『山形領に立石寺と云う山寺あり。
その間七里ばかり也。慈覚大師の開基にて、殊
に清閑の地
也(なり)。一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとっ
て返し、日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。・・・・』
この文の前に尾花沢という地名が出ているから「尾花沢より七里ばかりと人がすすめたので、」といっていると思います。そこから何里という情報が行動の契機になったようです。今までの読みでは「尾花沢よりとって返し、その間七里ぐらいとわかった。日がいまだ暮れなかったので宿を予約して山上に上った」となり、それでもよくわかるのでよいのかもしれませんが、すすめた人はだいたいの距離はいうはずで、教えた内容の「殊に清閑の地
也(なり)」ということよりも距離情報のほうが重要なことです。立石寺は、行く方向と逆になる方向でもあり「とって返し」という表現に合っていそうです。また「
也」というのが短い文に二つもあり、すすめたひとの言葉のくせになっています。原文ではこれが分断されています。
(ロ)次は最上川の描写のところです。
『
最上川はみちのくより出でて、山形を水上(みなかみ)とす。
ごてん・はやぶさな
ど云うおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入(い)る。
左右山覆い、茂みの中に船を下す。これに稲つみたるをやいな船というならし。白
糸の滝は青葉の隙(ひま)隙(ひま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎ
って舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川 』
下線の部分は直接つないだ方がよく、太字の部分は「白糸の滝」「仙人堂」と同じで下ってみてわかったということと思われます。前は「立石寺と云う山寺
あり」とありここでは「
有(あり)」となっていますから伝聞と実際という違いかもしれません。次のように並べ替えるとわかりやすいと思います。
『
最上川はみちのくより出でて、山形を水上(みなかみ)とす。
板敷山の北を流れて
果ては酒田の海に入(い)る。左右山覆い、茂みの中に船を下す。これに稲つみた
るをやいな船というならし。
ごてん・はやぶさなど云うおそろしき難所有り。白糸
の滝は青葉の隙(ひま)隙(ひま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎっ
て舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川 』
「山形を水上とす」というのは山形は地点ではないので、わかりにくく、どう読むかということですがこれは前の文章で「
山形領に立石寺と云う山寺あり」となっていましたから、ここも「山形領」と読むべきでしょう。すなわち、旧最上領(現酒井領)が意識されていると思われます。それで
「おそろしきと」か「難所」というのを、山形のすぐあとにくっつけたということでしょう。「いな船」というのも「否」「異な」に掛かり、「舟あやうし」に結びついています。この「水上」は愛宕山での明智光秀の発句「ときは今
あめが下知る
五月哉」に続く西坊の「
水上まさる庭のまつ山」の句の言葉が使われたと思います。
(ハ)「種(いろ)の浜」の文も同じようです。
『十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろわんと、種の浜に舟を走らす。海上七
里あり。
天屋何某と云うもの、破籠(わりご)・小竹筒(さざえ)などこまやかにし
たためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追い風時の間に吹き着きぬ。・』
は太字部分をそっくり前に移動させると滑らかに文意が伝わります。
『十六日、空晴れたれば、ますほの小貝ひろわんと、
天屋何某と云うもの、破籠(
わりご)・小竹筒(さざえ)などこまやかにしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟に
とりのせて、種の浜に舟を走らす。海上七里あり。
追い風時の間に吹き着きぬ。』
「海上七里あり」というのは聞いた内容で、流石の芭蕉も海上では自分で確認はできないでしょう。風向きによっても違い陸のように時間、歩数、道標では測れません。この「七里」というのもいたずらかもしれません。〈曾良日記〉に
『色浜へ趣く{
海上四リ}戌刻、出船。夜半に色へ着。{クガ(陸)ハナン所}塩焼男導て
本隆寺へ行キテ宿』
という注書がありますので、実際は「四里」と聞いたのでしょう。さきほどの「山形領に立石寺と云う山寺あり。
その間七里ばかり也。」とか「遊び来ぬ河豚(ふぐ)釣りかねて七里まで」があるのやを踏んでいるのか、七とか四とかで遊んでいると思います。
天屋何某というのは、
何某といってもはっきりわかっている、という意味です。この場合も特定できています。この後段、下線の部分も少し替わるではないかと思います。
『追い風時の間に
吹き着きぬ。』は
『追い風
吹き時の間に着きぬ。』
になるはずです。しかし「吹き着く」(原文は「吹着きぬ」で「吹」に「ふき」のルビがある)というのも独特の表現なので原文のままでもよいのではないかといわれるかもしれませんが、芭蕉の新語であるのは間違いないようで、新語を認めるのならそれでよいということになると思います。
これは信長公記の「(御所へ)程なく明智日向人数
着懸候。」というのに似ています。この「着懸」は脚注では「差懸の誤写か。突懸の宛て字」かとされていますが、着くやたちまち懸かったということを表す太田牛一の新語ではないかというのが〈戦国時代〉で述べたことです。この軍勢は御所だというのも知っていて突っかかったわけです。この語句の前の信忠の行動は二条新御所へ入れとすすめられ、すぐに二条へ入り
『親王様・若宮様・・・内裏へ入れ奉り。
爰にて詮議区々なり。』
とあり、退かれよという意見もあったのを
『
爰にて腹を切るべしと仰せられ、御神妙の働き哀れなり。左候処に、程なく明智日向
人数
着懸候。』
というつなぎぐあいになっています。〈戦国時代〉では、ここで信忠が切腹したという解釈をしていますが、芭蕉に教わったところでは太字の
爰にての「
爰」は重要語句でした。短い文章に二つもあり、しかも重要ポイントのところにあります。
爰(ここ)で腹を切るといった、とあり、それを悲しんでいるから、この強調は、信忠はここで亡くなったという前著の読みの補強になるものと思います。また親王・若宮を内裏へ避難させ、
爰(ここ)で議論したというのもあり、また「着懸け」の前に「
程なく」もありますから、信忠自身の行動の選択には時間の余裕があったことがわかります。親王・若宮を保護して内裏へお供して身をかくしてもよかったわけです。村井がここへ入るのを勧めたのだから当然脱出できることを前提にしているはずです。信忠は自己の判断で行動した結果の死であったといえると思います。このときの一節の信忠の表記は四箇所「三位中将信忠」となっています。このあと死骸を隠すように鎌田新介に命じて切腹した人物の表記は「三位中将信忠
卿」となっていますから、御所では二人の死が交錯したといえると思います。信忠
卿については、鎌田は死ななかったと余分なことをいっている(甫庵信長記)ので、もう一人の信忠卿は鎌田と抱き合わせとされ、生き残ったといっているのでしょう。鎌田に後日譚〈戦国時代〉があり最後の様子がわかっています。信忠卿が亡くなっていたら鎌田は生きていなかったであろう、そういう人物だったといっているようです。その最期の行動を描いたのは芭蕉などの江戸期の人かも知れません。
(ニ)入れ替えについては、有名な「平泉」のくだりも同じことがいえると思います。
『平泉に到る。その間廿余里ほどとおぼゆ。三代の栄耀一睡の中にして、
大門の
跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山(きんけいさん)のみ形
を残す。
先ず高舘(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣
川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落ち入る。康衡が旧跡は、衣
が関隔てて、南部口をさし固め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって
この城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたり
と、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 』
平泉に着ついて一番先に行ったところが、太字の部分に「先ず」と書いていますから
高舘です。解説では「和泉が城」と同義とされています。この和泉が城は秀衡三男、和泉三郎忠衡が立て籠もったところで、この三郎は、あの太田和泉と重ねられた人物です。したがってこの部分を三代の栄耀の前に持ってくるとスムーズに読めると思います。あと下線の部分も唐突ですので後ろへ移動させてみます。
『平泉に到る。その間廿余里ほどとおぼゆ。
先ず高舘(たかだち)にのぼれば
北上川(は)南部(地方?)より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高
舘の下にて大河に落ち入る。三代の栄耀一睡の中にして、秀衡が跡は田野
に成りて、金鶏山(きんけいさん)のみ形を残す。
大門の跡は一里こなたに有り。
康衡が旧跡は、衣が関隔てて、南部口をさし固め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐってこの
城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、
城
春にして草青みたりと、笠打ち敷きて時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 』
城を中心に全体を見ているのが、終わりのほうの「城」からも窺われます。このように構成してみると句の「夢の跡」の跡は和泉の城の跡ということになり、現にそのように訳されています。原文では芭蕉の立脚点がはっきりしません。和泉の城で戦国の太田和泉などのことも思い起こしているということになりますので、次の句の「
卯の花」と「兼房」から夕庵も思い出しているというように句意が広がってきます。
和泉が城について「夷」からの侵入に備える秀衡・泰衡の戦略を推し量っていますがこういうところ戦国武士の心をもった芭蕉というものが垣間見えています。
南部口というのは北の南部方面ととれますから、北の夷(えびす)に備えてというようにとれます。しかし曾良日記で、南部というのは南とコザト篇という珍妙な字を使っていますので、ここは俳諧的な諧謔をとって南部藩にこだわりをもっているともとれます。
降伏者のだまし討ちで有名な九戸城の城主九戸政実は南部の下にいた人物で、南部藩にとっては多少やっかいな存在だったのでしょう。ここだけ秀吉軍にコッピドイ仕打ちを受けました。
また南部というのは鎌倉方面といっているともとれます。実際侵攻してきたのは南ですから、また夷というのはあちらもそうで、このときでは北夷のほうが平和的と思っても間違いはないはずです。夷(えぞ)を防ぐとみえたりのえぞはどちらかというと南夷でしょう。
受験時代の参考書にアイヌ民族が衰退したのは性病が蔓延したためとみられるというような記事があり、そうかなあと思っていましたが、これは女系社会であったことが述べられているのを曲解されたにすぎないものです。江戸時代は男女混浴だったというような正式見解は、これも近代の明治政府になったからおかしなことがなくなった、ありがたいことだというようになっていまいます。
石川啄木の歌に「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」というのがあって、ここの「東海」はすぐ東海地方と取ってしまいます。しかし奥の細道に「雄嶋が磯」というのがありますから、また東海の小島が磯という東海は、東北が東の海であるのは間違いないことですから、松島の海岸を詠んだともとれると思います。
このあと「五月雨の降りのこしてや光堂」の句が出てきますので、この「五月雨」と「光」は奥州三代を偲びながらの実景かもしれませんが、あの光秀も思い起こされているとみるべきであり、時代が近いことだけにこちらがより記憶が鮮明であるとみてよいと思われます。このように読んでゴツゴツとしているのは入れ替えて読むとよいのですが、もちろん入れ替えできない文が多いことは当然です。次の文などは長いものですが、わかりやすく流れるような文です。古典を踏まえて、述べたいことも入れています。入れ替えできない文章のサンプルとして揚げてみます。
『福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出ずるに、たそかれの路たどたどし。ここに等
裁と云う古き隠士有り。いづれの年にか、江戸に来たりて予を尋ぬ。遥か十とせ余りなり。
いかに老いさらばいて有るにや、将(はた)死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命し
て、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引き入りて(奥まった)、あやしの小家に
夕皃(ゆうがお)
・
へちまのはえかかりて、鶏頭・はは木ぎ(帚木)にとぼそ(戸口)をかくす。さては此のうち
にこそと門をたたけば、わびしげなる女の出でて、いづくよりわたり給う道心の御坊にや。
あるじは此のあたり何がしと云うものの方に行きぬ。もし用あらば尋ね給えという。かれが
妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる風情は侍れとやがて尋ねあいて、その
家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立つ。等裁も共に送らんと
裾おかしうか
らげて、路(みち)の枝折(しおり=道案内)とうかれ立つ。』
源氏物語を思わせるような情景ですが、ここの
夕顔と
糸瓜は正岡子規の晩年の随筆に受け継がれています。下線のところの等裁のしぐさ、などは文全体の雰囲気とマッチして艶があるようです。等裁は外泊しているようで、あと芭蕉に従いていきますが家をあけても問題はないようです。いま並べ替えについて述べてきましたが、吾妻鏡式では字を訂正しなければならないものがあります。
3、一字の修正
万葉集で「妹」を「母」と読み替えねばならないこと、吾妻鏡では「人」を「歳」に入れ替えて読んだところがありました。二十四
人は二十四
歳を表していました。これは吾妻鏡式の場合は当然考えておかねばならないことです。
3−(1)太田牛一文の字の改変
はじめに〈信長公記〉の例です。元亀元年五月十九日の記事です。
『杉谷善住坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ候て、千草山中道筋に鉄砲を
相構え、情けなく十二・三
日隔て信長公を差し付け、二ツ玉にて打ち申し候。』
これが元亀四年の記事では
『去る程に杉谷善住坊鉄砲の上手にて候。先年信長千草峠御越しの砌みぎり、佐々
木承禎に憑まれ候て、山中にて二玉(ふたつだま)をこみ、十二・三
間隔て情けなく
打ち申し候。』
となっています。〈甫庵信長記〉でも『二つ玉を以つて、わずか十間計り打ち外し』となっていますから、はじめの文の「日」は「間」に修正して読まなければならないのは明らかです。余談ですがこれは連発銃のような感じですがどうでしょうか。先ほどの御不弁は、当時御不便のことをそのようにいっていたのかもしれず、これは必ずしも修正しなくて解釈だけ変えて置いたらよいと思いますが、ここは「日」と「間」でそれと少し違うかと思います。
3−(2)芭蕉、奥の細道における字の改変
〈奥の細道〉では冒頭部分に字句を変えねばならないところが出てきます。冒頭部分はこの字句を変えねばならないものがあるとともに、また並べ替えを要するものもあり、肝心なところだけにこういうことを集中させたようです。あわせて触れたいと思います。はじめの有名な文章です。
『月日は百代の過客(かきゃく)にして、行きかふ
年も又旅人なり。
舟の上に生涯をう
かべ、馬の口とらえて老いをむかうる物(者)は日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人
も多く旅に死せるあり。
予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらえ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらいて、やや年も暮れ、
春立てる霞の空に、白河
の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあいて、取るもの
手につかず。もも引の破をつづり笠の緒付けかえて、
三里に灸すゆるより、
松嶋の月先
ず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、
草の戸も住み替わる代ぞひなの家
面八句(おもてはちく)を庵の柱に懸け置く。』
この部分の訳はテキストでは次のようです。
『月日は永遠に旅を続ける旅客であり、
毎年新旧交代する年もまた旅人である。舟に乗って
一生を過ごし、馬の轡(くつわ)を取って老いてしまう者は、毎日の生活が旅であって、旅を
自分の住む場所としているのである。昔の詩人たちも、旅の途上で死んだ者が少なくない。
自分もいつのころからか、ちぎれ雲が風にさそわれて浮動するのを見ては旅心をそそられ、
あちこちをさまよい歩きたいという気持が押さえられなくなり、海辺などを放浪し、去年の秋
に隅田川のほとりのあばら屋にもどり、蜘蛛の古巣をはらってしばらく住んでいるうちに、や
がて
その年も暮れ、春になって、空に霞がたちこめるのを見るにつけ、今度は白河の
関を越えたいものだと、人の心をそわそわさせる神にでもとり憑かれたように心も落ち着か
ず、旅の神の道祖神に招かれているような気がして、じっとしていられない有様である。股引
(ももひき)の破れをつくろい、笠の緒をつけかえて、三里に灸をすえると、もう松島の月はど
んなであろうと、まず第一に気にかかって、今まで住んでいた家は人に譲り、杉風(さんぷう
)の別荘に移るに際し 草の戸も住みかわる代ぞ雛(ひな)の家 と詠んで、それを発句と
して、連句の
表八句を懐紙にしるして、庵の柱にかけておいた。』
となっています。全体訳が少し長くなりすぎる感じがあります。親切のためにこうなったとはいえないのではないかと思います。
まず始めの三行のところに問題があります。訳の下線の部分「毎年新旧交代する年」というのが原文の「行きかう」という意味でしょうか。
また、原文と訳をたどれば、ここは「舟に乗って一生を過ごし、馬の轡を取って老い」る人についてのみのことを語っていることになります。そうとすれば「月日は百代の過客(かきゃく=旅人)」と大きく打ちだしてきたこととはうらはらで、限定された、芭蕉がいま身をおいている世界というようなものしか対象にしていないという芭蕉の小粒ぶりが目だってきます。
吾妻鏡式に書かれているのがわかった以上は、設定された判じもの、クエッションに答えなければ前へ進めません。語句を替え、文を入れ替えてみるということをとりあえずやってみることが必要です。そうすれば違った意味が出てくるかもしれません。どちらが合っているかは権威に聞くのではなく自分で納得できるかということにあります。百人中90人がなるほどそう読めるといえば、それが通説になるはずです。
まず語句を替えることについてですが、はじめの「月日は百代の過客」というのは李白の
「それ天地は万物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は百代の過客なり。」
というのを踏まえています。「逆旅」というのは宿屋のことで、「光陰」は、「光」は「日」で、「陰」は「月」で、月日とか時間という意味になります。「光陰矢のごとし」というのは「時間のたつのは早い」ということです。
また
過客というのは
旅人のことですから、李白のいう意味は「天地は万物の宿屋で、
年月は無限に通り過ぎて行く旅人だ」ということになり、空間と時間をとりあげて語っており、いっていることがよくわかります。なお「歳月は人を待たず」といいますから、年月も月日と同じように時をあらわすものです。したがって芭蕉がここでこう言っているのをそのまま読めば、「月日は過客だ、年も過客だ。」ということであって、すこしくどく李白の「時は旅人だ」ということを強調しているに過ぎません。
李白の前の部分「天地は万物の逆旅(げきりょ)にして」を取り除き、後ろ「
光陰は百代の過客なり。」だけを引き合いに出しているのですから、そこから芭蕉の世界に入るはずです。つまり、前の場所的感覚を踏まえて、「
行きかふ年も又旅人なり。」というものを、付加したわけです。したがって
「過客」と「旅
人」の意味を少し変えていると思われます。
人という言葉を付け加えたといえます。「行き交う」という重要語句が入っていますから、また
人と云う言葉が入っている以上、ここの行き交う対象は「
人」です。宿屋に前後左右斜めから来て、前後左右斜めに去ってゆくのが「行き交う」ということでしょう。片方の過客という場合の時(月日)は、過去から未来へ一方通行になっているもので「行きかう」という語が適切とはいえないと思います。ここで過客を受けた芭蕉の「年」はすこし意味が違ってくるはずです。
人は天地という場の中でうごめいている存在で、また人(芭蕉のいう年)はそこを通り過ぎてゆく存在ということをいっているのではないかと思われます。理屈はともかくも、第一感が重要で、ここは「年」を「人」に変えて読むと著者の真意を汲み取りやすくなると思います。すでに、みな大体このように読んでいるのかもしれません。加藤楸邨著〈芭蕉の山河〉の帯には
「”現代の旅人”楸邨がたどる芭蕉の心」
となっています。楸邨は「人」であり「年」ではありません。楸邨は、行き交う人であり、それはまた李白の曰う旅人でもあるといっているはずです。
そのあとの文も少しおかしいようです。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて
というのは風流人と解せられますが、誰でもこういう生涯をおくるとは限りません。ここは、誰であれ老いをむかうるものは日々旅にして旅を栖(すみか)としているということで一般に通ずる話をしているはずです。まあ人はみな動きまわっている過客です。したがってこの太字の限定は古人に掛かると見てよく、貫之や西行や宗祇などを思い浮かべていると見ればよいと思います。太字の部分はうしろへ持っていくと治まると思います。これではじめにあげた原文の部分は、下のようになるはずです。
原文の部分(再掲)
『月日は百代の過客(かきゃく)にして、行きかふ
年も又旅人なり。
舟の上に生涯をう
かべ、馬の口とらえて老いをむかうる物(者)は日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人
も多く旅に死せるあり。』
改変後
『
月日は百代の過客にして、行きかふ
人も又(月日と同じように)旅人なり。老いを
むかうる物(者)は日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
舟の上に生涯をうかべ
、馬の口とらえて古人も多く旅に死せるあり。』
「舟」とか「馬」とかの属性が古人に掛かるのがよいようです。現代語訳するために、文をこねなくても、このままわかるのではないかと思います。これに続く文も移動が要ると思います。また字の修正が必要なものもあります。
面八句は
表八句が合っていると思います。
4、表八句
そのあとの『予もいずれの年よりか』以降の文ですが、これも変えたほうがわかりやすいのではないかと思われます。
原文(再掲)
『予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらえ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらいて、やや年も暮れ、
春立てる霞の空に、白河
の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあいて、取るもの
手につかず。もも引の破をつづり笠の緒付けかえて、
三里に灸すゆるより、
松嶋の月先
ず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、
草の戸も住み替わる代ぞひなの家
面八句(おもてはちく)を庵の柱に懸け置く。』
前の紀行のことから筆を起こしているので、過去のことから、年の暮れ、三月ころ表八句を柱にかけておいた時期(杉風の別墅に移ったのは三月)までの時間の経過を述べていると思います。
ポイントの一つは太字の部分
『
春立てる霞の空に、白河の関こえんと』は、他のところと比べて越えたいという意思を述べているととれます。そうとすれば、年の暮れに、「空に霞がたちこめる
頃、白河の関を
越えたい」と思ったというように解釈できると思います。
訳文では「
春になって、空に霞がたちこめるのを見るにつけ、白河の関を越えたくなった」というようになっていますので、もうその時期がきていることになります。
カギは前後の文章のつなぎ具合にあると思います。次のつながった文のAの
先ず心にかかる、というのが重要と思います。
@三里に灸すゆ(う)るより、A
松嶋の月先ず心にかかりて、B住める方は人に譲り
真ん中の太字部分Aは、その後ろの文Bとつながっていません。できるだけ元を生かすのは当然ですが、結果はどうあれ、もっとよいつながりがあるか確認することは、訳する場合にも必要です。次に@の意味は、「三里」というのが足のツボのことなので、灸をすえて足をやすめて以来ということになるかと思います。ホッとしたとたんまた松嶋の月が気になりだした、という感じは出ていると思いますので、このまま連続して使って訳せそうです。先ほどの
春立てる霞の空に、白河の関こえんと、
というのは原文では、松島の文より先に出ていますが、これは具体的な行動計画です。先ず松嶋の月というものが頭の中にあって、白河の関は目的ではなくて松島へ行くために越えなければならない地名です。したがって順序としては
先ずは松嶋の月です。これを前後移し変えてみると、
原文(再掲)
『予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず、海浜にさすらえ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらいて、やや年も暮れ、
春立てる霞の空に、白河
の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあいて、取るもの
手につかず。もも引の破をつづり笠の緒付けかえて、
三里に灸すゆるより、
松嶋の月先
ず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別所に移るに、
草の戸も住み替わる代ぞひなの家
面八句(おもてはちく)を庵の柱に懸け置く。』
改変
『予もいずれの年よりか、漂泊の思いやまず、片雲の風にさそわれて、海浜にさすらえ、去
年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらいて、
三里に灸すゆ(う)るより(体を癒して)、やや年
も暮れ、
松嶋の月先ず心にかかりて、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまね
きにあいて、取るもの手につかず。
春立てる霞の空に、白河の関こえんと、もも引の破をつづり、笠の緒付けかえて、住め
る方は人に譲り、杉風が別墅(しょ)に移るに、
草の戸も住み替わる代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸け置く。』
となると思います。「先ず」心に松嶋の月があるというのが、やはりポイントで、平泉のくだりで「先ず」がありましたように、これは無視できません。はじめに松嶋の月ありきです。加藤解説では「松島眺望集」という句集で「松島種」(松島の月を種とする)という語句があり「松島に心ひかれていたのはずいぶん古くからなのである」と書かれています。
私見では、この松島については、表題の通りここに明智光慶が出てくるのであれば、ここのテーマは戦国時代に関わっていることになりますので、筒井家の右近・左近として名高い「松倉右近」「島左近」が想起されていると思います。松倉右近は「重政」で〈常山奇談〉では「後藤又兵衛」に接近して出てきます。
三里に灸すゆ(う)るより、は、原文にあるように出発の準備としての位置にあってもよいかも知れませんが、原文では松嶋の前に置かれており、「より」というのが引っ掛かるのと、「笠の緒付けかえて、」は、これから行こうという意思の表れというより休憩の意味が多分にあると思います。
また芭蕉の場合では、「もも引の破をつづり」も帰ってから洗濯して、しまいこむときに、破れは修復するはずでしょうから、前へもってきて、「もも引の破をつづり、
三里に灸すゆ(う)るより」となってもよいと思います。要するに自分でやる人かどうかがポイントになると思います。ここは男社会を思わせておりますから女房殿にポンと渡しておまかせという場合だから、後ろの方になり、あわててやりだしたというほうがよいのでしょう。しかしどちらの場合であっても、まあ道具の点検という意味で後ろの方でよいと思います。
次にここの句の解釈が間違っているのではないかと思います。テキスト(旺文社)では脚注で訳が出ていますが
『汚い草庵であるから住み替わることもあるまいと思っていたのに時世時節で、その時がくる
ものだ。こんど住む人は妻も子もある人で、折から雛祭りの頃でもあるので、雛人形で飾られ
ることであろう。』
となっています。「草の戸」は加藤〈芭蕉全句〉では、「草葺の小家」で、「ひなの家」は「雛人形を飾る家」とされています。他の句集に「この人なむ妻を具し、娘・孫など持てる人なりければ、」というのがあり、娘がいる人だから「ひなの家」がこういう解釈になるとのことです。〈芭蕉全句〉の解釈は
『奥羽行脚に旅立つに当って、自分はこの住みなれた芭蕉庵を人に譲り渡すが、かんがえて
みるとこのようにささやかな草庵でさえも、世の無常・流転のならいに洩れず、あるじの住み
かわる時はくるものだ。いままでは自分のような世捨て人の住まいではあったが、新しいある
じは娘・孫をもった世俗の人であるから、折からの弥生の節句には、雛壇も飾られ、いままで
の侘びしさとは一変してはなやいだ家と変わるであろう。』
となっています。まあ表向きはこのように解釈されるように仕向けたというのが本当のところでしょうが、すこしおかしいと思います。
面(表)八句を庵の柱に懸けるのは、移る前の家ではおかしい、こんご人が使う家の柱に自分の好みの句を八句も書いて懸けて出てくる人は非常識です。芭蕉の門人なら喜ぶかもしれませんが、こんど入る人は「平右衛門」という「俗なる人に譲りて」とあるように芭蕉とは道の違う人です。したがってこの「草の戸」はこんど入った家のことです。「杉風が別墅(しょ)に移るに、」は「移るにあたって」という意味だから移る前のことだ、というように解されてしまっていますが、このあと、すぐこの句が出てきて、「面八句を庵の柱に懸け置く。」が出ますから「移ったあと」新居の句を読んで
表八句を掲げたということです。
「住み替わる代ぞ」の「ぞ」という強い調子のことは、いろいろ述べられていますが、これからやろうとすることにからんでいるのがその強い調子の意味ではないかと思います。そのことはいままで芭蕉の句の社会性が抜かれていたために出てこなかったものと思います。周囲の字句の状況から、人生の無常・流転の感慨とは別の面も出てきているようです。奥の細道と明智の関係というのを今まで見てきました。それが利いてきます。
別墅(しょ)は別と(野土)でもあり、土を盛り上げたような感じ、また別所でもあります。別所は三木の別所を連想させるものです。
『草の戸も住み替わる代ぞひなの家』
という句の「ひなの家」は、芭蕉が自分も雛としゃれた、いうのが隠されており「わたしの家」ということでしょう。
この表(面)八句については「その連句作品は伝わらない」、「今失われて分からない」というのが通説でそれで納得してしまっていますが、奥の細道の序というべき重要な一節の、最後の締めくくりの部分の重要語句がまだ発見されておらず、分からないということでは何とも情けないことです。本当にわからなければ仕方がないといえますが、江戸時代までの学者は全部知っていることですからその意味で情けないことです。分かろうとしなかったのではないか、芭蕉がこういうわけの分からないことを書くはずがないと思って奥の細道を読んでいないわけで、芭蕉という著者を全然信じていないのに芭蕉を讃えているということになります。なにはともあれ結果(芭蕉の奥の細道の内容)はすばらしいということか。
次の@〜Gがここでいう面八句です。あの信長公記の記述を受けているのです。太田牛一は@〜Bまで書いていますが、古書によればこのときは八人が参加して、初めの八句が判っています。
『 @ トキハ今天ガ下知ル五月カナ
光秀
A 水上マサル庭ノ夏山
行祐
B 花落ル池ノ流レヲ堰キ留メテ 紹巴
C 風ハ霞ヲ吹キヲクル暮 宥源
D 春モ猶(ナオ)鐘ノ響ヤサエヌラン 昌叱
E 片敷ク袖ハ有明ノ霜 心前
F ウラ枯レに成リヌル草ノ枕シテ 兼如
G 聞馴レニタル野へノ松虫 行澄(光秀臣で書きとめた人=執筆)
H 秋ハ唯涼シキ方ニ往キ還リ
行祐
I 尾上ノ朝気(アサケ)夕暮ノソラ
光秀
・ ・
・ ・
・ ・
・・・・・・・・・・・・・・ 残(ナゴリ)ノ花ヲ 心前
色モ香モ酔イヲ進ムル花ノ下(モト) 光秀
国々ハナオ 長閑(ノドカ)ナルトキ
光慶』
もちろん句には番号が入っていませんが@からGの八句を芭蕉は奥の細道の旅のスタートにあたって庵の柱に掲げました。戦国の明智の心を引き継ぐと云う宣言です。
連句の約束では@五七五A七七B五七五C七七・・・・というように続けていきます。
@〜Gでメンバーが全部出てきて、あと9番目からはこの同じメンバーが繰り返していきますが、その場合はこの順番でいかなくてもよいようです。
この句会では光秀の句は十六ありますが、最後「心前」が「ナゴリノハナヲ」と入れたあと、その花を受けて光秀が締めくくりの句を入れています。一番最後の七七は挙句(あげく)といいますが、
『日向守(光秀)詠ジテ、懐紙ニハ如何(イカガ)思イケン、子息十兵衛尉
光慶トゾ
留メサセケル。』
とあります。光慶の世もかくあれかしと祈願したのでしょうか。とにかくこの挙句は、ここにいない子息の名前にしました。この「
長閑(ノドカ)」はのんびりした、ゆったりしたということをいっているのではないようです。「閑」は「シズカ」でそれが長いのでしょう。「長閑斎」「釣(ちょう)閑斎」という名の人がいますがその意味です。立
石寺での
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
の「閑」、岩の黒、石の白の視覚、蝉の声の聴覚、「しみ入る」の触覚を「閑」で総まとめした、その
「閑」が挙句で光慶と結びついて詠われています。 古書は更に続けて
『トキハ今
アメガ下シルト云エルハ、光秀元来土岐ノ苗裔(ビョウエイ)明智ナレバ、名字ヲ
時節ニ準(ナゾラ)エテ、今度本望ヲ達セバ、自(ミズカ)ラ
天下ヲ知ルノ心ヲ含メリ。挙句ノ体
モ爾(シカ)ノゴトシ。
誠ニ大事ヲ心中ニ思イ立チシ刻(キザミ)、係(カカ)ル巧ミノ句ヲ
余多セシハ、其の才想像(オモイヤラ)レタリ。明クレバ二十八日、日向守ハ各々ニ暇乞イ
シテ、丹州亀山へゾ趣キケル。』
と述べており、これによれば、「トキは今アメガシタシル」というのは「自(ミズカ)ラ
天下ヲ知ルノ心ヲ含メリ。」とあります。
含メリ。というからには二つの意味があるのでしょう。この句は今は徳川の世だ、と云う意味と、明智が天下をとる時節がきた、という意味とがあるのではないかというのは前著でも述べました。続いて「挙句ノ体モ爾(シカ)ノゴトシ。」となっており、「爾(シカ)」は「天下を知るの心」をいっているとすれば、
「 トキハ今天ガ下知ル五月カナ
国々ハナオ 長閑(ノドカ)ナルトキ」
でも成立するし
「色モ香モ酔イヲ進ムル花ノ下(モト)
国々ハナオ 長閑(ノドカ)ナルトキ」
にも合っているということでしょう。つまり今の長閑な国風を維持させたい、本望を達して光慶の時代はなお一層長閑な状態が進んでほしいといっているようでもあり、また挙句はよく全体を収束しているといってるのかもしれません。
明智の三日天下というのは今では三日しかもたなかったという意味で物笑いの種になっていますが、江戸期までは、良くぞ天下をとったものだ、という賞賛だったのではないかと思われます。徳川の十分の一以下の身代からのスタートですから、そういわれても納得できるものがあります。活動の場が広い、狭いの違いはありますが、あれほどの諸葛孔明も天下に覇を唱えるにいたらず、明智はそれを現にやったのだから、相当なものだと思われたはずです。後世からみれば、一方の当事者として大部の記録を残したのですから、これもたいしたものといえると思います。
まあ、「明智の三日天下」というのは 「三」「日」と「天下(天上天下の天下)」が「明智」を染めて、よき時代の現出というという意味に理解されていたと思われます。
太字のところ、古今稀に見る器量の人という武功夜話の賞賛もひとりよがりのものではないようです。最後の部分、こういう句を詠んだあとの
『日向守ハ各々ニ暇乞イシテ、丹州亀山へゾ趣キケル。』
の行動は決然としたもので迷いなどは読み取れません。引退を決意していた光秀の歌に
『心知らぬ人は何とも言わば謂(い)え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ』
という歌があるそうですが、これは光秀の作ではなく、この書の著者が「その決起の心をよく考えなければならない」といいたかったと思います。主人を討つ、且つそれは身内だという複雑な状況が立ちはだかっていたのが特異なだけで、光秀は必勝の戦略で臨んだでしょうし、こういう「身をも惜しまじ名をも惜しまじ」という気持ちは自然と備わっていたもので他人に伝えようとする意思などはなかったとみるべきでしょう。名も入らず金もいらないものほど始末の悪いものはないと云うことに通ずるもので、それが自然体だったから覆しようがないのでしょう。この歌が出ている著書はネットによれば〈細川家譜〉〉のようですから反明智のことを書く立場と思えますが、家譜でもその家が称揚されるとは限らず、吾妻鏡式で何をいわれているかわからないのです。
ここまで述べてきたのは表八句に誘導されたわけですが、これは、奥の細道の旅に出かけるにあたりなぜ芭蕉が杉山杉風の旧家に入ったかという疑問に行き着きます。ネットでみますと白川亨という人が、石田三成の子孫が杉山氏を名乗り津軽に残ったと書かれている、と出ています。奥の細道全体の終わりが大垣で、曾良日記では、ここで関ケ原へ行っています。また南宮山神社に詣でています。ここは関ケ原戦役での毛利の陣所で知られており、この神社は竹中半兵衛ゆかりの地で不破氏に会っています。別墅(しょ)は野陣のイメージがあります。細道途中で石田があり、なによりも太田牛一に関ケ原の著述があります。別所の三・木は森を示すと思われます。こういうまわりの雰囲気に、松島の島(嶋)があり、杉山があり、杉も木の三です。「島」は石田三成の股肱の臣、筒井家の島左近の「嶋」を指していないか、杉山は石田三成を暗示していないかということが気になります。島が石田三成に大接近していることは知られた事実で、四万石の三成が島左近に二万石与えたということは有名です〈常山紀談〉。明智光秀の子息が筒井順慶に託された(山崎の合戦前に人質として差し出した=これが光慶だと前著で想定した)こと、筒井順慶の慶が光慶の慶とつながるとすると、光慶が筒井で大身の大将であったと考えられないことでもないのです。表八句のところの光秀の挙句では光慶は生かしたといっているようでもあります。
石田三成の父は
隠岐守・政風で佐
五右衛門、「隠岐守」は木村兼葭堂によれば後藤又兵衛の名前で,後藤
隠岐守基次といっていることはあとで出てきます。また後藤又兵衛は
政次でもあります〈常山紀談〉。明智光慶の後見は
隠岐・五郎兵衛
惟恒で、光慶が亡くなったので殉死したということですが、光慶が生きていれば別でしょう。まあ光秀が光慶の後見に選ぶような人物は相当な人のはずです。年齢からすると光慶は光秀の孫のようですが光秀にはガラシャの上に二人の息女もあり、光慶を補佐する一門の人材は豊富です。〈常山紀談〉では
「左近が父、もと室町将軍家に仕え、江州高宮の傍にかいなきさまにて隠れ居たりしを、
三成招き出しけり。」
ともあり、三成は左近の父(継父もありうる)を知っていてきてもらったのかもしれない、大封は姻戚の証かもしれないわけです。また島左近は、後年
「今松永・明智二人の智謀決断ある人」がいない
といっており、光秀を尊敬していることが語られています〈常山紀談〉。先に述べたように筒井には左近と右近という二枚看板があり、左近は島左近、右近は松倉右近です。
「松倉豊後守重政、後藤又兵衛が陣を切り崩す。」〈常山紀談〉
という記事があり、松倉右近と後藤又兵衛を接近させています。松倉の名前、重政というのがまた引っ掛かりがあり又兵衛を明智和泉守重正(重政)につなげたようです。
石田三成(かずなり)の「三」は「光」に通じ、島左近の名前は勝猛・清興・昌仲など多彩で丸毛氏の場合と同じで親子も重なっていそうだし、煙にまいたところがあります。
要は松尾芭蕉の表八句周辺から石田三成も島左近も明智の係累とみてよいということがなんとなく感じられるということです。
この〈常山紀談〉などは信頼できる資料とされていないようで、そのまま使えないといわれるかもしれませんが、記載事項がほんとうにあった(小事実)かどうかということでみると問題があるだけで、人物・事件を、真実(価値判断からくる特別意味ある事実=大事実)を語るために起用しているもので、その意味ではそのまま活用してもよいものです。こういう側面は表記と言葉で物語られる、そいうものの辞典がこういう書物でもある、といえそうです。こうはいっても膨大な資料をもとに吾妻鏡式で再構成されたものですから、火のないところに煙は出ないという例えのように半面の事実は語られていると思われます。
関ケ原合戦の合渡川のくだりで後藤又兵衛を藤堂高虎が推挙するという形で二人をを接近させていますが、そのあと、同じ合渡川のくだりで又兵衛に関係ある黒田の話があり、黒田
三左衛門可成が出てきて、黒田長
政もを出してきます。「政」や、三左衛門可成が後藤又兵衛と関係があるといっているわけです。また石田三成に子息がいて助命されますが、本多正信が徳川家康に進言して助けたというようなことを書いてます。三成は秀頼を擁して戦ったので、秀頼の父サドノカミとしては親バカぶりが出てきたのでしょう。ネットでは三成の子息は
重家というそうですが、「重」は木村重成の重でもあり、明智につながるようです。
〈奥の細道〉は、過去、本能寺・関ケ原の役・大坂の陣と明智は徳川と戦ってきたが、こんどは言論で戦うという芭蕉の心意気のもとに旅路のスタートとなりますが、紀行のはじめとおわりの部分に少し触れて終わりたいと思います。この並べ替えがはじめと終わりに出てくると思います。スタートの日のくだりです。少し文章のつなぎ具合がおかしいような感じがします。
『
弥生も末の七日、明けぼのの空朧々として、月は在明けにて光おさまる物から、不二
の峰幽かにみえて、
上野・谷中の花の梢、又いつかわと心ぼそし。むつまじきかぎり
は宵よりつどいて、舟に乗りて送る。千じゆと云う所にて船をあがれば、前途三千里のお
もい胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
是れを矢立の初めとして、
行く道なお進まず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげの
みゆる迄はと見送るなるべし。』
これも太字のところを移動してみました。
『明けぼのの空朧々として、月は在明けにて光おさまる物から、不二の峰幽かにみえて
、
弥生も末の七日、むつまじきかぎりは宵よりつどいて、舟に乗りて送る。千じゆと云う所
にて船をあがれば、前途三千里のおもい胸にふさがりて、
上野・谷中の花の梢、又いつ
かわと心ぼそし。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
是れを矢立の初めとして、
幻のちまたに離別の泪をそそぐ。人々は途中に立ちならび
て、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし。
行く道なお進まず。』
となるのかもしれません。初めの部分はこのようですが終わりの部分もこういうことがいえるのではないかと思います。
5.この道と二つの道
奥の細道の終わりは大垣です。
『露通も此のみなとまで出むかいて、みのの国へと伴う。駒にたすけられて、大垣の庄に入れ
ば曾良も伊勢より来たり合い、越人も馬をとばせて如行が家に入り集まる。前川子・荊口父子
、其の外したしき人々日夜とふらいて、蘇生のものにあうがごとく、且つ悦び且ついたわる。旅
の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮をおがまんと、又舟にのりて、
蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ 』
本文は、大垣で知った人が来てくれたこと、と伊勢へ向けて舟にのったところで終わっています。これで終わったのかという感じで、この太字の句によほど大きいウエイトが掛かっているともいえます。
奥の細道の大垣の前の一節は、敦賀の次の「種の浜」で「ますほの小貝ひろわんと」海上七里を走った前出のところで、まだ北国です。
曾良日記では、色浜からツルガ(敦賀)へ帰って彦根・多賀へ行って関ケ原に宿っています。そこで南宮山に参拝し大垣という旅程になっていて。八月十四日大垣にきて、大垣を拠点に大智院などへ行き、九月三日また大垣に戻り九月六日船が出ています。それがこの一節です。関ケ原周辺と云うのがポイントですが、もう一つの側面芸道のことも重要です。
結論はこのあとに続く文章があったのではないかということです。理由はこの「ふたみ」を受けなければならないと思うからです。それはすでに述べたところの次の太字の部分が入れ替えでこの最後につけるものです。つまり立石寺のあとの文は次のようになっていますが、●から▲へつながるのが普通で太字はまったく余分というか唐突すぎます。(ただここに入れた理由もあるはずで前稿で触れました。)
『・・・・・・閑かさや岩にしみ入る蝉の声
最上川のらんと、大石田と云う所に日和を待つ。●
爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたい、芦角一声の心をやわらげ、
此の道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまようといえども、みちしるべする人しなけ
ればと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
▲
最上川はみちのくより出でて、山形を水上(みなかみ)とす。ごてん・はやぶさなど云うお
そろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入(い)る。左右山覆い、茂みの
中に船を下す。これに稲つみたるをやいな船というならし。白糸の滝は青葉の隙(ひま)隙(ひ
ま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって舟あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川 』
この太字の一文を奥の細道の最後(下線の句のあと)にもってくると
『露通も此のみなとまで出むかいて、みのの国へと伴う。駒にたすけられて、大垣の庄に入れ
ば曾良も伊勢より来たり合い、越人も馬をとばせて如行が家に入り集まる。前川子・荊口父子
、其の外したしき人々日夜とふらいて、蘇生のものにあうがごとく、且つ悦び且ついたわる。旅
の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮をおがまんと、又舟にのりて、
蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ
爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたい、芦角一声の心をやわらげ、
此の道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまようといえども、みちしるべする人しなけ
ればと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。』
となると思います。チャイコフスキーの悲愴交響曲はベートーベンの交響曲や皇帝のようにバッチリと締まって終わっていません。これで終わりかというようになっていますが、奥の細道の終わりは、そういった感じがします。しかし二つの
爰にがある文をここへもってきて締めたと考えるとベートーベン式に締まります。締まるのがよいというわけではありませんが、
このたびの風流爰に至れり。という達成感というものがあったとみるほうが芭蕉の気持ちに近いと思います。ここになくても途中にあったのだから終わりの方が「ふたみ」が生きると思いました。「
ふたみにわかれ」行くという句は
新古ふた道にふみまようで受けられ、諧謔の部分と芸術の部分が、ふたみちということになるかと思います。またこの句は、実りの秋でもあり、「貝」と「わかれ」という古文を踏んだ語句があり、この「ふたみにわかれ」は、別の意味があるかもしれないということは前著で触れました。
このように芭蕉の文章がおかしいということ、またそれをこう変える、というような聖域を侵すような頓馬な発言をする人はいないと思いますので、本稿を書き下ろした次第です。芭蕉と筆者とでは才などのレベルが違いすぎるとは思いますが、おかしいことに、本人は芭蕉の心を多少読み取れたのではないかと思っています。芭蕉とおなじ風土のなかにいる、同じ国語を使っている、毎日まいにち旅人生活をし続けているなど環境はおなじです。また物を書く以上、誰にでも判ってもらおうとしている、むつかしいことをいっていないなど、自分が読んでも読めるようにしてあるはずだという氣持ちで読んでみましたらこういうなったということです。
ただわかりにくいという面は吾妻鏡式に語っていることですが、これは社会人としての側面を語る場合の古来から約束を実行しているわけで、かなり思い通りの発言や行動ができる現在からは理解し難いだけです。
この語りを普通に受け継いでおれば、それがもっと浸透させられておれば、意識的にそれが遮断されていなければ太平洋戦争に行っていなかったと思います。それほど古人は社会意識が過剰にあったといえるのです。以下は蛇足です。
6、表八句の古書など
愛宕山百韻の表八句は古書に出ているといってその名前は伏せましたが、明かすと信頼性がなくなるので伏せただけです。榎本其角や服部嵐雪・向井去来や杉山杉風などの書いたものでもあって筆跡の鑑定などやって、そういう人のものであると確認できたら、またそれを芭蕉が匂わせていたりしてるとまあ取りあげてもよかろうということになり、それが学問的だといわれると、そうだそうだ、ということになるでしょう。昔のことだからわからないのが当たり前というのが一般に受け入れられて、そういう泊の付いた資料が発見されるまでわからない、発掘が重要だとなってしまいます。
面八句の記事を始めから〈明智軍記〉から引用する、というと、あとは読まないという人も出てくるかもしれません。これが間違いのもとで財産を捨てているわけです。この書は、信頼できるとされる〈信長公記〉の、はじめ三句をチャンと書いて、四句目以降を付け足していますので、著者同士の連続、継承はあきらかです。奥の細道とおなじころ京都で出版されたこの書物は、こういう部分は、芭蕉ものと連合艦隊を構成している証となるという観点からみないといけないと思います。もう少し進めると芭蕉の周辺にいる人物たちが書いたのかもしれないというものが出てきます。〈明智軍記〉はたまたま一般も手に入るからよいが江戸期のものでまだ市販に出ていない書物があるからそれに書かれているかもしれないという方向のほうが合っているようです。
明智軍記は主張も重要です。巻十で終わりですが、そこに
『今ゾ知リヌ。信長父子ハ信長殺セリ。更ニ明智ニ非ザル事ヲ。』
がありますが、今知ったはずだ。必要なことは書いてきた、といってるようにとれます。そういってるならば真剣に読まねばならないはずです。わからないところ、他愛ないところを捨ててしまえば読めないのではないかと思います。
ここで信長は被害者のはずですが、それが加害者だという、おかしいことを言っています。まあ
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」
というのも思い出しますが、そういうものではないかと思います。一見信長の自業自得といってるようにとれますが、そうではなく、こういうイエス・ノウイエスという対置した言い方は、相対する二面から見みて大きく考える、というこの社会の考え方の特徴というのが反映されていると思います。逆に、こういうのがあるのはこの社会といってよいのでしょう。
三谷隆正(一高教授、法哲学、内村鑑三・新渡戸稲造・南原繁・矢内原忠雄などの名とともに有名)の幸福論のなかから引用させてもらいますと次のようなことかと思います。
『人間の生活はいわば霊・肉二元の弁証法的発展のうちに伸びてゆくのである。』、
陰・陽、善・悪とかの対立的概念もこの二元ということですが、
『哲学者はしばしばこの二元性を一元的に説明し去ろうと企てた。しかし現実の人生に
おける実践的事実はかかる一元的説明を以って蔽うべくもない。人生の実際は百の説明を
絶して二元相克の修羅場である。人生のこの二元性を否定するものは、すべてこれ強いて
眼をふさいで人生の実相をみまいとするものである。・・・・世界歴史はひっきょうするにこの
二元相克の舞台に他ならぬ。』、
物事を相対立する二面から捉え、その相克の克服ということが、この社会の考え方の特徴と思います。快楽主義とか禁欲主義、唯物的とか唯心的とか、個人主義とか全体主義とか・・・・・・・無数の
議論が繰り返されてきていると思います。この見方がこの社会の背景にあることが先ず感じられると思います。
したがって単純に「これは事実らしい・これはうそらしい」という見方でやると駄目で、二元的に捉える、うそらしい中に真実が延べられているのではないかという判じ物を解くというつもりで読むことがいると思います。
一見ある程度わかるはずですが、終戦を挟んで感覚が連続していませんので、その一見が出てこないので根気が要るのかもしれません。房総で伊北常景・伊南常仲というと、一見してこれは架空の人物ということがわかりますが、北の千葉常胤と南の上総介広常を指すのであろうとすぐわかりますので、それで話を進めると早いのですが、いやそんなことはないだろう、そんな前提がおかしい、というのが正論なので、もどりもどり、事例を積み上げる根気がいるものです。
7、語句のこと
奥の細道の「年」を「人」と読んでほしいというものような例は日本の文献にもまだ多々あると思います。今までの話と違ってとくに信頼性が得られるにくい話なのでむだ話としてここで触れますが、一件ある以上は当然ほかにもあることは予想されることです。石川啄木の歌に
『ふるさとの山に向かいて言うことなしふるさとの山はありがたきかな』
というのがあります。この山は、岩手山を見て詠んだ、と本人が言っている(詞書にある)ので、ふるさとの岩手山をみて、この山はありがたいと詠ったということになりますが、これでよいか、という問題です。ふるさとの自然は「空」もあり、「平野」もあり、「河」もあるのです。いいたいことは古来「ふるさと」はふるさとの「親」と結びついての、ありがたく、なつかしいものとなっています。啄木はこの「山」を「親」と読み替えてほしかったのではないかと思います。岩手山がきっかけとなって親が出てきたとしてもよいのではないかと思います。もちろん答えはでません。しかしふるさとにおける、親とのなにげないふれあいのことは書いているようです。奥の細道に
『折節庭中の柳散れば 庭掃いて出でばや寺に散る柳』
というのがありますが、宿泊した寺を出発するにあたり掃除をするならいがあったようです。この句の前後で萩の花の白がテーマになっていますので、ここの「柳」は「萩」を思い出して読んでほしかったのではないかと思います。この前に
「しおらしき名や小松吹く
萩すすき」があり、
「一つ家に遊女もねたり
萩と月」すこしあとに
「浪の間や小貝にまじる
萩の塵(ちり)」
があり、この塵は「小貝(赤い色の)にまじって萩の花の散ったのがまじっている」と訳されていて「塵」は「散」です。韻文だから変えてはいけないような感じを受けますが、古人は人の歌の「さくら」を「うめ」に変えても平気です。柳も応用が利くようです。イチョウや紅葉が「ちる」という例もありますが、花は「ちる」、葉は「おちる」が一応原則でしょう。くだらなことを書きましたが、問題にしたいものは芭蕉の平泉での文のうち
『国破れて
山河あり、城春にして草青みたり、』
という文です。これは杜甫の句を踏んでいますが、芭蕉の文は少し変えてあります。芭蕉は杜甫を継承していることをいっているので、ここの「草青みたり」は、杜甫の「草木深し」と同じ意味でしょう。この「春望」は(左読み下し、右訳文、唐詩選・ちくま学芸文庫より)
国破れて山河あり 国家は破滅しても山川は残っており
城春にして草木深し 城に春が訪れて草木はこんもり茂る
時に感じて花は涙をそそぎ 時世に胸を痛めて
花は涙を流し
別れを恨みて鳥は心を驚かす 別離を嘆いて
鳥は心をおどろかせる
とあり、あと杜甫の身辺のことが述懐されています。この詩の意味がわかりにくいと思っていましたがそれは今でも同じです。
まず「国」というのは、「秦」「魏」とか「蜀」などという国家のようなものでしょう。城という形骸があるのでそういえます。このような国が破滅して、山川が残ったという感慨は、少し飛躍している感じがします。「山河だけが残った世界」というのはまあ月のように広漠たる世界です。この一文の一般の理解では人間が不在ですから当然そうなります。
また次に続く文を単なる情景ととられるので城との対置の意味がわからないのです。いっていることは始めの文は国は人が国土を囲って作った人為的なもので、その虚構物が亡くなっても、自然が残っている、という意味で人為的なものに対する批判があるとみなければならないと思います。すると次の文はそれを受けて、そのあと取り残された象徴物である城とか要塞にも草木が繁茂してきて自然がもどってきているということになると思います。ここで自然の中に人間もはいっているのではないかという感じを受けるわけです。すなわち、国家破れたのちは広漠たる世界でなく、第二次世界大戦後のような希望がもてる世界がくるかもしれません。すなわち「国破れても人間が残っている」という意味になっているのではないかと思います。要塞とかにも人間が何ごともなかったかのごとく動き回っているというのが草青みたりという情景と思えます。
そのことは三句目と四句目の訳文でわかります。ここは教わったところでは、誰かわからない何者かが、花にも涙をそそぐ、鳥にも心を驚かす、というようでしたが、ここの訳は花という植物、鳥という動物が涙を流し、驚いています。このしぐさは属性を表すのでこの訳も合っていると思いますが、要はこの花・鳥は凝人化されています。この自然の生き物は人間でもありえます。したがって「山川」も「草木」も人間と読んでほしいという意味があると思います。ほかの文献で「山」という語が出てきて訳しにくくて、そのままややこしいこじつけの意味づけがされてるものがないのかどうか、なければさいわいですが筆者には何回、どなたのものを読んでもわからないというので放り投げているものもあります。
三谷隆正の文に
『やがて(ギリシヤ)
国は全くほろびた。しかし
個人とその社会とはある。亡びたのは
歴史的個性国家として国民の歴史的熱愛の対象たり得たりし祖国の名である。その独特
なる歴史的個性である。山川草木は依然として旧のごとく、春がくれば、
国破れて山河
あり、城春にして草木深しである。』
といわれています。これをみても山河は人と社会に比定されている感じです。杜甫は国亡びて人・社会・国土は残っている、という感慨を述べた、国家=政権の虚構という意味で国を否定していたと思われます。
国家とか、政権とかそういうものへの厳しい目を向けているというものが杜甫・芭蕉二人に共通していると思います。もちろんこの詩にも二面があって、杜甫は人間の営みの小ささを歌っていて、大自然をたたえているというものがあるのは間違いないようです。また裏で国家とかの専制権力を批判をしているのがあると思います。その引用でわかるように、杜甫に吾妻鏡式があり、芭蕉がそれを引き継いでいるのは確実です。
ここで「人間」は造物主からいえば「花」とか「鳥」と並行した位置を占めている、大自然の一部であるとみられていると思います。人間は、太陽を作ったり、草花や鳥を作ったり、まして人間を作ったりできません。そうしょう思うこと自体が不遜だと思われます。ただ知恵が与えられており、大自然の仕組みなどを知ることはできます。太陽に異変があったら死滅するしかないのですが、異変を知ることができます。それが地球に到達するのは百年後ということがわかれば人類は生まない自由を行使して最後は苦痛なく自然と終わりを迎えられることになります。しかしこれもほぼ無限のときのかなたのことです。しかるに今、一万年後の人類の姿を想定してほしいとアンケートでもすれば誰も答えられない。その頃人類は今の状態で生きているか想像がつかないというでしょう。死滅しているかもしれないという想像もありうる、冗談にしてもその前に起こる苦痛はたいへんなものでしょう。このようにしてしまうのは人間のせいです。
明智軍記式でいえば
『今ぞ知りぬ。人間は人間殺せり。さらに大自然ではあらざる事を。』
というのでは遅すぎるわけでしょう。そこで今、二千年の人類の叡智を結集しなければならないときで、古文献の読み方が問われているのです。多くの例を集めてきてこういうことがいえるといっても、そんなことはっきり書いていないなどといって知らぬ顔をしているときではないようです。
「本人らしくない思いがけないこと」を、そういう「場ちがいのこと」を
『正岡子規なおもて書き置く、いわんや芭蕉をや』
そんなこと書くはずがないということを、あの芭蕉が書いている、善人から悪人に変わったのかといえるほど変なことを書いたのです。他の人も追って知るべし、といったところです。芭蕉の著述にこの善悪の相克があるからこそ偉大といえるのではないかと思われます。
以上
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