32、崇峻天皇・聖徳太子の出自(その1)

  
                
   
 (375)〈日本書紀〉は、神武天皇(前660年)から持統天皇(西暦700年)まで

        初代天皇~持統天皇(終り西暦700年)までの天皇在位期間に区分された時代の流れは、一応、
        次の(376)(Ⅰ)~(Ⅴ)のように纏めることでやってきました。
                   
        前稿終りで触れた大化の改新は、Ⅴの部分で、その前に蘇我馬子、聖徳太子の時代
        (敏達~推古)があります。このころ
                620年に〈天皇紀・国記など〉が、
                712年に〈古事記〉が (〈日本書記〉は、8年後、720年完成)
        が出来上がったのでそれが本稿のテーマになります。前者は政変で焼けてしまったとされており、後者
        は、太安万侶の単独行動によったもので結果、序文は偽書とみられているものです。

        なお、いまの〈古事記〉の範囲は
           Ⅰの「神武」 ~ Ⅳの 「推古」
        までです。が推古は636に終わっており、前者の記者は推古の終りを見届けることができず、推古の
        途中600年(隋への初めての遣使)で一旦切ったとみるのがよいだろうということです。今は推古一本
        で592(崇峻没)~628(推古没)の36年間となっています。これを一旦
            600年までが推古①
            601以後が推古② 
        と見て進めるというのが本稿の立場です。慈円は推古通説 在位36年なのに26年といっておりそれ
        が実態を表してるかもしれないということです。


    (376)〈日本書紀〉による持統まで
                      
          西暦元年を崇神からスタートさせるのは結果的に合っています。
                             (天皇名、数字は〈愚管抄〉による) (単位 年)
     A・紀元前
        Ⅰ  神武ー綏靖ー安寧ー懿徳ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開化=559
            76  (33) (38) (34) (83)(102)(76) (57)(60) 欠史八代計(483)
              ----------------------------
                  神武60 + (16+欠史八代483=499≒500)=560 という分解もありうる。
                  西暦との対比では、紀元前660と聞いているので、559は100不足している。
                  政治史初めを紀元前660まで無理に伸ばしたのは、始皇帝即位が紀元前220年だっ
                  たので220×3=660があったととれる。

     B・ 紀元後①(〈年表〉で天皇名と西暦年代が対比されていない500年まで)

            西暦元年                     
        Ⅱ  崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀ー神功(摂政)ー応神 =●407
            68   99   60  61  9   69      41        
                   (この●は大体西暦の実年数と一致する。) いままで応神天皇の西暦年代は
                   いわれていないので、突然のことになる。通説では270~310年)の41年。
                   神功は(「時に年一〇〇歳」)、応神の前書には(「ときに年は一〇〇歳」)となってい
                   る。前書の100で、310が●に補正されるかも。「時」と「とき」はペアともとれる。

        Ⅲ   仁徳ー履仲ー反正ー允恭ー安康ー雄略ー清寧ー顕宗ー仁賢ー飯豊ー武烈 =193
            87   6   6   42   3   22   5   3   11   0   8
                                                            紀元後600年目
               ここで紀元後、●407+193=600年目で、ちょっきりとなってる。しかし〈年表〉によれは
               実年では、500年になる(したい)はずで、はじめの 
                     87+6+6=99≒100
               を便宜上、外数と考えて、100 を一旦、脇に退けるとわかりやすく、紀元前Ⅰが計559
               だったので 660に なり通説の660もでてくる。また87+6=93 でやってもこれで
               あとにも続いていく。
               すなわち次の、Ⅳの始めの継体が年表では、西暦507年なので
                     ●407+193=600-(87+6)=507年
               となり、これは、Ⅳの継体の始め西暦507年目に一致することになる。
                                                            紀元後507年目
                                                            (別口、93年あり)
               またこの筋は倭の五王時代に宛てられ、右へ100移動させその上に559を載せてみる、
               87で倭の五王の期間を示しているかも、などオフラインで役立つものもある。

     B・ 紀元後②
              (501年目、継体天皇から年表に天皇名と年数がでてきて、等倍だからわかりやすくなって
              くる。
      
             西暦507年                                                          
        Ⅳ   継体ー安閑ー宣化ー欽明ー敏達ー用明ー崇峻ー推古=110(実際は120)
             25   2   4   32   14   2    5   26             〈古事記〉は推古まで

        Ⅴ   舒明ー皇極ー孝徳ー斉明ー称制中大兄ー天智ー天武ー持統=68
             13   3   10  7    7        3   15   10         西暦696年目
                                                             (〈年表〉から確定)
       ------------------------------------
         となっています。推古までの計 507+120=627 年表は628で 慈円と合ってることになります。
        この場合、93の別口が合っているかということにはなります。

              Ⅱ 以前は数字が3倍や、1/3を意識した世界であり
              Ⅳ から等倍になり、ここで年表で、天皇名と在位年数が出てきた。この後半に蘇我氏が出て
                くる。
              Ⅲ は、過渡期で多分、2倍、1/2のラインとなっている。
                ( ●の応神の407は400で、7は後ろへいくと193が出て来てるので、ここに吸収されて
                 200になる。Ⅲ は100・100の200になるということで2倍がでてきて、実際は100で
                 
見るということになると半分も出てきている。87/2  42/2も使えるかも)

         
 という感じでとりあえずここではこれで行こ、としていますが、いままで読んできたところでは、
          100がほしい場面もあり、記紀ともに神功の100歳があるので100がフロートしてることを思い出して
          違った語りも生まれることがありえます。
          
          それらはともかくこのⅢ は
                讃・珍・済・興・武の倭の五王
         がでてくるところでこれはわかっていないところで、日本の天皇の誰に比定されるのかの話ばかりが
         でてきます。
               Ⅲ の193を   100年 と 100(93)年、並行
         させないと、トータルが合ってこないから別系というものが出てきてるとしますと、海外の王である倭の
         五王と 国内の王と並行ということかもしれません。いまの日本にいた允恭天皇を、中国では、済と
         呼んだということではないのではないか、とも思われます。


 
      (377)〈古事記〉(紀元前~推古まで)にも同じように天皇名と数字が付いている
         以上で持統までの数字の提示はおわりました。
         要は中國王朝・朝鮮王朝の紀元元年の王は誰だっかがわかっているのに、崇神天皇が紀元元年(ころ)
         のスタートの天皇かかどうか書いてないのが日本の文献です。
         まあ57年遣使が垂仁90年とすると
           (崇神68+90)=158/3=53    となるから 崇神天皇は西暦4年に即位したといいたい、
         ところといえないこともないものです。これは紀元前で発生した「4年」(神武のあとの譲り合い)が浮いてる
         るからずらして使ったらよく、後ろで何か消すものが出てきたらそれでよいわけで、57がよたよた
         してると取りがちでそれが困るということで確かな57年がわかってるから大したものです。
             崇神即位・西暦4年+53年=57年(遣使)
        と決めてスタートしてくれると楽です。崇神即位西暦24年というのは確かにあったのでそれだと
             24+99/3=57
        で出てきたので、崇神68は60にしたい60/3の20+前紀のも出来たので20も捨てがたい数字と
        して残っています。頼りないはずの〈古事記〉では紀元前は別として、
             「崇神天皇」、168年、垂仁天皇、153年の (享年)
        で出ています。まあこれでやってみると、
             168/3=56≒57         第一回遣使 (168+=172/3=57になる)
             168+153=321/3=107   第二回遣使
        となるのであとどうなるかは別として、この草創期の大事件がいとも簡単に出てきてる、これだと崇神天
        皇が紀元元年に据えられたことが明らかになってると驚嘆したのが〈古事記〉編纂の責任を任された
        太安万侶ではないかと思われます。要は2回目の遣使は盲点になってるもので、ここにちゃんと焦点を
        合わせて適確な数字が入れられてる、これはどえらいこっちゃと思った、のではないかと思われます。
  
        つまり太安万侶は何かを見ていた、天武天皇が第一に挙げた「帝紀」ですが、大変すぐれた内容を持つの
        が古い〈古事記〉[620年完成の〈天皇記・国記等〉]とみたので、文化遺産としてそのまま受け入れ
        て、712年〈古事記②〉を作った、数字は、前の〈古事記①〉のものを殆ど取り入れ、720年の〈書紀〉と
        とあわせて調整した所が明らかになる様に細工したと取れるところです。〈天皇記国記〉を取り入れる
        作業をやって〈書紀〉に橋渡しをしたというのが今残ってる〈古事記〉だったということが出てきます。
        107年の遣使の数字の合致は、1/3にすることも、それが前代からの受け継ぎであることも
        でてきています。
        
第一回の遣使の差異4年も 対策が〈書紀〉で講じられているはずで
        この4年について神武~綏靖、譲り合いの空白4年は〈書紀〉で作られています。仁徳は87年ですが
        空しく3年過ぎた期間があって、87は84か90かわからないわけです。1/2できないから87年は工夫
        されたものかもしれません。仁徳84というのはあり、3を前後の修正に使えます。だから57年の方は
        なんとかして出せますが、107年でばっちり合したというのが大したもんといえます。107年は
        〈書紀〉では直接読めないもので、これは
        〈書紀〉では数字と説明でわかりやすくしています。
           ① 57年+垂仁9+景行41=107   景行41年には弟橘姫の入水の記事〈書紀〉がある
           ② 〈古事記〉崇神168歳で第一回遣使168/3=56 、168は 
                 崇神68+垂仁100(99)=168で、
              これは〈書紀〉の
              68崇神+99垂仁+60景行+61成務・・・   の前二つに採用しているもので、153/3=51
              で景行51が出てくる、ここには「穂積氏の忍山宿禰の娘、オトタチバナ媛」が出てくる。
       〈古事記〉の景行紀が〈書紀〉のネタになっていて、41年、51年という年次は〈古事記〉には出ていない
         ので 〈書紀〉が加えたものと取れます。57年、107年に遣使したから157年頃にもあると思いますが
       紹介されてません。・・・・景行60・成務60(慈円では61)・・・ という流れに於いて( 61 )という天皇枠
                      (倭建命61)
        が、後ろか、横(脇)に入れられねば、そこで書かれた事件のキャッチを見逃すのではないか、とみるとき
        近江(守山)から出されていることも見えてくるか、です。
          57年は崇神から、107年は崇神垂仁から でました。
        〈古事記〉垂仁紀に、「多遅摩毛理」(たじまもり)が「常世」の国に派遣された物語が出ており、
        時の天皇153歳で、これは先ほどの計算で107を出しました。ちょっとおかしいのはこれは〈書紀〉では
        57年の遣使の話でした。〈古事記〉では  [五、景行天皇・成務天皇]の条があって項目は

         景行天皇
           后妃と皇子女 /倭建の征西 出雲建(征服) 倭建の東征 思国歌 白鳥の陵 ★倭建系譜・・137歳/
         成務天皇
           淡海志賀の高穴穂の宮(大津市坂本穴太町) 95歳
        
        
となってて、成務には項目はなし、景行の殆ど倭建が占めてるから状況で、枠作った方がよい感じで
        すが、★のなかに
             「近(ちか)つ淡海(あふみ)の安(やす)の国の造の祖」(脚注=滋賀県野洲郡。)
         が出てきます。数字も
             168(崇神)+153(垂仁)+137(景行)=458/3=153
          
となり、魏志倭人伝にでてくる後漢の卑弥呼時代に遣使したのはこの政権といえるのでしょう。
        近江国が邪馬台国の地であったというのなら、同時代に倭国や中国王朝の周辺で卑弥呼の記録が
        あるかどうかにかかるということになるのでしょう。
       
         邪馬台国のときはどうか、西暦239年遣使、翌年答礼があったという早い動きで、「倭国」もからんで
         います。,魏と高句麗の争いがあり、やや唐突に魏から倭国ー倭王という働きもあったと取れます。
         従って239年という年代が先で、〈書紀〉では
             「神功三九年  魏志はいう明帝[景初三(二三九年・・・倭の女王・・・朝献す。]」
          があり、  崇神68+垂仁99+景行60+成務61=288 となっており、239にはなりません。
          これは〈古事記〉でキャッチされてるはずで、〈古事記〉では
             三 崇神天皇   四 垂仁天皇  五 景行天皇・成務天皇 六 仲哀天皇
         という構成となっており〈書紀〉では  景行60・成務60(慈円は61) となっています。
                 崇神68+垂仁99+景行60+仲哀9=236≒239
                              ∥
                              成務60 =(夫妻・並行と後続とがある)
         というところがあるので、一応接近しうるよう構成はされています。〈古事記〉でいえば
               458+成務天皇95+仲哀(帯中津日子)の天皇52歳
         での時代で
            458+95+52605  となり〈書紀〉への移管に於いて200は出てきて 5余り
            252×9/69=33          33+205=238で、邪馬台国の239がでてきそうです。
          (神功200+52
         そ-ら超おかしいということになるだろうが、〈書紀〉の編者がなぜもっとも重要なところ
               仲哀   神功69  
        という極端なものにしたのが、よくわからないので、やってみたということですが。この時期邪馬台国、卑弥呼
        (魏志倭人伝の卑弥呼)の記事は年表で9年に跨っており(239~248)、この短い9年の女王に
        邪馬台国の時代が宛てられるというサインがあると取れます。つまり誰がやってもこの9年間の史料
        (前後大空白)を提示することになるのでしょう。
            

      (378)終着点、西暦696年で700年に合わそうとされている(間違いもある)
         〈古事記〉は600年で、終わるようにしてあり、調整が8年必要となってると思われます(これは
         太田和泉守でも判る)が、〈書紀〉も その意識があるのが4年の違いということになりそうです。
        〈古事記〉の8年の違いはここで4年も
         自動調整されてるから、よいではないか、4年ぐらいの差なら食い違いの1・2件はすぐ見つかる、
       、トータルの微差はそう意識する必要がない、ということにもなりますが、それで行けば、〈古事記〉と
       〈日本書紀〉のセットを認めてしまうことになりかねず、、端数の違いは72・-68の違いもあり、慈円などは
       気にしてると思いますので一応みておこうというところです。

           持統天皇終り(文武天皇への譲位)は年表では、
                       西暦696
         になっています。これは西暦700年に近いので、ここで一つの区切りを付けたいうことでよいのでしょ
         う。〈書紀〉でははじめに「4年」紀元前から入り込んでくるとここで4年不足が解消されるということに
         なります。これは文武天皇に譲位することによる退位で、もう4年勤めてくれたらわかりやすくなった
         と思いますが・・持統は702年の死亡です。通常はこれでいくのでこれだったら2年違いのまあまあ 
         合い、ということでおわりそうです。
           
         問題は〈年表〉が天皇名・天皇在位年数を書いてなくて、きれいに4の差でここで納まったというのが
        おかしくて確実に違うはずです。
          慈円の  神武~持統計ははじめにで見たように   1336(+10)
        になりますが、〈書紀〉の計は   1348 端数は別として推古の10が効いてきて、合ってるようです。
        が通説は紀元前660にしてるはずですから、紀元後は
            1348-660=688 になります。 
        慈円のものは、崇神を元年として紀元前559 紀元後は1336-559=777  777-688=89
        になります。慈円は紀元前の計算を101年無視したとみますと紀元後は89≒87の差が出ることになり
        ますが慈円は87(応神の次・仁徳の在世)を倭の五王の期間として海外に振ってみたらどうかといって
        るかもしれません。、倭の五王の終り雄略(最後の武王とされいる479歿)があり、
          邪馬台国
            239 +9(中入・仲哀9) =248   2倍     478 + 18 =496
                                             ≒          ≒
                                            480         500
       という確実なものからのスタートというものにもなっており480年清寧即位から等倍になって継体以後に
       及んでいます。この496が▲に似ています。確実に言えることは日本史は西暦元年スタートとなってる
       ということになるのでしょう。
        
          継体天皇が、西暦507年即位(〈年表〉)、その後に「Ⅳ の110年」と、「Ⅴ 68年」 が続くので
                507+110+68=685
          になり、696-685=11 合いません(足らない)が、これは慈円が推古天皇の在位を10年間違ってい
         るところから来ているのではないかというのも、一見ありそうです。
          ▲696年というのは年表の数字ですが、慈円の数字が年表と違うところは

         年表では推古天皇は在位36年(592~628)になる(一般でもそうなっている)とされていますが、
         慈円では26年になっていて、10年の違いが出ています。
         この10年は、内容は後にして、結論では、おそらく、上の表の

           
    Ⅳ   継体ー安閑ー宣化ー欽明ー敏達ー用明ー崇峻ー推古=110
                     25   2   4   32   14   2    5   26 

         の部分の       敏達ー用明ー崇峻ー推古
                   ・・・ 14   2    5   26  ・・・・・・・ 計110
        となっているところ
                      敏達ー用明ー 崇峻ー(崇峻)ー推古
                 ・・・ 14   2    5   8   28・・・・計120

    
    となるのではないかいうのがいいたいところのことですが、そうかどうかはここでは別のこととして慈円は
       120になるはずということは知っていたと思われます。結果、最後の持統天皇までの合計は
           507+120+68=695  継体508年即位とすると120で満点 508+120+68=696

       となりますのでとにかく〈年表〉と慈円の数字を追っかけてきたものと合ったので安心ということです。
        持統天皇の西暦の没年数は動かせないのでしょうが引退なら696年は動かせるものでもあります。
       最後を700にして置こうという意識はあったと取れるところですが付け加えたい何かもありえたものです。
       推古10年の違いを 「8」と「2」に、分けたことになりますが、ややこしい表記を出してやってみると
        推古26の方は敏達皇后が推古26年目に亡くなった、28の方は推古天皇がその2年後になくなった
        ということと取れそうです。推古を取らなければならないから8年違いとなり、崇峻は5年で蘇我馬子に
       殺され〈年表〉にも11月没がでていますが、没の話が推古紀前紀でも出てるので、表記上は(崇峻)を
       無視するなということになってこれを8としとけばうまくいきそう、8を推古にかえれば推古36年というのは
       よく知られてるからそれもよいということになります。
        崇神からみれば
            Ⅱ、崇神~応神計407  Ⅲ・仁徳~武烈計193  Ⅳ、継体~推古計120=720
        となり偶然、〈書紀〉の完成、720年になりますが、これは慈円だったら数学の才があるので、あれこれ
        やってる途中の段階で意識してたかもしれません。〈書紀〉とも数字がちごてるから。

        これで困ったことがでてきて、推古終りは628のはずで、720になってる
            720-628=92年
        おかしいのはどうするか、ということで 193の93が、気になりますが、100年朝鮮半島{(倭の五王が
        いた)画面として脇へでるのではないか、ともみてきました。すると
            720-100=残620 で「天皇記・国記」完成の年になります。まあ92移すのもあるとすると
      110の方も生きてきて、 710-92=618
       もでますが、関係なさそうです。一方
        Ⅱ と Ⅲ計が元年から、ちょっきり600というのが捨てがたく、600年隋への遣使がありました。
       600年が武烈8で終わっています。武烈が600年を締めたというのは二段活用があるのかも。
    

    (379)間違いも意味がある、〈書紀〉の記事を変更する話にもなる
      
 ただ慈円の間違いはこれだけではなくて推古天皇を10年違わせている根拠がおかしいという
        のもいうのもあります。推古は
              四十即位、在位廿六 御年七十三
      と書いており、これなら、年齢は、〈書紀〉〈年表〉とも推古没年は、73ではなくて75歳と
      なっているので、二つ違いなら、まあまあですが75がはっきりしてるからそれを使えばよいわけです。
       年表では〈書紀〉の引用によって

        
  「 西暦626年  推古34年  5月 蘇我馬子没(76)〈紀〉
             西暦628年  推古36年  3月 推古天皇没(75)〈紀〉」(三つ違い)馬子年長

     となってます。問題は在位が26だから (40+26=66 で 73にはならない。7年違ってる)ということです
     がこれは自分でも判ってるはずのものでしょう。まあ
               在位が 33になるか、没が66になるか、
      になりますが、この数字は垂仁在位99として心当たりがある(68/3+99/3=56≒57)にしても、ここで
      出てきても意味がよくわかりません。

      、推古の即位39歳はテキスト〈書紀〉脚注にもあって、即位が四十というのもそう違っておらず
       在位通説36で、(75)となるから、そう問題はないかもしれませんが、
       7年の違いは8年になるかもというのはでてきます。没年の違い二つ出てきて、慈円と一般とは
            10年違い
      は、まあぼんやり
               八年+2年=10年の違いとなってるのは一応考えられるところです。
      この10年の違いが延々とした語りのもととなってきます。わざと間違えたのは推古の没年と、蘇我馬子
     の没年が二年の違いではなくて10年の違いといってる、それを始めに出してる、慈円をモトにしたからしょ
     うがない手間ともいえるところです。

      こういうのは、2年の端数の違いが、ネックになってきて、それに神経つかいすぎて、肝心の理由のある
      違いを設けてあるのが説明しにくくなります。まあ、あとから戻ってきたときに、納得を得られる線に落ち
      つくことになると思います。結論でいえば、推古①628年没、推古②618年没、10年の差ということに
      なりそうです。、崇峻②を仮に入れて
                                    
               敏達ー用明ー崇峻(592年)ー崇峻②(600年)ー推古
            ・・・ 14   2    5         10  |       26・・・・計120 

    
  のようになるのではないいうのもいってきましたが、5年の崇峻が蘇我馬子に殺された、ということになっ
    てるのは、(生存もありうる)としとくと、ここで、さらに崇峻②を二つにわけ

               敏達ー用明ー崇峻(592)ー崇峻②(600)|(601)推古ーーーー(628)|
               14   2    5               |   28              計120
                                ❙       ←推古36→           ❙  

      のように10年が二つに分割され、通説は、崇峻8を推古36年の前倒しにして推古8にして、 推古28
     で終わらせたという形にしたといえます。、そうしなければならないのは実際推古天皇が
        「戊子の年三月十五日癸丑の日崩りたまひき」〈古事記〉 (武田博士の脚注が「六二八年」)
     となっているから、ここで亡くなってるわけでそれは事実として重視しないとけないから、628年は書いたと
     いうことと思われます。したがって推古(10年違い)・蘇我馬子の没の結論としては
           推古天皇没           628年
           推古天皇の今でいう兄     618年
           推古天皇のいまでいう兄の夫人  626年
     の没だったというのを、いってると取りあえずみとく、ということになります。「癸酉」という日の干支が出ていま
     すが筆者などはそこまでは重荷だと諦めてしまってますが、アホな人は、これ怪しいといって調べるかも
     しれないと、著者はみてたとも勘ぐられます。
          「戊子」から「癸丑」まで25年、「癸丑」から「戊子」もどり(逆回りでもよい)35年 計60
     となるから
        、628ー35=593 ①「593 推古1年 厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)皇太子・・・・摂政・・・」〈年表〉
         628-25=603 ②「603 推古11年 来目皇子(聖徳太子弟)筑紫で没す。当麻皇子(聖徳太子庶
                          兄)新羅し東将軍に任ずる。・・・中止する。」〈年表〉
    があるのに引つ掛かります。
    ①は年を崇峻②ですると、601年の推古1年と重なります。601年から聖徳が出てきたかもというヒント
     にもなりかねないものになっているともいえます。というのも、②についてもこれからこの記事はおかしい、
     といわんなんので、いいやすくなってきたともいえるので、両方を使えることになってきてるからです。


     (380)慈円の注意
      
慈円は推古について問題を早く出しすぎたのでとりあえず今追いついたともいえますが、
        ここで先ほどの別のことを云えば、(在位が33年になるか没が66年になるか)の
           在位・33年   没66年    
      というのを慈円は出したともいえます。初めて遣使した垂仁天皇の通説での在位99年は
              33年    ¦    66年
                   西暦元年
       となっています。これは

            -660+559(神武~開化計)/+崇神68+垂仁33(99のうち)=0 /、 紀元後66
                 -101          /      +101
     
  で、垂仁33年までが紀元前に入り、紀元後は垂仁66となります。一方、ウキぺデアなどで出てる
        在位期間は垂仁の場合
              29年    ¦     70年
       となっており、4年ずらされています。これは神武ー綏靖間の遠慮による空位の4年間が外数として考慮
       され、はみ出してきたものと取れます。ここで4年間に突然気が付いたということですが、持統696年が
       700年をみてたかもというのが、この4年でいえることだったともいえます。
        
      
 この4年について云えば
          紀元後 57年というのは、垂仁90年であり、これは崇神に、前紀からずれてきた4は4×3=12に
          変わりうるので
             12+崇神68+垂仁90=170/3≒57
             12+崇神68+垂仁99=179/3≒60
       ということでも出せるもので、遣使の年、公表の西暦60年いうのが、でてきます。まあここで崇神の「8」
       は9にしたい、というのがあるはずで、(69なら3で割れるなど)、そうすれば、
             171/3=57  180/3=60
   
    とちょうどになります。(このとき崇神即位24+99/3=57でもうまくいった(24=遠慮の4年+20=60/3)
       一方紀元前からみると、この68は
         神武76=60+16  
         崇神68=60+ 8    16:8=2:1 で 8 のほうがよさそうというのもあります。端数1の±の
      調整は、時々計算式に出していますが、これは、こういうようなどちらか適したほうがあるようなので
      まあ随時入れてもよいのでしょう。いまとなれば
          崇神から応神計407+仁徳から武烈計193=600  でうち崇神が68(+60)でした。いま
          継体から推古計は、   崇峻まで592+(8)=600   か 
     という問題に関わってきたとき  はじめの-崇ー終の(8) というのでの「崇峻②8」をはめこむというの
     が適切かもというのが働くと、601で推古がはまるということにもなりえます。この始めに24があったら
        24+99/3=57がすぐ出てきたわけです。20は従って
              60/3=20
     で始めからあるわけで、これはひょっとして暦の差に悩まされてるかもしれず天皇記国記時代のものと
     20の差があったとすればそれになります。4だけのことになってきてこれは紀元前からもって来ても
     応神が411になった方が良いとか持統最後696は700の方がよいとかも出てきます。すなわち〈年表〉で
     出てるのだから江戸時代のものを根拠にしなくてもよいではないかということですが慈円がうっかりして
     、垂仁の遣使のときに出てきた33+66=99を出してしまったことは、大きな意味を持つのではないかと
      思われます。推古の8も遣使に引っ付いて出てきたから。
          5年遣使、   10年遣使、  /15・20(年表白紙)・・・・40本文なし408年(応神19)に

            「国樔人(くずひと)が朝に[拝謁に]やってきて・・・醴酒(こさけ)を天皇①に献[]して歌った。
              橿(かし)の林に 横臼(よこうす)を作り   その横臼で醸した大御酒(おほみき)を 
              おいしく めしあがれ わが父よ
            うたいおわるとすぐ、[開いた]口を打ち[天を]仰いで笑った。いま国樔が、その土(くに)の産物
            を献[]する日に、歌いおわってすぐ、口を撃ち仰いで笑うのは、たぶん上古の遺風なのだ。
            国樔は、その性質が、はなはだ淳朴である。いつも山の果[]を取って食べる。また、
            蝦+「虫+莫」(ルビ=かえる)を煮て美味とする。・・・・その土(くに)は、亰から東南[の方]、山を
            へだてて吉野川のほとりに居[]する。・・・もともと朝[]にくるのがすくなかった。しかしこれ
            からのちは、しばしば参上・・・土(くに)の産物を献上した。その土産品とは、栗、きのこと鮎の類
            である。」〈書紀応神紀〉

      があり「巣」「栗」があって、太田和泉守を思わせる使者が出ています。この天皇は京にいますが、この人物は
      吉野川の近くにいるようです。これが〈古事記〉の応神紀に「国主歌(くずうた)」の題ででてきて「国主(くず
      ども」「吉野の宮」なども出てきます。上の〈書紀〉の描いている方が時代がかなり古いようですが〈書紀〉のは
      太字のような当時の[注]によって、二重性があると感得できるところです。極端にいえば文を二つ書いて
      よんでみるという手間をかけて読まないと、すーと行っちゃうということです。
      ここでは「吉野郷」-京の政府という取れるものが、天皇が、好太王とも取れそうな環境で出てきました。
      そうではないかもしれないが、この使者、貢物をしたいと申し出てて、屈睦を余儀なくされています。が大笑
      いして、酒飲んで大声で歌って、御世辞をいって昂然としています。考えてることが郷民を守らないかんと
       いうことですから、大きく見えるというこで成果をあげただろうことは、貢物を続けてるからわかるところです。
      使者というのを重視してるのは小野の妹子で出てきます。「7」は・・・●60年(推古16年)遣隋使、小野
      妹子の「大唐」派遣 があります。


     (381)慈円のいいたいところ
       ここまで書いてきてわかったのは、●の〈年表〉〈書紀〉の記事の事実がなかった
      のではないかというのがいいたいことになりました。
       608年に小野妹子が帰ってきたという記事があり、608年また、すぐ出かけたという記事があり、忙しす
      ぎる、途中にある役所での通過手続きだけでもこれだけかかってしまうはずです。ちょっとおかしいことが
      起っています。また
      大唐という本文の「唐」はおかしい
         (脚注=「唐との交流は11年後、推古26年以後でないと不可能」)(〈書紀〉が出来たのは唐の時代)
      こともあり、問題といえば問題の記事ともいえるものです。一方、親しい国の高句麗×隋が戦端を開いた
      二年後
          ◆
「600年 推古8年 倭王、隋都長安に遣使(はじめての遣隋使〈倭隋〉」〈年表〉
     という方向転換の主要記事が、〈書紀〉に出ていないのです。●の記事が7年違いで600となって◆と重ね
    られるのなら、◆の記事は、今の日本の推古王朝が出したものと確定できるともいえます。このために延々
    とした、話がつづく、文章をかえるのだから。

     この遣使の決断をしたのは蘇我馬子宿禰大臣であろうとしてして話を進めますが、あとからみると推古10年
     の違いの話が納得がいくということにもなります。推古天皇の没年が628年で蘇我大臣は618年没では
     ないかというのも出てきます。これがその10年というのもあるし、10ー2=8という10年も大きいというのも
     いってるとも思われます。結論が先に出て問題点があとというのも随所にでるのはありえますので慈円は
     そういうのもやってる気がするところです。蘇我ウマコが主役として出てくると、また遣使のくりあげも決まると、小野
     妹子がやや孤立してるのが、オンラインになってきますので話が楽になってきます。妹子というのは男性と
     いう人があり、妹子やという人もあります。、
     まあ通説通りの男性の小野の妹子というのも合ってて、危機対応力が要求される艦長という役目だったら
     そうなります。すると、蘇我蝦夷という名前で語ろうというのもあるかもしれません。〈年表〉では蘇我蝦夷
     の初登場は 626  の推古終りの頃ですが、596に蘇我馬子の子として
         「善徳」「寺司」〈年表〉  本文「善徳臣」     全昌(善照)寺で「寺」「大聖持」「大正侍」 
     も出ており蘇我馬子宿禰大臣の表記も多様なので、その一つとしてくだけた表記があってもよく、
        「蘇我蝦夷臣{豊浦と号す。」〈愚管抄〉
      があり、
         「592崇峻5年 敏達皇后(推古天皇、豊浦宮に即位。〈紀〉」〈年表〉
     があり、これだと早い時期に重なっています。「蝦夷は「入鹿」と同様、気軽に使われ、人に引付き語りを広
     げるのもありえます。小野妹子ーソフトな外交官には蘇我蝦夷の名前が似つかないものですが、
        「小野臣妹子」のほかに「妹子臣」
     という表記もあります。ここは
          「臼(うす)」
    、を特別覚えとこ。
      もう一つ7,8というのがあります。607年608年小野妹子の記事が7年繰り上がるので
       603年の来目皇子・当麻皇子の記事(379)も7年繰り上がって、そこに出てる見慣れぬ人の引き当て
      になるのではないかとも取れます。


      (382)推古の期の見直し(推古天皇は〈古事記〉に事績がない問題)
       慈円のミス  ●即位40+26在位=73   66なのに「7」間違っている、まちごうた方も一応見ないと
       いけないことになるのでしょう。「7」か「8」で、ずっと付きまとってっくる、2+8=10のこととみてよいと
       とれます。
       この26というのは慈円の推古の数字で、改めて、そこをみると「推古 女」となっていて、これは他に
         「皇極 女  三年」(舒明の妻后)  の例があります。従って一応「2」とか「3」の登場は
       顔見せがあると取るのでもよいのかも。「蘇我蝦夷」がちょっと顔を出すための「3」、そのための
       煩わしさが慈円に出てるというのが10の違いとなってるということになるのでしょう。織田信秀が負傷した、
      らしいというのは、主語のない(信長)が軽々と出てきてるからわかるし、時代が変わった、ということもわ
      かる、大物の世代間に一人入れないと年齢が合ってこないとかなどの、知らせがあるというようなもので
      す。皇極3年にしても皇極は10年後重祚して出てきます。このとき舒明天皇時の、蘇我蝦夷大臣の子
        「入鹿(大変な威があった伝説的政治家)」
       が皇極の周辺にいましたからはそれはどうなったか、の話は付いてくるはずです。
      
     推古天皇は「、推古 女」でみると●は
           即位40+「推古女26」+(「推古7」+「推古女3」){10年}=73 というのが慈円の73と
     いうのかも。〈年表〉で
            626 蘇我馬子没(76)
            628 推古天皇没(75)   」があってこれは
                 ○二人は三ッ違いで別人で、
                 ○没が二年違いで同じともいえるが年齢が三つ違い
                 ○73と75は2年違いだが、その上没年も違う
                           ¦推古天皇628没         ¦
                           ¦蘇我馬子(626没)
      は蘇我馬子宿禰大臣とは別人であろうと取れます。
          「蘇我大臣の妻は、物部守屋大連の妹である。大臣はむやみと妻の計を
          用いて大連を殺した。」
                 
     となっており、まあ蘇我と物部は姻続だということが特別の大物で出ています。端数の煩わしさがネックに
    なって説明しにくくなっておりますが要は下の★~◆まで、
         崇峻没592+8(崇峻②)=600+28(推古28)=628
         崇峻没592+36(推古)=628
    で推古36年というのが〈年表〉で出てるものです。ただ何となく推古天皇の在位36は長すぎるという感じ
    がします。●で「7」違ってたので持統のように引退があったのかどうかも、見る必要はありそうです。
    おかしいところが多々あって、これでは
    なんともならない(〈日本書紀〉に死に文が多すぎることになってる)、というのでやり直してみるということです。、

    〈年表〉の推古                 天皇枠               大臣
                                               
                585敏達天皇没   崇峻即位               蘇我ウマコ大臣/連物部守屋
                587年                                同上     連物部守屋没
                592年         崇峻没、                  同上
                 592        ★敏達皇后(推古)即位          同上
    この8年、前に    8年間          同上                 蘇我ウマコ大臣
    詰めてる                  皇太子聖徳皇子
                               摂政 聖徳タイシ         
                600年遣使      敏達皇后(推古) 遣隋使        同上
                ----------------------           
                601年         敏達皇后(推古)              同上
                618  ↓                            ▲(蘇我馬子宿禰大臣没?)
                626 26年間                          ▼●蘇我馬子・蘇我蝦夷
    8+28=36    628  2年間   ◆敏達皇后(推古)               蘇我蝦夷
                629           舒明即位                     蘇我蝦夷 
                630       のちの皇極が妻后になる               蘇我蝦夷
                              第一回遣唐使                  蘇我蝦夷

     において  ○▼は表記が複合的で◆と▲を包摂すると思われるので▲の没年を探す作業が要る
             ○厩戸聖徳夫妻には記載項目が多いので枠的にも広くしないと理解しにくい
             ○聖徳皇子が622没なので601年から敏達皇后の表記は変わる可能性がある。
             ○物部守屋②の登場は省略されてないか              

   というのもあると取れますが、推古元年601年というのが、新スタートとして、決まってていいのでは
   ないかと思われます。推古26年とした慈円の大胆な間違いの意味が出てこない感じです。
           ① 天皇記国記で 崇峻終りにあたり脚注により  592 が確定 推古終り628で出てる
             (推古は脚注は親切ででているが、592+37=629になるはずで、計算まちごうてる。)
           ② 太安万侶の古事記で 崇峻終り  592 と、舒明天皇即位629が確定
               (これは、崇峻天皇592の後に推古37年が入って終りとなっている。592+37=629)
           ③ 〈日本書紀〉で崇峻終り・(推古即位)592と推古終り628・舒明即位629が確定

   となります。①は592+36+1=628+1=629=舒明即位   
              592+一枠+36=628=推古終り      
    となるのは推古から舒明の即位まで一挙に行ってしまおうというもので聖徳皇子と聖徳タイシの子が舒明天皇
   ということかもしれません。 


    (383)〈古事記〉は  崇峻592+8=600+37(推古)としている
    テキスト〈古事記〉では本文と、訳文が後ろに独立してあって訳文読まんでも、短くて、名前と数字が殆どだから
    よくわかるので訳文は見ない人が殆どでしょう。また訳文だけ見るという人も、読む目的によって、あるはずです。

           本文                     訳文
           『 崇峻天皇      |        『 崇峻天皇
           ・・・(3行)・・・・    |         ・・・・(3行)・・・
            (1行あき )     |        (1行あき)
            ★ 推古天皇    |   (改頁)
            (1行あき)      |        推古天皇      
          ・・37年天下を・・    |        (1行あき)     
          ・・小治田の宮・・     |          ● ━古事紀がここで終わっているのは、その材料とした
          ・・科長・・(3行)・・・。』 |         帝紀がここで終わっていたによるであろう。━
                         |        ・・大和の小治田の宮・・
                                   ・・37年天下を・・
                                   ・・科長・・・(3行)・・・ 』

    となっててこの●の位置に挿入があり、この部分が一番知りたいところで、脚注では「帝紀」を、ここで材料に
    したというのがはっきり出ています。また、訳文という、一番目立ちにくいところで解説をしたということになります。
    また帝紀はここ★で 「推古」帝という枠だけが表示されてたと取れます。一応推古が次だという1行入れ
    て終わってるということですが、筆者としては、ここでは天皇枠だけを入れるというだけではちょっと不満で「8」
    を入れたいという意思表示があるはずだととりたいところです。
    、天皇記国記は 592+□□ のまま置いとくということで強いて数字を入れれば
       592+(一) →この(一)は「8」というのが纏まった「一」とするー武烈の「8」
    と圧縮して保留しとくことになるのでしょう。つまり〈古事記〉が●の上の推古天皇がその上の天皇から離されて
    孤立していることを示すことになります、すなわち〈古事記〉のタイトル部分

                         数字は、左が本文の頁、右が訳文の頁
        七 ①武烈天皇以後九代    193・378
             ②武烈天皇 193・378  在位捌歳(8年)             
             ③継体天皇 193・378
             ④安閑天皇 195・379
             ⑤宣化天皇 195・380
             ⑥欽明天皇 195・380
             ⑦敏達天皇 196・381
             ⑧用明天皇 198・382
             ⑨崇峻天皇 198・382
             ⑩推古天皇 198・383

 となっており、①は大きい字です。「以後九代」というのは武烈①も入ると見ると崇峻までとなります。しかし通常は②を
 1として スタートして同類項で,カウントするはずで、それは、
            「綏靖天皇以後八代」
     ①綏靖天皇 安寧天皇 懿徳天皇 孝昭天皇 孝安天皇 孝徳天皇 孝元天皇 ⑧開化天皇
  の場合があり細字①~⑧がありました。推古天皇は、九代と指示されているので
  崇峻の下に9代天皇を入れ、8年を入れるとよいということになりそうです。すなわち
       七、武烈天皇以後八代
       、推古天皇
   というのも並べかたの一つで、上巻は「八までであり大きいくくりで行けばこちらがあっています。
   推古が切り離されましたが、⑨⑩ の右にあるのは、テキスト本文と、訳文の頁数で、●の部分が改ページされ
   てることがわかります。すっきりするのは、⑩の切り離しで、〈古事記〉では②~⑩は位相が同じの項目となります。

   これで概ね次のことが「帝紀」で わかってきたことになるのでしょう。

    崇峻  592+8=600(遣使・推古元年)  600(帝紀の終り)+37=637(古事記の終り)
    神武137歳が〈古事記〉で出てきて、これは「帝紀」にはなかった。
         37+100+600+37    100+600=700(元年から持統まで)
         37+700+37   の両翼の37は  帝紀→古事記の過程で712年の太安万侶が揃えた、紀元前
   の37を世に出すため推古の37(正確には36)を対置した。 帝紀には神武天皇はなかった。
   ということになるのでしょう。
    なお●の文日本語としておかしいところがあり、「こと」が抜けて
   います。小学生の出来る計算も間違っていました。従って先ほどの第二案のところは〈書紀〉〈年表〉のもので

        592 /ーーーー36年ーーーーーーーーーーー628/629
        崇峻没                       推古没/舒明即位(630第一回遣唐使)
   となっていて、天皇枠を8年いれるとすると
        592/--8年ーー600/ーーーーーー推古36-----------636年翌年に舒明が即位
       崇峻没/ □□□□□□                              推古没

  枠を指示されない段階では、後ろへ延ばさな仕方がないということでこうなりますが8年後ろへずれるがストーリー
  は推古36年の翌年舒明即位というので合っています。、舒明即位629が確定なので後ろは譲れないところで
  す。従って前に8を入れたら推古を8削るというのが第一案で、慈円が推古36なのに26年だと言ってくれたので
  有難いことでした。


   (384)保留八年を作ってみる
  そういうことで別の第三案が出てきて、とりあえずこうしとこというのがあって実態が出てくる道を
  開いてるということです。再掲、

          崇峻没推古即位                       推古没/舒明即位(630第一回遣唐使)
       (1)592 /ーーーーーーーーーー36年ーーーーーーーーー628/629  (〈古事記〉は37年)
       (2)592 /(◆八年  )600/----28年ーーーーーー628
  
  に(2)での(内数)を作った、ということでしょう。内数だからラインに乗らないので、年代影響なし、物語性も維持される
   ということでしょう。この八年に日本史家が悩まされることになります。国際情勢変動対応の期間、派生すること
  ことも多く、仕方がないところです。上の□□□□は推古に匹敵する大物の
  枠となり、( 8年  )には蘇我馬子宿禰大臣もを思い切って入れられる、となります。そうなると天皇空位になり
  ますが〈書紀〉の記者は空位はつくらない(述べ方の整合をはかる)とみられ、誰が予定されているか、もう一つの
  大事業があったので、天皇枠をつくり二人入れることになるのでわかりにくいのかも。まあ、へんないい方をすれ
  ばこの「◆八(年)」は(「1」か「八」か)で 「600年(隋への遣使)」という1(年)を史書(記紀)に入れたいが、あえて
  入れない(入れられない)ので、「八年」を代わりに入れるが八年を圧縮して1としたものが(1)であり、解凍した
  ら(2)の◆が二人で出てきて、頭の中で縦に「+8」をでプラスして、(隋への遣使)という相貌が併せて出てくる
  という仕組みにしてると思われます。〈古事記〉とワンツウになってることも示したとすると〈書紀〉8年前、712年
  に太安万侶が〈古事記〉完成というのも懸ってくると思われます。慈円は本当はあるかないかの天皇枠を指示して
  いました。
           『 頭注
            崇峻天皇  卅三  崇峻  五年 元年戊申 六十七即位(没年書いていない)
                      ▲大臣馬子如前
                     百済より・・・・・此天皇は・・・・・・・
            推古天皇  卅四  推古 女  廿六年   元年癸丑 四〇即位 御年七十三(66になる)
                      ▼大臣馬子如前 ●{卅四年五月薨。}
                      ・・・・・・・
                     ◆崇峻殺されたまて相計りて位につけ奉る。むまやどの皇子を東宮として
         ★十七条の憲法   ・・・・(4行)・・・      』
            舒明天皇   舒明
    において▼の●は、▲の後ろに付かないとおかしく、「」の区切りはここまでが、前の天皇を受けており
    ◆は推古期に入るまえでないと、おかしく、●は推古26年の34年ではオーバしてしまう。一般に云う36年
   が念頭にあるので納得してしまうが、この表現の枠組みの中で読まなければならないものです。従って頭注
   に「崇峻天皇②」が崇峻・推古の間に入らねばならないことになります。★は枠が意味をもち、まあ、むまやど
   に開けたということでよいのでしょう。


    (385)保留八年は天皇枠
    天皇枠をつくるにはまあこういう指示があって、そのとき、その時にわかってくることですが、今まで出てきた
    ものでは、、                 
 
         西暦元年                     
        Ⅱ  崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀ー神功(摂政)ー応神 =●407
            68   99   60  61  9    9+60      41        神功69は慈円は天皇に入れてる                       
   において
    神功皇后は歴代天皇には入ってないのを摂政として69を入れています。これ入れたから407が出てきて応神
    に近づいて助かったということです。ただ仲哀天皇・神功摂政は 夫妻という関係がありそうで空間は別だけど
    時の経過は並行になることにもなります。自分の納得できる範囲の説明でやると、この並びにおいて

       ●は実年でここは407がほしいところです。垂仁が99も長生きするはずがなく全体に在位が長すぎる
    ということになります。実年という言葉がおかしいのかもれないが、垂仁99年の終が、57年だから
        Ⅱは 
            (垂仁まで)ー    景行ー成務ー仲哀ー神功(摂政)ー応神     
               57  (110) 60   61   9    69     41 =●407
     こういう計算も成り立つわけで、景行以後を1/3にしなくてもよく、一枠3人と見ていたら実年というベースに
    なってるから問題ないことです。枠を入れるということは(110)を散らすことでもあり、事件の年代も探れる
     ことにもなりますが、影になってる人物を出して来たり、全体の均衡から、抜けを見抜くとかいうのが、できる
     ことになります。慈円は抜けてる天皇枠がわかるようにしています。頭注でみぬけるようです。
            頭注部分
          皇帝年代記(以下も細字)        皇帝年代記

           神武天皇            第一 神武天皇  七十六年  ・・・・・    
          ○大方の悪を対治する心       (綏靖)    ( +4年)○は譲り合いの部分と取れる
           綏靖天皇            第二  綏靖     卅三年  ・・・・・     綏靖は33+4=37
           安寧天皇             三 安寧      卅八年  ・・・・ 
           懿徳天皇             四 懿徳      卅四年 ・・・・・
           孝昭天皇             五 孝昭     八十三年  ・・・・・
           孝安天皇             六 孝安      百二年   ・・・・・・
           孝霊天皇             七 孝霊     七十六年  ・・・・
           孝元天皇             八 孝元     五十七年  ・・・・
           開化天皇             九  開化     六十年  ・・・・・・・・・・  
                                        (小計559)559+4=563 600-563=37
           崇神天皇             十  崇神     六十八年  ・・・・・              
           垂仁天皇             十一 垂仁     九十九年 ・・・・・・・                  
          ○●伊勢大神宮                 (以下略)
           景行天皇
          ○棟梁臣
           成務天皇      ○が余分で応神まで、六つあって、一つ20とすると120となり、
          ○大臣の始      あと推古まで四つあって、計10 あり60を入れるものもあり、
           仲哀天皇      内数というのもありうる思われる。
          ○大連の始     
           神功皇后     
           応神天皇     
          ○八幡大菩薩
          
        があり、●伊勢大神宮がこんなところに出ていますが 慈円は「阿倍臣等五代の祖」をここに登場させ
     ており、和邇、中臣、物部、大伴の祖が「等」に当たると取れます。阿倍臣が出てくるのは〈古事記〉孝安の条
     でここに五柱というのがでています。孝安は記紀ともに 57年在位となっているので特異です。
      垂仁の直後●に、この57が入り遣使が確認されたので天皇枠57が入るということになるが慈円は垂仁
      の所、没年三つ書いていますので三人かもとなるとあと一人は誰かということも出てきます。
      天皇枠に「たじまもり」は入ってもよいだろうとなると
           崇神68-垂仁90ー三宅田島守9ー景行60ー成務60
                                (武内宿禰?)(日本武?)ー仲哀ー・・・
      ということにもなります。要は仲哀はヤマトタケルの子ということだけが通っているだけで、、聖徳太子は
      用明天皇の子としてしか議論の対象にならないわけです。慈円は

            景行  六十年  元年辛未  四十四即位 或卅一
                       御年百六 或百卅三 或百廿

     となっていて 始めに年齢13違いがあり複数というのがわかります。ややこしくてわからんということに
     なってきます。44+60≒106 だけが該当しますが他は駄目です。武内が29年間とすると、
      31+60+29=120  44+60+29=133  で二つでうまくいきましたが、31+60=91だから
     91歳を入れといてくれたら人数が絞れてきそう・・・といったところです。とりあえずわからないから書いとく
     ということにしときます。太田牛一が、辛未に目をつけた、とすると、元亀元年(脚注=一五七〇)

         「辛未九月十六日(脚注=「辛未は庚午の誤記。元亀元年[一五七〇]庚午。、・・」)・・・坂本口(脚注
         =大津市)へ・・◆纔か千の内・・・少々頸を取り勝利を得る。・・九月十九日(脚注=九月二十日
         誤記。)相抱(手篇+勾)へ(脚注=もちこたえる)・・・討死、森三左衛門、織田九郎・・・・・」〈信長公記〉

     があり「辛未」の前が「庚午」で、辛未は1569になるので1570は一年後になり、19日の次は廿日ですが
     「二十日」と書いています。とりあえず、91+1=92で覚えとこ、というところです。干支一回りもあるので
     92+60=152もやってみるとこれは、垂仁の御年「153」〈古事記〉があります。29日の発見がしやすい
     ように(十九日/二十日⇒二十九日)、九月二十日と誤記したと思われます。〈信長公記〉は「廿日」が使われ
     ています。「九月廿日」としたらちょっと移動も可となって廿九日も出てくるというのは手法としてはないと思い
     ますが周り「九」が多くて目がくしゃくしゃとして「九」を入れてしまったというのはよいわけです。脚注として
     テキストの方が合ってると思われます。辛未の7行の内「九」が「九月十六日」「九月十九日」の二つあり「九」が
     三つですが「十」も二つあるので脚注の「九月二十日」の誤記という方が「廿日」よりはよいようです。
     錯覚でまちごうたというのは余り恥ではないようです。景行の〈古事記〉137年、元亀元年1570、で
        137+廿=157
     はないのかどうか。この辛未の一節始めの七行
      坂本関連が出てきます。本文7行では
              「坂本口」「坂・・下下」「坂本」「下」  
      が出て七行の脚注部分では
              「坂本口」「大坂」「下坂本{旧下坂本町}」「元(亀)」「元」  (「両手」「両手」「手」)
    があり、「十六日」「十九日「翌日」、脚注で「十日」もだされて「日」「二」が出てきて、「日本」「二本」が
    でました。朝鮮半島・日本列島二本の島が大陸から出てて、両方とも元日本だったというのが出されて
    います。〈古事記〉で「日下(くさか)」ー「久沙訶(くさか)」(「詞」の意味?)が出されて、昔の万葉仮名が「久沙
    訶」で顔を出した感じですが、筆者が「廿日」を出したのは怪我の功名になりました。「廿」というのは「十」を
    横に「十十」と並べた字で「にじゅう」とよみ「二十」を見ててこれは 十十=草冠(くさかんむり)で
       日下(くさか)=草加ー早加ー茄(那須)-荷之上(二之江)ー茗荷谷ー草名・草加ー久坂ー久谷―日本  
     に至っています。また「丗日」は「十十十」で「三十日」-「みそか」ー「晦日」となりますが、「さかもと」は
     「三(さ)日(か)本」、つまり   十 
                        十十  があって、大倭+両日本、を出してるというのが太田和泉守の
   坂本です。なぜ坂本をこれほど出して来たかということで、坂=土+反 で反対があって、坂=逆本があります。
   「誤」「誤」が出てきて◆があります。七行の下の脚注に「長政」がでてきて「張」というのがどうしても欲しいところ
    ですがすぐあと本文で「尾張」の「張」が出てきます。張政の所で出た、卑彌呼没の後の記事

       「更めて男王を立てしも国中服さず。更々相(こもごもあい)誅殺す。◆◆時に当たり殺すこと余人。復た
        卑彌呼の宗女壹(䑓)與年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まれり。」魏志倭人伝

   があってこれが急転して治まっていて、この◆◆の解釈は、◆のように逆さにせないかんと太田牛一はいって
   います。七行の下の脚注では
        「元亀元年(1570)」とか「義景」とか「長政」「義昭」「大津」・・・など
  が出ていますが何となく「張」がほしいと思っても、こんなんは滅多に出てきません。ところが本文で、9行目から
     「尾張国守山・・武田信玄・・、其時森三左衛門・・肥田玄番・・山中谷合・・合・・頸三つ・・・」〈信長公記〉
  が出てきて最も身近なところにありました。張政が出てると取れると同時に、57年がチャンと出てる、景行の「景」
  もあり、大津(近江)守山も出てる、其時の其は正始年間の九年のうち三年間に使われていて、八年目(二四七)
  が最後です。つまりこの◆◆の一文は、二色ぐらいで表示すれば、何かあるなというのがわかってよいのですが。
   武田信玄「武」は日本武もあるかもとなりますが、玄も出て来ました。要は、玖沙訶が出て、久坂玄瑞の「久坂」
  が出てこないとおかしいといってるのが太田和泉守の「坂本」の多様の登場です。「手」も出てきて
   山手が上手で、長い坂があって、途中峠(上下)があって、里・郷に至り、浜手(下手)に至りますが、
   西が上手で、国としては、中国(倭)ー(倭)朝鮮国ー(倭)日本国(下国)(「下国」と言う表記がある)、
   を見ています。7行のうち「三」が大変多くて
       「三万・・森三・・九月十六日ー九月十九日・・宇佐の「佐」・・坂本の「三」×4」
   があります。「山」の一方で「谷」が出てきて、山谷ー三国もあるかも。小谷ー九谷ー古九谷(こくこく)ー石黒
   とかになっていきます。懸河(掛川)に「につ坂」があって地名索引では日坂―日本というのはあります。
        「坂本口」は、「坂本□(空き)」
   「坂ない」「坂奈井」という人名もあり「坂本某」としてありえます。「坂本」は「坂井」「酒井」の並びですが
     「さか」「逆川」、「さき」(先・崎)、「さく」(佐久間)(桜木)(桜井)(策彦周良)
   も出てきます。「策彦」でいえば
      「天龍寺妙智院の住持。天正七年(1579)示寂。」
   となっています。「龍」が出ました。甫庵では「江州安土山記」で出ており、「大明再渡」倭漢両朝の達人」
   などが出ています。ここでは「天竜寺」となっており、「其の記に曰く・・・」で難しい漢字が出てきて表示もできま
   せんが、「良馬」が出ています。「馬」でいえば〈信長公記〉坂本の一節「江口川の渡し」の話があり、

      「九月廿三日 ①野田・福嶋・・②彼(かの)江口と申す川は・・・淀・宇治川の流にて、③大河漲って下り滝鳴って
       冷(すさま)じき様躰なり。・・・昔・・舟渡し・・・渡の舟・・④稲麻竹葦・・・大坂堤・・信長公・・⑤上下(かみしも)
       懸け…を打入れ・・浅瀬・・かち渡り(徒歩渡り)・・悉く乗入れ・・・難なく打越し候。九月廿三日・・帰洛。・
       次日より江口の渡り、⑥かちたりには中々ならず候。・・⑦上下万民の者、奇特・・・の思ひなす事なり。」
                                                         〈信長公記〉
   があり①は難波住吉・逆櫓論争・渡辺にいき、②「江口」というのは「江」河もあります。③は「逆巻く波に登りなば
   たちまち竜になりにける」「橘かおる朝風」もあり、甍の波と一対の波がでてきます。④は〈信長記〉で多用のもの
   で、稲麻竹葦②(魏志倭人伝暗示)となってるのでしょう。芭蕉も葦から天竜寺の竜を出しています。
     「葦」は「蘆」ー「芦」ー「草の戸」ー倭人伝の「郡・太守」「戸」「下戸」ー戸部ー「柳柳柳柳立立立」ー「竜」
   竜=流=蘆名盛隆の「隆」で盛隆の注では「須賀川」〈会津旧事雑考〉〈会津風土記〉もでています。
   ⑤は帰洛を挟んで⑦と意味がかわっています。太田牛一は前者の意味を強調しています。
    
   坂崎紫欄(1853~1913)は明治の歴史研究家・講談師・ジャーナリスト、小説家ですが、自由民権運動の旗
   手でもあり、「汗血千里の駒坂本龍馬君の伝」を書いたので有名です。このモトが「森三左衛門」戦死の大津市の
   「坂本」、そこから出てくる「竜」「馬」というものが取り込まれているものです。太田和泉守を政権が封殺した
   というのが知られていたわけです。坂崎が〈信長公記〉を踏まえてたから人気が出て坂本竜馬が自由民権
   グループの合図の旗のような存在になっていったと考えられます。維新後に政府高官になった人も交友、同志
   として行動を書き加えたので本当みたいになったものです。吉井友実は薩摩の人で幸輔が竜馬と活動して
   売り込んでいます。陸奥宗光も自由民権論者だったかしれません。勝海舟の竜馬は吉本の作品というのは既述
   ですが、三岡八郎―由利公正という実在の人物も竜馬に付いて書いてるのはどうかというのもありますが、三岡
   八郎には橋本左内のことを書いてもらいたいわけです。副島種臣(次郎・二郎)も初名は竜種だったとか。
    要は自由民権論者はあの憲法は画期的なものだということで政府の説明に同調していったというような説明
    になっていますが弾圧されてるのだから、そんなことはないはずです。
    よくなかったというのは結果でわかってますので、ないよりましだったという評価もおかしいかも。

    ●の伊勢神のことはよくわからないので筆者では説明が無理ですが、記事だけを追ってみると

      垂仁25年、天皇は、阿倍臣の遠祖や、物部連の遠祖、十千根など五大夫に、崇神天皇に習い神祗
     を祭祀したいといって、その◆「祠を伊勢の国に建て」、斎宮を五十鈴川のほとりに創建しました。これを磯
     の宮といいますが「これはマテラス大神がはじめて天から降った処である。」〈書紀〉となっています。垂仁
      26年、伊勢の国渡遇(わたらい)の宮に遷っています。一方倭大神を、大市[桜井市]の長岡の崎で大倭
      の直の祖長尾市宿禰に祀らせています。桜井市三輪の大神(みわ)神社のことがくるのはこのあと(垂仁
      以後)と思いますが、違うようで前の崇神紀で出てくるー、崇神紀の箸墓の姫も大市に葬られているー
      ので錯覚がおこってしまいまいます。 テキスト脚注では◆(崇神紀)について、
           「纏向の大和王朝が祖霊を祀る祠を伊勢に建てる条件はまだない。」
     となっています。後年の事件をここに繰り上げたという意味でしょうか。話の上では十分に条件は整っていま
     す。
      「神代上」〈書紀〉において、スサノオの尊が高天原にやってきたのでアマテラス大神は、スサノオ尊の
     長剣を求め「ふうーっと吹き棄てた息ぶきの霧の中」に三女が生まれ、今度はスサノオ尊が、飾りを貰い受け
      「ふうーっと吹き棄てた息ぶきの霧の中」に生まれた神は五男で(出雲臣の先祖の「天穂日命」など)、
     アマテラス大神は勅して
      「そのもと(モト)のにさかのぼると…飾りはこれは私のです。・・・五男神はみな私の子・・・」として養子
      「その長剣はスサノオ尊のです。・・・三女神はみなお前の子です。」といってスサノオ尊に授けた(胸形
      君らが祭る神)というような文があり「物」が出てきてるので取り上げたいと思うところです。
      
      、崇神のときには(崇神天皇の母方は物部氏〈書紀〉)、大物主の大神の娘、大田田根子がいて、この
      人を大物主大神の祭主として、物部連の祖の伊香色雄を神の■班物者(ものわかつひと)として、他の神も
      まつり、天[神]の社、国[神]の社、神田、神戸を定めました。八年、大田田根子に大神を祭らせましたが、こう
      いった実績がありました。出雲の方も物部十千根に見させています。
      こののち、ヤマトトトヒモモソ姫(倭迹迹日百襲姫命)は大物主大神(桜井市三輪の大神神社の祭神も大物主
      大神)の妻となっています〈書紀〉。
       〈古事記〉の人名(夜麻登登母母曾比売)の脚注として出てる(崇神紀十年神婚説話)というのは〈書紀〉
       の記事の引用となってるので、〈書紀〉の記事は時代を早めているので前後関係がわからなくなって
       いると思われます。伊勢の国の神も、三輪明神の神も祭神がわかりにくくなっています。■がもっとも
     影響を与えた語句で、物=もの=者です。〈奥の細道〉のはじめ
         「月日は百代の過客(脚注=「・・万之逆旅光陰(ハ)百代の過客・・」)・・・老をむかふる物(者)
         は・・・。・・古・・古・・・そぞろ神の・・光おさまれるから」「佛頂和尚・・・(脚注=「物部守屋」・
         「仏頂和尚」)」「物頂和尚」・・・大物主の「大物」-「大仏」-「大佛」

     などがあります。箸墓の箸は「竹」「武」+「者」で「蛇」をめぐって起きた個人の悲劇ですが、読者はどう読ん
    できたかというのが一番の問題です。三輪は三和・三倭で、国際的でもあり、異郷間、風俗、慣習、まあ文化
    というものの違う神婚もありますが個人がそれを受け止める軋轢は耐えきれないものがあるが、その弔いの
    ため膨大な墓を築いています。何かを恐れている、個人の怨霊というものか、祟りというものに怯えていると
    いってもよいかも。「崇神」というのは
        、崇(すう)拝、崇(すう)高の「山+宗」の神ですが、「出+示」(すい)があり、この
    「祟神」と書かれても判別ができません。「垂仁」の「埀」(すい)、綏靖の「綏(すい)」も多分この祟りに通じたも
   のと、取れます。垂仁は崇神(先代)は短命に終わったので、どこかよくなかったのだろうということでこうした
   からうまくいったといっています。箸墓の姫は、あのときは死んでいないということで読まれてきたととれます。
    遣使の観点から、垂仁のところに57を持ってきた、仲哀に239の遣使(延長上に257)、壱与に266の遣使
    (257+9)があり、57から180年後の仲哀の「哀」がかなしい「哀」になっています。

             
     (386)仲哀天皇は〈古事記〉で出てきた    
     仲哀天皇は〈書紀〉では「9年」在位で神功皇后との関係を示して消えますが、〈古事記〉〈書紀〉とも没年齢
    は
          52歳
    となってて、〈古事記〉が一応例外はあるが没年齢一本になっているので、その意味が仲哀で出てるかもしれない
    ので、それでやってみると、年表、空白の中、邪馬台国が239年に突如、顔を出してきて
   (60×4=240も邪馬台国に至る、これは偶然)、今では、これは神功皇后のなかに出てくるのでその位置を
   ブロットできないということになります。邪馬台国の記事の始め239は誰の時やというときに仲哀主体にやって
    ると、
      ■「57」(4+68+99=171/3)+60(景行)+61(成務)+9(仲哀)+52(仲哀没年齢)=239
    として偶然出てきます。                           9      60        =247≒248 
     このとき神功を除けているので神功 (9+60)を脇に入れてちょっと欄外で248を作ろうとしてると取れま
    す。仲哀だけ没年令を働かそうとしてるのでなくどれもやってみたらどうなるかというのはあるのでしょうが
    下の
    ●の筋は仲哀9に52を足して61にした方が自然のように思えるところですが、合計が思うように設定されて
    るから、それが変わってしまいます。オフラインで248が使えれば卑弥呼が出てきて語りが倍以上に広がります。
     ●と■のつじつまを合わせると
           57+空白(127)+景行60+成務61+仲哀9+仲哀52=●407-41=366
     となり57だけが突出しててあとは60×2程の空白がある程度の普通の状態に戻ったことになります。
     〈年表〉での大空白は
         ①元年から148後漢の卑弥呼の記事までは57年・107年の二つの遣使があるだけの150年間
          の空白、
         ②148年、が出てからあと239までの90年間の完全空白
         ③266~366の100年間の完全空白 
     があり①+②は、偶然  150+90=240(60×4)≒239年  になります。つまり何となく、あの卑弥呼
     の遣使を国郡のスタートとしようとしてると取れますがそれにしてはそのあと③の大空白があり、
      神功皇后がまた〈古事記〉〈書紀〉とも100歳があり、こんどはこれがまた武内宿禰におよび
      武内は慈円では280年余6代の後見をしたとかいています。これはウイキにある
          景行14年(西暦84年)~仁徳55年(367年)  367-84=283
     が丁度です。景行14年が西暦84年かというとこの計算は
          72+68崇神+99垂仁+景行14=253/3=84、3
      という計算です。登場からみると景行の25年から仁徳の50
     年までとなってて265年となります。まあ慈円の云うのは年齢で見ていて、15歳の元服のとき出てきたと
     いうのならそれでもよいとも思いますが、慈円の280でやると280/3=93
     でこれが神功皇后の100歳に対応するととれます。神功皇后の妻(夫)ということで、応神の直前大空白
     の終りの所に行きつきます。


    (387)神功は卑弥呼か
    年表の邪馬台国の記事が239~248で9年間あり、終が 248 で
       248+8=266  「   266ーーーーーーーー100年空白ーーーーーーーー366
                    神功紀66年条                        神紀46年条     」〈年表〉
    となっています。記紀ともに神功(一〇〇歳)がでていてこの空白の100の意味だろうと取れます。366年に
    壱与(ヨ)が顔を出したともいえます。366は応神のスタートで、366+41=407になります。
    〈応神紀〉はホムダ(イザサワケ尊)が先に出てきます。
    これは[仲哀]第四子となっており仲哀は239頃ですから100年ほど飛んでくる話となりますが、壱与①の
    仲哀との関係を示すものと
    しても利用できるという一面もあります。これが邪馬台国に関するもであるというのは

       60(紀元節)+(9)+60+61+9(仲哀の9)+9(神功の9)/小計199≒200  200+39=239 
     すなわち神功60の内
       39年目に邪馬台国の遣使があった、これは神功紀39年に景初239年に魏に使いを出したことが
      出ています。239~248年まで9年間に跨ぐ期間があり、239~248までと266は〈年表〉による

         西暦
         148  この頃(後漢の桓帝・霊帝      卑弥呼は・・衆を惑わし・・・男弟が政治を助けるちう〈魏志〉
              147~88の間(147から188の意味?)倭国乱れを・・
              卑弥呼を立てて王とする。           後漢建和1年桓帝スタート
         --------------------
         149~238大空白90年          (桓帝・霊帝のとき遣使) 年表で漏れているのは意味がある
               ここまでは年表の記事・魏志倭人伝は年代記載なし238から出てくる
         ---------------------------------
         238       238景初2年を239景初3年のところに誤入
         --魏志はここ238で前後二つに別けている    元年~148~/238/= 魏志、前半
                                          238~248  = 魏志 魏志の終頃9年
                                          248以後 〈書紀〉が述べてる
         ---ーーーーーーーーーーーーー
           魏志の終り頃年代のあるところ、9年間だけ

       景初(2)3年         変数    
         239年    は200+0+39   6月、倭の女王卑弥呼・・・       ◎(神功紀39年に出てる)
                               12月 詔書・・曰く  新魏倭王卑彌呼に制詔すらく・・ 
      正始240年     は200+1+39    倭国・・・倭王・・倭王           (神功紀40年に出てる)
        (241・242)                〈年表〉枠なし、 倭人伝も記事無し
         243                    記事あり      倭王・・・        (神功紀43年に出てる)
         244                    記事なし     〈年表〉枠あり、記事無し
         245      は200+5+39    記事あり   ▲倭人伝 難升米  ▼〈年表〉魏の少帝・・・
         246                    記入なし     〈年表〉枠あり、記入無し 
      正始247年     は200+8+39   記事あり  倭の女王卑弥呼・・・・
         248年     は200++39  倭は正始中(240~48)●卑弥呼没す。徑100歩のツカを築く、
                                壱与・・・壱与・・・壱与・・・   (ここまで記事は〈魏志〉による)
 
    ○  239年は二つある感じ。一つは景初2年の分として148などに飛ぶ?〈年表〉では区分しにくい
    ○  ▲▼はこのとき名前が一人だけ  〈年表〉は離升米を入れるはずのところ
    ○  ◎は魏志の引用 ({難斗米}となってる。確か戦後しばらくは一斗は一〇升だった。)
          ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    以後は ◎から飛びながら続いてて〈書紀〉につながる、(神功69まで) 
         (48は〈書紀〉になし)     倭人伝は48で卑彌呼死から壱与まで書いてしまっている

          49年・50・51・52・(53・54は〈書紀〉になし)
          55年     は200+16+39     百済肖古王が薨じた(書紀)。(この前後の記事百済模様)
          56・62・64・65・(48から65まで〈書紀〉の欠落9年間)
         266年     は200+27+39    倭の女王(壱与?)使いを西晋・・・〈神功紀66年条〉
          66                       倭の女王、[通]訳を重ねて貢献した。(晋の武帝秦初二年)
          69                       皇太后没  100歳 気長足姫尊〈書紀〉
                      注=(266年神功紀は〈年表〉に書かれている。248から〈年表〉は空白)
                         秦初2年で景初2年に繋いだと思われる。

     ()は57垂仁99の9ですが57+9/3=60 で60に入っているので不要です。この(9)は多様につかわれ
     ていそうです。往復の期間、とか6を生かすことになるのでしょう。もとから非常に悩ましいものです。神功の
     9を入れたり入れなかったりとなるので、変数を入れて9年分出るようにしたということでしょう。

      テキスト〈書紀〉の神功皇后の頁は
           □229から256□の 27頁(仲哀は221から228の7頁、成務は2頁)
     となってて、ベースは200+39 として、変数を動かして248まで動いてきてたので、266まで来てしまいまし
     たが、要は248~266まで空白があったので、切断されてしまってるのが、壱与が出てこないもととなって
     いました。266-248=18頁の完全空白だから当然で降ってわいたと思われるものでしょう。
     229頁の前1頁は完全空白、256のあと1頁は完全空白 なので計算は□に10を入れて
       (+10+229)~(256+10)としたかったと思われるので、通わせる以上に、重ねる意欲があったと
     も思われます。壱与はここで確実となりました。また問題となってるのは、●は近畿か、九州かというのが
     ありましたが、魏志倭人伝の記者は朝鮮半島南端ー北九州上陸ルートできており、いま一つ近畿に繋がる
     ものが希薄だったような感じがしますが、ここで近畿の邪馬壱(台)国のことをいってるのがはっきりした
     といえそうです。一方
        239は景初3年ですが魏志では景初2年となってて一つ断層が出来ています。是より以前が倭の
      女王国の、その周辺国、人名、地名や、有名な女王国に達する 里程・方向・距離の書いてる部分など
      ですが、年代が全くない部分です。ここの239年から247年だけが年代で、上の248は魏志・年表に
      出ていて〈書紀〉に出ていません。

      テキスト〈書紀〉脚注では

       「書紀はあんあんのうちに卑弥呼=神功説を提示している。また原景初2年を3年説に改訂した先駆。
        他に難升米、劉夏など誤写している。」

      があります。神功紀の原景初2年の記事は
          「三九年  この年・・・己未。(★魏志はいうーーー明帝の景初三[二三九年]六月、倭の女王が
           大夫難米らを[派遣して[帯方]郡にやってきて天子の[洛陽]に行くことを求め、朝献す。]
     となっており、この★の脚注が上のものです。これは卑弥呼=神功説をいったものでなく200年代の一時期
     の神功で卑弥呼の説明をしようとしたものでしょう。〈古事記〉で神功は100歳ということにしたので、また
     「天皇記国記」~100年後、〈書紀〉が成立したこともあり
          ①100年前の神功   166~266の神功
          ②200年代の神功   266~366の神功のうち239~256?
     という①設定も可能になる一方で、
            神功三九年==二三九年  神功四〇年==二四九年   ・・・
     という珍妙な表示約束事を作ったというのは二〇〇年代だけに限ることです。これで神功五三年というのは
     二五三年になるので、一五三年に対応して、そこに卑弥呼(後漢)が出ています。ここでややこしいのは●で
      再掲  「248  倭は正始中(240~48)●卑弥呼没す」
    があります。248というのは卑弥呼ー神功200年代の約束で、ここの●の前の書き方がおかしく
       (240~248)と書くべきところです。神功48=248 という約束です。


     (388)卑彌呼没年のこと(冒頭の番号の375年、これは偶然)
      正始元年(240)は魏志倭人伝に出てる、倭人伝ではその「其の八年(247)」が最後となっています。いま
     神功からスタートすると〈書紀〉では66(266)・・・69(269)まで記述があります。これを無視するわけには
     いかず、。
        神功48、  248    ●を見るとここで卑呼が没となってる(〈書紀〉では248は載ってない)  
        神功49   249
        神功50   250
        神功51   251
        神功52   252
        神功55   255    百済肖古王没  
        神功56   256    百済の王子貴須が王に立った
                257    ほんまの卑弥呼没(としたい)  (200+57=257) 255のことで表現 
        神功62   262    百済記[三八二]年の記事が出ている
        神功64   264    貴須王が薨  枕流王子
        神功65   265    枕流王子薨  阿花王子年少叔父辰斯王
        神功66   266     倭の女王遣使

    となります。●の原文はこれと違っており
          「卑彌呼以て死す。」〈魏志倭人伝〉 (「難升米」とみるのでよいかも)
    となっており弓は変わりませんが「武井爾云」の「爾」であり、持=以て となってて、つまり卑弥呼の連合いの
    死となります。●の前の(240~48)は〈年表〉著者の書かれたもので実際は、正始(魏)は

       「三国時代魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号240~249の9年間」(ウイキ)など

    となっています。従って、ヒミコが正始の中で没となると神功本位でやると8年か9年正始が257か248に
    間延びすることになります。
     卑彌呼没の前から帯方郡は張政を派遣してて、これが上手く告喩を以て事態を収拾したと考えられます。
     従前は248~266まで18年間の空白となっている、登場人物が、
         肖古王(卑弥呼)、貴須(8年)、枕流王〈1年)、阿花(年少)、辰斯(王となってる)
    となると朝政(辰斯相当)が266までカバーし、台与(張政子息)=(貴須相当)が、軍事外交担当で乗り切った
   と取れるところです。
                   壱与(阿花相当)
                   ∥
                   台与② 
    というのが成立して、張政が国へ戻ったということですが、このお蔭で
    国が安定したということです。三国志で、呉の張昭・張紘、魏の張遼、蜀の張飛などという名前が知られてて
    張政という表記がなんとなく、大きなものとなってきます。張昭、張遼、張飛は記億にあり、張紘はネット記事で
    補いました。張昭は呉の孫権が、兄の孫策から、外事は周瑜、内事は張昭に聞け、と遺言を受けたというほどの
    政治家ですが、記憶では、曹操の天下統一を妨げた赤壁の戦い(周瑜が総大将、呉の黄蓋の火攻めの計・蜀
    の鳳統の連環の計で有名)で、孫権に非戦を説いた人物という残像があります。そういう雰囲気のある張政
    で、登場が
        塞曹掾史張政・・告喩・・/卑彌呼没/・・等・・告喩・・等を送り還らしむ
     となってて卑彌呼を挟んで前後に三回も出ていて、環があるから、前後ずっといたことになります。これで「政」
    という一字で用を足せたということになるのでしょう。倭の本部も隠れて、張政にも危害が及ばないという配慮
    もありそうです。曹操・曹丕の「曹」、周瑜の「喩」も出てるというのはなくこれは偶然のことになります。
    「政」は重政、成政、の「まさ」で後世の人は太田和泉守が注目したかもとみたかもしれないが、「(佐々)成政」は
    「(楠木)正成(しげ)」からいうと「(しげ)政」になります。祝弥三郎は「重正」で日本では一応「正」「政」は区別
    されていそうです(形容詞などで変わる場合はあると思われる)。張政を送ってきたのは、倭の大夫「掖邪狗等」
    二十人で「掖邪狗」が「張正」だったかも。「掖」は孝昭紀〈古事記〉で出てる字です。〈書紀〉では孝安紀で
    出ててこの1代の差が、書き間違いと一緒で、100年のずれなどになるのか、別場所になるとかの疑問が
    でるところです。そうややこしいことにしてないはずですが、疑問はだしといた方がよいということになるのでしょう。

   (389)これは余談
    239(39神功39)年~269年(69は神功69)で、この間に邪馬台国状況が上手く挟まれましたが
    200/+★30+30+9+30/の後半部分を使っています。
        ○266(遣使)+=269
    となっており、なんで3年神功を伸ばしたかということが疑問でもあります。親切があるかということですが、
        ○ 57+9(マジックの9)+景行60+成務61+仲哀9+神功69≒266(遣使の年)
        ○ 248+9(間延びの9)=257(卑弥呼没)+ (はじめの9) =266
    において、神功側のトリックで間延びの9を勝手にやったというのでは困るわけで、266脇に
      天皇枠(張政9)を入れる 9×1/3=を神功側で増やすと足りてるということになりそうです。
    頭がおかしいかもしれないところですが
      239が実年ベースのスタートで、266(遣使という事実)で終りましたが、オンラインの神功ベースも
      239スタートで 特別間延びの9が入って。266+3 で終わりました。神功サイトだけこの9が入って
    ここで落ち着いたので、その操作が念頭にあったというのが趣旨ですが、すなわち69は大物の死なので
    張政の没年をいってるかもしれません。
    あの  27頁  +3 = 30  は★の30かも。この3は伝来の3かも。3×3=9  69/3=33の3もあり、
    神功69年があるということは、間延びの9は載せてあるということになるのではないかと思われます。
    
  
    (390)100年前の遣使
     五五年  ◆肖古王没〈書紀〉   の五五年に脚注があり、
       「〈書紀〉の紀年で255年。三国史記では近肖古王は375年に死んだ。そこで紀年は干支2運(1運=
        60年をくり上げていることがわかる。」
     となっており、255-120=135となると話を前百済の方にもっていこうとしてるとも取れます。「前」というの
     時間の前もあり、場所の「前(さき)=先・崎」もあり、単なる接頭字もあると思いますが、◆と、その頭に「近」
     をもった王と、二人いるのは見るたびに悩まされるところです。戦国では
        「金森」・「金森五郎八」(考証名=「金森長近」〈信長公記〉 (茶の「宗和流」の金森重近「宗和」は孫)
     の「近」があり、関係ないのに決まっているが「近」=きん=「金」となり、「森」となるとちょっと見ないかんかも
     となってきます。長近を「宗和」で覚えてたので確認すると孫だったという程度の知識ですが、大きい名前を
     つけたものだと感心はするところです。倭=和とは云いにくいことですが、金森長近は注では
        「美濃国から近江国野洲郡金森に移り金森を称した。」
     となっており、森山ー守山崩れの守山が出てきます。中平□年の近象嵌の太刀が(天理市東大寺山古墳
     )から出土しており〈年表〉出でいます。まあ
     霊帝の中平1年としてみると184年になり、倭建命(成務期)の遣使があったかもというのも出てきます。
      また、ウイキによれば宗和は「姫宗和」と呼ばれ、千宗旦は「乞食宗旦」といわれていたそうです。
      乞食は太田和泉守では古事記ですが
     「旦」は周公旦の旦もあり、桓武天皇の「桓」にも通ずるのかも。後漢の「桓帝(146~167年)」の永興元
     年が153年でここで遣使があったのかどうか、となります。上の148に飛ぶということが一方で可能に
     なってるはずです。すなわち、◆の文の脚注は120年干支2運で捉えられていますがもう一つ
         100+20
     の意味があると思われます。◆の並び〈書紀〉では
      六二年、新羅が朝[貢]しなかった。(百済記は言うーーー壬午[三八二年]・・・・)
    があり、382-100-20=262年ですが、
        266年 倭の女王遣使(神功紀66年条)~大空白366年百済肖古王、使者に賜う。(神功紀46年条)
    があり肖古王は生きかえってるわけですが、この空白は
    148~166年~空白~(倭人伝9年239~248)~空白~266
     の100年の飛びは意識され、そこには卑弥呼(後漢)が〈年表〉出ていることは既述です。
        それは記録に出てるかということですが〈書紀〉では
          崇神68-垂仁90=158
     で出てるかも、崇神①=倭から6人目ぐらいに遣使があった、ということもいえそうです。
     

     (391)〈古事記〉の遣使
      〈古事記〉では、記述の段階で
         崇神168×1/3=56+3/3=57    〈古事記〉では3が浮いている   
         崇神168+垂仁153=321=107
     という始めの遣使に触れましたが、応神までは
         崇神168-垂仁153-景行137-成務92-仲哀52-神功100ー応神130
       となっており、〈古事記〉の158あたりのところでは

          崇神168+垂仁153+景行137=458/3=153  
     が近いところででてきます。成務まで足すと
          168+153+137+成務92=550/3=183(中平) 倭建命の、近江、野洲、金森の
    示したところで出てきます。これが守山(森山)崩れー崩年干支ー〈古事記〉といえるのでしょう。
     仲哀まで行けば
         168+153+137+成務92=550+52歳=602/3=200  
     が出てきます。〈古事記〉の仲哀は穴門の豊浦の宮、筑紫の訶志比の宮にいました。一応200年が出た
     神功とセットで考えると
        ① 200           +神功100×2/3=266  において
        ② 166+33+=200 +  100×2/3=266   +3  =269 で
    ①の内訳が②になるということになりそうです。つまり神功の100が100年というのと
    分割というのに使われこれは
     100=(33+33+33)と(39+30+30)とに別けられ 
          239+60=299   300年代の終り
          239 =倭人伝時代の始め
          239+30+30=269)=神功の終   269+100=369
     という設定が出てきた、ということでしょう。これで応神がどうなるか、ということになると、
        130/3=43 で   269+43=412(好太王の没年に一致、)、但し、これは偶然だからここで、
     峠の一休みでほっとく、しかないというようなことになると思われます。しかしここまできて一息つけられると
     いうことは〈古事記〉が優れてるということになります。文献で邪馬台国のことが判ってるはずなのに、
     引っ掻き回してわからなくしているのがおかしい、どこかで、戦後が、戦前の引き継ぎをしてるのは確実な
     ところです。
      まあ400年までは神功皇后で語らせることが多くなっています。皇后は200年仲哀のころ
     出てきたと思われますが、推古天皇(592~628)が女帝の最初とされている
     ので女性の皇后の登場が政治・軍事・外交でみられわかりににくくなっています。天皇は男性も女性もある
     ことがわかっていますが、皇后は女性にきまっとるというのもあり(芭蕉は「神功后宮(こうぐう))」出してる)
     捉えどころのないところもあります。
      今の日本から出動して三韓征伐をするような神功皇后の存在が当時の日本にいたというのが考えられ
     ないことです。例えば百済建国346年といわれ、新羅は356年ですがこのときにも大きな動きをした人物が
     いたはずで、それを日本史の記者がキャッチしてるのもあるのでしょう。蘇我馬子の600年の隋遣使(高句麗
    ・隋の戦端開始による局面変化)まで400年もあります。朝鮮半島の王朝の動き、強力な王の動向、日本との
     関わりを日本の史書が述べてるということもありえます。日本史に外国用の、国内多王朝のスクリーンが
     用意されてるようです。
    

  (392) 別の存在の語り(古事記)で増えた場
     
      今まで天皇・在位(年)を〈日本書紀〉で述べてきて、それが次の▲▼で

       ▲〈書紀〉紀元前       ▼(〈書紀〉紀元後)
           綏靖  33        崇神  68
           安寧  38        垂仁  99
           威徳  34        景行  60
           孝昭  83        成務  61
           孝安 102        仲哀   9
           孝霊  76孝霊2年★ 神功   69
           孝元  57        応神   41
           開化  60       神武   76
         ---------    ------
            計 483             483
          
      数字がちょうどになりました。神武が一番先にあったのをここにおくとすっきりしたものになります。
      いま〈古事記〉をやりだすと▲に加えて下の●部分が追加となり、これも見ないかんという負担がまし、
      一番の負担感は、100年まえの別世界のフィールド(画面)が増えたのかということになると思われます。
 
                                              参考(上と同じ)
        ●〈古事記〉  没年齢  〈古事記〉も      | ▲〈書紀〉紀元前      ▼(〈書紀〉紀元後)
            綏靖   45     も崇神以後          綏靖  33        崇神  68
            安寧   49     数字はある          安寧  38        垂仁  99
            懿徳   45     が省略            威徳  34        景行  60
            孝昭   93                     孝昭  83        成務  61
            孝安  123                     孝安 102        仲哀   9
           ◎孝霊  106 「夜麻登登母母曾比売の命」     孝霊  76孝霊2年★ 神功   69 卑弥呼
            孝元   57                     孝元  57        応神   41
            開化   63                     開化  60(117)   神武  76(117)
         ---------                   ----        ------
            計    581                 |   計  483             483
           神武   137 (原古事記になかった、712に太安万侶が加えたとみている)       
            計    718 ≒ 720 
       神武の活用
            581+76=657  ≒ 660(これは偶然) 
            483+137=620  〈天皇紀国記が完成した年(これは偶然)
            483+100(581-483)+137=720   〈書紀〉完成の年(これは偶然)
            137=100+37   100は今まで500年代で別枠があった。407+193=600のうち
           、37は高句麗前37年建国、〈古事記〉637終了の37
    
   〈古事記〉は古いので外国や別王朝のものが投影されているかもという感じも出るでしょう。 ▲▼は何者か
   わからないが、いわゆる大和王朝だとしとくと、●はどうか、ここの神武は「神倭伊波礼(磐余)(いわれ)」で、
   ●が磐余(纏向)王朝の画面を出してるかもと取れないこともないものです。▲▼もそれぞれ、〈書紀〉と〈愚管抄〉
   では内容が違ってるし、二通りづつはあるかも、とみてるところに〈古事記〉のものが加わってくるのですから
   これはたいへんということになるでしょう。
    、▲も紀元前として一応みてきましたが、元年スタートとなっているかもしれず、その場合は王朝並行という
   現象、また、▼の説明をしようとする工夫、の暗示もあるかもしれないからそれも一概に否定できないところです。
   言ってきた紀元前紀元後というのも確実とはいえないが、●の右に〈古事記〉の崇神~応神までの数字が
    入るから(多少加工されている)、ここで四つ最小限の画面が出てきたことになるので読みの提示があった
   ととっておけばよいのかも。〈古事記〉で581(あとで580が出る)が出てきたので 581+20≒600で
     一応紀元前は600年 (720が出てきて 720-20=700、〈書紀〉は700年 )が出てきて
     600/3=200実年で、紀元元年を挟み前後200年の語りの充実が目論まれたと取れるところです。
      ◎のところ、箸墓で有名な 「夜麻登登母母曾比売の命」(やまととももそびめ) が出ますが、脚注では
        「〈崇神紀〉十年には倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻となる神婚説話がある。」
       となっており〈書紀〉の崇神に飛んでおり、ここに待望の箸墓が出てきてきます。一方、
      ▲の483の★のところ孝霊天皇の二年に    
       「倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫命」〈書紀〉
   が名前だけ出てきて、これは100年前(620)の記者が見ていた箸墓を〈書紀〉の記者が受けとめたものでしょう
   が崇神10年のものは画面●/▲、所属の人が「(神)婚」してて、このとき今の日本で墓造成(古墳)があり、
   266年ごろ、467年頃、立派に建て替えられたものが箸墓として残ってるということのようにも取れますが、これは
          33+38+34+83+102+2(孝霊)=292+76=268
    ともなり、407+60=467
   もあるかもしれないわけです。なんで76や、60を足すねんと文句をいうかもしれないが慈円や太田和泉守は
   最適の組合せで説明をやるだろうから一般のものでは、そうはいかないだけの話にすぎないもので、慈円は
   はじめから、▲の
    483は483+76=559 としてたから、そのとき上手く説明できてたら利用できるはずです。
    崇神10年(ウイキでは7年としたものもある)というのが出てるからスタートを200年においてたら200+68年は
    すぐ出てくるし
   400年をスタートにしてれば崇神400+68≒467はすぐ出てきます。10年の違いは●の581(580)が暦
   に20違いがあるかもというのがあるので保留する(20という片言隻語が全くない)にしても崇神の
   はじめが出てきてるからそれを使えることでもあります。太田牛一に三輪山があったと思っていましたが、
   見当たらず、さがして探して「和州三輪山」がありました。「和州」が入ってたのを忘れていましたが、脚注では
       「奈良県桜井市三輪所在。四六七米。山麓の大神(おおみわ)神社(日本最古の大社)はこの山を神体
       としているため本殿はなく、拝殿だけである。」
    となっていて本文は、天正七年
       「十二月十日、山崎・・・御座を移させらる。・・宝寺・・・昔・・木戸井・・朽・・・御造営・・・代官武田左吉・
       林高兵衛・・末代・・昔・・大工・・鍛冶・番匠・大鋸引(おがひき)・葺師・鋳物師・瓦焼等・・・和州三輪山・・
       材木・・■釿初(ておのはじめ)の吉日・・日取・・吉日良辰きき・・天正七年己卯・・卯剋と勅諚・・。」〈信長公記〉
    があり ■の脚注は
       「建築始め。造営したのは若宮である。」(「石清水八幡宮御修理造営之記」)
    となっています。467はあってもなくても266の200年あと、400スタートもありうるといってけしからんとなるだけ
    のことになるのでしょう。つまり画面は空間だけでなく、時の隔たりで画面が生じて交差する妙点で多くのことが
    得られることになります。太田牛一は孝霊天皇を出しており、富士噴火のことが出ています。これが◎と★の
    ときですが、その右、延長上に神功皇后の時代(邪馬台国のとき)がありますが
          卑弥呼の没が248で
          266に西晋に使いを出した倭の女王は、266-248=18年後、世が治まった結果
    です。卑弥呼の舎弟、子息(台与)の支援のもとに世を鎮めた壱与が倭王になったので、卑弥呼死後からの
    女王(卑弥呼②)は倭王になるので、内藤湖南は卑弥呼=モモソ姫の説で知られていますが、268年に箸墓
    を増築してることも窺えるので両方満足しているのではないかと思われますがこの説は、考慮の対象外にされ
    ているのか、邪馬台国論争でも出てきません。
     甫庵では、孝霊天皇は富士山の噴火のあった時期の天皇として話に出てきますが、
    ここで「朝」が出てきます。
      「昔宋朝の景廉(シあり)が詩に・・・富士・・叉我朝の詩人万里に・・・・富士の詩は和漢・・」〈甫庵信長記〉
    があって景廉の頭注は
          「明の人。孫三傑の字。宋朝の、とあるのは誤り。」
    とあり宋朝→明朝という言い直しをいとも簡単にしていますが、富士で王朝を重ねてるというのがわかるという意味
    なのかどうか。これは、「昔日天乙女、此所に天降りし・・」などある長い一節に出てきます。ここで一つ
      「かくて安倍川を打越給ひてければ、そ波「ルビ=(マヽ)」はありけると戯れけん、まりこ河を・・」
    というのは、よく出てくる(まま)が出てきます。この文の意味は確かに分からない。が、そのまま書いとくと
    いう意味のものでしょう。明治の文献でもあります。これはもう一つの文を用意してあるはずだ、という
    意味と取るのもよいのかも。「宋朝」に「まま」がついてれば「宋朝の、とあるのは誤り」という注はないのかも。
    〈書紀〉にも原注のようなものがあり、ぱっと開いたらすぐ目に入ってきます。景行記
      「吉備(きび)武彦を越の国に[派]遣して、その地形の難易と人民が[従]順かどうかを観察させた。」〈書紀〉
    などの[ ]は一字の注なので大したことないという読み方をついしてしまっています。ここの「越」に「まま」の
    ようなものが入ることはないのでしょう。上の「え」は「へ」と思いますが、ちょっとした違和感がするだけで過ぎて
    しまいますが、この「え」のルビで「まま」は付かないと思われます。つまり「まりこ河」はネットでみれば「酒匂川」
    というのが複数でています。〈信長公記〉「の「まりこの川端」の「まりこ」の脚注では
         「静岡市丸子。宇津山の入り口。」
    となっており、続く、「ふせぎの城(脚注=防禦の城か。)あり。なにしおふ宇津の山辺」の脚注は
         「静岡市宇津ノ谷。静岡市・志太郡境界の山。その峠は東海道の難所の一」
    となっており、「東山・・浜手」もあるので、これは国郡の境、「上・下」の分れ目とも取れますが「なにしおう」と
    いう知識がないのでこれ以上進めません。しかし、此の国郡の捉えられ方は一面/一事・一時ではなく、外から
    みたそれであり、本来的に他に敷衍できるやわらかい中味をもち、
         山    上    日上
        -----ーーーーーー
         谷    下    日下(くさか)
    は、上手外国、下手が今の日本とするというスタートは、叙述のスタートとしては政治的な実態もふまえて見事
   でもあるともいえますが、それをしたのが〈天皇記国記〉=〈古事記〉です。〈古事記〉は、はじめの●の580で
   は(+20)=600(西暦600)年をだし、西暦600年の国造り策として隋への遣使に踏み切ったところまで
   画いてしまってると見をみてると取れるところです。綏靖~開化の開化は600年のときの宰相に重ねてある、
   ということで第一面を総集編にしてる、というようにみるとき〈古事記〉にたくさん塗(まぶ)されている数字の役割
   の大きさがでており、〈書紀〉がそれを踏襲しているとすると、太安万侶の書いた〈古事記〉序文は〈日本紀〉の
   序文として、書かれたとみてよいと思われるほどのものと取れると思われます。とりあえずここは580というのが
   気になりますので〈書紀〉の同じ表記の所をかりてきますと、137を利用して
   、        紀元後                       
    再掲  〈古事記〉        〈書紀〉     
        綏靖   45       綏靖  33    
        安寧   49       安寧  38        
        懿徳   45       威徳  34         
        孝昭   93       孝昭  83         
        孝安  123       孝安 102       
       ◎孝霊  106      孝霊  76          
        孝元   57       孝元  57           580+620=1200
        開化   63       開化  60           1200/2=600
                       神武 137           西暦600隋遣使
         ---------ーーーーーーーーー      を睨んでるといますが             
        計    581          620    |     137を利用できて20の違いは〈書紀〉で
            +10          -10            修正されるかもというのがでました。
             590          610
       なお〈書紀〉の神武の年齢は127歳になっており、右側620は610に変更も念頭にあるとすると
       差は10の違いになります。近づけたのは600:600にしようという意思があったともとれそうです。


     (393 )朝鮮王朝枠 
    多面の一つとして朝鮮半島の画面があるとみてやってみると多くの判らない点が解けてくるかもしれません。
     神功皇后に三韓征伐の話があり、慈円も
      「男のすがたをしてして新羅・高麗。百済三の国をうちとりて(ルビ百済=討取)。応神天皇をうみたてまつ
      りて。武内をもて為後見(うしろみ)。・・・あにの御子たち謀叛・・。武内大臣みなうちかち(ルビ=勝)・・」〈愚管抄〉
   を出しており、太田牛一も、これを書いており、「じんぐうくわうごう」のことで

      「たいせん四十八そう・・・そのころ、●とうかん、けんてい、けんあん五年にあたって、・・▲かうらいこくに
       いたつて、御とかい也。…こうさん申、・・・けんはく(堅船舶?)、八十そう・・ねんねん、わかてうのみかと
        へ、そなへたてまつる(貢進)へきむね、けんやく(堅約)也。
       さて、かうらひ、・・▼かうらひのわうは、日ほんのいぬ也と、くわうこう・・かきつけ・・しんら、百さい、かうらい、
       三か月のうちに、御ほんいたつせられ、・・御きちやう・・・・しかのしま・・・」〈たいかうさま〉

    のような文があって、今の日本にいたとされる神功皇后大活躍とされている場面ですが、●はわからないと、
    ほっておくと、後漢の末の東漢、献帝、建安が抜けてしまうのだろうと思われます。即ち、西暦57年光武帝印
    綬以後の150年くらいあと200年前後の世界になります。〈年表〉日本史欄は「239年、倭の女王帯方郡遣使
    まで一切記載のない空白の部分の出来事です。▲の「かうらいこく」(「い」のくに)が
   今の日本と取られても違うとはいいきれないものです。また▼の「ひ」の王は当時の王者で「日本(大倭)の犬」
   になってるので、その支配を変えたいと、好太王の父王世代の王が乗り出して地域を鎮めたという長い期間の
   話をしてる、と取れるところです。要は高句麗の成立が、紀元前37年で、
      346年の百済、356年の新羅の建国(いずれも神功皇后範囲内の時代)
   ということですから、百済とは「ー37~346(383年間)」も差があることになり、それならこの2国が出来るまで
   は、百余国分立していたこの地域は、中国・大倭・高句麗中心にまわっていたとも取れるところです。

    倭の五王(讃・珍・済・興・武)が〈年表〉に出てくるのが、400年は応神(神功皇后の子)のときで401~500年
    が(五世紀)ですが、この400年以前はもっと中国史・三国史に依っているのか
    〈年表〉では   
        「266年  丙戌  11 倭の女王、使を西晋に遣わして入貢する〈神功紀66年条〉」〈年表〉
     の記事が日本史記事の引用の最初で、2回目は、
        「366年  丙寅   倭国・・・使者を百済に派遣(王は百済肖古王・〈三国史記〉では近肖古王)
               ・・・・〈神功紀46年条〉」〈年表〉
     の二つだけが日本史の記事からの引用で、神武から神功直前までの年代は無関心だったのか、どうなっ
     てるのか、頼りない史料に依存する学者の努力は特筆に値するというようになるのは当然です。366年は
        「346年 近肖古王即位し、百済成るといわれる。」〈年表〉
        「356年 奈勿王即位し 新羅成立。」〈年表〉
     のちょっと後です。百済にすこし自信がなさそうです。
        「57年 丁巳 倭の奴国、後漢に朝貢して光武帝より印綬を受ける〈後漢〉(・・・天明4年・・志賀島
              出土の「漢委奴国王」の金印がこれに推定される)」〈年表〉
     は江戸時代の亀井南冥の史料によっており、これはあの時の・・と見破ったのは大したものですが、
     古い話なので、もう一つ景行天皇が景行18年(68+99+18=185/3=61年ごろ)に行った筑紫国の
     王朝が九州にあったら崩れる話ともなるのでしょう。景行は纏向の宮にいました。607年小野妹子が
     隋に使いし帰路百済において、煬帝の返書を紛失して流刑にあったということ(ウイキ)ですがそういうことなら、
     九州に金印が出るのはおかしなことにもなります。(百済)と書いてなければ不思議でもないことになります。
      これは〈書紀〉にある話で、
        「唐の帝の書[簡]」「百済人が掠め取りました。それで[天皇]にさし上げられません。」
     となっていて、竹簡という説明はあるとも取れますが下賜品にも変わりえる、百済人はどこの国が出したの
     か知らなかった。(天皇)はいまの日本だけが使うことになってない、などのことは背景にあったともとれます。
     この小野妹子の書の紛失という話は、わかりにくい話だけに、だれかが解説してくれるはずで、太田牛一も
    それをやったと見れるのが志賀で志賀郡は明智十兵衛の最初の本拠です。
     大倭(この地域統治のため中国の設けた出先機関?、中国と各国の間に入る王朝?)というのもよくわから
     ないが、その根拠地すらよくわかりません。一応卑弥呼が帯方郡に遣使してることで魏と通じた
    ということだろうから、百済の北方、公孫氏の南あたりの中央部西よりのどこかということにしときますが
     朝鮮半島・日本列島の二本があるこの地域を中国(倭)・高麗がうまくまとめあげるのに南の百済・新羅が
     必要ともなったということなら、
        百済、新羅同時成立
     なったとしてもおかしくないとも考えられます。346の20年後366(266壹与遣使の100年後)には〈年表〉で

      「366 ■倭国の志摩宿禰、朝鮮の卓淳国に行き、使者を百済に派遣。百済肖古王(〈三国史記〉では近
       肖古王)、使者に綵絹などを賜う〈神功紀46年条〉」
      「367 百済・新羅朝貢する。その時、新羅が百済の貢物を奪った・・千熊長彦・・新羅を責める〈47年条〉」
     
   がでており、■は今の日本ではなく「大倭」でしょうが百済を祝っています。ということなら百済はこのとき成立、同時
   設立だったので新羅が怒ったとも取れます。千熊長彦を送って新羅を責めさせたのは、■の王(卓淳国②?に
   いた?)ともとれます。つまりなんで「卓淳国」へまわって行くのかという問題が〈年表〉の画面から出てくるのか
   ということです
     卓淳国は加羅辺にも載っており、朝鮮半島南部は、地図の左の海に面して百済、右海に面して新羅、下、海に
   面して加羅(韓?)があり、支配層は、卓淳①・高句麗も含めて親戚として繋がりは濃厚だったともみれます。
   倭の五王という期間に触れねばならなくなったので「大倭」を想像したわけですが266~366の100年間、
   〈年表〉では大空白となっており、〈古事記〉では神功皇后、年100歳崩、〈書紀〉は神功69年100歳崩と
    なっているので、〈古事記〉の100がオフラインのような感じで出てきたとすると、
       346-200=146     366-200=166
      後漢・桓帝  146(年表147)~167/霊帝 167~189   (後漢のこのときも卑弥呼登場)
   にも近づいてきます。
    400年以前は
   〈神功紀〉の引用が多く、神功皇后も激動の時代といってもよい時期に出てきて、日本が海外の変動に巻き込
   まれてしまう恐れが多分にある時期なので、日本史が大陸の隣国の動向を述べざるを得ないことが多々あります
    が、朝鮮三国史を転載せずに 語る手法として、日本の天皇を海外で、[日本の地名]をバックに動かして、
    間接に海外の王の動きを語ってそれを表してるということがあります。日本の一般の読者が外国文献をよまなくても
    ある程度のことはわかるようにしとこ、というのがあったのでしょう。
   テキスト神功皇后紀の脚注には
       「日本・天皇ともに7世紀末にできる呼称。・」(これ以前に日本(国)・天皇頻繁にでててくる)
       「御孫尊[仲哀]は神代の皇祖ー皇孫と関わり、垂仁や仲哀とは別の存在とみなすべきである。」
       「原文日本貴国の日本は、後代の大和朝廷の呼称。・・」
       「このとき仲哀は死んで神功だけだから天皇はおかしい。この一に云うが神功とはまったく別の記録で
       あることを示す。」(別の系統というのは海を越えることがありうる)
    などがあります。〈古事記〉をベースにすると、時間・空間・人物が(「表記」によっても)変わってそうなので
    こういう感覚が、別画面に踏み込めそうというのがあり、〈天皇紀国記〉に神武がなかった、というのも、はじめ
    に感ずるところからでてきます。西暦500年までは外国のフィールドに記事を移してみると案外
     いまの日本サイドがよくみてとれると思われます。その意味で倭の五王の時代を見る空白の4世紀間
    の次のスタートを スクリーンにだしてみるのが要りそうです。わかりにくい倭の五王の時代をさきにやって
    みてわかるかどうか。

    〈年表〉では、肝腎の日本国史の枠内に天皇による時代区分はわからないとして、西暦500年(継体)までは、
    天皇名は出てこず(480年清寧天皇からは確実にわかる、つまり西暦480=西暦480年とわかる)西暦だけ
    で出てきます。一方朝鮮国史画面でみれば
    王朝が一つでないが、全部、西暦で事件が出ており、日本史の記述の中の志摩宿禰のような記事と統一的
    把握ができるようにすると、両方の歴史がよくわかるということで移すというのが大きな作業となります。

     継体以前では在位(年齢)が長い天皇が多く、三倍になってるか、というのは既述のことですが、どこから
    か、というのはまだわかりませんがよくよく見れば清寧天皇480即位から等倍になってそうだというのが
    窺えます。そんなら401年(応神区切り407年)からそうなってるかというのも出てきます。が
     408年から仁徳87年が出てくるから大きすぎて訳が分からなくなり、そのあとも、允恭天皇42年(約二人分)
    も出てくるのでワケが分からなくなっています。倭の五王のところで、三国史などから日本史を修正してるかも
     というのがあるので、5世紀をやってみると下のみぎのような等倍(履中~仁賢)がでてきます。
    
             (1)               (2)      (3)          (4)
        綏靖~開化 紀元後に適用  |     |  紀元後   |
    再掲  〈古事記〉    〈書紀〉   | 37年 |   〈書紀〉 |    倭五王と連結
       ------------------------ーーーーーーーーーーーーーーー
        綏靖   45   綏靖  33 |       | 崇神  68|         ↑
        安寧   49   安寧  38 |      | 垂仁  99|
        懿徳   45   威徳  34 |      | 景行  60|       左に同じ
        孝昭   93   孝昭  83 |600年 | 成務  61|
        孝安  123   孝安 102 |      | 仲哀   9|
        孝霊   106   孝霊 76 |      | 神功 69 |
        孝元   57   孝元  57 |      | 応神  41|         ↓ 
        開化   63   開化  60 |       ーーーーーーーーーーー ---------↓
                   神武 137 |      |(小計) 407|     西暦407年     ↑
                                   |神武  76|     ●履中  6     
         ---------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    反正  6              ----        ------
        計    581       620 | 37     計  483       允恭 42
             +20      -20              4+13         安康  3    倭五王
             ーーーーーーーーーー        ーーーーーーー        雄略 23     の世紀
                  600年             483+17=500     清寧  5
              西暦600隋遣使                            顕宗  3
                                   17=4+13で利用     仁賢  11    ↓
                                                   ーーーーーーーーーーーー
                                                     計 100
                                                   合計=50(407+100)
                                                     (7は繰越の7)
   (1)の600は、(2)の西暦元年~600年遣隋使の表紙になってると見れますがこの37は紀元前37年の
    高麗国成立が出ており、それを打ち出そうとするのが〈古事記〉で
      推古期が ① 592+36=628(推古天皇没)の36年間
             ② 592+8+37=600+37(推古治政の期間)
     という二通りがだされ、620年天皇紀国記の完成だから、次の天皇推古の終りまでは書けないはずで
    ②の37は紀元前37に注意を向ける、まあ繰り上げるという意味の37として最後に太安万侶によって追記
    された、ととれます。600-37≒562(欽明23)に、新羅が任那を併合し、加羅地方が(卓淳国も含む)が、
    新羅領となり南部の均衡が崩れ、中国では581隋が成立するなどの高句麗・百済に風圧が強まってくる
    形勢下、日本は両方から注目されてくる存在になってきてる感じです。(3)の応神から
     ○「76」が生きてくる流れ 応神400+(7+76=83)=仁徳の87(83+4)(仁徳にも3年の調整幅がある)
     ○●から仁賢までの100に到る流れ(西暦400年は庚子・履中元年は庚子)
    に分かれます。●の分の繰越しをいかしたものが次の▲です。▼から倭の五王の分です。


    (394)400年代対比
   
         日本               | 大倭(外国)〈年表〉から作る
    前段 応神  407  7×=21   |  好太王  391~没412     
        (仁徳 87カウント除かれる) |  長寿王  413~終420(491まで在位)  7(7年間倭王兼務?)
        -----ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      ▲応神残   7             長寿王  413~420(7年)   7 (413に東晋に使者が出てる)
        履中    6          ▼   就任421~没438     17 (好太王子息が倭王となる?)
        反正    6             珍(弟)  438~没443      5 (弟が日本と同じ問題?)
        允恭   42             済     443~没460     17 (百済の「済」?)
        安康    3             興     460~没477     17 (高句麗か新羅の「興」?)
        雄略   23             武     478~終◆502    24 (通説は雄略は武王となってる)
        ----------------------------------------
        小計   87 右に合ってる  |  小計(502-413=89)|小計87(87は偶然かも)
    
 このあと(清寧5顕宗3仁賢11計19)   |◆は世界欄で「百済王」が征東将軍に進号されたので一応締切とした。
                           | 国内欄では「梁武帝・・・倭王武を征東将軍に進号する〈梁書〉」となってる。
        87+19=106         |  倭の五王の期間は▼421~502(80年間?)

  のようなことになりますが取りあえず、の部分「7」をひくと   左99(106-7)  右80(89-7-2) となります。
  左が99で、右80で 20年の差があります。

  、    [別の計算でやると 允恭は412年 壬子のスタートであり
       412+42+3(安康)=457    これは済までの460に該当し 雄略までいけば
       457+23=480 でこれは次の清寧元年に一致する。この数字は右では次の興の477に相当する
       従って雄略は武王とはいえない、しかし期間はずれてあってる(雄略24もある)ので、〈書紀〉の雄略
       の事績は外国の武王のことも混ぜってるということになってると取れる。長寿王は491まで在位という
       ことでこれは別の画面となるが、420で分岐して、弟の讃を倭の王にし、済王はその子息と思われるが
       興王は長寿王の子=允恭かも。允恭は仁徳の子で、78歳〈古事記〉は87を受けていると思われる。
       武王は百済出身ということになる。〈年表〉では長寿王は外国欄にも一切出てこないのでそれからいけば
       外からの引用なしで説明がいるとするとここの420の20は允恭の空白部分になるのかどうか。
       仁徳は84もあるので、この東西二面のここでは1/2もあるとすると84/2=42がでて允恭に仁徳が及ぶと
       とすると本文では允恭のスタートが5年からとなってるので珍の5+17=22と20に允恭がわかれそうで
       もある。もっともわかりにくい天皇に、衣通姫(着衣を通して美しさが輝くという)を登場させていて、これは
       〈古事記〉に出てるのが重要であると思われる。〈書紀〉が色づけして、太田和泉守が泉佐野の日根野
       (日禰野)をだして補強しており、現地に茅渟宮址に衣通姫墓所・歌碑が残ってるということで、これは太田
       和泉守の〈古事記〉の語りが知られていることからきていると取れる。
       百済暦にあわせているので20年(19年)のはみ出しが▲で出たということとも思われるが、違うかも。]

    407という繰越の7は 縦の計算に入るオンラインのものと
    オフラインで語りを広げるものがあり、この面では
         7×1は ▲の小計87の7   長寿王491年没の即位から420年までの7
         7×2は 倭国の東晋への使者が出た(長寿王の即位の413年)のはみ出し13を示す
         7×3は 倭の五王スタートの▼の就任・使いをだした421年の21を示す
     ということで西暦年数との調整ができてるというのを示しています。ほかにここでオフライン・オンラインにも
     なるものに仁徳87があり順番 応神(41)ー仁徳(87)ー履中(6)において
        西暦400=庚子=履中即位だから 87を脇へ退ける場合と、縦の計算に入れる場合とが出てきます。
        前者は好太王の子長寿王が長生きしたことを踏まえているので数字が大きくなったことを示し、ついでに
        これは87/3=29でも使われる場合もありえます。
         仁徳87のような玄妙なところにつき合わないと、また外国枠と日本枠との対比ができる
         ようにしておかないと、ここの解釈がむつかししくなります。日本で長寿の天皇の確実な話も伝わって
         おらず、現にまとまった空白27年くらいは仁徳紀にはあります。
          同時代の長寿王が78年という在位(ウイキ)なので、ひっくりかえして87が出てきてるとすると
        それはオフラインで受け止めることになりますが、長寿王は 413~491まで在位したので
           400+87+=491(〈古事記〉は応神崩年干支で「394」だからこの「」や「10」は〈書紀〉で
         調整されるとみてよい)という縦の計算(オンライン)で使われることにもなります。
         87/3=29も使われているはずですが、これは日本で使われてるか、というとそうでもないようです。
       このところテキストの脚注では似たような結果になってて
         雄略紀二年の事件の原注(下の●の部分)があり
       「二年、・・・天皇は大いに怒り・・・火で焼き殺した。(百済新撰はいう●己巳の年に蓋鹵王が立った。・・・))
    があり、この●に脚注があり
     「この年を429年とすると、雄略ではなく仁徳かその直後にくり上がり、489年(●の年)とすると百済では
      蓋鹵王ではなく末多王(在位479~501の東城王とされる)となり無理。」
    があり、応神、400+29で使われています。また仁徳を87を3で割らないで
    使うとほぼ●に達し、長寿王の在世中に百済に攻めてきたことにもなります。
     ついでですが雄略20年
        「冬、高麗王は大いに軍兵を発して百済を伐ち、ほろぼした。・・・(百済記はいう、蓋鹵王の乙卯の年
         [四七五]の冬、高麗の大軍が来[襲]し大城(こにきし)[漢城]を攻め・・・・国王・・大后、王子らは
         みな敵の手で死んだ)
    という引用が〈書紀〉にあり、高麗王が「百済国は日本国の宮家として…久しい・・その王は[日本国に]入って
    天皇に仕えている。」といって「逐除」するのをやめています。また天皇がその国を救い感謝されていますがこれ
    は天皇①で蘇我馬子より120年も前のことで、倭の五王もいた時代です。
    これでみると480の清寧から等倍が使われてるのでひょっとして履中から等倍になるのかもというのが出てる
    ので上の表が出来たわけです。この500年代の〈年表〉の〈書紀〉からの引用は13件に過ぎず、そのうち
     6件が480年の清寧以後で、大部分中国史書(宋書)からの引用です。履中元年というのは西暦何年か
   がわからないので、480年清寧元年から逆算すると
       480-23-3-42-6-6(履中)=400
    になり 西暦 400年(履中から)等倍でいけるようになってたということになりそうです、ここで問題が出てきて
     仁徳87、と 応神の7(はみ出し部分)がどうなるかということですが、これは脇で生きるということの方が
     事実を表しやすいとみると
      1、幹線 ・・・・・応神400+(履中6・反正6・允恭42・安康3・雄略23・清寧顕宗仁賢19=100)=500
      2、脇①     応神7
      3、脇②     仁徳87
    
    としとくと、脇①+脇②=94 を倭の五王枠として移すと説明しやすい場合もでてくることもあるのでしょう。
    ここで「7」の継承があって〈古事記〉でうかびあがってくることですが
                                         応神   継体  遣隋使  持統
     西暦 △37年ー37年ー57年―107年ー147年・・・・・・407年ー507年ー607年ー700年・・・
    があります。高句麗建国の△37年は、37年に移行しますが、暦の問題があるとするとこれは57年になります。
    継体も500スタートとしたいというのがあり、この7は、小野妹子の607年の遣隋使になりますが、これを600年
    繰り上げるという大作業のために「7」を流してきてるともとれます。
   
     。三韓征伐の神功皇后などは今の日本にいた人物が、朝鮮半島に乗り出して領地を
      拡大したということではなく、外国の地、日本の地を借景して,述べてるということが古い時代の「天皇」という
      主語は、異国の王となっています。天皇という名称は、今の古事記によって712年から使われそれ以後
     日本の知識人が安心して統一して使いだしたものといえます。〈記紀〉が外国に献呈されたことなどによって、
     それに合わして外国の史家が、日本は皇帝とか王の呼称を「天皇」に統一したとみてたのでそれを一般化したもの
     と取れます。日本の雄略紀で、主語として天皇と書いてあるのは、朝鮮半島在住の倭国王、高麗王なども
     を表してる場合があり、百済を攻め475、熊津への遷都を余儀なくさせたのは日本の雄略ではなく、時代は
     掠っています。
                      
       とにかく〈古事記〉の数字が馬鹿にならないものであるということがわかりました。


    (395)〈古事記〉数字の表記
       ここで一応、元の〈古事記〉にあった、紀元前欠史八代  についてもまとめておきますと

                        2   3   4    5   6   7   
             神武ー /綏靖ー安寧ー懿徳ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開化― 小計  /崇神
    〈古事記〉年 ●137   45  49   45  93  123 106  57  63   581   168
    〈書 紀〉在位 76     33  38  34  83   102  76  57  60   483   68
      差      61     12  11   11  10   21  30   0   3    98   100

  となっており、〈古事記〉は●について
         「御壹佰参拾漆(ももちまりみそまりななつ)」(以下全部)
   という年齢表記になっていて、これは〈書紀〉では
          「七六年」「一二七歳」(なんとなく●の下の「76」は「77」にしたいかも)
   のような表現がされるはずのものです。●は620年に書かれた文献のものか、712年(書紀の8年前)に書か
  れたものか問題が残りますが、前者を712年に写したと見るべきではないか、と思われます。●の数字の部分を
      「年」と「歳」で
  挟んであり、在位と年齢両用になるような工夫があると取れます。〈書紀〉はこのほかに年齢がありますがこの表
  では省きました。念のため書いとくと、 
          127   84・57・77・137・120・128・117・115・ 〈愚管抄〉
  となっています。即位年齢+在位=没年齢 ですが、没年齢が〈書紀〉の年齢です。581は600年に近く
  暦の差が20あれば600になる、神武の●は元(帝紀)はなかった(712年に入れた)というのが、〈書紀〉の神武
  127と10の違いになったのかもしれません。137は100を右へ移すと倭の五王の100年になる、残37は推古
  の〈古事記〉の37をみている、7の孝元57の固定の意味など、いまはオンラインで使い所がわからないが、オフ
  ラインでもつかえるとすると、なにか一つでてくるのがあれば油断のならないことになります。100の違いが「年」
   だから、天皇記国記と〈書紀〉の100年の経過をいってるともとれます。
   一番最近の開化が3年の差となってる、また60はただ一つの0なので、1・2年の差は基本的に合と
  なってるといってるかもしれません。紀元後の崇神の168
  というのは崇神68+垂仁99≒168/3≒57  にもなってる、  98は100に近くて2までの違いは合というの
  も出てるかも、・・・・のようなことで、とにかく
     紀元前37 /600[(元年~崇峻)592+8](内神功100)/ 推古37(712年太安万侶の補足) 
   というのが帝紀の内容かもということで出ました。数字だけでも〈書紀〉の根幹をなすものが100年前に出てた
   、国語の確立の時期もそれに重なってきてるとすると、何か底知れないものを出して来た時代です。

 
  (396)〈万葉集〉の雄略
       〈万葉集〉の一番初めの歌は「雄略」天皇で、次からは舒明に飛んでるわけで、雄略は
         大泊瀬幼武天皇[雄略]〈書紀〉  大長谷建の命〈古事記〉      (479没)
   であり、崇峻天皇は
         泊瀬部天皇[崇峻]〈書紀〉     長谷部の雀の天皇〈古事記〉     (592没)
    であり、〈万葉集〉は
         「泊瀬朝倉(桜井市朝倉)の宮に天の下知らしめしし天皇の代  細字{大泊瀬稚武天皇}」
    となっています。
    
   泊瀬の天皇をあの「雄略」ととると一人だけ100年以上前から持ってきたことになり、崇峻天皇が崇神の「崇」を
   引き継いで、はじめというのにふさわしいかも。

     「真の万葉の時代は舒明朝以後であること周知の通りである。」
     「〈万葉集〉が〈古事記〉の巻末に位置を占める推古天皇を継ぐ舒明天皇からが真の万葉の時代であり、、こうし
     た両書の御代ごとの書式が同じ態度である(略)ことは、〈万葉集〉が〈古事記〉を継ぐものとして成立したことを
     思わせる」。 「・・●要するに▲〈帝紀〉と〈旧辞〉を正しく後世に伝えようとして出来上がったものに〈古事記〉と
     名付けられているのであった。」〈桜井万葉集〉

   があり、●は序文にあります。しかし〈万葉集〉巻一に
       「讃岐国安益郡に幸(いでま)しし時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見て作る歌」
    と題する、五長歌・六反歌があり反歌の後の左注に
       「右、日本書紀を検(かむが)ふるに、讃岐国に幸すこと無し。・・・」
    があります。ここで〈書紀〉が出てるので〈古事記〉のことを書いてるか、というと書いてなさそうでそれより前
    「◆天皇記国記」が620年に完成したことが出ており、大化改新のとき
        『645年・・6 蘇我入鹿(没?)・蘇我蝦夷(没?)。「天皇記」「国記」焼失〈紀〉』〈年表〉
   が出ています。◆は、日本史のラインに乗らず、私家所蔵文献が消えたことをいっており、オフィシャルな文献が
   それを伝えていることになっています。いいたいことは「▼天皇記国記」は〈書紀〉の造語で、〈帝紀・旧辞〉を指してる
   ということです。▲▼間のことはチェックしなくてもよい、〈古事記〉は〈帝紀・旧辞〉を含んでるから、〈日本書紀〉
   によって▲が後世に伝わると言ってるのが太安万侶の序文ともいえます。

     「  古事記  上(かみ)つ巻  序并はせたり

          序文               (この序文の位置は、「一.伊耶那岐阜の命・・」[八、鵜葺草不合・・・]
                            「一、神武天皇 ][二、綏靖天皇以後八代」「七、武烈天皇以後九代]
                            などという15の大項目と同じ高さ、字の大きさに合わされている。)
            [過去の時代」
     ・・・・・・・・・・・
            [古事記の企画]
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・
            「古事記の成立]

     ・・・鵜草不合尊より前をつ巻とし、
     神倭伊波礼比古の天皇より以下、品陀の御世より前をつ巻とし
     大雀の皇帝より以下、小治田の大宮より前をつ巻と
     し、并はせ三つの巻に録(しる)し謹みて献上す。 ・・・朝臣太安万侶・・・」

   となっていて、序が全部の巻に及んでいます。テキスト〈日本書紀〉訳本では、著者は
      「日本書紀三〇巻を上、中、下の三冊に分けた。この分け方は古事記の上、中、下巻と対応している。」
   と書かれています。勝手にやってはいけないことを、やってしまって〈古事記〉と〈書紀〉とは重なってるものだ
   いってしまった、ということです。上・中・下のヒントは〈書紀〉全30巻の
        第一巻神代上、第二巻神代下
   があるところに中入れをしたということともとれます。中にいれるものは  帝紀旧辞ー古事記―書紀
   の古事記になりますが、もう一つ舎人親王が七二〇年、
        「日本紀を[編]修した。ここに至って・・・奏上した、●紀三〇巻、系図一巻」
   とある、●の内容が問題で日本書紀を上、中、下に別けたなら〈古事記〉も「三〇巻」とみられてるかもという
   のがあります。つまり
      「日本紀(三〇巻[古事記30巻・日本書紀30巻])、推古系図一巻」
   くらいの完全性がいるのではないか、〈信長記〉も、〈信長公記〉16巻、〈甫庵信長記〉も巻15の上・下を設けて
   合わされています。系図が失われてどこへいったやらわからない、日本書紀に序文がない、
   古事記はオフラインになってる、という見当違いを重ねると、具合がわるいと思うので部分的にもみておくのも
   要るかも。ここで〈天皇記国記〉の「形」を概観しておきたいと思います。

 
    (397)〈天皇記国記〉の構成
         〈古事記〉より元の形が推定されるのではないか、やってみることが要りますが、殆ど、手を加えられて
        いないと思われるのでわりかし簡単かもしれません。
         ここでいいたいことは、年の相関ということと〈日本書紀〉に序文がないということです。
              620年〈天皇記国記〉ー712〈古事記〉ー720〈日本書紀〉
        となっています。
           聖徳太子没の四年前、620年に天皇記国記などが出きてたことは〈日本書紀〉
        (〈日本紀〉という語句もある)に出ており、〈書紀〉の編纂に携わった記者は、先輩(先祖になる)の
        作品に、〈日本書紀〉を併せて、100年後、720年に〈日本紀〉として撰上したということです。712年の
        〈古事記〉はその橋渡しです。
        30巻と系図1巻ですが、〈日本書紀〉に序文がない、推古期の途中で出来たから、推古紀は書けない
        ことになるなどのことで712に620・720両にらみで、特別太安万侶が、〈書紀〉の編者の参考書として
        完成品として出したということになってそうです。天皇名が同じというのもあり、100年の繋ぎというのは
        両者に関係があることは、わかっていますから、それ以外で立証することができたら確実です。
       
        〈古事記〉は各論のはじめに〔天地のはじめ〕があり

             「天地(あめつち)の初発(はじめ)のとき、高天(たかま)の原(はら)に成りませる神の名・・・」

         からスタートしており、これは〈信長公記〉の半分ぐらいの分量の、高天原のコンパクトな物語といえ
        そうです。

         
  〈古事記〉は  ▲つ巻(神代)・   中つ巻(神武~応神)・   下つ巻(仁徳~推古)
                 ▲に(「高天が原」・「葦原の中つ国」)が出てくる(索引がある)                
           ---------------------------------------
           〈日本書紀〉は、
                     上 ▼神代・★神代下 ・神武~応神/
                     中  仁徳~推古 /
                     下 舒明~高天原広野姫の持統
                    (▼に「高天原」(「高天の原」)・★に「葦原中国」がでてる。但し索引がないので
                     はっきり確認できないが、★に「高天原」、▼に「葦原中国」がないとするとフィールド
                     で住み分けされてるかも。いずれにしてもこれも一つではないといえそうである。)
         
        となっていて〈古事記〉序文は「▲上つ巻(神代)」にあり、両方〈古事記〉〈書紀〉の序文になるのでは
        ないか、と思わ
        れます。太田牛一の〈信長記〉も、〈信長公記〉に序文相当のものはなく、出だし(一)は

            「・・尾張国八郡、織田伊勢守、上(かみ)の郡四郡・・・。半国下(しも)郡(こほり)四郡、織田大和
            守(出雲守で既述))・・上下川を隔て・・・清洲の城に武衛・・・大和守も城中・・。大和守内に三奉
            行・・・」〈信長公記〉

       、があり、これには「中」がなく、「上」「上下」というような感じになっていますが、はじめから細部の話に
         なっています。一方、講談調の、史書としてはどうかといわれる〈甫庵信長記〉は 「記」「興亡」があって
         始めの「記」は中国から話をきりだし異国・本朝の話が出て、「興亡」は実に神武天皇から、直前の
         足利将軍までの時代の語りがあって堂々としたものがあります。さらに甫庵に太田和泉守牛一の紹介が
          あって、これが
         なければ〈信長公記〉の著者のことがわからないから先に読むべきものという理屈になります。
      
         上・中・下、は一応、時代の早いものからいってると思いますが、下へ降りていくというのは古い国
        へ行ったというのもありそうです。場所的なものがありえる、上の手・下の手(山手。浜手)という
        上・中・下があって西が上で、中国・朝鮮半島・日本列島というのが頭の中にはあります。日上が氷上
        で日下が「草加」・「茄」・「早加」です。〈古事記〉序文には番号は入っておらず
       書き方が    
                  目次

             古事記  上つ巻   ●序并せたり
                序文
                    過去の時代
                    古事記の企画
                    古事記の成立     和銅五年正月廿八日 ・・・太朝臣安万呂

                (上つ巻8題)
                一、伊耶那岐・・・                     一~八(8題)
                二、天照らす大神・・   
                三、須佐の男の命
                四、大国主の神
                五、天照らす大御神と大国主の神 
                六、邇邇芸の命 
                七、日子穂穂出見の命
                八、鵜葺草葺不合(あへず)の命 (〈書紀〉では神武天皇の中で書かれている)                        

             古事記  中つ巻     神武ー応神             一~七 (7題)
             古事記  下つ巻     仁徳ー崇峻・推古         一~七 (7題)
                                               計   (22題)

       となっており、序文は、22の番号・題目の付いたものの外にあります。〈日本書紀〉における推古天皇は
       巻第二十二にありますが、それと、これとは関係がなさそうでもあります。
        まあここでいいたいことは、いま
           〈古事記〉が   神武 綏靖・・~・・崇峻 推古まで
       となっていますが、当初〈天皇記国記〉の段階では、  
                          綏靖・・~・・崇峻
       までで、神武・推古の両サイドはなかったのではないかということです。
       〈書紀〉(神武~推古~持統)が出来たとき付き合いで、神武~推古 になったと思われます。
       ここでうまく証拠がこれだと説明できればよいが、無味乾燥の目次をならべるだけなので、うまくいかない
       と思うので、今の〈古事記〉〈書紀〉の中抜き、(綏靖~崇峻)が〈古事記①〉としとこ、というのでよいかも。
        ただ 推古については
            〈天皇記国記〉が620の完成なので(当代推古の終りは628年)、これは推古の途中で、
        推古の終りまでは書けないので、範囲は崇峻まで
        となるはずです。また〈古事記〉では、〈書紀〉とちがって、天皇の在位は基本的に書かないことに
       してあるのに、「推古」の在位は
           「参拾漆歳(みそとせまりななとせ)天の下治らしめしき。」〈古事記〉
       となっており37歳だから、〈書紀〉の36とは一つ多くなっています。書いてくれるのはよいが間違って
       いて、この+1は、次代の方を見てるというぐらいのところともいえます。問題は神武ですが、〈書紀〉は
       100年もあとですから、神武に多くの拡張機能を付加して語りを広げようとしてることは察せられるところ
       で、〈古事記①〉の神武は、享年とかの数字がない、というのもありえることでもあります。神武137年
      という数字を太安万侶が入れたとき、「三十七」という字の意味合いがあったから、それと重ねたのが
      見えるようにしたということです。 


  (398)序文    
       始めの、「●序并せたり」の「并せ」は特に結合力が強く、
        初めの 「 古事記  上つ巻 ●序并せたり
               序文
                    過去の時代
                    古事記の企画
                    古事記の成立     和銅五年正月廿八日 ・・・太朝臣安万呂 


        について、上つ巻が 序ー序文(細字の部分)を一つに括ってしまってるととれます。すなわち

            序文付の上つ巻▲が先ほどの 
             
          再掲
          「 〈古事記〉は  ▲つ巻(神代)・   ⇒   中つ巻神武~応神・
                      (序文付) ⇓           下つ巻仁徳~推古 
           ---------------------------------------
           〈日本書紀〉は、▼神代・★神代下・ ⇒   神武  ~  推古    舒明~高天原広野姫の持統 」     8題のうち中つ巻の7題は
            
         ですが、旧記からまず枠(表題)、すなわち骨格を作るが、〈古事記〉中つ巻・下つ巻 は当然ながら、
         纏めにかかるのは、▲▼★からでこれは一人でできる部分と思われます。そのとき 〈書紀の〉▼~★
         の部分も序文をもって包摂することにもなってしまう。〈書紀〉編纂委員に、提示するのは骨格と神代の
         部分(神武をふくむ)、序文で、肝心なところは衆知を結集したとみれます。持統紀は推古期を讃える
        、補うというものになってると取れるところです。、 、
       
         〈書紀〉に序文がないので、こういうことが おこりえたかも。両者一本にしたものが、まず序文です。
         綏靖から崇峻までを中抜きしたものがあって、太安万侶が600年のあとに推古で三七という字を
         をつけて、本邦の政治史の始まり西暦紀元前37を意識させたというところに考えが出てるので
         最初の上巻(序巻)の序文が、〈書紀〉の上巻(序巻)に渡ってたら充分です。
         頼りなさそうな方、古いというイメージの方を先に出したというのが大変な工夫があるの
         でしょう。

 
       (399 )〈信長公記〉の序文
          〈古事記〉序文が「日本紀(〈古事記〉〈書紀〉)」の序文だというと、8年も前、和銅五年(712年)に、
        720年に出される文献の序文なんか書くかい、というかもしれないが、〈天皇記国記〉(これは〈書紀〉が
        用いた表記)
        は滅失したものとされているもので、序文は、〈書紀〉との関係を示す内容を入れるのは(隠さねば
        ならないことだから)不要で、独立して書けるもので、必要な場合でよいものです。8か月(和銅4年
        9月18日から和銅五年正月廿八日)で書き上げたのではないかと取れる記述もありそうです。
         筆者の場合は太田和泉守から聞くしかないから、
            1604年、慶長9年 甲辰  小瀬甫庵〈信長記〉できる、
            1610年 慶長15年     ◆太田牛一〈信長公記〉完成 (〈年表〉文化欄)  長谷川等伯(72)
         となっているのは軽視できず、6年後、日記風のものが完成しています。一方、甫庵は途中で牛一の
        書をみていて、内容を知ってて「脱漏なきに非ず。」として〈信長記〉を書いたといっています。このこと
        は      「信長記  上  (表紙)  」があって次頁に
                「信長記  記
        という題目で書いた3頁の(序文ともいうべき)文の終盤に書いてあります。したがって
           〈信長記〉  6年   〈信長公記〉    (序文 「記」 は〈信長記〉冒頭に載ってる)
           〈古事記〉  8年   〈日本書紀〉   
        となっていて序文の「記」を必ずしも〈信長公記〉の前に書く必要はなく〈信長記〉の前に入ってる現実
       があります。記の冒頭は
           「竊に前聖後聖述作の功を思ふに・・・中(頭注=正道)を民に建つる・・・前聖の徳・・。・・人君の
           作にして道、上に行はるる所なり。・・往聖・・・教え・・・後聖の功・・・。・・ 師の述にして道、下に
           行はるる所なり。所謂●孔夫子衰周に出でて・・・史の作、連綿として世に伝ふる者なり。」〈甫庵信長記〉
       があり、●の頭注は「孔子のこと。」となっていますが、これは違うといってるのと同じで、所謂もあり、漢語
       辞典では「夫子」は孔子の弟子が孔子を夫子と称していたこともあり、師の尊称となっていますが
         「①昔、男子の通称。②大夫・先生・長者を呼ぶ尊称。③④妻が夫を(子が父を)呼ぶ称。」
      などとなっており、「顔回(淵)」「子(季)路」などは当然、司馬遷(大史公)、小瀬甫庵(甫菴)も入ってる
      といってるのでしょうか。何となく「聖徳」の「述作」というのと甫庵の〈信長記〉を結ぶのかもしれません。
      ここで一つ忘れていたことが出てきました。〈信長公記〉の方が先だったと覚えていたのがいま変わってきた
      のでもう一辺見直してみると、◆の下に
         1611年 慶長16年   小瀬甫菴〈信長記〉完成
                          この年天海僧正となる」〈年表〉文化欄
      があり、◆の「完成」がここにありました。これは何に基づいているかというと、「記」の終盤
         「・・・慶長甲辰(頭注=慶長九年(一六〇四))春、あやしき夢の告げあり。・・・・つくづく思ひ得たる
         事あり・・・・以て決然として世に行ふ。・・・」〈甫庵信長記〉「」(序文)の部分
      があり、1604年に不完全だったのが、この序文を入れたことによって完成したといっています。大げさに
      決然と行った理由は、
         〈古事記〉712(序文も完成)ーーー8年ーーーー〈書紀〉720(〈古事記〉序文入れて完成。)
      という経緯を出して、その継承を宣言したものととれます。

          「718  藤原不比等に命じ、律令各10巻の撰上を始める〈三格〉。・・・
           720  5月 日本紀撰上。8月 藤原不比等没(62)〈扶桑〉・・・
           721 12月 ・・・興福寺・・北円堂・・・〈扶桑〉。・・・元明太上天皇没(61)〈続紀〉      」〈年表〉

      があり〈日本紀〉の成立にあたって微妙な記事となっています。
          「707  阿閇皇女即位(元明天皇)。授刀舎人尞を置く〈続紀〉」〈年表〉
      がスタートですが〈書紀〉の成立には大きな影響をあたえます。718、あの藤原不比等没で、720のは
     〈扶桑〉が繋ぎ、721、三年後、対外発表(〈信長記〉にワル乗りした部分)ととれますが、元明天皇②藤原不比
     等という複雑なものも出してる
     ところです。これにより720の日本紀は〈天皇記国記〉620からみて、予定通りのところで完成したと取れ
     そうです。、
     〈古事記〉と〈書紀〉が、〈甫庵信長記〉と〈信長公記〉のような関係にあることは知らされていないので
     序文の〈記紀〉間の通貫性は否定されやすいものですが、推古期終りが628・637の二通りで「8+1」年の
     差があり、この8年の差で悩まされますが
        712(和銅五年)〈古事記〉成立 +8年 で、720年養老4年、〈日本紀〉撰上の年
    に合致します。一方序文、文中に
       、和銅四年(脚注=711年)★9月18日   
    の「献上せよとのりたまふ」の日付があり、これは太安万侶献上日
       ●和銅五年正月廿八日 正五位の上勳五等  太朝臣安万侶
    の8か月10日前で、この711も重視の必要があります。711+9=720 になります。序文が8年で720
    に着陸しますが、712+9が721(辛酉)の年になり養老四年が和銅5年の養老五年になります。●の「五」
    の連打はどこに思い入れがるのかわからないので、序文の日付も、本来おかしい「1」によって「721」の
    一に懸ったといえます。
      8+1=9 の「9」は★、廿八は推古28年の「28」もあります。


    (400)乞食大将 
    、筆者は、はじめから太田和泉守に聞いて云おうとしてると言ってきてるので飛ぶのも、あまり、コタえない、
     ところです。太田牛一は首巻で

        「(十四) 一、六月十二日(脚注=天文23年か22年)・・(管領斯波氏「御殿」が攻め落とされた一節)
          ・はざまの森・・・討死・・柘植(つげ)宗花・・・・御腹めされ・・おぼれ死・・・御果て候・・天道恐敷・・・」
      があり柘植は「告げ」とは違うが、
        「(十五)一、七月十八日・・・柴田権六清洲・・・太田又助・木村源五・・取合(とりあひ)追入れられ
             ●乞食村にて相支へ叶はず。誓願寺前にて答へ候へ共・・・大堀の内へ追いれらる。・・
             織田三位・・死・・・織田三位・・死・・武衛様・・織田三位・・・武衛様・・主君・・七日目(元明は
             七年まで)・・死・・天道恐敷・・」〈信長公記〉 

         があり ●は「古事記」のことだということは早くからいっており、●の脚注は
             「安食村であろう。今の名古屋市北区味椀にあたる。椀=金篇)」
         となっていて「答へ」に、脚注があって、「堪え。防戦。」となっています。まあ「応答」「答申」の「答え」
         「竹合」を出して来たかも。七月十八日に脚注があって
             「天文二十三年(一五五四)・・柴田勝家・・・織田三位は斯波・・近臣に殺される。・・織田彦五郎・・」

        となっており、「天文」が出てきます。「柴」―「斯波」が出て「三位」と「臣」「五」が出てます。
             〈古事記〉序文では
            「十八・・臣・・臣・・和銅五年正月廿八(阿礼の歳)日  正五位の上勳五等 太朝臣安万侶 」
         があり、太安万侶は贈三位なので「織田三位」を出してきてるとも思われます。
            織田「三位中将」は太田和泉守が演技しており、誓願寺の脚注でも「太田又助」がでてきます
               ここで  太田ー安食ーーー〈乞食〉
                     太野ー安万(満)ー〈古事記〉
         が鉢合わせになり「安食(弥太郎)」-「桶狭間」ー「天文」で有名な誤記がでました。これだけはっきり
         間違ってるものを入れた史書は例がないものです。桶狭間の一節

       
     「★天文廿一年壬子五月十七日、…十八日…大高・・満十八日夕日・・・智慧の鏡・・・岩室長門守・・
              天文廿一□壬子五月十九日、・・・満・・・大高・・・大高・・・大高・・・高名・・・
              天文廿一年壬子五月十九日・・満・・・」〈信長公記〉
 
         があって★の脚注では
                  「この日附は永禄三年(一五六〇)庚申の誤記」
         となっていて、永禄3年=1560、 天文21年は1552、ですから 
               1560-1552=8   で  推古28と推古36
         この「8」が推古の間違いがそのまま来てる、ということをいっています。崇峻終り・推古始めを
         592にしてるからこうなったので600年にするとこうならないということです。
          単なる間違いとして修正したらいい、ということではなくて太田和泉守が〈信長公記〉のなかで始末を
         つけてることが確認できることが必要です。つまり、もっと前にこれは修正出来てるもので、ぶり返した
         から、後世の時代には影響がないようにしているはずです。
         8年間の違いをここに引きずってきているほど重要というのはやはり〈天皇記国記〉という推古期の
         史書の重さかも。〈信長公記〉索引
             安食弥太郎/蘆名盛隆(文中「会津の屋形もりたか」) (人名索引では一番の人名)
         は越えがたい人名の並びですが、倭人伝に「葦」「蘆」がなく〈古事記〉で「豊葦原」「葦原」がたくさん
         出てるではないかといったのが、「天皇記国記」著者・太安万侶・太田和泉守、ということでしょう。
          桶狭間へ脱線しました、続きです。

  (401)〈古事記〉の神武天皇
         没年137で出てきます。〈書紀〉は127ですから、拾年違いますが、これは何故かというのも、一つの
        問題なのでしょう。ただ〈書紀〉のは、  
             神武即位 52歳+在位76年=没年127 
      ででてきたもので近い数字にしてるというものかもしれません。ただ52は(45+7)、76は(37+38)
      のようでもあり、両方120というのは、60×2の二枠を増やすというのがあるかも。
                  〈書紀〉    〈古事記〉
            綏靖    33+(4)  45
            安寧    38      49
            懿徳    34      45
            孝昭    83      93

      において、綏靖の37は137の37で
      推古即位600が今、出たから、〈古事記〉の最後が推古37年で

          100/ 綏靖~581~開化                     
                          崇神~600~崇峻/ 37                  
         この変形
          綏靖~581~開化/ 37
                          崇神~600~崇峻/100(倭の五王の100)

       
     このように、中に綏靖~開化~崇峻を包み込むということで、それを中抜きした部分が元の〈天皇記国記〉に
    あった部分と云えます。太安万侶が神武天皇を付け加えたといえそうです。紀元前100年の意味は137の内の
    100を前にもってきたといえますが581は600にしたいというものがあったと思われます。20に減らした理由が
    後で見つかるかもしれません。
     この他に、天皇の段下がりの神功皇后の100歳というのがあってそれも加えないかんということで、〈書紀〉の
    記者は持統700年で〈書紀〉を終わったので、紀元前も700まで見てたとも思われます。つまり、いま〈書紀〉
    では
       紀元前660~700持統となっていますが、頭の中では
           660
       + 内数37= (697)≒(700) で   660+127(書紀神武)=787 87を海外へ紀元前後700
                                 とした。また101を海外へ紀元前後696とした。
    ということでしょうか。本当は37は神武の37だから綏靖の前にあるべきだというのもあります。37というのは、推古
    は、通説は36年で、36も生かさなければならないが、プラス1の7の働きも考えてるというのもあるのでしょう。

     〈古事記〉の神武137は西暦37年の「37」を重視したもので、〈書紀〉の神武127は 60×2=120
    の60をベースにすることをみた127ととれるところです。

    推古36は、太安万侶の作った数字であると取れるところで、37の36プラス1の1は
     36という意味のあった数字を無効にした力のある1といえそうです。一方で「1」に意味を持たせようと
    してると思われます。西暦37は「天皇記国記」が意識していた数字で、57年遣使が把握されていたので
    57-20=37、また、ここで581が出されたので 57ー20(600-581+1)=37⇒-37 はあったと
    取れます。そんなチャチな計算誰もしないよというかもしれないが紀元前の計算はなかなか難物で、
    紀元37と紀元後37の差を出すと、端数7は消えてしまうと思いこみ、ええ数字が出てきたとよろこびますが
    37-37=0  -37-37=-74、で60の差と思い込んでて失敗したりしますが、頭がこんがらがってくる
    のも計算に入ってる書き方をしたものもあります。37⇒-37は干支一回りで飛びますといいたいが、そうでは
    なくても絶対値でとぶのでしょう。481には480+一という位相の違う一が付いててー580(紀元前)は必然
    的に頭に入ってる、空間もそのようにみてるというのが日本の昔の人の身に付いたものの見方です。
       

  (402)孤立した580年
        上つ巻  8題は 実際は7題で 7題目は
             「七、日子穂穂出見の命 」
           で高千穂宮に
                「伍佰捌拾歳(いほちまりやそとせ)」
         いました。580歳ですがこれを見落すと、〈天皇記国記〉が紀元前の数字を考えていなかったとみ
         てしまいます。今まで挙げてきた数字581は各天皇記の合計で出てきます。
         次の
            「八、鵜葺草葺不合(あへず)の命」(神戸の葺合区)
        は、七の「日子穂穂出見の命」のことだから、同じでないようで、同じという感じの人で、ここは付けたり
       のものです。「不合{あへず)となっており始めの「并せたり」が及ばなかったといえるかも。これは太安万
      侶が付け加えたと考えられるものですそれで「八」になってると取れます。ここに御子の名
                  「神倭伊波礼(田+比)古(かんやまといはれびこ)」
       
 が出てきて脚注では
                  「神武天皇。神武天皇の称は漢風の諡号といい奈良時代に奉ったもの。」
        となっています。奈良時代というと「元明天皇(和銅三年)710年」からなので蘇我馬子の時代は
        600年で神武天皇は当然なしで、712の〈古事記〉には採用できます。この「580」歳は「20」がどうしても
        ひっかかり、実年とも変化する枠的なものと、推古の西暦600年を出してしまってるとみれるものです。
                 紀元前   穂穂出見  580
                 紀元後   神倭     581    というような組み立てかも。581は前に37を
      ともなってくると(これが鵜葺ともなるが)、外数もふくむ合計ではでは
          580+37+581=1161+37=1198≒1200=600・600
      になるし内数だと 3×7=21  3+7=10 もあり、
           580+581+21+10=1192+8=1200
      もでるがこれは関係ないが、こういうのはついでにやってしまうものでもあります。
        神戸三七信孝 では「三七」の計算と、打ち出しにくい「孝」の字に悩まさせられることもありましたが
      この「孝行」の「孝」が、欠史八代で四人続きます。、
            「綏靖」「安寧「「懿徳」「孝昭」「孝安(123)」「孝霊」「孝元(57)」「開化」 計580」〈古事記〉
      の四人です。
           「伊徳高安」「神戸三七信孝」〈信長公記〉 
      は「懿徳孝安」、のことを解説してると取りましたが、好太王が
      「句麗王安」で父が「高」で123/4=41で〈書紀〉の応神の在位になります。合計も
         20+(綏靖~孝安123まで合計)は 395になり  20+580=600
      のうちの応神の位置をしめます。高安(孝安)は応神をみてるといえますが 孝安の没年が「137」〈書紀〉
      (孝元の没年117〈書紀〉)、これが〈古事記〉神武のものに使われてるということにもなります。
      この孝安天皇は、葛城の室秋津嶋宮にいました。〈古事記〉の葛城と〈書紀〉、の葛城は違うので
      しょうが、〈書紀〉の孝安紀では
         「都を室(むろ)[御所市室]の地に遷した。これを秋津嶋(しま)の宮という。」
      となっており、御所は天孫降臨の地の伝承があるところです。〈書紀〉を見て後世の人が場の比定を
      しますが「葛城」は綏靖天皇にも書いてあり、応神と少し重なった孝安がいるので、葛城王朝の一部が
     この辺りにあったといえるのかも。白鳥陵がここにあって、これは桶狭間に日本武の尊は
       「十四代仲哀天皇は此の尊の御子にておわす。」 
      というのが白鳥を伴って出てきて、白鳥が舞い降りたところの一つがこの地だったいうことです。日本武の尊は
      近江王朝ではないかと思いますが、ここで淡い付き合いが出てきています。別王朝のテーマがあるかも
      外国の動きに呑みこまれているような環境で日本も一枚岩とはいかなかったともいえそうです。

 
    (403)中つ巻・下つ巻(ここから〈古事記〉の数字が出る)
      この八 のあとに
         「中つ巻」天皇の題7つがあります。 参考:(数字)は没年齢

           一  神武天皇 (文中は「神倭伊波礼(田+比)古(かんやまといはれびこ)」)   (137) 
           二  綏靖天皇以後八代 (小項目として番号なしの次の八代が書いてある)
                  綏靖天皇・安寧天皇、懿徳天皇・孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇 
                   45   49    45   93   123   106   57   63   (計581
             ○[ここまでは(380)で〈書紀〉と対比したものを既述。]ここからが問題のところ。
          -------------------------------------
              天皇名   抱合せ                                  歳・年
           三、 崇神天皇                                       (168)
           四、 垂仁天皇                                       (153)
           五、 景行天皇・成務天皇                                (137) (95
           六  仲哀天皇 {神功皇后}                                (52) {100} 
           七  応神天皇                                       (130)

       が大項目で7題です。

          下つ巻の最後の七(題)は
           一  仁徳天皇                                        (83)
           二  履中天皇・反正天皇                                 (64)(60) 
           三  允恭天皇                                        (78)
           四  安康天皇                                        (なし)
           五  雄略天皇                                        (124)
           六  清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇                 (なし)・(38在位8)・(なし)
           七  武烈天皇以後九代 (9代の中身は)
             、  武烈天皇・継体天皇・安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇」(計9)
                 (なし) (43)  (←    なし    →)(在位14)(在位)(在位4)(在位37)

       の七題です。ここは、最初の,
            「8・7・7=22」ときた最後が、大項目の
            「七  武烈天皇以後九代」
       
 というものになっています。ここから八つ目が崇峻天皇です。いまみてきたところでは

            「8-1(1は八の部分)」=7   八の部分は「鵜の葺合」
            「7-1(1は一の部分)」=6   一の部分は「神武天皇」
            「7-1(1は九の部分)」=6   九の部分は「八+一」「神武・推古」

      で全部から等しく「1」をひいた、ことになります。九=9(推古の9)で、神武(鵜含む)と推古を
        取り除くと、下の通りとなります、これで、やりたかったことは、この中・下巻が〈帝紀〉の主体部分で
      あったのではないか、ということです。もう一つ、天皇の体系と数字の相関のことで、

        中の「景行天皇・成務天皇」は五で並列で、137と95(計は232)の数字は、〈書紀〉で景行60・成務61と
       独立してるのと、違う扱いになりそうでもあり、
        下の六の「清寧天皇」のところは、三人並列で、数字も頼りないものとなってる、

      などのことがあります。これから、中・下巻の〈古事記〉の(  )
      の数字が、崇神~応神    四百年
             仁徳~推古    二百年  までの間に上手く納まるかということをみないかんということ
      です。が いまは、とりあえず、(380)の始めの部分●のところで
      中 の 二(開化)  まで見てきました。まあ、このときは

          〈古事記〉 綏靖~開化まで8代計     581
          〈書紀〉   綏靖~開化まで8代計     483
  
     で100の差だったので、100ならどこかから持ってこれるというのもあり、まあ合ってるともいえるところ
    です。〈古事記〉が神武天皇137年 というのを始めに置いたので、これを100と37に分けると100が出てくる
    などのことです。願望としては紀元前は600年(〈古事記〉は推古は600年、遣隋使派遣のときで締めた)
    というのに近い581だから、
             〈古事記〉 581
             〈書紀 〉  483 +137=620     581+620=1201/2=600
    600・600で、両方、紀元前600、とはいってそうだということで合だろうということになります。ただ〈古事記〉が
    でてきたので〈書紀〉では紀元後は崇神以後をみてればよいということにはならない、綏靖~開化というも
    のの投影というのが、ありえることになるのでしょう。、
    

    (404)記紀の構成上の違い
     再掲380              2   3   4    5   6   7   
              神武ー /綏靖ー安寧ー懿徳ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開化― 小計  /崇神
    〈古事記〉年 ●137   45  49   45  93  123 106  57  63   581   168
    〈書 紀〉在位  76    33  38  34  83  102  76  57  60   483    68 
             37×2(76)                                   -2
                                                       100
     において〈古事記〉は、                                     
         上
           八  鵜葺草不合・・・・神倭伊波礼比古・・
   
         中
           一  神武天皇 神倭伊波礼比古  137
           二  綏靖天皇以後八代 (小項目として番号なしの次の八代が書いてある)
                  綏靖天皇・安寧天皇、懿徳天皇・孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇  
           三、 崇神天皇
           四、 垂仁天皇
           五、 景行天皇・成務天皇
           六  仲哀天皇
           七  応神天皇
         下
           一  仁徳天皇
           二  履中天皇・反正天皇
           三  允恭天皇
           四  安康天皇
           五  雄略天皇
           六  清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
           七  武烈天皇以後九代 (9代の中身は)
             、   武烈天皇・継体天皇・安閑天皇・宣化天皇・欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇
                                                             37
      となってるから、神武の総括的役割について一部既述ですがここでは20の差についてみると

       〈古事記〉  神武(137)        下が同じ時期
                                 ↓
        A0、綏靖~孝元57~開化  A①崇神ー垂仁ー景行ー成務・・
                計(581)
       ----------------------------------------
       〈書紀〉    神武(127)     B0神武76ー綏靖~孝元57~開化  B①崇神・垂仁・景行・成務(60)
                              (127 )    (483)                     (107)
                            127/3=42   
    〈古事記〉は古いから、A0 に対応するのは、B0 というようにずらしてみるのが普通だろうということに
    なります。実際〈古事記〉が出るまでは、B0を紀元前としてやってきました。〈古事記〉の旧著の内容は
    かえられず、神武という表記が入れられて、B0という部分は、A0の次の時代を示すことになりますが
    A0の下(127)のところと重なっての語りもあるところでしょう。137と127の差は10であり、これは慈円の
    (7+3)=10の違いが出たように何らかの操作で埋まる程度の差です。また、B0の127は137を
    一応は意識したものであり、B0の神武76(在位)は、37×2≒76でもあり、これは神武137と推古37
    37ともくっ付くための37でもあります。実際は137は、147にしてくれると20の差になりますが、これは
    全体を睥睨した137であり、ここは動かせません。B①でやってみると、結果として、崇峻592年になって
    600まであと10となり、「10」どこかでプラスとなっています。結果的に20の差になっています。いいかえると
    127は117であるとよいので孝元の没年齢117を使うとよかったわけで、孝元だけが記紀ともに57年在位
    ととなっています。つまり遣使の57年と、37年とは密接な繋がりがあり、ここの差20が介在してると見れます。
     下もあれば上もあり、137-117=20 、147-127=20が基からある差となるのかも。すなわち暦の
     差があり、「天皇記国記」は、百済、その前の白済などの記録が採録されててそれによったというのが
     あったのかも。                                            607妹子遣使
         (紀元前-37)・37・57・107・147・247・266(7)・366(7)・・・407・507・637
                                                   応神 継体 推古
     において推古637の37が紀元前に回り、、小野妹子607が600にせり上がり、「7」が前におよび
     崇峻592+7=600となり、継体が500年、応神は400になる(401年から等倍になるので)、7のはみ出し
     前紀7年(700年)の「7」にも援用できます。
                                           
            「天皇記・国記など」の天皇の構成
        というのは、〈書紀〉の構成から
             神武天皇、推古天皇
        を除いたものであったといえると思われます。
      
       「(菟・鵜・{蘆+鳥})葺合」
        については、「天皇記・国紀など」にもなかったのを太安万侶が、〈書紀〉に手を加えることなく、〈古事記〉
        に入れたと取れるところです。すなわち〈書紀〉は持統天皇で終わっていて、その名前(幼名)などに
             「菟・鵜・鸕・慈円では(鸕鷀羽葺不合ノ尊)(うのはふきあはせずの尊)」
         の「鵜」などを利用してるので、神話の終りと、〈書紀〉の終りとを「弟」を通わせているというものが
        出てると思われます。戦国では「片岡鵜右衛門」があります。持統も時の動きによって(男)(女)と変化
       することがあるのでしょう。
               中の 五 、   下の 二・六
       は複数となっていて、連合いだと、同時代二人になり(一人は弟) 親子だと父・子(いまでいう息子)
      になり、兄弟だと(いまでいう弟)があり、ときによりかわる、中の 五 は日本武(やまとたける)尊が
       ありこれも両用でしょう。
 
       天皇名のラストが、推古となっています。まあこれは作成王朝としてのサインであると、みて
      〈書紀〉の22巻に渡してあるといえます。また天皇記・国記に戻ってきますが、ここで変な話をいれない
      しようがないのす。テキスト〈書紀〉は上・中・下に分れてて、上巻の最後が応神・中巻の終りが崇峻・推古のあと
     下巻八人の、終り(書紀の終り)が持統天皇ですが、持統の条に触れないと、推古天皇が終わらないという
    ことになりそうで、それは天皇記国記の作成に関わる崇峻天皇が知られてないことによります。〈古事記〉は
    実質 崇峻592+8で終りだから、崇峻に焦点が合わされてるということを確認しとかないかんということです。
       崇峻天皇と推古天皇が〈古事記〉で普通の、系譜がないので、特別のものがありそうです。崇峻の前
    用明天皇が
        「御陵は石寸(いはれ)・・・にありしを後に科長の中の陵に遷しまつりき。」〈古事記〉
     となっていて次の「崇峻天皇」が「御陵は倉椅の岡の上にあり」とあり、最後の「推古天皇」は
        「御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大陵に遷しまつりき」〈古事記〉
     となっており、推古は崇峻を通り越して、用明天皇(厩戸の豊聡耳の命[脚注=聖徳太子]の父とされる)
     に至っています。
        科長のもとは「用明天皇」の前の
    「敏達天皇」で
        「御陵は川内の科長(しなが)にあり。」
    となっていて、順番で行けば「敏達・用明・推古」だが「用明」の「科長」にルビがないのは関係がないだ
    ろうとしても、
              用明は〈古事記〉では「参歳」の在位となってて没が「丁未」となっています。
                   〈書紀〉では、「二年」の在位となっていて、即位は元年「丙午」となっており
                    没は二年後だから、「戊戌」となるはずです。
                   (干支表は〈古事記〉崩年干支が有名だから後で出てくることになる)
     すなわち
           「丁未」の次(翌年)が「戊戌」
    となります。「戊戌」の前年は「丁未」となりますが60年前も「丁未」となります。60/3=20年前が〈古事記〉の
    「用明」とも考えられ、用明①用明②がいるかもしれないことになります。崇峻の系譜が書いてないので、
    用明の関係者として出てくる可能性が大きくなってきます。
          敏達天皇
          ∥ーーーーーーーーー(子)●静貝の王、またの名は貝蛸の王、次に竹田の王、またの名は小貝の王
          庶妹豊御食炊飯屋比売の命(脚注=推古天皇)  
          
    があって、●が脚注では「敏達紀五年東宮聖徳に嫁すとある。」(〈古事記〉脚注)となっています。
     東宮聖徳が出てくるこのあたりへ行くにはなお遠く、引き続き、〈古事記〉の数字を追っかけることになりま
    すが、〈古事記〉は、日本最初の史書で、古いことは古いし●のような具体性のない名前がでてきたり
    してややこしいと思ってしまいますが、これは本当にたいした書物だと思って読んでいくことが要ります。
    これは〈書紀〉や太田和泉守の全編を覆うもので、元が在って司馬遷、三国史記など大陸諸国の史書に依っ
    ているのが、信頼性のモトでもありますが、共通なものは漢字・手法だけではなく、全編塗してある数字があり
    ますから、信頼性のモトとしてそれからみることも必要となってきます。いままでこの部分の説明が省略されて
    きている、その認識で、ここをとりあげて行こうとしています。一つ二つの差に悩まされて、
    これは詰まらんところに拘って、隘路に入って損したと思うときに、押しておしていくと、一晩寝たら大きなこと
    がボコッとでてくるの連続です。七年にこだわると、小野妹子の事績が繰り上がるというのは、舞台などで
    下から競り上がってきて役者が登場してくるという
     のもあるからありえることですが、ほんなら、〈古事記〉の712年の成立というのは、それがないのか、となる
    と、これは確実でそらないといってしまいがちです。確実な712年(和銅5年)も、外国の文献も、読み変えね
    ばならないかもしれないというのが、普通に読んでたら出てきそうで、たいしたもんだと思ってれば、かならず
    逆転していく予感がでてきて、反対にこれはかえられなさそうなとみえてきそうにもなります。
     序文は
          ●「和銅年正月廿八日  正位の上勳等    太安万侶朝臣 」
     の「五」「五」「五」は、五つあるとすると、つまり一つづつカウントするときに、「正」で「5」を表しますから、ちょっと
     認識をかえてもよいかも思う人もいるものです。七〇五年 慶雲2年の「五」もあるかも、というのも出てきます。
     慶雲1年「七○四年」は、甲辰で「甲辰」は一六〇四年小瀬甫庵序文の夢のお告げの年ですが7年後、1611の
     「完成」のときの方が「甲辰」は望ましいといえます。が、この年はあいにく「辛亥」でうまくいかず、しょことなしに
     「辛亥」であのときに戻ると [古事記]の成立の一節

      「和銅四年(辛亥)(脚注=七一一年) 九月十八日を以ちて、臣安万呂に詔して・・・稗田阿礼が誦める
      
辞を撰録して献上せよとのりたまへば、謹み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・詔の旨に随ひ、子細に採
      り摭(ひり)ひぬ。(「採摭」という語句がある)・・・」(これの完成が●で八か月後)
     が出てきます。これに前があって[古事記の企画]の一節
            『「ここに天皇詔したまひしく・・・帝紀を撰録し、▲旧辞(くじ)を討カクして、を削りを求め、後葉
             に流へむと欲ふ」とのりたまひき」・・・・時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼・・・』
      があり▲は、天皇の発言、上のは「辞②」か、太安万侶が自分に言い聞かせた序文をつけたことによる
     完成時期をあらわしたものといえそうです。
      つまり●は絶筆の日付だったのではないか、というのが出てきます。そうなれば〈日本紀〉全体の序文は
     この〈古事記〉の序文以外には考えられ
      ないとみんなが思ったと取れるところです。〈古事記〉は孤立した書物というのや、〈序文〉偽書説がありま
      すが、太田牛一には
         「誠に卒度(そつと)したる偽之橋(イツワリノハシ)(補注四)」〈信長公記〉  (全体の注に実がある)
      で一番肝心な「卒」がでています。ここで七年のせり上がりがあり、これが七〇五年のこととなります。
 

   (405)舎人親王は?
        〈年表〉に
            703年 大宝三年 初めて刑部親王を知太政官事に任命する〈続紀〉。阿倍御主人没(69)〈公〉。
            705年 慶雲2年 5月 ◆刑部親王没(?)〈続紀〉 穂積親王を知太政官事に任命
            712年 和銅5年正月  太安万侶が〈古事記〉を撰上。[同序]■
            714年        紀清人・三宅藤麻呂に国史撰ばせる〈続紀〉
            715年 霊亀1 7 穂積親王没(?)〈続紀〉
        があり、
            720年 養老4 舎人親王ら〈日本紀〉撰上     721 長屋王右大臣     
            723年 養老7 太安万侶没?(銅板墓誌)」    724 長屋王左大臣

       がありますが、■で没があったので、その記事を◆に繰り上げたということになると、714年の緊急性
      が出てきます。723太安万侶没のはこれは高円山の志貴皇子の没というのは
       既述です。これは霊亀元年というのが〈万葉集〉に出ており、脚注では霊亀2年もあります。これも七年
       繰り上げとなり715か、716年の没となり、720年〈書紀〉の完成のときに二人の太安万侶が亡くなって
       しまってる、おかしい引っ込めようというのがで出てきます。、720年舎人親王が〈書紀〉完成の代表者
       として出てくる、これは何者かというのも説明せないかんからやめちゃうことになります。●の子息かと
       いうようなことになりますが、ちょっとした引っ懸りが、大ごととなってきます。
        長屋王という有名人物が、長屋王①として「舎人親王」ー〈書紀〉の編者の代表
       であったととれるところです。木簡に親王であったと出てきても、地面から出てきたものは尊重される
       となっていても、議論の対象からは外れそうですが、年表の画面からみると長屋王はでてきます。


       (406)天皇紀国記の内容  崇神以後
     元のものにどの範囲のことが書かれていたかということですが、紀元元年から600年までのことが推古期の記者
      によって認識されていたと思われます。
            紀元前660(600)から持統天皇700年までが一応〈書紀〉の対象ということで、冒頭の括り
       としてきましたが、〈書紀〉の綏靖~開化までは(483)でした。
        再掲
     、  「Ⅰ  神武ー綏靖ー安寧ー懿徳ー孝昭ー孝安ー孝霊ー孝元ー開化=559
            76  (33) (38) (34) (83)(102)(76) (57)(60) 欠史八代計(483)」

      一方推古期作成の史書は
                 綏靖天皇・安寧天皇、懿徳天皇・孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇 
                  45   49    45   93   123   106   57   63  計581
       の581となっていました。従って、581+19=600となるので
          元年                                               600年
           |19年|綏靖ーーーーーーーーーー581年ーーーーーーーーーーーーーーー開化|
           |崇神 ------------600年ーーーーーーーーーーーーーーー崇峻|

      
 とみて崇神以後を上の、綏靖~開化を心棒として600年の説明に使ったということが考えられます。
       つまり崇から崇の間、〈古事記〉でもうまく説明できるような、数字になっていることが予想されます。
         、〈古事記〉では、〈書紀〉の崇神~応神(400年)~崇峻600年
       という、数字(古事記)が揃てるといえる状態かどうか、というのはまだみてません。次のような
     事件も〈古事記〉にでてるのかどうかです。(〈年表〉では継体以後しか天皇名は出てこない。)
       
             紀元       元年   綏靖天皇  初めの19年はどこかで挟むのもある
                        ↓        
             遣使       60年   垂仁天皇        266の200年前なら66もある。 
                        ↓
                       239年  親魏倭王卑弥呼239~248
                       (19)   258
                        ↓         (空白)
                       266年  ●倭の女王使いを西晋に遣わし入貢する  
                        ↓
                       366年  斯摩宿禰  使者百済に派遣 近肖古王 355/581×600=366
                        ↓          
                       391年   好太王即位
                        ↓ 
                       400年   応神天皇  412年 好太王没     106/3+366=401
                         ↓
                       421年   倭の五王讃遣使。  413年 倭国→東晋貢献(これは?)。
                        ↓
                       500年   継体天皇(507年継体1年) (これは今回省略、持統⇒推古)
                        ↓
                       600年    崇峻天皇→推古天皇(8年目)

       ●が壱与の遣使と思われ、紀元節 60年とみると60~600年の534年間を見てると取れます
        66年というのは
       垂仁90年=57年 で 垂仁は99年だから 57+9/3=60 と考えられるが、9をそのまま生かすと
       57+9=66年 となります。266の筋は57など7の筋からの延長で57+9=66 で残り6いるというの
       であれば「6」は別に用意されてるということでよいようです。
         ●の壱与とみられる人物は200年後の266に遣使しており、
          66-266-366 の遣使の流れがあったとも考えられます、166年は、〈年表〉には出てないが、
      肖古王の元年でもあります。近肖古王のとき百済が国として成立した(346年)。この二人の王は重ねられ
      ることもあるが、  346-166=180年も差があり、太田牛一の百済・白済も気になる、これは「百」-「一」
      」=「白」で、100-99=1でもありますがこの1は微小だから100≒99で、繰り返しも
      ないことないということでしょう。
         107+239=346も成り立ち57年遣使ー607年遣使という筋と一方で、66-166-266の 266
       の遣使が光彩を放ってる、これは肖古王の記憶を濃厚に残しているものの仕業と取れます。
         266+(80)ー346=0 となるが、はじめに計算で581が出てきたから、また580(「伍佰捌拾歳」)
       も出てきたから、それはこの1に 関係ないに違いないが、
       20(19)年の違いが百済・白済との間で出てきたかも、それを〈古事記〉が認めた差 1だったらよいのにと
       いうことです。266年の遣使が壱与のそれだというのはわからないというだろうが、旧〈古事記〉の「1」は
       「壱」なので壱与と思われ、遣使は中国、西晋に出されています〈神功紀の66年条〉。この19年前247年
       (246年は〈年表〉は空白)に帯方郡に倭の女王卑弥呼が使いを出してて魏の少帝から反応があったの
       で、これも確実でしょう。どちらか一方に決めないかんというので東遷説(征討説)もでるのでしょうが
       多元でもあるが、外国の進出による政権を中心に動いていて、国内諸勢力はその動向に過敏に反応し
       ていたという感じの時代とみれそうです。
    

    (407)綏靖~開化(タイトルの位置が同じ)
      
 〈古事記〉では天皇の没年が出ているのもあり、在位が出てるものもあり、両方出てないのもあり、まちまち
      ですが、綏靖~開化までは没年齢が全部出ており、珍しく揃ってるところです。、紀元後では応神までは
      やりやすいのですが、それ以後が、やってみないわからないということです。〈古事記〉に神武天皇の
      享年は、(かんやまといわれひこ)で137が出ています。〈古事記〉天皇没年齢は
        再掲
         紀元前
          七 日子穂穂出見          伍佰捌拾歳       580
          一 神武天皇             御年壹佰参拾漆歳  137     崩年干支はなし

          二 綏靖天皇以下八代綏靖    御年肆拾伍歳      45     崩年干支はなし、以下同じ
                         安寧    御年肆拾玖歳      49
                         懿徳    御年肆拾伍歳      45
                         孝昭    御年玖拾参歳      93
                         孝安    御年壱佰弐拾参歳  123
                         孝霊    御年壱佰陸歳     106
                         孝元    御年伍拾漆歳      57
                         開化    御年陸拾参歳      63
            ---------------------------
                八代計                          581 ÷ 3 = 194≒200(実年)
              137+581=717/3=239(邪馬台国)
      となっており、まあトータルでやると
              580+20+60=660      580+80=660            660
              137-20-60=57       137-80-20=37           37
              581  →     581          581+20=600        600  100倭の五王

              -----------------------ーーーーーーーー
             |660      | 57       |239       400(応神)      |600(推古)
                      37
 
             9代計  137+581=718(100は別枠) 618≒620  (帝紀完成)

    などのことが出ます。


     (408)崇神~応神(タイトルが二人のもの、小項目のものがある)
     一応〈古事記〉も崇神元年から行くとすると

           三、 崇神天皇        御歳壹佰陸拾捌歳                  (168)
           四、 垂仁天皇        御歳壱佰伍拾参歳                  (153)
           五、 景行天皇・成務天皇  御年壱佰参拾漆歳  御年玖拾伍歳         (137)(95)
           六  仲哀天皇{神功皇后}  御年伍拾弐歳   御年一百歳             (52){100} 
           七  応神天皇         御年壱佰参拾歳                  (130)
                                                          ------
                                                           全合計835
      となります。七の応神まで〈書紀〉は400年ぐらいですが
      五・六が目次で一つにされてるので内数などの疑問もあり別にとらえてみると
       〈古事記〉崇神~応神間の没年齢による計算は

                三 崇神    168年     崩年干支  戊寅
                四 垂仁    153               ×
                五 景行    137               ×
                   (成務         95         乙卯)  成務は目次で景行と併記。
                六 仲哀     52               壬戌
                   (神功            100      ×)  神功は小項目として独立
                七 応神    130               甲午
                       ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          640  95 100  835計

      のようになり幹線の部分 640 と 95と100 になります。


     (409)95と100はそのまま使う?
      まあ無理に合わせてみると

        崇神~応神の  640/3 =213(≒200)  

          応神が(130)になってて〈書紀〉41の3倍にもなってるので 640/3=213を生かすと
     
                  213+95+100=408≒407   (95・100は平均100、640/5=128で
                                          一応、一人当たりでは妥当、そのままとする)
     
      となって〈書紀〉の応神までの計は、冒頭の407でしたがこの407年になります。一方
        9代計     
           580+618(581+37)=1198/3=399

      となりこれも応神でよく出てくる 399になりますが一見、意味がよくわかりません。ただ紀元前660から
    神武即位という場合の応神の在位期間もあり、〈書紀〉では元年400年目ぐらいに応神が位置し、600年
     スパンでは2/3ぐらいの中心的位置にいます。
     これは、37がよくできた数字で 37≒40  640の40でもあるし、580・581の20不足×2の40でもあ
     ります。
          (580+620)=1200÷2=600×2/3=400
      つまり応神は600の総枠のうち〈書紀〉では400/600=2/3のところに位置し
           95+100=200は
      600の内1/3を占めている 

            左                右
          640/3             (95+100)≒640÷3
          ーーーー                -----------
          640-40=600     (580+581+40)/2=600
              1/3               1/3
             200                200

      となっているので、95+100はそのまま使用で問題なく。
     上の
           213(修正後の五枠計640/3=213)+95+100=407(408)
      は、下の
           200  +  200= 400
     もあり、 、     
            八代計 200+213=413
  
      でもよいかも。応神で400年近辺が出たら一応合ってると見るのでよいと思われます。まあ他にも、あり
      そうですが一応、中国への遣使に焦点を合わしてるのが、〈古事記〉かも。朝鮮半島のどこを通っていく
     のかがよくわかっていません。
      

             640
             内数(95+100)     もあるとすると  640-195=445  445 で45(400年後に
       繰り越し   45-7(〈書紀〉407の「7」)=38     38/3=13

         40/3=13   413年
            「413  癸丑 ● 倭国、東晋に方物を献上する〈晋書〉」〈年表〉
       があり、これは応神後の初遣使となりますが、倭国という表記が問題で高句麗、長寿王(好太王の後継)の
       即位年にも当たり、このあと
            「高句麗、東晋より使持節都督営州諸軍事征討将軍高句麗王楽浪公を授かる。」〈年表〉       
       があり、これは日本で馴染みの楽浪郡・帯方郡の楽浪ですが、これは南へ一歩勢力を広げたということ
      になるのでしょう。


     (410))公孫氏
    地図では北から高句麗・楽浪(平壌あたり)・帯方(ソウルの北方あたり)・馬韓となって
      おり、馬韓が特に大きく南北に伸びてます。太田牛一の「百済寺の鹿」「白済寺の小鹿」の「白済」
      が問題ですが、馬韓の北に「伯済」というのが出てるのでこの辺りのことと取れます。
      ただ日本となじみなのですが楽浪・帯方とも地図では朝鮮半島の左半分、中国よりにあり、公孫氏の
    支配下としてでてきます、三国志の劉備旗下の
           「趙雲(子龍)」
    の旧主が「公孫(サン賛)」で、倭の五王の「讃王」とは関係ないが、公の孫子というイメージがあります。
    公平・公共・貴公子などの「公」で、倭の五王の「興」とも関係がないが、趙雲が劉備に帰属したときに演技
    三国志では「公孫氏」は出てました。まあ〈吉川三国志〉は三回は読み返してるから、二回目ぐらいから人
    も決めて読んでるから「公孫氏」は覚えています。趙雲の旧主だから名君かもしれないという魔術に引っ掛か
    ってしまっていたようで、印象は悪くないわけです。我田引水といわれそうですが、そうでもなくて、戦国の名将
    といわれる加藤孫六(塙団右衛門の旧主)は家臣を採用するときに旧主だけみる、蒲生家の旧臣は無条件で
    採用、豊臣秀次の家臣は駄目といってて、主君の教育の仕方が問題という挿話だろう、と取れますが、そうでは
     ないのではないかと取れそうです。
         山口飛弾守=◆加藤孫六(嘉明)=牧村=真木村牛介=木村又蔵=山口又次郎
    の◆に位置する「加藤」に似合う挿話になってるということでしょう。これやと関・遠山・蒲生郷の加藤が出て
    くるから大きいのです。
     遠州のくだりに、信長公御小姓衆、
         「長谷川橋介・佐脇藤八・▲山口飛弾・加藤弥三郎四人、」〈信長公記〉(138頁)
    が出てて、索引では                                   
         山口飛守 53・138                            
         山口叉次郎 45(木全六郎三郎討ち取る)→木叉六郎三郎               
                                                   
    があって桶狭間の並びは
         「長谷川橋介・佐脇藤八・▼山口飛弾守・賀藤弥三郎是等・・・」〈信長公記〉(53頁)

    があって▲▼の二人の表記が違います。山口は
      山口えび丞31 山口勘兵衛51  山口小弁 420  山口左馬助 山口甚介 山口六郎四郎
   などあり、山口で▲の並びは作れます。
       「山口左馬助・山口えび丞(佐脇藤八)・山口飛弾守(山口又次郎)・賀藤弥三郎(山口小弁)是等」
   でも大体、成立しそうです。
       賀藤弥三郎(六郎三郎)→後藤弥三郎→江藤弥三郎・・・江東(呉)
       加藤弥三郎(138頁)→加藤孫六ー▲ー▼
   となり、初代会津藩主・加藤嘉明がその所を得ます。加藤嘉明は、家臣の中途採用の基準はその人の
   旧主の善し悪しによって決めるといっており、秀次の家臣でなく、蒲生の臣下の人を採用するということを
   いっています。旧主秀次の家臣は木村常陸介だから、自分は秀次の家中
   になるのにそんなことをいってるわけで、蒲生家中と同然の塙団右衛門を推薦してるのでしょう。
    山口小弁(420頁)が離れてて、420頁
        「・・塙伝三郎・・・・山口小弁・・・・賀藤辰(甫庵では「賀藤辰丸」)・山口半四郎・・」〈信長公記〉
    で辰・弁・→加藤辰丸   これが、中国の勢力とみてとれます。一時的にしても強大だったら抗しきれず
    支配下に入る地域がふえ、三漢(韓)
     として、うっすらとこん跡を残してるということも考えられます。つまり、公孫氏がこの辺りの
     語りをぼやかしてる感じがします。邪馬台国の時期239ころ、公孫氏の出番ですが
       遼東ー楽浪ー帯方ー馬・弁・辰地方という公孫の広がりがあり、この三画を取り囲むように
          九州北部・日本の中国地方
      があり、日本列島の西(左)半分を構成することになるのかも。日本列島は、東半分が北へ折れてる感じで
     これは樺太(サハリン)がまっすぐ南北に延びてるその行き着くところ伊豆辺り、朝鮮半島も真っ直ぐ
     南北であり、これと並行してる感じから受けるものです。こうなると、西国は南北でみれば南になります。
     主観的だというものでもなさそうで、南北朝というのが日本史で1300年代にありました。日本史の時代区分
     に、南北朝
     というものを入れたのは、何時の、誰か、という観点で見ましたが、このころは南北朝という時代区分がされ
     ている、ということぐらいしか出てきません。紀元2600年の真ん中辺で南北朝が出てきたのは、隣国の
     影響が主導権争いに及んでいるというのを捉えたものかもしれません。
     中国は古くは東周・西周があり、倭の五王の時代、439か440年に北魏が華北を統一したときに南北朝時
     代があります。朝鮮半島は南北に長いが、日本列島は東北・西南に長いという感じで、西南戦争という呼び
     方は特異すぎる感じがします。太田牛一は南北朝とは呼んでなくて、戦国で楠木長安
     が楠木正成の名誉回復した(人名注)というのが出ています。が、勅赦を与えた正親町天皇は、陵墓が「京都
     深草北陵」となっているので北朝の系統の人とも思われます。足利尊氏の北朝はそのまま来てて明治に
     なって南朝が正統ということになったようです。
     これというのも持明院統、大覚寺統の二派に分かれて争ってきて、交代に天皇を擁立するとかしてきた
     こともあるのでどっちといえないと思われます。要は北・南に振り回されてきています。

          「持明院基孝」〈信長公記〉  (持明院氏は藤原氏家。京都京の名刹持明院から興った。)
     が用意されて、「下方」「下国→安東愛季」などが続いています。すると、この北家は北方の下国、上手を出して
     そうです。楠長庵が先祖の名誉回復をしたことは個人の評価は皇統云々のことは関係はないといいたい
     ところでしょうが、南北のことは太田和泉守は書いてるというのかもしれません。明治になって南朝正統になった
     のは
       足利尊氏も後醍醐天皇をいただいて戦ったのに最後で両者決裂したので天皇の方をたてた
       継躰天皇からスタートとすると、継体系が南方から入部した
     というからかも。戦前では、明治24年明治天皇が詔書を出して南朝正統を決め、ここで北朝正統という説の
     学者が辞職に追い込まれましたが、それなら今までの天皇の多くは問題になってしまい、王朝が途絶えた
     とみられていたかも。筆者の父も皇統は北朝だからと時々いっていました。いまとなれば出所どこやと聞い
     とけばよかったと思っていましたが、このときの政府決定の強引さが反発を食らってた感じです。明治22年
     帝国憲法発布、明治23年施行、24年これだからどういわれても結構だというところでしょう。
      太田牛一は、「躰阿弥永勝」を出し、索引の流れでは
            「大覚和尚長老」
     が出ています。〈信長公記〉に
        「下飯田村屋斎軒ー佐久間右衛門ー守山―安房―角田新五-安房ー守山ー安房―佐久間ー林」
     があって、
         飯田―角田 があるから「飯田覚兵衛」=「飯田角兵衛」があり「角」=「隅」=(すみ)(くま)=「隈」
     があってこれが大覚寺統を示すものかもとれるところで知らないところで新羅・百済とかで振り回されてた
     というのがあったかもしれません。これ等が出てくるのは池田だと思ったのですが池田の索引に大隅がない
     ので勘違いとして「隈」「熊」なら「はなくま」で出てくるとして「織田(津田)大隅守」はあります。「池田」の
     「勝」もあります。佐久間ー林ー安房ー佐久間甚九郎定栄ー信栄ーー正勝などの筋で利久も入りそうです。
     「屋斎軒」は不明でほったらかしですが、ひょっとして時空の移動で「津田(池田)三郎五郎」をさすかも。
     斎藤に通じ信長に謀叛したこともあり、あのときの、あのことは、というのがあるのかどうか。

     (411)序文の「日下(くさか)」ー「多羅斯(たらし)」
       近畿以東(北)は、この●倭国の傘下だったので、ここでは参加だけしてる、関係ないとはいってないのでは
     ないかと思われます。邪馬台国の記事を書いた記者は今の朝鮮半島→日本
     最短距離を来てるのは間違いなさそうで、一つはそのため九州(北部は白済?)が詳しくなっていることは
    ありえるとは思いますが、近畿磐余王朝は、述べられてるのかどうかわからないということは九州説が有力と
    いうのでもみるように、ありうることになります。筑紫における仲哀天皇は、
       「 穴門豊浦宮(脚注=山口県下関市長府町豊浦)また筑紫訶志比の宮(福岡市香椎町)にましまして
        天の下治らしめしき」〈古事記〉
    となっており、で、特に初めの「穴門」は「長門」にきまりとなっており、それなら、海を渡った都は、おかしく
    中国地方も見てたというのが自然です。とくに〈古事記〉序文に
        「また姓(うぢ)の日下(くさか)に、玖沙訶(くさか)、名の帯の字に多羅斯(たらし)という。」
     があり、氷上ー日下、「訶」=「香」でもあるようですが「玖」が「王+久」で、〈古事記〉専用の「9」で
        「沙」
    は馬韓の特徴的な字といえるのではないかと思います。、三国志の黄忠
    が「長沙」と思いますがその「沙」です。馬韓に「沙」というのがどこで見たか確認の仕様がないまま探して
    いましたが、燈台下暗しといいますが、三分冊のテキスト〈書紀〉唯二枚の地図が継体紀・欽明紀に挟まって
    おり、その中の一枚にありました。475年百済が一旦滅んだとされる時期以後の任那の縮小の過程を
    描いた地図でこのころはもう馬韓弁韓辰韓は消えていますが、馬韓の在った地帯の一番右側の辺りに
         「沙陀」(本文では「婆陀(さだ)」
     があり、ここで、「沙」と「婆」となぜ間違ったかは問題です。仲哀紀に熊鰐(わに)が天皇を「沙麼(さば)」
     [山口県防府市佐波]の浦で迎えたという記事と対応してると思いますが、(〈古事記〉では建内宿禰が沙庭
    、で出てくる)もう一つ、その南、海よりにやや大きい
         「帯沙」
     があり、仲哀天皇は
      「垂(たらし)中つ日子の天皇」であり、「帯と沙」。
    が結びついています。筑・豊・肥は九州北部ですが大和
   に筑紫はないではないかといって決めてしまうのはどうかということです。邪馬台国の市販のものには朝鮮半島
   の地名入りの略図がついていないので、親切ではないのです。この場面でも
      「継体六年、夏四月・・・・穂積臣押山を百済に遣使した。なお★筑紫の国の馬四〇匹を賜った。冬一二月、
      百済が遣使して、調を貢[上]した。別に上表して、任那国の・・・婆陀・牟婁の四県(全羅南道のほとんど
      全域ー帯沙は入っていない)を請うた。」〈書紀〉
   となっており、★はストーリーでは百済から賜ったというのもあります。こうなればこの辺が★と呼ばれてた
   ことになります。また今の日本から百済が賜ったというなら九州も、山城も指すのでしょう。要は、ここ四県に、
   筑紫の国が入り込んできてるということになり、仲哀の筑紫の国と繋げたらいいわけです。
   複式簿記のように左でその科目がでたら、右にも出てきて、その科目の内容が深くつかめるというようなことに
    なっています。文献に両方出ているといえば仲哀は筑紫の国ですが〈古事記〉では
          豊玉比売の命ー鵜葺草葺不合で    580  を出してきて
          神武天皇   倭伊波礼(いはれ)で  137  を出してきて
                          580+137=717/3=239
    という邪馬台国の年に当たるものが出され、神武は「御陵畝火山(記紀とも)」でこれは(畝傍の橿原)です。
    仲哀天皇は〈書紀〉にない52歳を出してきて御陵
           「河内の恵賀の長江(古事記)」(脚注=大阪府藤井寺市岡。)
    であり、連合いの神功皇后は
         「ホムタワケ皇子(応神の父と思われる)を皇太子に立てた。それで磐余にした。」〈書紀〉
    となっており「磐余」で流れを締めています。〈古事記〉において、つまり日本の文献に於いてすでに邪馬台国
    が九州と近畿(磐余ー纏向のあるところ)にあったといっていました。「崇神」が「磯城」、「垂仁」「景行」が
         「纏向」
    であり、磐余はどこか教えてほしいところです。行政は中央の意向を汲んで、地名をきめてしまうのは過去に
    もありました。


   (412)東国にも方角・里程がある
    、秋田辺りから磐余の都に達する資料が、提示されてないのか、表記を読みかえれば別の
     図が出てくるか判らないわけです。〈明智軍記〉でも、東国、松前からの里程が、延々とでています。小泊(青森
     県北津軽)で行先が三方へ別れるようですが、〈明智軍記〉では、下関~小浜は196里、次の三国湊は221里、
     越前から松前までの里程がかいてありま
    すが、一応、松前~小泊(津軽半島)8キロで北海道まで行っており、500=370+130の括りが出ています。
    小泊から東へ行けばと書いていますが東は海で、陸路、西へ下北半島の方へ八つ目で「志加留(ル)」まで
    行ったようです。
     湊がたくさんある中で「奥州志加留(カル)湊」が判らないので全体が掴めません。小泊より「志加留(カルノ)湊」
    まで130里で「水行十日」ですが、これはそのまま使えないから、「水行10日」の里数が出てきません。、
    細かい31件の総里数合計は581になりそうで、これならば、239を出したものがでてきたこととなるので
    北からやってきたということも考えた馬鹿もいたといえないこともないかもしれません。武王の上表文
     (478年)でも東国が出てると思いますが、それらをみてからのことにもなります。またここでは
     東は、西もあるということもいっており、、「水行十日陸行一月」というのも水行10日の距離と、陸行一月の距離が
     同じといってる、親切でいってるということもわかるといってるかもしれません。、この場合「志加留(ル)」
     は別場所になりそうです。言い換えでない場合は、「水行十日陸行三十日」とならないか、この前に「投馬
     国水行二十日」という砕いたものが出ているから、これは,陸行二月とはならない(誤差が大きくなって)と
     思われます。この里程の羅列も、5里が一つ、7里が四つあります。一日で10里いくとすれば大きいともいえ
     ます。が最低は「5」というのもでています。
     

   (413) 讃
    この馬韓の地域と仲哀の地域とのつながりは公孫氏のとき、濃厚だったと思われますが、趙雲の活躍によって
    印象がよくなった、公孫氏は、中国に近く倭のような働きをしてたかもしれないというのがいいたところのこと
    ですが、(公孫氏のことは「歴史読本」(「ここまでわかった邪馬台国」などによる))  
             「公孫讃(王篇)」
      は「伯圭(王篇もある)」で、「白馬長史」とも呼ばれ、慮植(〈後漢書〉に列伝がある)塾で、劉備(元徳)と
     学友であった人物です。趙雲の「雲」、関羽「雲長」の「雲」は出雲の雲と いってるわけではないが、
     八雲立つ出雲大社の龍蛇神もあります。「趙雲」=ちょううん=「長雲」ともなり、
             「長雲」〈信長公記〉(多分元「河内守」)
     もでてきます。「公孫龍(竜)」という中国の紀元前の学者は「白馬非馬説」の論
     がありますが、慮植が公孫と馬カンを結びつけたのかも。大国主ともなると、大国の主(あるじ)とはならない
     か。
       「大国御魂の神。次に韓(から)の神(脚注=朝鮮半島系の神か)。次に曾冨理(そほり)(「朝鮮語ソフル(京
       城)か」)。次に白日の神(新羅の神の意か)。次に聖(ひじり)の神(日知りの意。聖賢。)五神。」〈古事記〉

      があり、韓(から)は漢・唐もあり前後を橋渡ししており、大国は中国しかないようです。日本にいた人が
     〈古事記〉を書いたので最後の日知りは今の日本を出したのかも。

           三国志=(趙雲子龍)(劉備元徳)=朝鮮王朝・三国史=〈古事記〉三巻(上・中・下)

     などあるかもしれません。要は大国の他郷進出はこの時代不可避ですが、日本でも隋に遣使したとはいわず
    大唐に遣使したと書いてるように、唐(から)を利用して「中国」は外さず、「大」をつけながらも、相手をはっきり
    させないというのがあります。〈年表〉では漢といってしまってて、例えば
    紀元前108
       「●前漢武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪・臨屯・玄菟・真番の4郡を設置。
        100頃 高句麗、侈佳江中流域に興る。
         前漢の昭帝、真番・臨屯の2郡を廃し、玄菟郡を西にうつす(75年説あり)。」〈年表〉
                                (75≒37×2≒「神武76〈書紀〉」はみてるかも。)
    がありますが、●は公孫氏のような存在が中に入って右往左往しているのとちょっと感じが違い
    ます。衛青や霍去病・李陵などのあの武帝を思い出すと圧倒的武力でアッという間に鎮圧してしまった
    という印象ができてしまいます。〈年表〉では公孫氏のことは204年頃
        「公孫氏が帯方郡をおく。」
    がありこれ以後も出てきてないので、帯方や三韓(馬韓
    など)、任那などへの展開はわかりにくくなっています。北荻・東夷・西戎・南蛮は見下したようで、無関心
    というものを装ったというのかも知れません。民族の拡散というものは知っていて、遠隔地は間接統治の
    原則があって、統治代理機構をつくって朝具外交をやったのかどうか、この邪馬台国のとき239年にもう
    出来てて、魏志倭人伝の記事にも

      「租税を収め、邸閣有り、・・交易・・大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には特に一大率を置き、諸国
       を検察せしむ。[諸国、]之を畏れ憚る。常に伊都国に治す。・・・郡の倭国・・・」〈魏志倭人伝〉

     となっていて、大倭がもう出てきています。馬韓の(地図で)右下、もっとも九州・出雲に近いところにも
             「狗邪国」
     が、ありこれは文中の「狗奴国」に似ています。これは地名羅列の最後にあり、
          「其の南に狗奴国あり・・・  郡から女王国に至るまで万二千余里。」〈魏志倭人伝〉
     となっています。入口と出口が出てきてる感じのものになっています。方向が納得しにくいところもあり、高句
     麗が倭を立てて、日本にきているという側面が出てきているかもしれず、頭の中で逆回転させて磐余王朝が
     捕捉されたといきたい、のですがそこまでいってません。〈明智軍記〉の記事を紹介したという程度のところ
     にいます。
      〈古事記〉神武天皇「137歳」〈古事記〉で、100+37もあるということでやってきました。それからいえば
         「[帯方]郡より女王国に至ること萬二千余里。」
      というのは
          万(多い)  1万2000里   10000里   2000里
      が考えられます。   1万2000里とすると方向無視して距離だけでいくと
         帯方郡→10500→伊都国→200→10700  →不彌国  1300(水行10日陸行1月)→12000
         女王の都
      になりますが、〈明智軍記〉では500-130=370 が出てきています。伊都国は
           「伊斗の村」〈古事記〉  「怡土国」「伊覩」「五十迹」「伊蘇」〈書紀〉
      で〈古事記〉の伊斗は仲哀紀にでています。
        公孫氏も、朝鮮の南部でそういう感じの外郭団体として重宝がられたと思われますが
     この公孫氏は、西晋の創業者、司馬懿仲達に滅ぼされたようです。これは諸葛孔明の晩年の宿敵として有名
     です。
      西暦234年が、春風五丈原の年で邪馬台国は、239だから、諸葛孔明歿ー邪馬台国と覚えておけば
     時代はわかります。司馬懿の「懿」は懿徳天皇の懿ですが、これは関係ないにしても〈古事記〉で懿徳まで
     みれば
              神武127+綏靖45+安寧49+懿徳45=266年     司馬懿は179~251
                             221|  266|          (西晋は265~316)
     となっており、〈明智軍記〉の下関~越前三国間(15地点)の里数221
                       越前~霧山の渡鹿湊(ここで小休止がある)(12地点)の里数266
     ではありますが、これは関係はなさそうです。


    (414)司馬曹達
     今問題にしてたのは、266倭の女王、西晋遣使以後、100
     年飛ばして366を持ってきて、そこから47年(6+41)で413ともってきて〈年表〉で

        372年 神功紀52年条  石上神宮所蔵の七支刀に東晋「泰(太)和4年4月16日丙午の紀年銘がある。

        413年(長寿王の即位の年) 倭国が東晋に遣使、
        421年、王(倭の五王のはじめ?)が宋に遣使、(〈年表〉ではこのだけが太字になってる)
        425年 倭王讃、■司馬曹達を派遣し・宋文帝に上表して方物を献上〈宋書〉

     が出ていて ネット(ウイキ)では413のも「讃」となっています。長寿王と讃王は兄弟とも取れますが、
    413の讃は「王+賛」の讃とも取れそうです。問題は■で、他の所でも必ず書いてあります。
            司馬仲達
            司馬曹達    からいえば 讃王
                              ∥
                              司馬曹達(大臣?)
    というのは、予想されるところです。仲達は曹操に登用されて、三国志の舞台に出てきて、諸葛孔明(伏龍)
    ー趙雲子龍(のちに「白龍」)と関わりが生じました。諸葛氏は呉の出身で、呉で孫堅・孫策・孫権
    がでています。 趙雲が頑張って旧主、公孫讃を出したというのが効いてきて、公孫氏を司馬曹達が思い出
    させたといえます。公孫氏は、司馬仲達に滅ぼされたというが、四散しただけで、根強く生きてて、日本に
    関わりが生じたのとみてよいのでしょう。

     加藤孫六が家臣によって旧主がわかるといったのは公孫氏×趙雲のことだったというのが出てきてると
    取れます。
          布施藤九郎〈信長記〉(考証名「布施公保」)  (索引 藤孝/布施公保/布施五介/布施三河守
     (注=「実名公保。布施氏は伊香氏、滋賀県伊香郡高月町布施。」

         「遠州・・加藤弥三郎」「賀藤弥三郎」
         「服部小藤太・・下方弥三郎・・団・・塙伝三郎・・山口小・・加藤・山口半四郎・・服部六兵衛・・」
         「三川の国より村越孫六郎、賀藤三丞等・・・」
         「上手・・千草峠…越・・山中・・二玉・・十二・三間・・鰐口・・鯰江・香竹・・弥三郎・・千草山中・・
          上下一同・・」
         「下・・鯰江・・市原・・日野蒲生・・布施藤九郎・・香津畑・・六・・千草越・・千草山中道筋・・十二・三
          日・・・公・・二ッ玉・・鰐口・・・江州南郡・・野洲川・・やす川・・落(乙)窪・・三雲・・江州・・」
         「百済寺(はくさいじ)・・鯰江・・佐々木・・蒲生・・鯰江・・百済寺・・百済寺・・」
         「百済寺(ひやくさい)の鹿・百済寺の小鹿」以上〈信長公記〉

     があり、「山口」は「山□(空キ)」でもあり 山「中」 でもあり 山(上・下)=峠 でもあります。上手・下方も
     あり、草加=日下 は下手になります。百済がたくさん出てきて・公孫と関わるようです。鯰=鯷で邪馬台国
     で「東鯷」(なまず・ひしこ)が出ていました。ここから百済がたくさん出てきますが「はくさいじ」という読みがあ
     り、白済=百済{九州にいた勢力}となるかも。「公孫」が白のイメージを出してそうです。
      景行天皇の九州行幸〈書紀〉が有名です。古い記録の剽窃だという説
     もありますが〈書紀〉の記者は古記録をみてて史実のことは紹介しないといけない立場にあって書いてると
     もとれます。軍事行動という説も、この纏向の景行天皇に交戦権がないのでそれはないのでしょう。〈書紀〉
     の景行の中に、三人の人格が含まれていて、慈円が三人を脇注に書いています。
      継体の御世(年表507~531)に 
        「紫(つくし)の君石井(いはゐ)、天皇の命に従わず・・●物部の荒甲(あらかひ)の大連、大伴の金村の
       連二人を遣わして石井を殺らしめたまひき。・・・天皇御年肆(4)拾参歳(脚注=継体紀では八十二歳)・・崩・
        ・・」〈古事記〉
     がありこれは〈書紀〉〈年表〉では528年ですが、●二人と石井には索引がなく、脚注ですませてあります。
     一見、天皇が違ってそうです。531(継体没ごろ行政区画の大変更があったかも。534、蘇我稲目宿祢
     の登場(欽明時代)となります。「筑紫」の読みも「つくし」です。
       ここに266+6=272が出ましたが、372は七支刀が出てきて
           「泰始」という年号のはずが「泰(太)始」となっている
     という問題がでています。
      神功52年条にでてるのでこれは神功69の内の仲哀52の部分としますと
     神功69年ー52=17≒18 で卑弥呼没248が通説だから、48年+18=66⇒266(これは神功内の約束)
     となるとすると、   48+9=57+9=266 で、これは 48+7=55+11=266 でもよいということ
     になります。この200は何かというと
       〈古事記〉
       崇神168ー垂仁153ー景行137-成務95-仲哀52=計605/3=201+神功100
     の20です。神功100が続いてるから  100-52=48  48+(52/3=17)+1=66  で
       266+6=272 は 七支刀銘が372-100=272の時(地)点にあるというのが、52+120=172
     を呼び、172/3=57 となると、仲哀は頼りないようで頼れるものとなっています。仲哀の(仲)というのが
     太田和泉守の
      「中入れ」(中抜き)の「中」、将棋でいえば中合の「中」で王手をされて何も利いていないところに間(あい)
     駒打つのもあるのでしょう。いいたいところのことは、247年が魏志に出てて直後に卑弥呼没があって248
     にするのは妥当ですが正始ハ9年目始めに改元があって変わっています。従って
         49歳年没 (仲哀52-3=49)
     でよいのではないかと取れるところで、聖徳太子49没、その子と思われるが、よくわからない舒明天皇49
     没、織田信長49没、というのがあり、それがここに端を発してるというのがどうしても要ると思われます。
     これだと卑彌呼が249没、神功没が269で、20年間というのが出てきます。249+6=255(肖古王)が
     257卑弥呼没、269 張政没というのが出てくるかも、となりますが、そらありえないというのが普通ででしょう。
     「張政」という(尾張)(終り)の「政」というのはキヤッチされてるか、というのを調べて見ないとわからない、
     ことです。〈信長記〉の解釈で逃げられてることがないかということですが、わからないことだらけです。
 
        織田信張 文中表記(「織田佐兵衛佐」「■織田太郎左衛門尉」)
      「注:●藤左衛門尉の子。・・尾張小田井城主。津田を称した。のち和泉岸和田(岸和田市)城主となり和泉
      半国を領した。(〈続群書類従本織田系図〉)。天正4年12月従5位下(歴名土代)」

      となっており、清洲三奉行の藤左衛門家でこれだけは清須の敏定(信定の父)の兄弟の筋の家で
     おかしいことに●が寛故(とおもと)諱寛政これは誰のことやらわからないわけで、どれにもこれ以上説明がない
     のです。津田も称してる
     からワンパターンのまま進めません。津田もあるから最低三人はおり、表記が大きすぎて漠然としてわから
     ないだけです。
               信  張
               張  政  
      で「政」は
        「平手長政」「平手政秀」「佐々成政」「松倉重政(「島左近ー松倉右近」の)」「池田勝政」「田中吉政」
        「堀秀政」「北政所」などの「政」、「北条政子」「北条氏政」もあります。年号では「寛政」年間の「政」も
        あります。「藤左衛門」は「藤原」の「藤」
        でしょうが、特異な設定でもあります。清須三奉行は
           「三奉行と云ひしは、織田因幡守、▲同藤左衛門尉、同弾正忠なり。」〈甫庵信長記〉
       となってて甫庵、索引では 「同弾正忠」が抜けてて
                織田因幡守
                  因幡守
               ▼(同)藤左衛門尉

      となっています。これだと▲▼の意味がかわり、(同)は織田因幡守」の一員となってしまいます。よくよく
      みると「弾正忠」は
               織田備後守
                  備後守殿
                  備後守
                  弾正忠    〈武功夜話〉系図では弾正忠は信定となっている。
                  桃巌

     となっており、信秀のところに入っています。織田の意味から信秀の意味に変わるととれます。
      出雲守織田常竹系
           大和守敏定、子の筋)ーーー○岩倉城信定の兄の筋  傍流「因幡守家」(ここにも「藤左衛門」がいる)
           |                ○(勝幡城) 弾正忠信定―信秀ー信長の筋
           |   敏定の筋ーーーーーー清須城   大和守家

               敏定 弟の筋
           丹波守、常寛 於台城――――○藤左衛門寛故ーーーー寛維
                 弾正左衛門       この諱が寛政       弟 寛廉(これが信張

      の三つで信張の筋は「寛」がついてる家ですが、岩倉も「寛広」がいて於台城」の他に因幡守家とは甫庵索引で
         佐々藤左衛門/佐々隼人正/(其の弟)孫介/佐々孫助
     があり、武井夕庵幼名を孫介といってきてるので、■は春日井で出てくるので、一応「武井爾云」衆という
     感じのものでよいと思われます。佐脇藤左衛門は前田で■の方、毛利藤九郎は因幡の家中にしましたが
     三奉行といっても「藤左衛門」を両脇にした、信定―信秀の流れが中心の三奉行といえます。
               
     ウイキによれば、この「寛故」は(とおもと)といい「寛政」は(とおまさ)というようです。「寛容」の「寛」(かん)
   は (広い)という意味のものですが「とお」という読みが解せません。遠い昔というのかもしれません。
   これは出雲守系のものですが、伊勢守常松系のものは「広」が多いようで、こういうのが古代をみてる枠といえます。
    信定ー定信ー松平定信寛政の改革(葛飾北斎が出たころ)ー寛故寛政ー故(政)ー信張⇔張政
    を出そうとしてたととれるところです。


     (415)「織田九郎」と「九郎」
     念ため「張政」をネットで検索してみますと筆者のいってきたこともわりかしいい線を行ってるらしい、という
     のはイントロのところ数個みただけでわかります。 今議論のスタートとなってきたのは、大物戦死の一節

        坂本口・・相・・森三左衛門・・坂本・・合・・相・・相・・火花・・討死、、{脚注=一五七〇・・坂本口・・
        下坂本・・(旧下坂本町)・・・}
        森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤叉八.
         ・・・兄弟・・・・兄弟・・・・」〈信長公記〉

     があり、逆さ読みの「坂」がたくさんでました。 索引では

        織田信張(文中表記「織田太郎左衛門」「織田佐兵衛佐」)/織田信治(文中表記「九郎」・・)

    があり、織田信治の場合も、信治=(春)=信張 となって太田和泉守近辺の人になりそうです。
       
       森三左衛門                   森三左衛門
       織田九郎                      九郎
       (同)九郎      と書いた場合と     (同)九郎
 
     となると、前者の(同)九郎 は織田九郎方人ともなる、織田九郎=太田和泉とすると兼松相当の人が
     同九郎=信治になりえます。つまり「九郎」にしない兼松がでてこないことにもなります。つまり男と女の
     登場があるということにもなります。この場合卑弥呼と卑彌呼と二人の死をキャッチしてなければ二〇年
     とかいう数字も出にくいことになります。ここに津田が出てきたから、仲達ー曹達ー達勝ー津田宗達への
    広がりもありうることになり、岸和田城・城主の語りは秀吉時代に「小出秀政」「小出吉政」が当たっており、
    これも唐突な登場で暈されてる感じです。「佐々内蔵佐」が出てくるところに(348)頁に
         「小井手表」「成願寺(脚注=常願川・・・流程六六粁)」「●小井手川(打越し)」〈信長公記〉
    があり、●の脚注が「小出川。白岩川のこと。」となっていて、「小出」が出てるから、「砦」ー「取出」「取手」が
    あるから、平手―藤刑部丞(遠江目代の家柄)、という関連も出るとすると、平手長政の一族かもという
    のも出るのでしょう。一方、〈信長公記〉の索引で、「武野紹鷗」の次で
         「だご」(「摂津荒木村重の娘」)/「たし」(「荒木村重の妻」)/「たし妹」/多治見
    という索引の流れもあり、甫庵では、荒木の中で
         (荒木妻)し/(荒木弟)吹田
    が出てきます。子供だと「小出」が問題だったらここに直接の「出」があるよ、と言い出すところです。
    まあ、雲守常竹系は関係ないだろうが。 

     (416) 応神までの遣使

      〈古事記〉
       崇神168ー垂仁153ー景行137-成務95-仲哀52-神功100ー応神130=835(修正後407)
      〈書紀〉(崇神68-垂仁99-景行60-成務61-仲哀9-神功69-応神41)=407
         に於いて 

      (1)57年遣使を表す
            崇神168は(〈書紀〉の「崇神+垂仁≒167」に同じ)  168/3=56

      (2)107年の遣使を表す
            崇神168+垂仁153=321/3=107       

      (3)153年の後漢への遣使を表す
             崇神168+垂仁153=321+137=458/3=153  
        これは〈年表〉〈魏志倭人伝〉に漢代の卑弥呼の名が出てるだけです。事実の報告がない、ハッタリ
       いうな、というかもしれないが、垂仁の153も暗示で効いてる、153/3=51もあるかも。

      (4)184年、後漢(中平1年)への遣使を表す
             崇神168+153+137=458+95=553/3=184

      (5)239 魏への遣使(卑弥呼の遣使)をあらわす。
             景行137/3=46が出てくる。46+46+95+52=239(邪馬台国)
             (137+580)/3=239    これは他の計算がある

      (6)266年に西晋への遣使
            〈書紀〉〈年表〉で出てくる(神功紀66年条)   600/3+100/3×2=266
            265年、諸葛孔明時代の三国の魏に該当する地域にいた晋(西晋)が統一。
            835-130+(66+33)-7=798/3=266   (835-130)/3=235+100/3=268
            神功は100/3=33が3人分あるのかも。

      (7)274年に西晋への遣使
            〈年表〉〈書紀〉に出てないが〈書紀〉の記事から推測。
             266~366年〈年表〉が、空白になってるのでその8年が一部埋まるかも。
  
  などのことになりますが、何といっても266は重要で、はっきりした記録によっています。〈年表〉では、248に
  多くを被せ、
    「248  この頃(梁書諸夷伝・倭は正始中〈240~48〉)卑弥呼没す。・・100余歩・・100余人・・男王・・
    ・壱与・・・壱与(壹与・・13・)・・壱与・・・・壱与・・20人・・魏使・・」〈年表〉
  となっていて、前の(  )は親切とみて、通説は、248卑弥呼没、となってると思われます。ただ正始は10年目に
  元号がかわっているので249までが正解というのもあります。するとプラス1(一も)出てきます。従前は
      266-248=18
  差になり、そのあと
         「266 丙戌 倭の女王、使を西晋に遣わして入貢する〈神功紀66年条〉」〈年表〉
   があるので、倭の女王が誰かわからなくなっています。通常考えられるのは壱与①壱与②ですが、この差は
  はじめから埋まってることになります。すなわち480 580が20違うのでその分ここで詰めるというのもあり
  神功に限り、 「266は神功紀66年」となっていて、魏志倭人伝のなかの「246年(丙寅)は神功紀46年」と
  なるはずです。
  これは〈年表〉では「366(丙寅)の記事は神功紀46年」 となっています。246年から20年後266年になるので
  まあ18+2 の断層は埋まってしまってるともいえます。結論部分は既述ですが、〈古事記〉で、過去の有耶無耶の
  ことがかなり解けてきますが、それも判らないままにガタガタして疑問などを出してきてる部分に限られます。
  〈古事記〉はほったらかしできていますので、ここで出してた問題についてはじめに一部やってみたというのがあり
  ます。
  266年、この年は重要なので数値でも出せないかとみると インチキ臭いが
           835-37=798/3=266 
  というのはあるかも。史実の数字に、一見無意味な数字を動員させることは頭の中で可能なことで
     、35≒37で         37+400
                         400   の二口が835
   として出たとも考えられます。


   (417)百済のない百済の話
     400年は好太王の時代で、266年から366まで〈年表〉空白だから、あと400年まで34年しかなく、この
     100年の飛ばしは、理解を越える話でたびたび触れてきました。実際はもっと大きな空白で266から390
     まで飛んでいる理屈になります。366も本文では他に入ってた記事をもってきたものです。
     すなわち
          
         「266年  丙戌  神功紀66年条 倭の女王の西晋遣使

            ~    100年完全空白〈年表〉

          366年  丙寅  神功紀46年条  百済の話が出ている〈年表〉(このときは百済[346成立]
                はある)(本当は246に載る記事がここに出てる、とすると百済はないことになる)
          367(神功紀47年条)・369(神功紀49年条)・372(神功紀52年条)・382(神功紀62年条)」

    の記事が続いて390に至っています。120年前の記事がここに出てるということで、
    120年前のところ(神功の239年代のところ)の年代にも細字で入れとかないけないとも取れます。
    366年から120引くと246年となりこれは邪馬台国の記事(239~248)の中に入ります。

   この記事は年が100年進んで、神功紀では20年あと戻りしています。数学的に何かがうまく出てくるのか、
    わからないので、別のことでこのことをみれば、
      西暦246というのは、丙寅で、西暦366は丙寅で
      神功紀46年というのは丙寅で、神功紀66は丙戌です。
      神功紀46から前に20進めば丙戌で、逆に20行けば丙午です。丙戌から丙午まで、順でいくと20年ですが
      逆で行けば40年ということになります。これはガタガタしたらいいということになるのでしょうが、366の20年前
      が特別に重要で
         「346 空白     (国際欄)[百済]近肖古王即位し、百済成るといわれる。」〈年表〉
    の記事があり、これを取り上げたいという意向のようです。346の百済成立は、246に飛んで、邪馬台国に
   及ぶということにもなります。
     第13代百済、近肖古王(在位346~375)のときいわゆる百済成立ですが、似た名前で、第5代百済
   、肖古王(在位166~214)の存在があり、8代「古尓王」(234~286)のときが邪馬台国のときの王となる
    のでしょうか。こうなると九州に親類の百済(白済?)がありそうということになります。

    (418)九州北(前百済)王朝
          
 神功紀46年が 西暦366年  神功紀 66年が西暦246年
        120年の差については日本の文献に100年の空白がったことによってそうですが、
             46→66  66→20
        という逆のことについては何となく、別の暦のある王朝との比較もあると考えられるところです。244
        245・266で百済が乱入してきてることが気になるところです。百済が
          346年近肖古王の時代になってとなって「百済成るといわれる(〈年表〉)」。がありますが、先ほどの
          366年と20年違いです。ひょっとしたら、366年は新百済が成った年であり、旧百済があったのでは
        と思われます。

                    
朱蒙[東明聖王](高句麗初代)           
                        |
                      瑠璃明王
                        |
           1子2代目王ーー 2子沸流ーー 3子温祚王(百済始祖)
              本家                    | (前18~28)
                      (弗に注目)       5代目 肖古王 166~214
                                     {7代、沙伴往・8代古尓王}
                                    13代目 近肖古王 346~375
  
         となっており、百済は紀元前から国があります。13代目からしか語られていません。太田牛一に
       白済寺・百済寺の大鹿・小鹿があって、この白済がなぜ名に書いてるのか悩んでいたところです。細字7代目
       に沙伴王234、8代目に古尓王(肖古王の弟{234~286})
      がいるので266に遣使を出した倭の女王が、即位だけ書いてる沙伴王(日本の史書に名前が出てるらし
      い=ウイキ)で、沸流の筋(今の日本)に婚姻で入って女王になって使節を出したと思われます。
      沙沸王・沙伊王の名もあるので公孫、壱与との関連もみるべきかも。履中天皇のときに
             宗我満智宿禰・物部伊久(莒)佛
      が国事を執っていますが、これは仏教の「佛」とは言い難いものです。246、志摩宿禰の出た百済の記事
      に
        「百済王は東方に日本の貴国があると聞いて、その貴国に朝貢させることになった。」〈書紀〉
       というのがあり貴国の脚注には
        『原文は「日本貴国」の日本は、後代の大和朝廷の呼称でのぞく。のこる貴国は百済卓淳国が交流
        したいいとした。おそらくは北九州の国名。』
       となっています。246年ころの話だから温祚王の兄筋だから貴国と呼ばれてもよいと思いますが、
       九州王朝のことだろうとされています。これもあると思いますが、この九州王朝は、なかったとされてしまっ
       た旧い百済のことをいっていると思います。磐井の乱とよばれていますが、磐井が百済に味方したのは
       もと百済という記憶があって必然の動きで、239頃、魏志倭人伝の記者が会った女王が磐井の先祖で
       あろうと取れます。このときが528年ですから随分、時が経っています。九州北部が白済といわれる地域
       ではないかというのは、公孫と百(はく)済寺の組合せですが、太田牛一の「白済」はどこかというのも歴史学
       の領域の話のことと見受けられます。

         ここには別の年号があって20年違うようです。
           66年    166年   266年   366は新王朝  (66年は温祚王在位46年+20年かどうか)
       に痕跡があり、高句麗の好太王が、勢力を拡大し、一応、朝鮮半島の盟主という地位を築きましたが、倭
       というものを足掛かりにしてるため、中国が進出してた地域ともそこそこ上手くやってきてて、その間、
       平穏に過ぎてきて磐井が百済に味方したため、百済の百済①が九州王朝とわかったともいえます。
        継躰天皇は好太王系の百済・倭の出身、讃王の後裔といえます。
      
       元年から366年頃までが空白の4世紀として隠されたので、これからというところですが、〈古事記〉応神紀
       に「百済の国主(くにきし)●照古(せうこ)王」が出てくる一節、
          「和邇吉師、すなはち
          ◆論語十巻(とまき)千字文一巻、并はせて十一巻(とをまりひとまき)を…貢進・・」〈古事記〉
      があり何年ごろかは脚注にも書いていません。どこの人かずっとこのままわからずじまいでいくことになる
      のでしょう。●は脚注では
          「百済の第十三代の近肖古王。」
      となっていますが、肖古王とも取れます。8代目古尓王(肖古王の弟{234~286})もあるかも。
      近肖古王なら346以後だから間違いないだろうとなり、266~366まで空白だから、チェックの仕様も
      ないとなってしまっています。これは九州の白済から卑弥呼か壱与の時代に齎されたものとも考えられま
      す。九州は早いころに中国、朝鮮半島南部との交流があり、朝鮮半島と最も近く、天皇記国記は九州の
      古記録の
      内容や書式が基になってるのかもしれません。九州に引き当てられた地名は確信的で他の所へはもって
      いきにくいものとなっています。◆は〈日本書紀〉と同じ書き方となっています。〈古事記〉があるから
      100年前という幅があるから安心できる話になってるともいえます。
      「千字文」の脚注は
            「広く行われている周興嗣次均(土篇が「音」)の千字文はまだできていなかった。」
      となっており〈日本書紀〉の場合
                     「日本書紀30巻系図1巻を撰上」〈年表〉    「并はせ」  ーーー   一巻
              (参考) ◆「論語10巻千字文1巻」を貢進          「并はせ」  「十一」   一巻
              (参考)   「水行10日陸行1月」                       「十一」   壹(壱)国
      となっていて、系図一巻は現存してない・・・・で終り、となっています。系図一巻の「一巻」は(ひとまき)だから
       「とをまり/ひとまき」は「10まわり1巻」だから「まりとまき」は違う、一割もありうる、
                     「30まわり3巻」のように趣向を変えねばならないのかも。▲「三十三」が「十一」に
      かわりうるというカラクりあるのではないか、とも取れます。「系」というのは血統(家系・直系)のような繋がり
      ですが、太陽系、山系のように繋がれて出来上がってる、つらなりもあります。
      
      太田和泉守曰く「信長公」「信長」の暗殺事件があった、ということで次の二つが出てて(信長公記)

        元亀元年
         「蒲生・・布施藤九郎・・★菅六左衛門・・佐々木・・十二・三日・・・公・・・・江州南郡・・野洲川・・」
        元亀四年
         「佐々木・・十二・三間・・・・・鯰・・磯・・▼たてうづみ(脚注=立埋み)・・菅屋九右衛門・祝弥三郎・・」

     がありました。、★は注では「菅秀政」なので、堀秀政、その前の藤九郎が加藤孫六(山口飛弾守)、弥三郎が
     賀藤(後藤・江藤)弥三郎で、鉄砲の名手「杉谷善住坊」が両方に出てて(省略)、菅屋九右衛門の
     子息が全部出ているから重要な一節といえます。
      「鰐」は一応、〈古事記〉また仲哀天皇の属性ともいえます。太田牛一は
     、「水行10日陸行一月」を睨んで「十二・三日」と「十二・三間」を出しています。これは一応、
         〈古事記〉では 「壱拾弐・参日」、〈書紀〉では、「一二・三日」
     と表示されるはずですが、「・」は原文にはなかったと思われます。太田牛一は
         一二三日、一二三間も視野にあり、123+123=246 というのは見てたと思われます。
      266~366の大空白があり、20引いた、246~346(百済成立の年といわれる。)の、100年前の
      246があり、これは、   神功紀39年・ 40年・ 43年に
            邪馬台国の記事(西暦239・ 240・  243が入っている)
     があるので、このあとの
            神功46年に対応するはずの、246年を想定しますが、ここには百済の記事しか載っておらず
     期待はずれがあるところです。もう一つ変なのは、この百済の記事は年表には346に載ってるということで
     246が本来白紙になるが、視線が通過したということに意味があるのでしょう。これはもう明らかに100年前に
     飛ばしたいということで例が出てきます。
      「水行10日陸行1月」というのを「12・3日」「12・3間」にしたのは、12,5というものはなく、12か13と
      いうものか、また10日=130里もあったかも。
      123×1/10=12・3  10日130×1/10=13 もあるかと取れますが 本旨は
           、日+門=(間=かん・けん=閒)=門+月
      がある、一巻(一間・閒かん)もあり、佐々木(三三木)で▲の「三十・三」がでます。三十三間(巻)
      の3巻がとにかくでました。「日本紀」(日本書紀30巻系図1巻)ー系図紛失でどこへいったやらわからん
     というのはあまりに寂しいので、また〈古事記〉の表記に戻ってきます。

      水行10日陸行十二・三間だからとにかく到着したということになるのでしょう。12間×13間というのは
      門があるから建屋の広さかも。敷地33間四方か、どうか。33間で弓でもかなりの命中率の高いところ
      12.3間で撃ったのだから成功するはずですが、失敗しています。撃ち手が外したということでしょう。
      それに関する下手人の処刑方法として、▼「たてうずみ」が出ていますが、これはおそらく、竪坑の古墳
      というのかも。太田牛一の十二三間の話は邪馬台国の記事が〈古事記〉に載ってるというので意味が大き
      のかも。このころ〈年表〉では

         302年~304ころ、「古墳時代前期…畿内に前方後円(方)の巨大な墳丘と、竪穴式石室をもち
                      多量の鏡などを副葬した画一性の強い首長墓=古墳がつくられはじめる。」
         404年ころ      「九州に横穴式石室が出現し、徐々近畿内でも採用されるようになる。」

      などのことが出ています。邪馬台国のころは仲哀天皇の時期というのは既述です。


      (419)仲哀天皇のこと
    崇神・垂仁 68・100なので垂仁153は〈書紀〉で順番をみれば景行の数字となり、
        景行60・成務60・倭建33(95/3)(神功の100は記紀共通100/3)
   、とすると後漢遣使153年を表していないか、などのこともありますが、こういうの拾っていかないと、712年
    太安万侶の繋ぎの〈古事記〉いう意味のものが出てきません。〈古事記〉してやったり、というものを探してる
    のがいまやってることです。一応仲哀で52〈古事記〉が出てるので

     節目    57年    107      153       188      240   266  274       390
          -----------------------------------------
     間隔    ¦ 51年間 ¦ 46    ¦   33   ¦   52   ¦     150              ¦
              武内9    (137/3)   (95/3)              

   のようなものが出来ていけばよいわけですが、史書のはじめが〈古事記〉なのでその役割が大きく、その後の
   歴史の叙述に深甚な影響を与えてきます。
    卑弥呼が後漢の霊帝から
          「中平□年五月丙午の日」の銘の入った鉄刀
   を、下賜されたという話がありますが、中平は「184~189」の6年間あります。この表は、あてずっぽうで
   やりましたが、まあまあのところに来ています。この□は「年五月」となってるから「五」年でいいかと思いますが
   中平五年は戊辰で戊辰は、この時期の近くでは248年で壱与が魏に使者を出しています。これの60年前
   188(中平5年)は戊辰に当たります。この5年が先ほどの成務95年の100から見た5年欠けた部分であろう
   とも取れます。、
        188ー5年=183年
   もありうる、153+30年=183も捨てがたいところです。まあこれは成務と仲哀(父子)を引っ付けて、〈書紀〉
   では、在位「9年」しかない仲哀を、引き出して、
         はじめ中平の遣使188と、終り、邪馬台国の遣使240(239)の52年
    を当て込んだともいえます。
     仲哀天皇の崩年干支は壬戌(〈古事記〉)で、これは西暦242年で、52歳没だから、190年が即位の年
     となります。すると188とは2年違いとなりますが、まあ188年は倭建の晩年の時代と見ても、よいのでし
     しよう。
      仲哀の52年は突然登場ではなくて、慈円(書紀)では

          仲哀 九年(在位)    元年壬申  四十四即位 御年五十二(44+9=53)

   という没年で出てたもので、これも〈古事記〉〈書紀〉が無関係のものではないということを示しているものです。
    壬申というのはこの辺りでは「192年」か192+60=「252年」に当たります。例でいえば成務天皇も
          成務  六十一年 元年辛未 四十九即位 御年百七
               景行第四子。同五十一年為東宮。・・・・近江国志賀高穴穂宮。・・」
     となっており、没年107歳ですが、これは
         崇神168+垂仁153=321/3=107
   の数字で、成務95は景行137の体系の中にあったので 成務時代に107年の遣使はあった、ということの
   〈古事記〉の設定があったととれるものです。
         
   特に〈書紀〉では景行紀(60年)内、40年からヤマトタケルが本格的に登場します。49即位も出てきました
   が、これでは成務は
       49+61=110
   となって3年合いません。成務のなかに二人いて、それがヤマトタケルで、景行二七年、一六歳が一つ出ています
    す。
       「景行四〇年 この歳、天皇が践ソ[即位]して四三年であった。」〈景行紀〉
       「景行五一年、・・・ワカタラシヒコ尊を皇太子に立てた。この日武内宿禰棟梁臣(大臣)とした」〈景行紀〉
       「成務三年、武内宿禰を大臣とした。」〈成務紀〉
       「ワカタラシヒコ[成務]天皇の四八年に皇太子に立った(ときの年は三一。)」[仲哀紀前記]
    があり、12+31=43年 が仲哀と成務が重なったととると〈書紀〉では

        崇神68-垂仁99-景行60-成務61-仲哀9-    神功69=366+応神41=407
   となってるから、              |18+(43+9=52)|
                           成務18+
                           成務43+仲哀9=52
   となって、 〈書紀では〉
        崇神68-垂仁99-景行60-成務27ー仲哀52-神功60=366+応神41=407
   となります。要は〈書紀〉の構成内容が〈古事記〉によって判ってくることになります。神功も後の方がイササワケ
   などが入ってきて変わりますが、取りあえずここでは〈古事記〉で応神が130で出ていました。130/3=43
   もありますが130×3=390というのもヒントになっていると思われます。

  (420)246の問題
     346の百済成立は一応、高句麗―百済の姻戚関係強化の倭・百済ととれますが、その前の246成立の百済
    の土壌の上に出来上がったものと考えられます。246年は366の100年前で366-100=266から更に
    20引いたものが246で太田牛一が12・3×2を出し鰐を出してるから、ここが白済の建国、王仁が論語などを
    届けたものと思われます。邪馬台国239のときは
       「大倭をして之を監せしむ。・・一大率・・伊都国に治す・・・文書を伝送し・・・」〈魏志倭人伝〉
   などあり、もう行政官は全て字を知ってなければ統治もできません。応神天皇のとき
    西暦404年に王仁が来たというのは通説ですが、これは年表では出ていません。文の交流は南方ではもっと
    早かったはずで、一回目、百済の和邇は九州の白済から、磐余王朝に論語を届けたのではないかと取って
     みたらどうかというところです。白済と20年暦の差があったというのはどこにも出ていない話でこれは想像
     ですが目障りでしょうがないものです。
     366の100年前で、120年246、100年差で百済がでてきますが、46は
         神武137年〈古事記〉があり137/3=46です。               
     はじめの (1)の神武の46が浮いたままとなっていないか
     とも考えられるところです。いま
          初めの七題(中二階に八が在った)
     に、
       「七、日子穂穂出見の命」(〈書紀〉では神代上に「神日本磐余彦火火出見[神武]天皇」が出てる。)
      その没年齢  580歳 が別にありました(既述)。
         580+46=626 
     でこれは年表では蘇我馬子の没年(推古没は628)です。が、600+慈円のいう推古26年をプラスした
      年です。したがって〈天皇記国記〉の編纂のとき、蘇我馬子宿禰の没年が意識されていたともいえるとこ
     ろです。46は137年から出てきたので、37年の推古(終り)というのがあるので引っ掛かってるのは確実
     です。
     つまり、崇峻歿592、593推古即位を通説が主張して8年おかしくしてるのは、海外情勢緊迫し、593蘇我
     ウマコが実権掌握の必要が生じたところからくるのではないかと思われます。それがここでも出てきたのかも。
       蘇我馬子宿禰大臣  572年大臣就任→(天皇=敏達14・用明2年・崇峻5年)の約21年間大臣)→
     の593、表向き推古即位の後 592崇峻天皇は
         、     用明
               ∥ーーーーーーーーーーーーーーアナホべ皇子=厩戸聖徳豊聡耳[聖徳]皇子
                アナホべハシヒト皇女
    の皇子を皇太子として表面に立て、蘇我宿禰大臣に政治の権力を集中させ難局に当たらせたと取れるところ
   で、600年の隋への遣使までの8年間は空白(但し推古時代)ということになったと思われます。いま男女のこと
   も、二人(夫婦・親子など)で事に当たってる、社会の制度や、親子の重なりがある、天皇制はまだない、などの
   ことを抜きにしてしてるから、どれもボンヤリのなかで、けしからんというのも気が引けるほどだろうと、思われ
   ますが、やりやすく組立て
   説明するしかないところです。まあ蘇我馬子宿禰大臣は政局を乗り切る指揮を執ったとともに国語の完成、本邦初の
   史書の作成を使命としてたので、こういう二元体制となった、まあそう取った場合、体裁を繕う仕方がはっきり
   見えてこないにしても、崇峻天皇が瞬間的に推古天皇に変化した、ということになると崇峻天皇の前の天皇
   が重祚した、蘇我馬子宿禰大臣の夫人であったとしとくとわかりやすくはなります。
       626 蘇我馬子死亡 76  
       628 推古天皇死亡 75(〈書紀〉〈年表〉)    
     となっており年齢はオフラインだから580の20の差をみて、
          推古死亡75-20=55歳、馬子死亡56歳
     とすると引退時期というのは、あったのかというのはありそうです。要は592推古即位といってるから
      628-592=36、 75-36=39歳で遅すぎるということになるのでしょうが、75/2=37(〈古事記〉の
      在位)も、ちらつくと、ー20でもやっておくのもよいのかも。一方の蘇我馬子は626-592=34 76-34=
     42で三つ違いで、当然別人です。〈書紀〉で三九歳がはっきり出てるのは実は崇峻天皇です。まあ、まあいえば
     皇后二人ということにもなるかも。厩戸皇子の
        「母の皇后は、アナホべノハシヒト皇女[欽明の娘]である。」〈書紀〉
    となっています。592の時点で、文教に携わる部門である上宮を設け、厩戸聖徳皇子を国語の完成、「天皇
    記国記」の完成を目指した蘇我蝦夷が基本的なパターンとして聖徳皇子に
         592から 「全てを委ねた」というのがあり、崇峻天皇が601年聖徳皇子に譲位したことが考えられる。
         推古30年(622年)に聖徳は没となっているから、推古没 628だから、残り6年は重祚でカバーした
        と取れる。寺社なども管轄する、法具が身に付いた聖徳皇子の法皇的なラインもある。すなわち

       A  峻天皇592ーー600/聖徳天皇推古①ーー622没/峻天皇(推古天皇①628没)ーー629舒明
                聖徳皇太子
   があって、もう一方、下宮(というのかどうかわからないが)は

       B 蘇我うまこ(物部氏)(推古②)/601推古②ーーーー626没/蘇我蝦夷(峻2年)ーーー629舒明天皇
         (蘇我宿禰大臣=618没)―― (蘇我蝦夷ー聖徳タイシ)ー(山背大兄皇子)ーー629舒明天皇

    のペアで、民政ライン、政治・経済、軍事、外交、・・が設けられてこの時期、珍しく文武の二つの枠ができて
    その長が時代の特徴を表したといえるのではないかと思われるところです。
    上・下というのは区分に過ぎないものもあり、
           「家を・・・岡にならべて建てた。大臣(蘇我大臣蝦夷)の家を呼んで上の宮門(みかど)、
           入鹿(子の入鹿臣)の家は谷(はざま)の宮門といった」〈書紀〉
    となっておりこれだと地勢です。太田牛一は伊勢神宮の遷宮にあたって、
         上部大夫・堀久太郎、/御奉行平井久右衛門・上部大夫・森乱丸/三位中将信忠
    を出しています。伊勢神宮の遷宮の記事〈信長公記〉はここが一つだけです。〈奥の細道〉の最後、50・大垣
    のくだり、「伊勢の迂宮(せんぐう)」で受けられてるのは明らかといえます。
        「露通」(「乞食」)、「叉、舟にのりて(脚注=揖斐川ー〈古事記〉脚注、出雲「伊斐川」がある」)
   などで〈古事記〉が出ますが、
        「露通・・・・・・国・・大垣・・・曾良・・伊勢・・越・・馬・・如行・・前川子・・生・・うさ・・叉・・
            蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ 」〈奥の細道〉
   がでており、 「秋」は秋津島の「秋」、大垣は太田垣ー小田垣ー大柿―柿本―大津ー坂本 、もあり、小田垣
   「但馬竹田」がでます。要は蛤が蓋と身にわかれるように、推古が推古①、推古②、聖徳太子が
         聖徳皇子                        堀久太郎
         ∥                             ∥
         聖徳タイシ                        森乱丸→□□
    に分かれるということも別れるというものに入ってると思われます。ここはたいへん多くのことが懸ってて
    少しずつ触れていくしかしようがないところです。小田垣―太田垣から日下部氏が出て、「竹」、大垣ー竹中
    半兵衛ー伊勢山田ー小作ー久作ー「上部大夫・・堀久太郎」→□□=竹中久作となる分解ー別れは、蛤の
     ふたみの別れですが小田垣ー和田山で「和田ー日和」は聖徳の「和を以て貴となす。」の「和」=「倭」と
    いうのが気になります。「国」の進路の分れ目というのもあります。「和」というのは「岸和田」の「和」というのも
    「和田」が出てくると気になります。
     〈信長公記〉索引で
          うめ/梅若家久(「妙音大夫広長」「梅若大夫」)/浦上小次郎/浦上宗景/浦野(尾張春日井郡)/
          浦兵部/上部貞永(文中「上部大夫」)/海野信親→田信親
   があり「上部大夫は一応、武井夕庵が宛てられそうです。尾張における三輪ですが梅は毎日の「毎」で、梅庵
    というのが大村由己で、藻虫斎の虫=蛤の虫です。大村由己は「頼音房」というので「音」が入ってて、この
    「広」が「織田伊勢守常松」系の「千代夜叉丸」の「寛広」の「広」を拾っていると思われます。この梅の「毎」が
           (金澤)「  ある草庵にいざなわれて
              秋涼し毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」〈奥の細道〉
    の「毎」で出てて、「秋」-「茄子(なす)」=(草+加)-日下 となっていて、これが「海」「梅」の右側ですから
    ぼんやり利いてきます。芭蕉の「笈の小文」の「伊勢」のところで、前後梅だらけなのに
       「神垣のうちに梅一木もなし。」
    があります。これが何となく「其地牛馬虎豹羊鵲」〈倭人伝〉
    が想起されるところです。「出」が出てましたから「手」があって岸和田の「小出秀政」「小出吉政」が気になって
    きます。前川子は、脚注では「津田氏」で「大垣藩士」で藩の「重職」にある人物ですが、「出」ー「出雲守系」
    ―七兵衛の筋もあり、索引で
     津田七兵衛/・・・津田宗及/津田太郎左衛門→織田信張/津田信成(重)「津田市介」/・・津田坊/
    に至るので「宗及②」=津田七兵衛(信澄)  の可能性が出てきています。、
    瓜は、一つですが、ここでは上部大夫と平井久右衛門(弓の名人)とに分かれており、堀久太郎は上部大夫に
    接近してるという感じでもあります。堀久太郎を武井夕庵の後継にしようといたのかどうか。
    
    
    (421)自己採点の材料も数字にある
      580+46=626 のところから話が飛んでしまったようです。この46は137/3=46なので意味がありますが
      慈円のいう推古26年というのと関係はないというので終りそうです。
      紀元前660は〈古事記〉にあったのかどうか
       〈書紀〉で
          紀元前、神武~開化=559  紀元後は崇峻592+8=600年遣使
      ということでしたが、〈古事記〉で神武137を太安万侶がいれたので、これは100+37で
        紀元前 559+100=660
        紀元後 600+ 37=637
      が〈古事記〉で見ていたと太安万侶がいったかもしれないものです。
        
      〈魏志倭人伝〉の数字もやってきていますが、
          紀元前220年、始皇帝天下統一、紀元前37年高句麗の建国という大きな出来事があり、西暦240
         (239)年は卑弥呼の遣使で20年が合わないので220とすると
               紀元前220年/    紀元後220
               紀元前 37年/                 600/37年
    となって
        37は備忘のものとして220×3=660は見ていたと思われるものです。

     220+37=257年(卑弥呼没)でこれは偶然としても  257×3=771
     771-(37×3=111)=660     257+403=660

     (邪馬台国のスタートの年) 239×3=717
        717ー117(39×3)=600 となります。
        717ー111(37×3)=660  239+421=257+403=660
    の対極、紀元前は 
        
           137+580  ともなると    100+580+37
                                80+600+37 →660+57 で
    紀元前660年は古い〈古事記〉の段階で考えられていた可能性が出てきます。

     580年が600年意識というのはほぼ確実でしょうが
         580+137=717    717/3=239年(邪馬台国の数字)
    は、これを出発点(確実な年代として出てるから)にしてみようというのは も考えられます。
    邪馬台国が年表で出る最初の年、卑弥呼朝貢の年になります。580年に神武の年齢137を足して何の意味
     があるか、それこそ考えられない、
     偶然だ、誰もがそう思うだろうといいたいだろうが、数字がオフラインで、一仕事をやってきている、
      
  崇神168は57年遣使を出し、崇神・垂仁は107の遣使を出した、また266も出た、とすると、肝心の
     邪馬台国が出るかもとみるのが自然で、手などを動かしてみるということが要ります。当時の史家は国家か
     ら命令を受けて取り組んだ、挙げた成果がいまあるものだといえますが、内容は、それが契機となったに
     過ぎないものを内包していた、というのがいえるところで、事実重視するから往々、反権力的なものでもあり
     えます。〈古事記〉は、紀元前600年、紀元後600年が対象で、地理的に外国も入っており広範囲なもの
     ですが、文庫本で
         199頁(隋への遣使が600年)
     のものにすぎません。それで、鑑賞に堪えるものでもなければならないということですが、数字もその
      一つとして溶け込んでいるのも大きく、まあ、あてずっぽうでもやっといた方がよく、全然触れてこられなか
     った部分だから、無理にでもやってみることも要るのでしょう。讃王の421遣使はポイントの一つですが660
    年でやってみると、239+421=660が出てきて、179+421=600より、ピンとくるものがあります。

          卑弥呼①没、249+20年=269 神功皇后没
               249+=  257  卑弥呼②没(これは記事には出ていないので男王。)
               257+12年=269  張政没
     という多少のラウンドは、推古の8年を想起させるものとなり

         592 蘇我馬子宿禰 600年遣使
            (武烈天皇)八年
         249   ヒミコ     257年

    武烈的役者の登場で述べようとするものかどうか。天皇 
    ひみこ没は248か249かわからないが3年喪を秘めるというのも戦国であったのでラウンドして249にすると
    後年の49も出てきます。、記事になったので、これは代表者と取れるので一応、卑弥呼を前後逆に修正した
    方がよいのかも。
    
    
     (422)後の方(366年以後)との接点

    
  再掲
         (1)神武          137/3= 46           これは使えなさそう(神功46年がある)
         (2) 綏靖~開化    581/3=194(≒200)     246の分として使える
         -----------------------
            計    (1)+(2)       240

      (1)+(2)が邪馬台国の240年になってるのに気がつかないわけです。なぜそうなるかよくわからないが
         「四、景行の「年」が 137 」(〈書紀〉の「孝安」の没年も137があった)
       だから、これが神武の137と同じだから、まあちょっと異枠にあるものの同じ数字で、合計や、割り算など
       やってもしょうがないということになってしまいます。まして〈書紀〉では
            景行106歳死亡(在位60年)
       だから違いすぎます。脚注では
            「景行は21歳立太子なので84歳即位143歳死となる。成務は107歳死から逆算すると立太子は
             (〈景行紀〉では51年、〈成務紀〉では46年)は33歳となる。」
       となっており、日本語で書いてないので意味がよくわからず、成務のことは(46年・24歳が抜けてるので)
       お手上げとして、とくに143歳
       がでてきません。106+37=143で
       143は出てきますが
            「先の天皇(垂仁)の37年に皇太子になった」
      と書いてある紹介が抜けており、これだと
            99-37=62で、
           21歳+62+60(在位)=143 
       となる理屈です。が、ただこれは84を使っていないから正解とはいえないかも。
             99-37=(62)≒=84-21     143-84=59(在位)
       もありえます。すなわち、84があれば37はいらないのかも。
            137-127(これもあった)=(10)=84-74(37×2)
      つまり84ー10=74 だから まあ、うまくやれるはずというのがあったのかも。37が神武137の〈古事記〉
      の総括的なもので出た、景行137・孝安137は枠の代表として資格充分の人物だ、といいたいなら「37」
     に絞っても結果は出るはずだというのもありえるということになるのでしょう。
        景行の137は、太安万侶の137の設定が光っている
     といえますが、オフラインではすでに役に立ちました。37に曰くありの印象をあたえています。一方、これは
     オンラインの計算の(640に至る)流れの137でもありました。理屈はわからないが、よけいなものも出てくる
     かも。景行・孝安位相の違うものを足してみると
         137×2=274年    があります。、これは〈年表〉にはないが、大空白の中に入ってしまうもので
     年表では 
             西暦239(卑弥呼魏に遣使)(神功紀39年条)
                   240・243・245・247 邪馬台国記事
             西暦248(壱与、魏に遣使) 249は飛んでる 250は空白、266まで、飛びと空白
             西暦266(神功紀66年条にのってる。)「倭の女王、使いを西晋・・・[神功六六年条]」
                ~(8年後274)→秦始10年にあたる(秦始は265~274)で終り)
                ~
             西暦366(神功紀46年条に記事がある)

       における266~366間における完全空白は頼りないことおびただしい、とともにわざと入れなかった禁令
     部分とも取れないこともない、〈書紀〉では
         「(神功)66年 (この年、晋の武帝の秦初二年。晋の起居の注は云う。武帝の秦初二年のー〇月
                   倭の女王は、[通]訳を重ねて貢献した、と。)
         (神功) 69年 皇太后・・・・崩じた。[時に一〇〇歳] ・・」〈書紀〉
    
     があり「重ねて」が、8年後274にあったと取れるのでよいのかもしれません。「晋の武帝」なら「秦始」のはず
    で8年後の一〇月が(年)として効いてくるかも。空白に楔が撃ち込まれるとうしろの366の後に、8年の余波
     が及ぶということになって、〈年表〉では次の(●と▲と◆とは載ってない)

      366   神功紀46年条      367  神功紀47年      369  神功紀49年条
      372    神功紀52年条   七枝刀の記事    ( ▲374  54年条は本文では抜けている )   
      ●375  神功紀55年条   百済肖古王が薨じた。脚注では
                「〈書紀〉の紀年で255年・三国史記では近肖古王は375に死んだ。そこで紀年は
                干支2運(一運60年)をくりあげているいることがわかる。」
            となっている。▲374の飛ぶ話を引き継いでいるのか別の話(255)がここででてる。
      (376)       56年条百済の王子即位の話(本文)。
      382   神功紀62年条                 ↓(8年飛んでる)
      (384)       64年条百済王薨去のはなし(本文)。
     ◆389   下の流れから◆①を嵌めて見て連続を確認する。
       390広開土王即位 (一説には391即位)

    が出てきます。年表が出してるのが次の46~62で
      366  46
      367  47
      369  49
      372  52
      382  62 ここに(「新羅が朝貢しなかった。・・・百済記はいうーーー★壬午[三八二、]・・」がある。
     ◆①389  69になる                    
      390  好太王
      391好太王

     が出てきます。つまり「62」が〈年表〉で抜けてたらえらいことになったということです。神功紀は
     1年~69年の筋が一つ存在し、その最後の部分は◆①となって390年と連結するといってると取れる
     ものです。応神四一年の初めの部分に「イザサワケ尊」(芭蕉の「敦賀」の脚注で出てくる)

        「摂政69年・・・皇太后が崩じた。(ときに年は100歳)
        「元年・・・皇太子が即位した。この年、太歳は庚寅。」〈書紀〉

     となっています。年表では「400年欄」に「庚子」が書いてありますが、「庚寅」はまわりにでてきません。庚子
     の10年まえは「庚寅」だからの庚寅は「390年」になります。
      神功は69年だから  ◆①69で 西暦389
                    神功元年で、はじめは西暦321
     のようです。366から前の空白は321までちじまりました。
        西暦266は274になっており空白100年は 274~321=47年≒50年まで縮まりました。
 
   
    (423)「天皇記国記」の語り -〈古事記〉崇神~応神835は問題がなく収まる、
         崇神~応神 〈古事記〉
        崇神168+垂仁153+景行137+成務95+仲哀52+神功100+応神130=計835
       において、成務95+神功100=195が欄外と考えられる。そうすると835-195=640
       が出てくる、この場合は成務の95は欄外となります。一方
             崇神~仲哀計=605/3=202
       というのもあるということになります。この場合は成務95がオンラインで入っていて、239年は神功の
      の中で述べられるということになります。  
             640/3=213  407-213=194    

        580+137=717/3=239での580は、
           「七、日子穂穂出見の命」
         の没年齢数字ですが、仮にこれを見逃したとしても、天皇の合計数字(392)の●とか、(395)で
       出ていますから、コタえないもので その
         八代計           581 ÷ 3 =  194
       という計算をやったものでも(一つ違いで)出てきたということですから、見逃しても説得力が落ちるだけ
      のことになるのでしょう。邪馬台国も、239=240と二つでましたが240とするだけで元年から、成務
       の終りで240に達しましますから仲哀が卑弥呼だろうというのが見当がつきます。

         元年から  60・ 60 ・60 ・60/ ・60・ 60・ 60  =420   60×7人=420年
                崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・(神功)・応神 
                 68 99  60  61  9   69  41=407  慈円の数字
          慈円の407年にしたのは一応
              応神420-13=407 にした(13は、41/3=13)が考えられるところです。

         407年に合うように、成務95と神功100を入れたと考えられます。つまり〈古事記〉をみて成務が景行
         の内数みたいだったからそう考えられるということですが、代わりに〈古事記〉では仲哀が52になってる
          から
           
    407ー(成務61+仲哀43(52-9)+神功69)+成務95+神功100-41=388 
                   388≒389≒390~413≒412
          となり390~412は好太王の在位だが、これは、関係ないかも。まあ出てきたので書いとくだけです。
         また、
             168+153   +  137   +   52  +  130   =   640÷3=213
                321        |←       319       |  
             ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー               
             321÷3=107          319÷3=106         107+106= 213       60 ら
      
             107+景行137=244(邪馬台国の記事中)+52=296+130=426
                             百済の記事がある

             107+(137/3)46=153 後漢の卑弥呼の+(52/3)17=170+(130/3)43=213
                               記事が148年にある

         107年遣使からスタートさせると、213が出てくるので綏靖~開化581/3=194をたすと407
         がでてきましたが、いま仲哀52の意味を見るときに69にしたいというものがあり(慈円の仲哀9と神功
         摂政69はどこか不自然でこれは9が連携のサインとも取れる)、
           69-52=17       (137-60×2=17もある)
         を増やしたい、応神の130も意味がよくわからない
         (130/3=43で、〈書紀〉では1/3する前の数字が41であり違いすぎる)ので、
         うしろから17を持ってくると応神は
               130-17=113
         になってしまうが、合計の319はかわらない。まあ、しようがないから電卓を叩いてると、浮いていた
               神功の100が
         生きてくることになった
            137+52+100+13=113
         で応神の実年が400を13超えることになった。こうなると
         もう一つの95(景行137と並びの95)をみると、これは100-95=5も使えということであろう、という
         こともいってそうだ、とすると  244-5=239(邪馬台国)となり、244も邪馬台国意識というのも
        でてきます。〈年表〉では244年に記載がない、すなわち

        
         〈年表〉             〈書紀〉
             148 から(大空白)        神功13年・・17日から空白
             239  邪馬台国の記事    神功39年
             240    同じく         神功40年
             241・242    (空白)     〈書紀〉が記載してないから空白)
             243    同じく         神功43年
             244                 〈書紀〉が記載してないから空白ともいえない)
             245   邪馬台国         (〈書紀〉に記載がない)
             246                 神功46年  百済と志摩宿禰の記事(〈年表〉366の記事)
             247   邪馬台国        神功47年  百済王朝貢の記事(〈年表〉367の記事)
             248    同じく
              ↓      空白 (8)年             
             266   倭の女王西晋入貢  神功66年   倭の女王西晋入貢

        となっており、244・245は、邪馬台国と百済の転調があって、一呼吸置いた記載と空白がある感じです。
        246は、366に起こった事件が記載されてるのでおかしい、120(60×2)年の差があるというのは朝鮮
        三国志との差であろうといってきて、それで一応やってきましたが、それでもそれなりに、説明に役に
        立ってきて、通説では応神270年があって120足すと390が出てきて好太王が気になってくるという
        ことがありました。
        今では通説の在位もネットからは消えて片言隻語のなかに、5年という違いがあったような気もしますが
        確認しようもなくなってます。ここで〈古事記〉に二つの100が出てきてて
             95+5=100の成務の95     と神功の100
        で、位相が違う100です、一つは大項目並記で、一つは大項目の中の小項目といえます。
        空白の4世紀というのがありますが、〈年表〉では266年から366年までの100年間が記事が何も
        ない空白になっています。


       (424)太田牛一が気にしていた8年
        推古期の  崇峻592/~  8年 ~/600年   36-8=28年
                                の8年が前詰めになって推古28年で終了の場合と
                崇峻592/~  8年 ~/600年         36年

        があって後者の場合、後ろの方に8年が伸びていきます。このため太田牛一は桶狭間で
       永禄3年(1560)のところ天文21年壬子(脚注=庚申の誤記))とかきました。これは592年12月
       推古天皇が即位した年が壬子で、8年後600年が庚申なのでそれと符合しています。
       天文→永禄は天皇が後奈良から正親町にかわり、このときも代わったということでしょう。
           蘇我馬子即位(聖徳皇子皇太子)ーーーー600年聖徳天皇
       1560、永禄三年 を  1552、 Aロク 三年に (五月十九日)
         〈信長公記〉でもこういうのがあり、大項目(「巻」をいう)としては、「〈首巻〉」から「表題永禄11年」
        まで飛んでいます。11年直前まで永禄がなかったことになります。永禄十一年のなかにやっと昔の
       こととして永禄8年が出ます。
        表題永禄十一年
           「公方光源院義照(義輝)御生害、・・三好・・御謀反・・永禄八年▲五月十九日に清水参詣と号し・・・
           殿中へ乱入・・・終に御自害なされ・・・。同三番目の御舎弟の鹿苑院殿へも平田和泉・・討手・・
            ・・・・永禄十一年・・・」
                                                         〈信長公記〉
        があって、五月十九日は、前巻(首巻)の桶狭間の
       
    「天文廿一壬子▼五月十九日、・・・天文廿一年壬子五月十九日、・・・(脚注=永禄三年)」 
        があり一応▲▼が対応して「八年」が出てきたということでしょう。天文で8年がくさいというのは出てる
        のかどうか。「天文8年」は策彦周良が第18次遣明船副使として渡航しました。(大内義隆が支援)。
       これは関係ないかと思いますが、とにかく永禄8年はでました。
       その他に、太田和泉守は文中で
           永禄3年は天文、 永禄4年以降、から永禄11年まで
        8年間は「永禄」を省いてしまったということです。
           (1)〈首巻〉の文中の日付月の入ったものは桶狭間以降、四件だけで

              ・天文廿一年壬子五月十九日(脚注=●永禄三年)
              ・翌年四月上旬(脚注=永禄四年[一五六一]。) これは脚注がなくても判る
              ・弘治四年戊午霜月二日、(脚注=弘治三年の間違い。弘治四年は永禄元年にあたる。)
              ・永禄四年辛酉五月上旬(永禄五年の間違い、脚注はなし、甫庵をみれば判る)
 

          (2)〈永禄十一年〉
              ・「…▲は内数・・・永禄十一年・・・」
 
      となっており最後が永禄四年ということで、よく年を入れずに辛抱しています。この永禄四年は省いたら
      脚注が永禄五年と書いてくれるから、要らないもので、太田牛一は●を合ってるというために、もしくは
      本文中の永禄三年を出すためにいれたということがいえます。
      八年の始末を自分の著書で始末をつけたものといえます。(1)で省いたところ
           ①桶狭間中の「先年」=(脚注=「天文二十三年・(一五五四)」) 
           ②翌年四月上旬  (脚注=「永禄四年(一五六一)」)(再掲)
           ③弘治四年戊午霜月二日(弘治四年は永禄元年にあたる。)(再掲)
          
④去程に (脚注=「永禄二年(一五五九)」)
           ⑤七月十二日(脚注=「永禄元年(一五五八)」)
           ⑥或時 (脚注=「永禄二年(一五五九三月)」)
           ⑦五月十三日(脚注=「永禄三年(1560)」) 永禄四年〈甫庵〉、脚注は桶狭間戦で無理・
              永禄四年辛酉五月上旬(再掲) これは永禄五年の間違い、辛酉は永禄四年
           ⑧五月廿三日(脚注はなし)
           ⑨北かるみ(脚注=「信長は永禄四年六月にも出兵(「仁岬録」)」)  これは省いた
           ⑩六月下旬(脚注はなし)
           ⑪或時(脚注=永禄六年(一五六三)」
           ⑫去程に(脚注=永禄七年(一五六四)
           ★或時・・九月廿八日・・越訴(脚注=七三頁注一 五参照)「森可成永禄元年」で代行
           ⑬四月上旬永禄九年(一五六六)
           ⑭八月朔日脚注永禄十年(一五六七)
           ⑮八月十五日、明る年(脚注永禄十一年
     となっていて★の「永禄八年」と思われる分は脚注が休業してしまっています。
     永禄元年から永禄一〇年の10年分の内、永禄4年永禄8年つだけ出して他の永禄8年
     文の使用を辛抱したといえます。自分の領域で8年違わせた部分を始末しました

   (425)中巻終り応神のこと 

      応神までのところ〈古事記〉数字は意味を持っていたということをみてきましたが、仁徳以下に入る前に
      中巻終り応神を数字を中心にまとめておきたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
         応神がスタートで見直ししておくことが要ります。
         再掲 冒頭の表一部

       「 紀元後西暦元年                     
           Ⅱ  崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀ー神功(摂政)ー応神 =■407
                68   99   60  61  9   69      41
              
              仁徳ー履仲ー反正ー允恭ー安康ー雄略ー清寧ー顕宗ー仁賢ー飯豊ー武烈 =193
                87   6   6   42   3   22   5   3   11   0   8  後600年目                                                                                              
        西暦507年                                                          
            Ⅳ   継体ー安閑ー宣化ー欽明ー敏達ー用明ー崇峻ー推古=110(実際は120)
                 25   2   4   32   14   2    5   26 
         ---------------------------------- 
       において、武烈は 193≒200  の終りに位置し、これは■407~継体507にいく中にあって
       100多い群の終りに位置しています。
        三倍感覚の応神終りから、等倍の継体にいたる間が100でないといけないが200有り1/2すれば
       問題が終りと云うわけにはいかないものです。一応二つの別の流れが並行してると捉えて見ることが
       よいようです。つまり海外のことも、述べられないと、当時の状況がよくわからないということです。
        Ⅱ、の57年に、初めての中国後漢王朝への遣使、240頃、邪馬台国女王の魏王朝遣使、266年倭女王
       の西晋王朝への遣使などがあって、国内の動静はこれらを軸にしてわかってきてるといってもよいともいえ
        ます。つまり〈日本書紀〉が8世紀のはじめですから、それ以前は、その記述から拾っていけるといった
        程度のところです。
         したがって応神天皇にに海外の王の反映があります。応神天皇の通説の在位は
               270年~310年
      になります。これに外国との120年の差があるというので、修正すると
                270+120=390年西暦
      の即位となります。在位が41だから
                           在位390~430
   
   です。  ここでは、前からやると 68+99+60+61+9+69=366で
                      407-41=366 で
                           在位366~407年  41年間
       となり266~366年の100年の空白の最初が応神です。(346に百済が成る、といわれてる時期)
       まあ、これに、24足すと、366+24=390 となり、
                      好太王の即位  390 も出てきます。
      これからみると、他の人がカウントしてない慈円の「69」は 69/3=23≒24 はうまく
      400年に達するように入れてあることがわかります。69/3=23の積りでしょう。
      つまり、一人の王が応神の前に入りこれが神応としとくと、応神紀に二人がいそうな書きぶりもわからない
      ことでもなくなります。ただ応神の在位41は、ちと長すぎるので41/3の13・14が妥当なところといえる
      のかも。
                            14+13+14=41
      といってるのかもしれません。
       西暦400年頃は朝鮮半島に高句麗好太王がいて、〈年表〉では
           
            「391年  〔高句麗〕広開土王即位(一説に391)
             399年   [新羅]倭に備え高句麗に応援を乞う。
             400年  好太王、5万の兵をもって新羅を援ける。高句麗の官兵、男居城・新羅城を攻めて
                   倭軍を退け、追撃して任那・加羅に至り服属させる〈広開土王碑〉」

       などあり5万の兵を動かして、倭と拮抗して、百済・新羅から頼られています。この倭は朝鮮南部から今の
       日本の南西方向にも勢力を張った中国管轄の大倭と思われますが、当時の最大の勢力高句麗の好太王
       と喧嘩をしているようです。これはそうではなくて倭は周辺諸国の直接統治はせず、今でいえば EUの
       ような機構で、朝鮮半島の最大の実力者が、倭の代行として諸国の盟主というべき立場を維持している
       という意味で対峙した存在となっていることでしょう。好太王がうまくそれも利用して勢力の伸長を図って
       きたということと思われます。親族国家群を
       まとめている感じだから、まあ安定していて中國王朝としても、この地はそれでよしとしたのではないかと思わ
       れます。高句麗と中国が争ったのは、ずっとあとで、隋の煬帝の父のころ(推古のはじめくらいのとき、600年
       くらいです、紀元前200年ごろから、800年くらいもたってからのことです。
           
        
 高句麗好太王が在位       390~412  22年間(38歳没)  
         次の 長寿王が在位        413~491  78年間(97歳没)    合計在位100
    になります。応神・仁徳の関係でいえば
           応神41/3=13+仁徳87年                     合計100
    となるのに似ています。応神に
                在位390~430、
     もありました。390+41≒430で, 412+18=430ですが、これは孫かも。
           。           
    好太王・応神の、二人は年表でも重ねられていて
     
            391 倭軍渡海して百済・新羅を破り臣民にするという〈高句麗広開土王碑〉
            392 ・・百済礼を失した・・詰問・・・・・・・〈応神紀三年条〉
            395                         文化欄 この頃大和政権の首長墓と推定される大型
                                              の前方後円墳が河内平野に出現する。
            397 百済・・・倭国軍が攻め・・百済の・・・6か所を奪う〈応神紀8年条〉
            399 百済、誓いを破って、倭と結び、新羅を責める。新羅は倭人が国境に満ち、城を破り、奴客
                をもって民としたことを高句麗王に告げ、救援を求める。〈広開土王碑〉
            400 好太王、5万の兵をもって新羅を援ける。高句麗の官兵、男居城、新羅城を攻めて倭軍
                を退け、追撃して任那・加羅に至り、服属させる。〈広開土王碑〉
            404 倭軍、帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍に撃退される。〈広開土王碑〉
            405 百済の阿花王薨じ、王子直支、倭国より帰国し即位〈応神紀16年条〉
           (410)                          文化欄 この頃、九州に横穴式石室が出現し、
                    空白8年                      徐々に機内でも採用されるようになる。
                
            413 倭国、東晋に方物を献上する。〈晋書〉

                   空白8年 (こののち年表にはじめて倭の五王の讃が出てくる)

            421 辛酉 倭王讃、宋に朝貢して武帝より除授の詔を賜る〈宋書〉」

  
 となっています。この421の倭王讃が、倭の五王の最初で、ここからわかりにくいことになってきます。
   いま〈古事記〉の位置づけを話していますが、〈古事記〉の崩年干支では、倭の五王の最初の王、
            「讃」=仁徳天皇(〔大鷦鷯(おおさざき)〕天皇)
   に決められてるわけです。一番古いものでそうと決められてるからしようがないのです。しようがないというのは
   〈古事記〉が最初に、テーマ性の認識をして、設定をやって、指摘したことだからで、〈書紀〉はそのほかのことで
   付加したかもしれないが二番煎じです。つまり応神天皇の子は仁徳天皇に決まってるわけで、今知りたいのは
  「讃」(421に宋に朝貢して文献ではじめて「讃」と呼ばれた)は、どういう素性の人かということですから「応神
    天皇」の子というのがわかったということです。応神は海外をからめてみたときに高句麗の好太王と重なって
    います。好太王のことを応神から知るという形になってるといえます。とにかく「讃」は、「さ」でよく、仁徳の大鷦
    鷯(おおさざき)は(おお「さささ」き)となるのでしょう。これで仁徳を暗示してることになっています。持統天皇は
         「鸕野(うのの)讃(さら)良(ら)皇女」〈書紀〉   (持統紀には「讃吉(さぬき)〔香川県〕」がでている)
    となっており、このために「さ」でなくなってるわけですが、「和名抄」では「佐良良」という訓がある、というのが
    あり、戦国期、佐々成政の雪中行軍、
            「さらさら(「く」が横に長いくり返しの記号)越」〈甫庵太閤記〉
    が出されて、これは宛てる漢字はなく、宛てるとしたら、佐々が出てきてるから「佐良々々」になるのでしょうが、
    いま「ザラ峠」はあるので「ザラザラ越え」もあるようです。「佐」=さ=「三」 もあるようですが、問題はこの
         持統=(讃)=仁徳
    というやりとりがあるのか、ということですが、従来の〈古事記〉の見方だと、この「さささ」=讃はわかったとして
    も〈古事記〉の範囲には持統が入ってない、崩年干支は〈古事記〉だけのものでそれをなぜ使うか、ということ
    が出てきます。がこれがかえっていい方へいくわけで〈古事記〉では  
       〈仁徳〉=大雀(おおさざき)  (この「雀」は崇峻「長谷部の若雀の天皇」(武烈八人目)に到る)
    ですから「さささ」は一緒で、〈古事記〉がはじめにありきだからそれに従うのは当然となります。また〈古事記〉に
    推古の名前がはいっており
       「古事記 下つ巻  大雀の皇帝より豊御食炊屋比売の命に尽るまで凡そ十九天皇」
     があり、この〈古事記〉の仁徳には、例の民のかまどの烟(けむり)の話が入ってて・炊飯・食・女帝が強調され
    る推古とつなげてあり、推古は〈古事記〉〈書紀〉に跨らせてあって、持統は〈書紀〉にあって、この二人の
    梯をつくってあって、その一つに「讃」もあり、海外の文献の「倭王讃」を視野に入れた太安万侶が、持統期に
    「鸕野讃良皇女」を出したと思われます。。「鸕ノ羽葺不合尊(うのはふきあはせずの尊=この第四子が神武天皇)」
     の「鸕」で「ろ」と読むが、「鵜」「う」の読みになってて、神武天皇は二人でしょうが、ほかにバックにいた人物を
     神武天皇と取った方がよい時代もあるかも。

    
 ネット記事では、
          崩年干支からいえば中国文献に出てる倭の五王は、日本の同時代の文献で
            讃=仁徳  珍=反正  済=允恭  興=安康  武=雄略
    が意識されていると書いてあるものがあって、これは合ってるわけで、〈古事記〉が、中国文献の倭の五王の説明を
    やってるのがこれでわかります。海外の王だから、日本のそれと同一人とは考えていないはずだから気が
    楽です。
      仁徳は、丁卯の没だから427年没になるはずですが、どれをみても(427年没)となってるのでおかしいの
    で公表が427(年表では「干支」が抜いてある)かもしれません。487も丁卯ですからこれは、仁徳にふさわしい
     87があります。367も丁卯ですからこれは366年に引っ掛かるから重要で、仁徳に脇の役をも与えている
    とも取れるところです。年表では「428戊辰」となってる)427というと
          427没丙寅    427没(丁卯)  428没戊辰
     ということで、空いていても埋めてやりますがネット記事などをそのまま写すと間違ってるのも入れてあるの
     もあります。一年違いだ、大したことないと思いますが、干支であらわすと、428は戊辰で次の一年となり
     一年違いです。
     ただ言い方によって丁卯の前に達するのは60年まわってこないかんので、翌年とはいえないことになって
     しまいます。えらい違いになるという落とし穴があるかも、というので注意というのかもしれません。
      いずれにしても421年初登場の「讃」は応神の子、仁徳に引っ掛かります。
    天皇の順番は、(   )内〈古事記〉崩年干支の年代

       応神(394)・仁徳(427)・履仲(432)・反正(437)・允恭(454) 安康(没年56歳)・雄略(489年)
    となっています。
      〈年表〉では 
          「438年 倭王讃没し弟珍立つ。珍宋に貢献して・・珍安東大将軍・・・・」
    があり、珍は反正とされていて、(437)に亡くなってるはずだから、438は不在となるはずですが生きて頑張
     っているようです。また反正は
    仁徳の子で弟は矛盾してるというのが悩ましく、まあわからんということになったままです。また、一つだけ
        安康天皇
    の没干支が〈古事記〉に書いてなくて、これは没年齢だけとなってます。一貫性がないから資料とし
    て取り上げるのは、どうかと、はじめから誰も気が抜けてしまうものとなっています。またこれみると6人になっ
     てて、五王とちゃう(履中が抜けてる)、などのことがあります。ただ雄略まで応神・仁徳の子孫であるのは
     確実なので、武烈・継体までこの筋が行ってしまいます。

        「讃」=仁徳天皇(〔大鷦鷯(おおさざき)〕天皇)⇒武烈天皇(「小泊瀬稚鷦鷯(わかさざき)天皇〔武烈〕)

     という連携があります。鷦鷯(さざき)は「みそさざい」で芭蕉では
          竹内、一枝軒にて(奈良県北葛城郡当麻村・・)
      
   世に匂へ 梅花一枝のみそさざい〈住吉物語〉
    があり、みそさざい は仁徳紀で武内宿禰の話がでていて、慈円では武内子が継躰で出てきました。
      継体は、継体五年
        「都を山城の筒城(つつき)〔綴喜郡〕に遷した。」〈書紀〉
      がありましたが、ここは〈万葉〉に出てくる、仁徳の皇后「磐之媛命」が
        「葛城から山背にもどって宮室を筒城岡(つつきのおか)〔京都府綴喜郡〕の南につくって、そこに居た。」
                                                               〈書紀〉
     があり、これを継体が知っていて、仁徳の後嗣であることを示したといえるのかも。
       ネット記事で、倭の五王時代〈古事記〉の崩年干支と〈書紀〉のそれを対比したものが出ていて、かなりの人
      が書いてて、多くが一致しているものが出ており、これは行き着くところだから、一応やってみるということ
      になるものでしょう。原典を信頼してる人が多いということですが、難しいむつかしい表現で解明して絶賛し
      てるものもあります。結果的には、今も延々として議論されて、ようわからんということになっています。資料
      の頼りなさが消えるのかどうか。

   (426)倭の五王は天皇の引当だけの話で終わっている
       応神がスタートで、421にはじめて讃がでてきたので、讃はだれかというときに、仁徳がヒントになりまし
      が一応仁徳以外の応神の子が讃です。
        応神終り   407年   407=400+7×3=421 でまあ仁徳以外の応神の子としとくということ
        ですが、好太王は、412年、38歳没の人でしたから、421年には一人前の子がいます。
        仁徳も子ですが   [崩年の干支から西暦を出すと(応神394か454・仁徳427か487)の没] 
           応神に430(390+41)もあり、 仁徳87/3=29   応神400+29=429≒430 で
           ニントクと云う人が
        子であるといえますが、430-412=18 でこの18が出ていました。〈年表〉では
          「430 庚午 倭国王、宋に使者を遣わし方物を献上〈宋書〉」
        があり世界欄に「[百済宋に入貢し、爵号を授かる。]があります、年齢的には長寿王の子息
       といえそうです。
     
 各天皇の崩年の干支は
       〈古事記〉は書いてあるが〈書紀〉では出てないので、計算したらでるのでしょう。ネット記事では〈書紀〉
      の崩年干支はかなり出ており、しかもどれを見てもほとんど同じなので、それを借用できます。筆者は天皇
      の崩年(西暦)がわからないので、そこまでとてもできない、ということで、書く資格がないともいえますが
      倭の五王は誰かという引当だけが話題になってるのは、倭の五王の時代について得意の外しがある、
      と思ってるので、まあ別のことをいうために、書くことにして、とにかくネットなどで出てるものを借用しました。
      〈古事記〉と〈書紀〉とは大きく異なっていて、法則性もなさそうです。人によっても違います。、

        天皇名   ¦ 〈古事記〉崩年西暦  ¦   〈書紀〉崩年    ¦ 左マイナス右 ¦参考〈古事記〉没年
    
      ① 応神天皇      甲午   394合       庚午  310           84       130
      ② 仁徳天皇      丁卯   427合       己亥  399           28         83 
      ③ 履中天皇      壬申   432合      乙巳  405           27        64
      ④ 反正天皇      丁丑   437合       庚戌  410           27        60
      ⑤ 允恭天皇      甲午   454合       癸巳  453            1        78  
      ⑥ 安康天皇      なし   なし         庚申 456歳         -ー       56
      ⑦ 雄略天皇      己巳   489合       乙未  479           10       124
        清寧・顕宗・仁賢などは崩年干支出ていない、
          計                                       計  177(差が大きすぎる)

    となっていて、二つの史料間にこれほどの差がある、なんのこっちゃわからん、というのが正直な感想ですが、
    こういうのが〈古事記〉という別個の史書が存在した不思議として語られることになります。
    「合」としたのは
    〈年表〉では西暦年に干支が入っているのと、いないのとがあり、まばらですが、この①~⑦についての年が
    ネットで出てる、それが合ってるかというチェックで合ということです。ただ①~⑦については全部年代がはずして
    あるので、その前後から干支表から数えて出したものです。簡単にだせるようにしとくと、そのエネルギーが
     他へ向かったら、えらいこっちゃ、なんてことになるのでしょうか、そうではなく、ネット記事でも、間違う人
    もあって、そこからもつれさそうという人もある、とにかく確定しそうもしないから、やってみな、というのでしょう
    か、上の③の「乙巳」は間違ってて入れ直したものですが、壬申から33年目が乙巳ということです。

     上のを一つずらすことだけやってみると、つまり没年かいてるということは、手間だけど即位が前天皇の没
     のあとだから、両方書いた表を作らないとわかりにくいということで、履中でいえば即位が427と399年で
     やってみるということです。

            仲哀362       310        52     仲哀の歳
           ------------------
          ①    394       399       -5
          ②    427       405        22     22は雄略の在位?
          ③    432       410        22       同上
          ④    437       453       -16
          ⑤    454       456       -2      違いすぎる出方のものの接近は
          ⑥              479       ー479
          ⑦    489                  489    177の差は31に減る
          --------------------
               2995       2912        83

   倭の五王の時代仁徳の87年というのは大きいのかもしれません。〈書紀〉では雄略の没は479年で
   〈古事記〉では489年(己未)になっています。仁徳の次の清寧は
      「481年 辛酉  ・・・白髪部舎人…設置。〈清寧紀2年条〉」〈年表〉

   となっており、480即位が清寧元年ということで、辛酉は西暦元年といってきてるので 60×8=480という
   ことになり、西暦元年辛酉で計算されている。したがって〈年表〉に元年が出ていないのはおかしいことになります。
      履中405年も       360年(辛酉)+45年(辛酉から乙巳44年)≒405
    になりこれで計算されている理屈になります。履中の432-405については後の( 428)で書いています。
   日本の天皇で倭の五王を説明してるというのがあります。
   基本的には〈天皇記国紀〉=古事記で、5世紀の100年が出てるということと思われます。つまり崩年で在位が
   終わるから、西暦出せたら
           前者の崩年ー後者の崩年=在位
    となりそうです。、西暦では。
         489-394=95年
    
 で出てるので、100になってくれたらいいので、やってみると  95+反ゼイ(5)=(100)になる
     無理に100にする必要はなく、倭の五王の期間が、いま何年かわからないので一応〈書紀〉193年の93
      が出てたので、95でよいかもしれない、また仁徳~雄略まで一応五人が出てるのでこれでやってみよう
     ということになるのでしょう。

     (427)好太王を入れてみる     
      まあ好太王412というのが頭にあれば、 12+489=501≒500 も浮かぶかも。
      で個別には                                     注: 好太王、12を入れてみると
                応神    394                           394+12=400+6
                -------                        ーーーーーーーーーー
                仁徳     33   (427-394=33)           応神     5   +1 
                履中      5   (432-427)               仁徳     27
                反正      5     以下同じ                 履中     5
                允恭     17                           反正     5
                安康     35                           允恭 17/ 雄略 35
           ------------                        -------
                 計      95    394を400にしたいという       計     100 +1
                              ものがあると、95+6=101    となり〈書紀〉の応神407に近づく
   
    ということで、古い史書で5人の崩年干支を書いただけで、5世紀の100年が出てきて、5人で構成した
    というのが出てることが重要と思われます。雄略消してるということもありますが、これみて〈書紀〉の記者が
    どう反応したかというのも見ないといけないわけで雄略の崩年、479 と反応したことになります。すなわち
    もと95で、100に近づけるとわかりやすいので折衷すると、

                応神    394
                         5         応神    399
                --------------------
                反正      5                  5      〈古事記〉では履中・反正は並記
                仁徳     33         仁徳     33
                履中      5         履中      5
                反正      5         反正      5
                允恭     17         允恭     17    小計464
                安康     35         安康     15    
                                   雄略    479 
                                 
        ● 21
                ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                     
                       499                499
               
    のようなことになりますが右の●は通説に迎合したもので、ここからスタートしないと誰も納得しないということ
     から持ち出したものです。つまり倭の五王の最後武王は雄略天皇というのがほぼ確定した通説で、〈年表〉では
          「479年 雄略天皇没す。星川皇子反乱をおこし、・・・・・・・・〈雄略紀23年条〉」〈年表〉
   があり(稲荷山鉄剣の銘は辛亥だから「471年」とされている)、その479を入れたものです。
   右側雄略の次の清寧の崩年干支・在位は〈古事記〉では、出ておらず、〈年表〉では
          「481年  辛酉  この頃、白髪部舎人・・・・を設置〈清寧紀2年条〉」〈年表〉
      があるので、普通で行けば、480=清寧1年 が読み取れます。
     
            雄略22ー清寧5ー顕宗3ー仁賢11ー武烈8
      において仁賢は〈年表〉では

     
   490 庚午  「石上部舎人を設置[仁賢紀3年条]」 〈年表〉
        空白
        492 壬申  「佐伯部・・・佐伯部・・・佐伯造・・[仁賢紀5年条]」 〈年表〉
        493 癸酉  「日鷹吉士高句麗・・・[仁賢紀6年条]」   〈年表〉

       と三つが出てて、西暦・仁賢紀両方、+2・+1 となってるから仁賢は等倍で読まれてるといえます。ほたら
       顕宗はどや、と意気込むと、顕宗は
        「487年 丁卯 紀生磐宿祢、任那で高句麗に通じて・・百済・・爾解を爾林で殺害。〈顕宗紀3年条〉」
                                                               〈年表〉
      があって、やはり期待通り一つだけです。やってみな、ということでしょう。
        仁賢2年が489、仁賢1年が488、顕宗3年が487、顕宗2年が486、顕宗1年が485、清寧5年が484
        清寧4年で483、清寧2年が481、清寧1年が480
      になってて、つまり等倍になっています。ほな、どこからや、ということになるのでしょう
       再掲
        Ⅲ    仁徳ー履仲ー反正ー允恭ー安康ー雄略ー清寧ー顕宗ー仁賢ー飯豊ー武烈 =193
              87   6   6   42   3   22  5   3   11   0   8

     
  87は、そのまま。87/2=43,87/3=29にも使えますが
        193/2=97と97、また193を100と93にわけたりして、日本の枠と、倭の五王の枠が出てきてる
        履中・反正は、〈古事記〉の大項目で並記だったので
           履中
           ∥ーーーーー(子)反正
           反正(舎弟・弟)            というのだったら6・6・6 の可能性があり193+6≒200
      ともなりえるところです。〈古事記〉はこの期間、大変な数字出してきて
         合計455
      になる数字を出してきています。また〈古事記〉では
            「清寧」数字なしー「顕宗」(没年38)「在位8」-「仁賢」数字なし 
      となっています。
            38=(清寧5+顕宗3+仁賢11)×2   顕宗在位8=武烈8   38+16=56
       でここと繋ぎながら2倍ということを取り入れています。一方からみれば1/2でもあります。一方で允恭が
       42で大きすぎます。1/2すると21になりますが、どうでしょうか。選択的1/2があるならややこしくてしょがない
       ということになりますが、雄略22とか武烈8も、1/2になることにもなります。この8は5+3になりますが
       3+11は8にはならず11-3が8で、今顕宗が括って出てきてるということは、5+3=清寧8はありうるが
       3+11=顕宗14はありえないことが出てないかというようなことがでますが、すると〈古事記〉に安康の
       崩年がないことはどういう意味があるのかつがいま仁徳が安康・清寧に吸収されそうなことも出しかかって
       います。
        仁賢が11年ですから終りは498年になります。武烈8はやや万能なのでオフラインとなってるとすると
           武烈8/2=4年   で    498+4=502
     
   が出て、
          「502年 4 梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東将軍に進号する。〈梁書〉」〈年表〉
        があり、これが〈年表〉では507年に即位した継体天皇とすると辻褄が合いそうです。


     ( 428)讃王は履中天皇と〈古事記〉はみている(違った数字は一つの説明をしている)
      倭の5王は、日本の天皇でいえば、仁徳から武烈の10代の間にいましたが、それもそうかどうか、わからない
      ということになるのでしょう。〈年表〉に、天皇名・期間の表示がないからわかりません。この面では研究の
      成果がゼロといえるものになっています。国会議員から聞かれたら答える必要があると思いますが、文献が
      頼りないからいろいろ説があって答えようがないということに落ち着くのでしょう。西暦400年過ぎたら等倍
      表示のものとなるはずで雄略22在位と云えば22年のものであるはずです。雄略は倭の五王の武王として
      確実だというのは、果たしてそうか、というとき雄略は479年没というのは〈年表〉で出てるから、
        479-22=457 (倭国王済443年宋に遣使・安東大将軍倭国王、460倭王済没し〈年表〉・・・)
     となるから、倭王の済の期間中になり、
          「478 5 倭国王武、宋に遣使・・・・上表・・・」〈年表〉
      もありますが、済王に近いということになります。まあズレはあるかもということで前節ではズレのことだけ触れ
      ました。 (安康で456が出てた)
       倭の五王の始期が応神の近辺ということで応神の崩年「甲午」でみますと「甲午」は〈年表〉では400年前
       には全く出ておらず(18年分載っているのには入っていない)初出が
            「514年 甲午 継体8年 ・・・」
       になっています。
           〇 514-60=454(457に近い)  卑弥呼没 257 は関係がない
           〇 454-60=394(+6年で400年)
       があり仁徳没 丁卯427か487になりますが、427を二つにわけると 6+421=427になり
            394+6=400+21=421讃王遣使の年
       になります。
        つまり中国、朝鮮半島の史書は等倍で、日本のも等倍であるということ(三倍は三人分)になりますが
       三倍は三倍でも生きてるということにもなってるのが日本史の苦心もあったのかもしれません。
       また394から仁徳で始まるというのもありそうです。
          394+87=400+81=481+履中6=487
      となりこれなら、在位87年で、400年代を独り占めしてしまいます。 
      まあ、これは〈古事記〉の履中は64歳なので、〈書紀〉の「6年」在位は使えないという
       ことにもなります。それが次のことになります。
       
 
 
    (429)天皇記国記の断片に語(かたり)がある 下巻仁徳以下はどうか、
     ここまではうまく行きましたがここからが大変です。
     〈書紀〉で受け入れ操作がありそうなところは拾っていくのでよく、一つでもあれば、よいかも。
     すなわち〈古事記〉にまとまりがない印象が与えられてるので、一つづつということになります。
     〈古事記〉下つ巻(応神以後)も書いてみると(本文の年齢は難しい字であるのは変わらない)
     (403)にもあるものの再掲
                              崩年干支                   崩年干支
       一  仁徳天皇    御年83     丁卯
       二  履中天皇    御年64     壬申    ¦ 反正天皇    御年60   丁丑
       三  允恭天皇    御年78     甲午 
       四  安康天皇    ---     ---
       五  雄略天皇    御年124    己巳 
       六  清寧天皇    ーーー      --    ¦ 顕宗天皇   御年38 八年間  仁賢天皇ーー
 
       七  武烈天皇以後九代   
           武烈   在位8年
           継体        ★御年43      丁未
           安閑                   乙卯
           宣化          なし
           欽明          なし
           敏達    在位14          甲辰
           用明    在位3年          丁未
           崇峻    在位4年          壬子
           推古    在位37年        癸丑

   
 となっていて、六、清寧天皇(白髪の天皇)は重要といってきましたが、書いてなくて、並び表示の仁賢が
    書いてないので、全体が締まらない感じです。また並び表示(小項目)の
         反正60・顕宗38 (在位)8
   など、見落としやすい(本文から転記する段階でも)ものとなっています。(雄略〈愚管抄〉没年は104
                                                    即位70在位22の104)
     七以降では、没年齢が
        継体43
    だけで、あとは在位が5件、書いてないのが3件で、在位だけの天皇も多く
         武烈八、 敏達 壱拾四歳 、用明参歳・崇峻四歳、 推古参拾漆歳
           8        14        3     4         37
    があり、全体顕宗が年と在位の二つあるのはやはり、特異です。まあ
    七題、と七題目の内訳9代ですが、出そうとするものがまちまちで、何が何やらわからないものとなって
    います。
    手の打ちようがないものなのか、感じられるのは、それだけに〈書紀〉と連結度が強いのかもしれません。
     成務のように「95」が出てたら、付き合いとして神功の100が出てるから、どこかで「5」を探している、ととれ
     るし、90にしたかったととると88が目についてくるなどのことになります。まあ一応、応神までみてきたから、
    もっと多彩なものが展開されるとみるのでよいようです。

   ①〈古事記〉  仁徳83-履中64-(反正60)-允恭78-雄略124-(顕宗38)-顕宗8 計357と(98)
                                                            合計455
   ②〈書紀〉   仁徳87-履中6-反正6-允恭42-安康3-雄略22-清寧5-顕宗3-仁賢11ー
                                                            計185 
  〈書紀〉は 冒頭のところでは193としていた。武烈8 が〈古事記〉では、次の枠に入っており、〈古事記〉に合わせると
  185になります。
   この期間は応神~継体の100年、倭の五王の100年 計200年ぐらいのはずのところでこうなってる
     ということで、これも〈古事記〉が何のことやらわかりません。②は倭の五王の時代だから、90年ほどは
     その分で401年~500年の100年をあらわしているというのでよいのでしょう。
     ①②は表記が同じだというものの比較だから①は、難しい漢字の数字だから、100年のベールが架かって
     いる、とも取れるところです。①は(98)は国内、357は外国分とも取れそうでもあります。

   、まあ①は1/3することを考えており、357/3=119 と 98 に分かれるとすると、19オーバーで、済むことに
     なる、19×2=38 で100+(19+19+60=98)=198 としてみるということで、当面そうしとこ、と     
     ということです。  ここの357は卑弥呼没、257とは関係ないでしょう。いま履中が400年代のはじめという
     のが出たところです。したがってこの内容は
        400年→
        仁徳   87  允恭(78)                       雄略78+46=124
        履中60                      というスタートと          46=顕宗
        ∥
        反正・允恭60 (反正と允恭は兄弟)

     のような組合せもありそうで日本のものでなく長寿王を中心とした海外の画面がでてると取れます。

        長寿王(高・巨連)(在位413~491)  ー助太ー 文咨明王(在位492~519
                                  (不明)
     の政権の流れがあり、朝鮮王朝倭の五王は
         421スタートだったから519までで100年
     で、日本のとは21年のズレがあったのでここまで述べられるのは普通のことでこの間における人物の動きが
     複雑で後でもどってこないかんところです。
      また         
        257  卑弥呼没  オフライン
        100
         98     100+98≒200  というのはなさそうですがなんでもやっとけばよいのかも。


    (430)〈書紀〉の説明をしてるか
    〈古事記〉は顕宗を重視して、
         「在位8年(捌歳)」  「御年38(参拾捌歳)」 「八歳」
     を用意しています。
    また 400年代(5世紀)について、四・五・六では何となく、〈書紀〉を説明していないかとみるとき

     ①では雄略だけ124書いてあって前後の安康・清寧は無視だから②の、ヒントは出てるとしてみなければ
     何も掴めないことになりそうです。、
      〈書紀〉在位が
           安康三年/雄略二二年/清寧五年/顕宗三年/仁賢十一/ 計4年
             3      22      5      3      11
    となっていますが、雄略前後が少なすぎて、雄略のものを、安康と清寧が被るのではないかと見てきました
    どうなるのかよくわからないがここがおかしいというのは合ってそうです。

         安康6年+/雄略19年+清寧5年+顕宗3年/+仁賢11=44
                /       27年        /
    となるとすると、
                27+11=38 
     は出てきました。
                11=3(仁賢)+八(武烈=顕宗))
      
     のようなことは言ってないかとみると 
              124/3=41    30年+仁賢11=41
     で
         仁賢は顕三の「このかみ(ルビ=兄)」となっており、この意味が説明されていないので、わからない
     ままになっていて、この仁賢の太子が武烈なので
                  顕三3
                   ∥ーーーーーーー武烈8
                  仁賢3             
      で仁賢11もないことはないのかも。在位八年間というのは清寧5+顕宗3で顕宗3が脇としてもう一回
     いかされるのかも。

    とにかくここで44もでましたが、安康456(257+200ー1というのは関係ないにしても)が出ていました
    ので      456+44=500
    というのも、設定のうちかもしれません。慈円は本文中に安康
             「五十三にて位につき給ふ。」〈愚管抄〉
   と書いています。
 
         安康14+清寧16(雄略22分解)+顕宗3+仁賢11=44 / 清寧②(顕宗) /
               16+3+11+8=38
    のようなことになっていないか、ともみれるところです。まあこの配分はちゃうとしても、②は合計が185で
    185+=93で  、それが「87」+応神の端数7
    の93でやると、倭の五王の期間は93といってるかもしれず冒頭の(Ⅲ)も193となっています。
    倭の五王の期間は  502-421=81   〈古事記〉仁徳83で まあまあ合ってるのかも。
     年表からみると
             讃①413~421=8年
             讃②が421~438=17年 
             珍が438~443=5年
             済は443~460=17年 
             興は460~475=15年
                 空白      3年
             武は478~489=11年
                 計76
      になり、  489~502年 13年が加わって89年、となります。讃①ははじめの8年間で長寿王が、倭の
      事務もみていたかも取れる期間です。
、     いま、この時期の高句麗王朝のことを述べようとしている、一方で倭の五王のこともわかるようにしようとも
      している、日本のことも語らねばならないという複雑さが現れたのがこの〈古事記〉の数字が大きすぎる
      というところに繋がっています。はじめの83が、ほとんど100年に近いので、長寿王が一人占めしています
      が安康や清寧は在位、3年・5年という短いものでそのバランスが崩れてるのが、局面の多様さに表れて
       いるところです。
        安康「3年」ですがここの「興」は安康とされていて、ここでは15年ですから雄略から持ってこないかん
      わけですが、12年もってきたらいいのかというとそうはいかないはずです。というのは「助太」という人物
      が、何年間活動したかわからない、これは何となく雄略の武勇を持ってる感じで、22年長寿王を助けた
      というものもあるのでしょう。
      安康は 倭の五王の「興」(新羅王?)ともみられるならば〈年表〉では(460~478)ともとれるので 
      (安康18/雄略0/清寧23というような)ものが、でたらめだというかもしれないが、ここで出しておいても
      よいのかもしれません。
      清寧ー顕宗ー仁賢も同じで、〈書紀〉でも顕宗は三年、しかなく、仁賢が11であるのに比べると影が薄かっ
     たような感じです。ここで顕宗が八年間
    
 になってるから、+元の3=11で、〈書紀〉の数字も、〈古事記〉の数字も生かされています。一辺に
     出来ないから、しかたがないから、ここで散発的に出てきますが、記憶にあれば何かに引っ付く可能性
      があるかも。日本で武王といえば武烈天皇と思いますが〈書紀では〉

           /雄略天皇 /清寧天皇/顕宗天皇/仁賢天皇/武烈天皇/   継体
           /  22年   / 5年 /  3年 / 11年  /   8年/            
           /      27年(5)  /      22年         /
                    / (5)         27年         /   
     となっており
                         清寧
                   22年    5年   22年
                      27年     27年       
 
     になり清寧をダブって利用しようというものもあるかもしれないが、こういうのは〈古事記〉があるから
     わかることになります。

 仁徳から仁賢までの 〈古事記〉357(98)計455の部分はちょっと大きすぎるので、次の最後の
  武烈~崇峻・推古の分も併せて見て、通しでどうなるかみておきたいと思います。そのあとまた
 ここに戻ってきます。

    (431)武烈~崇峻・推古の筋
    最後の
      ③〈古事記〉、 武烈8-継体43-安閑0-宣化0ー欽明0-敏達14-用明3ー崇峻4-/推古37
      ④〈書紀〉   武烈8-継体25-安閑2-宣化4ー欽明32-敏達14-用明2-崇峻5-/推古36

    では   ③〈古事記〉では推古ふくめて  計109  推古除くと   計72
          ④では                計128  推古除くと   計92

  となっていて20の差しかなくそう問題はないようです。ここは500年から600年の100年間になればよく
      〈古事記〉は 109-72=37    600+37
      〈書紀〉は128-92=36推古    600+36
  で終わるので締めはこれでよいかも。
      ③は109-8(武烈8?)=101   72+28(推古628で終りの28)=100
      ④は128-28=100  100-92=8    崇峻592+8=600.
、    ということで、まあこのままでよいようです。

    補足をしてみると
    在位でやると顕宗8があったが清寧の並びでのぞくと
         「武烈8・敏達14・用明3・崇峻4」
    の4人で、この計29は〈書紀〉、慈円の在位と合っています。従って概ね〈書紀〉ではこれを準用しようとして
    ると思われます。まあまぜこぜで行こ、半分は〈古事記〉でやろ、ということで両方に意識があります。
    応神のあとの仁徳は〈古事記〉83、〈書紀〉では
            在位87年
     でこれは大きすぎるのでモトから一つの問題でした。87/3=29 です。下つ巻のトップとして、一面の
     利用価値として応神までのものを引き継ぐ気配もあります。
      四つが合ったことは他のことに敷衍できるか、できないか、問題ですが、他のものでやってみることは
      一応必要で、実績から行けばトータル、体系的、なものと、部分との、相剋のことは、腐心されている
     のが一つの特徴です。つねに全体のことに、過去のことに、未来のことに、地上のことに、地下のことに
     反対のことにが向いていて、やってみたらというサインが
     出てるとも取れ
     るところで、ここで〈古事記〉で抜けてるのを出してくると
          「継体25・安閑2・宣化4・欽明32・」〈書紀〉
     がありこれで武烈以下九代全部揃います。、
        この計は63になり
            29+63+推古37=129    29+100=129
       で、ここの9人で今までのものと違うのは、死亡年齢が一つしかないというのが大きなこととして疑念の
       出てくるところです。ここで御年の、〈古事記〉唯一の数字は、継体の没年
    
        ★「43歳」
       がありました。これは仲間に引き込まないかんので        43×3=  129
       が、出てきます。まあ偶然の一致というだろうが、九代の数字は全部使ったことになります。
            武烈8 + 分類(Ⅳ)継体~推古計120+1=129 
       が出てきて
                 407+100+129=636
     が出てきます。まあ、これは〈書紀〉の数字というのか、天皇記国記などの殆どの部分が〈古事記〉なので、
     〈天皇記国記〉の数字といってよいのか、とにかく二つとも636がでました。推古は、〈年表〉〈書紀〉では
     36年です。いまは三つ文献ともに
                 西暦600年(崇峻終り)+推古36
     が含まれてたともいえます。●は〈天皇記国記など〉の表現手法によって、太安万侶が、〈古事記〉の最後に
     入れて、〈書紀〉に繋いだものととれます。

   (432)全体からもう一回みてみる
  、再掲〈古事記〉
    ①〈古事記〉  仁徳83-履中64-(反正60)-允恭78-雄略124-(顕宗38)-顕宗8 計357と(98) 
    ③〈古事記〉、 武烈8-継体43-安閑0-宣伝化0ー欽明0-敏達14-用明3ー朱峻4 計72-/推古37

    において③も今やってきて、問題もなかったので①の説明に入る前に全体先にみたらどうなるかというのを
   やっておいた方が、よいのかも。これは
     神武137+580=717/3=239(邪馬台国)を出してるから意味あるものになってそうです。この717は
    元年から600年間と倭の五王の100年間の700で239+239+239で、355-239=116で、200×3
    とはみだし116ということで構成されてるかもとなると、ついていけない
      だけのことになるのでしょう。漠然としたトータルなら、なおおかしくなるのか、とみるのも要ります。

          日子穂穂出見の命
           ∥――――――子・天つ日高日子波限建鵜葺草葺不合の命ーーー子・神倭伊波礼比(田篇)古の命
          豊玉比(田篇)売の命
     の日子穂穂出見(高千穂の宮)      580歳          (この辺「波の穂」もでてきている穂は。稲の穂、
                                             ・穂高の穂・穂積氏の穂などある)
      が前提としてあり、
           綏靖~開化            581歳(小計 1161
 
           崇神~応神            640歳 (95+100)
           仁徳~顕宗            357歳 (98)             
           武烈~崇峻             72歳 
            小計               1069歳 (293)     1069+293=1362/2=★681 
 
            神功皇后             100(右から左へ移動)
              計               1169         1161+8
                              (293)         (293)×2=586=581+5
 
    ★は崇神~崇峻まで   592(崇峻没)+89(倭の五王)=681にもなる。

    640/3=213で使ったが これは紀元後の応神までにも使えるとして581/3=194
    213+194=407 で使ったが、神功の100の位置が95成務 98反正顕宗とちょっと違うので
    640+100=740/3=246になり、これは266~366の空白の20前の邪馬台国のなかの数字
    になる。
 
   というような全体を意識した個別の積み上げをすべく数字を設定配置してるといえるのかも。こうなると
   これは、というような単数字が出てきても偶然の一致とは云い難くなってきてます。

   (433)空位八年
         いままでやってきたことは〈書紀〉〈年表〉に合わせる方のこと、すなわち、推古は628で終りで
       636年ではないということでした。すなわち、下の★★参照いただいて

        (Ⅱ)崇神~応神計407 + (Ⅲ)反正~武烈計100+(Ⅳ)継体~推古計121=628
              407+100+121=628
      が出ていました。これで
                   推古36年=西暦628
      で〈年表〉の根拠となるものか、とも思いますが、628-626は西暦同志の比較で、よくわからないもので、
      頭がコンガラがってきますが
       628には、武烈の「8」が入ってて、推古の121の中には36(通説)のものが入ってるから十分のもの
      のはずです。まあ結局、ベタでみると、武烈の「8」年を、もう一回入れたらどうや、というのかも。
      〈古事記〉の武烈は
           「捌歳(やとせ)天の下治らしめしき」。〈古事記〉
     
 となってる「捌く」ためのもので、
           〈書紀〉の8を「8」「八」とする。
      といってるかもしれず、「八」の場合は、崇峻終りの推古「八年」をやはりズラシたら、(増やしたら)どうか、
      といってる ので、それでやると628+8=636になる、つまり推古572即位は間違い、「空位」8年という
      ことになりそうで。結果もこれで合いでしょう。

           一方、(Ⅳ)は慈円では110であり 628-10=618になりますが、
      〈天皇記国記など〉の関連でいえば、継体は43歳がでていてこれで行くしかなく
              43-継体25年〈書紀〉=18
      を前から修正してきたら、618+18=636  が出てきます。〈年表〉では
         西暦618  推古26年(慈円の推古の終り) 
     が出てきますが、太安万侶はこうなることは知っていて、43を残したといえそうです。違ったものをそのまま
     にして、またそのままにしないで、〈書紀〉の在位年数にとりいれてるのがあり、苦心した受け入れをしてるよう
     です。
     -----------------------------
       
 ★★  再掲冒頭の表一部

        紀元後西暦元年                     
        Ⅱ  崇神ー垂仁ー景行ー成務ー仲哀ー神功(摂政)ー応神 =■407
            68   99   60  61  9   69      41
              
        Ⅲ   仁徳ー履仲ー反正ー允恭ー安康ー雄略ー清寧ー顕宗ー仁賢ー飯豊ー武烈 =193
            87   6   6   42   3   22   5   3   11   0   8
            87+6=93/←           100                    →  紀元後600年目
                                            
            西暦507年  ■407+193=600-(87+6)=507年                                                          
        Ⅳ   継体ー安閑ー宣化ー欽明ー敏達ー用明ー崇峻ー推古=110(実際は120)
             25   2   4   32   14   2    5   26 
         -----------------------------------

      
 武烈の「」が入ってる一方で、左側93があるから、■407の端数「7」は「93」に加わってちょうど100
          100(93+7)    並行に走るもの
          100          日本の縦の流れ、を現わしたもの
        と取ると、うまく工夫されてる感じで、こちら一辺倒になりかねませんが、
        「7」は現実は、下の「100」の方に付くことの方が西暦507年継体とする年表の数字になります。
             407+100(武烈「8」入ってる)=西暦507継体
        となるので、ここで推古時代のものを調整してることなっています。これが今の〈年表〉の間違い部分で
          す。いまは
              628=推古36年になってる
        合ってるのは、
              636=推古36年
        だから、8年、実年数が足らない、継体500くらいの即位なのに、継体507即位にして、るのは
        推古まちがいー継体まちがいでもとにもどってる。実年数は人間がかえられないが、推古何年・継体何年
        の部分は調整で変えられることになります。〈天皇記国記ー古事記〉は推古37年にしてるのは応神から
        きた、407年の7を8にしたらどや、というものになってると考えられます。太安万侶が、〈天皇記国記〉に
        一本やられたというところを作ってるといえるところです。ほたら一方は「93」でよいのか、ということ
        ですが、そうにはならず、多分海外王朝である一方の方は、100が合ってるのかどうか、はまだやって
        いないし、応神の「7」がきてるとか、407年が応神の最後の数字になったのは
           崇神 垂仁 景行 成務 仲哀 神功 応神  60×7、
           60  60  60  60  60  (60) 60 = 420
        で応神の在位が41年で
              
 、420-13(41/3)=407
        というのかも。天皇の枠、がいくらいるかなどの目安になりますが、この「7」は六義
        くらいのものはありそうだから、もう一回使ってもよいわけです。407+神武以来の5=412も
       あり、このあと応神のことをみないと、この倭の五王のモトがわからないので、全体が判りにくい
       かもしれません

     (434)天皇記国記の語り
     先ほど、〈古事記〉では推古の前
            「用明・参歳(みとせ)・崇峻・肆歳(よとせ)・推古(37)」となっており、〈書紀〉では
            「用明2・崇峻5・推古(36)」
     となっており、合計7は同じなので先ほどは、余り深く立ち寄らずに合計は同じとしてそのまま過ぎましたが、
         なぜ、3・4/2・5と違わしたか、
     はやはり引っ掛かりがあります。参・肆=漆(なな)というドサクサにまぎれて「36」を「37」にしています。
     これはオフラインだから問題ないとみたと思われますが、太安万侶がやったことであろうと思います。
     崇峻の「4」が出てるのに〈書紀〉は「5」に増やしていて、(37)を含にして、
           「4」+「37」=41、  5+36=41(書紀)、
     と、同じにしているので、よいのかもしれませんが、(37)は一つ違いだから36の延長とみても、(端数は37
    の方が合う)、別面があって違うものを表しているともとれます。これは
           「武烈8・敏達14・用明3・崇峻4」
     の一部の「2・5」なのでそこからみると崇峻の終りは、いまは
           592年=崇峻5年
     になっており、592に武烈の8を働かして、600=崇峻五年 に変えるヒントがあるかもしれないところです。
     また、敏達天皇の内数として、用明3・4があり外数として、2・7があるとすると、7≒8として、8年修復の
     ことも、あるかも。またここは国語の事業をもってきて、皇子大津の朱鳥の7年も関わることや、崇峻は蘇我馬子
     の殺されていないことや、崇峻と聖徳が並行したかもしれないなどのことをいってきてるので、〈天皇記国記〉―
     〈書紀〉の連結を示唆する、珍妙な差異ということとみるのがよいかも。推古の時代は、いわゆる蘇我馬子の
     時代と重ねっており、蘇我馬子をやらないと、でてこないところでもあります。
           
   
  もう一つ、〈古事記〉の37を増やせるという勢いというのが出てると取れるところです。〈古事記〉
     の構成では、天皇記は 「中つ巻」「下つ巻」にあり〈書紀〉と対応してるのは、天皇の名前と順位が同じというとこ
     ろですが、これは大きいことで、〈古事記〉が、
          (712年太安万侶の〈古事記〉成立)
     (〈書紀〉720年、成立)〉
     ということだから8年も古いことはわかってるから、
     〈古事記〉を見ながら〈書紀〉が書かれたことは常識的なことですが、「8年古い」という「八」はあまりに
     拘りすぎの感じです。実際はこうだったかもしれないが、心裡では、
           〈古事記〉  →8年→  〈日本書紀〉
      の間を短絡していたのではないとも感ずるところです。
      〈天皇記国紀など〉参考にしたかもしれないが、そのものものも
     〈書紀〉に組み入れられた、一体のものとしての残されたというのがいってることです。

       太田牛一に
           七月十二日  七月十八日
      というものが〈首巻〉本文中にあり、〈年表〉みますと、

         620年  推古28年  この年、聖徳太子・蘇我馬子ら、天皇記・国記などを作る〈紀〉
                 (太字は〈年表〉でしている、以下同じ))
         712年  和銅五年   太安万侶が「古事記」を撰上。〈同序〉
         713年     六年   「風土記」編纂を諸国に命ずる〈続紀〉
         714年     七年   紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰ばせる〈続紀〉
         718年  養老二年   この年藤原不比等、律令各10巻の撰上を始める〈三格〉
         720年  養老四年   8月 舎人親王を知太政官事に任命する〈続紀〉
                         5月  舎人親王ら「日本紀(日本書紀)30巻系図一巻を撰上〈続紀〉
                         8月  藤原不比等没(62)〈扶桑〉
         721年  養老五年   12月 元明太上天皇没(61)

   
となっていて、太字は〈年表〉でしてあり、714年、「紀清人」「三宅藤麻呂」の場合は、今は次代の〈続日本紀〉の
   人選とされてるようです。それなら〈風土記〉は記紀のための準備と取れます。問題は718年のもので、二年後に
   亡くなる、藤原
   不比等の作業は〈日本書紀〉に取り入れるものの作業と取れますが、二年違いと云うのは別人のことである
   ことが十分考えられます。実質、ここで〈書紀〉完成してたかも、620年から伝ってきてるというのを示すため
   720年にもってきたかもしれないものです。ただ、620年のものが、ここに納まったという感じはあります。
   先祖の努力と英明をここに顕示したと、取りたいところです。

   
  
  〈古事記〉「中つ巻」と「下つ巻」の内容は  
                      中つ巻                           下つ巻
           一  神武天皇        三 崇神天皇           一  仁徳天皇  
           二  綏靖天皇以後八代  四 垂仁天皇           二  履中天皇 反正天皇
                綏靖天皇       五 景行天皇・成務天皇    三  允恭天皇
                安寧天皇       六  仲哀天皇          四  安康天皇  
                懿徳天皇       七 応神天皇           五  雄略天皇 
                孝昭天皇                          六  清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇
                孝安天皇                          七  武烈天皇以後九代
                孝霊天皇                              武烈天皇 継体天皇 安閑天皇
                孝元天皇                              宣化天皇 欽明天皇 敏達天皇 
                開化天皇                              用明天皇 崇峻天皇 推古天皇
                  
    となっており、標準的な合計(誰でも納得しそうな区分による)は 29となりそうです。つまり
             中は、 一,=1、二=8、(三~七)=計5
             下は、(一~六)=計6  七=9
                      1+8+5+6+9=29
    という計算ですが、
     ベタで見てる人は、綏靖と武烈が2回あるのはおかしい2回入れとこ、一回だけがよい
    1/2にしとこ、という のがあるとすると31になり30にもなり、撰上の三十(巻・冊)にも近づいてきます。
     大項目だけで捉える人もあり、
    これなら7+7=14ですが、必然的に上巻があったのに気が付くとすると、上巻は、序文と一~八があり
    合計が「序文・二十二巻」となっていて、〈日本書紀〉の推古天皇は第二十二巻にあたり、
      ここへ〈古事記〉が流れ込むか、
      序文が、それ以後に被(かぶ)さるか、
      偶然の一致で関係ないか、
    
 というところです。
       この表題が気になる人もあるかも。
            「上の二、綏靖天皇以後八代」
            「下の七、武烈天皇以後九代」 
    と書き方が同じものがあるので、「武烈天皇以後八代」としたいとすると、推古天皇がはみ出すことになります。
    大部分の人は下・六に三人も纏められているのだから武烈を
    前にもっていって、ここに入れたらどや、ほな継体以後八代として、バチッと締めれるのとちゃうんか、と思うの
    ですが、その心裡は読まれているという前提で太安万侶は手を加えてるから、しようがないところです。
     武烈を後ろへもってきて、ベタでよむと、10代になって推古が押しやられて圏外にでる、
     また、後ろを九代とすると、前も九代がよく、綏靖をベタでよむと八代が九代に変わって、神武の分をひきうける
     ことになる、つまり神武~推古という〈書紀〉の姿がここに出てくる、要は神武と推古の位相がちがうわけで
     一方は一として全体を睥睨するものがあり、推古は、九代の一部にしかすぎない、推古の位・置をひきあげ
     とすると、武烈が上へ持って行かれて、継体以後八代として、綏靖の八代とあわせるか、いまのままで
    、武烈以後八代として、推古を入れて置く、間違っているので推古が目立ってくることになり、一、と対峙できる
     推古になりえます。しかしこれはすぐバレテしまうので、こうにはなりませんが、まあ瞬間的におかしいと感ずる
     ところの理屈をあげるのはむつかしいが、まあやっとくと、頭がおかしいが、賢いことをいってるかもしれない、
     ということにもなりうるかもしれないわけです。
      なんとなく、日本史史上最大の悪王、武烈が鍵を握るかもと云うのが判れば、まあそれでよいのかも。
      慈円が一人でないことを示してるから安心で、「八」として分裂するのかも。平群真鳥、シビ、大伴金村、
     崇峻(小泊瀬)、継体の父・・・など、日本史には存在を暗示してすぐ消える存在が置かれることになって
     っそうです。大化改新の
     前、「蘇我蝦夷臣」や「大臣の子入鹿(国のまつり事して,威父大臣に勝るのような人物)、中大兄①」
     のような、顔見世登場があります。あとも生きて仕事をしているのに気が付かない!。
     、

     (435)〈天皇記国記〉の語り 
     
  応神までは400年に着陸すればよいが仁徳以後は実年600年落ち着かないといけない、仁徳以後の
       トータルをやっとくと、再掲 (〈書紀〉では西暦400年に履中天皇即位)
                                崩年干支                   崩年干支
       一  仁徳天皇    御年83     丁卯
       二  履中天皇    御年64     壬申    ¦ 反正天皇    御年60   丁丑
       三  允恭天皇    御年78     甲午 
       四  安康天皇    ---     ---               (御年56)干支なし
       五  雄略天皇    御年124    己巳
       六  清寧天皇    ーーー      --    ¦ 顕宗天皇   御年38 八年間  仁賢天皇ーー
                                                          8
       七  武烈天皇以下九代   
           武烈   在位8年
           継体        ★御年43      丁未
           安閑                   乙卯
           宣化          なし
           欽明          なし
           敏達    在位14          甲辰
           用明    在位3年          丁未
           崇峻    在位4年          壬子
            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           推古    在位37年        癸丑   8(顕宗の在位8)+七の在位(8+14+3+4)=37

      においてベタで数字の合計をやると
         
 83+64+78+124+60+38+8    一~六 小計  455
           8+43+14+3+4             七    小計   72   455+72=527
      となって527が出ました。この数字は屁理屈はつけられますが大方の賛同は得られないものです。
        (1)七の在位が関係ないから引くと
         527-[(8+14+3+4)=29]=498≒500
      となります。
        (2)500が出ると400と100に分けられます。  
          400は仁徳~武烈の筋だったから 〈書紀〉では100と93=193になっています。193×2≒400
          でこれは二つの場所にわけられるので   国内200  倭の200
          実年で   1/2の世界だったとすると    
              一方 200/2= 100  となり、一方も100となる
           国内の方が
         応神400+仁徳~武烈100=500
         となり600への500に達する
           残りの
         100は継体~崇峻間等倍の筋とすると 〈年表〉で 507~592となっている。(これは 500~600
         の100に修正可能)
        で600年に収まります。

   
   ベタで出した数字も語りはじめたといえます。
         (1)は何で在位29を引くのか、わからんといわれると困るが、関係ないからというしかなく、やってみると
         498の二つ違いだから、これで27の正体が七の在位というのがわかります。二つ違いならすでに
         98が出てる(反正60+顕宗38=98)ので端数の抵抗はなくなっている。
          (2)では、空間・時間の二つの1/2がある、場所が二つにわかれる、年を1/2にして実年を出す筋が
         仁徳~武烈の間で働くというのは誰も承認していない。たまたまやってみて気に入ってるだけの事だ
         またうまく行ったとしても〈書紀〉の世界だけでの話だ、といわれると返答に窮するところで却下となりそう
         です。
         ただし498は455+43=498や 357+43+98=498で、同類(項)の合計で
       得られるもので筋は通っています。

        結局は
              A・〈天皇記国記〉の(仁徳~崇峻までの)数字455 
              B・〈書紀〉の(仁徳~崇峻までの合計)(次の再掲、Ⅲ・Ⅳ参照)193+84=277
      となります。Bを2倍したらAになると思って書きかけたが、暗算違いで、
              277×2=554  
       で100ちごており困ったことになりました。 ただ
            554-455=99≒100
       だったのでせっかく書いたので押してみよう、と眺めていると、
       この100が、A〈天皇記国記〉側に加わればよいことになります。継体の筋の 72が100になればよく
              72+29=101
       になります。ただ、これは43+29+29=101
       で29を二回足してることになります。すなわち、527-29=498にするとうまくいったので、29が2回
       入っても、マイナスが先にあったのでこれでよいことになります。つまり
              455+〈書紀〉から100 =(555)=277×2+1
       くらいのところになります。2倍をやったり、100×1/2=50 を加減して500に収めたりしています。
       ここは2倍や1/2の筋であるということも、ほのかに出てるともとれるところです。太安万侶が、この
       〈天皇記国記〉498を、いまの〈書紀〉に組み替えたことについて選択技、幅は、それほどないように
       思われますがどうでしょうか。配分の仕方を読めば公式ができるのかも。
       

     
 〈天皇記国記〉において概ね〈書紀〉を読む手法がかくりつされていたとみるとき、オフラインにみえる
      単独の人物の数字も、複数の組合せの数字も意味あるものとして出てくることが考えられ文献読みに
      と深さが出てくることになりそうです。〈古事記〉で允恭78年が出ている、長寿王の在位が78年なので、
       允恭78年で出したかも。広開土王碑(倭が出てる)を建立した人物で出てくるはずの名前でオフラインで
       出したともいえます。98没といわれていて当時これだけ長生きする人は珍しく、しかも影響力が大きい
       人物なので日本の史家も苦労して、在位87の天皇を作らなければならなかったのかも。
           87⇔78
       も目につくから、〈古事記〉の87は齢だから400年代の100年に使い、〈書紀〉の在位は93-6=87
      とみると、87の後に履中・反正6・6の二つも引っ付いてるから93も合ってるかもしれないと思えるところ
      です。〈甫庵信長記〉に「黄考口碑」がでており、脚注では
          「古代シナの伝説上の帝王(黄帝・軒「車+袁」皇帝)に関する口碑。」
      となっており、中国の黄帝①に対する、黄帝②の口碑=広開土王碑が出されています。「四孝」が出たら
      「五考」が拍子に出てくるのは、四書五経という慣用語句もあって、「考」の下「5」に見えないことも
      ないようです。黄帝5年がでてきたかも。
            広開土王碑414年===小倉碑文1654(戦国、手向山の宮本伊織、承応3年建立)
      は1240年のときを経ていますが、承応が効いているかも。承応3年は土佐光起が流派を中興した年のよう
      です。〈年表〉では小倉碑文の記載がないが、土佐の学者、「小倉三省」の没を載せています。
          長曾我部土佐守〈信長公記〉
      は注では「元親」・「孫三郎信親」の二人の名前は出ています。

         「上の二、綏靖天皇以後八代」   
         「下の七、武烈天皇以後九代」 
      において、10代にしたい
      後者は 武烈天皇以後9代に
           武烈・継体・安閑・欽明・敏達・用明・崇峻・(武烈8)・推古37 10代
      の(武烈8)=蘇我宿禰大臣と入れればよいのかも。空位8年ーーの人というのもありえます。
      前者は
             (武烈)・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・(考黄5年)・開化   10代
      となりそうです。何といっても口碑の存在が大きく、孝元は93とされており、5年の黄帝が入ると取れます。
      孝元=允恭② には
           「助多(太)」(古鄒大加?)
      という子息が特別採りあげられておりこれは出してこんとしょうがないものです。98年ー5=93年、つまり
      長寿の王は413~491(78)ですがひょっとして子息の分が被さり
      413~491は変わらず、実質413~419(486+5)とも取れるところです。この5年の表向きをカバーした
      のが日本にいたことになってる(兼務してるかもしれない)助多の息女の清寧天皇かも。〈古事記〉で清寧
      は在位なしとなっています。まあ〈古事記〉をみないと問題のありかもわかってこないことになります。
        〈書紀〉清寧紀は
           「三年、夏四月七日、オケ王(兄と思われる)を皇太子とし、ヲケ王を皇子とした。
            五年、春正月一六日、▲天皇が甕栗の宮で崩じた。ときに年は若干。
        顕宗紀〈前紀〉に
           「白髪天皇三年、春正月、天皇[顕宗]は・・オケ王(兄)を立てて皇太子とし天皇(ヲケ)を皇子とした。
          五年、春正月、▼白髪天皇が崩じた。この月、皇太子オケ王と天皇とが、[天皇]位を譲った。
          久しく空位であったそこで天皇の姉イイドヨ皇女が・・・天下の政治を執った。・・・元年・・・」

       があって▲▼が同一人だというのは天下の常識で、2年ぐらいしか空位がないのに久しくと書いています。
      まあ清寧天皇10年ともいえますが顕宗の前書にでてるから、くり返しの意味もあるのでしょう。つまり清寧が
     いないから、バレたら困るので白髪と名乗ったということになるのでしょう。顕宗の〈古事記〉の記事は、前に出て
     いますが一つ見落としがあって実際は
        「★伊ザ本別の王の子、市の辺の忍歯の王の御子、袁祁(をけ)の石巣別の命、・・(189頁)捌歳(やとせ)
        天の下治らしめしき。・・・・ 天皇、御年参拾捌(みしぢまりやつ)歳、●歳(やとせ)治らしめしき。」
     となってて★が脚注では
         「履中天皇。伊ザ本別の天皇の皇子とあるべきところ。」
     となっています。顕宗を履中天皇というのはおかしいがそういう使い方もあるというのでしょう。履中の子も
     履中が被ることがあります。ここで顕宗、38・8としていました、長い文のはじめにあった捌歳がぬけていま
     した。38・8・八が合っています。
      脚注では
        「●の記事はすでに189頁にあり重複しており・・・ここでは漢数字になっている。注であったものか。」
    とありこれは重複で無く「八」として別に入れるということです。すなわち、八を入れたり入れなんだりしてもよい
    から幅がひろがります。まあ38・8でやってみると顕宗46となり
         清寧5・顕宗3・仁賢11=顕宗46ーα    α= 46-19=27
     となり、これでやると
            「長寿王(413~没491)+次の王27年(文咨明王492~519間27年)=519
     が出てきて一応、一区切りを、隣の王朝の次の王まで入れとこ、というのがあったととれます。これは
          〈古事記〉計  応神~仁賢計  357+(98)
     でしたから  357/3=119  になり、400年スタート119=519文咨明王(この王の孫、高「延」という王が
                                                      日本に一時いたかも)
    となっていて始めjから次王が念頭にあったととれます。ほな「八」が余分ということになりますが
            長寿王没491+八=499  文咨明王即位492+八=500
    で、この491という重要年代は、〈年表〉では、〈書紀〉仁賢紀の4年に当たります。仁賢は11年なので、
         (13+78)491+11=502年
     になります。天皇名は
       応神41の後、「仁徳87」、と続き、401年を干支から履中元年として

       履中6・反正6・允恭42・安康3・雄略22・清寧(雄略の子)5・顕宗(市辺忍歯の子?)3・/小計491
       仁賢11(顕宗姉)=502
     
     となります。従って400年代は100年になるから一応等倍になり、

        413      51年間     464    22年間    486      487~5年間  491
       長寿王即位 古鄒大加(含む) 助多登場 雄略22年 長寿王没助多没 清寧即位  清寧5年491
        492~27年間 519年
        文咨明王応
    と続いてるから、最後が519となります。〈年表〉は仁賢4年=492だから逆算すると、
    清寧は480年なり、見にくいが年表もそうなっています。
     これは覚えやすくて580-100=480です。長寿王の実子、古鄒大加という人が安康3年か6年で見るよう
     に早くなくなったとすると
      日本ではない王朝、  
             古鄒大加6ーーー 助太(孫相続)22     
                          ∥ーーーーーーーーーー清寧①5ーーーー●顕宗(八+38+8)=54
                          助多(押羽皇子?)
     
      という〈古事記〉の流れがあり、海外顕宗54=22+5(清寧)+文咨明王27
    となる。日本では無理に比較するとと 
                      助太弟(清寧②雄略)(22)ーー清寧②(5)ーーー顕宗3ーー 
     となる。清寧に同母の弟がいるのがわかってきたので清寧は両方に足跡があるかもしれません。ゆうゆうと
     日本に遊学していたというような。はじめから最も目立たないが、気になる人物で、武井夕庵に似てる感じ
     で両方武です。清はともかく寧々の寧=北政所というので太田和泉守も便乗してる感じですがどこかで
     主張がでる可能性はります。
      曲水の宴が、顕宗の属性ですが王羲之の「蘭亭序」が西暦353年に成ったというのだから
        「序」=曲水=古事記の「序」
     として この●顕宗は〈古事記〉の顕宗をいうのかも。
    〈書紀〉の顕宗の485年に曲水の宴がはじめて日本で催され、485-353=132の差があり、これも朝鮮
    の王朝の日本が顕宗に宛てた帝のときのことをいうのでよいのかも。485-31=454
    は 先ほどの仁徳~顕宗間の455に同じになっています。王羲之といえども両親から引き継いできてる能筆
    があるかもしれないわけです。二足の草鞋を履いているというような。
    日本では顕宗のあとに仁賢(11年)がいたから 仁賢のついていない顕宗は別画面の顕三でもありえます。
      三年間でも455~458にもなりますがこれは二年違って454~456 の3年間もあります。
     その説明に日本の仁賢11を飛んでもってくるのはおかしいとなりますが、似ても似つかぬものに顕宗が
     かわってるから、仁賢の11や武烈の8は説明に使ってもよいものでしょう。

        491(23)/清寧(雄略の子)5・顕宗(清寧の子)3=8年  491+8  計499
    で使ってしもてるから余った仁賢11、武烈8をもってきて519に近づけただけです。
 
     「46」は
       (雄略22年)・清寧5・(白髪5)・顕宗3・仁賢11=46 となるから雄略22も白髪も勘定には入ってる
     と取れます。 (22)と(5)=27(文)。
    「助多」は長寿王の覇業を助けたのだから、461・475の節目のときにいたのだから、その没年とかは〈古事
    記〉の著者が把握してないはずがないと取ると
            雄略で、難しい字の「124」〈古事記〉   (履中64+反正60=124)
   がでています。124/3=41、333333・・・が出てきて(41か42)になるのでしょう。こういう面白いものには
   飛びつくという習性があるようです。「41」は応神の在位として記憶のある数字です。慈円で
      紀元前神武~開化(9代)559/崇神~応神(8代)407
   がありましたが、これは崇神11代目にしたいというものが出てるから559+41をイメージでもってきてました。
   変わり目、  41/3=13   13+87=100(別枠の100) をみる41もありました。


    (436)まあ一応作意を決めてみる
    一応散発的に述べてきましたがまとめみることもいるかも
    これでいくと、雄略124年というのは、神武137のようなスタートとしての意味合いがありそうで400年代の
    はじめに使たらどうかというのも出てきます。清寧天皇(479か480の即位)は雄略天皇の子いう事実に沿って
    まとめていくと、雄略在位は助多の22ということも使ってよさそうです。491大王没までの年代の人の動き
    41/3=13は大王即位413の頭に置くと
         461=雄略5年  475(百済敗れる)=雄略20年
    は本文中で固定されてるので、雄略22年は477となります(二年違う)。 このときの朝鮮半島の王朝の動きを
    まとめたものですが
                                                486大王没ー 5年ー   491
         401          413       457    465               489      491
       好太王残 ← 12年→ 大王←42年→允恭   助多登場←   22年 → 助多没←2年→公表
                      即位   3   終り    (457)     (32)     ⇓
 
       日本                      457 ←    22年 → 479   480(484に修正可能) 
          履中6反正6允恭42安康3                     雄略登場            雄略没 
                                                                 清寧即位
    になりますが 日本の雄略は479没で〈古事記〉崩年干支による歿は489没となっておりこの差が一つのネッ
    クとなっています。助多22年を32年にして上下合せとくことにしました。413~457の間は 二世代の開きと
    なり、助多は
           大王ー古鄒大加(日本史では消えていて助多と同一ともされる)ー助多
    という三代目の孫とかんがえられます。
   、486~491 五年間 清寧天皇がカバーしなければならず 天皇が外国で出てくるのがおか
    しいが今の日本だけでなく両方に使われています。百済が敗北したとき、
      「(雄略)二一年 ・・・・天皇は百済が高麗に破られたと聞き、・・・その国を救い復興した。・・・百済国は・・
      実に天皇のおかげで、ふたたびその国を造った・・・二二年・・白髪皇子[清寧]を皇太子とした。」〈書紀〉
    があり、これは高麗王朝内にいた助多に影響力のある清寧天皇ととると頷けるものとなりそうです。
                                             
     491に大王が没というのは結論ですが、98没で出ています。ここでは93もでてきました。こういう場合、織田
    信秀のように、信長の活動部分も引受けるというのがありました。そこで
        「織田播磨守」〈信長公記〉    (索引では「織田信行(柴田勝家②?)/織田播磨守」となってる)
    がでててこの「播磨」が清寧の数少ない属性です。信長夫人は土田氏(吉野)で、土田氏がここに顔をだすと
    局面ががらっと変わってきます。
     大王の没で子息(孫)の助多が引き継いで、その子、清寧を表に立てたということになったと大王思ってきま
     した助多の没の方が大王より早かったと思われます。基本的におかしいのは清寧480といったではないか
     ということですが、日本の文献、〈書紀〉でやれば、応神が407年だったから二つにわかれて

         応神407年・①仁徳87  (この流れをナマで行けば、67年の仁徳陵建造の記事〈書紀〉に及ぶ。)
         応神407年・②履中6・反正6・允恭42・安康3・雄略22(小計486)・清寧5・顕宗3・仁賢11

    というようなことになってたから ②のラインを行けば、486・7あたりが清寧のはじめになります。
    〈年表〉では491年=仁賢4年に宛ててあります。
       仁賢紀前紀によれば
         「五年、シラカ天皇が崩じた。天皇は天下をヲケ天皇に譲った。皇太子となること、故(もと)[清寧のとき]
         のようであった。(事は、ヲケ天皇紀にくわしい。)」
      となっていて、491に清寧がやはり出てきています。履中は応神の孫・仁徳の子とされるので始発として
     重要ですが〈書紀〉では
         元年 庚子  在位6年 没70
     となっており、庚子は「西暦400年」になるので区切りとしてありがたいものです。〈古事記〉は
         年64歳 壬申崩 (壬申=372年・432年・492年がある。)
     432-64≒369  432-64≒429
     がスタートとすると 266~366年の空白の 366と 仁徳87/3=29 がでてきます。
           400年+29{仁徳}ーその子履中
     もでてきます。
       こうなれば、{仁徳}=宇治太子兄弟も出てくるのでしょうが、この年〈年表〉では
           「429 ・・百済王直支、妹新斎都媛(池津媛)を貢進する。(〈応神紀〉39年条)」〈年表〉
    があって〈応神紀〉のものを429年(允恭21ころ)に入れています。本文では
           「百済の直支王が、その妹の新斉都媛を遣し[天皇]に仕えさせた。シセツヒメは・・来[日]帰[化]した。」
    となっています。妹を貢進するとは何事ぞ、と思いますが、これは、入り婿ということを表現してるのでしょう。
    允恭23年には「木梨軽皇子」「同母妹の軽大娘皇女」もでてきます。長寿王即位の16年後ですが、古鄒大加
    という王が結婚時期を迎えたのではないかともとれます。履中天皇には
         「●市の辺の忍歯の王、次に御馬の王、次に妹青海の郎女、またの名は飯豊の郎女三柱・・」〈古事記〉
    の子があり、●は表記が多く、よく出てくる、顕宗の父いうのがとして〈顕宗紀〉に出てるということから
    清寧天皇の連合いと見るしか仕様がない感じです。そうとしても表記が
      「市辺押磐皇子」「磐坂市辺押羽皇子」「天万国万押磐尊」「磐坂皇子」「市辺押磐別王」「市辺之忍歯王」
      「市辺天皇命」(「推羽」「推磐」もあったような気がする)
     などあり、男女があり、時代、画面の違いもありそうです。今の日本にいた「押磐尊」が渡海して、
           清寧天皇
            ∥
           市辺押磐尊
    ということであれば日本との関係が出てきます。雄略夫人ー清寧の母は「韓姫{葛木円大臣娘}」となっており
    雄略天皇(オオハツセ天皇)は、安康天皇の同母の兄弟で、安康天皇を殺した、眉輪王が円大臣邸に逃げ
    込んだのを大臣ともども殺し、またイチべノオシハ皇子を射殺しています〈雄略の前書〉。即位後、皇后と三人
    の妃がおり妃の一人が韓媛です。清寧は祖父を父に殺されたことになりイチべノオシハも雄略に殺されており
    近親の関係を表すためのコロシもあるかもしれないもので、また日本の雄略前紀が空中分解するとすれば、別の
    ワールドの雄略がでる、そのように仕向けられてるとも思いますが、
        清寧天皇は「雄略22+清寧5=27」も考えられ、大王のあと「文咨明王」の「27」
    があり、491-27=464(助多登場)で 461~491 の期間を(内数)という形でカバーしたことになると
   思われます。まあ朝鮮三国史の年表に、この清寧期間27年赤線でも引いてみると何かがわかるかもという
   意味です。


   (437)日本の雄略
    まあいろいろ書いてみましたが清寧が国際的に①②があるということであろうと思われます。親会社のことで
    時間が食われましたが、このことは確実に言及されている、倭の五王のことも、百済・新羅などもこの100年
    に詰まってるのは確実でしょうが日本のことが主眼、として入っててそれを外国の王に適用したと思われます。
    応神までとはちょっと趣を変えたととれます。つまり、22年間の雄略は誰かというときに
   
           雄略廿二年 元年丙申  七十即位 御年百四
             允恭第四子・・・(允恭は仁徳第四子)(仁徳第二子に「履中執政、平群竹宿禰」がいる)
              大臣■平群真鳥臣
              物部目連 {執政伊久佛子}
           清寧五年  元年庚申 卅五即位 或卅七 御年卅九   雄略第三子

     となっていて、豪腕の■が雄略とも取れそうです。「清寧」は「白髪天皇」で「白香」として継体王朝の主流に
    なり(継躰は外国から入部)、継体のあとがここに出てる欽明(蘇我稲目の王朝)で蘇我氏の登場となります。
      ■の子がシビで父子ともども、400年代の終りに大伴金村に討たれましたが履中の、執政の平群氏は、
     
        仁徳  ーーーーーーーーー 平群竹宿禰(春宮ー宇治太子の筋)(反正②)ーーーー■
        ∥
        磐之媛ーーーーーーーーーー履中天皇・反正天皇・允恭天皇(大伴室屋連)      
        (葛城襲津彦娘)
     ということかもしれず    平群竹
                     ∥ーーーーーー■ーーーー白髪天皇ー仁賢(飯豊)-----白香
                      宗我満智宿禰                             ∥
                                                             継躰(倭百済)
     ともいえる人物で、・物部氏とも姻戚関係にあり、允恭はその弟ですが大伴金村の大伴がここに出てきた
    ということで、蘇我馬子の推古王朝まで、一直線の日本側の400年代ということになります。

    〈古事記〉で数字の記載のなかった天皇は〈書紀〉で在位をうめるとすると
         安康3-清寧5-仁賢11-安閑2ー宣化4-欽明32=57(≒安康56)
      となります。
             57×11=627   慈円のいう推古26年の終期626・通説推古28年の終期628  
             57×11=627+10=637
     ということで    前紀37 +600年+終期37
     の〈古事記〉の骨格が固まったといえます。一方、安康のときは国家安康(鮟鱇)があり安康3から
     日本的になり    
        安康456/安康3+雄略竹22-白髪5ー顕三3ー仁賢11-武烈8――継体507
                    (蘇我満智)           
     と蘇我がでてきましたが、蘇我満智の年代が不明でネットでも
        武内宿祢ー蘇我石川宿祢ー蘇我満智ー蘇我韓子ー蘇我馬背(高麗)-欽明即位531・539の2通り
      があります。まあ、真鳥の子、殺された鮪を蘇我稲目に繋がる存在と見てきましたので、それからいえば
      韓子ー高麗を鮪①-鮪②とも宛てとくことも可能です。高麗は生駒平群の「駒」も考えられます。継体の
      前後は太田牛一に聞くのがよいのでまたあとのことになります。 
    

     (438) 一心太助・塩原太助
       「助多」・「助太」は日本では「多助」「太助」で出てきます。
           ① 徳川の大久保彦左衛門の所にいた魚屋「一心太助」、
           ② 馬の別れ(青)、上毛カルタに出てくる「塩原多助」
   があります。①は鳶の巣山の武勲、大久保彦左衛門坂井左衛門尉もでますが、〈信長公記〉索引

       正親町天皇/天帝/天子/大久保忠世(文中「大久保七郎右衛門」)(甫庵では「大窪半介」)/大蔵新三

   があり、天皇ー大久保という組合せはちょっと乗り切れないものですが「家康」がからむと近づきます。
   江戸時代の人には、「国家安康」の鐘銘の問題があるから 「安康・雄略・清寧」時代も「家康」からでてきます。
   鮟鱇で魚もでますが魚篇は朝鮮の魚とはいえないにしても、魚屋は「千宗易」の属性で人名注によれば

      「天正13年(1585)10月正親町天皇から利休居士の称号を与えられた。信長の茶頭としてはじめてあらわ
      れた人物である。・・・千氏は田中氏。・・・利休の名は与四郎。魚問屋で納屋という。」

    となっており、正親町天皇は間接的に太助の魚屋を語ったといえます。太田和泉守は太助は知らないでは
    ないかとなりますが、一心多助は、江戸・文化文政期にでた鶴屋南北の弟子、河竹黙阿弥から出たもの(ウィキ)
    のようで、太田和泉守は中継点にいるのは明らかです。多助は大久保彦左衛門の草履取だったと書かれて
    いますが、履物(草履・草鞋・下駄など)は、〈古事記〉に触れてきた今となれば、やはり

         市辺忍歯の王、●御馬(みま)の王、青海(飯豊)の郎女(〈古事記〉)・

    の父、履中という天皇の「履」が効かされてきます。履物屋から特別大物もでてくるほどです。この「御馬の王」
   も雄略に殺されます(〈書紀〉)。ここに「大蔵」が出ていますが履中紀に
        「諸国に藏を作る事此御時なり。」〈愚管抄〉
    があり〈書紀〉に「藏職」「藏部」が出ており「藏部」は脚注では
        「藏部は令制で大蔵省60人中務省40人の伴部」
    となっています。〈信長公記〉では蔵は
        「大蔵新三・・大蔵新三・・伊徳・高安・大蔵二介・・・彦右衛門・・三蔵・・三州徳川家康卿・・」〈信長公記〉
     が出ていますが「大蔵」は清寧天皇の異母兄弟に星川皇子がいて、清寧即位前に反乱を起こしますが、その
     星川皇子の拠ったところです。これも「大蔵」=清寧=太助の材料といえそうです。これは吉備氏が味方してて
     大きな話のようです。清寧には同母の兄弟もいて「白髪の太子(みことのみこ)の御名代」と書いています。
    「国家安康君臣豊楽」も「安・楽」があって「安」は一応は好太王のことを「句麗王安」といい「安」がその属性
    ですが、安康の「康」が長寿王の「名」(魏の孝文帝からもらった)でもあり、安康・雄略となりますから顔見世し
    てるという意味もありそうです。「豊」は「飯豊」というのも出てるか、豊葦原瑞穂国ー豊玉比売ー仲哀穴門豊
    浦宮ー蘇我蝦夷豊浦宮もありますが、〈信長公記〉索引では正親町天皇の前には

          大炊御門中納言(「藤原氏北家師実流」)/正親町中納言(「藤原氏北家閑院流」/正親町天皇
          (106代、京都深草北陵)/大久保忠世/大蔵新三/大蔵虎家

   となっていて、大炊が出ています。大炊=大飯で豊が入ると、飯豊も出てきます。これは推古天皇の
        豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇
   に見据えた名前ととれます。ここに正親町天皇が出てきたので、ついでですが注に、
         「京都深草北陵」
    がでています。これは南北朝時代の少し前から出てきた皇統の持明院統の御深草以下12帝の陵墓です。
    持明院は
      「安楽光(行)院」という持仏堂の名前からでたようでここから北朝の天皇がでています。「安・楽」というと
      好太王のことでしょうから、大覚寺統後醍醐の南朝もそうであるのは確かですが、高句麗派と百済派とい
      う派ができてるということです。持明院統がここに出てる藤原北家の流れで、式家藤原が南朝になるというこ
     とのようですが1300年代になってもこの491年頃の政治環境という重いものを引きずってきています。
    南北朝という時代区分も史家による歴史の叙述の一つということになるのでしょう。
        「太助」は ②の馬の別れ
    の講談でお馴染みの塩原多助もあります。上毛カルタでは「沼田城下の塩原太助」となってて、沼田の意味が
   がよくわかりませんが江戸期の人は「真田安房守信幸〈甫庵信長記〉」も思い出すところです。上毛カルタという
    のは昭和22年の成立でGHQの介入が(ウィキに)書いてあるもので「小栗上野介」がアウトということになっ
    たというのは相当以上の知識がないと出てこない結論です。「上胡の碑」(金石文)が残りましたが、これは
    古いからいいだろうということか、両方とも太田和泉守を語る場合不可欠な項目となっていてその範囲に含まてしま
    うものです。
    「塩原太助、馬(御馬)青との別れ」は●が念頭にあって、御馬(みま)ー青海(飯豊)ー市辺押磐別王
    という名前が組み込まれています。つまり●が雄略に殺されていなければ、一廉の活動があるはずです。
    最近のウイキでは仁賢=飯豊とするのがありますが、そうなれば一応
            御馬  -- 飯豊
            (顕宗)     (仁賢)
    を匂わせているかも、というのがありえます。ただ慈円では仁賢の解説として
       「所互いに譲給ふの間。御姉妹の女帝を立て奉る。飯豊天皇と号す。月即位。十一月崩。・・此
        殊に世治(をさ)まれり。」〈愚管抄〉  (11月が11年にならないか)
     があるのがどうかというのが越えなければならない一文となるのでしょう。水行十日陸行一月となると
     月が「閒」-「間」で「一間」となるので船が着いたところが目的地になるとすると仲哀の穴門(長門)豊浦も
     視野にはいってるのかもというのは出鱈目にしても、日=月→「年」はありうるものです。両=2、二、二ときて
     11がくれば、コンピュウター時代の読解手法を古代から採用してきてる史家にとっては
           十一≒3
     もでるかも。二+3=五年 飯豊期間をいれたいところです。つまり今の段階では、5・6足りない感じで
     顕宗・仁賢に連合いがいるはずで、その期間が五年挟まるかもというのが考えられるところです。清寧の
     期間の空位というものを飯豊が埋めるということではないと思われます。まあこの程度のところにいまはいます。

      仁賢終り11年が〈年表〉では498になって
          「498  この年、平群真鳥国政をほしいままにし、国王にならんとすると伝える。大伴金村が平群真鳥
              と子鮪(シビ)を討つ〈武烈紀前紀〉」〈年表〉
      が出てきます。これで、400年代は打ち切りになっています。このあと武烈8年の後で継体即位が507年
      というのが〈年表〉の構図です。これは、途中から清寧天皇が480年と計算された上でのものです。
    
      401年を干支から履中元年として

       履中6・反正6・允恭42・安康3・雄略22・清寧(雄略の子)5・顕宗(市辺忍歯の子?)3・/小計491
       仁賢11(顕宗姉)=502
     
     ともなりうるものです。つまり502が特別重要とおもわれるので仁賢11で行かせたいところです。〈年表〉
     には逆らえないかもしれないが。ここに

        「502 壬午 梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東将軍に進号する〈梁書〉」〈年表〉

     があり、このあと、5年後、継躰(慈円が使用)がやってきて507年即位しました。この武王は誰かと
     いうのが問題でしょう。倭の五王の武王は489年(日本の雄略は479)に亡くなっていて、これが上表文
     を書いた武王ですが、その子息となります。百済で502年に武寧王②が即位しており、武寧王の父
    は倭にやってきて武寧王が筑紫の島でうまれたとなってて、日本に足跡があるのは〈書紀〉で匂わされて
    ます。先代(489~501と云う理屈になる)の第2子のようですが、それなら第一子に隠れているかもしれ
    ません。この502が491+11できっちり出てくるというのが一つほしいところです。それには清寧484
    スタートとならねばならず、と498+4=502 で先ほどでた、484は間違いではないかもしれないという
    のがいいたいところのことです。塩原太助も太田牛一にからんだよくできた話かも。

                         
    (439)あの話は文献で出てるはず
     履中天皇は、仁徳の第一子で、〈万葉集〉で知られてる磐之媛{葛城襲津彦ガ女(仁徳皇后)の子で、磐余
     の稚櫻宮で、これは桜井の桜のモトとも思いますが、磐余王朝の重要な位置にいます。〈書紀〉干支では
    西暦400年即位になります。しかしこれだと年代が合わないことになります。応神ー仁徳ー履中と続くから
    応神の〈書紀〉の干支の即位は390年で、履中①が400即位というと、仁徳87年の入る余地がないことに
    なります。〈古事記〉でやると
        応神没394+(仁徳83/3=27)=421(倭の讃の遣使の年)
    となってこれやと、倭王の讃は履中②ということになります。次が履中64になってるから、64/3=22
    421+22=443  で
       「443 倭国王済、使いを宋に遣わして奉献。」〈年表〉
    があります。次の 允恭78/3=26
        443+26=469  これは、次の「安康56(崩年なし)」〈古事記〉があり 413+56=469
    でまあ確認できたということになるのでしょう。これから10年後雄略没479になります。
          56+(13+10=雄略23)
    もあります。まあ安康56/3=18で、479+18=487
    意味はないこともなかったが、これは偶然の一致として安康を参考挿入(大陸のフィールドではありうる)
    とすると、最後の顕宗38歳+8年+八年にすべてが懸ってきます。38/3=13
        469+13=492 で大王没にきました。492+八(武烈)=500
    がでることにもなります。469+雄略23=492 助多没にもきます。
    〈書紀〉は内数として   雄略22・清寧5・顕宗3・仁賢11=41
    を提供しますが38+8=46 で「5」ほど足らないというところでもあります。ここで応神に遡ったのは

      仁徳の〈古事記〉の記事で「秦人を役(えだ)てて」(脚注=中国の秦の国人の意」)があって
         「国中の烟(けぶり)発(た)たず。国みな貧窮(まず)し。かれ今より三年に至るまで、悉に人民
         (おほみたから)の課役役を除せ」とのりたまひき。・・・後に国中をみたまへば、国に烟満ちたり。
         かれ人民富めりとおもほして今はと課役科せたまひき。ここを以ちて百姓栄えて役使に苦しまざりき。
         かれその御世を称へ聖帝の世とまをす。」〈古事記〉  (応神御陵は●「河内の恵賀の裳伏の岡」)
    があり、〈書紀〉でもこれは出ており
         「仁徳四年・・煙が立っていない…七年・・・煙が国に満ちた百姓はおのずと富んだ。・・。・・・皇后・・
         なにを富んだというのですか・・・一〇年・・・宮室を構築した。…百姓は…全力をつくして競いつくった。
         宮室は完成した。・・聖帝・・・」〈書紀〉     (応神御陵記述なし)

    となってて、この4年とか、7年、10年が西暦何年か、ということを言わねばならないからです、準備万端の上、
    やったものは応神天皇陵とされてる建造物だったといえるかどうかが懸かるところです。
     初めの第Ⅲの応神ラインでで190というのが出てるから90を別画面のものと取ると3+87が皇順で
     応神41の後、「仁徳87」、と続いて出てきて、この100年からみれば400スターでよいというのが出てきま
     す。41/3=13+87=100もあります。ただ前から来れば407があって応神在位41も、前に重点が懸って
     います。
      41×7/41=2,2・・・だから「3」だけ400年以後に、ずらしとこ、というのもあるのでしょう。慈円が407に
    なるよう数字を配列したのだからこれは意味があります。
        246百済成るー266倭の女王遣使ー(大空白100年)ー366年(神功紀46記事) +41=407
    の407ですからズラすと97になってその世紀の終わりに近づき一方で3が浮くとこのこの世紀が完結します。
    すなわち、ここの応神7年も重要で、応神10年というのは410年になるという計算になります。

    一方で仁徳兄弟があって87/3=29  429というのが履中②になると
          413         429         464
        長寿王即位ーー 古鄒大加元服ーー 助多登場

    ということにならないか、ということもでてきます。一般には応神②=履中①400年でよく、これは孫相続もある
   からありえます。
        〈古事記〉が履中64になってた(仁徳83・履中64・反正60
   のもわからないことの一つですが400年即位(庚子)とすると
   460年の即位もありえます。これは仁徳の子だから464でやってみたら、というのもあるかも。460年と
   なると、
      「倭国王使を遣わして方物を献ずる。倭王済没し世子興使いを遣わして貢献する、〈宋書〉」〈年表〉
   があって興がでてくる年になります。461が雄略5年でこれは固定です。昆支君(のちの東城王の父)
   が出てくる年です。

    ●が脚注では
      「一名誉田陵。仁徳陵につぐ大規模陵。大阪府羽曳野市誉田」
   となってて、応神陵と書いてないが応神陵でしょう。大田牛一が誉田八幡を出しています。
       「神応但馬守〈信長記〉」(「神尾但馬守であろう。神尾氏は駿河(静岡県)の名族。」)
   が関連して出てきます。〈書紀〉〈応神紀〉のなかには、
       題字「誉田(ほむた)天皇」、太子「誉田別(ほむたわけ)尊」
   が出ています。大神「去来紗別(いざさわけ)神」も出てきます。これが総括かもしれませんが、履中は
                「去来穂別」
    になっています。応神天皇といえども二人いそうです。「ホムタ天皇」が太子のときに
       「越(こし)の国に行き角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)大神に拝礼した。」〈書紀〉
    があり〈奥の細道〉で芭蕉が敦賀の気比神社にきています。これが日本の敦賀ということでいいのか、
    というので延々とした話が出てきます。〈奥の細道〉は〈古事記〉が一つのテーマになっていて、その受容を
    みないと芭蕉でわからないところがいっぱい残ります。 

    (440  )応神・仁徳陵の記録
     仁徳紀六七年
       「河内の石津原大阪府堺市石津町に行幸し、陵地を定めた。一八日はじめて陵を築いた。この日
        鹿がにわかに野の中から起ちあらわれ、走って役民の中に入り、倒れて死んだ。…百舌鳥が耳から出て
        飛び去った。・・・そこを名づけて百舌鳥耳原(もずのみみはら)というのはこれが起源である。」〈書紀〉
    があり序としては六〇年に白鳥陵の話が出ています。これは仁徳陵のことと思いますが、〈古事記〉には
    記事がありません。これは仁徳の最後の記事
        「この天皇の御年捌拾参歳、丁卯の年八月十五日崩りたまひき。
        御陵は毛受(もず)の耳原(みみはら)にあり」〈古事記〉
    があり脚注では
       「大阪府堺市大仙町。この御陵は天皇生前に工事をした。そのときに鹿の耳の中からモズが飛び出したから
       地名とするという。」
     とあり、武田博士の注は、〈書紀〉の記事を踏まえていないというのは無理です。ここに現在の仁徳陵の呼び
     名、大仙が出てきています。好太王・長寿王という大王二人の記念碑というのが、考えられるところです。
     があの二つの大きな建造物のことは文献にチャンと出てたという初歩的なとこの確認からからスタートせな
      いかんといことです。明治41年には仁徳陵から出たとされる鏡や環刀太刀がボストン博物館にありこれは
     これで研究も進んだはずです。、すでに
     御陵の中のこともわかってることが多いのではないか。当時でも天皇陵という感覚でなく、古墳と思っていて
     政府の必要に応じて、抜いて出したのでしょうか、要は国の成り立ちというものは広く知られてたということ
     です。
      応神も、飯豊も二人で、男女もあるかもということでした。ここで592に登場した聖徳太子に戻ります。
     

  (441)聖徳太子二人
          推古天皇は二人のようであり、593に聖徳太子が登場しますが、その前5年間(崇峻の期間)におい
        ても相当の働きがあったはずで、崇峻の死がいわゆる蘇我馬子に殺されたという考えにくいことになっ
        てるので、「崇峻」という枠が、聖徳太子に並行する枠として伸びてきている、聖徳皇子というものもある
        から、まあ、いわゆる聖徳太子も二人で構成されてるということで捉えられるということになるのではない
        かと思われます。崇峻天皇(泊瀬部天皇)は誰だかわからないのです。
          「ハツセべ天皇はアマク二オシハラキヒロニハ天皇[欽明]の第一二子である。母は小姉君という。
          稲目宿禰の娘である。」〈書紀〉
          「欽明第十五子。母小姉君娘}。{稲目大臣娘}」〈愚管抄〉
      となっており、まあこれでは何もわからないということです。一二子と十五子というので取りつくシマもない
    ところです。ここで太田和泉守の六百年遣使時代に関する関心からヒントを貰うしかなく、織田信長の場合に
         信長・信長公 という表記を使ってたので  崇峻天皇・崇峻 という表記でよいのではないか、つまり
    夫妻という表記でおいとけばよく、この場合の皇太子のことも考えると

      、   崇峻天皇                                        崇峻天皇
          ∥       となり、聖徳皇太子が用明の子というのが有名で→      ∥ーーーー厩戸豊耳の聖徳
          崇峻                                           用明天皇②

      というのもでてきます。用明は欽明の第四子ですから世代的にみては②ということでみると一方だけでも出てくる
      だけ、一歩進んだともいえますが、崇峻天皇が誰やらわかわからないのは変わりません。用明天皇は
      用命もあるというのは太田牛一が「ちようあひ」(「長命」のまちがひ)を出してくれてるからわかります。
      厩戸の聖徳皇子にしも、敏達五年(576)に(のちに)結婚の記事があって、連合いがいて
         「 593 厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子とし、摂政とする。〈書紀〉」〈年表〉
      の記事も、
          聖徳豊聡耳皇子(皇太子)
               ∥
               聖徳  →     (摂政) 
       とされたという方が今後の展開が望めることになると思われます
       。耳が効いてきて、前稿で崇峻の時代=国語が出来かけたとき、というのがいってきたことですが、620
        年の●国史の編纂に行きつくタイミングになる、そのときという感じがするところです。まあ蘇我馬子に
        在任中に殺されたというのは、天皇位を降りて、別のことをして貰う、国語の形成へ踏み出すべくプロジェ
        クトチームのリーダを委嘱されたということと取れるところです。大津皇子も持統に殺される、ということに
        なり殺されていないとすると、この部分の語り手としてででてくることが考えられます。
         この●は、推古期の途中の完成だから、崇峻期の出来事までは〈古事記〉は完結できるものと思われます。
        いいたいところのことは、これは〈古事記〉の主体を構成するもので、
             712年、太安万侶の〈古事記〉撰上(崇峻終り592の120年後)
      
  は、これを
        〈日本書紀〉のモトとなるものにする作業、〈日本紀〉の一部に、これを組み込むものとしての作業で
        あったととれるところです。古いものは、焼けてしまった、失われてしまった、というのが通っていたのは
        、620年の政権と、100年後、720年のころの政権が対立していて、一方が勝って新時代がきたという
        説明があるからであり、戦後、戦前の史料を組織的に破棄してしまうようなことをやって慣れができて
        、密約の文献も破棄されたで通ってしまい、民間も真似する雰囲気がある中にいることが、古代も一緒
        だろうということになってると思われます。、物部氏の文献とされてる〈先代旧事本紀〉なども今に残って
        います。720年の政権の中枢にいた人の先祖が、620年の文献を
        書いた人であり、その文献の出来具合を高く評価して、これを正史として残そうとしたものです。
         〈古事記〉には、崇神天皇くらいから天皇の崩年干支というものが出てきていますが、〈書紀〉には
        それがなさそうで、そういう〈両書〉間の食い違いこそが、補完になり、拡張になってる、
       と思われます。とくに〈古事記〉においては、全体性、体系性、整合性が欠けてるとみられるところがあり、
       例えば、天皇の没年齢の記載は、あることはありますが、全員についてあるわけでなく、在位年数だけ
      書いたものもあり、雄略天皇没年齢124のあとは、(〈愚管抄〉では104歳)
                 顕宗天皇(没年齢38)まで飛んでおり、(同上48歳)
                 武烈天皇以後9代では、継体天皇の没年齢(43) しか出ていない(同上82歳)
      ということもあり、これは
      気まぐれでしかないと思ってしまうところです。そこだけでよかったということであれば、そこが〈書紀〉の
      いいたいことを衝いてるというようなことと判るからよいのでしょう。数字が空隙を埋める一つとみてよい
     と、感ずるのは早いかも。空隙自体も、数字を埋めるのかも。どこか一か所で誘いがあって成功してる実績
     があるはずだから。
       〈古事記〉では、目についたとこだけやるということでやってもよい、と思うので、それでやってみるという
       ことにします。〈古事記〉の全体像を無理していうことなく、記紀の全体像の把握に貢献できると思いますが
              〈古事記〉が先で、序文があり、序文は〈日本書紀〉にはなく、〈古事記〉の序文が
              〈天皇記・国記など〉と〈日本書紀〉の
       序文であるということなのでそうなると思います。例えば系図でいえば、〈日本書紀〉でわからないところを
       〈古事記〉で知るということになりがちで、主体を〈書紀〉におきがちですが、そうではなく、〈古事記〉の系図
       の流れの下に〈書紀〉の系図の流れがあるという感じでないと、両者の関係はとらえられないことです。
       持統の皇子大津が、推古期の皇子大津に似た人物にさかのぼるのはおかしいというのではなくて
       推古期の皇子大津の子孫が、持統期の皇子大津であるという感覚でみるほうがよいというのが
        いいたいことです。〈古事記〉でも綏靖天皇に譲る話が出てて、4年は出ていません。これは〈書紀〉の 
       記者が神武紀にいれたのかどうか。
                         
     
(442)終りがラップする問題(空白による調整)
     〈日本書紀〉には、神武天皇のあと、綏靖天皇に引き継がれる前に四年間の空白がありますが〈古事記〉
        にはそれはありません。日本史には珍妙な約束があって、天皇、将軍など政治上のトップの在位は死亡
        をもって終りとしており、このため大変わかりやすくなっています。しかし、これは人間
        社会の実態には合わないはずで、現在と違って、進歩した医学の応援がない時代でもあり、死の前の
        数年間は、活動にかなりの影響が出てたということが、予想され、反面、30過ぎで孫が生まれたという
       ような環境にもあり、子が、代行して、既に実権をもってやってて、外部には影響が出てきにくいことに
      、なってる場合が多いということになります。
        このためか日本史では、
            神武天皇→綏靖天皇間に4年、(仁徳→履中間に3年の間があるがこれはちょっと別で前後に
            ±としては働く差と思われる))
       を設けたとも考えられます。ここで掉尾を飾り、持統天皇が、4年間の間を、譲位をもって作った例が出て
       出てきたからそうではないかとも感ずるところです。
        推古天皇の場合も次の舒明天皇まで本当は
               推古没後2年間
        空いてて非常時、蘇我蝦夷で空白を埋めた(しかし表向きが推古)ということになってそうです。
       これは、年表では空白がなく、つまり75没(〈書紀〉)となってるので空白がないのは当然ですが、慈円で
       は推古没年73になっていましたから、二年間の空白はできるから、という慈円の暗示があったといえ
       るものです。このため
          10-2=8年、すなわち推古8年(西暦592壬子推古即位~600年倭王の遣隋使派遣までの8年)
        が出ることになりました。推古期の本質をあらわすのは
               「626 推古34 蘇我馬子没(76)」
               「628 推古36  推古天皇歿(75)」
        の記事で年齢では三つ違い、政治の空白は二年(蘇我蝦夷が626に大臣になったので)ですが〈書紀〉
        では推古だけ(ときに年七五[歳])となってて馬子(脚注=馬子が葛城氏とも称した)については書いてなくて
        本文では「大臣が薨じた。」となっています。
         蘇我蝦夷は地位に固執せずに二年後舒明天皇に席を譲ってるのは、決まりに従った進退といえます
       がそのあともバックアップしています。しかしその前もすでに蘇我大臣②としての働きはしてるととれます。
 
         戦国時代でも、織田信秀、武田信玄などの「3年」喪を伏せるというようなものがありますが、これも
       ひょっとしてこういうものがあるかもしれません。もう後釜(アトガマ)が動いていたというような。 

      (443) 織田信秀の場合も同じ
        織田信秀(備後守)を見舞った事件に、〈信長公記〉首巻(四)節
           9月、▲稲葉山城下の大敗、
       があって、これは、脚注では1547(天文16年)の事件のようですが、次の(五)節で、
           「織田播磨守」が出てきて、 「陰山掃部助」が弓でやられて、
      
 (六)節で
          11月 斎藤道三が、「織田備後守後巻」の、部隊にやられて岐阜城へ逃げ帰る
       という事件があって、脚注では
              「▼斎藤道三の敗戦は天文16年であろう。」(これは1547)
       となっています。これは脚注が間違っていて、3年後の天文19年(1550)が合ってそうです。
       この敗戦の原因は次の●によって齎されたもので
              「●備後守殿軽々と発足して、お手柄申すばかりなき次第なり。」〈信長公記〉
       があります。これがいまでは織田信秀が、二年後、カムバックしてきて、斎藤道三に一泡吹かせたという
       ことになっていて、不退転の勇者、織田信秀という語りの事件となっているものです。●は、子息の
       桶狭間のあの信長(備後守②)が、登場してきたものです。織田信秀は陰山掃部助の事件で表されるように
       負傷して療養を余儀なくされる事態になったということでしょう。ところが▲が1547であるのに〈年表〉では

              「1544 9月 織田信秀美濃稲葉山に斎藤利政を攻めて敗れる。〈古証・武紀〉」〈年表〉

       というのが出ています。▲大敗の戦闘は1547の三年前の事件だといっています。ただこれは〈甫庵信長記〉で

              「天文十五年吉法師殿十三の御年・・・翌年(つぎのとし)・・九月・・・同廿二日・・稲葉山・・」

       と書いてあって、〈古証・武紀〉の記者はこれを読んでる上で書いてるから、〈年表〉で三年を注意という
       警告が出てるということになります。つまり●は〈年表〉が紛れこませた3年間を出すための記事ということ
       になります。
 
       ▲▼が、同年というのは、節が(四)(五)(六)で同年ということはないので、これは世代が代わって
      しまっていて、軽々殿は、17歳の桶狭間の信長で、生まれてすぐ選り抜きの人材を付けられてて、もう17
      歳になってるのに事態を看過してたとは考えにくいことです。あっという間に世代が変わっている、早めに
     信長がデビューしてたことは、古代からの文献の読み方を変えねばならないことになります。昔から高齢に
     なっても、引退せずに頑張るというのは大したことでもなく、子や、更新を育ててないことの裏返しということ
     になってきてるのでしょう。 ついでにいえば、織田信秀の没年ついては、甫庵が書いており
       「(表題)織田備後守殿病死の事」で
          「備後守殿天文己酉(脚注「天文十八年(一五四九)」)二月中旬疫癘・・・・三月三日に御年四十二歳にて
          逝去し給ふ。」〈甫庵信長記〉

    
 となっており、これが合っており、〈信長公記〉では、首巻(9節)で
          「備後守殿・・・終に、三月三日、御年四十二と申すに御遷化。」
     となっていて、脚注で書いてあることになります。すりきれて見えないが、脚注は天文21年1552、となってた
     たと思いますが、これは葬儀の年です。これが〈年表〉では、

          「1551、天文20年  3月  織田信秀没(42)」〈年表〉

     となっていて、これが葬儀の年が違っていますが1551であったと思われます。みな「42」になってるから、
      主語の表記が違ってるが同一人と取れます(織田信秀にも
     連合いがいるから、その人のことかもというのはあるが)。年表のは、戦後の研究の積み重ねの成果とみら
     れますから▲が入っていたというのは大きな衝撃があるはずですが、外のことで忙しくて話題にもなっていま
      せん。脚注は甫庵と3年の差が
     あって、〈年表〉は二年の差で、それはそれで同一人ともいえそうですが、脚注の3年は、先ほどの
    〈古証・武紀〉の記述と、一貫性を持たせた
    ものといえます。すなわち甫庵のものを〈古証・武紀〉記者が読んでいるという前提に立っています。甫庵の
    記述が、「翌年」とか「天文己酉」とかの間接的なものになってるから、合ってるともいえるかも。〈甫庵信長記〉
    は不特定多数の人に読まれるものだから間違いないところを提供するという考えに基づいているといえます。
    つまり         稲葉山大敗の年は、天文16年(1547)
                 織田信秀の没は天文18年(1549)
     ではじめから決まりとなってると思われます。また三年喪を伏せるというのは、敵を欺くためというのでは
     なく2・3年くらい前に現実に大将がかわっているので、そのこともいってると思われます。歴史の語りは
     死を以て、在任期間が終わるので、まあ活躍時期は2・3年前倒しでみてたほうがよいという歴史の見方をいってる
     と思われます。この稲葉山大敗から、道三信長の会見までの年次がはっきりしてない問題は他のことに
     影響し、あとでもまた出てきますがとりあえず甫庵の年代でいくのがあってるというのが結論です。頼りなさそう
     な〈古事記〉の数字が、もっとも頼りがいがあるというのを知ってたから戦国もこうしたと取れるところです。
           ○信長の行動を信秀が被っている 
           ○連合いらしい人も出てきてる
           ○三年の違いも出てる
           ○ほかの資料が使われている。
           ○信秀の死亡に物語がある
           ○採用された文献にも間違いがある・・・
    があり、信秀の稲葉山の敗退の一連の記事は、道三・信長・寺内などで(聖徳寺)の一節に飛ぶので
   推古の時期の解説に役立てようとしてるというのはあります。
 
     (444)〈日本書紀〉の書き手も大津で説明があるかも。(皇子大津の登場)
       皇子大津が持統のはじめに出てきたことは前に遡るとともに、殺されていないのだから後ろへの影響も甚大
      
なものとなるのではないか、という疑問が残ります。つまり〈年表〉では
           「683 天武12年、大津皇子、朝政に参画〈書紀〉」
      があって
           「686朱鳥元年 皇后鸕野皇女称制(持統天皇)。●大津皇子謀叛を理由に捕えられ自害(24)」
      があり●が皇子大津なのに大津皇子と変えてしまって、将来を断ってしまったわけです。掠って行ってしまった
      たということになるとどうなるか、ということです。大津/皇子は使えない、名前は変わるが天武天皇の子だから
      ら将来天皇になってしかるべしというほどの人物です。一応これを述べないと終わりませんが突飛なことを
      いわんなんということで、顛末が出てくるまで長々となってしまいます。。
      日本史では
        神武天皇ー綏靖天皇間に4年間の空白(仁徳→履中間に3年の間空白)
       を設けましたが、ここで掉尾を飾り、持統天皇が、696で終わってて、4年間の間を、譲位をもって作った
      例が出てきて、綏靖以来の四年間を入れるとちょうど700年に終わります。持統天皇は賢明だったといえる
      かも。
       もう譲るべき人が出てきてたと思うところですが15歳の文武天皇(軽)に譲っています。

       696・697ーーー文武ーーー707ーーー元明天皇ーーー714ーーー元正天皇ーーー723
       持統/       11年間     /       7年間     /      9年間       /以下聖武

     となっていますが、文武が四年間であればちょうどよいのにというのはあると思います。
       
        推古天皇の場合も次の舒明天皇まで本当は
               推古没後2年間
        空いてて非常時、蘇我蝦夷で空白を埋めた(しかし表向きが推古)ということになってそうです。

       いま年表では「天皇」と、「臣」が並行して走っており
                                                            628推古没
  天皇欄  敏達13❙ 用明二年❙崇峻五年❙←    推古36年                 →❙
  重職欄  ←             蘇我馬子(54年間)        76没 →|蘇我蝦夷2年|
        ------------------------------------
     。、                 626年
  
    となっています。蝦夷も「臣」欄にあります
   これによれば推古は蘇我馬子と同じのようでそうでない、ことになり、「臣」が効いてくることになるのでしょう。
  この真ん中に崇峻8年を入れたものが次のものですが
        敏達13❙ 用明二年❙崇峻五年❙←      ●推古36年    →      75没 ❙
                             ❙崇峻8年 ❙  推古26年     ❙蘇我蝦夷2年
                             ❙  聖徳太子(592~622)     ❙蘇我蝦夷  ❙ 舒名天皇
                                                   唐❙李世民即位 →
                            592年     600           626年

       626年に馬子が没(76歳)になってて、推古天皇は、年表では●で枠が続いて、75没(〈書紀〉)と
       なっています。空白は変化がなくていいのですが、慈円では
           推古没年73
       になっていましたから、二年間の空白はできるから、三つ違い、という慈円の暗示があったといえるものです。
       このため、蘇我蝦夷は表面では出てこないが、実質政務をとりしきっていたというのが出てきています。
       もう一つ慈円は推古26年といっていましたから
          10-2=8年、すなわち推古の8年は縮めないかんということから●の下、崇峻8年を入れてみた、
       ということで崇峻二人で13年あるかもという8年がこの8年です。一方
         西暦592壬子推古即位で西暦600年倭王の遣隋使派遣があってこれが8年です。まあ即位が8年
       ずれると、600年即位になり、この年が遣使を出すにふさわしい、とすると
           
 600年のとき小野妹子が隋へ行った、
       とすると現在の〈年表〉の
                  推古15年 607年 小野妹子らを隋に派遣
                  推古16年 608年 小野妹子・・・帰国する
       という飛行機で行ったような日程は避けられます。まあこの二年はややこしいので8年の問題として、崇峻②
       か推古①をここに入れる、もしくは通説のように推古一本を崇峻五年から走らすのかということが出てきて
       いるということです。
 
       蘇我蝦夷は大臣のままで、空位を埋めて二年後舒明天皇に席を譲って後見してるきまりに従った進退といえます。
        蘇我蝦夷から60年後の持統686年に飛びますが、これは
         丁亥(年の干支)で飛べたといえます。持統に入ると変な年号(太田牛一の弘治のようなもの)も出て
       きて丁亥を拾ってる段階にいるのに、これも加わってとたんにわからないようになります。
       能力を超えた話で、慈円に聞くしかないが、これも飛ぶ話ではないかと思われるものです。

       (445)私年号(大化・朱鳥・大宝・・)の話
        696は持統10年で譲位の前の年
       であって、踰年法というのがあるからこれを採るのがあってそうです。が持統天皇は年表では
              「697年(文武1年) 天皇譲位、軽皇子(文武天皇)が即位。・・」
              「702年  持統太上天皇没(58)。」〈続紀〉
         を載せており、これによれば持統天皇の生まれは
                702-58=644 (〈ウィキぺディア〉では「645~703(58歳)」)
         になります。即位は686でしたので、42歳の即位で10年後52歳退位、5年後(697~702)没57
        歳になりますが、まあ数えでやると58歳の没も合っています。
           慈円は持統天皇は 再掲
               「 (在位)十年  即位元年丁亥 (没年齢 空白)」
         と書いており、持統の締めくくりで
               「大化三年に、位を東宮に譲り奉りまひて、そののち四年はおはします。」
          と書いており、大化三年はこの辺りにないのですが、私年号表によれば
                大化  持統天皇9(695) 継続年数 6年
               (「大化  朱鳥1   (686)       不明」 もある)
         があって、これだと、大化三年は、695+2=697 となり、4年後、701年は、6年の終りにあたる
         ので、大化のはずです。が年表には701年は「大宝」と書いてあって「大化」⇔「大宝」になってる
         ことになります。、大化という私年号はあの大化改新の大化しかなく
            持統天皇生まれ  585  は大化改新の年、大化元年(大化三年譲位)
         なので、持統を介して「朱鳥」⇔「大宝」⇔「大化」となってしまったというこがいえそうです。
    
       
  慈円は推古天皇在位36年を26年としていましたので10年空白を作ったといえますが、そこに
         丁亥の暗示からいえば 10年の組み合わせが、いろいろ出てきます。
               継体天皇即位7年の「七」と持統天皇大化3年の「三」の10
               持統天皇在位期間の10年
               大化持統天皇9と大化朱鳥1で10
               継体の前の武烈8年と端数1で≒10
         などがあります。ここでいいたいのは、持統天皇は在位10年年表では朱鳥1年が入ってるから11年
         もなります。継体天皇の507年即位は、〈書紀〉本文
         では、〈継体紀〉のなかで「元年」としているだけなので507年は出てこないはずです。これはおそらく
         継体天皇は、順番だから、武烈天皇のあとに据えないかんという、ことによるものとも取れますが、
         一応、慈円と丁亥で、推古天皇のところをみてしまうことになりました。

            585     用明天皇(聖徳太子父)
             ↓        2年間 
            587     崇峻天皇(用明の弟)
             ↓        5年間   崇峻天皇は蘇我馬子に殺される
            592     (推古)・崇峻② (翌年聖徳太子摂政)
             ↓       ★8年間
            600     推古天皇即位
                      18年間  620年天皇記国記などを作る。 622聖徳太子没
            626     (推古)・蘇我蝦夷      
             ↓       ★2年間
            628 丁亥  推古天皇36年(推古天皇没)

          となっており、崇峻天皇②★をもう10年伸ばすと、慈円の云うように推古26になるから年表は変更
          せずにそのままいけます。
           天武天皇・持統天皇に朱鳥という年号が挿入されてて、これが読まれてる部分は、年表に
              「私年号年表」
           があり、そこから抜粋すると

              私年号    元年相当公年号     継続年数
               朱鳥       天武天皇1(672)    不明
               朱鳥       持統天皇1(687)     7 
          
 があって、年表には天武天皇には表示されておらず、持統天皇は1年だけ入れられて

                685    天武天皇    天武14年、(うち朱鳥1年?)
                686    持統天皇    朱鳥1   皇子大津登場〔訳語田(おさた)が属性〕
                687              持統1
                 ↓               ↓      朱鳥7年が並行
                696    持統天皇譲位 持統10  高市皇子没43
                697    文武天皇    文武1
 
         となっており、朱鳥を1年だけ入れるのはおかしく、7年入れると、あと収拾がつかなくなるので
        書かなかったと取れます。天武と二人分、8年を、686に入れてとりあえず何とか辻褄を合わせた感じ
        です。★の10年間のうち、8年に朱鳥が入ってくるのでしょう。

          私年号を慈円は真面目に書いてるようですが、まあとりあえず書いとくという感じなので、いままで
        採りあげていませんがどうもトータル書いてるようで一応見ますと。
          天皇名は  舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統 文武 と続きますが、
     孝徳のとき
        「この御時年号はじめてあり(有)。大化(は)五年。白雉(は)五年。」
     天武のとき(天武は上・下があって上は一年だけ、下は十四年と朱鳥元年となっている)
        「叉年号あり。朱雀(は)一年。{元年壬申}。白鳳は十三年(元年壬申}。朱鳥八年。{内一年}」
     持統のとき
        「此御時年号あり。朱鳥の残り七年。大化は四年。{元年乙未}。…▲大化三年に位を東宮譲り・・太上」
     文武のとき
        「●大化三年{戊戌}東宮と為る。大化残一年。无年号三年。{改元}大宝三年。年号此後続き絶えず」
     
      となっていて、孝徳と持統以外は年表には年号として出ていません。孝徳の大化は大化改新の大化で、
      これは  645~649の5年、白雉は650~654の5年で計10年です。
      うしろの大化三年は▲により文武一年697年と思われますが、これだと695年持統9年が大化元年になり
     そうです。しかし●は
     干支からみて大化4年になり、従って大化残1年になるということでしょう。▲の前の{乙未}というのは
       「645 大化元年 乙未 中大兄皇子・中臣鎌足ら、宮中で蘇我入鹿を襲い、暗殺。蝦夷は自殺。」〈年表〉
    の乙未であの大化を引きずり込んでることがわかるようです。これは皇極天皇のときに起こりましたが、この
    あとずっと大化・白雉期間10年にわたって
       皇祖母尊(すめみおやの)尊〔皇極〕     皇祖母尊
    がでてきます。まあ慈円のものをみると、残 というのがでてくるので消込しようとしてる感じで
  
            舒明天皇    13年  
        妻后 皇極天皇     3年+10年(皇祖母[皇極])
            孝徳天皇         10年(大化5年・白雉5年)
            天武天皇 白鳳13年                    朱鳥(内1年) 、★朱雀1年   
            持統天皇         10年(大化3年 朱鳥7年)、、朱鳥元年       ⇓
                                                         壬申の乱
            文武天皇    11年  /文武1年/無年号3年/(701年大宝)大宝3年/慶雲4年/
 
  となり最後は701年、大宝元年で日本の年号が始まったということになってると思われます。孝徳天皇の、あの
  大化の改新の大化が「はじめてで有」と書いてあって、この大化元年に
     「訳語田・・・天皇[敏達]・・・蘇我馬子宿禰大臣・・能仁[釈迦]の教え・・・・天皇[推古]・・・馬子宿禰・・]〈書紀〉
  と改めて、推古期がでてきます。孝徳というのは「孝昭・孝安・孝霊・孝元」の欠史八代の「孝」で、徳は聖徳の「徳」
 となる でしょう。大化が持統まで飛んでくるのは、タイトルで持統が巻30「高天原広野姫天皇[持統]」〈書紀〉
  という表記に なっていて、孝=こう=高は無縁ではなさそうです。大化というのは大化けですが蘇我ウマコが
  中国式に年号を採用しようと考えていたということは表していると思いますが、史家が自分の述べたいことをそれで
  語るというのがあったと取れます。★は天武上が1年分というのと対応しており、ここで大友皇子・大津皇子
  がでてきて、慈円が大津皇子について特別言及してるのは壬申の乱のところです。●は4年に東宮になったという
  ことで遅れており、大化残1年で即位したのかよくわかりませんが、大化残一年はあの大化の五年の元年に
  も懸るのかももしれません。大化は慈円が持統期の所で書いてるのに年表には載っていません。▲は文武紀
  (〈書紀〉の範囲外)の文から慈円が入れたものととれます。
  文武というのは文武両道があって大変大きな表記なので、二人で見ないかんというのもあるかも。
   太田牛一の弘治のインチキから、二つの「武」が出てきますが、それは関係ないのに決まっとるでしょうが文武
   二人のヒントに使とこ、ということです。

  (446)持統天皇(〈書紀〉の終り)の周辺
    いま持統天皇で、朱鳥元年がでてきて、天武の朱雀・天武の朱鳥とつながり、丁亥・大化などで持統時代の
    皇子大津を、推古時代の崇峻・聖徳皇子に準えたということで推古時代の(1)国語の完成、と〈帝紀〉の作成
   を語るというのがあり、持統紀の朱鳥元年は持統10年の前に置かれているということです。持統紀の三つの
    ポイントは

    、(1)天武天皇が712年〈古事記〉〈日本書紀〉の編纂を命じたことによって史書がなったという功績を讃える
       というのがあって朱鳥元年が持ってこられた。構成上と惑うのはこのためと思われる。
     (2)持統天皇には政治の実態がないという感じがするという問題があり、これは慈円が持統の条の始めに
         「太政大臣浄廣一高市皇子{天武第三息。四年・・任。十年薨。中納言・・・。」〈愚管抄〉
       をもってきてることと関係があると取れる。これは本文
           「皇子高市(たけち)」〈書紀〉 で  「高市皇子」〈書紀〉
      もあり、天武の嫡男といわれていて、柿本人麻呂が讃えている、壬申の乱の功労者であり天武の政
      治の一翼をすでに、担ってたという人物で、政治上のことは全然問題ないということがあって、吉野へ30
       回以上も(日帰り、泊りも含む?)行幸してるというような判り難い行動が多くなって説明に窮することに
       なってると取れる。したがって
     (3)持統後半には持統でない、記録にない新しい天皇が登場している

     というようなものが特異なところと思わます。持統は700年が終りで、712に〈古事記〉「帝紀の修復」を
     控えている時期です。(1)から行けば

  (447)〈万葉集〉は「大津」
    〈書紀〉の終り持統紀に「大津皇子」「皇子大津」がでてきます。
    持統10年(696年)が〈書紀〉の終りで、 今の〈古事記〉は712、太安万侶の撰上というので、〈書紀〉の範囲 
   は通り越してしまっています。〈書紀〉の記者は 700年から20年間の作成期間があったということになります
   が、、620年完成の〈天皇記・国記〉も20年間の作成期間があって作られたというのが無難な解釈と取れると
   思います。
        681天武10年、帝紀などの記定事業開始〈年表〉
    があり、これが〈古事記〉〈書紀〉の両方の史料の選定などの準備ととれます。帝紀が最初に入っているから
    〈書紀〉だけのスタートとは考えにくく〈古事記〉作成は太安万侶の単独事業ではないと思われます。
    620年
    崇峻天皇・聖徳皇子などによってこの時期、国語が完成して、天皇記国記もできたというこをいいましたが
   崇峻天皇、聖徳太子の事績を見てもそれが載ってないということで、最後の総集編というべき持統天皇紀あたり
   で出てこないかというのがみたいところです。つまり持統天皇は、朱鳥元年(686)天武天皇没の年、
       「大津皇子」〈年表〉   「皇子大津}〈書紀〉
    を謀叛を理由で捕えて自害に至らしめています。慈円は
       「大津皇子初めて詩賦をつくり給ふ」
   と書いていて、各書で、本邦の文芸の草分けが大津皇子ということになっています。天武天皇(672即位)の
   子とされてるから、古いものをもとにした史書の編纂を命じた人の子だから史書〈古事記〉〈書紀〉の編纂に関わ
   ってるのは明らかですが
   その前の〈天皇記国記〉というのは、〈書紀〉の記者(太安万侶②かも)の表現なので、原題は「帝紀」と呼ぶと
   すると、「帝紀」は天武天皇の発言にあるから、天武天皇の手もとにあったことは確実で、この著者は
      「聖徳太子、蘇我馬子らにより作られる〈年表〉」「皇太子、嶋大臣が共議して・・〈書紀〉」
   となっており、名前が違いますが、これは聖徳太子と皇太子が一緒だといってるというのは出てると思います。
   しかし、「帝紀」というのが大変重要な文献だという認識がないから、あまり問題にもならないことになってしまっ
   ているということもできます。旧記はあったが焼けてもて、それが無しで済んでるのだから当然です。.
    また天皇から天皇へ、というのでなく「帝紀」(慈円は〈書紀〉で述べてるが「皇帝年代記」をつかっている)の
            「帝」→〈書紀〉「天皇」
   となるのでなるのであれば、緩衝材が要り、それが〈古事記〉(表記は「天皇」)というのであればこれは中間子
   としての存在となり、内容は、「帝記」をほんの少し、〈書紀〉に組み入れるために手を加えただけのものという
   推測ができるものです。その出来合い旧書のものの著者は 誰かというと、崇峻ー聖徳豊耳のラインなど聞いた
   ことがないから、ここの時代の後の持統紀に載ってる、天才、大津の登場ということで語られてるか見るしかない
   ということになるのでしょう。要は「大津」というのは「大津①」「大津②」というようなものがないと話が大きすぎるし、
   また、ほったらかしですが〈古事記〉にも孝昭天皇(孝安の父)は「小野の臣、柿本の臣」などの祖となっており、
       綏靖・安寧・懿徳・/孝昭・孝安・孝霊・孝元(93)・/開化
   という四「孝」は「孝徳天皇」の「孝」でもあり、孝安天皇の連合いには「忍鹿(おしか)」も出てきます。これは
   8代であり、
          「二、綏靖天皇以後八代」
          「七、武烈天皇以後九代」
   二、の 8代で、何となく始めだから10にしたいという八代であろうと取れます。現に綏靖の前には
        「神武」が出ていて、「黄帝」=(武烈)
    を孝元の前に入れるというのがありました。 
    つまり、「二、(武烈天皇)(綏靖)以後九代」としたいものがあると思われます。この時期紀元元年ごろ〈年表〉では
        「紀元前後、この頃、小国家(百余国)が分立〈漢書〉」
     があってこれの材料が
        「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国と為る。」〈漢書〉(紀元前一世紀ごろ)
     で、これは朝鮮半島の地図で左半分の楽浪の横の湾で、ここではいまの日本は認識されておらず、初めての遣使
     57年もおかしいというてる状態だからなおのことです。分(武)烈をかたるというものでしょう。
     継体は507
     年スタートとなっていますが武烈8がなければ、501年スタートなり、8を前へ持って行けば草創期の天皇
      ということになって継体を引き立てるというのがありえます。史上最悪の王=強烈なエネルギを秘めた英雄
      の落差が出されてるととれるところです。孝元93(〈古事記〉)は高句麗の6代太祖大王の93と結びつく
      (黄考口碑)は目に見える、実在のもので、その功績を重く見てるということでしょう。

  (447)丁亥
          慈円は持統天皇は 
                  「(在位)十年   即位元年丁亥 (没年齢空白)」〈愚管抄〉
         としており、元年の丁亥は
                  686年(朱鳥元年・皇子大津没(24))
                  626年(蘇我馬子没・蘇我蝦夷大臣就任/唐の李世民即位の年)
         にあたり 一応、507の丁亥から推古まで出すと
 
          〈年表〉から
                506年      武烈天皇没(8年)  
                507  丁亥  継体天皇即位
                ・・・・
                585・      用明天皇即位
                587       崇峻天皇即位
                 ↓           5年間
                592       推古天皇  593 聖徳太子摂政→622没
                 ↓        
                600       倭王、初めて遣隋使を出す〈隋倭〉
                 ↓
                620       ●〈天皇記・国記など〉を作る〈書紀〉
                 ↓             
                626年丁亥  推古天皇34年(蘇我馬子没76)ーー蘇我蝦夷大臣ーー李世民即位ー
                 ↓           2年間                    ⇓
                628       推古天皇36年(推古天皇没75)ーーーーーーー
                629       舒明天皇即位
                 ~ 
              686
丁亥  朱鳥元年 持統天皇元年(即位の年)  皇子大津(24)謀反・没
                       
         となって●という史書が出てきます。ここは大もの登場のところで、李世民は「貞観の治」の唐の太宗
        で、中国史上、始皇帝と並んで最も有名な皇帝といえるのでしょう。
         このとき、日本では蘇我蝦夷が出てきて、馬子の没の年だから自然に出てきた感じですが、間髪を
        入れず、満を持して出てきた、という方がよいといい得るほどのタイミングで大物が出てきました。
        これが〈万葉集〉五番目の歌の前書にある、「讃岐国安益郡」行幸のとき歌を詠んだ
             「軍王(いくさのおほきみ)」(未だ詳らかならず)
        かもしれないものです。また、慈円では75が73だったので、
               2年間
        
が出てきたようです。蘇我蝦夷は、史書では推古の後ろに隠れますが、ここでは推古が霞んでいる
        という方がよいのでしょう。ここで、60年後の朱鳥という異次元の年号の元年 686で出てきてる持統
        天皇の即位の年は、587(崇峻即位)から100年後になっています。この時代に記事のある、いわゆる
        大津皇子が
         、崇峻の5年間(+3年になりそう)に
         入り込んでくるのではないか、約100年差があるのに飛んでいくという変な話をしないといけないという
        ことが、憂鬱なことです。一応、太田牛一のお蔭で、桶狭間の戦いの記事が〈信長記〉の全編にまぶされ
        てて、予想外のことが判ってきたことや、後年の、渡海とか朝鮮に出兵したことが〈首巻〉に反映してる
        というようなことを云ってきてるから、持統まで〈書紀〉の範囲内だからありうることでもあります。また
        訳語田(おさた)は皇子大津の属性ですが

             「持統朱鳥元年 ・・・皇子大津×4・・訳語田[桜井市戒重か]・・・皇子大津・・・・本邦の
             詩賦の隆盛は大津にはじまった・・・皇子大津×4・・・」〈書紀〉

        があって崇峻紀に「訳語田(おさた)天皇[敏達]がでてきます。これは敏達かどうかはわだわかりませ
       ん。このようなことですが大津の記事が、あちこちでたくさんあります。

   ( 448)皇子大津の周辺   、
      持統天皇が「皇子大津」を朱鳥元年(686年ー持統元年の一年前)大津を謀反の罪で賜死(24)したという
    衝撃的な事件がありました。本文「皇子大津」なのに 年表では「大津皇子」にかえてあります。これは二人の
     語りで、またこの事件自体もおかしいといえるもの
     です。
            天武天皇(后・持統の姉大田皇女)----子、大来皇子・大津皇子
            天武天皇(后・持統)――――子、草壁皇子尊(大津の宮で生れた)
    という関係にあるとされており、天武天皇の子・姉の子を殺してしまったということです。ある程度決めていえば、
         皇子大津①は  草壁皇子尊・大津皇子を紹介(存在や年齢)した。
         皇子大津②は  訳語田・日下部につながる、帝紀時代の文業を語る「大津」をうちだした。
    ととれるものです。
          蘇我馬子が崇峻天皇を殺したというのは不自然なので、崇峻天皇の5年のあとに8年を開けて、そこに
                    「皇子大津」〈書紀〉
       を入れるとすると、620年に
            ●「この年、聖徳太子・蘇我馬子ら、天皇記、国紀などを作る〈書紀〉」〈年表〉
           (〈書紀〉では「皇太子、嶋大臣が共議」とあり、「など」について細かく書かれている。)

       があり、このとき国語が出来あがっていたと思われるので、ここに到る長期間の準備期間があったもの
       と思われます。、それが余り書いてないので、この★で出てきた役者を使って語ったということと取ってき
     ました。国内方言・公用語・外国語などの統合だから大変で、この国家的プロジェクトのリーダが皇子大津で
     あって(崇峻=訳語田=皇子大津などで繋ぐつもり)、
      持統の前、 天武天皇の条で、慈円は「大友皇子」を出してきてこれは天皇には入れていません。同時に
     「御娘{大友皇子妃}」を出してきて、吉野方(大友皇子は近江方)大海人皇子へ内通した、というようなことを  
     書いてて(妃は天武の娘「十市皇女」とされてる)、その上で「大津皇子」をだして

            「大津の皇子御門の御子也。世のまつりごとをしたまうといへり。この王子から(ルビ=唐)の文を
            好みて。はじめて詩賦を作りたまう人也。」〈愚管抄〉

        と書いています。この三人しか出ていないので何らかの関係を言いたいと取れます。この「御門」は大友
     皇子と取ると、突然登場の「皇子大津」のことをいってそうです。天武天皇の子息、大津皇子というのは一般的
     ですが、いま「皇子大津」のことがわからない、ということです。

      (448)大友皇子
     一般的に大友皇子と大津皇子の年齢差は15歳 くらいです。
             大友皇子
             ∥ーーーーーーーー皇子大津(「大津皇子」の反対)
             十市皇女({大友皇子妃})
     という関係があったといってる、と思われます。壬申の乱では、大友皇子は亡くなったことになっていますが
     まあ大海人皇子(天武天皇)は、一時的な敵対関係によって、こういう自己の陣営にいる大友皇子を殺す
     ことはなく保護したと取れるところです。685が壬申の乱で、年表では
            681天武10年、「帝紀、上古諸事の記定事業の開始」〈書紀〉」
     が出ており、脚注では「書紀の編纂の開始。」となっており、帝紀が基になってると書いてあり、今の〈古事記〉
    (712)も含まれると思われます。こういう事業に大友皇子の力量が発揮されたのではないか
     ととれるところです。皇子大津なら712の〈古事記〉完成のときは50歳になります。要は、〈古事記〉の序文を
    書いた太安万侶も出自が全然わからないので、どこから出てくるかまだわかりません。景行時代近江朝があっ
    てここから中国に使者が出たはず(近江守山、野洲、大津坂本志賀・・太田和泉守の語りが普通でない)と
   みてきましたが、それはないのにきまってるとしても天智天武のこのときの判断には生きてくるかもしれない
   ものです。この時も負けた方は「近江朝」と呼ばれてて、年表では判り難い表現となっています。天皇欄、斉明のあと

      /称制中大兄皇子/  天智天皇 /  空白 / 大友 /天武天皇                持統天皇
     661ーー7年ーー 668ーーーー 671ーーーー 672  673ーーーーーーー13年ーーーーーー686・ーー

    と書いてあり、大友皇子は即位してないというのは、即位がここに書けないということがあるかも。つまり、縦
    (たて)一本で流れている、というのは当時でも、今日でも、国家のリーダーの主張したいところで、統率、団結
    うまく行ってる、ということになります。これは、人名比定が難しいが

    (Ⅰ)称制(遠慮)中大兄皇子①-天智天皇ーーーーー大海人が後継ぎーーーー天武天皇ーーー持統天皇
    (Ⅱ)668スタートの中大兄②の天智天皇②ー空白(弘文)天皇(中臣金・蘇我赤兄)---ーーー文武時代台頭

   というの二朝、並行を一本にしたから、わかりにくくなってると思いますがと明治政府の考えた方向に沿ってた
   ので、そのままいこ、それでいいんだというので今日で生きています。こうなると大友皇子は
      この5年ほどの期間(天智②の3年+空白2年)
   の弘文の天皇枠を作り、近江朝が脇の枠として入れられるとわかりやすくなるのではないか、と思われます。
   事件の年代を決めるときに縦一本ではわかりにくく、景行のときも倭建の命という並行した枠をつくらないと
    渡海は出てこない感じです。大友皇子は
       「山前(やまさき)[京都府乙訓郡大山崎]に隠れ、みずから首をくくった」〈書紀〉
    があり、ここで大友皇子の話は終りとなります。近江方の右大臣「中臣連金」を斬り、左大臣「蘇我臣赤兄」を
    流刑にしたりして再起不能になった近江軍というので読者の脳裡から消えてしまうことになります。この中臣金
    は見せ金で復活してきそうです。

    (449)大友皇子②
    ところがもう一人の大友皇子(二朝並立となる)が登場します。
    持統紀朱鳥元年の前紀で
       「美濃の将軍たちと倭(やまと)の豪傑とは、共に大友皇子を誅[殺]、首を
       不破の宮に伝[送]してきた。二年皇后に立った。・・・・」
 、  があり2回死亡したとみなければ、ならなくなりました。大津皇子との関連の所だけみるのは駄目のようで
    ついでになりますが、あらためてはじめから
   大友皇子をみますと、
    〈書紀〉には天武天皇上・下があり、上が壬申の乱の記述でここで大友皇子が(大津皇子も)登場します。
    大友皇子は、弘文天皇として入れるかどうかが大正時代まで問題とされましたが、年表では弘文1年だけに
    (カウントされて)登場します。すなわち、

           
  671年  天智10年  1月 大友皇子を太政大臣とし・・・近江令・・・
              672年  弘文1年 天武1年  6月 ・・・壬申の乱・・・
                    7月  大海人皇子の軍、美濃から近江に進入、朝廷の軍、近江瀬田で大敗、
                    ■大友皇子自殺する。〈紀〉」  (大友皇子25歳?)
       
         となっており、これは不自然で、■はありえないことでそこからスタートせないかんところです。大海人
         皇子は兄の天智天皇を尊敬しており、■のような、死なせるところまで追いつめることはないわけです。
         もう一人の天智天皇②の子とみても、親族であるのは確実だし、神のような武[徳]をもった人物です。
          この大友皇子の子が、686年、24歳の「大津皇子」であろう、と思われ、これは既述のことですが、
         672の9年後、
             「 681年  天武10年 ▲草壁皇子立太子〈紀〉 」〈年表〉  (但し〈書紀〉は「草壁皇子尊」)
             「 683 大津皇子朝政に参画」〈年表〉
         が、あって▲は、これ誰やというときに、持統3年
             「 689(8年後) ▼草壁皇子没(28)」〈年表〉         (「皇太子草壁皇子尊」〈書紀〉)

        があって今は▲▼は同じと見られてて、▼が持統の嘆きで、孫相続に執心したということになっています。
       しかし〈書紀〉との表記の違いは大きく、今までたびたび取り上げて生存説などでもみてきました。▲は
        一見二人で  ◎ 天武紀下二年「后は草壁皇子尊を生んだ。」
                  ○ 持統紀前紀 「[天智]天皇の元年に、草壁皇子尊を大津の宮で生んだ。」
    の二つの誕生と思しきものがあります。 別人でしょうが、○の方が
       、称制元年、661+28=689
    で▼に合います。◎の場合は天武10年8歳で皇太子は無理となるのでしょう。まあいえば持統にも問題があり
    、持統は少(わか)いときの名を「ウ野の讃良」といい「菟野皇女」もあり、ストーリでは一人だが、ベタでいけば
    、二人であり、「良」も効いて、まあ男と女というのもありえて、○のときは「讃良」が出て、天武上大海人皇子
    のところでは「兎野皇女」です。持統天皇(ジトウ・持統)がありそうです。天武天皇の場合も壬申の乱で
       「近江朝は、大皇帝が東国に入ったと聞き、その群臣はみなおどろきあわて[大津]京中がふるえ
       おののいた。」〈書紀〉
     があり、「大皇弟」は注がないので一般の人は本当はわからないのです。天武天皇上では

         「幼いときは、大海人皇子といった。・・・・・大人になって武勇に抜き出て・・・天文、遁甲(とんこう)
        [方術の一、人目をくらます隠身の術]を能(よ)くした。●アマミコトヒラカスワケ天皇の娘、兎野皇女を王妃に
        納れた。アマミコトヒラカスワケ天皇の元年に東宮となった。」〈書紀〉

    があり●は翻訳すれば[天智]で短い中に三つも出てきて一番初めの●に[天智]があるから、わかります。
    当時の注記で、これも吟味が必要というものでしょう。目の前で、変われる術を身に着けていて、一行前の
    表記の人物が、ちょっと違った表記で男・女に代わることもありえます。

   (450)高市皇子 
     24歳没の皇子皇津が二年後28でなくなると、二つ違いだから、同じということも言ってるかもしれず、
   ▲は二人はある、一つは「草壁皇子尊」で「日下部」だから、〈古事記〉で皇子大津をそこに飛ばしたということ
   もひとつ考えられます。また、〈万葉集〉人名録には
       「高市皇子=(高市皇子尊・後皇子尊(のちのみこのみこと)・・・天武天皇の皇子。母は胸形・・尼子娘・・」
    となっており 胸形(むなかた)は宗像なら,ちょっと大きくなってきますが、
        高市皇子=(皇子尊)=草壁皇子(日並皇子尊=天武第二皇子・母持統))
    ということで互換可と見とけば何か後で出てくるのでしょう。持統=讃良(さら)=早良(さら)=草良
    でジトウから草壁が出ますが、これが大皇弟でないという証明はまだです。年表では
      「太皇子高市」=「太高市」=「高市皇子」
    となっています。
         高市皇子=後(のちの)皇子尊   
     となると、高市皇子が二表記具有の大高市になって、聖徳太子が「聖徳皇子+聖徳(太子②)」となってる
   のと同じで、戦国では、索引でいえば
         ①山田七郎五郎/②山田大兵衛/③山田半兵衛/山田弥右衛門④/山田弥太郎⑤
         (③が「太兵衛」相当)
  の②が作られたのに対応し「聖徳大子」とすべきものに「高市皇子」を強化したと考えられます。(①②が総合人格
  で「山田六郎四郎」もあるから①は個別には五が②④にも対応し、四郎の方は七が③⑤に対応するかも)

     高市皇子の格上げがあったと見て、高市皇子は、持統一〇年没(持統時代の終り)が判ってきそうです。
         高市皇子(草壁皇子尊)
    が重なって出てきて、皇子大津(大津皇子)と草壁皇子が年齢で重なる、というのがここで出てきました。、
   いま大化改新から、史家が舞台から降ろした蝦夷入鹿の天智を見直してくるわけにはいかないので、まあ,切断
   して途中から、復元したものでやってみますと、、年齢とか、時代に拘らず、
  漫画的に関係を捉えることになりますが、持統天皇は天智天皇の子というのが一般的です。
   大海人皇子は持統天皇を皇后にしました。が、持統天皇は天智天皇との間に子があり、
    その子を、大津皇子(大田氏)とすると、将来、朝政を委ねようとしていたということが考えられます。年表で、
   草壁皇子登場のところで、大津皇子は686(朱鳥元年)24歳、 草壁皇子689(持統3年)28だけが残ります。
    つまり▲▼は草壁皇子という本文にない年表だけの表記で、+-されて消え
    てしまいます。従って皇太子になったのは、「高市皇子(後皇子尊)」ということにもなり、これであとが続くかと
   いうことになりそうです。    
 
    以前から

            蘇我入鹿ーーーーーー兄弟で 柿本人麻呂(「木市」本人麻呂)
                                |
                                太安万侶 (「大□安万侶)

        ではないか、といってきたわけですが、紀貫之の紀氏というのも、気になってのことです。しかしこれは
        役所で使う名前ではないのは明らかで、細かくみていくにつれて忘れてしまうのも仕方がないことで
        すが、間違いといいきるわけにはいかないものです。一方で
          天武上で
            「・・・〔天智〕天皇の同母弟・・・大海人皇子・・・・〔天智〕天皇の娘、兎野皇女を王妃に納れた。
            四年 ・・〔天智〕天皇は病臥・・・一二月 〔天智〕天皇が崩じた。・」

          天武下「二年」で
           「天皇は・・・正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子尊を生んだ。先に皇后の姉の大田皇女を
            納れて妃とした。〔妃は〕大来皇女と大津皇子を生んだ。・・・天皇ははじめ、・・十市皇女・・・高市
            皇子命・・・」
         があり、持統紀で
           「…少いときの名をウ蘆+鳥野讃良皇女という。・・・〔天智〕天皇の第二女である。・・・〔斉明〕天皇
           の三年・・〔天武〕天皇に嫁いで妃となった。・・〔天智〕の元年に、草壁皇子尊を大津の宮で生んだ。」

        があります。
           天武上の前に〔天智〕紀があり、そこで

             「 10年 正月  大友皇子を太政大臣に任じた。
                  12月 ▲天皇は 近江の宮で崩じた。」

          の記事があり、天武上

               「4年 12月 ▼〔天智〕天皇が崩じた。」
               (天武上)元年672年(書紀のなかのルビ672)・・天皇・・・・(壬申の乱の記事にはいる。)

        の死の記事があります。▲▼二度亡くなってるので、二人いることは一つ言ってるとおもいます。
      ▼の4年に、脚注があり
         「即位元年のことだから、天智7年に、また即位4年は天智10年に当たる。」
     がありよくわからないので年表で見ると
         「668、天智7年、中大兄皇子即位。近江国に官牧を置く〈書紀〉」
    があり本文、近江朝、大友皇子となってるので、この系統が大友皇子といえそうです。こうなると大海人皇子
   がどうでるかということになります。高市皇子もでてくるので 外のことにも
       言及しているはずです。おかしいことに
           天智紀のなかに

         「天智六年、・・・天皇〔斉明〕と間人皇女とを小市の岡の上の陵に合葬してあった。この〔二七〕日
         、皇孫の大田(おおた)皇女〔中大兄の娘、大海人の妃〕を陵前の墓に葬った。・・・
           三月・・・ 近江に遷都した。・・・・
          七年・・・皇太子が天皇位に即いた。・・・・  
           四人の嬪を入れた。・・・・・その一は大田皇女〔天武妃〕という。その二はウ野皇女〔天武皇后、持統〕
          といった。・・・伊賀の采女の…娘・・・伊賀皇子を生んだ、後の字(あざな)を大友皇子といった。」

       となっており、これらがなぜ天智紀にあるのか問題です。結局、大田皇女は、若いときの持統天皇と
       重ねられていて、天智天皇の死後、子を連れて、天武天皇と再婚したということが考えられ、天武天皇
       は天智天皇の子を、次代の、天皇としようと考えていたと思われます。大友オウジを担ぐ勢力があったと
       仮定すると、その代表者は天智天皇とは違う中大兄皇子・その一党となりそうです。

、   (451)持統に推古期を語らせているのが歴史家
    〈古事記〉は推古天皇で終わっており(●と同時代)、直感的には、●の作品は〈古事記〉(の原型)
        ではないかと思われます。序文があって、これは和銅5年712年の完成で、古くから書き起こして
        おり〈日本書紀〉の序文にもなりうるものです。
        
 この時期、敏達天皇の後、用明天皇の在位が2年で、蘇我馬子を相手に、中臣勝海、物部守屋、穴穂
        部皇子らが戦死などでやられ、 崇峻天皇(泊瀬部皇子)が5年で殺される、など有力者が亡くなっていま
        す。これは、この国語の統合作業、国史の編纂事業に携わる人を、表面から消したということが、あった
        のはないかと思われます。年表ではこれくらいの人物登場ですが、馬子は崇峻天皇を「東漢直駒」に殺させて
         います、これは漢字の「漢」の「直」接ですから中国から渡来してきた人ということも考えられます。
        物部と蘇我は廃仏、崇仏で血みどろの戦いをしたということですが蘇我馬子の連合いは物部の人だと
        いうのが普通のことです「。殺すというのは親しいということでもあります。したがって、ここで〈古事記〉
        の成立があったという肝心要のことが抜けてれば、勢力争いという卑近なことに関心が向いてしまい、
        たいした時代でもないという読み方で終わってしまいます。
        
        「皇子大津」は年表では「大津皇子」で登場し、下記〈年表〉の●は、〈書紀〉では「皇子大津」です。
        この686の朱鳥1年は持統天皇のはじめの「朱鳥元年」で、もう一つ
               天武天皇14年のあとに引っ付いている、「朱鳥元年」があり、天武朱鳥元年に
           
           「九月二四日 大津皇子が、皇太子に謀反した。」〈書紀〉  (これは天武の朱鳥の記事)

         がありこれは〈年表〉では685に記入してないかんのに抜いてあります。理由はおそらくこのときは殺された
        という記事がない、次に持越しだということだったと取れます。慈円はこれを私年号の勘定にいれてました。
        686持統朱鳥元年のものは 天武の朱鳥元年を引き継いだかのような似たもので

           「一〇月二日皇子大津・・謀反・・・三日・・賜死・・二四・・后の皇女山辺…死…。詩賦の隆盛・・大津に
          にはじまった・・・。(10月)二九日、皇子大津が謀反した。…今、皇子大津はすでに滅んだ。」〈書紀〉

        がありました。
              大津皇子
              ∥
              皇子大津
         という連合いか 「大津皇子」のいまでいう弟が、皇子大津という24没の人か、男女が出てるか、
         ということも考えられるので、ぼつぼつとこの表記の違いを解釈につかわないとわからなく
         なります。天武の朱鳥元年の再掲
           「(685) 九月二四日 大津皇子が、皇太子に謀反した。」〈書紀〉  
         には皇太子が出てきたのでまた問題が出てきて、これは
            「681 天武10 草壁皇子立太子。〈書紀〉」〈年表〉
            「(天武10年 ▲草壁皇子尊を皇太子に立てた」〈書紀〉
          を踏まえておりこれが天武10年に草壁が皇太子になったということでこれは▲が年表では意味の
        あることとして「草壁皇子」にされたと見てきたものです。ただ二つ違いなので大津皇子の兄ということ
        でもあるとすると、高市皇子と兄弟といってるかもしれませんとにかく持統が二人を非常に重視している
       (一人は謀反で賜死し、一人は特別に重用した) のが気になるところです。
        
       (452) 草壁皇子は、語り役
         またまた次の●を皇子大津と変えたもので考える
        ことになります。下の◆は「本文では皇太子◎草壁皇子尊が薨じた」です。

           「686 朱鳥1  9 天武天皇(56?没)。9 皇后鸕野皇女称制〔持統天皇〕。
                    ●10 大津皇子没(24)  
           687 持統1  10 檜隈大内陵を築造
           688 持統2  11 天武天皇を檜隈大内陵に埋葬〈紀〉
            689 持統3   4 ◆ 草壁皇子没(28)〈紀〉」〈年表〉     
                (ここで、二人の皇子は一つ違いであることがわかる。?)

       
 天武は14年間でしたが、14年目は病気であったことが書かれてあり、翌年正月に
         「朱鳥元年」の小項目が出てきて、この7月に改元して朱鳥になっています。慈円は天武は15年と
        しており、この朱鳥の1年が入っていそうです。この天武朱鳥の1年再掲
             9月4日、「大津皇子が皇太子に謀反」〈書紀〉
         しています。
         「皇太子」というのは「草壁皇子」であり、天武10年皇太子になっています。つまり
             「681 天武10年  2月 ▼草壁皇子立太子〈紀〉」〈年表〉
         があり、▼は▲とは限らないのではないか、というのは〈年表〉から受ける印象です。 
         大津皇子は、天武の晩年、12年に
               「2月 大津皇子が、朝政をとりはじめた」〈紀〉  「2 大津皇子、朝政に参画。」〈年表〉
         となっています。「執行」と「参画」は違うようですが「朝政」が重要なのかも。
               年表の(28歳)と
         いうのは、違う解釈がありうることも示していそうです。
             大津皇子、立太子 686-681=5  24-5=19
             草壁皇子 歿    689-681=8  28-8=20
        で、どっちもいけることになります。まあ何となく二人かな、ということになるのでしょう。「尊」というのが
        一応、男性的と思われますが、なにか細工があれば別になるのでしょう次巻の持統天皇紀に
         また、朱鳥が出てきて、持統の朱鳥元年に
              「皇子大津」「謀叛が発覚した。」
          大津皇子24歳を、皇子大津と反対にして、間髪を入れずにだしてきたので。24歳が両用
          となりました。24歳でで訳語田で賜死となって
         いますが、これが上の686の24かというとどうかわからないわけで、持統の朱鳥が称制の前あたりに
         おかれると両者が切断されることになるのでしょう。一応天武の朱鳥と持統の朱鳥(7年間)が二つある
         ということになりそうです。このあたり、檜隈の陵を出したくて廻り道をしました。檜隈をおぼえとこという
        ことですが、大津皇子が引っ掛かってきました。
         ここまでの結論を言えば、▼は「大津皇子」だといってる、▲は草壁尊を立てることにしてる、ととれます。
        ●は皇子大津で、◎を表す大津皇子は死んでいない。、◆は死んでおらず、草壁の年齢を示す。
        皇子大津から「大津」が出てきてこれが持統の大化から蘇我馬子・蝦夷の大化に遡るなどして崇峻・
        聖徳から語ってくる大津になります。大きな問題は大津皇子と草壁皇子尊(皇太子)が重なってるということ
        です。4回目の引用になりますが、天武朱鳥元年、頼りない一節で
              「(685) 九月二四日 大津皇子が、皇太子に謀反した。」〈書紀〉
        があってこの時、、何事も大津皇子に起こっていません。本能寺で明智光秀・織田信長に謀反というものが
       あり、そういう障碍は飛び越えていくという心の動きが謀反でしょう。
       あり得ない話が決着をつけるということになったかも。

     まあいいたいことは、大津皇子は皇子大津と大津皇子の二人がある。ひょっとして、同じであるような、ちがう
     かもしれない年齢差は
           高市皇子尊
            ∥
          大津皇子
    
があったのではないかということです。持統の時代の担い手のことになりますが一応高市の「市」が気に
    なるので見て置こうということです。
      
 
     

      
 (453)十市皇女
     柿本人麻呂で 先ほど、ちょっとだけ出ましたが、大津皇子のことかもしれない(木+市)の「市」、木≒十 
     としてもよいかもということでとりあげますが、これはやってみるだけのことです。関係ないかも。
           
              天智天皇ーーーーーーーー大友皇子(オウジ)
               ∥               ∥ーーーーーーーーーーー大津皇子②
              大田皇女ーーーーーーーー大津皇子①          |
              |(姉妹)           (十市皇女)          大来(伯)皇子
              わかい持統天皇(兎野)
  
      と云うのが第一段階で、大友オウジは自殺していないと考えられます。十市皇女は、桜井〈万葉集〉の
      注では
         「十市皇女(とをちのひめみこ) 天武天皇の皇女。母は額田王。大友皇子妃。葛野王の母。
         天武天皇四年(675)二月阿閉皇女とともに伊勢神宮に参向、七年夏四月七日天皇が斎宮に行幸
         しようとしたとき、にわかに病によって宮中で没。歌は二二題、左、一五六題・一五八左。」

      となっています。図のように解釈するのはちょっと無理ですが、大友皇子が「オウジ」であったら、こうなって
      きそうでもあります。「市」というのは、一応、男性的と思われますが、戦国では太田和泉守と知り合いの
           「お市」殿
      がいるので、安心で、これも男女の二人がいるので一概にはいえないということになってそうです。壬申の
     乱が672年で、〈年表〉では678年(天武七年)

          「十市皇女没(?)〈紀〉」(?は〈年表〉がいれてる)
      
      があり、〈書紀〉では」「天武七年」

          「この春、天神地祗を祗ろうとして・・・斎宮を倉梯(くらはし)川のほとりに建てた。夏四月一日、斎宮
          に行{幸}しようとして卜つた。
           七日、(この日が)卜に食(う)(受)けた。・・・天皇も・・・[出発したが]、まだ京を出ないうちに
           十市(とおち)皇女が、とつぜん発病し、宮中で薨じた。・・・行幸も中止、とうとう[天]神[地]祗を
           祭らなかった。、
           一三日、新宮[未詳]の西の庁[舎]の柱に落雷した。
          
 一四日 十市皇女を赤穂[奈良市高畑町か]に葬った。天皇は臨[席]して恩(めぐみ)をたれ
           声をあげて泣いた。」〈書紀〉

      となっています。この(?)は何かということが、問題となるのでしょう。ここには〈書紀〉の記者がだした
       「未詳」があり、これも解説されていないので、通説を鵜呑みにするのは駄目ですよということになるかも。
      まあ「四年」675 に伊勢が出ていて、七年(678)のものも、3年も経ってるのに、伊勢に違いないというの
      は、おかしいのかも。高市皇子尊がこのとき歌をつくっていますが、大友皇子はこのときも、3年前もすでに
      なくなっています。前年天武六年
     
         「八月一五日、飛鳥寺で大いに斎[会]を設け、一切経を読んだ。天皇は寺の南門に出て、三宝を礼拝
         した。・・・出家者は・・・大斎[会]に[参]会した。」〈書紀〉

      というのがあります。飛鳥寺で斎がでたということですが、「庁舎」となってるからちょっと伊勢の神宮という
      のではなく、役所と云う感じのものでしょう。天武一一年、正月

         「一八日、氷上(ひかみ)夫人[鎌足娘]が宮中で薨じた。・・・
         二七日、氷上夫人を赤穂[旧大和国添上郡赤穂神社、現奈良市高畑町]に葬った。」〈書紀〉

      があって、十市に決着付けてるから相当重要なところです。赤穂の意味がわかったということですが江戸時代
      にもアホな人がいて、早とちりして、赤穂がおかしい注意・注意というのか、俺は〈書紀〉を読んでるといいた
     かったのか、忠臣蔵を高師直―南北朝と結んだりしています。

       次稿(454)へ続く
       
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