19、佐久間右衛門尉


(1)仲介役
  次の記事の「乾助次郎」という人物は誰かということが問題となると思います。和平の仲介役という
役目を果たしたものという感じがします。

    『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壺を持たせ、伊丹を
    忍び出で尼崎へぞ落ちにける。』〈甫庵信長記〉

下線のところ脚注があり、『荒木村重は茶人、利久の弟子。』となっています。一応誰も茶人ではないか
しかも利休に近い人ではないか、ということをすぐ思い浮かべるから、荒木は利休の弟子という親切な脚注
になったと思われます。
      乾助次郎
 この人物について探らなければならなくなりました。いろいろそれらしいものが伏線として出されて
いうのではないかと思いますが、理屈をつけて近づいていきたいと思います。まず表記ですが
  「乾」は〈信長公記〉首巻の「討死」衆に

    『坂井彦右衛門・黒部源介・野村・海老(えび)半兵衛・(いぬい)丹後守・山口勘兵衛
    ・堤伊予、』
 
 が出てきて、これがとくに重要ということがわかるのは、信長公と「奇宿」で出てきた「堤源介」という
合成語句があったからですが「坂井」も「野村」も「えび」も「山口」も「半兵衛」なども重要な人物と結び
きています。つまり、著者太田牛一をとりまいている人物の姓か名と結びついるという予感がするもので
した。したがってこの「乾」も一族とかいう重要な人物であるのいっていると取れます。
まずこの人物は
       @利休の高弟である。
       A当時有名人物であり当代記によれば侍である
       B次男らしい
       C「乾」は重要人物で、もう一人いる乾姓の人物「乾平右衛門」も花(鼻)隈で池田
        と出てくるので、森と近いかもしれず、この乾は重要とみられている。
       D津田信澄と近いことは津田宗及と近いかもしれない
       
 などが考えられます。
 @については
   葉茶壷を持たせ、という表現から「荒木村重は茶人利久の弟子。」〈甫庵信長記脚注〉と書か
れているので利久の高弟くらいの一人である、と推測ができます。同じく「葉茶壷」を調べておきますと
    松花・・・・・・・葉茶壷で大名物ーーこれは信長公から信忠卿が拝領。
    松島・・・・・・・葉茶壷の名。松島のように多くの隆起があった。
    三日月・・・・・葉茶壷。松島とならぶ無双の名物
 松島と三日月は天正六年荒木村重ら十一人が集まったとき床の左右にあったものです。これは
関係がないかもしれませんが念のための脱線です。ただこのとき「葉茶壷」が

  長谷河丹波守、長谷河宗仁、福富平左衛門、矢部善七郎、荒木摂津守、惟住五郎左衛門、
  万見仙千代、

などと接近しています。首巻に「乾丹後守」が出てきましたので
     「長谷川・丹波守」は「乾・丹波守」、「長谷川・宗仁」は「乾・宗仁」
にもなりかねません。

(2)茶人
天正六年、信長公が九鬼の大船を見たあと、

   『かくて、堺の今井宗久に御茶を進上申すべき旨仰せ有つて、則ち御成り有りけるが、その
   次(ついで)に、
         宗易、宗及、道叱(どうしつ)が●座敷
   をも一覧とし立ち寄らせ玉いけり。翌日に
         佐久間甚九郎
   御茶上申し、終日の会なり。
   同三日に帰洛の翌(つぎ)の夜話に、信長公曰いけるは、
         甚九郎数寄、
   事の外に上手なりと覚えたり。去れども羨ましき事ならずと仰せらる。
         (一行はなす))
   二位法印、その御事に候、
    国主等此の道上手に成りなば、世間物事奢侈(おごり)大過して且つは武道も忽(ゆるがせ)
   に成り申すべし。それより事発(おこ)って、或は京都職人方の若き者、或は芸才の弟子共、
   彼の過高(身分に過ぎたこと)を自然に似せて(普通に思って)、富めるも貧しきも、だてをのみ
   嗜むべし。驕りの種に成るべきはただ数寄道なり。
    侘びて心意の気味を宗(むね)とし、珍肴奇物を事とせず、安らかなる道具などを、清浄に成る
   べくんば、数寄は珠絶(しゅぜつ)の慰めたるべく候。それ武士の道は・・・・・・・国主は人の賢愚
   剛弱、知の明、行の果、信の篤、国器の大小等よく知って、天地万物一体の仁を守るこそ、その
   務めとは申すべく候や、
    と申し上げければ、さても残るところ所なく云いつるものかなと、再三御褒美ありけるとかや。』頃
   〈甫庵信長記〉

 ということで茶人とされる人物が出てきます。この茶人間の関係ですが、一見ではそれぞれ別人と取れ
ます。著者が適当に書いたという立場であればそれで合っているともいえますが、後年の読者に対して
親切に書いている、という立場に立てば、それですんなり通りすぎてもよいのかということになってきます。
第一〈信長公記〉の記事と内容が違っているので、前者でよいとはいえないようです。
〈信長公記〉では 九鬼大船を見たあと、

   『それより今井宗久所へ御成。過分忝き次第、後代の面目なり。御茶まいり、御帰りに
           宗陽・宗及・道叱三人の私宅
   へ忝くも御立ち寄りなされ、住吉社家に至つて御帰宅。』

 となっています。「宗易」が「宗陽」と変わっています。意味がよくわからないので「宗陽」という人の
言動があれば、それは利休のものだと取ってもよいということかと思われます。〈信長公記〉の記事から
みれば、三人の座敷を見たという●は政庁内のどこかに設えられた場所ではないことはわかります。
また甫庵の記事では今井宗久に進上を命じて、宗久の座敷(私宅)には行ったのかどうかがはっきり
判らなかったわけですが、ここで、信長公が訪れたのは、
       「宗久」「宗陽?」「宗及」「道叱」
 の所だということがわかりました。
甫庵の記事と対比してみなすと
      〈信長公記〉・・・・・・   「宗久」  「宗陽?」  「宗及」  「道叱」  「住吉社家」

      〈甫庵信長記〉 ・・・   「宗久」  「宗易?」  「宗及」  「道叱」  
                           「佐久間甚九郎」  

 となっており、問題は今井宗久に進上を命じて実際上申したのは「佐久間甚九郎」なので「今井宗久」
が「甚九郎」に頼んだのかということです。これはありえないのではないのかと思います。進上と上申が
言葉が違うのでそれがカギではないかと思います。 つまり、場所は
       「今井宗久所」
 で信長公は実際見に行っています。しかし主催は
       「佐久間甚九郎」
ではないかと思います。単なる列席者でなく主催した人だから、お茶をかき混ぜて渡す人だから 
翌日に信長公が

       『甚九郎数寄、事の外に上手なりと覚えたり。』

 と評せるのではないかと思います。テキスト〈甫庵信長記〉の脚注に

    『佐久間甚九郎   信盛の子、信栄。茶人として有名。』

とあり、一般の人が知らないだけで、もう名高い人だったようです。
 また「佐久間甚九郎」という名前がおかしいことは容易に感じられるところです。「額田王」とか
「柿本人麻呂」、〈吾妻鏡〉の「万年九郎」、〈甫庵信長記〉の「狩野又九郎」のようなものです。
 ここから上の、「?」の部分に甚九郎が入るのではないかとも考えられます。つまり

   〈信長公記〉・・・・・・  「宗久」 「宗陽?」 「宗及」 「道叱」
   〈甫庵信長記〉・・・・  「宗久」 「宗易?」 「宗及」 「道叱」
   〈甫庵信長記〉A・・・・ 「宗久」 「甚九郎」 「宗及」 「道叱」

 突然出てきて、納めどころのない、この「茶人として有名」な「甚九郎」はいったいいどこにはいるのか
というとやはり表記が違わせられている二番目に入れるしかないでしょう。「紅屋」といわれる「宗陽」が
この人の号かどうかは別として何か名前があるはずです。いまなにもわかっていないのだから、佐久間
甚九郎の号は宗陽であったとしておくしかありません。
 この三人の私宅に立ち寄った話は天正六年九月二十九日のことですが、与四郎が「折節(おり
ふし)」入牢している話は、この一年後、八月のところに出ており、甫庵のいう「宗易」が〈信長公記〉
の「宗陽」に変わった根拠がこういう事情があったともいえますが、〈甫庵〉には与四郎の入牢の記事が
ないようなので、どちらが合っているか判定が困難です。ただこのころ荒木と戦いの最中ですから、
利久が、秀吉に荒木との和睦を勧めたのが信長公は気にいらなかったとも考えられるので、ここ利久
のところへ立ち寄ることは考えにくいことと思われます。

(3)宗易
 千利休は主要文献で登場回数が少ない、〈信長公記〉では「宗易」で登場、天正三年十月廿八日、
「妙覚寺にて御茶下され候。」で「三日月の御壺」「松島の御壺」など出てくるところで 

       『・・・・・御座敷の飾
        ・・・・・
        一、茶道は宗易、各々生前(しょうぜん)の思い出、忝き題目なり』

 だけです。この記事は「宗易」が茶席を仕切ったと読むのが普通と思われますが、「御座敷の飾」
の中の一部であり、茶道具、茶、のあとの「茶道」なので「宗易の茶道」という意味ではないかと思われ
ます。「生前」も二つの解釈が可能でしょう。
 一方、〈甫庵信長記〉は二回だけで、その一回は先の「宗易?」のものです。 登場回数のきわめて
少ない「宗易」がなぜ「千利休」なのかということは〈甫庵信長記〉にもう一回、次の
        「作物記(ルビ=つくものき)の事」
 という題目で、年月日不詳の記事で「千宗易」と「利休」がくっ付いて出てくるのでわかるだけです。

     『或る時、●作物(つくも)の■茶入れ茄子の袋を、千宗易利休居士を以って▲藤重に仰せ付け
     られし時、相国寺の惟高和尚、此の記を書きたりしとなり。汝知らずやと宣えば、▼松永、茶の
     会席にて一覧申しつる。★其は信貴の城にて焼け失せおわんぬ。其の写しも御座有るべく候。
     捧げ申さんとして堺より取り寄せ上げ奉る。其の記に曰く、・・・・』

 この太字の表記が一件だけあるのでそうなっています。例えば「明智十兵衛」、「惟任日向守」が
あの「明智光秀」であることがわかるのは、
   @「明智十兵衛を惟任日向になされ、」
   A「丹波国亀山にて維任日向守光秀逆心を企て」
という記事があるからわかるのです。@では「明智」姓であることがわかるだけです。Aが一件だけ
出てくるので「光秀」というのがはじめてわかります。もしAのところが虫食いなどあれば困るところです。
 しかしそれは「丹波国亀山」とか「逆心」とかでわかるし、補助文献があるから結果的にはわかりますが
納得させるのは弱くなるのは否定できません。しかし事実は「明智光秀」は「惟任日向」です。ただ表記
が違うのでもう一人いるかもしれないと予想しておいた方がよい「太田和泉守」もそれを適用できる
場面があったということは既に述べました。「弥三郎」も同じです。
 この記事のおかげで「千宗易」は「利休」だと一般に認められているのです。すこしおかしいのは、
甫庵を偽書のような扱いをしている今、それを採用してしまうわけにはいかないはずです。しかし現に
これが生きているから、よほど重要なことが書いてあるのかもしれないとも思えます。いろいろ考える
にあたってこの〈甫庵信長記〉の記事をよく読まねばならないというのが直感できるところです。
 ●のルビ「つくも」といえば「九十九」というのは知られていることですが、このようにルビで出てくると、そこまで
意味はないだろうと思ってしまいます。しかし、あとに続く・・・・・・長い文のなかで

      『作物(つくも)は百に一、数の事、欠くこと有るを以って、古歌の意(こころ)に本づけて、
      以って作物(つくもの)と名づく。◎名を易ゆれども異論なき者乎。』〈甫庵信長記〉

 という文がありますから100ー(マイナス)1=99のことを頭に入れて、この文が書かれているという
ことがわかります。ここの古歌というのは、脚注では

      『古歌の九十九髪は「伊勢物語」の歌
      「百年(ももとせ)にひととせ足らぬつくも髪われを恋うらし面影に見ゆ」この歌からすればつくも
     髪は百から一をひいた白で白髪の意。』

 とされており、百引く一=白が「つくも」で「つくも髪」は白髪の意味で、これは別の意味があります
が、いっていることは深い意味があるので単に書き流しのルビを付けたということ以上のものがあります。
 ここでは(つくもの)を(つくも)と替えているので、一字を違わせることが大きな意味を持ちました。
◎を付けた太字の部分は、どういう意味かが問題であります。通常パソコンなどでは「かえる」「かわる」
の漢字に「易」というのは出てきませんが「不易流行」に見られるようにその意味があります。
「宗易」というのは「宗□」を意味するのかもしれません。ここで◎を二つの意味にとって、「つくもなす」
もかわった、人名もかわったということで、みたいと思います。「つくもなす」の方は、それはそれで
意味があり、ここの葉茶壷に関係してくると思いますが、ここでは人名の方を追っかけています。
 次の■「作物の茶入れ茄子」についてはテキスト〈甫庵信長記〉に脚注があり

    『「つくも」は珠光が九十九貫で手に入れ九十九髪(つくも髪)に因んだという。付藻茄子(つくも
     なすび)とも。唐物の大名物。この「つくも茄子」は本能寺の変で焼失したという』

 となっています。ここで重要なことの一つは珠光が利休と接近したことだと思います。珠光は「四畳半」
で利休と共通した印(しるし)をもっています。珠光のものは信長公が最高値で買い付けており、一休の
あとを引いた人ですが、一休は宗純というのに珠光は「宗」が付いていません。宗珠という人が珠光とするか
珠光の子息とするか、とにかくこの人の跡を襲ったのが「利休」かもしれません。利休と利久の二つの
名前は利久@・利久Aの存在があるのではいかとも思われます。頼朝に頼朝@と頼朝Aがあり、@が
義朝を表わす〈曽我物語〉のような述べ方です。木村又蔵@木村又蔵Aがあるのと同じです。紫式部
も紫式部@と紫式部Aの母娘の存在がすでにほぼ確実性をもつて述べられているのと同じです。
「宇治拾帖」が紫式部Aの作品だろうということですが、式部が40くらいのとき、その子は25くらいに
なっていて才は親譲り、またその薫陶をうけているわけですから可能性としては100%ですが、まあ
紫式部のイメージがすこし壊れるから多数決でそれはやめとこうとなっているのでしょう。
 利休にしても、年表では、天文六年1537(桶狭間23年前)
  
    『千利休京都で茶会を開催(資料松屋)』

 というのが出ています。今いわれている利休の生年からいうと15歳のときの話となります。いかに
天才といってもこれはむつかしい、利休@、利久Aという親子があったとか、いわれているように三好
長慶の身内であったとかの事情があったと考えられます。まあこれは一世代前の利休ととるのが自然
だと思われます。親子の重なりを全然無視しているいまの歴史理解からは何も出てきません。
 先の天正三年十月廿八日、〈信長公記〉の茶席を仕切ったのは佐久間甚九郎ではないかと思われ
ます。この人物は隠されていたことがわかります。
  少しまえ同年八月十四日の〈甫庵信長記〉の記事と八月十五日の〈信長公記〉の人物羅列において
 
   『・・・・・佐久間右衛門尉、子息甚九郎、・・・・・』〈甫庵信長記〉

 は〈信長公記〉では「甚九郎」が抜けています。この〈甫庵信長記〉の記事のあと明智日向守が出てきて
太田和泉守が秀吉の名前で出てきて「中入」作戦を実施するという重要なところがあります。
 「替えた名前」というコダワリがあるこの辺りの記事の延長が〈信長公記〉の十月廿八日の記事に反映され
たといえようかと思われます。
 利久が鉄砲屋与四郎で出てきたことはすでに述べましたがこれは多少政治性を帯びた接頭語だと
思います。〈武功夜話〉で
     『今井彦八郎(ルビ宗久)・千与四郎(ルビ利久)』
 の併記があるところの意味は親子とか、兄弟とか、の身近な関係があることを意味するかもしれず
なぜ今井が「彦八郎」となるのかという問題も含め当時の社会制度と、表記のいたずらが自然に受け入れられるようになったら論議の対象となってきて自ら判るようになってくると思われます。
 ここはこのあたりにして、このようにみてくると宗易の「易」というのは「変える」「替える」「変わる」「替わる」
の意味がある一人のようで、二人を表わす、などのことがいえるのではないかと思われます。
 
 荒木と織田の和平は、私財を提供した、乾助次郎と親しい何者かの画策があったとみなければなら
ないと思います。
 助次郎は利休(久)の弟ともいえない、甚九郎は先代利休の弟といえるのかもしれません。
 この二人が同一人物ではないか、ここまでもって来れる人物は荒木と密接な関係がある茶人、武将の
大ものといえるのではないかと思われます。  

(4)もう一人の宗易
 もう一人の利休という意味ではなく既述のとおり、もう一人の宗易という意味ですが
十月二日に
   
       『住阿弥御留守あしく仕候に付いて御成敗。』

 の記事があるので、住吉の「誰か」という人が成敗されたわけです。これが重要人物であり、ここの
「宗陽」は「甚九郎」を想起して書いたのではないかという証拠にもなるところです。
 次の「宗久」および、「宗陽」、「宗及」、「道叱」が出てきた天正六年(十一)の一節は
     「佐久間」「天王寺」「住吉」「堺」「安見」「住阿弥」という佐久間色の語句のなかにあります。

    『(十一)・・・・・翌日(九月)廿八日、若江御泊。
     廿九日、早朝より天王寺へ御成(おなり)、●佐久間右衛門所に暫時御休息なされ、住吉社家
    に至って御座を移され、その時天王寺より住吉の間御鷹つかわされ候キ。
     晦日には払暁より堺の津へ御成り。・・・・それより今井宗久所へ御成り・・・・御帰りに
    宗陽・宗及・道叱三人の私宅・・・・・住吉社家に至って御帰宅。・・・・・・
    {寅}十月朔日、住吉より御帰洛。安見新七郎所に暫し御休息なされ・・・・・
     翌日、阿弥■御留守あしく仕候に付いて御成敗。併に・・・・さいと申す女、・・・同罪に仰せ
    付けらる。』

 となっています。南大坂、「天王寺・・・・住吉・・・・・堺」が舞台です。したがって当一節の終わりの
住阿弥は、「安見」を受けて住安弥になるのでしょう。この一匹狼は(十一)のはじめの●を受けて
佐久間右衛門のことと取るでしょうがあとでみると天王寺は佐久間甚九郎の属性のような感じとなって
います。下線は多分、天王寺における戦いで原田備中を討たせたことと関係があると思います。甚
九郎がそのことと関係していそうな記事があとで出てきます。つまり後年譴責されたことをここへ時代
を抜きにしてもってきたと思われます。●は佐久間甚九郎ともとれないこともないようです。■は
●の人物の帰結を表わすのかもしれません。原田備中のことを、「やす田」、「保田」、「安田」、「直政」というのが安見を持ってきた意味と思われます。
 ここで珍妙な話せざるをえないことになりました。

(5)佐久間右衛門尉の戦死
〈名将言行録〉に次の記事があります。

    『佐久間信盛  半助と称す。後右衛門ノ尉と改む。織田氏の宿老なり。後罪を得て配流せらる。
     天正四年七月十二日卒。』

 文献は吾妻鏡式では正確だ、といってきている手前、この記事は見逃すことができない、何とか
注釈をしなくてはならないところです。
 この書の佐久間信盛の叙述は対「徳川家康」のことに限定されていますので、佐久間と家康の関わりについて
述べたいのは一つあると思いますが、もう一つこの死亡記事に狙いがあると思います。
 桶狭間戦、あの善照寺砦の城将の佐久間信盛は、いま述べている天正六年のこの佐久間甚九郎が
信長公に茶を上申した事件の前に亡くなっていたわけです。つまりこの時点で甚九郎となっているのは
もう当主だったといっています。
 天正四年になにか起こったのでしょうか。考えられるのは塙九郎左衛門改め原田備中守が戦死した
ことです。塙九郎左衛門と佐久間信盛はセットで出てくることが多く、原田の死は佐久間の死を表わす
ものであったかもしれないということです。
       『原田備中守討死ならびに一揆天王寺附城(つけのしろ)攻むる事』
の一節です。天正四年

   『同年四月十四日に永岡兵部太夫、荒木摂津守、惟任日向守、原田備中守、筒井順慶、
    彼等を大将として都合その勢三万余騎、大坂(おさか)を攻むべきとて差し向けられ、荒木は
    海上より・・・・・原田備中守は南方より推し寄せ、天王寺に附け城を相拵え、則ち守り申す
    べき旨なりしが、
        違変して佐久間甚九郎定番として相支うべきとなり。是に依って
        原田は討死すべきにぞ極めける
    ・・・・・・・いかにもして木津を取れと彼の面々に下知せらる。
    ・・・・後陣は原田備中守・・・・・木津へ押し寄する処に、・・・・二陣に有りける備中守、面も
    ふらず入れ替わって相戦いけるが・・・・・・進退きわまって終に原田は打たれぬ。・・・・●佐久
    間甚九郎、筒井順慶、惟任日向守、猪子兵助、大津伝十郎、たて籠って防ぎ戦う。佐久間が
    与力に梶川弥三郎、佐久間久右衛門、奈良清六・・・・・ひるむともみえざりけり。折しも信長
    公は在京・・・・・・河内国若江に着陣・・・・・・先陣は■佐久間右衛門尉・・・・・・。大坂四方十
    箇所、附け城の普請、事急にして、天王寺には佐久間父子・・・・・・・』〈甫庵信長記〉

 下線の部分がおかしい、原田の死は「違変」があったから、といっているといっていると思います。
「木津」を取れということになって、原田が附け城を守るところを、どうしたわけか甚九郎と入れ替わった
という予定の変更があって原田が討たれた結果になったもののようですが、佐久間甚九郎に場を譲
った感じのもの、「極(きわ)めける。」は表現上で細工した、といっているのかも知れません。●で、すでに
甚九郎は順慶や光秀と同格の大将になっています。理屈からいえばこの甚九郎は佐久間信盛でなければ
ならないと思われます。■の佐久間右衛門は信長公の救援部隊の先陣ということで、ここでは●の
甚九郎と別行動となっています。■の佐久間右衛門と、最後天王寺にいる佐久間父子と佐久間が三人いる
という勘定になってややこしいことこの上ない形となっています。この時点で原田備中が戦死していま
すが、もう一人の原田、つまり塙九郎左衛門=太田和泉守のことをいっているという捉え方でよいという
感じです。

このあと天正四年『中国より兵糧大坂の城に入るる事』の一節で

   『七月十五日に天王寺より飛脚来たって申しけるは・・・・・間鍋主馬兵衛尉、沼野伊賀守、同
   越後守、寺田又右衛門尉、河内の杉原兵部丞、宮崎鎌太夫、その弟鹿(かなめ)目助、{何れも
   兵部の甥なり、}尼崎の小畑、花隈の野口等・・・・・・防ぎ戦い・・・・・・主馬兵衛、野口、小畑、
   伊賀守、越後守、兵部伯父甥三人、比類なき討ち死にをしてけり。又右衛門尉などは退散せし
   ・・・・・・その後住吉浜の城相拵え、是にも佐久間右衛門尉が勢を入れ置かる。』〈甫庵信長記〉
 
 これで消しこむと「寺田又右衛門」だけ戦死しなかったことになる。 『是にも佐久間右衛門尉』というのは
次の文で保田久六が出ますので、佐久間の別働隊という感じです。ここでは甚九郎をいっているとも
とれますがあと安土城の記事が出てきますので太田和泉守の馬印が佐久間信盛のものと同じですので
ここは「是」を生かして太田和泉守が動き回っていると取れます。同じ情景が〈信長公記〉では

   『まなべ七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・沼野大隈守・宮崎鎌大夫・宮崎鹿目介(かなめのすけ)・
   尼崎小畑・花くまの野口、・・・・木津川口を相防ぎ候。・・・・陸は・・・・天王寺より佐久間右衛門人数を
   出し推しつおされつ数刻の戦いなり。・・・・・多勢に叶わず、七五三兵衛・伊賀・伝内・野口・小畑
   鎌大夫・鹿目介、この外、歴々数輩討死候。・・・・・・・その後住吉浜の城定番として、保田久六・
   益(石篇)井因幡守・伊知地文大夫・宮崎二郎七、番手に入れ置かれ候キ。』〈信長公記〉

 沼野大隈守は戦死しなかった、というよりも、杉原兵部のことを沼野大隈守といつているのかも知れない、
ここの佐久間右衛門は天王寺から出てきたので、この「佐久間右衛門」は太田和泉守ではないか、と
思われます。
  なぜこの辺が重要かというと、「甚九郎」というのが「九郎」という諸口のような扱いになっているので
気になるところといえるからです。桶狭間でもこれが誰かよくわからない「九郎」が出てきます。一回限り
の登場ですから、手がかりがありません。

   『義元の同朋林阿弥と云う者を下方九郎左衛門尉生け捕りにしてぞ参りたる。』〈甫庵信長記〉

 これで今川方の戦死者の身元がわかり、信長がたいへん悦んで褒美を与えましたが、この九郎左
衛門は誰かということがあります。小豆坂で

   『返し合わせたる人々には織田造酒丞、下方左近、その時は弥三郎とて十六歳、・・・』

 となっているので、下方左近のことかと思われますが、織田造酒丞の「造酒」(さけ)というのが少しふざ
けた名前なので、これが下方一族の大将かもしれないということもありえます。テキスト人名注には

   『下方貞清 (?〜1606)字左近。尾張春日井郡上野(春日井市上野)城主。下方氏は源氏
   だが、織田氏の一族〈尾張志〉。天文十一年三河小豆坂合戦以来歴戦の勇士。元亀三年奇妙
   (信忠)の元服、鎧初めのとき、貞清は兜□をつけた。慶長十一年(1606)清洲城で死亡。その
   墓は移って名古屋市千種区鍋屋上野町永弘院に所在〈愛知県金石文集〉。』

 となっていて、小豆坂で載っている下方左近はまだ若く、親子重なっている、造酒丞も「下方左近」
といってもよいようです。〈甫庵〉によれば、織田造酒丞の嫡男が「小瀬三郎次郎清長」(武藤小瀬修理
大夫?)でその弟が
       「菅屋九右衛門」
 です。この菅屋(谷)も初めから「九」がついたままですが、十六歳の「下方左近」は「小瀬清長」と
とるしかないようです。この十六歳は明智光秀と引っ掛かっているので意味があるかどうかですが、年齢
を表わすために下方を使ったと思われます。ただこの下方貞清の春日井上野というのが小瀬甫庵に
関係する土地なので、まんざら無関係ではなさそうです。
 桶狭間で織田造酒丞は戦死したのかどうか、はっきりしませんがこの「下方九郎右衛門」の登場で
生存が確認できるのではないかと思われます。造酒丞は「織田信房」というようですが、武井夕庵が
武芸郡の丸毛氏から活動名を拝借したというのと同様に、造酒丞の原型が下方貞清であったのでは
ないかと思われます。
 「佐久間右衛門」につれて佐久間与力の「佐久間久(九に通ずる)右衛門」、「佐久間甚九郎」が出て
きて「九」に着目するとき「下方九郎左衛門」「菅谷九右衛門」が出てきました。「甚九郎」にからんでもう一人
「九」が出てきます。「佐久間甚九郎」に替わって戦死したような「塙九郎左衛門」がそれです。
 蘭麝待奉行で(天正二年)
   『御奉行 
    塙九郎左衛門・菅屋九右衛門・佐久間右衛門・柴田修理・丹羽五郎左衛門・蜂屋兵庫頭
    荒木摂津守・夕庵・友閑、
   重奉行   津田坊  以上』〈信長公記〉

 甫庵のはこれとは違います。

   『佐久間右衛門尉、菅谷九右衛門尉、塙九郎右衛門、蜂屋兵庫守、武井夕庵、松井友閑法印
    以上六人なり。』

 となっています。甫庵では、この塙九郎左衛門が後、原田備前守になって戦死するわけですが、これは
佐久間とみれるようです。要はこの二人の「九」は誰かを表わす、荒木に接近の友閑はこの時点ではまだ
法印ではなく、別に比定の要するところかもしれません。ここで
       佐久間右衛門
       塙九郎左衛門
 が互い違いになっており、もし佐久間信盛がこのとき戦死したのであれば、それを塙九郎左衛門(原田
備中の死で表わしたのではいか、と勘ぐられるところです。(なお塙九郎左衛門を原田備中としたのは〈信長
公記〉ではなく〈甫庵信長記〉である)
それではそれに該当する信盛の死の記事があるかどうか、ということになります。

天正四年五月七日(原田備中が戦死したのは4月14日)
    『御馬を寄せられ、一万五千ばかりの御敵に、わずか三千ばかりにて打ち向わせられ、御人数
     三段に御備えなされ、住吉口より懸からせられ
      御先(さき)一段、
       佐久間右衛門・松永弾正・永岡兵部大輔・若江衆。
     爰にて荒木摂津守に先(さき)を仕候えと仰せられ候えば、我々は木津口の推(おさえ)を
     仕候わんと申し候て御請け申さず候。信長後に先をさせ候わで御満足と仰せられ候キ。』
     ・・・・信長は先手の足軽に打ちまじらせられ懸け廻り、爰かしこと御下知なされ、薄手を負
     わせられ、御足に鉄砲あたり申し候えども、されども天道照覧にて苦しからず。御敵数千挺
     の鉄砲を以ってはなつ事雨のごとし。相防ぐといえども、どっと懸かり崩し一揆共切捨て、
     天王寺へ懸け入り御一手に御なり候。
 
 下線の部分脚注によれば、
    「荒木村重に先陣をめいじたところ、木津口の防衛をするといい承知しない。信長は後日
    先陣をさせなくてよかったといった。」
 とされておりこれなら即日、村重は処罰されるはずで信長は二人いるということからそうならなかった
というのが〈前著〉では説明をつけましたが、もう一つ佐久間に異変があったような戦いだったので、荒木
村重まで道連れにしなくてよかったという意味もあったのではないかと思います。まことに変な文章なので
単にあとの物語と合うように佐久間と荒木を交錯させたのかもしれません。
このあたり信長が戦死したのかもしれないと取る人もあるくらいの大敗北で、信長の後見をしていた佐久間
に厄災が降りかかったのではないかとも思われます。要は甚九郎三人でここが述べられたと思われるところ
です。
  1、   佐久間右衛門信盛(甚九郎@)・・・・〈甫庵〉で原田備中と交錯した。
  2、   佐久間右衛門信盛(甚九郎A)、
  3、   佐久間右衛門信盛(甚九郎B)

です。
  1、がこのとき戦死した宿老の人物で、追放された佐久間右衛門父子は、2と3で、
  2、が配所で亡くなった人で特に利休の高弟として茶人として名高い人物
  3は明智軍記で17歳でこの場面に出ている甚九郎で、父が配所で亡くなったので許されて信忠に仕えた人
た人と思われます。この人が、後、牛久藩で幕末まで家名を残した、甫庵太閤記で、志津嶽の戦いで柴田方で出てくる佐久間右衛門信盛と思われます。
荒木村重との和解工作を利休の意向を汲んで推進した人物は、この「佐久間甚九郎A」ではないかと
思います。(こういうのはありうることは〈三河後風土記〉で大久保三代のことなどが述べられている)
 もう一人それらしき人物がいます。

(6)平手と佐久間
平手政秀のところで出てきました(既述)が、テキスト〈信長公記〉にあった
助次郎という人物です。

   『そして天文二年七月二十三日、平手助次郎勝秀は飛鳥井雅綱の門弟になっている〈言継卿記〉。
   この勝秀は政秀の嫡子のようである。』

 とありこれは言継卿が政秀を訪問した際、七歳になる次男は太鼓を、武藤氏の七歳の息子は大つづみ
打ったが長男のことを言継は書いていない、という前段に対応する、嫡男のようである、というもので
すが、とにかく「助次郎」というのが気になるところです。長男というのは、右衛門尉というのが月巖の子
信秀の弟でしたが、それに比定していました。したがって勝秀は継子とすると、つまり夫人の長子と
なるから、仮に佐久間右衛門尉が、平手政秀と特別な関係があったとすれば、この助次郎が甚九郎と
いうことになります。
      信長伯父、月巖末子の「右衛門尉」と、佐久間信盛の「右衛門尉」
     平手次男甚左衛門の「甚」とこの甚九郎の「甚」の類似
     身方が原での佐久間信盛と平手政秀子息の接近
など気になるところです。今はこれ以上つっこめないが、いずれわかってくることでもあり、間違いかも
しれないにしても仮説の材料にはなりそうなところです。
 幼くして京都で茶など修行したこの人物が、甚九郎としますと、この甚九郎は当然利休@の高弟と
いわれてもよいものをもっており、ひょっとして非業の最期ということで似たところのある、茶の貴重な
書物を残した山上宗二と重なっているのかもしれません。

(7)佐久間正勝
佐久間甚九郎についてテキスト脚注はかなりページが割かれています。佐久間氏はもと安房の住人
信盛の時代は尾張の有力豪族となっていたようで信盛は桶狭間当時は山崎城(呼続町=桶狭間へ
の行軍の途上にあつた)の城主でした。

   『信盛の子は甚九郎。〈寛政重修諸家譜〉では正勝とする。しかし(天正五年)十月二十一日付けで
    信盛と連署して信栄といい(織田文書)、七月十五日付で「佐甚九、定栄」(〈淡輪文書〉)とあり
    両者の花押は同じである。信栄は定栄と改め、天正九年(1581)に追放を解かれて信忠の家臣
    になったときに、さらに正勝と改名したのであろう。』

 となっています。
    『信盛父子は追放されると入道する。信盛は夢斎定盛、子信栄は不干斎定栄である。そして
    定盛は九月十五日付で高野山の小坂坊に対し・・・・もし不慮のことがあれば、常灯・石塔などの費用
    にあててくれるよう申し添えた。そしてさらに九月二十五日付で、定盛・定栄両人は「無事に帰国
    できた上は知行二百石を寄進する」と小坂坊に約束している。(〈南行雑録〉)
    また定栄は翌九年霜月吉日付で「流罪により寒川に山居しているが、本意の上は個人で神社を
    を造営する」と誓約している。この願状(〈紀伊国続風土記附録〉)には甚九郎と署名している。
    信栄の入道は形だけであろうか。信栄は召還されると正勝という。
     信盛父子は天王寺在城中にもよく堺(堺市)などで茶会を開いている。信長が津田宗及所持
    の文琳を召し上げたのは、宗及が信盛父子の追放問題に関係があったからのように思われる。しかし
    この茶壷は、翌九年八月に返されている(〈津田宗及茶会記〉など。)』

これが集約された人名注では説明のつきにくいものが出てきています。

    『佐久間信栄(1556〜1631)甚九郎。信盛の子。天正八年(1580)父信盛るとともに追放された
    が、やがて赦されて信忠に仕え、正勝と名乗った。のち織田信雄さらに秀吉に仕えお伽衆。
    不干斎。茶人として有名。』

 これだと桶狭間四年前の生まれとなり、寛永八年75歳で亡くなったことになります。桶狭間のとき
信盛が仮に35歳くらいとすると、桶狭間当時では子息は15歳くらいにはなっているはずです。重なっているとみるべきでありこれは17歳の甚九郎であろうと思われます。親子重なるなどというのはおかしいといわれるかもしれませんが、この社会制度においては、早婚であって15歳くらいで子が生まれるというような習慣的環境では
60歳まで生きるとすれば、45歳、30歳という働き盛りの子、孫に恵まれるということになり、それぞれ
一流人物としての活動がみられるのでしょうから、ラップする面があるわけで重ねてものをみないと叙述
しきれないということになると思います。

(8)賎ケ嶽の佐久間右衛門尉信盛
 佐久間信盛のテキスト人名注はなおおかしく

    『佐久間信盛( 〜1583) 右衛門尉。信長の老臣。近江長光寺城主。元亀三年家康の援軍として
     三方ケ原の戦いに参加。天正四年大坂本願寺攻撃として天王寺に出陣。八年改易。子信栄
     高野山に追放。』

 とあります。この1583は賎ケ嶽の戦いがあって、柴田勝家が敗死したときですが、この戦いで戦死
したのであろうという解釈になっていると思います。しかし〈甫庵信長記〉では天正10年

   『同十六日に佐久間右衛門尉、紀伊国熊野の奥にして病死せしむる由、注進申しければ、
   前非を宥しおぼされ惜しませ給いつつ、不便の次第なりと仰せあって、子息甚九郎早々免許
   せしむる条、・・・・』

 とこの佐久間右衛門に限って云えばもう亡くなっているのは確実で、賎ケ嶽の戦いに出る幕はないわけです。これは甫庵太閤記の「佐久間右衛門」と甫庵信長記の「佐久間右衛門」を同一視した結果です。
この紀伊国熊野で亡くなった人は信盛の子息の甚九郎であり、赦免されたのがその子信栄の甚九郎
でしょう。
ネット十津川探検〜十津川マップ〜によれば佐久間右衛門信盛の墓は大字武蔵の楠木正勝の墓の
後ろにあるといういうことですので、老臣の信盛は「正勝」ではないので、ここで亡くなったのではないということをを表わしていそうです。
 とにかく伴正林は正勝ですので、ここで乾助次郎として接近してきた人物、茶人の甚九郎に正勝
と史家が命名したのではないかと思われます。佐久間甚九郎ならば利休の意向を受けて村重との
調停に努力したとしてもありうる話でそれが後年の追放の大きな眼目とされたとみれると思います。
大茶人、利休の高弟には佐久間甚九郎と山上宗二があります。この二人が重なっているのではないか、
というのは先稿から一連した物語に「薩摩」というのがあつたという他愛ないところに飛びついたわけですが
、資料が発見されるのを待つというのはもう第二次大戦で全国的に焼かれてしまっている状態なので
流布、残っているものからここまでいえそうだというものを形作っておくことが重要だと思います。山上
宗二のおかげで珠光のことがわかっているそうで、腕はよいが秀吉に嫌われた世渡り下手の人物という
のでは何とも情けないことです。明智軍記の

      『佐久間右衛門・同甚九郎父子を大将にして』

 というのを三人として読むか、二人を表わしている、とみるうのか問題で、紛らわしさというのが佐久間
の叙述の特徴といえると思います。毛利との海戦

      『荒木摂津ノ守・佐久間右衛門ノ尉人数を出し、花隈・尼个崎辺の海上において、防戦し・・・』

 と二人接近していることも、甚九郎と村重の近しい関係を出していると思われます。
  
(9)佐久間信盛で著者の断面を語る
 佐久間信盛は太田牛一のある断面を示していることはすでに述べていますが、首巻で、上総介
殿に、「佐久間右衛門」が、織田安房守に守山の城を進上するように進言した、
    
    『今度の忠節に依って、●下飯田村屋斎軒分と申す知行百石、安房殿より佐久間右衛門に下し
    おかるるなり。』〈信長公記〉

 がありますが、●は脚注では「名古屋市北区下飯田町にあたる。そこに住した屋斎軒の土地」となって
います。下飯田村は北区であり山田荘などに近く、屋斎軒という固有名詞も何かよくわからない、この
「百石」は、鉄砲屋与四郎や伴(坂・塙)正林の「百石」に意識が繋がっている、すなわち受け継がれて
いるのかもしれないというときこの屋斎軒は著者しかわからない独自のものといえる、太田牛一というもの
を示すものかと勘ぐられます。
 この安房というのは佐久間が安房の出身ということで、考証の結果で知っていることのヒントを与えている
ひょっとして佐久間は「安房殿」と呼ばれていた織田一族待遇の人かもしれない、というようなことが
感じとられる妙な記事ですが、佐久間信盛が太田和泉を表わすということになると、補完の役割を
果たす一匹狼の名前が使用される可能性があります。〈明智軍記〉では早くから原田宗行という人物
が活躍します。原田は前田の前身のようでもありますが、
   「塙九郎左衛門」が「原田備中(備前)守」
 になっているので、これは信長公記などの塙九郎左 衛門に該当すると思われます。
 〈信長公記〉における塙氏

  塙(はのう)九郎左衛門または塙(ハノウ)九郎左衛門
    永禄十二年     戦場
    天正 二年     蘭麝待奉行
    天正 三年     戦場佐久間・柴田・丹羽と
    天正 三年     戦場                    
    天正 三年     戦場  御奉行

  原田備中 
   天正三年      戦場
   天正三年      戦場
   天正三年      普請
   天正四年      戦場
   天正四年      戦死
  
   天正八年戦場回想
   天正八年      戦死、回想                    

という何とも特徴のない登場となっています。佐久間右衛門尉の戦死を、原田備中守の戦死で語った
ということになっていそうです。
 塙は伴正林の「伴」「坂」に通ずる、佐久間の有力一族に保田(安田)があり、保田知宗の「宗」
は原田宗行などという「宗」であり、塙直政の「政」は佐久間の盛政、安政の「政」に通じ、ということで
佐久間氏と原田(前田)氏、塙氏は一族であり、太田牛一が佐久間に相乗りしていることから、あるいは
原田、塙にも乗っている感じで、それが伴ということではないかと思われます。
  佐久間信盛で気になる記事があるのでこれは何かのコメントが必要ではないかと思われます。
 テキスト補注によれば  

   『右衛門尉信盛は山崎城主。信長の奉行の一人(〈尾張田島文書〉)。永禄五年(1562)十月九日には
   右衛門尉である(〈尾張浅井文書〉)。その信盛には出羽介の時代がある(〈尾張田島文書〉)。
   出羽国(秋田県)は上国(〈延喜民部式〉)であるからその介は従六位上であり、右衛門尉も大尉
   なら従六位相当だから信盛は出羽介に昇任したのであろう。しかし出羽介は秋田城介を兼ねる
   例であり、信長の嫡男信忠もこれに任ぜられて、信長は祝福するのだから、信盛の場合は次官
   であろう。』

 がよくわかりません。織田信秀は「弾正忠」、信長は「上総介」、平手政秀が「中務丞」、織田右衛門尉
は「三位」などというのが主要文献に出ているものですが、信忠というのは
   「織田菅(勘)九郎」。「秋田城介」「(三位)中将」
であり、この「菅九郎」は
   「下方九郎左衛門」「塙九郎左衛門」「佐久間甚九郎」「菅谷九右衛門」の「九」の中にあり、信盛も
「秋田城介」ということであるとすると、佐久間信盛の表記が単純にいかないということを示すものと思われます。
佐久間信盛が織田の一族であるからこうなるのかもしれませんが、一方で太田和泉も出羽(簗田出羽守などある)で表記されるのでこの出羽はそのことも表わしているとも取れます。つまりこの出羽介は官位というものでなく表記といえるのではないかとも考えられます。
 佐久間信盛は太田和泉守が比定対象に入ってくるようになっています。
 〈甫庵信長記〉の最後の馬印で
        「信忠卿」「信雄卿」「三七殿」「秀吉卿」「佐久間右衛門尉信盛
        「丹羽五郎左衛門尉長秀」「柴田修理亮勝家」「滝川左近将監一益」
        「大和の太守筒井順慶」「佐々内蔵助」「河尻肥前守」「明智日向守
 などが出てきましたがこのうち既に太字の人の一部の行動が太田和泉守のものであることを述べ
ました。まだこういう拡大の余地がかなりあることが感じとれるところです。
 こうなれば御家人の任官もその気配が濃厚です。

  「羽柴筑前守、河尻肥前守、原田備前守、別喜右近、宮内卿法印、二位の法印、惟任日向守、
  惟住五郎左衛門、山岡美作守、森次郎左衛門、稲葉伊予守」

 任官の面々ですが太田和泉が便乗することもあると思われます。簗田出羽守も太田牛一といいまし
たが、例えば天正3年、簗田左衛門太郎は別喜右近となり加賀一国を領有しました。これは太田和泉が拝領したと思われるということなどになります。
 
     『爰にて領地配分し給う。加賀一国は別喜右近、・・・・』   

 そのほか「半兵衛」「官兵衛」「彦右衛門」「又右衛門」なども太田牛一を表すものが出てくるので、
もっと太田牛一とその周辺人物の一代記とう方向に収斂されてくると思われますが芭蕉においても
そういうことが認識されていたという例も次で探ってみたいと思います。

 荒木村重に絡んで、伴正林、田中与四郎、津田信澄、乾助次郎、徳川家康などが先稿、本稿の
あたりの主要文献で集約されて出てきました。とくに堺の茶人が荒木村重、徳川家康に接近して出てきました
ので後年の利休の行動などに荒木事件が影を落としているのではないかと思います。それは後年の
堺の南宗寺の伝承などにみられるものです。
ネット記事の「信長墓所・崇福寺」という見出しのものには、南宗寺には、荒木村重の墓や「利休一族」
「津田宗久」、「徳川家康」などの墓があるとのことで〈信長公記〉〈甫庵信長記〉のこのあたりの記事を
受けていると思います。
 また南宗寺にある次の伝承は、堺が〈信長公記〉〈甫庵信長記〉など文献の意をよく汲み取っていると
いうことを示しているといえると思います。
まとめをしてみると大体つぎのようなことをいってきました。

(10)まとめ
  1、織田右衛門尉という人物は五番目なので平手五郎右衛門として平手家に入ったということは
既述しましたがこの五郎右衛門の連れ合いというのは全く考慮の対象からはずしてしまっています。
右衛門尉というのは「佐久間右衛門尉信盛」のほうが有名です。つぎのような関係にあったとすると

平手五郎右衛門
    ‖ーーーーーーーーーー●平手助次郎(甚九郎A)
佐久間右衛門尉(甚九郎@)

この助次郎が乾助次郎で利休と特別な関係があって、その意思を汲んで和平の仲介役になったと考えら
れます。

  2、安土城の記事のでる前の毛利戦は佐久間右衛門尉が登場してきます。これはまなべ七五三
兵衛と同じく太田和泉守が登場しているということになると思います。つまり
    佐久間右衛門尉=太田和泉守
 ということで佐久間に便乗して自己を表わしたという用法になります。
同様に塙九郎左衛門も佐久間信盛であるとともに太田和泉守でもあるということだと思います。
ここから表記上太田和泉守は甚九郎の親のような恰好になってしまいますが、これが津田「宗及」
というものに影響を及ぼすのかもしれません。なお菅屋九右衛門はどうなるかも検討の必要がある
でしょう。

 3、利休は親子の重なりがあり、田中の千与四郎は、甫庵太閤記に引き継がれていくと思われます。
 〈信長公記〉の宗易は利休@と佐久間甚九郎を表わしていると考えられます。

 4、信長に追放された佐久間信盛こそ、この甚九郎ではないかと思われます。乾助次郎として仲介
をしたことも問題になったものと思われます。佐久間甚九郎は利久の高弟といわれる山上宗二でその
断片が語られたのではないかとも思われ、それなら今日の茶道の歴史の理解は甚九郎に依っている
といえる、その存在は大きいのではないかというのが結論です。「津田宗及@」なのかどうかも検討の余
地があると思われます。
                             以上
トップページへもどる