31、堀久太郎・卑弥呼の出自(その2)
(274)雪見の句
「いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで」〈笈の小文〉
の句は「雪見(小野)御幸」があり、「雪=ゆき=幸」もあり、「小野妹子」(近江に墓がある)にも転んで行き
かねませんが名古屋(長谷川夕道のところ)での一連の句の一つとして出てきます。すなわち
「 熱田御修覆(みしゆふく)
磨(とぎ)なほ(を)す鏡も清し雪の花
箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪
有(ある)人の会 (長谷川孫助のところ)
ためつけて雪見にまかるかみこ哉
いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで
ある人興行
香を探る梅に蔵見る軒端哉。
・・・・・・・・・・・・・・・」〈笈の小文〉
の一つの句です。「梅」に「香(高)」があり、「白」もあり、「雪」に懸かりますが歴史(熱田)の「鏡」が出
てきたのが、何ともいえない大きいところです。この鏡どこからきたのかというような。箱根は〈曽我物語〉
に出ていて、箱崎は、天正15年、志賀島に辿り着いた人物が
「・・・箱崎・・・金が崎という・・・金と云字・・・やうやう志賀の島に着きて・・箱崎・・・
そのかみにをさめをきたる箱崎の松こそ千代のしるしなりけれ 」〈甫庵太閤記〉
と書いていました。
(275)いざさらば
この句は普通は
★★ いざさらば雪見にころぶ所まで〈花摘〉
とされて出てきて、前稿で「(小野)雪見御幸」と懸かった話となりました。「雪見」では、もう一件
「 ある人の会 (「防川亭」での句で「防川」は誰も語っていない)
★ ためつけて雪見(ゆきみ)にまかる紙衣(ルビ=●かみこ)かな」〈笈の小文〉
があり、この二つは〈笈の小文〉で並んでる句です。
「ためつけて」というのは「皺や癖を伸ばす」所作で、「紙子(衣)」(かみこ)は、国語辞典では
「紙で作った衣服。厚めの和紙に柿渋をぬったもので防寒性に富む。紙ぎぬ」
となっています。「防寒」は「防川」を気にしてるかも。しかるに〈桃の白実〉では、
『「中七」雪見にころぶと誤る。』〈芭蕉前句〉
があり★★、★とも「すってんころり」〈広辞苑〉」の「ころ」が出ていますが、これは「すってんころりん」も
あったかと思いますが、まあいい加減なもので、それならば、下五の
「紙子(かみこ)かな」を「紙衣(かみごろも)」
としたほうがわかりやすくなりそうです。ただ「紙子(かみこ)頭巾」「紙子(かみこ)羽織」〈広辞苑〉がある
ようで「かみこ」が通用していたのでそれを使ったととれますが、知らない人には「紙子」はちょっと負担に
なる語句です。「紙」はわかるが、「子」は「衣」(ころも)の「こ」を「子」としたものではないようで「こ」は
理屈ではわからないようです。ただテキストでは「羽織」「袴」が出てるので「袴(はかま)」は「こ」(「誇張」
の「誇」)と読むので、はかまに多用されたので、「紙袴」=「かみこ」になったともとれますが、いわれは
書いてないのでわかりません。「袴」は「羽織袴」がありこれは上下一対で、「裃(かみしも)」は武士の礼服
で「肩衣+裃」のようです。袴が幅を利かせていますので 「(こ)誇」(ほこり)=「埃」(「挨」)−「ほ(こ)り」
というものは、あるとも、ないとも、いえないところで、あとでまた出てくるのかどうかにもよります。
この「かみしも」の「上下」は東国の「安東上国」「安東下国」の「上下」があり、
「紙」=(「白」)=雪・桃の白実=「上」
はあるかもしれないが、
「峠」=上・下=「裃」
は確実にありそうです。防川は名古屋ですが、近江で紙子を出した人があります。
(276)到る・松の本
桶狭間の要所
「村雨(ムラサメ)・・石氷・・輔(ツラ)・・沓懸の▲到(タウ)下の松の本に、▼二かい・三かゐの楠の木・・
雨に東へ降倒るる・・熱田大明神の・・神軍(かみいくさ)・・のぼり・さし物・」〈信長公記〉
があり、▲は脚注では
「峠。〈易林本〉到下(タウゲ)。」、▼は「二抱ひ、三抱ひ」
となっており、この「到」は「至る」の意味で「下」に「到る」というのを「峠」に宛てています。「松木」⇔「松本」
の互換はいってるのでしょうが、「松本」が出てるのが疑問のあるところです。要は文がおかしいので
何か含みがあるとみてよいのでしょう。「松」一つだけで「松ノ木」という意味として、たいていの人が取る
はずで現にそれで読まれているものでしょう。分解すると味がなくなってしまいますが「松(ノ木)」と「松の本」
の合成が「松の本」ともいえるものです。「本」は前の「下」と、後ろの「楠の木」の「木」を意識しているといっ
てもよいとすると、まあとにかく「日本」の「本」が、「下」「もと」・「木」というのがある、というのはいってると思われ
ます。〈古事記〉序文の、「日下(くさか)」=「日本」かどうかが気になるところです。
一方、「松本」は、信州の「ふかし(深志)」で、「かひ」=「甲斐」でもあり、地名索引に
「■大津馬場松本 八七・一一六」
が、出ていて人名では
「松本為足」〈信長公記〉(注なし)
がいます。■は校注者の創作で、実際は、87頁は
「諸勢大津の馬場・松本陣取。」があって脚注では「大津市の馬場・松本の各町。」
となっており、■と違っています。同じ87頁に、また
「山崎(脚注=「乙訓郡大山崎町。」)御着陣。先陣は◆天神の馬場陣取。芥川・・・芥川の城。・・」
があり、◆に脚注があって、
「高槻市上田部(かみたなべ)の濃味(のみの)天神社を天神山といい、東海道高槻駅も天神
馬場の一部。天正十年(一五八二)の山崎合戦に羽柴秀吉は天神山に陣した。」
となっています。「天(あま)の神社」を天神というのかどうかは、とにかく、高と山崎と■を結んでいます。
116頁は
「辛未・・・森三左衛門宇佐山の坂を下々懸向ひ・・・坂本・・ワズカ千・・・討死・・◆A大津の馬場・松本
・・相抱(包の中が「ム」の字・・逢坂(あふさか)・・摂(□つ)津国(のくに)中嶋・・・」以上〈信長公記〉
があり、要所における、◆Aがあって、索引■とは大きく違ったものがでています。■の趣旨が何かといわ
れると困りますが、「津・小場馬」=津・小浜、を、松の「木」「本」に引っ掛けてだしたともとれるところで
そういう志がこの時点であったというのを遊びながら出したと取れるところです。
▼は「句」篇を無理に出したと思えるところです。首巻から一貫して古日本の日本のことを語ろうとして
いる、それをここでも出したいうところでしょう。まあ「大津馬場松(日・二)本」が「ワズカ」の出る(桶狭間)で
出てきたものですが、「松」は「木公」で信長公記の「公」があるという見方が要るようです。(二)本松は
松本顛倒かも。
(277)かみこ−神(の)子
一方「紙子(かみこ)の「かみ」は国語辞典で前後をみても紙・上・髪・神・噛み、の当て字くらい
しかなく、「こ」は●のように、その当て字は「子」が第一番に思い浮かぶものです。「かみこ」といわれて
当てられるかなと思う漢字は「神子」が一番通用しそうな語句でしょう。〈広辞苑〉でこのあたり「かみごころ
(神心)が出てるのでその「神」です。★の前の句は〈芭蕉全句〉には、同じ句集の
「熱田御修覆
磨(とぎ)なほす鏡も清し雪の花」〈笈の小文〉
がありこれは「熱田神宮」の修復のことで、加藤氏は
「神宮の縁で神鏡を思い起こし、、、それが雪に映発・・」〈芭蕉全句〉
といっており「神」「神」・・「白」「清」がでています。麻生氏はこの句脚注で「熱田神宮は蓬莱宮という」
と書かれています。草薙の太刀(熱田神宮)は東国の大和武尊−出雲に関わります。
「いざさらば」が上五にある★★の句は〈陸奥鵆〉〈花橘〉〈泊船集〉などに出ていて、なんとなく
「陸奥」と「渡海」を語っていそうですが、これは「仰げば尊し」の「いざさらば」を思い出します。この句は
『「いざ出でむ」が初案で、それが「いざ行かん」となり後、「いざさらば」と改められたものであろう。』
〈芭蕉全句〉
があり、これなら物議を醸した句であることをいってそうです。〈蕉翁句集草稿〉によれば
『此の句、曠野に「いざゆかん」と有り。違ひなり。』
となっており、このええ加減さはどういうことかといいたいところです。これからみるとこの「いざさらば」は
「出る」「行く」を伴った「いざさらば」とうことになりそうです。あの「仰げば尊し・・・・いまこそ分かれ目」の歌
の一部にこの「いざさらば」を導入した人がいることが考えられます。大槻文彦などの人が歌詞を作ったと
いうことですが大槻玄沢の孫ということのようで国語、蘭語などの権威です。この卒業式の歌の二番目の歌詞に
「身を立て、名をあげ、やよ励めよ」
というのがあり、これは問題視されても仕方がない歌詞で、多くの人が疑念を表明しているものです。
あの戦争のおわりのころでも、幼稚園では、弁当食べる前に、今もこうしておられるのはお百姓さんと兵隊
さんのおかげです、ありがとうと唱和してしていました。これは最も名を上げるということとは縁遠い
職柄の人に礼をいってるわけで、99%の名も知らぬ人によって支えられて生きている、という普通
の感覚が、戦争のたけなわのときにも十二分にあったという、なかにおけるこの違和感ある歌詞です。
「いざさらば」の歌について、賛美歌というのは前から
いわれていて、そうとするとキリスト教→天正、慶長の使節渡海というのが、つながって出てきそうです。ガラシヤ
夫人も賛美されてオペラも出来てるということですから域外の人も歌われるということがあったのでしょう。
この歌は賛美歌ということがいわれていて、そうとすれば教会の学校内で完結する文言となってる、つまり
神の御名を挙げる、そのため教導できる地位を得ていくのが目指すところとなります。また一方で天正の
壮挙が、賛美歌に歌われているということを、知っていた人があって、賛美歌の文言と察せられるように
作ったかものがこれだといえるのでしょう。つまり作詞者としては、渡海という歴史事実と、いま国家の目指
す小国民の教育方針はこういうことかというのを出したといえると思われます。
(278)長谷川−堀久太郎
結局この「いざさらば」の句の解説に堀久太郎A(今で言う子息)が登場していそうです。つまりこの★★
の句には
「長谷川孫助すなはち夕道の家で詠んだもの。」〈芭蕉全句〉
という解説があり、これは、清水又十郎の一節にある
「長谷川★挨介」(索引なし)
がありこれは脚注では
底本は★「挨」に似た字体であるが「橋」の間違いであろう。
とされています。★「挨」(「挨拶」の「あい」)というのは本文に書いてあるから、これは「埃(ほこり)」といいた
いはずですが、とにかく「長谷川橋介」は桶狭間で信長とともに清洲城を飛び出した人物で森蘭丸に
比定をしました。これは一応は違った形で合ってたといえますが、★★に関していえば「所」があり
此の山のかなしさ告げよ野郎(ところ)掘(ほり) 〈笈の小文〉
があり、「掘}=(ほり)=「堀」であの堀が出てるといいましたが、いも=森勝蔵=森=堀とかもいってきました。
ここで、いざ出でん=いざさらば=「所−ところ−掘」=長谷川孫助=橋介=堀も出たということになって、
桶狭間の引き当ても合ってるから、ここも合ってるという相互証明になってる、森勝蔵=堀監物も合ってそうだ
ということになりそうです。そらそうかも、知れないが、芭蕉が「堀=掘」といっているのがどうもけしからん、
土篇と手篇と大違いではないか、というかもしれないが、芭蕉はそんなインチキはしないわけで大田牛一が
変な字を出してきて 挨 = ム = 埃
手へん 矢 土へん
掘 ーーーーー 堀
のように堀を語るから、しょことなしに紹介したということでしょう。挨拶の拶は「夕道」の「夕」、「埃」も「あい」
とも読み「塵埃」(じんあい)というのが一番よく知られた熟語ですが、これは種の浜(小浜)のくだりに二首
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
浪(なみ)の間や小貝にまじる萩の塵(ちり) 〈奥の細道〉
があり一応、「塵」が出ています。「浜の秋」と「萩の秋」がでています。麻生氏の訳は
「萩の花の散ったのがまじっている」となっており「散」に
変えてあります。これは「散位」、「・・散騎・・車騎大将軍・・東夷・遼東郡開国公高句麗王」などの「散」に
なってると思いますが、「塵」に通じているのが「鳥」と「琴」で、
「散る花や鳥も驚く琴の塵(ちり)」〈真蹟画賛〉 「真蹟」は探雪筆琴の画
「琴箱や古物店(ふるものだな)の背戸(せど)の菊」〈住吉物語〉
で「ちる」「ちり」で「鹿」が出てくる、「琴」は「里の秋」の「お背戸」が出てきて、この句は菊があるから「秋季」と
されています。菊は代表的な秋の花で、ここでは「背戸」にあります。背戸は裏口で庫裏(くり)に当たるのかも。
堀久太郎は「菊」が属性でウイキペディアに出てるように「幼名」
「菊千代」 (「万見仙千代」「仙千代」に似てくる)
です。「菊」は〈奥の細道〉「山中」のくだりで出てきます。、麻生氏脚注では、宿の主は
「山中の温泉宿、泉屋又兵衛・・・長谷部氏・・幼名、久米之助・・桃妖・・・」
で「久米」だけとれば、これは「来目」でこれは別の働きがありそうで、「米」は菊の「匂}(におい)部位の中に
入っており、句の□が空きとすると、句のあきに米が入ってるともいえます。「久(こ・く)」をここでを出してきて
、「長谷(川)」−「久太郎」の連携によって意味がついてきてます。
(279) 「里の秋」
〈奥の細道〉はじめに
「笠の緒付(つけ)かえて、★三里に灸(きう)すゆ(う)るより・・松嶋・・杉風(さんぷう)が別シヨ(野+土)・・・」
があり、「三里(脚注=灸点の名)に灸をすえる」があり、「三里」の「里」は「もり」「ほり」「くり」の「り」をいうのか
は、わからないが二つの「灸」(三里)・「灸」が「杉(さん)」の「里」と出てきています。この★の「里」は
「郷・里」の「里」、行程の「里数」
の「里」でお馴染みですが、唱歌の「里の秋」で、秋懸ってきて、歌の風物が心にしみて東国の暮らしを作詞者
の心を捉えていると取れます。そらおかしい、丹波の情景でもありうるということにもなりますが芭蕉に
田家(でんか)
刈りかけし田面(たづら)の鶴(つる)や里の秋〈鹿島紀行〉
があるので一応この「里の秋」を題に取られたというのがわかりやすく、里は東国の「里」としますと、明らかに
戦国で母里太平(母里但馬・毛利但馬)が作られており、これは「里」をとりあげた「もり」です。また
「ぼ」ー「ほ」であり母里は「ほり」
にもなります。埃が堀に絡んで出てきましたが母里(つまり太田牛一)に「久」(堀)
を中入れし「母久(こ)里」=「埃」「誇」「不屈の闘魂」や「久里」=「栗」がでます。天正8年
「御相撲取円浄寺源七不屈(ふとどき)の子細これありて御勘気・・・」〈信長公記〉
があって、「届」と字が間違っていて、名前の変更「届け」か、を怠ったのでしょう。「屈」が「堀」の右なので
一応引当は円浄寺源@は堀久太郎の連合いか、今で言う子息と取れます。堀=くつ=掘があとで大変
効いてきます。
〈信長記〉には播州三木陣で「小森与三左衛門」があり、似たもので「小栗仁右衛門」「小栗又一郎」があり
ます。「埃(ほこり)」が出てきたので「ほ久り」が「堀」「森」に近づいてきます。
遠州の「小堀」が〈信長記〉にないので「小栗」であらわされることがあるかも。とにかく「杉風」の脚注が
「・・・杉山元雅(のち一元)。鯉屋市兵衛。・・元木場平野町・・六間堀・・・六間堀にあつた採茶庵か。」
があり「鯉」=「里」で(三)「里」に飛び、「灸」で「三里」と「堀久太郎」をだそうとしたのは見て取れるところ
です。「元」が出てくるので波及するのかも。「万見仙千代」は「重元」なので「元」−「元」があるのでしょう。
「菊」と「蘭丸」を東国の「栗」「匂い」で結び付けたのが次の句かも。
「蘭草(らんさう)ノニホヒグサ有り菊のソヘガミニ宜(よろ)シト云ヘリ〈虚栗〉
静かな静かな 里の秋 栗の実 煮てます 囲炉裏端
「いざさらば」と「里の秋」は芭蕉からきたととれます。「いざさらば」は大槻文彦で〈大修館〉の大槻ですが
この漢語辞典で「ワズカ」の語に特色がありました。
(280)「纔か」という読みは「中入」れ
大槻玄沢の孫大槻文彦が関わってるとすると、桶狭間、あの
「千が一の信長、纔か二千に及ぶ人数・・」〈信長公記〉
の「纔(わずか)(わづか)」は 額面どおりは今川義元が
「四万五千・・・千が一の信長、●纔かに二千に★及ぶ人数に・・・相果てられ・・・」〈信長公記〉
があり、これは甫庵の
「四万五千・・・味方の勢は僅かに三千に過ぐべからず。」
に対応しているもので前線
で戦った部隊の数です。トータルが三千と決まっているから、気が楽で「千が一」というのは、1000×1でも
よいし「信長が一千の、」と入れ替えて人数に懸けてもよいのでしょう。★は文中「中嶋」のくだりの
「二千に足らざる御人数の由申候。」〈信長公記〉
を受けてるもので、「●纔か」ーーーー「★及ぶ」
「僅か」ーーーーー(過ぎない)(不足)
の対置になってると見うけられます。すなわち★はオーバーですので(わずか)の違いもセットになって、戦死者
という別面が語られた数字であるととれるかも、というのが出てきます。つまり織田、千、今川二千超の計
四千足らずの死者が出たということをいってると取れます。そらないというのもあるかもしれないが基本的に
は、太田牛一の史書を皆が大変ほめてる、この大戦の戦死者も書いてないはずがない、と見て探したら出てくる
ということでよいはずです。この●の字は書けない字の一つです。機械で出てきたものは
糸プラス、右側、上から「ク」、平べたい「口」、「比」、「兔か兎」
ですが〈漢語辞典〉(大修館)では
糸+右側(「色」の上の部分の縦棒のないもの)プラス「菟」の字
となっています。読みは「サン」「セン」「サイ」「ザイ」のようですが、意味は、〈広辞苑〉には載ってない
@赤黒い色の絹。 一説に、青みがかった薄黒い色の絹。
A赤黒色。すずめ色。 一説に、青みがかった薄い黒色。
Bわずか{わづか}。少し。・・・かろうじて。
と三つになっていて、Bが和式で、これが●の文で使われたのはどういう動機によるかということです。「黒」
が二つ出てくるから「ぐろ」「ぐろ」で「赤黒(ぐろ)い色」となりそうです。「赤」は、血の赤があるか、「どす黒い」と
いうのはあるが「どす赤い」というのはないがそういう感じが出されていないかといいたいところです。@は絹です
が「絹」というのは「蚕」「桑」「糸」で古代の姿がでてきます。糸を染めて「すずめ色」「青み」が出るといってる
とするとAが染料で染色によってかわるというのが@Aの関係かもしれません。 再掲
要は
「四万五千・・・千が一の信長、●纔かに二千に★及ぶ人数に・・・相果てられ・・・」〈信長公記〉
「四万五千・・・・・・・・味方の勢は僅かに三千に過ぐべからず。」〈甫庵信長記〉
の対応関係があり、トータルが三千となってるということをいいながら、三千以外の別の語りをしているのではないか
というのがいいたいところです。
@「纔」の「糸」なし、とA「纔」の二通りが大修館の辞典にあります。いいたいことの一つは
このワズカの読みは太田和泉守が始発ではないか、ということです。つまり、二つの
「一説」以降はこの辞典独自のものかもしれません。〈広辞苑〉では頭に新村 出氏「自序」で
「・・〈大日本国語資料〉・・・大槻博士の〈大言海〉・・・殊に後者の校訂には深く参与し・・・前者の再刊に
関しては●僅少ながら接触・・・何かと参考に資せられて幸福であった。」
というのがあり、大修館のものと〈広辞苑〉のものとは連携がありそうです。〈広辞苑〉では「わずか」について余り
熱がなく、「わずか」は
(項目)わずか【▲僅か・▼纔か】・・・使用例
@ほんの少し 源氏の須磨の「―なる木陰いとしろき庭」・・
Aやっと。辛うじて。・・源氏帚木「―なる声・・・・・・」
Bみすぼらしいこと・・・五人女(五)「―なる板庇・・・」
となっています。@Aは意味が少し違い、▲▼の順番からいって●の字で@Aの「―」に宛てたいと
いうのは、確実でしょう。これは甫庵の字で、桶狭間作戦会議での
「僅か三千には過ぐべからず。・・車・・車・・国の境を踏み越へ・・父の遺言・・明日合戦すべし。・・」
の一文にでています。Bは調べなあかんのですが、▼は太田牛一以後の例だから、どっちにころんでも
「纔か」
(わずか)という読みはなかった、という立場からは、あまり大きなことでもないようです。すなわち、新村氏は
「後者の校訂には深く参与し・・・」といってるのだから、はじめから▲□▼の二つでは不備で、〈大修館〉のA
、「纔の糸なし」が□になければならない、「糸なし」を中抜きしてるから、こちらも手を抜いてもよいところ
です。「わづか」は〈奥の細道〉の「種(いろ)の浜」のくだりにヒラかれて出てきて(次の文の★)、「種」は「朱」
もあるかもしれないが
「種田(おひだ)亀」〈信長公記〉 種田(をひだ)信濃守〈甫庵信長記〉
があり、「種」はどこにもない「おい」の読みになっています。
「・・・(いろ)種の浜・・・・追風・・・浜は★わづかなる海士の小家・・・須磨・・・秋の風・・等栽・・」〈奥の細道〉
があり、種=(おい)=追 という太田牛一ものの読みを、芭蕉は意識していることを打ち出しているといえそう
です。「小比の浜」「小井の浜」に変じて「小浜」に一歩近づけている、といえます。そんな論法だめだ、と
いうかもしれないが、この地区で重要なのは「大飯」という地名です。
「種(おひ)の浜」→「大飯の浜」 「小浜」=こう浜(「小路(こうじ)」の例)=「高浜」
のような転換は自然に出てきたと思われます。つまり「おひ」という読みは辞典にも載っておらず、太田牛一
始発というのもありうることです。「亀」は雄略紀の「亀」、北海道亀田半島、伊勢亀山の「亀」などがあり、
「信濃守」は「荒木信濃守」「朽木信濃守」があり、朽木は
「若州神宮寺山(脚注=小浜市)・朽木山・・・」〈信長公記〉
があり、本能寺の種田から小浜へきてます。その足がかりが太田牛一の独自の読みです。「種の浜」のくだり
の句の「須磨」は、麻生氏の脚注の訳では〈源氏物語〉の「須磨」となっていて八幡太郎の源氏が秋田の
風と結びついていますがこれは別として、「わづかなる」「小家」がでています。これが福井で
「・・あやしの小家(こいえ)に夕顔・・・はは木ゞ(脚注=帚木。藜科の一年生草木・・)・・等栽・・」
があり、「あやし・・夕顔」の脚注は
源氏物語夕顔の巻に、「・・・あやしき・・・げにいと小家がちに、むづかしげなるあたり」とある
とあり、ここでも「いと」がでてきています。須磨と帚木は「わづかなる」「いと」の「小家」が共通です。
先ほどの「車」の入った太田牛一の「桶狭間」の一文や、「堀」の登場する「みのうら」(「箕浦中入れ」という
語りがある)が出てる文にある
「みのうら表、堀・・・敵かたへ見えざる様に山うらをに廻り、みのうらへ、・・堀・・纔かに五六百には
過ぐべからず。・・・」〈信長公記〉
の「纔かに」は糸がついてるものですが、大修館の辞典では、「わずか」で引けば右側の字のものが
あり、右側の字は11画でしょうが、これでは出ていません。つまり、従って中国の漢字にはあって「わづか」
という読みが日本式といえそうです。糸偏のついたものは絹が入ってきて「まじる」という意味あいがあり
芭蕉も「小貝にまじる萩の塵」を入れています。糸偏のものをわづかと読ませるのは太田牛一始発といえ
そうでルビなしでそのように読むということでしょう。まあ本当にいいたかったことは、機械で出てこない
「囲繞」(いにょう)(いじょう)「ぐるりととりまくこと」〈辞典〉
があり、桶狭間の戦いは太田和泉守の「中入れ」作戦があった、ということを大槻文彦はいってるということ
を形を変えて表現されたといえます。つい、いろいろな説があるとなってしまいがちですが太田牛一は
流血を恐れてのこういう作戦で戦ったということを難しい漢字に託して念を入れたということになります。
(281)〈広辞苑〉の反乱
大槻玄沢の流れの人は太田牛一のものの読みを辞典に入れ、新村氏もそれを引き継いだ、ひょっとして
〈広辞苑〉もこの「中入」の読みのために、何かやる必要を感じたと思われます。
ほな〈広辞苑〉も、中入・中抜きしとこ、「わずか纔」のところを、検索しにくいようにやっとこ、
そやそや、そうしましょう、そうしましょう
といって、第四版ではページ数を狂わしていて、検索しにくいことが私の負担となって
はねかえってきました。つまり、頁数の連続が途切れ、次の@BACに修正せんと読めなくなっています。
いまの並びは、
@ 1ページ(頁の上「あ」)〜2730(頁の上の始め「ろ」)
A 2763(わ)〜▲2772(わをん) 2763(わ)〜2772まで(19)は「わ」行
B 2773〜2794 ほかの解説文
C 2731(ろ)〜▼2762(わ) 2746〜2762まで(16)は「わ」行(2752に「わずか」がある)
D 2795〜2858 Bの続きの解説文
となっており、@→Dとスムーズに1〜2858ページと流れるべきところ飛びなどがあって滞っています。
実際、項目をチエックしながら、やっているとどうなることやら、と思いますが
Cを、@Aの中に入れれば、大体すむことです。あとBをCDの間に入れると終わります。
CをBCの間から抜いてDの外へもってくればかえって、間違っているところだけわかって、
わかりやすいのですが、2858の最後という効(き)きは生かすことになるので、そうしなかったといえます。
「わ行」はCAとつなげば、2746〜2772の26頁が連続しますが、2752の
わずか
は▲2772−10=▼2762−10=2752という位置に属しており、これは2731+21=2552という位置
にあり意識的といえるものです。しかしAで探すから、Bのあとにあるとは思わないから、みつからない、
あきらめてしまうことになりかねません。「わ」の半分以上はAにあるから案外、全体的にはおかしいと
いうことには気が付きません。〈広辞苑〉索引の並びは
わずか/わずき(「未詳。区別の意か。手段の意とも。」)
となっています。何で「わずき」が「未詳」かわからないが「手段」で「わずか」を語るのかも。
「中入」とセットの糸偏の「わづか」と小浜の「わづか」が「いざさらば」の大槻文彦−「中入」を語る操作
があった、「身を立て」「名を上げ」というのは、まあちょっとした文言といえばそれまでですが杉田玄白の
門弟という大槻玄沢の孫が言うのはおかしい、乾坤一擲の思いで入れたものととれます。末は博士か大臣
か、そういう大志をもてということではない、
現政府の官憲の起こしたい風潮とはこういうものだという反語というものでしょう。人間の人間による大殺戮
をともなった、あの戦争への道筋への体感が色濃くのしかかってきてるものです。この文言はなんとなく
引っかかると思いながら、いまも、まあええやろ、ときていることは、全般に、戦争前の気分を
今日に引きずってきています。なぜこんな歌の歌詞になったのか振り返ることもいります。昔は、それなりに行政に
考えさせようとするものがあった、平成ではなくなったものが。
「卒業式・歌」の問題では、裁判所が、卒業式の国歌斉唱の問題で統一的に行政の支援を打ちだしてきて
いて、下級審の判決を、上級審で裁判所事務局が裁判官を選んで、覆してきています。
行政が作り出した罪によって罰せられ生活を脅かされ助けを求めた人の生活を破綻させる判決を出し続けて
います。
○判決は、敗訴側の根底にあるものを水に流したもの、あの戦争を後ろのほうへ押しやった論理によって
いる。良心的な人を苦しめている。
○大きな犯罪を犯していながらもう責任問題は済んだという表明と同じ。
○国旗・国歌は抗い難く一方向化を強いる道具だった
○処罰すべき項目をの条例によって増加させている。道徳的な悪とはいいがたいもの。
○物体に準ずる国旗国歌への敬意不作為も罰せられないのは当然。
○罪刑は法定主義だが、地方の行政長の癖による、まだら模様の適用されてて拡大の傾向にある。
○国歌を凶器にして、生活者に出血をしいているのはどういうことか。行政が愛国的でない。
○罰の大小だけで妥協しようとしてるのはおかしいのではではないか、
○納税の拒否ではないから国家側が引くべき話だ、
○国会は法律だけ 作って大人の傍観で逃げてる、強制はしないといって罰則は容認している
○知事と教委が国歌で罰するため、内面を炙り出す場を作ってるという珍妙なことをやっている、
○教育の崩壊をいうなら、こういうのをやってることが、生徒をしらけさせている。
○教育の崩壊をいうなら、学校以外のところが不祥事教育をしている、その膨大な部分はどうなんか、
・・・・・
昔は〈広辞苑〉に踏み込む元気があった。学者・行政側にも危惧を感ずる空気があったので咎められる
事なしできてるということでしょう。
(282)守山
丹羽中入れに関して岩崎城の丹羽の最後の「丹羽兵蔵」ですが、これは桶狭間直後の信長上洛の一節
で出てきます。
〈信長公記〉では
○ 「桶狭間」の戦いは「天文21年」(実際は、甫庵の永禄3年)となっている(24節桶狭間の記事)
○ 次の節は「★翌年」となってるから(◆天文22年)になる、といいたいのか、思い直して(永禄4年)
に頭をきりかえたのかどうかはわからないが、太田牛一の述べ方からみるとき天文22年の事件を
永禄4年相当の記事に織り込んであるのではないかと取れる、つまりある一節が人とか年代を変え
て二つのことを述べてるというのが普通ということになってる
ということがあります。★の記事は、25節ですが、◆の年でもあります(天文22・永禄4年)が
一、「三州梅が坪」の戦い(脚注=永禄四年)
一、「御舎弟勘十郎殿」の「●弘治四年{戊午}霜月二日」「御生害」
という二つの記事があって「永禄四年」および●の年でもあります。
●の脚注は「弘治三年」となっていてこれは合っています。また「弘治四年・・霜月」
という年はなくて、弘治=(四年)=永禄 という意味で「四年」としたということでしょう。また
●の{戊午}は年表をみると、「永禄元年」の干支にあたります。実際は「弘治」は三年しかないので
「弘治四年」というと「永禄元年」のことで、また干支も「永禄元年」のもの
ですから、●は「永禄元年」のつもりで読めばよいことになります。
また●の「勘十郎」の事件は甫庵では弘治三年とかいてるから、弘治四年というのは間違った年号を
意図的に使ったということでよいのでしょう。通説で、川中島の戦いで一番有名な4回目の戦闘は
「永禄四年」
とされていますが「永禄元年」であったというのがいいたいところと思われます。常山は、山本勘助は弘治2
年(1556)の戦死説もある、永禄4年の戦いはなかったという説もあることを書いています。あの戦いは、
有名なので、もう覆せないと思いこんでしまいやすいものですが、「永禄四年」ではなかったという説もある
ことはあるわけです。「山本勘助」の場合は、戦死はなかった、つまり生存説でよいのかも。
「山本対馬守」(注:「山城静原(京都府静原市原町の住人」)
「山岡対馬守」(考証名「山岡景佐」)
が似た表記です。「弘治2年」の山本勘助戦死も、太田
牛一の私年号を使って述べてられているので、汎用性はなしといえそうです。まあ見間違いかも知れない
が、太田牛一は〈信長公記〉では「弘治」年号は、●だけに使った、つまり四年だけに使ったということです。
もう一つ「弘治弐年{丙辰}八月廿四日」もありますが、これは●が一件だけでは、つい出来ごごろで書いて
しまった、筆が滑ったと思われてしまいかねない、もう一つあれば使いたくて「弘治」を入れたというのが見えて
きます。つまりこの
「弐」
というのがおかしいわけです。もう一つおかしいのがあって、
「■天文弐十弐年{癸丑}四月十九日、織田上総介信長公十九の御年・・・」〈信長公記〉
の「弐」があります。転んでもただでは起きないという文献だから、これは上総介公の誕生日が四月十九日
であろうといってきた部分ですが、そうとすると当時は満年齢もちゃんと意識されていたということになります。
が、このおかしさという部分は、弘治の「弐」と共通してるということです。つまり桶狭間を「天文廿一年」と書い
てしまった、その煽りを食らった■があるということで、これが先ほどの◆の部分です。この年に上杉謙信が
上洛して将軍義輝に会っています。桶狭間翌年に目が向きますと、桶狭間翌年の記事のあとの一節が
「去程」が出てて桶狭間前年の「織田信長の上洛、丹羽兵蔵」が頑張った記事が出てるということ
になります。弘治が終わった永禄元年に弘治年号の通達をだしたのですから広く一般には、弘治で史書
が書かれていなかったはずで、大田牛一関連書類だけに使われた、それを幕府が追認したということ
になるわけでしょう。
(283)秀吉信長に仕える話
桶狭間から川中島に話を飛ばした弘治4年の成果は大きいものですがもう一つ弘治4年ののインチキと桶狭間
天文21年の誤記のセットによる成果について一件触れてみたいと思います。このためかというほど大きいことです
です。桶狭間の戦果は太田和泉守が織田信長を助けたことによる戦果でこれを強調したいところです。
〈クロニツク〉に次の文があります。1554天文23年の条。(〈クロニツク〉〈年表〉では翌弘治元年に清州城
攻略となっている)
「故郷に帰ってきた18歳の若者豊臣秀吉信長の小者となる。
各地を放浪して生まれ故郷の中中村(なかなかむら)(名古屋市)に帰ってきた18歳の若者が幼
(おさな)なじみの紹介で織田信長(■21)の小者(こもの)となった。のちの豊臣秀吉である。・・」
があり、桶狭間のときの、織田信長26、太田和泉守33というのは既述ですが7歳の差があります。ここの
信長と秀吉の年齢差が三歳ということです。ここで弘治のインチキを利用して秀吉年齢をを10年調整すると、
21と28ということで、7歳差になり、太田和泉守=豊臣秀吉ということも一緒になり、この話は治まります。
ただ10年調整など突然出てきてけしからん、というのがあるので工夫が必要になります。
もう一つこれに関して、年表に
「永禄1年9月、木下藤吉郎、織田信長の配下になる。〈閣〉」
があり、これは、秀吉が
「永禄元年九月朔日、直訴せられける・・・」〈甫庵信長記〉
となっているのが援用されています。桶狭間の二年前に雇用されたということですがこれだと桶狭間の勝利に
対する貢献は考えられません。しかし
永禄三年(1560)=「桶狭間の合戦」=天文廿一年(1552)
としましたから、8年前が桶狭間@の年としてよい画期的なことがあったといってそうだとも取れるところです。
そうとすれば、〈クロニツク〉の記事の年(天文23年)とは違いますが、天文21年に太田和泉守は、織田信長
に仕えた、〈クロニツク〉とは二年違いの天文21年というものがでてきます。■は数えの年齢だから、2年前
では19歳になる、というような大雑把なところ(10年の調整が消滅すればよい)でも、これでよいはずです。
1552+8=1560 19+8=27
一方昔の人も母公から生年月日はきっちりと聞いてるから、
一番合理的な年齢の計算は今日で言うように、今日現在18歳何ヶ月というのが合ってるということは、
知ってるわけで、明治以後、終戦後だけのことではありません。明治以降、数えでカウントしてたので
プラス2が自然に出てくるので、いま昔のことを述べる場合に多少助かっていますが、これは今のカウントで
正解でしょう。しかし、年号の二重は
さし障りが出ています。これは世界共通に一元化する必要があります。これは西暦といいますが
西方のアジア暦でもあり〈日本書記〉が国際化を意識していたものです。天文21年を太田和泉守の就職の
年とするのは理解されてるか、ということですが
「(十三)一、●去程に・・・簗田(やなだ)弥次右衛門・・知行過分に取り、とり大名・・・弥次右衛門
上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣内々申し上るに付いて御満足斜めならず。或時・・・」〈信長公記〉
があり、これは太田和泉守(今で言う)夫妻とみてよく、まあ内定でよいのでしょう。つまり、おさななじみの推薦
があったようですから一発できまりでよいはずです。長名(おさな)の人の遺言によってそうです。
●に脚注があり
「天文二十一年(一五五二)のことであろうか。」
とありこういう書き方のときは断定でよい
のでしょう。前節、(十二)に「八月十五日・・・海津と申す村(の戦い)」があり、これは甫庵で「天文廿年」
になってるから●の脚注はあってそうです。次節は
「(十四)一、■七月十二日、・・・・・又はざまの森・・・柴田角内は・・堀・・毛利十郎・・・」〈信長公記〉
があって、これも年が書いてないから■に脚注が補っています。(七にルビ=一三がついててこれは脚注
番号(一三)に反映し
「一三 天文二十三年(一五五四)。〈尾張国名所図絵〉は▲天文二十二年とする (補注一九)。」
となっています。二つ書いてるからどっちかわらない、しょうがないから、補注欄の一九をみると
「一九(三二・三三頁) 尾張守護・・簗田弥次右衛門・・天文二十三年に比定できようが確証はない・・」
となっています。よけい分からなくなりましたが、▲になんで西暦が書いてないか、といいたいが、当たり前
じゃないか、(一五五四)を書いたのだから、(1553)に決まってるからだ、というだろうし、
■の注が、▲の
文(全文)なのに、それ■(ルビ一三)は三三頁にあり、三二頁は関係がないのに載っているのはおかしい、と
いうと、それは関係があるかもしれないではないか、よく見ろ、というだろう。その通りやってみよう。
▲の文などで天文二十二はどうも分が悪いといえますがこれは(十一)節において
「(十一) 天文弐十弐年・・四月十七日、織田上総介信長公十九の御年のこと・・・」
があり、22年は一応先に載せてるというのがあります。(十二)は「海津合戦」で既述で
「(十二) 八月十五日(脚注天文二十一年・一五五二) 甫庵では天文廿年でこれが合ってる
「(十三) 去程(脚注=天文二十一年(一五五二)のことであろうか)・・尾張守護・・・簗田・・・」
「(□□) 幻の「天文二十二年」 (分の悪い「尾張」の▲で、補注一九で否定。)
「(十四) 七月十二日(ルビ=★一三)・・脚注=天文二十三年(一五五四)、▲二十二年(もある)
があることになり、いいたいところのことは
(十三)の記事は、天文二十一年太田和泉守が、十九才(数え20歳)の織田上総介に仕官した
ということを書き入れた、ということです。補注一九を生かしたものでしょう。
〈クロニツク〉などでは豊臣秀吉は天文23年(1554)信長21歳のときに
仕えたということになります。桶狭間の天文廿一年の誤記のことが気になってきたということです。
ここで注など書いた人の意図がなにかと探らないかんということですが。
★(一三)が三二頁にある(十三)に行き、
一三は▲の文の(一九)=22年の(十九)にかかり、十九歳も十三に掛かる
ということになります。
▲に西暦が書いてないのは、1553ではなく1552と1553に二つになるからでしょう。「弐」の意味を一つ
を二つにまとめるという意味があるとすれば、
▼@(十一)天文二十一年(1552)
(十二)天文二十一年(一五五二) (十二)天文二十一年(1553)
(十三)天文二十一年(一五五二) (十三)天文二十一年(1553)
▼(十一)天文弐十弐年信長十九(1553) ▼A(□□)▲天文二十二(なにもなし)
(十四)天文二十三年(一五五四)/▲
において
本来左の位置に▼が座るはずのところ、(十一)節として、最初にもってきてるので、右のように▼@▼Aの
ように二つに分割した感じです。まあ、「弐」「弐」という変わった表記を持ってきて、位置を変えたりしてるのは
これによって特別なことを説明しようとしており、脚注、補注、人名注などがついて行ってる様子が伺えるところ
です。うまく説明できれば、満、数えなどの年齢の表示の公式などは一つでてくるところでしょう。
筆者のテキストがもう擦り切れてしまってて、特に細字の部分が多く読めなくなってて、再刊はないという
ことだから、今のうちに引用しとこ、としてるので、そちらからの説明に偏ってピント外れになっているので
ようわからんというのがあるはずです。そうところは大抵、言ってる本人もよくわからない、袋小路に入って
しもたと思っているので、逃げとくというのもありますが、〈信長公記〉の注がおかしいということもないわけで、
す。いま清水又十郎の一節をやってきてますがこの一節のはじめがこの
「●天文弐十弐年{癸丑}四月十七日・・・上総介・・十九の御年・・」
の文で、したがって外国の世界が漢数字で表現されたかもしれないと思っていました。外国というのは古代
中国大陸のワールドもあり、直接的には朝鮮半島、沿海州のことがあり、それも出てる一節です。そのため
この●は天文二十一の重層の表現ではないかと思っていました。位置はそうなっています。そのため(十二)
は天文廿年なのに脚注が間違ったと思われます。
天文二十壱年 東アジア風
天文二十一年 西欧風
−−−−−−−−
計 天文弐十弐年(▲西暦で表示できない、▼@の1552)
のようなことで、計は日本風の二重層になった一つのものという感じのものです。まあ理屈をいえば
はじめの、「弐十」は、(20+20)/2で、同様に後ろの弐は(1+1)/2で1になるといってそうです。
〈信長公記〉は「弐」「参」(「天正参年」の例)がありますが「壱」はなさそうです。これがないとおかしい
のは、いまも「壱」「弐」「参」「拾」が使われているからですが、日本史が語れないはずだ、という面でも
おかしい、つまり「卑弥呼」のあと
「壱与」(「台与」もある)
が出てきて、そのときに日本の動乱が鎮まった
というのが常識になってるからです。「壱」は異字があるようで機械では表せませんので、この字一本で行き
ますが古田史学でこの「壱」が真っ先に出てきますから,お馴染みのものになってます。「台」の難しい方の字
にも似ているし、「伊豆」→(壱豆)とすると、これを上下に少し圧縮したものにも似てきます。太田牛一は
「台」(難しい字も)は使っていません。やはり「壱」相当の字や「台」を出すと魂胆を見破られそうです。壱岐
という地名は貴重なものです。
「壱」に変わるものは「市」かどうか、
「古市播州」〈信長公記〉(考証名「澄胤」)、「(一四五九〜一五〇八)大和古市(奈良市古市町)
の豪族。茶人。」
という「市」もあります。これは〈甫庵〉太閤記に「珠光古市(しゆくわうふるいち)播磨守」というのも出ている
人物ですが、本文では
「宮内卿法印・・周徳(ルビ=八)さしやく・・大黒あん・・炭入・・古市播州所持の高麗はし、三種。」〈信長公記〉
があり、八の脚注は
「八 珠光の門人羽淵珠徳(〈宗達茶会記〉)・・・のつくった茶杓。)」
となってて、「さしやく」は「化(クハ)テキ」−天王寺屋竜雲の一節で出てきて、そこで又脚注に「茶杓」が
ありました。ここでも「宗達」がでています。大黒は大黒天の大黒もあり、古市で高麗が出てきて、「はし」が
「端」=「箸」で、「三種」の「種」=澄胤の「胤」であり、「種」=「おひ}だから、「笈」で「津田宗及」の「及」も
「亀」も出てきます。「宮内」の「宮」=(きゅう)=「久」「九」ですが、「内」は「内裏(だいり)」の「だい」でもあり
ます。「台」の難しい方の字が一件ありました。
「お宮の御方 十三歳 一臺御息女」〈甫庵太閤記〉
があり、「一の臺と申すは、菊亭右府の(きくていうふ)の息女なればいずれもよりは上におはしけり。」と
なっています。この「臺(うてな)」は邪馬台を(と菊)ボンヤリだしているものかも。「宮」は、八幡宮の「宮」
のような大きなもので、「宮門」(みかど)があります。「播州」の「播」は、本文では
「因播国とつとり」〈信長公記〉
で使われています。地名索引では全部「因幡国」に統一されており、播州=(播)=因播 がバレたら
えらいこっちゃと、避けられています。この「因幡」に「稲」が挟まれて出てきて、その中に「因播」がある
のが重要です。つまり地名索引では
伊奈/伊奈口/因幡/稲庭地/いなばちの川/因幡国中/因幡国とつとり(とつ取・鳥取)/因幡国とつ
とり表/因幡・伯耆の境目/稲葉山/いなふの村・・・
となっており、ここの「幡」は全部「播」にかえないかんということですが、それはそれとして、「稲」と「稲葉」は
因幡の白兎、播州の中に交ぜっています。「八幡」=応神天皇の「八幡」ですが「因」=能因の因、古くは
「蘇因高」(「小野臣妹子」の唐名)の「因」もあり、太田牛一は
「稲葉」「稲葉伊豫(守)」「稲葉伊予守(甫庵)」「稲葉伊豫父子三人」「稲葉伊予守父子」「稲田九蔵」
などを設定して受けています。織田、池田、とともに父子三人がある、ややこしい筆頭の一つが「稲葉」です。
江蘇−蘇州など「蘇」は外国に端を発していそうですが、
蘇我稲目宿禰{満智宿禰の子}
の存在は大きく、宗我満智は400年代はじめ、征東大将軍、安東大将軍倭国王が君臨していた当時、
その域内の有
力者といえそうですが、この「稲」は背景には「稲作」の「稲」があると見れそうです。ここの「稲田九蔵」からは
自然に般若の「鉢」が出てきます。
(284)蜂須賀一党
「稲田九蔵」となると
蜂須賀小六の一の郎党が稲田氏で幕末まで家中の筆頭で大名扱いにもされたという稲田が下地になった
ものでしょうが、稲葉より稲田の方が太田に近く、「九」「久」を稲に結び付けようとする表記といえます。
「蜂須賀正勝」(「(〜1586) 阿波に領国・・愛知県海部郡美和村蜂須賀村・・」)
(文中表記「蜂須賀小六」「蜂須賀彦右衛門」〈信長公記〉)
があり、野武士の頭領で、盗賊も稼業だったという人物で、「藤吉郎」がここに身を寄せてたというので有名
です。
ウィキでは大永6年の生まれとなっており、テキストでは伏せてあります。太田和泉守の生年と同じになって
ると、どう話が進展するかと考えたときにちょっとやめとこか、そうしましよ、ということでしょうが、色んなことが
同時に相互に証明されそうなところです。蜂須賀の子息の世代との関係も、稲田の地位を高めることになっ
ていると見受けられます。
一時早い段階で 蜂須賀正勝ーーーーー蜂須賀家政
‖海老名勝正(文中表記「えびな」「丹羽兵蔵」)
三輪氏?
が成立して、「海老」とか「森」とか使えないので蜂須賀の姻戚(義兄弟とも)の「稲田」(大炊助)〈類書〉の
養子という形にしたともとれます。「大炊助」は岩倉の縁者で
「前野小次郎尉、稲田修理亮、兵衛様(織田信賢=岩倉城主)に意見候。」〈武功夜話〉
があり、永禄二年に国内最大の敵、岩倉城が開城したので、桶狭間の戦いに間に合ったわけでこういう懐柔に
貢献したのが稲田で太田和泉守が高く評価した人物といえそうです。本文では一回限りで
「長谷川与次・・飯田・・芦毛馬、武田四郎・・大鹿毛・・大鹿毛・・三位中将信忠卿・・武田四郎勝頼
●最後にさされたる刀、滝川左近・・信長公へ上せ・・使・・★稲田九蔵・・武田・・武田・・長谷川宗仁・・
飯田・・大嶋・・飯嶋・・陣取・・」〈信長公記〉
の★で出ているものです。戦国の人名というサイトからみると、どうしても「稲田九蔵」という無名人は孤立を
免れません。これが古い日本という背景のもとに出てきてると読める段階にくると、「稲」「九」の座りがよくなり、
「稲」はやはり東国の属性というものとみてると思われます。戦国においても稲田は蜂須賀の一の家老と
いうのは知られており、武田左吉−滝川(多芸川)左近−(武井)ときて、蜂須賀−安井氏−道家尾張守
などのことはいってきてますので、武井夕庵に、稲田−蜂須賀というのはありえる、「九蔵」というのも
「久蔵」(「桑原」・「水野」)があります。「因幡」「稲葉」「稲庭」のなかの「稲田」ならば「毛」「毛」「毛」「鹿」「鹿」
「馬」、秋田の「三位中将」、倭の武王の「武」「武」「武」「武」、関東管領の「滝川」とか「伊那」が出てきて、
「毛」が、「九」と反応して「丸毛兵庫頭」を出すとすると、
「丸毛兵庫頭」=(兵庫頭)=「蜂屋兵庫頭(守)」
から何となく「武井夕庵」がでてきます。つまり「武」とか「安井」の「井」とか、「安」が、「庵」=「安」などで
暗黙に語ってくると、頭の中では出来上がってしまうところです。夕庵とか野盗の蜂須賀小六は物語的
名前で、登場回数が非常に少なく、まあ武ギ郡の「丸毛兵庫頭」、蜂の「蜂屋兵庫頭」がたくさん出てくるので
またこの二人は表記でも関係ありそうだから、一応
丸毛兵庫頭(武井夕庵) 関係者:「道家尾張守」「安井(女房)」
‖ 「稲田九蔵」「稲田大炊」、「丸毛不心女房」
蜂屋兵庫頭(蜂須賀小六) 「夕庵」「蜂屋」・・・・
という線に収斂できるのかもしれないことになります。そらおかしい、盗賊で強いイメージの蜂須賀と蜂屋兵庫
頭が一緒だというのは納得できん、ということになりますが「蜂屋兵庫頭」は生年すらわからない人物です。
「蜂屋」の索引では
蜂須賀正勝(「小六」「彦右衛門」)/蜂屋伯耆/蜂屋般若介/◆蜂屋頼隆(「蜂屋」「蜂屋兵庫(頭)」など)
/服部小藤太
となってて◆の注はテキストでは
「(〜1589)美濃加茂郡蜂屋出身という・・のち越前敦賀領主。」
となってるだけで出自も、なにもないものです。しかるに◆の文中表記は
「蜂屋」「蜂屋兵庫」「蜂屋兵庫頭」「蜂屋兵庫守」
の4つで24頁にも亘って登場してくるので、反面蜂須賀小六は2回だけの登場というので、鉢(須賀)=鉢
(屋)で引っ付けるのがよいという感じです。
信長は安井女房を頼りにしており、野武士の棟梁、蜂須賀の小六が女子でもありうる
とすると何となく面白みがでてきます。安井氏衣裳の世話もしており、おそらく話好きだから、矢矧の橋で、
藤吉郎を拾った話などしてると、信長も抱腹絶倒といったところでしょう。蜂須賀小六と藤吉郎はウィキでは
十歳差というのがでていますが、
太田和泉守=(大永六年生)=蜂須賀小六
は「武井夕庵」が介在してるということになり、こうなると、ほんまの蜂須賀小六は年少でも太田和泉守の義兄
というのが実存的関係でみたところといえそうです。武井夕庵に蜂須賀が付いてるとすると、これは
「頭衆七人・・・南蛮伝来の種ヶ子島飛び道具の妙手。・・・信長様珍重なされ・・」
「川筋七流の輩下の者数千人群牢す。」「川筋七流、鹿兎飛び蓬草茫々として作毛立たず。」
「蜂須賀党奇異なる馬印あり。■卍という奇異なる馬印蓬原に翻って鬼没なり。」〈武功夜話〉
のような武勇の蜂須賀だから、桶狭間でも2ー3千の兵力は夕庵の旗下にあったともいえます。
まあ、夕庵の2回目の結婚くらいの関係か、はっきりしませんが
武井夕庵
‖(丸毛兵庫頭)(蜂屋兵庫頼隆)−−−−−−−−−大谷吉隆
‖稲田大炊−−−−−-−−−−−−-ー−−−ー−蜂須賀小六家政
蜂須賀小六(安井女房・蜂屋兵庫守)−−−−−−−−蜂須賀小六家政
のような関係が浮かびますが、またあとのことに・・・。 ●は
武田四郎勝頼=「最後にさされたる」=千秋紀伊守
で、「悪七兵衛景清所持あざ丸」−「惟住五郎左衛門」−「熱田奉納の刀」というのをが想起させてますので、★@は
惟住=兼松ということになるかも。この刀の出所を問題としてるのかも。これは草薙剣のことを出してみたの
「田島千秋」想起だと、丹波からきており、古い物になります。なぜ勝頼に最後にさされた刀になったのか疑問
ですがいつ亡くなったかよくわからず「最後」が問題となりそうです。阿君丸のときも長谷川宗仁がでていました。
(285)矢作⇒守山の「大和田」が出た
三河の
「矢はぎ」〈信長公記〉 (「矢はぎ川」「矢はぎの宿」も地名索引にある)
は〈首巻〉で「備後守(信秀)」「中野又兵衛」などの関連地点としてでてきます。蜂須賀小六も「矢はぎ」で
出ます。「はぎ」とヒラいてある意味がまだよくわかりませんが、あちこちにある「矢作川」などが念頭にあるかも。
「矢」が国語辞典では
やたて「矢立」/やだね「矢種」/やたのかがみ「八タ(尺+只)鏡」/やだま「矢玉」/やたら「矢鱈」
となっており、何となく「八」が「矢」に入り込んでおり、地名索引では
やたか(八島か)/矢田川40/矢田の城162
があり、ここでも「八」が出てきます。40頁に●「守山入口矢田川」はありますが、次の「矢田の城」162には
本文に該当がなく、多分40頁にもう一件「守山の城」があり、矢田(守山)の城40頁としたかったと思いますが、
162−2=160などとして、あちこちやってると、地名索引、「大矢田260・263」に行き当たり、
ここで
「・・須磨・一谷・・ココに▲大矢田(ルビ=八)と申候て・・・尼崎・・・彼城主安部二右衛門・・」〈信長公記〉
の一文によって「安部」が出てきます。索引では
安部二右衛門/尼崎小畑
があり「安部貞任」−「八幡太郎」を出すまでもなく「小畑」−「小旗」−「小幡」「木幡」がでて、
「幡」=(まん)=「万」
は蜂須賀の「八」−(や)−「矢」(はぎ)からも出てきます。関東徳川、旗本八万騎というのも勝海舟はそんなに
になかったといってるようですが400年ごろの高句麗の騎馬軍団の数を言ったのではないかととれるところで
す。要はあの古い時代を呼び出そうとするもの常に働いていたといえそうです。(ルビ=八)「大矢田」の脚注は
「大和田であろう。大阪市西淀川区▼大和田町。尼崎は兵庫県尼崎市。」
となっています。頼りなさそな「大和田」ですが、ここで40の「矢田川」が●の「守山」に懸かって一つの
結論が出されたといえる場所があります。守山は「草津」で「丹羽兵蔵」が目指した地で
「守山入口矢田川−▲大矢田−▼大和田」→「大輪田」
が、古い近江の都のあったところ、柿本人麻呂の近江古都を偲んで歌った短歌
ささなみの志賀の{一に云ふ、比良の}大わだ淀むとも 昔の人にまたも会はめやも〈万葉集〉
の「大わだ」が説明もまったくないもので、それを守山にもっててきたものと思われます。これは、二つが
重なっていて成務天皇の穴穂宮(不明)、天智天皇@の大津の宮を視野に入れて、清寧・顕宗天皇の
「近明日香八釣宮」(明日香となっているが近江と思われる)の「大矢田」−守山を特別出した
ものと思われます。
(286) 蜂須賀の左万字
先ほど
「蜂須賀党奇異なる馬印あり。■卍という奇異なる馬印蓬原に翻って鬼没なり。」〈武功夜話〉
がありました。蜂須賀の馬印は「左卍(左まんじ)」で、後年のナチス党のハーケンクロイツはカギの向きが
逆の(右マンジ)というようです。阿波踊りをドイツで紹介したときに、卍紋が浴衣に染め付けられてるので、
法律に抵触し、その使用を自粛したということがあり、第二次世界大戦の爪あとは国旗にも及んでいます。
日章旗も済んだことではなく、服従を強いた道具であった、今も政治家に頭を下げさせています。
これが「鉤(かぎ)十字」というのは知られていますが、これは〈広辞苑〉では「ハーケンクロイツの訳語」と
なっており「ハーケンクロイツ」がなければ生まれてこない語句ともいえそうです。この「鉤十字」
という訳語の「金+句」は安閑天皇(継躰第一子)の「大和国勾金橋宮」の「勾」「金」が想起されます。
訳した人は、なんとなく古代古王朝をみてるといえそうです。〈古事記〉では安閑(廿八代)は
「勾(まがり)の金箸(かなはし)の宮」(脚注=奈良県橿原市曲川町。)
となっており、「鉤」は「鈎」で使われ、「勾」=(まがり)=「曲」、「橋」=箸墓の「箸」、であることもでてい
ます。〈信長公記〉でよくでてくる「曲」(「曲水」の「曲」)は「勾」だから「句」で、「倭」をみてるともいえます。
安閑御陵は「河内の古市の高屋の村にあり」〈古事記〉となっており、「高屋」が松永と絡んででてきます。
蜂須賀の卍は
「■卍という奇異なる馬印蓬原に翻って鬼没なり。」
のように「蓬(よもぎ)」「鬼没」というのとセットになっていて「蓬莱」「古い日本」がでてきています。これは
蜂須賀の無名のときの馬印のようなので、蜂須賀小六一族の教養から出てきた「印」といえそうです。「卍」は
〈国語辞典・福武〉では
まんじ卍 卍の形をした模様や紋章。{参考}卍は仏教で「万」を意味する字形。
となっており、蜂須賀はこれを知っていて、馬印にしたといえます。石田三成は
大一大万大吉
の旗を掲げ、この万に■をはめ込んだともいえそうです。「大一」というのは「第一」というのもありますが
「天下一」の「大一」と思いますが、〈甫庵信長記〉のはじめに
「左府の士に大田和泉守牛(ぎう)一(いち)と云ふ人あり。」
があって「大田」には「大」が使われていて、下の「一(いち)」と合わせて「大一」が出来上がります。
平手清秀が自害をしたという一節で、
「平手中務大輔に子三人あり。嫡子五郎右衛門尉、・・・五郎右衛門尉名馬を持ちたりけるを
(上総介殿)乞はせ給ふ処に、某(それがし)は武勇を心がけ候間、御免候へと憎体(にくてい)
に申し上げ進せざりけり。・・・・・・
猶清秀は己が身の不善ある所を顧みて、君のみ悪しきにもあらず、我が諌の正しからざるにも
あり。又●愚息五郎右衛門尉が、駿足を上げざるも不義とこそ存じ候へ。・・・・
一、・・・・・天下国家治・・治・治道・・万・・福・・万・・・武王天下・・天下・・・
一、・・・万・・第一・・大本・・・大本・・猶根・・一・・一・・・又天下は天下の天下・・天下・・
一・・・殷に伊尹、周に太公望・・治・・近習に召使われ候かし。・・
一、一度天下・・・治・・★大忍大智大謀大義大勇・・天下・・大・・賢臣・・天・・大賢・・
・・・。尤天下の大器に当たらせ給ひぬるとは見及び候。・・・猶・・」〈甫庵信長記〉
があって、●の一文が決定打であって、●を大田和泉守と取れば、そのまま、読んで字の如し、です。「爾前」に
推薦はしていたが、実現しなかったのは自分の努力不足だ、といって最後の諫言をした文です。この内容
なら無理することはないはずで、病死で遺書が死後発見されて信長に届けられたということでしょう。
要は一般論で、人材登用なんどのことをいっても、誰も、そんなんいわれんでも、わかっとる、とかいって、
取りあわないわけで、太田牛一はそんなもんを載せても何の足しにもならないことは知っており、大田和泉守
と限定してあるから、価値ある一節となって、緊迫したものも出てきています。この前節に
「▲嫡子五郎右衛門尉」「▼五郎右衛門尉」
が出て、▲は「佐久間右衛門尉信盛」でこれは名実ともに織田一の大将ですが、▼が信長と「駿馬」のこと
で喧嘩した人物と書かれています。甫庵は「名馬」と書いていますが、太田牛一は「駿馬」と書き変えて
います。これが●の「又」のところに出てきて、「駿足」A(人材)に懸かっています。いままでの経緯を皆
しっていますから「駿足」を「馬」と解釈してさきを急いでしまうので、そこが踏ん張りところだったわけです。
平手を苦しめたのが太田和泉守の負けん気でもあって、信長とはじめはうまくいかなかったようです。太田和泉
守には譲れぬものがあったということで、平手の信長の説得がうまくいかなかったということかも。
ただ清洲城攻略のときに、接近したのは太田和泉守の方で、このときは、すぐに「御満足斜めならず。」で
よく来てくれたということだったと思われます。平手政秀@は自殺ではなく病死でしょうが、「自殺」でないと
意味するところがかわってくるのでしょう。 その遺書が織田信
長を揺り動かし、女踊りの信長の決意になったと思われます。二人が喧嘩したのは親しいというものか、
意識過剰の表れで、まあ異母兄弟かも、というのがありそうです。また注目させて二人の五郎右衛門に気が
ついてほしいということになるのでしょう。この★の語呂が江戸期の「大一大万大吉」となったといえますが
黒田如水の幼名が「万吉」というようで〈ウイキ〉、大万大吉に意識があったものかと思われます。たくさん出てきた
「治」は「明治」の「治」かも。
(287)万葉の万
同辞典で「卍」の前後をみますと、並びは
まんざい「万歳」 新年に、家々の門前で祝いのことばを述べ舞い歌う芸人。例「三河万歳」
まんざい「漫才」 二人の芸人がこっけいな話を言い合う演芸。かけあい漫才。▽もと「万歳」と書いた。
まんさく 「万作」 マンサク科の落葉小高木。早春、枝いっぱいに黄色の花をつける。果実は球形。
まんさく 「満作」 農作物がよく実ること。豊作。「豊年満作」
まんざら 「満更」 ・・・
まんざん 「満山」 山全体 「満山の紅葉」
まんじ 「卍」 ・・・万・・・
まんしつ 「満室」 ・・・
まんじともえ「卍・巴」 追い合うように入り乱れるようす。「卍巴と降りしきる雪」
まんじゅう 「饅頭」 ・・・「饅頭笠」
まんじゅしゃげ 「曼珠沙華 ヒガンバナの別称。 ▽梵語の音訳 天上の華(はな)の意
となっていて「万」「満」がやはり主で、「万歳」は「千秋万歳」が太田牛一によって頻繁に使われていて
「千秋」は「秋」ですから、千秋公園が秋田にあり、千秋紀伊守があり、三河万歳となると▽の補足がある
ので上方漫才が東国と結び付いてきます。「上方」というのは
(もと、皇居が京都にあったことから)京都・大阪地方。関西地方。
となっていて、盤余、奈良、近江に皇居があったときもあり、北上・下北・北方・北条(方丈)・上方となると
上方@はありえると思われます。「北の政(まん)所(どころ)」Aは、残存イメージを引きずって太田和泉守
かも(「毛利陸奥守大江(枝)朝臣広元」)。
ここで「万」「蔓」「漫」「鰻」「満」・・・の中に「卍」は位置づけられています、甫庵にも、曾良にも記号のような
字があり、北方からの字と取られていたと見れます。「万作」→「高木」−「高目」で高麗が出てきますが、これ
が、脚注の書き方によく似ています。「マンサク科」というのがよくわからないので完結しません。
「卍」はこれを○で囲んだ「丸に卍(左万字)」というのがウィキに出てますが
これを「ひだり万字」と読んでしまってよいのか「さま(ん)字」という余地も残すのか、つまり「左馬」という字に
行こうとする字か疑問ですが、とにかく「マンジ」は(「万」という「字」)で、これは〈万葉〉の「万」があります。
八幡の「幡」(まん)は本来「まん」ではなくて辞典にも「まん」はなくて「はた」で、芭蕉も「正八まん」として
太田牛一も「八幡(ヤワタ)」で出ています。したがって、この「万」は八幡の「まん」の語源の「万」ともいえるもの
です。〈万葉集〉は、聖武天皇の天平八年、葛城王が橘姓を賜りましたが、その上表文に
「臣葛城・・・橘宿禰・・・橘氏の珠名を流へ万歳に窮み無く、千葉に相伝えむことを。」
があり、この「万歳無窮、千葉相伝」の「万・、葉・・」にそれが表れています。太田牛一の「千秋万歳」の
「千秋」はこの「千葉」かもしれませんが、それなら「万歳千秋(葉)」もありえます。〈万葉集〉に「大和田」が
あったので、そこに、守山の矢田が飛ぶようです。〈万葉集〉から
「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
二九 ・・・橿原の日知(ひじり)の御代ゆ・・・空にみつ大和をおきて・・・奈良山を越えて・・近江
の国の ささなみの 大津の宮に・・・・大宮・・・大宮所見れば悲しも(或るは云ふ見ればさぶしも}
反歌・・・
三一 ささなみの志賀の{一に云ふ、比良の} ●大わだ 淀(よど)むとも 昔の人にまたも会はめ
やも
高市古人、近江の旧都を感傷(いた)みて作る歌{或る書・・・}
三二 古(いにしへ)の人にわれありや 楽浪(ささなみ)の古き都を見れば悲しも
三三 楽浪の国つ御神のうらさびて 荒れたる都見れば悲しも」
があり●が大和田で、これはどこやらわからないので太田牛一から「守山」に決まりということにしたいの
で(285)でやってきました。雑音はいろいろ入りますが〈信長公記〉から古い志賀の都は湖南に決めて
もよいということになるのでしょう。
、「淀」は「西淀川」で出ていました。「ささなみ」は脚注では「大津、志賀の枕詞」と
なっていますが「楽浪郡」の痕跡がありそうです。まあ楽浪郡に政庁があったころの大津の宮を云ってる
、二層になってるということでしょう。一般に言う「近江国大津宮」は天智天皇の都で、年表では、
667年、天智6年、中大兄皇子 近江大津宮に遷都する
668年、皇太子中大兄皇子即位する。・・・唐が高句麗を滅ぼす。(唐と新羅が連合している)
があり、ここで初めて出てきます。慈円は
「(39代)天智 十年{元年壬戊} 諱葛城・・・舒明第一子。母皇極天皇。近江国大津宮。・・・」
とかいており、天智は「葛城」ですから親も「葛城」というのでしょう。文中に細字の{天智天皇}も
あり、「天智」というのは大変な名前で、腕力に任せて、強引なことをやってのける中大兄皇子だけに
に使われう表記とは考えられません。葛城は、この唐・新羅の連合勢力によって敗れた、前の勢力を母体
にした勢力だからいま大変な国難に直面にしているわけですが、これを乗り切れる大宰相に恵まれていて、
天智という名前が出てきたといえます。つまり「蘇我入鹿」がもう一人の天智天皇といえます。蘇我入鹿は
大化改新という設定された劇場の舞台の上で殺られただけで、生存しています。この二人は兄弟
という関係にあるようで、兄弟はあの舎弟もあり、義理も多くややこしいことです。蘇我入鹿の次世代
の柿本人麻呂が干支60×3
=180年ほど前の辛酉のころの近江のことを偲んでいるというのが●の前後の歌といえます。これがどこに
あったかという問題が出てきてちがうところもでています。
もう一つ「大和田」の歌として、
「一〇六五 ◆八千鉾(やちほこ)の神の御世より 百船の泊つる泊と▲八島国・・・白砂・・白浜・・
反歌・・・
一〇六六 まそ鏡敏馬(みぬめ)の浦・・百船・・(注:敏馬=神戸市の和田岬・岩屋?)
一〇六七 浜清み 浦うるはしみ 神代より千船の泊つる ▼大和田の浜
右の二十一首は★田辺福麻呂の歌集の中に出づ。 」
があり、ここでも▼で出てきます。前記脚注の「兵庫県の尼崎」という「兵庫」も懸かってきています。▲も
「やたか」で「矢田」を誘導しましたが、この前から続いて出てるものです。●⇔▼は太田牛一ではドッキング
されています。おぼえとこ、先ほどの「守山入口矢田川」〈信長公記〉を。◆は(「鉾」は木篇)脚注では
「大国主神の別名。国家をを経営した神と伝えられ、本集では物事の由来の古いことをいう
場合に引かれる。」
となっています。★の歌集21というのはどこまでか、遡ってゆくと古い都をなつかしみ、讃える歌がでてきて
「寧楽の京の荒れたる址を傷み手惜しみて作る歌三首」
「寧楽の故(ふ)りにし郷を悲しみびて作る歌一首」
「一〇四九 なつきにし奈良の都の荒れゆけば 出で立つごとに嘆きしまさる」
「久邇の新しき京(みやこ)を讃むる歌・・・
・・・天の下・・・八島の中に・・・山城の 鹿背山・・・布当の宮・・布当の原・・・・大宮所・・大宮・・
一〇五一 ●三香原布当(みかのはらふたぎ)の野辺を清みこそ 大宮所{一に云はく}定めけらしも
・・・百世(ももよ)・・大宮所・・・不当の宮は 百樹(ももき)・・百代(ももよ)・・大宮所・・
春の日に三香原の荒れたる址を悲傷びて作る歌
一〇五九 三香原 久邇(くに)の都・・鹿背山・・百鳥(ももとり)・・
一〇六〇 三香原久邇の都は荒れにけり 大宮人の移ろひぬれば
一〇六一 咲く花の色は変らず ももしき(百敷?)の大宮人ぞたち変りける
難波の宮にして作る歌・・・
一〇六四 潮干れば芦辺に騒ぐ白鶴(脚注=「百鶴」説あり)の妻呼ぶ声は宮もとどろに
一〇六五 (上の◆八千鉾の歌。) 」
のようなものが◆の前にあり、古い時代の国の荒れたる都を歌ったものがでていて、古き「寧楽」が
惜しまれています。寧は清寧天皇の「寧」、武寧王の「寧」、「楽」は高句麗好太王の「永楽大王」の
「楽」があります。
(288)甕宮(清寧天皇)
●「三香原」は注では
「京都府相楽郡加茂町の東方一帯の地・瓶原(みかのはら)盆地」と
なっており、「布当」(ふたぎ)は
「未詳。・・相楽郡加茂町の東方、旧瓶原村の地と同地か」
となっていて「布当の宮」は「久邇宮(くにのみや)のこと。」となっています。清寧天皇のくだり
「(23代)清寧 雄略第三子。母・・・韓媛{葛木・・大臣女娘}。同国磐余(いはれ)甕(みか)栗(くりの)
宮・・・しらか(ルビ=白髪)・・・しらか(ルビ=白)・・・丹波国・・・・」
〈愚管抄〉
が出ており。「甕」=(みか)=「瓶」で、これは「甕棺」の「かめ」でもあり、大和(同国)「磐余」の「甕」で
「いはれ」は「磐城」の「磐」と「夫余」の「余」でもあります。●は「清寧天皇」の「甕」(みか)=三香ではあり
ますが、●は「山城国」の「三香」です。
23代清寧(4年)−顕宗(3年)・仁賢(11年)−(飯豊0)−武烈(8年)−27代継躰(25年)
は在位期間全部足しても、51年で、生存がラップしているらしいことは既述です。慈円は
「継躰 ・・・・男大迹王(これは〈書紀〉の目次では「継体天皇」)・・・大和国磐余玉穂宮。山城国へ
遷都{云々}。然らばなを大和国へ還都{云々。」
とかいており、山城国がでています。清寧・継体ともに磐余(いはれ)=伊波礼〈古事記〉には〈仁賢記〉に
「手(た)白髪(しらか)の郎女(脚注=継体天皇の皇后になる)、次に小(を)長谷(あつせ)の若雀の命
(脚注=「後の武烈天皇。雄略、仁徳二天皇の名を模したものか。)・・・・」〈古事記〉(角川文庫)
という大変な脚注の入った名前が出ており、武烈天皇は倭の五王の最初かもしれない仁徳と、倭の武王と
思われる雄略との合成ととられてる、とみている武田博士の注があります。次の〈武烈記〉に
「@小長谷の若雀の命・・A品太(ほむだ)の天皇五世の孫、■袁本杼(をほど)の命を近つ淡海の国より
上がりまさしめて、手白髪(たしらか)の命に合はせて、天の下を授けまつりき。」〈古事記〉(同上)
となってて@の脚注は「武烈天皇」、Aの脚注は「応神天皇」で、■は男大迹(おおど)天皇{継体}、と
なります。つまり、人生の、後半 で一時
清寧(白髪)
‖ーーーーーーー子息相当、顕宗・仁賢ーーー手白香皇女ーーー継体嫡子安閑
■継躰(男大迹王)
となったと思われます。白髪ー白香、大迹の「迹」−箸墓の王の「迹」とかの読みや字による連携の効き
がありそうなところです。こうなると武烈天皇という人を殺すのが楽しみだったという日本史上最悪の帝王
も、変革期の語りのための役割があるというのが考えられるところです。慈円は
「(26代)武烈 八年・・・十歳即位 (死亡){御年十八 或は五十七云々}・・・仁賢太子・・・・
真鳥の大臣ころさる事・・・・金村大臣になされぬ・・・」
と書いており、端(はな)から18と57という二人を出しています。平群真鳥大臣を殺したのが大伴金村
大臣で、専横の度が過ぎたということでしょうが、若い武烈天皇は金村を支持しています。これは特別な
大物で、多分殺されていないと思いますが、武烈天皇A=平群真鳥Aということで雄略の亡霊としても
出てきています。もう一つ役割があるととれるのは
巻第十四 大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)天皇〔雄略〕・・・「武」
巻第十五 白髪武広国押幼稚日本根子天皇〔清寧〕・・・・・・・・・・「武」
巻第十六 小泊瀬幼稚さざき天皇〔武烈〕・・・・〔武〕
巻第十七 男大迹天皇〔継体〕 ヾ
巻第十八 広国押武金日天皇〔安閑〕・・・・・・・〔武〕
巻第十九 武小広国押盾天皇〔宣化〕・・・・・・・〔武〕
となっており「継体」に「武」がないのは寂しいので武烈の〔武〕を付けたということかと見れます。つまり
「烈武」というのが継体で(もあり)「安閑・宣化」の武は武烈の〔武〕と取れます。
(289)大臣
「大臣」はいまは「外戚」(結婚がもとで生じた親族)という知識しかないので、それでいきます。
必ずしも有能な人が登用されて、ということはないというのでよいのでしょう。国語辞典では「外戚」は
「母方の親族。」
となっています。天皇の一族(叔父など)は入らないことになりますが、大臣はそれもあるかも。
「雄略天皇」の場合 「うらしまこがつりたる亀。女となりて。千にのぼれる此時也。
大臣平群眞鳥臣
▲物部目連{執政伊久佛子}」
「清寧天皇」「顕宗天皇」の場合は
「大臣大連如上」
「仁賢天皇」「飯豊天皇」の場合
「大臣平群眞鳥大臣
平群眞鳥大臣・・大伴金村連が為に殺されぬ・・・
▼大連大伴金村連
武烈 八年・・・{(没)御年十八 ・・・或五十七云々・ 」
とかいており、▲が突然出てきて、「清寧」、「顕宗」で出てくることになるから、3回登場の重要人物
ですが、また突然▼に変わっています。すなわち、戦国の「木村」→「大村」、「太田」→「木田」の
変化のようなものがあって、▲の目連が
「目連」⇒「木連」⇒「太連」⇒「大連」
となって▼に変わったのではないかと思えます。つまり大伴金村連は物部氏となりそうです。大伴は物部
氏とすると、この時代の理解が大きく進展するところです。この時、継体天皇は自政権の支配下にあった
「筑紫国造磐井」を攻め滅ぼしています。「近江毛野臣」の朝鮮半島出兵によって磐井の挙兵があった
ようです。
「継躰」のくだり大臣として慈円は
「大臣巨勢男人大臣{武内子。天皇廿年九月薨。}
大連大伴金村連
■物部麁鹿火(あらかい)大連 」〈愚管抄〉
の三人を書いていますが、大伴金村の推挙によって、■が磐井征討軍の大将となって、期待に答えま
したがこの二人の関係がわからないわけです。まあ、「入鹿」の「鹿」はこの「鹿」とみなしょうがないところ
です。表舞台から去ったのがほぼ同時期だから
大伴の金村の連合いが■で〈古事記〉では「荒甲(あらかひ)」となっています。一方で「大伴金村」は
その「金」の字も効いてるとは思いますが、とにかくこれは重要人物で「飯豊」や「武烈」のように多面的に
語ているところがありそうです。■の磐井(石井)戦に関する発言から
「@戦フコト風ノ発スルガ如ク、/A攻メルコト河ノ決(さく)ルガ如シ」〈信長公記〉
の一文が、採用されています。太田牛一はこの辺のところをよく取り入れているのでそういうサインとして
真似したものと思われますがアラカヒのは「A/@」で順番が逆になっています。■は重要事項の語り手と
なっています。〈日本書紀〉ニュートンプレスの脚注では
「◆物部(アラカヒ)の言に、大伴の祖の功業がでるのはおかしい。」
となっています。物部=大伴であれば問題ないところです。(大伴金村も物部麁鹿火も「大連」「連」が交錯
してて、この◆は本文は「大連」の登場の
注であり、もうこの違いが読めてるところ。かなの表記を替えれば済むことか、大連=ムラジ・むらじ、なのか
わからない) またアラカヒは
「イワイは西戎の悪賢い奸物です。」〈書紀〉
といっており天皇も
「磐井は西戎の地を領有している。」となっています。脚注では
「九州がほんらい(本来?漢字を使っていない)日本国の王土なら西戎の地などと蕃地視しないだろう。」
となっています。磐余の天皇が九州を西戎というのはおかしいが、比較的ゆるやかな統治だったので、中国
朝鮮南部の勢力と手を組みやすい状況にあることをいっており、敵側に立った状態で西戎はおかしくない
感じです。磐井を承認していたのが磐余の政権です。また「アラカヒ」に天皇は
「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ」
といっていてこれは景行天皇のときに九州を取り込んで、そのとき「磐井」を首長として置き、〈魏志倭人伝〉の
の記者(行政官)が九州で会ったのはこのイワイの女王ととれます。有力者なんか何人もいるからわかるかい
と思ってしまいがちですがここで磐井がでてきたことは、あのときの磐井というのがあるはずで、魏志を〈書紀〉
に取り込んだ書き手が磐井を出して、中央政権が昔の磐井を語ってるということで話が継続されていて、磐井
の滅亡を言ってると取れます、すなわちこのときに、長門以東が磐余の天皇の傘下に入って、今まで中国地
方は何となく遠慮していて、ここで行政区画の大変更があって、九州が朝鮮の南と別けられたり、中国
地方が日本に入ったりしたというのが考えられるところです。大事と思うことほど、しょうもなそうに書くのが、
太田牛一の特徴ですが、ここでもそれが出たかも。金村・あら鹿火は欽明天皇の親ぐらいの世代です。磐井の
跡地を大伴に領有させるということで、これが〈万葉集〉の九州の大宰師大伴のはじめとなるものかも。
「近江毛野臣」がだれか不明ですが、
ここの大臣巨勢男人=近江毛野臣=継躰
ではないかと思われます。戦国の「だい阿弥」=「躰阿弥」の「躰」で継体天皇は「体」で表していると見れま
す。雄略22年の最後の年、
「白髪皇子を皇太子とした。」〈日本書紀〉
があり、このあとに出てくる文で、重大なものを慈円は落としています。〈書記〉には
「物部連目」
とあるのを「物部目連」としています。清寧の大臣は。
「大臣大連如上」〈愚管抄〉
とあり前の「雄略」の大臣が
「 大臣平群真鳥臣
物部目連{●執政伊久佛子}」〈愚管抄〉
になってましたからこれが清寧の大臣と思っていましたが、雄略は〈日本書紀〉では
「平群臣真鳥を大臣とし大伴連室屋、物部連目(め)を大連とした。」
となってて 平群臣
●大伴連室屋 大連
物部連目 大連
ということなので、この表記は間違っていないが、慈円のものと整合しようとすると、●が物部伊久佛となりそう
です。大伴金村は
「臣の祖父大伴大連室屋」といっており、慈円の細工で
物部伊久佛−大伴室屋−物部目連−大伴金村
物部四代が大伴としてでてきます。この目 連が頑張ってくると安康天皇(雄略の同母兄)を殺したという
安康天皇の連れ子、眉輪王(目弱の王)が「目」だから、生存してるとみると、この目連として出てくるかも。
慈円はまた清寧は
「安康の世のみだれ(乱)によりて丹波国にかくれてをわし(御座)けり。」
となっていて「雄略」の前の天皇「安康」と「丹波」を出しています。安康天皇(在位3年)は清寧天皇と
関係が深い「市辺押羽(磐)皇子(履仲子・雄略に殺される)」を跡継ぎにしようとして雄略が怒ったようです。
だから安康はなんとなく、清寧の親、雄略も清寧の親ということで、安康を殺してしまった「眉輪王」は役者
だから、雄略に殺されたのだから「眉輪王A」は押羽皇子かどうか
親しいことを表すためにころす場合もあるから。安康・雄略はまた戻ってこないと、わかりにくいところですが
もう読まれてるところでもあります。(「連」は〈信長公記〉脚注では「(もと)」となっている=角鷹二連))
(290)百済(再生)
清寧が東宮になる二年前、雄略の
「二〇年、冬、高麗王は大いに軍兵発して、百済を伐ち、ほろぼした。」〈日本書紀〉
があり高麗の諸将は王に、将来再生し脅威となるので「逐除してください」といったが王は
「百済国は日本国の官家(みやけ)として由来は遠く久しいという。またその王は〔日本国に〕
入って天皇に仕えている。四隣の共に識っているところだ。」
といっています。日本列島では空白の4世紀という時代の後だから本来なら、これはおかしい、また
「二一年、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、熊津を紋洲王に賜り、その国を救い〔復〕興
した。」 「時の人は・・・・・“実に天皇のおかげで、ふたたびその国を造った”といった。」
となっています。これは476年ごろのことで、年表にもでています。このとき、日本では「雄略天皇」(晩年)
で安東大将軍などの称号を貰ってて、大倭(大日本)の王だから「倭の五王」の「武王」とされている
と思われます。高句麗がこのころ、中国から称号を貰って、地域全体の統治の代行をしていて、一方で
百済も、中国と交信して「鎮東大将軍」の称号もらってたという複雑な関係があるなかの事件です。
日本が、勝利を得た(高麗側の)諸王の行き過ぎをとめ得たものととれます。日本では「二二年」清寧天皇
が皇太子なった時期ですが、本国の政府の決定だからとくに関係はなかったが、分身として一目おかれ
ていたということで、百済方面から日本に進駐してきた場合もあるとすると百済は分身でもあり、初期の高麗
国のこの地域全体の国づくりに貢献があったことは認められいたと思われます。
従来の見方だと、その後進性から、百済が高く買ってくれる理由がわからない、ということになります。
はじめから高句麗の一部として近親者に統治されてた勢力として認められていたから、百済がへりくだ
った言い方をしてるのは実態に合ってると思われます。百済は〈辞典〉では
「古代朝鮮半島の南西部にあった国の名。前漢末、高句麗の王族が建てたと伝えられる。」
と書いてあり、年表では
343 高句麗 前燕に入貢し遼東帯方国王となる
346 ●百済 近肖古王即位し百済成るといわれる。
355 前燕が高句麗王を征討大将軍・・・楽浪公とする
356 ■新羅 奈勿王即位し新羅成立。
369 この頃★日本が朝鮮半島南部(任那)を支配するという。
400 高句麗好太王、新羅を援け倭軍を退け任那・加羅に至り服属させる
476 百済 高句麗の侵入を受け熊津に遷都する(先ほどの話の文)
となっていてよく話をきく●百済、■新羅は紀元後四世紀間は日本列島とはあまり交流が生じる状態では
ないわけで343には高句麗は中国に挨拶して朝鮮半島全体の盟主のような地位を確立しています。
従って★の記事は、神功49年、神功皇后三韓征伐といわれるもので、その実力や必要はどこからきてるか
というのが説明しにくいことでしたが高句麗の政策の一環としての行動となれば考えられることです。355
の国際的な高句麗王が、勢力を拡大させたということでしょう。50年程して400年、中国の倭との本国の高句
麗王との間に、間隙が生じたということと取れます。343以前を年表からあげますと下の通りで、いまの日本
を巡る舞台では高句麗の独壇場です。右の◆の(@からD)だけが日本欄にあり、西暦元年から366年
までこれだけしかない、大空白に点在するのが◆の五件です。
世 界 政治・社会・経済(日本欄)
BC206 秦が中国を統一 (このころ後年、徐福船出)
BC108 前漢武帝衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪など4郡を設置
BC100頃 高句麗・・・興る
(西暦元年)
12 高句麗 中国に寇す。
18 高句麗 夫余を討つ
30 後漢が遼東7県棄てる
32 高句麗 ▲後漢に朝貢し王号を回復する
57 高句麗 東沃祖を討つ(満州海より) 57◆@〈後漢〉
105 高句麗 遼東6県を侵す(30、後漢が遼東7県棄ててる)
111 高句麗 後漢に入貢する(倭国王は右の◆の107年) 107◆A〈後漢〉
212 高句麗 丸都に遷都 148◆B〈魏志〉
246 魏が高句麗を攻める 239から248◆C〈魏志〉
302 高句麗西晋の玄菟郡を侵す 266◆D〈書紀〉
316 高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
342 前燕が高句麗を討ち丸都を荒らす
343 (遼東帯方国王)(●の上に至る、つまり百済の影がまだない時期の隣国は高句麗)
となっており、高句麗は中国に入貢しながらも版図を拡大していますが、今の日本向けの記事がないわけで、年表
の「世界」欄だからそれでいいんだといわれるとそれまでです。ほたら日本欄はどうか、というと大空白で
少ないから右へ持って行きましたが右の
◆Dの 「266 11 倭の女王、使を西晋に遣わして入貢する〈神功紀66年条〉」
の一件だけが日本の文献の記事で、これは西晋が絡んでいるということで、日本列島にいる王が中国
の権威を勢力伸張に利用しようとしたということでみられているもので、つまり高句麗などの朝鮮半島の勢力の
影響はあまり語られないことになってて、それに慣れているのが、はじめの4世紀間の一般の人の理解の
特徴です。天皇の記事が、たくさんはあるが、頼りのうてしょうがない、西暦との対比がどうなっているのか説明
がないなどのことでほったらかしです。なおこの266の◆Dの「倭の女王」は、◆Cの248卑弥呼の死の
記事にあたって
「・・・ついで卑弥呼の宗女壱与(梁書などは壹与とする{歳13})を女王に立て治まる。・・」〈年表〉
があるのを受けているから、31歳くらいになった壱与(台与)と思われます。これ以後366年まで100年
日本欄には記事がありません。まさに空白の4世紀間です。この壱与の性格は高句麗が事務総長になってる
倭の傘下の王ということができます。実際はDも57年◆@の王と同じく親離れをしようかというものがないとは
いえないともいえそうです。
(291)57年記事、続からくり(1)
◆@57年記事は本邦の歴史の記事の最初です。内容は
「57 倭の奴国、後漢に朝貢し光武帝より印綬を受ける〈後漢〉。(天明4年福岡市・・志賀島出土の
「漢委奴国王」の金印がこれに推定される。)」〈年表〉(東京堂)
があり、これは上の▲の記事があるので高句麗傘下の人であるのはほぼ推測がつきます。日本列島に
来てる王でしょうが、かなり本国に発言力がある人でないと生意気だとやられてしまいそうです。がとにかく
敢行したことは事実です。この57年ということを考えるとき、天皇名は誰のときか、というのが気になる
ところです。
○初代神武天皇=(ハツクニシラス)=10代崇神天皇で、崇神のミマキ「入」リヒコで、ここからのスタート
になると学者がどの本にも書いている。すると何となく、神武天皇から10代で崇神天皇となるので
11代で崇神天皇になってほしいと思うところであるが、それはともかく
神武(76年)+欠史8代(483年)(★計559)+崇神(68年)+垂仁(99)+景行(60)+成務(60)
において通説では紀元前660のスタートになってるから遣使の57年は、垂仁の途中になる。
559+崇神68+垂仁33| 57 垂仁は99年だから 99−33−57=9残り
← 660 → |元年
となり垂仁90年に遣使したということになる。これで〈書紀〉を見ればよいことになる。ここに昔は
有名だった、タジマモリ(田道間守)が天皇が求めた橘(みかん)を求めて旅立ち、天皇の死の
翌年帰ってきた話がでている。使者はタジマモリだったといえる
○紀元前600年というのがやりたかったものとすると
★559+崇神41=600 |崇神27+垂仁30=57
となり垂仁30年が57年になる。
在位41年の天皇を一代入れ崇神Aという存在が紀元元年のスタートとする、ということになるので
合理的になる、崇神41は二代、崇神27は、三代の重なりの三代目という捉え方になる。垂仁30年
の年の出来事は、『オオタラシヒコ尊に詔して「お前はかならず王位を継げ」といった。』があり、
次の「景行」が「大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけ)」である。これは90/3=30で実年
的なもので慈円の★559はこれらを出すためにはうまく出来ているといえる。
神無月の語りで知られている、
「八十万(やそよろず)の神を会同して・・・」〈書紀〉
というのがあるのは崇神天皇のときのことです。神代の部分にもありますがアマテラスは「中の国」と
いっています。ちょっと舞台が違ってそうですが、こういうのがあるのは西暦元年が意識されてる(〈書紀〉
には西暦年の記載がかなりある)から、この辺のところにもってくることは考えられるところです。はじめの
神武天皇の在位が60年だったらわかりやすいのにそうなっていないので一応660年の60は空洞@の
60としておくと、行き場に困りますが上の○の通説では慈円にある神功皇后の60が抜けているので
将来そこに埋めようと思ってるととれます。変わったことを無理に言お、としてるわけではないが、こうやれば
下の○の41(応神天皇の在位)が生きてきて、神功皇后=(親子)=応神天皇だから、この場合は
はじめの空洞@60と子41 親60=★559の終わりは開化60年))・子(41)
が、紀元前の始め、終りに入るということになります。注目ということになりそうです。
一方慈円はわけのわからないことをいっており
「五世と取る事は応神を加へて数ふるか。之を除くか。神功皇后をも開化天皇の五世の
孫と{云々}。其れは一定開化を加ふる定めなり」〈愚管抄〉
となっており、開化(60年)は欠史八代の最後の天皇で
・・開化(60)−崇神−垂仁−景行−成務−仲哀(9)−(60)−応神・・
となるから、開化を入れると「成務」になり、開化を除くと仲哀となりますが、神功を無理に出してきてる
「五世@」(成務)の孫は(神功)で「五世A」の孫は「応神」にもなり、その前の(60)は、開化(60)(子
41)の再現となっています。したがって慈円は(60)に、前の(空洞@)の60を持ってきてるといえます。
この(9)は「前九年A」の問題の(9)です。
○紀元1940年(昭和15年)に2600年式典をやっており、神武天皇即位が紀元前660年となって
いる。660プラス1940=2600式典ということで合ってるにしても西暦を使っているのに年表には
西暦0年、元年の記載がない。
つまり言外に、2000年に2600年式典をやりたいが、慈円では空洞@60を紀元後にもってきてる
からこれが可能であり、これは紀元前600、紀元後1940年目プラス60(空洞の)=2000年に2600
年式典ができる。これは端数がないのでわかりやすく、端数がちょっとおかしいのは誰でも気がつく
ので専門的な説明が用意されそれで納得されている。
この60が煩わしいので、紀元後に60を足したりしてると、年57年というのは60年にちかく、
(紀元後実年57)に気づかせようとしたとも取れるものです。これは他愛なさ過ぎますが私の57年
注目のもとになったものです。
○当時の学者はこの「57年ぷらす3」=60、の西暦60年を紀元元年(紀元節)とされてきたのを
知っていて、紀元節(60)から1940年目に2600年式典をおこなうべく提案をしたと思われる。
紀元節が紀元前660というのは固定であり、
正確に言えば2000年に2660年経ったということで式典を行うのが筋であり、
1940年に紀元2600年式典を行うのは、前夜祭としてならよいが、660年という
のを消してしまっている。まあこの3年はタジマモリが帰ってきた年を忘れるなということで
垂仁残9を使って9/3=3(実年)を頭のに中で足して、帰ってきた日を紀元節としたといえる。
1940は確定した年代@もあり1940年間という時の幅Aもあり、660年とか600年は、干支の関係で300年、
600年、900年から選ぶ600なので、660というのが不自然です。紀元前の−60を紀元後の60とするので
120年を後ろへ押しやることになり、120調整というのが外国文献との照会の結果というのではなく内部
の企図によってもそれがいわれてることにもなります。空洞@60は出でましたが、空洞Aはどこで出るのか
はまだわかりません。
(291)−(2) 続からくり(2)
(ア)大雑把なこととして慈円では
紀元前 在位年数9代
A、神武76+すい靖33+安寧38+イ徳34+孝83+孝安102+孝霊76+孝元57+開化60=559
=560
次が紀元後 9代
B、崇神68+垂任99+景行60+成務61+仲哀9+神功69+応神41+●仁徳87+履中6
=500
次が9代
C、反正6+允42+安3+雄略22+清寧5+顕3+仁11+(飯豊0)+武烈8
=100
B+C=600
となっている。うまくラウンドされ、紀元後は600となるが、継体25・安閑2・宣化4のあと、はっきりしてる
欽明天皇即位、539を超えてしまうことになる。したがって仁徳が長すぎるので、これに目をつけると
●以後、顕宗までの計が 174になるので、174/2=87となり●に合う。一応仁徳87に内数があると
すると
履中6+反正6+允恭42+安康3+雄略22+清寧5+顕宗3=■87
となる。検算してみると
Bの応神まで407+●87+仁賢11+武烈8+継体25+安・宣6=544
となり、539に「5」違うが一応、合うことになる。
■=87=●の合いは、倭の五王の時代に入っていることが関係していると思われます。、
紀元後はこのようになりましたが慈円が紀元前559年とした、41年の不足は紀元後も加えることによって
均衡が保たれそうです。これで紀元前 559+41=600
紀元後 544+41=585
585=(27)+68+99+60+61+9+69+41+87+11+8+25+6+(14)
となり、(27)は(291−1)で成功したから入れただけのことですが そこから出てきた(14)が585−(14)
=571でこれは欽明の没年と偶然かどうか一致します。ついでに欽明でみますと慈円は安閑の即位を
「葵(草なし)丑」、としてて欽明も「葵丑」としています。葵丑は533年一つですから、欽明の内数が安閑・
宣化の在位年数ということが問題になります。このため欽明即位が531と539の二つあります。
585となってくるのは、終わりが(544)で決まっているから、倭の五
王87のようなラップがないかとみるとき、(41)は25+16もあるし、(60−19)もあります。慈円の紀元前
559(560)は660年紀元年のことを知ってるから初代神武76はおかしくて(60+16)は頭にあって
神武60+欠史八代483+57(16+41)=600
は元年を挟んで、−57/+57の語りはやってると取れるところです。紀元後も一言あるとすると
544に上乗せした41という数字は、現在いわれてる欽明在位、32年を補正した数字と同じです。
とにかく元年から加えていった数字が、531を超えないことが前提です。
その数字は
585−531=54 オーバーしています。どれかの(内数)があるとすると、その内訳は
11(仁賢)+8(武烈)+25(継体)=小計44+6(安・宣)+4(空位)=54
の44の部分となりそうです。これは一応いまは覚えとくしかないということです。
68+99+60+61+9+神功69+応神41+87(仁徳相当)+44−(7)=531
で元年を崇神からスタートするのであれば、外数でおさまりますが、これではうまくいかないということです。
(イ)慈円では 紀元前は 神武76+欠史8代483=559で、559+41=600にするため、紀元後
崇神68から41を持ってきてやってみて、57年のときの天皇名が出た。
崇神68−41=27+垂仁30=57
これで27を頭においてやってみると
崇神残り 27+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+応神41+●仁徳87+■〔履仲6+反正6
+允恭42+安康+雄略22+清寧5+顕宗3〕+仁賢11+武烈8+継体25+/欽明41
において、 崇神〜応神計 「297」、 ●■は「87×2」、 仁賢〜継体 「44」 =515
で、欽明の即位年 531 に近くなる。16の差になってるので、16を入れた場合の計算は
16+297(27+270)+174(87×2)+44=531
となって、欽明の即位年に到ることになる。慈円は通説のとおり紀元前660になってることを知ってた
から自分の紀元前は100おかしいことは知っており、後ろから41上げてみるのと、逆のこともみている
と思われる。空白の4世紀というから100年空白を紀元後でみてるともいえるところで後ろへ100ずらすと
紀元前559/ 16+27+270+87+87+100+44=631−87−13=531
も考えられる。整理すると
30(3+27)+270+87+100+44=531 つまり300+100+87+44=531
となる。
となってて学者が空白の四世紀というのは300+100の二つのことをいってるととれます。現に年表では
元年〜「空白」〜57年(遣使の記事)、57年〜「空白」〜107年(遣使の記事)
となっていて、100年空白ができています。これで「87」が同時期両立てとなっていそうだというのも
でてきます。慈円が紀元前559年として頭の中で応神41年を入れて、87の仁徳に繋いだと思われるところ
です。倭の五王というややこしい存在の登場があるのがここで、中国王朝が親の方の皇帝を讃・珍・済・興
武と呼び、太安万侶らは子の方もそれに引っ掛けて述べたというの両立てかも。なお一応
応神はじめは、西暦390年
は確定となってるようです。応神在位は通説270〜310で、270+120=370となります。なお親の方で
は●は、好太王の次に長寿王という王もいるので、それが反映されてることもありそうで
応神、仁徳という二人の巨大な陵は、霊をやすめるとかいうのでなく記念碑として建造されたともとれる
ところです。
最終的に、欽明の531で決めたいというのが、ありますが、継体の即位も507年に決まっているので
507+在位25=532ということにもなります。欽明で何でこんなことが起こったのかということですが
@安閑が継躰の第一子、A宣化は第二子、B欽明が 嫡子{或は第三子}
となっていて、@Aは表に出ない天皇で、二人の今で言う父親が実際はちょっと長生きして、それに
遠慮しての、三人目の即位というのかもしれません。欽明は金+欠です。
つまり、507+継体25+(空位3+安閑2+宣化4)=541になるのかも。
(継躰 5 )
いうこと聞かなければ不利益蒙るというのもあるかもしれませんが賢明な人の自粛もありえます。
(ウ)慈円は崇神を68にしてるが計算では56になる(52即位・68在位・死亡108とはならない)。
これは死亡の年が〈書記〉に120歳になってるのを変えている。表記が一つで一人が隠れている場合
があるかも。神武天皇もいまでいう子息が隠れていると思われる。ただ年齢120というのはおかしい
ので3人いるというのと、1/3して実年数の把握には要るという暗示と思われる。天皇紀にまとまっ
た空白が多く、古代では、57年の事件とか邪馬台国のこととかを出したいので、その辺以外のところは
空白になってているので、三倍が利用されてつながれていうとことになっている。
(エ)始めての朝貢57年は、一応崇神 68−41=27で、27+30=57、となる。この場合は、次代の
垂仁30年の充当になる。この場合30というのは実数であって垂仁90年にあたることにもなる。
(〈書紀〉にははっきり書いてないが)〈愚管抄〉には垂仁紀に
「唐へはじめて人をつかはす。」
と書いている。
(オ)崇神68、垂仁99など三倍になっていることの意味は、三角関係もあり、有力者の名前が載ってるから、平均的に
三人位を見てる、三人で政権を担うという場合を強調するのもあるかも。垂仁の項
「垂仁 九十九年 ・・・{御年百卅 或百一 或百十一}」
のようになっている。
(カ)3で割って実数をだすのはある時期まであり、
神武天皇は紀元後橿原神宮即位は45歳であり(〈書紀〉)、紀元後
神武76−(マイナス)45=15(45/3=15でもよい) → 76−15=61
である。これは神武を61にすることになり、これを紀元後Bの崇神の前におくのかという問題がでる。
つまり神武天皇は紀元前と紀元後のはじめに象徴的な意味で置かれるということになると思われる。
したがって紀元後は61を固定的に置いてやってみると 紀元後9代は
神武61+(崇神68+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+神功69+応神41+仁徳87+履仲6
=61+500
(次の9代は 反正6+允恭42+安康3+雄略22+清寧5+顕宗3+仁賢11+武烈8=100)
となって 3でわって実数をだすとすると
20 23 33 20・・・計561/3=187年
13|20
となり、崇神は紀元後21年即位、 23在位、 44+13=朝貢の57年、は垂仁の13年目にあたるとす
ると20置いたお陰で垂仁に掛かることになる、また13+20は垂仁33になり垂仁の終わりになる。
一方神武の20は、西暦元年辛酉歳・神武元年の主張としておいておいて、
崇神即位元年は西暦1年、23年後、垂仁即位、34年後の、57年光武帝へ朝貢
というのかどうか、後者を取りたいが、1年オーバーするが垂仁が終わった年に朝貢が近づいてくる
はじめはこういうことでやっていたが、結局この20が必要ということで、
20+33+4=57(「4」は神武から次の天皇まで譲り合いがあって4年空白がある)
結局、神武20+4=24
崇神1+23=24 併記することでどちらからも 24+33=57がでるということになる。
次に 崇神の24が出てきます。
(キ)崇神天皇の即位の干支は、慈円は「甲申」としてしている。〈書紀〉も「甲申」が出ている。
これは西暦24年に一回目がある。それはあの57年が年表に「丁己」と書いてある
ので、33年遡れば出てくる、崇神天皇は(68年在位)だから、(68/3)=23が在位実数になる。
即位24+23=47年退位なので、47+垂任33=80となって57年には着陸しないということに
はならない。崇神即位は甲申で神武と重なってるのだから、
神武24=(経過)=崇神24
となり 崇神24経過後+33で57が出てくる。27があったのは24+3だから57年という端数を埋める
3が付いてると取れる、
ちょっとややこしいので付記しますと
慈円の紀元前の計算 神武76+欠史8代483=559 には通説を踏まえたものが隠されていて
559の内容は 60+欠史8代483+16(499)=559 で
紀元前660 60+ 600= 660 に合すためには 100が要り
神武▲60 + (483+16) + 100 = 660 /
として、この100は▲60を紀元後にまわし600として使い、一方観念的に紀元後の空白を暗示させ
紀元後は ▼60 / 20(60/3)+4 +垂仁99・・・
として、
▲▼を区切りの前に600年を隔てて配置して、▼60は紀元後実数に1/3して変換させ「4」は譲り合いの
「4」を右へ移動させました。実際は16は20だったから、600は603だったから、その「3」も移動して、27
でもありますがこれは後ろの方での 57+3などの「3」に使えることにんるかも。
つまり神武の20を持ってこなければ、うまく、崇神の24の説明ができないことになります。
西暦57年というと崇神天皇が紀元後のスターとすると68の範囲内になってしまうので3倍の問題が
出てきて、57×3=171だから、元年からどう持ってきたら171になるかということも見とくことも要ります。
崇神68をはじめに持ってくるのではうまくいきません。
13+68(崇神)+90(垂仁)=171
13+68+ 99 =180
すなわち「13」というわけのわからないものが出てくると今後の問題ともなってきます。1/3でやると
4+23+30=57 4+23+33=60
となって「4」が出てきます。これは神武−スイ靖間の「譲合い」の4年がありそうです。
結局これは先ほどの公式でうまくいきそうです。
24×3(=72)+3×3+垂任90=171
27×3(=81)+垂任99=180
となります。ほかのことでこの方式やってみると、応神天皇は
(崇神)(3+24)+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+神功69/+応神41・・・
で神功まで325で、補正すると、325+60+4=389→390になります。通説は応神即位は270で
国際標準にあわすと270+120=390と思われます。通説は神功は抜いてある(慈円は69で60をすでに
入れている)などのことがありますが390に補正するのは合ってるようです。
本当の補正は
24+99(垂仁)+60(景行)+61(成務)+(60▲)+( 9 )+9(仲哀)+69(神功)=391
かもしれません。欽明で顕著に表現されていることは即位と元年が分かれていることです。年表では
一回目即位531−元年532、二回目、即位539−元年540 となっています。一人、一年などの「一」が
全体を震わせるものとして重視されています。
通説はおそろしく、紀元前660スタートでやると、西暦元年が垂仁30年にあたることが計算で出ています。
これはタジマモリの記事が出てる垂仁90年の1/3で、垂仁90年の実年化されたものです。元年辛酉革命
は垂仁の30年におこったということであると考えてもよいということになるのでしょう。そうなると
垂仁30年は西暦57年で遣使があったということでいいわけですが、
垂仁90年の意味はなにかということににも、これは一つは遣使の記事がそこにあったということがあります。
また少ない天皇数で時代区分して、扱いやすく、わかりにくくしたということもあると思われます。
年表では、垂仁99年、このあたりのところに垂仁天皇140歳(没)と書いといてくれたらわかりやすくなる
ところで語りがある部分ととれるところです。こうやると中学生あたりにやられてしまうことになりますが。
(292)太田和泉守の「57年」
垂仁天皇の死の翌年帰ってきたタジマモリは
「万里浪を踏み、はるかに〔西域の涯にある〕弱水を渡りました。」〈書紀〉
といっており、太田牛一には「蓬莱三万里の仙境」があり、つくも茄子の一節で
「三万の弱水」〈甫庵信長記〉
を出しています。この57年は別の意味で重要で◆@で出した年表の、再掲
「57年 倭の奴国、後漢に朝貢し光武帝より印授を受ける〈後漢〉。(天明4年福岡市東区志賀島出土の
“漢委奴国王”の金印がこれに推定される。」
が、ありました。この右に世界欄があって
「高句麗、中国に寇す。」「高句麗、夫余を討つ。」「(37年ころ)高句麗後漢に朝貢し・・」
など朝鮮半島は高句麗の記事だけがでていたことは既述です。本邦初の確実な国の行動に、志賀島
金印の発見が絡んでいます。太田牛一は
「しかのしま」で
「じんぐうくわうごう・・・かうらいこく・・・かうらひ・・かうらひのわう・・・わうし御たんしやう・・・
八まん大ほさつ・・・しかのしま・・」〈たいかうさま・・〉
を出しており、神功−、応神、高麗を述べていて、金印のことには触れていませんが、金印を意識した
一文ではないか、ということはいってきました。239年、親魏倭王には
「★金印紫授をさずけ、錦・刀・銅鏡100枚などを給う。」〈年表〉
となっていてここでは「金印」となっていて、57年のは印授となっています。しかし、これが金印に結び
ついているのは天明の亀井南冥が、発表した論文によっていて、それが明治に追認されて通説になって
いるということです。いま、あまりに隠されているので、太田牛一を通じてこの時代をみようとしているので、
★が太田和泉守の脳裏にもないものだったら、すべてがくずれますが、一般の人は★がいまどこにあるか
しりたいと思うのは当たり前のことで、結果はともかく、太田和泉守もそう思ったはずだから、必ず触れている
はずということできている立場にとっては、この「しかのしま」の記述こそそれの端緒ととれるところです。
つまり、近江の「志賀郡」が明智の領地で、「志賀」−「志賀」の連携があるというのを黒田家の亀井南冥
がいいだしたということもありえます。一応「磐余(いはれ)」「伊波礼」王朝が出てきたとすると、九州に
分国の女王はいたにしても国の代表ではないから、いまとなれば金印は九州からは出てこない感じで
す。邪馬台国の所在の鍵はいまでも★の金印がどこからでるかにかかっている、といわれています。
宝さがしで次元が低いようですが、重要なことで、太田和泉守は手を抜いていない、と思われます。
邪馬台国九州・近畿の所在地論争は松下見林などがはじめときいていますが、これは江戸時代はじめ頃の
人で新井白石・本折宣長しかりで、明治でこれがぶり返されたものにすぎず、つまり太田和泉守以後
のことです。別に新しいことを述べようとしているわけではありませんが、邪馬台国論争は太田和泉守の
言及があれば、それをモトに出てきたものと推察されます。
年表では
「57 倭の奴国、後漢に朝貢・・・」
となっていますが、文献(ネットによる知識)では「東夷、倭奴国王」となっているはずで、
「倭の奴国」と「倭奴国王」とは
大きな違いです。金印の「漢委奴国王」は、文献の方を立ててある感じで、倭を「委」とする例がある
のかどうかです。糸島と引っ掛けた「委奴」というのは傑作というべきものですが、漢が出したものとは
考えにくいものです。
あとで通説とまったく違う話をせんなんのですが、亀井南冥は、松下見林や新井白石、本居宣長
などの後輩なので邪馬台国の所在地論争のことなどは知っています。その鍵でもある金印を直接取り上げた
というのは異色で、太田和泉守も金をたくさん出してて、同じ面白いところからいこ、としてる感じです。
金印の現物を出してきて話してるから、インチキくさくなるのか天明のころの年表にこの話は出てきてません。
藩主、黒田治之を巻き込む話ですから太田和泉守と同じ結論を持っているところからくる大胆さがあると
思えるところです。
80年ごろ景行天皇が一応九州を勢力下に組み入れたようですが、垂仁は景行の前で、このときは九州が
先進地帯として優勢な領域であったかもしれず、中国に使いを出した領主もあったともみれますがこの
ときの下賜品が丹波国(但馬含む)にあるとすると、大和圏の政権が使いを出したといえることになり
ます。「たじまもり」は「但馬守」「田島守」でもあります。勢力消長しますので神武東遷といっても、大きい移動と
小さい移動がありえます。神武紀の中には「西を征した」もありますが大きくは北からきた磐余の勢力が
57年前後から日本を覆っていくことになったとみてよいと思われます。空白ではなかったのです。
(292−2)二代目の物語
紀元前660という端数60があるから神武天皇在位、「76」は「60」+「16」と見てそうでもあります。〈書紀〉
の〈神武紀〉は神代が上・下に分かれているように、二つにわかれてて、
@前紀7年(記事が非常に多い)と、A辛酉の年の「天皇の元年」橿原即位以後76年
の部分になるのでしょう。前紀7年の分は一つ100年として6、6(660)の部分、天皇の元年は西暦元年の
部分といっても、まあ、いっしょくたに二つのことを述べる手法で来ているから、神武一本とみてわかりにくい
ことをいってる、日本の文献がわけのわからないと取られがちです。
神武@はスイ靖に引き継がれ
神武Aは崇神に引き継がれた
とみるのも筋で、紀元後の甲申、24年崇神即位という場合の、元年から幕間つなぎの必要はあるかという
ときに
600年×4%=24
では困るはずで神武登場は必然で、60/3=20+4、だろうとしました。
24は一応は神武年数 76/3=「23、3」 で24に近づくので、まあそれでも良いということは考えられます。
しかし、それで納得するとその後は出てこないのではないか、ということもあります。太田牛一で「4」が
出てきてるのがあり、「鰐」、「甲津畑」、「杉谷善住坊」、「鯰江」、(日野)(八風峠)など出た〈信長公記〉
の一節に、
「十二・三間隔て・・・」
「十二・三日隔て・・・」
があり、これはもう一つ
「十二・三門隔て・・・」 (「十二・三問隔て・(口は空き)」)もある
が抜けており、これを補うと、
12×3=36、と、13×3=39 で39−36=「3」が出て、四つ目もあるとすると
12×4=48、と、13×4=52 で52−48=「4」が出てきます。(まあ1/3して足したりしてると3〜4の
差が出てくる) これは二代、スイ靖天皇のとき 神武Cに
@太郎御子「手研耳命」、A「神八井耳命」、B「東宮スイ靖」
の3皇子がいてが結果的にBが正義という名分で@を射殺しその決断力、行動力が買われて、2代目を
継ぎました。それができなかった次の後継者Aの人と、四年間皇位を譲り合っていて、それなりの筋をとおし
ています。慈円もこれだけは目立つように長々と書いています。この現象をどうとるかということですが、結論は
@は神武天皇の在位期間中に働いていて、〈書紀〉スイ靖紀にも
「その庶兄@手研耳命はすでに高年で、久しく政にあずかってきた。そしてまた事をまかされ自分で
行ってきた。・・・もとから仁義に反していた。・・・」〈書紀〉ニュートンプレス現代訳
となっており、本人に責任がない「仁義」によるもので、孔子の尊重した「仁」というものかも知れませんが
@が今日で言う子息の王であったということです。従って現実は
殺されておらずAの治世に貢献しAの死後の4年目に亡くなったと取れます。その間、四年遠慮したとも
みてもよいかも。慈円は、聖徳太子−崇峻天皇、
天武−大友皇子、仁徳−宇治太子、仁賢−顕宗 の例を出しておりよほど重要なところです。
通常何も書いていない場合は親子は16くらいの差となるので
神武の 76は60と16 とかに分かれるということになるのでしょう。(なかに40くらいの人がいる)
こういうことはままあって、これは戦国の
尼子経久のところでも触れました。太田牛一のところにくればわかりやすくなってくるということです。
したがって、実年数四年は紀元後にはみ出してきて60/3=20と「4年」を加えると崇神の24になり短期の
年代確定(西暦と天皇在位)は可能となることになります。紀元前神武天皇の76の中に含まれない「4」
がありこれは実数で、これが神武@の周辺ですが、神武Aではこういう子息の問題はない(書いてない)
ので、60(61)でよいといえます。これはそのままプラスして
慈円の紀元前 559
+(61)41+/20 紀元後はじめの20
、としてつかうのでよいのでしょう。559に41を入れて600として治めるのではなく60(61)を入れて20を
紀元後に押し出すことも見た不完全さが559にでてるということです。これが60/3の20でもあります。
空位の4とか、個々の数字の人数のラウンドの集積などによって生ずる4をくわえて24にすると
「崇神 元年甲申」〈愚管抄〉 (「甲申」は西暦24年にあたる)(即位は23年かも)
といってる24(23含みの)の根拠になっているという理屈になります。つまり神武というものが崇神と
ハツクニシラスなど重なっていると学者はいってる、表記では、両方「神−神」で、繋がっているといえる
が数字上の根拠がないと、そうともいえないとなってしまいます。
崇神 68/3=23は弱含みの西暦24
と重ねられてる、それが、たしかに意識されてるという含みがでてきています。
邪馬台国へは地名と距離が羅列されていますが途中、伊都国からは、その先の地名は、伊都国から
の距離を書いてるという説がでて放射説というのですが、これが九州に行き着く根拠になっています。
それと同様のことが出てきてるという観点から見るときに
(1)前紀7年の「神武」76+欠史7代・423+開化60=559
(2)「神武」60+欠史7代423+開化60+ 子息16=559
という二つの並存が語られてると取れるところで、大きくは神代が二つに分かれてるので中ツ国系と高天原
系というのがあります。太田牛一は、「間・日・(門)」の三つをあげてることもあり、二代
「綏靖」(すいせい)天皇
がちょつと変わった、出すのに手間がかかる字で、異色ではありますが、〈愚管抄〉説明では
「ことしろぬし(事代主)の神の娘」「母はタタラ(蹈鞴)五十鈴媛」「四年ありて即位」「大和国葛城宮」
となっており、土着勢力のような感じで「四年」空位というのは始発かもとみると
(3)「四」年+綏靖33+欠史6代390+開化60+神武60子息12=559
というようなものが隠れてるともとれるところです。物部(蘇我)の勢力の西進が早かったのなら姻戚関係
による取り込みがあったと考えられるところです。
神武天皇の年齢は127で、7は別単位となっていそうで、120歳で計算しますと
120歳(実数40歳) 在位76(実数25) ★15歳即位
で、したがって神武天皇は標準の60・60が本人のもののようです。前紀の7は何となくひっついているよう
です。
(292−3) 三倍・1/3は海外共通
慈円は別の書き方で
神武76年 (元年)辛酉歳 五十二即位 御年百廿七
となっており、52即位というのは15×3+7=52即位、ということなので★15は三倍して計算されている
ことになります。この3倍は年表でも出ており
「西暦」欄 「世 界」欄
(前) 1200頃 この頃、周王朝が成立すろ▲(→BC256)
・・・ ・・・・
(前) 770 周王朝洛陽に・・(東周)、春秋時代始まる。▼(→BC403)
のような書き方になっており、周王朝の成立は、終期が書いてあり、それがB・C256ということですが
前1200はあまり言われていません。これからみると、
@1200〜770の間が、武王などのほんまの周(西周)
A 770〜403の間が 東周、春秋の終わり403
B 403〜256の間が 戦国周、秦に滅ぼされる(春秋)戦国
終わりということのようです。▲は実に@ABの流れを含んでおり、それより後の▼は、▲に載ってる前の
年号が入っているので、おかしいのでこういう深入りをしなければならなくなっています。
普通の感覚では▲に(1200→770)、▼に(770→403)となるはずですが、これは理屈をいってきたあと
だからで、はじめは、与えられた数字があるから▲に403を入れ(BC403→BC256)(▲@とする)
、▼に256を入れ(BC256→BC403)(▼@とする)
にして何のことやらわからんので、二つ、同じ書き方をしている(前を省いてある)わけが問われるという
のかとも勘ぐられるところです。結局
770/3=256 1200頃は、1209年/3=403
ですから1/3とか、3倍があることを示しています。ちょっとおかしいのは、1200年とか770年とかいうラウンド
したようなものと、年単位のものとのギャップですが、そら古いものはわからないのが当たり前となって逃れて
いるものです。つまり、3倍してラウンドしたものが西暦欄にあってはおかしく
一般の大多数の人は、256とか403のことを西暦というと理解しています。西暦@西暦Aがあると見て
よいのでしょう。結果、与えられた数字を使ってもよいが三倍をすることが前提となってる、つまり
▲@は(BC403×3=1209→BC256)
▼@は(BC256×3=768(770)→BC403)
とすると、すんなり理解できます。一方、▲@と▼Aという珍妙なものの意味はどういうことか、▼@は
新しい時代から古い時代に流れていることになります。これは 循環させてる ということでしょう。
年表の続きでいけば、関連事項では
前1200ごろ (→256)・・・ X
前 770ころ (→403) のあと
・・・
前403 戦国時代はじまる(→BC221)
・・・
前221 秦が中国を統一。秦王政は始皇帝と号する。(→BC206)・・・Y
があり、周の滅亡が、XからYに変わっています。始皇帝は周のあと秦が引き継いだとしたと思われるので
ここで周の終了でよいのでしょう。256−206=50で 50×3=150を1200から引いた数が周王朝の
はじめということで、Xの1200ころというのは1050が合ってるということでこれはウィキなどの(1046)
になります。周の年代は 1046−206=840年で、慈円は周を
37王 867年
としており、27年違いますが、慈円のは日本史に関連付けようというものがあるので、27年は、探す必要
があると思われます。とにかく紀元前600/3=200は始皇帝の即位に合わせていそうでもあります。また256と
いうのが技術的な数字だったというのもあるかも。3倍、1/3というのも大陸からきたといえるかも。
慈円は
神武76(内太子36)+33(スイ靖)+安寧・・・9代開花60=(559)+10代崇神68=627
の(内太子)というのははじめから考えていたといえます。実際太子は36かどうか。わからないのですが
太田牛一の信長暗殺のくだり「十二・三間」で取り上げてるとみて、こうなりましたが、「十二・三間」のところ
は、戦国と古代の語りが表裏になってるところで、
「鰐」「二つ玉」「六角佐々木」「鯰」「甲津」「永源寺」「蒲生」「布施」「後藤」「日野」などがでますが、
「なまず(魚+是)」は〈魏志倭人伝〉にも出ています
「杉谷善住坊−八風峠−丹羽兵蔵」
も覚えとこということです。「十二・三間」の「間」は日が門の中に入ってる情景です。間口12,3間奥行き33
間も崇神の「御間城」をいうかも。
(293)八代、考元
慈円は560(559)という不完全数字だけから40を出しましたが、ほかにも 間違って目的を達成すると
いうのもあります。
在位
7代 孝霊 76年 元年庚午 53即位 死128●
8代 孝元 57年 元年丁亥 60即位 死117
9代 開化 60年 元年辛未 51即位 死115
10代 崇神 68年 元年◆甲申 52即位 死108
となってて、開化60年と書いていますが計算では 115−51=64になります。4年はどっかで使えば
よいようです。また孝元は60+57=117でこれだけは合っています、これだけはというのは在位年数が
神武〜開化まで +1 +1 +1 −9 −5 +1 +1 0 −4=13
のように計算より計13多くなっており8代だけ差がないということです。違わしたおかげで(559)に
なったということです。また崇神が68になってますが52+56=108になります。68−56=12おかしい
ということになりますがこれは前からの間違いを引きずってて、12(13)+56=68というようにもなると思いま
す。ほかのことにも使えますが。
ただこれで修正されて後ろへ及ぶ影響が解消されているというのでホッとするところでもあります。
、
これにより全体の流れで13前倒しになった効用はあるはずで13/3=4は神武太子に遠慮したもの
譲り合いがクローズアプされるということもあるかも。これが気になると慈円の基本数字559が変わって
きます。紀元前660というのが頭にあるので、また欠史八代(〈古事記〉)という語句があるので、紀元前の
計算で559というのがモトだというのがわかるので
@神武76+(欠史八代)開化60まで=559 + 41=600
A 同上 = 559 +101= 660
の(41)とか(101)が出てくるが、いま間違いの13が増えてくると 慈円の559は
神武76+13(4×3)+開化まで483(決死八代)=572 となり慈円の、
神武から開化まで 559+(41)=600 は 559+13+(27)=600
となり、根拠のないのは(27)という数字にかわることになります。(27)を次の崇神との関係で見ると
○前倒し 600紀元前 /崇神41(68−27)+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9・・・
○修正後の崇神でいくと /崇神29(56−27)+・・・・・・・・・・・・・・
のようなことになります。「29」というおかしなものが出てきた、つまらんことやってる、となるのですが、
この13は慈円の間違いを受けて前に持ってきただけのもので、譲り合いの4というのは別にあるので
4×3=12を前に持ってきて、29に足すと41になります。慈円は559タス41=600、にした41と間違いやって
出してきた41が二つあるとかいうことになると41の応神を紀元元年を挟んで重視してるということになり
ます。(27)をそのままにしておくと紀元元年に/崇神68をもってくるということになります。
○紀元前の660は 60+559(76+483)559)+41=660
ということで、慈円では「41」は意味あるものとして入っているが、前の60は計算には入っていないと
みられるので、慈円は559と計算したものを書いたのは紀元前は600にしたかったと思われる。
計算したものを、561としてたら、ここは60、1単位で動いているので、660を認めてたといえます。前紀1
というのが100年になってるのと同じです。
いま◆の文の108は本文では120になってることについていってきましたが、◆が崇神元年になる
ので西暦24年が、これにあたります。前後60年後に甲申がここでよいようです。◆の上の
8代の、丁亥の57年後は甲申になりますが、開化元年は甲申ではなくて辛未になつています。辛未は
甲申の13年まえだから
丁亥57後甲申−47後辛未−開化60辛未−13甲申(崇神のはじめ)とすると47+60+13=120
となって 76+423+開化60+41=600+(60)/の(60)がもう一つ出てくることになります。つまり
紀元前600 /★崇神68+垂任99+景功60+(60)+成務61+仲哀9・・・
の(60)を入れなければならない感じです。それは後の必要のためですが、いま◆で甲申が崇神元年
と書いてあったから
ーーーーー|ーーーーーーー|ーーーーーーーーーー
元年 24年(甲申・◆崇神元年)
← 72/3 →
において、24は実数なので、24×3=72になり、72は 崇神68+4=72
神武76−4=72
になり、譲り合いの「4」は神武と崇神を「24」の説明に動員する重要な端数となってるといえます。この
24が猛威を発揮し、 /崇神68+垂任99+景行60+成務61(このころ「ヤマトタケル尊」)・・・・
において、次に垂任90+9=99があり、崇神は神武にすりかわって、在位は前に来てるから、
24(実数)+垂任33(99/3)=57(実数)
となりこれが57年遣使の数字になり、垂任期に第一回の遣使があり神武が80年とすれば「57+4」=61
年が実際の建国という場合のその時にあたると当時の史家が見たからそれに従えばよいのでしょう。
これは◆の記事を生かしたものから出したにすぎないものですが、初期の史書の編者の段階では
6通くらいの出し方があって、後世の貫之や、慈円や、定家、紫式部、太田牛一、芭蕉、宣長などの
解き方も加わり、偽書とされてそうな文献の作者も頑張って解いてきて、名もない人も大勢知っていた
ということですが、明治でこの状況が覆滅されたということでしょう。
●(孝霊)は神武天皇の「76」年と同じで、神武天皇は52即位、127死亡
孝霊天皇は53即位、128死亡
だから神武天皇を意識してここに置かれ
次の孝元の「57」こそ光武帝朝貢の「57年」の「57」で、開化の60は紀元後神武の60の暗示とも
取れ、このため実際は64なのにそれを使わなかったともいえるわけです。つまり
76・57・60
初期における重要な数字の列挙で、この単純合計は193になります。神武天皇に前紀7年があると
いいたいとすると200がでます。また先ほど「57」のあとは景行60でしたが、景行は開化時代といって
もよいほどの、60年を持っており、慈円は64、としたいということだから、合計は193+4=197で
3は57に3を埋めたいということだと、
76・57・60→80・60、60=200
で、紀元前600/3=200 というのが 神功皇后紀の記事 「200+39」(邪馬台国の記事のはじめ
の200になるという、概観の把握にもなるというのが、76・57・60の組み合わせで主眼は57で
垂任90年(実数垂任30)の遣使で27+30=57になります (「27」は崇神在位23〔68/3〕+4でよい) ‖↓
したがって紀元200のうち57年に重点がおかれたことは認めねばなりませんが、この垂仁30年とは
垂仁の終わりごろですが前後一杯記事があるので、年代が確定されうるものだから、年表に書けるはずな
抜いてあって、57年の記事一つだけが孤立して出ているということで、頼りないでしょうということに
してあります。そやから、初めて、国家を代表して使いに行った人は誰か、中国の皇帝からどういうものを
貰ってきたのかというのもわからないことになっています。歴史をわかりにくくしとこ、とというのはありますがそれ
以上に歴史を明確にすべく古人が奇蹟とも言える文献を残してきたことを否定しとこと、いうのにあります。
明治時代から引継ぎ事項として、今日それを一層強化しようとしてるというので、今の国家の位相の
知れるところ。
(294)国家の紀元−−考元の57年
57と慈円の560にこだわってきましたが、いいたいところ
のことは日本史においては、この57年を3は少し調整して60に見立てて、これが紀元元年としてスタート
地点になってるということです。記録のある時点(後漢書)を重視したということで、これはこれで優れた
やり方だと思われます。
干支をはじめて歴史の年代表示にに取り入れたのは604年というのが神武即位紀元前660説の那珂博士
の話で神武天皇に7紀というのが紀元前にあって607−604=3が調整の3になるということかも。江戸時代
藤田東湖なども1840年・2500年を使っていたそうで、建国年といえば西暦60年が年表の最初に出てくる
国の対外的な行為があるから、この年と昔の人はみていたのでしょう。すなわち紀元1900年2500年、2000年
2600年がは藤田東湖の警告というのかも。慈円にわかりにくい、
紀元前560(559年)
があり、41足して600にしたいのか、通説のいう660にしたいか不明でした。560と660の+100は、
後ろに100年行かせたということです。前へ60を持っていって紀元前660というのではなくて
後ろへもっていったわけで、 559+41紀元前 / 後60 |
西暦元年 紀元元年A
ということで後ろの紀元元年があるという警告と、とれます。すなわち紀元といっても紀元@と紀元年A
があるということでしょう。
「57年」で手間取ってしまいましたが、建国のときは記録によった、後年の好太王碑へ流れる記録
重視の精神が読み取れる、そのとき何人かの人間の意志と行動が確かにあった、神武天皇の即位の
年とかいうラウンドしたものでない57年という生の数字が基になってるのはすばらしいと思われます。
このあとは540年蘇我稲目(欽明天皇の時代)(欽明天皇の死の年聖徳太子が生まれた)
にどう行きつくかということになると思われますが、一応慈円の生の数字を羅列しますと
▼
A:崇神68・垂仁99・景行60・成務61・仲哀9・神功69・ 応神41・仁徳87=494(9〜17代)
B:履中・6反正6・允恭42・安康3・雄略・22・清寧5・顕宗3・/仁賢11・武烈8=106
となりここまでで、
A494+B106=600
となり、一応何かに合わそうとしています。
C:継体25・安閑2・宣化4=31
D:欽明(33年)(年表540年スタート)=0
となりますが、合計630年で540年との差は90年くらい多くなっています。
年表で、何かいいたい(「壱(台)与」登場と思われる)と取れる「266」と「366年」があり
266+100+174=540 (この174は仁徳87×2=174で出てきてた)
も成立します。この366年は▼の直前の、崇神〜神功までの合計にちょうど一致します。ここからみると
Aの神功まで 366年
AA 応神41+仁徳87=128/3=43年
B+C=137
計 546
などの試算もでます。こうではなく
106−(11+8)=87 が仁徳と重複で、
A、24+(崇神から応神 計)403+B7人計87+C31=545
となるかも。
崇神〜応神407+(仁徳87+3+継体24)+仁賢武烈(11+8)=540
もあり、すなわち継体が清寧以下に包摂されるということも考えられます。Bは倭の五王の時代を含む
のでちょっとややこしく仁徳のあと三年の譲り合いがあるなどあるので端数が幅をきかしてくるところでしょう。
紀元前からきますと全体
(370+170)
600 | 60 | 540(366+174) |540
西暦元年 紀元{元年} 欽明元年
57年後漢
において紀元節が出てきたときだけは、特別の考慮がいるということで、普通は西暦元年からの計算で
でよいのでしょう。太田牛一は、慈円の560年(559)をやはり気にしたと思われます。
、桶狭間が1560で、プラス40で、関が原の1600年
のようなことが、桶狭間(自身の33歳)にあとの語りの基点をおいた、一つの山場を持ってくるのようなこと
なってる、と取れます。太田牛一では古代の語りも多くは桶狭間にあるかも。
(295)107年の遣使・続からくり(3)
◆Aの分、大空白のなかにある貴重な二番目の1行で、年表に
「107 丁未 倭国王(倭面土国王)帥升ら、御漢の安帝に生口160人を献ずる〈後漢〉」
があり、同時期、世界欄には
「105年、高句麗、遼東6県を侵す。」「111年、高句麗、後漢に入貢する。」
が前後にあり、朝鮮半島の記事では高句麗しか出てこない時期の入貢の記事です。107年と105・111年
が掠ってるということが、極めて重要なことのようで、(105+111)/2=108でもあります。
「面土」
という字が出ていますが、「面」でこの王朝の正体がバレテしまいました。高句麗とすぐ気がつくところ
です。甫庵に
「柴田修理亮勝家・・●毛受(めんじゆ)勝介・・堀久太郎・・毛受・・二位法印・・・」〈甫庵信長記〉
がありこの●が、読み、がおかしいので物議をかもし〈類書〉で
「面受勝助」(「毛受庄助」)〈川角太閤記〉訳本
のようなものが多数出たことは既述のことです。
面=毛
で「毛受」(もず)も〈古事記〉にあります。〈漢語辞典〉では「も」はなく「面(おも)白い」の「おも」の「も」かも。
「面」が「丸毛兵庫頭」などの「毛」と直結したのは、ここの読みによります。「面」は高句麗の属性語句と
いえます。「棉(めん)毛」からもありそうです。芭蕉に、
「あち東風(こち)や面々(めんめん)さばき柳髪」〈続山井〉
「蓮(はす)の香を目にかよはすや面(めん)の鼻」〈真蹟短冊〉
があり、「面」は、「東風」から「菅原道真」−「梅」−「匂・香り」「大宰府」や、白髪天皇(清寧)の「髪」、「柳」
にも至ります。こういうものの名残が「連想ゲーム」として残っていましたが始めた人は歴史意識を持って
たといえそうです。棉毛でみれば
「名月の花かと見えて棉畠(わたばたけ)」〈続猿蓑〉
があり、訳は
「・・畠一面(いちめん)の棉の実・・・しろじろと見えて・・これは■わた(糸+如)ではなくて、花では
ないかと見まごうばかりであるよ」
となっています。「面」を出してきて「しろじろ」を加えていて、これは「面白い」の「白」を出していま
す。支考は「木綿の花」を出して作意だといっています。木=目だからちょっとインチキくさいといえます。
名月に麓の霧や田の曇り〈続猿蓑〉
では「・・田の面がうすく曇ったように見えている。」と「面」を入れて訳されています。これは門弟など
の評を一部を持ってきて訳に加えていますから予定外のものとして出てきます。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き〈野ざらし紀行〉
面白し雪にやならん冬の雨〈千鳥掛〉 前書「鳴海、出羽守氏雲宅にて」
刈りかけし▲田面(たづら)の鶴や里の秋〈鹿島紀行〉
などがあります。「倭面土国王」の「面土」の「土」はのち「広開土王碑」があって自国の「王」をこう
呼んでいるから、この時の「土」が意識されているかもしれないが何となく「土」は「上」ではないかと
思うのは太田牛一が、「井戸才介」を出し、「井土才介」=「井上才介」を作ってくれてるからと思われ
ます。芭蕉に「土」を「つ」と読む例が出ており
竜門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん〈笈の小文〉
があり、これは「竜門(りゆうもん)の滝」の句で「滝」=(シ+竜)という合成が根底にあるのでしょうが、
「上」−「戸」−「土」を入れた句が作られたといえるところです。
「井戸王」(注では「不明」)〈万葉集〉
もあり、この前の句は前書が「臍峠(ほそたうげ) 多武峰より竜門へ超ゆる道なり。」で「峠」がでて
雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠かな〈笈の小文〉
がありこの句「「空にやすらふ」は「上にやすらふ」があります。その前の句は「葛城山」が前書で
猶(なほ)見たし花に明け行く神の顔〈笈の小文〉
の句があり、「かみ」が継続しています。「土」が「つ」なら「面(つら)」は「土羅」もありえますが「面」は
「面土」=めんつ=「面子」→「面目」へも行きます。が、「面」は百囲いの中に「目」が入っており、
「目」だけ抜いてみると「目土」がでてきます。「目」は「女(め)」だから、また「摩免戸(まめど)」があり
「面」も「め」だから
「倭面土国王」=「★倭女奴国王」
になりそうです。なんのことかというと、江戸時代(1784)筑前黒田藩主、黒田治之が亀井南冥と
世に出した、志賀島で出てきたという、金印の表記と似てるということです。
「漢委奴国王」(糸島に懸かって「いとこくおう」とも読める。)
だったから、この「漢おとこ」の「委奴国王」は、★の「女人」の「委奴国王」に似てきたということです。
これは亀井南冥などの造作だといってきてますが、もしそうとして何を出そうとしたのか
ということをいわないと単に、世間を騒がしたということになってしまう、それ相当の工夫もあるだろう
とも勘ぐられるので、一応探ってみるのも要ります。つまり登場人物
○「亀井」は戦国の「山中鹿介弟亀井新十郎」(木村が出てくる)
○「甚兵衛」(発見者) 太田甚兵衛〈甫庵信長記〉 庄屋大屋甚兵衛〈信長公記〉
○「喜平」 有馬喜兵衛 宮本武蔵の対戦相手
○「秀治」・(堀秀治)
○「武蔵(たけぞう)」
○黒田には後藤又兵衛がいた(藩主には「又兵衛」系の人もなったと思われる)
○一枚噛んでる「仙涯和尚」は堀久太郎秀政が生まれたとされる「岐阜市茜部」の出身
で堀は子息が「秀治」である。このとき黒田藩主は「治之」
などのことによって「渡海」を語るためのものとも見てきましたが、ここで国家の紀元ともなった遣使、
を思い、忘れられた次の一手(107年)を世に思い起こさせようとやった、というのがありえます。これだと
騒いで当然ということになってきます。そこで出た「委奴国王」だからどういう意図があるか
「奴」=(と)=「土」、で面=目=女(め)
を活用して、本当は「倭」 「奴」 「国」 にしたいから「イ」を入れたい
★は 「倭」「女」 「奴」 「国」 で、小さい{女}が、大きい「女」を吸収し
↓
「イ+禾+女」 「奴」 「国」 は
‖ ‖
イ ( 委 ) 「奴」 「国」
という操作が可能となりそうです。そーらよい、見事に、「禾」=(のぎ)=「野木」を生かしたな、となりそうです。
丹羽兵蔵、守山往還の往路で
「小池吉内・平(イノ)美作・近松▼田面(たのも)・宮川八右衛門・★★野木次右衛門、」〈信長公記〉
が出て、★★は野洲郡、野洲川の「野」が出ていますが「禾(のぎ)」篇の「の」に働いてきてそうでが、前の
「平野」の「平」(イノ)が何のことやらわからないので、その「ノ」に効かされて、前の「イ」は上のニンベンの
「イ」で入れたい、鍵となってるのが「イ」でしょう。「イ野」−「野木」の「イノ」が入れられたとも取れます。
「野木」は「野目」でもあり「野女」でもあり★の部分の余分な「女」を吸収してほしいところ。この★★だけは
4人のうち、女子表記になってるかも。そうとすると「ノ木女」=「委」は★★からでたかも。
「▲▼田面」の「面」は「里の秋」「平(イノ)」「松」・・・などに及び北の国の属性を確認させています。
ここの「小池吉内」は
「吉田神主」(賀茂神社)の「吉田平内」
想起の表記で、▼から畠一面の■「糸」に行き着き亀井南冥の「糸島」を出したい意図に沿うかのようです。
要は57年というのが重くのしかかってきて、それに次ぐ107年を取り上げたといえますが倭の方で、高句麗
が予定しているので、先ず使節を出したいという話があったととれます。
「倭国王(倭面土国王?)師升ら後漢の安帝に、生口160人を献ずる」〈年表〉
の「生口」というのは57年遣使が前にあるので、これは奴隷ではなく、人材派遣と取るべきであろう、と思われ
ます。中国側が倭というものをどう認識してたかということに関わることで太田牛一がこれを述べようと意思
を「つくも茄子」の一節で打ち出しているのでそこへ戻っての話となります。
「?」の部分の当初からの疑問は、誰かが何かをいってるはず、というのを亀井南冥が、いいたかった
ことと思いますが、ここで、芭蕉をも参考にしてたというのをいってきました。当面、これは日本では
どの天皇のときのことか、その記事があるのか、帥升というのは誰や、いうのが知りたいところのことです。
そんなもんわかるかい、と今はなってる、500年ごろの継体(これも外国から来てる)さえも伝説の領域に
ある感じです。
太田牛一は「名人」といわれた「堀久太郎」を「面」「毛」とかかわって出しています。「人」=にんべん=「イ」
というのは昔はなかっただろうから「名人」「人名」はこれには関係がないが、(295)●のところ「毛受」の二字の分は
「彼の使者毛受」〈甫庵信長記〉
となっており人名ですが、索引にないのが意図のあるところでしょう。別の読みがあったかな、と見たい場合
に「堀久太郎」と一緒に出てたと覚えていたら、●の読みに至りますから、堀は「面」「毛」「免」「麺」に関わって
きてる(作意によって)といえます。「久」は「こ」「く」で「木」→(もく)→、「目」(来目ー久米)もありますが
芭蕉では地名の「高久(たかく)」が出てくる句があり、「高久角左衛門」の宿(しゅく)での
「・・那須の篠原・・・・猶殺生石見むとて
落ちくるや高久(たかく)の宿(しゅく)の郭公(ほととぎす)」〈奥の細道〉
脇句 木の間をのぞく短夜の雨−曾良 」
があり、これは、訳では「郭公(ほととぎす)」は「時鳥」になってて、「宿」は「しゅく」と読む、と曾良はいってる
るようです。8集以上にも採用され同様の趣旨のものですが〈かんこ鳥塚〉集だけは
「落ちてくる高久の里の・・」「高久角右(ママ)衛門」
になっています。「里」は誤りであろうとされていますが、これはこれで合ってそうです。★★野木次右衛門を
見て、替えられたととれます。「次」は「次郎」で太田和泉守でしょう。織田信長「母衣(ほろ)之衆」に
「黒田次右衛門尉」〈甫庵信長記〉
がおり、豊田市の辺りは昔、「挙母(ころも)」といっていたようですが「母」は「ほ」「も」で、
「毛」は「面(めん」「もう」で、「母里太平」は「毛利但馬」で「も」でもあり
「森」=「毛利」=「母里」=(もり)(ほり)=「堀」
で「高久」「高狗」をだしてきてるのが「堀久太郎」といえます。
107年というのは、57年から50年後で垂仁90年が57年にあたったので
垂仁9+景行(60年)の43年目くらいに当ると
いえそうです。誰が使いに行ったのか(「帥升」とは何者)というようなことが知りたいところです。
ここで(294)の▼のところの羅列Aとの照合が必要になります。
実数107年というのは、107×3=321 で
紀元後、A、崇神〜仲哀までの合計がは297になります。合うのが、おかしいと思っていたから、
やってみただけですが、Aの崇神の前に24を置くと、紀元元年後
A@ 24+崇神68+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9=321
となり、なぜ合うのかわからないがピッタリということです。まあピッタリはたまたまなったので、本当は
ちょっと違いばっかりで、屁理屈つけて、「合い」が何通りかできて、どれもある事実を表してくること
になるのでしょう。まあここは
十四代仲哀天皇〈甫庵信長記〉
に着陸した、儲けもの、覚えとこ、というのでよいのでしょう。子24は即位の甲申の年で、
景行手前まで (24+68+99)=191/3=64 景行何年目か 107−64=43
となり107年は、景行天皇43年目となりそうです。43年目は
「・・・武部を定めた。この歳、天皇が践ソ(「示+乍」)〔即位〕して四三年であった。」〈書紀〉
があり、長い四〇年から四三年まで長い記事があります。この中に戦前では誰でも知ってた
浦賀での
「弟(おと)橘媛・・・爛(火はシ)(おおなみ)を披(ひら)いて〔海〕に入った。」〈書紀〉
があり、この人物が使者だったと思われます。橘第二弾、「海に入った」は生存のようです。
天皇紀は当たり前のことですが、飛び飛びになっていて、成務天皇でいえば、
はじめの五年間と、四八年(★「仲哀を皇太子に立てた」)と、六〇年(「崩じた」)
の7年の記事が、61年間に、あるだけです。仲哀天皇は9年ですが、3年記事があるだけで、景行
天皇は60年ですが40〜43の記事の前後、12年間と8年間のまとまった空白があって、20年の
空白があるということになっています。この間の単年とか、連続した部分に対する記事にいいたい
ことがあるということでしょう。
ここの堀が出てきた●の文は「毛(めん)」という古代を語る部分がありましたが
「柴田」が「堀」・「勝介」と関わってきましたので、また別の話にも飛びそうです。清洲城攻略の後で
太田又介を従えて出てきた
「柴田権六」〈信長公記〉
は、あの柴田勝家とは、一世代違っていて親子がテーマともいえるところです。曾良は
「高久角左衛門ニ授カル」
があり「宿」を「しゆく」と読むといっていて「授」から「受」で出てきて、「角」と「宿」を受けるといってそう
ですが 「柴田権六」「柴田角内」「内藤勝介」「宗宿」「太田又介」「土田御前」
「柴田権六」「梁田−兼松又四郎」「太田又介」
「柴田権六」「あの柴田勝家」「毛受勝介(勝家の身代わりとして戦死)=太田又介」
となると、斎藤家の「柴田角内」が誰で、土田氏とどう関わるかなどが出てきます。
とにかく107年の遣使は(高句麗)王の出す前のもので倭として出したととれるもので亀井南冥のいう
のはこの遣使の主語 倭「面土」国王 に注目といったのではないかと思われます。、これが
倭「女奴」国王なら 「イ奴」「委奴」「女奴」が内蔵されてて、「禾」も「わ」と読み「委」は「禾女」で
これも「わめ」とよみ「倭女」であり、「倭奴」との違いは「又」だけで貴重な「又」がでてきます。そら関係な
いのですが「ご苦労でした」という「宝」の記載がないのが痛いところです。秀吉の名とともに有名な
「おとごぜ」〈信長公記〉
はどうか、継体の都「弟国」は大山崎の「乙訓」ですが、そらちゃう、ちゃうのに決まっとるとなりそうな。
(296)「147」〜88年の倭国の動乱記事(続からくり4)
◆Bの148年(この147は148を使う。148−88=60で覚えやすいから)は後漢時代の「卑弥呼」の登場で、
107年から約40(41)年間の空白ののち突然出てきました。
年表の記事は「政治・社会・経済」欄
「★★148 この頃、{後漢の桓帝・霊帝{147〜88の間}倭国大いに乱れ、長く主なしと伝える〈後漢〉。
倭の諸国はともに卑弥呼を立てて王とする。(邪馬台国)〈魏志〉」
がでて、文化・人物欄
「卑弥呼は鬼道につかえ衆を惑わし、夫婿なく男弟が政治を助けるという。〈魏志〉」
が出ています。このとき卑弥呼は王になったといってるようです。
この100年後、次の◆Cでまた卑弥呼がでてきて、これが通常いうところの「卑弥呼」、親魏倭王の卑弥呼
で、近江にいました。107年の人も「卑弥呼」といわれてたかもしれませんが148年、
このとき後漢のいう女王卑弥呼が誕生したといえます。つまり107年の人の後継であった可能性が高く、
148年は、景行43年に107年だったから
107+41年=148なので、この41は
景行60年の残り(60−43)=17 と成務61年の内の24を加えたものが、41
になります。ここで、成務24年目の記事をみることになりますが、〈書紀〉には記事はなく、成務紀は、
初め5年と★@48年と60年の7年間
しか記事がないので無理のないことになるのでしょう。しかし★@がこのあたりの注目記事になるのは当然で
成務紀
「★四八年、春三月一日、甥のタラシナカツヒコ尊〔仲哀〕を皇太子に立てた。」〈書紀〉
「六〇年、夏六月一一日天皇が崩じた。ときに年一〇七歳。」(同上)
があり★★で卑弥呼を立てて王としてるのだから、四八の連携はないとしても、★@四八で平穏への序曲
がなり始めたといえそうです。キーとなる天皇こそ「仲哀天皇」だったといってることになります。
そらおかしい(在位9年の「哀」のつく)天皇ではないか、また24年を文献が示唆してるといいながら
48−24=24年も、勝手に滑らせてよいのか、となりますが、これはある期間の指示というのもあるという
ことでしょう。
例えば前の景行天皇にも、ここであるような大きな空白があり、
景行紀
「この歳天皇が践ソ〔即位〕して四三年であった。」〈書紀〉 (あと空白八年)
「五一年、八月四日、ワカタラシヒコ尊(成務)を皇太子に立てた。この日武内宿禰に命じて棟梁の
臣(大臣)とした。」(同上) (あはと天皇の記事で領内の報告がある)=(九年)
「六〇年、冬一一年七日、天皇は高穴穂の宮(近江国志賀)で崩じた。ときに年一〇六歳」〈書紀〉 があり、なオアが
があり、2/3経過した後の空白八年は、後継が徐々に動き出してる、このあとの九年は「景行成務(今で
言う子息も含む)」の時代が表面化してきてる景行時代といえます。
要は88年に始まった動乱(57年の31年目、107年はその19年後=景行では50年ころ)を押さえないか
んということで強い力、威圧が必要とした時期があって別人が乗り切っていくというのが51年武内の
登場かも、となりますが、43年以後17年間の間記事がないので自然に51年行ってしまった、というようなこと
がありました。景行に107年の指示あってもだったから問題はなかったということです。結局このときは成功
して55年には東国に善政をしいています。五一年は51/3=17だから43年から17=60というのは
何となく出てるといえます。これは景行の話でしたが
成務24年の計算が、48に行き着いたということですが
107 + 17 + 24(成務から24を取ってきた)=148
景行43年
とどういうわけか、24を指示したのは合ってることになって政務148に着陸したともいえます。
一方、景行の残の、17+31=48 になりますこの31は24+7で48になりますがプラス7とはなにかという
と 一応、成務の記事は7年分しかなかったという7しか考えられないところです。
仲哀天皇は天皇になって
9年しかなかったが、皇太子になってからの13年があるので13+9=22/3 7年の統治実績があって、
その前は景行の子のヤマトタケル@の活躍期があり、ヤマトタケルの船団から弟橘媛が消えています。
とにかく、景行の残り17年、成務の48年くらいまでは動乱の時代で記事がないということかと思われます。
今言ってきたのは実年本位のことで、148〜88=60の間隔も実年だろうとみています。
これの検証が手間のかかるところで148×3=444で
/27+68+99+60+61+(60)+(60)+9=444
となります。どこかおかしい感じですが、ここで、この時点で、120の差を埋める、60・60景行成務あたり
で持ってこないといけないのではないかと思います。例えば応神は通説では270即位ですが270+120=
まあこれも悪くはなく最後「9」で仲哀がでてきています。
107でみると
/24+崇神68+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9=321(1/3=107)
444−321=123でこの123はどうなるかというと、123/3=41で先ほどの41のようですが、ここで仲哀
がでてきたというのでよいとせなしょうがないといったところです。
要は148まできましたからあと、52年の実年数で200に達するわけで52×3=156をどうするかという
ことにあります。60×2+36 分だけです。156は次の「69+87」です。仲哀のあと、慈円では、
摂政神功69・●応神41・仁徳87・・・・
と続きます。慈円では紀元前559年でしたから後ろから41を持っていって600になりました。
●を持っていったとすると
27+崇神68+99垂仁+60景行+61成務+9仲哀+120=414+「69+87」=600
になります。つまり 444+69+87(仁徳)=600です。たぶん崇神の68は神功の69がもう一つ
出てきてすりかわるのかも。
紀元前600/3=200→紀元後実年の200
というのをいってきましたが、148までをやってきてその200 というのが視野にはいってきています。
邪馬台国が実年の239年から記事があります。444は 紀元前(559+60=619)で
19+68崇神+99+60+61+9(仲哀)+120+9(これも2回?)=445
前9年の「9」のことだから、五月蝿いかも。崇神kら仲哀まで297年あるが、まとまった空白は200くらい
ありそうで1/3の感覚でよいのかも。
(297ー1)邪馬台国(神功)へ
年表で
神功紀66年の記事は〈書紀〉の266年のものに該当する、そこに「倭の女王晋武王に貢献」があり
神功紀46年の記事は366年に起こったことが書いてあるという珍妙なものもありました。神功の
次は応神なのでそれとの関連をみると
24+366=390 124+266=390
となり、266年は台与ではないかといってきましたが応神とは実年で124年離れています。しかし
100年神功で飛ばしたことは、政権の継続をいっていそうです。
西暦390は応神即位の歳というのは大体固まっていることです。266の分で120の調整が出ています。
148年は、成務48年目に
「〔仲哀〕を皇太子に立てた。」があって、▲「60年に〔天皇〕が崩じた。」
があり、次の仲哀紀には
▼「60年〔成務〕天皇が崩じた。」「元年〔皇〕太子が天皇位に即いた。」
があって、あとの天皇が、前に記事があるのに60年後にもう一回、没というのもおかしい。また表記が
はっきりしないから、単に念のために繰り返しているのだといわれても、納得できない、こういう場合
違っている場合が多いというのは〈前著〉のときからいってることです。また仲哀紀に
「九年に天皇は・・・崩じた。」
となっているが次の神功紀に
「〔仲哀〕天皇の二年に皇后に立った」「九年・・仲哀天皇が崩じた。」
となってて亡くなった人の皇后になったのではないといいたいが神功の九年に崩じたとなってる
から仲哀の子ともいうべき人の皇后になったいうことの可能性が高いということもいえます。
成務の場合も叔父と甥という二世代もあるかもしれず、枠があれば「成務」・「せいむ」というのも
ありうるから入れてもよいということがあります。
★★神功四七年(247)年「・・・先王・・・〔なき仲哀〕天皇・・・」
などがあるのも、釈然としないところがあります。こういうのは、この場にその人物を出してきたい
があり、今の仲哀の存在も読み取れるところです。別人か同一かはわからないが表記がここに居座
ったというので決定打になりえます。景行、成務、神功など同じ60年があるので、とくに成務は慈円
では61年になっているのでおかしいようです。★★は覚えとコ、覚えとコ。
実数200年というと600ですが148年はあと52年で200で
148×3=444+156=600なので、156は「60+60+36」くらいで行き着きます。いま
「60と60」として「69」「87」がでましたので、あと36を入れれば、200に達します。239まで36+39=75(60
+6+9)が必要です。まあ「60+9」と「27+60」148年は
、仲哀天皇の登場ということで、これは太田牛一の「中入」の「中」、「愛智(エチ)郡」の「愛」などあり、
芭蕉〈奥の細道〉に
「神功后宮」「仲哀天皇」(脚注でも「武内宿祢」などと出てくる)ので重視されていることがわかります。
なお148年から次の邪馬台国の記事の239年から9年間の記事まで、年表では完全な空白となっており
わかってるのか、わからないのか、何もわからない、人の気配が感じられない空間がここにある感じです。
(297)〈魏志倭人伝〉の記事◆Cの倭国の記事(続からくり5)
空白が続くなかの唯一の9年間、21行にわたる記事のところにいきつきました。
◆Cが「親魏倭王」の出番のところで
239〜248(卑弥呼の死)九年間
の記事が出ています。これが一番詳しい〈魏志倭人伝〉の記事で、この記事の、卑弥呼のいる邪馬台国
がどこにあったか、九州か、近畿かということで問題にされて、関心を呼んでいるものです。記事は
「239 倭の女王卑弥呼、大夫難升米・・・牛利らを帯方郡に派遣し、魏の明帝に朝貢を求める。・・・
明帝・・・卑弥呼を親魏倭王とし金印を授ける・・・銅鏡100枚などを賜う。・・・〈魏志〉
▲@〈神功(摂政)紀39年条〉
240 帯方郡太守弓遵・・・詔書・印綬・・・倭国に・・・鏡などを賜る。倭王・・・答謝する。〈魏志〉
▲A〈神功(摂政)紀40年条〉
243 倭王、大夫伊声耆ら8人・・生口・・・などを献上する。・・・〈魏志〉 ▲B〈神功(摂政)紀43年条〉」
245 魏・・・ 倭の難升米に・・・黄幡・・〈魏志〉
246
247 ●倭の女王卑弥呼・・・狗奴国男王卑弥弓呼との交戦を告げる。・・
248 この頃(240〜48)卑弥呼没す。・・・卑弥呼の宗女壱与・・・国治まる。〈魏志〉 」〈年表〉
があり、ここで、今までほかのことでは西暦と天皇紀の対比が親切に書いてあった、▲@ABののような
文言が抜いてあるわけです。つまり〈日本書紀〉自体にも
中味はないかもしれないが(魏志から引っ張ってきたことだけはわかる)、このことが出てる・・・、
すると卑弥呼は神功皇后という説も生まれる余地があることにもなります。神功皇后と仲哀天皇は同世代
で、仲哀天皇が九の治政だったから、この9年間の記事と対応となって、仲哀天皇が親魏倭王卑弥呼と
呼ばれる女王ということになります。う。覚えとコ、覚えとコは「247年」でしたから●の年で、ここにボンヤリと
仲哀が出てきていました。
この▲@ABの記事が年表では抜かれたことは痛いことで次のものが〈書紀〉にでています。
神功紀39年の条から
「 三九年 239年というのは景初三の西暦(200+39)年
四〇年 240年というのは正始元の西暦(200+40)年
四三年 243年というのは正始四(200+43)年 」
以上が{魏志はいう}の部分
四六年・四七年・四九年・五〇年・・と続くがここはほかの記事が出てる
という意図的なものが消えてしまっています。神功皇后(摂政)は69年間(100歳死亡)在位ですが9年は
前仲哀天皇9年と共同統治があったとすると69年です。1/3でやってみると在位は23年、(年齢は33)とし
て、年表の、
(239〜243は出てない) 266年(神功66年条)・366年(神功49年)・382年(神功62年)
の実年数では登場していることになります。全部は到底無理なことなので少なくも、この3面に出場して
いて何かを語ろうとしています。それは半ば公然のことなのに、まあ余り市販本でも出てきてない、話
です。波及するところは大きく、ここで、〈魏志倭人伝〉のその239がでたということは、当然57年という延々
として述べてきた◆@もひょっとして〈日本書紀〉に出てるのではないか、出てるとすると本国邑初の遣使
の使者は誰なんかというのが出てるかも、というのに思い至ります。また107年の遣使において、前回は
金印などをもらっているのに、賜り物は何も書いてないが、これはないはずがないわけで、〈書紀〉に書いてい
るのではないか、という疑問もでてきます。周到さがあって、このとき金印がないのは同じ政権が50年後
また遣使をしたということを云ってるのではないかと取れるところです。何もなしは確実におかしい、のは
大体、そう思うところです。◆@57年のことは史書を書いた太田牛一ならば、物足りなさを感ずるはずで
107の何もなしというのは与える立場にいた太田和泉守ならば、語りがあってよさそうだと思うはず、と
いうのも出てきます。
(298)隣はコロッとちがう
ついでですが年表では▲の左に
245、246、247、248年と空白ののち266年がでてましたが、〈神功紀〉にも これだけが266対応
‖ ‖ ‖
46年、47年、49年、50年、51年、52年、55年、56年、62年、64年、65年、66年、69年
の記事があります、この年度における〈書紀〉の記事は
全然別のことが書いてあって、このころないはずの百済・新羅の記事が出ています。年表ではこの記事が
何と
〈書紀〉年次 46年 47年 49年 52年 62年
▼〈年表〉年次 366年、367年、369年、372年、382年
の▼に出ています。一例で46年をあげると
「四六年・・・斯摩宿禰を卓淳に派遣した。このとき卓淳王・・は『百済王は、東方に●日本の貴国が
あると聞いて・・・その貴国に朝貢させることになった・・』・・・・(使者)は『もとより東に貴国があること
を知っている。・・』・・・『もし貴国の使人が来ることがあったら、かならずわが国に告げるがよい。』
・・・・『貴国に貢上したいと思っても』・・・・・・・・」〈日本書紀〉前記訳本
があって、誰がいったかわからない、語り手が錯綜した記事ですが、●に脚注があり、
「原文『日本貴国』の日本は後代の大和朝廷の呼称でのぞく。このころ貴国は百済・卓淳国が交流
したいとした。おそらく北九州の国名。」
となっています。神功九年のところでも新羅王は、皇后の軍に攻められ「白旗」をあげて降伏しますが
「吾が聞くところでは、東に神国があり日本といい、また聖王があり天皇という。きっとその国の
神兵である。・・・・防ぐことなどできはしない。」〈書紀〉
といっています。皇后は「はじめに神の教えをうけ」、「降伏するもの殺すな」と号令するなどあって、その
国のなかに入り、新羅王が日本国に朝貢するようになり、高麗と百済王の二国王は「今から以後長く
西蕃を称して朝貢を絶やしません。」ということで臣従したわけでこれが、「いはゆる三韓である。」と
なっています。これが教科書で習った馬韓弁韓辰韓だと思いますが、これで皇后は新羅からもどった
となっています。ここで脚注では、
「日本、天皇、ともに7世紀末にできる呼称。」
となっています。これだと年表の邪馬台国の記事(▲@ABの139から145から148の「九年」))の
145の次からは、〈書紀〉を●の記事にかわってしまっています。しかし「日本」というものが、年表の
9年間の146以後に入ってくるという役目ははたしているといえます。
「日本」は七世紀といいたいところでしょうが、西暦57年と107年に倭奴国王と
いう称号をもらっており、〈書紀〉の「四五」は空白であり、このころに、慈円のいう「日本武尊」という人物が
登場してるのかどうかは一応見る必要がありそうです。
@〈魏志倭人伝〉の邪馬台国のところに置いたのは高麗王朝の有力親族の人が来てる国と
いうことがある。つまり57年、107年の遣使が利いてきてそれが知られていたというのもあ
り、貴国と呼ばれても、不思議でもない、内々では日本を使っていた
A神功のように一人が4面五面場合によっては六面の語りをするということを表す。時代を飛び
超えて出てきたりする。
B王朝の継続性
などを表してきたと思われます。必ずしも天皇・日本抱き合わせで7世紀末に拘ることはないと思い
ます。振り翳す、というものがあるときは、このことは通説として固まっているという親切と、
深入りはしない部分となってる、という親切の両方がありそうです。
@の57年と107年は、540年に行き着く一つとして
24+崇神68+垂任99+景行60+成務61+仲哀9=321+
応神41+仁徳87+3+継体24+仁賢武烈(11+8)=540
(「87」で倭の五王などを入れてしまうのは問題かも。仁徳天皇稜という巨大建造物は記念物
という一面を語ってるとも取れるところ。一面でいえば57年の実年30年後が「87」もある)
と言ってきてるものです。何回もやってると何かがでてきますが
紀元57年は 4+崇神68/3+垂仁90/3=4+23+30=57年
となって、短い期間内なので譲合いの4年を繰り越してしましたが紀元節お60年という点では
24+68+垂仁90=182/3=60年
がでます。〈書紀〉タイトルではこのときは、日本は使われておらず、540年少し前の「清寧」で使われて
います。しかし「大日本」は欠史八代終わりの「天皇」だけで使われていて、これをの「天皇@」、清寧の「天皇A」
正式決定の「天皇B」がありそうです。これが87のすぐ後でやったら57+30=87が出てきて
これ実年だから87×3=261 261+9=270=通説の応神の即位年(87+3)×3
270−4=266=邪馬台国以後の遣使の年
となって馴染みの数字で通説と実年がドッキングしてて、三倍の部分に実年の記事があったする根拠
ともなっています。87奇怪な働きというのも感ずるところです。まあ 紀元107年も
87+20 もあるかもとなってきます。107はちょうどのもあって
崇神68+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+神功(69−45)=321/3=107
24
となって、神功までの小計は366で、今45が出てきたので使ってみると、なぜこうなるかはわからない
が、うまくいき、一応神功皇后(仲哀含む)(応神は仲哀神功A)地帯に107が軟着陸することになりました。
(298)−2 人物がよくわからない
揺籃期で武力が必要だったかもしれず、主役が別にいて、成務・仲哀・神功のときは、景行の子、武内宿禰が
大活躍をする時代で、ヤマトタケルもいます。景行25年、武内、日本武尊は、景行27年からの活動と
なっています。まあ、みとくと
武内宿禰@が日本武尊、武内宿禰Aが武内宿禰ということもありうると思われます。
仲哀天皇の父がヤマトタケルなので 一応わからないので整理のために組み入れて
成務天皇−−−−仲哀天皇−ーーーーーー仲哀天皇A
‖武内宿禰@ ‖日本武尊A
日本武尊 ‖武内宿禰A(@は景行51年に成務の棟梁臣。6代280余年後見)
神功皇后ーーーーーーーー応神天皇
となると仮定すると、仲哀天皇9年の没後には、もう一回
神功皇后
‖
武内宿禰(芭蕉のいう「神功后宮」になるのかどうか、)
の60年がある勘定となりこれを慈円は、摂政としているものでしょう。
24+崇68+垂99+景60+成61+「仲哀天皇9年+神功皇后69」=390+応神41
とすると一応、応神の前がうまく納まりました。
次の紀元148は成務の61年の中の仲哀皇太子のときで
24+ (68+ 99+ 60+ 61 +▲9 )=297+60+▼60+3=444
これは148×3=444 + 156=600 52×3=156
が、付加されて600になります。148実年のあとが邪馬台国実年239です
(299)邪馬台国の239年
次の紀元239年は 239×3=717年
ですが、これにどういくかということになります。上の444には60+60年の追加が必要で
仲哀 60 神功 60
を加えましたが、さらに156の追加が必要で、神功 60×3+6=186 を加えると
200年+30年
なり230年の地点が出来上がります。これにつけ加える、239にする
「9」という数字
がキーとなっています。▼については慈円が摂政で「69」としてますかそのままで出ています。
「九」は▲の「9」でこれは区切りのところに置かれており、最後の「39」の「9」で、▼神功
「69」の「9」の部分があり、最後の239〜248〈年表〉の「9年」
があり、この駄目押しの「9年」の、ここに、覚えとコ、★★で仲哀天皇がでてきました。仲哀天皇は9年
在位で舞台から消えましたが結局これは、生存ということで、神功皇后Aとして、魏に遣使した天皇に
宛てられることになります。両者の関係は基本的には、神功皇后は仲哀天皇の后だから
仲哀天皇
‖
神功皇后 という今日では理解しにくい組み合わせのときに親魏倭王卑弥呼が生まれた
といえそうです。菅屋九右衛門は、太田和泉守ですが、(兼松又四郎)=森三左衛門(可成)とペアの
行動もあるということです。〈信長記〉では「仲哀天皇」が出ていて(索引漏れ)ですが、
「中野又兵衛」(「愛知郡中村」「重吉」)・「中条又兵衛」・「下方左近中将小一郎(柴田権六)」
などの間に入ってきます。この「中」は「中入れ」の「中」で「丹羽兵蔵」「金森長近」などが、守山−日野
−清洲を往還して桶狭間の戦いに備えたということです。この「仲哀天皇」は
「熱田大明神は、人王十二代景行天皇、第二の皇子日本武の尊と申し奉りし。・・御兄成務天皇に
皇子おはさぬに依つて、十四代仲哀天皇は、此の尊の御子にておはす。」〈甫庵信長記〉
となっていて、 景行ーーーーー成務ーーーーーーオウジ
|
日本武の尊ーーー仲哀(やまとたける)
‖
神功
というのがありうるから、オウジという人が神功后宮もありうるから、次代では、仲哀の後継が神功の後継と
重ねられていてもおかしくないということにもなります。この239〜248のあと
「266 11月 倭の女王、使を西晋に遣わして入貢する。〈神紀66年条〉」〈年表〉
がありこれは248、13歳の壱与(台与)ととれるから卑弥呼の孫ぐらいの人で神功69年の終わりのころには
神功Bくらいが出てくることになります。このあと100年の空白があり、
「366年★ 倭国の斯磨宿禰・・(近)肖古王・・・〈神功紀◆46年条〉」〈書紀〉
があり、この366は
24+崇神68+垂任99+景行60+成務61+仲哀9=321+※45=366
であり「45」は245つまり邪馬台国239〜244(年表空白)
「※245」(〈書紀空白〉
246以下〈書紀〉(斯摩宿禰など)
の分岐点になるものです。したがって神功皇后は69が
初めの部分/摂政元年@/摂政元年A200まで/邪馬台国39〜45/246以降
にわかれそうで、148以後52年間は200年までの記事がありそうです。
★の366に24たすと390になります。これは神功皇后の子息が応神天皇という年齢のところまで
皇后を持ってきたといえます。通説では応神天皇は西暦270年の即位となりますが、通説でやると
★366年は◆46対応ですから120の差があり、270+120=390になります。
これでいくと
24+崇神68+垂任99+景行60+成務60+仲哀9=321+神功69=390
となり次の応神が391からとなります。「45」の転調数は
46(246)へ走る分岐点でもあり
●24+崇神68〜仲哀9計321+( 45 + 24)=444 (魏志の148×3)
神功の69相当
の45でもあります。が、24がはじめと終わりに来てるから69を使うと24が次のステップの前にきそう。
444+156(52×3)=600 600/3=200 〈書紀〉の神功の200に対応
邪馬台国の記事まで39(239)
444+60×3+6=230 + 9 =239
において●の分は
23+69+垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+神功69+60+61+9=520
になり、ちょっと変更すると 27+99+ (60+61+9+69)×2=524 となります。神武を紀元後
に入れるのは結局合っているのだから、理由は
紀元前
神日本 ばんよ
A 磐余(いわれ)(万代) ―欠史八代 神日本 と「大日本」「天皇」
紀元後
B 同上 ―欠史五代 神日本Aと「◆日本」「天皇」/七世紀以後の「日本」「天皇武そんぶ
でAは 76+483=559 Bは61+(崇神〜仲哀)297=358
となりますが、◆は〈書紀〉で早い段階で外国の人が「日本」といっており、「日本武尊」「日本童男」
もあり前に、神日本Aがくるのが当然です。つまり
A 紀元前600 / B 紀元後600÷3=200 / 39後邪馬台国
になるようにBを固めたかったわけですが、その時期が、ここで、やってきたことになります。ここで、次の
ように確定するのではないかと思われます。すなわち
(T)神武 4+神武61+垂仁99+景行60+60+成務61+61+仲哀9+神功69+69(68)=552
552+87=639→600+39
で位置だけは指し示すことはできます。しかし「4」とか「39」は三倍の数字のなかの、実数が入るので
説明的すぎる、ともいえます。これはこれで位置を指し示すことができますが決定打がいるところです。
(300) ついに決まった!!
西暦年代と日本式区分の年代の換算は
(U)神武 12+神武61+垂仁99+景行60+60+成務61+61=(小計444)
(444)+仲哀9+神功69+69+69(仲愛)=(小計216)=(小計660)
(660)+87=717
717÷3=239
が一つの公式としてありうると思われます。当時の秀才が、一般にわかるように砕いて述べた部分に
乗ったもので、有力なものと思えるものです。87は何で前にくるのか、はよくわからないが現にある数字で
合ったら安心というものでしょう。
@ 天皇名は
「神武・(欠史八代−最後が大日本の開化)・・崇神・・仲哀・神功・応神・仁徳・・」
と続きますが、「欠史八代」を「欠史九代」にしないと「満史」10代、600年にならないので
Aは 神武76+欠史八代483(小計559)+一代(41)=10代・600年
とすることになります。これは
「・・仲哀・神功・応神(41)・仁徳(87)・・・」
の(41)をもっていったから、そこに空洞ができて
後ろの87が前詰めとなるか、87A影がそこにできるかは
別として87が神功仲哀と接触することになったから、87の活用が必至です。87はここでは1/3で使い
ましたが後漢のいう卑弥呼擁立148年〜魏の卑弥呼239年間の実年90(87)年としても使っていそうです。
連続してるというのが出ています。3の端数はいずれどこかで余ったとかいうのがでるのかも。
太田牛一に
「(脚注NO一一)十二・三日隔て・・」、{脚注一一 十二・三間であろう。}
があり123がでています。これは41×3であり41というのが、多面の働きをするといってるわけで
同じことが15であります。「12・3日」というのは「15」で、「87」も「15」です。これは神武天皇の
即位の15★です。これは紀元後のBの前に神日本A15の部分として出てきます。15×3=45も
前にでてきました。
Bの欠史五代は
九代にならないと二本目の史が完成しないところです。
Bは ★15/ 12+神武61+欠史含み五代(垂仁99+景行60+成務61+仲哀9+神功69)
=375+不足四代(60+61+69+69)=630+87=717
となります。これで大きな問題は重要な崇神(68)が抜けてる点ですが、これは神武と60の部分
が重なっていることはあり、神武橿原即位後61の内53年くらいは空白であり、68=69といってよく
最後の69との重なりも予想されるところです。箸墓の記事は崇神では早すぎて、箸墓Aが卑弥呼
の墓を語るかということもこれからやってみての話です。★の右に12がありますが譲り合いの4年間
は実数かどうかわからない両方あるとみないといけないところです。 30
(300−1) 応神前後
なお長期的には
●366 + 174(60×3−6) =540(欽明はじめ)(60×9)
があります。(「174」は87×2)なお
366+24=390(応神のはじめ) 366=266(230の延長)+100 266+124=390 成務天皇(やまとたける)(景行第四子)
のようなことになって、まあ、●のようにトータルで抑えながらいけば、そう著者のいいたい方向から
はずれてないともいえるところです
後半は応神からのスタートで
応神まで390/ 応神41+仁徳87+履中6+反正6+■允恭42+
安康3+雄略22+清寧5+顕宗3+仁賢11+飯豊1+武烈8+継体25=260(小計)
空位3+安閑2+宣化4 (あと欽明=蘇我稲目) =269(合計)
となり●で照合すると 366+24+150=540で 150=269の調整が要るかも。
「履中〜顕宗」までの計が87になります。したがって
○ 仁徳をそっくり除くもの 269−87=182の表と、
○ 仁徳を残す 応神41+仁徳87+仁賢以後54=182の表
の二つを作っておくということですが、倭の五王も何がなにやらわからないのは、どこの王かいえない
ことにあるのでしょう。「讃」「珍」「済」「興」「武」は中国側が倭の王に付けた名前ですが好太王の時代に
勢力が伸張して、高句麗王が中国の伝統的名目上の統治窓口でる倭の王朝の王を兼ねてしまっている
時代といえるとすると、日本の同時代の王を別に語りながら、倭王のことも知らしめるという複雑な構成
を持っている87年間の語りのあるところといえるのかも。したがってどの天皇にあてはまるのかというよりも
同時期は誰がいたかということではないかとも取れます。讃は413を起点とするので仁徳からとなるかも。
応神の在位は 41/3+9=23年 で期間は391〜413
として終わりは502年
「梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東将軍に進号する。〈梁書〉」〈年表〉
があり、ここだと思われます。仁徳は即位を三年間弟と譲り合いで遅らせており
502−412−3=86→87
が倭の五王という場合の期間と思われます。期間が気になったので、それなら書いてくれてるだろうと
いうことですが、87にも6通りくらいの意味があるかも。上表文を書いた倭の武王は海外にいるのは
確実で雄略には当たらないのでは。
仁徳15 允恭14 履中6 反正6 安康8 雄略22 清寧18(賢宗3) 計89
くらいになるのではないか、五王というのは仁徳・允恭・安康・雄略・清寧
となり必ずしも5人だけとは限らず使いを出した人五人というのかも。とにかく今までと違いすぎるので
一応あげておくだけにしときます。
仁徳の在位は 413、としても仁徳の構成が問題で
仁徳 87=仁徳45+仁徳弟允恭42
があるとすると仁徳45/3=15、允恭=14年 で期間は413〜427(崩年干支から)
になります。仁徳の残りは 87−45=42 これは上下の■にピッタリで、崩年干支を使って
合っていそうです。
仁徳87の治世は(ほんまの仁徳45+表面にでる仁徳■42)
となりこれは弟とか弟の子というものが入ってくると思われます。
堀久太郎秀政(堀久太郎秀治)
後藤又兵衛(後藤又兵衛A=〔宮〕脇又兵衛の隣、〔宮〕本兵太夫)
のような感じのものです。脇本陣というのは、江戸時代の語句で、美濃加茂市太田本町(高山本線・太田駅)、
の脇本陣、草津宿の脇本陣があります。〈広辞苑〉では「脇本陣」はスンナリ出てこずに
2730、「ろ」、の次頁の 2763で初めて「わ」が出てきて、2772の「ん」で終わった、そのずっと後52頁
目ぐらいの、2753で
脇本陣/弁ふ(わきまふ)
が出てきます。「弁」というのは親魏倭王の使者、「難升米(難斗米)」の弁でしょう。〈広辞苑〉2763に
倭の五王/倭奴国王印
という項目があります。この辺で、日本の「本」が重要なので、「脇」などの例をもってくるのもよいのでしょう。
慈円では、仁徳は 第一子 履中
第三子 反正
第四子 允恭Aーーーー安康・雄略
となっていて、第二子が書いてなくて第二子が允恭Aと考えてみると、允恭が弟と子の二つの働きを
するので、子として捉えても一応、説明がつきそうです。允恭の子が安康・雄略ということで雄略が安康を
殺してしまうのもおかしい、履中・反正の6・6・も他の使い方があるかも。
景行の場合もわかりにくいところでしたが
成務天皇(やまとたける)(兄)
|
景行ーーーーーーー日本武(大碓)(タケル)ーーーーーーー仲哀
‖ |
阿部臣五代祖? 小碓ーーーーーーーーーーーーー武内宿禰A
|
武内大臣@
(天皇と同日生まれ)
のようなことで描いてみると、一応「武内」のモトが出てきそうですが、武内は景行の大臣ですから
連合いとも考えられます。 いわゆる邪馬台国の時代はこの成務天皇・仲哀のこの時期に引き当てられ
ますが、成務天皇がタケルを受けて、景行@−景行A−−−仲哀
(タケル)
で合ってたともいえそうです。景行60・成務61というのは次代ともいえますが、両方とも即位が辛未元年
で並行世代とも取れないかというのは普通の疑問として出てきます。〈愚管抄〉には「仲哀(9年)」は
「景行のむまご。」「日本武尊第二子。」「仲哀の御テテの日本武尊」「母・・・両道入姫命(活目天皇
の御姫}」「景行(最低三人?)・・男女御子八十人。」「成務・・后一人、御子なし。」
となっていて、「活目」は垂仁天皇のことで、景行は垂仁の第三子です。
@景行ーーーーヤマトタケルーーーーーーB仲哀(成務48年東宮)
‖武内 |
八坂入姫 A成務
において@ABと皇位が継がれて、ヤマトタケルが景行に隠れて表に出てこない場合も考えられます。
この場合はAに「御子」がないことが前提ですが、ヤマトタケルを養子として打って出たと考えると、
「成武」というべき帝となりえたとも考えられます。八坂入姫は成務ではありえないといいきれないという
のもあります。仁徳は即位するときに、弟と譲り合って三年後即位しています。允恭という場合ばこの
弟(宇治太子)だったかも知れません。とにかく「崩年干支」でやると
讃= 仁徳17年(413〜427)
珍 履仲 6年(427〜432)
済 反正 6年(432〜437)
興 允恭17年(437〜454)
武 雄略35年(454〜489)
合計 81年
ということのようです。 (489−412)=77年で、502年では90年(87+3)になるということです。
57年・107年・148年・239年・266年・366年と追っかけてきたおで、節目の502年に行き着かないと
治まらないようです。このころに
「477 11 倭国、宋に使を遣わし方物を献じる〈宋書〉 (「雄略」の時代)
「478 5 倭国王武宋に遣使して方物を献じて上表する。」(有名な上表文の出た遣使)
「502 4、梁の武帝、倭王武を鎮東大将軍より征東将軍に進号する。〈梁書〉」
の3件が中国との交信ですが、477と478は同じ人物か、478と502は、違っていそうですが、二人
なんかややこしいというてたら読めないところでしょう。502年の「武」の人は、唯一しょうもない天皇の代表として
揶揄されている武烈の武を冠してるかも。武烈天皇は仁賢太子の一面があって、そうとすれば、
「清寧天皇」の孫ぐらいになり、500年という区切りの英雄の登場ということにもなりえます。
「白髪天皇(訳本)」は、後継に仁賢の兄の顕宗(3年)を即けましたが、(「?」の)五年(素直に読めば「?」は
「顕宗」になるがその五年)に「白髪天皇」が崩じ、皇太子(仁賢)と天皇が譲り合い、やむなく「イイトヨ」
(訳本)天皇(慈円では「飯豊天皇」)の期間があったということです。もう一人の武烈は貶されて、飯豊は
誉められてというキャラクターの登場は、太田牛一の喜ぶところでしょう。
次の仁賢五年に「シラカ天皇(訳本)」が崩じたというのもあって、とくにカタカナで書かれるとわけがわからなく
なるし、読み方によっては5年、10年はすぐ、ちごてくるので、取りあえずトータルから抑制を加えていく
ことになります。まあこうかどうかわからないが咀嚼しておかないと太田牛一に聞くためのわからない
ところがわからないので、やってきましたが今は倭の五王のところほんまにわからないので避けとくとして
も、武王の上表文のことを爆竹でいってしまってるので戻らないいかんので苦しいところです。
今、時を追っかけてきましたが、邪馬台国が固まってくると金印のことになり成務(政武)天皇の宮が
あった高穴穂宮がどこかというの位置の問題が残って、そのままになっています。
(300=2)下坂本
白髪天皇=「武」=武井夕庵は登場はじめからイメージが老熟で太田牛一の頭のなかでは並立させ
られていた大物と思われますが、「飯豊」もそういうものがありそうです。
「飯豊」の「豊」は「推古天皇」の「豊御食炊屋姫天皇」「厩戸豊聡耳皇子」の「豊」にいきますが、豊臣
の「豊」にいくのかは別として、「飯」は
「飯尾近江守(「尾張奥田城」)」「飯尾豊前」「飯尾毛介」「飯尾隠岐守」〈信長公記〉
があり、1560桶狭間「武井肥後守入道夕庵」願文のくだり
「飯尾近江守・・・飯尾豊前守・・飯尾近江守・・夕庵・・尊日本武・・・日本武・・仲哀天皇・・白・・
白・・二・・白・・二・・白・・白・・二・・白・・二・・」〈甫庵信長記〉
があります。「武」が夕庵にも及んでいます。戦国で
「飯田覚兵衛」「飯田角兵衛」〈類書〉
で出てきて、「覚」が
「中入」「丹羽兵蔵」−近江「守山」−「丹羽覚三」「丹羽覚左衛門」
「飯田」−「飯田村」−守山城−「中入」−飯尾近江守−三河勢「中入」の「不覚」−「守山崩れ」
「角」−「高久角左衛門」−「高久」−「那須郡那須町」−「正八幡」=「岩清水八幡」−「堀久太郎」
となって、近江の「守山」「森山」が出てくることになります。
景行天皇は「倭(やまと)の纏向日代宮」にいましたが、晩年三年は、「近江志賀」にいて「高穴穂宮」で
亡くなっています。このあとの成務天皇はずっとこの宮にいました。遷都してここにいたのだから、この
天皇を親魏倭王の卑弥呼とみていたとすれば、近江志賀は卑弥呼の居た都というのが普通のことで
す。戦国時代、「志賀郡」が明智十兵衛の領地として出てきますが、漠然としており、この成務の都に
合わせたのではないか、と思われます。ここが何かをいいたくて、望んで給わった地といえそうです。
元亀二年
「・・・白髪曾(むかし)斯(ここに)有リ神ノ在ス(神のおわす在り) 七(ななたび)看東海変為桑 かくて
当国志賀の郡をば、明智十兵衛尉に給ひたりければ、坂本に城郭をこそ構へけれ。」〈甫庵信長記〉
「去て、志賀郡明智十兵衛に下され、●坂本に在地候なり。」〈信長公記〉
があり、「志賀郡が坂本にある」というような言い方になってそうです。「●坂本」に脚注があり
「大津市下坂本町に惟任(明智)光秀の坂本城址がある。」
となっています。この一節は、
「野田・福嶋」〈信長公記〉(甫庵では「摂津国野田福嶋」)
がたくさん出てきて
「去年野田・福嶋・・・坂本口・・・曲・・野田・福嶋・・逢坂・・志賀郡明智十兵衛・・・坂本・・・・
先年野田・福嶋・・・大坂(おさか)・・天満が森河口・・・」〈信長公記〉
のように志賀を前後で挟んでおり、去年・先年から飛ばして森三左衛門辛未9月の戦死
「辛未・・▲坂本口・・森三左衛門宇佐山の坂・・下々・・坂本・・纔か千・・守山・・大津の馬場・松本
・・逢坂(あふさか)・・野田・福嶋・・曲なきの・・下坂本・・(平手監物以下8人)・・(簗田左衛門太郎以下
十六首)・・其次田中に・・・▼唐崎拵・・志賀城宇佐山・・・野田・福嶋の普請・・・」〈信長公記〉
の元亀元年を巻き込んでしまっていて、またここに「野田・福嶋」が下坂本を取り囲んでいます。まあ
「高穴穂宮」がよくわからないので坂本城のあるところが、そうだと教えているととってもよいかどうかです。
「辛未」というのが「景行」「成務」お即位年の干支です。▲に脚注があり、
「下坂本であろう。大津市内(旧下坂本町)」
となっていて▼の前の「田中」の脚注も
「下坂本であろう。」
となっており、▼の脚注には
「大津市下坂本町の唐崎神社あたり。境内に近江八景の“唐崎夜雨”で名高い黒松の巨木
があったがすでに枯死。」
となっています。「下坂本」は「もと・坂・もと」というのもあるにしても、注目、ここに、となっています。、
「逢坂(あふさか)」は字では「蓬坂」に似てますが脚注では
「山城と近江の国境の山。大津市の☆南西方。関所が置かれた。」
となっており、慈円は、成務天皇のくだり
「・・景行第四子。・・近江国志賀穴穂宮。これよりさきはみな大和国也。此御時国の堺をさだめ
られぬ。・・御子なし。」
としており、山城は、このとき大和国だったかもしれず。のち清寧・継躰のときは山城があったということ
かも。下の方の「曲(きょく)なき」は脚注では
「無曲之由の由字が脱落したのであろう。」
なっています。この「曲なき」は、桶狭間で出てきて、
「・・・曲(きよく)なく川内へ引取・・・。」〈信長公記〉
があり、脚注では
「おもしろみもなく」
となっています。戦場でのことだから、この注は適切ではない感じですが「面白」を出そうとしてる注に
なるのでしょう。芭蕉の
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 〈奥の細道〉
の(なんめん)の「面」のように無理にだしたのかも、というようなものもあります。先ほど☆南西が出ました
が「南面」として「南」に懸かるもののようで、これは
「有難や雪をかほ(ルビ=「を」)らす南谷」〈奥の細道〉
があるから、南面はありえる、☆は西南戦争の西南とは順序が違って意味も大分違うようです。要は湖南の
南がありそうです。麻生氏は「南谷」の句を、普通季語だという「雪」には関係なく脚注で
「・・すがすがしい初夏の風が吹いてきて、谷間に残っている雪もかおる・・・清浄なお山・・・・・」
というような訳をつけています。この句がもと、
「雪をめぐらす風の音」「雪を薫らす風の音」「雪を薫らすみなみ風」
などを経ており「風薫る」すなわち「風の香」の句参照となっています。この句の麻生氏の訳は脚注
にあり、
「秋の夕日が野山を一面に赤く染め、旅を行く自分の顔をしつこく照りつける。しかし暑いとは
いっても野末をわたる秋の風はひやびやとしてうら寂しい感じがするという意味。」
となっていて、盤面では出てない「野」が「・・・野・・・面・・・野・・・」で出てきて、これは、行き着くところ
野田福嶋の「野」に、懸かりそうで、近江・大津・南・志賀・穴穂・成武・成田・成田弥六となりますが
〈信長公記〉地名索引
穴太 118 丹波国桑田郡――村
があり、118頁の本文に、
「●@穴太(ルビ=あなお)が在所是又要害仰せ付けられ・・・・明智十兵衛・・十六首(かしら)置かれ
、其次●A田中に・・・・●B唐崎拵・・志賀・・宇佐山・・・」〈信長公記〉
があります。「丹波国桑田郡穴太村」の索引をみると
81頁となっており、81頁をみると、
「・・丹波国桑田郡穴太村・・・長谷の城・・・鷹・・・角鷹・・」〈信長公記〉
があって脚注があり、
「京都府亀岡市曽我部町穴太」
がでています。長谷ー亀ー曽我部で、「鷹」は仁徳時代に「鷹出で来て有御狩」〈愚管抄〉があります。
「太八洲(おほや□しま)」〈古事記〉 「穴太(ルビ=あなお)」〈信長公記〉
という読みがあり、結論として、太田牛一は
「成務天皇」の「高穴穂(ルビ=あなほ□)宮」=下坂本の「穴太町」
と特定してるといえます。「穴太(お=ほ)穂)」ということだから不自然ではないと思われます。
●@の脚注は 「大津市坂本穴太町。ここと唐崎とは朝倉氏に備えた。」
●Aの脚注は 「下坂本のうち。」
●Bの脚注は 「大津市下坂本町の唐崎神社あたり。境内に近江八景の“唐崎夜雨”で名高い
黒松の巨木があったがすでに枯死。」
となっていて、●@が「在所」「是又」という地、と取れます。坂本城は宝物を収蔵する予定の城だったといいたい
ところです。本能寺のあと、明智左馬介(秀俊)と堀久太郎がここで宝の授受を行っています。黄金を天守閣
から撒いた話もあります。
「おお八島」は「太八嶋」で「鳥」が出て、何となく、芭蕉の
「鴈(かり)さわぐ鳥羽(とば)の田面(たづら)や寒(かん)の雨」)〈西華集〉
の鳥羽田の(太)面の句がでてきますが、この句、雁が、なぜ騒いでるかがわからないのです。慈円の
(雁が音=(かりがね)=雁金)の、「雁金」の大江山の歌(古今集)を踏まえていて武江(武蔵国)での句
のようです。この句は
金を感じての騒ぎというのもありそうです。真田の六文銭は有名ですが、真田には「雁金」の紋があります。
武江の「江」は近江の「江」でもあり、近(金)江でもありますから、「金印」の「金」は無理にでも出しとくのがよい
ようです。
「曲」は、「曲水」があり(顕宗天皇「曲水の宴」「★近明日香八釣宮」)があり、「千曲川」があり、城の「曲輪」
もあり、曲球(カーブ)は「まがる」なので「勾玉(まがたま)」もあり、芭蕉では膳所に曲水亭が用意されます。
こうなると、古代の日本に行きあたります。はじめてのことをいって申し訳ないが★が曲水に引っ張られて
近江ではないかとも思うところです。干支を「元禄三年・辛未」と間違ってる(四年が「辛未」)
行く春を近江の人と惜しみける。〈猿蓑〉
の句は湖面の「朦朧」と「匂」があるそうですが、「唐(辛)崎の松」−松島−「淅江の潮」が出て
会稽の恥−越王句践、の故事の舞台、浙江(省)がでてきます。
「会稽」−「淅江」−「江州安土記・・・西湖・・」ときて、芭蕉の「西湖・・◆淅江の潮・・」の「西湖」の
麻生氏の脚注は
西湖「中国の淅江省にある大湖・・・名高い。」となっていて、◆の注は
浙江「浙江は浙江省にある大河で今の銭トウ江。河口は潮の干満の差がはなはだしく、満潮には
潮が海から逆流して奇観を呈する。」
となっていて今の浙江で、「満」が意識的に出されています。西湖@、西湖Aがあるようです。「シ」+「胡」
もあるかも。
「福嶋」を後ろに隠した「野田」(「福嶋」は直接地名索引に出てこない)は近江に関しては「野洲」の「野」、
があり、芭蕉でいえば「七、那須野」(麻生氏の挿入)のくだりに
「那須の黒ばね・・・・野越・・・又野中・・・野飼・・・野夫・・・此野・・」〈奥の細道〉
の「野」がまとまって出ていますが
「野木次左衛門」「中野又兵衛」「野間左吉」「野瀬丹波守」「花くまの野口」「沼野(三人)」の「野」、
地名の
「野洲郡(脚注)」「やす川」「野洲川表」「野瀬郡」脚注豊能郡能勢町」「野田」などがあり、索引では
野木次右衛門/野口/★能島/野尻清介/能登国七尾城代→菅谷長頼/野々村正成
となるので、能⇔野 でもあります。★は文中では
●「能嶋(の しま)・来島(くるしま)・・・・」〈信長公記〉
となってるのを間違えています。太田牛一は、ちゃんと「しま」を分けて書いているのに索引でこう書い
たら価値が半減以下になってしまいます。もう一ついえば「逢坂(ルビ=「あふさか」)が先ほど▲坂本口の
ところで出ましたが、索引では6回も登場するのに「お行」に入れています。「ふ」=「う」ですから
「あうさか」ですが、同様のことは
「能(の□)嶋(しま)」 □=「う」
になります。★の索引の並びは見た目には「野」の中に「能」が入りこんでいるように見えるが、これは
「のぐち」「のじま」の「ぐ」と「じ」の順番による前後できまっています。したがって必ずしも
「野」⇔「能」
はあらわしていない、といえます。「能(の□)島」の「の」=「野(の)」だから「野」=の=「能」となる
ものです。したがって野田福嶋は能田福嶋というものにもなり能面の能が福嶋にも懸かることに
なります。また「あうさか」は「の□嶋」の例から、「あさか」にもなり、「坂」=「積」で「逢」が、二(日)本松
−福嶋の一節の「草」に懸かり「蓬(よもぎ)坂」が「福嶋」に懸かるということになります。
●が特に重要で「来島」の「来」は神武天皇が作ったという「来目歌」の「来」とか「鳳来」の「来」とか
がありますが「能嶋」の「嶋」は「山鳥」になっていて「双頭の鷲」に代表されるような、北方の「鳥」が、
島国が特徴の日本列島に持ち込まれている感じの字です。いつ生まれたのかについては〈万葉
の段階ではまだなさそうですが太田牛一は「能登(川)」「能面」「本能寺」などの「能」を感ずるもの
としての「山・島」の「嶋」を多用するといっている、のが、ここに出てるということで「福嶋」を全部使って
、近江に及ぶようにしてあると思われます。鷲が出ましたが芭蕉では突然鷹が出てきて
▲鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎〈笈の小文〉
があってこれについては、
「伊良湖は〈万葉集〉に麻続王の流された島として見え、罪を得て三河の国保美(ほび)村
に蟄居中の愛弟子杜国(とこく)に麻続王を重ね、杜国に会うことのできた喜びを裏に
こめる。」〈秀歌秀句辞典〉小学舘
があります。麻続王(をみのおほきみ)が伊勢国伊良虞へ流されたというのは間違いで本当は
因幡だったようです(〈万葉集〉)が、この人物が、杜国と重ねられている(実に古代と江戸時代)
と解せられているものです。戦国時代に伊良胡につながる人物がいれば重ねられるところで
しょう。▲の句がここで出てくるのは〈奥の細道〉に▲の句の「見付」が出てて
「・・・・・・栗の木陰・・・世をいとふ僧(脚注=可伸という僧。本名は簗(やな)井弥三郎。)
有(あり)。・・・太山(みやま)・・しずか(「間」の日が月の字)・・・栗・・西の木・・書付・・・
世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒(脚注訳=草庵の軒端)の栗
★あさか山(麻生氏のつけた題)
・・あさか山有(あり)・・・檜皮の宿(脚注=古名安積(あさか)の宿。今の福島県安積郡日和田
町・・・かつみ刈比(かるころ)・・草を花かつみ・・・かつみかつみ・・日・・山の端・・・二本松
・・黒塚の岩屋・・福嶋に宿る。」〈奥の細道〉
の題★「あさか山」の前にあって★にズバッと懸かっていそうだ、それが題目として入れられたから目に
付くということになるのでしょう。この「保美村」の出ている辞典は、現在までの歌・句が出てるので
島と嶋あ時系列でどうなってるのか、「嶋」がどのあたりから出るのか、調べる積りでみましたが「島」に
統一されてるのか、西行、実朝あたりでも「島」になっています。太田牛一は全部「嶋」で統一して
いますから、もの凄い執念で、注では
島田秀順(文中表記「島田所之助」というが「嶋」のはず)〈信長公記〉
となっており、誤魔化されています。甫庵は「嶋田」は「島田」もあり「島弥左衛門尉」もあります。が
「野田福嶋」という地名
だけは、ゆずっておらず、全部「嶋」です。結局「嶋」を使い出したのは〈吾妻鏡〉〈曽我物語〉などから
と思われ、慈円が「室ノ秋津嶋宮」ほかで使っています。〈書紀〉はこの孝安の
室の「秋津嶋(しま)の宮」
だけが、この「嶋」であとは「島」「洲(しま)」です。〈万葉集〉が「島」なので、回り道しましたが〈吾妻鏡〉
〈曽我物語〉に「嶋」となったのでは、「吾」「蘇」「曾」「我」で高麗の色が出てきた感じです。まあ結果
的には「山+鳥」で、生き物がでて来て、「朝鮮」の「魚」と「羊」に、日本の「木」と「鳥」ということになり、
ついでに島=嶋がでて、半島と島という両者の違いも出てきてるといえます。〈万葉集〉に嶋はないと
いいましたが、
柿本朝臣人麻呂・・・・
二五五 天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
二五五 天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見(やまとしまみゆ)
があり、上は本文で、下が万葉がなで別のところで出てるものです。ここに「嶋」が出ています。
上のものの脚注では
「二五五・・・。シマは水に面した土地のほか、天皇領を表す古語でもあった。▲“天離る鄙”に対して
▼“大和島”と言っており、シマの古義をしのばせる。→補注28」
となっています。▲▼でシマの古義がでてくるかというとちょっと無理です。
「鄙」→「夷」==「倭嶋」→「大和島」
とまわってくればなんとなく新王朝−古王朝、海外−本国、都会風−地方風とというのが出てきます。
桜井満氏は下の方の解説で「実は明石は畿内外の境であったのだ。」というのも書かれていて、古さ
も出てて、山+鳥の嶋が、太田牛一の目に留まったといえそうです。
(301)木末(こぬれ)
山鳥が出たわけですが山部宿禰赤人の二首
九二四 み吉野の象山のまの木末(こぬれ)にはここだも騒ぐ鳥の声かも〈万葉集〉
九二五 ぬばたまの夜のふけゆけば ●久木(ひさぎ)生ふる清き川原に千鳥しばなく〈万葉集〉
があり、上の有名な句については、十分に語られ尽くしたと思われ、付け加えることはなさそうですが
大きな不満がのこっています。この鳥は、数種の鳥の競演で、九二五で千鳥もでており、一般的に
山鳥として特定できなくてもよいのかもしれませんが、この国にとって木は特別ですから、この木は
何かというのは鑑賞には要りそうなのに、特定されていないのです。杉の木ではないかと思われます
がどうでしょうか。芭蕉に
三十日(みそか)月(つき)なし千年(ちとせ)の杉を抱く嵐 〈野ざらし紀行〉
があって、吉野の千本杉というのはなんとなく覚えてる、それからくるのが第一ですが、ここでは千年
になっています。杉山杉風は杉山山風で「嵐」が出てきます。この嵐は
煤掃(すすはき)は杉の木の間の嵐かな〈己が光〉
木枯らしに岩吹きとがる杉間かな〈笈日記〉
があり「間」は「月」の「間」があり、吹=(すい)=杉でもあり、杉の木が出てきます。「木」に関しては
上の「木」に、●が対応しますがこれは脚注では「未詳。」になっています。漢語辞典では
瘁iすぎ) (「字義 すぎ=杉 参考 杉の旁(つくり)彡を書写体に従って久に改めたもの」)
があって、「彡」がアウトプットできたので、述べやすくなりましたが、これを崩した形が「久」になると
いうことでその字が「瘁v(すぎ)です。したがって
「久木」=「木久」→「杉(すぎ)」
となります。そらおかしい、常識的には左から「久木」で「木久」にはならない、九二五の歌は縦書きだ
から、「久 木 公
木」 の順序は変えられない、ということになります。ただ同辞典では松は 公 と 木 の引っ付いた
ものがあって、上・下という問題は、手書きであればちょっと引っ付けたら問題は解消します。また上下の
問題は解説はあって芭蕉に
武蔵野の月の若ばえや松島種(だね)〈松島眺望集〉
があり訳では
「武蔵野に秋が来て・・・・月がまだ松の若生えのような感じで初々しく・・・松島の名月の
種から芽生えたものなのであろうか。・・・」
となっていて多くの論者が「生え」を使ってるからこういう訳になりますが●の「生」を見ていそうです。この
句には別に
「武蔵野の月の若ばへや松嶌□(空白にルビ=ダネ)」
があり、ここでで「島」は上下に、「山・鳥」=「嶌」になっていて、「嶋」とおなじです。従って「鳥・山」という
字があるとすれば、「瘁v(すぎ)が「久木」にかわるというのは自然になります。芭蕉は〈曾良日記〉で「小松」
が「小枩」も、また「二本松」が「二本枩」も使われていることを知っており、また「こざと篇」だけの字、
「南部(左旁なし)城下」「黒部(立口ナシ)川」「鈴木治阻(且ナシ)右衛門」「海陪(右旁ナシ)二リ」
を使用していることを知っており、「部長」の「部」、「陪臣」の「陪」が 立 を挟んで「こざと篇」で
口
成り立つということを知っており、「嶋」と「逆嶋」はありうることになります。大修館辞典では
コザト篇の字 左 コザト篇の字 右
↓ ↓
「阜」=陪の左の字をこう呼ぶ 「邑」=「部」の右の字をこう呼ぶ
となっており、
ここでは左を「陪臣」の「陪」、右を「部長」の「部」を探したということです。阜は岐阜の阜で曲阜の阜で
「曲阜」は山東省南部の地にあって周公旦、孔子の地で、「邑」は〈魏志倭人伝〉冒頭の
「倭人は、帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。」
の邑であり芭蕉は、ここに行き着くようにコザト篇を出したのでしょう。
「瘁iすぎ)」の横に、「瘁vの「久」が「丸」という字があってこれは「くるみ」ですが「久」−「九」−「丸」と
きてそうです。「胡桃」「栗実」もあって、「くり」は「くる」で「来栖」「栗栖」「小(う)栗栖(ぐるす)」があります。
再掲 木枯らしに岩吹きとがる杉間かな〈笈日記〉
の句は「鳳来寺に参籠」してという前書があるものがあり、「吹」=(すい)=「杉」で「蓬莱」が「杉」に
懸かってきます。
(302)杉目城
木三の「杉」は、「杉目城」があり、これは「福島城」(現在の「福島県」の語源となっている)の前身ですが
蒲生の大将「木村吉清」が福島城と改めたということです。「木村吉清」というのは大物表記で誰とも
特定できませんが「杉目」というのもたいへんな表記です。〈曾良日記〉「福嶋」のくだり
「・・あさか郡・・阿武隈川・・守山宿・・矢内・・矢内・・守山・・守山・・二本枩・・守山・・二本松・・
黒塚・・杉・・黒塚・・杉・・鬼・・二本枩・・二本松・・黒塚・・福嶋・・福嶋・・福嶋・・福嶋・・福嶋
岡Bノ渡・・福嶋・・山口村・・岡B渡・・山口村・・」〈曾良日記〉 (B=こざと篇)
があって、「守山」−「黒塚」−「福嶋」−「二本枩」−「岡部」と「山口」「矢内」などが出ています。「山口
村」は「山中木村」がでるかも。「矢内」は確実に本文中の「簗井弥三郎」の柳内、柳井をみています。
「岡B」は要注意といえます。t
「岡部」「山口」は桶狭間ですが、山口は、山口飛弾守があってこれは親が木村次郎左衛門ですから
子は木村又蔵(又助)がいてもおかしくなく、山口=(飛弾守)=蒲生 がありますから、「木村吉清」と
いうのは秀吉の吉、平手清秀の清ですから、城の命名という場合の特別登場が考えられます。
索引で木村は
木下藤吉郎関連3件/秀吉/羽柴筑前守関連3件/羽柴/木下/木村小四郎/★木村次郎左衛門尉/
(同)源五/●木村隼人正/清野美作守/・・・〈甫庵信長記〉
となっていて、「秀吉/羽柴関連」は、〈信長公記〉の索引の場合はここに入っていないはずのものが
出されているということです。「木下」で羽柴・秀吉を木村と結んだといえます。木村というのは、羽柴
秀吉とみてもよいほどのものになります。「羽柴」の「羽」は、一方で、「羽毛」「羽黒」「黒羽」「鳥の毛羽」
「羽州里山」「毛利」の、「毛」=「木(村)」=「目」となって、別面の「木」が「木村」を構成してるというのが
でています。「木村吉清」というのが●の人物が大型化されて、ウィキでも「生年未詳〜1598」となって
います。1598に死亡した大物は、年表では「豊臣秀吉没(63)」となっています。木村吉清の統治の失敗
で大崎・葛西の一揆が起きたという語りになってるはずですが、太田和泉守に悪役を押し付けて
いる例の一つでしょう。〈信長公記〉の索引では★について
木全(きまた)六郎三郎 (「尾張中島郡木全(稲沢市木全)・・木俣・・)」)
木村重章(文中「木村源五」) (「桜川(滋賀県蒲生郡蒲生町桜川)住人・・)
木村次郎左衛門 (6回登場)(索引の間違い「木村二郎左衛門」が抜けている)
久二郎 (「能楽師」)
弓徳左近兵衛(文中表記「弓徳左近」)「久徳氏は山中城主」
があって、★では後ろにあった「源五」がここでは前にきてますが、「同」と「木村」は同じではないという
ことになってそうです。ここの「久二郎」が何かというのが問題になるでしょう。
「木」⇔「久」は「久(こ)我」=「久(く)我」
だから、ここに位置させるというのは、著者の意向でもあります。いまとなれば、これは
久二郎=久次郎(木村次郎に対応)
久二郎
となって、左が抜けてる「木村二郎」対応で、「いわゆる」という感じですが、「次郎」は、「太田牛一(二番
目)」とみてきました。これは「二郎」は男性という意味もありそうということです。
久太郎「森蘭丸」=久次郎ーーーーあの堀久太郎
久二郎ーーーー連合い(乱丸)
ということをここに持ってきたということになると思われます。子息をもってきてるといえるから★は太田牛一
といえるというのが逆に出てきます。「木村源五」については
「柴田権六・・・太田又助・木村源五・・・・」「堀久太郎・万見仙千代・・・木村源五・・」
「{木村源五内} 木村伊小介」「狩野永徳・・・木村次郎左衛門、▲木村源五、岡辺又右衛門・・」
「山岡美作守・木村次郎左衛門・・・朽木山中・・材木・・」
があり、▲は芸術仲間で出てきて、▲の右の「岡部」は、安土城造営のときの「御大工」で、「木」(こ)=「高」
で、「山」は「山岡」もでており、又右衛門となると身内であり、高山右近であろうというのがでてきます。
索引では
岡飛弾守/岡辺/岡部帯刀/岡部丹波守/
岡部(辺)又右衛門 (大船建造の御大工でもある、脚注=「佐和山から湖北の坂本まで渡す大船」)
岡部元信(文中「岡部五郎兵衛」)
となっていて、「坂本」は文中にないものが出ていますが、それは別として、
「岡部五郎兵衛」〈両書〉
が出てきます。桶狭間で今川の武将としてたたひとり気を吐いた人物として有名です。▲の上に「堀久太郎」
と出てきてる「木村源五」がありますので、これも考慮して「(同)源五」というのは、桶狭間で今川から出陣し
てきた
「森勝蔵」=岡部五郎兵衛
という引き当てでよさそうです。森一族では
大石源三(同朋、林阿弥)がやってきて役目を果たし、森勝蔵(「源五」にしたのは「源三」対置?)が最
後まで頑張って、投降したという語りが、先ほどの「岡B」からみてありそうだということです。
「美作守」が「清野」と「山岡」で出ました。これは、高山の「山」でもありますが「美作」は「明石全登」
が出てきて、これは高山ウコンでもあるといってきてますが、この「全(また)」は索引の木村重章の前にあり、
「木全(また)−又右衛門」にもいきますが、「全」は「木全」−「ト全」が考えられ、これは
■「氏家常陸介」「氏家常陸介入道ト全」「常陸介入道ト全」「氏家ト全」「氏家左京介」〈甫庵信長記〉
などがあるように「氏家」「と「常陸介」に、むすびついてるのですが、これはちょっと置いといて、上の索引
の、「弓徳左近」の文中表記が間違ってて「弓徳左近」になっています。これは文中では
「久徳左近」「弓徳左近」〈信長公記〉
の二つあって「久徳」のほうが多いのです。両方でやりますと、久−木(村)から、そこの注の「山中」に、ヒットし
木村=山中にいきつきますし、注の「多賀」と、「久」(太郎)は、多賀新左衛門(爆竹の一節にでてる)、に行き
ますが、天正10年4月3日
「ココにて惟住五郎右衛門・堀久太郎・多賀新左衛門御暇下され、●くさ津へ、湯治仕候なり。」
〈信長公記〉
「惟住五郎左衛門尉、多賀新左衛門尉、堀久太郎、・・草津湯治・・黄金百両宛・・下され・・。」 山名k
〈甫庵信長記〉
があり、群馬県の「草津温泉」に湯治にいってます。草津温泉は5年ほど前に行きましたが、湯治客の名前
は出てましたので見ました堀久太郎の名前はなかったようです。要は多賀新左衛門が、わからないわけで
ここでは、親子三代とすると、兼松相当人物の親子(兼松又四郎・堀久太郎・堀久太郎A)が考えられますが
多賀新左衛門=「堀久太郎A」としてうまくいくかということです。●が近江の守山の草津をいってるのは
確実と思いますが、それは「惟住」がでたので「丹羽兵蔵」が「守山」往復していることがあります。多賀新左
衛門は浅井長政家臣だったいうことですから多賀新左衛門Aは「浅井小四郎」があるので、
「木村小四郎」〈甫庵信長記〉
かもしれません。久徳が「弓徳左近」だったら、同じ「左近」から「石黒左近」もすぐ出て、この一節に
「射越の矢・・矢・・矢・・」、「因幡・・・・高山・・」、「・堀・・・堀・・」
があり、「左近」は「右近−左近」ということで一つは明石左近想起にもなりますが、高山ー山中ー木村が
出てきて、結局、最後に残った、
「普請奉行 木村二郎左衛門」
は語らねばならないということになるのでしょう。
二郎=次郎 吉二郎=吉次郎
二郎 =吉二郎
という例などもあるので、これが、太田和泉守の連合いで、これが
木村常陸介@=■の常陸介⇒山中鹿介(弟が亀井新十郎)
となるということだと思われます。太田和泉守の連合いが、
@安東伊賀守身内(伊賀伊賀守)、
A金松又四郎・兼松正吉(松永氏)、
B小寺藤兵衛
くらいとおもっていたものに
C木村常陸介(文中表記「氏家左京助」)
ということになると数が増えるいうことになり、数が増えるのはいけないというわけではないが、@の別表記
となることが先ず考えられます。@の人が、安東範俊(伊賀伊賀守)となると事実的ということになりますが
木村常陸介となると木村重成の親ではないかとかいうような小説的、語りの表記にかわるという感じです。
菅屋九右衛門(「能登国七尾城代」)などもこの部類に入る人物なので、いまは金松相当も木村常陸介の表記はネットで確認すると、「定重」の子で
「重茲」「定光」「重隆」「重高」 「師春」
があり、「隼人正」が通称のようです。「師春」はなかったようですが常山が使っているので入れましたが
「春」は「春日郡」があるとしても「師」が直接ヒットするものがありません。常山の使っている
「木村伊勢守秀俊」〈常山奇談〉(「秀俊」は〈信長公記〉「安房守」脚注=「織田安房守秀俊」がある)
は「伊勢」が利いていそうで、〈類書〉の「木村主計」「木村宗喜」などもこの木村から派生するかもしれません
(303)蒲生郷舎
いままでは、、わかりにくい蒲生郷舎を
蒲生氏郷
‖木村氏(木村常陸介A)
太田和泉守 ‖ ■蒲生郷舎
‖ーーーーーーーー山口飛弾守(木村又蔵@)
木村常陸介@(氏家左京助)
というような関係で見てきて、木村常陸介は山口飛弾守と同世代とみてきましたがここに、@が出てこないと
安土城の木村二郎がうまく説明できなくなってきて、こうなってしまったということです。人生50年の時代
55歳まで生きれば40歳・25歳・10歳の卑属と、70歳の尊属がいる、もう少し生きれば玄孫がみられると
いう短いかもしれないが濃密なものがあったわけですが、二人同じ行動があって世代間をわけて分けて考えに
くく、20歳くらいを目途に@Aを作るということは覚悟しとかないといけないことになってそうです。■が
桶狭間のくだり:、
「・・たんけ(脚注=丹下。鳴海駅の北方。)と云ふ古屋しきあり・・・山口・・真木・・真木・・・伴(ばんの)
十左衛門尉・・東・・善照寺・・古跡・・佐久間右衛門・●舎弟左京助をかせられ・・一、・・丸根山には佐久間
大学をかせられ・・・」「・・先たんけの御取出へ御出・・夫(それ)より善照寺佐久間居陣の取手へ御出・・」 〈信長公記〉
の、●の人物ではないかと見てきました。そらおかし、というのもあるかもしれないが、
○「郷舎」の「舎」は、「舎弟」の「舎」である。
○ 表記の多い■は、「蒲生源左衛門」「坂小板」「坂源兵衛」「備中」があり、
「坂」=坂東の「ばん」=「伴」、原田備中・備前=塙直政=「ばん」
となる。「源左衛門」は〈常山奇談〉に
「蒲生家士大将・・・・佐久間備前、同内膳兄弟・・・・岡野佐内、蒲生源左衛門・・。佐久間
兄弟は見物せよ。佐久間兄弟の軍立あしき・・」
「蒲生備中父子戦死の事・・・蒲生備中真令(さねのり)(子息と思われる)・・真令・・三成
・・三成・・三成・・石田・・昔は蒲生の家にて横山喜内・・蒲生備中・・・・真令が子の大膳・・」
があり、佐久間兄弟の備前・内膳−蒲生父子の蒲生備前・大膳二人をうまく使って関係を
述べている。■と●を接近させている。
○ここの「横山喜内」は有名で地名索引として
「よこ山の城」〈信長公記〉
があり、この本文の部分の脚注は、
「横山城。長浜市石田町の観音寺坂トンネルの山手に城址がある。」
となっていて、「石田」が出ている。「坂」は坂源兵衛、「山手」は「真田」があるかも。観音寺は
観音寺騒動で後藤又三郎が出る。トンネルは未詳。
○「左京助」に「服部左京助」があるのに、人名注の記載をまちがっている。大きな索引作成ミスと
いえるもの。索引に
服部小藤太
服部春安(文中表記「服部小平太」) 服部小平太は桶狭間で今川義元に膝を切られた
服部友定(文中表記「服部左京進」) 弥富町の服部海軍は桶狭間で今川に味方した
/服部平左衛門/服部六兵衛/伴天連/・・
があって、「左京進」だけがここに出ていて「左京助」を隠している。注では
「服部春安 実名春安・・・・。のち秀吉に仕え、伊勢松坂城主となったが、文禄四年
(一五九五)関白秀次事件に連座して改易。上杉景勝に預けられ自殺。(文中表記)
服部小平太 (★★服部左京助)」
となっていて、本来★★を入れるべきところ、抜いてあり、湯浅常山は
「{氏郷伊勢松坂十二万石なりしが・・・安立・・黒塚・・安立・・黒塚・・安立・・黒塚・・}」
と書いているので「★★左京助」⇔{蒲生・・郷}だから「蒲生郷舎」がでてくる。また
「服部小平太・・・毛利新介・・・・舎弟・・」〈信長公記〉
がある
というようなことで「佐久間信盛」の舎弟が蒲生郷舎というのがでてきますが、山口飛弾の連合いなら
世代が変わることになります。〈信長記〉にはない表記ですが、まとめられていて使いやすいものです。
「名郷源太」〈信長公記〉(注:〈乾徳山恵臨時林寺雑本〉では「名江源太」)
があって誰やらわからないわけです。これは「郷」と「源左衛門」の「源」、「太」は「小平太」の「太」とみて
もいいのでしょう。ほかにこの字を有する人がなくて一応、蒲生郷舎と考えられます。索引では
半井光成(・・通仙院瑞策・・・「櫨(馬篇)庵」)/名郷源太/那古屋弥五郎
となっており、光成(三成)の横にいます。また、この「源太」が効いてきて
「山崎源太左衛門」〈信長公記〉 (考証名「山崎秀家(1547〜91)のち片家・・・・・」)
が、蒲生郷舎かもというのも出てきます。「舎」=いえ=「家」はありえます。本能寺のとき、安土、六月
「・・・二日夜に入り、山崎源太左衛門は自焼して安土を山崎居城に罷り退あれ・・」〈信長公記〉
があり、山崎源太左衛門(吉家)は爆竹の15人の中にも出てきますので見当付けとかないと手に負えないことに
なりそうです。湯浅常山は
「蒲生氏郷大志の事」で
「秀吉陸奥に赴き、蒲生氏郷に八十萬石・・・涙ぐみけるを・・▲山崎(やまざき)の某(なにがし)居寄て
辱(かたじけな)く思はれん事尤なり、といひしに 氏郷私語(ささやき)て、吾都近き所にて小さき国
一つ賜はらば終に天下に旗を揚げなんに、辺鄙に棄てられたれば何事か仕出(いだ)すべき。志の
空(むな)しく成(なり)たるによりて、おぼえず涙の流るるよ、とぞ語られける。」〈常山奇談〉
を書いてて、「自焼」−「山崎自林坊(吉家弟)」もあるので一応蒲生郷舎とするのでよいかも。
次節「奥州葛西大崎一揆の事」「天正十八年」で
「奥州葛西大崎一揆・・・・・氏郷名生(なおひ)の城・・・山伏・・・笈の中に玉薬を入れて、頭巾螺貝
杖(ずきんばらがひつえ)を携えて湯殿山に詣るありさまして送りけり。是蒲生左文が謀なり。」〈同上〉
を出して「左文」が蒲生郷舎といってそうで、この次節が先ほどの「蒲生家の士大将・・の事」で、省いた
部分も一部出すと
「氏郷・・笠井(葛西をもじってる?)大崎・・・佐久間・・兄弟・・先陣・・氏郷の心に叶わず・・
・兄弟・・・侍(さぶらひ)大将・・神田修理、外池信濃、岡野左内、蒲生源左衛門・・・佐久間兄弟
・・・先陣の士大将六人・・佐久間兄弟・・・叶ふ・・・先陣・・・平野・・・六人・・・長政・・・六人・・」
があり、「佐久間兄弟」がでています。この次節が「氏郷伊達家の刺客を免(ゆる)されし事」で
「伊達政宗、蒲生氏郷の威に圧(おさ)るる事を心中に深く憤りて、氏郷を殺すべき事を思案して、
清十郎といへる十六歳に成ける者・・・田丸中務少輔・・に奉公・・。田丸は氏郷と姻家・・秀吉
・・和平・・清十郎・・清十郎・・・清十郎・・・{記せる書に清十郎が姓をもらしぬ。をしき事なり。}」
があり、忙しくて「清十郎」の姓をもらしたのは日本史にとって痛恨の出来事ですが、次善をえらばな
しゃあない、そんなんばっかりです。まあ「お夏清十郎」の「清十郎」は常山より前です。常山では
「道化清十郎・・・平野與兵衛」・・」〈常山奇談〉
があり、これは、ここにも「平野」が出ています。「中務少輔」「佐久間」「平野」は「平手」に行き着き
その「清十郎」は一応は「平手清秀」でよいのでしょう。「清十郎」は「吉岡」もあって、これは宮本武蔵
の関連です。蒲生氏郷の弟に「蒲生重郷」がいてこれが「後藤又兵衛」の連合いではないかといって
きていますが「後藤又三郎」「後藤喜三郎」などが暗示する表記になります。前回は重郷などはウイキ
などの資料から出しました。ここで湯浅常山から確認が取れそうなところです。
(304)東の黒塚
「後藤喜三郎」の「喜」は「横山喜内」の「喜」になんとなく影響をあたえていそうです。
清十郎の次の一節が、
「氏郷佐々木鐙・・・黒塚の歌の事」
があって「氏郷伊勢の松坂十二万石」「黒塚」の4件で既掲の分ですがの
「氏郷の許に佐々木が鐙といえる名高き器あり。・・細川忠興・・・蒲生はもと江州の士にて
佐々木の臣・・・承禎が子四郎・・四郎・・安立郡・・安立は氏郷の領地・・黒塚は伊達政宗
の領地・・みちのくの安立が原の黒塚におにこもれるというはまことか・・・」
があって佐々木の「四郎」や細川に氏郷に関係ありそうですが、この黒塚が野田福嶋の福嶋に、
関わり安立が安達、安積に懸かるのかどうか、その次節が
「本多忠勝萬喜が旧臣を呼び出されし事」
であり、
「本多中務大輔忠勝・・・小瀧・・小瀧・・土岐弾正少弼頼定入道慶岸・・弾正・・萬喜・・
萬喜少弼・・・・萬喜・・正木大膳・・・・慶岸城・・・・土岐・・・・土岐・・萬喜殿・・」〈常山奇談〉
出てて「中務大輔」で「平手」が出てきて「務」というのが「成務天皇」(「近江国志賀高穴穂宮)の「務」が
があると取れます。麻生氏の「黒塚の岩屋」の注は、
『二本松市大平(おおだいら)にある洞窟。謡曲「黒塚」には鬼がこもったとある。』
となっており、麻生氏の、多くの合わせたら長い脚注の中で「謡曲」という字が出てくる唯一のもので、
謡曲では
@「成(な)りにけり成(な)りにけりまで年の暮 〈六百番俳「イ=言」発句合〉
があり、訳は
『謡曲では「なりにけり、なりにけり」というような繰り返しのことばで終りになるが、一年もすっかり
おしつまって、まさに年の暮に「なりにけり、なりにけり」というまでになってしまった』の意
となっていて、訳では「一年」が出ていて、解説では(北村)季吟の「句は・・・一入(ひとしほ)」が
でていて、(西山)宗因の句
A「年たけてなりけりなりけり春に又」
も出てきます。同じ六百番の句では
B「門松やおもへば一夜三十年」
C「去年やちとせ浦島が心ち初鰹」(「言水」の句)
D「大比叡やしの字を引いて一霞(ひとかすみ)」
が引用されていて、Aの句で「一夜」と、解説では「一新」があって@の「一・一」とBの「一・一」で
「門松」の「松」と「二本松」を構成しそうです。Cの句は「千年」(ちとせ)、「浦島」の古い時代を
みています。Dの句は訳が
「・・・昔一休禅師は叡山から坂本まで“し”の字をたてに引かれたというが、この光景は“し”
を横に一文字に引いた感じでおもしろい」
となっています。ここで「縦」(たて)と「横」が出てきて、変わった(たて)を持ってくると
「竪横の五尺に足らぬ草の庵」「木啄も庵はやぶらず夏木立」
の佛頂和尚のところに行きます。補足では、
「一休禅師が叡山に遊んだ時、衆徒が大字を書くことを望んだので、禅師は坂本の里まで
紙を継いでしの字を引き捨てたとある、逸話によったもの。」
となっています。
「比叡→坂本の里」
がでてるからここまでくるのはしかたがないというところです。
「霞(かすみ)」が前書きにもなっていてこれはそのままいっても「津」=「洲」で「かつみ」になるも
のですが「安積」山があって、これは「あさか」山=浅香(山)になっています。すると「浅(朝)霞」
になります。安づみ=(積)=安ずみ、は発音で同じになります。
(305)黒塚の岩屋
いま「かつみ」「安積山」の一節に
「・・尋ね・・尋ね・・尋ねありきて・・日・・山の端・・。二本松・・黒塚の岩屋一見し福嶋に宿る。
一五、しのぶの里
石を尋ね・・さと・・小里・・石・・里(さと)の童部(わらべ)・・石・・石の面・・」〈奥の細道〉
あって「尋ね」ているのは、常山で蒲生氏郷=「黒塚」が出たから「黒塚」であろうと思てると、通り越し
て「石」を尋ねています。「岩屋」は素通りかというと、山−「岩」−石、となってて、二−岩−一とあって
何となく、ちょっとここでは通り過ぎるが・・・というのが一見だと思われます。「黒塚」の「黒」は
七、那 須 野
那須の黒ばね・・・野・・・・一村・・・農夫の●家・・野・・野・・刈(かる)・・野夫・・・此野は縦横・・」
があって●に脚注が出てて
「玉生七郎右衛門の家。農家で名主(なぬし)であった。」
となってて、ここの●が、
「北国一の難所・・・伊勢参宮・・古郷(ふるさと)・・・一家(ひとつや)・・萩と月・・」
の「一家」の「家」で〈奥の細道〉で「郷」を使っているのはここ一つだけで、里(さと)と同じ読みと
なっています。
氏郷(さと)=「里(さと)」=郷(さと)舎(いえ)
であるといいたいのかも、と思えるところです。
「尋ねる」が続いていて「一五」の「里」から、「佐藤」に来ますが「佐藤」は「さと」でもあります。
「 一六 佐藤庄司の旧跡
月の輪のわたし、瀬の上と云ふ宿(脚注=今は福島市瀬上。)・・飯塚の里(脚注=
飯塚は従来飯坂の誤記とされていたが今でも飯塚の地名は残っている。・・)鯖野と
聞きて、尋ね尋ね・・・丸山(脚注=佐藤庄司の館は上飯坂村、今の飯坂町の西、天王寺
、中野村の間にあった)と云(いふ)に尋ねあたる。・・・古寺(ふるでら)に一家(いつけ)
の石碑(せきひ)・・袂(たもと)・・石碑・・・
一七、飯 塚
飯塚(いひつか)(脚注=今の飯坂温泉昔は広くその辺を飯塚と呼んだらしい。)・・・温泉・・
湯・・・宿・・猶・・桑折(こをり)の駅(脚注=飯坂より一里余。奥州街道の要衝であった。)・・
きりょ辺土の行脚(脚注=旅に出て★辺鄙な★★田舎を巡り歩くこと)・・・・」〈奥の細道〉
が続いています。
飯塚⇔飯坂
のことは脚注が執拗に取り上げています。これは「塚」と「坂」のことを
「黒塚」と「黒坂」、「塚本」と「坂本」
のことをいっているようです。例えば「黒坂」となれば
「黒坂備中(守)」〈信長記〉
があり、「備中守」は「蒲生郷舎」だから、麻生氏は湯浅常山を読んでいてその著の流れから
湯浅常山の「黒塚」と芭蕉の「黒塚」、蒲生氏郷の発言の★、郷舎の★★「舎」をだしたことになり、
背景に太田和泉守ありということをいってることになるのでしょう。
索引 〈信長公記〉 〈甫庵信長記〉
九郎 → 織田信治 来島
九郎二郎 →山口教吉 黒坂備中守
黒坂備中 黒瀬左近
黒瀬左近(考証名「黒瀬政義」加賀(石川県江沼郡黒瀬に興った。)
となっていて、「左近」は「石黒左近」があるので
石黒 石黒
黒坂 黒瀬 となり関連をもたせてあるとみれます。
「石黒」は「黒石」「白石」→芭蕉の「ごてん」(脚注=「碁点。河中に碁石のように岩石が点々として
いるのでこの名がある。楯岡の西一里。塩川村の西の渡し場。)
に行き「おの碁呂」にも含みをもたせていると思いますが左の索引の流れから「九黒」「石黒(こくこく)」
−「谷(こく)」から「九谷」が出てくる、石黒の左近(右近)があるので匂うところです。
太田牛一が黒坂・黒瀬・石黒を出してきたのは、芭蕉・常山の「黒塚」を、〈信長記〉に出したかった
とうのが、後世の史家によって読まれたと取れるところです。天理市の「柳本」に「黒塚」の古墳が
あって、伝承では「崇神」天皇の名前が出てきますが、これを太田牛一が認知していたということ
によると思われます。蒲生に「大膳」「内膳」が出てましたが、黒塚−「塚本」小大膳が出てきそうです。
塚本小大膳=丹羽兵蔵
で「塚本」が「坂本」、「丹羽」が「守山」を語るという構成になっていそうです。蒲生がその語りの応援に
出てきたというのは、「宮本兵大夫」が「本」と「兵」を共有してるのもあるかとも取れます。索引の「黒」
の前の「九郎」はどうみるかということが悩ましいところです。森三左衛門戦死の「坂本」の戦い
索引項目で「織田九郎」(文中表記「九郎」)があったところです。
(306)黒と湯
さきほど湯浅常山の一文に「湯殿山」が出ており、これは〈奥の細道〉
有難や雪をかほらす南谷
の一節、すなわち
羽州里山・・・黒・・里山・・羽州黒山・・羽黒山・・出羽・・鳥の毛羽・・月山、湯殿・・武江東叡
・・天台・・月山・・・宝冠・・・日月・・日・・月・・日・・湯殿・・鍛冶小屋・・月山・・
岩・・桜・・積(つむ)・・遅ざくら・・梅花・・かほ(を)る・・猶・・山中・・月・・羽黒山・・月の山・・
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良
を出してきます。
「羽」「毛」「鳥」がここでだされています。「羽州黒山」
「羽州里山」が出てて、芭蕉によれば書写の間違いで
羽州里山になり、羽州黒山の中略で、羽黒山になったようで、黒塚は里塚もあるので常山は
蒲生氏郷(里)の話を、黒塚に持ってきたと思われます。理屈からいえば、「羽里山」もありえます。
中略した、「州(くに)」が問題で、〈日本書記〉では、景行天皇の条でもう
「景行五五年・・・彦狭嶋王が、東山道一五国の都督に任命された。」(脚注=「15国は不明。」)
が出ています。「都督」に脚注があり、
「都督は中国の官名をまねた。東山道は文武のころは近江、美濃、飛騨、信濃、武蔵、上野、
下野、●陸奥の八国、712年出羽が加わる。★」
があります。わけて捉えると、不明部分と、この九つの意味がよくわからないが、実際は★の部分に
上の「15国は不明。」が入っています。「一五」が知りたいから先にみてしまって納得してしまいます。
この●「陸奥」をウィキなどで補足すると
「岩代、磐城、陸前、陸中、羽後、羽前、陸奥」の七つ
となり、上の9国+この7国−1国(大陸奥)=一五国 になります。出羽が入っているのがおかしい
14ではないかというのが出ますが、それはもう要らぬことで、「武蔵」入れたら「常陸」入れないとおか
しいと、一つ違いは「合」ぐらいでもよいわけです。ここの芭蕉の「出羽」も言葉の説明のようなもので
「出羽といへるは鳥の毛羽を此(この)国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る・・」
となっていて「此国」がよくわからないので陸奥と同じ、広域の出羽もありえます。実際は712年越後の
一部を割いて作ったようです。先ほどの索引
九郎→織田信治/九郎二郎→山口教吉/黒坂備中/黒瀬左近(黒瀬政義・・石川・・江沼・・三州志)
において「黒坂備中」=(備中)=「蒲生)備中」もありえる「黒(坂)」の前に「九」があってこれは
「九黒」−「九谷」−「九州」−「九国」
というものが出てきます。狩野永徳の名前は「州信(くにのぶ)」があり、ここの〈越登賀三州志〉という
のも朝鮮半島「三国志」を見たものでしょう。ここの「九州」というのは「九州王朝と」いう場合の「九州」を
いってるわけではないわけですが、〈日本書紀〉テキスト〈神武紀〉で「そらみつ」「秋津島」の説明に
引用される重要なところ
「天皇は・・腋(わき)の上(ほとり)の、「口+兼」(ほほ)間丘(まのおか)に登り、・・・国を得た・・・
内▲木綿うちのゆふの狭い国だが、蜻蛉が交尾したようだ、といった。これによってはじめて秋津
洲(あきつしま)の名がおこつた。昔イザナギ尊はこの国を目して「日本は浦安の国、細戈を具足
した国、磯輪の上の秀真の国」といった・・「玉垣の内の国」・・・ニギハヤヒ命は天の磐(いは)船
に乗って大空を飛んで行き、この郷くにを見おろして降りてきて目して、虚空(そら)から見た日本
の国といった。」
の、▲に脚注があり
「内のユフは由布院でホホマの丘は盆地北の福万山とする古田武彦説がある。盆地の地形は
まさしく蜻蛉が交尾した形をもつ。」
となっています。このホホマの丘は通説では奈良御所市の本間丘とされていて覆しにくいところですが
九州にもっていったというものです。これに東北がありうるということは既述ですがやはり重要なところと
みられてるようです。芭蕉は「木綿」(ゆふ)は〈奥の細道〉「三山順礼巡礼」で出しており
「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引ひきかけ宝冠にに頭を包み・・・」
があり、「福万山」は、ネットで確認すると徳島県にもあり、東国でも確認が要るかも。「福・間」「万・福」でも
みないといけない、トンボは「眼」「目」に特徴があります。
浦安の国は千葉県であり、細干は西日本、玉垣は伊勢がでてきそうですが「秀真(ほつま)」が決め手
の一つです。日本の美称程度のことしかわかりません。秀真をネットでみると、記事
「秀真伝(ほつまのつたえ)」
がでています。これは
「全四十章の前半は神武天皇の代に大物主櫛甕玉命、後半は大田田根の命が景行の代に編纂
したとされるがその審議の程は不明。国学者平田篤胤が懸命に探したが発見できなかったという
・・秀真伝には漢字が伝来される以前のホツマ文字という神代文字が用いられているとの伝承あり。
・・」
が、でてました。「神武」が出て「秀真」があるから、ニギハヤヒ(物部先祖)と大物主とかがあるから、
この〈書紀〉の記事が対象にされてそうです。西暦57年に中国と交信した政権があったということは
その周辺では文字の使用がなかったとはいえないということにもなります。平田篤胤は自分の名前が
「平」だから、「平」を探したといえるのでしょう。
景行天皇が出てるのは、よくわからないにしても、天理市の黒塚の古墳が念頭にあると思われます。
一応、景行天皇陵(崇神の陵ともされる)ともされており、芭蕉は「羽黒」で「木綿(ゆふ)」をだし、日本松
、福嶋から「黒塚」をだした、常山のいう安立が原、これから安達太良の黒塚に話を飛ばした感覚が、江戸
期にはありそうです。桜井満氏、秋津島とそらみつの説明のために〈書紀〉のここの一節を使い
特に実りの季節に飛来する赤とんぼは「田の神とんぼ」などと呼ばれておりアキツシマに
蜻蛉(ルビ=あきつ)とした文献を載せています。慈円はもう神武紀で「秋津嶋」とかいており、これは
山+鳥の嶋い変えてあります。また神武記に「虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国」という文を引用され
日本、日本国となったのは唐代とされています。618年ころとすうと7世紀になります。しかし〈日本書紀〉
には、ここにあったように、日本国は神武天皇のときにつかわれているのです。すなわち
神武紀に 日本国 神武の通説在位(紀元前660〜585)
欠史八代 大日本など
崇神紀に 日本なし 崇神の通説在位(紀元前97〜前30)
垂仁紀に 日本国 垂仁の通説在位(前29〜後70)
景行紀に 日本童名=日本武尊 景行の通説在位(後71〜後130)
神功紀に 日本
欠史八代も
タイトルで「大日本(おおやまと)」三人、
6代孝安「日本(やまと)足(たらし)・・」一人、9代開化「稚(わか)日本(やまと)・・」一人
と付いた天皇があります。神武天皇はタイトルでは
「神(かん)日本(やまと)磐(いわれ)彦(ひこ)天皇」
となっていて日本が入っています。欠史八代も六義ほどの意味がある布石とは思いますが、ここでは「日本」
をチラホラさせる意味もよみとれるところです。大日本だけならひょっとして「倭」かなと思いますが、「日本
足」もあるから別の使い方があるかも。桜井氏は、さきほど▲の文にある「日本」の部分は別の文献を援用
して
「饒速日命、天磐船に乗りて大空を翔行きて、この郷(くに)を睨せりて降(あまくだ)りたまふに至りて
故(かれ)、よりて目(なづ)けて▼『虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国』と曰ふ。」
をもとに説明を展開していますが、
「ヤマトは、神を祭る処の義に発する地名で、大和国の一部、今の天理市新泉町、大和神社の
あたりの地名であったのが、やがて今の奈良県全体の名となりさらに日本の国号になった。
となっています。桜井氏は、〈書紀〉の表現は
『日本(ルビ=やまと)の国』」
となっていることを紹介して、このヤマトの解説をしたわけです。天理市新泉町あたりは柳本の黒塚古
墳に近いのでしょうが、「やまと(日本)」という地名があったのが神武紀に取り入れられた
といってることも考えられます。垂仁天皇の在位は紀元後ですから。
「そらみつ大和」の説明では、
「ヤマトの枕詞であるが語義未詳。」
(〈広辞苑〉では『「やまと」にかかる。「そらにみつ」』)
となっています。先ほどの▼の全体の文が
『「そらみつやまと」という表現の起源を説明した説話として伝えられる。当時の一つの民間語源
説であるが、人麻呂はこれを受けてか、あるいは「天に満つ」と、理解してか「★ソラニミツ」と五音
にして用いてい。人麻呂の時代にすでに本義が忘れられた枕詞であった。』
とあります。本義が忘れられたかもしれないが、★は重要なところで使われ、
「 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌
・・・・橿原の・・御代・・・・天の下 知らしめししを{或は云ふ、めしける} ●天(そら)にみつ 大和
(やまと)をおきて あをによし 奈良山を超え{或は云ふ、空みつ大和をおき、・・} いかさまに 思ほ
しめせか{或は云ふ、おもほしけめか}・・・石走る 近江の国の ささなみの 大津の宮に 天の下
しらしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は ここときけども・・・」〈万葉集〉
があり、●で出ています。もう一つ、細字の{・・空みつ・・}があります。これだけ{或は云ふ}が入っていると
二つのことを言ってる、ニ層になっているのは感得出来るところですが、中大兄皇子(天智天皇)の近江
国への遷都が人麻呂の出くわしたものですが、古い時代の近江国替えと重ねられて歌われていそうです。
「空に(光)満つ」と「虚空(そら)見つ」の二つが人麻呂の中でせめぎ合ってる、評価がなされている、と
とれるとすれば●の語義が働いているのではないかと思われます。「そらみつ」はここにも二つあり、天皇と
神の尊の二つもあります。この尊は「日本(やまと)武(たける)尊」(近江志賀郡)の「尊」ととれそうです。
紀元後のお神武紀に「高天の原〔天空〕に」というのがあって「天空@A」があるようです。
(307)天満−野田福島
人麻呂の「天に満つ」は太田牛一の「天満の森」に及んでいるのでしょう。天満は野田福島を伴って出て
きます。一つは
「南方表・・・横山・・陣・・長光寺(脚注=近江八幡市)・・下京本能寺・・陣・・・南方・・淀川(脚注=
琵琶湖に始源。瀬田川・宇治川となり大阪平野を南西に流れ・・)・・・比良かたの寺内・・陣・・
野田・福島・・・陣・・陣・・陣・・天満が森・川口・渡辺・神崎・上難波・下難波・・陣・・天王寺
(脚注=聖徳太子・・)・・陣・・大坂(おさか)・・堺・・尼崎・西宮(にしのみや)・兵庫・・野田・福嶋
・・陣・・天王寺・・摂津国中嶋・・川口・・天満が森・・野田・福嶋・・・・陣・・陣・・陣・・陣・・・野田・福嶋
・・野田・福嶋・・天満が森・・・」〈信長公記〉
があり、淀川もびわ湖面からみている、「比良かた」は脚注では「枚方」となっていて「比良=近江」をだして
います。「ひら」は「平」「比良」「片」ですが「枚方」の「枚」は珍しく
「印枚(いんまい)弥六左衛門尉」〈甫庵信長記〉
「印牧(かねまき)弥六左衛門」〈信長公記〉(考証「丹波守美満」〈西野文書〉〈越前若狭古文書選〉)
があります。天満が森、もう一つは、比叡山焼討ちのくだりで、
「常楽寺・・★金か森・・作毛・・・南方表・・。・・・叡山・・・去年野田・福嶋・・・野田・福嶋・・・・・逢坂・・
・金打・・御朱印・・・叡山・・・年来の御胸蒙(月篇あり)・・・哀れなる仕合せなり。
・・・志賀郡明智十兵衛・・坂本(脚注=大津市下坂本町・・・坂本城址)・・・先年、野田福嶋御陣の
時、大坂(おさか)・・御取手天満が森河口の足・・・大坂・・」〈信長公記〉
があります。野田福嶋と天満=「天(そら)に満つ」が絡んで近江坂本が出てきたことになります。
ここに「野田福嶋」7件でていて、一件だけ「野田福島」があります。「福嶋」単独は一件だけで
下に出てる●「渡辺・福嶋」の場合が、そうで地名索引も「渡辺」と「福島」と分けて出ています。前後に
「安東伊賀守」登場の一節のうち
「昔の、●渡辺・福嶋にて逆櫓争ふ時の風も是程こそ候らめ・・・御渡海・・・・舟を出し候へ、無理に
廿里
ばかりのところ半時ばかりにて御着岸。其日は★★野陣・・小川・・水野下野守・・小川・・六鹿・」
〈信長公記〉
があります。こ●の脚注が
「文治元年(一一八五)二月、源義経が渡辺・福島(現大阪市内)から屋島へ出撃しようとした時
軍監梶原景時は退却に備えて逆櫓を付けることを進言した。しかし義経はこれを拒否、争論した。」
となっています。この●は、私の家の近くにあった野田阪神の駅・「野田福島」の周辺というのとは別の
ところですが、この●の校注が間違ってると思われます。「渡辺福嶋」とすべきで「野田福島」があれば
「渡辺福島」があってもおかしくないことです。下の脚注が「渡辺・福島」とするのは合っており、これは
「福島・渡辺」に逆にしうるということを表します。脚注見ると、源義経が猛進型になっており、これが景時
のはずだということで、(「時」)という字が効いてきます。「渡辺・福島」は「景時・義経」の論争でいいわ
けですが、これは細字のもので普通の字で直すと、「判官・景とき」の争論があって、「景とき」が押し切られた
たということになります。したがって太田和泉守の船は逆艪をつけてるといってると思われます。
索引と脚注が「福島」となっていて本文だけが無理に福嶋が使われいます。
野田とか、渡辺の陰に隠れた福嶋を出してきています。ここの「福島」も、ほかでもよく出てくる
「★★野陣」の影響下にありそうです。これはあとでも出てきますが、野田原の「野陣」もあります。
★★の脚注は吉法師十三歳の元服のときの「野陣(のぢん)」にあり
「野外に陣すること。」
となっていて、これはいわんでもわかってるので、言外の意味が問題というのでしょう。「御帰陣(ごかい
ぢん)」も伴っています。「廿里」が関係するかも。上総介殿は金盛らと守山から清洲まで廿七里を走り
ましたが、守山−福島間の距離かも。
★「金か森」は脚注では
「滋賀県野洲郡守山町金森。城主は一向宗有力門徒だった川那辺藤左衛門秀政(〈本福寺
旧記〉)」
となっています。「守山」と「森」と「金」が出されたということでしょう。「守山崩れ」「森山崩れ」という松平
清康の物語があります。また「廿里」の脚注があり、
「熱田から知多郡の西岸へ渡るのだが二十里という里程には誤写があろうか。」
となっています。
ここで「秀政」(堀久太郎)が「福」を伴ってでて、これが「森」だったというのが、利いてきます。
成務天皇は高「穴穂宮」でした。「おおた」=(おほた)で
「穴太(ルビ=あなお)〈信長公記〉」=「穴穂(あなほ)」
で、明智の坂本城のあったところ(下坂本と穴太の距離がわからないが)が「穴穂宮」ととれるところです。
地名索引で「穴太」は
(あ行) 「穴太 118頁 → 丹波国桑田郡―― 」
(た行) 「丹波国桑田郡穴太村 81頁 」
となっており、はじめ、「丹波」のではしゃあないと諦めていましたが、よくよくみると118の「穴太(あなお)」
には脚注があり
「大津市★坂本穴太町。ここと唐崎とは朝倉氏に備えた。」
があり、この「★坂本」の意味がわからないのですが、本文では、元亀元年、九月
「信長公・・・下坂本に御陣・・穴太(あなお)が在所是又御▲要害仰付けられ・・・明智十兵衛・・
其次田中(脚注=「下坂本のうち」)・・・唐崎拵(「大津市下坂本町の唐崎神社のあたり・・」)・・」
で穴太の要害が出ており一応「下坂本」のあたりというのが出ていて、翌年、九月
「去(さ)て志賀郡明智十兵衛に下され●坂本に在地候なり。」
があり●に脚注があって
「大津市下坂本町に惟任(明智)光秀の坂本城址がある。」
となっています。従って▲は、●の城に手を付けたということになって★と●の関係は●の後ろに「(穴太町)」
が抜けてると思われます。●の脚注が「下坂本町」で切られてるという不親切がありそうです。成務天皇
の穴穂宮を太田牛一が意識してるのがバレタラえらいこっちゃ、となってるというのがいいたいところのことで、
そんな指示誰もだしてない議事録見てもない、という問題ではなく、学者自身の作った桎梏による、自粛の
拡大、千慮の一失を作るの苦心というのもありえます。
「高久角左衛門の「高久」というのは「堀久」といってよいようです。「堀」は「くつ」ですが、意味は
「あな」「窟室」で、 穴穂の穴は、「坑道−坑夫」の「坑」です。
坑=こう=あな=穴 で 高=坑(こう)=穴(あな)=「堀」で
高久=堀久 となり「角」「覚」は守山に行きます。
穴太衆は石垣の技術者集団としてこの時代にでてきましたが明智と結び付けられて理解されていませ
ん。坑道の戦術とか鉱山、「丹波桑田郡穴太村」(城主「赤沢加賀守・内藤備前守与力」)(「曾我部町」「仁清」
など登場)との結びつきなどが考えられるのかも。この赤沢・内藤二人は未詳です。
(308)大矢田−守山−大和田
「秀政」の「川那辺」は地名索引
「川なべ郡」〈信長公記〉
があり、まあちょっと、次の●に関係がないかということで、見てみると
「ココに大矢田・・尼崎の並・・大坂・・伊丹・・尼崎・・安部二右衛門・・芝山源内・・古屋野御陣取・・。
(前節終り)
(十四)・・・蜂須賀彦右衛門・・・二右衛門親・伯父二人・・・・荒木・・・
二右衛門・・芝山源内・・二右衛門・蜂屋・阿閉・・尼崎・・荒木新五郎・・二右衛門・・・左文字・・
・・・・・なべ郡(脚注=「兵庫県●川辺郡」)一色(いつしき)・・・・
@芝山源内・・A堀久太郎・B万見仙千代・C菅屋九右衛門・・其次(ついで)御弓衆D平井久右
衛門・E中野又兵衛・F芝山次大夫・・万見仙千代討死候。(脚注=「多聞院日記十二月九日条討死。」)」〈信長公記〉
があります。「大矢田」の脚注は
「大和田であろう。大阪市西淀川区大和田町。尼崎は兵庫県尼崎市。」
となっていて、尼崎のこと聞いてないのに書いてます。この「尼崎」は(307)の始めの一文にあり、「西淀」の「淀」
も同じです。「矢」=「和」は考えにくいが、「淀」が絡むと、 矢・野 ⇒(淀)⇒和、
になるようです。(こっちの方が考えにくい、というのもありそうですが)つまり「大矢田」が「大和田」になるのだったら、
まあ
「野(や)田」も「和田」になる理屈です。「矢田」が
「守山入口矢田川」〈信長公記〉
があって別の「守山」を念頭に入れてることになります。要は〈万葉集〉柿本人麻呂の近江旧都の歌
ささなみの志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ
ささなみの志賀の ★大わだ 淀むとも 昔の人にまたも会はめやも
があって、★がほったらかしで、わからない、「大和田の浜」が「神戸兵庫区和田岬」というものしかないわけです・、
唐崎と対で出てた、「あなお」を★としとくというのなら「大和田」がここに仰々しく出てくるのは頷けるところです。
「尼崎」はたくさん出てきますが「あまが崎」〈信長公記〉が一件だけあって、本文では
「荒木久左衛門・・伊丹・・あまが崎・・荒木・・尼崎・はなくま・・尼崎・・久左衛門・・・あまのはごろも・・」
があって脚注では「天羽衣」と「尼崎」とをかけてある、となってて、うるさいほど「ひらき」がでてきてて、唐崎と
いうのも「幸→辛→から崎」となり「天崎」−「あま崎」というのが流れになって、から=崎=(穴)太わだ と対に
なります荒木も伊丹も応援してますが人名も渡ってきています。
(308−1)秀政→堀久太郎
ここで人名がたくさん出てきましたが堀久太郎が参加
してくることによって局面が大きく展開してくる例にもなりますが、一色以後の番号のついた人は
C菅屋九右衛門
‖ −−−−−−−−−−−A堀久太郎−−−−−B万見千千世
D平井久右衛門 |
@芝山源内
|
F芝山次大夫
|
E中野又兵衛
|
FG
となります。「左文字」があるので桶狭間をみますと
「彼同朋・・・義元・・同朋・・・義元塚・・義元・・秘蔵の名誉の左文字の刀・・信長・・岡部五郎兵衛・・」
〈信長公記〉
があり、 F同朋=大石源三氏直、
G岡部五郎兵衛=森勝蔵
が加わります。
(308−2)金象眼の刀
ここで「左文字の刀」について脚注があり
『「永禄三年、(一五六〇)五月十九日 義元討捕 則彼所持之刀 織田尾張守信長 」と金象眼があり、
徳川家達寄進状とともに、京都市建勲神社に現存している。・・・』
となっています。これが宝物の現存ということがテーマとなってそうだ、というのが出てるとも思えるものです。
太田牛一は、蘭麝待の一節などがあるように散逸しやすい古代からの宝物というものも、追っかけて語りに
組み入れようとしています。これは面白いテーマだけに関心は高く、それだけに興味を呼ぶことは請合えます
半面結果、がっかりりさせそうでもあり、述べ方も難しいところですが敢えてやってるかも。
一色の上の「安部二右衛門」は「安東」「安藤」の「安」であり、「阿部」でもあり、「阿閉」(皇女)があるから
〈万葉〉の方へも飛びますが一方戦国では、索引では
東堂 → 織田信秀
というのもあって、「とうどう」は「東藤」もありそうです
「阿閉(閑)淡路守」「(子息)孫五郎」 「阿部加賀守/安部仁右衛門尉」〈甫庵信長記〉
があり、
安東伊賀守=(伊賀守)=伊賀伊賀守(「伊賀定治」・「北方城主」)
伊賀伊賀守=(伊賀守)=安部加賀守
という位置にある「安部二右衛門」です。
〈万葉集〉の索引では
「安倍朝臣虫麻呂」(「安倍朝臣虫満(むしまろ)」
となっていて、「麻呂」=「満」で、「天に満つ」が人麻呂にも効かされているようです。芭蕉の句
「曾良何某(なにがし)・・・・
君火を焚けよき物見せん雪まるげ」〈花膾〉
があります。「雪をころがしまるめる子どもの遊び」ですが、解説では
「雪丸(まろ)げ」「雪まろげ」「雪丸ヶ」「雪丸」
があります。「雪満げ」もあったと思いますが今は確認できません。岐阜の武芸郡の住人
「丸毛長照」(文中表記「丸毛兵庫頭」)
の「丸毛(まるも)」が「満毛」と変わりうるのだったら、「丸茂」もあるから地名など入れた苗字であるとも
取れるところで、そうなると、仮名(かめい)がはっきりしてくるというこにもなりかねないがどうかというのが出てきま
す。「大和田」は「空満つ 大和」の「大和」を無理に出したという一面もあるかも。
(309)室の八嶋
曾良(「ソラ」もある)は〈奥の細道〉「室の八嶋」のくだりで「火」を語っていて、
「 四、室の八嶋
室の八嶋に詣す。同行曾良(そら)が曰(いはく)、此(この)神は木(こ)の花さくや姫(ひめ)の神と
申(まをし)て、富士一躰(訳=富士の浅間神社と同じ神)也。・・・・火々出見(ほほでみ)のみこと生れ
給ひしより室の八嶋と申(まをす)。・・・」〈奥の細道〉
となっています。この一節は句がないのが物足りないと感ずるところですが、
この神は 木(こ)の花さくや 姫(ひめ)の神
という、五七五、はあるようです。また「木の花」の句は他にもあり
伊勢山田
何(なに)の木の花とは知らず匂ひかな 〈笈の小文〉
があり句篇の「匂ひ」が効いてきて、「空」を通じて、蓬莱の伊勢、東国の富士(藤)が出てきました。
そらおかしい、あるべき位置にない木の花を出してきても駄目だというのはありますがこの句の中七は
解説によれば、四通りの異形があり
「花とも知らず」「花とも知らぬ」「花とも知れぬ」「花ともみえず」
があり、ここまでくると
匂ひかな 何の木の花 とは知らず
と戯れることもよいのでしょう。つまり、この「ホホデミノミコト」は脚注の訳では「彦火々出見尊」となっており、
、「神日本伊波礼彦火々出見尊」=「神武天皇」をここで出してきて軸足を東国に移したものと取れるとこ
ろです。「大八洲」−「八洲」「八島」「八嶋」という「やしま」は、鳥の「嶋」が出てきて神武天皇の属性と
もいうべき
「頭八咫烏(やたのからす)」〈日本書紀〉
は、古代の「安部(二右衛門)にからんで「大矢田」がでてきたのと関係がありそうです。「頭」がついて
いるのでわかりにくいが「八咫」−「八田」とも言えるのでしょう。前の節が「三、草加 」で「早加」がでて
きますが神武天皇には「草香の津」=「盾津」があります。
義経の「屋島」はないだろうが、室の八嶋には「・・将(はた)このしろ・・・」があるので「将・幡・城館」は
ありうるのか、とも思えるところです。「矢島六人衆」の「矢島」があるかとなると、そらないが、現地にある句碑には
室の八島
糸遊(いといふ)に結びつきたる煙かな 〈曾良書留〉〈雪丸げ〉
の句があります。〈芭蕉全句〉では、「糸遊」は
「遊糸・野馬などとも書き、陽炎のこと。“あそぶ糸”などともいう。」
とあり、「陽炎」では「伊賀の国阿波の庄」の「伊賀新大仏」を詣でた句
丈六(じやうろく)に陽炎(かげろふ)高し石の上」〈笈の小文〉
があります。また「室の八島」とは
「栃木市の惣社町にある大神(おほみわ)神社のこと。六所(ろくしよ)大明神といい、木花開耶媛命
以下六柱を祀る。野中に池があり、その中に島が八つある。この池の水気が立騰って煙のように見える
といわれ・・・」
となっています。産屋「無戸室(うつむろ)」に火を放ったときの煙とは別かも知れません。
(309=1)矢島六人衆
「六」「六」「六」が出てきました。
曾良の句に
入りかかる日も糸遊の名残かな 〈曾良書留〉〈雪丸げ〉
もあり、これは、解説では
『定家の
いづくにか今宵は宿をかり衣ひもゆふぐれの峯の嵐に」〈新古今集〉
とか、謡曲「遊行柳」の
いづくにかこよひは宿をかり衣日もゆふぐれになりにけり」
が心にあった発想と思われる。』
があり「ゆふぐれ」の「夕」が出てきました。神(みわ)はあの三輪山の「三輪」ですがこれは〈古事記〉の
「美和」でもあり、尾張の三輪氏、美和の地区、蜂須賀、蜂屋、福嶋などに行くことにもなり要は、武井
夕庵がボンヤリ出てきています。「ゆふ」は「木綿」もあるかも。矢島六人衆の筆頭
「佐々孫助」〈甫庵信長記〉
も索引では
「佐々隼人正/(其の弟)孫介」
というものから兄弟が出てきて夕庵の推定が出てきてるだけだから
確認がいるところでもあり、ここでもやっとくのもいります。本文では
「熱田・・田島肥後守・・・・・佐々孫助・・・矢島四郎右衛門・・・・・矢島六人衆・・・」〈甫庵信長記〉
となっていて、「肥後守」=「武井」で「四郎右衛門」が本当は「総領」でもあり何となく「佐々孫介」は夕庵
の幼名というのも出てきます。田島=但馬でもあり、あの「橘」の「田島(間)守(たじまもり)」は、戦国では
「但馬守」もありえます。但馬守は、〈信長公記〉では、柳生但馬守は出てきておらず、
神応但馬守(注=「神尾但馬守であろう。神尾氏は駿河(静岡県)の豪族」)
前野但馬守(考証名「前野長康」 注= また長泰。丹羽郡前野邑の住人〈良峯系図〉)
前野長兵衛(注なし)
があります。「神応」は反対にして「応神」もありえるので古代にも通ずるかも。「応じん」は「応仁」もありえます
が 「応仁の義政公」〈甫庵信長記〉
があるので、これが索引漏れになってるのも痛いところです。「但馬守」が太田和泉守といってよいほど大きな
表記なので日野富子にも掛かってるかも。
「田島・・・・矢島・・・・矢島六人衆・・」
において 矢島
田島 −−−−−「矢田」も出ます。地名索引
「矢田の城 162頁」〈信長公記〉 (163頁にあり 脚注=桑名市矢田)
があり、桑名にあるのは「矢田城」ですが、索引で、もう一つの矢田がでます。
やす川/▲野洲川表/屋瀬/●やたか(八島か)/矢田川/矢田の城/屋長嶋
があり、●を受けた「矢田川」です。●は元亀元年
「たけくらべ・かりやす(脚注=長比・苅安尾)・・・堀・樋口(ひぐち)・・・堀・樋口・・・・・
太田孫左衛門・・八相山・・・高名・・八相山の下・・中条又兵衛・・中条又兵衛堀底・・高名・・
其の日は●やたかの下に野陣(のじん)を懸けさせられ、よこ山の城、高坂・三田・・野村肥後
・・相抱(「包」は「勾」)へ候。」〈信長公記〉
の●のところで、また「野陣を懸けさせられ」とでています。脚注では
『「やたか」は「やしま」(八島)の誤写か。東浅井郡浅井町のうち。』
となっており、前後の「八」「屋」「長」「嶋」を合成したような誤写が出てきました。「八相山」は脚注では
「虎御前山の南峰の中野山に矢合神社がある。八相(はっそう、やそう)大明神という。」
となっていて「矢」も出てきました。要はこれは、「安東伊賀守」登場の「村木の城」攻略の一節の
一部再掲
「大風・・渡海・・・・渡辺・▼福嶋にて・・逆艪・・渡海・・(知多郡の西岸へ)廿里・・★野陣・・村木の城・・
大堀霞む・・小川・・水野下野守・・」〈信長公記〉
の▼で「福嶋」が出ていますが、▲の「野」と、「野田福嶋」の「野」、★の「野」に関わり、これは「や」でもあり、「矢」「屋」「八」
を睨んでいるもので地名索引
能州七尾の城/のうみ川/野瀬郡/野田/野田原/野田福島/能登/能登越中城/能登国四郡/
のとの末盛/のの市/●野間/野村の郷/のりもと川・・
において福嶋は、▼→「屋長嶋」と、ここの「野」のなかに組みこまれています。ここの「野田」は、
本文では
「・・大坂(おざか)・・尼崎・・海上・・大坂の北野田に取手・・大坂より東南森口・森河内・・・」〈信長公記〉
で出てきて、これは「野田福嶋」の「野田」にしても、独立していて「北」の「野田」もありそうです。「森口」
は「大阪府守口市」となっていて、「守山崩れ」、「森山崩れ」が想起されるところです。「森河内」は
「大阪府北河内郡交野町。京阪電鉄に“森河内駅”がある。」
となっています。これはのちに猛威を振るう地名になりますが福嶋が絡んでいるのをいってそうです。
「野田原」は、「鳳来寺」「弾正山」「ころみつ坂」「丸毛兵庫守・福田三河守」「高松山」「牛窪の城」
「あるみ原(脚注=有海原)「のりもと川」(脚注=「乗本川。大野川の別名」)」などが出てきた長篠陣
で出てきて
「野田原に野陣(のじん)を懸けさせられ、・・・志多羅(脚注=愛知県南設楽郡鳳来町。)の郷、
極楽寺山に御陣・・・志多羅・・・」〈信長公記〉
となっており、ここにも「野陣」がありました。「野陣」の最初は
「織田三郎信長御武者始・・平手中務丞・・三州吉良御手遺・・其日は野陣を縣させられ・・」
〈信長公記〉
があり信長@の中入かもというところでしたが、桶狭間翌年、四月上旬、「前野長兵衛」登場の一節
「三州梅が坪・・御手遺(てづかい)・・麦苗・・射手・・前野長兵衛・・平井久右衛門・・矢・・矢
・・・豹の皮の大うつぼ(脚注=大空穂。矢をいれて背おういれもの)・・・蘆毛御馬・・面目・・・・
野陣を縣させられ、・・・高橋郡(脚注=豊田市矢並町のあたり)・・麦苗・・・矢・・野陣を縣けら
れ・・御手遺・・麦苗・・矢久佐(豊田市八草)・・御手遺・・麦苗・・・」〈信長公記〉
があってここでも「野陣」が出てきて「麦」「矢」「手遺」というのも執拗に出てきます。「いれ・・・いれ・・」
もあって中入を忘れるなというのもありそうです。空穂は穴エ穂はないだろうが。森蘭丸は「長康」もあっ
ので、前野(長)=(堀)久=「平井久」として「堀」が顔を出してるかも。
●野間は、またまた「野陣」と登場で
「信長・・御妙に野陣を懸けさせられ・・・大野・とこなべ・野間・内海・桑名・・安濃の津・・」
〈信長公記〉
があって、「北」の「野田」もありうる、また、「野間」は
「大野」(脚注=「常滑市大野町。) から 「内海」(脚注=「知多郡南知多町内海」)
の間にあって、知多半島にありますが脚注では
「愛知県知多郡美浜町野間。大御堂寺は源義朝追悼の頼朝が興立した。この寺に神戸三七信
孝の墓がある。」
となっています。「美浜」というと敦賀から小浜までの途次にあり、「朝」「朝」も出ており、「興立」というの
も違和感はあり、神戸三七がなぜ、ここに、というのもあります。十=三七の名前は〈信長記〉には他に
なくて、(三郎七郎)という名前でもないのが不思議なところです。私の母方の曽祖父が「七三郎」という名前
で〈前著〉にも書いてしまったものですが、これに伝説があって、火事で家が焼けてしまってときに、近い先祖
に一人変わった人がいて)外国に気さくに出かける人物でしたがそれが海外から持ち帰った文献が出てき
て、バレたら大変というので慌てて埋め直してそれが今見つかってないのが、残念だということです。これが
母から時々聞いてた話で戦後掘ってみた人もいて出てこなかったということで笑い話で終わってしまいました。
庄屋というのが自称と思っていたのは間違いで、本当に庄屋であったと思われるところです。この「七三
郎」の父は〈信長記〉の弱点をズバッと突いてて、三七を逆に出来ないではないか、七三は「七蔵」が
あり「七三」ではばれ易い、というのもあります。注では志津嶽で「・・・柴田勝家と結び、・・・自殺させら
れた。」となってるのは、七三郎は生きてるではないか、ということになりかねません。外国の話が出てる
のは爆竹で「三七」が出てきて3+7=10/7×3=21/あるいは37、か悩まされたことがあり、家が燃えた
というのは建て直しもあるので、庄屋ぐらい人だったら歴史の語りに参加したということも考えられるとこ
ろです。家には三輪神社の神棚がありました。母が実家の風を引き継いで祭っていたもので、私の初任給
の袋をここに置いてました。家紋は橘の風呂敷を一回だけ見たことがあります。知らず知らずのうちに記紀
の影響下にいたようですが、風習等消えていくものがあっても文献はなくならないので著者の思いをチャンと読み
継ぐことだけはしとかないかんということです。
神戸三七が、織田信忠とされる「奇妙丸」かもしれず、知多の大野、常滑海軍の
「佐治為興」(文中「佐治八郎」)〈信長公記〉 (索引は 佐治八郎/佐介)
の父ともいえるので、脚注に出てるのかもしれません。
「神部三七」〈信長公記〉索引漏れ
がって「部」の意味がわかりませんが、とりあえず「三七」で七三もありそうです。「ならび村一色(「片原」)の
「佐介」は
「尾張国海東郡「大屋」(稲沢市大矢町)の「庄屋」の「甚兵衛」
を出してきます。大屋=大矢=大野で、野陣=(じん)=野甚 となってればよいがそうはいくまい。
この「佐介」の一節は「・・かね・・かね・・かね・・」が出てきます。野洲郡守(森)山)に「片原」でも
あればよいが、そらないが合うのでしょう。
野間左吉=(左吉)=武田左吉、
の「野間」は知多半島の地名ということにもなりそうです。ここへ話を飛ばしたということで、●の位置から
「福嶋」にも及んでいそうです。「屋長嶋」→(「屋なか島」
が出てるので「野福嶋」「屋福嶋」「八福嶋」などが芭蕉の「八嶋」に着岸してるようです。
福嶋に拘りすぎというのもあるかもしれませんが、話の展開の核がそうなってるから仕方がないところ
です。つまり「野田福島」で、「福嶋」が隠された形で出されて、地名では先ほど、索引の
「福島」(下の★の部分だのに「福嶋」とはなっていない)
は一件、出てることは触れましたが、これは★を「渡辺福嶋」と引っ付けて捉えたら消えてしまうもの
といってきました。実際は「安東」「水野」登場の東浦、村木の城の攻略という思いがけないところで
出てきて、再掲
「大風・・御渡海・・・昔の★渡辺・福嶋にて逆櫓争ふ時の風・・御渡海・・廿里・・・野陣を縣け
させられ・・・小川・・水野下野守・・小川・・村木の城・・北は節所手あき・・東大手(脚注=
、西搦手(からめて)なり。南は大堀霞む・・・堀端・・塀・・・西搦手・・織田孫三郎・・外丸一番
六鹿・・・水野金吾・・御手遣・・難風渡海・・・」〈信長公記〉
において福嶋は「野田・福嶋」と同じ「渡辺・福嶋」であり、単独にはなっていないので、「渡り鳥」の「渡」が
「渡(海)」−「★渡(辺)・福嶋」−「渡(海)」−「渡(海」
の4件もあって注目のところ★の「渡」が「渡る」だから、「福嶋」と切断されてたら困るわけです。「・」で
区切られたり、「福島」と替えられたりしています。「安東愛季」〈信長公記〉注では、天正末年以後
「上国(安東)は檜山(能代市)にいたが、のち渡島(蝦夷島・北海道)に移った。」
となっており、〈広辞苑〉では、北海道十州の一つに「渡島」が出ています。北海道が「オノゴロ島」
として出てきたように、「(渡)福島」としても出てきたということかも。
桶狭間信長中入れ作戦発言−宮福大夫の兵の交わり頼みある中の酒宴かな−黄金廿両引かれけり
−「金覆(福)輪の鞍」 が出てきますが、金印は福のつくところの倭の蔵にあるのかも。しかしこれも近江に
福島・福岡・福山・本福・金福・・・・はなさそうな。しかし桶狭間劇的な場面、(天文「廿」一年)
「(信長卿)金覆輪の鞍敷かせ、ひらりと打ち乗り、清洲の城を出でさせ給ふ。」〈甫庵信長記〉
行き先は、一年前に走ったコース、廿七里先・桶狭間A(桶谷・桶硲)=守山(森山)もありえます。
ちょっと飛びすぎて、頭がおかしくなってる、病院で診てもろたらどや、というのも合ってそうですが
平手五郎右衛門〈信長公記〉(考証名「平手長政〈笠覆寺文書〉)
があり、清洲−桶狭間、途中に笠寺があって、芭蕉では
「笠寺や漏らぬ窟(いはや)も春の雨」〈真蹟書簡〉〈千鳥掛〉
があり、笠寺は「今の名古屋市南区笠寺町にある天林寺笠覆寺。」で、この「窟」(くつ)」は「堀」「掘」です。
「渡辺」は索引では、
鷲塚/鷲津山
和州三輪山
渡辺 36・112 (36頁のは上の「渡辺・福嶋」の部分)
和邇
となっており、「渡辺」の、112頁のものは、前出の「天満が森」と出てきて、再掲
元亀元年
「・・淀川・・比良かたの寺内御陣取。廿六日御敵楯籠る■野田・福嶋へ御手遣(てづかい)
なさる。先陣は天満(てんま)が森・川口・渡辺・神崎・・天王寺・・・大坂・堺・・」〈信長公記〉
の「渡辺」で脚注では
「大阪市東区渡辺町」
となっており、離れているから「渡辺」は単独になってるといえるが、■が初出の「野田・福嶋」だから
脚注があり
「大阪市都島区と福島区のうち。三好三人衆が信長に反逆した。その裏面には石山本願寺
浅井・朝倉氏があった。」
となっており、これも都島、福島に別れているようで一つにするのがおかしいようです。しかし一件
「野田福島」があるのが救いで、小さいころ近所の人が呼んでたものと一致するものです。
「反」が「反対」の
「反」、「逆」が逆櫓の「逆」、裏面が「面」と「櫓」の裏面をさすのかもしれません。「逆櫓」争論の説明
を誰かができないといけないところです。太田牛一の部分では「渡」と「櫓」は
「御大工岡部叉右衛門・・・櫓を百挺立て・・・宇治川・・・梶原・・・」〈信長公記〉
の造船の場面があります。「梶原」は「梶原平次」がありました。一方で「天満の森」に脚注があり、
「大阪市北区大工町に鎮座の天満の森、七月廿五日の天神祭は日本三大祭の一。」
となっています。日本三大祭は大和三大祭であり、芭蕉の「八嶋」は「大輪(みわ)神社」であり争論・
のところで要は
和州三輪山/渡辺/和邇 (「和邇」は〈古事記〉では「丸邇(わに)」もある)
の並びから、「渡辺・福嶋」の一節の「屋嶋」がもちこまれ、知多半島、の「矢田川」が出てくる
ことになって、話が大野城へ飛ぶことになります。ここで熱田から知多半島まで廿里という距離が
あります。
(310)比叡山の宝物
比叡山の焼討は、一面を取り上げれば
「野田・福島」に始まり
「叡山・・・野田福島・・朝倉・浅井・・・坂本口・・野田・福島・・根本中堂・・山王廿日・・
八王子山・・・・雲霞ののごとく焼き払ひ・・灰燼・・●哀れなる仕合(しあはせ)なり。・・・志賀郡
明智十兵衛に下され坂本に在地候なり(脚注=大津市下坂本町の・・坂本城址)。」〈信長公記〉
となっており、●に脚注があり、
「しかし木下秀吉の部署ではゆるやかであったといわれ、宝物のうちで搬出できたものもある。」
はちょっと解せない注ともいえます。これは「宝物」が脚注に出てきてる唯一のものともいえる(目立った
もの、目に付いたはじめのものともいえるかもしれない)ものです。黒塚から33面の鏡など多数でており
その余波で「宝物」が目に付いて、志賀郡・下坂本にきてますから、明智お「宝」の伝説がここに埋設されて
いることは一応知られていることですから、途中でいらいらするものが黄金の輝きというものです。
坂本城落城のとき、明智左馬介秀俊と堀久太郎との間で、宝物の受け渡しがあったというのが
用意されていて、堀久太郎が出てくるととともに、これで宝物の話をしようとしてるのが見えてきそう
です。索引における「宝」は人名のところでは
「大宝寺」〈信長公記〉 (考証名「大宝寺義興」、注:「出羽大宝寺(庄内市)城主。最上
義光に攻められ敗死。二七九・三五八))
があり、文中表記は2件とも本当は「出羽大宝寺」で、「出羽」をことさらつけた意味も別にありそう
ですが、この2件とも「堀」が登場する一節にあります。あとの「出羽大宝寺(たいほうじ)」の脚注は
「出羽大宝寺城(鶴岡市所在)主の大宝寺氏(武藤氏)。」
となっています。「大宝」を使ったのは「宝」のことを語る積りもあるようです。ここでは
「御小袖 十、御紋これあり。
純子 拾巻、 (純子の脚注=『「純子」は緞子。後文の「鈍る」も同じ。』)
黄金弐枚、是は使の小野木と申す者に下さるるの由なり。」
があり、これは
「阿喜多の屋形、下国」に行った宝物の明細です。
(「阿喜多」脚注=「秋田の宛て字」、 下国の脚注=「下国は人名。」)
黄金弐枚の黄金が「鈍子」になるのか不明ですが、物件と行き先とが記録されていてこのあと
「岐阜中将信忠、安土に至って御参着。御脇差、御三人へ参らせられ候。御使、森乱。
中将信忠へ 作正宗。
北畠中将信雄へ 作北野藤四郎
織田三七信孝 作しのぎ藤四郎。
何れも御名物代過分の由候なり。」〈信長公記〉
となっており、宝と宝の行き先を、きっちり書いてあります。これは将来への責任保存も依頼した
ものととれます。つまり過去からの宝物の受用を高く評価したことが前提となってこれからを考えている、
文化財のいまある宝物の来歴を追っかける作業をやる積りで、それがなければ機運を盛り上げること
ができない、宝探しが大田牛一の文献に必然的にあるというのがいいたい所のことです。
いま邪馬台国九州説と近畿説がありますが、これは〈魏志倭人伝〉で、親魏倭王卑弥呼に魏から贈ら
れた金印の所在が決め手になるということになってますが、そんなら、それが今どこにあるのかという
ことに決着をつけんといかんから大変なことになります。わからないというのは信用が失われることに
なりますから、わからないことについて確かな説明がないと決着しません。取り上げたほうが損な話ですが
やってるのが太田和泉守の真骨頂でしょう。
今日でも寺社に宝物が所有されていますが、テキストに「寺社」で括られた索引があり、「神社」と
「寺院」分けられています。神社は「三王廿一社」ほか21の計22社があり、「寺院」の部に「和州三輪山」
の一節で出てくる、そのものずばりの
「宝(タカラ)寺」〈信長公記〉
があります。索引の「寺院」の部は丁度
100
出ており、50番目は「大吉寺」で「宝寺」は51番目です。「寺院」の部は途中8行の空白がある
ので108載せる積りだったととれます。一見7行空きととれますが8ないか見直してみると、
妙顕寺
空き これが、縦書の、その頁の左端の空き
山田庄六坊
空き
洛中四条道場
となってて、よく知らない一つしかない「庄六坊」の両方が空いてるとは思わないから、見難いところ
でもあったのでカウントもれとなってしまったようです。108は、
108/3=36 108/6=18 108/9=12
などで重要かも。寺院が108で、神社が22で、全体130ですが神社の内、「三王」関係は二つあり
三王社/三王廿一社
があるのを、2社でカウントした場合です。後ろのほうを「廿」と「一社」に分けて20をプラスすれば
42となり108+42=150をみてるかもしれません。山王は
山王=三王 ⇒ 日吉(ひえ)=日枝=比叡
となるのは、脚注のいうところと思いますが、神社と寺院を峻別してたら出所がでてこない感じです。
寺院出番のトップは
「二条(京都)妙覚寺{17件(頁数)}」で、ついで「本能寺{7件}」
です。本能寺はほかに、「洛中本能寺{1件}」「下京本能寺{1件}」があり、「本能寺」にしても
「城都本能寺」と、「本能寺」があります。本能寺の変も、対象自体の使い分けを調べて論じること
が要るのでしょう。
当然「宝」の無所属もあって、本能寺の変の前、家康公が入った「御宿」の
「大宝坊」〈信長公記〉
があり索引にないから見つけにくいものとなっています。脚注では
「安土町所在。〈川角太閤記〉では、家康の宿所を明智光秀の屋敷と定めたが、信長が検分を
した時、生魚の悪臭が漂っていたため、堀秀政の屋敷へ所替えをしたと説いている。」
となっています。これは、一つは確実に「堀久太郎」=「宝」を繋いだ挿話といえます。
おかしいことに、本命の「宝寺」の本文のところに、脚注があり、これは「宝積寺」と言い換えられており
り、世間通った名なのに、この寺が索引から漏れてしまってたということになります、この「宝積」の
「積」が、奥の細道〉、タイトル「十四、あさか山」の「さか」で
「檜皮(ひはだ)」「刈比」「黒塚」「かつみかつみ」「尋ね」「日・・山の端」「二本松」「岩屋」「福嶋」・・
の出てきた「安積(さか)山」(「浅香山」)の「積」に繋がるものです。そこでは脚注で
「檜皮:古名安積(あさか)の宿。今の福島県安積郡日和田町。」
「あさか山:浅香山、安積山ともかく。日和田の北に見える●一円の丘陵。」
となっていて、「日和田」は「ひはだ」に似ており、(能代市=檜山)の「檜・はだ」⇒「檜羽田」⇒
「日わ(羽)だ」もありえます。
そこでは「かつみ」というのもよくわかりませんでしたが「積」をつかうと「積み木」の「香積」もありえ
ます。「浅井・朝倉」というのも「浅香」があれば「朝霞」もでてきて、「かつみ」は「かすみ」にもなり
ます。「つ」⇔「す」ですが、これは〈信長公記〉で
「秋田城介信忠・・・松永・・・神妙・・御朱印・・・但馬国・・@山口岩洲の城・・小田垣・・・A竹田・・・」
があって、脚注では、
@は「兵庫県朝来(あさこ)郡朝来町山口。その小字に岩洲(津)がある。」
Aは「兵庫県朝来郡和田山町竹田。」
となってて、洲=津があります。「あさこ」は「朝香」=「朝霞」で、ここで、先ほどの「和田」を思い出した
だけのことですが和田山がでてきて「竹=武=長(たけ)」が出てきました。「刈比」(かるころ)は
「たけくらべ(長比)」「かりやす(刈安)」
で堀・樋口が出てきます。
「樋口の次郎」〈奥の細道〉
が
「太田(ただ)の神社」(脚注=「多田八幡。今も小松市本折町にある。」)
の使(つかひ)して、真盛(実)盛の
「甲」「錦の切(きれ):脚注=錦の鎧直垂(よろいひたたれ)」
が奉納されました。甲は
「平士(ひらざむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで菊から草のほりもの、金
をちりばめ、竜頭に鍬形打ちたり。」
というものですが、これは宝物が納まった、在所がわかるというものの例でしょう。源平時代と戦国
時代の二通りの話が重なっています
(311)「印」
甫庵で別の宝物が「岩洲」から出てきます。
「羽柴筑前守秀吉卿、播磨国・・御朱印・・・中国一円・・御朱印・・楠長庵・・中国一円・・朱印
・・長庵・・秀吉卿・・但馬国・・山口岩津(いはす)・・小田垣・・長庵・・中国一円・・朱印・・・
・・・・長庵・・御朱印・・但馬の国・・長庵・・御朱印・・秀吉・・」〈甫庵信長記〉
があります「和田」も出てきましたがここで「中国一円」の「一円」を麻生氏が●で、すなわち東国で
入れたというのが感じられるところです。「御朱印」と「朱印」の二つがあって、
「但馬国」と「但馬の国」
の二つがあります。この甫庵の「楠長庵」は、女形の表記となっていますが、「長庵」だけもあり
「楠木長安」「長安」〈信長公記〉 (考証名「楠木正虎」「式部卿法印」「河内守」「秀吉の右筆」)
があります。それぞれ二人完結してるといえそうです。索引では
九条兼孝/楠木正虎/朽木元綱
となっており、「菅屋久右衛門」@A相当といえそうです。蘭麝待奉行に、「長庵(安)」の名前がない
ので他の名前で入ってそうです。
(312)宝積寺
宝寺=宝積寺の続きですが、本文は
天正七年
「@宝(タカラ)寺に御逗留。A八幡社頭B内陳(ないぢん)・下陳(げちん)の間に、昔より
C木戸井を縣け置候。既に朽腐り、・・正躰・・・・御造営・・・上意候て、則、山城の御代官
武田左吉・林高兵衛・長坂助一召し寄せられ、末代のために候間
▲六間の戸井をから金にて五つに鋳(イ)に仰付けらる。
鍛冶、番匠・・・・・瓦焼等召し寄せ、D和州三輪山より材木・・・E釿初(てをのはじめ)・・
・・・禁中より日取り・・・吉日・・・天正七年・・・十二月十六日・・と勅諚なり。
★去程に、八幡の片岡鵜右衛門と申す者、周航光香炉所持候を召上げられ、銀子
百五十枚下され候なり。」〈信長公記〉
となっていて、Eの「釿初」に脚注があり、
「建築始め。造営したのは若宮である。(〈岩清水八幡宮御修理造営の記〉」
と書かれており、禁中を巻き込んだ大掛かりな造営の記事のようで、且つ別に詳細な文献がある
ものからの目的的な記事がこれというのがわかります。脚注は
@が、「宝積寺(ほうじやくじ)。京都府乙訓郡大山崎町大山崎。真言宗。」
Aが、「岩清水八幡宮。京都府綴喜郡八幡町(やわたまち)男山の山上に鎮座。」
Bが 「本殿の奥に神体(仏像)をまつるところが内陣。内陣の外が外陣。
▼この「陳」は「陣」と通用。」
Cが、「木製の樋」
Dが、「奈良県桜井市三輪所在。四六七米。山麓の大神(おおみわ)神社(日本最古の大社)
は、この山を神体にとしているため本殿はなく、拝殿だけである。」
となっています。「宝積」というのは宝を積む、集積という感じがあり、黒塚・福嶋の「積」、「蒲生」
からでた「山崎源太左衛門」や、「乙訓」が最初に出たのが「継躰天皇即位のすぐあとで
「511年 都を山城の筒城(京都府綴喜郡)に遷す。」〈年表〉
「518年 弟国」(京都府乙訓郡)に都を遷す。」〈年表〉
があって、「綴喜」とともに出てきています。古代を踏まえていることはDの「日本最古の大社」の
の登場でわかってることです。▲が何をいってるのかわからない、ので何回もとりあげていますが
ぼつぼつ、「宝」の観点から考える時期が来たということになるのでしょう。▼の
「陳」⇔「陣」
があり、「陣」は長篠などでいやというほど出ました。★が、前の記事とどういう関係があるのかを
見るということが要りそうです。幸い一年後、同じ場面の記事があり
天正八年
「抑も@やはた八幡宮御造営御奉行として、武田左吉・林高兵衛・長坂助一両三人、仰せ
付けられ、去年十二月十六日、釿初(てをのはじめ)。・・▼@内陳(ないぢん)・下陳(げぢん)
の間に木戸井(脚注=木樋。)これあり。朽腐り・・・・今度は末代のために候間、
▲Aからかねにて鋳物にさせられ、長さ六間にて候を五つに鋳物に仰せ付けられ
当春三月、A下遷宮・・社頭・宝殿・・築地・B楼門・・・・金・・・・螢(虫が宝の字)立て・・・神明
納受の社壇、荘厳巍々(ぎぎ)堂々としてC七宝(しつほう)を鏤(ちりばめ)、五月廿六日、
D上遷宮をなし奉り・・。誠にE神ハ人ノ敬ヒニ依ツテ威ヲ増スとは夫れ是を謂うふか・・・
倍(ますます)・・・参詣の輩、貴賎郡集をなし弥尊み拝呈す。・・九ヶ月に成就せしめ・・」
〈信長公記〉
となっていて、▲と▲@の違いを、いろいろ書いてきましたが、違うこと自体が二つの側面を
かたりたいということでしょう。脚注は
@は、「岩清水八幡宮。」
Aは、「仮殿遷宮。仮殿を作り御神体を一時移転させること。」
Bは、「二階造りの門。」
Cは、「銅の表面に、琺瑯をつかって花鳥・人物などの模様を焼きだしたも。」
Dは、「正遷宮。仮殿から新造の本殿に御神体を遷すこと。」
Eは、「〈御成敗式目第一条〉、可修理神社専祭記事の{有神者依人之敬増威}の句を指す。」
となっています。@は、前回の@と同様、いわゆる正式なものは脚注でいっており、「岩清水八幡宮」
「八幡社」「やはた八幡宮」「やわた八幡宮」が出ています。
ADから本殿と仮殿があって、三輪の拝殿があってBの二階がありそうです。
「木戸井」は「戸井」と「木製の樋」と「木樋」がある、ということになると、4通りのことがありそうです。
仮殿が宝殿となり、本殿・拝殿・二階・宝殿となるかも。また鍵は
▼の「陳」の字
ですが、これは陳列、開陳の「陳」ととれるつまり宝物の陳列(展示)台、六間のもの五つが置かれたとも
と考えられます
▼@の「内陳」「下陳」は前後共通で「内陣」「外陣」がほかにあります。一階(下陳)、二階の宝物
陳列の部屋と本殿・拝殿があるという構成をいってる、宝物がいいたいところと思われます。
(313)「七宝」
Cの七宝というのは、七宝(しっぽう)焼きの工芸品もあり、尾張に「七宝町」もあり、「宗易」ゆかりの
「七台(ななつのだい)」(脚注=茶器。東山名物。梅の台ともいう。)
もありますが、七つの宝という意味もありえます。垂仁天皇紀、三年に
「天日槍(あまのひぼこ)が帰化した、将来した物は、羽太の玉一箇。足高の玉一箇、鵜鹿鹿(う
かかの赤石の玉一箇、出石の小刀一口、・・・日鏡一面。・・・・すべて●七物である。但馬の国に
蔵して、永く神の物とした。」〈書紀〉
とあり、垂仁天皇の在位は通説では(紀元前29年〜紀元後70年)の99年間です。「鵜」がでてきた
上、●の「七」があるので始めての「宝」の話としてここに反映してると取れます。この宝には後日譚
があって八八年に天皇が見たいといって(そのとき献上された刀を一緒に神府(ほくら)に蔵していた)
宝府を開けたところ出石の小刀がなくなっていてこれは、後日、淡路島で出てきました。そこに
「これは今も詞(まつ)られている。」
となっています。要は顛末(行き先)などがフォロ−されています。「七」でいえば
372年、神功皇后のときに、
「七支刀一口、七子鏡一面」〈年表〉
が百済よりきています。この七支
刀は銘入りの刀で、天理市の石上神社に今もあるのはよく知られています。石上神社でいえば、
先ほど、垂仁八八年がでましたが、八七年に、丹波桑田村から
「勾玉」〈書紀〉
が献上されていて、これにも
「この玉は今も石上神社にある。」〈書紀〉
と付記されています。垂仁天皇は第一子、「五十瓊敷(いにしき)入彦命」に宝物の管理をさせて、
「いにしき」は、第三子の「大中姫命」(おおなかつひめ)を責任者をしましたが、宝物は高いところ
に保管しておくことにしてたようで、このときのことを〈日本書紀〉では
『ナカツヒメ命は辞退して「天(あま)の神庫(ほくら)なんかとても登れません」といった。いにしき
命は、「たしかに神庫は高いけれども、我(わし)が神庫に階段を造ろう。どうして庫に登るのが
面倒なものか」といった。で、諺(ことわざ)に
「天の神庫も階段しだい」というのはこれが起源である。そしてついにオオナカツヒメ命は
{神宝をつかさどるのを承知したが}、物部トオチネ大連に授け治めさせた。物部連たちが、
今にいたるまで石上神宝を治めるのは、これが起源である。』
となっています。物部が今の日本の地に出てきたことも重要ですが、「天の神庫」の「階段」がでてき
ました。岩清水八幡の「六間・・・・・五つ・・・からかね・・」は
「樋」もあり、陳列台もあり、通路があり、宝物の「階段」がありえます。太田和泉守は〈書紀〉のここは
見ているのは確実でしょう。いま、「堀久太郎」をやってきている
ので、こういうのが説明できるところも出てきます。この七宝は八宝もあり太刀が食い違っています。
(313)山崎の寶寺
堀久太郎が出てくると予期してないものが次々に出てきます。宝が絡んでるから面白いともいえますが
〈常山奇談〉に
「山崎合戦の時堀秀政寶寺(たからでら)の山をとる事
山崎合戦の時、堀久太郎秀政の士の子(こ)何(なに)がし・・明智がもとに奉公・・光秀夜のいまだ
明けざる内に寶寺の山に兵をおしあぐべしと謀りしを、父のもとに告(つげ)やりて、おもひよらず
敵味方となり明日は一戦に及ばん事を嘆きける。其書状を則秀政に見せたりければ、秀
政夜半に寶寺の山におし上り陣し、待ちかけたりけるをいかで知るべき。夜明け方に
明智が先手押し寄せたる処を、秀政山上より鉄砲を打ちかけ不意に切ってかかり追い崩して
一戦に利を得たり。
森寺政右衛門武名の事
山崎の合戦・・・明智先陣・・・●護国公(池田)の先陣・・・侍大将森寺政右衛門
忠勝・・・森寺が馬印檜木笠・・明智・・檜木笠の馬じるし・秀吉・・・森寺が一人の武名・・
桐の紋付たる羽織・・」
があり 堀・寶「寺」
森 「寺」 で寺で(堀)−(森) を繋いだのかもしれませんが、このとき堀久太郎が
寶寺を保護しました。坂本城で寶を受け取ったのも堀久太郎で、宝物保護の後継者として出てきたと
いってそうです。また、森銑三は常山の、●について、索引を作っており
興国院様 → 池田利隆(文中では{武蔵守利隆})
国清公 → 池田輝政 (姫路城の池田三左衛門輝政、信輝子息「古新」とされる」)
護国公 → 池田信輝 (〈信長公記〉の「池田勝三郎(考証名=池田恒興」)
小寺官兵衛 → 黒田孝隆 (いわゆる「黒田官兵衛」)
小寺藤兵衛政職 (これは多分、太田和泉守の連合い)
後藤庄三郎 (津波の記事の後藤庄三郎)
後藤又兵衛
があります。「→」は「いわゆる」というものだから、もう一人があるということですが、親子が重なって
いたり、森寺の「政右衛門」や「小寺官兵衛」などから太田和泉守が重なるのは考えられるところです。
常山は、「森寺」から「木全又蔵」をだしており、これは既述ですが、森寺から池田輝政の「三重寶」
の話も出しています。「森寺」は基本的には〈甫庵信長記〉に、
(人名索引から)
(も行)森/・・・・/森弥五八/森高/森寺清兵衛尉/森寺/(や行)八木篠右衛門/八木駿河守
のように2件出てるというので、後世の人がここから話を紡ぎだしてるというものです。森寺の馬印
「檜の木笠」は、芭蕉では、
「よし野にて我も見せふど檜の木笠 」〈笈の小文〉
という 「万菊丸(まんぎくまる)」
の句で出てきます。これは秋田「上国安東」の「檜山」の「檜」−花の王者(菊)の組合わせですが、
本文に
「かのいらご崎にてちぎり置きし人」(脚注=約束をしておいた杜国。)
があって「万菊丸」=杜国というのがでてきます、「菊」か肥後菊池の「菊」、菊女、菊千代の「菊」が
あって目の前の「杜国」と戦国の「杜国」があるのは、ここでも見て取れます。、池田で「八」の人が
森寺と出てきて「寶」がでます。
「○摂州花熊(隈もある)城攻森寺清右衛門八田八(はつたはち)左衛門手柄の事
池田勝入公・・・森寺清(もりでらせい)右衛門{池田刑部先祖なり}八田八三右衛門{豊後守
父なり}・・城の★屏際(へいぎわ)・・・八田氏跡(あと)・・・森寺氏★城屏(へい)・・腕木(うでぎ)・・・
森寺氏・・腕木・・・・腕木・・森寺氏・・腕木・・飛下・・一番の功・・八田氏・・飛下・・二番の功
となれり。
○輝政公武将の重寶(ちようほう)を示(しめ)さる事
輝政公武将の重寶とすべきは、領分の百姓と譜代の士と鶏と三品(しな)なり。・・・一ッの
重寶・・・・・二ッの重寶・・・・又目に見ゆる相図、耳に聞こゆる相図は、敵の耳目にかかること
ゆえにたやすく敵国にてなしがたし。・・・鶏鳴・・・相図・・鶏鳴・・一番鳥・・二番鳥・・・
三番鳥・・相図・・相図・・三ッの重寶・・・是を三の重寶・・・と宣(のたま)ふなり。」〈常山奇談〉
があり、「寶」がたくさん出てきました。輝政は寶を重寶にしてしまいました。「相図」から「旗」、
「山上・・・高み高み・・・山上」、「甲陽家・・甲州・・甲州・・・武田・・武田・」「福嶋・・・福嶋」が出ます。
★の二つ、字に間違いがあり、「塀」で、これは「堀」に似ています。
「石黒左近」〈信長公記〉 登場の一節
「・・・羽柴筑前守秀吉中国・・・但馬口・・・橘川式部・・・因播の国・・・山城・・・とつとり・・
・高山・・・とつとり・・・鹿垣・・・諸陣近々・・・・・・
堀をほつては尺(脚注=柵。)を付け、又、堀をほつては塀を付け、築地高々・・矢蔵・・
矢蔵・・後陣・・堀・・・塀・尺を付け・・・射越の矢・・・まはれば二里が間・・・築地高々・・・
陣屋を町屋・・・此表一着の間は幾年も在陣・・・・」
は「堀」=「塀」へ行ってしまっていそうです。「森=堀」はここでもだされてるようです。★で屏風も寶物を
思わせ、どうも堀が出てくると太田和泉守が出てくる、輝政は照政もあり、池田勝三郎が語ったというので
でよいのでしょう。芭蕉には
「金屏の松の古さ冬籠り」〈炭俵〉
「屏風には山をゑがいて冬籠り」〈蕉翁全伝〉
があり、関係者としては「平仲」とか「野馬(やば)」(野坡)の名前が出ています。「冬籠り」で「千畳敷」を
感じた人がいますが、「冬籠り」はじっと耐えるという環境がいまきている感じです。横道に入るのが
常山に答えることになるかも。
(314)杜国の環境
「冬籠り」の句は六つあり、そのうち二つ
@「前書 湖水の磯を這ひ出でたる田螺一匹
難波津や田螺の蓋も冬籠り」〈市の庵〉
A「前書 しばし隠れゐける人に申し遣わす
●先ず祝へ梅を心の冬籠り 上四五」〈泊船集〉〈曠野〉
があります。
●の「梅を心に」の句は、〈古今集〉の
「難波津に咲くやこの花冬籠り今を春べと咲くやこの花」
を踏んだもので、これは上下@A二つの句に懸かり、
「百花にさきがけて咲き出る梅の心を己が心としての意。」
ということのようです。前に「難波」は「天満」の並びで出ました。
●の「上四五」は、句の一覧にあり、 上巻45頁 にあるというからあとで確認のために見ると、
見当たらず、また「冬籠り」で見直すと 「上四五一」 にありました。読者を右往左往させていて、これが
近代明治のやり方だというのはないだろう。(@の句は、一覧の頁は実際と合っている)
上45と 上451 は 3/4が重なっていると見なければなるまい、上45は
「岩躑躅(つつじ)染むる泪やほととぎ朱(す)」〈続山井〉
があります。訳は
『「ほととぎす(す)」はその名の如く、血の涙によって、あの岩躑躅を真紅に染めたので
あろう。』
となっています。「ほととぎす」は「杜鵑」という漢字もあることは知られていますが、解説では
『躑躅の別名の「杜鵑花つつはな」から連想して、杜鵑(ほととぎす)の涙が染めた紅だと
興じた・・。「ほととぎ朱」と書いてあるのもその縁なのである。杜は口中が赤く、俗に鳴いて
血を吐くといわれている鳥で、それが心にあったのであろう。』〈芭蕉前句〉
となっています。つまり●の句は、前書に「隠れゐける人に」となってるように
「今は落魄の身、いわば冬籠りしている身の上・・・」
である杜国もしくはその主従に贈られた
祈り、励ましの文とされています。「権七にしめす」という前書のものがあるということですから
これは権七に宛てたものといえます。「権七」と「杜国」主従と書いてありますが、主従となるとちょっと
大きくなってきます。
「この権七に、保美の出身で杜国に仕えた家田与八を擬する考証があり」
となってくると、杜国というのは、その名からみて失われたら傾国へ向かうだろうというものを感じ
させる人材とも見えてきます。まあ「ほととぎす」のうち「杜鵑」を使ったのはやはり、
この「杜」⇒杜国の杜
をだしたのかも。「保美の里」は、一応「保身(身を保護する・守る)の里」ということも考えられるの
ではないか、湯浅常山では、関が原戦、一年前の事件として
「○七人の大将石田を討(うた)んとせられし事
慶長四年大坂にある諸将の中、福嶋正則、浅野幸長、黒田長政、巳下(いか)七人石田と不和
なりし人々、・・・(朝鮮陣からの論功行賞への不満が尾を引き、石田を討ち滅ぼそうとしたが)
・・佐竹義宜・・徳川殿に告げて和平のことを頼むべき外謀あるべからず・・・(と三成を伏見に送り
東照宮の説得でいったん収まったが、なお言うことを聞かないので)・・我石田と心を合わせ
諸将と軍(いくさ)すべしよ仰せられしにより・・・さて止まりぬ。・・・佐和山に退きて公の万事に
相たずさわる事なくて然るべからん。子息隼人正の事は我より家を全うせんことを計るべし、と
三成に仰せられしかば、忝(かたじけな)き由謝(しや)して/佐和山に帰るべきや否や、景勝に相
計りしかば、景勝・・・・」〈常山奇談〉
を書いており、「目付」の「福原右馬助直高」や「大田飛騨守」などの「太閤」への報告が歪められた
ことが朝鮮陣の不満として挙げています。これが三成が敵将の懐に飛び込んだ話として、予想外
のこととして、関ヶ原の語りでは必ず出て来る話で、三成の大胆さ、立場の弱さ、家康の狡猾さなど
を語るための重宝な材料となっています。これが、朝鮮陣のさ中で出てきて、これは「如水軒霜台」
の囲碁が引き金になった話で
「或曰。三奉行衆、黒田浅野をひそかに讒し・・・・・・・その種は朝鮮において・・・長岡越中守
、賀藤主計頭、浅野左京大夫、黒田甲斐守など十余人連状にて、家康卿羽柴肥前守利長
へ訴えしかば、治部少輔を江州佐和山に隠遁を行ひ奉行職を止められにけり。三成籠居
せし事を悦び。・・・」〈甫庵太閤記〉
があり、あの家康の、懐に飛び込んで、身柄を預けて助かってる「石田」がでてきます。三成の子息
「隼人正」は聞いていないのでまた一から探さねばならない、大田も黒田も出てきたので、石田の
臥薪嘗胆にも@Aがあったのかもしれないというのも出てきます。一般に〈信長記〉の叙述は、あることを
言ったとたんすぐ別のことを言って前の部分の印象を薄めてしまうという叙述方法をとっており、ここで
も「/」の前後で出てきます。礼をいって、佐竹義宜に報告して・・・佐和山城へ籠居した・・・という間が
あって、しかるべきのところ突然、上杉景勝との謀の実行のほうへ話を移してあれのためには佐和山
へ入るべきかの話にして前の部分を茶化してしまうところなどがそれでつい前の部分を見失ってしま
うことになります。
(315)一戦と覚え候−−丹羽覚
信秀の三州中入れがあったのではないかというところ〈武功夜話〉では
「松平清康・・・六千有余破竹の勢い・・雲霞のごとき大軍・・守山の御城取り巻き御城主織田孫十
郎(信次)殿一戦も交えず降伏・・・・岩倉・・・犬山十郎左・・▲竜泉寺山取手を相固め候。一党
の者品野口を相固め候。清須備後(織田信秀)様は御城を出で給い、●小田井川まで進まれ一戦
と覚え候も、三州勢甲斐なく揚げ退き候の次第、まことにいぶかしき出来に候なり。一戦も交えず
三州勢守山より人数を返し候。これ天運に候。後日分かり申し候。清康公、守山城中不覚・・・
阿部弥八郎・・御主討ち取る由、大将にあるまじき不覚、・・・・▼守山崩れ・・・寒風砂塵を飛ばし紛雪
鎧袖に白し。・・剣山・・・佐々蔵介殿(成政)、同隼人正(政次)・・佐々孫助、・・・前野孫九郎尉、
同小兵衛尉、同長兵衛尉・・平井久右衛門・・・・丹羽覚三、丹羽勘助・・」〈武功夜話〉
となってて、織田方戦意旺盛のあと肝心の●のところ、急転直下でわからない、「覚え候」が、前後を
切断してしまったといえます。
(316)竜泉−蘭
この「守山」が、近江の「守山」を睨んでいますが、▲は脚注では
「名古屋市守山区所在・・・竜泉寺城は吉根(きつこ)、守山区にあった。」
となっており、▲「竜泉」と▼「守山(森山)崩れ」の「崩」の組合せは芭蕉の「湯殿」「月山」のくだり
「宝冠・・・鍛冶・・・龍泉に剣をにらぐ・・・干将莫耶のむかしをしたふ・・・三尺・・・・・
阿闍利・・・雲の峰幾つ崩れて月の山」」〈奥の細道〉
で見られます。呉の人干将、妻の莫耶が陰陽二剣を作り呉王に献上した故事が出てるところですが
何を言わんとするかわからなかったところです。「龍泉」は人でいえば太田和泉守です。明治に発見
されてて、誰も知らなかった、大仏殿の雌雄の刀が最近、新聞ででましたが、光明皇后の正倉院から
持ち出されいる由でそれなら入もあるはずで、記録のある外国との交信のときの太刀というのは考え
られるところです。雌雄の太刀については意味がわからないまま〈曽我物語〉などにある
「眉間尺」(〈今昔物語〉〈太平記〉にもある)(中国「呉楚」の楚王にまつわる話の主人公)
の物語を紹介してきています。手間がかかりますが、あちこちあるからしようがないものです。中国にも
雌雄の剣がありますが日本では、この光明皇后のものしか見当たらない(有名でない)ものでしょう。
新聞に載ってた範囲のことでいえば、当初、「正倉院」に雌雄の剣があって、記録にあったが「除」の
記録もあったということです。それなら、それが知られていたことが考えられ、それに、皆がとびついた
ということが、繰り返し文献に登場してきたことの背景にあるともいえそうです。太田和泉守は蘭麝待
(名香木)の切り取りのことを書いており、そのとき正倉院に立ち入ってるはずです。
天正二年
「(四)相国寺・・・南都東大寺●蘭奢待(らんじやたい)・・・・内裏へ御奏聞・・・御勅使、日野輝資殿・
飛鳥井大納言殿・・・南都(脚注=南都は奈良をさす。)・・三月廿七日、信長奈良の@多門(たもん)
(脚注=多聞城。)・・御出(おんいで)。
御奉行
塙九郎左衛門・菅屋九右衛門・佐久間右衛門・柴田修理・丹羽五郎左衛門・蜂屋兵庫頭・
荒木摂津守・夕庵(せきあん)・友閑(いうかん)、
重御奉行
津田坊、
以上
三月廿八日、辰剋御蔵開き候訖(さうらひをかんぬ)。★彼名香長六尺の長持に納(をさまり)これ
あり。則、A多門へ持参し、御成(なり)の間舞台(ぶたい)において御目に懸け、・・・一寸八分切
捕らせられ・・・生前の思出・・・一年(脚注=「寛正六年(一四六五)」)東山殿(ひがしやまどの)
(脚注=東山殿。室町将軍足利義政。)▲召置かせられて巳来(このかた)、将軍家御望の旁(かた
がた)数多これありといへども・・・相叶はず。仏天の加護ありて、三国隠れなき御名物▼食置(めしお)
かせられ・・・本朝・・・御面目・・・何事かこれに加(し)かん。
四月三日、大坂(おさか)御敵の色を立てられ候。則、御人数出され・・・・(「四月三日」の脚注=
・・・三好康長・松井友閑・・・・」〈信長公記〉
があって、この(四)の一節が、この記事で、宝の話が出るときは、これは第一に挙げるべきところです。
★の前の部分が劇的ですが、すぐに★名香の話に入っており、もう一つの仕事が、3/28〜4/3までの
間にあったと思われるのが飛んでしまった感じです。▲▼部分に●に長い脚注があって、
「聖武天皇(七〇一〜五六)のときに輸入された名香木。本名は黄熱香。熱帯地方に産する
伽羅(きやら)の芯からとる。約一.五米、十三キログラム余。一四六五年に足利義政、一五七四
年に信長が小片をきりとる。東大寺の{正倉院}に収蔵され、いまは{正倉院}に国有財産として
保管されている。」
となっていて明治天皇がこのあと切り取ったことはよく知られています。香木切り口に名が書かれた紙片
が添付されてあるのでわかるようです。東山殿といわれる室町の将軍、足利義政は応仁の乱のときの
将軍で、日野富子、銀閣寺などでも有名です。甫庵は「慈昭相公」をだしていますがこれは頭注では
「慈照が正しい。足利幕府八代将軍義政。」
となっています。●は蘭麝待という字もあり、麝香という語があるから「大者」という字を使った太田牛一
の字は、そのまま生きてしまうことにもなりかねません。595年、推古天皇(「豊御食炊屋姫」)のとき
「厩戸豊聡耳皇子(聖徳)・・橘豊日(用明)の第二子・・・内教を高麗(こま)の僧恵慈(えじ)
に習い・・橘豊日天皇を河内の磯長(しなが)の陵に改装・・・四天王寺を難波・・に造った。
二年・・・・・・三宝を興隆させた。・・・仏舎を造った。そしてこれを寺といった。
三年・・夏四月、■沈香が淡路島に漂着・・。その大きさは一囲(ひとかかえ)(囲は三尺・50センチ強。)
島人は(もやして「薫つた」ので)ふしぎに思い献じてきた。五月一〇日、高麗の僧恵慈(えじ)が
帰化した。皇太子(聖徳太子)が師事した。」〈書記〉
があって、記録されてるこういう■のようなものがどうなったか、というのが関心を呼ぶのではないかと
思われます。前後に「恵慈」が出ており、帰化するに当たっての、挨拶の品としての香木ではないか
と取れます。このときの香木が正倉院のものだろうというのはもういってる人もおられますが、太田牛一
はどうかということです。脚注のなかで
○一方は長さと重さ、もう一方は太さが書かれていて、なぜカスルのか、
○「輸入」を表す文献はどうなってるか、
○「こう」が「香」「香」「黄」とあり「香木」は「高目」となる
○「正倉院」が二つ書いてある。「収蔵と保管」の「正倉院」
○ここで「一四六五、足利義政」がでて、あと、脚注では「寛正六年(一四六五)」となっている、
○「本名が黄熱香」という表現は面白く、「黄」でいえば柑橘の「橘」がでますが、これは聖徳の父
で出てくる。〈甫庵信長記〉に「黄考口碑」が出るがこれは「こうこうこう碑」と読むと思われる。
などありますが、〈信長記〉に「森蘭丸」は「乱丸」しかないのに、なぜのちに「蘭丸」が出てくるのか疑問です。
芭蕉に「蘭」があって
「蘭(らん)の香(か)や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す」〈野ざらし紀行〉
があります。これは「蘭」−「香」で訳では「蘭の芳香が翅にしみていく」となっています。ここの「薫」が
■のところで出ました。これは「濃艶な句」となっており、
『漢語には婦人の部屋をさす語として、「蘭房」「蘭閨(けい)」などがある。』
という解説があり、この句の前書は
『〈野ざらし紀行〉にある茶店に立ち寄りけるに、てふと云うひける女、吾(あ)が名に発句(ほく)
せよと云ひて、白き絹出だしけるに書き付け侍る。」とあって出ている。』
という優雅なものとなっています。また
『「薫物す」は種々の香を合わせた練香を衣服などにたきしめることをいう。王朝時代の優雅さを
感じさせる語である。「蘭」が秋の季語。』
もあります。 森蘭丸=堀久太郎のようなことになるのは、蘭奢待の「蘭」の影響があるのかもしれません。
芭蕉の句
「悦堂和尚(「伝は不明。」)の隠室の参りて
香をのこす蘭(らん)帳蘭(ちやうらん)のやどりかな」〈鹿子の渡〉
があり「香」−「蘭」の組合せですが、訳は
「室の中は・・清浄・・まさに蘭帳・蘭舎ともいうべく・・・徳高い和尚の隠室・・ゆかしい限り・・」
ということで「香」がないようです。
『「蘭帳」は蘭房・蘭交・蘭室などいうように・・清い帳(とばり)の意で清閑な室のこと、
「蘭のやどり」も上と同様清らかなやどりの意、』
となっています「蘭で秋」となり、これも効いてきそうです。
この句のあと(同時期)が
「貞徳翁の姿を賛して
幼な名や知らぬ翁(おきな)の丸頭巾(まるづ きん)」〈菊の塵〉
であり、、ここでも「徳」高い人が出てきて、ここで「幼」「名」と「丸」が出てきました。前の「蘭」の句の
香が残っているのでしょう。貞徳の童名は
「勝熊丸」ですが老後は「長頭丸」「保童丸」などと称したようです。「長」=(丸)=「童」が、何かありそう
ですが、「長」は蘭麝待の「長六尺」「長持」
が出て、森長可が「長」だから、テキストでは「森乱」は「長定」、「森坊」(坊丸)は「長隆」、「森力」が
「長氏」となっています。また、貞徳は、久米之助という小童のいた
「山中や菊はたをらぬ湯の匂」〈奥の細道〉
の村で出てきて、謡曲、「菊慈童」の「慈童」にも関わっています。
(317)塙九郎左衛門
「菊」は堀久太郎もあって、蘭にもつなご、とするものが芭蕉にもあります。「慈」は恵慈−東山殿の
「慈照」があります。次の句は〈虚栗〉集に
しかないもので
「重陽三ト句句ゴトニ菊
蘭草ノニホヒグサ有リ菊ノソヘガミに宜(よろ)シト云ヘリ」〈虚栗〉
有 蘭草 菊 宜 止
があります。訳は
「蘭のように匂い高い草がここにある。菊である。・・・特に添え髪に宜しという評がある。」
突然、菊が出てきて戸惑いますが、匂いでそうなるともいえないようです。菊は「ソヘガミ」で
『「ソヘガミ」は添髪で、かもじのこと。〈一代女〉にも「白髪に添髪して」などある。
●あるいは添紙か。』
があり、清寧もでてきました。●は、どこかで見たような、〈芭蕉前句〉から出た、決定打でしょう。
「白菊よ白菊よ恥はじ長なが髪かみよ長髪よ」〈真蹟短冊〉
があり、これは
『「蘭草ノニホヒグサ」の漢句にもみられたごとく、菊−髪はしばしば連想のつながりをもった。
・・・「恥長髪」は「命長ければ恥多し」という諺を踏まえている。これは〈荘子〉の・・・「寿ケレバ
則チ辱多シ」から出た語。白菊の形を白髪に比べたものである。』〈芭蕉前句〉
もあり、
清寧天皇・芭蕉の「白髪」に「添髪」
‖
「添紙」⇒太田和泉守牛一の「蘭麝待」の「添紙」
となります。足利義政の添紙は太田和泉守とも取れるところです。
蘭丸という名前があとから生まれたのは蘭奢待の一節を語るためということが
できそうです。すると蘭麝待調査の筆頭に位置していた人物、表記が漠として特定しにくい
「塙九郎左衛門」〈信長公記〉(考証名「原田直政」、
文中表記、「塙九郎左衛門」5件(頁)、「原田備中(守)」6件)
は、「堀久太郎」というのが出てきます。原田直政、注は(「ーーー」は擦りきれたところ)
「(〜一五七六)天正(断簡ーーーー)月三日塙の姓を原田と改ーーーーはもと常陸塙村
に住みーーーー荘に移り子孫ーーー記〉〈多聞院日記〉では直政の戦死を天正四年五月
四日とする。初名正勝(〈天竜寺周悦文書〉)。」
となっています。折り目を付けてたので、そこがいつの間にか欠けてしまって変なところで切れて
います。前にも引用はしていますが、文献名は手数なので省いていると思います。文献名の表記
が語る、というのがあるので痛いところですが、とにかく、〈多聞院日記〉が残っていました。先ほどの
文中の「@多門(たもん)」「A多門」は別物で、@の脚注が「多門城。」で、このとき脚注が長くなって
Aの下になってて、Aの脚注が「多門城」という錯覚をおこしますがAにはルビも脚注もありません。
従って、これは東大寺内の場所(大門とかいう)を指しており、多聞城へ持って帰ってみたということ
ではなく一節に多重の語りが入っているという示唆があるとみれるところです。
原田備中の戦死は、甫庵、天正四年の条に
「原田備中守討死{併}一揆天王寺附城攻むる事」
(〈信長公記〉タイトルでは「原田備中、御津(ミツ)寺へ取出し討死の事」)
があり、本文では、五月三日となっています。〈信長公記〉も同年「五月三日」になっていて、これは
〈多聞院日記〉に操作があるということで、この二つの「多門」から予想されるところです。「原田備中」は
誰か、というときに効いてくるのが考証名「原田直政」で、これは
原田=(直政)=堀 直=夕庵 政=和泉守
をいってきました。したがってここでは「堀久太郎」=「塙九郎左衛門」という引き当てでよいのでしょう。
本能寺のとき出てきてる「森乱」などは孫になりそうです。「原田備中」は大変その死が惜しまれてて
信長の起用がおかしいという語りが小説などでありましたが、堀久太郎・森乱丸の一面を語って表記
が消されたということになりそうです。「原田備中守」の属性は「天王寺」ですが、これは脚注では
「大阪市天王寺区。四天王寺がある。四天王寺(指定史跡)は天台宗。五九三年に日本で
はじめての寺として聖徳太子が建てた。信長はその搭頭の勝蔓院(しやうまんいん)に石山本願寺
の向城を築いた(〈摂津名所図絵〉)」
となっています。四天王寺が天王寺のもとのようですが、「四天王寺」は先ほど恵慈、香木のところ
595年の〈書紀〉の記事で出ました。〈甫庵信長記〉にも「蘭麝待」の記事があって頭注では
「聖武天皇の時、唐から渡来した名香。正倉院御物。」
となっており聖武天皇は724即位となっていますからかなり違ってきます。どうなってるのか、頼りない
日本古代史は駄目だ、となりますが、明治以後こそ、小説から出てきた主人公が、挿話に彩られて
動きまわった結果の政治史しかもってない、というよりはましでしょう。古代のものは表記で読まれる
という洗礼を受けて、伝わっているものです。テキスト脚注ではこの「名香木」は「本名黄熱香」
熱帯地方に産する伽羅(きゃら)の木の芯からとる
となっていて、これは枯木だから、熱帯地方というような産地はとくに関係なく、知識としての面で、
いえばそうで、表記としての面があります。「本名」は「木名」でしょうから、また「加」も「香」=「こ」です
「木」が7個でてる、したがって「香も7個でてるということになります。
「伽羅」→「加羅」−「韓」
はあります。
(318)「督」は堀久太郎
倭の武王は、478年、宋の順帝から、
「●使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」
を授かりましたが「加羅」がここに出てます。自称していたときは七国で百済が入っていましたが、百済が
鎮東大将軍になったから六国になったと取れます。●は何のことやら、ネットでみてもわからないが、
日本列島には、はやくから「都督」がおかれ景行天皇のとき、再掲
「五五年、・・・彦狭嶋王(「崇神」の卑孫)が、東山道一五国の都督に任命された。・・東国の
百姓は・・・王の屍(死体)を盗み・・・・・上野(群馬県)の国に葬った。」〈書紀〉
があって、脚注では
「都督は中国の官名をまねた。東山道は文武のころは近江、美濃、飛騨、信濃、
武蔵、上野、下野、陸奥の8国、712年出羽が加わる。15国は不明。」
となっています。不明は恥じねばならないのかもしれないが、●の「都督」「倭」となれば〈書紀〉に
でてるし、使特節も安禄山でお馴染みの「節度使」に似てなくもない、今の日本の地の政権を指してる
ともとれそうです。崇神天皇が現地の王というものではなく本国の直轄地として大権を委ねられて派遣
された行政官というものだった、というのが都督を使用した意味かも。慕韓というのは朝鮮半島の南
の地で九州と島伝いで繋がって、長門を挟んで、中国地方とも接触があった地帯といえるのかも。
東北から大和へ進駐してきた勢力も、先進地帯である、中国・九州地方には遠慮していて、景行
天皇の終りのとき、西暦180ころやっと九州を傘下に組み入れています。古くは、朝鮮半島南部の馬韓・弁韓
・辰韓などや中国との交流があって、東よりの弁韓などと関わりは「弁慶」が表していそうで、
弁慶の母、弁吉が出雲へでてきて相手も見つかり弁慶も生まれています(ウィキ)。辰韓も王辰爾の
辰でこれは倭の人でしょうが、南方からきてる感じです。
都督というイメージから、倭国王(最強国)の直轄地がおかれて、始めは東国からということが出ていますが
すが堀久太郎を、関東以北の都督にしたかったというのは、歴史の語り手とされていることを示しています。
蘭麝対のメンバーの最初の人物の引き当ては、堀久太郎をやってきてたので、何とか一応終わり
ましたが、最後の人物
「友閑(ゆうかん)」〈信長公記〉 「松井友閑」〈甫庵信長記〉
が難しいところです。これもここだけではなくて他のことも加味しないと出てこないと思いますが
決論で言えば
相国寺−惟高和尚−多聞城−多門−東大寺−松
ということで、また宝の話となるとこの人物ということで、この場合は
「松井友閑」=「松永弾正久秀」
になると思います。「友閑」となっているのは領主でない、隠居ではなく別の仕事についてる人物
ということと思われます、
(319)東山殿
東大寺に関しては、太田牛一の筆によって、大仏殿を焼いてしまったのが「松永弾正久秀」という
ことになっていますのでここに出てこないといけないところです。蘭麝待の記事の今、天正二年で、
、天正五年、松永の城が落ちるときに
「奈良の大仏殿、★先年十月十日の夜炎焼」〈信長公記〉
があり、「先年」がわからないだろうからというのでしょうか脚注があり、
「永禄十年(一五六七)」
となっています。しかし、〈信長公記〉は、永禄十一年から始まっているのでこれは出てこないので、
事実が永禄10年に起こった、という調査によった脚注ととれるところでです。甫庵には「永禄年中」という
語句があります。この★の言い回しが蘭奢待のところで出てきて、
(四)の一部再掲
「三月廿八日 辰剋御蔵開き候訖。彼名香長六尺長持・・・。則、多門へ持参致し、御成の間
舞台・・・・・・★★一年東山殿▲召置かせられ候て巳来(このかた)・・・・・・
仏天の加護ありて、三国隠れなき御名物▼食(めし)置(お )かせられ、・・本朝において、
御名誉御面目の次第、何事かこれに加(し)かん。
四月三日、大坂(お さか)御敵の色を立(たて)申候。則、御人数出され、悉く作毛
薙捨て近辺御放火候なり。
(五) 四月十三日、雨夜の紛に、佐々木・・石部の城退散。則、佐久間右衛門人数▲▼入れ
置かせられ候なり。
(六) 五月五日、賀茂祭競馬御神事天下御祈祷の事に候。・・・」
〈信長公記〉
となっていて、★★の「一年」が出てきます。今天正二年だから、「一年」というと天正元年しかないのに
これの脚注では、
「寛正六年(一四六五)」
となっています。これは桶狭間より95年前で、従って、東山殿は
「東山殿。室町将軍足利義政。」
となってるのは自然ですが、「一年」との整合が困難となってきます。まして太田牛一は天正一年を
元亀四年としていて、7/28の改元だから、それ以後は一年としてもよいのでしょうが、そうとしても
元年という表記になるはずです。
これは三月のことだから、「一年」というのが、年号などに関係ない「元年」であり「この一年間」という
ほどの強いものであったと取っておきたい感じです。▲は
東山殿@(足利義政)の立ち入り事実、
東山殿A(太田和泉守)の一年前、天正元年の立入り調査の事実
二つを含んでいると取れます。
(320)森−守−盛
東山殿の索引は二つあって
○・・・/足利義政(文中表記「東山殿」)/安食弥太郎/蘆名盛隆(文中表記「会津の屋形●もりたか」)
○日吉/東坊城/東村備後/東村大和/東山殿→足利義政/引壇六郎二郎(疋田、疋壇)
というのがあります。桶狭間で、「安食弥太郎」は「森小介」と出てきて、「安食郷山田村」は太田牛一の
属性です。後ろの●の「もりたか」は
「森高」〈甫庵信長記〉
があり、「会津の屋形」となると、「屋」⇔「尾」があるので、後世では「会津の尾形」と、読む人もでるの
かも。そうすると「風神雷神図」でも、顔を出してくる光琳もでてきますが、一方で、わかりにくい岩代の大名
「蘆名盛隆」〈信長公記〉
の言い換えになっているから蒲生の会津城が、→尾張(近江)の安食→東山殿に懸かってくるから、
東山殿は
吉政という感じになって太田和泉守が出てくる、東山文化Aの担い手、太田和泉守ということになりそうです。
一応「蘆名盛隆」についてのテキスト注は
「(一五六一〜八四)岩代会津黒川(会津若松市黒川)城主。相模三浦郡蘆名村から興り、会津を
領した豪族。盛氏の時に全盛期。子盛興が早世したので、須賀川(福島県須賀川市)の二階堂
盛義の子盛隆を養子にした(〈会津旧事雑考〉〈新編会津風土記〉)。」
となっています。「盛氏−盛興−盛隆(養子)」という大豪族の三代目で、桶狭間の翌年に生まれてて、
森蘭丸よりも一世代下となり、金松(「兼松正吉」)が森蘭丸の世代(1542〜1627)になってるのと似た
ような調整があります。明智光秀が朝倉にいた不遇時代とされる時期、
「越後春日山へ伺候いたし上杉謙信入道・・其より奥州会津の葦名平四郎盛隆の城下を経て。・・」
〈明智軍記〉
となっていて、これは「平四郎」で表記が自由人みたいでちょっとおかしい感じで、芭蕉では、
「真壁の平四郎」〈奥の細道〉 (本文では「出家して入唐」となっている。)
があります。麻生氏の脚注では
「北条時頼の頃の人。若い頃主人になぐられて、剃髪して僧となり、なぐられた木履を袋に入れて
首にかけ、これこそ我が師であるといっていたという。」
となっています。若い頃、下僕を殴って怪我をさせ、のち教えを乞うた禅師に血染めの雪駄を見せられ
て、後悔して謝ったのが、伊達政宗
というのが講談でありましたが、江戸時代に出来た話なら、悪役引き受けの太田和泉守に転換されて読ま
れることなるのでしょう。北条時政は平氏だから北条時頼は「平氏」で、その「平」も関わってきていますが、
これが「盛興」ではないかと取れるところで、(盛氏−盛興)の時代を、「盛氏」が仕切って、孫、が早めに、
姻戚の二階堂から 迎えられたということでしょう。芭蕉の須賀川のくだり「あぶくま」「会津根(磐梯山)」が
出て、この地は二階堂氏の地だから、「須賀」→「菅」という重要名もでるから、これが、もう一つの狙いで
〈信長公記〉の人名索引・注のトップに置かれて出てきます。ここで「森青山」「足(兼松)青赤」「守(盛)山」
を出そうとしたかも。
「東山殿→足利義政」と同様のシルシで出てきて
@「会津の屋形●もりたか」 → 「蘆名盛隆」
A「青木」5件ほか11件の「青山」などの「青」
B「赤井」ほか8件の「赤」
C「赤松広秀」(文中「播州の赤松」)
D「秋田城介信忠」 → 「織田信忠」
E「阿喜多の屋形下国」 → 「安東愛季」
F「阿君丸」(「越前朝倉義景嫡男」)
G「秋山」 → 「秋山信友」
H「秋山紀伊守」など4件の「秋山」
I「芥川」
J「明智」14件(「惟任」6件含む)
の@の●の出方になっています。つまり「蘆名盛隆」も指してる、この場合は「森高」その人ではない
かもしれないといってそうです。
@は、DとEで「屋形」が、「青」「赤」を挟んでしまったので、@を画家とみると、青基調
と赤基調をもった絵が想定されるといってきました。ここで@会津と、DE秋田(阿喜多)で、赤・青を
「秋」で包摂してしまっている、その流れの下に「明智」も出てくるということになっています。
(321)「惟」(これ)は「是」(これ)
Jの「明智」に「惟任」が入っているので、別に「こ行」で「惟任」を取り上げねばならないから「→」が
多く出てくることになり、別人を示唆することになってるようです。「こ行」の一部、
小森与三左衛門
惟住 → 丹羽長秀 (太田和泉守の武将としての活動名がある)
惟住五郎左衛門 → 丹羽長秀 (太田和泉守の舎弟、大和大納言「秀長」もある)
惟任 → 明智光秀 (太田和泉守がある、「馬揃」の実行委員長など)
惟政 → 和田惟政 (太田和泉守がある、初期のころの活動名)
五郎右衛門 → 平手長政 (太田和泉守がある 信長と駿足馬を争う)
権右少弁(「万里小路(までのこうじ)充房」)
のような感じで、「充房」もここから手掛かりが出てくるということになるのでしょう。公卿が馴染がないので
ちょっと苦手ですが「万」「里」「光」「満」が出てきて、この「権右少弁」という職(制)名は北のものかもし
れないが、充房に五郎右衛門という名があり平手長政が就いたのかもしれません。それはともかく
、こういうことで、原則として「→」は、二人あるということになります。先ほどの索引の「東山殿」は
太田和泉守で
○日吉孫一郎/東城坊(菅原氏)/東村備後/東村大和/東山殿→足利義政/引壇六郎二郎(疋田)
は、「日吉」「小川」を受け継いで、「備後」は原田「備前」「備中」の「備後」で、後藤の「栗山備後」もあり
「大和」は、いまの「天理市神泉町の大和神社あたりの地名」で、奈良県、日本の呼称になっていったもの
で「大和(みわ)」でもあります。
弥六/「大和守」(「大和守内」もあるが索引から外れてる)〈信長公記〉
は、一応は、「大(田)和(泉)守」とするしかないようです。また「大和」は、上にあるように「惟住五郎左
衛門」でもあります。
大和のうしろの「引壇=疋田」は頼朝の乳母の甥、武蔵国の「比企能員」の比企からもきてそうですが。
「肥田直勝」(文中「肥田玄蕃」)〈信長公記〉
「美濃土岐氏の一族。上米田村福島(岐阜県加茂郡川辺町内)城将。斎藤新五の叔父〈堂洞軍記〉」
に流れるもので、これは、〈明智軍記〉の「比田」になってるようです。〈明智軍記〉の索引では
比企能員(判官)/匹田四郎左衛門/疋田次郎兵衛/土方/土方弥三郎/日田/肥田玄蕃/
比田則家(帯刀)/比田彦右衛門/尾藤道家/尾藤彦兵衛/・・・/日野輝資(蘭麝待で出てくる)/
(「ひたひた」というのもあった)
となっていて、〈信長公記〉索引でも
土方次郎兵衛(「土方彦三郎」)/肥田直勝/■肥田彦左衛門/尾藤源内/尾藤又八/日根野・・・
となっているから、森可成と尾藤助宜の関係は大体見当がつきますが、
「尾藤源内」(別の考証名はない、「尾張春日井郡三ツ井村に尾藤城があり、源内の居城という。」)
の出所がわからないので「肥田」⇒「尾藤」ではないかと取れそうなところです。ほぼ同時代に
有名な剣客「上泉伊勢守」の高弟、
「疋田文五郎」
が出てきます。宮本武蔵を訓えたという大和の柳生石舟斎が、若いころ近隣では相手になるものは
いないほどで、天狗になっていましたが、伊勢守が訪れて、まず疋田文五郎と立会って全く歯が立たたず
入門したという話があります。こういうものもこの「大和」−「東山」−「太田」−「泉」「伊勢」ということ
、尾藤までも話に引き入れるのもそういうことと思われます。つまり、まあ■がわからないので「ひたひた」かも
という積もりでやってきましたが材料不足かも
(322)東山は藤山(岡)で太田和泉守
「東」は名前では
「安東(「藤」)」「東堂」〈信長公記〉
の「東」があり、これは、地名では「東国」が4件、「東田原」東別所」「東山」があります。文中の表記は
「藤岡五郎兵衛・東村(ヒガシムラ)大和・東村備後(ヒガシムラビンゴ)、」〈信長公記〉
となっており、「藤岡」の
「藤」=「とう」=「東」(とう)、の「ヒガシ(東村)」
という流れで、「東」=「藤」はわかりましたが「藤原」の「藤」とともに「岡」「村」「山」→「原」がでてくるの
が必然です。注でよくでてくる「藤原北家□□流」などは、よくわからないので、省いてしまっていますが
表記 (考証) 注釈
「菊亭殿」 (「菊亭公彦」) 「藤原氏北家閑院流。」
「中山中納言」「左頭中将」(「中山親綱」)「藤原北家師実流。」「中山は落東中山(黒谷)に基く。」
「二条右府」 (「二条昭実」) 「藤原氏北家九条流」
「冷泉中将」 (「冷泉為満」) 「藤原氏北家御子左流。」「為満は上冷泉家。」
などでよく出てきます。「藤原」は「(内臣)中臣鎌子連」(一名「鎌足」)(669年没)に与えられた姓で、これ
が藤原のスタートと思われますが、ここでこれを述べようというものがあるかも。索引で
福嶋本目助/福田三河(川)守/福田与一/福地/
福富秀勝(「福富平左衛門」)(「実名秀勝〈大和薬師寺文書〉・・尾張・・岩塚村・・中村区・・」)
普光院殿 → ●足利義教
藤井藤左衛門/藤江九蔵/藤岡五郎兵衛/藤田伝五/★藤孝→細川藤孝/
布施公保(「布施藤九郎」)
があって●についてはもう一箇所でており、
足利義教(文中「普光院殿」)/足利義政(「東山殿」)/安食弥太郎/蘆名盛隆(「蘆名村」「須賀川」)
で、 「東山」を出しており、「藤」がたくさん出てきます。★などは、太田和泉守も考えられるという信号とも
とれます。この義政(東山殿)の注では
「京都東山に隠退し、戦乱をよそに能楽、茶湯などを愛好、東山文化を象徴する人物。」
となっており、二つ懸かって、太田和泉守のことも含んでいっていて、東山文化Aという観点から太田
和泉守の足跡が語られてる、と見られます。建勳神社にあるという〈信長公記〉自筆本などは、その象徴
といったものでしょう。宝物のことをいうなら、これはこの辺りで触れないといけないものです。脚注では
これがしばしば出てきますから。
(323)藤原・中臣は別
東の村(邑・屯・群=郡)で「藤」を出してきたことは「藤原」のことも考えられます。「藤原」は
「中臣鎌子連(一名鎌足)」(内大臣○内臣の誤。)〈愚管抄〉
が死に及んで「藤原」を与えられたということが始まりですが、これは天智八年
669年(7世紀後半)のことでかなり後のことです。しかるに、551年、120年も前に、蘇我稲目、物部尾輿
とともに
「中臣連鎌子(かまこ)」〈書紀〉
が出てきていて、「中臣」は「物部」「蘇我」「葛城」「安部」「橘」「大伴」のように、もともとこの磐余王朝の
中にあった姓といえます。
中臣鎌子連(鎌足)の死= 10月10日 =天正五年、松永弾正の死(多聞城炎上)
法隆寺の全焼 東大寺大仏殿の消失(永禄10年10月10日)
(本文は天正五年の先年十月十日、脚注が永禄十年)
というものが、蘭奢待のところで「南都東大寺」が出てきたので、ちょっと触れないと収まらないという、引っ
掛かりになってくるというのがありそうです。
法隆寺全焼については、年表では
年表(文化・人物) 〈書紀〉の実際
天智8年 669年 4月法隆寺が全焼する〈紀〉 (左のことは書いていない)
★10月藤原鎌足没 (10月藤原鎌足没)−これは書いてある
藤原鎌足興福寺創建〈興録〉 ▲冬斑鳩寺に火災があった〈紀〉
天智9年 670年 4月法隆寺全焼〈聖補〉 ▼4月(30日)、法隆寺が全焼する〈紀〉
となっていて鎌足の死の前後に騒がしく取り上げられているのに気がつきます。とくに脚注では
「▲は、▼の9年4月30日条と重出」
となっています。★について政治欄には
「天智8年 10 中臣鎌足に大織冠と内大臣の位を授け、藤原の姓を賜う。」〈書紀〉
が載ってて、これが、「10月10日」で、★が10月16日になってるというものです。年表というものが月まで
しか書かないという決まりがあるから出てこないにしても年表が作品だということでみると、
10月10日に最後の言葉を残した「中臣鎌足」と死亡発表の「藤原鎌足」
とは表記が違う、また
「日本世記はいう、内大臣は年五〇で、私第に薨じた。・・・碑はいう五六歳で薨じた。」〈書紀〉
となっているからこれは二人がほぼ同時期に薨じたということでしょう。
一〇日 → 五〇
一六日 → 五六歳
という、戯れがありそうなところです。この「〇(ゼロ)」という字は神武天皇のときから使われていて
ここは重要なところの一つであると思われるのは太田牛一の取り上げ方からくるかも。
日×365=年・歳
という互換があって、〈日本世記〉というのは期待を持たせる史書ですが、テキスト〈書紀〉脚注では
「家伝に百済人沙(「口+毛」の真ん中の横棒がないもの)昭明の撰とあるが、現存しない。」
となっており、ガッカリです。
324 神武紀の「前紀」
普通史書で「世記」というのが出てきたら、「世紀」といいいたいのだろうと
思いますが、「百年」の「紀」というものが意識されていそうです。これが大事なところで出てきて、
神武天皇のくだり
即位前紀一年 「甲寅」 天皇「四五歳」「年一五で★★太子」
前紀二年 「乙卯の年」
(三年) 書いてない
(四年) 書いてない
前紀五年 「戊午の年」「皇軍はついに東した」
前紀六年 「己未の年」「ここの六年である」
前紀七年 「庚申の年」
●天皇元年 「辛酉の年」「春正月一日、天皇は橿原の宮で帝位についた。」
(辛酉に至る干支の順番は、甲寅・乙卯・丙辰・丁己・戊午・己未・庚申・辛酉、となっている)
の「太歳」「四五歳」で出てきます。慈円は「神武天皇」は
(在位)七十六 (即位年)元年辛酉歳 五十二即位 (死)御年百廿七
で終身在位するということで、 52+76=128 という計算になります。したがってここの年というのは
(A)、1年の意味があるのは明らかで、 45+7=52即位 となります。一方、慈円では、これは
細字の「元年辛酉歳」と、普通の字の「元年辛酉歳」
があって、神武元年が二っあるということをいっています。
(B)すなわち紀一年という「100年」の意味があって、即位前紀一年の年のどこかと●の年の即位
があります。 紀元前700年を頭に入れているということもあきらかですが、今の通説でいうと
紀元前は660年、紀元前60年の辛酉の年
を宛ててあてているということになります。テキストでは★★について脚注があり
「神武が初代天皇なのだから、即位前に皇太子になるはずはない。」
となっています。まあ、この点もおかしいといえますが、これだと〈書紀〉がおかしいといっているとも取れ
そうです。〈書紀〉としては、タイトル、出だしから天皇という語を使っていて、即位という語句も使っていて
細かい説明抜きの部分というのはわかりますので、ここから通説がおかしいということをいってるととれる
ところです。すなわち、紀元前660年の辛酉元年に神武天皇@が帝位についたというのならスタートの
年45歳とすると、生まれは8世紀になってしまい前紀7年の枠は超えてしまうことになります。
通説の紀元前660年の即位がおかしいといってることになり慈円のいう元年辛酉歳というのは、
紀元前601年(〈書紀方式でいえば〉)と、西暦1年
ということを別の観点からいったととれます。
紀元前をマイナスでみるか、ということもあってむつかしく、さらにややこしいことにここで七年というものが出て
きています。この七年は
100年でいえば端数の七年ですが、100年と同じウエイトを持つ100を一とする一年でもあるので
正確にいえば、
紀元前600から紀元前1年の600年間と紀元0年のスタートとすると算術的にはわかりやすいが
元年とか一年をスタートとすると
紀元前599から紀元0年の600年間と、紀元1年のスタートにするのが常識的でもある
というのとの挟間にある七年(100年単位のものでは六年に限りなく近い)といえます。結論的には
紀元前600、紀元0年というのがわかりやすく、600年間隔の二つが設定されたが実際は端数があり
紀元前は607年間、紀元後は前紀分7年という端数が付いたままで、理解されている、この端数は紀元後
に調整されるという含みがあってそのままでいくということかも。
601年、01年スタートとしても、プラス七年の端数は六年になって、6・7年という端数の存在を前提として
前7世紀以降を語りの対称にするということを述べてる、と思いますが、これは
五〇(〈日本世記〉と五六歳
という年齢が鎌足のところで出てきたのて、50をカウントすると七年の違い、五一から数えると六年の違いという
こともこれと関わりがあるということになりそうです。つまり、「世記」というのは「世紀」ではないか、というのが
疑問でしたが、この著は「家伝」に「百済人」の「撰」ということでした。この「百」が脚注で出たから「世紀」の
「紀」の「百」というのが出てくると思いますが、これは実際は「白済」の人かもしれません。
このすぐあと「朝廷の礼儀」の脚注で、もう一回、「家伝」が出てきて
「家伝に、天智7年にかけて・・・」
があり、ここで7年も出てきます。家伝は神武の7年目というのを気にしてるといえます。実際、紀元前660
に意味を持たせています。
(326)宝皇女
天智7年といえば、年表では、天智10年のうち、7年までは「中大兄(皇子)」が天皇
欄に出てきて、天智天皇は有名にしては、やっと前の二人(斉明・中大兄)の死で天智天皇になるという
ことで3年間だけです。前に6・7年がでてくるので合わせると16年間になります。このあたり「宝」もでてきて
年表では、669・670に法隆寺全焼の記事がでています。
629〜641 12年 舒明天皇(49)
642〜644 2年 ▲皇極天皇
645〜655 10年 孝徳天皇 645軽皇子即位、●645大化の改新 645中臣鎌子
655〜661 6年 ▼斉明天皇(68) ↓
661〜668 7年 中大兄皇子 667近江大津宮遷都 ↓
668〜671 3年 天智天皇 ◎668唐が高句麗を滅ぼす 669藤原鎌足
672 (壬申の乱) 近江宮一部炎上
673〜686 13年 天武天皇
において、「宝皇女」(▲皇極天皇)が出てきました。これは▲▼と同一人物で重祚ということですが、
舒明天皇(田村皇子)
‖
皇極天皇(宝皇女)
という関係のようです。そしたら今まで言ってきたことからいうと、
森三左衛門(「可成」は〈信長記〉に出ていない)
‖
太田和泉守(「牛一」は甫庵だけ出てくる)
になるから森蘭丸は森三左衛門の子という言い方は両方を指していて世間に通ずるものとみてよいと
ということなら、舒明A=皇極Aにもなりえます。皇極天皇のとき「入鹿」が討たれ、翌年、●大化改新の
詔が発せられ、右の方にある、立役者
中臣鎌足が登場してきて、645から669の24間、その時代となりました。いまとなれば、●の年、
「唐の李世民(太宗)の第一次高句麗遠征。」〈年表〉
があり、23年後の◎に到ることは、日本にとって国家の存立を左右する事件であったといえるわけです。
100%に近い株式を持つ親会社が倒産した子会社のようなものでしょう(百済は5年前663に滅ぼされいる)。
しかるに、日本はビクともしなかったわけで、それは皇極のはじめ
「大臣(蘇我臣蝦夷)の子入鹿(更の名鞍作)は自分で国政をを執し威は父に勝っていた。・・盗賊は
おそれおじけて道に(落し物が)遺っていても拾わなかった。」〈書紀〉
の時代でよく治まっていて、630・653年遣唐使をだすなどして独自外交もやってるということです。
今では この国難を乗り切ったのが、藤原不比等の系統の人というのが、一般的でそれが表向きここで出てること
です。不比等は鎌足の子とされていますから。
(327)もう一方のこと
●の年645の政治体制は
「孝徳天皇・東宮中大兄皇子のもと
左大臣阿倍倉橋麻呂
右大臣蘇我山田石川麻呂
内大臣○内臣の誤大錦上中臣鎌子連(大化元年任。一名鎌足。・・誅入鹿・・)」〈愚管抄〉
となっていて、中臣も高麗で、政権の性格は変わっておらず、後鎌足が「藤原」になって藤原不比等の
藤原にいきますが、年表では
●645年の死者は
蘇我入鹿没(?)、蘇我蝦夷没(?)、古人大兄皇子没(?)
649年の死者は
左大臣阿倍倉梯麻呂没(?)、蘇我石川麻呂没(?)謀反
となっており、●の大化元年(乙巳の年)の、スタートは、トップがごっそり変わったということになっています
が、一方で過去の小説的表記が消されたという印象が拭えないものです。古人大兄皇子は舒明の子の
ようですが、よくわからない人物です。この前(大化改新の前、場面では皇極帝が中臣鎌子連を神祗伯に
任じた前)に、聖徳太子の子とも思われる山背大兄王が「蘇我臣入鹿」に攻め滅ぼされて、蘇我大臣蝦夷が
「入鹿め、この上もなく愚かで、悪虐なことばかりしている。おまえ(イ+爾)の身命もまたあぶばいではないか」
といっています。この山背大兄王はいまとなれば考えにくいことですが入鹿に討たれています。おかしいと
いうなら、生存もありえることでしょう。山背=(大兄)=古人、はヒントになるかも、と感ずるところです。
蘇我大臣蝦夷もやってることがおかしくて
「私に紫冠を子の入鹿に授け、大臣の位に擬した。またその弟を呼んで物部大臣といった。大臣
{入鹿とその弟}の祖母{馬子の妻}は物部弓削大連の妹。だから母{方}の財いよって威を世にはった」
〈書紀〉
となっており、入鹿とその弟を大臣にしています。次期天皇の含みもありそうです。入鹿の弟には物を扱
わせたのかもしれませんが、とにかく蘇我馬子は蘇我・物部をまたにかけた巨魁ですが、大臣蝦夷の位置が
が特別に重要になってきそうです。入鹿もやってることがおかしくて皇極天皇の二年目、10月12日
「蘇我臣入鹿は、ひとりで謀り、上宮の王たちを廃して、古人(ふるひと)大兄皇子{舒明の皇子}を
天皇にしようとした。」〈書紀〉
となってて、こういいながら、このあと、童謡があって、それが終わったら、11月1日に
「蘇我臣入鹿は・・・山背大兄王らを斑鳩に掩(おそ)った。」〈書紀〉
となっています。
入鹿でいえば、舒明天皇(或本はいう「高市天皇」とした)(或る本は〈万葉〉かも)
の治世の一部をしめた舒明Aをはじめ天皇の表記をもっていることが予想され、蘇我蝦夷も宮廷における
名前があるはずで入鹿のいまでいう父親だったら、天皇に近い存在で、それを探そうとしてないだけのこと
で、なにもわからないのが学問的成果として認められているといってもよいものでしょう。あの聖徳太子と
舒明天皇は20歳ほどの差ですが、関係がわからないのは舒名天皇はテキスト脚注では
「息長氏の広姫と敏達(天皇)の子・押坂彦人大兄が、舒明以下の下巻皇統の祖。」
となっていて、敏達天皇の孫、押坂大兄の子だということで、突然別の名前が出てきて、ウンザリして、
切断されておしまいということです。この「下巻」というのは、現在のこの著書が上中下の三分冊に
なってる、その下巻のはじめが舒明ということですが、皇統は変わってるのかも、と身構えるところです。
どうも皇統というのが一つの大きなキーとなっていそうです。継躰天皇の直前に武烈天皇という人を殺す
のが愉しみという人が出てきて、皇統が一旦たえ、大化の改新でどうなるか、というのが入鹿が殺される
という場面に出くわすことになります。この武烈の反対の「烈武」(金春秋)について、大化2年に
高向黒麻呂が新羅に派遣され、大化3年黒麻呂を送ってきた「金春秋」を人質として引き止めています。
今となれば、日本はこんな力がないはずで、このときは高麗の指示によったとしか考えられないところです。
武烈=烈武 聖徳太子=49=舒明天皇
となると何となく皇統が続いてきてるという感じです。武烈は烈武より優しそうであの名前はここから持ってきて
きて同じ変革期をいいたいのかも。新羅は唐と組んだのに、あとで烈武王は唐と戦って国としての言い分を
通したということになったようです。ここまでは、そうだったが、
舒明天皇−入鹿 →→→ 中大兄−鎌足−藤原不比等
で磐余古王朝から国柄が変わったのかという疑問がでますが、平安時代というのがこの後の時代で、変わって
ないといえそうです。蘇我蝦夷の前例と太田和泉守の後の例によって、確かなことがわかってきたと
ともいえるところです。
唐と新羅の連合軍が勝って、敵対側だった日本には大きな影響があったはずで、人の流れも大きく
変わり、旧高麗軍の個別の動きで国内が動揺し、また新羅から来る高官も増えたと思いますが、それまでも
金春秋の例に見るごとく行き来、自由な中において、後の藤原不比等のような人物はその中から出てきた
のかもと思っていました。それほどの人物の造形が蘇我蝦夷くらいしか過去になかったから、(武内宿禰など
いたが出自がはっきりせず)、もやもやとしていました。
太田和泉守によって、イエヤス公という人物が、織田の中から輩出してきたことがあきらかにされることによって
藤原不比等が蘇我の中から出てきたということがわかってきたということになります。となると、松永弾正とか
蘇我蝦夷とかの大物がつながれたりしてたら、時代の類型によって、判断してもよいだろういうことがわかっ
てくることになりました。この時代、もう一方の方を見失わないようにするのは簡単で、
孝徳天皇に@とAがあるのかもしれない
ということで見ることになるのでしょう。天皇は神聖にして侵すべからず、と大上段に振りかざされていると
二つに分ける、ふたつを重ねるというのを避けてしまうことになります。
(328)松永=鎌足、十月十日
松永(多聞城)の最後は
天正五年
「十月十日の晩、秋田城介信忠、佐久間・羽柴・惟任・惟住・・信貴の城・・松永天主に火を懸け焼死候。
「奈良の大仏殿、先年十月十日夜炎焼。偏に是松永の云為(しわざ)・・・高山嶮(サカシキ)所・・・・
■城介信忠、鹿の角の大立物・・・攻めさせられ・・・松永・・猛火の中に入り、部類・眷属一度に焼死、客
星出来、鹿の角の大立物・・・大仏殿炎焼の月日時刻易らざる事、偏に★春日大明神の所為・・」
〈信長公記〉
があって「十月十日」と「★」があって、「藤原」に飛ばされる話になってることがわかりますが、
「中臣鎌子」−−「為」(云為)−−「松永弾正久秀」
となって、これが難局にあったときだから、中臣鎌子|○本来の中臣鎌足
○蘇我蝦夷
があった、実務と表沙汰、が違てた、ということがありえます。これは■が太田和泉守の意を体した信忠
としても 信忠
忠次 信忠−−(忠)−−忠次
と変わりうるから、軍議で提案して決めさせた本人が出てきてるから、最低城を焼くことはしないと、一件落着
しないからこうなる、宝はここで保管されていたことが考えられますが、人と物の疎開によって厄災を免れてた
といえます。今と違って、人が生きてたらなんとかなるというので所属団体をつぶして生きることを繰り返して
来た、まあいえば民族・国家の消長に慣れていてその覚悟をもってた時代の対処法があった、そういう実際が
現れてる場面でしょう。こういう考えは誰も本来持ち合わせていないものだからリーダは持ってな、いかんもの
でしょう。一方、国家あっての国民、会社あっての社員、社会あっての個人という意識は万人がその見聞・経験
生活の一部、収入などの現実によって持ち合わせているもので、これは感情を伴った強いものです。勝手に
自走するものでエネルギーといえばその通りですが、リーダーは反対に生身の個人に目を向けてないといけ
ないものでしょう。未来を見るべきだ、といってもなかなかで、過去なら勉強しだいでみれる、それすらわから
ようにするのを進める組織体は不要でしょう。大昔から変わっていない
のは個体で100年生きられない、心身欠落の多い存在で、先祖の方が強くていま弱まってるかもしれない
が、自分らより質の高い生活をしてほしいと先祖から希求されて来た存在です。一般に今ある国家というのは大体が
ワルサをしてきて、とにかく個体の生存を図るのが第一という。各民族体の長の屈服の決断をのもとに膨れ
てきて、結果的にその個体の複合のエネルギーで生きられてるようなものです。沖縄の場合でも当時の長の
屈服の決断に因ってますが、それは怒ったら何やらかすかわからないからしょうがないという判断でこれは正解
でしょう。王朝も組み入れられて結果的になくなっています。この屈服の決断が鈍って大失敗したのが先の
大戦ですが、ヘボ過ぎるのはなぜかというと政権成立過程がやはりよくなかったということから、きてるという
ことと思われます。オウム教と酷似した団体の陥りやすい強化策があったととれます。両方、構成員を殺戮武器に
変ええています。
(329)「宝」皇女、と「入鹿」
湯浅常山に、松永城の宝物を受けたと取れる一節があり
「 本多忠勝忠勇の事併忠信の冑の事
東照宮小牧・・・秀吉・・・中入・・・小牧に・・・酒井左衛門尉忠次、本多平八郎忠勝・・・秀吉
長久手・・・忠次・・秀吉・・楽田・・石川・・忠勝・・・竜泉寺・・忠勝・・・秀吉、あの鹿の角の立物の冑
を著たるは大将よ。誰か見知りたると問はるるに、稲葉伊豫守道朝・・姉川・・見知りて候。
本多平八郎にて候。・・・忠勝・・平八・・忠勝・・。・・佐藤四郎忠信・・四郎・・四郎・・四郎・・平八
・・忠勝・・忠勝・・忠勝・・忠勝・・・主君・・主君・・忠勝・・{・・忠信の冑・・忠信武勇・・・九郎判官
世々家に伝えたる鹿の角の冑こそよけれ・・・忠信の冑は二男忠朝・・鹿の角の冑は嫡男忠政・・」
〈常山奇談〉
があって「主君」は「忠次」のことで、鹿の角は主君忠次から賜ったものということで特に大事なものだといって
います。忠信の冑は秀吉から貰っています。秋田信忠は「佐藤忠信」の「忠信」⇔「信忠」で出ています。
全体は秋田−東国の色合いがあり、脚注に
「当時鹿は春日明神の神使とされていた」
というのがあります。松永−藤原の話の一部だから、(入)鹿−使というのも出でていそうです。「判官」は
この色の「九郎」でしょう。
「春日明神」は地名索引にある
「春日山」〈信長公記〉
を意識していますが、「東村大和/東山殿」の「大和」との関係でいえば、索引に漏れている
「大和境春日山」〈信長公記〉
が重要のようで、脚注があって
「奈良県山辺郡山添(やまぞえ)村春日あたりの山であろうか。」
となっており、本文では筒井順慶が登場しています。この山辺というのは、日本で最初の道といわれる「山
の辺の道」のあるところ、
神武=(神)=崇神
という神武が具体的になった感じの崇神天皇の陵のあるところ(今の天理市)です。二つの中にある欠史八
代には「神」の字がなく、「神」から「神」へ飛ばして、初代と10代に注目させた、
初代は「神日本磐余彦」{神武)で、「いはれ彦」の「いはれ」が「謂」(所謂の「謂」)がある
とすると、「伝承」的なものが入っていそうです。「磐余」は「磐城(木)」「天磐船」の「磐」、「夫余」の「余」
があり、大きなことが出ています。一方
十代は「御間城入彦五十にえ天皇〔崇神〕で「いり彦」だから、「入(いる)」があり、これに注目と
いうのはもういわれている
ということです。春日明神の神使は鹿だから「入鹿」という名前は大きいようで、外からはじめて入ってきた
この「入彦」を受けとめたものが、「入鹿」の「入」であろうとここでいってるのは確実のようです。戦国では
「高槻の城主入江左近将監・・●池田八郎三郎勝政・・入江が勢・・入江が勢・・向明神・・三好日向
守、松永弾正少弼・・向明神・・兵庫頭・・市田鹿目助・・市田・・奈良左近・・左近・・」〈甫庵信長記〉
の入江で受け入れられています。●の勝政は太田和泉守で、「蜂須賀正勝」「海老名勝正」などのモトですが
●は二人います。ここは「六条本国寺後巻」の一節で古代を踏まえているところで「蘇我入鹿」も「三郎」
「八郎」があるということもついでに言えそうです。「日向」は全国にあるのでしょうが、「向明神」は
「春日明神」
「□向明神」 というような「日」を入れたいのをやめた、省略表記がモトかもしれません。
「御間城」「五十」は何をいってるのかよくわかりません。まあ
城がいいたいとすると(美馬「城」)として 城があると政治があるので、「五十」となると村・邑・屯・郷・郡・州・
国の数かもわからないから、入部してきたという感じもあることになります。もう崇神のときは丹波など四道に将軍を
派遣しており(四道には九州は入っておらず、すでに勢力範囲にある、東北15位も除かれると思われる。)
、全体で50くらいは頭にありそうです。「間城」は「巻」「真木」「牧」に発展してるようです。
(330)垂仁天皇
次の垂仁天皇は、57年、但馬守(たじまもり)を派遣した人物ですが
「活目入彦五十(い)狭茅(さち)天皇」
で(50)が出ており、次の景行天皇(「大足(おおたらし)彦(ひこ)忍代別(おしろわけ)天皇」)のときは
「五十狭城(さき)入彦皇子」」五百城入彦」「五百城入姫皇女」「五十河媛」
などの人が出てきます。「城」(松代の「代」)は引き続き消えずにでており、「河」は通常、国、州のなどの境に
利用されやすいもので、50が活きていそうです。垂仁のとき伊勢大神宮を「五十鈴川上」に祭り始めたようで
すが、この五十鈴川の「五十」も、そういうものがあるかも。御間城の「城」の意味はだいたいわかりましたが
古代のもので。太田牛一では安土城のくだりで「ま中」(脚注では「間中」)がでましたが、「和邇」、〈古事記〉
では「丸邇(わに)のでたところ
十二・三間 十二・三日 十二・三門
の「間」がありました。長さ・日数、宮門に分かれそうな「間」で、御間(居間)→城館がイメージされたもの
でもあります。こういうところへ入ってくるわけですが、入部前の状況を神武天皇は
「遼遠の地はいまなお皇化の恩恵を受けていない。邑(むら)に●君がいて、村に長がいて、各自境を
分かって、たがいに侵犯している。」〈書紀〉
といってて、わかりやすくまとめてあるという感じの文です。未開のところではなく、ある生活、経済の成り立っ
ていたところにやってきてるということで、地域的にはまとまっていて運命共同体意識があるので、帰属意識の
高い小単位の長が頑張ってて、昔からの流れで権威・広域の長と名なってるだけの君のクラスでは抑えきれな
い状態になってるといえそうですが目の付け所は邑の君の方でここに手を貸し纏めようとしたというのが出ている
感じです。
「皇化」という言葉をつかっていて、意味があるかということですが、中国では「王化」が使われていたという記憶
があります。
諸葛孔明が南進をして従わない国々を退治した過程で、火を用いて大勝し、たくさんの死骸みて嘆いたこと
があってこのとき、趙雲が「王化」という言葉をつかって励ました〈吉川三国志〉ことがありました。意味は同じか
もしれませんが、
神武のはじめから出てくる「皇化」だから「白+王」の「化」が出てる、それが〈記紀〉のはじめからの意図だったと
いうことも考えられます。〈三国志〉で「王化」がでてたら、〈記紀〉の著者はみてるはずです。これは
「孟獲の七従」(七回はなちて、七回とらえる)の話で有名だから捉えられているとみれるところ
です。●の「君」ががちょっと解せない語句でここでは、頼りない存在で、尊敬さるべきという位置にいます。これを
紀元元年ごろの話とすると、その前に同系列の政権の長い進出の過程があったともとれるところです。つまり
始皇帝のときの徐福の話は太田牛一によって倭と結ばれておりこれは紀元前二百年ごろの話です。慈円は
「神武天皇 神武天皇 76年 {元年辛酉歳}・・★元年辛酉歳。如来滅後二百九十年云々。・・」
と書いており、年表には、釈迦の死はないので、これでやりますと
アレキサンダー没 BC323 インド遠征の途中(かなり侵攻してた)ときの死、
釈迦没 BC290 アレキサンダーの死のとき、釈迦は生きていた。?
神武即位 1年 如来滅後290年の★「元年辛酉歳」
となるように思いますが、紀元前660年に神武元年をおくと、660+290 、前950が釈迦の没となって
しまいます。釈迦の生没年は紀元前
566〜486 80
463〜383 80 (通説らしい)
となっています(〈広辞苑〉)が、慈円のものを入れて(80)年を生かせば
363〜283 80
の3通りになるようです。慈円の290年も約100年(慈円は、前紀七年の「7」を頭に入れている)の差が
ありますが、こういうのは慈円が書いてくれてるので、日本の後世の人は後に続いているから、日本の文献
でわかることになってるはずです。時期が来るまで待ってたらよいことですが頼りないというのだけは駄目で
それなら290年など言及してないはずです。とにかく★は西暦元年を指してるといえます。
(331)藤原朝臣の松永
崇神の
「磐 城」
「御間城」 の「城」にいたる、「みまき」は
「惟任日向守内御牧(みまき)三左衛門」〈明智軍記〉
の「御牧」に使われたと取れるところで、これは松永の城落城のとき、森(勘右衛門)・海老名(源八郎)
などと戦い「森」を討ち取った人物ですが
「みまき」−「崇神」−「天理市」−「藤原朝臣松永弾正少弼久秀〈甫庵信長記〉」−「藤原鎌足」
を出そうとしてるものです。芭蕉に
草臥れて宿借る比や藤の花〈笈の小文〉
がありますが、これは素性法師(桓武天皇曾孫)の
「いそのかみ古き都の郭公(ほととぎす)こえばかりこそ昔なりけれ」〈古今集〉
という歌がもとになった
「ほととぎす宿かる比の藤の花」
が初案のもので、古き都を踏まえたものという句のようです。解説では「いそのかみ」は、
布留(「天理市布留」)の石上寺(物部氏が奉仕)
ということのようで、芭蕉によって「藤」が入れられて、
「大和行脚のときに〔たはむ市(注=丹波市)〕とかやいふ処にて・・・藤の覚束なく咲きこぼれけるを」
という前書もあるもので
「藤の花を初瀬の前に据えた」
という意図があるようです。
「丹波市(たんばし)、八木と云ふ所、耳成山の東に泊まる。」
となっていて「丹波市は今の天理市」となっています。崇神の母方の先祖は「物部氏」ですが「藤」−「藤原氏」
が入れられたと取れるところです。藤はもう一つ
「(前書)関・・・素牛・・・藤白御坂・・宗祇の昔に匂ひて、
藤の実は俳諧にせん花の跡〈藤の実〉
があり、ここで『「藤の実」は藤の花に対していったもの。』となっています。前の大和・天理の「藤の花」に
対するコメントであるということでしょうが、肝心なところである、「花の跡」は解釈がなく
『「花の跡」は花の咲き終わった後の意。』
となっています。跡を後に変えただけの訳になってしまっていますがここは「花の(都の)跡」というのが素性
法師の歌の心を汲んだものといえます。この句は宗祇の
「関越えてここも藤しろみさか哉」
の句をもとにしていて、「藤が白く咲いていて・・・」という意にもなっていて「白い藤」もでてきています。
「関は岐阜県武儀郡。現在関市。」
となっており、丸毛兵庫頭もでてきていそうです。
いいたいところのことは、藤原というのは鎌足が姓をもらって藤原氏を名乗ったのがはじめということです
が、すでに紀元後のはじめ空白の四世紀といわれていた、国家形成がされつつあって都というものがあっ
て、藤原という地名もあって、そこからきたものともいるところです。〈万葉集〉の地名索引では
藤江の浦
藤原(ふじはら) 奈良県橿原氏高殿町を中心とした一帯の地
−−−の京(みやこ)
−−−の宮
−−−大宮
−−−の宮の御井 位置不明。
藤井が原 → 藤原
藤井の浦 → 藤江の浦。 「井」は「江」の誤りか。
となっています。「藤原の京」は持統天皇の時代だろうということになりますが、古い時代の歌にあたらしい
時代や人物の注、や前書をつけて歌物語にする場合もあり古い時代にそれがなかったとは限らないもの
があります。ここの「御井」は「山辺郡」(天理市)のどこかではないか、宇陀郡に御井神社がありますがここでは
ないということかも。〈信長公記〉の人名索引に
福富/普光院殿→足利義政/藤井藤左衛門/藤江九蔵/藤岡五郎兵衛/藤田伝五
がありましたが、この藤井/藤江は〈万葉集〉の「藤井が原(藤原)/藤江」をみてつけたものかもしれません。
鎌足が賜った「藤原」というのは新時代の特別のものではないということをいいたかったのでこんなことやって
きましたが允恭天皇の11年のとき「藤原部」ができてて「藤原の宮」に行幸しています。年表に「藤原部」が
出てたらそれだろうというので終わってたところです.倭の五王(五世紀の中ごろ)の一人ですが、藤原は
古い時代を、よく引き継いできたという功績に、皇太子が与えたものであったといえそうです。
(332)さあさあ、二つを近づけてみよう
このあたりは、欠史八代後の最初、
「入彦五十」の「崇神」・「垂仁」(崇神第三子)と「景行」(垂仁第三子)
のこん跡のあるところで、いままで、やってきた「黒塚古墳」もここにあります。鏡が33面も出てきたというの
ですから大変なことで、当然、邪馬台国のこととからんできますから国家の形成に関わるかも、というようなこと
になります。陵でみると
崇神天皇 68 山辺道の匂岡上陵 天理市柳本町
垂仁天皇 99 菅原の伏見 (東陵) 奈良市菅原町=奈良市尼辻町
景行天皇 60 渋谷向山古墳 天理市渋谷町
となっていて垂仁天皇がちょっと離れていて、柳本町の黒塚古墳が垂仁天皇陵だといっても、今は何も
わからないから、間違いともいいきれないのでしょう。一人当たり天皇の在位20年とされるから、60という
と三代分という長い経営の経過も含まれていると思われます。この入彦二代(西暦元年ころと思われる)の
合計が227年であり、卑弥呼の年代に239年に近づきます。〈書紀〉で西暦の出た最初、
神功皇后の「さあさあ」の条
「 さあさあ
三九年。・・・・・・・・・景初三〔二三九〕年
四〇年。・・・・・・・・・正始元〔二四〇〕年
四三年。・・・・・・・・・正始四年・・・・・・・・・・・・・・・・」〈書紀〉
があり、この239年〜243は西暦の年代です。この記事が〈魏志倭人伝〉による、「親魏倭王」の「卑弥呼」
が出るところで、248年ころ卑弥呼が没したという記事が年表でもでています。これによると
神功皇后の1年のウエイトは、西暦1年のウエイトと同じ
ですから
神功皇后元年=西暦200年
にしてることになります。しかし神功皇后に至るまでに
崇神68・垂仁99・景行60・成務61・仲哀9=297→300
だから、200を越えてしまうので
@それぞれを、2/3 したものを使うか(1/3の部分を紀元前にまわす)
A崇神68+垂仁のうち32(垂仁のうち1/3=33) の計101を紀元前にもっていく
という二通りになります。そんなんおかしい、聞いたことがない、とうことになりますが、いまの通説は、
このAになっています。つまり垂仁のうち1/3を紀元前にもっていくから、残り
99×2/3=66 垂仁の66年をもって西暦1年とする
ということになっています。すなわち慈円でいえば、ややあいまいな部分
神武76+欠史八代開化まで483=559
は数字も中途半端なものでしたが、ほかから
崇神68+33=101
をもってきますから 559+101=660
となって神武天皇元年辛酉歳通説660に合ったものが出てきて万々歳ですが、紀元後も200年に軟着陸
しますから一件落着です。ウイキペデイアのものでは通説にもとずいて、天皇在位が計算されて出ており
神武天皇 前660〜前▲585 (76年)
スイ靖天皇 前581〜前549 (33年) 本当は585〜553(4違う)
・・・・・・・・・・・・・
開化天皇 前158〜前98 (60年)
崇神天皇 前 97〜前30 (68年)
●垂仁天皇 前 29〜後70 (99年) ここ、29+4=33が分かれ目(ささ)
景行天皇 後 71〜後130 (60年)
成務天皇 後131〜後190 (61年)
仲哀天皇 後192〜後200 (9年)
神功(69年)が飛んでる、明治で天皇に入れず
応神天皇 後270〜後310 (41)
・・・・・
となっています。▲▼の連続がないのは、皇位譲り合いの4年の空白があったからで、あとのものもそれを
加味考慮しなければならないが、これによると●が紀元前・後のターニングポイントにあって、前は
前は33で、後は66の99年
となっています。これは、西暦57年 本邦初の遣使57年は本文では垂仁90年に記事がある。つまり
垂仁99年 33年
紀元線 −−−−
66年
において垂仁 90年は紀元後では90−33= 57年になり、西暦57年は垂仁90年になるよう紀元前660
年、天皇数や在位年数の設定をしてきたということになります。垂任の99年というのは〈魏志倭人伝〉に
卑弥呼に鏡が100(99+1)枚下賜されたということを、踏まえているか、山辺道の古墳に33(99/3)枚の
鏡が、埋葬されていた、ということと関係があるか、ということになると、そらないだろうということになりますが
〈記紀〉の記者が33枚の鏡が黒塚に埋葬されたという伝承を受け継いでいたら、この垂仁期の操作に影響が
あることも考えられます。
(333)あさか山、(かつみかつみ)
また芭蕉が黒塚を二本松で出してきたことと、本邦最初の遣使のことをこの一節で
、この地と関連付けてのべようとしたということもありえます。「花の跡」=「花かつみ(葛尾)」跡連想かも。
本文の「かつみ刈比」は、「刈比」が
「(たけ)くらべ・」「かり(やす)」〈信長公記〉 (脚注=「長比」「苅安尾」)
から来ていそうです。接尾語というものではなさそうですが、はみ出しの「尾」が、よく出てきてくれた、という
感じ。「日山」も出たかも。ここは「堀」が出てきますが「長・安」もついでにでています。堀尾は飯尾が入って
親類かも。尾張に飯尾近江守・飯尾毛介がいます。芭蕉に
大和国草尾村にて
花の陰(かげ)謡(うたひ)に似たる旅寝かな〈泊船集〉〈昿野〉
がありますが、解説では
この「草尾村」は「平尾村」が正しい。
となっています。「平尾村」は「奈良県吉野郡吉野町平尾」ですが、この「平尾」は
「平尾久助」〈信長公記〉 「平尾平助」〈甫庵信長記〉
があって本能寺で戦死で、それ一回限りですから、本能寺がこういう表記に場を与えたということで、本能
寺の変の意味を考え直さないといけないということになります。平手・平田・平野などと出てきて、平原の
「平」という意味にも広がっていきそうですが〈両書〉では索引で
平/広
と並記されています「ひら」/「ひろ」で「ら」は「ろ」として使われないと思いますが、
騾ら→(馬)←驢ろ として近いことは感ずるところです。羅が「ろ」とは読めないが
羅馬=ローマ(驢馬・呂馬?)
となっています。「累」も「ら」「る」になり兼ねない感じです。〈広辞苑〉では
羅婦/羅布/羅府(「ロサンゼルスの異称」)/ラフ/ラブ/・・/乱掘/・・/蘭奢待/・・/蘭亭/・・/蘭東事始
まで書きながら、羅馬が出てきてないのは淋しい感じですが、「羅」=「ロ」は羅府で何となく出ています。
〈広辞苑〉の「ローマ」は
正規の「ろ」の2730の延長上で出てこず、2730の次頁は2763の「わ」になって、わ−ゐ−ゑ−
を−んときて、「ん」の2772の次頁の2773から付録に飛び2794で付録が終わり、そのあとが
「2731」で「続きの「ろ」がでて2735で「ローマ」が出てくるということです。2735頁4段の下段45行と、
2736上段44行に渡って出てくるから長いものです。頁の繋がりは、2735左下
「・・・・『――字綴り』ローマ字で字を綴ったもの。室町」 (2736右上へ)
「時代に渡来したポルトガル宣教師から始まり、明治に至ってローマ字運動(★羅馬字会)がおこった。」
でやっと★で出てきて、頁の切り替えで、またローマ字に限定して、学会の名前で出てる、という表現
方法で羅馬を説明してるという按配です。学者が文句をいってる、ということです。何に対してか、よく
考えてみないかんところです。「蘭亭」からは王義之によって「曲水」
が出てきます。「蘭東事始」は「蘭学事始の正式の表題。」となっていて、蘭東事始の恩恵のもとにある
というのを玄白などは意識してたのかも。ローマ字は宣教師の来日→明治政府の開明策に飛んでいる
が、宣教師の来日は歴史事実で、意思のあるのは明治の学会だけだ、羅馬の字が消えたのは「東」が
消えた、ということで「学」の前の「東」がなにか、前野良沢・杉田玄白らが何をいいたかったかというこ
とがここに含まれているのでしょう。
旅寝から
武蔵野を出づる時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〈野ざらし紀行〉
があって前書の武蔵野が出てきて、たとえば
武蔵野にひろごる菊のひとかぶた
のように武蔵野にひろがっています。解説では「思いきった誇張による発想」となっています。これは
「平野」「平原」の「平」が背景にありそうです。
この「あさか山」の一節には
檜皮(ひはだ)の宿(脚注=「福島県安積郡日和田町」)
があり、
「浅香山(安積山)」は「脚注=日和田の北に見える一円の丘陵」
となっていて「和田」が鍵のところです。また「沼」が
「此あたり沼多し。・・・沼を尋ね・・・かつみかつみと尋ねありきて・・黒塚の岩屋・・」〈奥の細道〉
、 で「沼」がひっかかってきます。「沼」は淡路「沼島(ぬしま)」「沼田城」の「沼」ですが、「沼」は
「まなべ七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀(「大和(奈良県)の住人(〈安西軍策〉)・沼野大隅守・・・」
〈信長公記〉
が目立つ登場で、「浪」に誘われて出てきたものか、この海軍大将の「沼」があります。これには「大和」
「安東」が想起される人物もおり、「大隅守」(大隈守)は
池田です。「まなべ」は「真鍋」「真部(辺)」「間部(辺)」などですが、「山部赤人」(後年では「山辺」)
の「辺」も出てきます。この「沼」は当然「あさか山」の前節「須賀川」で出ている
「かげ沼」〈奥の細道〉
からきています。これは脚注では、
「鏡沼。白河の関の北六里。鏡石村鏡田にある。和田平太・・・の妻・・鏡を抱いて入水・・・。
それ以来鏡ののように水面によく物がうつったと伝えられる。」
となっています。先ほどの「和田」が出てきて「鏡」がびっくりするほど出てきました。すなわち、黒塚の岩
屋というのはこの天理市の鏡の岩屋をみている(天理市に「岩屋町」がある)ととれます。謡曲の黒塚という
のは、鏡の伝承があることを示すものかも。天理市には
「岩室町」「丹波市町」「和邇町」「新泉町」「中山町」などありますが「岩室」が
「岩室長門守・●長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾守・賀藤弥三郎、是等・・・」〈信長公記〉
があり●が「長谷」(「初瀬」)であり、且つ「堀久太郎」ともなってくると、この地の「岩室」は、太田和泉守に
影響を与えてそうだともいえるところです。
「はし小僧」〈信長公記〉
というのが「箸墓」−「古市」−「古田」という流れで古田に引きあてていますが「橋」−「端」−「羽柴」など
によって、高麗はし−箸墓などの宝に行く「堀」がもう一人としてありえます「長比」(たけくらべ)は脚注は
「滋賀県坂田郡山東町長久寺のうち。岐阜県との堺に所在する寝物語の里の別名。」
となっており、山東⇔東山、森の「長」、堀の「久」が出てきています。寝物語の里というのは一面では
長久寺を追うことにもなりますが、東大寺戒壇院の末寺ともされる
奈良県山辺郡山添村大字毛原459 長久寺
があります。年表に大空白があり
1年〜239年(倭人伝の卑弥呼)までに
1年 (年表には1年が飛ばされている) BCは82年(78年説のある事件)まで、ADは8年から
57年 倭の奴国、後漢光武帝に朝貢・印綬(志賀島金印)
107年 倭面土国王、後漢の安帝に生口160献上。(外国欄−高句麗111年後漢入貢。)
148年 この頃(147〜88)倭国乱れる・・・と伝える。倭の諸国・・卑弥呼を立てて王とする。
184年◆ (文化欄 天理市東大寺山古墳出土の金象嵌太刀・・・「中平□年」の後漢紀年銘・・)
239年 親魏倭王卑弥呼登場(この4年前が「星落つ春風五丈原」の年)。
となっていて、148年の事件は、147年までの乱れを踏まえて、卑弥呼を王とした年です。
◆が文化のことだから、というので除かれてますが、このあたり外国と交流があって一例として、この太刀が
来たのかということになると184年頃天皇は誰だったかというのを知りたいと思うのは普通なのに、それ
知らしたらえらいことになる、と防禦をしてきて、成功してきていてほぼ勝利宣言をして
きている段階といえるのでしょう。明治以後を歩んできた人は、今の人にとっては身近ですが、歴史を知
らされず、多くの人が亡くなってしまっています。
わかっているのに知らさないというリーダーの不作為は取り返しのつかない戦争などの悲劇を生んできて
います。そんなことはないといいたいかもしれないが、明治以後多くの知識人によって政権には猛烈な
口撃がされてきた、というのが事実で、勝敗でいうならば結果は抱いた危惧のことになってしまったわけ
です。戦後は同じパターンが繰り返されててはいけない、国民感情をもってきて踏み越せない聖域を儲
けると戦国時代からすら述べられなくなります。蜂須賀を大盗賊にしとこというようなことになります。
選良の集結した国会は国民統合の象徴でもあるはずだから、今後はその役割を受け止めて、もう一方
の歴史を、検証してほしいところです。国際的に劣っている女性の社会的な位置の問題にしても現皇室の
制度が千年も続いてる伝統を無視できない国情があるのだと逃げていては、ぼつぼつ物笑いになって
くるのでしょう。戦前でも日本の知識人が表側の歴史理解をひっくり返してみていたのだから、それを検証
するだけでも当面は十分といえるのかも。
(334)橘の第2弾(通説の説明するもの)
57年は垂仁90年で文献と一致しますが、一体57年のときの天皇は誰かというときに、通説は垂仁が
前29〜後70 99年間
となってるから、垂仁の(紀元28年目?)ときや、といえる、107年は誰のときかということになると、
通説でいくと景行天皇が再掲
後71〜後130 60年間
で、107は景行の36年目(107−71=36)だろうといえる、 西暦71+36残り23となります。
23+17=40 → 36+4(4年は初めからある)=40 となり意味がよくわからないが、
馴染みのの数字がならんだということです。すなわちズバリでいえるのは通説のものだけです。しかし
57年の記事は「垂仁90年」、107年は「景行43年」に出てるといってきて、通説の役割は消えて
しまいました。
景行36年目はどうなっているかということになると景行紀は空白もあって、空白のないところは次の年で
1年〜4年まで、 と 12・13 17〜20 25・27・28 ●40年この歳〔43年〕 51〜60年まで
の記事はあって、合計 A 4+2+4+3+4=「17」+10=27 と
B 4+2+4+3+1=14+10=24
の年の記事があります。充足率は 27/60=45% 24/60=40% で二通りの計があるのは
●の読みが40が即位43年目の意味と、40・41・42・43の意味がありえます。
36年というのは、●の前までが13で4年プラスして17年と43年目に着地するということです。
36年プラス4年があるから、40年は43年年目として43に行き着くことにもなります。要は
17=60−43 43=60−17 27+33=60 24+36=60
となります。要は43年を重視してここを遣使と年としてよいだろう。これは17と補完関係にあるから
それでよさそうとすると、●の期間に筆者の考えに合ったものがあるので、一部既述ですが再掲しますと
「ヤマトタケル尊・・・また相模に進み、上総に往こうとした。・・・海のまん中にきたとき、とつぜん暴風が
起り・・・・このとき王に従ってきた妾がいた。弟(おと)橘姫といつた。穂積氏の忍(おし)山宿禰の娘
である。・・“賤しい私の身で、王の命を贖い海に入りましょう”といった。言いおわるやいなやオオナミを
披いて入った。暴風はたちまち止み、船は岸に着くことができた。・・その海をなづけて馳水(はしりみず)
{浦賀水道}といった。」〈書紀〉
があって、「弟橘姫」が出てきます。「弟媛」に似てますがこれは雄略14に登場します。乙姫に似てきます
が、これは雄略22年「浦嶋・亀・仙」の登場のあと、すなわち皇太子に清寧がなった直後の
ことで、平群真鳥・物部目連{伊久佛子}・清寧(白髪)の時代に出てくるものでしょう。
戦国の十七条の一節 「(元亀四年)元亀の年号不吉、改元・・・」
茶道は宗易の一節 「(天正参年)・・・十七人・・御茶・・・つくもなす・・おとごぜ・・」
などが「十七」を契機としてみられるのかも。亀井南冥は元亀の亀は関係ないと思ってたでしょうが、脚注
では、十七条のことは元亀三年と書いてるの「参年」が二通りだったら十七も接近してきます。57年(40
+17もある)の継続で橘氏が使いをしたということで海から消えたという設定になったものでしょう。この人は
■51年に
「忍(おし)山宿禰の娘、オトタチバナ媛」〈訳本〉
としてまた出てきます。引率して往き、役目を果たして帰ってきたものと思われます。しかし17が、Aで
屁理屈つけて出てきてる、43とするのも我田引水といわれるとそのとおりでしょう。まあ押し捲ると
これもよくわからないが●の右の51は成務天皇が皇太子になった年ですが、■の年でもあり、51/3=17で
で使ってよいのだ、というと、それこそ偶々だ、全体との整合がない駄目だというだろう。ほなA+B=51
になるがどうか、といいたいがなぜそうなるかはわかりません。とにかく使えるようでそれでいくと成務天皇
という人は「忍」がわからいが、■の人物とも考えられます。高句麗が111年朝
貢してるのでそれに連動して派遣したことが考えられます。ここでも107+4=111が生きていそうで
す。要はいいたいことは通説が優れていることがよくわかったということです。痛切では、
垂仁天皇は 前29〜後70 99年 57遣使(帰還は60年・垂仁99)
景行天皇は 後71〜後130 60年 107遣使
垂仁は紀元前に29を持っていったのが優れているということでしょう。
○29×2=58 で垂仁57年を説明しようとしてる 29×5=145(147)
○端数4があるので29+4=33全体の1/3を前に持っていった
○90−29=61−4=57
○★(29×3=57+30) / 垂仁紀元後90−33=57年目(垂仁90年)
元年線
となりそうですが通説は、57年を元年線のあたりに持ってきてます。一方
後者の景行は 130/3=43、3 129/3=43 これは107年は景行43年というのががダイレクトに
出てきます、
★が57と垂仁30年というのが同時にでてきたのでおそろしいと思ったわけで、仁徳87の別の形
ともなりますが、まあこれは偶然の一致でたいしたこともないのかも。107年が、通説の景行の区切りを
利用すれば、直接、景行43年としてでてきたことは、吃驚ですがなぜそうなるのかよくわからないの
で応用が利かないものです。しかしなぜかこれを使うといってきたことが出てくることになります。
中国後漢の書で出てきた147年、卑弥呼の登場で安定した年ですが、147は、通説成務の
成務 後131〜後190
仲哀 後192〜後200
の期間内に入っています。190/3=63,3 189/3=63 で成務の60年(慈円では61年)を超えて
しまいます。まあここで「3」仲哀に入り込みます。147年当時、このとき安定させたのは卑弥呼でこれ
仲哀といってきましたが仲哀に着陸します。どこかおかしいことだけは確実だといわれそうですが、とにかく
通説から57年は「57=30(垂仁)」、107年は「景行43−17」、147年は「仲哀147」「29×5=145」
というのがすぐに出ました。
仲哀でやると、200/3=67となります。仲哀9年しかないのに67とは、おかしいという人があるでしょうが
仲哀 9年 → 9+□□
‖
神功 69年→ 9+ 60
という仲哀の□に60が入るのではないかというのはいってきました。
(335)184年 「中平1年(後漢紀年銘)」太刀
年表では148年、倭国では卑弥呼を立てて王として88年間続いた騒乱を収めようとした、記事のあと
年代184年が出ている「天理市東大寺山古墳出土の金象嵌の太刀」の記事一件だけがあり、あと239年
の親魏倭王の卑弥呼お登場まで空白となっています。これは通説でいえば
成務 紀元後131〜190 仲哀192〜200
によれば、成務の中に入り、★190−6=184で6年前に位置しています。一応やってみると
(@) / 27+垂仁99+景功60+成務61=247−3=244 244−60=◆184
(A) 147+37=184 景行(43)から、+「51(17×3)」+成務61」=112/3=37
(B) 33(29+4) / 66(垂仁)+60+61−3=184
となり、まあまあ無理に合してますが、端数に時間を使わないのは問題です。(@)は247/3=83
が成務までの実年で101年後に184になると言ってるものです。(A)でいくと、うまく行って
(B)は200−184=16ですが★がらみで、184は190に合せる必要があり、6+仲哀の9=16相当
の違いとなってきそうです。
まさにすばらしい太刀が、51年後あの卑弥呼のときに先立ってやってきてて、景行51年成務天皇
が皇太子になったとき、年魚市郡熱田社にあつた
「草薙(くさなぎ)の横刀(たち)」〈書紀〉
の話がでていて、これは「草薙の剣」とは違うようで、これがそれかもと見るのも面白いかも。そらちゃう
違う、時代が合わんといったではないか、となりますが、記事のあり場所を指示する機能が数種の
年代の錯綜に潜んでてわかる場合もあります。◆が偶々出てきて60年の嵌め込みも要りそうなとこ
ろです。この横刀、太田和泉守が見てたら言及があったのは確実でしょう。先祖の卑弥呼ですから。
太刀でいえば垂仁99年の39年目、通説では西暦6年、あの57年の6年後、
「イニシキ命は●茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)川の上(ほとり)の宮にいて剣一〇〇〇口を作った。
そこでその剣を名づけて川上部といった。またの名は裸伴(かはだがとも)。■石上神社に所蔵
した。」「{この一〇〇〇口の大刀は、忍坂(おしざか)邑に所蔵・・・石上神宮に所蔵し・・・春日
臣の一族で、名は市河に・・・治めさせた。・・いまの物部首(おびと)の始祖である。」〈書紀〉
というのがあり、●がどこかわかりませんが、なんとなく今の日本列島内ではない感じです。しかし、■が
あるので、天理市ですが、■についてについて脚注では
「石上には八岐大蛇を斬った剣もある。」
となっています。これは〈書紀〉に出ており、スサノオが出雲で大蛇を退治したとき
大蛇の尾にあった剣が草薙剣で尾張の「吾湯市村」にあり熱田の「祝部」が祭を担当しており、
大蛇を断つた剣が「大蛇(おろち)の麁正(あらまさ)」で、これが今〔備前の〕石上〔布都の御魂神社〕
にあるということです。この「あら」は、後年の「物部麁鹿火」の字ですが、テキスト〈万葉集〉地名索引では
「布留」は「奈良県天理市布留の地」、 布留山は「石上神宮東方の山地。」
となっています。柿本人麻呂の歌があって
501 をとめ等(ら)が袖布留(ふる)山の瑞垣(みづがき)の 久しき時ゆ思ひきわれは
においてこの地をが思い出されています。もと中国地方にあってのち、この地に遷されたということもありえ
のでしょう。まあ今で言う国を跨いで見ないといけないのではないかと思われます。
(335−1)「国産」の意味が違う
「市河」は太田牛一は「弓の師匠」の「市川大介」の「市川」に利用しています。やはり表記が違って
います。
「市川大介」は「市田鹿目介」「平田三位」「古川久介」「荒川市介」「春日原」「味鏡という村」
などと関係し「高天神」で
「川上三蔵」(本文は「大子原、川三蔵」)、脚注では「河上三蔵〈恵林寺雑本〉、
〈我自刊我本〉は「大子原川三蔵を奈良川三蔵に作る」となっている
というようなものも出ていて、「大子」が「河上、市河」からでています。
●の文は、日本にいる垂仁天皇の国産の大刀があるということで重要と思われたと思いますが、細字で
もう一回出てきます。
「河上という名の◆鍛〔冶〕(かや)をよびだし、大刀一〇〇〇口を作った。このとき
@楯部(たてべ)、A倭文部(しとりべ)、B神弓削(かんゆげ)部、C神矢作(かんやはぎ)部、D大穴
師(おおあなし)部、E泊橿(はつかし)部、F玉作(たますり)部、G神刑(おさか)部、H日置(ひおき)
部、I大刀佩(はき)部、あわせて一〇箇の品部(ともべ)をイニシキ命(「五(い)十瓊(に)敷入彦(いり
ひこ)命」)に賜った。」
となっています。意味はよくわからないにしても垂仁に賜ったという文が出ています。品部というのは脚注で
「職能集団。初の四(@〜Cのこと)は、楯、織物、神弓、神矢を作る部。(▲次頁へつづく)
大穴師(D)は不明。▼次の二(E〜Fのこと)は、瓦、玉を作り、残りの三(G〜Iのこと)は
大刀にかかわり順に、神刀の管理、神刀を作る炭火の役、帯刀した護衛、に当った。」
となっています。一見、どうしても出てほしい「鏡」がありません。国産、中国生産で邪馬台国論争の中心問題
として重くのしかかってきているものです。三種の神器のうち、玉、刀が出てるのに、鏡はなく、鏡は現地で
出土も多く、天理市の田原本町には鏡作神社もあります。脚注のうちDが不明となっており、▲「次」→▼
「次」へ飛んでおり、Dがここに入るのがおかしいかも。こうなると「三」の大刀において鍛造の部分がない
のが気になります。「日」で「火」を無理に出しています。◆は〈信長公記〉では
「加治田(「岐阜県加茂郡」)・・・加治田・・・★鍛冶の在所関(刃物で名高い。)・・・・加治田・・」
の★で出ています。しかし「治」が匂わされています。また
加治屋(脚注=鍛冶屋) (「高橋郡・・・端々放火・・・加治屋村(愛知県西加茂郡鍛冶屋敷か)・・」
があります。会稽東冶(会稽東治)の問題と絡む話ですが太田牛一は「治部」があるので「治」が合ってる
と思っていた思いますが、ここで◆の冶金の出たことが、高度の金属加工もできたということになり
Dを金属、石類の掘削もするための坑道を作る業務に拡大できると思われます。したがってこの●
の場所がわからないのは、朝鮮半島の地名も含まれているからと思われます。卓淳国の「淳」が入って
います。ここの「高天神」「高橋郡」「名高い」の「高」は「高」の国の意味があります。
(336)岩室長門守
岩室長門守の注では
「近江(滋賀県)岩室氏の一族か。愛知県愛知郡の豪族。」
となっています。「岩室」から、「岩室」遺跡(天理市)−「御間城」→「牧(村)」、「真木村(牛介)」、「御牧
勘兵衛」〈太閤記〉、「水巻采女佐」(「砺波郡水牧」)〈信長公記〉が出ます。また
「山口飛弾守/山口又次郎」−「岩室」−「(長門守)」−「木村」で「木村又蔵(又次郎相当)」が出て
ぎています。「山口」が何となく「山門」−「山都」−「大和」と行きそうで、「岩室」(山・石・室)から歴史
的なものを出そうとしたというのがありますが、桶狭間では
「岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾守・賀藤弥三郎、是等」
となっていて「岩室」は長谷川に近くて、これが今となれば「堀久太郎」がでてきたとすると、
長谷川−泊瀬−この地
とともに「長谷川等伯」の「長谷川」も一応目を向けなければならないかも、というのも出てきます。
索引では
岩淵権枢僧正→大安寺勤操石淵(「大和(奈良県)大安寺」
岩室長門守(「岩室氏・・・近江」がある)
因果居士(「自筆の書物・・・履歴は不明」)
となっていて「岩室」は「大和」を受けており、古代の「岩室」「石室」「長門(「長間」という言い換えも
ある)」(「間」は「間」・「門」・「日」に分けて使われている。)」を、古代のことを述べるという宣言をした意味の
表記だから、これは太田和泉守が考えられることの補強といえるものです。したがって兼松は「岩室長門」
ということになりそうです、問題は先ほどの「岩室」の注の「近江」と、「愛知県愛知郡」への拡散ですが
「愛」=「ちか」=「近」で
「安東愛季」〈信長公記〉(文中表記●「阿喜多の屋形下国」「下国」)
の「愛」に近づこうとしたものととれます。「ちかすえ」という読みがされていますが「近」というものがあれば
「愛」を見るのは合ってることもわかることになります。「近松田面」は
「金盛」「金森」−「丹羽兵蔵」−「愛知郡愛東村」を呼び出すかも。永禄11年
「愛智(エチ)川近辺に野陣をかけさせられ」〈信長公記〉
もあります。●とよく似た表記で、人名索引第一番の
▲会津の屋形もりたか→蘆名盛隆
があって、このあと「青」15、「赤」8、「赤松広秀/秋田城介信忠」」という人名の流れがありました。ここから
の索引の流れは
秋田城介信忠→織田信忠
▼阿喜多の屋形下国→安東愛季
阿君丸 (「越前朝倉義景の嫡男」)
秋山→秋山信友/・・・/芥川/明智・・・・
となっていますから、▲▼は意図した挿入というのが露骨にでています。会津・阿喜多は地名といった方が
よいかも。ここに直江山城守兼続の冑の「愛」で思い出す「愛季」の「安東」が出されています。
「十二・三日」「二ツ玉」「杉谷善住坊」「鰐口」「千草山中」「香津畑」「蒲生」「市原の郷」「鯰江の城」」
のでたところ「鯰江の城」の脚注は
「滋賀県愛知郡愛東村鯰江に所在」
となっています。ここで「愛東」が出てきて岩室長門守の注では愛知県になってた「愛知郡」がここでは
「滋賀県」になっています。いま滋賀県ですが、ここにも「鰐」−「和邇」が出ていそうです。ここで
「野洲川」脚注鈴鹿山脈に発し南北二流に分かれ、滋賀県野州郡をへて琵琶湖に入る。近江国
第一の長流。」
となっています。
(337)落窪の郷(乙窪)
野州川は、本文では「やす川」もありますが「落窪の郷」がでてきます。これは
「滋賀県野州郡中主町乙窪。野洲川北流の北岸。」
でこれはひょっとして芭蕉の
梅が香や しらら落窪(おちくぼ)京太郎 〈亡梅〉〈泊船集許六書入れ〉〈鯰橋〉
の落窪かも。愛東村の鯰江が効いてそうな感じです。
(338)長谷川等伯
また鰐−和邇−鯰のところ
「菅六左衛門」(考証名「菅秀政」) 索引 菅小太郎/菅六左衛門/関東のあん中→あん中
が登場してきています。これは、(こ行)でも出てきて
上野守信兼→織田信包/香津畑の菅六左衛門→菅秀政/江南源五(相撲)/河野三吉
という並びもあります。「高」−「甲」「香」「上」「江」「河」「幸」「行」などがありますが、脚注では「甲津畑」も
あります。一応「秀政」と「管」が出て、「岩室長門」「長谷川橋介」が出たから、
菅屋九右衛門長頼(「岩室長門」)−(子)「堀久太郎」
というのが出てこないか、ということです。またこの三年後、「先年」の事件として「山中・・・二玉」「鰐口」など
の同じ話がでてきてここでは尋問のため
「菅屋九右衛門・祝弥三郎両人御奉行として・・・」〈信長公記〉
があって、「弥三郎」があるから「賀藤弥三郎」−「岩室」があり、
6(菅六)+3(弥三)=9(菅九)
が出てきているから桶狭間の「岩室」に、「菅屋九」と、鰐の一節の「菅六」が絡んでくるということになるので
しょう。テキスト人名注
「菅屋長頼」(文中表記「菅屋九右衛門」「能登国七尾城代」)
は、生没年は書いてなくて登場回数が24件もあるという人物ですが、
「長行。九右衛門。元亀二年・・・長頼(〈越前大野郡石徹白村観音堂鰐口〉〈石徹石神社文書〉)。
また長行ともいった時がある。信長の吏僚。菅屋氏は尾張の豪族。99〜420頁23件)」
となっています。420頁は本能寺戦死者一覧だから、本能寺戦死となります。索引の並びは
菅沼(長篠)満直(文中「長篠」)/菅屋角蔵/菅屋勝次郎/菅屋長頼/杉左衛門(・・勝左衛門小人)
/杉谷善住坊/杉の坊/杉原日向
ですが、前の二人は子息かもしれません。「長頼」というのは〈ウイキ〉などによれば、松永弾正弟
「松永長頼」(改名「内藤宗勝」もある) (「甚介」「▲備前守」「蓬雲軒」「丹波国八木城主」
「妻は内藤国貞の娘」「内藤如庵の父」)
が名高くてこの人物に引き当てるしかないようです。前後「内藤」の「勝」の応援を貰っている感じです。
「内藤」は「藤原朝臣松永弾正少弼久秀」「織田藤左衛門」家の「藤」、「安藤伊賀守」(/「あん中」)の「藤」
を内包しており、索引では内藤は
とをり孫大夫 砥堀孫大夫であろう。砥堀は播磨神崎郡の地名。
頓五郎→細川昌興
内大臣→織田信長
内藤勝介 尾張愛知郡の名族で古渡(名古屋市中区古渡町)の住人。(文中「内藤」)
内藤信成 丹波の内藤とは別流だが・・・子孫は日向延岡藩主。(文中表記「内藤三左衛門」)
内藤重政 実名重政・・・若狭守護代・・・福井・・・武田・・実子・・・・(文中表記「内藤筑前」)
●内藤備前守 丹波守護代
内藤備中
内府 → 織田信長
苗木久兵衛 美濃苗木(中津川市苗木)遠山久兵衛
があり、ついに▲が出た!、という感じで、一応●が「宗勝」相当ともいえそうです。〈首巻〉の終わり
「丹波国桑田郡穴太村・・・長谷の城と云ふを相抱えへ候赤沢加賀守、内藤備前守与力なり。一段
の鷹数奇(すき)なり。・・角鷹二連(脚注=二羽の意)求め・・・・」〈信長公記〉
があり、赤沢加賀守@?は太田和泉守となりそうで、丹羽の語源もここに出てる、といえます。「抱へ」は桶狭間
の「松の本」で出ました。与力の意味が決まるところでしょう。「内」は織田も関わっていそうで、信長に内藤が
挟まれています。「堀」が意味をもって出てこないと「とをり」がわからず、苗木と
同様「堀」も地名からかもというのが感ぜられるところですが、とにかく「砥石」の「堀」の「神崎郡」は
「滋賀県愛知郡愛東村」の近く
滋賀県神崎郡永源寺町「市原野」「甲津畑」「根平峠(千種越)」「黄和田」
の「神崎郡」をみており「菅屋」の「鰐口」に来ています。「内藤」に「三左衛門」「日向」「重政」が出て
きたのでこれはもう、岩室長門守−太田和泉守が出ていることになります。岩室−長谷川橋介の線から
索引では
橋本十蔵/端山/★長谷川宗仁/長谷川藤五郎/■長谷川丹波守/長谷川橋介/長谷川与次
があり、■丹波守−●内藤 ⇒「松永長頼」が出てきます。★は「橋介」の「橋」を受け、「宗勝」の「宗」=
「宗仁(甚)」もあり、宗勝の「勝」も菅屋でありました。これは
「義景の母儀併に嫡男阿君丸・・・丹羽五郎左衛門・・義景頸、長谷川宗仁・・・獄門・・」
で出てきました。これは「阿君丸」はさきほど
阿喜多の屋形下国→安東愛季/阿君丸/秋山(山梨県中巨摩郡甲西秋山の住人)
があり、安東愛季はこの阿君丸かもしれないと一応見ておくとして、朝倉義景父子の安全を確保した
丹羽(岩室長門守)、長谷川宗仁(岩室長門)といいかえると、初瀬−長谷−秋田を睨みながらここの
近江の菅屋の登場を促してると思われます。つまり
松永長頼改め内藤宗勝●=岩室長門=
菅屋九右衛門長頼=
能登国七尾城代=長谷川等伯(「又四郎」)=金松「又四郎」=長谷川宗仁法眼〈太閤記〉
となりえます。ウィキぺディアに今ある記事では、長谷川等伯は「又四郎」「帯刀」がその名としてあり
「又四郎」は
「金松又四郎」(「兼松正吉」=「尾張葉栗郡嶋村(一宮市島村)に住した〈兼松党之系譜〉・・」)
があるから、それもある、というのはあります。が、これは援用しなくても、出てくることになるのでしょう。
「党」という表現があり、従って太田和泉守の画業があるとすれば、長谷川等伯の社中というものの
なかにあり、名護屋での
「旅館御作事事衆
一、御本丸すきや 長谷川宗仁法眼
・・・・・・・
一、山里書院五間六間 太田和泉守
座敷何も狩野右京亮画之・・。
・・・・
一、山里御座之間 同人
児童の色絵有、★★長谷川平蔵図之。
庭前おのづからなる岩くつ(山+屈)を用い、自然の美景更にいはん言の葉もなし。
尾州内津虎渓(うつつこけい)之山水も、是にはいかで増さらじと思ふ。・・・」
〈甫庵太閤記〉
があり、★★がひょっとして「太田平左衛門」もあるから太田和泉守(Aかも)とも考えられます。ここには
狩野右京亮の「西王母」も出てきます。これは「安土城」にあり、名護屋城にはちょっとそぐわない
感じですが、あの時の
あのことを、あとでさりげなく写し出すとうのがあるので40箇所ほどの作事箇所、作事奉行、内容など
を書いたこの部分は何かの企てがあると取れるところです。
(339)長谷川久蔵−雪舟の後継
安土城に
「呂洞賓(リヨトウビン)と申す仙人」
の図があり、これは
「雪村周継」(永正元年1504〜天正17年1589)
の絵の代表作の一つといわれています。「等伯」は「雪舟」のあとを継いだ
といっており、「雪村」の「雪」もそれを示しています。「等伯」に「久蔵」という子息がおり、作品も残って
いるそうで、惜しむべき才の持ち主でしたが夭折したといわれています。名前が「久蔵」ということだと、
「堀久太郎」が脚光を浴びて「久」が出てくるので、森蘭丸かも、といっていた甫庵の「坂井久蔵」の
「蔵」もでてきて
「金松久左衛門」「小坂井久蔵」「平蔵」「恒川久蔵」〈信長公記〉」
なども出てくるから、葦名家に入ったのかもしれないというのも出てきます。人名注のトップが
会津の屋形もりたか → 蘆名盛隆
で、以下「青」−「赤」−「秋田城介信忠」−阿喜多の屋形下国→安東愛季
ときてるから、多くの筋に展開される要所に配置されたのが「蘆名盛隆」といえそうです。「もりたか」は
一つは、池田の「森寺清兵衛」の登場によって、甫庵索引
森乱丸/森次郎左衛門/森河備後守/森弥五八/森高/森寺清兵衛/森寺/八木篠右衛門/八木/
となって出ていて「清」というのは「平清盛(森・守)」−「平手清秀」の「清」を見ていたらよいのでしょう。
葦名盛高(平四郎)〈明智軍記〉
があるから「平」を取り込んでみてた人もあるということです。桓武平氏、清和源氏があり、例えば
「恒川久蔵〈信長公記〉(解説なし) 甫庵では「垣川久蔵」
は平安時代・平城京の「桓武天皇」の「亘」(せん・わたる)が滲みでてるといえそうです。源・平・藤・橘
というの日本古来の源流の姓が桓武時代に定着したのかもしれないがモトは同じといえます。国内の
経路は、秋田→ 大和・近江なるのでしょう。この「恒川久蔵」からは「河村久五郎」が出たのは既述で
すが、索引で
堀江/堀久太郎/堀秀村/堀平右衛門
があって、「河村久」「秀村」の「村」が「雪村」の「村」が垣間見えたものともいえるのかも。「秀」は
「長谷川竹」〈信長公記〉(考証名=長谷川秀一(「通称藤五郎」)
「尾張葉栗郡北方村(愛知県一宮市内)出身〈尾張名所図絵〉」
の「秀」があります。これだと「葉栗郡嶋村」ではないから、兼松正吉ではないわけで
「長谷川等伯A」=長谷川藤五郎=高山右近
があるだろうことは既述で、岩室長門守(岩室長門)が出てくると、
村井=長門守=岩室
がでてくるから、「竹」=「武」で、「村井」=「武来」で常山は
竹村半兵衛
を作って「民部少輔」と引っ付けているから「村井」は「村井長門守」をみてそうです。
「村井長門守」の子という、「岩室長門守」の「養子」という人物
が、別にいることになります。索引では
羽柴/橋本/端山
@長谷川宗仁(1539〜1608)・・・藤原氏秀郷流。大和(奈良県)出身。・・
A長谷川秀一 (〜1594) 「通称藤五郎」 「長谷川竹(15件)」
B長谷川丹波(守)
C長谷川橋介 「長谷川挨介」が索引で抜けている。
D長谷川 Cの文中表記ともしている
E長谷川与次 尾張長谷川氏の一族であろうが未詳。
畠山殿 河内高屋城
となっており、@は松永が藤原で「大和」出身となっているから、松永(菅屋)長頼で一つは合ってそうで、こ
れは、Bと通じていそうです。すると、Aは、子息で「久蔵」と、養子の「高山右近」もでくるということになり
ますが、その際「久蔵」=「雪村」となるのには「秀一」→「一男」「秀村」「河村久」のように「村・久」などが
ちらほら、として貰わないといけないわけです。「雪」については、もう講談で「真田幸村」の変名「田真
雪村(でんしんせっそん)が、間違いなくありました。いまはネットで見ても、真田幸村の変名としてはみあた
りません。ただ
雪村=幸村
は、雪村のところでは出ています。ただどこを使って何を述べようとしたのかがないから冷やかしになってるだけ
です。これは雪村周継のことを述べようとしていますが、〈信長記〉からきてるものといえそうです。索引で
高山和尚/光浄院→山岡光浄院/上野守信兼/香津畑の菅六左衛門→菅秀政/江南源五(「相撲」「京極
高次の部下」/河野三吉/河野善四郎/甲山(こうやま)/●幸若義重(「幸若舞の太夫」/久我(こが)
があり、これは●の「幸」を重視する「こう」の読みを咀嚼して「こう」の当て字を生み出したものです。
幸(村)=ゆき=雪
で、A筋として
「雪」に、「兼」「菅」「秀政」→「兼松」「菅屋」「久蔵」
「雪」に、「香」「江(南)」「川」「河」→「恒河(こうこう)久蔵」・「池田恒興(こうこう」「南化玄興」
を取り上げたもの「せっそん」
などによって森寺−森高−盛隆へいくのもあり、もう一つ、
で、B筋として、
「幸」に、「高山」「高次」「森高」の「高山」
があります。長谷川等伯は「帯刀」「信春」で、「兼松又四郎」−「山岡」から「岡部帯刀」「岡部又右衛門」(大工
棟梁)がでて「大工棟梁」は「村井長門守」もありますが岡部は安土城の大工棟梁です。「信春」は
「馬場信春」−「天神馬場」−「摂津国天神馬場・・・高槻・・天神山・・高槻の城主高山右近・・」
があり高山へいきます。「帯刀」は相撲の「たいとう」もあって「東馬二郎・たいとう」ですが
「大東」「大西」〈信長公記〉→「泰西」
もあるかも。 高山
岡部(辺) 高岡・山辺も出てもよいほど「高山」は語りの中心にいますが「高天原
系」の「高」も表しているともいえます。雪舟五代の長谷川等伯の養子といえる高山右近は雪村の範囲に入ら
ないとしても義理の兄弟の久蔵が雪村とすれば高山右近は面識があるということになります。
この久蔵は、さきほどの甫庵の索引の先ほどの「盛高」(平)を嵌め込むと
森乱丸−−−「森高」(「盛高」(平四郎)「森寺(森城)」−−−−「八木」(八木城=松永長頼)
となると「森高」は長谷川等伯ほどの大物を語る材料として「盛隆」をもってきてるとみてもよいことになり
そうです。戦国の蘆名氏は、常陸の佐竹氏、伊達氏、二階堂氏などの勢力の狭間にあって苦労した
動きがみられるところですが、蘆名家の全盛時代は「盛氏」のときで、
盛氏−盛興(早世)−盛隆(養子)(須賀川二階堂から)
となっていて、(早世)と(養子)が入ったというところが何かありそうです。二階堂は〈吾妻鏡〉でよく出てき
た姓ですが「盛氏」の「盛」が二階堂の「盛」のような感じです。二階堂は天理市にもあって郵便番号で
に行 新泉町 ひ行 桧垣町 い行 石上町
二階堂 東井戸堂町 櫟本町
上ノ庄町 兵庫町 稲葉町
ヾ 南菅田町 備前町 岩室町
ヾ 北菅田町 平等坊町 岩屋町
西井戸堂町
西長柄町 (右へ続く)
大和神社のある「新泉町」の次に出ていて、あとの三つにも懸かるのか不明ですが、東西の「井戸」が
「井戸才介」〈信長公記〉(考証名「井戸将元」「美濃(岐阜県)加茂郡麻生城の井戸氏であろうか。」)
を出してくるのかも。松永か、筒井家の人と思われますが、これが、甫庵の、
「井土才介」−「井上才介」−「井上七郎次郎」−「井上又蔵」
を出してきて、井上と繋ぐわけで、「井戸茶碗」も気になるとしても、「才」という字が
洲賀才蔵〈信長公記〉(解説なし)
しか見当たらないから、索引でみると、
吹田因幡娘/洲賀才蔵/菅沼忠久(忠重)「井伊直政の与力。・・・/菅屋角蔵/・・
となっているから、「洲賀」⇔「須賀」⇔「菅」がありそうで、前は「深田」「杉」「因幡」から高山がボヤッと
出てくるとなると、高山の義理の兄弟もでてくるかもしれない、「菅屋角蔵」がすぐ下流にあるから、これは
「久蔵」にもなりえます。うしろに忠重がありこれは水野→水野久(九)蔵も一つとしてでます。
「角蔵(ルビ=すみのくら)」〈甫庵信長記〉
もあり、あの「角倉了以」があるかもしれないから、「深尾和泉」とよからぬことを謀って、安土に妻子を連れて
こずに信長に殺された「井戸才介」は、「長谷川久蔵」もあり、かも。「井上七郎次郎」は
「三沢三郎左衛門為幸」〈甫庵信長記〉
を討ち取るので一気に歴史の一節に飛んで、中国の「井原」の地(雪舟・北条早雲)が出てきます。
蘆名盛隆脚注、再掲
「(1561〜84) 岩代会津黒川(会津若松市黒川)城主。相模三浦郡蘆名村から興り、会津を
領した豪族。盛氏の時に全盛期。子義興が早世したので須賀川(福島県須賀川市)の二階堂
盛義の子、盛隆を養子にした(〈会津旧事雑考〉〈新編会津風土記〉(文中「会津屋形もりたか」)」
となっています。
蘆名は相模の地名から出てきており、三浦は
丸毛長照(「丸毛兵庫頭)/三浦右近/三浦雅楽助/三浦義就(「三浦左馬助」)/帝→正親町天皇
/三上恒安(「・・・近江野洲郡三上郷(野洲町)の土豪・・・」)
の三人が出ています。「盛興」の「興」というのが「南化玄興」「恒興」の「興」というので重要とすると、
頭の中では、一時実現したかどうかは別として
盛興夫人(伊達氏)
盛氏ーーーー‖ー 盛興(盛氏の子)
‖ 久蔵(織田氏より)
蘆名盛隆(二階堂氏)
という構図があって論じられているととれそうです。
類書の盛高平四郎がこの盛興で早世というのがちょっとくさいということかと思われます。
1504年生まれというの「雪村」は、桶狭間60年前ということだから、雪舟後継の画人で、井原の重玄寺の
雪舟に絵をまない盛氏のところへ出入りしていて、盛興に絵をおしえた、一方雪舟五代を名乗る、長谷
川等伯の絵の師であるとみてよいかも。
第一世代の雪村@は、七尾の長谷川の祖でもあり、雪舟のAともいえる存在として、戦国に足跡を
残したということで、これは別格でしょう。奥村宗道とか、染物の奥村文之丞など等伯の登場に関わった
人物との接点があるということで探したほうがよいというヒントもあるかも。奥は奥州の「奥」、「村」は雪村の
村ではないかというとそらけしからんとなるだろうが。これは雪舟を戦国に引き出したいというためのキャラクター
として通常言うところの雪村は、次の世代の二人の雪村ということではないかと思われます。一人が
地元の雪村で、これが「盛興」で三春で生涯を終えたという雪村がこの人といえそうで、久蔵の雪村は
政治の世界をはなれたとき、奥州・京もをまたにかけた活動があった、長谷川平蔵などの名前でその後、
作品を残せることもありえたと思われます。ここで出た「養子」は一人歩きして役に立ってそうです。
「長谷川等伯@」は金松又四郎、長谷川等伯Aはその(太田和泉の)養子の高山右近、とするこ
とができます。これでいけば
「金松久左衛門」〈信長公記〉
が「長谷川久蔵」になるかも。一方「堀久太郎」も金松だから、これに該当しそうですが、清水又十郎
の一節のの長谷川挨介は、この「久」が生きてきて「堀久太郎A子息」ということになりそうです。
金松正吉は、文中表記、「金松」「金松又四郎」の二つですが、「金松」には一党のようものがあるかも。
徳川旗本の「兼松又四郎」もありますが
「賀須屋武則」(文中表記「賀須屋内膳」、「・・・別所氏の与力・・・賎ヶ岳七本槍・・子孫は糟屋・・」)
は「須賀川」より養子の「須賀」だから「菅」で、菅屋内膳をもじったものが「賀須屋内膳」といえます。
索引では
印牧(かねまき)弥六左衛門/金松久左衛門
/兼松又四郎/狩野永徳/狩野三郎兵衛/狩野次郎左衛門(「・・〈江北記〉・・近江出身・・」)
となっており 「金松/狩野」があり
賀須屋=(内膳)=狩野
で、狩野内膳のヒントがないのかとも思われます。「印」が「金松」を通して、近江にきています。
とにかく、雪村は、検討の余地が有りますが、雪村のことは
テレビなどで現在よくわかっていない、といってるのは、どうか。「呂洞賓」は〈信長公記〉に出てるという
くらいのヒントがないと永久にほっとこ、となってることになります。
〈明智軍記〉索引で
@蘆田信繁(下野守) 武田家で味方ヶ原で登場
A葦名盛高(平四郎) 奥州会津の城主
B飛鳥井
が出ていますが@はあの武田信繁でしょう。永禄4年(1561)川中島で戦死ということですが、元亀
3年(1572)に出てきています。Aは「平四郎」でネット記事などでも先ほどの「広興」を指していると
しています。本当は跡取りなのに「四郎」となっています。これは金松でも「又四郎」となってるのと
同じです。水戸黄門は、真田幸村に「信繁」という名前を付けています。これが一般的になり幸村が
信繁を尊敬していたという挿話ができています。つまり
幸村=(信繁)=雪村
で、 @Aの並びから
「平四郎」=「盛こう」=雪村=信繁(幸村)
となります。「会津の屋形もりたか」は「盛隆」「盛高」/「森高」「もりたか」の四通りにくりになるかも。なお
「井戸」は、〈明智軍記〉では「井戸久左衛門」「井戸若狭守」があります。これで見れば武田信繁は永禄4年
の戦死はなく、味方が原で家康公を打ち破ってることにもなります。
弘治四年は、永禄元年(永禄は弘治の次ぎ)
永禄四年に、(永禄四年の位置に)、弘治四年の記事が載っている
永禄四年に、川中島のあの大合戦があっというなら、これは弘治四年にあったことになる
弘治四年に、あったのならそれは永禄元年でなければならない。あの川中嶋の戦いは永禄元年
で「四年」の前提が崩れているので、信繁の死もなかったということでしょう。「長篠」では
「典厩(てんきゆう)一党(イツトウ)黒武者(くろむしや)にて懸り来り候。」〈信長公記〉
となっていて主役がなくて、複雑なルビになってるのもその加減かも。つまり「四年」というのが単に年次で
はなくて、目立つ漢字・熟語と同じような働きをしていて触媒になったり、目立ったりもしてるということで
しょう。
同じようなことが味方が原の戦いの元亀三年と、翌年である元亀四年=天正元年の場合でも起こり
〈信長公記〉は元亀四年があって、天正元年はなく、年表では元亀四年はない。しかしこの場合は
弘治のようなことにはならず(通常の年号の変わり目を利用した操作はあっても)記述そのものには
影響が及ばないのかもしれない。弘治は太田牛一の私年号だから、独特のものが入っていると
みてよいものです。
(340)東山A
「菅原」が出てくる索引があり、東村−東山と続いています。
索引
日吉孫一郎(「丹波」「猿楽」)/東坊城(「菅原氏」)/東村備後/東村大和/東山殿 →足利義政
/引壇六郎二郎/樋口(「堀秀村の「老臣」)
における「備後」は織田信秀で「織田」が入りこんでいる索引といえますが、「東村大和」の正体がわから
ない、というよりも説明がしにくくて、この辺りでウロツイてるわけですが、太田牛一が
大和境春日山(脚注=「奈良県山辺郡山添(やまぞえ)村春日あたりの山であろうか。」)
を出したので、これは藤原の「春日明神」とむすびつくから、注目のものです。脚注の「山辺郡」とか「山
添村」に、「東村大和」が出てきそうな
山辺郡東里村
がありました。これが宇陀郡と合併して消えましたが、上の「山辺郡山添(やまぞえ)村」に似ている
添上郡東山村
があったようです。「新泉町」に大和神社があってここの東山大和に懸かってそうです。
「岩室長門守」(「近江(滋賀県)岩室氏の一族か。」)があり、(長門=長間)は既述ですが、これは
近江に、視座を移そうとするものがありそうです、先ほど「会津の屋形もりたか」から「三浦郡蘆名村」が出て
三浦右近/・・/三浦義就/帝(みかど)(御門)/三上恒安(「野洲郡三上郷」)/三木五郎大夫/
三木嗣頼(「飛騨高山城主」)(飛騨守は「蒲生(山口)(高山)飛弾守」がある)
となると「近江」の「三上氏」に行き、「飛騨」に飛びます。近江に
「三上山」〈信長公記〉(脚注=「滋賀県野洲郡野洲町・・・・俵藤太秀郷の故事で名高い。・・」
がありこれは、安土城
「岡部又右衛門・・・木村二郎左衛門・・・・高山比良の嶽・比叡の大嵩(ダケ)・如意がたけ(「大文字山」)
・・・富士と喩(タトヘ)し三上山、東は観音寺山、・・・」〈信長公記〉
で三上山は近江富士といって、俵藤太秀郷の伝承があるので有名ですが、ネットで三上山を引いても
「鏡山」
がでてきません。鏡山を知っていれば、鏡山で出せば三上山がセットのような形ででてきます。〈万葉集〉
の「鏡山」の歌、四一七〜四一九
河内王を豊前国(とよくにのみちのくち)鏡山に葬る時、手持女王の作る歌三首
四一七 大王の親魂あへや 豊国の鏡山を 宮と定むる
四一八 豊国の鏡山の岩戸立て 隠りにけらし 待てど来まさず
四一九 岩戸破る手力もがも 手弱き女にしあれば術の知らなく
をみてるから、これは近江のことではないかと思っていたので「鏡山」を検索して出てきたということで
す。ネット記事「171208htm」だけが鏡山のことを書いてくれててこれをみると
○源義経が前髪を落として元服した時に使われた池がある
○垂仁天皇の時代に新羅の皇子の天日槍が、この地を去るときに宝物の鏡をこの山に埋めた。
というのが書いてあります。これは四二〇以下に影響を与え
前書 石田王の卒(みまか)りし時、丹生王の作る歌一首
四二〇長歌
・・・泊瀬の山・・逆言・・狂言・・天地・・天雲・・天地・・石占・・斎(いはひ)べ(「公+瓦」)・
・・・竹玉(たかだま)・・木綿(ゆふ)だすき・・天・・左佐羅の小野・・天の川原・・高山の巌・・
反歌
四二一 ・・・逆言・・狂言・・高山の巌の上・・
四二二 石上(いそのかみ)布留の山なる杉群(すぎむら)の 思ひ過ぐべき君にあらなくに
となると、泊瀬、言霊の国、高天原、高山、石上が出てきており、山辺の道のほとりがでてきています。
四二三 石田王の卒りし時、山前王(やまくまのおほきみ)・・・作る歌一首
(長歌)
・・磐余の道・・・菖蒲草・・花橘・・玉・・かづら・・はふ葛・・田葛の根・・万世・・
(反歌)
四二四 ・・・こもりく(隠国)の泊瀬・・・・・
四二五 川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君があるくに似る人も会へや(会えないことだ)
紀皇女薨・・・山前王(やまくまのおほきみ)・・・作る・・」〈万葉集〉
があり「磐余(いはれ)」「長谷」が出てきています。ほんなら「石田王」は誰か知りたいと思うのは普通ですが
そんなもんわかるかい、というのでしょう。テキスト〈万葉集〉索引では
石田王(いはたのおほきみ「@系譜、A閲歴、不明。出所は四二〇題、四二三題・四二五左」
磐姫皇后(@閲歴 葛城曾都比古の子。仁徳天皇の皇后。履中、反正、允恭天皇の母。A
(以下詳しく出ているが省略)
と、並びになっています。「履中」以下は倭の五王といわれてるから重要な位置に磐姫皇后がいます。
前書の「河内王」というのは常識的には「河内の王」、皇后と並んでいるので仁徳ととれます。この一連の
歌群ははその由来と、地名(場所)をあらわしたものあの大きな陵墓のことを書いてると後世の史家が入れ
たものととれます。それを当代の歴史の語りに使うわけで当代の大物政治家、仁徳ある人物が出てくると
いうことがありえます。同じテキストの索引で
富士 ・・・・▲庵原郡蒲原町と富士市の間・・・
衾道(ふすまぢ) 未詳。奈良県天理市中山町あたりか。一説に枕詞。
●豊前(ぶぜん) → 豊前(とよくにのみちのくち)
二上山 奈良県北葛城郡当麻町と大阪府南河内郡太子町との間 ・・」
があり、●の位置が極めて重要といえます。豊前・豊後の「豊前」は「とよくに」の「と」行に出ていて、これは
「ふ行」の「豊前」で、これは磐余(いはれ)、泊瀬、河内の「豊前」です。桜井氏は四一七〜四一九の歌の
「鏡山」ははっきり近江と書いており、三上山と対で出てこないとおかしいようです。
「補注21 鏡の山 (補注の番号は順番になっていない。これは山科の「鏡ノ山」の注。417〜419
あたりの補注なら補注31くらいになる)
今山科陵のあたりに鑑ノ山という名の山は伝わらない。御陵一帯を呼んだものであろう。鏡山の名と
陵墓とは深い関係があり(3巻417〜9)、鏡を副葬した事実によると同時に、太陽信仰に由来する
ものである。特に日神信仰の霊山とみられる近江の鏡山の神を祭る鏡王の娘として額田王は生まれて
いるらしく近江の日神に仕える処女(おとめ)が近江の日の御子に奉仕し、その御陵に奉仕して
“鏡の山”と歌うことは十分に考えられることである。
天智天皇の崩御後半年余りで壬申の乱がおこりそのために・・・御陵奉仕から退散することになった
ものか、この長歌には深い寂寥感が表れている。」
となています。417〜9は長歌ではなく、うしろの長歌も含んだものに話が移行しています。417〜9は
どうやら額田王か鏡皇女の作のような感じですが、近江の鏡山が消えたのは、「豊国」が「豊前」と一緒くた
にされたからで、これを通説にしとけ、というのにやられたといえます。
再掲。〈万葉集〉
の「鏡山」の歌、四一七〜四一九
「 河内王を●@豊前国鏡山(とよくにのみちのくちかがみのやま)に葬る時、手持女王の作る歌三首
四一七 大王の親魂あへや ▲豊国(とよくに)の鏡山(かがみのやま)を 宮と定むる
四一八 ▼豊国の鏡山の岩戸立て 隠りにけらし 待てど来まさず
四一九 岩戸破る手力もがも 手弱き女にしあれば術の知らなく」
において
地名索引では▲▼を九州の「豊前・豊後の総称」とされていて、417題の●@も「豊前」の項目に入って
いて場所も同じで「福岡県東部と大分県北西部の地」となっています。417〜419の歌は古歌
として残ってたもので、●@の前書をつけたのが今ある〈万葉集〉の編者で、このあとに続く河内王
の長い歌物語の序いなってるものです。▲▼はこの場合「鏡山」があるから近江で●@鏡山は
独立してない鏡山で山辺の地を指してるといえそうです。 索引では
万葉地名索引 蘆前(いほさき)/庵原(いほはら)
があり、また
▲から、二九六の「庵原(いほはら)の清見の崎」がでますが二九八に「蘆前(いほさき)の隅田河原」(すみだ
がはら」に気がつきます。●のルビ「豊前」(ぶぜん)と決め付けているのはおかしくて
「とよさき」
がありえます。
山前王も「やまくま」だから「くま」という読みもあり「山隈」という字になりそうです。人名注では
「山前王(やまくまのおほきみ)」は「(山前は一説にヤマサキ)・・・・」となっています。
三一〇では平城京の
「豊前国」(とよくにのみちのくち)」と「豊国(とよくに)の鏡山」
がでます。この三一〇の前、三〇七〜三〇九が太田牛一の岩室長門に影響を与えた〈万葉〉の部分
といえます。すなわち
「・・・三穂の石室(いはや)・・・三〇七・・★久米の若子・・三穂の石室(訳は岩屋))・・三〇八・・
・・常磐なる石室(石屋)・・三〇九 石(いは)室(や)戸(と)(岩屋の戸)に立てる松の木・・・」〈万葉集〉
で、★は脚注では「清寧・顕宗」の「顕宗」と「丹波」が出てきています。
「行く春を近江の人と惜しみける」
の「近江」を「丹波」だとけちをつけた人もいました。「松の木」は
桶狭間に出てて、桶狭間のあの場面に「岩室長門守」が颯爽と登場してきます。索引の流れは
「岩崎」「石成」「岩成」・・・「岩室長門守(人名注に「近江」がでてる)」が出てきています。背景には
当然土台としている天理市の「岩室町」「岩屋町」「柳本町」があります。太田牛一ほどの人が、あの時代
にここを歩いたのだから、一発で「けしかるらん」(尋常でなさそうだ)と感じたはずで、この現実は作品の
土台になってるはずです。索引では
飯尾豊前(考証名「飯尾顕茲(「豊前守」) (「茲」は山中鹿介弟で出てくる)
飯尾近江守父子 定宗・信宗(尚清)
飯尾毛介 (〜1582)(〈言継卿〉永禄十二年七月十五日)
飯尾近江守(考証名「飯尾定宗」「養子」「奥田(城)」「鷲津城})
となっていて「豊前」は「近江」もあり、というのが出てるかも。「顕」もあって「宗」もあるから「顕宗」も出て
きて近江に懸かると、歴史の解釈が大きく変わってきます。「毛介」が父子の子を受けるとすると
注では毛=茂に決まっているのでわかりにくい「堀尾茂助」が飯尾近江守の子というのが出てきそう
です。家を継いだといえるのかどうか。飯尾近江守は飯尾宗祇の飯尾でもあり、飯尾豊前に近く飯豊
連峰も想起されるところともなると大きい表記で太田和泉守が乗っかってもよいものです。後年堀久太郎と
堀直政に手柄を挙げた方が主になれと嗾けたのは伯父の「奥田」で、直政は奥田直政ともいわれて
いるそうです。ほんまの飯尾近江守が生きていたらそんなあほなことはいわないはずで、飯尾定宗の
生存を語るものではないと思われます。「直」は夕庵、「政」は太田和泉守で「飯尾定宗」の出自も出した
かったかも。安東大将は注では「守就」で、子は「尚就」とされています。ここに「尚」と「鷲」が出ており、
甫庵の索引では飯尾の前に安藤、後ろが伊賀伊賀守があって
飯尾近江守/(舎弟)隠岐守/飯尾隠岐守/飯尾豊前守/飯尾茂助
〈信長公記〉では
飯尾豊前(「豊前守」)/飯尾近江守父子/飯尾毛介/飯尾近江守/飯尾讃岐守(隠岐守の間違い)
/飯尾隠岐/飯尾隠岐守
となっており茂助は次男のような感じもしますが、とにかく「飯尾近江守」が桶狭間で出できたのはあの
邪馬台国近江をいってるといいたいところです。あの川中島の激闘のとき、上杉の退路で頑張ったのは
「甘粕近江守」で飯尾の近江守を引き立てたといえそうでやはり上杉謙信がここにいたようです。
「甘粕備前守」が「近江守」とされて、飯=(尾)=長 で上杉謙信が出てきてると思われます。
慈円は成務天皇のところで
「近江国志賀穴穂宮。これよりさきはみな大和国。此御時国の堺をさだめられぬ。」
と書いており、この「さき」は「前」で、「とよさき」の「さき」に懸かります。大和と近江の堺は志賀穴穂宮に
したということになるのでしょう。
慈円は次の仲哀天皇のところで「豊」を出しています。
「長門国穴戸豊浦(あなとのとようら)宮。(〈書記〉は「穴戸の豊浦(とゆら)の津」)
此御時皇后とよら(ルビ=豊浦)の宮にて如意宝珠を得たまえり。海の中より出で来たり。」
とかいており、次の神功皇后が「大和国磐余稚桜宮」だからそう飛んでないと思われるので、岩室長門
守「近江」を鑑みて「長門」は「長間」・「長戸」とみて「近江」ともしたいところです。後年
「豊浦大臣(蘇我蝦夷)の子蘇我入鹿」
の「豊浦」がでてきます。これは「滋賀県近江八幡市安土町上豊浦(下豊浦もある)」があり、奈良では
磐余街道から橿原原神宮へ行く道石川あたりに「豊浦」があり、豊国というと豊臣が邪魔をしますが、
近江市の豊国神社は祭神が神功皇后・応神天皇ということのようですから「豊国」というのは九州の豊前
に限ることはないわけです。磐姫皇后の歌
85 君が行き 日長くなりぬ 山たづね迎えか行かむ 待ちにか待たむ
があり、この「待つ」は、鏡山418の「待つ」に懸かりますが、90にこれと殆ど同じの歌があって、
90 君が行く 日長くなりぬ 山たずの迎へを行かむ 待つには待たじ
があり、 この次の91の歌がでてきます。85の磐姫の歌が91に及び、91では
「近江大津宮に天の下知らしめしし天皇の代
天命開別天皇(あめみことひらかすわけすめらみこと) ・・天智天皇といふ
天皇 鏡王女に賜ふ御歌一首
91 (省略)
鏡王女の和せ奉る御歌一首
92 (省略) 」
があり、この91の歌に懸かることになります。この天皇が当代のたたえるべき天皇に当たるということで
鏡王女を使って近江の大津宮天皇を呼び出したといえます。これ大化の改新時のクーデタの勝者という
中大兄ということが一般にいわれていますが、このとき倒した相手が蘇我蝦夷と入鹿です。もう一人いるという
ことであれば、鏡王女と歌を交した天皇であり、蘇我蝦夷「豊浦」大臣の子というのも、ありえます。鏡−豊が利
いてきます。
(341)中山
この地域、岩室、岩屋などとともに郵便番号に中山町がでています。これは〈信長公記〉の
中山慶親(「中山少将」)
中山親綱(「左頭中将」「中山中納言」) 「中山姓は洛東中山(黒谷)に基ずく。藤原北家師実流。)」
中山親綱女(「中山の上臈」)(「誠仁親王妃」)
に採用されています。「黒谷」となると今となれば「羽黒」とか「黒塚」の「黒」がでてきます。水戸中納言の
付家老、中山備前守が有名ですが、芭蕉「あさか山」のくだり
「黒塚」の「岩屋」−「二本松市大平」−「日和田」−和田平助(光圀の剣術の師匠)−和田平太胤長妻
−「かげ沼」(鏡沼=鏡石村鏡田にある)伝説−黒塚の鏡−中山=黒谷
のようなことになります。この中山は、須賀川からもきてそうで
「須賀川・・・会津根高く・・・・三春の庄・常陸・・の地をさかひて{脚注=境をする。区切る。」}
山つらなる。かげ沼(脚注=鏡沼)・・・・物影・・すか川の駅・・・」〈奥の細道〉
によってますが、一方で「山中」にも及んでいます。
「楠長庵・・・中国一円・・朱印・・・上月・・山中鹿介・・菅屋九右衛門・・中国・・」〈甫庵信長記〉
「山中鹿助・・・菅屋九右衛門、楠長庵・・中国・・中国十六箇国・・井原・・井上・・陶五郎隆房・・
・・山田山中・・天神山・・」〈甫庵信長記〉
となって須賀→菅→山中をだしてきています。中山=磐余=高天原、山中=中国=葦原中国というわけ
ではないが、芭蕉の須賀川は、菅屋九右衛門−出雲の
「須賀の地」、「須賀の宮」(テキスト〈古事記〉脚注=「島根県大原郡大東町須賀」)
を見ていたのは明らかです。が、一方で「黒塚の岩屋」「かげ沼」などを書いてるから、
「中山」⇔「山中」
もあり、この磐余の地のことも言ってるのは明らかです。そのために楠長庵(安)も出ててこれは「河内守」で
です。〈信長公記〉索引では
九条兼孝/楠木正虎(「楠木長安」「長安」)/朽木元綱(「朽木信濃守」)/宮内卿法印→松井友閑
/国枝/久能宗能(「久野三郎左衛門」)
となっており、注では
「河内守。・・・長暗(言篇)・・・式部卿法印。・・大饗長左衛門。・・・信長、秀吉の右筆。(楠木)
正平の八代の孫だという・・・・正親町天皇(から)河内守に任ぜられた〈楠文書〉。」
があり、「式部卿」のトップの位置にいます。索引、再掲
日吉孫一郎(「丹波」「猿楽」)/東坊城盛長(「東坊城氏は菅原氏。」、文中表記「坊城式部少輔」)
/東村備後/東村大和/東山殿→足利義政
があり、坊城の「式部」が出てきて「菅原」を出したのが「菅屋九」「兼(松)」といえそうで、猿の日吉は
太田和泉守で丹波の長頼との合成が「日吉」で、中村=式部少輔=坊城、がその孫でしょう。「坊」は
杉の坊、坊丸の坊で磐余の国の属性のような感じで それは
土川(ひじかわ)平左衛門
飛志越後守(「比志氏は甲斐巨摩郡比志村から興った。」)
土方次郎兵衛(「尾張海部郡の豪族。」文中「土方彦三郎」)
の「土方」が坊(土+方)になります。つまり巨摩=高麗(こま)が出ています。「志村」からは
「滋賀県神崎郡能登川町小川」
が出てきて、爆竹の一節の小川孫一郎が日吉孫一郎からでてきそうです。
(342)蒲生の日野
「日野」は日向の「日」+野洲の「野」、蒲生の地ということで索引では
日野/日比野/百済寺の鹿・小鹿/日向玄徳斎
となっていて近江にあのときの邪馬台国があったと見るとき「日野」がその一端を示すように働いている
ととれるところです。
「坊」は「土方」で「土方次郎兵衛」が本能寺で出てきて
「上京柳町」
に居てまにあわず「追腹仕り」という挿話のある人物ですが、地名索引に「柳町」がなく上京でみると
「上京むしやの小路・・・・坊跡・・」「東山より一乗寺・・・一乗寺・・上京裁売(たちうり)の町人・・」
がでてきて「東山」は脚注では「車山」もあるということで「車丹波」なども出てきます。一乗寺−宮本武蔵
=「杉谷善住坊A」でよいのでしょう、この「土方次郎兵衛」を、幕末の「土方歳三」で語ろうとする史家
が出てきたようです。「土方歳三」は
「武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市石田)」
で要は「武蔵」の「日野」で、「日野蒲生」は
「鯰江(愛東村)・・一揆・・●千草山中道筋・・二ツ玉・・鰐口・・佐々木左京太夫・・一揆・・・野洲・・」
の中で出てきて、この●は脚注では「中道筋は根平峠越えであろう。」と書いてあって、「山中」が二つの
役割を果たしています。ここは脚注では、千草への道は、西方から
「(一)滋賀県蒲生郡日野町・平子峠・甲賀郡土山町・水沢峠を越す。」
「(二)滋賀県神崎郡永源寺町甲津畑・根平峠(千種越)をへて三重県三重郡千草に入る。」
「(三)神崎郡永源寺町黄和田(きわだ)から八風(はっぷう)峠超え」
の三路がある、と書いていて、この「日」「野」「平」「根」「土山」「甲」「和田」なdも重要ですがここで、前節
終わりが「蒲生郡安土町」で後節のはじめが「江州南郡」の
「野洲川」ですから近江の話へ入ってきてて、これは一つ親魏倭王の卑弥呼(後漢の卑弥呼ではない)
のいたところ、近江というのが太田和泉守のいいたいところですから、それの伏線が敷かれたところと
とれるところです。
それはともかく、土方次郎兵衛の属性「上京柳原」はひょんなところで「日野」を出してきます。
柳原大納言〈信長公記〉(考証名「柳原淳光」 注:「・・・権大納言・・・・藤原氏北家日野流。
京都柳原町に住した。」)
があり、土方=日野がでてきます。索引では
簗田広正 (「出羽守。・・・・」、文中「簗田左衛門太郎」「別喜右近」)
簗田弥次右衛門(「織田信長に仕えた簗田四郎左衛門〈寛政重修諸家譜〉にあたるか否かは未詳。」)
柳原淳光(「柳原大納言」)
となっていて、兼松又四郎(太田和泉守) 権の柳原淳光(柳原大納言)
の二人づつが出てきてるということです。土方歳三では「北海道」函館での戦死、「蝦夷共和国」など
がすぐ出てきますが、これは 「古代」の「高麗(こま)」(比志)を語っているということになります。「比」
は「北」でもあります。奈良では御所に、「柳原町」があり、黒塚は天理市の柳本町があり
、天理市とは別に「山辺郡の山添村」があって、ここにも「岩屋」という地名がありますが「春日」「伏拝」
「波多野」「葛尾」「毛原」「菅生」もあります。「葛尾」「菅生」が芭蕉にあって越前あたりで
「菅生石天神拝。」〈曾良随行日記〉 (「菅屋長頼」の注で「石徹石神社」があった。)
があります。「菅」はこの守山への街道の菅六左衛門(秀政)が出ていました。新撰組の武蔵・日野と
いうのは戦国のここに関係付けられてるということです。すなわち
池田屋の事件がなければ土方が歴史の舞台に登場しなかったでしょうが、一方の主役は
「古高俊太郎」
で、これは、ウィキぺデイアでは
「近江国栗太郡古高村」(現滋賀県守山市)
の出身となっています。すなわち地名を姓にしているといえますが、「枡屋喜右衛門」「湯浅喜右衛門」
と違って小説的名前で、まあ言えば坂本竜馬のような感触のものです。
この県違いの「守山市」は、有名な守山崩れというのを思い起こすものです。清洲から守山までの間に
日野など上の(一)(二)(三)の路があります。〈信長公記〉を踏まえているとなると、舐めてはいけない
池田屋の物語が潜んでいるかも。
要はこの騒動で「吉田稔麿」など、長州の人材が多数失われ面子丸潰れになったわけで、長州が暴発
することが予見されていました。このあと蛤御門の変によって「久坂玄瑞」なども巻き込まれ、現体制が
崩壊し藩が機能不全になってしまい別の武断グループが取って代わることになった、つまり四国艦隊を
砲撃するなど過激な行動をやってきて藩を困らせた、強硬派が、新撰組、会津藩、薩摩藩などの力によっ
政敵を倒してクーデタに成功したということになりました。
この日野の街道は家康公が出ており(中筋など)そのやり口が幕末でも読まれていたことを証するところ
だから触れないとしょうないところです。、一揆を起こさせて政権を揺さぶって、あとで一緒に討滅する
という洗練されたテロの手管が使われいます。
池田屋事件について以前は投げ文伝説があって、6月5日、新撰組が、それで動いたというなら辻褄が
あうわけですが、最近ではそれが消えてしまっています。古高俊太郎は、土方に、凄惨な拷問を
受けて白状してしまったということですが、土方は、四国屋へ自ら大部分の隊士を率いて向かっており
一杯食わされています。一方池田屋ヘは近藤など4人ほどで、まあ行ってみよう、程度のことにしてい
ます。投げ文には、二つかいてあったので念の
ために行ったのだろうというのでこれも説明がつきます。強硬派の仕業だろうというのは内容がやや幼稚で
御所に火をつけて、中川宮を身柄を押さえて、慶喜、会津の容保を殺して、天皇を長州へ
というもので酒の席での放言といった程度のところで、これは長州藩主の採らない案です。
密告ではなく文がないと所司代は動かせないでしょう。 といってもどこに証拠があるのか、そんなことある
かい、で終わりです。どうせ山県狂介(「小助」「小輔」もある)、伊藤俊輔らの仕業
だろうといいたいのだろうが、仮にも明治の元勲だろうよ、功業の話は山とあり、見方の問題だよ、・・・・と
いわれると、もう、終わりです。しかし〈信長公記〉の力を借りてるから、
これで終わらないわけです。
木下藤吉郎は小領主の家にうまれ、となるとかなりの補正が入るし、高杉晋作は外国と交渉するとき本名
を名乗っているはずで、アーネスト
・サトウは確か、「宍戸備前」と書いてたと思いますが、宍戸というと甫庵ではフルネームででてきて
塩河(川)伯耆守/伯耆守/●宍戸安芸守隆家/篠原右京亮
●があり、これは、毛利が婿にしたから隆昌したと書かれているほどの人物です。武井・前田の色が懸かっ
た宍戸ととれますが
これだと幕末では家柄ではトップの位置にいます。子孫だというわけではないが、一族ではないと誰もいって
ません。とにかく「高杉晋作」といえば「作」の字があるように小説的な名前といえます。古高の
俊太郎
の「俊」は戦国では、春=しゅん=俊で
「明智左馬介光春・秀満)」(明智左馬介光俊・秀俊=守山の安房殿)
のペアがあり、これは織田信長、「守山」−「清洲」間の疾走の場面だから、この日野街道でも意識されてる
名前です。まして湖水渡りの秀俊だから。
明治維新のときは「俊」は誰を呼び出すか。まあ、一人だけでしょう
「古/高」は「小/小お」であり、「大田」は「おほた」だから「小/小お」は「小/小ほ(輔)」でしょう。
「池田勝三郎攻め口、・・・御馬廻の朝日孫八郎・■波多野弥三討死・・」〈信長公記〉
「丹羽五郎左衛門攻め口・・・・山田大兵衛・寺沢弥九郎・・・・」〈同上〉
が、あり、「大兵衛」は「太兵衛」と似て非なりで、先に「大」がくるはずです。多分「太田」は、特別に
「太田」(「大田」)と逆になるかも。まあそれはともかく
「俊大郎」(「俊太郎」)
のペアがでてきます。古高の「俊太郎」の「俊」も相方からきてるのがわかりました。
(349)投げ文
羽柴秀吉が明智光秀を討つたというのは特別な関係を表しますが、土方・山方間には凄惨な拷問があって
もっと直接的な関係が生じたわけで、二人が密談して結果起こったことになったというのが、犯人探しの解明の手法
としてありえます。俊太郎はこのとき殺されていないのは確実です。しかしこれはストリーとしては成り立たない
ず人を納得させられないということです。結局、山県らの
「投げ文」
が、新撰組の登場、台頭に利用されたことに
なりますが、これは使てはならない語句として、死なしてしまうのが当局の望むところだろうと読む人がいて
それを公にして、おこうということになったようです。「なげぶみ」は辞典では「投げ節」のあとで出ていて
「投げ文 ★誰とも知らせず、家の外から投げ込む手紙」〈福武国語辞典〉
となっています。★は間違いではないが、特定の人に届ける場合の手段ではないから、行為そのものが
語りを広げる、つまり絵になるものでしょう。
「あたりをみまわしながら、誰とも知らせず投げ込む行為」
も意味に入ってるはずです。〈広辞苑〉では
「なげぶし【投節】 京都島原の遊女河内が歌い始めた・・・・言いすてる・・・
「なげぶみ【投文】 ▲投げ込んだ手紙。
「なげぼう【投棒】 ▼逃走する者の後ろから、その両脚の間へ棒を投げ入れてころばすこと。
またその棒。」
となっています。▲は「なげやり」的なものでこれでは辞典になってません。すなわち▼によって補正されて
います。要は★の前段の部分がないと「投げ文」は死語になってしまいます。騒ぎを起こす、品性のない
この語を歴史の語りに使ったものがいる、こんごこれは出てこんようにしとけ、となったようです。両辞書とも
「なげぶみ」の前は「なげぶし」ですが、これは
「投げ節 江戸初期に流行した小唄の一種。
三味線に合わせて投げ捨てるような節まわしで歌った。」〈福武国語辞典〉
となっていて「唄の一種」というもの、と節回しが投げ捨てるように歌うという動作の二つがあります。〈広辞苑〉
の【投棒】は必然ではなく〈福武〉にはありません(うしろは「投げ物」になってる)。まあ【投文】を時代がかった
ものにしたのでしょう。京島原が出てきたので、祇園祭がでてくる池田屋の背景を投げ文に持ってきてる
感じです。こういう雅の雰囲気は、後年土方が山県(反政府勢力掃滅を進めた)に滅ぼされる背景をみると
き、拷問で痛めつけたという意趣を先に晴らしたということかもとみるとき、一転するものでもあります。
土方の新撰組は同類の治安部隊のなかでは最も恐れられていたことは、長州の無鉄砲な過激派に目を
つけられたことでもわかります。一方、新撰組の功名心も見破られてていたことをも語っている、この「投げ文」
というのは、すごい語句の発見(適用か)も。
手元の古い百科事典(小学館)初版六刷から、池田屋事件をひいてみると、(生け)花の
言葉でも、この事件の発端は語られているようです。「坊」は土+方のことはいってきましたが、池坊の初代
、二代目あたりの人は太田和泉守の時代の人で加賀前田と関係がありそうです。
辞典をあけると、ページ四段になっていて右ページの一番下の段左隅に「池田屋騒動」が載っており、
書ききれず続きがありそうになっています。ありそうというのはすぐには次が出てこない、
三枚(6頁)の生け花の写真と解説の載ったものが挟まっていて、そのあとに、左の
頁の右上隅に残り半分の記事が出てることになってます。それがどうした、詰まらん話ではないか、という
かもしれないが、同じ一冊に生け花の項目が別にあってそこに挟むのが常識だから、ちょっと変えよった
のはなぜだろうというだけのことで、太田牛一が変な漢字を使ったというのと同じですが、こちらのほうが
クレームが付くかもしれないから大胆だということになります。しかしそうならんように始めに挟まれた3枚の1頁目のはじめに
「いけ花は、立花・・(江戸時代の生花)・・明治以後に洋花を使った盛り花、投げ入れがおこった。」
がありまた挟まれた3枚の6頁目の上に
花器は・・・生花・盛り花・投げ入れなど生け方によって使われるによって・・・
の説明があり、ここを、こういう機会にちょっと見とこか、という人にはこの「投げ入れ」が気になるところです。
「投げ入れ」は国語辞典にあるのか、ということになりますが、生花用語だけがでています。
「なげいれ【投げ入れ】自然の形を生かし、投げ入れたように生ける、生花の技法。」〈福武国語辞典〉
となっており、これだけです。これでもよくわからないはずで〈広辞苑〉をみますと
「なげいれ【投入れ】 華道の様式・手法の一。あまり人工を加えず、自然の枝ぶりのままで挿す
もの。・・・【投入花】・・・・・・・」
「なげ・い・れる【投げ入れる】 (他下一)[文]なげい・る(下二)なげて中へいれる。投げ込む。
投入する。」
となっており、「投げ入れ」は生け花のために出てきたものです。 この[文]は四角の濃い枠で囲まれた
ものですが、「文学」の意味のようです。(下一)は何のことやらわからんけれども
「なげ ・ い ・ る」
の、「なげ」の「下一」は「・」で、これは、「なげ[文]」となります。そのあと「下二」は「い」の次だから、「・」
は「れ」を入れるいうことで「いれる」となります。これで「他」は「他動詞の」の意味だから目的物を要求
するので「文」がそれにあたるということで、
「なげ」文「なげ」いれる
となるのでしょう。
(350)百科事典の話
この百科辞典では「池田屋騒動」となっていて
1864(元治一)六月五日夜・・・・・新撰組十五・六名・・・会津(福島)桑名(三重)の両藩兵
三〇〇〇名・・・・・・諸藩の尊皇攘夷の志士二〇余名を襲撃した事件。・・・・
・・・・宮部鼎蔵らが中心・・・尊皇攘夷派の勢力回復・・・中川宮や松平容保の暗殺と長州の復活を計画
したところが、
「桝屋(ますや)」こと「古高俊太郎」(一般には「枡屋」になっている)
が新撰組に襲われて陰謀が発覚しそうになったので、宮部(鼎蔵)らは
「長州藩の桂小五郎(木戸孝允)」
とも連絡して事をおこす手はずをきめ、池田屋に集合したところを襲われ宮部・吉田稔麿ら7人
が切られて死に、捕らえられたもの25・6名に及んだ。『長州藩邸でもこれに呼応する動きがあったが』、
大勢は●「桂」に鎮撫された。・・・
となっています。会津藩などは新撰組の要請で3000の兵を出したが、薩摩の口添え、承知がないと臨戦態勢は
敷けないはずです。もう投げ入れで述べられたあとだからか隙の多い語りになっています。
○陰謀の発覚を恐れたということにしてあるが、宮部(肥後藩)・桂・吉田は穏健派で、御所放火の実行
ではなく桝屋を助けることの打ち合わせをしていた。
○手はずを決めた後で、池田屋へ行っている。打ち合わせはごく近くの長州藩藩邸ととれる。
○桂は、@早く来てかえった。Aその場にいなかった。Bその場にいたが対馬藩邸に逃れた
があるがここでC●が一つ加わったので支離滅裂になるが、表記で説明している。
桂= 桂@桂小五郎
桂A木戸孝允
となりうる。
○「桝屋」は、一般には「枡屋」となっている。古高俊太郎A=「桝屋」の存在が暗示されている。「小」高
の「小」=小五郎もあるので桂(木戸孝允)が充てられてるかも。
などがでています。疑問の第一のことは「投げ文」で氷解しましたが、桂のこと決まらないと、語りが完結し
ません。
A、早めに出てきて、いったん帰ったというのが、どこにも出てる話で、ここには出てこない、
B、長州藩邸にいて、大勢を、桂が鎮撫する話はどこにも出てこないがここには出てる
という部分が、気になるところです。鎮撫はきつい語句で重職にあったということでしょう。ただ●の前の
『 』した部分がいつのことをいってるかわからず、宮部らの尊皇攘夷派勢力回復・暗殺計画・長州藩の
復活の計画のセットになったものの撫もあるかもしれないものです。書き方が丁寧でないのは表記を
拾うということにするのでよいはずで、
「宮部」−「中川宮」(「朝彦」?)−「松平容保(かたもり)」−「桝屋(ますや」−「古高俊太郎」・・・・
とひらっておくしかないということです。第一、宮部や吉田や桂がこの二人を暗殺したところでどうなるものでも
もないことは知っています。辞典の始めの解説で「1、表記法・・・表記・・」とあり「表記」という言葉は出て
きています。「宮部」は戦国で出てきた、「保」は「もり」と読むのはおかしい、というのは、けしからん、でもよい
が、ちょっと、この辞典の内容では、項目が「池田屋騒動」と低めの自己評価がされているのも頷ける、もっと
大勢の有名人が委員になってるのに、しっかりみてない、けしからんというのもあってもよいのでは。
他藩の人が長州のことを心配してくれてるのだから、長州の立場の説明の必要があり、会場は長州
藩邸にするのは最低の礼儀といえます。
桂の行動では
A、木戸孝允が会議を招集するなどの旗振役をしていて、終了後の宴会の幹事役として池田屋へ人数、時間
など最終の連絡をして帰ったということでしょう。そんなことは誰かにさしてるはずだ、というのはありません。
何も警戒しておらず、結果的には軽率な行動だった
といえます。一杯飲む場所はここだと教えたようなものです。「四国屋」の話も出ていませんが書く必要は
ないものと見れます。。
「四国屋」は「丹虎」といったようで、戦国の「丹羽」の「虎」を連想させるものですが、「四国艦隊」にまつわる
一連の事件が背景にあるということでしょう。それをいってしまったら終わりですから述べられないということ
です。投機マネー・放射能などのように制御不能のものが出てきて眺めてる、強硬勢力もそのようなもので
薩長で結託していた(投げ文はその勢力も意識していた)ととれます。
1863・5・10 長州藩、下関で米船を砲撃、23日仏艦、26日蘭艦をも砲撃。5・12井上・伊藤ら英
留学に出発する。
7・2 薩摩藩、イギリス艦隊と交戦する
8・18 七卿落ち(尊攘派京都追放) (池田屋まで一年以上・宮部らは強硬派とはいえない)
1864 6・5 池田屋騒動 7・19 禁門の変 (この間、一ヶ月と14日))
が年表にあり、「をも」というのは関係なさそうだの意味があり、誰が見ても不必要なことまでやっている、
人命の損傷があっても、よい世がくるための最低不幸というのでしょう。交通事故の死者数は年間6千、重傷
者は、5万人だそうで、これは大変な数で、家族などの苦痛、それに近い加害の苦痛もあり、交通犯罪もか
なり出ている、年間50万人に及ぶ苦痛を生みだしている、そら経済発展とからんでしょうが
ないのだ、個人と警察の問題だ、国家は、領土問題があるのだ・・万事いつまでたってもこうなるものです。
楠木長庵(安)(「河内守})を「正虎」といいますから「政虎」は太田和泉守といえますがこれは「池田」で
この百科事典の、「池田屋騒動」の前は「池田光政」(熊沢を起用した)となっています。「池田」が重いので
池田屋@が料亭池田屋、 池田屋Aが長州藩邸
と二つ一緒に見られていたことが考えられます。土方は丹虎に待機していて、絶えず長州藩邸の様子を伺い
池田屋襲撃人数が少ないとわかったときに、長州藩邸から出動してくる、そのときに大ちゃんばらを演じて
新撰組の名を上げようとした、手に余ったときは会津藩、桑名藩の捕り手にまかせばよいのだから勝利
は確実といえます。桂はこのとき組織を守りましが、ここまで出来るのだったら、事件の発生を未然に防が
なければならないところでしょう。桂は伊藤をそばに置いて重用しており、脇が甘かったかも。
宮部・吉田稔麿の名が並記で出てきています、吉田は藩邸にいったん戻った(戻れた)が、他藩の人を
藩邸に避難させたいと申し入れたのかも。
まあ土方が古高に加えたあの常軌を逸する拷問はなかったというのが真相でしょう。
池田屋は「池田」で、「生」は「生花」の「いけ」で、「猪子兵介(高就)」は
「摂津生田(神戸市生田)に住し生田といい、のち猪子に改姓。」
となっており、猪子兵介は言外に池田兵介といいたいのかも。つまり、「池田勝正」(前稿、「八郎三郎勝正」・
筑後守)は「摂津池田城主」であり、 池田=(摂津)=生田でもあります。〈信長公記〉索引では
池田和泉/池田和泉女房/池田勝正
となってるから「太田和泉守(猪子兵介)」という関係は「太田和泉守(池田八郎勝正)」
となってきます。勝正⇔正勝だから合っていそうです。先ほどでた
「・・・池田勝三郎攻口にて、御馬廻りの▲朝日孫八郎・▼波多野弥三討死・・・」〈信長公記〉
において、▼の脚注が珍妙でなんのことやらわからないが
底本、「波多野弥三」左肩付箋「落合小左衛門」。南葵文庫本「波多野弥三」の次に「落合小左
衛門を掲げ「推す紙に書」と傍書。
があります。この意味がわからないから困っていたので池田屋と山辺郡と芭蕉(落窪)で語れると、と思ったので
いま述べているところです。▲もわからないのが頭痛の種で、索引では
浅野弥兵衛/朝比奈弥六(「未詳」)/朝日孫八郎/浅見対馬(「近江浅井氏の臣〈東浅井郡史〉
があり、「池田屋」の「宮部」は
「宮部の郷」「宮部村」「宮部善祥房(坊)」〈信長公記〉
があり、注は
「近江東浅井郡虎姫町宮部の住人。」
となっています。
池田勝三郎−池田屋−「宮部」−「東浅井」−「朝日」−「波多野弥三」(山辺郡山添村波多野も
ある)−落合小左衛門−落窪(の郷)−「落窪」=●(京太郎)⇔「京介」
となり 「落窪の郷」の周辺は 「日野」の街道、「杉谷善住坊」、「鰐口」、「千草山中道筋」を経て、
「江州南郡・・・野洲川・・・やす川・・・落窪の郷にて取合ひ一戦に及び、切崩し・・・三雲父子・
高野瀬・水原、・・七八〇討つとり、江州過半相静り」〈信長公記〉
となっており野洲に夥しい古墳などの遺跡があり、落窪がその代表として語られている、それを太田
和泉守が取り上げたというものでしょう。住所は脚注では、
滋賀県野洲郡中主町乙窪。野洲川北流の北岸。
となっています。山県で有名な名前の
「狂介」
は、その人が、一生懸命に一つの道をひたすら追っかけて、成功した、「狂」という美徳を持った人という
意味で付けられています。そのとおりで「悪太郎」という名前があっても、必ずしも普通に言う「悪」ではなく
強者を倒した、強いというほめ言葉となる場合があります。●で
京介⇔京太郎 がでましたので
京介=きょうすけ=狂介
俊介 ⇒ 俊太郎
京介 ⇒ 京太郎
と持ってきた名前が「古(小)高俊太郎」という物語の名前だということでしょう。「京介」という名前は
「金田一京助」という、アイヌ語研究、国語辞典、石川啄木で、有名な学者がおり、「京介」とすれ違った
感じですが、京介もあるそうで,ウイキペデイアでは父か祖父かであるそうです。とにかく
〈落窪物語〉(10世紀ころ、源順、源相方の作品か、〈枕の草子〉が言及している)
を博士はみてるから、京太郎もすんなり出てきて、芭蕉までいくと太田牛一の地名索引へは一直線でしょう。
落合は索引で
御次→織田秀勝/落合小八郎/おちい/越智玄番(「大和高取城主・・もと筒井氏と大和国を両分・・」)
となっており、大和、越智にいっており、これは大和の「箸尾・十市・筒井・越智」という古代の大和の四
氏族の「越智」なので天理市、山辺郡などの古王朝にまつわることが〈落窪物語〉のもとだといってるかも
しれないものです。乙窪(久保)ですから「甲」につぐというものが「乙」で、成務のとき都が近江になっている
(景行の57年に近江へ移る)ので、乙という語句を使ったかも。すなわち
崇神68−垂仁99−景行60−成務61−−仲哀・神功・武内69
今の天理の地・甲 / 近江・乙
において、都を移したことはちょうどあの親魏倭王の時期だけにきわめて重要で、明治でもそういうサイン
を出した人がいるかもしれないから、しらべてみようということですが、自然に目に入ってくるものがあるので
書いとこ、というものでもあります。池田屋騒動1年前の「七卿落ち」という優雅なことばも、この「落ち」=乙
かも。池田屋は「京都三条小橋の旅館池田屋」でここでも「小」が出ますが、「三条実美」の「三条」というの
もでてます。「姉小路公知」と親しく孝明天皇の大和行幸を企てた人物(ウィキ)です。乙ほ、京都府大山崎
の「乙訓(おとくに)郡」の「乙」ですが、年表、継体天皇12年(518年)のところで
「弟国(京都府乙訓郡)に都を遷す」〈紀〉
があり、弟=(おと)=乙 でもあります。景行40(43)年に
「弟(おと)橘媛」
が、崇高な想いのもと海上から姿を消しており、この「乙」は想起されねばならないところでしょう。金印や刀・
鏡100枚賜ったという239年の記事にヒットする記事です。まあはじめやってた仮計算をだしてみると
○崇神〜景行68+99+60=227だから、239は成務天皇のときで近江といえる、
○乙橘媛は景行40年のときとなってるのには合わないが。〈書紀〉脚注では、景行の近江での死は106歳
というのは、おかしい143ではないかと書いてあり、慈円は106と133歳も書いており、133でやると
景行43年を、27延ばすと景行70年の計算となる。68+99+70=237となり239に近づく。
脚注では景行紀と成務紀では成務の年齢が5つ違っていると書いてあり、5の差は気づかれている
ということで、金印は近江宮に来てることになりそうです。「乙=落」が太田牛一が
「落合小左衛門」←波多野弥三
を出した狙いでもあります。明治の学者はこれをみて太田和泉守の狙いを見て取り、池田屋の語りに使った
と取れます。すなわち、六人衆鑓三本の一人
落合小左衛門=(小左衛門)=●城戸(きど)小左衛門(「尾張愛知郡古井村の名族。」)
の●を出してきたことが見破られています。これはいまは引き当て不能ですが、それはおかまいなく
城戸=(きど)=木戸⇒
木戸孝允(これは「允恭」の「允」、徳川大将「松平玄番允」〈両書〉がある。)
を引き出したといえそうです。
(351)落合
池田勝三郎−朝日孫八郎−波多野弥三(脚注=落合小左衛門)−落久保 「京太郎(京介)」
で、池田や−木戸(もう一人の小高俊太郎)とやったのかも。つまり太田牛一も●に対するヒントをどこかで
ださねばならない、明治の学者も、みな●は誰やと思って悩んでいる、「太田又介」の横にいるので、太田
又介は太田和泉守とされているのでその子とみると堀久太郎もありうる、とかになります。索引で
波多野秀治/波多野弥三/蜂須賀正勝
があり、「秀治」がでてきます。堀秀治@=堀久太郎@が考えられますが、太田又介は
海老名勝正(「源八郎」、文中表記「えびな」)−−−蜂須賀の勝正がありうる
は既述ですが、そうなると堀秀政Aの「秀治ヒデハル」もありえます。爆竹の一節の「堀久太郎」とすると
清水又十郎の一節の
「戸田宗二郎」〈信長公記〉(注なし)
かもしれないから渡海の人かもしれないわけです。前田又左衛門の名の下に戦国一の豪の者として
認められてる又介に比肩する人物という●は、「名人久太郎」「堀久太郎秀治」が宛てられて妥当なところ
です。天正18年、38歳(36といいたいかも)でなくなって大変惜しまれていますが太田和泉守にとって孫で
ではないかというのがいいたいところで、何とも言いようのないところにきてしまいました。
天正18年は遣使船が8年間の渡航から帰ってきた年というのが気になります。1・2年違っていても天正
18年としてして関連を示すということもあるかも。戸田の「宗」は宗家の「宗」で「二郎」は「次郎」ではなく
戸田半右衛門/戸田武蔵守/戸田与次郎 (甫庵)索引
があり「武蔵守」は「半」・「次郎」両方ありそうですがですが、森武蔵守長可があり、戸田に森・堀が何となく
出てきますが、「富田」も「木(戸)田」もでてくることになりそうです。「貴田孫兵衛」=「毛屋村六助(相撲)」は
「国中真中の富貴(ふつき)の地」〈信長公記〉
の「富貴」から出てきてそうですが、ここは、前節終わり「岩室長門、かうかめ・・」のあと
「・・富貴・・山中高山二の宮(脚注=「犬山市内の二之宮」)・・此山中・・小牧山(脚注=「小牧市。
・・西部・・東部・・小牧山・・・小牧山・・・小牧市の東にあって標高八十六米の円形に近い山。★古十津
用水・・・城祉・・国史跡・・」)・・・小真木山(脚注=「小牧山」)・・・御要害ひたひたと出来候(脚注
=「滞りなく、ずんずんの意であろう。」)・・小真木山・・・犬山(脚注=「犬山市」)・・・」〈信長公記〉
があります。「二の宮」=「二之宮」だけみても二つのことがある、と感ずるところです。山だらけ、牧だらけ
でそれには脚注が大活躍をしています。崇神紀のキーワードに「農業」・「池・溝」・「船」などありますが
「御間城(みまき)入」
があります。・・・・「ごまき」・・・「ご」=「こ」×2 @こまき・・・小牧(
Aこまき・・・・小真木
となり「巻向」「纏向」の地がでてきます。「城戸」というのは、この地の城門の戸というのも、出ていそうです。
芭蕉の「伊達の大木戸」に通ずるものですが、麻生脚注では
「国見町字大木戸。これより北が伊達領となる。」
となっています。国境の木戸という感じがでています。この国見は
「国中・・・一宮・・一宮の上に国見山とて高山あり。・・・国中・・・馳・・堀久太郎・・・御崇敬・・
筒井順慶・・奥郡小波多・・・御要害・・伊賀国一宮・・安土・・長光寺御鷹・・伊賀国中・・伴天
連・・鳥打(安土城下の地名脚注三二〇頁
三二〇では
「菅屋九右衛門・堀久太郎・・・安土御構・・伴天連御屋敷(会堂と住院・・・耶蘇会)・・・
・・蒲生・・布施藤九郎・・鳥打安土城下の地名の下江・・西北海の口・・舟入・・江堀・・」
〈信長公記〉
となっており、★がよくわからないが大和南部、あの十津川の古十津でもよく、太田牛一は(省いたところ)
「小真木山へはふもとまで川つづきにて」
と書いており、十津(川)用水と名づけられていたとも考えられます。
近江の岩室から渡海まで堀久太郎で通してきていますが、湯浅常山には
「▲堀秀政(ほりひでまさ)名人(めいじん)太郎といひし事
▼堀(ほり)久太郎秀政(ひでまさ)後(のち)左衛門督(のかみ)といふ。・・・下部・・・上に下の・・・
下に・・・・世に▼▼名人(めいじん)太郎といひけるはかく下をつかふに心を用ひられし故にこそ、と
●人いひあへり。小田原陣中に卒せらる。年(とし)三十八なりとかや。」〈常山奇談〉
があり、▲の題の「堀秀政」と、本文の
▼の「堀秀政」(「久太郎/左衛門」)
は違うのでしょう。したがって「名人太郎」も違うはずで、▼▼は「下(「太郎」と思われる)を使うに心を
用いている」といっており、「名人」の「人」は人(ひと)であり、これは●でわかる。したがって▼▼の方は
人名の「太郎」といえます。▲のは「名人という方の太郎」ということになりそうです。
▲の太郎は意味が特別待遇で消滅、▲▲の「太郎」は本来の意味を踏まえたものとして用いられるという
ことになりそうです。小田原で天正18年亡くなった堀秀政は、いまとなれば、太田和泉守にとって、子か
孫とすると、深甚な打撃があったことになり、天正10年、本能寺で乱丸・坊丸・力丸を失った母公同様
生きてくことも覚束ない事態がおこってしまいました。前者は、いま伝えられてる本能寺はなかったといって
きてるので、生存をのべられるところでしたが、この64歳のときの、38歳の人は、どうみても孫年齢にあた
り不測のことではありますが、戦死ではないことだけは確実で、あり得ることではあります。
「落窪の郷」
のあと、すぐ次節のはじめ「たけくらべ・・・堀・樋口・・・たけくらべ・・・」〈信長公記〉
が出てきて「落ち」を堀がうけてる感じになっています。索引で
落合小八郎(注=「小姓」)/おちい/越智玄番/越智小十郎/お千代/小野木/
があり、「おちい」が、わからないのは誰も同じでしょうが、落合がわからないから、というわけでもないの
でしょう。トータルから戻ってこないとわからないこととしても、この辺もなるほどそうかも、という積み上げて
貢献してないと、全体のことも出てきません。ここは著者が亡き堀坊を幼名で呼びかけたものといえるのかも。
本文では
「 ・・・・にしへこそ行け
おちい、たしつぼね京殿、」
世の中のうきまよひをばかき捨てて・・・・・」
としてでています。「京」がここでもでてきます。ひょっとして「千代」があって「世」があるから
「万見仙千世」「万見仙千代」
といいたいものがあるかも。
池田屋のところで触発されたという情けないところもあるにしても
池田−波多野弥三−落合小左衛門−城戸−落窪−たけくらべ−堀
でも「堀」が出てきました。堀坊の名を避けたいところもあるのか、「丈比らべ」は幼名で呼びかけたといえる
のでは。「たけくらべ(長比)」から「背くらべ」を想い出しているのではないか、心が弱ってきてる、第一「背」
は「たけ」とは読むまい」というかもしれないが、自然とそう読むようになってしまっています。
背くらべ 中山晋平 海野厚作詞
柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりや 何(なん)のこと
やっと羽織の紐のたけ
があって「たけ」は「背の(たけ)」といっており普通はこれがなければ「背」も「せい」と読めないところ
で、そう読まないと「たけ」−「せい」と二つ二つにならないところです。この詩は誰にも意味がわから
ないところがあり、きのうからおととしに飛んでいて、まあ二つのことが含まれてるとみれるところです。
中山も聞かなかったのでしょう。芭蕉に、「端午の節句」の句
粽(ちまき)結(ゆ )ふ片手にはさむ額髪(ひたひがみ)〈猿蓑〉〈泊船集〉
があり、去来は「粽巻く片手にはさむむかふがみ」と書いており、「これは記憶ちがいであろう。」〈芭蕉全句〉
となっています。
こうなると
「越智玄番」〈信長公記〉 (「大和高取城(奈良県高市郡高取町)主。もと筒井氏と大和国を
両分した豪族(水島福太郎氏〈宗及他会記〉」)
も、堀の若造「左衛門督」「名人左衛門」となりえます。
越智小八郎(「小姓」)/おちい/越智玄蕃
とあるから「小姓」が出てるので「乱丸」として一発できまりだったかも。
いまとなれば、大和も語りの主眼というのもわかったから、これは「高取城々主」でもあるから、
越智玄番Aは筒井順慶も考えられ、島左近がそこにいたというのも頷けることになります。「高市郡」も重要
で「宗」もどこかにあったような。
(352)落窪の郷
「京」がまた出てきて、ここで「高」が出てきて、京から大和に飛びたいと「金田一京介」を「金田一耕助」
にした人が横溝正史という作家ですが
「耕(こう)」−「池」−歴史の里−大和−高取−高市−高田−古高・・・・・
と行きそうです。一方
「・・野洲川・・・落窪の郷・・・▲三雲父子・・・たけくらべ(脚注=山東町長久寺)・・・堀・樋口・・・
堀・樋口・・・たけくらべ・・・たけくらべ・・・」〈信長公記〉
があり、索引では
三浦3件「右近」「雅楽助」「左馬助」(「義就」) (相模湾−三浦半島−横須賀−浦賀水道)?
帝→正親町天皇
三上恒安 (「三上氏は近江野洲三上郷(野洲町)の土豪・・・六角氏・・文中「三上」)
三木五郎大夫(「安房(徳島県)・・・名族。
本文では「十河左馬允/三木五郎大夫/藤岡五郎兵衛/東村大和/東村備後、」
三木嗣頼 飛騨高山城主。・・国司家の姉小路氏・・文中「飛騨国司(−姉小路中納言卿)」
▼三雲父子 対馬守定持、新左衛門成持父子〈永田文書〉。近江甲賀武士の内。
溝口秀勝 ・・・子孫は越後新発田藩主・・。・・若狭・・・文中「溝口金右衛門」「溝口竹」
となっていて、「帝」がはめ込まれているのは前に脚注の「御門(みかど)」が出てるから、「みかど」の
「み」として、出されています。「三上」は近江の鏡山−三上山の「三上」で、「みかど」が近江にいたこと
は景行・成務記ではっきりしています。「恒」は「池田恒興」「恒河久蔵」の「恒」で「恒河」は野洲(安)川
をみるのか、そらないに決まってるにしても、池田勝三郎「父子」は三雲
父子に懸かるかも。近江の「甲賀」(こうが)の池田が出てきて
池田秀雄(〈橋本・・文書〉。孫次郎。近江甲賀郡池田(滋賀県甲西町)・・。蒲生郡浅小井町(近江
八幡市浅小井町)に城址・・・。文中「池田孫次郎」)
があって、これは爆竹の「池田孫次郎」です。池田ばっかり、よう出てくると思った横溝は、
▼が、「溝」(「溝金」)の横にある、▲から「落窪京太郎」−「京介」
へいってしまったので、金田一耕介を使用したの
でしょう。髪がぼさぼさで、先輩、江戸川乱歩の明智小五郎と好一対ですが、これを意識してたので金田一耕
介がうまれたともいえます。明智小五郎となると、これはもとから明智光秀と桂小五郎の組合せ
ではないかと思っていましたが、ウイキペデイアでも明智光秀と桂小五郎(のち木戸孝行)と書いてあり
ます。「小五郎」は〈信長記〉で見当たらず
「越智小十郎」〈信長公記〉 (甫庵では「副田小十郎」がある)
の「小十郎」の「五郎」「小五郎」「城戸小左衛門」の「小」が「桂小五郎」@Aを考え出したとも取れます。
「明智小五郎」となると明智で〈信長記〉を踏まえたことはわかるので、桂小五郎−木戸で池田屋を語る
ものというのがわかっているから、キャラクターを似せたとも考えられます。「江戸川乱歩」はエドガアラン
ポーということですがこれはそれもあるかもしれませんが、「乱」はどう見ても、蘭麝待の「蘭」すなわち
堀久太郎関連の「乱丸」の乱でしょう。本文では
「森乱・森力・森坊兄弟三人・・」〈信長公記〉
となっているが、人名索引では、★「森小介」のあと
「森長定」(「森乱」)、「森長隆」(「森可成三男。坊丸。」「森坊」)、「森長氏」(「可成四男。力丸。」「森力」)
となっていて順番が違てるわけで、「坊」と「力」の二人は固定的にみるのはよくないかも。このうち、注は
「森長定」が多くて
「(〜一五八二) 森成利(〈金剛寺文書〉)。可成二男、蘭丸(「森家先代実録」) 文中「森乱」)」
となっていて、
○「先代」があるから、父子を念頭におくのか、
○可成と森可成とがある ○信長公記の「長」−森の長−長比の長−堀をみてるか
○長定の「定」は▼の「定持」・「成持」をみてるか ○「成利」は池田家の挿話で出てくるのでおかしい
○長隆の隆は戸田勝隆があったがどうか ○長氏の氏は同朋の氏直なら落窪戦の崩しも生きてくる
○生年がないのは、まずは年齢を考慮せずにやってはどうか、ということかも。
○嫡男がないのは、森可隆(森伝兵衛)が(19歳)で元亀元年戦死という伝(既述)の筋を通して
いるかも。元亀元年、近江「森三左衛門・織田九郎・・」の討死を「織田九郎」の説明では、文中
表記「九郎」としていたので、目立ち、ここで、痕跡をだしていたと取れる。注同志の一貫性があって
この可隆(ヨシタカ)は生存。ここから★@を堀久太郎として嫡男として入れることとなる。
○「小介」の「小」は「小橋」、「小高」、「小八郎」、「小左衛門」、「小五郎」の「小」でもある
○「金剛・葛城」の「金剛」、「金剛の「金」もあり、「成」がたくさん出てる。
ことなどありますが、ここでははじめの、「坊」と「力」の「力」が後藤又兵衛のことを指し得るということが
いいたいところのことで
「江戸力助」〈信長公記〉
があります。「江戸川乱歩」という場合、この「江戸川」は、江=(ごう)=郷 で「落窪の郷」「蒲生郷舎」
の郷=江 で 乱歩によって「郷戸川」が認識されることになりました。これは誰でもわかることで
「名郷源太」〈信長公記〉 注:「〈乾徳山恵林寺雑本〉には名江源太。」
があり、この「名」は名人太郎の「名」と、名(な)という意味では似ていそうですが「江=郷」です。
ここは、藤堂高虎など戦国の東軍の大名が集まったところで後藤又兵衛の一言で皆が動いたという舞台、m食べえ
で後藤又兵衛の属性といってもよいのでしょう。郷戸川の一節で湯浅常山が後藤又兵衛@が、太田和泉
守というのをいってると思いますが、洪水が出た一節は一部出しています。これが「乱」(「蘭」)に行ってるとみるのが自然です。
つまり明智小五郎を打ち出したのだから、「乱」は決まりです。「歩」は甫庵の「甫」もありますが「歩」は
「金」に大出世します。「成金」ですが「金太郎」の「金」とともに「金印」の「金」はあるのかが問題です。
「金成」は〈奥の細道〉「あねはの松」(脚注=「宮城県栗原郡金成(かんなり)町姉歯」で出ており、この
まわり、金壁、こがね、金花、金鶏、すなわち平和泉の金が出ています。
江戸川乱歩は明治維新の不可解な事件について語ってる、と横溝がいってるということですが、これが
日本史の古代の部分にも、戦国時代にも行き当たってる、というのが野洲の「落窪」でしょう。「窪」は
「大窪半介(当時の人は「はんかい」と読んで武勇を称えた)」〈甫庵太閤記〉
があり、わけがわからないが大久保彦左衛門の元気が出そうな索引
大炊御門経頼 (「権中納言」「大炊御門(おおいのみかど)氏は藤原北家師実流・・文中「大炊御門中納言」)
正親町季秀 (「権中納言。正親町(おおぎまち)氏は藤原氏北家閑院流」・・・「正親町中納言」)
正親町天皇(文中「禁裏様」「天帝」「天子」/大久保忠世(「大久保七郎右衛門」)
があり、これが先ほどの▲▼の溝口までのところに雪崩れ込むと、どうも、英語では無理の、積極的な
「一字の利き」「一字の効用」
が証されている(公式として出てきた)部分ともいえそうなところです。多くの人が活用したのだったらそう
といえると思われるものです。
歴史を隠し通してきた明治政権にたいし知識人が、そうはいかん、知ってるものが大勢いるという一矢
をむくい続けてきたわけですが、こういえるのは叙述手法が駆使されているから明らかになってきます。
みなで、太田和泉守によるのがよい(よるしかない)ということを知ってたということです。山縣や伊藤が
やり玉に上がりますがそれは明治22憲法制定に至る時代をリードしてきたからしょうがないことです。
「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。」「天皇は神聖にして侵すべからず。」「天皇は陸海軍
を統帥す。」・・・・の明治憲法の成立前後は、
明治18・19・20年が 伊藤内閣(18年内閣制度設置初代伊藤)
明治21年が 伊藤→黒田内閣、 枢密院発足(議長伊藤)
明治22年(1889)が 黒田→山県内閣 黒田清隆・伊藤博文「元勲優遇」の詔書
明治23年 山県内閣 山県有朋 同上 (24年)
となってて、こうなると黒田清隆は何で出てきた、といわれそうです。
西郷が明治10年戦没のとき山県は陸軍卿、
明治11年、内務卿大久保暗殺のあと、伊藤が内務卿、
明治16年山県が内務卿、明治18年12月内閣制度、伊藤内閣発足
で以後山県は明治33年、伊藤は明治34が総理大臣の終わりという長い間、政権の中枢にいて政治を
壟断してきました。この憲法では。細部実施の段階に来ると必然的に民権抑圧策へいくようですが、
知識人にはこの時代、この憲法を作った二人の時代の見識を問うというものもあったと思われます。アメリカ
憲法はもう100年前に制定されています。伊藤はちゃんと君権の制限について言及してる、とかいう
ことがいわれますが、主権在民でないことを初めから前提としているから、民主的考えをちらつかせているに
すぎないものです。黒田清隆まで叩かれています。北海道開拓に伴う官有物安価払い下げという汚職
と、酒癖が悪く酔っ払って妻女を殴り殺したという疑惑という公私両方の難儀にみまわれています。
もう21年に枢密院ができているから着々と歴史の問題も考えられてたかも。元勲を
当世の評価で決めていて、黒田清隆がそれに入るということは、元勲評価を憲法に限った、尊大でない
と言う印象を与えるものですが、一字の効きの観点から言えば「西郷隆盛」の「隆」が入ってることではな
いかと取れます。坂本竜馬で有名な薩長同盟のあの会合の現場に清隆がいたそうで、西郷の身内であれば、
西郷A・伊藤・山県となるのかも。黒田清輝は紛らわしいが名前を
変えずに押し通しています。
(353)「しらら落窪京太郎」
いま池田屋の説明で引用した大日本百科事典の顧問10人に名を連ねているのが「金田一京助」で
知ってる人は坂本太郎・久松潜一・宮沢俊義・武者小路実篤・湯川秀樹の諸氏で、編集委員が40人
で文を書いた人が別にいます。ここでも太田牛一という項目はありませんが、「信長記」(しんちょうき)が
あって「太田牛一」・「牛一」「小瀬甫庵」がでています。太田牛一を除く太田群のあとは「大津」が出ており、まあ
「大津」は「おおつ」ですが太田牛一では
「大坂」(ルビ=おさか)〈信長公記〉
で「大津」は「小津(おつ)」もあり「乙」、「乙津」でもあり、「落つ」にもいきます。百科事典ではそのあと
大津絵がでており、これは大津の「追分」で売り出されたので「追分絵」というようですが、
「大津絵の創始者を岩佐又兵衛とする俗説は、・・大津の又平の名が伝承された結果との混同」
のようなことが書か
てて戦国の「又」や「岩」が出てきたから、ありがたいともいえます。このあとが近江、遊里で歌われはじめ
たという「大津絵節」が出ており、これは幕末によく流行ったそうで、島原遊里の河内の投節と通じて
そうです。芭蕉に
大津絵の筆の始めは何仏(なにぼとけ) 〈勧進牒〉
があり、曲水の
「金平(きんぴら)も分別やすむ朝かな」
という金平浄瑠璃を詠んだ句も、歳旦吟を踏まえているようで、二つは関係があります。
これで「金」という字が出てきたことには違いないが、大津、膳所に金印があることにはならないのでしょう。
「坂田金時」の息子が「坂田金(公)平」で「分別」、「大津絵」がでてくると、始発が太田牛一のここ
大津−乙−落
だというとそら飛びすぎるということになるでしょう。「金」に「金@(かね)」・「金A(輝く金)」と「金B」
があり「時は金なり」は「金@」もあるが「金B」もありえるかも。歴史の
宝の金Aの在り処を追っかけることは、一銭の徳にもならないが、夢中になれるものなので関心
を呼ぶのには好材料と踏んでいるはずです。あの魏の皇帝から贈られた金印は
これが見つかれば、所在地もわかる、卑弥呼の正体もあるいは・・・というほどのもので、関心が高いはず
なのにわからん、となるとしゃないで済んでる、それならそれでよいが、わかってて発表してないとおこる
はずだ、というものが考えに入ってることはありえます。太田牛一の目だけは掠めて通れないはずで、
行方不明ならどこでそうなったかわかるはず、それならば書いとかないかんと思ったと取れます。
一般に文献の解釈などは、意見がまちまちでまとまらない
ということでは、いずれわかれば、それでよいことだとなるでしょうから寛容であるにしても、宝物は、
関心をよぶから、見つかっておれば、出さないと揉めますよということがある、また宝物(遺跡なども
含む)しか信用されないこともしってるから、次元は低いかもしれないが金印などの宝のことを一生懸命に
書いてる、他のことならやばいというなら、〈信長公記〉をその観点からだけでも読んでみたらどうか、
まあ、今の日本では公事なのに隠されてても、そうする事情があったんだろうとなってしまうから
せめて宝からでも追っかけて怒れないか。
追分は近江には草津追分と山科(髭茶屋)追分があるようですが、追分は分岐点を意味するようで
分は、「分れ」「別れ」「岐れ」などがある「分」で、人の動作では「追いかけ」があるので「追分」となる
ようです。ここではまた、「落合い」、「出会」があって 「落合」は「追分」と一組となってるので、太田
牛一は、近江で落窪をだすにあたり
「大津伝十郎(長治とされる)(「高槻」で死)」「越智小十郎」〈信長公記〉
を作ったといえそうです。それを芭蕉がうけたであろうというのが古い百科事典でもわかるということです。
(353)しらら
一般に「京太郎」は芭蕉の
梅が香やしらら落窪(おちくぼ)京太郎 〈亡梅〉〈鯰橋〉
があり、これが、もと かもといってきましたが「大津絵」「大津絵節」にも「鯰江」の「鯰」が出てきて
〈魏志倭人伝〉にも「魚+是」の「鯰」がでます。この「しらら」が何かわかららないから問題で解説では
「しらら」は名前だけが伝わる散逸(さんいつ)物語」(「逸」は「イ+失」)
となっています。これは普通に漢字を宛てても「白羅」がでるところで、「新羅」を意識した「白羅」という
ものととれます。〈広辞苑〉では「新羅」は
白木(しらき)/新羅(しらぎ)/白菊(しらぎく)/白几帳面(しらきちょうめん)
となっており、「新」を「しん」、「羅」は「ら」で、ルビをつけると「しん/ら□」で、空き□には「ん」が入り
「ん」は読む場合もあり、読まない場合もある、読まない、読む、の組あわせで、
「し□らら」→「しらら」 「し□らん」→「し ら□」→「し らき」「しらきき」→「しらぎ」
という理屈でも「しらら」=「新羅」となるのではないかと思われます。そーらおかしいというのはやまやま
なれど、「白木」の前が珍妙なことになってるのでしょうがないものです。つまり
しらかば【白樺】/・・・/しらかみ【白髪】/・・・/しらかわ【白河】・・・/しらかわらげ【白川原毛】/
■しらかんば【白樺】「シラカバの異称」/白木(しらき)/新羅(しらぎ)
という■が入ってるので、前の「しらかば」は「しらか ば」になるかもということです。百科事典を先に見たの
たので気になったもので先の百科事典でも「新羅」が出ていて
◆シラカバ/白樺/・6項目・・・/白河藩/★白河楽翁→松平定信/シーラカンス/シラカンバ「ふつう
シラカバといい・・区別できる。→カバノキ」/新羅(しらぎ)/白菊会
となっていて◆には解説がなにもなく項目にしては字が小さく白河楽翁のところの「→」と同じく
「◆→カバノキ」と飛ぶ(◆が二つの起点になる)こと
になるのでしょう。前の白樺は文芸の白樺派の「しらかば」で後ろのは「木」ということで分けたのでしょうが
新羅を「白」に挟むための金田一京助、坂本太郎、白樺派の武者小路実篤編集顧問各氏のイタズラが
ありそうです。それにしても★は同一人物ではないかも、というのが〈信長公記〉の索引の示すところ
です。芭蕉は「しらら」=新羅といってるのかどうかですが、
解説では「梅が香や」は「梅咲くや」もあり、梅は、「咲く」となると、まず「白」を表しています。蕪村の
「白梅や夜が明けるばかりになりにけり」
もあります。また、芭蕉が、「京より湖南」へ行ったときの句の中の一つに
「 梅林
梅白し昨日(きのふ)や鶴を盗まれし」〈野ざらし紀行〉
があります。この句、解説では、ちょつと文章がおかしいので余談ですが、解説に本文が引用されて
『〈野ざらし紀行〉に「●京に上りて、三井秋風が鳴滝(なるたき)の山家を訪ふ。」とあって出ている。』
となっていて、俳句の大家が日本語の使い方を間違っているので、けしからんと怒らないかんところです。
まあこれは
「京に上りて、」とあって、「三井秋風鳴滝の山家を訪ふ。」が出ている、となるのかも。真蹟懐
紙(二種、うち一つに「鳴滝秋風子の梅林に遊ぶ」と前書)とあるのが書いてあるから、「京に上りて」を
独立させたいというのはありそうです。これは「今日」吃驚したという「きょう」の句であり、訳は「昨日あたり」
となってるのは麻生氏の訳を採用してあり、暈してあって、間違いであろうと取れます。現実のことでは
昨夜の出来事でしょう。「昨夜なら「きのう」も「きょう」もあるから。なお●の文原文は
「京に登りて、三井秋風(みつゐしうふう)が鳴瀧(なるたき)の山家をとふ。」
となって違っており、「とあつて出ている。」の二面性に関わってると取れますが、ここでも意味での
「が」⇔「の」 使用が利いてきて「が」が切りはなせそうです。この句は蕪村が「風調高華、意味優長」
として嘆賞したそうですが、「宋の高士」である「林和靖」(「双鶴」「西湖」などが属性)のことも知ってないと
とけない話でもあります。「登」が出てくると「滋賀県神崎郡能登川町小川」がでてきて水野金吾の「東
浦町の「小川」を
「しむら」(「滋賀県神崎郡能登川の内だが地点は未詳。」)
を通して、近江に変えてしまって、
「金か森」(脚注=「滋賀県野洲郡守山町金森」)の藤左衛門秀政〈本福寺旧記〉
を出してきたという「登」が思い出されますが、先ほど「鳴滝」があったのでどこかで「滝」が出てきたの
が思い出せなかったので放っていたが、今見てた大津絵のところにありました。百科事典太田群の終わりに
太田(区)/・・・/太田水穂/太田持資→太田道灌/▲大滝温泉/大田原/大津3/大津絵/大津絵節
というようになってて▲という変わったものが出てました。これは「静岡県賀茂郡河津町」にある温泉で、伊豆
では滝を「たる」と読むのでこれは「おおたる温泉」のことになります。「たる」と読むため、ここに出てて
「なるたき」は、(かわづ)「鳴きたる」などになって面白いというのでしょう。「白羅」のことですが再掲
梅が香やしらら落窪京太郎〈鯰橋〉
において「梅の白」から「白羅」ではないかといってきましたが「梅が香」からいえば、次の
@ 「梅が香に追ひもどさるる寒さかな〈荒小田〉
A 「梅が香にのつと日の出る山路かな」〈炭俵〉
B 「梅が香に昔の一字あはれなり〈笈日記〉
C 「梅が香や見ぬ世の人に御意を得る」〈続寒菊〉
4句があり、(冒頭「(274)の「香を探る梅に蔵見る軒端哉」もここの「昔に懸かってくる)「しらら」の説明を
しようとしてるかが問題ですが、@は追分の「追」が出ていて解説文が
「梅が香によって、追いもどされる、・・・ところに、追いもどされるなどの意ではなく、追いもどさるるは
・・・寒さが追いもどされる意・・・追いもどされるように家に戻った、と解かされなくもない・・」
と「追い」を追っています。これで「落合」をだしていますが、これは、解説ではもう一つ
「〈荒小田〉(元禄十四年刊・舎羅編)に収めるほかは出ているのを見ない。」
が出ており、文章がまずいからよく見た方がよく「しや羅」で「しら羅」の「羅」が出ており「白羅」でほぼ
決まりといえるところです。
Aは解説文に「蓬莱」「野坡」「野坡」「野坡」「朝日」が出ており「山路」は大津の山路です。「のつ」
は「野つ」→「野洲」が考えられ、朝日→「落合」があり、蓬莱で時代の古さがでています。
Bの「昔」で時代が決定されて百済、新羅以前とものというのがわかります。解説では〈徒然草〉の
引用があり
「花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でら
るる。」(一九段)とある
となっています。要はこの文を句にしたものがこの句といえそうで、「橘」がでてきます。これは垂仁
天皇時代のタジマモリ(但馬守)とか景行天皇時代の乙橘媛は空白の4世紀間ともいえるので、その
「昔」となりそうです。
Cは訳に「(初めて会う人だが)・・・高風まことに敬意を禁じえない。遠い昔のよしある人にお目にかか
る思いがする」となっており、どこかから「高風」がでてきています。これは@の句の解説と、Bの句の
解説の焼き直しがあり、@Bの解説手法と語句とか言い回しが、もう一回でてきています。「晩」「晩年」
は@とCにでていて、兼好の先ほどの引用文がそのままCにもでてきます。Cは〈続寒菊〉にしかない
ものですが、この「寒」は、@Aにもでてきます。要は「蓬莱」「大津」などが全部に懸かかっていると
いえますが、つまりは、あの
「梅が香やしらら落窪(おちくぼ)京太郎」 〈忘梅〉〈鯰橋〉
のしららの解説をしようとしてると取れるところで「梅が香」というのは通常は5・7・5の初めに出てくる
とは限らないが、これに限って、はじめに出てくるもので(上にあげたものとこのしららのもの)で終わり
です。
(354)「いざ行(ゆか)む・・・雪見」→「いざ行(ゆか)ん(雪見)」
さきほど「しむら」が出て保留してました。ここまで力を入れてるからそこからみると、「わが世だれぞ
、常ならん(む)」があるから、{ん=む」で
しむら = しんら しらら
で、「しらら」は、新ら・神ら、があり、新羅は「しぬら」がある(百科事典)、とのことで中だけ変われる
ようです。「しむら」から、単独の
「金の森」〈信長公記〉
が出て、これの脚注が、「滋賀県野州郡守山町金森」ということです。
「志村」もここ
で出て、これの脚注が、「滋賀県神崎郡能登川町の内だが地点は未詳。」となっています。これは
全脚注・注から探し出さねばならない地点だから、早急には出てこないが、本節には
「しむら・・▲佐久間右衛門・中川八郎右衛門柴田修理・丹羽五郎右衛門四人・・・四方・・取・・
六百七十討捕る・・籠・・金(か森)・・取詰・・四方・・しゝがき・・取籠・・南方表・・山岡・・」〈信長公記〉
があり「四」「しし」がでているから「四(村=邑)(群=郡)」が出されているともいえるところです。
「鹿(しし)」が出てきて、「670」がでると、年表では
「670 全国的に戸籍・・・盗賊・・を禁ずる 法隆寺全焼 」
があり宝が消滅しています。
「669 法隆寺全焼 藤原鎌足没(56)=(50もある)」
「671 ・・・・ 天智天皇没(46) 」
に挟まれた「670」があります。そらちゃう、関係ないというのもあるでしょうが、常識的には670余とか
が要ります。討・捕るの組合せでなく全部「捕る」という感じがでています。後世で「・」は入れない方
がよくてここも「六・七十」のアバウトにしないままに置かれています。ここは語りの一節で
「667 近江大津宮に遷都する。遣唐使・・・倭・・・」〈年表〉
があって、元亀元年
「江州守山・・・へそ村・・・守山の町・・・南・・・京表・・執(とり)・・志賀の城(大津市山中町)・宇佐山・・・
十二日・・▼森三左衛門・・永原・・永原・・佐久間右衛門・・・長光寺・・柴田修理亮・・安土城
・・・中川八郎右衛門・・・・・」〈信長公記〉
があって、これら大津江州守山を「志村」に、持ち込んできたものです。「とる」はあります。人名▲▼
は共通で表記だけから見れば
佐久間右衛門(@)
‖中川八郎右衛門(A)
‖柴田修理(柴田修理亮)
丹羽五郎左衛門(森三左衛門)
が成立し、いってきたことが合ってるということになりそうです。「永原」に脚注があって
「野洲町大字永原(水原?かも)。十二日は十三日の誤り」〈言継卿記〉
があり、次節の本文「十二・三日」の脚注が「十二・三間の誤写であろう」となってるものを、早く気づい
たものととれますが太田牛一が「日」と間違えたものの一つを察していて注目させたというのもある
かも。つまり、次節に「滋賀県蒲生郡日野」が出るのを察して、永原の野洲を「日」と繋ぎたいという
ものがあったと思われます。 日 野
野 洲 で、ここは日洲
というものがあります。永原が見難かったのは「日野」−「氷野」−「白野」もあるかも。「志村の脚注に
「・・・能登川町の内・・・ここの志村城主は、志村筑後守資則(〈東浅井郡志〉二・〈近江蒲生郡志〉)。」
が出ていて「志村」の「志」は「志賀」の「志」でもありますが、ここに出てる〈郡志〉〈魏志〉の「志」でも
あり、「筑後守」は、甫庵で「池田八郎三郎勝政」で出た人物
「池田筑後守」〈信長公記〉(考証名「池田勝正」 注・八郎三郎・筑後守、摂津池田城主。・・)
があり、これも城主なので持ってきてるとみられ、
「資」は太田道灌の持資の「資」、「則」は賀須屋内膳(武則)の則、能登国は菅屋九右衛門
となると「兼松正吉」が出てくる感じです。ここには「川那辺藤左衛門秀政」が出たので対となりそうです。
こうみてくると「勝政」=「正勝」、「政勝」=「勝正」、秀政の政秀は平手政秀がありますが、これはやはり
平手清秀〈甫庵信長記〉=いわゆる平手政秀
となり、子息がいるとすると影響の大きいことが考えられます。中川が清秀で
考証名「中川清秀」(文中「中川瀬兵衛」)、考証名「中川重政」(文中「中川八郎右衛門」)があって
考証されていない「中川金右衛門」が文中にあるということです。▲▼の図@Aのところが淋しいので
@に中川重政、Aに中川金右衛門を入れればよいのでしょうかも。ひょっとして
「中川(中河もある)」→「中江」で近江聖人「中江藤樹」の「中江」が出るかも。
(355)金か森
滋賀県の志賀郡が明智十兵衛で、これは惟任日向守で、「白紙のしでしなひ(四手撓い)」は
明智日向守で、これは太田和泉守で「近江」を「日向」の国とみているということでしょう。「しむら」の
「金か森」の脚注は
「滋賀県野洲郡守山町金森。城主は一向宗・・・・川那辺藤左衛門秀政〈本福寺旧記〉」
となっていて、これは「向」がありますが、「那」があるので「志那」に行くはずで
「信長守山滋賀県野洲郡守山町。前出。・・・志那(草津市志那町。勢田(大津市勢田町)・・」
「佐和山二・三日・・永原御泊・・・十六日志那・・・十七日坂本・・・御渡海・・」
があって、守山がまた出て、草津・大津・坂本が出てきます。金森は「金森長近」がでてきて注では
「はじめ可近。・・・美濃国から近江国野洲金森に移り、金森を称した。・・・」
があり、人名索引では金森をめぐる「金」の怒涛の流れがあります。索引は
金子 ・・・・・朝倉
金森長近 (「可近」「金森氏」「近江国・・・金森」「金森」「定近」は長近の父」「長近」)
金森 上の文中表記
金盛 同上 丹羽兵蔵−日野の道−守山が出てくる
金森五郎八 同上
金森義入 (「本能寺討死」)
金森甚七郎 「金森是等(これら□)」が出てくる、「金森惟任」がでたかも。
金山信貞 ・・・三好の老臣(三好は「三好日向守」が「松永」と出てくる。)
金山駿河 「向駿河」〈信長公記〉がある。 兼山は森の郷
●印牧(かねまき)弥六左衛門 〔「丹波守美満(〈西野文書〉〈越前若狭古文書選〉所収)か。
その一族。〕
金松久左衛門 兼松氏の一族であろう。
兼松正吉 兼松氏は尾張葉栗郡(一宮市島村)に住した(〈兼松党の系譜〉〈・・覚書〉)
金松
金松又四郎
狩野永徳/狩野三郎兵衛/狩野次郎左衛門(「〈江北記〉にも見え近江出身。伊豆狩野・・狩野氏
の一族か。」)/狩野又九郎)「本能寺討死」)/狩野光信(「右京助。永徳の子。」)/上服部党・下
服部党(・・伊賀黒田庄の悪党・・/亀井滋(シなし)矩(文中「山中鹿介弟亀井新十郎」)(武蔵守
・・・台州守、初名真矩〈亀井文書〉、因幡気多郡鹿野城主。)
となっていて、「近江」の「金森」の「野洲守山」の「金」から発する流れですが「金森」は「長近」で
「金」=(きん)=「近」で 「近江」は「金江」→「金河」ともイメージされます。
(356)とうとう「印」が出た。!
この中において●の存在がものすごく大きいといえます。●に索引漏れがあって
「印牧」「印牧弥六左衛門」
を追加しないといけないので●が三つになって、もっと目立つことになります。「印」は「かね」とは
読まないから、ここに入れられないが、無理にこうしたというのであれば、これは「金=印」で、金印
が出てるというのでよいのでしょう。一方、平かな表記がままあるので「かねまき弥六左衛門」の積りで
「印牧」も入れられる、という例示でもあるかも。現に、甫庵では「い行」に入っており
岩室長門守/因果居士/印枚弥六左衛門尉(「印枚」が索引漏れ)
で「いん」と読み「まい」となっています。岩室の時代と関係があるようです。「金山」は天正10年
「金山よなだ嶋、森乱に下さる。」〈信長公記〉
があり、森兄弟は兼山の「烏峯城主」となっています。地名索引では
金が崎の城/蟹江/金が森/金山/金山よなだ嶋(脚注=米田島か)
となっていて、「米」(まい)も出てきます。邪馬台国となると「山」が必要なので、この金山は無視でき
ない感じですが、ここで「蟹江」
が孤立しています。甫庵の索引では
加藤/鹿取三郎左衛門/金森義入/金森五郎八/可児彦右衛門/金子新丞父子/金松牛助/
金松久左衛門/金松又四郎/金松/狩野永徳/・・・
となっていて、可児=蟹で「蟹江」も金に巻き込み「金江」「金河」もありえます。同時に「かねまき」
が「蟹(印)巻」になり、「印」のどこかのデザインが「蛇」ではなく「蟹」のものを太田和泉守は実見して
たかも。「鹿」「牛」も金の中で出ますが、「義入(ぎにう)」の入+鹿はあるかも。義=魏というのは、そら
ないというだろうし、まあないだろうと思いますが、
「ココに不破河内守の郎等に★原賀左衛門・・印枚(いんまい)弥六左衛門尉・・を生捕る・・尋ね・・
膝の口・冥加・・草臥(くたび)れて・・印枚畏って・・生々・・向後・・朝倉・・遺・・山・・腹十文字に掻き切
つてぞ失せにける。義士の働き・・・振舞・・感ぜぬ人もなかりける。・・・十四箇所・・金松又四郎・・」
〈甫庵信長記〉
があり「義士」も出ています。「印まい」は「印埋」はあるのでしょう。★は太田牛一は
「原野賀左衛門・・・・ココにて、印牧・・・忠節叶はざる・・・実儀・・・」〈信長公記〉
としており 「原□賀左衛門」と違っており最適の「野□」「□野」を探すのかも。「野口」は、「金の森」(金盛)の
「江州南郡」の「野洲川表」があるから「野州」となるのでしょうが。金松の「牛助」が出たのは、牛一父子
は絡んでいそうです。上下服部党から、文中で「大和境春日山」もでますがここで「黒田」が現れました。
「黒田」が出ていて「亀井」が出てくる、太田牛一は天明4年亀井南冥が金印騒動を起こすことは予測でき
なかったが、黒田家の亀井南冥は、ここを懸命に見ていたととれます。
「亀井」=(幸盛)=「山中」が出てきて「鹿野」の城が目に付いたとすると「□野」は出てきて
鹿野
野洲 金−鹿野島(志賀島)=近江 太田牛一志賀島(九州)・神功皇后物語
となるから、亀井南冥は、太田牛一は、あの親魏倭王の卑弥呼の金印は日本にあり、そのときの卑弥呼
は日本文献では誰になるのか、ということを知ってたというのが、いいたかったと思われます。ここに「冥」
が出ていて「南冥」が利用したといえます。この場所の鍵は金森長近が握っていそうですが、それは
「猶又左衛門尉・・・・」のような接頭字がここで生かされてきてるのが見れるところです。「印牧弥六左
衛門」にしても「印」は特別で「牧(真木)弥六左衛門」もありえることです。この意味で「金森長近」は
金/森 長近 となり「定近が長近の父とも言う」がありましたから「森 定近」が父で
森 長近
森 定近 となると 森長定 が森乱ということでしたから全体、金/森長定/金、ということ
になり、金森長近は出自は隠されているが森乱丸の子かも。金森は法印を名乗っています。美濃から
近江国野州へ移ったのは文化財管理を堀久太郎に任せるという太田和泉守の目論見によるものと
考えられます。金の流れの終わりに狩野永徳の狩野が出てきています。これは安土城内
「御座敷惣金、間毎に狩野永徳仰せ付けられ・・・金物日に光り、殿中悉く惣金なり。・・四方
御張付け、地を金に置き上げなり。金具所は悉く惣金なり。・・・」〈信長公記〉
などで象徴されています。甫庵に「彼(ルビ=かの)」があり、ここで「狩野」「鹿野」「叶(叶野)」も出て
きて、近江国の狩野もだされていますから、あの懐かしい
(357)うさぎ追いし、かの山、小鮒釣しこの川
の歌がおもいだされます。かの山、この川はどこか、と知りたいという人が多くて、語りがされてきています。
これは故郷の歌ですから作詞者、高野辰之の幼いころ過ごした地の、山川でしょうが、たいてい名もな
山川でそれが両親、友達などの思い出と交じり合って懐かしくてこみ上げてきたものが詩になったもの
でしょうから特定は困難ということです。それを知りたいと無理にいうのだから寓意があるか、ということで、
今となれば、これは〈ウイキ〉でも長野県の
「斑尾山」「斑尾川」
がでてきて、決定打ということことになるのでしょう。高野が毎日見ていたという山に該当しますから。
ここは「飯山市」に「斑尾高原」〈郵便番号簿〉がありますから
「飯山」〈信長公記〉 (脚注=「飯山市。」)
に該当しそうですが、脚注がしんどそうで、愛想がないので補足すると、ここに森が出てきます。天正10年
「森勝蔵・・川中嶋海津・・飯山・・飯山・・国枝是等・・飯山・・団平八是又・・山中・・籠・・森勝蔵・・飯山・・
飯山・・国枝・・●江州安土・・森勝蔵山中・・日々・・」〈信長公記〉
があり、「川中嶋」の脚注は「・・・五回の合戦があった。」とあり、飯山も五回でています。「海津」の脚注は
「長野市松代町の旧称。」となっていて、「長・野」も「中」も出ています。森勝蔵には団平八が付いているの
で戦がうまく、鬼「武蔵」の名で称えられています。飯山は伊山で「これ山」にもなり、索引では
飯田/飯田の城/飯の山(石川県羽咋市飯山)/飯盛山/飯山/伊賀/伊賀甲賀路
の並びで「堀」も「松尾」も「金盛=森」もでてきます。また
斑=(はん)=飯 で 斑尾=飯尾
となり、地方独自の語りがあるはずです。また長野県東方は志賀高原があって「志賀山」もあり、
斑尾高原=「高原」=志賀高原(この北方の高天が原もこの一部)
となり、●が効いてきて近江の山・川にも行きます。「かの」は近江の「狩野」(次郎左衛門)が出され、
「かの」は「この」でもあり「あの山、この川」は
「狩野山」「狩野川」(伊豆半島の川、天城山を発し、北流して沼津で三河湾にそそぐ)
で、永徳の近江の金の山は、中入れの「森山崩れ」「守山崩れ」があるので
野洲の「守(「狩」の右)山」「森山」
となるのでしょう。「崩」は崩すもありますが「崩御」の「崩」、「鵬」(おおとり鳳凰)の「朋」(ほう)、同朋の
「朋」もあるのでしょう。「崩」は芭蕉に
★雲の峰幾つ崩れて月の山〈奥の細道〉
があり、月は「築き」、月の山は「築山」という説もあるようで甫庵に
「蓬莱の仮山(か さん)(脚注=築山のこと。)に造(いた)る。」
があり「築山がでてきます。この「雲の峰」は芭蕉で三つあるらしいのですが、索引で
雲の峰 中二九一・四一二・四一三
があって中巻にあるといっており、「二九一」は★の句ですが、あとのは、指示のところには見当たらず
探さないかんことに
なっています。通説書いてる人が素直に読んだらいかんといってるのですから前途多難といえます。
ほかにネット記事などでは、「大平山」が「この」川とされているというようなことが出ています。新聞では
大手山と大平川というのが出てたと思いますが、記憶力が劣っていて定かではないわけですが、大平
山も有名で全国で70以上もあって福島の二本松にもあります。上杉謙信も登ったという栃木県の桜と
紫陽花の大平山は(三輪山)という別名があり、三輪山は近江にあるというわけではないが〈万葉集〉
16・17・18で近江とセットになって出てきて
「(表題)近江国大津宮・・・{天智天皇}・・{秋山}・・額田・・秋山・・秋山・・額田王・・近江国
三輪の山・・・18 三輪山をしかも隠すか雲・・・・{・・近江国・・三輪山・・近江・・・}」
「大平」で「近江」を出してみようというのはありそうです。大平の「平」は「来る」=「耒る」(「耕」の左)
来=らい=耒 だから「手」になり 大平山
大手山 で平手が出てきて、手は宮本伊織の手向山(たむけ
やにもなるから、大田川も出てきて宮本武蔵の「平田」もでてきます。結局、「大平(山)川」が「かの山」
「この川」の候補ともなるのは
「大比良川」〈信長公記〉(脚注=「大平川(男川・菅生川)。二八(米干)。矢作川に入る。」)
の「大平川」が「比良」と結ばれてるからということになるのでしょう。ここに
「大形・・敷・・敷・・金棒・・平ら・・ココに山中宝蔵寺・・面・・正田・・大比良川・・岡崎城の腰★むつ田川
・矢はぎ川・・是又、造作・・・矢はぎの宿・・・池鯉鮒(チ リ ウ)・・・屋形・・・」〈信長公記〉
があって「鮒」も出てるという積りはないわけで、亀井南冥はこの「金」「山中」「宝蔵」「比良」−「志賀」
なども見て志賀島に金印を出そうとしたと思われます。「山中」は脚注では
「岡崎市舞木町もと額田郡山中村。松平氏五十余年間の根拠地。ここに浄土宗法蔵寺がある。」
となっており「額田」は近江と大平山(川)と「山中」をつないでいます。「上月」に楠木長庵と朱印がたくさん
出てきていました。「松平氏」というと守山崩れが有名です。稀代の英雄が命を落としたのだから当然です。
ここで太田牛一は法蔵寺を宝蔵寺に変えてるのが重要でしょう。「正田」は脚注では「庄田」であり、
「矢」が本文、脚注含めて4個、と「屋」があって「大」が4個ある、ということになると、黒田の金印の関係者
の内 @甚兵衛(発見者)
A武 蔵(たけぞう)
B喜 平 @が〈信長公記〉索引の
新六(「中間」)/●甚兵衛/新門跡
の●そのものなので気になるところで文中では
「海東郡大屋(脚注=稲沢市大矢町)・・甚兵衛・・・庄屋・・。大屋の甚兵衛・・甚兵衛宿・・」
〈信長公記〉
があり、★の文から見て、庄屋の甚兵衛から取られたのが@といえそうです。★が「未詳」になっており
「印枚(舞)」の「六」を受けた「六(大)田川」ではないかと取れます。大田甚兵衛
大屋甚兵衛 で同一とみてよいと
といってきましたが「田屋」が出てきます。「田屋」は人名にあり
「田屋」考証名「河合の田屋」
て、索引では 河合安芸守/河合の田屋(・・・田屋甚之丞か・・)/川(上)三蔵
田宮/田屋→河合の田屋/多羅尾 (光太か)
となっていて「甚」の字が出てきてるから、かの「甚」は、この「甚」か、といってる、と取れそうです。Bは
〈信長記〉両書に該当がなく、「喜兵衛」で有名なのは、宮本武蔵が最初に倒した相手の
「有馬喜兵衛」
がいます。二番目の「秋山」とともによく知られています。明治に「中山平次郎」「森貞次郎」という学者
二人によって、亀井南冥報告による金印の出土地は「叶の崎」(「叶の浜」もある)であると提唱されました。
1995の調査によって、金印に関する遺構も存在しないことが明らかとなった、ということが古田武彦氏の
話の中にあります。結局は「甚兵衛」に戻るしかないということのようです。結局、この件は
「・・{印牧(かねまき)弥六・・・印牧弥六・・・・印牧・・・叶はざる・・・当座・・実儀・・敷・・是非に及ばず。」
〈信長公記〉
の「叶(かの)(かな)」が働き、原□賀の野が入るように叶野があります。この「カノ」が
亀井新十郎の城「鹿野」、亀井南冥−中山・森二説(次郎×2)の「叶の(崎)」の「叶野」、高野辰之の
「かの」、志賀(鹿)の賀野」、金・絵の「狩野」・・・に至っています。これは既述の
「・・●御間叶(まかなひ)・・間叶(まかなひ)・・・・まかなひ・・御間叶(まかなひ)・・・」〈信長公記〉
のような珍妙な使い方があるものを「太田和泉守」のシグナルとしての活用がされたと取ればよいのでは
ないかと思われます。天正10年の19節から23節の間に、抜けてるかもしれませんがこれだけあるわけ
です。●は、森勝蔵・乱丸の領国決定、堀久太郎の「くさ津」温泉行きの記事がある19節にありますが
脚注があり、「御賄。」となっています。継体紀の大伴金村の属性が賄賂(百済からの)でした。この
「御賄」の周辺の、脚注は「大ケ原」に対するものがあり、
「山梨県北巨摩郡白州町台ヶ原。宿駅である。」
となってて「成」「高麗(こま)」「白済」「台国」がでており、「武蔵野」での「追鳥狩」に対するものでは
「山野で鳥を追い立てて行う狩猟の一種。・・・」
があり、兎もあるが鳥もあり武蔵野もあるが追分もあるかも。
まあいいたところのことは
240年ころ、親魏倭王、卑弥呼に贈られた金印は近江(志賀・滋賀)にあるということを、太田和泉
守が言ってると、天明の黒田公・亀井南冥がいいたいのであの志賀島の金印の発掘物語を作り
あげたということです。明治時代にこれを本物と認め、間接にでも、これで金印が日本にあったと
いうことをみなに知らしめることができたのでよかったいうのでしょう。亀井南冥など当時の学者、
中山・森二説、高野辰之などの言い分は帰一しており、太田和泉守を見失うな、見失わせるなと
いうことですが、誰でもわかりやすい宝というもので語ろうとしたところが偉いところです。あの風塵雷神図
は今あるのかないのか、あの卑弥呼の金印はあるのかないのかなどは権限ある当局者なら、すぐ回答
できることです。現物はどこにあるかの前に、文献上あったか、なかったかは、専門家の手のうちの
ことでしょうから。
金印は、誰に、当時の文献のどういう表記の人に渡ったかということが次の問題ですが、目指す人に
いきつくには二人とか、親子の重なりとが入ってきますので回り道も必要かも、というところです。 押さえとけ、過去がばれたらえらいこっちゃ、がんば 太田牛一がはっきりと歴史のことと、戦国の事件と結びつけてわかりやすくしようとしてるのが見られるの
が松永城の落城と大仏の焼失と鎌足の死の10月10日というもので見られます。鎌足死の年、法隆寺
が燃えました。
(358)藤原氏
白羅は新羅に似てにていますが、百済・新羅以前の白羅ということで、〈信長記〉も百済(寺)を意識した
「白済寺」を出しています。「新羅」が台頭してきて藤原氏が大化改新を契機に藤原不比等の
強権発動に至ったというのがわかりやすいことですが、これは新羅(後ろに唐)からの日本への圧力
が高まって政権の変質あったというのではなく、従来の政権の中の藤原氏の勢力の伸張です。
藤原は(326)で述べてて途中で脱線したわけですが、そこに●があり、立役者の中臣鎌足が
出てきます。そこの▲と▼は当然年齢は導通されていますが、舒明・皇極は〈年表〉では一歳違いで、
こういう場合人が変わる例があるので、流動的な事態が出てきます。舒明天皇は19年前に亡くなった聖徳太子
と同じ49才没が知られていて、このとき
「一六」の「皇子(ルビ=皇太子){天智}」〈書紀〉
がでてきます。これは「中大兄皇子」とされていますが、これなら・孫相当になってしまうので、小説的な
名前しか出てないにしてもそれで補うと
、 「舒明天皇」−−(子)「入鹿」(田村皇子A)−−(孫)この「一六」の皇子(後の「天智」)
とでもしないと収まらないという面が出てきそうです。天皇が亡くなったときは皇后があとを継ぐのが常識か
、というとそうではないはずで子息が継ぐのが当然のはずです。
舒明−皇極−孝徳
となっているのは、補佐として「皇極」となったのか、「皇極」が二人あって@Aとなるのか
つまり舒明Aとしてか入鹿が即位してるはずというのは、入鹿皇極ということで言ってきています。
親子が隠れてる、一つの表記は一人と限らない、それは天皇でも同じ、ということでしょう。
しかし通説は皇后の皇極が三年在位して、そのあとは、皇極と同母の弟、
「孝徳天皇(軽)」
が 10年ほど在位しますが、そこから、「中臣鎌子連」が全部に関わってきています。鎌子と「中大兄皇子」
とが親蜜な間柄であることはしられていますが。その前に「孝徳天皇」(軽)が「中臣鎌子連」を特別に尊重
しているということを〈書紀〉が頁をかなり割いて述べてるということがあります。親戚だったかも。慈円は
欄外「孝徳天皇」 (37代)「孝徳} 「十年 ■元年甲寅 御諱軽 乙巳年・・・即位。同日以中大兄
皇子立東宮{天智天皇也。}(書いていないが「皇后」は舒明天皇の娘「間人皇后」〈書紀〉
と書いていて、この■が10年後の654年、没年の干支になっています。つまり、まあ、軽いから駄目だった
わけで、舒明天皇の皇太子、古人大兄皇子が辞退したからなったものの、間人皇后がトップだったという
ことになります。この「間人皇后」は655年没でこれは天智四年のことです。この表記は「間人大后」という
のもあって「間人皇后A」=鎌足があるのとちゃうか、というのが筆者の藤原理解のポイントですが、外れたら
終わりといったところです。
皇極皇后は、子息「中大兄皇子」を天皇にしようとして鎌足に頼りましたので皇極と鎌足は親密なはずで
すが年齢的には一世代違っていて20年差があります。中臣鎌子の連れ合いが、鎌足だったかも。
■中臣鎌子
‖ーーーーーーーー中大兄皇子ーーーーーーーー●藤原不比等(鎌足の子とされている
鎌足
斉明天皇の期間中は「間人皇后」は生きているので、孝徳から斉明に変わる必然はなく間人皇后の
死が10年早いと孝徳の死と、その朝の終わりと合致するので、それで行くと、軽皇子が皇極の弟という
のが連合いだったとして、皇極を表に立てた、(軽皇子)政権が、斉明となり、中大兄皇子の登場を準備した
という再登場も考えられます。一方で「同母」と慈円ははっきり書いてるので、孝徳はいまでいう弟という
のが筋だろうから、間人に立ってもらったが、孝徳の死後は、鎌足が表に立って、「鎌子」に支えられて
難局を乗り切り、中大兄に繋ごうとした、というのが斎明の時代ということになるのかも。つまり、後が「天智」
で、「天」は
天津乙女〈甫庵信長記〉
の天、尼の天、天照の天、天空の天、現在でいえば「天津甘栗」の「天」だから、索引では
てんしん【天心】/てんしん【天神】→てんしん/てんしん【天津】/・・・・/てんじん【天神】/・・・
となってる天の「智」をもつ天皇だから、一人で独占できる名前ではないようです。蘇我入鹿がありえます。
太安万侶は●の
近い親類で臣下だったから、●の父祖の功業、個人的資質の優れた点を述べ合いといけない、その上で
国柄を大化けさせた大政治家にしたてあげねばならいと、いう使命があってあってああ書いたが実際推進
したのは蘇我蝦夷−蘇我入鹿のラインもう一人の天智天皇の改新の動きがあったということがありえます。
重要箇所なのに、そんなん学問的でない、ということになりますが、とくに人口に膾炙したこういう部分は、
なかなか覆らないので、ここまで何述べてきても、ここで藤原鎌足のキャラクターで逆転されてしまい日本
のことはここから聞けば十分だとかになってしましいます。藤原鎌足のウィキのイントロの部分の引用ですが
「元々は中臣の一族で、初期の頃には中臣鎌子と名乗っていた(欽明天皇期で物部尾輿と排仏を
行った中臣鎌子とは別人)。その後、中臣鎌足に改名。臨終に際して、大織冠と共に藤原姓を賜った。」
となっています、欽明、540、鎌子、640 くらいの登場だから、時代が違うから別人で当然ですが、中臣は
鎌子まで一緒だから、磐余王朝の中臣の末というのでよいのでしょう。■との関係が生じ、これが隠され
中臣・鎌足となり藤原は亡くなるときです。藤原は允恭天皇(仁徳の少し後)のとき「藤原部」が出来ている
ので古くからのものということがわかりますが一応みておくことも要ります。
(359)古王朝の「藤」
「藤原」は鎌足が最初ではなく、古王朝のもので、芭蕉の
「大和行脚のとき
草臥れて宿借る比や藤の花〈笈の古文〉〈葛の松原〉
があり、解説には
「布留の石上寺」「初瀬の句の前に掲出」「たわむ市(注、丹波市)」「石の上有原寺」「井筒の井」
「丹波市(たんばいち)」「八木」「耳成山の東」「丹波市は今の天理市」「猶」
などがあります。また
「・・・藤白御坂・・・・昔に匂ひて
藤の実は俳諧にせん花の跡」〈藤の実〉〈白冊子〉
があり、これは有名な「有間皇子」の「藤白」につながり〈万葉集〉の人名索引では{あ}に
★天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと) → 天智天皇
有間皇子 孝徳天皇の皇子・・・母は安倍・・・斎明天皇四年・・蘇我赤兄の謀略にかかって
反乱をくわだて、捕えられて紀伊国牟窶におられた天皇の下に送られる。帰途、
藤白坂でくびり殺される(年表658)。このとき十九歳。・・(歌)は心情を直叙していて、
哀韻がある。
があり 歌は
「有馬皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
一四一 岩代の浜松が枝を引き結び、ま幸(さき)くあらばまたかへり見む
家にあれば、ケに盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
があります。★が「て」だからここにないはずなのに入ってきて、引っかきまわしています。「天智天皇」
は別に項目としてあり、
「天智天皇(「葛城皇子」・・・「近江宮御宇天皇・★」・・・「近江天皇・中大兄・天皇・皇太子」)
のように別の表記が8件書かれているものがあり、なんで★を有馬皇子の前にもってきたのかは、問題
ですが名前がでっかいというのがあるかも。
「藤白」という〈万葉集〉の注が芭蕉の句、前書と藤に行き着いたわけです。訳注した〈万葉〉専門
学者桜井満氏が、芭蕉の研究もしてたのでそれが出てきたことだから、仕方のないことといえるので
しょう。年表では712〈古事記〉、720〈日本書紀〉撰上のころ
天皇 (文武) /707 元明天皇 /715元正天皇
左大臣 /708石上麻呂 717石上麻呂(78)/
右大臣 /704石上麻呂 /708藤原不比等 → 720(62)/
元正太上天皇没 721
となってて、年齢ではくびり殺されたことになる石上麻呂は707天皇代わりになっています。★Aの子でしょう。
(717−658=78−19)(78+3−62=19)
こういうことで「藤」だけでも「藤原」を表していそうですが、藤原は、持統・文武・元明で藤原京が、大和
三山のふもとで営まれましたので、特別の新時代の誕生という印象をあたえました。が、
(360)もう一つの藤原京
推古天皇
のとき藤原宮が造営され豊浦大臣もいて政治の中心となってるので、まあ、二番手だったということで、
というよりも持統天皇は後継を打ち出すために藤原京を確かなもの(発掘して全容がちゃんとわかってる)
としたとも考えられます。テキスト〈万葉集〉の地名索引では(数字は歌番号)
藤江の浦 ・・・・939
藤原 奈良県橿原市高殿町を中心とした一帯の地 50(題)
――の京(みやこ) 持統・文武・元明・・・ 79題
――の宮 28題・・・・・
――の大宮 53
――の宮の御井 位置不明。52題
◆藤井が原 → 藤原 52
藤井の浦 → 藤江の浦。「井」は「江」の誤りか。938
となってて、◆が、藤原でもあるといってます。◆の上に「位置不明」となっていて、取り付くシマがないと
といえます。索引で
大和(やまと)/山の辺の御井(みい) 未詳。・・・
となっており、「御井」はごめんこうむるというわけです。題と書いてるのは、後世の人が古歌に題やら注を
入れて歴史を語ってるので、本歌のものではないということです。これでいくと
◎◆にみられる藤原の語源となって天理市の藤原
◎大和三山に囲まれた藤原京
◎下図の「▽豊浦」の藤原宮
がありえます。テキストに地図はありますが、人間が考えうる限度に近い、わかりにくく伝える技法を発明して
書かれていて、「明日香の地図」と「古代の帝都と官道」の図が左右にあって関係があるかもと気がつくまでに
は相当の時間がかかります。
明日香の地図 | 官道の図
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
橿原市 | 大津宮
△藤原宮跡 平安京
桜井市 |
橿原駅 石川 ▽豊浦 飛鳥
|
明日香村 平城京
□持統 ||||三輪山
文武稜 ◇藤原京
となっており、△が持統・文武・元明の都(いまでいう藤原京)で△▽は2000mと近く、△の北が天理市で
あろうと思いますが書いてなくて、右の地図に目を移すということになりそうです。しかし△は、◇と表記が
ちごてるが、同じといいたいのだろうとすると、天理は奈良の南だろうから
道、「|」四本、右から「山ノ辺の道」「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」だけのところが天理市ということになり、
天理市は藤原宮に近いともいえます。石川−▽豊浦−桜井市の方へ抜ける道は「磐余の道」で、初期行政の
南限となるのかも。◇から平城京(奈良市)までは15K足らずです。元明、元正の稜は
平城京にあるようです。藤原京へ移った持統天皇は
高天原広野姫天皇
といい「広」は広開土王の「広」があり「野姫」というのは推古天皇の「屋姫」と通ずるのかも。
(361)小墾田の宮
推古天皇のこの宮が宙に浮いているのでややこしくなっています。
「朱鳥元年」は持統天皇の属性ですがここから「皇子大津」「小墾田豊浦」が出ます。推古天皇の都は
「小墾田宮」(場所未詳とされる)
が知られています。先の大百科事典では「藤原京」は出ていますが「おはりだのみや」がでていません。
百科事典は14分冊あり、
最後の一巻が別巻、増補索引というのになっていて、これをみると、あいうえお順になつた、もれたものが
載っています。このなかに
「小墾田宮(おはらだのみや。) I370b」
と出でいます。Iは10巻目、これは「て(れ)−に(も)」になってるもので「て−に」の途中から途中まで
のもので、370bは 370頁のb(4段の上から二段目)ということで、ここに
「豊浦宮」(とゆらのみや) 推古天皇の皇居。・・・・・」
が出ています。「小墾田宮」で牽いて、これが出たのだから、未詳で苦労してるというのもおかしい、豊浦の
宮が推古天皇の宮で別名が小墾田で、高台に立ちすこし見渡せば、また発掘でもやっておれば、すぐわ
かるところのものでしょう。ところが「・・・・・」の部分に
「五九三年推古天皇はここで即位し、六〇三年▲小墾田宮(おはらだのみや)にうつるまで皇居とした。」
となってて、「うつる」があるから、どっかへ行ったということになって反論されると元に戻ってしまいます。
しかしこれは、こういう出し方で出てきたものだから、開墾というイメージもある字があるから、ここに都を造営
てうつったというのが考えられます。「おはりだのみや」では百科事典に出てなかったが、
「尾張(国)(おわり)」
が出ており、これは「おわり」と読み(〈書紀〉のルビは「▼小墾田(おわりだ)の宮」)、説明は
「・・・・国名のおこりは、小墾田(おはりだ)・小治(おはり)・小針(おはり)など治墾田(おはりだ)(新
しく開墾された田)によるものといわれる。」〈百科事典〉
となっていて、この開墾という〈書紀〉の記者の感覚が「小墾田」に現れているというのが、百科事典の記者
の指摘するところでしょう。つまり▼は「宮」とセットででなく、▲の六〇三年の「小墾田宮」はセットだが
「おはらだ」
となっていて、「おはら」は百科辞典では
小浜5件/小原(おばら)温泉(白石市))/大原女(おはらめ){京・・北郊・・」/小原流(生け花)
があるので▲は「大原田宮」という感じのものになりそうです。
といっても百科辞典でそういう読み方があるのは考えにくい、これ監するような人はみな勲章もらって感謝の
言葉を述べているではないか、失礼な、取り消せというかもしれないが、もらった人はこういうのを世に出せて
それに与えられたものだろうから、度量が広い国柄と感謝してるともいえます。これらは、述べ方の発明があった
かもしれないが、ここまで読めるというのは原本がすぐれているものだと、いうことをいわないと、99パーセント
の一般の人がわかるようにしようとしてないと、国に貢献しようとする意思があるといえないのではないかと思
います。芭蕉に
稲妻や闇(やみ)の方(かた)行く五位(ごい)の声〈続猿蓑〉〈泊船集〉
があり、解説では
『「五位」は「五位鷺」のこと、醍醐天皇が神泉苑の御宴の折五位の位を与えた故事による。』
となっています。「醍醐」というのは藤原京の住所が
「橿原市高殿町」 「橿原市醍醐町」
の二つある一つの住所を持ってきたもので、
「醍醐」ーー大和という名の発祥の地・(天理市)「神泉町」大和神社の井戸ーー「御井」「五位」
と繋いだもので、藤原の藤はここからというものです。
(362)近江も同時に
「鷺」からは次の句もでます。
「湖水の眺望
比良(ひら)三上(みかみ)雪指し渡せ鷺(さぎ)の橋 〈翁草〉〈赤冊子草稿〉
があります。「比良」は「日枝(ひえ)」とした句もあり、「日枝」は「比叡山」と書かれています。」もありえます。
訳では「白鷺」「七夕」「昔+鳥」(かささぎ)が出てきますが、鵲が出てくると、大伴家持の
鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
が出てきますが、(大伴)金村以来の大伴氏が出てきて古代と戦国の白鷺、高山、橋などと結んでいると
ますが、またここで近江
『「比良三上」は比良岳と三上山。それぞれ西の滋賀郡と東南の野洲郡とにあって、相対して
琵琶湖を抱いているので、その間をつなぐ白鷺の橋をおもいえがいて「雪指し渡せ」といった
ものである。』
となっていてこれは近江王朝と明智の志賀郡を雪の橋で渡したいところで、渡海と宝をつなぎたいところ
で、太田牛一、「たいかうさまくんき」−志賀島の神功皇后の話のことは芭蕉は知ってるから、近江王朝と
志賀郡と金印のことがからめられるかどうかです。例えばネットで金印を牽いてみても、金印の中で一番有名
なものは、ということであの亀井南冥のものだけしか話の対象にしかなってきません。こちらの知りたい
のは、くすんでても、2番目、3番目・・・あたりのものがあるのかどうかおいうことです。現に坂本城の宝物
は明智左馬助から堀久太郎に渡っています。堀久太郎というのが今となれば意識的だったということこ
になりますが、運搬を考えてみると、ここには水城のような坂本城と堅田水軍のセットがあり、居初又次郎
馬場孫次郎がいて堅田には小野妹子の墓(古墳)があり、妹子が、誰かによって、その属性が拡大されてる
芭蕉の句に反映されてるかも、となると門人の論評もみないといけないことになります。大伴家持がなぜ
ここに出てきたか、というのは本当はよくわからないのですが、桜井氏の注をみると
大伴宿禰家持(家持・大伴家持) 安麻呂お孫。旅人の長男。実母の名不明。・・・・・・・・・・
・・・・契沖以来、〈万葉集〉の整理・編纂の実務者に擬せられる。・・」
となっています。契沖が家持と〈万葉集〉との関りを論証したということでしょうが、実母の名が不明という
のはありえないと思いますが、〈芭蕉全句〉にも、
「白鷺の渡るのを見て、七夕の鵲の橋が連想され、更にこれを鷺の橋と俳諧的に興じたもので
豊かな空想力を駆使している。現代の写実風の詠みとちがって、鷺の背後には鵲の伝説が層を
なしていて、それが句の厚さを生んでいるのである。」
とあい、頁を割き過ぎの感があって、内容がはっきりしないので途惑うことになります。一つづつというわけ
にはいかず、〈万葉集〉=(「鷺」「夕」「橋」)=戦国の文献 ということで言ってしまいますが、言外の
一つが隠れているというのが往々にしてあります。
見る 連想は 興ずる
さぎの渡ーーーーカサ/さぎの橋ーーーーさぎの橋
となって「カサさぎ」=「カサ鷺」」=「笠鷺」で「笠」が出てきます。索引では
笠朝臣金村/笠朝臣金村歌集(車持千年作4つ)/笠朝臣麻呂→満誓/笠女郎/笠沙彌→満誓
があり大伴でも「大伴郎女/大伴女郎」なども出てくるからこれは判るはずでしょう。またこれだけ
「さぎの宮」が出てきたら「さきの宮」もでるのかもといったものもありそうです。とにかく藤原宮の
あと、さきがあるのかということです。「金村の「金も宝物ですが、宝物は藤原京のように文献の威力を
証するものとなっていそうです。
(363)〈万葉集〉が小墾田を語る
持統天皇には「朱鳥(あかみどり)元年」という私年号が使われています。
〈書紀〉に、「朱鳥元年」、「皇子大津」の死、が出ていて、〈万葉集〉に、「大津皇子」の死(「朱鳥元年」)
が出ているから
〈万葉集〉挽歌四一五(小墾田宮(おわりだのみや)が出てる)・四一六(朱鳥)が出てるところに飛びますと、
「 挽歌
上宮聖徳皇子、竹原井に出遊・・・死(みまか)れる人を見て悲傷びて作りませる歌一首
{■小墾田宮に天の下を知らしめしし天皇の代。小墾田宮の御宇は、◆豊御食炊屋姫天皇・・額田・・推古}
四一五 家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥せるこの旅人あはれ
大津皇子、被死・・・・磐余の池・・歌一首
四一六 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ。
●右、藤原宮の朱鳥元年冬十月なり。
(脚注=左注に、右は持統天皇の朱鳥元年(686)十月のことである、という。)」
があり、■のルビは(おわりだのみや)で(おわり)となっており、朱鳥元年に
「小墾田豊浦(おわりだのとゆら)」〈書紀〉
があり、豊浦宮とみてよいととれます。念のために●からみると「藤原の宮」の朱鳥元年となっており
これは持統天皇とは書いていません。持統天皇が藤原宮に入ったのは〈書紀〉にあり年表にも
「694 持統8年12月 藤原宮に遷都する。」
があり、先ほどの百科事典ではこれではわかりにくいと思ったのか、朱鳥で表示しており、持統天皇は
「694年、朱鳥9年、藤原宮にうつった。」
となっています。推古天皇、百科事典では
「在位592〜628 592年・・・豊浦宮で即位」
となっていて、ここでは小墾田宮は出てきていません。念のために推古紀〈書紀〉をみると、これも出ておらず
(出てこないのには理由があり、推古の前の天皇、敏達の紀に三番目の子として「小墾田皇女」が出て
くる、敏達の皇后が◆となってる)結局は、百科事典に「豊浦宮」だけが書いてあるのは合ってるようです。
とにかく、ここの●の
「藤原宮(■)元年」の即位
は持統天皇の場合は合っておらず、推古天皇の場合のほうがあっています。「十月」は皇子大津の
はずが、大津皇子に摩り替わり、「宮」も「天皇」も「皇子」も両方に懸かり
四一五の歌=(死者)=四一六の歌 皇子大津=(藤原宮)=大津皇子
が出ています
推古天皇即位592年、持統天皇即位686、で約100年
崇峻天皇(推古の前の天皇)の即位587年、持統天皇の1年、687年で見た目でちょうど100
となります。このまえに「朱鳥元年」があるから 持統天皇のカウントはここからされてて686が元年で
計算上の100年となり、ひょっとして、100年を期に今をもって、100年前を写すというのがあるかとみるとき
崇峻天皇には元年がなく、朱鳥(あかみどり)元年の記事を、(緑赤)に色を変えてこコピーして崇峻1年に
何となく貼り付けてみると、やはり大変な語句が出てきます。述べたいとこだけいえば
(364)国語ができた
@「皇子大津」八件
A「皇子大津に訳語田(おさだ)の舎(いえ)で賜死(しし)した」
があり@は大津皇子でよいのでしょうが、Aは
大津皇子におさだの家で、賜使(しし)した。
内容は「語訳・訳語」という指示ととれそうです。つまり、崇神の後継者が、国を治めるのに腐心していた過程に
おいて公用語(宮廷語)でこなすというのに限度を感じて、90%を占める在地国衆の使用してる言葉、語句
を主体としたものに合わせるという方針を出して、崇峻に6年間任してしまったというのが事跡のわからな
い、天皇が生まれた理由といえます。このあたり、天皇は
天皇 欽明42/敏達14/用明2/崇峻5/推古26/皇極3/孝徳10/斎明7/中大兄7/天智3
臣 /−−−−−蘇我馬子−−−- /
臣 /−−物部守屋−/
となっており、これで見るとあの聖徳太子は「用明天皇の子」というのが誰に聞いても出てくる答えです。すな
わち 崇峻はこれでみると用明の次ですから、崇峻はあの聖徳太子といえば第一に納得されるところで、いいにくい
から「崇峻」とした、と考えられ近寄りがたいほどの崇高な人という感じが出ています。天皇になってないはず、
といわれますが目的限定的に上澄部分に置いたとうことかと思われます。聖徳太子はこの辺のところは物部
と血みどろの戦いをしています。聖徳太子も御たぶんにもれず、森蘭丸と一緒で
聖徳太子=厩戸皇子+聖徳タイシ
があると思いますが皇子大津が出てきてますのでタイシの能力も大いに発揮されたものと取れます。
聖徳太子は、年表では
622年(推古30年)に49歳(満48歳?)で没
で、622−48=574年の生まれで、崇峻天皇が即位したのは、587年で、587−574=13(表向き15)
になりそうですから年齢的には、崇峻は聖徳太子ではないとはいいきないところです。これは、当然、聖徳
皇子の方で、大津皇子がぼんやり出てるから、この皇子を使ってよいかも。この亡くなったときに、聖徳皇子
に20歳くらいの、子息がいたと考えられます。つまり、もう一人、641年に49歳でなくなっ人と通じていると
思われます。これが〈年表〉で
641年 舒明13年 舒明天皇没(49歳)
と出てる人と見受けられます。どちらも49歳没だから 641−622=19が二人の年齢差といえます。
聖徳皇子でない人が亡くなっていますので
聖徳皇子@(49)ーーー大津皇子@(49)ーーー大津皇子A
(崇峻天皇) 聖徳皇子A
となるかもしれません。ただ崇峻天皇は蘇我馬子に殺されてしまいますので、所謂、羽柴秀吉に攻め殺され
た明智光秀の例よりも 一歩進めてあるともいえないことはなく、そうなれば二人 親子も想定される関係と
いうこともありえますそうなれば、
大津皇子@(皇子大津)−−−−大津皇子A−−−−大津皇子B
もありえて、変わった名前を当てると
崇 峻 −−−− 蘇我入鹿−−−− 柿本人麻呂
天智天皇
となりそうで後二者の方は、すでに言ってきたことですが、崇峻(天皇)が、初めて出てきたということです。
このたくさん出てきた「大津」が朱鳥の皇子大津などによって崇峻が出てきたことになりましたが、太田和泉
守によって、地名などの「大津」に利用され
「大津伝十郎」〈信長公記〉
なども出てきています。大津伝十郎は「長治」という名もありますが、これは「別所長治」が有名で、「別所」は
持統・文武・元明の藤原京の、耳成を望む香具山よりに「高殿」「別所」があり(百科事典の絵による)「高殿町」
がここの住所になってるほどだから、「別所」もそれほどの(御殿・施設?)とも思えるところです。また坂本城
近くに駅名などで別所がめだっています。したがって持統天皇がでてきたときに、もう「大津」が出ていて、
持統天皇紀のはじめに
「{天智}天皇の元年、草壁皇子尊を▲大津の宮で生んだ」〈書紀〉
があって、多分、この「大津の宮」は、志賀の大津だろうというだけで、どうかわかりません。が、年表に
@「667・6年・3月 ▼近江大津宮に遷都する。〈紀〉」 右側の天皇枠は(中大兄)
A「668・7年・1月 皇太子中大兄皇子即位する。〈紀〉」 右側の枠は「天智天皇」 / 右側には天智天皇
があるから、天智天皇が「近江大津宮」となってるから、まあ▲は▼と同じだろうと取ってしまいます。しかし
@は本文はそう書いてはおらず、天智紀六年では
「近江に遷都した。」 Aは「皇太子が天皇位に即いた。(或本はいう六年三月に、即位。)」
となってて、かなり変えてあります。@とAは一年違いだが、となりはコロッと違うのも特徴の一つ。
持統天皇は大津に関係なさそうですが▲で「草壁皇子尊」が、出ましたので無視出来なくなりました。
この▲の記事の後、すぐ
朱鳥元年(686)「皇子大津」の没(24歳)
持統三年(689)「草壁皇子尊」の没(年表では=28)(〈書紀〉は年齢は書いていない。)
が、でますが、これは大津がぜんぜん関係なくて、桜井の訳語田などがでてきます。しかし
草壁皇子がここで生まれたから「大津」が属性として出てきます。柿本人麻呂は大津皇子とすると、皇子大津
の大津に近江の大津が利いてくることは助かるところです。太田牛一は近江の大津と人名とにこの大津を活用したと
いえますがこれは景行・成務の近江遷都を述べようとしているのと無関係ではないと考えられます。
(365)「草壁皇子尊」は生存・二人
ついでですが、持統天皇の、いまでいう子息(これは「皇子大津」という表記からわかる?)について
「三年(689)・・・四月・・・一三日、草壁皇子尊が薨じた」〈書紀〉
がありますが、これは亡くなってはいないのではないかと取れます。上の@が天智元年とすると、このとき
22歳ということで、これは何にも合わないが
8年前、681、草壁太子は立太子しており、そのときは22歳の勘定
になり、縁が全くなというものでもない数字といえます。●661も天智元年なので689−661=28で、これは
年表にあった、28没がピッタリです。これは皇子大津と、一歳違いの数字であり「大津」をも意識した数字か
かもしれません。持統天皇は、持統10年、この皇子(草壁太子の子息である、
軽皇子15歳つまり、文武天皇
に位を譲って引退したということになっていますが、これは草壁太子が死んでいないという立場から見ると
間違いで、死というのは表記を消す、28は意味があったと見ている(つまり天智・大津にもからんでいる、
死という衝撃を与えたという意味も含む)ものでもあります。、持統天皇は10年目に、この草壁皇子
尊の子が、即位したことを見届けることができ、子息に先立たれることもなかったと思われます。
草壁太子は年表に
「705年 刑部親王没(?)〈続記〉」
があり、これが草壁太子の死かも(文武7年)。
持統 生れ 645−−−(44年)−−−草壁、没 689
草壁生れ● 661ーーー(44年)ーーー刑部、没 705
661−645=16 705−689=16
となるよう、草壁28没をうまく689に、刑部没を取り入れたいこともあって、持ってきたといえます。この44が
また生きてくることに・・・。
要は、こういうことで何を語ろうとしてきたか、ということですがその一つに、草壁太子のいまでいう父は誰なのか
かということがあります。天武天皇と持統天皇の関係は〈天武紀〉にあり、
「天武天皇(幼いときは大海人皇子といった)は天智天皇の同母弟である。・・・・天智天皇の娘菟野皇
女を王妃に納れた。」がありこれは天武上で、で天武下では
「673天皇は飛鳥の浄御原の宮で帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は▲草壁皇子尊を生ん
だ。先に皇后の姉の大田皇女を納れて妃とした妃は大津皇子とを生んだ」
「持統天皇 少いときの名を鵜(弟=蘆)野讃良皇女という。天智天皇の第二女である。母は遠智娘
(おちのいらつめ)という。・・・・斉明天皇の三年、天武天皇に嫁いで妃となった。・・・天智天皇の
元年に▼草壁皇子尊を大津の宮で生んだ。」
で、ここだけとれば、▲は673年の、時は関係ない説明で、▼は661(中大兄称制元年)と668(皇太子
中大兄即位)の二つが関係があり、子連れで
嫁いだということが、年表でもわかるということです。大田皇女は大津皇子と親子でこれが太田牛一の
使うところとなっています。崇神のむすめ大田田根子は三輪君の祖で、箸墓の話に関わってきます。
ここで専門の人はどう考えていたのか、ということですが、筆者の及ばないことを考えてるのでこれに、
下手な考えを加えずにそのまま委ねたいと思いますが、まあ大海人皇子が遠慮してることからいえば
有馬皇子の話が持統天皇にも及ぶかなとれるところです。兄を尊敬してたかも。これは間違いとしも
年表では、
689持統天皇3年 草壁皇子尊、28歳没
↓
696持統天皇10年 ■高市皇子没(43)
697 2月軽皇子立太子 8月天皇譲位、軽皇子(文武天皇)即位)、藤原不比等の
娘、宮子ら入内。
があって 697年、文武元年となりました。
桜井満氏の万葉の注、持統天皇のところに
「・・・。天智天皇元年(六五五)草壁皇子を生む。」
があり、これやと、(689−655)=34で、持統3年は28歳ではなくて34歳になります。そこから7年目、
に持統時代の終わり、天皇10年目は、草壁太子は41歳になっています。西暦でやったから696−655
=41年となりますが、■は数えだから、ピッタリだということです。年表では大臣欄があって
689草壁没
大臣 /690太皇子高市ーーーー(次頁)太高市ーーーーー696■/
のように草壁没の翌年から「高市」の枠が7年走っています。表記が二つあるのは前の「市」の直後に
頁がかわったからですが、なんとなく「高市」とは書きたくないようです。本当の高市皇子も■のところ
で没とはならない感じです。つまり草壁は没せず、「太高市」という名前に乗って生き延びて、また
本当の没のときに別の名前に乗ったということでしょう。桜井氏はこういうのを知ってたから
689年「28」歳の死を34歳にして、696年43歳になるよう「655年」を草壁誕生年としたということで
しょう。しかしそれだけならば、「655」年とだけしといたほうが、よいはずで前に
「天智天皇元年」(六五五年)
と書いてしまったわけです。655は「斉明天皇元年」となっています。これは孝謙天皇とともに重祚で有名で
皇極天皇(642〜644の三年間)がもう一ぺん斉明天皇(655〜661の六年間)として出てきたもので、
これは同一人物とされていますが、孝謙天皇・孝謙上皇(称徳天皇)の場合と同様に別人でしょう。名を表
示しない場合があるが、実質もあるので、調和させてるものがある、つまりこの場合、斉明は「中大兄」を表
示できないために持ってきた天皇名ととれます。
つまり天皇名は、年表では「舒明13年」のあと
「皇極 3」「孝徳 10(年) 」「斉明 6 」「称制、中大兄皇子/中大兄 7 」「★天智 3」・・・
となってて、普通は称制は飛ばして “斉明|天智”、というようです。残念ながら、「/」のところで頁が
かわり次のページの初め継続を表す「中大兄」が親切のため入ることになりました。次ページは余白が
大きいため中大兄皇子と書いてほしかったところで、それやと迷いが生じず、余計なことも書かずに済みまし
た。というのは、かなり、ややこしいことですが〈書紀〉では、大化改新で辣腕を振るった、
いわゆる「中大兄皇子」は、全部「中大兄」
となっています。知られた「中大兄皇子」は、慈円が一回だけ登場させて「中大兄皇子」を使っているので
それが利用されたかも。〈書紀〉には「皇太子」がでてくるので個人的な理解では、
皇太子 中大兄皇子 中大兄皇子 中大兄皇子
中大兄 中大兄
といってる、とみているということです。つまり、二人(か三人)いるということだけで、どちらか表記だけでは
決め付けられないということです。〈書紀〉では下の人が大化改新で大活躍したが、実際大化改新を
進めたのは皇子の方かもしれない、功績は下の方に帰属させねばならないという叙述がされて、それが
成功したということでしょう。大化の殺傷事件のとき、どちらかというと「中大兄」の方が男性ッポイといえるし
颯爽としていたが、入鹿を討つ役の名のある他の人は手足が震えて役に立たなかったわけです。
(366)漏剋(水時計)の皇太子
一方、斉明天皇のとき、このときは有馬皇
子の死がありましたが「中大兄(皇子)」は全然出てこず「皇太子」が出てきて
「また●皇太子が、初めて漏剋〔水時計〕を造り、民に時を知るようにさせた。」〈書紀〉
があり、●は誰や、と緊張するところですが〈年表〉では「中大兄皇子」となっています。私見では、大化改新
から15年経っておりますが鎌足も存命で、皇極天皇も二人だろうから、これは蘇我入鹿(イルカ)をさすかも。まあ
漏剋などは、そら、たいしたもんだ、が単なる報告だろうから、わかった、覚えとこ、で終わってしまいそうです
が、どっちでもよいと思いがちな、そういう部分はないとみないかんのかも。「作る」と書いててくれれば、蘇我
入鹿は{鞍作(くらつくり)}(鞍作は「鳥」がいる)だから蘇我入鹿を暗示してるのだろうといいたいが残念でし
た。しかし、「造」となると台(座)が要るような大きなものとなるが、これは精巧・緻密が要求される小さなもの
より簡単で、満タン三つか四つの「取水」の減りで計るか、適当量の取水で出し水(「水取」)の堆積で計るか
はわからないが、大工の技量で(全国役所で)(川の水利用で)出来るものでしょう。告知には寺の鐘が要り
ますが、それは殆ど官が造ったものですから、外郭団体といってもよくて、あっという間に全国の民に「知る
ようにさせた。」ということになりますが「造る」・・・・「民が知る」の間に省きがあり、表向きは、しょうもないこと
だが、書いとくという印象をあたえるものが多いということです。そんなん出鱈目だ、と怒る
人もあるので、もう一つこの時計のことでいえば
(367)乙相の賀取文
「夏五月八日、▲高麗の使人、乙相(おつそう)の賀取文(がすもん)らが難波の舘に到着した。
この月、有司は、勅を奉じて、一〇〇の高座、一〇〇の能袈裟(のうけさ)〔法衣の一つ〕を造り、
仁王般若の会を設けた。また●皇太子が初めて漏剋を造り、民に時を知るようにさせた。また
◆阿倍引田臣(名を欠く)・・夷五〇余・・・また石上の池の辺に、須弥山を作った。高さは廟塔ほど
である。・・・粛慎〔人〕四七・・国・・百・・(・・国・・・百・・・。)
秋七月一六日、▼高麗の使人、乙相(おつそう)の賀取文(がすもん)らが帰国した。」
があり、先ほどの●の文は、▲▼という不思議な人物に挟まれています。が、今のことで言えば時計の
前に、「仁王般若(にんおう はんにや)の会を設けた。」と、あり大政翼賛会のようなものでしょうが、
準備が進んでいて制服まで揃えてたのかもしれません。まあ、テーマを絞って、民間活力も生かして、あっという間に
やってしまったようなことが読み取れそうです。ここにも「造」があるから鐘楼なども含まれているのでしょう。
また別に「作」る、があって、こちらは「造」の方がよいと思いますが、北国からの来た人の迎賓館のような
ものと取れますが細工が細やかだったとも考えられます。一〇〇、一〇〇、五〇余、四七、百、{百}、は
なにかよくわからないから待ってなしょうがないところですが、50余+47は、52.5+47で概ね、100という
のかも。「47」を「45」と「49」として、使いたいというのであれば、95余、97余、99余もありえて四捨五入の
{百}ともなりえますが、45(95)で使いたいというなら、ありがたいといった所です。▲▼が問題ですが、二年前
(658)にもこの人物は一件出ていて三回登場になりますので重要人物ともいえます。ここで出てる「粛慎」
はそこでは
「粛慎(ルビ=みしはせ)」
となっていて、◆が「阿倍引田臣比羅夫」という名前で出ていて、「粛慎(みしはせ)」を討つ、という話に
なっています。「95」と粛慎、粛慎(みしはせ)覚えとこ、覚えとこ。
それは別として、▲▼の名前は、「取」=「鳥」があり、「鞍作鳥」の「鞍作」をみてるかも。
また「取」は「取る」」ので
「賀」□「文」
「文」□「賀」 となり□に「屋」が入るのでしょう。天皇名は
推古(蘇我馬子の時代)−舒明−皇極−孝徳−斉明−称制−天智−天武
と続いているから、「推古」の長い36年間をみないと、舒明(13年間)の時代や人のことはわかりませんが
とりあえずいえば、
(368)蚊屋皇子
舒明天皇の子は〈書紀〉では
一、葛城皇子(・・・近江の大津の宮・・・・天皇〔天智〕)(★の人物)
二、間人(はしひと)皇女(「孝徳の皇后」)
三、大海(おおしあま)皇子(・・天皇〔天武〕)(こう書きながら〈書紀〉は別に「大海人皇子」も書いてる)
馬子の娘の子、古人皇子(「更の名は大兄皇子」)
蚊屋皇子(吉備の国の蚊屋采女の子)
となっていて、 「蚊屋皇子」が出てきます。これは、塵芥情報では、「賀陽(かや)王」であり、表記で見
れば「蚊」=虫+「文」ですから、また「蚊」は「ぶん」と読み夕庵は桶狭間の願文で
「寡を以て衆に対す、・・・・蚊子(ぶんし)の鉄牛を咬むに同じ。」〈甫庵信長記〉
と書いており、上の□には「虫」とか「か」も入りえます。崇峻天皇のことは触れましたが、芭蕉に
「羽黒山・・・図司左吉・・・・尋ね・・・別当代会覚阿ジヤ(門+者)利・・あるじせらる・・別院・・舎・・
・・本坊・・誹諧興行・・有難・・ほ(を)・・南谷・・権現・・■能除大師(のうじよ)・・代・・延喜式・・
書写黒の字を里山となせるにや。
羽州黒山を中略して羽黒山と云ふにや。
出羽・・・鳥の毛羽(もうう)・・国・・風土記・・侍(はべる)とやらん。・・・」〈奥の細道〉
があり、何回も出したものですが、■の麻生氏の脚注は、
「崇峻天皇の第三皇子、蜂子皇子のことで、羽黒山で修験道を開いたという。」
となっています。崇峻の属性は「黒」か「(鳥の)羽」ですが、「羽」は「虫」の属性でもあり、ここで「蜂」が
出てくるのは必然ともいえるのでしょう。〈漢語辞典〉をみると「@昆虫の総称」というのはわかりますが
Aとして「羽虫は鳥。」「毛虫は獣。」「甲虫は亀の類。」「鱗虫は魚類。」「裸虫は人類。」となっていて、
「一般に爬虫類の意味も表す。」となっています。つまり、
小さい「羽虫」=(はちゅう)(はむし)=大きい「爬虫」類
で恐竜時代の記憶から両者が、潜在的に結ばれてるかともいえますが、この蜂子皇子が蚊屋皇子に
「虫篇」で来てると、いえそうです。「有司」も「有難」の「有」、「図司」の「司」があり、「難波」の「難」「南」、が、ここで中略「す」があります。
や「国」も「武」など出てきてるので、あの一節を芭蕉が意識してるのは読み取れるところです。重要な
取⇔鳥もあり、芭蕉は
羽「州」黒山 の「す」取りで 羽黒山 書写の都合で「点四」取りで「羽里山」
といっておりこれは、「州」=す=「取」があるので
賀「取」文 の「す」取りで 賀□文 音写の都合で「天子」鳥、で「賀鳥文」
ということをしてるのではないかと見ますが、ここで蘇我入鹿が出てこないと話にならないわけで、「鳥」
で出てきたということと思われます。
(369)蘇我福利
蘇我入鹿の鞍作関連の表記を一応あげると
「蘇我鞍作〔入鹿〕」、「入鹿」、「鞍作」、「大臣の子入鹿(更の名、鞍作く(らつくり)」、「蘇我臣入鹿」
「入鹿臣」、「蘇我大臣蝦夷、子の入鹿臣」、「鞍作臣」、「蘇我臣入鹿(更(また)の名鞍作)」、
「@鞍作(くらつくり)の鳥(とり)」、「A鞍作の鳥」、
があります。「臣」が入っていて一応、蘇我イルカというのも含まれていそうです。「鞍作」でいえば607年
遣隋使派遣のとき、「小野妹子の通訳鞍作福利(ふくり)」がでますがこれは
「鳥」→「止利」@
「福利」A
という一族の別人がいるのかも。609年「小野妹子」が「大唐」から帰国したとき、
「ただ通訳の福利はかえってこなかった。」〈書紀〉
という大ごとが起こりました。病気か、事故か、離脱か・・・と(昔の)人はやきもきするだろうというのを見
越した、〈書紀〉の記者の語りが続くのかどうか。
小野妹子(ここだけの完全な孤立表記)は蘇我入鹿ととりたいというのは既述ですが、福利は今で言
う弟と取れるのかどうか。などが宿題となってきます。大化改新のとき、大化元年、645
「〔唐〕 李世民(太宗)の第一次高句麗征討。」〈年表〉
があり、これは天皇名
推古 36年 /舒明13 /皇極3 /孝徳10 /斎明天皇6 /称制中大兄7 /天智3 /
馬子のとき / 蘇我蝦夷のとき / /
↑ ↑ ↑
629 641 645(大化元年、蘇我入鹿・蝦夷没)
となっている、「皇極」(舒明の后)の終わりに当たります。舒明二年目、630に第一回遣唐使が出て、
これに蘇我入鹿が乗ってれば、645太宗が高句麗へ外征という局面転回も読めてた、親唐外交へ舵を
切り替えたといえないまでも、両国の狭間にいて独自の立場を堅持する必要を感じていて、率先して
やった姿が浮き出てきて、日本史上最高の政治家の一人と目されている理由も出てくるというものです。
ところが、〈年表〉記載はそうなっていないようです。遣隋使は推古天皇の皇太子聖徳太子が摂政に
なってからで、600年に第一回があり607年まで三回だされましたが年表には一回目しか出ていませ
ん(〈書紀〉にはでていない)。
(370)いわゆる小野妹子
小野妹子は四回めに初めて出てきます(〈書紀〉にも初めて)。
C「607 ●小野妹子らを隋に派遣する」〈書紀〉
D「614 犬上御田鍬・矢田部造を隋に派遣する」〈書紀〉
があり、600年の第@回遣隋使以来、5回の派遣があったそうですが、これで終わりです。CDだけ取り上げた
のは〈書紀〉で出てるからというのと
本文では二つとも「隋」が「大唐」になってるのに、年表では「隋」で通しているからですが、まあ中国は「唐」
の国ともいうからこれでもよいのでしょう。要は「唐」は618の建国だから隋にしないと合ってないということ
だけが、このかきかえになってるということです。つまり「大唐」は三つ、
大唐= @大唐 A大隋 B中国
となるのでしょう。人名で「両三人」〈信長公記〉が使われBもぼんやりでてきます。、
菅屋九右衛門= @菅屋九右衛門 A菅屋九右衛門 B菅屋九右衛門
長行 七尾城代・長頼 菅屋・九右衛門?
太田和泉守 金松又四郎 太田和泉守
お三通りがあるのと似ていそうです。この菅屋九右衛門(24頁に登場)が本能寺で戦死するということが
重大事で、ここで重要人物が戦死したとは考えられず、表記が消されたと取るしか仕方がないところでしょ
う。たくさん(甫庵でも22頁)のその場面にでたでの菅屋九右衛門は引き当てされて、納まることになるので
しょう。本来なら〈広辞苑〉に出てこないとおかしい、小寺(黒田)官兵衛も一回だけの登場です。
これは同世代平面ではなく、時で三代、@は(九=久)で堀久太も場面においてはありえます。文献では
〈信長公記〉〈甫庵信長記〉〈甫庵太閤記〉の三つの菅屋九というのが場面に出てきます。明治維新は近代や
からそんなことないというのは、とんでもないことで、太田牛一のがビシッときまってるから多少ヘボでも
安心やというだけのことです。
次いで遣唐使の記事が あり
@「630 犬上御田鍬・薬師恵日らを唐に派遣する。(第一回遣唐使)」〈書紀〉 (本文「ら」はない)
となっていて、●は年表では「隋」には行ってるが、ここで「唐」に行かず、これで出番がおわりました。しかし
Cの翌年帰ってきたときにときに
「唐国は妹子臣を名づけて蘇因高といった。」〈書紀〉
唐客らをつれてきたような長い文があり「小野臣妹子」は「唐」が属性になってしmった感があります。この年
妹子はもう一回大使として「福利」をつれて唐客を送って西の皇帝に書を届けています。このとき留学生を
遣わし「学生」に「倭漢直福因、奈羅訳語恵明」がいます。
「この年新羅人が多く帰化して来た。」
があり、609年、妹子は帰ってきたが「通訳の福利はかえってこなかった」がここにあります。
614のDの記事があり翌年大唐から戻ってきて、百済使が、犬上君に従って来朝したというのがあります。
622聖徳太子が没があり
623新羅の大使が来日して、このときに「恵日、福因(ふくいん)」らが大使についてやってきて
「唐との国交開始を建言」
があり@630の記事が出てきます。「蘇因高」の「蘇因」 と、修飾語の多い
「倭と漢、直の」 ★★「福因」 (羅・「訳・語」・恵)
とは、「因」(いん)が係累といえるのでしょう。「因」はものごとの「もと」であり、「胤」は人種の「もと」でもあると
いってそうです。日本では、これは「種たね」にも変換されて、「畑・畠」との大きな相関が語られてきました。
まあ胤@、胤A、胤Bくらいがあるのでしょう。ここでも「大唐」は〈年表〉によって「隋」に改竄されたことによって
隋⇔唐の二通りから、三とおりに、も広がることがはじめに予感されたということになるのでしょう。
(371)もう一つの隋(隋倭に載った隋)
@の記事「倭王・・隋都大興・・(初めての遣隋使)〈隋倭〉」
ここで「大興」をつかっておりやさしく書くなら「長安」でよい、資料名が違う。この辺りにタリシホコ
が出てきて「日意zyるところの天子」とやっ他挿話があるあり。この日というのは朝鮮国にいたので
大倭=今の朝鮮半島に宗主がいた国(今の日本含む)が隋に出した使節といえます。
・ CDは今日本が大倭に出した遣使でこれを隋へと〈年表〉が書き換えた。これは日本にいた聖徳
太子のときで、630年の遣唐使の準備をしたといえるが一応白羅白済を出し抜くようなことになうが
聖徳太子は多利シ日子の子か孫という大物だかも。遣唐使の準備をやっていたといえそうです
表記が違っていて小野妹子は本文では、小野臣妹子(いもこ)で「妹子臣」を名づけて
蘇因高、614年は「犬上君御田鍬みたすきです。犬上君に百済使節がついてきたということです。
630年「犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすき」大仁薬師★恵日くすしえにち
□を大唐に遣使した」
このちょっと三行まえに蚊屋皇子が生まれたがあります。蚊=文で。これは文屋の康秀の名前のモト
で小野小町を三河へ誘ったとかで有名です。康秀となると秀康が出てきてこれは秀吉+家康だから
戦国で活用されそうなところのものでしょう。福利が戻ってこなかったのは
Cの2年後の609年の「唐客をおくっていったときです。
623年に恵日と福因が帰ってきて、唐との国交を進言します。しかしこれは唐に行った学僧、
留学生の起用をしんげんしたということです。このとき★★は属性が本文で付与されました。
(372)戦国の犬上郡
いま福利を追っかけてきたのは、小野妹子は遣唐使ではないかということで、年代は違うが、大唐へ行って
戻ってきた、とかいてある、福利(福因)が630年に行ったと書いてある、つまり630の犬上君は
犬上君御田鍬=小野臣妹子=蘇我入鹿
ではないかと思われます。桶狭間であったように後年あのときの話が出てくることになります。先に出てくる
こともありえて永禄4年上杉謙信の、武田信玄本陣への単騎突入が、永禄元年にあったということなら
さきに述べていたということになります。犬上は犬神、狗神もありますが、近江に「犬上郡」があり、
脚注で「大船を急造」と判る一節で(「鯰江百済寺(はくさいじ)」の一節)
「御座・・・●多賀・山田山中・・佐和山麓松原勢利川・・・・国・・百・・・大船上下耳目・・」〈信長公記〉
があり、●は脚注では
「滋賀県犬上郡多賀町のうち。多賀神社が鎮座している。山田は未詳。」
となっていて、犬上郡がでてきます。「多賀」が属性といえますが「賀」は「賀取文」「賀取文」で出た記憶
がありますが、そら関係ないとなるのは、語りの間をつめすぎたので仕方がないことです。「多賀」は
「多賀新左衛門」〈信長公記〉 (考証名「多賀常則」、注:「〈東浅井郡志〉は貞能とする。多賀氏
は近江多賀(滋賀県犬上郡多賀町を領した。」)
が爆竹(渡海)で出てきます。「則」は「賀須屋内膳武則(七本槍)」、「福島正則(七本槍)」がいますが
「常」は〈両書〉ではなかなか見当たりません。〈類書〉でいけば支倉常長がいて、索引で、「木村」の
後に出てくる
◆弓徳(きゆうとく)左近兵衛〈信長公記〉(文中表記「弓徳左近)
があるので、「木村いこ助」(「木村伊小助」「木村伊小介(索引漏れ)」もある)に戻りそうです。◆は注では
「久徳は滋賀県犬上郡多賀町のうち。久徳氏は多賀山中の城主〈淡島温故録〉」
となっていて、「弓」→(徳)→「久」が出て→
「堀久太郎」
「久野三郎左衛門(考証名「久野宗能(久能の住人)」」〈信長公記〉〉
「久我(こが)」→「木(こ)村」−「木(き)村」−「山中」
「久我(こが)」→「久野」→「小(こ)野」−「小(お)野」
などが「久」から出てきます。天正十年、久太郎と多賀のセットがあり、
「ココ(媛の右の字)にて、惟任日向守・堀久太郎・多賀新左衛門・・くさ津へ湯治仕候なり。」〈信長公記〉
が出ます。「くさ津」に脚注があり
「草津、群馬県吾妻郡草津町。温泉町。」
ですが、多賀− 滋賀=志賀=惟任・日向守 というところから、近江の野洲郡の草津へ飛ばされても
いるようです。温泉(いでゆ)は、索引で「湯川(紀伊日高郡)/弓削六郎左衛門」となって別の所を回って
弓に戻ってきます。弓削は弓削道鏡の古代を巡ってきたということになるのでしょう。「久野」は「高天神」で
出てきますが、
「松平督。・・松平玄蕃允・・久野三郎左衛門・・牧野菅八郎・岩瀬清介・近藤平右衛門、」〈信長公記〉
があり、この「督」は堀左衛門督の、「督」であり「徳」でもあります、「久能」の「能」は本節に
「菅屋九右衛門、能登国七尾城代・・」〈信長公記〉
がでており、これが「牧野菅八郎」に懸かっていそうです。一方、久能では家康公が出てきているので
そのからみもあるところで、松平が出ています。「黒松」「松杉」などの「松」、平原の「平」、などもありますが
松永・平手の「松平」というのは逃げられない所です。ここで「玄」とか「徳」が出てくると索引
日・・/百済寺の鹿・百済寺の小鹿/■日向玄徳斎/平井/平手/平野/平松助十郎
の■が出てきて、これは注では
「日向宗栄 実名宗栄〈信濃資料〉、日向氏は信濃佐久郡日向邑から興った。」
となっており信濃に「日向」があるということで、九州の「日向」は決まりとなってるのは、近江、信濃に「日向」
が出てきてるので違うということになるはずです。つまり「百」は太田牛一は「はく」とルビを入れており、
百済の前の「白済」の国をいっていて、〈辞典〉では「向」は「北側についてる窓の象形でたかまどの意味を
表す。」などがあって、「日域」というのも〈辞典〉では四つの意味があって
「昔、中国で朝鮮をさしていう。」
がひとつあり「日本の別名」というのもあるのはそのあとのことでしょう。「日宇」「日向野(ひがの)」「日向
(ひなた)」「向日」など地名とか限らないものがありますが信濃の日向は神武紀はじめで{前紀}で出てくる
「日向の国」」別系統かそのときに「日向の国」@「日向の国」Aが意識されていたかはよくわからないところで
ですが多分後者と思われます。現に「吾田邑(あたのむら)」がでていて、「吾」は先ほどの「吾妻」の「吾」
で注では
「天孫降臨の地と同じ。今津湾の南{福岡市西部辺}の地」
となっていてちょっと決めかねるといってるとも取れそうです。いま「常」のことで、「常長」がでましたが戦国で
「上田七本槍」の一人で「小野忠明」という秀忠の師範役の剣客がでます、小野忠明Aというべき
小野派一刀流の開祖 「小野忠常」
が出ます。伊藤一刀斎の一刀流の流れですが、「常」から佐々木領の鯰江の百済寺のあたりの忠常の「小野」が
「鹿」=小野妹子となっています。
「高宮右京亮」〈信長公記〉
は注では
「近江(滋賀県)犬上郡高宮から★興った。高宮氏は京極家の臣」
となっています。ここに高宮神社がありますが、「犬上」が予想外のところに出ています。芭蕉の
「紙子塚句碑」
が、高宮にあります。多賀神社の鳥居の近くのようですが、「紙子(衣)」は
ためつけて雪見にまかる紙衣かな
がありました。紙衣=(雪見)=小野御幸ということで小野がでますが、このあたり昔は小野といい、小野小町
の伝説があります。ここの「京極」というのは、「皇極」の「極」を出してる、と思われます。そらおかしい、遠すぎる
京極家は皇室と関係があるとは聞いていない、ということにすぐなりますが、★の字が活用をまってるわけです。
京=興味(きょう)=復興(こう)=皇
ということになります。それも納得できんと、となりかねないかも。これに関して見失いましたが「卿(けい)」
も変な出方で出ていました。京=卿(けい)卿(きょう)→「興」「皇」のつもりです。表記でみてると水平的な
思考も自然と働いている感じです。要は「入鹿」をみるときに「皇極」が働いてくるというこをいってそうです。
(373)あの卑弥呼は近江にいた
犬上御田鍬は御田(みた)であり、「三田」で、「山田」です。「三田」は〈信長公記〉では脚注しかでてこず
本文で
さんだの城(脚注=「三田の城 兵庫県三田(さんだ)市のうち。」 (地名索引は「さんたの城」)
があり、索引からは「三太」「山太」も出したそうです。芭蕉に「御山」がありますが「太山(みやま)」
があり、太田→み田→三田→山田となり「太田」は「山田」です。〈信長公記〉では「山田」は「山田大兵衛」
など13件ありますが、本来太田にしてもよい表記を目立ったらいかんので「山田」にしたというようなものが
ありそうです。山田大兵衛でいえば太兵衛も考えられ「堀久太郎」でいえば本当は
堀久大郎 子息堀久太郎
としたい、「山田半兵衛」はその逆で例外的な「半兵衛」もあるとうことをいいたいというのがありえます。
邪馬台国の台は(たい)と(と)という読みがあり、太・大(たい)「太」「田」です従っては大津宮の大津は
大津→大都(つ)→大都(と)→大台(と)→大太→「大田」
大津皇子は大田姫皇女(「大田皇女」もある)の子ですから、まあこの辺は「大津=(大)=大田」で「大」
で繋がれてるからかんがえてみてもよいところです。いいたいところのことは、あの邪馬台国は、近江に
あったということです。
(374) 蚊屋皇子二人
小野妹子=蘇我入鹿といっても蘇我入鹿がわからないとこれ以上進めません。蘇我入鹿は
推古26/舒明13/皇極3/孝徳10/斉明7/称制中大兄7/天智3★/天武15/持統10
|
入鹿死
において皇極紀のはじめに強烈な印象を与えて出てきます。
「元年642・・・正月・・皇后は天皇位に即位いた。蘇我臣蝦夷を大臣とすることは、前と同じであった。
大臣の子入鹿(いるか)(更の名、鞍作)は自分で国政を執〔行〕し、威〔勢〕は父に勝つていた。これ
によって盗賊はおそれおじけて、道に〔落としものが〕遺っていても拾わなかった。」
があります。「執行」と「執る」などは二様のものがありそうですがとにかく世はシカと治まっていたようです。
舒明はあの聖徳太子の子と取れますが49歳でなくなったとき30くらいの子息がいるはずで、13年間
の在任の始めから政治に携わっているはずなのに、皇后が即位したのはなぜかということになります。
答えられなければ「皇極」のバックにいる勢力が政争に勝った、というぐらいしかなくて大化の改新で、
ちょっと遅れて実現したのでそれで納得となります。皇后の子は葛城皇子と間人皇女と大海皇子で、
これは舒明の子でもあって、ほかに古人皇子(大兄皇子)、蚊屋皇子がいて、この皇子の紹介が
630舒明2年、犬上三田スキ(耒+呂)の遣唐使の話がでます。
蚊屋皇子は斉明天皇6年の「賀取文」のところで皇太子時計のところで出ました。「賀取文」のところを
見直してもらうと「般若」がでています、これは太田牛一で
「蜂屋般若介」
があって、崇峻の皇子である「蜂子皇子」の「蜂」を受けて、「蜂屋」=「屋」=「蚊」とつなぐものです。
つまり
蚊屋皇子年代のちがう二つの場面で出てきます。すなわち
A B
舒明二年630、皇子の紹介 斉明六年660 賀取文の紹介
遣唐使のところ 皇太子の時計のところ
の二つで出ます。A〜B間は30年あって、舒明天皇没(641)のとき
葛城皇子@(蘇我入鹿)は33歳くらいで
葛城皇子Aという、その子息は17歳
といえそうです。
こうみてくると、年表で
「671★天智三年(天智10年) 天智天皇没(46歳)」
となってるのは、葛城皇子Aの年齢と合うので、時をへだてて同一表記というのが、非常に悩まされる
おころです。(364)で出た蘇我馬子の治世47年などは長すぎるわけで、その辺からやってこないと
舒明天皇、49歳没からの把握も難しくなってきます。
次稿「堀久太郎・卑弥呼の出自(3)の(375)に続く
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