21、明智光秀夫人(妻木勘解由左衛門の娘)


(1)荒木山城守
 前稿ですこし触れましたが〈甫庵信長記〉では、「松永」の記に続いて、「夜話の事」と題する一節が
あり、ここで
          「荒木山城守」
という人が、「森乱丸」、丹波の「良琢(りょうたく)」のあとに出てきました。「阿弥陀殿」に手紙を出し、
その文が載っています。内容は

   『態(わざ)と申し入れ候。近日西国へ可令下向候(げこうせしむべくそうろう)・・・・・』〈甫庵信長記〉

 となっています。これはおそらく〈甫庵〉の記事の中で、学問的という意味では最も相手にされない
記事といってもよいものです。この人物は、
     @「森の乱」、「丹波の者」である「良琢」のあとに出てくること、
     A「馬じるし」が「白き絹の四半」ということ、
で著者の「太田和泉守」とする以外には考えられないところです。
 この「森の乱」には{森三左衛門尉二男}という注が入っているので、あの本能寺の「森蘭丸」とすぐ
にわかりますが、「良琢」というのがよくわかりません。とにかく「りょうたく」がどこかにあるはずだということで
あたってみるしかありません。
 こういう場合、人名索引がなかったら探すのが不可能です。また索引があっても「りょうたく」に
苗字がある場合は、「り」という見出しでは当たれませんから、索引に載っている人名を全部みなけ
ればなりません。とにかくデータベース化されていれば簡単に出来ることですが、いまはそういうわけ
にはいきません。〈信長公記〉で一回だけ

        「涯良沢(ルビ=きしりょうたく)」〈信長公記〉

という人物が登場しています。これは前後に関係のない完全に独立した一匹狼の表記なので誰かの
ことをいっている、この「良琢」を意識して登場させた名前であることが考えられます。
これは テキスト人名注では
        「岸良沢 美濃加治田(岐阜県加茂郡)大沢基康の家来」
となっています。
 美濃の「勘解由」=蜂屋荘=蜂須賀=蜂屋兵庫=武井夕庵という連想で、この「良琢」は、「武井夕庵」
となると考えられます。はじめに「丹波の者」とあるので明智関係の人ということ、「良琢」は「夕庵」「夕閑」
などという武者らしくない感じで、ボンヤリとそのように感じられるものです。
 本人が出てくる前準備として、子息代表「森乱丸」と、兄弟代表「武井夕庵」、連れ合い{森三左衛門尉}
を出してきた、「荒木山城守」という人物は、どうみても「太田和泉守」となり、太田和泉守は自分に
「荒木」とか「山城」という表記を使いそうだ、というのは確かにいえることです。が、これだけなら、「良琢」
はわからなくても、「丹波」だけでも十分といえます。はじめの
     (妻木解由左衛門娘)の「勘」と、「岸解由」の「勘」
この「」が荒木のところで出てくる、これが大きな意味をもっていることを暗に示していると思われます。
とにかくこの一節は本人と明智のことが語られていると感じられるもので重要なところではないかと
思います。
 上の森乱丸についている{森三左衛門尉二男}という注記は、この{森三左衛門尉}を「太田和泉守」
とみなしますと、森乱丸は{二男}、つまり二番目とありますから、上に一人いる、すなわち「森えびな」が
その人といえると思います。
 一方、この{森三左衛門尉}は「森可成」と読む人もいるはずですが、その場合は一男「森長可」
(長可を「長一」としているものもある)の次と理解されると思います。つまり年齢はどうあれ、「森」の「主」
(あるじ)は「森可成」であると考えられますので、その子を一番とするのも自然といえるのかもしれません。
〈武功夜話〉に、『前野村森氏の事』という一節があり、そこに

       『尾州丹羽郡稲木庄前野氏一門中に氏あり。』

 となっております。したがってこの「森」は「前野氏」と表記してもよいのでしょう。太田和泉守は「土岐明智氏」
「遠山氏」「斎藤氏」などの流れの中から「森家」に入ったといえます。ここの〈夜話の事〉というのが〈武功夜話〉
の〈夜話〉かもしれないというと「そんなことはない」といわれそうで、我田引水であることは認めますが、
「森」がきわめて重要だと匂わせているのが〈武功夜話〉です。この一節で
      「森小一郎(ルビ=正久)」
      「森勘解由(ルビ=正久と正利の二通り、正久の一つは遠い先祖の名前で上と矛盾していない)」
      「森甚之丞(ルビ=森正)」その子「嫡子久三郎(ルビ=森雄)」「次男清十郎(森正
 が出てきます。三段目のルビのつけ方は「森」まで入っています。したがってこれが参考にすべき名前
ということになります。
     「森可成(よしなり)」は「森好成」でもあり、「雄」は「よし」とも読めますから「森雄成」
でもあります。「正」も重正に通ずるものがあるでしょうし、またこの一節には「孫九郎(ルビ=小坂雄吉)」
の名前も出てきます。
まあ一字で、その組み合わせで事実を語ろうとするものですが、仮に〈武功夜話〉が戦災で燃えてしまって
いても「森三左衛門可成」という人物に着目しておれば、あちこちにこういうヒントがあるからわかるように
なっていると思います。ここも「森甚之丞」があの森可成となるのか、嫡子「久三郎」がそうなのか、と決める
ことが必要ではなく、表記が可成の出生を示しているということです。それで十分で、誰がそうかと決め
ようとすると年代がよくわからない、とかイライラが出てきて資料がわるいということになってしまいます。
気がつくための布石の一つとみればよいともいえます。
このような当て字というのは、あてにならないというわけにはいかない、それが意識して援用されます。
例えば「豊臣秀次」は「三好秀次」とされますが、〈川角太閤記〉では全部「三吉」が使われています。
この「吉」が大谷吉隆の「吉」を想起できれば何か役に立つ、それでよいということになるのでしょう。
なお下線の場所については
     『尾州稲木庄前野郷九十五貫文由緒の事』
という一節があり、ここを「下津(おりつ)」の城主から「安堵(あんど)」して貰っています。「下津」の「前野郷」
といったものでしょう。
 荒木山城守登場までの前座で長くなりましたがあとも妙な名前が出てきます。

(2)剛三郎勝光
 「夜話の事」ではこのあと「渋屋万左衛門」「翠竹院道三」という人物が司会役、道化役のような役割で
出てきます。そのあと、次の六人の人物を信長公が品定めをします。太字の三人が明智の三兄弟でしょう。
はじめの部分の三人は、「為持」はわかりませんが、あとは秀吉、家康を指しているらしいと、これは〈前著〉
でもいっていることです。

   『嗇(しわ)太郎為持、内寝二郎仲吉(なかよし)、斟酌(しんしゃく)三郎末安(すえやす)・・・・・
   知人太郎国清才二郎国綱剛三郎勝光

 このうち「剛三郎勝光」についてはとくに長い論評がありたいへん「信長公」から称揚されています。

   『周公の才を専ら用うべし。その余は才に似て才に非ず。今の世、才覚者というは、ただ佞人
    多くその名を得る有り。剛者進退よろしきに合(かな)い、小功に心を労せず、邪悪の敵を伐し
    温厚の君を尊み、ただ大功を天下国家に及ぼし,民を撫育せんと思うこころ実(じつ)なるは
    天神感を成し人心自然にに服す。かくの如きときんば一戦功なってその威光、いとみやびやか
    なり。是れ又勝光(かつみつ)に非ずや。
     夫(かの)嗇太郎為持にして天下国家を失わざるは稀なるべし、と高声に宣いし・・・・・』〈甫庵信長記〉

 勝光の前に「是れ又」という強調がありますので、これは太田和泉守のことでしょう。
順番からいえばこの三番目の「勝光」は明智光秀でしょうが、光秀は総領ですからはじめにもって
きたとも考えられます。実際は「弥三郎」というのは二人で共用されていますから取りようによって両方
考えられ、「光」という字があるから「光秀」とも取られる、そう取られればそれでもよいというものがあると
思います。が、臆面もなく自画自賛しているのは著者であり、この勝光の「勝」も太田和泉守につながる
とみてよいと思います。
 この「剛三郎光」から「池田三郎」が想起されますが、その名前も太田和泉守の言動に利用されて
いるようです。比叡山焼き討ちのとき「信盛」と「夕庵」が諌言したことは知られていますが、このとき
信長公に反論されて、「夕庵」が「その理にや服しけん、一言の返答もなかりける。」と引き退ったあと、
「池田勝三郎」が出てきてすこし矛盾した進言をしています。

  『今日は漸く午後に及び候、夜に入り悪逆の衆徒少しは落ちることも候べし。同じくは明日鶏鳴
  より取り巻き攻めさせ玉わば一人も洩らすまじく候と申しければ、最もなりと同じ玉いて、其の日は
  止まり、・・・・・』〈甫庵信長記〉

 夜に落ちることを見越して、明日攻めようというのは逃げる機会を与えようとするものです。これは発言
ですので著者のものと考えるのが妥当といえます。池田勝三郎も二人のようです。織田信行(信長弟、
信勝ともいう)暗殺事件がありましたが、このとき信行を仕とめたのが突然出てきた「池田勝三郎」でした。
これは太田和泉守の可能性が大きいといえるのでしょう。またこうなると、次の記事

  『其の時上総介殿御手前には織田勝左衛門織田造酒丞(さけのじょう)森三左衛門、・・・』
  『其の時、織田勝左衛門御小人(こびと)のぐちう若、働きよく候に依って、後に●杉左衛門尉
   なされ候。』〈信長公記〉

 の「織田勝左衛門」も「池田勝入斎の池田」を宛てましたがすこし違ってくるのかもしれません。つまり
下線の人物を挟んで、太字の前者は「太田和泉守」を指し、後者が「森可成」というのが合っていそう
だということにもなってきます。とにかく織田一門「織田造酒丞」と関係があるとしますと、織田と縁戚関係が
ある太田和泉守というのが出てきます。
 またここの「●杉左衛門」は「杉・左衛門」か、「苗字無し」の「□□杉左衛門」かよくわかりません。
 「杉」は「木」に三つだから、「木三左衛門」であり、また、三つの「木」だから「森左衛門」でもある、
太田和泉守にとって、「三左衛門」と「森」が重要なことだとして、ここで「杉」でそれを示したということ
かもしれません。つまり、「太田和泉守」の子が「森蘭丸」ともなるといういわれをいっている、とも思われる
ところです。
 芭蕉は〈奥の細道〉のはじめ、長旅の出発に当たって
     「杉山杉風(すぎやまさんぷう)」
 の持ち家に入ったことを述べていますが、これと関係がありそうです。前稿で「杉の坊・津田太郎左衛門」が
出てきましたが、「津田(織田)信澄」を暗示するのも「杉」です。先の「□□」には何が入るのか、「森」が
入って「森杉左衛門」になるのかどうです。この「杉左衛門」が出てくるあたりに
     「黒田半平(半兵衛と同じ)」〈信長公記〉
という人物も出てきます。
 〈甫庵信長記〉を嵌め込んでここをみると、●は黒田杉左衛門尉になることがわかります。つまり
「黒田森三左衛門」となり、〈常山奇談〉が関ケ原で「黒田三左衛門可成」を出してきたのもここをみれば
かならずしも常山の間違い、とか作りごとでもないようです。
 黒田は森で「黒田半兵衛」は「森半兵衛」とも読める、こうなってくると、「池田」・「森」・「黒田」は
その関係が濃厚であるとともに、表記上も重なるから要注意というのが、〈信長公記〉の首巻において
早くも示されていることになります。後藤又兵衛が黒田三左衛門か黒田次右衛門か、によって危うい
ところを助けられたという話がありますが、これは「黒田」を「森」と置き換えればよく、すると親が急場に
きてくれたというようなことになり両者の親密な関係を示唆する挿話となります。黒田次右衛門は赤母衣
(あかほろ)衆に選ばれていますが、森次郎左衛門につながる名前となるのでしょう。
 要は、●などで黒田と森は親戚とかの近い関係にあると著者がいっているのだから、どこでそういう
親密な関係が生じたのか、を考えておくことが必要です。考えておくと予想外の名前を聞いても、なるほど
そうか、となりやすい、そうでなければウソだろうと自分の枠内の知識から反発してしまいます。まあ、はっきり
いえば「黒田家譜」などといっても「森家譜」のつもりでその著者は書いたということにもなりかねません。
これは別のこととして、池田と森は、後年の「森長可=池田の婿=池田当主の婿」という濃密な関係があって
親類であるという前に、どちらも織田家の親戚らしいともっと両家を近づけてみる必要が出てくるとは
いえますが、それだけでは済まないというものがあると思います。
つまり
      「剛三郎勝光(三)」と「池田(森)勝三郎」
は「勝」「三」「郎」が共通で、また「剛」はどちらの人物にもあてはまりそうですから、「池田勝三郎」二人
というものからくる読みの見直しがいると思われます。次の話の場所は表題の明智光秀夫人のことにも大きく
関わってくることですが、現代の愛知県稲沢市です。ここは池田勝三郎の領地であったとされますが
太田和泉守の領地であったともいえるのではないかと思われるものです。
 〈信長公記〉に「火起請御取り候」という一節があり、信長が裁判の不正を正すため焼けた斧を手に
取る話がありますが、この一節が他のことにも懸かっていそうだというのが、ここに「織田造酒正(カミ)」
と「池田勝三郎」が出てくるのでわかります。

  『尾張国海東郡大屋(稲沢市大矢町)と云う里に、織田造酒正(ルビ=カミ)家来甚兵衛という庄屋
  候らいし。
  ●ならび村一色と云う所に左介という者これあり。両人別して知音の間なり。ある時、大屋の甚兵衛
   十二月中旬御年貢勘定に清洲へ罷り上がり候留守に一色村の左介甚兵衛宿に夜討ちに入り候。
   ・・・・・一色村の左介は、当権(とうごん)信長公の乳弟(ちきょうだい)池田勝三郎被官なり。・・・・
   ・・・・その比(ころ)池田勝三郎衆権威に募り候の間・・・・・』〈信長公記〉

 ここで池田勝三郎が信長の乳兄弟であり、池田が信長に近いことを知っている池田衆はその権威を笠に
きていたということがわかります。今となればここの「大屋の甚兵衛」が「太田和泉」のことを暗示している
と思います。下線の部分が具体的で、領地の税務をやっていますのでここに土地を与えられていた
というのが窺えます。また「大屋と云う里」だから大屋という仮名になっている、おなじ稲沢では前に
稲木郡の下津というところ前野郷というのが出てきました。前野郷とすると「前野甚兵衛」となりますし、「甚」
は「森甚之丞」の甚です。大屋の「大」は「大田」の「大」でもあります。いろいろいいましたが、これはもう
     「大田甚兵衛」〈甫庵信長記〉
という孤立表記が出てくるのでそれで決めればよいことです。場面は違いますが、前後大田に挟まれて
「甚兵衛」が出てきます。
     『大田の郷・・・・・是に依つて小稲葉の城に居たる大田甚兵衛・・・・大田村近辺』〈甫庵信長記〉
 ここの「稲」は稲沢の「稲」とまではいいませんが、「大屋甚兵衛」と「大田甚兵衛」は一字違いの
あぶり出しといえます。
 「織田造酒正(カミ)」と「池田勝三郎」がここに出てきて、先にでた
      織田勝左衛門織田造酒丞(さけのじょう)森三左衛門
のことに当然つながっていると思いますので「織田勝左衛門」=「太田和泉守」とすると、あとの一人
「大屋甚兵衛」が「太田和泉守」の存在を示す役を演じていることになります。
 またここは「池田勝三郎」が信長との関係を鼻にかけ当時やや驕慢になっていたことを示すものでも
ありますが、太田和泉守が他者に相乗りする場合、よい場面のみでなく都合の悪い場面でも出てきます
から、この場合もそれがありえます。乳兄弟という事実関係はあの池田勝三郎が該当しますが、ほめたい、
けなしたいという評価に関わるようなことは太田牛一でもありえます。考えにくいヘマなどをある人物
の名前でさせる場合、それは太田牛一とも考えられる、つまり作り事のときはそれもあるということで、
ここも驕慢は両方で、従ってそのかわり自分も信長に近いといっていると思われます。
 ここで「織田造酒カミ」が出てきて「一色」という色が出てきますから「織田造酒丞」と太田和泉との関係は
「色」の介在があるものとなると思います。「森可成」は「与三」というので織田造酒丞とかなり近い
肉親というべき関係があるから、可成を通して義理かもしれないが親子関係となったりするのかもしれま
せん。つまり 
         織田造酒丞(さけのじょう)に隠れた織田造酒正(カミ)
 の存在がある、大屋は家来と書いていますが、家臣は家の子を表わすことも多いわけです。
ただ信長乳母の池田養徳院の周辺の挿話には、池田勝三郎の表記二人いるとなりますと太田和泉
のことを述べているようなことがありえるので注意しなければならないかもしれません。
 この「夜話の事」という長い一節が〈甫庵〉の本能寺の年に入る前ですので本能寺の明智の立場を述べて
いるのかもしれないので重要ですが「剛三郎勝光」に着目していると妙なところへ行き着いてしまいました。
 ただここの
        「●ならび村一色と云う所に左介という者」がいて
        「一色村の左介甚兵衛宿に夜討ち」
 というのは本稿の表題と関係がありそうなので立ち寄ってみたものです。ここを「夜討ちの情景」とでも
しておきたいと思います。
 とにかく著者の自画自賛といったものでしょうが一色村の近くの「剛三郎勝光」を「信長公」が大いに
持ち上げています。
 これに反して下線の部分
           「夫(かの)」「嗇太郎為持」
 は声高に駄目だといっています。この二人の落差は大きいものです。一色が出てきた上に「夫」という
字が入っているのでこれが
     「坂井左衛門尉」
 となるのでしょう。物欲、権勢欲の強い人物とでもいうのが「太郎」「為」の意味かもしれません。
とにかく信長公はこの人物を危険と見ていたといえますが、仲吉(秀吉)、末安(家康)は全然買っていなかったと
いえます。警戒すべき相手ともみていなかったといえます。

 つなぎで出てきた「渋谷万左衛門」は前に「菅屋九右衛門(織田造酒丞の子息)」と絡んで出てきます。
この「渋谷」というのは「天王寺屋」というように「渋という」というような意味で「万・左衛門」となるのかも
しれません。「万」は「伴」「塙」「坂」「番」に繋がってくるものとなります。
〈常山奇談〉によれば紀伊大納言徳川頼宣卿の母君「おの方」が「塙団右衛門(伴団右衛門)」に
毎年収入500両のうち200両を与えたという話がありますが、これなどは「ばん」の縁故で、この万左衛門
の「万」を意識した話といえるものでしょう。この社会では家康晩年の子「頼宣」などは家康の実子では
ありえないことになるのにも注目しなければならないと思います。もしそうでなかったら晩年すべて思い通り
になっている状態では三人とはいわず百人以上子がいて全国の大名が子になっていても不思議では
ないはずです。
    「塙九郎左衛門」・「菅屋九右衛門」「下方九郎左衛門」「佐久間久右衛門」
などに太田和泉守が相乗りしているので要注意というのが「万左衛門」かもしれません。
同じことが有名な「曲直瀬道三」という人物にもあてはまるのではないかと思います。つまり道三に
相乗りもしかねません。
 〈甫庵信長記〉のここに出てきた「翠竹院道三」は「雖知苦院道三」とも表記されています。「雖(すい)」
は「すいか(誰何)」の「誰?」の意味とも取れそうです。ここでの役目は
     「福の神十子仮名(けみょう)実名など付け侍る」
ということで出てきます。
 これは一見遊びのようなことをしているので、明智光秀・蒲生氏郷などを診て記録を残した医者「曲直
瀬道三」の「まともな感じ」とは、違和感があります。
 「翠竹院道三」には「院」があるので病院長といったのかもしれませんが、あの「曲直瀬道三」と同じでは
なく、それをもじった人物といえるのでしょう。〈甫庵太閤記〉でも信長が、「秀吉」と「丹羽五郎左衛門尉長秀、
長谷川丹波守・医師道三」に手づからお茶を点じていますが、「残(のこる)三人」と表現されるこの
三人と「秀吉」の組み合わせは自然ではなさそうです。おびただしい歳暮を信長に進上したときの記事
なので、ひょっとして秀吉に相乗りしたものかとも思われます。

   『秀吉には急ぎ帰国然るべき旨にて御暇下されしが、翌朝国次の御脇指、先考備後守殿形見
    なればとて、堀久太郎に持たせ恩賜有りぬ・・・』〈甫庵太閤記〉

 など「秀吉」が「和泉守」に適合するものもあります。記事全体にほめたり、けなしたりが混在してあやしいところ
があります。この三人のうちの「医師道三」も太田和泉守といういたずらがあるのかもしれません。「長谷川
丹波守」も引き当て不可能で「明智の誰か」つまり自分とするしかないと思います。
 医者という場合「小瀬甫庵」も「新編医学正伝八冊」「東垣先生十書等」の医書を刊行しているので
これは甫庵@Aのうちの@の業績もあるでしょうから、太田和泉守自身もいへんな医学の権威でもあります。
当然、「曲直瀬道三」との接点があるのは予想されることです。「道三」に声をかけて、有名人の
健康を語ったということも考えられます。上の
     「福の神十子仮名(けみょう)実名など付け侍る」の
文が少しおかしいので一字を入れ替えてみると
     「福の神十子(十字)仮名(けみょう)実名など付け侍る」
 ということになるのでしょう。
 「福の神」というのは、その「神」が「紙」に通じ、「紙」名前を書いたということになると意味がわかって
きそうです。
 「福の神」というのも当然意味があり、「工商」の「福神」=「武家の為には貧神」というのが「為持」「仲
吉」「末安」であり、「吾が党の福神」というのが「国清」「国綱」「勝光」だと信長公がいっています。いま
「福の神」「貧神」談義をしている中での「福の神」です。「十子」とは「十字」であり十字の仮名表記の
ことでしょう。人物を十字の「かな」であらわすとは 

       嗇(しわ)太郎為持、            しわたろうためもち         九字
       内寝二郎仲吉(なかよし)、        うちねじろうなかよし        十字
       斟酌(しんしゃく)三郎末安(すえやす) しんしゃくさぶろうすえやす   十二字
       ・・・・・
       知人太郎国清、               ちじんたろうくにきよ        十字
       才二郎国綱、                 さいじろうくにつな         九字
       剛三郎勝光                  ごうさぶろうかつみつ        十字     
                                −−−−−−−−−−−−−−−
                                     平均             十字

 ということになる、お目あては「さかいさえもんのじょう」の十一字なのかもしれません。松永のところ
で出てきた、「万年亀洋派下巣葉懶安嫂」の十一字に対応するものか、その仮名(かな)を宛てるのか
とも考えられます。これは〈前著〉でいったことですが、そんなのおかしい、というのももちろん合っているか
もしれません。しかし、いまもわからないから繰り返し書いておくだけです。「□□□□□・・・・」の
かわりに漢字をつかうという例は、あると思います。「嗇(しわ)太郎為持、」というのも現にそうですから。
「国」は阿国の国、「清」は仁清の清、「綱」は之綱の「綱」かもしれないなどというと不真面目だと文句
が出て、それは当然のことですが、ここまでくれば、「光」というのは「丹波」という語句も出ていることでも
あり「光秀」とか「光春」の「光」だといわれると一概に否定できない、また「太郎・二郎・三郎」は「三人兄弟」
を想起させるものだ、といわれると、これも肯かざるをえないと思われます。また「知人(人を知る)」「才」
「剛」はほめるべき属性をいっていると思います。同様に上のもそうですが、とくに「家康」には「斟酌」
というむつかしい語句が使われていて、これはよく考えて書かれているはずです。一見「按配する」と
いうようないまのハヤリでいえば「談合体質」というような感じを受けますが、字引をみますと
 「相手の心情や事情を考慮に入れて、ほどよく取りはからうこと」「ひかえめ、遠慮」
というような意味になっています。つまり「サドノカミ」勢力に思うとおりにやらせている、対外的には適当に
取り繕っやる、自分からは動かず眺めているというような態度を通しているといった感じのものです。
しかし、何といっても当主だから自分をないがしろにするのに怒っている、三方原のときのように時には
我を通すといったものというのがあると思います。当主が批判的にみていると思うおりにやりたいという勢力
には、おおきな邪魔者となるおそれもある、「サドノカミ勢力」も代替わりになれば、やられるかもしれない
といったことになります。当主が二重性格をもった存在なので、家も二重となっているというべきかと
思います。

 道三があげた六人に信長公が人物評価したというのは面白い話ですが、
       斎藤道三ーーーー信長公
の繋がりを示すために「まなせ道三」が担ぎ出されたというのもあるのもしれません。道三に診てもら
った人物は多いので人物を、生理的に語ったという客観性を導入したのはやはり太田和泉守の配慮
だったと思われます。光秀の病と道三の診察の記録、そこに妻女「ひろ子」が出てくるというような記事
があるから、ある程度意識的に歴史叙述のなかの一環のものとして組み入れられているというような感
じがします。
 あの「蒲生氏郷」についての道三の診立てもあるようです。ネット記事「蒲生氏郷、会津のキリシタン」
によれば曲直瀬道三は
  「血を吐き、顔は青く、身はやせ細った、」といっているようです。これが毒殺であることを予想させる
ような語りにもつながっています。蒲生氏郷は優れた人物としてたいへん有名ですから、道三が出て
くると氏郷が出てきてしまうのでそのままにしておくのもなにか気がひけるところです。

(3)蒲生の婿
 次の記事は本能寺の変のあとの〈当代記〉の安土城の場面です。〈当代記〉は〈信長公記〉の内容に
準拠しながら余分なことを付記しています。

  『蒲生右兵衛大輔●森の二郎左衛門によくよく守るべしと云い置く、までは清潔後日には少心
  違けるか、又は策か、明知へも無音にはなかりけるか、後には其の事を布瀬藤九郎が科にして
  、藤九郎を牢人させられける、此藤九郎は蒲生右兵衛婿なり・・・・』〈当代記〉

 蒲生氏郷の父(蒲生右兵衛大輔)が、●太田和泉守(〈信長公記では木村次郎左衛門〉)に安土城の
一切を任せ、自分は信長の家族を避難させるということで城から退去します。財物には手をつけなかったので
ここまでは清潔な人と見られています。これは策かどうかわかりませんが、蒲生はこのあと明智と手を切って
しまいます。
ここで下線部分があり、氏郷について語る場合は避けて通れない決定的な語句となります。
     布瀬(布施)藤九郎は蒲生右兵衛婿なり
 となっています。
 この蒲生右兵衛は文脈からいえば蒲生右兵衛@でしょう。しかし知っていることからいえば、氏郷が
有名なので蒲生右兵衛Aということになる、以下蒲生右兵衛は当然氏郷のことだということにして話を
進めます。その場合は、氏郷の夫が藤九郎といっていることになります。
 ここは当時でいう夫婦というものはどういうものかということから読まないとなんとも解釈できないことになりますが
文献が信頼できないからということだから、それもよいのでしょう。
 国語の先生にここはどう解釈するのか聞きたいところですが、歴史の文献のことはよくわからないと
いうのでしょう。「婿」も「嫁」もなぜ女篇なのか是非教えてほしいところですが、まあ非常識な質問となる
のでしょう。普通によめば布瀬藤九郎を婿にしましたので、ともかく女子ということになります。
二人が親密な間柄であることは〈信長公記〉では二人の並列記事が多いことで確認できます。いままで
「布施藤九郎」は木村又蔵だということで話をして来ました。すなわち木村又蔵@のことです。

  @元亀元年の記事、この信長狙撃事件のところが初登場です。

   『日野蒲生右兵衛大輔布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(ちそう)申し、千草越えにて
   御下りなされ候。左候処、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に頼まれ・・・・』

  A 天正六年の記事では相撲奉行として両者が併記されています。異性の入った相撲はありえない
   はずですがその情景です。

   『・・・・・布施藤九郎蒲生忠三郎・・・・・・』
   『・・五番打 布施藤九郎小者 勘八・・・・・五番打 蒲生中間  藪下(ヤブノシタ)・・・・
    ・・・三番打 布施藤九郎内 山田与兵衛・・・・・・大方相撲終り、既に薄暮に及ぶ。・・・・
    御奉行衆の相撲御所望なり。初めには堀久太郎・蒲生忠三郎・万見仙千代・布施藤九郎
    ・★後藤喜三郎とられ候て、・・・・』
   
   B天正八年では
    『今度蒲生右兵衛太輔家中、布施藤九郎御馬廻りに召し加えられ、是又江を填(ウメ)させ、
     御屋敷下され、忝き次第面目の至りなり。』 
  
 蒲生はその器量を見込んで子息の連れ合いとしたのでしょうが、こうなると蒲生氏郷は太田和泉守にとっては
息子の嫁ということになります。まあ太田和泉守の義理の子が蒲生氏郷と考えてよいのでしょう。
 ネット記事「inforseek m240html」によれば「氏郷」は「教秀」「飛騨守」ともいい

        「母は六角氏の重臣である後藤但馬守の娘」

となっています。これは〈甫庵信長記〉に佐々木家の家老、後藤氏の来歴が語られるところに出てくる
名前です(〈前著〉)。突如あらわれて戦死してしまいますが、「後藤但馬守其の子又三郎」というのにリンク
されたものでしょう。つまり実体はどうあれ、表記をちりばめておいて、それを借用してきたといえます。
 上のAで「★」は「藤九郎」と接近していますが、〈信長公記〉では永禄12年に

   『・・・●進藤山城・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔(ルビ=がもううひょうえのたいふ)・・・』

 があり、ここでは「蒲生」に接近しています。なぜか蒲生だけはフルネームでルビが入っていますが
それは別の話として、喜三郎が藤九郎と蒲生を結び付けているように、●の進藤山城は次の記事に
出てきて同じような役目を果たします。

    『後藤但馬守其の子又三郎・・・・皆後藤が一族或いは厚恩の者ども・・・進藤山城守・・・』
    〈甫庵信長記〉

 つまり後藤喜三郎の「喜三郎」は後藤の「又三郎」といってもよい性格のものだということをいっています。
したがって「喜三郎」は後藤但馬守の子といえる、同様に

     「蒲生右兵衛も後藤但馬守の娘(子)」

というのがネット記事の寄稿者が、どこかで見られた文献のいいたいところのことです。

 蒲生右兵衛が、安土城の守備を太田和泉守に託したのも近い親類だから頷けるところです。
 これに対して、「それはおかしい」というのがすぐ出てきます。蒲生氏郷の夫人は信長のむすめで信長が
その器量をみて嫁がせた、のち氏郷の死後、秀吉が夫人に懸想して断られて、領国を削ったとかいうことの
話が出来上がっているからです。しかし信長の二番目の娘というのはどの人なのかよくわかりません。
子といっても男女のこともありますから早急にいえない問題です。また養子にして嫁がせるということもあります
から、藤九郎の話がそのようになったとも考えられます。ただ主(あるじ)の側は蒲生の方であることははっきりして
います。
 とにかく今の及び腰の状態では、日本語の文章というものすら読もうとしていないのですから、何も
わからないのは仕方がないことです。日本史には解せないことが山ほどあって、不自然な現象があり
あまるほど起こっていますが、まあそれは仕方がない、実態をあらわにすると国民の感情を害するだろう
誰かが判断しているということのようです。しかもそれが個人のプライバシーを暴くようなことでもない、団体、
集合体といったものの動き、流れをみたい、公人の公的行動をしりたいというにすぎないものです。
 知りたいという人々の渇望に対し、日本史という学問が応えていることの少なさは驚異でしょう。
単に知ることだけのことに、群れをなして、逃げていてはどうなるものか。
      布瀬(布施)藤九郎は蒲生右兵衛婿なり
 というのは〈当代記〉の記者のいい加減な記事ではないのです。〈吾妻鏡〉でもこの表現がたくさん
出てくるから、古典を読めと薦める今日の知識人より、〈当代記〉の記者は、古典をよく勉強しているわけ
でそれを踏まえて叙述しているわけです。戦前の学者は〈当代記〉を第一級の資料といっています。
 氏郷はれっきとした100万石近くの大名であり、その婿が〈信長公記〉〈甫庵信長記〉にも出ている
            「布施藤九郎」
 というのであれば、これは誰かを語っている表記ではないかという疑問に突き当たるのは仕方がない
ことです。〈信長公記〉に「布施五介」という孤立表記があり、「五郎」合わせをせよ、とサインを出して
いる、それを見落としたりするので引き当てなんか出来っこないと思ってしまうのも無理のないことですが、
気がつくものです。幕府公式史書という〈吾妻鏡〉にもたくさんフザケた名前が出てくる、
             伊南常景
             伊北常仲
 などはかなりおかしい、誰かのことをいっていそうですが、こういうものも引き継がれている名前が布施
藤九郎ではないかとみるとき、これは検討せねばならないことになってきます。
 蒲生は逃げたが、尾張国の水野監物は翌日明知が安土殿守に上がったとき伴をしました。時の人
は「非人」として之を悪(にく)んだ(〈当代記〉)、となっています。蒲生と違う行動をしたこの水野も、藤九郎
と同じように浪人となっています。
 蒲生は信長時代には信長の側近にいる太田和泉守と接近しておけば有利と考え、話を持ちかける
ことをして、信長が倒れたら、ここにあるように皆の態度が急変することを知っていたといえます。
蒲生氏郷は「忠三郎賦秀」とも「教秀」ともいうようで名前が二つ以上あります。また亡くなった年が秀次事件
があった年で、木村常陸介と同じです。
 したがって別人ではありますが事績は夫妻が重なっているともいえるものです。〈信長公記〉人名注では

   『服部小平太  服部春安(〜1595)実名春安。のち秀吉に仕え、伊勢松坂城主となったが
   文禄四年(1595)関白秀次事件に連座して改易。上杉景勝に預けられ自殺。』

となっている、伊勢松坂は会津へ移る前の蒲生の領地でしょう。こういうのは明らかに二人の重なりを
表わしています。
 義元を討ち取ったのは服部小平太と毛利新助(「毛利藤九郎」)です。毛利(森)と服部とは荒木
又右衛門物語では同じということがわかります。つまり荒木又右衛門は服部平左衛門の倅(せがれ)
とされていてはっきりしています。 会津の保科家に仕えた学者「服部安休」は森乱丸の子孫だといって
るそうです。〈信長公記〉では「服部平左衛門」は「津嶋」の人として出てきます。津嶋は堀田道空が
いたところです。
 また〈信長公記〉では「服部小藤太」という人物が本能寺で戦死します。これは「藤九郎」と「服部小平太」
という表記をここで消したのではないか、と思われますので、服部小平太は誰かの活動の一側面を
物語った人物ということができると思います。
 ここの脚注の小平太も「布施藤九郎」を匂わすものでしょうから、松坂12万石を媒体として蒲生氏郷と
重なります。まあ物語としては、この服部小平太が蒲生右兵衛@(氏郷は桶狭間のとき五歳くらい)で
、森新助と共同して義元を討ち取った、それが奇縁で当時有名となった新助を子息の婿に所望したと
いうことをいっているなら面白い語りとなり、氏郷に武勇勝れた大将をつけておきたいと考えた、一方毛利藤九郎
の武勇は知られていた、というのが機縁となったということが、自然な帰結ととってもよい話ともいえます。
しかし蒲生が不利だとされる桶狭間の戦いに近江から参加することは考えられず、また蒲生には膝を
やられたという記録はありません。記録では、服部小平太は
     『小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ倒れ伏す。』〈信長公記〉
 となっています。当時の医療技術では簡単に直らないことは十分ありえますので、これがその後の
記録から免れることは無理だということになるでしょう。
 これらのことをいろいろ考えてみることは、一応話しに無理がないかということを調べねばなりません
からそこから生まれてくるものがあります。
 すなわち、一つは毛利藤九郎は桶狭間18歳で、相手の氏郷が五歳くらいとすると相手が若すぎるわけ
です。もちろん当時は今日式ではないといっても、基本的には考えにはいることです。当時では寿命
が短いので結婚は早い、とくに初婚年齢は均衡が考慮はされたはずです。藤九郎の年齢は右兵衛@に
近いくらいです。これは公には氏郷の年齢が10年ひくく取られていることを示すものかもしれない、婿と
いってもどちらの婿かわからないようにした、他愛ない話ととらせるというものがあるともみられます。
〈吾妻鏡〉の場合は、当然考えられる娘婿ではなく本人だったという例がありますので、基本的に無理が
あるなら蒲生右兵衛@の婿が「藤九郎」とみるのも検討に値するということになってくるのかもしれません。
  もう一つ膝を割られた尾張の勇士は誰か、表記を消されているのなら、、ある人物の活動の断面を示した
ということが第一に考えられることです。〈甫庵太閤記〉の記事

  『○中條小一郎   永禄之初・・・・・近所に下方左近、岡田助右衛門・・・・・・十六歳之春手柄なる
  太刀うちをし、膝の口をわられ、行歩も叶わざりしを、織田孫三郎聘(へい)し置かれしが、海津合戦
  に最初鑓(はなやり)を突きしなり。』〈甫庵太閤記〉

 この海津合戦は天文廿年(1551)であり、ここで「下方左近中将小一郎」(〈甫庵信長記〉という人物
が間違いなく出ています。しかるに桶狭間でまた出てきます。

  『織田造酒丞、林佐渡守、毛利新助、森三左衛門、中条小市・・・簗田出羽守等進んだり。』〈甫庵信長記〉

  桶狭間の年が「永禄三年」なのに、「天文21年」など八年前の事件のように書いたりしている著者の
ことですから「海津合戦」と「桶狭間合戦」とが重なっていても驚くことはないようです。まあ「小市」の親の
世代の戦いが海津の戦いといっていいのでしょう。この中条という人は実際桶狭間で戦った人でしょう。
テキスト脚注では
     「中条将監    実名家忠、尾張春日井郡出身」
 で出ています。この「中条将監」も負傷しますが、「中条又兵衛」という人物が同時に出てきて兄弟と
とるしかないと思っていると、「中野又兵衛」と炙り出しになっており、物語の世界に引き出された「中条」
という存在になっていることになります。太田牛市はこれに「服部」という名を冠して、「森新助=藤九郎」
」と接触させた、ということになると考えられます。
   中条小市==服部==森(毛利)=中条又兵衛(中野又兵衛)
という、表記の運用をやって、布施藤九郎=毛利藤九郎=毛利新助が太田和泉守の子息であると
いったと思われます。結局、いまの段階では、桶狭間で義元に槍を付けて膝をわられた人は中条小市という春日井郡の出身の兵士で、「中条小平太」ともいってもよい人です。秀次事件に連座して自殺したという
服部春安は、この人ではなく、毛利新助(布施藤九郎)のことであろうといえますが、中条小市は
どうみても中野(条)又兵衛のつもりだから、ここは話がかわりそうです。
 
 蒲生氏郷の武功話はこの木村又蔵@の負うところ大きいというのは、加藤家の武勇に木村又蔵Aの存在
が関わっているというのと同じようなものでしょう。
 ネット「matsusaka mie.jp/0.1html」によれば、蒲生氏郷について稲葉一鉄は、この子の行く末は
百万の将たるべし、と褒めたこと、千利休は「日本において一人、二人の御大名」と評したことが書かれて
います。この稲葉一徹(哲)は、太田和泉守が乗っかっているかもしれないから注意する必要があります。
〈甫庵信長記〉の『御家人微官に進む事』の一節は太田和泉守が使う表記を整理し直したという意味があり、
ここに

   『(十二月)十七日には稲葉伊予守が居城曽根城へ立ち寄らせ給う処に、則ち孫共に能をさせ
   慰め奉る。子息彦六郎に三条吉則の刀、その外孫共にも色々の引出物下されければ伊予面目
   身に余りてぞ覚えける。』〈甫庵信長記〉
 
 太田和泉守は稲葉には批判的ですが「稲葉・伊予守」という分解したものから自分の周辺を語っている
もので自画像というものの種類に入るものでしょう。だからこのような評価は裏がありうると思われます。
利久の評価にしても身内から来るものとみなければ、日本で1・2を争う武将というのは出てこないはず
です。ここは原典表記も調べねばならないかもしれませんが
    「一人(氏郷)が、二人(氏郷・布施藤九郎)の御大名」
といったのでしょう。
 氏郷の名前が「教秀」といったという先の話は面白く「教」は「郷」であり「秀」は親の賢秀の「秀」と
しますと「郷秀」となります。蒲生家は、なぜか平将門を討った俵藤太「秀郷」の子孫ということです。
「俵」の「藤」の「郷秀」というのは連れ合いの方のことかもしれません。
 また「教秀」という「教」と「秀」は群書類従系図の明智光秀の二人の弟の「信」「康」でもありうる
のかもしれません。この二つは我田引水の話ですが、本能寺のとき、蒲生は逃げ、明智と手をきり、また
息女を秀吉に差し出したということなどで評判がよくないようです。氏郷は本能寺のとき27歳くらいで
蒲生のこのときの行動に責任がないとはいえない年齢に達しています。しかし結果的には秀吉も家康も
政宗にも警戒された強力な「蒲生家」を築き上げ、氏郷自身に英邁伝説がたくさん残っています。
〈当代記〉もここに「策か」と書いてあるように、このとき氏郷は後日を期したと思われます。あとで藤九郎や
その一族をよび戻し登用しています。蒲生には、「蒲生郷舎(成)」など「蒲生姓」の武勇伝のある
有力家臣が多く、これは氏郷が家臣を引きつけるために蒲生姓を与えたということになっていますが、
蒲生家の外戚の人が蒲生の武を支えたということになるのでしょう。これは史家の区別という方が当たって
いるのではないかと思います。こうみてくると
        (布施)藤九郎は蒲生右兵衛婿なり
とあるものは、解釈を変えねばならないのかもしれません。つまりこの「蒲生右兵衛」は「氏郷」でなく、額面
通り、蒲生右兵衛@であることが考えられます。これだと信長が氏郷に息女を妻(め)合わすことも自然
となってきます。木村又蔵@は氏郷の継母となる、木村又蔵Aの今でいう父は蒲生の人で親子二代で
蒲生家の家の子家臣として蒲生を支えたという構図が浮かんできます。まあ、治政は氏郷、軍事は藤九郎
うまくやっていたと思われます。道三が診たころの氏郷の様子は〈備前老人物語〉にあり、
   『蒲生氏郷の病に伏し給いしに、利休とぶらいたりけり。此の人茶の湯の師なりしかば、寝床へ
   迎え入れて対面あり。利休、病のありさまを見て、
   「御煩い御養生の半ばと見え候。第には御年も若く、文武道の御大将にて、日本において、
   一人二人の御大名なれば、かれにつけこれにつけ、大切なる事どもに候。慮外ながら御保養
   おろかなるように存ず。御油断あるまじきに候。」
    と言いしかば、氏郷、
        限りあれば吹かねど花は散る物を 心短かき春の山風
    とあり、利久涙を流し、
   「殊勝(しゅしょう)千万の事かな」
    と言いて、しばしは物をも言わずして、
   「さようには候えども」
    と言いながら、涙をおさえて、
        降ると見ば積もらぬさきに払えかし 雪には折れぬ青柳の枝
    といいて、後、物語一つ二つして立ち帰りけり。』〈備前老人物語ー現代思潮社〉
 
 「一つ二つ」のことはテーマにもなっていそうです。ほかにこれは死の直前のような印象を受けますが、利休
はこの四年前天正19年に亡くなったとされています。その利休がここに何故出てきたのか、この利休は太田
和泉守かもしれませんが、とにかく内容は
   「慮外ながら御保養おろかなるように存ず。」 「御油断あるまじきに候。」・・・・
   「殊勝(しゅしょう)千万の事かな」「さようには候えども」「さきに払えかし」
とただならぬ気配を漂わせています。蒲生氏郷の死は秀次事件の五ヶ月ほど前であり、もとの身内に関わり
があることでもあります。氏郷の子息は家康の娘婿ということのようですから本来なら、どういうこともないはずで、
子孫は隆昌して然るべきなのに秀吉に減封されたりしますので、徳川内部がどうなっていたのかという
のが問題となるような気がします。氏郷が恐れられ秀次事件でどう動くか、というのがあるのかどうかは
この一節が物語っているのかもしれません。
 、
脱線しましたが、表題の明智夫人に迫るにはこの〈当代記〉の
             (布施)藤九郎は蒲生右兵衛婿なり
 というような現代からみれば珍妙なことが関わってくるので仕方がないことです。
〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に〈当代記〉も嵌め込んで呼んでみると、微妙に違うところが出てきてそこで
あらたな事実が浮き彫りされるということになっていると思われます。

 ここまで松永のことが書かれた「作物記(つくものき)」のあとの「夜話の事」を追っかけてきました。
専門的に見るともっともくだらない記事なのでとくに重要だと思います。この一節は、「荒木山城守」の登場
があって、それが「剛三郎勝光」に繋がったことは一つ重要なことですが、この一節の位置もよく考える必要
があると思います。これは巻十四の終わりの記事で巻十五は本能寺の年に入ります。いままでと本能寺の変
をつなぐものを出してきたと読めるところです。
例えば巻十五の冒頭の記事の人名を挙げて見ますと

  『信長公・・・・・・狩野永徳・・・三位中将信忠卿・・・佐久間右衛門尉・・・子甚九郎・・・信忠卿・・
   ・・宇喜多和泉守・・・羽柴筑前守秀吉卿・・・宇喜多和泉守・・・・羽柴筑前守・・・★明智の君・・・
   上部大夫・・・堀久太郎・・・・・森の乱・・・』

があり★が信長公のことですから、この一節は読まないで通るということは無理なようです。『夜話の事』
の最後は次の文で終わっています。

   『▲夫(かの)嗇太郎為持にして天下国家を失わざるは稀なるべしと声高に宣いしは、さも辻談議
   の坊主の椅子に上がって、いかめしがおに説法し、他法をそしり自法をてらうにも猶越えたりけり。
   ▲(か)の人の才は、■窓よりする所あり。よく之を知って之を用ゆべし。』

 この▲と■を読まずに次に進んでしまってよいのか、ここで投げつけられた意味不明語句について
について何も答えなくてもよいのか、ということです。信長公、太田牛一がいっているのに、つまり本能寺
に入る前の年の終わりに述べた▲■、本能寺の年の初めにのべた★は本能寺の理解のもっとも近道と
して提示されたものではないのか、昔の人は読めたのではないかということがいいたいところのことです。
 「夜話の事」の一節で「荒木山城守」が「太田和泉守」である、「太田和泉守」が「荒木」という姓を使用
したということが明智夫人の語りの初めとなります。 
 ここではとくに「婿」というややこしい、〈吾妻鏡〉の真似をしたものが出てきた、ということが重要です。 

(4) 荒木と渡辺
 「荒木摂津守」の「荒木」が「村重」だけに使われるではないという目で、テキスト〈信長公記〉の人名注を
みますと
      『荒木五郎左衛門    297(頁)』
というのがありました。297頁というのはその頁に出ているという意味ですから、そこに載っている、ということだけ
で手がかりとなる資料がない、説明のしようがないということです。これは「荒木+五郎左衛門」だから
「惟住+五郎左衛門」にもなりかねません。297頁をみますと、

    『・・・・滝川左近・蜂屋兵庫守・惟住五郎左衛門・・・・・荒木五郎衛門と申す者・・・・惟任
    日向を頼み走り入り・・・・』〈信長公記〉

となっています。人名注では「五郎衛門」となっていましたので惟住五郎左衛門の左衛門と思って
ここをみましたが、原文では「荒木五郎衛門」という表記になっていました。単なる間違いですが要は
右も左も同じとみてよいということでもあり、違っているから二人いることは常に念頭においておかねば
ならないということでもあります。
 「荒木五郎衛門」は「惟住五郎左衛門」と「惟任日向」に挟まれて、出てきましたので、この
荒木ー五郎右衛門」という表記は、「荒木」は「惟住」「惟任」と重ねてもよいといっているといえます。
つまり、「荒木山城守」は「太田和泉守」としてもよいというヒントを与えるためだけに登場した表記が
「荒木五郎衛門」ということができます。
 「荒木」を太田和泉守が使用することになりますと「荒木又右衛門」は「惟住又右衛門」となり、また
「木村又右衛門」「後藤又右衛門」にもなりえますから、あの伊賀上野で起こった幕府旗本大名を巻き
込んだ仇討ち事件の物語は「太田和泉守」を意識して作られたものかもしれないというのが出てきます。

      「荒木は伊勢山田郡荒木村の郷士の子」
      「幼名丑之助」「名を又三郎と後に改め」「柳生十兵衛に師事し、」
      「荒木屋敷跡というのは戦国時代に雄飛した荒木摂津守村重の住んだ跡で、また荒木又右
      衛門の住んだ跡だともいう。」〈荒木又右衛門=徳間文庫〉から

 荒木村重のことは伊賀上野の藤堂の城代がその著書でいったようですから、組織的な動きもあった
のかもしれないと勘ぐられます。要は「太田牛一」周辺の人物の表記解説物語という別の方向に大きく
話が進展しそうになります。荒木又右衛門の周辺人物、主役(仇役)の一人ともいうべき
       「河合又五郎」
 の「又五郎」は
      @「又三郎」の延長の「五番目の又」といえる、また
      A「五郎左衛門」の「五郎」でもある、また
      B「河合」「荒木」の地名は〈信長公記〉信長伊賀侵攻記事で「阿閉(アヤ)郡」の内で出てくる、
 などのことになるとバックに「太田和泉守」がいそうだということが感得できます。
事は、「荒木又右衛門」の「妻の弟」の一人池田の殿様の寵童「渡辺源太夫」が「河合又五郎」に討たれ
たことから始まっています。結果は「源太夫」の兄「渡辺数馬」が「荒木又右衛門」に助太刀を頼み弟の仇討ち
に成功するという物語です。つまり、荒木の妻が数馬の姉という設定ですから姻族の関係による助太刀という
ことになります。家と家が結婚によって結ばれるから仕方がないことなのでしょう。
 河合又五郎も親戚の旗本に匿われ、池田家も又五郎を討たないと顔が潰れるということで面子をかけた
争いとなり、ほかの旗本大名を巻き込んで大騒動となります。その経過において当時の武家社会の様子が
活写されそれが参考になるものですが、池田家のことで藤堂家が出てくるところに何か別のことを語り
たいというものがあるわけです。
 こういうとまた文句が出てくるはずです。「又五郎」のことは、まあ、わかった、それなら渡辺数馬も主役
ではないか、これはどうなるのか、ということになってきます。たしかに「渡辺」姓の人が、太田牛一の周辺
にいたことは聞いたことがない、たしかに馴染みのない姓の人が荒木又右衛門物語の主役になっています。
 しかしこれが明智夫人の謎を解く鍵となるものです。すなわち〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の「荒木」
の記事を読もうとしても「渡辺」のことを理解していないと読めないのです。荒木と渡辺がセットになって
出てきているからです。
 織田荒木戦の〈甫庵信長記〉の記事、『荒木が一族京都において誅せらるる事』の一節で

   『・・・・荒木が妻出し生年廿一。・・・・・荒木志摩守が嫡子●渡辺四郎生年廿一、同弟荒木新の
   丞。五番伊丹安太夫が妻年三十五、同子松千代八歳・・・・・池田和泉守が妻生年廿八.・・・』

 があり●の人物は「四郎」ですから総領で、荒木志摩守の嫡子と書かれています。荒木の中に重要人物
「渡辺」が混ざっています。これは重要人物と思われるから渡辺数馬が出てきたのだというと、それはたまたま
一族か家老に荒木志摩守という人がいて、その跡取りに事実「渡辺」という人がいてそれを書き連ね
たのであろう、それだけで荒木の記事が理解できないはずだ、というのは大げさなことだといわれると、大部分
それに賛同ということになるでしょう。
 しかし〈信長公記〉の記事には次の{注書き}が入っています。小さい字の{注}で
      廿一歳の「たし」殿(「出し」ではない)と同じ年齢の「渡辺四郎
という人物が出てくる、配列も同じですが、荒木志摩守と関係付けられた「渡辺」が出ています。

       『廿一  たし・・・・・・・・・・
       廿一 渡辺四郎{荒木志摩守兄息子なり。渡辺勘大夫むすめに仕合わせ(脚注=妻合わせ)、
           則、養子とするなり。}
       十九 荒木新丞、同弟・・・・・・・・
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ●宗祭{伊丹源内事を云うなり}、伊丹安大夫女房、此の子八歳・・・・
            廿八 池田和泉女房、・・・・・・・・・・』〈信長公記〉
      
 わかりやすくしたいので図示すれば
     相関図
         渡辺勘大夫ーーーーーーーー▲むすめ
                               ‖
         荒木志摩守兄ーーーーーーー渡辺四郎
    XーーーU                 U
         荒木志摩守            荒木新丞
 
  ということになります。「妻(め)合わせ」が出てきましたから姻族もからんだ関係が出てきたといえそうです。
「渡辺勘大夫」という人物も出てきたとすると、事実を知りたいと読んでいる人は、やはり放っておけない
と思うはずです。ただこれだけではわかりにくい、二つの「渡辺」はまったく突然天から降ってきた、こんなもの
わかるはずがない、というのが現代人の受け止め方でしょう。しかし著者はこれだけしかヒントは与えられ
ない、これだけのことで、この人物間の関係がわかるはずなのでそれを読んでほしいといっているのかも
しれません。つまり布石が打たれているかも知れないからそれをまず調べることが要ると思います。
  ここからみても「荒木」と「渡辺」は一族といってもよい関係があることが明らかであり、また荒木は
「惟任」「惟住」と重ねられることは述べてきたことですから簡単にいえば、「荒木志摩守」は
     本来の荒木村重の「荒木」の「志摩守」と
     明智・太田の「荒木」の「志摩守」の
 両方に取れるということにもなります。「荒木又右衛門」の物語では、池田家の名家のなかでも特別な
名家出身の家老「荒尾志摩守」が出てきていろいろ画策していますが、この荒尾の家は池田勝三郎の夫人
の家です。太田和泉守が池田勝三郎にも乗っかっていますから、「志摩守」も、太田和泉守とは無縁とはいい
きれないものがあります。
 当時の人、江戸時代の人は公刊された〈甫庵信長記〉を読んでいます。〈甫庵信長記〉をみるだけで
ある程度「荒木」−「渡辺」のことは直感的にわかるというものがあると思いますが、よくはわからないと
思います。誰もが〈信長公記〉を読むというわけではないので、この{注}の相関図などで自分の知識を
補うというところまではいかないであろうと思われます。
 そこで〈信長公記〉を入手できる特別な人は解説書をつくるということになって、そういうのが「荒木又
右衛門」の物語などになって全国の人がよりくわしく知るようになるというものであろうと思われます。
現代人は一層わからなくなっているから荒木又右衛門の話から得るところが多いのではないかと
思います。

〈甫庵信長記〉でも、そこから人名索引を作ってみると「渡辺」は重要だということがわかると思いま
す。つまりこの姓の使用頻度は多いのです。

   「渡辺」「渡辺勘太夫」「渡辺金大夫」「渡辺宮内少輔」「渡辺源十郎」「渡辺勝左衛門」
   「渡辺四郎」「渡辺太郎左衛門」「同十郎三郎」「渡辺忠右衛門尉」「渡辺弥一郎」
   (いずれも〈甫庵信長記〉表記)

 と11種のものが出てきます(〈信長公記〉では7種、ただし渡辺勘太夫は4件)。種類ではたいへん
な数であり(最高といってもよい)、おのおの一回だけの登場という特殊な出方をしています。まあ解説
でもあれば、みな荒木と渡辺の関係を理解できたということができます。
 
 今日の感覚では、この注書きの「渡辺勘大夫」「渡辺四郎」「荒木志摩守」と、名前のない「荒木志摩守
兄」「▲」の人物となると、突然性というものがあるので、研究の対象から外れるのは仕方がない、他の書物
から探さなければならない、それに情熱をふりむけるということになってしまいます。しかし人にわかるように
書かなければならないと思っているのは昔の人も今の人も同じです。当時の人が読めばある程度
わかるということを思い起こさなければならないと思います。昔の人は〈甫庵信長記〉〈甫庵太閤記〉で
戦国時代を読み取ろうとしてしていた、これらの書物はそれに堪えうるように書かれていたという認識
が必要です。この相関図を読むための鍵は、こんなものを何故入れたのか、ということと、時の感覚では
これでわかったのではないかという根底に信頼感があるかどうかが第一だと思います。
 「渡辺勘太夫」を解こうとした場合、まず布石されているものがあるかということですが、四回登場していて
すぐに殺されてしまいます。この{注}で出てくるときにはもうこの世にはいないのです。それでは空を
掴むような話ではないか、いろいろ考えてもよいが、一つの結論がでそうにない、とはじめから煩わしい感じが
しますが、これで、二つの見解を出さなければならないかもしれないと感ずれば、これも「二人」いる
かもしれないということになりこれが解決の第一歩となるものです。〈信長公記〉荒木戦叙述の手法は
事件の経過を追ってゆく普通の叙述と部分と、はじめからもう1回、回想しなおしたというものと二通り
あり、もともと二重になっているという感じをもたせるものです。渡辺勘大夫の登場は 〈信長公記〉では
 
    @天正6年11月24日
     『亥剋、雪降り、夜もすがら以っての外時雨(しぐれ)候キ。御敵城茨木、石田伊豫渡辺勘
      大夫・中川瀬兵衛両三人楯籠る。量産人』〈信長公記〉
    A同日
     『夜半ばかりに御人数引き請け、石田・渡辺勘大夫両人加勢の者を追(ヲイ)出し、中川瀬兵衛
     御身方仕候。調略の御使、古田左助・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎、四人
     の才覚なり。』〈信長公記〉
    B天正7年10月15日
     『きしの取出(とりで)、渡辺勘大夫楯籠り、同者(ドウシヤ)紛(マギレ)に多田の舘(タチ)迄
     罷り退き候を、兼ねて申し上ぐる儀もこれなく、曲事の旨御諚にて、生害させられ、・・・』〈信長公記〉
    C天正●8年10月15日
     『渡辺勘大夫、岸の取出より多田の舘まで罷り退き候を生害させられ、・・・』〈同上〉
 
 これが全てであり、このあとに先の「渡辺勘大夫」の「むすめ」が出てきます。
    D再掲
    『廿一 渡辺四郎{荒木志摩守兄息子なり。渡辺勘大夫むすめに仕合わせ(脚注=妻合わせ)、
           則、養子とするなり。}
〈甫庵信長記〉では

    E天正6年11月24日(ただしわかりにくい)〈信長公記〉Aの記事に対応するもの。
     『翌日茨木(の=ルビ)城手痛く押詰め陣を取り・・・・茨木合力勢として、渡辺勘大夫、石田
     伊予守両人、伊丹より入れ置き候を、同廿四日の夜中に立ち出でし中川瀬兵衛も御味方と
     して参じけり。此の調略は・福富平左衛門、野々村三十郎、下石(おろし)彦右衛門、古田左
     助、此の日此夜な夜なに是を拵え申す故とかや。』〈甫庵信長記〉

 @の「石田伊豫」についてはテキスト脚注では「茨木市(大阪府茨木市)の地侍。」となっており、
「渡辺勘大夫」については「この渡辺氏は近江(滋賀県)の渡辺氏の支族という。」となっています。これは
その通りで、当時そういう姓の人がいたということがわかる証言でもあるのでしょう。ただ織田方がキャッチして
いた部隊長クラスの内の一人でそれが物語に転用されたと思われます。つまり下線は日記の一部が
転用されたとみられ(〈吾妻鏡〉でも「日付、干支、」のあと「天候」が入っているものが多く、太田日記は
そういうものを踏襲していると思われる。)太田和泉守臨場の気配が濃厚でそれが「伊豫」「伊予(甫庵)」
に反映されている、まあ太田牛一が石田伊予の名で、道化役で出てきたといったものになると思います。
 「渡辺勘大夫」の「勘」も「渡辺金大夫」という表記が別人に使われているのでこの「勘」は「金」にもなりうる
「勘」だと思われます。「金」から受けるイメージが「勘」にあるということでもあり、「金大夫」は「勘大夫」と
読んでもよいということでしょう。
 これをみて感ずるようにまず、この「渡辺」「石田」がどちら側の人物なのか、よくわからない、わかる
までには時間がかかるということです。二人は荒木方としてしも、BCが死亡の記事で、そこでは
信長公が生害させたといっているようですが、降伏の記事もない、というものです。奥の細道によれば
芭蕉は「多田」を「太田」(ただ)と書いていますから、太田牛一もその積りで書いたとしますと、二人は
太田の館に退いたという感じになります。
 またCは総集編、回想編のような長文のなかにありますが、日付(月日)の年次との照号が簡単に
出来ないように操作しており前から追っていくと●のように翌年になってしまう、というようなことになって
います。とにかくBCで2回死亡していますから二人いたとみていのでしょう。この戦い福富以下明智
四人衆の手柄は大きかったようですが、こんな混乱した作り話の役者となった功績もあるといっている
ようです。荒木事件を解明するには、〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉と〈信長公記内のもう一つの記〉を
よく照査することが要るようです。

(5)荒木志摩守と渡辺勘太夫(その1)
 ここ(その1)では「荒木志摩守」を「荒木摂津守村重」と見た場合、「渡辺勘太夫」がどうなるか、という
ことをみたいと思います。

   再掲
      渡辺勘大夫ーーーーーーーー▲むすめ
                               ‖
         荒木志摩守兄ーーーーーーー渡辺四郎
    XーーーU                 U
         荒木志摩守            荒木新丞

 ここから第一にわかることは
  @「荒木家と渡辺家は親(姻)族関係にある
ということです。さらに太田和泉守が「荒木」とみたてますと、
  A明智家と渡辺家は親族(姻族)関係にある
ということもいえます。またこの荒木志摩守兄弟が何かを暗示しているものといえます。
「関可平次」は「関与平次」の兄だというが、そうかどうかもわからないようです。本能寺で登場の松野
平介(助)も関ケ原の松野主馬の兄というが、弟か、本人かもよくわかりません。多分本人を出してきたと
思われるという程度のことです。要は弟といっても義弟も勘定にいれると広がりが今より多くなるのでやや
あいまいでも許されそうです。Aは明智の息女が荒木にいた(前稿でこれを荒木兵庫頭とした)ということから
も察せられます。
前後の記事から

   A荒木志摩守が鼻熊(ハナクマ)に楯籠つた〈信長公記〉、
   
   B元亀四年、「細川兵部大輔」が「荒木信濃守」と信長に忠節を誓った〈信長公記〉〈甫庵信長記〉
   
という二つのことをとりあえず拾いだしますと、まず
       Aから荒木志摩守は荒木村重であろう
ということが出てくる、一方荒木志摩守は荒木山城守ですから「太田和泉守」でもありえます。
また、その兄弟は明智光秀であるということになります。
次に
       Bから「細川」が「荒木」と絡んでいる
 ということが読み取れます。これは突然のことではなく、この時期のまえ、「六条の合戦」があり、これは
信長が上洛して足利義昭を都に復帰させ、岐阜に戻ったあとに義昭の館が三好勢などに襲われて起こった
戦です。そこで松永・三好の攻撃に細川・荒木が共同して戦ったという伏線が敷かれています。明智光秀は
野村越中守として参戦しており、これは〈信長公記〉に明智十兵衛が初登場したということでわかります。
〈甫庵信長記〉に明智十兵衛は記載がなく、明智十兵衛が浮いた存在となっているので察せられます。
ここでは荒木弥助(村重)も、伊丹兵庫頭も出ています。
 この戦い当時、摂津の池田(荒木)は将軍家に忠誠を誓っていた、細川と荒木が同盟のような関係に
あった、親戚であったとかが考えられますが、ここで、とにかく「幕府・細川・荒木・織田」が味方として
戦ったという実績がありますので細川兵部大輔と荒木信濃守は、密接な関係がある「細川」「荒木」を表わす
とともに両家を代表した存在として出されてきたと思われます。しかし この「荒木信濃守」は一匹狼で一回
だけしか出てきません。これは「荒木志摩守」でもあるが、それだけではない、それも含む特別な表記
といえます。これはあとのことにして、この相関図のことに戻りますが、まずAから
       「荒木志摩守」は「荒木村重
 と考えるのは一番妥当ではないかと思います。現在もそう読まれているはずです。この兄弟という
場合の上か下かは不問にしてよいと思います。現に
〈甫庵信長記〉では、
       『荒木志摩守の嫡子渡辺四郎生年廿一』
 としており、「渡辺四郎」は「荒木志摩守」の子としています。しかるに〈信長公記〉では兄の子として
いてわざと違わせています。ここから 「荒木志摩守」は
       渡辺四郎の父か荒木村重(荒木の兄弟は無視する=現に村重には弟がいる)
ということになり、渡辺四郎が総領の四郎で荒木村重その人の子息ではないかということが一応第一に
感ぜられることです。
 すると子の年齢21歳は書いてあるが、親の荒木志摩守の兄の年齢がわからないわけです。すると
この相関図は著者がただ書いてみただけということになり、現在、現にそう解釈されて放ってあります。
 前稿でも触れましたので二重になるかもしれませんが、この相関図およびその周辺の記事のなか
から、渡辺四郎21歳の上の年齢の人に着目して調べてみるということをまずしなければならないと思い
ます。一人だけ35歳の人がいます。{伊丹源内}という人です。
 再掲 
      『 卅五 ●宗祭娘{伊丹源内事を云うなり}、伊丹安大夫女房、此の子八歳・・・・
            廿八 池田和泉女房、・・・・・・・・・・』〈信長公記〉に

 ●を荒木村重として「35歳」としますと、渡辺四郎は21歳ですから14歳の違いで子といえます。
これは当時としては親子としても問題ないようで、「十三  荒木越中守女房、たし妹」というのが同時
に書かれてあり、年齢的には問題ないことが示されています。
つまり渡辺四郎は
      〈信長公記〉からみれば荒木志摩守の兄の子(甥)
      〈甫庵信長記〉からみれば、荒木志摩守の子
 という二重性をもつ存在で、四郎ですから総領です。
一方、其の妻は「渡辺勘太夫」の娘です。「荒木志摩守」は二人、「荒木信濃守」も「二人」かもしれない、
「たし」殿に「出し」もいる、渡辺四郎も荒木志摩守の兄の子と弟の子の二つがある、・・・・ということに
なってきますと「渡辺勘太夫」も二人であるとみるのが妥当です。荒木志摩守の兄弟を「荒木村重兄弟」
と取った場合、「渡辺勘大夫」は「村重」の子の「舅」となります。つまり
      「渡辺勘太夫」は「明智光秀」
となります。ここで一つ知られた話をもってきますと、明智光秀の息女は荒木村重の子息と夫婦であったと
いう話です。したがって「渡辺勘太夫」は「明智光秀」という関係にピッタリです。すなわち上の相関図
には、次のように人名を挿入できます。

         渡辺勘大夫(明智光秀)ーーーーーーーー▲むすめ(光秀息女)
                                       ‖
         荒木志摩守兄(荒木村重@)ーーーーーーー渡辺四郎(▼)
    XーーーU                          U
         荒木志摩守                     (■村重A 荒木新丞(村重総領)

 親子は重なりますから、荒木子息というのは村重Aとしてもよいわけです。明智光秀の息女が荒木
村重の子息と結婚していて、織田荒木の手切れとともに離縁されたという話がここに生きてきます。
■の村重Aを「渡辺▼」にしなかったのは、「渡辺四郎」は「廿一」「たし」も「廿一」という年齢の同一に
よって、「たし」が総領であることを暗示するために「渡辺四郎▼」という人物を設けたのであろうという
見方もできるからです。つまり 再掲
    『廿一 渡辺四郎{荒木志摩守兄息子なり。渡辺勘大夫むすめに★仕合わせ(脚注=妻合わせ)、
           則、養子とするなり。}』〈信長公記〉
 の★は「しあわせ」だから「めあわせ」という意味だけではない、「そう合わせた」という意味もある、その側面の
ことを生かすと渡辺四郎=「たし」となります。「渡辺四郎」の「渡辺」は「渡辺勘大夫」の「渡辺」と呼応している
ため、■が渡辺勘大夫の義理の子というのがはっきりします。
 ただ、二つのことを一つで表わすために無理があるのは当然で調整をしなければならないところが
あります。年齢が全部書かれているので、そこからも見なければならず、すこし年齢的に無理な話が出て
きています。
 例えば▲の「むすめ」という人の年齢がわからないではないか、という素朴な疑問が浮かんできます。
つまり、わからない以上「たし」の年齢「廿一」をもって宛てなければならないはずだ、というのが出てくる
と思います。またこれを明智光秀の長女とすると光秀このとき満52歳くらいですから若すぎるわけです。
 これは、ここの解釈をこのようにもってきた伝承との整合を考えねばならないところです。明智坂本城
陥落のとき、46歳の明智左馬助と31歳の明智左馬助がいました。(三河後風土記=既述)、この31歳
の人はこにとき、廿八歳ですから、次の再掲文
     『 卅五 ●宗祭娘{伊丹源内事を云うなり}、伊丹安大夫女房、此の子八歳・・・・
            廿八 池田和泉女房、・・・・・・・・・・』〈信長公記〉
の、あとに出てくる「廿八 池田和泉女房」という人ではないかということを前稿でいっています。下線
の人の年齢がわからないから、仕方がないということです。
 「たし」殿は肩書きも何もない名前二字だけの表記で「廿一歳」が強調され、渡辺四郎(廿一歳)と
同じですから同一人物とみなしますと「たし」が総領で「四郎」となって、■を村重Aにする必要はなく
「荒木新丞」(十九歳)という人と「たし」殿が兄弟となる、ということでよいではないかと思われますが、
「たし」は女性の表記、「新丞」は男性表記ですから、順序としては今述べてきた形にしないといけないの
ではないかと思います。つまり■村重Aを渡辺四郎にあてるということになると思います。「たし」が他家の
人になってもよいという意思をもっていた、そのように皆が思っていたかもしれないからです。
 明智息女が荒木子息と結婚したという場合の子息は、「たし」か荒木新丞19歳かは別として、とにかく
年齢的におかしい、昔の人は、荒木村重と明智の息女が連れ合いではないかと思っていたと思われます。
つまり先に掲げた〈甫庵信長記〉では、
      『・・・・荒木が妻出し生年廿一。・・・・』
 となっているからです。「たし」と「出し」は同じようで、すこし違うわけです。これが前掲「相関図」の
「▲むすめ(光秀息女)」に該当するものです。「廿一歳」は「似て非なり」の「似て」という部分に当たる
、二人の人物を重ねてみるようにさせる表記上の工夫の一つです。この場合は「生年廿一」を変えなけれ
ばならない、「廿一」は別の目的を果たしたからです。
 荒木村重は明智の妻女を、荒木織田手切れが不可避となったとき離縁して、光秀に累が及ばないように
計ったといえます。
 荒木志摩守=荒木村重の場合は「渡辺j勘大夫」=明智光秀となりましたが、こうなるともう一つの可能性
が必然的に出てきます。

(6)荒木志摩守と渡辺勘太夫(その2)
  荒木志摩守を太田和泉守と見る場合、「渡辺勘大夫」はどうなるかということです。この場合Bから
       「細川兵部大輔」
が、荒木と連れで出てきたことが重要です。
 {注}の記事の操作性は高いのはいままでもいってきたことです。いまここで話している相関図のことは
〈信長公記〉{注}の中で出ていることです。
 前稿で「荒木山城守ー荒木摂津守ー太田和泉守」というのが出てきました。ここの
            「荒木志摩守」兄第を「明智光秀」兄弟
と仮定しますと
      荒木志摩守(明智光秀)の子、「渡辺四郎」は「渡辺勘大夫」の娘と連れ合い
になります。渡辺四郎は「たし」「出し」と重なるので。これをいいかえると
      荒木志摩守(明智光秀)の子、  「出し」 は「渡辺勘大夫」の娘
となります。また親と子は重なりますから、この場合相関図は次のようになります。
    相関図(その2)
     渡辺勘大夫(細川兵部大輔)ーーーーーーーー▲むすめ(細川兵部大輔息女
                                       ‖
         荒木志摩守兄(明智光秀)ーーーーーーー渡辺四郎(出し)(明智光秀A
    XーーーU                        U
         荒木志摩守(太田和泉守)          荒木新丞(太田和泉守A

 明智光秀Aは渡辺勘大夫の娘と結婚することになりますが、親子の重なりを考慮しますと、「出し」
が明智光秀@のことになるのかもしれない、それが「渡辺勘大夫」のむすめと結ばれるということに
なります。
 要は▲「むすめ」というのは「明智光秀夫人」を指すことになり、「熙子」という人になります。「熙子」は
「妻木勘解由左衛門範熙」の「むすめ」ですが、「妻木勘解由左衛門」は細川の別名ということが
いえるのではないかと思います。つまり、この表記は細川家のことも考えて二重に隠さねばならないこと
として婉曲に述べられたといえます。
 世代がまたがった話としてわかりいにくいかもしれませんが、要は明智光秀の夫人「熙子」という
人は「細川藤孝」の息女ということになります。従って明智光秀は細川の家の子として細川家と京都で
活動していたということが出てきます。これが織田のはじめのころの光秀の動きをわかりにくくしていると
思われます。
 
(7)荒木信濃守
 先ほどの B 元亀四年、「細川兵部大輔」が「■荒木信濃守」と信長に忠節を誓った
                                   (〈信長公記〉〈甫庵信長記〉)
ということに関して出てくる■が重要と思われます。「渡辺勘大夫(????)」の引きあてに細川が
出てきたことも、このセットの登場によります。〈明智軍記〉ではこれは荒木村重になっていて、現在の
読み方もそうなっているので問題がないようですが、その述べ方が気になります。原文は次のものです。
元亀四年、三月廿五日

  『信長御入洛の御馬を出され、然る処に、細川兵部太輔荒木信濃守両人御身方の御忠節として
   廿九日に、逢坂まで両人御迎に参られ、御機嫌申すばかりなく、・・・・此時大ごう(脚注=郷
   義弘)の御腰物荒木信濃に下され、名物の御脇指細川兵部太輔殿へ。』〈信長公記〉

 これは(3)で「荒木志摩守」が「荒木村重」と解せられるから、その延長でゆくとこの「信濃守」は
「志摩守」、したがって荒木村重とするのは自然の成り行きです。荒木と細川の関係は六条の合戦で、
両者が共同して三好勢と戦っていますから接点があります。また
        『細川典厩・・・・野村越中・・・明智十兵衛・・・・』〈信長公記〉
となっており、明智光秀が参加しているのは明らかで、〈甫庵〉によれば荒木も参加している、荒木は明智
の親類ということもわかってきましたから、荒木村重が帰参して信長公がたいへん喜んだ、細川より優遇した
のも頷けることです。しかしそれなら表記を「荒木志摩守」としても問題ないはずです。また荒木信濃
守と表記しても、今解釈されているように荒木村重と取られるなら、荒木摂津守としてもよいはずです。
しかし表記の違いは大きい、もう一つの解釈を生む余地が生じます。著者の念頭にそれがあると思われ
ます。つまり 「荒木信濃守」はまた物語としてのあとに繋がるような表記として選んだと思われます。つまり
「荒木信濃守」という、この 一匹狼は「細川の誰か」と「明智の誰か」の両方を満足する人物とならない
か、つまり意外性がある人物ではないかというのも出てきます。また手法の面から「志摩守」も二重だった、
ここもそう考えたらどおうかというものがあると思います。
    「荒木志摩守」=「荒木信濃守」・・・・・・荒木と細川
    「荒木志摩守」=「荒木山城守」 ・・・・・明智
                          
ということから「明智光秀に近い人」「細川に近い人」「荒木に近い人」が出てきます。
 いろいろ可能性があるなかで結論として、荒木信濃守二人、

   荒木信濃守@=明智光秀夫人、
   荒木信濃守A=荒木摂津守村重

 となるのでしょう。二人の間柄は光秀長子を介在した義理の親子ということになります。
荒木信濃守のメインは明智夫人で今後細川兵部大輔と同一行動が多く、かつ信長公とよく会って
信長公がよく喜ぶという結果となります。ここでの面会の結果を引きずっていくというのでそう見てもよい
のではないかと思います。すなわち 元亀四年、細川が織田家中に入った「時」が描かれていて「荒木
信濃守
」が一匹狼で一回だけ出てきて信長公から細川兵部太夫より重んぜられているような印象を
与えてあとに響かせたといえると思います。
 今これは「荒木村重」と解釈されていますが、荒木村重と信長の初対面は別の語りもあることなので、
ここは明智光秀としますと、光秀の立場から制約が減ります。すなわち光秀は本格的に信長身辺に
復帰できる、ことになります。
 明智光秀はあの信長より命じられて、もしくは志願して織田政権による全国統一を志向して京都にいた
その間、織田に政変があったことで、気持ちの整理がついていなかったことも考えられ、また光秀の
立場が二重であった、細川にいるということは足利御家人の家にいたということになる、そういう二重性
が解消されたといえるのではないかと考えられます。前者は、蜂須賀小六、前野長康が信長公について
いけないということで秀吉の家中になったというのがあるので、この織田の政変は無視できない影響を与えて
おり光秀にも及ぼしていると考えてもよいと思われます。
 とにかく大事なお家の方向の選択のときに同じ行動をとっていますから、細川藤孝・荒木信濃守は身内と
いえると思います。信濃守と表記が変えられたのは含みがありそういう捉え方をしないといけないのでしょう。
信濃守を@Aでとりあげるのは、つぎの「藤孝」にも長岡と細川があり二重となっていることから、これも
二重としてよい、義理の子の村重と親子重なるとみるのは不自然でもないと思います。村重が織田家中と
として出てくるのはこれ以後のことです。
 
(8)細川藤孝
明智氏と細川氏のことについてもうう少し具体的にしますと、先ほどの相関図をかきかえれば
「渡辺勘大夫」は細川藤孝(幽斎)が入ることになり、

         渡辺勘大夫(=細川藤孝)ーーーーーー▲むすめ(細川息女=明智夫人)
                                       ‖
         荒木志摩守兄(明智光秀@)ーーーーーーー渡辺四郎(明智光秀A)
    XーーーU                        U
         荒木志摩守(太田和泉守)          荒木新丞(和泉守A)

になりこの場合、これは入り婿のようだから

     細川藤孝ーーーーーーーーーー細川忠興
        ‖・・・・・・・・・ U
     明智夫人母ーーーー明智夫人
                     ‖
                  明智光秀ーーーーーー荒木村重夫人(たし殿の継母)
 というような関係があったとみられます。明智夫妻の場合にも諸国流浪の貧窮時代があり、そのとき、
細川藤孝と親しく交際していたという語りがあります。細川と明智の姻戚としてのつながりは有名ですが、
これは細川忠興とガラシヤと結婚による親戚の結果だけではなく、明智光秀自身が三好・松永の例のような
姻戚、細川外戚といったような関係があったのではないかということをいままで述べてきました。
 明智光秀夫人は妻木氏ということですが、ここまでではそれがどういう位置づけになるのかわかりません。
その名前にはたいへん難しい字が使われていて、
       熙子(ひろ子)
となっています。

 荒木村重と細川藤孝の接点は、すでにあるわけです。その摂津池田の位置が京都の情勢
に大きな位置を占めていることはわかりますがそれは背景であり確実とはいえません。しかし六条の
合戦というものがあるのでこれは十分なスペーが使われています。この関係はすでに深いということは確実なもの
として扱ってもよいようです。
 この戦いは細川が奮闘し荒木が参加している、伊丹兵庫守を明智長女と解したことで明らかな
ように当時の姻族関係にもとずく協力関係があったものと取れます。明智光秀の子息に光秀の子
と熙子の子がいる、今でいう父親が、土岐家の人か細川家の人というのが一番の問題というような
ことがいえます。
 明智夫人は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に出ていないということで謎の人物といってもよいわけです。
 明智夫人を太田和泉守が述べているのかということがまず根本的なことです。いままでは相関図に
よって間接的でした。太田和泉守は「熙子」のことを述べており、次節の人物が明智光秀の夫人です。
またなぜその人物がそうなるのか、という、それを語る過程がとくに重要です。それはほかの多くを語ることに
なります。細川家中というのもわかる、隠された理由もわかる、本能寺も理解できる、表記のこともわかる、
関ケ原も・・・・・・となるのが明智夫人の追跡からであり、手法の凝縮された対象といってもよいのが明智夫人
です。

(9)下津権内
 細川家中で武勇の誉れ高い人で、登場回数も多い、結論では、これが熙子(ひろ子)です。登場場面は次の
とおりです。以下全部掲載しています。

 @元亀四年、去程、三好方の岩成主税頭を討つ場面

   『永岡兵部大輔臣下下津(しもづ)権内と申す者組討ちに頸を取り、高嶋へ持参候て頸を御目に
   懸け候。高名比類なきの旨御感なされ、忝くもめされたる御道複を下され、面目の至り冥加の次第
   なり。』〈信長公記〉

 A〈甫庵信長記〉の同じ場面 『淀城攻め落とす事』のなかの記事

    『山城国淀の城には、岩成主税頭、番頭大炊助、諏訪飛騨守大将として・・・去年より楯籠りける
    が、●秀吉調略を以つて、番頭諏訪両人は御味方に参じ・・・・・・・・
    永岡が家の子下津権内と云う者、岩成とむずと組んで、上を下へと返しけるが、暫くして権内
    岩成が頸を掻いてぞ起き上がりける。御本陣近江国高嶋へ持参すべき由、兵部大輔強いて
    われしかば、翌日廿八日に権内、高嶋へ参りて、此の由かくと申し上げければ、信長公大いに
    御褒美あつて、岩成が事はさすが名を得し侍ぞかし、頸を悪しく扱うべからずと宣いて、権内
    には御感状に黄金百両差し添え下し玉ふ。面目類なうこそ見えにけれ。』

 松永の大将、岩成を討ったのがこの人です。語句で一つ重要なあぶり出しがあります。@は細川臣下と書いて
ありますがAでは
           家の子
となっています。ここの違いを重視というのが〈信長公記〉のいいたいところでしょう。この語句は〈吾妻鏡〉
などに出てくるものですが、「家の子郎党」とかいいますから家臣ととってしまいやすいものです。
これは元亀四年七月のことで、前出の、細川兵部大輔・荒木信濃守のセットで帰属したのは三月です。
下線部分、細川藤孝が「強いて」武功を信長公に上申したのは、帰属間もないことと関係があるでしょうが
この人は信長公と会うべき人だ、というのもあると思います。つまり、両者を兵部大輔が接近させたと
いえます。著者の工夫としては、前節の終わりが、

   『(信長公)直(すぐ)に近江国高嶋表へ、彼の十余艘の大船に諸卒乗りつれて、木戸田中の両城へ
   打ち寄せ攻め・・・・・・即ち両城共に、明智十兵衛尉光秀に下し玉いけり。』〈甫庵信長記〉

 となっていて「高嶋」が出て「明智十兵衛」が登場します。すなわち「下津権内」の文に関係あり、といって
います。
ついでですが、前節では、ここの大船につれて「梶川弥三郎」「村井長門守」が出てきてきます、これは
「太田和泉守」が姿をみせたといえます。それがここでも受けられて、この●の「秀吉」は「太田和泉守」の
ことで番頭諏訪を味方につけています。〈信長公記〉では

    『羽柴筑前守秀吉調略を以つて番頭大炊・諏訪飛騨両人を引き付け・・・・』〈信長公記〉

となっています。この「羽柴筑前守秀吉」が〈甫庵〉では「秀吉」と変えられて、表記が注目さるべきとして
あぶり出されています。これは太田和泉守で、あの秀吉をも分身として自分の活動、功業を述べています。
諏訪飛騨守はのち山崎の戦いにおいて、明智方で戦死します。つぎのBCは同じ場面です。

 B天正五年の〈信長公記〉の記事
    『浜手の方へ遣わされ候御人数
       ●滝川左近・惟任日向・惟住五郎左衛門・永岡兵部太輔・筒井順慶・大和衆
    谷の輪口より先は道一筋にて節所(せつしょ)に候間、クジ取りにして三手になして山と谷と乱れ
    入り中筋道通り永岡兵部太輔・惟任日向守打ち入れられ候処、雑賀の者共罷り出相支え一戦に
    及ぶ・・・・永岡内下津権内(しもづごんない)一番鑓を合わせ、比類なき働きなり。以前も岩成主税
    大属(チカラノカミノサカン)と組討ちして手柄の仁にて候なり。爰にても究竟(くきょう)の者討捕り、
    所々焼き払い、中野の城取り巻き、攻めさせられ候キ。二月廿八日、丹和(たんのわ)迄信長公
    陣を寄せられ、これに依って、中野の城降参申し退散なり。則、秋田城介信忠御請取り候て
    御居陣(いじん)なり。
     二月晦日、信長公丹和を御立ちなされ、此の時下津権内召し出され御対面なされ、御詞を
    加えられ、諸人の中の面目・高名これに過ぐべからず。・・・・・』
 
 Cこの〈甫庵信長記〉の記事、『紀伊国退治の事』と題する一節
 
    『■美濃尾張伊勢、近江越前若狭、丹波丹後但馬、播磨畿内巳上十五箇国の勢を・・・・・・
    浜手へは▲滝川左近将監、惟任日向守、惟住五郎左衛門尉、永岡兵部大輔、筒井順慶
    此の人々を侍大将として都合三万余騎は谷の輪口より推し入る・・・・・・永岡兵部大輔が寄する
    手へ・・・・・・永岡が家の子米田助右衛門尉、有吉四郎右衛門尉、津権内、藤木又左衛門尉、
    真っ先に鑓を入れ・・・・首百五六十討ち捕りぬ。同廿八日に
    丹和へ本陣を寄せられければ、中野(の)城に楯籠もる者共も降参して開け渡す間、則ち
    信忠卿入れ替わり御座(おわし)ます。菅屋九右衛門、使として▼滝河、永岡、惟任、蜂屋、筒井
    彼ら六人を大将として・・・・』

 Bの記事の●下線部分は太字の大和衆を入れて六人です。Cの下線▲のところは「等」を入れて
六人です。下線▼の大将は全部そろっていて、「大和衆」=「等」=「蜂屋兵庫頭」ということになるので
しょう。蜂屋の「兵庫頭」が「明智兵庫」ともいうべき 「下津権内」が隠れていることを示しています。
 ここから、まず下津権内は「大和」に関係がある人とみておくとよいようです。■の十五国の書き方も
十国をはじめに挙げて畿内は、ほったらかし、終わりは「巳上十五箇国」となっています。辛気臭い話ですが、
合っているか調べなければならないわけです。畿内五カ国かどうかをあげますと、
       摂津・和泉・河内・大和・山城
となるのでしょう(あとこのあたりでは伊賀と紀伊が残っている)。謎をかけたような書き方は、「大和」を改めて
思い起こさせようとしたものです。あとで、「山城衆」も同じような人名配置のなかで出てきますので
頭に入れておくとあとの解釈が楽です。そこでなぜここで「山城衆」が出てきたのか考えなくてもよいから楽
だということです。ほかのところも太田和泉守がその関係者の名前として使っています、和泉は本人
の公表の名前ですし、摂津は「荒木摂津守」、山城は「荒木山城守」があり、河内は例えば桶狭間の
「毛利河内」(これは森河内)などです。当然「森河内」は誰を指しているのか調べねばならないはずの
ものです。なお太田和泉関連文献では「攝津国」は「津」の国とされていて、なぜそうなっているのかが
疑問です。そんなこまかいこと、どうでもよいというわけにはいかない、それまでの歴史文献の読み方
など過去の何かを教えているというのが太田和泉守の書物の特徴です。
そのほか「谷の輪口」を「丹和」と表記し「丹波+大和」で「明智」と「大和」を想起させています。「中野の
城」「中野(の)城」も必ずしも必然的な地名でもなさそうで、これも太田和泉守の登場を暗示するもの
です。「中野又兵衛」を利用して名君といわれる細川忠利のことを語ったのが〈三河後風土記〉の著者
成島卿です(〈前著〉)が、卿はこのあたりのことを参考にしたのでしょう。

 Cの「永岡の家の子」のところで「下津権内」の前に、米田・有吉という有力家老の名前が出ていますが
これも姻族といってよく、権内も含めて外戚といってよい存在であったといえます。「外戚」などは中国史
では出てきますが日本では聞いたことがない間違いだなどというのは合っておらず、これなどは当時の
社会のあり様に関連してくることです。一兵卒が武勇によってのし上がっていき家老まで行く、実力
主義の戦国時代というのは、すこし様子が違うようで今日と同じように縁故が大きなウエイトを占めるもの
だったと思われます。婚姻をすると、持参金はともかく、何よりも妻女に付いて来る即戦力となる選り
抜きの人材が手に入るのが大きいと思います。利が大きいので重婚は厳禁といっても〈吾妻鏡〉では
そのような感じがするところもありました。
〈甫庵〉に「首百五六十討ち捕りぬ。」という文言がありますが、同じ一節の省略したところに「五六十騎ぞ
つづいたる」というのもあり「五六十騎」というのは「五・六騎」「五十六騎」「五六騎」などから派生した
述べ方といえると思います。ここでも下津権内に
     「明智」「細川」「家の子」「大和」「丹波」「信長公にお目見え」「剛勇の大将」
というような属性が出てきました。あとCの下津権内のあとで出てくる「藤木又左衛門」という人物が
「妻勘解由左衛門」を思わせる、太田牛一の「藤」「又左衛門」を含んでいる名前でもあるというのが
少し気になるところです。

 D〈常山奇談〉の一節
 ここで細川忠興とのからみがでています。

   『細川忠興冑の立物(たてもの)の説
   ・・・・・・・{天正元癸酉年七月、信長淀の城を攻め落とされしに、岩成主税助を細川藤高の士
   下津(しもつ)権内討ち取りし時、忠興八ツの年なりけるが、長岡監物が肩にのりて・・・・見物
   して興に入りたりし}・・・・・』〈常山奇談〉

 〈明智軍記〉では「下津権内」は出てきません。他の名前で出てくるからだかと思われます。明智夫人
の享年は本能寺の年1582で48歳ですから、このとき元亀四年(天正元年)1573年では、39歳になる
と思われます。娘婿の細川忠興とは約30年の年齢差があります。
 忠興は、ガラシヤ夫人の夫だから、また義理の関係だから、それくらいの差があるのは驚くべきことでも
ない、といわれるかもしれませんが、忠興は藤孝(幽斎)の子ですから、このとき藤孝と忠興の差が、明智
夫人との差とほぼ同じということになるのが聞いている話からは、すこし不自然です。すなわち
  テキスト脚注では、細川藤孝は「1535〜1610」とされている、元亀四年(天正元年)1573年では
38歳ということになります。ネットでは全部「1534〜1610」とされていますから39歳差ということになり
光秀夫人とは同い年となります。当時の結婚年齢が13歳くらいのときだというのが〈信長公記〉に書いて
ある荒木一族の人名記録からわかりますが、長子忠興との年齢差が大きすぎるわけです。

  前掲のもの 
     細川藤孝ーーーーーーーーーー細川忠興
        ‖・・・・・・・・・ U
     明智夫人母ーーーー明智夫人
                     ‖
                  明智光秀ーーーーーー荒木村重夫人(たし殿の継母)

は、これも考慮して藤孝と忠興を一世代くらい離しています。D〈常山奇談〉の記録から忠興が幼なすぎる
と印象をもったのでこの疑問が出てきたわけです。
 実際年表に載ってる享年(1645年83歳)からの計算では11歳くらいになり、「常山」のものと三つ
くらいギャップがあります。
 テキスト脚注では忠興は「1564〜1645」となっていて9歳の差です。常山と一歳違いで大体合っている
というわけにはいかず、常山の八ツというのは数えだから、満では六つだから、三つがおかしい、常山は
低く書いている、これによっておかしいなという疑問がでるようにした、つまり28歳差というのと31歳差と
いうのとは大きな違いであって、15歳の二倍ちがうという印象が大事といえます。常山は勝手に変えて
いる、けしからん、というわけにはいきません。この下津権内が出てくる上の文は{注書}、つまり小さい字で、
ちょっと、ついでに付け足しとく、というようなものになっています。注を利用して、操作することは大事な
手法の一つということは縷々いってきています。「八ツ」という表現もチッチャイなという感じがします。
常山式だと、本能寺のときは忠興満15歳にしかすぎない、あの難局で適切な判断をしたといわれる
がそれだけの実権があったのか、疑問視されます。本能寺の細川の動きは、普通でない親密な関係
の間の両者において生じた、どういう成り行きでそうなったのか、このあたり、年齢とか、明智夫人のこと
から、見直さないといけないということを常山がいっているのかもしれません。わかっていない明智夫人の
ことをそのままにしておいては本能寺もみえてこないかもしれません。

 明智夫人が細川出身とすると、このような矛盾も出てくる、下津権内が光秀夫人の経過名かどうか、
わからないではないか、それが書かれているのか、ということが先決だということになってきます。また
光秀夫人は妻木氏といわれているがそれとの関係はどうなるのか、ということもあります。

(10)下津郷
   今、荒木=明智と読めて、荒木の相関図から、
            ○荒木志摩守夫人が渡辺勘大夫の子息であるかもしれない、
            ○細川兵部大輔(大夫とみてもよい)と荒木信濃守が降った
ので出ている「姓」だけでみると細川=渡辺となり、明智光秀夫人が細川兵部大輔の子かもしれない
ということが出てきて
            ○「下津権内」が細川の家の子として出てきた、
            ○「下津権内」は蜂屋兵庫と重なるので、明智である
            ○「下津権内」は大和に関係がある、
 ことによって、細川と大和に関係があること、また、その内容如何によって、明智光秀夫人=下津
権内=細川兵部大輔の子といえるということでここまできました。下津は〈武功夜話〉によって、
城構えがあり、前野郷があり、「左介、大屋甚兵衛夜討ちの情景、」で一色村があり、ここで織田信長、織田
造酒正、池田勝三郎も登場しました。

 この「下津権内」の「下津」は「おりつ」です。〈信長公記〉首巻

   『一、清洲の並(ならび)三十町隔て、●おり津の郷に正眼寺とて会下(えげ)寺あり。』

 の一文ががあり、●について脚注では 
            『下津。稲沢市下津町』
となつています。また下線のことについては

      『もと下津にあった青松山正眼寺。曹洞宗。能登国総持寺末。春日井郡三淵村(小牧
      市三ツ淵)に移る(〈尾張名所図会後編三〉)。「会下寺」は会下僧(一寺を持たず学寮
      にいる僧)のいる寺。』

とされています。またこの下線の寺の名前は読み方が知らされていないので常識的に「せいがんじ」
となります。「誓願寺」「成願寺」「成観寺」「常観寺」など太田牛一がらみの寺名になってしまいま
す。なにかいいたそうだと感じます。すなわち
         「下津」=「三淵」=「大和守」=「細川兵部大輔」=明智夫人=「下津」
です。三淵大和守の登場は次のとおりです。

  @〈甫庵信長記〉永禄12年六条の合戦

    『細川左馬頭、三淵大和守両人、承つて先ず軍評定しけるに義昭公、細川三淵は惣門を固め
    申すべし、野村越中守は、懸け引きの大将とぞ御定め有りける。・・・・』 〈甫庵信長記〉

   となっている、二箇所で、二人セットとなっていて両者は連れ合いであることがわかります。ここの
   実戦の大将、野村越中守は明智光秀で、その婿という姿もみえてきます。

  A永禄八年十年ごろ

    『三淵大和守、舎弟細川兵部大輔・・・・・丹波勘解由左衛門尉、丹後守、一色松丸、同式部
     大輔・・・・・・』〈甫庵信長記〉

   となっていてはじめの二人が連れ合いというのがさらにはっきりしてきます。
  なお「細川藤孝」が半分「大和」であることは〈前著〉で紹介しています。
  〈慶長記〉関ケ原小山での記事

    『・・・中里大和と申す半俗・・・・・(家康に)中山大和守参上と申し上げ候。・・・・(家康)
    殊の外御笑いになられ御機嫌よくならせられ候。大和守は七十余、せいもちいさくやせられ
    腰少しかかみたる半俗、常に諸人だんはんと申し候いつるかくれもなき巧のもの・・・』〈慶長記〉
 
  となっており、これを「中山」から「細川藤孝」と読んでいますがそれが合っていたことがわかります。
  半俗というのは、「中里・大和」「中山・大和」とそれぞれ半分にわけ、前者を「俗」といい「俗・大和」と
  なるのでしょう。「だんはん」は「男半」とあてるのかもしれません。 そのあとの下線の名前は表題にある
  とおり「妻木勘解由左衛門」の「勘解由左衛門」でしょう。「妻木」というのを「丹波」と書いてあるのが、
  ひょっとして 重要かもしれません。「一色松丸」でまた「一色」がでてきました。やはり「一色」の色合い
  がはじめの二人に懸かるわけです。兄弟というのは年齢が二つ違いくらいだから、
     ○同一人物    
     ○本当の兄弟
     ○夫婦といったもの
   をにおわすときに使われます。これは一色が出ているので夫婦であり、ここは今日でいうものと同じ
   感じのものをいうのでしょう。

   B『室町殿、同年(元亀四年)七月朔日に又逆心の色を立て玉いて、二条の御所には、日野
     大納言、の宰相、伊勢伊勢守、三淵大和守彼等四人を大将として入れ置かれ、御身は
    宇治の填嶋へぞ楯籠もり給いける。』〈甫庵信長記〉

  このときは「細川兵部大輔」は織田に帰属したあとなので、三淵と敵味方になったということになり
  ます。すこしおかしいのは「藤の宰相」というのが、本来の宰相で「藤孝」を匂わせたものといえると
  思います。だから、この三淵大和守はもう一人の、本来のモデルに使われた人物といえるのかもしれ
  ません。前者、一緒に織田に帰属した人を「三淵ヤマトノカミ」として、後者の三淵大和守を正式
  の三淵大和家の代表とみることもできると思います。この人物について、テキスト脚注では

   『三淵藤英(〜1574)室町幕府御部屋衆。三淵氏は清和源氏。■山城三淵邑から興った。』

  とされています。〈信長公記〉は@Aの記事はなく、Bの記事だけで
    「日野殿・藤宰相殿・伊勢守殿・三淵大和守置かせられ」
  となっておりすこし表記に差が出ています。「藤宰相父子」は「高倉永相」「高倉永孝」の父子の
  ようですから「藤」「永」「長」「孝」が細川永(長)岡、藤孝として真似られています。モデルも父子
  なので藤孝も父子が予想されます。これからみれば藤孝@藤孝Aの存在が考えられます。
   テキスト〈信長公記〉人名注によれば、本文中の「細川右馬頭」「細川典厩」は
      『細川藤賢(〜1590)細川氏一族(細川満元三男持賢の系統)。伊賢の子。代々右馬頭に
      任ぜられる。』
  となっており「細川兵部大輔」については、
      『細川藤孝(1535〜1610)幕府御伴衆(永禄六年諸役人附)。天正元年七月から長岡姓。
      三淵氏の出で和泉守護細川氏の家を継承したという。剃髪して幽斎。』
 となっています。「細川」は「長(永)岡兵部大輔」でもあり、幽斎は、玄旨斎ともいわれています。
二位法印でもあり(〈三河後風土記〉)、和泉守護の家でもあった、また「松井佐渡守」という人物がヤマト
ノカミフジタカ役で、登場してくるというようなことで「松井友閑」という表記の人物はこの人物と武井夕庵
と二人になると思われます。
  再掲の下のA図は、Bの図に替わりそうです。

    A再掲図 
          細川藤孝ーーーーーーーーーー細川忠興
             ‖・・・・・・・・・ U
          明智夫人母ーーーー明智夫人(細川氏)
                          ‖
                        明智光秀ーーーーーー荒木村重夫人(たし殿の継母)

    B図
                         サドノカミフジタカ
          細川藤孝幽斎          ‖
             ‖ーーーーーーーー細川藤孝A ーーーー細川忠興
             ‖ーーーーーーーー光秀夫人下津権内      明智光慶・・・
          三淵大和守           ‖ーーーーーーーー  |
          (ヤマトノカミ)        明智光秀            荒木夫人・ガラシヤ夫人・・

 というような関係です。
 なお■に関して三淵大和守がなぜ明智夫人の今でいう父(ヤマトノカミ)で捉えられるのか、というのは冒頭
に触れた一色村の佐介の記事と関係があるということからきています。
再掲
  『一、清洲の並(ならび)三十町隔て、●おり津の郷に正眼寺とて会下(えげ)寺あり。』

 ●について脚注では 『下津。稲沢市下津町』であり、下津の正眼寺が、「春日井郡三淵村(小牧
 市三ツ淵)に移」ったようです。これはモデルとされた本物は、山城の三淵から出たが、尾張に三淵を
持ってきて物語に利用したのかもしれません。先にすこし触れましたが、ここの「三淵藤英」が山城
「三淵邑」から興ったということを踏まえて、あとで

       「永岡兵部大輔・惟任日向守・筒井順慶・山城衆。」〈信長公記〉
       「永岡兵部大輔藤孝父子、・惟任日向守光秀・筒井順慶彼等三人して」〈甫庵信長記〉

というのが出てきます。ここの永岡父子の一人は「永岡頓(トン)五郎」という人物が入っています。これは
「五郎」というのも何かありますが、「一色頓五郎」という名前でも出てきます。「森えびな」登場場面で
出てきていることは〈前著〉でも既述ですが、ここに突然出てきた「山城衆」は、三淵氏の出身を暗示
したといってよいと思います。つまり
 ○これを尾張の「下り津」「正眼寺」「誓願寺」「成願寺」にもってきて「太田和泉守」に結んだ、
 ○「惟任日向守」に山城衆を加勢させ、細川ーー明智智夫人を呼び出した、
 ○一色でテーマの一つを打ち出した、
ということになり、表記の技術が縦横に活用され、実体と物語が混然一体となって、日本の史書は
後世には参考となる事実関係を述べながら、そういうものに立脚した物語で主張を語ったいうもので
あるということができます。太田和泉守の手もとには織田家の人名簿、組織表、全国郡村図、豪族の
氏名とか、その由緒とか、資金の提供者とか、相撲とりの名簿、徴税簿・・・・・とかがあって、それは
無味乾燥であっても、それらの総体で世間や織田家が動いているものだから、それまで考慮すると返って
混乱をまねくことになりますが、これは無視できない、それはやはりベースにならなければならないから
述べられる、後世にはそれが役にたつものです。いたるところに実体としてのものが顔をだしてきます。
 三淵の出身も尾張の下津ではなく、実際は山城であろうとみれるわけです。下津の正眼寺というの
が、太田和泉の本拠ともいうべき春日井郡に移ったという〈尾張名所図会〉の著者に怪しさが感じられます。
 例えば山崎の合戦で、比田帯刀という人物が、光秀に
     「・・・御勢も過半退散して候也。・・・・勝龍寺・・・・坂本へ・・・・」
と報告進言しますが、この人物は岐阜の飛騨郡から参戦してきた部隊長とみるしか取っ掛かりのない
人物です。この要所での必要十分の語りは「談合を相究め」の紹介ですから、太田和泉守の物語の
なかの文といえます。つまり比田に、ここで自分のいいたいことを語らせたといえます。
 比田は飛騨としての意味があると思います。ここに開田太郎八進士作左衛門も登場しますが、「開田」
は「開田村」というところがあり、そこの人で固めた部隊の長ととれる、進士作左衛門は、「信周」であり、
岸勘解由(信周)ー蜂屋ー蜂屋兵庫となりましたから、「勘解由・左衛門」は、「勘」という字を想起させる
というものもあり、明智の重臣の進士に、蜂屋兵庫が乗っいるという面があります。一方また進士氏は
春日部進士という伊勢平氏の名族の姓のようですから(ネットによる)、そういう進士という実在が出て
きている、それに蜂屋が乗ると、進士=明智が親類という事実も語っていそうだ、というように実体面が
根底にある物語というものがあるわけです。
 要はこうなると、明智夫人は細川出身というのはわかったにしても、明智光秀夫人の出生という「妻木氏」と
いうものが、どう細川なり明智に結びつくのかが、問題になってきます。つまり「妻木」はよくわからない、
〈信長公記〉に出てこない、実態なのか、物語なのか、という疑問です。妻木も土岐市妻木町がありますので
地名から取られた姓ということがいえそうです。

(11)妻木氏
 「妻木」の表記は〈信長公記〉〈甫庵信長記〉にはありません。ただ〈甫庵信長記〉では「家の子」として
     「下津権内、藤木又左衛門尉」
 が出てきていました。藤木又左衛門は 氏+妻氏=藤木とはいえるのかもしれませんが、はっきり
断定できません。
これが〈明智軍記〉では
     「藤木又左衛門・相(ルビ=サウ)田権内」
という表記になっています。「そうだ」それが「権内」だ、というものはないでしょうが、「相田」というのが
それに「当」するという意味の「相」というなら、この二つは同じかもしれない、「又左衛門」で明智の人と
いっていると思われますから、「藤木又左衛門権内」として〈甫庵信長記〉ででたともいえます。相田は
「合田」とも考えられるので合わせよというのかもしれません。ただ「又左衛門」という名だったのかどうかは
別として、「藤木」という人はいたと思われ、その人の名が利用されたことが考えられます。余談ですが
筆者ははじめルビを付けずに「藤木又左衛門」「相田権内」と書いていました。この二つの続き具合が
「、」か「・」を確認しようとして「あいだ」の「あ行」をみて載っていないので、索引から洩れていると思いました。
「そうだ」は「じゅうばこ」読みだから、普通は「アイダ」と読むのだろうと思います。
改めて「藤木」の「ふ」で引いて、この「相田権内」にはルビがついているのがわかりました。先に〈明智
軍記〉には「下津権内」は出ていないといいましたが、人名索引からみたのでは間違う可能性があります。
〈甫庵信長記〉とのあぶり出しによって、「相田権内」として出ていたことがわかりました。ぐずぐずと
いろいろといってきましたが、〈明智軍記〉はさすがではないかと思います。これは
     「藤木又左衛門・(あいだ)権内(下津)」
 と取るとあとにつながっていきそうです。筆者に「さすが」とほめられても著者はうれしくもなんともないと
が、まあ、ここは
     「さすがの(あいだ)」
 とでもインプットしておきます。
  もう一件、この〈明智軍記〉〈新人物往来社〉という書物には、これが〈信長公記〉を踏まえているという
観点から、解説として〈信長公記〉の文の引用が多々あります。ここで〈信長公記〉が使われるのはよい
のですが、桑田・高柳氏の本などに多数引用されている傍系の資料との対比などをすると違いが多すぎ
て、日本の文献は「何だ、違いだらけではないか」という不信感を生み出してしまいます。
〈明智軍記〉は、元禄十五年に出て発行者が伊丹屋(荒木のにおい)、毛利田(森がにおう)であり、何か引っ
掻き回しそうな雰囲気の書物ですが、主要文献の表記が収斂できるように解説するということをやって
いるもので、主たるものと、脇のことの区別がつけられているものです。
反対に〈甫庵信長記〉からは解説しなければならないと思います。桑田博士がけなしている、徳富
蘇峰が無視している、それらをそのまま踏襲していては駄目です。〈甫庵太閤記〉などは博士の校注
で削られているところがあるのですから、たいへんな書物だということを知っているわけです。
〈両書〉が一つのものを分割したもので同価値のものだという認識から、まずこのメインのもの二つとの
対比だけが〈明智軍記〉を読む上での必要ごとではないかと思います。例えば

     『今ぞ知りぬ。信長父子は信長殺せり、更に、明智に非ざる事を。』〈明智軍記〉

 などという「是は」と思う文がさりげなく挟まっています。これが重要と思われるのは〈甫庵信長記〉
に同じ言い回しの文がありよく文意を考えねばならないといっていると思われます。

     『古人云わずや、六国を滅ぼすものは六国なり、秦には非ず。秦を賊する者は秦なり、天下
     に非ざるなりと・・・・』〈甫庵信長記〉

 とあるのを借りてきています。つまり自業自得のような意味があるのは当然でしょうが、実際にも事を
起こしたのは明智ではないのではないか、といっている、信長も知っていたというのがあるのかどうかなど
が問題となる、その積りで、読むべしといっているものがあるかもしれないのです。つまり〈明智軍記〉と
対比するにはメインのもの二つだけでよいと思われます。また「後藤喜三郎」という表記が〈信長公記〉
〈甫庵信長記〉にありますが、〈明智軍記〉ではうしろの名前が書いてあって「後藤喜三郎頼基」という
ようです。これはどこからきたのかわかりませんが、下の妻木氏系図(群書類従)の◎の次の人物から
もってきたと思われます。つまり後藤喜三郎は土岐明智の流れの人物というのを解説している
ことになります。すなわち表記の解説書というのが〈明智軍記〉の性格の第一のことといえると思います。
 脱線しましたが、こういう目的をもった書物だということで、ここの相田権内が出てきている、〈明智軍記〉
に出ていないと思われた下津権内が「相田」としてあった、〈甫庵信長記〉の藤木又左衛門と引っ付いて
出てきた、したがって〈信長公記〉に妻木氏は一切出てこないというのも、意識は十分にはあった、しかし
出てこないというのは、何か理由があるのかもしれないということになってきます。
 ネット記事「a04.html」土岐氏一日市場館跡 岐阜県瑞浪市土岐町を借用します。このネット記事で
みたところでは妻木氏というのは土岐明智の正嫡の家のような位置にあり、細川との接点がわかりませんが、
明智光秀と結ばれる必然があります。         
この記事の「土岐明智氏系妻木氏系図」によれば
                                                   頼知
                             頼照ー(三代略)ー広美ー頼安ー|
  ◎頼貞ー頼基ー頼重ー(二代略)ー頼秋 |                      ●広忠
                             | 
                             頼秀ー(三代略)ー頼典ー光隆 ー 光秀
                                                    信教
                                                    康秀
 となっています。土岐は「明智」といってもよいし「妻木」といってもよいような関係があります。一日
市場というのは土岐発祥の地で妻木郷のことをいうようです。
 
 妻木熙子(ひろ子)という人の「ひろ」はここの●広忠の「広」に通じるから、また広忠の忠は、細川忠興、
忠利の「忠」にもつながると思われますので、この社会の観点からみれば、また群書類従のイタズラの
度合い大きさから、上の系図の●に相当する人物が熙子「ひろ子」ということになると思います。「熙子」が
細川氏と関係があったというならば、妻木氏が細川氏と姻戚などの関係があったのかということが一つの
問題となってきます。まあ京都の公家に近い家と土岐の正統の流れにある妻木氏はどこかに接点があると
みてもよいといえるかもしれませんが、自明のこととして話を進めることはできません。
    
 とにかく妻木の詳細は〈明智軍記〉にあるものをみるしかないようです。
〈明智軍記〉では5通りの表記があります。

    @妻木七右衛門                  3回
    A妻木範賢(主計助・主計頭)         10回
    B妻木忠左衛門                  2回
    C妻木勘介                     1回
    D妻木範熙(のりひろ)(勘解由左衛門)    1回」

 まずここからみても細川につながるものは感じられません。 
これは思い付きで使われた出鱈目なものだというのはあたらないのではないかと思います。まず
Dについては全体のまとめのようなもので次の文の中にある表記です。

      『濃州土岐の家臣妻木勘解由左衛門範熙(のりひろ)が娘にて、賢女の名ある人也』

 これは父の名前でしょうが、全体のベースとなるものです。妻木というのは地名が苗字になった感じがしま
すが範熙が「熙子」につながるものです。が何かということが極めて重要なことになってきます。
これは名寄せが行われる必要がありますか、とにかく〈信長公記〉〈甫庵信長記〉の人名索引をみても
 「範」という字がつく名前の人はいません。空をつかむようなことになり当面はあきらめないとしかたが
ないということになってしまいます。
しかし今〈明智軍記〉を見ていて行き詰ったのですから〈明智軍記〉の「妻木」を一件づつあたってみることは
とにかくせねばならないことです。まずDの
        「」の字
は細川関係の重要な人の名前に付いています。下の文の「丹後」「藤孝」「一色」「範の字」です。
    
   『(天正六年)丹後国を藤孝に賜う・・・・・・・丹後田辺の城主一色左京大夫義道こと、先祖兵部
    少夫範光(のりみつ)は・・・・・又其の子詮範(あきのり)、・・・・義満公の時・・・・天下の大小事を
    執り行い、子孫相続せり。
     ・・・・・・(反織田色が出てきたので)・・・信長公・・・・長岡兵部太輔藤孝に丹後国を下さる
    可き間、惟任・惟住等、藤孝を助成して彼の国を治めよとの仰せにより・・・・長岡は・・・・
    有吉四郎左衛門・米田助右衛門・藤木又左衛門・●相(そう)田権内を先として、・・・・・・・
    一手は明智左馬助・並河掃部助・▲同息八助・・・・・・・・
    一手には、明智治右衛門・四王天但馬守・▼其の子又兵衛・波々伯部(ははかべ)権頭・・・・
    大将日向守は、荒木山城守を案内者として、・・・・・・惟住五郎左衛門儀は、病気の故、家臣
    太田小源五重正・溝口伯耆(ノ)守秀勝・村上周防守能明等に一千騎を差し添え、高浜を過ぎ
    松ノ尾の峠を歴(へ)て・・・・』〈明智軍記〉

 「範」は「一色」で「一色」は細川といってもよい関係があります。斎藤道三のところでも一色が出て
きましたし、おり津郷のところで、一色村佐介も登場しましたように「色」という意味でも象徴的に使われ
ていたようです。

 〈信長公記〉の「一色」表記のものを〈脚注〉でみますと
「一色式部少輔」で出てくるものには
   『一色長( 〜1596) 式部少輔。室町幕府御供家。将軍義昭の側近。』
とあり、
「一色殿」「一色左京権大夫」となっているのは
   『一色満信 丹後与謝郡弓木城主。左京権大夫。この一色氏は足利氏一門。』
 となっています。
要は足利幕府で有力な御家人一色氏というわけですが、上の〈明智軍記〉の記事によれば、この一族が
「範」という字を使ったということがわかります。どうやら「妻木範熙」の「範」には一色というものをみなくては
いけない、というようなヒントがある表記といえるのかもしれません。要は細川・明智をみるときに一色の介入が
ある、色でみなくてはならない、外戚という関係をみなくてはならないといっていると思われます。これは
次の、上のとは関係のなさそうな「一色」が〈信長公記〉で出るのでそういえそうです。
 すなわち、「細川頓五郎」の「五郎」が出ているのに、もう一つの「五郎」として「一色五郎」〈信長公記〉
という表記の人物が出ますが、これは脚注では

  『一色五郎  一色義有 〈細川家記〉一色満信の後継者。五郎』

とされています。これは細川忠興の弟として出てくる人物の1回だけの別表記というものです。
「長岡頓五郎」の「五郎」です。つまり、〈信長公記〉天正五年、対松永戦

    『松永弾正一味として・・・・・●森のえびなと云う者楯籠もる。・・・永岡兵部大輔・惟任日向守
    ・■筒井順慶・山城衆。・・・・・永岡与一郎・同弟頓(トン)五郎・・・・・・城主森・えびな初めとして
    百五十余討死候。永岡、手の者三十余人討死させ与一郎・頓五郎兄弟高名なり。惟任日向
    是又・・・・』 〈信長公記〉

 とある下線の「頓五郎」のことです。ここは山城衆が出て三淵大和守が顔を出していますが、この
「頓(トン)五郎」は〈信長公記〉で5回、〈甫庵信長記〉4回登場の重要人物で全部忠興とセットに
なって出てきます。これがあるとき、とつぜん、

    『永岡兵部大輔の儀、与一郎、同★一色五郎罷り立ち、彼国に警固すべき事。』〈信長公記〉

 ★にかわります。これが1回だけ本能寺の年に出てきます。この★は「頓五郎高名なり。」の「頓五郎」と
取るしかありません。
表記が突然かわっているではないか、別人といわれるかもしれませんが

    『其の比(天正九年)長岡兵部大輔藤孝、同与一郎、頓五郎父子三人、』〈甫庵信長記〉
    『長岡兵部太輔・与一郎・頓五郎父子三人、』〈信長公記〉
    『丹後国にて、長岡兵部大輔父子三人』〈信長公記〉

というようになっているから、★は自動的に「頓五郎」となる、一色と長岡の違いなどは「細川」「永岡」
同一視しているくらいだから驚くこともないでしょう。「頓」は「トン」というルビがあるのも何か意味もある
のでしょう。「★一色五郎」はこの「頓五郎」と同じで、「色」というものが浮き出ています。〈前著〉でいって
いるように頓五郎はガラシヤ夫人の今でいう連れ合いとなりますので★の表記となり、「五郎」が使われた
ことにもつながったと考えられます。実際は脚注では
   「長岡頓五郎  細川昌興(1562〜1618)忠興の弟、のち徳川家康に仕えた。」
となっています。〈前著〉ですでに触れているように本能寺戦の一報が来たときの〈甫庵太閤記〉の記事

   『藤孝も與一郎もかみおろしなどし、落涙の体いとたうとく見えにけり。與一郎妻に向かいて云う
    ようは、汝が父光秀は眼前主君のかたきなり。同室にかなうべからずとて、丹後の山中三戸野
    と云う所へ、一色宗右衛門尉を付けて送りけり。・・・・惟任は(藤孝を)一方の大将に心あてなる
    処に、息女のかたより今度逆なる御裁判により、みづからも與一郎にわかれまいらせ、三戸野と
    いうおそろしき山の中に、かすかなりすまいして侍るよし、文来たりければ、光秀驚きあえりぬ。』

このなかの一色宗右衛門尉がガラシヤに付いて行っています。
この〈甫庵太閤記〉の「一色宗右衛門」が〈信長公記〉の長岡(一色)頓五郎の延長であり、●森えびな
と、ここで顔をあわせたことは意味があるということは〈前著〉でいっていることです。ここは、
 松永ーー森えびなーー永岡ーー惟任ーー筒井ーー永岡ーー忠興ーー頓五郎ーー惟任
という一連のつながりを表わすものですが、「えびな」「頓五郎」の類似をいっているとともに、世代
は違いますが「山城衆」もそのことをいっていることは、先きに触れました。「山城」と「藤孝」という
ものが重なったとみられます。
 ここでまあ触れなくてもよいのかもしれませんが、
  再掲 
  『永岡兵部大輔の儀、与一郎、同★一色五郎罷り立ち、彼国に警固すべき事。』〈信長公記〉

の「」がどういう意味かが問題となるのではないかと思われます。つまり君たちの父をよく警固せよという
特別な命令を信長公が出しています。この父は、ミブチヤマトのカミかヤマトノカミフジタカかどちらか
になりますが明智光秀夫人に会うと機嫌がよくなるという感じがありますので、ここではミブチヤマトノカミ
になるのでしょう。〈前著・戦国〉ですでにふれましたように元亀三年

   『三月十二日、二条妙覚寺御寄宿(きしゅく)』〈信長公記〉

 がありました。ここの妙覚寺にいた人は〈武功夜話〉から細川藤孝がいたことをいっています。御奇宿
と違うので何もおこらなかった、というのは間違いでここはこの人がいたということではないかと思います。
ここで「寄宿」と「奇宿」は同一のことを語る役割を果たしていたと思います。まあ信長公の連れ合いは
この人だった、明智夫人の今でいう父というべき人ではないか、と思われます。

 よくわからないのは■の筒井順慶で、なぜここで出てくるのか、その存在が大きくを打ち出されています。
       筒井順慶の「慶」と明智光慶の「慶」、
 この一字のつながりが、どうしても目につきます。本能寺のあと光秀が子息を筒井に人質として
だそうとする〈甫庵太閤記〉の場面がまだはっきりわからないことも気になります。ここは筒井・明智の関係は
親密だということをいっていると、みるべきであろうと思います。やはり順慶の洞ヶ峠の布陣は、
いつ出動要請が下ってくるかという攻撃意思のあった緊張の待機というべきものでしょう。
 桶狭間戦における〈信長公記〉の記事が、意思というような、心の動きが全くないように描かれている、
単なる物体が動き回って勝ったという感じの描き方になっている、のと同じで、順慶の洞が峠への
出陣もそれに似た感じで描かれたといえるのでしょう。桶狭間では〈甫庵信長記〉が、それを有意思、有感情
に描いて均衡を保たせているように、〈武功夜話〉では、順慶軍の大軍は記載されているだけでも迫力があり
日和見は感じられませまん。

   『筒井順慶の儀・・・・御敵日向守類縁の間たれば、すでに人数を相催し・・・・その兵数は七千有余騎、
   畿内を圧するに足るべく、順慶もし京坂の節所に拠り明智に同心候の時・・・・・・』

など、類縁の関係があり、大軍をすばやく動かして、これで全体がかわるほどの存在と、当時の人も
みています。
安土城の蛇石をあげる記事
   『蛇石と云う名石(めいいし)にて勝れたる大石に候間、一切に御山へ上がらず候。然る間、羽柴
   筑前・滝川左近・惟任五郎左衛門三人として助勢一万余の人数を以って、夜日三日に上(のぼ)
   せられ候。・・・信長公御巧(たくみ)をもって・・・』
 という文も、「一切に・・・・上がらず」というのはおかしく「いっせいに御山へ上げ候。」となり、あとはその
説明、「御巧」で意思を示し、その中身は、脚注にあるように二条御構えのときの動作を頭に描いている
ことになるのでしょう。
 〈武功夜話〉の織田信雄の安土城への進軍は、意思が抜けている書き方です。安土城へ迫ったときに
燃えてしまった、というような表現です。役割を与えられて入城しようとしたということなのに、何となく出てきて
、慌てふためいて動き、結果こうなったというような、意思を抜いている書き方は頼りないという印象を与え、
当局を安堵させることになります。これらは手法としてみないと、いけないようです。それと同じようなことが、
 さきほどの光秀、ガラシヤの描きようにも出ています。
 再掲
   『(光秀は)息女のかたより今度逆なる御裁判により、みづからも與一郎にわかれまいらせ、三戸野と
    いうおそろしき山の中に、かすかなりすまいして侍るよし、文来たりければ、光秀驚きあえりぬ。

 ここもガラシヤ夫人や光秀が受身で描かれて、つまり起こったことへの対応に追われる姿、対応の仕方が
無策、無能で描かれているということになります。が、

    『丹波国亀山にて維任日向守光秀逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤
     斎藤内蔵佐、是等として談合を相究め・・・・』〈信長公記〉

 とはじめに書かれており、太田和泉守も入って、談合を相究めとなっていますから、あらゆる可能性が
考え抜かれた結果、想定された範囲内のことが起こっていて、結果で其の考えがトレースされている
という書き方となっていると思われます。つまり後年、こういう考えでやってきた、というのを書いている
わけですから、はじめに、こころの動きあり、戦略などが先にあってそれがどうなっていくか、齟齬もあった
ことがわかるというのは、そうした談合内容との対比(PLANとDOの対比)をしていこうとしなければ
つかめません。
 ■筒井順慶が本気であったかどうかのことから長くなってしまいましたが、順慶には実子がなく跡継ぎ
は養子で、それ相当の人を選んでいるでしょうから、家の将来について思い煩うというような立場
でもなく、明智と類縁があったといっている、日和見といわれるほど早く軍隊をうごかした、明智光秀の子息を
人質にとったという話は、身をかばうためとは考えられず、考えがあって行動したと思われます。あと
筒井家改易があり、荒木又右衛門物語でもそのことが出てきています。表記のことでいえば、テキスト
脚注に、
     『筒井氏は興福寺一条院方の衆徒(しゅうと)。還俗して藤四郎藤政といった。松永久秀と
     対抗し、その滅亡後大和を領有した。』

 となっています。藤四郎藤政には「藤」「政」がある、松永ででてきた「藤重」も想起される、となりますと
その名を使った書物の著者は、太田和泉守を意識していたのかもしれません。太田和泉守がその名前を
使わなかったのは、「興福寺」の「衆徒(しゅうと)」として行動した、そのバックの考え方を出したかった
のかもしれません。とにかく「じゅんけい」という音読みだけしかできない名前で押し通しています。
筒井順慶には、利害だけでない考えもあった、それはこうだと語れないところからの表現の苦心があった
とみるべきでしょう。
 「藤四郎」というのは「藤九郎」というのと同じ意味があり、本能寺で「藤九郎」が消えます。「藤四郎」は
というのは〈甫庵〉の「薬研藤四郎」の脇差というもので出てきました。これは松永が献上した寶物ですが、
「つくもかみ」とあぶり出しがあり、記憶に残っているものです。脚注とは逆に、表記上では松永久秀と筒井順慶
の間柄は近いと思われます。松永のことが隠されているため表記をよみ間違っていままでの誤解が生まれた
のではないかと思われます。とにかく後年筒井家から島左近が出てきて石田三成を助けますが、召抱えられた
当時三成4万石の半分を与えられたという話で有名です。三成・左近がどこで知り合っていたのかが
重要で、渡辺勘大夫とセットになった「石田伊予」も太田和泉守が乗っていそうです。石田が土岐という
ものがどこかにあるのでしょう。松永、筒井、明智、細川がここに出てきたことは四者、当時独特の因襲
にもとずいた外戚というような密接な関係がありそうであるということが一つあり、また三者滅亡一者繁栄と
いうものの理を別に表わそうとしていると思われます。
 余談が長くなりましたが、もとにもどって、
再掲
    @妻木範賢(主計助・主計頭)         10回 
    A妻木七右衛門                  3回 
    B妻木忠左衛門                  2回
    C妻木勘介                     1回
    D妻木範熙(のりひろ)(勘解由左衛門)    1回」

 でいまDの「妻木範熙」のことをいってきました。結局Dのところで「一色」と「範」が出て明智、細川、
妻木の関係は姻族をもとにした関係ということがわかりました。回数が多い@が重要だと思われますので
あとにしてACもそれなりに意味のある表記が使われていると思われます。
Aは「七兵衛」から「津田七兵衛」が想起されますが、「津田信澄」は明智四女を娶ったとされています。
要するに妻木七右衛門は明智四女という人かもしれない、これも別表記されるべき重要人物だから
油断ができません。まあ夫妻を表わしているとも取れます。つまり妻木が使われているから、四女と
される人は「熙子」夫人の実子であるというヒントを与えているものかもしれません。この七右衛門は、
のち光慶の後見をする人です。
Bは細川家の忠興(沖)、忠利などの「忠」が使われたのではないか、忠興は「熙子」夫人の子になります。
下津権内と幼い忠興が接近したことへの解説ともなりえます。また系図で妻木広忠という人が出ていまし
たがその「忠」もいっていると思います。
Cは、もちろん妻木と、荒木で出てきた渡辺大夫のの関連をいうもので、「渡辺勘大夫」の子が
、妻木熙子となったり、、その継子になったりしました。
以上ADである程度、明智と細川と荒木の関係や、また「熙子」夫人が細川の出身であることも
確認できる材料にもなっていることがわかりました。ただ、妻木と細川の関係はまだ出てきません。
「熙子」夫人の親ともいうべき、ミブチ大和ノカミが、妻木の家の出身でもなく、藤孝@もそうかどうかも
わかりません。
使用回数の多い@の表記が重要ではないかと思われます。フルネームは
    「妻木(つまぎ)主計範賢(のりかた)」
 となっています。これが「熙子」の別名であって、その行動歴を表わしたものではないか、と一応
考えられます。そう考えてもよい場面はほとんどですがはじめとおわりに無理が出てきて第三者ということ
になりますが、結局、似て非なり、両者は重なる存在といえると思います。登場場面と表記は
下の通りです。
          場面                 表記
    @元亀二年明智勢のなか    妻木(つまぎ)主計範賢(のりかた)
    A天正元年明智勢のなか    妻木(つまぎ)主計
    B天正三年長岡父子と      妻木(つまぎ)主計(の)助
    C天正七年明智勢のなか    妻木主計
    D天正七年明智勢のなか    妻木主計(の)助
    E天正十年明智勢のなか    妻木主計
    F天正十年明智勢のなか    妻木主計(の)頭範賢(のりかた)
    G天正十年明智方長浜     妻木主計(の)頭
    I天正十年明智方長浜     妻木主計(の)頭範賢(のりかた)
    J天正十年明智方(Iの続き) 範賢
 
 ここで、CとE、FとIだけが同じで、あとみなルビも使って表記を違わせています。みな
違っておれば、感づかれますので、こんなことにしているようです。しかし同じものが二つあるので
それをピックアップしますと
               CE妻木主計
               FI妻木主計(の)頭範賢(のりかた)
 の二つであり、この二つの人物は同一人といえるし、違う人ともいえます。まあ、半分重なっているとも
とれるし、上段の表記が下段のものを包摂しているともいえます。
 このうち@は「熙子」とはいえない、荒木信濃守もまだ織田に帰属していない、明智勢として活動して
いるこの段階は、「熙子」はまだ細川のなかにいるとみられます。

 このうちIJは、この前に明智夫人と明智光春の死が出てきますので、「熙子」ではなく、本人
の単独行動とみられます。

      『妻木主計(の)頭範賢(のりかた)は、長浜の城主として、一千余騎を従え、其の辺を
     打ち靡(なび)け、居住しける処に、十四日晩景に及んで光秀自害の由相聞こえければ、
     坂本の城を心もとなく思い、範賢則ち手勢ばかり引き具し、小舟に取り乗りつつ湖水はるかに
     漕ぎ出でける処に、悪風にわかに吹き来って、舟共悉く覆して、一人も残らず失せにけり。
     是は●光秀の妻の弟にて、勇智あるものなりしに、かかる不運に逢われけるこそ、無慙なれ。』
                                               〈明智軍記〉
 坂本の城のことを気にかけて、帰ろうとして、死んでしまいます。つまりこの人は、●であり、「熙子」
にとって、アケチミツヒデというべき存在の人です。土岐明智嫡流の妻木ノリカタという人で、太田和泉
守が「森えびな」の最後を述べているのと同様にここまで著者の筆が及んだのでしょう。
「妻の弟」などというのは時節がくるまで適当に訳しておけばよいのでしょう。「めおと」というのは夫婦
のことだと辞書にありますが「女夫」の逆になったもののようです。〈広辞苑〉をみても、「女夫・妻夫・夫婦」
となっており、「妻夫」が「夫婦」に変わるのは最近のようでもあります。それまでは「妻」は「夫」のようです。
 「弟」というのも、妻をめとる男性でよく出てきます。ハムレットの父王が亡くなると、その弟が父王の
妻を娶ります。芭蕉の尊敬する主人の蝉吟公が亡くなると、その弟の人が、蝉吟公の未亡人と結婚し
たりして、芭蕉もそれに嫌気がさして藤堂家を退散したというような推理をしている人もあります。
 なお範賢という人物は「熙子」夫人と重なっているという面からその「範賢」という「賢」は「熙子」夫人が
細川藤孝@、つまり細川藤賢の子であることが判ると思います。
 「範」からは「一色」の色合いも入ってきます。妻木は細川氏ととくに関係がなく、これは光秀・熙子の関係
において生じたものであろうと考えられます。〈甫庵〉が「丹波勘解由左衛門」と書いて「妻木勘解由
左衛門」としていないのはこれによるのではないか、この「範賢」の親が、一般にいう「妻木勘解由
左衛門」であろうと思われます。「熙子」夫人の死をたいへん悲しんだという挿話がありますが、「範賢」
のことが含まれていたと思われます。太田和泉守もよほど「えびな」のことが可愛くて、その子を早くから
五番目の子として記事にしていると思います。世が世なら・・・・・・という感慨があったのではないか、と
思われます。

(12)「熙子」という表記
 主要文献には「熙子」は出てこず、「光秀」に妻女があることも出てこないようです。明智夫人に熙子
という女性表記を使ったのは蒲生氏郷・布施藤九郎のところにあった、「婿」「嫁」の関係がここでも
出てくるのではないかと思います。光秀が婿で、熙子が嫁とかの問題が出てくるのではないか、この
場合は「光秀」が主側となり、熙子を娶るということになる、それは「熙子」という名前で察せられると
いうことになります。太田和泉の場合は名前からはわからないが森姓になっているから、主は森可成
ということがわかると思います。
 「熙子」という名前は、「胡蝶」とか「寧々」とかのような幼名から変えられた名前でしょうが、「北条政子」
「日野富子」のような「子」が付いているので、歴史を書く場合に付けられた表記というのかもしれません。
明智軍記では明智光秀室となっていて、名前が出てきていません。
  「熙子」=(妻木)広忠=下津権内
 で今まで明智夫人が出てきましたが、全部見ていませんのでもっと知られた名前で出てくるかもしれ
ません。談合を究めた人のなかに「藤田伝五」などがいますのでまだ油断が出来ません。藤田は藤木
相田かもしれませんし、伝五は「五」があるので一応その意味は探らねばならないのかもしれません。
まだどれが普段使っていた名前かわかりません。表記がどのような形で消されて、生きのこるものがどれか
検討していかねばならないところです。
 なお、逆に光秀が主でない可能性があったのではないかと思います。つまり、下津権内はかなり
おそくまで細川と行動をともにしていました。ミフチヤマトのカミに、藤孝Aと権内(光秀夫人)の二人
の兄弟(異母)があり、ヤマトノカミは武勇の権内の方が気に入り、跡目を継がせたいというものがあって、
光秀を逆に細川が受け入れたいというものがあったと見られます。
 しかし、明智光秀はなんらかの理由で総領になった(末子相続もあるので正統ともいえるが)ので,
二番目の太田和泉守の身軽さとは違って明智本家の立場からの、いろいろな配慮があったことが考え
られます。、明智の血を残すということを考えなければならない立場にありましたので、土岐一族の正統
の筋目にある妻木氏が「熙子」のいまでいう夫であるということにしたということかもしれません。
「光秀」「熙子」という表記をすると、父方が光秀、母方が熙子いうのがはっきりした書き方となると
いうことだと思われます。
 女性のほとんどが、自分には子ができないこともあるかもしれないと思うそうですが、世が男権社会
と呼ぶべきものなら、そういうことを考えていない男性の当主は、こどもが生まれることを前提とできる、
すなわち妾も考えられるというのだからから血筋を伝えるとかいう面ではまず問題がありません。当主の
男性は男系などということは考える必要などないわけです。女子の子しかいなかっても血はつながって
いきます。
 女権社会のなかでこそ男系などということが問題となるものです。すなわち自分から生まれなかったら
血は絶えてしまう、家名も残りにくいことにもなります。養子とかの話が多いのはそれを裏付けるもので
しょう。むかしいた田舎では、先祖の話が出たときは養子を迎えたという話が多いことが感じられまし
た。女性中心に考えるとうまくいかないわけです。
 いままで万世一系、男系一本でやってきたなどというのは、男権社会だったからそう考えても合って
いるということだから、そんなものかと誰もが思いますが、それですら、世の中の常識にも(政権交代常なき
記録にも)合わないことであり、また生活実態にも合わない、子が生まれ育つ過程において発成する、あらゆる
障害を何も考慮していない、といわざるをえない、つまり無風状態のなか、男権社会を想定し記録を
そのように解釈しただけのことです。例えば戦国期の大名にもありますように、跡取りがないのに困
って妻の連れ子を跡目に据える場合も多々あるでしょう。
この場合は血が途絶えます。戦国期ではこういう場合、その子を三男、という表記にしています。
つまり、子だけ入籍して、母某の子としておけば妾の子だろうと解釈してくれるから、それで男系で
血がつながっていったと説明がつくだけのことです。
 明智家の跡取りは「光慶」ですが、これは「熙子」夫人の実子といえるのでしょう。光秀がその
ようにした、或いは光秀息女の意向もあったとかいうことでこうなったと思われます。
 ガラシア夫人の場合は「主」側が忠興で細川の頓五郎が今でいう夫となる、こういう主側とそうでない
側があるというのがあるべき姿だから、それをずっと押して通していこうというその意思が歴史記録となって
きていると思われます。短命の時代、幼児死亡率の高い時代、女性が主導の場合は子がないことが
生じやすい、また、男女が思うとおりいかない、などいろいろあり額面どおりにはいかないが、うまくいった
ことにして記録をつくったてきたというのが、全部男系できたなどという話のもとです。
よく日常起こっていることを観察すればありえない中を、その制度の趣旨をつよく押し通してきた、
そのあるべき体制維持の意思をくみとればよいだけのことで実際もそうしようなどというのは、明治以降の
神話に実態をあわすようなことです。

(13)〈明智軍記〉表記
太田和泉守も登場しますので、「範」を出すために前に出したもののなかで、洩れたところをやって
おきたいと思います。
    再掲
    『(天正六年)丹後国を藤孝に賜う・・・・・・・丹後田辺の城主一色左京大夫義道こと、先祖兵部
    少夫範光(のりみつ)は・・・・・又其の子詮範(あきのり)、・・・・義満公の時・・・・天下の大小事を
    執り行い、子孫相続せり。
     ・・・・・・(反織田色が出てきたので)・・・信長公・・・・長岡兵部太輔藤孝に丹後国を下さる
    可き間、惟任・惟住等、藤孝を助成して彼の国を治めよとの仰せにより・・・・長岡は・・・・
    有吉四郎左衛門・米田助右衛門・藤木又左衛門・◎相(そう)田権内を先として、・・・・・・・
    一手は明智左馬助・並河掃部助・▲同息八助・・・・・・・・
    一手には、明智治右衛門・四王天但馬守・▼其の子又兵衛・波々伯部(ははかべ)権頭・・・・
    大将日向守は、荒木山城守を案内者として、・・・・・・惟住五郎左衛門儀は、病気の故、家臣
    太田小源五重正・溝口伯耆(ノ)守秀勝・村上周防守能明等に一千騎を差し添え、高浜を過ぎ
    松ノ尾の峠を歴(へ)て・・・・』〈明智軍記〉

 「範」という字は一件重要なところで出てくると思います。竹中半兵衛の娘婿として知られる西美濃
三人衆の「安藤(東)伊賀守」は、突然「伊賀伊賀守」に表記が変わりますので、おかしいということで
〈前著〉でも考察を加えています。結局、伊賀伊賀守は藤堂伊賀守を想定しているのではないかということに
落ち着きましたが実際はそうかどうか確認できずもやもやとしていました。テキスト脚注では
    『安藤伊賀守  守就 美濃三人衆のうち。伊賀守。岐阜県本巣郡北方(町)城主。その子が
    尚就。伊賀氏の分家。旧安倍氏。』
 となっています。「伊賀伊賀守」は
    『定治。美濃斎藤氏の旧臣。本巣郡北方(町)城主。』
 となっています。まあ住所が同じというのはおかしいが、一族だとみられています。ところが〈明智軍記〉では
           「安藤俊」「伊賀俊」
が出てきます。つまり、安藤の外戚が伊賀氏であり「伊賀守」は藤堂氏だから、藤堂氏は安藤氏
と血縁の有る一族というのがみえてくると思います。安藤氏が改易となったのでこのことは隠された
ので、わかりにくい、こういう表記の操作があったと思います。安藤伊賀守が「旧安倍氏」とあること
からきわめて重要なことが出てきそうです。
 ◎で「下津」が「相田」に変えられて注意が喚起されたあとの、▲は
      「明智左馬助」・「並河掃部助」
の子という意味だと思われます。つまり「天王山」の戦いで山上の秀吉一万近くの大軍と三千足らずで
戦った、明智軍の大将「並河掃部助」という人物は、左馬助の夫人、荒木より帰ってきた光秀長女「出し」と
表現されたと思われる人、ということができると思います。「おり津」郷の「並」「ならび」が関係させられて
いるのかもしれません。「八助」の「八」は「あのとき八歳の子の「八」でしょう。同様に▼の両親が
      「明智治右衛門・四王天但馬守」
であり、光秀の第二子は明智治右衛門夫人(ガラシヤの姉、ガラシヤの妹は織田七兵衛信澄夫人)
ですから、その人が「四王天但馬守」の名で出ていて事績が述べられているといえそうです。子が
又兵衛となっています。
    「三宅藤兵衛・四王天又兵衛・並河(ナビカ)八助・妻木七右衛(ルビ=門脱)」
というような配列で出てくる場合もあります。
 ▼のうしろの「波々伯部」が突如として荒木戦の終わりの処刑者名簿に出てきます。

   『  五十ばかり、泊々部  
      十四  荒木久左衛門むすこ自念(ジネン) 』〈信長公記〉

 〈甫庵信長記〉では『泊々部五十六歳』として〈吾妻鏡〉以来の「五十六」をもってきていますから
これは怪しい、

  『爰に泊々部(はうかべ)は武勇にして信篤く智謀をも心得たる者にこそとて、皆が頼んで人質
   に付けて出でたりけるが此の者申しけるは、・・・・世の無道常に心底にこ(懲?)りぬ。今終命
   に及べば、なじかは思うこと云い置かざるべき。人は万物の霊長なり、霊長にしてその道に背
   き、その役を勤めざるは人の形をぬすめるなり。以って思うに、道に違う人は皆盗賊なり。・・・・
   ・・・・・・聞かずや晋の恵公・・・・・・・心あらん人は、達人に問えと云い捨てて、すわ斬れとて
   忽ち快死をぞ遂げにける。・・・・・・・・・』〈甫庵信長記〉

 晋の恵公のあとは例によって中国の故事が延々と語られていますので、これは太田和泉守の語り
です。まあこれが荒木村重に代わって太田和泉守が語ったとみてよいのでしょう。間に挟まっている次の
「荒木」は大田和泉守が「荒木摂津守」のことですから、「太田和泉守」に対する非難としているもので
自己反省も含む、悪役でも引き受けるといったものでしょう。とにかく挑発ですから荒木村重に責任
が希薄の上に、村重もすでに亡くなっているので額面どおりで受け止められないのは当然のことで
す。
   『此の者申しけるは、今かようになて主のことなど云わんは、無下に口惜しきことなれども、・・・
    盗賊の長は主君荒木なるべし。誠に一僕の身たりしを、。信長公の高恩を蒙り摂州の守護職を
    賜わり、栄耀にほこりぬ。さらばなど臣道をば尽さで、あまつさえ謀反を起こし一門かように悉く
    滅亡しぬること、天道照臨し給うこと恐れざるべけんや。聞かずや晋の恵公・・・・』〈甫庵信長公〉

 要は太田和泉守も「摂津守」ですから、自分が自分にいっているという感じ、明智の泊々部が語ったと
いうことが重要ですし、ここの「自念」もおかしいようです。群書類従には

    『弥平次(光春)は・・・・・・光秀が子自然というを具して天主に昇りぬ。・・・・・自然を
     差殺し・・・・・・天主に火をかけ・・・・』〈明智軍記の注〉

となっているようです。「荒木久左衛門」の「荒木」が、明智とも読める、自念は自然でしょうから、あのとき
処刑されていないということになってしまいます。
 〈甫庵信長記〉の「荒木が一族京都に於いて誅せらるる事」の一節 
     「一番荒木が弟吹田廿歳」から、八番の「自然(ルビ=じねん)十四」
まで、同じく〈信長公記〉の
     「一番 廿ばかり 吹田、荒木弟、」から、八番の「十四 荒木久左衛門むすこ自念(るび=ジネン)、」
にいたる18人ほどは仔細にみていくと消えてしまうのではないかと思われるほどになにかありげな
表記の固まりです。現に消えてしまった(ここにいなかった)人もありました。最後は煙り詰めとなって全体が
消えてしまうのでしょうか。
 できるだけけ人を殺さないようにしようとしてきたこの社会だから、こういうのがなかった社会といい
たいのかもしれません。例えば〈吾妻鏡〉によれば、義経の妾とされる「しずか」が出産しますが、幕府
の安達新三郎は新生児をとりあげて捨ててしまいます。罪人の子というわけでしょうが、筆者の読みでは
死産だったと読めます。せまい読みの範囲の問題になる、誰でもその部分は読める文です。こういうのが
当然の世の中だったというのでしょうか、そう理解して何とも疑問を感じない現代人は、秩序維持のため
やむをえないと判断するのでしょうか、昔は残酷で法によって守られているいまはよい時代だと理解する
のでしょうか。荒木の記事のここに
     「十五 荒木娘、隼人女房、懐妊なり。」〈信長公記〉
     「荒木が娘、隼人佐が女房十五歳、是は折しも懐妊にて有りけるとかや。」〈甫庵信長記〉
があり、これらの解釈にも影響を与えるので、この辺りの記事全体をどう読むかが重要と思います。

 元に戻ってここに荒木が出てきて(ここに荒木がでるのは本来おかしい)
   「荒木山城守を案内者として・・・・・・惟住五郎左衛門儀は、病気の故、家臣太田小源五
   重正
・・・・・・・高浜を過ぎ松ノ尾の峠を・・・・・」

が出てきました。小源五は和泉守Aでしょうから、表記のいたずらは、「明智重正(政)」を出して
きています。「小源五」は「又五郎」に通ずるもの、子ではなく孫かもしれません。「松尾」が出てきたので
高浜の近くにこういうところがあるのか調べねばならないという宿題みたいなものが残りますが、多分
ないのでしょう。「五」と「松尾」に意味があるのかどうか、一応問題といえます。

(14)熙子A
ネットの記事をみますと、明智光秀は再婚ではないかというのが出ています。これに関する挿話も豊富
です。熙子に姉妹がいたというのもあります。これについては系図●の広忠という人物の上にいる人と考え
られ、範賢のことといえるのかもしれません。
 伝説のようなことでなぜこれを取り上げるのかということですが、
    ○年齢的にみましても、可能性が高い
    ○説明の出来ない記事や人物がでてくる
ということがあります。
いま二人は七つちがいですが、二つちがいという話もあります。七つは離れすぎで、これだと二十二歳
ころの結婚となり当時では遅すぎる、この年齢15歳から二十二歳の7年はおおきいものです。
明智十兵衛の〈信長公記〉初登場は次の@です。

  @ 永禄12年六条に籠もる人数
    
    『細川典厩(てんきゅう)・・・野村越中・・・・渡辺勝左衛門・・・明智十兵衛・森弥五八・内藤
    備中・・・・若狭国・・・』

 〈甫庵信長記〉では・野村越中という人物だけ大活躍し、明智十兵衛は出てきません。光秀は
野村越中で出ているといえます。ただここの「渡辺勝左衛門」は「織田勝左衛門」が想起され「渡辺勘
大夫」が「細川」とも、「明智」にも関係があるということを太田和泉が表わした表記といえるのかもしれません
。ここで若狭国が特別に出てきます。このかなりあと、2回目で次の記事がでます。

 A翌年の元亀元年四月、信長が朝倉攻めのとき、浅井長政の謀叛情報によって戦場から逃げ出す
という有名な事件がおこったときのことです。

    『是より、明智十兵衛・丹羽五郎左衛門両人若州へ差し遣わされ、武藤上野人質執り候て
    参るべきの旨御諚候。則、上野守母儀を人質として召し置き・・・』〈信長公記〉
    『かくて丹羽五郎左衛門尉・明智十兵衛尉若狭国へ差し越え武藤上野介以下の人質を取り
    来るべしとて、遣わされける処に、両人打ち越え上野介が老母を具して参る。・・・・』〈甫庵信長記〉

 京都へ帰ったあとのことで「是より」というのは「この情勢により」という意味かもしれませんが、別の意味
つまり太田牛一の登場を予感させる、丹羽五郎左衛門がそれだということをいっていると思います。
これはこのすこし前に「滝川彦右衛門・山田左衛門尉(甫庵では山田三左衛門尉)両人差し遣わされ」
〈信長公記〉、が出てくるから予想できないことでもないものです。ここは額面どおり明智光秀と太田和泉
守二人の行動と見るしかないと思います。
 ここで信長公は一般にはわかりにくいことを命じています。つまり「武藤上野」が誰か判らない、その「母儀」
もよくわからないわけです。人名注をみますと、「武藤上野守」「武藤上野の母儀」は

   『武藤友益 若狭武田氏の将(福井県史)』

 となっています。これはおそらく当時武藤という人はいたことは間違いないが、その名を借りた、ということ
で、武藤の「武」は「武田」の「武」でもあり、若狭武田家の「上野守@」、「上野守A」のことをいっている
と思われます。「上野」というのは甫庵が春日井郡(上野の人)といわれるからそれは確実に意識にある
「上野」でしょう。道家祖看が「春日郡安井の住人」というのと同じで「安井」をつけて意味をもたせるのと
同じでしょう。なぜ「武藤」としたのかは「武+藤」もありますが、織田の有力大将に
         「武藤宗(惣)右衛門」
という人物が出てきてその人物と関係付けてみるようにしているからと思われます。宗右衛門の「宗」は
「宗家」というような意味があるだろうし、信長前期において気になる出方をしてきますし、平手の家で
大つづみを打ったのは牟藤(武藤)の七歳の息子であった、森可成の長子といわれる森可隆という人物
が戦死したときにも武藤が出てきた、など油断ができません。「武藤」という姓だけのもの2回を含む
11回も登場があり、そのうち気になる記事が2つあります。
   @天正三年
      『(八月)十四日敦賀に御泊。武藤宗右衛門所に御居陣。』〈信長公記〉
        これは信長公と親しい人ということです。

   A天正七年七月三日
      『武藤宗右衛門伊丹御陣にて病死なり。』〈信長公記〉
    ここで亡くなったのは表記を消すためと思われます。次の記事も病死で病死が重なります。

   このすこし前、天正七年
      『六月廿二日、羽柴筑前与力に付けられ候竹中半兵衛、播州御陣にて病死候。其の名
      代として、御馬廻りにて候つる舎弟竹中久作播州へ遣わされ候。』〈信長公記〉

  があり、これは竹中久作がすぐに行っていますから本当の病死で、武藤の病死とは事情が違うと
  いっています。
   このあと一日、六月廿四日があって「惟住五郎左衛門」が「作(さく)長光」の刀をもらって

      『一段出来物、系図(ルビ=ケイズ)これある刀なり。』

   というのが出てきたあと、武藤宗右衛門が出てくるという関係ですから系図が絡む関係といっていると
   思います。太田和泉と武藤宗右衛門が、系図の中に出てくるのでしょう。
    このあと、二日相撲があったことだけが一行で報告されたあと(この前の相撲の記事は明智一
   族が出てきている)、
    「家康公」、「坂井左衛門尉」が二回出てきて、次の日、「井戸才助」(明智光秀を暗示する)
   と「深尾和泉」(太田和泉を暗示する)が殺された記事があって、これも太田和泉、明智光秀
   の組み合わせとなります。武藤宗右衛門は明智光秀であると思われます。つまり一時期の動きを
   活写して表記を消したということになります。すると次の記事がおかしいではないかといわれると
   思います。武藤と惟任が併記されているではないかということです。
 
    天正三年
     『  一、敦賀郡、武藤宗右衛門在地なり。
     惟任日向直ぐに丹後へ相働くべきの旨に候。』〈信長公記〉

    しかしそれには「武藤宗右衛門」には「武藤惣左衛門」、「武藤惣右衛門」(いずれも〈信長公記〉)、
    が用意されているのですからいいわけです。「武藤そうえもん」つまり、もと光秀夫人かその母が敦賀
    にいたとすればよいのでしょう。
     テキスト脚注では 武藤宗右衛門は
 
       『武藤舜秀(〜1579)  実名舜秀(若狭西福寺文書)。若狭小浜城将となり、信長に
       信任された。(〈当代記〉)』

  となっています。〈当代記〉には「敦賀は武藤宗右衛門、」となっており、これが物語化されたもの
  になっていますから「舜秀」という人は〈当代記〉に出てきません。物語とされる武藤が亡くなったの
  は竹中半兵衛の病死の年に、合わされたものと思われます。武藤の表記が明智光秀を表わして
  いるということは丹羽長秀が若狭領主であったとされるに該当する話で明智光秀が、そこにいた
  ということを示していると思われます。したがってここの武藤上野という人は、光秀夫人ではないか、
  若狭豪族の人であったと思われます。
   後年、本能寺の変にあたって明智方となった若狭、武田元明・夫人竜子(松の丸)が出てきますが、
  この「松の丸」が明智光秀の息女かもしれません。太田牛一が晩年、秀吉側室の松の丸の警備
  役となったというのがその地位が低かったという証左にもなっていますが、これはこのような関係が
  あったからというものだと思われます。この武田夫妻は木下長嘯子のところで出てきました。
   晩年、太田牛一が松の丸の家人だったという話は次の後半の注(細字)にあるような話が伝わって
  いるからでしょう。この一節の前半は、太田和泉守が春日九兵衛の名前で関ケ原の話をした、石田
  に近い人物であることを示しており、かつ太田和泉守が丸毛兵庫の弟であり、また丸毛兵庫が武井夕庵
  であることも匂わせているものです。

     『春日(かすが)九兵衛見積もりの事
     丸毛兵庫(まるもひょうご)が弟春日九兵衛、大坂より大垣に至り、諸将の内に二タ心有る
     人の候。陣所の有様必定味方敗北すべし。陣替えせられよ、と三成にすすむれども是を
     用いず。果たして破れたり。
        後に前田利長春日をまねかれしかども、江戸駿府を憚(はばか)り仕うる事あたわず。
        京極若狭守高次東照宮の(家)婿(むこ)なるゆえに、しいて乞い招き寄せ、禄千石
        に過ぐるべからず、との仰せによりて京極家に仕えけり。後(のち)岡飛騨という。岡越中
        は飛騨が子なり。』〈常山奇談〉

 テキスト脚注では〈信長公記〉で「丸毛兵庫頭」という表記がされている人物は
    「丸毛長照  実名長照(〈寛永諸家系図伝〉〈寛政重修諸家譜〉)。丸毛は丸茂に通じ「まるも」
    と訓じる。美濃多芸郡の住人。」
  とされています。これは本人が履歴書を書けばこうなる、多芸郡でそういう領主がいたという
 ことになりますが、次のような記事があるのは、その人物を物語の世界に引っぱり出すことにした
 ということです。まあ劇的な要素が加味された、とりわけ優れた人物になり上ったといえます。 
  
     『丸毛(まるも)兵庫(の)助軍配(ぐんぱい)の事
    丸毛兵庫助長住その子三郎兵衛長隆・・・・美濃の多芸郡大塚にあり。安藤伊賀守氏家常陸
    介・・・・大塚におし寄せる。・・・・百姓老若男女をいわずかり催し、手々に竹竿をもたせ大軍
    の体にもてなし、ついに氏家を撃ち破り・・・・・』〈常山奇談〉

 多芸は「たげい」「武井」になり、その他の布石で丸毛が夕庵になりますが、竹槍で敵の目くらましした
話は信長の実績があります。上の長照はここでは長住となっています。「松の丸」は若狭出身となつて
いますから、その面からも何かが出てくるかもしれません。次の永禄十二年、六条合戦の条、

    『・・・・明智十兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内宇野弥七
     若狭山県源内宇野弥七両人隠れなき勇士なり。・・・・御敵薬師寺九郎左衛門幡本
     (はたもと)へ切ってかかり、切り崩し、散々に相戦い、余多に手を負わせ、鑓下にて両人
     討死候なり。・・・・』〈信長公記〉
 
 若狭の山県・宇野という勇士が奮闘して戦死して、その働きが注目された、これで終わり、では
読者は目が疲れただけ損です。その勇士の経歴ぐらいは教えて貰わないと話は完結せず物足りません。
      「源内」と「弥七」
 に注目ということをいっているわけです。これに対応する〈甫庵信長記〉記事では荒木村重が登場
しますので、この源内については、次の荒木の相関図の「源内」が思い出されるわけです。
     『 三十五  {伊丹源内事を云うなり。}
               宗祭娘。伊丹安大夫女房、此の子八歳』〈信長公記〉 
「伊丹」は伊丹兵庫、伊丹安大夫の「伊丹」であり、山県源内の「源内」がここの伊丹兵庫(明智子息)
につながる荒木源内(村重)に注目させます。これにに気がつかなくてももう外のところ(年齢の明記)
から、そういってきましたが、本来はここから伊丹兵庫を取り上げるのが筋でしょう。しかし確認の意味
としても、切り口の意味としても利用できるのが山県の「源内」です。
 宇野弥七の「弥七」は若狭に七人目の人がいるということでしょう。「弥」は「弥三郎」とか「山田弥右衛門」とか
上の「森弥五八」というような明智を暗示する「弥」です。
これが、いまそう考えるしかないという意味で、武藤の子、太田和泉が接近した「松の丸」であるとしまし
たから、それが七人目かもしれない、というのが出てきます。〈甫庵太閤記〉ではパッとみたところ
明智夫妻の子は六人ですから、七人目で合っていそうです。
 余談となりましたが、明智と若狭の関係は、いまは放置したままで漠然としている状態なので「若狭」
が出たついでに無理に飛びついた次第ですが「弥七」と「松の丸」が結びついたのは本人も予想
しなかったことです。ただ「弥七」が無意味なものかどうかはやはり重要な問題です。ここで明智光秀
の子息の数(五人とも七人ともいわれている)のことを取り上げないと「弥七」の意味もわからないこと
になります。考えてみるとこういう重要なことが、よくわからないというのは、史家の怠慢といわれても
仕方がないことです。しかしそうではなかった、戦国期理解の決定打がここから出てきます(次稿)。

(15)しもずま氏
妻木は土地の名前でこの系図をみますと文字通り土岐氏の嫡流とみてよいとも思われます。妻木という
姓を使ったのは別の目的があるのかもしれません。

   再掲ネット記事、
   「a04.html」土岐氏一日市場館跡 岐阜県瑞浪市土岐町」
   土岐妻木氏の系図
                             頼照ー(三代略)ー広美ー頼安ー|ー頼知
  ◎頼貞ー頼基ー頼重ー(二代略)ー頼秋 |                     |ー●広忠
                            | 
                             頼秀ー(三代略)ー頼典ー光隆 ー 光秀
                                                    信教
                                                    康秀
 先ず「」という表記のことです。本願寺関係で「下間」氏が〈信長公記〉で出てきて、これは「しもま」
と読めそうですが、「しもづま」「しもつま」とよみます。「下妻」という表記も使われているので(〈甫庵〉)、
「下間」の炙り出しが「下妻」かもしれません。つまり「妻」は「間」です。テキスト脚注では
   
    『下間(しもづま)氏は、その祖蓮位が親鸞に常随する侍者となってから本願寺門跡の随一の坊官
    (〈本願寺史一〉)。』

 となっています。この本願寺関係からつぎの登場人物が出ています。

    下間丹後(頼総)、あぜち法橋(頼竜)、下間刑部卿法橋(頼廉)、下間筑後(頼照)、
    下間筑後の子少進法橋(仲之)、下間和泉(頼俊)

 左が〈信長公記〉の表記、( )内が考証の結果、本名とされている(実名ともいうべきか)名前です。
〈甫庵信長記〉では太字の人物は「下間筑後守」ですが、「下妻筑後守」という表記の人物も出てきます。
出場地域が同じで、「和泉守」と道ずれですから、表記を意識的に違わせた、同一人物とみてよい
はずです。つまり
    「下間」は「下妻」
です。
ここの実名に「頼」の字が多いので少し前の土岐系図の「頼」が思い出されますが
  ○〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に、「妻木」がなくて「下間(下妻)」がある、
  ○〈明智軍記〉は「妻木」も「下間」もあるが、下間関係の表記は「法箸」となったり本名も違ったり
    している、
ということから両者は親類であるのが隠されているという感じがします。
「下妻」という表記は、「下津」の「下」と「妻木」の「妻」と合体させたと考えられます。〈甫庵信長記〉で
「下妻」というのがそうだとすると、「相田権内」に接近する「藤木又左衛門」の「藤木」は
「後藤」の「」と、「妻木」の「」の合成というこが、はっきりしそうです。ここで
    「さすがの間(あいだ)」
も絡んでくると、「下津は間(あいだ=相田)」、「下津間は下妻」」、読み方では「妻木は間木」
つまり、「妻木」は「下間」を語る材料として出してきたといってもよいと思います。
ほかでも両者(土岐と下間)の接近がみられます。 
  元亀元年
  『右手は弓にて中野又兵衛、左は野村越中・・・・・・下間丹後(しもつまたんご)内長末新七郎
   金松又四郎・・・・・爰にて野村越中討死なり。』〈信長公記〉
       
  『野村越中守、金松又四郎・・・・越中守・・・・下間(しもつま)与四郎と云う者・・・・越中守を討つたり
  ける。』〈甫庵信長記〉
  
 があります。野村越中守、金松又四郎、中野又兵衛は、明智光秀、太田和泉を暗示しています。
  本願寺幹部の下間氏と明智氏が親類だということを示すために、またそれを隠すために
       「下間」(しもつま)
という姓を使ったと思われます。というよりも妻木という地名だか苗字だかわからないものを利用して
本来の下間氏に「熙子」を結びつけたと思われます。

      明智夫人「熙子」(ひろ子)

の「熙」という字は、字は似たような形のもの三つあり、パソコンでは上のもの一つしか使えません。
とにかく見慣れない字です。これは「ひろ子」の「ひろ」とは読めず
       「
と読むようで、この一つの読みしかありません。
よろこびや光を表わす語であり、「ひかる」「光り輝く」「ひろい」「ひろまる」「ひろめる」などの意味が
あるそうで、意味が読み方になってしまったという名前です。なぜこういう名前を使ったかが一つの疑問
です。ただ「広」という字が宛てられていることは系図でわかりました。
「き」はおそらく「」が宛てられそうです。
 「下津権内=相田(あいだ)権内=間(あいだ)権内」が「藤木又左衛門」とセットで出ましたから
そういってもよいと思われます。つまり、

  「下間」(しもつま)=「下妻」=「下津間(つま)」=下津間(つま)熙 =「下津妻木」
  「妻木」(つまき) =「間(つま)木」=「間熙」=「下津妻熙(つまき)」=「下津妻木」

というようになるところから、「妻木」という地名が姓として使われ「下間」を「熙子」に結びつけた
と思います。そんなの無理にこじつけたのだろう、いわれるかもしれませんが、〈明智軍記〉では

     「下間頼清(しもづまらいせい)」と「土岐頼清(ときよりきよ)」

という人物も用意しており、「頼清(よりきよ)」を「源家累代の嫡流・・・」としていますので、土岐を介して
つまり「下間ーー土岐ーー妻木」の連想から、妻木と下間を結ぶ積りだった、といえるものです。むしろ
これだけでもよいのですが、一件でそんなこといえるか、ということになりかねないのでくどくどと話して
きています。「頼清」の音読、訓読の違いも注目せねばならないものです。

  要は、明智光秀夫人、熙子が本願寺の出である、熙子の父はミフチヤマトカミ、ですが生母は
本願寺トップクラスの家の人の娘であったといえます。その人物はやはり「和泉」の名前を冠している
     下間和泉(頼俊)
の身内ではないかと思います、土岐にも下間にも「頼」の付く人が多いのもどちらかが一方に合わせた
のではないかと思われます。とにかくこのことは太田和泉守(佐久間右衛門尉)の対本願寺の姿勢
に影響を与えていたと考えられます。「熙」という字が本願寺宗派では、よく使われるというのであれば
より確実となるといえます。
 このことは荒木相関図からもいえるはずです。つまり従来の説明では、「荒木村重妻」とされている
「たし」殿の実家は本願寺の人といわれています。荒木村重の妻女が明智息女とすると、そのもの
ずばり、すなわち、明智光秀息(長)女は「熙子」にとって年齢的に継子となりますから、親子重ねて
みると、たし殿の親は本願寺出身ということになってしまいます。
 
(16)荒木志摩守と渡辺勘太夫(その3)
 いま「たし殿」の結論を荒木村重の妻ではなく(妻は出し)、荒木村重息女(村重の実子、宗祭娘)
と決めてきましたので、そうならば先ほどの相関図はどうなるかということです。

    渡辺勘大夫(本願寺の坊官=和泉)ー ーーーーーー▲むすめ(本願寺渡辺辺氏の子息「四郎」)
                                       ‖
         荒木志摩守兄(荒木村重@)ーーーーーーー渡辺四郎(荒木村重Aたし)
    XーーーU                          U
         荒木志摩守(荒木弟)              荒木新丞(たし妹)

 ということになります。21歳の二人をを行き来させて荒木村重息女としての「たし」の連れ合いが本願寺
系の人であるという線も出てきます。歌によれば「たし」殿に「みどり子」がいるので結婚していますから
一応相手も推測できないかということでこうしてみましたが、たしの今でいう父というアラキムラシゲが
どういう人なのか、調べないと、「たし」と本願寺の伝承がどの辺のことをいっているのか、わかりません。
とにかく荒木事件の末尾を飾った人だからそういうのはわかるようになっているはずです。知ろうと
していないのが一番の問題です。この「みどり子」の将来は気になるところです。
 本願寺系の武将といえば、雑賀・鈴木などがありますが、下間は雑賀、鈴木とも繋がりがあるでしょう
から、宗教勢力とかいって特別に別枠として括ってしまいます。親族の関係は本願寺以外でも広がり
があり太田和泉守などはそれぞれに親しいようです。織田信長帷幄の将は、天下布武のため本願寺を
滅ぼそうなどとは考えていない、織田信長も和平交渉をやらせている、本願寺はそれに乗っているという
記録もあることですから、一向一揆などとの抗争を天下布武を邪魔しようとする宗教勢力抹殺戦という
捉え方も問題でしょう。雑賀、鈴木などが本願寺に加勢したのはなぜかよくわかりません。武家側に
非があったのかもしれません。結果朝鮮役のようなことになり、敵方に味方する人が多かったというのです
ですから政権側はよほどどうかしています。織田家にしても天下布武の途中で本格的に本願寺と戦
うのは愚の骨頂だと思われます。結局は両者和解していますから別に行き違いの側面もあったという
のが太田和泉のいいたいところかもしれません。徳川領内に起きた一向一揆の例にみるごとく争いを
おこさせて漁夫の利をしめようという勢力の離間策がお互いの不信感を増幅させたという面もありそうです。

 本願寺との戦いから明智三兄弟が出てくるものがあります。敵方の人物の表記を借用しています。
 天正三年、八月

    『十四日敦賀に御泊。武藤宗右衛門所に御居陣。
    御敵相拘(かかえ)候城々
    一、虎杖(ルビ=イタドリ)の城丈夫に拵え、下間和泉大将にて賀州・越州の一揆罷り出・・・
    一、木目峠、石田西光寺(さいこうじ)大将として一揆引率し在陣なり。
    一、鉢伏の城、●専修寺阿波賀三郎兄弟、越前衆・・・
    一、今城
    一、火燧が城、両城丈夫に構え・・・・■下間筑後守大将にて・・・・』
    一、だいらこへ・すい津の城、大塩の円強寺(えんこうじ)、加賀衆相加わり在城なり。
    一、・・・・若林長門・息甚七郎父子大将にて・・・
    一、府中の中門寺拵え・・・・三宅権丞(みやけごんのじょう)

 はじめの「武藤」については既述です。「虎杖」をなぜ「イタドリ」と読むのか、わかりません。脚注
では「福井県南条郡今庄町板取。今庄駅の南八粁(キロメートル)。木の目峠の下。」と書かれてい
ます。大修館漢語新辞典によれば、「難読」の項で「虎杖(いたどり)」が出てきます。これは〈信長公記〉
だけの読みかもしれません。ここには「虎杖浜」は「こじょうはま」と書かれています。ここでは、色が出て
きている、後ろに「竜」もあるから白虎、青竜の「竜虎」があるからそういえる、ということになりますが、
引っ掛けてあるとすれば、「こじょう」と読めるから「虎の城」、太田和泉が、このあたり城を築いたのかも
しれません。
石田西光寺」の「石田」はボンヤリと「西光寺」の「光」に懸かるのでしょうが、地名を表わしこの
「西光寺」が「寺」ではなく個人名であることを理させています。これは「大将」となっていますからすぐ
わかります。これはあとの「専修寺」もそのあとに出てくる「円強寺」も個人名として扱われている、という
こと理解させうるものです。
●については「専修寺阿波賀三郎兄弟、」とありますから「専修寺」と「阿波賀三郎」という人が
兄弟といっているのは明らかです。
 同様に「円強寺」というのは、少しあとに
       「円強寺・若林長門父子人数を出し候。」
という一文がありこれは下線のところを考慮すると、「円強寺」は個人名で
       「円強寺・若林長門父子(三人)が人数を出し候。」
といっていることになります。一方、少しあとの方にに
    
   『・・・惟任日向守・・・・・阿波賀三郎阿波賀与三兄弟、・・・・原田備中』

 という一文が出てきます。「三郎」「与三」兄弟が出現しましたから、●の文「専修寺阿波賀三郎兄弟
というのは
       「専修寺阿波賀三郎阿波賀与三兄弟、」
 の三人兄弟が出てきます。なお 「石田西光寺」という「西光寺」は、あちこちにあるそうですが、
ここで引っ掛けられている「西光寺」はネット「虎孫旅行記ー信長廟所西光寺(yahoo見出し)」にある
「西光寺」であると思います。あの利久の「田中」と関係がありそうな、安土宗教論争の「田中の貞安」が
創建した寺で近江八幡にあり、信長の墓と多数の肖像画をもつ寺として有名なようです。織田氏ゆかり
の寺であり、秀次が近江八幡に城を築いたとき、移されてきたそうです。ここに縁の深い人は三輪氏、
豊臣秀次、武井夕庵、安井氏東殿です。
 武藤・和泉・夕庵、下間、長門、三宅などが出てきた中での三兄弟が出現しました。土岐明智の三兄弟
ここにあり、といつているわけです。ここは芭蕉が歩いているところです。敦賀のところ

    『湯尾(ゆのお)峠を越ゆれば、燧(ひうち)が城かえるやまに初雁(はつかり)を聞きて、
    十四日の夕ぐれつるがの津に宿を求む。』〈奥の細道〉

 この太字の土地の説明に全部「今庄」が出てきます。太田牛一の「一、今城」の書き方がおかしい、
「一、今城。(改行)一、火燧(ヒウチ)が城、両城丈夫に構え・・・」となっているので「今庄」の「今城」
は、うしろの「丈夫に構え・・・・下間筑後守・・・相拘え」というのに懸からない、つまり「今城」は太田
和泉守が造った城といっていると思います。すこしあとで
    「木目峠・鉢伏・今城・火燧城ににこれある者共、」
というのが出ますから、切り離して読むのは筋違いともいえますが、〈明智軍記〉で重要な表記が出て
くるところで今庄が出てきます。
    「下間筑後の法橋頼清(らいせい)を大将として今庄の宿に出張し、火打山を詰の城に拵え
    ぞ陣取りける。」
 つまり、「宿」は「城」と取るしかないでしょうが、経過場所を表わし、火打ち山には、はっきり下間が
城に拵えたというのが出ています。
またここの「法橋」が太田和泉守の称号であるといっていると思います。これを法印というなら太田和泉も
夕庵もそうです。
 なお〈明智軍記〉では、本願寺方の武将の名前を、「音おん」読みにしております。ここの「らいせい」
というここ一箇所しかないルビはたいへん貴重です(先掲のものの出所)。ここで
     「下間(しもつま)頼清(らいせい)」
の読みがおかしいと気づきますとあと
   「下間少進(しん)」  「法橋仲之(ちゅうし)」  「刑部卿頼広(らいこう)」
などがあるのがわかってきます。すなわち「」としかよみようのない「」の字を使ったのは本願寺という
特徴を現しているといえると思います。
三兄弟が出たところ「三宅」がありました。ほかでもそういうのが出てくるとこの三宅の「三」は、明智
左馬助の「三宅」だけでなく三兄弟の「三」の意味もあるといえるのでしょう。とにかく芭蕉は敦賀へ
入るにあたって〈信長公記〉のここをも踏まえて、大谷の故地へ入ったといえます。「長門守・甚七郎」は、
太田和泉とその孫を暗示していそうで、ここで孫の一人を思い出しているのかもしれません。松尾芭蕉
は七番目でもなさそうなのに、なぜ「通称を甚七郎と呼ばれた。」ということになるのでしょうか。まあここで
土岐明智衆の中に意味がよくわからない「石田」が出てきました。〈奥の細道〉に「石田」が出てくる必然が
あったようです。

(17)二重読み
 いままで荒木摂津守は太田和泉守とも読める、乾助次郎は利久でもある、また渡辺勘太夫は細川藤孝とも
読めるし、あるときは明智光秀と読んで、話を進めてきました。「たし」「出し」も区別できるということも
いってきました。こういうことは荒木村重の事件における、通常の流の分ともう一回やる総集編の二重
性もそれを可能とする暗示だといってきました。太田和泉守は次の文でそれをいったものか、という感じ
を受けましたので、最後にあたってそこを読んでみたいと思います。次のAの文は訳本から借りました。
非常に本文が読みづらいので、はじめに大意を掴んでいただくためです。あとBが原文です。

  A、天正六年
    『さて、大和田というところが尼崎の近くにある。大坂から尼崎や伊丹への通路にある肝要
   な地点であった。ここの城主は安倍二右衛門という者であった。二右衛門芝山源内(監物、のち
   利久)と相談し、信長公にお味方となって忠節を尽くすことを申し上げ、古屋野の陣所へ参上
   した。

   十二月一日の夜、蜂須賀彦右衛門のはからいで、安倍二右衛門芝山源内の二人がごあいさつ
   にうかがったので信長公の御満足はひととおりでなかった。黄金二百枚を下され、両人はありがたく
   帰ったことであった。
    ところが、二右衛門親および伯父の二人がこのことを聞いて「大坂(石山寺)門跡ならびに
   荒木殿(村重)に対し、このような不義はよろしくない、父・伯父ともに賛成しがたいことである」
   と、言って二右衛門の城の天守閣へ上がると動こうとしなかった。二右衛門はこのぶんではうまく
   ゆかぬと考え、「父・伯父お二人の申されるところはもっともである」と二人をなだめておいて、
   信長公へは「何ら忠節の働きもなく信長公から黄金をいただくいわれがないから、お返し申す。
   ふたたび敵方に回りましょう」と、芝山源内を使いとして、いただいた黄金を信長公の古屋野の
   陣所まで返上された。信長公は「そう言うならしかたあるまい」と仰せになった。そのうえ二右衛門
   蜂屋阿閉の信長方の陣所へ足軽を出し、鉄砲を射込んで、「御敵になり申そう」と申し入れた。
    このとうななりゆきであったから、親・伯父ともに満足の態であったが、十分にだましておき、
   二右衛門伯父を使いとして、「右のような次第で、今後とも気が変わることはございません」と、
   尼崎にいた●荒木新五郎ならびに大坂(本願寺)へ申しやった。そこでも喜んで、天守閣から
   下りて来たところをとらえて腰刀を取りあげ、ただちに人質として京都へのぼらせ、二右衛門自身
   十二月三日の夜、古屋野の信長公の陣所へ参上して、右の苦労の次第をいちいち申し上げた
   ところ、信長公は「さきの忠節よりもこのたびの行為はいっそう殊勝である。感じ入ったことである」と
   おっしゃって、ありがたいことにさしておられたご秘蔵の左文字の脇差しとお馬を馬具とともに下され
   た。また御太刀代として黄金二百枚を下され、その上摂州の川辺(かわなべ)郡一切お支配を
   仰せ付けられた。芝山源内もまた御馬を拝領した。』〈ニュートンプレス・信長公記の訳本〉

 はじめは問題ないが親伯父が出てきたあたりから読みづらくなります。なぜこんなものが入っているか
という疑問が生ずるから余計にわかりにくくなります。これは何の意味でだしてきたのか調べねば
ならないと思うとそれだけでウンザリもします。又、例えばここでは「信長公」が、原文は2回だけしか使われて
いないのに七回使われている、「二右衛門」は原文五回なのに、ここでは九回も使われている、
(「親・伯父」はどちらも六回)というようになっているから、それだけ埋め合わせてかろうじてわかる
ようになっているのだから原文よほどわかりにくいことが予想されます。しかしここはよく考えて書かれて
います。わかりにくいところがよく読まれるべきと思われます。 

B、天正六年
    大矢田と申し候て尼崎の並(ならび)にこれあり。大坂より尼崎へも伊丹へも通路肝要
   の所に候。彼の城主は安倍二右衛門と云う者なり。芝山源内と両人申し談らい、御身方の忠節
   仕るべきの旨申し上げ古屋野(小屋野)御陣取りへ、

   十二月朔日の夜、蜂須賀彦右衛門才覚にて両人御礼に参り候処、御満足斜めならず。黄金
   弐百枚下され、忝き次第にて罷り帰り候き。しかつしところ、二右衛門親・伯父二人此由承り候
   にて大坂門跡併に▲荒木に対して不儀然るべからず。親・伯父は一途同心有間敷(あるまじき)の
   由候て二右衛門城の天主へ両人取り上り居城候。
    此分にてはなり難きと存知、親・伯父両人申さるる所尤もと宥め申し、御忠節なく信長公より黄金
   下され候わんこと謂われず候間、金子返進申すの由候て、上げ申し、二度御敵の色を立て候
   わんと申し、芝山源内を使いとして、下され候黄金古屋野へ返上す。信長是非に及ばず、の
   旨御諚候キ。其の上二右衛門蜂屋阿閉両人陣取りの所へあしがるを出し、鉄砲打ち入れ、御
   敵仕候由申し候。かくのごとき仕合せにて候間、親・伯父満足仕候処、思う程たばかりすまし、
   伯父を使いとして、右の様子にて相替わる儀、これなき旨、尼崎にこれある●荒木新五郎併に大
   坂へ申し遣わし候。も悦び天主より下り申し候を、をば押し込め腰刀を取り、則、質として
   京都へ上(のぼ)せ、十二月三日の夜、古屋野御陣所へ▼二右衛門又伺候申し、右難儀の仕合わせ
   せ一一言上候処、最前の忠節よりも一入神妙の働き御感に思食さるるの由候て、かたじけなくも
   ささせられ候御秘蔵の左文字の御脇指下され、併に御馬皆具共に拝領。御太刀代として、
   黄金弐百枚、其の上摂州の内川なべ郡一色(いっしき)進退仰せ付けられ、芝山源内、是又
   御馬拝領候なり。

 B、原文の初め「大矢田」があります。は重要な話であることがわかり、大矢田は訳文では
大和田となっていましたように原文が間違いであり、安倍とか芝山とかいう人物は実際にいたと思われ、
それがまず「安倍二右衛門@」であり「芝山源内@」です。読んでいるときは本物のこの二人の行動とし
読んでいっています。しかしその親・伯父は誰だかわからず、物語としては完結しない話であり、
今川義元の刀であった左文字の脇差などを頂戴するのだから、馬鹿らしい話をしているとも感ずる
もので、とにかく話の趣旨がよくわかりません。
 「安倍二右衛門」は「二」ですから、もう一人いてまた「右衛門」ですから太田牛一を指すものです。
芝山源内は、テキスト人名録では「柴山監物」という人物にあてられており、尾張海東郡の芝山郷の
豪族の一族で、「監物は利久七哲の一人といわれる茶人になる」と書かれています。これはなくても
訳本では「のち利久」とされていますから、そう名乗ったようで、これは利久とみてよいわけです。
二右衛門の属性は尼崎近くの城主でこれは荒木と結びつきますが、芝山源内の「源内」は、相関図の
「宗祭娘(ルビ=伊丹源内事を云うなり)」の「源内」に結ぶために付されたものです。これで荒木陣
に太田和泉守・利久が登場していることが証明され例の

     『九月二日の夜、荒木摂津守、女房一人召し具し乾助次郎には葉茶壷を持たせ、
     伊丹を忍び出で尼崎へぞ落ちにける』〈甫庵太閤記〉
 
 の太字の人物の引き当ての一つとして、「太田和泉守」と「千利久」とするのはこれで合っていたという
ことになります。
 ここの親、伯父というのが、何のことかということになりますが、「源内」で相関図に関わりがある話
であることが感じられましたので、「荒木志摩守の兄」というのが出てきたので、●の子の立場から
すると、「荒木志摩守」が親となる、兄は伯父であり相関図のこととかみ合ってくることがわかります。
親・伯父、といっても、これは、三種類あることがわかります。
    @、二右衛門親・伯父二人
    A、親・伯父
    B、
 の三種です。@は、「荒木志摩守」に明智光秀・太田牛一が該当、Aの「荒木志摩守」は「荒木村重
兄弟」というものをいれる、Bは「渡辺勘大夫」でそれぞれの場合で二人を当てはめるということのヒント
を与えたものといえると思います。●の子供の立場からいえば、兄というややこしいものを使わないと、二人を
述べられない、つまり、太田和泉守を紹介しないと仕方がないので、伯父が出てくるようです。●も
したがって二人となります。ここは要は村重子たし、明智子「出し」とすれば
 再掲
      渡辺勘大夫ーーーーーーーーー▲むすめ  21歳
                               ‖
         荒木志摩守兄ーーーーーーー渡辺四郎 21歳
    XーーーU                 U
         荒木志摩守            荒木新丞

荒木志摩守は兄弟は、荒木村重兄弟となり、配偶者は渡辺勘太夫の子となりこれは本願寺の人か細川の
人か、明智の人かということになりますし、むすめを出し殿(明智息女)の立場におけば荒木志摩守の
兄弟は明智光秀・太田和泉守となるから、配偶者の親が渡辺勘大夫は荒木村重にかわったりする、
要は、伯父として太田和泉守の名前をここに入れねばならないから、この安倍二右衛門の一文に
伯父が出てきたといえます。まあこういう関係の場合に「叔父」を使わずに「伯父」をつかうという
ことを教えているといえます。●は荒木新五郎となっているから、新たな五郎、この二人の子女のことを
いっているのでしょう。この小公子もまたどこかで出てくるはずです。
 
その他の人物の登場にも、配慮があります。
       蜂須賀彦右衛門====蜂屋
は二人の「蜂」で二人が近い親戚であることを示唆しており、
       安倍二右衛門=====阿閉
は阿閉は「あべ」と読み(〈甫庵太閤記〉)、「安倍」を示しています。先に安藤伊賀守のテキスト
人名録に「旧安部氏」というものが入っていましたが、これは
    安藤伊賀守ーーーー伊賀伊賀守(範俊)ーーーー阿倍(阿閉)
 となり、この連鎖から、〈信長公記〉で出てくる
    阿閉孫五郎   5回登場
    阿閉淡路守   9回登場
 という人物の引き当てを考えねばならないということになってきます。
阿閉氏は明智に味方して、家を滅ぼした、不運な先の見えない大名として片付けられていますが、
それがこの〈信長公記〉阿閉の表記の過小評価にも痛痒を感じないできているものです。「阿閉」は
万葉集に「阿閉皇女」があり、孝徳天皇(皇極天皇の弟とされる)の大臣に
     「阿倍」  「蘇我(謀反得誅自死」 「中臣鎌子{一名鎌足}」
 の三人の名前が併記されている(〈愚管抄〉)、そのような関連がある命名ですから、重視せねばならない
ものです。
 その他ここでも信長公・信長の表記の区別もあり、太田和泉守が相手にしている信長は
  御満足斜めならず是非に及ばず御秘蔵の左文字の御脇指下され
 であり、これは表記はともかく、あの信長の属性とみられ、少しありえないことが書かれています。まあ
二人信長からくる話となっています。
  「御馬皆具共に拝領」は伴正林と鉄砲屋与四郎の交錯したときにあったことです。

  「一色」が一式の意味もありますが「色」の「一色」もあると思われます。
要は荒木志摩守、渡辺勘大夫も二重で読めといっている、とくに渡辺勘大夫はつぎのように、
 「石田伊与」と併記されている、「石田」+「伊予守」となり、「伊予」は〈吾妻鏡〉以来の「伊予」「伊豫」
「伊與」であり、あぶり出しの代表的表記ですから、これと接触していることは当然重視せねばなりません。
太田和泉守であり、石田はやはりなんとなく三成が想起されるのは仕方がないことです。
   再掲
    『茨木合力勢として、渡辺勘太夫石田伊予守両人、伊丹より入れ置き候を、同廿四日の夜
    中に立ち出でし中川瀬兵衛も御味方として参じけり。此の調略は福富平左衛門尉・・・・』〈甫庵〉

  『御敵城茨木、石田伊豫渡辺勘大夫・中川瀬兵衛両三人楯籠る。寅十一月廿四日夜半ばかりに
  御人数引き請、石田。渡辺勘大夫両人加勢の者を追い出し、中川瀬兵衛御身方仕候。』〈信長公記〉

渡辺勘大夫が重要なのことはは江戸期の教養人は知っていたと思われます。「勘」という字が、天下三
勘兵衛などといって、広められていることもありますが、「渡辺勘大夫」というのは「渡辺勘兵衛」そのものです。
 〈信長公記〉首巻、 おどり張行の場面で、「伊東夫兵衛」という人物が出ますが、これは、〈武功夜話〉
では「伊東夫大夫」となっていることは〈前著〉でいっていますが、「夫太夫」「夫兵衛」は同じですから
昔の人は「渡辺勘大夫」を「渡辺勘兵衛」と読むわけです。
 「渡辺勘兵衛」は戦国の締めくくり大坂城で活躍した藤堂の大将で、派手な物語がありますから、
実在であるような、そうでないような、誰かのことを述べているような、得体のしれない人物ですから
この渡辺勘大夫の説明のために作られたのかもしれないというのがみなにはよくわかるはずです。
「渡辺勘兵衛」物語は、「荒木又右衛門」物語と同様に、これも史書の解説として読まないといけないよう
です。

(18)和平交渉
荒木摂津守を荒木山城守を通して太田和泉守と読めることがわかったことは、〈武功夜話〉の
本願寺との和平交渉の記述は内容が大きく変わってきます。

   『天正六年戊寅(六年)二月初めの日、荒木摂津守(ルビ=村重)、矢部善七郎(ルビ=家定)
   を上使となし、・・・・・石山表へ参上(和議の)御思召し申しいれし・・・・荒木摂津守矢部善七
   郎石山城中に相留ま両三日留り候。』〈武功夜話〉

これは太田和泉守と織田信澄ということになります。荒木の離反は10月でそれに先立つて和平交渉
があったわけです。本願寺との係争は天正二年にはじまっています。天正八年に講和が成立しますが
それに先立つこと三年足らず前に和平交渉があったわけです。(実際は二つの書があってこう簡単に
いえないほど年月日が前後している。)

   『摂津表在陣の御嫡子中将信忠公、此度和睦の上使者石山本願寺参向候に付き、一まず重囲
   を解き・・・・安土に御帰陣・・・・各々付け城に佐久間を常番差し置き、和議の成り行き見合い候。
   ・・・荒木摂津守矢部善七郎根を尽くし信長公の意趣を相説き聞かせ候ところ、和睦取り計らえず
   延引候。しからば石山方の鈴木、下呂、安察使、法橋等の面々声を高くして申しけるは、信長
   誠に不実の御仁に候。たとえ神文誓書候も、黒部未だ就かざるに(ルビ=不詳のケ所あり)忽ちに
   して豹変反覆無常令偽りを構え上人を欺かんとするなるべし然らば天下の乱を鎮めんこと、
   異議なくも、開城の議夢々有るべからず(ルビ=不詳のケ所あり)と存じ候。信長の意の如く、
   他所へ当道場を移しなば
、不意に人数を差し向け当城を責め取らんとする謀計に候なり。』

●のあとの、太字下線のところ、ぎざぎざの傍線が原文に附されています。「黒部」が登場してきます。
これが「黒田官兵衛」です。首巻でいわくありげな表記の集積がありました。
   『坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛・乾丹後守・山口勘兵衛・堤伊与、』
 わからなかった黒部がここで出てきました。〈武功夜話〉が失われていてもほかのところからでてきます
が、これがあれば説明がいらないから助かるといったところです。この傍線がざらにあるわけでは
ないから次のように黒田官兵衛にある傍線と結びつくわけです。

  『五宗記(ルビ=前野長康)に曰く
   国府目代の官兵衛の儀、
    『それがしよくよく按ずるに、(ルビ=不詳のケ所多し)・・居城を秀吉に明け渡した)・・・・
    官兵衛陪臣をもって此の如き出挙はこれすなわち図南の志ある者なり。
官兵衛の
    進退は、先において国中の騒乱を招く。官兵衛の褒貶(ほうへん)は、拙速に手術(てだて)
    あって然るべき、云々ヽヽヽヽヽヽ』〈武功夜話〉

 このほか知られていない次のような断片もあります。
  『一、五着の藤兵衛(官兵衛主人)天正六年二月朔日・・・遂に参らず備前へ逐電その跡を知らず
  候なり。』〈武功夜話〉
  『播州地平穏やかに過ぎては、筑前様折角の粉骨候も、国人衆罷り在る限りにおいては、
  尺地も得難く候。』
  『・・・・騒乱を起こして、抵抗させ、あと平らげれば・・・・』
  『案の如く、明年別所の謀反播州表の騒乱の兆し候は、小寺官兵衛なる者計り候こと伝え候なり。』

 背景にトクガワ勢力があり、この勢力のやり方が太田牛一の筆致によってわかるわけです。資料が
一方に偏しているというのがこういう言い分が無視される理由でしょうが、現実は、ここまで臣従して
きた荒木、別所などの味方が敵になって滅んでいくというように事態が起こってしまったわけです。
毛利より織田の方が強力であることは官兵衛の発言にある余裕でわかります。反乱する理由がない
ものの反抗があったのだから、この言い分も的を得ているかもしれません。天下布武の邪魔者という
観点から、時勢に目のくらいものの反抗ということしか戦争の起こった理由をみていないといえるの
でしょう。

 傍線を追っかけていけば、結論では、本願寺の意向がわかってきます。最終的に替地を与えて退去
という線がもう出ていて太田和泉守が最も先方から希望されたことを実行していますから、邪魔さえ入らなけ
ればここで終わっていたわけです。

  『このまま和議の諚不承知とて上使を追い返すもまた不本意なりとて、織田両使に向かい返答
  申し出で候の条々左の如し。』

  『当道場は、古来より仏勅の異場たれば(不詳のケ所あり))是を移さんこと遠慮願い度く、このまま
  に差し置かれ候えば、御諚の如く尊命に相随い申すべく候。城中相楯籠り候宗徒の面々、・・・・
  糧道を絶たれここ数日飢餓限りなく候なり。何卒百石の兵粮恵み給え、数日来の空腹を満たし
  候上、よくよく云い含めそれぞれの在所へ立ち返るべく(不詳のケ所あり。)説き聞かせ候なり
  当道場は仏勅の法地、永代の構え差し許すの御諚あらば、即刻に開城成す者に候、しからば
   上使荒木摂津守このまま安土に立ち帰り右の旨内府公に言上候いては、和睦不調の叱責を
   罷(まぬが)れず、帰路秘かに己の領地伊丹表へ立ち寄り、上人より願い出で候兵粮米百石
   分、石山城中へ差し届けるように申し付け、急ぎ安土の信長公へ参向、石山方の返答申し
   宣べ候。。すなわち楯籠り候宗徒の輩兵杖を解き帰村申し付け候の趣、但し道場を他所へ
   移すべくの儀、偏に乞い願うとて顕如上人の返答相伝え候ところ・・・・』

荒木摂津守は顕如と話していますから、相手最高権力者の意向が飢えの当面の解消にあったことを
知っていたわけです。「荒木摂津守・・・・本願寺顕如上人昵懇なれば・・・」「荒木摂津守・・・・は
以前、山方と信長公いまだ間隙なき頃は石山に出入の御仁の候ところ・・・・』

   『五宗源記写しによれば
  『一、米これは、百石なるか二百石なるか不詳なれど、按ずるに百石と記し置く。』

「按ずるに」と書いてありますからよく考えてという意味です。百石では何の足しにもならないのは
よく理解されるところです。
 米は八十八で百石だから八千余石となるのでしょう。八千人が一年くらい喰える量ですから相手は
相当助かったはずです。何としても講和を成立させたいと思っていたわけです。
荒木村重はこんなことは無断ではできません。それこそ百石を内緒で出すくらいのものでしょう。
太田和泉守が信長公の意向を汲んでこうしたのでしょうが無断でやったとしているのは譴責を受ける
材料を増やしたといえるでしょう。
 つまり佐久間右衛門に乗る場合、いいことだけではなく、悪い面でも乗るわけです。
  元亀四年
  『佐久間右衛門涙を流し、さ様に仰せられ候えども、我々程の内の者はもたれ間敷く、と自讃
   を申され候。信長御腹立ち斜めならず。』 〈信長公記〉
この発言が佐久間譴責材料の一つとなっていますが、このヘマをやったのは太田和泉です。
相談せずにやるというのも、材料になりましたが、ここにあるような話がそれに該当するでしょう。
 譴責状で本願寺戦に消極的だという非難がされていましたが、もともと太田和泉守は和平主義者
だったから、無理しないというものがあつたので、自分でヘマして、自分を攻撃させて、紀伊国熊野
で病死してしまいます。一人相撲を取って自消してしまうわけです。それで結果佐久間右衛門(甚九郎)
表記消し去ったということになります。
 
(19)もう一つの枢軸
 細川家を牛耳っていたのは、その家中に、徳川における、サカイサエモンノジョウ、黒田における
クロダカンベエ、のような存在があり、、「松井佐渡守」の表記に代表されるミフチヤマトノカミ以来
ホソカワフジタカに引き継がれた勢力が大きかったわけです。藤孝は戦は苦手というものがあった
のでしょう。歌が得意であり、本人の武功譚はなく、子息の活躍に目が潤ったというような子煩悩な
人です。
 本能寺のとき親子ともども適切な判断をして家名を残したということで賞賛されていますが忠興は
このときは満では17歳くらいなのでまだ実権はなく、表向きの主は藤孝ですが、藤孝はサドノカミ
フジタカという人物に引つ張られて、忠興ともどもそれに従わざるをえなかったといえます。その後も
この勢力に助けられ、のち秀次事件のとき「秀次」から借金をした大名がたいへん困っているなかで
徳川家康が金子を用立てしてくれてことなきを得て、これを恩に感じて関ケ原では家康方に付いた
という話になったりしますが、このとき「松井佐渡守」が使者ですから助かることになっていたわけ
です。次の文はそういうことを表わしています。
   
    『評曰く、藤孝の子孫栄える事、信長公の大臣多く有しその中に、寛永のころまで八九人に
     過ぎず。藤孝其の内のひとりなり。長子忠興は、旧臣・・・大臣になして、いささか改易しつ
     ること有りしかども、つづき侍ることは、此の人家康公長尾景勝と鉾楯(むじゅん)の折節、
     堅き忠義を有し故なるべし』〈甫庵信長記〉

 「此の人」というのは藤孝を指しますが(フジタカ)を伴っています、イエヤス・カゲカツもそれを
語るものです。
 いままで述べてきたような観点からみれば、また両家の親密度が他の家より高いことからみれば
本能寺では、細川は明智に付くというのが筋です。挙兵において相談もしているはずで、本能寺で
わずかに生じた齟齬は、ホソカワ情報がトクガワを利したためと思われます。
忠興が晩年可愛がったという、名君として名高い「忠利」はガラシヤの子です。これは〈三河後
風土記〉が証明しています〈前著〉。忠利などにも迷惑が及ばないように明智・細川の関係が隠された
結果わかりにくくなっているのがそのままきていると思われます。
 しかしそれだけではない、光秀夫人の今でいう父、夫、光秀の今でいう夫、ガラシヤ夫人の今でいう
父とかの関係のことも考慮されなければ一切解けない問題でもありました。不確かな国民感情とか
いうもののために、歴史理解が、止まってしまっています。ある程度いままでのもので満足されている
というかもしれないが、将来の世代に全世界が共用できる大いなる遺産を残した人々を、頼りない資料
を残した先輩として、葬り去っていてよいのかということになります。
 このようなことでわからなくなっていた明智夫人はまとめてみると一つの表記が全てを表わしている
ということに気付きます。すなわち初めにあった〈明智軍記〉一回だけ登場の

  「濃州土岐の家臣妻木勘解由左衛門範熙(のりひろ)の娘」

です。ここに本人ないし三人の親の属性が表現されていると思います。

    ○本名は   「賢熙」
    ○父は    前父、細川藤賢   後父、三淵大和守 
    ○母は    下間法橋頼俊、
    ○夫は    前夫、明智光秀   後夫、土岐頼清    、
                              (名前は適当に入れている)
これが「土岐」・「下津間」・「範(一色)」・「熙」などから導き出せるわけですが、何よりも「勘」を「解く」
ことから始めよということをいっている、表記の重視という意味を語っているものです。

明智夫人は明智家が、実家に背かれたことをどう思っていたのか、その答えは、今となっては、
やはり実子であり、明智総領の明智光慶のその後の生き様によってしか見つけることはできない
ようです。
        
                                    以上
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