28、伊東マンシヨ、九鬼右馬允の出自
                                       、                                      (51)天正遣欧少年使節
    本能寺の数ヶ月前に決行された破天荒の大事ですが、近年はやや大したものでもなさそう
    という感じの扱いとなっています。〈クロニック戦国史〉によれば

     「天正遣欧使節、長崎を出航(1582年) 三年の歳月を費やしてローマへ向った四人
      伊東マンシヨ(13)、千々石ミゲル(13)らの少年使節が、イエスズ会巡察師、アレッサン
      ドロ・ヴァリニヤーノ(43)にともなわれ長崎を出航した。ヴァリニヤーノは日本からの出航
      に際し、ローマ教皇に謁見させるため、マンシヨ、ミゲル、原マルチノ(15?)、中浦ジュリアン
      (13)、の4人の少年を選び、これを大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の3大名の使節として
      派遣することにした。彼ら4人は、ヨーロッパ人が思っていたほど身分の高い者ではなかった。
      伊東マンシヨは、滅亡した日向伊東氏の生き残りで、有馬のセミナリオにいた。ほかの三人
      も似た境遇だったらしい。さらにすくなくとも宗麟には使節を派遣したおぼえはなく、なんのため
      に彼らをつかわしたのかと尋ねたという。この快挙については以後の禁教の時代にあって
      はほとんど世間に知られず、全貌がわかるのは、1871年に岩倉使節団がヨーロッパを
      訪れたときだった。」

    明治の岩倉使節団で様子がわかったというのは支倉の派遣のことでも同じことがいわれています。
    スタートがこれだから、同時代、江戸時代には、一般に知られておらず、したがって関心もなく、
    資料がなさそう、明治以降の努力でかなりのことがわかってきた、いま以上のことをとやかく
    いわれても仕方がない、といわれそうです。しかしわからないことだらけです。少年よくやった、
    素晴らしいと、みな素直によろこんだはずで伝播力、記憶残存力が国内になかったのか、と
    いうことは第一です。
    
     @主体が誰かというのがはっきりしない。ヴァリニヤーノについてはっきりした知識が与えら
      れていない。国が主体とならなければ法皇も国王も使節に会うところまではいかないはず
      で、大名に協力を依頼したというが、▲大友宗麟は知らないといっている。
     A行った人数の総数が知りたいのに、四人だけしか書かれていない。しかも四人の身分
      もはっきりしない、大名の子息の代理というような曖昧なことになっている。
     Bヴァリニヤーノが「4人の少年を・・・・三大名の使節として派遣することにした。」と書かれて
      いるが、少年を勉強だけのためではなく、使節にした、やはり派遣者を必要としている、
      三大名が派遣したのに▼織田信長が屏風を贈ったというのが出てくる、▲、▼が矛盾
      している、派遣者、三大名があいまいにされていないか、
  
     ということなどが感じられるところですが、方々で何回にも分けられて小刻みな説明がされて
    いてなかなか一つのものにならない、隠されている感じがするものです。テキストでは「山岡
    氏(「山田岡」からくる)が大伴氏とされていて、宗麟の「麟」は大竜(龍)寺の
            「りんがく」「麟岳」「麟角」(両書)
     があります。

   今となればテレビのおかげで織田信長が安土城の屏風絵を法皇に贈呈したことが一般にわかっ
   ています。こうなっても、織田信長が、ちょうどよかった、欧州まで行くとは前代未聞のことだ、
   わが国の実力では安着も図りがたいし、経費もかかるし、ついでにこれも頼む、ということに
   なったという程度のことくらいしか出てきません。使節が、若い優秀なキリスト教学徒で、実在
   ではあるが、身分、出自もよくわかっていないというのですから、それも足を引っ張って
   その辺くらいの推測で納得して終わっています。
    本能寺の年では織田信長が日本の国王であることは世界も周知のことです。
     〈クロニック〉でも別のところで織田信長が狩野永徳の安土城の絵を贈ったことが出てい
   ますが、これは城とか絵とかの文化面の話のなかで出され、織田信長のことと使節派遣のこと
   が、あれはあれ、これはこれ、として一つにされていません。織田信長は永禄
   十二年(1569)桶狭間9年後(信長公記巻二の年)、キリスト教の布教を許可したことが同じ
   〈クロニック戦国全史〉に出ていることです。

     〈両書〉の著述対象年代の中の出来事であり、それが書かれていないということかどうか
    がまず知りたいところです。四人の少年が出て行って、国際親善に貢献し、印刷機などをもたら
    し、帰ってきた後、かなりあとで、〈両書〉が書かれているわけですから、記述がないというの
    は考えにくいことです。第一にヴァレンチアーノに感謝しなくてはならないところです。成功だった
    からか秀吉が慰労しているほどですから。
    
    織田信長が日本国王として使節を出したということに自然となるのでしょう。ウイキペデイア
    などでは日本人合計7人となっており、(ちょっとあいまいで7・8人が出てくる)、そうとすれば
    一表記二人として、四人は8人、七・八人は14〜16人となりそうです。
    
    織田の遣使を隠すためにはどうするか、巡察師ヴァリニヤーノが選抜したセミナリオの若き俊英
    が表に出て、中央から派遣される織田家中の使節がその従者になりすまし渡航した、という形に
    にするのもあるでしょう。これでやれば、その学生の名前が伊東、千々石、原、中浦であり、その
    名前を知らしておけばそれは別の語りが残されるであろう、織田の4人は文献から読み取れ
    るようになっていて、もし読まれなければ業績も埋没するがそれもやむをえないとなっている
    ことになります。いままでの読みをいかすと、こうなりますが、ここでは始めから違う形で話を
    進めたい、民間の人が出てくれば修正していきたいと思います。すなわち、四人の姓ですが
    「伊東(弥三郎)」「千石(又一)」「原(和泉守)」は〈信長公記〉の表記で、「中浦」も「中村」「中野」
    「浦野(源八)」 「浦上(小次郎)」「三浦(右近)」など想起できるものなので、4人も家中の
    子弟となっている、とみるということです。民間の商人に化体してキーマンを述べるという例、
    たとえば、堺の商人の世界で、津田宗達、天王寺屋了雲、菜屋助左衛門、今井宗久、茶屋
    四郎次(二)郎もあり、大事を語るに民間の舞台をかりてる例もあると思われ、ここでもそれが
    出ているはずということです。いずれにしても、こうであれば太田和泉守牛一に気の遠くなる
    ような多大の負担が懸かることになりますがどうでしょうか。派遣実務においても、記録におい
    ても・・・。

    (52)伊東
   「伊東」「原」は〈両書〉にあり、「千々石(岩もある)」「中浦」は馴染みがないので4人は一応は
    混じっているという感じで、正使は「伊東」「千々石」で「原」と「中浦」が副使ということだから、
    一応両書にあるもの、ないものを1:1とした、と考えられます。「千石」はあるので、3:1とも
     考えられます。年齢も3:1となっています。
    「原」だけは、皆が13歳という年齢が打ち出されているなかで、年長で、年齢がはっきりしないのが
    気になります。例えば13歳というのが当時の
    一人前とみられたというのかもしれず、また〈両書〉に「原」があり、それは
     原=和泉(守)というものがあるので、後見的な意味合いがあるともとれ、副使になっている
    のもそのあたりにあるのかもしれません。13歳の「伊東マンシヨ」の使節代表というのが、
           「伊東弥三郎」〈信長公記〉
     という表記があるので重要で、ここから「伊東」=(弥三郎)=「梶原」で
           「梶河(川)弥三郎」〈甫庵信長記〉
     も出てきます。こういうのを使って、天正少年使節の名前が〈両書〉の表記に変換される
     ことになっているかもしれないというのがいいたいところのことです。
     四人セットだから代表がこうなるとあとも、これでいけそうです。

     「伊東」「伊藤」の表記は〈信長公記〉に大変多く六人衆「浅野又右衛門」の横に出ていた
     「伊藤清蔵」がありますが、〈信長公記〉索引で
  
       「伊藤九郎兵衛」「伊藤三丞」「伊藤次右衛門」「伊藤二介」「●伊藤清蔵」「伊藤宗十郎」
       「伊藤彦作」「■伊藤孫大夫」「伊東夫兵衛」「★伊東弥三郎」「伊藤与三右衛門」
 
   という11個もあり、しかもこれが全部孤立表記で解説のないものです。これを生かさないと
    伊東マンショは出てこないというなら大変です。この索引で●の後ろの「宗十郎」は
    能役者で、「能」では「大蔵二介」に関わり、●の前の伊藤二介と「大蔵」でつながり、
          大蔵→高山→●→浅野又右衛門ー岡部又右衛門(大船大工)
    と繋げてみたりすることがいります。二番目の「伊藤三丞」は「大船」「舟」の洪水的出現の中
    で出てきます。

        「九鬼右馬允あたけ舟(脚注=軍用の大船)、滝川左近・伊藤三丞・水野監物、是等も
        あたけ舟・・・囲舟・・・浦々の舟・・・野間(左吉連想)・・・大船・・・・伊藤が屋敷・・・
        舟数数百艘・・・大船数百艘・・」〈信長公記〉

     これは天正二年の話しで、天正六年には、「九鬼の大船」、「六艘」、「滝川左近大船一艘白
     船」で毛利に打勝ちました。■は伊東は孫ですよということをいってる可能性があります。
      リーダの「伊東マンショ」(「満所」もある)はここでいえば
        「★伊東弥三郎」「伊藤参丞」「伊藤孫大夫」
     が該当する感じです。★の前は〈類書〉の「伊藤武兵衛」(伊藤清蔵相当と思わせる)ですが、
     これは「伊東夫兵衛」と同じで、●からは「又右衛門」が出て、「伊東夫兵衛」からは「祝弥三
     郎」がでます。これは「惟任日向守」ではないかというのは既述ですが、その「弥三郎A」が、
      伊東マンシヨの挿話にある「日向」の
     「伊東」の領主の子だろうというのとフィットして、★が一番、伊東マンシヨにふさわしい感じです。
     これは本能寺の年で十三才ですから以前に出しています。

       「爰に尾州の住人梶原左衛門尉が続子(ルビぞくし、脚注=あとつぎの子)
              松千代丸、生年十三
        になりけるが、其の折しも病に冒され・・・同名の家の子
              又右衛門
         と云ふ者、強いて諌めけるは・・・暫く先ず療治を加へ玉ひて・・・・・敵数十人なぎ伏せ
       撞き伏せ・・・終に討たれて失せにけり。・・・阿弥陀寺の過去帳にも三四人の間に書き
       載せれける。」」〈甫庵信長記〉

     となっています。ここで先ほどの「梶河弥三郎」が働いてきて、「梶(河)」→「梶(原)」の
    索引の流れが出てきて、梶原左衛門尉続子松千代丸、弥三郎の流れとなります。梶原左衛門
    尉は本能寺の場面で登場しますので、総大将、明智光秀のことを指しているとしか考えられ
    ないところです。ここの「又右衛門」も先ほどの岡部
    浅野の「又右衛門」を受けており、伊東関連のものです。梶原続子は前回の引き当ては
           「松千代丸」@は「明智光慶」
           「松千代丸」Aは「松永貞徳」
    としました。松永貞徳は1571の生まれだから本能寺1582で満11で数え13ピッタリで、一応
    こうしています。あのときは海外は意識していませんでしたが、ここで海外へ行くのがおかしいと
    いうのが出てきてもそれだけでは引っ込めるわけにはいきません。
    逆にまさにうってつけの情景が現出します、狩野永徳の絵を届けるわけです
    から、その子息(織田の宰相、太田和泉守の孫)が持っていけば、これに越したことはない、
    ということです。
     明智光慶にはフロイスの話があります。坂本城落城のとき

      ▲「その時明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、ヨーロッパの王子を思わせるほど
        であったと言われ、長男は十三歳であった」〈明智軍記〉注、(フロイス日本史の引用)

     があります。これに校註者補足があって
      ▼ 「そのなかに、光秀の子が二人おり、長男は十三歳であったという。」〈明智軍記〉
     となっています。伝聞(不確か)という感じとなっています。

     現在、この十三歳の長男は明智光慶とされており、この上品さの話は有名です。二子とした
     のは「長男」を出すためと考えられます。大体が、〈明智軍記〉でいう天正10年の
         @「光慶14歳」 A「十次郎11歳(7歳で筒井の養子に入っている)」 B「乙寿丸8歳」
     三人のうちの@Bを指して二人といっているという感じです。現在と違って、生存説がまかり
     通っている時代のことで、八歳の子を殺すはずもないから、不確かなこととしておいていいわけ
     です。いいたいことは、確かなことと、不確かなことがある、▲の文章が、わかりにくく、
     ▼で補足された、入れ替えたり、二つに分けて読んでみたらどうかということです。
       ▲の「言われ」が伝聞、▼の「という」というのが伝聞で、伝聞語句の異動があります。

        ○原文 坂本城の物語、事件の知識と追憶(その時@)
         「その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、
         ヨーロッパの王子を思わせるものであったと言われ、■長男は十三歳であった。」
     これは大体が今の理解に導く読み方をさせる文章です。
  
        ○あの晴れ舞台の回想(その時A)
         「明智の二子が死んだが、長男は十三歳であったと言われ、
        非常に上品な子供たちで、その時、ヨーロッパの王子を思わせるものであった。」       言われ■    
   ともなるのではないかと思われます。遣欧使節の代表明智光慶のそのときの場面を同時に語った
   たと取れます。坂本で二人の死というのは〈甫庵太閤記〉の明智の最後
       「●荒木山城守が長子、其弟二人・・・討死・・」〈甫庵太閤記〉
    があり、この場合は年齢なしです。この二人がフロイスの「二人」になったのかも。
         「続子(梶原)松千代丸」は、「十三歳」
   二人としました。■では次男も十三歳といいたいのかもしれません。同名の家子「又右衛門」が
   身代わりになりました。これも「又右衛門」と、索引にある「(同名)又右衛門」がありえます。
   
       六人衆の「浅野又右衛門」−船大工「岡辺又右衛門」−「(梶原の)又右衛門」
        −梶原源太景季ー佐々木ー宇治河ー梶川弥三郎ー佐々木隼人・梶原平次
    というような〈両書〉の流れをフロイスといえども受け止めているといえます。この、その時A、
    の文によればフロイスはその時を実際見たといってる感じです。

    ここにいた(遣使船にいた)のが確実と思われる織田の人物をもう一人挙げておきます。
    先ほどの クロニックの記述で、
       1582  使節派遣
       企画実行のヴァリ二ヤーノ      43歳
       伊東マンシヨ(千々石・中浦)     13歳
       原                      15歳?
    となっていました。年表みますと
       1612  伊東マンシヨ死亡    ★43歳
       1613  支倉常長出航
    となっており、支倉の年齢は1571生まれ(クロニック)だからこれは満42歳となります。
    どうしてもこういうトータルが一箇所に集中されないので、筆者がかき集めたという印象になり
    ますが、★が効いてきて
    _天正少年の30年後の「支倉」の遣使だといえるとともにヴァリニヤーノのそのときの年齢が
    連続性を示唆しているということにもなります。つまり企画者の企図の連続性もさることながら
    当時十三歳の織田の若者一人がもう一度、こんどは指揮官として乗り込んだそれが長谷倉
    常長だったといえるのでしょう。これだと派遣する側も安心できます。しかし根っからの漁師でも
    なく、30年のブランクが在って、あの苦しみをもう一度というのは考え難いところで、海将として
    の研鑽がずっと続いていたという記録が欲しいところです。ルソン助左衛門などがその表われ
    といえそうです。とにかく、いまの支倉の理解では経歴すらもよくわかりません。
    まあ中間で、13歳の三人は「明智光慶」「松永貞徳」「支倉常長(木村氏)」と仮に決めとく
    ということです。
    
     先ほど、梶原の続子「松千代丸」と「又右衛門」が出てきました。多少ストーりーを追うと前の
    ようになりますが、〈甫庵信長記〉索引では次のように出ていました。
        梶原左衛門尉
        (続子)松千代丸
        (同名の家子)又右衛門
    これでいえば、「又右衛門」も二人@Aがあるとすると6名になります。阿弥陀寺の過去帳に
    載ったほどの活躍をした「又右衛門」は「梶原」の又右衛門だから、これは太田和泉守としても、
    梶原左衛門尉は明智光秀に引き当てられそうです。ほんとうにこれがロ−マに繋がる話し
    なら又右衛門か梶原左衛門尉Aは高山右近になるのでしょう。これはキリスト教関係の第一
    人者として皆が周知していることです。同名の家子の「又右衛門」は二人いる感じで、高山
    右近が「又右衛門」でもあるとすると6名は「明智光秀」「太田和泉守」「高山右近@」「明智
    光慶」「松永貞徳」「高山右近A」という六名も思い浮かぶところです。テキストでは
    有名な高山右近は1553生まれとなっており太田和泉守からは30年近くの差となっており、
    おかしいという感じもあります。社会の形が影響するので年齢は最後の段階で検討すれば
    よいことですが、光慶@−光慶Aのようなことは高山にも起こりえます。高山だったらその
    身内からもう一人出ている可能性があり、四人目に入れておくことにしたいと思います。
    
    「又右衛門」は六人衆にあり
      「浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七」「伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田左内」
    の又右衛門ですが、又介の「又」に繋がり、重要度第一のものです。
       太田又介の「又」→「山口又次郎」ー「山口飛弾守」などを経て、もう一人信長の
    側にいた、六人衆の後に出てくる、7人目の
      「山口太郎兵衛」〈信長公記〉
    に行き着きます。これでここで、七人が揃うということで、ここで「堀田孫七」の「七」が生きて
    きます。はじめ〈戦国〉では、この「孫七」は「堀田」だから何となく堀田大老ー徳川を思い出す
    もので、徳川堀田のもとのような感じだから、
       太田又介ー堀田孫七
    の対峙構造を示すものと捉えてきました。浅野を豊臣と解すると
       「豊臣」ー太田和泉守ー「徳川」 
    となります。両家のことも自分を中心に画ききるという自負もあるかもしれないわけです。また
    ここは六人衆ですから「孫七」はおかしい、「孫六」+「孫一」でないといけないとすると、
    「弓三張」(浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七)は
        「又右衛門」「又介」「孫六」「孫一」 
     の四兄弟を出しているとも解釈できます。孫六は類書では加藤孫六とか関の孫六がありますが
    〈信長公記〉ではないようで、取って置きの表記ともいえそうです。〈甫庵信長記〉でもなかなか
     見当たりませんが、二件だけそのものズバリではないものはあります。
           「村越孫六郎」「牧島孫六郎」〈甫庵信長記〉
     で、「村越」の出方は永禄十二年

         「三川の国より、村越孫六郎、賀藤三丞等は武者修行・・・・」〈甫庵信長記〉

     というもので、「三川」といえば徳川で、「村越」は「村越三十郎」があり、これは徳川家中として
     有名で、この文「三・三・(三+三)・三」で「加藤孫六」の「賀藤」もあるということで三兄弟は
     孫六でも導き出されているといえます。「孫一」については
       「鈴木孫一」〈両書〉(これは雑賀孫市として有名)
     があり、これは鉄砲の名手ですから膂力衆を越え、前田又左衛門A相当で「太郎兵衛」
    「孫市」の表記がその特徴を表しているものです。
       「日吉孫一郎」〈信長公記〉
    は能の「小つづみ」ですが、これも同じで、索引で
        「(東)坊城式日」「東村備後(ヒガシムラビンゴ)」
    が孫一郎に続いています。本文では「坊城」ですが「東坊城」というようです。「坊」が「津田坊」の
    ような働きをしています。「日吉孫一郎」の周辺は「つつみ」だから
        「伊藤」「大蔵」「又二郎」「与左衛門」「三州徳川」「畠山」「北畠」
は   などが出ています。「日吉」は「秀吉」−「太田和泉守」で、「孫」も関連付けて見なければなりません
     が「子・孫」の「孫」が六人衆にからんでくると「孫」六人、「孫」七人というのにも懸かってきます。
    「牧島孫六郎」からは地名の「真木嶋」(信長公記)が出て、六人衆、孫六、孫七が
         「真木嶋・・彼大船(岡部又右衛門が造った大船)・・・風吹き・・・御渡海・・・」〈信長公記〉
         「宇治川・・・・真木嶋・・・宇治川・・・・昔梶原と佐々木四郎・・・」〈信長公記〉
         「真木村牛助」「牧村正倫(山口飛弾守@A相当)」
    などに懸かるという暗示がありそうです。正倫=正林、かもしれません。やっているうちに、
    もう一つ思いだしました。はじめから、三つあったと書き換えないといけないところ、
     つけたしで、このままいきますが
        「富田孫六郎」「富田孫六」〈甫庵信長記〉   
     がありました。ここで二つも見落としたのは不注意もありますが、〈信長公記〉では「富田弥六」
    が一つあって、目も疲れるというので甫庵の富田を確認せずに、素どおりでしてしまったという
     ことです。ほたら、これも触れないといけない、ということになりますが、このお蔭であと続いて
    述べたいことのキッカケが全部出てきました。「孫六郎」は「孫六」より(孫六人)の意味が強い
    のかもしれません。「富田」は
                        富田
                        太田
    で重ねやすいものですが「富田一白」〈類書〉などは太田和泉守を語るものがありそうです。
    〈辞典〉では、「富田長繁、越前」という人物が出ており、
         「 弥六郎、諱は “長秀”ともある。出雲の生まれだが、越前に来て・・・」
     となっています。「出雲」と「越前」を行き来しているのが重要で、山中鹿之助の尼子氏の月山
     「富田城」の「富田」、とここの「前波」に近い越前の富田弥六郎や、越前の剣客、小太刀の
     富田勢源の「富田」とが繋がれています。「出雲阿国」は出雲かもしれないが越前宰相と懇意
     です。太田和泉守は後世では「出雲守」になりかねません。栗原山はあの竹中半兵衛の故地
     ですが宮城の「栗原」は関係ないとはいえないのでしょう。太宰治はネット記事によれば、
     栗原市の政岡の墓を訪れ、なぜか「支倉六右衛門」の墓に行っています。政岡は先代萩の
     政岡で、これは亀千代、原田甲斐、伊達安芸など属性の人で、墓の、近くには7つの泉が湧き
     出て地名となった七清水があり、太宰は支倉の「大郷」の墓へ行ったということになるのでしょう。
     「大郷」から「太田郷」をみていたのかも知れません。ここまで話が来るのは
         中国十六ヶ国、「尼子」
     の話が〈甫庵信長記〉にあって「政岡」の原型とされる「三沢」氏も出てきて
       「安芸守」、「佐々木源三」、「本城」、「郷中」、「後小路(うしろしやうじ)」、「七郎次郎」、
       「陶五郎隆房」「山田山中」
     などが出てきて、例えばこの「山田山中」は〈信長公記〉の

          「山田山中・・松原・・・御大工岡部又右衛門棟梁・・・舟の長さ三十間・横七間、櫓
          百挺・・・大船上下耳目を驚かす。」〈信長公記〉

     へと繋がります。「尼」−「天」−「海部」というようなものがありそうです。
      まず、〈甫庵信長記〉の「孫六(郎)」は次の三つで、ここでは全体
      「富田」が太田色を出しています。

     @「前波九郎兵衛尉父子、富田孫六郎、戸田与次郎、毛屋猪介・・・・」
     A「★梶原勝兵衛尉、毛屋猪介・富田孫六郎、滝川彦右衛門、大橋長兵衛、併に中条又兵衛・・・
      夕庵・・・」
     B「前波九郎兵衛尉父子、富田孫六、毛屋猪助これ等を案内者として佐久間右衛門、子息
     甚九郎・・・・」

    があり、「父子」が2つ、と「子息甚九郎」が出ており、三兄弟の次世代のことも述べようとして
    いる、その孫六だということを示していそうです。前波の父の方が子の世代、子の方が孫の世代
    というのにもなりそうです。前波の「波」にも意味があるのでしょう。〈信長公記〉の「弥六」でみて
    も、同じようなものが出ています。子息甚九郎が甫庵にあるのが目立ちます。茶人、信盛の子息
    があります。〈信長公記〉は

     C「富田弥六・戸田与次・毛屋猪介参られ候。」
     D「前波九郎兵衛父子・富田弥六・毛屋猪介・佐久間右衛門・柴田修理亮・滝川左近・・
     E「★★梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・●滝川彦右衛門」〈信長公記〉
 
   となっていますが、ここでも「父子」がでています。すなわち、ここの六は三兄弟の次世代の
   六人の紹介も入っているというのがいいたいところのことです。すなわち6人衆の「太田又介」は、
     「太田又助」
   もありますから、鉄砲の名手として「きさじに見事を仕候」と信長に誉められことで紹介した
   太田又介Aが視野に入っており、太田和泉守の子息7人を孫六+一(山口太郎兵衛)=7で
   紹介したというのもありえます。
    〈明智軍記〉では明智光秀も子息7人です。すると武井夕庵もその程度と言うのが目安となって
    でてきますが、日禰野の系、日根野の系の人の割合とか、「七」「八」の人何人かというのは
   つれて出てくることだから毛嫌いがあっても触れないと仕方がないと言うことになります。太田
   和泉守の子の場合は父方3、母方4、となり、「七・八」は
          「太田又介A=前田又左衛門A」と「太郎兵衛=孫市(一)」
   となる、そのために「孫六」がここで切り離されて出てきてるといえます。ここでいいたいのは★
   と★★のことです。●の上の滝川左近は「大船」(の内の「白舟」)が属性です。

    (53)絶後の梶原平次
   ヘンな梶原平次ですが、21世紀ともなると、今後こんなアホなことが語られることはなかろうと
   いいうるので絶後で、その一つが梶原平次(郎)という表記です。問題はここがもう一世代あと
   読んで字のごとく「孫」の時代の7人が遣欧使節として航海したことまでも含まれているか、それを
   ここ(六人衆+一)で述べようとしたのかどうかということです。それが先ほどの〈両書〉の@〜E
   迄あった六つの文から窺えるのではないか、ということで(見当違いかもしれないが)@〜Eを転載
   してみました。しかし(それは見当違いかもしれないが)、「梶原平次」のことは言おうとしたという
   のは合っていると思います。
   すなわち、AとEで★が出てきたということが重要で、再掲、本能寺の変のとき、獅子奮迅の活躍を
   して阿弥陀寺の過去帳に載った「又右衛門」がでた〈甫庵信長記〉の索引は次の並び(左側)で
          梶浦兵七                梶浦兵七
          梶川平左衛門尉            梶川平左衛門尉
          梶河(川)弥三郎            梶河(川)弥三郎
          ■柏原鍋丸兄弟            ■梶原鍋丸兄弟
          ■(祖父)江孫丸            ■梶原(祖父)江孫丸
          梶原左衛門尉              梶原左衛門尉
          ▲(続子)松千代丸           梶原(続子)松千代丸
          ▲(同名の家子)又右衛門      梶原(家子)又右衛門
          梶原次右衛門尉            梶原次右衛門
          ★★梶原勝兵衛尉           梶原勝兵衛尉
          梶原平次                 梶原平次
          梶原平次郎               梶原平次郎
          春日河内守               春日河内守
   となっており、★と★★は、▲と梶原平次を繋ぐ役をしています。その上の「梶原次右衛門」は
   「治右衛門」もありそうです。■が入って途切れたようになっていますが、(右に修正できるの
    だろうから)「梶」が
   12並ぶことになります。太田(大田)で五つだから、その力の入れようがわかるというものです。
   「▲はこうしてもよいが■は駄目だ」というのがあるかもしれませんが、
       「かし」は「かじ」ー「かぢ」
   でもよいということでしょう。筆者はもとから「支倉」を「はぜくら」と読んでいましたが、いまみると
   そんな読みはどこにもなく、間違いでしょうが、これを見るとそうでもなさそうでもあります。
        かじわら=かしわら
    ですから。筆者などは「支倉」は「はせくら」だったら「長谷倉」ともなりうるというのも我田引水
    かもしれないと気にして書きますが専門家の間では常識で、〈クロニック戦国史〉の人名索引では、
        「長谷川ーー」七人、
        「支倉常長」
        「支倉時正」
        「長谷吉延」
        「畠山弥三郎」ほか三十五人
   となっていますから「長谷」に挟まれた「支倉」は「長谷倉」としてもよいといってそうです。「長谷
   吉延」という人は鎌倉時代の「百姓」の人で当時の訴状を書いた人です。「畠山弥三郎」ほか畠山が
が 多いのには吃驚しますが殆ど室町時代の人です。〈戦国史〉なので「長谷吉延」や「畠山」が奇異
   感じられますが表記が語るので時空は関係ないという一面があります。踏み込んで読まないと
   著者の真意は汲み取ることはできないといってきていますが、専門家もそれをやってこられて
   筆者の及ばぬものがあります。この甫庵の人名索引も滑稽なところがあります。

   (54)江孫丸
    ここの
        ■(祖父)江孫丸
   がそれでこれは珍妙な読みの例として既述ですが、この本文は
        「祖父江孫丸」〈甫庵信長記〉
    でこの、常識的には「祖父江」と読むらしい、一件しかないものが
        「江孫丸」
    とされているわけです。これを可能にしたのが、右の修正の■「梶原江孫丸」です。
     これが〈信長公記〉では
        「祖父江久介」「祖父江五郎右衛門」「祖父江孫」
    がありますので、まずここでは「祖父江氏」の「孫丸」と読まれるのが普通で筆者もその範囲内
    で読みが終了します。ここで■の
          梶原=祖父
    が出たわけで、梶原は祖父・孫を語る材料という喋りが出た感じです。また、これでいけたら、
    二つのことが出てきて読みが広がります。一つは
       「江」は、「え」または「こう」
    索引の「え」行と、「こ」行の人名に渡りが付きます。「え行」は
      「越前東郷侍従」「朶石(えだいは)和泉守」「海老名」「遠藤喜右衛門」「遠藤」
    など九つが出ています。この二番目の「えだいは」は
       ○「枝」→「令枝(いちえ)弥八」→「今枝弥八」」→「えびな(海老名)=森」
     のように展開され、
       ○「越前東郷侍従」→「長谷川竹」→「長谷川藤五郎」→「高山」
       ○遠藤→近藤
     に行ったりします。芭蕉では「近藤」で「近藤左吉」が出てきますが、芭蕉は、門人、
        乙州(おとくに)の母、大津の伝馬役川井佐左衛門の妻(智月)
      を大津松本に尋ねています。この「佐左」は
     一見不自然で「佐佐」、「佐々」かなあ、と思いますが、これは「川井」の「三左衛門」の方が
     自然でしょう。桟橋(さんばし)→桟敷(さじき)のように「(さん)三」=「さ(佐)」でよく
         「佐々木」→「三々木」→「三ゝ木」→「三木」=「森」
      は根底にあったと思われます。それでいけば「河野三吉」「生駒三吉」などは「左吉」になり
     「高木左吉」−「武田左吉」につながります。
           「野間佐吉」〈信長公記〉
     は「多羅尾右近」とペアです。「多羅尾」は「甲賀」の氏族ですが、多羅尾相模守もある、
     「相模湾」は三浦半島で「三浦右近」に行きますが、「甲賀」は「伴正林」が出てきて、「伴」は
     「塙」ですが高山右近の紹介のときに出てきた
           「伴天連」〈信長公記〉、「バテレン」〈甫庵信長記〉
     の「伴」でもあります。こういう「佐吉」が広がりをみせ「えだ石和泉守」の「枝」「石」と繋いで
     みるとき石田三成、高山右近→「森」というのが出てきます。また
          「江孫丸」とすると「こう」
     とも読めますから〈甫庵信長記〉の索引の「こ行」にもなります。こうして「江孫」を入れますと
         「山」「(江孫丸)」「上野紀伊守」「上野中務大輔」「上野」・・・「(同)与八」「上月十郎」
         「香津畑勘六左衛門」「★河野三吉」

     というような索引になりますがテキストの索引が「高山」を「こうざん」、「上野」を「こうの」と読ま
    せる索引となっていたのに初めて気がつきます。これではどうなるのかとなると
         「高山」「孫丸」「野」「野」「野」・・・「野与八」「月」「津畑」「★野佐吉」
    となるのでしょう。高山飛弾守ー高山右近というものが打ち出され、その線上に佐吉も出てき
    ました。
     梶原左衛門尉の続子松千代丸というとき、「続」が家を引き継ぐものというものがあるから、
    この「梶原左衛門尉」は第一義的に「惟任日向守」とみてよいでしょうが、「梶原平次」の登場
    はほかの梶原とは違って多く(甫庵で6回)、家中の人扱いになってるようです。
          梶原左衛門尉A=梶原平次として、これは「石田三成」、
     と解してよいのでしょう。「高山(こうざん)」「江孫丸」の線もあり、高山右近をみてもよいのかもし
     れません。キリスト教、渡海にもつながるヒントとして。このように
         「(祖父) 江孫丸」
      としたとき「そ」は、「え」、「こ」、このあと「後藤」もでてくるから「ご」にもなって関連のキッカケ
    の拡大に繋げるということがありますが、もう一つ重要な効用が出てきます。すなわち
         「江孫丸」
     となると、船名が出てきます。これでいけば「枝(森)の孫の船」、江=(こう)=高で「山飛
     騨守の孫号」と言った感じのものが出てきます。船名はかならず付けられたというのがこれで
     わかりましたから、自分なりに考えてみると、大体いい線が出てくるはずです。考えておか
     ないと、何が出てきても、けしからんとなってしまいます。

     (55)羅馬(ローマ)の読み
     「江孫」は、「江村」という表記があり、

           「佐野(屋号、灰屋)     一、雁の絵(「牧渓」と「玉燗」のがある。)
            江村              一、もくそこ
                以上  夕閑・丹羽五郎左衛門・・・・・」〈信長公記〉
      で出ています。この前に
          「大文字屋」「法王寺」「竹さしやく」「池上如慶」
      など出ていますが、「江村」からは「もくそこ」が出ています。これは記憶があったので
     〈武功夜話〉を調べると「もくそ」でした。
      「もくそ」というのは朝鮮陣の場所として出てきて、〈甫庵太閤記〉では「木曽」という字が宛て
      られるという特別な扱いになっています。
           タイトル「もくそ(ルビ=晋州」)城責めの事」
      で「赤国もくそ」がでますが、高麗国の釜山浦表より大河があり、大河より北辺を白国、
     大河より南方を赤国と分け、前者を「慶尚道」、後者は「全羅道」というようです。
     タイトルの「もくそ」と本文の「赤国もくそ(ルビ=晋州)」は違わせてあり、「全羅道」の「羅」を
     出すという一つの目的ではないかと思われます。「高麗」と「羅」がでましたが「羅」というのも
     高麗でもあるようです。要は「ローマ」は「羅馬」なので太田牛一は「羅」を出そうとしたと
     思われます。「亜細」「亜墨利加」「欧羅巴」などは江戸時代にあり、甫庵は「韃靼」も使ってい
     ます。なんでも明治ではないわけです。〈クロニック戦国史〉や、泰西騎馬図屏風の解説
     、全部「ローマ」で、それは当時使われなかったはずです。
     中国では「羅馬」を使ってきたのでしょう。〈広辞苑四版〉でも、ネット記事でも明治以前に
     「羅馬」 があったのかどうかよくわかりません、とにかく
           「羅馬」
     という字が太田牛一の時代にあったのか、知りたいが、掴めないので「ろう」とか「ろく」と
     かの当て字には「ら」だから考えにくい、また
        「多羅尾右近・・・・野間佐吉・・」 「黒部・・馬・・・佐々内蔵介・・進上・・」〈信長公記〉
     となっていると「ローマ」ー「右近」はないか、とか、「馬」が「羅馬」の1/2なので、それで
     みたら、〈両書〉の馬だらけの馬揃記事は、その目的はどうかな、ということにもなります。

     (56)安土城の屏風
      「もくそこ」は脚注では「百底の花入れ」となっています。「王寺」の「竹さしやく」からは
      次の連続で「天王寺屋の竜雲」の「化狄(クハテキ)」が出てきます。すなわち

          「土橋平次・鈴木孫一・・・・宮本兵大夫・・・七人・・・大坂・・・香庄・・・佐野・・・
           化狄・・・・天王寺屋竜雲・・・・さしやく・・・御泊・・・奥州伊達・・」〈信長公記〉

      で「化狄」は脚注で「床の間の上につる舟形の名物花入れ。貨狄。」となっています。
      とにかく「舟」が出てきました。ここは
           「平次」は梶原平次、土橋は土倉・戸倉→支(と)倉
           「鈴木孫一」は「薄田与五郎」と並びでこれは「山口与市」の「与」と「一」
           「宮本兵大夫」は省略した五人の「大夫」の一人、「大夫」は伊藤孫大夫→大船
           合計「七人」は「孫七の「七」
           「大坂」は「大坂城戸口」「大坂木戸口」ー「城戸小左衛門」、地名の「木戸」もあり、
」          「木戸」が芭蕉の「伊達の大木戸」につがる、「大坂城戸口」から「南蛮」がでてくる
           「奥州伊達」→「欧州伊達」
     などになります。
          法王寺→法王→もくそこ→(全羅道=全ローマ道)→「羅馬法王」
          法王寺→王寺→天王寺屋
     の流れあり、「屋」が重要でが灰屋(佐野)の「屋」もあり「納屋」「菜屋」の「屋」に繋がっています。また
     ここに出ている雁の絵が牧渓と玉澗があるということですが脚注では「玉澗の絵であろう」
     とされています。
      ここで、雁の絵→池上如慶がありましたが、これは→池上五郎右衛門→安土城につながり、
     安土城の情景の語りで
       「遠浦帰帆(えんぽきはん)」〈信長公記〉
    が出てきます。これは玉澗の表現をまねているそうです。〈信長公記〉テキスト補注では、これの
   解説として安土城屏風がでてきます。

      『信長が要求した画題のうちで
          ★「色々様々にあらゆる所の写絵(うつしえ)」や山海田園郷里などの「四方の景気」
       がある。永徳は安土城附近の景色実写に苦心し、賞賛された話しが狩野家に伝わっている。
      このような信長の現実的な画題への趣味は▲「安土城の屏風」に結晶した。それは一双に
      安土城、一双に安土町を画いたもので、信長はこれを
      たいせつにし、天正八年(1580)天皇にもお目にかけたが、のちこれを宣教師に贈った。
      「洛中洛外図屏風」を描いた永徳は同系統の▼「安土城屏風」にもその実力を発揮したであろ
      う(「図説日本文化史体系」)』

    となっており、「遠浦帰帆」というのが遠洋航海のようなものをいっているのではないかと思えて
    きました。
   ▲▼は表記が違いますが同一かどうかがわかりません。〈クロニック戦国史〉では天正9年
   ヴァリニアーノ、フロイスなど4人が安土城にきて一カ月余り滞在し、信長が城を案内し、
        永徳の「安土城図屏風」
   を巡察師ヴァレリアーノに贈ったという記事があります。しかし、もう一つ
      『狩野永徳に描かせた「安土山屏風」・・・・これは●来日中の使節に託してローマ法王に贈
      られ今日その行方は明らかでない。』
   が別のところにありここでは「安土山屏風」となっており「法王」に贈ったことがでています。
   二つの安土城屏風があり、二つともローマにありそう、ということになりますが、所在がはっきり
   していることになる法王庁に一つは確実に送られています。この表現「●來日中の使節」からは
   織田信長の下へやってきた使節に託してという意味だろうから、お土産的な意味合いで持って
   帰ってもらうということはあるのでしょう。つまり天正9年2月15日安土城にやってきたヴァレリ
   アーノらは、招待状などを届けた法王の使節といえそうで、2月28日の「馬揃」の見物とタイミング
   が合っています。

    太田和泉守抜きで考えようということになっていると、織田信長派遣という側面は消えざるを
   えません。織田信長に使節派遣意思があったから、巡察師がやってくることをみて準備がされ、
   、宣教師への御礼の絵と、ローマ法王に届ける永徳の絵を用意していたと見るのでよいので
    はないかと思われます。「●使節」次第によっては九州の三大名がちょっと浮いてしまう感じ
   です。このため
       ○永徳が絵を二部用意した
       ○安土城に、西洋風(キリスト教)の造作があった、(土倉→土蔵など)
       ○馬揃を実施している
   などのことがあったと思われます。とにかく太田和泉守とヴァレリアーノとは一ヶ月以上の接近が
   あったと言うことが重要で、二人の、一年後の遣欧使節の話し合いがあったと思われます。
    永徳の絵については補注の★の部分が、天正10年(本能寺の年1582年)の正月の安土城
   の記事にあります。この年(15巻目)は「六月二日」で〈信長公記〉の記事が終わるという多くの
   ものが凝縮された15巻の始まりの部分です。遣欧使節は
       この年(1582)一月二十八日長崎出航
   ということで、その正月の朔日の記事が安土城の情景で始まっています。(あとは一月十五日
   に飛ぶ)、元旦の文章がストーリーとして読めばたいへんわかりにくいので絵の部分らしいところ
   抜粋でやりますと
   
       「・・・・御一門歴々・・・・其次、他国衆。・・・皆々ひゑ候はん・・・・拝見申し候なり。・・・
     、、■狩野永徳仰せ付けられ、色々様々あらゆる所の写絵(うつしゑ)筆に尽くさせられ、其上
       四方の景気、山海・田園・郷里、言語道断面白き地景申すに計なし。・・・・御幸の御間
       ・・・・一天の君(いつてんのきみ)・万乗の主の御座(ござ)御殿・・・・御貼付、惣金
       の上に色絵に様々書かせられ・・・・十疋宛の御礼銭、忝くも信長直に御手にとらせられ
       御後へ投(ナゲ)させられ、他国衆、金銀・唐物、様々の珍奇を尽くし上覧に備えられ、
       おびたゝしき様躰申したらず。」〈信長公記〉

    があります。■が★を受けています。つまりここを見て先ほどの「遠浦帰帆」の解説における
    「安土城の屏風」の一つの形式が語られたといえます。しかし、■が法王に贈る絵図の解説
    で既に宣教師に贈られたのが「洛中洛外図」形式のような感じです。「ひゑ候はん」というのは
    御白洲にいるので「冷える」ということのようですが、「ひ絵候はん(絵の披露がある)」と読むのが
     もう一つありそうです。法王に送る絵を皆が見せてもらったというのが、正月の安土城の
    御幸の間の公開かもしれません。いずれにしても二つの絵、合わせて安土城の全貌を語れる
    といったものでしょう。それならば二つともローマにあるのでしょう。
    御幸の間についてルビのあるなし、から
        「一天の君(いつてんのきみ)」ー御座(ござ)
        「万乗の●主」−御殿
    という区別があって対置されている感じで日本、外国の君主の間(ま)というようになっている
   と思われます。「馬揃」ででた信長公の装束

      「此きんしや(金紗)と申すは、昔、唐土か天竺にて天守・帝王の御用に織りたる物・・・・
       今亦、天下納まりて、▲内裏・仙洞御ほうこうの御用に罷立つべきため参りたり。態(わざ)
       と織られたるごとく▼御ほうこう似相申すなり。」〈信長公記〉

    では唐土ー天守、天竺ー帝王となっていて、ここは「守」が使われています。ここで「天竺」に
    について脚注があり、
           印度の古称。「天守」は「天子」の誤写か。
     とされています。つまりこれは唐土=天守と対置したものです。ここの●「主」というのが、
     「天守」=「天主」の意味合いがあり、したがって
     唐土というのが一応西洋も含まれていると思われます。重ねているわけですから、隣の大国
    、中国への意識が過分になっているということでしょう。
     
     また▲は点の打ち方により理解がかわり、ここでは「ほうこう」が仙洞にくっ付いています。
         内裏・仙洞・御ほうこう」
    もありえます。「御ほうこう」は脚注では
       「上皇・法皇」
     となっており、「法王」が念頭にあるのかもしれません。▼でもう一回、特別に抽出しており、
     三つの極のようなことにこだわりが見られます。
    
    安土城の特徴とされる、「天竺風」に「唐風」を付加したという場合の「唐風」が西洋風が含まれ
  ているのは教会が土蔵にあることなどで考えられることですが、狩野永徳の「渡唐天神像」など
   も一概に天神(道真)が唐へ渡ったときの図、豊かな想像力の産物だということで終わってよい
   かというのもあります。「像」というのは、天竺も、中国も、西洋も共通するもので、土蔵の中の
   像ともとれます。狩野永徳は自分の絵がローマへ渡ったことは知っていますかから、永徳は
    西欧に関心ないとはいえないわけです。〈信長公記〉で重要な役割をもってでてくる
      「東福寺」
   も、そのもの
   をネットで見ても全然永徳が出てきません。東福寺で狩野永徳展があったからか、東福寺と狩野
   永徳抱き合わせで検索してみると東福寺「天井画」狩野永徳が出てきます。狩野永徳も散らば
   されているという感じです。〈クロニック戦国史〉における、天正遣欧使節ー支倉遣欧使節の
   散らばされ方も大変なものです。個々の事実が関連付けられにくいようにしよう、という意思
   が実現されていると感られます。〈信長公記〉の唐というのも額面でのみみれないものです。
    安土城の瓦焼の「唐人の一観」も中国の人とは限らないのでしょう。唐人お吉は日本の人です。
    〈信長公記〉安土城のくだり
       「御大工岡部又右衛門・・唐人の一観・・遠浦帰帆・・火・・如意がたけ(脚注=大文字山)・」
    〈信長公記〉天下の「唐物」の条、
       「大文字屋(宗観)所持・・祐乗坊・・・・・法王寺・・・江村・・・もくそこ・・・・」
   となっていて、「唐土」「天竺」の「唐」が出てきて
       「大文字屋」ー「宗観」=(観)=「一観」−「大文字山」
    が構成されています。やはり渡海を語るというものに「唐」の表記が働いているといえそうです。


   (57)黒坊主
   天正9年2月28日の馬揃を見ていたヴァリニアーノは、5日前、「黒坊主」を連れてきましたが、
   この人物は脚注では
        「弥助」 (〈武功夜話〉「今枝重之右衛門」の出た処も「船番屋」の「弥助」が出た)
   となっています。太田牛一は天守閣のことを「天主」と表現しましたが、「天主」は浦上天主堂
   の天主です。これは上の方ですが下の方には「土蔵」〈信長公記〉があります。
         「土蔵弥助」〈甫庵信長記〉、「土蔵弥介」〈信長公記〉
    があり、「土蔵」=「弥助(介)」=「土倉」で、「土倉四郎兵衛〈甫庵信長記〉」にも影響が及び
    そうです。
         黒坊主ー土蔵ーヴァリニアーノ
   で安土城の土蔵には、「きりしたん国」の香が漂っているといえそうです。太田和泉守は、この「黒の
   弥助を「土蔵弥助」と名付けたのでしょう。彼を太田牛一は

     「廿六・七」「黒き事牛のごとく」「彼(かの)男健(スク)やかに器量なり」「シカも強力十の人
     に勝(スグレ)たり。」 脚注では「十の人」は原本信長記では★「十之(ツツノ)人」
 
  としており、大変誉めています。つまり前田左馬允を討った土倉四郎兵衛ー土蔵(倉)弥助、の線
  から、人名索引〈甫庵信長記〉でも 
       土蔵(倉)四郎兵衛尉/四郎兵衛尉/土蔵弥助(以下「戸田」「土橋」「土肥」「富田」・・・)
、 の並びになっており、
           土蔵弥助ーー黒の弥助
           土蔵弥介ーー前田又左衛門A(佐脇藤八A)=太田又介(黒田の弥介)
  の二人を重ねて、ついでにその強さと器量を賞揚したといえます。★「つつの」というのを入力したら
      「筒の」「銃の」
  という二つの漢字しか出ません。鉄砲の名手であることもルビで語られたようです。
   太田又介ー善住坊ですが、この「坊」が「黒坊主」の「坊」です。
   〈武功夜話〉で著者が「小熊在の重之右衛門」に話しを聞きに行きますが「船番屋」の「弥助」に
   会い、「大浦郷」(毛利六左衛門の所)にも訪れます。「重之右衛門」の姓は隠されますが先祖は
  「今枝重之右衛門」で別のところで書かれています。寛永の著者が「今枝弥八」「弥助」に会うと
   いう設定でしょう。この著者の、訪問記の締めくくりは、
      「大河を越え渡り帰宅候次第に候。」〈武功夜話〉
   となっており、急にスケールが大きくなっています。森部十四条(軽海)に触れ、「弥助」を起用し
   太田和泉守を偲んでいる、渡海を意識した一文でもあったと思われます。
   ここで〈信長公記〉は
        「きりしたん国より黒坊主参り候。」
   と書いており、ここで「三国の名物・・・拝見有難き」と「三国」という言葉も使っています。
   したがって「三国」というのは、「天竺」「唐@」「唐A(きりしたん国)」になりそうです。日本を書い
   いないのですから。 要は安土城を訪れた
   外国の要人には、それぞれの国本意に安土城の語りができるというように出来ていたという
   のでしょう。安土城が諸国の単なる折衷ではない、それは太田和泉守という個体の中でしか
   生まれないところの何かがあって、巡察師に感動を与え遣使を決断させてしまったといえるの
   でしょう。各国現在の形は違っても、もとは同じ、帰一というものが表現
   され得た惣体というのが安土城であったと思います。しかし自国のことを書かない著者はなく
   、まして太田和泉守は織田政権の宰相のような存在だから、日本を打ち出すことを
   第一に考えるはずです。「天竺」、「唐@」、「唐Aーきりしたん国」のくくりにおいて、日本を表現
   せずに日本を打ち出すために「天竺」に間借りをするということになるのでしょう。南方人種の
   黒坊主に自分の子息を重ねて大した人物だと褒めています。国であろうと、個人であろうと
   重ねることは朝飯前のことです。
         
    ここ■の文の信長が銭を投げるシーンがフロイスの

       『「高山(タカイヤマ)ここへ参れ。・・・」と呼びかけ、多量の黄金を窓から海(湖)に投げ
       始めた。・・・その時明智の二子が死んだが・・・ヨーロッパの王子・・・・長男は十三歳・・』

   の投げるにつながっていそうです。信長が投げたときここにフロイスがいたようです。■の一節は
  〈信長公記〉卷十五(天正10年)の(一)正月朔日の記事ですが、ここに
          「高山へ積み上げたる」〈信長公記〉
   という「高山」が出てきます。安土城の石垣が崩れる話です。フロイス〈日本史〉のこの「高山」ー
  「黄金を・・投げる・・」という動作の意味がよくわかりませんでしたが、安土城の天正10年正月
  朔日の情景が、フロイスの〈日本史〉に反映されているといえそうです。
  ここではこの「永徳の絵」などの内見会の記憶と関連付けたわけですが、海=湖と
  いう二つも意味がありそうです。

   〈クロニック戦国全史〉にある使節代表、伊東マンシヨ、十三歳、と、フロイスのいう明智、長男
   十三歳は一応、いままで述べてきたことによって合致すると思われますが、13歳の、続子松千
   代が出てきたので一層確実となりました。
  こうなると、十三歳の伊東マンショは(明智光慶として)実存ということになります。すなわち
  いままでこれを石田三成ではないかということで10年年齢調整などで、三成の代替表記とみて
  きました。
   明智光秀本能寺55歳として(光秀の妻室48歳)13歳は孫相当になります。
       明智光秀ー明智光慶@−明智光慶A
   として、梶原左衛門尉ー「梶原平次」ー梶原平次郎
   という表記で表わされるのであれば@Aは親子となり、その年齢差が
   どうなるかということになります。つまり
      明智光秀ー梶原平次(次男)−明智光慶
                ‖
             石田三成
             明智光慶@
    となり、こうなると石田三成、明智光慶の年齢の整合をやっておいた方がよいことになります。
    今、石田三成は1560〜1600(ウイキぺデイア)となっています。40年の生涯ですが、これで
    やりますと、、本能寺1582では
         明智夫人 48    石田三成 22    明智光慶 13
   となってこの間の年齢は問題があり、とくに三成が、光慶に比して若すぎます。光秀子息の
   二番目の人は、生涯がよくわからないので、影が薄くて注目されていませんが、これが大物
   でしょう。15歳で治右衛門光忠に嫁したとされています。本能寺の年では27となり、先ほどの
   22が27に変更になります。すなわちこの人が石田三成相当の人と思われます。光忠は
   「次右衛門」から「治右衛門」に名前を変えています。さきに「梶原左衛門尉」〜「梶原平次」
   間に「梶原次右衛門」がありましたので、気が付くということです

   光忠は難解で明智系図では
     「某」の子(〈明智軍記〉)
   とされています。光忠@、光忠Aがあると思いますが、43歳の死となっています。一応
       石田三成(梶原平次)ーーーー明智光慶(梶原松千代丸)
       ‖ 光忠A(冶部の冶)ー三也ー43歳
       □□□
    とみておけばよいと思われます。

   梶原平次は、小豆坂人名表で「佐々隼人正」=明智光秀としましたので
      ▲「森三左衛門・山田三左衛門・・・・佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎・・・」〈信長公記〉
   でペアになっておりそれが意識されています。宇治川は「佐々木」−「梶原」ですが戦国の宇治
   河は
        「梶原をかたどり梶川と名乗って」〈甫庵信長記〉
    があり、
        「梶川弥三郎」「梶河弥三郎」「稲葉伊予守」「弥三郎」「伊予守」「伊予」「梶川」
    が「室町殿重ねて御謀叛の事」〈甫庵信長記〉で錯綜して出てきます。つまり
          「石田伊予守」〈甫庵信長記〉
    とつながって、石田=梶原が出てきます。「祝弥三郎A」=明智光慶@=石田三成
    が炙りだされてきます。前稿冒頭の
         「山田三左衛門・梶原平次」〈信長公記〉
    の並びは▲が効いてきて
       「森三左衛門」→「山田三左衛門」→「太田三左衛門」→「太田孫左衛門」
    で数少ない「石田」の「石田孫左衛門」につながり、
          「石田孫左衛門」
          「太田孫左衛門」
    となりますと、「石田」「石太」に石田正継をみてその「孫左衛門」は「明智光慶A」となりそう
    です。この正使は
         「伊東弥三郎」〈信長公記〉
    という表記で出ており、これが波濤を乗り越えて大航海をしたときの代表、伊東マンシヨ=
    明智光慶ではなかったか、というのが結論です。
    
    信長が銭を
    投げたのが正月朔日、次の一節が正月十五日の爆竹の記事です。これが遣使の鍵の一節です。     

    (58)左義長(御爆竹)
    左義長まつり(祝儀として爆竹を用いる)、この行事は2回出ています。二つの記事の間に
    馬揃の記事と狩野永徳の絵と信長が銭を投げた記事が挟まっています。信長公の左義長
    は馬揃の馬を駆るという行為が付いてまわります。つまり、馬揃の内容が、二つの爆竹の記事
   に反映されています。逆に言えばはじめの左義長は馬揃の予行演習かもしれない、といえるくらい
   です。うんざりするほど「馬」が出て、例えば馬の名人 (ヤシロ)は
        「矢代(ヤシロ)勝介」「矢代勝介」「屋代勝介」
    と表記を変えて、二つの御爆竹、馬揃に出ています。順序は

       天正九年 正月十五日、御爆竹(さぎつちやう)実施
              二月廿八日 御馬揃実施
              
帰      天正十年 正月朔日   安土城見学、狩野永徳の絵、御幸の間などの叙述
              正月十五日  ★御爆竹実施

   となります。
   この馬揃のあと小さい馬揃が三月・八月の二つあり、二回目の御爆竹に渡りをつけている感じ
   があります。決論的には★が遣欧使節の壮行会、送別会を兼ねたものではないかということです。
   ★の記事は1年前の記事とほぼ同じで、微妙に違っているというやっかいなものですが大部に
   なるのでとりあえず一見で目についたところだけ触れてみます。★の記事

           「(二)正月十五日、御爆竹江州衆へ仰せ付けらる。
              ■御人数次第、
              ●北方東一番
           平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・山岡孫太郎・蒲生忠三郎
           京極小法師・山崎源太左衛門・小河孫一郎   (8人)
              ★南方
           山岡対馬守・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・
           阿閉(あつぢ)淡路守・進藤山城守         (7人)
              巳上
           一番、御馬場入、菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹・矢部善七郎・御小姓衆・
               御馬廻
           二番、五畿内衆・隣国大名・小名
             ▲三位中将信忠卿・北畠中将信雄卿・織田源五・織田上野守信兼、此外御一門、
           四番、信長公。・・・・・・仁田進上のやばかげ・奥州より参り候ぶちの御馬・遠江鹿
              毛・・・秘蔵の御馬▼三疋・・・・屋代勝介、是にも御馬乗らさせられ、其日雪降り  
              、風ありて寒じたる事大方ならず。・・・・・」〈信長公記〉

    となっています。ここでの論点ですが
        @●の下の(8人)(7人)が爆竹担当ですが、1年前と変わっていません。一応同一人
         といえます。数も同じです。しかし
           ○8人の「山岡孫太郎」の位置が前回は、最後の「小河孫一郎」の前にあった
           ○7人の「山岡対馬守」の表記は、前回は「山岡対馬」であった 
           ○阿閉は両方ともルビがある
         ということに気が付きます。また■の文が前回なかった、人数というからこれが一つの
         ポイントです。つぎが●と★の対置だというのは誰でもわかります。書いてみると
            ●北方東一番
            ★南方□□□
         となり、不完全となっています。□×3の部分を埋めるとすると、いま、お目当ての
             「西」と、前回なかった「一番」
        を埋めるということになるのでしょう。(前回は、「一番・・二番・・四番」はなかった)
        従って■は「8人+7人+4人=19人」ということになりそうです。あと▼の「3」を忘れ
        てもよいが、覚えとこ、ということでよいのかも。 
     
        A■の文の代わりに前回は一行入っています。文言
             「御爆竹を申付ける人数、」
         が出てこのあと
             「北方東一番に仕る次第
               ・・・・(8人)・・・・
              南方の次第
              ・・・・・(7人)・・・・」
         とあったのが前回です。これはもうハッキリしています。前回は15人が爆竹担当だった
         のが、爆竹はやらなくてよい人が今回はいたということです。

        B▲のところ「三番」というのが抜けています。▲の並びは、その前の
           (一)節(安土城見学、狩野永徳の絵、御幸の間などの叙述あるところ)の並びと
           おなじで、そこでは
             「三位中将信忠卿・北畠中将信雄卿・織田源五・織田上野守信兼、此外、
              御一門歴々なり。其次、他国衆。・・・・」〈信長公記〉
          となっています。つまり其の次ぎとなる「他国衆」が三番でこれが抜けており、これに
         は国内の大名小名は入りま
         せん(在安土衆で括くられる)。要は宣教師などが来ているということです。

         なお前回の爆竹は一番、二番、四番とか言う番号はありません。▲の一門は前回とは
         人物が違っています。三人同じ、三人違っています。つまり前回は余分な二人が「此外」
         になるのでしょう。

         C四番の「遠江鹿毛」は馬揃の中で出ており、それがここで受けられています。遠江
          を「遠」と「江」と別けてみますと、それぞれがこの爆竹の一節に繋がってきています。
          玉澗八景には「遠浦帰帆」のほかに「遠(煙)寺晩鐘(クロニック)」もあるようです。
          「江」は「江孫丸」の「江」ですが両爆竹の「江州」の「江」があり、前節にも「こう」は
            「幸(御幸)」「江(江雲寺)」「幸」「幸」「(高麗)」「皇(皇居)」「幸」
          があり特に「江雲寺」は脚注では
            「江雲寺光宝亀山(六角定頼)を祀るところ。湖南地方における六角氏のかつての
            勢力を配慮したものとみえる」
         とあります。これだと「光雲寺」もありうることになり、〈甫庵信長記〉では「雲寺」と
         なっていますから、広角で捉えた「江」が爆竹の「江」に来ています。こういう社会を
         前提とすると佐々木と織田はもと同じでどこかで別れたという関係がありそうで、それを
         表わす近江の余呉(語)の「佐々」の起用があったのではないかと思われます。
            宇治川先陣の佐々木・梶原の佐々木ーー南北朝の近江のばさら大名佐々木道誉
           (戦国の佐々木)−−畠山道誓(誉?)〈甫庵信長記〉ーー畠山総州〈信長公記〉畠
           山殿ーー佐々孫介ーー武井夕庵
         のようなドッキングが出てきています。

         四番の「仁田進上のやばかげ」がわかりません。「仁田」も「やばかげ」も。前記訳本では
         「仁田進上の矢庭鹿毛」となっています。脚注では「馬の名」となっていますから「矢庭」
         という名ということでこうなった根拠から何か出てくるのでしょう。
             「仁田(にった)」(にったと読むのが普通、鎌倉の仁田四郎忠常)
           は地名というよりも「進上」とあるから個人名で「日田(にった)」と宛てられると思われ
        ます。「新田」もありますが、幸いウイキペデイアでは「日田忠常」ともいわれると書かれ
        ています。「日田」は豊後、大友宗麟の地ですが「肥田」−「飛騨」(蒲生飛騨)にもなりえ
        ます。幅が広いようで、当面、特定は急がなくてよいのでしょう。つぎの「奥州より参じた
        る」の馬と同様、漠然としています。

         日田といえば後藤又兵衛の故地「中津」で日田ー耶馬渓の「耶馬」がセットで出た
         とも考えられます。
             「仁田」−−−「やばかげ」
               ‖         ‖
             「日田」−−−「耶馬渓(景)」
        となるのでしょう。「耶馬」=「邪馬」(邪馬台国)で「日本」がでてきそうです。
  
        一方「仁田」の「仁」の側面からいえば〈甫庵信長記〉
           「仁木義長」「仁木伊賀守」「仁科五郎」
        が出てきます。「仁」は
           「左義長」・「伊賀伊賀守」・「保科五郎」
        などが意識されて出されたかもしれませんが「日田」の「日」で人名索引をつくると前後
           「日乗朝山(日乗上人)」「日本介(奈佐日本介)」
       あたりになります。「日乗朝山」は「朝山日乗」と同じとのことですが、テキストでは「朝山日乗
       は俗説」となっています。徹底的にキリスト教布教の邪魔をしたことで知られているよう
       です。永禄十二年に布教が再開されることになりましたが
   
            「4月20日には信長の面前でキリシタンをきらう●朝山日乗とフロイス、修道士の
            ロウレンソ(44)との間で宗論が行われた。この議論に破れた日乗は・・・朝廷
            から綸旨を獲得し、バテレン追放をはかった。」〈クロニック〉
  
      があります。それが遣欧使節まで出せるところまで来たというので朝山を引っ張り出すの
      は、情景に適っており、反対勢力、逆さ表記の●が出されるのは問題提示でもあります。
      「仁」はその一つでもありますが、「仁」から日本が打ち出されるのも当然と言ってもよい
      ところで、馬揃のところでは日本が出ています。
          「奥州津軽日本(ひのもと)迄大名小名によらず・・・」〈信長公記〉
      もあり、この文は点検が要ると思いますが、さきほどの「奥州」同様「奥ー欧」はありえますが
      とりあえずこの「日本」を受けようとした「日乗」や「日田ー日本介」につながる「仁田」とも
      思われます。
         「やばかげ」−「やば鹿毛」−「耶馬景」−「耶馬渓」
     というのは面白そうだが、どうみても、おかしい、ということになりそうです。
     「耶馬渓」は江戸期もかなり後半の「頼山陽」が名づけたもの
     で、太田牛一はそんなことは知らない、ということが出てきます。「頼山陽」は大坂の人で、
     父の春水ともども木村世粛の兼葭堂に出入りしています。主人が後藤又兵衛、木村重成の子孫
     だと威張っているのを知っており話を合わせるのには両雄についての、かなりの勉強も必要
     でしょう。山陽ともなれば、中津ではそれを出してくることが考えられます。〈甫庵太閤記〉では
     「英彦山」が出ており、ネットでも「耶馬・日田」で検索すると「英彦」が付いてきます。今日では
     「やばかげ」とヒラかれてみると「耶馬渓」の「耶馬」が第一に浮かぶわけです。とくに「ば」には
     「馬」という字を宛てるのは必然で
           ○一回目爆竹の馬 9個
           ○馬揃で「馬」40個ほど、「御厩別当、青地与右衛門」「遠江鹿毛」
           ○「御厩の口」「信長」礼銭を投げる
           ○二回目爆竹の馬 8個 「遠江鹿毛」 
     の馬の流れがあります。邪馬台国の「邪馬」もあるからそうなります。つまり頼山陽によって
     やられた、注意喚起といえそうです。
    、頼山陽は誰が見てもここの「やばかげ」がわかりにくいだろうと踏んで一般に解釈を提供し
     た、木村兼葭堂も「黒田」にうまく、結びつけた、してやったりと悦んだということになりそうです。
     筆者としては「耶馬八景」としてくれた方が
         「玉澗」の八景
     にフィットしてよいのにと思いました。エイヤと「耶馬八景」で検索すると、二件でていまし
     た。これは後世の人が誰か「琵琶湖八景」と結びつけてやるだろうと言う頼山陽の読みが
     あったのかもしれません。頼山陽は「耶馬渓」止まりにしておかないと、もっと昔から耶馬渓
     といっていたかもしれない、という含みが消えてしまうのでしょう。つまり頼山陽が「八景」だ
     けつけたら、太田和泉守時代に「耶馬渓」といわれていたということにもなります。木下、黒田
     のこの辺りは太田和泉守の故地なので、大抵のことは太田和泉守は知っていたと思われま
     す。
     五十余年前、長い間、月々少しづつ積み立てて、やっと貯まった八億円で卒業旅行した
     ときは、耶馬八景はアナウンスがあったかどうかは覚えていませんが、「石垣原の戦」「名将
     吉弘」「黒田官兵衛」「頼山陽」は記憶にあります。ネット記事、「山陽」
     のイントロによれば「山陽」の父は「春水」ですが、祖父は「惟清」といって「山陽」の名前を
         「久太郎」
     とつけさせたそうです。「山陽」はその心は何かと後に考えると思いますが、ここの二回目の
     爆竹のなかの
         「堀久太郎」
     に注目したかもしれません。それなら、ここは天正少年使節の壮挙を語るところというのは
      合っているといえそうです。ここの「遠江鹿毛」というものが「遠」と「江」で、馬揃のものが
     持ち込まれています。テキストでは
         「遠江(静岡県)産の鹿毛か。」
      となっています。直感的には遠江がブランドにはならない感じでこうではなさそうです。
     直感では「遠江・近江」があり「とおとうみ」「おうみ」で「うみ」があり、「近江の海、夕波
     千鳥・・・」の歌もありますので「遠い江」というのがいいたいところと思われます。

      脱線しましたがこの二回目の爆竹の一節が遣欧の中心(最後)に位置する記事というべき
      もので(この1ヶ月後に長崎を出航している)、今後くり返し出てきます。「爆竹A」の一節
      としますが、とにかく@で「8+7+4」=19という人数が出た、というところです。

  (59)馬揃(天正9年)
     馬揃の記事
     が問題で一見した段階ではちょっと変えないといけないような感じです。すなわち

       「御馬牽(ひか)せられ候次第。御厩別当、青地与右衛門御奉行なり。

          左御先  杓もち みちげ(人名)
                 草おけ持ち、御のほりさし

            一番、鬼蘆毛

                水おけ持、御のほりさし、
          右御先  ほさく持ち、今若〈人名〉

          御くらかさね唐織物・・・(鞍の上の道具の説明)
            二番小鹿毛、三番大あし毛、四番遠江鹿毛、五番こひばり、六番かはらげ
と     ●此御馬と申すは、奥州津軽日本(ひのもと)迄大名・小名によらず、是ぞと申す名馬
        我も我もとはるばる牽上せ進上候余多(あまた)の名馬の其中にて勝れたる御馬なり。
        本朝において是に上こす御馬あるべからず。・・・・・
            七番、夕庵、山うばの出立にて・・・・
            八番、御曲ろく持四人・・・・・・・」〈信長公記〉

     において、
          ○頭が揃っていない、
          ○「一番」の「鬼蘆毛」と「二番〜六番(馬の名)」「七番」「八番」が飛んでしまっている
     、ことなどでそのように感ずるわけですが、一方
          ○ズレ方が三種で整然としている、
     ので、「二番」〜「八番」までは(書物の中ではこうなるが)「一番」の右へ移して延ばしていけ
     ばへリコプターから見た行列の態様をそのまま画いたということになります。
      先頭を行く青地与右衛門は、青地駿河守を森勝蔵としましたので、もう一人の森勝蔵A、
     森可成の子息の若い森長可とみるのがよいようです。

     一番左から出ている文は説明のような部分です。
     ●の三行の文がどれを指してコメントしているかというのが問題です。これぞ名馬の中の名馬
     日本でこれ以上の馬はないといっています。●の
         「此御馬」
     というのは、冒頭に「御馬」があるから、ここに登場の御馬の意味だろうということになりますが
     そうとるには「此馬」というのが複数になりますので無理のようです。●の文にある「此」「是」
     「是」は同じ意味で「此」がある意味がわかればそれは無理だと言うことになります。また、
     そうとするには●の文に切れ目がなさすぎます。また、読者に来歴を知らしている馬が少な
     すぎて全体が本朝でこれ以上のものなしというのは無理でしょう。「五番」の「こひばり」
     などは「河原毛」が後ろにあるから「馬」だろうとわかる程度です。脚注では「こひばり」は
         「馬の毛色。黄白のまじったもの」
     となっていますから「馬の毛色」というのがどうしても説明に要ります。それだと、ひばりに似た
     毛色の馬という常識的なものの表現だったということになります。〈広辞苑〉でも「ひばり鹿毛」
     いうのがあり、
         「黄白の斑でたてがみと尾とが黒く背に黒い筋のあるもの」
     となっています。
     子供の頃の「こひばり」は毛模様が違って「こひばり」鹿毛というのもあるのでしょうか。とにかく
     最低この馬の献上者などの説明ががいるはずです。一番の鬼蘆毛は神保越中守の進上の
     「黒葦(アシ)毛」かもしれない、最後の「かはらげ」は多賀谷修理亮の「星河原毛」、すなわち
         「星河原毛の御馬・・・七歳・・・・牽上進上・・・青地与右衛門・・正宗・・・佐々木・・・
         佐々内蔵佐・・・黄金・・」〈信長公記〉
      で出た「壷の碑」と重なった馬で締めたといえそうです。、
         「雲雀山(ひばり)山」、「ひばり山」
     は馬の来歴は出てきませんが
         「・・・丸毛兵庫頭・雲雀山へ取上り・・・」〈信長公記〉
     とかが七番の夕庵に結びついたりしています。「毛」も「雲」も「丸」も同じです。「ひばり山」
     「高山」「阿閉淡路守」などがでてきて別の繋ぎを予想させるものはあります。とにかく
         「こひばり」
     は、わかりにくくてすんなり進めないというものがあり
         可愛いい名前だから、これはスターの馬だ
      と思いますが、一番鬼蘆毛とかラストの河原毛とか来歴があるものと比較すると
      「是」「此」には入っていないという感じです。

       「此」れ、「是」というのは馬揃の「四番遠江鹿毛」を指すというのが結論です。
    脚注でも、静岡県産の馬であろうか、ということでした。よく判らないのが本命です。これは、
    再掲、二回目の爆竹の一節(さきほど「三番」として「他国衆」を入れた)

          「四番、信長公。・・・・御馬、仁田進上、やばかげ・★奥州より・・・・御馬・遠江鹿毛、何
          れも秘蔵の御馬三疋・・・」〈信長公記〉

     においても、「四番」ーーー「遠江鹿毛」が繰り返されているということでも窺えます。つまり
    ●は馬揃の「遠江鹿毛」、二回目の爆竹の「遠江鹿毛」を説明したものとなります。とくに爆竹
    の「遠江鹿毛」は他の二つは説明があるのに何もないわけです。●がここへ持ってこられて
    ここで説明が繰り返されてもよいはずです。しかし、そんなん、どやわからん、というのも
    あるので太田牛一は●のスタートを「此御馬と申すは」と「此」を使い、あと二つを「是」「是」と
    したのでしょう。
          「此」=「し」
     でこれ以外に読みようがないようです。用例では、「彼岸(ひがん)」ー「此岸(しがん)」が
    辞典に載っています。「紫」=「此(し)」+「糸(し)」だから「紫」を「し」とよむのでしょう。
    「此(し)御馬」−「四御馬」−「四番遠江鹿毛」となります。
      こうなると●の文中の
             「奥州津軽日本(ひのもと)迄」
     がよくわからないので引っ掛かります。「奥州」と「津軽」は別物とし、「奥州津軽」と「日本」という
     対置となっている、というのが現在からみて違和感があるというようなことです。それは別とし
     て〈信長公記〉の使用例ではどうなっているかというですが、テキスト地名索引では
        「奥州」   200頁、360頁   
        「奥州津軽」     249頁
        「津軽」   → 奥州ーーー (これは奥州津軽の意味でしょう)
     となっていてこれだけでは手が付けられない感じです。奥州の二つは
        200頁は、「奥州へ取りに遣わされ候」
        360頁は、「奥州にて隠れなき希有の名馬(これが多分★の馬)」
     で普通の使い方ですが★の馬は会津ですから、奥州は会津も入るようです。次の「奥州津軽」は
        「奥州津軽の南部宮内少輔御鷹五足進上。」〈信長公記〉
     が249頁です。
      ●の「奥州津軽日本」は索引に入っていません。次の津軽の「−−−」の部分に入れてある
     という意味でしょうが、検索が出来ないから「日本」入りの「奥州津軽」がすぐ出てくるのが
     避けられたといえます。すると、こういうのが他にあるかとみなければならず「津軽」がどうか
     ということが気になるので全部みなければならなくなりました。筆者は幸いに「遠野孫次郎」
     「石田主計」などが出たあたり奥州があったので見当つけてやりました。すると
        「石田主計・・・堀久太郎・・・相伴(しやうばん)は津軽の■南部宮内少輔(くないせふ)なり。
        御天主見物・・・・生前の思い出忝きの由候キ」〈信長公記〉
      とりあえず一つ(これだけかも知れないが)「津軽」がありました。これで大体、太田和泉守
     のいいたいことが出てきそうです。
        「奥州津軽」=南部宮内少輔=「津軽」
     です。しかし■のルビで、ちょっと違うので南部が両方に跨っていて
        「奥州津軽」=南部@=南部A=「津軽」
      ということをいっていそうです。つまり
          「奥州津軽日本(ひのもと)」のその中で、これに勝る御馬のない「四番遠江鹿毛」
     は二つが含まれており
         ○「津軽(奥州津軽)日本」のその中で、これに勝る御馬のない「四番遠江鹿毛」
         ○「奥州日本」のその中で、これに勝る御馬のない「四番遠江鹿毛」
            ‖                                ‖
           「欧州日本」                      「此蛮遠航鹿毛」
      となって、馬揃、四番はサラブレットが行進したというこになりそう。これを引き立てるために
れ          二番小鹿毛  →   小
           三番大あし毛  →   大
           四番遠江鹿毛  →   特大
           五番こひばり、  →    小
   という抑揚をつけて欧州馬を目立たせたといえそうです。一方「こひばり」の「こ」は「子」もあります。
   ここでサラブレットの子を出したと思われます。こうなるとこれがスターでドッと沸く、遠江鹿毛も
   引き立ち、宣教師に挨拶ということにしたのでしょう。●の文の馬に続いて
        「御皆具申すに及ばず。何れも色々に御結構申すばかりなし。」〈信長公記〉
   道具もよかったといっています。よく出てくる「結構」に二つの意味があるようです。ここで
        「奥州津軽日本」
    という表現が「奥州津軽」を立てているということがあるのかどうかです。〈広辞苑〉では「津軽」は
       「青森県(陸奥国)西半分の呼称。もと越の国または出羽に属した。」
    とあり、これは東国を三つに分けて「奥州」と「津軽出羽」と「ひのもと」部分として捉えていて
  一応太田和泉守の思う織田の天下布武はこれで終わり、あとは帰順を待つだけでよいということ
   でしょう。あとで徳川家康公と伊達マサムネが組んで秀吉を
   動かして討伐を行った、北条まで潰したという苦い結果があります。三国鼎立のような書き方に
   してあるのは「日本代表」の意味があるにしても、この辺のこともありそうです。要は本能寺の
   ことをこの年の初めに当たって予期していたかということの一つといえるかどうかです。
       「相伴は津軽の南部宮内少輔」
    の一節から多くのことが出てきます。奥州が欧州に変えるためのものとみたのも合っていそう
   です。同じ、この一節に
       「奥州の遠野(トヲノ)孫次郎」
   がありますが、先ほどの「奥州」の地名索引には出ていません。先ほどは200頁、360頁の二つ
   でした。「奥州」−「遠い」−「孫」となると何かが出るからでしょうか。このあと
       「石田主計」−「北国通舟路」−「はるばるの風波を凌ぎ」−「御秘蔵」−「堀久太郎」−
       「前田薩摩」−「御天主」−「御結構」−「白熊」−「黄金」−「黄金路銭」
    があります。あと
       「赤井」ー「黒井」ー「維任」ー「江州」−「安土御山」−「関東」−「生前の思い出」
    もこの一節にあります。「生前の思い出から「宗易」が出てきます。さらに
       「相伴」ー「伴正林」ー「鉄砲屋与四郎」ー「資財・雑具」ー「小袖・御馬皆具」ー「御泊」ー
       「安土」ー「堀久太郎」
    もあり、津軽のある一節は、2回目の爆竹の記事に連結する、その鍵となる語句が多いところ
   です。「堀久太郎」が2回あります。「白熊」(ハグマ)もそうです。「関東」は馬揃の一節の「関東
   より伺候の矢代勝介」があり、一回目の爆竹はルビつき、二回目の爆竹では「屋代勝介」と
   字が変えてあります。赤井・黒井の「赤と黒」は19世紀のスタンダールの小説にありますが
   これに西欧の特色があると太田和泉守が認めるものならば、2回目爆竹に利いてきます。
   当面はここの伴正林が大きな意味をもってくるので、ここは「津軽」の一節としておきます。
     もう一つ
       「奥州津軽の南部宮内少輔・・・・」〈信長公記〉
    の一節は「大船」に尽きます。
       「大船六艘作立て・・・・大船一艘・・・白舟・・・熊野浦・・・大坂表・・・・此大船・・・・
        七艘の大船・・・大鉄砲・・・奥州津軽の南部宮内少輔・・・万見仙千代・・・南部・・」
    となっています。天正の少年遣欧使節では〈クロニック戦国史〉でも船が出てきません。
    傭船か国産かわかりませんが、古来より外洋に慣れ、安土城を造った技術力があり、遠路航海
    建造能力はあったと思われます。狩野内膳に南蛮船の絵があり、この出発の記憶があったの
    かもしれません。

    (61)左義長(爆竹)の語り(2)
      天正使節団一行の人員の記録(ウイキペディアより借用)によれば
         使節 
            @伊東マンシヨ(正使)
            A千々岩ミゲル(正使)
            B中浦ジュリアン(副使)
            C原マルティノ(副使)
         随員
            D ジョルジェ・ロヨラ  修道士、      使節の教育係、     日本人
            E コンスタンチノ・ドゥラード     印刷技術習得要員、      日本人少年
            F アグスチーノ             印刷技術習得要員、     日本人少年    
            G アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(以後、「ヴァ神父」とする)
                          神父    ロ−マへ随行するつもりだったが、職務に
                                 によってゴアにとどまる。
            H ヌーノ・ロドリゲス  神父    ヴァリニャーノの後をついで一行に随う。
            I ディオゴ・メスキータ 神父       通訳、           イエズス会員
            J ロレンソ・メシア神父
            K オリヴィエーロ    修道士

   となっています。総勢が12人で、Gがゴア止まり、ローマへ着いたのは11人、Dの人が帰ってくる
   途中で亡くなったとかの話しがネット記事「天正少年使節」(att.ne.jp/wood/)にあります。これは
   重要な記事だと思います。先ほどの数字19+3=22との整合性からいえば、この一表記
    2人だからこの11人×2=22としてやってみるということです。そのうち今
1     明智光慶・山口与市・松永貞徳・高山長房(仮)
   の4人が顔を出したといったところです。
    巡察使のヴアレンチアーノ神父は出発のときゴアで下船し、5年後、ゴアで一行の
   帰りに再会しています。

    基本的には、織田信長が日本として使節を出したのではない、ということと、ここの日本人三人の
   名前がわからないというのは矛盾した話となります。つまり@〜Cも、直前まで無名の人だった
   から、三人の名前も出されてしかるべしで、織田信長が日本国王として出すのだったら政府の
   使節と民間人という区別から、名前を挙げなかったというのは納得できそうです。しかしこれほど
   の壮挙で7人くらいの日本人の少年の名前がわからないというのは、それで納得してしまうの
   は、多くの面での疑問も含めて全然なってないということです。8年後帰ってきたという
   ような遠方で、送り出した親も周囲もたいへんな思いです。三人とわかっているのだからちょっと
   書けば済むことですが、全体を書けないので其の中でこの部分にどういう工夫があったかとみる
    のが要ります。とにかく一番困る反論は、派遣人員のことなんか隠す必要はないではないか、
    何をごたごたいっているのか、ということですが、そんなら明智光慶が使節だったというのは
   知られてもいいかとなるとそれは影響が大きいとなるでしょう。しかしこれを明にしているわけで
   代償が人員の不明ということでもあります。〈クロニック〉によれば
    出航五年後、1587に伴天連追放令が出て、ゴアで遣欧使節と合流したヴァ神父はインド副王使節の
    肩書きを得てようやく一行を日本に連れ帰ることができたということです。帰ってきた年の
    1590には記述は無くて、翌年の一月八日、四人とヴァ神父が秀吉に聚楽第で会ったという記事
    があって、そこで前年の六月二十日に帰っていたという紹介があります。秀吉に会った4人は
    秀吉から仕官を勧められて全部が蹴ってしまったということで、秀吉も禁令を出したり二日も
    会って歓待したり、振られたりで忙しいことです。ちょっとこれは表記をよくみないといけないと
    思います。
    狩野永徳は使節が帰ってきた年の九月に急逝した(48歳)ということですが自分の絵が届け
    られたことは知っていたことになります。こういうことは永徳および周辺の人にとっては大きい
    ことで、永徳の死亡年月などは合っているのでしょう。とにかくわかりにくいようにされていま
    すが、日本では明治以降は、これに便乗して利用されたということです。

    ウイキペデイアの資料をみても、海外の情報までが加味されて、研究され尽くされた上での
    今の理解と思われますが、海外のことは肝心の太田和泉守の発信を積み上げたものが、通
    説的理解の構成要素になっていないというのが特に顕著に出てきているようです。これでは
   〈両書〉のほんの一部の援用だけでも全体が壊れそうですが、ここでは、あらゆる資料を睨み
   ながら、いまの全体像に対抗しようというのではなく、先ほどの四人のよな人事情報だけでや
    ろうとしています。人は多くて多彩で奥が深く間違ったらいかんというのがありながら、資料は
    手元の〈両書〉だけですから、代表選手抜粋で、全体像は無理にでも作る、いうやり方で
     いきたいと思います。早い段階で
    すっきりした形にはなりにくく、仮定したあとからすぐ崩れることもありますが、著者の謎かけ
    、(空白)を埋めるのでないと、著書の、全体ー完結の語りというのが出てきません。世界史上
    で最も発信力のある文献によっているから、安心です。紆余曲折は、肥やしが増えるだけです。
    発信力というのは個人の属性からも出てくるものでしょう。太田和泉守は 織田信長の横に
    いたというのだから、孔子やシェクスピアも経験していない一国の文化・政治・軍事・経済の渦
     中にいた、接触する人物が多く多彩で、大小善悪の情報が入る位置にいたわけです。
    「人数を殺す事常の習なり」という死体の実見が多い動乱の時代に生れて、自らは子息や身内
    に先立たれて生きてるのもいやだというなかで長生きした個人でもあります。「ああ哀れなる
    勝頼哉。」とストレイトに感情が、訴えてくるものがあります。活動舞台がシーザーやら孔明に
    比べて小さいから、遠慮もしょうがないというかもしれないが今いおうとしているのは極東と極西
    を繋いだ太田和泉守ということだから、舞台は大きいのです。

 
      ウイキペデイアの資料をもとにして
    進めてみますと、基本的にあの四人(@〜C)が、八人となる、とは思いますが、DEF三人
    も日本人ということなので、これは六人となる、計十四人が日本人です。爆竹Aでは、8+7
    =15人だった
    ので一応一人合いませんが、これは、いつもあることです。資料が整然としすぎて良質な資料と
    となってしまうのも問題です。
     Dの人が修道士で日本人で、もう一人、Kのオリヴィエーロ「修道士」がいますので、これで
    重ねてKの人が隠された日本人ともとれます。これを日本人と書いたら、16人の日本人と
    となって、こんども爆竹Aの8+7=15、に合いません。こちらは多いほうです。まあ外国人、
    日本人というのは、分けるのは余り意味がなくて、日本人でありながら、外国人の名前だけ
    で通している人があり、修道士ロウレンソという人は日本人です〈クロニツク〉。
     又 、外国人ー日本人の連れ合いもあるでしょう。ウイキぺデイアの内容との整合ですが
 
        四人(その1)                        (その2)
     @伊東(1)  明智光慶、(続子松千代丸@)    K伊東(2) ▲九鬼右馬允
     A千岩(1)  山口与市、伴正林A)         L千岩(2) 九鬼嘉隆
     B原(1)   高山長房(「糸丸」16歳)        M原(2)  宮部世上坊
     C中浦(1)  松永貞徳(続子松千代丸A)     N中浦(2) 明石掃部助
         三人の日本人+1                   三人日本人+1(その2)
     D(ジョルジュ・ロヨラ修道士) 堀尾金助       O鈴村主馬(薄田)    
     E(印刷技術習得要員)    □□□         P□□□
     F(印刷技術習得要員)    □□□         Q□□□ 
     G(Kオリヴィエーロ修道士) ▼宮本武蔵@      R大谷紀之介(生駒市左衛門)

     Hディオゴ・メスキータ神父               20 高山右近@
     Iヌーノ・ロドリゲス神父(ヴァ神父代理)       21  内藤如庵
     Jロレンソ・メシア神父                  22  森蘭丸A(堀久太郎A)
    
     除外 Gヴァ神父、ゴアまで 
 
   というように数あわせができそうです。左の11人がウイキのもので、右がそれと同数、参加人員
   日本人が19人で、外国人(H〜J)が3人で計22人で、先ほどの爆竹の15+4+3=22と
   なります。人名はあてずっぽうですが、▲が本稿のテーマの人物で、これは養成してきたから
   織田信長が遣欧船を出すとなると艦長となるのは当然で実戦経験を積んでいます。▼は、海賊
   対策の切り札で遣欧船に乗っていたのは、記述が多いから確実で、この二人を明らかにでき
   ればあとはスムースにいくかもしれません。最も用心棒にふさわしい人物は33間四方確実に
   敵を倒せる森海老名ですが本能寺対策で関東に予定されており無理なのでしょう。両方の大事
   が同時進行しています。宮本武蔵、吉岡道場一条下り松大立回りも船上の殺陣(たて)の
   想像図かも。あほな人がいて一条を一乗寺に変えてしまいましたが「乗船」「船乗」の「乗」を
   出したのでしょう。「松」は、「光秀」の「唐崎の松」「ひとつ松」の「松」があり、これは常山では
   「秀吉西国の米を買われし事」の西の次にあります。一条の「松」は「松千代」の「松」に繋げたのかも
    EFPQの□□□は民間の人、ヴァ氏が選んだ四人が入るのか、ほかに予想外の織田家
   中の人が入るのか、無理に四つ空けましたがいまのところはこのままにしておきます。

    日本人であるのにカタカタだけで表示する場合があるのでGとHIJは正体不明とも
    いえます。ただ〈クロニック〉で「ロドリゲス」は
         「宣教師ロドリゲスの偉業、〈日本大文典〉の編纂」
     というのがあります。これも微かに記憶があったので、確認のためクロニック索引をみると
    「ロ」で検索しますから載っていません。探した挙句、出てきましたが、中味では
         「ジョアン・ロドリゲス・ツヅ」
    という人物でしたので、ここの「ヌーノ」ではないから、これと違うということで終わりです。
    結局索引は「ジョアン」でもなく 「ツヅ」で出ていました。つまり、索引では
         「ツヅ、ジョアン・ロドリゲス」
    となっています。おそらくわかりにくいと文句をいわれると、「ツヅ」の後ろの点が
         「ツヅ、」となっていて「ツヅ・」
   ではない、そういうやりかただ、全部そうなっている、学問は基礎が必要と、逃げる
    つもりです。同じようなことで、文章は「ルイス・フロイス」
    で索引は「フロイス、ルイス」となっています。
         「ロウレンソ」
    という人がいてこれは「日本人修道士」〈クロニック〉と書かれています。ここのJの人物と同一
     か、と聞くと、違う、わからないという程度のことになるでしょう。しかし安土城に天正9年に
     宣教師がやってきた記事

       「布教区の視察のためにローマのイエスズ会から派遣されていた
       アレツサンドロ・ヴァレニアーノ(42)は、
         ニエツキ・ソルデイ・オルガンテイーノ(51?)
         ルイス・フロイス(49)、
         ●ロウレンソ(56)
       をともない上洛中の織田信長(48)に正式に謁見した。」〈信長公記〉脚注
 
    があり、これは〈信長公記〉では黒坊主がやってきたときの記事ですが、この重要な、遣使、馬揃に
    つながりそうな出来事も
        「きりしたん国より黒坊主参り候。・・(黒坊主の様子)・・シカも強力十の人に勝(スグ)
        れたり。■伴天連召列れ参り、御礼申し上ぐ。(「シカ」は傘篇に「小」)」〈信長公記〉

     という記事、つまり黒坊主に関心ありという一文に摩り替えられているというのが観取でき、
    〈信長公記〉の事件の取り上げ方のモデルとなるような一文です。ここで表記上、重要なことが
     出てきます。
     ■は脚注では、
        「二十五日、ヴァリニヤーノは、オルガンテイノとフロイス及び★ロレンソをつれて
        信長を正式に訪問した。」
     となっています。つまり、●は★と同じだったら、Jの人物と同じかもしれない、残念だと思って
     みてきたので、ここで一歩前進となったわけです。一方●は、永禄十二年(1569)

         「日本人修道士のロウレンソ(34)らが府内(大分市)から京都へむかって旅だった。」
                                                 〈クロニック戦国史〉
     という年齢を出した一文が出ています。
   織田信長が布教を許可したこの年(〈信長公記〉の巻二にあたる)から数えて、22年、この若き
   ロウレンソも本能寺前年では46になりました。これは年齢の10年違いから、重ねてありそうです。
   「日本人」というのは合っているのではないか、
           「日本人修道士」=「ロウレンソ」=「安土城」=ロレンソ
  となり、安土城訪問のときは、ヴァレリアーノと同行で、外国人としてみてしまったが、「日本人修道士」
  になるわけです。これがJの人物かどうかは一応は調べないといけないということになりますが、
  とりあえずは、Jの人物の属性はわかる、年齢が47で日本人とみることも可能ではあります。

    一応ロレンソ・ロウレンソは似て非なり、10歳違いの二人と取れないこともない、且つ一人は日本人
  とわかったことでもあり、外国人四人のうち一人は、日本人と外国人を表わしている、とみなしうるという
  のが出てきた感じです。
       「屋代勝介」
   が三回も出てきましたので、「内藤勝介」−「佐々隼人・梶原平次郎」〈信長公記〉、の線から、
   また「ジョアン」というのが何となく出てきましたので
           「内藤如庵」「内藤如安」〈類書〉
   が対象としして、浮かび上がってきます。
で  
    Hの「ロドリゲス」も偉業のあるロドリゲスということになると、このときの船中での長い付き合い
    がこの偉業を生んだかもしれないということになります。
    「ロドリゲス」というのは、他にいたとしても、この「ロドリゲス」は特別ですから
            ロドリゲスー遣欧使節の(ヌーノ・ロドリゲス)ー使節ー〈日本大文典〉
    という繋がりは無視できない、太田和泉守の印刷に関する意欲とともに、相互の文献の翻訳
    というようなものがあったとみるべきものでしょう。■の前の「十の人」に脚注があることは
    既述ですが
        『 「十之人」、池田文庫信長記(は)、原本信長記「十之」の訓「ツツノ」。』
     となっています。これは「筒」「銃」の「つつ」で「大筒」「銃」という剣呑なもの、「筒井氏」という
   のも「筒井順慶」があり、還俗名が「藤四郎藤政」といい一族的な名前で、松永との確執があり
    これは明智光慶ー松永という関係がここで出ていることがあると思われます。「十之人」というのは
    は「明智十兵衛」があるから一応筒井が出てくるでしょう。とくに、再掲
       「ジヨアン・ロドリゲス・ツヅ」または「ツヅ、ロドリゲス・ジヨアン」の「ツヅ」
    が考えられると思います。「ジヨアン」が索引の頭にならないように細工されたのが「ツヅ」で
    「如庵」が出てくると「松永長頼」「小西行長」につながる「内藤如安」が出てくるからこれでは
    、こうとなると困るというのがあったのかもしれません。
     「ツヅ」の謎というのが、「ロドリゲス」の偉業に内藤如安などがかかわっているというのを
    示して隠したものともいえそうです。ヴァリアーノがマカオで降りてしまって、あと任せとなったのは、
    日本国が独自でやるという形にするためともとれます。あとロドリゲスと、メスキータの両神父が
    残ったということでこれは引き当てがいまのところむつかしく外国人3人という
    のがいまのところの段階です。しかし、ロドリゲスは偉業のロドリゲスという感じです。メスキータ
    神父は日本でなくなっていますが、早くから日本に来て実績のある人と聞いています。
          
「   (62)爆竹の人数
   ネット記事になどによって人数は11人日本人8、外国人3人か、と或いは(日本人7、外国人4)
   だろう見ましたが〈信長公記〉でそんなことは出ている
   かということが問題です。再掲、爆竹1の記事は、担当者は

           「 北方東一番に仕る次第、
           平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・蒲生忠三郎
           京極小法師・山崎源太左衛門・▲山岡孫太郎・小河孫一郎 (8人)
             南方
           山岡対馬・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿
           阿閉(あつじ)淡路守・進藤山城守               (7人)
            ・・・矢代(ヤシロ)勝介と申す馬乗り、是にも御馬乗(朱訓=ノラ)らさせられ・・・ 

     であり、二回目の爆竹2の出席者の若手は

           「 北方東一番、
           平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・▲山岡孫太郎・蒲生忠三郎
           京極小法師・山崎源太左衛門・小河孫一郎       (8人)
             南方
           山岡対馬守・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿
           阿閉(あつぢ)淡路守・進藤山城守             (7人)
            ・・・屋代勝介、是にも御馬乗らさせられ・・・・

  
     となっています。殆ど同じで、すこし違わせてある、そこを論点とすれば効率的です。
       ○「北方東」と「南方」では不完全表現となっている。「西」が抜けている、「西方」「南西」
         着目ということになる。方向として西欧、途中フィリッピン、インドなどになる。従って
         後段(7人の方)に、話の眼目を置くつもりである。このため全体の8人と7人というの
         は合計15の内の、7人に意味がありそう。(孫七)
       ○この場合、一人だけ離されている(他に人は見当たらない)
            「屋代勝介」
        が、前段か後段の「+1」を構成するのに貢献すると思われる。

    全体はこういうことですが上段だけは並びが変わっています。移動は▲の「孫」付きの人物という
    のがポイントで上段(東一番)ではそれだけです。ここで、動かして両方を並べてみると

      前回   平野  多賀  後藤  蒲生  京極  山崎  山岡  小河
      今回   平野  多賀  後藤  山岡  蒲生  京極  山崎  小河
             ‖    ‖   ‖   ↓    ↓   ↓    ↓    ‖    
            平野  多賀  後藤  +−0 +−0 +−0 +−0 小河
   
    で蒲生〜山岡にプラマイの取り消しが発生します。上段は平野他、「四人」、だけとなりますが
   、プラマイ付きの痕跡だけが残った浮遊した「4人」とで(8人)となります。一応、変動のない
   下段(南方)の方に四人が移行して、下段の方が七人+四人=十一人となり、変動のある4人
   を足して4+十一=(15人)が出航したことになります。まあ内訳作りがあったのかも。

    上段は、外国人の宣教師、四人と、名前は消えましたが民間の人(四人)ではないか、小河
    が離れているのは、外国人のなかに一人、あいまいさがある?。
    後段は政府筋の人、七人で、合計の構成は、四人+四人+七人で十五人、これに一番の人
    四人×2=八人を加えて、十九人ということになるのでは。もしくは上段は内訳に徹し、
      外国人の三人と、それに重ねられている日本人、四人と、そのもののカウントだけの民間
      人(四人)の 計、11人ーーーーーーーーA
    政府筋七人、一番の4人 計11人ーーーーB
    
      A+B=22    B×2=22
    の両面から人数を出そうとする言い回しが、こういう上下段ヲ設けた意味ではないかと思わ
    れます。Bだけでやれば、一表記二人などおかしい、ウイキの11となっているのを何故2倍
    するのか、となるが、Aのような理屈でやればそれぞれ一回使ってできた、ということになり
    ます。これだけでやればなぜ二倍しないんだということになってしまいます。手法が大事だか
    ら公式を出しながらやっています。昔の人が、そんなことまで考えている
    はずがないというのはありません。
     つまりオリヴィエーロ修道士に宮本武蔵を宛てたのはともかくも、日本人に引き当てでも
    よいということになりそうです。後段は簡単で

            山岡対馬⇒山岡対馬守
  
   という違いだけで、あとは全く同じです。「阿閉(あつぢ)」のルビまで同じだから全く同じという
   のを強調しています。二つの山岡の差異は、上段同士の差異と違って、同一人ともいえる、
   微細な違いにされています。
    つまり山岡は一旦取り消しになっても、半分復活するのかもしれません。
   山岡を持って来た、また一字の違いを創ったのはなぜかということになりますが
         @「守」というものを付加した。「天主」の「主」、「森」を意識させた、
         A「対馬」は海の向こうだ、海を意識させた
         B山岡は、「高山、山口」の山(高山飛弾守ー高山右近、山口飛弾想起)をみている
         C上段の「山岡孫太郎」だけの位置違いを指摘し、それによる変化を暗示受けとめる
         D後段の「孫」に注目させた(「池田孫太郎」の前に違いを創った)
         E山岡は少しの違いなので完全な取り消しではない、その半分、+「守」が生きて
          外枠の屋代の「勝介」に引っ付き、「森勝介」を「山岡対馬」に代わって入れる
  
   というのなどのどれかがあるのでしょう。後半は7人+0・5=7・5にしたということにします。
  「屋代」の代は代わるであり、「対馬」の「馬」は「馬乗」りの「勝介」につなげるようにされている
  といえます。後半は「0・5」の問題があるとすれば一つは、「勝介」=0・5、があります。つまり
  「勝介」というのは〈二書〉では
        「内藤勝介」(明智宗宿相当)
   しかないと思われるので、これが「内藤如安」の「内藤」となるとしました。内藤=勝介=矢代
   で、内藤(0・5)+八代(0・5)=内藤小西というと如庵が有名です。これはついでに便乗しま
   したが、本命は除外のヴァ師ではないかと思われます。ヴァ師は長崎を出航したが
   ゴアで降ります。これを勘定に入れると、22・5人が出航したということになります。後年4年後
   一行が帰ってきたときにゴアで顔をみせます。このとき秀吉の宣教師追放令が出ていて一行が2年
   ほど足止めを食らって帰国できなくなったようですが、そのときヴァ師がインド副王使節の肩書
   きを得て連れ帰ることができた(クロニツク)ということです。大変なやり手ですが、折角近くまで
   帰ってきたのに国へ入れないというのだから無茶苦茶な話ですが、こういうときに太田和泉守
   動かなかったとは考えにくく、二人は重練られているのは明らかですが根拠があればこれに
   越したことがなく山岡対馬→山岡対馬守の後半の唯一違いがそれを示すものと言えそうです。
   
   ここで「孫」付きの人物三人について見逃さないような仕掛けがあり、山岡孫
   太郎は下段に移り、「小河孫一郎、山岡対馬守・池田孫次郎」の並びになっています。下段の
        「青地千代寿」
   もキーマンになるのでしょう。これは「阿閉(あつぢ)」というルビ付きの人物の前にあり、「地」−
   「ぢ」のサインもあり「千代」は御曹司=本能寺の「続子松千代丸」に繋がります。青地の前の
        「永田刑部少輔」〈二書〉
   は「刑部少輔」があるから「大谷吉隆」がすぐ想起されるところですが、これを「刑部少輔@A」
   で捉えてみますと、大谷吉隆の父は類書では殆ど大友家の「大谷盛治」とされています。この
   大友は豊前豊後の大友宗麟の大友です。伊東マンシヨは
       「大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向伊東義佑の孫。」〈ウイキペデイア〉
    といわれています。耳川の戦いで有名な大友・島津戦は「日向」が舞台ですが日向の「伊東
   義祐」が重要な役割を果たしたようです。この
        「祐」
    の人が〈信長公記〉で出てきます。
       「森下道佑」(考証では「森下道与」)
〉   で、索引では考証名「森可成」(文中=森三左衛門)の前にあります。「森」「道家」「与」と「森」
    らしいものの揃った表記の人物として作られたのかも知れない、と感ずるものです。この前は
       「森川備前守」(テキストでは「森川備中」もあって、これが正しいであろうとされている)
 、  があります。これは既述ですが

        「岡部丹後守・三浦右近・森川備前守・朶石(もといし)和泉守・・」〈信長公記〉
  
   の並びにいる人物で、朶石→孕石→原見石、の和泉守の前にあり、森下道佑は「森」と「泉水」
    に挟まれてということになりますが、前の「森川」を「備中」にしたいというのは
       「原和泉守」「原田備中(守)(塙直政)」〈信長公記〉の索引
    があるから、この原田ー原に繋げたかったからというのもあると思います。ただ「備前守」のまま
    でもよいわけで〈甫庵信長記〉索引では
        「原田備中守」・・・「塙九郎左衛門尉(一段下げて「原田備前守」)」
     となっており、現に文中に両方あります。これは珍妙なことになっています。この両者の間には
       「原田与助」・・・「伴太郎左衛門尉」「(同)正林」「伴喜三郎」「(同)小七郎」・・・
     などがあります。「原」からは
       「原隼人」〈信長公記〉、「原隼人佐」〈甫庵信長記〉
     があることがわかります。「佐」で誘導されるように、小豆坂人名表の「佐々隼人正」が意識
     され、これは、明智光秀(当時17歳)でした。原マルチノー明智光秀Aというような繋がりが
     でます。また
       「原隼人」は「原昌栄」と考証されており、これは「しょうえい」と読みますから狩野永徳の父
           「松栄」
     も出てきます。とにかく「大谷紀之介(大谷兵馬)」(大谷吉隆の前名とされる)は(連れ合い)
     猪子兵介と「兵」を共有しています。「紀伊」の「紀」をみてメンバーに入れました。

「     (63)佐久間信盛
     「栄」でやれば「佐久間甚九郎」の「信栄」がでてきます。千利久の〈二書〉での
     登場回数が余りにすくなく、その動向を補うものが「佐久間甚九郎」と申しましたが、これをA
     とすると@となる人物も実存のものとなるのでしょう。
     佐久間父子が追放されて「佐久間甚九郎」という表記が一時消えます。天正8年
         「佐久間右衛門尉信盛▲父子御折檻の事」〈甫庵信長記〉
     と題する長い一節があります。この折檻が鉄砲屋与四郎の折檻と繋がっており佐久間甚九郎
     と利久を結ぶものとなっています。天正10年にもう一回記事が在って、次の文の■以降に
     出てきます。

         「・・・天正十年正朔・・・・言語道断の儀式・・・礼銭十疋持参・・・・殿守見せらる・・・
          狩野永徳・・・賢聖の間、伊フ周召(伊尹、フ説、周公旦、召公爽)今眼前に謁するが
          如くなり。見物事終わりなば、
             何れも台所にて一礼申され候へ、
             即ち十疋宛直(ぢき)に御請取(うけとり)有るべし
          と仰せられければ、
             三位中将信忠卿を始め直に是を捧げらる。
             其の外は申すに及ばず其の次第に捧げ上(たてまつ)る。
             其の式法は厳重にして礼銭は軽く御座(おはし)ませしも、いみじかりける御
             振舞なり。
             ■同十六日に佐久間右衛門尉、・・・病死・・子息甚九郎早々免許せしむる・・
            宇喜多和泉守・・・正遷宮・・・・堀久太郎・・三千貫・・森乱丸・・・」〈甫庵信長記〉

     ■の前は御幸の間見物の甫庵の記事ですが、この佐久間の記事は〈信長公記〉の第二回
     爆竹の記事に出てきますから、信長が銭を投げた話と第二回爆竹の話しが繋がっていること
     がここでもわかります。まず佐久間のことですが、ここの「子息甚九郎」は、佐久間
    甚九郎@とみてよく、織田の大将、桶狭間の善照寺砦城将の佐久間信盛の子息とみてよい
    のでしょう。この佐久間の家は、こういう折檻は受けなかった、その家は残ったということの
    解説がここでされたということでしょう。佐久間信盛は
    既述のことですが、天正14年7月12日に「卒」となっています(名将言行録)。
    一方追放されて亡くなったのは、■の天正10年正月16日です(二書)。死が二つあるわけで、
    ■の部分の〈信長公記〉の記事は二回目の8人、7人が出た爆竹記事の後半部分にでています。

       「(天正10年)正月十六日、▼先年佐久間右衛門父子、御勘当を蒙り、他国を致し、紀伊国
       熊野の奥にて病死仕候。・・・子息甚九郎事・・・御赦免・・・」〈信長公記〉

     となっていますが、▼はちょっとおかしい、追放されたのは父子になっており、この文では
    病死したのも父子です。だから別の甚九郎が突然出てきた感じです。先の■の甫庵のもの
    では、折檻の記事が「佐久間右衛門▲父子」、病死したのは■「佐久間右衛門尉」と書いて
    あり、正確です。したがってここで「父子」という表記が重要で、索引ではこれが区別されて

         「佐久間信盛(〜1583)   右衛門尉。信長の老臣。近江長光寺城主。・・・・・
             天正四年・・・天王寺に出陣。八年改易。子信栄とともに高野山に・
             追放。      ●173・334・376頁
             佐久間           53・230・243・245・263
             佐久間右衛門(尉)   24・42・52以下合計40頁(尉は極端に少ない)
             ・・・・・・        」

    となっています。●のところは三頁とも本文では「佐久間・・・父子」としてあるので「佐久間信盛」
    ではなく「佐久間・・・父子」としなければならないところです。つまり
         「佐久間信盛・・・・・・・・・
             @佐久間・・・父子    ●の三頁
             A佐久間
             B佐久間右衛門(尉)    」
が  としなければならないところです。@は内容では、太田和泉守の乗ったものと取れます。
   Aの上の53頁というのは、桶狭間における「佐久間居陣」というもので、善照寺砦の守将
  ですから、本来の佐久間父子とみれます。天正四年に佐久間信盛が戦死しますがこのときから
   佐久間右衛門Aが自動的に、佐久間信盛@となると思われます。太田和泉守が、佐久間信盛
   に乗っかって、消滅して、その間に
   事実が語られるということがありますがこれも実存の佐久間父子を明かそうという試みのひとつ
   といえます。佐久間信盛を実存として捉えられれば、そうした理由もすんなり理解できることに
   もなります。
   佐久間信盛、追放に関するものは、太田和泉守の虚構で、本来の佐久間父子は
   全然関係なしといえますが、その間に語られることが多いのも、事実ではないことを示すもの
   です。佐久間信盛への信長公の譴責書が〈両書〉に出て
    いますが、ストーリーを追うのでなく語句で捉えると、別の物が見え、多くのところに関与し
    新たな語りを生むことになります。例えば〈信長公記〉では

         @「信長家中にては進退格別に候か、三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、
          大和にも与力、河内に与力、和泉にも与力、・・・紀州にも与力、・・・七カ国与力」

         A「唐土・高麗・南蛮国までも其隠れ有間敷候事」「比興の働き前代未聞の事」
 
         B「甚九郎覚悟条々書き並べ候へば筆にも墨にも述べがたき事。」

   などあり@は「佐久間」は太田和泉守を通して、大変な縁戚の広がりがあることがわかり、
          「二万余騎の大将」〈甫庵信長記〉
   となっており、これは織田一の大将であることを示し戦死があれば、普通は親戚だから太田和
   泉守後見で子息の引継ぎ、となるのでしょうが、織田家の場合はどうなったか、一つのなぞかけ
   がありそうです。Aは太田和泉守自身のことを佐久間で語っていると思われます。
    「唐土・高麗・南蛮」は「大坂(おざか)・・・日本一の境地」で語られ
「       「大坂城戸口まで舟の通ひ直にして、四方に節所・・・遠山の景気・・・・西は滄海漫々と
        して日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟海上に出入り・・・」〈信長公記〉
    があります。城戸は六人衆の城戸でしょうが木戸井は八幡の造営に繋がります。節所は高山
    で、日本一とか日本が入っています。また
     比叡山焼き討ちを止めさせようとした人物は
          「信盛、武井肥後入道両人」〈甫庵信長記〉
    となっており、佐久間信盛に太田和泉守が乗っかっているケースであるといってきましたが
    太田和泉守は武井肥後入道に乗っており、平手政秀Aが諫言したというように変えたほうが
    よいことになりそうです。
     Bは千利久にふさわしい賛辞です。

     佐久間右衛門が戦死すると子息がそのまま佐久間右衛門の表記を継続して
     わからないようになっているといえますが、そのために佐久間右衛門尉というのもたまにあっ
    てどれがどれというわけではないが、太田和泉守のことも語る可能性は示唆されています。
    表記は多様になって
    いて、〈信長公記〉では「信盛」というのは、なく先ほどのものだけです。〈甫庵信長記〉は
      「佐久間右衛門尉信盛」「佐久間右衛門尉」「右衛門尉」▲「信盛」「佐久間右衛門尉信盛父子」
      「▼信盛父子」「佐久間父子」「佐久間」
     となっており、江戸期の人はこれで読みこなしており、現在でもこういうのはもう読まれて
    いそうです。〈名将言行録〉の記事が、追放後病死の記事を生んだと考えられ、光っている
    ともいえそうです。
           「原隼人」〈信長公記〉 (考証名は「原昌栄」)
    がありますが、この「原昌栄」の「原」が「原マルチノ」の「原」で、「栄」が、佐久間の「信栄」の
   「栄」にも通ずるという感じがします。これは「佐久間右衛門父子」の「勘当」の記事が、爆竹A
   の一節に突然登場しますので目を向けていたので結びついたものです。天正十五年、
      
      「正月十六日、先年佐久間右衛門父子、御勘当を蒙り、他国を致し・・・・病死候。・・・
      子息甚九郎事、国の安堵、御赦免・・・・」〈信長公記〉

    があり、先年というのは爆竹@の年ですから、遣欧のことと「甚九郎」が絡んでいそうです。
   「栄」はまた永徳の父「松栄」の「栄」を呼び出して、栄=永というものが「原」と結びついたとは
   いえないまでも、「松永貞徳」の親のことは出ている感じです。
    甚九郎が契機となって
                 狩野永徳
                 ‖今井宗久A(海老名勝正)ーーーー松永貞徳
                 千利久
     を証しているのかもしれません。佐久間信盛が爆竹Aに出てきたのは一つはこの今井宗久
      でこれは、あの「太田又介」ですから
         「鉄砲屋与四郎」〈信長公記〉
    というのに、ふさわしい人物です。伴正林が与四郎の私宅、資材などを拝領しました。鉄砲屋
    与四郎A(利久の今で言う子息が13歳以上であろうとして派遣人員に入れています。貞徳
    の兄弟だから入れないと揉めそうです。
     また佐久間氏がテキストでは、千葉県の「安房佐久間に住し」とあり「安房」というのが知ら
     れていて、これが渡航とむすびつくというのもありそうです。

      いまこの▲▼のような
          「信盛」
     は「の行」として人名索引には活かされていません。これはおかしいわけでやるとすれば
      野々村と野間佐吉の間に入ります。野々村の一人は太田和泉守ということになります。
      また      信長
               信盛
     という索引もできます。こういう人名索引を利用して人名比定、係累調べに役立てるというのは
     公式化されているといえそうです。何回も例を出してそのように理解するというのもありますが
    どこかで公式化しているというものがあります。次の磯野の場合で一応確認しておきたいと思います。

    (64)磯野丹波守
    後世でやられた例ですが〈明智軍記〉で
        堅田衆
          「猪飼野甚介・馬場孫次郎・▼居初(イ ソメ)又次郎●両三人」〈信長公記〉
     を
          「猪飼野甚介・馬場(はば)孫次郎・▲磯部(いそ べ)又次郎は・・」〈明智軍記〉
 
     で表現していました。これは「音」(おん)だけの繋がりで、ルビもおかしい、これだと何でもありでは
    ないか、という疑問が当然出てきます。極端な例が出てきたのは、その心があるのでしよう。
    〈信長公記〉の人名索引をみると
           磯野員昌(文中は「磯野丹波守」)
           居初(いそめ)又次郎    大津市内堅田地方の豪族
           伊丹源内宗祭       」
     となっています。要は、索引の「居初」の前の「磯」を使っても同じ効果をあげうる、ということ
     をいっていて、それ
     が▲に反映したといえます。つまり〈信長公記〉の索引が前提となっていて、▼が▲になる、
    同一人にまでなるということで、索引が、その並びなどが特別重要であるといっています。この
           「磯野丹波(守)員昌」
     は姉川の戦いには必ず出てくる人物
    で浅井の先陣、織田の重層の陣を突破したことで有名です。もう一つ登場場面があって、
     織田信長を狙撃した、「杉谷善住坊」を捕まえてきて信長公に差し出しました。もう忘れた時期
     に余計なことをしていますが、これは「森えびな(佐脇藤八A)」との接近が図られたものでしょう。
     さらに、天正六年
          「磯野丹波守上意を違背申し、御折檻なされ、逐電(チクデン)仕り、則、高嶋・・・・
          織田七兵衛信澄仰せ付けられ候。」〈信長公記〉
      があります。この「折檻」が鉄砲屋与四郎で出ました。
     出奔してどこへ行ったかわからないという不完全燃焼になっています。▼の前が索引では
     この人物(磯野氏)ですからヒントがありそうです。
              猪飼野甚介
               ‖▼イソメ又次郎(イソベ又次郎)
              馬場(はゞ)孫次郎
     が考えられます。●がわからないから色々こじつけてきましたが、この二人三脚をいってる
    のであろうとこのあたりで納得がいきそうです。磯野員昌はおそらく子息のところへ身を寄せ
   応援しようとしたものと思われます。こういう例は他にありそうです。猪飼野は明智光秀の拠点
   でありここに磯野が入り、織田信澄もいる、大船が建造されているとなると本能寺のときの琵琶
   湖周辺の明智の勢力が過小評価されているのではないかと思われます。馬場孫次郎も
           「馬場」=「はゞ」
     というルビが付されています。これもおかしい、〈明智軍記〉の人名索引をみますと
            ★波々伯部員次(権頭)
            波々伯部小大夫
            馬場信房(美濃守)
            馬場孫次郎
            祝部治部大輔
            葉室
    となっています。つまり、まず「波」「波」がでます。波間を行く、波頭を越え行く、「孫次郎」が
    出てきました。爆竹で見送られた三人の「孫次郎」が想起され、石田の「治部」ー「祝」弥三郎
    と繋いだ人もいたはずです。先ほど「磯野員昌」にも「佐久間右衛門」「鉄砲屋与四郎」と同じく
    「折檻」が出ました、
        「鉄砲屋」−「伴正林」ー波々ー前波藤右衛門ー中村木工丞ー猪飼野甚介・馬場孫次郎
    のようにつながります。また孫次郎は
        「馬場孫次郎・居初(ゐぞめ)又二郎仰せ付けられ、囲(カコイ舟)を拵へ海津浦・塩津浦
        与語の入海・・・」〈信長公記〉
   となって「遠野孫次郎」ー「奥州」までいってしまいます。「奥州」は第二回爆竹の一節にもあります。
    余語の「佐々」も海と関連して出てきました。小豆坂の「佐々」の「孫介」もいるのでしょう。
    この「居初」の「又二郎」に「ゐぞめ」とひらかなルビのものもあるのは重要でしょう。「両三人」
    で出たその前のものは「居初(イソメ)又次郎」となっていました。「治部」の「部」が★以後
    四つあり、
           「部」「部」−馬場・孫次郎・信房ー「部」「部」
    と、「孫次郎」や「武田」の大将「馬場美濃守信春」を挟んでいます。「武田」に「左吉」があって
   何となく石田が出ますが、「馬場信房(信春)」は「伯」「伯」ときて、「等伯」−「信春」というのが
    出てきます。「房」は高山右近の別名に「長房」〈辞典〉というのがあって、
       等伯ー信春=信房ー右近
    というのも出されているのでしょう。「馬場」=「はゞ」ということですから

      「孫次郎」−「馬場」−「波々」−「伯」−「泊(停泊)」−「迫(はさま)」
    までくると、いろんな方面へ分岐します。
      「はさま」ー「桶狭間」−「はさまくみ」−「深田」「高み」「節所」「深田」「岡部」「三浦」「山口」
    で高山右近などがでてきます。「迫」は「登米」の「迫(はさま)」があり、「登米」は〈奥の細道〉で
    別の名前で出てきます。
      「はさま」ー「戸伊广(登米)」(奥の細道)−平泉ー高舘ー和泉が城ー高舘ー関ー南部口
   ということで、和泉守、高山が出てきます。「登米」の城は伊達騒動の伊達安芸の相手方の
   伊達宗倫の領地で「涌谷城」があります。まあいえば「登米」はあの「香の前」の属性で、伊達
   騒動の舞台です。
      「はさま」−「一迫(いちはさま)政岡の墓」−高清水ー太宰治惜別ー支倉六右衛門
   芭蕉では「戸伊麻」もあり
       「戸伊」=「戸井」(信長公記)=「樋」ですが、「桶谷(はざま)」ー「涌く狭間」ー「桶狭間」
       −樋(谷)(といはざま)
    として、「通」篇を創って、〈甫庵信長記〉の「通(とおる)本城」「本城」へ繋げたのかもしれ
    ません。


    (65)伊予守ー「的孫」−右衛門尉

     「通本城」の一節は既述ですが、日本史を語る一節でもあります。
      「宍戸安芸守隆家」「尼子伊予守経久が的孫、右衛門尉晴久、」「井原の樋爪(ひづめ)」
      「安芸」「通本城」「青山三塚山」「坂豊島」「杉次郎左衛門」「坂」「湯原弥次郎」「青山」
      「三沢三郎左衛門尉為幸」「三沢」「陶五郎隆房」「後巻」「山田山中」「陶五郎天神山」
   
    などもあり、この「安芸守」以外〈両書〉に、「安芸守」が見当たらず「伊達安芸」(類書)という
   のは、相当なものかもしれません。これは、この「通本城」のある一節の
      「安芸国毛利陸奥守大江朝臣元就」〈甫庵信長記〉
    の「安芸」が太田和泉守の属性にされたことによるものかとも思われます。大江朝臣の先祖
    は大江広元で
        「鎌倉の三代将軍の執権因幡守広元、始めて大枝(えだ)を改めて大江の姓を賜ふ。
        爾来(しかつしよりこのかた)●江家嫡流と称す。■元就の父をも亦広元と曰ふ」
                                             〈甫庵信長記〉
     は中国の毛利でも僭称という疑問もあるほどです。■は系図の書き方でよくあるもので突
   然繰り返しのようなものが入ります。●が同じ甫庵の世界である祖父「江孫丸」の「江」と結び
    つくようです。「江」はここで
        (え・えだ・こう・ごう)
   をだしており、著述に活かすための甫庵の工夫ととれます。後世では八幡太郎義家の
   兵法の師、大江匡房などに著者を乗せて「八幡」と
   接近させて「八幡」を取り込むことなどがやられます。中国毛利の宍戸安芸守隆家は
           塩河(川)伯耆守
           伯耆守
           宍戸安芸守隆家
           篠原右京亮    (甫庵信長記)索引
    のなかにあります。次の尼子の「伊予守」は「石田」があり、「経」は常長・長経、につながり、
    「経久」、「晴久」の「久」は、「荒木久左衛門」「那須久右衛門」「金松久左衛門」「今井宗久」
    「浅野久蔵」「水野九(久)蔵」「貞光久左衛門」、〈常山奇談〉では「多田久蔵」などがあります。
    「伊予守」から次の索引における並びも生じます。
           太田孫左衛門
           大館岩石丸
           大館治部大輔
           (同)伊予守
           大津伝十郎   (甫庵信長記索引)
     がありますが、「石田」の「治部」=「伊予守」が出ています。「治」は明智治右衛門の「治」
          太田ー大舘ー大達(宗達の達)、
          太田ー山石・石(岩石丸)ー大石田、
          石田孫左衛門ー太田孫左衛門→「石太」「石田」
          「太田」の「孫」、「江孫丸」「岩石丸」−−船名 
          「大館治部大輔」−「大草治部少輔」−「大蔵少輔」ー「高山右近」−「大津伝十郎」
    などとなりますが
          「伊予守」→「稲葉伊予守」ー「大津伝十郎」
    のラインは次の▲の一節によっても、第二回爆竹まで行ってしまいます。原田備中は〈信長公
    記〉索引では
         「原」「原和泉守」「原田備中(守)」・・・「原昌栄」
    と続きますが
          「原田備中守討死併せ一揆天王寺附城攻むる事の一節」
     では
      「・・・原田備中守・・・海上・・・大船・・・原田備中守・・・天王寺・・★佐久間甚九郎・・・原田・・
      舟・・・大津伝十郎・・・原田備中守・・・備中守・・・深田・・・原田・・・塙喜三郎、同小七郎・・
      天王寺・・・佐久間甚九郎・・・大津伝十郎・・・佐久間・・・▲梶川弥三郎、佐久間右衛門尉、
      奈良清六・・・・若江・・・佐久間右衛門・・・若江三人衆・・・池田丹後守、▼多羅尾常陸介
      (〈信長公記〉では多羅尾右近=ルビ「たらをうこん」)、野間左吉(〈信長公記〉では「野間佐吉」
      ・・滝川左近・・●稲葉伊予守・・・天王寺・・・天王寺・・・佐久間父子・・・進藤山城守・・・■水野
      監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿・・・安土・・・当城・・・天王寺・・・」〈甫庵信長記〉
    
   があり、●と二つの「大津伝十郎」が、第二回爆竹に出ている「佐久間」とか、■(=小河)以下の
  人物に懸かっています。「天王寺」→「原田備中守(塙直政)」→「若江」→「天王寺屋竜雲」となり
   そこで「伊達」(信長公記)が出ていました。「(伊)達」は「(政)宗」とで宗達を表わしたいという
   のがあり、また「佐久間」が手に「原田与助」(甫庵信長記)もおり、伊達の原田というのが天王寺
   −塙から出されています。「伊達」は遣欧に関係しますが▲、▼以下の人名などは羅馬に関与
   してきます。★は二つありますが、ここからは九鬼右馬允が出てきて、大船、海上の場面に至り
   鉄砲屋与四郎、伴正林にも繋がっています。「備中守」「丹後守」からは
        「森川備前守」−「岡部丹後守・三浦右近」が出てきて「岡部又右衛門」
   などにも行きつきます。奈良清六から奈良左近
   が出てきて、貞光久左衛門との間に葛藤が生じます。さる戦場で、左近は、射手二人「指詰めて
   射たる」に射抜かれて倒れ、貞光久左衛門は左近の頸を取ろうとして、左近寝ながらに膝をやら
   れ、樋口三蔵が首を取ったのですが、この樋口三蔵は桶狭間の山口飛弾守になります。
   左近は久左衛門の笛の弟子なので、師が弟子を討つとは何事ぞ、と、
      「爪弾(つまはじき)」
    されます。これが、同じ〈甫庵信長記〉の世界ですから「井原の樋爪」に行きます。「笛」も笛吹川
   (甫庵信長記)にも達します。「笛」は竹田で「山口」に続いて何となく高山右近が登場します。
   佐久間の属性ともいうべき「天王寺」がたくさん出てきますが、これは聖徳太子の
       「四天王寺(四天王大護国寺)」(ウイキペデイア)
   という大きなものに通じますが、「王寺」とか「天王坊」とかにも利用されます。
      「●若武衛様・・・・天王坊に置き申され候。・・・若公一人毛利十郎生け捕り・・・」〈信長公記〉
    があり、●について脚注では
         「斯波義統の嫡子岩竜丸(先ほど出たのは岩石丸)。のち元服し治部太輔義銀。」
    となっています。
    甫庵の「大館治部大輔」を〈信長公記〉が説明したといえます。「大館」は「おおやかた」と読み
   斯波氏(義統)を指すのかもしれません。が「治部大輔」は「今川義元」もあり、これは「今河」
   「今江」→「今枝」だから、太田和泉守の乗った表記であり、「岩竜丸」は嫡子義銀、、岩石丸は
   「石田治部少輔」を指すのでしょう。「岩石丸」は特異な表記なので
           大館治部大輔ーーー岩竜丸
           ‖岩石丸
           同伊予守
   もあるかもしれません。桶狭間で
          「毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。是偏に先年・・武衛様・・・・御舎弟一人生捕り
          助け申され候。」〈信長公記〉
     があり舎弟もありました。
          毛利新介=樋口三蔵=山口飛弾守
      桶狭間の桶に似た「樋(とい)」がここでも出ました。先ほどの「尼子伊予守経久」のくだり
         「井原の樋爪(ひづめ)」〈甫庵信長記〉
     がありましたが、よくわかりません。常山は「馬爪」という黒田の人物を出してきており、馬の
   蹄ともとれそうです。「井原」は岡山の「神石郡」周辺の地ですが「吉備真吉備」の駅などが近く
   にあるところです。当然これは「伊原」もあり、ネット記事では「井原市伊原町」があることが、
    2〜3出ています。この「伊」は「伊賀」はじめ「伊那」「伊場」「伊豆浦」・・・・など広がりをみせ
   ますが「伊太利」の「原」のいうのもありえます。日本の馬が彼の地で行進したのでしょうか。
   「樋」は、山崎で「木戸井(信長公記)」があり脚注では「木樋」となっています。六人衆の
      「城戸」−木戸井ー樋口ー(桶はざま)山口
   にも行きますが「木戸井」は、「城戸口」から海上へ誘う一方、岩清水八幡宮の「遷宮」を和風
   洋風両様化にしてしまいます。井原は「庵原」もあり、これは「湯原」がありまた別の話に発展しそう
    です。湯は温泉の湯だけとは限らず「湯川(信長公記)」「湯原弥次郎(甫庵信長記)」の「湯」が
    あります。また「伊予守」は
       「三上伊予守」〈甫庵信長記〉
   があって人名索引では(み行)
          三浦右近              同三郎左衛門尉
          同雅楽助              三雲三郎右衛門父子
          三浦左馬助             三雲豊左衛門尉
          ●三上伊予守           ★三沢三郎左衛門尉為幸
          三木                 水島備中守
          三雲新左衛門 右上に続く   水野九蔵(以下水野)
   
    の●に位置を占めています。「石田伊予守」もあり、この★に伊予守が絡みます。


   (66)三沢三郎左衛門為幸
      今問題にしたいのは
      「佐々木源三秀義が苗胤、尼子伊予守経久の的孫、右衛門尉晴久・・・」の一節、「陶五郎
      隆房」や「元就」「宍戸安芸守隆家」「山田山中」「風越山」などを明智周辺人物の叙述に
      属性として活用しようという意図があるということの一節といいたいところですが、フルネーム
      の人物の中でも風変わりな
           「★三沢三郎左衛門尉為幸」
      が何のために出てきたか、誰を言いたいのかということが問題です、佐々木秀義(吉)のお
      蔭で「尼子伊予守」が「佐々木伊予守」にかわり梶原の雰囲気も出てきています。「経久」は
      「源義経(甫庵信長記)」の「経」で、〈吾妻鏡〉では
             義経=波多野=義常
      で義経の別の場面を描こうとするものがありますが、この場合も「経久」=「常久」はありえ
      ます。「常」は例えば、次の繋がっている@〜Dの▲▼で出ています。

         永禄11年、〈甫庵信長記〉
        @「惟(おもん)みるに・・・竜の雲・・・虎の風・・又堺の今井宗久・・・古、源義経・・一の谷・・
         ・・・菅屋(すげのや)、或は堀久太郎・・・六条本国寺・・・森三左衛門尉・・・」

          元亀元年、〈甫庵信長記〉
        A「和泉の国堺・・・友閑法印、丹羽五郎左衛門長秀・・・・天王寺屋の宗及・・・油屋の
         ▲常祐・・・・古・・・」〈甫庵信長記〉
  
         同じく、〈信長公記〉永禄11年
        B「・・・今井宗久・・・・判官殿一谷・・・・六条本国寺・・・」
          元亀元年
        C「去程・・・・天王寺屋宗及・・・・油屋▼常祐・・・・友閑・丹羽五郎左衛門・・・」

        D「佐野の村・・・佐久間右衛門・・・惟任日向守・惟住五郎左衛門・・・杉の坊・・若江・・・
         クハテキ、天王寺屋竜雲所持・・今井宗久・・八幡・・・・安土・・・奥州伊達・・・」

     この@〜Dは、@〜Cが「松永弾正」(省略)で繋がれていて、Dは、@と「竜」「雲」で、AC
     と「天王寺屋」で結ばれています。また、「宗久」=「そうきう」=「宗及」ですから、「そうきう」
     という音(おん)で全部がつながれています。従って「菅屋、堀久太郎」などが第二回爆竹に
   行くので全部が直接間接に遣使に繋がっていきます。「宗」は「竜(たつ)」と組んで、風雲、竜虎の
     「宗達」も出ています。「義経」−「義常」の、「常」は「油屋」を付加して太田和泉守関連表記の
     なかに取り込まれました。「佐野」は「和泉佐野」で、「灰屋紹由」のことも指し、「由」=「油」
     =「湯」も太田和泉守の属性です。経久は常久ですが「恒久」もあります。
          「日比野下野守 津嶋恒河久蔵討取る。」〈信長公記〉
     があり、これだけみればどっちがどっちを討ったのかよくわかりませんが「恒」と「下野守」に
     確執が生じ
          「尼子下野守」〈甫庵信長記〉
     が用意されているので、太田和泉守が、もう一人の伊予守経久を構成するとみてよいでしょう。
     右衛門尉晴久も「右衛門尉」=佐久間、晴久=春久ということで重ねられています。また「晴」
     は大館治部の「晴」でもあります。ここで再掲、〈甫庵信長記〉人名索引
          三浦右近              同三郎左衛門尉
          同雅楽助              三雲三郎右衛門父子
          三浦左馬助             三雲豊左衛門尉
          ●三上伊予守           ★三沢三郎左衛門尉為幸
          三木                 水島備中守
          三雲新左衛門 右上に続く   水野九蔵(以下水野)
      において「石田伊予守(甫庵信長記)」という表記があるので、●から「三木」=「森」に続いて
    ★に至れば、この★の三沢は「石田森」の積りで出したということがいえ、はじめの尼子伊予守
    経久をも染めて中国筋で石田森を語る意図ありと察することが可能になりますが、なかに4件の
    三雲が入れられ両者が遮断されているのが、なんとも迷惑なことになります。★は明智を表わす
    ことは〈辞典〉で「三沢秀次」が出ていて、三沢がこれしかなく、明智のことというのが出ています。
  
       「少兵衛尉。・・■津田元嘉・木下祐久とともに・・▲橋本三郎左衛門尉の年貢・・・認可・〈橋本
      文書〉。この時・・・は津田・木下と明智光秀であったという説がある〈朝倉記〉〈武家事紀〉。
      この三沢少兵衛は、光秀の重臣三沢昌兵衛と同一人・・光秀の代官・・・・ではなかろうか。
      また本能寺の変の直前、光秀が謀反を打ち明けた一人として〈池田本〉に後筆で書かれて
      いる。・・・〈天正記〉〈太閤記〉・・・〈宗及記〉に・・・“明智少(勝)兵衛”・・・・〈甫庵〉〈川角〉にあ
      る“溝尾少兵衛”、いずれもこの“三沢少兵衛”と人物かもしれない。」
  
    となっていますが、これが「織田信長家臣人名辞典」の記事ですから、尼子の三沢氏のことは
    載らないわけです。これが「織田」の語りに尼子の三沢が使われた姿が見えるところです。
    信長周辺には「三沢」はなく、これは明智勝兵衛だというわけで〈朝倉記〉などは明智光秀だと
   いっています。〈甫庵信長記〉では「溝尾勝兵衛」になっていて類書では「庄兵衛」があります。
    ■は「織田九郎次郎」として考証されている人物で「長谷川与次」と出てきますが
    本能寺で「津田九郎二郎」で戦死して表記が消えます。坂本で「森三左衛門」と戦死した「織田
    九郎」に(次郎)がくっ付いていたと考えた方がよいといっているような表記です。木下には「祐」
    があり、常祐ー宗及(記)−明智勝兵衛となり、▲の橋本は橋本一巴、橋本十蔵があるので
    明智光秀の登場をうながします。ここで光秀が謀反を打ち明けた人物は

        「明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是等」〈信長公記〉
        「明智左馬助、明智次右衛門尉、藤田伝五、斎藤内蔵助、溝尾勝兵衛尉等」〈甫庵信長記〉
  
   であり、「是」=溝尾勝兵衛に太田和泉守で〈朝倉記〉〈武家事紀〉の著者は惟任日向守=太田和泉
    守の重ねをやってしまっていそうですが、三沢=明智が出ています。ここで「三雲」が
     「石田伊予守」「尼子伊予守」「三上伊予守」→三木(森)→三雲→三沢明智
   の橋渡しをしてくれればよいわけです。一つは

       「河内・摂津・・・高屋に畠山殿、若江に三好左京大夫、片野に安見右近、伊丹・塩河・茨木・
       高槻・・・又江南表・・・・甲賀口▼三雲居城菩提寺と云ふ城・・・」〈信長公記〉

    があり、▼の城は脚注では「滋賀県甲賀郡石部町」であり、石部の三雲であり、「三上」「三木」
    「三雲」「三沢」の流れに「石」が加わり「石の三」「石ー三沢」ー沢三ー沢山ー佐和山ー三和山
    「石和」ー「石沢」で三也ー三成もボンヤリ出そうです。二つ目は
   ▲の「三郎左衛門」のヒントがあり、★の「三郎左衛門」の前の「三雲」の「三郎左衛門」をみな
    ければならないのでしょう。
           「治部三郎左衛門」〈甫庵信長記〉
    が用意されており、
    石田伊予守ー三上伊予守ー三木ー治部三郎左衛門ー三沢三郎左衛門明智少兵衛
                      ‖    ‖              ‖       ‖
                      森   三雲三郎左(右)衛門  (明智光秀) 石田三成
   となると、明智=森→石田の流れがここで一つ出てきているといえます。三沢少兵衛というのは
   「小」のイメージがあり二世というので「明智光秀A」=溝尾庄兵衛でよいのでしょうが、三成の
   本能寺の変での存在の刻印は上の談合のメンバーの「明智次右衛門」が「治右衛門」もあること
   によるものもあります。〈信長公記〉で「治」が集中的に出て来るところがあります。ここの三雲の
   居城は「菩提」で「竹中半兵衛」の美濃の「菩提山」もありますが、美濃の既述の、
       「大ぼて山」〈信長公記〉
   があります。菩提=「ぼて」です。

       「宇留摩の城主大沢次郎左衛門・・・・多治見(たぢみ)・・・飛弾川・・・犬山・・・・伊木山・・
       高山・・・・飛弾川・・・・高山・・・大ぼて山・・・・大ぼて山・・・丹羽五郎左衛門・・・・加治田
       ・・子息右近右衛門・・・長井隼人正、加治田・・・堂洞・・・多治見・・・長井隼人・・・鍛冶・・
       関・・・詰陣(つめのぢじん)・・加治田・・・長井隼人・・天主構・・・太田又助・・・河尻与兵衛
       ・・・天主構・・丹羽五郎左衛門・・・多治見一党・・・かぢた・・・」〈信長公記〉

    で「ぼて」が出ており「多治見」「加治田」の「治」があります。「かぢた」はヒラかれて「梶」を予想
   して隼人正ー佐々木ー梶原となるのでしょう。この「治」は尼子の★が出た一節で
      「多治比」〈甫庵信長記〉
    があるので、繋げてあるということができます。はじめの「大沢」は〈太閤記〉で懐かしい
      「鵜沼」
   の城主の大沢氏ですから炙り出されています。▼の上にある「片野」の「安見右近」が「あみ」で
   「阿弥」と音(おん)で繋がっており、「交野(カタノ)」の「安見新七郎」もあって、「阿弥」は先ほどの
   「治部三郎左衛門」と併記で出て来ます。
     「治部の三郎左衛門尉といふ剛の者、其の弟福阿弥といひし同朋」〈甫庵信長記〉
     「治部三郎左衛門尉、其の弟福阿弥、輪阿弥、」〈甫庵信長記〉
   となっています。〈信長公記〉索引では
          魚住勝七
          魚住隼人(考証では隼人正もある)
          魚住竜文寺
          ●鵜飼
          宇喜多和泉守
          宇喜多与太郎
          右京助(テキストでは「狩野光信」「稲葉彦六」引き当て)
          鵜左衛門
          雲林院出羽守  (うじい氏)  三重県安芸濃町雲林院村出身
          氏家源六
    となっており、ここに「鵜」が二つ出ていて、宇喜多の「宇」、雲林院の「雲」「羽」、を出していま
    すが、宇留摩の「う」「治」の一節の大沢の、使われていない「鵜沼」がここで反映されています。
    さらに「安見」の一節「片野」の「片」は、ここの「鵜左衛門」と反応して
         「片岡鵜左衛門」〈甫庵信長記〉
    が出来上がっていそうです。「片岡」はテキストでは「奈良県北葛城郡王寺町あたり」、ですが
         「片岡の城へ森のゑびなと云ふ者楯籠る。・・・片岡の城へ・・・城主森・ゑびな・・」
                                                   〈信長公記〉
     があり、片岡鵜左衛門の一人は「前田又左衛門A」となるようです。これは●の二つ下の
         「宇喜多与太郎」
     に影響を及ぼしそうです。「与太もの」という悪しき語があるので何とも珍妙な名をつけたものと思い
     ますが宇喜多の強さを支える陰の人物といえそうです。戦国で、精強さが実証されなれながら、
     家が潰れてしまったので、宇喜多は人気が高く、この強そうな名前は、「与」というのが太田
     牛一以降でしょうから、「与太者」の語源になったものかも知れません。が、引き当て問題がある
    人物でもあるようです。ここの●の次の宇喜多和泉守は第二回爆竹に出ており、●は、次の
     本能寺の年の人名の並記のなかで出てきます。鵜飼という行事も周辺の人物に影響を及ぼ
     しそうです。

         「・・・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・▲祖父江五郎右衛門・・・・
         ・・・・松本為足・丸毛兵庫頭・★鵜飼・前波弥五郎・▼山岡対馬守、」〈信長公記〉

    の★ですが、「木村」は「安土城」ー「岡部又右衛門」や「山口」に繋がり、「雲林院」の「雲」は
    「三雲」の「雲」がありそうですが、▲が〈甫庵信長記〉にも出ており、人名索引では
        成田下総守
        鳴海助右衛門尉
        (祖父)江五郎右衛門  上120(上巻120頁の意)
        名和無理介(助)
    となっており、どう読んでも、これがこの位置に納まるとは考えられず、おまけに
        江の五郎
    に変形されています。またここの上120は間違いで下巻の120に
        「祖父江五郎右衛門尉」〈甫庵信長記〉
    はありました。したがって▲の前の「鳴海」は「成海」でもあって「雲」につながるとともに
        「海」−「江」−「江孫丸」ー「(前)波(弥五郎)」−▼(山岡)=爆竹の山岡
    で、この遠洋航海が〈両書〉に書かれてあるのはすでに読まれているというサインが出ています。
    
     ▲の後ろ「松本為足」については〈前著〉で既述ですが「三沢三郎左衛門為幸」の「為」が
    「為足」の「為」で、また「(三好)為三」の「為」です。〈甫庵信長記〉の人名索引では
          三好為三
          為三
          (同)兵庫頭
    となっていて「為三」が独立して「兵庫頭」と結ぶというのは★の前の二人を「和泉・夕庵」とみる
   ということで、上の索引でも●は「隼人正」(佐々)と「和泉守」に挟まれています。「為足」の「足」
   は安藤道足、不破矢足の「足」、「足高山」の「足」です。これは「明日香」「あしたか山」と読める
   というのは〈甫庵信長記〉索引で      
          足田の某
          飛鳥井左中将(大納言、父子)
          安察法橋
          安宅甚太郎
          阿閉(閑)淡路守
    「足」→「飛鳥」の流れがあるのでもわかります。これを見れば「為足」の「足」からは「安」にも
   達しますが地名の、いまの大坂、天王寺の阿部野
         「安部野」〈甫庵信長記〉
    が出てきて、ここに九鬼が登場し、「敵船」「賊船」「兵船」「大船」「小船」「御座船」など「船」がワンサ
   出てきます。また「為足」の「松本」からは
         信州松本(深志)
    が出てきて、これは「馬場美濃守」と結ばれて無数の物語が生まれていきます。忠臣蔵外伝、
    中山安兵衛の高田の馬場にも行っている話です。忠臣蔵といえば浅野内匠頭の外戚、「三次
   (みよし)氏」の地の近くに「安芸高田市」があり、ここに甫庵の三沢のくだりに載っている
      「風越山」
   があります。ネット記事「風越山のご案内」などによれば、おかしいことに「風越山」は木曽と飯田
   にあり、〈信長公記〉の木曽の「上松蔵人」とか、伊那の「松尾(小笠原)掃部」を明智と見たのは
   合っているということになります。三沢氏にしてもウイキペデイアなどによれば
        ○木曽の義仲の孫、為仲が祖、
        ○信濃国伊那郡の飯島為国が祖、というような二つの説が挙げられています。「為幸」の
   「為」に繋げようとした説明がされたといえますが、フルネームの「三郎左衛門」「為幸」というのは
   太田牛一の都合のものと取れます。「三沢」が事実でないと事件の語りがないことになりますので
   これは動かせない、三沢は見沢、美澤などからも可能性があり、もう〈記紀〉〈万葉〉の時代にそう
   いう漢字が出来ているので、取り敢えず土着のものとせざるをえません。
   したがって「幸」は「雪」というのはありえます。木曽、伊那の「三沢」に陸奥の「三沢」も書かれて
   いますが、伊達騒動の政岡のモデルとしての三沢氏で、明智として三沢が利用された、それは
   三雲を入れているのではっきりしているといえます。
    安芸高田市にも「井原」があり、別に井原市もあり、このあたり「井原の樋爪」が出ていたように、
   「井原」の地ですが「三沢」は「三間柄の太さ六七寸も有りけん鑓を軽々と振り廻す」剛の者で
       「三沢終(つひ)に井上七郎次郎に討たれぬ。」〈甫庵信長記〉
   ということを書いています。語りに狙いがあって、一瞬たりとも手を抜いていないので、意味のなさ
   そうなところほど大きな意味があるのが太田和泉守の著書の特徴です。往古からの語りの流れ
   を一瞬堰き止めて伝え直すという一面はここでも出て来ます。
 
    (67)石見銀山  
     〈甫庵信長記〉の人名索引、山陰出雲の英雄、次のGの尼子伊予守経久の周辺は
         @阿閉(閑)淡路守    E阿部加賀守        J甘利藤蔵
         A子息孫五郎       F安部仁右衛門      K荒井新八
         B跡部治部少輔      G尼子伊予守経久    L荒川市助
         C穴山玄蕃允       H的孫右衛門尉晴久    M荒川治部少輔
         D  穴山梅雪       I尼子下野守        N荒川新八

     の順番になっています。@は二つの両爆竹の記事にあり、索引はここから掲示しましたがこれは
     「あへ」でもあり、EFに繋がります。BとMに石田(伊予守)、治部三郎左衛門に関わるもの
     が出て、三郎左衛門の三沢為幸も顔を出します。Dの雪は幸というのは「幸村=雪村」もあ
     ります。KNを見て
     新井白石は
             荒井 = 「新八」 = 浅井
                     ‖
                    荒川
     だから、また昭和平成の校注者も「浅井新八郎」を「新井新八郎」と捉えているほどだから、
    ここは重要なところ自分も何とか期待に応えなければならないと、雪=白、治部=石、としとこ
   と思ったのかも知れません。師の木下順庵の「順」は筒井順慶の順を思い出しますが、
       「幸慶」〈甫庵信長記〉
   という語句があり、順・慶とくっ付く「慶」は、「明智光慶=治部少輔A」の「慶」になりえて筒井が
  語りに加われば「幸慶」も生きてきます。「幸慶」の、「幸」は
   「雪」の「幸」があり、梅雪の雪もありますが、ここは「為幸」の「幸」として、「慶」と結ぶ「為」を
   取り上げる働きが重要と思われます。いいたいことが出ているネット記事がありましたので借用
   しますと「誤字等の館成せば成る」によれば
      「成せば成る、成さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の、成さぬなりけり」
   は上杉鷹山の言のようですが
      「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり」
   であるべきだということで、「為す」という意思的なものが主眼ですから、この通りです。武田信玄
   にもあるそうで、
      「為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を、成らぬと捨つる、人の儚(はかな)き」
    が書かれてあります。武田信玄というのは太田和泉守とみてよく、太田牛一も「為」から石田
    三成の「成」を見ていたといえそうです。上杉鷹山がここに出てきたのは、三沢為幸の「為」が
    意識されているかもしれません。この尼子のこの一節には
       「宮崎長尾」「吉田上村」「杉次郎左衛門」「三沢高橋」「天神山」「風越山」〈甫庵信長記〉
    など、があって「上杉鷹山」→「上杉高山」をみたのかもしれません。上杉鷹山が「成せば成る」
    より「為せば成る」の方がよいのは知っていたはずですから。またこの一節には
       「(馬の)毛」「馬の太う逞しき」「向城(むかひじやう)」「孫」「高橋」〈甫庵信長記〉
    もあって表題が
       「信長公父子、■摂津表御進発の事」〈甫庵信長記〉
    の「常陸国の住人、多賀谷修理介」(多賀城の碑の建造の請負人)が出てきた一節の
       「(馬の)毛」「馬の太う逞しく」「向城(むかひじやう)」「孫呉」「鷹」「鷹」
    などとの照応によってつながっていそうです。〈甫庵信長記〉索引では
          高橋 
          高畠三右衛門 
          高宮右京助 高宮三河守
          ★高森恵光寺(〈信長公記〉では「竹雲恵光寺」、考証では「恵光寺高森」)
          ●多賀谷修理介
          高安権守
          高山右近将監
     となっていて●の後ろ「安」は一応「庵」で、「たが」を「たか」と補強したと考えて、高山
    右近を呼び出します。■で高槻
   などを経て高山右近が尼子伊予守ー三沢為幸(雪)の一節に繋がりますが、●からも「高橋」
   から高山の流れを経て、尼子の一節に繋がっていることがわかります。★は本文では
        「甘利藤蔵、高森恵光寺、真田源太左衛門・・」〈甫庵信長記〉
        「さなだ源太左衛門・・甘利藤蔵・・・奥津・岡辺・竹雲・恵光寺・・・」〈信長公記〉
   となっています。この甘利が先ほどの索引のJ甘利藤蔵でIが尼子下野守でした。下段の
        「恵光寺」
   は太田牛一によって切り離されたので、多くのところに「恵光寺」があって、太田和泉守が偲ばれ
   ていると思いますが、Iからの連続で、石見銀山の「恵光寺」かもしれません。ネット記事
    「旧山陰道36・石見・温泉津・・小浜/紀行写真集/Hilosh」によれば、「恵光寺」が出ており「島根県
    大田市湯泉津(ゆのつ)町」ですが、芭蕉の山中の「温(いで)泉(ゆ)」からみると「ゆゆのつ」
   になりそうで、はじめは「温泉津(ゆのつ)」と写し取っていて確認しましたらやはり間違っていま
   した。温泉=湯だから、栗原市の
        「湯の倉温泉」「駒の湯温泉」
    は一見では、「湯の倉 湯(ゆ)」「駒の湯 湯(ゆ)」となって「ゆ」がダブっている感じがしましたが
   芭蕉のような昔の人が聞いた場合は、「湯」に別の意味があると取ったかもしれません。
   〈信長公記〉に「湯川」があり、「湯」(湯浅)=「油」(由比)=「由」(灰屋紹由)がありました。
   〈甫庵信長記〉では
     「湯浅甚助(介)」「結城主膳正」「油川宮内少輔」「(同)左馬丞」「弓削修理介」「弓削六郎
     左衛門尉」「遊左衛門」「湯原弥次郎」「湯原の某」「油比可兵衛尉」「(同)藤太夫」「油良信濃守」
   があります。尼子の一節には「湯原弥次郎」があります。太田和泉は弥三郎ですが、この社会
   でのことで、天命によれば二番目だから弥次郎ということでしょう。
    温泉というのは「和泉」が意識されている、「湯」も同じではないかと思われます。つまり大田市
   の「湯泉津」というのは、太田和泉守の「和泉」が反映されていると思われます。このネット記事
   の「恵光寺」のくだりには
        「天正15年(1587)には細川幽斎がここに宿泊して住職の日慈聖人と百韻連歌を
        催した。」
        「また大森銀山(石見銀山)の初代代官大久保長安がここで会食し・・・・」
   があります。この細川幽斎は太田和泉守のことで、幽斎の言動の殆どはそうなっています。大久保
   長安はウイキペデイアによりましても太田和泉守とみてもよいのでしょう。金銀山の管理、交通網の
   の整備、新田開発、治安、里程標を整えたのも長安と書かれており、家康に強大で広範な権限を与え
   与えられていたことがわかります。おそらく貨幣制度の構築などもあり、徳川初期の内政に大きな
   大きな貢献があります。大久保長庵を内包して表に出された
          大久保長安
   は、ちょっと史上例のない働きをしたのでウソだろうということで有名ではないと
   いうことでしょう。太田和泉守のもとで働いた若手を大久保長安Aとしてみたてられ、二人の
   活動となっているのでしょう。長安は、生誕1545年で没年は黒田官兵衛が遺言を書いた年
   (翌年が大坂冬の陣)で、生誕からみれば太田和泉守の次世代、没年から見れば太田和泉守
   相当となっています。後藤又兵衛、真田幸村の入城が翌年ぐらいとすると、この人物は大坂陣
   に関係があるかもしれない、それも描いた
   いうことにもなります。表記でみれば「大久保長安」は目的的というものになっています。
      ウイキペデイアによれば、大久保長安の別名が
          「藤十郎」「十兵衛」
    ですから、語りの「十郎」で水野、明智色が出ています。また
          「石見守」
    でもあり、尼子の一節で「石見」で出ている、これは石見銀山の関係ととれますが、もう一つ
    〈信長公記〉の人名索引では
          正林   相撲
          夕庵→ 武井爾云
          関可平次
          ▼関口石見
          ▲関長安   (「関小十郎右衛門」「関十郎右衛門」の〈尾張志〉の考証)
          世木弥左衛門
          関与兵衛
          雪岑(セツシン)
    があり、▼▲の隣り合わせで、長安=石見が出てきますから、
         夕庵=関安=長安=大久保
    というのも出て来ます。「大久保」は小瀬甫庵が小豆坂で「大窪半介(ハンカイ)」を使いました
   ので、面白い表現であり、また治部少輔、大蔵と接近しているので使ったともいえます。すなわち
 
     〈甫庵信長記〉索引       〈信長公記〉索引
       大草治部少輔          大久保忠世(本文「大久保七郎右衛門」)
       大久保七郎右衛門尉      ★大蔵新三
       舎弟次右衛門尉         大蔵二介
       大窪半介              大沢次郎左衛門
 
   となっています。ネット記事では次に大久保長安の氏族父母として
         氏族「大蔵氏(秦氏)→土屋氏→大久保氏」
         父母「父:大蔵信安(大蔵太夫十郎)」
    とされ猿楽師というこtですが、これも索引の★による大久保ー大蔵の接近があります。大蔵
    二人は能の場面で出てきて、先ほどの「高安」との並記があります。
       「伊徳・高安・大蔵二介」〈信長公記〉
    があり、「大蔵新三」は「つづみ」の「大蔵二介」など能役者とでてきますが
       「ワキ」−小二郎ー三輪ーあしかりー今春
     などと関わって「大蔵」に広がりを持たせています。一応「大蔵」は高山右近の属性ともいえ
    ますが石田三成の隣の地「水口」にいた「長束(なつか)大蔵大輔(正家)」の「大蔵」も目立ち
    ます。(なつか)=「名塚」なら広がりもありそうです。「大蔵二介」の下、大沢があります。
    ▼▲の「関」は「宇留摩」の「大沢次郎左衛門」から続くもので「大沢」のあと

       「(大沢)・・・多治見・・・・飛弾・・・高山・・加治田・・・右近右衛門・・・長井隼人正・・加治田
       ・・堂洞・・山下・・多治見一党・・長井隼人・鍛冶の在所●関・・・加治田・・堂洞・・続松・・長井
       隼人・・堂洞・たへ松・・・二の丸・・天主構・・二の丸・・高き家の上・・・太田又助・・・きさじ」
                                                 〈信長公記〉
    で●「関」に至ります。「治」というのが鍵でここの「多治見」は尼子のくだりの
        「多治比」〈甫庵信長記〉
     に繋がりますが(他にここの「二の丸」も「続松(「手本」による)」も尼子の一節につながる)
      「続松」はどこかで見た感じですが、「丸」「丸」も「隼人正」「隼人」も「太田」もあるので、
     また「松」は、地名から「松」→「任」←「惟」や、芭蕉の〈奥の細道〉の人名などから明智が
     でます。
        「小松・・・萩すすき・・・太田の神社・・・源氏・・属せし・・・吹・・・菊・・・草・・・(斎藤)真
        (実)盛・・・木曾・・・樋口の次郎(脚注=「樋口兼光。木曾四天王の一人」)・・紀・・」
     で太田ー小松で、明智の小さい松もでますので、「続松」は「続子松千代丸」が出てきます。
     ここの「源氏」「樋口」の通篇とか「樋」は尼子のくだりあって、
        「宇多源氏・・・・佐々木・・が苗胤、・・・伊予守が的孫・・」
      があり、「伊予守」の「孫」というのも出てくると「続子」とのつながりもありそうです。兼光は
     兼松の兼ですが光は明智です。「四天王」が書かれていると遣欧の四人はあるかと気になり
     最後の「紀」が「えんぎ」(縁起)の当て字で「縁紀」の部分ですがこの「紀」が渡航のキーワー
     ドなので大谷紀之介を入れたということです。「続松」は脚注では「たい松」となっているの
     で本来は「続子松千代」無理ですが何回もなんかいも、この「続」が出てきます。

      「大沢」にしても〈武功夜話〉では「治」を意識して、ちゃんと
        「宇留間」「大沢治郎左衛門」
      に(全部)なっています。今川義元にしてもテキスト索引では「治部大輔」になっていますが
     〈武功夜話〉では全部「治部少輔」になっています。「大」「少」は裏表といっても受ける印象は
     随分違います。石田三成が「治部少輔」で有名で「今川」ー「今河」−「今江」−「今枝」の
     変化が潜在的にありますと、石田ー森も意図のうちではないかと勘ぐられることになります。
        「織田上総介信長公、伊木高山において山之芋御賞味」〈武功夜話〉
     の一節があり、高山・芋が結びついていますが、「森勝蔵」大活躍の相手「いも川」〈信長公記〉
     はテキストでは
        「芋川親正  長野県水内郡大蔵を守る。〈信濃史料〉」
     となっていて、芋が大蔵(大倉もある)と繋がれています。大沢のこのあたり、「丹羽五郎左」
     「五郎丸」「伊那備前」(ルビ忠次ー)「慶長検地」)がでてきますが、同記事によれば、
       「伊那備前(忠次)」
     は大久保長安の事績には不可欠の人物のようです。「瑞泉寺の禅坊主」が大沢攻めの道案内
    をして「御墨付き賜るなり。」があります。石見銀山に「高山」「大江高山」があって、この「大江」
    が「大枝」から改められたものであるという甫庵の記事が利いているわけですが「瑞泉寺」も
    石見銀山にありました。氏族が大蔵氏ー土屋氏ー大久保氏となったという「土屋氏」は
    〈信長公記〉人名索引では
         津田与八
         ■土田(つちだ)氏(本文では「信長の御袋様」「御袋様」)
         土田の大原
         土橋五郎兵衛尉(「つちはし」と読ませているからここに入る。)
         土橋守重(本文「土橋平次」)
         土屋昌恒(本文「土屋右衛門尉」)
         土屋昌次(本文「土屋宗蔵」)
         土屋直規(本文「土屋備前守」)
         筒井順慶(本文「筒井」 のち「藤四郎藤政」「郡山城主」)
         津々木蔵人
         堤伊与
         堤源介
    となっています。(土橋は甫庵では「どばし」と読ませているから「と」に入る)
    「土橋」を抜くと「津田」−「土田」ー「土屋」ー「筒井」となり、織田のなかの「土屋」というもの
    になります。実際のこの「土屋」は天目山で出ましたから、武田家の土屋ですが、
       大蔵氏ー土屋氏ー大久保氏
    という場合も、前後武田氏の必然がないので、大久保長安の土屋氏は索引の中から生まれた
    ものであるといえそうです。同様にウイキペデイアでは大久保長安の主君は
          「武田信玄→勝頼→徳川家康」
    となっています。これも「土屋氏」が武田の家臣だからこうなっていると思いますが、若手の
    (伊那忠次、青山忠成、彦坂元正の名前が出ている)大久保長安Aという人の実際の歩みが
    どうだったかということにもなります。これらの人は徳川の家臣で武田の家臣ではなさそうです
    が、太田和泉
    守の下で働いたというのと重なっているようです。ここの武田信玄父子も、徳川家康も太田和泉守が
    が乗っかったものとも考えられます。
    記事によれば、家康のときに武田領の再建をして釜無川や笛吹川の補修も大久保長安
    の事績になっているということですが、こういうこともあまり聞いておらず武田信玄の信玄堤と
    いうのだけは有名です。大久保長安の築堤工事の語りがあるなら、昔の工事の修復もあった
    のでしょうから、後世の評価が太田和泉守にも向けられたものがある、それが大久保長安の
    こととみてよいのでしょう。次の記事が大久保長安Aを示すものでしょう。

      「1591年には家康から武蔵八王子(のち横山)に8000石の所領を与えられた。ただし
      実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となった
      らしく、実際は九万石を与えられたという。(2008/07/16現在の同記事)

     武蔵八王子千人同心創設の話ですが大石源三が出てきているのなら、大久保長安は
    太田和泉守の一面を表わしていそうです。実際の大久保長安は19歳ほど若く、次世代
    なので、あの大石源三(北条氏照A)のその後を語るものかもしれません。根拠は今のところ
    〈信長公記〉索引
        延念(「東善寺」の坊主)
        ▼大石源蔵→北条氏照
        大炊御門中納言
        正親町中納言
        ▲大久保七郎右衛門
        大蔵新三
        大蔵二介
        ■大沢次郎左衛門
     があり、▼が▲で受けられて、中の「中納言」は「大江中納言(八幡太郎義家の関連人物)」
    「結城宰相中納言(徳川家康の子息)」。後世では「水戸中納言」とも重なっており、太田和泉守
    の属性です。「大蔵」もそうですが「鵜沼」の■も太田和泉守が乗っています。「大沢」は大宅、
    大竹、大武がありえる、また機械では「炊け」もでてくる、ということで「大炊」につながり「次郎」
    も含めて太田和泉守が出ています。「大炊」が大久保に繋がる必然は
        「窪田大炊頭」「窪田将監」〈信長公記〉
    があり大窪の久保と「大炊」との結合が意識されているといえるところにあります。「窪田将監」は
   「高山右近将監」「滝川左近将監」の「将監」ですが
         「窪田将監・詫美(たくみ)越後・・・」〈信長公記〉
   という形で一回限りの登場の「たくみ」を伴って出ています。これは人名索引は
           〈信長公記〉           〈甫庵信長記〉
          滝川益重              滝川彦次郎
          多芸谷国司→北畠        豊前守
          詫美越後               侘美越後守
          武井爾云               武井肥後入道夕庵
   ということで夕庵の並びとなっています。小倉の毛利豊前守勝信・勝永父子の「豊前守」にも
   「多芸郡」「多喜」にも並びで「武野」「高み」などにも行く重要人物で和泉守ともいえるものです。
     〈甫庵信長記〉索引で窪田は
          久野三郎左衛門尉→(「大久保七郎左衛門」と並記で出てくる)
          窪田大炊助
          窪田将監
   もあって「久野」は「三郎左衛門」で「三雲」「三沢」に近づきますが
          「★長庵」〈甫庵信長記〉
   を出してきます。「大久保長安」の「長安」は単独で
          「長安」〈信長公記〉
    がありこれは無視できません。〈信長公記〉索引では
         ちようあひ(「大蔵二介」「大館伊豫守」が並記されて出てくる)
         長安
         長雲
         長円寺長老
         長禅寺の長老→高山(こうざん)
    
   があり、織田の長老「長雲」と重なるような感じとなります。したがって武田家臣、徳川家臣という
   大久保長安からはちょっとかけ離れています。いまなぜここまできたかというのは大久保長安
   が恵光寺に顔を出したいうので誰かということでした。要は尼子のくだりの語っていることは石見
   銀山の太田和泉守の関与というのがあるということです。〈信長公記〉に
         「夕庵・有閑・長安・長雲」
    というセットが出てきて人物ダブってしまいよくわからなくなっています。ここに坊主と書いて
    いますようにこれは「セキアン」「ユウカン」「チョウアン」「チョウウン」と読むべき人物といえるので
   しょう。★は長い文があり
     「御朱印・・・御朱印・・・楠長庵・・・長庵・・・長庵・・・朱印・・・長庵・・・御朱印・・長庵・・御朱印」
                                                      〈甫庵信長記〉
   となっていて喋っていますから、これは太田和泉守でしょう。従って「長安」は楠の「チョウアン」
   となる人と思われます。楠木=河内=遊佐、すなわち、坪内氏=水野氏的な存在、太田イズミ
   ノカミではないかと思います。
    長雲は「村井春長軒」=竜雲で村井の「チョウウン」、細川松井の「ユウカン」、三輪氏の「セキ
   アン」とかになりそうです。「ちょうあひ」というのは「ちやうあひ」と書くのが本当のはずというのも
   あるのでしょう。「ちようあひ」と出てきた「大館伊豫守」は、〈信長公記〉索引では、
               太田孫左衛門
               大館晴忠
               大塚新八
               大塚孫三
    となっています。この「孫左衛門」が「石田孫左衛門」を思い出させて、
            太田=孫左衛門=石太(石田)
    で「太田は石田を出すための設定ということをいってきましたが、同時にやはり「太石」ー「大石」
    にもなり「ちよう合ひ」−「長安」と行くのも重要かと思われます。大館は大達・大竜・大建・大立
    経(たつ)もありますが ここでは「孫」にウエイトがありそうです。
      「大館」ー「伊予守」−「尼子伊予守(経久)」、
      「大館」−「晴忠」−「(尼子)晴久」ー「(経久)的孫」
    で「的孫」に至ります。この意味は直系とされていますが、嫡孫では駄目なのか、と問い返したく
   ものです。「目的」の「的」ですから、尼子ー毛利ー三沢の一節の的(まと)かもしれないわけです。
   〈前著〉で邪馬台国の九州の比定の場合に、〈日本書紀〉「景行天皇」の条にある、この「的」を
    使いました。 志賀島ー福岡ー春日ー大野城ー大宰府のラインを来て
         甘木ー的(いくは)=「浮羽」
   の地としました。この「甘木」の「あま」は「甘利藤蔵(信長公記)」があって索引では
      〈信長公記〉  安部加賀守
                安部二右衛門
                尼崎小畑
                甘利吉利(文中「甘利藤蔵」)
                綾井二兵衛
   となっています、ここで「尼」=「甘」が意識されています。また「尼崎」の「あま」は
」     「あま」「あまが池」「あまが崎」「尼崎」
    があり、尼崎での「久左衛門」の歌に関する脚注には
        「天羽衣」と「尼崎」とをかけてある。
   というのがありました。とりあえず「尼」=「甘」=「天」となります。尼子伊予守的孫という場合に
    甘木の伊予守的孫、天子の的孫というイメージが出てきます。〈甫庵信長記〉の索引は
         ●正親町の院(「院」となっている)
         大宇大和守
         大草治部少輔
         ★大久保七郎右衛門尉
         (このあとは・・大田和泉守牛一・・・大館治部大輔、同伊予守、大津伝十郎と続く)

    となっており、●は、既述〈信長公記〉では「天子」などと表現されていて、テキストの考証で
   正親町天皇となっているので、いわゆる正親町天皇といってよいのでしょう。「天子」の流れが
   治部を経て「大久保」にきています。大久保は長安が頭にあるのは〈信長公記〉では次の
   索引(再掲)
      正親町天皇(「天子」)/大久保忠世(七郎右衛門)/大蔵新三/大蔵二介/大沢次郎左衛門
 
   になっていましたからから大蔵わかりますが、★のあとが、大田和泉守、大館治部大輔、伊予守など
   へ流れるのでもわかります。また●の下の「大宇大和守」は、「宇留摩」の「大沢」の「宇」、
    由宇貴一の「由」、「森大和守」(武功夜話)などで「大田和泉守」想起のものですが〈明智軍記〉
    の人名索引では
        大宇大和守
        大江匡房(大蔵卿)
     があり、大蔵ー長安と、尼子の一節の「大枝」→「大江広元」を、山陰岩見銀山へつないで
    いるものは
        「大宇大和守」
    ということもいえます。この「宇」は重要なところで出ています。甫庵の「興亡」の一節

       「爰に本朝神武天皇より、百有七代の御門(みかど)正親町の院の御宇、武将光源院義
       輝公の時に至りて序次曾つて則なし。・・・泰平の世と成りし事は前の右大臣信長公の
       武功によつてなり。」〈甫庵信長記〉
     があります。ココというのがあるように自分に関わる重要なものでしょう。ここに
          「神武天皇」
 
    が出て●の「院」が出て「御宇」という「宇」がありこれが、「大宇」につながるのでしょう。次の
    「大草」は明智光秀本能寺への「三草(越)」の「草」でもありますが、〈明智軍記〉では「大草」は
          「大日(をほくさ)治部少輔」
    となっており、これは「日下(くさか)」〈古事記〉から来ていると思いますが〈明智軍記〉では
      「高屋・日下部(くさかべ)・・・」
    があり、人名索引では、高屋は「多賀谷修理亮」を「」に巻き込みます。
            〈信長公記〉          〈甫庵信長記〉
            高宮右京亮           高宮右京助
            多賀谷重経(修理亮)     高宮三河守
            高屋父子             高森恵光寺
            高安                多賀谷修理介
            高安権頭             高安権守
            高山重友             高山右近将監
     「高宮」は「高久」でもあり、「高+宮内(卿法印・少輔)」でもありますから、「高」の中心ですが、
        「磯野丹波守・・・高宮三河守、★大宇(おほう)大和守・・・」〈甫庵信長記〉
     もあります。「高宮」の宮は「宮門(みかど」の宮であり、★は●を受けましたが、●を太田和泉
    は先ほどの一文で
         「御門(みかど)正親町の院」〈甫庵信長記〉
    としており、
         神武天皇:正親町の院
    という対置がみられます。索引も考証で「正親町天皇」とはなっていましたが、これは〈明智軍記〉
    の索引と同じ行き方で〈明智軍記〉では索引の見出しは「正親町天皇」となっていて6件あり
    ますが、中味は
       「正親町(をほきまちの)院」3件 「天子」 「主上」 「内裏」
    となっています。〈吾妻鏡〉で人名索引「安徳天皇」の場合、見出しは「安徳天皇」ですが
       「君。主上・旧主・大やけ・先帝」
    が中味となっております。「白河天皇」の場合は、見出しだけで中味はやめとこうとなっていて巻数
    頁数だけが書いてあります。一巻目の二つだけ確認すると
       「白河院」「白河・鳥羽院の御時」
    となっています。「安徳天皇」というのは第一巻の始めの略歴の表記で、太安万侶以来使われてきた
    きたいわゆる安徳天皇というような感じのものとなっています。まあいえば、タイトルの「竹中
    半兵衛」と中味の「竹中半兵衛」が違うというようなものになっています。もっと全部検証して
    いわなければ駄目だということになって、取り合えずこれだけのコメントもよく調べてからという
    ことで自粛して数個になりますが、院政などいう言葉が退位した天皇が裏で行政を牛耳ると
    いうようなものというのがちょっと違う感じです。
     トータル完結性がある、太田牛一の書物の中の、天皇と院の
    対置からいえば一をもって全体がわかる、援用しても然るべしとなります。天皇と比べて院の
    場合は「箱」という感じがします。どっかで太安万侶などの苦心の跡を受けて、それとさりげなく
    訣別している、太田牛一などはそういう伝統を踏まえて書いているそれを気が付くようにさせよう
    としているというところに偉さがあると思います。いいたいことの一つは「神武天皇」という表記があり
    ありながら、現行の〈甫庵信長記〉の索引には載っていないことです。同様のことは
          「景行天皇」〈甫庵信長記〉
    同じです。先ほどの「的(いくは)」は突然で出てきたようですが〈景行記〉にでており、それは
    読まれた結果であるというサインと思われます。これが索引に入ってきたら、
           慶阿弥
           慶寿院殿
           景行天皇(今はない)
           月巖
    ということになり明智光慶、筒井順慶の「慶」に繋がり、月山冨田城の尼子にも通じます。神武天皇
    皇も「神保安芸守」「神保越前守」「神皇但馬守」などにも影響が出そうです。そういう役割は
    もちろん大きいことですが、太田牛一は、歴史を語ろうとしているのでその面が疎外されると
   いうのが大きいと思われます。正親町の院とか神武天皇が索引にあると違いが出てきたりする
   という面です。景行天皇は第十二代ということですが、初代天皇から在位を単純に合計すれば
     神武76、すいせい33、安寧38、いとく34、孝昭83、孝安102、孝霊76、考元57、開花60、
     崇神68、垂仁99、景行60   合計786
   となり786/3=262となります。つまり景行の期間は242〜262の間となり、このころが年表では
   卑弥呼、邪馬台国が出てくる時期です。魏志が邪馬台国にきて卑弥呼と会ったというという交渉
   接触が生じた記事があるのでこれの解説をしなければならないということで、〈景行記〉に入れた
   のでそれを取り出すべく、太田牛一が的ー的でやったと思われます。「すいせい」〜「開花」までは
   欠史八代とかいわれていますが、その場合@とIが短絡されます。
        崇神
        神武
   で表記では、重ねられる、重ねてみようという意識が著者にあったのかもしれません。崇神が素
   (もと)ともいえます。これだと「景行」は神武の孫となり、正に的孫というにふさわしいものになり
       尼子伊予守経久ーーーー的孫右衛門尉晴久
   尼子=天子、甘木=甘こ=甘子=天子、で邪馬台国を語るため尼子の一節を設けたとといえますが
   景行ー慶ー慶の線などから
       惟任日向守ーーーーーー的孫明智光慶
   という遣欧も出そうとしたと思われます。〈前著〉の段階ではネットは筆者に無縁だったため初歩
   的な甘木市ー朝倉市というのは判りませんでしたが、このあたり「朝倉郡」だったことを考慮すれば
      「朝倉景鏡」(文中「朝倉式部大輔」)〈信長公記〉
    という表記の人物も、「景」+「鏡」つまり「景行」の「景」と卑弥呼の「鏡」もありそうです。テキスト
   人名注では
       「越前朝倉氏の同族。式部大輔。●土橋と改名。」
    となっています。朝倉の不忠の臣の代表となっていますが、義景を助けようとして汚名を被った人物
   人物で、実は忠臣、太田和泉守が乗った人物として、前の稿では、いっています。●が重要で
        「土橋平次」〈信長公記〉→「■梶原平次」〈信長公記〉
   となります。「梶原」は、「景時」の子「景季」が佐々木、梶原の宇治川先陣争いで有名で、甫庵
   が「梶河弥三郎」で受けているわけですが、ここの■はテキストでは「梶原景久」で考証されて
   います。「伊藤(伊東)一刀斎景久」が有名ですが、この弟が小野派一刀流の小野忠明で、
    徳川の信州真田攻めに加わって上田七本槍の勇名があるというとで真田と接近しましたが
   孫七の「七」を出したのでしょう。伊東は「伊東弥三郎」がありますが「梶原」の流れの中に
      「梶原左衛門尉が続子松千代丸、生年十三歳」
    があって、甫庵の索引では
        (祖父)江孫丸
        梶原左衛門尉
        (続子)松千代丸
        (同名の家子)又右衛門
    tなっていて船の松千代がでましたがこのあと「梶原平次」がでます。いま■から「梶原平次」を
   だしましたが「梶原平次」は「景久」ですから「景」からも「景行」へ繋がって「慶」の線を辿ります。
    「梶原平次」は、「長谷川与次・山田三左衛門・梶原平次」〈信長公記〉
              「長谷川与次・佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎」〈信長公記〉
   もありましたが、先ほどの「高宮右京亮」と隣で出てきます。「高宮」というのは「高舘」というのも
   のあるでしょうが「多賀谷修理亮」と交錯しました。これは「たか谷」「高谷」「高屋」でもありますが
   多賀城の壷の碑の主役です。ここに「馬の太う逞しく」があり、尼子の一節の毛利元就の馬に適用
    されています。この表現は湯浅常山は前田慶次郎にも使っており、多賀谷修理亮(介)の一人
    は慶次郎とみていそうです。ネット記事で「常陸国下妻」の多賀谷修理亮の嫡子、「多賀谷三経」
    という人物が出ており、これは「石田三成」が烏帽子親として付けた名前だそうです。考証の
      「重経」−「伊予守経久」
     よりも「三経」−「伊予守経久」の方が、石田三成が出てきたという感じがします。奥州から
   「使者」の「前田薩摩守」がきましたが、「薩摩守」は「慶」を出してきます。「石田主計」も同時に
   やってきて「慶」=「経」=「主計」の「計」というこだわりがりそうです。石田が炙りだされたような
    人名が出てきます。

          〈信長公記〉索引                 〈甫庵信長記〉索引
          細川藤孝(本文、細川・長岡・永岡)       細川
          細川忠興(本文、長岡・永岡)忠興        細川(河)六郎               
          細川頓五郎(本文「長岡頓五郎」)           ■(長岡与一郎)
          ★細呂木治部少輔(「ほそろ木治部少輔」)     ■(舎弟)頓五郎
          堀田左内・堀田道空・堀田孫七          ★細木治部少輔  
          以下堀へ続く                     堀田道空・堀田武介・・・堀久太郎へ

    左は考証主体、右が本文主体の索引ですが、細川は全般的に隠されて、長岡、永岡で散らされて
   ■二つは「な行」の「長岡」から持って来たものです。★が、本文では「ひら」かれていて問題に
   する、といっているのはすぐ判り後世の人には恰好の材料になりそうです。「堀田」は「堀」とほぼ
   同じで高山と同じように三兄弟が全部使うというようなことになっていそうで「久太郎」の「久」が
     「久」=「九」=「宮」
   と理解されていそうです。この索引から石田治部少輔→細川というのが何となく出て来ています。
          明智夫人(細川氏=下津権内A)ーーー明智光慶@−−−明智光慶A
         ‖土岐「妻木」氏(津間木)(下津権内@)
         ‖細川頓五郎@
         明智光秀ーーー荒木の伊丹兵庫頭
   
   となるのかどうかです。「下津」と「妻木」の関係は、索引でいえば
        〈甫庵信長記〉           〈信長公記〉
         下曽弥源六            下曽根覚雲軒→岳雲軒★賢範
         下津権内              下津権内
         下間和泉守             ●清水又十郎 「足軽」
            ・・・              下間 → 下間(しもずま)氏
         下間筑後守            下間頼総(本文「下間丹後」)
         下妻筑後守            ■下間頼竜(本文「あぜち法橋」)・・・
                             下間頼俊(本文「下間和泉」=和泉法橋)
   となり、左の下で、「間=「妻」のようですから、左は、下津間=下津妻=下妻(多賀谷の領地)
   と意識が流れて、下津は妻と合体しようとしていますが、右の方で地名索引で下曽根が出て
   来る木曽で、実際は妻籠ですが
        妻子(ツマゴ)〈信長公記〉
   が用意されて、子=こ=木ですから、尼子→甘木、妻子→妻木、という流れで、木曽を通して
   下津=妻木が繋がるということになります。そんなややこしい話をしようとしていない、というのが
   あるので予備として★があります。妻木の表記〈明智軍記〉では
       @妻木七右衛門 A妻木範賢(主計助・主計頭) B妻木忠左衛門 C妻木勘介
       D妻木範熙(勘解由左衛門)
   ★はこのAの人の「範賢」を逆にしたものです。Aは★「軒」の反対の人といえます。こういう例は
    他にあって、大阪城の大将「毛利勝永」と、安土城の「躰阿弥永勝」、「佐久間正勝」と「海老名
    勝正」などがあります。この妻木の索引をまとめてみますと一応、Aに二つの役割が
    ありそうです。@とAの子が、BとD(CはDの説明でCDは同一人物として)になり。明智
    光秀夫人はAで表わされて、Dの連れ合いであるということになりそうです。
    Aの主計が石田主計に通じているのでしょう。ここのテキストの●がおかしくて、ここには
    入らないはずです。〈信長公記〉では「下津権内」は
          「下津(しもつ)権内」「下津権内(しもつごんない)」
    の二つがあって「勘介」と「主計」に二人を表わしていそうですが、いずれにしても「しも」という
    読みですから間違いで「下津」と「下間」を遮断した、わかりにくくしたといえます。「足軽」と
   いうので「勘介」の方の「下津権内」もあるということか、清水で平田和泉、荒木信濃守が出てくる
   ので「又十郎」が和泉を語るのがあるかもしれません。
          清水又十郎
    は重要人物といえそうです。割り込んできたので、下津権内と下間(本願寺)とを結んだの
   目だ立たせたというのかも。また11人の若手足軽のトップで出ているのであの11人暗示して
   いるともいえそうです。つまり又十郎は
     「祖父江(そぶえ)久介」「祖父江久介」〈信長公記〉
   二つを伴って出てくる、「江久介」となると「久」が大物で、海外主役の二人となるのでしょう。

   「和泉」がここに出ていることが、本来ここにでてくるはずのない■が出てきたことと関係があり
   そうです。本文「あぜち法橋」は再掲、甫庵の索引では
       「足田の某」「飛鳥井三件」「安察法橋」「安宅甚太郎」「阿閉(閑)淡路守」・・・「安部」
    ですが「足」「明日(あした)」を基調として「安宅」の船、爆竹の「阿閉」の方向に行きそうな、
    また、「安宅」の関の義経や、古代の「阿閉皇女」などにもいく流れの中に「安察法橋」が
    あります。これは本願寺の人で、本願寺ー細川間のことは既述です〈前著〉。〈信長公記〉では
            飛鳥井四件
            あぜち法橋→下間頼竜
            安宅
    となっています。この「下間頼竜」として考証されたものが■に見出しとして取り上げられたといえ
    ます。いいたいところのことは大久保長安でウイキペデイアのものを参考にしてきましたが、
    長安の「正室」の欄に
            「下間頼竜の娘」
   というのがあります。長安Aを大石源三とみるにしてもその親は三兄弟がらみかなというものも
   出てきます。
   芭蕉は多賀谷修理亮が一役買って出た、多賀城の壷の碑の一節で「あぜち」を出しています。
      「按察使(あぜち)鎮守符将軍大野朝臣東人・・・」〈奥の細道〉
   で芭蕉は、あぜちと、古代の太安万侶と戦国の多賀谷修理亮を結びましたが、按察法橋=下間
   頼竜 ー大久保長安ー武蔵守ー由比ー大石源三とも繋いだと思われます。尼子の一節には
      宇多源氏の佐々木源三秀義
   があり、「源三」がここで繋がっているので案外「あぜち」から大石の源三をだすのはおかしいと
   いうわけにはいかないのでしょう。
    尼子ー甘木ー朝倉は、「景行天皇」に関わり「朝倉義景」の「景」に繋げて
      「朝倉孫三郎(景健)」「朝倉治部少輔」〈信長公記〉 
   で石田を出そうとした、同じく「景」の梶原から「梶原景久」=「梶原平次」を出して梶川
   「弥三郎」から明智の御曹司を出そうとしたといえますが
         「佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎」〈信長公記〉
    の並びから見て、桶狭間のくだりに戻ることになります。桶狭間の一節に
      「景行天皇第二の皇子日本武の尊」〈甫庵信長記〉
   が出てきて梶原の「景」と、佐々隼人の連結があります。佐々隼人は桶狭間の衆目注視の
  場所で出来ます。その上に佐々内蔵介が出ています。これは「比良」の「佐々」で

        「佐々蔵人佐・・・比良・・・・あまが池・・・おそろしき蛇池・・・安食村・・・又左衛門・・
        あまが池・・・蛇がへ・・・あまが池・・・・鵜左衛門・・・佐々蔵佐・・・井口太郎左衛門
        井口・・・」〈信長公記〉

   この、ばけものが溶鉱炉を述べたものであることは既述ですが、「あまが池」=尼が池という
   ことで、また佐々→佐々木ということや、武井夕庵の桶狭間の願文
        「両葉去らずんば却て斧柯(ふか)を用ひん。」〈甫庵信長記〉
   が尼子の一節の
        「両葉去らずんば将に斧柯(ふか)を用ひんとす。」〈甫庵信長記〉
   という橋渡しもあって、出雲の一節で尾張の鉄を語ろうとする工夫があります。武井夕庵が
   願文で述べているのは日本武の尊が東夷を蒲原で草薙の剣で炎を断ち切った故事ですが
   スサノオの尊の大蛇退治の剣は、出雲での製鉄を示している、、熱田の草薙の剣は尾張の
   製鉄を語っていると思いますが、太田和泉守が天下布武に当たって領国の鉄の生産を再編成
    したというのが「あまが池の話でそれを証するために出雲へ話しを持っていって、語りなおした
  と思われます。

   比良の佐々が気になりましたので芭蕉をみましたが、「成政」「三成」の「成」、「羅馬は1日にして
   成らず」の「成り」については
          「成りにけり成りにけりまで年の暮れ」
    があり、宗因にも「年たけてなりけりなりけり春に又」があります〈芭蕉全句〉。この「成」は
    尼子の一節の理解においては記憶して置く必要があります。既述、「三上伊予守」は〈甫庵
    信長記〉にありました。芭蕉では
          「比良三上雪指し渡せ鷺の橋」
    が、佐々、石田と尼子の一節をつないでいそうです。
    すなわち、比良=佐々ーあまが池」、三上=三上伊予守、渡す=渡辺通、鷺=弥三郎、橋=
    橋本、長谷川橋介で、「雪」は「幸」−「雪」、「関口石見守ー雪峯」です。「井原」は「雪舟」の
    伝説が「重林寺」というところに残っており、有名なようで、そういう
    のと符合します。尼子は、〈吾妻鏡〉佐々木源三秀義の後裔佐々木道誉の孫高久のとき、近江
    犬上郡甲良町の尼子郷より入った由来の由で、〈信長公記〉「比良」の「佐々」が、利いており
    「日枝三上」もあり、三上山は野洲郡にあり野洲は三雲氏の属性です。尼子の一節には
         はかりごと
       「   等   を帷幄(いあく)の中にぞ運(めぐ)らし。」〈甫庵信長記〉
    という文言があり、「等」に変わったルビが付いており、「長谷川」「高山右近」が、この尼子の
    一節に関わってきますので、等伯が高山と繋がれる場を提供したのがこの尼子の一節といえます。
     長谷川、高山右近は

       「・・森三左衛門・山田三左衛門・長谷川与次・佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎」
       「織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・・・」
       「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・・・」
       「高山右近、郡山・・・石田伊豫・渡辺勘太夫、・・・中川瀬兵衛・・・古田左介・・高山右近・・」
 
    などがあり、尼子の一節には
      「青山」「青山」「郡山」「佐々木源三」「陶五郎隆房」「山田山中」「陶五郎天神山」
      「古田左介」
    などがあり、〈甫庵信長記〉の索引では
            長谷川藤五郎
            長谷川与次
    となっており、五郎という重要表記を生かすと
            長谷川藤五郎
                 陶五郎
   で陶器の五郎にもなります。大久保長安の子息も藤五郎というようです。
       「三沢為幸」=為雪ー松本為足ー松本ー馬場信春ー等伯
   に至ります。芭蕉では、「大津にて」と題して
       「三尺の山も嵐の木(こ)の葉かな」
   がありますが三尺の山は低い山ですが周囲高山も想定されており、三沢というのが出ています。
   尼子の一節には「枝葉」「両葉」「朽葉」の三つの葉があり「嵐」は風こし山ということになります。
   大津ー高山ー三沢がだされていそうです。
 
    尼子伊予守経久・的孫右衛門尉晴久、大江広元・毛利元就、陶藤五郎隆房などが出てきた
    あま子の一節は、多くを語って来ています。
       @戦国期中国の興亡の総括
       A邪馬台国など日本史出来事の解説
       B石見銀山の太田和泉守の関与
       C尾張にける鉄の生産のこと
       D長谷川等伯などのこと
       E遣欧使節のヒントの提供
    があり、Eのためにこの部分を援用するつもりが深みに嵌り込んでしまいましたが、Eは
    いわゆる徳川家康をも揺さぶったのは太田和泉守という観点で述べてきているのでBの
    大久保長安が出てくることが必要でした。まあこのように分解するのは合っておらずここの全体が
    を、遣使のこと、明智光秀三代のこと、高山右近のこと、歴史のこと、・・・を述べようとしている
    知りたいことを、ひょっとして書いてくれていないと思ってみるのが要ると思います。ここ尼子の
    くだりに
       「渡辺太郎左衛門尉、通(とほる)・・・同十郎三郎・・・高橋・・井原の樋爪・・・渡辺源十郎・」
                                                     〈甫庵信長記〉
     がありますが、これだけみても「渡辺通」という人物が出てきそうです。現にウイキペデイ
    アでは独立項目があって、「石見の大江坂七曲」で、「通」など七人が尼子に追い詰められた
   元就の身代わりとなって戦死し、「その戦死の場所が島根県温泉津町(現在は大田市)小浜の
   七騎坂といわれる。」となっています。「小浜」は「太田本郷」のある越前の小浜があります。
   福岡市中央区の天神の近くの「渡辺通」の語源はこれで
   しょう。中洲と中州の二つがあってよくわからない、同ネット記事では二つあることが書かれて
   とにかく解説があるのはホッとするところです。岩洲=岩津、という重要な炙り出しがあるので
   中洲は旧領のの中津からきている、「中州」は太田和泉守も乗っている「中島」から来たといえ
   そうですが、とにかく太田和泉守は「大久保長安」の前は「黒田官兵衛」に乗って語り続けている
   のですから、故地なので〈両書〉抜きばかりでは、惑わすことになるのではないか思います。
   渡辺勘兵衛了の「了」を湯浅常山は「おはる」として、ルビなし「了」を併用しましたがこの一節で
   「とほる」と読むのがわかるからです。これを「とほる」と読むことによって、あっと言う間に、平安
   から江戸まできてしまいます。「源融(とほる)」−とほるー渡辺(とほる)」で、ウイキペデイアの

   「源融」の語句を辿っていくだけで「塩釜」「六条河原院」「世阿弥」「能(融)」「汐」「尼崎の琴
   浦神社」「渡辺昇」「宇多上皇」「源綱」「摂津渡辺氏」「嵯峨天皇」」・・・
   となり塩竃でいくと「和泉三郎」登場となります。とにかく下津権内は
     「岩成(「石成」もある)主税大属(チカラノカミ)と組討して手柄の仁にて候なり。」〈信長公記〉

   があり「石成友通」と密接な関係があります。清水又十郎で下津ー下間の間を切断したのは、
   大久保長安、石成の方へ下津を誘導したのかも。石山本願寺の「石山」というような。もう一つ
   の清水又十郎と11人は渡航の決定打につかえそうな予感もあります。

   (68)羅馬が出た
     Aの歴史上の出来事の例、もう一件だけみますと、人名索引で、再掲
        阿部加賀守
        安部仁右衛門
        尼子伊予守経久
        (的孫)右衛門尉晴久
        尼子下野守
        甘利藤蔵
    がありますが、上二つが阿倍仲麻呂を暗示するものです。それが尼子のくだりに流れます。
    尼子のくだりには「井原」があって「備前、備中、備後」があり、井原線には吉備真備駅があ
    って、阿倍と井原と吉備が結ばれています。太田和泉守がこういっているから
             「井 真 成」
    というのは吉備真備=阿倍仲麻呂でよいことになります。仲麿の表記が、ここでも「阿部」「安部」
    の二つが出ています。
     「真」というのが中心で
           吉備   真   吉備  (吉備真備)
                 ‖    
            井    真    井  (今井宗久)
                      (せい)
                     =「成」
   となります。これは後述するとして、大沢次郎右衛門の「宇留摩」の「宇」は尼子の一節で
        「宇多源氏の末流佐々木源三秀義・・・・」
    の「宇多」の「宇」で出ています。
         「宇」=「ウ冠(かんむり)」+「于」(つまり「ウ冠」がなくても「うー于」で通ずる)
    です。「今井宗久」の「久」は「く」と読み「宮内庁」「宮内卿法印」「南部宮内少輔」の「宮」が
    宛てられます。これは御門=みかど=宮門(書紀)の「宮」ですから「く」の例としては最適です。
        「(天正7年)石田主計・前田薩摩両人・・・堀久太郎所・・・御振舞・・・相伴は津軽の
        ●南部宮内少輔(くないせふ)なり。」〈信長公記〉
    ここの「久」の人物が36歳で亡くなりますが、惜しむべし宰相の器、まもなく東国の軍事都督
   となるだろうといわれていたようです。もう一人36歳で亡くなったのは没地、書写山・平井山
   などの地名とともに有名な「竹中半兵衛」があります。平井は
      「平井久右衛門」「平井越後」〈信長公記〉  
   があって甫庵では「平井加賀守」「平井越後守」「平井阿波入道安斎」があります。竹中半兵衛 
   は天正7年(1579)の死亡で桶狭間のときは19歳、太田和泉守との年齢差は18くらい、堀久
   太郎は、天正18年(1590)36歳死亡だから1554生まれ、太田和泉守との29くらいとなりそう
   で、二世代の差となります。竹中半兵衛には太田和泉守が乗っており36歳の死は英雄の死と
   なっています。井真成とおなじです。
    とにかく●が「石田主計」「前田薩摩」に接触しました。この三者が出てくるのは必然です。
         〈信長公記〉人名索引
           ▲大久保忠世
           大蔵新三
           大蔵虎家
           大坂門跡(大坂本門跡)→顕如光佐    必然ではない (おざか)と読ませている。                   ■大沢次郎左衛門
           奥州津軽の南部宮内少輔→南部政直   必然ではない
           長船長光                     必然ではない
           大嶋
           大嶋
           奥州伊達                     必然ではない
           ▼太田牛一
     において、順番からみて「必然のない」ものが入って来ています。■の後ろに先ほど挙げた人物が
    がなぜか出てきています。まあ必然であると認めた人がこの世にあるのですから三者は必
    然です。大沢は「必然」のものを辿ると、
        大沢ー大嶋ー太田牛一
    と辿ってきました。■は大島と結びついて南部宮内少輔を通過して「石田主計」「前田薩摩」
    を出してきたといえますが、これは大島が〈甫庵信長記〉索引において、二つの「治部」の間
    は入っており
        大草治部少輔・・・・■、大島・・・・太田牛一・・・・大館治部大輔、同伊予守
   のように■は〈甫庵信長記〉にはないのですが、この大島の前に位置づけられることになります。
    つまり石田の流れの中に大沢ー大島があります。ここで治部少輔が出て
       ほそろ木治部少輔(考証は「細呂木治部少輔」)〈信長公記〉
       細木治部少輔〈甫庵信長記〉
   が出てきます。ここで「呂」が浮き出されています。また
       細呂木薩摩守〈明智軍記〉
   があり、これは細呂木が「薩摩守」という一風かわったもの、(ほとんどない)ものを伴っています。
   薩摩の島津があるのかなあ、とも思いますが、やはり「前田薩摩(甫庵では「前田薩摩守」)」と繋げ
   ようとしたのでしょう。「石田主計」は〈信長公記〉だけですから、実態(体)ではない特別参加で、
   治部少輔を通じて細呂木を、石田と見ているといっていると思われます。暗示の表記と取れ
   そうです。この「薩摩守〈明智軍記〉」は、

     「宇留摩の城主■大沢次郎左衛門・・多治見・・犬山・・高山・・飛弾・・大ぼて山・・猿・・カサ・・
     丹羽・・つまり・・加治田・・右近・・越・・風・・吹・・押並て持続(もちつづけ)・・・渡し進上・・
     隼人正・・堂洞・・勘解由・・鍛冶・・関・・堂洞・・続松・・堂洞・・足軽・・山下・・たへ松・・二の
     丸・・天主構・・二の丸・・高き家の上・・★太田又助・・黙矢・・きさじに見事を・」〈信長公記〉

    の■から★に至る流れをみてこの太田又助は前田又左衛門Aとみる(既述)というヒントもあると
   思われます。「二の丸」というのも「二つ玉(弾丸)」を想起させます。人名索引からみると
          〈信長公記〉               〈甫庵信長記〉
          前田又左衛門(考証前田利家)   前田薩摩守
          前田薩摩守(大曲の前田利信)   前田左馬允(犬山の者)
          前田与十郎               前田又左衛門尉利家(利家、犬、孫四郎など)
          前野但馬守(前野長康)        前野小兵衛
   となっていて、又左衛門を睨んだ薩摩守となっています。前田与十郎というのが前田薩摩守の
  暗示(森氏)となっていそうです。前野小兵衛かいわゆる前野長康かどうかも気になるところです。
  前田又左衛門A(佐脇藤八A)となると前田慶次郎も出てきます。この「慶」は「続松」「たへ松」
  鍛冶(梶原)などで石田の光慶が出てきます。筒井順慶の「慶」は光慶の「慶」で、本能寺でも
  接近が図られていそうですが、★の文「堂洞」ー「此山」「上」「下」があり、「洞ヶ峠」というのもここ
   からきているのでしょう。「筒井」は「津々木」とならびで「続」と接触しやすくなっています。また
   宇留摩大沢の「摩」が「薩摩」の「摩」ですよ、というのも〈明智軍記〉の著者の、〈信長公記〉の
   解説といえるのでしょう。細呂木の薩摩を出したのは「呂」が問題だということから来ており。
      宇留摩の「摩」→薩摩の「摩」→細呂木薩摩の「呂」です
          薩摩の麻
          薩摩の呂   
     で、「摩」→「呂」→「麿」でもよく阿部の麻呂が、同時に「呂麻」出てきたということです。大沢の宇留摩の
    「宇」というのも先ほど「ウ冠」+于 でウ冠をとっても「う」だというのが出てきました。
    先ほど〈信長公記〉索引で
         大沢次郎左衛門
         奥州津軽の南部宮内少輔 必然でない
    というのがありました。筆者は宮内の宮は重要だという例でだしました。
    「宇」いうもの出てきたことから見ますと
        宮=ウ冠+呂
    ですから、先ほど「宇」であげた理屈と同じで
        宮=呂
    となります。これが麻呂にも使われましたが、
       「泉州堺津菜屋助右衛門・・・呂尊(るすん)・・・石田杢助・・・・千宗易・・」〈甫庵太閤記〉
   がありますように「呂」は「る」とも読みますので宇留摩は、宇呂摩でもありえます。〈両書〉では
  羅馬(ローマ)は一切使われていません。太田牛一が隠すのはわかりますが今日の解説書では
  「ローマ」に統一されているのか絵など作品の解説も全部「ローマ」です。当時「羅馬」と読まれて
  いたよという解説が一つでもあれば「馬」は〈両書〉で到る所で散りばめられており、
       「甲賀」の「多羅尾光太」やら「多羅尾右近(これは「野間左吉」とセットの人物)」
   がドッと戦力として参加してきます。中国とローマは長い付き合いですから漢字は決められて
  いたはずで、それが伝わっていなはずはなさそうです。〈信長公記〉索引から
         田宮
        ★田屋→河合の田屋
         多羅尾  光太か
         多羅尾右近
         多羅尾光太
   において★は必然でもなさそうだから、ちょっと洩れたとしますと
       田宮  →  田呂
       多羅尾 →  多羅尾
   となりますから多羅のルビが「たろ(田呂)」になるということです。「羅」を「ろ」と読むわけです。
    一方、★を入れるとどうなるかということですが、同じ「た行」であぶり出しがあって
           竹屋源七〈甫庵信長記〉
           竹尾源七〈信長公記〉
     があり、同一人物ですが「屋」と「尾」は似てるから、見間違えたらしょうがない、というのでしょう。
  すなわち
          田宮      →     田呂
        ★田屋      →     田  尾
         多羅尾     →     多羅尾
    ルビ   たらお           たろ(呂)お
  
   「羅尾」のルビが「呂尾」となりました。
   遣欧使節のことは隠されている。色々な見方があるのは仕方がない、というものではなく
   その前提が崩れていて、読まれているのに発表しないで今後の課題、今後の研究に期待と
   かいってる、のかも。
    「宇」と「宮」から「呂」を出したということについては、それでよいようです。索引では 
           宇都宮貞林(テイリン)
           宇津呂丹波守 
  があり、宇津呂と宇都宮を並べて呂ー「宇」ー宮の関係を炙りだしています。太閤記で重要な
  「鵜沼」の「大沢」から出発して、「宇留摩」−「宇ろま」によって、ここに出てきた、二つの
   「宮」と「呂」の人物だからこれは大物ではないかと思われます。
   湯浅常山は、「元就伊豫(陶のこと)の河野に船を借られし事」の一節に続く
      「那須の臣大関夕安深慮の事」(このあとの一節は太田道灌がタイトルで出てくる)
   の一節で「那須」の「大関夕安」と「宇都宮」「小田原」を交錯させました(既述)が
      「那須久右衛門」〈信長公記〉
   があり、これは「宮」右衛門なので、武井夕庵といっていると思います。「宇津宮貞林」はテキスト
   では未詳となっておりこれは「武井セキアン」ではないかと思われます。「小田原」は「太田原」
   といいたいので、「宇津呂丹波守」は呂馬の意味を込めて、太田和泉守の引き当てとなるので
   しょう。考証では加賀に宇都呂氏があり豪族ということですから実在の人というのでしょうが、
   〈信長公記〉索引では
            @氏直→北条氏直
            A宇津宮貞林
            B宇津
            C宇都呂丹波
            D宇都呂藤六
            E宇野下野
   となっています。@は必然でないかもしれませんが、ABの流れのもとのCという感じが
   します。すなわちCは〈甫庵信長記〉の「宇都宮」の「都」を持ってきて、ABは〈甫庵信長記〉
   の「宇津宮」の「津」をもってきています。チグハグにしており、一般向けの〈甫庵信長記〉で
   は、一部再掲        氏家
                    雲林院出羽守
                   臼田喜平次
                   宇都宮貞林
                   ●宇津呂丹波守
                   (其の子)藤六
   となっていて、人に知られた「宇都宮」→全然しらない「宇津呂」の流れてとなっていて名前を
   「丹波」にしていますから読者は●を創作表記とみた、Bが一般に知られていたかは別と
   して宇津ー丹波と暗示を感じたとてよいのでしょう。CDは太田牛一も「津」としたかったとみ
   てよいと思います。「うつ。」で出したいものがるということでしょう。こういう屁理屈をいって納得
   しながら進むというのはよくないことだとも思いますが後世の利用はもっときついのです。
   ここの「臼田」など、わけが判らんということでほっときますが「喜平次」の「喜」が貞林に及ぶ
  のはわかるにしても〈明智軍記〉の索引は
        氏家経国、友国                参考〈信長公記〉索引
        臼田次郎兵衛                    鈴木主馬
        ■薄田与五郎                    薄田与五郎
        宇津右近大夫                    鈴木義明 宮嶋城「能美郡」
        ★宇津大和守・同下総守
        宇津宮広綱
   となっており、■を「すすき」と読まずに「うす」と読ませています。関ケ原、小早川の大将、松野主馬
   が、氏家の人で、大坂城の大将薄田隼人正と姻戚で、雑賀の鈴木の鉄砲が再編されたのでは
   ないかと書きましたが、合っていそうでもあります。へキテイカンの戦いで勝利し小早川隆景の
  勇名をいうのですがこれの御蔭でしょう。ただ「小早川」がここで出てきたのは尼子の一節で
  「小早川中務少輔」がありましたので、〈明智軍記〉の意図があったのかもしれません。★も
   甫庵の索引       正親町の院
                 大宇大和守
                 大草治部少輔  
   の大和守も見ていそうです。宇津宮がやはり出て来ています。「うつ」で出したかったもの一つ
   は「うつろ」で、「呂」がでていますが、これは「虚空」です。索引では
            〈信長公記〉               〈甫庵信長記〉
           長屋甚右衛門              永原越前守
           ●長山九郎兵衛              長山九郎兵衛尉
           中山(三件)                 ▼半井驢庵
           ▲半井光成(文中では「驢庵」)
           名郷源太
   がそれと関係するものです。▲▼で、「馬」篇の字が出ました。
          「盧」+「馬」
   で遂にローマが出ました。しかも「艪」もあるのでしょう。「三成」もでました。
   上のCDに二つの「宇津呂」並びで北国で●の「長山九郎兵衛」がでますが「九」なので漠然
   としていますが一応注があり、
        「永山氏は加賀の豪族。能美郡虚空蔵山城に拠るという。〈越登賀三州志〉」
    があります。この●の上は「長尾」にもなりこれは尼子のくだりで出ます。長山は永山、中山に
   して「半(なか)井」に行かせています。「虚空(うつろ)」が「宇津呂」を使わせた、と思われます。
   したがって「宇津呂氏」が実在としても太田和泉守の書物以降のものかもしれません。
  この「うつろ」は〈万葉集〉の「そらみつ(虚空見つ) 大和(やまと)の国は」からきていることは★で
   わかりそうです。古代から、九州・出雲、大和、北国とスケールの大きい話が、ローマに懸かる
   というのが尼子のくだりですが、出したかった、もう一つの「うつ」は「宇津保」ではないかと思います。
   宇津宮ー宇津呂ー宇都□(かたかなのロろ)という空白の中に「大久保」の「保」が入るという
  感じで「宇津保物語」を出して「源氏物語」を出そうとしたと思われます。宇都宮というのが、
  嵯峨源氏ー源融ー渡辺党ー松浦党ー宇都宮頼綱ー藤原定家・・・というような源氏物語の筋目
  に入ったものの起用というものです。尼子のくだりに
        「宇多源氏」〈甫庵信長記〉
  があります。この源氏は源平の「源氏」にしても、源氏物語の「源氏」でもあります。この宇多も
  宇多上皇の宇多でもありますが、「宇田」でもあり「治部少輔」「石田三成」に関する一節に出て
  きているので、石田に関する「宇多(宇田)」が意識されているのでしょう。これは別の物語を
  生みますが、典雅な源氏物語と俗な石田三成が一緒になっているはずがないというのはあり
  ません。ここは、戦国の尼子のくだりに源氏物語も登場してきているのでそちらの話もしないと
  阿倍仲麻呂の話もあるというのがおかしいということになる、というような持ちつ持たれつのこと
  になります。いま阿部仲麻呂の途中ですが、太田和泉守の同時代人がその説明に入ってきたと
  いうのが、けしからんとなるでしょう。「今井宗久」のことです。

   (69)中国のあの資料
        「井真成」=「井真井」=「今井」
    はすぐ気が付きますが関係ないだろうと思ってしまいます。
    しかし井真成は、今まででも泉南の人であることはいわれており、「今井宗久」は「堺」が
   属性の人物で見当外れでもなさそうです。一方〈両書〉と尼子の一節をつなぐ役目を果たして
   いました(既述)。他に    
      「宗久」の「久」は「経久」「晴久」の「久」、
      「天王寺屋竜雲」の「雲」ーー「堺の今井宗久」ー「源義経」ー「久経」
      「竜雲」の「雲」ー三雲=三郎左衛門=三沢
      「・・・天王寺へ御成(おなり)・・・堺の津へ御成・・・・今井宗久所へ御成。」
      「安倍野・・・・今井宗久・・・御成」
   などがあります。利用しようとしているのは明らかです。しかし基本的には〈甫庵信長記〉人名
   索引、
          今井宗久   
          今枝弥八
   となっている側面が眼目です。遣唐使の代表が年表によれば「多治比広成」のようですが
   ネット記事では「多治比真人広成」という表記があることが、複数出ており、
              真人
              広成
    で「真成」が出てくることになっています。尼子のくだりに「多治比」が2件でており、〈信長公記〉
    の、宇留摩の大沢次郎左衛門にはじまる「多治見」「太田又助A」の登場があり、尼子の
    くだりに「井」に関する
          「井上七郎次郎」〈甫庵信長記〉
    がでていることから、、宇留摩の摩も利いてきて
            @多治比真人(七郎)
            ‖
            A多治広成真人(次郎)=阿倍加賀守(阿倍仲麿)ー(「安部二右衛門」で二人)
            (吉備真備)
   となるのではないかと思われます。@の人は表面には出てきませんが当代きっての多面的
   才能の持ち主で吉備真備の有名の一部をなしているといえそうです。ネット記事
      「阿倍仲麻呂(安倍仲麿)千人万首」によれば安倍仲麻呂は
    「中務大輔 船守の子 渡唐後は仲満と称し、のち朝衡と改めた。」
   となっています。この「中務大輔」は尼子のくだりで
      「坂豊島へ尼子・・・杉次郎左衛門、小早川中務少輔・・坂・・・」〈甫庵信長記〉
    があり、この「中務大輔」は受けられています。ここで重要なのは「仲麻呂」は「仲満」でも
    いいや、といわれてきているわけで、別の人がいる、仲麻呂@Aがあることがはっきりなって
    いる話です。ウイキペデイアなどによれば
          @井真成   698?〜734年  36歳、
          A仲麻呂   698  〜770   72歳(年表70歳)
          B真備    693頃 〜775   83歳(年表)

          C多治比県守      737    70歳〈年表〉
    となりますが、まあこれは死亡年齢、全部72、としておけば、それで全部が重なるのでしょう。
   @は72/2で、Bは10年の調整となり、なぜこうしたか説明するだけでよいのでしょうが、@が
   年表に出てこないのが解し兼ねます。中国から資料が出てこない前だから当たり前だというのか
   前から知っていて分らないからそのままになっているのか、デヴューの経緯がよくわからないという
   うことです。太田牛一は中国名、「井真成」という人物がいることは「イマイ」で表わしていたから
   知っていたといえます。湯浅常山も自分のことを「湯元禎」と書いています。こういうのがあるという
   うのを知っていたかのごとくです。ウイキペデイアによれば
      古代の帰化系氏族「井上(いのへ)氏」あるいは同様の帰化系氏族「葛井(ふじい)氏の出身
    という人がある、と書かれています。これが索引にも反映されています。〈甫庵信長記〉索引は

        ●井上才介(本文は「井土才介」なので索引間違い) (〈信長公記〉では「井戸才介」)
         井上七郎次郎(尼子のくだり)  (〈信長公記〉では「井上」−本願寺坊官、がある)
         井上又蔵               (〈信長公記〉「井上又蔵」)
         猪子三左衛門尉ほか猪子五件   (〈信長公記「猪子賀介」ほか「猪子」2件)
         「今井掃部助」「今井宗久」「令枝弥八」   〈信長公記〉は★「茨木」「今井宗久」と続く
   
    となっており、「井上」「猪」は尼子のくだりに出ています。「猪」の出番は
      「元就・・・甲を猪頸(ゐ くび)に著(着)なし・・・」〈甫庵信長記〉
    ですが脚注では「兜を斜めにかぶり首が短く見えること。」となっています。これは脚注がなくても
    も大体わかりますが、敢えて入れられている感じです。これは
        「いの うえ」→「いの こ」→「いま い」
        「いの うえ」→「いのこ」「い の こ」→「いまい」「い ま い」 
    とするためです。上が漢字から受ける常識の線、下は三字のウエイトが同じ、ルビの付け方
    にも表われます。現在でも今井さんはルビを付けるときに指定がはっきりしなければ迷うと
    ころです。「いまい」「いま い」の二つあります。ルビの枠がなければ後者にするのでしょう。
    ★は余計なものになりそうで説明に窮しますが
         「井原木」(いばら木)
    で「井」と「井まい」の流れは保たれています。
    この時代では「い まい」もありますが、実際はこれも意識されたものになりました。●は
    間違いだったわけで、意識されたものです。「井土」とある場合は「いど」と読まれ〈信長公記〉
    も「井戸」で応じています。また
       「井口太郎左衛門」〈信長公記〉(比良の佐々、あまが池の蛇の一節で出てくる)
    があるから、本来「井上」の横辺りに出てくる人名だから、
          「井」(い)
    と読ませたいと太田牛一が思っていたといえそうです。湯浅常山〈常山奇談〉の森銑三の
    索引では「井口猪の介」「井口與市」の二件だけありますが、尼子の一節に関わっていそうです。
     いいたいところのことは、ウイキぺデイアのもので「井真成」の読み方が二つ書いてあって
     「いのまなり」「せいしんせい」があります。まあ和式と中国式というわけでしょう。これに
         「い まなり」「い しんせい」
     も加わる、つまりチャンポンの「井」がある表記がいずれ出てくるということを太田牛一は、
    文献を見たかどうかは別として知っていたといえます。先ほどの「井上(いのへ)氏」は「の」
   抜きの「いへ」氏だったわけで、〈信長公記〉堂洞ー続松の
          「二の丸の入口おもてに高き■家の上にて、太田又助只一人あがり・・」
   の■のルビがなくて読み泥みます。「や」となると「高屋」となって索引上「多賀谷」「高安」「高
   山」と出ますが、これは「いへ」と読むのがあって、先ほどの「いへ」氏を出しているのではないか
   と思われます」この短文の中に「口(くち)」が「只」と二つあり、「入口」の「入」は「い」と読むの
   で「井口」があることになります。「井・・・いへ・・上」となっている理屈です。ウイキペデイアでは
   「入江」で引くと、ちゃんと
         「入り江あるいは入江(いりえ)」
   となっています。戦国の文献では、「入」の一字に「いる」「いり」「いれ」のルビが入っていますが
   、かなを入れて送るのが合っていると知りながらこうして鵜沼を宇留摩と散らして利用しようとして
   います。「入(いれ)」の例は「関入(せきいれ)」〈甫庵太閤記〉がありますが、たまたま、ここが
   こういう例が纏めてあるところで「根来寺兵火併千石堀(甫庵太閤記)」の一節では
     「取入(とりいれ)・・・付入(つけいり)・・・可入(いるべき)・・・責入(せめいら)ん・・・飛入(とび
     いり)・・・射入(いいれ)・・・張出(はりいで)・・・関入(せきいれ)・・・浮出(うかびいで)・・・・」
  がありルビのついたものでこれだけあります。「出」がついでに二つあるので意識的でしょう。
  太田牛一はこう書きながらも〈甫庵信長記〉
        「猪武者・・・信長卿・・・宮福大夫、・・・馬の太く逞しき・・・清洲の城を出でさせ給ふ。」
  があり、「出(い)で・・・」と読ませているようです。漢語辞典でみても「い」などという読みはなく
  出雲は全体で「いずも」で、「出水市」が記憶にあったのでみるとこれは「いずみ」であるということ
  でこれは強いて言えば「出ず み」で、「い」と読ませたいような、そうでないような感じのもので
  すがとにかく太田和泉守は二つの読みを使って、意識づけています。いいたいことは尼子のくだりに
      「(的孫)晴久・・・・吉田上村へ打出でゝ(打出でて)、・・・」〈甫庵信長記〉
   があり、ちょっとややこしい表現ですが、上の桶狭間と一緒でこの用法にこだわりがあるという
  ことです。一つは、阿部仲麻呂の
       天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも〈ウイキペデイアのもの〉
」  の「いでし」があるからこれは当然と言っても、まあ合っているでしょう。筆者はこの「いでし」は
  大田=小田、入=出、「入」=「い」=「出」だから、「入出(いで)し」であろうといいたいところです。
  異郷で月が出たのを見て、歌ったというものでなく、昔いた春日山のことを月と絡めてを歌って
  と思われるからです。これは、そらちゃう、でいいのですが、有名な歌で「いでし」があると太田
  和泉守は食いついてくるはずです。〈万葉集〉「額田王」の歌
      熟田津に船乗せむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
    この歌は「哀傷したまふ」歌で、「にぎたつ」は「未詳」となっていますから仮に外地とすると政治
   的な歌とみられているから、戦争の情景で、現場では悲劇の結果がすべてとなると、敗残、逃
   げ帰り歌でもありえます。「月」は人(兵士)もありうる、漕ぎい出な、があるかも。そらない
   というでしょうが、注、本文にある「哀傷」を教えてほしいだけです。
       「天皇・・・哀傷したまふといえり。すなわちこの歌は天皇の御製なり。ただし額田王の歌は
       別に四首あり。」となっています。その一つが
      「額田王、近江国に下りし時作る歌、●井戸王(ゐのへのおほきみ)のすなはち和する歌」
   と題して
        「三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや」
   が出てきます。この長歌に「見(み)放(さ)けむ山」があり、この「放(さ)け」が「ふりさけみれば」
   の「さけ」になります。「熟田津」は赤人の富士山の歌の次の歌にも出てきます。この●を出す
   ために努力がされたということで、先ほど索引の話しをしまし
   た。まだ他に「深尾和泉」から「井戸」を出す道をつけています。簡単に言えば尼子の一節に
       「深野平左衛門」「太郎丸」〈甫庵信長記〉
    があります。「深野平左衛門」が、「深野」→「深屋」→「深尾」で〈信長公記〉の「深尾和泉」と
   つないであります。
   この「深尾和泉」はテキストでは
         「和泉守。」美濃「太郎丸」城主で、文中では「井戸才介」と奇妙な関わりて
   で出てきます。妻子を安土へ越させないで普段安土で奉公しなかった、というのが「生害」
   の因ですが
       「其の上、先年謀書(ぼうしよ)致し、深尾和泉を支へ申し候。」〈信長公記〉
   があり「成敗」に至ったようです。「謀書」(ルビ=ばうしよ、とも読める)は脚注では
       「偽造した文書。ここでは■文書を偽造すること。」
    とされていますが、前が「謀書」の訳で、■は「謀書致し」の訳文にすぎないのでしょう。
   ■を謀略の文書を作成する、とでも言い替えると、話が大きくなってしまうので二回の「偽造」
   が使われています。日付や名前の一部の変更や印章の差し替えなどが偽造と取られやすい
   ので、その辺に納めとこ・・・生徒や学生、一般には限定効果を上げているのが、この脚注の
   文の特徴です。こうするのが校注の手法ですが、今はもう21世紀なので、21歳らしく、この面
   でも未成年の時代は過ぎていなければいけないところです。太田和泉守のスケールは大きく
   且つ緻密で、遠き時代、遠方から、ズバッと身辺の語りに来る、今太田和泉守の時代のことは
   後世がわからなければならないはずです。
    井戸氏は謀略の文書、「某書」を書いて、和泉守、和泉国を支援したといっています。
    「先年」と書いてあるのに先年のどこをみても深尾和泉、井戸才介の記事はありません。福田
   与一宅で火事(本文「回禄」)があって、妻子を安土へ呼び寄せるようにした話はあるので、これ
   関連付けようとしているのはあきらかで(実際には「曲事」でつながる)す。ひとつ「回禄」が問
   題になるでしょう。この回禄は火の神ということから火事という、ということが辞典では出ていま
   す。後世では「火の神」というところから解説が生まれ、回禄も引っかき回されそうです。芭蕉
   では〈奥の細道〉「火々(ほほ)出見のみこと」がありました。焼き物でいえば、〈甫庵信長記〉
   は「井土才介(索引は「井上才介」)、〈信長公記〉では「井戸才介」でしたが、
       「井土茶碗」「井戸茶碗」〈甫庵太閤記〉
   があります。ついでにいえば「尼子天目」は「泉州堺津宗及」のところにあります。ネット記事
  「火の神」では「鍛冶」の火を出されているのもあります。「京洛そぞろ歩き火の神天満天神」に
  よれば、「雷神」の親が「火の神」だから、菅公ー(天満)天神ー雷神ー火の神ー「回禄」というのが
  太田和泉守の頭の中にありそうです。〈信長公記〉「回禄」の出る一節、

       「正月廿九日、御弓の者福田与一宿より火事出来。是偏(ひとへ)に妻子を引き越し
        候はぬ故回禄(くわいろく)の由御諚なされ、則、菅屋九右衛門御奉行として、■御着到
        を付けさせられ、御改め候の処・・・」〈信長公記〉

   がありますが、ここで回禄のあと戦国の菅公が出てきています。則ち「菅屋九右衛門」です
       「菅秀政」〈信長公記〉 (文中では「香津畑の管六左衛門」、索引では「か行」)
   という表記があります。「秀政」のあるところ「堀久太郎」あり、菅谷の「九」=堀の「久」です。
     天満天神ー菅原道真ー大村由己ー梅庵ー出雲阿国ー出雲国尼子経久ー三雲ー三沢
   というような流れもあり、太田和泉守自身が菅公に乗って語るといっていそうな一節といえそう
   です。佐々の近江余呉村に菅原道真の生誕伝説があるようですが、江戸時代の人が菅公の
   肖像画など書いたものがあれば大田和泉守を描いたものといえます。
   ネット記事「雷神」の絵が宗達によって描かれ、これも菅公と結ばれるのは必然です
   が後世では、本能寺の戦いで突然戦死者として登場する一匹狼、〈信長公記〉
        「●桑原九蔵」「桑原助六」
   を活用したといえます。ここの「桑」は「三又の木」「三木の又」で、「九」=「久太郎」の「久」、
   「六」=「六左衛門」の「六」になるのでしょう。管六左衛門は「香津畑」が属性ですが「化荻」の
   一節に「香」「津」「幡」がつながっています。もう一人「桑原平兵衛(信長公記)」があり、これ
   は、「深尾又次郎〈信長公記〉」という表記があることを前提として
      「・・・居初(イソメ)又次郎・・・・桑原平兵衛・・・堀平右衛門・・」〈信長公記〉
    があり、桑原ー「平」ー堀で、堀とつながっています。〈甫庵信長記〉では
      「・・・安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝弥八、森九兵衛・・・久・・・・竹中久作・・・久作・・」
   という安藤ーー竹中ラインにいます。桑原の「九」−森の「久」が竹中の久に行っています。
   〈甫庵信長記〉では、本能寺で●の人物が炙りだされ
      「・・・桑原吉蔵、舎弟九蔵・・・・」
   と二人になってます。桑原助六郎は別にあり、●が一体だった、まあいえば
         ●桑原九蔵  =   桑原吉蔵(大田和泉守)
         (菅屋九右衛門)   ‖
                       (桑原)久蔵(兼松正吉)
  ということになります。〈信長公記〉「井戸才介・・・深尾和泉」の出た一節
     「竹中半兵衛、・・・舎弟竹中久作・・・・周光茶碗・・・・・・井戸才介・・・深尾和泉・・」
  があります。「桑原」が大きな働きをするので「くわばら、くわばら、」がでてくるのでしょうが
  〈広辞苑〉によれば
        「雷神があやまって農家の井戸に落ちたとき、農夫は蓋をして天に帰らせなかった。」
        雷神は自分は桑樹を嫌うから桑原桑原と唱えれば再び落ちまい・・・」
   というのがありますがここの「井戸」「開山の蓋置」の「蓋」「天」など入った物語になっていそうです。
    深尾、井戸と出てくる周光茶碗でいえば
     「秀吉公御道具・・・珠徳茶杓・・・井戸茶碗・・・千宗易利久居士・・蓋置・・・茶杓・・・・
      泉州堺津宗及・・・尼子天目・・・茶杓・・竹のふたをき・・・泉州堺津なやの宗久・・竹の蓋置
     ・・・茶杓・・・」〈甫庵太閤記〉
  があって、ここにあるものは、「天王寺屋竜雲」(テキストでは「津田宗達の一族。」)所持の
     「化狄(クハテキ)」〈信長公記〉
   の一節にある「天王寺屋(宗久)」「宗久」「蓋置」「さしやく」が出ています。この宗達の「クハテキ」
   は、対称が、これぞというものを外したもの、あの絵を脇で表現したものと取って来ていますが、
   「クハテキ」は「桑テキ」(「桑的」でもよいが)と理解したいところでもあります。桑は養蚕の木
   で絹の道を連想させるものです。〈甫庵信長記〉安土の山は
       「六十扶桑第一山」(「六十扶桑」は脚注では「日本六十州」)
   とありますが、この扶桑の「桑」です。この「桑」は「扶桑」の「桑」と違うといっても「桑」という
  字は同じで、太田和泉守の文献の中です。ネット記事によれば、名鉄犬山線に扶桑駅があって
  「丹羽郡扶桑町」があり、役所の所在地は「高雄字天道」となっています。「扶桑」は明治で付けた
  名前で、ウイキペデイアでは「桑によって扶養される町」ということですから「桑」は同じです。しかし
  明治で付けた名だから、この玄興の六十扶桑に関係ないというのは今日の、ひらかな、中央の
  地名をつけるという感覚とは違ったものがあったと思われます。消えた村は「高雄」「柏森」「山名」
  「豊国」で、これは「高雄」=「高尾」で「高尾は「深尾」より高山的で、「柏」は「柏(梶)原鍋」が
  あり、山名は山中鹿之介ー尼子との関係があり、豊国は山名豊国で「禅高」でもあり太田和泉守
  が乗っかっている人物です。もちろん豊国神社のそれでもありますが、流布した甫庵の文献的な
  名前があります。古くからある地名を取り込んでもいますから、ある程度そうかと察せられるという
  ものがあります。「山田」などがこういうもので「山田重忠」が出てくると畠山氏かなと思うし「大字
   山田」が来たりすると構えるようになります。扶桑町になったからといって前の地名が端っこに
  残っているということですから「扶桑」で余計に引っ掻き回すということにこの場合は、なっている
  と思われます。先ほどの場合は、丹羽郡扶桑が入ってその上高雄、その上天道となっています。
   クハテキが「えびす」色が出ていて東夷というのは大きく見れば、あと東の国がないから、
  日本に相応しいわけです。だから中国から見た場合、東夷=扶桑=日本で60州となります。
  回禄の解釈で一つの確実なものは、胡の
       禄山(安禄山)=唐の玄宗皇帝、楊貴妃の時代の「節度使」
  の「禄」があります。これが、阿部仲麻呂と同時代の人物で、玄宗皇帝は阿部仲麻呂が気に入った
  のかどうか、帰さなかったので客死してしまったわけで、安禄山とも接触があったことも予想されます。
  山口県に、楊貴妃の墓があり、阿部仲麻呂が楊貴妃を連れてきたというような話は同時代だと
  いうのはわかります。楊氏が難を避けたのなら何氏として表現されるのかが知りたいところです。
  安禄山は聖武天皇と同時代で,756年、聖武太上天皇の死亡(56)の翌年の死(52)です。聖武
  天皇は8年前に元正太上天皇死亡(69)のときに考さ謙天皇に譲位していて大仏が出来たとき
  (752)は今上ではなかったようです。とにかく安禄山と同時代ということややこしいことが出てきま
  した。ウイキペデイア(安禄山)では
     「聖武皇帝(せいむこうてい)は安禄山の帝号。
     ほぼ同時期の日本では、官職名等を唐風に変更しようとする動きがあり、天皇の称号も皇帝
    に変えようとする動きがあった。しかし聖武天皇の諡を皇帝にした場合、聖武皇帝となり、
    安禄山と同じものとなる。。そこで反乱軍の総帥と同じ諡にするのは如何なものかと声が
    上がり沙汰止みとなったといわれる。」
   となっています。こんなふざけた話を載せるのは、けしからん、となりそうですが、作り話と取れ
   そうなので、そうなるのでしょう。聖武天皇が56歳でなくなったというのは、事実を述べたもの
   で、ふざけていないとなるのでしょうが、それは「聖武天皇」のことではなく「聖武太上天皇」の
   ことだというと、それはふざけた話となるでしょう。表記で話す場合は両方が真面目な話しです。
    日本の代表的文献の一つ〈奥の細道〉で芭蕉は
        「聖武皇帝」(多賀城壷の碑のくだり)
   を使いました。
        「天平宝字六年参議東海東山節度使(「節」は草ガンムリもある)、同(おなじく)
        将軍恵美朝臣アサカリ修造而(をさめつくる)。十二月朔日と有。
        ●聖武皇帝の御時に当れり。・・・・」〈奥の細道〉
   
   があり、前の稿で既述です。「アサカリ」は
         ○「けもの篇」に「萬」に似た字一字、ルビ「あさかり」、
         ○「朝」+「(けもの篇+「葛」に似た字)」
    の二通りが書かれています。この●を書き下したとき芭蕉には、安禄山は意識になかった
    とはいえません。日本史のこのあたりは、聖徳太子、入鹿、大化改新、人麻呂時代と違って
    知られていないので長々語られても、聞く方はしんどい、従って、云う方もしんどい、まあいい
   やということになりやすく、言い換えれば専門の人の独壇場となり、その語りが受け入れられま
   す。目的に短絡して述べれば通りにくいが、筆者の場合はそれしか方法がありません。年表だけ
   でいきますが、幸いこの時代、記載は多いので助かります。もちろん〈続日本紀〉をみればよい
   のでしょうが、手に負えません。年表は、太田和泉守の文献のような解説書の一つで,54人の
   人の手になるもので作品ですから、それだけでわからないのは失敗作であろう、そんなことは
   ないはずです。つまり年表はチャント太字が入っており、これがあるのとないのとではえらい違い
   です。その太字が入ってるのです。「さもないと」、見落とし、効力が半減、余分な語りが必要です。
   
   (70)光明子
   今遣欧使の話
   の途中ですが、これと阿部仲麻呂が重ねられている(外国をまたぐ話芭蕉で云う「四維国界」)
    のでとりあえず、必要です。太字が入っているのは次の四っの事件です。
      729 長屋王の変(聖武天皇5年目。長屋王は元年から輔弼、長屋王は柿本人麻呂B)
      740 藤原広嗣の反乱(藤原不比等の三男宇合の子)
      757 橘奈良麻呂の乱(橘諸兄と同年の死)
      764 恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の改名後の名ー不比等の長男武智麻呂の子) 
   ここで不比等の二男房前が出ておらず、これが2月長屋王を葬った元凶でしょう。ここで年表では
      729 8月藤原光明子を皇后とする。
   があり、これは次の左とされていますが、これはやり手の登場で右のことです。
            聖武天皇             聖武天皇
            ‖                 ‖光明子
            光明皇后             光明皇后(大野氏)
    このいわゆる光明皇后が誰かが、問題ですが、芭蕉は三人の名前を出している(大野東人、
   アサカリ、●聖武皇帝)ので、アサカリが光明子のヒントとすると大野氏となります。こうしておく
   と、740年、聖武天皇在任中、16年目に生じた藤原広嗣の乱を大野東人が平定したことと合っ
   てきます。聖武天皇以後は
                     聖武天皇 25年
                     孝謙天皇  10年
                     淡路廃帝  6年  (淳仁天皇)        道鏡登場
                     称徳天皇  5年  孝謙天皇重祚とされる  道鏡登場
                     光仁天皇  12年
                     桓武天皇   24年
   となりますが、馴染みがないのも手伝って、もっとも、むつかしいところです。     
   聖武天皇は何と25年在位し、考謙天皇に譲位しますが、誰に譲位したかというのが問題で
    これが光明子の子ということです。
   しかし、次の考謙天皇の在位は、9年(757)で終わりましたが、光明子はずっと生きていて、
   次に六年在位した淳仁天皇の三年目に760没(60歳)となっています。
   まあ、光明子はそのまま横滑りしたといえそうです。孝謙天皇は史上めずらしい女帝ということ
   になっています。公表は光明子の子ということですが、該当はありそうです。年表では、聖武天皇
   三年目に皇太子が立てられています。727 11月
       「藤原光明子の子基王(丁卯H誕生)を皇太子とする」
    とあり、この人が、普通は聖武天皇の譲位した考謙天皇のはずですが、別のところ(文化・人物)
    欄に、翌年
       「9(9月のこと) 皇太子基王没(1)」
    と書いてあり、この(1)もよくわからず、1歳の意味とは思いますが例が見当たらない書き方
   となっています。まあ生存皇太子としておくと、後日わからない人が出てきたら宛てられます。
   ここでまとめますと
        724      749      758       764       770      781
   天皇  |@聖武天皇|A考謙天皇|B淳仁天皇|C考謙天皇|D光仁天皇|E桓武天皇
   在位      25年     10年      6年      5年      12年     24年
   実質    光明皇后   ■光明子  光明子3年    基王     清麻呂   山部親王
   特徴  大仏・正倉院|藤原仲麻呂|●恵美押勝|  ▲道鏡 |
         橘諸兄終5年  橘諸兄            ▼吉備真備
         長屋王始5年         5年多賀碑
         17年広嗣  10年諸兄死 6年押勝死
                  同奈良麻呂
   参考   光明子729皇后・藤原宮子754没・聖武天皇756没・光明子760没・道鏡772没
  となりそうです。
  @から長期政権のEに至る間に4つの政権があり、ACが同じにしたのは重詐があったという
  ことで実際はCは称徳天皇となっています。こういう例は昔、皇極天皇が間をおいて斎明天皇
  として出てきたことがありますが別人が登場しました。(熟田津の歌に関係)
  ここでもACは別人。
  中心を■と▲に置くと、■は@の時代から力があり、広嗣はその専横を怒ったと考えられます。
  ●は、〈信長公記〉「海老半兵衛」相当で、「仲麻呂」も「半麻呂」になりそうで全体、長屋王の死後
  @ABは半兵衛色が濃厚。Bの終わりころ、多賀碑でアサカリ(●の子)が出されたのは注目度
  を高めた、大田和泉守の歴史解説と思われます。つまりアサカリは藤原仲麻呂Aと同じだから 
  ▼に関係する「(阿倍)仲麻呂」と「仲麻呂」同志ということで出してきたのでしょう。一つ
     「(阿部)仲麻呂」−「(阿部)半麻呂」
  は出てきました。なお▼は慈円は
    「吉備真吉備」
   と書いています。橘諸兄の死、橘奈良麻呂の反乱は同年で、ここで●の天下がきたと思いきや
   ▲の登場で、●が破れます。いまは、36くらいになった「基王」がCとしてここで復帰し道鏡を
   起用し事態を反転させた、つまり、オーソドックスの線に戻したといえます。■の人は「阿部内親王」
   を立てAとしていましたが自分のほうが筋目だといってここで出馬してきたといえるのでしょう。
 
   (71)道鏡
   ここで道鏡が誰かということが問題になってきます。これは難問ですが、チャンと弓削の道鏡と
   いうヒントがあるわけで、弓削氏の人でしょうから立場だけでもわかるようになっていそうです。
    わからなくて不完全燃焼のままですが、命に別状ないから、いまある物語で満足してきている
   にしても、立場くらいは仮定できるのでしょう。「弓削」氏の人、というと物部氏の一族で・・・、というような
    ことになり煩わしい、よくわからない、となりやすいものですが〈甫庵信長記〉で
        「弓削六左衛門(考証=弓削家澄)」 「弓削修理亮」 
   があるようなことでよい、つまり〈万葉集〉に
        「弓削皇子」(「皇弟(いろと)」ともいわれる)
   があり、この係累の人ということでよいのでしょう。〈万葉集〉で額田王、紀皇女などと関わりが
   生じる、柿本人麻呂に近いと考えられ道鏡も長屋王に近い身内かもしれないというのが出てき
   ます。■の孝謙天皇のはじめの4年前に鈴鹿王没(?)があり、この人物は長屋王の弟なので
   就任前の事件長屋王排斥に続く事件かと思われますし長屋王と自殺した人は吉備内親王という
   人だったというのも吉備真吉備というのはどうかというのも出てきます。いま実力者サイドで
   はじめの孝謙天皇の実力者、光明子、第二回目孝謙天皇天皇時代の実力者、道鏡を取り
    出してきましたが天皇サイドに大きな誤解があります
    @聖武天皇のあと
     A孝謙天皇      B淳仁天皇 C孝謙天皇(異性) C光仁天皇(同)  D桓武天皇(同)
          ↓           ↓        ↓           ↓          ↓
    ▼阿部内親王@の子   淡路廃帝   基王(@の子)   ●□□□        Cの子
   となりますが、Aが6人目の女性天皇として有名です。これは逆で、それが実力者2代(光明子、
   、恵美押勝)の下ですからそうなります。Bは明治の始めに天皇扱いにされそうです。慈円
   は47代で入れていますからそれでよいのでしょうが、「淡路廃帝」としており、「帝」という表記が
   「恵美押勝」という表記とともに唐風であることが問題です。唐も玄宗の時代に、はじめて、井
   真成の墓誌で「日本」の文字が出ているのが注目されているというところにいます。唐が認めた
   「日本」ではないのに、墓誌に入っているのはおかしいということでしょう。天皇とか皇帝という称号
   は唐に対しては使えなかったと思われます。Bは慈円は「大炊」「舎人親王第七子」と書いて
   います。「七」とか「大炊」が効いていそうです。土井大炊頭利勝は二代将軍秀忠の一の家老で
   すが、家康の落胤説があり、兼松又四郎の年齢のことを気にしています(常山奇談)。兼松正吉
   (金松又四郎)の
         「兼」
   を大田牛一は活用しましたが、このAの孝謙天皇の「兼」でありこれは「金」でもあります。一方
   Cは孝謙上皇(称徳天皇)でもあり、上杉謙信の「謙」の「兼」もある、「兼ねる」という「兼」も
   ありえます。もし「兼松」が戦国になければ、Aの比定の根拠がなくなってしまいますので、その
   意味は大きいと思われます。


    (72)和気清麻呂
   Cの終わりで、和気清麻呂が出て道鏡と確執が生じますが、太田牛一が
      「和気善兵衛」〈両書〉(これはコメントがない人物)
   を起用したので、この解説をしたものと考えられます。
       「淡の輪口・・・・丹和(たんのわ)・・」(〈信長公記〉)
   があって「和」=「輪」なので、三輪山の「輪」が出てくるので和気清麻呂は道鏡とグル
   のような感じが出てきます。結果的に●が誰かということに帰着します。正倉院、光明池の
       いはゆる光明皇后
   が時代の花ですが、これは「光明子」とイコールされているから、もの凄い辣腕を振るいながら
  文化、慈善に貢献した人として描かれます。すなわち、この人は
       光明子+(光明)★皇后
    になっていて例えばウイキぺディアでも「光明子」と「光明皇后」と二つの項目があり、少しか
  かなりか、印象では少し違いますが実際は大違いということになります。
 、★の人が●に納まったということが大きいことです。まあオーソドックスのものに戻ったといえ
  ます。大野氏というのは、途中の段階で話がつながって行く予感がしていたものです。基王が
  橋渡しをしました。

                     光仁天皇(光明皇后)
                     ‖▲井上内親王
          基王(称徳)ーーー高野新笠ーーーーーーーー桓武天皇
                 
  上の▼の人物がここで▲「井上内親王」として受けられる、両者は同一人物とみられます。それは
       阿部内親王ー井上内親王(阿部ー井上)
   を繋ぐものが今までで出てきたことによります。「井真成」は「井上(いのへ)氏」ではないかという
  のが出ていましたが、これは「井戸才介」「井上才介」「井土才介」のあぶり出しからも「井戸」で
   あろうというのが出てきました。先ほど要所で「橘」氏がでました。年表では736年
      「葛城王ら、臣籍に下し橘宿祢姓を賜ることを願い出て許される。葛城王名を諸兄と
      改める。」
  というのが出ています。湯浅常山は戦国九州の雄、立花道雪は、「始(はじめ)戸次(へ つぎ)と
  いふ。」と書いています。〈万葉集〉では「額田王」と関係のある「井戸王」(いのへのおほきみ)
  があり
         「戸」=「へ」で、阿部(戸)内親王=井上(戸)内親王
」  で同一に近づきます。▲の人の子息は「酒人内親王」「他戸親王」の二人ですが、「他戸親王」
  の「戸」に反映されています。
                    桓武天皇
                   ‖
                    酒人内親王
  となるようです。テキスト〈万葉集〉注には
       「葛井連広成(ふぢゐのむらじひろなり)」
   があり
     「旧姓白猪史(しらゐのふひと)」「遣新羅使」「筑前守」「備後守」「私宅に聖武天皇の行幸」
   などのことが書かれています。同注には
       「多冶比の真人広成」(「大唐大使卿」)
  も載っており、やめとけ、やめとけ、とならない限り、両者は関係付けて見られるものです。すな
  わち、井真成は、泉南、井上(いのへ)と、葛井(藤井寺)の両方の出身説があってよくわから
  ない、今後の課題だということですが、ここでは広成で葛井が出ました。「いまい」は「井真夷」
  もある、色も考慮が必要で、太田和泉守は「仲麻呂A」=「恵美朝狩」をだし「朝(狩)」ー「朝(衡)」
  で玄宗の命令で留まった、異郷の仲麻呂を想起させました。
        吉備真備(井真成)
        ‖ 安部仲麻呂
        丹冶比広成
   において、36歳で学業半ばで赴任地に戻る吉備真備の記録を、阿部仲麻呂が残した記録が
  井真成の墓誌というのが第一に感ぜられることです。阿部仲麻呂は歌が〈万葉集〉に歌がなく
  それらしい名前のものも系譜が不明ばかりで、専門の仕事でも手抜きができるものとそうでない
  ものがあるのか、とも思え
   ますが、それは別として、阿部仲麻呂の謀書ともいうべきものが〈万葉集〉にあるのではないか、
  と思います。井戸才介の「井戸」は「井原の井」+「安部の戸」です。〈万葉集〉の「出(い)」の
  例として「熟田津・・・・漕ぎ出(い)でな」の例を挙げましたがこの歌は今まで読みだけではいけない
  ものがある、ということでしょうが、とりあえずもうひとつこの使い方の例があります。

   (73)阿部仲麻呂
      「山部宿禰赤人、不尽山(ふじのやま)を望(まつ)歌一首  {短歌を併せたり}
     三一七 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 
          ★天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)けみれば・・・・
           照る月の光も見えず・・白雲(しらくも)も い行きはばかり・・・・・
             反歌
     三一八 田子の浦ゆうち出(い)でて見れば 真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
 
   反歌の「出(い)」が同じ用法です。これは田子の浦から出たところの富士山ですが、このあと
   「甲斐の国」が出てくるもう一つの富士山の歌が続きます。

      「不尽山を詠(よ)む歌一首   {短歌を併せたり}
     三一九 なまよみの 甲斐の国・・駿河の国・・・こちごちの国のみ中ゆ 出で立てる 富士の
          高嶺は 天雲(あまくも)もい行きはばかり・・燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を
          火もち消(け)ちつつ・・・・日本(ひのもと)の大和(やまと)の国の鎮(しずめ)とも・・・・
          駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも
             反歌

     三二〇 富士の嶺に降り置く雪は 六月の十五日(もち)に消ぬれば その夜降りけり
        
     三二一 富士の嶺を高み畏(かしこ)み 天雲もい行きはばかり たなびくものを」
                    ● 右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出ず。類を以ちここに
                     載す  」
 
   があり、●のいう「右の一首」は、普通の判断では「三二一」だけを指すとみてとれます。
  すなわち、「三一九」「三二〇」は詠み人の名前がないということですが、これが「阿部仲麻呂」の
  歌というのがいいたいところのことです。「山部赤人」の「部」と、「高橋虫麻呂」の「麻呂」を取り
  込んで両者を繋いでいるのが「阿部仲麻呂」です。この歌のことは〈大河〉で述べており、6・15の
  訳が、そのまま6・15ではどうしようもないということです。春日なる三笠山を「ふりさけみた」のが
     安倍仲麿〈古今和歌集〉
  であり一言いいたかったというのがこの歌にも現れています。●に脚注があり
    「この一首は三二一だけで三一九・三二〇は作者未詳とすべきか。駿河国府に提出された
    〈風土記〉富士山の条の一篇というべき内容だ。」
  となっています。つまり「作者未詳」というのは、すくなくも名前が伏せられているというのは、もう
  わかっているということです。その言い回しに気がつかなかった筆者は、高橋虫麻呂としておくしか
  ないど思いましたが、今となれば
          虫麻呂
          仲麻呂ー半麻呂
  は違うようです。赤人がもう一首作ったということもありうるのでペンディングするしかないわけ
  です。ただ作者未詳ということであれば埋めようとしなければ後退ばかりになり、前進も必要で
    山部赤人=高橋虫麻呂?
   というのもやってみないといけないのでしょう。今、山部赤人は正体不明ということで、一般の人も
   納得していますが、こういうことをやっているとそれも出てくるということになります。脚注の後半部分
  は〈風土記〉に、この歌が由来していることをいっていると思われます。ここは「駿河の国」「駿河
  なる」と「駿河」が二つでて、太田牛一でいえば、
      「橘川駿河守〈元春)」〈甫庵太閤記〉
   があり、これは尼子の一節に関わる人物ですが、駿河ー橘で阿部仲麻呂は橘かもしれないと
   いう予想も出ます。安部仲麻呂の歌は〈古今和歌集〉にあり

      「唐土(もろこし)にて月を見てよみける   安倍仲麿
    四〇六 天(あま)の原ふりさけ見れば春日(かすが)なる三笠(みかさ)の山に出(い)でし月かも」
 
   があります。この歌の前半は山部赤人の長歌三一七の★の部分の再現です。この歌には細字で
   長い注がありますが、この歌の時代、周辺人物からみて、この歌が〈万葉集〉
   になぜ入っていないか疑問がでるところではあります。まあ、それは別として、注には
     「月のいとおもしろくさし出でたりけるを見てよめる、・・・」〈古今和歌集〉
    となっていて、ここの四〇六の歌の「出(い)でし月」というのと合っています。額田王の熟田津
   の歌は「漕ぎ出でな」となっていてルビがなく、万葉仮名では
               いま は  こ  ぎ  いで  な
                今 者  許  芸  乞   菜 (テキスト補講)
   となっていて「いで」が一漢字のようです。「漕ぎ出な」、または入出が同時で、「漕ぎい出でな」
  となると、さあ出そうというものが、今は出さないで、というものにもなりそうです。テキストでは、
          「夜、月の出を待って出航するということは、当時の海上交通の諸事情からとても
          考えられないことだ。」
  となっています。三二一の高橋虫麻呂の歌のあと「山部赤人」が再び出てきて、
        「山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌一首 {短歌を併せたり}」
   があり、三二三の長歌のあと、その反歌に
        「三二三 ももしきの大宮人の 熟田津に船乗しけむ 年の知らなく」

   があり、富士山の延長上のここで伊予、熟田津をだしtいます。これはテキストでは60年以上前
    のこの歌はよほど名高かったに違いないと書かれています。ずっとあと三二〇二で
        「熟田津に舟乗りせむと聞きしなへ 何ぞも君が見え来(こ)ざるらむ」〈万葉集〉
   があり、訳注では
        「熟津田で舟乗りしようと聞いたのに、どうしてあなたはお見えにならないのでしょう」
   となっており題名が「別れを悲しぶる歌」となっているのにちょっとはっきりしない訳(やく)です。
   〈万葉集〉の編者は、注書によって白村江(はくすきのえ)の戦いに、熟田津の歌を結び付け
   ようとしていて、年表にある、重詐の斎明天皇の元年
       「661(斉明7年) 1月 天皇・中大兄皇子ら百済救援のため難波を立つ・・・・・7月 
           斉明天皇が没し、中大兄皇子が称制する。・・・・662年(天智元年)・・・・・
       663年(2年)・・8月 日本の水軍、白村江の戦いで唐の水軍に大敗する。」
    という戦いの始まりの斉明7年が注書(細字)に入っているのでそれが遠まわしに、わかります。
     「熟田津」は歌を散らしてこの戦いの別面を語るというものだありそうですが「熟田津」も
        「和多津」「柔田津」(ルビ=にきたつ)〈万葉集〉
    もあり「にきたつ」も散らされています。上の「那(女+那)の大津」も「那太津」がありえます。、
    那の大津=「博多港」というのは〈日本書紀〉の注記なので、これはひとつ確実ですが、
        「那太津」
    となるとこれも「にぎ太津」に接近しそうです。漢和辞典をみても「奴」という字は「ぬ」「ど」と
    いう読みしか紹介されていません。ウイキペデイアで「奴国」を引くと「なこく」「なのくに」しか
    なく「な」とも読むのはあります。江戸時代まではあったというのでしょう。ウイキぺデイアでは
    〈魏志倭人伝〉の「奴国」が金印の出土のよってその存在が証明されたとありますがこれは、
    合っていると思います。金印は江戸時代のものかもわからんのにそんなこといえるか、というか
    もしれませんが、「奴」を「な」と読めないと思っている時代よりもよく知っている時代のいうのが
    あっていそうです。同文には金印の
          漢委奴国王
    の「委」は「倭」であろうとされていますが、これは合っていそうです。同様に「奴」は「な」ですから
    ら「那」もあります。「女偏」は「委」の「女」からつなぎがありそうで、
           漢倭那国王→漢和那国王
    であり、また「和」=にき=「柔」で、「柔」は〈日本書紀〉では「ぬ」と読ませているのもあるから
           漢和柔国王
    にもなり那(奴)の大津は「柔(和)太津」で「熟田津」は博多港でもありそうです。すなわち
    金印の文言は太安万侶の書いた那(女偏)の大津はどこか知りたい、邪馬台国の女王がい
   た場所が知りたい太安万侶は書いているかを解説したものであることがいえます。すなわち朝倉
   宮で斉明天皇没というのを持ってきています。景行=朝倉宮=斉明をかさねたわけですが
   12代景行を38代斉明が引っ張り出してきたといえます。大体1/3した景行のはじめの時期が
  卑弥呼の時代となています。巧緻なものを含む金印の文言は後世のものだろうと思われます。
  倭国というのがあるのだから正式なものならば「倭」を使いそうです。「那」の字も「那珂河」が
  あり筑紫川をいうのかも知れません。那珂郡が「い土国」にからんで万葉集に出てきます。

    「博多港」でいえば
      「多=田」、「港=津」
   だから、なんとなく「熟」「博」というのは接頭語という感じですが、「熟」(にぎ)というのは
    今の日本国内ではなさそうでもあります。「熟田津」に「伊予」の四つの場所が当てられ、
    「和多津」「柔田津」に石見の「島根県江津市都野津」「島根県江津市渡津の江川河口」に
    宛てられています。一方「白村江」は朝鮮半島南西「錦江」河口付近とされ、この河は「白江」
    「白馬江」であり「江」「津」というのが共通してあるようです。多元的にとらえなければ理解でき
    ないようです。すなわち、●の日本という文字のことが、いまの日本と捉えてしまうのが問題
  です。
          663 白村江  日本
          720 〈日本書紀〉撰上
          734 多冶比広成、吉備真備帰国
  において〈日本書紀〉のなかに太安万侶などが独立を意識はしながら唐などの中国歴代王朝の
  手前、遠慮せねばならない日本という呼称を何と墓誌で使った人物がいます。それは今言ってきて
  いる、安部仲麻呂ですが〈万葉集〉でこれを出した人物がいます。再掲、山部赤人の富士山の長歌
  反歌のあとの甲斐の国が入った富士山長歌三一九の
         「◎日本(ひのもと)の 大和(やまと)の国の鎮めとも・・・」〈万葉集〉
   がありました。脚注ではこの◎は
     「古代国号としての大和の枕詞。“日本”をヤマトと訓む例はあるが、ヒノモトと訓むのはここだけ。
   となっています。唐からみた東のほうは、中国沿岸部から端の日本列島をふくむ倭というもの
   を統治単位として一つにみていたと思われます。これは過去派遣されたいわゆる帰化人(統治 
   者側からみれば命令で赴任した現地司令官)が
   二世三世と時代を経るにつれひとり立ちしようというものがあり、この時代もその延長上にあった
    観念的には
           唐 → 倭(大倭)→→→日本(大倭=大和)
   というものを頭に描いて表現できなかったものを安部仲麻呂がやった、唐と日本(の地)におい
   て・・・ということで、両者同一人物の一つの証ということができそうです。


   (74)山部赤人
    安部仲麻呂の歌、四〇六の歌の前半は、山部赤人の長歌三一七の★の部分の再現で
   あることは触れましたが、後半の部分も山部赤人の焼き直しといえそうです。
      「▲春日(かすが)なる▼三笠(みかさ)の山に出(い)でし月かも」
   ですが山部赤人に
       「  山部宿禰赤人、春日野(かすがの)に登りて作る歌一首  {短歌を併せたり}
      三七二 春日(はるひ)を ▲春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の ▼三笠の山に
          朝さらず・・・雲・・・鳥・・・・雲・・・・・鳥・・・
              反歌
      三七三 高按(木篇ーたかくら)の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも 」
    の歌があり、ここの「春日(かすが」「三笠の山」が使われています。「月」も赤人の富士山の
    長歌にありました。山部赤人長歌三一七には「天の原」があり
      「白雲(しらくも)も い行きはばかり」があります。三一九の阿部仲麻呂の長歌に
      「天雲(あまくも)も い行きはばかり」があり、高橋虫麻呂の歌三二一に
      「天雲も い行きはばかり」
    などの違いがありますが、繋がりがあるというのがあります。富士の高嶺の反歌をみましても
      赤人三一八の反歌「富士の高嶺」
      仲麻呂三二〇の反歌「富士の嶺(ね)」
      虫麻呂三二一の反歌「富士の嶺」
    と織り込まれている同じものの表現が微妙に違っており三人を流れるものは、確実にある
  わけです。山部赤人を明かさなければ、安部仲麻呂も見えてきません。山部赤人はどういう人物か
  というのも、現在では、わかっていません。明かされていないのかもしれませんが、ネット記事でも
  誰も書いていないからわからないのでしょう。筆者はこれほどの大物、当時の人はわかるように
  書いているはずというものですから、そういうわけにはいきません。故人の方を信用していると
  いうことになるのでしょう。「山部宿禰赤人」というと「山部」ですから、桓武天皇が山部親王という
  ことですから「山部」→「山部」は重要かもしれません。次に「宿禰」ですが、年表では
       「736 天平8年  11月葛城王ら、臣籍に降し、橘宿祢姓を賜ることを願い出て許される。
        〈続紀〉。葛城王、名を諸兄と改める。〈姓〉」
  があります。これで「葛城王ら」となっていますので、複数かもしれませんが、〈万葉集〉テキストの
   この年に、このことが書いてあり、同時に「葛城王に橘氏を賜う時の御製(1009)」という案内が
   あります。〈万葉集〉一〇〇九の歌をみますと、ここで「題」と「短歌」と長い「注書(細字)」が
   あり、そのなかで
      「右は冬十一月九日、従三位葛城王・従四位上佐為王(さゐのおほきみ)等(たち)・・・
       橘の姓を賜うふこと・・・。」
   となっています。「葛城王ら」となっているのは「葛城王・佐為王達」に変わりました。ここは
   「葛城王等(たち」という「達」が四っも出ており、大田牛一の尼子のくだりの「等(はかりごと)」
   というのがここに及ぶのかもしれません。三沢為幸の「為」も出てきました。「幸」でいえば、
   山部赤人、安部仲麻呂二つの富士山の長短歌では「雪」がキーワードになっています。戦国の
   立花道雪の記事では
        「由井雪加・・・由井雪加・・・・雪加・・・・雪加・・」〈常山奇談〉
   が出されています。「佐為王」をテキスト人名索引でみますと、山部赤人の項目では、系譜も
  「不明」、活動時期13年間の前後も「不明」、年次や目的が「不明」な別途の旅に赴いている、
  など官位も官職も書いていないのと違って不足分の補いがありそうです。「佐為王」は
       「橘少卿・少卿・王(おほきみ)、  美努王の子。母は県犬飼宿禰三千代。葛城王(橘諸
       兄)の弟。・・・・●八年十一月葛城王とともに上表して橘宿禰姓を賜る。・・・」
   などとなっています。ここでも●が載っており、葛城王と佐為王です。またテキスト索引では
       橘少卿→佐為王
   となっており、佐為王=橘で、宿禰の赤人は、活動時期13年間(724〜736)の最後の年
   に橘宿禰となったようです。山部は山辺もあり山野辺(山辺)の道、的な意味合いも持たされた
   表記ともいえます。志貴皇子の道です。赤人も明人があってペンネーム的でもあります。
   「明石」にも絡みそうです。佐為王の歌があるのかテキスト索引では歌の番号が書いてあります。
      1004左・1009左・1013題・1014左・3857左
   1004左については、
       1001 山部赤人短歌
       1002 安倍朝臣豊継の作 系譜不明、737年従五位下だけがわかる
            安倍虫麻呂は737外従五位下
       1003 外従五位下葛井連(ふじゐのむらじ)大成(おほなり)の短歌
       1004 「按(木篇)作村主益人(くらつくりすぐりますひと)」の短歌の注記に「佐為王」
       1005 山部赤人の長短歌
  があり山部赤人に挟まれて出てきます。1002・1003は阿部仲麻呂からみの姓がでています。
  1009は既述で山部宿禰の宿禰姓が橘であることがわかり、1013・1014で佐為王が橘
  宿禰佐為卿というのも出てきました。要は「佐為王」は歌を作っておらず注書のなかでの登場
  だけで、説明は過不足がなくされている、佐為王は、山部赤人の名前で歌を発表したといえるの
  でしょう。山部宿禰赤人は橘宿禰諸兄の弟というのが出てきたことは、橘氏が、桓武天皇の
  山部につながるということになってきます。二人が兄弟だとわかっても橘諸兄が誰だというのが
  わからないとまたほったらかしになってそれで終わりとなってしまいます。橘寺というと聖徳太子が
  出てきます。ここでも「按作(くらつくり)」がでてくるので蘇我入鹿を一応は思い出すわけです。
   一般の人は「蘇我入鹿」という巨像を与えられていながら、その連れ合いは誰か、というのは
  与えられていないわけです。子息も同様です。仕方がないから連れ合いサイドの子息を想定
  一時      蘇我入鹿ーーー柿本人麻呂、太安万侶
           ‖美努王
           橘三千代ーーーー橘諸兄(葛城王)・山部赤人(佐為王)
  とでもしておくと、この山部赤人の発見が生きてきそうです。慈円は斉明のあと天智天皇について
      「諱は葛城。舒明第一子。母皇極天皇。・・・太政大臣大友皇子{天皇第一子}」
  と書いています。つまり
      シヨ明天皇ーーーーーー蘇我入鹿(天智天皇@)(葛城)(中大兄皇子A)ーー大伴皇子
      ‖ 蘇我蝦夷                                      大海人皇子
      ‖ ●中臣金(鎌足の死のあたりから壬申の乱にかけて政権担当で年表に出てる)
      皇極天皇ーーーーーーー中大兄皇子@(天智天皇A)−ーーーー−−ーーー大友皇子
  
  のようなことになりますが 
  この「葛城」を「橘諸兄」は引き継いでいるということで、また「中大兄A」の「兄」を取り入れてい
  ますから、まあ一概に入鹿と諸兄の関係は否定できないところです。●など唐突なものがでて
   いますが壬申の乱などわからない事件をどうみているかをいわないと、折角の山部赤人の
   話がけしからんで終わってしまいます。●も太田牛一の中川金がないとでてきません。壬申の
  乱で「藤原不比等」が出てくるのが欲しかったわけですが、ネット記事、異説「大化の改新」の
  イントロの部分には、
     「近江朝で死罪になったのは中臣金のみで、鎌足の子である藤原不比等がいくら成人に
     達していないとはいえ、既に14歳、不問にふされたのは些か腑に落ちません。」
  とあります。ほかに大友皇子生存説がかなりあります。すなわち「おおとも皇子」は
     大友皇子ー大伴皇子 →@大津皇子
                   →Aオオトモ皇子(藤原不比等)
   の二人構成となっています。なぜこんなことをしたのかということが問題となってきますが、まあ
  いろいろ重要なことが内包されているのでしょう。戦国の「坂井左衛門尉」のような表記がここで
  出てきたことが重要なことの一つです。   
   乱の間、672年は天皇は空白なので大友皇子を弘文天皇としてを明治になってから入れたわ
  けですが、これは水戸光圀などの主張でもあるようです(常山)。水戸光圀は、大津皇子を入れ
  たのでしょう。「文を弘める」だから「弘法」に似た名前でたいへんな名前です。大友皇子を弘文
  としたのはこの一年を注目させたことになりますが、反面天智天皇時代が終わったと思わせて
  います。年表では
         天智10年      671  ▲天智天皇没(46)
         弘文・天武1年   672  弘文天皇 壬申の乱、大友皇子自殺(年齢なし)
         天武2年       673  大海人皇子即位(2月) 
         天武8年       679  ▼葛城王没(?)(紀)
   となっており▲はあの天智天皇、▼は慈円がいう葛城の天智天皇かもしれないわけです。〈日本
  書記〉にも天武天皇(1)(2)がありましたが天武にかぶさる天智があるかもしれないわけです。とにかく
  国の草創期、天智・天武兄弟天皇の手腕によって固まったというものがあるのはこのショ明天皇
  の子によるのでしょう。中大兄皇子はクーデターをやって入鹿政権を倒したということですが、
  最も手強い要の人物を倒さなければ目的を達成できません。つまり軍事都督、蘇我蝦夷を狙って
  成功したと思われます。慈円は、斉明天皇のくだりで皇極天皇のことを語り、
     「この御時の末に人多く死にけり。豊浦の大臣の霊の為(す)るといへり・・・・」
  と書いています。この多死は白村江の戦いことをいっているとしなければ、前後つながらない
  はずです。大田和泉守がここへ話を持っていこうとしたのは、唐という大国の現地駐屯政権に
  おける主導権争いだから、唐の承認を受けられにくいところまで行くわけには行かない、つまり
  ショ明天皇、蘇我入鹿を葬るわけにはいかない、独立という問題が絡む話となるからでしょう。
       645年、大化改新、皇極天皇の弟、孝徳天皇(軽=皇極同母の弟)即位
             中大兄皇太子、中臣鎌子連内大臣、内臣
       654   孝徳天皇没(59) 前年中大兄皇子と関係決裂別宮となっていた。
       655   斉明天皇即位  皇極重詐  中臣鎌子連内大臣、内臣
             これは唐側の意向を汲んだショ明天皇の再登場、旧体制に戻す。
       661   斉明天皇没、中大兄皇子称制  これ以後天智で捉えられ、天智10年間
       663   天智二年目に白村江の戦い、唐に百済勢力が大敗。中大兄は唐に逆らった
             ので失脚。幕間繋ぎの後、入鹿=天智天皇の登場となった。
       669   天智8年目鎌足没 (中臣金の登場)
       670   天智10年目、天智天皇没(46)
   となっていて特徴は645〜669まで鎌足が一貫して政権に関与しており皇極(斉明)の重祚で
  、その存在感をつなぐという意味もあるかと思われます。ショ明が出てきたというのも年表では
         @ 622年   聖徳太子没     49
         A 641年   シヨ明天皇没    49
         B 661年   斉明天皇没     68
   となっていて@ABの間は20年で@−Aは49で重なり、A−Bは同一人を思わせるもの
   となっています。また、「明」−「明」の繋ぎもあります。

   (75)阿倍臣
    白村江の年、二カ月前に
       「百済王豊章(王偏)は、鬼室福信を殺害〈紀〉」〈年表〉
   があり、そういうこともあるだろうで終わってしまいますが、協力者の福信を殺してしまったの
   だから問題です。豊章は百済最後の王、義慈王(在位641〜660)の王子です(ウイキぺ
   ディア)が、この義慈王の在位は、皇極3〜孝徳10〜斉明7の在位(642〜661)に一致する
   こともあるので暗示としても無視できないものがあります。天智一年
      「★阿曇比羅夫ら、百済皇子豊章を百済に送り、王位につかせる〈紀〉」〈年表〉
   があり、これが〈書紀〉の天智元年になったということが重要でしょう。翌年白村江の戦いになり
   ます。ほたら歴史に大きな1ページを付け加えたこの力のある人物★はどこの誰だ、ということ
   になりますが、わからないということにしとことなっていることだけは、わかっています。
    いま阿倍をやっていますから、同じ阿倍
   だからほっといたら今までの話もくずれそうです。この少しまえから「阿倍」がでてきています。
    白村江663の五年前、658
      「4月 阿倍臣比羅夫、鰐田(秋田)・淳代(能代)の蝦夷を討つ〈紀〉。7月 淳代、津軽の
      蝦夷が投降〈紀〉 ・・・この年阿倍比羅夫、粛慎を討つ〈紀〉・・・・・・659 3月・・阿倍比羅夫、
      蝦夷を討ち、後方羊蹄に郡領を置く〈紀〉 ・・660 3月 阿倍比羅夫、粛慎を討つ〈紀〉・
      661(7月 斉明没、中大兄称制)8月 阿曇比羅夫・阿倍比羅夫らを救援の将軍として
      派遣〈紀〉・・・・662天智1 (再掲)5月 阿曇比羅夫ら百済王子豊章を百済に送り王位に
      つかせる〈紀〉 663 3月 ●上毛野稚子ら兵2万7000を率いて新羅征討に向かう〈紀〉
      8月 日本の水軍、白村江の戦いで唐の水軍に大敗する〈紀〉」〈年表〉

  となっていて「有間皇子」「紀伊の湯」「天皇・中大兄皇子」「日本」とかとは違った和式の表記で
  なさそうなこういう人物などがこのあたり大半を占めています。鰐田・淳代などは〈書紀〉にないから
  研究の成果が入っているわけです。すると「粛慎」「羊蹄」はいろいろ説があってわからないと
  いうことでしょう。ネットで引いてみると「粛慎」は満州が出ており「羊蹄」は羊蹄山、洞爺湖付近
  北海道西部というのがでてきますから、朝鮮半島北部で広大な領地を占める高句麗という国
  が出てきます。大陸と地続きなので奥深さは計り知れず、単独では、東では唐にかなわぬまでも
   対抗できそうな唯一の国とも
  いえそうで、後方、内陸部、日本列島の東北部も固めようとして進出してきた状景が阿部比羅
  夫によって描かれたといえそうです。新羅百済は唐、高句麗を睨みながら生き続けて来ざるを得
  なかった、高句麗は新羅百済のお陰で唐に対抗できる、陸続きだから百済新羅を制することもでき
  そうですが、唐と組まれたら、領地の縮小は避けられないいわゆる三すくみの状態で均衡を
   保っていたといえそうです。この状態で百済が滅亡したので均衡が失われそうで、このときは
  偶々、唐ー新羅、高句麗ー半島南勢力(旧百済含む)という連合が成立していたといえます。
  高句麗と高麗という区別はよくわかりませんが、二人の「比羅夫」は同一のようで同一でない
  関係にあり、安倍比羅夫の方が他家を継いだと思われますが、これは高句麗の人であるのは
  周囲の状況からみて明らかです。高句麗は高句羅でもある、麗=羅であろう、阿倍比羅夫は
     「羅」
   なので高句麗の大将といえます。麗=羅が周知されているのかもしれない、高句麗は高句羅で
   もあると思われます。一方、「羅」は新羅の「羅」でもあり、両者国境を接しており、姻戚関係が
   あったり、フレキシブルな緩衝地帯もあったりしてどっちとも決められないものかあったのも知れ
   ません。とにかく「高  麗」は、日本では「高羅」「高來」「駒」で戦国の文献では「駒来山」があり、
  「駒」は「句」という字が入っており、「高句麗」をあらわすのではないかと思われます。いいたい
  ところのことは東北に阿倍比羅夫の足跡があることが〈書紀〉にあり、後年八幡太郎義家が攻め
  ていったときに安部貞任を相手に戦っており、なぜ安部がここにいたかということが問題になり
  ますが、記録がはっきりしておりそれが〈書紀〉にあるのだから高句麗のかなりの勢力がこのとき
  進出、定住もあったことは事実であろうと思われる点です。これは大田和泉守も語っていると思われ
  ます。大田牛一は
        「阿喜多(秋田)屋形下国」「下国」〈信長公記〉
  を出しており、解説では戦国時代の「秋田城主」の「安東愛季」という人物が出てきています。この
  安東氏は安部貞任の子孫だということで、テキストでは本巣の安藤大将の解説にも「旧安倍氏」
  というのがありますが、これはどうかは別として、歴史の解説としての「安東」が太田和泉守に「下
  国」を出させたと思われます。昔の資料(倭の五王など)に安東大将軍、安東将軍などが出ており
  今は、どこやらわからない、昔のことだから当たり前だ、ということでしょうが、昔の人はそれでは
  済ませなかったはずで、テキスト「安東愛季」解説では
       「安倍貞任の子孫安東氏は
       檜山(能代市)と土崎湊(秋田市内)を中心とする秋田県北部
       に入り、天正末年以前は、下国安東と上国安東とに分かれていた」

  となっています。これでは安東氏の安東だけ出てきて、「安東氏」が安東という地を表すためのもの
  というのが出てきません。大田牛一は、秋田県北部の殷賑を極めた物資集積地、土崎湊あたりを
  「安東」といいたいのでしょう。つまり歴史の謎、安東大将軍の安東を比定したかもしれないので
  目が離せないところです。土地であることを出さねばなりませんが、これには工夫があるようです。
  もう一人出てきます。人名索引で「安東愛季」の右に「安斎」に続いて
       「安西」「安西平右衛門」〈信長公記〉
  がありますが注では
       「安西氏は駿河安倍郡安西村から興り・・・」
  となっています。安西=安東です。安西村だから安西氏がでてきています。しかも安倍が絡んだ
  話だというのも出していそうです。とにかく「安東」という、高句麗が開鑿した土地があった
  ということで平泉のうしろはポッカリと外国に向かって窓が開かれていたといえそうです。芭蕉は
  平泉で太田和泉守を出しているのもこれと関係するのかもしれません。もう一つの、この安西で
  示された駿河ー安部のセットは〈万葉集〉日の本の大和の国が歌われた富士山の一節の作
  を安部仲麻呂と指すものか、歴史の謎を解き明かしていないと文献の凄さとか手法を後世に伝える
  ることができない、大田和泉守の解説があったのがこの「安西」といえそうです。「安西」は「夕庵」
  「夕安」が想定され、「平右衛門」は大田和泉守向けに作られた表記でしょう。「安斎」は安+斎藤
  でもあります。また「安西」は
      「神皇但馬守・安西平右衛門・安西八郎兵衛・・・」〈信長公記〉
  というような出方をするので「神皇」ともなるとやや古代史的な表記です。大久保長安の「長安」
  は漢唐時代の中国の首都「長安」を見すえていますが大田和泉守のときは「西安」に変わってい
  ます。「安西」は「安東」もみますが、西安も睨んでいます。阿部仲麻呂の活躍は「西安」でなされ、
  井真成の墓誌も西安で見つかったようです。
    山部宿禰赤人の{不尽山}長短歌のあと、名のない{不尽山}長短歌があり、
      「駿河の国・・・・富士の高嶺・・・・天雲・・雪・・・・日本(ひのもと)の ▲大和(やまと)の国の
      ▼鎮(しずめ)とも  います神かも・・・駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」
   がありました。阿倍仲麻呂は、●江蘇省鎮江市で、あの「天の原・・・」に歌を詠んだことは知られた
   事実のようで「北固山」という山に歌碑がたてられています。ネット記事「鎮江市](tsumura)、に 
   よれば阿部仲麻呂、弘法大師、雪舟などが来ており、天下第一江山、金山寺、北固山などの
   名勝があるそうですが、ここへ日本から来る人がやってくるのは●の蘇我氏の出身地という
   のがあるのではないかと思われます。▲は大倭であり、阿部仲麻呂は▼を鎮江市の「鎮」と
   符合させた、この歌の作者は自分だといったのではないかと思われます。
   不 尽山は、駿河の富士山(富士の高嶺)と、北固山?(天の原)という二つが重なっていそうです。
   「江山」という山があれば、それが適切かもしれませんが、ここ中国の高嶺を「天の原」ととると、
   日本の地にいる山部赤人の「天の原」を取り込んだ歌を作るのは、対置したということではない
   か、それが「日本ひのもと」として思わずに出たと取りたいところです。阿倍仲麻呂がこの富士山
   の歌を詠んだのは736以後かもしれませんが、この時点でもまだ日本を「ひのもと」と訓む
   のはここだけといわれているのですから、唐に対する辺境ともいう位置から、従属地域という
   感じのものであったと思われ、日本、天皇、皇帝などという称号も唐に対しては使えない状態に
  あったといえそうです。391年広開土王の碑で王が倭が新羅百済を従属させてしまったといって
   いるのは、この時期から200年以上前の話でありこの「倭」は日本ではありえず中国政府の
   極東統治機関というべき国が、つまり中国政府が介入してきたといっており、今の日本はまだ
   勘定に入っていなかったのは確実でしよう。大化改新646のあと孝徳天皇が即位しましたが
   左大臣に「阿倍倉橋麻呂」が就いており、中大兄皇子のクーデターも高句麗、唐の対峙という
   ものが背景にあるのは十分予想されることであり、唐側も手を打ってくることになるのでしょう。
   663の白孫江のときは唐と新羅が手を握っおり高麗は旧百済など反新羅勢力を支援したという
   という海外の政変の中での中大兄皇子の敗退であってNHKの語ったような独立戦争的なもの
   ではないわけです。負けたから立場は強化されるわけではなく余計に従属的な立場に置かれる
   ことになるでしょう。日本は強大な統一国家中国と独立戦争はせずに、頭を下げながら独立を
   果たしています。アメリカは独立しましたが統治国との距離があり、戦争に勝利して勝ち取ったもの
   です。高句麗や新羅も連合などして中国と戦争をしています。中国側も始皇帝や唐の太宗の
   ような政権が続くわけでもなく弱まるときもある、頭を下げたりしてうまく中国側も国として独立を
   認めるような関係で独立維持しているといえます。朝鮮国も大田和泉守の時代は中国明に低く
   頭を下げながら独立していた状態といえそうです。
   日本は唐が強いときは遣唐使を出し、弱ってきたら止める(894)などして、争いが生じないように
   蘇我馬子あたりから抱いていた名実ともの独立を内外に位置づけようとしていたといえます。元寇
   という分かりにくいものがあるので説明が長引いてしまいますが、フビライ(クビライ)は昔の
   魏志倭人伝以来の中国サイトからの説明を聞いていたはずだからその感覚のままだった、
   両国間で条約、協定書などがあったら参考にしたでしょうがそうでなかったはずです。要は
   大田和泉守の時代までは、そのような関係のまま来ている、〈信長公記〉第一巻は、永禄11
   年で、翌年もうキリスト教を公認しています。有史以来隣国大国の存在というのは、常に為政者
   の意識にあることですが、二者間の関係ばかりをみていたら、いつまでも強い主張もできない
   接近を図ってきているキリスト教を頼りに欧州諸国の勢力をかませて相対的な関係にもって行き 
   たい簡単に言えば承認してもらって、間接に対等の地位をきずきたいということでしょう。戦争
   なしで行きたいと思っていたが不幸にして明と戦争状態になってしまいましたが
    講和のときに明側は秀吉を「日本国王と為す」という感覚ですから昔と変わっていませ
    ん。が両国が直接談判したのだから実質対等になったわけでこれで終わっておれば最小の傷で
   済んでいたはずです。継続となってしまったのは独裁者に対抗勢力の消耗という目的もあった
   ことが文献では
   指摘されています。対抗勢力は西側諸侯ということで書かれていますが、もう一つあったわけです。
   朝鮮半島の勢力を吸収した中国王朝の勢力を考えたときの脅威というのは漠然としたものでは
   今日の国際連合の存在という抑止力がない時代だから、双方に生ずるものでしょうが、小の
   勢力では必要以上に感ずるものです。大田和泉守の第三国を絡める方法は、天正使節が
   国内禁教勢力の台頭で、帰れなくなったとき、インド国王の使節ということにして帰国させたと
   いうことでも現れています。こういうのは国内勢力が分かれていたこと、政府派遣使節である
   ことの証で、政府機関(徳川家康)に根拠を与えるのは、インド国王の国書であったわけです
   こういうのは天正使節でトータルは語られず、同時代の少年はたいしたものだったという側面
   に主眼が置かれて、結果そのごの流れと歴史の動きに関係のないものとなり、時に語られる
   少年使節物語にしてしまっています。大田和泉守は国連のようなものではないが何となく
   国際社会を意識している、と思いますが、一方それでいけるという根底となるものがあった、
    すなわち、西欧もアジア諸国も帰一だ、ということで同じことを考えてきているということが
   あり、それ(歴史認識)こそ話せばわかるということの裏打ちとなっていたと思われます。
    講和に際して、小西行長、内藤如安らの動きが不適切(ごまかし、ごまかされ)で権力者秀吉(家康
   公)が戦争継続判断したのは妥当だということになるような叙述で一方的ですが北京まで行って
   交渉しているのでもう対等になっているわけで、家康卿、秀吉卿の判断もこの辺になっていたと思
   思われます。複雑そうですがせめて二元で考えないといつまでたっても真相はでてこない
    感じです。太田牛一の
   尼子の一節では大内氏の大内は「おほち」というルビになっており、「陶尾張守」の謀反で
   滅んだ大内義隆が有名ですが〈甫庵太閤記〉では
       「大内太宰大弐多々良朝臣義隆卿は百済(シ+斎)国(はくさいこく)りんしやう太子
        以来廿四代目の孫也」
   となっていて、「はくさいこく」は新羅かもしれませんが、とにかく昔に話を戻して、室町期、明
   貿易を一手に引き受けた大内家を出してきています。この大内・陶と毛利との戦いに「森」のつもり
   と思いますが太田和泉守が元就に乗って出てきて大内対森戦のような形にしています。
   応仁の乱のときに大内政弘(義隆の祖父)が3万の大軍を率いて上洛してきて西軍に加わり、
   局面を変えたというほどですからやりようによっては天下も臨める力をもっていたといえます。
   そういう中国に対する認識が大田和泉守にあったということが、尼子大内戦の故事を踏まえて
   大内を出し、的孫の使節と絡めたものです。両国を跨いだ阿倍仲麻呂や古代の話がその書物
   で織り込まれているのも、こういう国際関係が、つねに脳裏にあった、遣欧の話は重要な位置を
   しめる、その積りで読む必要があるというのがいいたいところのことです。

   (76)弓削
   道鏡と〈信長記〉を、つなごうとするものは太田牛一の「弓削」ですが
     「弓削六左衛門、今井掃部助」〈甫庵信長記〉
   があり、今井ーいまいー井真成ー阿倍仲麻呂ーー弓削と道鏡という泉水の流線はあると思われ
   ます。ほかに、「弓削修理亮」があり

     「・飯沼勘平・・・・ト全・・・・ト全・・・大田村・・・弓削修理亮・・・・ト全・・・駒尾・・・・ト全・・・
     大田村・・・・是は弓削修理亮・・・ト全・・■大田村七屋敷・・・市橋九郎左衛門、丸毛兵庫頭
     ・・・ト全・・・大田・・・桑原土佐守、同右近・・・ト全・・・●続松・・・手本・・・五六十人・・・・
     十七八人・・・孫呉・・・・ト全・・・」〈甫庵信長記〉

    があり、弓削をとり巻くのは「ト」です。これは「占う」という「ト」であろうというのは字引を引く
    までもなくわかります。強いて言えば「ぜん」=「せん」だから
    、「蓄財(ざい)−財(さい)布」のごとく「卜全」=「ト占」で、
          弓削ート占ー今井(麻呂)−−−和気清麻呂ー道鏡
    がありそうです。
       「修理亮」ー常陸国住人「(多賀)修理亮」ー「常陸介入道ト全」
                                ー多賀城碑、恵美アサ狩ー勘平ー大田村七屋敷
    もあり、多賀には「ふとくたくましく」があり尼子ー元就の一節につながり、●以後は「ト全」が
    がここまで及び、尼子ー元就の一節に「手本」「孫呉」などでつながっています。数字は 
    尼子の一節に「十六」があり、ここに「十七八」があり、16・17・18と続くので連続した感じ
    もあり、尼子の一節と道鏡・和気、大田と遣使というものの、連携があります。
     ■はネット記事「愛知のお城20051212」によれば大田屋敷は
        「愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷・・」
     となっており、「水野氏家臣の屋敷とされる・・・」となっています。すなわち「小川」の「水野」
   の「村木砦」の戦いは大田和泉守の筆の躍るところで、「七屋敷」の「七」は水野をあらわして
   いるといえるもです。
   水野の村木砦戦では「六鹿」も出ていて弓削六へも行きそうです。ネット記事「七屋敷」で引いて
   みると
       「稲沢市祖父江町三丸淵七屋敷」
   が出てきます。これは祖父江孫丸ー江孫(村)丸の孫七につながるもので尼子の一節の的孫
   (すなわち●)につながります。
   「ト全」の全も利用した人があり、〈常山奇談〉に
        「木全知矩(きまたとものり)連歌の事」
     がありここで
        「安芸佐伯郡・・・宗甫(口篇)・・・・毛利元就・・・・宗甫・・・秋風にかたき木またの落葉
         かな・・・よせ来てしづむ浦浪の月・・・元就・・・宗甫・・・」
    があり、安芸ー元就、を出して、「ト全」ー「木(ぼく)全」−「木また」の線からも●の一節と
   尼子の一節とはつないで見ないと駄目ですよといったわけです。「道鏡」について人名索引では
            〈甫庵信長記〉       〈信長公記〉
            弓削修理介          湯川直春
            弓削六郎左衛門尉     弓削家澄(文中は「弓削六左衛門」)
            遊左衛門           遊佐続光(文中は「遊佐美作同弟」)
            ★湯原弥次郎          由原
            油原の某           油比可兵衛
   となっています。全部「ゆ」で互換性があります。簡単に言えば★は尼子の一節に出てくるもので
   「多治比」「井原」など、〈万葉集〉の時代につながるわけですが、
             弓削皇子ー★ー湯原ー湯原王=道鏡
)   となるのかもしれません。ちょっと人名で、わかりにくいところを整理しますと、年表では

       聖武天皇25年、4年目、藤原光明子の子、▲基王を皇太子とする。翌年死亡。
                 10年目、阿倍内親王、立太子(孝謙天皇へ=兼松の兼)
       孝謙天皇10年 8年目聖武天皇没、遺言により■道祖王が立太子
                 9年目、皇太子■道祖王を廃する。 大炊王が立太子(淳仁天皇へ)。
       淳仁天皇 6年    恵美押勝がバック 孝謙天皇とおなじ。
       称徳天皇 5年   孝謙重そ(太政大臣が道鏡)
       光仁天皇 12年 2年目、他戸親王が立太子
                  3年目、他戸親王を廃する
                  4年目、▼山部親王立太子。
       桓武天皇 24年
  
   となっています。要は戦国と同じで森蘭丸といえば堀久太郎、東照宮といえば大田和泉守でも
   ありえます。

   A、▲は生きで、▼に繋がっていそうです。温存したわけで、藤原光明子の子というのは光明
    皇后の子と思われ、皇后が光仁天皇として再登場して改めて子を▼として立てたと思われます。
    しかし光明子だけの子というのもないことはない(孝謙天皇)、また光明子は大炊王の前身である
    かもしれません。
   B、安倍内親王@は考謙天皇で、この「兼」は大田牛一が利用したといえますが、安陪内親
     王Aがあるのは、やや必然です。他戸親王がそうかもしれません。考謙天皇が普通と上皇
    の二つあり「孝謙」という表記は同じですから考えられることです。
    考謙上皇は高野天皇ともいわれていて慈円は
        「高野天皇(ルビ=称徳)」〈愚管抄〉
    と書いています。高野天皇が高野新笠とは気がつかないかもしれませんが、ネット記事高野
   天皇の「王城」のイントロの部分に、「(天皇に関する名)を新笠に与える事は何らかの示唆が
  ある・・・」と書かれており、名前を伏せたまま、表には出ず子息桓武天皇の出番を図ったという
  ことになりそうです。道鏡の相手は称徳天皇といわれていますが同性だったら問題なく、孝謙
  違いで道鏡のH度がかわるのでしょう。弓削から湯原ー湯原王がでてきたのはこのためでしょう。
   湯原王は身元ははっきりしておりテキスト(万葉集)では
          「志貴皇子の第二子。光仁天皇の弟」 
  となっており、これがすんなりした弟でピンチヒッターといえます。
               光仁天皇
               ‖ーーーーーー(子)桓武天皇(基王・山部親王)
               新笠
   という関係から道鏡に然るべき対処を依頼したといえます。これは「山部」だから、あの「山部」
   の佐為王がどう絡むのか、橘の暗示なのか、わかりにくいところです。
  C、■が問題となります。一つは「道鏡」の「道」が「道祖王」の「道」にかかっているのは感得
   できますが、もう一人は誰かという問題があります。これは「和気清麻呂」というのでよいのでは
   ないかと思います。道鏡のいまでいう弟、大田牛一の和気善兵衛がヒントとです。和気清麻呂
   は桓武朝で功績が讃えられているようです。これは和気清麻呂Aでしょうが、道鏡と協力して
   橘の本流に戻し、大田和泉守がその維持に努力した社会を守ったという、@の人の功績も讃え
  ていると思われます。道租王は聖武天皇が立てた皇太子ですから、道鏡は天皇になっても
  不思議ではない、法皇というのも当然の称号でしょう。
   
   道祖王は道鏡ー清麻呂というものではないかということは〈両書〉の「宇佐山」での森三左衛門
    の戦死の場面
                    尾藤源内・(舎弟)尾藤又八
                      ‖      ‖
                  道家清十郎、(其の弟)道家助十郎
  で道家兄弟が出ており、これは道家尾張守の「道家」で武井夕庵の身内だろうということでやって
  きました。
  この太田牛一が使う「道家」がどこからきたのかというのが一つの問題ですが、皇太子として
  道祖王という道家の祖というようなものだ出てきました。これを道祖王@Aという兄弟の意味で
  考えて見ようとするとやはり、太田和泉守のここを思い出すことになります。戦死場所、宇佐が
  太田和泉守の著述にとって必然ではなかったが、卜占の地、宇佐があったようです。二人が
  太安万侶の係累ですから、
       舎人親王{・・・追崇道尽敬天皇}〈愚管抄〉
   がありますのでこの「道」から来ていると思われます。太田の太は太安万侶の太です。ここの
   道家は道鏡を想定し、道家清十郎が道鏡というのは、朝倉に「景鏡」も作っていますの案外
   わかりやすいと思いますが、和気清麻呂はちょっと思いつきにくいと思います。清十郎の「清」は
   「清麻呂」の「清」、属性は「助十郎ー又八−和気」となって「和気善兵衛」が用意され、「宇佐」
   「高野口」「宇佐山」がでています。また尼子の一節には「古田左介」「井上七郎次郎」も出て
   きます。井上ー井戸ー橘ですから井上七郎次郎Aは橘七郎次郎で、二人を指しているというの
   もありそうです。
    ネット記事「中国銀行/岡山県情報」によれば
      「約1000年前に性空上人が美作の国で修行したとき発見したといういい伝えが残る
      湯原温泉・・」
    というのがありますがこれは湯原王を見ていそうです。性空上人は橘の人であり、書写山
    円教寺を開基した人で、野球だ、オリンピックだと四年前の眠られぬ夜の再現で沸きに沸い
    ていたころ、ひっそりと、千年前の骨が発見されたという当人です。美作が出たというのが
    重要で、先ほど
        湯川直春(本文「湯川」)
        弓削家澄(本文「弓削六郎左衛門」)
        遊佐続光(本文は「●遊佐美作同弟 355」)
        由原       」〈信長公記〉人名索引
    を出しましたが、この●は「弟」を出してきて「湯」の弟を強調したものといえます。本文では
    「遊佐美作・同弟」と兄弟であることもわかります。道家兄弟、遊佐兄弟で道祖兄弟を表した
    といえそうです。兄弟というのは姉弟も含んでいるようです。ウイキぺデイアなどによれば湯原
    温泉に宇喜多秀家の母堂が療養に来病気が治ったという話が載っています。秀家は羽柴秀
    吉の猶子ですから取っ掛かりは太田和泉守に持たせようとするものでしょうが「ふく」で知ら
    れたこの人の出自は
          「三浦氏」と「鷹取氏」
    の二つがあって、両方とも合っているはずです。
    三浦氏は両書に「三浦右近」などで出てきていますが、美作の三浦氏があります。
    一方の鷹取氏は岡山県邑久郡(ここに長船町がある)が本拠で「和気郡」は邑久郡の一部
    だったようですから「鷹取」の方は「和気」に近いようです。ネット記事「中村五郎左衛門尉」  
    によれば「和介山(美作和気庄内の山)」がありますから美作にも和気がありそうです。
    親が三浦と鷹取だから「ふく」殿は
           三浦貞広ーーー▲道祖(才)五郎。次郎(を名乗る)
           ‖三浦貞勝(弟)ーーーー★三浦桃寿丸
           鷹取(福)(円融院)
    のような関係の渦中にあり、三浦貞勝などが死に、三浦桃寿丸を連れて、宇喜多直家に再婚
    したということのようです。★が宇喜多秀家だと思ったら違うようで、★の異父弟が宇喜多秀家の
    だということです。湯原温泉ー浮田の話で▲が出てきました。やはり道鏡ー和気のことが
    戦国の語りにも及んでいます。ここの「円融院」というのも尼子のくだりに「通(とほる)」「渡辺」が
    「宇多」出てきます。源「融」ーー光源氏のモデルーー源氏物語ーーというのも出てきかねません。
    湯原温泉ー性空上人のお話も太田和泉守の手の内かもしれません。


    (77)源氏物語、大沢本
    尼子の一節に宇多源氏がでてきました。
    〈信長公記〉人名索引再掲
          @大沢次郎左衛門
          A奥州津軽の南部宮内少輔
          B長船長光(本文中は「長光」)
          C大嶋(「上伊那郡高森町」の大嶋氏)
          D大嶋(丹後の大嶋氏)
          E奥州伊達
    と続いています。このなかでABDは必ずしも必然ではなくAは切りようによって南部宮内
    少輔になり、Aも長船という表記は〈信長公記〉にはないので「長」の読み方だけの話となり
    Eも伊達だけでよいわけです。欧州ー長船ー大島ー欧州というものや、Aが油川宮内少輔が
    あるから「湯」−「弓削」、Bの長船は備前の和気、というのがあるかも知れません。尼子の一節
    の「毛利陸奥守大江朝臣元就」があるからA〜Eは尼子の一節につながるといってそうでもあり
    ますが・@ーCDは直接結ぶのがわかりやすいといえます。ABは湯・和気という橘をみて
         @大沢次郎左衛門
         AB橘
         C大嶋
         D大嶋
    となります。いま言おうとしていることは〈源氏物語〉の写本に関することで、今完本として
   使われているのが大島本といわれているものです。大田和泉守がこの大作について散逸
  のないように、トータルを揃えておこうとしなかったはずはなく、どこかに必ず書いていると思われ
  るので大島に着目していたわけですが、写本のことであることは、ある事情でわかっていて、
  CDの二つあるから大島本は二つあると思っていました。
  最近発見されたという大沢本という完本の写本が出てきたということだから@を付け加えた
  話を今しているわけです。大島本の太田和泉守の関与についてだけは〈甫庵信長記〉の索引
  でわかることで、〈甫庵信長記〉索引で「大島」の前は次のBがあります。
         @(大久保)次右衛門
         A大窪半介
         B大塩円強寺(ゑんかうじ)→〈信長公記〉では「大塩(おほしほ)の円強寺(ゑんかうじ)」
         C大島
         D大島対馬守
    これは出てくる場面が「石田西光寺」の出てきた北国、賀越の一揆との攻防でした。寺の名前か、
   か、教団名か、個人名かよくわからない書き方がされ悩まされたところですが、
       〈甫庵信長記〉   大塩円強寺   石田西光寺
       〈信長公記〉   ■大塩の円強寺  石田の西光寺
   というあぶり出しがされています。〈信長公記〉では「円強寺」単独もあり、
       「円強寺・若林長門守父子人数を出し候。」
   があり、「円強寺」は行動主体となっています。というよりもここをテキスト校注者は、こうい
   う捉え方をされたということです。原文はおそらく「円強寺若林長門守父子」でしょうから、両方
   取れるなかで検討し尽くして「・」を入れてあるといえるのでしょう。原文の校注書のはしがきに
   権威の(判読しかねるところは)「適当」にやった、というニュアンスものがよく入れられています。
    これは文献に関する不信感を出す、一般の人が表記で論ずるのを止めさせる、のには適当な
   言辞となっています。文献に準拠してしっかりやった
  と書いてほしいところです。事実はそうだから。筆者としてはここは「円強寺」で切ってほしいところ
  です。
 
   脚注では■の「大塩」は「武生市大塩町」で、「円強寺」は「円光寺。今の加賀市小塩町の円光
  寺。」となっています。現地はルビのほうが合っていた、ということです。これは既述の通り「円強」
   →「円教」から「書写山円教寺」が出てきます。姫路市にも大塩町があり、姫路は太田和泉守
   (竹中半兵衛)の故地ですから書写山円教寺は属性のようなもので、それが「円強寺」を書かせ
   たものです。〈信長公記〉の大沢次郎左衛門を〈甫庵信長記〉のものに代入しますと
       大沢ー書写山(橘氏性空上人)円教寺−大島ー大島(対馬守)
   となります。対馬守は又別の使い道があって、たとえば島左近が対馬に伝説があるのなどは
   この石田西光寺との組み合わせなどによるのでしょう。ネット記事「曽左小学校ー書写山の由来」
   によれば、
      「りようじゅ山を書き写したような山」ということで「書写山という名前がついた」
   となっています。
         書き写す=大島・大島
   で太田和泉守が大島本作成に関与していたというのはどこかで触れたかったことです。
   大沢家本がでてきたので大沢を取り入れると〈源氏物語〉写本の話が強化されることになりまし
  た。今の原文のテキストとして役立っている大島本は、ウイキペデイアでは
    「佐渡の旧家から昭和4年ころ大島雅太郎が買い取って世に出たために大島本という名がついた」
  ということになっています。筆者の言うのと違うではないか、ということになりますが、言わせてもら
  えれば、古書の名前を付けるのに収集家の名前を付けて貰ったんでは困るわけで、適切な命名
  がされるべきです。これは、関東大震災のとき戒厳司令官であったという陸軍大将、福田雅太郎
  が、「大島」と名づけたらよさそうだ、ということは知っていて、同じく陸軍の大島久直?大将の名前
  を借りて保管管理をしていたものと察せられます。
  そうせざるを得ない言う事情があったことは察せられますが、終戦後は別で、事情が変わったの
  だから、その話をそのままにしておくこともないでしょう。太田和泉守が原本の中で何か語ってい
  たのなら、それを明らかにしないといけないのは当然のことです。つまり佐渡の旧家は今も佐渡
  の旧家でしかわかっていないのか、ということなどです。佐渡は本多氏なら太田和泉守と親戚であり、
  金山想起なら大久保長安連想となります。突然今になって発見が続いたという発言になって
  いますが、見つかっていた年代ぐらいはわかるだろうから、見つかった時点で発表がされて、これ
  ほど完本が揃っていたのかという好印象を与えるのは歴史学会としてもいいことなのに、よい意味
  での、発表を避けてきたというのは解せないところです。こんども出所が所有者の希望で伏せら
  れるということのようですが民間の家が4百年も無事に保管し通したのだったら、大変なもので
  謝意を表さねばならないところです。とにかく、せめて、そろそろ戦前が終わったと言えるような
  努力が今始まったといえるようにならないものか。
  
  大沢家本は  ○太田和泉守が大沢家に託したというのか、
            ○〈信長公記〉の大沢から名前をつけたのか、
            ○大島本の一部とすれば何番なのか、大沢氏を探して名を宛てたのか、文献
             から出所がわかるのではないか・・・・・読解手法に関わることなので・・・、
 
   テキスト解説では〈信長公記〉の写本も二つか三つしか使えるものがなくやりくりしてやっている
   いという印象をうけますが、関東大震災や空襲で亡失したのはあるにしても公家大名、芭蕉
   世粛などの民間の膨大な世界があるから残っていないはずがないとも思われます。江戸期の
   罹災が問題といえばそれまでだが、源氏物語は完本が次々でてきています。索引も当時のも
   のが(書き込みもある)援用されているとすれば、もっと自信のある仮説設定もできます。

   (78)和泉式部
     ネット記事によっても書写山円教寺に太田和泉守の痕跡がないのはさびしい限りです。ここに
   本陣があったという記事もあり、「円強寺」を出しているからないとおかしいわけですが・・・。
    ウイキペデイアなどによれば、ここに和泉式部の歌塚があります。和泉式部は「大江氏」で、
   「和泉守」の「橘道貞の妻」となっています。式部といえば「橘川式部少輔(信長公記)」もあり
   橘も出てきます。こういうものから
          大江ー和泉守ー式部(紫式部の式部と同じ)−書写山ー性空ー橘
   となって、和泉守ー書き写すー式部の物語、となって、太田和泉(大江元就)が源氏物語の筆写
   を自分も行い子飼いの大名にもやらせて後世に残したということを示したものが、今ある歌塚
   といえるのでしょう。この筆者が今に生きているものです。ウイキぺデイア
   では、これは鎌倉期のものだと書いてあるではないかということですが、和泉式部を慕う誰かが
   式部は橘だから、ここに建てたということは考えられます。太田和泉守はここへきてこれを見て
      和泉ー式部ー書写    
      大江ー和泉(元就)−通・融ー小早川(源氏写本に顔を出す)
   というように結べると感じて、〈源氏物語〉の写本のことを〈両書〉の索引に入れた、尼子の
   一節にも結果的に繋がっているから、この歌碑は著述の構想の一部ともいえることにもなりま
   す。まあ公表
   が鎌倉期ということと思いますが、和泉式部の挿話は全国各地にちらばっており、ウイキぺデイア
   では、
     「柳田国男は、このような伝承が各地に存在する理由を“これは式部の伝承を語り物にして
     歩く京都誓願寺に所属する女性たちが中世に諸国をくまなくめぐったからである”と述べ
     ている。」
   とあります。太田和泉守も小僧として尾張の誓願寺にいましたが、こういう知的エネルギー溢れた
   環境下にあったのかもしれません。これからみれば、中世から活動があったということですから
   この碑は鎌倉時代というのにフィットしますが、やはり、この歌塚は、太田和泉守のあとのこと、
   〈両書〉の解説が
   されたといえそうです。和泉式部は生没年不詳ですから、まあいえば、自由が利く、その表記や
  属性がある場(例えば書写山)に入れられると語りたいこと源氏物語(紫式部と同年代の宮廷
  の女性歌人)を持ち出してくることができます。全国の挿話は属性を作り出し、語りを補うため
  はめ込む場を探している人に使われます。宮本武蔵の養子、宮本三木之助の墓がここにあって
  この人は姫路城主本多忠刻の死去に当たって殉死したということのようです。これは太田和泉守
  と宮本武蔵の血縁関係(曾孫)を表すものです。殉死というのが太田和泉守の属性です。
   古代で殉葬という悪習があって能見(美)宿禰がやめさせましたが、、これが誰かというのを
   うまく説明したのが太田和泉守で
      乃美宗勝(毛利、村上水軍の血縁)=安芸豊田郡乃美荘から興る)・・・・・・能見(宿禰)
   がいて
      浦兵部〈信長公記〉(豊田郡浦郷)
   を創ったわけです。乃美宗勝が名前を「浦兵部」に変えたので
      乃美=豊田郡=浦=豊浦=能見
   で能見宿禰=豊浦大臣=蘇我蝦夷、 能見宿祢A=蘇我入鹿
   のような感じで入鹿政権のときに蝦夷の強大な武力を背景に殉死をやめさせてしまったという
   構図を描いて説明したというので皆が沸いたというものが属性の始まりです。したがって
   宮本三木之助が殉死したというのはありません。本多は森を出してくるはずです。
    宮本三木之助=宮本森之助となるでしょう。尼子の一節に「宮川」と「毛利(森)」「宍戸」「通」
   があり「長尾」もあります。長尾の尾は
      長尾ー中尾(源太郎・天正記)−尾藤又八→→(森)大村由己
   と繋がっております。「宮川」は「太田の郷」など「太田」連発のところで「西尾」「駒尾」「飯沼
   勘平」などを伴なって出てきます。「宮川」「宮川但馬守」「宮川八右衛門」・・・「宮本兵大夫」
   と繋がって〈信長公記〉索引では
             宮部善祥房(本文では二箇所出ているが「坊」であり「房」に換えてある)
             宮本兵大夫
             宮脇又兵衛
   という並びができています。「宮脇」は「又兵衛」と並びで、「脇」=「和気」でもありますから、
   宮本兵大夫は後藤A又兵衛という感じになります。「兵」という字に「強い」とイメージがある
  のでしょうが「猪子兵介」如何というように広げて考えるべきところです。テキスト注では「宮部」
  からは「湯次神社」が出てきます。ウィキぺデイアはこの項目はなさそうで、他の記事では引用
  不可、引用迷惑があるかもしれないので最小限イントロから語句を拾い上げますと
    「瀬戸内市長船町磯上」にあるようです。これは宇喜多関連か、また「浅井郡湯浅」にもあり、
  これだと、大谷の姻戚、湯浅氏のヒントがあるかもしれません。「湯杉」「弓月」もあるようで
  〈万葉集〉に人麻呂の「ゆづきが嶽」があったはずで字を確認するため〈万葉集〉テキストの索引
  でみますとないのです。中巻をみますとここには、
      「斎槻(ゆつき)が嶽(たけ)」=「桜井市穴師の巻向山」、(この右は「弓削の川原」)
  があり、甫庵の「(浅井)舎弟斎助」(いつきのすけ)」というのは高槻の「槻」ではないかといってい
  ましたが合っていそうです。〈信長公記〉別規右近の規に似ています。(索引では別喜右近だけ)
  結局、ネットで検索せざるを得ず、通常人麻呂の歌は
       「弓月が嶽」
  で出てきます。なぜテキストでは、この字のものを採用せずむつかしい方の字になったのか
  よくわかりません。ただ「弓月が嶽」もあるという注もほしいところですがそれがありません。
  「弓月が嶽」の、案内の部分をみますと、
    「宇佐八幡神は新羅の神だった」
    「大和の穴師兵主(あなしひようす)社は新羅の王子アメノヒボコを祭り、かつ穴師山(弓月嶽
    巻向山)にあった。」
   というようなものもあります。そんなんいろんな説があって一々聞いていればきりがない、という
   ことでしょうが、ここはテキストでは「弓月嶽」が始めから避けられているので
   しょう。「弓削」ー「湯原」の〈両書〉の索引のもたらす影響もありそうです。弓削の道鏡と万葉の
  湯原王が近づいてしまいそうです。
   
   「湯杉」については〈万葉集〉注では
       湯の原→吹田(すきたの)温泉(ゆ)
  となっていますから「杉」も出てきます。
      「すい津の城、大塩の円強寺(えんかうじ)」〈信長公記〉
  があり脚注では、「杉津の城」となっていますから「吹」→「湯」へ逆流されて「橘」−円教寺ー
  和泉ー式部→源氏物語もでてきます。この宮部善祥坊は、紫式部の流れの中に出てきます。

       「石山寺・・・紫式部・・・・高山伊吹山・・・八相山・宮部郷・・・宮部村・・・宮部善祥坊・・
       八相山・・虎後前山・・・宮部・・・・横山・・・堀久太郎・・羽柴藤吉郎・・・」〈信長公記〉

  「八相山」は脚注にないので、ネットでみれば古墳群があり、北山古墳と名づけられているところ
  があり有名のようです。固有名詞と思っていたら「北山古墳」は群馬県太田市などあちこちにあり
  古墳の、名前がついていると周囲の人に気づかせることができます。蜂屋頼隆の陣所であり、善祥坊を
  夕庵に近づけているともいえます。また「八相山」は同じく古墳で、八剣山(長篠)がありそこで
  高松山も出てきたから、この「八相山」は宮部の「坊」の差し替えに懸かるのではないかと思います。
  この高松山にしても、〈クロニック〉では「赤松之城水責之図」という立派な絵の写真があって
       「江戸時代の錦絵。秀吉によって水攻めにされた高松城は赤松城と記されている。」
  となっています。高松山と清水の組み合わせが意識されたのかもしれません。また「八相山」は
  「成道寺」という呼び名もあり、「八相山城」=「成道寺城」で宮部郷とおなじ虎姫町になるようです。
  つまり「成道寺」という寺(熊本などにもある)がここにあったといえそうです。この意味がどうかと
  いうことですが、筆者は道成寺と勘違いして江蘇省北固山の阿倍仲麻呂歌碑のあるところ、娘道成寺
  の原型の伝説があるところと結んでいました。つまり阿部仲麻呂、山部ー宮部、橘ー道というよう
  なことを書き落としたのが今書いてる文章ですが、あとで勘違いとわかりましたので消そうとして
  まあ
  間違う人もおるかもしれん、とエイヤと「娘成道寺」でやったら、ヤフーで2件ありました。トップのラーメン
  屋さんのをみますと、興行の立て看板の写真、娘道成寺、と大きく掲げながら、中味は全部間違っ
  ています。間違っているのがわかるからまあそれでもいいのでしょう。筆者は成道成どちらに
  しても「道」を生かして宮部ー道家というのはいいたかったので「成道寺」を持ち出して横に逸れた
  わけです、けしからんをあまり気にせず、六つぐらいはあると見てふみこんだほうがよいようです。
  弓削の道鏡ー湯原王の時代を経て光仁天皇→桓武天皇に至って慈円は(実際はカタカナ)

    ▲「・・桓武天皇は・・・都ひきうつして、この平安城たひらの京へはじめてみやこうつりありて
      この桓武の御のちこの京のヽちは女帝もおわしまさず。又むまごのくらいといふこともなし
      ・・・」〈愚管抄〉

   となって女帝が消滅したことを書いています。日本史で最も重要なところの一つでしょう。
   やっと不人比等系のものが払拭され、安定したということのようです。▲の文の上にタイトルの
   ような細字の短い文、
 
     ▼「桓武天皇以後女帝ナシ」 (「ナシ」はひらかな)   
 
   が入っています。表向き▼の説明が、▲の本文です。やはり
   太田和泉守の述べたいことになるので、功労者道鏡のことは「的孫」のことも含め、遣欧に関係
   させても〈両書〉で述べている、というのがいいたいところのことです。

   (79)新羅
   専門家でも間違っていそうなのもあります。年表では大化改新の翌年ですが
      「647年新羅の王子金春秋(のち●烈武王)・・・帰国。」
   があります。誰が見ても●は朝鮮三国の統一をなしとげる(★次代の文武王のとき)基礎を築き
   上げた新羅の武烈王(在位654〜661)のことで、これは反対の間違いではないかと取るはずです。

    年表では天皇名は507年、継体天皇からスタートしています。その前は
       武烈天皇(498〜506)在位8年
    という人を殺すのが楽しみだったというとんでもない君主が出ています。そのため継体天皇に
    来てもらったようで、年表では
     「507 大伴金村ら・・・男大迹王を越前国三国坂中井から迎え河内国・・で即位させる。」
   というのがあります。これだけが日本での出来事、と取られても仕方がない、あと機械では
   表示できない難しい字が出ていて、空白が多くなっています。武烈に〈武烈紀前紀〉、4代前の
  雄略に〈雄略紀前紀〉というものがあるようで年表ではここからの引用があるから、二重で(前
  紀と後紀では人が違う)読まれているのは明らかです。年表で見てても
   (雄略)は高句麗王ではないのかというのが出てくるような書き方となっています。
     475年に百済が高句麗にやられて一旦滅んでいるのは重要で〈書紀〉も書いています。
   これを「天皇」が復興したというわけのわかりにくいことをいっています。雄略紀の「天皇」という
   と雄略天皇ですが、百済Aの統治をしたのか、大倭の動き
   の中で今の日本列島の情勢が主体性をもてずに、まあ動かされている状態という時期のことで
   す。が〈書紀〉では前紀、後紀など分かれておらず、専門家の読みが別になされている状態。
   
    「武烈天皇」と聞けば、英邁な新羅「武烈王」を思い出すはずで「武烈王」のことをみるときに
    朝鮮半島から唐の勢力を駆逐してしまった、更なる英雄★を思い出します。これが●とされた
    と思われます。    @ 武烈天皇
                 A 武烈王
                 B 烈武王
   が並びました。A→Bの流れは@→@´を、つまり(烈武)を生む、継体天皇は武烈天皇のあと、
  これを烈武とまあやってみると無双の英雄となる、(即ち、武烈後紀は継体かもしれない)、
   継体天皇はその英雄のあとをついで且つ新羅王ということになります。入れ替えて述べるという
   のはあるということです。道成、成道、は著者が取り上げようとしている限りは援用したほうがよい
  といえます。木村又蔵正勝、佐久間甚九郎正勝、三好為三政勝があって海老名勝正があり、
  毛利勝永があって、躰阿弥永勝があったりするのも、同じかもしれません。継体天皇が百済の人
  というのを覆す荒療治のものとなり、これを生かすと枠組みだけはでてきそうです。新羅の
          智証摩立王        法興王
         在位500〜514    在位514〜540
  が日本列島にも深く関わる王者であったといえますが太安万侶が武烈紀の終わりに
    @「百済」の「末多(まつた)王」「暴虐」  「島王(せまきし)」立つ  これが「武寧王」である。
  と書いていて、一方細字でほぼ同じ事を書いていて「百済新撰はいう」として
    A「末多王は道に反し」「武寧王が立つ」「いみなは斯麻王(しまさし)」「異母兄」「異母兄」
   などがありますが、誰が見ても読みにくい文です。この斯麻王は発掘で出てきたものと同じ
   ですが墓の主は墓誌では
       「寧東大将軍百済斯麻王」(462〜523)(武寧王の在位は501〜523)
   となっており百済王ではなさそうです。百済は15年ほど前に無くなっています
   理屈を言えば、@とAの武寧王は似て非なり、といえますが、書かれた文章が判りにくいので
   疲れてしまってそこまで気がまわらなくなります。手間だから「異母兄」だけでも拾い出すと
     森長可と森蘭丸の関係
   が出てきますから姻戚関係、ひょっとして@Aの二人の関係が義兄弟、義弟の人物を信頼して
  新羅の領地としての
  旧百済の地の経営を任せたということではないかと思われます。武寧王は百済勢力を盛り返し
  たという説明だけで、事績がはっきりしませんが、統治に実績があったのでしょう。継体天皇かも
  しれないという書き方がされており、中大兄ー藤原不比等の線から百済を出す要請があったから
   使われたにしても、語りの人選が優れていると思います。それが陵墓発掘を劇的にしました。
  実際は王を援けて今の日本にもやってきているのではないかと思いますが、百済王ー継体は誤解
  です。一応ややこしいとこの文を、独断で整理してみますと
         こうろ王ーーーー島王(武寧王)=智証麻立王
         ‖マツタ王
         こんき王ーーーーこんき王子(斯麻王)(武寧王)
   というようなことが、語られているのではないかと思われます。この新羅の二人の王は事績も
   よくわかっており、殉死をやめさせたり17の官位を定めたりとかいうのもあります。智証麻立王
   は514年の死亡となっていますが、これは継体紀7年(513年)に
       「百済の太子淳陀(じゅんだ)が薨ず」
   であらわされているのではないかと思われます。年表では514に「新羅法興王即位する。」と
   なっています。ここも「百済」となっていますが太田和泉守は
       「百済寺(ルビ=はくさいじ)」「百済寺の鹿」「百済寺の小鹿」〈信長公記〉
       「白済寺(ルビ=はくさいじ)の鹿(しゝ)、同小鹿(こじか)」〈甫庵信長記〉
   を出しています。表面的には「円強寺」(えんかうじ)と同じもので「円教寺」「円光寺」が両方生
   きだというものでしょうが、ルビのないものは脚注では「ひゃくさいじ」とも読むようであり、「はく
   さいじ」とルビを付けた版(建勲神社本)があるということです。百マイナス一(いち)=99=白
   を踏まえ、両者同じものを表す、といってるとも取れますが、一般の人には「白(済)」で読んで
   ほしいといっているのですから、「白」が主というのが著者のいいたいところと取れます。「(済)」
   が百済の済を思い出し、鹿は奈良ー入鹿で知られていて、あの時代のことをいっているととって
   くれるというものがあったと思われます。「白」が主で「しらぎ」「しらき」「白羅」「新羅」となる、
   継体天皇の時の記述は「鍵」で、「武寧王」もその一つであり、「白済」は「新羅百済」ともいう
   べき表記であるならば、「武寧(むねい)王」までも意識したものかもしれません。
      「市橋丸毛」〈甫庵信長記〉
   は兄弟をあらわしていそうですが、そういうものがここに出ていると感じです。ただ簡単に言えば 
   確実にあるのは百済という表記は新羅がありうる、土州という表記は長州がありうる、描かれ方
  として新羅@、新羅Aがないとはいえない
   ということをいってると思います。この国家の基礎を固めた二人の王は

        ●智証麻立干(50〜514)法興王514〜540)で、概ね
        武烈A(500〜50)7+継体(507〜531)+欽明@531〜539)
    ということでとりあえず新羅だということがわかったということです。これが武烈という話の
    スタートですがもう一つの話が
       新羅の武烈王在位655〜661、斎明天皇期間に一致663に白村江の戦い。 
       次の烈武王661〜680は天武9年の舎人王(?)のそれに一致するということでとりあえず
    武烈を出したというのも新羅を出しているといえます。反対にすることも、注目させる意味など
    があるといえそうです。  
    ●の期間中に実年数がわかるものがあり、

       「(継体天皇)十七年(ルビ=★523)、夏五月、百済王武寧(むねい)が薨じた。」〈書紀〉
 
    があり、★が西暦を意識した実年数です。また表記が違っていますが、太安万侶は陵墓は
   斯麻王と書かれていたのは知ってたと思われます。とにかくこれから約百年後
       「620  この年、聖徳太子・蘇我馬子ら、天皇記・国記などを作る〈紀〉」〈年表〉
   があり(、この二年後聖徳太子没)、この百年後
       「720  舎人親王ら〈日本書紀〉・・・撰上」〈年表〉
   となっています。太安万侶等は★など新羅の記録を見ながら、また620のものを見ながら、
  〈日本書紀〉を書いたのでしょうが、国王は唐に対抗できる勢力を維持するため背後の日本列島
   には一族の有力者を配置したと思われ、例えば514没の淳陀太子は王の没年と同じで一族
  の近い人物と思われます。太子の後裔が高野新笠というような話もあるから、そういう関係におけ
  二世三世の現地(日本)の太守というべき人の書いたものが620の国記となるのか、ある程度
  分離というものが出されていそうな感じのものかとも考えられますが、唐をにらんで新羅、高句麗
  などが争っている本国をよそに、現地出先は土着の部族が混在していますので横断的な地縁
  的結合もあ機運も生まれてくる、馬子のような中心的存在が現にでいるのですから考えられる
  ことです。混血によって成り立っているのがいま日本人です。720にはもう日本語の歌集やら
  史書ができてるということです。

   (80)竹中家
   道成、成道から、話が逸れましたが宮部善祥坊というのは小西行長と兄弟とみているので
   宮部善祥房の存在もついてまわるなら、この小西という人物がきわめて重視されているのも
  わかるとみています。 宮本三木之助の三木は、平井山で死亡した竹中半兵衛も想起される
  ところです。筆者は書写山も太閤記で覚えたので(平井山は忘れていて)竹中半兵衛も書写山と
  結びついて、いざ引用するべく確認のところ、姫路と三木だから離れており、頭をきりかえたので
  書写と三木と両方が揃った、という段階ですがどうしてもここは竹中半兵衛が登場してくれないと
     道成(成道)ー北山(古墳)−北固山ー安部仲麻呂ー井真成ー36歳死亡
  という、述べてきた裏らしき部分が、〈信長公記〉のここの「石山ー紫式部ー八相山ー宮部(湯次)」
  ・・」の表の部分と表裏をなさなくなってきます。幸い表の部分に、一部、再掲
     「・■不破(ふは)の関・・・横山・・其繋(ツナギ)・・八相山・・・堀久太郎・・羽柴藤吉郎定番・」
   ■が出ています。ここに「繋ツナギ」というのも出ています。「結構」などとともに重要な語句で
   カタカナルビもその一旦を表しているのでしょう。「八相山」に脚注がなく(地名索引では「蜂屋の
   郷」と隣tなりあわせになっている)、■には脚注があります。すなわち
       「岐阜県不破郡関ヶ原町松尾。故関碑が立っている。・・・日本三関の一。」
   となっています。ここは三関も必要で、芭蕉は東国の三関〈奥の細道〉を出しているから当然
   白川とか念津(ねず)とかも見ないといけないでしょうが、ここは不破が切り離されているとみて、
       石山ー高山伊吹山ー不破ー関が原ー石田三成
   も考えられます。芭蕉では、関が原ー南宮ー不破修理が出たように、ここは
         不破河内守〈両書〉
    に戻らないといけないところです。不破矢足ー安藤道足ー安藤伊賀守婿竹中半兵衛という
   のがありました。不破郡岩手山、不破の竹中屋敷など不破は竹中半兵衛の属性です。また
   長比(たけくらべ)、苅安などの戦場で登場する、鎌羽(刃)の堀・樋口というのも属性といって
   もよいと思われます。すなわち早期の一時、
          竹中半兵衛(36歳没)
          ‖樋口氏
          ‖竹中久作
          森蘭丸(堀久太郎)−−−堀久太郎A(36歳没)

   が成立していたと見て取れます。井真成36歳没については誰も語らないので、49歳没の
   ような一般性がなく、太田和泉守の世界だけの話ではないか、あまり意味がないというのが
   あるのでしょう。

   49歳のことでも学問的なことでもないと援用しようとされないのだから太田和泉守の世界だけ
  のことで片付けるしかないわけですが、
     ○「いまい」(今井)は、意識的だから井真成36歳没というのは太田和泉守はしっている
     ○竹中半兵衛には太田和泉守が乗っているということで36歳は注目、というよりも
          「此竹中は濃州菩提之城主にして、安藤伊賀守が婿(知+耳)也。」〈甫庵太閤記〉
       の実存的意味のものをどこかで説明がいる。同書には、稲葉城乗っ取りの場面、
         「竹中善左衛門・・・渡し合せ・・善左衛門は鐘の丸へ走り上り、鐘をつきしかば、相図之勢
         安藤伊賀守併(「イ」なし ルビ=「ならびに」)半兵衛が手勢二千余人どっと山上し・・」
       があり猛将、善左衛門が付いている。上の樋口氏かも。一方、竹中は
         「静かなる馬に乗り・・・常の如く、・・・具足は馬皮のうらを表に用ゐ・・甲は・・・猪首
         に著なし・・・筒服を長々と打はをり、ゆらりゆらりと打みえしなり。」
       が常のスタイルとなっている。「書写山にして沙門之具をかひ求め・・」もある。
     ○いま理解されているのは堀久太郎@が36歳ということで、三者36ということでつながる
 
  という36の使われ方となっています。したがって井真成のことはなくてもよろしいが、入れなくては
  ならないものです。
    ○「尼子」の一節 →猪首・毛利・小早川→橘川駿河守→橘
    ○安藤伊賀守→本巣→富士山→山部赤人→橘
    ○「尼子」の一節→宇多源氏→和泉式部→書写→性空→橘
   はあるからです。井真成の墓誌が、唐代のものでなく、たとえば江戸時代ー清代のものだった
   というのでもよいわけです。明治後作られたというのでなければ。誰かが仕組んだというので
   あっても、その時代が引き継がれている時代のものなら著述として考えてもよいわけです。
   芭蕉に「駿河路や花橘の茶の匂ひ」というのがありますが、これは古歌を踏まえており、この
   橘をいっていると思われます。

    先ほどの〈甫庵太閤記〉の竹中半兵衛の文のなかに突然「牧野弥九郎」という人物が出てきま
   す。わけのわからないものが出てきたらそれが重要だというのはいってきていることです。
   一段下がりの文で
        「半兵衛十九歳にして、岐阜の城を己一人の覚悟を以て乗捕り・・・・・書写山・・・
        ・高野山・・・●牧野弥九郎十八歳の春・・」〈甫庵太閤記〉

    があります。●が半兵衛と一歳違いとなっています。多分これが二人の年齢差を表している
   と思われます。芭蕉は茶の匂いを出しましたが、駿河で
       「茶・・・・真木のの城(牧之原城)野・・・茶・・」〈信長公記〉
   があり、〈信長公記〉で
       「茶」ーー「真木の」−−「牧野管八郎」−−真木村牛介ーー真木与十郎
   の流れができて来ます。洲俣の一節では
       「真木村牛介・・・稲葉又右衛門・・・・池田勝三郎・佐々内臓介・・・」〈信長公記〉
   が出てきて、太田和泉Aといってもよい人物が出てきます。
       「真木与十郎」−「牧の弥九郎」=牧野与一郎・・・・・森蘭丸
   というようなものも出てきます。〈甫庵信長記〉の索引では
            牧野管八郎
            牧野伝蔵
            牧野牛介(助)
    があり牧野弥九郎はここから持ってきたといっているようです。「弥九郎」は「寺沢弥九郎」
   があり、重要でしょう。桶狭間の年あたりでこの関係が成立したといそうです。先ほどの文で
          「安藤伊賀守併(「イ」なし)半兵衛」
   があり二人が重なる場合がありますが、これはうまく使い分けられていて問題ないようです。
  二人のキャラクターは大きく違っています。太田和泉守は一口で言えば、口も八丁、手も八丁といえる
  のでしょう。話し出せばとまらないが、好奇心旺盛で聞き上手でもあったから場が長く保てて双方の記
  憶に残った感じです。木村世粛によって意識されたわけではないが体現されているので察せられ
  るところです。でしゃばりで、出雲の守だから縁談をまとめたことその数を知らずというところが
   あったかもしれませんが、人の人生や生活を動かしていける強さがある、いわば、お節介なとこ
  があるという感じがします。竹中半兵衛は静かで控えめです。森蘭丸は才気溢れ俊敏という感じがしますが
  それとも違います。学問的に言えば実在さえ疑われるものになりますがこの関係があるためと思われ
  ます。この観点からみれば竹中半兵衛でされている語りは捨てがたいものとなってきます。  
   霞がかった大きな話で、独歩の位置を与えられていて、案外数も多く、皆が知りたいと思って
  ちょっと欲求不満状態に置かれている感じです。竹中半兵衛は
        海老半兵衛〈信長公記〉
   の半兵衛ではないかということがありますが、有名人だから、ほか〈太閤記〉でも属性が語られ
   て説明がついているから問題ないでしょう。「竹中久作」は「遠藤喜右衛門」を討つことを広言して
   その通り討ち取っています浅井の遠藤大将は、後藤喜三郎の「喜」が同じです。「久作」は
   「久」に「作」るという意味もありますから
         「久作」の「久」=「久太郎」の「久」
  と細工されています。ここから「竹中半兵衛」「三木」「平井山」も出てきて「久」も就いてきて
         「平井久右衛門」〈信長公記〉
  が、わかるようになってきます。これは太田和泉守であろうことは、わかりますが、「森乱丸」も
  ありえるか、ということにもなってきます。馬揃のときに
         「御先を平井久右衛門・中野又兵衛両人・・・御厩別当、青地与右衛門・・」〈信長公記〉           とあるのは、森乱丸でありえます。太田和泉守は、ヴァ師など宣教師の横にいて、喋りまくって
  いたのではないかと思います。とにかく竹中半兵衛ー平井ー三木之助ー書写というのは出てき
  ました。〈武功夜話〉では秀吉は「書写」に陣しており、竹中半兵衛は亡くなる前に
         「書写山にて沙門之具をかひ求め、高野山へ上せ置し也」〈甫庵信長記〉
  の記事があります。書写山が属性となっているわけで、あの和泉式部の碑は竹中半兵衛の設置
  という可能性も大です。閑居で書物に親しんでいるという姿が印象的ですが、手紙が〈武功夜話〉
  に収められ名文を書く人ですが、書写ー古典の写本があるのかもしれません。
    宮本三木之助には「森ー本多ー千姫ー大阪城ー宮本」というような後世の補足
  がありそうです。ここでいいたいことは、このように捉えますと「竹中半兵衛」は
          「安藤伊賀守が婿(知+耳)也。」〈甫庵太閤記〉
  というのは安藤伊賀守を太田和泉守とすれば、そのものずばりといえるということです。優れた
  武将が単に実在していたというのではなく実存であったということです。安藤伊賀守を安藤守就
  とすると婿は太田和泉守となる、簡単な一文で世代の違う二つのことをいっぺんに言った、という
  大変な文章で、何回も触れてきましたが、ここで一応決着がついたという感じです。

   (81)徐福
  安藤=安東ですが、陸奥の安東と岐阜の本巣の安東とが結ばれています。安東大将軍というもの
  がわからないから解説になるのかということが出てきます。要は慈円が書いているように、東国
  独自のものがあった、その一つ高麗の安部氏があって太田和泉守が駒来山と書いているよう
  駿河当たりに中心があるとすると
    「日本をヤマトと訓む例はあるが、ヒノモトと訓むのはここだけ。富士山が日本の鎮護の山で
     あるという思想は駿河国から起こってくるのであろう。」
  というのもわかりかけてきます。
   これは徐福から来ているものです。この伝説の内容は史記にあって魏志倭人伝にも出てい
  ました。〈甫庵信長記〉に徐福が出ています。脚注にこの話は
       「秦の方士徐福は始皇帝の命により、童男童女各三千を率いて長生不死の薬を求めて
       海に入り遂に還らなかった〈史記〉」
   であり、〈史記〉にあるのを〈漢書〉〈後漢書〉でも引用していて、〈魏志倭人伝〉にもあり〈前著〉
   でも触れました。なぜ同じような内容のものを引用したかというと国家の政治的な話で、その
   結果が今に及んでいるというのでしょう。単なる話だったらカットしているはずです。意識はしてい
   るが、秦の時代に東方が蘇国の管理下に置かれたという書き方がこのようであったと思われます。
   これが何のことを書いたのかという解説が全くないのです。筆者は大田和泉守のものに頼る
   しかないと思っています。徐福の渡来が日本の地を領土としようとする、占領軍だったとかいい
   ますがそれはないでしょう。東夷という言葉もあるように、そのままにしておくというのがあるはず
    です。日本に統一
   国家もなさそうで戦争にもならない、威圧で目的地へ行ける状態の人数としたのかも。、
  人数が少ないから、当面分散はできない定住して、人数をあとから増強していくくらいのことで
  この拠点を足場に教化して将来の統治に資せしむるというのが方針だったと思われます。
  朝鮮半島や満州、中国大陸からの移民もあったということは考えられるから、それを足場に
  植民を増やしていくというようなゆるやかな進出計画があったと思われます。大田牛一の用意した
  ことはやはり一味違うと思います。徐福のことは倭国の問題だといったのが太田和泉守です。
  はじめに
       
        「秦の始皇帝、  ●倭国に   ■蓬莱の仙嶋あるを聞きて
        徐福を遣わし  長生の薬を求めしむ  徐福、
        ▲南紀の金峯に至って   ▼東駿の富士に止まる
        此等の地を指して以て蓬莱とす。蓬莱の方壺、皆神仙の一霊境たり。・・・」〈甫庵信長記〉
  
   があります。
   今はこの始皇帝も徐福も人名索引にありません。地名索引はもともとないから●も、▼もあり
   ません。戦国江戸時代の人は寺やら塾などで認識しているものです。皆が中国の史書などで
   知っているのは●▲▼を除いた部分です。この始皇帝の認識していることに●を入れたのが
   大田和泉守独特の工夫でしょう。■は日本列島であろうというのは異論がないところです。
   ■は「倭」の一部であって、行政単位とするほどのものという認識でもなさそうです。政治的に
   いえば、よく手なずけてほしいというところかもしれません。大田牛一は一般に言われる
       「不老不死」「長生不死」(ウイキペデイアでは「長生不死(不老不死)」となっている)
   ではなく
       「長生の薬を求めしむ」・・・(「薬」=「手だて」と変換されやすい)
  の表現となっています。「起死回生」を字引で引くと、死にかけた生命の状態と、事業の失敗などの
  状態からの回復の二つが書かれています。どちらも「妙薬」を使えますが、事態の場合は「手だて」
  というものになるのでしょう。「此地・双方関係、長生の手だて」を求めたというのが一つ考えられま
  す。これだと活動報告が齎らされます。▲は吉野山の最高峰、金峯のことで、▼との2箇所が
  中国文献に残っていたというのが察せられるところです。
   これがあるので、歴代中国王朝に引き継がれ「日本の大和の国の駿河なる富士の高嶺と
  阿倍仲麻呂が言えたといえそうです。太田牛一は

      「駿河遠江三河三箇国・・・本巣・・・富士山・・・人王七代孝霊天皇・・・此の山の神は女体
      ・・富士・・・万葉集・・・不尽山・・宋朝の景廉・・富士・・・三州・・・万里・・・」〈甫庵信長記〉
  
  を用意しています。この「三州」は脚注では「駿河遠江甲斐」とあるから万葉集山部赤人のあとの
  二つの富士の歌も入るのでしょう。孝霊天皇は索引にはなく神武天皇紀元前600年から起算すると
  始皇帝の年代にあたります。ネット記事では、紀元前600年は「景公」というのがありますから、 
  その「景」が「景廉(シ+廉)」が出てきたことと繋がるのでしょう。これは脚注では
     「明の人。孫三傑の字。宋朝の、とあるのは誤り。」
  となっています。これは太田和泉守より200ほど前、中国24史中の元史を編纂したという人物で
  有名なのでこういう間違いをしても修正が効くのでいいわけですが、名前が「宋廉」、字が「景廉」
  「孫三傑」と呼ばれるということです。春秋時代の「宋」をだしたかった、それが春秋の「景公」(晋)
  紀元前600年を出すためではないかと思います。660年は間違いで、慈円はこの60年を後へもっ
  ていって神功皇后を天皇在位69年として入れて調整している感じです。太田和泉守は、この
  「宋廉」が「・・・富士・・・・三州・・・」を織り込んだ詩を紹介していますが、三州に甲斐が入っていると
  いうのは予想外です。元史を編纂した大学者は、日本に来て、万葉集を踏まえた富士の歌を詠
  んだと太田和泉守はいっているようです。「ふびらい」(クビライ)は〈史記〉の描く、徐福ー始皇帝
  の記事がその後の歴代王朝の記述に踏襲されているのを見たとき、あまりその当時と違った見方
   をしたというのは考えにくいところです。両国間で条約を締結したとか、独立を要求されたとかの
  記録があれば別ですが。日本が列強的見方をされたのは、西欧と接触してその足場を築いた
   大田和泉守以後でしょう。そのあと、中国が康熙帝
  以後三代強大な帝国を築いたということですが、日本に干渉があったという話は聞いておらず、
   清朝が平和的な政権だったのか、どうかは別として、このときは古代から来ていた中国政権の
  日本対する見方が変わっていたということも効いているともいえそうです。始皇帝・徐福を倭と結
  んだのは太田牛一ですが〈甫庵信長記〉がでたのは関が原のあとです。

  (82)狙いの一手
   その前には明の政権との交渉がありました。
       1592 文禄1  3月、朝鮮に出兵  8月、明の使者と小西行長、平壌で和議を約す。
   とあり、5ヵ月後にもう和議の話が出ていますが、これは「平壌」でやられた話です。
       1593 文禄2  4月、前年8月の約束を実行して休戦
       1594 文禄3  12月、小西行長の使者、内藤如安、明の皇帝と会見して和議を約す。
  となっており、この時点では中国政府と日本政府が交渉しているという認識が双方にありそうです。
       1595 文禄4  1月、明の陳雲ら小西行長に講和を求める〈宣祖〉
                     明の正使、李宗城、北京を発し釜山へ向かう〈皇明・明史〉
   があり、〈宣祖〉〈明史〉は中国側資料ですから後年の清の康熙帝などは両国のこの関係は
   もう知っていたと思われます。つまりフビライ帝が周辺から聞いたときの知識と、康熙帝のそれ
   とは違う、フビライ帝と康熙帝の間には、天正遣欧使節派遣と小西行長の明の首都での明皇帝
   との談判の事実が挟まっている、ということがあります。
    日本は江戸期を通じて隣に清国という強大な統一国家が出現したのに大船の建造を制限
    したりして平和を保っています。干渉されなかったこともその一つだと思われますが、国の意思
   が示されて相手に通じたという面がなかったのか。
    太閤の死のあと、急ぎ全面撤退をしています。もうすこしその死が早ければ、仮に戦局が膠着
   状態や有利に展開していた状態であっても、引いたのかどうか、というのは疑問ののこるところ
   ですが、既得の地にこだわっていません。早期の段階で国内のもう一方の勢力が講和にこぎつ
   けています。この早期の
   強硬派から見れば誤魔化されたような交渉のあったことは、日本側の政権の大方の意向を
   伝えるものでもあり、撤退との繋がりを予想されるものがあったと思われます。誤魔化されて
   傷口をひろげたという解説が主流ですが、かなりちがう、耄碌、誇大妄想の爺さんの起こした
    戦いというのが根本的な間違いでそこからくるから仕方がないことですが文民による統制が
   欠落してしまった結果の示すものとなっているものです。遣欧使節により認知度を高め、講和
   交渉の当事者となることで列強の仲間入りをして、このあとに太田和泉守が狙いの一手を放
   った、それが、つまり〈両書〉の発刊ということでしょう。これが江戸期の長い期間の国際関係
   の安定に貢献したといえそうです。そらちゃう、となりそうですが秀吉老人の起こした戦争という
   よりはマシです。読解手法がマスタされてることを知りながら、著書を出したわけです。
、 日本国という
   ものを曝け出した、余りに大きな影響を大陸から受けてきている、ということから歴史の記述
   は必要で、遣欧使のことは新しい動きとして載せて置かねばならないことです。文化度の高さ
   を示すものは歴史、現在を記述する手法の継承と展開でしょう。つまり当時は少数の卿士大夫
   がリードする時代で関係国のりーダーが読み取って理解してくれる広報をしなければならない
    ところです。太田和泉守と付き合いが生じてる隣の朝鮮国の学者は当然のことでしょうが、
     宋廉などの例でわかるように中国の学者の日本の文献の読解レベルが高くて(反対方向
    ばっかり考えがちですが)、平成の今日、われわれが読み泥んでいるのと違っていとも簡単に
   〈信長記〉などは読まれてしまっていて皇帝も知るところで、となっています。
   〈信長記〉が、読まれれば、太田和泉守の挨拶が伝わる
   わけで、双方同じことを考えて、やってきているというのが確認されることが重要なことです。
   「帰一」であってお互いの国は、人畜無害だということでやっている、安心できる、ほって置いて
   も大事に至らないというのが根本にあったということなのでしょう。すなわち紀伊大納言
    や水戸中納言、藤堂高虎・・・は中国などから学者を招いて師事しています。水戸光圀の朱舜水
    水は有名でこういう影響力の大きい人物もいます。大名家の御文庫への出入りが自由で、
   御文庫の豊富な日本文献を見てもらうのも狙いでしょう
   同時代の太田和泉守の著述はこの場合必備のものといえます。大田和泉守の硬軟の
   の戦略がその後の周辺国との平和に貢献しているといえると思います。あと年表を追えば
    戦役はじまって三年目、講和交渉中
      1595、7月に豊臣秀次が自殺
   しています。このころ、徳川家康公が耄碌度合いが、きつくなって
      1596 慶長1 9月明の使者を追い返し、秀吉、●家康の諫止を退け、朝鮮出兵を決定
  となっています。この●は今となれば本当の家康で太田和泉守と同じ立場でしょう。
   ●の前「秀吉」は死期が近づいており、
      1597 再出兵
     、1598 秀吉8月に死亡(公表?) 1598年末、撤退完了。1600関が原の合戦
  というのが前著からの断片のまとめとなります。年表では1592出兵し講和の話、その後三年間はぐずぐず
  講和の話を繰り返し、1597に太閤秀吉が講和の内容で怒り出し再出兵、翌年1598撤収完了
  となっています。再出兵とはいったん引き上げていたのか、
  かなりわかりにくい戦いとなっていますが小西行長、内藤如庵などの行動が当時でも支持され
  たのではではないかと思われます。

   (83)茶の香り
    ▲▼の出た文のあとは「茶」のことが書いてあって
 
    秦の始皇帝ー倭国ー仙嶋ー徐福ー長生の薬ー徐福ー南紀の金峯ー東駿の富士ー方壺ー
     十器一陶−六一七−茶ー壺ー壺中仙□{茶の異名なり}を賞味ー
 
  という流れのもとに「茶」がでてきます。この一節はむつかしい漢字がたくさん並べられ、意味、
   、読み方が不明なことはもちろん、機械入力できないものがたくさんありそうで、気がついたこと
   も述べようがない、まあウンザリするところで、もう戻ってきにくいところです。□のところに入る
   字は「草カンムリ」の下、左「白」、右が「巴」と言う字です。辞書で引くと「は」と読み、「花、
   はなびら」の意味になります。茶から草カンムリを取ると「余」となり、これは字引では「のびる」と
  いう意味だけが書いてあります。理解できないなりに、この
           「倭国」
  を特筆すべき挿入といってきました。その後ろに茶がきているということです。この一節は千宗易
  、松永久秀が絡む「茶入れ茄子(つくもなす)」の話のなかのものです。そのことを言いながら、突如
          ★惟高和尚の記に曰く、
   として難解な文が出て、その中に徐福の話が出ているという構成です。  
  この★が誰かという話がまた蒸し返される問題ですが★は索引にないので、よくよく見ますと「い」
  に載っていて本文にルビがないから「いこう」と読ませています。一方「惟任日向守」は
   「明智」だから「あ」に載っているので噛み合いません。索引で、この二つが並んだらすぐ判り
   ますのでそれを避けられたと思われます。日本的な文章ではない中で「松永弾正少弼久秀」
   や「倭国」、判じ文なのかどうか、松永に関する
      「万年亀洋派下巣葉・・・」〈甫庵信長記〉
    などがあって太田和泉守の文責のものであること
   はわかりますが元文を書いた、★Aは誰かといわないと完結しません。ネット記事「007・08月
   ・・・化石ニュース」に京都新聞の記事が出てますが、

        「豊臣秀吉・徳川家康に重用され、相国寺を再興した安土桃山時代の臨済宗僧
            ■西笑承兌(さいしょうじょうたい)
        が、文禄慶長の役に(朝鮮国側で)参戦し、戦後は国交回復に尽力して来日した李氏
       朝鮮時代の禅僧・惟政(ルビ=いせい)(松雲大師)に贈った詩の(文案)が発見された」
 
  があります。この■が、★Aでしょう。和田惟政(これまさ)の「惟」は索引の通り「い」だったわけです。
   ネット記事によれば相国寺側に「惟明」という人もいるようで、一応二つ相国寺で「惟」が出て
   きました■は、一応、「控え」に
   「和田伊賀守惟政」を想起できる名前を書いておいてくれたわけです。惟高和尚を「いこう」と
   読むと「惟任」との連携はうすれてしまいますが、現在の〈甫庵信長記〉の索引は「いかう」と
   読んでできています。
          池田八郎三郎
          惟高和尚
          飯河(いかう)山城守
          (同)肥後守
   となっています。池田の八郎も生きだと思いますが、「飯河」の登場場面は
      「和田伊賀守、同雅楽助、飯河(いかう)山城守、同肥後守・・・」〈甫庵信長記〉
   で、和田惟政が出てきています。和田伊賀守の索引をみますと
          和気善兵衛
          和田伊賀守
          (同)雅楽助
          和田和泉
    となって和泉に直結しています。西笑和尚は自分が〈甫庵信長記〉で惟高和尚として登場して
    いるのを知っており、「惟高これにあり」と駄目を押しとこ、というのでやった文案が出てきた
    いうことでしょう。〈クロニック〉で「北条氏直に最後通牒」という項目があり

         「これは前日夜、浅野長政(43)によびだされた鹿苑院僧録西笑承タイ(42)が楠
         正虎(長諳)(〈信長公記〉「長安」)、大村由己らと急遽作成したものだった。」
 
   となっています。これは太田和泉守が乗った西承でしょう。この「浅野長政」は私設秘書に
    頼んだような感じです。明と講和交渉のとき、肥前名護屋で

         「偽りの明使節は(南禅寺の僧らと)和議の折衝に入り、それをふまえて相国寺の
         西笑承タイが和議条件草案をまとめた。・・・・」〈クロニック戦国全史〉
 
    となっていて、いまでいう国籍もはっきりしない西笑和尚が翻訳ではなく草案を作成すると
     いうのはかなり無理であり、太田和泉守の関与は認めざるを得ないところです。これが
    婿の父という実存でもあれば、こういう乗っかるという無理も軽減されるところです。
    講和の草案に「明皇帝の姫を日本の天皇の后にする」というような条項があって、これは
    認められないというのを前提
    として、歴史の証言として一応かいたということになるのでしょう。その他のところは参考に
    されたというような指針づうりをやったといえそうです。なにしろ独裁者が君臨しているところは
    殺せないと一目置かれている人物しか、たたき台は作れないというところでしょう。内藤如庵
    の天皇が入った条項は提示せず、明を
    立てた案を出して、答えは秀吉の「日本国王」となったということです。倭の仙嶋というもの
    からいえば「日本」も入っているから、それがいま交渉の当事国というのですから大変な違い
    なのですが、太田和泉守としてはせめて
    ここで譲歩を勝ち取ったということでやめたかったところでしょう。永禄12年にもう
    キリスト教公認ということをやって、地歩を築こうとしたのは、大国を隣国にもつ国に怯えと
    強がりが出るのは、本来的なものなので、それがこういう暴走に走らないように、国を
    客観視、相対視してみれる、まあ国際力をつけようとしたもので、この戦争は余分なことでし
    た。家康公の目的が国威の発揚であったということがあったと同時に、自家発展、西国大名
    の力を削ぐ、この社会の地盤を壊すというのがあって、面従腹背に動いたというのが偽使節
    などの話になっていて、各国も同じ悩みがあったと考えられます。太田和泉守の根底には
    今日の国際関係には消えうせた各国帰一というもの、同じことをむかしから考えてきたという
    ものがあって、共同歩調も在ったという動きにもなったということです。

     太田和泉守の、始皇帝ー倭国ー仙嶋ー長生の薬ー徐福ー南紀の金峯ー東駿の富士
    の出たこの一節ををみて紀伊大納言頼宣は紀伊が入っているので喜んだのでしょう。
    ネット記事によれば、「徐福公園」に徐福の墓を建てています。7人の重臣がいたようですが
    ここには「七宝の台{七台内なり、}・・・{天目}」などの「七」が出ています。太田牛一でみると
    「七」は子息の数だったし、七・八の「七」もあります。
     「阿須賀神社(徐福の宮)」もあって、「徐福」と「阿須賀」が結び付けられています。この辺
    は竪穴式住居跡で遺跡も出てくるということで、無学祖元(鎌倉時代、建長寺)の詩碑が
    あるようです。碑は新しいが、詩の内容は徐福を偲んだものということで〈史記〉がずっと引き
   継がれてきています。司馬遷の書いたものがやはり六義のようなものがあって、掛かっている
   と思われます。例えばここで東方経略方針が出てて歴代王朝が参考にする、お茶を濁すためも
   あって、できるだけ面白い語りにしようというのがあります。例えばここで
        長生の薬A
   としては、太田和泉守によっては「茶」と取られたというのはありそうです。茶は〈喫茶養生記〉の
   栄西(鎌倉時代)が、中国から持ってきた、スタートのような感じで見られますが太田牛一は、
   もっと前の唐の茶人の「玉川」という人に言及しています。栄西は吉備の出身で、吉備真備の
   ことも思い出しますが、ネット記事「静岡茶 お茶の歴史(伝来)・・・牧農園」でみれば
       「お茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。」〈喫茶養生記〉
   が出ていました。太田和泉守の表現が、栄西のそれに接近しており、栄西の著書を見ていた
   のが反映されたのかしれません。またこの記事には
          「お茶はもともと薬として飲まれてきました。それを安土桃山時代のはじめ
          に茶の湯として千利休が確立しました。」
。   まさにこの端境期に太田和泉守、千利休がいた、太田牛一の書きたかったそのことが書かれて
   います。さきほどの玉川が出てきて
     「当世の韻人佳人、●靡然(びぜん)として■陸桑苧盧(ちよろ)、玉川の事業を嗜む」〈甫庵信長記〉
   があります。「玉川」は脚注に
      「唐の人。詩に巧みで、性、茶を好み、茶歌を作った。」
   とあるからお茶を嗜むということになり、当世の「韻人佳人」というのは自分や、利休とか、松永を
   指すのでしょう。●は脚注では、「なびき従うように」となって、■は「桑や苧麻(からむし)が繁る
   ように」となっています。すると「陸」というのは「陸生」「自生」という解釈ではないかと取れます。 
   すると「櫨」(木偏のないもの)というのが解釈に入っていない感じです。しいて言えば、「櫨」
   といえば「炉」もあるから「桑、ちよ」から、熱を加えて絹麻を作るというのが玉川事業というのかも
   しれないが、それだったら嗜むは口だから、合わない感じです。■の文の「嗜む」のあとは
       「家々人々十器一陶を蓄へ、★晞顔苧翁(きがんちよおう)川子を慕リン(敬慕)す。
       川子嘗て茶歌を作る。・・・六椀・・・仙霊・・・七椀・・・蓬莱・・・。茶は是れ仙歌の瑞草
       なり。・・・・清香、佳客と会飲し、壺中仙ハ{茶の異名なり}を賞味す。」〈甫庵信長記〉
        「ハ」=(草カンムリ+白+巴)−意味は花、はなびら
   が続いています。■の「盧」は本来の意味の「器」であったというのがわかります。また■の
        「苧」
   は〈魏志倭人伝〉に「紵麻(ちよま)」というのがあるから、その辺から「糸」を「草」に変えてもって
    きたのかもしれません。今言いたいことは■@Aがあってここでは@は茶であろうということです。
    す。    陸ーーー桑ーーーちよ(麻)       →  生えてる状態
                ‖     ‖     
               桑茶ーーー茶ーーー「盧(器)」 → 木または土の器に収納された状態
  としたいというものがある、と思われます。■の前に●がありますから
      「靡然として」→「麻に非ざるように」
  といっている、ここは今回「麻」と取らないようにといっています。そらおかしい、超おかしいというのは
  あるでしょうが、まあ、まあ、茶を出してみたいところでもあります。
   ★の人物は脚注では
      「宋の高僧。詩に巧みな人。」
   となっています。この「詩に巧みな人」は、さきほど「玉川」の紹介で出ました。★の後の「川子」
  というのは、脚注では「玉川」となっています。つまりちょっとおかしいが
      「玉川子」
  という人物とみているのでしょう。★「きがん」は「玉川子」を敬慕するから「苧翁」と称したはず
  「玉川」は、「性、茶を好み・・」という人物だから「茶翁」とするのが普通であろうといいたいと思い
   ます。また、テキストでは全然出てませんが「盧」という字の意味を調べたときに
        「盧全」(「全」の「王」が「工」の字)読みは「どう」)→玉川子
   というのがありました。たまたま知ったことですが、太田牛一は知っていることで■の「苧蘆」と
    いうのは「茶(玉川子)ー器」というのが、よさそうです。
   太田和泉守は始皇帝の長生の薬はお茶といっているようですが、自分が言っているのではなく
   上の文の「茶歌」以後の分は「茶歌に云く、六椀・・・・」となっている、茶歌にあるものの引用なの
   で自分より700年くらい前の人がもう云っていることだといっています。

    始皇帝が出てくる直前「漢史」にも話を飛ばし「孟嘗伯周」という合浦(中国西南広西省)の
   守宰を出してきて
     「意(おも)はざりき日域の海隅に、腹た合浦の孟伯周を観んとは。始皇帝・・・」〈甫庵信長記〉
   となっており、繋ぎがよくわかりません。外のことは別にして
           「孟嘗伯周」→「孟伯周」
    をだしてきてます。つまり、
           「玉川川子」→「玉川子」
   というのを太田牛一は「玉川」と「川子」に分けたのと同じ状況ということでしょう。すなわち
      (孟伯周)  孟嘗          (玉川子) 玉川(盧全玉川)   
              ‖                   ‖
              伯周                 川子(苧翁川子)
    となる、つまりどこかに表記の公式というのがあって、二つのものが引っ付けたりされてると
    雌雄の表出もあるということぐらいは云ってるともいえるところです。実際は
              孟嘗
              ‖伯周
              □□□
   ということでしょうが、□□□という家のつながりは従たるものだから必要のない場合もあるで
  しようし宮仕えもやめたら親類つき合いになってしまいそうな感じです。伯周がなぜこの位置に
  なるのかという問題がありますがこれは順番ということでしょう。玉川子の場合もそれですが
  「翁」とか「光明子」というのをやってきているのでそれに似てるということです。ネット記事
  「TOKUSHIMA」によれば、明治時代の「伯周」(和算の大家)の墓石と顕彰碑が出ていますが
  語句だけ拾えば、
      「阿部有清」、「長善寺」、「通称雄助」、「字、伯周」、「小出兼政門人」、「弟子、武田丑太郎」
      「善長寺」、「武田丑太郎顕彰碑」、「父梅太郎に和算」、「阿部有清門人」「林鶴一の師」
   などが出ています。静岡のお茶は安部郡の聖一国師が開祖でその阿部ー長善寺ーなどの
   ことから、この一節を汲んで作られたものとみてとれます。この雌雄のことは始めに出ていることで
   「南紀の金峯」と「東駿の富士」二つが出ていて「金」は「中川金右衛門」の「金」で「峯」は細長い
   、富士については蓬莱の方壺がでて「方壺」について脚注では
         「腹が丸く口が四角の壺。富士山頂の火口を云っている。」
   となっていて、富士の火口というのを出されたら戸惑うだけです。要は大自然の風姿をみて凹凸
   をさりげなく出したといえるようです。

   (83)登呂遺跡の出現
   太田和泉守は登呂を念頭に入れても、〈両書〉を書いています。
   太田牛一は富士をのべるのに考霊天皇を出してきています。
   始皇帝時代ということであろうというのは既述ですが、富士の女体も出しています。「万里」
   にも富士の詩があるということを述べており、先ほどお「景廉」の次に出ています。脚注では
       「万里周九。禅僧。五山文学者。」
   となっており、ネット記事では「下呂温泉」を讃した人物としてしられ現地に碑も有るようです。
   「梅花無尽蔵」という詩文が有名のようです。林羅山の師ということで、ネット記事イントロの
     青木氏ー近江速水氏
   というのもあるような人物です。林羅山の師というなら太田牛一が知っている人でしょう。
       @南紀のものは、竪穴式住居、遺跡遺物、当時の大集落を想定するものに恵まれて
        いるのに、また解説もあるのに、ここは富士の火口だけの説明では納得できかねます。
            下呂ー呂ー登呂
       を万里は出したかったといえそうです。「下呂」というのは飛騨の「上呂」「中呂」とある
      「下呂」ですが、万里などが使う場合は「呂」は掛けられるでしょう。「炉」「絽」「魯」など
      があり、徐州の「魯粛」(三国志で有名)の「魯」や、先ほど出てきた「盧」もあります。

         太田牛一では「呂宋(ルソン)」「曽呂利」「呂尚(太公望)」などの「呂」がありますが、
      「万里」を引用したのは「万里長城」もあるかとみれば「呂不偉(「イ」なし)」もあるでしょう。
      これは始皇帝の実父といわれている人物です。ここまで云ってくるまでに、それはけしからん
      事実とちゃう、聞くまでもないとなってしまいます。即ち遺跡は昭和18年軍用施設を造るため
      に掘ったら出てきた、5年後に大々的に発掘したら出てきたものだ、ということになっていて
      100%の人がこう書かれています。でてきたものは、
           8万平方メートルを超える水田跡、井戸の跡、竪穴式住居、高床式倉庫、農耕
・          ・狩猟・漁労のための木製道具や、火起こしの道具、占いに用いた骨など(ウイキ
           ぺデイアによる)
       これほどのものなのに学者も地元の人も知らない、つまり伝承も文献も何もなかった
       、幸運と機敏な処置の産物なのに太田和泉守や万里周九など知っているはずがない、
       ということで万事休すでしょう。しかし・・・

       A「万里」の詩の引用があり、(括弧内ルビ)
           「・・・東遊若(シ)過(よぎ)(ラバ)詩(ヲ)作(テ)掛(ケヨ)  清見寺前三保(ノ)松」
                                     〈甫庵信長記〉
        があり、東遊しここへ行ったそうですが、「掛けよ」は「羽衣」を「三保の松」に掛ける
        がごとく、ここの一節と「清見寺」「三保の松原」(脚注では天人伝説がある)を掛けて
        みればよいのでしょう。いまとなれば「清見寺」で太田和泉守を出そうとする人もいたこと
        もわかります。〈信長公記〉では
               「清見が関」「(「三保が崎」)・・・三ほの松原」「羽衣の松」
        となっており、ここに古くから「関」があって重要地点と認識されていたといえるようです。
       「三ほ」は、「ほ」と、ひらかれているので「御穂神社」(万葉では「三穂」もある)があり、
       稲穂はありそうです。ただ「三保」も書かれており、脚注ではこの「三」が「見る」と掛かる
       とありますが、「三保」がなぜ「三保」かは〈万葉集〉にあるからそれまでといえば、その
       通りですが「保」がやや唐突なので一応、浜松の縄文遺跡
           「三ケ日只木遺跡」(人+口+木)(三ケ日温泉もある)
       も想起されます。これは太田和泉守が書いている
           「神原」(両書)
       というのがどこかわからないから、いろいろやっていると出てきただけのことですが、
       いまやっているのは〈史記〉の「平原広沢」は、どこかということで、「神原」「神原(蒲原)」
       「松原」が気になるところです。「三ほの松原」に続いて「羽衣の松」が出てきますが
       羽衣伝説は、素晴らしく天女が舞い降りてきて、かすかな、たしかな痕跡を残して去った、
        あとに残した羽衣とは、・・・人知れず去ったのは・・・、これに語りが続かないのでは
       古人も、現代人と同じになってしまいます。

       B万里には、下呂温泉(「日本三名泉」と讃えた)という属性がありますが、富士の温泉
        (静岡の温泉)を出すために万里を出したとも考えられます。すなわち
          「人王七代孝霊天皇の時、此の山一夜に湧出せりなんど申し伝へ候。」〈甫庵信長記〉
す       となっており、「温泉」(ゆ)が省略されています。この地ほど温泉を語らねばならない
        ところは少ないほどなのに、一つも出ていません。「温泉」が別の語りをするのでしょう。
       温泉の案内はほとんどイワレが入っており先ほどの三ケ日温泉にも遺跡の説明があります。

   結論的には、登呂遺跡というのは広大な平原と安倍川、海とのセットになっており、ここに
   登呂川との名前が出てくるのは、安倍川のことで、東北の安倍氏などとの関連で誤解を受け
   ないような配慮があると思われます。徐福は制圧という形ではなく、植民的な感覚で進出した
   と考えられます。男女の匂いは繁殖を表す、混血して住み着く一部の高度の技能の持ち主は
  一箇所にとどまらず広範囲にというような同化政策というものでそれが羽衣伝説に現れたといえ
   そうです。太田和泉守の記述に登呂周辺のことが書かれています。

     「(足高山)、富士河、(吹上の松、和歌の宮・・葦原・・天神河、深沢や)▲神原の浜辺を、由井・・
        清見関・・(戸ささぬ御世・・・三保が崎、昔日天乙女、此所に天降りし・・・茂り添ひ行く
        梢の色・・・海面も緑や増・・・釣りする舟の数々・・・異国は知らず我朝に於いては、
        日出でて耕し井掘って水呑ましめん物)・・・(奥津の浜、田子の浦)・・■駿府・・(千本)・・  
        安倍河・・・岡部・・・藤枝・・・菊河・・・懸川・・・見付の国府・・・池田・・天竜川・・・・浜松
        に・・暫くココには御くつろぎ・・・。▼神原より始めて是まで所々の旅亭のいとなみ・・」
                                                 〈甫庵信長記〉
    となっており出だしの「足高山」は脚注では、沼津の北方の愛鷹山です。ここで、南紀の阿須
    賀神社を想起すれば、足高山はなぜ入れたかが出てきます。
       阿須賀山→飛鳥山→明日香山(あすかやま)
                     ‖
                    あした香山→足た香山→足高山
    です。すなわち、この山は実際登った山ではないわけです。つまり序論としていれた山です。
    この山が〈両書〉の東のスタートで、西の浜松までの地名の羅列があります。(  )の部分を
   省くと実態的な地名の羅列となります。すなわち
      富士川ー▲神原ー由井ー清見関ー■駿府ー安陪川ー岡部ー以下略ー浜松
   要は(   )の地名は〈信長公記〉を参照して(はめ込み、などをして)、足高山的なものと取れる
  ものです。例えば(田子の浦)は、足高山の南、沼津ー富士川間の海岸線で河口(富士)の東
  にあり、この位置に出て来るのはおかしい、これは上の和歌の宮が補注にあるように
       「和歌之宮は蒲原町に所在。山辺赤人を斎るという。」
  となっている和歌之宮と一対のもので赤人想起のものともいえる登場となっています。また同じく
   その前の「吹上げの松」は
       「蒲原町の北方吹上浜に六本松と称する所があり、そこに浄瑠璃姫の墓と伝えられる
       塚があった。」
   とあるような謂れが伝えられている、千本は今川館があったところですがテキストでは
       「平安時代、大弐と称する女性が安部郡手越原(現静岡市内)に千本桜を植え、建穂寺
       の供花としたという伝説があり・・・」
  となっており、伝説の土地の起用は、静岡市内ー安部郡をつなぐ役目として入れられたということ
  が窺えるので、ルートに入らないというものとみれるものです。テキストでは
     「この〈信長公記〉の記事により、当時既にこれらの旧跡が著名だったと証しうる。」
   となっていますが、名所旧跡その故事を語るというのはそういうことであり、特筆を要せず、
   これは、太田和泉守がここで採り上げたから著名になった、また太田和泉守始発のものがある
   ということをいわれていそうです。
    テキスト補注では「田子の浦浜」について
      「富士市と沼津市千本松原から富士川河口までの浜堤丘をいう(異説もある)」
    となっています。右を東として
          富士川
          河口== 富士市ーーーーーーーー沼津市千本松原
   という位置関係があるので「==の部分」と「ーーーーの部分」が田子の浦浜というものを
   構成するということでしょう。この文からは、ちょっと迷うところで「千本松原」を調べますとウイキ
   では
      「沼津市の狩野川河口から富士市の田子浦港間10km」
   となっており、これでいけば田子の浦浜は、富士川の河口までだから少し長いということになり
   ますが、沼津市千本松原は確認できず、沼津市狩野川河口であったのと同様に、上の文の
      「天神河」〈甫庵信長記〉
    は沼津では確認できません。葦原は現在はない吉原市ですが、これは富士市の一部であり、
    天神川城も富士市にあり、三枚橋は、沼津市にあり、順番がおかしいことになります。要は
    現在の地名と、比較対照をやっているとややこしくてここは読めません。括弧にして、イメージ
    を受けるということくらいにしてよいようです。現に信長公が聞いた中に入っている次の
    「・・・・・」のところに入っている地名です。「富士川」「神原」のあと

       「知人に  吹上げの松・六本松・和歌の宮の仔細 ●御尋ねなされ、・・・・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・連々聞食(きこしめし)及ばれ候。・・
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何れも尋ねきかされ・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・名所々々に御心を付けられ・・・・・・
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御尋ねなされ、・・・・・・・・・・・・・
       江尻・・・江尻・・駿河府中・・今川の古跡、千本の桜■くはしく尋ね聞食(きこしめし)
       あべ川こさせられ・・・」〈信長公記〉
   
    となっており●から■千本の桜までは聞いているわけです。「江尻」は宿泊と出発、「駿河府中」
    は「御茶屋立て」「安倍川」は越えたと書いています「江尻」がポイントですが社会科教科書の
    地図には出てないので吉原市と漏れてしまったものですがここで安藤(歌川)広重の絵を
    借りれば、東海道五十三次、江尻宿
        「江尻{三保遠望}」
。   があり、府中の手前の清水市のなかに入っていて掴みにくかったものです。駿府府中がポイント
    で登呂遺跡は「静岡市駿河区登呂」にあり、安藤広重はいまの静岡市では
        「府中{安倍川}」
    で描いています。登呂を意識して二つは一体です。要は太田和泉守は
         左の神原                右の神原(蒲原)
         三ケ日只木遺跡想定         登呂想定
         浜松市西区(「浜名の橋」)      府中(安倍川)
         新居ー「今切の渡り」ー舞坂     三保松原(天女羽衣)
    の二つの遺跡をつないで登呂を出したといえます。「浜名の橋」「今切」について本文や脚注
    があり
        「浜松に至って御泊り。ココにて・・思ひ々々本坂(ほんざか)越え今切(いまぎれ)越え・・
                                                  〈信長公記〉
    があり「本坂」は脚注では「浜名湖北方。」と書かれています。ウイキペデイアのイントロでは
        「本坂トンネル」「静岡県浜松市三ケ日町本坂」
    があり「三ケ日只木遺跡」「三ケ日温泉」の「三ケ日」がでています。一言、これがあるのと
  ないのと雲泥の差があります。「越え」も「え」になってて甫庵でもこのあたり全部「越え」になって
   います。ここで本坂今切がドッキングされています。このあと
       「浜松・・・今切の渡り・・・・はまなの橋・・・家康卿・・・・渡辺弥一郎・・・浜名の橋・今切
       の由来・・・しほみ坂(白須賀)・・・吉田・・・吉田川(脚注=豊川であろう。)・・」〈信長公記〉
   があります。「浜名の橋」について脚注があり
       「浜名湖の落口の浜名川に架けた橋。浜名郡も舞坂町と新居町との間。ここを題材に
       して多くの歌が詠まれた。」
    安藤広重に「新居宿」と「舞坂宿」の絵があり
        「舞坂・今切真景」
    があります。これは〈信長公記〉の「今切」を出したものです。三ケ日で少し当たってみますと
    ネツト記事「史跡めぐり」によれば
        ○三ケ日人只木遺跡(「人」が入ると余計「保」に近づく)
        ○弥生時代の銅鐸出土地
        ○都筑神社(愛宕山山頂にある)
        ○幡教寺跡
        ○橘神社
    縄文遺跡と聞いていたが、弥生遺跡でもあるようです。弥生土器に縄文が入っているのが
   あるようで、縄文が時代の特徴ならば、弥生は何紋が土器の特長なのか、無紋かなー。
   「都筑」は〈両書〉の
        「都筑蔵人(頭)」〈甫庵信長記〉、「津々木蔵人」〈信長公記〉
    で、「つづき」二人、両方とも超大物でしょうが、「続き」もあり、これは愛宕にも掛かりそうです。
    祭りがあって廃れそうだということですが、神輿を担ぐことだけが祭りでもなくイワレの継承
   が何か形で残ればよいのでしょう。要は太田和泉守がここを材料に史書を書いたという記憶を残そうと
   した人がいたといえそうです。「幡」は「八幡」の「幡」、「橘」は〈甫庵信長記〉の富士ー山部赤人
   田子の浦ー神原ー神原Aときたということになるのでしょう。いみじくも「今切由来」が
        「渡辺弥一郎」〈両書〉
   によって語られましたが「由来」を語らないと駄目なのです。「登呂遺跡」は昔の百科事典では
   「静岡市高松」にあると書かれています。そしたら何故、「高松遺跡」とならないかということです。
   高松山は長篠にあったのでそれと混同するというのなら「西島」でもよいはずです。登呂は表意
   文字でなく発音文字のような感じで少し周りと異質です。多くの人は登呂と呼ばれていたから登呂
   だというでしょうが、それでもよいのです。それなら太田牛一は知っていたはずで知っていた
   ことからスタートできます、また偶然見つかったというのはすこそおかしくなります。土呂八幡
  宮があったから、掘ったら登呂なる文字が出てきたなど何でもよいわけです。静岡はなぜ静岡と
  いうかというようなむつかいいことを聞いているわけではない、戦後発掘して登呂遺跡と名づけた
  のは、どういうことか知りたいだけですが、ネットも沈黙で、皆わかっている、ということです。
  泥、瀞ではないかというのは有りますがこれは登呂があっての解釈に過ぎません。これはわから
  いからしょうがない、文献が頼りないから、というのはありえません。地名索引に
         「土呂」〈信長公記〉
  があり太田牛一は登呂の存在を知っていたといえます。これは「三河国端」「岡崎市福岡町のうち」
   で「土呂八幡宮」があります。郡でいえば「額田郡福岡町」で「土呂城」もあるようです。
   神原右の前に「天神河」、神原左の前に「高天神」がありましたが、ここも「高天神・・・・土呂・・」
   となっています。地名の索引の並びは
      「鳥居峠」「鳥打」鳥打下」「取鳥」「土呂」
   となっていて「鳥」の物話でヒントが語られるかもしれません。 
   安藤広重は「府中宿」で安倍川を描きましたが次の「丸子宿」では「丁子屋」という 
          「とろろ汁の老舗」
    を出してきました。「とろ」は詠まれていました。芭蕉にも「とろろ汁」があり
          「乙州(おとくに)が東武行(とうぶかう)に餞(はなむけ)す
             梅若菜鞠子(まりこ)の宿(しゅく)のとろろ汁 」
    があります。万里の東遊、梅の詩篇を思い出しますが、〈芭蕉全句〉によれば
        「鞠子の宿は東海道宿駅の一つ。駿河国安倍郡にあり、名物とろろ汁で有名であった。」
   となっています。ここは安倍郡とは知らなかったのですが、芭蕉も広重も安倍川のトロをみて
   いたようです。「乙くに」は「乙訓」(おとくに=京都府乙訓郡大山崎町)で「乙」の読み方もみない
   といけないようです。辞書では
      ○「なにがし。名の代わりに用いる」、
      ○「ひとつ。一に通じ、太一・天一を太乙・天乙という。」
      ○つばめ。乙鳥。
   などがあります。某州という意味のものがあるのでしょう。また、先ほどの
        「天乙女、此所に天降りし」〈甫庵信長記〉
   が「乙」です。また乙は燕(ツバメ)を指します。登呂は泥とも取られています。芭蕉に
        「楠辺(くすべ) 
          盃(さかづき)に泥な落としそ むら燕」〈笈日記〉
    があり、「乙」はどこかと考えてここをみると、春秋戦国の「燕(えん)」があります。山東半島
    の北、渤海の北方の地で、諸葛孔明が自らを管仲・楽毅となぞらえたという楽毅がいて南へ
    版図を広げた時期がありました。蕪村に
         「易水にねぶか流れるる寒さかな」
    があり、これが始皇帝暗殺に失敗したケイカの物語の断面ですが、登呂ー燕国という繋がりが
    「泥」一「燕」で表されたといえます。下五「飛ぶ燕」があったようですがこれは「張飛」(飛将軍)
    が「燕」の出身だったと覚えていますので、それによったと思われます。この句は泥と燕の
    組み合わせで「巣」が抜けており訳文では「巣をつくるための泥を運ぶのに」というのが入ってい
    ます。「本巣」(本栖湖)がこの一連の地名のはじめに出てきています。
    また「楠辺」が重要で解説では
        「楠部。古くは布施といい、現在伊勢市内。」
    となっています。要は、伊勢神宮の在る所が昭和30年宇治山田市から伊勢市に代わって
    そのときに「布施」が消えたという意味ではないかと思います。
       「布施藤九郎」〈両書〉(考証:布施公保=伊香氏。近江伊香郡布勢)
      があるので「布施」は残ったほうがよいわけです。余呉湖(伊香郡)に「羽衣伝説」があって
    佐々の地ですから登呂が大田和泉守によって語られているというヒントはあると思いますが
    布施が伊勢にあると、登呂と伊勢が近づいてくることになると思います。
       「江尻の宿に南なる、尾上を越えて久能の城・・・」〈甫庵信長記〉
     がありますがこの尾上(御陵)は伊勢にあり、両方同類かもしれないというのが出てきます。
    伊勢神宮を特別扱いにするとわかることも逃げてしまいそうです。宇治山田市にあったこと
    本稿はじめの和式読み「山田」がくっついていて「山田奉行」「紀伊徳川家」もからんで南紀の
     弥生遺跡や徐福と繋がることにもなります。「宮」が多いということは
          「ウ冠」×(「呂」「呂」「呂」・・・・・)
     というように「呂」が気になってきます。登呂と無縁ではないようです。泥の句では他に
         「重三   青柳の泥にしだるる潮干かな」〈炭俵〉
    がコノ御時也。」

    ががあったので「門呂」の
   意、当然「尼子」
   の「尼」の松原は「泥」−登呂の「原」をみています。「広沢」の「広」は広重を触発した「広」であると
   いえそうですが梁田広正の「広」もありえます。芭蕉は「青柳ー泥ー燕」の句で、柳田を出し、
   これは佐々木岸流(柳)燕返しの秘術の挿話を生む元ともなりえます。上の「佐座喜」は「佐崎」
   で土子の「崎」にもつながるとともに、これは岡崎の上下の佐々木町になっています。「佐」
   これは佐座喜、上呂、下呂の意味合いと同じならば、寺沢広政でも想起の「広」「沢」でも
   あります。「稲麻竹葦」〈甫庵信長記〉もなんとなく登呂の感じがでています。
 
    太田和泉守の
     「秦の始皇帝、倭国に蓬莱の仙嶋有るを聞きて、徐福を遣わし、長生の薬を求めしむ。
      徐福、南紀の金峯に至つて、東舜駿の富士に止る。此等の地を指して以て蓬莱とす。」
                                                    〈甫庵信長記〉
    という文の徐福は、現代でも徐福に関する文献を集めたというもののなかにも入っていませ
   ん。〈魏志倭人伝〉より前の時代のものですが、倭国が徐福と出てきた、〈史記〉を読んだだけ
    では出てこない、〈史記〉の読み方で「倭国」をみて、皆がドッと沸いたというのは容易に
   察せられるところです。前の「蓬莱」と後ろの「蓬莱」は意味が違っていそうです。前は仙島の
   形容詞でこれは日本列島を示していて、後ろの蓬莱は紀伊から伊勢、尾張、駿河あたりの一帯
   をいってそうです。駿河に府中があるので、東国の中心的位置を占めていたという感じがでて
   います。「長生の薬@A」がありお茶を求めた人と、強精薬が欲しかった人がいたのかもしれま
   せん。始皇帝は呂不偉(「イ」なし)が属性なので、山東半島の徐福の家は呂后、呂布、呂蒙
   などの呂氏で姻戚というのでしょうが、重臣を起用して責任の有る事業として植民政策をやっ
   てみたという感じがします。吉野の金峰、と駿河の富士がでていますが太田和泉守のものの
   場合は例ではなく、トータル完結なので参考になるもので、「此等」というのは両端とその間と
   いう意味と思われます。「千の松原」「紀伊国」という語句が甫庵の桶狭間で同時に出てきま
   すがこれは両端を表していそうです。登呂の西端は岡崎でしょう。「呂」というのが
     「宇津宮」「宇津呂」があって「宮」の不完全形で、「七」が出てくるのでやって来た人「徐福」は
   「ジョフク」と同行といえそうです。このことが戦国の久能山の東照宮を家康公と結ぶ操作がでて
   きます。
         「金山駿河(信長公記)
    もそういう「金山」かもしれません。〈信長公記〉索引では
           金森甚七郎
           金山信貞(はじめ「長信」、文中「金山駿河」)
           印牧(かねまき)弥六左衛門(「丹波守美満」か)
           金松久左衛門
           兼松正吉(文中「金松」「金松又四郎」)
    となっておりこの流れに語りがあるようです。ここの「印牧」を「いんぼく」「いんまい」とでも
    読むと「岩室長門守」「印牧・・」「因果居士」となりますが「居士」というのがどうかというのも
    出てきます。登呂の「登」を採った人もおり「明石掃部助全登」があります。

    ここの一節は大変難しい字がでてきており、これは中国の学者に対する挨拶のようなもので
   貴国の文献かく読んだというものでしょう。日本在住の中国の学者もこれをみており、織田の
   宰相だった人の著述だから最大限の配慮がされたはずのものといえます。太田和泉守は
   〈両書〉で、「登呂」と「徐福」と「倭」と「始皇帝」を結び
   つけました。が、縄文から、弥生への移行について、日本ではこのようなパターンがあった
   のかと思わしめるものが的確に出ています。登呂方式とでもいうべきか、これは縄文時代様式
   で生活していた人を、技術指導によって農耕型にきりかえる、生産力を上げ、定住させ、国邑
   にまとめあげる、というやり方で成功したといえるものでしょう。縄文の弥生の違いは、人種が変
   わったというのではなく、権力の馴致によってこの生産様式に慣れた、傘下に組み入れられ
   人とそうでない人に分かれるということや、混血があった緩やかな統治などのことがわかります。

    (84)もう一つの「弥生」
   太田牛一の著述によって弥生時代のことがよくわかりました。弥生時代と縄文時代いうのは
   土器の態様の違いによる時代区分ですが弥生時代にも縄目の模様のものがあるそうで、いま
   は弥生土器というようです。ウイキペデイアでは、
      「明治17年(1884)東京府本郷区向ヶ岡弥生町(東京都文京区弥生)向ヶ岡貝塚で
       はじめて発見された。・・・・発見者は・・・海軍中将・・・有坂紹蔵、理学博士・坪井正五郎、
       白井光太郎・・・・・・場所については東京大学構内の二ヶ所・・特定できていない。」
    となっています。「本郷」というのは「太田本郷」がありますから一応はみないといけないもの
    「向」というのも「日向守」の「向」が付いてまわります。「太田本郷城」はネット記事でも「向城」
    となっています。「向城」といえば尼子の一節に
        「青山の向城(むかひじやう)」〈甫庵信長記〉
    があります。ここでは「陶」がでます。「向井駿河守」「向駿河」もあり、これは坂井左衛門尉
    を表すということでみてきました。
       この向ヶ岡貝塚の所在はわからないということですが、一高寮歌
       「ああ玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし・・・向ヶ岡にそそり立つ五寮の健児・・・」
    は地名があったことは示されていますが「向ヶ岡貝塚」はこのことだけのための「貝塚」であった
    のではないかと思われます。「貝塚」といえば「大森貝塚」が想起されますが、そういう意味の
   ものでは、その後も貝塚なし、それ以前も貝塚と呼ばれる場所はなかった、ということでしょう。
        「貝塚」〈信長公記〉
   があって、地名ですが「貨荻」の一節に繋がっていて和泉がでてきます。
        「八幡・・・若江・・和泉の内香庄・・・貝塚と云ふ所海手・・・舟・・・貝塚へ・・舟・・・香庄
         杉の坊・・・・雑賀・・・・・」〈信長公記〉
   があります。ネット記事によれば「向ヶ岡」はもう一つ福島県の桜の公園があり、ここは
         寺西重次郎
    という寛政のころの名代官の名を偲ぶ公園のようです。ネット記事「小名浜物語」によれば
    寺西は小名浜にも関係があるようで、ここは「貝塚」が有名のようで、寺西を知る人が「向ヶ岡」−
    「貝塚」を引っ付けたという感じもします。おかしいことは記事「弥生町二丁目遺跡」によれば
    次の右側の名前になっており
             有坂紹蔵 →有坂修蔵
             坪井正五郎→坪井又五郎
             白井光太郎→臼井光太郎
    ということで、全部先ほどのものとちがっています。坪井の「又」が光っており坪井氏は
             「坪坂新五郎」〈両書〉
   をみて、似ていると思ったかも。「坪坂井又五郎」もでてきそうです。とにかく名前がここまで
   違ってくると何か操作があることを暗に伝えるものといえます。甫庵には
        弥栄(いやさか)   弥弥(いよいよ)
    などがあったと思いますがなんといっても「弥」は
        弥三郎
    であり、「生」は「牛一」です。即ち太田和泉守に因(ちな)んで本郷の「弥生土器」としたと思われ
    ます。明治17年というと赤穂城が取り壊された年だったと思いますが、このころ太田和泉守
    のことは何もわからないということで行こうと決められていたのかもしれません。学者がこれ
    ではいかんのではないかと、思っていた証拠ともなるところです。「都」にも伊那にも弥生の花
    が咲いています。
    
    (85)貝塚
   遣欧のことに関して、井真成から尼子のくだりの歴史の宝庫のところへ飛びましたが、「貝塚」
   が出てきました。〈信長公記〉の地名索引では
           海津
           海津浦
           貝塚
           海津口
           海東郡 → 尾張国ーーー
   となっていて、何となく「海塚」「海の塚」というのが「貝塚」になった、小名浜の縄文貝塚の記事
   からはそんな感じがしました。それは違うということでいいわけですが、至るところ〈信長公記〉は
   海が出てきて太田和泉守は海の意識過剰ともいえそうです。ここは「貝」からも海を出している
   ところです。「尾張国海東郡」なのに「海東郡」が「尾張国」と切り離されてここに出ています。
   まあ「海」の連続を作るためにこうしたと取れます。「尾張国つきの海東の索引では
       尾張の国        60頁
       尾張国海東郡     65頁
       尾張国海東郡大屋  65頁■
   となっており、同じ頁に二つあるようで、ちょっと65頁を覗いてみますと「火起請」の一節で

      「尾張国海東郡大屋
       という里に、●織田造酒正(カミ)家来甚兵衛・・・一色・・・左介・・・大屋の甚兵衛
      ・・・一色村の左介、甚兵衛・・・女房・・左介・・・一色村の左介・・・当権(たうごん)信長公の乳
      兄弟、池田勝三郎被官・・・左介・・・池田勝三郎衆権威・・・上総介信長・・・信長・・・
      上総介殿・・・左介・・・左介・・」〈信長公記〉

    があります。脚注では「一色村」は「稲沢市片原一色町」のようです。まあ●は織田造酒丞と
   同一ともいえないようでこれを太田イズミ守くらいに考えてみると、また甚兵衛の女房が侵入し
   てきた左介と格闘したので
               (●の子息)甚兵衛
                      ‖女房
                      ‖一色村の左介
                      池田勝三郎A
    のようなことにも纏まるのかもしれません。が、これは■の「大屋」付き海東郡のもので、■の
   上の「大屋」(なし)は65頁にはなくどこにあるのかわかりません。その上の60頁のものが、
   その積りであろうとしますと、ここに

        「勘十郎殿・・・勘十郎殿・・・柴田権六・・・柴田・・・勘十郎殿・・・・御袋様・・柴田権六・
        矢蔵・・・弘冶四年・・・・河尻・青貝・・・・柴田・・・」〈信長公記〉

   が出ています。〈甫庵信長記〉では両方まとめたような
        「武蔵守殿・・・柴田・・・・武蔵守・・・母公・・・河尻青貝・・・池田勝三郎・・」
    があり、お袋様のもと、勘十郎ー柴田 武蔵守ー池田 勘十郎ー武蔵守が錯綜した感じで
   出てきたところに焦点が合わされていたというのが「海東郡」の二つの65頁のことと思われま
   す。ここでは
        「貝」ー「海」ー「磯」−「青貝」
    と
        「権」(「当権」「権威」「権六」「権六」)
    のことがだされていると思われます。尼子の一節では
        「青山三塚山」「青山向城」
    があり、「河尻(青山)」−「青貝」とつなげられていますが、「青貝」ー「青海」でもあり「海」
    へ開いて「磯」が出て「貝」とのつなぎが意識されています。既述の部分ですが、索引の
    教科書になるところと言ってきた「居初」=「磯部」の例で〈信長公記〉の場合でを述べま
    したが〈甫庵信長記〉ではちょっと違っています。再掲、次の左が〈信長公記〉、右が〈甫庵信
    長記〉です
         磯貝新右衛門     磯野丹波守
         磯野丹波守      磯貝新右衛門
         居初又次郎      居初又次郎
                       居初
         伊丹源内       伊丹勘左衛門尉
    上二つの人名の順序が違っており、アイウエオでやっているから、索引では〈信長公記〉が
    合っており、磯野をみてきました。「磯貝もあるよ」というのが甫庵の索引の注意でしょう。
     磯貝は「山中」の「磯貝」で「山中」が属性で「山中」は尼子の一節で出てます。
        「陶五郎隆房・・・山田山中・・・陶五郎天神山・・・・」〈甫庵信長記〉
    もあります。山田で太田もでていそうです。したがって
       「山中」−「貝」−「貝野」−「貝吹」−「貝深」−「高山」ー「山田山中」
       「山中」−「磯貝」−「磯野」−「磯海」
    などになるとともに、これを背景に〈信長公記〉では元亀四年(10年後遣欧船出発)

       「山田山中・・・松原・・・大工岡部又右衛門棟梁・・・舟の長さ三十間・横七間、櫓を
       百挺・・・櫨軸(両方舟篇)・・・矢蔵・・・おびただしき大船上下耳目を驚かす。・・」
 
   があります。「松原」は尼子の一節に出てくるとともに、三ほの松原(登呂)にも繋がります。
     また
       「居染め」−「伊染」−「井染」「染井」「染物」−山中ー高山
    となりえます。索引の接近では「居初」「伊染」ー「伊丹」となっており、「伊丹」は「伊舟」に似て
    います。
        「伊舟」〈信長公記〉
     という表記があって人名でも地名でもないものですが
           「伊舟」−伊船−伊太利向け船
    というのにもなりえます。とにかく天正10年の「遣欧」というのが「本能寺」とともに大変重視
    されて全てがそちらに流れてと
    言う感じです。「磯貝」−「青貝」ー「貝野」は、向ヶ岡の「貝塚」を生んだのかもしれません。
 
   〈日本書紀〉では
       「磐余(いわれ)の池(市磯の池と同じ)を作った。・・・天皇は、●両枝(ふたまた)船を磐余
       の市磯(いちし)の池に浮べた。・・・膳(かしわで)臣余磯(あれし)が酒を献った・・・」
    がありますが「磯部又次郎」の「磯」はここでは「し」と読み、これは「磯城宮」(しきのみや)
    などで、この読み方は知られています。したがって「磯部」を「シブ」とでもみてそれで索引を作
る   ると尾張の武衛、「斯波」氏が出てきます。これで「波」が出てきました。ネットでみますと
    「奥州斯波氏」があり、また索引で「斯波」から「芝山源内」もでてくるのでが気になるところで
    す。500年ころやってきた百済末多王の異母兄の「武寧(むねい)王」はイミナが「斯麻王(しま
    きし)」で、この「島王」の「斯」が、磯部を書くときに想起されてきていることは、〈明智軍記〉が
    「磯部」=居初に目をつけたことでもあり、〈書紀〉をみて
              磯=し=斯
    で斯波氏の「斯」は思い出すことは期待されているのでしょう。ここは
       ●両枝が     今枝弥八
                  令枝弥八(いちえやはち)
                  ‖      ‖
                  両      市
                  二枝    一枝
     のように太田和泉守に利用された感じがするところです。〈甫庵信長記〉索引で「令枝弥八」
     の前後は(右は「今枝弥八」の前後)
                 伊丹
                 伊丹安太夫
                 (同子)松千代           今井宗久
                 令枝弥八  →  →  →    今枝弥八
                 市川大介              今川氏実 
                 一条右衛門大夫          今川孫次郎 
                 一条蔵人
                 市田鹿目助
      のようになっていますが、前に続子の「松千代」が来ている、「同子」というのは「伊丹」だ
     から「伊舟」→「伊船」の松千代となる、うしろは「令枝」は「いちえ」というルビがあるから
     「市川」と「一条」は必然でしょうが「いちえ」と読ませるのがどこから来たか、枝=条もどこから
     来るかということの問題です。
     また「令枝」を「りょうシ」と読むのは、またここに「市磯(いちし)」があるから
                 「令枝(りよう し)」
                 「市磯(いち  し)」
     となって「し」を媒体として「市」(「一」)が出てきたと同時に、枝も「し」とよむというのも「いちえ」
     ルビをつけた段階で出てきたといえそうです。市川の「川」は「江」→「枝」ですがこれは索引
     の二字目の
         「枝」→「川」→「条」
     も「一条」が「一枝」というのも示し、●両枝が二条も表わせるというとこまで利用したといえ
    そうです。
      今枝弥八の上隣が「今井宗久A」で「佐脇藤八(森えびな)」となりますがこれは「今市(令)」
   からきたともいえます。今枝宗久という感覚でみればよく、下の「今川氏真A」「今川孫次郎」の
   「今川」も「今枝」で宛て「森」ということでみればよく、奥州の「遠野孫次郎」が「今枝」と繋がって
   いそうです。もう一つ、ここでいいたいことは
           「膳(かしわで)臣余磯(あれし)」
   は「膳」とルビが違いすぎるので「かしわで」は何語か知らないが発音を書いています。
   一応「余磯」(あれし)もそんなところでしょう。●「両枝」を「ふたまた」と読ませるというルビは
   「また」とか「ふたまた」の意味を広げるとかの役目がある漢字の訓のようなものであるのと違
   います。●は太安万侶が書いている段階で完成されていた述べ方の技法を使ったルビであろう
   と思われます。また「臣」はルビがないので何かのサインととれます。
   のちに雄略記では、これが「日本府」の
           「膳臣(かしわでのおみ)斑鳩(いかるが)」
    という風にかわって「の」「おみ」が入ってきました。「斑鳩」も人名のようです。「日本府」は
    ここで出てくるのがおかしいと脚注に書かれてあり、「日本を意識した時にという意味のもの
    でしょう。そのときに「の」「おみ」とか云うものが入ってきました。前の「臣」はここの「臣」と
    結ぶためにはめ込んだといえます。つまり「かしわで」は異土の人の名前で、斑鳩というのも
    異土の発音で、場所は朝鮮半島の中のものを描いています。太田和泉守が漢字のルビで
         「トクルキ」
    を入れていますがこれは外国語をいれたといえそうです。大津皇子の磐余というのは、ここで
    「余」は「余(あれ)」と読まれているので「磐余」が「いわあれ」、これを発音では「いわれ」と
    なったと思われます。解説がなされつつ次の話しが進められているところ太安万侶の草分け
    時代の苦心が見受けられ所です。講談で戦国期
           斑鳩平次
     という人物がいたのを思い出し、多分加藤二十四将の一人ではないか、と思って検索して
    みますとやはりかなり件数がありました。戦国期以後の昔の人は「山田」と出てきた
         「梶原平次(郎)」〈両書〉
     を想起したものと思われます。いまそれにまつわる話です。

     (86)正権
     「青貝」の「貝」は海につながって、海東の池田勝三郎、柴田権六など係累のヒントとして
    役に立ちましたが、ここで先ほど「当権」「権威」など
         「権」
     が出てきました。わからない「権」がそのままになっているので、気になるものがありました。
     「火起」「当権信長」の一節は
        「刀のさや・・・弓・鑓・道具・・・かねをあかめて・・・かねを焼き・・・かねよくあかめ・・
        焼きたる横斧(金篇あり)(ヨキ)・・」〈信長公記〉
     がるように刀鍛冶を想起させるものですが、「日野長光」から出たもので、
        「正権」
     がありました。再掲
こ        「東馬二郎・たいとう・日野長光・正権・・・・」〈信長公記〉
         「百済寺の鹿・百済寺 の小鹿・たいとう・正権・長光・・・」〈信長公記〉
     のものですが、「たいとう」ー大刀からも出るべくして出てきました。ここの下段の「長光」は、
    よくみると、「日野長光」ではなく
         「長光」
    です。「長光」は「長船」(おさふね)」の「長光」もあり「船」と「たいとう」は結べます。
         「日野の長光・正林・あら鹿面白き相撲を勝ち・・・」〈信長公記〉
    があり、これは蒲生の長光で正林ー山口とつながって、これも航海、「たいとう」に関係しそう
    です
こ  ここに出張ってきた「正権」はわからないだけに、適当に持って来たというものだとされては
   元も子もなくなります。「正権」二文字をつかった語句があるわけです。天正九年、「空海」が
   出てくる記事があり、その師が「権枢僧正」で「正・権」があります。
「 
       「(四)和泉国御領中・・・堀久太郎・・・・槙尾寺(槙尾山施福寺)領是又・・・高山ガガ・・・
        深山・・・生硬敷・・・・・滝・・・・巖石・・・節所・・・・堀久太郎・・・高野山・・・・空海・・・
            ▲岩淵権枢(すう)僧正、
        ●資師相承(シシサウじょう)の契り浅からず、御手習御座(おわします)。
        一字ヲ十字・千字ニ悟(サトリ)、十二歳ノ時
                 スウ
            ▼岩淵ノ権樞僧正
                ★トクルキ
         を御戒ノ師ニテ、槙尾寺ニテ御出家アリ。・・・結願(■けちくわん)ノ暁・・・覚リ玉フ。
          ・・・★★安土御山・・相撲・・・大塚新八・・・二番にたいとう・・・三番に永田刑部少輔
          内うめ・・・堀久太郎・・・堀久太郎・・・滝川左近・・」
                                                     〈信長公記〉
    まず「空海」というのは船に乗っている場合は「これ」しか見えません。広大な海がテーマの一節
    といえます。この船の情景と堀久太郎の組み合わせで、ここが第二回爆竹の一節と結ばれている
    ことがわかります。
      ▲▼の二人の僧正は内容が違います。
        ○枢密院の「すう」の漢字が違う、
        ○「すう」のルビが、ひらかな/カタカナの違いがある。
        ○前者は、周りの文章が、普通の文の中にある、後者はカタカナ混じり文の中にある
    というものです。また●の語句のルビ「シシサウ」はおかしい、周りが普通の文だから。■の
    ルビはカタカナでないとおかしい、周りがカタカナ文だから。つまりルビが決め手となる、両者の
    違いというのが表出されたといえそうです。ここで★が出ました。脚注では
        「トクルキ」の傍訓は樞の字に即してふったもので内容に関係がない。
     とあります。これだと入力がわずらわしい「樞」の字と「枢」の字との違いを指摘したということ
    がこの役割といえそうです。しかしこの左注は湯浅常山の書にもあり、〈日本書紀〉にもありま
    す。   〈日本書紀〉            こくすう
                   「みな鈴、伝符の剋数による。〔養老公式令と同じ〕」
                             きざみ
     があります。この前が
              「およそ郡は四里あれば大郡、・・・・三里を小郡とする。郡司には・・・・・・
              〔以上の凡条、養老戸令・・・に似るが郡の等級はまったくちがう。〕」
      という文があり、この文のある孝徳記は養老期のかなり前であり、そのころは「きざみ」の世界
      だといってるようです。二つの違った背景下の語りがされたものと取れます。後世で
          〈常山奇談〉
                  ほその ごんイ欅             
                  「 細野 權 之介といふ者なり。」
                        イ納又西
     があり、ルビの部分、虫眼鏡でみても「欅」と「納」は確かではなく一番似ているので
    宛てただけです。「欅」はここに書いた「ごん」の字、難しい方の「権」の字とも取れ、その場合は
    「権イ權」としたかったとも取れます。筆者の使っている漢語新辞典では「欅」「權」という二つの漢字
    は並んでいます。多分、〈信長公記〉「権」と違ったむつかしい方の「ごん」を使ったのを意識した
    と思われます。「納」というのも「糸」+「丙」とみえないことはない、
          「吉田平内」=「吉田丙内」
                   「小池吉内
                       丙吉・・・前漢名相・・・(うしのあえぐをとう、の故事)
    というのをみているかもしれません。吉田平内からは「大西」が出てきてここの「西」と繋がり、
    「西」は「正」(せい)でもあります。
    このように左ルビがまれにあり、重要な役目を果たしますが、ここで★は、例えば「テンプラ」と
    外国語を書いたと思われます。すなわち住む世界が違う「岩淵」「僧正」、つまり、ロ−マの
    枢機卿というものをいっていると思います。太田牛一は異土の人物を〈信長公記〉で述べている
    、それがカタカナ混じり文であり、ルビの活用だった、この★「トクルキ」もその一つであった
    といえます。「トクルキ」の続き★★ではまた「たいとう」が出てきました。「帯刀」なら高山が
    でてきます。「大東」ならば先ほどの「大西」が生きてきますが、テキスト人名索引に
          「大東」〈信長公記〉(「北畠衆」)
    があるから、大西も意識されていそうです。しかし「た行」にはなく「お行」(ルビはないが、「おお
    ひがし」)にあるので「帯刀」からは結びつきにくくなっています。ただ「大東」を「おおひがし」で
    やったほうが索引では     大戸丹後守
                        大西(一段下げてある)
                       大野弥五郎
                       大橋
                       大東
     となっているので大西との対比は意識したとみられています。

     そのあとの「永田刑部少輔」は第二回爆竹にあり、そのあとの「うめ」は大村梅庵の「うめ」で
    しょうが、これは第二回爆竹の「矢部善七郎」に対応するもので、堀久太郎も出ています。
    細野権之介というのは日本人というのが判りますが〈日本書紀〉ではどこの人やらわからない
    のが一杯出てきます。
        「忍海部蔵細目(おしぬみべのみやつこほそめ)」、
        「斯波那奴阿比多(しなのあひた)」
        「磐坂市辺押羽(いわさかのいちのへのしは)皇子」
    などはまだ書き落とせますが、例としても漢字が難しくて出せないものがあります。漢字とルビが
   対応しないものもあり、外国語をあてているのかもしれません。異土の人が
    描かれてるから、こうなるのかとも考えられます。要は適当に書いているというのではなさそうで
   す。枢機卿から法王も出るのでしょう。
        

     (87)法王
      鉄砲屋千与四郎の家を賜ったのは伴正林で天正七年
    年齢が「十八・九」ということですが一つを「九歳」ととれば「山口与市」、あと十八、十九の二人
     となると誰かの問題が起こりますが、一族の木村隼人正も考えられます。

       「佐々隼人正」からは「木村隼人正」がでますがこれは先ほどの「佐久間」の「原田与助」
     から出てきます。「佐久間右衛門」も爆竹Aの後半で出てきますからいずれ、また渡航に関連
     して出るはずのものでしょう。山口与市が、明智光秀Bとつながりがあることを示しているのは
    佐々隼人ー木村隼人の隼人の連携です。すなわち木村から山口は
         木村次郎左衛門
         ‖ーーーー山口飛弾守
         山口九郎次郎
    というので出てきますので、
             佐々=隼人正=木村(山口)
   です。六人衆+のもう一人というと「孫七」=「山口太郎兵衛」でしたが、これで山口与市が示され
   ているのかもしれません。つまり山口太郎兵衛B(孫世代)となります。伊東清蔵B=伊東弥三郎
   =佐々隼人正B=山口(木村)が同船したとみました。
     十三歳の山口与市を表わす巷説の「常成」の子息という「常」は、どこからでてくるのかということ
    ですが、これも「森下道祐」(森下道与)の「祐」、「伊東マンシヨ」の祖父とされる日向の伊東
   義祐の「祐」からでしょう。つまり
          「常祐」〈甫庵信長記〉、「油屋常祐」〈信長公記〉
    という表記があって、
       「天王寺屋宗及」「松永弾正」「鐘の絵」「夕閑(法印)」「丹羽五郎左衛門」「堺の浦」
    などを伴って出てきます。この「常」に三成の「成」を付加して「常成」が出てきたと思われます。
     著者は、松永弾正の「鐘の絵」を書いたときは、玉澗八景の「遠寺晩鐘」ー永徳の安土城八景
    を想起していると思われます。鐘はヨーロッパの晩鐘もありますが、そこまでは無理でしょう。
    しかし
        「晩鐘」には「遠寺晩鐘」「煙寺晩鐘」「烟寺晩鐘」
    があって「遠・江」「遠・浦」などの「遠」をひきずっているようです。
     「祐」はまた
        「祐乗坊」〈信長公記〉
    という表記があり、これは「乗る」というものがあり、音でいえば「ゆうじょう」になり、先ほどの
    油屋「常祐」の反対になったもののようですが、多くのものを引き出してきます。
  
       「大文字屋所持・・・・・・祐乗坊・・・・ふじなすび・・・法王寺・・・竹さしやく・・・池上如慶・・
       かぶらなし・・佐野・・・鴈の絵・・・江村・・・」〈信長公記〉

     祐乗坊からもまた法王がでてきたということですが、さらに「大文字屋所持」と「法王寺」、
    「竹さしやく」、「佐野」は、「クハテキ」=夷(えびす)を呼び出します。

          「佐野・・・・佐久間右衛門・惟任日向守・惟住五郎左衛門・・・・・杉の坊・津田太郎
          左衛門、定番・・・若江・・・・・化狄(クハテキ)、天王寺屋の竜雲所持・・・・今井宗久
          ・・・泊・・・宿・・安土・・・八幡御泊・・・・奥州伊達・・・」〈信長公記〉

    これは、風神雷神図を語っている一節ですが、クハテキ=舟形の茶入れというのは既述です。
    祐乗坊の「坊」は「杉の坊」−「太郎左衛門」−「竜雲」−「今井宗久」まで行きそうです。また
    「ふじなすび」ー「つくもなす」ー「千宗易・・・惟高和尚・・・松永弾正」−「絵」ー江村(江孫)
    と繋がっていきます。ここの
         、「池上如慶」
    が重要で「池上」で、「安土城」が出てきて、「如」は「如庵」、「慶」は「光慶」がでるようです。
          「池上留守」〈信長公記〉
    は人名、地名索引にはなく、二回目爆竹にある、「三位中将信忠卿」「永田刑部少輔」と出てき
    ます。天正七年
      「中将信忠卿御取出、古屋野・池上御留守、永田刑部少輔・牧村長兵衛・生駒・・」〈信長公記〉
     の中にあり、「如慶」は「法王」と出くわしたことになるのでしょう。「古屋野」は地名索引では
     9件もあり、「摂州ーー」というのもあります。「摂州古屋野」があるという意味ですが念のため
     そこをみますと
           「▲宇喜多和泉御赦免に付いて、名代として宇喜多与太郎、摂州古屋野まで罷り上
           り▼中将信忠卿へ御礼。」〈信長公記〉
     が出ています。なんと▲▼とも第二回爆竹の一節(後半)に「堀久太郎」「佐久間右衛門」「甚
     九郎」「長谷川竹」などと出でてきます。
     摂州からは高山右近が想起されますが
         「塩河伯耆高山右近一与(くみ)・・・・・山岡対馬一組に仰せ付けられ、古屋野へ・・・・」
                                                〈信長公記〉
     というのがあり、高山ー古屋野の連携があります。これは「池上」に繋がるでしょう。「摂州」
     を出したくて「せっしゅう」と打つと必ず「雪舟」が出てきます。これは太田和泉守の計算であって
     第二回爆竹で「雪」「風」「寒」が出てきて「寒」は「感」に通ずる、すなわち著者の臨場があり
     そうです。とにかく「法王寺」が出ました。

      (88)古屋野
     「古屋野」であと二つだけあげますと、

         「甲賀伴正林・・・・・相撲七番・・・・鉄砲屋与四郎・・・百石・・・・熨斗付(ノシツキ)の
          太刀二つ、御小袖。御馬皆具・・・名誉・・・柴田修理亮・・・中将信忠摂州表・・・・・
          柏原御泊・・・安土・・・堀久太郎相添えられ古屋野・・」〈信長公記〉
 
     あり、伴正林ーーー堀久太郎古屋野に至る流れは爆竹2の記事に還流するものがあるとも
     いえます。
     ここの「柏原」は「柏原鍋兄弟」〈信長公記〉があって、本能寺で
          「祖父江孫・柏原鍋兄弟」〈信長公記〉  
          「柏原鍋丸兄弟、祖父江孫丸」〈甫庵信長記〉
      が出てきます。この「江孫」がここに話が至った原点の一つです。「古屋野」のもう一つは

          「(天正7年)古屋野にて滝川左近所に暫く御逗留。」〈信長公記〉
 
      があります。これは先ほどの「池上御留守」の「留」が入っているところですが、「滝川左近」
      とでました、これからはやはり大船が出ます。

         「勢州の九鬼右馬允に仰せ付けられ大船六艘作リ立て、并に滝川左近大船一艘、
         是は白船に拵へ、順風見計らひ・・・熊野浦・・・・大坂表・・・・堺の津・・・大坂表・・・
         海上の通路・・・・・
         去程に、三位中将信忠、岐阜にて庭子の御鷹四足(ヨモト)御飼(カヒ)生立(ソタテ)
         なされ候。近来の御名誉・・・。御鷹匠山田・広葉両人安土へ、・・・・右の内一足(ヒト
         モト)召し上げられ、残りは中将信忠へ御帰(かへし)なさる。両人・・・・銀子五枚宛
         (づつ)に御服相添へ下さる。・・・・・奥州津軽の南部宮内少輔御鷹五足進上・・・・
         万見仙千代所へ南部召し寄せられ、・・・」〈信長公記〉
  
      滝川左近の前の「并」は「右馬允」を併せて(一つにして)見るということで九鬼に乗った
      太田和泉守でしょう。滝川左近は「左近」でいえば
                  滝川=「左近」=島
      がありますから明智左馬介が考えられます。海軍都督
           「九鬼右馬允」〈両書〉
      は天正2年突然の登場で、天正6年、毛利水軍を打ち破り、信長公に大変褒められますが
      いまでは実在の九鬼嘉隆として理解されています。テキスト人名注では
          「九鬼嘉隆(1541〜1600)天文十年志摩国(三重県)に生まれ、のち信長の水軍の
           将となった。右馬允。この九鬼氏は藤原氏北家熊野別当流。」
     となっています。大名家として残ったから、この辺りで十分となったのかすこし簡単すぎるよう
     ます。関が原で西軍に付き、家康は東軍についた子息守隆の願いを聞きいれて、赦免状を
     送ったが、到着前に内容を悲観的にとって見て自殺した、というやや珍妙な最後が語られて
     いる人物です。この説明の「右馬允」は書かなくてもわかっているわけでウイキ等にある
           「大隅守」
     が抜けているようです。「大隅守」ならば「津田大隅守」「織田大隅守」「大隅守」などが〈両書〉
     にあります。とにかく〈両書〉では赫々たる戦功が書かれており、実存の人物ではないのか
     というのもあるのかもしれません。海軍というのは特殊な能力が必要で、その専門集団を
     味方につけたということが強調されやすいと思いますが、滝川左近は伊勢ですから、海軍の
     能力アップというのは常に関心の有ることで、ここにも勢州の九鬼と書かれています。
       またウイキペデイアでは「宮内少輔」「海賊大名(仇名)」もありますが、前者はここにも
     出てきています。「海賊」というのは村上などの瀬戸内海賊を打ち破ったということになるので  
     しょうか、大田牛一は海賊とは書いていません。天正四年に「御敵は大船八百艘ばかりなり、」
     「西国舟」は勝利して、味方の戦死者が7人
          「まなべ七五三兵衛・・・・沼野大隅守・宮崎・・・・宮崎・・・尼崎小畑・花くまの野口、」
                                                      〈信長公記〉
     挙げられています。ここに「大隅」「花くま」があり、「宮崎」「尼」が出ています。「大隅守」や
     「尼子」の一節にも繋がっています。「花隈」「鼻熊」は池田の属性でしょう。九鬼嘉隆は池田
     とは書かれていません。
     「志摩国」の生まれと書かれており「林志の島」〈甫庵信長記〉 は「林志の島摩」ということ
     にもなりそうです。先ほどの「おびただしき大船上下耳目を驚かす。」というのは上の負け戦
     の三年ほど前の話なので、毛利の大船というのと、この大船がちょっとかみ合わない感じ
     です。いはゆる「九鬼嘉隆」は誰かを含んでいる感じもします。
     
    (89)大船寸法
      日本に来ているヨーロッパ船の記録は大変多く〈クロニック〉では1543
      以来遣欧使節まで30件ほどあり大型船の発着もあります。これらを見ていながら欧州へ行ける
      船を作ってみようというのがなかったのか、という疑問が湧いてきます。天正10年遣欧使
     節は「イグナシオ・デ・リマのナウ船で」〈クロニック〉」とあり、ポルトガルのナウ船ということ
     でしょう。天正6年に毛利を破った、先ほどの
         「勢州の九鬼右馬允に仰せ付けられ、●大船六艘作立て・・滝川左近大船一艘・・白船・」
      とある、この●の大船についてテキスト脚注では
  
        「この新造船は横12.6米、長さ21.6米程で鉄板で装甲してあった。耶蘇会宣教師
        オルガンティノはこれを実見し、ルイス・フロイスに報告している。この甲鉄艦の火力で
        石山本願寺の海上連絡は遮断された。」(奥野高広〈信画と秀吉〉)    

      と書かかれています。
      1454以来、遣欧使節までアジアとの行き来があたのは130ほど載っていますが、せいぜい
       マラッカ、シャムとくらいまで比較的近いところだけの船ということでしょうか。欧州などへは
       行けそうもない船に乗っていた、というのでしょう。この滝川の乗った軍艦白舟はどういう
      ものかよくわかりません。が、この一節は遣欧使節に関係があるものです。つまり滝川左近は
      「古屋野」ーーー伴正林の流れの中から出て来ています。上の滝川大船の記事はまた少し
      後でも出てきます。

        ■「(9月27日)九鬼右馬允大船御覧なさるべきため・・・堺・・・堺南・・・九鬼大船へ
         只一人めされ、御覧あって・・・九鬼右馬允召し寄せられ・・・★千人づつ御扶持仰せ
       付けられ、併に滝川左近白舟上乗仕候犬飼助・渡辺佐内・伊藤孫大夫三人・・・・安見
        新七郎・・・」 〈信長公記〉

       「渡辺左内」は索引では「渡辺宮内少」の次にありますが、ここで白船に三人が乗りました。
      「舟」というのは「敵舟」は建勲神社本では「テキセン」という訓があり、「武者舟」も「兵船」と
      いう脚注があります。
           ★「千人づつ御扶持」〈信長公記〉
     という文言があり、脚注では
        「九鬼嘉隆の抱え人数に対して千人扶持、滝川一益抱え人数に対して千人扶持の意
         であろう。ただし、一益の分も九鬼が指揮したものと思われる。」
      があります。
     九鬼滝川それぞれ千人、だと二千人扶持となり、毛利八百艘がありましたか
   ら扶持する人員は的外れではなさそうですが、七艘の大船、千人、その他の船千人ということ
   で対比するなら、大船の方は
               1000/7=145人
   となり、かなり大型船となるのでしょう。これなら「大鉄砲」が積んであって海賊にも対応できる
   はずです。安土城の建造が天正4年でこのとき毛利の八百余艘の海軍にやられたわけですが
   その後(2年後)毛利との大船の戦い二つあり、一部再掲、天正6年6月

        @「大船六艘・・・・・・・・滝川左近大船一艘、是は白舟に拵へ・・・・・・・・・・
         大船に小船を相添へ・・・大鉄砲一度に放懸け、敵舟余多打ち崩し・・・」〈信長公記〉
   同11月6日
        A「西国舟六百余艘、九鬼右馬允・・・六艘の大船に大鉄砲余多これあり。敵船を
         間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを大鉄砲で打ち崩し・・・」〈信長公記〉
く   
   があります。あの安土城の大工棟梁は岡部又右衛門で、岡部は、元亀4年(天正1年)に大船
   を作りました。城を造る技量がある人は船は造れそうです。
    ■★の記事は、@とBの間に入っており9月のことです。したがって
        @は6月、 七艘 
        ■は9月、 一艘
        Bは11月 六艘
    でこの■の滝川白舟が、特別扱いになっているとみられます。これが遣欧使節の予定の大船と
   となりそうです。伊丹ー伊舟とすれば白舟ー白丹となるのでしょう。これは大分県竹田市久住
   町白丹で、岡城ー臥牛城ー中川氏ー久住(隅)など利用する人も出るかもしれません。

    滝川白舟のことが知りたいのに出ていないのでは、どうしようもありません。●の大船は
                12.6M×21.6M
   ですが、先ほど出た、もう一つ岡部又右衛門の建造したものに櫓百挺
                  7間×30間、
    のものがでています。これでいけば面積では2・5倍規模のものです。これが滝川白舟の規模
    ではないかと思われます。この岡部のものはMに直そうとすると
        7間×1・8M=12・6M
    となるので換算も合っており、二つの連携も見て取れるものです。元亀4年、一部再掲
       「多賀(滋賀県犬上郡多賀町)・山田山中・・・佐和山麓松原・・▲勢利川(せりかわ)通
       り引き下し・・油断なく夜を日に継ぎ・・大船上下耳目を驚かす。」〈信長公記〉
    が信長も監督して国中鍛冶集め、短期間でやってしまったようです。この▲は脚注では
           「芹川」
    ですが、この川は「大分県竹田市」「富山県小矢部市」「石川県能登町」にもあり、何かこれら
    がいうものがあるかもしれません。しかし「伊勢」と結ぶための「勢利」であろうと思われます。
    天正4年に
         「先年・・・作り置かせられ候大船・・・此上は大船入らずの由にて・・・取りほどき早船
         十艘に作りをかせられ・・・」〈信長公記〉
    があり、元亀4年耳目を驚かせた大船は、足利将軍謀反のときに使っただけで解体して早船
   になったということですが、ここは別のことをいていそうです。
    「大船入らず」は「要らず」「入らない」の二つの意味になっている、と思われます。
          取りほどき→十艘に化けた
    という意味で、早船10艘換算のもの、もしくは早船10艘を組み込んだものが大船というの
    かもしれません。

   (90)人員
       ■の記事で数字が揃えられたという感じです。■の記事の一節の後半
          「三・・・四・・・両人・・・一・・・五」という数字がならんでいます。
  
         @「三」は、ここの「犬飼助」「渡辺左内」「伊藤孫大夫」 三人
         A先ほどの庭子の                       四足(三足+特別一足)
         B鷹匠山田広葉                        両人
         C鷹匠に銀子与える                     五枚
         D奥州津軽の南部宮内少輔鷹進上            五足
            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              計                          17+両人ー1
 
         @  伊藤孫大夫     
             犬飼助       
             渡辺左内           三人
 
         A伊東マンシヨ
           千々石ミゲル
           原マルチノ
           中浦ジュリアン          四人
                                   小計七人(〈信長公記〉の「孫七」)
 
         B鷹匠山田    高山右近  メスキータ神父を名乗る 
           広葉       内藤如安  ロウレンソを名乗る
                              両人(2人)

         C公称外国の人(日本の人)   五人

         D外国の人              五人(ロドリゲス含む(ヴァ神父は途中下船)                
  
            合計              十七人+両人               

      と一応宛てられるのではないかと思われます。鷹匠の銀子五枚、南部宮内少輔の鷹五足
      で10をプラスすると、単純に言えば孫七プラス十人で17です。
      鷹師匠2人いるので19になりますが、「両人」というのを「鷹」が共通しているから、Cの内
      数とするのもあり、そうすれば17人となります。これは爆竹の
              8人+7人=15人
      につながるはずのものですが、二人違います。窮地を逃れるために15人をみると二人違う
       かもしれないと見直すのも一つの手です。正確に書かれていて、唯一のルビ付の人物
      「阿閉(あ つぢ)淡路守」は前後回の爆竹でも、同じです。二名違っており
            前回       平野土佐   山岡対馬
            今回       平野土佐守  山岡対馬守
        になっており、一応2名追加
            十七人となります。
     
     ウイキペデイアのものでは
         正使二人ーー伊東マンシヨ・千々岩ミゲル
         副使二人ーー中浦ジュリアン・原マルチノ           四人
  
         外国の人の名前の、日本人(教育係1、印刷見習少年2) 三人
 
         神父など            四人(ただし一人「ロドリゲス」がゴアから乗った)
         神父ヴァリニアーノ      〇・五人(ゴアまで)  

             計            十〇人 プラス一人

     となり、日本人を一人が「二人」と見ているので十七人ということになります。
     織田信長が使節を派遣したとなると、先ほどの九鬼右馬允が乗っていないと安全は期し難い
     ので優先的に入れることでよいのでしょう。一応中間でこうしとくということです。
     全体の人数を書いたものは一切なく〈信長公記〉に下駄を預けられているのでしょう。60人
     とみておきます。

     (91)使節の教育係
     教育係一人いましたので高山・内藤にしました。「鷹山田」、「両人」
      次の「安見新七郎」は、その「七」が、7人に活かされています。また、これは
            「松永弾正・息右衛門父子・・・畠山殿・・・安見新七郎居城交野(カタノ)差し向け、
            松永弾正・・・・」〈信長公記〉
     のように松永に絡んで出てきます。一方
        「安見右近」〈信長公記〉
     があってこれは親子かどうかはわかりませんが、「右近」を受けています。
     ここで高山右近を遣使に入れると直後の本能寺で明滅しますから、そんなこと考えられない
    ということになりますが、あの高山右近は1553の生まれで天正10年では満29になっています
    から15歳くらいの子がいてもおかしくない年齢です。子は高山右近Aとして補佐があれば、
    やっていけます。病死した大津伝十郎という存在もあり、高山ウコンも補佐が可能です。
    子息に、高山新七郎相当の人もいたかも。とにかく出自を捉えただけでその一生をトレース
    してからの話になりますが、キリシタンといえば高山右近ですから、ここに登場してほしいの
    でまた入れないと失礼なので、取り敢えず、はずすわけにはいかないので、ここに
    入れとくことにするということです。本能寺の捉え方にもよりますが、高山右近は、
    中川清秀と同じ行動しています。本能寺のときは高山右近Aが頑張ったともいえそうです。
     ただ武井夕庵と高山右近との差は27歳でもう一人間に入るか、当時の社会では微妙な
    ところです。一応高山右近を10年調整して、1543生まれもあるか、とも考慮してやってきています。

     現地の新聞記事で

           中浦ジュリアン    メスキータ神父     伊東マンシヨ
   
           原マルチノ                     千々石ミゲル

   となっている、絵入りの記事がでますが、これは仮名を使っていて、メスキータ神父のところ
   が高山右近の積りというのではないかと思われます。
    中浦ジュリアンは、内藤如庵の妹に内藤ジュリアという
   イエスズ会の人がいますが、ジュリアとジュリアンが似ているのでジュリアンは内藤ジュリアの
    子息というのかもしれません。
    原マルチノだけが(15?)となっていて、ゴアでラテン語
   の演説をしたという人です。これは高山右近あたりの子息というので高山長房に宛てました
   が、演説がなぜ入ったか、ということも興味があります。内藤如庵が出てくるのは、爆竹の一節
   に矢代勝介が出ており、勝介=内藤=如庵ですが堀久太郎も出ているので、これは
          森蘭丸A(久太郎)
   も考えられます。いずれにしても4人の名前は〈両書〉にはなく
     ○「伊東」と「原」が〈両書〉にあり、「千々石」(「岩」もある)と「中浦」はない
     ○「伊東」と「千々石」は正使で、「原」と「中浦」は副使
   などのことも少し食い違いがありそうです。
    「千々石」の「千」は「千石又一」「千(仙)千代」など「森」系であり、「石」「岩」は「石田」の「石」
   、「石成友通」「岩成主税大属(下津ゴンナイに討たれた)」の「石」「岩」に繋がっていそうです。
   「友」は「高山右近」がテキストでは「重友」で「友」が通じており、高山・内藤をベースに組み立て
   てもよいだろうというのも出てきます。
    まあボツボツと探していくことになりますが、探す過程で出てくるものもたくさん
   ありそうです。海外の資料はみなくてどこまでいけるかです。メスキータ神父は日本に長くいて
   「通訳」ということのようで、親睦の功労者として現地の新聞はこの人を称揚しているととれますが、
   一方で高山右近注目させたいうのがあると思われます。和名「タカイヤマ」というような。
   
    高山右近は「中国因幡国とつとりより高山右近・・・絵図・・」があり「因幡とつとり」が属性ですが
    取鳥に、天正9年、「祐」が出てきます。あの「森下道祐」の出てきた元文が次の文です。
    「祐乗坊」−「天王寺」−「法王寺」などに繋がってきた、日向国主、マンシヨの祖父とされる
   、伊東義祐の「祐」です。

       「因幡国とつ鳥・・・★・続節(ツギフシ)・・●吉川式部少輔・森下道祐・日本介、三大将・・」
                                                       〈信長公記〉
    この文は、高山右近ーーー★続子松千代ーー奥州ー(南部)少輔ーーー森下道祐(道与)
    となって日本(介)が欧州と対置して出てきました。この三大将の「日本介」の索引は
           「日本介 → 奈佐日本介」
    となっています。「奈佐日本介」を引くと、この●の三大将は、二つの注釈書が「日本介」を下ろして
           「吉川経家、森下道与、中村対馬守」
    と書いているようです。爆竹で「山岡対馬守」がありましたから、その「対馬守」だろうと一応
    とれるところです。
    これは「日本介」で人名索引を見る場合、〈信長公記〉では
          「日乗上人」(考証では「朝山日乗」、「日乗朝山」がある由)
     しか「日」の付く人がいません。これを辿ると登場三件いずれも、「村井民部少輔」「村井民部
    丞」「村井長門守」と建物の修理奉行としてでています。そこから「山岡光浄院」がでてきます
    ので「山岡」に意識ありということになります。したがって二回目の爆竹の後半の7人のところ


      「山岡対馬守・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・阿閉淡路守・進藤山城守」
  
    において「山岡対馬守」のところに、(日本)「中村対馬守」を入れてみると「中村」が何かという
    ことになってきます。「中村」は「中村五郎右衛門」という標準的なものがありますが、ここでは
           「中村木工丞」〈両書〉
n    が何故あるのかという観点からみると(「右近」に誘われて出てくることもあり)、これだという
    ものが出てきます。


  (92)中村木工丞
    @〈信長公記〉、A〈甫庵信長記〉の記事では

      @「前波藤右衛門・堀平右衛門・義景右筆の中村木工丞(むくのじやう)、其外宗徒の者、」
      A「右近もココを先途と戦ふ程に、前波(まへは)藤右衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工
        (たくみの)丞など云ふ義景の右筆宗徒の兵ども・・・」

    があり「波」が出ているので海に関係がありそうです。「まえなみ」と読むはずですが甫庵は
   「まえは」とルビを入れています。つまり「波」注目といっていそうです。
    先ほどの「鷹匠」の「山田・広葉」というのは、「山田・広波」とすると、「陸」と「海」という対称も
   感じられます。陸は一面に「田んぼ」、しかし「山」があるが、海は一面、波ばかりです。
    とにかく「山田」は前稿の冒頭にある「山田」で、高山に宛てようとしたわけですが、「広葉」は
   わかりません。「広葉」−「広庭」ならその前の「庭子」の「庭」に繋がり丹羽、二羽にならないか、
   ということで、これなら、「山田」に近づきます。
        「広葉」=「広場」
   でみると〈甫庵信長記〉に「矢場(ルビ=やには)」というのがあるので、これなら「広庭(ひろには)」
   −「広庭」−「広波」にもどります。先ほど「やば」というのが出たとき「耶馬」にしましたが訳本では
        「矢庭」
    となっていました。
    これだと「矢代勝介」の「矢」、「庭子」の「庭」ー「広葉」にも繋がります。まあ、わかりにくい
   ところは、誰にもわからない、いろいろやってみて派生して出てくるものに期待している、と
   いうことでしょう。ピントと外れでもよいようです。適当に書き流したものではないということだけ
    は確かです。ここは「広葉」に人物を宛てればよいので、高山右近に近い、誰か大物を探せば
    よく、わからなければとりあえず保留して、カウントに入れて前に進めばよいだけです。
    三つ出ている「矢代勝介」に炙り出しがありますので、矢代注意、「勝介は内藤」ということで
    「内藤如庵」に始めから見当がつけられるといっても、やはり、飛躍であることは事実です。
    「広葉」をやってきて、出てきたことは「波」だけですがそれでも役に立ちそうです。


     先ほどの中村から大変なものが出ました。
         「右近」ー「右筆」(通常は「祐筆」)ー「木工丞」
    があり、「右近」は、歴史の書き手で、、船大工、岡部又右衛門が想起されるところです。この
    「右近」はストーリーでは「坂井右近」の「右近」ですから太田和泉守も同じことがいえます。
    〈クロニック〉では安土城天主の棟梁岡部又右衛門父子は本能寺で戦死したと書かれています
    が、〈両書〉では
    「岡部又右衛門」は、本能寺戦死者として出てきません。従って戦死したとはいえませんが、
    岡部又右衛門の表記を消した文献があるということでしょう。つまり誰かに宛てるべき表記で
    あるという解釈をしているということです。
          「岡辺又右衛門・同息」〈信長公記〉
    という表記があるので「父子」で登場してくることは案の内であるといえます。つまるところ
    「岡部」は次のようなことになるのではないかと思われます。岡部全表記〈信長公記〉は
          @岡部五郎兵衛    今川大将。桶狭間敗戦で最後に引き上げ万丈の気を吐いた。
                         考証では「元信」とされる。
          A岡部丹後守      徳川戦、高天神城の戦いで戦死。
          B岡部帯刀        同上。 戦死者の羅列AとBの間に、「三浦右近・モト石和泉守
                         森川備前守・・・進藤与兵衛・油比可兵衛などがある。
          C岡辺           長篠の戦いで戦死。考証は「次郎右衛門正綱」(高天神
                         で戦死)の子であろうか(とされている)。
          D岡辺又右衛門     一回「同息」と登場。狩野永徳父子、木村次郎左衛門父子と併記。
          E岡部又右衛門     三回登場。船大工棟梁(大船)、八剣宮造営大工、安土城大工
                          として。

     となっており、従って@の人物が高天神戦で一族で戦死したということが事実の流れとなって
   それがABで出ているといえます。消しが一つ多いから岡部又右衛門+1を入れて、プラマイゼロ
   となります。というよりもB=Eは独自でプラ1、マイナス1で消えます。DはCで消されています。
   したがって本能寺で「岡部又右衛門」の死亡記事は〈両書〉では要らないことになりました。これで
   一つの事実を伝えながら表記が煙のように消えますが、ただでは転ばない、残像が多くを語りはじめ
   めますのでトレースしていけばよいことになります。@は「元信」ですから狩野永徳想起で、B=Eは
   帯刀先生=堀尾茂助、帯刀(後)生=高山右近、というのは一応推定できるところで、Dが
   第一義的には高山右近で、その父子が狩野永徳父子と接近しています。ここの「進藤与兵衛」
   は「実名は未詳」となっていますが「進藤山城守」に「森」色を加えるもので「進藤山城守」は
   第二回爆竹15人のラストで出てきます。索引では
      「神藤(しんどう)右衛門」〈信長公記〉
   の次に出ています。これは既述ですが「神 藤右衛門」でもあります。こうなると先ほどの「前波
   藤右衛門」につながり、ここの「高天神」の岡部にもからみ、「高」+「天神」+「又右衛門」+「大工
   岡部」ー「岡辺」−「永徳父子」などのことが出てきます。地名で「天神」はないかと調べると
   「天神川」「天神馬場」が出ていました。「天神馬場」の下に「摂津国ーー」と書いてありましたので
   「摂津国」を見ますと「摂津国天神の馬場」がありました。「天神馬場」と似て非なりのものです。
    ここからは
        「摂津国天神の馬場・・・▲高槻(タカツキ)・・・天神山・・・あま・・あまにもつなぎの要害
        ・・・●高槻の城主高山右近だいうす門徒・・・伴天連・・・高山・・・伴天連・・・宗門・・・
        伴天連・・・佐久間右衛門・・宮内卿法印・大津伝十郎・・・▼高槻(たかつき)・・・高山・・
         小鳥・・大鳥・・・高槻の城・・高山は伴天連沙弥・・・茨木(イバラキ)・・太田(おほだ)郷・・・
         先陣伊舟・・あま・・・伊丹・・・貝(カイ)野・・道・・南山手・・・あま・・・郡山・・・高山右近」
                                                    〈信長公記〉 
    が出てきます。高山右近とその属性、総登場の一節で、伴天連、高槻、だいうす門徒や、周辺
    の佐久間右衛門、宮内卿法印、大津伝十郎、太田などがギッシリ詰まっているワールドへ
    すぐには出てこない摂津国の索引から行き着きました。〈甫庵信長記〉も同じものが出てきます
    が微妙に違っているところがあります。●は
         「★高山右近将監はデイウス門徒たり、・・・・高山右近・・・」〈甫庵信長記〉
    となっており、★は「左近将監」が影にあり、太田和泉兄弟のことを指していそうですし、●の
    「だいうす」は「デイウス」となっており、これは書き文字からきて、「だいうす」は発音を書いて
    いるとも取れます。●の文の「伴天連」は、甫庵は「バテレン」と書いており、脚注ではこれが
    「オルガンチーノ」という個人に宛てて理解されているようです。バテレンは人名索引にはない
    ないわけでこれは個人かどうかはわからないので仕方がない、オルガンチーノは文中にない
    から索引には載らないのは当然となるのでしょう。然るに〈信長公記〉、伴天連は索引にあり
       「キリスト教宣教師。本書ではヴァリニヤーノを指す。」
     となっています。オルガンチーノもありますのでおそらく太田牛一の載せているものの完成を
     待つというやり方で書いている、つまり
           「伴天連□□□」「バテレン□□□」
     の意味にしたいというのが原文だと思われます。すると太田和泉守というのはここに入らない
    のは確実か、ということにもなります。また、ここの「伴天連沙弥」という「沙弥」も入るではない
    か、ということが出てきます。「沙弥」については脚注があり
         「出家し十戒をたもっている若い男子。ここでは耶蘇教の僧を指す。」
    とあります。筆者はあんまり男女のことはこだわらずに話しているのですが、突然このように
    男子だといって引き戻そうというものが日本史の解説にあるわけです。しかしそれに乗る
    わけにはいかず、ここでは、「ここでは」とあるのに注目したいところです。先ほど「本書では」
    というのがあって「ヴァレンチアーノ」でしたから、別の書では大田和泉守があるのかなという
    ところです。〈信長公記〉は「伴天連」だから「伴正林」と「伴」で繋がり新たな展開
     が期待されますが既述の通りこれは
          「伴(とも)正林」〈信長公記〉(太田牛一はルビを入れていない)
     と読まれて「と」に入れられて、繋げる、関係付ける、ということが妨げられることになっていま
     す。ここでは既述の「伊舟」が出てきています。脚注では「伊丹の間違いであろう。」とされて
     いますが、後ろに「伊丹」があるから、間違いと見るのは合っていそうで、現代では、それで
    通ってしまいます。これはそうではないのではないかという読み方が定着していれば、ズサンな
    年金記録が生ずることもなかった、古人が表記で払った苦心を、引き継ごうとしなかった戦後
    という時代の産物という例ともいえます。。
      「伊丹」−「伊舟」→「伊船」→「伊」向け「大船」があるのではないかといって来ましたが、
    「伊舟」「伊丹」の出るところ、漢字が宛てられていない    
「       「あま」
     が四つもあるのが目につきます。
         「摂津国天神の馬場・・・・高槻(タカツキ)・・・あま・・・あま・・・高槻の城主高山右近
          ・・・高槻(たかつき)・・・・高槻の城・・・伊舟・・・あま・・・・伊丹・・・あま・」〈信長公記〉
     脚注では、この「あま」は「高槻市安満」とされています。ここで「高槻」が
     四つあるのが重要で、
         「▲高槻(タカツキ)」「▼高槻(たかつき)」「●高槻の城主(高山右近)」「高槻の城」
     です。▲が海外の「タカツキ」、つまり「アンマン」です。ウイキペデイアから借用すれば

         「ヨルダンの首都」「イエスが洗礼を受けたとされる地点へ車で45分ほどであるため多くの
         キリスト教徒が訪れる」「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」「七つの丘(ローマ)」

     などローマが想起される地名でもあります。太田和泉守などのローマへの関心と研究から
    得ていた知識は今日の私たちのもつそれを越えていたといえそうです。つまり、ザビエルがきた
    とき太田和泉守は23歳、織田信長が布教を認めたときは43歳その知識の必要が生じて
    いたわけで、ローマへ行くのならついでに安土城の絵を届けてほしい、PRにもなるだろうという
     ようなものではなかった、真剣勝負だったといえます。政治的な主体として二つが激突した
    といえます。太田和泉守は宣教師の波頭を乗り越えてやってきたという情熱といったものに感動
    したとは思いますが、赤井、黒井を出しているのだから、また黒衣の宰相というのは日本でも
   あるのだから、巡察師、宣教師にも赤(軍人)、黒(聖職者)という二面性があることは認識して
    いたので、一言言っておこうというのがあった思われます。まあ、攻めてきたら駄目ですよ、
    海という天然の要害がある、海軍力はこうで、織田信長がいるよ、という牽制はやっておきたい
    というのは本来的なものとしてありそうです。これからいえば船は自前のものでないと駄目
    でしょう。
     一方で、こういう社会だ、というのを知ってもらいたいというのがあったと思われます。
    このため文化使節として出したということですが、学ぶ姿勢を打ち出すため、キリスト教の将来
   にわたっての受容を示すために少年(13歳)の使節をだしたということになるのでしょう。
   とにかく親の気持ちも察してほしいというのか、意表をついたものでおもしろい発想ですが
   なんとなく応募者が多くて絞るのに困ったという感じがします。

    明治初年、岩倉具視はとローマ法王庁を訪れて日本人の知らなかった話を聞いてきて、それか
   らいろいろ遣欧使節のことがわかってきたということですが、知っていたのなら、狩野永徳の絵
   などの贈り物の現存を確認
   して貰いたかったところです。不平等条約が気になるのなら日本のいいところをPRすべきトップ
   政治家が、いろいろ知らない話をありがとうといって帰ってきたのでは困りものです。太閤記を
   読んでいたから知っていたはずでしょう。  
    結局、佐々内蔵介成政の厳冬下、さらさら越えの雪中突破は、ローマを攻略すべくやったカル
   タゴの総大将ハンニバルの事績を、成政に重ね、古今並びなき大将の佐々成政=太田和泉守
   を打ち出したものといいたいところ、太田牛一がハンニバルのことなど知っているということがお
   かしい、宣教師などから聞いたことはあるかもしれないが、ほんとにそんなん聞いたかどうかも
    わからんと言われると反論のしようがないものです。ローマのことなどが日常念頭にあ
   った、研究が深いものでないと政務に差し支えるものだった、というのは戦国期であろうと、明治の
   時代、今日でも同じことでしょう。
   
    それでも使節派遣の狙いというものは要るので、触れたわけですがそんなものももうわかって
    いる、ということになっているのでしょう。天正少年使節の「目的」は実行者が自身で書いているそう
    です。ウイキペデイアから借用。

        「ヴァリニアーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。
        第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を
            依頼すること。
        第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ帰国後にその栄光、偉大さ
            を少年たち自ら語らせることにより、布教に役立てたい
        ということであった。」

   と出ています。これは布教という宣教師の立場から述べた簡にして要点を突いた見事なものと
  いえます。しかし見事に壷を外して述べており、キリスト教も国教になって教えが拡大されたという
   ことであって、織田信長を関与させたいということであったと思われます。ヴァレンチアーノと
   太田和泉守の共同企画といえるものであったのでしょう。太田和泉守は佐々成政と同様に
  ヴァレンチアーノにも乗っていそうです。目的もこういうことにしておこうというもののようです。
   
    「あま」はこういうことで「アンマン」が一つですが「尼崎」の「あま」があります。一ヶ所だけ挙げ
    ますと   
        「あまが崎・・・尼崎・・・・尼崎・・・久左衛門一首
          いくたびも毛利を頼みにありをかやけふ思ひたつ●あまのはごろも」〈信長公記〉  

    があります。脚注には
        『「在岡」と「有り」、「天羽衣」と「尼崎」とをかけてある。』
     とあります。この●の「あま」は索引ではでない「あま」ですが「海部」「海士」「海人」「海女」
    と「海」が出されています。「羽衣」が
           「羽衣石(ウエイシ)近所」「羽衣石(ウエイシ)と云ふ城」〈信長公記〉
    を呼び出します。これは
          「・・南条勘兵衛・小鴨左衛門尉兄弟両人・・・吉川・・・東西・・・因幡・・・山中鹿介
          弟亀井新十郎・・・山中谷合・・・節所・・羽衣石と云ふ城・・・南条勘兵衛・・・・舎兄
          小鴨左衛門尉岩倉・・・吉川・・・馬の山・・・黒部・・・佐々内蔵介・・・・蜷川・・堀久太
          郎・・・・関口岩見・・羽柴筑前守秀吉、羽衣石近所・・・馬之山・・・・吉川元春・・」
                                                   〈信長公記〉  
    という文の中に出てきます。テーマの一つ遣欧使節です。解説では、「羽衣石(うえいし)城」
    というのは「南条城」のこととありますが、本文のルビ(省略)は二つとも「ウエイシ」となっていて
   外国の要塞という感じのものとなっています。爆竹2の一節に
         「雪・・・寒じたる・・・」〈信長公記〉
   というのがあってこの「寒」が「要塞」の「塞」に似ていてあちこちでそれが出て来ます。ここの
   「羽衣石近所」は「羽衣石(ウエイシ)近所に七ヶ日」という文になっておりどこかを指していそう
   でもあります。「羽衣」というのは「羽衣の松」〈信長公記〉があって、その後ろすぐ
        「四海」〈信長公記〉
   が出てきます。「死海」もあるのでしょう。ここの
    「吉川」「吉川元春」「蜷川」「馬の山」「馬之山」は連関しており少し前の、前掲

        「吉川式部少輔・森下道祐・■日本介三大将・・・取鳥・・・取鳥・・・宮部善祥坊・・・」
                                                 〈信長公記〉
    に繋がります。■については一部既述ですが人名注では「奈佐日本介」になっており、

        「因幡守護山名豊国の家人。のち毛利氏に属した。〈安西軍策〉〈江系譜〉には、
        吉川経家、森下道与、中村対馬守の三名が鳥取城に籠り、
            海賊の奈佐日本介、
       塩冶、佐々木が丸山城(鳥取市浜坂)に籠ったという記事がみえる。」

    があります。ここで、「海賊」が出されたのが航海に付き物といえるものの認識をうながしたと
    いうことで、さりげないが、重要です。■を二人、海賊日本介と中村対馬守と見たらどうかと
    〈江系譜〉などの著者はいっています。なぜ「中村対馬守」なのかというのを、問題として取り
    上げてやってみてある程度動機が掴めれば、解釈に漏れを防ぎ、手法の解明に役立てること
    ができます。直感的には、つかみ難いものですから恰好の材料といえそうです。中村(地名)
    +山岡対馬守もありうるかも。

    (93)中村式部少輔一氏
    〈甫庵信長記〉の人名索引から三箇所(三つはつながっていない)
        鳴海助右衛門               ▲中村五郎右衛門尉
        ●(祖父)江五郎右衛門尉        (同)三郎兵衛
                                (同)新兵衛
        梶川弥三郎                 ▼中村式部少輔一氏
        柏原鍋丸兄弟                中村新兵衛
        ★(祖父)江孫丸              中村木工丞
        梶原左衛門尉               永原筑前守
        (続子)松千代丸              長山九郎兵衛尉
        (同名の家子)又右右衛門
   を取り敢えず抜き取りますと、海を伴った●が出てきます。これが★と連携していますが、祖父
   だから「孫」というものが付いて回る、また「江」でも繋がっています。●は▲とも「五郎右衛門」
   で結ばれて「中村」が繋がりかけますが、■の前の「式部少輔」が▼の「中村」を呼び出して
   駄目を押すということになります。とにかくここで「吉川式部少輔」を受けた
       「中村式部少輔一氏」〈甫庵信長記〉
    というフルネームの人物が出てきました。渡辺勘兵衛(主人増田長盛)の前の主人として知られて
   いますが、雑賀などの紀州攻めの大将としても知られています。そういう武将がいたということ
   でここに出てきたというのではないのでしょう。ネット記事では、ほとんどが「中村孫平次」となっ
    おり「孫」の世代「孫七」に繋がることになりそうです。出自はよくわからないようですが、
    〈信長公記〉では出ておらず、フルネームを出している甫庵が責任をもって説明するのかも。
   「紀伊国退治の事」の一節
        「向城・・・帯(おび)き出して・・・木津・・・貝洞塚・・・・塚・・・塚・・・秀吉・・・・深田・・・
        中村式部少輔一氏、堀尾帯刀先生吉晴・・・式部少輔・・・塚・・・●先生吉晴・・秀吉・・」
                                                    〈甫庵信長記〉
    があり、ここに一回限りのフルネームの中村一氏が登場します。この一節は「化狄」の一節、
    「爆竹」の一節がとくに濃厚に反映されたものと取れます。すなわち、人名(50人超)、地名の
    中の共通からも察せられるところです。化狄のところとの繋がりは
      「雑賀表」「土橋平次」「鈴木孫一」「岡崎三郎大夫」「佐野」「佐久間」「惟任日向守」「惟任
      五郎左衛門」「羽柴筑前」「荒木摂津守」「津田太郎左衛門」「杉の坊」「若江」「八幡」・・・
    などが共通となっており、爆竹のところとは
      「堀久太郎」(紀伊国の一節四発あり)、「信忠卿」「北畠中将信雄卿」「織田上野介(守)」
      「佐久間右衛門」「羽柴筑前守」「菅屋九右衛門」「山岡」「丹羽」「信長公」「紀伊国」・・・
    などが共用されています。
     「奥州」は「化荻」の一節に出ていて、爆竹の一節にも出ているから
    また爆竹には「紀州国熊野の奥」もあるから、紀伊国の一節と「化荻」「爆竹」は繋げてみて
    ほしいといっていそうです。またここは「貝塚」の一節で、先ほどの
         「貝洞塚」「塚」「塚」「塚」
    に至るまでに
       「貝塚の城・・・舟・・・海手・・谷の輪口・・・丹和・・・堀久太郎×4・・・羽柴秀吉・・惟住・・
        若宮八幡・・」〈甫庵信長記〉
       「貝塚・・・海・・舟・・貝塚・・舟・・堀久太郎・・堀久太郎・・堀久太郎・・・丹和・・丹和・
       若宮八幡宮・・堀久太郎・・・」〈信長公記〉
    の貝塚からの流れがあります。これは和泉を背景にしており貝塚→太田牛一というものがあり
    ます。ここ●の文で中村一氏は堀尾帯刀だけが身内推定できるものとして出てきています。
    秀吉は太田和泉とみて、秀吉ー●堀尾茂助ー中村一氏の流れをみて一氏は
       堀尾茂助の子息、 太田和泉守の孫相当
    としてみると、どうかということになります。符合できる資料があるか、ということもありますが
    何もなくても、堀尾茂助の子息ととるのが一応妥当となるのでしょう。また
       ○「塚」は、塚本小大膳、大塚又一郎、名塚(長束正家)などからみると金助相当とも
       ○一氏の「一」は一応「一郎」の「一」だから一番上とも取れる
       ○堀尾氏は忠氏が跡を継いでおり、一氏の氏と氏が繋がる
   があり、これが中村式部少輔一氏の位置となります。一方先ほどの甫庵の索引では

      中村五郎右衛門 (「中村」「中村の郷」は「山口左馬助」の属性で「森」。「秀吉」の属性。)
      (同)三郎兵衛尉 (「丸毛」「滝川」「狩野」の「三郎兵衛」想起)
      (同)新兵衛 ({金松又四郎}に討たれる。)(★「長嶋大乗坊」とセットで登場)
      ■中村式部少輔一氏 (これは〈信長公記〉になく上の「中村新兵衛」を説明するもの)
      中村新兵衛 (「松永」に討たれた「鑓中村」、有名な大将で太田和泉守が乗っている)
      中村木工丞 (「前波藤右衛門」「堀平右衛門」とセット、「右筆」)

   となっており、■は二人の「中村新兵衛」に挟まれ「中村新兵衛B」ともいえます。この
    「新兵衛B」は吉川「式部少輔」(吉川は駿河守とみてよい)、に繋がりこれは
         「吉川式部少輔・森下道祐・日本介三大将」〈信長公記〉
    が鳥取城に籠城しました。考証では日本介は「奈佐日本介」となっており、類書では日本介は
    「中村対馬守」となっていることは既述です。鳥取城にこの三人、丸山城に「海賊」の
        「奈佐日本介、塩冶、佐々木」
    が篭もったという記事も〈テキスト〉人名注にありました。ここで「中村新兵衛B」の周辺に
    「海賊」「日本」「式部少輔」など出た上に、堀尾帯刀先生、貝塚、中村一氏などが出た紀伊国
    退治の一節が爆竹の一節と蜜度濃く繋がっています。つまりローマ行きのメンバーに、この
         「中村新兵衛B」=■
   が入ります。「紀伊国」=「奇異の国」ともなるのかもしれません。海賊が襲ってきても問題ない
   最善の対策が講じられておらねばならず、九鬼の操船、大鉄砲のほかに、個闘にも強い、強力
   な戦闘指揮官がいります。これが■の実存名
         「宮本兵大夫」=後藤又兵衛A=宮本武蔵@
    と考えられます。船員は伊勢、熊野の毛利との会戦で勝利した面々だからが安心できる戦
   闘力はあるでしょうが、念には念を入れてというものがあったのでしょう。★が問題のものです。
     元亀4年〈信長公記〉
     「・・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛{金松又四郎これを討取る}
     ▲長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・・・・」〈信長公記〉
  
   で「金松」と「中村新兵衛」が大接近しています。一応この中村は太田和泉守と取れる、金松は
   あの兼松正吉でしょうが、金松が細字だからもう一人の金松があるかも。もしくは中村新兵衛A
   もありうると思われます。そうすれば中村新兵衛Bにも近づいてきます。とにかく▲が次の▼に
   変えられました。
     同じく〈甫庵信長記〉
     「伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、(同)三郎兵衛尉、(同)新兵衛、▼長崎大乗坊、和田九
     郎右衛門、和田清左衛門、・・・・・金松又四郎・・生足・・生足・・足半・・足半・・勇気弥付き・」
                                                     〈甫庵信長記〉 
   があり、また新顔の「(同)新兵衛」がでてきて、新兵衛Bが登場してきました。また
            ▲長嶋大乗坊
            ▼長崎大乗坊
  という苦心が払われており、この人物が「長崎」から船に乗ったわけです。大田の「坊」でしょう。
   ウイキペデイアでは遣欧使のスタートは
        「1582年2月20日(天正10年旧暦1月28日長崎港出航。」
  と書いてあります。
   第二回爆竹が正月15日です。信長は若州小浜に南蛮船の出入りをさせていたので始発は
  ここで、太田本郷に港湾を管掌する役所があったのでしょう。矢部善七郎と親戚の本郷信富の
  領地で、斎藤新五を接近させています。
    ▲で「長嶋」が出ていますが、「尾張国河内長嶋」のところは、船、嶋、人名、地名、がたくさん
    出てきて、岩手川など「大河」を10個、「南は海上漫々」など海、舟に関わりのあるものを出して
 
       「九鬼右馬允あたけ舟(軍用の大船)、滝川左近・伊藤三丞・・是等もあたけ舟、嶋田
       ・・・囲う舟・・・浦々の舟・・・大船・・・舟数百艘・・・海上所なく・・・勢州の舟大船数百艘
       海上所なく・・・大鉄砲・・・」〈信長公記〉巻七(九節)のうち

  などのことを書いています。一揆のあったという長嶋の地形がよくわからないりませんので何ともいえま
  せんが大船数百艘、海上所なくなどというのがちょっと大きすぎる感じです。長崎港とか若狭湾の
   情景ならばわからないことでもないという感じがするものです。これは違うだろうというのでも
  よいのですが、巻七の(天正2年)(九節)は多目的なものがありそうです。

      @はじめに「岩手川・・・木曾川・養老の滝」など「大河」9+「養老の滝」で10
      A織田の四人、信長公、織田彦七、信長、織田管九郎
      B御伴衆など二十四人
      C信長公一人
      D先陣十七人+七人=二十四人
      E信長一人
      F地名に似た二十四人(例:蟹江・あらこ・熱田、大高・木多・寺本・大野・とこなべ・野間
          内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃の津・楠・ほそくみ・国司お茶筅公・・大東・・・・)
      G9+4+2+3+3+3=二十四人
      H長嶋本坊主
 
    となっていて森二十四人になぞらえた24人というのが登場のベースになっています。Hは
    人名と思いますが索引では、  中嶋豊後守(前は中嶋将監)
                        長嶋大乗坊(先ほどの▲)
                        長嶋本坊主
                     ★★中嶋又二郎(以下中条将監から中条又兵衛に至る)
    となっていますから一応人名とみなしますと、「本坊主」が、既述の
         「中村新兵衛、{金松又四郎討ち取る}、▲、和田九郎右衛門・・」
     の並びをここに持ち込むということに
    なります。「中嶋」「中条」の将監となると太田和泉守ですから、いずれかの時点で太田和泉
    守が長崎を出たということになりそうです。既述ですが、忘れないように確認しますと、
     使節が五年後ゴアに帰ってきたら、ヴァレンチアーノが まだそこにいて再会を喜んだという
    ことですが、これは太田和泉守が迎えに出たとみてよさそうです。
    その年秀吉の伴天連追放令がでて帰れなく
    なり二年ほど一行は足止めを食らったということです。そのときヴァレンチアーノが凄腕を発揮し
    インド国王の協力のお陰で帰れたということですが、少し腑に落ちないことです。ヴァ氏よろし
    く頼むといってみていたとは考えにくく、仮に今理解されている大友宗麟、大村純忠などの私的
    な使節だったとしても(政権の別面の動きがあって)出向いてやっているはずです。
   天正18年(1590)旧暦6月20日使節団が帰国しましたが、秀吉は半年後歓待しています。
   後年朝鮮役のときなど太田和泉守の渡海は普通のことと思われます。遣欧とここの二十四人
    と関係があるかということですが、★★の人物も清水又十郎と出てくるので人数は関係が
    ありそうです。第二回爆竹、正月十五日一節の登場人物は
        北方東8人、南方7人で15人
        菅谷・堀・長谷川・矢部  4人、 織田信忠・信雄・織田源五・織田上野守信兼  4人
        矢代勝介  1人  信長公1人   (あいまい「仁田」)
   で24人+信長公1、となります。「養老の滝」のあいまいさが「仁田」「長嶋本坊主」にあり、これは
   別の意図のものとみますと、両方24人の一節と、爆竹の一節は相関があり「長崎」に関係づけられ
   れています。こうなれば、Eの信長1人が炙り出された感じがあります。「信長」と「信長公」の
   区別の問題です。ここでいいたかったことは、元亀元年、霜月廿五日

          「★前波藤右衛門・堀平右衛門・義景右筆(いうひつ)中村木工丞、」〈信長公記〉
   の三人連記が    ↓       ↓                 ↓
              宮本兵大夫   堀久太郎A       太田和泉守
   となる、ローマ行き長崎乗船のメンバーに入るかも、ということが一つです。★が前田又左の
   藤八に似ているという単純なものです。もう一つは、この背景には先ほどの長嶋に繋がるもの
   があるということです。同節の霜月の4日間の記事に★の記事があるわけですが

        「霜月十六日、丹羽五郎左衛門奉行・・・鉄綱(カナツナ)丈夫に・・・勢田に舟橋・・・
        往還タヤスキ(車+取)様・・・・信長公の舎弟織田彦七尾州の内こきゑ村に足懸り拵へ
        、御居城の処に、志賀御陣に御手塞がりの様躰見及び申し、▲長嶋より一揆蜂起せし
        め、取り懸け、日を逐ひ攻め申し候。▼既に城内へ攻め込むなり。
        一揆の手にかかり候ては無念・・・・・御天主へ・・織田彦七御腹めされ・・・(★の三人)・
        ・・坂井右近・浦野源八父子・・・寒天・・・朝倉・・・霜月晦日・・・・三井寺・・・」〈信長公記〉
  
  こういう文のなかにあります
   ここで織田彦七が二つ出て、先ほどの長嶋でもこの人物は二つでました。ここは「こきゑ村」がで
  ていますが、これが長嶋の「小木江村」と繋がって九鬼の大船が絡んでくるわけです。小木江村
  が「おきえ村」と読まれていますから索引では結びつきません。これは既述ですが忘れておれば
  ここでは使えません。本文にルビがないから両方に入れとかないかん、ということになります。
   ここで「信長公の御舎弟」がでました。三郎信長公の御舎弟は、御舎弟勘十郎公になりますが
  信長公の御舎弟は「御舎弟織田彦七」と「織田彦七」があるといっていそうです。
  ▲の主語がわからないわけです。これは森三左衛門が戦死したあとのことですが同年です。
  このときも、そこ(志賀)の様子を見ながらやっていますので、あの時も同じ目論見があったよう
  です。森を殺そうとした坂井孫八郎が登場している感じです。要は、一揆を唆(そその)かせて叛乱の起こさせて
  織田を奔走させて、結果大軍を投入させて殲滅させるわけです。こうはいっても、そうだということ
  にはならないので困るところですが、紀伊国退治の一節では汚い言葉を使っています。
     「一揆の奴原」「一揆の奴原」「一揆の者ども」「一揆の奴原」
   があり、「長島本坊主」のところ「一揆」の洪水ですが、ここにも次の文があり、

        「八月二日の夜、以っての外風雨候。其の紛れに、大鳥居籠城の奴原夜中にわき出で
        退散候を、男女千ばかり切り捨てられ候。」〈信長公記〉

   があり、奴原がでています。この文、主語がなく、やむなく信長公が成敗したような読みとなって
   います。これは男女千ばかりが切られたという状況の説明でしょう。
   日本語として成り立たせるためには、
     「其の紛れに大鳥居籠城の男女退散候を、奴原夜中にわき出で、千ばかり切られ候。」
   となるのでしょう。どっちの味方かわからない、家康公は織田信長の脅威を吹聴し、不穏な空気
   を醸成し、人的物的な応援をするということをして霍乱してきます。中村木工丞が
       「義景右筆」
   ということでしたので「右筆」は太田牛一の匂い、「右」は「祐」があり、
       「大文字屋・・・祐乗坊・・・法王寺・・・」〈信長公記〉
   の「祐」は、ここで一つ「乗坊」を生み「長崎大乗坊」→「法王(寺)」へのスタートの情景があるの
   でしょう。「義景」はテキスト人名注では
        義景 → 朝倉義景 (朝倉 → 朝倉義景 もある)
    となっており、「よ」と「あ」を使うというのが一つありそうですが、指示により「朝倉義景」をみる
   と、文中では「朝倉 12頁」「朝倉左京大夫義景 8頁」「義景 4頁」の三つがあることがわかり
   ます。注の内容は
          「はじめ延景。天文21年6月から義景。朝倉氏五代目。越前一乗谷(福井県足
          羽郡足羽町) 城主。(〈福井県史〉)。左京大夫。※81・135・156・158・159・
            165
          朝倉  84・・・・・(ほか11ページ)・・・
          朝倉左京大夫義景 81・・155・156・・(ほか5ページ合計●8頁)
          義景 121・・・・・(ほか3ページ)・・・・・」
  となっています。
   まず●のことが解せません。「維任日向守光秀」「大石源蔵氏直」は一回だけ「太田和泉守牛一」
  に至っては〈甫庵信長記〉一回だけという中で、フルネームが多すぎます。よくみると155は
  間違っており、「朝倉左京大夫」が二つありました。156は、一つフルネーム、一つ「朝倉左京
  大夫」でした。要は二つあるわけですが、それは、はじめから書いてあって、(福井県史)の右
  から改行すれば、※の部分からは「朝倉左京大夫」のページ数というのが、隠されていたという
  ことになります。したがって何故こうなっているか見ないといけないということです。ここでは
  別のことをいうつもりですが、一つあげれば 
       ○フルネームが多いこと。
  に注意をうながされているというのがあると思います。外にこういう例があれば、このことも崩れます
  すが例外があります。「武田四郎勝頼」が何回も出てきて前稿の「武田太郎」との間に織り成される
  フルネームの三発で
        「武田四郎勝頼・武田太郎信勝・長坂釣竿・・・」〈信長公記〉
        「武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣竿・・・」〈同上〉
        「武田四郎勝頼・同太郎信勝・武田典厩・・・・」〈同上〉
   があり一方で、武田太郎として
        「武田四郎・同太郎・武田典厩・仁科五郎」 「武田四郎父子・典厩」
        「武田四郎勝頼父子・典厩」 「武田太郎齢は十六歳さすが歴々の事なれば、容顔美麗、膚
        は白雪のごとくうつうしき事、余仁に勝、見る人あつと感じつつ心を懸けぬはなかりけり。」
   があります。ここの武田太郎の属性は前稿の織田の「喜六郎殿」の表現に似ています。索引では
        喜六郎 → 織田秀孝・寺崎喜六郎
   となっており、あわせて寺崎をみたらどうかという親切なヒントがでています。ここの「典厩」と
   いうのはテキストでは、「武田信豊」いう人物で
        「左馬助。信玄の弟信繁(川中島戦死)の子。典厩とよばれた。信濃小諸城主。」
   なっています。
っ   朝倉義景に関してはここに「延景」と「義景」があって別人とすると、朝倉六代、となり、
4  そうです。索引では「朝倉義景」の次は
        「朝倉義景母」〈信長公記〉
   であり、注は「若狭守護武田信豊の女。越前守護朝倉孝景の妻。(文中では)義景の母儀」
  となっています。これでみれば
        朝倉孝景(4代)ーーー太郎延景ーーーー義景(5代)
                     (武田氏後見)
  というのではないかというのが、武田氏から見えてきそうです。要は似ているというのがフル
  ネームを出してきた意味ではないかと思われます。つまり武田は
        武田信玄ーーーーー太郎義信ーーーー太郎信勝
                     (武田勝頼後見)
  という孫相続でまじめに伝統を守っているということかも。この場合の武田太郎の「太郎」は義信
  の太郎の引継ぎともいえそうです。
        義景母儀父武田氏=信豊=武田典厩
  というのも二つ並べてみたらどうかいっている、ととれるところでもあります。これらは既に読まれ
  ているなら教えてほしいというだけのことです。
   
    (94)朝倉で「奴原」
    ※の81頁のところ、「朝倉左京大夫」が出ていることになってますが、これは「朝倉左京大夫
    義景」のところに81頁があるようにフルネームの方が正解で、「左京大夫」の朝倉は81頁に
    はありません。なぜこうなっているかの疑問がでるところです。81頁の義景が出ている部分は

        「(四十五)一、@公方一乗院殿、A佐々木承禎・・・・B朝倉左京大夫義景・・・御入洛の
        御沙汰中々これなし。上総介信長(にたのみたい旨)細川兵部太輔・和田伊賀守を
        以て上意候。」〈信長公記〉
   
   の一文ですが、@の人(足利将軍)が上洛したくてAに協力を打診し駄目だったので、Bに協力
   を求めたが、返事がないので、信長に頼みたいと細川などにいってきたというよく知られた部分
   です。@が脚注では
       「足利義秋。のち義昭」
   ということでこれが問題で、「秋」→「詮」→「全」→「膳」→「善」ですから@は義昭がいまでいう
   連れ合いと一緒になった表記です。つまり@は
          「(朝倉)左京大夫(義昭)」
   というものになる「朝倉左京大夫」を出したかったと思われます。「左京」は「服部左京助(進)」
   の「左京」と同じ働きをしているといえます。義景の一乗とここの一乗院とを繋げてみると
          足利義昭
          ‖足利(朝倉左京大夫)義秋
          朝倉左京大夫義景
   となっていそうです。上洛の震源は義秋ー細川の兵部であったといえるのでしょう。「宮本兵
   大夫の「兵」とか「大夫」や「猪子兵介」の「兵」などが利いてきています。
   なお佐々木承禎も「佐々木左京大夫承禎」です。この朝倉左京大夫のでているところに
         「奴原」
    が出てきます。これは「紀伊国退治」「長嶋」の陣のところで出てきました。また
          「義景右筆の中村木工丞、」
    の朝倉義景が「朝倉左京大夫」を通して「奴原」につがります。「中村」近辺一部再掲
        
      「志賀・・・佐々木承禎・・・・鉄綱(カナツチ)・・・舟橋・・・・往還・・・信長公の御舎弟織田
      彦七・・・・こきゑ村・・志賀・・・・長嶋・・・既に城内へ攻め込むなり。・・・御天主・・・織田
      彦七・・佐々木承禎・・・坂井右近・・・・前波藤右衛門・堀平右衛門・義景右筆の中村木工
      丞・・・浦野源八・・・寒天・・・公方様・・・朝倉・・・三井寺・・・公方様・・是非なき題目・・」
                                                   〈信長公記〉
   があり「公方」「佐々木」「朝倉」「義景」が「こきゑ村」「長嶋」ー九鬼の大船、海につながってい
   ます。ここの「鉄綱ー舟橋ー往還」は航海の船同士、陸とのつなぎ、渡りとするものでしょう。
   ときに僚船の傭船もあるのかも。天主はキリスト教の意味もあります。
     信長公の御舎弟が問題です。それと関連して、「既に・・・攻め込む」というのが本能寺の
        「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。・・・如何なる者
        の企ぞ・・森乱申す様に、明智が者と見え申候・・・是非に及ばずと上意候。」〈信長公記〉
   の有名な場面の「既に」を思い出すものです。「信長公」「是非」なども繋がって、主語を炙り出す
   ことになっていそうです。この朝倉義景を受けて、「奴原」の出る重要な一節がでてきます。
   
        「府中竜門寺・・・朝倉左京大夫義景・・一乗の谷・・・義景・・氏家左京助・一揆共竜門寺
         御大将陣へ括縛り召列れ参り・・・際限なく討たさせられ、目も当てられざる様躰なり。
         ココに・・●けたかきかとある人と見えたる女房(にょうばう)の、下女(げじよ)もつれ
         候はで、唯一人これあるをさがし出し、五三日いたらぬ奴原止め置き候処に、或る時
         ・・・はな帋の端に書置きして、たばかり出て、井土(ゐど)へ身をなげ果てられ候。後に
         人々是を見れば此哥なり。
            ありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月
         と一首を書置き、此の世の名残是までなり。・・朝倉左京大夫義景遁れ難き様躰なり。」
                                                   〈信長公記〉
    ここは●の人の投身自殺があり、前の稿で既述の部分です。●が脚注では「上流の女性」
   とあり、それに添って朝倉義景とみてきたものですが、これもこの社会ということで出てきた引き当
   てです。この際女房は「竜文寺」、三つの「左京(大夫)」「一」「五三=8」「奴原」などにより、
   「女房」の意味がかわるのかも、というのも出てきます。見聞きしたというものの記録ではないので
   一応「義秋」かというのもでてきます。「井戸」のはずが「井土」であり
       「井土才介」〈甫庵信長記〉
、  が想起されますが、「才」は沢村など「才八」が有名なので、ここでも「八」がありそうです。ただ
   「井土」とされると、また芭蕉にもある(「欠」なしの)「此歌」も出されると、何となく
   この身投げ事件に作品という面が感じられるところです。義景の死に付いてもはめ込んでみない
   といけないわけですが、〈甫庵信長記〉では関係者として
     「(朝倉)式部大輔(景鏡)」が絡むもの1回、「高橋甚三郎」が絡むもの1回、計二回
   亡くなっていて、〈信長公記〉では一回の事件にまとめてあります。(景鏡)は忠臣扱いになって
   いることは既述で、義景の死はないわけで義景生きで、後者の死は公方一乗院の左京大夫の
    方ではないかと思われます。●は脚注どおり女性と読みたい
   ところもあります。「歌」(「欠」なし)があり、「端」と「は」があり、「帋」も「紙」があるのでしょうから
   両様に取れるといえないこともない、詮索が及ばないように噂を流した内容が●でしょう。脚注
   では秀吉が自筆消息を伝えて「女房」を「にうほう」「ねうほう」と書いているということですが、
   カタカナでないから女性扱いとなっていて、それでいて二人を出しているという感じです。家康
   公も手強い方の人を葬ったら安心なのでしょう。

    こういえるのは●の文に遊びがあるといえるかどうかにありますが、奴原に
         ○信長公の舎弟の彦七の影を持たせた、捕虜の惨殺の場面なので。
         ○五三日「いたらぬ奴原」というのは「下賎なものたち。」というのが脚注にあり、
          いたらぬ、と、奴原がダブっている。「五三日たらず、奴原・・」というのもありうる。
          「五三」は東海道五三次の五三の元と思われる。甲賀五三家も同じようなもの
          といえそうで「日」で表したと思われる。東海道=西海道で、桶狭間で「海道」があり
          本能寺で「皆道」がある、海の道というのは、どっかでブリ返される、そのもとが太田
          牛一にもある。五三は奴原とセットになっており、五三+孫七=六十人というのが
          ひょっとして乗船総数だったかもしれない。
         ○一方「奴」というのは辞書にあるような、軽蔑的な意味だけとは限らず、辞書に載って
          いない歴史的なものもあると思われる。「奴」は「奴(ぬ)国」「奴(な)国」の「奴」も
          ある。太田牛一は「倭」を使っており、「奴」もどこかで出るはずで、その「奴」が
「         ここの「奴原」で出た
    などが考えられます。「紀伊国退治」の「一揆の奴原」から渡海ー太田和泉守語る黒田の動きが
    あったのかもしれません。
 
   (95)金印の「奴」「井土」
    「奴原」が外国(異土)の海原、平原というものがないか、ということもあります。「志賀」が先ほ
   ど出てきましたが、これは〈信長公記〉森三左衛門の戦死の場面から連続した一節で
        「宇佐・・宇佐・・・志賀・・・宇佐・・・志賀・・・志賀・・・」(「志賀」は11個ほどある)
    と続いてきたあとの志賀ですが、ここ「奴原」の出た朝倉義景のくだりで「井土」も出され、
    〈甫庵信長記〉森三左衛門戦死のくだりでは前に「井土才介」、後ろに「一揆原」が出ています。
    「井土」なら「伊都」「委奴」「伊奴」「怡土」などもでてきます。
     金印の出た「志賀島」は太田牛一の著述にあり、金印は「漢委奴国王」ですが「いと」となる
    「伊土(奴)国」もあり、太田和泉守の「井土」ー「伊土」つなごうかとした連中がいるのかも。
        「倭」を「イ」+「委」に分解して「委」にしても「倭」と取れる
    というのは、ここの朝倉義景の「歌」(欠なし)もそうで、「イ」でいえば「併合」の「併」の(「イ」なし)
   「并」が使われ、これらの場合は同じといっても意味がありげとなっています。嶋がよく使われて
   〈両書〉で「島」「嶋」があり「嶋」は辞書では「島」に同じと書いてあって、知りたいこと「とう」と
    読むのかというのがわかりません。「嶋」はなんとなく山プラス島と思いますが、よくみると
          山プラス鳥(とり)
    です。したがって音では島は「とう」だが、嶋は「ちょう」が理屈では合って
    いそうです。倭と委は両方「い」と読むようで、人偏のもので「人偏」なしと人偏ありが同じ発音
    というのは珍しく、中国でも「委」と「倭」は互換的、「委」は、たおやかな女性ということですから
    政治的な「倭」のもとは「委」であったのかもしれない、ということも考えられます。「委奴」という
    印が後年、中国江蘇で出てきたからこの金印が中国製だということですが、中国の人も魏志
    倭人伝の解説をしようというものがあるから、一概にそうとは限らないと思われます。要は
    〈魏志倭人伝〉〈日本書紀〉から「倭」「いと国」「奴」、〈後漢書〉の「倭奴国」などは最も引っ掛
    けやすい語句が並んでおり
   後世の識者が独創的に考案しうる引っ掛けに適する材料(語句)が揃っています。どう読もうと
   漢が一番上、はじめにあり 九州北岸は漢の支配が及んでいたというのは明らかでそれを、
   示そう、倭人伝の読み方のヒントを与えようというのは一つありそうです。次の記事は神功皇后
   の三韓征伐の記事ですが、「倭」違いのためか、中国と今の日本が逆に取られわからないように
   なっています。要は大き倭の神功皇后です。それはともかく、金印の話の大きな狙いは後藤
   又兵衛Aのローマ航海の参加のことを黒田ぐるみ、語っておこうということと思われます。
   太田和泉守にもそのことがあって志賀ー奴ー山中ー中村ー紀伊国ー雑賀孫一などが出ました。
 
       A、志賀島の記事(たいかうさまくんき)前の稿で一部既述、
        「・・じんぐうくわうごう(神功皇后)・・・しんら、百さい、かうらい、三か月のうちに、御ほんい
        い・・・えんき三くはん、うつしゑに、かきつけさせ、ちくせんの国、なかのこうり、しかの
        しま、きちしやうじに、おさめおかせられ・・・たいこうひてよしこう、につとう(入唐)・・・
        しかのしま、きちしやうじ、みやじ(不明)、せうこうそうとう(不明)、みきのゑんき・・・
        山中きちない・・」
     で、那珂郡、志賀の嶋、吉祥寺、山中吉内、「三かん」「うつしゑ」「書きつけ」が出ています。
     「きんきん、はひれう(金々拝領)」もあります。

      B、ウイキペデイアなどのネット記事
        関係者  「甚兵衛」「秀治」「喜平」「秀次」「(庄屋)武蔵」「吉三」「勘蔵」
              「仙崖和尚」「亀井南冥」「策彦周良」「黒田治之」「上田秋成」「伴信友」ほか

」     発見者「甚兵衛」(苗字なし)は、「甚兵衛」〈信長公記〉から取られている。「庄屋」で
      「海東郡大屋」「池田」「かね」にまつわる甚兵衛で、この「かね」は鉄の意味で、前節が
      「蛇」の一節。「秀治」は「波多野秀治」で三兄弟、「畑」「畠」「波」、「堀秀冶」もある。
      「喜平」は「喜兵衛」、「小倉碑文」の「喜兵衛」、有馬喜兵衛、有馬は有馬晴信(使節派遣
      大名)、碑文は「武蔵」、おれは宮本。「吉三」は「山中吉内」「吉祥寺」。「勘蔵」は
      「武蔵」「吉三」を規定して「勘」は「三かん」の「巻」「緘」「韓」「漢」・・・。「秀次」は「孫七」。
 
    が考えられます。
    「仙崖和尚」は「秀治・喜平」を甚兵衛の脇役として出した人ですが、福岡の聖福寺の
     住職で全国的に有名な人のようです。美濃武儀郡の出身で丸毛(茂)と同じで、妙心
     寺派の巨頭で黒田家に招かれたという経歴です、不偏不党の立場にいるも黒田のために一
     肌脱ごうということになったと思われます。テキストの〈信長公記〉の人名索引では
            「岸良沢」 (甫庵では「良琢(りやうたく)」だけが出て「岸」の問題はない)
     となっていて、本文では
            「崖良沢(きしりやうたく)」「岸良沢」〈信長公記〉
      二つとなっています。索引のない前者も出る短い一節に「山中」「紀伊」「右近」「奥」「宇留
     間」(脚注「鵜沼」)が出てきて、前節にも「山中」が二つあり、後節に「黒田」「中嶋」(清水又
     十郎ー中嶋又二郎)がある、このあたりをみて「仙」「千」=「森」に「崖」(「涯」のシなしもある)
     を付けた名前にした、と考えられます。それによって夕庵(セキアン)=岸良琢を教えたのかも
     しれません。とにかく「志賀島小幅」を書いて割り込んできました。この志賀島は飯尾宗祇、
     策彦周良の足跡があるそうで、それなら太田和泉守の知っていることでしょうから、先輩を
     偲べるこの地は語りの場として選ぶ可能性があります。黒田治之の「治」は「秀治」の「治」ですが
     森三左衛門と戦死した織田九郎=織田信治の「治」でもあります。「春」でもありますが、この
     人は金印が発見されたときは先代だった(3年も前に亡くなっている)のに語られるというので
     特異です。亀井南冥を採用し、この件で動ける地位を遺言で与えたということです。何か
     どうしても自分の時代にやりたかったことがあるというのかもしれません。主役は亀井南冥
     ですが、一応亀井をみますとテキスト人名注では

        「亀井茲矩(1557〜1612) 新十郎、武蔵守。琉球守。台州守。初名真矩。因幡
         気多郡鹿野城主。(文中は)●山中鹿介弟亀井新十郎 368」

      があります。「山中」「武蔵」「鹿野(志賀の)」「鹿(の介)」「稲葉」「慈(心なし)「矩」が
      あり、「慈」は木村常陸介が「重慈」で、「矩」は「木全知矩」があり、これは、元就が敵方ながら
      賓客扱いした人物で既述です(常山奇談)。常山の森銑三の索引では
           木全知矩 木村重成 木村常陸介
      とならべています。これは確実に「木又」です。要は●の意味が判っているかというと怪しい
      ものです。〈クロニック戦国史〉では亀井新十郎もやはり分散されて、まとめてその像がつかみ
      難くなっていますが「山中鹿介の娘をめとって亀井氏の名をついだ。」となっています。だから
      山中鹿介は亀井幸盛だったとされているといえます。しかし、ここでは弟とされていて「山
      中鹿介」が
        「山中鹿(やまなかしか)之介」「山中鹿(しか)之介」(常山奇談ルビ)
      や尼子十勇士の珍妙な名前からいって「山中」の「鹿」という意味では仮名と取れるもの
     で、「仮名」の弟は一応仮名になるのでしょう。「佐脇藤八」弟「後藤隠岐守基次」とはいいにくく、
      また新十郎が漠然としています。両方引き当てを要するという感じです。
       亀井琉球守は金の軍扇を持ったまま海て戦死したとか、新十郎が重囲を破って上月城
     の尼子勝久、山中鹿介と連絡を取ったというような武勇が筆者などが知っていることですが
     〈クロニック〉では
         「実現しなかったが海外雄飛の夢から、長崎で西洋型帆船の建造を試みている。」
      とあります。これは黒田治之や亀井南冥などはしっているわけです。また黒田治之から
     思い出しますが黒田長政の嫡子黒田忠之が黒田騒動の主役の一人で、その治政が
     よくなかったので、交代させられるというところまでいきましたが、講談では栗山大膳(栗山
     備後の子)が幕府に訴えた中に「大船建造のこと」というのがありました。後藤又兵衛A
     のことを呼び出していそうな話が、主役の栗山大膳ですがそういう背景もあります。
     いいたいことは、金印の話はローマ行きの大船に乗ったメンバーだとか、山中鹿介、亀井
     新十郎の実存名などを語るものかもしれないやってみる価値はあるということでいまやって
     います。

     C、太田和泉守、志賀島回遊の記録(〈甫庵太閤記〉)「幽斎道之記」がある

      天正15年(この年は遣欧船がゴアあたりに帰ってきた)
       「小倉にとまりて明くる夜をこめて、舟よそひして、筑州箱崎さして行くに、船人のこれ
        なん金(かね)が御崎(みさき)といふ(金印の叶崎と取れる)。昔鐘を求め船にのせて
        汀ちかく成て取りをとして、今に有と云。・・・金と云字・・・かねの御崎・・・やうやう志賀
        の島に着きて・・・春日鹿島当社・・・縁起などとり出して、次(ついで)に、{波あらき塩干
        の松のかつらがた島よりつづくうみの中道。}これ当社の御歌のよし、社僧のかたられ
        ける。又香椎の神詠には、やまよりつづく、と一句かはりたるなどと有。(つまり二句あ
       る) 立出で見侍りけるに、砂の遠さ三里ばかりも、海の中をわけて、島につづき十四五
        間ばかりも有と見えたり。文殊・・・橋立・・・当社は安曇(あべの)磯良丸(いそらまる)
        と云て、神功皇后、異国退治之時、龍宮より出て、兵船の楫取りとして海上のしるべせし
        神なり。しばしばうち詠めて、(眺めて、詠む)
           ●名にしおふ龍の宮(みや)この跡とめて波をわけ行くうみの中道
        此両首をかきて奉納して、廿五日朝なぎのほどに、箱崎にわたりて見るに、松原は
        るるつづきて、八幡宮は北面にむかひて立たり。■戒定恵(かいじやうえ)の三学の
り       箱を、むかし▲うずまれたる所に、★しるしの松とて古木あり。たちよりて
          そのかみに▼をさめをきたる箱崎の松こそ千代のしるしなりけれ
        ・・・博多・・・・袖の湊・・・・袖の湊・・・・袖のみなと・・・・・・・」〈甫庵太閤記〉
 
     が、志賀島の部分です。朝鮮戦役の前のAの「たいかうさま」の文の元のような記事です。
    「文殊」は文殊堂前で詩歌会を催した策彦周良を思い出しています。●のあと「此両首」と
    なっているから、もう一首あるはずです。「名にしおふ龍の都(みやこ)の、跡とめて」というのと
      「なにしおふ龍の宮 この跡とめて」
    というのになるのでしょう。「宮」にルビをつけているのでそうとれるところです。■を入れた
    箱(筥)を▲▼でどこかに埋め、納めた、という感じが出ており(この故事はどこかにある?)
    ★がその目印となっていたのか「しるし」が二つ出ています。この「しるし」を漢字化しようとすると
       「印」「朱印の印」
    が第一に出てくる字です。二首のうちの一つが、「印」の寸法図」「漢委奴国王」という文言
    だった、黒田の藩主に託した筥があったというのではないかと思われます。この記の終わりに
      「此道之記、いぶかしき所もあんめれど、類本なければ、跡も正さずかく記し付けオワンヌ。」
    となっています。飯尾宗祇に「筑紫道記」があるそうで(ネット記事「志賀島荘厳寺の歴史」)
    そういうものが参考にされたのかも知れませんが、〈甫庵太閤記〉著述にあたって入れられた
    〈甫庵信長記〉解説のための引用ともいえそうです。天正5年〈甫庵信長記〉

       「羽柴筑前守秀吉卿・・・播磨国拝領の御朱印・・・粧(よそほひ)・・・御朱印・・・楠長庵
       ・・・朱印・・既に・・・・長庵・・・長庵・・・・朱印・・・長庵・・・御朱印・・・・既に・・●退治・・・
       長庵・・・御朱印・・秀吉、熊見河・・・上月の城・・・福岡・・・小寺官兵衛尉、竹中半兵衛尉
       竹束・・・宇喜多和泉守・・上月・・宇喜多・・・秀吉・・宇喜多・・・上月・・・上月十郎・・・上月
       ・・・・山中鹿介・・・福岡・・・朱印・・・・菅屋九右衛門・・・菅屋・・・宮内卿法印・・・」
    
    がありますが「朱印」が7個あって前半に6個集中しているからすぐわかるわけですが、前半
    は「印」と「長庵」、中盤は上月ー山中、で、「楠長庵」は、朱印の窓口で
      「頂戴・・・申し入れ・・・朱印・・・調へ・・・朱印・・・調へ・・・御朱印・・・調へ・・」〈甫庵信長記〉
    があります。「福岡」は二つとも
        「福岡の野(の)城」  (の)は=ルビで野城の間に入る
    となっていて黒田の「小寺官兵衛」があるから「福岡」は切り離してもよさそうです。先ほど
    「博多」がでましたがここに「福岡」が出て、全国的に読まれた〈甫庵信長記〉に黒田家は出てお
    池田輝政や細川忠興らも出てる、福岡の名前にしとけば、ここの黒田が出てくると思ったのかも
    しれません。お陰で
         「山中」−「福岡」−志賀島ー金印
     がつながりそうです。楠河内守からは
       「印」−楠長庵ー長庵ー熊見河(能美川もある)ー能登−菅屋九右衛門ー菅屋
     があって太田和泉守ー朱印ー貿易船がでます。〈クロニック〉では亀井はタイなどへ貿易船を出し
     ています。話がここまで進んで来た段階では、造船も合わせて、太田和泉守との関連が問題
     となってきます。すなわち、いま皆がもっている山中鹿之助のイメージ、我に七難八苦を与えた
     まえと月に祈る、不撓不屈、尼子城を奪還した、狼介を打倒した、万夫不当の勇士、という面
     ですが、ここにある
       「上月十郎」
     というのがなんとなく、「山中+十郎」という感じで、山中鹿介(亀井新十郎)というものが、いわ
     ゆる「山中鹿之介」を構成しているといえそうです。実存の山中鹿之介ははどうかというこに
     とになりますが、とりあえずは「しかのしま」の「山中」「吉(祥寺)内」の「印」に別の意味で
    向きあっている、黒田治之、亀井南冥がいます。その他、ここの
        「宇喜多和泉」「羽柴筑前守」「菅屋九右衛門」「信長公」(上では省略)
    が、爆竹Aでも出てきます。あと
         「既に」
    が二つ出ており、これは「奴原」と関係して来ると思います。すなわち
        ●「退治」
    が重要で「一揆の奴原」が三つあった「紀伊国退治」の一節にもどることになります。爆竹の
    一節と紀伊国退治の一節は不可分ということは既述ですが、爆竹に「紀伊国」というのが
    あって●に繋いでいるやに見えます。爆竹に「熊」「熊」があって先ほどの「山中」「上月十郎」
    にも繋がります、上の「竹束」は「紀伊国退治」の一節にあります。

      D、紀伊国退治の一節(七人の侍)
        ○「化荻(貨荻)」の一節と「紀伊国退治」の一節(貝塚、奴原、中村一氏、雑賀などの
         一節)は多くの人名(佐久間右衛門など)等で直接間接に密接に繋げられている、
         例えば
        「化荻」の一節の佐久間信盛は、「紀伊国退治」「爆竹A」「貝塚」「長嶋」などにつながり
          「爆竹A」の佐久間信盛は、「先年」の話で出ており、天正15年には必然ではないが、
          「先年」の爆竹@に繋げたというのがあり、また佐久間を出したから、回想で追放先の
             「紀伊国熊野の奥」
          が出てきて、滝川左近(明智左馬介)の伊勢の海軍の母体の熊野水軍が出ている
          と思われる。「爆竹A」は「奥州」もあって、「奥」を受けている。ついでに「甚九郎」も
          出てきて、「鉄砲屋与四郎」「伴正林」に繋げていると思われる。また
        「化荻」(貨荻)の「鈴木孫一」「若江」「八幡」は、
        「貝塚」の一節の「若宮八幡宮」「鈴木孫一」につながり、これは
        「紀伊国退治」の「貝塚・・・若江・・・若宮八幡宮」「鈴木孫一」に行き、化荻の一節に
        戻るということになったりしている、

      したがって両節の「杉の坊」と雑賀衆「七人」について調べてみます。「杉の坊」はたくさん出る
     のと、あぶり出しがある、わけのわからないものとセットになっているからやらんとしょうがない
     ということです。化荻は〈信長公記〉だけですが、紀伊国退治の話は〈信長公記〉でも一節にまと
     まってはいないがかなり語られています。両方足して〈甫庵信長記〉の「紀伊国退治」のこと
     になる、とみれます。

    (96)三緘(かん)のこと
   〈両書〉のおける7人の侍の出方は
        化荻の一節〈信長公記〉           紀伊国退治の一節〈甫庵信長記〉
       杉の坊・津田太郎左衛門      ※雑賀の三緘(かん)と云ふ者併に根来寺の杉(の)坊
                             ※杉(の)坊併に雑賀の三緘
                             ※津田太郎左衛門に杉(の)坊

       七人
         土橋平次               土橋平次
         鈴木孫一               鈴木孫一
         岡崎三郎大夫            岡崎三郎大夫
         松田源三大夫            など(左の松田、宮本、嶋本、栗村はこの「など」で
         宮本兵大夫                 表されている)
         嶋本左衛門大夫
         栗村二郎大夫
     
    となっています。左の「杉の坊」は、右の三つの「杉の坊」(の=ルビ)と違っており、右の方
    は、よく似た別人といいたいのでしょうが、これは鉄砲の名手「杉谷善住坊」がいるので大体
    見当がつきます。テキストで「杉谷善住坊」は
       「三重県三重郡菰野町・・・甲賀五十三家のうち・・・(甲津畑)成願寺の峯で狙撃・・・」
    などのことが疑問としながらも、書かれています。一応、杉の坊は前田又左衛門A、津田太郎
    左衛門は兼松正吉相当と取れます。「菰野」はどこかで見たので探してみると、小堀遠州で
    の「弧蓬(竹かんむり)庵」で勘違いでした。小堀のは「草冠」なしの「弧」でした。爆竹Aの一節に
       「奥州より参り候・・・遠江鹿毛」〈信長公記〉
    があり、ひょっとして、と思っていたのに間違いでした。爆竹Aには信長公の

       「御装束、京染めの御小袖、御頭巾、御笠(「四角」の笠)、御腰蓑(「白熊」)、御はきそへ・
        御むかばき(「赤地きんらん、うらは紅梅」)。御沓、猩々皮。」〈信長公記〉

   がありこれは「馬揃」でも概ね出ていますから両節の連携を示しているものと取れます。「遠江
   鹿毛」も「馬揃」では「こひばり」と並んで出てきました。それはある一方で、「御笠」は「馬揃」には
   なく、ここの「むかばき」は馬揃の「行縢」が「ひら」かれている、また、京染めの小袖は、国内の
   ものという感じですが、馬揃では蜀江の錦の御小袖となっています。「唐土か天竺」風にしたのを
   ここで変えた、ということはこの一節を人事などの交流とみた以上、信長公の日常愛用品の贈
   呈品も紹介したということにならないかと、いうのも出てきます。これは、ここで、この
        宮本兵大夫
    が渡航船に乗った、というのが確実にされようとしているのかどうかにも掛かっています。
   右の※の二つの「三緘」がわかりません。〈信長公記〉の「貝塚」の一節にもこれが出てきます。
    天正5年
        「紀州雑賀の内三緘(ミカラミ)の者併に根来寺杉の坊」
        「根来衆杉の坊」
        「根来杉の坊・三緘(ミカラミ)衆案内者として」
    の二つがあります。「緘」は
       「とじる」「封をする」「手紙などの封じ目に書く字」
     という意味のものですが三つにしてとじるのでしょう。貝塚の一節の二つ目が化荻の一節で
    す。化荻の一節は7人
            「土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・
             松田源三大夫・宮本兵大夫・島本左衛門大夫・栗村二郎大夫」
     で〈甫庵信長記〉の「紀伊国退治」の一節は
            「土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫 など」
     となっていました。貝塚の一節(実質は〈信長公記〉の紀伊国の一節)で「三カラミ」が出ました。

     土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫(これは動かせない)
                       ↓
                  松田源三大夫 と三人「宮本兵大夫・嶋本左衛門大夫・栗村二郎大夫」
                  宮本兵大夫  と 三「大夫」「嶋本の一大夫と栗村の二大夫」
 
    というのが「三」を意識してやると出てきたことです。いま出したいのは宮本兵大夫でしたが、
    辛うじて「三」のカラミで出てきました。「松田源三大夫」という余分なものが出てきたので間違い
    かも、と思ってしまいますが、これも兵大夫同様出したかった人物です。〈信長公記〉索引では
             松田源三大夫
             松田摂津守
     となって出てきます。「摂津」は高山右近、古田織部の属性ですが「摂津守」となると「小西行長」
     で、「源三」というと一応北条の大石源三ですから、それからいえば、「小西ユキナガ」という
     人も出てきます。朝鮮の陣のくだりで
          「小西如清・・・太田和泉守」〈甫庵太閤記〉
     が横並びになっており、小西行長は自ら自分は
         「泉州堺の地下(ぢげ)人如清(じよせい)が子」〈甫庵太閤記〉
     といっていますのでまあいえば「小西如清A」というべき人物として(小西行長がキリスト教で有
     で)想定されますので、出てきてほしい人物です。したがって宮本兵大夫は、重要人物と
     して認識されているのはまちがいないところです。
     〈甫庵信長記〉では、松田以下は「など」で括られ、一般の人は土橋・鈴木、岡崎までしか
     知らされておらず、太田牛一が特別に取り上げて入れられたと考えられます。すなわち
     宮本(松田源三など)は雑賀衆の頭の一人として入れたのではなく、注目の人として入れた
     、語りの必要上入れたと考えられます。宮本の後ろ二人からは係累をぼんやり出そうとした
     と取れます。〈信長公記〉の「嶋本左衛門大夫」と「栗村二郎大夫」は、テキストの「金松又四
     郎」(考証名「兼松正吉」)の注に、
         「兼松氏は尾張葉栗郡嶋村(一宮市島村)に住した。」
     があり、その「嶋」「栗」がここにあるということになります。森可成もはじめ「尾張国葉栗郡
     蓮台」のちに「美濃可児郡兼山(金山もある)」です。
     すなはち、「宮本兵大夫」も「松田源三大夫」(「松田摂津守」も)も太田和泉守ー兼松ー森
     可成の筋の人というのが見えてきます。〈甫庵信長記〉に「松田」「宮本」がないといっても
      「宮本」は先ほどの
         「杉(の)坊」−「津田太郎左衛門尉」(兼松相当)ー〈甫庵信長記〉紀伊国の一節
     の「杉(の)坊」で匂わされており〈信長公記〉化荻の一節の
         「杉の坊・津田太郎左衛門」
     の「杉の坊」のAという感じのものとなっています。「松田」も
           「松田尾張守」〈甫庵信長記〉
     が用意されており、三人の子息をもつ北条の家老
          「松田尾張守」〈甫庵太閤記〉
     が用意されて繋いでみればどうかというのがあり、ここで「内藤左近大夫」「太田肥後守」も
     出てきて別面から渡海を語るということになっています。「内藤」「肥後」が出ましたが
      つまり「小西如庵」=「内藤如庵」というのがネット記事でも多く出ていて、なぜか
     わからないままに受け入れているというものがある、小西行長は加藤清正と肥後を二分して
     していて「肥後守」と呼ばれえも良い存在というのを加味でき、またこの松田尾張守の出てくる
     一節は北条氏政、北条氏照(舎弟は大石源三)の最後の場面の一つ前の一節だから、かなり
     目的的な登場の松田(尾張守)です。雑賀の有力者の一人の「松田源三大夫」〈信長公記〉
     と〈甫庵太閤記〉の松田尾張守とは時代も違うし、うまくタイミングが合わないだろうと考えら
     れ、繋いで考えるのはおかしいと思ってしまいますが、「松田」という甫庵の表記で繋いで
    説明しようというものがある、特別出てきた、松田、宮本は事実というよりも話が広げられる
    表記であるといえます。多くがここから出てくる必然があるかとも思われます。

    (97)松田尾張守
      ついでですので北条の「松田尾張守」に少し触れますと
         「松田尾張守謀反之事」〈甫庵太閤記〉
      があって「尾張守」は「其勢五千有余」の「長臣」です、「長子」は
          「笠原新六郎」
      でこれは「国器之才有」と書いてあり、二男が「左馬助」、三男が「弾三郎」です。「二男田松田
     左馬助」は「忠義之志篤く」「容顔美麗世に優れ、心も優に艶しかりしかば」となっています。
     ストーりは「尾張守」が堀久太郎に内通の申し入れをする所から始まり、二男左馬助がそれを
     告発し、それがひきがねとなって、一挙に当主北条氏直が
           「所詮、某(それがし)降人となりて籠城の上下を助けるべし」
    と降伏を決意、山上郷右衛門一人を連れて、「家康卿」の陣へ申し入れるという行動するところ
    まで行ってしまいます。子が親を訴えるという悲しい内容も、松田尾張守の謀反そのものがありえ
    得ないのでインチキくさく、その意味では寓意を探しておればよいのでらくなところです。この戦いは
    は関東がほしい徳川家康公が秀吉卿に攻めさせたという戦いで、北条は秀吉に刃向かう気がない
    それと戦って家康は出陣していただけというばかげた戦いで、双方の対話が徳川経由行われて
    てここまできてしまったというものです。伊達政宗も北回りでやってきて遅刻しますが、大膳
    大夫が後ろにいるから当然お咎めなしということになります。
    北条氏政は氏康の不手際で上杉謙信に攻め込まれた籠城戦も戦い抜いて撃退しています。
    特別な英雄氏康、どうしようもない凡将北条氏政というのは徳川治下で文献を出す挨拶と
    いったもの
    で、親子重なっていることが多いわけです。推古晩年は聖徳太子、信秀の戦いが信長だった
   りしています。したがって出そうとしたものは何かいうことでみればよいわけですが、一つは
    松田の連携ではないかと思います。

    すなわち、筆者はこれを北条家の森勝蔵の推定につかいました。既述
          北条氏照
           ‖大石源三
          森勝蔵
     は、どうしても鬼武蔵と森との関係を説明するために要るわけですが、勝蔵の北条における
     痕跡が必要です。松田の連携でこの「尾張守」に縋りたいところです。訳本(教育社)では、
     松田憲秀とされているものですが、「尾張守」は尾張との関係、例えば出身などを示唆した
     ものととろうと思えば取れるところです。(二男の「左馬助」は「秀治」)
          ○長男が「笠原」となっており、「笠原」は「笠原」「笠原越前」が〈信長公記〉にあり
           笠原越前は北条の使者で出てきた。姓が違うので笠原は尾張守の連れ合いか
           養子となる。(国器の才は身内とみてよさそう)
           森勝蔵を受け入れて
               北条氏照
               ‖大石源三
               ‖松田弾三郎
               森(笠原)勝蔵
           が考えられる。
          ○三の連結が考えられ得る。「松田源三大夫」の「三」は、実名以外の登場の
           「三人」の子息
           「三人」の大将「松田尾張守」「内藤左近大夫」「太田肥後守」
           「三人」目の子息「弾三郎」
            に繋がる。〈明智軍記〉では「松田源三」という表記が在って
           「大石源三」の「三」は一段と意識的といえる
          ○松田尾張守ー堀久太郎(4回登場)の関係は森勝蔵が想起される。〈明智軍記〉
     
    などです。
   三つ目は、ここの人名表記の意味です。「左馬助」も主役の一人ですが
            「二男松田左馬助」「左馬助」「二男左馬助」「左馬助」「左馬助」「左馬助」
            「二男松田左馬助」「左馬助」「左馬助」「左馬助」「左馬助」
   という登場で誰かに注目させようとしています。これは一応「明智左馬助」想起というのがあるのでしょう。
  かもしれません。小田原北条戦は「山中之城(城主「松田」)」の落城があり
      「渡辺勘兵衛」「中村式部少輔」「堀尾帯刀」「間宮豊前守(〈信長公記〉使者登場)」
  などで出ていますが、「山中」では
      「将軍右筆にて有ける山中山城守・・・」〈甫庵太閤記〉
   があり、このあと「山城守」「山中」「山中山城守」「山中山城守」「山城守」「山中山城守」と続く
   山中です。この山中がたくさんでてくる前の一節が
       「北条安房守」(「氏政の舎弟」)〈甫庵太閤記〉
  が出ていて、これは三行だけで、前田利家が味方に引き入れのち、加賀へ移って病死したという
  ことだけです。氏政の舎弟だから入れられたととれますが、「安房守」が目的ではないかと思わ
  れます。今となれば〈常山奇談〉によって「山中山城守」が「明智左馬助」のことを指しているという
  ことがわかります.。既述の部分ですが
        「明智秀俊湖水を渡して坂本城に入る事(これはタイトルで安房殿と思われる)
        ・・・★左馬助秀俊・・秀俊・・・堀久太郎秀政・・秀俊・・・秀俊・・・一つ松・・・明智左馬助
        ・・・後に●山中山城守長俊が孫作右衛門友俊・・・紀伊の士宇佐美造酒助孝定・・」
・ 
   があり★はタイトルとちがって明智左馬助でしょうが、●で言い換えた感じです。孫のことを述べ
   ながら出た名前で、時代が同じといっていそうです。この一節の前節は
     「池田紀伊守」、「山城」、「紀州公」、「山城」、「順慶」×11、「光秀」×5
   となっていて「紀州公」は池田公のことです。「光秀」5のうち「明智」が1で、順慶の「慶」が一応
   別書の「明智光慶」の「慶」につながる感じです。常山では、山中の前六節全部、光秀が
     「森蘭丸」「浮田六郎秀家」「波多野右衛門(の)大夫」「黒田孝隆」「秀吉」
   などを伴って出てきます。本当は前九
   節全部光秀といって勢いを付けたかったのですが、一つだけ三行の一節
         「■秀吉西国の米を買われし事」
   が入って、光秀が出てこないので、ガックリ、著者に文句の一つもいいたいところです。
    ★明智左馬助湖水で登場する一節の
   前九節は「光秀」と「明智左馬助秀俊」の交錯の場面で、光秀が秀俊に謀反を打ち明ける有名な
   場面ですからそうなります。★へのスタートといえます。
    次(前八節目)が、光秀が毛利に出した密書が秀吉に見つかったという場面で、秀吉が、しのび
    のものを置いておいたからよかった、秀吉の思慮浅からずと人がいった話です。これは
   通常はしない配慮だから、通常されてる配慮なら光秀も知っている、光秀からの連絡を待っていた
   ともとれます。そういう風に表現しないと具合が悪かったということからいえば、ありうることです。人対策を打た     また「高松の城はたやすく攻め落とすべきに水攻めにしえ日を経た」という理由も信長の嫉妬
   を警戒と書かれていますが、事実はあったということだけで十分です。要は明智左馬助秀俊(安房)が
   一気通貫で、明智左馬助光俊は秀吉右筆として一気通貫かもしれないわけです。
    ■はそれを受けて毛利領の米を買い占める話で、これをやったので毛利は戦いできなくなり
    織田と手切れなるはずのところ和平におよんだとあります。すこし他愛ない話ですが、このとき
         「小早川隆景(ルビ=こばいかはたかかげ)」
    一人「固く制してうらせず。」となっています。このルビは「こばいかは」となってり、「買」と引っかかっ
    ものとなっています。小早川が毛利の軍を動かさなかった、ということと関係があると思いますが、
    「西国」「米を買う」の意味が違うのかもしれません。この■のあとの節でまた途切れたものの
     仕切りなおしで、「光秀・・・・辛崎の松の事」の一節になります。

       「明智江州坂本・・・・光秀・・・・松村・・・・志賀唐崎の松・・・光秀・・・今の松・・・光秀・・
       ひとつ松・・・唐崎の松・・・新庄駿河守直頼舎弟松庵・・千代・・まつ・・・今の松・・・新庄・・」

    が出て、光秀は「松」を取り込んでいます。「ひとつ松」は先ほどありました。「新庄」は〈明智
    軍記〉では「伊勢守貞光」ですが、貞光は「五」つの「左近」に接近します(〈甫庵信長記〉)。
    「松」は「松尾」「松下」「松岡」「松平」「松井」「松野」「松宮」「松永」「松原」「松山」「松本」
    などが姓で使われますがこの場合はストーリが気になってそれでみてしまいますが二字もあり
    逆にされているのもありつなぎに利用されているのは明かですが、「宮松丸」「虎松」「松殿」
    「松の丸「小松」「市松」などの名前や「松江」「小松」などの地名や「松枝」「下り松」のような
    物体となると、なんとなく「明智」ですが、ここでそうなっていると常山なりに確認をしたという
    ものであろうとも取れるところです。
     先ほど「松田」の「松」が山中につながってでました。また、本能寺のくだりにも「山中」とか
     「一揆の奴原」(「紀伊国退治」や「長嶋」で出た)などはでますが、なにしろ本能寺は光秀
    が主役ですからここの「松」とか「千代」がでるのは必然に近く(見て書いてるので必然)
          「爰に梶原左衛門尉が続子松千代丸、生年十三になりける・・」〈甫庵信長記〉
    があります。これの位相が問題で中抜きになっているのではないか、と思われます。
      「・・山田三左衛門・梶原平次・・・」「佐々内臓助・佐々隼人・梶原平次郎・・」〈信長公記〉
    があり「山田」に「梶原左衛門尉」と同じ「山田左衛門尉」があり、山田左衛門尉(吾妻鏡と信長
   公記にあり)は梶原を戦国にもってきて梶原左衛門尉ー山田三左衛門をつなごうおというので
    しょう。つまり「梶原」=「山田」とみていて上の人名を使うと
   
        山田三左衛門(佐々内臓介)→梶原平次郎
        梶原左衛門尉(佐々隼人) → 梶原平次 
    となり、梶原姓の「続子(ぞくし)松千代丸」は13歳は、惟任日向守の「的孫」相当となりそう
    です。石=いわ=岩 で石田は山石田であり、石田(山田)=石田(梶原)で、太田=山田から
    も、梶原平次=石田三(成)というのがでてきます。ほかの面から既に石田三成=明智光慶
    はいってきていますが、光秀と明智光慶しか与えられていない場合は、石田三成=明智光慶
    とするしかないわけですが梶原平次が出てくると、明智光慶@、明智光慶Aという捉え方
    になります。光秀が十兵衛で、光慶も十兵衛ですから、講談などで剣豪(柳生)「十兵衛」が
    「三厳(みつよし)」であったという記憶は、ネット記事では「光厳」が主というのと重なると、
    明智光慶が「三慶」と「光慶」があると暗示されていたのかも。柳生蓮也斎は如何。明智は
    「三沢」とセットされているのは〈辞典〉で「三沢秀次」が出て五つの資料から
      「明智光秀」「光秀」「津田」「橋本三郎左衛門」「三沢少兵衛」「明智少兵衛」「溝尾少兵衛」
     が出ていて、これは既述ですが、このもとはやはり、尼子の「的孫」が出てきた〈甫庵信長記〉の
         「元就・・元就・・・元就・・・武者司・・・・●三沢三郎左衛門為幸・・・元就・・三沢・・」
    の●であろうと思われます。「為」が「三好為三」の「為」(「秀次」は三好)、「松本為足」(信長
    公記)の「為」でもあり、「元就」の「なり」の読みからみると「為幸」は、「なりゆき」と読めそうで
    現に「なり」「や」とかの読みがあります。また「為せば成る」の字の意識があり、●の「三」「三」
    「為」からみても三沢の「三成」、「三也」→「三為」→「三成」となりえます。
      「三成」「光慶」が「三沢」から出て的孫にかかるとするとこの一節は「山中鹿(の)助」「上月」
     「山田山中」「尼子」など「山中」の一節ですから、先ほどの常山の「明智左馬助秀俊ー山中
     山城守長俊」の一節、〈甫庵太閤記〉の「山中山城守」の一節、志賀島の「山中吉内」ー亀井
     南冥の話などがまだ焦点ボケですが何となく、結ばれてきました。湯浅常山の9節を一応
     改めてタイトルでまとめますと、
         ○明智光秀信長公を弑(しい)する事(明智左馬助秀俊と光秀、蘭丸が出る)
         ○秀吉備中にて光秀の書を取られし事
         ○■秀吉西国(さいこく)の米(こめ)を買(かは)れし事(ここだけ「光秀」「明智」なし)
         ○光秀・・辛崎(からさき)の松の事(光秀「周山」、「周の武王」)
         ○森蘭丸才敏の事(十六歳、五万石)(光秀、明智)
         ○光秀反状の事(「秀治」「秀治」「秀治」)
         ○黒田孝隆思慮の事(秀吉、筒井、細川、明智)
         ○池田家・・・筒井順慶を試る事(紀伊、紀州、山城、牧野兵太)
         ○明智秀俊湖水渡して坂本の城に入る事(山中山城守長俊)
     というタイトルで続いています。
     はじめの「明智秀俊」が9番目の「明智秀俊」に、流れてきていますが、一応はここの「秀吉」
     「孝隆」は「太田和泉守」と取りたいところです。ただ物理的におかしいという面があって、それは
     はどうかというのが、出てくるので、途中段階では押せないところですが、太田和泉守は
     爆竹Aあたりで嫡子に家督を譲っているのが感じられるところです。理屈でいえば、はじめに
     人間五十年というのがいわれており、いま桶狭間(1560)後、22年だから、いま太田和泉
     守、満55歳、あの長谷川橋介も40歳にはなっていてもう十分と思われます。むしろ能力発揮
     を阻害してしまうということになります。これは別のところで感じられ、また爆竹に戻ったときの
     話になりますが(堀久太郎は前後の爆竹で出ており、五年前の天正五年の甫庵の紀伊国
     退治のときは4回登場で最高)ここで支援をえられるとすると、次いでといいわけです。
      森蘭丸が五万石貰ったのは天正十年、本能寺の年ですが16歳というのは孫の世代です。
     その下「秀治」がでているのは、波多野の「秀治」です。これは「畑」「幡」「畠」になる「波多」
     ですが、上に「牧野兵太」があり、これは別件で既述の、〈常山奇談〉
          「木村畑田屋牧野四士武功の事」
      の「牧野湖太」がこの兵太ですが次の湖水に合わせるべく変えてあります。ここの「畑」に
      池田、山城などを繋いであります。すなはち「秀治」は、取り上げたい名前となっています。
     覚りきったかにみえる仙崖和尚が「金印」の発掘者は「秀治」といいだし、また「秀次」といった
     人もあり、これは「次」=「じ」=「治」もあり仙崖を支持したのもあるかも。ほかに
        「松田尾張守」の二男、左馬助が「秀治」
        「堀久太郎(秀政)の嫡男が「堀秀治」
     です。つまり、16歳(10年調整26歳)、五万石は「秀治」=森蘭丸Aといえそうです。こう
     れば、京洛、中国路、飯田、本能寺(森乱=安孫子右京助)、で捉えられないことでもない
     でしょうが、秀吉に乗っているとみて問題ないことです。ここで■に戻りますが、要は天正10年
        本能寺の変
        遣欧使の派遣
     の二つを述べて〈信長記〉を終わらせたと常山は見たというものではないかと思われます。
     A、明智光春と(秀俊)に打ち明けて始まり・・・・・・、明智秀俊湖水渡りで、終わる、本能寺の
       の流れと
     B、明智光俊と(秀俊=明智弥平次秀満=安房殿)の伊勢海軍・・・明智秀俊湖水渡りで終わる
       う海外渡航の流れ
     の二っの流れがあって■は流れに乗らないもので、不協和音や、不明な濁線によって作品
    が痛手をうけた感じのものでがっくりのままここまできました。これにエネルギーがあって
     一挙に行け、となってきます。
        「秀吉■西国(▼さいこく)の米(こめ)を買(かは)れし事」
     の■が二つあり、西国ーーー毛利領というのは文句のないところでここの米を買い占めたから
     毛利は戦争できなくなって和平を選んだ、そういう風にに持っていった、というのはわかります。
      もう一つは西欧(西の国)へ渡航にあたって積んでいく米を西国で買ったということでしょう。
      本文一部再掲
         「・・・西国(▲さいこく)の米を価貴く買(かは)れしかば・・・・城米を出して売るもの多し。
         小早川隆景一人(こ★ばいかはたかかげひとり)固く制してうらせず。・・・」〈常山奇談〉

     となっており、ルビ▼の「さ」は「ざ」にも見えたので虫眼鏡で見ると「さ」でした。これを受けた
    ▲は肉眼で見ても「さ」です。▼の「さ」は右上が出張った「さ」で、▲は右上が凹んだ「さ」で
    す。これは森蘭丸才敏の「さ」もタイトル、本文間で同じことになっています。★の「ば」も右上
    凹んだ、「ば」で、右側は「ま」を崩したような「ば」です。「ば」のルビは一般にタイトルのものは
    わかりやすく、本文の「ば」は右が凹んだものです。小早川のは本文分の「ば」より、特別まだわか
    りにくくしてあり、「ばい」になっているのに気づいてほしいといっているかのようです。思うに
    小早川隆景は毛利軍を動かさなかったことで有名ですが、太田和泉守は毛利に援軍を依頼
    していたが不発に終わって痛恨の極みということでしょう。毛利には早くから工作を行っていた、と
    いうことが理解されていないようです。
     この「西国」「かは」が肥後に飛び、ここで森可成が米を買い、遣欧船に積み込んだようです。
         「川北(かはきた)九大夫肥後(ひごの)国川尻(かはじり)を守る事」〈常山奇談〉
    の別の側面が出てきます。ここでタイトルで「かは」の連携があり本文にさりげなく「西国(さいこく)」
   があります。
         「・・川尻(かはじり)の代官(だいくわん)・・・代官(だいくわん)・・・西国(さいこく)の人
         ・・・川尻(かはじり)・・・海辺(かいへん)・・・船(ふね)・・・米蔵(こめぐら)・・・海上(かい
         じやう)七里・・・川北(かはきた)・・・地鉄砲(ぢてつぱう)の数(かず)・・・川尻(かはじり)
         の海岸(かいがん)・・・五本に一人の地鉄砲(ぢてつぱう)・・・生(いけ)・・川尻(かは
         じり)の米(こめ)・・・船(ふね)・・・川尻(かはじり)・・・鉄砲(てつぱう)・・・熊本(くまもと)
         ・・川尻(かはじり)・・・船(ふね)・・・川北(かはきた)・・・川尻(かはじり)・・・米(こめ)
         川北(かはきた)・・・天草(あまくさ)×6・・・一揆(いつき)×2・・・」〈常山奇談〉
 
   川北、川尻は、手数がかかって仕方がないのですが全部にルビがついていて「かは」というの
   が出されます。ここもルビで勝負のところで、「かはきた」も「かはぎた」と読めそうですがそのまま
   にしています。重要なものには全部ルビがあって、ここでは「人」とか「七里」とかには、ルビがない
  ので、やはり「西国」「海上」「船」「米」「鉄砲(火篇)」「河尻」が眼目となっています。「尻」は「九」が
  含まれているから川尻という地名も人名になりそうです。「生(いけ)」は池田があるかも。「肥後」
  は、ルビは「ひごの」であり、「日ごの」国 となっています。これは、前節に
       「一揆の奴原」
   があり、そのタイトルは「・・・肥前(ひぜんの)国嶋原の賊追討の事」となっていますので、肥前の

  「天草の一揆」をみながら肥後の一揆も見ているということになりそうです。肥後(ひごの)(西)国
  の意味がありそうで「小西」が出ているともとれそうです。この辺寛永の天草一揆を述べながら
  統一過程の戦国の天草領や、旧肥後小西領への大弾圧のことを述べているところでしょう。
  加藤清正に責任のかかる
  ところで、背景の「一揆の奴原」がでてきています。加藤清正の悪の別面の悪、加藤キヨマサの
  仕業も加わった消しがたい、受難の記憶が寛永の天草一揆にも濃厚に反映しています。大阪城と
   同じでこのまま終わらせてはならない語り継ぐ
  というものがあるのでしょう。紀伊国退治、長嶋などで出てきた一揆の奴原でもありますから、海賊
  相手の戦いという面も含まれ「川尻」「川北」の一節は遣欧の渡航ー森も含まれているものです。
  川尻ー河尻ー河喜多、というのもあります。一揆の「奴原」というのは若かった織田信長の口から
  出たのが発端です。〈信長公記〉首巻、上洛時に「三川の国の者」に狙われたときのことです。
    
    「・・・上総介殿上洛・・・人躰(かなりの人物)と覚しき衆、首々(かしらかしら)五・六人、上下
    卅人ばかり上洛候。●志那の渡りにて彼衆乗り候舟に同船仕候。・・・三川の国の者・・・・(尾張
   の上総介信長の権勢が強く皆が跪いている様子なので尾張には気を使ったというと)・・■上総
    かいそうも程あるまじく候と申し候。・・・三川の国の者・・・美濃国より大事の御使を請取り
    上総介殿の討手に上り候と申し候。人数は、
        小池平内・平美作・近松田面・宮川八右衛門・野木次右衛門(ここは5人)
    是等なり。・・・上総殿御宿・・・丹羽兵蔵・・・・・御対面候て、汝(ナンジ)等は上総介が討手に
    のぼりたるとな。若輩の★奴原(やつばら)が進退にて、信長をネラフ(身+忍)事・・・実(まこと)
    しからず。・・・ココにて仕るべく候哉。・・・六人の衆難儀・・・五・三日・・・」〈信長公記〉
   
  があり、★で「若輩の奴原」が肉声で出てきます。奴原は「三川の者」で暗示されています。「三川」は
  織田の「▼那古屋弥五郎内」の「丹羽兵蔵」が、どこのものか彼衆に聞かれて云ったものですが、
  それはストーリーでここでは関係なく、とにかく「三川」が出ています
  ■は意味がわからない文で、訳本では「上総介の利運もまもなくつきよう」となっています。「かいそう」
   は脚注では「甲斐性」とされ「信長の才能ももう長くは続くまい(我々が暗殺するから)」の意であろう
   うとされています。「かいそう」の「そ」は方言を考慮すれば「しょ」になるだろうということです。方言
  は「全国方言辞典」を参考にされてこうなっているので、この両者の訳は合っているようです。
   ただ、尾張の人しか訳せないのも問題なので、なにかありそうで、まあ無理にやってみますと
      「■上総かいそうも程あるまじく候と申し候。」は「介」(かい)が入るのではないか、つまり
            ‖
            介
       で「上総介、そうも(いっている)程の期間もあるまじく」ということではないか、すなわち
           「かい」
   を浮遊させるということがあると思われます。前節の終わりが、弘治4年霜月
       「▲勘十郎殿・・・御袋様併(「イ」なし)柴田権六・・・河尻・青貝・・・御生害・・」〈信長公記〉
    があり、この「貝」、つまり、貝塚の「貝」、青い(青山)の「貝」かも、というのもあります。一方
    ●の「海」、志那の「海」の渡りが想起されるものです。志那は脚注では
        「草津市志那町。琵琶湖上の渡し。」
    と書かれています。「志那」は地名だから一応地名索引をみますと、
       「志賀」「志賀郡」「志賀田幡」「志賀の城」「志立」「志太羅郷」「信楽」「志村」・・・
    となっており、二ヶ所あり、もう一つの方は
        「山中・・河尻与兵衛・・・池田勝三郎・・・信長・・・志那より坂本へ御渡海なさる。」
                                             〈信長公記〉
    があり、琵琶湖で海が使われて、志賀の島外洋の海原がありそうです。太田牛一は★「奴原」
    の「奴」は多様に使っていて、
          「河内の好原、」〈信長公記〉
    があり、脚注では、〈南葵文庫本〉「奴原。」、〈原本信長記〉は「者共」に作る、となっています。
    したがって、三つぐらいの意味があり、けしからん奴というものだけでは、ないといえます。
    大倭から見た場合の、「奴国」の「奴」(な)、「那の津」の「那」(な)の那の原というのはある
   のでしょう。「志那」に「渡海」がついています。ここの「河尻」が上の「青貝」−貝塚ー紀伊国退
   治に行きますが、池田勝三郎も▼▲に繋がります。つまり、織田の中心、土田氏のオールメンバ
   ーが登場しています。「柴田権六」が「併」ということで御袋様の中に隠れてしまいます。
         ▲勘十郎殿(二男)ーー柴田権六
         織田三郎五郎ーーーー池田勝三郎恒興
         織田五郎ーーーーーー▼那古弥五郎
         織田三郎信長ーーーー上総介信長
   というの全員が出てきています。まあこうなると同じ織田信秀子息
「      「三男上野介殿、四男九郎殿、五男安房守殿」
   との整合の問題が出てきます。六男に彦七郎をもってきて以降面倒になったのか名前だけ羅列
   しているから、なお更、頼りなくなっています。ここ海洋のところでは安房守殿の出番といえる
   ので、思い出すために出したものです。

   (98)織田九郎と九郎
    〈信長公記〉人名索引では、四男は離れて二つ出ていて
          ○ 九郎 → 織田信治      
          ○ 織田信治   (〜1570) 九郎、信長の弟、尾張野夫城主、近江坂本で戦死。
              ●九郎  115頁
   それぞれ、このようになっています。115頁というのは、「織田九郎」で出でおり、例の
 
      「討死、(改行)森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八。
               道家清十郎・道家助十郎とて兄弟 覚(おぼえ)の者あり。生国(しやうこく)
               尾張国守山の住人なり。一年・・高野口へ武田信玄・・・森三左衛門・肥田
               玄番・・・信長公・・兄弟して頸三つ・・・・森三左衛門・・・」〈信長公記〉

   とされているものの織田九郎です。したがって●は織田九郎とすべきを九郎にしてあります。
    これを九郎と変えたらどうかということですがもしそれをやれば、
         「森三左衛門・□□九郎・青地駿河守・(尾藤二人)」
   となってしまいます。
      @ 「森三左衛門・九郎・青地駿河守・・・」というのはこれは不完全表記でこの一行は崩壊
        する、ということで、一応、ストーリーの面はなし。
      A 「森三左衛門・□□九郎・・・」の□□を生かすとすれば「森(毛利)」しか入らない。
        「森・森」で森兄弟を示しているというのがわかる。
      B「□□九郎」の□□は「四男」を入れるというのがわかる「織田」はその誘い水にすぎない
    などが「九郎」だけにしたと考えられるところですが、索引を作った人のヒントは@Aのことに
     関しては、この文の性格を、ずばりそのとおりいいあてていると思われます。
     Bでいえば四男がどうなるかということです。〈甫庵信長記〉の書いているものを整理すると

         子息信長卿  童名吉法師(織田三郎信長=上総介信長)
         別腹の舎兄   織田三郎五郎(池田)
         二男       勘十郎(=信長舎弟)(柴田権六)
         (三男)     (子息信長卿 童名吉法師)
         三男       ★上野介(「上総介」と似てる)(「上野介信兼(信包)」=信長卿の
                   2回目の舎弟)
         四男       ★九郎  (織田五郎=那古弥五郎)
         五男       安房守殿(明智左馬助の舎弟)
         六男       ★彦七殿、喜六郎(お市)殿
                   半左衛門尉殿、中根殿、其の弟、源五殿、其の弟又十郎 
     
     のようになりそうです。★の三表記は、暗示的なもので当面不要で、欄外でよいもの。四男
   と五男がペアで
    安房守殿の連れ合いが、明智左馬助となり、四男九郎が森の人といいたいのかも。
                那古屋弥五郎(池田)
                ‖四男九郎(信治?、野夫城主)
                ‖安房守殿(織田信時)ー福富平左衛門
                明智左馬助
     弥平次と安房殿が駆け落ちして、格好をつけかたとして、池田と明智が姻戚関係を結んだ
    ということで、明智左馬助は池田恒興の(ひいては勘十郎の)義弟となったということと思われ
    ます。「半左衛門尉」「中根殿」は「七・八」男となるはずを省略した、あの「七・八」と間違われる
    からだと思われますが、これは今で言う男の人だから間違われても問題ないものです。
    中根殿は表記上「喜蔵」などというヒントがありますが(常山)、太ク逞シクなどと同じで直感的
    なものもありそうです。そのあとの「源五」殿は誰の弟かというのが「其」のとり方です。

    (99)源五殿
      これは「五」ですが「源」がついてるから単純な「五」ではなさそうだから
    やはり五男、安房守殿の弟になって六男「源五」となり、七男、又十郎となりそうです。
    源五と又十郎は土田氏といえそうです。この源五は「有楽(うらく)」で東京有楽町の語源だ
    そうですが、安房守の窯が信楽にあったことと関係するかもしれません。「有楽斎」は建仁寺
    で出てきますが、国宝風塵雷神図の保護に貢献があつたのではないかと思われます。ウイキ
    ぺデイアは源五殿の兄弟が書いてあり、上と合わせてみますと大体あっていそうです。
     (番号は資料には入っていない)

      1、信広(上では池田) 2、信長 3、信勝(勘十郎) 3、信包(信兼もある)
      4、信治(九郎・弥五郎) 6、信時(安房殿) 6、信興(彦七) 6秀孝(喜六郎)
      7、□□(半左衛門) 8、信照(中根殿) 6、長益(源五) 7、長利
    
     となっており、7、の半左衛門だけが一般に無視されていて、中根殿の形容詞になっている、
     感じです。源五は長益というのが重要で滝川一益の「益」につながっています。ウイキぺデ
     イアでは本能寺のときに、織田信忠のところにいて、信忠に自害を勧めて自分はうまく逃げて
     しまったということで京の民衆から
        「織田の源五は人ではないよ、お腹召せ召せ召させておいて、われは安土へ逃げるは
        源五、むつき二日に大水出て、おた(織田)の原なる名を流す」
     と皮肉られている、と書かれています。一方、ネット記事で2件ほど出ていたのでわかりましたが
     、本能寺で織田信忠の発した「奴原」があります。

         「信忠曰く、か程の謀反を企てる(企謀反)奴原か、な・・・・・・・惟任深穏密しける・・
         安土へ於御移は 不可有(二)別條(一)所・・・・二条・・・六十五人・・・相果て・・・
         信忠御腹切給・・・・鎌田追腹・・・右の六十五人之内、討死衆六十三人也、織田源五
                {信長弟有樂こと)
         被 遁出 ける。水野宗兵衛{刈谷主、}此度は遁て刈谷へ帰らる・・・{此宗兵衛は
         日比は武篇者也}、梶原左衛門が続子松千代煩ひて町屋に居、・・松千代内同名
         又右衛門・・名代と為りて、二条へ相籠る、信忠感悦し給ひ、長刀下さる。・・」〈当代記〉(又)て
      

    これをみれば  ○信忠は徳川というのは知っていた
              ○安土に移る段には問題ないといっている
              ○二人人数が合わない(織田源五突然登場)
              ○織田源五(有楽斎と有樂齊)がある
              ○水野宗兵衛はここにいたのかわからない、武篇者となっている
              ○本能寺の話と海外渡航の話が混っている(梶原と松千代)
              ○信忠曰くーーー信忠腹切給ーーー信忠感悦大刀与える
    となって織田源五は織田信忠のもう一つの表記として、この場から信忠が生き延びたという
    ことを示したものともとれそうです。また二人が安土へ移ったともとれます。いずれにしても、後に
    右樂齊、右楽斎の両者が存在するということになるのでしょう。本能寺では「一揆」〈信長公
    記〉、「一揆の奴原」〈甫庵信長記〉がでてきますが、それも〈両書〉の終わりに出てきて
    話を締めくくるかのように使われています。本能寺と、欧州遣使のことが天正10年の主題と
    いえます。徳川色と、海賊に対する闘魂の口から出たものが「一揆の奴原」ですが、民衆と
    か、その動きも示して、「一揆」「者共」「奴原」とかもあります。しかし表記はおなじですから、
    「徳川」「遣使」がそこから関連付けられているということはいえそうです。織田源五は爆竹の
    二回目に出てきますので、海外関係ありでさきほどの、ウイキの「むつき、二日」は6月2日の
    本能寺事件の勃発ととりますが、「睦月」は1月で、これは爆竹Aの正月を指していそうです。
    
    (100)九鬼右馬允
    信忠は「忠」であり、「勘九郎」でもありますが〈戦国〉で触れたごとく「雪のように清げなる膚」
    の人でもありここでも「腹」という属性が示されています。織田源五は、いはゆる、織田信忠
    去就の証言者といえますが、感じとして織田信忠は遁出したと取れそうです。とにかくここで
    安房殿の関係者が本能寺の重要な場面で出てきたというのが、遣欧のことを重視したものと
    いえそうです。すなはち安房殿と池田にもつながるのが源五です。
      A、安房の筋は
          明智左馬介→伊勢滝川左近(大船白船に乗り毛利戦大勝→伊勢熊野水軍)
          ‖ーーーーー子息(「●九鬼右馬允」〈信長公記〉)
          安房守殿(明智左馬介秀俊)=織田信時=利口なる人(守山の住人)
        という関係の●が安房殿Aという実存と考えられます。斎藤新五Aと兄弟とも考えられ
        るところです。
        「懸落」のときに出てきた「孫平次」(三宅弥平次の子のような感じ)を海軍大将として
        養成していたと考えられます。本名(活動名)はまだわかりません。九鬼嘉隆は実在の
        人物で、〈信長公記〉の解説のために「九鬼」を名乗ったのかも。湯浅常山に言わせると
            「九の鬼嘉隆蟹江港出船の事」
        のタイトルがあり本文は「九鬼大隅守嘉隆」となっています。「大隅守」というのは索引で
               織田大隅守
                 三郎五郎
                 大隅守
               織田勝左衛門」〈甫庵信長記〉索引
       となっていてなんとなく池田が出ています。「伊勢」の「九鬼右馬允」は「木津表」「木津浦」
       で大勝して「木津(川)」は、その属性です。「木津口」でもう一人、「荒木摂津守」の事件が
       あります。 「信長」が「荒木摂津守」に先手を命じますが
          「我々は木津口の推(おさへ)を仕候はんと申し候て御請け申さず候。」〈信長公記〉
       があり、命令を受けなかったことがあり、従来の見方から取れる信長なら、これはありえ
       ませんが、「信長後に先をさせ候はで御満足と仰せられ候キ。」なっています。とにかく
       頭を捻らねばならない所で、「荒木摂津守」ー「木津」がでました。
       これは前年、天正三年の「十一月」に
          「信長御家督秋田城介(信忠)へ渡し進ぜらる。・・佐久間右衛門私宅へ御座を移
          さる。・・・」〈信長公記〉
        というのと関係ないとはいえないようでもあります。これはひょっとして織田信忠が「勘」
        の人だから 信長ーー信忠ーー秀信 という三代の孫、秀信を信長の後継にしようと
        するものかもしれません。
         この御座が本能寺で出てきて
          「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。信長も御小姓衆
           も、・・・」〈信長公記〉
       になり、「信長公」と「信長」がいる感じです。このときに光秀は「桂川」打越し、の段階です。
       一方で「(二条)妙覚寺」を出た
            「三位中将信忠」
       と「二条御所」で切腹した
            「三位中将信忠卿」
       が出てきて、ほかに、「中将信忠卿」も、「二条」という場所もあり、本能寺もストーリーで
       読めば今までの読みでよいわけで、お陰で徳川の治下で発刊され続けて、明治に伝わ
       ってきています。それはそでいいのですが、本能寺
       も表記と色で読まないと真相、真実が出てこないというのは同じで、最後を飾る重要なと
       ころだから一段と技巧ア凝らされているということになるのでしょう。遣欧使節のことも同
        じです。「木津(川)」の「九鬼右馬允」「荒木摂津守」が出ましたが〈常山奇談〉の
      
        「山城の相楽郡を過木津川・・・・信楽・・・船・・・山城相楽郡山田村・・・」
 
      も「山城」が「荒木山城守」があるだけに「荒木摂津守」−「木津」ー九鬼ー船−「楽」ー
      有楽ー安房ー信楽ときそうですが荒木山城守は天正九年の状に

         「・・・・近日西国へ下向セシム可ク候。・・好物・・色々調へラルベク候。・・・御弓断
         (油断)なく御調へ頼み入り候・・・。  天正三年八月吉日  荒木山城守 印
             進上 阿弥陀殿 参  」〈甫庵信長記〉

       とい書状を紹介しています。内容は、天正9年をベースでみれば翌年、遣欧使を出したい、
      土産品、食料品(海産物など)を調えてほしいと取れるものです。「近日」は天正三年で見
      れば
       「九月二日・・・荒木摂津守、是も越前より直に播州奥郡へ相働き・・・旨仰せ付けられ候。」
                                                  〈信長公記〉
      があり、これと符合しそうです。自身で播州で物品を買い集めたいと思ったとここでは想像
      されるところです。アミダ殿へ進上用ということでしょう。太田牛一は「阿弥陀」から「弥陀」
      を分離したのかどうか
         荒木のくだり・・・「弥陀・・・阿みだ仏・・・弥陀・・・弥陀・・・」〈信長公記〉
         貞安の問答・・・「弥陀・・・・弥陀・・・弥陀・・・弥陀・・・弥陀・・」〈同上 〉
   があり、集中的にでています。「阿弥」は人名でたくさん出ます。「進上」があるからこの際は
    「阿弥」=「阿弥陀」の意味もあるかも。この「山城守」の手紙の一節は「夜話の事」となって
   おり
      「森の乱{森三左衛門二男}」「良琢(りやうたく)・・丹波の者」「荒木山城守」「翠竹院道
      三」「白き絹の四半」「福の神の十子」「屏風」「扇、畳紙」
    などが出てきますが、〈武功夜話〉の題名に影響を与えたかもしれません。ここでは「翠竹院
    道三」覚えとこ、というところでしょうか。源五で出てきた安房の面は、
             真田安房守信幸」〈甫庵信長記〉
       という少しおかしい表記を生み出しています。一方テキスト補注では佐久間氏は安房の
      出で、子孫が尾張へ移って「山崎城」(桶狭間へ途中の呼続町)、五器所の城の城主だ
      ようです。「安房佐久間」というのが(上佐久間・中佐久間・下佐久間)を一つにした呼び名
      のようです。佐久間信盛は 
         「安房」「山崎城主」「右衛門尉」「出羽介」(織田信忠が「出羽介」)「(弟)左京助」
         「佐久間甚九郎」
      などと関連してみなければならないところで、織田信忠にも通じていますがウイキぺデイ
      アでは織田信忠には正室がなく側室、「塩川長満」の娘、となっています。今となれば塩
      川伯耆守(国満)=武井セキアンと取れますから、一応平手氏がでてきます。同じく源五
      も平手氏関連(ウイキでは、室が「平手政秀の娘」となっている)です。
          織田信忠=「信重」=織田七兵衛信澄(勘十郎の子)
      という珍妙なことになっています。

          織田信秀  ーーーーーーーー 吉法師信長ーーー織田信忠
          ‖織田与二郎(土田弥平次)(平手氏)
          ‖織田孫三郎
          織田与次郎(土田御前)ーーー織田三郎五郎、勘十郎、五郎など
      とか
          織田信長ーーー織田信忠ーーー織田秀信
          ‖勘十郎
          ‖織田孫三郎A
          織田信長夫人 
       
      というようなものが背景にある、としての本能寺のことならば、織田信忠一人の動向だけで
     その後のことの説明がかわってくることになるのでしょう。信長打倒に成功したあと、明智光
     秀が安土城へ入りましたが、そこに織田信忠がいたとなると、織田家の天下到来を朝廷を
     巻き込んで全国にアピールということになりそうです。志津ヶ嶽の戦いまでは、間がなく、
     年表では、同年6月には秀吉が清洲会議で秀信の嗣をきめています。7月山城の太閤検地
     があり、翌年四月、柴田勝家が滅亡しました。〈甫庵信長記〉の冒頭、日本史の動乱叙述の
     最後に
         「明徳に山名、嘉吉の赤松、応仁の義政公、相継いで大乱世に起こりき。・・・・
         義輝公・・・犯され給ひ・・・・・義昭公又武将に備わり給ひしに・・・・」

       となっており、はじめにあるから、はじめに書いたとは限らず、最後と密接に繋げて書いて
     あると、みなければならないのかも。
      「山名」は「宗全」「全」であり、
      「赤松」は「満祐」で、「満」は「塩川」の「満」、「福富満蔵」の「満」、「祐」祐乗坊の「祐」、
     ですが、「応仁の義政公」はちょとおかしい、応仁は「細川」か、義政公なら「義政(連れ合い
     富子)」が出たということになりますが、大乱世というのは応仁の乱ですから、これが11年間も
     争ったということで、これをもう一回くりかえしたらいけないというのが、頭にあって自分の時代
     をみていたということでしょう。〈両書〉の各論は義輝が討たれたところから始まっています
     から、前の時代を踏まえてスタートしています。〈信長公記〉では、討たれたのは「義照」と
     なっており、二男と三番目の御舎弟、二人を出しており、また甫庵は、ここで義昭は武将の
     器が備わっているといっているようです。あの義昭とは少しイメージが違いますが、こういう
     見方がいつでもついてまわるようです。徳川家康公は明智を敵と見ていますが、一番恐れ
     たのは、織田の中心、尼崎の池田など親類の多い、桶狭間以前から戦い続けてきている武勇の
     勘十郎であろうと思われます。
     
    (101)〈信長公記〉の支倉常長
     勘十郎の「勘」の面を持つ安房殿ですが、
            真田安房守信幸
            佐久間安房信盛       武蔵守
     から「幸盛」が出てきて、          ↓
           山中鹿之介(幸盛)弟=亀井新十郎(茲矩)
     ということから、木村常陸介の姻戚らしい亀井(武蔵守)がでてきます。「武蔵」だから勘十郎
     −安房殿ー亀井となり、朱印船ー海軍の亀井がでてきます。「山中」は鹿野城の亀井をみて
     仮名と思われ、「山口」「山名」による「山中」と思われます。
     山口飛弾守(〈甫庵信長記〉では「山口飛騨守」ー〈甫庵太閤記〉では「木村常陸介」)の
     「木村常陸介」であろうと取れます。「常陸介」が「氏家」から出てきたので、出生はこのあ
     たりかもしれませんが、これが
               木村源五(考証名「木村重章」)〈信長公記〉
     であり、〈信長公記〉に引き宛てを保留している「木村いこ助」(相撲)と「木村伊小介」があり
     漢字の「木村伊小介」は
            「木村源五内{木村伊小介}」〈信長公記〉
     となっています。「伊」は「イタリヤ」の「伊」でしょう。
            山口飛弾守(木村源五@)ーーー(子息)伴正林@A(天正七年18・9歳)
            ‖ 
            木村常陸介(木村源五A=木村重章)−−(子息)●木村伊小介(支倉常長)                        |
            弟「木村いこ助」=亀井新十郎   
                           
     とみれそうです。●で支倉常長を出したのは、確実といえるところです。支倉はウイキでは
     1571生まれとなっておりこれなら1582本能寺は11歳で13歳の少年に該当します。
     蒲生の木村重章(あき「詮」に同じ)の系統の人といえそうです。山口飛弾守系の人は塙で
     呼ばれるのでしょうか。太田和泉守にとって塙団右衛門は孫婿になるのかもしれません。
    
   (102)山中鹿介
          「山田山中」〈両書〉
     というのがあり、〈信長公記〉では、元亀四年
        「・・・多賀・山田山中・・・材木・・松原・・・御大工岡部又右衛門・・・棟梁・・大船・・」
    という大船建造の短い一節で出ています。多賀は近江犬上郡の多賀もあり、常陸国の多賀谷
   もあります。〈甫庵信長記〉では天正六年、山中鹿助が出てくる、中国路で

        「元就加勢・・湯原・・討捕る・・・元就・・・尼子・・尼子・・・三沢・・・陶五郎・・・山田山中・
        ・陶と尼子・・・敗北・・・此くの如く元就、寡を以て多に勝つ事、数度有りけるとかや。
         委しく問ひ訊ねて重ねて之を記すべし。
           (ここで次節)九鬼右馬允大阪表大船推廻す事  」

   があり「山田山中」は「山中」を「山田」と接近させています。
   山中鹿介(助)の「山中」は、山田もありうるので「山田山中鹿介」の物語は山口飛弾守とその
   姻族の木村氏の、つまり「山口飛弾守(木村常陸介)」の山陰山陽での活動を表す表記かも
   しれません。山中鹿之介には遣欧使節を語る役目もあります。山中の根拠は「山名」で、山名
   禅高は太田和泉守と重ねられていますので、山口にも及びそうです。山名豊国も豊国神社を
   想起します。秀吉有馬温泉湯治ー山中鹿之助また万松院殿に思い出をもっていることなど
   があります。〈両書〉に山中鹿介が突然出てきた天正五年、天正六年、上月城には木村常陸
   介が明滅します。
      天正五年、10月、播州陣、〈武功夜話〉

        「・・・案内役、尼子助四郎・・・・案内役、山中鹿之助・・・・木村常陸介(重茲)・・」
        「上月責めの事・・・・木村常陸介(重茲)・・・先手尼子助四郎勝久 山中鹿之介幸盛・」
 
   などで、天正6年(落城の年)「上月責めの事」〈武功夜話〉では
        「木村常陸介(ルビ=重茲)・・木村常陸介・・・・木村常陸介は上月救援。・・・山名豊国・・・」トヨクニなっ    などがあります。山名豊国と明石飛騨守景親はこの直後の帰属で、ここに案内人として出てきた
    尼子勝久と山中鹿之介は
        「大方は四散或いは討死、筑前様の陣中へ罷り来り候なり。これより紀州雑賀御陣
        幕下に加わり、大阪天王寺取出に罷り居り候。」
    となっていた尼子衆なので、毛利も意識した尼子ではないようです。
        「先の尼子助四郎勝久」 「先君尼子の家士山中鹿之助幸盛」
        「先主晴久の子・・・東福寺の僧・・この人尼子助四郎勝久に作る人なり。」
    というような表現があり、毛利、尼子を応援した織田の軌跡があるのを
   反映しているようです。「山中鹿助」が〈両書〉で出てきたところは上月城を守らせた、というところ
   です。「尼子衆」を上月城へ入れたと書けば山陰の尼子のことが想起できるのに「山中鹿介」を
   使ったわけです。これは、前提なしに出してきたから、読者に、尼子で「山中鹿之介伝説」があって、
   それを持ってきたと思わせるものです。実際は、これは、〈甫庵信長記〉の
      「輝元播州上月の城を取り囲む事」(「井原」などが出てきた歴史の一節と呼んだところ)
    から来ています。一部再掲

      「荒木山城守退治(これは西国で既述)・・・山中鹿(の)助・・・荒木摂津守・・熊見川・・見続
       茲(ここ)に出雲国の太守、▲宇多源氏の末流、佐々木源三秀義が苗胤、尼子伊予守 
      経久が的孫、右衛門尉晴久、中国十六箇国・・・(元就4回)・・・山田山中・・元就・・」〈甫庵信長記〉

     がありましたが、そっくりこの▲を受けたものが〈甫庵太閤記〉の「山中鹿助伝」に出てい
    ます。
      「粤(ここに)▼宇多源氏の末流、佐々木源三秀義が苗胤、尼子伊豫守経久が的孫、右
     衛門尉(晴久)が子伊豫守義久が内、山中甚次郎、天文十四年・・八月十五日・・・出生しけり。」
    
     があります。▼は「尼子伊豫守経久の的孫右衛門尉(晴久)」までは同じで、
       伊豫(稲葉伊豫)の(「義久」)内の「山中甚次郎」
     が出されて、このあと長い「山中鹿助」の伝記が語られています。したがって「山中鹿助」は
     太田牛一、始発のもので〈両書〉に天正5年・6年に名が出されたときに別記事が作られ、
     〈甫庵太閤記〉に収納されたと考えられます。
      「甚次郎」は誕生日まで書いてあって、誕生日は母親でないと覚えていないものでしょう。
      甚次郎は太田和泉守と19歳の年齢差になりますから、子息
      世代で「山田山中」とくると索引からも「山口」が出てきますから「山口飛弾守」が現れてき
      ます。蒲生の飛弾につながる木村(山口)は海外に派遣できる支倉などの人材を生み出した
      というものがあると思われます。これは山中鹿助からでないと出て来難いところでもあります。
  
     (103)尼子政久
      ▼のところで「義久」が出されたのが意味深長と思われます。尼子は経久があまりにも
      有名で知られたところでは
          尼子経久ーー晴久(的孫)ーー(義久)
      という二代で、経久が80超える長寿で最後まで政務をみれたのでこれでも不思議では
      ないということでしょう。実際は「晴久」の名前は、前名が「詮久」となっています(ウイキ)。
      これは「全」−「膳」−「善」に通ずる名前です。経久に長子「政久」と「国久(新宮谷党)」と
      いう秀でた子息がいて、政久が惜しくも戦死しますが、実際は
           経久ーー政久ーー晴久ーー(義久) と流れ、「詮」を生かして書くと
            ↓    ↓    ↓
           経久ーー(詮久)−晴久ーー(義久) と流れたと仮定できそうです。
     すなわち、希望するようには子が授からず、経久、政久、国久が相談し政久の子が、成人
     し、家督を継げるまで、バックアップしていこうとなったと思われます。政久に笛による戦死
     の挿話がありますが、これは貞光久左衛門の笛の弟子、奈良左近の戦死〈甫庵信長記〉で
     「樋口三蔵」(桶狭間山口相当で既述)、「爪弾(つまはじき)」がありましたが、尼子の一節
     「井原の樋爪」と対応しているようで、隠れた尼子の名将、「政久」を炙り出したいというのが
     あったのでしょう。戦の渦中にある戦国時代といっても、まじめに、この社会のことが考えられ
     ていたようです。戦に勝ちたい、一辺倒ではない何かがあった、受けてきた教えかそうさせ
     るのかもしれません。この「山中鹿助伝」では鹿助は天正7年にも出てきており落城では死
     んでいないようですが「大友宗麟」「丹後の海賊」「渡海」「由宇」「船」「舟」など航海に繋げた
     い一節で終わっています。的孫を晴久として、念のため義久を出したと取れますが
         惟任日向守ー梶原平次ー続子松千代
     の的孫を出したかったのもあります。中国地方の情景を語りながら他のことも語るというなかの
     ひとつの鍵が山中鹿助で、遣欧のこと、支倉常長がとりあえず出てきました。政久の登場が
     企図されていたら、毛利への波及は必至でしょう。毛利に隆元の存在があります。〈甫庵
     太閤記〉「山中鹿助伝」のあとは毛利元就の「家伝」がありそこでは毛利隆元は
       「毛利中興・・・元就  大膳大夫隆元  中納言兼右馬頭輝元  宰相兼甲斐守秀元・・」
     となっています。栗山大膳、塚本小大膳のような名前ですが、子息は有名な輝元です。

      (104)九鬼右馬允(2)
      九鬼右馬允で A 安房殿の側面に触れました。つぎは池田、森の面です。 
       B、 森三左衛門の戦死の場面で「織田九郎」を「九郎」でやってみたことから脱線しましたが
       信長の兄弟「四男九郎」というのは「織田九郎」に違いないとして、戦死の五人
           「森三左衛門・●織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八」
       の織田九郎をそうみてしまうのは問題で実際織田彦七という姻族も入っていました。
       後ろの二人が守山の住人なので安房殿の線から池田も出てきて青地は森勝蔵とする
       と後年小牧長久手の戦で、森長一長可と酒井忠次が羽黒で激突したときの長可は
       この森勝蔵でしょう。森三左衛門(大田和泉守)は池田勝三郎に乗り、織田九郎は
       四男九郎とみたとき五男安房守、源五とつながりました。つまり那古屋弥五郎とみますと
       まあまあの結果となりました。こうなると
       後年小牧長久手役で戦死した池田の「紀伊守」が気になります。宮本兵大夫登場の
       「紀伊国退治」の「紀伊」もあります。小牧長久手の戦いは、池田総崩れで、ちょっと外か
       ら見たのでは危険なので、一応太田和泉守に下駄を預けて、あとでわかるとして取りあえず
      覗いてみて
        戦死した池田勝入斎、紀伊守(輝政兄)、婿森長可 というのは
                ↓         ↓          ↓
              大田和泉守  那古屋弥五郎   森勝蔵(長一)
       としておくと、若い「池田紀伊守」が戦死していない、森兄弟の若い方の長可も同様と
       なりそうです。婿森勝蔵というのは今では他に居る池田の娘の婿ということですから
       池田の娘はいまの立場においては健在です。
        ●を織田九郎とするとどうしても大田和泉、森可成を(織田の親類なので)考慮の対象
        から外すわけにはいきませんが、「九郎」とフリーにしてみると池田九郎、森九郎
        というのも入りこんできますと●の一文は森の五兄弟に変わりそうです。つまり
        森勝蔵、同朋、が森可成がわの兄弟として入ってくると、森勝蔵は森三左衛門Aで
        もありえます。(柴田三左衛門、池田三左衛門などの「三左衛門」もある)●の文は
           森勝蔵・大石源三・(本来の)森長可・(守山の)尾藤源内・尾藤又八
        となりえます、いはゆる森長可を二つに分解することになります。ヒントを生かす一つ
         としてこうなりますが、池田兄弟の兄「元助」を生かすと、一応普通の場合は
                長可(古田織部)(青地与右衛門=馬揃奉行)
                ‖▲池田元助A(「池田せん」がある)
                ‖尾藤源内ーー▼古田重然(古田左介)
                池田輝政
        ということになりそうですが、池田輝政の妻は中川清秀の娘というのだけがあり、(次の
        妻は徳川家康の娘)、これだけでは
            「古田重然は中川清秀の従弟。はじめ中川清秀の与力。」〈テキスト〉
        のようなややこしいことは要らないはずです。これでは中川氏の関与が
        どうなのか、というのが出てきません。「池田元助」(考証名)は本文では
             「池田勝九郎」〈信長公記〉
        でテキスト注では
           「(1564〜84)(これでは20歳の死)、庄九郎、勝九郎、紀伊守、恒興国の長男」
        となっており、池田勝九郎で7頁にわたる登場、ほかに池田父子のなかにも入っており
        注目の存在となっていますが、若くして亡くなったためか、語りが殆どなく弟の池田輝政
        と比較すると大違いです。ウイキペデイアから補足すると「之助」もあり、これは「元助」
        の「元」が崩された感じのもののようです。
             「改名 勝九郎、元助」「別名 庄九郎、之助」
        となっています。生没年が「1559〜1584」となっており、これだと25歳の死ということ
        になり、テキストと違います。勝九郎は池田勝三郎の「勝」、庄九郎は池田勝三郎が
        出ている火起請の一節の庄屋甚兵衛の庄です。「池田勝三郎」「左介」「織田造酒正」
        「信長」の名前が出てくるところです。
         違った二人が居るということから▲をAとしたわけですが、これは実際人物が居ると
        いうことではなくて▼の人物を示唆するためのものと取れます。▼は中川氏でテキストでは
          「中川氏は織田信秀の弟信次の家系」
       となっています。つまり「右衛門尉」の家系ということで「(佐久間)右衛門尉」とか「(平手
       五郎)右衛門尉」とかの「右衛門」と通じます。一応、古田重然は、武井夕庵の筋の人
       (子息)というのが出てきます。平手ー武井夕庵ー織田造酒丞ー大田和泉守ー桶狭間
       中川金右衛門ー信長ー乳兄弟池田勝三郎ー庄屋ー左助などの線が雑多に浮かんでくるとこ
       ろです。▼が上にあがって▲に重なるとき、そのあとに収まる人物はウイキペデイアの
       古田重然、重勝の解説と、湯浅常山で大体見当がつきそうです。
 
      (105)古田重勝
       大坂陣のあと古田織部が謀反の嫌疑で断罪されたことは知られていますが、〈常山奇談〉
     では「古田重勝」で顛末が述べられています。その「重勝」を借用します。

                長可(古田織部)(青地与右衛門)
                ‖ 中川氏(せん)、(池田せんもある)ーーー古田重然(古田左介)
                ‖ 尾藤源内ーー池田元助@−−■古田重勝(長可弟ー又八兄)
                 池田輝政(武蔵守・三左衛門・照政・古新)
  
     という■がここに出てきそうです。ウイキでは重然から重勝が出てきて、古田重勝は・・・
             「一族といわれるが織部と混同されることも多かった大名」
             「新井白石は〈藩翰譜〉で茶人として有名な古田織部こと古田重然の甥として
             いるが根拠となる史料は残存しておらず不明である」
     という短文があり「混同」となっているから「重勝」を嵌め込むだけです。「勝」は池田の「勝」
     、「勝九郎」の「勝」です。甫庵の池田の「古新」は「古田」の「古」が後で入れられたのかも。     
     新井白石の発言はこれ自体が史料でよいのでしょう。こんなの聞いたこともないと切り捨てる
     のもいいのですが、古田では、公式が出される可能性があるところです。重然と重勝のこういう
     関係を「甥A」という、と新井白石がいっているかもしれないわけです。すると大損になって
     しまいますからこの機会にやってみると、新井白石の真意をつかめてあとで利用できること
     にもなりまあす。常山はフルネームの重勝を出しています。森銑三の索引は不完全その
     そのものですが古田は    
             古田織部重勝   下49頁・244頁
             古田助左衛門   中101頁
     となっています。古田織部長可、古田織部重然、などが他にあるという感じの重勝です。
     中身をみて「古田兵部少輔」「助左衛門」「景勝」「織部正」「金兵衛」などが出ているから
     ■の位置に(舎弟扱いとして)、古田重勝を置くのは合っているといえます。
      49頁は「古田重勝滅亡・・・の事」の一節で大阪方に味方したということで「父子とも誅戮
      せられけり。」という記事があります。中の表記は「古田織部重勝(ふるたおりべしげかつ)」
     です。一方、244頁のは、244頁にはなし。246頁にあり、
          「・・大坂内通・・・左馬介・・古田織部、八條道二、木村宗喜・・・宗喜・・・織部・・・
          陰謀・・・秀頼内意・・・織部も切腹し、宗喜以下二十余人、日の岡に張付にかけらる
          るなり。」〈常山奇談〉
      があります。
       この古田織部は索引から来ているわけで、重勝、つまり■の人物です。それも探し探して
      出てきたものです。二頁違いはありうるから前後は見るのが期待されているのでしょう。
      242頁は、「信長公長谷川菅谷」「甲斐信玄」が出てくるから戦国の話でしょうが
         「定一・・・座頭・・・・定一・・・・定一・・・・座頭・・・定一・・・定一・・定一・・」
      があります。これは何のことか、意味がわかりません。とにかく重勝が照準にされている
    一節かもしれない、ということは出てきます。これは信長公が座頭に会う話です。〈信長公記〉
    で「座頭」が出てくるのは「常見」という目の能く見える座頭を赦免する話です。ここに結末を
    もっていったとも取れます。「常見」「検校」の一節では
           「摂津兵庫・・・・千貫・・・千貫・・金銀・・・金・・・・黄金・・」
     が出てこれは爆竹Aの次節
        「伊勢・・・上部大夫、堀久太郎・・・千貫・・・千貫・・・千貫・・・千貫・・・平井久右衛門・・
       上部大夫・・・森乱・・・・・土蔵・・・三位中将信忠・・・」
     の千貫に繋げ、爆竹の「信忠」や「堀久太郎」(森乱)を出しています。「常見」の一節の金、
     銀、黄金は爆竹Aの前節、金だらけの安土城内の一節の金、銀、黄金に対応しています。森乱にもいもに       「常見」の前節は「荒木摂津守」の登場ですが一節の終わりは
     「大石源蔵・・信忠・・伊丹・・七松・・塩河伯耆・高山右近一与・・中川・・福富・・▲山岡対馬・・」
                                                      〈信長公記〉
     があり、「常見」の後節は短くて
     「宮内卿法印・●山口甚介・・・宗論・・伊丹・・▼滝川左近・・・青地与右衛門・・・」〈信長公記〉 
    があり、座頭の「常見」の一節は挟まれている(「伊丹」などでわかる)わけです。一言でいえば
    ▲▼などで渡海のことが「常見」に掛かっています。また「森」が大石・中川・青地で出ていま
    す。●がわからないのが問題です。人名索引では
            山口九郎二郎/山口甚介/山口太郎兵衛
     となっていて、これは森の太郎ということにない、常見はじょうけんと読むようで索引は
        貞安/常見(摂津兵庫)/常光院/勝三郎→池田勝三郎
     となっていて、●のあとの「宗論」で貞安があって、「常見」勝三郎という予想外のものに、
     流れています。つまり常山の「定一」は「貞一」と思われます。●は
      池田の森太郎=青地与右衛門(古田)の次弟=尾藤源内=古田重勝
     となりそうです。●は人名注では「秀景」とした資料があるそうですが「秀」は
             光秀
             秀吉   の「秀」であり、「光吉」→「三吉」→「佐吉」→「武田左吉」−夕庵
     や光慶につながる「秀」で、「景は「古田景安」の「景」と思われます。奇禍に遭ったのは
      織部の中の重勝だったといっています。「古田景安(織部+重然)」ではない、池田を
      表すために「勝」を取り入れた、作られた表記といえます。
      また重勝が、殺されたと
     とるのもおかしいようです。まあいままでのことから確認してみますと
        ○八條道二・木村宗喜と並びだから周辺のヒントも加味すると「切腹」の「腹」と合わない
        ○秀頼は10万余の人数を退去させて城を落とした、世界でも類例のない籠城戦をやった
         人物であり、京都焼き払いの命令はありえない。(坂本城、高松城、上月城、鳥取城
         三木城などは城主が責任を取り、城兵は助かって落城したという話で出来ている、
         大阪城は別だという理屈は通りにくい)
        ○池田輝政は約百万石で「西国将軍「西国宰相」といわれた人物で加賀ほどの影響
         力があったが慶長18年(1613=大坂冬の陣の前年)に死亡し(50歳)、輝政の戦
         略が出ない中で、重勝の処罰はありえない、つまり重勝は免責の立場にある(生け取ら
         れ命を永らえて帰ってきても非難はされない立場)
     などからですが、古田重勝の古田は古田の必然がないもので、「古池田」という池田ー古田
     の関係を示す一つの布石であり、古田粛清の挿話は、別の目的を持ったものと解せられます。
     目的は何かということを考えればよいような感じです。
        ○古田織部の勢威を再認識させる
        ○芸術上の令名から徳川けしからんと感じさせる
        ○罪状はありえないという感じが古田のキャラクターから出てくる
     一件落着後、最後の難題を打ち出した感じですがこれが海外遣使の古田重勝相当人物が
        九鬼右馬允=安房殿A
      であるというこでそれを出したかったと見れます。駆け落ちがあったときに
            池田恒興(信輝)(織田三郎五郎)
            ‖□□□
            ‖★安房殿
            明智左馬介
      という関係が生じたと思いますが□□□の人物がわかりません。一応
          「明智左馬介」の「妹婿」は「勝家」の「一族」の「柴田源左衛門勝定」
     というのが〈明智軍記〉にあり、系図でこれの言い方を変えると
           明智光春の妹は柴田勝定の妻
     ということにもなります。まあ□□□は柴田勝定が近いという感じです、池田恒興は勝家の
     兄弟だから「一族」といえます。池田恒興の正室は「荒尾善次の娘」とされていますがウイキ
     ぺデイアでは、「池田恒興の妻」として補足があり、
       「はじめ織田信時の妻となったが信時自害の後に再嫁、池田輝政の実母」
     となっています。織田信時はテキスト注では
       「(〜1556) 信長の弟、安房守、喜蔵。信長は佐久間信盛の進言を入れて、尾張守
       守山城を信時に与えた。弘治2年(1556)二月織田安房守秀俊という者が雲興寺に
       禁制を下しているが、この人は未詳。  (文中) 安房(殿)→実際は安房守(安房殿)」
     となっています。未詳というこの人は〈信長公記〉で
        「織田三郎五郎殿・・・其弟に安房守殿」
        「守山城中・・・孫平次を安房殿若衆にさせられ、・・・安房殿に御腹めさせ候て・・・」
。    などでヒントが出されているわけですが、「安房殿」は三回出てきてここの切腹で表記が
     消えます。「弟」から★を出してくると、ここの安房守の「秀俊」が〈常山奇談〉の明智左馬介
     秀俊を呼び出したということで、細い線でつながれていた感じですが、明智左馬介は斎藤で
     ですから、この面からも柴田との繋がりがあります。
      池田恒興は紀伊守で、池田元助@=紀伊守=尾藤源内(守山)−−安房殿
     になり、池田輝政は、武蔵守で勘十郎の柴田と繋がり、
          「柴田三左衛門(両書)」(類書では「勝政」とされる)
     があり、これは、森(源内)=「三左衛門」=池田(輝政)を柴田に繋ぎそうですが「勝政」の
     「政」が「輝政」の「政」かも。信輝・輝政とも「信照」・「照政」の表記があり、「照」は足利将軍
     と同じで連れ合いのの存在を考慮しないといけないようです。

     (106)九鬼右馬允(3)
     古田重勝も九鬼右馬允の一面を語って、九鬼を森に近づけたといえます。
      織田九郎を四男九郎とすると、五男安房守がでて、安房殿Aが池田一族として出てきまし
     た。
       明智左馬介(安房殿)→滝川左近(伊勢)→伊勢熊野水軍→九鬼右馬允→森六男尾藤
       源内(池田)=安房殿A
     という海軍大将が出てきました。これが船の指揮官、九鬼右馬允ということができます。ただ

          森家の6番目尾藤源内=九鬼右馬允
       というのでは実在かもしれないが、実存とはいいにくい名前です。読者にとっても、ピンと
     こない、あれが行ってくれたら大丈夫だというような、有名だけではない何かが要ります。例えば
    斎藤新五というような名前が出ればいいわけです。斎藤新五は「尾藤源内・尾藤又八」
     が討たれた場面に間接に出てきます。
          「討死、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八・・」〈信長公記〉
    の一文の後に「道家清十郎・道家助十郎」「森三左衛門・・・・肥田玄番」が出て、一応青地駿
    河守に対置される「肥田玄番」となっています。すなわち索引も
         肥田玄番(人名注:★斎藤新五の叔父〈堂洞日記〉、「米田村」)
         肥田彦左衛門
         尾藤源内
         尾藤又八
     となっていますから、肥田は尾藤を意識して出てきたといえます。人名注にあるように★を出した
    人物がいて、大田和泉守の意思を汲み取ったものと思われます。どこまで?。「米田村」は
        「金山よなだ嶋、森乱に下さる。是は勝蔵忝き次第なり。」〈信長公記〉
    があり、両者とも森可成の子とみられているので互換可能ですが、「是」が「よなだ=米田」
    かも。筆者はこれは斎藤新五ではないと思っていました。はじめからある人物を想定していた
    からですが、海軍の気配がなくて、斎藤新五=九鬼右馬允とするには納得説得ともむつかし
    い、太郎という人物であろう、斎藤新五はあとで斎藤次右衛門、斎藤立本など重要人物が出て
    くるので、それも考えないといけないということなどです。ただ誰も決め手のある人物が出て
    こないとなると、★で決まるということになりますが斎藤新五は特別に否定されています。
         「九鬼右馬允、大坂表大船推し廻す事」〈甫庵信長記〉 の一節

       「九鬼右馬允・・・・大船・・・・紀州熊野浦・・・・雑賀の浦々・・・九鬼・・・・九鬼・・・七月 
        下旬・・・堺の浦へぞ上りける。九月廿三日に信長公御上洛有りけるが、越中の国の
       一揆共蜂起せしむるの由注進有りけるに、●斎藤新五馳せ参じ退治致すべき旨仰せ出され
       ければ、承って急ぎ発向す。同廿七日に九鬼右馬允が大船共、御覧有るべきとて、信
       長公住吉に着津し玉うて、・・・」 

    となってり、九鬼のなかに●一人登場、二人の劇的なすれ違いがありました。このとき斎藤新五は、
    太田本郷(小浜港周辺)へ行っています。〈堂洞軍記〉の著者はここを読んでいて★を書き入れた
    ということです。大田和泉守の書きたいことは察していたというのが★の意味でしょう。
     明智左馬介ー安房殿ー池田ー古田などへてー
        尾藤源内=九鬼右馬允=九=斎藤弥九郎=小西弥九郎=宇喜多与太郎
    が出てきます。一時、   小西行長
                     ‖小西弥九郎
                     □□□ (宇喜多もある)
    があったと考えられます。「弥九郎」は〈信長公記〉索引で
           寺沢又八
           寺沢弥九郎
           寺田善右衛門
    があり、「八」と「善」に通ずる「弥九郎」です。この人物は丹羽長秀の手のもので
          「・・・山田大兵衛・寺沢弥九郎」〈信長公記〉
   ちう出方をしますが大田和泉守にちかいようです。
  「寺沢又八」については
       「・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・■おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・・・」
                                                   〈信長公記〉
     の■ですが、本文では「舎弟」を前倒しで読むべしとされています。又八舎弟と引っ付けたと
    きに受ける印もあるかもしれませんが、「おとな」の舎弟という意味かも。「おとな」というのは
       「一おとな林新五郎・二長(おとな)平手・・・・三長青山与三右衛門・四長内藤・・」
    しかなく■の文では青山しか出ていません。「林」は佐渡守になっていません。あとで「佐渡守」
    に書き換えられるのはこの「寺沢」を見ているのでしょう。ここに「紀伊守」が出ているのが、
    池田などの紀伊のはじめです。索引では
           千秋紀伊守(注:「千秋秀忠と同族であろう」)
           千秋秀忠(文中は「千秋四郎」、「熱田宮大宮司千秋(せんしゆう)氏の一族。」) 
    となっています。秀忠がこんなところに出てきましたが、家康も出てこないと均衡がとれない
    ところです。もう読まれているところではないのか。千秋を「ちあき」とよめば
        千秋紀伊大宮司(秀忠の父)
        近松田面
    という索引も出来上がる、田面は頼母とかえて利用する人も出ますが、なんといっても「近松
    田面」は「小池吉内」などと信長暗殺に出てきたもので、「三川の国の者」、信長の「奴原」、
    「志那の渡り・・舟・・船・・」などが出てきました。  
           「二条たこ薬師辺に宿を取る」「二条たこ薬師辺へ一緒に入り申し候。」
    もあるところで、信長の宿は「室町通り上京うら辻」です。
    のちに小西如庵(安)と内藤如庵(安)が同一人物だというのが出ます。これは
    この「四長内藤」が絡むのでしょうがどこでそうなるかわかりません。いまのところ□□□は
    しょうがないところです。小西の出てくる必然はあり、紀伊国退治の三緘の三番目、松田から
    出てきます。「化狄」の一節で、鈴木、土橋、岡崎、松田、宮本、嶋本、栗村の7人の松田は
    「松田源三大夫」であり、大石源三の「源三」から北条の松田尾張守にも通じますが、索引では
          松田源三大夫
          松田摂津守
     となっており、小西の摂津守(「荒木摂津守」もこの一節に出てくる)を呼び出しています。
    注では「この松田氏は丹後与謝郡日ヶ村」となっています。与謝蕪村はここをみて喜んだの
    かもしれませんがとにかく「丹後」が出でました。「丹後」が目立つのは
            「大戸丹後守」〈信長公記〉、
     で索引では    大戸丹後守
                 大西
    となっていて、大西 → 小西が出てきます。これは安土城の「石奉行」の5番目に出てきて
    〈武功夜話〉との対比では「尾藤」が出てきました。大西ー小西ー尾藤となりますが、これが
          「宇喜多与太郎」〈信長公記〉
     ということになりますと□□□は宇喜多氏が入ることになります。これは一回限りの登場で
    使者として出てきますので、「与太郎」は仮名であるのは明らかです。年表では
       天正7年10月 宇喜多直家、信長に降伏〔信〕
     というのがありますが、これは、天正七年

         「十月晦日、備前宇喜多和泉守御赦免に付いて、名代として★宇喜多与太郎、摂州
         古屋野まで罷り上り、中将信忠卿へ御礼、羽柴筑前秀吉御取次なり。」〈信長公記〉
 
     の記事によっています。一般向けの〈甫庵信長記〉に記事がないから、天正七年で合って
    いると思われますが、「与太郎」という「太郎」の登場と、その人物の唐突ななことも不自然で、
    読者があれこれ頭を悩ませることは案の内という感じです。


    (107)宇喜多与太郎
    〈両書〉に「小西」と書いていないのに太田和泉守が小西を出そうとしていたとは考えにくい
    というのが基本的な疑問としてはあります。宇喜多与太郎もそういうものに答えるべく出てきて
    いるといえます。疑問がもう一つ加わって、より深くなったのですから、興味も湧いてきて、
    読みが進むというものです。判じものがあちことに埋設されている、それを読まねばならない
    というのも読解作業の一つです。安土城の天主の構造などもそうで、記述そのままでは造れ
    ないので読者に埋めてほしいといっていると取れます。(抜けている、余分な端数がある・・)
    などのことで、直感的にも感ずるところでもあります。誰かそれをいってくれてるはずだと思っ
    ていたところ、焼け落ちる前、早い時期に安土城が倒壊していたという説があるという記事
    (朝日新聞)が出ました。太田牛一の不完全記述からみれば倒壊必至ということで、その文献
    の存在が予見できるところでもあります。予見してその存在が確認されるというのは自然科学
    だけのことではなく人界も、昔はその表現に芯の太い、一定のものがあったから可能でもあり
    ます。石垣の記述がおかしいからその倒壊は太田牛一が〈信長公記〉に書いています。安土
    城の記事に渡海関連のものが多く、(大船建造=「岡部叉右衛門」=城の建造)などあります。
    また、桶狭間は永禄に起こりましたが太田牛一は天文と書いたということでした。
       天文廿一年壬子五月十七日
       天文廿一 {壬子}五月十九日
       天文廿一年{壬子}五月十九日
    となっていますが、これは明らかに
       天文廿一 壬子五月十八日
    が抜けていますから不完全で「天文廿一」が崩壊しているから無視してしまったらよいという
     ことになります。意味は
        「十八日夜に入り・・・十九日朝・・十八日夕日に及んで・・」
    という文章の(前ではなく)後ろ適当なところに(五月十八日)を入れて考えてほしいといっ
    てるだけでしょう。が、強いて言えばここも遠洋航海が頭にあると思われます。
         天文
    というのは天文学的というようにものすごく大きなものを感じさせる年号で、諸葛孔明などで
    天文地理をアンずるというような語句があったと思いますが、「文」は「もよう」という意味の
    ようですから大自然そのものの年号で、明治大正昭和平成というような人界のもよう(願いの
    ようなものも)あるのと違っています。太田和泉守は「空海」(「天海」と同じ)を出していて、
     空の青、海の青にも染まず漂い行く白い帆船という情景を思い浮かべて、天文を出したか
     ったと思われます。とくに著述では風が意識され、水野の戦い、桶狭間の戦いでも風が出ま
     した。このころ渡海の意思が固まっていて後年の風神の図はその表明かもしれません。 
     先程の「千秋四郎」は、索引では
         千秋秀忠・・・(文中)「千秋四郎」
     となっています。しかるに「織田九郎」は
         織田信治・・・・(文中)「九郎」
     となっていて、ここから判じ物が出ているということで、「九郎」として検討をやってきました。
     「千秋」にしても桶狭間で突撃したという熱田大宮司の人は「忠」という名前が生きてきて
     「千秋喜七郎」〈甫庵信長記〉に宛てられると思われます。〈甫庵信長記〉索引が
           千秋紀伊守/千秋喜七郎/千秋四郎
     となっており、もう一人「紀伊守」に引っ付く「秀忠」もいるということになると先ほどの、山口
     甚介のこともいっていそうです。千秋氏は検校に関係があり先ほどの「常見」にもつながり
    ます。ただ太和和泉守はあの秀忠と親類で、よく知っているから、わからないところは出して
    るかもしれない、というのがあります。例えば「ちあき」とも読むので、索引で「ち行」に入れると
         (千秋秀忠)/近松田面/近松豊前
     と「ち行」の始めに納まります。ここから
        近松田面→三川国の討手→那古屋弥五郎内丹羽兵蔵→金森→奴原
        近松豊前→丹羽五郎左衛門→寺沢弥九郎
     というのも出てきます。
   
   崩壊しそうな矛盾した記事のことで、★の人物の記事は天正七年ですが小西行長の経歴で
   もこの記事と同じことが出てきます。ネット記事www.konishiyukinaga/comn」によれば行長は
      「天正6年 1578年 宇喜多の使者として羽柴秀吉の下へ遣わされる
      〈備前軍記〉〈陰徳太平記〉〈肥後国誌〉〈甫庵太閤記〉〈中国兵乱記〉」
    となっていてこれだけの史料が天正六年というのだから、こちらが合っていると思ってしまい
    ます。「日」は天正六年も10月30日のようです。一年違いをどうみるか、これが、頼りない記事
    として、無視さるべきとしても、太田牛一が「宇喜多与太郎」を出しているから「行長」「宇喜多の 
    使者」三人(実際は二人)の残像が残るというのが大きいといえます。 
     これが
    ★の記事の解釈を決めるのでないといけない、まあ、他にいいたいことがあってそれもわかる
    のならなおよいということになります。
     類書の主語は「小西行長」とか「小西弥九郎」とかになっているのでしょうが、〈信長公記〉は
    ここは宇喜多与太郎を出してきました。小西と宇喜多の関係が浮き彫りになるので、年次を
    変えたというのが第一に考えられるところです。始発は〈両書〉だから類書が変えた(解説を
    入れた)といえそうです。「宇喜多与太郎」は一回限りここだけの登場で、誰もが誰かわからない
    から首をひねっている、小西行長の身内らしいとすぐわかるのでは駄目でしょう。宇喜多は
    爆竹Aのところにあるということも知っているから重要なことも皆にはわかっています。
    そのため注目させたかったという努力の痕跡もだしたいところです。
     ここは、ここだけの「十月晦日」を使っています。〈信長公記〉中のいわゆる10/末日はここ
    だけしかなく「十月晦日」としたのは意味がないとはいえないでしょう。天正6年十月三十日に
    それが使われているかも。現代語に翻訳されたものしか出ないとそれに気づかないかも知れ
    ません。天正六年上月城の「山中鹿助」登場の(荒木)「退治」「熊見河」などのくだり、では
    〈甫庵信長記〉
       「同四月十日・・・▲五月朔日・・・四月廿八日・・■同晦日に、・・・▼五月朔日に・・・同三日に・
      ・・・同四日に・・・六月三日に・・・七月の初めつ方・・・・・●七月十五日夜に入り・・」

    があり、■が出ていますが、やはり、難しそうだから緊張します。天正八年

       「二月廿八日・・・。二月廿九日・晦日両日、・・・・三月朔日・・・」〈信長公記〉
    もあるから、ちょっと首を傾げたくなる、自信がなくなるとかがあります。●は桶狭間で出ました
    のでこの技法はこの天正六年あたりで援用しているということでしょう。例えば▲■▼の間
    は日の流れがおかしい、よくみると前の▲が命令の内容なので矛盾していないわけです。こう
    日の流れがおかしいところが、●により暗示されているのが天正六年の記事でもあります。
     芭蕉は〈奥の細道〉で、この二つの五月朔日を取り入れていそうです。
       「五月朔日の事也。其夜飯塚(飯坂)にとまる。温泉・・・湯・・・夜に入りて雷雨(かみなり)、」
    があり、この雷が、化荻の一節に及びそうです。鳴子温泉の湯に飛び火し
       「南部・・・岩手(実際は「岩出」)・・・みづの小嶋・・・なるごの湯・・尿前・・関・・・出羽・・・
       関・・・・関守・・・関・・・家・・・舎・・・・・山中・・・」
     の「山中」に至ります。「岩」は石山、「なる」は、成る、生る、にも懸かり、「みづの小嶋」が
       「鳴子町名生定(みようさだ)」(脚注)
     にあり、「生」が浮き、尻篇の「みず(水)」も出してきます。この後、湯は山中温泉もあり
          「石山・・・石・・・温泉・・・山中・・・貞徳・・・此一村・・・伊勢の国長嶋と云所・・・」
    があり、ここは間接に「有馬」がでます。「有馬晴信」もあるかも。これは武田信玄と同じ名前
    です。「化荻」の一節は天正5年ですが、天正5年にも、「上月城「山中鹿介」「熊見川」の登場
    があり、 「紀伊国退治」も天正5年で、「紀伊国退治」の一部が「化荻」の一節と思われるほど
    両者は接近しています。雷鳴が芭蕉において化荻の一節に取り込まれているようです。
    これは、天正七年「十月晦日」、宇喜多与太郎がやってきたことからの脱線でしたが類書で
    「天正六年にされていたという心は、宇喜多与太郎の正体を暗示させようというところから
    きていると思われます。天正六年〈信長公記〉では1年前倒しすると
         「寅十月廿一、荒木摂津守・・・荒木・・・摂津国・・・
           (十月晦日、宇喜多与太郎)
          十一月三日 ・・・・・・・・・
          十一月六日、九鬼右馬允・・・九鬼・・・九鬼右馬允・・・」
     となり、摂津守の小西と、九鬼右馬允に挟まれて大体見当が付くということです。この場合
    十一月三日がちょっと邪魔で、〈甫庵信長記〉では、九鬼を先に持っていって
          「   (表題)九鬼右馬允、大坂表大船推し廻す事
          六月廿六・・・九鬼・・・九鬼・・・斎藤新五・・九鬼右馬允・・・十月朔日・・・九鬼・
・         同三日・・・・斎藤新五郎・・・同十日・・・信長公安土・・。
              (表題)荒木謀叛の事
          ・・・荒木摂津守・・・・荒木・・・・摂津の国・・・・十月下旬・・摂州・・荒木・・・荒木・・
          (●十月晦日、宇喜多与太郎)・・・十一月三日・・荒木・・・荒木・・・」
    となって●を嵌め込むと、ここでも「九鬼」−宇喜多ー「荒木」となります。十一月三日は無用
    化されています。類書が天正六年にした心はここにあるといえます。しかし、そうはいっても
    無理に持っていった感じはいなめない、というのがすぐ出てきます。一部再掲
      「(天正七年)十月晦日、・・・宇喜多与太郎、■摂州古屋野・・、@中将信忠卿へ御礼。・・」
    の■の面からの補強があります。地名索引では
          小屋野  259頁
          古屋野  260、261・・・・301(計9頁)  →摂州ーー
    となっています。→の部分が■の1件です。259と、260、261が天正六年、あとは天正七年
    です。したがってメインは天正七年で、与太郎がきたのは天正7年で一応は」合っていそうです。
    260、261は十二月朔日で、259は「十月晦日」に一番近く
          「(天正六年)、霜月廿八日、小屋野まで信長公・・・」〈信長公記〉
    となっています。259と、■というハミダシを作ったのが効いてきて、この二つを見て〈甫庵信長
    記〉をみると、天正六年
        「同廿八日に昆陽野(こやの)に至ってA信長公信忠卿、御本陣を居ゑらる。」
    があります。「同廿八日」は十一月三日から流れてくるもので十一月二十八日です。これが
    「十月廿八日」であれば、〈甫庵信長記〉が一般向けだから天正六年に変えなければならない
    ところです。十一月三日の後だからよかった、天正7年が年表どおり宇喜多帰属の年で、
    あろうということになります。また、宇喜多与太郎では
          「宇喜多与太郎(小西行長)
    で読まねばならないところでしょう。これが類書の解説ということになります。
     「小西行長宇喜多与太郎」をカムフラージュした表記といえそうです。
     いやそんなことはないというならば、与太郎しか駄目だ、与太郎に恩をうっとこ、と
    いう人が居ったというこになります。
   先ほどの @Aの表現にも影響があるのでしょう。@は本能寺の表記で前著のようなことです。
    昆陽先生はこの辺も語るのかどうか。

    (108)鳴子温泉
     このように「十月晦日ー宇喜多与太郎」のところは絡んでいそうだと感じたら年次を移動させて
    探ろうとしてやっている、不器用な方法でも書き込んでみると晦日も工夫だなというのまでも
    出てきます。紀伊国退治のこと、と化荻の一節は人が極端に重複して、こういう嵌め込みに
    誘いがある感じがでています。化荻の一節は土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎太夫など7人の
    侍が出ていますがこの日付が、おかしいのです。
       「三月廿一日・・・。次日・・・。三月廿三日、・・・。一、化荻(草冠なし)・・今井宗久進上。
       ・・・・・。次日三月廿四日、・・・・。廿五日・・・。三月廿七日・・・・。
       ●七月三日、奥州伊達御鷹のぼせ進上。

        後七月六日・・・。後七月十二日、近衛殿・・。後七月十三日・・・。
       八月八日、柴田修理亮大将・・・・羽柴筑前・・・(無断)帰陣・・・曲事・・・逆鱗・・迷惑・」
                                              〈信長公記〉

     となっています。●の前が四〜六月の3ヶ月開いてること、●の後ろの日付の前の「後」「後」
     「後」のことの、意味がわからない、ということがあります。この四〜六月は天正六年の
        「輝元播州上月の城を取り囲む事」の一節の
     「同四月十日・・・・七月の初めつ方」までを頭の中だけで入れてみるのもよいということでは
     ないかと思われます。●の前、三月廿七日までは甫庵の紀伊国退治と殆ど期間が合致し、そこ
     そこから突き放されています。語句、人名などで繋いでよそからもってくることでもよいの
    ですが宇喜多与太郎の場合は一年違いで、対比していました。一年違いなら同じ場所にいる
     ケースが多く地名などもつながりに参加してきます。著者の頭では前年、当年は関連付け
     の中心、つなぎの重要な要素となっているものでしょう。そうすると翌年の上月の一節の
        「荒木山城守退治・・・山中鹿助・・・荒木摂津守・・・熊見河・・・楠長庵・」〈甫庵信長記〉
     がここに頭の中で埋め込まれます。〈信長公記〉も天正6年では

        「四月中旬・・・上月(コウヅキ)・・山中鹿介・・・荒木摂津守・・・大亀山・・・高倉山・・・
         高山・・・熊見川・・・身続ぐ・・・・。
         ▲五月朔日・・・東国・西国の人数膚を合わせ(肉弾戦を展開して)・・・関戸(不詳)を限って
        ・・・険難・・・節所・・・要害・・・御延慮(遠慮。未来にわたる考え)・・御異見なり。
         {寅}四月廿九日、滝川・惟任・惟住出陣。
         ▼{戊寅}五月朔日、三位中将信忠・・・・・。・・・村井長門・・・竹中半兵衛・・備前八幡山
         の城主・・・近衛殿・・・万見仙千代・・九鬼右馬允・・・大船六艘・・・滝川左近大船一艘・・・・
        {寅}六月廿六日、九鬼右馬允七艘の大船・・・」〈信長公記〉

     となっていて、六月の九鬼までも包摂しています。六月に近衛殿も出ています。要は、いいたい
     ことは「化荻」の一節は、「風神雷神図」のことも述べており、遣欧のこと(紀伊国退治やここの
     駄目押しの部分ーー「身続」ー「続子松千代」など)に深く関わらせてあります。ここにも▲▼
     が出ています。始めのほうは異見の内容ですから、4/29を挟んでいても問題がなく「寅」が
     ない方の五月朔日の(  )内の脚注部分が、別のことを示唆しています。「東国」「西国」が  
     国内とは限りません。芭蕉〈奥の細道〉「五月朔日」の前には「義経」が出ており
        「ココに義経の太刀・弁慶が笈をとどめて什物とす。(句省略「笈」「太刀」「五月」)
         五月朔日の事也。
        其夜飯塚・・温泉・・・湯・・・夜に入(いり)て雷鳴(かみなり)、雨もしきりに・・・」
     があり、
        「・・・なるごの湯・・・関・・・関・・・関・・・山中・・」
     として雷を「化荻」の一節の四〜六月の部分に入れました。これは〈甫庵信長記〉の
        「万幸竜の雲・・・・虎の風・・・今井宗久・・・源義経・・・菅屋、堀久太郎、万見仙千世
        村井長門守、福富平左衛門・・・・」
      で化荻の「今井宗久」に結びつきます。さきほど天正六年、上月で楠長庵が出ましたが、
           「・・・五月朔日・・・菅屋九右衛門尉、楠長庵・・・・五月朔日・・」〈甫庵信長記〉
     という文の楠長庵です。金松又四郎、大田和泉守が出ている感じです。天正五年の長庵は
     上月で「朱印」五発を伴って出てきました。天王寺屋了雲(竜雲)相当とすると、絵の朱印という
     のもありえます。芭蕉で雷の句がなさそうですが、稲妻で代用とみれば
          「本間主馬・・・能・・・画・・・
          稲妻や顔のところが薄(すすき)の穂」(続猿蓑)
      があり、「鈴木喜三郎」や「鈴木出羽守」「鈴木越前守」など鈴木の流れを受けた
              (同)太郎
              鈴木孫一
              薄田与五郎
              鈴村主馬允 」〈甫庵信長記〉索引
      の並びが出ています。〈信長公記〉では「鈴木太郎」「鈴木孫一」「鈴木主馬」「薄田与五郎」
      となっており、「鈴村」を「鈴木」にしています。テキストでは鈴木孫一は雑賀孫一ともいう、
      なっており、雑賀衆7人はは「化荻」「紀伊国退治」の一節の主役であり、竜虎、風雲の化
      荻の一節にイナビカリが走ったということでしょう。能はあの能もありますが熊見川(河)の
      「熊」からくるものもあります。ここの薄田与五郎というのはあの大坂城の「薄田隼人正兼
      相」ではないという方が無理でしょう・本間主馬も松野主馬をみている、岩見重太郎も
      講談では小早川浪人ということでしたので松野主馬の小早川を見ています。湯浅常山は
         「鈴木左馬介」
       を古田織部関係者の粛清の場面で出しています。ストーリーは謀叛の証拠となる廻文
       を持っていたということですが、一部再掲(前の引用は舅までは抜いている)
  
         「戸田八郎右衛門・・・鈴木左馬介・・・左馬介・・・■左馬介が舅古田織部、八條道二、
         木村宗喜・・・宗喜・・・●織部は主人として此陰謀を知らざる事は有るべからず、と・・
         板倉伊賀守 ・・秀頼内意・・・・織部も切腹し、宗喜以下・・・張付け・・・・」〈常山奇談〉

      において、鈴木左馬介が入ってくると意味が増えています。
        ○古田重勝の話であったというのは変わらない。前回の通り。
        ○戸田(八)が鈴木左馬介を討ち取って三井寺へ退いたのが話の前提。●の主人とし
         ての織部がでてきたので、■の舅が効いて来て、違った古田織部が出され、これら
         を生かすと
                ●織部(主人、切腹した)
                ‖■八條道二
                ‖木村宗喜
                左馬介
         という関係体に纏まるというヒントが出ていると取れる。戸田はあの御袋様の土田氏
         で鈴木左馬介を兄の仇として討ち取ったのだから二人の関係は近い
      というようなことも書かれていると思いますが、ここの「鈴木」が紀伊雑賀の鈴木を見ている
      「左馬介」は明智、安房の左馬介、北条、松田尾張守の二男の左馬介がある、と思われ
     ます。つまり紀伊国退治の、海外の古田、木村と関連する、鈴木ー薄ー稲妻ー化荻の雑賀
     の7人とつながる、大坂城の戦い終了後の「古田」の受難の物語というものから垣間見える
    ものの一つが現れているといえます。雑賀7人の三緘の一つ、三人目の岡崎三郎大夫は
        〈甫庵信長記〉索引         〈信長公記索引〉
          大脇七兵衛尉         岡崎三郎大夫
          岡崎三郎太夫         小笠原(考証名は「長忠」と「長時」)
          小笠原掃部助         小笠原与八郎(「長忠」)
          小笠原与八郎         小笠原掃部大輔(考証名は「小笠原信嶺」)
          岡田               松尾掃部大夫(考証名は「小笠原信嶺」)
     という中にあります。最後松尾がここに入るのは、上と同一人ということで文中ではという
    意味で入れられています。「小笠原信嶺」はテキスト注では
       「十郎三郎。信濃松尾(長野県飯田市)城主。)」
    となっています。これは「伊那」があるのとないのとでは大変な違いです。天正10年3月の
    「知行割」で
       「信濃国・・・・同伊奈、一郡、毛利河内に下さる。」〈信長公記〉
    があり、要は「紀伊国退治」や「爆竹」で出てくる「堀久太郎」の「堀」が出てきます。この「伊奈」
    だと奉行の代名詞のような伊奈忠次もでてきます。森蘭丸の登場があまりに少ないので
    「森蘭丸(堀久太郎)」があるのかもしれませんが「堀秀治」という人物もいます。「秀治」は、仙崖
    が出した名前で、亀井南冥を起用した黒田治之の「治」です。湯浅常山では

         「一揆・・堀(ほり)左衛門督(のかみ)秀治(ひではる)・・・小倉主膳・・・下倉・・・
          堀監物(秀政長臣)が子丹後守直寄・・・直寄・・・下倉・・・下倉・・・小倉・・・直寄・・
          斎藤・・・平田・・・直寄・・・允長老の孫子・・・山中数馬・・・速水織部・・直寄・・」
 
   というのもあり、一門の丹後守直寄も10万石という大身になっていますが秀治ー山中の線も
    出ています。もう一つ雑賀の三緘「松田源三大夫」については
         〈甫庵信長記〉索引       〈信長公記〉索引
          松尾掃部助           松尾掃部太輔
          松尾若狭守           松尾若狭守
          松岡九郎次郎          松岡九郎二郎
          松田尾張守           ★松田源三大夫
          以下松平             松田摂津守
     の★に続いて摂津守が出てきて小西が出てきたことは既述ですが左側は北条の松田
    尾張守が出ているのが重要で松尾→松岡からこの二つの「松」が出ているのが話を繋げて
    いく工夫といえます。松田尾張守は、子息が三人で、「長子」は「国器之才」の「笠原新六郎」
    「二男」は「左馬助」、「三男」「弾三郎」でした。この「笠原」というのは「小笠原」で、「小笠原
    信嶺」=松尾掃部助を通して「堀が出てくるのは、先程の流れと同じです。〈常山奇談〉の
    人名索引に      鈴木左馬助
                 隅野源三
    があり先に出た鈴木の左馬助は★の源三につながっており、松田尾張守の子息の左馬助 
    につなげたことは合っており、また尾張の大石源三、森勝蔵の森を巻き込み、古田重勝、
    木村いこすけに繋げて説明していることがわかります。本文(化荻)では★の次が「宮本兵大夫」
    であり、大坂城のラストに森兄弟を出してくるのに、また海外大渡航の跡を振り返るのに古田
    の受難の物語も大きな役目を果たしていると思われます。松田摂津守はテキスト注では
        「この松田氏は丹後与謝郡日ヶ村(京都府宮津市日ヶ谷)の豪族。」
    となっており、「与謝」が出てきます。与謝郡に宮津町や日ヶ村があり、「宮津」といえば天の
   橋立があり、「天」は「尼」「海部」でもあります。若狭湾に面しており、松尾若狭守も宮津ー小浜
    の線をそうきさせるものとなっているのでしょう。岩見重太郎はここで「ヒヒ退治」(大蛇退治)、
   、仇討ち、をしたので有名です。これが薄田兼相ともなれば雑賀の鈴木が出てきて、紀伊国退治
    化荻につながります。先程戸田(八)の仇討ちが出たところで「三井寺」がでましたが、芭蕉
    は「和歌・・・・わかの浦・・・・きみ井寺」(笈の小文)としています。若狭の「若」が念頭にあり
    紀伊の和歌ー「西行」−「貞室」を持ってきたと思われます。与謝蕪村は与謝の(松田)摂津守
    をみて小西行長(弥九郎)を見たと思いますが、この
         「化狄」(クハテキ)
    に注目したと思われます。これは脚注ではこれは「貨狄。床の間の上につる舟形の茶入れ。」
    本来花入れですから荻(てき)が入った状態の
         「花荻」か「花狄」
    かも。これを「北の狄(「狄人傑」の「狄」)(エビス)」というものに変えるために草冠=(「サ」と
    する)を取り除いたものにして表したといったのではないか、ここを重要とみたのでしょう。
    蕪村という名前が「サ」+「無し」から付けられた、と思います
         (「花荻」+蕪)+村=「化狄」+「村」(孫)」
   となり「狄村」=「的孫」とつなげたと思われます。「村」が「木村」、「大村」の「村」で、貞徳の
   出たところでも「一村」がありました。「毛馬村」は〈両書〉にあり蕪村の生まれた所とされている
   のも毛馬村ですが、砦のあった毛馬村は尼崎の「食満(けま)」に引き当てられていてこれは
   国内ではなさそうでもあります。人名では「村井長門守」の「村」があり、「村井」はとくに重要な
   場面ででますので大田和泉以外考えられるかということもあります。

   (110)馬の山二つ
     蕪村に
       易水にねぶか流るる寒さかな
    というのがあって「根深」は「ねぎ」で、爆竹の一節に「仁田」が出てくるので、根深で有名な
    群馬県甘楽郡下仁田が想起されますが、ここに「馬山」があります。馬の山(馬之山)は
      「●東西の膚を合わせ一戦に及ぶ・・・山中鹿介弟亀井新十郎・・・山中谷合・・羽衣石(ウエ
      イシ)と云ふ城・・・馬の山・・」〈信長公記〉
    があり、この「ウエイシ」があとでも出てくるので、これも海外の城が念頭にあるというような
    感じです。この「寒さ」も爆竹Aにあった
      「其日雪降り、風ありて寒じたる大方ならず。・・佐久間・・紀伊国熊野の奥・・子息甚九郎・・
       〈信長公記〉
   の「寒じ」と繋がるようです。この句の易水は燕のケイカの故事を思い出すとともに、宗易の易も
   出ているのでしょう。芭蕉に
        「今朝の雪根深(ねぶか)を園(その)の枝折(しおり)かな」〈坂東太郎〉
    があり〈芭蕉全句〉の解説では「枝折」は(「菜園」の)「道しるべ」となっています。「道しるべ」
   は既述「山中」の「鳴る」ところで出ます。
        「なるごの湯・・・尿前関・・・関・・・関・・・風雨・・・山中・・道しるべ・・・」〈奥の細道〉
   この「湯」「鳴る」は次の「雷鳴」ー「折」に通じています。
      「義経・・笈・・・太刀・・・帋幟(かみのぼり)・・・飯塚・・・温泉・・湯・・雷鳴・・桑折(こおり)」
                           〈奥の細道〉
   尿の水は易水の水で、枝折ー桑折ー雷鳴、 蕪村において、海外ー化荻が渾然となって、
   ●が東洋、西洋の東西に拡大されるのではないかと思われます。蕪村のあまりにも有名な句
       菜の花や月は東に日は西に
    は柿本人麻呂の「ひんがしの・・」の歌の逆を行った雄大なものですが、この〈信長公記〉の東西
  二つ目であり蕪村の詠みたい東西に入らなかったとかいえないというのがいいたいところのことです。
   先程の「園」は「薗」もあり、「サ」無しと「サ」有りのことがここでも出てきます。蕪だから
      菜の花→采+化
  もありうる、化荻の化が出て、菜「な」が采「さい」にも変化します。有名な
      「納屋助左衛門」「呂宋助左衛門」
   という人物が「不詳」となっていて、固いガードもあるのでしょうか、掴みにくくなっています。年表
   では文禄三年(甲午)納屋助左衛門帰国、秀吉にルソン壺献上のことが出ています。
   〈甫庵太閤記〉では
     「菜屋助右衛門」「小琉球呂尊」「文禄甲午」「千宗易」「石田杢助」「唐の傘」「西丸」「真壺」
   などが用意され、年表では、この「文禄甲午(三年「七月廿日」)」が利用されてる半面「納屋助
   左衛門」が使われ、「千利久」は三年前(天正19年2月)に自殺となっています。おかしいところ
   は全部文献がたよりないからということで一件落着となっています。納屋のときは利久はいない、
   菜屋のときは宗易がいた、ということなら、二人の人物がいたのでしょう。出航したのは
       「去年(さるとし)」〈甫庵太閤記〉
     となっています。文禄1年が朝鮮への出兵の年で小西行長が出陣しますが、このとき小西弥
   九郎がいないのでは話にならない感じです。「采」=斎藤、雑賀ー紀伊国熊野ー菜屋で小西
   (齋藤)弥九郎、納屋で支倉常長を出したのではないかと思われます。のちのあの支倉の偉業
   からみれば、海洋で働き続けてきたという痕跡がないといけないところです。
    山中鹿介は仮名ですが、命名の根拠は山名氏でしょう。これで尼子古記録の掘り起こしや、中国
    地方の歴史への全国的な関心を呼び起こしたという側面はあったと思われます。
     亀井も「新十郎」というのは仮名のような感じで、専門家は頭を捻らねばならなくなったといえ
    そうです。亀井新十郎は、甫庵にないので一般の読者は亀井と山中の関係は知らないことに
    なります。「山中鹿(しか)之介」の「之介」を常山のいう尼子十勇士で省略しますと
       「山中鹿、五月早苗、薮原茨、上田稲葉、尤(もつとも)道理、早川鮎、川岸柳、井筒女、
       阿波鳴戸、破骨障子」
     となりますから、山中鹿介という仮名を上月落城で〈両書〉でさりげなく入れた余波というの
    は大きいものがあります。一体尼子の重要人物の誰を指すのか、ということもあるだろうから
    三沢,三刀屋、立原、亀井、湯、新宮党なども出てきます。「阿波」は「安房」、「鳴門」も「鳴戸」
    となると「なるこ」「鳴子」も出てきます。「道理」は「無理」も出てきて「なわ無理介」は「名和重
    行」で、テキストでは「名和」=「那波」のようだから、「那破和泉守・斎藤内蔵助」の線(前著)
    から斎藤もでてきます。重行からは小西行長の行も出ますが「之介」の之は「行き」、塙団
    右衛門、熊谷大膳介直之の「之」があります。名和重行から索引は二つに分かれ
            〈甫庵信長記〉                〈信長公記〉
            鳴海助右衛門尉             鳴海助右衛門
            (祖父)江五郎右衛門尉 上120   成瀬正義(本文「成瀬藤蔵」)
            名和無理介(助)             名和重行(「なわ無理介」)
            南化和尚                  南条元続(「南条勘兵衛」)
    となっており、左右、海鳴から発しています。左の二番手はどうみても昭和の判じ物です。「そ」
    でも「え」でも「こ」でもここに入りません。〈信長公記〉ではチャンと「祖父江五郎右衛門」で出て
    います。まして〈甫庵信長記〉でも「祖父江五郎右衛門尉」があるからな尚更です。これは中々
    見当たらず上120は下巻の120にあり、けしからん話ですが、その心があるらしいことは
    わかります。原文を、次の@をAのように句点を付けて読むことというのでしょう。
       @「鳴海助右衛門尉、祖父江五郎右衛門尉、佐久間与六郎・・・」〈甫庵信長記〉
       A「鳴海助右衛門尉祖父江五郎右衛門尉、佐久間与六郎・・・」
       ということから祖父で切る、そういう読み方もあるということの解説でしょう。〈吾妻鏡〉でも二つ引付
    いたものがあり、これは転写ミスでもないようです。すなわち
        柏原鍋丸兄弟、祖父江孫丸、大塚弥三。」〈甫庵信長記〉
   も同じで、索引は、「梶川」のあと
             柏原鍋丸兄弟
             (祖父)江孫丸
             梶原左衛門尉
             (続子)松千代丸  この「続」南条の「続」に
   ということで航海がでてきます。この「江五郎」という名は無理だというのもあるのでしょう。
    次にき南化の「化」が出てきたのは「化荻」の化をみてるといえます。南化の南は南条の南と
    金印の亀井南冥の南に反映されたと思われます。右の成瀬は「身方が原」で
      「佐久間・・・平手・・・佐久間・平手・・・平手・・・成瀬藤蔵・・・佐脇藤八・山口飛弾・・」
                                                    〈信長公記〉
   という出方をしますが、索引では「山中」は多くの「山口」「山田」の流れのもとに出てきますので
   ここd桶狭間の4人がでますが、ここでは、やはり「山口」にウエイトがかかるのでしょう。「飛弾」
   の「弾」は「松田尾張守」の三男「弾三郎」の「弾」であり「塙団右衛門」の別表記「伴弾右衛門」
   の「弾」に繋がります。山口木村を中心に考えると「山中」が見えてきそうです。羽衣石の一節
   になぞの一文「山中鹿介弟亀井新十郎」がでます。

        「・・・鳥取・・・●宮部善祥坊・・・。
        伯耆国に@南条勘兵衛・小鴨左衛門尉兄弟両人、御身方・・・
        因幡・伯耆の境目にA山中鹿介弟新十郎御身方・・・
        羽衣石・・・・・・・・B南条勘兵衛御身方・・・舎兄小鴨左衛門尉岩倉・・馬の山・・・
        羽衣石・・・C蜂須賀小六・木下平大夫両人・・・馬之山・・・羽衣石・岩倉・・・吉川・・」
   
   ここで@〜Cの人物間の関係は同じもので、@を言い換えたものがBで、Aが物語的なもの
   といえそうです。つまり
         @B  小鴨左衛門尉      A  山中鹿介        B  蜂須賀小六
              ‖南条勘兵衛         ‖亀井新十郎         ‖木下平大夫
               □□□             □□□             □□□
   の三例でお互いを説明しようというものです。ここの「身方」が「身方が原」と繋がっており
   「山口飛弾」をもってくるとAは
       山口飛弾守(木村常陸介)「弟」の亀井新十郎@=小西弥九郎
       山口飛弾守A(伴正林) 「弟」の亀井新十郎A=支倉常長
   というものを出してくるための亀井(仮名)新十郎の設定とも感じられます。亀井新十郎はネット
   記事では「湯新十郎」改めとなっています。温泉の「湯」が山中鹿介と関係が出来たとたん亀井
   に変わったようです。ウイキペデイアによれば@の小鴨元清は大坂城へ入城しようとした人で
   小西行長の下で働いていて、関が原では西軍ということのようです。それは●の人物
   がここで根を下ろしその関係が広がっているためで天正7年にも高山右近が因幡から帰って
   絵図で戦況を報告しています。●はテキストでは「宮部善祥房」に変えてあり、これだと小西
    行長を表すことになるのでしょう。この「房」は高山長房の「房」とも関係があるのを示したもの
   ともいえそうです。
    南条は、「南条表」があり地名で、南条は南枝(木+支)で、南条勘兵衛は木村氏となるの
   かもしれません。ただ「南坊」というのは高山右近とされているのでこれは「長房」を説明する
   役割があるのかも。宮部善祥坊はテキストでは「宮部継潤」で
       「湯次神社の供衆ともいう。」
    があります。亀井新十郎は津和野藩主亀井家の祖とされているので実体がつかみ難くなって
   いると思われます。つまり実在だというのが枷になっている感じです。「湯」新十郎ですから、湯
   を次いだ新十郎ということで、宮善祥坊の後裔の人であろうと取れます。名字は宮部など武井
   夕庵の筋というのは具合が悪いので、〈信長公記〉の新十郎の「亀井」を使ったのではないか
   と思われます。これだと創業者の伝説に山中鹿介を利用できるということで好都合だったの
   でしょう。亀井秀綱という人物が山中・亀井を繋ぐ鍵とされていますが、これは「秀」は「汎秀」の
   「秀」で「秀吉」に近づける「秀」で、「綱」は「才二郎国綱」「海北綱親」などの「綱」で、Aが仮名
   であれば「亀井秀綱も仮名の感じです。Bは蜂須賀小六は夜盗というのではなくて浅野との姻戚
   がありそうです。山口飛弾守Aは木村又蔵(牧村長兵衛A)でその連れ合いを「伴正林」として
   いますが 〈甫庵信長記〉索引では
               伴太郎左衛門尉
               (同)正林
               以下「塙喜三郎」「(同)小七郎」
   ので一応、木村又蔵(塙団右衛門)というペアがあったのではないかと思われます。どちらも
   加藤家を退散したという重なりがあります。伴正林は天正7年に18.9ということですから、
   支倉常長は七つくらい下になります。語りの亀井新十郎はテキストでは武蔵守となっていま
   す。これは森の一家だからよいわけですが、明智左馬助ー安房殿の池田と縁組したのだから
       安房守
   がほしいところです。「安房」は「阿波」に通じ、「淡」「粟」もあります。池田の属性は、「摂州」の
  「鼻隈」(花・熊)がありますが、「池田勝九郎」は「淡路嶋」、佐久間右衛門(佐久間氏は安房出身)
   追放で出てくる「平井阿波入道安斎」(〈甫庵信長記〉)があり、地名索引では
       淡路島/粟田口/阿波国/阿波国大滝峰(空海関連) 〈信長公記〉
   となっており、佐久間信盛の「安房」は間接ですが本文では
       「真田安房守信幸」〈甫庵信長記〉
    が唯一のものです。紀伊国退治の一節に
       「若江・・・貝塚・・・根来・・・海手山手・・・・杉坊併(「イ」なし」)に雑賀の三緘・・・佐久間
       右衛門尉信盛・・・荒木摂津守・・・堀久太郎・・・・侍大将・・・山手・・・一揆の奴原・・・・
       浜手・・・滝川左近・・・・谷の輪(「淡輪」)・・・丹和(「淡輪」)・・・」〈甫庵信長記〉
 
    があり、「安房」が形を変えて出てきています。「淡輪」というのは〈信長公記〉の脚注ですが、
   地名索引の「谷の輪口 287」には該当がなく、「丹波 287」があるので、「丹の輪」もあるという
   うことになるのでしょう。索引では
     「谷の輪」「谷の輪口」・・「たんけ」「丹後」「丹後国」「●丹和」「丹波」「丹波国」「丹波国亀山」・・
   と並んでいて、●が淡和にもなりかねません。九鬼が海手山手の一節の「谷輪」と出てきます。
     
     「勢州の九鬼右馬允・・・大船六艘・・・滝川左近大船一艘・・・熊野浦・・・谷の輪海上・・・
      大船・・・雑賀・谷輪浦々の小船・・・九鬼右馬允・・・大船に小船・・・大鉄砲・・・敵舟・・」
 
   があり、九鬼右馬允→淡輪→海上→安房殿、というのがでてきます。こうなれば紀伊国退治の
      「海手山手・・山手・・・浜手・・・」
   が桶狭間で悩まされたところなので、ちょっと気になってきます。「山手殿」という人は、真田
   安房守信幸@(いわゆる昌幸=武藤喜兵衛)の連れ合いで、真田伊豆守信幸(信之)の母と
   して有名です。
         「海手」→九鬼の「安房守」
         「山手」→真田の「安房守」
   という対置が意識されているのでしょう。〈両書〉は関が原10年後の完成であり、真田の関が原
   の戦いと紀州九度山への配流は記憶に新しいところで、こういうところで利用されたといえます。
   山手に対置されるのは、海手、浜手であり、「下(しも)(した)」というのは出て来ませんが、桶
   狭間で、しっくりしない表現がでてきます。「あつた」で東を御覧じ、砦の煙が上がったとき

      「浜手より御出候へば、ほど近く候へども塩満ちさし入り、御馬の通ひこれなく、熱田より
      ●かみ道を、もみにもんで懸けさせられ、・・・たんけ・・・・佐久間居陣・・・」〈信長公記〉
    
    があり、●を「山手」とか、「山方」という語句を使っているのだから、それを使ってくれれば
    わかりやすかったのですが「上道」という「上下」を入れてきました。筆者はここで浜手を
    行ってみて馬でも通れないことを確認してから、戻って上の道を行ったとしました。下から上を
    みる、とか下から上るという感じを入れたわけですが、今となれば、悩まされて残った記憶が
    ここの●を「山手」だったと勘違いして戻ってきて、改めて「浜」と「かみ」の違いとして見直して
    いるところです。「たんけ」→「丹下」→「淡(上)下」で「安房」があるとすると、佐久間の出身地
      「千葉県安房郡鋸南町上佐久間・中佐久間・下佐久間」〈テキスト補注〉
    の上中下があるのが引っかかってきます。これは
      「織田三郎五郎・・・其弟に安房守殿・・・・佐久間右衛門・・守山(道家清十郎も)・・安房殿
      ・・安房殿・・守山殿・・★下飯田村・・安房殿・・佐久間右衛門・・・」〈信長公記〉
    という小節の全体の補注です。★が出てくるのはやはり、「上下」が意識されている感じです。
    また飯田となると信濃の伊那飯田があり、佐久も(臼田も)信州を想起させるところで
        「・・・臼田喜平次、日置清十郎」〈甫庵信長記〉
    もあり、真田の安房守も出てきそうでもあります。東京の山手(山之手)も初期の頃はこの
    九鬼の安房守を出そうとした意図があったと思われます。今は、山手(かみ)に対する、下手
    (しも)の意味に使われているのでしょうが、元は●の意外性の解釈が尾を引いていると思わ
    れます。

   (111)九鬼右馬允=小西弥九郎 
    遣使船が、海賊船隊と艦隊決戦に入った場合の司令長官は、森の六男坊(今となれ
    佐久間ー安房ラインがあるので)「佐久間弥太郎」かということ
    ですが、「九鬼」という名前は表記の多重性を表しているとともに辿って食くる道も多様なことを
    示していると思われます。姻族も有名人が多いから相互に呼びかけてわかってくるというのも
    あります。本邦初代海軍大将は、やはり小西の名前を使いたいところで
      「小西摂津守内 小西与七郎」〈甫庵太閤記〉  
   があるので小西摂津守(安房守)としたいところです。「左馬助、安房守、修理亮」〈甫庵信長記〉
   の並びがあり、「安房守」「安房殿」は単独でも使えるので、小西の安房殿でよいのでしよう。
   それで小西弥九郎となっているのかも。重なる表記は  
       「佐久間弥太郎」「尾藤源内」「道家清十郎」「亀井新十郎」「古田重勝」「宮部世上坊」
       「池田紀伊守」「宇喜多与太郎」「小西弥九郎」
    などがあります。九鬼嘉隆は、熊野の水軍の頭として参画し業績があったということで単なる
   実在ではない存在、実存といえる存在ですが、同一人物ではないといえそうで、大田和泉
   守と重ねられて多くの語りを残したという意味で重要人物といえます。九鬼右馬允と斎藤新五
   が近接しましたので斎藤弥九郎も小西弥九郎と同一人となります。

      ネット記事「FujiyamaNet Homepage」によれば、これはもう認識されているようです。斎藤弥
    九郎と伊丹の酒造の小西家とつながる挿話があり、これで明智
   左馬助と斎藤と、小西家のつながりも確認できます。小西家の酒造は戦国時代の創業
   のようですが、のちに剣の道場も開いて、ここに、幕末、神道無念流、斎藤弥九郎の書がいつの
   ころからか、掛かっているというこです。千葉周作、桃井春蔵、斎藤弥九郎の道場を、幕末の
   江戸三大道場といい、桂小五郎が塾頭だったというのが、斎藤弥九郎の錬兵館です。そこに
   その書があるというイキサツはわからなくても、これは小西=弥九郎=斎藤と、遣使の小西の
   解説をしたものだというのは大体見当がつきそうです。小西家が伊丹を創業の地としたのは
       「伊舟」〈信長公記〉、伊丹の「荒木摂津守」「伊丹兵庫頭」
   などのことがあると思われます。後年、咸臨丸の艦長で木村摂津守が出ますが、この人は兵庫
   頭でもあります。木村摂津守が伊丹を想起したというわけではないが、小西家の人は伊丹で
   語ろうとするものがあった、小西行長と所縁の人と考えられます。また銘柄の白雪ですが富士
   山の白雪というのが書かれていて、これはその通りですが、爆竹の
      「其日雪降り」「寒じたる」「仁田」ーーー芭蕉の「根深の雪」、蕪村の「ねぶか」「寒」
   の雪もあると思われます。当主が霜巴などの号をもつ人がいて紹巴を想起、芭蕉蕪村などから
   も探りを入れたいところ
   です。とにかく「斎藤弥九郎」が出てくるということは明智左馬助ー斎藤新五を見ているので、
   述べてきたことの確認をさせてもらえたと思っています。西郷政権によって「勝海舟」が海軍卿に
   任命されて日本海軍の草分け的存在とされていますが「安房守」を名乗りました。この小西の
   「安房守」を表に出したといえそうです。海・舟ー安房、というのは天正の語りそのままです。
    滝川の「白舟」と富士の「白雪」がどうつながるのかまだ問題がのこっていますが艦長が出てきた
    ところでもとへ戻ります。

   (112)堀尾金助   
    池田の「紀伊守」、「紀伊国奥郡」「紀伊熊野」、黒田の関わる「紀伊谷」などに繋がる「紀伊国
   退治」の一節の締めくくりは堀尾茂助と中村一氏が登場します。ウイキペデイアでは
       堀尾茂助ーーー|堀尾金助(18歳で死亡)(天正18年)
                 |堀尾忠氏(28歳で死亡)
   となっており、金助が18歳で病死したので中村一氏があとを継いだということになっています。
   どういう人物かは「中村」というのが、〈甫庵信長記〉では
      「中村五郎右衛門」「中村木工丞」「中村新兵衛」「中村三郎兵衛」●「中村式部少輔一氏」
   があり、●だけが特別具体的なのに、周囲からは決めにくいわけです。〈信長公記〉では●がなく、
   く代わりに
      「中村与八郎」
   があります。一応、●=中村与八郎、と宛てていると思われます。「中村」は日吉丸の生誕地
   であり、福富もあり、中村木工は「右筆」であり、木工は岡辺又右衛門と繋げて既述で、中村
   新兵衛@は「鑓中村」で松永の語り出でくる大田和泉守と思われます。また紀伊国退治の一
   節には雑賀の7人は土橋、鈴木、岡崎の三人しか出ておらず「宮本兵大夫」がないので、
   「中村式部少輔一氏@」には
        「宮本兵大夫」=後藤隠岐守基次(類書)A=宮本武蔵@
    を宛てたと思われます。これだと
      中村=「式部少輔」=吉川→「吉川式部少輔・森下道祐・日本介、三大将」〈信長公記〉
   となり日本介→奈佐日本介→海賊、という図式も出てきます。また、
    「中村式部少輔A」にはここの「堀尾忠氏」を宛てたと取れそうです。豊臣政権の三人の
        「小年寄   生駒雅楽助  中村式部少輔 堀尾帯刀先生(Aの積りと思われる)」
                                             〈甫庵太閤記〉
    とあるのは、「中村」=「堀尾」ではないかと思われます。金助が死去した年は遣欧使が
    帰ってきた年で、堀久太郎が死亡した年でもあります。金助にまつわる、「裁断橋」の物語が
    あり母公の嘆きの詩が残されています。この人は、ネット記事「武将列伝番外女性列伝」によ
    れば、
         「紀州生まれと伝わる」
    とあります。紀伊国ー渡航にまつわる話といっていると取れます。丹羽郡大口町の堀尾の城跡
    の「若宮八幡宮」に像があるようですが、紀伊伊国退治に
       「丹和・・・鈴木孫一・・・若宮八幡・・・堀久太郎・・一揆の奴原・・鈴木孫一・・」〈甫庵信長記〉
    があって、「若宮八幡」が出ていますが〈信長公記〉でも同じ場面

       「・・鈴木孫一・・・山方・浜手・・・■とつとりの郷若宮八幡宮・・堀久太郎・・・・根来口・・・・
       小雑賀・紀伊の川より取続、山手・・・・。・・・村井長門守・・・村井長門・・宮本兵大夫・・」
 
   があり、■がでてきます。これは脚注では「大阪府泉南郡東鳥取町」ですが、表記だけでは
   因幡鳥取の若宮八幡宮も指しているといえそうです。ここには
     「続節・・吉川式部少輔・・・日本介・・宮部善祥坊・・・南条・・・小鴨・・・山中鹿介弟亀井新十郎・」
   がありました。また■の一節は「安房」もでています。つまり、堀尾金助の物語は遣欧のことに
   関する語りがなされていたということになります。〈信長公記〉因幡・伯耆陣のあと、追記のよう
   な「是」があります。
        「是は伯耆表の事。(「是」は前のことを指すか、後ろのことか、訳しにくいもの)
        大山羽柴筑前守秀吉、羽衣石(ウエイシ)近所に七ヶ日在陣候て、国中手遣ひ候て、
        兵糧取り集め・・人数・・・兵糧・玉薬丈夫入置き・・・来春相働くべきの旨申し合わせ・・」
   この文は、この地のことへの言及だけでもないようです。大きなテーマがあってそれに各小節が結集
   されている、大航海のことが、全編に渡って痕跡をとどめ苦心のあとが滲み出ているというのが
    いいたいところのことです。


   (113)嶋田所介(1)
    「中村三郎兵衛」も「(同)三郎兵衛」ですから浮遊して
       「丸毛三郎兵衛」滝川三郎兵衛」「狩野三郎兵衛」
    を睨んでいるのかもしれません。テキストでは「明智秀満」は「明智左馬介」として、宛てられて
   ています。もう一人「島田秀満(秀順もある)」がいて、これは
       「島田所之助」〈両書〉
   があり、「三郎兵衛」を介したら、「丸毛三郎兵衛」(「丸毛兵庫頭」「子息」)にも及ぶ可能性が
   あります。これは前田玄以とか明智左馬助の引き当ても考えてきています。「三郎兵衛」はやや
   漠然とした大きな表記で取っ掛かりにも、壺に嵌れば、決定打ともなりうるものです。〈吾妻鏡〉の
   甲斐の「板垣三郎兵衛」のようにこれだけで何番目というのはいらないようです。まあいえば
    姓重視かなというようなものです。ちょっと取り上げたのは、伊東マンシヨはネット記事では
      「伊東満所」「祐益」〈ウイキペデイア〉
   があります。〈クロニツク戦国全史〉では「羅馬」がないのと同じように「満所」はありません。
   6箇所に分かれていますが一つ「祐青」というのが入っていて、これだと、中村木工「右筆」の
   「祐」、「青地駿河守」「青地与右衛門」の「青」というのも思い出すものです。「満所」の「満」は
     「塩河国満(伯耆)」「明智秀満」「島田秀満(順は筒井の順)」「福富満蔵」
   の「満」があり、「所」は
     「島田所之助」「青木所右衛門」(「青木」は美濃安八郡ー光秀や玄以の故地)
   の「所」があります。また「祐益」については、「益」は「滝川一益」がいて、「祐」は「祐乗坊」があり
        「大文字屋所持・・・祐乗坊・・・法王寺・・・竹さしやく・・池上如慶・・佐野・・・・江村・・」
   という繋がりは、海外を語る太い線としてでてきています。「祐」に「乗」があり、この前の一節の
   終わりには「日乗上人・村井民部少輔」〈信長公記〉の「乗」もあります。ここの
      「屋」「所持」「さしやく」「佐野」「村」「坊」
    は「化荻」の一節につながり、宮本兵大夫など雑賀の三緘ー紀伊国退治に行き着きます。
    佐野は「灰屋」の「紹益」ですが絵を献上しており、本能寺のとき、二条御所から脱出したと
   いう織田有楽斎「長益」の「益」は思い出されて建仁寺ー化荻ー紀伊国ー渡海もあるかも。
     「江村」は脚注では「未詳。」とされており、人名注では「京都の富豪。」とされています。
    献上品「もくそこ」(脚注=百底の花入れ)というだけでは、正体がつかめないようです。
       「嵯峨」の「角蔵(すみのくら)」〈甫庵信長記〉
   から「下村」ー杉ー左近もでますがそうとはいいきれません。要は実
   存でないと困る、わからないものを出されても信頼が揺らぐだけです。「江村」という人が当時知られた
  目利きの骨董商で著者が知っていた、辿れば住所、屋号ぐらいはわかるということであればよい
  のですがそうでなければ、モジリがあって、他のことを言っている可能性があります。ネットによる
   知識ですが「俵屋」のような絵画工房を「絵屋」というようで、「絵屋」で「俵屋」を指し「絵村」−
  「江」となったのではないかと思われます。太安万侶は太田和泉守にとっては実存といってもよい
   存在でこれは太田の「太」のなかに含まれていますがそれは安食郷の「乞食村」でも現わされ
   ています。この古事記の「村」、人が集まって研鑽があったところ、絵の村も同じ感じのものとも
   とれます。
   「俵屋」を「江村」という名前にしたのは
      「祖父江孫丸」を「(祖父)江孫丸」
   としたことと関係がありそうです。これだと「祖父江孫」〈信長公記〉は「(祖父)江孫」「江村」に
   なります。「丸」というのは人名もありますが、船名もあります。絵や孫にも関わる「江孫丸」
   を出したのは、この遣使船(滝川の白舟)は船名があったということを示していると思われます。
   また索引では
        江戸右馬丞(テキストの解説では「丞」は「允」が正しい、「左馬允」もあるとのこと)
        江戸力助(江戸氏は武蔵国の江戸氏の分派であろうか、と書かれている)
        海老半兵衛
        海老名勝正(文中「えびな」)
        江村  京都の富豪
        円常国師→快川紹喜
        円浄寺   相撲
        円浄寺源七 相撲  」〈信長公記〉索引
    という並びになっています。つまり「江村」にすることによって
          ○「江」=え=「海」で、海を出した
          ○森えびな=狩野永徳(森えびな〉を出した(狩野三郎兵衛はこの人物を指すかも)
          ○江戸の江と繋ぎ、九鬼の「右馬允」「武蔵国」を出した
          ○心頭滅却すれば火もまた涼し、の快川国師の出自などを示す
          ○相撲の「円浄寺源七」も小西弥九郎=九鬼右馬允を表す
    遣使船のことを出しついでにほかの事をあきらかにするということにされています。

   (114)山は富士ー酒の白雪
    むしろ遣欧船のことをわかってもらおうとする努力があらゆるところでされているといえますが
   気づかれにくいというのは、その配慮のたまもの、周到さによるのかもしれません。「江戸」が
   ここに出ています、索引では「江戸右馬丞」(「丞は允が正しい」と注あり)の前は
          越前衆(七件)/越前牢人衆(一件)/九鬼右馬丞
    となっています。「越前牢人衆」は「越前」のなかにも含まれていますが「越前衆」が七つあり
   遣欧の側面から改めてみれば全部ひっかかってきます。牢人衆のものは
      「越前牢人衆先陣として
         前波九郎兵衛父子・富田弥六・・・・・神戸三七信孝・津田七兵衛信澄・織田上野守・
         北畠中納言・同伊勢衆、
      初めとして三万余騎、・・・」〈信長公記〉
    となってこれは30人(29表記)が出ていて、爆竹Aの30人(29表記)と対応しています。
     爆竹にも「佐久間右衛門父子」があって「父子」のとり方で30:29で「伊勢衆」がはみ
    出すというとり方もあります。この場合「爆竹A」の「仁田進上」の「仁田」が人名というよう
    が出てきますが「江戸」と「伊勢」が爆竹と関連しながら視界に入ってきたといえます。
     信長記に江戸が出てくるとちょっと違和感がするわけです。芭蕉にもこの辺が影響を与えて

    いると思われます、芭蕉は「野ざらし紀行」で、江戸→駿河路→伊勢と辿っています。「さらす」
    というのがヒラかれていて一応「晒す」という「日+西」、「曝す」が考えられますが「西」−「紀行」
    の「紀」ー伊勢とのつながりもありえます。これは、そらない、ということになるでしょうが、笈の
    小文(笈は鳴子温泉で出てきた)でも初めに「伊勢」が出ますがここで
      「風雅の道・・・風羅坊・・西行・・・宗祇(飯尾)・・・雪舟・・・利休・・・風雅・・・造化・・・花・・
      ・月・・夷荻・・・花・・・夷荻・・・造化・・・造化・・」
      「道の日記(脚注=紀行文)・・・・紀氏(きし)・長明・阿佛の尼(「十六夜日記の作者」)の・」
     があり、「羅」が出て、なんとなく化荻がでています。「長明」のところは
        「鴨長明。当時〈長明海道記〉(東関紀行)の作者と誤られていた。」
     となっています。「十六」は尼子の一節の十六国をみていそうです。芭蕉の江戸の句に
         詠(なが)むるや江戸にはまれな山の月
     があり、この「江戸」は解説では「穢土」(えど)に掛けられている、談林風と書かれています。
   辞典では東夷のような意味があり、西から見た夷というのでしょう。「月」は「伊賀山中の月」
   のようです、富士の句に
       富士の風や扇に載せて江戸土産
     があり、風と扇があり、これは宗達の風神雷神図が出ていると思われます。筆者はこれが
    風神雷神図が遣欧船に贈答品として乗せられたことの、確認材料とみています。
    爆竹の「仁田進上のやばかげ」は化荻の「今井宗久進上」につながり「えびな(海老名)」と
   「半」「允」「七」や「進」を配しています。
      「仁田やばかげ」−「下仁田(馬山)」ー「根深(葱)」−「雪」(爆竹)−遣欧の「海」
   というのは、かならずしも絵空事とはいえないものがあります。芭蕉の句に
      @「今朝の雪根深を園の枝折かな」〈坂東太郎〉
      A「盃や山路の菊と是を干す」〈坂東太郎〉
      B「蒼海(そうかい)の浪酒臭しけふの月」〈坂東太郎〉
  があり、Aの「菊」は「山中や菊はたお(を)らぬ湯の匂ひ」の「菊」で「山中」、「干」は盃やBの
  酒をみて飲み干す、となるとともに「図司左吉」「月山・湯殿」の一節「干将」の「干」につながり、

      「雪・・・南谷・・・・里山・・・月山・・・氷雪・・・日没して月顕(あらわ)る・・・湯殿・・・月山・
      桜・・雪の下・・・遅ざくら・・・花・・・花・・・山中・・・月・・月湯・・・殿・・・湯殿・」

  などが「干将」とともに出てきます。この山中の月がBの月、雪が@の雪となり、@の園は薗で
  、解説は「庭園」か「菜園」となっており@の句は「雪が働いている」となっています。枝折に
  については、「今の王朝の雪ー道しるべ」というものが、眼前の菜園と葱のバックになっている
  とも感じられます要は海と関連付けられるとやや視野が広がってきます。同時期の句に
      「阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍」〈江戸蛇之鮓〉
      「雨降りければ  草履の尻(しり)折りてかへらん山桜」〈同上〉
   があり、オランダが出ています。「草履の尻折りて」は「足半(あしなか)にしたてて」という意味
   で「尻折り」は「(山桜)の枝も折って帰ろうか、の意。」とされています。「足半」は金松又四郎の
   属性ですが、尻折りが枝折とされて@の枝折を受けています。この五句は順序は違いますが  
    〈芭蕉全句〉では連続したもので江戸右馬允の江戸が利かされて江戸(すし)ー利根となって
   いるのでしょう。ここでBの句が、
        あお海原ー小西家の酒造ー上月の月、
    となっていると思われます。
    芭蕉は元禄期の当主「霜巴」という人と親しく、「朝巴」という人もいるそうで霜巴ー紹巴ー
   紹喜ー朝巴などが出ると「紹巴」をみて名前をつけた人も多かったと思われます。霜台という
    のは松永弾正と
   黒田如水軒の号です。紹巴は、遣使船の名前には関係がありそうです。〈クロニツク〉では
        紹巴は1602年、慶長7年、78才で死去、奈良の出身。周姓。里村昌休に師事。
        その子昌叱を育てた
   というようになっています。困ったことにテキストでは「本姓松村氏」となっています。
   周姓なら相撲の「周永」〈信長公記〉、松村なら「「松村与右衛門尉」〈甫庵信長記〉があり永徳
   と出てきます。松永貞徳は
       「1596、慶長元年、園城寺に蟄居中の里村紹巴を訪問する」〈クロニツク〉
   があり、度胸のある松永貞徳が出ていますが、テキスト〈奥の細道〉では「長頭丸、逍遥軒の
   号がある。」とされており、〈信長公記〉人名索引では
        「正用軒 → 武田信廉 」
   があり、「信廉」だけとは限らないとすると「貞徳」が間接に出されているのかも。「昌叱」の「叱」
   も「道叱」の「叱」で悩ましいところです。

   爆竹の「仁田進上の▼やばかげ」は「九鬼右馬允大坂表大船推し廻す事」〈甫庵信長記〉の
   一節と関わります。一部再掲
         「九鬼右馬允・・・大船・・・伊勢・・・紀州熊野浦・・・雑賀・・・九鬼・・・ほうろく火矢
         ・・・攻めかけ、攻めかけ▲矢場(やには)に三十余艘乗取りけり。九鬼・・・斎藤新五
         ・・・・退治・・・九鬼右馬允・・・大船共御覧・・・住吉・・・安部野・・今井宗久・・・御茶
         進上・・・宗易、宗及、道叱・・・・」〈甫庵信長記〉
   
    があり、▲が▼の「やば」であり、「かげ」は▼のあと「遠江鹿毛」が続いており「矢庭鹿毛」
   という進上した馬の名前と思われます。ここでも「化荻」の今井宗久が出てきて渡海とからみ
   渡海した風神雷神図は森海老名(狩野永徳)の作、日本に残っているのは津田宗達(太田和
   泉守)の作品とも考えられます。遣欧の主役は「藤八」のような「八」の人で、絵もそうであって
   もおかしくないということです。どっちかはっきりしない「あやしさ」がありますが、芭蕉に
       ■李下(りか)に寄す   稲妻を手にとる闇の紙燭かな
    があり、〈奥の細道〉飯塚ー雷鳴のくだりと「かみ」でも繋がっています。

      「義経・・・太刀・・・弁慶・・・笈・・・笈・・・太刀・・五月・・帋幟(かみのぼり)・・・五月朔日・・
      飯塚・・・●あやしき貧家・・・雷鳴(かみなり)・・・桑折・・・伊達の大木戸(国見町)・・」

   があって、稲妻で雷鳴を語っていますが●「あやしき」が出てきます。「義経」も「判官」と、〈両書〉
   で炙り出しがあり、これは「竜の雲」「虎の風」の出た一節にありました。判官は「はんがん」「はう
   がん」−「半眼」「法眼」がついてる場合もありえます。■「季下」については
     「江戸の人というだけで伝未詳。この人が深川の庵に芭蕉を贈り、それが庵名にも、芭蕉
     その人の称ともなったのはよく知られている。」〈芭蕉全句〉
   となっています。未詳というのはおかしい存在ですが、それだけに考えを広げてよいのでしょう。
        「深川や芭蕉を富士に預ヶ行(ゆく)  千り」〈野ざらし紀行〉
    があり、「千り」は大和竹内村の苗村氏とあり、竹内一枝軒という人と取れますが、このとき、富士
    川のほとりの、捨て子の話をして、伊賀へ里帰りがあり、伊勢、大和へも行きます。「紀行」と
   いうのも、「紀州」の「紀」がないとはいいきれません。「紀」には大谷吉隆の名前「紀之介」「慶
  松」「兵馬」が思い出されますがこれだともう一人の、大谷吉隆と重ねられている、芭蕉、一枝軒
  も同じ感じがします。■についても「寄李子」「奇(ママ)李子」があり、これは不明な余分なもの
  が前にあり、うしろにあるのでは〈武功夜話〉の「清助門」の「門」のようなもので、もう一人いて
  両方が重なっているのが普通だといっているようです。先ほどの「今井宗久」は
      「今井宗久」(狩野永徳)
   であり、
      「堺町屋衆今井彦八郎(ルビ=宗久)、千与四郎(ルビ=千利休)等・・・」〈武功夜話〉
  という表現もあります。したがって■の句の訳は、
     「お前の句風は、たとえていえば、闇を照らす
     紙燭として、あの大空の稲妻を手にとったかのごときあやしさがあるようだ」の意。
   となっています。この「あやしさ」がどこかあくるのかやはり、■●の連携からくるといわざるをえませ
   ん。また「紙燭」というのは、座敷でとぼす「たいまつ」となっています。「たいまつ」(松明)は
        属松(たいまつ)
   でネット記事「鎌倉史跡碑」「お水取りへの道(ご当地伊賀周辺再発見)」にも属松(たいまつ)
   が出てきています。奈良東大寺の「二月堂に籠りて」の句
        「水取りや氷の僧の沓の音」〈野ざらし紀行〉
    の句の訳文にも「お松明(たいまつ)に照らされて・・・・二月の夜の余寒の中を・・」という「松
    明」が使われています。解説では「二月堂に籠りて 水鳥やこもりの僧の沓の音」〈芭蕉句選〉
    もあることに触れ、「水鳥やと表記するのは誤り。」とされていますが「水とりや」もあるので
   間違いともいいかねます。「沓」は〈信長公記〉の「爆竹A」の一節に出ており、そこの水辺の
   「雪」の「寒」とつないだとみられ「(属子)松千代丸」「属松」ー「松明」が背景にあります。雪と
    氷の対置も富士の万年雪想起となるのでしょう。この「松明」は大文字の送り火の説明にも
   使われます。
    ここの芭蕉を富士に預けて行こう、という雄大な発想は、富士で酒の小西の白雪を想起して、
   伊舟の霜巴に預けとこ、というものでしょう。「霜」というのは「しょう」とも読めます。
   〈奥の細道〉スタートで「草加」を「早加」にした、「サ」を取りはずしたわけです。「芭蕉」の「芭」と
   いうのは「巴」+「サ」で「霜巴」の「巴」です。正勝と勝正、勝永と永勝は違うように、
        芭蕉→蕉巴→霜巴
   となりそうです。「蕉」は、「隼」+「(点四つ)」です。「点四つ」は〈漢語辞典〉によれば「連火」
  「列火」で松明により表わされる、水取りとか大文字のような火の連なりです。「隼」は小豆坂、
  桶狭間の佐々隼人正の「隼」で明智光秀の暗示があるものです。天正7年
      「隼(ハヤブサ)巣子(スコ)、丹波より惟任(これたふ)日向求め進上なり。」〈信長公記〉
      「丹後の松田摂津守、隼(ハヤブサ)巣子二つ進上。」〈信長公記〉
   があり、ついでに、「丹」「淡」の「摂津守」の「小西」が出てきました。「進上」は仁田、今井宗久
   とつながっています。霜巴という当主は芭蕉と親しいというだけではなく「霜」を付けた名前が
   ただ者ではないので、ここまできました。〈甫庵太閤記〉「小野攝津守」「山中山城守」「木村
   常陸守」「黒田如水軒」「浅野弾正少弼」「小西摂津守」などが出る朝鮮国での在陣の陣中、
    「霜台」が出てきます。
      「如水軒弾正少弼」「如水軒弾正少弼」「▲霜台如水軒」「如水軒弾正少弼」「▼如水軒霜台」
   があり、「霜台」は今は松永弾正少弼の号ときまっているわけですが、▲▼で「如水軒」と引付
   いて逆になっています。11月は〈両書〉で「霜月」が使われますが、〈漢語辞典〉では
      「霜の降りる夜に出ている月」
   という意味もあり甫庵は「十一月」を使っていながら、「上月」「山中」の出る一節は「霜月」を
   使っています。霜月の月といっても月次の「月」のほかに「上月」の「月」もありそうです。
    霜台の霜に紹巴の巴、芭蕉の巴を付けた名前を持つ「霜巴」という人は、何かを説明しようと
   いう意図を持つてこの名前をつけたと思われます。それは何かというのを探らねばならないので
    しょう。富士に芭蕉を預けた、というのは「白雪」に預けたと解釈したいところです。
      芭蕉の句
       「葱(ねぶか)白く洗ひたてたる寒さかな」〈韻塞〉〈泊船集〉
    は、爆竹A、の「雪」「寒」「仁田」に、葱の「白」が加わり、白雪も出てきそうです。
        
       「耕月亭にて  雪を待つ上戸(じやうご)の顔や稲光り」
    は、泊船集関連、「月」「雪」「酒」「雷鳴」の組み合わせです。
 
       「閑居の箴(しん)・・・酒飲めばいとど(かえって)寝られぬ夜の雪」
    泊船集のものには「深川夜雪」と前書きがあります。訳文が「夜の雪がしんと白く置いている。
    ・・・」から始まっており、「白く」が要らないのに入っている感じです。箴=鍼(はり)ということ
    糸偏ならば三緘(かん)の「緘」です。これらは白雪と酒造を結ぶべく詠まれた句と思いますが
    「織田造酒丞(信長公記)」は〈甫庵太閤記〉では「織田酒造丞」に変えられています。こういう
    のは利用されそうです。
    まあ、うそだろうといわれそうな話が続きましたので、少し脇へいきますがまた戻ってきます。

    (115)島田所之介(2)
    明智左馬介秀満ー@ー滝川左近ーAー島左近
   において繋ぎとなった@は「左」と「三郎兵衛(滝川)」でした。Aは「左近」と、「島弥左衛門」
   〈甫庵信長記〉の「島」がありました。「島」はもう一人「島田所之助」という人物がよく出てきて
   これは「秀順」ですが「秀満」もある(ウイキ)とすると、@の別の流れがある、(丸毛兵庫頭)の
   「子息三郎兵衛」の筋が出てきます。
    島田所介ははじめ村井と出てきます。
         「御舎弟勘十郎殿・・・村井長門・嶋田所之助両人・・・・」〈信長公記〉
         「村井民部丞・嶋田所之助・・・西美濃へ・・・・・・・・・・・・」〈信長公記〉
    のようになっていますが、ここは「村井民部」に「丞」が付いています。次は、大工に懸かって
    出てきます。すなわち、
         「御大工奉行(だいくぶぎやう)村井民部・島田所之助仰せ付けられ、・・・」〈信長公記〉
    があり、ここに「九山八海」という「海」が出てきて、「大石」「名石」が出てきます。これは二条御
    構の造営の記事における奉行です。また「信長公御座所」の造営で
         「御普請奉行、村井民部・島田所助、御大工棟梁池上五郎右衛門・・・」〈信長公記〉

    があってこれは、「大文字屋・・・祐乗坊・・・法王寺・・・池上如慶・・」の「池上」にも影響が及
    ぶということになります。「所」は「じよ」でもあります。また
         「日乗上人・嶋田所之助・村井長門守、三使を以て・・・」〈信長公記〉
    があり、こうなると両者の関係が気になり「子息三郎兵衛」が懸かって来るのではないか、と
    いうのが出てきます。村井長門守は一応太田和泉守とみてきてそう問題はなかったわけですが
    が武井夕庵がありうる、島田はその子息というのがありそうです。前田玄以が「民部卿法印」
    というのもあります。これは「海」とか「木工」というのも関連を示していますから「渡海」「大船」
    と結んでも飛んだというものではなく必然的といえることになります。「島田」は「島」「嶋」「志摩」
     ですから本来的に海洋を伴うものですが、それを示すものがあります。〈信長公記〉に 
  
       「九鬼右馬允あたけ舟、滝川左近・伊藤三丞・・・・あたけ舟、●嶋田所助・林佐渡守両人
       囲舟・・浦々・・」〈信長公記〉
  
  があり、この●「島(嶋)田」は索引では127頁となっていて実際は172頁にありました。

か     「林佐渡守・嶋田所之助、・・・舟数百艘乗入れ、海上所なく・・・・大船数百艘乗入れ、海上
       所なく・・・」

    もあります。人名注では「島田所之助」は
       「実名秀順〈兼松文書〉」「弥右衛門尉(円福寺文書)」「海部郡佐織町勝幡あたり」
    となっており、この「秀順」というのは筒井順慶」の「順」が入っているから気になりますが、次の
                     「島田弥右衛門尉」
    というのは〈甫庵信長記〉の
                     「島 弥左衛門尉」
    とは好一対になります。ここで前稿の始めに「山田」をやった効果が出てきます、つまり首巻
    の(一)に「山田弥右衛門」が出ていました。

   「織田弾正忠・・勝幡・・御台所賄の平手中務・・・御台所賄山田弥右衛門・・・」〈信長公記〉

    があり、弥右衛門は、上の勝幡と平手を伴っています。「平手」にも「中村」と同じく
            「五郎右衛門」〈信長公記〉
    がありました。「山田」は「太田」とみてよく
              太田弥右衛門
              島田弥右衛門
    長谷川橋介ー長谷川埃介のような一字違いのあぶり出しととれ、太田は島田を吸収するとも
    いえる、「島田所之助」は「太田和泉守=武井夕庵」のAととってよさそうです。太田島田の
    併記から「大島」が出てきますが
         「大嶋」〈信長公記〉
ー   からは島だから当然ですがまた海・舟がでてきます。
         「海上・・・・大嶋・桜井、数百艘相催し、幡首(はたがしら)打立々々、浦々・湊々
         へ上がり●所々に烟を挙げられ候。」〈信長公記〉
     があります。●は「幡」があるから「所助」をみているのでしょう。桜井は「桜の馬場」に飛び
    天神馬場ー摂津国天神馬場にいたります。大嶋からは「小嶋」が出てきて
         「小嶋六郎左衛門・加老戸式部両人・・・」〈信長公記〉

     があるので「かろうと」から、
       「今嶋・・・大船・・丹羽五郎左衛門・・・・かろうと嶋口・・・■織田上野守・・・・嶋田所之助・
       ・・舟・・・海上・・・南大嶋口・・舟大船・・・海上・・・大鉄砲・・」〈信長公記〉
    嶋田が出てきます。「小嶋」はさきほどの「小鴨」に似ているのでしょう。鴨ー嶋から甲山が
    出てきますが「甲(カブト)山」のあるところ「塞(ツマ)り」「堀久太郎」「小屋野」があり第二回
    爆竹の一節と繋がってしまいます。■も第二回爆竹に繋がります。〈甫庵信長記〉索引では
           島(嶋)田所介(助)
           島弥左衛門尉
    となっており「三郎兵衛」で両者か重なることが確認できますが島田の表記は多様です。

        武井夕庵ーーー島田所之介@−−−島田所介A(小西行長)
                     ‖         島田所助B(宮部善祥坊)
                  (前田玄以)
     
    となるのでしょう。ここで一つ「嶋田所之介」を付け加えたいところです。つまり

        武井夕庵ーーー嶋田所之介@ーーーー高山右近A(あの高山右近)
       (村井長門@)  (村井長門守)     弟本阿弥永勝(高山長房) 
                  (高山右近@)
 
    という前田玄以のいまでいう兄弟の「嶋田」が入ると思われます。前田玄以は「民部卿法印」
    で村井は民部があります。この高山右近@が一行の世話役であろうということで急遽出し
    て見た次第です。
。    爆竹Aの「一番」に「菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹・矢部善七郎」があり、この長谷川
    竹が、この高山右近@で、矢部善七郎は津田七兵衛信澄ではないかと思います。

    (116)愛宕百韻
    いま、なぜ「中村対馬守」が登場することになるのかということの途中ですが
    中村新兵衛が二つありました。(丸毛)三郎兵衛の新兵衛となると、この隠されてきた
   小西行長に宛てられるというのが大きい狙いであったと思われます。
       「大西」
   の配石の一つの眼目は大西=小西もあるのでしょう。「対馬守」は第二回爆竹の人名、
      「南方」(西抜き)の部の一番目「山岡対馬守」(「池田孫次郎」の前にある)
   をみています。「対馬守」は「山内一豊」が有名で、山内一豊は一時、山岡のところにいたと
    いう話っですが、この「一」を受けるため「中村式部少輔一氏」
   をフルネームで登場させたとも思われます。対馬=津嶋で「津嶋」は 

         「一、祝弥三郎 鷺になられ候。一段似相(にあ)ひ申すとなり。
         一、上総介殿天人の御仕立てに御なり候て・・・女おどりをなされ候。
         津嶋にては堀田道空庭にて一おどり遊ばし・・・・」〈信長公記〉
  
    で出てきます。「一段」「一おどり」の「一」も着目したのが甫庵の一氏かもしれません。「対馬」
    は「堀田孫七」と繋がった「伊東」の「弥三郎」を打ち出し、「天人」も入れてきました。
     「天の羽衣」は「羽衣の松」に繋がり「四海」もでましたがもう一つ出てくるものもあります。

       浮嶋が原より足高山・・・・神原・・・吹上げの松・・・伊豆浦・・・・天神川、伊豆・相模・・・深
       沢(フカサワ)の城・・神原の浜辺を由井て・・・田子の浦浜・・・●みほの松原や羽衣の松、
       久堅(ひさかた)の四海納まり、★長閑(のどか)にて・・・・」〈信長公記〉

   の長い一節の「四海」でした。(橘川の)駿河の情景ですが●は登呂で出て、脚注では
          「美保の松原に所在し天人伝説がある。」
   と書かれています。すでに織田信長の桶狭間の前の年?のおどりに天人が出て「海」が間接に
   出されています。桶狭間には「鳴海」の過分の登場があります。●
   の「みほ」は「ひら」かれており機械では「美浦」「美帆」も出てきます。ここの
          ★「長閑」
    も「中村対馬守」「海賊日本介」を登場させた〈安西軍策〉〈江系譜〉の著者の動機の一つと
   なるのでしょう。「天」が予想外のところにありました。愛宕百韻の一番、光秀の

            「ときは今天が下知(したしる)五月かな」〈明智軍記〉
            「ときは今あめが下知る五月哉」〈信長公記〉
          
    の「天」です。太田牛一の「あめ」は改作で、「天」が合っており、この句は、天下の「天」と「雨」と
    が懸かった傑作だと太田和泉守が解説したものでしょう。もちろん「天地あめつち」とか「天照らす」
    とか大きい意味の「天」もありますがこの際は、すでに語られているようにもう少し具体的なもの
   となっています。〈信長公記〉に
        「あま」
   がたくさん出てきました。これも「安満」とか「美浦の松原天の羽衣」の「天」といったようなものと
   懸かる具体的な「あま」です。「天」「あめ」と「あま」でこの句が完結しそうです。百韻の終わりに
   当たって冷静な明智光秀に少し取り乱したかのような素振りが見られます。〈明智軍記〉の記事
   がおかしいからかもしれません。一応解釈しながら進めますと。「心前」という人が、
           「名残(なごり)の花を・・・・・・・・・・」
     と読みかけると、光秀はそれを引き取って
           ▲「色も香(か)も酔(えひ)を進(すすむ)る花の下(もと)」
    としてしまった。さらに光秀は「挙げ句を」
           ▼「国々は猶長閑(のどか)なるとき」
     と「詠じて、」
           「懐紙には如何(いかが)思ひけん、子息十兵衛尉(の)光慶(よし)と留めさせける。」
     となっています。
     はじめは
       「光秀が句十六あり。■名残の花を心前が句に、色も香も・・・・・花の本(もと)と致しける。」
     となっている■の部分ががわかりにくいわけです。今は▲の句が「心前」、▼は「光慶」の句と
     されているので、この
            「名残の花を」
     というのが浮いてしまっている、というよりも消えてしまっています。これは浮かしたまま、
     つまり(名残の花を)と括弧して、「色も香も・・・・」の句の前に置く、あとに続く
     二つの句▲▼の題名となっているとすれば別れを伴った名残がでてくるのではないかと思い
     ます。▲の句の「花」二つにルビがなく「名残の花を」の「花」にもルビがなく、繋がりは図られて
     います。〈信長公記〉に
            「空海」
    という表記があります。「空海」は「天海」です。明智光秀の句は、もう一つ
          ときは今「あま(天)」が下知る(なる)五月かな
      という寓意もあって、この「あま」は「天の羽衣」の「天」で、この「天」から太田和泉守は
     「長閑」を出して来て、この「長閑」によって、明智光秀が、第一句から延々と繋がれてきた
     百韻を締めました。今五月「天海(あま)」をひた走る帆船があり、これは一月十五日に別れた
     面々が乗っている、孫の、明智光慶Aは使節代表を務めている、一行の武運を祈るという
     ことで入れられた一句、というものでしょう。この句の解釈には遣欧使節のことを抜いては
     ならないようです。〈明智軍記〉の著者の曰く

         「偖も発句に、ときは今あめが下しると云(へ)るは、光秀元来土岐の苗裔(びようえい)
          う明智なれば、名字を時節に準(なづら)へて、●今度本望を達せば、自(みずか)ら
          天下を知(しる)の心祝を含(ふく)めり。■挙句の体も爾(しか)の如し。誠に大事を心中
          に思立し刻(きざみ)、係(かか)る巧(たくみ)の句を余多せしは、其の才想像(をおひ
          やら)れたり。明れば、二十八日、日向守は各(長い「く」のルビ=「おのおの」の意)
          に暇乞(いとまこひ)して、丹州亀山へぞ趣きける。」〈明智軍記〉

   となっていますが、●はロ−マへ遣使した政権こそ国の代表、本望を達したときはじめて天下を
   取ったといえるという意味でしょう。挙句は
        「国々は猶長閑(のどか)なるとき」
    でありこの「国々」が、今は国内の国々ととられているのでしょうが、光秀は「天竺唐高麗南蛮」
    などの世界の「国」をいっています。■挙句に「体」という字はなく、国の「体」といったと取れます。
    そのあとの「係る」「巧み」は「句」の掛かりをいっており、始めは「天」と書きながらここでは
    〈信長公記〉と同じ「あめ」と書いています。「あま」の懸けは必然です。「明くれば、二十八日」は
    二月二十八日(一月十五日からみる)というのかもしれません。つまり
       日向守@は五月二十八日、暇乞いして丹州亀山へ趣き
       日向守Bは二月二十八日、暇乞いして「丹波」へぞ趣いた
   ということでしょう。二月二十八は遣使船長崎出航の日(〈クロニック〉)です。遣欧のことが本
   能寺にも絡んでくると細かいところで影響が出てくるのかもしれません。


   (117)本能寺
    ●■の文の題目は
      (  )内はルビ、
       「光秀諸勢(を)丹波(へ)遣(す)事{附}於(て)愛宕山(に)連歌の(の)事」

     となっており、「派遣」「遣使」の「遣」が入っていて、これが連歌と「附」となっています。ここの
    始め、「偖」の字にルビがありません。「さて」と読みますがこれが発句の始めに出てきて、
    これが又次節で出てきます。次節は

       「本能寺{併}二条(の)城攻落(す)事」〈明智軍記〉

     となっており、この「併」は「イ」のないもので、合体的な意味のものですから、敵は本能寺に
     あり、は、敵は二条(本能寺)にあり、というのと同じというものかもしれません。〈甫庵太閤記〉
     では、
       「信長公信忠卿二条本能寺にして、昨日二日之朝、惟任がために御切腹にて候。」
 
      となっています。しかるに当時は四条に本能寺があったわけで〈明智軍記〉では
         「敵は四条本能寺・▲二条(の)城にあり。」
     といっています。現在の本能寺は三条ではないかと思いますが、なぜ三条かというと、明智
    光秀が本能寺の時に        
         「諸軍の命を司って、二千余騎を随へ三条堀川にヒカへ(手偏に口)たり。」〈明智軍記〉
    があって明智光秀の故地だから、今の本能寺をそこに移したと考えられます。このとき

         「明智左馬助光春・・・・其の勢三千五百余騎、本能寺の舘(たち)を・・・又●明智治右
          衛門光忠を頭にて軍兵四千余騎、▼二条の城・同妙覚寺を取囲めり。総大将日向守
         光秀は・・・二千余騎を随へ、三条堀川にヒカへたり。」〈明智軍記〉

   となっていて、●の人物の攻略先が、▲に対応する、▼であってこれが「二条本能寺」ということ
   です。
    なぜこういうことをしたか、ということが問題です。敵は四条本能寺(当時ここに本応寺があり
    本能寺@となる)、と二条の本能寺A(二条の城同妙覚寺と)という二つの本能寺の共通項
    で二つのものを繋げるためと思われます。四条=本能寺=二条となりました。
    大村由己は当時の本能寺を「四条西洞院本能寺」として次の一文を残しています。
         
         「天せい十年六月朔日、夜半より、(惟任は)二万余騎・・・、四条西洞院本能寺、■相府
         の御所へ押し寄す。将軍・・・・将軍も深閨に入り、佳妃好嬪を召し集め給ひ・・・又、
         徳川ゝゝ(ママ)併に今度帰参せし穴山以下、人数二千計りにて上洛し
              御所の近辺★四条町
         に宿を取り・・・」〈総見院殿追善記〉
 
     となっています。この★「四条」が■に結びつくようにしたい、「二条本能寺」は〈甫庵太閤記〉
     では、「信長公」と「信忠卿」が切腹したところですから、これが徳川の四条における宿泊と関係が
     があるということをいうためのものと思われます。★が四条で■が四条なら書いた意図が
     バレテしまいます。
     ■の「相府」というのは、大村由己は始めに説明しており、
         「・・・・胡蝶の夢・・・・贈一品左相府平朝臣信長、・・・江州安土山・・・大石を以って
         山をつつみ・・・」〈総見院殿追善記〉
     があり、ここの「相府」で説明がなされており、信長公を指しています。これは本能寺の変に
     関し敷かれた伏線の重要のものの一つで明智軍が老いの坂、右するか、左へ下るか、の
     劇的場面、右旋回をしたときは、京都は空、信長公は少数で宿泊となるとクーデターが成立
     し、玉を手中にした徳川武断政権の誕生となる、秀吉卿に、信長公から明智討伐命令が出
     されたら同士討ちになってしまいます。再掲、愛宕山連歌に続く一節

           「本能寺{併}二条(の)城攻落(す)事」
  
    の「併」についての話で脱線しましたが、この一節のはじめの一語が「既に」です。
   
       「既に光秀は、亀山の城に至りけるに、●子息十兵衛光慶先日より甚だ瘧(ぎゃく)を
       フルひ、其の上熱病を煩ふに付き、急ぎ対面あって療治の様をぞ尋ね問ひける。サテ
       比田帯刀・松田太郎左衛門・御牧三左衛門・柴田源左衛門・池田織部・尾石与三・中沢
       豊後守を近付けて、日向守申しけるは、各々が心底某能く知る処なれば、万事を包まず
       云ひ談ずる者なりとて、
          頃(このごろ)安土にての品々(しなしな)具(つぶさ)に語りしかば  
       何れも承り・・・誠に短慮のご存分にも候はば、我々・・・残念至極、・・・露命を失わんこと
       疑いなき儀に候処に■今迄御堪忍の段重々の君恩にて御座候とて、頭を地に付けてぞ喜び
       ける。」〈明智軍記〉

    最後の■のところ、今この挙に出ることは短慮でないといっています。今迄辛抱してこなかったら
   我々の命はなかった、ありがたいということですが、信長父子三人を明智が追放してしまうと
   どうして、人命の損傷はないのか、ということなどが課題になりますが、皆大喜びなのが、聞いて
    いる話と違います。「品々」というのは種々という意味がありそうですが、やはり安土の品という
   のもあると思います。船に積む前の品々=7人というのは遣使の贈与の品となりますが一方で
   本能寺のときに安土城から宝物を避難させた面々がいたことが語られたということと思われます。
    サテというのは人偏に者ですが「渚」ににて海と近付けられたと思われます。
       サテ、それより光秀は愛宕山によじ上り
       サテも、発句に、ときは今あめが下しると云へるは、
       サテ、比田帯刀・・・・品々具に・・・・
    という連携がありそうです。同様に
       「既に」
    というのがこの一節にあり、明智光秀が一歩先に亀山にいたという印象を受けるものです。本能寺
    で重要な「既に」があり、老の山のくだり
       「ココを左へ下、桂川打ち越し、漸く夜も明け方にまかりなり候。
         (一行空き)
      ●(卅二) 既に信長公御座所本能寺取り巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。・・」〈信長公記〉

    があり、ここは信長が登場します。この「既に」を、徳川が先制攻撃をかけてきていたと取っていま
    ました。先制攻撃を切り返したというのが〈戦国〉の立場でここがポイントでした。この印象を

    与えようとしているのは甫庵も同じで
       「二日の曙に先手(さきて)漸く洛外へ近づくとひとしく、信長公の・・・本能寺を・・取り巻き
       鉄砲を射込み・・・」〈甫庵信長記〉
    は、桂川をわたっていたときに、「既に」本能寺で戦が始まっている、森乱丸は門外を見て、
    「惟任が謀反と見えて候。」といっています。これは四条宿泊ー四条本能寺ですから読者は
    徳川→本能寺と見ると思われます。森乱丸は徳川といえず明智といったととれます。「既に」
    が●の一節に、もう一つあり
          「既に御殿に火を懸け焼け来り候。」〈信長公記〉
   があります。これは先に着いていた、と同じ用法で、あらかじめ火が懸けられていたという感じ
    のもの、用意されていたものでしょう。下手に火をつけると風のある日などは、類焼の恐れあり
   火は喧伝されるために必要で対象、限定的になったと思いますが、そういう「既に」と思われます。
    二条本能寺襲撃ははタイミングがもっとも重要で、瞬発力が必要で、老の山から来る大軍団に
    その仕事をさせたとは考えられず、洛内に潜伏させた部隊の役割だったと思われます。湯浅
     甚助、小倉松寿丸、中尾源太郎、小沢六郎三郎、猪子兵助などは「町屋」に宿していた、
     野々村三十郎、団平八、斎藤新五、坂井越中守、服部小藤太、水野九蔵、寺田善右衛門などは、
     「有り合わせたる人々」となっています。明智が信長父子三人を
    徳川に先制して放逐し、このことは徳川の企図を挫くためのものという、その表現が二つの意味
    既にではないかと思われます。森乱丸は惟任が犯人だったと取って欲しいために「惟任」と
    云ったのでしょう。

     ここに「明智光慶」が二つの表記で出てきました。熱病を煩った
        「子息十兵衛光慶」
     と、懐紙に光秀が書いた
        「子息十兵衛(の)光慶(よし)」
     です。前者が、明智十兵衛光慶Aで後者が明智十兵衛光慶@として区別されているのでしょう。
      石田三成は「治部少輔」なので、「二条(の)城、同妙覚寺」を取り囲んだ四千余騎の「頭」
         明智治右衛門光忠
      の「治」と「治」が繋がるのかもしれません。明智光秀の子息は七人(〈明智軍記〉)と
     されており、ここでは二番目の人の事績がよくわからないので取り上げるわけですが
         「次(つき)の娘は、元亀(き)元年(1570)の夏、十五にて、明智治右衛門光忠に
         妻(め)あはせて、当年(天正七年?1579)二十四歳になれり。・・・・又、五番目は
         男子にて、惟住十兵衛光慶(よし)と申し十一歳と成(り)ければ・・」〈信長公記〉
     となって出て来ています。二人は十三違いだから兄弟か、親子かギリギリのところにあります。
     ここは惟住の光慶となっていて、事績のはっきりしない光慶はやはり注目すべき人物といえそう
    です。「明れば二日の曙に、」
         「明智左馬助光春を▲武将として・・・三千五百余騎・・・本能寺の館」
         「明智治右衛門光忠を▼頭にして、軍兵四千余騎、二条(の)城・同妙覚寺・・・」
         「総大将日向守光秀・・・二千余騎・・・三条・・・」
     となっており、「治右衛門」は、▲に対しのに対し、▼「頭」となっているのが重要で、治右衛門
     に乗っかり、光慶@が登場しているのではないかと取れます。ここは9500、で10700が
     「記」された数字で差があります。「四条・二条(妙覚寺)・三条」の「本能寺」を使い後世が、
     海上の光慶と、関ケ原の光慶を語ったのが、このあたりのことかもしれません。太田牛一は
     談合を相究めた人物に「明智左馬助・明智次右衛門」を入れており
         「次右衛門」=「治右衛門」
     ともいえない、「織田信治」「大野治長」「石田治部」などの「治」は一応は語りに使われている
     とみて当たってみることが要るかもしれません。一見したところでは信長公は無防備で徳川
     領から帰り、家康公がすぐ御礼に参上、気の毒に手薄を衝かれ、・・・となっています。
     
     (118)寺戸舜照
     乗船メンバーの追求から光秀周辺に異動が生じてきましたがもう一つの中心、高山右近の
     周辺からは誰が参加したのかという問題があります。あの高山右近は本能寺29歳くらいで
    15の子息がいてもおかしくはないようです。       

     「天神」に「天神馬場」と「摂津国天神」があり後者の方から、高山、高槻、キリスト教、宣教師
    などのことが〈両書〉に一気に出て来て、まず、そこからローマの方へ話しが進みましたが紹介
    した両書の中身の大きな違いは〈信長公記〉が〈甫庵信長記〉にある「山崎」を省いている点で
    す。
      「天神」と「山崎」、「山崎」と「八幡」が結びついて、「天神」=「八幡」となりますが、「山崎」
     において、外国語の
           「神ハ人の敬ヒニ依ツテ威ヲ増ス」〈信長公記〉
     が出ました。これは、脚注にある、
           「神者依人之敬増威」〈御成敗式目第一条〉
     をローマ字などであらわした積りのものでしょう。これは、岩清水八幡などで出てくる「上遷宮」
    「下遷宮」などの寺社用語がキリスト教にも懸けられる、安土城の土蔵への遷宮も表わすもの
    となります。
       「金を以て瑩立(みがきたて)、神前光明を輝(カガヤカシ)」〈信長公記〉
    は和洋、折衷というよりも並行に打ち出しているという感じのものです。安土城のなかで包摂
    され、違和感がなくなるのでしょう。
     「天神」は
       「天神馬場」「摂津国天神」〈信長公記〉
   があり、「天神馬場」は四つもあり、その内の一つは

      「大津の馬場・松本・・・三井寺光浄院・・東福寺・・・森三左衛門・坂井右近・・・かつら川・・
      岩成主税頭・・・正立寺・・・・・・・東福寺・・・・清水・・・・青竜寺・・・▲寺戸舜照・・・
      岩成主税頭・・・・天神の馬場・・・芥川・・・篠原右京亮(長房)・・・越水・滝山」〈信長公記〉

   があります。他の「天神馬場」からは直接的に「大津伝十郎」「高山右近」が出てきて、「古屋野」
   も引っ付いています。ここの

    ○「大津の馬場」は、大津伝十郎ー馬場信春ー信州松本ー信春ー等伯ー高山に行き着き
    ○「三井寺光浄院」も、山岡ー三井寺ー園城寺ー大津ー高山となり、三井寺は中村木工丞の
     一節にある。
    ○「岩成主税頭」は、内藤如庵(小西如庵)、「内藤」は「勝介」、「勝介」は爆竹Aの「屋代勝介」へ
     「東福寺」は狩野永徳、
    ○「芥川」は、人名、地名があり、高山右近などが登場。ここも大津、馬場、篠原(前田の姻戚)、
           長房、などで高山が暗示される。また地名の芥川から「大船」「大鉄砲」などが出る。
    ○「かつら川」ー「桂川」もあり「御渡海」(信長公記)もでる。本能寺のときに明智光秀の
              「老の山へ上り・・・山崎天神馬場、摂津国皆(かい)道・・・桂川打越し・・・」
              があり、この「老の山」は脚注では「京都市右京区鷹が峰から丹波に入る坂」
              となっている。「鷹が峰」は本阿弥光悦だったかどうか。
    ○「青竜寺」−「矢部善七郎が登場(既述)」(これは第二回爆竹記事後半でも出ている)
   
  があります。おかしいことに「▲寺戸舜照」の前の 「青竜寺」は索引に出ておらず、「正立寺」は
   あります。しかしよくよくみると、寺社の部で
         「■正立寺 (青竜寺)    87頁」
   というような索引になっています。まあ、まあ両方インチキくさい、この名前では、この地に存在
   しないのでしょう。 「しょうりゅうじ」と読むのは共通していますが、脚注では
         「正立寺」は「青竜寺。勝竜寺。京都府乙訓郡向日町神足。」
   だということです。これだと山崎の合戦で出てくる
         「勝竜寺」
    ということで納得できる名前です。
   「山城」というのはここで出てきたといえます。もう一回よくみると、今度は地名の部に
         「青竜寺の城   349頁」

    というのがあり、これは■とは、全然別のところで、ここでは「勝竜寺の城」という注はありま
    せん。ここから「永岡」「長岡」「与一郎」などが繋がってきますが、先ほどの「矢部善七郎」が
   出てきます。もうもう一回よくみると、今度は、寺社の部ではなく、地名の部で
         「●正立寺」
   が出ています。これで又又、原文をみますと「正立寺」ではなく
         「正立寺表」
   となっていました。まあいえば原文の写し間違い、というよりも判断の誤りで、「表」も勘定に入れ
   なければならないようです。だから■はこういう「●しょうりゅう寺表」という地名の
         「青竜寺」(実際は「勝竜寺」)
   ということになります。この「青竜寺」は「青」が2回目爆竹の「青地千代寿」や、先ほどの▲の上
   の「森三左衛門」と戦死した「青地駿河守」の「青」につながり、「駿河守」からは今見て
   きている「吉川式部少輔(駿河守)・森下道祐・日本介」の「吉川」につながってきます。いま、
   「日本介」が「中村対馬守」に替っていたから、「中村木工丞」をやって、いま途中だということです。
    
   「正立寺」は「立正寺」の逆で、「立正寺」〈信長公記〉は索引がない、といいたいのですが
        濃州西庄立正寺(ぢようしうにしのせうりふしやうじ)
   になっているので、「寺院」の部の「ぢ」行ですから、なかなか見つからないというのも無理ない
   ことです。「和田伊賀守」の出てくるところですから重要で
       「濃州西庄立正寺・・・鳥目千貫・・・江州佐和山・・佐々木・・・・江州・・・江州・・・江州・・
       ・佐々木・・佐々木・・」〈信長公記〉
   があって「佐々」−「佐和山」−「石田」も出てきそうですが、「江」は「江孫丸」の「江」もあり、
   それは「立正」「正立」による拡大も利いてきます。ここの
       「鳥目千貫」
   が、第二回爆竹の「堀久太郎」の説明をするという役目がありそうです。この青竜寺のあとの
   ▲寺戸舜照の出た〈信長公記〉の一節は〈甫庵信長記〉にもあり、

      「森三左衛門尉・・・坂井右近・・・岩成主税頭・・・青竜寺・・・矢庭に頸五十三・・・・東福寺
      ・・清水・・・青竜寺・・・▼寺戸(てらど)寂照院・・・岩成・・・摂津国・・・」

   などが出ています。
    ここに「矢庭に」というのがあって、第二回爆竹に「やばかげ」があり、訳本では「矢庭鹿毛」
   とされていました。すなわち、ここは、遣欧使節に関係ありということを表わしていそうです。
         「やばかげ」は
    「仁田進上のやばかげ・奥州より参り候ブチ(馬+交)の御馬・遠江鹿毛・・屋代勝介」〈信長公記〉
   と続いていました。「仁田」が何となく気になってなっていましたが牛乳の紙パックの土地色の
   出た文言を見ていたら、生産地に
          「群馬県甘楽郡下仁田町馬山」
   が出ていたのに気づき、ねぎー根深ー易水ー寒ー雪で利用しました。この「馬山」と仁田の「進上」
   が太田和泉守によって利用され、因幡伯耆に場を移し渡海を示すものとなったようです。
   「馬之山」「馬の山」は
      「羽衣石近所・・・七・・・馬之山・・羽衣石・岩倉・・・玉薬・・・吉川元春・・・」〈信長公記〉
      「羽衣石と云ふ城・・南条勘兵衛・・・小鴨・・・岩倉・・・吉川・・・・馬の山・・★黒部・・馬・・
      十九疋、佐々内蔵介・・・進上なり。・・・長沼山城守、名馬三つ進上。・・堀久太郎・・」〈信長公記〉
   があり、「吉川(駿河守)」・「日本介」など既述の部分に繋がります。★以下馬が22進上されて
   います。向こうへ着いたときの足になるものかどうか。また、羽衣石(ウエイシ)の城は
   南条城というようですが、住所は脚注では
        「鳥取県東伯郡東郷町羽衣石」
    です。「■因幡国とつとり表(信長公記)」という表記があり、さきほどの●の「表」とつながり、▲▼
    と馬山の周辺がボンヤリと結ばれてきます。■には、
       「因幡国とつとり表・・・吉川・・・・高山右近・・・安倍二右衛門・・・舟の上乗り・・・維任舟の
       上乗・・・因幡国とつとり川の内に・・・御使高山右近。とつとり表・・・羽柴筑前・・」〈信長公記〉
    が塗(まぶ)され「舟に乗る」「吉川」とともに「高山右近」が登場します。「東伯」の「郡」に高山
    右近が懸かって来ます。「東郷町」というのも〈信長公記〉の
        「越中太田保の内本郷」(脚注では「もと大田村に大字太田本郷があった。」と説明がある)
の   という表記の「郷」とつなげて利用されています。それは「内」という一語の設営があるので
    察せられます。「東」は太田和泉守、高山右近の属性と見るのも必要です。「東山殿」というのも
   〈信長公記〉以後は銀閣寺の足利義政だけを指すとは限りません。要は先ほどの●の「表」は
     索引で意識して抜かれた、ここの「表」は皆索引に入っています。つまり「表」という一語も
     つなぎの鍵となって機能しているということを示されたものでしょう。もう一つ次(つ)いでです
    「羽衣石」は訓みは違いますが、「天の羽衣」の「羽衣」です。地名索引では「は行」の一・二番
         羽衣の松   405頁
         ハジ十四郡  359頁
    となつています。下段は誰もわからなさそうなものです。確認すると、本文では「森勝蔵」の
    新領地の四郡、脚注では「高井・水内・更級・埴科」となっている
        「タカイ・ミノチ・サラシナ・★★ハジナ四郡、森勝蔵に下さる。」〈信長公記〉
    という文の★★の部分がそれだというのがわかります。何と「ナ」を似ているからと言って「十」
    に変えてあるわけです。人名索引の作り方の工夫です。筆者はこんなことは出来ません。
    紳士的というか、気が弱いというか
    とにかく遠慮して遠慮して控えめ控えめにやってきています。こういうのは支持を失うことにもなり
    ますが平気でやられています。この心は、古戦場「十四条と云ふ村(信長公記)」があって、
     ここは脚注では「岐阜県本巣郡真正町軽海」となっておりこの「軽い海」という「海」を出した
    かったというのがあると思われます。本文は

        「井口・・・十四条・・・・俣・・・足軽・・・御身方瑞雲庵おとと・・北かるみ・・・西向・・・
        西かるみ村・・・・古宮・・・・東向・・・既に・・・・真木村牛介・・・稲葉又右衛門・・・池田勝
        三郎・佐々内蔵佐・・・俣・・・俣・・・」〈信長公記〉

    があります。「軽海」はひらかれており、軽身もあるのか、塩分が強い海は体が軽く浮くという
   話しを思い出しましたが、「かるみ」は索引にないのです。北かるみ、西かるみがあるからそこで
   索引が出来ています。真木村の「木村」が重要で、稲葉は因幡で、「又右衛門」は「岡部」とか
   六人衆の又右衛門に繋がります。「因幡」とか「とっとりの東」からは、「木舟城」「海上」「舟」など
   などたくさん出てきます。
     「橘川式部少輔・・・とつとりの城・・・因播の国・・・北より西は滄海漫々たり。・・西の方海手
      舟・・・海の口・・とつとりの東・・」〈信長公記〉
    があります。「ハジ」というのは「端」でもあり「瑞雲」の「瑞」ですが索引では「瑞」→「すい」→
    「吹」もでてきますから、吹田高槻摂津高山と連携されていそうです。海の話に繋がるならば
    先ほどの▼のあった一節の
        「頸五十余」〈信長公記〉、「頸五十三」〈甫庵信長記〉
   という数字があるのは総勢という意味のものかもしれません。ここに▲に対する「寺戸」が出ていま
   す。甫庵は「寺戸寂照院」といってるのに牛一は「寺戸舜照」といっており脚注では、山崎の
       「向日町寺戸の浄土宗寂照院」
     となっています。しかしこの▼の表記では、建物か個人かわからない
   、というよりもわからないようにしてしまっています。幸い「てらど」と読むのは甫庵がルビをつけて
    いるのでわかりますが、まあ、大体ルビがなくても読めそうです。この「舜」は宝蔵院流、槍の
    名人「宝蔵院胤舜」を思い出すものです。柳生石舟斎や宮本武蔵などと同時代で
              初代「胤栄」、二代「胤舜」
    ですが「栄」というのが松永の「松栄」、佐久間の「信栄」に使われているのが利いてきていると
    思われます。筆者はこの2人は兄弟だと思っていましたが、いまネットで確認すると義理の親子
     というのになっています。往々にして勘違いがありますが、多くの剣豪の対戦相手になっている
   から自然と覚えうる人物ですが、この胤舜が宮本武蔵と試合をしたというのなら宮本兵大夫の
   方と関わりが生じたということだと思われます。正に本当の強者の激突といえます。武蔵は宍戸
   梅軒とも闘っていますが、これは「軒」の人ですから、同じようなことになるのでしょう。「梅軒」
   という名前は後世の人が付けたといっても、毛利の婿「光彩門戸に生(な)る」といわれている、
        「宍戸安芸守隆家」〈甫庵信長記〉
   が結びついているのが気になります。「宮部善祥坊」が吉川式部少輔、森下道祐、日本介三大将
   が出ている一節で取鳥城代で出てきます。これに意味があるとすると、大石源三のような人物が
   毛利家にも入ったという暗示のような感じです。それはともかく
   ネットで▼「寂照院」をみると記事、「ぐるなびトラベル広場寂光山常照寺」「京都市観光文化情報
   システム」で予想していたものが出ていました。
        「本阿弥光悦」
    で、その属性の「鷹峰」も出ています。これが〈信長公記〉で出ているかという問題が出てきます。
   また、寺戸寂照院は「海印寺」ともいうようです。この「海印寺」というのは韓国の世界遺産という
   ことですが、それを意識して、これは海外という意味合いで、あとで付加された名前ではないか
   と思われます。
   ネット記事「海印寺」(hokuriku/toko/)では
       「本堂・庫裏・観音堂、創建延徳4年(1492)、又は元和元年(1615)開基、惟舜首座、
        開山端翁祖的大和尚、寺宝所在地、大飯町犬見30−2」
   となっています。太田牛一は、日本での「海印寺」の存在は知っており、ネットによっても壱岐、
   村木砦の東浦などにもあるようです。これは富山県本郷にある若狭の海印寺の記事で本郷は
   大田村の太田本郷です。「惟舜首座」が開基しており、この名前は太田和泉守が「舜」を使った
   ということにあるのかもしれません。韓国の海印寺は
   「三宝寺」の一つで、日本の「宝蔵院」も「宝」の寺というのでしょう。
    ここに出ている寺戸舜照が何者かということがポイントで全てがこれに集中されている感じ
    で「清水」もそのための鍵となっているのではないかと思われます。


    (119)兄弟
     〈甫庵信長記〉でも「清水」が出ていますが、さらに次節で、永禄11年
          「芥川、小清水、滝山の城開け退く事」
    という表題のものがあり、中味は
          「摂州天神の馬場、高槻、茨木・・・・芥川・・・・細川・・・・篠原・・・小清水滝山・・
           小清水・・・和泉の堺・・松永・・・吉光の脇指・・・茶壷・・・画・・・源義経・・一の谷・・・」
           ●清水寺・・・・・」
    のようなものが出ています。ここで「小清水」がでてきて、清水に意識が過剰といえます。
    清水といえば一応は東山の清水寺と清水焼というをいうものを外すわけにはいきません。
    しかし●で「清水寺」が出ましたから「清水」だけだったら「清水焼」でいいのではないかと思われ
    ます。「小=古」になるのかもしれません。芥川で〈信長公記〉をみると荒木攻めの摂津の布陣
    が二つ出てきます。ぞのなかで高山右近が番をした砦だけが二つとも脚注で「不詳」となって
    いました〈信長公記〉。
         「一、深田(ふかだ)、高山右近。」「一、ひとつ屋、高山右近。」
    の二つです。調べている内に「深田」が高山右近の属性のように思い込んでしまいます。
    それが、つけ目で、そうなっていいのですが、、実際の場所も問題
    だから、「吹田」ならば、可能性はあるし、読みもできるということで宛てました。
      「長ふけ」〈信長公記〉
    これは「長深」で宛てられていますが地名索引では「深」「ふか」「吹」が並んでいるというのも
    あります。「ひとつ屋」というのが問題ですが「一の谷」に宛てたというのも「惟住五郎左衛門」
    が「兵庫一谷」から人数を打ち返して「塚口郷」で陣しているから問題ではない、ということに
    なります。しかし「塚口郷」にも「高山右近」が陣していたので二箇所同時にいたのでおかしいという
    ことになりました。ここでここの「ひとつ屋」が利いてくるのがわかりませんでした。芭蕉の〈奥の細道〉
    越後のくだり、
         「一(ひとつ)家(や)に遊女もねたり萩(はぎ)と月」(テキストー旺文社)
    について〈芭蕉全句〉では「一家」(ひとついえ)を採用して

         「“一家”は私は同じ家の意を生かすためにヒトツイエと訓んだが、どこか落ち着かない
          ・・ヒトツヤと平坦に訓めばどうしても弧屋に紛らわしくなる・・・ヒトツ・ヤと若干間に
          休止を置き、ヤにやや力をいれて訓めば、同じ家という語の感じになると思う。・・・」

    というようなことが長々と書かれています。「ヒトツ・ヤとしてヤを重くして訓む・・・」なら一家、
    弧屋という両方の意味にとれるということでしょう。こういわれながら、この句に
        「ひとつ屋」〈信長公記〉・ 「一屋(ひとつや)」〈甫庵信長記〉
    という例があるということは一切書かれておらず、このあとは「〈奥の細道〉の本文を掲げておく・・」
    と、なって長い引用で話しが逸らされています。これは、〈信長公記〉と芭蕉の繋がりを感づかれな
    いようにと配慮からでしょう。事の発端は「ひとつ屋」というのが漠然としていてよくわからない
    ので一応ネットで検索してみたことから起こりました。なんとこの「ひとつ屋」は芭蕉の〈奥の細道〉
    の句に宛てられていました。 
     ネット記事でははじめの方で、この句に「ひとつ屋」を適用して
w   あるのが2件、「一つ屋」は5件ありました。類書では芭蕉で使われているのか、と知りたくて
    〈芭蕉全句〉をみて書かれていなかったのでガッカリしたということです。これは調べる必要が
    ないことで、使ってもよいのは確実なことです。ましてそれを使った人があるのだから、文献に
    載っているかどうかの詮索はしなくてもよいわけです。江戸時代の人は簡単に文献を調べられ
    ませんから、自分の感じで決めていたことが多かったと思われます。〈両書〉との繋がりは
    感じとられていたといえます。ネット記事「毎月の宣長さん、九月」のイントロには
       「いかならむ 寒き田面の ひとつ屋に ひとりおきゐて 衣うつよは」
    の宣長の歌が出ています。宣長は〈信長公記〉の表記を正確に写しています。こうなると「田面」
    が、気になってきます。
        「小池吉内・平美作・近松田面・宮川八右衛門・野木次左衛門」〈信長公記〉
    で近松が出てきます。索引では「近松田面」「近松豊前」「竹雲」とならんでいます。「近松
    豊前」(丹羽衆)の「豊前」からは、小倉の城主、大坂城の「毛利豊前守勝永」が出ます
    が、この「勝永」は、「躰阿弥永勝」の「永勝」と同表記で逆となっています。近い親類という
    わけでしょう。「竹雲」は「岡辺・竹雲・・・」〈信長公記〉という並びがあり、高山に近松が近づき
    そうです。平美作も人名索引では
        「平蔵」「平美作」
    となっており、長谷川平蔵にも行き着きそうです。小池吉内の小池は古池田→ひとつ屋、
    吉内は「吉田平内」につながって安土城の石垣に飛び、そこで
        「大西」
    という重要表記に到達します。とにかく宣長ともなれば、何か出しているだろうと思われますが
    高山右近、本阿弥光悦のことなどの外に、遣欧使節にこれらのことが絡んでいることをいって
    いそうです。
          「本折」〈信長公記〉
    という地名表記があり、これは
       「伴正林・・・鉄砲屋与四郎・・・(道具類)・・・本折・・中将信忠摂津表・・堀久太郎・・・
       古屋野に至って御在陣。」〈信長公記〉

      と流れています「子息甚九郎」「三位中将信忠卿」「堀久太郎」は第二回爆竹後半に出て
      います。「古屋野」は大船ー滝川左近に繋がります。「古屋野」は
           「小屋野」〈信長公記〉
      もあり、地名索引で二つが並んでいます。脚注では、「兵庫県伊丹市昆陽」とされています。
      「昆陽」といえば、焼きいも、の青木昆陽が有名で、山田奉行であった大岡越前守の時代の
      人物ですが、その名前の由来は、ネット記事「中央区郷土史同好会」によれば

        「生地がかつて日比谷村の東南部にあったことから日比を昆に、東南を陽にして号
         とした。異説では父の出身地摂津市多田村昆屋野(こやの)から採った。」
    
       となっています。これは青木木米が、先祖がかなリ前から京に出てきているはずなのに
       突然父が美濃の久々利出身だといっているのと似ています。「日比」は〈信長公記〉で
       「日比(ひごろ=日頃)」で常用されており「日比谷」というのは斎藤家の大将で「日比野」
       が出てくるので、それで宛てるとよいと思いましたが、「昆屋野」もあるということだから
           「日比屋野」=「日比谷野」
        で、「谷」が「野」というのに替えて見たらどうかというのにも気が付くことにも
      なります。太閤記などで墨俣の負け役、斎藤の日比野備中兄弟として覚えていましたが
      〈二書〉では「日根野」になっています。しかし「日比野下野守」も用意されているから
      「日比野」というのでもよさそうですが要は墨俣の勝ち役も、負け役も太田和泉守で、
      「日比谷」、「日比野」が出てきたということは「多田村」は「太田村」をみているといってよく、
      青木昆陽は遣欧使節と自分の蘭学を重ねて名前をつけたといえます。
        昆陽の陽は、「屋野」もありますが、「宗陽」(脚注では「紅谷」ーー高麗茶碗進上)が考え
       られます。

          「宗陽・・・・九鬼右馬允・・・・併に滝川左近大船白船上乗り・・・伊藤孫大夫三人・・」

       があり、大船に繋がっています。また「日根(禰)野」と「日比野」の両方を作ったから
       索引で「日野長光」が両者の間に挟まったわけです。
            日根野六郎左衛門(日根野の終わり)
            日野輝資
            日野中納言
            日野殿
            ●日野長光
            日比野下野守
            ★百済寺の鹿・百済寺の小鹿  相撲
       という恰好になり「日野」が影響を受けることになりました。佐々木旗下「蒲生」から
       「木村」「山口」も出ますが、蒲生の本拠は「日野」です。相撲の●「日野長光」で行きますと
           「東馬二郎・たいとう・日野長光・・・・・」〈信長公記〉
       があり「たいとう」→「帯刀」が出てきます。青木昆陽は「甘藷先生」というので有名だそう
       ですが「先生」は「帯刀先生」があり、これは堀尾茂助で、高山右近ともなります。「日野」
      ー「堀尾」ー高山、これは駄目が押されていて、「日野殿」からも堀尾帯刀がでてきます。
       日野殿でやりますと
           「日野殿・広橋殿」〈信長公記〉
      があって
           「山口太郎兵衛・・朱印・・・江川舟橋・・・・相国寺・・・●百端帆進上・・・千鳥香炉・
           宗祇香炉・・・宗祇香炉・・・千鳥の香炉・・・相国寺・・・・広橋殿・・・」〈信長公記〉
      があってこれらのものが広橋へいきます。「宗祇香炉」は脚注では
          「連歌師飯尾宗祇がが所持した香炉であろう。」
       とされていますが 「飯尾」が目的で「飯尾毛介」が出てきます。これは縁組による姓の
      変更で、「堀尾茂介」がでてきました。これが
           「堀尾帯刀先生吉晴」〈甫庵信長記〉
      です。「相国寺」は脚注では
           「実際は相国寺の▲塔頭(たっちゅう)の慈照院に宿泊」
      となっています。これは「兼見卿」がいってるようですが、塔頭の説明をしてくれたようです。
      大徳寺からは狩野永徳が出てきませんが、その塔頭に有名な絵がある、まあ悪く取れば
      目くらましです。一方
            ■「東山慈照院殿」〈信長公記〉  
      という表記があって
           「九山八海」「御大工奉行村井民部」「大石」
      が出てきます。「慈照院」で「寺戸」を思い出しましたが「寺戸寂照院」でしたので、まあ間違
      いやすいことは
      事実ですが見当違いでした。しかし東山ー清水ー寂照院はあります。「相国寺」からは
      「相国寺」が、「雪舟」の属性であるとみてよく、雪舟の絵もあるようですが、「雪」が爆竹の
      記事にあり、「舟」「絵」、つまり言継卿は雪舟を思い出せといったのかもしれません。●が
      不詳となっています。この場面に船の帆が出てくる意味がわからないということなのか
      「百端帆」の意味をいっているのか、わかりませんが、訳本の「今川氏実(ウヂザネ)が
      お目通り百反の舟の帆布をお贈りした。」というので判り易いと思います。千鳥が浜千鳥
      かもしれませんが「帆」で帆船がイメージされればよいのでしょう。また■からは先ほどの
         「たいとう」
     が、しかも別のところから出てきます。地名索引の■の次は「百済寺」が出て、これは人名
     索引の日比野下野守の次に★の「百済寺」がある、
        「百済寺の鹿・小鹿・たいとう・正権・・」〈信長公記〉
     ですから■東山は「たいとう」−「高山」に近づきます。一方、日比野も「たいとう」に接近し
     ます。青木昆陽の昆=「日比」は、「谷」を加えなければ「日比野」にならず、日根野からでは
     百済、鹿は出てこなかったといえます。「日根野」「日禰野」は語りのためのもので実名は
     「日比野」だったといえそうです。
         「百済寺の大鹿・百済寺の小鹿・たいとう・正権・長光・・・・・」〈信長公記〉
     は「鹿」から出て、鹿の次にあるから「たいとう」重要、「帯刀」が一つの狙いというのが判り
     ます。重要なものは、ほかにも懸かっているもので、鹿があって、古代の「たいとう」でもあり
     ます。「たいとう」に「台東区」の「台東」があり、これと、長光の位置が違いますが、先ほどの
         「東馬二郎・たいとう・日野長光・正権・・・・・」
     がありました、「日野長光」から出され、且つ、日野長光の前だから、「たいとう」が重要です
    が東馬の後ろというのは別の狙いもあるということかもしれません。「東馬」は「投馬」で、邪馬
    台国の「投馬国」があります。邪馬台国の東、つまり台東に、投馬国(長門国)があったという
   のが出ていそうです。「東馬二郎」は太田和泉守相当でしょう。
      
      ここで中山と言継卿が慈照院に▲の注記を出したことが利いてきます。
           ネット記事「金閣寺(鹿苑寺)」
     によれば、これは「相国寺山外塔頭」とされており、「九山八海」はおかしいことに鹿苑寺で
     述べられています。太田和泉守は
            「■東山慈照院殿」と「相国寺」「▼鹿苑院殿」〈信長公記〉
     を出しています。この「鹿苑院殿」は「舎弟鹿苑寺殿」(周嵩とされる)ですから個人名でしょう。
     テキストでは■を寺ともみていましたから、「鹿」→「たいとう」が直にも出ることが確認できる
     ことになりました。▼は表記だけからみると、■と同じように殿舎とも取れるから寺の索引に
     「ろ」で入ることになり、その前は
             「六条本国寺」〈信長公記〉
      が出てきます。ここは「寺戸舜照」ので出て来る一節ですが、本国寺の周辺だけ当たって
     みると、松永弾正のつくもなす、今井宗久の松嶋の壷が出てきて「つくもなす」「松嶋の壷」
     は「宗易」の出てくる短い一節にも出てきます。「松永」「今井宗久」が利久に接近してきます。
     「今井宗久」天王寺屋竜雲の化テキーーー舟形の茶入れ、天王寺屋ー法王寺などのことは
     既述ですが、宗易の一節に「遠寺晩鐘」が出てきます。「六条本国寺」は
        「・・・判官殿一谷鉄皆・・異国本朝の珍物・・・芥川・・・芥川・・・六条本国寺・・・・喜悦・
        ・・清水・・」〈信長公記〉
     などの流れもあり、
        「一谷」ーー「一つ屋」ーー高山右近A−−「喜悦」(光悦の悦)ーー「清水」
      となると本阿弥光悦も出ていそうです。清水というのがここにも出ており、本阿弥光悦は
     清水焼関係ないとはいいきれない、本命ではないかと思われます。この「清水」は天正8
     年
         「やはた八幡宮御造営奉行として、武田佐吉・林高兵衛・長坂助一・・」〈信長公記〉
      の八幡宮が「石清水八幡宮」とされているのでその清水にも繋がるとは思いますが、ここで
     工事が完成し下遷宮、上遷宮が終わりましたが
           「金を以って榮立(みがきたて)、神前光明を輝(カカヤカシ)、」
     などルビが、ひらかな、カタカナ、ちゃんぽんで、
           「誠に神ハ人ノ敬ヒニ依ツテ威ヲ増スとは夫れ是を謂ふか。」
      などのカタカナ混じりの文に至っては「御成敗式目(貞永式目)」第一条の
           「右神者依人之敬増威」
     という漢字の焼き直しということで、漢字かなとカタカナが並行して使われています。つまり
     和洋まじりということで日本語とポルトガル語が使われて、神式と、キリスト教、日本の石清
     水・西洋の教会がまぜった話となっています。まあ〈記紀〉において例えば人名が今日で理解
    出来る読みのものがあるのと、生のままのであろうというのがマゼッテいるのと同じ感じのもの
    です。
     ほかにも日野殿を追っかけると「広橋」がでて「橘」に繋がり、「橘川」−「吉川式部少輔」に
     つながりました。「吉川」と並びで「日本介」がでてきて「中村対馬守」が入ったおかげで、
     「日本介」が海賊に入れられているわけです。海賊対象には海将が要ります。
    航海を意識した読みに注意を向けさせたり、塩谷掃部から明石の掃部もでますが「えんや」も
    でますから「遠野」もでます。ここに出た「義経」などは太田和泉守が取り上げたから江戸期に
    話しが広がりと深みを見せて行ったと考えられます。日野殿から
       「日野殿・・・信長公彼(かの)大船にめされ、風吹き候といえども・・・・推し付け御渡海
        なり。其日は・・・御泊。」〈信長公記〉
    が出てきて航海につながります。すると海賊につながり、遠野の孫にもつながり、遠野物語に
    義経、弁慶の話がある、遠野には「佐々木」「六角牛山」とかが出てきます。塩谷は忠臣蔵で
    竹田出雲ですが、「岡辺・竹雲・・・」があってこれは竹田出雲がここを見たかもしれないわけ
    です。それを利用する人が出て
    くるのは止められず、その人物は平成の筆者より遥かによく知っているのだから
    また物語を残したのだから、物語を探し解釈しようとするのも当時を知るには大きな仕事と
    いえるものです。

    ここの
     「風吹き候」
    は実際そこに著者がいた、舟の動力だから、関心があった、という一面があると思われます。
    第二回爆竹の、正月十五日
         「其日、雪降り、風ありて寒(かん)じたる事大方ならず。」〈信長公記〉
     は、そこにいた著者の皮膚で受け止めた感慨が出ていて、それがこの一節の前半を締めて
    います。感慨
    にふける間もあらず、前後世俗のことの叙述でギッシリという感じです。前半を締める人物は
        「屋代勝介」〈信長公記〉
     ですが、第一回の爆竹、馬揃え、と、ここと表記が皆違います。三つやしろ、ですがまず第一義的に
    これは誰か、という問題が出ます。テキスト脚注では
   
       「(前年天正14年2月)二十五日、ヴァリニヤーノは、オルガンティノとフロイス及びロレンソ
        をつれて信長を正式訪問した。信長は坂東(ここでは東方の意味)領主(徳川家康か)
        から届けられたばかりの●鴨十羽を贈った。」

    となっています。坂東だから関東といえますからこれは北条氏政であることは察せられて、徳川家康
    家康となっています。家康は本能寺の自前にようやく駿河があたえられています。大石源三
    氏直がいる関東北条が織田の友好国で山岡が窓口となって物品の行き来があります。

        「関東祗候の矢代(ヤシロ)勝介と申す馬乗り、是にも御馬乗らせられ・・」〈信長公記〉

    などとなっていることからこれは大石源三氏照とするのが妥当であろうと思われます。「羽衣石
   (ウエイシ)」−「●小鴨左衛門尉」−「馬の山」の線があります。「小鴨」は「おがも」と訓むことになって
    いるから探しにくくなっています。地名だから仕方がないわけですがこれも「東伯郡」にあります。
      「勝介」から「内藤」想起、「内藤如安」−「小西如庵」などが出てきます。「矢代」「屋代」は
   「八代」もありえる、熊本の「八代」は小西行長の属性です。
  
        @東山が銀閣寺で足利義政で、相国寺はここにある、足利義政を東山殿、慈照院殿という
        A北山が金閣寺で足利義満で、鹿苑寺がここにある、これは建物の「慈照院」をいう
      ということで、息のかかった「別寺」とか「脇寺」というものが「鹿宛寺」でこの「鹿」からも、
     相国寺ー雪舟ー東山が出てきます。太田牛一が「東山慈照院」と書いたのはAをいいたかっ
     た、「百済寺(はくさい)寺」「鹿」と第二回爆竹の「雪」「舟」などを結び付けたかったと思われ
    ます。鹿というのはやはり蘇我の大鹿・小鹿で、その時代の遣隋使遣唐使のことなどは当然
    遣欧使の前提としてあるわけです。多くの海関連語句を導き出した、高山想起の、索引に出て
    いない
               「足高山」〈信長公記〉
     は「明日(あした)香(か)山」で「明日香」「飛鳥」が出されています。福井県の
               「足羽山」(ルビ=アス カ ヤマ)〈信長公記〉
     があるのは、「足高」の「足」を「あす(明日)」と読ませるための布石といえそうです。すなわち
     テキスト脚注には
            『南葵文庫本は「アスカヤマ」の「カ」に朱註し「ワ」に正している。』

     となっています。書き間違い、転写間違いなどではないということを示し、「足」を「アス」と
     読ませようとした著者の意向を示した傑作の朱註といえます。戦国の二つの遣欧使は「国」
     として出したものだといっています。「国」の草創期の苦心を偲び、「国」の明日を思ってやら
    れた壮挙であることが語られていると思います。この「足羽山」で
         「足懸り・・・足羽山・・・足場」
    の三つの「足」の一節が結構され、そこでは、同時に「国」が語られます。
         「足懸・・・丹後国・・・丹波国・・・滝川左近・原田(塙)備中・惟住五郎左衛門・・・足羽山
・・       ・・・賀越両国・・・越前国・・・国中・・・国・・・公事篇(裁判に関する規定)の儀、順路憲法
         たるべし・・・朱印・・・分国・・・当国・・・・●大国・・・足場・・・越前国・・」〈信長公記〉
    という多くの国が目につきます。●について脚注によれば
        「越前は大国に当たる(〈延喜式〉)」
    というのがあり、越前国で日本を語るというのがあるのでしょう。ここの「憲法」も「十七条」は
    別のところにもあり、聖徳太子を想って語っているとみてよいといえそうです。要は織田信長と
    徳川家康を動かして、二つの遣欧使節を出したのは、太田和泉守であったといえます。着眼
    遠局、目前の着手、どれくらいの的確な着手が実を結んだのか、気が遠くなるほどです。
    お蔭で日本がよく知られてそのことがどれだけ後世にプラスになったかは計り知れないものが
    あります。
    ペリー提督・吉田松陰の接触も劇的ですが二つの遣欧使に関して、二人は、企画断行した、
    巡察使ヴァリニアーノと伊達政宗というのは知っていたと思われます。二人に太田和泉が乗っ
    かっている、太田和泉守に二人は名前を貸したということはよく知られていた、二人もよく知っ
    ていたと思われます。

t    天正六年摂津陣に、二人高山右近がいた、「塚口郷」と「一つ屋」に高山右近が載っている
   のでおかしいということでしたが、一の谷に高山右近@Aがいた、これは、ひとつ屋根の下の
   (一家の)二人だから兄弟かもしれないというのでしょう。
  
・  「寺戸舜照」〈信長公記〉はテキストでは勝手に「寺戸舜照院」として寺社の部の索引に入れられて
   いますがこれは個人名と取れるので、人名索引の部に入れると〈信長公記〉では
         寺田善右衛門
         寺戸舜照
   という索引になります。つまり「寺戸舜照」は「寺田舜照」とみてよく、「寺田」は
        「寺田又右衛門」〈甫庵信長記〉
   があり、これは岡部又右衛門から「高山右近」引き当てでよさそうです。さらに
        「寺田善右衛門」〈両書〉
    があり、〈甫庵信長記〉の人名索引では
         寺田又右衛門
         寺田善右衛門
    となっているからよく目立ちます。
   一応今でいう弟としますと高山右近の弟が本阿弥光悦といえそうです。〈信長公記〉
    登場四回
        「御名物の御道具・・・御使、寺田善右衛門・・・雁絵・・・・宮内卿法印・・・周徳さしやく・・」
        「安土御殿主・・・江・・・舟・・・続松(タイマツ)・・・雲雀毛の御馬・・・寺田善右衛門・・」 
        「塙伝三郎・斎藤新五・河野善四郎・寺田善右衛門」
        「桜木伝七・寺田善右衛門・塙伝三郎・・・」
    で、「宮内卿法印A」でいえば「武井夕庵」とつながり、、「安土御殿主」でいえば
  
      「上一重のかなくは後藤平四郎仕候。
         京(きやう)・田舎衆(ゐなかしゆ)手を尽し申すなり。
       二重めより●京のたい阿弥かなくなり。
         御大工岡部又右衛門、・・・」〈信長公記〉      

     の記事があります。金工の大物二人登場で、●の人物が人名注では
         「躰阿弥永勝  ・・〈松木文書〉・・。吉左衛門尉。宮廷関係の金工。だい阿弥 217頁」
     で考証されています。●の「京」というのは、その上に「田舎」と対置した「京(きやう)」があり
     ますからこれは「長岡京」の「京」です。「躰阿弥」というのは
          「身+本阿弥」
     ということで、本阿弥が出てきます。この「躰」は
     安土城の続きの「山岡」−「石山」からも出てきますので必然でもあります。切り離された「身」
     は「彦進」の「進」もありますが「身方が原」の「身」で

       「遠州表・・身方が原・・佐久間右衛門・・・身方が原・・・信長公・・・御小姓衆長谷川橋介・
       佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎・・・勘当・・・家康公・・具足屋玉越三十郎・・・・」〈信長公記〉ここで一つ
    が出ていました。この「具足屋」の「三十郎」は「野々村三十郎」〈信長公記〉があり、「野々村」は
           「野々村又右衛門」〈信長公記〉
     があります。これは「岡部又右衛門」で安土城や船大工を想起する、「浅野又右衛門」があり、
    「孫七」とか孫の「山口太郎兵衛」−「山口半四郎」「山口勘兵衛」などを見直すということに
    なるものでしょう。


     脚注では、「具足」は甲冑(よろい、かぶと)とあります。「覚えとこう滝川彦右衛門」
    からも「勘当」−佐脇藤八から具足屋に達します。伴正林は鉄砲屋与四郎の資財・雑具を拝領し
     その上
   、太刀、脇差大小二つ、小袖、御馬皆具を拝領しています。この「勘当」がまた第二回爆竹で
    佐久間右衛門の説明として出てきます。何がいいたいかといいますと、織田信長がローマ法王
    に使節を出す場合、当時の日本固有の文物を厳選して贈ったはずで、狩野永徳の絵はその
    代表であろうということです。具足屋玉越三十郎の役目の一つがそれだということです。
     
   (120)積載品
   本能寺前の年の歳末

         「隣国遠国の大名・小名・御一門の御衆安土へ馳せ集まり、歳暮の御祝言として
         金銀。唐物・御服・・・・門前市をなし、色々の重宝進上其の員を知らず。・・・
         ★★・・・寵辞(イツキカシツキ)・・・御果報貴(イミジキ)有様本朝に並びなし。・・・
         歳暮の御祝儀として羽柴筑前守秀吉播州より御小袖数弐百進上・・・か様の結構
         ▲生便敷(ヲビタダシキ)様躰(やうだい)、古今承り及ばず。・・・」〈信長公記〉

    となっています。★★の一文は後述、漢字とルビが合わない例で案外多いのに取り上げて
    いませんが本朝に並びなき、というのは外国はいざしらず、というような感じのもので何となく
    他国、外国が意識されていると思われます。それはともかく、この宝物を進上した連中が、
    ここで宿泊し「在安土衆」として、また正月一日に登城します。
    そのときに今度は
         「百文づつ」
    持ってくるよう触れが出て皆持参して、御幸の間などを見物しますが、おわりに信長が
         「十疋宛」
    の御礼銭を後へ投(ナゲ)て、そのあと

         「他国衆、金銀・唐物・様々な珍奇を尽くし上覧に備えられ、▼生便敷(おびただしき)
         様躰申し足らず」〈信長公記〉

    となってこれで本能寺の年の(一)が終わり、次が(二)第二回爆竹の記事に入っています。
    この▲▼は、読み(ルビ)が間違っていそうな感じがしますが、その上、ルビがひらかな、カタカナ
    と違っているということになっています。また、これは「躰」を含んだ語句となっていますが、これも
    ルビが「だい」となっているのが特殊なよみです。まあ▲▼は人騒がせなものですが、目だって
    歳暮と、爆竹を繋ぐ役割は十分果たしているといえます。ここで「躰」は「だい」という訓みと
    なっていることがわかってきました。
     普通は年末でも歳暮の記事がないのに、ここで派手にそれが取り上げられています。遣欧使節の
     贈り物が眼目であったということができそうです。すると▼の記事が、
     「宣教師などの他国衆が土産物として、こういうものから選んだもの(また、自分たちで買い
     集めたもの)を、信長公に(船に積む前に)見てもらった」
     ということになります。それでないと▼の記事は単に、信長公が喜んだという記事になって
     しまって、▲▼の語句の選択などの工夫が意味がなくなります。
        「御礼銭百文づつ」
     が集められ
        「十疋宛(づつ)の御礼銭」
     が投(ナゲ)られたわけでこれ何倍になっているのかわかりません。後ろは宝の積んである所
    だから資本を投下したということでしょうか。「御台所」の「台」などは「臺」(うてな)の「ダイ」が
    感じがでそうですが、置かれたもの全部、買い上げた、一見無造作なところが、織田の
    財力を見せ付けた感じになっています。このときの歳暮は、秀吉の信長に対する莫大な贈り物
    の話しが付いています(両書)。有名な話になったのは〈甫庵太閤記〉が大々的に取り上げたから
    です。三書とも、表現はオーバーですが贈り物が大きく違っています。

       〈信長公記〉      「小袖弐百」
       〈甫庵信長記〉    「銀子三千両」「小袖二百」
       〈甫庵太閤記〉    「御太刀{一腰国久}、銀子千枚、御小御{百}、鞍置馬{十疋」、
                    播州之土産杉原{三百束}、なめし{二百枚}、明石干鯛{千ヶ}、
                    野里の鋳物色々、蜘蛸{三千連}」
                    「台の数二百余・・・左右にならべつる台は御門に入るとも、跡の台
                    はうまだ山下に在り。」
}                   「御広間に余りつつ、庭上亦満々たり。人皆有るまじき事を見るよう・・」
  
    というようになっています。秀吉の熱が表われているといえます。何に向けたものか、自分の
    出世と解釈されており、それは一面は合っているでしょう。これは秀吉の捉え方でも違ってきます。
    「東照宮」を太田和泉守と取るか、本来の家康公と取るかで言動の意味が逆になってしまう
    というようなことと似ているかも知れません。一般的に贈り物の習慣があって秀吉卿が小袖
    二百の贈り物をしたということでしょうが、これは太田和泉守が莫大な贈呈をしたという
    ことで、これは関心を海に向けたもの、遣欧使節の手土産、乗組員の食料とかのことは別に
    書いておくということをいったもののようです。この「秀吉歳暮御礼之事」の一節は文庫8頁に
    わたるもので「信長十三歳之比、・・・内藤勝介」「道三」「松永」など日本の英雄の話もあります
     が中国の王「始皇」「漢皇」などが出てきます。要は使節の贈呈目録のようなものが日本の
    文献と現地の庁舎にあるのでしょう。次が問題の箇所ではないか思われます。このあと

       「信長御出有りて、一々御覧なされ甚だ御感あり。かくて御茶下さるべき旨にて六畳布
        之御屋敷に、
            ●波岸(はがん)の絵、萬歳大海之茶入(まんせいだいかいのちやいれ)
        をかざらせ給ひて、御相伴は、
            丹羽五郎左衛門尉長秀、長谷川丹波守、医師道三也。
            秀吉を請じ入れさせられ、
            残(のこる)三人もめし入れさせられ
        ・・・・・堀久太郎・・・・・」〈甫庵太閤記〉

    があり、●は「波」と「大海」です。人数は、
        信長、 丹羽など三人、 秀吉、 残る三人、 堀、で九人
    です。このあと「淡路島平均の事」の一節があります。「堀」も「淡路」も第二回爆竹で出てい
    ます。これでもって今までのものをリセットしてあらたに天正遣欧使節の人数と氏名を出して
     みようと思います。(文中から総人員など判ってきていると思われるがウイキのものから
    積み上げてみる)。判りやすさというものがあるはずで、単純に決めていくのが合っていそう
     です。


    (121)遣欧人数
       〈信長公記〉爆竹の人数は
         8+7=15  で15人ということになり、これに
         屋代勝介と信長公をプラス(信長公を枠外として)総勢16人である、

     ウイキペデイアのものを再掲すれば
       
       使節  @伊東マンシヨ
            A千々石ミゲル
            B中浦ジュリアン
            C原マルテイノ

       随員  Dジョルジエ・ロヨラ修道士、使節の教育係 日本人
            Eコンスタンチノドウラード 印刷技術習得要員 日本人少年
            Fアウグスチーノ 印刷技術習得要員 日本人少年
            Gヌーノ・ロドリゲス神父
            Hデイオゴ・メスキータ神父 通訳
            Iロレンソ・メシア神父
            Jオリヴィエーロ修道士    他に、枠外 ヴァリニアーノはゴア止まり

       となっていて、
         A 使節4人、
         B 日本人3人D〜F
         C 外国人4人
       となっている。B は A の説明であろうとして、いままでは無理に@を一人として
       みてきたが、これも二人「満所」「マンシヨ」があり二人を匂わす叙述がある。宗麟の
       血縁で、日向国主伊東義祐の孫というようなものなどあります。したがって公式どおり
          A、使節 四人が二人重なって8人
          B、日本人三人が二人重なって6人
          C、外国人四人が二人重なって8人     計22人(上の J×2)
       となります。内訳は
                      ウイキ          人数的引当て
            A @二人     伊東           明智光慶       
              A二人     千々石         山口与市       
              B二人     原            高山A本阿弥      
              C二人     中浦          内藤如安Aジュリア    
            B D二人     ロヨラ          大谷紀之介(生駒市左衛門) 
              E二人     ドウラード        松永貞徳
              F二人     アウグス        藤堂高虎A(阿閉孫五郎)
            C G二人     ロドリゲス       九鬼右馬允(小西弥九郎)
              H二人     メスキータ       宮本武蔵@
              I二人     メシア          浦上小次郎(明石掃部助)
直             J二人    オリヴィエーロ     鉄砲屋与四郎(利休A)
     あたりの22人になるのではないかと思われます。22人という数字は別のところでも出る
     ので、確かなものでしょう。24もありますが。
     これで、左側Bの三人は日本人なので埋めることになります。まあJも日本人として四人は
     爆竹Aの「一番」の幹部の人、四人
       「菅屋九右衛門(兼松正吉)、堀久太郎(森ラン丸)、「長谷川竹」(高山ウコン@)
       「矢部善七郎」(津田信澄ー土田氏)
     が考えられます。Aの4人はヴァ氏が選抜した将来の布教のための人材(宣教師の師弟
     もあるかも)、Cの三人は通訳などのための乗船ということですが、これも額面どおりかわかり
     ません。とにかく天正10年、自他共に認める日本国主、織田信長が日本国として遣欧船
     を出したということであればできるだけ手を借りずにやってみようというものがあったかも
     しれません。主体が代わればあとのことも変わってきます。この重要な歴史上の事件の解釈
     を変えるのは明智光慶、九鬼右馬允、宮本武蔵など船に乗っていたかどうかに依ります。
    乗っていなかったことを証明しなければ変わってしまいます。太田和泉守は早くから明智左馬
    介に織田海軍のことを頼み、小西行長Aを海将として育て
     たと思われ、「海将(小西行長)」という本も出ています。この頃は20才くらいでしょう。内藤
     ジュリアは如安の妹ということですが、有名だから相当の履歴があったと思われます。中浦ジュリアンの
     ジュリアがヒントです。15人の中に一人紅一点がありそうなので入れてみました。山口与市
     は「伴正林」で山口飛弾守(木村常陸介)の子息、加藤の
     木村又蔵の弟、のち第二回遣欧使節の支倉常長と考えられます。織田信長に任命された
     小西弥九郎、徳川家康から船を任された支倉常長は、本邦海軍大将の草分けといえそうです。
     大航海を成功させ期待に応えたわけで掛け値のない名提督といえるのでしょう。

     (121)日本
     伊丹の小西家の酒造創業は慶長17年ですが、白雪の採用は二代目宗宅のときで白雪を
    いただいた富士山をみての感動ということです。それもありますが背景に文献の富士があり
    それに実見が加わって名づけられたのでしょう。これほど早い時期に白雪があった、芭蕉の
    ときには白雪は認知されていました。雪と酒と白と雷などの組み合わせの句がありました。
     文献は、@〈万葉集〉山部赤人の不尽山を望(まつ)る歌
        318 田子の浦ゆうち出でて見れば、真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
        320 富士の嶺に降り置く雪は 六月(みなつき)の十五日に消ぬれば、その夜降りけり
     が考えられます。319は甲斐からみた富士です。また当代では
           A〈信長公記〉の
              「もとす・・・寒じ・・・富士・・・かみのが原・・・富士山御覧じ候処
              高山に雪積つて白雲のごとくなり。誠に希有の名山なり。」
           B〈甫庵信長記〉の
そ           「宗祇  白雪にそめいろの山は不尽の嶽」
     があります。飯尾宗祇のは、そのものズバリで全山が白雪に染まったというようなものです。

      318の長歌には「天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば・・」
      320の長歌には「日本(ひのもと)の大和(やまと)の国の・・・」
     があります。▲安部仲麻呂が顔を出し、「日本」の訓みが問題とされています。脚注では
       「古代国号としての大和の枕詞。日本をヤマトと訓む例はあるがヒノモトと訓むのはここだけ」
     となっています。

       「九鬼右馬允、大坂表大船推廻す事」の一節で
      「九鬼右馬允・・・大船・・・敵船・・・伊勢・・・紀州熊野浦・・・雑賀・・・賊船・・九鬼敵船・・
      矢場・・・九鬼・・・船軍・・・斎藤新五・・・退治・・・九鬼右馬允・・大船・・・▼安部野・・大船
      ・・旗指物幕・・・兵船・・・船じるし・・・御座船二艘、金襴緞子・・・大船小船・・今井宗久に
      御茶を進上・・・。則ち●御成(おなり)有り。」 〈甫庵信長記〉
 
     があり、▲が▼で受け止められています。▼の下の「今井」は「井真井」で「井真成」ですか
    ら、あの「墓誌」が絡んできます。「日本」という文字が出ている、これが最初ではないかと
    同じようなことがいわれています。「イマ井」が「イマ成」などいうのは単なる思い付きだという
    かも知れないが●でヒントが出されています。ここで旗指物、船じるしが出て、
          小西(九鬼)ー白雪ー富士ー安部ー日本が出てきました。

    ウイキペデイアによれば「日本丸」は文禄の役の九鬼水軍の、秀吉命名の大安宅船があり
    ます。異説によれば信長命名のものともいわれています。大きさは
      全長 151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m) 180人、百挺櫓 1500石
    となっています。異説では
      全長  15間(90尺?)(約27m)、幅5間(30尺)(約9m) 三層楼閣、大筒三門
    で「当時としては類を見ない巨船」となっています。これは幕末に解体されてしまつたという
    ことですが日本丸と名づけられたのが重要でしょう。爆竹@Aに
         「弓徳左近」〈信長公記〉 (「久徳(きうとく)左近兵衛」〈甫庵信長記〉
     が出ています。「滋賀県犬上郡多賀町のうち、久徳氏は多賀山中の城主。」となっています。
     多賀山中は造船の地です。元亀4年5月
         「佐和山へ御座・・・・多賀・山田山中の材木・・・国中鍛冶・番匠・・・御大工岡部
         又右衛門棟梁、舟の長さ三十間(180尺?)、横七間(42尺?)、櫓を百挺・・・矢蔵
         ・・大船上下耳目を驚かす。」〈信長公記〉

     があります。記録に残る、実物のあった日本丸より、一回り大きいものが既に出来ていました。
     これが日本丸@という存在であったとみるのが妥当でしょう。
         
     霜巴に似た紹巴が日本を出しています。

        「紹巴、末広がりの扇二本、台に据え・・・御前につい居て、上下(かみしも)をも取あへず。
            二本手に入る今日の悦び
        と申されければ、信長卿、
            舞ひ遊ぶ千世万代の扇にて
        と付け給ひけり。」〈甫庵信長記〉
   
      があり、日本=二本、が出ており、俵屋の扇も出しています。「天竺」が日本に見立てられ
     ているというのも「二」があるからかもしれません。「万千代(世)」も出ています。この扇の
      図柄が日の丸であったと思われます。日本丸という名前と日の丸の二本セットがあるので
      しょう。寛永の大船の日の丸の幟という絵が有名だそうですが(ウイキ)、これは、戦国の
      再現といえます。足利政権下の貿易船も日の丸が使われていました。これを継承するの
     は太田和泉守の案のうちのことです。筆者などは日の丸は南朝の後醍醐天皇から幕末の
     老中、阿部正弘(島津斉彬と)まで飛んで理解してきています。記憶がその辺のところという
     ことですが中抜き、戦国の大航海が抜きになっています。この紹巴の二本(日本)が出てき
      たところは、A「昌叱心前」、B「半井櫓(馬篇)庵」、C「雖知苦院道三」がでていますが、
      A=愛宕百韻、B=上京驢庵(羅馬)、C=大量の歳暮、というのが遣欧に繋がるものだ
     といっていそうです。このあと●「寿永の古」の「木曾」が出ます。「木曾」は朝鮮国の「もくぞ」
     判官もありますが、●でいえば、もう一つの「■寿永の古」があり、ここまで至るに出てくることも
     重要で、遣欧のことがありそうです。
          「紹巴・・・二本・・・悦・・・扇・・・●寿永の古・・・東福寺・・・化・・・岩越藤蔵・・・渋谷
           万左衛門・・・岩成主税頭・・・青竜寺・・・矢庭・・・五十三・・・・東福寺・・・清水・・
           青竜寺・・・・寺戸寂照院・・・岩成・・摂津国退治・・・芥川・・・小清水滝山・・・小清水
           池田筑後守・・・和泉の堺・・・竜の雲・・虎の風・・松永・・堺の今井宗久・・■寿永の古・・
           ・・源義経・・・菅屋、・・堀久太郎、万見仙千世、村井長門守、福富平左衛門・・。」
                                                  〈甫庵信長記〉
     という源義経に行き着く「寿永の古」ですが、芭蕉では義経から「笈」と「帋幟」が出てきまし
     た。紙は、雪とセットにされ
      「ある人の会  ためつけて雪見にまかる紙衣(かみこ)かな」〈笈の小文〉〈泊船集〉
     があり、「ためつけて」は「折り目を正すこと」で「折」が出てきて、もう一つの「紙衣」の句が
     「ある人の会」の「ある人」を明かします。すなわち
      「路草亭   紙衣(かみぎぬ)の濡るとも折らん雨の花」〈笈日記〉〈泊船集〉

     の句があり「路草」です。「路草は久保倉右近の俳号で伊勢山田の人」と書かれています。
      「いざさらば(いざゆかん)雪見にころぶ所まで」〈泊船集〉など
      があります。「いざ出でむ」が初案のようです。これは「長谷川孫助(「夕道」)の家で詠まれた
      たものです。右近、孫助がでてきて、「雪まるげ(雪丸)の句もあります。
         「稲妻や闇の方行く五位の声」泊船集など
       があり、これ「醍醐天皇」の故事をふまえたものですが、雷鳴がでて
          醍醐ー後醍醐ー楠河内守ー楠長庵ー朱印ー日の丸
      地名のような「五位」(脚注は「御油」)が〈信長公記〉にありますがこれも見て日の丸の幟
      を芭蕉は出してると思われます。
       甫庵の文で、「爆竹」や「化荻」との繋がりがみられ渡海が意識されています。ここに
       「寺戸」が入ってきて、村井長門守で締めている感じで、先ほどの右近が気になったという
      ことです。孤立したような池田筑後守(池田勝政)が重要でこのあとの伊丹の荒木、摂津守
      とここを関連付けるためのものです。
        「池田伊丹・・・池田伊丹・・・・池田伊丹・・・伊丹兵庫頭・・・池田八郎三郎勝政・・
       ・荒木摂津守・・・池田伊丹・・五十三人・・・内藤五郎・・・岩成主税助・・・・」〈甫庵信長記〉
      などがあり、伊舟→伊丹ー小西の酒→摂津守が、●■の一部となるのが池田筑後守の役目
      ですが、この勝政が岩佐又兵衛(勝以)の今で言う父かも。荒木村重とは義理の関係にな
      るのでしょう。●■の文で「清水」がでました。日の丸についは、再掲、こういうのも早くから
      出ています。堂洞
          「佐藤紀伊守・右近・・・岸・・多治見・・・鍛治・・・続松(たい松)・・・たえ松・・・・
          二の丸・・・天主構・・・二の丸・・・太田又助・・・」〈信長公記〉
       があり続子松千代ー日の丸ー天主です。

      白雪について芭蕉の句に
        「雪    富士の雪 盧生(ろせい)が夢を 築(つ)かせたり」〈六百番〉
      があります。重要な句なのに句意がややわかりにくいのが残念ですが、訳は
        「新雪をいただいた富士山はまさに白銀の山であって、盧生の栄華の夢を現前したか
        のようである。」〈芭蕉全句〉
      となっています。盧生は「邯鄲(かんたん)の亭で道士呂翁より枕を借りて眠り、一生の富貴
      を夢にみたが、それは★黄梁が煮えるにも足りない短い時間であったという故事。」の主人
      公です。「新雪」と「白銀」が句からは出てきませんが、これが重要でしょう。
       「白銀」は、謡曲「邯鄲」に
         「東に三十余丈の銀(しろがね)の山をつかせては」
       とあるのによった表現(芭蕉全句)、とされています。「築(つ)」の元でもありますが「雪」に「白」を
      足したというのがあると思われます。また
         「季吟は “邯鄲に銀の山をつかせたる事ある心にや、心たくみに風情面白し“と
         判をしている」
      となっています。季吟は「北村」で、「喜多村」、
         「佐々内蔵助・・・・内蔵助が家の子に・・・北村一郎・・・など云ふ者」〈甫庵信長記〉
      は身近に感じてみていると思われます。北村季吟も雪に白を添えたと思いますが
         「銀の山」=「銀山」
      とみていないかという疑問も出てきます。★があるので、「盧生」の夢は「邯鄲の枕」とか
      「黄梁一炊(こうりょういっすい)の夢」といわれますが★は「おおあわ」「大粟」で「安房」、
      「阿波」がでます。「盧生」は、その「ろ」は「呂翁」の「ろ」、驢(盧馬・ローマ)の「ろ」という
      ことでも意味がありそうです。芭蕉の「ろせい」の句の前は、「霜」と題した
           霜を着て風を敷寝の捨子かな〈六百番〉
      の句があります。小西の霜巴が意識されたかも。とにかく「ろせい」の句の「富士の雪」は
      伊丹ー小西の「富士の白雪」になったというのが「白銀」ですが、もう一つなぜ「新雪」か
      という問題が出てきます。解説では
         「富士の雪」が季語。「富士の初雪」といって六月十五日に古い雪が消えると、その夜
         降ると万葉の歌以来いい伝え、(「夏」「初冬」「秋」がある本句のように)「雪」とのみ
         ある場合は冬である、句意からいえば「富士の初雪」でなければならない。
      とあり、遠まわしに語られていますが、〈万葉集〉の山部赤人の不尽山の歌の次の歌、
      長歌で「甲斐の国」が出ていて、「日本」を(ひのもと)と訓んだ最初の例、
        「・・・・日本(ひのもと)の大和(やまと)の国の・・・」
      がある、作者未詳の反歌
      、   320 富士の高嶺に降り置く雪は●六月(みなづき)の十五日(もち)に
               消(け)ぬれば その夜降りけりえる
      の●の6月15日の歌のことをいっているというのがわかればよいことです。小西の酒造の
      二代目宗宅は、戦国の文献の飯尾宗祇の白雪などと、〈万葉集〉の、この歌の雪を銘柄の
      白雪の土台とした、と思われます。これは「井真成」(今井)の墓誌の「日本」も初めての
      ものとして注目されています。
      「白雪」の心は「日本」だったわけです。「江孫丸」「いろは丸」などでヒントが出ている船名
      が「日本丸」であった、日の丸を船じるしに使ったというのが霜巴とその親しい西鶴、近松
      芭蕉などがあきらかにしたかったことです。幕末までは小西行長が尊敬されていたのでしょう。
      「大西」ではなく「小西」という表記で「小西」を語りたい、民間というここを場とすれば、語れ
      そうだ、というものがあって、優れた語りが出来上がってきていたといえます。民間の4人
       の少年で大事を語ったというのは一つの工夫です。
      「日本丸」を出したかったなどというと、結論が単純だから、反って、そんなところまで考
      えていたはずがない、それぐらいのことは、どこかで書けるはずだとなつてしまいます。
       要は筆者の疑問が単純すぎたわけで、昭和の判じ物で「江孫丸」という船名らしきもの
      が出されると、考え得ざるをえないということです。結論は知りたいと思ったことから出て
      きましたが過程で引きずってくるものも大きいわけです。
          ●六(みな)月(つき)十五日〈万葉集〉
       の「みな」は「水無月(陰暦六月)」の「みな」ですが、因幡伯耆の一節で語りが広げ
       られています。一部再掲追加
         「城代宮部善祥坊・・・・吉川・・・東西の膚(ハダエ)を合せ・・・因幡・伯耆の境目・・
         山中鹿介弟亀井新十郎・・・山中谷合・・・南条・・・羽衣石・・・舎兄小鴨・・岩倉・・・
         吉川・・・馬の山・・・黒部・・・十九・・・佐々内蔵介・・・進上・・・関東下野国▲蜷川郷
         ▼長沼山城守・・・・三つ進上・・・根来寺智積院・・・蜷川の伯父・・・堀久太郎・・・
         ■関口石見・・羽衣石・・・蜂須賀小六・木下平大夫・・・馬之山・・羽衣石・岩倉・・・・
         吉川元春・・・」〈信長公記〉

      において山中と亀井がでていますが、▼は人名注では
           長沼山城守→皆川広照
      となっているから、「皆=みな」が出されたから、●の六「みな」はここで生きてくると太田
     和泉守はいっています。つまり日本が出るモトの〈万葉集〉の320の富士の雪がここへ懸か
     ってきています。これは、〈信長公記〉のここに書いていないが伯耆大山があるはずで、大山
    はウイキペデイアによれば伯耆富士、出雲富士といわれるようで、富士がつながる、また
    吉川が出ているから日本介が出てくる、吉川元春が出てるから駿河がからむというこなどで
    小西家や芭蕉が「白雪」に幅を加えて、〈万葉集〉と〈信長公記〉のここを結んで、渡海のことを
    語ったというのが感ぜられるところで、「十五日」というのも
        「其の日雪降り寒じたること大方ならず。」〈信長公記〉
    の爆竹A(左義長)の「二月十五日」の「十五日」に合ったので、夏から冬までの多様な富士
    雪が論じられたとも思われます。結局伊丹で酒造をはじめた小西の初代、宗脩、白雪を決めた
    宗宅、元禄の霜巴などは、太田和泉守がの解説をしながら小西行長を出したといえます。
      六月=水無月=みな=皆川=長沼山城守=伯耆大山(富士)
    などはちょっと無理ではないか、というのが出てきます。「皆川広照」は人名注では
        「(1549〜1627) 下野(栃木県)長沼城主。小田原の北条氏に属し・・・」
    となttいます。したがって長沼の山城守といってもよいわけで、北条戦では秀吉右筆の「山中
    山城守」に出番が与えられています。▼の形容詞である、▲ですが人名索引では
        仁田  376  (これは爆竹Aの「仁田進上のやばかげ」の「仁田」)
        蜷川  長沼山城守を指すか 369
        ★二の江の坊主   海部郡弥富町にあたる荷之上(二之江)の一向宗僧侶。 48
        日本介 → 奈佐日本介
     という並びになっています。▲は、前の「爆竹」の海外を受けるとともに「日本介」の「日本」
     や海賊を出しています。ただ、「日本」をだすのが本旨ですが★が邪魔をして、「日本」が
     直接的でなくなっています。この★がここに入るのはおかしいのです。48頁は
         「河内一郡は二の江の坊主、服部左京進押領して御手に属さず。」〈信長公記〉
     となっていますから★は服部左京進の説明に過ぎないわけです。こんなものがここに入った
     のは、「二」=(に)=「日」というのが重要なところで出ますよという警告でもあります。紹巴の
           「二本手に入る今日の悦び」〈甫庵信長記〉
     がありました。寛政の〈三河後風土記〉では、
           「日本(ルビ=二本)手にいるけふのよろこび」
      となっていて、こういうのをみれば「二本」は「日本」と読めばよいのがわかりますが★でも
      わかるということです。甫庵の読みを〈信長公記〉の操作で教えたということでも重要です。

      ★は「荷之上(荷之江)」とも書かれていますから「積荷の荷物」が考えられます。蜂須賀、
     木下がきたのも、やはり船積み物資の調達といえそうです。木下が出たついでですが、
      「二」=「日」なら「仁」=「日」で爆竹Aの「仁田進上のやばかげ」は「日田のやばかげ」−
      矢庭景ー耶馬渓ー頼山陽が出てきます。耶馬八景は琵琶湖の八景にもつながって来ます。肥田もあります      肥田も出ますが、肥田直勝(文中「肥田玄番」)は、テキストでは斎藤新五の叔父というヒント
      があって索引では     肥田直勝(甫庵では「肥田玄蕃允」)
                      肥田彦左衛門(甫庵では「(同)彦右衛門」)
                      尾藤源内(甫庵も「尾藤源内)(本稿では斎藤弥九郎とした)
     となっています。やってきたことからいえば肥田彦左衛門は森長可A(古田)になるのかも。
    「肥田彦左衛門」が土田になどなるはずがないではないかというのは、出てくるでしょうが、 
   祖父江孫丸が、索引で(祖父)江孫丸になるという専門の人の踏み込みに比べたら軽微な
   ものです。索引で、「肥田直勝」の前は「飛騨国司(「三木氏」)で、
         「土方」「飛志」「土川(ひじかわ)」「彦六息」「ひしや」「彦進女房」
   とさかのぼっていきますが、「ひしや」=「土や」となり、「土」→(と)−「戸」→(こ)→「古」となら
   ないかというのも出てきます。その上、「田」という1/2を共有しています。
      土田
      肥田
   で「土肥」と「二田」(日田、肥田、仁田、田田=太田)がでてきます。「土肥」は
          「土肥但馬守」〈信長公記〉  「土肥孫左衛門」「「土肥助次郎」〈甫庵信長記〉
   があります。「彦六息」というのも「彦六」という(6番目の)息というのもありえます。ここで
   織田九郎=九郎としたらどうかというのは、今となれば、戦死の
       森三左衛門・九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八
   はこれまでの「森三左衛門」という表記を消した(打ちきり)、ほかの表記は一回限りで
   語りのための登場(登場即抹消)としたと思われるので、この5人は森可成側の子息を取り上げ
   たと取れます。すなわち、〈両書〉の表記を利用すれば
       森三左衛門A 彼(かの)同朋 青地与右衛門 九鬼右馬允 矢部善七郎A
       (森勝蔵)    (大石源三)   (古田可兵衛) (池田勝九郎) (別所彦進)
    が考えられます。〈明智軍記〉では
   土方弥三郎/日田/肥田玄番/比田則家/肥田彦右衛門/尾藤道家/尾藤彦兵衛/日根織部
    のような索引の並びにあっています。日根の織部が「肥田彦右衛門」に懸かり、あと尾藤二人が
    という感じになっています。〈明智軍記〉の「比田のはじめ
     「光秀が家臣、明智次右衛門・三宅藤兵衛・池田織部、進士作左衛門、比田帯刀二百余騎・」
・    の並びなどは「(はじめ二人)明智弥平次ーー池田織部ーー彦進の進ーー森」というもので
    池田織部は「三宅日田織部」「池田織部」を合成したような感じのものです。
      
    〈信長公記〉の因幡、伯耆境目(伯耆富士)の文で「■関口石見」がでていました。再掲芭蕉
    の唯一の「富士の雪」が入った句(題名「雪」)
         富士の雪 盧生が夢を 築(つ)かせたり
     において謡曲「邯鄲」の「東に三十余丈の銀(しろがね)の山をつかせては」によった表現と
     いうのがありました。このため訳は「新雪をいただいた富士山はまさに白銀の山であって」
     となっていて「白」が強調されていました。これで(富士の)「白雪」が出ました。一方
     「季吟は“邯鄲に銀の山つかせたる事ある心にや、心たくみに風情面白し”と判をしている。」
      というのがありました。季吟の「邯鄲違いで、銀の山違いで銀山をいっています。つまり■
     が効いてきて「石見の銀山」が太田和泉の意識にあると季吟がいっています。「佐々内蔵介」が
     が本文にあるので、(解説では季吟は北村というのが省かれている)、
       「内蔵助が家の子に佐々藤左衛門、北村一郎、前野小兵衛など・・」〈甫庵信長記〉
     とある「北村一郎」が季吟の念頭にあるでしょう。「北村は、一族縁故という人が重要な地位を占める
    ので太田和泉守の縁ある人ともいえますが、そういう関係がなくとも家臣というのは実存的存
   在の重要な一つのくくりといえます。将来姻戚関係が生ずる可能性は大ですが、当座は一門、
   家の子、郎党(郎等)というので分けられているので、当面それでみればよいのではないかと
   思われます。辞書をみてもよくわからないので
        「三好修理大夫が家の子に、松永弾正少弼といふ者・・」〈甫庵信長記〉
    が理解できません。辞書によれば一門、血縁関係があるということになって、実力でのし上が
   辣腕の家老というのは出てきません。〈川角太閤記〉に「伊達政宗のすり騒ぎ」の一節があり

     「建仁寺の藤・・・藤・・・森・・花見・・・金銀・・・金銀・・・政宗殿・・・日本刀・・・加賀大納言
     ・・・政宗・・・大納言殿・・北村というもの・・・政宗・・・藤の森・・・あの者(北村)・・書院・・」

    があり、建仁寺といえば風神雷神図で、「宗達」、「北(喜多)村」が出ますが、金銀の銀が、
   北村というのでしょう。「高畠石見」「竹森石見守」「佐々内蔵助」「紀伊」は用意されています。
 
   「石見」は紀氏の柿本人麻呂の「石見の海」「鴨山」で知られています。本ここで「小鴨」氏を
    出してきました。大津皇子の属性は「鴨」「大船」「伊勢」などですが、石見で大津皇子のことが
   想起されたのかもしれません。日本を出してきたともいえそうです。太田和泉守は
        「賀茂山」〈信長公記〉
    を用意しここで「九鬼右馬允」と爆竹Aの織田信忠など4人の織田衆を出しています。
   
   「長沼山城守」は「皆川広照(長沼城主)」ですが索引では
        水巻(水牧)/皆川広照/水無瀬/水無瀬冶部卿/水無瀬侍従/水無瀬中将/源義経
   とならんでおり、「六月(みなつき)十五日(もち)」の「水無月」を出すための「長沼」だったといえ
   ます。「日本刀」も川角は出しています。本文で「黒部・・・佐々内蔵介」を出したのは
      ○佐々の里、余語(与語)の羽衣伝説とここの「羽衣石」
      ○佐々内蔵介、立山黒部、雪のさらさら峠越え
      ○佐々内蔵介ー肥後ー小西行長(〈川角〉にも「肥後」「小西摂津守」が用意されている)
   との繋ぎもあると思われます。因幡、伯耆、本文にある
       「東西の膚(ハダエ)を合わせ一戦に及ぶべき行(てだて)・・」〈信長公記〉
    というのは、芭蕉は織田、毛利の東西のことの他に、もう一つの東西をみていたと思われます。
       「東西(ひがしにし)あはれさひとつ秋の風」(「東にし」もある)
    は西洋東洋のあはれさがあります。「東西のあはれさひとつ秋の風」「西東あはれさおなじ
    秋の風」「西東あはれも同じ秋の風」もあるようです。多様ですがおそらく「秋」も、もう一つ
    あるのでしょう、木村重章の章(あき)も出ました。「秋」「飽」「詮」−「全」「膳」「善」「然」ー
    「念」「年」とかのものです。業務の過酷さから、ライン業務全部この一色となったのでしょう。
     爆竹の一節と伯耆富士の一節を結ぶと、
       爆竹の一節は        8+7+4 =19
       因幡伯耆山中亀井の一節は、
                        佐々内蔵介=19   長沼(みな川)山城守=3
    という数字が出ていますので、外国人が3ということも参考にしてやってきました。
  
    幕末の剣客、神道無念流、錬兵館道場の斎藤弥九郎の書が、酒造の白雪の伊丹の小西家
    にあるということで、斎藤新五と九鬼右馬允のすれ違いを〈甫庵信長記〉でみてきました。
    弥九郎は〈信長公記〉索引では   寺沢又八
                           寺沢弥九郎
                           寺田善右衛門
    の並びとなっており
     り「丹羽五郎左衛門攻口にて討死衆、・・・山田大兵衛・寺沢弥九郎・・・」〈信長公記〉
    となっている重要人物です。したがって斎藤弥九郎は小西と一族であること知っており、「弥
   九郎はそのためにつけたと取られます。ネット記事に「心形刀流剣術/hiden/」などがあって
       「九代・・・・伊庭軍兵衛・・・十代想太郎・・・開祖は伊庭秀明で江戸前期の創立・・・。
       江戸に道場を開いたのは八代の秀業であり、下谷に居を構え、神道無念流斎藤弥九郎、
       鏡新明智流桃井春蔵・・・江戸の四大道場・・・」 
   となっており、まあいえば、江戸ー八代ー斎藤ー四大ということで八代が出したかったといえます。
          八代=やしろ=爆竹Aの「矢代」=小西行長ー肥後八代
   となります。桃井の明智は誰も明智(あけち)と読んでいませんが、みたところはあの「明智」です。
       ○桃井春蔵は直正で「直」は先祖から引き継いでいる。丹波猿楽、幸若舞は桃井直詮の
        創始したもので、幸若舞は、信長、光秀、天沢、信玄、友閑なぢに関わる
       ○丹波市春日町黒井の赤井直正と桃井春蔵の直正が同名
       ○桃井春蔵は誉田八幡に関わる(ウイキ)、ネット記事「(丹波)亀岡市の神社(八)」に
        によれば「中世に丹波猿楽の本拠があり・・面隆山の名は誉田八幡が能面を持って
        天下ったという伝承に由来・・」があるとなっている。
       ○「鏡新」は「鏡心」もあり、〈甫庵信長記〉の鏡屋の一節の「鏡」「心」と思われる。
        村井長門守登場で島田所助(大工)をみているかも。
       ○〈信長公記〉に「百井(モモイ)」があって索引では
            物取新五  斎藤新五のことか
            百井
            森川備前守
        モモイから斎藤も森も出てくる
    ということで桃井春蔵も、明智、武井夕庵、斎藤、丹波を出す役割をもって出ているといえます。

     芭蕉の句
          富士の雪 盧生(ろせい)が夢を 築(つ)かせたり
     は盧生が二つ考えられます。一つは小西家への挨拶として、小西家の歴代当主で
        白雪(酒の銘柄)が、主の(小西を語る)計画を築かせた
      というのがあるとみれます。もう一つは「ろ」はローマ、「生」は弥生と同じように「牛一」で
        万葉の富士の白雪(日本)が、太田和泉守の遣欧計画を実現させた
     ということになりそうです。「築かせたり」が「現前したかのようである。」となっているので実現
     というのがよいのかもしれません。当時キリスト教国は42ということではないかと思いますが
     120くらいが認知されているとしたら3割になります。
      これが世界の当事国として日本を打ち出すという企画の実行といえます。国際的に
     開かれてなかったら琉球と薩摩の関係のように日本の国の内部の問題というようなことに
    なってしまいます。
 
    (122)日本丸乗組員人数
      とりあえず       孫七人など        二十二人
                   行きヴァ氏ゴアまで      一人
                   帰り太田和泉守        一人
                      計           二十四人
                           
                   総人員             六十人
      としておきたいと思います。
          〈信長公記〉    本能寺死亡者簿   六十一人  太田和泉守プラス一
          〈甫庵信長記〉     同上        六十二人   同上ヴァ氏プラス一
      で合わせるのではないか、天正10年の出航から28年経っており故人もかなりいた
      かもしれませんが60人の顔を思い出しながら、重ねて書き綴ったと思われます。太田和泉
      守にとってこの38人(60−22)人も実存的な存在であったといえるのでしょう。
      ただ本能寺のときの戦死者の名簿「阿弥陀寺の過去帳」には「三四人」「書き載せられ
      ける」となっていて(〈甫庵信長記〉)、4人は内訳が考慮されている差とも取れます。

                                次稿(123)へ続く
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し   た。これでもって