尾張の中心の大和守
    家に、太田和泉守がいたとみられますので、「那古屋弥五郎」と名前が問題になります。まあ、これは
    ◆の前の織田四郎次郎をひきついで五郎とした、というようなものと取れます。甫庵では
         「那古屋弥五郎」
      は完全なる一匹狼で登場ととも戦死で、表記が消えます。まあおかしいことですが、〈信長公記〉では
     那古屋弥五郎は二回、討死の記事(「坂井甚介」に例がある。)があり、その後
    清洲城で簗田とともに16・7歳の「那古屋弥五郎」ジュニアらしい若衆が出てきました。また
         「那古屋弥五郎内に丹羽兵蔵」〈信長公記〉
    という丹羽兵蔵の身内としても出てきて索引では
        丹羽五郎左衛門/惟住五郎左衛門/五郎左衛門/丹羽兵蔵/・・
    となってて、丹羽の「五郎」というよりも惟住の「五郎」意識の弥五郎もでてきています。
     〈戦国〉既述のように、後年、肥前名護屋城に「太田和泉守」の建物造営がありますが、これは関係ないと
    はいえないでしょう。現在名古屋という地名があるので、太田和泉守が那古屋弥五郎ということが地名の
    契機にはなりえます。
     織田・土田・平手を整理してみると
           織田信秀
           ‖▲四郎(次郎)=●@=信実ーーーーーーーーーーー三郎信長(四郎次郎)
           ‖織田孫三郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーー信長諸兄三郎五郎
           土田御前▼「(四郎)次郎」
     となり、▼が出てくるのは、先ほどの文で「造酒丞・三左衛門両人」が「きよす衆土田の大原」をつき伏せ
     頸をとっているから関係が濃厚ということです。
           平手清秀(政秀@)(清秀は甫庵が使っている表記)
           ‖□□□ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー平手政秀(政秀A)
           ‖▲四郎(次郎)=造酒丞A=造酒正=信房ーーーーーー太田和泉守(四郎次郎)▲▼
           内藤勝介「(四郎)▼次郎」
     となるかも。平手政秀の今日で言う配偶者は不詳になっています。これは不詳にしとこ、という戦前の内務
     省の方針が踏襲されて、いることによる不詳でしょう。□□□の部分は仮定するだけであれば材料はある
     はずで、まあいえることは、信長の4人家老の一人、林佐渡守の筋も見ないとわからないということです。
     テキスト補注では、再掲
         「天文二年1533七月・・・飛鳥井雅綱・山科言継らは、二十日、平手政秀を訪問、この時、七歳
          の次男は太鼓を、■武藤掃部助平任貞の七歳になる息子は大つづみを打ったが、政秀の長男
         のことは〈言継卿記〉にみえない。・・・そして・・・七月二十三日、★平手助次郎勝秀は・・・雅綱の
         門弟になっている。この勝秀は政秀の嫡子のようである。・・」

         「当時平手姓の者には林佐渡守秀貞(上の平任貞の貞?)と連署した平手孫右衛門長政・・・尾州
         那古屋平手昨雲斎長政がある。」
     となっています。七歳の次男は1526の生まれで太田和泉守、同年の息子を武井夕庵と取れます。
    上の□□□には長政を入れ、造酒丞Aを■とし、★を政秀A(活動名=佐久間右衛門)とすると一応
    収まります。要は「造酒丞」(さけのじやう)は仮名でこれ相当としてこの場合は「平手長政」とか「武藤掃
    部助任貞」という表記をつかうということではないか、と思われます。一応、平手長政と林秀貞の連署は
    意味が大きいような感じです。林佐渡守も実在はわかりますが、実存的なものがわかりません。平手清秀
    と職場の同僚というには説明を要する事件があって、弟の「林美作」が、信長が林のいる那古屋の城へ
    やってきたのを殺そうとして、林佐渡守が
         「余りにおもはゆく」(脚注=恥ずかしく)「三代の相恩」「天道おそろしく」
     ということで止めて信長が助かっています。主君ということだけなら「三代の相恩」だけで十分です。
     勘十郎を立てて、このあと、林は柴田権六と組んで信長を攻めてきてここで「林美作」が信長と織田勝
     左衛門小人に討ち取られています。この戦いで「かうべ平四郎」が造酒丞下人禅門に討たれた、そのすぐ
     あとのことです。つまり
            討った人            討たれた人
         織田勝左衛門(御小人)     「林美作」
         造酒丞(下人禅門)        「土田の大原」、「かうべ平四郎」
     となり。これは極めて近い関係といっていると思われます。「土田の大原」は信長母「土田御前」しか、思い
     あたらず、「かうべ」は「神戸」とすると摂津池田の人、土田御前は池田と関係が深く、信秀の死後、織田
     と関係が切れたとすると、再婚もあるかも、そうすれば池田氏もありえますが、これは不謹慎とすると、ない
     かも、まあ今はわからないといったところです。

     (172)再び小豆坂(大窪半介{ハンカイ}が出たところ)
     秀貞の貞が「任貞」の「貞」、「秀」は平手の「秀」で、平手には「汎秀」もいます。〈両書〉でいえば、小豆
     坂の戦いの記述が、造酒丞という創られた名前の拡大を示唆していそうです。 
    〈甫庵信長記〉小豆坂の一節では
      A「織田備後守殿・・・・舎弟孫三郎殿・・・造酒丞(さけのじやう)・・・・・
       ■備後守殿、御舎弟織田与次郎殿、同四郎次郎殿、其の外赤川彦右衛門、神部市左衛門など・・内藤
       勝介能き敵討ち取りぬ。・・由原・・那古屋弥五郎・・・討死す。」
    で、■の羅列があります。
     〈信長公記〉は再掲、
      B「織田備後守・織田与二郎・織田孫三郎・織田四郎次郎殿、造酒丞(サケノジヤウ)・・・鑓きず・・・・                                      
       ・・内藤勝介・・高名・・・。▲那古屋弥五郎・・・討死候。・・・・・・那古屋弥五郎・・由原討取る。」

    となっていて、小豆坂両者の比較となります。
     ■の羅列に抜けがありますが、抜けているものは「孫三郎」でこれは意識されているので
    その前段に出ています。A、の前段、織田備後守があるので下へ持ってくると、備後がダブルのでそれは
    考えられないということになるでしょうが、小豆坂では信秀の父「信定」健在でこれも備後守です。
    ■の文を修正して、(上から下ろして) B、を加味して(二文を統合)しますとAの文
   は次のように変わります。(孫三郎と造酒丞は上から下ろす、)
        「織田備後守殿、備後守殿、御舎弟織田与次郎殿、舎弟孫三郎殿、同四郎次郎殿、造酒丞(さけ
        のじやう)、其の外赤川彦右衛門、神部市左衛門、・・・内藤勝介・・・(那古屋弥五郎)・・・」
    となります。つまり四郎次郎=造酒丞の中身が「赤川、神戸、内藤」となる(那古屋弥五郎)は由原つきで
     除外)つまりBの後ろの「由原」の記事で▲の討死が消え、「由原」の記事は完全な物語なので▲ははじめ
     から事実を踏まえた形でなく太田和泉守が戦死として登場したととれます。造酒丞の中身は
       赤川彦右衛門=造酒丞     神部(戸)市左衛門=かうべ平四郎=織田勝左衛門A
       となるのではないかと思われます。信秀(信長父)の兄弟の記載は、〈両書〉とも小豆坂の合戦で、出て
      おり、人名トータルでみて比較しますと、下のとおりです。〈信長公記〉では、細字ではないが、一段下げて
      書いた部分との対比になります。
                  〈信長公記〉             |     〈甫庵信長記〉
          小豆坂通常文      小豆坂(段下げ)部分U 小豆坂一節の該当部分、■+(上から)がある

        織田備後守                       U    @織田備後守(上から)                             
    T   備後守              織田備後守    U      備後守殿
        備後殿御舎弟衆与次郎殿  織田与次郎殿   U     御舎弟織田与次郎殿
        孫三郎殿            織田孫三郎殿    U   A舎弟孫三郎殿(上から)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        四郎次郎殿           織田四郎次郎   U    B同四郎次郎殿
                          織田造酒(サケノ)丞U    C造酒丞(さけのじやう)(上から)
    U                                 U   D其の外★赤川彦右衛門、★神部市左衛門
                           内藤勝介     U      E内藤勝介
                          那古屋弥五郎  U
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                                      U   F河尻与四郎 G河尻与四郎(16歳・肥前守)
    V                                 U   H★永田四郎右衛門、
                                      U   I那古屋弥五郎(由原に討たれた)
        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                              U
    W                                U   J 鑓武藤小瀬修理大夫
                                      U   K河崎伝助、L大窪半介、M土肥孫左衛門
        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                              U
    X                                U       N孫三郎 O織田造酒丞
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    Y◆                    下方左近     U      P下方左近
                           佐々隼人正   U      Q弥三郎 (前名)
                           佐々孫介     U      R岡田助右衛門 
                           中野又兵衛    U     S佐々隼人正
                           赤川彦右衛門★ U     21 佐々孫介
                           神戸市左衛門★ U     22 中野又兵衛
                           永田次郎右衛門★U    23  そち (童名)
                           山口左馬助     U
    Z ●那古屋弥五郎(由原にやられる)
   
    計       6                 15                  24
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    となっています。右の〈甫庵信長記〉が一般向けで、わかりやすいもので、信秀兄弟については、小豆坂
    で述べる前に、はじめに書いてあります。「信長卿祖父月巌子息五人」は
        「嫡男備後守殿、二男与次郎殿、三男孫三郎殿、四男四郎次郎殿、末子右衛門尉」
   となっています。「嫡男」を「一男」、「末子」が「五男」と書いていない、のが目立つところです。また官職の
   ようなものは、一男と五男に使われて、五男は「五男、末子(何某の意味)右衛門尉」というものがあるのでは
   ないか、「二男」に「与」、三男に「孫」が何故ついているかというのが気になるところですが、今問題にして
   きたのは四男で、それをいま小豆坂で確認すべく上表にまとめてみたところです。ここでは未解決の重要
   問題である、
         ◆Y枠の8人の引き当て
    のことをやってみます。〈信長記〉の骨格が固まるところです。Wの中間子といった、妙ちきりんの名をもつ4人が、ここに
   どう働いてくるのか、ということです。
   Wの四人は、Jの「鑓武藤(ルビ=マヽ)小瀬修理大夫」が二人なので「4人か5人」となっていて、Lの
     大窪半介({俗異名にハンカイと云} (ハンカイ=司馬遷〈史記〉漢楚の攻防、鴻門の会に登場する英雄)
    が異彩を放っており、これは「半」の人で4人の内の異色です。
   徳川の「大久保」は彦左衛門の長兄
        「大久保七郎右衛門」〈両書〉(考証名「大久保忠世」)
   が有名です。これらを加味したY枠だけは人数が多く、やっとかないかんということです。そのほか
   上の表と清洲動乱の接点となるべき人物の問題があります。

    (172)◆Y枠の意味
    一応これは太田和泉守の周辺(兄弟など一家)、当世代と子息の世代を表したものと取るのでよいの
    でしょう。信長家の筋でもある、大和守家という中心があって、那古屋弥五郎という全体を睥睨する人物が
    中央におかれてます。「五郎」は織田の五番目の郎「右衛門尉」というもっともわかりにく人物がいて、「五」は
    平手の「五郎右衛門」、丹羽の五郎左衛門、大田五右衛門、など特別なものがあり、「弥五郎」は
       「佐久間弥五郎」〈甫庵信長記〉  「前波弥五郎」〈両書〉(解説なし)
    があり、索引では越前がらみの
     ・・前波景定(〈★石徹白文書〉、文中「前波藤右衛門」/前波弥五郎/真柄直元(文中「真柄十郎左衛門」)
    となっていて「波」の「弥五郎」は「間(真)鍋七五三」と重なる無双の豪勇の大将「真柄」と、「波」の「景定」
    に挟まれています。景定は「定」は信定の「定」でもあるから大物という感じですが「伊東景久」の「景」でも
    あり、前波弥五郎は伊東一刀斎の弥五郎を思い出させるものでしょう。★は「菅屋長頼」の設明で出てきた
    文献で「菅屋九右衛門」に「長頼」、一時「長行」という名前を与えたモトのものかも。そういう那古屋の「弥
    五郎」は太田牛一が「右衛門尉」相当のものと扱うといっています。

      「織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞是は鑓きず被られ、内藤
      勝介、是はよき武者討とり高名。那古屋弥五郎、清洲衆にて候。討死候なり。■下方(しもかた)左近・
      佐々(さつさ)隼人正・佐々孫介・・・・神戸(かんべ)市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬介、」                                                                                                  〈信長公記〉
    があり五番目を「那古屋弥五郎」とするというのは一応いってあります。「是」「是」が二つあるのは前の人物
    が二人で、それに対応するものだというのが、わかります。慣れの問題といえます。■以降は、先ほどの表の
    Yの左側の8人のモトの一文です。「下方」「佐々」神戸」三つにひらかなルビがついています。これは
    Yの右のモト、次の甫庵の文が間違いやすいから追記したというものです。  

    Wでは左八人、右五人(「弥三郎」・「そち」はその上の人物の幼名だから)で三人合いません。右の文は
 
      「下方左近、其の時は弥三郎とて十六歳、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其弟孫介十七歳、中野
        又兵衛十七歳、其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。」〈甫庵信長記〉
  
     となっています。ストーリーでは五人ですが、表記は一人歩きする一面があるので、その意味ではベタで
     表示することが筆要で、Qは「□□弥三郎」、23は「□□そち」「童名そち」とでもして、一人でカウントし
     て七名になります。この場合男性は□□の人でよいのでしょう。
     つまり、太田和泉守の七人、和泉守系4人、可成系3人、計7人を表しているのが一つです。
     五人も間違いではなく、妙ちきりんの表記は5人か4人でしたから、4人とすると太田和泉守の子息4人と
     なり、5人とすると金松相当の人を加えて5人となるというこでよさそうです。要は何もわかっていないという
     ときの切り口になればよいわけです。この甫庵の「そち」の一文は三兄弟の存在をはじめに掴めたもの
     ですから、世代一代遡って武井夕庵、太田牛一の兄弟のことも述べているのは明らかで、それも7人ぐらい
     ということもいっていると思われます。実際は左のほうが8人なので、それで補正するのでよいのかも。
     二つの世代のことを同時に言おうとしたので表記がややわかりにくくなっていることにもなります。この
            岡田助右衛門
     の存在が大変邪魔で、すっきりした説明を出来ずに困らせるものとなってきましたが、ここであった方が
     よかったということになりそうです。索引で
         岡田右近/岡田助右衛門尉/(其の子)助三郎/岡部五郎兵衛/・・・/岡部又右衛門尉/・・・
      があり、この人物は「助三郎」のいまでいう父くさい名前を出してて、どっちつかずという役に立ちそうも
    ない顔して静かにしてますが、子息「助三郎」は確実に男性で、これが前の「弥三郎」の色をきめる役目を
    した、つまり前(上)の「弥三郎」を森えびな「海老名」かと思わせる役目を果たしたといえます。また五人
    として左右対比した場合
「          左二番目、「佐々(さつさ)隼人正」・・・右二番目「岡田助右衛門」
    となり「隼人正」(「木村隼人正」)に暗示を与えてることにもなります。ひらかなルビがあるから、二つの世代
    のことを同時に言っていそうだというのも、出しています。ストーリーのこの五人が太田和泉守の
    狭義の一家とすると、妙ちきりんのはじめの人物の(マヽ)というのが、武藤を半分にしてある上に鑓という
   という余分なものがついいるので、「金(兼)松」相当の人と四人の子息というのもありうる・・・それもあると思わ
   せるのが「岡田助右衛門」の役割といえます。(マヽ)の付いた長い表記の二人か一人かわからない、これは
   全体太田和泉守を表すということで、妙ちきりん、は
       四人兄弟を表す、   五人を表す(四人兄弟+岡田助)   六人(家族)
   を表すことが出来ています。甫庵の索引では
       小瀬三右衛門尉/小瀬修理大夫
   の並びがあり、最初の(マヽ)のルビがある人物は「小瀬三右衛門小瀬修理大夫」とするところでしょうが、これ
   だと今で言う夫婦ととられ、修理大夫が男性的表記だということで収まりそうです。そのため前を平手などと
   とつなぐため武藤を入れて不完全にして、逆にしたと考えられます。偶然太田和泉守の兄弟の場合も、子息の
   場合も、3:1(1の方は「大窪半介」)の比率になったということもありえます。岡田助右衛門のもう一つの役割
   は美濃の明智三兄弟に、もう一人、大窪半介相当の人がいたということを書いているということがわかること
   になります。小豆坂当時、16歳二人、17歳二人ということで、これは表のEの内藤勝介の下のV枠の
   子F〜Iの四人となるのでしょう。その下が妙ちきりんの四人ですからHの
         ★永田四郎右衛門尉
    が大窪半介対応ということになります。永は水に似てるので「永田」→「水田」→「水野」に変化したと取れ
  ます。これでYの左の方へ移りますと、4人、4人の妙ちきりん、の基本の括りでみて
    太田和泉守の子息の世代のことをいってるとみる立場では
    ○、はじめの四人、太田和泉守の子息、つぎの★の付いた三人は森可成の子息となり、計七人で、右の
     七人になる。
    ○、Z(Uでもよいが)の那古屋弥五郎=太田和泉、その上の山口左馬介は山口を生かし「山口九郎次郎」
      とみてこれは森可成とみてきたので、
           太田和泉守(那古屋弥五郎)ーーーーーー子息四兄弟  
            ‖O織田造酒丞A(岡田助右衛門のヒント兼松正吉相当人物)
            ‖★永田次郎右衛門(水野) これは山口の上にあるのでここの持ってこれる)
           森可成(山口左馬助A)ーーーーーーーー子息三兄弟
    ともなる。こうなると尾藤源内・尾藤又八の父の尾藤助宣は、★太田和泉守の今日で言う実弟となる。
    森長可A(古田織部)=青地駿河守とみたので、この人の父は、テキストの「青地茂綱」(蒲生氏郷の叔父)
    ともなるかも。
    太田和泉守の兄弟世代の観点からみるとみると
    ○、はじめの四人は明智四兄弟、次の★の三人は四兄弟の傍系(義父)の子(義理の兄弟)、と取れる
      。内藤勝介の周辺をみるとき頭に入れておけばよい。また山口左馬介は明智左馬介とみるとき、
      左馬介は明智四兄弟の異父兄弟とみてきた。
    ○、組み合わせは上の太田和泉守のところを内藤勝介と入れ替えて
             内藤勝介(那古屋弥五郎@)
             ‖織田造酒丞
             ‖★H永田四郎右衛門(水野@)など
             □□□ーーー子息三人?
             斎藤氏ーーー明智左馬助
     などにもなる。

    このように、ここの人名表は古池田の陣での人名表と同じく、切り口となったり、確認したりできるところで
    奥深いところです。はぐれの「山口左馬助」は桶狭間で今川義元に謀反の疑いを懸けられ殺された
        「山口左馬介・子息九郎二郎」「同九郎二郎」「子息山口九郎二郎」「左馬助」「九郎二郎」
    という表記の「山口左馬介」「山口左馬助」という人物と、
        「山口九郎二郎」「九郎二郎」(「清水又十郎」の一章で出てくる)
   という、森可成に比定した人物と
        「左馬助」から「明智左馬助」を出したもの
   の三つに関係付けたようです。
    はじめの「山口左馬助」(稲葉山で戦死の青山与三右衛門の子とみた、)は「森勝蔵」や「大石源三」
   までも織り込まんでいそうです。妙ちきりんはこの表全体に及んでおりまだ使い道がありそうです。変なのが出
   てくると劇的なものが出てきそうです。

     (173)西巌・月巌
    上表「織田備後(守)」から入っていて、尾張が上四郡・下四郡に落ち着いて備後守が中心的存在に
   至ったころから、〈信長公記〉が書かれて小豆坂の戦いも備後守の時代のことで、その前の尾張の動乱のところ
   は触れられていません。ただそこまでくるまでに立役者がいるはずで、それは出ています。すなわち
   (□は一字空き)
       「西巌(サイガン)□月巌(ゲツガン)・今の備後守・舎弟与二郎殿・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉」
                                                             〈信長公記〉
   となっています。一回限りのここだけの登場というそっけなさです。ここ「今の備後守」というのは信長の父、
   信秀のことで、「月巌」は、信秀父「信定」とされています。これも「 備後(守)」でありうるというのは確実なところ
   で補注を見てもそのように解されています。ネットで確認しても
      月巌=(信定)=太田牛一    月巌=(霜台)=松永弾正   備後(守)=(弾正)=松永久秀
   となり、「黒田如水軒霜台」もあります。「弾正少弼」「弾正忠」「弾正」がありますが松永は全部揃っている
   ようです。「西巌」も知りたいところですが、テキスト索引では
        雑賀/雑賀修理/西巌月巌(解説なし)/三枝小太郎など三枝三人/西光寺/斎藤・・
    となっており、「西巌」は「月巌」と引っ付けられて、どちらからも逃げられています。
    この〈信長公記〉の文からは通常は信秀
    の祖父が西巌と取れますが、ウィキぺデイアでは西巌では
   「織田良信」で出てきます。それによれば、西巌=信秀祖父が結論のようでもあります。
         清巌―材巌―月巌(信定)
   と続くそうですが、この「材」=さい=「西」というわけでしょう。
   「清」=西(せい・さい)=「材」、だから、この二つを併せて「西」としたかもしれません。それでも「□(空き)」
   の説明は出てきません。これがその説明とすると、
         「材」=ざい=「さい」×2=西+西(サイ)=西巌(ルビ=サイガン)
   となるのかも。つまり空いたところ「サイガン」が入る状態になったということになるのではないか、と取れます。

    つまり最高権力者の掣肘はいずれの時代でもむつかしく、若いころは両親周囲の影響下でそうはいかない
    し、また一方の人が健在である場合は、その影響も受けて自由が利きにくいということがあります。抗争に
    明け暮れる社会は武力が勝負でこの時代も後世のイエヤス公のような存在が出てくることは避けらられない
    とも考えられます。連合いの領主に先立たれる場合もあり、一人になったままで、子息の保護とか言って
    居座ってしまう、女性関係も自由になって、世間公認でない妻妾も増える、女性は今日だとこれを不倫として、
    離婚だ、慰謝料だ、契約金を寄こせ、となりますが、武力を背景にした権力の前にはそうはいかない、離婚
    は効かず、再婚もならず、女性にとって、権力はやっかいな未亡人を生むことがありえます。子息はかわい
    いから、利便を与える、織田
    因幡守の家が岩倉の傍系なのに三奉行の実力者としてのしあがったというのも持参金があったと取れる
    わけです。索引では本文の「○(空き)」を無視した上に
       西巌月巌〈信長公記〉
    となっており、より両者を近づけています。「西巌(サイガン)月巌」ということになるのでしょう。一応、このサイ
    ガンの晩年の子がイエヤス公というのが考えられます。この「○(空き)」は台風の眼として太田牛一が設定
    した「空」といえそうです。イエヤス公といえどもはじめは両袖婚のややこしさは甘受した、とは思いますが、
    片袖婚ですませたしまったり、フリーで子は養子にだしたり、創家をさせたり、有力家臣に預けたりする、と
    いうことになった、と見えます。信長公も御次を羽柴秀吉方に預けています。本能寺同年、再掲
      「是は▲渡辺弥一郎と申す者・・是・・馳走・・此の者・吉田・・酒井左衛門尉、子息与四郎・・馳走・・黄金・」
                                                            〈甫庵信長記〉
     があり、この「与四郎」は「子息与四郎」でこれは織田信秀の次弟「与次郎」「与二郎」の「与」だから、織田
    関係あり、とすると「坂井」=「酒井」も気になるところ、あの「妙ちきりん」の上の枠を見ると(ママ)の人物に
    対応するのは「河尻与四郎、{十六歳}河尻与四郎」があり、これは〈前著〉で既述のとおり、坂井忠次の
    年齢で明智光秀と同年という設定があり、妙ちきりんは理屈ぬきで、暗闘している相手方にも飛びかねず、
   「大窪半介は大久保で徳川で、「土肥」もどこかに影響がおよびそうです。それはともかくこの一文に対応するものは
       「・・家康卿御家来▼渡辺弥一郎と申す仁・・・黄金・・・吉田・・・」〈信長公記〉
    があり、こうなると▼は▲と同一で坂井左衛門尉を表していそうです。甫庵索引で
       渡辺忠右衛門尉/渡辺弥一郎/和根川雅楽助        戸田与次郎/土橋平次/土肥孫左衛門
    の二口(くち)があり、左の▲▼の「和根川」は「利根川」で、「利根川」で右の索引をみれば「与次郎」の
    後ろに位置する、ということになります。▲▼は「与二郎」でした。つまり「千代夜叉丸」は「与二郎」の子
    であり、また「与次郎」の信康(のぶやす)は信安(のぶやす)に通じ、これは織田因幡守につなっがって
    いました。信秀の弟には「舎弟(しやてい)与次郎殿」・「与二郎殿」がいて、(しやてい)与次郎の部分は
   なんとなく土田御前も出てそうな感じですが、二人の間に土田弥平次も入れたほうが説明しやすい、という
   ことでした。その土田が後ろの土橋・土肥の土で、戸田の戸も土田の「土田」の土です。妙ちきりんの土肥の
   肥の肥は同じラインの、16歳の与四郎の「肥前守」の「肥」とつないだと思われます。位相の違うものの間をも
   繋ごうとするのがこの時代の志向で、姓の「肥」、名前の「肥」、地名の「肥」、物体の「肥」、外国人の「肥」・・
   間のつなぎがあります。これは、もともとなじめないものを結ぼうとするものだから、強烈なエネルギーが要り
   ますがそれをやっています。
    こういう事態になっても、資本主義のあとは資本主義しかない、がんばろうと新聞などでさりげなく、公理の
   ようにいっていますが、これは社会主義というものと二つしかみてないなかのこっちといっているにすぎない
   ものです。資本主義は人間主義に看板を変えないといけないのでしょう。こういうと忽ち、そーら、おかしい、
   土俵が違う、議論の余地がない、となってしまいます。論者のいいたいところは資本主義は、生産手段を資本
   家がもっていて、資本家は民間だから、自由で、社会主義よりよいといいたいわけでしょうが、資本家の資本
   家の資本家が生まれてくるのは必然で錯綜して混迷して、責任主体がわからない、つまり人間が見えていませ
   ん。主役である会社は誰のものか、と聞いてもよくわからない、ホールディグスのものではなく経営者と従業員
   のものといえるようにする方が顔が見えてよい方向といえそうです。日本でも合名会社という無限責任社員に
   よるものがスタートです。会社に対する権利の行使は全部1000株の株主と同じにすれば、金力による支配を
   排除できる理屈です。資本主義は資金主義みたいだから人間も物も見えてこない感じです。位相の違うもの
   との繋ぎの例としては適切でなかったかもしれませんが、▼の出た日の前日の終わり
      「・・・去年・・・黄金五十枚にて、・・八千余俵調へ・・・此上は入らずの旨・・・家康卿御家臣衆へ■御支配
      候て下され忝きの趣御礼・・・」〈信長公記〉
    があり、これは去年の話ですが、この家康卿は印枚の「枚」が出ており、太田和泉守と解せられます。
    脚注に、■「支配」については「分配」とあり、このように解した文献があるようです。というよりも本文「支配」
    脚注「分配」と書いたものが三回ほど出てきます。これは予想外の語句の組み合わせです。支配は政治的
     独占を想起しますので分配という解釈は合わなさそうですが、こういう言い方が太田牛一にはままあります。
    今日で言う社会保障のようなことをいってるのではなさそうです。人間は食べないと生きられないわけで、
    食べ物を分配するのが支配だといってると見て〈前著〉のような話になりました。ここでは金を米にかえて
    米を配っているわけでわかりやすいものです。これは遠江あたりの話で〈当代記〉で餓死者三千人出たとか
    あり、そういうものと対応してると思います。世界で10億人も飢えてたら分配のために支配してると考えなお
    さざるをえない。第一こういうところまで来たというのは世界のリーダーの失格であり、リーダ層の世代交代、
    男女のアンバランスの破壊などが推進されねばならないところでしょう。
     野球などのスポーツはスポーツ立国の国策に適うものかもしれないが、新聞やテレビがあんまり格差を
    つけて取り上げてきました。大リーグしかり、青少年野球でも、黒白つけさせると、過度の露出の機会を
    与えたこともあったりして、いまや少年の将来就きたい職業も、6年連続プロ野球の選手となりました。
     ドラフト会議の記事も新聞一面に進出し、青天井の所得と大喝采が待ちうけているから当然でしょう。
    一方少女は、パン等の食べ物屋さんですが「食」というのがあるのがホッとするところです。また商売だと
    売り上げがあり、仕入れがあり、値段があって、借り入れがあって、雇用があって、倒産も・・という経営の
    総合があります。リーダーとして将来を託しうるのは、地に足着いたこちらです。世界で10億も飢えさせている
    のはリードの失敗で、今も進行中です。
    〈信長公記〉索引では
         戸田忠次/戸田与次/利根川雅楽助/土肥親真
     となっています。これは「忠次」が出てきて、甫庵の与次郎と和根川と渡辺弥一郎と渡辺の忠とつながり
     、この「土肥」は甫庵の「土肥孫左衛門」とつながりますが、この四つの並びは、妙ちきりんのラストが
     「土肥孫左衛門」だから、筆頭
         (ママ)の入った人物が「忠次」
     といったに等しいのかもしれません。千代夜叉丸がいたのは於久地ですが、〈武功夜話〉では早くから
          「小久地衆・・・酒(ルビ=酒井)左衛門・・・・酒(ルビ=酒井)、同(ルビ=酒井)彦八郎・・・」
     などで出てきています(〈前著〉)。於久地で「岩室長門」がこめかみ撃たれて戦死しますが「器用の仁」
    が出てきます。これは「備後殿」の「器用の仁」とつながります。千代夜叉丸は太田和泉守も乗ったものと
    いえそうです。
     ここで「戸田」「土田」が出ましたがこれは尾張動乱史のなかから出てくるので、もう一度戻ってみます。

     (174)織田信長の筋 
    〈武功夜話〉系図いえば、この西巌は清洲、大和守「敏定」にあたり、その子の筋から有力者が出てきます。

     大和守敏定ーーーー (子)上郡、岩倉の「敏信」、その子が「信安」と三奉行の一人「織田因幡守」
         (楽田殿)    (子)以下下郡 信定ーー信秀(三奉行)ー信長
                   (子)信定弟信康(犬山)
                   (子)大和守 清須五郎、清洲彦五郎
                   (弟)丹波守・常寛ーーー孫が三奉行

    となっていて、有力な信秀の筋も、対抗勢力である岩倉、下津の筋も敏定から発したという変化が生じて
   います。勢力争いはしているものの親類同士という面はここでも同じです。しかし何としたことかこの楽田
            大和守敏定
    が、美濃斎藤妙椿と組んだ下津(ここから岩倉城主も出ている)衆「織田寛広」に鏡野で破れ戦死し、
   「敏信」も陣没しました。もう駄目だと誰でも思いますが、それ以後この筋は、よけい元気が出てきて、月巌に
   引き継がれています。これは敏定のあとまた
   楽田が出てきて、敏信のあとの「信安」の後見もしています。つまり敏定の舎弟「トシサダ」があとを引き継い
   だので問題がなかったと思われます。これが「サイガン」で系図で「舎弟」だから抜けているのでしょう。例
   では敏定の祖父の代で
       「伊勢守入道常松公亡じて、御舎弟常竹様は・・・孫の与九郎様を退け守護代職と成る・・」〈武功夜話〉
   があり、その例があります。この常松公も越前の一揆との戦いで戦死して舎弟が取って代わって守護を補佐
   することで勢力の拡大を図ったようです。この場合は、今で言う弟かも知れませんが、トシサダは連合いで
   しょう。重しがとれたのでのびのびやったかも
   しれません。とにかく「敏定」が2回亡くなったような感じの文であり、「敏定」を「敏信」といっているところが
   ある?、突然手傷を負った左馬助の歳信が出てきて結末どうなったかわからない、という、わかりにくくされた
   文なので、〈信長公記〉の「□(空き)」のところ、誰か人物があると読んだところです。
    常松公は〈信長公記〉本文で「織田伊勢守」として一番先に登場する人物で、尾張上四郡を事実
   上仕切っており、下津、岩倉に城があるようです。下四郡の弟の出雲守常竹の方は清洲、斯波氏の補佐とし
   ていたので何となく大和守として中心的存在であったといえます。信長がここの分家から出てきて、本家を
    押さえた(清洲城を取った)ということですが親戚間をまとめたという感じのものです。系図をややこしくする
    のはテキスト人名索引で
         「織田達勝」(文中「大和守」) 織田達順(文中「織田右衛門尉」)
    という人物が出てくるからです。今まで、(162)のところで「達勝」は出ています。
    織田信秀の、土田氏前の婚姻が予想され、それが
         「織田勝左衛門(解説なし)」〈信長公記〉
    に関わるのではないか、「織田達勝」(文中、「大和守」)が、「織田達勝」「織田勝左」と一字違いという近さ
    があるから、同一ともみれます。この二人を〈武功夜話〉系図にはめ込んでみると、清洲衆のところ

       (上郡)織田常松−−−−−|子・与二郎敏広(「岩倉」在城)−−(子)岩倉城・●寛広−広信
       |  伊勢守・下津在城   |子・(弟)◆与十郎広近(「小口」在城)−−(子)(二男)寛広  
       |
       (弟)織田常竹−−久長−−敏定−(トシサダ)−−岩倉城・敏信−−(同)・信安−−(同)・信賢
       (出雲守・清須) (達勝@) |    (西巌)    |         弟因幡守(三奉行) 
        与十郎             |            (月巌)信定−−信秀(三奉行)−−三郎信長
                         |             |         弟信康
                         |             清須五郎−清須五郎(彦四郎)−彦五郎(信友)
                         |             (達勝A)   (達順)        広信
                         常寛−−寛故−−寛維(三奉行)
                              藤左衛門  藤左衛門
                          
    のようになる、達勝は@Aとなって入りそうです。表は、「常竹」(清須城を築城)のあと、大和守を称した
         久長−敏定−トシサダ−清須五郎−清須五郎−彦五郎
    の筋の人物に、(達勝@A)(達順)(彦四郎)(信友)の、テキストの人名録の人名を当てはめ
    たものです。テキストでは人名索引で
         織田達勝    「・・・・◎天文十二年以後は彦四郎が達勝に代る。(文中「大和守」)」
         織田達順    「右衛門尉。(文中「織田右衛門尉 30)」
         織田主水正  
         お茶筅 → 織田信雄
         御次 → 織田秀勝
     があり、天文十一年が両書〈信長記〉にある小豆坂の戦いで、(太田和泉守十七歳のときのこと)、ここに
     ある◎の年は小豆坂の戦いの翌年のことです。太田和泉守が那古屋弥五郎討死と書いているのは
    達勝Aというこの筋の当主に乗っかったということを言ってそうです。この辺り注目されないので名前を変えて
        「那古屋弥五郎」
    で太田和泉守の存在を打ち出すというのもあるのでしょう。この達勝Aがあの信長の今で言う父である、と
    いうことをいうなら、単に清須五郎とこの筋に限定するよりも名古屋という異質のものを使った五郎のほうが
    よさそうです。〈武功夜話〉では、この大和守の初代「久長」について
        「出雲入道常竹公嫡子三郎様(ルビ=織田久長)」「三郎弾正様(ルビ=織田久長)」
    があり「三郎」だといっています。これが信長の三郎か、ということになります。達勝Aは
    達勝@の孫の位置にあり「孫三郎」と仮名をつけるとほんとの孫三郎は信長の義理の父だから、これも信長の
    三郎に着地しそうです。つまり
            織田信秀ーーーーーーーー(三郎信長)
            ‖織田勝左衛門=三郎達勝A
            ‖孫三郎
            土田御前
    となりますが、これは信秀の面においては婚前の部分であり、出来てしまったものなので、信長はこの枠組
    みからはみ出します。あと、勘十郎、お市の方などは、この形の中に入りますが、庶兄の三郎五郎信広は
    どうか、ということがあります。土田御前も十五歳くらいで子がいたかも知れないわけです。織田信長は
       「三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。」〈信長公記〉
     があり、納得のいく説明がないのです。これは父をそれとなく指し示すためのものであろうと取れそうです。
            信秀ーーーーーーーー信長
            ‖上総介
            (平手?)
     ということか、平手が突然登場しておかしい、というのはあるでしょう。
        「其時上総介殿御手前には織田勝左衛門・織田造酒丞(さけのじやう)・森三左衛門・御鑓持の・・」
                                                      〈信長公記〉        
      があります。まあ。枠組みからはずすという奇妙なことになっていますが
    信長も「奇妙」という表記になるのか、という思いつきも出てきます。

     (175)奇妙
      人名索引では、
        木下藤吉郎 → 羽柴秀吉
        木下平太輔(大夫)  「・・・のちの木下備中守(荒木重堅)・・・」
        ▲岐阜中将信忠卿 → 織田信忠
        ▼奇妙 → 織田信忠
        木全六郎三郎    木全(きまた)・・・・中島郡(稲沢市木全)・・木俣・・・
        木村いこ助
    の▼があり、「お行」織田信忠の文中表記「奇妙公」の再利用ですが、▲のここへの嵌め込みはややインチキ
     くさいものです。▲は本能寺における「信長公」ではないかと言ってきましたが、そうとして、▼を信長も
     ありとすると、▲▼の対がでてくることになり
          信長
          ‖−−−−−−−−−奇妙公
          信長公
     が成立し、元亀元年
        「信長公の嫡男奇妙公■御具足初に、信長御同心なされ・・・」〈信長公記〉
        「信長公・嫡男奇妙公御父子横山に至って・・・」〈信長公記〉
     というような親子三人らしい文が登場することになります。信長と信長公を別けて捉えるという〈戦国〉の読
     みが合っていたということになります。
    どちらとも取れるというのがないとバレてしまいますから、そういう場面は設けてあり、それは状況で属性
    から判断できるし信長(信長公)という同伴もあります。どちらとも取れないという場合はないのですが、
    時代が違っていて「信長」が「信秀」とも取れるというのがありえます。奇妙@が信秀の子、奇妙Aが信長
    の子ということになります。〈武功夜話〉では
          「奇妙(ルビ=きみよう)様」 「奇妙様(ルビ=織田信忠)」
     となっており、信秀も信長も土田屋敷に近い生駒屋敷(八右衛門がいる)にたびたび来ていたようです。
     信忠弟の信雄の場合は、
           「茶筅様(ルビ=織田信雄)」
    となっていてこれは問題ないだろうと思っていましたが、〈甫庵信長記〉索引では
       〈織田〉信雄/北畠中将信雄/北畠中将/茶筅/茶箋/〈織田〉信孝・・・
    があり、これも一筋縄ではいかないようで、信孝の読み方に大きな影響がでてきそうです。それは、とにかく
    ここの■が飛び火して、約十年後、天正十年、前後「信長公」の一文
        「●御次(おつぎ)公、■御具足初めにて、羽柴筑前守秀吉御伴仕り、備前の児嶋・・・」〈信長公記〉
    があります。■の連携によって奇妙Bが出てきたといったところですが、もう一つ■がありました。身方ヶ原
    の家康公、信長公・佐久間・平手、成瀬(後の犬山城は成瀬氏)、長谷川、佐脇、山口、加藤など登場の一節
          具足屋玉越三十郎〈信長公記〉
    がありました。この●は脚注では「羽柴秀勝」とされています。しかるに人名索引では「織田秀勝」となっていて
          織田彦五郎   「・・信友・・・一説では広信 (文中「彦五郎」)
          織田秀勝     「御次(おつぎ)。信長の子。羽柴秀吉の養子・・のち丹波亀山城主。」
     があり、もう一つが先ほどの
         織田達勝/織田達順/織田主水正/お茶筅→織田信雄/御次→織田秀勝/落合小八郎
     の織田秀勝があります。一ついいたいことは表記で読んでいる以上、「次」という字は「秀勝」が出る前に
     「秀次」が出ないとおかしいようです。これは関白になっているのですから。いわゆるという人名で言えば
       織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康
     という位置にいる秀次です。

     (176)織田信孝
      二つの「茶せん」があり信雄と信孝を繋いでいました。織田信孝は信雄の弟
     として知られていますが、先に生まれたのにおかしい、信長がうっかりしたんだろう、母親の身分が低い
     からだといわれたり、このことは未解決の重要案件として残っています。重要というのは、資料も信長も
     当時の風潮のようなものも、いいかげんなものだとなってしまうから重要ということです。第一、「信孝」に
     ついては太田和泉守が書いていることが索引に反映されていません。考証名「織田信孝」は
       文中表記 織田三七信孝   ページ数、6
              神戸三七信孝   ページ数、14  (〈信長公記〉)
     となっていて馬鹿にならない登場回数ですが、例えばルビが名前とか苗字に入っているのは無視されて
     いるのは全部そうだから仕方がないとしても「織田三七」「同三七信孝」「神部三七」「神戸三七」とかが
     交ぜっているのが無視されています。解説では
        「織田信孝   三七、信長の三男、伊勢神戸具盛の養子となり神戸氏を称した。・・」
     となっています。織田三七が神戸友盛の養子になったので神戸となるのは当たり前と理解されているもの
     です。信長の「三男」というのは、甫庵がいってることで、信長は早くに
        「大河内城に十万石・・二男茶箋御曹司に、上野城・・・五万石・・織田上野介殿に、神戸城に五万石
        相添へ、三七殿に・・。尾州西方長島城に北伊勢五郡を相添へ滝河左近将監に下したぶ。」〈甫庵信長記〉
      となって伊勢を滝川の下に固めたわけです。問題は〈両書〉で「弟」とか「舎弟」とかは一切ない、〈信長
      公記〉では「三男」というのもない、これが何か重要なものをこの人物で語る、という伏線のような感じ
      で「神部四方助」というのもそれかもしれません。「弟」に連れ合いの意味をもたせるので年上が考えられ
      ます。つまり織田三七というから三・七の二人と三七という三人がいて、
              ○一人が信長の実子で三番目(信忠・信雄に次ぐ三番目に於徳という人がいた。松平信
               康夫人で、夫を讒訴してこれが信康死の因となったというのが通説となっている)
              ○一人が織田信雄の舎弟(連れ合い)、信長公の子(秀次の父?)、すなわち
                 織田信雄
                 ‖神戸七=神戸市左衛門(かうべ平四郎子、かうべは織田造酒丞下人禅門に討たれた)
                 北畠氏
                (神部市左衛門を織田造酒丞ととると「造酒丞」が「カンベ」(下人善門」)となる。)
              ○三人目が通説の神戸信孝となって、本能寺のとき、明智光秀の婿、織田七兵衛
               (信澄)を殺してしまったことで知られている。テキストでは本能寺の後「柴田勝家と結び
               羽柴秀吉及び兄信雄と反目し、遂に翌十一年四月自殺させられた。」となっている。
      が考えられます。これは甫庵索引では、
         〈織田〉信孝/三七/三七殿/三七信孝/三七郎信孝/神戸三七郎/神戸三七/★神戸三七殿信孝
      があり、織田と神戸がある上に、「三七郎」という「郎」つきのものもあり細かく見れば変わりかねません
      が最低三つはありそうです。最後のものが
        「五月朔日、二男北畠中将信雄卿、★三男神戸三七殿信孝、織田上野介殿。・・・」〈甫庵信長記〉
      のような一節です。婚姻など異動があれば今日と同様に届けが必要であったはずですが、トップとなると
      例外だということになりかねません。〈戦国〉で触れたことで再述しませんが
              信長
              ‖生駒氏・土田氏
              ‖酒井公(清須彦五郎・信友・酒井大善・広信相当)
              信長公
      というような政権トップのもとにかなり初期の段階からあったということになると、太田和泉守は官僚として
      の働きに特化していないと生存がむつかしいということになります。
       〈戦国〉で堀田孫七という人物を徳川家康公にみたてました。、今は堀の孫七人にも結びつけてみてい
       ますが、「孫七」というのは「秀次」の名前でもあり、ここで繋がりがだされていそうですから、堀田孫七
      は家康公ということで合っていそうです。一応確認してみますと
        「六人衆」の出た一節(廿二)
          「又六人衆・・・弓・・浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七、
           ・・・・・・・・・・・・・・伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田左内、
           山口太郎兵衛(7人)・・・信長・・・信長・・・・信長・・・天沢・・」      計11個の人名
        これに繋がるのが身方が原の一節(四)の後段で「四人衆」がでます。また弓の名人がでます。この
        一節は一日だけで、(四)節の「四」も、「十二月廿二日」の(廿二)も偶然でしょうが、人名は
        
           「信長公・・・・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎四人、信長公・・・家康公・・・
           玉越三十郎・・四・・・四人衆・・・・武田信玄・・・四人衆・・・四人衆・・・四人衆・・・・家康公・・
           弓・・・弓・・・信玄・・・」〈信長公記〉        計11個の人名
        
        となっており対置しますと、
           浅野・太田・伊藤・木戸・・・・・・・・・長谷川・佐脇・山口・加藤
           堀田孫七・堀田左内・・・・・・・・・・・家康公・信長公
           山口太郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・玉越三十郎(具足屋)
           信長・信長・信長・・・・・・・・・・・・・・信長公・家康公・武田信玄
           天沢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・信玄
        六人衆と四人衆プラス二人、として家康公・信長公が一応宛てられる、堀田左内は堀田左(内儀)
        のようなことで信長公が候補として出てきます。そら組み替えが強引なだけだ、ということになります
        が完全に同じ表記抽出すると、「(左)信長・信長・・・・(右)家康公・信長公」ですから、
             信長@
             ‖信長A (「達勝」「達順」の類)
             ‖家康公
             信長公
        という四角の関係が出来上がります。「信長A」は「六人衆」の一節に「信長は達者」という文言が
        あります。したがって家康公、信長公は関係があったといえそうです。これは
            「信長公(家康公)」
        ということになりますが、〈信長公記〉というのはやはり、量的な面では「信長公の記」という意味が一つ
        あると思われます。「巻一」が永禄11年(桶狭間8年後―太田和泉守41才)のスタートもこれによるか
        ということです。つまり、巻一のはじめ
           「永禄十一年{戊辰}以来(このかた)織田弾状忠信長公の御在世、且これを記す。」
        となっており「弾状忠」というのが「家康公」で「織田(家康公)信長公」の御在世となりえます。

        (177)与二郎
        冒頭からイエヤス公が案外言外に与二郎で出されているのかもしれません。土田御前も。
        月巌織田信定は「弾正忠」で〈武功夜話〉では
           「犬山木の下の城は与二郎信定(ルビ=織田弾正忠■信定)相固め・・・」〈武功夜話〉
        があり、これは既出、〈武功夜話〉の

              (右ルビ=与三郎という)     (右ルビ=与二郎という)
                 月巌−−−−−−−子 伯巌あり  丹羽郡犬山居城なり。              
              (左ルビ=弾正忠信定)      (左ルビ=信康)

        と矛盾します。信定は「与三郎」だから。つまり■は、犬山の住人だから、信定の表面に出ない、子、
        信定(ノブサダ)Aが居る、「与二郎」とするということでしょう。これで、イエヤス公は織田に入るという
        ことにもなります。実際は系図では犬山は信定の子信康だから■信定Aは「信康」のこととしておい
        てもよいわけです。ただ〈武功夜話〉が「与二郎信定」と書いてくれたから、二人いそうだということが
        わかればよいといえます。与二郎というのは信定の子、信秀の舎弟というのが〈両書〉の説明で、それ
        しか教えられていません、親子二代、三代は同一表記があるという、〈武功夜話〉の親切ともいえる
        ものが、ここに出たといえます。
         しかし、それで通過するのはここぞというところの説得力に欠ける、ということになります。要は
        信定子(信定A)に信康と信ヤスがいるというのが与次郎と与二郎があるということで暗示されている
        (〈信長公記〉でも「与二郎」が使われているが、稲葉山の大敗で戦死した人は「与次郎」となっている)
        といえますが、もう一つの暗示があるから、そういえるというのが用意されて、というのも特徴になってい
        ます。系図、一部再掲、
           @常松――△敏広(岩倉城主)――▲寛広(岩倉城主)以後切断 

           A▽弟常竹(大和守系)−サイガン―▼敏信(岩倉城主)――七兵衛信安
                                    |            |弟因幡守(清須奉行)
                                    |
                                   与二郎信定――信秀(清須奉行)――信長
                                          弟与次郎信康
         において、二つに分かれるときの△▽、後世の▲▼が猛烈に争ったわけで、これでみると▲が
         本来の下津・岩倉系なのに、下郡のサイガン系にやられかかったとみえます。▲は美濃斎藤妙
         椿と、▼は伊勢の石丸丹波(利光)と組んで、▼は戦死したりしましたが子の七兵衛の面倒は
         信定らが見たから問題なかったようです。〈武功夜話〉では敏広に「与二郎」という名を与えていま
         す。これが大きな効果を生んだと思いますが、ほかにも名前の操作があります。子息が
              常松―「与二郎」敏広―▲「兵庫介」寛広(切られ)
         となっており、丸毛と同じ名前が与えられています。「与二郎」のあとだから、「与三郎」じゃないの、といい
         のですが、それは書いていません。またここではうしろ切られていますが、実際はうしろに続く人物
         があって五郎がいます。すなわち、
             「兵庫介(ルビ=織田寛広)嫡子は五郎(ルビ=織田広信)という。大和守を称す。」〈武功夜話〉
         というのがあり、織田信長に後年清洲城をとられたときに城方にいて年表にも出ている人物、広信
         がいます。(信長の庶兄、三郎五郎は「信広」)
          ―応「与二郎」敏広とした以上、また「五郎」が出た以上、この筋は
            「与二郎」「与三郎(寛広)」「与四郎(寛広)」「五郎広信」(六郎)「七兵衛信安」
        が一応頭の中に入ることです。「与二郎」にこだわるのは三つあって
            一は「信定」がこの筋へ咬んで来ること
            二に青山与三右衛門の与三だから、後の森で出自もよくわからないということ、何となく
               青山与三の与三は信定の与三郎という感じ、
            三、のちに「前野郷永正改め系図」が出て「与二郎」が改められていることという点です
           「岩倉御城、織田与九郎(伊勢守)敏広公、・・御嫡子兵庫助様(織田伊勢守寛広)・・・本城
            は中島郡下津・・。(敏広公の)御舎弟は与十郎(織田広近)という。与九郎敏広公の
            御舎弟、この人治部左衛門久長という。御嫡子・・敏定・・。・・・久長の舎弟・・・小田井・・・
            この人弾正左衛門尉という。」〈武功夜話〉
        となっており、前は
            「常松公二子あり。嫡子与二郎という、次男与九郎というなり。この与二郎は後年敏広となる
             人、・・・・」〈武功夜話〉
        といっていたのが系図では、
               常松――敏広――――――寛広(伊勢守・●@千代夜叉丸・兵庫助・岩倉城主)
                     |               
                     与十郎広近――|与十郎(小久地城主)
                                 与九郎(●A千代夜叉丸)(敏広の猶子となる)
        となって、敏広に「与九郎」を入れるべきですが抜けています。何故ならば、与十郎の子にも与九郎
       がいるからバレやすいとか、頼りないとかワケありなどと勘ぐられるなどするからでしょう。
 
      (178)十郎
       改め前の、与二郎敏広がいて今で言う弟(与九郎)がいた、ということとの整合は考えないといけない
       のでしょう。ここ小久地の「与十郎」は、兄弟の弟という表示ですが、連合いという弟をも考慮しなければ
      ならないという意味が
      あったと取れます。●は珍妙な名前で、ここから風雲が起こりそうな感じがはじめから出てました、
       敏広に子がなくて、●Aを猶子にした、(それが●@)と書かれています。わからない
      のはこの書き方ですが、小久地は丹羽なので
             織田敏広 ーーーーーーーーーー (与九郎)●@
             ‖与九郎広近                      ↑
             丹羽氏・与一郎―――|与九郎●A →→ → ↑
                           |与一郎(与十郎)
      となるのではないか、というのが自分なりの構成です。これだと「与十郎」を持ってきた一つの意味が
      わかりそうで、連れ合いという九郎が含まれた漠然とした表記で、都合によって、包括的な一郎を呼び
     出せるということとも取れます。「十郎」は語りの都合上の略記のものがあるのと、「一郎+九郎」、
     「三郎+七郎」もあると思われます。代表的「十郎」でみますと
        「真柄十郎左衛門、{此頚青木所右衛門是を討取る。}前波新八・前波新太郎・・・・」〈信長公記〉
      があって青木は傍注に入っているという形です。注では
        「真柄直元  また直隆(〈寛政重修諸家譜〉六六二青木)がある。真柄氏は・・・越前今立郡真柄邑
        (福井県武生市真柄町)の出身・・・」
      となっていてこれだと青木は何のことかわからないが、意味がありそう。連合いになりそうで
           青木直隆
           ‖九郎左衛門直元
           真柄氏の一郎(直元)
      となるかもしれません。「討取る」ということが青木氏姻族を示す手段となっている感じです。これで
      あの強い真柄十郎左衛門の正体は九郎左衛門だったといえるのでしょうが、それは、後ろに前波が出てきて
      「新八」「新太郎」が出ているからわかるといえそうです。つまり二人のペアがここに出陣していたと取れ
      ます。一方、伊勢三郎の三郎のような真柄の十郎というのがあってもよい、現にそれを名前にする人が
      いるはずで、豪勇無双の真柄十郎左衛門の十郎は、真柄を意識しなくても、意味も深く考えられず、
      ちょっと使おうという語りのための単純「十郎」はあったと思われます。この場合は、真鍋ー真辺ー間鍋など
     になってあの宮本武蔵が乗った十郎で、それが(武生)の「武」の援用かな、ととれます。明智十兵衛@A、
     柳生十(重)兵衛の「十」でもあります。〈信長公記〉永禄12年、六条合戦のくだり館に立て籠もったのは
        「細川典厩(てんきう)・織田左近・◆野村越中・赤座(あかざ)七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・
         坂井与右衛門・●明智十兵衛・森弥五八・・」〈信長公記〉
      ですが、これは一段下げた一文でストーリー的には余り意味がないと取れますが、●が初登場で注目の
      一節の部分です。この戦いの立役者は甫庵にある◆に似た「野村越中守」(「野村」もある)で、ここでの
      いわゆる明智光秀の活躍は小説などで有名です。ここの◆は従って、明智ミツヒデという人と取れそう
       です。それはそのあとの、七郎と助六が表しているといえます。甫庵の索引に
             野間左吉/野村越中守
      というのもあります。これでいえば●は◆と同じで、明智ミツヒデといっていそうで、これは語りの「十郎」
      の「十」といえそうです。●の前は太田和泉守かも。太田−明智−森が導通されているのでしょう。
      この森の「与右衛門」の「与」は信長祖父信定の「与三郎」から来たとも取れますが、その前に常松子息
      与二郎(敏広)がおり、これの方が「与」の先輩です。敏広の弟の「与十郎」の子を養子にしたがこの寛広
     は下津に退いたので、敏広の筋はし尻切れトンボになっています。永正改め系図によれば
         「与九郎敏広公の御舎弟が(大和守系の)常竹の子久長」
     と書かれています。
         織田伊勢守常松ーーーー与二郎敏広
         |               舎弟、於久地 与十郎(子:与十郎・▲与九郎)
         |
         弟織田出雲守常竹ーーーー久長(与二郎敏広の舎弟▼与九郎)

     ということで▼が突然登場ということが問題です。▼は結局敏広の連れ合いだったということで
          与二郎敏広                 与二郎敏広
          ‖広近                    ‖広近A(与十郎)
          ‖                       ‖久長(常竹の子)(▼与九郎千代夜叉A)
          丹羽氏ーー千代夜叉▲与九郎      斯波氏
 
     というようなことも考えられます。敏広の 二回目の結婚によって生じたというのは仮定ですが、常竹の実
     子「久長」が常松の死後スピンアウトして、自分が守護代となるのは筋だということで勢力拡大を図った
     とみたものです。千代夜叉丸は、岩倉の筋、織田因幡守の舎弟イエヤス公、とこの清洲城の久長公と
     この▲▼与九郎の意味かもしれません。ほかに敏広の下津の筋は寛広で切れていますが、これは細川の
     「下津権内」として出てくる名前だから、消えていません。さきほどの◆の左、「細川典厩」は甫庵では
     「細川三淵」(索引漏れ)と言い換えられてる感じですがこれが「三淵大和守」でこの構図に関係のありそう
     な「大和守」で、イエヤス公はよく知っているのかもしれません。この「久長」は清須に在城せず、犬山の
        「楽田」「がくでん」〈信長公記〉
     に城を築きました。これは「敏定」の親でもあり、初代の於台城主(藤左衛門家)で、信秀など後年の清須
     三奉行がここから出たという位置にあります。土田御前の土田氏もここから出たと思いますが、ちょっと言い
    かけたことで土田御前が名前がなくて、信秀の舎弟(連れ合い)という面からいえば次の弟は
        @「与二郎」 A「与次郎(一回だけ登場)」(〈信長公記〉)
     ですから、土田御前=与二郎も(例外的に?)ありうるのではという疑問も出ます。信秀稲葉山の大敗で
         「備後殿御舎弟★織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・
          毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして・・・討死なり。」〈信長公記〉
     があり、★が戦死しましたが、これが、一回だけ登場のAの「与次郎」です。したがって「与二郎」で紹介
     されている信秀の弟は(二が数字の「二」と漢字の「二」があるとみて)
         与二郎★A     与次郎★
         (二人)        与二郎A
     を念頭に入れて、「与二郎★A」を紹介したととれます。超おかしい、そんなら何でもありだ、といいたいこ
     とが何故起こったかということですが、月巌信定は二番目の子の身の振り方を考えて犬山城主があって
            織田与次郎   (犬山城主は「与二郎」「信康」「伯巌」とその組み合わせが使われている)
            ‖□□□
            土田御前
     が一時、成立したということはありえます。子息は「織田十郎左衛門信清」などがいますが、この信清は
     〈甫庵信長記〉で犬山城主で突然出てきます。小牧長久手戦、池田勝入犬山城大奇襲の軍功は前にここ
     に居ったから、勝手を知ったる人物の仕業ということで、信清=池田信輝といっています。これだとこの
     話は合ってきますが、とにかく、〈信長公記〉森の「与」の初めの登場が信秀弟の「与二郎」ですから、これは
     「土田御前」であってもおかしくはないと思います。太田和泉守は大和守家に属しており、土田御前と
     関わりが生じたとみてよさそうです。楽田は、天文18年(稲葉山城下大敗の二年あと)の記事では
        「・・上郡犬山・楽田(がくでん)・・・かすがゐ原・・・備後殿・・・かすがゐ原・・犬山・がくでん・・落書・・
           やりなはを引ずりながらひろき野を遠ぼえしてぞにぐる犬山
         ・・・備後殿御舎弟織田孫三郎殿・・」〈信長公記〉
     があって、かすがゐ原は脚注では「愛知県春日井市のうち」となってて「がくでん」も一つヒラかれています。
      「学田」ともなりそうで、「大学・大田」かもしれません。〈武功夜話〉に「田楽(でんがく)はざま」「田楽はざ
      ま」があって「楽田」を逆さにしたとも取れます。要はこの地は太田和泉守の故地で、落書にある、にげる
     というのは備後殿にやられて逃げてる太田和泉守を揶揄ったものとみれます。落=楽があるはずです。
     信秀亡き後、土田御前(孫三郎殿)というペアにやられたというのが、この文ではないかと、取れるところ
     です。後年、楽焼・信楽・相楽・甘楽・有楽・・・などの「楽」は「楽田」からきているかもしれない、木の下の
     城などこの地に太田和泉守の痕跡がもっと残っているはずだというのがいいたいところのことです。
     「犬山」は「太山」「大山」に似ています。
      
     楽田は岐阜の東南、名古屋の北方、犬山の南、於久地、小牧の東方にありますがここに「二ノ宮」があり
    西方の「一の宮」と対応している感じです。「がくでん」は度々出てきた由緒ある「糠田」「額田」もありえます。
         「(卅九)・・・山中高山二の宮山」〈信長公記〉
    が「小牧の城」のくだりにあり上総介信長がここに上っています。山中というと「中山」も出ます。

         「(四十)・・・犬山の川向・・・奥・・・山中北美濃の内加治田・・・佐藤紀伊守・子息右近右衛門・・・
          岸良沢・・丹羽五郎左衛門・・」〈信長公記〉
         「(四十一)・・或時犬山の家老、和田新介・・黒田・・中嶋豊後守・・於久地・・。・・丹羽五郎左衛門
          鹿垣・・・犬山・・丹羽五郎左衛門・・・・」〈信長公記〉
         「(四十二)・・飛弾川・・・飛弾川・・・犬山の川向・・・伊木山・・・高山・・・両城(「宇留摩」「猿はみ」)
          飛弾川・・・高山・・大ぼて山・・・大ぼて山・・丹羽五郎左衛門・・。」〈信長公記〉

     があり、木曽川流域の丹羽の活躍が浮き出ています。「二の宮」の一節の「谷合」、「小牧山」、「小真木山」
     から、「真木与十郎」「真木宗十郎」「伴十左衛門尉」などの「十」や「牧」「真木」が出てきます。

     (179)真木与十郎・真木宗十郎
        先ほどの「真柄」の索引では、
           前波藤右衛門/前波弥五郎/真柄十郎左衛門/牧左兵衛門女房/真木与十郎・・
       と続きますが、「前(まえ)」は「真柄(まえ)」-「真木丙」−「牧」「真木」と続いて「真木」の「与十郎」が
       でてきます。清水又十郎の一節でも「あら川与十郎」があり「宗十郎」では「柘植宗十郎」がでています。
       この二人の「真木」の「与(宗)十郎」は兄弟なのかどうか、清洲の争乱で「与十郎」が出されて練習は
      しましたが兄弟らしいものが出てきたのでまたやってみないかんということになりました。飛躍した話に
      なるのかも。この「真木与十郎」のあと、桶狭間(田楽はざま)の、善照寺の砦の紹介があり、
           「佐久間右衛門・舎弟左京助をかせられ」〈信長公記〉
       がでます。この兄弟に話を移したととれそうでもあります。小牧のあたり平手の里があったような記憶が
      残っています。これは「・」が要らないというのもありそうです。ストーリーとしてはこれでよいと思いますが
           「▲佐久間右衛門舎弟左京助」
        もあるのではないか、こうすると、佐久間に「佐久間与六」が用意されているので、それを利用しますと
        「佐久間与一郎(弟)」と「佐久間与九郎(連合い)」の二人が出ることになりこちらのほうが、わかり易い
       と思われます。▲の方が連合いに近い感じです。現に索引では
           ●策彦周良/佐久間→佐久間信栄/佐久間左京助(「信盛の弟」)/佐久間信栄(「甚九郎」)
       となっており佐久間左京助として独立項目になっています。ただ「舎弟」が「弟」として解説に入って
      しまっているので重要でないよ、というボカシになっています。これをみると策彦周良、と佐久間ー利久
      が繋がっている感じです。●は考証名で、文中表記は、(天正7年病死の記事で)
           「嵯峨の策彦」〈信長公記〉
       とされています。「嵯峨」の意味がわからないので、ネットでみると嵯峨天龍寺というのが住所名のよう
      になってるぐらいのことしかわかりません。甫庵では、本文で「大明再渡」した人で出ていて、表記は
           妙智院策彦和尚/□策彦和尚/「□謙斎」(□は一字空き)
      となっており、索引は「み行」だけに載っています。当時から隠すというのがあったと取れます。
         「策彦周良」はテキストでは
           「天龍寺妙智院の住持。天正七年(一五七九)六月示寂。(文中表記「嵯峨の策彦」)」
      となっていて、渡唐(大内家が派遣した使節の副使・正使として二度明へ渡って皇帝に会っている)の
      ことが抜いてあります。〈クロニツク〉には、ほかに
         「五山文学史上に足跡」「日明勘合貿易の最後」「以後武田信玄に招かれて甲斐恵林寺(塩山市)に
         住した」「妙智院に隠遁して天竜寺の護持」「克明に記録された〈策彦入明記〉は・・・貴重な資料」
     などがあります。テキストでは1579の死しか記録がありませんが、1509〜1579はわかっており、太田和泉
     守53歳のときまで存命です。結論でいえば「南化和尚」は策彦和尚の子息ではないかといってきています
     が、政秀寺(清秀寺)の「沢彦宗恩」=「南化和尚」の可能性はありそうだということです。●は策彦周良A
     になります。すなわちテキストで渡唐(明再渡)の策彦が出ていないのがおかしいことです。このため
         策彦ー西の中国
      というのが出てきません。「嵯峨の策彦」に着目して索引を作ると、〈信長公記〉では
            斎藤六大夫/西方院(越前西方院という大将)/□□/坂(「伊勢の豪族」)/坂井越中・・・
      となっているので□□のところに嵯峨(策彦)が入りますが、前のものだと前の「西方」との繋がりがわから
      なくなっています。策彦は、●・佐久間・利久、ここで、西方・伊勢・坂井にも通じている、というので周辺
      が出てきました。甫庵では
      「妙智院策彦和尚」で索引ができていますがまえが「同兵庫頭」となっておりこれだと丸毛兵庫頭、蜂屋
     兵庫頭、伊丹兵庫頭がでてきます。武井夕庵と重なるのかどうか、天龍寺でないと、策彦が生きてきませ
     んが「沢彦宗恩」〈類書〉でみるとき
             「天沢」
     が、沢彦もあるのかもというのが出てきます。たしかに「天沢」には一般性があって、「天沢寺」(氏実が建て
     た義元の菩提寺)などがあります。
           「天台の能化」の「天沢・□策彦」→「沢彦」→「玄(彦)興」
     となるのかも。
                    (信盛弟左京助「真木与十郎」)
                    佐久間信盛(平手政秀A)ーーーーー利久
                    ‖□策彦=沢彦=◆南化和尚=真木宗十郎(信盛舎弟)
                    武井夕庵
     のようなことをいいたいとすると、今までの話も捨てたものではなく支援材料も多いわけです。索引で
       ○先公方光源院義照/●策彦周良/佐久間・・・・・・先代の●を考えねばならないといっている
       ○名和無理介/南化和尚・・・・・・・・・・・◆の名前は無理があるといってる
       ○玄興/謙斎(索引漏れ、ここに入る)・・・・・・・・・「玄興」は◆の原稿の署名に使われた名前
       ○祝弥三郎/牧庵/保科正直・・・・・・◆の右「真木(牧)」と夕庵を結んでいる。「直」は夕庵、保科は
        蒲生。
      などのことがあります。甫庵の南化和尚の記事は、その文もさることながら、この話もややこしうて、信長公
     があの策彦周良和尚に、安土城の賛(「安土山記」)を依頼したのが発端です。和尚は、自分は書かずに
     岐下の南下和尚を推薦してきましたが、南下和尚は遠慮して又策彦和尚に譲りお互いに譲り合いして
     結局南化玄興が記しました。問題はこのあとで、信長公は狩野又九郎を使者として南化和尚に礼を
     したのはわかりますが、又策彦和尚の謙徳もベタ褒めして、二位法印を使いとして、恩賜せらるとなって
     おり、「謙斎」と名付けてるわけです。書かないで褒められていうことなしというところです。あの策彦が断っ
    たのは自分は「大明再渡(さいと)、和漢両朝の達人なる由」で有名かも知れないが、御家中に史上稀なる
    、司馬遷に匹敵する書き手がいるではないか、ということでしょう。
    岐下玄興はあの策彦と信長公の意向も考慮して、あの策彦の子息(岐下にいた)「□策彦和尚」に頼み込
    んで辞退があって、やむなく書いたということで、太田和泉守(武井夕庵)を推挙したということが、「誠に
    名にしほひたる人」、「恩賜せられ」にふさわしいというのでしょう。「又」がたくさん出てきて清水又十郎に
    対応する又九郎は太田イズミ守、二位法印はセキアンということですが兄弟をだしたというこです。「玄興」
    は「玄以」の「玄」、策彦=沢彦の「彦」(げん)、興は恒興の「興」、与一郎の「興」かもしれません。

     ▲の人物は信盛の今で言う弟、桶狭間最前線の善照寺砦の大将で出ていました。
        「善照寺・・・御要害候て、佐久間右衛門・舎弟左京助をかせられ・・」〈信長公記〉
        「善照寺佐久間居陣の取手・・・勢衆揃へさせられ・・」〈信長公記〉
    これが「蒲生郷舎(横山喜内)」でしょう。〈類書〉で有名だから〈信長記〉にもまだ出てるはずです。剛強
    蒲生の中心人物で身内に渡海した人が出ました。里の舎(いえ)という懐かしい名前が付いています。
     ▼は「又策彦和尚」が当てられます。策彦正使再渡は1547だから38歳のときで、子息はそのときに22才
    くらいでしょう。太田和泉守は21くらいでほぼ同年ですが、このときは遠江国にいたようです。大物だから
    後年の沢彦の随行はなかったかどうかくらいは調べねばならないところです。が
     〈策彦(さくげん〉入明記(にゅうみんき)〉は、〈クロニツク〉では
         「北京での皇帝拝謁など、入明朝貢(ちようこう)のようすが克明に記録されており、日明貿易の重要
         資料。〈大日本仏教全書〉遊方伝叢書4に関係記録が一括しておさめられている」〈クロニツク〉
     となっており、政治、経済的「重要」性と、「仏教」関係で「遊」の部に納めるというのが合わない感じで、つい
     政治経済史の研究家も気がつかなかったり、筆者のように、まあいいや、となったりしてしまいます。
      それでは語る資格(シカク)もないが、又(また)先立つものもないので、〈クロニツク〉の記事を三回読んで
     お茶を濁すと、表題は
        「二度の渡明の記録を残し★策彦周良、天竜寺で没す」
      となっていて、本文は
        「6月30日・・山城:●天竜(てんりゆう)寺妙智(みようち)院の3世住持、★策彦周良(さくげんしゆうりよう)
        が同院で没した。79歳だった。(テキストでは「〜1569」と「天正七年(1569)六月」の二つ)
         策彦は幕府管領細川氏の有力被官井上宗信の3男で、9歳・・・で仏門に入り、幼いときから漢詩文
        の才能は五山文学界で高く評価されていた。1537年には周防の大内義隆の要請で、遣明使節の
        副使・・二年・・1547年には正使・・・三年・・・〈策彦(さくげん)入明記〉は・・・・」
      があり欄外に
         「策彦入明記・・・・・遣明使節の記録類。第1次の遣明では副使、第2次は正使として入明した
         ★策彦周良(しゆうりよう)が記録したものを総称していう。・・・・」
      がありほかに、策彦画像には
         「天竜寺塔頭妙智院の3世住持策彦周良は・・・日明貿易・・・五山文学(の二つだけ)・・」
      があります。★三つの策彦はそれぞれの顔をもっていますが、三番目のものは第2次のものを受けさせてい
      るようで、副使あたりで、子息沢彦宗恩が入っていそうでもあります。残念ながら年表では
         「1550、周良・医師吉田宗桂ら明より帰国〈策彦〉」
       となっているだけでガッカリですが、無難なことを書くことになってるのでまだ脈はあります。
       ●も表記が意識にあり、「寺」と「院」
      にルビがなく天竜寺などと一体感がなくなっています。それが、あとの塔頭妙智院で説明され、中国と
      交流を意識した外務官僚養成大学といったものがあった、井上宗信もそういう人ではないかと思われ
     ます、管領の意思が入った大内氏の行動とみられ当時の日本国の遣使とみてよいのでしょう。3世という
     のが3代を表し、再渡の策彦が中心だったといえそうです。策彦周良がここで師事したのが、「心翁等安」
     ですが年表では1491(副使渡明の46年前)
         「3月、幕府、天沢等恩を遣明使に決定」
      というのがあって、太田牛一と沢彦宗恩はこれを知っているはずです。井上宗信の「宗」が沢彦
      の宗、沢庵の「宗」に効いてきてます。前野但馬守、柳生但馬守、と親しい沢庵宗彭は天竜寺にいまし
      た。一切経二度読み通したというのは沢彦にふさわしいのかもしれませんが、一方武井夕庵と天沢と重
     なってるといってきましたが、天沢は武田信玄に会っており織田の内情をかなり細かく話して
     信長公の子息が武田信玄の猶子になっており、そのことは重臣武井夕庵が行って会ってないといけ
     ないでしょうから、もう一人の天沢は武井夕庵といえそうです。〈クロニツク〉によれば、策彦周良には
        「以後(渡海後)、武田信玄に招かれて甲斐恵林(かいえりん)寺(塩山市)に住したり、織田信長ら
        との交渉もあった」
     夕庵も策彦も「武田信玄」に絡んだというのが「天沢」で察せられるのかも。同じ内容がテキストの
           「快川長老」「円常国師」〈信長公記〉(考証名「快川紹喜」)
     ところにあります。「快川紹喜(かいせんしようき)」は
k         「前妙心寺住持。甲斐恵林寺(塩山市)住持。天正九年九月六日に大通智勝国師の国師号を
          賜った。」
     となっています。ネットではこれも武田信玄が美濃の「崇福寺」から招いた、となっています。この「快川長老」は
           ◆心頭滅却すれば火もまた涼し
     の故事で有名です。索引ではこのうしろが「かうべ平四郎」が来ているので、「森三左衛門」「造酒丞下人
      禅門」「土田」が噛んできますが「神戸」となれば「恒川」ー「河村」からくる「江川」も絡んできます。「かうべ」
     は「頭」もあります。両方に打ち合わせたように(塩山市)が入っています。山⇔川(河)だから塩河伯耆も
     出てきて、策彦周良は、「かいせん」和尚と重ねられたようです。海川=「かいせん」=開山もあるかも。
     それにしても織田に「武田左吉」があって「武田信玄」が「太田和泉守」に重なる場合があるにしても、武田
     、織田間の関係の深さが妙心寺派としてもでてきています。これらの問題はありますが、ここでは◆の挿話
     の意味がいいたくてここまできました。この元は中国の
        心頭滅却すれば火も自ずから涼し  
     で、 心頭滅却すれば火も亦た涼し、がウィキぺディアで出ています。日本で語る場合は「又」が合ってい
     そうですが、それは簡単には見当たらないようです。これは□(空き)が意味があるという例示の一つで
     「空き」を作ってみれば、この場合は「又」になるということがわかるということです。索引で(□はなし)
           妙智印策彦和尚
           □策彦和尚
           □謙斎
     の一字下げで出ていて文中は「又策彦和尚」「又策彦和尚」が「江州安土記・・・岐下沙門玄興」を挟んで
     前後にあります。文章をみると、前のは、
       「(妙智院策彦和尚・・固く辞せられ・・南化和尚に・・御諚あり。此の人も、又策彦和尚へ命ぜられ宜しく」
       ・・・互いに辞し合われしかども・・・・」〈甫庵信長記〉
     があり、これは、句読点のつけ方が間違ってて、◎「此の人も又、策彦和尚に・・・」が合っています。
     これは文の途中ですが、次のはピリオドのあとの
       「・・・。又策彦和尚の謙遜は・・・」
     となっていて、これは読者に親切という立場で言えば「又、策彦和尚の・・・」となるところでしょう。これは
     また、原文は漢文で「句点」などないものとなっていそうだということもわかります。原著者の文からは
    上の□の延長から、また「河村久蔵」−神戸−「河村久五郎」のところで「□(空)」は「口(くち)」ほどに物
    をいうかも、ということでガタガタしてきたあとであれば、「又策彦和尚」二つあるかも、ということで捉えうる
    わけです。そうはいっても、実際は◎の文にされてたら、どうなったかわからない、すなわち読み下し文を
    書いた人が、そのまま読み流さずに、踏ん張って◎の文にしなかったのが、筆者にとっては、有難かったと
     いうことです。いい難い方、認識しにくいほうを優先してくれた、ということで、実際は、「又(、)策彦和尚」
    も生きですから。
     それが「火も亦た涼し」というものが出されたので察せられます。この「亦た」は
       ○「また」の部分が問題ですよ、といいたい。○二字だから「た」は□からハミ出してくる、□意識。
       ○「亦(ルビ=また)」が、この玄興の安土記にある、○接頭字の読み方が「ま」かもしれない
       ○「亦」の字、本来の意味。○「又」を一回「亦」にかえてみれば・・・
    ということなどで出てきたとも取れます。「又策彦和尚」などはおかしい、どう読むのかもわからん、という
   ことになったりしますので、芭蕉が
      「伊勢の国又玄(ゆうげん)・・・彼の日向守の妻・・・
         月さびよ明智(あけち)が妻の咄せん〈泊船集〉」
   を出しているので、「ゆう」と読むことがわかります。猶妙印入道武井肥後守(二位法印相当)の猶のようなの
   が接頭字ですが「亦策彦和尚」となる場合は「ま」と読むという解説がいるのでしょう。この芭蕉の「又玄」は
   ここの「又策彦和尚」をいってるのもしれません。比叡山のくだりで
       「洛西の策彦叟・・・廿四郡・・・当国志賀の郡をば、明智十兵衛に給ひたり」〈甫庵信長記〉
   のような接近があります。 妙智=明智があるかも。 
    先ほどの妙智印策彦和尚の索引の並びの、□二つは段下がり、同列で、あの策彦の子息とみて、直感的
    それが二人いるみてとれます。謙斎というのは「□策彦和尚」のあだ名だから実際は一人ですが、譲った人
    は二人いて開化和尚(仮名らしい)も再三辞退しています。表記は@Aの二つできています。

       @「又(、)策彦和尚(亦た)」ーーーー狩野又九郎使いーーー▲南化和尚(開化?)ーーーー大田牛一
       A「又策彦和尚」      −−−−−二位法印使い−−−−−▼謙斎(索引もれ)−−−−沢彦宗恩

    となり▲「南化和尚」が太田和泉守で、「江州安土記」は太田牛一の作品でこれは「和漢両朝の達人」しか
   読み書きのできないものです。太田和泉守の中国の学者、皇帝側近の外務官僚等への挨拶文といったもので
   しょう。「衲」という字などで松永久秀の倭国の一節とつながり、これも入力すらできないものです。さきほどの、
      「洛西の策彦叟」〈甫庵信長記〉(脚注に書いてあって、索引もれ)(比叡山焼亡の一節)
   の「叟」などが松永久秀の一節につながっていますが、索引もれとなったのは、甫庵では妙智院を利用して
   「み行」で、いわゆる策彦を出してる、「さ行」でも出すと、あれもこれも出てくる、ということでしょう。しかし、
   〈信長公記〉ではちゃんと「さ行」で出てますから、かえって取っ掛かりの範囲を広げてることになります。
    戦後は監視や、外らし、だけが行き届いて、駄目ですが、戦前、諸テキストの骨格ができるところまでは、面白
    みがあったといえそうです。▲の「南化和尚」は甫庵の索引では
        名和無理介(助)/南化和尚       (〈信長公記〉では「なわ無理介」)
    となっており「南」は辞書でも「な」で、「名=南」、「南和」も無理とすると「和尚」も無理ということになりそう
    です。名和は注では「那波」で那波和泉守があり斎藤内臓助か那波和泉守かという人物です〈前著〉。
    いま、索引で話を進めているので索引に漏れがあったら致命的になります。一つ挙げると、人名
          「開山上人」〈甫庵信長記〉  「開山」〈信長公記〉−(これは脚注で「えんご」で出ている)
     ▼も索引漏れですが、もし索引漏れを入れてたら、甫庵のものでは

                  開山上人(▲に代わるとして)           毛屋猪之介(「毛屋猪介」もある)
      「か行」のはじめ  快川国師          「け行」のおわり    玄興
                  各務兵庫助                       謙斎▼

    となるところです。ご丁寧に「快川和尚」も索引から、もれていて、それは▲の下に入りますから
          開山上人
          快川和尚   の並びが成立し「開」=「快」で、「化」=「川」(河口=かこう=川口)の「か」です。
    開化=開川=開山(せん)に通じ、「開化和尚」はあの「化荻」の一節「開山」「化」に通じ「渡明」から「渡欧」
    まで「渡海」、
    「回船」の海・船が通っています。▼は玄興(開化和尚)と別人ということでよさそうです。燃え上がる恵林寺
    の火の中で「火もまた涼し」と泰然としていた「快川和尚」は「開化和尚」でこれは太田和泉守でしょう。あの
    話はなかったということになりますが、どうしてそうしたのかという大きな問題は残ってきます。

     真木与十郎は「与一郎」、「与九郎」、「与十郎」の三人セットも考えられますが、語りの与十郎として、  
    「蒲生備中守郷舎」と捉えました。
     「与一郎」が内包されているとみますと、〈信長公記〉索引「よ行」のはじめによれば、
          与一郎 → 細川忠興
          横江孫八
          横井雅楽助   (「時延」「近江愛知郡横江の住人」、前の姓「横江」)
      があります。この「与一郎」の書き方は、あまりに多いので、細川忠興以外にもあるよ、といってるというの
     見破られています。清水又十郎のところで、渡海の「横江孫八」がありました。蒲生郷舎は「横山喜内」
     というのが前名として有名ですが、横井の前の姓「横江」は    
          「横江」→「横川」→「横せん」→「横山」
     で、渡海の孫八がここから出てるということになります。片袖だけでみれば
           与一郎(蒲生氏郷)
           ‖横井雅楽助(旧姓横山喜内)−−−−−−−−−横江孫八

      ということになります。甫庵索引で
         横井雅楽助/横田備中守
      の並びがあり、これは横井雅楽助は備中守という暗示でしょうから合っていそうでもあります。日本史で
      そんな陪臣に過ぎない武将を取り上げているはずがないと、門前払いされそうですが考え直しも要りま
      す。開化和尚はあの開化天皇のことも見てるというと、そらおかしい、そんな尊貴な人を、得体の知れな
     乞食坊主が表現するなどありえない、というのもないようです。「与十郎」が出ると、一応は「与一郎」を見る
     のがいいようです。有名な「与一郎」はさきほど索引にでていました。ちょっと入れ替えると。
          与一郎(ガラシヤ夫人)ーーーーーーーーーー細川忠利
          ‖与九郎=横井(江)雅楽助(長岡頓五郎=細川昌興)−−−−(子)横江孫八
          細川忠興(与一郎)ーーーー細川興秋
      というのも出てきます。
     こうなると大阪へ入城して陣後、徳川に遠慮した忠興に迫られて切腹したという「興秋」(付家老米田監物)
     が渡海の「孫八」相当かも、というのも一応は出てきます。そらちゃう、というのも直感的に納得できるとこ
     で、「横井」というのが清水又十郎の一節にないので、横江孫八@Aの@が渡海したというのも、ありえます。
     これは「横江孫八」が二つあったから外数か内数か、ということでも要るところです。頓馬と羅馬は似ていませ
     んが信長公が、頓(トン)五郎功名の報告を受けると喜んで自筆の表彰状を与えたというような話も用意
      されている人物です。大体この結婚は信長公が持ちかけて、〈明智軍記〉では

       「・・三番目の息女十六歳・・・細川与市郎忠興に嫁し・・・上意を申し渡し・・・某(し)甥(おい)織田
       七兵衛信澄(のぶずみ)、若輩と云い、彼此頃迄は黙止ぬれども、今程は器量人に勝れ、志も穏和の
       者と相見ゆれば、近年に然るべき城主となし、一方の固めにもと思ふぞかし。然れば、汝が四番目の
       娘十四に成るを、信澄に妻(め)あはせ、向後より万(よろず)光秀指南に於いては祝着・・。」

     となっており、語りにおいて三番目のガラシヤと、その下の人と同時に話をもちかけた信長公の頭のよさが
     光るところです。
     こういうのも出るのは「与十郎」があって、「与一郎」「与市郎」「与九郎」も出てくる、千代夜叉
     丸も出てきたあのあたりの〈武功夜話〉の親切が、実ってきているところです。南化和尚の「化」は
     化荻(草冠なし)の「化」で渡海、玄興の興は細川の三人の興が浮かんだから渡海の材料として一応挙げ
     てみましたが、細川(長岡)は、「下津」「岩倉」の敏広のところで出てきて、敏広の城のあるのは「下津」で、「下津」は細川の
         下津権内〈信長公記〉 (「細川藤孝の家臣」)   (索引の並びは 下津権内/清水又十郎)
       があり、権内のAかBが横江孫八かもという見当もつくということです。

      (180)土田氏
       敏広のところに「与十郎」が
       明滅したというのが重要で、常松から分派した常竹に〈武功夜話〉は「与十郎」という名前を付けていま
       す。
            上郡 織田常松ーーー|敏広ーーー猶子・与九郎
           |               |与十郎・与九郎
        ーー|
|          |
            下郡 常竹(与十郎)−−●久長ーー敏定・・
      において常松と常竹は書いていない誰かから線が下りてきているから兄弟とみないと仕方がないわけ
     ですが常松の舎弟が常竹と書いてあります。すると常松の息子が常竹の子かもわからないということに
     なっています。一つの見方からいえば、上の与十郎は敏広の舎弟だから、連合いとすると息子の連合いも
      子息で
                       敏広
                       ‖与十郎
                       於久地丹羽
      ということになりますから配偶者とその連合いがゴッソリと、斯波氏の補佐をするということになったという
     ことを書きたいという与十郎と思われます。敏広が怒って争って、斯波氏の調停で和解しますが、常松の死後、体勢
     下郡に傾いてしまい最終的に全部が下郡の信長にやられました。次の■の人物が重要で、土田
     氏が絡むのではないかと思えます。人名注では、「土田氏」があり、
        「信長の生母。土田政久の女。・・・(文中「信長の御袋様」「御袋様」)」
     となっていて、「土田の大原」も項目があって「海部郡甚目寺町土田の豪族」となっています。〈武功夜話〉
    の地図では犬山城の北東にも「土田」という「地もあります。余談
     ですが索引では「津田大隈守」以下十八の津田姓の人のあとに、「土田氏」がでています。織田の中で
     土田氏の係累の人が「津田」で表されている,太田牛一の作品上の都合という面もがあるのかも、ということ
     も出てきます。実生活で津田も姓として生きているでしょうから迷うところですが、津田が土田で受けられて
     いるから、この面からもみないしょうがない、ことにもなります。津田の18のうち「織田信広」がよく出てきて
     これが先ほどから出ている清須の広信の逆の表記のもです。〈信長公記〉索引で
         「■津田大隈守 → 織田信広」
         「津田三郎五郎 → 織田信広」
      の二つが出ています。少ない、ということになりますが一つ抜けています。「織田三郎五郎」という表記
      が現にあるので、
         「津田三郎五郎 → 織田三郎五郎」か「織田三郎五郎→津田三郎五郎」
       が抜けているではないか、といいたいところです。抜けてないというはずで一方で
         「織田信広 ・・・  (文中表記 「三郎五郎 41 45 46」 「津田大隈守」 「津田三郎五郎」)」
       があるというわけですが、結局「織田三郎五郎」を抜いてしまっています。つまり織田三郎五郎というの
       は、出さないようにしよう、というのか、津田枠だといっていそうです。
       「三郎五郎」の41頁は「織田三郎五郎」、で45・46頁は「三郎五郎」で
         ○「織田三郎五郎殿と申すは信長公の御腹かはりの御舎兄(しゃけい)なり。」
         ○「上総介別腹の御舎兄三郎五郎殿」
       の二つの説明があり、これは今までは、上下同じことを言っており、織田三郎五郎は、信秀の正室、
       土田御前以外の女性の子で、信長より年長の子、と解されてきて、この人物はのち大隈守となったと
       されています。事績はあまりはっきりしないのか解説がありません。
       今では、これを土田御前の子が織田三郎五郎と解釈したので、信長とは別腹、信長と三郎五郎は
       異母兄弟、この人物は池田恒興とみてきました。これは、甫庵では「信長卿」の
         ○別腹の舎兄に三郎五郎殿と申せしは後に大隈守・・・
       となっており、簡単さに感嘆、これで紹介終わりというのは与えられた駒で説明できないとおかしい
       昔の読者はわかったのだから・・・ともいえます。そうとしても、織田三郎五郎を池田恒興とみる
       のはない、というのが一般に受けられているところでしょう。また〈信長公記〉は、信長公の
           「御舎兄(しやけい)」
        と、ひらかなルビをつけています。また普通は「三郎五郎」と「織田三郎五郎」は違います。織田三郎
      五郎と津田三郎五郎は同じでしょが、(と)=「都」=(つ)で、「津田」→「戸田」=「土田」という働きが
      「津田」採用の目的の一つかもしれません。

      (181)恒河久蔵
       池田恒興は、津田の領域の人で、大隈は花隈の隈、熊、でもあります。
        池田恒興の「恒」は
             「恒河久蔵」〈信長公記〉   (〈甫庵信長記〉では「垣川久蔵」がある)
             (「久蔵」には「坂井久蔵」「小坂井久蔵」がある)
       の「恒」ですが、これは曰くのありそうな名前です。本文では「津嶋恒河久蔵」なのでこれ
       で索引を作ると■の前にこれが居座ることになり。津田の部類に入ってきます。そんな「恒」一字で
       「恒興」とくっ付けて、論を進めるのは行き過ぎだ、というのはわかりますが、本文では
           「日比野下野守□津嶋恒河久蔵討とる。
            神戸将監□□□津嶋河村久五郎討とる。・・」〈信長公記〉
         となっていて神戸を捕捉せよ、となっています。すなわち前後は「津嶋河久討とる」が共通で、
        神戸を貫いていて、恒(こう)河(こう)河(こう)神(こう)戸を生かすということで、神戸の生田の(森の)
       池田がでます。生田は今は消田ですが昔はありました。柳生十兵衛は「三池 伝(典)太」の太刀が
       属性ですが、伝(でん)は「田」で、「池」→田←「太」となります。「三」は池田について周り「池田勝
       三郎父子三人」があるのに索引では抜かれています。これは太田和泉守が乗ってくるので警戒ということ
       でしょうがおかしいところもあります。〈信長公記〉索引では
          池田勝三郎父子 → 池田恒興・同元助   
      があり、一方、「池田元助」は
         「庄九郎・勝九郎・紀伊守。恒興の長男、(文中の)池田勝九郎 (7ページ)」
      があります。しかるに古池田の陣
         「一、川端取手、池田勝三郎父子三人・・・・・・一、倉橋、池田勝九郎。」
      があり、「同元助」と「池田元助」が違うとか、倉橋の「池田勝九郎」は何者かというようなことが出てきます。
      「真柄十郎左衛門」も本文に
          「真柄十郎左衛門父子三人」〈甫庵信長記〉
      というのがありますが、池田と同じく、これは索引から漏れています。三人は出さんとこ、というわけで、
      ややこしくしてしまいます。「信長公・中将信忠卿御父子」もありました。池田には恒興次男「三左衛門
      照政(輝政)」がいます。
す     先ほど、恒河久蔵・河村久五郎の「五郎」が浮き上がっていました。これが三郎五郎の「五郎」と繋がるので
       しょう。一見
          「池田勝三郎」=(三郎)=津田三郎五郎
       で、池田恒興が津田(織田)三郎五郎であろうということは感じられるところですが、ここで「五郎」「恒」
       からも補強できました。また神戸に「三七」があってこの三の方が「三郎」にかかる、ことにもなります。

       一方、土田御前は「勘十郎」という子息があることは知られており、信長舎弟として信秀葬儀の場面で
      出ています。信長が位牌に香を「くはつ」とつかみ投げつけた場面があります。テキストでは「織田信行」で
            「勘十郎、武蔵守。信秀の子・・・弘治三年・・・信長に清須城で殺された。文中表記「勘十郎」
       となっています。ネット記事などでかなりの人が書いておられるように「勘十郎」には「信行」と「信勝」
       の二つの表記があって一応、口には出さないが二人というのは、察せられていそうです。
       舎弟は連合いも、あり、弟もあり、弟二人などと一応は考えられます。したがって「織田(津田)三郎五郎」
       と単なる「三郎五郎」と二つ設けられている
       とみておくことにします。五郎というのは、ぼんやりと、清洲の五郎が入っていそうです。
        この信行の「行」は、はじめから気になっている森可成の父、
           「森可行」〈類書〉(美濃兼山城、葉栗郡蓮台=羽島郡の笠松) 
       の「行」ではないか、というのが引っかかるわけです。そんな一字では無理だ、関係もなさそうだとい
       うのも合っていそうですが、先ほどの「恒河」−(神戸)−「河村」による神戸の挟み込みは「恒」という
       一字を「神戸生田(池田)森)」までもってきたから「信行」−「池田恒」−「森(可行)」はなりたちそうで
       もあります。現にネット記事のイントロの部分だけで、森可行は
          「明応3(1494)〜元亀2年(1571)、小太郎、越後守、森可秀の息子、森成恒の兄、
           森可成、森可政(太田和泉守?)の父・・・」
       となって「森成恒」の「恒」がでています。池田恒興の父は恒利ということですがそこで行き止まりにな
        っていてとりつくしまがないわけで、そうではないと横に通路があるという印が成恒の恒になっていま
       す。公式というものが、それとなく論じられるというものがあって、この正体不明の
           「恒河久蔵」〈信長公記〉 「河村久五郎」〈両書〉
       のものからそれが出てないかという確認も要るのでしょう。神戸を挟む二者の字数は下のように9字と10字
       の一字違いですが、違いを明らかにするにはトータル同数にしてみるのがよく、
            津嶋恒河□久□□蔵討とる   
            津嶋□河村久五郎□討とる    
       のように空きを補充して12字と12字としてみます。すると
           ○「蔵」と「郎」は微差として取れるから「□蔵」と「郎□」を抜いてみる 10字対10字にする
           ○こうすると「河村久五」が母体になっているのがわかる。「恒河村久五」と「河村久五」は一字
            頭に付くのは男性ととれる。徳川の豪傑「長坂血槍九郎」の「槍」に相当するもの。下はその
            逆、さきほどの「蔵」「郎」の違いというのがこれにあたる。
           ○「恒河」というのが「こうこう」で上から読んでも、下から読んでもという見本になっている。恒興
            は「興恒」となると一応、同じワールドでは違うとみるのかも。先ほどの成恒は同じワールドか
            どうか
           ○抜けた字は「恒」「村」「五」で「恒」は池田「恒興」の「恒」や、織田伊勢守常松、出雲守常竹
            の「常」を出した、「五」は「三郎五郎」、「那古屋弥五郎」の清洲は頭にあると思われる。
        などありますが、「村」が問題で、今まで無意識にやってきたことで「太田」「山田」があれば
                太田
                山田   として「太田」「田太」が4つ、「山田」「田山」が5つ、が田田の共通から出て
         くる「太山(みやま)」「大山(伯耆)(石見)」も太田和泉守の脳裏にあり、とみてきました。ここでも
                恒河     恒河□
                河村     □河村
        と書いて縦(上)から読んでも、横(左)から読んでも、恒河・河村で、右から読んでも「興恒」が出ます
       が  恒=河=江で    江江   江江
                       江村    江村
       で「江村」が出てきます。「江村」は脚注では「未詳」となっています。心当りがあり
          イ、渡海などに関わる
            「大文字屋所持・・・祐乗坊・・・法王寺・・・池上・・・佐野・・・江村・・友閑・丹羽五郎左衛門・・」
                                                              〈信長公記〉
            があり、渡海に関わるところで出ている、
          ロ、天王寺屋竜雲所持のものなど、絵に関わる、
            江村は
                 池上如慶    一、かぶらなし
                 佐野       一、雁(かり)の絵(脚注=牧渓と玉潤がある)
                 江村       一、もくそこ 
            佐野と並びで、佐野はここの「絵」とともに脚注では紺灰の「灰屋紹由」とされ、染物にも関わる。
          ハ、もくそこ(脚注=百底の花入れ)     
            「鹿垣・・百々・・・向城・・・丹羽五郎左衛門・・・彦根山・・河尻与兵衛・・」〈甫庵信長記〉
            があり、池上=五郎=丹羽の間に江村がある。地名に「江尻と江口」人名に「江川」があり、
            ここの「河(川)尻」は「江尻」そのもので、鹿垣は恒=垣だから、恒興もここに参加させていて
            この場合池上で池田もでている。江川は河村が出てくると
                    江川           江江
                    江村 で別の面で   江村  を形作る。
            甫庵索引で
                 垣河久蔵/陰山掃部助(信秀、稲葉山城下大敗の一節の主役、丹羽、景清登場) 
            があり、この「悪七兵衛景清」は索引漏れで、〈信長公記〉では「景清所持のあざ丸」があるので
               内府→織田信長/大宝寺義興(庄内市)/大文字屋/平景清/大竜寺麟岳
            という索引で出てるわけで、本文にも書いてない「平」の挿入によるもの。
            平手の清とか丹羽の五郎、河尻の「与」、江村などが大文字に及ぶ。信長がなぜここに、入るか
            という大問題が出てくる。
          ニ、佐野は「泉佐野」があり、佐野の渡り(佐野の渡りの雪の夕暮れ)がある。
           「渡り」は「江口の渡り」〈信長公記〉があり、「大河」「川」が出て
                「舟渡し」「渡の舟」「かち渡り」「渡りかち」
           が出てる。
           「夕暮」は「友閑」を「夕閑」に変え「丹羽」とからんで「夕庵」も出てくる。
          ホ、最大の眼目のひとつは、「江」「江」「江」−「村」で、「村」=「孫」から索引で
            柏原−梶原に挟まれた「(祖父)江孫丸」、(な)行の「(祖父江)江五郎右衛門尉」が出され
            渡海に結びついた。「のぶ」と読む、「宣」と「宜」は、似ており、その類で「祖父」の「祖」の
            右側からと「垣河久蔵」「恒河久蔵」の「亘」(わたる)を出している。このトリックは太田和泉守の
            著書に内包されていたものといっている。索引で
                十 河因幡                               十 河
                祖父江久介  の並びがあり、これに恒河久蔵を付加すると  祖父河久介
                                                       恒 河久蔵
            となる。
          へ、結局、仮名  @恒河久蔵   →   兼松正吉相当
                     A垣河久蔵、河村久五郎 →  太田和泉守(大垣→太田垣連想)
              という積もりでこの名前を使ったと取れる。

      などのことで、語りを広げ、公式を織り込んだという深さ広さがこの名前の羅列に含まれていたと考えられ
     ます。いいにくい面では、読む場合には□(空き)を活用したほうがよいというのがありそうで、そのため
     「口くち」を利用していることが考えられます。

     (182)織田信長のなぞ掛け
       「江川」は「江三」でもあり「江江江」に「河村」から引いた「村」を付けた「江村」などで語りましたが
       これは □空き=口(くち)
       が念頭にあり、「江江江」には「□」(空き)もあるのを、「村」もあるということで、やってみたという
       のが、この場合の「河村」といえそうです。これで「江村」=「江川(「河内国出身」)も出てきました。
       つまり、「河村」「江村」は「河□」=「江□」→→「江口ぐち」という活用があり、                                                                       恒河□久
                   □河村久
       という□(空き)の活用がある、ということをいっています。それは「村」を「川」にしてみたらどうか、という
       ものがあり、上の□は「江」(こう)が入ってもよい、下の□は対象の妙があるからというので「村」を入れて
      も自然になります。
       芭蕉の要所の「一村」は、上の「□空き」に「一」を入れたこともありえます。あの真田幸村の「幸村」
       は多くの名前の一つに過ぎませんが、下の□に村を入れると「こう村」が出来て、真田は甫庵で「信幸」
       だけが出ているので「幸村」が出来、ここの{河(川)村」「江村」の「村」を生かしきったという傑作で多用
       されるようになったと考えられます。幸村は信繁という名前も多用され、これは水戸光圀が言う名前だった
       と思いますが、武田信玄の弟、川中島で戦死した、惜しまれた名将、武田信繁にあやかって名乗った
     名前のようです。「川中島」は川の羅列で、出てきます。二つの「河」「河」があり、この共通を語りに利用
     しとうとしているとみてとれます。地名索引で「川・河」が頭にあるのは
           川内/河内(かわうち)/川内(かわうち)/川口/河内(かわち)/河内一郡/河内小木江郷/
           河内長嶋/河内長嶋表/河内二の江/河内若江/川中島表/川中島海津/・・
        以下合計18もあります。「川内」は「せんだい」があり「川口」は「かこう」もあります。川中島は地名か
        、河口のように、はなから地名扱いにはされないこともありえます。「河川」は「江川」で「江川」は
        「河河」です。
         いま二つの関連図が出てきて、このために、ちょっと困ったことがでてきました。

              索引〈信長公記〉      注記(全)                  C大文字屋の本文周辺
           @大子原川三蔵   我自刊我本〈信長公記〉では「奈良川三蔵」      ★★「先ず上京」
                        〈乾徳山恵林寺雑本〉は「河上三蔵」とする        大文字屋所持
                        350頁「・・大子原、川三蔵・江戸力助。以上。」     祐乗坊
           A内府         → ●織田信長                         ふじなすび
           B大宝寺義興     (〜1587) 出羽大宝寺(庄内市)城主。        法王寺
                         最上義光に攻められ敗死。                池上如慶
                         「大宝寺」 179・358                    竹さしやく
           C大文字屋       宗観。京都の豪商。 96                  かぶらなし
           D平景清         清盛の臣で、悪七兵衛景清として著名。        佐野
                         〈平家物語〉に活躍する。「景清」 20           雁の絵
           E大竜寺麟岳      甲斐国大竜寺の住持。武田晴信の弟          江村
                         〈系図纂要〉。「りんがく」 391               もくそこ
         の左の索引があって、
        こんなところに●が出てきてくれたら困るわけです。この流れが切断されて突破できないということ
       であれば理屈が崩れ合って右の渡海の線も崩れかねません。ただ障害物がこれが「織田信長」であれば
       今やっているのが「信長公(しんちょうこう)」と「(甫庵)信長」の「記」ですから、どんな抜書きにでも
こ     出てくるから、どこへほりこんでも座りは悪くないというのが、まあこの世界の予定調和のようなところ
     に安住してしまうことになりますが、ミクロ問題突破しょうとする意欲、意思が、なかったから、まったく反対
      に近い心地よい、理解に落ち着いてしまっています。Aの「だいふ」という読みは、本文が馬揃の
         「御内府(ないふ)」〈信長公記〉
      ですからこれは、無理です。ただ「内裏」が馬揃であり、「川内(せんだい)」もあるから読めることは確実
     です。「内」(ない)」でやってみるのは本文もそうだから、合っていそうです。一応それでやってみると
       内大臣→織田信長/内藤勝介/内藤信成(「内藤三左衛門」)/内藤重政(「内藤筑前」)/内藤備前守/
       内藤備中/内府→織田信長/・・
      があり、内大臣〜内府、がでてきて「内(ない)」でもやられてるというのがわかります。これは「内藤」を挟んだ
     だけのものです。が、太田和泉守がなんとなく出てきており、内府が信長、信長公とする場合を、一応いま
      は想定しておくしかないところです。また、「御」内府、でやるのはどうかということになりますがテキストの
     癖からいうとこれがあってそうです。表記の伝手だけに頼れば、人名索引〈信長公記〉の
            五の宮→道勝/近衛信基(「前久の子」、のちに「信伊」に改名)
      とあるものの「五の宮」の前に入ります。「五の宮」から「道勝」は、すでに考察が加えられていて、読まれ
     ているといってもよいが、とにかく「→」があります。「道勝」をみれば
         道三→斎藤利政/★道三が息女/道勝(「五の宮」「五の宮御乳人」)/唐人一観(「瓦焼唐人」)/・・・
       となってて、★と何らかの関係があるようです。こういうときに「堀田道空」の「道空」があれば助かりますが
      どうかと、みると、あの有名な正徳寺(「木曽川・飛騨川、大河舟渡し」「富田」「富貴の地」)の会見で
          「春日丹後・堀田道空・・・道三・・・堀田道空・・・山城殿・・・道三・・・去て道空御湯付(ゆづけ)を
          上げ申候。・・・道三・・・道三・・・山城道三・・・上総介・・・・道三・・・山城・・・道三・・」〈信長公記〉
     があり「道空」は索引もれになっています。反面、ここにある「上総介」は索引にでています。
      項目「織田信長」の文中表記は14ほどありますが、
         「織田吉法師」「織田上総介信長」・・・「上総介(「上総」など変形4つ」「信長」「公儀」「◆内府」
     があり、いまこの「内府」が出てきたわけですが、「上総介」が
        春日丹後/和仁王(「若宮様」)/上総介→織田信長/糟屋蔵人/「賀須屋武則」(文中「賀須 屋内膳」)・・・
    というところで出てきます。テキストのクセからいえば、織田信長はおかしい、といってる可能性が大です。
    項目「織田信長」の最後が「◆内府」ですが、そこから
      ◆/織田信長の御袋様→土田(つちだ)氏/織田信実(「織田信秀の弟」「四郎次郎」)/織田信澄
「    が出てきます。こうなると◆次第によっては、その右が「内藤氏」になりかねません。すると土田氏の
     勘十郎の忘れ形見といわれる、いわゆる織田信澄にも別系統の人がいるということにもなりそうです。
      ここの★道三が息女」については
           「その名は、正確な資料に出ない。22頁」
        となっています。名前だけははわからないが、信長の正式の夫人のことでしょう。道三の若い側室、
       「小見の方」の伝説がありますが世代のことは後で考えたらよいことです。「道勝」は「唐人」の「唐」を
       道家の「道」にも変えそうです。「唐人一観」の「観」は大文字屋の「宗観」の「観」で、「瓦焼唐人の一
       観(いつくわん)」は奈良衆かもしれません。太田牛一は「一観」を本文に二つもに書いています。
       安土城のくだり
          「瓦、唐人一観(いつくわん)に仰せ付けられ奈良衆焼き申すなり。」〈信長公記〉
       があり、「宗観」は「総監」と「壮観」を兼ねたものかもしれません。この「奈良衆」が@に反映していて
       なんとなく聖徳太子時代からの瓦焼きの集団を、大文字屋が城建設のために、組成したという感じ
       のもので「道」をとれば、大文字屋宗観は、宗看で武井夕アンという人ととれそうです。@で本文
         「大子原、川三蔵・江戸力助」の説明として、
           項目、「▲大子原川三蔵」、我自「▼奈良川三蔵」として、恵林「河上三蔵」
       が注で出ています。一方、本文の脚注にも説明がでており、今度は、恵林寺本が先、我自があと、項目
       は説明として繰り返し、したがって、中身はベタで順番は
             「河上三蔵」 項目「▲大子原川三蔵」→我自「▼奈良川三蔵」
       となっています。つまりこのテキストの項目は間違っており、脚注の文章が、
            恵林・・は河上三蔵、我自・・は「▲」を「▼」に作る
       となっていますから、項目の話は丁寧すぎて、いらないわけです。結局
           人名注:「川三蔵・川三蔵・河上三蔵」→「川□三蔵・川□三蔵・河上三蔵」
           脚□注:「河上三蔵・川三蔵・川三蔵」→「河上三蔵・川□三蔵・川□三蔵」
       というものに達し
           ○「河川」→「江川」→「江山(せん)」→「江三」⇔「三川」「三河」
           ○□には「下」が入る
       というのも出てきます。この三河が索引のB「大宝寺」(義興)に懸ります。天正10年
          「五月十五日、家康公、・・・御宿大宝坊然るべき・・・御振舞の事、維任日向守・・・」〈信長公記〉
          「徳川家康卿・・・五月十五日には安土・・・寄宿は大宝坊にぞ定め給ひける、惟任日向守・・」
                                                         〈甫庵信長記〉
       の「大宝」がイエヤス公の属性です。この索引Bの「大宝寺」というのも、ややごり押して、本文では
     「出羽大宝寺」でこれは注では現在の(庄内市)となっています。これは酒井氏の領地です。
      坂井(酒井)忠次=家康公といいたいのだろうが、これではまだ線が細いというかもしれないので
           ★★ 
      があるのかも。これは(まずかみぎやう)のルビがあり、「上京」の初めです。びっくりするが首巻で一つ
      だけの上京で、しかも索引もれです。したがって「上京」のトップは元亀元年
           「三月五日御上洛。上京驢庵(かみきやうろあん)に至って御奇宿。畿内・隣国の面々等、
           三州より家康公御在洛。門前に市をなす事なり。」〈信長公記〉
       がありこれが「先上京」です。脚注に
           『信長の上洛は二月三十日〈言継卿記〉。なお「奇宿」は「寄宿」の宛て字。しばしば用いられる。
            〈・・・(上巻)・・〉」
       があります。「しばしば用いられる。」は驢庵もあるかも。この「奇」は秀吉の死などのときの「奇特」〈前著〉
      に現れていると思われます。この文
           「三月五日、三州より家康公御上洛。・・・・・畿内・隣国の面々等御在洛、門前市をなす事なり。」王洛魯
      も可能ですが、いま□が一つのテーマになってることからみますと、ここは言継卿のいう「信長」があの  
      信長であるといってるかもわかりませんから、それはそのままの理解として
          三月五日 □□□御上洛・・・・
          ・・・・・・・・ 家康公御在洛・・・
    として、□□□としたかったと思われます。「上」⇔「在」は通常「下」が入ります。
    「河上三蔵」「川□三蔵」「川口三蔵」でしたから、★★「先上京(まづかみきやう)」のあとは
    「下京」が予想されますが地名索引で「下京」が二つしかないので「上・下・下」が関連が出てきて成立しそう
    です。下京四条に「村井長門(ながと)」、下京場之町に「村井春長軒」が登城してきます。とりあえず大文字
    屋宗観がわからないということで「村井親子」を宛てておきたいところです。片袖でやれば
         夕庵
         ‖村井春長軒(宗観@)ーーーーー村井長門(宗観A)ーーーーーーー高山右近
    
    ということになりそうです。索引の@、大子原川三蔵の前が、「たいとう」ですので、安土城で高山右近の登場
    を示唆するものでもあります。要は、恒河−河村を出して
                           江川
                           江村   = 河(川)村
    で渡海の鍵「江村(孫)丸」を出そうとした「村」が「村井」を呼び出したといえそうです。Bの「大宝寺」は
    文中では「出羽大宝寺」なのに「出羽」を勝手に省いて、索引を作っています。索引で
          「武藤義興」〈信長公記〉  (文中「出羽大宝寺」)
     があり、「鶴岡市の大宝寺城の城主」となっています。このあとが「無辺」「村井」と続いているので、「村井」
     は「武□井」ということで、「武井」を隠すために使われたといえそうです。その場合「河(江)村」の「村」
     が渡海に結ぶものとして出たことと関係があります。「武(む)羅井」という意味ではないにしても、この「村」
    が、このCDが、家康公、信長公を解く鍵の部分として注目されたととれます。
     「内(ない)」→「内(だい)」と変えたのは、馬揃で家康公が出てるということかどうか、それによってDの
    存在価値も、ひいてはほかのことの解釈にも影響がおよびそうです。
     「アク七兵衛」「出世」「平手氏」「平定」とのことならば、でてきそうですが、ここは海外のことも懸かっていま
    すので存在感がないと困ります。つまり、馬揃は信長公が言い出して太田和泉守が一切しきってやりましたが
    この人物がやれ、といわなければできなったという権力構造であったということで話をしてきてますから
    自分も出せ、というような人物であった、洗練されてる、理論家、あの酒井忠次のイメージとは違うものがある
    はずというのがこのあたりで出ないと強敵のイメージがでてきません。キリスト教の弾圧、海外出兵、徳川の
    政権樹立を考えていながら、、パレードの中央で手を上げて喜ぶというなら、20・21世紀の独裁者に似て
    政敵覆滅をまず考えているこれは強敵です。屁理屈言うのも腹いせで、ここにいたことがもう読まれていて、
    いまさら何をというところです。
     「矢代勝介」が登場してて
    
          「(御内府だいふ)・・・誠に飛鳥なんどのごとくなり。関東より祇候(伺候ではない)の矢代勝介、是にも
           御馬乗らさせられ、岐阜中将信忠卿、アシゲの御馬、勝れたる早馬なり。@御装束●事に勝れて花
           やかなり。北畠中将信雄卿、河原毛御馬。織田三七信孝、糟毛(カスケ)御馬、A目に立て足きき早馬
           達者(たつしや)比類なし。・・・・・・・・・信長・・・・・・」〈信長公記〉

    があります。この文結論からいえば脚注に出てる@Aの部分を移動して、
           「矢代勝介、是にも御馬乗らさせられ、A目に立て足きき早馬、達者比類なし。@御装束●事に
           勝れて花やかなり。」
    としたいということですが、これは異論もあるかもしれません。「達者」というのが、あの清須城の「達勝」「達順」
    を見てる、@A脚注にちょっとした解説があるということだけですから。
    脚注のひとつ@の●に、「殊にの宛て字であろう(前出、三一四頁)」があり、そこで314をみると
          「三月十五日・・奥の嶋山・・◆長命寺善林坊に至つて御座なされ・・・五日御逗留。・・・・
          しろの御鷹御自愛、羽ふり■事に勝れ・・乱取・・飛張・・十九日に安土に至つて御帰城。」
    があり、信長公は「三月十日・・・しろの御鷹つかはされ・・・安土へ御帰城。」三月十三日に、業務があります。
    ◆の行動をした人物は、
              「三月十五日・・しろの御鷹御自愛、羽ふり・・十九日安土に至つて御帰城なり。」
    があり「至つて」が継続した帰城です。「乱取」もあるから問題ですが、放恣という感じの特別な五日間です。
     ■にも脚注があって、「殊に」となっています。すなわち「三一四頁」は偶然の利用と言えるものでしょう。
    筆者はこれには気がつかず、他のことでいうしかないと思っていましたがこれがないと◆には達しませんので
    決定打不足となるところです。◆はテキスト索引では
          「長命寺の日光(考証名「頂命寺日b」)」
          「長命寺の日光→頂命寺日b」
     があり、この「こう」の違いは大きく、ほんまの、「日b」はキリスト教に反発した論客で、「法花宗」の「長命寺
     の日光」は論争場に出てきて、結果は
       「長命寺日光、妙の一字にツマリ、チヤウチヤクせられ・・・法花衆・・・逃(ニゲ)散り候」〈信長公記〉
     があり、これは、戯画化された日光、茶化された日光Aで、あの東照宮の日光を暗示するものです。こうあ
     りたい、くたばってほしい、と思う人物ほどますます元気というのが、どの時代も普通のようです。索引で
     考証名     A長命吉右衛門/B長命寺の日光/C頂命寺日光(王篇付き)/D長連竜
              ‖           ‖           ‖          ‖         
      文中表記  ちようあひ      Aが要る     長命寺の日光       長九郎左衛門
    があって、A、は〈能楽源流考〉、という書物に載っています、D、は能登の人で、「能」が解説にでてきます。
        恒河久蔵
        河村久五郎    で「久」「久」というのはまだ触れていませんでしたが、「久能」「久能」がここででてきて
     家康公と日光がつながってくるので一つの決定打ということになるのでしょう。

     筆者は◆の一節には「江川酒」があるから「江川」「江村」想起で、「江川」が「那須久右衛門」と出てくる
     一節は「金山駿河」が出てきますので、ここから入っていきたいと思っていました。これは、はじめの名前が
           「長信」
     で「信長」の逆となってるので怪しいということです。索引で印牧弥六左衛門の前にありました。「能」に
     「那須」の「久」を加味して、これで駿河の久能=家康公へ行き着きます。
     「奥の嶋山・長命寺観音」のセットは、安土城のくだりで出ていて、いずれこの3/15の記事へきますが、
     安土城でそこから
     「如意がたけ」(大文字山)、「瓦、唐人の一観」がすぐ目に付きます。ここから内府、大宝寺などで馬揃
     矢代に着目したということまできました。3/15の記事は飛鳥=張飛⇔飛張などもあるので
     選手交代はっきりし、善林坊がとくに効いてきています。「馬揃」の「矢代勝介」は登場が
       (1)爆竹@  関東、矢代(ヤシロ)勝介
       (2)馬揃    関東 矢代勝介
       (3)爆竹A   屋代勝介
       (4)本能寺戦死  矢代勝介(甫庵では「矢代勝助」)
     という順序であり、本能寺の戦死で表記を全部消したと考えられます。ひきあては、とりあえず
       (1)大石源三、家康公  (2)家康公、家康公A   (3)内藤氏、内藤氏A
      ということにしておきます。家康公Aとして「御次公」が馬揃に出てきてるので、読み方が混乱して、読み替え
      を余儀なくされたというのかもしれません。家康公が出てきた「大宝寺」が重要な役割を果たしています
      がこれは「出羽大宝寺」が本来の表記ですから「て(出)」でも索引が作られないといけないはずで
     一応みると「出羽大宝寺」がやはり、無理に入れられています。索引「て行」
            出羽大宝寺 → 武藤義興
            典厩 → 武田信豊
       があります。これでは注釈になっておらず、「寺」=「城」とすればちょっとはわかりやすくなります。太田
      牛一は「出羽大宝寺城」を「出羽大宝寺」と書いたのではないことは確実でしょう。古代でも「宮」というと、
     いまでいう寺にウエイトを掛けてしまいますが政庁というのでないと説明がつかないようです。それはとにか
     く、出羽大宝寺は、「だ」と「で」で利用したといえます。これからみると、妙ちきりんは鑓武藤小瀬だから
     「こ」で「小瀬」が出てるだけではおかしい、というのでやってみると
            鑓武藤/弥六/大和守→織田達勝
     というようになって、清洲の大和守(太田和泉)−織田達勝−大宝寺(家康公)(左衛門尉)−「武藤」
     というようになって、家康公の語りに「達者」の利用も必要というのも出てきそうです。ついでですが、偶然
     ここに「典厩」が出てきました。登場場面は長篠の戦い、武田軍、一番山県、二番正用軒、三番小幡、
     五番の馬場の、四番手、
        「典厩(てんきう)一党(イツトウ)黒武者(くろむしや)」〈信長公記〉 (これは説明はなし)
      の「典厩」と思われます。通常は、あの川中島で勇戦戦死した、武田信玄の弟、「武田信繁」
     のことで信豊は子息です。索引の流れの 「E大竜寺麟岳」もテキストでは「武田晴信の弟」となっており
     、ここの「正用軒」(脚注=「逍遥軒」)も信玄の弟で、武田信玄の弟がここで鉢合わせになりました。
     真田幸村の名前を信繁といったのは水戸光圀だったと思い
     ますがああの名将にあやかって、幸村が名乗ったという説明になっています。光圀は幸村もこのあたりの、
         恒河     江江
         河村     江村    の「村」を採って付けられたということを知っていたので信繁を出して、この
     信長のなぞかけの辺りの太田和泉守の企てに参加したとも取れます。〈常山奇談〉で森銑三の作った
     索引では、(項目)「真田幸村」(信仍) としています。「熊沢了介(蕃山)」「武田信玄(晴信)」というもの
     もあります。「江川酒」は脚注では
        「酒の銘柄。中世に伊豆江川(静岡県田方郡韮山町のうち)で産した。」となっています。伊豆江川→
      伊豆江村−真田の幸村でこの「村」が
     面白いと興味をを持たれたのではないかと思われます。大文字屋に関連して、池上如慶の「かぶらなし」
     が出ましたが、これは「蕪□(なし)」ですが、□に「村」を入れるのが気が利いている、と自画自賛して
     「蕪村」がうまれたのかもしれません。蕪村で「矢橋」がでてきますが、これは「江川酒」の一節で出ます。
        江川酒−北条氏直−牧庵−(信長公)・矢橋−矢部善七郎−善林坊・・・・・矢代勝介
     の「矢」が出ます。幕末の江川太郎左衛門の江川は〈信長公記〉以降の「江川」であろうと思いますが
     「担庵」というようです。が「恒河」「垣河」の右の一抜きになった形の「担」「坦」で、読み方がウイキでは
          「たんあん」、「たんなん」
      となっていて、左の操作を右の読みに持ってきた「担庵(担安=太郎左衛門)」という民政と科学技術の
      江川の対が韮山にいたということかも。
          「■江川(エ カハ)には舟橋(フネハシ)仰せつけられ、・・」〈信長公記〉
     があり脚注では「江と河と。江は入江。海や湖の入りこんでいるところ」となっています。「人でない」と断定
     されていて「那須久右衛門・岡飛弾守・江川、」の連記の「江川」のみが人名索引に載って未詳となって
     います。この■はカウントしなければならずおそらく、「江村(江川)」という関係になりそうでもあります
     (江村=太田和泉相当、江川=兼松相当)。これの応用が「担庵」にでたかも。三人の関係は
          那須久右衛門
          ‖江川
          岡飛弾守    ということであろうと思われます。「右三人・・・・両三人・・」となっています。幕末の
     雄、江川太郎左衛門は■をみて「太郎左衛門」と名づけ、立場を解説したと思われます。太田和泉守の
     ここの「村」は江川も捉えたことは想像に難くないところです。海防というと、伊豆の江川担庵、信州松代
     佐久間象山、長州萩吉田松蔭などがでてきますが松蔭にも「村」がでてきます。「松下村塾」ですが、おじ
    であり、師である玉木文之進が名づけたもののようです。これは松蔭の提言があったかもしれません。やや
    「村」に必然性がない感じです。松本村の、村人の「塾」というのは、農村にもという新しさがあるのかもしれな
    いが、教育に遠近は問われなかったとみてよく、松蔭は教育の相手をえらばないというところがあります。
    「江川」(エガハ)に河川か、人かわからないものがあったように「村」にも、「あの村」「江の村」という「村」、
    江川担庵、佐久間象山などにも、ああこれはあの「松下」「村」が織り込まれた塾か、ペリーの船に乗りたい
     という行動がでてきたもの、「江江江河河河」に囲まれた「村」、歴史の説明の挨拶となる「村」といえます。
      「村の鍛冶屋」の「村」というようなものでしょう。
               「加治屋村」〈信長公記〉
     があるので、これは、ここを踏まえたものでしょうが、「村」を前に出したので、江村・村井などの□含みかも。
 
      (183)同時反対
      最近、なんでも反対をいって切り返す三歳の女の子に出くわし、ちょっとした驚きですが、・・・あぶないよ、
     −あぶなくないよ、/おいしいよーおいしくないよ、/偉い−偉くないよ、・・他愛ないが反対のことを言って
      いるということはよくわかっていて、おもしろがっていっているのですが、価値判断が入ったものに対する
     ものがあるからか、ときに聡明に聞こえるから不思議です。ああいえばこういうの類ではない反射的なものなの
    ですが。
       恒河□久□蔵        
       □河村久五郎
       という場合、恒河を上に置いて見るものとは限らない、右や上から読んだ場合はどうなる、というのが
      常に、同時に出てきて、それが利用されてるようです。信長ー長信、長秀ー秀長などは戦国文献読解に 
     猛威を振るいそうです。志津ヶ嶽七本槍、糟屋→賀須屋武則は、須賀屋→菅屋となると思いますが、これ
     だと、ちょっとわかりにくい応用といえます。こういうのがあちこち利用されていそうで河村(久)恒河は拡大
     を内包する公式ともなってそうです。テキスト補注では「備後守」の説明として

          『大永年中、信秀が今川氏豊の那古屋城を奪取したという説がある。また「織田大膳亮定信尾州
          那古屋大永元年八月十三日ノ判」という記事によれば、定信はすでに那古屋を制圧している
          ようであるが、大永の改元は八月二十三日であり、かつ織田定信についても他に所見がない。」
 
      と書かれています。これは大永になったのは8,23の意味であり、8.11の年号は間違っており
          「定信」
      がおかしいのでしょう。「ノ」というカタカナもあります。こういう人物は聞いていない、つまり信秀のいまで
     いう父を指しており、仮名(かめい)で大膳亮定信、信定の逆を意味づけて使ったということでしょう。今川
     氏豊を偽計で追い払ったのは信秀時代のことではないのかもしれません。寛政の宰相松平定信もここは
     意識しているずです。加賀の「兼六」は定信の命名だそうですが、
        弥六、孫六、与六、藤六、甚六、宗六、権六、源六、新六、彦六、助六、清六、小六
      などがあるのに「兼六」がないのはおかしいのではないかと前田に注意を促したともとれます。木村世粛
     を弾圧した政治家ですが、両方よく戦国時代を理解していた人物の激突があったのでしょうか。
      佐久間甚九郎・蜂須賀小六・三好為三・木村又蔵の「正勝」も「海老名勝正」(えびな)があります。苗字も
      あるはずで「山中鹿介」の「山中」は、尼子の「山中」として実在と思いがちですが、尼子で有名な新宮党
     を語ったものとすると仮名ということになります、新宮本宮−「宮本」というもの、「木村」というものを語りたい
     のが「山中」という設定ならば、その逆さとしての中山が生きてきます。
       〈信長公記〉の「中山」は
             「中山親綱」(文中「中山中納言」)、「中山慶親」(「中山中将」「左頭中将」)、
             「中山親綱女」(「中山の上臈」)
       の三つですが、この「慶」・「綱」の解釈に影響があるのかも、というのもでます。

       (184)「石黒左近」〈信長公記〉登場
           「中山姓は洛東中山(黒谷)に基く」
       という注があり、もと黒谷という名前で、中山という地名により、それが人呼んで、という愛称になったとも
      考えられます。ただ「佐頭中将」にも引き当てられるということだから、本来「佐藤」であって中山・黒谷は
      地名かもしれない、「黒谷」なんどに意味がなさそう、あの古九谷に結びつけるのはおかしいということ
      になります。芭蕉の山中のくだりに貞徳や洛(楽もある?)の貞室が出て、山中と、中山は常に働いている
      となると、黒谷 → 谷黒となるから、
            「石」=(こく)=「黒」
      で「石黒」が案外簡単にでてきます。「黒谷」は「黒石(こく)」で
      「石石」で石田も出る、「黒谷」は「黒田の谷」かも、といったところで、昔の人が、そんなとこまで考えとる
     かい、となってしまうので、先ほどの「河河」が「江川」に、河口にも変じたような、例示を出しながら、公式を
    与えながら、多くの人が考えこんだというようなものが要ります。ここも、そんなとこまで・・・というのを出さない
    と治まらなさそうでややビビるところです
           
     「石黒」は黒石となると、一色ですが芭蕉に
         「石山の石より白し秋の風」〈奥の細道〉
     があり脚注に「秋の風は白風といわれるよう、いかにもしらじら・・・」とあり、石=白で「白黒」「黒白」を出し
    てきました。「石黒左近」は、芭蕉も触れてる大物かもしれません。本文に
          「越中国木舟城主石具左近」があり、脚注には
             「木舟城址」「木舟」城主、「石黒成綱」
      がありますが人名索引では「越中木舟(富山県西砺波福岡町木舟)城主」として
        「石黒成親」(文中「石黒左近」)、と「石黒彦二郎」、「石黒与左衛門」
     があります。これは、子息が「石黒彦二郎」で「石黒与左衛門(石黒成親)」という関係かも。すなわち
          石黒左近
          ‖石黒成親ーーーーーーーーー(子)石黒彦二郎 
          石黒与左衛門
      と表すこともできそうです。とにかく三箇所で
          「木舟」
      が五個もでました。おまけに「木舟」と現住所紹介の(木舟)も出ています。
          このあと索引は
          「石田伊豫」「石田主計」「石田孫左衛門」「石橋」「伊勢国司北畠中将」「伊勢貞興」
     と続き無理なく「石田」「伊勢」へと行くので航海の線も出てくることになります。また「黒谷」は「谷谷」に
     もなり「やや」となり、「石黒」がでるところに「矢」があります。ここで石黒に「成綱」や「成親」、北畠の「中将」
     が出てきたことは「中山」(中将・中納言)の黒谷が注目ということになります、ついでですが「古九谷」のこと
     でいえば索引は
        中村与八郎/長屋甚右衛門/長山九郎兵衛(「永山」「加賀」「●虚空蔵山城」)/中山三件(既述)/
        半井光成(文中「驢庵」「光成の父明親の時代以来代々驢庵」「和気清麿の後胤」)/名郷源太
       (「名江源太」)/那古屋弥五郎/奈佐日本介・・
     となっており、初めの中村は清水又十郎の一節にあって中村式部少輔(宮本兵大夫)といってきましたが
     (平手の甚)、(中山の山中)(光成−三成A)、(驢ローマ)、(海賊奈佐)、(九谷、郷戸の後藤伝説)、
     などで引き当ては合っていそうで、その上、明智光慶の「慶」や「三成」の「成」が中山に含まれており
     渡海のラインが出来上がっています。一方●の「コク蔵」の「こ・く」が中山の「黒谷」の黒に掛かり
             「加賀」の「古九谷」  
     は太田和泉守承知のものといえそうです。つまり航海のなかの黒谷、古久谷、古九谷だから、この焼き物
     は土産品の一部として積み込まれている可能性は否定できないところです。清水又十郎の一節に
           「鉢屋般若介(はんにやのすけ)・長谷川挨介・・・」〈信長公記〉
      があり、「長谷川」は珍妙な字であり注目ということになると、
           長谷川橋介−長谷川藤五郎−陶五郎−(明智十五郎)−長谷川宗仁入道(等伯)
     というような甫庵の表記を並べると(明智十五郎=光慶は〈類書〉)、高山右近がでてきて陶器というもの
     も出ます。陶五郎は、中国十六箇国、的孫の出る歴史の一節で既述の「陶(すえ)五郎隆房」ですが
          「陶五郎天神山」「★山田山中」
     があります。★は大船建造の一節〈信長公記〉
        「多賀・山田山中・・・佐和山麓松原・・・勢利川・・・御大工岡部又右衛門・・・三十間・・・七間・・矢蔵」
     で出ました。
      「石黒」が出る〈信長公記〉一節は前段が「中国」のことで、後段が「石黒左近」で、前段に「高山」がでます
     から左近右近の一節ともいえますが、「矢蔵」などの「矢」、「町屋」「屋(おく)」などの「屋」が多い一節で
           や「矢」「屋」=(や)=「谷谷(やや)」→「石黒」「黒石」
     となるのでしょう。「石黒左近」に「佐和山」を絡ませているので、
            「石(こく)黒(こく)谷」、石石、黒黒の谷、つまり石田、黒田の谷
      というのも、ありえます。
     いま、「中山」=(「成親」「綱親」)=「石黒」のつながりをいったわけですが、これは右から読んでも意味あり
     という話の途中からの脱線で、「中山」→「山中」というのは転換が自然です。「石黒左近」の考証名が、
     「石黒成親」ですが、注ではこれは〈中越資料綜覧稿〉〈越中旧事記〉という資料に出ています。「中越」−
     「越中」という反対が出てるという空気の中にあります。「旧事記」という表記が古い文献の雰囲気を伝えて
     重要と思われます。ここで一応
        「黒谷」と「谷黒」 ⇔「こくこく」⇔ 「石黒」「黒石」
     だから、山中⇔中山 はもう繋がっているとみられます。山中で一件つけくわえれば、索引で
       山田与兵衛/山田六郎四郎/山中幸盛(文中「山中鹿介」)/山中鹿介弟亀井新十郎→亀井茲矩
     という並びがあるのともう一つ
             狩野光信(文中「息右京助」) 永徳の子
             上服部党・下服部党  「上野服部地区」 「伊賀黒田庄の悪党」
             亀井茲矩(文中「山中鹿介弟亀井新十郎)  新十郎、武蔵守、琉球守、台州守、初名真矩
                                          因幡気多郡鹿野城主 
             ■鎌田新介
             鎌田助丞
             上山城衆/以下蒲生・・・・
      があります。この「弟」が尋常な弟ではないと解し、山中鹿介を太田和泉守と解しますと、弟は
      兼松又四郎となりますが、「茲」の付くのは木村常陸介重茲で、先稿で山口飛弾守(木村常陸介)で
     山中鹿介を構成するということは既述ですので、これは太田和泉守A、金松正吉Aに該当します。
     〈武功夜話〉では先ほどの清須城の攻防のあたり、
             兼松金右衛門
      が登場しますが「金」プラス「兼」は「鎌」で次の■鎌田は亀井新十郎を兼松と取れると確認ができるとこ
      ろです。
     真田十勇士で少しわかりにくい「由利鎌の助」の鎌が想起されところです。由利が奥州陣の梶原景時と
     絡んでいた〈吾妻鏡〉と思いますが、そうだと梶原−兼松の相関が出てきて渡海というのも浮かんできます。三好
      この辺で「石黒左近」を実存面から、捉えますと、先ほどの「和気清麿」などが効いてきて
            明石左近(景親)
            黒石左近(成親)
      という類似から明石掃部助全登という人物がでてきます。大航海、キリスト教の話に入ってきてないと出て
     こない名前です。彦二郎というのは大阪城へ入城した人物かもしれません。「矢」というのは、あの
         「陰山掃部助」〈両書〉
      を射た、悪しき「矢」があります。索引ではこれは
          景清→平景清/陰山一景(「山県郡の住人」、文中表記「陰山掃部助」)〈信長公記〉
      がありました。「平」というのは平氏織田もあるかもしれませんが「たい」で拡大されています。景−山県
     は武田の山県昌景に利用され「一景」は「十景」を呼び出しそうだから「山中十景」を作って利用する人
     もでるかもしれません。甫庵の索引では
          垣川久蔵/蔭山掃除助
     があり、あの恒河久蔵河村久の話からここへ入ってくるのは方向として間違いはなさそうというのはでます。
          「木舟」
       がたくさん出ましたが、ここで、あの大洪水の名残の木舟が想起されます。他愛ない話だ、何か警鐘が
     ある、とかどうもはっきりしない、今後の研究を待とう、というところでしょうが、後の話がすばらしいものが詰ま
     っていたというならば、当時のリーダの考えが凝縮されたものであるはずです。あれは格差のことを問題
     にしたリーダ層の自戒、政治への警鐘というものでしょう。舟を作らせておいた層は脱出でき、その他大勢
     は死滅した物語りです。そんなん、いろんな説あり、わかるかいというかもしれないが、主眼はこれです。
     生き残った人は、滅んだ人はヨコシマ(邪)だったので神の怒りにあって、こうなったといって
     いますから確実です。こうなりやすいから、これではいけない、というのが、行き着いた考えでしょう。
     野球の例で格差を語り、三割バッターは二割バッターと差がついて当然だ、というのが現代の政治家の
    発言です。それはとにかく、キリスト教、関が原、大阪城で有名な、明石掃部介はここで出されたといえます。

     (185)風神雷神図海を渡ったか
      明石掃部介が渡海したのか、というのは大問題で「木舟」が生きるのかどうかのことにも関わることにもなり
     ますが、これは今出てきたことです。いままで風神雷神図は法王への献呈品として使われたといってきま
     した。文献が信用されない今となれば、物体が歴史を語る、永徳の絵で安土城を知ろうということになって
     います。風神雷神図が行っておれば、認められている永徳の安土城の絵にプラスのものだから織田信長
     の新遣唐使ともいうべき、天正遣欧使節があったということの証拠(あかし=明石)ともなりえます。つまり
     □□(空き)が埋まらないと、小さなヒント並べてみても、崩れそうで、まあ象徴的なものでもあるといえそうです。
     
          □□□                  永徳の絵
         織田信長→法王寺(城・庁)      織田信長→宣教師       
         天正  遣欧使節            天正少年遣欧使節
         大船建造                  外国船
         ・・・                      ・・・・
      というものを、はじめは頭の中で描くことになりますが、永徳の絵に対応できる、和泉守の絵が出てきた
     らもう一直線になります。本文探せば、何のことやらわからない、表示がやりにくい
            「化荻(草冠なし)ルビ=(クハテキ)」
     がありました。再掲
          「一、化荻(クハテキ)天王寺屋の竜雲所持候を召上げられ
           一、開山(かいざん)に蓋置(フタオキ)、今井宗久(いまいそうきう)進上。
           一、二銘(ふたつめい)のさしやく、是又召上られ
           三種の代物(だいもつ)金銀・・・・」〈信長公記〉
     の「クハテキ」(化荻)」ですが、これががそうだといっても風・雷がでてこないではないか、浅草の雷門は
     「風雷神門」の略(ウィキなどによる)だから、どちらかでも出てくれば、昔の日本人ならその絵が出てくる
     からそうといえるのに・・・というような基本的なところで引っかかって、けしからんとなりがちです。これらを
     念頭に入れて太田和泉守がずっと筆を進めていたということがわかればいいわけです。夷(えびす)のこと
     とか竜と虎とか述べたところもあ
     りますので詰めのところだけ拾ってみようということです。一般的にはこういうのもあります。
           「上下・・・日本手に入る・・・千世万代の扇・・・寿永の古・・・東福寺・・菅屋九右衛門尉・・能々・・
           ・・・民、堂々の●化(くわ)に伐(ほこ)りけり。」〈甫庵信長記〉
           「上下・・・万幸竜の雲に乗じ、虎の風を得るがごとく・・・今井宗久・・・寿永の古・・・菅屋・・」
                                                         〈甫庵信長記〉
ノ     ●の文は意味がよくわからないから大きなことはいえないが「化」が出て「風」に繋がってますよ、といって
       います。「竜雲」は名前だが「竜の雲」は、雨を降らしそうで、虎の風で風雲がおきそう。両方を繋ぐ
      ものは「寿永の古」がある、となると、かなり接近はしてきますが、「テキ」「神」がない、またこの「風」では浅
      草を出して「神・雷」を出してくるのは無理だ、また●は化荻の「化」とはかぎらないということにもなります。
      「戈(ほこ)」も「か」ですから、多少、武力以外の「化」もあるというようになると、ここの花テキの「化」から
      遠のくかもしれません。ただ「くわ」というルビがあるので、まあボンヤリとしているが絵柄から風神雷神に
      近づいていそうではあります。また、「クハテキ」は花荻の草冠なしだから「花入れ」も出ているというのも
      感ずるところです。
      結論では「化テキ」の「化」は●で出された、とはいえそうですが、詰めて確信に至れるか、ということ
     です。いいたいところのことは、ローマ法王にお願いするにしても、織田信長が「風神雷神図」を献呈してい
     ますので、記録ないし現物を調べて頂きたいというのが礼に適うということで、筆者の気がつく範囲でそこまで
     確信をえられるところまで行けばよいというところです。安土城の図も、それで何もわからなくなっている安土
      城がのことがわかりますので、ということでは、駄目でしょう。 
      「化狄」の「狄」はそのものが出てるので、みないといけないものです。
             「狄仁傑」〈甫庵太閤記〉 (唐の則天武后の大宰相)
      を出してきており、この「化テキ」の「狄」とともに珍しい、繋ぎが意識されているのは明らかです。この仁傑
     の「狄」は異朝(国)の人であるのは明らかで狄仁傑は吾朝(今の日本)の出身くらいのことを言っているか
       もしれないわけです。そうすれば国際的というのがぴったりする「テキ」が出されたことにもなり
      ます。そらない、調べるに値しないというでしょうが、この一字で則天武后の、武田信玄にも見られる懐の
      深さが出ています。子息の名前は「吾子光嗣」〈甫庵太閤記〉というのを出してきており、
      光秀の後継ぎ、といった感じもでています。こういうことでいろいろ拾いあげて行くと近づけるということです。

      186、三日月の壺
     脚注では「化テキ」は「貨荻(草冠なし)」と書かれ、貨物、財貨のような感じで
           「舟形の名物花入れ。」
      となっています。絵と違いすぎるので、現代の〈信長公記〉読者にはこれが第一の問題です。
       真田十勇士、三好伊三入道というと「伊」が入っているので、「伊太利」「伊勢」「伊舟」「伊居田」
      「伊之助ー庄之助」「塚本伊太郎」などの「伊」が出てきますが
           「三好為三」〈信長公記〉(テキスト注:「政勝」、「摂津(大阪府)江波」)
     も近いという感じです。三好は三好松永の三好とともに三好笑岩の三好もあります。三好笑岩(巌)は秀次
     を養子にした人ですが、
        「三好笑岩・友閑・・・・平井・八木(やぎ)・●今井・・・天下隠れなき★三日月ノ葉茶壺(はちやつぼ)
        、三好笑岩進上候なり。」〈信長公記〉
     があり、この「今井」が重要で今井宗久の注では
         和泉堺・・・・入道して昨夢斎。〈今井宗久茶湯日記抜書〉がある。今井宗久 88、226、252
                                                 今井 202   」
    となっていてストーリーに全然関係のない●は202頁にあるものです。226にあるのが「化狄」の一節で「今井
    宗久進上」があります。「有閑」は「丹羽五郎左衛門」と組んで、諸大名や豪商などの持っている財宝を進上
   させる役目を果たしてきた人物で、代金(「大文字屋」などのときは「金銀・八木」)を払っているという弁解が
    あるので、文化財を政府として保護しようとしていたとも取れるところです。有閑は初め昔から年配者風の名前
   であったので、あの颯爽としていた丹羽五郎左衛
   門の貫禄のついた時期の名前が「三好笑岩」ともみれます。つまり「羽柴筑前守秀吉」が「御次公」を養子
   にしたという話が、秀次の養父に結びつく話かどうかのことになります。とにかく
          三好笑岩→●の前「八木」=代金の「八木」(脚注=米)←丹羽五郎左衛門
   となりますがここで★が問題となりそうな、「今井」に関連した形で出てきます。これに脚注があり、
        呂宋壷の一種。もと足利義政の所有。大名物。本能寺の変で焼失した。
   となっています。いまでいう国産ではないということでしょうが、この次の一節に
          「一、御床に晩鐘、三日月の御壺、」
   が出てるから、同一かどうかははっきりしません。筆者などは三日月は山中鹿之助、三日月に祈る、我に七難
   八苦を与え給えの図を思い出すものですが、冑が三日月であったかどうかはわかりません。ネットでちょっと
   確認させてもらうと、ほとんど全部、伊達政宗−−三日月の冑となっています。伊達政宗は「クハテキ」の
   一節で出ており、三月の記事に突然最後の行で七月となる既述の記事です
        「七月三日、奥州伊達御鷹のぼせ進上。」〈信長公記〉
    があります。これは脚注では「伊達輝宗」となっており、「政宗」では年齢が合わないということでしょう。
    次節とその次の節は七月ですが日付は(全部)
           「後七月六日」「後七月十二日」「後七月十三日」
    となっていて、前後の「後」が付いています。したがって、化テキの一節の「七月三日」は、「□七月三日」の
    積りであったと取れそうです。
           ○「前」を入れてみると、前の伊達の領主ととれる。
           ○「後」を入れると「こう」=「江」(こう)が出てきて、(□空き)の「江川」=(江口)=「江村」の
             ことも出てきて「絵」(村)の「絵」、佐野の雁の絵につながる
           ○「江」から「奥州」→「江洲」→「欧州」(伊)が出てくる。
            「奥」は「おう」で「小羽」=「こう」で「江」である
      などがあると思われます。「おうごうの城」というのがあって脚注では「未詳。」となっています。
         「次日(化テキの一節で出てくる)・・・惟住五郎左衛門・・・おうごうの城・・・四角屋敷・・」〈信長公記〉
      どう見てもこれは由緒ある淡河の城だと思いますが、こうなっているのはどういうことか、というこです。ここの
     奥河(江)=欧(江うみ)が四角に絡んであるのではないかと取れます。「後」を出して、(おうごう)「淡合」
     「合河(おうごう)」を出すと「合渡川」「郷戸川」→「江戸(ごうど)川」が出て、索引で
        江戸右馬允/江戸力助/海老半兵衛/海老名勝正/江村
     となって「江」につながりますが「おうごう」というので「奥江」をつないでしまうというのはありそうです。ここの
     「伊達輝宗」の「輝」は足利義輝(照)、上杉輝虎、池田信輝(照)の「輝」で、太田和泉守が乗っかっている
     場面があるようですが索引では
          伊達輝宗(「伊達」)/建部紹智(「健(建)部・武部氏」
     となっていて、「建」は「立」で宗達の「達」ですが、「部田」(へた)という地名があり、建(武)部→建(武)田
      と変化し「武井」が出てくるとも思われます。「おうごう」のような簡単な変換ができるものが配置されている
      感じがします。さらに、七月三日の前倒しは
           ○三日月の、□月三日も考えられる
     も挙げたいところですが、これは、そらないといわれそうです。これがいいたいところのことです。「三日月」
    でいえば、ここは「化テキ」(クハテキ)の脚注の部分が無視できないので、出てきた話ともとれます。脚注でこれは
       「貨狄。床の間の上につる舟形の名物花入れ」
    となっており、「夷狄」とか「犬+火」とかいう「狄」が生きていない感じで、そういう宝物といわれてもとりつく
   しまもないものです。舟形の花入れ、は想像しにくい形です。仕方がないので、伝「狄仁傑」の愛用の花入れ、
   、つまり、そういう壺の類としておくと、この三日月の壺が、この名物花入れと、同種の
    ものの例示として出されてきている、その役目が三日月の壺にある、ということでここで出てきたと取りたい
    ところです。半月の冑もあるようで、満月の冑があるのかどうかわかりませんが、湯浅常山は、
   「秀吉」の冑は「八日の月」とかいておりちょっとここと関係がありそうです。(三)が「化テキ」の一節
 
       「(三) 雑賀表・・・・宮本兵大夫・・・・七人・・・・三月廿一日、・・・・次日・・・・佐野の村・・・・・・・
        三月廿三日、若江・・化テキ・・★次日三月廿四日、・・・廿五日、・・・二条・・・三月廿七日、安土・・。
        七月三日、奥州伊達御鷹のぼせ進上。

        (四) 後七月六日、御上洛。●二条御新造へ御移徒(わたまし)。

        (五) 後七月十二日、近衛殿御方御元服・・・其外隣国の面々・大名・小名御出仕あり、御祝儀・・
            後七月十三日御下。・・・其日・・次日安土・・・。」〈信長公記〉
 
        (六) 八月八日・・・滝川左近・羽柴筑前守・・・羽柴筑前・・・・」〈信長公記〉

       が続いており、七月三日を繰り上げましたが、3月だから、「三」「月」「日」は多く★で「日三月」も作ってお
     り、その上、7月の「三日」を繰り上げたから、三日月の意識はないとはいいきれません。つまり三日で
      なかったのを三日にしてたら、その意識はあったともいえます。●に脚注があって、
         「京都二条の旧二条晴良邸の跡に新築した邸宅。近衛信基が信長第で元服のことは、信基の父
         で前関白の前久が八月十八日に島津義久にあてた書状に見える。・・・前久は壬七月二十日宮廷
         に出仕した。・・・・」
     となっています。この近衛信基は本阿弥光悦とも親しい、高麗国へ渡りたいとゴネた、大文字送り火の
    発祥に名が出てくる人物です。伊達輝宗が●などの慶事があるのに、7月3日、安土へ、進物をするのは
   合っているかというとき、秀吉の冑の「八日」が案外ぴったりしてくると思われます。「八日の□月」ということで
   すから「七月八日」で、(五)の敬意にもなりそうです。前久の「七月二十日」をみても月は七月がよさそうです。
   湯浅常山は(六)の「八八」、前久の「八一八」を見て、「八日の月」を作って、三日月で
       太田和泉守−山中鹿介、冑−壺
    をつなぎ「三日月の壺」という第二の「化テキ」を出し、あわせて□(空き)の問題がここにあることを示したと
   いえそうです。
     (六)の「八月八日」に脚注があり細字、6行
             「この年、越後(新潟県)の上杉

             謙信は、前将軍足利義昭・毛利氏・
             大坂本願寺と連絡して、京都に攻め上
             ろうとし、紀伊の雑賀党もまた挙兵
             した。信長はこの謙信に対して先制
             攻撃をかける。」
       が一行あき、七行となっています。ここは「空き」を埋めねばならないというのかもしれません。まあ余談
      ですが、ひとつ、筆者が一字埋めるべく作りたい空き、があります。権威があるかもしれないが、
      すっきりしない化テキの脚注解説の
          「貨荻。床の間の上につる舟形の名物花入れ」
       となっているものです。「舟形の」というのは必然ではなく、入れても入れなくても「名物」がそれで
     特定されるわけでもなさそうです。「舟形の」を抜いて「舟形の□」、「舟形の火」をだしたいところです。
     ここで「近衛信基」が出てきている、この大文字火まつりの「舟形」は渡海を語っているものでしょうが、役者
     が揃ったこのあたりでいわないと機会が去ってしまいます。ここの「信基」は芭蕉が受け入れています。
     〈奥の細道〉山中のくだり、
            「温(いで)泉(ゆ)に浴す。其功(そのこう)(効)有明に次(つぐ)と云(いふ)。」
       があり、「其」「次」は後藤の基次が織り込まれているといってきましたが、先ほどの(五)の近衛のところ
       で「其日・・・次日」があり信基の「基」が出ました。山中九谷の後藤と、ここの「後」「宮本」があります。
       加賀九谷と佐賀の九谷のことも、有明−有馬で「明」と「馬」(ローマ)もあるかもしれません。
 
      この(六)の脚注の七行は何の意味かということですが、一行が二行に分かれるということでしょう。
      渡海の物件としてみてきたところのものは
          一、★化荻(クハテキ)、天王寺屋竜雲所持・・・
          一、開山の蓋置、今井宗久・・・・
          一、二銘(ふたつめい)のさしやく・・・
          三種の代物金銀を以って仰せつけらる。
      の文があります。この一、★化荻が
             化荻@、    風神雷神図?
             化(貨)荻A、 「舟形の名物茶入れ」、「◆三日月の壺(本能寺で焼失)」「松嶋の壺?」・・・
      というような説明になるのではないか、ということをあらかじめ云ったと取れるところです。いま◆が出てくれ
      たので、例示ができたということです。

     (187)敵(テキ)「 木村」
    渡海というものが出てくると、山中が出てきて、山田山中の造船、山中鹿介などとともに、九谷の壺もあって、
   本能寺において、日本から一つの壺が消えました。山中が出ると、ここから木村があるので無視できない感じ
   です。本能寺がでますと「敵は本能寺にあり」というのが人口に膾炙しており、索引もれの
        「御敵真木村牛介」〈信長公記〉
    があり、これは木村=牧(真木)同時登場の大物でしょう。隠された大物ということで木村も含んだ太田和泉守
    に引き当てというのが一応妥当といえるのでしょう。安土城の天主の次第で    
「         「御普請奉行、木村二郎左衛門。」〈信長公記〉
    が登場しますが、これも(甫庵の「森次郎左衛門」からの線と)この真木村の牛の線から、太田和泉守に宛て
    うるという重要表記です。しかしこの「木村二郎左衛門」も索引から消されています。■「木村次郎左衛門」は
    6回登場で
         1、「山岡美作守・木村次郎左衛門(甫庵では「山岡美作守・▲森次郎左衛門」)」
         2、禁中に陣座御建立の奉行「木村次郎左衛門」
         3、安土城御普請奉行本文表記「●木村二郎左衛門」(項目は■なので誤記?)
         4、狩野永徳など芸術家と「木村次郎左衛門」
         5、二の丸番衆、「蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門(甫庵で「蒲生右兵衛大夫・▼森次郎左衛門尉」)
         6、安土御構渡される。「木村次郎左衛門」
    があり、●が表面に出てきません。「次郎」「二郎」はそうこだわらなくてよいのだろうということも考えられますが
    青地では       青地孫次     相撲
                 青地孫二郎    相撲  孫次と同一人か
     という索引の並びがあって、「二郎」が出され首をかしげているわけで、ここ●も 一応二人が予想され、
    あれや、これやと詮索されるのを避けようとしたのでしょうか。▲の森も、索引では313ページとなっています
    が314ページにありました。これで■は太田和泉守に決まった、ようなもので〈戦国〉でもこれを前提に話を
   進めてきました。ここでこの索引とか脚注の辛辣さからみて、●はやはり「木村次郎左衛門」でないといけない
    といってるようです。
         □□□□□・木村二郎左衛門
     ということで、太田和泉守・(舎弟兼松正吉・可成舎弟尾藤助宜=太田和泉守弟)
     を出したかったのでこうなったといってると取れます。つまり、辞令が降りるのは太田和泉守で、このときを
     狙ったかのように毛利海軍が攻めてきて、戦いながら、城を造っていたという特別な時期だったので、非常
     の人事があったともいえそうです。なお▲▼は、木村=森 ですから「村」は「林」扱いとなっています。二木
     =林、三木=森で、木村=木+林(材)といえそうです。ここの▲のところで

       「・・江州勢田・・山岡美作守・木村次郎左衛門両人・・若州神宮寺山・朽木山中より材木・・」〈信長公記〉
 
     となっていて、朽木(元綱)山中がでてきます。朽木は太田和泉守Aですから「木村」とみてよいわけで
     木村=山中というのは出てきています。また「江州・・・木村・・・口木山中・材木」となっていて□に村を
      入れると「江・・・木村・・・村木山中・材木・・」となって渡海の
            「山中(木村)鹿介」
「     が出てきているといえることになってます。信長渡海の戦、村木砦攻防戦、水野金吾激闘のくだりに
      「六鹿」という人物がいましたがこれは「鹿(ろく)六」で、「鹿介(助)」は「六介(助)」です。
      「六助」には大物がいて「毛屋村六助」で無敵の相撲巧者で勝ち抜きましたが木村又蔵が出てきて敗れ
     加藤家の臣となり貴田孫兵衛という加藤二十四将となっています。山口飛弾守を木村又蔵@とすると、
     この木村又蔵はAです。加藤清正の第一の大将ですが、今となれば木村又蔵は太田和泉守の孫だから
   格が高い、加藤清正と比して遜色がないことが早くからわかっているので二人の関係は
         加藤清正
         ‖□□□ 
         木村又蔵
   であったかもしれず、こうなると大物です。とにかく、講談で懐かしい木村又蔵は加藤家を去ることになります
   が、そのあとが不明です。これは探そうとしてないだけのことで、叙述手法が会得できるキーマンがほったら
   かしになったままです。又蔵は、小蜜茶を討ち取ったのが生涯で喧伝される大武功ですが、これは大蜜茶を
   討ち取ったのが木村又蔵@であることを示しており、これが山口飛弾守=毛利新介(本能寺で戦死)を示す
   ものでしょう。(蜜は密かどうかは未確認、場面探したが見つからず)
   「毛利新介」は「義元」、「本能寺」などが属性ですが、索引もれの「若公」もそうです。これは脚注に「岩竜丸」
   として出ており石・山・竜・丸 が出ましたが、似たものは
        大館岩石丸〈甫庵信長記〉 (索引では「太田孫左衛門尉/大館岩石丸/大館治部大輔/(同)伊予守)
   があります。「岩竜」も「岩石」も石田、石黒の「石」を含んでますが、「若公」が、「化テキ」の「若江」、ここの
   「若州」につながっています。宗達の「館」、「竜雲」の「竜」も出てきました。この朽木と並びの「若州神宮寺」
   はこういうなかの地点であるので重要です。脚注では
       「福井県小浜市神宮寺」
    となっています。小浜は信長が外国船停泊を命じた場所であり、安土城へ挨拶に来た宣教師の乗ってきた
   船もここについたはずで、出航するときに在安土の顕官が送ったという記憶に顕著な場所が神宮寺といえそうで
   す。太田和泉守の故地でもあったので、太田本郷という地が背景にあるかもしれません。「神宮」というの
   「新宮」もあるので後世は尼子・山中に関して利用する可能性もあります。山中鹿介は新宮党の末裔の人
       「尼子式部少輔勝久」〈甫庵太閤記〉
   を大将に頂いて戦っていて、こういうことが、新宮党を有名にするものでもあり、利用することもありえます。
      山中ー新宮ー本宮ー宮本ー紀伊
   です。「朽木」と「山中」のセットは、山中鹿介と一対一の決闘をして、有名な
       「品川半平」改め「品川狼助」〈甫庵太閤記〉
     を生んだりします。「朽木信濃守(元綱)」〈両書〉の「信濃」=「品野」からくるものと取れます。品の川の狼
    の相手は、品の守の子というわけでしょう。この品川はあの品川の語りに利用されるのは仕方がないことです。
    「朽木山中」は地名索引では「朽木山」が出ているから、「山中」は出ないはずだ、よくみろといわれると
   ギャフンです。これが駄目だと大きな影響が出ます。

    (188)幻の巨船の説明書
     しかし元亀四年(7月に天正元年)、大船建造記事あり
    149頁
       「(六) ・・・佐和山・・・多賀・●山田山中の材木・・・松原・・・勢利川・・・岡部又右衛門・・・舟の長さ
         三十間・横七間・・・七月五日出来訖。・・大船上下耳目・・。◆案のごとく、

        (七) ■七月三日、公方様又御敵の色・・・御構には日野殿・藤宰相殿・伊勢守殿・三淵大和守・・・
         真木嶋・・・。七月六日、信長公彼(かの)大船・・・御渡海なり。其日は坂本に御泊。」〈信長公記〉

    となっています。●について脚注があり、「山田は未詳。」となっています。「山中」を切り離して捉えるべしと
    いっているので、そうするとここの「材木」が生きてきます。一方「山田山」と捉えるのも「朽木山」の例がある
    から合ってるわけですが、地名索引
         「山田山」(153頁・154頁)
    には、この●出ていません。また153には「山田山」は出ておらず、間違いです。すなわち149頁のものを書くつもり
    が153頁と書いたととれます。153頁は大船の記事もあり、本文日付「七月廿六日」脚注日付「七月廿七日」
    という間違いがあるのを注意させるためと思われます。154頁の「山田山」には脚注があって
    予想外のものが出てきますが、これがまた別の話になります。■に脚注があって、■七月五日になるはずだ
    といってると思いますが、七月六日を七月七日としたいということでしょう。この(六)が5月〜7月の記事で、
    (四)(五)が4月の記事ですが、(四)の末尾に突然
        「四月六日・・・津田三郎五郎・・・、七月七日、信長公御帰陣。其日は守山に御陣取り。」〈信長公記〉
    が、あって脚注では、「四月七日の誤写。」と書かれています。したがって一つは■の日付がちょっとおかしい
    といっているようです。つまり◆が通常は後ろに懸けて読みますが、前、すなわち当節に懸かるといってそうです。
    桶狭間戦で既述のごとく太田牛一ののものは、実戦の経過が語られているのでなく、計画が実戦で語られて
    いるということです。どうしょうとしたかということですが、ここで
         @舟の長さ三十間・横七間 (54、0メートル ▲12、6メートル)
     で出されています。そのご大船が登場するのは、6年後、天正六年、毛利軍との海戦の大勝の場面で
         「勢州の九鬼右馬允・・・★大船六艘作立て、併に滝川左近大船一艘、是は白舟に拵(こしら)へ
          順風見計(みはからひ)・・・・九鬼右馬允、七艘の大船に・・」〈信長公記〉
    があります。大船計七艘(「白舟」一艘)が就航しています。
      ★について脚注があり、六艘の大船の一艘についての脚注でしょうが、
        「この新造船は横十二,六米、長さ二一,六米程で、鉄板で装甲してあった。耶蘇会宣教師
        オルガンチーノはこれを実見し、フロイスに報告している。この甲鉄船は・・・」
     となっており、縦横入れ替えると
         A長さ   21,6メートル  幅、▼12、6メートル (オルガンチーノの実見記録)
    となっています。ここで@Aが違うのが問題です。要は滝川左近座乗の特別の大船一艘(「白舟」)の脚注
    は出ていません。しかし、▲と▼が同じ
    だということが関連があることを示して決定打となりえます。つまり「白舟」は
        舟の長さ□□→54、横▲12,6
    となるのでしょう。。これの意味はよくわかりませんが、とにかく長さがオルガンの記録したものの2,5倍ある
    という代物です。脚注ではオルガンチーノはフロイスに報告しており、これはまたたくまに世界に知られる
    数値ですから、慎重さが要求されます。太田和泉守の意向を汲んだオルガン氏の配慮が入ったものと
    取れます。まあ現今の標準の外国船の数値あたりのものを出したとすると、この「白舟」は後世の戦艦の風姿
    に近づいている
    と思われます。帆船で、縦長、というのは、スピード、戦闘力、威圧感、積載量など増えますが、安全如何、と
    いうのも克服されたものとみえます。後年の戦艦大和で縦横比率は6,7倍、@で4,3倍、Aで1,7倍
    となります。問題は「白舟」が@かということですが、
       (1)「鉄板で装甲」の「甲鉄船」は甫庵の世界では「黒船」でこれは既述のことです。
                       黒船(六艘)
                       白舟(一艘)
         と対をみて「白舟」を持ってきたといえます。「是」があり、「併」は「并」で一体性の強い表現となってい
         ます。これは「白舟」をなぜ持ってきたか、ということに答えがみつからないと派遣船に決まります。
       (2)山田山(中)がここ(大船建造)にありましたから地名索引を見ますと
            山田山/大和/大和川/大和口/山中/山本山     (「大和境春日山」が索引もれ)
        となっていて、これをみると「大和口」は「山田山」→「大和□(空き)」→「大和山」のような感じですが、
        (□空き)を取り入れて見ますと、オルガンチーノは横幅から書いているので七間の12,6に合わせて
        A、Bを書いています。
                     七間ーーーーーーーーーーーーーーーー三十間
                       ‖
                     12,6ーーーA12,6ーーーB21,6ーーーC□□□
            オルガンの書き方にクセがあり、後ろに0,6を入れることと、9の利用をするということ、つまり、
            12→21は桁を入れ替え「9」の差を作ったもの。また数字の計が「9」になるようにしている、
            すなわち、1+2+6=2+1+6=9 のようにしている。これでいけば
                   C□□□=21,6+9=30,6
            になる。これも「3+0+6=9」)になります。また偶然かどうか
              「30、6」は「30・0,6」=「30×6」=1,8(一間の長さの単位)を暗示させたのかも。
        要は太田牛一の船の長さ三十間という「間」は「間(けん)」と「米(メートル)」の両方の読みがあり
                    白舟(旗艦、派遣船)は 三十間(54メートル)×七間
                    甲鉄船(戦艦、五艘)は 十七間(31メートル)×七間 
                    ●小浜から出航の外国船 十七間(31メートル)×七間 相当?
        のようになると思われます。
       (3)オルガンが0,6が好きなので30間(54メートル)のものは白舟といってよいようです。
             「54」という数字は、30間×「0,6」×30米
         で「30間」と「30米」が同時に出されているので今までの話も合ってそうだとなります。はじめにこれを
        出すと30二つも出てきて何のことかわからん、ということになりそうです。まあ一間は1,8米という換算
        値までも含まれるのが54であるので、54の舟が白羽の矢が立てられた舟といえる、でもよいのでしょう。
        好きな数字が9と6なので9×6=54は本命だとはじめからいっていたからそれでもよいのかも。
        いいたいことはオルガンチーノがフロイスに報告したのはB21,6の長さですが、それでも話が通る
        大きさはあるようです。実際は54米のものがこのとき実見され、ローマ法王にも報告されたであろうと
        いうことです。54米の巨船の登場を廻る関係者のこの語りの工夫は、まさに圧巻というべきものだが、
        なかったという事実の上に咲いたあだ花というべきものでしょう。
         
    今、この●について、〈両書〉に記載がないものを勘定に入れている負い目があります。それがあるから
    知らぬ間にエネルギーが生まれているともいえますが、今は
         「去(さる)・・江州勢田・・橋・・山岡美作守・木村次郎左衛門両人・・■若州神宮寺山・朽木山中・・・
         材木・・」〈信長公記〉
     の■にしがみついてるのが、その現れかも。小浜を表すのはこれしかないので、いま、山田山中・木村に
     頼っているところです。戦艦「大和」の命名は、奈良「大和」の国名によるそうですが、ここの山田山〜山中
     の間の「大和」は「大和の太守」(の=ルビ)
                太和泉田守 =「太田和泉守」が出されています。人名索引で「や行」の終わり
                  弥六/大和守→織田達勝 
    があり、清須城の太守が出てきています。これは「那古弥五郎」関連であり「宗達」の「達」が出ており子息が
   「達順」で、なんとなく「順慶」がでています。順慶は先ほどのものだせば
        「大和境春日山・・・・・筒井順慶山々・・・・中国因播国・・・高山右近・・・絵図・・」〈信長公記〉
   があり、「大和(の=ルビ)太守筒井順慶」があります。達勝ー達順の関係がなんとなく、和泉守ー順慶に
   及んでいそうです。親代わりというような。「大和守」はここで十二分に意識され先ほどの
        「七・・・公方様又御敵の御色・・・・日野殿・・・伊勢守殿・三淵大和守・・・真木嶋・・・大船・・渡海・・」
   に出ていた「大和守」があります。(索引漏れの「細川三淵」〈甫庵信長記〉があり同一人か二人かも)
   「真木嶋」も意識的で、脚注では、1938に干拓され、中洲のようで、浅瀬大船の使用がおかしいようです。要は、
        大船ー山田山中ー古代の大和・大和守の大和ー航海
    ですから、つぎの「山田山中」に至り、ここから■に戻って小浜が出るようなことにもなるのでしょう。
                 
     「陶(すえ)五郎隆房、・・・山田山中に陣を取る。・・・陶五郎天神山へ陣を易(か)ふ。」〈甫庵信長記〉

   があります。初めの陶はあの「陶尾張守晴賢」が五郎かどうかは誰も知らないはずのところ「山田山中」「天神
   山」が出てきて、後ろの「陶五郎」(「とうごろう」とも読める)が索引漏れです。
        「長谷河藤五郎」〈甫庵信長記〉 (〈信長公記〉は「(長谷)河」はない)
    が作ってあるから「陶五郎」=「藤五郎」で高山右近に近づきそうです。しかし「藤五郎」の単独はないので
        「長谷川藤五郎秀一直言之事」〈甫庵太閤記〉
     の「秀次」4回登場の「朝鮮渡海」の一節で
        「木村常陸介・・・・木村・・・藤五郎・・・・秀一・・・丹羽・・・木村・・{長谷川は童名竹・・}」
     があり、「藤五郎」単独を追加してきています。〈信長公記〉索引では
          項目(考証名)「長谷川秀一」で「通称藤五郎」、文中表記「長谷川竹」
     となっているのは、〈太閤記〉からの援用で、頼りないとしながらもそのまま身内の資料として援用されて
     います。ここで「高山ウコン」も参加して来るとなると石黒にもつながるかということで陶器も出てきそうな
    というところでは「山田山」が絶妙のようなのです。山中からも木村ー藤(陶)五郎があります。

     この陶五郎登場の一節は歴史の一節と呼んできたところですが
       「宇多源氏の末流・・・・尼子伊予守経久が的孫、右衛門尉晴久、・・・」〈甫庵信長記〉
     がありました。〈甫庵太閤記〉に「山中鹿助伝」が作られそこでも、これが出てますが「晴久」が「義久」に
     かえられています。先ほど「近衛前久」に島津義久の出した手紙が使われましたが、これはこの義久が
     使われたのかも。■の神宮寺に、東大寺二月堂のお水取の「お水送り」の行事があり、これは爆竹@に
         近衛殿・伊勢兵庫頭
      が登場することと無縁ではないのでしょう。小浜を出したいところ、ここは太田和泉守宿泊所という観点
      からみて「神宮寺」所在地だから「小浜」というのがありえます。この■の一節に、信長公が「楚根」へ
      立ち寄ったときのことがあり、天正参年「(七月)十七日」
         「稲葉伊豫(甫庵では「稲葉伊予守」「伊予」)忝(かたじけなき)」の由が描かれ、「孫共に能をさせ
         御目に懸けら。」「御腰物(三条吉則)彦六息に下され」
       があり、この日は確実にここにいたのがわかる記事があるところに、神宮寺が出ています。索引では
              若州/若州安賀庄/若州熊河/若州神宮寺山
       のならびがあり、安賀庄は脚注では「福井県遠敷郡上中町のうち」で遠敷は水取の水で出てきた気が
      しますがそれだと小浜です。「熊河」からは「熊見河・・・見続(みつ)ぐ・・」の歴史の一節にとび、
          「山中鹿(の)助・・・上月城・・・羽柴筑前守秀吉卿・・・・達て菅屋九右衛門尉・・・・・・
           神戸三七殿信孝・・・・」〈甫庵信長記〉
      などが出てきます。爆竹@の一節は、爆竹Aと主役がかわっていることはいってきましたが、小浜から
      長崎へ出る船を送る、花火、行進などの行事を述べてる一節と見ていますが小浜が出てないからいえない
     にしてもボンヤリと今出つつあります。数字のまとめだけでもやるとまたわかってくるかもしれません。爆竹@
     
           「(天正9年)正月八日・・・爆竹・・・十五日に・・出づべき旨の御触れあり。人数
            北方東一番・・・・・・
         A @平野土佐・多賀新左衛門・後藤喜三郎・蒲生忠三郎・京極小法師・山崎源太左衛門・
           山岡孫太郎・小河孫一郎   南方の次第
           山岡対馬・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・阿閉淡路守・N進藤山城守
               巳上。
         B ●御馬場入り・・・・O信長公・・・P矢代勝介・・・是にも御馬乗らさせられ、
         C Q近衛殿・R伊勢兵庫頭
         D   御一家の御衆(5人)
         E  北畠中将信雄・織田上野守信兼・織田三七信孝・織田源五・織田七兵衛信澄、
         F  此他・・・・十騎・廿騎・・・・」〈信長公記〉

・     となっており、8日は触れた日で、実際は15日にやった形になっています。
         (1)総登場人数は  A〜C 19人 D、5人  計24 これは、あの人数になるから、渡海のこと
           とわかる。
         (2)数字の計   @A〜C=31    8+15+1+3+3+1=31
                    AD〜E(普通の部分)=13    1+5+7=13             。
                    BF=30(但し10と20に分かれた30)   十・二十 拾・廿なら足してしま
                         ってもよい
 
                    CD〜E(三七の位相の違う部分)を加味=22
                        1+3×7=22
                      1を2回足したら、(使ったら)おかしいというのもあるので
                        3×7=21(遊びの部分)
                        13+(3+7)=23   平均 21+23/2=22
                      と1を緩和したものを用意しとくのもある。
                     ただ、Dの1は(三七)と「十二」に放射状に働くとみて22とみてよい。放射式
                     の読みは太田牛一が邪馬台国の読みでしており、近畿・九州が同時に出
                     ている。また放射式は九州説の読みの手法ともなっている。  
                    D神部の37としてそのまま使う。
       ということになります。先ほどの数字との対比は
          30,6    21,6   12,6   30間
          @31    C22    A13   B30
       
       となりますが、30は同質の30ではないので、オルガンの報告の21,6はやはり自分が乗ってきた船
       の寸法を書いたととれます。つまり
             滝川左近白船   西欧回航船            30間(54m)
             毛利海軍を駆逐した船(日本海軍戦艦6隻)    30,6
             小浜出航船                        21,6m
         
       というのが、宣教師にした太田和泉守の説明の骨子であった、といえるのでしょう。これは専守防衛の
       戦力などのことを念頭に入れたものでなく、潜在力を顕現させたというもので、自著に組み入れて
       挨拶文に真剣度と力を加えたということになりそうです。世界遺産などみてると民族間、地域間に能力
       の差などがないということがよくわかりますがつい忘れがちになるのでこの時期も確認が必要だったと
        いえます。
        これ以上軍拡を進めずに、元に戻っていったというのが結果として現れたことです。もう一つの
       イエヤス公タイプの政権のことも念頭にあったと思いますが、強大な軍力が政権に独占されると、内部
      への圧迫、外部への膨張への勢いがつきます。徳川幕府は初期の段階で大船建造を禁止したと
       いうのも講談で知られるところで、徳川幕府も造らなかったということですから太田和泉守の考えは
       その面では引き継がれていったといえそうです。

      (189) 遂に小浜が出た
      爆竹Aの数字については、総登場人物については同じやり方で25人になります。これは太田和泉守
       を入れるということで基数24というのは変わりません。数字総合計は
           57プラス3(修正の3)=60
        となります。この「3」は安土城でも出ましたが、位相の違うものとの、交換をすることになりそうです。
           前回の登場人員が     マンシヨ以下四人
                            日本人   三人
                            メスキータ神父など三人(特殊な二人は除く)
                                計 十人 (計12人)
       でした。一方の資料だけで、一方も推定できるということにしてあったということでしょう。
   
       小浜については、地名としては空前絶後の先ほどの文の●での登場があります。
       「御馬場」に入ってきたのは「信長公」と「矢代(ヤシロ)勝介」で、これは艦長、八代の「小西弥九郎」
       (尾藤源内・宇喜多与太郎)でしょう。
            御馬場→御場馬→おばま→小浜
       となります。六鹿=(ろくろく)=鹿六 で 馬場=(ばば)=場馬 で、これはローマの「馬」です。
       当時から「おばま」といったかどうかについては太田牛一は
            「いいばさま右衛門(尉)〈信長公記〉
       を創っており脚注・注の二つでこれは
             「岐阜県恵那郡岩村町飯羽間の住人」「飯羽間右衛門」となっています。つまり「飯浜」
        ですが「いいば(さ)ま」とよむことになります。「ば(さ)ま」は桶狭間の「間」(はざま)と関連付け
                   羽さ間     から      ‖   ‖
                                    場    馬
      というように場・馬を(動かして)みつけだすことというわけですが、このため例として
           「はざまくてみ」〈信長公記〉
      があり脚注では、
           「くみて」の誤写か。入りくんで。
      となっています。この「入り」が、●の「入り」です。小浜については
            「かくてウルカンの本国より渡来する者・・・是等が乗る所の南蛮船、若州小浜に着船す。
            信長兼ねて、再度南蛮人渡来の時、・・・・小浜へ入津せしむるなるべし。南人共、若州
            より江州海津へ至り、船を湖上に浮かめて大津に至り、・・・・・」〈南蛮寺興廃記〉
      があり宣教師の道がありました。去る日、長崎へ向けここを出航したのは
             外国(から来た)人     37人 (神戸・四方)
             うちか外か、(3+7)宣教師の選抜した4人の若者と神父など六人(先稿ウィキより引用)
      ということであろうと、思われます。太田和泉守、朽木信濃守(兼松正吉)、近衛の若殿は見送り人
     のなかに確実にいました。信長公はここにいたか、ということですが、手を抜いておらず、これも確実いたと
     いうことになるのでしょう。。余談ですが覚えとこ、おぼえとこをはじめに出してますので、ちょっと触れますと
      爆竹A
            A 正月十五日   これの合計数字については既述
            B 正月十六日   ・・・・甚九郎・・・三位中将・・・
            C 正月廿一日   ・・・・百・・・・一々・・・・
       B+Cが(37)だから、これは小浜の37も考慮していることになります。しかしCは「二十一」ではないから
       (16)(21)もそのまま生きています。
       A+C、も36で、37を意識しています。(Aを十六と置き換えると37になる)
       A+B、は(31)になります。
       A+B+C=(52)です、(B、をA+1とみると)(53)になる。
       これでのBの16日の中味は9+3で(12)で、Cの21日の中味は101+(いち)
       となります。これで先ほどの舟の長さは全部でました。舟の大きさは譲れないというところでしょう。
         54・・・・30,6・・・・21,6・・・・12、6
         (52)  (31)   (21)    (12)
       となります。16だけが舟の寸法に使えないではないかというのがあるかもしれませんが、日記風にみせる
       ために16日にした、実際は15と互換のいみで(一つ違い)持ってきたというのがあり、あと何が出てくる
      かわからないわけです。トータル数字が101となっていままで60+37=97とみてきましたが、あの小浜
       4人は外数になってくるのかもしれません。これは進展を待ってたらよいだけのことです。ただ数字二つ
1     違いは{合}というのと、全てを使うようになっている、というのはいってそうです。
      冒頭の清水又十郎の一節のはじめに「御敵」がありました。

      (190)御敵の色
    先ほど真木嶋で「公方様又御敵の御色を立てられ」が出ました。「御敵真木村牛介」はそのものズバリで
    いえば「太田和泉守」ですが、「御敵」が強烈でひょっとしてイエヤス公も乗ってきていることもありえます。
    明智光秀は敵は本能寺にあり、といいましたが、真木村は本能寺にありといったかもしれません。森乱丸
    も牛介といえそうです。もう一つ「家康」のところで「強敵(ガウテキ)」が出てきます。「化狄(クハテキ)」の
    「テキ」を一応どこかで探しとこう、とするとこの「ガウテキ」の「テキ」がでてきたというだけのことですが、
    「公方様」の例のように「敵」に「色」が付いているのも事実です。
      @「尾張の内清洲衆・・・備後殿(の城へ兵を出し)・・☆御敵の色を立(たて)られ候。」〈信長公記〉
    があり、あの信秀も末期には叛かれたようですが、☆に脚注があり、「敵対行動をする。」となっています。
    まあ、書いていただかなくてもわかりますので、注目させるということが脚注の役割でもあるようです。まあ
    「色を立てる」、「対」というのがボンヤリ出ています。
      A「敵身方の武者、色は★相(あひ)まぎれず。」〈信長公記〉
    が桶狭間のくだりにあり、脚注では、「敵味方は指物などの色で識別できる。」となっています。あの信長は
        「大刀朱ざやをささせられ、悉く朱武者(あかむしや)に仰せ付けられ」〈信長公記〉
    の朱(あか)武者で、桶狭間の
        「今度家康は赤武者にて先懸をさせられ」〈信長公記〉
    があり、敵と味方と二色だから「赤」と「★藍(相あひ)」くらいのことになるのでしょう。「有閑」「丹羽」「八木」「法
   王寺」「大文字屋」「祐乗坊」「江村」などと出てきた「佐野」(「雁の絵」進上)は、脚注では
       「佐野は屋号を灰屋という。紺灰商人であろう。紹益(じようえき)の養父紹由か。」
    となっています。これは言い方のクセで、「紹由だ」ということでしょうが、
           「紺(灰)」
     が出ました。「有閑」「丹羽」の「進上」の「堺」のくだり(前回は「先上京」での4件進上)で
        「天王寺屋宗及    一、菓子(くわし)の絵(ゑ) (脚注:「赴昌の絵が有名。しかし・・・)」
         薬師院         一、小松嶋(脚注:「茶壺の名」)
         油屋常祐       一、柑子口(かうじぐち) (脚注:口造りが柑子{蜜柑}の形ににた花入れ)
         松永弾正       一、鐘の絵 」〈信長公記〉
     があり、全体、絵と陶器が2:2です。ここの「油屋常祐」が「紹由」と同じかというと違うでしょうが、きわめて
    ちかいことは間違いないところです。「祐乗坊」
     は常祐の舎弟かもしれません。とにかくここで「油屋常祐」の「蜜柑」の「柑」と、「紺屋紹由」の「紺」の
     「甘」が出て、これは薬師寺の「小口を甘(くつろげ)」にも通じます。
          「竹が鼻・・・あかなべ口・・道三・・虎口(こぐち)を甘(くつろげ)、井の口居城」〈信長公記〉
          「道空(3個)・・道三(6個)・・・あかなべ・・・」〈信長公記〉
     があり、「あか」が出ますが、この「口は「空」を連れています。「竹が鼻」の脚注は「羽島市内」となっていま
     す。つまり太田牛一は円空を認識していますが、長い歴史叙述の間には
            「○○○(円空き)」
      も利用する人も出てきますが、ここは□で、のここの「柑子口」が
        「柑子□(空き)」→「柑子絵」
     となるのではないか、というのでしょう。「佐野」は絵ですが脚注では、「紺灰」だけがも出てきます。
      「クハテキ」の「テキ」から 「色立て」「対」の、
              「赤(朱)」=赤系、 「藍(紺)」=青系、
     というものもぼんやり出ました。
      現物にはお目にかかれないのだから、無責任で気楽ですが、太田牛一の書いたものでみるしか
    なく、「対」とか「赤藍」などをヒントとして受け入れざるを得ないところです。いまやっている「清水又十郎」の
    一分節も「御敵」からスタートして
          「一、・・・小鳴海・・・・三の山(脚注=「もと鳴海村」)・・・一、御敵山口九郎二郎・・・廿の年、
          三の山・・・なるみ・・・赤塚・・・なるみ・・・赤塚・・・清水又十郎・・・・萩原助十郎・成田弥六・
          成田助四郎・★芝山甚太郎・・・あかつか・・・三の山・・・・赤塚・・・」〈信長公記〉
     があります。「赤」と「あか」、海から青が連想されるとすれば「海」「み」があり、それには脚注も大きな貢献
     してますが、「青」「あお」がたくさん出ます。「廿」は小浜にありました。まあ「テキ」の色の基調が赤と青
     といってるとも取れます。「鳴」もたくさん出ましたが、
           「雷電・なるかみ」〈信長公記〉  (脚注=「鳴神。雷。」)  
     があり、太田牛一の世界では「雷」が第一に出てきます。「雷電」を入力すると「来電」が出ますが、「来電」
    は辞典では「電報が来ること。」となっており明治時代の造語となるような感じですが、来⇔雷は昔から宛てられ
    ていました。「雷電」=「雷田」で「雷田」の田抜きが「雷」で、「田」=「太」が出てきたりすると、戦国の菅公
    がボンヤリでてきます。「爆竹A」でも「菅」が出ますが「菅屋」という名前がなかったらどうしようもないから
    偶然らしきものは止めといた方が無難です。また有名・無名の落差がありすぎます。芭蕉では「平泉」「和泉
     が城」「風雨」「七宝(脚注あり)」「五月雨」「光堂」などのあと
            「岩手の里(脚注=「今の玉造郡岩出山町。」)・・・小黒崎・みづの小嶋(脚注=「ともに玉造郡▲鳴子町
        名生定にある。)・・・なるごの湯・・・関(脚注=「●鳴子の西半里のところにあった関所」)・・三日
        風雨あれて・・山中・・・」〈奥の細道〉
     があります。「風雨」だけが出ているので「雷」がなかったと取れますが、▲●が入ったので芭蕉は雷を入れ
     たかったと取れます。ここは「風雨」だけで「雷」を出したという手法が出たということでしょう。
     ここの「鳴る」は「成る」と人名索引でつながれています。それがここの「成田」二人で
     引き当てが非常に難しい感じです。★は索引〈信長公記〉で
          芝山源内(考証名「柴山監物」)/芝山次大夫/★芝山甚太郎
     となっている芝山一族の一番若そうな人のようです。柴山監物は、注では
        「(生没年記載なし) 実名不詳。源内。尾張海東郡芝山郷(愛知県海部郡七宝町のうち)の豪族。
         ・・・・監物は利休七哲の一人といわれる茶人になる。」
     となっています。これでも意味はありますが、太田和泉守にとってどういう存在かというのが出ていません。
     利休七哲という実存的なものはありますが、利休を語るときにこれがそのままでてきたのでは、優れた人物
     の実在というのを史家が書き残したという意味があるだけです。蒲生氏郷・高山右近・細川忠興・古田織部
     とならべて有名度合いが全然違う、位相が違うところにおいてある、ということですが、これは人物叙述手
     法を語るという目的において設けられた谷間、溝、落差ということで、興味を持って越えられれば一番いい
     ということで、謎かけ的になっているもので、利休七哲などはそうなる招きというものでしょう。「哲」が〈両
    書〉に見当たらない字で、〈類書〉の稲葉一哲の影響下にありそうです。蒲生氏郷らが利休の弟子という場合
    は、利休が一世代上というのも普通で、一哲想起となっているかもしれず、「監物」は平手監物が筆頭です。
    したがって柴山監物は一世代上ととるのが可能です。
      柴山の「源内」は「源内」ですから、度々触れてきた尾藤源内しかとっかかりがないようです。芝山は地名
     として考証されています。芝山を関連付けると
        柴山源内監物ーーーーー子息芝山次大夫(尾藤又八)=矢部善七郎=中尾源太郎  
       (村木砦、水野金吾)     子息★芝山甚太郎(尾藤源内A→派遣船艦長
     ということになると思います。すると前四者に比肩する大物がでてきたことになりますが、世界史においても
    こうなってるかも。芭蕉は七宝を出し脚注が取り上げた、麻生氏は必要以上に
    脚注で「鳴子」を出し風雨に雷(鳴神)を加え、この一節の背景に風雷神があるといったと取れます。「真木村
    牛介」からも利休の七哲が出てきます。「御敵」や「的孫」とか「萩原」の「萩」が「「化テキ」の「テキ」としてあり
     ます。一方「クハテキ」の「くは」は天王寺屋宗及所持のもので「くわ(菓)子」の、「絵」がありました。
     「くは」をも一応は当たっておくことも要ります。桶狭間、信長激闘のくだり、

         「俄に急雨(ムラサメ)石氷を投打つ様に、敵の輔(ツラ)に打ち付く。身方は後の方に降りかかる。
         沓懸の到(タウ)下の松の本に、二かい・三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余りの事に熱田
         大明神の神軍(かみいくさ)かと申し候なり。
          空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ取て、大音声をあげ、すはかヽれ、かヽれと仰せられ
         黒煙立てて懸かるを見て、●水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。・・@のぼり、Aさし物算を
         乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくづれ迯(のが)れけり。」〈信長公記〉

      があり、後段の●のところ「敵は」というのがあった方わかりやすいようです。●の文に「くは」があり、その
      前に「立て」があり、宗達の「立」といえますが「くは」−「色立て」−絵です。●=水巻(水牧)は富山の
     砺波郡石黒左近につながり、また長沼山城守→山中鹿介弟亀井新十郎の一節に至り、これは渡海関連
     です。@の脚注は
        「幟。旗の一種。布の横に・・・竿に通して立てる」
     となっており、Aの脚注は「指物。・・・・大小がある。」となっています。これは「二銘(ふたつめい)のさし
     やく」つまり、製作者名が小さいのぼりで表示がされていると取れます。問題は、この文、「風」がなく「雨」が
     風の存在を語っています。また「神」「神」があり、「雷」がありません。甫庵でも同じで
         「折節黒雲頓(にはか)に村立ち来て、大雨頻りに熱田の方より降り来り、石氷を投ぐる如くに
         敵勢へ降りかかり、霧海を湛(たた)へて暗かりければ、殊に寄する味方さへ、敵陣に近づくをも
         覚束なき程なれば・・」
     となっています。風が主役であるのははっきりしており、「鳴海」「なるみ」を背景にしているのに風と雷を
     抜いています。風雷に意識過剰で、神風みたいなもので神々を出しました。□神□神の絵を出してきた
     といえます。雷があったというのは弱いといわれると困るので〈武功夜話〉では
         「折しも大師嶽辺り鬨の声天地に響き渡り、四辺真暗と相成り。雷をともない、天地鳴動して
         やまず、その場に立ちすくみ呆然たれば、彼方狭間の辺りより勝鬨天地に鳴り渡り、かれこれ敵、
         味方なる哉定めがたし。」
    となっています。当日は雨と雷があって風は普通ですが、□神□を出すために特別な「神風」を吹かせた
     ということでしょう。これが
             「風」「吹」は「桶屋」=「桶谷(や=はざま)」の「儲け」(「設定」)
     としてここの注意喚起もひとつあるのでしょう。
    何回も「風神雷神図」が渡海したということで話をしてきて、永徳の安土城の絵が行っている、という研究済み
   のことに上積みしてきました。これがないともう一隻出航したというのが出てこないわけです。家康公は馬揃え
   には出てるので、狩野永徳の絵が、大友、伊東、有馬が出した遣欧使節に託されたというところまでは知ってい
  た、とみてよさそうです。大友宗麟などの使節はおそらく帰国船が利用され、信長公も一筆計
   上したと思われますが少年使節というものが巧妙な仕掛けとなり、華やかなものとなるとともに隠れ蓑となっ
   た、面従腹背をしてきた信長公がその裏で、乾坤一擲の巨船を出航させたといえます。ヴァレンチアーノ
   麟角和尚なども九州大名との周旋に奔走し、天正少年使節も大友宗麟などと組んだ太田和泉守の策謀と
   いえそうです。この船の航海日誌は公開されてもそう問題ではなく、現在その一端がかなり知られているのも
   保険もかけた二隻の出航という遠謀によるものでしょう。

    (191)開山の蓋置
     化テキの一節ですが、渡海したとした品物が三つ書かれています。脚注にあるのが説明に窮するものです。
     一、「化狄(クハテキ)」は、脚注にあるのは、「床の間の上につる舟形の名物茶入れ。」です。
     一、「■開山の蓋置(フタオキ)」は脚注にある「宋の高僧のエン悟の釜の蓋、柄杓をのせる道具。」です。
     一、「二銘のさしやく@」、は脚注にあるのは「茶杓」で
    「三種の代物金銀を以て仰せ付けられる。」となっています。「代物」はよくわからないのですが「しろもの」
    と解釈すると、品物なので、二つあるとは取れないわけで、宗達の絵というのが「化狄@」として隠されてい
      るとはいえません。幸い「だいもつ」とルビが入っているので「だいもつ」と「代物」の二つともなり、
    まあ「代わりの品物」とも取れるので、「貨狄」に対して「化け夷」という感じで宗達の風神雷神図ともできました。
    それはそうとしても■がわからないというのではどうしようもなく、前の絵と茶入れにも影響します。幸い「開山」
    にもルビがあり戦国の開山(上人)も出ました。これも二つあります。
        割れ鍋に閉じ蓋(鍋釜はセット)
     という鍋を間鍋主馬兵衛(「七五三兵衛」)の鍋とすると、釜が抜けており、茶釜が出てきます。
     誰かこのややこしい「開山の蓋置」なるものに疑問を感じて
    解説してくれている人はいないのか、昭和、平成の時代ならいないかもしれないが、太田牛一が関が原後
    10年、慶長15年に〈信長公記〉を書きあげてから、ちょうど400年(1610〜2010)も立つのだから誰か一人
    くらいはいそうだ、蓋置きだけ書いて本体はなぜ書かないんだ、という疑問にいたると茶釜が出てくるのでは
    ないかと思います。茶釜といえば分福茶釜があり、これかもというのも感ぜられます。群馬県に「狸」で
    有名な「茂林寺」があって、これが分福茶釜の本拠で、住所が「館林市堀工町1570」〈ウイキぺデイア〉
    です。立川、伊達、建部の「館」=宗達の「達」だろうということで、ここと絡むかもというのが出ます。1570
    は関係なさそうですが桶狭間10年後の年ではあります。この年、年表では、
        「9月、森可成没(48)〈言継〉」 (この年、太田和泉守の年齢は、48=満46)
    があります。これは元亀元年、1572(本能寺10年前)

        「相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死。
           森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤(びとう)源八・尾藤又八。
         道家清十郎・道化助十郎とて兄弟覚えのの者あり。・・・・」〈信長公記〉

     があり他ならぬ、森三左衛門がでているから意識したかもしれないわけです。まあ、ここは言継卿の記録
     は、別に考えればよい、として「森三左衛門」は、ここで表記が消され以後出てこないから太田和泉守の
     経過名として、あの森可成は生きているとして話を進めてきたモトとなったところです。しかし今となれば
     両者とも織田の一族で織田九郎といってよい存在だから、ここはどっちつかず、とくに「九郎」という曖昧
     さは絶妙で、どちらもスルリと生き抜けた、別のことを語るため一文ではないかという疑問もでるところです。
      この観点からやってみると、この羅列は、重要人物NO1として公式を表すというものがある、とすると
    びとう=ひとう×2として
         織田九郎(森可成)−−−−−−−−(子)青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八
         ‖□□→◆九郎
         ‖△→三左衛門
         森三左衛門(太田和泉守)ーーーー(子)青地駿河守、ひとう源内、ひとう源内、尾藤又八
     
      というものが成立しそうです。「ひとう」としなくても「びとう源内」「同源内」でもよいかもしれないが、
     とにかく、ひらかなルビが、プラス1で子息の数が確定します。◆についてはあれやこれやと揉めてきたこと
     がありました。索引では、項目「織田信治」があって注が
         「九郎。信長の弟。尾張野夫(のぶ)(一宮市内)城主。元亀元年(一五七〇)近江坂本戦で
          戦死。 (文中)九郎  一一五(ページ)」
    となっていて、115ページをみると、先ほどの戦死の記事の「織田九郎」がでてきたのでおかしい、文中に
    「九郎」は見当たらず、みんなの知らないことを知っていて校注されているのではないかということでした。
    〈両書〉間の嵌め込みによる読解がここでも出されてきたということで、〈甫庵信長記〉の索引では
         織田九郎(上137頁)/九郎(上33)      森三左衛門尉/三左衛門尉(下104)
    がありました。上33のものは、織田信秀子息(信長兄弟)の紹介における
         「四男九郎殿」(つまり□□九郎)
     が出てきました。漠然としている、舎弟ということで公式的といえそうです。「下104」の「三左衛門尉」は
    ピント外れのもので(上137頁)の「三左衛門尉」が外されています。上137のものは
       「森三左衛門尉・・・・三左衛門尉・・・・織田九郎殿、青地駿河守、★森が郎等、尾藤源内、舎弟又八
       道家清十郎、其の弟助十郎/等も・・」〈甫庵信長記〉
     であり、子息総数は7人として確認できます。「等」をいれるのはおかしいという人があるだろうから、その場
     合は織田九郎から子としてカウントしておけば話は通じます。
     「九郎」とか「三左衛門」はストーリーではもう一回繰返した
     にすぎないが、「□□九郎」として一人としてカウントするということになってるという確認がここでされて
     います。こうしとけば、あの戦死の5人は
         「森三左衛門A・□□九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八」
     に書き換え可能で、空きを埋めることによって森可成の系統を説明する一文ともなります。すなわち

                連合い                        子
       森可成・青地九郎(青地茂綱、氏郷叔父)ーーー青地駿河守(青地与右衛門=古田織部@=長可A
                                              =ひょっとして後藤平四郎))
             尾藤九郎(太田和泉守の今で言う兄弟)ーー尾藤源内(弥九郎=九鬼右馬允)
                                         尾藤又八(中尾源太郎=大村由己)

     のようなことが説明できる骨格を配置していたものといえそうです。「終に鑓下で討死。」となっており、あの
     妙ちきりん、の鑓武藤小瀬の4人か5人が原型を型作っていたようです。5人戦死の記事が一字下げにな
     っていて細字で書かれたのと同じという暗示があり、初めから、もう一人の語りを広げられそうな予感のする
     ところです。
          「御敵猛勢にて相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死、
           □森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤(びとう)源内・尾藤又八.
           道家清十郎・道家助十郎とて兄弟覚(おぼえ)の者あり。・・・
      があり、この道家の二人は、尾藤二人の説明と取ってきました。しかし★の文の道家兄弟は、同じサイズ
    の中のものだから、もう一人を指すと取った方がよく「森勝蔵」「大石源三」を入れる、こともできます。ほたら
     数が合わんようになるではないか、となりますが、甫庵の記事は一般向けだから、森勝蔵、大石源三も
     数に入れときたいというのもあります。★の文、森可成本位で書けば、★は太田和泉守の4人兄弟というの
     がわかっているから、
       森三左衛門、三左衛門、織田九郎/青地駿河守・和泉の4人・尾藤@・尾藤A・森勝蔵・大石源三
     という名前をあげることができます。うしろの「等」はこの場合は入れない。前の4人が集合だから。
      また、子息の数、という意味では、勝蔵・源三は一応入らないから、
     ★を一人、後ろの「等」を一人として七人となります。一方太田和泉守本位でかけば
      (1)森三左衛門、三左衛門、織田九郎/青地駿河・★森乱丸・尾藤源内・尾藤又八・山口飛弾・佐脇
         藤八・賀藤弥三郎(等)
       となり、「(等)」は★の「等」と対応させて(人名の一部□□等として)入れる。ちょっと変わった人物を
       捕捉すると
      (2)森三左衛門、三左衛門(可成)/織田御次・青地駿河・★森乱丸・尾藤源内・尾藤又八・山口飛弾
        ・佐脇藤八・賀藤弥三郎
     もありうる、総数では七人か八人となります。
      そらおかしい、というのは、あるかもしれませんが「森が郎等」などを出されてると、数が絡んでいそうです
      から嵌め込んでやらないといけないようです。
      (2)のことについて付記しますと、「森三左衛門ー三左衛門ー織田九郎」というのは順番が変えられ
      ないので何か、それに便乗しているのがありそうです。「青地駿河守」が一番前というのは主(あるじ)の
      嫡子だから年齢関係なく一番前で、/を引く前は、その前に織田九郎があるのは一応気になってきます。
       というのは「織田九郎」=「九郎」という強引なのがあり、「□□九郎」がもう出ており、織田□□も、出て
      くるのは、もう時間の問題となってきています。

       今となれば、河河江川−河(江)口−河村−江「村」、というものを経て、(□空き口くち)の利用が
       出てきましたので、ここも□の観点からみることが必要となってきました。次の文がありこれが□□の
      問題です。
        「(天正十年)・・・森勝蔵・・・・・御敵▲今福筑前守・・・織田源五・▼織田・織田孫十郎・・・相拘へ・・・
         御敵、馬場美濃守子息・・・ふかしの城・・・御敵日向玄徳斎・・・」〈信長公記〉
     
       があり、今、開山の蓋置の話から館林の分福茶釜の茂林寺の住所、1570から桶狭間10年後の森の
      戦死の話から脱線してここにきました。▼について脚注では
           「通称を脱しているのであろう。」
     とされています。つまり織田□□で、空きを埋める問題です。□□は「九郎」になりそうですが、これは、
     ▼の前の織田源五もみないといけないので即断はできません。信秀子信長弟の羅列があり、
           「・・・四男九郎殿、五男安房守殿・・・・・其の弟源五殿・・後に・・有楽・・・」〈甫庵信長記〉
     がありました。この「安房守」も単独があるということですが、索引では、織田では
         小沢六郎三郎/〈織田〉安房守/織田伊勢守
     出ており、これは今となれば渡海の関連というのがすぐ出てきますが、わかりやすいのは、
           真田安房守信幸/安房守
      で「安房守」がでています。問題は〈信長公記〉ですが本文「安房殿」というのが唯一の「安房」で、これは
      「安房」か「安房殿」で索引に出ていないのが問題で、脚注で
          織田安房守秀俊
      となっています「安房(殿)」が出るのは「織田信時(「信長弟。安房守。・・・(文中表記)「安房(殿)」)
      とある、目立たない「安房(殿)」がでているだけです。校注者はこれではわかりにくいということで本文に
      ない「安房守」を創って
         粟田口吉光/安房守→織田信時/粟屋右京亮
      という索引を作れるようにしています。この「信時」の「時」は「景時」の「時」でしょうが「守山城主」という
     ことですから実在ではないかとなって焦点ボケになりかねません。「粟」というのが「安房」ですよ、という
     ちょっと外れた方のヒントを出すのに使っていますが、本音は「安房殿」はここに入るといっていそうです。
     したがって、これは重要といっていますから、織田□□は「九郎」だけとは限らない「安房」がありそうで、
     また、源五のあとは「有楽」でしたから、織田有楽もないこともないことになります。これだと
         日本にある風神雷神図−建仁寺−織田有楽
     も出てきます。織田九郎もウィキなどでは5番目になっていますから五−五−五が揃い〈川角太閤記〉の
     わかりにくい「五兵衛」の登場も、このあたりのことをいうのかも。〈川角〉では「伊達政宗のすり騒ぎ」があり、
      慶長二年
         すり−建仁寺−伊達政宗−北村(喜多村)−藤の森−加賀大納言−徳山五兵衛糟屋内膳
     などが出てきますが、太田和泉守(伊達政宗−伊政宗達)が、すりに会って、加賀大納言などの協力に
   より、この時期、この絵を、建仁寺へ移し、保全をしたというのかもしれません。織田信長の兄弟は、再掲

       「備後守、子息信長卿の連枝あまた御座す。信長卿の童名吉法師殿とぞ申しける。別腹の舎兄に
       三郎五郎殿と申せしは、後に大隅守と申せし御事なり。二男勘十郎殿は武蔵守の御事、織田七
       兵衛尉信澄の親父是れなり。三男上野介殿、四男九郎殿、五男安房守殿、六男彦七殿、喜六郎
       殿、半左衛門尉殿、中根殿、其の弟源五殿と申すは、後に入道し給ひて有楽とぞ申せし、其の弟
       又十郎とぞ申しける。」〈甫庵信長記〉

     があって、今はここの四男、五男、源五、有楽の4人だけ、□(空き)と(抜き)が風神雷神図の一節の説
     明に要るということで触れたところです。いままでこれは必要の都度、ストーリーで読んで、きましたがベタ
     でもみないといけないところでしょう。茂林寺では祭りとなると信楽の狸で埋まるそうですが。筆者の場合
     は、もう目が霞んでて、▲の「今福筑前守」の「今福」が「分福」に似てて
     蛍雪の明かりの時代の故人も、そう感じて「分福」の話を茂林寺へ持ち込んだはずと思いこんでいた
     から、織田□□は「安房」ではないか、とみてましたが「九郎」で苦労しましたから安房と九郎の二人かな
     と思ってもいました。従って、住所1570は西暦にみえたので、あの「九郎」もだしとこ、と思って結果長話
     となりましたが、ここでキーマン「青地駿河守」が出てきました。

     (192)青 地
    これは「相撲」「馬揃」で登場してきた
         「青地与右衛門」〈両書〉
    の出自と本名を引き出すものとなっています。織田  で狸が出てくると「織」が残ります。それは、ともかく
    〈両書〉に索引があって、
        @古川久介/古沢七郎左衛門/古田可兵衛/古田重然(文中「古田左介」)/不破光治    
        A青地茂綱(「青地駿河守」)/青地孫次/青地孫二郎/◆青地元珍(文中「青地千代寿」)/青地与右
        衛門/青山→青山与三右衛門/青山新七息/青山藤六/青山虎/
     甫庵では
        @青地駿河守/青地千代(世)寿/青地与右衛門/青山新七郎/青山虎
        A古田左介(助)/古田与兵衛/
     などとなっています。「古沢」の「七郎」が「青山新七郎」−古田重然−古田左スケ、と繋がっていそうです。
     古田織部が後世に大きな影響を及ぼすわけですが古田の(可・与)つまり織部と重然のペアが、その大き
     さのモトとなってるともいえそうです。本文では「古田左介」は、「野々村三十郎」「福富平左衛門」と、索引が
     出来てるよいってるような接近もあります。粟田口というものとは、安房殿だけでなく九郎からもつながりが
      でてきます。「福富平左衛門」ということになると「今福」−「分福」という「福」もここで捉えられることに
     なり、
         「野々村(ノノムラ)三十郎・福富平左衛門・・・」〈信長公記〉
      もあるとなると、野々村仁清=古田重然(捻・念・全・善・膳)はやはり、ありえます。桶狭間前夜、舞を舞った
           「宮福大夫」〈甫庵信長記〉
      は明智左馬介で比定していますが、これは索引では
         宮地助三/宮福大夫
      があって、この「地」が「青地」の「地」と考えられます。本文では
         「梶原平次・・・・宮地助三、福富満蔵・・・」〈甫庵信長記〉
       があり、渡海にも絡んで安房殿に対応する人物、明智左馬介が最有力となります。九鬼の「右馬」「左馬」
       もあります。
       甫庵@からは                 子
                 青地駿河守ーーー青地千代寿(爆竹15人の一人に入っている)
                             青地千世寿
                             青地与右衛門(青山新七郎)
       といってると取れますが上の〈信長公記〉@のものと違うではないか、どう整合されるのか、というのが、
      出てきます。◆など知らないのが出てきているからわかりにくいのですが「珍」ともなると兜の「明珍」
      が出てくるので、一応出しとこと思ったのかも。ただ。◆が「青地千代寿」という引き当てが解せないのは甫庵と
     抱き合わせでみておりあぶり出しがあるからです。テキストの青地元珍の注は
        (1560〜1633)茂綱の子、内匠助・四郎左衛門と称した。」
      となっています。一応「茂綱の子」というのを重視しますと「実子」となりそうですが、
       〈信長公記〉@からは
                 青地茂綱 ーーー青地孫次(青地千代寿@)
                            青地孫二郎(青地千代寿A)  二郎は二人とも取れる
                            青地与右衛門(◆青地元珍=青地千代寿B)
                            ★青山→青山与三右衛門(新七)
                            新七息=森勝蔵
                            青山藤六=大石源三
       となって、◆は古田織部の一回目かどうかは別として、連合いの一人(この場合は直接の血続関係は
       なさそう、三親等内云々のことはオキテとしてあったかも)であろう、と取れます。★が索引にある青山
      与三右衛門でない場合、青山=「青山藤六」(尾藤源内)になり、新七息(尾藤又八)、と続くようにされて
      いると思われます。清水又十郎の一節に不明の「青山藤六」がありこれが九鬼右馬允(弥九郎)となり
      そうです。古田織部の幅がさらに広がるのではないか、というのが◆の解釈になりましたが、一応校注
     者の引き当て(◆=青地千代寿)の顔はたてましたのでいい線いってるのかもしれません。余談ですが
      この一回しか登場しない「青地駿河守」の実在を証する文章が出てきたことが富山新聞(石川ニュース)
    に載っています。ネット記事で「元珍」を「明珍」と関係があるのかどうか片言だけでもいいから出てないか
    ということで念のために確認しただけですが、見当違いのようで当然それは出ていません。東京学芸大
    学の人物情報で「古川元珍」という人物が出てて「金工」という文字がありました。これは安土城で
        「かなくは後藤平四郎仕候」「京のたい阿弥かなくなり」〈信長公記〉
     があり、珍しく脚注にもないもので「金工」「金具」と適当に訳しているものですが、先ほどの「古川久介」と
     この元珍と繋ぐと古田との関係も出てきそうです。つまり青地元珍というのが見当たらないということです。
     富山新聞の記事はその途中で出てきたものですが、信長の青地駿河守への朱印状は間違いのない
     もののようです。
          永禄12年(1569)4月9日、茂綱宛、本領安堵の状
          元亀元年(1570)10月6日、茂綱子息「元珍(もとよし)」宛、「今度父駿河守討死」の悔やみと、
                           元珍跡目相続認めるの状
      が発見されたということです。絡んでいるのは加賀藩家老、本多政重と青地の子孫(前田に仕える)の
     人です。直感的には政重は重政の逆だということぐらいでよいのでしょう。
      これが本物で、事実とすると筆者のいってきたことはみな嘘になる、ということで、それはそれで、議論が
    あっていいわけですが、話題にもならない、といったところでしょう。これは、貴重な資料で、加賀藩の〈信
    長公記〉解説の一つの材料ということです。誰でもこの資料が出てくると、まず〈信長記〉のここをみる、照合
    するということをやりますから、それが眼目になっていると取れます。太田和泉守の本文は、干支や、日付や
    の間違いが脚注でも指摘されていました。「駿河守」がこの時点で使われることもありえません。朱印の件
    も前田家が紹介したものでしょう。太田和泉守が遺品など預ける場所は、前田とか、池田、黒田などが第一に
     考えられるところです。青地駿河(守)はテキスト注では
           「青地茂綱、(〜1570) 駿河守。滋賀県草津市部田(へた)にその城址がある。茂綱は蒲生
           定秀の子。蒲生氏郷の叔父にあたる。近江堅田(大津市内)で戦死。青地氏は旧栗太郡屈指の
            豪族で小槻氏の子孫。」
    となっており、この「部田」(へた)は「織田□□」→「織田部田」→「田ヌキ」で「織部」となるのかも。「部田」
    が一体であれば「建部」→「武田」が成立しそうです。青地駿河守は、森可成系の総領として第一義的に
        青地与右衛門=「古田織部」
     としてきました。著作上五人殺してしまってこういう予想外の人物を出てくるというのは、太田和泉守伝奇
    作家として面目躍如たるところです。また
    一般的に 「茂綱」となると「綱」が効いてきて「オリベ」になるので、説明も、両方の表記で
     されるとややこしくなります。この資料の場合は「本多政重」に関心があって「本多家一族の家系を探る上
     で重要な資料」という位置づけになっています。それにしても本多政重は徳川から派遣された家老と
     聞いてましたがこういう操作もしているということで、加賀藩の家老になってしまっているような気がします。
     そのわけが知りたいところです。「青地」氏は「青山」との関連で作られた表記と思いますが、この駿河守 
      の戦死で表記が消され、子孫はその表記を生かしたという感じです。この青地与右衛門は別の人物
     を引き出してきます。元亀元年

         「・・・常楽寺・・・相撲・・・常楽寺・・・相撲・・・鯰江又一郎・青地与右衛門・・行事は●木瀬蔵春庵
         ・・・鯰江又一郎・青地与右衛門・・青地・鯰江・・■上京驢庵・・・家康公・・」〈信長公記〉

    がり相撲11人が出されてその中に青地与右衛門がでています。■「驢」はマロともいえそうです。甫庵は
    ■を半井驢庵としており、上京の半井
    という意味でしょうがこれは先ほどの索引で黒谷の中山中納言のあとに出てきました(「光成」)。
    ●が行司で「木瀬太郎大夫」とペアで二木を構成します。テキスト注では
         「黄瀬(滋賀県甲賀郡信楽村黄瀬)の蔵春庵か」
    となっています。まず信楽が焼き物を想起させ、「釜」「窯」「茶釜」がでてきます。「黄瀬」というのは黄瀬戸
     がないか、あればここからも瀬戸物というのがでますが、これは知識が全然なく、出したのが無茶かも。
    ただネットでみれば「大戸川」と切り離して考えられない地が黄瀬です。索引では
       「大戸丹後守」〈信長公記〉 (文中表記「大戸丹後守」「大西」)
     があり、二字の「大西」は安土城「石奉行」で出てきて、
       □石奉行、西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田丙内・大西、
       大石・・・小石・・・爰に津田坊、大石・・・蛇石・・・名石・・勝れたる大石・・・羽柴筑前・滝川左近・惟住
       五郎左衛門三人・・・信長公・・・御息秋田城介(あいたじやうのすけ)信忠・・・」〈信長公記〉 
       (□は一字空き)
     があります。石のパレードで「石田」がありそうですが、□のラインは五人です。六郎三郎が二人ですから
     そういえますが、それは、認めていない、という人があるから、石という奉行=石奉行を一人として
     切り返せるようにしたのがこの表現といえます。つまり「大西」は姓ですから。また「吉田丙内」があるから
     それと位相が同じというものなら持って来れる、とすると
          石奉行=石 奉行(ともゆき)   島左近は(友之=ともゆき)
      と個人名として読んでも、突然の転調が随所にあるので5人として取るのも可能でしょう。つまり石の
      奉行五 → 五奉行が何となく出てきます。前が段下がりになっているのでこの人名は、仮名ということ
      は容易に推察できるところで、〈武功夜話〉では既述、
          「石奉行、前野将右(長康)衛門、蜂須賀彦右(正勝)衛門両人の者、・・奉行・・・・。・・・・・・
           奉行、藤堂与右(高虎)衛門、尾藤甚右(知宣)衛門。」
      という錚々たる名前が載っているのでも判りそうです。今となれば、説明ルビのつけ方(位置)から見て
      、また、森蘭丸(長康)、海老名(勝正)という名前も知り、「尾藤」は森可成の線から「水野」かも、ということ
     になると、ちょっと目的的に過ぎた名前(中継、経過名)とも取れますが、とにかく四名です。これをみると
     全部に奉行がついているから、四奉行といいたいことはわかります。ここでさきほどの〈信長公記〉の慌てて
     とって付けたような、半完成の「大西」が光ってきます。
        石奉行、西尾小左・     小沢(六郎三郎)・    吉田丙内・大西□□
        石奉行、前野奉行、蜂須賀奉行(正勝・勝正奉行)、藤堂奉行、尾藤奉行
     ということになり、大西を入れなければどうみても4人になるときがある、つまり石奉行を今読まれているとおり
     「石担当の奉行」は、と取ると4人になってしまいます。大西は「4、5」四捨五入「5」という「五人」を出す
     働きがあります。〈武功夜話〉場合を参考にすると、大西□□は
         大西奉行(友之ともゆき)→島左近→左近→石黒左近(全登)
      となり「石石成」もでます。「木全」=(六郎三郎)=「小沢」で、「沢」→「佐和(山)」→島左近→岡部
    又右衛門の大船  が出てきます。「とも」というのは尾藤の「知」(とも)からもヒントがありそうです。
       大西=(たいせい)=泰西(渡海)になりますが、これは
          島左近=大戸丹波守=大西=黄瀬信楽=木瀬蔵春庵=明智左馬介
     となって、これから「五奉行〈甫庵太閤記〉」の「石の奉行」「石田三成」が出てきます。石田三成は島左近
     を介して、石黒左近(黒石左近)との繋がりがでてきます。関が原でも、関係が出てきます。
     「石奉行」は「五奉行石田三成」の「田」が抜かれたもので、
           信楽の「田ヌキ」=狸
     が、石田−明智左馬介の関係や、茶釜の釜の存在を示唆しているといえます。小沢六郎三郎を高山右近
     ではないかといってきましたが、その場合三郎のほうは明石掃部助になりそうで、そのため木全六郎三郎
     があるといえそうです。高山右近はテキストでは「重友」になっています。「友」はどこからくるか、はわかりに
    くいことですが、島の友之が折角ここで出ましたので利用する人があったのかどうか調べてみますと、
           重友    
           友之    で「重之」がでます。これは〈常山奇談〉索引に「石川重之(丈山)」が出ており、一
     乗寺に詩仙堂を建てたことで知られています。石川に「石川長門守」があって、
           村井=長門守=石川     
    であり、「石川」に「伯耆」があって
           塩河=伯耆=石川
    でなんとなく武井セキアンという人物が浮かび上がってきます。モトは道家尾張守のところで桶狭間後
    綸旨が降ったという場面で「道家」「村井」「安井(女房)」が錯綜して、「道家村井」「道家村井」があって
        「滝川小鼓、久太郎大鼓(つつみ)、村井笛、子供太鼓(たいこ)、京衆・・・・」〈道家祖看記〉
    などあります。久太郎は堀久太郎か、「九右衛門{菅谷長頼}久太郎」が先に出ているから、誰か
    わからない、この人の子供が堀久太郎でしょう。要は

       道家主人            |前田玄以−−−−−−−−−− 田中吉政
       ‖村井春長軒(長門守)−―|長門守春長軒A(村井貞勝)−−子三人、 ○高山右近(渡海)
       安井氏              |大谷吉隆                      ○本阿弥光悦(渡海) 
                          (?舎弟) 兵馬(紀之助)(湯浅氏)(渡海)  ○村井貞勝(又兵衛A)
    
    のような感じのもので、本能寺のとき
         「村井春長軒父子三人」が「三位中将信忠」に「二条新御所」に
    入るよう進言したので、「池田勝三郎父子三人」が「三人」の意味を教えてくれるはずです。まあ、
         「石川長門守」〈信長公記〉(考証名「石川康通」「石川氏の子孫は伊勢亀山城主」)
    がここに出てくるのは必然で、索引では
      生駒・・・/石川数正(文中「石川伯耆守」)/●石川康通(「石川長門守」)/石黒成親(文中「石黒左近」)
    となっており、〈常山奇談〉の索引は「石川数正/石川重之(丈山)」となっており、●と「丈山」の関係が近い
     ことを示していそうです。石川丈山の出自が今日でも隠されていますので推定すれば、多分●の子が
     丈山で数正は叔父だろうと思いますが、丈山は父が〈信長公記〉に出てたのを知ってたということになります。
    常山は、「本多安房守丈山にゆかり有り」と書いており、この安房守が先ほどの本多政重で本多正信の二
    男です。丈山は前田利常と懇意で、政重は父を受け入れず、元は関が原の西軍で戦ったという変り種で、
    前田利常をよく補佐したようです。二人は利常の意を汲み取り〈信長公記〉の渡海の解説をしてたということで
    丈山は一乗寺で宮本武蔵、安房守は今回見つかった「青地」を出していたわけです。風神雷神図の青地
    を出した、これは森の青です。安房守は「青地」を出して「赤地」を思い出さそうとしたととれます、すなわち
    一方で、はじめから明智の赤地があります。人名索引の最初、
        「青」15件、「赤」10件、 甫庵では「青」10件、「赤」13件
    が並んでいます。「赤井」「赤川」「赤座」「赤沢」「赤瀬」「赤林」「赤生」「赤松」がありますが、
       「播州の赤松」〈信長公記〉
     は南北朝の赤松円心が有名で、宮本伊織は「武蔵」は赤松の後裔といっています。また
        「織田三郎信長・・・信長・・・・大刀朱ざやをささせられ、悉く朱武者(あかむしや)に仰せ付けられ」
        「今度家康★朱武者(あかむしや)にて先懸をさせられ・・・・」〈信長公記〉
     があります。これは有名な赤備え(武田の山県昌景、徳川の井伊直政、豊臣の真田幸村)のモトにある
    もので、明智和泉守重政に繋げた赤です。★はあの信長と清洲城を飛び出した者の必然で、敬語も入って
     いる家康は二人が懸かっています。「井伊」は「伊伊」であり「飯」で、「直政」は「塙直政」(原田備中直政)
      があります。天正の渡海を折に触れて伝えようと
           石川丈山一乗寺宮本武蔵=(航海)=本多政重風神雷神図
      の語りがあったということでしょう。

     (193)海を渡った風神雷神図
   先ほどの索引から「石川−石黒」の関係は考えないと仕方がないところです。石田に過ぎたる島の左近から
    「友」を出し「高山重友」を呼び出して左近−右近と繋ぎ「丈山(武井山)」を出して、高山右近の出自を
    述べた、あるいは自分のことを語ったということもありえます。芭蕉は
          「丈山の像に謁す  風薫る羽織は襟もつくろはず」〈芭蕉庵小文庫〉
     を出して、一方で 「図司左吉・・・・南谷・・・本坊・・・ 
                       有難や雪をかほ(を)らす南谷  」〈奥の細道〉
     を作って「坊」「(難)」「南」「薫」「谷」を出し、この二つを「薫る」で繋ぎました。はじめ「風の音」
     だったのを、地名の「南谷」に変えたということです。〈芭蕉全句〉の訳はちょっと無理があって
        「あたりにめぐる山々にはまだ雪が残りそれが折からの南風にうち薫るかと思われる。・・・」
     となっています。第一「風」がどこにも出てないのに無理のようですが、丈山の羽織の句を想起すると 
     薫「風」が出てきます。解説では「蘇東波(土篇)」に
           「薫風自南来」(薫風南より来たる)
     というのがあってそれが下敷きになっているので「薫風」(南風)がでてくるようです、「高山南坊」という表記
     があって「南谷」というのは高山右近−谷というのが一つ出ていそうです。
      湯浅常山は石川丈山のこの「羽織」を「島左近」と繋げ、「明智左馬介秀俊」湖水渡りで、「狩野永徳」
     の「雲龍」の「羽織」を出してきました。
         明智左馬介「二の谷の冑」「南谷」=谷(こく)=石黒、
         明智左馬介湖水渡り「馬」11件
         風と雷、「□風自□来」→「□風自□雷」   風と雷と坊=「風雷坊「風来坊」=「風羅坊」
     というように「風雷」がいろいろに引っかかってでてきます。とにかく永徳の「雲龍」が出ました。
       風神雷神図をここまでおっかけてきました。重要なところが化テキの一文というのがわかりました。これは
      同時に叙述の公式が出てくるところでもあります。公式の中で本文を入れ替えてもよい
     というものがありました。これは一番使いたくない手法ですが はっきりするならやってもよろしいといった
     ところがここと取れます。それでやってみますと、本文

         「一、化荻(クハテキ)、天王寺屋の竜雲所持候を召上げられ、」〈信長公記〉
 
     は、二つに分けず、このものだけを利用すると、ストーリーでは
        (1) 一、天王寺屋の所持候「竜雲(クハテキ)」、「貨荻」を召上げられ
    となり、物体本位でいくと
        (2) 一、天王寺屋所持の、「竜雲」・召し上げられ候「貨荻(クハテキ)」 
    のようになりえます。目的がある財物ならば一箇所で保有していることが考えられ、天王寺屋は宗達の
    出所でもあるので、そこで管理保管をしていたと見れます。「クハテキ」の使い道は
       @「カテキ」と読むことを示しながら、ややほかの事をいいたい感じをだす
       A化けエビス、男性的なものなどの暗示の働き
       B全編の「くは(クハ)」「てき(テキ)」の糾合をする
       Cクハとテキに分ける  (クハ=化=画)  (テキ=荻=花入れ、そらないというなら単なるルビ)
    などのことが考えられ、(2)とCの組み合わせで
        (3) 一、天王寺屋所持の「竜雲画」、召し上げられ候「貨荻(テキ)」
    ということになります。「風神雷神図」は確実に渡海しました。織田信長は、天正十年、本能寺の年、
    世界の海へ白地に赤真丸の巨船を送り出しました。
    同時に、世界の文献もここぞというところでは入れ替えて読むことは、著者の意に適う。多くの人の
    理解納得をえられるように、優れた文献はそうなっているといっています。物体も二つがありえます。
     清水又十郎の一節途中ですがとりあえず・・・・・。
                                              以上                                                                                                  次稿194に続く
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