14、信長の鉄

(1)信頼されない史書
 前稿では和泉守牛一の馬印まで判っていることを述べました。佐久間信盛は白の吹貫、白細長
絹布の流し、和泉守のは同じく四手仕様の流しでしょう。〈甫庵信長記〉の最終節にあるから無視
できない記事であることには疑問の余地はありません。 
前稿11での、「陰山掃部助」、甫庵の「矢島六人衆」、前稿での「下人禅門」のような、太田牛一
のつける、他愛ない名前についても、意味がある表記だということを紹介しました。
 記事を見て、一見して意味が判からないところが少しでもあれば、いらいらしてくるので全体も
頼りないものだ、記事もおかしいはずだ、と思ってしまいます。
〈信長公記〉に、もっとこれ以上におかしな記事が、これ以上おかしな記事はないといえるものがあ
って、それが意味があるのであれば〈信長公記〉の信頼度が100パーセントになると思います。
しかもそれが、一番すぐれた記事の一つといってもよいということであればなおさらです。そういう
例を挙げてみようと思います。
太田和泉は信頼できる書き手で、完璧を期して書こう、歴史専門家とかいう人以外でもわかるよう
に書こう、としてるといえそうです。太田牛一がそうであれば、太安万侶もそうですから、日本史は
たいへんな伝統の上に立っているといえます。だからわかりやすいはずで、その利益はすでに享受
されているはずです。
 しかるに市場に出てくる、特に古代史の解説書などは、わかりやすく述べないでおこうという
合意がされているのではないかという印象をうけます。これでは「文化遺産を大事に」などといって
、国連に登録してもらうことに血道を上げているようなことと矛盾したことをやっていることになります。
国連が認めてくれる以外のものは粗末にされるというわけでもないでしょうが、そうなりやすい、関心
を呼びにくくなりがちです。優先度、重要度が低いと考えられてしまうからです。
賞などにつきまとう問題と同じで、当確がオール、あとナッシングです。あとのことを切り捨てるのだっ
たらか、そんなのはないほうがいいといえるかもしれないわけです。例えば日本の大王の墓群は世
界大遺産ではないのか、というと発掘した高松やキトラはそうだ、というでしょう。それが劣化して湯水
のごとく金をつぎこんでもよい、となっていてそれはそれで結構ですが、発掘したから劣化があると
いっているように聞こえます。それならもっと保存の方法が完備されるまでやめとこうということに
なるのです。しかし発掘して現在の頭脳がそれを解釈して一見解を残すというのも文化遺産として
欠かせないものです。例えば江上・佐原教授の積み上げられた学識からの解釈は、もう聞くことは
できないのです。次代に期待といっても、もうそれに携わる人も減ってくる一方でしょう。
 関心のことをいうならば 地下から出てくる文物のみが遺産ではない、もっとも関心を呼ぶのは、
人間の営為だから、それは文献によるしかない、現にそれによって今の理解があるわけです。
そこに意味が不明のものがあって、それが読めたら、たいへんな文化遺産の掘り起こしになりま
す。部分的でも大きな収穫です。
 歴史については、発掘物件があったときしか、報道はない、それも選択的にすぎる、専門学者
が、こんな珍らしい解釈を出してきたというようなものは、ネットで一時的に読めるという程度で
す。自粛、自粛の報道ばかりというのが政治の話と歴史についてはいえることです。肩のこらない、
喜ばれる、わかりやすい、スポーツがどんどんと一面記事や報道番組を侵食して来ている、過去の
人の主張はどんどんかなたに去っていくという昨今です。喉もと過ぎれば熱さを忘れやすいのに
、もう同じ轍は踏まないはずという確信のもとに。
 
(2)守山の鋳物師
 筆者前著の読者の方から、太田牛一、道家祖看、小瀬甫庵に深い関係のある、鎌倉以来の山田
氏の領地(守山・安食・山田などの地域)について参考になる「守山の鋳物師」というネット記事があ
ることを教えてもらいました。以下がそのネット記事の内容です。

     『鉄は紀元前1600年頃ヒッタイト(現トルコ)で実用化され、日本へは中国大陸、朝鮮半島
    又は南の海上の道を通り稲作と共に伝わったと云われ名古屋市中区伊勢山中学校遺跡の
    五世紀前半の焼上げ面からは多数の土師器片と共に東海以東では三例目の鉄てい(鉄の
    半製品、朝鮮半島加耶辺りからの渡来品か)が出土しています。このような事からこの地方
    には早い時期から鉄を操る人々が住み着いていたことが窺えます。
    守山区を含む中世山田庄、隣接する安食(あじき)庄辺りには産鉄民(鉄を操る人々)の存在
    を暗示するような地名が多くあり、延暦年間(782〜806)創建という古い寺歴を持つ守山区
    竜泉寺の多羅々(たらら)池は本来多々羅「たたら」池といい製鉄のとき風を送るフイゴのこと
    であろう。昔この辺りで製鉄(鋳物作り)が行われていたことの名残と想像されます。
    守山区と千種区・名東区の境を流れる香流川は小牧・長久の戦いの折、流された血で流れ
    が赤く染まり「血流れ川」の転化といわれますが、一帯で行われていた「鉄穴流し(かんなが
    し)」という水を利用した選鉱にて鉄分を含んだ水が流れ、赤く染まっていたことに由来すると
    思われます。〔香流川は野田川とも呼ばれ、天保14年(1843)年に刊行された地誌「尾張志」
    に、長久手村にあり金連(かなれ)を金流(かなれ)とも書きならへり、水上を鴨田川ともいう・・・
    の記載あり〕
    天白区の地名の起こり天白社に祀られる「天白神」も一般には農業神と考えられていますが
    一説には金属神であり、天白川最上流部猿投山山麓に祀られる猿投神社は今でも鍛冶・
   金属業者の参拝が多く、境内の絵馬は鉄鎌を模しています。
そして山腹より流れ出る川に
    は、陶土原料粉砕用水車「トロミル水車(復元)」があります。
      天白川上流の東山古窯群、猿投山一帯の猿投古窯群、峠を一つ越えた瀬戸の陶磁器、
    守区内に残る古窯群、春日井市の下原古窯群等、製鉄・陶器造り・炭焼の三つを渾然一体
    とする「製鉄同源」という考えがあり、やはり古い時期よりここら一帯には鉄の技術者が居た
    と思われます。
     中世以後日本の製鉄業者「鋳物師」は禁裏御鋳物師、歳入方出納平田氏の統轄下にあった
    真継家が一手に引き受け、朝廷の権威を背景に全国の鋳物師を支配していました。しかし尾
    張地方では・・・・・、永禄五年(1562)織田信長より判物(朱印状)を拝領し、尾張の鋳物師を
    傘下にした水野太郎左衛門が、鋳物生活物資から武具製造など・・・・原料の搬入から製作、
    販売、鋳物師の移動等生活まで、藩外での一部製作を除き全てを統括していました。
    水野家の祖は春日井郡上野村(現春日井市上野町)の上野金屋鋳物師集団であろうと思われ
    後、名古屋城築城と共に清洲から移住、上野村(現名古屋市千種区鍋屋上野)に居住。矢田、
    香流川をはさみ対岸守山村の鋳物師と交流していたようです。 ・・・・』
    〈 http://・・SilkRoad-Desert/1646/ ・・・〉

 安食・山田は太田牛一の活動拠点であり、〈武功夜話〉では、

    「太田孫左衛門(ルビ=太田牛一)、同郡(春日井郡)志賀郷 (平手政秀のいた名古屋市
    北区志賀郷)の住人、東方の山田郡安食村の人」

と書いてあります。(ここの同郡というのは文面から近江の郡という意味にもとれる、また志賀郷は近江
の明智光秀領地でもあるので引っ掛けていると思われる)
天択長老の居た、味鏡村もこの地域です。また、ここの水野太郎左衛門の先祖のいた地域は、「春日
井郡上野村」であり、これは甫庵の住所に一致します。「甫庵信長記」の解題に甫庵は

     「・・・又四郎・・・尾張春日井郡の人(また上野の人とも)と伝える。」

とありますので、甫庵の活動地域がこのあたりにあったことを窺わせています。
また、平田氏も出てきており、〈信長公記〉にある信長三人の師匠、「平田三位」らしい人物の名前で
もあり、この記事を書いた人は〈信長公記〉などの主要文献のことは意識にはなかったと思われま
すのにそれと関連した興味深い話が出来上がっています。
 ここの水野太郎左衛門も〈信長公記〉に出ています。しかるに鉄のことはまったく意識されていない
一節に載っているのです。
それに加えて、この辺が鉄の地域であることが出てきました。そんなことは全く知らなかったことですが、
前著で、太田牛一は織田の鉄砲を隠しているが、太田牛一が鉄砲に深く関わっている、ことは述べました。
鉄砲の担当が佐々成政になっていることは〈武功夜話〉に載っております。織田の武具の背景にこの製鉄
地域があったのではないか、太田牛一がそれに触れているのかが大きな関心ごととして浮かび上が
ってきます。

(3)ばけもの登場
これをみて、〈信長公記〉のばからしい記事が意味不明で、妙に気になっていたので読者に、問い
合わせました。すなわち、この記事はつぎの〈信長公記〉の記事と関係があるのかどうか、というこ
とです。題目が
          「蛇(じゃ=虫に也という字)がえの事」
という一節です。

    『爰に希異の事あり。尾州国中清洲より五十町東、佐々蔵人佐居城比良の城の東、北・南へ
    長き大堤これある内、西にあまが池とておそろしき蛇(ジャ)池と申し伝えたるいけあり。又
    堤より外東は三十町ばかり、へいへいとしたる葭(ヨシ)原なり。
     正月中旬、安食(あじき)村福徳の郷、又左衛門と申す者、雨の降りたる暮れかたに堤
    を罷り通り候処、ふとさは一かひ程もあるべき黒き物同躰(どうたい)は堤に候え、首は
    堤をこし
候て漸くあまが池へ望み候。人音を聞きて首を上げ候。
    つらは鹿のつらのごとくなり。眼は星のごとく光りかがやく。舌を出したるは紅のごとくにて、
    手をひらきたるごとくなり。眼と舌との光りたる
、是を見て身の毛よだち、おそろしさのまま
    あとへ逃げ去り候キ。比良より大野木(脚注=名古屋市西区山田町大野木)へまいり候て
    宿へ罷り帰り、此の由人に語る程に、隠れなく上総介殿聞召(きこしめし)及ばれ、
     正月下旬、彼の又左衛門をめしよせられ、直(じき)に御尋ねなされ、翌日蛇がえと仰せ出
    さる。比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡(あじま)村百姓共、水かえつるべ・鋤・
    鍬持ちより候えと仰せ出され、数百挺の釣瓶(つるべ)を立てならべ、あまが池四方より立ち
    渡り、二時(ふたとき)ばかりかえさせられ候えども、●池の内水七分ばかりになりて何どかえ
    候えども同篇なり。然る処、信長水中へ入り、蛇を御覧あるべきの由候て、御脇指を御口に
    くわえられ、池へ入り候て暫しが程候てあがり給う。中々蛇と覚しき物は候らわず。
    鵜(う)左衛門お申し候て、よく水に鍛錬したる者、是れ又入り候て見よと候て、御跡へ入り
    見申すに、中々御座なく候。然る間、是より信長清洲へ帰り給うなり。』〈信長公記〉

 この文の現代語訳(参考)
     『ここに不思議なことがあった。尾張清洲の五十町東佐々内蔵助(成政)の居城である比
    良(名古屋市西区)の東に、北から南にかけて、長く大きな堤があるが、その西にあまが池と
    いって、おそろしい大蛇がいると言い伝えられた池があった。またその堤の外の東のほうは
    三十町ほどの広さにわたって平坦なよしの生えた原がある。
     正月中旬、安食(あじき)村福徳の郷に住む、又左衛門という者が、雨の降っている夕方
    この堤を通ったところ、太さ一かかえもあるような黒い物に出会った。その胴体は堤の上に
    あって、首は堤を越し候してあまが池に達するほどであった。人の足音を聞いてそれが首を
    上げた。
    顔は鹿のようであった。目は星のように光っている。舌を出したところは真っ赤で、手のひら
    のようであった。目と舌がきらいら光っているのを見て、又左衛門は身の毛もよだち、おそろ
    さのあまり逃げ出した。比良から大野木へ来て、宿へもどり、このことを人に語っているうち
    に、いつしか信長公のお耳に達し、正月下旬、かの又左衛門をお召しになって、じかあまが
    池をお尋ねになり、翌日蛇がえ(池の水を干して蛇をつきとめる)の旨を仰せ出された。
     比良の郷・大野木村・高田五郷・安食村・味鏡(あじま)村の百姓どもは、水汲み桶・鋤・鍬
    を持って集まれと命ぜられる。数百ちょうの桶を立ちならべ、あまが池の四方から四時間ほど
    水がえをさせたが、水は七分ばかりに減っても、それから先はいっこうに減らず、同じことで
    あった。それでは水中に入って、大蛇を見付けてやろうと信長公は、脇差をお口にくわえ、池
    にお入りになり、しばらくして水からお上がりになったが、なかなか大蛇らしきものは見当たら
    なかった。そこで信長公は鵜左衛門という、よく水に馴れた者にも、もう一度入って見よと
    命ぜらrた。鵜左衛門は信長公のあとへふたたび入って見られたが、それでも大蛇は見つけ
    られなかた。結局、信長公は清洲へ帰ってしまわれた。』〈ニュートンプレス訳文〉

このあと、信長が暗殺されそうになった話が続いています。当時、信長に佐々成政が逆心を抱いて
いるという風説があったので、信長がこの化け物騒動でやってきたついでに、佐々の城の城内を
見たいと言うだろうから、そのとき殺してしまえばよいという殺害を勧めたのが、佐々「家子・郎党
長(おとな)」の「井口太郎左衛門」です。このくだりの全文は文の並べ替えの話の例として先に挙げ
ています。

    『去る程に身のひえたる危うき事あり。その比(ころ)佐々蔵佐、信長へ逆心の由風説これあり。
     ・・・・・・家子・郎党長に、井口太郎左衛門と申す者これあり。・・・・・・・・』〈信長公記〉

 この思いつきの質問に関して返事がすぐきました。返事がくるとは期待していなかったのですがその
内容です。

(4)溶鉱炉   
    『〈信長公記〉の記事ですが、これは今ならハッキリ断言できます。(今ならという意味は、あ
    のネット紀事を見ていることと、〈信長公記〉の史書としての価値の高さがわかった今という
    意味でしょう)蹈鞴(タタラ)製鉄の様子そのものです。タタラ製鉄を「常民」が見た場合の、異
    人:鋳物師集団に対する恐怖が全国に民話化されてます。その典型的な民話のパターンと
    同じです。
    いずれも夜の風景でしょう。製鉄は徹夜ですから。
    @、「胴体は堤」  土を固めた炉のことでしょう。「太さが一抱え」と意外に大きくないので、
     日本刀程度までの大きさの農具とかに必要な地金を作る炉だと思います。炉の近くに冷
     却のための水源として、池があったのでしょう。といかく危険ですから製鉄に水は身近に
     大量に必要です。
    A 「つらは鹿の面」 穴から炎が吹き上げて、鹿の角のように見えた様子、ないしは空気
     穴に木の枝とか棒状のものを突き刺していた様子
    B、「目は光のごとく光り輝く」 炉に空けた穴から火が見えて目のように見えます。
    C、「舌を出したる紅のごとく」 炎が出ている様と、中から燃える鉄が流れ出る情景でしょう。
    D、「安食福徳、比良、大野木、味鋺」すべて安食・山田の地域内です。
    E、「井口太郎左衛門」 水野太郎左衛門という鋳物師の総領(織田信長・徳川時代共通)
     を想起します。井口水野、何か他に結びつきあるかもしれません。
    F、佐々のエピソードは、佐々が鋳物師との接点だった、あるいは佐々も鋳物師だったこと
     を反映していると思います。当初は信長に鋳物師集団が友好的でなかったのかもしれま
     せん。守山が信長の敵だった頃もありましたから、信長を殺そうとする動き、当然あったで
     しょう。
  上記のうち@〜Dは、典型的な「常民から見たタタラ製鉄集団であって、余人を近寄らせなくする
  ための物語なのかもしれません。いささかタワケタ物語ですが、そういうタタラ製鉄の民話のパタ
  ーンを見抜いて、目的的な「語り」に利用するなど、太田牛一の見事さに呆然とする思いです。』
  〈一読者のメール〉

 筆者採点で恐縮ですが、ネット記事と、〈信長公記〉の記事からみて、このメールの内容に付け加え
ることはない、と思います。他愛ない名前を使って語るというような太田牛一のことですから、この一節
も意味がないはずがない、ネット記事と〈信長公記〉の登場人物の一致、太田牛一関連地名と鉄との
連関、民話との一致・・・・・・これで決まりでしょう。水量を常に一定にする仕掛けがもされていたようで
す。
場所も特定されていますから調査も可能といえます(ウソだったらバレる)。武器・武具に関わる鉄
のことを太田牛一は隠したが、こういう表現で表したようです。信長がこれを見に行き、太田牛一
はこれを書いた、二人には天下布武の構想の一環として製鉄施設の経営のことに関心があった
ことは事実と考えられます。これは天下布武の基本に関わり、ネット記事をもとにした、読者(未詳)
の大発見と思います。
 はじめにネット記事を送っていただいたことも、頼んだわけでもない、まあご参考に、ということで
あったと思いますが、筆者の念頭に、信頼ある資料といわれるわりには、くだらなさすぎる「蛇がえ」
の一節が、頭に引っ掛かっていたことと、これが結びついてしまったわけです。これが意味ある一節
と判ればそこからまた話が広がっていきます。

(5)八俣の大蛇
ここから筆者の推理想像の話が入ります。上の記事を見て〈古事記〉、〈日本書紀〉の大蛇の記事を
思い出しました。〈古事記〉では、速須佐(すさのお)の男(お)の命が、追放されて
    「出雲の国の肥の河上、」
に降ってきたときの話があります。流れてきた箸から人の気配を感じて上流へ上っていくと、はげし
く泣いている老夫(おきな)と老女(おうな)に会いました。その嘆きのわけを聞いてみると、娘八人あっ
たが八俣の大蛇に食われてしまったということでした。その大蛇の様子は

     「そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭(かしら)八つの尾あり。またその身に
     苔また檜椙(ひすぎ)生い、その長(たけ)は谷八谷峡八尾に度(わた)りて見ゆ。その腹は
     悉に常に血たり爛れたり。ここに赤かがちと云えるは今の酸醤なり。
     酒に酔わせて、「その(虫へんに也=太田牛一のジヤと同じ字)を切り散(はふ)りたまい
     しかば、肥の河血に変(な)りて流れき。・・・・尾を切りたまう時に、御刀の刃毀(か)けき。
     ここに怪しと思ほして御刀の前(さき)持ちて刺し割きて見そなわししかば都牟羽(つむは)
     の太刀あり。かれこの太刀を・・・・・天照らす大御神に白し上げたまいき。こは草薙(くさ
     なぎ)の太刀
なり。」〈古事記〉

 化け物の姿は、川が背景にあり、胴体が長く、自然の中に溶け込んでいる、ここの腹の血は、太田
牛一の文の紅の流を思わせます。脚柱では「赤かがち」は、赤ホオズキとのことで、それなら小さい
固形物で、酸醤というのは化学的変化物というような感じを受けます。また尾に太刀が入っていた
ことはその生産工程の最終段階では太刀が出来上がってきたことを指しているのではないかと思
わせます。
 また重要なことはこの段階で太安万侶が熱田神宮草薙の太刀を頭に入れてこの文を書いて
いることです。神話に出てくる、時代が遠い昔と思わせる「須佐の男」を書いた人間が、熱田神宮
いう具体的な名前を出しているということです。すなわち、太安万侶の生きていた時代に現出され
ていたこの地域の鉄の生産とということに、「須佐の男」という人物を取り込んでいるということになり
ます。
 太田牛一が触発されて自分の著書に書き入れるのには恰好の記事であったといえるとともに
、スサノオという表記が多様であることも取り入れたといえるのではないかと思います。
       須佐の男
は今の日本人でも読めそうな日本的な名前ですが、
       須佐の男・神須佐の男
となると少しはずれる、なぜ速度の速がついているのかと思ってしまう。まして
       素戔鳴尊(日本書紀・素盞雄尊(現に神社が使っている)
となると、大陸の字ではないか、という感じがするでしょう。これは自然にそう思うから仕方がない
ことです。大陸のスサノオが神話に出てくる、日本のスサノオもいる、スサノオは二人いる、大陸の
人と日本の人というのが普通思われることです。「速」「神」が入ると、同一人のあぶり出しという感じ
を受けますが、読み方の上では、完全に別となりそうです。日本式には、もう一人いるかもしれない、
という予告なのか、とにかく、太安万侶は大陸のスサノオを述べ、日本のスサノオを述べたといえ
ると思います。字からは同じと思われないものが重なっているのです。
これを戦国と対比してみると

           本名             活動名                 一時名
     明智光秀・・・・・・・・・・・・・明智十兵衛・惟任日向守 ・・・・・・・・野村越中・柴田修理等・・・・
     森(明智)重政・又助・・・・森三左、丹羽五郎左・・・・・・・・・・・・中野又兵衛・佐久間信盛等
 、   森(明智)長定 ・・・・・・・・・森 乱丸・・・・・・・・・・・・・・坂井久蔵・万見仙千代・平井久右等
 
     ●素戔鳴尊(大陸名)・・・・■須佐の男・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・
     
 のような関係になっているのではないかと思われます。すなわち、同一人物でも、まったく違う
名前が使われる場合が多いのです。●と■がなぜ同じという意味で対比されるかというと、●が
〈日本書紀〉に「スサノオ」というカタカナルビが付いているからです。発音からきているのでしょうか、
上の三人やスサノオと同じように他の人物も大陸名や、〈記紀〉活動名があるのではないか、という
基本的な疑問が出てくるわけです。〈魏志倭人伝〉にある、20カ国は、表記は日本文献の表記とは
違っているが対置されてもよい、ということかもしれないわけです。                        

(6)混合
 古事記脚注に、

   「おろちは(遠呂智)強暴な者の譬喩。出水としそれを処理して水田を得た意の神話ともする。」

と書かれています。これは、製鉄とか製銅の生産施設を指しているのではないか、それに伴う権力
の横暴を指している、つまり里人をこの製造に徴用して返さないということをいっていると取れます。
 まあ須佐の男の命は、解放者のよですが天から降りてきたので、どちらから来たのかわかりま
せん。解放した積もりのものも、また搾取しかねませんから公平にしているのでしょう。
〈日本書紀〉には、本文と、一書に曰くというように複数の記事が出ています。少し変えられた記事
があるのはいいたいことがあるのでしょう。始めに本文です。

     「スサノオ尊は天から出雲の国の簸(ひ)の川のほとりに、降り着いた。・・・・・大蛇があらわ
     頭と尾とそれぞれ八岐あり、眼は赤ホウズキのようであった。背には松や柏が生え、八つの
     丘、八つの谷の間にはいわたっていた。・・・・・ずたずたにその蛇を斬った。尾におよんで
     剣の刃がすこし欠けた。で、尾を割いてみると中に一つの剣があった。これがいわゆる草薙の
     剣である。〔一書はいう、もとの名は天叢雲(あまのむらくも)剣。大蛇の居るうえにいつでも
     雲の気があったので、名づけたのであろう。日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)のときになって、
     クサナギ剣と名を改めた。〕スサノオの尊は・・・・・すぐ天神に献上した。」〈日本書紀=
     ニュートンプレス訳文〉

 〈古事記〉と似ていますが違うところもあります。〈古事記〉では天照らす大御神に報告して剣を献上
していますが、ここでは単に「天神」となっています。ここでも草薙の剣が出ますが、いままでの剣が欠
けるほどの名刀のようで技術が勝れていたと思われます。雲が出てくる地域が出雲ということになると
かなり広い地域が出雲という感じです。
〈日本書紀〉一書群の記載

     「素戔鳴尊は、天より降って、出雲の簸(ひ)の川のほとりに、到着した。そして稲田の宮の
     主、箕狭之八箇耳(スサノヤツミミ)の娘、名は稲田(イナタ)媛を見そめて、交合して生んだ
     子が、清(すが)の湯山(ゆやま)の主(ぬし)、狭漏彦八島篠(サルヒコヤシマシノ)という名で
     ある。」

この(サルヒコヤシマシノ)が、もう一回次に出てきます。

     「一(書)はいう清の繋名坂(ゆいなさか)、彦八島手命。またいう、清の湯山の主、狭漏
     彦八島野
という名である。この神の五世の孫が、大国主神である。」

ここで、「湯山」、「サル」、「カル」、「八島」が出てきました。はじめの「守山の鋳物師」の記事から「湯」
と「猿投」「香流」が連想されます。再掲

    「一帯で行われていた「鉄穴流し(かんながし)」という水を利用した選鉱にて鉄分を含んだ
    水が流れ、赤く染まっていたことに由来すると思われます。〔香流川は野田川とも呼ばれ、
    天保14年(1843)年に刊行された地誌「尾張志」に、長久手村にあり金連(かなれ)を金流
    (かなれ)とも書きならへり、水上を鴨田川ともいう・・の記載あり〕
    天白区の地名の起こり天白社に祀られる「天白神」も一般には農業神と考えられていますが
    一説には金属神であり、天白川最上流部猿投山山麓に祀られる猿投神社は今でも鍛冶・
   金属業者の参拝が多く、境内の絵馬は鉄鎌を模しています。
そして山腹より流れ出る川に
    は、陶土原料粉砕用水車「トロミル水車(復元)」があります。・・・」

 「天照らす大御神に白し上げたまいき。」は「天神に「し上げ」ということになり「天白神」を
思いつきますが、これは関係ないかもしれません。が、しかし次によれば、尾張に「湯」がつく村が
あったことを太安麻呂は知っていました。

     「一書はいう、ーこのとき、素戔鳴尊は、下って安芸(広島県)の国の可愛(えの川のほとり
     に到着した。そこに神がいた。名を脚摩手摩(アシナズテナズ)といった。その妻の名は稲
     田の宮主で箕狭之八箇耳(スサノヤツミミ)という。・・・・・八岐大蛇(ヤマタノオロチ)・・・・
     スサノオ尊は剣を抜いて斬った。尾を斬ったとき、剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみる
     と、剣が尾の中にあった。これを草薙剣(くさなぎのつるぎ)とよぶ。これは今尾張(おわり)
     の国の吾湯市(あゆち)村にある。熱田の祝部(はふり)が祭を担当している神が、この剣だ
     。その蛇を断った剣を、大蛇の麁正(あらまさ)という。こちらは今石上(いそのかみ)にある。
     スサノオ尊は、その子の五十猛(イタケル)神をつれて、新羅国におりていき曾尸茂梨(そし
     もり)というところに居た。そして「この地は俺のいたくないところ」と言(こと)あげした。・・・・・
     舟をつくり、これに乗って東に渡った。そして出雲の国の簸(ひ)の川のほとりにある、鳥上
     の峯に着いた。ときにそこには人を呑む大蛇がいた。・・・・・蛇の尾を斬ったとき刃が欠け
     た。さいてみるt、尾の中に一つの神剣があった。スサノオ尊は・・・・天に上げ奉つた。これ
     が今の草薙剣である。はじめイタケル神は、天から降りるとき、たくさんに樹木の種子をも
     って下ってきた。しかし韓の地ではには植えずに、ことごとく持って帰った。そして筑紫より
     はじめて、およそ大八洲国の内は、播殖して青山にしないところはなかった。・・・・・・紀伊
     (和歌山県)の国に鎮座の大神がこれである。」〈日本書紀の引用一書〉

 新羅の地名、今の日本の地名、他国の字、日本の字ごちゃまぜの記事です。 尾張の記事と、川、猿、
湯沢、大蛇の尾も剣=製造物が連想されます。
つまり、太安万侶らは名古屋の製鉄情報をすでに手に入れておりこの古事記、日本書紀に反映させて
いたと見ることができます。安芸の製鉄所も、出雲と同じ川の名前が安芸にもあります。同じように
で紀州のことまで触れています。
 太安万侶らがこれを書いているそのときすでに剣は熱田にあったということです。「製鉄同源」
出てきた太刀という特徴があります。その伝承から逆にこの日本式、須佐の男の尊の話が書けた
とも考えられます。

(7)記紀の書き方
、日本武尊(倭建)より、スサノオ尊は時代が前だから、剣がスサノオ→天照→倭比売(やまとひめ)
→日本武と渡ったことになり合理的に熱田に収まったこととなっていますので、そういう話が昔から
あったとして納得してしまいますが、風土記などのように地方の資料が中央に出され、それで物語
が作られたようにも考えられます。ここに出雲の川のように思えるのに安芸がでてきます。また
紀州も出てきますし、熱田もありました。つまり太安万侶は日本列島内の古い話を〈記紀〉に反映させその姿を伝えようとしたという一面があったと思います。
一方、スサノオの尊は新羅に行ったりしていて大変広い範囲で行動しています。スサノオ尊は、
新羅と出雲を股に懸けて行動し広島にも顔を出す、尾張にも紀州にも顔を出すというような超人で
すが、韓の地ー新羅ー海ー出雲ー名古屋という構図は、一つはスサノオが大陸に身をおいている
と同時に、熱田神社のような地方的なものに足跡を残すといったことになっている、つまりスサノオ
を二つの視点からみて、二つあるという意味の行動をさせていると思われます。空間を越えた
二人のスサノオ、あるいは時間を越えた二人のスサノオがあります。
外から見た場合、出雲というのは日本列島全体をいっている感じで、叙述の中心の一つがこれに
なっている。太安万侶らはそれを叙述しながら日本のサイドに視点をおき、当時の営みを入れて
いる、両方を視点を変えて述べようとして苦心していると思われます。
 東アジア全体の観点から日本国家の生成をみようという人は、記紀を天皇制史観とかいって、
邪魔もの扱いとし、海外資料を中心に述べようとして結果難しすぎて何のことやらよくわからない、
日本中心にものを考えようとする人は、例えば呉や新羅が朝貢してくる記事を実力の証とすると
いう信じられない話をする、少し力の関係を顧慮すれば(年表で秦・漢・後漢・三国などの出来事
と日本のそれと対比してみると一目瞭然)わかることでしょう。倭王とされている人物に朝貢、例え
ば送り先が占領軍司令官マッカーサだったというようなことが起こったのかもしれないのです。
 大陸資料を基礎として、そのト−タルから太安万侶が、どのような肉付けをしたのかということを
対比して説明はなされない、とくにその全体像を名前を中心に対比するというような、ことがなさ
れていないから、よくわからない。記紀などが頼りないからこれほど苦労している、太安万侶達を
認めようとしないようにしている、いずれにしろ、文献が頼りないから色々の説がでるという印象を
あたえているのが一番いけない、ということがいいたいことです。古代の大陸と列島との政治的、
力関係は一目、年表をみても隠せないわけです。

(8)乞食村
 安食村を乞食村と呼んだのは、一つ「古事記」という意味があるということで、ここまで述べてきま
したが、そんなことは証明できない、といわれるとその通りです。しかし太田牛一の著述には中国
古典と同様に〈記紀〉からの引用が多いのです。芭蕉においても、和泉と古事記が混然一体となっ
て述べられていることは触れましたが、関係付けてみるべきというのも頷ける、やってみようというの
がいま必要だと思います。 江戸期までの古典はそれ以前の古典の読み方を教えてくれているから
です。ここの「太田牛一の蛇」と、「古事記の大蛇(おろち)」とが似ているというのも、そういうもの
だと思います。
 本稿はじめに出てきた、矢島六人衆の「矢島」も、奥の細道の、八嶋詣での一節(「木の花さくや姫」
が登場)の「八嶋」と関係がありそうです。この八島明神は今栃木県惣社の「六所明神」ですから、
「六」も関わってくるというものです。文中わけのわからない
   「将(はた)このしろという魚を禁ず。」

   「また、ここではこのしろという魚をたべることを禁じています。」
と訳されてそういう意味だ、といわれると、「ああそうか」でおわりとなりますが、奥の細道の一節で
「此城」は「このしろ」とルビがされているので、「将とこの城」というような話ことになりますが、ここでは
これをこではやめています、
という意味があると思います。古事記の「この花の佐久夜比売」と戦国の話が繋がっているわけです。
有史から、次々書き継がれる古典は、1868年、19世紀の中ごろまでのものが、一つの作品となって
いるといってよいというのが恐るべきことで、文化遺産これに過ぎるものはないといえると思います。
この縦横の連携が無視されてはならない、とくに意識的に無視するのは論外というものです。
                                                 以 上
トップページへもどる