18、津田信澄

(1)木村と後藤 
 「後藤又兵衛」の本当の名前は「森又兵衛」でしょうが、なぜ「後藤」というのかよくわかりません。
養子に入ったのでその養家の名前であろうと考えるのが普通ですが、「木村又蔵」の「布施藤九郎」
「毛利藤九郎」「毛利新介」というものが出てきた以上、「後ろ」の「藤」ということで「後藤」にしたという
ことも考えられます。表記で語るという場合では、表現手段の巾を広げる意味で「名前」も動員され
       「名は体を表す」
 という言い伝えがある通り一応は考えるてみるべきかと思われます。その人物の属性についてヒント
が得られればしめたものです。黒田家に同じく「母里太平」という黒田武士の唄で知られる伝説的豪傑
がいます。福島正則から日本号の槍を呑み取りましたが、この槍がまた後藤又兵衛に渡ったという話に
なっています。この「母里太平」という人物はなぜか「毛利但馬」という名前でも出てきます。すなわち改名
したということでしょうが、「母里」は「毛利」「森」かもしれないわけです。黒田家家臣名簿に「母里」という
人物がいて「森又兵衛」の豪勇を表すために動員されたということもありうるかもしれません。
 「又兵衛」というのも通称のような感じですから正式の呼び名があるはずです。これは「隠岐守」というよう
ですが、「又兵衛」の方が「又助」「又蔵」に連想でつながるのでより体を表します。隠岐というのも明智
光秀旗下の人にその名前があります。
 ただ江北佐々木家の有力家老の「後藤家」というのが、少し気になります。〈吾妻鏡〉では「後藤兵衛
尉基清」などというように「後藤又兵衛基次」と同じように「基」のついた名の人が多く登場します。

    『去る永禄六年に(佐々木)承禎嫡子右衛門督義粥(米は百)、事の仔細あって、後藤但馬守
    その子又三郎に腹を切らせけるに、宗徒の人々皆後藤が一族あるいは厚恩の者ども多かり
    ければ、・・・・』〈甫庵信長記〉

 「又三郎」というのは、「又助」と「弥三郎」の合成と思われ、やはり足跡がここにあったのでしょう。
ここに養子に入っていたとすれば、「後藤」という苗字は生かさねばならないから、逆に藤九郎の
名前の設定を、後藤からもってきたということもいえるかもしれません。「布施」は「伏せ」だから、
        「□□藤九郎」
 としたかったと疑えるものです。とにかく木村又蔵と後藤又兵衛は講談では、協力して亀甲戦車を発明して
戦果を挙げていますが、加藤清正の家臣、飯田覚兵衛もこの戦車に関わっているようで、これも引きたて
役になっているのかもしれません。「飯田町」というのが太田牛一に関係していそうです。とにかくここの
「又三郎」というのが、太田牛一を「後藤」姓に結びつける役割を果たしているだけなのか、実体の話なのか
迷うところですが、大抵の場合、両方掛かっているというのが正解のようです。
 桶狭間の戦いのとき江州佐々木が援軍を送り、「前田左馬介兼利・乾兵庫介定教・織田大隈守信広・
同四郎次郎」が加勢に駆けつけたという記事(三河後風土記)がありますのでこれを無視することはできません。
 江州佐々木家が、家全体として織田に援軍を送ることはありえないので、とりあえず、佐々木
の家中に親戚がいて了解を取り付けて加勢にやってきたというのが、妥当なところでしょう。
 桶狭間の、ここは

   『織田造酒丞・・・・・・・・・池田勝三郎併江州前田左馬介兼利・乾兵庫介定教・織田大隈守
   信広・同四郎次郎等を先として、我おとらじとして・・・・』〈三河後風土記正説〉
 
 というようになっていて、太字の二人が加勢と考えられます。「前田」は「塙」、「乾」も「伴」につながるので
太田牛一の一族の人が佐々木の家中にいて、例えば「又兵衛」も応援に出てきたということではないかと
思います。
 ただこの織田姓の人二人は「江州」に掛かるのかどうかもはっきりせず、付けたりのような感じもしますので
何かいいたいのかもしれません。
 「織田大隈守信広」は「津田大隈守信広」でもありますが、「三郎五郎」ともいうようで、次の四郎次郎を引き
出す役目をあたえとも考えられます。つまり織田信秀の兄弟(信長の伯父)は
     (信秀)ーー信康ーー信光ーー信実ーー信次(右衛門尉とされる)
 ですが〈信長公記〉の記事は
     (織田備後守)ーー織田与二郎ーー織田孫三郎ーー織田四郎次郎ーー右衛門尉
 となっていました。「織田造酒丞」と「内藤勝介」が、この四郎次郎のあとに出てきましたので四郎
次郎がこの二人に該当するということを前にいいましたが、「信房」と「信実」、「勝介」と「池田の勝」の対比
をしたかったのではないかと思います。どこかに「信房」=「信実」という資料があればこれが証明され
ることにと思います。
 余談になりましたが「津田」という人も出てきて、前田は塙、乾はここの助次郎につながりそうで重要
と思います。
 木村又蔵というのは、前稿で触れた範囲内ではやや消化不良で、このままで置いておけば「太田
又介」のように幼名と思わせる段階で止まってしまいますが、大人になっても「又蔵」が使われている、
また大名にもなりうる人物なので別名があるのではないか、ということが当然疑問となって出てきます。
 すなわち先稿では「木村常陸介と木村又蔵が連れ合いである」という立場で述べてきましたが、
これは前提がいらないという面で直接的で、簡単な方の結論です。
 しかし木村常陸介=木村又蔵とすると今度はもう一人、この連れ合いという人物を探さねばならない
ということになってくるので、それに津田信澄が絡んでくるかもしれないというのが本稿の話です。

(2)もう一人の坊丸
 このように名前というもので関係人物を辿れるというものがあると思われますが、もう一人の「坊丸」とも
いうべき人物が「伴正林」の近くで出てくるということが少し引っ掛かるところです。伴正林という人物は
重要な役割をもって出てきました。「鉄砲屋与四郎」や「乾助次郎」などはこのあたりだけに出てくる完全
な一匹狼の名前であり、誰かを暗示していることが明らかで、いままでで木村又蔵と千利久が出てきました。
 表記を辿って読んでもらおうという工夫がしてあるものでは、わずかの一致も一応は頭に入れておか
ねばならないものです。
 例えば「坊丸」というのが他で出てきたら、本能寺の「坊丸」が思い出され、当時そういう名前をつけて
いたのだろう、ということで終わってしまいます。これは問題で
        「津田(織田)信澄」
 も「坊丸」という名前でしたから、ひょっとして本能寺の「坊丸」と関係付けられていると思って一旦は
立ち止まってみることも必要だと思います。ここでは両者を出来るだけ関係づけて探ってみたいと思います。
 織田信澄は余り知られていませんので、テキスト人名注をはじめに引用します。

   『織田信澄(〜1582) 信長の弟信行の子。幼名坊丸七兵衛、永禄七年(1567)元服して
    津田を称した。天正六年(1578)近江大溝(滋賀県高島郡高島町内)城主。天正二年、信長
    の命令で明智光秀の女婿となった。織田信孝に従って四国征伐に赴こうとして、大坂城にいた
    時、本能寺の変が勃発。光秀の縁者であったため信孝に殺された。』〈信長公記角川文庫〉

 とにかく死亡年だけ判っているだけで、年齢の見当もつきません。親の信行を調べて推測してみる
しかありません。

   『織田信行(〜1557) 勘十郎、武蔵守。信秀の子。尾張末盛城主。兄信長に反逆を謀り、弘治
    三年(1557)正月清須城で殺された。』テキスト人名注

 信行は1557に殺されました。このときの信長の年は23歳くらいですから、20歳くらいで亡くなった
と思われます。まあこの年生まれたと仮定しますと、信澄は、殺された本能寺の年では、25歳くらいと
なります。この信行の名前はネットによれば、「信勝」もあるようです。ひょっとして兄弟や連れ合いが
いてそれが「勝」という名の筋の人かもしれませんが、、そんことは取り上げようとされてもいないといえる
と思います。要は、いまは夫人もわからない状態です。
 都築蔵人(津々木蔵、津々木蔵人)が、柴田権六より重用されたことも書いてあるのにこれもそんな
人がいたのだろう、というようになっているのか、ネットで見てもこの人物はよくわかりません。

   『勘十郎より柴田権六・津々木蔵人大将として、木が崎口をとり寄るなり。』
   『勘十郎殿若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍共は、皆津々木に付けられ候。』
   『勘十郎殿・柴田権六・津々木蔵墨衣にて、御袋様同道候て、清洲において御礼あり。』
                                                     〈信長公記〉
 などあって重要人物ですが、一匹狼くさい名前です。一方、これ以前の葬儀のときなどは

   『御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・長谷川・山田以下御供なり。』
   『末盛の城勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門、此の外歴々相添え御譲りなり。』
                                                 いずれも〈信長公記〉
 というのもあります。つまり柴田と佐久間が信行の両翼です。勘十郎を取り巻く人は前後これだけしか
ないのに、ここでは都築が出てきていません。
この「長谷川・山田」はインチキくさく、柴田、佐久間が信行車の両輪であることは明らかですから、この
「佐久間」が「津々木」といっている、つまり「都築」は「佐久間」の家の人といってるのではないか、「信澄」
は「佐久間」と関係が深いのではないか、ということが一応考えられます。ここの佐久間大学という人は
桶狭間で丸根砦を守って戦死しますので、あと将来的には、
         「佐久間次右衛門」
 という人が関係してきそうだという感じがします。
 このはじめのテキスト人名注からは
    「坊丸」は「本能寺坊丸」とつながるか、
    なぜ七兵衛となっているか、
    「津田」は自称か、元服時にかわったのか
 という名前に対する疑問が出てきます。また「近江高島郡」「明智光秀婿」「大坂城」「本能寺のとき死」
というのが「信澄」の重要属性として出てきました。いまこれに
    佐久間に近いのではないか、
 という疑問を呈示したわけです。一方勘十郎の「勘」は傍系、「十郎」は、「太郎」、「九郎」のような漠然
とした意味かもしれない、それなら信長が「三郎」というから、ひょっとして「次郎」かもしれない、というのも出
てくるところです。また織田孫三郎の死のあと守山城をひきついだ人を「孫十郎」というようだから、「孫三郎」
関係の人ではないかというのも感じられることです。
 津田信澄が登場してくるところは、田中の貞安が活躍した安土宗門論争の場面で、

    『寺中御警固として織田七兵衛信澄・菅屋久右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹
     五人仰せ付けらる。』

 警固責任者として出てきます。また荒木久右衛門ら歴々が伊丹城を出て尼崎へ行こうとしたときの
伊丹城にいて

    『織田七兵衛信澄、伊丹城中御警固として御人数入れ置かれ・・・・』
 
 として、これも警固役として出てきて荒木事件顛末の目撃者という恰好になっています。
このあたりで顔を出す「津田」というのも気になるところで、〈信長公記〉天正七年

    『七月十六日、家康公・・・坂井左衛門尉・・・・坂井左衛門尉・・・』  
    『七月十九日、津田与八・玄以・赤座七郎右衛門・・・井戸才介・・・深尾和泉・・・』
    『七月十九日惟任日向守・・・・・惟任』

 として日は飛んでいるが連続しているこのときの登場人物はお互いに関係が深いので接触させら
れていると思います。
     
       酒井左衛門尉と惟任日向守

 に挟まれて「津田与八」「玄以」「赤座七郎左衛門」というのが出ています。この「津田与八」に
ついてはテキスト人名注では『織田大炊助』という人物に宛てられ

   『織田大炊助   与八郎。与一(〈群書類従本織田系図〉)。柘植大炊助だが、津田氏をも称
   したのであろう。』

 「柘植玄番頭」という人が桶狭間の丹下砦の将の一人として出てきますが、先稿の伴十左衛門も出て
おり、「この柘植氏は織田氏の支族」とされています。
 この人名注は「与八郎」となっており、与一と訂正されている感じで「津田氏」かどうかもわからない
といえます。〈武功夜話〉では、天正三年、堺町屋衆として
 「今井彦八郎(ルビ=宗久)」と「千与四郎(ルビ=宗易)」が併記されて出てきます。
 「今井宗久」はネットから得た知識では「彦八郎」「彦右衛門」「納屋」「昨夢斎」「大蔵卿法印」
といわれますが、なぜ、「八郎」というのか疑問です。〈武功夜話〉が〈信長公記〉の解説をしているという
側面があるとすると、ここの「津田与八」というのは、この彦八郎の記事と引っ掛かりがあるかもしれません。
「津田」というのは、織田氏の別称でもありますが、堺の茶人にもそういう人がいます。
    津田宗達ーーー津田宗及ーーー津田宗凡
    津田宗柏ーーー津田宗閑
 などです。要は天王寺屋三代とそれを取り巻く一族の面々です。
  津田信澄はややこしいことに織田信澄でも出てきました。つまり織田一族の「津田」と堺の津田
一族の「津田」の両方を名をもっているので注意せねばならないとは思いますが、一方織田衆は全部
といってよいほど「津田」姓を持っています。
 例えばテキスト脚注によれば

       『津田大隈守  →  織田信広
       津田源三郎   →  織田勝長
       津田三郎五郎 →   織田信広
       津田七兵衛   →  織田信澄
       津田太郎左衛門 →  織田信張
       津田信広     →  織田信広
       津田半左衛門 → 織田秀成
       津田孫十郎  →  織田信次
       津田又十郎  →  織田長利
       津田与八   →  織田大炊助 』

 のようになっており、このややこしいのは何かということが問題となってきます。まあ本人たちが自発的
に「織田」という姓を「津田」という名前に変えたということはおそらくないでしょう。〈甫庵信長記〉では
「津田」については
       平氏の女子が「近江国津田という云う所へ落ち」た、
       越前織田庄の神主が、ここの津田庄から子を貰った、
       越前織田庄から出てきたので、越前国を討ち従えてのち織田大明神を修造した
       信長卿が“貴族織田”と称せんことを憚って津田と名乗った
など書いています。テキスト脚注では
    「織田氏の先祖は津田氏を称したといい、織田氏と津田氏は深い関係があろう。」
 とされています。よくわからないのが実情ですが、ただ織田大隈守という信長の兄ともいうべき人は
     「津田大隈守」
とされたときに表敬語が消えているというのが〈戦国〉でも触れているところで、信長公は旧織田の一門
を臣籍に落としたということで説明しています。これはもう一つ、著作の都合もあるのかということが
気になってきます。とにかく

    『武衛の先祖、越前尾張遠江を領せられしに』〈甫庵信長記〉

 とあるように越前が織田の本拠で、太田牛一の「太田」などの地名が、ここでよく取り上げられているのは
このためだと思います。「遠江」もそうだったことは重要なことかもしれません。
 ここの「津田与八」は上の考証によれば「織田大炊助」とされるので、それでないといけないような気持
ちになりますが、これは彦八郎である「今井宗久」を指している、それと関連して「津田信澄」が出てきた
とも考えられます。
 またここに出てきた「玄以」は 「前田玄以」ですがこの人物は秀吉の五奉行の筆頭です。前田の一族で
はあるようですが、それなら前田=原田=伴の暗示でここに出てきたとも考えられます。また玄以は丹波亀山
五万石の領主であり、秀次事件のときに、この場所が囚人を預かったことで出てくる、つれて前田徳善院
として玄以もこの事件に顔を出します。
 玄以は「信澄」と関係がある人物かもしれません。信澄は「信重」ともいい、玄以が擁護した信忠
の遺児である三法師という人が、名前で「信重」というのもあるようで、二人を重ねたりしていますので
油断ができません。
 もう一人 「赤座七郎右衛門」は津田宗及ら茶人と関係が深い人物のようで、テキスト人名注では

   『赤座永兼(〜1582)斎藤竜興の旧臣(〈当代記〉)というが、越前(福井県)から尾張の赤座氏
   (〈尾張志〉)の養子になり、織田伊勢守信安の女を娶った(〈続群書類従本織田系図〉)。本能寺の変
   で信忠に従い戦死。〈南條郡志〉、赤座七郎右衛門入道紹意(〈津田宗及自会記〉天正三年五月
   十三日條)。』

 と書かれています。これは「野村越中」の出てきたときにも顔を出しており(既述)、明智光秀の登場を告げる
役目を果たしています。ここでも「井戸才助」「深尾和泉」と接近して出てきて二人は明智の人である
ことを知らせる役目をもって出てきています。それは本能寺で「赤座七郎右衛門」という表記が消されたこと
でも窺えます。ただこの人物が「津田宗及」にも接近がみられるのは重要です。
 要は津田信澄というのは、伴正林、今井宗久(津田与八)、千利休、津田宗久、などと出てきて、明智色濃厚
、秀次事件に関係がありそうというのがいいたいことです。

(3)織田信重
 織田信澄は〈信長公記〉では本能寺の戦いの前、惟住五郎左衛門と二人、家康の案内をして「大坂
へ参着」したという記事で出番が終わっています。このとき同行した五郎左衛門は〈当代記〉では
    『丹場{◎羽カ}五郎左衛門』
 となっていて太田和泉の五郎左衛門ではないようです。
ここで織田信澄について述べるにあたりもう少しくわしいネット記事を引用させていただきます。
〈s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m259〉からです。

     『織田信澄(おだのぶずみ)1558〜1582(6月5日)』
     ●この資料は重修譜、宗及記、信長公記、多聞院などの文書を参考に繋ぎ合わせた
     ものです。
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     幼名:  ▲坊丸。姓は津田を称す。諱は初め▼信重といった(安土城考古博物館編)』

 このはじめの部分がとくに重要です。●は、このように各書を合成して一つのものを作ってゆくことが
辛気臭いことですが必要不可欠のことです。事実関係を知るという意味で繋ぎ合わせるというだけで
なく表記をも考えて繋ぎ合わせることが要ります。▲は「蘭丸・坊丸・力丸」の「坊丸」ということですから
表記の一致で重要です。蘭奢待奉行のところで
      『重奉行  津田坊』〈信長公記〉
とあり、これが信澄のこととされています。〈甫庵〉には「津田坊」が載っておらず、太田牛一が「坊」
を入れたと思われます。「坊丸」といっているのかどうかはわかりませんが伴正林(二番目)の「坊」と
の関連をいったともとれます。
 ▼の名前が妙なところで出てくるので、あとで探らなければならないと思います。信澄がネットでは▼
のところ信重といったと書かれています。これも「重」です。すなわち「坊丸」であり且つ「信重」ということ
です。「信重」というのは、もちろん織田信行(信勝)の「信」、佐久間信盛の「信」があり、明智重政の
「重」、木村常陸介の「重」、木村重成の「重」があります。ここでは信澄が「坊丸」「信重」という名も持って
いたということを記憶しておく必要があると思います。信澄の登場の場合が相撲、安土宗論、村重陣
などで、先稿の部分に登場していますので、利休、伴正林に関係深いということがわかります。

 (4)明智光秀の婿    
     『(〈ネット記事〉つづき) 事績
     信長が誅殺した、弟信勝(信行)の子、即ち、信長の甥である。妻は明智光秀の娘。父が
     謀殺された後、■柴田勝家のもとで養育されたという(重修譜)。後、浅井の降将で高島郡
     新庄に封じられた磯野員昌の養嗣子とされると〈浅井三代記〉〈丹羽家譜伝〉等にあるが
     磯野の出奔以前の天正4年1月現代、信澄は高島郡に居ることが〈兼見〉で確かめられる
     から、その説は信じられそうである。』

 ここにあるように信澄は明智光秀の娘婿として知られています。ここで下線■が今となれば重要
です。すなわち柴田勝家は明智光秀・太田牛一に変わるわけです。
したがって、ここは織田信行暗殺に一役買った太田牛一に養われた、その子を妻としたというように
変えられると思います。これは〈前著〉の段階で触れていますが、木村重成の父は豊臣秀次の重臣
木村常陸介という話がありました。木村又蔵と常陸介が夫婦であった場合は、重成は両方の子と
いえますので 〈前稿〉では、仮にこの立場から結論を出しています。しかし〈武功夜話〉を見る限りでは
明らかに木村又蔵=木村常陸介であると思われるのです。それは木村常陸介の登場回数が多く、
かつ具体的活動や心情などが述べられているのでわかります。
早くから出てきていて例えば天正五年十月の記事、羽柴秀長大将のもと

   『付将、前野将右衛門(ルビ=長康)・・・・藤堂与右衛門(ルビ=高虎) 木村常陸介(ルビ=重茲)』

 のように大将の中に交ぜって従軍の記事があります。播州陣軍議

   『羽柴筑前守、羽柴小一郎、浅野弥兵衛、前野将右衛門尉、蜂須賀彦右衛門尉、杉原孫兵衛
    ・・・・・・・・加藤作内尉、木村常陸介・・・・藤堂与右衛門、竹中半兵衛、右大方の面々に候。』

 のように出ています。誉め言葉もあります。

   『小一郎殿の幕下の猛将、宮部善祥坊、青木官兵衛尉、藤堂与右衛門、宮田喜八郎・堀尾
   茂助、木村常陸介、生駒甚助等当千の武者輩に候。』

 特別取り上げたものの一つ

   『小一郎殿、木村常陸介に但州の儀、我等一命に替え相守るべき申す旨言い含めなされ候。
    日夜の心痛限りなく候。』

天正元年ころは「木村隼人介(ルビ重茲)」もあり「木村常陸介(ルビ重茲)」が兵庫県「養父郡三方の城」
を守っていたなどのことがあります。これに反し「木村又蔵」は、天正六年

  『羽柴殿石山方と取り合い根来の法師小蜜茶は木村又蔵討ち取る。』

  『石山方の先陣は根来寺小蜜茶、鈴木孫市、志摩与四郎・・・・・・秀吉殿御馬廻り衆加藤虎之助
   、木村又蔵、脇坂甚内、福島市松、片桐助作、秀吉殿御馬前にて息も継がずに相戦うところ、
   根来小蜜茶に勇気あたりがたく羽柴の備え打ち崩れ一まず退き候由にて候。後物語に候。根来
   小蜜茶壱騎討ち候は、木村又蔵殿小蜜茶と渡り合い頭取り候第一の高名と承りまする。』


  『天正寅の年・・・・勇猛の小蜜茶楯近くまで馬を寄せ来るところ、木村又蔵殿討ち取り候由。』

 とあり、この小蜜茶を討ったことの記事にしか出てきません。ここで重要なのは、繰り返しよく述べて
ることと、その位置のことです。加藤清正はのちの主人だから上に戴いて表記されていますが
のちの大名と並列表記されています。「木村又蔵」という表記が少し幼いので、重要人物(つまり木村
常陸介)の断面を述べたものであろうという感じがします。次に出てくることが、その証拠となるのでは
ないかと思います。
同じく天正六年の小蜜茶を討つ少し前の記事です。少し長く詰まらないような記事ですが全文転載
します。
     
    『羽柴秀吉播州陣陣立ての事
    一、先頭生駒甚助。御旗押し立て堀尾小太郎、鉄砲隊足軽三百有余挺、前後の備え騎馬
    山内猪右衛門、一柳市助、尾藤甚右衛門、一柳小兵衛、同兵助、木村常陸介殿
    弐番弓隊浅野弥兵衛、堀久太郎、杉浦七左衛門、林孫五郎等三百、鑓隊藤堂与右衛門、
    中村孫平次、神子田半左、戸田三郎四郎、同彦八郎、大崎藤蔵等五百有余の長柄備え、
    御大将羽柴秀吉殿羽柴小一郎殿、軍監前野将右衛門尉、竹中半兵衛尉、同久作、
    御馬廻衆加藤虎之助、木村又蔵、脇坂甚内、大谷平馬、福島市松、仙石権兵衛、加藤勝八
    郎、多賀又蔵等屈強の面々にて候。
    後備えは、蜂須賀彦右衛門尉、稲田大炊、同又十郎、同小一郎両名、物見役前後の備え
    に候。』

 ここで木村常陸介は「殿」付きとなりました。木村常陸介の前は「一柳」ですから、あの秀次事件と
関係があります。また大崎藤蔵は事件のとき常陸介に殉死しようとした人物でしょう。のち福島家家老
として脚光をあびた大崎氏と思われ、「藤蔵」は「又蔵」に似せて「藤」をもってきたと思われます。
 この「木村常陸介殿」というものが太田牛一かもしれませんが、この内訳が「木村又蔵」という表記だった
とも思われます。そのまま読んでいくと堀久太郎にもつきあたりますが、最後「多賀又蔵」で「又蔵」を出して
きたのでとにかく
      木村又蔵=木村常陸介=堀久太郎
を示していると思います。
両者は併記してあるが同一人であり、この手法はあとで出てくると思います。併記されていて、誰か
を指すために出てくる人物は長谷川与次の例がありましたし信長公記の明智十兵衛が野村越中を
指し示すために出てきました。
 木村常陸介、木村又蔵について特別に注目せねばならないのは、今、〈信長公記〉で重要な場面で
でてくる木村次郎左衛門などの木村氏についてなにもわかっていないので、太田牛一の別名かも
しれないということで表記を追っかけているわけです。確実なことがわからない以上は、わからないままで
おいてあるというのは、日本の文献の連動性に着目されていないからで、いろんな挿話があるのは主要
文献の部分的解説がなされているということがあります。
  木村常陸介は重茲、木村長門守は重成で「重」が、「木村」についています。太田和泉は木村
次郎左衛門であろうというのはもう〈戦国〉で「重」とか関係なく出てきています。明智(森)重政という
のが、太田和泉で出てくると木村二郎左衛門の「木村」は「森」という字のくずしということでも出てくる
、現に〈戦国〉でも述べている「森次郎左衛門」が同じ場面で登場するわけです。。
 木村又蔵の「木村」と木村次郎左衛門の「木村」、木村又蔵には「正勝」という名がありますが木村
次郎左衛門にはその名がなく、その「正」とつながりがある「重正」が入るのでしょう。、
 太田又介の「又」は、木村又蔵の「又」と同じ字であり、あらかわ蔵・与十郎兄弟の「又」と、同じ
であり、「木村又蔵」と「あらかわ熊蔵」は大坂城で鉢合わせとなった、というような偶然とはいいにく
ものがあるので、ずばり言ったり、書いたりできないのであれば、ぼかしたり間接に言ったり書いたり
するしかない、しかし集積されると反論しにくいところまで行ってしまう、それが狙いとなっています。
 太田牛一が桶狭間に合戦に参加したのかどうかは桶狭間記述の解釈に重大な影響を与えることは
いうまでもありません。また体験談しか書かないという暗黙の合意があるかもしれないということで(例えば
日記が元となっているというような)重要なことでもあると思います。いまこんなことは論議されていません。
これは桶狭間の記事に「太田又助」なる表記の人物がいないということでそうなっているのです。太田牛一
を表わすとされる「太田又助」なる表記は信長公記で三回しか出てきません。なお各巻に
      「太田和泉(守)これを綴る」
 という文言が入っているので、太田和泉牛一が著者であることはこれでわかりますが、〈信長公記〉には
    太田和泉守=太田又助
 というものを表わすものはありません。〈甫庵信長記〉でも同じです。〈信長公記〉では信長は「上総介公」
として主語にもなっていますが、これは「織田上総介信長」という表記が〈信長公記〉にあるから「上総介公」
は織田信長ととってもよい、すなわち事実だということになってきます。しかるに脇を固めた結果、それは
「事実なんだろう」というものが出てくる、それも事実となっている場合が多いのです。「太田又助」が
確実に「太田牛一」とされる根拠もそのようなもので他の文書から持ってきているのです。〈古事記〉
は推古天皇の簡単な記述のところで終わっていますが少し前のところで
      「上の宮の厩戸の豊聡耳(とよとみみ)の命」
 という聖徳太子らしい人物が出てきます。これは聖徳太子と脚注されていて、いま誰も疑問に思う人は
いません。しかし古事記にはこれがあの聖徳太子であるということは書いていない、日本書紀などで
そういえるということです。これは〈日本書紀〉にも太安万侶が参画したということであれば確実です
から、その証拠となるものの一つと思いますが現実は二つが同一人の手に成るものということは認められ
ていないのでこれも状況証拠にすぎないものです。
 〈信長公記〉では太田孫左衛門という人物が出てきますが、これは〈武功夜話〉に
         「太田孫右衛門(ルビ=太田牛一)」
 というのが出てきますから確実に「太田和泉」「太田牛一」のこととしてよいはずですがそうなっていま
せん。「右」と「左」が違うではないかということになりますが、いまでは〈信長公記〉にある
     「市橋九郎右衛門」と「市橋九郎左衛門」
 という人物は同じ人物として何の疑問ももたれていないのですから、孫右衛門は孫左衛門で問題ない
はずです。
「太田孫左衛門」も「太田又助」として拡大されていかねばならないものですが〈武功夜話〉の資料
評価の問題となるのでこれは認めないということなのでしょうか。それはおかしい、江戸はじめの人が入れた
ルビですから、現在の人はそれを無視できないと思います。
 小野妹子は蘇因、安倍仲麻呂は朝衡、藤原仲麻呂は恵美押勝、安達景盛は秋田城介、関白秀吉
は博陸公、★塙九郎左衛門は原田備中守、岩見重太郎は薄田隼人、釈超空は折口信夫・・・・
 法隆寺は斑鳩寺、三井寺は園城寺、毛越寺は円隆寺・・・・・
など似ても似つかない名前を使って同一人、同一物として通してきています。小野妹子などこういう名前なら、
同時代の聖徳太子もこれふうの名があるかもしれません。
★塙九郎左衛門が原田備中守などというのは〈信長公記〉には載っておらず、頼りない、偽書的といわれる
〈甫庵信長記〉に出ていることです。明智十兵衛は野村越中、太田牛一は狩野又九郎で出てきてもおかしくは
ないのです。別表記だが、その場面ではこうとしかとれないというようなものは、一応そう読んでおくと
まず間違いはないようです。あとでヒントが出てくることが多く、また「九郎」などの諸口的なものは前後の
関係でこうだとその場で決められることが多いのです。
 例えば「狩野又九郎」という「誰か」がそうしたといっているわけで、「又」が付いている、「二位法印」と
対で出てきて、それが重要な使者の役目をしているのですから「太田和泉」として、引き当てせざるをえない
わけです。まして〈常山奇談〉では

   『丸毛兵庫が弟春日九兵衛、大坂より大垣に到り、諸将の内に二タ心有る人の候。陣所の有様
   必定(ひつじょう)味方敗北すべし。陣替えせられよ、と三成にすすむれども是を用いず。果たして
   破れたり。』
 
 という一節があり、「春日九兵衛」という得体の知れない名将が出てきて三成に諌言しています。丸
毛兵庫は戦国物語では武井夕庵ですが、そのの弟ですから、太田和泉しかいません。関ケ原ではまだ
元気一杯で、いうとおりやれば勝てたかもしれないといっているようです。これは「春日」「春」とともに
「九」も太田和泉で使われるということを示しているものです。「又九郎」を意識したものかどうかは別にして
「九」は太田和泉を思い浮かべてもよいわけです。
 直接的でなく遠まわしに、間接的に述べることによって事実はこうだといっていくので、まどろこしい
のは仕方がないことですが、現在、民主主義といわれている時代においても、それはなくなっておらず、
むしろ増えているといってもよいかと思います。子供には、自分の思っていることをハッキリ、論理的に
のべられるように教育していかねばならない、といいながら大人の世界は、あいまいな表現、詭弁が
横行しています。

      『(ネット記事つづき) 確野とは関係なく、その後、信澄は信長側近、あるいは武将の一人
     として活躍する。
      天正二年(1574)2月3日、信長の茶会に出席し「御通役」を勤めているのがその初見である
     〈宗及記〉。同年3月27日、東大寺の蘭奢待切り取りの時の奉行の一人〈信長公記〉。同3
     年9月25日、吉田兼和を馳走し、信長に取り次ぐ〈兼見〉。武将としては同年8月、越前の
     一向一揆討伐戦に参加。柴田勝家・丹羽長秀とともに鳥羽城を破って、5〜6百人の一揆
     を斬った〈信長公記〉。同4年1月には、丹波攻めの明智光秀を赴援している〈兼見〉。

     同6年2月、突然磯野員昌が出奔し、信澄はその跡地を宛行われ、大溝城主となった〈信長
     公記〉。〈不及記〉同9年6月3日条には、高島郡の土豪多胡左近兵衛を「御内衆」としている
     、高島郡の一職支配権を委ねられたのであろう。』

 ここでは「津田宗及」に接近していることが、「津田」という姓から関わりがあるのではないか、とも
勘ぐられるところです。ここの下線の部分も明智光秀・太田牛一かもしれません。蘭麝待の奉行では
特別「重奉行」の「津田坊」で出てきます。

   『御奉行  塙九郎左衛門・菅屋九右衛門・佐久間右衛門・柴田修理丹羽五郎左衛門
   蜂屋兵庫頭・荒木摂津守・夕庵・友閑
    重奉行  津田坊、 以上、 』〈信長公記〉

 となっており十人となっています。太字の人物が〈甫庵信長記〉になく甫庵は「六人」と書いています。
したがってここは問題の箇所ですが、この「重奉行」の「重」が重複の意味があるのかも問題です。
〈信長公記〉は津田信澄と「塙一族(塙・菅谷・佐久間)」「明智一族(柴田・丹羽・蜂屋・夕庵)」「荒木」
をつなげようとしたようでもあります。「友閑」は堺衆が連想されます。とくにはじめの三人は「佐久間甚九郎
=佐久間右衛門」と考えられるので「九」というあいまいなものになっているものです。またここにある
高島郡は信澄の重要な属性です。
      ネット記事つづき
      『その後、信忠に従い大坂、播磨、摂津等へ出陣。織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍
      した〈信長公記〉。だがその間、相撲会の奉行を務めたり、信長の津田宗及訪問に供奉
      したり、側近としての役割も引き続き務めている〈信長公記・宗及記〉。特に同7年5月27
      日の安土宗論の時は、警固担当の一人であった(〈信長公記〉)。』〈ネット記事〉

 「信忠」は菅九郎ではじめの「塙」など三人の「九」と関係が深いようです。織田造酒丞の子が「菅谷
」で、造酒丞が「信忠」元服のときに立ち会っています。ここで「相撲」「安土宗論」が出てきたのも
重要かと思います。要は津田信澄は「伴」「利休」「荒木」に関係している場所に出没しています。
、とくにまた「津田宗及」が出てきたことはやはり重要ではないかと思います。「友閑」が「利休」「宗及」
を信澄につなげようとしているのかもしれません。

(5)大坂の司令官
       (つづき)
      『また、同8年8月、本願寺退城に際しては、大坂へ下向した〈兼見〉。この時は、検視を
      務めたのは★矢部家定なので、信澄は警固の方面を受け持ったのであろうか。以後、大坂
      に常駐。キリスト教宣教師は、彼を「大坂の司令官」と呼んでいる。

       同9年2月28日の馬揃えでは、信忠・信雄・信包・信孝に続いて馬乗十騎を率いて行進
      〈信長公記〉。この五人が連枝の中でも特別扱いを受けており、信澄は、信長一門衆の中
      で五番目の存在であった。

       同年5月10日、槇尾寺焼き討ちを行った一人。9月には伊賀攻めに従軍。翌10年の武田
      攻めの時は、信忠に属さず、信長に従って後から出張したらしい(〈信長公記〉)。』〈ネット記事〉

 信澄が「大坂の司令官」と呼ばれていたことが重要です。大坂の司令官ともなれば連枝の中から
選ばれたのは当然のことであろうと思われます。ここで基本的な疑問が出されています。★と一時的に
重なったという印象を受けられたのでこの記事があるのだろうと思います。

(6)七兵衛
 ★の矢部善七郎の登場回数が多いのです。16回もあって布施藤九郎より多いのです。これは誰か
ということで悩むところですが、上の下線のところで矢部善七郎と織田信澄がすこし行き違っています
のでひょっとして矢部善七郎は信澄の行動を映しているのかもしれないというのが出てきます。もちろ
ん目の付け所は「織田兵衛信澄」と「矢部善郎」という「七」にあります。織田信澄の行動をもっと
大きく表現するためにもう一つの表記を持ち出してきたのではないかという疑問です。
 矢部は天正五年突如として出てきます。以下〈信長公記〉における「矢部」の登場です。

  @天正五年  『御奉行矢部善七郎・福富平左衛門仰せ付けられ、』

  A天正六年  『御酌、矢部善七郎・大津伝十郎・大塚又一・青山虎。』

  B同       『・・・・長谷川竹・矢部善七郎・菅屋九右衛門・万見仙千代・祝弥三郎、・・』

  C天正七年   『菅屋九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹、此れ等御使い・・・』

  D同       『織田七兵衛信澄・菅屋九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹五人』

  E同       『矢部善七郎御検使にて、』

  F天正八年   『矢部善七郎御検使にて、』

  G同        『矢部善七郎遣わさる。』

  H同        『矢部善七郎御番のかわり村井作右衛門当番なり。』

  I同        『大坂請け取り申さるる御検使、矢部善七郎。』

  J天正九年   『御番手城代として矢部善七郎・猪子兵介・・・・』

  K天正十年   『菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹・矢部善七郎・御小姓衆・・・』

  L同       『矢部善七郎仰せ付けられ、』

  M同       『織田七兵衛信澄・菅屋九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹・・・』

  N同       『矢部善七郎・森乱両人御使い・・・』

  O同       『菅屋九右衛門・矢部善七郎・福富平左衛門・長谷川竹・堀久太郎、五人奉行』

 これで織田七兵衛信澄はDとMがあるため「矢部家定」と別人でなければならないということになって
しまいます。しかしDとMにおいては「織田七兵衛信澄」というのが、ほかの人名配列からみてなんとなく
付け足してあるという感じがします。これだけフルネームで勿体つけた書き方はどこかで見たものです。
〈武功夜話〉における
     『木村常陸介殿・・・・・・木村又蔵・・・』
という表記がありました。
 〈甫庵信長記〉はもう少し登場が限定されます。6回だけでポイントのところだけ取り上げたようです。

  Aのお茶を下さる場面で
       『福富平左衛門尉、矢部善七郎・大津伝十郎・大塚又一郎、・・・』

   となっていて「福富」と「青山」の炙り出しがあるところです。おそらくここは「青山」を重要人物とし
  見直さなければならないところでしょう。

  Cの安土宗論の場面
       『菅屋九右衛門尉・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹、』

   これは同じ配列になっています。

  Dの場面
       『織田七兵衛尉殿・菅屋・矢部・堀・長谷川、此の五人』

   織田七兵衛だけ「殿」付きで他はなぜか姓だけになっています。

  Iの大坂城受け取りの場面
       『大坂城請取(うけとり)の奉行として矢部善七郎を遣わされけるが、・・・』

    これは〈信長公記〉と同じ大坂城受け取りした、ネット記事の「大坂の司令官」という
    属性を表すものとして重要です。

  Jの場面
       『 矢部善七郎・猪子兵介・・』

    〈信長公記〉と同じ。猪子は重要人物。

  Mの場面
       『 織田七兵衛尉殿・菅屋九右衛門尉・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川藤五郎・・・』

 先の〈信長公記〉と同じDとMは織田七兵衛だけ「殿」付きとなっていて、〈甫庵信長記〉では
〈武功夜話〉と同じ勿体のつけ方をしてあります。とくにDなどは、織田信澄だけが「殿」付きなのに
他の人は苗字だけです。これは併記ではなく「付けたし」の感じになります。
また〈甫庵〉では「長谷川竹」でなく「長谷川藤五郎」に表記が変わっています。これは記述の「長谷
川与次」と同じ扱いで、織田七兵衛か矢部善七郎かどちらか一方を消す役割があると思われます。
その注意喚起がこの「違いを」であろうと思います。
 つまり、織田七兵衛信澄が矢部善七郎を指し示して消えることになります。
 「大坂の司令官」は織田信澄ですが、大坂城を受け取ったのは「矢部善七郎」です。「長谷川」の
  の操作と大坂城を介して両者は合体させてもよいようです。
            織田信澄=大坂城=矢部善七郎
 
 こうはいってもまた苦情が出そうです。テキスト〈信長公記〉脚注では

    『矢部家定  実名家定また光佳。はじめ光佳、のち康信、さらに家定。信長の近臣。のち
    秀吉にも仕えた。子は若狭の本郷信富の子定政。』

 と文献による考察があります。こういう人物が実際いて、その人物の活動を書いているのだという
ことになりますが、これは借名をしていると解してよいようです。「大坂の司令官」であり、要所に出て
きますので、且つ「善七郎」というやや珍妙な名前がつけられてますから、物語において使われた
というもので、名の「光」「信」「政」などの字は、語るために作られているという推測も成り立つもので
す。挿話では自殺したというのもあったように思いますが、それなどは物語的で、この矢部善七郎
の人死の記事はなく、原型となった織田・豊臣の社員名簿に載っているような名前の人は、実際は家
名を残した人物であったと思われます。
矢部は荒木村重とともに、本願寺へ和解の使者として派遣されています〈武功夜話〉。常山奇談では
慧林寺で

     『津田次郎信治、長谷川與次郎等』(ルビはつだのぶはる、はせがわ、で「次郎」と「與次郎」
     にはルビなし。)

 が出てきますので「次郎」着目、「長谷川」との道連れ着目、これは津田信澄を表すものではないか
と思います。「信治」は「信春」でもあるのでしょう。次に出てくる福富などと繋がっていないか、と勘ぐられます。
適当に名前を変えすぎと思われるが主要文献ではなく、「常山」ならそういってもよいわけでヒントとして
つかえるのかもしれません。〈信長公記〉では「塙」にルビが付されて「ハノウ」と読ませています。明智衆
を表わしていた美濃旧記の人名に「羽生善助」という人物がいました。これは「はのう」とも読めますので、
この「善」が「善七郎」に使われたのかもしれません。
 「乾助次郎」が「織田信澄」といいたいというわけではなく、別人の方が説明がスムースにいくので
困っているところというのが正直のところです。あまり接近がみられると、そうでないと否定するのに
また多くの言辞を弄さねばならないので反って困ることになります。
 ただ津田信澄は「宗及」とも接近しており芸術家としての素養が十二分にあった、といえると思いま
す。織田氏と土田氏の子ですから、前野・明智などの地域の人であり、光秀・牛一・長康の文才は共有
しており、太田牛一が「狩野又九郎」としても出てきた、金工後藤というものも繋がりがあるということ
や太田牛一の子として育ったとなると茶人の素養も無視できないものがあると思われます。

(7)下(おろし)
 津田信澄で無視できないのが、先ほどの記事にもある「高島郡」です。天正六年
  
     『磯野丹波守・・・・・・逐電仕り、則、高嶋一向(ひとむき)に津田七兵衛信澄に仰せ付けられ
     候なり。』
 
 で、これは信澄の属性のようなものになりましたが、天正三年

     『高嶋打下(うちおろし)林与次左衛門生害させられ候。』

 という文があり、「」一字で(おろし)と読ませています。
ここで少し気になる人物が出てきます。同じ読み方ですが
     「下石(おろし)彦右衛門」
という人です。この人は何となく武将と芸術家と二足の草鞋をはいたような人物と一緒に出てきます。
 〈信長公記〉登場回数は四回です。

   @天正六年
     『調略の御使、古田左介・福富平左衛門・下石(オロシ)彦右衛門・野々村三十郎、四人・・』

   A同年
     『福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎。』

   B天正十年(本能寺の戦い)
     『・・・・福富平左衛門・野々村三十郎・篠川兵庫・下石(おろし)彦右衛門・毛利新介・・・・』

   C同年
     『・・・・・野々村三十郎・篠川兵庫頭・下石彦右衛門・下方弥三郎・・・・』

 福富は狩野永徳と知り合い、古田は織部でしょうから芸術に造詣が深く、野々村は仁清を思い出し
ますので、二足の草鞋をはく人物とともに出てきたというのは否定できません。 
もう一つの特徴はBCの「兵庫」と「毛利(森)」「下方」に挟まれている点です。「兵庫」が二回出てきて
明智色を出していると思います。
 〈甫庵〉ではB毛利新介がないだけですが、それだけに「毛利」が〈信長公記〉で強調されているのかも
しれません。すなわち下石との関係を知らせたと取れます。
  この下石の「彦右衛門」は重要人物に宛てられるようです。首巻の記事

  『坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛・乾丹後守・山口官兵衛・堤伊予・・・・』

 のはじめにある「彦左衛門」は「彦右衛門」と同じです。この羅列は何回も出してきており重要人物の登場に
組み合わされて活用されているから重要です。
元亀元年

  『・・・・滝川彦右衛門・山田左衛門尉両人差し遣わされ、塀・矢蔵引き下ろし破却させ・・』

 の記事における「滝川彦右衛門」は滝川一族の人ではないようです。そんなことをいうが「黒部」など
はそれがあるのかということになりますが、これも重要人物で登場があるのです。
 このように下石彦右衛門は重要人物であり、芸道に優れた人と道連れになっており、これが織田信
澄の活動名ではないかと思われます。矢部善七郎と共に織田信澄の活動領域を広げる役割を果た
したものと思います。前出の「高嶋打下(うちおろし)」「与次」が利いてきていると思います。
 問題はここに出てきた人物は「古田」を除いて全部本能寺で戦死することです。つまり表記をそこで
消した、他の人の活動名であったから消したと取れます。

     『(つづき)5月、信孝を大将とする四国攻めの命が下り、信澄は老練の丹羽長秀蜂谷頼隆
     並び副将に任じられ、住吉に着陣した〈信長公記〉。徳川家康の接待を命じられて大坂に戻った
     ところ、本能寺の変が起る〈信長公記〉。

      信澄は光秀の女婿ではあったが、この前後の行動を見ると、光秀との共謀はありえないし、
      光秀に助力しようとする素振りさえうかがえない。しかし、6月5日、疑心暗鬼にとらわれた
      信孝・長秀に大坂城千貫櫓を攻められて討死、首級は謀反人のレッテルを貼られて、堺の
      町外れに梟された〈宗及記〉。〈勢州軍記〉には二十五歳とある。

       信澄の人柄について〈耶蘇年報〉には「甚だ勇敢だが残酷」とあり、二人の罪人を馬に
      噛み殺させたことを伝えている。
だが一方、〈多聞院〉では「一段逸物也」と評している。
       伯父信長に似た、行動力に富んだ人物だったのではなかろうか。』〈ネット記事〉

 ネット記事は、ここまでの長い記事になっています。最後は本能寺のときに死亡した、25歳であった
といわれています。これは信行の死亡の年に生まれたとうことで合っているということは既に述べました。
 一番終わりの罪人を馬で噛み殺させるというのは起こり得ないことでこの人もダシになっている、つま
り重要人物という扱いにされています。
 死亡時、二十五歳という年齢は、天正七年で伴正林が18・9歳ですから三歳くらいの差があります。
問題は重要人物である乾助次郎がこのとき何歳かという問いを発しておくのもやっておいてよいことだ
と思います。 
 下石彦右衛門は本能寺で表記を消されたということが重要ではないかと思います。津田信澄と伴正林は
このあたりで接近し、同時に二人は千利休と乾助次郎に近接してきました。

(8)津田信澄の生死
 ここまで津田信澄を追ってきましたがここででいいたいことは、津田信澄が本能寺のとき大坂で戦死
したといわれているのは本当なのか検討しなければならないということです。
元来津田と織田の二つの名前をもっている、下石は本能寺のとき戦死したが、矢部につてはそんな記事
がないなどのことが浮かんできます。前稿では木村又蔵=木村常陸介を取らなかったわけですが
その立場をとったら連れ合いが誰かということを明らかにしなければならない、信澄が明智光秀の婿という
ことから、その連れ合いとなりそうです。そうすれば、本能寺のとき25歳で死んでしまっていてはあとに
話が続かない、生きたことの証明が要るのでこちらの立場を保留せざるをえないということでした。話を
整理すると
 @ 明智光秀の婿というのは、明智光秀が太田和泉と重なり木村又蔵の連れ合いといいたいのではない
  か。するとこの人物が後年の木村常陸介重茲とならないか。それは木村重成が常陸介の子という
  伝承があり、かつ木村は木村次郎左衛門、木村孫兵衛、木田(貴田)孫兵衛、木村長門守、木村世粛
  の木村なので無視できない、木村又蔵もこれに関わってくるから、木村常陸介と木村又蔵は連れ合い
  ではないか
 ということで前稿のようなものとなりました。
 一方、木村常陸介は〈甫庵太閤記〉で突然重要人物として出てくるが前歴がわかっていません。
〈武功夜話〉を見る限りでは、その前身が木村又蔵(正確には木村又蔵@)になるのではないか、という
ことが出てきます。そうすればその連れ合いというのは、明智光秀の婿であるから津田信澄ではないか
というのが直感できますので本稿ではその観点から以上のことをいってきたわけです。
  A信澄を木村常陸介(又蔵)の連れ合いとすると信澄が本能寺のときに25歳で亡くなったという
   のが、最後の秀次事件のときの木村常陸介の妻子というのに合ってこない、ひょっとして信澄は
   あのとき死亡したことにされて、生き残ったのではないか
ということが出てきます。
 生き残ったことにすると、もう一つ「信澄」に関する疑問がとけるかもしれないのです。信澄に津田と織田
という両方を宛てているのでその意味は何かと一応考えてここまできました。
「津田」という姓を織田信澄に与えている意味をまったく考慮の対象から外したら、当時から変名を
使っていたということになりこれも不自然と思われます。織田が先で津田があとということでもないから
改名ともいえないわけです。作意で変えたのではないかとすると、その意味を探らなければならなく
まります。
  Bひょっとしてこれが「津田宗及」と関係があるのではないのか、年表をみれば寛永七年(1630)に
    『俵屋宗達「西行物語図」できる』
 というのが出てきます。寛永七年というのは藤堂高虎が亡くなった(75歳)年で、戦国生き残りもこの辺
の年齢に達している時期にあります。。宗及は宗達の子とされているので
      戦国の宗達ーー宗及ーー寛永の宗達
 という系統がありそうです。はじめの宗達は宗及を説明するための作られた宗達といえるかもしれない。
宗達は喜多村(北村)でもあり、弥次喜多というのも、このペアは重要といいたいためのシャレなのかもしれ
ないわけです。
 @を否定するためには織田信澄が本能寺のとき大阪で殺されたという挿話を否定しなければならない
ことになります。実際生き残ったのに、(表記上)殺してしまうという例は、吾妻鏡の義朝、安徳天皇、
藤原泰衡などでありました。これは有名人であって、そういうことがやられた、多くのことから証明が可能
というようになっていますが、信澄の場合はそう有名でもないので、そこにもそんなことがやられた
というのは疑問視されやすい、と思います。世間では有名でなくても、重要な人物はこの操作があるようです。
〈甫庵太閤記〉では斎藤立本が活躍します。

   『敵、如稲麻竹葦(とうまちくいのごとく)打ち囲み攻めにけり。然る処を斎藤立本(りうほん)下知
    をなし、ドッと突きかかりしかば・・・・追いくずし、三千余討ち捕りぬ。・・・・・●(賀藤)與三右衛門
    尉・・・・討ち死にし・・・・立本(りうほん)隼人(庄林)は討ち死にせし者どもの骸骨を灰になし、翌日
    心しずかに陣払いし・・・』

 この立本は明智の重臣、斎藤内蔵助の子とされているので明智次右衛門(斎藤新吾の候補とし
た人物)であろうと思われますが、主要文献では生死不明の人物です。ただ明智治右衛門光忠
という人は、本能寺戦で怪我をして知恩院で療養していて山崎合戦の敗報を聞いて自殺して
います〈明智軍記〉。治右衛門と次右衛門のトリックがあるといえるのかもしれません。●の人物も一族
の人でしょうから引き当てしないことにはここは読んだことにはならないと思いますが、この次右衛門
が斎藤立本として活躍している、これは生き残ったといえると思います。太田牛一にとっては身内が
海外で危険な戦いに従事している、これは本当の侵略戦争ですから腸が煮えくり返るような感じで
見ていたと思います。それはともかく、太田牛一にとっては信澄(信行)の子であるので最重要の
人物の一人ということですので、ありえたことというのが今までこの人物について述べてきたことです。

(9)死亡記事
〈当代記〉では
   
   『三七殿{信長息}・・・・大坂在陣なり。是に相伴衆丹場{◎丹羽カ}五郎左衛門・・・・秀吉公と
   一手になる。織田七兵衛{信長甥}・・・明知婿之間・・・押し寄せ之を討つ、・・・』

 主要文献にないことが、ここに出ており、「丹場」も「明知」も臭いし、織田の名前で出てくる信澄は
〈信長公記〉では、なぜか全部、「織田七兵衛信澄」というフルネームということになっていますが、
ここの表記は「織田七兵衛」と略記されています。
我田引水の批判の出そうな疑問でもありますが、ここの〈当代記〉の表記はかなり杜撰なものであると
思われます。
「織田」は死んだが、「津田」は生きたというペテンがないのか、織田信澄に付いていた人は蜂屋兵庫
頭と丹羽長秀でこれは太田牛一の一族ですし、殺したという織田信孝という人は「坂氏」の人ということ
が語られているようで、こうなれば「伴」「塙」の人になります。したがって信澄が亡くなったのは一つの
操作であったというのがでてきます。そんなのおかしいといわれるでしょうが例がほかにあることです。
おかしいというならほかに一杯あり、現在は論理的思考が出来るような子供を育てよ、とかいって
いますが歴史になると全然納得できないようなことを平気でそのままにしています。秀吉は好色な男性
であるから最晩年だけに二人の子供が出来たとかいうのはおかしい、耄碌気味の男の誇大妄想的
なものが七年におよぶ大戦争をやらかすことが出来たというのも、きびしい戦国時代というには余りに
間の抜けた説明ですが現実はそれで済んでいます。
 
(10)織田信重(その2)
 ここで重要なのは生きてる兆候ですが、ネット記事の▼が効いてきます。〈甫庵太閤記〉に信重が変な
ところで出てきます。秀次事件の「益田少将の忠義」のところです。秀吉が秀次を関白に選んだのを
批判しているようですが

   『もし、関白の職は人材本位で人を選ぶべきものではないというなら、信長公の嫡孫にあたる
   三郎殿(織田信重。三法師、つまり織田秀信のあやまりかと思われる)に関白職を譲られるべき
   べきではなかったか。もしそうしていたならば、・・・・』甫庵太閤記訳本ー教育社新書

 太字のところ全部が原本にあったのか、織田信重だけが原本にあったのか、わかりませんがとにかく
ここで織田信重が原本にあったのは間違いないでしょう。本能寺戦のあと、秀吉が柴田勢力に対抗する
ために信忠の子、三法師、秀信という幼児を立てたことはよく知られたことで〈甫庵太閤記〉に載っています。
著者は織田信重という人物が生きていると勘違いしていて、その人と間違ってしまったと解釈しても
よいようです。三法師は秀信なのについ口がすべって織田信重(織田信澄)といつたといえます。
ここでいいたいことは桑田忠親岩波文庫〈甫庵太閤記〉では、太字の部分が省かれています。織田
信重と書くと変な誤解をする人があるというので削られたと思います。これでは疑問が生ずるもとが
消されていることになるではないかと思います。余分ですがもう一件挙げてみますと、訳本では

    『ある老人が言った。だが、この秀吉の私情も理由のないことではない。一条天皇の御代以来
    関白職は近衛、九条、二条、一条、鷹司の御摂家のうちだけを巡回し、その職務にふさわしい
    を選ぶことが行われずにきた。・・・・・・・よくよく考えてみるならば、秀吉公の私情といっても
    たいしたことではない。秀次が関白職を汚したかのように見えるが、実はその根源となった
    藤原家の専横こそが恐ろしいものだったのだ。』〈同上〉

 とあるものの、桑田校注原本では
   
    『或る老人曰、さればこの私心も所以あり。関白職を一条院よりこのかた、近九二一鷹司の家
    に順廻し、職のために人を選び給わ。・・・・・・・・・・つらつらおもえば秀吉公の私心もうすく、
    秀次の関白職をけがしたたるに似て、実は其の本(もと)あるか、濫觴(はじまり)いと恥ずかし。』

 で太字のところが全く出てきていません。こういうのをチェックしていて異本があるから、甫庵太閤記には
資料的価値はないと判定されたのでしょう。
 「太閤記の本質は資料的価値を超越した、主観的、批評的、指導的要素に存するといえよう。」といわれて
います。すると歴史研究家としてはその主張を紹介しなければならないはずで、藤原氏の専横について
わかりにくくする資料をもってくることはない、異本で補注されなければならないはずだと思われます。桑田
博士は「永種の子は貞徳」と書くべきところ「貞乳」と書かれています。(「乳」というのは記憶が定かでないが
もう一度調べる気もない)肝心なここぞというところでチャンと印刷ミスがあるので衝撃をうけました。〈前著〉
の内容がこのために脇にそれました。「永種」という人物は「徳庵嫂(女篇のない字)永種」といいますが
例の使用権を主張したような「禿筆を染め」という表現をし、「藻蟲斎由巳」の書に添書した人です。
 「永種の子は貞徳」というのはいまではネットでも確認できますが、「貞乳」が「貞徳」となってくると話
がガラットと変わってきます。
 〈戦国〉では本能寺戦の本質を突ついていることが書かれている
           「徳川ゝゝ(ルビ=ママ)」
というのが載っている記事(総見院殿追善記)に添え書きをした永種という人物は「太田牛一」ではないか
ということをいってきた流れのところのことですから、これが「貞徳」とわかっていたら、「貞徳」は松永にいた
森えびなの子で、太田牛一直系の人という話にまで発展していたはずですが、一時棚上げしてそのままに
なってしまっています。「永種」の「永」は松永の「永」ですから、永徳・貞徳の関係はどうかということに
つながっていく、さらに「寿貞」という人も後年に出てきますから、どうでもよいということにはならないはずです。
 自分の主張はあると思いますが、優先して資料をみれる立場にいる人は、自分の立場に都合の悪い
ことであっても、誰がみてわかりやすい環境を整えておく義務があるのではないと思われます。

(11)玄以
 曲がりなりにも信重が出てきて、三法師秀信と重なったことは、その守役、前田玄以を呼び起こします
。玄以は出てきたときにすでに老成されており、三成などと出てきても一世代上といった感じです。
信澄と接近して出てきたのでひょっとして係累かというのを調べてみるのもせねばならないところです。
ネット武家家伝前田氏電(www2.harimaya.com/sengoku)を借用します。

   『玄以を出した前田氏は、藤原利仁流、斎宮頭叙用の後胤斎藤季基が美濃国安八郡前田に
    住み、家号にしたという。ただし、これも家譜だけで確証はない。玄以は初名孫十郎基勝といった
    いうが、資料には、はじめから僧名で登場する。前身は尾張小松寺の住職であったともいう。天
    正12年(1584)、民部卿法印に叙されてからこれが通称となり、のち徳善院僧正の称号も
    受けている。
     玄以は、はじめ織田信忠に仕えた。本能寺の変に際しては、信忠のいる二条城から嫡子三法師
    (秀信)を救出し、清洲城に送り届けた。この三法師が、清洲会議の結果の通り信長の跡を
    継承していたなら、玄以は再興織田家最大の功労者となったところだが、むろん歴史はそのように
    動かなかった。
     天正11年、玄以は織田信雄から京都守護職に任じられ、そのまま豊臣政権下の京都所司代
    となった。秀吉晩年には五奉行の一人となり、とくに京都の庶政や寺社関係で手腕を発揮した。
    所領は天正13年丹波で五万石を与えられ、亀山城主となった。
     関ケ原の役には西軍に立たざるを得ず、大坂城の留守居をつとめた。しかし主戦派ではなく
    、戦後の追及はまぬかれ、亀山五万石は嫡子茂勝に安堵された。
     茂勝はクリスチャンで受洗名はコンスタンチという。関ケ原の戦の際には、丹後田辺場攻撃に参加
     した。あるいは和議をすすめる勅使に同行したともいう。茂勝はのちに丹波八上城に移封された。
     関ケ原の戦を越えて維持した所領であった、慶長13年(1608)狂気によって改易されてしまった。
     庶流家が旗本として家を伝えた』

 となっています。系図では途中で「斎藤」を名乗った人のあとということになります。利家の前田も
この系統から別れています。ここで「孫十郎」「基勝」というキーワードが出ていますので、〈信長公記〉
人名注をみますと、「織田孫十郎」「津田孫十郎」となっている人物は「織田信次」とされ

   『織田信次(〜1574) 孫十郎。右衛門尉。織田信秀の弟。津田氏をつぐ。信次は天正二年七月
    伊勢長島で戦死。その子も孫十郎であろう。』

 とされています。ここの下線の部分は木村又蔵@と木村又蔵Aのように親子重なっていることがあるという
ことを示唆されていると思います。「孫十郎」という人も「右衛門尉」というのがあるにしても、織田信秀の
弟の信次(右衛門尉)が「孫十郎」とするのは合っていないのではないかと思われます。信次は五番目
なので、「十郎」というあいまいなものと違うと思います。
 前田玄以の「孫十郎」は、ここにある「右衛門尉」と世代が違うのははっきりしています。一般的に
いえば「孫十郎」という人は、織田孫三郎のあとを継いでおり、織田孫三郎の子と考えた方がよいと思い
ますが玄以の孫十郎がこの人に該当するのかはよくわかりません。さきほど「基勝」という名前が出てきま
した。玄以の系図をみても一つ「勝」というのが名前の核となっています。信行は信勝という名でもあります
から「勝」の類似で、信行の弟かもしれないというのが出てきます。つまり信行の気に入りの人津々木蔵人
または都築蔵人(佐久間の係累の人=佐久間次右衛門)がこの玄以ではないかとも思われます。
 玄以は小松寺にいたということ、その子息の三人目の人が「正勝」というのも何か引っ掛かるものが
あります。前田玄以の孫三人とも非業の死であったというのも伝わっているようです。

   『故・前田玄以の孫三人も京の高安寺で自裁。秀頼に殉死した氏家行弘の子三人も京の
    妙見寺で自裁を命じられている。』〈真説大坂の陣=学研M文庫〉

 氏家行弘が高年で大坂へ入城した話はよく知られています。前田玄以の孫もこの奇禍に会ったという
のは理解に苦しむところで、玄以はすでに故人だったわけです。これは安寺ー妙見寺はあぶり出しで、
違いで注目させたものでおそらく同一のことをいっていると思われます。すなわち玄以の連れ合いが
氏家行弘であったということであれば筋が通ってきます。氏家は安藤・稲葉とならぶ西美濃三人衆の
家でまあ明智の親類でもありますから、結ばれても不自然ではないと思われます。要は玄以もその生い
立ちから徳川に睨まれていたというのが、この不自然な処刑の真相ではないかと思います。この玄以が秀次
事件の罪人を預かった亀山の城主というのも信澄につながりがあります。
 当然「前田玄以」が「津々木(都築)蔵人」であったというのは「事実」とはいえない、といわれたらそれ
が合っています。しかし事実でないともいえない、直感から筋道をつけておけばたくさんのチリとして
浮遊している断片情報がくっ付きやすくなりますから、まずはそれでよいことです。この世界は「事実なん
だろう」という世界です。料亭など会談した事実などを踏まえると、また周囲の人もそういっているようだ
からそうかもしれない、認めざるを得ない、となればよい、状況証拠を積み上げる、脇から固めるというやり
方でやるしかないやや頼りない世界ですが、これは文献が頼りないからではないことだけは確実な
ことです。
 文献の恐ろしさは、いま古い時代の公表資料でも墨でくろぐろと消されて出されていることでも窺え
ます。公事はオープンにして、現在の理解がセメント固めされてしまうことのないようにしなければ
ならないと思います。

(12)文化功労者津田氏
 津田信澄は本能寺では生き残り、秀次事件のときに亡くなったということかどうかということを調べねば
ならないということがいいたかったところですが、秀次事件は凄惨なものでつい触れたくもないもの
で敬遠してしまいます。しかしこれを避けて通ると太田牛一の作意を見落としてしまうことになりそうです。
ここでは避けて通ることになりますが「常山奇談」の記事を無視するわけにはいかないと思います
    
   『木村常陸介最後の事  関白秀次高野の青巖寺にて自害ありければ、事を司どり寵愛せられし
    人々、所々にて誅せられ自害しけるなかに木村常陸介師春検使の松田勝右衛門に向かい
    ・・・・・・空しく聚楽を出させ給う様やあるべき、と再三諌め申しけれども、吾太閤に適する心なし
    とて承引候わざりき。然れば関白において異心ましまさざる事は明らかなり。この旨を達して給わり
    なば、その恩黄泉の下にも忘るべからず、と云い置けるを、松田折を得て秀吉に申しければ
    太閤木村の志を憐れみて、妻子に米百石を与えて、京都の誓願寺の近所に住居せしとぞ。』

 とありますので、妻子は助けられています。先稿の〈たいかうさまくんきのうち〉の、「きむらひたちのかみ」
のさいしが磔になったという記事は、もともと、少しおかしい、過剰な表現であり、「妻子」注目、事実は助命さ
れた、ということではないかと思います。
 この子はのちに大坂城へ入場した木村又蔵A(もう一人の後藤又兵衛)でしょうが、〈前著〉で紹介しました
信用がおける書物の文では、大坂城に「木村」がまだいました。落城前日

    『慶長廿年五月六日・・・・・・木村長門守同主計、山口左馬允(ルビ=弘定)、後藤又兵衛(ルビ=
    基次)この勢一万余騎打ち出ず。』〈駿府記〉

 でここの「木村」にはルビがありませんが、少しまえに「木村長門守(ルビ=重成)」があります。したがって
ここでは「木村重成」、「木村又蔵A」と、「山口弘定」と「後藤基次」が出陣したと考えられます。前著でも
いっていますように「木村主計」というのが「加藤主計頭清正」からの連想から、「木村又蔵A」とするしか
ないようです。ここまで考えてくると、もう一人城内にいる

    『・・・宮内卿{木村長門守母、秀頼御乳母}、・・・』

 という人が、「信澄」かもしれないというのが出てきます。これは{注}の木村長門守なので、必ずしも「重成」
とみなければならないことはなく、木村又蔵Aのママ母といえると思います。この人物がよくわからなかった
のでここに照準をあわせて探ってきました。いまの段階では、とりあえずこうではないかといったところです。
 織田信澄も氏家行弘も徳川に一矢をむくいるために高齢ではあったが、入城したのではないかと読
めるところです。
 津田信澄が本能寺のときに、生き残ったということでここまできましたが、もう一つ津田宗及との関係においても
あのとき25歳で亡くなってもらっては困るわけです。
 つまり織田信澄という人は、本能寺以後、天王寺屋宗及という名の人の養子のような恰好で身を隠し、
その人のもとで、その人が書き付けてきた「津田宗及茶湯日記」を引き継いだのではないかというのが
いいたいことです。宗及二人かもしれないと感じられます。
 生き延びた、それらしい記事が見当たらないかと探してみましたがネットで一件つぎのようなものがありました。
 www.inv.co.jp/~yosio/HJ/(本能寺の変 人物た行)

   『津田宗及   
         @?〜天正19(1591)。4.20
         A宗達の子。茶人。「宗及他会記」の著者
         B堺の豪商天王寺屋の主で、信長、次いで秀吉に仕えた。
         C光秀との交友も深かったが、「変」当時は、堺遊覧中の家康の接待役を務め
          光秀の追及から家康を逃すために奔走したとされる。』

 @は利久の死と重ねているかもしれないので除外してCは明らかに「津田信澄」のことでしょう。
     
      『五月廿一日、家康公御上洛。此度・・・・・堺・・・・・織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門
      両人は、大坂にて家康公の御振る舞い申し付け候へと仰せ付けられ・・・・・』〈信長公記〉

 となっていますので、接待役といえば信澄です。二人を重ねているようです。また文献では、本能寺の死者
のなかに

     『御討死の衆 
      ・・・・・・・・・津田勘七・・・・・津田小藤次・・・・・』〈信長公記〉

 が出てきます。信行は「勘十郎」でしたから津田「勘七」は津田信澄といってよく、「小藤次」も「布施
藤九郎」を横目でみているような名前です。いままでこの表記は全然出てこず「−マイナス」となっていて、
大坂で亡くなっているのと矛盾しています。
 今では、そんなのおかしいという方が合っており、もっと研究が進んだあとの結果もそうだったということになる
かもしれませんが、いま主要文献でどこまで読めそうかということもやっているので、過程では一つ通ってもよい
道筋ではないかとも思われます。
 二足の草鞋を履く、履ける人物が多かったのはこの時期の特徴でもあると思います。
もう一人「乾助次郎」という和平の仲介役という大ものが残っています。

                                      以上
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