30、堀久太郎・卑弥呼の出自
(194)小浜に行かなかった芭蕉
芭蕉は〈奥の細道〉では、小浜へ行かず、敦賀(「つるがの津」「けいの明神」)から「種の浜」(「敦賀
湾の西北部の海岸」、そこの「侘しき法花寺{本隆寺}」)へ行き、そこから、南下して、大垣
へいっています。小浜のすぐ近くまで行きながら、太田和泉守の重要な故地としてみてきたそこ小浜
を外したのでは、筆者の〈信長公記〉の読みもおかしくなってきます。敦賀から大垣のくだりは下の
部分ですが結論からいえば「四九、種の浜」のところが「小浜」もみていると考えられます。
原文、(「★」「◆」の部分は入れ替えが必要と思う部分)
『 四八、敦賀(これは、校注者麻生氏の区切り)
・・・十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴たり。あすの夜もかくあるべ
きにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴ははかりがたしと、「★あるじに」酒すすめられて
けいの明神に夜参す。・・・
月清し遊行の持てる砂の上
▲十五日亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。
名月や北国日和(ひより)定(さだめ)なき
四九、種の浜(全文)
十六日、空はれたれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、
「★種(いろ)の浜に舟を走(はし)らす。海上七里あり。」
天屋何某(てんやなにがし)と云(いふ)もの、破籠(わりご)・小竹筒(さ
ざえ)などこまやかにしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、
追風時のまに、「★吹(ふき)」着(つき)ぬ。
◆浜はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)「★にて」、
侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)あり。
ココに茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪(たへ)たり。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩(はぎ)の塵(ちり)
▼其日のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて、寺に残す。
五〇、大垣
露通も此(この)みなとまで出(いで)むかひて、みのの国へと伴ふ。・・・曾良も伊勢より・・」
〈奥の細道〉旺文社文庫
この、四九は、現在の「福井県敦賀市色ヶ浜」の「色の浜」海岸とされ、これは敦賀湾の西岸(立石
岬のある地の東岸)にあります。小浜へは、敦賀湾(西へ)−美浜湾−小浜湾と続いています。
曾良は
「九日・・色浜へ趣く(ルビ=海上四里)・・・・夜半に色へ着。・・・本隆寺へ行て宿。」
と書いており、この色浜は現在の色浜で、ここで「本隆寺」がでており、本隆寺には等栽の記事が
残っていて、色浜に確定となっています。芭蕉がここへ行ったことは確実としても、小浜へ行った
ことを、ここで表現する、つまりここの場所を借りて語る、ということはありえます。基本的に
「色浜」と「種(いろ)の浜」
とは違いますが、「種(いろ)の浜」が二つとも考えられます。しかしこれは一般的な常識とは違い
ますから、説明がされてこう読むというのが要ります。▲▼は一行空きになってて、やや独立してます。
(195)書き換え
この文書き換えたほうがスムースにいくところがあります。もちろん変えない方が好きだというのが
あるのはそれでよいわけです。わかることはわかりますから。ただ◆のところは日本語としておか
しいようで、一応どこか間違いはないか、やってみるのもよいはずです。
つまり次の「★」の部分の異動でも少しわかりやすさが出てきそうです。
敦賀(これは麻生氏区切り)
・・・十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴たり。「★あるじに」あすの夜も
かくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴ははかりがたしと、酒すすめられて
けいの明神に夜参す。・・・月・・十五日亭主の詞(ことば)にたがはず雨降。・・・月・・
名月や北国日和(ひより)定(さだめ)なき
四九、種の浜
十六日、空はれたれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、
天屋何某(てんやなにがし)と云(いふ)もの、破籠(わりご)・小竹筒(さざえ)などこまやか
にしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、「★種(いろ)浜に舟を走(はし)らす。
追風「★吹(ふき)」、時のまに、着(つき)ぬ。
浜「★に」は、わづかなる海士(あま)の小家(こいへ)、侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)
あり。「て」
ココに茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪(たへ)たり。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪の間や小貝にまじる萩(はぎ)の塵(ちり)
其日のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて、寺に残す。「★海上七里あり。」
五〇、大垣
露通も此(この)みなとまで出(いで)むかひて、みのの国へと伴ふ。・・・曾良も伊勢より・・」
ということでも日本語としてはなり立ちそうです。脚注で語句の説明と句解があり、
@「ますほの小貝」 → 赤い色の小貝。 (解説では赤とは限らないようである)
A「種(いろ)の浜」 → 敦賀湾の西北部の海岸。(「西・北・海・岸」が使える)
B「天屋何某(てんやなにがし)」→ 天屋五郎右衛門。俳号玄流子。敦賀の廻船問屋。
C「小竹筒(さざえ)」→ 酒を入れる竹筒
D「法花寺」 → 法華宗の寺。本隆寺。
E「寂しさや」の句解
種(いろ)の浜の秋のけしきは、たいへん寂しく感ぜられる。昔から
須磨の秋は寂しいものとして源氏物語にもいわれているし、自分も須磨の寂しさを
よく知っているが、それにもましてこの浜の寂しさは格別であるという意。
F「波の間や」の句解
寄せては返す波のひまひまに、浜辺に小さい赤い貝がちらばって見える。その小貝
の間に萩の花の散ったのがまじっている、という意。
G「海上七里」 これは何故か注ではでていない。が、訳文で意味がわかるもので
「敦賀から種の浜までは海上七里ほどある」
と訳されている。 これは実際には、おかしいので、「種の浜」の最後に移動した。
となっており、@の「ますほ」は「赤い土」の意味で「赤の古語」だから、こういう訳になるようです。
こういう地名は近くになかったのでしょう。ただ「ひら」かれた意味は考慮されていません。当て字
は「益・増・枡」/「穂・保・浦」などありますが、色とりどりの美しさということでこのままの方がよい
というのでしょう。A「敦賀」が固有名詞ですが、本文では「つるがの津」と「ひら」かれています。
いいたい方は孤立した方の「津」で、最後に「伊勢」が出るので、伊勢への「津」ということですが、
これはあとのことです。Bは「天」が「あま」で、「屋」は「尾」に似てるようです。「天屋」とは
、大きな屋号をつけたものだと思いますが「海」の商売にふさわしいといえます。ただ「某」があるの
でちょっと歴史的になってきます。「某」=「坊」で普通は一般には男の人を指すようです。また
「五郎右衛門」は〈両書〉に「平手五郎右衛門」があるので、これは戦国へ飛びそうです。平手が
突然ここに出てくるのはおかしいとなるのですが
「平手」の「平」=〈奥の細道〉=「平和泉」の「平」
としてここへ出てきてもよい、源平の「平実盛」の「平」ならよいというものでもないというのが本稿
のテーマです。もう少し奥深いところから見てるのかも。
ということで、このまま進めますと、戦国では、五郎右衛門は若狭で出てくる「武藤氏」があり
「武藤五郎右衛門」〈信長公記〉(注で解説なし)
が一応想起されるところです。「武藤」は、ほかに文中表記
「武藤」「★武藤宗右衛門」「武藤惣右衛門」〈信長公記〉
がありこの考証名は「武藤舜秀」とされており注は
「(〜1579) 実名舜秀(〈若狭西福寺文書〉)。若狭小浜城将となり、信長に信任された
(〈当代記〉)。」
があります。1579に「伊丹御陣にて病死」したのは表記★の人物です。「五郎右衛門」は★など
の人物を語るための表記とも言えそうです
「西福寺」は曾良日記で出ており、若狭西福寺となっているのが重要で、「敦賀市原」
にもありますがネット記事「西福寺ランチランニング」によれば「福井県大飯郡高浜町」にもあるよう
です。この「大飯」「高浜」は小浜湾に面した一帯です。高浜−小路(こうじ)−小浜はないことも
なさそうですが★は「小浜城将」というのが重要で小浜城は酒井氏以前にありました。★の記事の
前に「惟住五郎左衛門」が出ています。小浜城のはじめは永禄年間の〈信長公記〉の欠落の
部分なのでわかりにくいのですが、丹羽長秀の縄張りによっています。従って小浜は太田和泉守
の故地ともいえるところです。もう一つ、索引で
「武藤上野守」「武藤上野の母儀」〈信長公記〉
(本文では「武藤上野」「武藤上野守母儀(ぼぎ)」となっている)
があり、これは考証名「武藤友益」となっていて
「若狭武田氏の将(〈福井県史〉)」
となっており「武田」→「武井」、「福井」→「福田」に変換はできそうです。「上野」というのは、小瀬
甫庵の属性ですが妙ちきりんの「鑓武藤小瀬修理大夫」を通じて武藤も出てきます。
「武」−「友」(例、高山)−「益」(滝川・祐益)
も出ていますが、このとき(元亀元年)「明智十兵衛」と「丹羽五郎左衛門」が若州へ行って
「武藤上野」と「武藤上野守母儀」を人質にとり「武藤構(かまへ)」を破却しています。朝倉
戦の勃発に伴う、城の破却ですが、この
武藤構=小浜城 人質=撤退、保護
ではないかと思われます。
Cは「竹の水筒」と思われますが、「ささえ」というルビがわからない、ということと、「小竹筒」は
書いてくれているが、「破籠」が抜けている、とかのこと
に不満は残りますが大体これで、文意はわかります。「破籠(わりご)」は「破子」でもあり、漢語辞典
では難読語句に入っていて意味がわかりませんが、国語辞典では、中に仕切りのある、薄い木の
弁当箱のようです。要は、幕の内のよう弁当箱と竹の水筒を用意したということでしょう。「竹」は
「爆竹」の「竹」があり、〈信長公記〉脚注では
「小さい竹筒に火薬を詰め、それをたばね火を付けて爆発させるもの。祝儀に用いる。ここ
では正月十五日の左義長(さぎちょう)行事に用いたのであろう。」
となっています。こうなると「竹筒」は「爆竹」の「竹筒」となり、「わりご」は火薬が分類された容器
ともとれます。また「籠」は「竹龍」に分解して捉えるというのもありそうです。「破」は不破の「破」が
考えられます。それはおかしいということがありえますが、この一節は〈奥の細道〉の最終の一つ前
で後ろに「大垣」がひかえているところでは「太田垣」の「田」ぬき、
中抜き
の「太田」登場で、関が原の大垣です。
「不破の関」が前に出ており、それがやってきているに過ぎないものです。「筒」も
「手筒山」〈信長公記〉
が出てきており、平手の手、「竹(武)筒」も「筒井」の「筒」に意識がありそうです。
「筒」も「竹」プラス「同」で「同」というのが「同名」の意味としても単独で使われることになりえます。
「上野守」の例では、「同」も一杯使われていて馬揃えでは
「・・・伊勢衆。織田上野守信兼、馬乗十騎。同三七信孝、馬乗十騎。同七兵衛信澄、馬乗
十騎。同源五・同又十郎・同勘七郎・同中根・同竹千代・同周防・同孫十郎。」〈信長公記〉
などもあり、「織田」とは限らないということにもなります。「同」という苗字で索引に入れてみないと
どうやわからんということかも。ここの「祝儀」というのも「母儀」の「儀」でしょうが、索引で「祝」は
馬場信春「信房」/馬場美濃守子息/泊々部(ははかべ)(波々伯部)/祝重正(「祝弥三郎」)
に位置し「宿泊」の「泊」に続いていて「四十八」の
「十四日の夕ぐれつるがの津に宿を求む・・・猶明夜の陰晴はかりがたし。」〈奥の細道〉
の、「宿」=「しゅく」=「祝」と通ってきています。明智氏、すなわち「宗宿」もこのあたりで出てきても
おかしくないところです。Eの句の訳文を見ると、前の「秋のけしき」「夕ぐれのさびしさ」、句の「寂」
を受けて句解だけに四つの
「寂」「寂」「寂」「寂」、と「秋」「秋」
があり、これは「明智宗宿」「明智宗寂」の「寂」でしょう。赤い「小貝」という
のがここに出ていますが、一応、斎藤の「小見の方」というのが、出てきてそうです。「信房」も織田造酒
丞が出ているとみると、やはり、明智宗宿がボンヤリ出てる、こうなると「夕ぐれ」は「夕庵」の「夕」で
見たほうがよいのでしょう。そら戦国に偏り過ぎてるとなりますが太田牛一、松尾芭蕉らは古代日本を
述べようとしていて安東大将軍、秋田(出羽国)の屋形下国、秋田城介(信忠)などを出してきていま
すから、まして東北回っていますから、その「秋」でもあります。その場合「寂」とか「源氏」とかは別の意
味を持ってきますが、秋田中将信忠が両方に掛かるから宗宿を出してもまあしゃ−ないなあということに
なるのでしょう。
◆の部分は文章がおかしいので
「浜にはわずかなる海士の小家、侘しき法花寺ありて、」ココニ茶を飲み・・・
というように文を変えました。
「小浜にはわずかなる海士の家、侘しき法花寺ありて・・・」
ということで「小浜」を出すこともできますが少し無理かも。ただ四九には「小」が三つ、「浜」が三つ
ありますので「小浜」は出そうとされてるともいえます。こういうことをやりながら何回も見てると
「海士(あま)」が
「海女(あま)」と「海の士(さむらい)」
にわかれ、「小家(こいへ)」が
「小屋」−−−海女の一時的休憩所
「小家」−−−海兵などの宿泊した所
と分けて見ることができる、という感じがしてきました。物体も二つになります。昔の本には、武芸
者が物体を二つに分けてみえたとき免許皆伝というのがありました。師匠に、岩の上の石を睨み
続ける事を命じられ、ジッと何日も何日も眺めていると物体が小さくなってきたそうです。ある日
腹に力を入れて気合を入れて睨み付けると、石が二つに分かれ失神してしまいました。師匠はもう
教えることはないと喜んだということです。戸沢白雲斎と猿飛佐助の物語だったかもしれませんが
最後に教養の第一歩を教えたのかもしれません。二つに分かれてみえてくるというようなことが期待
されています。ここで「法花寺」(ほつけでら)も二つあるかも。先ほどの「西福寺」がそうかどうかは
わかりませんが、探せばあるはずです。「隆」が幅広く、本竜寺、本流寺、本立寺、本柳寺もあるかも
しれないから、とりあえず
本隆寺と本竜寺
があるということにしますと、敦賀以外にも広がりそうです。
(196)本竜寺
ネット記事「本龍寺」によれば
「金沢市金石町」
に芭蕉の句碑のある「本龍寺」があり、ここに
小鯛さす柳涼しや海士がつま〈金蘭集〉
の句があるそうです。一般には「海士がつま」は「海士が家」になっていて、これなら先ほどの芭蕉の
文の「海士の小家」とほぼ同義になりますが、本文に「小」があるのは意味はあるはずです。前の句
の「つま」の意味がよくわかりませんが、「金沢」の「金石」で詠んだ句で、これが「金蘭集」の「金」と
なって出てきたいうのかもしれません。「蘭」はどうしても「森蘭」の「蘭」かなと思ってしまいます。
「金蘭」覚えとくしかないようですが「色の浜」と「種の浜」の色違いが小浜の一節から感じ取られてる
のかも。
この句は〈芭蕉全句〉によれば「青」が強調されています。
「海の青さを背にした漁師の家では、漁師の妻が柳の小枝に小鯛をさしているが、その柳の
青さがまことに涼しい感じだ」
となっています。さらに「小鯛さす」を
「小鯛指す」の意味ととれば、柳の「小枝」が「小鯛を指すようにみえる」という解も付記されて
いてこれだと「海の青」「柳の枝の青」「小鯛の青」の三つの「青」が句外で出されています。「青々と
した柳の小枝」という解も出ています。つまり赤の小貝と、青の小鯛・小枝がある海の青を背景に
した「海士」の「小家」、との対比です。赤地・青地のことは前稿で風神雷神図にからんででました。
この句は「西浜にて」という前書きがあるものがありますが、
「西浜」は議論のあるところです。芭蕉に
「種の浜」と題して
@「衣着て小貝拾はん種の月」〈月一夜十五句〉
があり、「西行」の「黒染めの衣」が、踏まえられているようです。また芭蕉に
「種の浜に誘引(いざなは)れて」と題する句
A「小萩散れますほの小貝小盃」〈薦獅子集〉
があります。この句には「ますうの小貝」というのもあり「ますほ」に拘っていません。ここの「小貝」に
結びついた「小萩」の「萩」は本文二句目の四九の最後を締める句
B「浪の間や小貝にまじる萩の塵」
というのに当然懸かります。というより解説ではこの句の初案がA「小萩散れますほの小貝・・」の句と
いうことです。この句は右の句@Aの「浜」をうけて
「波間」(ばま)「小」→「こばま」
を出そうとしたものと取れます。「萩の塵」の「塵」は
「風塵」の「塵(神)」が、考えられますが、ここの「ますほの小貝」が「小萩」「萩」に懸るということでし
ょう。
(197)「小萩」(「萩」と「塵」)
〈奥の細道〉では「萩」は「小松」のくだり
「小松吹(ふく)萩すすき」
があり、太田神社がでてきます。又、「萩」は「山中温泉」の一節
「行(ゆき)行(ゆき)て・・・・・萩の原・・・」
があり「伊勢の国長島」「菊」「其」「書付」「貞徳」「温泉(いでゆ)」などが出てきます。また
「一家に遊女もねたり萩と月」
があり、ここで「萩」は「一家」「夕」「月」→「伊勢参宮」が出てきます。これは脚注では
「当時は一生に一度は伊勢参りをすべきものとされていた。」
となっています。この「月」は山中の月、「つるが」の月もあります。案外「萩」は少なく、「萩の塵」という
う変わったものが出てるので目立つところです。初案が「萩」の散れ」で、結果が「塵(ちり)」となった
わけで、これは既述のことですが、おそらく「萩の原」の後ろ全昌寺のところで
「柳散れば・・・庭掃いて出ばや寺に散柳(ちるやなぎ)」
の「散」に「萩の散る」があるのではないかといいたいいたいところです。この柳は金石での句
「青々とした柳の枝」を意識したものと取れます。
芭蕉で「須磨明石」と並んだ句があり、「明石」「掃」「全」が「萩原」〈信長公記〉のところで出てきて
ほしいというところです。
また〈奥の細道〉「塵」のところは「塵土の境」で「和泉三郎」がでてきます。「石の階」で脚注では
「五尺余」というのが出ています。日光の前のところにも「塵」がでて「佛五左衛門」が出てきます。
これは雲岸寺の佛頂和尚の「佛」に至ります。種の浜の一節は、海を渡るというもので
「舟」「舟」「乗」「海上七里」「海士」「浪」「風・・吹」「空はれ」「天(廻船問屋)」「浜」「着」「貝」
があり、「空」「天」「海」が出ています
「七里」から「慈覚大師(脚注=「円仁」)も出ますので、「空海」「天海」「円空」というのも
出てきます。「空海」は日光のくだりではっきり出てきますのでその「空」が「円」、「海」が「天」を呼び
出すと考えられます。「空」は「曾良(ソラ)」があるからあちこち浮遊しています。
色の浜の「竹筒」から→
「爆竹」(さぎつちやう)〈信長公記〉=〈信長公記〉脚注「左義長(さぎちょう)」
「義長」=(「左」)=「甚五郎」 (仁五郎)(塵五郎)
「仁木義長」〈甫庵信長記〉→「仁木甚五郎」・・・・・・仁木弾正→弾正→松永
「佛五左衛門」=佛(五尺)和尚・・・・・・・・・・・・・・・・佛→尺五→松永
というようなモヤモヤがあって、
日光伝説名工「左甚五郎」作=「円空」作
というようなものが出てないかという疑念も出るところです。「弾正」は
「星名弾正」〈信長公記〉(考証名「保科正直」)
も用意されています。〈信長公記〉索引では
★泊々部(ほおかべ)→泊々部(ははかべ)
北条3件(氏直)が出てくる)
坊城式部少輔
●祝弥三郎→祝(はふり)重正
牧庵
保科正直(文中表記「星名弾正」)「保科氏は信濃・・正直の家は伊那・・正直は・・徳川氏に」
星野
があり、どうやら●が「ほおり」と読まされるようです。これは★「泊々部」は「ほおかべ」とルビがあり
ますのでそうなりそうです。が、泊々部は別のところで
泊々部(ははかべ)(「波々泊部」)/祝弥三郎
のならびがありました。●は索引登場2回目です。下の牧庵=真木庵、北庵などに影響を及ぼし
ています。このときの●は無理に挿入されたものですが、正式の位置における
「祝弥三郎」(考証名「祝重正」)についての注は
「悦弥三郎吉勝(〈長命寺文書〉四)。実名重正(〈斎藤報恩博物館所蔵文書〉」
となっています。つまり「祝」というのが「悦」に変えられています。既述のことですが
躰阿弥永勝(文中表記「だい阿弥」)〈信長公記〉
注「その名は〈松木文書〉に見える。吉左衛門尉。宮廷関係金工。」
があり、これについて「本阿弥光悦」ではないかといってきましたが「悦・吉・勝」が新たに出たので
これは本阿弥光悦とみるのは合っていたといってもよさそうです。松木文書の松木は松本ですが
同時に「木阿弥」も出てくるのかも。「永」も出てて、要は「弾正」−「松永」がぼんやりと出てきてそう
でこれはなぜかということですが、これは卑弥呼に関わりがあるのでしょう。また
「ほおり」と読む場合の弥三郎重正
があるので堀久太郎も祝弥三郎があるとも考えられます。若そうな弥三郎が出てくる場面があります。
終わりに近い「十六日、(種の浜)」の一節ですから、集大成のものがまだあるかとも感ぜられるところ
です。麻生氏は最後「五〇 大垣」と題をつけています。大垣へ行ったからというのもありますが
本文で「伊勢」の記事があり、「五〇 伊勢参宮」ともしたかったとも取れます。「伊勢」
で「津」を出したとも思われますが、五〇=五十鈴川をみたかも。
(198)色の浜の等栽
「等栽」が現在の本隆寺に記録を残しましたので「小浜」が消えました。等栽は四七の「福井」の一
節のはじめと終わりに出てきます。
「 四七 福井
福井三里・・・夕飯・・・・ココに等栽と云(いふ)古き隠士・・・十とせ余り也。・・・小家に夕・・
はは木ゞ・・・侘しげ・・・道心の御坊・・・妻・・・二夜・・・名月・・つるがのみなと・・・等栽・・
路の枝折(しおり)・・・」〈奥の細道〉
があり、数字は「3プラス10プラス2」で15です。これで「里」「夕」「士」「小家」「等栽」などで色の
浜の一節(四九)につながっています。次が「つるが」で種の浜に至ります。
「 四八 敦賀
・・・比那がタケ(山+高)あらわる。あさむづの橋・・・玉江の蘆は穂に出・・・関・・湯尾・・
かへるやま(脚注=海路山もある)・・・十四日の夕ぐれ、つるがの津・・・月・・・神・・・神・・
月・・・神・・・遊行二世・・・土石・・・亭主のかたりける
月清し遊行のもてる砂の上
(一行空き)
十五日亭主の詞(ことば)にたがはず、雨降。
名月や北国日和定めなき
四九 種の浜
十六日、空はれ・・・ますほの小貝・・・浜・・・舟・・海上七里・・・小竹筒(さざえ)・・舟・・・風
・・時・・浜・・海士・・小家・・・法花寺・・・夕ぐれ・・・さびしさ・・・寂しさ・・浪・・小貝・・萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて、寺に残す。(五十 大垣につづく)」〈奥の細道〉 等栽請いえここのこの一節は「いろ」がも
ということで種の浜に流れてきていますが
@福井が、3里+10+2=15
A敦賀は14+2=16、
B(一行空き)のところは「十五日」だけの=15
C「種の浜」が、「十六日」、16
数字計A(@〜C)は15+16+15+16=62 A船の総数
D其日(16)+(7)=(23) 海上7里が、福井の3里からのものを受けるとして、「其日」
仮数(16)に(7)をくっつけとく
数字計Bは @+B+Dの実数7=37・・・・・・・B船総数
数字計Cは A+C+Dの仮数 =16+16+(7)=39=37+2
要は 60人=23+37
となっていて一人二人までよく異動をみて正確を期すということで
62人=(23+1)人+38人(37+1)
とされていて、この38(37+1)が
A=本船の乗組員と、B=小浜を出航した外国船乗組員の数
の二つを同時にを表しているということになりそうです。
今、清水又十郎の一節でやっているのはこの24人を出すことです。この「海上七里」をそとへ出す
ことによって波及効果が多くなってきますが、当面この「海上七里」の意味は「色の浜」が今の
地名として動かせないので、「色の浜」から「種(いろ)の浜(小浜)」への距離として、
敦賀→(三里)→色の浜→(七里)→小浜 計(十里)余
となるのでしょう。「三里」は福井ででた三里で「等栽」が繋いています。「福井」のくだり
「福井は三里計(ばかり)なれば・・・夕飯・・ココに等栽・・・」
が「種の浜」の一節「ココニ」にも飛んでいますが、この「三里」がおかしいので脚注では
「どこから三里なのか明らかではない。・・・永平寺からということになるが、その距離は約
四里で、夕飯をしたためてからでは遠すぎる。あるいは永平寺から松岡の天龍寺に帰り
、そこで夕飯をしたためたかも知れない。」
となっています。一応「四里」というのはここに出ており、〈曾良日記〉では
「色浜へ趣。海上四里」
となっています。「夕飯」が二回も出ており「夕」と「版」=「大飯郡大飯(小浜湾あたり)」がでてる
感じです。「松岡」は本文では「丸岡」で「松」を起用したとみると「松永川」というのが「遠敷川」と
「北川」の一部をなしているのでそれも出てないとも限らないということです。麻生氏の時代に松
永川があれば参照されているはずです。麻生氏は本文に「したため」というのがないのに二回も
使っています。これは「種の浜」の一節の
「小竹筒(さざえ)などこまやかにしたためさせ・・・」
の「したため」というのを持ってきています。これは現在では使われないので目立つところです。
丸岡で「金沢」の「北枝」も出てきますが「天龍寺」の「龍」は金沢の本龍寺の「竜」にも繋いであり
・・・などいうことで三里(あるいは四里)=七里がでてこの海上七里に結びついていて。
三里(か四里)プラス七里=十里(か十一里)=(敦賀から小浜)
といってると思われます。追い風があったので一里弱という差があるのが正確度が高いといえそう
です。麻生氏の名前は先ほどの「あさむづ川」の脚注が「麻生津川・朝六川」があり、「津」が出る
形で出てきています。ここの「さざえ」は索引で
佐々→佐々成政/栄螺(さざえ)坊(「石馬寺の住人」)〈信長公記〉
があり、「佐々」とか「田螺」「石馬」をここに呼び出すのかもしれません。
本能寺戦死者名簿に
「種村(タナムラ)彦次郎」〈信長公記〉
があり芭蕉はこれをみて、「種の浜」を出したのかもしれません。「いろ」は「一色」の意味はありそうです。
現地の人は「色の浜」のことは「色」といってるそうですが、「一六」=「十六」でもあります。
(199)十六
前稿で「十六」を保留していましたが、ここで「一六」(伊呂・伊蘆)、「十六日」「其日」で「小浜」と、
渡海に引っ掛けて出てきましたので、ここで触れますと風神雷神図の寸法が
154,5×169・8
当時四捨五入があったから 15×17=255 平方メートル
16×16=256 平方メートル
というもの出そうとしたと思われます。赤地と青地のものの問題が燻っていて先ほども赤と青が金石
句が出てきました。〈信長公記〉の人名索引の索引の初めは赤と青ですがそれに乗っかったものが
あります。すなわち、「あ」行
会津の屋形もりたか→蘆名盛隆
青木玄蕃允(「青木」) 赤井直正(「赤井悪右衛門」)
青木所右衛門 赤川彦右衛門
青木鶴 赤川平七
青木隼人佐 赤座助六
青貝 赤座永兼(「赤座七郎右衛門」)
青地茂綱(「青地駿河守」) 赤沢加賀守
青地孫次 赤瀬清六
青地孫二郎 赤林孫七
青地元珍(「青地千代寿」) 赤生美作
青地与右衛門 赤松広秀(「播州の赤松」)
青山→青山与三右衛門 秋田城介信忠→織田信忠
青山新七息 (「赤松」が「赤」の終わり、「赤」から「秋」に変ってる)
青山藤六
青山虎
青山与三右衛門(「青山与三」)
「青」終わり 改行右へ
となっていて「会津の屋形もりたか」が二つを束ねてる感じです。ここから画家が出るならば、雲竜図
も二つ外国え行ったということも考えられます。「蘆」は芭蕉で「清水ながるるの柳、蘆の里にありて、・・」や
先ほどの「玉江の蘆は穂に出にけり」がありました。入力すると「あし」も「ろ」も「芦」がでます。
甫庵では「森高」で索引に出ていますが、
「奥州会津の屋形森高」〈甫庵信長記〉
が正式のものです。「屋形」は「尾形」に似ています。「奥州」となっているから渡海に関係しそうです。
このあと「高山右近」も出てきますがこれは取鳥城の一節でここで登場する高山右近は「絵図」が関係
します。甫庵索引では
森弥五八郎/森高/森寺清兵衛/森寺
であり大宝寺は大宝寺城(のちの鶴ヶ城)でしたから森寺は森城ともいいたいのかも。「会津の館」と
いうのは「鶴ヶ城」が考えられます。「敦賀」→「鶴賀」
で、索引では、若狭で
武藤五郎右衛門/武藤宗(惣)右衛門/武藤義興(文中「出羽大宝寺」)(「鶴岡市の大宝寺城」)
の「鶴」が出てきます。また十六は
四×四=十六
もあり、唐獅子が出てきます。獅子だからライオンということでしょうが、同じ猫科の「虎」もありうるので
はないか、と思われます。唐獅子は狛犬とつなげて話されますがそれよりも近いかも。時事ネット記事
に大分県(日田市豆田町)、「長福寺」発の法話があって
『南禅寺−穏やかな東山の緑につつまれ、こけら葺きの方丈から虎の児渡しで有名な庭園を
望む広縁の頭上に左甚五郎作の両面透彫の欄間があります。その図柄は
「牡丹に唐獅子 竹に虎 」
という古来より耳にし目にする絵図ではあります。』
があり、セットになって虎が出されています。
(200)敦賀の句 「月清し」
戦国の絵で「唐獅子」がよく出てきますが、湯浅常山は
この時代「虎と象」が日本に来たと書いています。
「 朝鮮より虎と象を渡す事
朝鮮より虎と象を引き来る。・・・・清正・・・虎・・・・虎・・・清正・・・。嘉明は壁によりかかりて
居眠(いねむり)して在しが虎通り過ぎたる後も初(はじめ)にことならず。やや有て目を開き
何事に騒がれ候ぞ。虎を引き通れる故にや、といと静かにいはれけり。」〈常山奇談〉
が、あります。もう一人の加藤(「孫六」の加藤)もここに出てきて、清正と対置されています。「孫六」は
格別重要表記で、ここでは、家臣の塙団右衛門とはしたない大喧嘩したとも思われぬ悠然とした大物
の登場という感じで出てきていますが、それは別として、この節の前後も加藤清正の登場です。前の一
節は
「 清正の武備厳重なりし事
・・・釜山海より十里余りのほど・・・・七八里或いは十里計に伴(とも)の城・・・。清正・・清正・・
四里計・・・清正・・・四方・・清正・・・磨筒・・・・火縄・・火・・・清正・・・馬・・馬・・・馬・・月毛
の馬・・馬・・清正・・民部・・馬・・清正・・民部・・清正・・馬・・清正・・米三升計・・馬印・・
民部・・十里・・・萬・・萬・・」〈常山奇談〉
があり、「武備」というのが「武」がだされ、「備」というのも「備前」「備中」「備後」がないこともない、「塙
九郎右衛門直政」イコール「原田備中守」(官命により)ですから。ここの「伴」「萬」「萬」は孤立しておら
ず、先の加藤嘉明(前名「孫六」「茂勝」)を見ていそうですが、ここでは
「十里余」「七八里」「十里計(ばかり)」「四里」「四方」「三升計」「十里」
が出ていて、「三升」が効いて、福井の「三里」、小浜の「海上七里」の解がされていると取れるところ
です。つるがの「けい明神」の「計」や
「月清し遊行のもてる砂の上」
の「清」を清正が受けたといえるところです。しかし繋がりが何となく希薄だといわれるかも。それが
古代からくる「武」、「萬」=「幡」、「馬」、「里」、「升」などが念頭にあると濃厚なものになり、戦国の
語りも引き立ってくることになります。それが本稿のテーマでもあります。
(201)見えないところ
ここに「虎」とともに「象」が出てきたのは何故かという疑念が出てきてくるのは自然ですが頭の痛い
ところです。化荻(草冠なし)の一節で気になるところはあと、「二つ銘のさしやく」があります。
「(三)雑賀表多人数(たにんじゆ)永々・・・
一、化テキ(敵・的・笛もある)、天王寺屋の竜雲所持候を召上げられ、
一、開山の蓋置、今井宗久進上。
一、◆二銘(ふたつめい)のさしやく、是又召上げられ
三種の代物(だいもつ)金銀を以て仰付けらる・・・御泊・・・御帰洛・・・御帰宿・・御帰城。・・
・・・奥州伊達御鷹のぼせ進上。」〈信長公記〉
となっていて、◆が問題となってきます。脚注があるのにそれを避けてきましたがここでそれで
行くしかないかもしれません。脚注では◆は
「二銘の茶杓。二か所に銘があることからの命名であろう。象牙製(松山米太郎氏『評釈津田
宗及茶湯日記』)
があります。本文はもちろんですが、脚注の「二銘の茶杓」というのもわかりにくい表現です。特に二ヶ
所に銘があるというのは解せない解です。ただそれを尊重すると、二銘は
「二金名(二名)」 と 「二か所」
でしょうか。はじめの2名というのは「法王寺の竹さしやく」と「周徳のさしやく」が本文にあるからしようが
ないところで、これは茶杓です。一方二か所というのは「所持」の「所」というのを受けて、
雲竜図
に懸かるかもしれないところです。「是」というのは、「さしやく」というものを改めて受けてるといえるの
かも。「象牙」
製の茶杓というのが専門家には知られているということですが「周徳」(脚注=珠徳)のものが、そうと
いうのは脚注が関わってくる(「象牙」が出てる)からで、もう知られているから、それでよく、「差やくA」
は、つまり雲竜二枚目の絵というのではないかと解せられます。
◆のところ、文章としては
「二名の茶杓(象のもの)、」「(二銘のさしやく)=是、又召上げられ・・」
となりそうです。すなわち脚注を書いた人が「象」を出しとことしたかも、といいたいところです。
◆「ふたつ」の下の「代物」は「しろもの」と解してきていますが、これは代わりの品
物を用意して置くようにお金が渡されたという意味もありそうです。ここの「所持」=「以て」というのも
無視できないものがあります。
(202)加賀の「大聖寺」
「遊行の砂持」の「持」というのが、〈奥の細道〉の
「大聖持の城外、全昌寺(脚注=曹洞宗の寺。泉屋の菩提寺)という寺にとまる。猶加賀の
地也。曾良も前の夜此寺に泊りて・・秋風・・千里・・秋風・・明(あけ)ぼのの空・・越前の国
・・堂下・・下・・・・・諧(きざはし)のもと・・庭・・柳・・庭・・・柳・・」〈奥の細道〉(全昌寺)の項
にある「大聖持」で出ています。これは前田の城を意識してて
「持」−「手+寺」−「寺」−「城」
ということを云ってそうです。「寺」=「城」というのは「階」(きざはし)が名残といえそうで、映画、テレ
ビなどでもよく見かけます。清洲城でもあったようで、信長が会議の間から、庭(下)にいる藤吉郎に話
かけてるような場面ではあの階段が不可欠なのでしょう、遠山の金さんの白洲にもあり、啖呵をきると
きは片足は一段下にあります。倭人伝の「一大率」は役所だと思いますが、少し経つと全く跡形
もなくなり、宇佐八幡宮は末永く残ってきます。宮門、宮殿、宮廷となると役所らしくなり、八幡宮、
八幡社となると、今で言う宗教くさくなってきます。有史、日本では、神武天皇に繋がる大物政治家が、
天照大神
として出てきました。太田牛一では「照」=「輝」の互換が目立ち、光源院、足利義輝=足利義照で、
池田信輝も信照があり、姫路城池田輝政も照政です。こうなると「神」も変わりかねません。まあ地に足
が着いたという感じです。卑弥呼のように政治家といってもよい人までが巫女、神がかりになってしま
っています。〈魏志倭人伝〉に
「名づけて卑彌呼という。鬼道に事(つか)え能く衆を惑わす。・・・男弟あり、佐けて国を治す。」
があり、社会が今日とは異なり、首長の役割が違うところから、こう書くだけのことでしょう。この男弟は今日
でいう弟になりそうで、これが軍司令官のような役割をもっていうといえそうです。湯浅常山は、
「信玄は将略の謙信に及ばざる故に、高野の成慶院にて大威徳明王の法を修し謙信を呪詛せ
られし。其文今に高野山に伝はりけるといふ。・・・信玄川中島に陣せしに、氏康夜討ちして、甲
州の兵敗北し、八幡と書きたる旗を捨て甲州へ逃げ入りたりと見えたり。甲州軍鑑に是を忌みて
●津浪に旗を取られしと記したり。たとへ北条五代記の説誤りたりといふとも、津浪(つなみ)に
旗(はた)を取られしは陣所の地理にくらきにあらずや。」〈常山奇談〉
と書いており、この信玄を謙信は英雄と褒めています。この信玄が亡くなったあと武田はすぐに滅んで
しまいました。生きてれば、最強の軍隊をひきいていて、天下を狙えたといわれています。表題は
「謙信(けんしん)信玄(しんげん)二将の批評」
で、これは誰かが二人を批評したというものだけで捉えられているかと思いますが、それもありますが、
謙信が「信玄(相当の)二将」を批判した、ということでもあります。
政略、戦略、士気の高揚 外交、民政などに優れた信玄のことを褒めてるというで、それぞれ役割
があったということです。●は、陣所の地理もよく調べていなかった、ということで、どちらの領域とも
判らない例かも。しかし調べていなったのはたしか、と非難したものともいえます。これは後年の津波
の文献を念頭に入れたものともいえますがなぜ、武田上杉のところで出たのかも問題です。
聖徳太子、蘇我入鹿の前の時代も大陸に文献が残っていて、遺跡、遺物などもあるわけ
ですから、権力闘争の実相などがよくわかっている、政治的なことに関心が向いてて、それを宗教的な
空気を被せて、語りを、書き方で暈かすのに利用したしたものがあって、寺社の利用もその一つと
考えられます。政庁の姿を今に留めているのが、寺・社ということかも。寺社に仏像などあるのはそこで
政務を執っていた人の姿の反映とも取れます。
ここの大聖寺の「聖」は「聖徳太子」を思い出しますが、〈信長公記〉の「高野聖」の「聖」が近いの
ではないか、と思われます。主語がないのですが
「高野山(かうやひじり)・・・・数百人万方(ばんぱう)より召し寄せられ、悉く誅させられ候。
子細は摂津伊丹の牢人共高野に拘置候。・・・御勘気・・・緩怠・・能登国四郡前田又左
衛門・・・。」〈信長公記〉
があって「万方」は脚注では
「高野山・・・の念仏僧。勧進僧の集団。高野聖は薬や呉服などを行商するようになる。“万方”
は“バンパウ、ヨロズノカタ”(日葡辞書)」
となっています。「万(よろず)」が出ましたが、仏五左衛門の出た日光のくだり、〈奥の細道〉
「日光山・・・佛五左衛門・・・万(よろず)正直・・乞食順礼・・あるじ・・正直偏固・・木訥の仁・・」
があり、あと「空海」「曾良」「惣五郎」が出てきます。ストーリーから「正直」は「しょうじき」と読んでしまって
納得しますが、「よろず・まさなお」と読むことも出来ます。伴・正直にもなりえます。先ほど、索引の
祝弥三郎/牧庵/保科正直(文中表記「星名弾正」)
の「正直」が出ました。日光(二荒)で「空(海)」「ソラ」がでて「食う」もあります。惣五郎も物心五郎で
佛心五郎も出てきて五左衛門につながります。「左」は「左吉」「左右」がまぶされtています。「高野聖」
の薬や呉服の行商というのも、庶民の生活に自然に溶け込んでいけるということでも重要でしょう。これらは
レベルの高い人達だったから。円空もひたすら歩いて仏像を彫って、後世にそれを残したというのでは
なく家々、寺寺で対話があり、ときには貴顕の要請で、東照宮にも作品を残し、歴史の語りをしていた
ということではないか、「円空」も高野聖のような人の集まりの中の一人と位置づけられると思われます。
「高山」などと繋ぐために高野聖の受難というのを出したと思われますので、例えば「天台聖」というよう
なものも出してくる可能性はあります。
(202)鹿島
「大聖持」の一節もいろいろの懸かりがあり「猶」「加賀」もあり「前田」もその一つです。〈信長公記〉能登
国の前田四郡は、脚注では
「鹿島」「羽(口乍)(はぐい)「鳳至ふげし」「珠洲」
となっています。「大聖持」の一節には「入(いる)。」「臥」というのもあって、「入鹿」が出る
か、三国史の「臥竜」から「鳳雛」も考えられます。「入鹿」からは、「高円山」が出て「秋萩」「散る」が、
「柳散る」に対応するかも。ここで
秋=あき=明(明けぼのの空の「明」)
ということはいっています。能登−七尾−等伯−菅屋もあり、明・掃・全・登−高山もあります。
ここは「菩提」というのも脚注からでてきます。庭−丹羽−越前もあり、「持」は「以」もありそうです。
鹿島というのは芭蕉に〈鹿島紀行〉というのがあって、そこで脚注で「仏頂和尚」が出てきます。
「・・・かしまにいたる。・・・ふもと(「つくば山」の?)に根本寺(こんぽんじ)のさきの和尚、今は
世をのがれて此所におはしけるといふを聞て、尋ね入てふしぬ。」〈鹿島紀行〉
がありこの脚注が
「鹿島神宮の近くにある臨済宗の寺。前住は芭蕉が参禅した▲仏頂和尚。」
となっています。あの雲岸寺のおく「五尺にたらぬ草の庵」にいたのは、本文で書かれた
「▼佛頂和尚(山居跡)」
で、そのときの脚注は
「鹿島根本寺の住職。芭蕉参禅の師。」
となっています。▲▼は表記が違う、時の経過が間に入っているという感じで、この二人は親子か師弟
かは別として、別人であると取れます。脚注で勝手にあの佛頂和尚と結び付けてる、つまり
あの「佛頂和尚」、この地の「さきの(子息に譲った)和尚」と、「今の(現役の)和尚」
という三人いるようにしてる、一人を暈していて、根本寺の二人が実存で芭蕉は二人とは面識があり
そうということではないかと取れます。脚注が芭蕉の心の奥を出してきたといえそうなところです。
ネット記事によれば、前田の地、荒子に、円空仏で鹿島大明神銘のあるものがあるそうで、新聞にも
出たようですが、〈鹿島紀行〉は
「らく(ルビ=洛)の貞室、須磨・・うら・・月見・・松陰・・このあきかしまの山の月見んとおもひ
たつ事あり。ともなふ人ふたり(脚注=同伴者は二人。)。
浪客の士ひとり(脚注=「浪人者。河合曾良。」)、
●ひとりは水雲の僧(脚注=行雲流水のように行脚するもの。宗波をさす。芭蕉庵の近くに住んで
いた禅僧)。・・・墨のころも、三衣の袋・・・・柱杖・・・天地に独歩していでぬ。
■いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、・・・」
となっていて、肝心の■●に脚注がなく、数が一人合いません。これが根本寺に着きますが、数はきっ
ちりしないといけないのでしょう。この紀行で句を詠んだのは
和尚・桃青・同・タウセイ・ソラ・同・宗波・宗は・主人・客
で脚注では「客」は「芭蕉」と書いてあります。すると主人は和尚になるのかも。何がどうなっているのか
わからないですが、チャンと、決めているのもありますので、明治時代にもうわかってようです。が、こちらは
わからないので、あてずっぽうでやらねばならないところです。かしまへが出かけたのが〈奥の細道〉と
同じ、芭蕉と曾良とすると、対というのが出てきそうです。芭蕉とバショウ(■)、曾良とソラ(浪客)で
同伴者二人となると考えられます。宗波
は渡海が出てきた今では大物表記で、太田和泉守に乗っかった芭蕉という観念上の同伴者●で、
、円空相当の人物を紹介したともとれるところです。佛頂和尚対応となるのでしょう。「かしま」行き「つく
ば」の出るこの紀行は、
「つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり。」
があり、これの麻生氏の訳は、
「女体男体の二つの峯が並び立っている。」
となっており、土地の人、教養のある人しかわからない女男が入れられています。このショックがこの紀行
の生命でしょう。つまり
「さをしか(脚注=「さ」は接頭語。牡鹿。)のつまこひわたる、」
「双剣」(多分、呉王に献上された陰陽の二剣のことをいっている=〈奥の細道〉の脚注にある)
「僧にもあらず、俗にもあらず鳥鼠(てうそ)の間に名をかうぶりの、」(脚注=鳥とも鼠ともつかぬ
ものといわれる蝙蝠{ルビ=こうもり}のように僧でもなく俗人とも違うさまをいう)
があり、女男・男とも女ともいえない、という登場人物を叙述した紀行ともいえるようです。この紀行では
「利根川」の
「ふさ」(脚注=「千葉県東葛飾郡我孫子町布佐」)
が出て、「ふさ」は「夫差」があるのではないか、「夫」という字がひっかかるものです。またこの「布佐」は
天下「布武」の「布」です。「網代」「武江」もでます。「武江」は覚えといたほうがよいようですが、「武」「武」
がでてくるということが何となく気になるところです。「網代」は鮭を取る竹、木の網ですが、〈笈の小文〉
「伊勢」のくだり、「網代民部雪堂に会ふ」の句
「梅の木に猶やどり木や梅の花」
と繋がっていそうです。伊勢神垣に「梅一木(ひとき)もなし」という話になってきます。自然にはないが
「子良(こら)の館(たち)の後ろに一もと侍るよしをかたりつたふ。」があって語りではあるということを
書いています。「子良の館」の脚注は「伊勢神宮に奉仕する少女」の「詰め所」というようです。この句の
前に、「芦」の「若」の句で
「 龍尚舎(脚注=竜野伝右衛門)
物の名を先ずとふ芦のわか葉かな」〈笈の小文〉
(脚注では「草の名も所によりて変わるなり難波の芦は伊勢の浜萩」が出ている)
があり、〈鹿島紀行〉には「もろこし」の「双剣のみね」のある「蘆(草冠なし)山(ろざん)」も出てます。その前が
「 菩提山
此山のかなしさ告(つげ)よ野老(ところ)掘り 」
があります。この脚注が
「朝熊山の西麓にあった菩提山神宮寺。当時はすでに荒廃していた。」となっており句意も脚注で
「野老(ルビ=ところ)(いもの一種)掘る人々よこの寺の悲しい転変のさまを話してくれよ」
があります。この「菩提」は全昌寺の脚注「泉屋の菩提寺」ででました。この伊勢の神宮寺が小浜の神宮寺と
つながっており、「朝熊」の「熊」が重要となってきます。
芭蕉は小浜までの道のりは〈信長公記〉の記事を踏まえており、それを語りながら、小浜行きを語ったと
といえます。
(203)西浜
「西浜」は、芭蕉の〈奥の細道〉所収のものではない句、
「小鯛さす柳涼しや●海士(あま)が家」〈真蹟懐紙〉〈奥細道拾遺〉など
の前書にあります。「西浜」というのは敦賀の浜の西の方とか、本節(十六日・いろの浜)iの「浜」、要は
小浜の方というのもありえます。●は十六日、種の浜の記事のキーワードでこれによって書き換えが、必
要とわかったという重要なところです。赤の素、「ますほの小貝」というのは西行の歌
「潮染むるますほの小貝ひろふとて色の浜とはいふにやあらむ」
があり、芭蕉は「ますほの小貝」を語るにこの西行のこの歌を踏まえていて、これも〈奥の細道〉所収でない
「 種(いろ)の浜
衣着て小貝拾はん種(いろ)の月 」〈芭蕉翁月一夜十五句〉
の句を作っています。句意は
「潮がその色を染めたと思われるますほの小貝を詠んだ西行法師にならって、自分も今
潮ならぬ黒染めの衣を着て、拾おうと思う」〈芭蕉全句〉
ですが、「種の浜のますほ貝は・・・丹色(にいろ)、薄みどりなど色の美しいものである。“いろの月”
は種の浜の月という意味であるが、ますほの小貝の美しい色の縁を生かしたもの。」「やや興にまかせて
技巧が目につく句であると思う。」という解説があります。種−朱、緑−縁、拾う−拾遺 などが懸かって
いないか、一夜十五句は「十六」がでていないか、というようなことが気になります。
「西行」は「洞哉」により「西上人」としても出てきて、
「此のたび武江芭蕉桃青巡回の序、この浜のもうで侍る。・・・」
と書いていて、このあとに「小萩ちれますほの小貝小杯 桃青」という名芭蕉の句を入れています。「武
江」がよくわかりませんが、小萩−小松も芭蕉にあります。小西行長には、西行の「行」があります。
小浜
西浜 → 小西(肥後・八代、球磨川)
とかいうのは脳裏にはありえます。
「小浜」というのは、〈信長公記〉の地名索引には出ていません。
「武藤宗右衛門」「武藤惣右衛門」〈信長公記〉 考証名「武藤舜秀」
が「小浜城主」ということで注がだしたものです。注が小浜を出した、また、小浜は「神宮寺山」を出して
います。これは神宮城山か どうかはわかりません。
「若州神宮寺山」(脚注=「福井県小浜市神宮寺」)
が、〈信長公記〉の索引にあり、これが「小浜」の代名詞のようなことになっています。「若州」というのを
前に付けたというのは、索引で
若州/若州安賀庄(あがのしよう)/若州熊河/若州神宮寺山/修学寺/修学寺山
というようになるので「熊河」などとつなげて見ようという意思が感じられるところです。「若州」を入れな
ければ修学が出てきませんから、ここに学問所があったのかも。〈信長公記〉では
「去程に江州勢田の橋、山岡美作守・木村・・若州神宮寺山・朽木山中より材木・・」
の一文があります。安賀庄というのは索引では
愛智郡/阿賀/阿加郡/赤坂/明石/安賀庄/あかつか/赤塚郷/あかなべ/安芸→芸州/芥川・・
となって、「芥川・・」のあと「芥川城/明智城」に到っています。「阿賀」「阿加郡」−「安賀庄」という「安」は
「安藤」−「阿部」「安倍」などへの応用がありそうです。愛智郡(ルビなし)−阿加郡となると
「愛智(ルビ=エチ)川」〈信長公記〉
が出てきます。日本の地名の読み方の二重性も感じられるところです。「阿賀」は「安賀」を呼びますが、
本文では「羽柴筑前守舎弟木下小一郎」「西国」「両国」登場の一節の
「・・・宇野民部構・・・高山節所・・・阿賀・・・芸州・・舟・・阿賀の寺内・・・姫地・・」〈信長公記〉
の「阿賀」ですが脚注では
「姫路市飾磨区英賀などの地区。寺内とは放清院のことであろうか(〈赤松記〉)。
となっており、太田牛一は「英賀」を「阿賀」と変えています。伊勢の英虞(あご)湾などを意識した改変
かと思いますが、「阿」は阿加郡で多数出てくる爆竹のメンバーなどと繋いでいます。姫地の脚注では
「白鷺城」も出ています。「祝弥三郎」の鷺の舞とも結ばれているものです。
「安賀庄」は脚注では「福井県遠敷郡上中町のうち」で「御代官」の
「粟屋孫八郎」〈信長公記〉 (索引では次が「粟屋弥四郎」)
がいます。これは実存的にみてどう引き当てられるか、という問題がありますがこれは小浜の人で
「遠敷(おにゅう)川」は小浜湾に注いでおり、神宮寺の遠敷川には東大寺二月堂お水
取りの、送り水の行事があります。松明(たいまつ)が送り火という感じのものになるのでしょう。一応は
粟屋弥四郎(粟屋孫八郎)ーーーーーーーー子息木下長嘯子?
という関係があり、
「武田孫八郎」〈信長公記〉 考証名「武田元明」(「若狭(福井県)守護」「その夫人は豊臣
秀吉側室松の丸殿(京極殿)
という「孫八郎」表記の人物の存在を考えるとき、「粟屋孫八郎」は若狭守護、武田義統子息「武田元
明」で、「粟屋弥四郎」が、後年の「松の丸」かとも考えられます。これならば若狭武田−織田、明智の
早期の提携が想定されます。多分美濃斎藤−若狭武田の古くからの確執が、桶狭間以降6年の〈信長
公記〉の空白期間に天下布武の一環として、なされていた関係改善があったとみれるところです。
粟屋姓の人は五人も出ており
「粟田口吉光(文中表記「北野藤四郎」「しのぎ藤四郎」「薬研藤四郎」)
のあと出てくる
安房守→織田信時/粟屋右京亮/●粟屋勝久/粟屋大夫/粟屋孫八郎/粟屋弥四郎/安斎/安西
の五つで出てます。このうち●の
「粟屋越中」(考証名「粟屋勝久」)
のところに信長公が行っており、これだけ注で解説があります。すなわち
「越中守。国吉城(福井県三方郡美浜町佐柿)を守る(〈福井県史〉。■若狭国は信長の勢力圏」
となっており、この人物の城があり、これは敦賀から小浜の中間あたり「美浜」にあります。「三方湖」のあ
るところですから〈信長公記〉の「身方ヶ原」の「みかた」と関連付けられていそうです。注に■の余分な
ことが入っており、朝倉との破局に至る前は織田の勢力圏で信長公がこのあたりを足場にして出てき
たことで紹介されてるということです。この「勝久」という名前はどこかで見たことがあって、あの「山中鹿
介」が尼子の新宮党の末裔の人を、勢力挽回の頭にいただいた人の名前で、それだと「熊見河」のある
「上月」の「山中」
が絡んできます。この人物は誰かというときにこれを想起すれば十分で、最近ではネット記事にもう実存
的名前がでています。記事「佐柿の古い町並み」によれば
「天正11年(1583=本能寺の翌年)国吉城主となった豊臣家臣の木村常陸介定光は、それまで
国吉城麓の小集落でしかなかった佐柿の整備に着手します。・・・北町、横町、南町、殿町、堅
町、野瀬町などの名が通称地名として残ります。」
となっています。この索引では、「安房守」が不自然な挿入となっており、また「粟田口」の三人の
「藤四郎」も「粟田」にいれるのはおかしい、「粟屋」が渡海からみと、「粟田口」の「藤四郎」で使われて
いそうでもあります。つまり「越中」の「木村常陸介」の「四郎」と、「粟屋」の「弥四郎」に目を向けさせて
のが感じられるところです。
「敦賀から小浜への間には、鯖街道があって「美浜」と「熊河(川)」(小浜南のあたり)があります。もう
一人「熊川」「熊河」では
「松宮玄番允」〈信長公記〉(文中表記「松宮」)
が人名注で出てきます。注では
「若狭熊川(福井県遠敷郡上中町)地方の豪族(〈若狭守護代記〉〈福井県所載〉)」
となっています。「熊河」は「若州」が前に付いているため、地名索引の
久能の城/熊野/熊野浦/熊見川/・・・
の中には入らず見落とされますが、これは「上月」「山中鹿介」の出てくる一節「熊見川」と繋がって
います。若州神宮寺は脚注では「福井県小浜市神宮寺」でこの「若」は「化荻(クハテキ)」の「若江」
に通じていますが、この
「若州熊河」−「小浜」−「熊見川」−「(山田)山中」−「熊野浦」
が一連対のものとなっています。ここを守る大将は織田家中の有力者のようで信長公がここで泊まって
います。この人物は前田玄以ではないかと一応取れるところです。すなわち
○「武田」⇔「武藤」かどうかは別として「武井」の「武」が出されている
○「松宮」の「松」は「赤松」「小松」「松永」(「松永川」がある)「松の丸」「松・竹」「松井」、宮は「宮内
卿法印=松井友閑」、「赤松−平田−宮本」、「宮部」が考えられる
○「玄以」=(玄)=「玄番允」でこの「玄」は武田元明の「元(げん)」にも通ずる。芭蕉のこの当り
加賀・大聖持の「前田」がでており、「持」⇔「以」は「もつ」で互換となるが、この両方出ており、
「所持」「所収」の所は
「島(嶋)田所之助」〈両書〉 (「秀順」・「秀満」とされる)
の「所」でこの人物は「玄以」も該当すると思われる。
ということなどで玄以が出てくると思われます。要は武井−武田−武藤という「武」の、前田、宮部、
小西、木村などが若狭で、敦賀〜小浜間で出てきた、太田牛一が小浜までの案内をしていると読ん
だ芭蕉も出しているといえます。
若州神宮寺−伊勢朝熊山神宮寺−熊見−熊川(球磨川)−熊野
で「熊野」が出てきました。
(204)Xの地点
欧州渡航船は一つは小浜から長崎へ出航しましたが、日本の大船は、特設の造船所、操練所
から、長崎へ出ることになるはずです。これがどこかが問題で、芭蕉も当然とりあげるはずのところ
でもあります。芭蕉は敦賀(鶴賀、角鹿)で
つるがの津 つるがのみなと
の二つを出していますので、それがどこかというときに、藤堂の故地、伊勢の「津」から「熊野浦」に到る
港湾が、考えられるところです。このあたり蒲生の伊勢松坂、香良洲海岸があります。九鬼の大船七艘が
天正六年、
「六月廿六日に伊勢より紀州熊野浦へ押出でけるに・・・雑賀・・・」〈甫庵信長記〉
があり、太田牛一は
「{寅}熊野浦へ押出し・・・」〈信長公記〉
と書いています。滝川白舟の、「押しでる」「押しだす」という語感や、
「伊勢より」となっている「伊勢□□」の地が小浜と対置されていそうです。
昔の書き手は 知りたいという要望にはあからさまに応えられないことから、間接に出そうとしますが、
反面、わかるようになっている伏線を敷くのは長けておりりましたので、ここでもそれを
取りだせないか、と読むのが要ります。一応、「伊勢」といえば「津」がでてくるのは
伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ
があり「持」を若狭街道からもってきています。これは「つ」がたくさんあって
伊勢は津でも津 津は伊勢でも津 終わり名古屋は城でも津
つまり「伊勢」「津」「津」「津」「伊勢」「津」「城」「津」で「城」も出てくる、津城もあり、ここではないかと感
ぜられるところです。名古屋は「那古屋弥五郎」=弥五郎=「前波弥五郎」、名古屋の「上前津」「下前
津」「前津」の「津」となるのでしょう。
種の浜十六日、の「海上七里」は芭蕉が書いたもので、敦賀から現在の色浜までは
距離的にはかなり短かすぎるわけでこれはもうわかっていることです。芭蕉で「七里」の句があり
「熱田に移る日 河豚(ふく)釣らん李陵(りりよう)七里(しちり)の浪の雪」〈桜下文集〉
「桑名に遊びて熱田にいたる 遊び来ぬ河豚(ふく)釣りかねて七里(しちり)まで」〈皺箱物語〉
があり、句意は、桑名の渡(わたし)から熱田まで七里も来てしまった、というようなことです。
「河豚」というのが「人の釣ろうともせぬ魚」というようで、これが俳諧的となります。〈万葉集〉では
「水江(みずのえ)の浦島の子が、鰹釣り鯛釣り、かねて七日まで家にも来ずて・・・・」
となっているものが、転換されています(〈芭蕉前句〉)。すなわち「七里」⇔「七日」もありえます。色浜
へは、曾良は前日出て、翌日帰って来ています。芭蕉の行程は曾良とは途中で(せきふのわかれ)を
しており、空白七日があるといわれても否定はできないところです。これは、別としても
『「李陵」は「子陵」の誤記であろう。」〈芭蕉前句〉
とされておりこれは「李陵」が有名であるだけに問題でしょう。「木+子」の「木」が浮き上がります。前漢の
「李陵」、後漢の「厳光」(字=子陵)ですが、「厳光」にまつわる故事があって、その釣りした場所が、
「厳子瀬」(「厳陵瀬(「げんりようらい」)で、近くに「七里灘(たん)1(「七里瀬」)
という場所があったという話がある、と書かれています。すると「子」も「陵(りょう)」でこれは「御陵」=伊勢
神宮というものが出てきて、七里は海岸線の「七里」ととれそうで、新田義貞で有名な鎌倉の七里ヶ浜が
あります。芭蕉の行った「色(種)の浜」は、海上「七里ガ浜」すなわち小浜というのはここでも出ていそうです。いえます。
伊勢湾東岸
熱田→(七里)→「桑名」→四日市→鈴鹿→白子→「津」→伊勢松坂→香良洲海岸→「伊勢(陵)」
|−−−−−(七里)ーーーーーー|
ということで、神宮から「津」まで七里くらいと見ると「伊勢□□より」というのは「伊勢の津より」ということ
ともとれるところです。 〈奥の細道〉では
「十四日の夕ぐれつるがの津・・・・持・・・もてる・・・・十五日、雨・・・・・、十六日種の浜・・」
となっており「十五日」は記載がなくこれは〈信長公記〉爆竹の一節の正月十五日に合わせてありますが
「つるが」の「つる」は「釣る」と「鶴」に懸かり、伊勢松坂の蒲生・木村の鶴ヵ城の鶴、蒲生・布施−香津畑
の「津」があります。
つるがの「津」は「みなと」でもあって「しん」でもあります。
興味津津のおかげで森森−深深へつながりそうです。「津々浦々」というのが
あり、これはもともと中国文献にあったものか、日本語的な感じもありますが、九鬼右馬允の大船登場の場面
天正六年
「六月廿六日、伊勢□より紀州熊野浦へ押出でける・・・・・七月下旬に泉州堺の▲浦へぞ上がりける。」
〈甫庵信長記〉
は「津津浦浦」からみれば、□は必要、「津」→「浦」が文構成のモトにもなってそうです。一方、同場面
「熊野浦へ押出し・・・・{寅}七月十七日、堺の▼津へ着岸候なり。」〈信長公記〉
となっており、これは「▲浦」→「▼津」となっています。「香良洲」は「烏」でもありますが、「から津」では
ないか、とも取れます。
「山口岩洲の城」〈信長公記〉
は脚注では「兵庫県朝来郡朝来町山口。その小字に岩洲(津)がある。」となっていて、甫庵では山口は
「山口岩洲両城」となってるので、わけなければならないところです。隠されて「津」「城」が出てきたという
ところです。
「から津」は「加羅津」「韓津」「唐津」の「津」が出てくると、海を越えて、海外という「津」となります。
三重県には、「安濃津」という「津」もあり(現在の安芸郡安濃町と思われる)、ここは関が原古戦場でも
あり、歴史上有名にされていますが、それも「津」という字が預かっていると思われます。「安芸」は「秋田」
の「秋」を見てます。
(205)安濃津
「藤堂高虎安濃津にて勢揃(せいぞろへ)せられし事」〈常山奇談〉
があり、この藤堂高虎の人名索引のページ数がおかしく「中(巻) 二 二」となっています。正確には
「中 二一二」です。本文では
「元和五年、藤堂高虎、領国安濃津にて俄に勢揃・・・福島左衛門大夫領国を削られけり。」
があり、人名では福島正則がただ一人出てきます。次節ではこれを受けて、
「福島正則領国を召放(めしはなさ)るる始末の事」
の話が続きます。福島の領国は「安芸備後」とされていますが、これは「備後鞆」にも懸ります。ここで
「藤堂和泉(の)守高虎・・・・・{板倉伊賀守・・・・井伊掃部頭・・・福島左衛門(の)大夫・・・
和泉(の)守・・・・掃部(の)頭・・・福嶋・・・和泉守・・・今川氏真・・・隼人・・・氏真・・・和泉(の)
守・・・掃部・・・久世三四郎、坂部三十郎両人・・・太田善大夫・・・太田(おほた)・・・・・・
福嶋左衛門(の)大夫・・・太田(おほた)・・・福嶋・}・・福嶋丹波・・・上月文左衛門・・{・・長尾
出羽・・・森美作守忠政・・・森家・}・・・丹波、上月・・・・{・・・上月は禄五千石、士大将たり。
正則、上月が志を感賞し書簡をあたへらる。}・・・・大崎玄蕃長行・・・鞆の城・・・鞆・・・真鍋五郎
右衛門・・木村常陸介師春・・・石田三成・・・・津田備中・・・・大崎は・・(「木村」の)・・士大将・・・・上月文右衛門
・・・上月・}・・竹中・・{大崎玄蕃長行・・・安藤対馬守}・・」〈常山奇談〉
があります。長い文ですが、ちょっと関係なさそうな久世、坂部両人が出てきています。これは常山が
「久世三四郎坂部三十郎物見の事」「源君久世三四郎坂部三十郎へ物見仰付けらるる事」
の二つの節を作って「物見」を二箇所も出してきています。
「野々口・・山中鹿之助・・・物前の目・・・」「海賊九鬼大隅守」「紀伊弥三郎・・・菅和泉守政利」」
などが前後の節にに出てくるので、航海に二人の物見役がいたことを示していそうです。誰と誰かとなると、
「掃部頭」と「真鍋五郎右衛門」
が出ており、戦場往来の戦巧者の大将、「明石掃部助」「宮本武蔵」が出てきてるところでしょう。そんな細か
いことはこの際要らないというかもしれないが、常山は知ってたわけで、そういう記録があることを示している
ということであれば重要なところです。見張りは重要であの船が近づいてきてるか、遠ざかっているか戦意
があるのか見きわめないといけない、夜中真っ暗のところでヒタヒタと寄せられていたらもう負けでしょう。
後藤又兵衛が敵が退去してるのを見切って加藤清正に報告してその通りだったので激賞されたという話
があり、これは砂塵が遠ざかっているので見分けたという、ウロ覚えの話があります。後藤又兵衛は目がよか
ったのか訓練したのか、子が引き継いでるといえます。まあこの二人が見張ってくれてたらもう大丈夫
でしょう。久世、坂部は一人か、二人か、三人かわからないという問題がありま
したがこの場合は一人一人の両人の仮名としての登場です。また久世、坂部の文の中で
「能見・・・能見・・・観世左近・・謡・・剃髪して安休と号す。・・能・・・能・・謡・・」〈常山奇談〉
があり、〈信長公記〉索引の津の南「伊勢松坂城主」
「服部春安」(文中表記「服部小平太」)
のことを出して、蒲生、木村と桶狭間と渡海を繋いでいますが、渡海のことでいえばあの「十六」はここで
も別のことが出てきたようです。明治42年(1909)「世阿弥十六部集評釈」が吉田東伍によって刊行され、
世阿弥研究の元年となりました。画期的な業績ですが、この素は伊那の堀家伝来の世阿弥十六部集です。常山は
保科正之に招かれた服部安休の仕業といってそうです。森蘭丸の孫だから当然のことといえばそれまでで
すが、偉大なる功績といえるものです。これも堀と森の接近の一つです。
ここで、とにかく藤堂和泉守が「安濃津」で出てきます。「津」で出てきたということが決定打ということになり
ますが「安濃」が重要です。というのは湯浅常山は、もう一つ
「伊勢国阿濃津城軍(いくさ)の事 附佐治縫(ぬ)殿(ひ)が事」
を出しており、佐治が「津の城に籠る時十六歳、名を善大夫」と書いています。佐治は大阪陣で後藤に招かれて
士三十騎の将となり、のち池田に高禄で仕えたようです。いいたいところのことは「津の城」でよいわけで
「安濃」を「阿濃」に変えているところです。安藤の「安」と、阿部の「阿」を、使っていて、これが藤堂と結び
ついています。現在の郵便番号でも
安芸(あげ)郡 安濃(あのう)町 ア 安濃 514−2302
安部 514−2327
荒木 514−2301
となっており「安濃」「安部」というのが出ています。要は〈信長公記〉の人名索引の
安東(「安倍貞任の子孫)/安藤伊賀父子/安藤右衛門/安藤守就(「安藤伊賀守」「旧安倍氏」) す藤堂 藤堂高虎に「伊賀守」「佐渡 の安倍(甫庵では「安部」「阿部」)を出していることになります。安藤右衛門が藤堂高虎を表している
のかどうかわかりませんがここから公式がでてくるところです。アは「荒木」までですが「荒木」からは自然と
「荒木村」が出てくるところです。〈太閤記〉で出てくる池田の伊木清兵衛も〈武功夜話〉では「伊木村清
兵衛」となっています。安濃町には「太田」「清水」「東観音寺」などの地名があります。津観音も津城と
とともに有名なようです。この佐治は伊勢湾の津側の対岸の代表として出したと思われます。太田牛一は
海戦の古戦場、蟹江(海部郡蟹江町)基点として(カッコ内は脚注の一部)
「蟹江・あらこ(中川区荒子町)・熱田・大高・木多(東海市横須賀町木田)・寺本・大野(常滑市
大野町)・とこなべ(常滑)・野間(知多郡美浜町野間)・内海(南知多町)(本文は改行なし)
桑名・白子(鈴鹿市白子町)・平尾(四日市市)・高松(三重郡)・●阿濃の津・楠(三重郡)・ほそ
くみ(細頸 松阪市松崎浦町」〈信長公記〉
を書いており、東岸知多半島を述べ、西岸の桑名に飛んで松坂市まで書いています。●で「阿」が使わ
れていて「津」というのが阿濃から分離されています。この「阿」から「阿閉郡」(脚注=現在の「阿山郡」)
も出て来たと思いますが
「阿閉(アヤ)郡、滝川左近・堀久太郎・・・・阿閉(あつぢ)淡路守・不破河内守・・」〈信長公記〉
があり「阿閉」は「アヘ」でもあり「阿部(阿倍)」ですが、常山は竹中も出してきており、「濃」が「美濃」で
藤堂高虎−安藤−阿部−阿閉淡路守−渡海−爆竹・堀久太郎−不破河内−竹中
とでもなってきて、「和泉守」「太田」「森」が出てきますと、本能寺の年あたりで太田和泉守が第一線を退
くにあたって
藤堂高虎
‖
森蘭丸
という関係が成立したかも、という重要事を「津」にひっかけて言ったと取れそうです。福島正則家臣
大崎玄蕃は、「松宮玄番」「藤堂玄蕃」に懸かり、木村常陸介の士大将だったということで常陸介子息かも
知れません。「大崎玄番長行」と{大崎玄番長行}という普通の字と細字のフルネームの二つがでてきまし
たがこれは
「小西行長」の「長行」
を言外に出しているものと見て取れます。
(206)今福又左衛門
福嶋が出てくるのは「福田」「福井」「宮福」「福富」や「島田」「島」の関係もあり
ますが、わかりにくい福島正則で、語りたいことを述べようとしてることもあります。今川の姻戚で有力者、
福島氏が福島正則にかかわってくるということもあるのでしょう。今川氏真について、天正参年
「▲今川氏実(ウジサネ)御出仕、百端帆御進上。・・・▼今川殿・・・鞠(マリ)・・」〈信長公記〉
があります。「百端帆」は脚注では「未詳。」となっています。大船建造案は元亀四年に出来上がって
おり、この帆船の帆の布地ととれそうです。つまり常山は「津」(造船所)に対応させて「今川氏真」を出
して来たと取れるところです、「櫨(ロ)を百挺立てさせ」の百に対応するものでしょう。これ
がひょっとして大石源三氏直を指すようなことでみてきました。〈信長公記〉索引では
今井/今川氏真 *178/今川孫二郎/今川義元/今福昌和(文中「今福筑前守」)/●今福又左衛門/
今村氏直(文中「今村掃部助」)
となってて、●の「福」が何かわからないというのが気になるところです。
ここの▲が索引に漏れていて、それがあやしい、その表記がないというのが大きいところです。
▼で「今川氏真」を項目に入れたはずです。▲▼が、同じページに出てるので「*178」として、誤魔化し
たといえそうです。つまり、有名な義元兄弟の相続争いの収め方によって
今川氏真(義元の兄の子)ーーーーー子・今川孫二郎〈信長公記〉
‖今川氏実ルビ=ウジサネ)大石源三
今川氏実(義元の子)ーーーーーーー子・今川孫次郎〈甫庵信長記〉
ということになるかも、というのが、ありそうで、義元の兄の子が福島氏という「福島」とことと対応するもの
ですが、ここに「福島丹波」が出てきたのは福島正則の一の家老で、後藤又兵衛が
黒田退散の折、高禄で召抱えようと進言したなどというような話題の多い人物です。正則の名誉を守
って、武勇の福島家を事もなく終わらせた傑物として知られているので当然ですが、外戚なので筆頭と
なってるという暗示、福島は連合いの姓でもあると思わせるものでしょう。ここにあるように正則は「左衛門
(の)大夫」としても知られていますが、これは北条の先陣大将に「地黄(ぢき)八幡」の旗で有名な
北条左衛門(ルビ=の)大夫綱成(つななり) 〈常山奇談〉
がいてこの中間の名前が取られています。福島マサノリという人はこの人物の姻戚でもありそうで、北条
と今川は争いながらも密接な関係がある一例でもありそうです。福島正則は、名前の「正則」もわかりにくい
ものです。正則の「則」は、あまり見当りません。
「三条吉則」〈甫庵信長記〉 (「平田和泉」「小川の美濃屋の小四郎」「みの亀」「命」「二条殿」等
と出てくる)
「神吉則実」〈信長公記〉(文中表記「神吉民部少輔」)
があり、これだと「吉」と結びつくようで、これが尾張に関係しそうです。先ほどの「亀」でいえば初代丹波
亀山城主は「徳善院」、「民部卿法印」、「前田玄以」であり、「命」からも「吉」が出て
「長命吉右衛門」〈信長公記〉(ちようあひ)
がありますが、これは文中では先ほどの「観世」と出てきます。直感的には福島正則は武井夕庵の連合い
「夕安」の子というのでわかりにくいのかもしれません。
「吉」がつくのは美和の「三輪(三好)吉房」「田中吉政」がいます。一方、もう一人、志津ヶ嶽七本鑓
賀須屋武則〈信長公記〉 (文中表記「賀須屋内膳」)
テキスト注: 「播磨(兵庫県)別所氏の与力で加古川(加古川市)の住人(〈図説三木戦記〉。のち羽柴秀
吉の臣(〈別所長治〉)。天正十一年六月の賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人。子孫は糟屋
という。」
がいます。かすや=すかや=菅屋 だから、この人物の意味が大きく、「内膳」は「平手内膳」「狩野内膳」
などがあり索引では
上総介→織田信長/糟屋蔵人/賀須屋武則/片岡(「伊勢桑名の地侍」)/片岡鵜右衛門
という位置にあり、「上総介」が多少無理気味に入れられたあとに出てきて逆に上総介を説明してる、と
いえないこともない、いまでいう男性がここに出てきているといえそうです。「播磨」は「織田播磨守」があり、
ここで「兵庫県」と言い換えられてるから「織田兵庫頭」でわかりやすくなるならば、やってみてもよいのでし
ょう。「与力」というのは、「古田重然」の脚注に
「はじめ中川清秀の与力。」
というのがあって、この「与力」という 意味が学者によって説明されていないので問題で、「武則」は三木
にいたのかもしれない、とも取れそうです。
「別所彦進」とどう違うのか、という問題です。「加古川」が「加古川市」というのは「市」というのが意味
ありといってそうです。
「荒川市介」〈信長公記〉(「加賀(石川県)の地侍。」)
のような「市」は「地侍」と意味が共通するかもというような。脚注で「加賀」が出てるところ「石川」といい
かえているのは、「石川」で前後と新たな繋がりをみようといってそうです。索引で
恒河久蔵(「尾張津島(愛知郡津島市)の名族」〈尾張志〉)
坪坂新五郎(加賀石川郡鶴来の住人〈越登賀三州志〉)
の「石川郡」、は前の「津島」(「津島市」)の「市」の浮き出しをみて(石川県)の荒川の「市介」に至りますが
「賀」というのが「鶴来」の「来」があると「来駕」といきそうです。「鶴賀」「敦賀」→「津」がやはり出されて
伊勢松坂蒲生−会津の「鶴ヶ城」と「津」が結べそうです。「志」が二つあってあの三国志の「志」ですが
「図説」は「志図画嶽」の「図」の「石川」で「図」=「津」ともいっています。島津などの「津」ですが、
「大津伝十郎」〈信長公記〉
の「大津」の「津」というのも「津」として重要です。大津伝十郎は「長治」なので、三木の城主別所長治
に繋げて考えようという人があってもおかしくないわけで、別所長治は自分の子とはいえ何の責任もない
ミドリ子を殺して城を明け渡したというのですが、安徳天皇の場合と同じで、これは根本的におかしい
ので、その余波で別所長治の生存がどこかであるはずです。歴史の教えられ方によって、赤ん坊まで殺しても
も、それが不自然でなくなってるというのは、どこかで痛恨のこととなって出てきかねません。ここで索引注で
「のち羽柴秀吉の臣〈別所長治〉」
となっており、この書き方からみると、書物の名前が生かされて、別所長治がのち羽柴秀吉の臣となったと
取れそうです。これも生存伝説の一つとすると誰になったのか探さないいけないところです。天正十一年と
いうのは本能寺翌年なので、賀須屋=須賀屋は兼松の子息の年代です。●が今村正直の前にあって
今川+村井の「今村」とみるときに「福島正則」ではないかというのが直感というところです。
(207)福島正之と正則
福島正則も賤ヶ岳七本槍なので、菅屋九右衛門長頼に近いといえます。福島正則がややこしいのは
正則の出自をめぐって、余り知られていない「福島正信」・「星野氏」と、有名すぎる豊臣秀吉が出て
来て出世したのは天下人の親戚だからということで納得されているからでしょう。すなわち
福島正則は福島正信の子
福島正則は星野成正の子で福島正光の養子になった
福島正則母が豊臣秀吉叔母
となっているので
福島正信(今川の福島?)
‖保科正直ーーーーーーーーーーーーーーーーーー子 福島正之
‖星野成正ーーーーーーーーーーーーーーーーーー子 福島正則
豊臣秀吉の叔母(智子)
という関係で出したとしても、この秀吉が、あいまいだ、誰だかわからないということがあるからともいえます。
福島正則の連合いは
「福島正之」〈類書〉
が知られていて、福島正則の福島は今川に有名な「福島(正成)」がいるので、それとのつながりの問題も絡んで
きて複雑になるようです。「星野」氏については、三十三間堂の通し矢の星野勘左衛門の「星野」が
有名で、これは「勘左衛門茂則」ですが。祖父は「則勝」、父は「則等」というようで、「則」が付いてるから
これが、正則の出自を示す有力なものとなるということは確実です。〈信長公記〉索引では
祝弥三郎/牧庵/●保科正直(文中表記「星名弾正」)/星野/星野左衛門
があり、この星野です。●に関しては注では
「(1543〜1601)保科氏は信濃の大族。正直の家は伊那の住人。」
となっています。「実名」とか書いておらず、「保科正直」の「正直」に関しては芭蕉の日光のくだり
「万正直」の「正・直」というようなもの、「赤井直正」・「塙直政」・「井伊直政」「南部宮内少輔政直」という
ような、太田牛一の「正」・武井夕庵の「直」を組み合わせたものという感じがするもので、誰かまだわかりませ
んが、「会津の中将」の「保科正之」の先祖とみてもよさそうです
保科正之=(正之)=福島正之
で、福島正之を呼び出したものと思いますが、大石源三(氏直)の子が福島正之とすると
今川氏真ーーーーー今川孫二郎 福島正則
‖大石源三 ‖福島正之(今川孫二郎)
i 今川氏実ーーーーー今川孫次郎 ‖津田市介
今川孫次郎
という関係が成り立つかもしれません。すると大石源三は保科正直になるのでおかしいではないか、という
ことで新しい資料が土の中から出るまで待つのが学問的だとなってしまいます。ただこうみると福島は今川
かも、ということはボンヤリでますから、捨てたものではないかもしれませんが「正信」というのが余りにも、
強烈なので(狩野と本多)この説明はできまいから資料が駄目だということで落ち着きそうです。太田和泉守
は、「信定」もあるくらいだから、「信正(政)」は「重正(政)」よりも太田和泉守的ともいえます。●は文中には
なく「星」という(日月と同じような特別な)「名」ということですから、目的々な名前といってよいようです。
つまりこれ全体がその程度の見当でよいものでしょう。この場合も、六つくらいのアプローチが内包されている
というのは共通かもしれません。福島正則は桶屋の倅ということで有名ですが、桶屋は桶谷で桶狭間で、ここで
登場の「同朋」「林阿弥」の印象が強烈なのに、よくわからないわけです。「今村氏直」という表記が、大石
源三「氏直」の倅が、福島正之であろう。、「今村」という「今」は、「今川」プラス「今福」「今江」、「村」は「村井」
「木村」の「村」とすると、福島正則はこれを包摂した感じのものとなります。甫庵索引で「今枝弥八」があり
猪子兵助(介)/今井掃部助/今井宗久/今枝弥八/今川氏実/今川孫次郎/今川義元/義元/今福・・・、
となっていて、「今川」−「今江」−「今枝」ということで、猪子兵介がらも、三輪(美和)の面からも補強して
みることも必要です。
福島正則は豊臣秀吉(太田和泉守)の姉の子ということですから、武井夕庵の子相当で(世代は
後で考えればよいが武井夕庵Aの子、つまり孫)という見当になります。相方の福島正信は星野で「成正」が
でてるから「福島正成」もなんとなく出てくるまあ「今川」の人という見当になるのでよいのでしょう。
星野成正(「成政」もある)は佐々成政、想起で、佐々孫助が武井夕庵の幼名というのも関係してくるところ
です。要は、この索引
星野/星野左衛門/保科正直(「星名弾正」)
の「星野」二つに注がないのが、いわくありの所で、そのため言わんでもよいとこまでいったかも
しれないわけです。「星名弾正」の並びですから、「星野」は「星」の「弾正」で、まあ、武井弾正とでもして
おけばよく、秀吉の姉の
「日秀院、とも」〈武功夜話〉
と同一としておけばよいのでしょう。
(208)三好吉房(一路)
〈武功夜話〉を借りると「日秀院」は
三輪法印 三輪法印 一路
▲三輪吉房(一般に「三好吉房」)
‖ーーーーーーーーーーーーーー秀次・秀勝・秀保
▼日秀院 とも 秀吉姉(星名成政?)
という関係になります。ここで▲が特にわかりにくい人物で、ネット記事などによって補うと、
「武蔵守」「三位法印」「三好一路」「三輪法印」「弥助」「三輪氏−長尾氏−木下氏−三好氏」
「長尾武蔵守」「常閑」「日海」「秀次(実)父」「瑞竜院日秀の夫」
「父三輪宜政、母長尾氏」「一宮市萩原町」「兄、三輪吉高」「弟、三輪吉久(越中守守久)」
などがあり、▼は「日秀尼」もあります。ここで「三輪」「三好」があるということは一人ではないということで
一応、衝撃的な「秀次の(実)父」という面は切り離して、考えた方がよさそうです。これは
「三好笑岩」「三好笑巌」〈信長公記〉 考証名「三好康長」(「三好山城守」も三好康長とされる)
がいて、この人物はテキストでは「秀次を養子にした。」と書かれており、このどちらか一方と、三好吉房が、
重ねられてる可能性もなきにしもあらず、といえそうです。したがって、「北条氏照」、鬼武蔵「森長可」に
つながる栄光の
「武蔵守」
の側面でこの人物を見ることが必要となります。湯浅常山は福島三家老、福島丹波、尾関石見、長尾
隼人を出してきておりこの隼人の「長尾」が長尾武蔵守に繋がるとなると福島のところで、三好を出して
くるのは自然の流れでもあります。「尾関石見」は「備後三次(びんごみつぎ)」ですがこれは浅野内匠頭
の夫人揺泉院の実家の三次家という場合は「みよし」です。「石見隼人」も出していますからこの二人は
密接な関係かもしれません。マイナーのようでも、福島の「長尾・尾関」は
長尾
尾関 で「尾」が強調されて、上杉謙信の長尾景虎の
「長尾」もあり、「関」−「世木弥左衛門」−「久世」もあり、〈信長公記〉索引の並び
、 中村与八郎/長屋甚右衛門(解説なし)/長山九郎兵衛(「永山氏」「能美郡虚空蔵山城」)
の長屋に関わり、「長山」は芭蕉の
「鶴が岡の城・・長山氏重行・・(図司)左吉・・酒田の湊(みなと)(津)」〈奥の細道〉
にいっています。「空海」「円空」のソラもありますが、この「左吉」が「武井」らしい「武田左吉」であり、これは
「長」−「たけ」=武、 「武蔵(守)」の「武」、 天下布武の「武」
などの「武」であり、「堂洞・・・鍛冶の在所関」の脚注で出てくる「蜂屋町」がらみの「武井」の「左吉」でしょう。
「武田左吉」〈信長公記〉
は脚注では
「天正二年正月二十三日左吉は、塙九郎左衛門直政の客人として津田宗久の茶会に招かれた
(〈津田宗久日記〉)」
という他愛ないものだけとなっていて、とりつくしまもないものですが、化荻の一節につなぐと
「天王寺屋竜雲」(考証名「天王寺了雲(注:「津田宗達の一族」)
「今井」「今井宗久」(考証名「今井宗久」(注:「和泉堺(堺市)の商人で茶人・・今井宗久茶湯日記抜書」)
「二銘(ふたつめい)」の「さしやく」
があり「津田」と「宗久」、「津田」→「武蔵」→「武田」など(左吉−佐吉−石田とか図司もある)から、雲竜図
が出てきて、三人だけが舞台にいます。肝心な宗達の画面の二人の暗示があるから
武田左吉「雲」−−塙(鼻輪)直正「竜」
\ /
津田(宗久)今井
となっている感じで、あの画面は夕庵−牛一としたのは合っているともいえる茶会の武田−塙(土+高)
というのでしょう。三人が時代を述べる出汁(ダシ)になったという一面の出ているところです。
長屋甚右衛門はの「屋」は「尾」に変化し「長屋」−「中屋」−「中尾(源太郎)」とか「長屋」−「長尾」にも
なり武蔵守の「武」は「長(たけ)」でもあり、長屋は武(竹)尾にもなります。福島の三家老の二人、長尾・尾関
の、長−(尾)−関 の「関」は「美濃加茂」「鍛冶」「岸」「蜂屋」「武井」などに行きます。尾関石見は隼人
なので「木村隼人正」が甫庵にもあり、福島−木村はあり、
因幡・伯耆のくだり「山中鹿介弟亀井新十郎」の一面も語りえるかもと感じられるところです。それはとにかく、
ここで想起しなけばならないのは、あの事件(信長卿による武蔵守殿=織田勘十郎の誘殺)のことです。
「 武蔵守殿生害の事
・・・武蔵守殿・・・都築蔵人・・・武蔵守殿・・・柴田権六・・・弘治三年正月五日・・・柴田・・・権六・・・
武蔵守殿庶子・・・都築蔵人・・・権六・・・武蔵守殿・・・柴田・・・★村井長門守・・・母公・・・武蔵守・・
・長門守・・武蔵守・・・信長卿の御寝所・・・討手の人々には山口飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝・
・志津・・青貝・・母公・・池田勝三郎・・撞き伏せける。」〈甫庵信長記〉 三
があり、これは〈信長公記〉でも
「・・上総介信長公の御舎弟勘十郎殿・・・篠木三郷・・・押領・・・勘十郎殿御若衆に津々木蔵人・・・
皆津々木・・・柴田権六・・柴田・・・上総介殿・・・信長作病・・・勘十郎殿・・御袋様併柴田権六・・
弘治四年{戊辰}霜月二日(脚注は「弘治三年(1557)十一月二日の誤り。」)河尻・青貝・・・
御生害。・・越前大国・・・柴田・・・。」
となっており、「武蔵守」勘十郎信行は亡くなったわけです。これは年月日も間違っており、なかった事件
と言ってきました。まあ生存してるということですが、これには生存説の説明が要ります。一旦
「三好武蔵守吉房@」
というもので受けたと考えられます。これは天下人三好長慶の三好を使った特別大物表記で「武蔵」を含んだ
ものだから、次の人生の展開を述べるにふさわしいものが用意されたと取れそうです。
船戸古道(美濃古道)沿い、尾張の宮後村に八幡社があり代々の社人が三輪氏で三好吉
房はその三輪氏の出となっています。いまの「あま市」の地で、前の
「愛知県海部郡美和町」
のホームページが別に残っていて、美和町にゆかりの歴史上の人物が出ています。すなわち
蜂須賀小六、(子息)蜂須賀家政、福島正則、(弟)福島高晴、豊臣秀次、▲{秀次の父)三好吉房、
溝口秀勝、▼福島丹波守治重(正則のおじという説もある)(この「治」が重要と思われる)
などがいます。美和町には「「正則」の名を冠した学校もあります。「溝口▲▼が今まで「など」で括られてしまって出てこないのが
普通ですがここで出てきてるので助かります。
つまり常山の福島正則や▼の話に▲を参入させるのは、合ってるということになります。しかも
これが「武蔵守」ですから、〈両書〉の暗殺された「武蔵守」と渡さないといけないものでしょう。「吉房」の
「吉」は民部卿法印、前田玄以関連の「田中吉政」の「吉」もありますが、★がテキストでは考証名「村井貞勝」
と なっており、注で「村井貞勝」は
「はじめ吉兵衛(〈田島文書〉)・・民部少輔・・・・春長軒・・。貞勝の子も吉兵衛と称した。」
となっており、この「吉」も加わってきそうです。勘十郎殿は土田氏だから「戸田」「津田」であり常山も福島
のところで「津田備中守」を出しています。ここで勘十郎を取り巻く人物が総出となっており、今まで言って
きたことでいえば
「津々木蔵人」「都築蔵人」 → 玄以、前田玄以(武井夕庵の子)
「村井長門守」「長門守」 → 前田玄以弟かも(前稿)。但し両親が同じかどうかは不詳。
ということでした。これの根拠は、一時のウィキペディアの例では、前田玄以は
「父は前田基光、母は不明、 妻、村井貞勝女
弟、村井貞勝女 」
となってて、「妻」「弟」の書き方が確か二行になってたように思いますが、絶妙ともいえるものになって
るのがありました。今では、弟の記載が全くなく「妻」のところは
「妻 :正室 村井貞勝女」
となっています。文中に「玄以」があり、これは、まあ索引もれといってもよい状態で、索引の項目に
マ行・前田玄以(文中表記「玄以」) ケ行・玄以→前田玄以
となっています。これはマ行の「玄以」とケ行の「玄以」が違っていることを示しており
「玄以」「前田玄以」「玄以A」
の三つがあるということかも知れません。「村井」は「武(む)□井」だから「武の井」で「武井」でこれは早く
から有名で、桶狭間の文献でも村井、道家が出てきます。永禄12年には、京都、二条御殿の
「御大工奉行村井民部・嶋田所之助仰せ付けられ・・」〈信長公記〉
があり、信秀夫人(土田氏)の子、信長弟の信行と釣り合いがとれないということでもなく、津々木蔵人は
勘十郎信行(三好武蔵守吉房@)
‖玄以(都築蔵人・津々木蔵人)
村井長門守(貞勝)女
という位置を占めるということがありえます。これは先ほどの
「勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。・・・柴田権六を蔑如・・・」〈信長公記〉
によれば勘十郎と「津々木蔵人」との関係が出ていて、この前には
「信長の御袋様・・・御舎弟勘十郎殿・・●村井長門・嶋田所之助両人・・・御袋様・・・勘十郎殿
・柴田権六・津々木蔵墨衣(すみのころも)・・御袋様・・」〈信長公記〉
があり、関係者が出ており、「津々木蔵」は「墨」黒で「玄」(くろ)→「玄以」Aに近いかも、という感じがあり
ます。●は「長門」で「守」が抜けていて
「嶋田所之助」(「信長奉行」「秀順」「弥右衛門尉」「海部郡島田郷(佐織町勝幡)・・・」
と並びになっててこの場合は「前田玄以」に近いともいえます。「奉行」というのは「ともゆき」もあり、この「行」
と信長の「長」とは「長行」⇔「行長」を構成します。一応その時期がくるまで待ってればよいことです。
「勝幡」は、勘十郎の一字「行」「勝」の「勝」もみてそうです。
(209)明智左馬助
島田は「秀順」が
ここに出てますが、ネット記事などでは「秀満」もあります。筒井順慶の「順」が一応「秀順」ですが、この「筒」
が、「津々木」の「津津」ともいうべきもので、筒井順慶は島左近・松倉右近の名とともに有名です。
したがって「島田所之助」は一方で、明智左馬助と島左近を繋ぐという役割もあるようです。テキストでは
「明智左馬助」〈信長公記〉(考証名「明智秀満」)
があり、「明智秀満」の注では
「(〜1582) 弥平次。はじめ三宅弥平次。俗称の★左馬助秀俊(光春)は誤りである。明智左馬介415」
となっており、「明智左馬助」というのは、一回限りの登場で、かくも簡単な紹介で、これほど個人像が形
作られうる、有名な武将というのはいないようです。
★の文は間違いと断定しており、「左馬助光春(秀俊)」なら合っている、といってるかも。「光」は光秀の
「光」、「春」は「春日(郡)」などの「春」でしょうが、「秀」が配布されているとすると「春」=しゅん=「俊」だから
、また先ほど「秀順」、ここの「秀満」の例からみると、云いたいのは「左馬助光春(□春)(□俊)」の半分に
ということで、これでは収まりがよくないので「左馬助光春(満春)」としたい、春−春では露骨なので、
「秀俊」
としたかもしれません。有名なので、語りの材題になってることが予想され、合っているかどうかは別にして
こまかいところにも入ってみようとすることも要ります。「明智左馬助」は、政治的家として時代をリードする
に足る個人的資質に恵まれていたようで「使者」が属性というのもその一つでしょう。太田和泉守が格別に
取り上げたこともあって、戦国の世に異彩を放っており、光秀の後の明智の頭領として、織田を補佐する宰相
となるべきという点では衆目一致の人物です。「福」というのが付いて回って「福」は
「宮福大夫」「福富秀勝」「福富満蔵」「福田与一」「福島本目助」福田三河(川)」「今福筑前守」
などがあり、ここで「秀」とか「満」とかが用意され「福」「島」とか「田」もここにあります。「今福」は一方で年代
は、光秀と光秀の子息との中間あたりに位置しており、その時が来ても光秀の子息を補佐する立場を貫くであろうということも、
また大方の予想であったととれそうです。〈信長公記〉索引によれば
(T)芥川/明智→明智光秀/●明智次右衛門/明智秀満(「明智左馬助」)/明智光秀(明智・惟任)/上松蔵人
となっていてこの●の注が「光秀の同族。」となっています。
「明智光秀・同次右衛門」
という表現になるとすると、明智左馬助を次の弟というヒントになるとも考えられます(次の「秀満「左馬助」も
あやしいから)。登場が
(A) 「丹波亀山にて維任日向守光秀・・・明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、
是等として談合を相究め・・・」〈信長公記〉
であり、ヒントにはなるが別人というのでよいのでしょう。
(210)明智次右衛門
したがってこれは別人として索引の(●の左の)「明智」は光秀
となってて、これによって索引(T)は
「明智→光秀」/●明智次右衛門/明智秀満(「明智左馬助」)
となっており、(U)本文からは「明智」は、「→明智光春」もあるとすると、
「明智→光春」/●明智次右衛門/明智秀満(「明智左馬助」)
もありえます。つまり、
(T)から●@は明智光秀の(二番目)の子、ヒントとして明智光秀の次の弟もある、
(U)から●Aは明智左馬助の(二番目)の子、と、次の弟もある
ということもいえないことはないと思います。(U)の「明智左馬助」の次の弟としての「斎藤次右衛門」が考
えられる、というのは既述ですが、とくに(T)の「子」というのが、ここへいわなければならないところです。
つまり明智光秀の子息は、〈明智軍記系図〉によれば
光秀 女 明智光春妻 (荒木に出て、村重謀反により戻される)
‖ーーーーーーーー 女 ★★明智光忠妻 (事跡がはっきいしてない)
女 女 細川忠興妻 (ガラシヤ夫人として有名)
女 織田七兵衛信澄妻 (事跡がはっきりしてない)
光慶 十兵衛
となっているので、二番目の子というと★★の人になります。この系図では、相手の人も出ており、「明智
宗宿」(ここでは明智光春の親ともなってる)の弟、「某」の子として
「光忠 治右衛門」
が出ており、一応表記だけからいえば、「次右衛門」=「治右衛門」、「治」は石田治部の「治」、「光忠」
は「三忠」で三成の「三」で、石田三成というのが出されているといえそうdす。〈明智軍記〉索引では
「石田三成(治部)」という人名の項目があります。石田三成は「治部」というのが属性になりますが
「治部三郎左衛門尉」「治部の三郎左衛門尉(索引もれ)」〈甫庵信長記〉
「山田治部左衛門」〈信長公記〉
があります。「山田」があるので「石田」が出てるともいえるわけで、「山太」「太山」であり
「石山」〈信長公記〉 (地名索引では 「石田/石部/石山」の並びになっている)
があるので、「石田」はすぐに出てきます。芭蕉の大石田などはその応用で、人名にもなってて、太田ー
石田が出てくるといえますが
「田上山」〈信長公記〉
があるから、「山田」「太山」「大山」もでてるといえます。まあ「田上山」は「上山田」には確実に変換が
予想されてるところでしょう。「上山田」から
自分の生まれた土地の名も思い出しました。大阪市福島区上福島中一丁目五五番地でしたが、この「上」
「中」が、「上山田」想起の「上」で出てきて、福島が、まあひょんなところで出てきたということです。
疎開があったので小学校1年までのおぼろげながらの記憶のなかから「上つきの」正確な地名がでてきま
した。
この大阪の「福島」は〈信長公記〉の地名索引にありますが、本文では
「上総介・・・御渡海・・・福嶋・・・御渡海・・・舟を出し・・」〈信長公記〉首巻
で出てきて、渡海と直接繋がった福嶋がでてきます。「野田・福島」がたくさん出てくるが「野田」に隠され
て、索引では出てこず、「福嶋」はこの福嶋一件だけで、渡海を出したい校注者の意思が感じられるところ
がでました。
これはいま、明智左馬介をやっていて、福富、宮福大夫、福田、島田所介(秀満)、島左近などに福・島が
ついて何回もでるところから、出てきたもので、通常ここからは「石田」の「石」は出てきませんが石田だけは
〈信長公記〉脚注で
「石田上町・同中町・同下町」
が出てきてますから「上石田」は「石山」「田上山」があるので自然と出てくるものといえます。。g、ずとっきでてー→太田は三沢左
「福の神の十字」〈甫庵信長記〉があり、「明智」「会津・蒲生・木村」などが「福」でだされています。
●の索引の明智の前に「芥川」がでいます。「芥川」というものの注では
「大阪府高槻市芥川地区の豪族。芥川孫十郎(〈細川両家記〉)、芥川美作守清正(〈鹿王院
文書〉)もある。」
とあり、「伊勢物語」の「伊勢」、「孫十郎」−守山−「安房殿」、高槻の「高山」など出ていますが、「清正」
が顔を出すので、●の@としては、やはり講談の加藤二十四将の斎藤立本が宛てられ
そうです。「立本寺」があり島左近の墓がここにあります。明智を斉藤にかえるのは抵抗がありますが、
先ほどの並びの後ろに「斎藤内蔵助」があり、一つうしろの藤田伝五の「藤」が、目に留まります。まあ、
「伝」が大きさを表してると思いますが 太田藤五というべきのが「藤田伝五」でしょう。●@を斎藤次右衛
門とするから索引では「齋藤新五」の前に収まり、「明智左馬助」に接近します(「斎藤新五」は@Aがある)。
つぎの人物に関係するからこうみるということになりました。
(211)雑賀修理
一方、美濃に雑賀氏があり、〈信長公記〉索引では
雑賀(「紀伊雑賀」)/◆雑賀修理/西巌月巌/三枝小太郎(以下「三枝」三件)/西光寺/斎藤/・・
となってて、◆が
「さいか右京進定直(〈言継卿記〉天文二年七月廿三日条)は、織田信秀の部下である。同一人で
あろうか。美濃(岐阜県)出身か。」
となっています。ここで「部下」を「家臣」と書いてしまってて、見直したときに慌てて訂正したわけですが
「右京進」だから「部下」になるのではないか、と思われます。「さいか直定」だったら「家臣」かも。「直」は
塙直政の「直」もあります。
「さいか」が「西家」「さえか」とか「斎家」を出したいという感じですが、●Aを斎藤にした
ついでに、この◆も解釈しようということです。このままでは誰やら判らないことで終わってしまいます。
まあ、美濃、うしろの方の「斎藤」につられて「さい藤」−「斎賀」−「賀藤」などから
斎藤を出そうとしたことも考えられます。つまり、朝鮮の役(第二次)で、敵方に降伏した大部隊の大将
(加藤清正の家臣)がいて、
「さやか」(沙也可)
として知られています。不思議に、朝鮮側でも高く買われ(高位高官になっている)、日本でも好意的に見
られている人物です。発音から、常識的に「さやか」から「雑賀(さいか)」で紀州雑賀出身の大将とされて、
います。この意味不明の〈首巻〉◆を「さいか」とする注は、本能寺の談合のメンバー、ここの斎藤に近い
「明智次右衛門」〈信長公記〉(「明智左馬助」と「藤田伝五」に挟まれている。)
の身内の大将である可能性が高いと思わせるものです。まあ「さいか」とヒラいたから「さやか」をずっと
探してきてたからこうなったということです。しかしヒラいたということは漠然となってしまって一人ではない
三人くらいということになるのでしょう。一人ははっきりしてて雑賀七人の侍、柴田修理の身内、宮本兵大夫
がそうでしょう。清正に褒められた技量の持ち主で、美作というのは明石掃部の領地とされいます。二人とも
西へ渡海したから西巌の西が説明材料になりそうです。・・・・・・・・・。
(212)原田信種
「沙也可(帰化名「金全忠」)」については、ウィキぺディアでは
@雑賀党の(例:鈴木善之)などの大将 (索引に「鈴木右京進」という項目がある。義明の子)
A原田信種(「五郎右衛門」もある)
B岡本越後守(阿蘇宮越後守)(「阿蘇惟光」の子孫かも)
の三人の名があがっています。これは全軍同じ意思のもとの投降なので、一応孤立したものと捉えずに、
一族的なものとしてまとめると
@斎藤次右衛門(斎藤立本@)
‖A原田信種(斎藤立本A)
‖B岡本越後守(「秀家卿之臣、岡本権之丞?」〈甫庵太閤記〉から)
C加藤與三右衛門尉
となるかも。Cは誰かもわからないが、こう云う根拠は〈甫庵信長記〉の記事「巻十五」によるもので
「賀藤主計頭・・・主計頭・・・賀藤與三右衛門尉、同組其勢三千・・・都合五千・・・備前中納言
秀家併が問う斎藤立本(りふほん)、庄林隼人佑、龍造寺又八郎・・都合五千・・・與三右衛門尉
斎藤立本(りふほん)・・・三千余・・・與三右衛門・・・★立本(りふほん)隼人・・・清正・・」
があり、Cは清正旗下の大身の人物となるのでしょう。★があるので、Aは加藤二十四将の「庄林隼人佑」
が入ってくるかもしれないが、そうなれば講談などで有名な
人物を仮名とした原田信種というのもありそうです。要は本命「原田信種」は本能寺談合の一節に
つながった人物といえるようです。つまり、
「原田」は「原田備中守直政(正)」の「原田」があります。これは、人名索引
原田宗行(塙九郎兵衛・備中守)〈明智軍記〉
があり、「(武蔵守)信行」とか、文禄の役の〈甫庵太閤記〉の主役「小西行長」の「行」が出てきます。
信行
行長 は「信種」の「信」ともみれます。ネット記事を見ていたなかで、宇喜多の
「田原七左衛門」という名もあってこれはBの宇喜多につながります。大友宗麟の重臣に田原紹忍が
いますので「原田」大物という感じで「種」が重要になってきます。これは本能寺の「種田」があり、索引
谷大膳(佐々木定綱の後胤)/種田亀/種田兼国「種田助丞」/種村彦次郎/玉越三十郎(「具足屋」)
が出ています。種田は「助丞」で「大膳」同様に基本的には男性ですが、「後胤」の「胤」がでてます。また
種村の「村」「彦」「次郎」というのは、索引〈信長公記〉
原和泉守/塙直政(文中「塙九郎左衛門」「原田備中守」「常陸塙村」)/原彦次郎
の原田につながった彦次郎があります。また〈信長公記〉本文で「種」は
「市橋伝左衛門・種田助丞」 「永井雅楽助(「利重」「斎藤一族か」)・種田助丞・佐藤六左衛門」
「伊藤彦作・久々利亀・種田亀・山田弥太郎」
「寺田善右衛門・塙(ハノウ)伝三郎・種村(タナムラ)彦次郎・毛利新介・毛利岩・斎藤新五・・」
のようなものにくっ付いています。與三右衛門の森(毛利)も出てるようで「常陸塙村」の木村ともども加藤
の中味をいってるような感じです。
(213)藤田伝五
この本能寺の山場で突然出てきたので
「藤田伝五」〈信長公記〉(解説なし)、索引(〈信長公記〉)では
(藤岡五郎兵衛/藤田伝五/藤孝→細川藤孝)
の役割が大きいと思われます。「伝五」の「伝」は,上の「市橋」の「伝」、「塙」の「伝」と、繋がり、「種」や
「村」や「彦」「次」「森」「斎藤新五」までも影響を及ぼします。「伝五」の「五」は原田信種の「五郎」で、「藤岡」
の「五郎」、新五の齊藤の「五」が出てます。「五郎兵衛」という変わったものが出ましたがこれは桶狭間の
「岡部五郎兵衛」がありました。藤岡ー藤田から「岡田」の「助」も出ますが、これらの「岡」から岡本越後守
の「岡」が出たかも。「本」は斎藤の「立本」の「本」ととりたいところです。「種田」の「亀」は丹波亀山から
「藤田」が出てきたので、これは明智ですが、亀のうしろ「山田」は「毛利(森)岩」の「岩」(「山プラス石」)
から「石田」も出てきます。「藤田」の「藤」は「加藤」「賀藤」「藤岡」「藤孝(永岡)(長岡)(細川)がある)」
「斎藤」「佐藤」「伊藤」の「藤」で、「佐藤」の「六」は「斎藤六大夫」の六です。「藤」は藤原から来ている
のかもしれませんが、「斎藤」を分岐させているから、斎藤の「藤」とみてもよいかもしれません。〈明智軍記〉
の索引で藤原は
藤原利仁(「越前守」「左近将監」「★藤利仁(トウノトシヒト)将軍」/藤原秀郷「(「武蔵守」「俵藤太」)
があり、藤原定家、藤原泰衡、藤原行成など10人の「藤原」が出ていますが★が索引に漏れています。
出てくるところは、
「藤利仁(トウノトシヒト)将軍の後裔斉藤義龍の息竜興と云へる勇将・・・」〈明智軍記〉
「(永平寺の義介和尚は利仁将軍の的孫斉藤吉信が後胤・・・」〈明智軍記〉
があり、藤原の「藤」から「斉藤」の「藤」に軸足を移していると取れるところです。「斉藤利−」が出てくる
と談合で出てきた先ほどの「斎藤内蔵助(利三)」が狙いということにもなります。つまり
「只利仁(としひと)将軍小黒丸」〈甫庵信長記〉
があり、これは斉藤といいたいところといえそうです。この「只」は文章の流れの「ただ」というのもあり、接頭
字というのもあり、これの出てくるのは六条本国寺の戦い「野村越中守」大活躍の一節で、これは
明智十(一+九)兵衛の登場でもあるようです。「藤田伝五」はこういう「藤」でもあり
「藤田伝五{併(イなし)}明智治右衛門自害の事」
の一節があり両者の死が語られています。この「并」は抱き合わせの度合いが強く、まあ
斎藤次右衛門⇔明智治右衛門
という転換を意識させる媒体の役割を果たした藤田伝五といえそうです。筆者の場合は藤田伝五は韋駄天
藤田の伝五で記憶しており、本能寺の変後、光秀の親書を毛利に届ける使者として出てきます。途中で秀
吉軍に捕まって目的は果たせなかったということでしたが、この挿話が脚注にあれば、この健脚の「足」は
先ほど玉越三十郎で出た「足」にヒットしたといえます。ネット記事で確認すると藤田伝五は筒井順慶を
味方につけるべく大和郡山城へ走ったということで、今では毛利に行ったという話は一件もありませんが、記憶
間違いではありません。順慶はテキスト注では「還俗して藤四郎藤政といった。」となっていて「藤・藤」の
ところへ「藤」が行ったということで松永が出てきて反ってよかったといえるところです。〈甫庵太閤記〉では
「信長公御父子之儀注進之事」
の一節で中国の秀吉の陣へは「長谷川宗仁」が蜜(ひそか)に申來たとなっています。すなわち
「信長公信忠卿二条本能寺にして昨日二日之朝、惟任がために御切腹にて候、急ぎ御上着有て
、日向守を被討可然(うちたひらげしかるべき)之旨、長谷川宗仁より・・・」〈甫庵太閤記〉
があり、この人物を秀吉と親しい茶人だというだけでは本能寺はわからないはずでず。藤田伝五も結果的
に秀吉に知らせたということになりますから、まあ二人は重なっているといえそうです。またこの文は、宗仁
が誰かが言ったことを伝えてる感じです。長谷川というと「長谷川橋介」があり、「藤田伝五」が多くを語って
いるとすると太田和泉守介入として、「宗仁」は「仁」で「注進」してるから、「金松又四郎」(金松は「金松久
左衛門」「金松牛ノ助」「金松」がある)、相当と思われます。金松は
「金松又四郎・・・生足(すあし)・・・生足・・足半(あしなか)・・金松足半・・軽き大将軍・・」〈甫庵太閤記〉
がありこれは茶人でも絵師でもあります。この場面は金松牛ノ助のような若手でしょうから「森ランマル」くらい
のところでみると、示し合わせたような行動ととれそうなところです。ここで「二条本能寺」というのはおかしい、
四条本能寺もあるというのが〈前著〉の話でしたが、討たれる織田信長側も一人ではなく
「信長公御父子」「信長公・中将信忠卿御父子」〈信長公記〉
があって前者は二人で、後者は中将が一人加わってるから、三人になるはずですが、子供の名前を
入れたんだということになると二人で、「・」があるからそう読めるということでしょう。「・」は原文にはないので
三人もありえます。建屋、人物など二つのものを使いこなして述べているので、何処で、誰によって、誰が討
たれたのか、色んなくみあわせで検討したら、誰もスルスルと難関を切り抜けて生きていたということにも
なりかねません。藤田伝五は、〈明智軍記〉索引では
@藤田藤八郎/A藤田秀行(伝兵衛)/B藤田行久(藤三)/C藤田行政(伝五)
があり、Cの子息がAで、Cの舎弟がB「藤田行久(藤三)」です。一応、
「日向(ノ)守家臣藤田伝五」・「惟任日向ノ守内藤田伝五」
という表記があるので明智の大将に「藤田」という人がいて、「伝」が太田和泉守が乗ってる感じです。
「・・明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵助・・」
の組み合わせは藤田によって明智と斎藤が繋がれ、藤田が筒井へ使いに行ったので島左近・石田三成が
筒井へというのが暗示され、藤田が中国の秀吉のところへ行ったというのなら太田和泉守−長谷川橋介(宗
仁)はありうる、明智左馬助の妻は光秀の二番目の娘という話もあるから、「明智次右衛門」もそのヒントとも
なりえます。はじめから「明智次右衛門」は斎藤内蔵助の子、明智光春の弟であるとみてきました。斎藤内
蔵助の子が加藤清正に仕えたということは知られています。これが斎藤立本−さやかにいくにしてもそれが
こんなところで言ってるか、という疑問はでるはずです。一ついえば「明智左馬助」はここだけだ、ということが
重要です。すなわち、「柴田権六」、「誓願寺」(脚注=成願寺)、「太田又助」「木村源五」などが出た一節
「河尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀(さいが)殿切てかかり・・・
河尻左馬丞・織田三位・■雑賀(さいが)修理・原殿・・・浅野久蔵、
・・武衛様の内●由宇(ゆう)喜一・・・十七・八明衣(ゆかたびら)・・・織田三位殿頸を取る。上総介
信長・・」〈信長公記〉首巻
という一文があって、この「明衣」の●を明智左馬助とみてきました。ほぼ同年輩の二人いる感じですが、
ちょっとそれは別として、
「河尻」の「左馬」−「織田三位」(「由宇」)−「雑賀修理(注:「さいか右京進定直」)−原
となっていて「原」は「原和泉守」があって索引では
林弥七郎/隼人女房/原/原和泉守/原田(塙)直政/原政茂(「原彦二(次)郎」
となってて、「河尻」には「森」と、河尻の「肥前守」(小豆坂の「河尻与四郎」「十六歳」「後は肥前守」)
があります。この「左馬」は「明」とで●を「明智左馬助」とするとともに「原」を出してるから、■を「左馬」と
「原田」につなげてあると取れます。芭蕉の〈奥の細道〉の「松島の月先(まず)心にかかりて」があり
「武蔵野の月の若生え(「ひこばえ」のこと)や松島種(だね)(左ルビ=ダネ)」
の句があります。松島が「松倉右近」「島左近」の「松・島」か、となりますが、甫庵の索引では
林志の島/隼人佐/原隼人佐/原彦次(二)郎
があって、「原」→「原田」に「島」が入ってきて、原田信種の「種」につながってるようです。
■の「修理」というのは、前に「柴田権六」が出てますので
「柴田修理亮」(「柴田勝家」とされる)〈信長公記〉 (柴=さい=斎、でもある)
の「修理」とも見て取れますが、それはもう宮本兵大夫で使いました。これは、ほんまの「修理」、修復・修正
の必要を感ずる「修理」とも取れるところです。まあ、そやから
(織田因幡守家所属−信秀部下)(西巌月巌の身内)(清正は姻戚)(芥のこと)
を考慮すると、徳川家康公が宛てられたということになるのでしょう。
〈クロニツク〉では「朝鮮の戦場で投降兵士が続出、日本軍と戦う“沙也可“の例も」という一節があり
「・・その代表的な例が金忠善である。朝鮮の記録によると、忠善は加藤清正(きよまさ)の家臣で
1592年4月13日に渡海したが、ただちに慶尚道で朝鮮側に降伏した。・・・戦況が日本軍に有利な
なかで降伏した忠善の存在は、侵略戦争への不満を示している。」
とあり、これは朝鮮総督府の出した結論と違っています。
1592年4月の16万、1597年2月の14万
の二度にわたる派兵は暴挙としかいえないものだから、これは個人的なアピールだけではないといえるの
でしょう。秀次事件という弾圧、流血を伴った上での出兵という面からも見る必要がありそうです。この戦役の
ことについては〈甫庵太閤記〉など文献が豊富で、秀次
事件も〈甫庵太閤記〉に詳しく出ています。「さやか」のことは朝鮮総督府は日本人の武将ではないといってる
ような雰囲気のなかにあるもので余り触れたくないようなものとなっています。さやか伝として〈恭夏堂文集〉
というのがあるそうでそれ等を読まないと出てきませんが太田和泉守が■を出した以上は、何かいってるはず
という期待もあるところです。
(214)赤川平七
いまやってる清水又十郎の一節は24人が出て渡海の一節と言うことで見てきて
います。「さやか」も渡海のことで、清水又十郎の一節は「左馬助」三件、「長谷川埃介」、「賀藤助丞」、「あら
川又蔵」「あらかわ与十郎」「あらかわ喜右衛門」「内藤勝介」(「斎藤内蔵助」関連)などが出て「明智左馬助」
「加藤」「斎藤次右衛門」などにつながっていますが、ここでストーリーとして「あら川与十郎」が討たれて
死体の引き取りの話が出ており、そのあと
「一、上総介信長公衆討死三十騎に及ぶなり。
一、あらかわ又蔵こなたへ生捕(いけどり)。
一、●赤川平七敵かたへ生捕候なり。
・・・・其比(ころ)うわやり下鑓と云う事あり。・・・折立の事(脚注=下馬する)にて、馬共は皆敵陣
へかけ入るなり。是又少もちがひなくかへし進上候なり。いけどりもかへかへなり。」
があり、下馬して鑓あわせするので馬が敵陣へ行ってしまいますが、それはきっちり返していて、「かへかへ」
は脚注では「交換」となっていて捕虜交換をやっていたということを書いています。小西行長も朝鮮陣で
捕虜交換をしています。「又蔵」は木村想起で朝鮮陣のこともあり、ここはそれを書いてると思われるところで
すがそれにしては●と信長がなぜ出てきたか、よくわからないわけです。加藤清正2万の大軍で「さやか」
3千の兵が降伏したということは、兵は大将の思想、信条と直接関係ないから、家族故郷を捨てるというのは
ちょっと無理な感じて、あとで糾合できた兵力ともとれます。「赤川平七」という一匹狼がよくわからないところ
から無理して、ここまできましたがこのときのことを表していないかということです。しかしそうだったら、いろんな
意味で収穫は大きいといえます。赤川平七は投降したのではなく、激戦の中、捕虜となった、と一応みとく
と、これは原田信種のことを語っているということでよいのでしょう。赤川は明智宗宿の身内で、斎藤立本の身内
の人が原田信種というのがでてるのかどうかですが、●のことを書いてるので太田牛一はさやかを知って
いたといえそうです。
索引では
赤井直正(「赤井悪右衛門」)(「・・・甥を補佐した・・丹波(兵庫県氷上郡青垣町のうち赤井・・」)
赤川彦右衛門(「のち三郎右衛門景弘・・・織田信秀・信長の奉行人になる〈田島文書〉)
●赤川平七
赤座助六(「助六郎孝房〈南條郡誌〉今庄村沿革」)
赤座永兼(「斎藤竜興の旧臣〈当代記〉というが、越前(福井県)から尾張の赤座氏の養子になり・・」)
赤沢加賀守(注は「丹波長谷城主」、脚注は「赤沢加賀守は丹波長谷城主で、内藤備前守与力」)
となっており、●が解説なしで載っています。上の人(彦右衛門)の甥か子息の見当でよいのでしょう。
といってもこの
「赤川彦右衛門」〈信長公記〉、「赤河彦右衛門」〈甫庵信長記〉
が誰だか解説ではわからない、矢島六人衆に「赤川三郎右衛門」が出ており、「彦右衛門」と同一と取れ
ます。「赤」は「明」で明智の人でしょうが「三郎右衛門」は
「三雲三郎右衛門父子」〈甫庵信長記〉
しかなく、これは「武井爾云」の「云」ですが、「六角佐々木」の後藤(但馬守・又三郎)父子の「一族」で
す。ここに「三雲三郎左衛門尉」がいてここから
「種村大蔵大輔」「種村建(武)部」〈甫庵信長記〉
がでてきます。この後ろに
「・・抜関斎・・・平井加賀守・・・皆矢島に残し置き・・舟・・船・・船・・船・・舟・・船・・船・・舟・・矢島・・
・・安養寺・・・織田上総介信長・・」〈甫庵信長記〉
が続いており、加賀守や「矢島」が続いています。矢島は「島左近」の「島」でもありますが、「矢」となると
越中国木舟の「石黒左近」登場のところは、「舟」「浦」「海」「川」「大河」「山」とともに「矢」が目立ち、
「・・・矢蔵・・矢蔵・・・射越(いこし)の矢にあたらぬごとくに(脚注=未詳。)・・矢軍・・」〈信長公記〉
があります。これが「風をくり」をともない、清洲城の「南矢蔵」「南やぐら」と「坂井大膳」の「風をくり」と繋がって
「孫三郎」「此孫三郎」「孫三郎」「上総介信長」もこのときに出てきます。矢島六人衆に「佐々孫助」「土肥
孫左衛門」の二人の「孫」がいて、「孫三郎殿」を殺した「坂井孫八郎」を討って人気ものになりました。この
「孫助」が武井夕庵の幼名ではないかというのは既述ですが、いまやってる「赤川三郎右衛門」に「矢島四郎
右衛門」がいます。これは「矢島」ですから代表選手のような感じです。「三郎」=(右衛門)=「四郎」になっ
てるから無視できないとも見れるところです。本文では小豆坂合戦のくだり
「・・同四郎次郎殿、其の外赤川彦右衛門、神戸市左衛門・・・内藤勝介・・河尻与四郎・・・永田四郎
右衛門・・・・」〈甫庵信長記〉
があり、赤川平七の索引を再掲すると
赤井直正/赤川彦右衛門(「のち三郎右衛門景弘・・奉行・・田島文書」)/赤川平七/赤座助六/赤座永兼
となってましたが、ここに(赤)「永兼の(永)」があり、これについて「赤井」の「井」が効いてくるということで、
「永田四郎右衛門」→「永井四郎右衛門」・
がでます。まあ、すんなり「石田」→「石井」でもあるので「永田」→「永井」です。この「永井」は記憶しておく
必要がありますが、永田は、
永田=(四郎右衛門尉)=矢島
で「赤川」とともに「矢島六人衆」のメンバーです。信種−種村−赤−赤川平七、ですが後ろからくると
「赤座助六」「永兼」の「助」「兼」
は、〈信長公記〉索引
種田亀/種田兼国(文中表記「種田助丞」)/種村彦次郎/玉越三十郎
の「兼」「助」にヒットして「種」→「赤川平七」に接近します。「助丞」は「加藤助丞」がありこれは「赤川平七」
の出た清水又十郎の一節にあります。種村の彦次郎は原の彦次郎にヒットして、さらに
原隼人にちかづきます。種村のあとに「玉越三十郎」が「身方が原」で出ますが、これは
「・・信長公幼少より召使われし候御小姓衆長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎四人・・
・家康公・・ココに希代の事・・清洲町人具足屋玉越三十郎・・・武田信玄堀江の城・・・家康公中筋・
・・一騎打・・御弓・・・射倒(イタヲ)し・・御敵先に待請け弓・・信玄は勝利を得・・・・・」〈信長公記〉
がありました。ここに「弓」「射」「玉」「越」が出てて、「矢」がないので問題ですが、この前に、
「武田信玄水役(イ篇)の者・・・彼らにはつぶてをうたせて・・・」〈信長公記〉
があって、「矢」の代りに「玉」があるといえます。「水」がここでなぜ出てきたかわかりませんが、脚注では
「〈三河物語〉には“がう人ばら”とある。足軽であろう。」
と書かれています。「三つの河(江)(がう)」が出てきました。ここは「堀江」が二つ出てて、「二俣の城」の
「二俣」も二つでて、河川の三つの流れを取り込んだ城の「堀」を形作っているから「水」が出てきてると取
れます。出水=いずみ→和泉となるので「射」が出てくると〈万葉集〉から歌われている「射水郡」の射水も
頭には浮かんでくるといえそうです。高山右近縄張りの高岡古城は射水郡です。
「つぶて」は脚注では
「礫を打たせ、礫を投げる。弾薬などがないためだという解釈は必ずしも妥当でない。」
とあります。要は武田の先方隊は、河原の石礫」と鉄砲「弾薬」を持っていたといってると思われます。「打」
と「投げる」があって、「打つ」は鉄砲の玉で、この「打」は「一騎打」の「打」でしょう。「三十郎」は
武田戦、「野々村(ノノムラ)三十郎・福富平左衛門・塙(ハノウ)九郎左衛門」〈信長公記〉
茨木城 「石田・渡辺・・・古田左介・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎四人・・高山右近・」
〈信長公記〉
のような感じで「福富」「石田」「原田」「高山」などと絡んで出てきます。「原田」「種」はなんとなくでたのかも。
(215)射越の矢
先ほど木舟の石黒左近のところで「矢」がたくさんでたことをいいましたが「身方が原」で「射」と「弓」と
「玉」が出しました。「石黒左近」のくだりに次の一文があり、わからないということなのでやってみようとして
回り道しました。が成果は芳しくなく、まあ一応書いとくという感じのものとなりました。すなわち、
「射越(い こし)の矢にあたらぬごとくに、まはれば(脚注=周囲を回ると)・・・」〈信長公記〉
があり、脚注では
「未詳。遠くから射込む矢のことか。」
と書かれています。先ほどのは矢が玉にすり代わっていたので鉄砲もあり得る、というだけで、訳としては
こうなるのでしょう。
「未詳。」と脚注が書いていうのは、ほかに意味があるということで、「射越の矢」から受ける印象は古代の
ことがあり、その序という意味でこの一節は重いものと思われます。
「い□こし」=「い之越(こし)」または「いこし」
ではないかとみますと、注では尾張の地名「猪子石」(いのこし)が用意されていました。「石」を「し」と
読む例で
「猪(い)子(こ)石(し)=射越
となりえます。「猪子石」は、「猪子兵介」のところで出ており、これはテキスト注では、項目
「猪子高就」で出ています
「(〜1582) 兵介(〈東文書〉)。のち(〈金蔵寺文書〉)。
猪子氏は摂津生田(神戸市生田)に住し、生田といい、のち猪子に改姓。兵介は■織田十郎左衛門
信清に仕え、犬山で戦死したという(本能寺で討死とも)。実はこの〈寛政重修諸家譜〉の記事にたい
し、愛知郡(愛知県)猪子石村出身説〈姓氏家系大辞典〉はどうであろうか。はじめ美濃斎藤氏に仕
えた。(文中表記、「猪子」「猪子兵介」)」
となっています。わずらわしいかもしれないがこれは全文です。ここに「いのこし(猪子石)」が出ています。
猪子は、二回死んでる感じですが、肝心のこの■の人物が誰やらわからないのです。この浮野の戦いは
〈甫庵信長記〉にくわしく出ていて、国内最大の難敵岩倉との戦いで、信長と■の共同作戦によって勝利
したものです。戦いの次第は、軍勢は、ほぼ互角
岩倉勢「三千余騎」と、
信長軍勢「二千余騎」、■(信清)の「千騎計」の「三千余騎」
ですが、ここで「先づ」
「矢軍」(やいくさ)〈甫庵信長記〉
があって、これは石黒左近のところで出た「矢軍(やいくさ)」〈信長公記〉と繋がっている一例でもあります
がそれは別として、信長は鉄砲など上手く使って敵を幻惑し、「森三左衛門、中条小市」の獅子奮迅
の活躍で敵を城へ追い込みここで勝鬨をあげ、優勢ということでした。ここで信長は「南へ」、犬山勢は「北
へ引き返す」があり、城方の足軽大将は、「犬山勢千騎」だから手薄とみて、城方は
「三千余騎一度に打出で、ひたひたと付き・・・」〈甫庵信長記〉
があって、犬山勢あぶないところですが「金松牛ノ助・猪ノ子三左衛門尉」などが引き返して戦って、
「かくて犬山勢より信長卿へ、引き返し給え、敵大勢にて付きたり。・・・早馬敷波を打て申し上げけれ
ば、願う所の幸なりと・・取って返し・・・敵勢色めき渡って・・・・犬山勢是に機を得て、ひしと引き付けて
追つ懸く。信長卿の御勢脇鑓になつて・・・・懸け入り撞き立てける。・・・城際まで追討ちに打つ程に
・・・兵共九百余討取りて・・・」〈甫庵信長記〉
ということになって、次の年岩倉城へ攻め寄せて手に入れ、翌年の桶狭間に間に合ったということになりまし
た。手薄にして、敵を誘導し、おびき寄せて撃つという作戦の妙もありますが
この勝利の勲功第一は犬山の織田信清です。甫庵索引では
織田四郎次郎/■織田十郎左衛門尉信清/織田十郎左衛門尉/(舎弟)勘解由左衛門尉
となっており、フルネームは、この戦いの■だけで、「信清」は「織田信房」の「信」。平手清秀の「清」
であり、太田和泉守しか引き当てはできないところです。一つ飛んで「(舎弟)勘解由左衛門尉」は「中条
小市=(兼松相当)−水野金吾」かもしれません。これに関して
「岸勘解由左衛門」〈信長公記〉(「美濃(岐阜県)の地侍。」)
があり、既述〈武功夜話〉に
「美濃可児郡蜂屋村岸勘解由(ルビ=信周)」「堂洞城主岸勘解由と犬山城主織田十郎左衛門
(ルビ=信清)とは縁者なり。」
というので「蜂屋」がでてきたので
武井夕庵
‖(蜂屋村)岸勘解由左衛門尉(信周)
蜂屋兵庫頭
もあるかも。つまり■が太田和泉守で、その右が武井夕庵で二人とも織田四郎次郎の子というのがこの
索引の流れの意味かも。猪子兵介がこの戦いで戦死したというのは、先ほどの
「猪子三左衛門」
あたりに該当し、「森三左衛門、中条小市」の(特別な活躍が不自然なので)表記を消したともいえそうで
す。「生田」−「池田」を語った猪子の部分は消え、本能寺で戦死というのは、これからの、猪子兵介を消し
た、と取れます。例えば斎藤道三に話しかけた「猪子兵介」があり、
「あかなべと申す所にて猪子(いのこ)兵介申す様は、何と見申候ても上総介はたはけにて申候時」
〈信長公記〉
等がありますが、道三にここまで近いのは「高就」という名前からみて、安藤氏のようでもあります。太田
イズミ守という人は安東氏ということでみてきましたが合ってそうです。「矢」というのは矢島六人衆の矢
を引き継いでおり、坂井孫八郎を赤川などが殺した話になっています。仮名を借りて、殺害したというのは
史実として語られているわけですが、願望とか計画を語ったというのが史実の中に組み入れられている
というのもありうる、というのがこの射越の矢の意味かどうか。
(216)北方の安東伊賀守
猪子兵介は「高就」という名前でしたから、安藤大将の「守就」が想起されます。これは
「安藤守就 美濃三人衆のうち。伊賀守。岐阜県本巣郡北方(北方町)城主。その子が尚就。
伊賀氏の分家。旧安倍氏。(文中表記「安藤伊賀守」)」
となっていて、「尚」は名前では「たか」とも読めるから、「兵介」は「尚就」のことと取れるところです。また
この「本巣郡北方(北方町)」と同じ住所の「伊賀定治」という人物が「注」に出てるから、それを取り上げる
必要があり、索引では
いいばさま右衛門尉/家康→徳川家康/猪飼野正勝/伊賀定治/伊賀七郎/伊賀平左衛門/井口・・
となっていて注は
「伊賀定治 美濃(岐阜県)斎藤氏の旧臣(〈甲斐中島文書〉〈美濃明細記〉)。本巣郡北方(北方
町)城主。(文中表記「伊賀」「伊賀伊賀守」)
とあります。すなわち「安藤伊賀守」と「伊賀伊賀守」は住所が同じになっていて、〈明智軍記〉では
「伊賀伊賀(ノ)守範俊(ノリトシ)・・・此仁、始は安藤伊賀守と申ける。其の冬、庵芸郡の士大将
に稲生対馬守と云う者、明智を頼て味方にぞ参じける。」
があり、一回目、一回だけは安藤伊賀守を出しただけであと伊賀伊賀守に代えています。甫庵に安藤伊賀
守はなく、一般の人は「安藤伊賀守」は知らないということです。ここでも思い切って〈信長公記〉の世評から
離れることが必要で、安藤伊賀守は猪子兵助と同じように物語用の表記と考えないと、しゃあないということ
になってきます。安藤・伊賀の表記は索引では
〈信長公記〉 @安西平右衛門//安東愛季/安藤伊賀父子→安藤守就/▲安藤右衛門/安藤守就/安中
A 家康/猪飼野甚介/伊賀定治(「伊賀」「伊賀伊賀守」)/伊賀七郎/伊賀平左衛門
〈甫庵信長記〉 @安西平左衛門尉/▼安藤右衛門佐(尉)/安藤/安中/安中越前守
A飯沼勘平/伊賀伊賀守/伊賀守/伊賀伊賀守父子/伊賀/伊飼甚介
があり、この他に索引では抜けてるのがあって〈信長公記〉の
「安東伊賀守」「安藤伊賀」「安東伊賀」
が本文にはあります。これも索引に入れると一応は理屈では
安藤伊賀守
‖安東伊賀
‖安藤伊賀
安東伊賀守
というのが同族を避けた形でありえるのでしょう。そら超おかしい、というのは合ってそうですが、これは大公
式が出てくる前ぶれかもしれません。ここは大きな話が出ていそうです。
伊賀→安藤に変えたのは「安東愛季」の「アントウ」もあって、したがって物語上のものだから
「安藤伊賀父子・・・遠国へ追失なわせらる。」〈信長公記〉
があるのは、物語上の人物だから全然問題なく、この表記が消えたことで、せいせいしたといったところでしょう。
〈類書〉では安藤伊賀守は稲葉一哲に攻め滅ぼされたということになっていますが、これも稲葉一哲は
太田和泉守とみてよいからおかしいことでもないわけです。安土城のくだりで
「孔門十哲」〈信長公記〉
が出てきて、利休七哲の「利休」も、門弟の一つ上の世代になるので太田和泉守でよいのでしょう。
孫弟子三人で十哲が正解かも。また伊賀→安藤にかえたのは「安東愛李」で語りの拡大を図ったことが考えられ
ます。「安東愛季」は注では
「秋田(秋田市)城主。安倍貞任(1019−62)の子孫の安東氏は
檜山(能代市)と土崎湊(秋田市内)を中心とする秋田県北部に入り、天正末年以前は
下国(しもくに)安東と上国安東とに分かれていた。上国は、檜山に住したが、のち渡島(蝦夷島・
北海道)に移った。愛季は天正三年(1575)以来信長と交流をもっている(〈秋田家蔵品展観目録
並解説〉)。(文中「阿喜多の屋形下国」「下国」)」
となっています。上国は「北」で「下国」は南になるといっています。〈信長公記〉で「上方」「上がた」が
あってこれが今日の「上方」に使われてると思いますが、「北上川」という名もあるのでここで北海道の方、
北の方(安東大将の北方)を「上方」、秋田の方を「下方」と現地ではいっていたというのが太田牛一の
上方に反映してると取れます。それはとにかく
索引ではこの次は「安藤伊賀父子」など安藤三件が続きます。つまり
安斎/安西(「駿河安倍郡」/安東愛李(安倍貞任子孫)/□□/安中氏/あん中
の□□に「安藤」(旧安倍氏)を入れたということで、その目的が何かということになります。この「旧安倍氏」
はとってつけたような感じですから、「あん」「庵」を重視したことは確実で、「安中」までいっています。
「夕庵」の「庵」であり、「藤」は「安斎」を受けて、また「美濃三人衆」の「美濃」を受けて「斎藤」の「藤」で
もあります。また「藤田」「藤井」「内藤」「藤四郎」「藤九郎」などの「藤」、「武藤」の「藤」があり、これは
「武井」の「武」が出てきます。また安藤を入れてわかりにくくしとこう、というのもあるかも。□□で安藤を
ないものとしますと、倭の五王のところで「安東大将軍」というのが年表で出てますが、その「安西」がここに
同時に
安西−安中−安東
というのがわかりやすく出てきます。甫庵では「安中」は「越前守」となっていますから、越前です。安西は
どこかということになってくるのでしょう。これは大陸からの窓口をいってそうですから、その場合
安東−能代、土崎湊などの地、
安中−越前を中心とする地
安西−因幡伯耆出雲の地
というようになりそうです。安西が、こうなのか、どやわからん、というのがでるので、一応は用意がしてあって
北から 上国安東 → 上国
その南 下国安東(安東の安西となる)→ 下国
その南西 越前安中 → 中国(地方)
となる理屈で、上中下の「中」が変質して山陰地方(中国)の「中」となります。そらおかしいというのがすぐ
でます。すなわち、安東大将軍は極東の、ことだとしても、「安西大将軍」は西域におかれたものだというのが
出てくることです。しかしこれは中国皇帝の政庁から見ての話で、太田和泉守は日本にいるのだから、安西
二通りで、安西Aを設けて語ったとみれるから問題ないのでしょう。すると「安中」を中国国内のどこにみた
のかというのも出てきて深みに嵌って収束がつかなさそうになってなってきますが、太田牛一は手を抜いて
いないはずで。二通りは生きてるので一応みないとしょうがないかなという感じです。が、とにかく今言ってる
のは「神戸四方」が全稿で出てきたのでそのことで、神戸四方という場合は。大陸
との窓口の捉え方であろうといってきましたが、北九州は常識的でここで三つ出たので
能代・秋田 − 越前(越中・越後) − 中国(因幡伯耆出雲) − 北九州
の四方面をいってると取れます。ここから大陸の人や文物が、はいってきて今日の日本が形成されたわけで
すが、聖徳太子や王仁や鑑真に代表されるような優れた人がやってきた、これを仰ぐように迎え入れた
のを、神が戸を敲いて入ってくる、というの例えで言ったととれるところです。〈甫庵信長記〉に
「大井河の流れ・・・いと安う渡させ給ひけるこそ有難けれ。」「大井河・・足もぬらさぬ目出度さよ。」
があり、これは江戸時代の大井川の渡しの仕方が想起されますが、これと似て、渡海してきた人を舟から
上陸までの間、足をぬらさぬ配慮をして迎え入れた、のが本邦の古人で、いまの祭りの「御輿」の情景も
外国から来る人を喜んで受け入れたということの名残の大きなものの一つであるという感じです。
(217)安東大将軍倭国王
年表見ますと、239〜248の魏志倭人伝の記事の後は、長い空白で、やっと空白の四世紀といわれる
ところで即ち366年からちょっぴり出てきます。
「 年 政治・社会・経済 右端に世界(の動き)欄
301から364 空白 例が下の○の部分
366 記事あり〈神功紀46年条〉
367 記事あり〈 47 〉
369 記事あり〈 49 〉
372 七枝刀記事〈 52 〉
382 細字記事 〈 62 〉 ○百済 東晋より仏教伝来する
391、倭軍、渡海して百済、新羅を破り臣民にするという。〈広開土王碑〉
392 百済の辰斯王を・・・詰問する。辰斯王殺され阿花王が立つ。〈応神紀3年条〉
395
397 百済の阿花王を・・倭国軍が攻め・・・阿花王・・王子を人質として和を請う。〈応神紀8年条〉
399 百済・・・倭と結び、新羅を攻める。・・・新羅は、倭人が城を破ったことを高句麗王に告げ
に救援を求める。〈広開土王碑〉
400 高句麗好太王、5万の兵をもって新羅を援ける。高句麗・・・倭軍を退け、追撃して任那・
加羅に至り服属させる。〈広開土王碑〉
のようになっており空白の四世紀というから、ここで区切ってみると100年の間にこれだけしか記述がない
わけで、おまけに〈広開土王の碑〉という海外の資料が幅をきかしています。この間に〈書紀〉の記事が
あり神功皇后と、その子の応神天皇の部分が入っています。399、400年ころ高句麗が強大で、中国の
東夷の統治の窓口の倭国も百済も、圧迫されて、満州方面、南方へも勢力を広げたのいうのがこの時期で、ま売り9里k負う陣号公庫366382までは〈〉に
す。神功紀、応神紀の部分は広開土王碑の記事によっている、もしくは、応神天皇は好太王の事跡と
重ねていると取れるところです。この後、30年ほどで倭の五王、安東大将軍が出てきますのでこれは高句麗の
延長と取れます。
404 倭軍、帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍に撃退される。〈広開土王碑〉
405 百済の阿花王薨じ、王子、倭国より帰国即位〈応神紀16年条〉
410 世界欄:
413 倭国、東晋に方物を献上する〈晋書〉 ○高句麗東晋より・・征東将軍高句麗
王楽浪公を授かる
414 ○高句麗 広開土王の碑たつ
415 ○百済 東晋より鎮東将軍百済王を
416 授かる
420
○高句麗、宋より征東大将軍を授かる。
421 倭王讃、宋に朝貢・・・〈宋書〉 百済、宋より鎮東大将軍を授かる。
422
425 倭王讃・・・宋文帝に上表して方物を献上〈宋書〉 ○高句麗・・・平州諸軍事・・宋より加授。
427 ○高句麗平譲に遷都
428 倭国、使50人を百済に派遣する〈三史〉。
429 百済王・・・妹・・を貢進す。〈応神紀39年条〉
430 倭国王宋に使者・・・方物を献上。〈宋書〉
438 倭王(讃の弟)珍、宋に★@安東大将軍倭国王と称し・・上表し、安東大将軍倭国王とする〈宋書〉
443 倭国王済・・・宋の・・・奉献・・・★安東将軍倭国王の称号与えられる。〈宋書〉
450 ○高句麗新羅を討つ
451 倭国王済・・・・★A安東将軍倭国王(宋では★安東大将軍に進号)
460 倭国王使を・・・方物を献じる。倭王済没・・・世子興・・貢献する。〈宋書〉
461 百済コウロ王・・弟、倭国に遣わす。〈雄略紀5年条〉
462 宋の・・帝・・・倭王世子興に★安東将軍倭国王を授与する。〈宋書〉
463 ・・安康天皇殺害・・・。大泊瀬幼武皇子(雄略)・・・下手人らを殺す。
474 (記事あり)〈雄略紀18年条〉
475 (記事あり)〈雄略紀19年条〉
477 倭国宋に・・・方物を献ずる。〈宋書〉
478 倭王興没し、弟武立ち★B安東大将軍倭国王と称す。倭国王武、宋に遣使・・方物を献じ
上表す。・・・順帝武に・・・★安東大将軍倭王を授ける〈宋書〉
479 雄略天皇没す。・・・〈雄略紀23年条〉
以下〈清寧紀〉〈仁賢紀〉〈武烈紀〉から引用があって
502 梁の武帝、倭王武王を鎮東大将軍より征東大将軍に進号する。〈梁書〉
○梁、高句麗王に車大将軍、百済王に
征東大将軍に進号する
507 応神天皇五世孫と伝える男大迹王を越前国三国坂中井から迎える(継体天皇)
となってて、倭の五王が出てきた438以降、★で「安東」がたくさん出てきて、これは、どの辺のことを
いうのか、どういう意味かなど、わからなかったのですが、筆者にとっては、太田牛一の「安東]「大将」が
唯一理解の手助けとなったものといえるものです。つまり、日本列島の北西の方でもあるから
東北
北西
で大陸で言えば満州から朝鮮の北部一帯の大勢力の高句麗の隣り合わせのところにあるということです。
438★@ 451★A 478★B
の安東大将軍は前に長い文章が引っ付いていてここでは省略してますが、自称の部分もあります。
倭を経て中国王朝への申請書に書いた内容とするとわかりやすく実際は違ったものにもなってます。
438★@ 「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し」
451★A 「 々々 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 々 安東将軍倭国王」 (進号)
478★B 「 々々 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国 々 安東大将軍倭国王
と称す。倭国王武・・・宋に上表・・・父祖の功業と・・・●高句麗の無道を指摘して自ら
開府
儀同三司と称してその承認を求む。順帝武に、(その通りではなく「百済」が抜かれて)
使特節都特倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国 々 安東大将軍倭王を
授ける。」
となっています。この初めの「倭」は今の日本列島の「倭」ではないのは明らかで、「倭」が六国に
入っていて高句麗の名前がないということがおかしいことです。高句麗は年表では、404年倭を撃退し
っており、中国は420年ころ高句麗を征東大将軍、百済を鎮東大将軍にしていて、この両者の角逐の
時代ですが、高句麗が倭を圧倒して、倭を僭称したというのかも知れません。倭が高句麗くさい
から、ここに南の強国「百済」が入ったり、入らなかったりしてる、と取れそうです。宋は今は名目的に
なっている大倭は外すことはないはずで、勢力拮抗している高句麗・新羅に遠慮している様子が窺え
ます。大倭と高句麗の姻戚関係が予想されるのは倭王の中に弟というのがあり、また●で誰かが(おそ
らく倭が)高句麗を口撃しているのでそれが読み取れるところです。本能寺のところが読めてないとここ
が理解できないわけで、談合の五人同士の内紛、羽柴筑前が明智を悪し様に言って滅ぼしてしまうの
が、実際はどうだったか、というのがここと同じことであろうと思われます、本能寺の「能」−−「能代」−−
「安東」という繋がりからみるのでしょう。●が倭の武王の上表文でわかりにくい内容で知られたもので
太田牛一に聞くしかないものでしょう。
(218)倭武王上表文
功業を述べてるのですが高句麗を攻撃しているから高句麗の延長の倭の五王というのが出てこない
ので解釈ができないようです。本文は
「・・・わが国は、中国から遠く隔って外臣として藩屏となっている国であります。・・・わが祖先は
みずから甲冑をつらぬき・・・東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
、北のかた海を渡って平らげること九十五国に及び強大な国家を作り上げました。
わが国は、代々中国に仕えて、朝貢・・・道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。ところが
高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかづめ・・・目的を達しない・・・わが亡父の済王
は、かたきのの高句麗が・・・道をふさぐのを憤り・・・まさに大挙して海を渡ろうとした・・・その時に
父兄を失い・・・高句麗の勢をくじかないままであり・・・強敵高句麗の勢をくじたい・・・みずから開
府儀同三司の官を名のり、称号を賜って忠勤を励みたい・・・」
というようなものです。太田牛一はこの説明のため「安西」「安東」「安中(越前守)」という表記を作ってい
ます。この上表文の国が、55+66+95=216になり、爆竹A〈信長公記〉の数字が
●15・1・3・3・1・1・9・7・2・5・3・5・1・4・4・3・16・9・3・21・100=216 (217と読む人もある?)
となるので、太田牛一には倭武王(倭武)の上表文を説明をしようとする意思があるということでしょう。
この爆竹Aの最後に
「跡職相違なきの旨、上意にて、年寄共には、一々御馬下され、悉く下国候キ。」〈信長公記〉
があり、この「一々(いちいち)」の「一」を「いち」だろうと見たのが、筆者のカウントで216になるということで
す。「一々」の「一」を入れると、217になるし、「一一」とみれば(これはないと思いますが218になります。
そーら、みたことか、機に臨み、変に応じ、ちごたやり方をするのはインチキだ、21世紀ともなれば
そんななことは通用しない、けしからんこと限りない、といったことになりますが、この一の違いのために何回も
やるわけで、うしろの「下国」がいやでも目に付きます。索引では
安西平右衛門/安東愛李(文中表記「阿喜多の屋形下国」「下国」)/安藤伊賀父子→安藤守就
、があって、この「下国」で安東を語ろうとしている明らかですからこれだけでもよいわけですが、広く公共に
及ぶことは念には念を入れた方がよいわけで、数字の裏打ちが信用を呼ぶものです。理屈をいえば
「一々」という「いちいち」という「一」は、一人とか三個といったようなカウントの「一」ではないということは
いえるし「一々」というのは「一(マイナス1)」という取り消しの「々」とも考えてよいのかもしれない、つまり、なかった
こと(ゼロ)にしとこというのはあるかも。芭蕉に
ああ春々大(おほい)なるかな春と云々(うんぬん)〈向之岡〉
があり、何のことかよくわらないままにきてますが、よい句になってるようです。訳は
「ああ世はまさに豊かに駘蕩(たいとう)たる春である。この目前の春は古書に『大ナル哉春ーーー』
とでもありそうなさまであることよ」の意
となっています。「と云々」が棒線になってるといえるのでしょう。また
『〈東(あずま)日記〉には言水の「於々(ああ)峠吐息の霧に富士はなし。」の句がみえる。・・・芭蕉と
と言水との間に発想の類似が見られるのがおもしろい。』
でこれは何の意味かわかりませんが「霧に富士は云々」の句が別にあったのでしょう。「云々」は言葉を省
略していう語となっており芭蕉は、爆竹Aの「一々」をみてこの句を作ったと取れそうです。「一々」は「1・1」
とはならず「々」を半人前として「1.5」ともなりこれを入れると217.5となります。年齢など数字の照合は
2ッ違いは合(同じ)といってきましたが、こういう照合の場合でも二つ違いは合で、500=502で合という
照合が出てくるところがあります。また「一々」というのは「々」の字は(いち)とヒラくという意味とするならば
一・市・壱・(位置)
でみたらどうか、というのもあるかも知れず、芭蕉の本文の「与市扇の的を射し時」の脚注は
「那須与一宗高が屋島の戦いで扇の的を射た。」
となっています。市を一に替えてあって、本文では「時」が入ってるから、宗高は那須家の当主で、与市(
余市)が射た人というのだったら、そういうものへの広がりが「々」にあるともいえます。また倭の武王の
出した数字が95・55・66、というラウンド、アバウトというような、5と5の、6と6の揃いがあり、216という1つ
の余分などがあり、まあ一筋縄ではいかないというのが「一々」に込められていそうで後世の解釈に教えて
もらうしかないのでしょうがそうなれば太田和泉守のものを見逃すと、大きく響いてきそうです。●の数字
の中で「100」は本文では「百」であり、「21」は「廿一」で何か毛色の変った括りがありそうで、「16」(「15」
もある)という炙り出されている数字もあり、また太田牛一は「安西」と「安東」を用意してる、「会稽」という
のをたくさん出してるというような独特のものがあります。紹興市にあたる会稽郡は「越の国」となるようですが
これは後の継体天皇の「越」と通じているのでしょう。ここは会稽東治(冶)の地で、この北方に蘇我の蘇と
いう字をもつ海沿いの江蘇省があります。倭から北の高句麗を通して朝鮮半島と日本列島をみると、
比較的狭い海峡が九州を挟んで二つあるだけで、広い方は対馬−壱岐と伝ってこれる、九州は筑前など
九つの国ですが、対馬・壱岐を入れると頭の中では十一州ともなり得ます。北方・安東方面は、北海道の
北の樺太は宗谷海峡がありますが極めて大陸に近く、ウラジオストックとかナホトカからは北海道の方が青
森よりも近いようで、この北海道が明治に11国となりましたが、それまでは渡島(おしま)、胆振(いぶり)、
十勝、石狩、釧路など十州がカウントされて「十州島」といわれてて、
「古く蝦夷(えぞ)と称していた」〈広辞苑〉
となっています。そんな大きな所、太田牛一書いてないのはおかしいと、思う人があるかも。
倭武王の上表は、55・66・95計216であり、甫庵は「江州安土山記の事」の一節で「濃(じょう)州(しう)
岐下」の「南化和尚」の文を載せています。ほとんど機械で入力できない漢字で一杯の文で、打てるところ
だけ、ほんの少し出せば、
「▲日域六十六州之一州をを江(かう)と曰ふ。江左に山有り。名けて安土と曰ふ。・・・・山高き・・・
太山より高し・・・山は高き・・・・仙・・・名・・・上(かみ)・・金城・・・。●葛原帝王(くつはらの)帝王
的々の令孫平清盛廿一代の華冑(くわちう)前右府君は禁庭の綱紀武門の棟梁・・・・
▼ 六十扶桑第一山・・・・蓬莱三万里(ノ)仙境 」〈甫庵信長記〉
があります。●については注はなく、桓武天皇の皇子のようです。桓武平氏の「清盛」だから、これは
合ってそうですが、「廿一」が出ています。この▲が66でこれが重要なもので、これは倭の武王の66を踏まえ
て書かれていると取れます。
藤堂(家)は西国三十三ヵ国の旗頭というのは小説・講談などでよくいわれており、すると六十六があるから
東国は三十三となる理屈かというのがすぐ出てくるところです。
藤堂=(伊賀守)=安東
で、太田牛一以後の文献に66がよく出てきて〈南蛮興亡記〉では
「六十余年」「松樹六十六本」「其の木数六十六本」「十六・・・十六・・・六十六部・・」「六十一種」
として「木」と引っ掛けても出てきてます。ところが、▼は甫庵の脚注では
「日本六十州」
となっています。一般に扶桑も日本、蓬莱も日本、となっており、南化和尚はなぜ、六十蓬莱、扶桑三万里
ノ仙境と書かなかったのか大きなギ問が出てきます。そんなこと考えたらあかん、とはなっていないはずだ
からわからないようです。しかし日本文学の鑑賞、理解には必要で、芭蕉は
「松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥(はぢ)ず。・・・★浙江の潮をたたふ。」〈奥の細道〉
があり、奥州で「扶桑」を出してます。この脚注は
「東海中にあるという神木で、日本の異称となる。」
とされています。芭蕉は一応扶桑を「松」「島」と関連させて出してますが日本六十を扶桑とみてるということ
になります。一方、芭蕉の「蓬莱」は
「蓬莱に聞かばや伊勢の初便」〈炭俵〉
があり、この蓬莱は、正月の飾り物で、
「三方に松竹梅を立て、白米・歯朶(しだ)・昆布・ゆずり葉をしき、それに橙・蜜柑・柚・橘・かち栗・
野老(ところ)・穂俵・串柿・伊勢海老・梅干などをかざったもの。長寿・富貴の祝の意を表す。」
があってこの「伊勢海老」を句で取り上げただけで、あの「伊勢」関係ないというわけでしょうが表記は同じ
南化和尚は、この「野老」を蓬莱三万里の一節〈安土山記〉使っています。これは芭蕉では、伊勢朝熊山
(あさまやま)の神宮寺の近く「菩提山」を前書にした
此の山のかなしさ告げよ野老(ところ)掘(ほり)
とつながります。橘も
駿河路や花橘も茶の匂ひ〈炭俵〉
と駿河と結びついています。橙・橘・蜜柑ともなると「田島守」(但馬守)「田道間守」などが垂仁天皇と
でてきますが垂仁は「・・母・・みまき・・」で
「此御時・・・伊勢国いすず(ルビ=五十鈴)かは(川)かみ(上)・・・橘・・・阿部臣等五代祖・・」
となっており「橘」−「蓬莱」「宝来」「鳳来」がでてきますが「蓬莱」といえば日本と関係がありそうな、と
思われる、しかし部分的かなと思わせるものであろうととれますが南化和尚の、▼の蓬莱は日本にドーン
と関係してくると思わせるものです。これに決定打が出て、太田和泉守の
「今や久秀、徳行の化する所、宝壺如意珠・・・日域の海隅に・・・復た合浦の孟伯周を観んとは。
秦の始皇帝、倭国に■蓬莱の仙嶋有るを聞きて徐福を遣はし長生の薬を求めしむ。徐福、南紀の
金峯に至って、東駿の富士に止まる。此等の地を指して以て●蓬莱とす。」〈甫庵信長記〉
があり、太田和泉守の■が出ました。●の「蓬莱」については脚注で
「仙人の住む山」
となっていて緊張して読んでるところなのに逃げられてしまった感じです。つまり中国で使われているの
は仙人にウエイトが懸かっているかもしれないわけです。したがって■の「蓬莱の仙嶋」は南化和尚の
「蓬莱」「ノ」「仙境」を受けている、ここでは「ノ」が出ており和尚独自のものです。太田牛一の■はこの
「ノ」を越えた上の「の」だから、日本史の説明をしようとする独自の■です。
この「蓬莱の仙嶋」へ徐福がきて、それは山島で、上陸地が省いてあって、そこから南紀へ行って駿
河に止まったということです。南紀・駿河の大きさのところへ上陸したということで、蓬莱の仙島を漠然と
日本列島とすると、そこの安東の地へ上陸したといってるとみるのが妥当かなとみれるところです。
まあこれは理屈のようですが「蓬莱の仙嶋」が太田和泉守始発とすると、「安東」とか「(安西)平右衛門」
とかは無視できないところです。徐福の属性としては「平原広沢」というのが知られてて、そこで王になっ
たということですが、「平原王」とか「平原君」という表記があって、この「平」は高句麗の「平州」があり、
応神天皇の、425年ころ、「散騎馬常持督平州諸軍事」を宋からうけ、このあと平壌に居を据えています。
南化和尚の文の平清盛の「平」も、この関係で出ています。ここにが「騎馬」があるのは北の広大な
平原と地続きなので頷けるところです。「広」は広開土王の「広」があり、「広」こう「高」があります。「沢」は
「大沢」〈信長公記〉があり
広沢
大沢 となり、 「広大」から「無辺」もでてきて、「無辺」〈信長公記〉は
「生国・・・無辺・・・・亦・・・唐人か天竺人か・・・唯、修業者・・三国・・・術者(バケモノ)・・・出羽
の羽黒の者・・・弘法・・無欲・・其の・無欲・・・無欲・・奇特・・奇特・・奇特・・」〈信長公記〉
があります。「無」というのは脚注でも2件出ます。索引でも「・・・武藤/無辺/村井・・・」となって
「武」を呼び出します。
南下和尚(策彦周良A)−岐下(岐阜県)玄興−周の武王−倭の五王武−武藤(武+安藤・斉藤)
−武井(美濃斎藤氏の臣・「庵」=「安」)−関東「武蔵」の「武」
などになりますが、平安の「桓武天皇」の「桓武」となると、「武」がうしろにあるから気がつかないだけで
この「武」というのではないかとも取れます。すると「桓武」の「桓」が山東の覇者、斉の桓公の「桓」とも
みれますが、まあ「北」の方という感じはあります。桓武天皇=(武)=武井を結ぶのはけしからん話だと
いわれそうですが、〈甫庵信長記〉では
「武井肥後入道・・・・桓武天皇(ルビ=わう)(索引になし)・・・伝教大師(索引になし)」
となってて、隣り合わせの「武」になっています。「日本武尊」の「武」も挟さまっているから気がつかない、
「神武天皇」もそうです。これは「神・武」とみると、「桓・武」への、無言の架橋がみえてくるのかも。「尊」で
いえば後醍醐天皇は、なぜ足利高氏に「尊氏(たかうじ)」という名前を与えたのか、疑問がでますが、
ここに、武門の棟梁の「尊」があったので、古代では「高」は「高句麗」の「高」もあるかも。「百」と、百マイ
ナス一の「白」もよく出るから。百済−新(白)羅というのはよく知られていますが日本に
与えた影響は同時性もありますが順序として高句麗−百済−新羅ということになりそうで、これはもう知
られていることで東国を努めて隠してきたからしられていないだけです。稲荷山鉄剣の銘が雄略天皇の
ものらしい、となっても、近畿天皇家の支配が、意外に早く、ここまで及んでいた、といったことで済んで
います。〈万葉集〉は雄略天皇から始まっていて、これは中国の書の倭の五王「武」にすでに引き当てら
れています。ここでは、太田牛一がどう高句麗のことを
述べようとしてきたかということがいいたいところのことです。志賀島発見の金印にまた戻るようなことにも
なります。
(219)扶桑と蓬莱
芭蕉が「扶桑」を使ったのは太田牛一が「徐福」が出た一節で、南化和尚の「扶桑六十」を受けた
「我が扶桑国」〈甫庵信長記〉
をだしているので、それを受けたと取れます。
「往昔、中華{京師}、蓬莱の仮山(かさん)に造(いた)る。{盆山}山頂に小宝壺を安置す。
如意宝珠と号し、遠く我が扶桑国に贈る。」
という文の一部です。ここでも扶桑と蓬莱を出しています。区別がわからいので困っているのにこの
わありにくい一文があるわけです。参ってしまいますが、簡単な文なので、簡単に述べないと意味が
ないのでしょう。「仮山」は脚注では「築山のこと」とありますが、これではよくわかりません。盆の
上の山のことも考慮すると「庭」の山が「仮山」というのも考えられます。ここに安置した壺を、霊験ある
珠として扶桑国に贈ってきたので、国王がおり宮廷があったと見て取れます。宝壺には脚注はなく
この一節に「蓬莱の方壺」があってその脚注はでてます。
「蓬莱 仙人の住む山。」「方壺 腹が丸く口が四角な壺。富士山頂の火口を云っている。」
となっています。火口が突然出てきて、困るわけですが、富士山は火山活動の結果できたということ
見てるようで、こうなると「仮山=火山」「山頂=富士山」「宝壺=宝珠」となります。「如意宝珠」は
仲哀天皇(「日本武尊第二子」)の記に
「皇后トヨラ(ルビ=豊浦)の宮にて如意宝珠を得たまえり。海の中より出き(ルビ=来)たり。」〈愚菅抄〉と
がありこの皇后が「神功皇后」で、如意宝珠がその属性です。珊瑚や、たこ壺もあるから海から出てくるの
もありえます。ここで
「日本武尊」(〈愚管抄〉) (「今尾張の熱田大明神これ也。」)
の「日本」と「武」が出ました。この「武」が日本史で語られない
「武内宿禰」
の「武」で、まあいえば倭の武王の近い祖でしょう。つまり、「日本武尊」=武内宿禰@が考えられます。
〈愚菅抄〉によれば、天皇名
崇神−垂仁−景行−成務(61年)−仲哀(9年)−神功皇后(69年)−応神−仁徳
の流れにおいて、神功皇后は普通天皇のカウントに入っていないのに、慈円は
13代、成務、61年 14代、仲哀 9年 15代、神功皇后、69年
としています。これだと順番になります。まあ9年を前に引っつけるのと、後ろにくっつけるのと世代が
かわります。仲哀天皇は「景行天皇の孫」「日本武尊の第二子」と書いてあるだけで、「成務天皇」の子
かどうかわからず、仲哀天皇のきさきは神功皇后とかいてあるのでとりあえず、9を前にくっつけると
成務天皇・仲哀天皇計69
‖
摂政・神功皇后計69
となりますがこれだと同世代の組み合わせができます。9を後ろにつけると
●成務天皇ーーーーー仲哀天皇 9
‖
摂政 神功皇后 69
となり、こうなると●成務天皇が実体のないような感じになるので、これは●Aとして、成武天皇として
隠れたものが出てきたといえそうです。これが棟梁臣として
垂仁天皇に「阿部臣等五代の祖」、景行天皇〜仁徳天皇まで「武内宿禰」
が記載されているのに引っ付き
成務(武)天皇A=棟梁臣武内宿禰(阿部臣五代の祖)=日本武尊、
となりそうで、これはまた「息長宿禰」という名をもってて神功皇后の父ともなるかも。高句麗のこの
日本武尊という「日本」という名乗りも、単なる個人の愛称として、飛んでしまっています。
任那の日本府が、この高句麗の強勢な時代の名残とすると、意外に今の日本が意識された
政庁があったといえるのかも。つまり、倭の大日本というものと、東国を中心とした日本と、九州までも
含んだ日本というのもあるとみると、日本がわかりやすくなるのでは。芭蕉は
「神功后宮(じんぐうこうぐう)・・・御墓・・干満珠(かんまんじゆ)寺と云(いふ)。」〈奥の細道〉」
を出していて、この表記は神功皇后が二人(神宮コウゴウも)いそうな感じがでています。この「珠」は
如意宝珠の「珠」で干満は桶狭間の塩の満ち干に懸かっており、そこで
「御甲(かぶと)・・・あつた・・・★塩満(み)ち・・・熱田・・」〈信長公記〉
がありました。この「熱田」で大明神の「日本武の尊」が出ています。この「満」は筆者などは、小さい時に
よく聞いて、あの「満州」がすぐ出てくるわけです。それは常識的にみて関係ないよとなりますが、ここに
★があるから、塩を見ると
「塩河国満」「塩河勘十郎」「塩河吉大夫」〈信長公記〉(
が用意されて、ここに「国」というのが、付いています。「勘十郎」「吉大夫」にはそれぞれ
塩河勘十郎 塩河国満の一族であろうか
塩河吉大夫 塩河国満の一族であろうか。
とぴったり並んで書かれていますから、ちょっと、こう、構えて見るようになってしまいます。まあ
国←「満」→族 とか 満(州)族の国
を二回言ってるということになります。ちょっと、くどい話になりましたが「塩河国満」の注が、吃驚で
「伯耆守。久安寺川を塩川ともいい、箕面(みのお)市止止呂実に塩河氏の居所跡というのが
あった。(〈箕面市史〉) (文中表記 「塩河伯耆」)」
となっています。まあ「久安寺(川)」が三つ並んだことになります。久安寺は現在は池田市で、人物では
「聖武天皇」「行基」「弘法大師」「豊臣秀吉参拝月見茶会」(池田市観光協会の記事など参照)
が属性の寺です。「池田市伏尾町69」にあります。この69は神功皇后の69年とは関係はありませんが
が九年が前にくっつくと「阿部臣五代」が出てきて、これが「前九年」とすると「後三年」で安倍貞任、八幡
太郎の戦が出てきて安東地域もでてきます。「塩河吉大夫」は、本文では
「高山右近・中川瀬兵衛・安部二右衛門・塩河吉大夫等・・」「池田勝三郎・塩河吉大夫・
高山右近・中川瀬兵衛、先陣として・・・」〈信長公記〉
となっていて、「吉大夫」は「安部」と「高山」の「高」と「等」に接近してますが「池田」が出てきてるの
が利用されています。「等」は(竹=武)プラス「寺」で「寺」は塩川に付いています。
そうなると「中川瀬兵衛」二つがちょっと邪魔やなあということになりますが、このあたりで早い段階の
「瀬」を見るのもいいかも知れません。雄略天皇は
「・・母(は)安康(に)同じ。・・大和国泊瀬(はつせ)朝倉(あさくら)宮、・・・・うらしま(ルビ=浦嶋)
がこ(子)がつり(釣)たる亀。女となりて仙にのぼ(登)れる。この御時也。
大臣平群真鳥臣 物部目連{執政伊久佛子}」〈愚管抄〉
の「瀬」が、あります。「亀山」の「亀」とか「仙嶋」「仙人」の「仙」、能登とか登呂の「登」がでます。先陣
のことを「先登」というのもありました。初瀬=長谷もありますが、朝倉と結ばれ
て「義景」一族の「景」が出てくることになります。
(220)清盛の登場
景行天皇の「景」ですが、中川瀬兵衛は高の高山と安部に挟まれてでてきたから安東の地域に出て
くるのは当然ですが「瀬」−「瀬」でも出てきてしかるべしということになります。中川瀬兵衛は「清秀」
で有名ですが、平家の出世景清としてしられた
「平景清」〈信長公記〉(文中表記「景清」)
の「清」と、(「瀬」を通じて)、「景」の両方に繋がることになります。そのためにこの挟みがあったととれ
ます。そんな意外な人物を出すのは、おかしい、というのはちょっと置いといて、「平景清」の注は
「清盛の臣で悪七兵衛景清として著名。〈平家物語〉に活躍する。景清二〇」
となっています。「平」が「平」氏と〈平家〉で出て、高句麗の「平」・徐福の「平原」の「平」が出ていそう
です。有名が「著名」になっているのは〈平家物語〉の著書の名を取るということで、活躍となっている
のは「活目天皇」が垂仁天皇(伊勢国五十鈴川上に大神宮を祭った)であるということからきている
ということなどがあります。しかし「清盛」が出てるので、南化和尚の(一部再掲)
「・・・大海・・江左に山あり、名(なづ)けて安土と曰ふ。・・葛原(かつはらの)帝王・・・令孫
清盛廿一代の華冑前右府・・・禁庭の綱紀武門の▲棟梁・・天の縦(ゆる)せる▼聖武なり。・・」
があり、「江左」に安土山というのは和尚は視点を北においてて普通では「江」の「右」側になります。
安土山の反対側には今でも蓬莱川があります。ここの「清盛」を指してるのが、景清注の清盛です。
ここの▲棟梁というのは〈愚管抄〉で
「 阿部臣等五代祖。
景行天皇 景行 六十年・・・マキ向日代宮・・・此御時
武内宿禰・・・国々の民の姓・・・・・・
棟梁臣 棟梁臣武内宿禰・・・・{棟梁臣起自此}
成務天皇 成務 六十一年 近江国・・・・これより先はみな大和国・・」
があって、「棟梁臣」が三つもでています。▼が何の意味かわからないので、重要と認めねばならない、
これが「武内」の「武」というものを取り込んで「平」の▼「聖武」→「政務」=「成武」という隠れた人物
をもう一人引き出したということになりそうです。つまり
成武=葛原の帝王=武内宿禰=棟梁臣=神功コウゴウ
となり、これが「平」プラス「(葛)原」も出してくるということにになります。倭王「讃」とされる履中天皇
は神功の三代あとで、仁徳のあとですが、前の仁徳の終わりに
此御時氷室始まる、又鷹いできて有御鷹云々。此御門は平野大明神なり。
があり、「平」が出ています。太田牛一は「平田/平手/平野」と並べています。志津ヶ嶽七本槍の
「平野権平」は「平」「平」が付いてるから小説的名前ですが一応は平手の出身とみるのでよいの
でしょう。平田篤胤は、扶桑は日本だといってるそうですが
芭蕉の扶桑第一の松島ー松島種ー平田の胤ー篤の竹馬(武)−日本武尊の日本
というのを意識したことかも。そのあとが履中ですが、その一節に「葛」がでてきます。
「母は{・・・葛城・・が女}」「此御時采女(うねめ)出き(来)たり。」「諸国に蔵を作る・・・・」
「大和国磐余稚桜宮」
「執政 平群竹宿禰」「宗我満智」「物部伊久佛」「大連葛城円使主{武内宿禰曾孫}」
といったものの中に二つあります。「葛」は「葛飾北斎」の「葛飾」をすぐに思い出しますが、これは
〈万葉集〉の山部宿禰赤人の歌で、「勝鹿」「葛飾」があるのを芸名として持ってきたと考えられます。
「巻三」
勝鹿(かづしか)の真間娘子の墓・・山部宿禰赤人の作る歌一首・・・東の俗語・・
431 いにしへの・・・倭文幡(しつはた)・・・伏屋・・・葛飾の真間の手児名・・・奥津城・・
真木の葉や茂り・・・松が根や 遠く久しき 言のみも名のみもわれは 忘らゆましじ
反 歌
432 われも見つ 人にも告げむ 葛飾の真間の手児名が奥津城処
433 葛飾の真間の入江に うちなびく玉藻刈るりけむ 手児名し思ほゆ 」
があり「かづしか」と読ませています。東の俗語では「かづしかのままのてご」となっています。
ここで「倭」「文」「幡」がでています。「文」がわからないが、この「幡」は八幡の「幡」ですが
安東地区の属性ともいえる語句のような感じです。高句麗の習俗とか、政治風土などともに語句も
言語などの特徴もあるかと思いますが、それを知ってからでないと理解できないというものでもない
というのが、吟味された表記で感得できるというようになってると思われます。葛とか幡・旗とかがそう
ですが、姓を与えるというのがここででましたが、すると「橘」というのは「安部」「阿部」に近いかもという
のが出てきそうです。この「倭文幡」は脚注では「倭文織り」(の帯)に変わっています。したがって
「奥津城」は「墓」という訳になっていますが「奥津城処(所)」となると「墓」かどうかわからない、漢字
から受ける「奥」というイメージと通りの意味になるかも。
「平」「葛」「幡」「宿禰」などが、安東倭国王の地域の属性語句ともいえるかもしれないが、平清盛や
松永久秀や、〈万葉集〉山部赤人などを持ってきて、「茂」「松」「根」「久」「伏」「遠」「葉」「間」「秀」などを
説明に加えようとしてるという意思が読み取れるところです。中川清秀は、索引で安東の次の「安中」
の「中」ですが「安中」は〈信長公記〉注では
「安中左近大夫景繁〈生島足島神社文書〉か。或は景繁の次代かもしれない。安中氏は碓氷
郡安中(群馬県安中市)の住人。平姓余吾将軍維茂の末。」
となっています。「大夫」は「吉大夫」の「大夫」、この「景繁」の「景」が「平姓」の「平」に繋がり、
「次代」も同じ名前になってるようで「成務」も二世代に及ぶという捉え方もありえます。繁茂の「茂」
も〈万葉集〉や「維茂」で出ています。この「茂」は「毛」に通ずることは「丸毛兵庫頭」の注で出て
いました。「群馬の「群」は平群の群でしょう。「将軍」は安東大将軍の暗示がありそうです。「余」が
「磐余」(いはれ)の「余」、「夫余」という「扶桑」に通ずる「余」だから重要ですがこれはあとにして
「左近・島。島」
も出ていているのが気になるところです。橘・桜の左近・右近(「桜」は磐余の「桜宮」があった)、
や仙島・千島などの島もあり、島田所之助・明智左馬助の「秀満」、福富平左衛門・福富満蔵の
「平」・「満」が塩河国満や宗我満智の「満」になります。島田は「秀順」もあって、松永久秀に筒井
の「順」がついて廻りますが(筒井順慶といえば島左近が第一の家臣ですが)、徐福の出た所に
「順帝」があります。
「▲順帝・・●孟嘗伯周、■合浦(がつほ)・・道徳清行・・{合浦・・孟嘗伯、・・合浦)・・今や
久秀・・徳行・・・壺如意珠・・日域の海隅に、腹た合浦の孟伯周を・・・秦始皇帝・・倭国に
蓬莱の仙嶋・・・徐福・・・・この地を・・・蓬莱とす。」〈甫庵信長記〉
となっていますが、この「順帝」が年表〈東京堂版〉に出てきて
「478 ・・・倭国王武・・・方物を献じ上表・・。高句麗・・・
▼順帝、(倭五王)武王に・・・六国諸軍事安東大将軍倭王を授ける。〈宋書〉
479 8、雄略天皇没す。星川皇子反乱・・・誅殺・・。・・蝦夷・・反乱・・・〈雄略紀23年条〉。
481 白髪部・・・白髪部・・・白髪部 ・・・〈清寧紀2年条〉 」
が載っています。久秀の出た一節の▲が、年表の▼で出て順帝は宋の帝というのがわかります。
●は三種出ていて、まあ
●(4字)ーーーーーーーー子二人{孟伯周}・孟伯周
も考えられますが細字の{孟伯周}はちょっと特殊だから
●(4字)
‖{孟伯周}(ハクシュウ)
孟伯周
も考えられます。●は「孟嘗」だから「孟嘗君」となって「平原君」と有名な四君を構成するもので
「平原」を呼び出してると取れそうです。■が二つ(細字も二つ)も出てきて何の役割か、よくわから
ないのは事実にしても、それは江戸の人も芭蕉らも同じだから、ある程度これで話を進められる
ようになってるはずともいえそうです。
(221)合浦公園
「青森県青森市合浦二丁目」の「合浦公園」には芭蕉の句碑があり、
「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」〈葛の松原〉
があり「葛」が出ています。葛飾北斎、葛城・葛木の「葛」です。下北だから上北となると北海道等が
一応でてくるところです。この公園は1880年ころ広前藩の庭師の水原衛作という人が手を付けて
弟の柿崎区十郎が完成させた公園ということです。園には桜、670、黒松700の木があり、この「黒
松」は芭蕉の「黒森」の「黒」があると見れます
黒森(くろもり)
黒森をなにといふとも今朝(けさ)の雪〈五十四郡〉
解説では「これは奥州の黒森のはずで羽前西田川郡」「これは〈百歌仙〉にもある。」「出典に
ついては(山は猫)参照」なdがあります。「猫山」と前書のある句には「猫山は岩代の磐梯の
別峰、猫間岳・・・」というのがあります。とにかく「五十四郡」というのは、倭の武王の上表文に
55、というのがあるので一つ違いです。関係あるなしは別として百済も、54があるようです。
もう一つ54をあげれば
男鹿島(をがのしま)
ひれふりてめじかもよるや男鹿島(をがのしま)〈五十四郡〉
があり「男鹿島は羽後秋田郡八郎潟の西北岸の一村」となっています。秋田=安東地域が、八幡
の「八」を伴って出てきたともいえます。「ひれ」は魚の「鰭(ひれ)」ですが、「領巾(ひれ)の意をか
けている。」となっています。これは少し困ったことになった、人や、船などを迎えたり、別れるときに
、婦人の振る「領巾」はどこの属性語句なんか、松浦佐用媛のいたところと離れすぎとかの話になりま
すがういうことは、「鹿」も同じで、「鹿」といえば人物で
は、いわゆる「蘇我入鹿」に決まりですが、索引で
「百済寺の鹿・百済寺の小鹿」〈信長公記〉 白済寺の鹿/(同)小鹿〈甫庵信長記〉
があるのは、親子二人の「鹿」の暗示とともに、「鹿」の種類も二通りかもという、読む場合の
構えを要求して
るものと取れますが、前者は二つ引っ付けて索引の一項目としてて、そのため注記する場所がなく
なり、まあ紙代も節約せんなんから、しょうがないという気分にもなります。これは脚注で書いとこと
と、はじめから思ってて、長くしたのはあてがありました。
索引の前者は間違えていて本文では
「・・赤坂・・・常楽寺・・常楽寺・・・百済寺ノ鹿・百済寺の小鹿・たいとう・・・河原寺・・」〈信長公記〉
となってるから、「ノ」がカタカナが合ってます。これがバレタラいかんと熟考して、熟考して括っておけば、
通り過ぎやすいと思ったようです。つまり、隠れたる逸材が登場してるわけです。
入鹿@−−蘇我蝦夷−−入鹿A(小鹿=大政治家の入鹿)
‖
聖徳太(皇)子
における今で言う父とか、祖父の入鹿(蝦夷)というのが何となく出てくる感じがあればよいということ
でしょう。隋の煬帝に「日出づる処の天子、日没する処の天子に・・・恙無きや」といったのは「タリシ
ホコ」ということですが「足」(たり)=足半の足)これは蝦夷になるのかも。聖徳太子17条憲法をつくったき604ころ隋の煬帝
即位しており、これから高句麗は隋と唐との戦争状態に入らんとする高揚していた時期なので
高句麗をバックにしていることを考えるとこれくらいのことはいえそうです。高句麗の王の親族が聖徳
太子といえそうです。雄略天皇の死のあと481年雄略第三子の
白髪と名づけられた清寧天皇(子がなく履中の孫二人を子にした顕宗・仁賢)
(乱を避けて丹波国に隠れていた)
が就きますがこれが高句麗の「白」が百済・新羅の「白」と共に出てきた一瞬ということがいえます。
「平群臣」が乱暴だったの「王胤」が絶えたということで、継体天皇は507年に入ってきますが年表では
「507 大伴金村ら応神天皇五世孫と伝える■男大迹王を越前国三国坂中井(福井県坂井郡)から
迎え河内国樟葉宮で即位させる。(継体天皇)〈紀〉」
があります。右側に官職欄があって天皇名が載ることになっているのにこれまで載っておらず、継体
天皇から載せることになっています。したがってこれより前は天皇年次と西暦とはもっともみづらい形
におかれたままとなっています。この前の武烈天皇が
「限りなき悪王で人を殺すことを御あそびにせられけり。」〈愚管抄〉
のような人物です。落とすだけ落とされた「武烈天皇」のあとに、この、世直し「継体天皇」が突然出て
きました。これ以後の皇室の祖は継体天皇ということが語られますが、明治の政権から学説統一を
依嘱された学者はこの二人の天皇の段差は格好の隠れ蓑となってなって利用され、革命として世が
変わった、これまでと今後は読みを変えねばならんと感じを利用して状況を固定しました。万世一系と
いうのは血筋一本ということですがもし武烈天皇の血筋だったら困ります。またわからないという天皇を
出すなら万世一系のことは非難の対象にもならずということになります。■は重要とおもわれ、「迹」の字
が光っています。継体の項目に
大臣巨勢男人大臣{武内子}
大連大伴金村連
●物部鹿(上がクの鹿)鹿火大連
が継体天皇の周辺を固める人物(姻族のような感じ)で載っており、●で、この地域における物部の「鹿」、
が出て、芭蕉の「男鹿島」「めじか(めじ鰹)」の鹿が人名で出ました。
(222)大きな嘘
小さかったとき、兄が天皇名の暗記をしているのを聞いていて、知らず知らず覚えていたのが
継体・安閑・宣化・欽明(30代)くらいまでですが、ここまではいまでも確認せんでも書けるから助かってい
ます。履物の、倭の五王の「讃」と言われる履中天皇前後から欽明まで挙げてみますと
応神・仁徳/履中・反正・允恭・安康・雄略・/清寧・顕宗・仁賢・武烈・/継体・安閑・宣化・欽明
@ A B B B C C D
となっていますが雄略(武)は武烈(武)まで繋がり、継体まで連続しているのかどうかが問題となります。
どんな類似が、倭王武と継体の間にあるのかというのをみますと「五」がありました。〈愚管抄〉継体の条
主役は、継体天皇ですが
頭注は「継タイ(タイ=「骨+豊」)」で、本文は「継躰」、年表は「継体」
となっています。年表のはわかりやすさのためだろう、といわれそうですが、複雑な人間社会の諸相を
最も簡単に把握伝達できるやりかたがが考案されその基本的なものの一つが、これで、継体が逆転
されると暗示されているかも、三面というのがあるのか、もう少しだけ色々あるさといいたいものか出てきそ
うという予感がするところです。つまり連続していた政権であったというのがいいたいなら、これぐらいのこと
があるかも。
慈円の語る継体叙述内容は、それ自体が集約された簡潔なものですが、そのなかから五に関係
ある所だけあげますと、
「・・・応神天皇五世孫。彦主人王の御子なり。母は振姫{・・活目の御門の7世の孫のむすめ・}
・応神五世孫者。応神。隼總皇子・▲男大迹王・私斐王・彦主人王・継躰。{以上五世。}。但し
私斐王は異説カ云々。五世と取る事は、応神を加へて数えるカ。除くカ。
神功皇后をも開化天皇五世の孫と云々。それは一定開化を加うる定めなり。もし然れば私斐王
僻説カ。たしかに検して之を知る可し。・・・・
・・百済国より五経博士・・・武烈の後王胤絶えオワンヌ。越前国よりこの君を・・・。群臣の沙汰
なり。(このあとに先ほどの
「▼大臣巨勢男人大臣」「大連大伴金村大連」「物部鹿鹿火大連」
が出ている。) 」
となってます。「五世」「五経」など「五」が6個出てるのが目立ち、倭の五王の「五」をひきづっているかも
というのは太田牛一から受けたものです。▲は年表の表記で、慈円は▼を書いており、▲▼は同じと
いうのが現在の通説といえそうです。これだと今で言う「男性」だから、この人物の羅列をまとめると
★継体
‖▲=▼=継躰=彦主人王の子
‖物部鹿鹿火大連
大伴金村
となりそうですが、外から越前国へやってきたのは▲▼で、★の人物は元から居たということで、「王胤」
絶えとなっています。はじめからいたというのがどういう形でいたかということが問題です。その前に
五世の孫
が問題でウンザリするほどややこしいことを書いています。これみて、もあかんとやめてまう人がでるのは
よそうされるところですが慈円は、後の世代の学僧、寺子屋の小僧などが余り苦労しないように考えた
はずです
「私斐王」
というわからない人物にこだわっているのも解せない。▲の出た人物の羅列は応神〜継体まで6人ですが、これだと基本的に五というものにならない
「五」にせねばならない、しかし言い出した禅問答のような応神を入れるか、入れないかという場合に
どっちも五が出るようにしたい、とするなら「私斐王」を除かねばならないことになります。
「私斐王を除き応神を入れると、継体は五番目」「私斐王を除き、応神を入れないと継体は五番目」
でうまくいくかもしれないが「私斐王」を入れると
「応神を除けば」うまく五番目継体に行き着くが、「応神を入れると継体は六番目になってしまうが
継体にはうまく行き着く。
というようなことになります。もう一つ5世の孫がややこしいがこれは世代が五番目ということで天皇が5代
というのと区別されています。したがって親→子が一世代だから兄弟相続は除くことになります。先ほど
天皇名に番号をつけたものを再掲すると
応神・仁徳・履仲・反正・允恭・安康・雄略・清寧(身を隠す) ・携帯
@ A B B B C C D E
・顕宗・仁賢・武烈
となってて履仲〜允恭まで、と安康・雄略が兄弟だから五世は
白髪の清寧天皇
に当ることになります。清寧には子がなく、
「よりて履中の御まご二人よびとりて子にし玉へり。安康に世の乱れによりて丹波国にかくれて御
は(座)しけり。」
があり、顕宗・仁賢は履中の孫で清寧のあとを継ぎますが清寧は生きているからまあ両方が並列して
存立していて、継体(大臣巨勢男人大臣)が、清寧を助けたろ、と入ってきて今で言う夫婦として収まって
新王朝としてスタートさせたということになります。慈円は私斐王を入れたかった、応神を入れて6番目を
入れて継躰を出したかったといえます。すると脇へそれた「顕宗」〜「武烈」の方は継体とどういう納まり
方になるのかという問題がでてきます。
(223)飯豊天皇
慈円は正式ではなく、まあ書いとくという形で「飯豊天皇」を出しています。順番でいえば
顕宗・仁賢・(飯豊)・武烈
となりますが(飯豊)のあと「平群真鳥大臣」が大伴金村に殺された記事があり。武烈天皇が出てきます
武烈は「仁賢の太子」となっていて「仁賢」は「仁」から「仁ケン」とすると、清寧は
仁賢太子=(飯豊)=(武烈@)
の後見をしてこの間、何とかうまく治めた、ということとも見れそうです。年表では
「488 空白(仁賢11年の始めの年)
498 この年、平群真鳥が国政をほしいままにし、国王にならんとすると伝える。大伴金村が平
群真人と子鮪を討つ〈武烈紀前紀〉 仁賢10年目になる?
499 空白(武烈紀元年と思われる)
502 梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東大将軍にする〈梁書〉(武烈4年になる?)
506 空白(武烈最後の年8年)
507 大伴金村ら、・・応神天皇五世孫と伝える男大迹王を・・・越前から迎え・・・(継体天皇) 」
となるから、498の〈武烈前紀〉という「前紀」は1年だけと取れそうで、飯豊天皇というのはここに席が設けら
れたともとれます、つまりいまは清寧から顕宗までの間の一年未満が飯豊の期間と一般に見られているが
慈円の書き方での位置は、仁賢のあとになっています。こうなると清寧が丹波に身を隠しながら、顕宗・仁
賢のあとを見て武烈(「前紀」の武烈でない武烈A)に引き継いだという構図になります。第一義的には
飯豊は清寧の仮名である(この段階では清寧が仮名で、飯豊と呼ばれていた女王という方が実態的)と
みれます。一方、飯豊としてはウィキぺディイアの例では
飯豊青皇女・飯豊皇女・飯豊王女、飯豊女王、飯豊王、飯豊郎女、青海皇女、青海郎女、
忍海郎女、忍海部女王、飯豊青尊
があり、「飯豊天皇」二人説があるようです。一人ではなさそうだから、それはうなずけることです。また
表記からか女人説があると書かれています。そうなれば、推古天皇の前に、はじめての女帝の飯豊天皇が
いたということになります。やはり
「清寧天皇の代理人(摂政)説、顕宗・仁賢天皇代理人(摂政)説」
が出ています。ここまで来てるのだったらもう戸口に立ってて、ピンポン鳴らすのを逡巡している、商品に
確信をもってる純情なセールスマンのような情景と重なります。いまカメラにはモゴモゴと動いて思いきりな
く引き返したいる人物の映像が映っているーーこれが筆者のような感じがします。現今までの専門の人はここまで
しか読めてない、ということしか喋ってないし、それ以上は語る積もないようです。
こんだけ表記があれば、二人で収めるのは無理という感じで、また今までは男と読まれていたから女人説
がでたことは確実です。またそうであれば「顕宗・仁賢」は男性であるということの再確認は要らないといえる
ほどです。顕花植物、隠花植物の「顕」=(けん)=「仁賢」の「賢」、はこの際は働くのかも。
顕宗は「弘計天皇」、仁賢は「億計天皇」
が用意されて一応はこの「計」は、慈円が頭注と本文に出してる、
「五経博士」(経は古い字体の「経」)
の「経」とつながりそうです。会計−主計−経理という数字・計算というものの伴ったような「ケイ」で経済の
「経」もそういうものがバックにあるような感じですが、「経」の右側は「軽」のものと同じで「軽皇子」の軽に
影響があるかも。「五経博士」の意味は、ヤフ−百科事典などでは
五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)に精通し、教授した儒学者
となっています。(ウィキ)では
漢の武帝が董仲舒(とうちゅうじよ)の献策「天人三策」を聞き入れて五経博士を置いて・・
となっており、これだと官職になります。また始めに五人置いたようですから(あと増えた)、経博士と5人が引っ
付いたものとも取れます。「五」というのは切り離して意味があるとみれますし、博士というのは聖書のキリスト
の誕生を祝いに来た「東方の三博士」と関係があるのかというのも疑問として出てきます。そんなん関係
ないのに決まっとるというのもあってるでしょうが太田牛一は両方の世界跨げて見れる立場にいたから
その著作の読解に影響がないとは一概にいえないものがあるかも。董仲舒の「舒」というのは
「舒明天皇」(641年49歳没)
の「舒」で、単独では出しにくい字でしたが「董仲舒」から出せば楽々と出てきます。あの聖徳太子(622年
49歳没)は用明天皇(橘豊日)の子ですが、舒明天皇の「明」は「用明」の「明」でしょう。「用明」の「明」
は継体天皇の嫡子(三子ともされる。)「欽明天皇」の「明」となりそうです。まあ何となくいいたい
ことは「継体天皇のところで五経博士が出て
「この時百済国より五経博士をたてまつる。』武烈ののち王胤絶へオワンヌ。越前国よりこの君を
迎へ取りまいらせたり。群臣の沙汰なり。」〈愚管抄〉
となっており、実現したのは継体7年目(513)に
「百済、五経博士段楊爾を送る(516には「漢高安茂」に代わる)。」〈年表〉
があります。これは平群真鳥臣が、イエヤス公のように世の中をコロッと変えようとしたのを、清寧(白髪)
が大伴金村の力を借りてくいとめて男性の人材が減ってしまって百済から(実際は本国からと思われる)
段氏が手始めに5人ほど入ってきたということと思われます。この人物は越前で出てきた
◆「三段崎六郎」〈信長公記〉 索引では「三蔵(能楽師)/三段崎六郎/三位中将信忠卿→織田信忠」
がこの「段」を受けたかもしれません。「楊」は楊貴妃の楊家の「楊」もありますが、「爾」は「武井爾云」の「爾」
があります。索引で「三段崎」をみれば、「信忠」は
「秋田城介信忠」「羽林信忠」〈甫庵信長記〉
があり「秋田」「陸奥(六つ)」「奥羽」の安東地区がでてきます。前の三蔵は「能楽師」で「能代」とか「甘
楽」「楽浪」「楽毅」「楽田」などの「楽」もあります。三蔵法師、玄奘三蔵とかになると話が大きくなるので
ネットで「三蔵」をみたら「三蔵庵」が出てきたので地名・誰かの仮住まいの跡かなと見ますと、「飛騨高山」
平湯温泉の旅館の名前でしたがこの温泉は、武田信玄が老いたる猿の振る舞いから発見したという伝説
のあるというもののようです。「高」「平」「湯」「武」「玄」「三」「蔵」などに「庵」が加わって「平和泉」「出湯」で
太田和泉の登場が「高」を「平」の高句麗を語っています・「蔵」について履仲天皇(讃とされる)のくだりに
「此御時采女出き(来)たり。大臣四人云々。諸国に蔵を作る事此御時なり。
■執政平群(へぐり)竹宿禰{執政始めて此れより起こる}
宗我満智宿禰
物部伊久佛
大連葛城円使主 (次の天皇は「反正」)」〈愚管抄〉
があり、この「蔵」は安東大将軍とか倭の五王の属性として付け加えたということになります。
「平蔵」〈信長公記〉(相撲) (「平」は「景清→平景清(出世景清)」とつながる)
という表記があってこれは「平美作」と並びになっています。この◆は本文では
「朝倉治部少輔・朝倉掃部助・◆三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・・」〈信長公記〉
となっていて朝倉に挟まれてしまっています。朝倉の人物のようですが、朝倉は義景で、朝倉市というと
また「景」がつくのは九州に足跡のある景行天皇です。これは、子が日本武尊だから、東北から、駿豆、
熱田、紀伊も関係しそうです。要は大和国の「纏向(まきむく)日代宮」(「まき」は「まとう」という語から打ち出
したが拡大鏡で見ても確認できない)にいたから全国を見てたということになるのでしょう。大和に雄略天皇
の「泊瀬朝倉宮」がでるのは景行の10代あとのことですが、「朝倉(「蔵」)」に、◆が挟まれたものを出したの
はをもってきてこの■などの部分の重要性もありますが、太田和泉守が慈円をも取り入れて、語りをひろげたということも
表していると思います。
(224)ころみつ坂
「段」一つがそんな力があるかい、といいたいところですが、太田牛一は長篠陣、
「三州の内つくで(脚注=作手。三河設楽郡。)、だみね(脚注=★段嶺。三河設楽郡。)」
「●ころみつ坂」(未詳)
を出しており、ここ★で「段」が出ています。●が判らないのではみなを読めたことにはならない、本文では
「先陣は国衆・・・家康ころみつ坂の上、高松山に陣を懸け・・・」〈信長公記〉
で出てきて「ころみつ坂」に脚注があって
『「ころみつ山」も「高松山」も今地名が残っていない。〈松平記〉には家康の陣所を八剣の高松山とある。
八剣宮から北東に弾正山(八剣山)を上ると前方後円墳がある。この古墳を八剣山の高松山といった
のだろう。この弾正山に家康、高松山に嫡男信康が陣したのであろう(高柳光寿氏〈長篠之戦〉)。』
となっています。長くて要領を得ない注の代表例のようなものですが、「ころみつ山」は地名として残って
いないが「高松山」は太田牛一の創作を、〈松平記〉が「八剣の高松山」、校注者が「八剣宮の高松山」と
違った念の押し方をしたのしょう。「八剣宮」は、熱田社八剣宮造営の記事が載ってて、それを持ってきた
もので、祭神の日本武尊がここに出されたといえそうです。要は「弾正山」は今もあるので、「松」をだすために
いまの高松や高松塚・高松城の高松山をここに出したといえます。なんでそんなことをしたのか、ということ
ですが、
「作物の記・・・松永・・・蓬莱・・・作物・・・倭朝・・藤原朝臣松永弾正少弼・・順帝・・・久秀・・・奇又奇・・
始皇帝、倭国に蓬莱の仙嶋・・・徐福・・徐福・・南紀の金峯・・東駿の富士・・蓬莱・・蓬莱の方壺・・」
〈甫庵信長記〉
があり、松永弾正を「蓬莱」に咬ませてあるから、長篠を舞台にして、景行、雄略の時代や、蓬莱の謎と
か、を語ろうとしているものです。太田牛一の長篠のくだりからひらかな表示、
「ころみつ坂」(現在存在しない)の漢字とかここへ出てきた意味はどうなるか、
三段崎六郎の引き当て(「段」は「段々」〈信長公記〉など多く使われている。)
「あるみ原・・あるみ原・・」脚注=有海原のはなにか意味があるのか
などみないといけないのでしょう。
(225)平群
慈円では
「出で来たり」「平群(「君+羊」上下になってる字)」や「作」や「満智」や「葛城」
がこの部分でも出てます。「平群」は慈円では
平 「君
羊」
となっています。「羊」が関係あるのかどうか、上下の群ですというのと見たらちょっとちがいます。
筒井順慶の第一の将とされる嶋左近は〈平群谷史蹟を守る会〉の
伝記によれば、表は「平群谷の暁(馬偏)将」とあり、裏表紙には旗が出てて「鬼子母・・・八幡大菩薩・・・」
と書いてあります。この「鬼」は上が「ク」の「鬼」で「物部鹿(上が「ク」)鹿(あらかい)の「鹿」と同じような
ものがでています。「平群」は「群馬県」の「群馬」をすぐ思い出しますが「平・馬」というのは「平原」と「騎馬」
だから、案外
「大谷平馬」(ルビ=吉継)〈武功夜話〉
というのが鋭いのかも。元亀元年、「あね川」陣
「朝倉・・大谷・・あね川・・郷・・両郷・・・家・・郷・・諸手一度に諸合・・真柄十郎左衛門(脚注あり)
・・黒坂備中・・遠藤喜右衛門(脚注あり)・・魚・・弓・・大谷迄五十町(脚注あり)・・・麓・・・火・・・
大谷・・・高山節所・・横山・・横山・・・勿論横山・・・定番・・横山・・・佐和山・・佐和山・・」〈信長公記〉
があり、「五十町」に脚注があり
底本「五十町」の右肩に「二?里」(印刷が不明)の附箋あり。
とあり、「遠藤喜右衛門」にも脚注があって、
以下二十五字、底本「遠藤喜右衛門」の右傍に注記。(二十五字には「青木所右衛門」が出ている)
と書いてあって、二つの底本を、@→Aと、伝ってくると「喜」が出てくるから、横山喜内(蒲生備中守郷舎)
がでてきてるということがありそうです。喜内の「喜」→後藤喜三郎の「喜」というのも出てきてることになりま
す。が、ここの「真柄十郎左衛門」にも脚注があって
以下十三字(省略)底本「真柄十郎左衛門」の右傍に注記(十三字には竹中久作が出てくる)
となっており又「底本B」がでました。これは大谷−高山−横山−「横田備中〈信長公記〉=注では名前
は“高松(たかとし)」−あね川−郷里に付き合わんとしょうがないところです。芭蕉は「姉歯の松」をだして
います。「真柄」は「間柄」でもあるのは
「三間間中柄」「まなべ七五三兵衛」〈信長公記〉 「三間々半柄」「間鍋主馬兵衛」〈甫庵信長記〉
などによってきます、「朱やり」がでてくるところですがこれは舞台は斎藤道三・織田信長会見の
「正徳寺」「富田の寺内正徳寺」〈信長公記〉
ですが脚注では「聖徳寺。(「一宮市苅安賀富田」)」となってて「聖徳太子」(継体天皇の孫くらいの世代)
が出されています。
「まなべ」は注では「和泉日根郡(大阪府)の真鍋氏であろう。」とされています。
「底本」の「本」から「宮本兵大夫」(類書では「平」もある)へ渡れるところです。「日根」は
「日根野備中」〈信長公記〉(「蒲生備中」想起)
があります。(「日禰野五右衛門」など「禰」がつく五人は索引では「日根野」に統一されてて、「武内宿禰」
の「禰」を隠したととれるところです。ただ「あね川」(姉川)のヒラいたものは「阿根」がありそうです。横山は
「木+黄」が出されていると思いますが後で利いてくるのでしょう。ここの「諸合(もみあひ)」が問題で脚注では
「ふれあいすりあって争う。」
となっていて、よくわからない注記です。本文では
「あね川・・又東は美濃三人衆、諸手一度に諸合(もみあひ)・・丑寅へむかって御一戦・・・・黒煙
立て、しのぎをけずり、鍔をわり・・・」〈信長公記〉
のところです。「黒煙たて・・・」のところは桶狭間のくだり、そのものですから「色は相まぎれず」などから
「相」=「合」というのは確実だから脚注の漢字は「揉相」「触合」「摺合」とかがありそうです。桶狭間で
いえば、もうひとつ
「・・源大夫殿宮・・浜手・・・塩満ち・・・熱田よりかみ道を●もみにもんで懸けさせられ、先たんけ
の御取出へ御出で佐久間居陣の取出へ御出・・・」〈信長公記〉
の●を「諸に諸で」に替えるものでもあります。ここから「言」篇の字、勿論の論もありましたが、慈円にあった
諸国漫遊などの「諸国」という、「諸」が出されてきてる、それが「満」「熱田」「かみ」とセットとして見れます。
慈円では、高句麗、「散騎常待督平州諸軍事」のとき「諸」がでてきます。
「履中(倭の五王の讃とされる)・・・此時采女出き(来)たり。諸国に蔵を作る事・・・」
があり、諸国がでてきます。年表でも、雄略・清寧のすぐあとの仁賢(継体の前)のときに
490 この頃、石上部舎人を設置
492 諸国に散亡した佐伯部を探し・・・佐伯造とする。
493 この頃、日鷹吉士高句麗より帰り、工匠・・・を献ず。
498 ・・・平群真鳥・・・国王にならんとし・・大伴金村が・・真鳥と子鮪を討つ。
継体のあと嫡子欽明のとき(慈円では欽明の終わりに聖徳太子の生まれる、がでてる)
534 上総国伊甚屯倉など諸国に6つの屯倉を設置する。〈紀〉
535 諸国に26の屯倉を設置する〈紀〉
があり、この頃、諸国・倉が出的あす。采女があれば舎人もあるかも、蒲生郷舎の「舎」にも通じている
感じです。●の文に「源大夫殿宮」がでますが脚注では「上知我麻神社(かみちかまのやしろ)」ですが
「麻」が出てます。「呂」はこの北の地域で一般的だから「麻呂」というのも併せてみてもよいのかも。
「佐伯」は空海を思い出しますが、年表では諸国のはじめ「造」を出してます。ここに「鷹」がでてますが
これは、「高」に通じていて、慈円では「仁徳」のところで
「・・・氷室始る。又鷹いできて(出来)有鷹狩云々。此御門は平野明神なり。」
があり鷹狩は、このあたりの始まりのようです。「言」がだしたいのが「諸」(もみ)ですが「籾」の摺り合わせ、
とか、「もみ」、「ふれあい」、「すれあい」には「揉み」「紅絹」「樅」「紅」、「触」「振」、「摺」「刷」「擦」「磨」
「摩」「掏」「擂」などたくさんあって衣食の営みの手の動きが出されてると取れるところです。〈奥の細道〉
では「紅花」もでました。そらちゃう、というのも合ってそうですが、一度はパソコンに入っている漢字を全
部出して見たいところでもあります。脚注に「争う」というのがあったので、揉相→相撲があるかどうかです
が「撲り相」とちょっと違います。相撲は当麻蹴速(たいまのけはや)と能見宿禰の勝負が有名ですが、
「蹴」というのは「足+就」で「就」は、戦国の安東守就(北方)・毛利元就(安芸)の「就」で丸毛兵庫頭
(長照)、丸毛三郎兵衛(安職など)の「安・毛」などに通じてそうです。
(226)竹内(武内)当麻寺
当麻寺は、現在山号が二上山で、芭蕉に出てくる「竹内一枝軒」の住んでる当麻村竹内を思い出します
が、「奈良県葛城市当麻町」にあり、「聖徳太子異母弟」とされる「麻呂古王」の創建と伝わっています。
ここでも「麻呂」がでています。二上山には大津皇子の墓があり、〈万葉集〉に
「大津皇子被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いはれ)の池・・・作りませる歌一首
416 ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を、今日のみ見てや雲隠(がく)りなむ
右、藤原宮の朱鳥(あかみどり)元年(脚注=持統天皇の686年)冬十月なり。」
があります。ここに「鳥」が三つ出てますが、この「磐余」は神武天皇の名前に入っており、
履中天皇(讃)・清寧天皇(雄略子)・継体天皇(武内子・男人大臣・清寧天皇の応援)
の都が、大和国磐余です。表記からいえば
「大倭」+「磐城・磐(岩)代」の「磐」+「夫余」「余吾」の「余」
で北の安東地区から大和など近畿五国に北の民族「夫余族」が(政治的勢力として)入ってきていたと
いうことになるはずです。416の歌は420〜423の「石田(いはた)王(おほきみ)」の長短歌の
「・・・わが大王(おほきみ)・・隠国・・泊瀬(はつせ)・・・言・・・言・・・高山の巌(いはほ)・・・言・・・
言・・・高山の巌・・・君・・・杉群・・・君・・・盤余(いはれ)・・・ほととぎす・・鳴・・花橘・・・黄葉・・葛・・
{・・田葛の根・・}・・・万世・・・君・・・{・・君・・}・・見む。{右の一首は或は云はく柿本人麻呂の作
なりといへり。}」〈万葉集〉
の「隠」「見」「鳴」「盤余」等につなげられていますが、この「高」「高」は高句麗の「高」といえるものです。
この416の「雲隠」を覚えとかないかんようです。これはおぼえとこ、ということにして、朱鳥の脚注が間違
ってて、686は
「皇子大津」〈日本書紀〉 が没くなってて、ここでは
「大津皇子」
の「死」が、書かれていますから、鳥の羽毛でいえば毛色が違うようです。ここの「或は」で「或」と書いてる
細字の{柿本人麻呂}=柿本人丸が出てきてるといえそうです。この416の歌の前は「上宮聖徳皇子」
の歌が出ており、これは推古天皇のときの聖徳太子(@とする)で
舎弟聖徳皇子
というべきひとではないかと思われます。するとここの大津皇子は「当麻皇子」ということにもなります。ここは
和をもって貴となすといった、十七の憲法などの聖徳太子が継体天皇に近い(時期も、位置も)ということを
いいたいので出しましたが、
(227)継体(躰)天皇の第一子と嫡子
この継体天皇の子が
(531年)継体天皇の死(年表)
とともに、〈愚管抄〉・年表によれば子息が兄弟相続をして
(531年 ▲欽明天皇即位)・(年表だけ)
継体第一子 534 (空位)安閑(2年)
継体第二子 536 (空位)宣化(4年)蘇我稲目
継体●嫡子。{或三子} 539 欽明天皇(32年)蘇我稲目
となっています。兄弟相続といっても初めの3年間は▲が出ています。年表では、●の欽明が本命ですが
531に▲欽明天皇即位(在位年数は3年らしい)
539に欽明天皇即位(年数は32年)
となっていて、二回即位しているのが、どういうことになるのかということになります。まあ、継体が534に
死亡のしたという説が当時からあるわけで、このことを説明しようとした人はいるわけですが、ここではそれ
をつかって一応やってみますと。
▲の3年間は清寧(天皇)が生きてて(オホド王との共同政権だから、25年在世のケイタイ天皇が、慈円では
{天皇20年目の薨}が挟まっていて2回死亡があっても、こういうことはよくあることで、記載がない限り清寧は
生存と取れる。ただ一回目の「薨」は慈円だけだから工夫があるといってかもしれない)約束どおり仁賢太子
(連れ合いは鮪)の系統を復活させたいということで亡きオホド天皇(ケイタイ)の子息、男子二人、女子一人
を迎え入れ、仁賢子女との婚姻、養子縁組などによってあらたな体制を作ったということになるのかも。
慈円や太田牛一は全体理解のため核となる天皇名などを挙げながら一方で、どうでもよいような次元の低
そうな話をあげ、中がないという感じになっています。中の方は〈書記〉などにウンザリするほど話が詰まって
いて読み解くのは困難−諦めというところに行き着きそうです。いま
三年 欽明
二年 安閑 男性表記ではないか、ケイタイ子(夫人は仁賢皇女)
三年 宣化 男性表記ではないか ケイタイ子(夫人は仁賢皇女)
32年 ●欽明 ★{御年未だ勘注せず。之を尋ねる可し}
ということの疑問のところですが、★の文が、細字・漢文で入ってて、虫眼鏡で、やっとみれるというもの
ものです。つまり年のことを考えないといかん、また、安閑・宣化・欽明は男女どっちや、というなことが要る
ということを示唆してる、つまり、当時の社会制度のことに関し、世の中うまいこといかないいうのを清寧
天皇がどう考えて乗り切ったかということを言ってると取れます。「安閑」の「安」は「鮟鱇天皇」の「安」が
あるかというのは問題ですが、戦国でいえば「夕庵」「夕安」があってその「安」のほう、閑は「釣閑斎」(三
好笑岸)、「長閑斎」(明智)」、芭蕉では「閑」と「蝉」の組合せがある「閑」で、宣は「亘」(せん)ですが
周公旦の「旦(たん)」に似ており、「化」は南化和尚の「化」ではっきりはしませんが男性表記という感じ
で、欽明は「金プラス欠」だから●の時代を継体のあとの時代と考えて、成長を待って8年後に王として
君臨させたと取れます。その間、現行制度に異議がある、という勢力を宥めるため「安・宣」を起用した
と思われます。二人は
「蘇我稲目宿禰」
を登用して、●の連合いとして、二人で31年の安定政権を築き清寧天皇の思惑通りのことになりましたが
この経過にはいいたいことがありそうです。上にも欽名がいますのでどうとるかです。清寧継体の死後、
蘇我稲目は●として即位した、実際そうなることがわかっていたので、空位を避けて公表した仮の欽名
を置いたともとれます。●は慈円は母は{仁賢の女}と書いているので、●の在位が長いので、仁賢とシビ
の子が●の欽明とも考えられます。●の子が用明天皇、その子が聖徳太子@ですから聖徳太子は継体から
近い高句麗の太子ということができそうです。いなかったというよりも曖昧にせなしょうがなかったといえます。
(228)清寧
戦国時代に「寧々」という人気のある人が出てきて、それが思い浮かぶ字をもつ清寧(白髪)天皇時代は
四年で終わったことになっています。清寧に子が無かったというのは知られていますが相手がわからない
のです。実際は
清寧ーーーーーーー子顕宗
‖ 子仁賢(男性)
市邊押羽皇子(男性)
ということであったとすると、清寧天皇は「飯豊」「武烈」「継体」という表記を使って、生き延びたといえる
ようです。
「飯豊(仁賢)」「武烈(仁賢太子)」「継体(オホド)のおほど」
の表向きがいる社会だったから。もちろん上の関係が実子でなくいわれてるような義理の関係だったら
余計に光をはなってくるということです。会津鶴が城からみえる飯豊連峰は第一に清寧天皇が想起された
ものではないかと考えられます。仁賢夫人もありそうです。武烈天皇はボロクソにいわれて、まあ筆誅が
加えられていますが英雄の裏返しでもあると思われます。複雑な使い方をされた表記が武烈といえま
すが「武王」を引き継ぐ役割もあるかも。
武烈@=平群真鳥の武烈(社会を変えようとしたので撃たれたという〈前紀〉の武烈)
武烈A=A清寧天皇(仁賢太子)の武烈
武烈B=百済の武寧王の武烈
武烈C=新羅の武烈王(反対にして年表では「烈武王」)
がありこの武烈8年のあと、507年「越前国三国坂中井」に継体天皇が入ってきて、新時代がやttきたと
いうことになっています。501年というちょうど区切りになる年が武烈3年になりますが、武烈4年502年に
「梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東将軍進号する〈梁書〉
が年表にでてます。雄略天皇は479に亡くなっており、これ誰かということになりますが、雄略のあとは
清寧が継いでいます。慈円では
雄略 廿三年 「平群真鳥」の名前が出ている。
清寧 五年 三十五即位 ▲或三十七 雄略第三子
没三十九
顕宗 三年 履中のむまご 母「ハヘ(草冠の夷)媛」{蟻臣のむまご}
仁賢 十一年 顕宗の兄
飯豊
武烈 八年 十歳即位(仁賢太子) 年表では「平群真鳥」「鮪」(シビ)が討たれる
(没)御年十八 ▼或五十七云々
継躰 二十五年 (★或る本「二十八」説が〈書紀〉にあり)
幻欽明 (三年)
同上 (安閑・宣化 六年)
欽明 三十二年
となっており▼の年齢がおかしいわけで▲から計算すると
35(▲37)+3(顕宗)+11(仁賢)+8(武烈)=57(59)
で▼に合うので、或るの★にもつながる、ということになります。あと清寧の世話にならないと話が進まない
ので聖徳太子より大物かもしれない、といえる人物をとりあげて出したということです。
尚、武烈BCが継体の時期にだされているのは、舎人親王ら〈日本書紀〉を完成させたのは8世紀720年
でありこのときから200年以上あとのことで、そのときは新羅本位でつくられており、このとき革新のとき
新羅が主になったという印象を与えるために新羅の武烈王(烈武王)の名前を出してきたといえそうです。
百済の「武寧王(島王)は西暦の年代(523)を表すために出されているといえます。太安万侶(仮名)は
藤原不比等(仮名)の意向を受けているのでそれに沿った書きようをしていますが、事実は曲げてないとい
うことで、あと高句麗の時代が続いていくという読みが続けられます。本文も細事などの活用によって百済・
新羅・高句麗も必ずしも額面通りではない場合があり、これは日本の文献でもおなじです。第一、「太
安麻(万)呂」というような名前は北の方の名前という感じです。
(229)近江毛野
この欽名の子が用明でその子が先ほどの聖徳太子ですから、もう、高句麗の日本列島における全盛期が
ちかいのです。どのへんからこうなってきたのかというのが大きな問題です。慈円は継体天皇(男人大臣)は
天皇の20年に「薨」と書いており、これが526年ですが、どこにも出てないのに入れてます。このあと
◆「近江臣毛野」(今も誰かは不明) 526に磐余玉穂宮に遷都をしたと思われる
が登場して、527年、6万の軍勢を率いて任那復興のため恐らく
筑紫経由で朝鮮本土(今の場合相手はまだ弱小の百済・新羅)への上陸を考えましたが、筑紫の磐井の
反抗に遭って、物部鹿鹿火が出てきたりして磐井を滅ぼします。大成功を収めたのにが530年に対馬で
亡くなります。したがって「男人大臣」の名前をかえたものが◆であろうと考えられます。こういう例も多いの
ではないかと思われます。
この4年間、外交上のことは、清寧天皇がやってうまく収めたととれるところです。
「平群鮪(シビ)」(大伴金村に、父「平群真鳥」とともに討たれた人物)
が「有」であって太田牛一が長篠で書いた
「あるみ原」(脚注=有海原)
の「有」ではないかと思うわけですが、まあ蘇我稲目が欽明の連合いのような格好で突然出てくるので、
何か(いわく)がありそうで、この「シビ」という準備があると見れるところです。「鮪」(まぐろ)=真黒で「真鳥」
の「真」と、「黒」の合成でもあります。芭蕉の、「黒羽」には「八幡宮」「犬追物」・・があり、羽黒には
「羽黒山・・・図司左吉(脚注=「俳名は呂丸」)・・・・俳(「言」篇のもの)諧興行・・・・有・・・雪・・
詣・・・書写黒・・・羽州黒山・・・鳥の羽毛・・・三山・・・」〈奥の細道〉
ががあり、黒のなかに「有」「雪」などもあります。黒塚の岩屋もでてきてこれは日本もでてくるかも。
「あさか山」〈奥の細道〉(麻生氏の入れたタイトル=安坂山としたいというのもあるかも)の一節では
「・・・檜皮(脚注:「古名安積(さか)の宿。今の福島県安積郡日和田町」)・・・あさか山(脚注=
浅香山。安積山ともかく。日和田の北に見える一円の丘陵。)有(あり)。・・・かつみ・・花かつみ・・
・・・かつみかつみ・・・・日は山の端(は)にかかりぬ。★二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚
の岩屋(いはや)一見(いつけん)し、福嶋に宿(やど)る。」〈奥の細道〉
があって、このあと「岩」を受けて「石」の四発があります。★は脚注では「今の二本松市。」となっています。
この「岩屋」にも脚注があって「二本松市大平(おおだいら)にある洞窟。」となっていて、また「二本松」
が「大平」の説明で出てきます。結局「日本松」は本文・脚注合わせて
「二本松(にほんまつ)、二本松、二本松」となって、これは「丹羽」=「二羽」想起で。★の前に「日」も
あるから「日本」も出てきます。「日は山(邪馬)の端(は)にかかりぬ」となると、「端」は「国」想起で
「尾張国端(こくたん)海手・・・石橋・・・河内・・石橋・・・国・・」〈信長公記〉
があります。「端」→「はし」←「橋」で、
「はし小僧」〈信長公記〉 (注:相撲)
が一応「古田」としてペンデイングになっていますが幸い
「古市播州所持の高麗はし、」〈信長公記〉
の「はし」に渡りは付けて来ています。古市播州は、注では、「大和古市(奈良県古市町)の豪族。」
となっており、箸墓古墳が想起されるところでしょう。内藤湖南はここを卑弥呼の墓としていますが
墓が239年ごろと時代が違うからおかしいというのはありえません。漢代にも「卑弥呼」がいます。その
跡を継いだ人や、遷都したのも卑弥呼でしょう。湖南の卑弥呼は誰かをさがせばよいわけでしょう。
麻生氏はこの一節「二本松」という表題にせず「あさか山」としています。本文の「あさか山有(あり)。」
からとったものですが脚注は「檜皮(ひはだ)の宿」を
「古名安積(あさか)の宿。今の福島県安積軍日和田町」、
「あさか山」を「浅香山。安積山ともかく。日和田の北に見える一円の丘陵」としています。この「檜」は
「秋田」の上国が「檜山(能代市)」として出ていました。「かつみ」「かつみ」「かつみ へ」が出てきて
脚注では「真菰」「菖蒲」があるようです。まず 浅香山
安積山 の中抜きがあって「香積(かつみ)」が
あって「沼」や「坂」を名づけて面白がったのかも。はじめ「草」の方が「真菰」これは菰蓬があり、次の
花の方は、「菖蒲」これは松永尺五の昌三があったというようなことと思われます。「日」がなんとなく早くから
福嶋ででてる感じです。
(230)長篠の陣
長篠の陣は「ころみつ」の問題があり、蓬莱のことをここで語ってるようです。
長篠は脚注では
愛知県南設楽郡鳳来町長篠
となっています。「設」の言篇が出て、相撲の常楽寺の「楽」がでました。「長」は「永」ですが、これは慈円
の「氷室」の「氷」に似てます。松永の永もあります。「長」は「丈」「竹」で
「たけくらべ」〈信長公記〉(脚注=長比。滋賀県坂田郡山東町長久寺のうち。)
があります。「篠」は「ささ」−「笹」でもあります。ここに
「鳳来」←(ほうらい)=「蓬莱」
が出たことが特に重要で、「来」を慈円は「き(ルビ=来)たり」で2回ほど平群のあたりで出しています。
「草冠」の違いは「化」−「花」、「狄」−「荻」の違いと同様に重要でありここの「南」は南化−南下という
のも含んでいます。愛知=愛智で(えち)もでますが「愛」は「阿喜多」に「安東愛季」が登場しました。
長篠のくだり本文でも鳳来がでます。
「三州長篠・・信長・同嫡男菅九郎・・陣・・躰・・陣・・城・・城・・丸毛兵庫守・福田三河守・・野田原
(脚注=新城市野田)・・野陣・・▲志太羅の郷極楽寺山・・陣・・▼新御堂山・・陣・・・一段・・・段々・・
三万・・先陣(せんじん)・・ころみつ坂の上、高松山・・あるみ原・・・陣・・・馬防・・鳳来寺(ほうらい
じ)山・・太山(タイサン)・・鳳来寺山の根・・・長篠・・・平地の所なり。」〈信長公記〉
があり、鳳来がでてます。▲は脚注では「愛知県南設楽郡鳳来町・・信長・・・陣する。」となっています。
「鳳来」や「陣」が出たことになります。「陣」が多いのは「車騎」の「車」でしょうが「先陣」は「先登」をみて
能登とか登呂・土呂がでるのでしょう。野田原からも脚注で「城」がでましたから前後の「城」が「丸毛」の
「丸」に懸かり「丸城」へ行きそうです。ここに「同嫡男」というのが出ており、脚注に「高松山に嫡男信康が
陣したのであろう」となっています。「一段・・・段々・・」というのもでています。「段々畑」というのは聞きます
が、五経博士の段貴爾もあります。「兵庫」の「庫」は「蔵」「倉」と同義のものです。「福田」の「福」は「福井
県福井市」の「福」で、「徐福」の「福」がかすかに見えてるというところで、蔵−倉−庫の「くら」から、「鞍馬」
や入鹿の「鞍作」の「鞍」もみえるかもというのと同様にきわどいところにあるのでしょう。「兵庫(ひょうご)」は
「兵器を納めておくくら。武庫。へいこ。」〈広辞苑第四版〉
というのが第一義になっています。「武」は「武井爾云」の「武」だから太田和泉守がここに出したのは頷け
るところでもあります。おかしいことに、〈信長公記〉の索引でも同じ人物が別のところで別の読み方で出て
くるように、〈広辞苑〉でもそんなんがあって、この「へいこ」がもう一回出てきます。項目の並びは
へいげんくん 平原君 山東の平原に封ぜられたからいう。中国の戦国時代趙の公子。趙勝。宰相。
食客常に数千人。斉の孟嘗君・・春申君・信陵君と共に戦国四君とされる。
へいけんじ 平間寺 川崎大師の寺号
へいこ 兵庫 兵器を納めておくうら。武庫。
へいこ 兵鼓 いくさに用いるつづみ。
となっており、「孟嘗」伯周という人物は「徐福・・蓬莱」のところで出ました。前後の項目と関連付けでいえ
ば
平原ー平ー丸毛兵庫守
という流れのモトを解説してるといえます。上洛時の信長には
「信長日域無双の御名誉・・・後胤の亀競・・・御能・・・御能組・・・わき弓矢八幡御書立十三番なり。
弓矢・・・五番につづめられ・・・信長の鼓御所望候。・・・辞止申さる。」〈信長公記〉
という「鼓」のエピソードがあります。この「日域」はいまの日本より広い地域をいってそうですが、どうでしょう
か。そら知らんでもよいことで、どこにも書いてないはずだ、一般に〈信長記〉の索引も、いまやってきてる
ような使い方をするのは認められてない、〈広辞苑〉のようなものを項目の索引の並びで、よむのは間違いだ
となりますが、そうでもないようです。今やってるのは清水又十郎の一節でここに
「・・蜂屋般若介(はんにやのすけ)・長谷川挨介(索引もれ)・・・」〈信長公記〉
みたいな珍妙な名前の人物の並びがあって、なんか余分なことをいってそうですがわからないわけで
す。〈広辞苑〉では
はんにちかんわ{半日閑話} 随筆。大田南畝著。成立年未詳。別人の文章も混入。世相巷談を
写した「街談録」を含む
ハンニバル カルタゴの名将・・・・・
はんにゃ{般若} 智慧・・・般若面・・・般若波羅蜜・・・
の並びがあって、ほしい答えが出ています。この一節を渡海の一節というならハンニバルがでてこない
と迫力がなくなります。また佐々成政厳冬のアルプス越えも、論ずるに足らぬものとなってしまいます。
大田がでて、「畝」もでています。「畝」は畝傍山など大和三山の一つですが、普通「三山」というのは
蓬莱・エイ洲・方丈の三神山〈大修館漢語新辞典〉
があり富士山・金華山などは蓬莱山といってるようです。この「蓬莱・方丈」が芭蕉によって出されてい
ます。これは、鴨長明の方丈記の「方丈」で、これは本巣の安東大将の「北方城主」の「方」と、「北条」
で受けられていると思いますが、まあここの「太田」は偶然でいいのでしょう。「般若」がわからないが、ハンニ
バルがくっついておれば自信たっぷりでやれます。
蜂屋般若介は索引では
蜂屋伯耆/蜂屋般若介/蜂屋頼隆(「美濃賀茂郡・・越前敦賀城主。(文中)蜂屋兵庫」)
となっています。越前敦賀で大谷(兵馬)が出るとともに、ここに「伯耆(「塩川国満」)」とか「兵庫」とか
「賀茂」「敦賀」などが出てきて、文中では
・あら川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川挨介・内藤勝介・」〈信長公記〉
並びによって「長谷川」に懸かっていくということになります。すると長谷川の珍妙な字も外人を番外に暗示
してるかもというのもでてきます。偶然だよ、〈広辞苑〉の格をおとすな、といわれる
かもしれないが、「長谷川挨介」の場合も〈広辞苑〉の読み取る「誇り」「埃」なんです。
〈広辞苑〉では、(雄略が「泊瀬」朝倉宮だから)
長谷川/長谷寺(「通称長谷観音」「泊瀬寺」「初瀬寺」)
と本来は、わかりやすくなってないかんわけですが、一見では
「長谷川(はせか)/・・/支倉(はせくら)(常長)/・・/丈部(はせつかべ)/・・・/長谷寺(はせて)/・・」
と離れすぎています。これではつながりが見えない、したがって結果は
長谷川(長谷川平蔵が終りに載ってる)/●長谷観音(通称長谷寺)/・・・/長谷寺(「通称長谷観音・
・・泊瀬寺・初瀬寺。」)
となっており、●「長谷観音」を咬ませて並びをつくってあり、ついでに「支倉」の「ローマ」が出てきます。
●は清水観音との対置ではないか、と思われます。つまり●に泊瀬寺・初瀬寺を入れる積りはなさそう
です。特に初瀬は誇りがあって「本長谷寺」でもあるようです。
「長谷川挨介」
は〈信長公記〉脚注では
底本では「挨」に似た字体であるが「橋」の誤字であろう。
となっています。この「挨」はどうみても本文の「挨」だから、底本も同じというのなら日本語としてわかります
が、ちょっとおかしいわけです。これは「挨拶」の「挨」で、「埃」(ほこり)が一応該当するところで、
〈広辞苑〉の「ほこり」をみると項目は
ほこゆみ{鉾弓}/ほこら{祠}(ホクラ:神庫の転り)/ほこらか{誇らか}/ほこらかす{誇らかす}/ほこらしい
{誇らしい}/★ほこり{埃}/ほこり{誇り}/ほこりっぽい{埃っぽい}/ほごりん{保護林}/ほこる{誇る}・・
となってり★は位置がおかしくて、誇−(埃)−誇 と挟んであります。この心は「言」で「埃」を挟んだという
ことです。芭蕉の句
葛城山
猶見たし花に明け行く神の顔〈笈の小文〉
があり、この「神の顔」というのは葛城山に棲む「一言主神(ひとことぬしのかみ)」の顔のことです。 誇り
「長谷川藤五郎秀一直言之事」〈甫庵太閤記〉
で長谷川の「言」が出てます。長谷川橋介と脚注にありますから、これは森ラン丸と思いますがハン二
バルに相当する外国人となると倭の武王が出てると思われます。般若のあとの隠された挨・埃は
般若の面がでてるのかも。「蜂屋般若介・長谷川挨介」の並びは、この清水又十郎の一節が前半が
高句麗、後半が渡海の話となっていることと関係すると思われます。
(231)鳳来
長篠の一節(本節はじめの文)の続きですが、ここの
「三州」−「三河」−「三万」
は「郷−さとー里」があって、「里」は三万・里として反応し南化
和尚の蓬莱三万里につながります。それの応援がここの「鳳来」(脚注の{鳳来}は細字)となります。
駒来山(小牧山・小真木山)は〈武功夜話〉の表記ですが、「来」はこの「鳳来」の「来」で、「駒」は「高麗」
の「こま」かもしれないというのは既述です。「駒」は「馬」プラス「句」で、この右側の「句」があるのが邪馬台国の
「卑狗」「狗奴国の男王 卑弥弓呼(ヒミクコ)」
の句で、まあ鞍馬天狗の「狗」「句」で高句麗の句はぼんやり効いているのでしょう。「句」は「こう」として
似てるところが利用される「勾」もあります。この弓呼(クコ)の「弓」がずっと後まで響きそうです。
「武田・・・こがつこ(脚注=「駒飼。・・東山梨郡大和村・・」)・・山中・・左近・・節所・・平屋敷・・
陣・・先陣・・篠岡平右衛門・・巻・・誠・・一々・・武田四郎勝頼・・弓・・矢・・散々・・能武者余多
・・高名・・・左近・・三位中将信忠卿・・関可平次・・桑原・・・」〈信長公記〉
があって、「弓」がでますが武田勝頼の「頼」(らい)は「来」「雷」です。中川瀬兵衛の「瀬」は「シ+頼」
で「らい」。「蓬莱の仮山(脚注=築山のこと。)」というのがありましたが、ここに「高名」が出ており「瀬名」
とは徳川家康夫人「築山殿」(関口氏)のことです。「篠」は「長篠」の「篠」ですが、ここでは「篠岡」の
「平」とでて
います。「こがつこ」は、「駒飼」と書いていますが、これなら「こがひ」ではないかと思います。芭蕉で
「清風」(脚注=島田屋八右衛門)の出た、尾花沢の一節の曾良の句
蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉〈奥の細道〉
はここの「桑」に通じますが、ここに「高」が出ており「駒飼」(甫庵では「こかつこ」)も高句麗の古代に通
じそうです。「こがつこ」「こがつこ」は方・言を入れたということですが、太田牛一に俗語もあってそれが
死命を制するところが出てきます。「御礼として」参上というような。
(232)ころみつ坂
長篠陣、ネット記事で(200603)一件だけ漢字を宛てたものがありました。
「来蜜坂」
ですがこれはこれは個人的な見解ではなく、文献か伝承があったからでしょう。この「来=ころ」は「根来
寺(ねごろ寺)の「ころ」は確実に合ってると思います。問題は「蜜」ですが、これも「般若」が出てたから
「般若波羅蜜」の蜜もあるし「真言密教」「天台密教」などの「密教」(反対が「顕教」というのは甫庵の
頭注に出ている)の「蜜」があります。高句麗には、早くから仏教が入っていて年表では
372、高句麗、前秦より仏教伝来する。
があり、百済より先で、百済は
384、百済、東晋より仏教伝来する。
があります。372年のことらしいものは慈円も書いており、応神天皇の項(年表では「高句麗好太王」の時に
応神紀の出来事が一部宛てられている。後述。)
「(頭注)八幡大菩薩 今の八幡大菩薩、此御門(みかど?)也。・・・・経典馬等まいらせたり。」
があり、「菩薩」というのは仏教のような気がしますが、土着のものと融合させて独自のものが打ち出された
と思われます。ただこれは筆者には荷が重い話で太田牛一などからいうしかないところです。〈信長記〉に
「明王」というのが出てたから「不動明王」は高麗からかも、といっても、もとの仏教の説明が困難で、そうと
言い切るものがないわけです。木村又蔵が小蜜茶を討ち取って有名という「蜜」はあります。太田牛一が
「ひら」いているのは「満州」の「満」の「みつ」がありそうです。「来満坂」となる心はやはり
「明智左馬助秀満」「島田所之助秀満」「塩川国満」「福富満蔵」−「福富平左衛門」
の「満」と満州満蒙の「満」との連携があるはずです。芭蕉、〈奥の細道〉「象潟」のくだり
「神功后宮・・・干満珠寺・・・方丈・・・秋田にかよふ・・海北・・・松嶋・・・西施・・・」
の「満」があり、葛木の「宗我満智宿禰」の「満」が出ていました。また(みつ)は「明智光秀」の「光」が
一番自然で、欽明、用明、舒明の「明」があり「愛智」の「智」、福富平左衛門は「秀勝」でその「秀」も
あります。こうなると御来光を拝める「坂」という一般的なものにもなります。阿弥陀仏の御来迎というもの
にも通じていますが、「来光坂」」というのも有力です。これは考えてみたらよい、古い日本に繋がっている
よ、ということがわかればよいのではないかとと取れます。四国愛媛県に、「御来光の滝」があり場所は
愛媛県上浮穴郡久万高原町
で「愛」「上」「浮羽」の「浮」「穴山」の「穴」があり、「久万」は「国満」の「塩川(久安寺川)」の「久」で
「万」=「八幡」の「幡」で、高原は平原よりも直接的といえるかも。この愛媛の「媛」は「姫」とともに、慈円
では、即ち太安万侶では、初期の段階で
履中の母「磐木之媛」、清寧母「韓媛」、顕宗母「ハヘ媛」、継体母「振媛」
などとして出てきます。四国におよぶ北の影というような感じですが、ここの「穴山」があの本能寺のときに
明滅する、一揆に殺されたという、
「穴山梅雪」「穴山」「穴山玄番」〈信長公記〉 (考証名「穴山信君」、注;「武田信玄姉婿」)
をみてるかということです。人名注には
「穴山氏は武田氏の一族で甲斐下山(山梨県南巨摩郡身延町)を本拠地とする。・・」
とするとなっています。この「巨摩」は「高麗」「駒」「狛」でもあり、慈円で天皇20年に薨が突然出てきた
「継体」の一面
●「大臣巨勢男人大臣」(年表では「{臣}巨勢大臣」で継躰と同時期スタートの大臣)
の「巨」がわからないので説明になってるかもしれないものです。慈円は、継体に至るまで
「・・活目・・応神五世孫者。応神。隼総皇子。男大迹王。私斐(シヒ)王。彦主人王。継体{五世孫}。」
と書いており「隼総」というのは、書きやすく、インプットしやすいように変換された字で、多様な表記があり
ます。応神−仁徳−履中−反正−允恭−安康−雄略−清寧・・・継体という流れにおいて、仁徳を倭
の五王の始めの「讃」とする説もあって、それはそのまま放り投げてあるわけです。年表では継体からし
か西暦と対比されていないので、この辺りではまあいえば年表になっていないわけです。ここの倭の五
王の辺りは、頼りないが、継体でご一新としとけばまあ安全ということです。隼総は仁徳の兄弟で、仁徳と
位を譲り合っていますが、慈円は{舎弟}と書いており超訳すると舎弟は弟もあるので
仁徳
‖隼総ーーーーーーーーーーー◆男大迹王
速
ということを慈円が云ったともとれます。「男」というのは「速」の方の子だから、「隼」を意識して書いた
男女を意識しないといけないという意味で書いたと取ったらいいのでしょう。あからさま過ぎますから。
慈円は仁徳の子について
(頭注)履中天皇 18(代) 履中 六年 仁徳第一子 ・・・・
執政の始 ■執政平群(ヘグリ)竹宿禰
宗我満智宿禰◆◆
物部伊久佛
大連葛城円使主{武内宿禰曾孫}
反正天皇 19 反正 六年 仁徳第三子 ・・・・・
允恭天皇 廿 允恭 四十二年 仁徳第四子 ・・・・・
とさりげなく書いていますが、よくみれば、第二子が抜けています。■の部分は履中の内訳となって再掲
のものですが、■のところに第二子といれたらよいうのか、というとそうではなく嫡子をいれるべきではないか
と思われます。「宿禰」だから位を継げなかったと取るとすると、■が男性の嫡子となりそうで、強大な権力
が付随してくる感じです。すると宗我は今日で言う弟、とも取れますが、ややこしいのは連合いという面が
ないかということです。■が履中のいまでいう兄とすると血縁だから、本来
履中天皇
‖■平群竹宿禰→◆◆
‖物部伊久佛
大連葛城円使主
となるところですが、これは成り立たず、■のところには◆◆が入る、仁徳天皇は速の皇子があとを
継ぐべきと見てたから◆を養子にして宗我満智が履中のいまでいう
連合いとなった、◆=宗我満智ともみれそうです。〈信長公記〉「長曾我部元親」の注は
「・・・高知市浦戸町の元親・・・天正三年十月惟任光秀をへて信長に和親を求め、子孫三郎に
偏諱(へんき)をくれるように依頼した。信親がこれである。長宗我部氏は蘇我臣(そがのおみ)の
配下の宗我部の子孫。(文中)長宗我部土佐守326」
となっており、「高」が出ており「蘇我氏」というのは「江蘇省」の「蘇」が入ってるから「倭」含みとして、「宗
我」と■「平群竹」の関係は「配下」といってる感じです。326には「捕佐」が出てきて脚注では
未詳。南葵文庫本「輔佐」に作る。
となっており、明智光秀の長曾我部に対する関係をいいながら「宗我満智」の位置を捉えたというのかも
しれません。とにかく「ころみつ坂」は、「明智光秀」も出しながら、一方で四国のことも語ってるといえそう
です。「ころみつ坂」の「坂」は継体の上陸した「三国坂」でこれは「三国」の意味がありそうです。
ここの「天正三年」は「長篠」の記事があり、平群の「竹」と「笹」が
「篠川兵庫(頭)」〈信長公記〉(ルビなしで「しのかわ」と読ませている)
などを媒体として渡っているのでしょう。「ささ」とすれば索引で「篠岡平右衛門」を通して
「栄螺(さざえ)坊」〈信長公記〉 (「石馬寺(滋賀県神崎郡五個荘町)栄螺坊の坊主。)」
につながることにもなります。「石馬」というと伊達政宗の騎馬像などを思い出しますが、これは甫庵では
「安土の東、石場寺の鷦鷯(ささい)坊(ばう)」
となっており、「安土」→「安堵」→「安藤(東)」と「ささい」の組合せとなってる感じですが「鷦鷯」という
難しい字は、天皇名では
「大鷦鷯(おおきざき)天皇〔仁徳〕」「小泊瀬(おはつせ)稚(わか)鷦鷯(きざき)天皇〔武烈〕」
の二人の「さざい」があります。「武烈」(仁賢太子)というのが仁徳からきていそうですがこれはやはり
嫡子の■「平群竹宿禰」が効いてきてると見れます。■の子が、討たれた「平群真鳥」で、その子の
「鮪」は生存で、■と「宗我満智宿禰」との接近が、稲目=鮪とする根拠ですが、天武朝、太安万侶の
祖が蘇我氏ですので何か劇的な登場が仕組まれているはずと取れるところです。芭蕉に
竹内一枝軒にて
世に匂へ梅花一枝のみそさざい〈住吉物語〉
があり、この「住吉」が重要ですが、一枝軒の住所は「奈良県北葛城郡当麻村竹内」で聖徳太子弟の
創建とされる当麻寺のあるところです。これが仁徳の「みそさざい」で「匂」は「句」「勾」に渡って、
東国の「梅」になっています。菅原道真が
東風吹かば匂よこせよ梅の花主なしとて春を忘るな
といった東風は都の風よりもなお遠くからの東風といえそうです。ここの「主」というのが慈円で■と一緒に出
「大連葛城円使主」「執政葛城円使主」
の「主」、「彦主人王の御子」の継体という場合の主人、というものかも。「701年阿部御主人」という大臣も
でています。芭蕉に
我も神の秘蔵や仰ぐ梅の花〈続連珠〉
は菅原道真の天満宮の梅ですが、この「梅」は東国の「穴山梅雪」の「梅」でもあり、
ほととぎす裏みの滝の裏表〈俳諧曽我〉
は〈雪丸げ〉にもあり、御来光の滝は「丸毛」にも懸りそうです。この「ほととぎす」は時鳥で、ここでは
「一羽の瞬間の声」という鑑賞があります。〈俳諧曾我〉の俳諧の俳は「言」篇で、裏見−恨みと懸かって
いるようで「諧謔を交えた発想」という解説があるのも「諧謔」の「言」「言」があるのでしょう。
「ほととぎす」はこの句で「滝」と「宗我」と繋がったといえます。「滝」→「曾我」→「雪」「丸げ」も、覚えとこ
といったところです。菅原道真は余呉の生まれという伝説がありますが、東風は
「あち東風(こち)や面々(めんめん)さばき柳髪(やなぎがみ)」〈続山井〉
で出てきてこの「面」があとあと強烈に効いてきますが
「餅雪(もちゆき)を白糸(しらいと)となす柳かな〈続山井〉
があり「餅雪」は牡丹雪のことです。〈俳諧御傘〉に「柳に雪を結びても春なり。」とあるようです「柳の季
感はなく枝垂れた形にすがった読み方」となっています。「枝」は竹内(武内)で出ましたが、人名でも
「枝」が出てて〈信長公記〉索引
朽木元綱(「河内守。牧斎・・・高島郡・」。・「信濃守」)/宮内卿法印→松井友閑/国枝(「国枝氏は岐阜
の豪族。三河守。高牧実氏(の著書名省略)」)/久野宗能(遠江久能の住人。「久野」)/公方様
で「国枝」が出てきます。塩川国満と似たような「国」と絡んで出てきます。ここで「高」「高」があり「久能」の
「久(宮)」と「能代」「能登」の「能」が出ましたが、本文では「久野」で「能」=「野」と太田牛一は見ています。
芭蕉の「那須野」の「黒ばね」のくだり「野飼(のがひ)」など「野」の五連発があり、長篠のくだりの
「野田原・・野陣・・推詰・・志多羅の郷極楽寺山に御陣・・菅九郎新御堂山に御陣取。・・」〈信長公記〉
・・ の「野田原」「野陣」の「野」が平凡なようですが大きく受けられています。菅九郎は秋田を出しますが
御堂関白の鳳凰堂をだし、南化和尚の文の「鳳凰」につなげていそうです。宇治の平等院の「平」が重要
な意味を持ってくるのでしょう。「柳」−「白」−「雪」がでましたが「柳髪」があり
「白菊よ白菊よ恥長髪よ長髪よ」〈真蹟短冊〉
で髪が白で、先ほどの「朽木」に
「盃の下ゆく菊や朽木盆」〈俳諧当世男〉
があり、「菊」が出てきますが、
「前書葛城の郡竹内に住む人・・・菖蒲・・菊・・、
初春(しょしゅん)先ず酒に梅売るにほひかな」
竹内で「酒」が「梅」とセットになって春の匂いが出ますが、「梅」は
「梅林 梅白し昨日(きのう)や鶴を盗まれし」〈野ざらし紀行〉
があり、梅の白がここで出てきて、「朽木」の「菊」−「白菊」−「髪」「柳」−白−牡丹「雪」の「白」に「梅」
の白が加わり「穴山」の「梅雪」が朽木の「盃」に懸かります。〈書紀〉景行天皇の巡幸
「的(いくは)邑(福岡県浮羽郡)・・・盞(うき){盃}・・・盞(うき)を忘れた処を浮羽とよんだ。・・
的(いくは)・・・昔、盞をよんで浮羽といった。」〈日本書紀〉
があり、ころみつ坂−御来光の滝−浮羽の穴−穴山梅雪の「雪」 となりそうです。「穴山」の「穴」は
○成務天皇(日本武尊相当)の近江国志賀高穴穂(アナホ)宮
○仲哀天皇(后が神功皇后)(日本武尊第二子)長門国穴戸豊浦宮
○安康(鮟鱇)天皇(雄略天皇と同母兄弟)の「大和国山邊郡石上穴穂宮」
の「穴」にも通じています。この「邊」は清寧天皇に近い「市邊押羽皇子」の「邊」だろうということで見当を
つけてきてます。表記というのは、いささか頼りなげにみえるところですが、これで押すのが、取っ掛かりと、
検証の両方に働き、的もはずさないものになります。行き過ぎは修正したらいいわけですが古人の方が行き
過ぎが多い感じです。ころみつ坂の結論は、御来迎、御来光を見れる弾正山(高松山)の坂
「来光(ころみつ)坂」
というのではないかというところです。まあいろいろのものが出てくるのがよいのかも。
(233)おのごろ島(未詳)は北海道
「志多羅」〈信長公記〉(脚注では「愛知県南設楽郡鳳来町」の「設楽」)
がありました。「楽」は「広開土王」の「永楽」もあるかも。「志す」を太田牛一がだしたことは意味がありそうで
す。まあいえば「士(さむらい)の心」で「三国志」という場合の「志」にぼんやりと及んでそうです。「土の心」にも
似てますが。「鮪(まぐろ)」=「シビ」と読ませるユーモアがって「平群 鮪」に使われて、これは
「志毘」(上杉謙信「毘沙門天)」の毘) 「志{田比}」 〈古事記〉
があり、魚のユーモアでいけば、横に「田(比)」(たひ)の「毘」は、「鯛」で、くさっても「鯛」は西周・東周の「周」が
入っています。松永の信貴山の「多聞城」は有名ですが、「毘沙門天」=「多聞天」のようです。楠木正茂は
金剛葛城が属性ですが幼名は、で多聞丸と聞いていることです。「毘」というのは「昆」に似てて「魚+昆」
は「鯤」で、これは「荘子」(逍遥遊))に出てくる、このうえなく大きな魚です。魚でいえば「鯤」、鳥の場合は
「鵬」で知られています。〈漢語辞典〉ではこれは「鯔」(ぼら)の後に来ています。隣の字というのは、余り
意味ないかもしれませんが「鯔」は「いな」と読むようです。「稲」=(いな)=「鯔」(ぼら) で
鯔(ぼら・いな)/鯤(「北海にすむという想像上の大魚の名」)
という並びがでてきます。これは「北海」というのがほしいのでだしたものですが、「稲」と「鮪」の関係で
いえば〈奥の細道〉に
わせの香や分(わけ)入(いる)右は有磯海
があり脚注では
「わせの香」は早稲の花の香。稲の花には特別の香はないが稲の出盛りでいきれるような一種の匂いを
感じたのであろう。…早稲の香の・・田んぼ道・・を進むと右手の方に有磯海が・・・情景をよんだ句・・。
となっています。「稲」→「有」→「鮪」があるかも。「いそ」は「伊蘇」〈書紀〉もあります。いいたいことは「志び」
で魚が出てくれば「志多羅」→「志鱈(たら)」もありうる、梅→白→雪、梅雪の「雪」が「魚」とくめば
「鱈(たら)」→「たら(鱈)は北海道」
で隠された大島がでてきます。〈書紀〉のはじめに小さな島もすでに認知されていますが「北海」の嶋は
でていません。まあ大八洲(島)国というのは
「淡路」「●大倭豊秋津島」「伊予二名島」「筑紫の島」「隠岐島」「伊岐島」「佐度島」「津島(対馬)」
といったところで、ほかに六島があるようです。●が今の本州ということで納まっているのでしょうが、記紀で
最初に出てくる「オノゴロ島」がわからないのです。〈書紀〉のは、漢字もむつかしく
「石篇に殷」が「お」、「馬篇に又」が「のご」、「シなしの濾」が「ろ」、の「島」
です。これが〈古事記〉では
「(シ+於)能碁呂(おのごろ)島」
となっており、脚注では「おのずから凝った島の意。大阪湾内にある島。今の何島か不明。」とされていま
す。感じでは、高天原にあって二神が+αとして国土に
加えたという(探し出した)島です。「能」「呂」があるから北の島の感じです。●も秋田中心にみた本州という
ものがでています。〈広辞苑〉では「おのころじま」となっていて〈書記〉の字が宛てられています。〈書記〉の
ルビは(おのごろ)島」ですが「ぎょしゃ」の「馭」(ぎょ)の字が「のご」のルビがついています。要は
「おのごろ島」と「おのころじま」
の二つあり、「ころころ」と「しましま」があるという含みもあるようです。兵庫県あわじ市、沼島にある、「おのころ
神社でいまにのこる淡路のおのころ島の名残があり、それと北海道の〈古事記〉のおのごろ島があるのでは。
〈広辞苑〉での並びは、
おのごこう「小野御幸」 (「雪見御幸」)
おのころじま「〈書紀の漢字〉」 (「・・・転じて日本の国を指す。」
おのさま「己様」(二人称・あなた・・・)
となってネット記事でも「雪見御幸絵巻」は「住吉絵巻」と並んで出てきています。ここでは日本の国を指す
となっていますがそれも合っていそうで、その内の●が本州という読み方も出来ます。「吉備子洲」「越州」
「大洲」「子洲」「オノコロ島」が浮いてる感じもあり別の括りと読み方が可能なところでもあります。とにかく
北海道がひとつあります。「小野(斧)ころ島」という説明が成り立つというのが「ころ(来)みつ」とした、太田牛
一の企図は、北海道が出てこないとわの五王武の上表文が読めないというところにあるかも。〈古事記〉島の生成
「伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美に命・・・沼矛(ぬぼこ)・・・塩こをろこをろに描き鳴して・・・これ
於能碁呂(おのごろ)島なり。・・天降り・・天の御柱を見立て八尋殿(やひろ殿)を見立てたまひき。」
となっています。脚注では「こをろこをろ」は「ごろごろ」になっており、これだと「ころ」が四つ「ころころころころ」
と訳せます。また脚注では「おのごろ島」は「おのずから」「凝った島」となっています。「凝る」という漢字が
中心ですが、「久我=(こが)」で、「来る」「牽(くる)」も「こる」となりえますがこれは別として
「己(おのれ)」と「凝る」が「おのごろ島」
です。芭蕉〈奥の細道〉でここの「八尋」の「尋」が集中したのは「福井」のくだりで
「尋(たづぬ)」「尋(たづね)」「尋(たづね)」「尋(たづね)」
があり「たづ」は鶴ですが、「づ」が濁っているから「たつ」(先ほどの「立つ」が八つも考えられます。
「風流亭 水の奥氷室尋ぬる柳かな」〈曾良書留〉
「雪やこんこん、霰がこんこん・・・」
の「こんこん」は「雪や来む来む」で
@「雪の朝(あした)独り干鮭(からざけ)を噛み得たり」〈東日記〉
A「躑躅(つつじ)いけて其の陰に干鱈(ひたら)割く女」〈泊船集〉
があり、「鮭」は北海道だろうとと思って探しだしましたが、辞書では「北海にすむ。」と書いてあって「北海道
などにすむ」ともなっていないので無理でしょうが、鮭=(干)=鱈、となるとゴルフやる人ならまあいいやろ
といってくれそうです。しかし読みが違うではないか、というのがありますが、これはもう一つ
B「干鮭(からざけ)も空也の痩(や)せも寒の中〈膳所歳旦帳〉
があり、三句索引というものも考慮しないといけないものです。Aの「干鱈」の「鱈」が北海道を出すため
に手掛かりとなると探していたもので、上五・中七・下五の「三句」について索引がついています。
この句でいえば「つつじいけて」「其の陰に干鱈」「割く女」の「つ行」「そ行」「さ行」の索引があってどれか
覚えてれば、句が出せるということになっています。「干鱈」は隠れて出てきません。@の「鮭」は「ヒ行」に
あるので「干」で目立ちやすくなっています。「鱈」が隠された感じで重要だ、鮭も北海道を出してるとみて
よい、つなぐための「干」であるというのが出てきます。Bの「干鮭」は、@の「干鮭」に「雪」を被せたいと
いうのがあるかもしれません。@の噛むというのが「口+歯」で「歯」が北海道に効いてくるとも考えられ
ます。「歯」の白というのは「お歯黒」「お鉄漿(はぐろ)」などの習慣があるので、今川義元も参加して
してきてよけい目だっています。ここのAの「其の」というので一つ二つ取り上げますと
其の匂ひ桃より白し水仙花 水仙や白き障子のとも映(うつ)り
があり、前の句では「三河国新城」の「白雪」(通称「太田金左衛門長孝」、「升屋」といった「新城の庄屋」)
で、「新城はむかし阿叟の逍遥せし地なり。」となっています。ここは太田牛一の長篠のくだり
「野田原」(脚注=「新城市野田」)
を受けたものととれます。この太田氏は〈俳諧曾我〉の編者でもあります。この「叟」は戦国文献〈総見院
殿追善記〉(注:「大村由巳の天正十年の著述」)の末尾添書に、
「徳庵叟永種 筆」(実際は後年筆写したという「筆」もあるかも)
と書いた人物(未詳か不明か、とにかくわからない)の字です。添書の部分に「杉原七郎左衛門家次」
の名前を出していて、秀吉の名代として京都執権の間の記録「一冊」があることが書かれています。
本文では「藻蟲斎由巳」なので「大村由巳@」つまり今で言う父とみてもよいかとなると、太田の金さんが
効いてきそうです。著者が三人となるのかもしれないが、今まで松永の永種とみており、この字は「三番叟」
(さんばそう)と打ち込んでやっと出てくるようになったのでよく覚えてるものです。松永が太田牛一に書くように
頼んだ文のなかにあるもので「万年」があるので「万年雪」、「つくもがみ」=白髪、というのがでてきそうな
字、これは白雪と結びつけたものかと取れるところです。白き障子は三句索引では
しろ障子/白つつじ
という並びですからAの鱈に目をやっているといえそうです。「とも映り」もわかりにくいのですが
とも映り/友を今宵の
という並びがあり、これは、今宵の「月見」に関わるもののようです。
また「其の」は「・・匂ひ桃より白しに」といえます。場に人が登場します。
桃の木の其の葉散らすな秋の風
其の魂(玉)羽黒にかへす法(のり)の月
もあります。「升」がでましたが、「十三日は住吉の市に詣でて」の前書で
升買うて分別(ふんべつ)かはる雪見かな〈正秀宛書簡〉
があり、この日「黄金の升で新穀を献ずる神事があり」この市は「宝の市」というようです。この字が難升米
(離升米)の「升」で卑弥呼の頼りにしてる人物ではないかと思われます。米は秋の代表的な花、
「菊」の中にある字です。勲章の菊花は明治になってから採用されたもののようです。
『「宗因」にこの市を詠んだ
「住吉の市太夫殿へさらばさらば」
の作があり、芭蕉はこの句のあとをなつかしんで参詣したのだという〈追善の日記〉。 』
があり「さらば」でいけば
「いざさらば雪見にころぶ所まで」〈花摘〉
がありこれは「長谷川孫助」すなわち「夕道」の家で詠んだものです。この雪見が雪見御幸(ゆきみみゆき)
で、〈広辞苑〉の「おのころじま」の右にあった「小野御幸」のことです。この「ころぶ」がどんぐりの「ころころ」
でしょう。
もう一つの雪見は 「 ある人の会
ためつけて雪見にまかる紙衣かな〈笈の小文〉
があり、「或る人」の「或」が慈円で注目されてるはずです。「ためつけて」は、着古した衣の皺や癖を
伸ばして直すという動作です。「紙子」は「厚紙に柿渋を引いて、晒して、乾かし、揉み和(やは)らげて
一夜露に晒して臭みを抜き、それから衣服に仕立てたものである。」となっています。こうなれば
毛衣(けごろも)に包みてぬくし鴨の足〈続猿蓑〉〈泊船集〉
が「衣」があるので重要となってきます。『「毛衣」は羽毛製の衣。羽衣。』となっています。この鴨が大津
皇子の「鴨」で「甲」+「鳥」、「鴨」=「賀茂」で丸茂=丸毛というのが〈信長公記注でありました。
女夫鹿(めをとじか)毛に毛が揃うてけ(毛)むつかし〈貝おほひ〉
があり、これは「小野」もでてきますが、鮭につなぎたい「毛」かあるのかどうか。三句索引では
芽独活かな/女夫鹿や/飯あふぐ/めじかもよるや
となってお、@の「独り」とこの「独」を繋ぎたいとして
雪間より薄紫の芽独活(めうど)かな
となったとすると「雪間」は「せつげん」→雪原をみなくても北の方がでてきます。三句索引では
男鹿島 ひれふりてめじかもよるや男鹿島〈五十四郡〉
の「めじか」と「毛」が北国の「鹿」と繋がり五十四郡にも及びます。これは「めじ鰹」でもあって山口素堂の
「初鰹」にもいきます。雪見−小野のところにもどると
@消炭に薪割る音か小野の奥〈芭蕉翁真蹟拾遺〉
A小野炭や手習ふ人の灰せせり〈向之岡〉
B白炭や彼(かの)浦島が老いの箱(霜もある)〈俳諧発八句合〉
があり、解説では、小野と斧が掛けられており、「小野は京都の北で鞍馬炭と並んで有名な小野炭の産
地」となっています。「小野炭は山城国の小野の里から産する炭」とも書いてあり、分けて「北」を出した
のかも。慈円は「継体天皇」は「山城国遷都云々」も書いています。〈曽我物語〉に小野が出てきてここの
「箱」が派手に出てきます。Aの小野は小野道風の小野に掛かっていて「手習う」がでてます。〈奥の
細道〉は「摺る」でうけて信夫(忍ぶ)里の属性となっています。「灰せせり」から訳と解説で「火箸」が
出てきます。これは高麗箸を見ていて、箸墓に行ってそうです。浦島が雄略天皇のところで出てきて
解説では白炭と浦島の白髪のはかなさがどこか気分的に匂いはじめている、となっています。箸墓と
つながっているかも。@の「薪割る音」は「真木わる音」もあってこれでは「駒来(木)」の駒がでてきて
高麗(こま)が出てきます。小野の道風の墨の黒、紙の白、対象鮮やかな小野が、ころにかかります。
おのごろ島の漢字がむつかしいので、〈古事記〉の索引
於能碁呂島/小野の郎女(継体天皇の所で出てくる)/小野臣(柿本臣の並び)
のように「能」=「野」として、能代・能登意識の「小野」で語ろうとしたととると、「碁呂」が何を語るかと
いうことになるかと思います。太田牛一では「小野」は索引
・・・越智/お千代/●小野木/小幡/・・・
の●です。従って、「お野木」という軽い気持ちでよいのでしょう。丁寧字句で、大小の小だからどちらかと
いうと女もしていわんというところでしょうか、「木」は「来」で「ころ」でしたから、
「お野木」→「お野来」→「お野ころ」がヒントです。
小野碁(ご)呂 は 小野(こ×2)呂 だから
@小野(こ)呂
A (こ)
で、「木」は「夏木立」などで「こ」と読めますが、「こ」は「子」もあります。「小野木」はしたがって
「小野木(こ)」「小野子(こ)」
となりますが「子」は「し」でもあります。
太田牛一は同時に「木(こ)」は「く」とも読めるといっているので、それが役に立ってきます。〈信長公記〉注では
「久我」(くが)⇔「久我」(こが)
で、「小野木)」は、 @小野(く)呂 A小野子(し)呂 となり、@から「小野黒島」 、Aから「小野白島」
がでてきます。つまり、〈魏志倭人伝〉等にみられる
「黒歯国」
白黒並存の表記という点で同じではないかといいたいところです。「国歯国」=北海道かも。
それにしてもそんなことまで考えとるかい
となりやすいのですが、このまどろこしさは一つの道にすぎないわけで、話せばの話です。芭蕉でいくと
もっと簡単です。三句索引によれば「師走は子路が」「墨子芹焼を」という中国の二人の巨星がでており、
「月白き師走(しはす)は子路(しろ)が寝覚(ねざめ)かな」〈孤松〉
「悲しまむや墨子(ぼくし)芹焼(せりやき)を見ても猶(なほ)」〈向之岡〉
があり子路は「廉潔撲直」「潔白撲直」と評されています。小野木の「木」は「ぼく」だから「墨子」の「墨」は
「黒」で、「子路」は「白」で「おのころ島」は
小野黒島
小野子路(しろ)島
となります。太田牛一は、さらに奥まで、小野ごろ島を語るために「小野木」を出したといえそうなその観点から
ちょっとふれますと、小野木の出てくる一節が安東地区の一節といえます。いいかえれば木舟の石黒左近、
の一節で、石黒・黒石(上から読んでも、下から読んでも「こくこく」)のことに触れました。要は
「於能碁呂島」
だから「碁」がでてきます。ここは本能寺の前の年〈信長公記〉(六)で
「・・・▲石黒左近・・阿喜多の屋形、下国・・・神藤・・▼小野木・・・岐阜中将信忠(「秋田城介」)・・」
があり、▲▼が同居してますもう少し細かくみれば
「・・中国・・・万余騎・・因幡国・・・橘・・北・・西・・海・・西・・海・・舟・・つなぎ・・二ヶ所・・海・・高山・・
●見下墨(みさげすみ)・・大将軍・・つなぎの二ヶ所・・陣・・高々・・陣・・高々・・陣・・海・・舟・・海・・舟
・・中国・・越中国木舟・・石黒左近・・石黒・・■上国・・石黒左近・・黄鷹・・尋常・・・・出羽・・宝・・
鷹・・馬・・阿喜多の屋形、下国・・神・・黄鷹・・生白鳥・・下国・・十・・拾・・小野木・・岐阜中将信忠・・」
〈信長公記〉
があり●が芭蕉で墨子になったと見れます。山の上に登って図を書いたというのがここの意味かも。脚注は
「大工が柱の傾きを調べるために墨縄(すむなわ)を下げてみること。望観して判断し。」
となっていてこの墨縄を使うのが本来の墨子の技法とも取れます。「大工」「柱」「墨縄」がこの地区の
属性語句といっているのかも。■が「下国」と対比されるものとすると北海道のことを言っていることに
なりますので「おの碁ろ島」は北海道ということになりそうです。「黒石⇔白石」で碁がでますが「黒白鳥⇔
白鳥」もありそうなのが「生白鳥」でしょう。「黒白鳥」となると「おの黒白島」に似て来るので、この一節を
〈古事記〉の解説もあるとみてよいところです。似てるだけで、そんなこというのは、おかしいというのは
ありますが、島=(しま)=嶋で、「嶋」=(山+鳥)の不思議がありこれは既述です。こういうところに利用
するのもあったといえます。要は「黒歯呂嶋」しょう。これは「黒歯国」の解説の一つととれます。雁などの
「鳥」が効いてきます。太田牛一は「孔子十哲」で「子路」も間接に出しています。北海道は
「日本列島のの最北端にある大きな島。もと八道の一つ。」
「八道」は「昔の地方区分で、東海・東山・北陸・山陰・山陽・西海・南海・北海の八つの地域」
「蝦夷」は「@古代、東国に住んでいた民族。現在でいうアイヌ民族をさす。A北海道の呼称。」
「蝦夷松」は「マツ科の常緑高木。北海道など寒冷地に産する。」「椴松・鯔松」は「マツ科の常緑高木。
北海道以北に自生する。」、10というのは北海道は十州島といった、のがある1869年。
芭蕉は「えぞ」を「平和泉」のクダリで出しているから北海道は出していることになります。この「和泉」は
「北山・・・鹿・・・平田和泉・・二条殿・・平田・・恵比須川(夷川)・・常々左右・・間親(まぢか)く・・
三条吉則・・尺・・寸・・和泉・・亀・・和泉・・命・・」〈甫庵信長記〉
で「蝦夷」が出ています。「平田和泉」は「平田三位」につながり、「三位中将信忠(秋田城介)」−「三条
中納言」の線もあります。〈古事記〉(角川文庫)の武田祐吉博士の脚注では、「大国主の神」のくだり
「七福神の大黒天を大国主の神と同神とするのは、大国と大黒と字音が同じなのと、ここに
袋を背負ったことがあるからであるが、大黒天はもとインドの神で別である。」
とあり、これは恵比須とセットだから、インド→仏教受容国→安東地域ということはありうるから「別」とか決め
られないところです。大国主=多国(おほくに)主も考えられます。この大国主の神は〈古事記〉では
「稲羽」「稲羽の素菟(しろうさぎ)」「高山の尾の上に伏せ」「●(シ+於)(お)岐(き)の島」「気多(けた)」
のような地にいます。とくにこの「稲羽」は「奥羽」「羽毛」の「羽」であり、「稲」は一応「蘇我稲目」の「稲」
、「鯔」「伊那」の東国の「いなば」であろうととれます。太田牛一では「稲葉」「因幡」で継がれたものです
「稲庭地」「いなばち」があったり、「因播(播磨の「播」)があり江戸期の「印旗沼」開墾の「印旗」もどうか
と思われるほど中間色の濃厚なもものも「稲庭」となると秋田です。●は脚注では
「日本海の隠岐の島。ただし気多の前の海中にも伝説地がある。」
となっており、脚注では「鳥取市」の「白兎海岸」あり、殷
菟まで、は鳥取市二層になっていたら古層のおきのしまもあるかも。とつとり、とりとり、も
小野木 「石+殷」(お) 馭(のご) 慮(ろ) 島
馬+又
御(禦)者=(ぎょしゃ)=馭者 だから馭禦御。一つは「馭車」というのもあってもよいのかも。どうしても
(のご)は考えないとしょうがないわけです。「馬 又」という又は「手」という意味になり、右手という
ことになります。飛躍しますが「手」(綱をとる)ということになるのではないかと思います。「取」・「鳥」と
いうのが安東大将軍治める地域の属性語句となりますので
馬を御す 馬 又
手綱を取る 耳 又 手
となり、大田牛一に「取出」がたくさん出てきて「石」「千」「山口」のでたところに「取手」がでてきます。
ここで「馬耳」がでてきます。菅原道真が「東風」(こち)を詠んだので「馬耳東風」が出てきて、聖徳太子
@の耳も説明できることになったということもできます、。「馬の耳に念仏」という「念仏」も高句麗系の仏教
というのかも。空也僧が念仏・和讃を唱える鉢叩きの行事の念仏です。「空」というのが虚空の空と
いえそうです。也は馳せるという「也」でしょう。「馳せ」は〈広辞苑〉では「長谷」、「初瀬」のあたりで
でています。
(234)「又」の字
小浜城主であった木下長嘯子の墓は洛東高台寺にあり、そこの「鉢叩の辞」には
「鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声は冬の夜さえも鳴く郭公(ほととぎす)」
という歌が載ってるようです。このホトトギスは〈奥の細道〉殺生石、玉藻の前(「金毛九尾の狐」)の
ほととぎすに繋がっているものです。
「野を横に馬引き牽き向けよほととぎす」〈奥の細道〉
がありました。この古代の天皇名にある「牽」は「くる」という読みもあります。同じ時期の句、
「(前書)・・・那須の篠原を尋ねて・・殺生石・・・・雨降り・・此のところに留(とど)まり候。
落ち来るや高久(たかく)の宿(しゆく)の郭公(ほととぎす)〈真蹟懐紙〉
もあり、「高久」は、はっきりいえば「高句」でしょうが「く」がひらかなのものもあるようです。「宿」も注文
が付けていますが「留」を重視すればよいかも。「落ち」は、本能寺の「落合小八郎」→「越智玄番」
という索引の流れから、「越智」の注の「大和高取城(奈良県高市郡高取町)主。・・・」の「高」
とか「取」が出てくるのに合わせたといえそうです。
「馬耳」の一方で「・又・又」がここで出されてきましたが〈漢語新辞典〉(大修館)では
「又」、(読み「また」「ゆう」「う」)は
「字義 @て(手)。右手。 Aまた。・・・・・
解字 ・・右手の形にかたどり、右の意味をあらわす。・・・又を音符に含む形声文字に、・・・
宥(ゆう)・右・有・友・鮪(ゆう)・灰(かい)・賄(わい)・・・怪(かい)などがありこれらの漢字は
「右手」の意味を共有している。」
となっています。「弓手(ゆんで)」というのが「弓を持つ手」で「左手」です。この「ゆう」というのは芭蕉が
「伊勢」の「又玄(ゆうげん)」の宅で
「月さびよ明智が妻の咄(はな)しせん〈俳諧勧進牒〉
という句が出ましたが、その前書で出てきます。ここに「有」→「鮪」(ゆう)−「シビ」の「鮪まぐろ」がでて
消炭の「灰」、木・竹が燃え尽きて水をかけて残る固形物を「からけし」といってたと思いますが、「炭」より
火がつきやすいものですがそれも消炭かも。また大伴金村「賄賂」の「賄」、怪談の「怪」などがでています。これも太田又助、高坂又八郎(武田)
〈信長公記〉の「又」は
「太田又助」「太田又介」「高坂又八郎」「あらかわ又蔵」「山口又次郎」」「寺沢又八」「千石又一」
「宮脇又兵衛」「前田又左衛門」「金松又四郎」「狩野又九郎」「浅野又右衛門」
があって、これらの「又」が「叉」「亦」「俣」「股」「復」などとして、また「手」−「平手」などとして古代を
語るという広がりがあるというのが辞書の示すところかもしれないというのがあります。武田の「高坂」
はマイナーのようですが、脚注では「香坂」がでて、「香」は「春日」などとともに雄略王朝で目立つ字で、
「高句麗」の「高」、越前国三国坂の「坂」というのがありえます。〈類書〉では川中島、海津城の「高坂
弾正昌信」という人物も出ます。「浅野」は関係なさそうですが、古代の語りに参加しているとみれる
ところです。脚注では
「浅野長勝 ・・・いま愛知県一宮市の浅野あたりに所在した北野神社領の下浅野保の、おそらくは
管理人を勤めたのが浅野氏だろう。・・判物が一宮市長興寺に所蔵される。愛知県西春日井郡西春
村北野に浅井長政(長勝の子長吉)誕生地碑がたつ。県史跡。浅野又右衛門 」
となっています。ここで一宮市がはっきりでています。金松又四郎の場合は
「尾張葉栗郡嶋村(一宮市島村)となっています。一方、木全(きまた)六郎三郎の場合は
「尾張中島郡木全(稲沢市木全)・・・木俣氏・・」となっていて、一宮市と稲沢市は島でカスッテいま
すが一見では
関係ない感じです。これは中島郡に稲沢町と一宮町があってそれぞれ市となったものです。道三と信長
が会見した「富田の寺内正徳寺」は脚注では
「聖徳寺。一宮市苅安賀富田町(現西之町)所在の寺と推定される。」
となっており、稲沢の稲、蘇我稲目宿禰の稲が聖徳太子に掛かってくるということになりそうです。一宮の
浅野は稲にかかる、シビ=鮪が、殺されたということですが生存というのは、〈万葉集〉もいってそうです。
「 天皇、志斐(しひ)の嫗(おみな)に賜ふ御歌(みうた)一首
236 不聴(いな)と言へど強(し)ふる志斐のが強語(しひがたり) このころ聞かずて朕(われ)恋ひにけり
志斐の嫗の和(ああ)せ奉(まつ)る歌一首{嫗が名いまだ詳らかならず}
237 否(いな)と言へど語れ語れと詔(の)らせこそ 志斐いは奏(まを)せ強語と言ふ 」〈旺文社〉
があり、天皇は訳によれば持統天皇ですが、前書は歌物語にするための後世の挿入だからストーリ^は
考えなくてよく「シヒ」(「強」が「イナ」(「不聴」「否」−「稲」「鯔」「伊奈」)などに呼応してるところを読めばよい
「嫗」というのは老婆と訳されていますが、要は長生きしてるということでしょう。この「嫗」は男女どちらか
教えてほしいところです。名前は〈記紀〉の平群の「シビ」で、その解説をしているということでしょう。
「言」「言篇」が多いから古い日本に影響を与えた朝廷のなかに原記録があったということになりそうです。
「朕」(ちん)とか「詔」(みことのり)などは昭和20年まで新聞に出てきたごとで、あの新しい時代の太安
麻呂は古い日本のことをよく伝えてきているといえます。
(235)羽黒
北海道を出そうとしてきたのは、日本の史書が、北国、東国に注目しているということを、みなが認識する
ために必要であるとみていた、といえるのでしょうか、早くから大きい「おのころ島」をとりあげ
ていました。蝦夷富士というのは「羊蹄山」ですが、朝鮮の「羊」が使われて大陸側からも早くから認知
されていたということかもしれません。要は肝心の日本人が知らないことが多すぎるといえそうです。
蝦夷松があるから、「斧ごろ」がありますが、「ごろ」は「ころころ」=「久呂子路」で「黒白」がでてきます。
黒白は黒歯で
黒歯国〈魏志倭人伝〉
は北海道というのが出てきます。「毛羽」〈奥の細道〉、があり芭蕉は「黒羽」「羽黒」を出しています。三句
索引では
歯ぐきも寒し/羽黒にかへす/羽黒山
があり、歯⇔羽です。もっと時代を反映したものというと、清寧天皇の弟(連合いもありうる)に
「市邊押羽皇子」〈愚管抄〉
「市辺押磐(いちべのおしは)皇子」「イチベノオシハ皇子」〈ニュートンプレス〉刊〈日本書紀〉
「市の辺の忍歯の王」「市の辺の忍歯別の王」〈古事記〉
がいて、これは明らかに「羽」⇔「歯」という示唆があるものです。いや〈魏志倭人伝〉の記述している行程
を辿って出すべきものだということになりますが、この種の文献では前後のストーリーに関係がなく突然
登場というのはほぼ一般的であって倭人伝ともなれば日本列島の周辺のことをいってるのは大体確実なの
この大きな島(小野→大野)は認識されていて勘定に入れられているのは確実です特に清寧天皇という
大物にからむ「市辺押磐皇子」により「羽」=(磐)=「歯」という確認がされているから「黒歯」に新たな光を
当ててもよいと思われます。芭蕉の句で
@「衰ひや歯に喰ひあてし海苔の砂」〈己が光〉
A「 老・・ 牡蛎(かき)よりは海苔(のり)をば老(おい)の売(うり)もせで」〈続虚栗〉
B「 白魚や黒き目を明(あ)く法(のり)の網 」〈韻塞〉
があり@Aは白黒の対照が解説では全然出てこず、両方「老」が出ています。Bの「のり」は三句索引
で「海苔に挟まれて「海苔」でも使えてこれは白黒の対比になっています。@の砂は〈奥の細道〉
の「白砂」意識も考えられるので黒白は敢えていわなかったともいえます。即ち「白砂」の出てるところは
「けいの明神」
が出てて人名では「仲哀天皇」が本文に出ています。脚注では
「気比神宮。土地の古老は“けいさん”と呼ぶという。▲伊奢沙別(いさざわけ)命を主神とし、日本武尊、
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、▼豊姫命、武内宿祢を合祀している。武門武将の崇敬社・・」
となっており、「けいさん」は億計・弘計の計算の計ともとれ、継体時代の五経博士の「経」でもありそうで
す。その時代であれば▼は飯豊の豊も出てきて、この人名の並びは北の王朝というものが出てる感じ
です。脚注の全体わかりにくいのは▲▼のくだけた表記の人物が入ってきて、よく出てくる「日本武尊」
「仲哀」「神功」「応神」「武内」と並んでいる点ですが、これは戦国時代に創建ともいってよい再興があった
ので、そのときの記録の意図も入っているので、歴史の解説があると思えるところです。▲が中心人物で
応神天皇の子の世代、仁徳時代の
「葛城氏・・・伊奢の麻和迦の王」〈古事記〉
、があるので一応、これに引き当てられるとすると「豊」も時代が繰り上がってくることになります。「豊」は
卑弥呼の後に出てくる邪馬台国の「とよ」(「台与」)と関連付けて見ようという説があるので、考えてみん
といけないのかも。麻生氏の脚注は「呼」も「呼ぶ」で出ましたから。
「古老」の「老」も出ましたから白黒に戻りますと、小野は小野道風が念頭にあるというのが〈芭蕉全句〉の
解説にありました。「道風」は「とうふう」と読むことはみな知っていることです。小野と老の組み合わせは
「大宰少弐小野老朝臣の歌一首
328 あをによし奈良の都は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり〈万葉集〉
があり、これをすぐ思い出します。脚注では
奈良の都は、咲く花のにおうように、今真っ盛りであることだ。
◎遠い大宰府にいて都への憧憬の念が生み出した平城京賛美の歌。」
脚注の解釈は普通ですが「におう」とヒラかれているので「匂う」もあるということでしょう。
この◎印のものはまあいえば余計ですが、これがなかったら菅原道真のことを思い出さないといっても
よいと思います。「東風(こち)吹かば匂い寄こせよ・・・・」があり、東風−(とうふう)−道風−小野で
小野老が、小野「ごろ」の「黒白(歯)」を出すことになります。「海苔」の「苔」が「台与」の「台」と似てる
というのはないかもしれないが「こち」(東風)は「鯒」「胡地」「故智」「故地」というのはあるかもしれません。
ここの◎の「平城京」が、道真の「平安京」とダブったというのが特筆すべきところで遠い故地が両者の脳裏に
あったとみてよいところです。
(236)中入りの記事(からくり1)
▼「豊姫命」というのは〈類書〉にもないもので、ネットで検索しても出てきません。
「豊鍬(すき)入姫命」〈ウイキペディイア〉(別名「遠津年魚眼眼妙媛」)
などが出てきます。これは10代、崇神天皇の皇女とのことです。
「鍬」は「鋤」もあり「秋」が出てるから秋田、遠・魚・媛というのもその特徴を示して
いそうで高句麗でしょうが、▼はもっと一般的な大きな表記になっています。「とよ」=「台与」というのが
考えられないことなのか、ということですが年表みますとありえることです。
今の日本史の部分では西暦元年から239年まで記事は3件しかなく
「57年」「107年」「148年」
に短いものが出てて後空白です。50年くらいの感覚で三つでだけでこれはあとで見ないといけないもの
です。三つだけだから年表作成した人がもっとも神経を使ったところでしょう。239年は所在論争などで知
られた邪馬台国の記事で、ここでやっとくわしくなってくるということですが、239年以降は以下のものです。
(内容は抜粋などして原文通りではない)
239 倭の女王卑弥呼、大夫難升米らを派遣魏の朝貢を求める。親魏倭王授かる〈魏志〉
240 倭王に錦・刀・魏志を賜る〈魏志〉
243 倭王倭錦など献上〈魏志〉
245 魏の少帝、倭の難升米に黄幡を賜う〈魏志〉
247 倭の女王卑弥呼、狗奴国男王卑弥弓呼との交戦報告
248〜 このころ卑弥呼没す。国中治定せず。
249 卑弥呼の宗女壱与を女王に立て国治まる。壱与・・・魏に献上。
(ここまでが〈魏志倭人伝〉)
(空白) 16年
266 ◆11月倭の女王、使いを西晋に遣わし入貢する。〈神功紀66年条〉
(大空白)100年
366 倭国のシマ宿禰、百済に派遣 〈神功紀46年条〉
367 百済・新羅朝貢する。 〈神功紀47年条)
369 荒田別・鹿我別など派遣新羅を討ち7国4邑を平定する。〈神功紀49年条〉
372 百済王七枝刀一口献じる 〈神功紀52年条〉
(空白) 10年
382 新羅を討つ、加羅を救う。(〈百済紀の引用「天皇」という表記がある〉〈神功紀62年条〉
(ここまでが〈書紀〉神功皇后のものだけ)
(空白) 9年 ここから(好大王の記事)
391 倭軍渡海して百済・新羅を破り臣民にする。〈高句麗広開土王碑銘〉
392 紀角宿禰を派遣して百済を詰問する。〈★応神紀3年条〉
397 倭国軍が攻め、百済6箇所を奪う。〈★応神紀8年条〉
399 百済倭と結び新羅を攻める。新羅は高句麗に救援をを求める〈広開土王碑〉
400 ●好大王5万の兵をもって新羅を援ける。高句麗の官兵、男居城・新羅城を攻めて
倭軍を退け、追撃して任那・加羅に至り服属させる〈広開土王碑〉
404 倭軍帯方郡の故地に出兵し高句麗軍に撃退される〈広開土王碑〉
(ここまでが好大王の記事)
405 百済王子、倭国より帰国し即位〈★応神紀16年条〉
413 倭国東晋に方物を献上する〈晋書〉(この倭国は高句麗)
(以下は参考、「安東大将軍倭国王」の登場が増える)
421 倭王讃
478 倭王武
479 雄略天皇没
480 清寧天皇即位
ここの●の記事で高句麗が朝鮮半島の南まで勢力下においているということが判ります。一方、好大王のこと
は、★(三つ)のところの〈応神紀〉で反映されてるとみてよいから、広開土王碑を補足する行動の内容が
入れられてると思われます。〈記紀〉は碑文並に歴史資料として役に立つものといえます。好大王は●
の年から12年間の活動期間がありますので、かなりの勢力伸張・安定化対策の継続があったと見られる
ところです。最後の★
の部分は百済王子が倭(本庁)の仕事をやってて、本国にもどり、高句麗が本庁を固めて、413年ころに
役職を次々申請して名実で地歩を固めようとして、それに成功したといえるのではないかと思います。
いま400年ころのことをいってるわけで、高句麗が隋の煬帝と戦ったのは612年でこれより200年あとの
ことで、そういう実力が長期間蓄えられていたといえそうです。ここでいいたいことは、神功皇后は応神天皇の
母公ですから、好大王の親の世代にあたる人物に宛ててあると読めることです。こうなれば◆の突然の
挿入は何か、ということになりますが、まあ卑弥呼の死後、間なしですから、日本史で消息のない「台与」の
事蹟と取るのが自然です。すなわち神功皇后に二面性があるかも、というのも出てきます。一応おかしいのは
年表からの計算では
〈神功紀〉 39年 は 西暦366−7=359年▲
〈神功紀〉 40年 は 366−6=360
〈神功紀〉 43年 は 366−3=363
のはずですが、〈書紀〉では、
〈神功紀〉 39年 「魏志はいう。・・・・・明帝景初{二三九年▼}・・」
40年 「魏志はいう・・・正始{二四〇年}・・・
43年 「魏志はいう・・・正始四年倭王は・・・」
となっており、一番初めの邪馬台国の「239」「240」「243」をここでだしてきています。これは学者によって
わかりやすく解説されてないかんところです。
359 = 239 + 120
3/3 = 2/3 + 1/3
ですが、今知りたいのは広開土王碑(子息の建立)の主人公「●好大王」の全盛期西暦400年の〈書紀〉
での描き方は、神功皇后の一面でやろうとしたというのはわかりましたが、その位置づけが知りたい、
邪馬台国の239のような中国史の決め手がほしいところです。
400×2/3=266
で、これは◆266の人物を狙っていると見てよいものです。つまり、卑弥呼・壱与・台与王朝の後継者が
●Aのような動きをして王権を固めたといえます。日本というのが表面に出てないだけで、高句麗王朝の
うごきのバックにあるのではないか勘ぐられるところです。つまり今の日本はまとまりのない状態、大陸諸国に
くらべ、文明的に遅れ過ぎの地域という描かれ方になってる、この大きな島に目をつけない国が周囲に
あって助かったということになってるのとは違うのではないか、というのも出てきます。〈奥の細道〉では
{気比神社}のところ脚注で「豊姫命」がでて、「豊鍬入姫命」
も出てきました。これは崇神天皇の皇女(垂仁天皇の異母兄弟)ということでしたが、これは西暦でいえば
邪馬台国時代となるのかというのも引っかかるところです。
(237)神武天皇から仁徳天皇までを探ってみる。(からくり2)
空白の4世紀は400年も400年代もあると思いますが
垂仁天皇の年代は西暦で聞かれてもわからないということになっています。しかし今見てきたように
西暦は〈書紀〉の記者はもちろん現代の学者にも認識されてるものです。
カラクリはあるでしょうが余り難しいことはいってないはずで、一般の人にもわかってもらえる範囲内の
ところにあるのでしょう。数字はトータルで抑えてみようというのと細部細かくというのもあるので、気楽
に行かないと、けしからん、そらない、ばっかりでてきます。
天皇名 在位年数
@神武 76
Aすい靖 33
B安寧 38
Cい徳 34
D孝昭 83
E孝安 102
F孝霊 76
G孝元 57
H開化 60
I(応神) 41 小計600=A
西暦元年 −−−−−−−−−
A/3
神武A 25
すい靖A 11
安寧A 13
い徳A 11
孝昭A 28
孝安A 34
孝霊A 25
孝元A 19
開化A 20
(応神)A 14 小計200=B(実年数A/3)
−−−−−−−−−
I崇神 68 23
J垂仁 99 33
K景行 60 20
L成務 61 20
M仲哀 9 3 右小計100
N神功 69 23
O応神 41 14 右小計 37
P仁徳 87 87
小計 494 224 右小計224=C(実年数とP87は3倍)
−−−−−−−−−
Q履中以下倭の五王 421のスタート(年表による)
という経過表により421という西暦年数にいたります。ここにくれば合っているということになるという421
年というものです。これは、
B200+C224−3(MNの9の重複)=421
です。まあ八幡の応神というのがキーとなる人物というのがわかったので、その41をAに入れてちょうど600と
なるのでやってみたということです。高句麗の建国が一応西暦50年代であり、343年には
「343年 高句麗、前燕に入貢遼東帯方国王となる。」
「346年 百済成るといわれる。」
「369年 この頃日本が朝鮮半島南部任那を支配するといわれる。」
「378年 前秦が高句麗、新羅の入貢を受ける(新羅の初出)」
があり高句麗が百済・新羅に先んずること300年にもおよび且長い間実力を維持したのでこれが日本の
土台を作る期間としては十分のものといえます。任那を支配したという、ここの日本は大和武尊の日本
つまり高句麗の日本進出ととつながないと理解できないところです。
(238)紀元節
筆者は、西暦2000年に2600年式典をやるべきであったと思いますが、権威の決めた1940年に2600
年式典をやったというのは間違いとはいえないと思います。まあ時の史家がややこしくした結果がこうなった
といえます。これは紀元前660年に始点をおいたということですがこの60年の半端は、説明をを要するだけに
ウンザリするということです。西暦元年以後は実年数でなければならない、フリーの分が60年増えたという
ことはややこしいことになりそうです。したがって著者はこうしたかったいうのでみたのが上の表です。
ただ紀元2600年ああ一億の時来る、という歌詞は非常に優れた解説になっています。
A枠、紀元前600年(天皇10人、これが実数の3倍になっている)初代神武天皇
B枠、紀元後600×1/3=200年(上の天皇10人の再登場、在位は実数)初代神武天皇A
C枠、220年で421に達する
10代崇神天皇を、11代にしたいとすると 紀元前は開化まで559年で660にされたので101年下から上へ
もっていったとなるとすると、101年、下に補強が必要で、これが87+14の101になるのでしょう。持って行った
101は注目すべき、神功60と応神41の101ですが応神の41/3=14はもうBに入っているから、これは
単なる14で計算にいれるということです。この87が87×1/3でも利用されることもあるかもしれない、
まあ87×1/3=29は好大王の時代の始まり392+29=421というようなものがでてきたりします。しか
し、ここでは87が、そのまま残つてるから、そんなおかしいことはない、となってしまいますが、世の中いろんな
ことが起こるので、起こったことには対応するというものがないと真実に近づけないこともあります。
高句麗のエース好大王には、広開土王碑を建立した長寿王と呼ばれる子息がいてそれをネット記事で
みてたから使わないといけないと思うわけですが、なんと394〜491の97歳まで生きて、在位が19才(413)
即位の78年間という人物です。その78+9=87がここに出てるということもありえます。高句麗は「長寿王」
迄の王は
好大王の曽祖父 15代 美川王
|
祖父 16代 故国原王
|
父世代 17代 ■小獣林王――――18代 故国壌王
|
19代 ●好大王 (応神は16代)
|
20代 長寿王
となってて、■の人は仏教を積極的に取り入れた人のようですが、男の人だったとみれそうで、仁徳時代も
兄弟の譲り合いがあったので嫡男を立てたということがあったかも。本命の●は「女+子」だから、正統の
こととして
●好大王ーーーーーーーーーー長寿王
‖
◆好太王
があったとすると●の死後、自然の動きとして、長寿王が若すぎるので、◆が補佐して28歳で任せたというこ
とも考えられ、上の9年を下ろしてきて78+9=87とすれば、それを使えるということにもなります。そうかどう
かは別として、660にすることにより別の語りができるような数字のはめ込みも可能となってきます。とにかく
この王の時代に、万代に残る碑文が建立され、太安万侶らもこれを使用したのだから、単に先王の功業を
うたうというものだけでもない内容のものなのでしょう。宮本伊織は、これを意識して碑を建立したのは明らか
で、仁徳天皇の語りもしたのかもしれません。長寿というのが、弟というものの複雑さを語るものかも。筆者は
〈三国史記〉を読んでおらず、また読んでも咀嚼できないはずで、とやかくいえないので、太田牛一がどう言
ってるか、ということを拾っていくしかないのですが、それからいうと長寿オウという人の存在もありそうだ、とい
うのが、仁徳で出てきてるかな、という感じです。例えば、「仁」でいけば
仁徳、仁賢/光仁、円仁
というような前後の違いによるものがあるかも。この「87」はそれこそ六義ほどの役割を持つものでしょう。
(239)富士の噴火
紀元前600年に神武天皇を持ってきたとなると判りやすくなってしまいます。このころは周の時代で、
日本列島との関わりは呉越同舟の越国(紹興酒の紹興市)を通してあったのか後にここが倭の所在地に
なってます。その越王句践が紀元前600年ころ王位についているのでそれを反映したというのもあるかも。
BC206年には始皇帝が天下を統一していますので、このあと徐福が活躍しますがこれは孝霊天皇のとき
という計算になりそうです。甫庵が孝霊天皇を出してきていてこれが索引もれなので入れてみると
香坂又八郎/高山/上野7件/・・・/弘法大師(索引もれ)/孝霊天皇/・・・・
となって、孝霊天皇は「高山」(「こうざん」と読ませている)、「弘法大師」の続きになりますが、本文では
「無辺・・無辺・・無辺・・無辺・・出羽の羽黒山・・弘法大師・・・」〈甫庵信長記〉
があり、「羽」・「黒」と、「高」のなかに高野山・真言の「弘法」、「孝霊」がいます。甫庵は
「・・・富士山・・老翁・・・・人王七代孝霊天皇の時、此の山一夜に涌出せりなんど申し伝え候。
されば此の山の神は女体にて・・。・・昔宋朝の景廉(「シ」あり)が詩に、・・富士・・三州の間・・・」
〈甫庵信長記〉
で孝霊天皇を出してるわけですが、このとき富士山が噴火したかのようなことをいっています。ウイキぺデイ
アで確認すると紀元前2300年ごろに富士山の噴火があって、説明としては「御殿場泥流」だけが書かれて
います。その時の痕跡の一つがいまも御殿場に残っているということでしょうか。これはAで660年のなかでい
えば、いえば「(41+60)+60+57+76」=294から孝霊天皇なので年代は合ってるといえます。年表に
富士噴火を書いててくれたら、すぐに太田牛一のこの部分が出てきて、本節のからくりのことなどがもっとはやく
わかってきたことです。このあと
「遠く出でたる三保が崎、昔日(そのかみ)天乙女此所に天降りし・・・」〈甫庵信長記〉
があり、これは富士山周辺の
「・・大宮・・白糸の滝・・北条・・高国寺かちやうめん・・本巣(本栖湖)・・足高山・・富士河・・吹上の松
和歌の宮・・高国寺・葦原・三枚橋・かちやうめん・・清見が関・・」
など地名の羅列のあとにでてきます。「天つ乙女」→「天津乙女」で、「天降り・・」、「天孫降臨」、大宮の
「大宮所」にいたるところも、古い時代からの伝承の凄さもわかってくるところです。甫庵の除福の記事の出てるところ、脚注では、富士山
の火口のことが気にされています。この噴火の100年ぐらいあとに徐福が登場ということになるのでしょう。
(240)周の時代(からくり3)
紀元前600年神武天皇からスタートさせると、わかりやすいが、660年というほうが六百余年ということになる
し、559年もあるから、600年を挟んで100年の幅ができるから、おかしいことに一層、正確性が加わるという
ことだと取れます。神武天皇の「武」の前に、周の武王がいるので周もみておかないといけないところです。
戦国の武井の「武」にもつながるものです。慈円は周王朝は「37王867年」と書いており、これは
武王、太公望などの 西周12王と東周25王、計37王の867年
です。日本のでは神武〜成務13代、847年で約1/3となっており日本のほうが苦労してるのが、感じとれる
ところです。ウイキペデイアで確認すると、37王一つ一つについて期間と年数
が書いてあって合計が下記のとおりです。
西周12王 紀元前(1046〜771年) 275年
東周25王 紀元前(771〜256年) 515年
計37王 790年
となっています。王の37というのは、ピッタリですから、年数も合ってると思って書く気になったわけですが
在位年数の790年は 867−790=77 違います。これは調べるのは不可能といってもよいでしょう。
えらいところに足を突っ込んでしまいましたが、慈円が77の違いを意識しているかが問題です。慈円は
「神武天皇 七十六年{元年辛酉歳・・・・}・・・大和国橿原宮・・・●元年辛酉歳。・・・・又周世第十六
代主▲僖王三年相当云々。一説。周▼恵王十七辛酉以て之に当てる。此説吉と為す。・・」〈愚管抄〉
と書いており、16代▲はウイキペデイアの王名になくウイキペデイアの表では、16代のは難しい字の
王名が出ており、これを「難王」とすると
16代は▲でなく「難王」 681〜677
17代は▼「恵王」 676〜652
となっています。したがって神武天皇の紀元前660年は周の恵王の在位年数のなかにあり、辛酉661は
9年目に含まれることになっています。●は西暦元年しか考えられず、難王⇔僖王 で難王4年目が●で
677年ですから三年目は676年ということになります。難王の677は
○一つは直感的に17代の上にあり、77が慈円がふやしたものということがわかる。
○77は76+1で、76は神武天皇の在任期間である
○慈円の決めた867は 600+200+77−10
詳しいウイキのものは 600+200−10
ということなどで慈円は●は西暦元年の神武天皇Aというものがあるということをいうために、また
200/600×76
が実年数ということもいっています。実際は紀元前600即位でやりたかった、紀元2000年に2600年
式典をやるとわかりやすかったと思われます。中国史の中から慈円が、難王の677を僖王の77に振り替え
て西暦元年というのは考えすぎで、ちょっとおかしい、辛酉歳は661、も601もあり、(西暦)1年にくるとは
考えにくいということにはなりますが日本の学者もこれは認識しているものです。年表見ると
西暦 世界
1200年頃 この頃、周王朝が成立する(→B・C256)
・・・・ ・・・・
770年 周王朝都を洛陽に移し(東周)。●春秋時代始まる。(→B・C403)
・・・・ ・・・・・・・
221 秦が中国を統一し、秦王政は始皇帝と号する。(B・C206)」
があり突然登場の前1200年が、前に書いた1046に違いすぎることになります。これでいくと周王朝は
1200−256=944
となりわけのわからないものが出てきます。これは867+77=944です。つまり
ウイキのもの790+77=慈円のもの(867)=年表のもの944−77
つまり (790+944)/2=867 でみな慈円のものに合わそ、といってるようです。年表は、
1200−1046=154=77×2
を繰り上げた、ということです。一つでいいのに。 77一つだと、 1123−256=867
でうまく収まります。ウイキのいう790年が少なすぎので、1200年まで延ばしたともとれます。ここに403年
という、ややこしくなるものを出してきたというのも気になるところです。B・C403は戦国時代
のはじまりとしてもでています。すると春秋時代というのが周時代のなかに入ってるということです。(年表
だけ見てると東周時代=春秋時代と取れる)
ウイキの細かい王の在任期間の表から、これは下記安王の時代4年の3年目が403ということになりそう
です。(直感的には、400も気になった、403はを400をも言ったと取れます。すなわち「春秋」というのが
美しい名前で、物語的です。現に呉越同舟の越王句践の登場する呉越楚がでてくる)。訳(約)すると
770−403=367 東周時代 403−256=147 東周春秋時代 147以後が戦国時代
となるのでしょう。従って慈円のいう867はこの367に500を足してだしたといえるかも。
紀元前のこと
1200年 (年表の)周のはじまり
1046 ウイキの周のはじまり(武王・太公望の西周)
770 西周の周の終わり、東周、平王771からはじまる
677 難王
660 恵王の在位期間の660年目
600 定王の600年目 (越王の600年即位を書いてるものもある)
403 安王 (春秋の始まり?)
300ころ 富士山噴火
256 周のおわり(春秋の終わり)
206 秦王政始皇帝と号す
このあと 徐福山東へ
37 高句麗の建国
紀元後 −−−−−−−−−−−
25 僖王25(神武元年) 77(76)/3=25
のようなことになります。このあと紀元後は1/3の計算で239年は景行の初めとなりそうです。
一応、三倍増しの神武天皇はのちの倭朝の始まりというヒントで、実体的な紀元後の神武は高句麗の建国
後ということでボンヤリと高句麗王朝を指しているといえます。正式な大和駐屯は箸墓古墳の主あたりにから
となるのではないかと思われます。
77というのは西周終わり紀元前770年の一割からきており、これが神武天皇の在位76年と近いというのは
関係ない、偶々近かっただけだ、詭弁も甚だしいということは一見合っていそうです。西周は紀元前770
に終わったというのは、それだけでは終わらず、慈円は勘違いを起こしやすい、もう一つの数字を利用しま
した。西周はじめ前1046、武王即位から、春秋おわり256までの王の在位期間計790年(1046−256)
という数字があって、やってたらややこして仕様がないわけで、単なる期間と在位という、数字のちゃん
ぽんを計算式の整合でつないでしまってます。先ほどの
367(770−406)+500=867、 1046+77−256=867
が、そういうことで、期間と在位期間を根拠にして派生した数字が入りこんで合ってるということになります。
この500は256×2だろうから256一回だけが意味ある数字で367プラス250=617で、
一応紀元前600年にしたい神武天皇は中国の東周を睨みながら構成したということになるといえそうです。
770−77=693=700 を初めにしてもよく、干支一回り60×11代天皇 660年をはじめにしてもよい
かもしれないが計算しやすく、わかりやすく説明できるのはピッタリ600です
○(東周515年{在位平均20}+693年)÷2=604=600
○天皇在位20×三倍×10代天皇=600
ということなどからも600年という基軸の数字を無から生み出した、のが工夫のあるところです。
しかし現実はこうは動かない、600年前後(660と559)という曖昧さを使って日本史のスター
トをここに置いたということは、ピタリよりもかえって正確ということになります。〈記紀〉の編者がこのあたり
紀元前6・7世紀ころに変化について何らかの評価をあたえたということになるのでしょう。まあ一言でいえば
縄文から弥生への変動という耳慣れた言いようがあり、これは年表でも土器と稲作のことが書いてあり、それが
念頭にありそうです。
ただ太安万侶などは、そういうものでは捉えておらず、周春秋時代にかなりの組織的な人の移動(入植など)
があったとかいうことに視点を置いたとも考えられます。つまり記者が政治家であり、行政官であったから、その
眼でみてそうだということです。日本列島ではこのころから分散した差のある縄文色の集落が、そとから入り
こんできた勢力によって(王の出現)まとまっていくという時代、そういうのを弥生とよぶならば、それでいいと
思いますが、稲作、土器の変化などもそれによって促進される、すなわち政治的な動きの変化がみられたこと
に歴史家の評価があったと取れるところです。文献をすてたから物件にシフトされてた、縄文から弥生というのは
原始時代で古いことのようですが記録のあった周王朝の範囲内のできごとです。
(241)甍(いらか)の波、と雲の波
曖昧さというのは、表現として、「余」とか「計(ばかり)」「不及(足)」がありますが一方で「ぴったり」がありま
す。太田牛一では例えば、〈信長公記〉
「(桶狭間今川の)★四万五千の大軍」「松井一門一党★弐百人枕を並べて討死。」
「正徳寺(聖徳寺)・・七・八百甍を並べ・・三間間中柄の朱やり五百本ばかり、弓鉄砲(火篇)★五百
挺もたせられ・・」
の、三つの★の数はピッタリで、弓鉄砲は弓と鉄砲合わせてではなくて「弓」はカムフラージュだから
ピッタリとなってるのでしょう。松井の弐百は「ばかり」は余分で、ピッタリ、で迫力がでてる、「弐」としたのは
そのためといえます。「(枕を)並べ」が「甍(いらか)の「並べ」に飛んでこの「七・八百」はピッタリのアバウト
です。なぜこうしたかということがひっかかります。この一節は
「富田と申す所は在家(脚注=人家)七百間これあり。」「古老の者七・八百・・正徳寺・・に並び・・」
があり「七百間」もピッタリがでてるし、「七・八百」ももう一回出ています。間=軒ですが間としたのは「三間
間中の「間」に繋いだのでしょうが「間(けん)」という長さもあるかも。そんな細かいこといらないのでは、と
なりそうですがゆずれないものがなにかあるかもしれず行くつくところまでいくのがよいようです。
(七百+八百)/2=750となりますので先ほどの「250」の3倍というものがでてきます。
年表で1200年がが周のはじまりで400年が春秋のぞく周のおわりで1200/3=400というのもだされて
います。45000/3=15000でピッタリのものは割り算の可能性が生まれます。これは今川の動員可能
45000、桶狭間動員、15000という見当を出すのでよいはずです。織田は生の数字で1000と2000
とでましたから3000でよく、今川の1/5のもが出てくるので、まあ兵数の確定がこれでされてもよいという
のがいわれてそうです。それが日本史の始期の工夫から見てるものでもあります。
紀元前の年数/3=紀元後の年数相当
というのがありました。神武天皇127まで生きたというのですが、明治以後研究し尽くされたはずなのに
理由がわかってないというのだから、歴史というものに嫌気がさすものです。とにかく
750/3=250→八百/3
がここででました。この七八百甍がもう一回出てきます。文庫1ページの短い一節の終わり
「・・三郎五郎・・三郎五郎・・三郎五郎・・三郎五郎・・三郎五郎・・三郎五郎・・一仁(いちにん)・・
覚(おぼえ)の侍衆七・八百甍を並べ御座候の間・・・一度も不覚これなし。」〈信長公記〉
で出ています。「八百」が日本の古典の要所に出てきて話題を提供してきました。天照大神、「天の岩戸」
(「天の磐戸」もある)のくだりなどで
「八百万の神」〈古事記〉 「八十万の神」〈日本書紀〉
が集うことになります。これは欧米の一神教、日本の多神教などの話題の材料にも使われたりしますが、
ほなら、一割になってるのもあるのは何故やということもいわないといけないでしょう。「八十氏河」というのが
あるから氏神なら80くらいかもしれず、それなら族の人にとっては一神で、部族連合度がつよい国邑というの
かもしれませんが、とにかくこの880万がよくわからいから教えてほしいところです。この甍については脚注
があって
「本来は建物の立ち並ぶこと。ここでは有力な部下が城下に集住していること。転じて部下が多数
肩を並べいることであろう。」
となっています。「並木」の「並」(なみ)が出てきましたが、建物・部下が「多数」が、並んだ状態ということ
で「部下」「仁」もあるから今で言う男性の集団で、強いの強くないの、物凄くい強い集団ですが建物多数
が人「多数」に転換されています。肩を並べるというのは団体で多少同質性がありカウントを前提とする
状態にもあります。ここでとにかく「数」が出ました。また「集住」で「集う」というのがでました。これは
「八百万の神、天の安原の河原に、神集(つど)ひ集ひて」「八百万の神を集へ集へて」〈古事記〉
があるから、関係ないといいたいかもしれないが、どうしても、八百=八百万は脚注書いた人の脳裏に
あるものでしょう。つまり880万の神は
八百八十万/3=3百万=当時の日本国邑の総人口
というのではないか思われます。太安万侶等が史書を書き上げた当時とみてよいかもしれないが
総人口が書いてある史書とそうでない史書との間には信頼度という点では雲泥の差があるでしょう。
頼りないことにしとけ、という立場では、それはお前の説だ、ということで終わればしまいですが、そうでは
なく太田和泉守の説だということです。三郎五郎の省いた「・・・」のところ、脚注の「数」というのに追随して
見直してみると
「上総介殿別腹の御舎兄(三郎五郎殿)・・・美濃国・・・人数出され・・・美濃衆・・・いたり人数を詰
(つめ)候・・・町人・・惣・・・城戸(脚注=木戸)・・・御人数・・・人数打ふるひ・・美濃衆・」〈信長公記〉
があり、「人数」が四つも出ています。「美濃国」−「美濃衆」「美濃衆」が出て「国」−人数(衆)というのも
あります。また「町人」に脚注があって
「町に住む商人と町人。中世では町と農村との境界が不明で・町に農民も混在している。」
となってて「住」は「集住」があり、町の人数=商人+農民+(町人−農民)で侍衆も出てきてます。
町人−農民=「工人」とすると職業別(人数)というものが出ていそうです。「士農工商」は〈甫庵信長記〉
に出てたような気がしますが、学校では身分制度の説明でこれが持ち出され、商人が一番蔑まれた
、歓迎しない、階層で一番最後ということで説明されてきました。が、ここでは一番先になっています。「工」
というのが雑多だから本来は最後になるはずを前にもってきたという程度のものかも。それは別として国の
庶民の生業なども包摂した感覚が、総人口をいってるということにもなりえます。芭蕉では
年や人にとられていつも若夷(えびす)〈詞林金玉集〉
京は●九万九千(くまんくせん)群集(くんじゆ)の花見かな〈詞林金玉集〉
が同時期、同集で〈芭蕉全句〉では並びとなっています。「若夷」は「紙に書いた恵比須像」で、新春の京
では人々はそれを買い求めて戸口に貼ったりしたものです。この言篇の「詞」というのも働いていそうです。
●は西鶴では京は「九万八千」家、で「山乃井」にも
京や九万八千年のかどの松 常倫
しら川や月も充満八千家 季吟
などがあるので「この数を九万九千とかえ、その“九千群集”を“貴賤群集(きせんくんじゆ)”に言いかけ」
と書かれてあるのは、99/3と割り切れるように、8を9にかえ、8をかえないなら108/3と割り切れるように
9をかえる、のようなことをしたらおかしいが、あの800万、880万にはそういう先駆があるというのでしょう。
800万は土着の人の数の元数、80万は外来の貴族層ということではないかと思っていましたが根拠
がなくて、ここの「貴賤」をちょっと借りたいところです。この10万はあきらかに京都の人家の数をあらわして
いるでしょう。一軒あたりの人数で人口が推定できるということになります。史書がわからないように人口という
ものを書き残していたとすれば後世へのリーダーに残そうとしていたことになります。書き手は史家という
ような存在ではなく、行政の長というべき立場にいた面々ということになります。司馬遷や魏志倭人伝の
記者もそうといえるのでしょう。太安万侶も、慈円も、太田牛一も仮名です。しかし人に「神」という語を
あてたのは、示唆に富むことのように思われます。うまく人口を隠したということ以上に。「七・八百甍」
「甍(いらか)の波は雲の波 重なる波の中空(なかぞら)に 橘(たちばな)薫香る朝風に 高く泳ぐや鯉幟」
(242)「和をもって貴となす」
とにかく300万人を生かさないといけない、命を守るという言いかたでいいわけですが、食べ物の確保と
域外地域との平和が眼目です。これは蘇我稲目大臣のときの宣化天皇の詔、
「はるかに凶(作)の年に備え、外国の大事な客を饗した。国を安んずる方法はこれ以上ものはない」
があります。これは述べ方が特異で言ってることがつかみ難いところがありますが、食と外国が出てる
ので眼目二つと言えます。一方で食糧確保は「備蓄」(「蔵」「倉」「屯倉」などがよく出てくる)が強調されて
いて備蓄するために外国からの食糧輸入によることがあったようで、そのために外国を大事にするという
ことも言ってるようにも取れます、これは別のことも同時に述べてるのでちょっと戸惑うところです。これは日本
列島政府が日本列島以外の国を外国と呼んでるはずで、食糧は
「遠近の国が朝貢してくる・・・・海外の国は・・・やって来て賓客となり天雲の様子を望んで貢上する。」
とあり意味がよくわからないのですが、高句麗の権威をバックにした政府というのがあったという感じです。
年表では 「596、聖徳太子、・・葛城王と伊予温泉・・・碑を建立・・」
600年、(聖徳太子摂政のとき)日本出兵して新羅を降伏させる〈紀〉。この年、倭王
隋都大興(長安)に使を派遣(初めての遣随使)〈隋倭〉」
があり、596は蘇我稲目没後、27年目で、この聖徳太子は(厩戸豊聡耳皇子)で馬耳東風の「東」「耳」の
人ですが、596には今の日本にいます。新羅を降伏させるというほどの力はどこから得たのか問題です。本国
に王がいてその皇子が日本にいて、というカムフラージュがあったとすると、かなり説明がしやすくなりま
す。隋が高句麗遠征をやったのは598年で、612年の二代目煬帝による大遠征まで、かなりの期間が
あり600年の遣隋使というのは、一応高句麗の屈服という感じですが、屈服というイメージを避けるため
今の日本の名で出したということではなくて、ここに倭王と書いていますから、倭朝が遣隋使を出した、
高句麗の王はその倭朝を牛耳っているような関係だったと思われます。この旧の聖徳太子は高句麗王家
の外戚というような関係にある人で、聖徳太子を通して高句麗の政治情勢を述べたというのが〈書紀〉の
語りといえそうです。この旧聖徳太子は男性で、官位12階、17条憲法を書いた人で「和っをもって貴となす」
で知られています。これは「和」は「倭」で、「倭朝」を尊重するという方針をいったものででしょう。嫉妬のことを
いってることも有名ですが、これは当時の社会制度に起因する(義理の関係が発生しやすい)ことで特別に
付け加えたものと思われます。もちろん一般の人向けに焼きなおすに耐えるものだったから今日もよく
引用され両方に懸かっているといえるとも思いますが、実効が生ずる、具体的なことを言ったのでなければ
取り上げられなかったと思います。
(243)属性語句
先ほど「若夷」の句が出て「京は九万九千群集{くまんくせんくんじゆ)の花見かな」〈夜の錦〉
がでました。「つくもがみ」=「九十九」もあり「九」=「丸」、「九」=(く)=「句」などで「九」も、この北国の
属性語句ですここで、群集も出てお互いに働きかけてるといえます。
「群集」の群は「平群」の群で「君」+「羊」で、羊は、「羊」=つの=「牛」ということでもあり、「つの」→
「角」→「隅」→「隈」→「九万」ともいきます。すると「羊蹄山」があるから、羊=(蹄)(樋爪)=馬 でもあ
ります。「群馬」は十二支の馬と羊が入っているが平群の「群」がそのまま残っています。明治に県名
として残ったのは、意のあるところかも。ウィキなどによる知識によれば、群馬は
「車(くるま)」→「群馬」 車評(くるまのこおり)→「群馬郡」
となったということです。「車」が藤原京の木簡で出てきたようで、これで確実性も上がります。これで説明
終わりとなりそうですが、古い国郡名にはなくて「上野(こうずけ)」の内になります。
「毛野国」(毛の国)、「上州」「上毛」
もあり、いまも県内に「中毛」「西毛」「北毛」「東毛」(「南毛」はなさそう)という地域があります。木簡のものは
700年はじめごろの時代のもので、「平群」登場は450年くらいで、そこから「車」に至るものが、高句麗抜き
とは考えにくく、車騎、馬車などから、「車」また
平群(ぐり)→平栗→栗(くる)栖→(車)馬 来馬−(くるま)←車
があって「車郡」の長官というのも出てきたと思われます。「平群」変じて、今の「群馬」ということが「群」の
共用で自然です。芭蕉は「群(ぐん)集」を「群(くん)(じゅ)」としてますから濁点移動させてます。「ぐり」
→「くり・くり」として、あの「栗」を浮き出させたといえそうですが高句麗で何となく親しみを感じさせるの
は「くり」という読みが面白く、クリクリした目の坊や、イガグリ頭とかのクリ、ポンとはぜるクリ、どんぐりコロコロ
の「クリクリ」もあり、太田牛一ころみつのコロコロを使ったのかもと思ってもみました。こらちゃうと思ってやめ
ましたがどんぐり目というのがおもしろく、これはヒョットして「活目(いくめ)天皇」(垂仁天皇)の珍妙な名前を
気にしたのかも。太田牛一も「目」を生かした語りがでてきますが、この「栗」は高句麗の「クリ」から、「平群」
の「ぐり」−「クリ」から出るはずです。「高クリ」−「高栗」−「小(こ)栗」というのはありえて、太田牛一も東国で
お行 「小栗二右衛門」(考証名「小栗吉忠」)〈信長公記〉
お行 「小栗仁右衛門尉」「小栗又一郎」「小栗(某)」〈甫庵信長記〉
を出してきます。「安部二(仁)右衛門」がありますから、「安東」地域「安部」−(二右衛門)−「小栗」となっ
ています。「小瀬三右衛門尉」〈甫庵信長記〉などの「小瀬」は「こ行」に入っているので「小栗/小瀬」の
並びは可能で、「瀬」は芭蕉では「高瀬」があり、「瀬」→「頼」→(らい)←「莱・来」→(くる)→「小栗」ですが
「某」
が出てきました。これは「其」も出ますが「坊」があると思われます。
「津田坊」「杉の坊」「杉谷善住坊」〈信長公記〉
などがありますが、「杉」は木に三で三木ですが、芭蕉では丸毛(茂)につながる東国の杉として
「雲を根に富士は杉なりの茂りかな」〈続連珠〉
があります、ついでにもう一つ
「城主の君、日光御代参・・・岡田氏某(なにがし)に寄す
篠(ささ)の露袴(はかま)にかけし茂りかな」〈後の旅〉
もあり、「某」が出てきます。これは「岡田治左衛門、俳号千川・・・宮崎荊口の二男、此筋(しきん)の弟。」
となっています。「弟」で雰囲気として男性のようです。ささはしのでもあると書かれてあり長篠の「篠」でも
あります。呑栗がコロコロところがると「坊ちゃん」が出てきます。これは、夏目漱石のアレが、人口に膾炙し
たものですから、学のある人はこれかもしれないと思う人もあるのは当然ともいえます。筆者は、かわいい坊
や、という意味で歌ってきました。ただ芭蕉をみると
「三十日(みそか)月なし千年の杉を抱く嵐(あらし)」〈野ざらし紀行〉
「煤掃きは杉の木の間の嵐かな〈己が光〉
「嵐山藪の茂りや風の筋」〈嵯峨日記〉
があって、「杉山杉(山)風」の名前からも窺えるように、「山嵐」(やまあらし)が出てきており、ここで「茂る」の
出てる句の季語は夏であり、どんぐり目もあり、「夏」「目」も出てくるとなると、それもそやなあ、とふらふらとし
て、いるところです。そらおかしい、棗漱石なんか明治じゃないか、となるところですが湯浅常
山は、身方が原敗戦で、戦死した徳川の
「●夏目次郎左衛門(長右衛門)信吉」) 索引、上93 下190
を出しています。第三者は湯浅常山も読んでいますから、また夏目の戦死は有名ですから、渾然としたもの
醸成されるのでしかたがないことです。この下190は間違いで192頁にあります。これは表題が「夏目氏」、
中身が「長右衛門」と
なっており、戦死を悼む記事になっていますが大猷院(徳川家光とされる)と出てきます。
「・・夏目氏の忠死・・の事・・・箕形原・・浜松・・秋山・・黒鹿毛の馬・・再拝(さいはい)を腰にさし・・
夏目長右衛門・・大猷院様・・・大猷院様・・」〈常山奇談〉
があり、箕形原(みかたがはら)が2件出てきて、これは先ほどの「某」というものの意識があると思いますが、
「酋+犬」がでてきます。泥鰌(どじょう)篇ともいうべきものでは、「猶」という接頭字がよく出てきます。
ここは接頭語(「真っ昼間」というような)ものがよく出てきて
「御ン馬廻」「御ン討死」「御ン馬」「御ン退き」「御ン馬の口」「御ン詞」「御ン時」「御ン悦」「御ン命」
ですが、今に生きていそうです。高句麗の影響をあげたのかどうか。「八場(やンば)」という地名もそうかも。
●は親子の存在がありそうですが、湯浅常山の著述ともなれば、あの安土城の建造と本能寺変後の安土
城で出てくる(木村)の「次郎左衛門」想起でよいのでしょう。同じく味方原で戦死した徳川の
「成瀬藤蔵」〈信長公記〉 (「成瀬正義」:「三河足助荘成瀬郷出身。三方原役戦死。」)
があり「三」「三」「成」がでていますが、これは別として索引では
鯰江又一郎(「愛東村鯰江」)/成田助四郎/成田弥六/鳴海助右衛門/成瀬藤蔵
となっており、「成」−(「鳴」)−「成」というのが出てるのが目に付くところで鳴海ー海鳴もあるとともに
「なる神」〈信長公記〉 があるから「鳴神」−「神鳴」があり「神鳴」−「雷」がありえます。「雷」は多くを
呼び出し、パソコン内臓の漢字のなかにも
「らい」=「雷」「来」「頼」「來」「禮」「瀬」「■莱」「礼」
が入ってて「瀬」と■の予想外のもがあるのがありがたく、瀬は雄略天皇の泊瀬初瀬朝倉の瀬だから
瀬→■(蓬莱の莱)がありえます。春秋時代の地図(〈漢語辞典〉大修館)では今の山東半島は
「莱夷」
とかかれており、このあと始皇帝の統一があったから、あの方向の統治ををどうするか、という「□□」作戦
(司馬遷も事実も書かねばならないが、具体的には伏せるというのがあるはず)の一字がありうるとも考えられると
ころです。「なる神」は太田牛一ではヒラいているので「成神」「成神」も考えられるところで、こうなると
「神と(を)なす」があるのか聞いたことも余りないので使用されなかったとも取れますが
「叡山・・野田福島・・朝倉・・・・野田・福島・・逢坂・・越北衆・・つほ笠山・・山門・・御金打なされ其上
御朱印を成(ルビ=なし)遣はされ・・根本中堂三王廿一社初め・・行躰(なりふり)・・朝倉・・」〈信長公記〉
の「成し」があり「神を人になす」から人口などが出せたのでしょう。
上の「成瀬藤蔵」〈信長公記〉は注では成瀬正義で出てきて戦死となっています。常山も出していますが
〈常山奇談〉の索引は「成瀬正成」が出ていて二件でています。
@「成瀬正成忠信」の事」で「・・黒き馬の太くたくましき・・・・成瀬小吉・・小吉正成後隼人正・・・」
A「安藤直治紀州打ちの刀を成瀬正成に贈られし事」
で「成瀬/小吉・正成・隼人正・忠信」が出て、成瀬と夏目は武田信玄相手の戦いで戦死しましたから概ね
同場面で出てきます。同場面というと、苗字だけに(ひらかなルビ)が付いてる次の4人ずれ
「・・。成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、嶋田治兵衛歩(かち)だちにて・・」〈常山奇談〉
も三方原で出てきます。名前の方はどこかで役目があるのでしょうが、この「成瀬」の「吉」は
常山の夏目の表記
「夏目信吉」「★夏目吉信(よしのぶ)」
の「吉」ですから、「成瀬」(小吉もある)の親族かという感じがしますので、一応は成瀬を語るための、
表記と考えられます。夏目にしても、ノートに★と、「信吉」と二つ書いてあってほってたら、いざのときに
★しか確認できませんので、また出直しますが太田牛一は「夏目」を書いてませんので、成瀬の語りが
大きいだけに、「夏目」は補助表記とみたいということです。漱石は常山を見てるから、
先祖ではないかもしれないが、親しみがわくとか、印象に残ったということはありえます。「日下部」はひよっとして
〈古事記〉序文の「姓の日下(くさか)」を踏まえるかも。「兵」は「小栗」に、嶋の「治」は「安藤(東)の「治」
に掛かりそうといえるのも、「夏目」の語りが広がっていくからともいえます。
(244)虚空
「目」は「木」「来」になって古代
の日本に広がりますが、「夏」が平泉の
「夏草や兵どもの夢の跡」
の「兵」「草」にかかり、
「蜻蛉やとりつきかねし草(草の葉先)の上」〈笈日記〉
「三尺の山も嵐の木の葉かな〈己が光〉
「夏来てもただ一つ葉の一葉(ひとは)かな〈笈日記〉
夏−「茂り」−「葉」−「やまあらし」もあり、夏目の目は、常山が
「・・・足高山・・・高国寺、、、かちようめん・天神川・・・・神原・・・清見・・・三ほの松原や羽衣の松・・
長閑・・久能の松・・あべ川・・・武田信玄・・山崎・・●とう目の虚空蔵・・。・・瀬戸・・瀬戸・・嶋田の
町・・・鍛冶の在所・・」〈信長公記〉
の「虚空蔵」の「とう目」に向いていたので、出てきたともいえます。脚注では●とう目は
「堂目。山崎は焼津市浜当日あたりの古称。ここの海岸に虚空蔵菩薩を祀る旧詞がある。」
があり「堂」は「東堂」・「堂洞・・・鍛冶の在所関」〈信長公記〉があるので、藤堂も出てきます。この虚空は
〈万葉集〉旺文社(桜井満訳注)の「そらみつ大和」の解説によれば
『「そらみつ」はヤマトの枕詞であるが語義未詳。〈書紀〉神武天皇・・・条に「にぎはやひのみこと
天磐船に乗りて、大空を翔行きて、この郷(くに)を睨(おせ)降(あまくだ)りたまふに至りて、故(か
れ)、よりて目(なづ)けて「虚空( そら )見( み)つ日本(やまと)の国」と曰ふ。」・・・人麻呂は
これを受けてか、あるいは「天に満つ」と理解してか「ソラニミツ」と五音にして用いている。』
となっていて未詳にしようという意思の元に、判っている解説がされています。ここでは満州の「満」がでてます
よということだけの引用ですが、芭蕉がソラを同道して〈奥の細道〉を著わした遠謀がでています。あきつ
島というのも〈万葉集〉では「安吉豆之万」であり、仁徳紀歌謡では「阿企菟辞摩」で、この「菟」は履中期の
「平群竹宿禰」〈愚管抄〉→「平群木菟(へぐりのつく)宿禰」〈書紀〉
という安東地区の属性語句といえます。太田牛一はもっと簡単で、秋田城介(出羽介)三位中将織田
信忠の「秋田」−「羽毛」で日本とされる秋津島も東北地域という一面を出しています。桜井満氏は
「アキは収穫の意、ツは格助詞、シマは国土である。収穫の豊かな国土であれと呪する枕詞。本来
収穫の豊かな国土であれば生まれない・・・神武紀・・・蜻蛉(あきつ)のトナメごとくにあるかな、と
のたまふ。是によりて秋津洲の号(な)あり、・・特に実りの季節に群飛する赤トンボは「精霊やんま」
「稲(いな)さ験者(げんざ)」「田の神とんぼ」などと呼ばれており、アキツシマと結びついたのであろう。」
と書かれており、通説はどうなっているのかしりたいところです。「赤トンボ」でないといけないといってる
ようで、その赤も、アキつ国土、に結びつくということは、平氏の旗の赤が「明つ国土」「空つ国土」に加わる
といってる、となりそうです。要は「赤トンボ」は福島西部で「田の神とんぼ」といわれており、神武天皇
は稲刈時の情景を思い浮かべて赤トンボといったといえます。すると今どの本にも出ている、、トンボのある
瞬間の形が日本列島に似ているからというのはちょっと皮相だけが取られた感じです。赤=田の神に対応
するというのが
一つあるにしても、政治家なので、赤トンボの総体から語るものもあるはずです。赤とんぼから受けるものが
「赤い翅」と「細長い胴(丸くもなる)」と「目(眼)」が、構成要素になってるとすると、神武天皇は一瞬に
蜻蛉からと自分の国土を捉えて語ったということになります。トンボの複眼の「目」が忘れられそうなので
太田牛一が付け加えたと思われるのが先ほどの「とう目の虚空蔵」と思われます。「とう目」−脚注の「堂目」
は「瞠目(目をみはる)」もあり、「目」は「耳目」の「目」もあります。
(245)山梨
先ほど出た「御朱印を成(なし)」でいえば「耳成(みみなし)山」が使用例でもあります。厩戸の聖徳太子
(皇子)の出てくる〈書紀〉推古天皇条に
「皇太子・・斑鳩に宮室・・天皇は耳梨の行宮(かりみや)・・来目(くめ)皇子を新羅を撃つ将軍とした。」
があり「耳梨」という地名が出てます。今「山梨県」がありますが、これはやはり「山成(県)」が当時の県
令等の頭にあったと思われます。今はない「山梨県巨摩郡」があり、「栗原郷」「天狗沢」などの名が残っています
す。この「巨摩」は「高麗」でしょう。いまの「北杜市」の「杜」も「やまなし」(果物の名)ですがこれは「杜(もり)
の都」という「杜」=(もり)=「森」でもありますが、「杜」は「杜甫」という格別な大物がいますので、ここから
みると、芭蕉の句
老杜を憶ふ(解説:「老杜は杜甫のこと。大杜ともいい、小杜(杜牧)と区別する」)
髭(ひげ)風(かぜ)を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ〈虚栗〉
があり、これは〈虚栗〉だから、虚空(そら)の栗、で高栗に結びついています。解説では
「季語は暮秋で、・・多分に・・・道具立として扱われている。」
となってます。あの安東大将軍の根拠地の秋田が入ってるか、と聞かれると戸惑うわけですが、その秋と
というしかない(秋は道具立て)ようです。「北杜」という市は「こま郡」の代わりですといえばよいのでしょう。
この句に「倒装法」というのが取り入れられており、はじめの五は
「風髭を吹いて」
が合ってるようで、日本語にもなっています。「髭風」という「風」を作ったなら
「風髭が吹いて・・」
が日本語になりそうです。杜甫に「秋興八首」というのがあって、そこの
「香稲啄余鸚鵡粒、碧梧棲老鳳凰枝」
という文についてこれがあるということですが
読み下してみると@になりますが、Aに変えんと意味がわからないということです。
@「香稲啄(ついばみ)鸚鵡の粒を余す、碧梧棲み鳳凰の枝老ゆ」
A「鸚鵡 香稲 鳳凰 碧梧 」
髭風というのはなんとなく寒冷地に居住している人の、常態の風を感じますが鳥と、稲の組み合わせも出た
ので、「吹く」−「杉」−「福」と、「誰」の「言」篇などが出てきています。「碧」は南化和尚の〈江州安土記〉
「葛原の帝王、的々の令孫平清盛廿一代・・・高堂の碧虚(脚注=青空)・・・野老(杜甫の号)・・
八蛮辮(くろがみ)(脚注=アジア北方民族の習俗)・・・言端・・言語・・・」〈甫庵信長記〉
にあり、平清盛⇔高句麗の虚空(そら)が出ていそうです。まあ桓武天皇という「武」王の末だからでしょう。
@(ついばみ)の「啄」は「木啄」(きつつき)に使われていますがこれは
「啄木」の倒装かも。「河東碧梧桐」もあって「高浜虚子」もある・・・これは東と高が出されたのかどうかは
別として、〈信長公記〉に「東八でう敷、桐に鳳凰・・・」(安土城の絵)があり脚注では
「想像上の瑞鳥。梧桐に棲み、竹実を食し、レイ泉の水を呑む。」
となっており、ここでは「碧梧」ではなくて「梧桐」です。そやから、もう「碧梧桐」としとけば間違いないと思ったと
取れるところです。俳諧は〈奥の細道〉では両方「言」篇となっているので、俳人となればこの辺のことは
気になっているし、長篠の鳳来にも、南化和尚の鳳凰瑞にも、この鳳凰は及んでいるはずです。
(246)小瀬甫庵=高山
「杜甫」は「甫庵」の「甫」を伴うので太田
牛一のものを見るとき、どこででも効いてきそうで一つの目障りとなっています。小瀬甫庵はテキストでは
「・・長大夫・・・甫庵は号で、尾張春日井郡の人(また上野の人)と伝える。」
があり、「高山右近」(太田牛一の養子)ではないかといってきています。甫庵の索引では「こ行」で
高山/上野紀伊守/上野中務大輔/●上野/上野中務大輔清信/(同)佐渡守)/上野兵部少輔/・
となっており、高山→●がヒットして、「上野の人」、群馬の「上野」、も出てきます。松江城の縄張りもし
てるから高山右近は甫庵もありうるというのがやはり出てきます。あとどう説明するかという問題が残りま
すが、「杜牧」も「甫庵」に引っ付くでしょうから、
「牧庵」〈信長公記〉
(索引では 北条/坊城式部少輔→東城坊盛長/★祝弥三郎→祝(はふり)重正/牧庵/保科正直
も作られることになるのでしょう。安土城の絵に「駒の牧」〈信長公記〉もあるから「高麗の牧」も出ることに
なります。騎馬民族の血を引いてると「牧」はありえます。一方「(真木)村」があります。索引で★が
「はふり」なのにここに挿入されています。北条が「氏政・氏直」が出ておりこれは関東の雄という面がある
(「氏」も出てる)、一方で、政・直を出してる、それは後ろの「正・直」でも受けているといえます。
「牧庵」が、夕庵(直)・牛一(政・正)として出された、上総介殿が女装(天人となって)おどりをしたとき、
「鷺になられ候」の「祝(はふり)弥三郎@」
は、太田和泉守(この場合は別名の明智日向守の方がよい)と
なりそうです。これは「一段似相ひ申すとなり。」があり、この「段」は「長篠」にあり、越前で人名の羅列があり
「朝倉治部少輔・朝倉掃部助・◆三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・・・・」〈信長公記〉
の◆が、朝倉の中にスッポリと包まれて出てきます。越前であり、雄略天皇の泊瀬朝倉宮の「朝倉をバックに
しており、513年頃の五経博士の「段楊爾」の「段」でもあり、古代を語る人名でしょう。索引では
三介信雄→織田信雄/三蔵 「能楽師」/三段崎六郎(朝)/三位中将信忠卿→織田信忠
となって秋田城介が出てきてますから、あの安東が意識にあり、後ろの「安芸」(「毛利元就」の本拠)に
及びます。「三蔵」は「能楽師」だから、あの孫悟空の「三蔵法師」「玄奘三蔵」とはちがいますが、
「三」は「平田三位」「平田和泉・・三条吉則」の「三」、長篠の「段」−「三段」打ち「三段」の「三」、三位
中将秋田の「三」、伊勢国司、北畠養子の「三介」の「三」など安東につながる「三」を出し、「蔵」は
「能」の「大蔵」「地蔵 織田太郎左衛門」「地蔵坊」「倉・鞍・庫・蔵(くら)」
でもあります。
「文禄二年・・御能之次第・・大蔵六・・大蔵亀蔵・・大蔵平蔵・・大蔵平蔵・・大蔵亀蔵・・大蔵亀蔵・・
狂言、釣ぎつね祝 弥三郎・・大蔵弥右衛門・・大蔵平蔵・・弓八幡・・祝言・・大蔵平蔵・・」〈甫庵太閤記〉
の亀蔵・平蔵・弥三郎を伴った「蔵」があり、「法師」は「能因法師」(「橘永やす」「むつのかみ」「武隈の松」)
というものから「三蔵」は東国・高麗と結びつけようとするものがあります。まあ
三段崎六郎
を引き当てないとしょうがないので、雄略(朝倉)並みの大物、語りを中心とした表記として太田和泉守
(爾云ふくむ)しかないかも。
(247)稲荷山
「きつね祝」が出ましたので、雄略天皇銘の鉄剣の出たのが稲荷山ときけば、身近なきつねの稲荷神社
と同じ字だから、双方から対象を照射すれば由縁といったものが
出てくるのかもしれないと思っていたので、ここで乗ってみると、ここに狐祝の弥三郎が出てきました。「釣」
と「亀」は慈円が雄略天皇条で特記していました。「狂言」の獣篇は「狐」のそれでもあり、「猫」も(けもの)篇
、出てくる場所も、芭蕉では
「猫山(「岩代の磐梯の別峰、猫間岳のことであろうか」
山は猫ねぶりていくや雪のひま〈五十四郡〉」
「張り抜きの猫も知るなり今朝の秋〈知足伝来書留〉」
があり、「五十四郡」は「百済」五十四郡もあり、太田牛一では、これは「白済」ですから、つまり
「白済寺(はくさいじ)の鹿(しし)、同小鹿(こじか)・・」〈甫庵信長記〉
ですから一般に言う「百済」は、「白羅」(白済+百済)の構成を成すものとも取れるところです。これは「しらぎ」
とも取れますが、今となれば、百済より400年も前の建国とされるう高句麗は無視できず、あの「しらぎ」は
「新羅」なので、白羅(白済・百済・新羅)という「白」=高句麗はありえます。朝日新聞で出てた、
「(現)吉林省九台市小韓村、清朝の発祥の地、「石」の地と記憶していますがその「白」、〈奥の細道〉
冒頭の
「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(なり)。舟・・馬・・
・白・・・●面(おもて)八句(はちく)を庵の柱に懸置。」〈奥の細道〉
の「はくたい」という意味がわからないので「白」と解してみるのもあるのでしょう。脚注に書いてなくて
「月日は永遠
に旅を続ける旅客であり」と訳されてすんでます。それなら万代のほうがまだましで、「百」が人の一生の
「百」ならば次の「年」は「人」に話を移した方がよいようです。ものすごく大きな出だしを受けて、●で
締めていますが●は「懐紙の表に書く★百韻の八句」となっていて、この★「百」があるから、初めも「百」が
でないといけないとすると、相関があるのかとみるのも妥当かも。
「百」(はく)
‖
「面」(はく)=(はっく)(八句)
となっているのかどうか。「百」も「面」も同じ囲いのある字で「百(面)囲い」は珍しいので同種の異字と
した可能性もあります。すなわち表に八書いたら合計108句になるはずで
「百」八句=「面」八句
というのがありそうです。こういう「面白」い、ものがあるのが日本の古代風の一つの特徴でもあります。「一つ」
抜いたかな、というような。
百(もも)=「桃」
で、桃の節句、桃から生まれた桃太郎、「桃・栗三年、柿八年」などあり、「桃」は太田牛一が、書いてない
ようで書いてる(〈戦国〉)から物凄く大きなものといえます。
「ココに見悪(ミニクキ)事あり。町を御通りの時、人目をも御憚りなく、くり・柿は申すに及ばず、
瓜をかぶりくいなされ、町中(なか)にて立ちながら餅をまいり、人により懸かり、人の肩につらさがり
てより外は御ありきなく候。・・世間公道・・大うつけとより外に申さず候。」〈信長公記〉
があり、「桃」は申すに及ばずになるのでしょう。「桃」が抜けてるとは限らん、となるが、芭蕉の句
煩(わずら)へば餅(もちひ)は食はじ桃の花〈蕉翁句集〉
煩へば餅ハくハしモゝの花
で、桃と餅がセットででないといけないようです。この「餅」が他の引っかかりを出してきます。脚注では
「立ちながら餅を(欠字)」が、この判本では「まいり」に作られた、ということです。ももを抜いたらもち
を抜くとすると「立ちながら□を□□□、・・・・・」となります。「公道」にも脚注があって
「上品。高尚。」
となっており、「上・高」が出てきますが「下品」「低劣」もありえます。すなわち若き家康公の日常の行動の
断面も出てる、通行人に難癖をつけるとか、お店の屋台や床机をひっくり返すとか、のことがあって、「たわけ」
というわけです。 も も
も ち で縦から読んでも、横から読んでも同じで切り離せなかったのでしょう。
強いて言えば「もも」が信長、「もち(遊行の砂持の「持」)」が家康公ともなるかも。「食わない」というのが
引っかかっただけですが。「うつけ」は脚注では「大虚氣。ぼんやりしたこと。ぼんやりした人。」となって
います。虚空の「虚」−「虚栗」の「虚」を含んでいます。この一節
「平手中務・・静謐・・明衣・・半袴・・くれない糸・もえぎ糸・・悉く朱武者・・御鷹野・・平田三位・・餅・・」
がありますが、芭蕉の句の「餅」が「草餅」と訳され解説では
「餅は桃の花が咲く頃だから蓬餅(よもぎもち)か」
となっています。この蓬(よもぎ)が蓬莱の「蓬(ほう)」で、福島県の地名にも「蓬莱」が散点しています。
(248)稲荷
関が原で直江山城守兼継の出羽国長谷堂の戦いは有名ですが、ここで敵方最上義光は
「長谷堂(はせどう)の山の尾崎(をさき)稲荷(いなり)山に陣す。」〈常山奇談〉
があり、はやくから初瀬=長谷=雄略と、稲荷(山)が結びついています。「崎」は先ほど「三段崎」が出ました。
雄略天皇銘太刀−稲荷山古墳−お稲荷さん−きつね(金毛九狐)−殺生石−祝のきつね
という「稲荷山古墳」のあるところは埼玉県行田市ですが、ここは
○稲荷山古墳・丸墓(麿墓)山古墳・二子山古墳・将軍山古墳・愛宕山古墳などがある。
○今出ている「成田氏」の本拠である
○北条の城がある(北条=北枝)、(索引では「北条/坊城」)
○石田三成の忍城攻防の話がる
というような地です。きつねの祝弥三郎で括るようなものがあるのでしょう。「桃」が太田牛一によって出され
たとすると、「日向守」も出てきます。すなわち
「中将信忠卿・・玄以・・安土・・安土・・維任日向守・・安土・・鬼か城・・鬼か城・・維任人数入置。」
があり脚注では「鬼箇城・・・。福知市猪崎の鬼箇城。要害の地である。」となっており「地」の名前のよう
です。ここで「桃太郎」が出てくるのでしょうが、芭蕉に
伏見西岸寺任口(にんこう)上人に逢うて
「我が衣(きぬ)に伏見の桃の雫せよ。」〈野ざらし紀行〉
があり「任口の高風徳化に浴したいといわれているが」となっています。「伏見に伏して見る意を掛けている」
ともなっており、任□は任向もあるかも。「逢う」は蓬に似てます。
「桃の木の其の葉散らすな秋の風」〈泊船集〉
で「桃」に「秋の風」が触れました。「高風」が吹きつけたというのでしょう。「桃」は芭蕉では、匂いが白いよう
です、「白雪」の太田氏に挨拶の句に
「其の匂ひ桃より白し水仙花(すいせんか)」〈笈日記〉
があり、桃は
「バラ科の落葉小高木。中国原産。四月ごろ淡紅色または白色の五弁花が咲く。」〈福武国語辞典〉
とあり、「白」でもありますが、「白」もあるということか、この句の説明として引用されてる句に
「海暮れて鴨の声ほのかに白し」〈野ざらし紀行〉〈蓬莱島〉
「石山の石より白し秋の風」〈奥の細道〉
があり、これは白ともいえぬ白、観念的な白をいってるととれます。それだけに容赦のない白で、高句麗=白羅
といってもよい国の白が出てるといえます。芭蕉の風羅坊というのは風来坊と同義といってよいのでしょう。
この「桃より白し」の〈芭蕉前句〉の前の句が
「水仙や白き障子のとも映り」〈笈日記〉
でこれは「水仙=(白)=障子」となっており、視覚的でダブル効果が出てるもので、一面は桃の白を強調
してると思いますが、水仙と障子がともに相手を引き立てて映え合う、という解釈になっててそれで合って
いるのは間違いないところです。しかし「行田」という名前が、大田村を吸収して残されました。ここは
どうしても説明がほしいところです。
「百敷(ももしき)の大宮人」〈信長公記〉(脚注=百敷は皇居の枕詞。大宮人は宮廷に仕える役人。)
ここは武蔵国の大宮にいた王の古墳群ともいえそうですが、500年代の東国の成り立ちを語る大変な遺跡と
いうべきものですが、関東の「大宮」は地名索引から漏れているので、この「大宮人」の説明はやや教科書
的で、「桃」も考慮されていません。まあそれは別としてここは太田和泉守の実見の地ともいえるところです。
「行田市」(昭和24年にできた、忍川がありその名をとった忍市を行田に変えた))
という地名がそれを語るのではないか、と見ましたが説明がありません。「大田が行ったので行田という」と
いうと袋叩きにあうので、とにかく、重要語句、「行」をみるしかないようです
「行」(こう)−「高」−「甲」−「香」−「講」−「幸」−「交」−「紅」−「皇」−「公」・・・・・「府中」、
「行」(ぎょう)−「形」−「業」−「仰」−「尭」−「暁」−「凝」・・
があり、人名では「行基」「西行」「行平」「織田武蔵守信行」「小西摂津守行長」「(福島家)大崎玄番長行」
などの「行」ですが、芭蕉では奥の細道冒頭の
「月日は百(はく)代の過客にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也(なり)」
の「・・はく・・行(ゆき)(こう)・・・成。」があり、「ゆき」→雪・行が出てくるところです。「行田」には
北関東の「雪」の白と行軍の「行」が一つで、行宮の「行」もあるのでしょう。
この白の王国の旗は「赤一色」、堂々の「雪中行軍」の姿がある一方で、皇帝・天皇の仮宮とされる行宮
(御座所)のあったところ、すなわち大和の「泊瀬朝倉宮」「磐余(いはれ)甕栗(みかくり)宮」などの
政権を支える後続部隊としての、また昔の大和進出の拠点でもあった、天皇陵と同じくらいの重要度の
ある古墳なのに知らされていないという一矢を報いるというものが、今はありませんが昭和24年だったら
まだあったと思われます。行(ぎょう)の面からいえば成田がいきてきそうです
行(ぎょう)−形(ぎょう)−業(ぎょう)−−在原業平・行平の「行・平」
形(なり)−成田・三成の「成」
となり、 岩成→石成(人名注による) 石 成 石成
石 田 →成田 成田→石田
で石田三成は明智光秀三女ガラシヤ(細川与一郎A)・細川頓五郎夫妻の兄弟という近い存在で
忍城に祝弥三郎も絡み合ってきました。清水又十郎の一節の
「成田弥六・成田助四郎」は「細川玉・頓五郎昌興」
ではないかというのが、稲荷山古墳からもでてくるとといえます。索引では
鯰江又一郎(愛東村・六角氏)/成田助四郎/成田弥六/鳴海助右衛門/成瀬藤蔵(正義)/なわ無理介
となっており、一応「六角佐々木」・「鳴海」から渡海の海が出て、愛湯東・六角堂や成海・成瀬から東国が
でるとして、補足もでてくるかもしれませんが、問題は「味方が原」登場の
「成瀬藤蔵」
が
「なわ無理介」〈信長公記〉 (考証名「名和重行」「宗安」「上野(群馬県)那波郡・・」「新田正伝成間」
の前にあるので「成瀬」というのが「無理や」というのが、やはりありそうです。「夏目」の「石」は明治に
出たので、ここでは使えないといえます。ここの「新田・・・」というのは
文献の名前で、天文15年「無理介広光」が「甲州に逃亡してきた。」というやや詰まらない記事に引用された
たものです。「新田」となると上州、新田の、徳川氏との関係で有名な新田氏があるのでしょう。
「名和長年」の「名和」や「正成」という字もあるから、新田義貞はありえます。新田といえば「楠木」で
楠木正成(まさしげ)・楠木正行(まさつら)
があって「成田」の「成」は「しげ」→「茂」→「丸毛」の「毛」で、「正」は「祝重正」の「正」で「行」は
「つら」で名和重行(つら)
もあり、行田の「行」は「(つら)」もありえます。「面」は(つら)と読みます。信長の風体
「・・くり・柿・・・・・人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は御ありきなく候。」〈信長公記〉
があり、この「つら」は顔であごが肩に乗っているという風かも。ここに甲州の「甲」が出てて、雪中行軍の
「八甲田」にもいきそうな「行田」もあります
「宗安」の宗家の「宗」は、「本家」の「本」のような大きなものですが、光秀の身辺に「石宗」という人物が
出ます(〈明智軍記〉)。「那波郡那波荘」があり、「那覇」があるか、「名和」は「縄」があるかということも一応
考慮しておくことも要るかも。東国−九州・沖縄は遠いから関係が希薄だろうというのはなさそうです。
「ごてん」〈奥の細道〉 (脚注=「碁点・・・塩川村」)
の稲船の通り道に、「白糸の滝〈奥の細道〉」があったので沖縄に「糸満」があるのを知って驚きましたが、
これは関係ないというのでよいのでしょうが芭蕉は「糸満」を知ってただろうから、そのときは思い浮かべ
ていなかったというのでよいのでしょう。ここの「那波」は「那波和泉守」〈明智軍記〉は想起されてるはずで
す。〈明智軍記〉索引では
南居(なごの)正泉/●那須久右衛門/棗(なつめ)木工兵衛 261、262/那波和泉守
があり、●は〈信長公記〉にある表記で「野間佐吉」などと出てきます。●の前の人物は
「★夏目郷・・木目峠・・石田西光寺・・沖・・真栗瑞性・南居正泉・江守願行・本田妙円併朝倉牢人・・・」
「杉津・・■毛受(メンジヤウ)庄助・・光秀・・南居正泉併平浄称縁・・」〈明智軍記〉
があって、真栗とか平浄と並んでいます。棗は261にあって光秀、日向守、波多野などと出てきますが、
262に出てないので何回も見ましたが結果、載ってないので仕方がないが、時間がもったいないので
何かあったのか、とみますと、丹後の「鬼ガ嶽」、ここでの明智・長岡(細川)両家の共同作戦のこと、「一色」、
「源尊氏(足利高氏のこと)」、「(足利)義満公」などが出ています。「成瀬藤蔵」が注では「足助荘成瀬郷」
となっているので「足利」がでたかもしれませんが、直接「棗」と関係がなさそうです。深入りしすぎて失敗とも
取れますが、★の「なつめ」とヒットするので、関東の足利の「高」と「満」と●に関心を向けたという役割は
あったともとれます。とくに■は
「毛受(めんじゆ)勝介(せうすけ)」「毛受(めんじよ)勝介」〈甫庵太閤記〉
があって「毛」→「丸毛」「羽毛」「羊毛」「毛利陸奥守」の「毛」として安東大将軍の地域につながるものとなって
います。それはそうとしても今やってることは、読まれているのに、わからんことにしとけ、となってると
いうことをいってるわけで、262頁で棗を抜いたという理由があるということがいいたいところです。すなわち
262頁の問題は、語りたいものが他にあるということで常山などがそれに乗ってるということを現在の校注者
が教えたということです。なお「稲荷山」は「白石稲荷山古墳」「鴨稲荷山古墳」などもあり、ここの長谷堂
のは古墳かどうかは確認できてません。調べて述べんといかんのですが。
(249)262頁の原著者の仕掛け
基本的に原著に端を発してますから、校注のとき、索引でそれを知らすわけですが索引は、再掲
名倉主水/南居正泉/●那須久右衛門/棗木工兵衛261、262/那波和泉守
となっていて、●が「なす」で「那波」の間の「なつめ」の「なつ」はここに入れるのはおかしいというのが
あります。その上に「棗」が262にないということがダブって出てきたということです。
○「なつめ」は「なすめ」がありうるということをいっている。
「先(まづ)山口岩洲の城攻落し」〈信長公記〉、「山口岩洲(いはす)両城攻落し」〈甫庵信長記〉いわす
があり、脚注では、「兵庫県朝来(あさこ)郡山口。その小字に岩津(洲)がある。」となっている。
地名索引では「山口岩洲」で出てるから索引漏れではないが「城」が二つあるから「山口・岩津」と
して「岩津」を出すのがあってそうです。ただこの山口は清水又十郎の一節の山口に、また石・津を
伴ってつながっていくということになります。ここの朝来の「来」が、「加賀石川郡鶴来」の「来」に至り
鶴来−来駕−鶴駕−つるがの津〈奥の細道〉にも行きつきそうです。丹頂鶴−北海道−鶴ヶ城−
もありそうです。
○262頁に
「波多野七人・・国主光秀に従わずして・・かかる目に逢ひ・・▲哀(あはれ)也□事共也。」
があり。また同頁
「長岡兵部大輔藤孝・・藤孝・・惟任・惟住・・有吉・・米田・・藤木・・▼相(さう)田権内・・・」
がある。
ここで「山口」の「口」が「口アキ」の意味になったと取ってよいのかとにかく意味不明の空白が設けてあり
ます。これに棗の一字が呼びこまれるのでしよう。夏(なつ)・成(なす)目です。▲では石田三成=三也がある
ところから「成□事共成。」となり「成目こととも成る」となります。一方▼は前に「流石の相田(あいだ)」で
使った下津権内ともなる(「石成」を討つた)人物ですが
「棗」=さう=「相」だから、「相田」=さうだ=「棗田」で、
「木目田」=「夏(成す)目田」と「目」を入れて見てもよいが、「相田」=「成田」ともなります。これが「棗」を
入れた効果といえます。●は芭蕉の「黒羽」のくだり「桃翠」の出てくる一節
黒羽−桃−浄法−犬−那須−篠原−玉藻−八幡宮−与市−八まん−桃−光明寺−行者堂−夏山.
. につながる那須ですが、〈甫庵信長記〉の「蓬莱」の出る一節(作物記)の冒頭の
「茶入茄子(なすび)・・千の宗易利休居士・・藤重・・松永・・蓬莱・・扶桑国・・小茄・・倭朝・・松永
弾正少弼久秀・・久秀・・蓬莱の仙島・・徐福・・徐福・・蓬莱・・蓬莱・・蓬莱・」〈甫庵信長記〉
の茄子にも懸かっていると見るのが妥当です。漠とした蓬莱の話になりますが、今やってる清水又十郎の
一節は渡海の人名を羅列してやってるわけですが
成田弥六・成田助四郎
が蓬莱の理解にプラスになるとみた太田牛一の引っ掛けがあったとしたら同時にみとかないかんということに
なります。〈常山奇談〉索引に
夏目次郎左衛門/那波道円/直江山城守兼続/成合平左衛門/成田助九郎/成瀬正成/・・・
があり、この「成合」は「相田」の「相」とつながる「成相」で、「平」をつけ加えたものです。一連のものは従って
〈明智軍記〉のこの辺りを受けたものですが、有名な「直江」がちょっと外れになってる感じです、常山の直江に
「石田三成直江兼継密謀の事」「直江山城守閻魔王・・」「出羽国長谷堂合戦・・・」
などがあって「石田三成」が属性の大きなものです。「三成」がこの関係に入ってきているといえます。
成田弥六(成瀬藤蔵)(正成)(玉)ーーーー於長
‖成田助四郎(「頓五郎」=細川昌興)(成瀬正義)(□□□)
細川忠興(「長(永)岡与一郎」 注:(「藤孝の男」)
という関係があったといえそうです。信長公がこの結婚を一生懸命に勧めたわけで、もう一つの名前□□□
が抜けてるのでわかりにくい感じです。
(250)織田御坊
これは
「甲斐国より源三郎殿を送り奉る事
去る程に■織田御坊甲州より・・・・是は信長公の末子なり・・永禄三年・・武田信玄養子・・・武田四郎
勝頼送りければ尾州犬山の城に居え置かれ・・・御元服・・源三郎・・・」〈甫庵信長記〉
があり、■が〈信長公記〉人名注での
「織田勝長」(文中表記「犬山のお坊」「ごぼう殿」「◆津田(織田)源三郎」、甫庵は■と「織田源三郎」)
ということになりそうです。〈信長公記〉の文中に
「津田坊」
という表記があるのにこれはここでは出ておらず、人名注項目が別にあり、別人かも。◆が本能寺で
戦死してます。それでこの■の人物は立ち消えになって周囲に余り影響が及ばないという存在になって
しまったということです。◆は「信房」という大物の名前が、当てられています。「織田勝長」の注は
「(〜1582)信長の子。幼名坊丸。津田源三郎。永禄三年武田信玄の養子(★実は人質)となったが
・・・武田勝頼が天正九年(1581)これを送り返した。そこで信長は★★お坊を尾張犬山城主とした。・・」
となっており、去る程の■の文と同じことが書いてあり、じゃまくさいことだ、ということになりますが、これは
〈信長公記〉の注が〈甫庵信長記〉を見て取り入れているというのがわかるからいいわけですが、違いが
わかるのが重要です。「信長公」と「信長」の、「子」は同じことですが、★と★★のところ、1981年に決め
付けてるというところが違います。
★のところ「実」は、「織田信房」=四郎次郎=「織田信実」の「信実」の「実」かも知れず人質と養子の
二つの事件があったとも取れる、一方、★★「お坊」が「犬山」の城主になった人であるといえそうです。
織田源三郎か絡んでもう一つの人質事件があります。いまは両方とも、★★の織田御坊だということに
なっています。岩村城の城主遠山景任が亡くなって「後家」が信長に養子を依頼して、織田源三郎が
岩村城に入りました。
岩村城が味方が原と同じ時期に武田信玄の将、「秋山」(考証名「秋山信友」)によって攻められました。
秋山信友注:「(1531〜75)元亀元年、美濃岩村城主遠山氏の後家織田氏(信長の叔母)を娶り
その城主になった。この秋山氏は山梨県中巨摩郡甲西町秋山の住人。〈甲斐国志〉」
となっています。このときに信玄は坊丸を養子として甲斐へ置いたということのようで、これだと戦勝の
人質のようです。これも送り返されたのでしょうが、これは山口飛弾守(木村又蔵)東濃進出のことを表して
いるととれます。まあ織田勝長二人の話が一つになったものです。天正10年、武田戦
「。織田源三郎・団平八・森勝蔵、足軽衆・・・」〈信長公記〉
「。織田源三郎殿、団平八、森勝蔵此の人々を大将・・・」〈甫庵信長記〉
が出ており、これだと織田(津田)源三郎が二人いたというような感じが出ています。つまり□□□は
「信長公の末子、お坊」ということになります。ガラシヤ夫人「玉」が犬山城と関係が深いとなると、その後の
話が大きく変わってきます。三成が関が原で夫人を「人質」に取る、というような話はこのときの「人質」
を踏まえた話ともとれます。一つの言葉をいつまでも覚えているわけです。
(251)秋山
ここの「団平八」(考証名「団忠直」)は注では
「(〜1582)つまり本能寺討死・・・・団(だん)氏は、美濃の名族、岩村城主の景春を祖とする。・・・
天正六年・・・京都妙覚寺での信忠の茶会に平八郎も侍している。信忠の側近であろうか。・・」
となっています。「塙団右衛門」の「団」、直之=(直)=忠直 もあり、親子の問題がいつも絡んで
くるから一概にいえないということになるだけです。「景春」の名が出てますが「景」というと遠山とは限らず
〈吾妻鏡〉の「加藤次景廉」の加藤も背景にありそうです。「団平八」=「伴正林」として、山口飛弾A(木
村又蔵A)と「伴正林」が兄弟とすると、ここの「団平八郎」は「団平八」のいまでいう父か、連合いか、
木村又蔵か、という問題にもなります。ここの「森勝蔵」も桶狭間からもう22年も経ってるから「森勝蔵A」
の可能性も大で、その意味では、団平八郎は、木村常陸介も考えられそうなれば信忠の側近というよりも
後見ということも考えられます。ここで「秋山」が、出たことは大きなことで領主になったから、叔母という
未亡人は領主になれなかったというと、この叔母はいまでいう「叔父」(四郎次郎信実かも)であったこと
も考えられますがそれは別として、秋山は「●山梨県中巨摩郡甲西町秋山の住人」の秋山で索引では
秋田城介信忠→織田信忠/阿喜多の屋形下国/阿君丸(越前朝倉義景の嫡男)/秋山→秋山信友/
秋山紀伊守/秋山摂津守(美濃衆)/秋山信友(中巨摩郡)/秋山万可/芥川(・・・高槻市・・)
となっていて、安東地区の秋田の「秋」は織田信忠の秋田城介に頼っていましたが、そらないという
いささかの懸念もあっては困るので〈万葉集〉額田王の「秋山我は・・」の秋山の秋を持ってきたといえ
ます。阿君丸は平群、群馬の「君」ですが「嫡男」とかいています。細川忠興の場合は「藤孝の男」とかいて
いました。秋山は地名ですが信玄がこの人物を起用したのは「駒」「独楽」「高麗」などを見越しての
起用ということになるとそんなはずがないということになるでしょう。遠山後家というのも二人として考慮
しないと物語で圧倒されたままになってしまいます。太田和泉守も信長(公)の叔母であり、武田の大将
秋山をその気にさせたという特別な美貌の持ち主ということ、当時最強の武田信玄の別働隊を遠山で
うまく食い止めてしまったという絶妙な手腕、最後は、激昂した信長によって殺されたという哀話の主人公
となると、その叔母は、特別出演というのがありえます。桶狭間で遠山姓の大将が織田方で参陣しており、
「遠山甚太郎、同河内守・・」〈甫庵信長記〉
が出てます。これは誰か、引き行き当てないといけないのですが、そのままになっています。織田源三郎
(山口飛弾)を 養子にして任せたという勢力伸長がどこかであったはずです。
(252)川窪兵庫頭
「秋山」については、 この味方原のとき(攻めてきたとき)は、太田牛一は書いておらず、武田不利と
なった長篠のとき、美濃遠山城で「秋山」が殺されたことを書いているだけ
で、そのときも名前がありません。誰か、有力武将がいて「秋山」と太田牛一が名付けたというのが、妥当な
ところと思いますが、これは冒険的な引き当てになりますのでタブーですが根拠があれば、否定の根拠にも
できるから、やっといても実害はなということです。武田の大将に
「川窪備後(考証名「川窪詮秋」)」〈信長公記〉 「川窪兵庫頭」〈甫庵信長記〉
がいて有名でもないので、注目もされず、そういう人物もいたということだろう、で終わっています。ただ「窪」
は「大窪半介(ハンカイ)」がありました。川窪は注では
「川窪詮秋(〜1575) 長篠合戦で討死(〈乾徳山恵林寺雑本〉。川窪氏は山梨県西山梨郡川窪村
(甲府市川窪町)から興る。」
となっています。すると地名を姓として持ってきたということです。●と同じ、山梨で、甲・西も出ており、
一応は「県」「山」が出てるから「山県」も想起されます。永禄3年のころ、信長公は、「お坊」を信玄の養子に出し
ましたが、父親が応援したろ、とついていったということだと思われます。一時
(土田氏の吉野殿)ーーーーーーーーー信忠・信雄・五徳
‖上総介信長
‖織田孫三郎A(小豆坂七本鑓の孫三郎子)
信長公(道三孫・胡蝶)ーーーーーーお坊
という関係が成立し、孫三郎A信光の子、お坊が信玄の子として扱われるということになると、孫三郎A
は兄弟あつかいということかもしれません。ただ、勇猛無双の信秀弟の織田孫三郎@(信秀に嫁いだ
土田御前の連合いと見た人物・小豆坂七本鑓、大原と孫三郎の組み合わせ)がわけもなく死んでしまっ
たので気になったままです。信秀の死で使われた遷化の意味がわからないから。
「●其年の霜月廿六日、不慮(ふりよ)の仕合(しあわせ)出来(しゆつたい)して孫三郎殿御遷化。
・・、天道恐哉と申しならし候キ。併(しかしながら)、上総介殿御果報(くわはう)の故なり。
一、 ■六月廿六日、守山の・・・・」〈信長公記〉
があり、ここにそれが出てます。●は、清洲城を信長が手に入れた年と取れますが脚注があって
「弘治元年(一五五五)補注(二三)。◆霜月は十一月。」
となっています。「霜月」はここが初めてでもないのに書いてる、余分とちゃうか、といいたいところですが、
天文二十四年の十月二十三日に弘治元年に変わっているから、ここは言うといたほうが親切です。「十一月」と
というのも使っているから、「霜月」としたかったこともあるのでしょう。(二三)に補注があるというので見ると
(三九頁) 「十一月二十六日、那古屋城の織田孫三郎信光は、家臣の坂井孫八郎に殺される。」
があり、犯人が書いてあります。(三八頁)の★補注(二二)も出ており
「守山城の織田孫三郎信光は、信長と相談して、清須城の守護代織田彦五郎を殺す。
信光は清須城を信長に渡し、那古屋城を与えられた」〈寛政重修諸家譜〉
となっています。この「彦五郎」の名前が「信友」で先ほどの秋山の「信友」と合っており、まあ、東濃、山梨−
山成、秋山、、御坊、孫三郎・・・と引っ付けて見るというのも合っていないこともない、というところです。
信友は江戸後期、平田篤胤・亀井南冥などと親交のあった若狭、小浜藩主「伴信友」も出てきて、これは
伴正林−木村又蔵−伴天連−渡海−成田弥六にも行き着くところです。補注(二三)は天文二十三年
ともとれるところです。すなわち■の脚注は「天文二四年(補注二四)」となっているので補注の番号も
利かされていそうです。つまり、年表的にみれば(年表では)
弘治元年=1555=天文24年
ですが、●は11月、■は6月だから、年次が違ってくるはずで、●は天文二三年が合ってそうです。これは
補注の(二三)で目がチラチラして気がつくのかも。●の「其年」の前に四月十九日があり、この脚注は
「弘治元年(一五五五)」
四月十九日の「約諾」の脚注は「秘密の約束(補注二二)」となっており、この内容は先ほどの★のもの
だから、二二という補注番号と天文24年が同居したようなのが「四月十九日」のもので一見、遷化というもの
の重要性から
天文22年清州城落城、23年、御遷化、・24年、御遷化の翌年
いうのが常識的ですが、これは違うようで
清洲城落城 御遷化 御遷化翌年
脚注 弘治元年 弘治元年 天文24年、6月26日
正解 天文23年 天文23年 天文24年
ということになりそうです。理由は〈甫庵信長記〉では
「弘治元年四月十九日・・・・孫三郎・・・不慮に同十一月廿六日・・坂井孫八郎・・シイし申しけり。」
となっており、◆の「十一月」という注は江戸時代の資料ではなくて〈甫庵信長記〉をみて入れたということ
で「霜月」というのは十一月ということ以外に「下国」とか「霜台」とかへの転用を見てるかも。芭蕉では
杜国に逢うところで
(前書)人の庵をたづねて
さればこそ荒れたきままの霜の宿(やど)〈あら野〉
の「霜」があり、「下五」「霜の庵」もあるようですが、
「実在の霜のはたらきだけでなく。不幸な生活を強いられている宿」
という使い方もあるようです。霜は
「葛の葉の表(おもて)見せけり今朝(けさ)の霜〈如月〉
の句もあり、これは、解では
「葛の葉は秋風に吹き返されていつもしろじろと裏がちなものだが今朝は・・・霜が置き、葛の葉も
一様に霜をかむった白い表をみせて、静まりかえっている。」
となっており、「静か・・霜白う・・表」など、裏白に表白を付け加えたのは去来の評が利いて、去来は
「さすがにもれたる風情の見るべきところを 俳諧の眼に睨み出だし給へり」
とのべています。ものすごい属性が霜ではいってきています。葛の葉が裏白だということで、秋風と霜
で一面白にしています。「今朝の霜」は、「今朝の雪」、「今朝の秋」とおなじ使い方と書いてあって、葛の
葉は秋が季語であるが霜に負けてこれは冬の句ということにされています。「霜」は「雪」でよい感じです
が「下国」が出るのなら「霜」の方がよいかも。
「にらむ」(睨む)は甫庵には「目篇+満」の字があります。行く春や鳥啼き魚の目は泪、のなみだは
「鳥や魚」があるでこの「泪」でないといけないのでしょう。鳥取・取鳥、鮟鱇鍋が効いています。
霜=雨+相で相=木+目、がありそうで、また、霧・露・霜・霰・雫など下の方で微妙なつながりも生じかね
ません。雨+云=雲というような。「霜柱」というと「桂」が引っ付いて「桂」−「葛木」−「鬘」となったり
まあ「勝蔓」へ行ったりします。「杜国」というのは「杜甫」の「杜」で、それを使って「国」を付けたというのだから、
物凄く大きな名前ですが、地名では「北杜市」ができています。「杜子春」あ詩人の名前だそうですが、芥川の
の物語には閻魔大王が出てきます。
清洲城落城は「天文二十三年」が合ってるのに脚注では弘治元年・天文二四しか出てません。補注(二三)
(参照)というのが入っているおかげで、天文23年(1554)というのが自信を持って出せたといえます。年表
も〈クロニック〉も1555年(弘治元年)としてるのだから、研究され尽くしたものだ、というかもしれないが
注、脚注・・・を見ると学会は別の通説をもっていると思われますが如何。
(253)清洲城落城の年などの記事がおかしい
年代のことは、〈甫庵信長記〉が一般の人対象だから、その記述に最大限の注意が払われいるものです。
「信長清洲城に移り給ふ事
・・・●弘治元年四月十九日・・・大膳は取敢えず落ち・・・彦五郎(信友)・・・森三左衛門に・・・首をぞ
給はりける。・・・孫三郎殿は不慮に同十一月廿六日・・・・・翌年の五月比・・」
のことがあり、●という日はない理屈になります。天文24年の10月23日に「弘治」になったから。これと
同じことが弘治の4年目に起こり、信長弟(信行?)(勘十郎・武蔵守・土田御前の子)が
〈甫庵信長記〉「弘治三年正月」 〈信長公記〉■「弘治四年{戊午}霜月二日」
となっていて、2月28日に永禄になっているから■という日はないことになります。
(254)勘十郎の死亡記事が桶狭間翌年のところに入っている
この間の事情は
■の記事が桶狭間のあとで書かれている不思議なで既述ですが〈信長公記〉では
桶狭間(「天文廿一年」)としたあと、の記事として
▲ 一、「翌年四月上旬」脚注(「★永禄四年(1561)」 (理屈では天文22年になる。)
▼ 一、(「弘治四年{戊午}霜月二日、勘十郎の死) (甫庵は「弘治3年」に勘十郎が殺されたと書いてる)
(脚注でも「弘治三年」(1557)と書いている)
同じところに▲一、翌年四月上旬、別の記事、と▼一、勘十郎の死の記事を出してることになります。
つまり脚注の「★永禄四年」を弘治 四年に変えようとしてるかもというほど間違い記事を通そうとしています。
弘治三(四)年間は太田牛一の私年号でこの間発生した織田に関することは間違いであり、
清洲城が弘治元年(1555)に信長の手に入ったこと、
織田彦五郎を森三左衛門尉が討ち取ったこと、
織田孫三郎の御遷化のこと、
弘治三年の織田勘十郎(信行?)の誅殺(池田勝三郎討ち取る)のこと
などはないことになるのでしょう。
年表では天文22年1553
「平手政秀、織田信長を諌めて自殺〈信〉。」
がありますが理屈をいえば桶狭間が天文21年でその翌年だから、その翌年は■の記事で支配される
一節だから「弘治」がでてきてこれはなかったということになります。私年号を公卿衆が追認する方向へ
動いたのも太田牛一がこういうものを設けないと伝えられないという工夫がった判断したからでしょうが根底
には 弘治で出てくるのは今日でいう男性の登場ということが読み取れるところです。平手清秀が普通でいえば
出てこないことになってるという前提が崩れてるということかも。
平手政秀の自殺は、年表では天文22年とされていますが、〈信長公記〉では信秀の葬儀の年の一節にあ
るので、一応同年とみると年表では、信秀は天文20年の没(遷化)となっています。〈クロニツク〉も同じ
ですが「信秀の没年には1549年、1552説もある」となっていて、
「なお信長は信秀の死より以前に家督を相続していたと考えられる。すなわち1549年(天文18年)
3月頃、隠居か急死か、重病などの信秀の異変によって家督を相続したのである。」
となってます。1549天文18年「逝去」は甫庵に載っており、三年
後、天文21年葬儀となると思われます。この年が平手の病死であろうと思われます。天文20年説とどう決着
をつけるかということは「御遷化」が孫三郎
にも使われているということにあるのではないかと思われます。「弘治」が働く、ということです。つまり
桶狭間=天文廿一年{壬子}=信秀葬儀
とし、前時代のことを語るため桶狭間を天文にしたという工夫があるということでしょう。
ここはややこしいから消した方がいいのですが、太田牛一の書き方がおかしいという部分(253)(254)
は一応置いときます。
(255)くるしい生存説
ここにくるまで織田信秀の遷化など見てきました。
再掲
「其年(脚注=弘治元年1555)の霜月廿六日、不慮の仕合(しあわせ)出来(しゅつたい)して孫三
郎殿御遷化。忽ち・・天道恐(おそろしき)・・併、上総介殿▲御果報(くわはう)の故なり。」〈信長公記〉
があり、信秀弟織田孫三郎が突然死去し「御遷化」がつかわれ謎がのこりましたが、死ではなく、移動した
というものがあるでしょう。まあここは作られた日というところもありますから。これは別として▲が、太田和泉守
に関わり、信長のしあわせをいっています。その内容は
「若公一人毛利十郎生捕りに仕候て那古屋へ送り進上候なり。・・・天道恐ろしき次第なり。」
があって
「毛利新介・・・義元・・頸をとる。是・・★先年清洲の城において・・・御舎弟を一人生け捕り、助け申
され候。其▼冥加忽ち来つて、義元の頸をとり給ふと人々と・・・・信長公の御父織田備後守・・
不慮の御遷化候へば・・今川義元・・相果てられ・・・仕合せ・・・因果歴然・・天道恐敷・・」〈信長公記〉
の▼に繋がれたともとれますが、「果」「果」がつながってくるこの内容がここにも出て
★は天文二十三年 坂井大膳は
「風をくり逃去り候て、・・・今川義元をタノみ在国なり。」〈信長公記〉
になりましたが、孫三郎は
「其年の霜月・・・、孫三郎殿御遷化・・・・上総介御果報・・・・」〈信長公記〉
があり、これは坂井孫八郎が殺したということですが、これは比喩的な話のためで、織田信長がやった
ことだろうということになってるようです。ただ、太田和泉守がうまく尾張からこの二人の大物を排除した
ということになるのかどうか、甲斐の武田信玄の弟、名将の誉れの高い信繁のところへ行ったのでは
ないかと推察
されるところで、小豆坂七本鑓、織田一の戦の上手な大将なので引く手は数多と思いますがコネがちょっと
わかりません。6年後、信長公の子の御坊が武田信玄の養子になりますが、そのときこの人物が武田に
いたとしたら両国の友好というにふさわしい、わかりやすい、パイプが通じていたことになります。
(256)津田市令助
「信玄の舎弟川窪兵庫頭、下曽祢源六・・・」〈甫庵信長記〉
「横田備中・川窪備後・さなだ源太左衛門・・」〈信長公記〉
があり、この川窪が「孫三郎」かも、というのは既述ですが、信繁(「次郎」だった?)の連合いとなると信玄
弟というのが成り立ち、「窪」は(みょうちきりん)の「大窪半介」(中国のハンカイの異名がある)の字だから
「小瀬」に関わり、(四郎次郎)に繋がりうるものです。すなわち
「小瀬三郎次郎清長」「三郎次郎」〈甫庵信長記〉
があり、これは甫庵は「津田市令助信成の乳母人」と書いてます。市令助がここで登場してこないとしようがないの
は、これは孫三郎の子というのです。〈信長公記〉人名注では
「尾張小幡(愛知県守山市小幡)城主。市之助。孫三郎信光の子。伊勢長島で戦死。津田市介」
があり、孫三郎の子の親代わりが小瀬三郎次郎清長で、三郎次郎は
「織田造酒丞に嫡男、菅屋九右衛門に兄たり・・小幡・・其比柴田修理亮蒲生郡を領せり。」〈信長〉
があり、「四郎次郎」も出ていそうで、また「三郎次郎」の続きという感じもでてます。また清長は小瀬三
右衛門の養子になったから、小瀬となったのでその前は「平手」−「武井」がでてそうです。
「兵庫頭」−「丸毛兵庫頭」−「茂」−「繁茂」→織田氏出身
「真田幸村」は「真田信繁」でこれは「武田信繁」を尊敬
「さなだ」真田実田
など考慮して
備中−備後で「備後」に注目で、織田に備後・備後守がいますから織田に関係ある人だというのが
でてきます。川窪備後は詮秋ですから、一応、
「備後殿・・正月十七日・・備後殿・・備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり。」〈信長公記〉
の「孫三郎」が出てくると思われます。まあ表面的ではありますが
織田信秀ーーーーーーーーーー信長(結婚前の平手清秀との子)
‖池田氏ーーーーーーーーーー(平手氏連れ子かも)三郎五郎・於市
‖孫三郎ーーーーーーーーーー(勘十郎信行・津田信成)
土田御前ーーーーーーーーーーーーー(信勝)柴田勝家(結婚前の柴田権六との子)
勘十郎信行=孫三郎A(胡蝶殿の連合い)
津田信成
という位置に孫三郎が座ることになるのでしょう。これは信長の「伯父」ということになってて後見的な
働きをしてきて信長の父とも頼む人物ということですが信長にとっては足枷にもなりえます。道三息女が
信長にとついで来たときは、信長に夫人、子息がいたので通常信長の舎弟信行が連合いになり、それが
川窪備後とも考えられますが、勘十郎信行Aの武蔵守、津田信澄の親父というものがありそうです。
信長の腹違いの舎兄「織田三郎五郎(信広)」は津田信成の筋とも考えられますが、孫三郎信光の実子
という意味では間違いかも。
「先ず公の▲御舎兄津田大隈守、同舎弟半左衛門尉、津田市令助信成、同弟仙、同又六郎、同孫十
郎、・・・・津田市令介信成の乳母(めのと□)人に小瀬三郎次郎・・・織田造酒丞・・・」〈甫庵信長記〉
があり「公」がよくわからないにしても、
「織田三郎五郎・・信長公の御腹かはりの▼御舎兄(しやけい)なり。」〈信長公記〉
の▲▼「御舎兄」は同じで、「めのと」が出てきたから、
「一色村の左介は、当権信長公の★乳弟(ちきやうだい)池田勝三郎被官なり。」〈信長公記〉
があり、屁理屈をいえば★は「乳□弟」とすべきで、ルビから見れば、「兄」が抜けています。これに脚注
があり、「めのとの子。乳兄弟(補注三六)・・」となっています。
(257)池田恒興
補注を見ると
「織田氏の将池田勝三郎恒興は一色村に住む庄屋左介の与力にしているわけで、この頃の
村落支配の一形態を示すものであろう。池田氏は摂津池田(池田市)の出身〈池田氏家譜集成〉。
尾張の池田氏は摂津池田城主となった池田氏の一族。」
となっています。前半は苗字帯刀をゆるされる江戸時代のような庄屋を作ったということではなく、庄屋を
家中に取り立てる、まあ、公務員として働いてもらうようにした、という意味のものでしょう。「与力」だから
力を与える、味方をするも、ありそうで、戦にも従軍しそうです。ただ「与力」のあとの「わけ」は文章を
ギコチナクしています。この「左介」は古田左介のそれですが、★の本文には刀剣工芸の作業過程のよう
なものが入っていて、もう一人違う古田が出てるもので、ほんまの「古田」は「古田可兵衛(長可A)」で
「森可成」の子といってきました。この「古田左介」は、考証名、「古田重然」で索引では
古田可兵衛/古田重然(「はじめ中川清秀の与力」)/不破光治(「美濃・・安八郡北方村の住人」)
となっています。ここに「与力」が出てきてよくわからないということで保留にしてきた経過があるので
「わけ」というのはこれのこともあるか、同じところで出てきたのでそう感じるところでもあります。「古田」の
後(うしろ)に「美濃・安・北方」の
「不破河内守」「不破」(考証名「不破光治」)〈信長公記〉
が「ふ」だけが繋がった順番として出てこざるを得ないのが、何ともいえないところで、隣り合わせだけでも
走れ、というわけで出しょう。索引では「古市澄胤/古川久介/古沢七郎左衛門/古田可兵衛/古田重然」
と続いており、「古市澄胤」が「河内」に繋がっています。「古市澄胤」は
「(一四五九〜一五〇八)大和古市(奈良市古市町)の豪族。茶人。文中(「古市播州」)」
で古代の陵墓に至ります。「不破」は不破源六−竹ヶ鼻−円空祭り−羽島 で芭蕉に「不破(ふは)」と題する
「秋風や藪(やぶ)も畠(はたけ)も不破の関」〈野ざらし紀行〉
があり、「秋風という季語も・・・不動の重みをもっている」となっています。この関は「美濃の不破郡関ヶ原
町」にあります。「伊勢の鈴鹿」「越前の愛発(あらち)」とともに「昔の三関」というようですが、東国の「三
関(さんくわん)」は〈奥の細道〉脚注では
「羽前の念珠(ねず−鼠)」「磐城の白河」「常陸の勿来(なこそ)」
ですが 「三関・・・秋風を残し・・」となっててここにも秋風がでています。「左介」−古田−与力−池田
とくると「与力」の意味を語っているかも。珍妙な並びの索引があり、
筑後→池田勝正/筑前守→羽柴秀吉/地蔵坊「相撲」/父→細川藤孝/乳弟→池田恒興/
父勝三郎→池田恒興/忠三郎→蒲生氏郷
があり、→があるのは、一つが二人以上あるのはわかっているという意味かも知れないがここで
父−乳弟−父
が一つ出ており、父−父弟−父、で今で言う父が血のつながった兄弟というのをあらわす語句
(異父弟とは違ったもの)があるかも。この索引で「池田恒興」は忙しいことですがこのほかに本番の
ものがあって
(258)成彬
池田勝三郎父子→池田恒興。同元助
池田せいひん(※九四.九五) (文中表記も「池田せいひん」)
池田丹後守
池田恒興(「池田勝三郎」)
池田秀雄(「・・孫次郎・・近江甲賀郡池田(滋賀県甲西町)出身。蒲生郡浅小井城・・」)
の並びがあって「せいひん」と「丹後守」が恒興に挟まれています。「父子」というのがでてるから、おそらく
池田せいひん
‖ーーーーーーーーーー子、池田恒興
池田丹後守
というのが成り立ちそうで、「池田せいひん」−池田恒興、父子という推定をしたのは合ってそうです。
一匹狼、解説なしの「池田丹後守」の「丹後守」は「野村丹後守」があり、甫庵索引では
野間左吉/野村越中守/野村/野村丹後守/野村肥後守/(同)兵庫守/野村与一右衛門
で、出てきて、周辺は「武田左吉」「武井肥後守」「丸毛兵庫頭」「蜂屋兵庫頭」ということでボンヤリと
武井夕庵が出てきて、これは平手の人ですから、池田−平手の姻戚を見て来たのは、こういうヒントが
出てるとするとありうることです。「越中守」「与一」があるから「細川」も出てくるとすると明智光秀が、
細川の姻戚で、六条合戦すから、「岩成」「石成」が出て、池田−(左介)−古田(可兵衛)−森可成
−「成」−−で
「成田弥六」「稲荷山の成田氏」「石田三成」「成瀬藤蔵」「津田信成」
の「成」が順番で出てきました。太田和泉守自身の「成」でもあり、語りの材料として
の「成」の出番でもあります。、今となれば「合渡川合戦黒田三左衛門毛付の功名の事」というのは
「長政・・黒田三左衛門可成(よしなり)・・川の東・・長政・・馬・・朱の枝釣(えづる)・・さし物・・
黒き馬・・長政・・可成・・さし物・・石田・・物ぬし村山・・可成・・毛付(けづけ)の功名・・」〈常山奇談〉
というものだから「黒」「森」の「成」が出てきて、羽毛、丸毛の「毛」が出されて「三成」の「石」、「石田」・
「太田」の「田」がでてきたということですから、「成田」の「成」は昔なら「羽田」の「羽」と結ばれるのは「東国」
が媒体になるものでしょう。両方、空港、「空みつ」の「空」もあるから面白いという人はないはずです。
池田と平手は関係がありそうというのは政治的な動きも、絡んでいます。将軍と信長の中に立ったのが
「池田せいひん」〈信長公記〉
で注では、生没年はかいておらず
「清貧斎一狐。〔せいとん〕ともよんだようである。摂津池田氏・・。平野郷(大阪市東住吉区)に
したが、なお俗務にもたずさわっていた。(水島福太郎氏〈宗及茶湯記解説:茶道古典全集七〉
天正元年(一五七三)四月将軍と信長との間に交換した起請文で、将軍方の責任者の一人〈和
簡礼経〉 94 95」
となっています。またここに「平手清秀」の「清」・「平野郷」があります。索引では
「平尾久助/平田2件/平手5件/平野/平野勘右衛門/平手新左衛門/平野定久(「平野土佐(守)」)
/平松助十郎/広葉/広橋兼勝/備後(守)→織田信秀
があり信秀で「ひ行」が終わっています。平田平手〜信秀、の間に「平野」がありますから「勘右衛門」
相当の人が「せいひん」の身内という可能性もあります。「平野土佐(守)」は、爆竹@Aのトップに出てるから
よほど重要ですが、志津ヶ嶽七本鑓に「平野権平」がいるので意識は「平野」にあったといえます。
整頓の「頓」があり、「一孤」の「一」・全集の「七」の人でもあり、「太郎」があり、「俗務」は余計な感じ
です。「島・福」は「織田三郎五郎」の「弟」が「安房守」(脚注=「織田安房守秀俊」)なので
島田=秀満=明智秀俊であり、「福富満蔵」は「小瀬清長」に絡んで出てきます。「宗及」は「津田」が
漏れており津田孫三郎をみています。ここの「起請文」は清洲城落城・其年、孫三郎御遷化の一節に
「七枚起請」(脚注=江戸時代では信用できない起請・・・)
があり、この脚注同士の「起請」の連携があります。「元年」というのが天正で出ていますが、清洲城の
落城の四月とか霜月とかは脚注は「弘治」の「元年」でした。勘十郎殿の誅殺は弘治四年〈信長公記〉
となってましたが、これはとにかく甫庵の弘治三年が合っていました。落城は一年前が合いで、弘治元年は
天文二三年になるのでしょう。一五七三の「三」です。「せいひん」というのが「ひら」いてあって、薩摩の
西郷隆盛を特別に引き立てた島津斉彬(なりあきら)の読みが「せいひん」であるのに気づきます。
「成」が「信成」で出てきたので
「清貧」→「成彬」
が斉彬の場合でも成彬が勘違いとしてもでてきます。彬は(邪馬台国)、(義経)の著書がある作家、高木彬
光の彬がありますが名前から感じられるように津軽の人でこの著書は必然のものです。
「池田成彬」
という、慶応三年(1867)生まれ、明治・大正・昭和で活躍した三井銀行出身の日銀総裁であった人
がいますが、その人の名前で一般には知られています。出自が問題かも、となりますが、有名だからその
点もネットで知ることができます。父が「池田成章」といい、米沢上杉藩の町奉行、江戸留守居役など歴任
した大物で、家柄、実力兼ね備わった人ででしょうが、高い教養があったというのは、まず確実なところで
す。「章」というのが蒲生郷の「木村重章」、「初鰹」の句の「山口素堂」の「信章」の「章」があります。芭蕉の句に
「素堂子の寿母七十・・・七年・・秋七月七日・・万葉・・七種・・題・・七人・・縁・・七叟・・
萩(はぎ)
七株の萩の千本や星の秋」〈真蹟懐紙〉
があります。これは素堂を「七」の人といってるのでしょうが、この人は「葛飾派の祖」と書かれています。
芭蕉は「萩」と題してこの句を詠みましたが他の人「嵐蘭」は尾花、沾徳は葛城花、曾良はなでしこ、
其角は藤袴など題に付けています。萩は「草+秋」でこれが二つもあり、秋が四つになり、八つの「七」
があるという一見目立つ句、その意味で特異な句といえます。「秋の七草」「七夕」「北斗七星」とかも顔を
出してきそうな感じですが、ここは「・・・母七十・・・題(目)・・・」も利いてくるのかも。「尾花」は「萩」とかち合うと
小松と云所にて
しほらしき名や小松吹く萩すすき(薄)〈奥の細道〉
の「薄」が出てきて「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で塩の白かもしれないが、
信濃路を過ぐるに
雪散るや穂屋の薄すすきの刈り残し〈猿蓑〉〈〉
があり、「穂屋をつくる穂の刈残しが・・・そのあたりに・・雪がちらついているように感ぜられる。」となって
幽霊は晩秋の薄同様白く感ぜられるようです。「小松」の出た〈奥の細道〉の一節は平家の斎藤実盛がでます
す、平家で小松宰相といわれたのは有名な「平重盛」でここは平家−平が強く出されたところです。
小松宰相は丹羽長重、後年ではテレビで出てきた「小松帯刀」がいます。建部氏で平惟盛の末ということ
のようです(ウィキ)。「葛城」は
葛飾の「葛」で、蔦かづらがあるので蔦にむすばれるようです。
桟(かけはし)や命をからむ蔦かづらかつら〈更科紀行〉
があり「下五」は蔦もみぢもあり、
蔦の葉は昔めきたる紅葉もみぢかな〈信夫摺〉
があり、「葉」「葉」があるから〈万葉〉の昔を言う意味でしょうか。「そら」の「なでしこ」は秋の七草に入って
おり秋の季語ですが「夏」の季語でもあります。
「古き世をしのびて
霜の後撫子咲ける火桶かな〈勧進牒〉」
は「定家」の「大和(撫子)」を踏まえてありこれは、あの大和でそれが古き世といえます。夏の季語の例は
酔うて寝む撫子咲ける石の上〈真蹟詠草〉
篠の露袴にかけし茂りかな〈後の旅〉
露は秋の季語になるが茂りがつよく働いて夏となっています。夏は
「黒羽・・雲岸寺・・佛頂和尚・・・松杉黒・・木啄も庵をやぶらず夏木立啄木鳥がきつつき佛頂物鳥
「平泉 夏草や兵どもが夢の跡
はもう少し古い時代を偲ぶものがありそうです。
従ってこの名前を子息につけたというのであれば島津兵庫頭斉彬が意識にあったといえるのでしょう。
斉彬夫人が池田家の人で、斉彬の弟が池田の当主になってるということです。
(260)津田大隈守
孫三郎殿などには結婚前の子があるので、それも入ってきて池田のようなことが出てくると思いますが、
織田(津田)大隈守
というのは「隈」があり、熊=隈=隅=角=澄、ということで花隈・鼻熊の「池田」に通じており、「澄」は
津田信澄の「澄」があります。これは
「別腹の舎兄三郎五郎殿と申せしは後に大隈守と申せし事なり。」〈甫庵信長記〉
があるから「池田」へもっていくための理屈で次の津田半左衛門は一応安房守といえます。
信長の父の兄弟というと、父が平手氏とすると、その兄弟の池田せいひんが正式の連合いとして入ると
いうことになり、これは土田氏(脚注=信長の生母)−生駒−生田−池田という土田氏側からも池田に
近いということからありえます。
平手清秀 嫡男ーーーー平手五郎右衛門
‖ーーーーーーー織田造酒丞(信長の父)
●(摂津池田氏) 織田造酒丞A
池田清彬(輝)(池田勝三郎恒興の父)
としてみると、つまり●を仮定してみると、信長と恒興の父が兄弟(母は同じ)という場合になります。
いってきたように信長と喧嘩した平手の嫡男が何で「五郎右衛門尉」かという問題が織田の子息五番目
の人を養子にもらったかもと言ってきたわけですが、津田大隈守が池田として、池田恒興が乳兄弟とした
ままほったらかしてある、織田三郎五郎がようわからないということになると、ちょっと見直してみると、
織田信長、太田和泉守は平手政秀@の子、池田恒興は平手政秀@の弟の子となっていて、義理の兄弟
のようなもので、つまり
平手五郎左衛門= 嫡男の平手政秀 と 五郎の太田和泉守
織田三郎五郎=三郎は池田勝三郎、五郎は平手五郎の五郎(太田和泉守)
ということで信長と喧嘩して平手を悩ませたのは織田三郎五郎で太田和泉守となります。太田和泉守は
池田恒興のところにいて恒興は信長に反抗したのでそれを太田和泉守が被ったということとも取れます。
信長の面倒はヒラテがみますから、内藤勝介は自動的に乳母のようなことになると思われます。恒興の
乳母が信長の乳母と理解されてて、池田の養徳院がでてきて、乳首から血が出てきたという癇の強い子
は信長と太田和泉守でしょうから、養徳院と内藤勝介は別人ですが重なっている、養徳院にある物語は
内藤勝介−太田和泉守を語っていることになるということでしょう。織田三郎五郎は
「織田三郎五郎広信」
が年表などオフィシアルで使うことになってるようです。これは
「弘治元年四月(実際は天文23)織田信長、織田広信を殺し、尾張清洲城を奪う。」〈年表〉
があり、、一方、年表では、信秀時代の天文18年などに「織田信広」が、今川戦などで出てき
ます。池田恒興は「信輝(照)」でしょうから、「信」が前に来ているので、これは池田恒興ともとれるところ
です。ただ時代が合わないといわれそうで
信長1534、恒興1536
という生まれだから、天文18年では満13歳で、一人前かどうかのギリギリのところにあります。ヘマもや
っているという感じですから、生没年未詳をきめる材料に迷うところがあります。それが反って怪しい、この
信広(広=こう=興)を池田恒興とみないと、恒興と信秀(織田)を結ぶものは何もないということです。
「伊勢長島」で戦死というのは「津田大隈守・(同舎弟)半左衛門尉」などですが
「織田信興」(文中表記「織田彦七」)〈信長公記〉 (「信長弟」「六男」「伊勢長島」で死)
という人物がでてきます。何となく「信広」を「信輝の恒興」への暗示のようなものと取れます。。一方、
「織田彦五郎」はテキスト注に
「信友(〈尾張名所図絵〉〈名古屋市史〉)。一説では広信(〈愛知県史〉)。しかしともに文書の
裏附けはない。※三八 (改行)
(文中表記)彦五郎 三八 」
があります。ここに「広信」が出てて、これが先ほどの清洲城の悲劇の主ですが、「織田彦五郎」は
「清洲城に据えられし、織田彦五郎殿と云ひしは去んぬる九月に打死せし因幡守の子なり。
清洲三奉行の其の一なり。其の家老に坂井大膳・・・」〈甫庵信長記〉三八頁
というのがあり、坂井の子が「広信」のようでもあります。一見
信秀と信広が戦場に出ていたから、広信は信広の逆の字として関係ありそう、
信友と広信とは「信」が共通なのが目に付くので関係なしとはいえない
というのが第一勘です。清洲城大和守家の当主は三奉行などの勢力関係で決まるのでしょうから、坂井
大膳などの反抗で、平手が和解し、歌を詠んだというたという話もあり、信秀系信友、因幡守系広信
という前後も考えられます。若い那古屋弥五郎も清洲城で明滅しましたが、既述の〈武功夜話〉系図は
「広信」だけはっきりさせており
大和守 大和守 大和守
清洲五郎− 清洲五郎− 彦五郎・広信
があり、これも未解決です。が、基本的に弘治のインチキがあって彦五郎(信友、広信)は死んでおらず、
信長が広信を殺したというのは広信との親しい関係を表していると取れます。
(261)池田八郎勝正
死んでいないとなるとあと
面倒を見ないといけないわけですが信長の兄弟で
信長卿・・・吉法師殿・・別腹の舎兄に三郎五郎・・のちに大隈守・・二男勘十郎殿は武蔵守・・
五男安房守殿、六男彦七殿、喜六郎殿、半左衛門尉、・・・」〈甫庵信長記〉
があり、この「彦七」は、索引では「織田彦五郎/彦五郎/」の次に出てきますが〈信長公記〉索引では
(考証名)織田信興(「(〜1570)、彦七郎。信長弟。・・・長島・・・で自殺・・。文中表記「織田彦七」)
となっていて、これは「恒興」暗示の表記とすると「三郎五郎(広信)」の位置からして、今で言う兄とも
言うべき人が「広信」ということができます先ほど索引で出た「摂津池田(池田市)城主」の
「池田勝正(八郎三郎)」(文中「池田筑後」「池田筑後守」)〈信長公記〉
があり、勝正×正勝 でもあるから、太田和泉守にも近づきますが、この「三郎」が「三郎五郎」の「三郎」
というのであれば、荒木村重、伊丹兵庫頭にも繋がっていきそうです。これは「筑後」、索引で「池田
せいひん」と「池田恒興」に挟まれていたのは「池田丹後守」で「筑後」でないから、池田勝正(「勝政」)
の小説的知識からくる孤立はつなぎ目を失う、本当にガッカリする一字違いです。「丹後」は幸い索引
小原下総守/
小原鎮実(「(文中)■小原肥前守」)(「三河吉田城(豊橋市)。松平家康の攻撃を受けて退去開城。/
御袋様→土田(つちだ)氏/
小原継忠(「信濃伊那郡小原から興る。(「(文中)●小原丹後守」)/
おほて(「荒木村重の娘」)/小山田出羽守(武)/
小山田信茂(「甲斐(山梨県)都留郡」「中津森・・」)
の●で出ており、本文では、「花沢の古城(脚注=「焼津市」)」で「武田信玄」の攻撃を撃退した
■「小原肥前守」の話が出されています。火とぼしの祭りの伝説で武田信玄にやられた、悪領主の「小幡
(信真)」連想がこの「鎮実」)でしょう。ここをわかりやすく変えれば
小原肥前守/信秀夫人(信長母公)/小原丹後守/(大手)(荒木)
となり、ここは「肥前−(肥後)−丹後」がでて「前・後」が土田氏を挟んでいるということになります。「筑後」
−「丹後」も「筑前」−「丹後」という「前後」にかえてもいいのでしょう。
「筑後→池田勝正/筑前守→羽柴秀吉/地蔵坊「相撲」/・・・
という難しい索引の並びがさきほどありました。これは「池田勝正」をどうとらえるかという問題になりそうです。
土田氏は「土田の大原」があり・■と●の「小原」は「大原」に変えられる(荒木の「大」が効いている)、
ということで「土田(つちだ)氏」に兄弟がいたということを表現していると取れます。すなわち注から
○「金」「実」「三河」「吉」「松平」などがある「大原肥前守系」の土田御前
○「信」「濃」「伊」「興」などがある「大原丹後守系」の土田御前A
となるとすると、「信・興」というものが出てきた「丹後守」となると、忙しい池田恒興に挟まれた「池田丹後
守」はひょっとして池田養徳院かもというのも出てきます。まあ池田の家に養子にでもなって「八郎三郎」の
「三郎」を構成したと考えるとなって、いわゆる池田勝正は「筑後」「筑後守」で
「池田八郎」「池田三郎」を表して、これと「池田八郎三郎勝政」〈甫庵信長記〉
の合成かもしれないわけです。「池田伊丹」の行進があって
「忍成寺越えに懸かり、原芳賀谷の険難を経通らんとて、先ず一番に伊丹兵庫頭、二番に、池田八郎
三郎勝政、馬を静めて通りける。其の殿(しつぱらい)は池田が郎等池田周防守、同豊後守、
同備後守、其の比は◆久左衛門、荒木摂津守、其の比は弥助。・・・」〈甫庵太閤記〉
が出ています。「伊丹」は地名から来てそうだから「兵庫頭」と併せてみると仮名的なものになりそうで、
宛てをいって来ていますが、「殿」以後がよくわかりません。こういうのは何かの数合わせとかもあるので
しょうが、
「織田周防」〈信長公記〉(注:未詳) 索引(織田勝左衛門/織田周防/織田藤左衛門
があり、これに池田色が出てくると、何となく感じていた、織田勝左衛門等にに池田色が出てくることにも
なります。「豊後守」は甫庵の「伊木豊後守」しかなかなか見当たらず、のち池田家老の「伊木清兵衛」
が〈太閤記〉などで有名なので、これらは池田家の重臣(姻戚クラス)を指していることは確実といえます
が、伊木−生き−生田−池田−生駒荘=土田 とかの別の意味もふくむものがあるということです。
この意味で「備後守」というのはあの織田信秀もそうですから、◆「久左衛門」というのがどういうことになるか
ということですが甫庵索引では
池田周防守/(同)豊後守/(同)備後守/◆久佐衛門/池田丹後守/池田筑後守/池田孫次郎/・・
となっており索引の◆は「久佐衛門」で本文とは一字変えてあります。この意味は不明ですが、名前だけでも
一人前として、扱うようにいってるとして
〈信長公記〉
(平手)一男五郎右衛門 参考:「池上五郎右衛門」
:索引 「荒木久左衛門/久左衛門/自念/荒木五郎左衛門」
〈甫庵信長記〉
(平手)嫡子五郎右衛門尉 参考「池田久左衛門」 索引 「荒木摂津守/弥助/(嫡子)自然」
があり、「(同)備後守」は「池田備後守」であり、池田の流れの◆は「池田」であり「池田備後守」という
普通の表記になると「池田久左衛門」とか「池田佐久右衛門」となるのでしょう。平手は
平手清秀ーーー織田造酒丞ーーー平手政秀
↓ ↓ ↓
平手政秀@−−造酒正(カミ)−−●平手政秀A
となりそうだ、ということで既述ですが、切腹したのが、年代的に「政秀@」ですが、●が太田和泉守と
同世代の人です。二人の異父兄弟「平手政秀」と「明智(平手)重政」が大活躍する史書は書けませんの
で、平手・池田・荒木の互換性をだした上で
平手(池田) 五郎 右衛門
(池田)佐久 (間) 右衛門 → 佐久間右衛門
という名前で行こ、としたといえます。三間真中柄だと一間半の柄と思いますが、三間間中もありこれだと
二間になるのかよくわかりませんが、真柄十郎左衛門の半分五郎にしています。「丹羽五郎左衛門」の
「五郎」が持ってこられたと思いますが「池田丹後守」が出てくるので「後」から筑後筑前とひろがり、
「池田筑後」は本文で「細川」と繋がります。細川は「丹後」が属性で
丹波丹後守〈甫庵信長記〉
は明智細川の姻戚関係が出ていますが、この「丹波」が「丹羽」で受けられており、丹羽の羽が奥羽の
羽になります。
(262)二本松丹羽
〈奥の細道〉でも「丹後」から二本松の「丹羽」がでてきます。「あさか山」のくだり
「かつみ刈比(かるころ)・・・・二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し福嶋に宿る。」
があり「かつみ刈比」は脚注では
「かつみを刈って軒にふく端午の節句の頃の意」
となっており、「端午」=「丹後」が出てきました。「二本松」は脚注では
「今の二本松市。丹羽左京大夫長次。十万石の城下。」
で「丹羽」「丹波」が「たんご」にツラレてでてきます。「かつみ」は四つ出ており、これに諸説があって脚注では
「・・・古い時代には真菰(まこも)をかつみといったが、時代がくだるにしたがってかつみの正体が
不明になった。・・・端午の節句の頃の意・・・こういっているところをみると、芭蕉はかつみを菖蒲と
考えていたようであるが、なお疑いを持って土地の人にかつみの正体をたずねてみたのである。」
となっています。〈福武〉辞典によれば「菖蒲酒」「菖蒲湯」がでて、いずれも「端午の節句」がでています。
つまり芭蕉は本文にない「端午」(丹後)(単語)と「節句」を出すための便法ともとれますが「勝負」「尚武」
というのもありうる感じです。漢語辞典では「菰」があって
「まこも、かつみぐさ。沼沢に自生し、高さ一、二メートルに達する水草の一種。実は菰米(コベイ)・
胡菰(★かつみ)といって食用にする。」
となっています。芭蕉はかつみの正体が知りたくて「沼を尋ね」あるいたということですが、正体がよくわからないので
★を借りなしょうがない、「菰の実」が効いてくるのでないかと思われます。織田信秀が三月三日(桃の節句)
に「御遷化」で、桃には「胡桃」(くるみ)があり実物に「実」があります。ここで「胡菰」(かつみ)がでました。
つまり「かつ実」があり、芭蕉に創作語もあるとみると
「葛実」「勝実」
があり、実際にも稲荷神の「葛見神社」もあり「勝見町」「胡」が出てきたのが重要ではない
かと思われます。
(263)織田彦七
「信房」「信実」の「実」がでたのが 桃の節句、端午の節句ということから
信秀と信光の御遷化というのを信長の弟という「織田彦七」の
「・・・三男上野介、四男九郎殿、五男安房守殿、六男彦七殿、喜六郎殿、半左衛門尉、中根殿・・・・」
がありますが、この六男彦七殿がこれにかかってきます。二回死んだようなことになっています。索引の位置は
★織田彦五郎/彦五郎/織田彦七(注:考証名=「織田信興」(「元亀元年・・自殺・・・」)
となっています出番は二つで、元亀元年長嶋陣
「尾州の内こきえ村・・・長嶋・・霜月廿一、▲織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。
があり、この「こきえ村」は脚注では「小木江村」となっています。また天正二年、「河内長嶋御成敗」の陣で
「・・・一年、信長公御舎弟織田彦七殿、河内小木江の郷に至って・・御在城の処、先年、信長
公・・・▼織田彦七御腹めさせ、緩怠の条々勝て計ふべからず。・・・御成敗御延引・・」
があり、ここで「題目」「成敗」「先年」覚えとこということですが、▼の死があります。この「先年」は脚注では
「元亀元年霜月」となっています。いま一つのこと
だけ目的的にいうと年代差のことがあります。〈信長公記〉に「元年」があるのは、「元亀元年」だけですが
「弘治」を設けたので「弘治元年」が間接(脚注に)に出てくるとになっています。甫庵では「弘治元年」
「天正元年」があるから、対比は可能で、▼の上の「一年」は元(去)年という意味になります。つまり
首巻は、「天文」「弘治」しか年代は出てこない(桶狭間の戦いも「天文」)
巻一は、永禄11年からスタートしてるので「永禄元年」は対象外である、巻二は永禄12年
巻三は元亀元年
巻六は元亀四年
巻七は天正二年
巻八は天正参年(この「参」は一年がないことを言ってるかも)
巻九は天正四年
となっています。この「元年」−「元年」が効いて
きて、「先年」は「弘治元年」もありえる、この元年間の差は15年あり、一世代違います。まあ親子二人を
みて▼はよく読むと生きてそうだということになります。★の彦七もその右の織田信興を世に出して消えた
存在といえます。その次の喜六郎殿も二人らしく、「守山城主織田孫十郎」の所にいた「洲賀才蔵」が
「勘十郎殿御舎弟喜六郎」
に矢を射かけると、馬上より落ちたので見に行くと
「上総介殿御舎弟喜六郎殿」(女と見まがうような「美麗人にすぐれ」た「御方様」)
であった、という話ですから、感違いだったと取れますし、瞬間変身したとも取れるもので、孫十郎が
「充(アツ)と肝を消し」脱走してしまうほど驚いたということです。守山城主孫十郎の「舎兄」が「勘十郎」
となっています。したがって孫十郎は孫三郎の子と一応考えられます。怪奇な話で陰山掃部助が寺内
から二回飛んできた矢で目をやられた事件は織田信秀の遷化の原因とみてきたことは既述ですが、
孫三郎殿のも遷化がでてきました。事件の記事は、
@「陰山掃部助・・牛屋の寺内・・寺内より流矢来つて・・左の眼・・射・・矢・・矢・・右の眼・・射・・
両眼射・・悪七兵衛景清・・あさ丸・・千秋紀伊守・・目・・丹羽五郎左衛門長秀・・眼・・目に祟り
長秀・・熱田大明神・・眼病・・」〈甫庵信長記〉
・ A「・・千秋紀伊守・・景清・・あざ丸・・刀・・陰山掃部助・・・・大柿・・うしやの寺内・・成敗・・床木・・
弓・・木ほう・・虚空(そら)・・陰山掃部助左のまなこ・・矢・・矢・・右の眼・・射・・惟住五郎左衛門
・・五郎左衛門眼病・・目・・風聞(ほのきき)候。・・熱田大明神・・目もよく・・なり候なり。」〈信長公記〉
で両方に「目」が働いています。これは織田彦七の死の「是非なき題目なり。」の「目」でした。
信秀・孫三郎の遷化は退場があって
二回目の退場を作る、織田彦七の場合と同じです。織田孫三郎の遷化を説明するため織田彦七の
例が朝出されたと思われます。清洲城落城のくだり
一、四月廿日 ・・・坂井大膳・・・風をくり逃げ去り候て・・今川義元をたのみ在国なり。
織田彦五郎・・腹をきらせ、清洲の城乗取り、●上総介信長へ渡し進せられ、孫三郎殿は那
古野の城へ御移り。
■其年(脚注=弘治元年1555))の霜月廿六日・・・孫三郎殿御遷化。・・・
一、六月廿六日(脚注天文二四年1555)、守山の城主織田孫十郎・・・
において坂井大膳が今川へ去ってから■の訃報があるから、坂井大膳の孫三郎殿御遷化に対する
無罪をいってることになります。現に、信長がやったのだろうという推測がされています。しかし「佐々孫
助」など六人は、下手人だろうというので「熱田の田島肥後守」の「所」へ落ちてきた「坂井孫八郎」を討って
「したりや矢島六人衆」と片言の嬰児まで口号(くちずさみ)というほど褒められています。「佐々孫助@」
は武井夕庵の幼名となりますが、これは「肥後守」がでたし「田島」も「島田」になりやすく、「五郎左衛門」
も夕庵相当といえます。なにより「六人衆」の話を信玄にして「平田三位」「有閑」、弓三張の
「太田又介・堀田孫七」
の名前を出した天沢と「六人衆」で連携されています。堀田孫七は「孫七」が「孫八郎」にいくので〈前著〉
の坂井という引き当ては一つ合っていそうです。「堀田孫七」の左に「堀田左内」がありました。
「陰山掃部助A」が織田孫三郎殿で、こときの寺内からの矢の災難が、御遷化の原因と考えられます。
(264)織田播磨守
「陰山掃部助(かげやまかもんのすけ)」は信秀とみてよいのですが、誰にやられたかというのが信長記の
はじめの終わりといっても過言ではなく、全体読んで、戻ってきてやりなおす必要があるものです。すなわち
、怪奇・仮名の語り、すんなり読めない語句、ストーリーがあって、これだけ見ていても永久にわからない話となって
います。ただ織田信秀の斎藤攻め稲葉山城下での大敗「五千ばかり討死なり。」の直後の一節(五)にあり、
犯人も書いてあるので、重大だ、大将の身に起こったことだということがわかります。
「(五)先年・・・濃州大柿の城へ●織田播磨守入置かれ候キ。
去る九月廿二日(脚注=天文十六年)、斎藤道三大合戦に打勝て・・・近江のくにより加勢を頼み
▲霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候キ。
ココに希異(けい)の事あり。・・千秋紀伊守・・景清・・陰山掃部助・・大柿・・うしや(脚注=牛屋山大日
寺。遮那院ともいい、大垣八幡宮の別当寺)の寺内・・・成敗・・弓・・城中より虚空に・・くり・・陰山掃部
助左のまなこ・・矢・・・矢・・右の眼・・風聞(ほのきき)・・熱田・・熱田大明神(脚注=名古屋市熱田区
新宮坂町鎮座・・草薙剣・・伊勢神宮・・につぐ尊敬・・境内には織田信長が作った信長塀・・)・・目・・
(六)▼霜月上旬(脚注=天文十六年)、大柿の城、近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻寄るの由注進
切たり・・・霜月十七日、
■織田備後守後巻として、又頼み勢をさせられ、木曽川・飛弾川、大河舟渡しを越させられ、美濃
国へ御乱入・・あかなべ・・・道三仰天し・・・井の口居城へ引き入るなり。か様に程なく◆備後守殿
軽々と御発足・・」〈信長公記〉
があり●の人物の寺内から矢が飛んできました。これは
「出羽大宝寺」「出羽大宝寺(たいほうじ)」〈信長公記〉
が、注などで「大宝寺」だけとりあげて「大宝寺義興」、「出羽大宝寺(庄内市)」を出し、「出羽大宝寺」とし
て、「武藤義興」「鶴岡市の大宝寺城」というものをだしています。地名、城名、城主名を一体として、「出羽」
を出して、寺は城というものをだしています。芭蕉にも「大聖持(だいしやうじ)の城外」があります。また
「城中より虚空に・・」があり大垣城の●が犯人であるといってるのは確実のようです。信秀は稲葉山へ大軍
を動員する前に大垣に●を入れて、道三が勝ちに乗じて大垣に攻めてきて信秀が応援に駆けつけて
寺内からの矢にあたった、つまり味方にやられたらしいということです。▲▼が脚注では同じ天文十六年
となっており、これならば■は織田信秀となるのでしょう。現に織田信秀は不屈の闘魂の持ち主ですぐ立ち
直り、道三に一泡吹かせた、タイシタモンダという本もありました、■のあとの「頼み勢」というのが信秀の
属性で、(四)のはじめに
「去て備後殿は国中頼み勢をなされ・・・美濃国へ御乱入・・・九月廿二日斎藤山城道三・・押詰・・」
となっていてこれは信秀でしょう。この場合◆も信秀となりそうです。しかし、(五)(六)の間にに事件が
あって、空一行があって「十七」がありますか天文十七年のことと考えられます。■と◆は同一人物に
なり、攻められた●織田播磨守以外の人物となります。●を誰にするかという時に
織田信秀
‖平手氏
‖孫三郎
土田御前ーーーーーー織田信行・織田信勝・織田勘七
において土田御前(孫三郎)のペアに任せておけば大柿(大垣)は安泰といえそうです。索引では
織田信行/織田播磨守/織田彦五郎(「広信」「信友」)
で「広信」と坂井大膳との関係は
「清洲の城守護代織田彦五郎とてこれあり。領在の坂井大膳小守護代なり。」〈信長公記〉
「清洲城に居られし織田彦五郎殿と云ひしは去んぬる九月に打ち死せし因幡守の子なり。清洲三奉行
の其の一人なり。其の家老に坂井大膳、同甚助・河尻左馬允など・・・」
「片長(かたおとな)坂井甚助討死。頸は・・・柴田権六・・」「柴田権六・・・清洲へ出勢」
があり索引では、
@坂井甚助(清洲の織田達勝老臣)/A坂井大膳/B坂井忠次(文中「坂井左衛門尉)
となっており@Aは〈首巻〉にしか出てこず、Bは巻七で初登場です。したがってABはAが幅が広い
ことが考えられ、AB親子か兄弟かわからないが関係が深い、と考えられます。一応は坂井大膳を父と
する子が織田彦五郎広信といえそうです。
「坂井大膳」(「(同)甚助」もある)ので「甚助」が重要ですが、「片長」となっており
坂井大膳・坂井甚介・河尻与一」
もあるとすると、 坂井大膳
‖坂井甚介
河尻与一
もあるとすると坂井大膳の幅が広がります。甫庵索引に「坂井大膳/大膳大夫」があるから、予想がつくところ
ろですが両性で見ることになるからこの働きが大きすぎて戦国の人的面の様相を変えてしまいます。
この坂井甚介を討ったのが柴田権六で、これは清洲に関係がありそうで、土田御前の信秀との結婚前の
様子がよくわからないので、まあ
柴田角内〈信長公記〉 索引では「柴田/柴田角核内
‖柴田権六(考証名「柴田勝家」の文中表記の一つ)
土田御前ーーーー(柴田勝家)=信勝
とみてましたが、そうとしても権六ほど強い大将はそうはおらず、またこれは誰か、という問題がでてきます。
(265)坂井右近
清洲に関係あるとすると坂井大膳もありえるかも。坂井大膳は、注で生没年はなく、
「清洲城の織田達勝の老臣。後の坂井右近尉政尚かもしれない。」
となっていて、坂井政尚をみると、生没年は没年だけで
「(〜一五七〇)。右近尉。元亀元年(一五七〇)十一月浅井方の近江堅田城(大津市内)を攻めて敗死。」
となっており、姉川合戦で織田の先陣だったから織田随一の戦闘大将といえますが、このとき浅井の磯野
丹波守の猛攻が有名で敗者の汚名を蒙ったということになってるようです。しかしこの戦い語りのベースに
なったのは〈甫庵信長記〉でしょうから、徳川を立てた記述になっていて、〈類書〉でも朝倉と戦っていた
徳川家康が、その手勢を割いて、浅井勢を榊原小平太が横撃したのが効いて勝利に導いたということで
す。「榊原小平太」は甫庵索引では、
酒井左衛門尉/(子息)与四郎/榊原小平太/逆川甚五郎
となってるから「与四郎」に近い感じで「五」が後ろにあります。〈信長公記〉では
坂井与右衛門/逆川甚五郎/榊原康政(「榊原小平太」)/●相模国北条氏政→北条氏政
となっています。●の解釈がむつかしく、あの北条氏政でない人物があるようです。甫庵索引では
北条氏政/ ■北条左京大夫氏政/ 氏政/北条
があり、■の「左京大夫」が効いてきて、本能寺のときの関東のくだり滝川一益
「かくて一益・・・先ず北条左京大夫氏政と一戦を遂げ、その後八州の仕置き・・・」〈甫庵信長記〉
があり、■は、榊原に誘われて「酒井左衛門尉」であったといえそうです。戦闘の相手は徳川という作戦がでたっよう
ようです。小平太は秀吉を猿面呼ばわりして追撃したことは知られていますが、坂井左衛門=さる=坂井
さえもん、があるのを知っていたといえます。榊原小平太は酒井の子息かも、というのが出ています。
坂井政尚が磯野員昌に敗れた弁護からここまで長引きましたが
磯野「五千」、坂井「二千」(甫庵)の激突だったから負けるのは当然ですが、織田が縦陣だったと取れるか
ら、もし磯野が1100やられ、坂井が1000やられ、大将が生きていたのだったら、軍の再編が可能で坂井が勝ち
となりそうです。坂井が責任を感じ、堅田の戦いで無理な戦いをしたーーー信長のきびしさーーーという語り
になっているのはありえないでしょう。磯野丹波(守)がのち「逐電」してしまったので、索引の並びから近江の堅田の
子息(居初又次郎)が頑張っているので応援したろ、と行ったといいましたが、これはあね川で鉢合わせとなった
坂井がまた堅田へ出てきたということで合ってそうです。またこの磯野はこの前に「信長」暗殺事件の犯人を
捕まえています。
「・・杉谷善住坊・・・鉄砲の上手・・。先年(せんねん)(脚注=「元亀元年(一五七〇)」)・・信長千草
峠・・◆佐々木承手禎に頼まれ・・二玉・・十二・三間・・打申候。・・鰐口・・杉谷善住坊・・鯰江香竹・・
高嶋・・・磯野丹波召捕・・・成敗・・・」〈信長公記〉
があり、ここに「先年」があり、「先年」を伝って「元亀」の「元年」が脚注で出ましたが、「元年」は、また「弘治」
の「元年」があり脚注では弘治元年に清洲城が信長の手に入った(名目では尾張の守護となる)という年
ですから、そこへ飛ぶことにもなる一節ともなりますが、ここに「磯野」が出てきて「丹波」といえば「丹後」の
の裏か表であり、「丹羽」が「たんば」と読まれても問題ないはずです。「磯野」は
東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる
の「磯」でもあります。
(266)扶桑
東海の小島は大陸からみれば、日本列島でしょうが、芭蕉の「雄嶋の磯」は「松島」
のくだりで出てきて
「・・船・・松嶋・・雄嶋の磯・・。松嶋扶桑第一の好風・・凡洞庭・西湖を恥ず。淅・・松の緑・・其気色よう然と
して美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。・・・松の木・・松笠・・庵・
松嶋や鶴に身をかれほととぎす 曾良
・・旧庵・・(山口)松嶋の詩・・・・原安適松がうらしま・・・」〈奥の細道〉
があり、「扶桑」は脚注では「東海中にあるという神木で、日本の異称となる。」となっています。今の東北は
ここで扶桑の中に入ることはわかりますが、どこから、どこまでが扶桑か、範囲などがよくかわかりません。
脚注では、@「洞庭湖」・A「西湖」は、それぞれ
@「中国の湖南省 にある大湖。岳陽楼で 名高い。」(空白はテキストにはない)
A「中国の淅江省抗州の西にある湖。風光明媚な湖として名高い。」
となっており、「名」「高い」、「名」「高い」があって「高句麗」の「高」と繋ぎたかったと取れます。そら遠すぎる
るというならば、中国が出てるから遠すぎるということはないが芭蕉は越後の高田に三日いたから、それでもよく
陸前高田があります。ここに松がたくさん出てるから松の高田には意識があります。高山(こうざん)を経て
戦国の高山へ行くことになります。脚注に「湖南大湖名高江州西湖風光明」が出ていますがこれは南化
和尚の「江州安土山記の事」に納まっている語句で、麻生磯次氏が芭蕉はここを、安土記を見て書いてる
といってると思います。簡単に言えば「西湖」「扶桑」が南下和尚の文に出ています。再掲
「日域六十六州の一州を江・・・葛原帝王・・・平清盛・・廿一代・・天正四年・・石・・斧・・三年・・
西湖・・六十扶桑(脚注=日本六十州)・・蓬莱三万里の仙境・・岐下沙門玄興・・」〈甫庵信長記〉
の「西湖」「扶桑」があり、「蓬莱」を呼び出すので、「扶桑」と「蓬莱」の関係(違い)というような難しいもの
が、説明不足のまま出てきて困ることになります。つまり「扶桑」の甫庵の脚注は
「日本六十州」
となってるのに、ここではない別のところの「蓬莱」の脚注は
「仙人の住む山。」
となっていて、まじめと不まじめ、60と30000という単位の違う数を出したり、日域は66がでていたり、してい
ます。いま違うことを言ってきた立場からみれば、手痛い文献のたよりなさです。蓬莱の頼りなさは太田牛一は
本文で補っているので問題ないことです。そのあたりの知りたいところに注が抜いてあるので、伝って行けない
ところが飛躍ととられて説得力がなくなる、そういうように仕組まれているのでそうなります。
(267)蓬莱の仙人島
上の「日域」が出てくるのが、またもう一つ「扶桑」「蓬莱」が出てくるのが「作物記の事」の一節です。
「孟嘗伯周、合浦(がつぽ)の守宰に任ず。・・・{合浦前守宰・・宝珠・・・孟嘗伯、合浦の官令たり。・・
宝珠・・}・・・今や久秀・・宝壺如意珠・・玄又玄・・意(おも)はざりき、●日域の海隅に、腹た合浦の
孟伯周を観(み)んとは。(「観」は「者+見」の字)
秦の始皇帝、倭国に蓬莱の仙嶋有るを聞きて、徐福を遣わは、長生の薬を求めしむ。除福、南紀
の金峯に至って東駿の富士に止る。此等の地を指して以つて★蓬莱とす。蓬莱の方壺皆神仙の一
霊境なり。・・六椀にして仙境に通じ、七椀にして蓬莱何れの処にかある。茶は是れ仙家の瑞草
なり。・・・・身裡七十の蓬莱、三万の弱水、歩むことを移さずして、而して自づから山頂に至る。
延寿還童、顔色桃花の如き者必せり。然れば即ち此の一壺あ如意上々の宝珠なり。・・・
以て塵視塊看護すべし珍重至祝。
松氏(脚注=松永久秀)予に・・・・・
■時永午夷則如意珠月 万年亀洋派下巣葉懶安叟 」 (「永午」の)脚注=永禄元年)
〈甫庵信長記〉
があり、■のわからないもので締められていることでも、倭国・徐福と結びついた蓬莱がでてきたことでも
既述のところのものですが、「相国寺」の惟高和尚の書いた文です。●で「日域」がでています。すなわち
「合浦」のあるところが日域です。「合浦」は脚注では中国の
「広東省う海康県治」
となっておりここの太守が、「後漢上虞」の「孟嘗伯周」です。これは華南省の西の広東省なので久秀の
居る舞台から、離れすぎてて、これを出してきた意味がわかりにくくなくなり、宝珠の乱穫をやめさせ、元に
もどした「孟嘗還珠」の功績が「久秀」のそれにふさわしいという意味だけになりました。
(268)合浦公園(2)
ウイキペデイアの「合浦」をみますと中国においては「合浦県の地名」となってて、
「朝鮮の地名については馬山市・・・・日本は青森」
となっています。青森市には「合浦公園」があって桜670本、黒松700本植えられ、人気のスポットなって
います。芭蕉に 「 黒森(くろもり)
黒森をなにといふとも今朝の雪」〈五十四郡〉
があり、「黒」「白」の対比がでています。石川啄木の歌碑もあり、
船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思えば〈一握の砂〉
という歌のようです。津軽海峡−青函連絡船−羊蹄丸 という感じです。津軽海峡へは北海道から「亀田
半島」「松前半島」が出張っています。「石川」は
〈万葉集〉の 「石川郎女(いしかはいらつめ)」(系譜・閲歴不明)
が啄木の念頭にあるのでしょう。大津皇子との贈答歌があって
{大津皇子、石川郎女(いしかはいらつめ)に贈る御歌一首}
一〇七 あしひきの山のしづくに 妹(いも)待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに
があり、これは持統朝ではなく100年ほど前の推古朝(蘇我馬子の時代)の{大津皇子}かも。この「いも」が
啄木の歌の「いもうと」に影響が及んでそうです。桜井満氏、テキスト注では、別口の「石川郎女」があり
「久米禅師と歌を贈答。」
があり、「久米」が使われています。〈奥の細道〉山中のくだり「長谷部」「久米之助」が出てました。
三譽の松もここにあって、これは黒松の老松ですが、弘前藩主が毎年、酒を献上し松の下で
酒を飲んだようでその酔いが歌の酔いにあるかも。啄木⇔木啄で木啄(きっつき)も〈奥の細道〉で、出て
きます。これは「物部」と「仏佛和尚」にかかりますが一方で別のものが生まれます。
(269)川中島の戦い
永禄4年、川中島武田上杉戦、山本勘介一世一代の“きつつき”作戦があり、上杉謙信が一騎打ち
の場面を作り・武田信玄を討ちもらして、双方計、七・八千の戦死者を出して戦が終わりました。
この戦い武田軍二万、上杉軍一万三千、が参加、武田軍過半12000、妻女山の上杉陣へ進軍、上杉軍
を誘い出し、信玄本体と挟み撃ちするという
ようなものだったようですが二手に分かれて(時間差を設けて)山を攻めるというのとどう違うのか、囮部隊
の方が人数が多いという新味があり上杉の出方を見るという高度のものもありかもしれませんが必勝策とも
いえないものです。
戦いのオチからみて山本勘介は上杉謙信一人を狙ったといえる、山を降りて戦う
一隊があれば必ずそこに上杉謙信がいるというような、よくある話の作り手が山本勘介といえるかも。
後藤又兵衛が、細川忠興に、隣藩黒田と戦う羽目になったときのことを聞かれて、会戦して先頭になって
せめて来る何人かを撃ち倒せばそのなかに長政が入っているから必勝、と答えています。山県昌景、馬場
信春などが妻女山に出た、一方、入れ違いに上杉軍は、本陣を出て、霧を利用して武田前面に全軍集
結してたというのだから、兵数の不足はカバーでき、山縣・馬場などが戻ってくる間の、時間との勝負、
上杉軍、武勇絶倫の先方大将、柿崎和泉守兄弟、まっしぐらに武田本陣突進と思いきや、ややこしい車縣
り戦法で回りながら攻めて優勢を築いていった、その間に、どこから出てきたかわからない上杉謙信が、柿崎
兄弟も近づけなかった信玄に一太刀浴びせています。これは桶狭間の二元攻撃の繰り返しを演出したと思われ
ます。
上杉謙信、蒲生氏郷が先頭に立って戦うタイプで、
「@氏郷銀の鯰の尾の冑の緒をしめ{A氏郷の許に新たに仕ふる士に、我家にて銀の冑を著たる兵、
度(たび)ごとに真先に進み出て働くなり。此男に劣らずふるまふべしと言われけり。氏郷彼(かの)
冑著て毎(いつ)も真先にかけられしとぞ。}・・・B蒲生左衛門郷可・・・」〈常山奇談〉
などの伏線がありますが、今川義元、武田信玄などは戦闘の外にいるタイプと取れます。{ }内は細字
で、@Aの氏郷が違い、冑も{ }内は「鯰の尾の兜}ではなく「彼(かの)」といってるのは「銀の冑」を指して
いそうです。@の前に「蒲生源左衛門郷成」が出てて後ろに、Bがあり、「源左衛門」が前面に出ていたよう
なので、まあ、どこの戦も全部総大将は後ろで、国が負けないようになってたと思われます。この戦いで結論を
だすことが迫られていることが多く、信玄弟、敵も味方もその戦死を惜しんだという名将、
武田典厩信繁〈類書〉
の戦死もその一つでしょう。つまり兄弟、弟という問題も潜んでいると考えられます。まともにとりあげないと
いけないこと、男性か女性か、生存してはいないか、官名や厩舎のこと、信繁→小山田信茂、真田信繁
(幸村)などへの波及などのことです。ほかの語りと懸かっているというのが、わけがわからん、となるところ
で、社会のこと
を理解しうるモデルを出して語るところに著述意欲があるものとすれば、いらいらが入ってきて結論をいそ
ぐと、大きなものほど見えにくくなるところです。今日的なスマート、スピード、ストレイトとだけでは、ゴツゴツし
てるから、一見まあ全般に触れないといけないと感ずるところ
○天文21年(実際は永禄三年)が桶狭間の戦いで、この戦いは桶狭間翌年だから天文22年の
戦いとなる、永禄4年は弘治4年勘十郎死亡の記事が出ている。桶狭間を語る何かがこのとき
の戦いに入ってている、謙信信玄の一騎打ちの戦い、迂回戦闘などがある。○弟のこと、兄弟のこと
○戦いの場所が八幡の原、将軍塚古墳などをバックにした、古王朝のもの、武田・上杉はその語り
手である、○川中島四郡は森(勝蔵)の領地である−海津城が出てくる。○妻女山はほかの名前もあり「石川啄木」の
歌にある「妻」、〈吾妻鏡〉の妻も意味がよくわかっていない。○柿崎和泉守(大和守)は室町時代に
作られた蝦夷担当組織(後年の柿崎波響の家の「柿崎」と思われる)が意識されており、北海道に
目が向けられている、○武田義信、山本勘介、武田信繁、高坂昌信、・・・上杉政虎、柿崎景家・・・
などのことがあって目的外の語りが主眼となっているので事実の記録としては物たりないところがあると
いうことになるのでしょう。2件だけあげてみれば
例えば、武田信繁のことでいえば、生存説がない
のですがこれは生きと思われます。すなわち、その後活躍している人で、人名索引でみれば
・・/武田左兵衛佐/●武田左馬頭/左馬頭/武田左馬助信豊/左馬助/・・ 〈甫庵信長記〉
があり、●が誰のことやらわかりません。「武田信繁」は、後ろの「武田信豊」の父とされていますから、
信豊と関係が深いと思われますが、「武田左馬助@」としてもその後存在しえます。また甫庵に
「典厩」
という表記があるのに索引では「て」行でも、ここでも漏れています。一方〈信長公記〉では「武田信豊」
は考証名となっており、文中表記は「典厩」ということです。人名注は
「武田信豊(〜1582) 左馬助。信玄の弟信繁の子。典厩とよばれた。信濃小諸城主。(改行)典厩」
となっており、登場回数8頁に渡っています。これにも間違いがあって
「典厩舎」「武田典厩」「典厩一党」と三つ
あるのに一つに括っています。「典厩一党」には「典厩」が主という意味合いがありそうで、信玄の右腕
として武田をまとめる功績があった人と取れますが、連合いは誰ですか、と聞くと、そんなもんわかる
かい、妻女は家にいるのに決まってる。、通説はちゃんとあるからそれを了解することになってる、という
のが効いてきて、生存説はゼロということでしょう。
「典厩」はずっと使われて、「信繁」の「典厩」はしられていても異論は
でないという不思議な統制が効いています。親子同表記があることがここで出ています。また
信豊の「豊」が宙に浮いてるのでそれでよいか問題もあります。甫庵は、「信豊」をフルネームで出した
意味は何か、「豊信」とすると人が変わる場合があります。すると「武田左馬助」は同表記で、人がかわる
ことがあるのかも。先に出た「陰山掃部助」も寺内からの矢で左目をやられた人、右目をやられた人がある
から、前者を「陰山かもん助」、後者を「蔭山カモン助」とみることができそうです。
「織田信秀」「織田孫三郎」
がやられたということにもなるのでしょう。「大津皇子」も「皇子大津」もあるから、いわゆる大津皇子も
オオツ皇子、 大津皇子、があり聖徳太子もも本来は太郎の太だから、男性もありえますが、これも両性に
なりえると考えられます。今の段階ではこう思いながらやってるということですが、それはわかったとしても、
これらを強調すると、この戦いはそういうのを明らかにするために作られた戦いか、知りたいということに
なるし、仮に戦いがあったというなら両方あわせて8000も死者を出すのはどういうことか上杉は30%もやられ
たというなら、おかしいというなら、本当にそうかということを、いろんな引っ掛かりが増えたその関連の拡大を
を利用して、損害ゼロといってるといえるなら、また外のちょっとおかしいと思われる部分が氷解したという
なら、相互証明が働いてきて、事実として確定しできそうです。ちょっとおかしいということは永禄四年だった
ということですが、誰も永禄一年だったという人もないから外しといて損害だけでいえば、川中島合戦は
五回あって四回目、永禄4年死者八千の惨事となったいうことです。甲陽軍鑑は間違いだらけといいながら
この戦いがあったことは否定する人はないようです。これは双方ぶつかった人数が
8000と8000、死者が4000と4000の8000
という設営になってると取れそうで、武田20000で妻女山12000割いて8000で、上杉が13000で、5000
をほかに割いたという話があって5000を引くと8000の対峙となります。割いた5000は2000ほどは妻女
山からの帰りをさえぎる鉄砲隊を主体とするものと覚えていますが、すると3000がどこかに消えたのでどう
したかということになったりします。よくわからないからもう適当なところで、やめとこ、このあたりだろうとすて
おかれたところがこの数字だろうから、共通の認識というのがスタートになる、文献は問題なさそうなので
ありがたいところです。
軍隊は動かすことが最大の訓練であり、領民へのPR・示威行為になるので、致命的なダメージのない戦いが
目論まれますが現に、四回目の戦い以外は大したことがなく、この戦いが腑に落ちないということです。事実の
一端をどう語っているのか、甲陽軍鑑について湯浅常山は相当ページを割いてますのでこれらを見ないと
いけないのですが、ウイキペデイアなど集約された知識もみなもっています。前半、上杉の勝ち、後半、武田
の勝ち、戦死は上杉がちょっと少なくて、武田4000、上杉3000
となってますから上杉の勝ちといっている、秀吉も同じことを言っています。「はかにもならない戦い」と
いってるようです。秀吉はあの和泉でしょうから禄でもないことをいってるかも。
前半 4000、武田戦死、後半 3000 上杉戦死となっててこの半は時間の前半の「半」もあり、数字の
にかかる半があります。これだと武田2000,1500となりますが前後あわせて、8000の半・半で1000
秀吉の「はか」はなにかよくわかりませんが「破瓜」もありえるかも。16/64=0.25
8000×25%=1000この半分
両軍500ほどで上杉がちょっとすくないといえそうです。
車懸かりの懸も「懸かる」のいみがあり、こういう計算を可能にすることを暗示してると思いますが、この戦い
上杉は逃げなければ負けで、当たって逃げて武門の面目をたもつしかなく関が原の島津の退却の仕方
をやったと取れます。
(270)島津の語り
「島津の退き口」
として有名のものです。この退却は家康本陣に向かって猛進、そのまま行くかと思いきや、家康の前面で
突如、右旋回して、島津義弘(「兵庫頭」)は逃げ遂せ退却成功例と讃えられているものです。島津は、
人数、1500程度だったようだから、大軍に揉まれて部隊消滅ということになりそうですが、退却に成功と
いうのは、大将の島津義弘が助かったからで、本国では討死してくれた方が、反抗責任者が死亡で謝り
やすい、また薩摩の武名があがってよかったと思ったのか、義弘が帰ってきても長期間入国させなかったと
いうことです。まあ家康に刃向ったので遠慮した、歓迎騒ぎにならないように配慮したのでしょう、義弘が
生きて帰ってきたおかげで関が原島津の敗残兵は、大変な英雄として迎えられています。義弘が討死して
いたら大将を死なしてしまったではないかとなるところです。義弘よく生き延びたといえるところですが、細かい
記述もあり、福島正則は、逃げるつもりと察したのか、攻撃を躊躇したようです。逃げてくれたらいいとか、臆病
とかではなくて攻撃してこれ以上損害を出すことはさけようというものが働いた、という間もあるし、百戦錬磨の
対応もやはりありそうです。上杉謙信のこの戦いも、最後に逃げたというのが、重要だと思われます。
馬車の車輪ののような円弧を描き、武田の本陣の前方に横合いから突っ込んで、隊列を横切って逃げた
と思われます。こうする場合、最も負荷のかかる部隊は先陣の柿崎隊(道を作る)と、最後尾の甘粕隊で、
甘粕に対する言及が多いのは、徹底してやられるのはここだと見られてるからと取れます。相手の出方
次第といえます。甘粕近江守は三日ほどここに踏みとどまって退却を助けています。甘粕Aは
上杉謙信で越後への地点にて味方を戻すべく踏みとどまっていた、と取れます。あの武田信玄は安全な
海津城にいただろうから、あの一騎打ちの話は、なかったということになりそうです。
この戦いが永禄四年になっていると、永禄三年の桶狭間の義元の戦死の地が二つあるというようなことが
理解しやすくなります。津波は低い地に流れるというのであれば今川義元の居たあの場所−狭間・桶谷
は太田和泉守の天下布武の着眼のポイントになりかねないということになるのでしょう。信玄はその轍は
ふまなかったというならば「海津城」という高みいたというのがでてくることになります。尾張の「海部郡」が
脚注に多用され「海」の配置によって暗示効果をだしているように、この「海津」も〈甲陽軍鑑〉始発のよう
だから、また〈甫庵信長記〉に
「尾張国海津合戦の事」(「天文廿年八月十六日の辰の刻より申の刻まで」)
があり、「海津村」が出てきます。〈信長公記〉では地名索引で「海津」は
甲斐→甲州/海津 121 /海津浦/貝塚/海津口 31/海東郡→尾張国海東郡/・・・/甲斐国
となっており、121ページには、なんぼ見ても「海津」はありません。31ページには「海津」があり、間違う
とる、と書こうとして、念のため、よくよく見れば「海津口」もありました。実際は縦書きだから、121も、31も
細字で、縦に書いてあり、 海津/ /海津口
一
二
一 三
一 (まあ三が一+二に見える)
となってるから、一字で、たて数字の二字分の大きさになっており、もう少し詰まった感じでページ数が
出てることになります。したがって「海津」の分は「三一」と読めるやろ、そんなら合うてるやろ、というわけ
です。三一頁に、「海津」と「海津口」の二つとも出てしまってるから、「海津」というのは見逃されやすい
のもこれで防がれているということもできます。うしろに、ほんまの位置に「甲斐国」があるから、前の「甲斐」
は、尾張で出てきた「海津」を「甲斐」の方へ持っていった、甲斐でこの海津を使うという意思表示が
あるということが察せられます。「口」は(空き)もあるから「城」が入るのかどうか。
〈甲陽軍鑑〉の著者は、天文22年に武田信玄が海津城を築いたと
書いてるようで、少なくも天文22は間違いだといわれてるようです。桶狭間に{中嶋」(砦・取手)の戦い
があって、「川中島」の「中島」とは関係ないだろう、と判断してしまいますが「中嶋」の戦いのくだり信長
の檄(げき)があって
「懸(かか)らばひけ、しりぞかば引付(ひきつ)くべし。・・・」〈信長公記〉
がありこれの脚注が
「敵が攻撃にでれば退き、後退すれば追撃する。甲斐武田氏の軍法も同じであるという。〈豆相記〉」
があって、突然、川中島・武田に話をもっていってます。まあ上杉との戦いにおいて武田
もこの方針で戦うということにしてたのかも。今川相手の織田も、桶狭間までに前哨戦があり、この路線で
戦ってきてたともとれるところです。要は甲州の軍記で桶狭間など織田軍記のなぞを語り、それで甲州の
軍記なぞは解ける、甲州軍記を見て太田牛一の布石が読み取れ、〈信長記〉がわかってくる、相互の証明
を読み取れというのがこの脚注の趣旨かもしれません。それにしては121ページに「海津」を運んできて
それが幻覚だったというのはちょっと解せないので、いいたいと思っていることと繋がるものか、やっておいて
も損はないとはいえます。121ページには、極端に絞りますが、次のようなものが出てます。
「・・御和睦(くわぼく)・・上下満足・・・坂井右近・安藤右衛門・桑原平兵衛・・中入・・越前・・口々・・
高名・・波・・寒天・・深雪・・北国・・公方様・・朝倉・・無為(ぶい)(脚注=「ここでは和平、戦闘停止の
意。」)・・三井寺(脚注=「園城寺。大津市・・。天台・・。宮廷と将軍義照が・・・さとしたのは信長の
申請による。」)迄公方様御成(なり)・・・御和談相究・・高嶋・・大雪中・・磯の郷・・」〈信長公記〉
などがあって、「安藤(東)」や「中入(なかいり)」があるから、でっかーいものがものが出てくるところですが
「和」というのが出てるところだけでいけば、「大雪」というと大雪山はないでしょうが、ここは「安東大将軍」の
バックがあるところで、それが随所にでています。「くわぼく」というと「桑木」もあり、越前の坂井は継体天皇
です。背景が「和」(倭)、「平」を引き立てます。「脚注に「義照」がでていますが、これは「義輝」と懸かって
います。年表「永禄元年」の欄に
「この年、義輝、長尾景虎と武田晴信の和議を策す〈上文〉。」
がでています。〈上文〉は「上杉文書」のことです。「永禄二年」は
「2月、織田信長上洛し足利義輝に謁見〈言継〉、 4月 武田晴信・・・、長尾景虎、上洛し義輝に
謁見〈上文〉 5月 景虎参内し天盃、御剣を賜る〈上文〉 ・・・・・」
があり和解が成立したことが窺えます。この翌年は桶狭間であり、この年に信長公の子息が武田信玄の
養子となっています。織田が5月に今川を破り、よくもわるくも織田を中心に時代が動こうとするときに、将軍や
織田信長の顔を潰す大戦を晴信、景虎が、永禄4年9月9日(10日もある)重陽の節句にやるのかどうか、
織田が仲介をやったという事実は、永禄元年のこの戦いを踏まえたものであったという方がわかりやすい
ことになりそうです。死者八千なら負傷者一万六千くらいになりそうだから、武田人数全滅、上杉消滅と
というような人道上の問題が出てくる方が、必然が出てくることになります。
5回の戦いが集約された激甚な戦い、最も見せ場を作った戦いは、永禄元年であったのを、桶狭間翌年
にもってきた趣旨は、桶狭間の説明があるはずということがあると思いますがそれは損害の大きさ
もあると思います。
(270)ワズカ
額面どおりは今川義元が
「四万五千・・・千が一の信長、●纔かに二千に★及ぶ人数に・・・相果てられ・・・」〈信長公記〉
があり、これは甫庵の「四万五千・・・味方の勢は僅かに三千に過ぐべからず。」に対応しているもので前線
で戦った部隊の数です。トータルが三千と決まっているから、気が楽で「千が一」というのは、1000×1でも
よいし「信長が一千の、」と入れ替えて人数に懸けてもよいのでしょう。★は文中「中嶋」のくだりの
「二千に足らざる御人数の由申候。」〈信長公記〉
を受けてるもので、「●纔か」ーーーー「★及ぶ」
「僅か」ーーーーー(過ぎない)(不足)
の対置になってると見うけられます。すなわち★はオーバーですので(わずか)の違いもセットになって、戦死者
という別面が語られた数字であるととれるかも、というのが出てきます。つまり織田、千、今川二千超の計
四千足らずの死者が出たということをいってると取れます。そらないというのもあるかもしれないが基本的に
は、太田牛一の史書を皆が大変ほめてる、この大戦の戦死者も書いてないはずがない、と見て探したら出てくる
ということでよいはずです。この●の字は書けない字の一つです。機械で出てきたものは
糸プラス、右側、上から「ク」、平べたい「口」、「比」、「兔か兎」
ですが〈漢語辞典〉(大修館)では糸+右側(「色」の上の部分の縦棒のないもの)プラス「菟」の字
となっています。読みは「サン」「セン」「サイ」「ザイ」のようですが、意味は、
@赤黒い色の絹。 一説に、青みがかった薄黒い色の絹。
A赤黒色。すずめ色。 一説に、青みがかった薄い黒色。
Bわずか{わづか}。少し。・・・かろうじて。
と三つになっていて、Bが和式で、これが●の文で使われたのはどういう動機によるかということです。「黒」
が二つ出てくるから「ぐろ」「ぐろ」で「赤黒(ぐろ)い色」となりそうです。「赤」は、血の赤があるか、「どす黒い」と
いうのはあるが「どす赤い」というのはないがそういう感じが出されていないかといいたいところです。@は絹です
が「絹」というのは「蚕」「桑」「糸」で古代の姿がでてきます。糸を染めて「すずめ色」「青み」が出るといってる
とするとAが染料で染色によってかわるというのが@Aの関係かもしれません。ここは戦国の話ですから
「絹」は「旗」の地があり、同じ甫庵では、
「信長公の旗は一幅の黄絹に永楽の銭を付け・・・武田入道信玄の旗は
白き絹五幅の折掛に黒き割菱付けたる五本なり。」
となっています。こうなれば、戦場に散乱している「赤黒い色」に染まった旗を、●と懸けてここにもってきて
戦死者を匂わせたといいたいところです。「一説」というものをもってきたのは、これは通説と認めるが、太田牛
一は「青」も出したかったという人もいたというのでよいのでしょう。「青」は武田・上杉戦に織田が絡んでいるという
ことを、あらわすことに使おうとするのが一つあります。古代日本の「青」でつなぎを表すことも可能です。
「永楽」というのは高句麗の好太王の呼び名でもあって「青」は、扶桑の出てきた松島で登場の山口素堂の
「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」
の「青葉」があり、「鰹」は「めじ鰹」−「めじがつお」から
「男鹿の島 ひれふりてめじかもよるや男鹿の島〈五十四郡〉
の「牝鹿」ーー「男鹿の島(「羽後南秋田郡」)」に至ります。ほととぎす、は杜鳥の「杜」があり、「初」
は初瀬の「初」でもあります。ここに「山」があるのが重要でい「青山」「山口」が出てきます。この青山こそ
「青山与三右衛門」〈信長公記〉
を呼び出すもので、このために「青み」が出てきたといえるところです。ここは「相果てられ」が「因果歴然」
だといって怒っているところで
「山口左馬助・九郎二郎両人」(「子息九郎次郎」もある)
(桶狭間や、、「清水又十郎」「織田備後守」「御遷化」が出る一節に出てくる)
が義元に謀反の疑いで殺されたことがあり、これは「青山与三右衛門」といってきました。この「青」は
陰山掃部助−目−御遷化−備後守−青葉−山口
とつなぐもので素堂の素は本巣の素、素堂の堂は藤(東)堂の堂ともいえます。東堂は一般に信秀のこと
とされています。先ほど「中入」がでたところで「中入」の一つの意味は、今川領土内に迂回して本国と前線
分断して、義元に退却を余儀なくさせるという狙いということは既述ですが、これは人的損害を少なくする秘
策といえます。青山与三右衛門が生きてれば太田和泉守の手の内は読まれているから、結果起こった一連
の作戦・戦勝はありえず、これしか勝ち目がないところです。川中島巷説のような戦死数、織田3000戦死、
今川4000戦死、では織田が負けですが、これは青山も避けたい戦いだから、この中入作戦は成功する
可能性が高いと思われます。青山は少なく見積もっても3000は動かせる手勢はあるから、とにかく生きてれ
ば義元の生還は確実だったといえます。太田牛一は大勝したのに、ものすごく怒っているので、全体想いとは
違いすぎた結果になったということでしょう。「中入」について疑問が出るかもしれないが、先ほどのは
「堅田へ中入」(脚注=「大津市本堅田町。なお下文の“中入”は増援。」)
で、桶狭間のそれではないではないか、ということになります。先ほどの「中入」の一節、一部再掲
「・・上下・・居初(イソメ)又次郎・・坂井右近・安藤右衛門・桑山平兵衛・・中・・上・・中入・・藤右衛門・・
平右衛門・・★次第次第に無人(ぶじん)・・落去・・坂井右近・・無為(ぶい)・・上・・・下・・」〈信長公記〉
があってこの「初」は「染」にもなりますが「初鰹」の「初」にもなります。そらおかし、といいたいけど「鰹」の
右が「堅」だからというと、偶然の一致にしとけ、となってるから周章てないようです。素堂については脚注に
■『「夏初ノ松島・・・・雲外の杜鵑・・・・可シ憐ム蒼翠対スルヲ青眸。」〈素堂家集〉。素堂は山口氏。
名は「信章」。漢詩に長じ、俳諧をたしなむ。葛飾風の祖。芭蕉と親交があった。」
となっていて、素堂漢詩の引用があり、「夏初」は〈奥の細道〉日光くだりで「瀧の裏・・・夏(げ)の初(はじめ)」
がありこれがそのままですが「初」は「夏」を呼び込んで
「木啄(きつつき)も庵は破らず夏木立」「夏山に足駄を拝む首途かな」「夏草や兵どもが夢の跡」
などの句の「夏」と「松島」を近づけています。この「きつつき」は川中島で武田の作戦として出ました。
「風流の初(はじめ)やおくの田植うた・・・脇・第三・・三巻(脚注=歌仙三巻)・・・」
の「風流」→→
「風流のしれもの」「画工加右衛門(「脚注=北野屋。版木彫刻を業とした」)「松島」「画」「染(そめ)」
「艸(草)」「足」「草鞋」
→→「松島」「草の庵」「松島や鶴に身をかれほととぎす」「曾良」「◆素堂松島の詩あり。」
となってきて◆の脚注が■だから、二つの「ほととぎす」は「杜(森)」の字が宛てられる「ほととぎす」です。
「松島」を伝って「夏・初」も流れてきて、「素堂」と「加(か)右衛門(えもん)」の関係はわからないにし
ても「安藤(東)」、「無」=「武」「平」「上・下国」「「葛城」などが出てるなかに「青い目(眸)」を出してきました。
「蒼い」も出してますから青に意識はあるのでしょう。「可成」の「可」もあり、
「山口(左馬助)」−「青山(与三右衛門)」
の線が出てきて、これは桶狭間での語りで、「堅田の中入」は、例えば★によって桶狭間につながって
います。桶狭間では
「次第々々に無人(ぶじん)になりて」「鷲津・丸根落去と覚しくて・・」
があり「中入」が桶狭間へ自然と及んでいます。もう一つ「みのうら」「中入」が用意されて
「木下藤吉郎・・百騎・・敵かたへ見えざるように山うらを廻り、みのうらへ懸付け、堀・樋口と一手(ひとて)
になり、●纔かに五・六百に過ぐべからず。・・土川平左衛門・・八幡(ヤワタ)下坂・・」〈信長公記〉
がありここに●があるから、桶狭間「中入」へ逆流します。「平右衛門」は先ほどの「堀」のそれと連絡してる
といえます。「箕浦」の「中入」は〈武功夜話〉にあって、〈信長公記〉では直接その名で出てませんが
蓑浦次郎右衛門(文中表記「@蓑浦無右衛門」「A蓑浦次郎右衛門」)
を登場させています。「無右衛門」は「無人」想起で「武田」「武井」の「武」がでてきます。@の「蓑浦」から
辿れば、天正四年、大坂本願寺戦
「木津・・森口(脚注=大阪府守口市。)・・森河内・・木津・・彼木津・・・▲蓑浦無右衛門・丹羽小四郎
・・五月五日・・明衣の仕立て、●纔か百騎・・・下々・・首(かしら)々(脚注=「前々」)・・・上・・・・
・・五月七日・・▼一万五千ばかりの御敵に●纔か三千ばかりにて打ち向せられ、御人数三段に御備
へなされ・・一段・・木津口・・二段・・三段御備・・・・・・かくのごとく仰せ付けられ、信長は先手の足軽
に打ちまじらせられ懸回り・・・御下知なされ、薄手を負られ、御足に鉄砲あたり申し候へども、され共
天道照覧にて苦(くるしから)ず。御敵数千挺の鉄砲を以てはなつ事降雨のごとし。・・・頸数二千
七百余討捕り。・・・七五三・・六月五日・・・・」〈信長公記〉 (これを「森口・中入」の一節としとく)
が、出ており、これは、▲蓑浦の「中入」が二つの●を伴って出てきます。上の●は蓑浦中入の人数で、
下の●は桶狭間の人数でした。すると▼は今川人数といってきた数字です。まあ簡単に言えば四万五千
を3で割ればよかったといえます。織田も1/3で戦ったと見てよく、九千が当時の総兵力だったといえそう
です。これは神武天皇年齢1/3と、相互に証明しあっていることにもなります。五月七日という
日が桶狭間の五月十七日とちょっと似通っています。ここから桶狭間をみてみようという人もあるかもしれ
ません。要はここで、桶狭間では
「二千七百余」討ち捕り)、織田の死者が七百五十三
と細部を語ったということです。鉄砲も「数千挺」というのでは頼りなさすぎます。今川鉄砲
「御敵/数/千挺」
に悩まされたというのが、真相のようです。この戦いは本願寺との戦い、といったではないか、といわれる
でしょうが、本稿はじめの「小浜」と同じで二面あるわけです。あの場合は、はめ込んでみる文献がなかっ
が、これは甫庵がこの戦いを述べてて
例えば軍勢が三万と一揆の数万との城砦によった戦いであり、「控へ給ひけり。」のような戦いをしています。
「先考備後守殿遺言」を重んじた戦いをして
「三河国にして去年、武田四郎と相戦うて大いに勝利・・甲斐信濃にも乱入ましまさで引き玉ひし。」
の例がでています。「備後守」「武田四郎」「甲斐信濃」がでました。備後守は桶狭間で出てきて信長が
「先考言置かれし条数にも・・・必ず国の境を踏み越え合戦すべしとの宣ひし。父の遺言を空しう
せば天命も恐ろし、所詮信長は明日合戦を遂ぐべし。」〈甫庵信長記〉
といったのは三河国中入り策を語ったというのが箕浦の中入りと符合し、あっていたことになります。これは
信秀の三河中入の思い入れもよみとることができそうです。信秀も昔やって成功したのかもしれないと
見ることも要るかも。中入に対して著者の思い入れがあって、桶狭間の前にもあった、ということであれば
確実です。
(271)丹羽の中入れ
桶狭間後は池田勝三郎の三河中入が用意されているからいっそう花を添えるということになり
ます。池田の中入は愛知県日進町の丹羽氏居城、尾張岩崎城を舞台にして行われ、丹羽の登場が中入
に関して必然です。〈信長公記〉索引では
日本介/@丹羽氏次(文中表記「丹羽勘介」)/A丹羽氏勝(文中表記「丹羽右近」「丹羽源六」)/
丹羽小四郎/丹羽長秀(丹羽・惟任)/丹羽兵蔵
があって、「丹羽」=「二(日)羽」=「丹波」でもあり、「前波」は「前羽」として、頭の中で転換しておくのも
必要でしょう。「二羽」の「羽」は「羽毛」の「羽」で「奥羽」「羽前」などの「羽」ですが、川中島のウィキぺディア
の記事を見てたら、「二毛作」というのがありました。農繁期は軍隊を動かさないというような話のついでかと
思いましたがそうでもなさそうで、突然出てくることがあります。「羽毛」が「丹羽」により、拡散されている理屈
になります。注では、@勘介氏次はAの子とされているが生没年は二人とも(1524〜97)となっています。
つまり、今で言う一人息子であるとき、孫に跡目を継がせようとする場合を想定するとこれもありうる、資料
が頼りないということにはなりません。「丹羽勘介」は
「(1524〜96)尾張岩崎(愛知県愛知郡日進町)出身。岩崎の丹羽氏、信長の後援で藤島の庶流
氏秀を追放した。子孫は播磨三草城主。(考証名が丹羽氏次)」
で、「藤島」や「庶流」の「庶」が重要かも。三国志で「徐庶」という劉備に諸葛孔明を推薦した軍師がいま
すが、この人は「単福」といわれているようです。あの「徐福」は「複福」で国を出たのかも。「三国志」は
朝鮮三国の三国志もあり、孔明は大陸の西南にいながら北東の齊の「菅仲」、燕の「楽毅」を尊敬して
いる、「諸葛」の「葛」が「葛木(城)」でもあり、北東を語るに使われかねないものがありそうです。丹羽氏勝は
「(1524〜97) 勘介氏次の父。尾張岩崎城将。(文中「丹羽右近」「丹羽源六(郎)」)」
となっていて、肩書きは丹羽右近(氏勝)についています。葛=勝はありそうです(万葉の「勝鹿=葛飾」)。
丹羽勘介=(1524〜97・岩崎城)=丹羽右近(池田の中入)
丹羽右近=(右近)=坂井右近(中入@の記事にでてる)
丹羽右近=(丹羽)=丹羽小四郎(中入Aの記事に出てる)
ということで「中入」に思い入れがあるとみて桶狭間の「中入」策がほぼ確実といえます。1524生まれは
兼松相当の人物ととれます。1597死亡は「酒井忠次」が、1596死亡(70)であり、これらを見るとき
「丹羽右近」は一応、太田和泉守登場と取れます。「丹羽右近者共」は天正八年に、大石を「伊庭山」で
「信長公御通り候御先へ落とし懸け候。」〈信長公記〉
があり、漢の張良が始皇帝の行列にやったようなことをしています。この「信長公」はあの「信長公」では
なさそうです。こうなると〈信長公記〉という表題に関わるような事件といえますが、さりげなく書いてます。
これは4月のことで8月に丹羽右近は遠国追放となっています。一応丹羽が消えて、惟住になっているから、
これを太田和泉守(「坂井右近」)とすると影響はなさそうです。「坂井右近」は「坂井久蔵」「小坂井久蔵」
も呼び出すとすると池田の中入に堀久太郎も出てくるのも必然かもしれません。
「丹羽勘介」の「勘介」(甫庵では「勘助」)
は武田の軍師「山本勘介」の「勘介」に通ずる唯一のもので、どうなるかというのもあるのでしょう。川中島八幡
原の戦いも上杉方からみれば、武田本隊というべき大部隊をかすめて後ろを衝いたのだから、中入の変形
といえないこともないようです。丹羽氏勝のもう一つの表記、「丹羽源六」も中入に関わります。すなわち
人名索引に、「岩崎丹羽源六者共」があり、項目には「丹羽源六」があるのにわざわざ岩崎を付けたものを
項目にしてるから中入に関係あるといっていることになります。岩崎をいれたものができると別の語りが
広がるということになって、索引では
岩越喜三郎/●岩崎丹羽源六者共 40,42/岩瀬氏則(文中表記「岩瀬清介」)
となっており、●の注は「愛知県愛知郡日進町岩崎市場の岩崎城将丹羽氏勝の手兵」となっていて
40,42とも「名古屋市守山区」の「守山の城」「守山城中」で登場してきます。うしろの「岩瀬」が誰やらわか
らないので余分なところへきてしまいましたが、●は実際は「・・・者とも」もあるのに一つだけにしてて、「進」
「市」とか「愛智(エチ)」の「愛」もあって「源」もある、いまでいう男性の並びで、甫庵では
岩越藤蔵/岩瀬清介/岩手左馬助
となっていて、本文では
「・・・菅屋九右衛門・・能々・・堂々・・化・・菅屋・・次・・・岩越藤蔵・・・」〈甫庵信長記〉
があり、岩越喜三郎・菅屋九右衛門も後藤喜三郎の今で言う実父でないかもしれないが、父という存在
であるとすると藤蔵は子息と取れます。一応は、源六と清介は森家の男系(庶流)の子という感じの人
として。本文には、天正九年、「遠江国高天神」で「家康公」家中の討ち取った頸数の記載があって
「・・・。六ツ、上村庄右衛門。・・・・・・・。一ツ、牧野菅八郎。一ツ、岩瀬清介。二ツ、近藤平右衛門。」
のところに出てきます。牧野は索引では
真木与十郎(「・・・・春日井郡川村(愛知県守山市内)住人・・」)/真木宗十郎/
牧野菅八郎(「三河(愛知県)宝飯郡牧野の牧野正勝(康成)の一族か・・」/牧村利貞(「牧村長兵衛」)
という並びになってて、「真木村」「正勝」となるから徳川の牧野氏に金松の子「木村シ」が入籍したというの
がありえます。幕末の河合継之助は牧野家の家臣です。「丹羽小四郎」が先ほど出ましたが、甫庵の
木村小四郎/木村次郎左衛門源五/木村隼人正
があり、会津、福島城を築いた「木村吉清」に近づいていそうです。同様のケース(庶流)が「岩瀬」に利いて
きているかも。索引の項目としては、これは「岩瀬氏則」で注は
「清介。掃部。(文中「岩瀬清介」)」
となっています。ここに至るに、並びの前に
今村氏直(文中「今村掃部助」)/芋川親正(「いも川」)/伊豫父子/岩/岩越喜十郎/岩崎丹羽源六/
岩瀬氏則(「掃部」「清介」)/
があって「掃部」というのが、(大石源三)「氏直」-「掃部」とヒットして、どうやら青山与三右衛門の一族の
人が、幕末、岩瀬忠震がしられる徳川の岩瀬家に入ったということになりそうです。大石の「石」−岩崎の「岩」
の流れは、池田の中入を暗示するものでしょう。森長一が徳川の酒井忠次と激闘した羽黒の戦いは
小牧長久手の戦いでのことです。この索引の人名の流れはスムースに進みません。
「いも川」
という珍妙なものが大きく立ちはだかって邪魔しています。〈常山奇談〉の森銑三の頼りなさそな索引に
「森迫親正」という人名があったので「親正」「森」に「迫る」といってるから、森が出てくる、これは森勝蔵
だろうから青山与三右衛門−森長可@−大石源三氏直−桶狭間義元の同朋林阿弥のことは合っていて
桶狭間中入作戦は「岩崎」の挿入によってここでも出ている、岩崎の威力は「いも川」によって「磐崎」として
増幅されてくるとも思われます。「いも川」の出てくる一節、天正十年
「四月五日、▲森勝蔵川中島海津に在城致し、稲葉・・飯山・・飯山・・稲葉・・勘・・稲葉・・稲葉・・国枝・・
飯山・・三位中将信忠・・▼団平八・・山中・・大蔵・・●いも川と云ふ者・・長沼口・・・八千・・森勝蔵・・
七・八里・・追討に千弐百余討捕り、大蔵・・千余切捨て、巳上、頸数弐千四百五十余あり。・・
飯山・・飯山・・森勝蔵・・稲葉・・諏訪・・稲葉・・勘・・稲葉・・稲葉・・稲葉・・国枝・・江州安土・・
森勝蔵・・山中・・」〈信長公記〉
があり、●一件だけですが、平かな、で出てるから、悩ましく、6個ほど出てるのと同じことになります。「飯山」
は地名索引では 飯田の城/★飯の山/飯盛山/飯山/伊賀・・・
となっていて、★は本文では「飯(イヽ)の山」になっているのに脚注では
「石川県羽咋市飯山(いのやま)」
となっており、後ろへも「伊(飯)賀」として及びそうだから「飯山」は「い やま」という読みがありえます。
したがって「飯盛山」は→「飯(い)森山」→「飯(い)毛利山」→「飯(い)母里山」がありえるから「いも川」は
「飯(伊)毛川」「飯母川」、万葉の「妹」もあるから「妹川」も太田牛一の脳裏に浮かんだかもしれません。一応
「芋川」であてられていて「芋川」は秋田県の川でもあり、愛知県の刈谷市一ツ木町には縄文時代の芋川
遺跡があるようです。三次市廻神町に神杉駅があるそうですが、ここに「芋面川」がありますが、これも「いもおも」
川」の「「いも川」かもしれません。太田牛一は大阪の「みのをの滝」を出していますが脚注は
「箕雄滝、大阪府箕面市に所在。」
となっており、本当をいえば「箕面市」は「みのも市」と読むことになるのでしょう。「近松田面」は脚注では
「頼母(たのも)」ですがこの場合は「面」は「も」です。ほな、何で「みのお」というねん、ときくと、そういうから
しやあない、で終わりでしょう。太田牛一のものには、珍妙な読み方があって
「柴田修理亮勝家方より毛受(めんじゆ)勝介を以て言上す。信長公・・・堀久太郎に仰せて彼
毛受に美膳を給はつて・・・・」〈甫庵信長記〉
があり、これはおかしいので何回も既述のことですが
「毛」=(めん)=「面」・「免」
で、「芋面川」=「芋毛川」=「いも川」となりそうです。ここで「堀久太郎」がでましたが、ここは「森乱丸」
という表記が甫庵にあるので、ちょっと場にそぐわない感じです。「いも」は
芋洗ふ女西行ならば歌詠まん〈野ざらし紀行〉
があり、これは「西行谷の麓の流れ」で女たちが芋洗う情景ですが「西行谷」は「伊勢国渡会郡菩提山
の西で西行隠棲の跡」です。
(272)反対の「堀久太郎」
もう一つ
菩提山(ぼだいさん) 此の山のかなしさ告げよ野老(ところ)掘(ほり)〈野ざらし紀行〉
の句が、菩提山で前の句を受けており、「いも」「掘」が出てきました。この「掘」はあの「堀」ではないか、と
いってきましたが芸術の場に西行ならばわかるが堀が出るのはおかしいというのが第一感だろうからなかなか
か頷けるところまでいきません。しかしここの「かなしさ」は往時のこの山の繁盛と比較して、かなしい気分
という鑑賞もどうかというところです。解説では「菩提山」は
「伊勢朝熊山(あさま□やま)」「神宮寺」「聖武天皇勅願、開基は行基」
のようなことが説明としてでてきます。太田牛一は「白熊」を出してるから、北の国の雪・氷のなかの熊も
ありえます。「熊」は(ま )となっていて、上州の「浅間山」もみてるのでしょう。朝熊山は古墳があり、芭蕉の
伊勢の国中村という所にて
秋の風伊勢の墓原猶(なほ)すごし〈花摘〉 路通口伝「秋も末伊勢の墓原尚淋し」
があり、この「すごし」は「凄涼」と訳されていますが、「凄い」もありそうです。この墓原が「朝熊山」を指して
いそうです。すなわち、「中村」は「伊勢市宇治の東北、伊勢市中村町。菩提山神宮寺のあるところ」と
なっています〈芭蕉前句〉。東北から秋風が伊勢に吹いてきてます。右の句の前書「ところ」は
「野老・・・やまいもに似る。多くの細根を持ち、老人のひげを思わせるので野老と書かれるという。」
「正月の飾り物と・・・飯にまぜて食べる。」
などあります。「野郎」「聖武」は蓬莱三千里がでてくる「江州安土記」に出てきますが、「神宮寺」は「小浜」
のところでもふれました。領主が「武田」、「中村」も花火を見てたかも。「菩提」は「ほてい」をみて「伊勢」
もテーマになってるから古い日本のことに触れようとするのもありそうです。また、芭蕉には
伊勢の国又玄が宅・・・彼日向守の妻・・・
月さびよ明智が妻の咄せん〈俳諧勧進牒〉
があり、明智を語るという多重的なものであるので「堀」はあの「堀」でありえます。堀が森ならば、森蘭丸は
若くして本能寺の露と消えたというのが知られていうから別の「かなしさ」も伝わってきそうです。「堀久太郎」
と「森乱丸」が同時に出てくる伊勢の一節があって、天正十年本能寺の年
「正月廿五日・・・・伊勢太神宮・・・正遷宮・・・上部大夫、堀久太郎を以て・・・八幡御造営・・・・
平井久右衛門・・正月廿六日、森乱御使・・・・・三位中将信忠・・・・」〈信長公記〉
があり、登場回数の大変多い「堀久太郎」は「太郎」ではあるが特別待遇で「堀 次郎」ではないかとも
取れるところです。甫庵では
「堀」の一般的なものは、 「●堀久太郎(11頁)」「堀(2頁)」「堀次郎(2)」
いわゆる「森蘭丸」は、 「森乱丸(3頁)」「乱丸(1)」「森の乱(2)」
で「坂井久蔵」などで補完されるにしても、有名な森蘭が少なすぎるわけです。●は〈信長公記〉では30
頁にもなります。「次郎」が太田和泉守ですからボンヤリと●の「太郎」を包み「大郎」にするのではとれそう
です。竹中半兵衛の「半」も同じ扱いではないかということでした。一時
堀久太郎(@坂井久蔵)(森乱丸@)
‖竹中久作(乱丸)、(「竹中彦八郎」)
‖「森の乱」、堀(「■久太郎」)(坂井久蔵A)
竹中半兵衛 細字{竹中久作}
の関係が成立したかに見えます。■が突然の登場ですがこれは、索引の●のところ、間違いがあるのでは
ないかと見直してみるとやはり「久太郎」単独が抜けていました。〈信長公記〉にもう一つ惣見寺で
「・・森乱使・・・・堀久太郎・・」
が出てきて、このときの〈甫庵信長記〉では「堀久太郎・・・・久太郎・・」であり「森乱」×「久太郎」の対比
が出ており、かつ「久太郎」の単独がどうしても必要というのに適います。「森の乱」というは森が切りはなさ
れて、「堀」の「久太郎」に、「森」の■と付けたいところです。さきほどの「猶」というのは「(泥)鰌」篇ですが
接頭字として使われますが、これは「なほ」で、「尚」と同じでは「なお」です。古典では
「大手」は「おおて」ですが「おほて」と書きます。「箕面の滝」の「箕面」は、面=毛だったから、
「箕毛」(みのも)ですが、「みのお」だといって聞かないので、これは「箕面(みのほ)」です。
飯盛山は「飯毛利山」であり、「飯面(ほ)利山」でもあります
「(も)毛=面(ほ)」だから 森=堀 となります。前記、森銑三の索引では、
竹中半兵衛/竹村半兵衛/多田久蔵
となっており竹中半兵衛の「半兵衛」は「久蔵」に接近してますが竹中半兵衛弟「久作」が「久」に作られて
いるので「久太郎」と「森」が結べることになりましたが、こうなるといろんな挿話の内容が別の様相を呈して
きてそれらに耐えられるかということも出てきます。
(273)堀監物
堀久太郎秀政には、賢明で知られる長臣
「堀監物直政」が
おり、のち堀家といえば、こちらの方を指していると見てよいほどです。織田信長に仕えたとき、どちらか先に
手柄を立てたかどうかで主従を決めようと約束したということで有名です。まあジャンケンできめようということ
で、やる気がないような、大きすぎる人間同士といえばそのようなことですが二人の関係が従兄弟らしいが
誰にもわからないということが前提としての話となっています。この場合、堀秀政を森蘭丸、堀直政を森勝蔵
だったととると、二人の関係は〈信長公記〉を見ても、おいそれとはわからない、天正10年川中島などで
二人とも領地を貰いましたがこの記述の曖昧さのことも既述です。こうなれば、この話は、年上らしい森勝蔵
が上に立つのは筋ですが、森勝蔵は、信長に気に入られている森蘭丸(長定)を立てたいと思ったという
ことで、とりあえず辻褄は合いますが、ほかの面でどうかという大きな問題は残ります。ただ太田牛一は「明智」
「森」で紙面を埋めつくすことはできないというもっと大きな問題家にとってのこには筋は通ってきます。つまり
「堀」・「丹羽」のような分割があるわけですが、丹羽の場合がわかりにくいのは、丹羽長重は丹羽五郎左衛
門の子といいますが「伊賀範俊(岩越喜三郎?)」とか、「兼松正吉(菅屋九右衛門・金松久左衛門?)」
などの子も子ですから馴染みがちょっと薄くてわかりにくいということかと思います。
「丹羽氏勝」が「岩崎城将」ということでこれは誰かという問題や、もう一人残った「丹羽兵蔵」のこともありま
すが今「いも川」のところで「森勝蔵」が出てきて、一部、再掲
「森勝蔵、川中嶋海津に在城・・・稲葉・・飯山・・国枝・・■団平八・・いも川・・長沼・・」〈信長公記〉
があり、「川中嶋」に脚注があって
「長野県善光寺平の南部。千曲川・犀川の合流点の三角平地。・・五回の合戦・・」
となっており、「三角平地」は「扇状(形」の地という表現もあり、、二つの川の中に島が入っており、三者で
三角を形成しているといってそうですが、三と島の間に中が入っていることもあり、武田信玄の命名というから
三角関係とか「中入」というのは意識があるかもしれません。先ほど「堀平右衛門」が出た一節で安藤が
あり、効き目がでてくるかどうかです。この「海津」は「長野市松代町の旧称。」となっていて川中嶋に「松・代」
が入りこんできました。「稲葉」は「稲庭地」「因幡」などの地名もあって「国枝」(脚注では「三河守」・・・)
もあって森勝蔵にも絡んできますが、ここで
「丹羽氏勝」 (愛知県日進町、岩崎城将、(文中「丹羽右近」「丹羽源六」)
「堀監物直政」(陪臣で大名並みの大身の三人の一人として有名(ほか二人は直江兼継・小早川隆景)
について太田和泉守からみた実存的な意味での引き当ては、どうなるか、二人とも森勝蔵を指していると
いいたいので一応みておくことにします。「森勝蔵」は「森長可」とされてて、本能寺の三年後池田の中入の
失敗で戦死したことで知られていますから、ここの重要な関係者の一人です。
考証名氏勝は、直接的には大石源三氏直の「氏」と森勝蔵の「勝」ということで、兄弟の「氏」を持ってきてる
といえます。この森勝蔵が「鬼武蔵」で大石源三も注では「・・・のち武蔵守護代大石氏の養子となり・・」が
あります。索引で「岩崎丹羽源六者共(「丹羽氏勝手兵」)」として「丹羽」を「い行」に持ってきて、
今福筑前守・又左衛門/今村氏直(「今村掃部助」)/芋川親正(「いも川」)・・・/岩崎丹羽源六/岩瀬・・
として「筑前守」「又」「氏直」「いも川」の流れの下に置いた、といえます。「掃部助」も重要で「今村」、「岩
瀬」も「掃部」で「森勝蔵」「■」登場の信濃陣で、わけのわからない「掃部助」がでてきて、よくわからないので
何回も既述の
「信州松尾の城主小笠原掃部助」〈甫庵信長記〉 「小笠原信嶺」〈信長公記〉(信濃松尾城主、
長野県飯田市城主)(文中「小笠原掃部大輔」「松尾掃部大夫」)
がありました。「小笠原」について、注では
「小笠原氏は天下の大族でその分布は全国にわたり、しかもみな同一族を称しているのは例が少
ない」
となっています。小笠原は遠江に「小笠郡」があり、徳川家中に著名な
人もいて徳川の氏族のように思われていたと思われますが、この場合は堀家の子息が小笠原に入って
森・堀は小笠原にも分割されている、ということになるのでしょう。宮本伊織の仕えていた小倉の小笠原家
は森の一族とみればあの碑文の建立も理解できるところです。「堀監物直政」の「直政」は■があり、■は
注では「忠直」で「直」がでます。また「直政」は「塙直政」があって「団」は「塙団右衛門直之」があり
「塙直」=(団)塙直」、又は 忠 直
直 政 で合です。
堀監物の「監物」は「平手」があり
「平手監物・・・不破河内守・丸毛兵庫頭・・丹羽源六・▼水野大膳、・・・」〈信長公記〉
の八人の登場があって、丹羽源六は監物に続いています。「不破源六」は円空まつりをはじめたという伝承
のある領主ですが、この不破と組み合わせて作られた森一族の人と思いますが、
「丹羽源六」「丹羽右近」=「丹羽氏勝」
でしたから「丹羽右近」=(「右近」)=「坂井右近」で「坂井右近」には
坂井右近将監/▲右近将監/坂井右近大夫/坂井右近/坂井/坂井久蔵
で▲が用意され、「右近・監物」が直結されることになっていて「丹羽氏勝」=「森勝蔵」がでます。そーら
おかしい、「監物」と「将監」は違うやないか、というかもしれないが、「監」−「監」半分合ってて
半分以上優勢の合い方になっています。
合い方も 先ほどの 氏勝 将監
勝蔵 と同様で 監物 というような合わそいう意思のあるものです。
簡単にこうやってみて、検証してみたらどうか、という公式的なものがあるかどうかですが、▼があって
「監物」は「平手」と「水野」しかなく▼は「水野監物」も含みにあるととれます。平手監物あと2回登場で、
「平手監物・・・水野監物・・・・・塚本小大膳・丹羽源六・・・」〈信長公記〉
という並びがあって「丹羽源六」へは「監物」「監物」ときて「大膳」は「小大膳」に変えてあります。こういう配慮
もあるから▲は工夫の上作られた表記といえそうです。〈信長公記〉では「坂井政尚」の注が出ており、
「元亀元年(一五七〇)・・・浅井方の近江堅田城(大津市内)を攻めて戦死。(文中)坂井右近」
となっていてこれが姉川での織田の先陣大将で、浅井の先陣、磯野丹波守と激闘があった人ですが、
誰だかよくわからないようです。▲から「森勝蔵」であったとわかったということです。すなわち「坂井政尚」→
「坂井政直」ですから、「堀監物直政」と「政直」がいたということで森勝蔵と(「団忠直」)がいたということ
でしょう。とにかく森勝蔵は小牧長久手(本能寺2年後)の戦いでも戦死してないということです。
(274)丹羽兵蔵の上洛
桶狭間前年、、織田信長の上洛、
「去程(脚注=永禄二年)、上総介御上洛の儀・・・御伴衆八十人の御書立にて上洛なさる。・・・光源
院義照へ御礼・・・・のし付に車を懸け・のし付・・・●那古屋弥五郎内丹羽兵蔵・・・都へ・・・・
五・六人、上下三十人・・・・三川の国・・・・三川の国・・・上総介殿討手・・・・公方の御覚悟さえ・・・鉄砲
にて・・うら辻・・金盛か蜂屋・・丹羽兵蔵・・金森・・丹羽兵蔵・・うら屋・・夕部・・上総介殿・・信長・・金森・・小川表
・・信長・・小川表・・上総介・・奴原・・信長・・蟷螂が斧・・実・・二様・・似相・・似合・・五・三日・・
・・・上総介殿■守山迄御下り、翌日雨降り候といへども払暁に御立ち候て、あひ谷よりはつふ峠打越し
、清洲まで廿七里、其日の寅刻に清洲へ御参着なり。」〈信長公記〉
があり、最後、帰り滋賀県「守山」から「清洲」まで108キロの行軍があったという実に印象的な場面の
始発地が「守山」でです。こまかくいえば払暁に出て、其日の午前四時ごろ着いてる、ということで4時間くらい
と思われますが、馬上と徒歩の人、馬車もあったのか、そういうことは書いてません。「清洲」「蟷螂」などで
桶狭間と連繋があり、桶狭間想起でよいのでしょう。●からみて「丹羽」の最後の「丹羽兵蔵」(解説なし)は
「森えびな」とみて取れます。●は
「前波弥五郎」〈両書〉 (「伊東弥五郎」〈類書〉などの「弥五郎」)
があり、これは安土城「二丸御番衆」
「・・・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・▲蓑浦次郎右衛門・福田
三川守・・遠江守・・松本・・・・丸毛兵庫頭・鵜飼・▼前波弥五郎・山岡対馬守、」〈信長公記〉
の▼で出ており、▲が「中入」で「迂回(鵜飼)」を経て、▼に来ています。「丹羽」が出てますから「中入」
それも桶狭間のものを語りたかったのが●■の桶狭間前年の上洛の文です。この80人が三河中入先導部
隊の選り抜きの精鋭といえます。■で国を跨いだ凄まじいマラソン行軍をしてるから一応察せられるところです。
結果的には状況が変わって、今川義元その人に懸かることになって、その状況は
狭間にいる義元勢(35・6人)に、80人が高みから駆け下りて義元を討ち取った
ということになったと思われます。このときの総大将は信長公で、森(明智)重政が付いてて、金松、伊賀、
蜂屋(セキアン)、水野大膳{金吾)、森海老名などがいた、ということかと見れます。
ほかに「木村」は安土城を表し「尾張(終わりに)那古屋は城でもつ」という城は安土城かも。また「木村」
「鳴海」「「祖父江」「福田」「前波」「山岡」などは渡海、「雲林院出羽守」は東国の「出羽」を出し、「羽」は
「丸毛」と反応して「羽毛」を作ります。注で「雲林院出羽守」は
「雲林院(うじい)氏は伊勢阿濃郡雲林院村(三重県安芸濃町のうち)出身。溝淵社永禄十三年の
棟札に“雲林院藤保”とある。」
となっており、伊勢と出羽は直結していますが、「伊勢」が東国勢力圏にあったといっていそうでもあります。
「雲林」(うじ)がよくわかりませんが、伊勢にも宇治(山田)があります。ここで永禄十二年、十月
「信長公★山田(脚注=伊勢市)・・・御参宮。・・・・内宮・外宮・◆浅間山御参詣・・・上野・・津田掃部・・
・・・●あのの津(脚注=安濃津。津市)・・・滝川左近・・雪・・大雪・・」〈信長公記〉
にあるように信長公が★に出てきて◆(ルビ=あさまやま)にも参詣しました。これは脚注では
「朝熊山。内宮摂社の朝熊神社が鎮座。また金剛証寺がある。」
となっています。芭蕉の「菩提山 此の山のかなしさ告げよ野老掘」では「神宮寺」が解説ででましたが、
この脚注では出てきません。〈信長公記〉に「神宮寺」が出てないと芭蕉につながらず、また脚注に出てない
と、読み手同志のテーマ意識も伝わってきません。〈信長公記〉では、これは一見見当たらないことは既述
ですが、
「去程・・勢田・・山岡美作守・木村次郎左衛門・・◎若州神宮寺山・朽木山中・・材木・・稲葉伊豫・・」
〈信長公記〉
があって地名索引では◎が「若州・・・」入りで出てるから、いざ欲しいときに出てこないので役に立たない
ことにもなります。◎は脚注では
「福井県小浜市神宮寺」
として出ており、◆から芭蕉でも意識され、現に一般にそうと知られている「神宮寺」が出て、先ほど●の
「津」がでました。
「小浜」=(神宮寺)=「津」
が出そうとしてきたものといえます。〈信長公記〉では両方に「信長公」が出没します。●は本文にも「阿濃津」
が出てきて地名索引では
阿濃津/あのの津/あひ谷(脚注=相谷)
となっていますので「津」を分離したということでしょう。世界でもっとも短い地名ということのようですが、
天正遣使船は「小浜」から僚船が出て、本船が「津」からでました。芭蕉の「野老」は「いも」ですが、
「いも川」−「川中島海津」−「森勝蔵」
がありました。この海津の「津」も「信濃」の「津」として「安濃津」に懸けられたと取れそうです。
「阿濃」「安濃」の「あ」の違いが、
「安部加賀守」〈信長公記〉、「阿部加賀守」〈甫庵信長記〉
として出てきてます。芭蕉の「つるがの津」の「津」も「敦賀」が江戸時代小浜藩の領地ということで、小浜
の「津」として出てたということになりますが、伊勢の津に繋がるヒントに、安部氏ー安藤ー藤堂の津というの
があります。また芭蕉に
湊(みなと) 古き名の角鹿(つぬが)や恋し秋の月〈月一夜十五句〉
があり、湊=(みなと)=「津」、曾良は「角鹿浜(つぬかのはま)」といってますが「都奴賀(つぬが)」〈古事記〉
もあり「都魯鹿」〈霊異記〉となると周公旦の国「魯」がでています。解説では『「月」だけで「秋」であるが、「秋の月」
とした「角鹿」との縁を強調したものであろう。』となっていますが秋田の「秋」がでてきたものでしょう。芭蕉が
「つるがの津」とヒラいたのは「鶴賀」として「鶴」をだしたかったと思われます。
「坪坂新五郎」〈信長公記〉 注:「加賀石川郡鶴来の住人。」 索引では後ろに「鶴松太夫」
があり、「安部(加賀)石川」「蘇我石川」て「鶴」が出てきている感じです。鶴来は(つるぎ)と読み、(つるぎ)
は(つるが)です。つまり「来(き)(こ)」で「固=(こ)=箇」で「箇(か)」や、「木(き)(こ)」−「香(こ)」−「香(か)」
です。この鶴は北国(きたぐに)の鶴、北海道あたりからやってきくる、鶴ではないか、といいたいところです。
▲名月や北国(ほくこく)日和定めなき〈奥の細道〉 〈陸奥チドリ〉
(〈陸奥チドリ〉では「敦賀にて」の前書あり)(「チドリ」は「行」の中に「鳥」が入った字)
がありますが、これは「つるが」での作で、北陸・北越というような北があるから、範囲をきめてしまい勝ち
ですが陸奥、陸前高田、下北半島などあり、北海道の北が厳然とあるわけです。芭蕉に画賛の句、
鶴(つる)絵(ゑ□)がけるに(前書)
▼鶴鳴くや其の声に芭蕉破(や)れぬべし〈曾良書留〉〈雪丸げ〉
があり、つるが=鶴画→鶴賀 がでていそうです。この、「声」が「鶴の一声」という言葉を心に置いている、
とされますが、声に力があります。この「声」を受けて
海辺に暮らして
●海くれて鴨の声ほのかに白し〈野ざらし紀行〉 (〈蓬莱島〉にもある)
があって「蓬莱」「白」があって鴨が出てきました。鴨は
毛衣(けごろも)に包みてぬくし鴨(かも)の足」〈続猿蓑〉〈泊船集〉
で「毛」とも抱合せです。〈万葉集〉四一六、細字{大津皇子}の「磐余(いはれ)の池」の「鴨」、地名の
「賀茂」の「かも」です。鴨長明のゆかりの賀茂で、下鴨神社(河合神社)−吉田神社があります。曾良は
「河合氏」〈奥の細蜜〉ということでした。「池」には、先ほどの北国の「名月」が想起されて
★名月や池をめぐりて夜もすがら 〈弧松〉〈葛の松原〉〈陸奥チドリ)
がでてきます。「鴨の声」の「白」は
月白き師走は子路が寝覚めかな」〈弧松〉
雪と雪今宵師走の名月か〈笈日記〉
月雪(つきゆき)と のさばりけらし年の暮〈続虚栗〉
というのもあり、月雪の白ですが、慈円の「真葛が原」の「松」に雪を積もらせた
時雨をや もどかしがりて松の雪〈続山井〉
があります。「名月や畳の上に松の影」もあり、松は、名月−池−鴨、を出してきています。年の暮(師走)
から、「烏」も出てきて
「日ごろ憎き烏(からす)も雪の朝(あした)かな〈泊船集〉
「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」〈東日記〉
もあり、前の句は黒白の対比があり、枯枝の方は、秋と東の組合わせが出来てます。
いいたいところのことは、句集、とか前書の威力です、●の句集は〈野ざらし紀行〉もう一つ出せば
市人よ此の笠売らう雪の笠〈野ざらし紀行〉
があり、この句の「笠−笠」の「雪」というのは●の「白」と連携がありそうというのは、句集が同じだから
察せられるところです。「笠」が賀茂の「笠」になりかねません。「茜(あかね)襷(だすきに菅の笠」となる
と堀の茜=菅−笠となり、戦国の「小笠原」「笠原」にくるのかも。★の句の解説では
『 「池」は、〈続虚栗〉・〈渡鳥〉によれば芭蕉庵のそれである。』
となっています。なぜ、これがでてくるのか、ということになると、やはり、弧松・葛の松原、陸奥などの句集の
名に、鶴の声、鴨の声が反応するということでしょう。「★の句→(陸奥チドリ)←▲の句」となってて
それが「渡り鳥」にきていて、このの「芭蕉庵」は、
▼の「鶴」の、(芭蕉の葉)=渡り鳥、芭蕉庵
となっているといえそうです。石川県の鶴来は「ほうらい祭」の里でもあります。〈虚栗〉は「虚空」(そらみ
つ)+「栗」で、戦国、東国には「一栗城」があり、「一栗放牛」という人物がでました。関白が起こした
征討軍に反抗した葛西、大崎一揆の大将の一人ですが、「栗」を機会あるごとに出そうとしています。
「栗」は東国の属性ですが、「西」の「木」と書く意味が芭蕉の文では「西方浄土に便(たより)あり。」と
なってるだけでよくわかりません。麻生氏の注は「西方浄土にあこがれ」となっており、それなら、今は
須賀川の「栗」の木の下にいる、東国にいることと矛盾しないことになりそうです。
蓬莱に聞かばや伊勢の初便(はつだより) 〈炭俵〉〈陸奥チドリ〉〈泊船集〉
があり、伊勢の物件は蓬莱に聞けばよいようで、蓬莱の管轄にあるとしときますと、栗も字は西木だけど
蓬莱のもとにあるということでしょう。とにかく蓬莱は春の季語で正月の飾り物のことだということで「松竹梅」
が蓬莱につきものです。●の句も句集〈蓬莱島〉にあり、これは解説があるので気がつきます。
この句集〈炭俵〉にある、伊勢の蓬莱の句は「初」がついてるので初瀬(朝倉宮)想起でしょう。そらちゃう
とは一概にはいいきれず、「初」の利用が要所にあり、〈信長公記〉でも
「・・居初(イソメ)又次郎・・堅田(脚注=大津市)の中入(なかいり)・・藤堂右衛門・・・前波藤右衛門・
堀平右衛門・・高名・・深雪・・北国の通路・・朝倉・・無為(ぶゐ)・・三井寺(脚注=大津市・・朝倉・・)・」
があり、「初」とともに脚注では大津が躍動しています。「大津伝十郎」何を伝えるかというのとも関わり
が出そうです。藤堂があるから、安濃津の「津」が「大津」の「津」で出てきて、「伊勢」が渡海の根拠地である
という意味もかねるというのが〈泊船集〉の意義でもあるようです。
「堀久太郎−堀監物直政」=「(森蘭丸)−(森勝蔵)」のような例は今後の歴史記録の人物の読解に
貢献するところが大で、太田牛一の叙述手法の講義があったと思えばよいのでしょう。
次稿(274)に続く
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〈信長公記〉