27、柴田勝家・支倉常長の出自
(1)山田三左衛門
「太田」「山田」「石田」は「田」を共有していますが「三左衛門」というのは「山田」だけに
しかなく、従って「山田」は「森三左衛門」を「太田」石田」に近づける役目をしていると
いえそうです。とくに「明智」が「石田」につながるというのが戦国理解の重要な柱となるので
表記の上でもその布石があり「山田」が大きな役割を果たしています。まあいえば太田が
余り使えないので「山田」がその代わりという感じもあります。なんと「山田」は12種の違っ
た「山田」があり、「太田」の4種と大きな違いがあります。太田と同じように地名もあり、
数多く、広く分布していてわかりやすいので、そういう人がいた、となってしまいやすいもの
です。反面隠すのには、格好のものとなるともいえます。つまり〈信長公記〉の
「山田三左衛門・梶原平次・・・」 「山田・広葉両人」
などはどういう積りで書いたのか、誰と誰なのか、というようなことが、出てくるので一応
明智光秀周辺を当たる前にみておきたいと思います。
「太田和泉守」は〈類書〉や解説では、尾張の春日井の「山田村」「山田郡安食村」を
本拠としており、「山田」は、その属性といってもよいことは既述です。テキスト地名索引
に出ている「山田」「山田郡」はストーリーでは伊勢で出てくる「山田」ですが、それは尾張の
山田のことも指していっていると思います。太田和泉守の属性というのは、地名、人名と
して直接出ているものに限らず、「山田山」とか「小山田」とか「さん田」(例えば兵庫県の
「三田」)というのも一応は関連付けて見ないといけないのかも知れません。
両書に「山田三左衛門」があり、はじめの登場では
「柴田修理・森三左衛門・
山田三左衛門・長谷川与次・」〈信長公記〉
「柴田修理亮、森三左衛門尉、
山田三左衛門、長谷川与次郎、」〈甫庵信長記〉
というような出方をしています。
○「山田三左衛門」だけ上下同じである
○〈甫庵信長記〉では「山田三左衛門
尉」(五回)、「山田三左衛門」(一回)と
いう登場におけるその初回の「山田三左衛門」がここにある
ということですから、甫庵は偶々ここで「尉」を抜いたとみるのは合っておらず、
初めの、この瞬間だけ「山田三左衛門」を同じにしたといえます。
こういうのは対比してもわかりますが、嵌めこんで見ようとすると、
「柴田修理亮(柴田修理もある)、森三左衛門尉(森三左衛門もある)、山田三左衛門、
長谷川与次郎(長谷川与次もある)」
という文章が出来上がります。こうなると
「山田三左衛門」だけが確実だ、
「山田三左衛門」だけはいらない、
という相反する疑問も出てきます。「山田」という姓が「大田」というのと同じで
読み間違いなどない、
全国的な名前
なので、何かいいたいところがありそうな感じはします。
すなわち、ここの「山田三左衛門」については
○森三左衛門と似ている
○森三左衛門の後ろにある
○後ろに、長谷川がきている
○後ろの人物「長谷川」に「与」がついている
○長谷川は「次郎」となっている
○「山田三左衛門尉、長谷川丹波守」という並びもあり、「長谷」「丹波」注意
となっていて、首巻終わりの
丹波国桑田郡穴太村ー
長谷の城ー赤沢加賀守ー
内藤備前守
角鷹二連、鷹好奇(すき)」と連絡している
ことなどから、一応「山田」は「森」「長谷川」「太田」的な表記であるといいたいと取れます。まあ
長谷川三左衛門は作らなかったが、遠慮したということでしょう。「内藤三左衛門」はありますが
徳川の人で出しています。「左衛門」という表記もありますので「三左衛門」だけをとりあげれば
「三左衛門」で一人、3×「左衛門(尉)」で三人、計四人を匂わすものでもあります。
y
とにかく山田村の太田ですが、この「山田」は特別〈吾妻鏡〉から持ってこられたものでしょうから
はじめから意図的なものといえます。〈吾妻鏡〉で「山田」は
「山田太郎」「山田次郎」「山田彦次郎」「山田四郎」「山田五郎」「山田六郎」「山田蔵人」
「山田八郎」「山田左衛門
尉」(新人物往来社版〈吾妻鏡〉人名索引)
と全九つの山田が揃っており、この「山田左衛門
尉」が〈信長公記〉で使われています。〈信長公記〉
では「
尉」が原則として使われないのに、ごく限られた登場の
「・・・山田弥大郎・滝川彦右衛門・山田左衛門
尉・■佐脇藤八」(信長公記)
の場合に「
尉」があるから〈吾妻鏡〉のものをそのまま持って来たことになります。〈吾妻鏡〉を参考
にしたこと、細かい配慮があることは、山田が目的的な起用であることが窺えます。一応「尉」と
いうのが〈信長公記〉には殆どないということをいいましたが一件
「坂井左衛門
尉」〈信長公記〉
があります。〈信長公記〉で、この「尉」が出てくるのが二つあって(他に特殊なものはある)、それが
「山田左衛門尉」と「坂井左衛門尉」
というのであれば、ちょっと意味が違ってくるのでしょう。「尉」の一字のことなど
取り上げるにあたらないかもしれないと思ったときもありましたが、ここで、やはり追って
行かねばならないものであること、取り上げてきたのが著者の意に適うものだと感ずるところ
です。
「坂井左衛門尉」は
徳川の「坂井左衛門尉」
と取られていますが「山田左衛門尉」が出てきているということが引っ掛ってきます。
甫庵は全部
「酒井左衛門尉」〈甫庵信長記〉
というように姓の字が変っていて、徳川で馴染みの「酒井」というものになっています。「尉」はこの
「酒井」の全部に付いており、〈甫庵信長記〉が、一つだけ「山田三左衛門□」を作ったことと、〈信長
公記〉が例外的に「山田左衛門尉」を使ったことは、「左衛門尉」は〈吾妻鏡〉からもってきた、歴史的
な重みのあるもので、「山田」も、語りの巾を広げるという意味の起用というのがありそうです。
つまり一つは
坂井
左衛門尉=山田
左衛門尉(吾妻鏡、信長公記)
で、坂井=山田の「重ね」をやった、坂井は山田を通じて、太田に繋がる、太田和泉守も坂井左
衛門尉に乗っかる場合がありえます。「坂井右近」「坂井久蔵」〈甫庵信長記〉などがそういう
表記であり、坂井左衛門尉の本拠「吉田」も、太田和泉守周辺の語りに使われます。また、この
「尉」は、「じょう」=「丞」
という意味で特別のものがあるかもしれません。
「三宅権丞」、「河尻左馬丞」、「川尻左馬允」
などがあります。「山田」の利用で初めにとまどうのは〈信長公記〉の第一節に早くも
「御台所賄山田弥右衛門なり。」〈信長公記〉
が出てきて、織田信秀の新城の大蔵大臣だから重要なのに漠然としているということです。
当面、山田郷の弥右衛門として置くしかありませんが
「御台所賄(みだいどころまかなひ)の事平手中務・・・・御台所賄山田弥右衛門なり。」
〈信長公記〉
となっていますから子息に「山田」を使ったかも知れないというのも出てきます。
戦国理解の骨子の一つは、明智、森から石田への継承があり、これが徳川(酒井)との、
対立軸になって、関ケ原の戦いというものになったということです。今、森明智から石田への流れ
が切断されて捉えられているのは、〈二書〉での石田の登場が余りに少ない、登場
の仕方が分りにくいということから来ています。太田牛一がそれを別のところでどういう形で補強
しているか探る必要があります。「山田」はその操作の一つということで今のべてきましたが、
早くも
「酒井左衛門尉」ーーーー山田三左衛門(太田和泉守)
の密接な関係と対立構図が出てきました。 小豆坂の人名表で
佐々隼人正、佐々孫介、中野又兵衛
の年齢紹介の三人が出てきて、年齢でいきますと
佐々孫介、中の又兵衛、佐々隼人正
という佐々三兄弟となりますが、これが見逃されると物語が成り立たないことになります。したが
って、まん中の又兵衛にあたる
「佐々内蔵介」
が古今無双の英雄の一人として登場してくることが必然でしょう。これが、厳冬のさらさら峠の
難所を突破した物語に結実したということになります。たいへんな壮挙なのに語られることが
あまりに少ないので、それを取り上げてみようとしています。「佐々」は「江州」の
「佐々木」の「佐々」
との関連で、当時活躍していた「佐々」氏が出されたものかもしれません。次世代の石田三成に
繋ぐならば「石」の登場が鍵となります。しかしある程度もう匂わされているところでもあります。
すなわち
「柴田修理・森三左衛門・山田三左衛門・長谷川与次・佐々内蔵介・佐々隼人・
梶原平次郎・・・・・・・山田弥大郎・・・山田左衛門尉・佐脇藤八、」〈信長公記〉
があり、前四人は始めに挙げました。後ろ省いた部分に実際は「佐々」二人が出ていました。
「梶原」も宇治川の先陣、佐々木、梶原の梶原源太景季が想起されます。さらに
「柴田権六・・・・・山田治部左衛門・・・・・柴田権六・・・★佐々孫介・・・・森三左衛門・・」
〈信長公記〉首巻
があって、「柴田」と「森三左衛門」が上のものと対応し「佐々」は★と、上の二人で三人揃って
います。そこに「石田三成」の属性である「治部」が「山田」に伴われて出て来ています。
(2)橋本一巴
もう少しこの〈吾妻鏡〉の「山田左衛門尉」の周辺を突っ込んでみると、再掲、
●「・・・山田弥
大郎・滝川彦右衛門・山田左衛門
尉・■佐脇藤八」(信長公記)
の羅列もみないといけないのでしょう。
@「山田弥
大郎」は、もう一つ「山田弥太郎」〈信長公記〉 があります。本能寺で
「・・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・・」〈信長公記〉
という形で出てきて、戦死します。ここで表記が消されたということがいえそうですが、「大」と
「太」が〈信長公記〉のなかで分けて使われています。「太田」「大田」というのが意識された
もので、ここの「大」「太」の違いも少し違うというのはあると思います。この初めの「弥大郎」の
「山田」は●の三番目の「山田(左衛門尉)」と連絡があるのは容易にみてとれます。
「大郎」
というのは
「太郎」
と違うというのに、「山田左衛門尉」ー「佐脇藤八」と繋げているので「太郎」と同じに
なったということかも知れません。つまり〈吾妻鏡〉での「山田太郎」は
○一番先に生まれた
○今で言う、男性
ときめられるのかどうか疑問です。前者は問題なさそう、と思いますが、大田牛一は
「山田大兵衛」〈信長公記〉
も作っており、これは黒田武士、「母里太兵衛」と似て非なりのものです。「母里太兵衛」の
語源にされたものでしょう。
(大兵衛)「山田」−「大田」ー「森」ー「毛利(但馬)」=「母里」(太兵衛)
で多分福島正則のところへ使に行ったのは「母里太兵衛(森大兵衛)」のペアで日本号の槍を
せしめたのは、金松正吉だったというようなことでよいのか、という疑問も出てきます。
「弥大郎」も作られたので一応、ここでは
「太郎」に(大郎)と(太郎)
があり、〈吾妻鏡〉の「太郎」は広義、●の弥大郎は「弥太郎」でない方という意味、十郎という
広い意味があるかも、という程度のところです。太田牛一には、わかりにくいことは
聞けば判るという側面がありますので、いずれ公式を述べてると思いますが、とりあえずは
仮に決めて、仮に決めて、進めていくしかありません。
A「滝川彦右衛門」は、佐脇藤八に結びつけて出した、といえます(前田又左衛門A)。
〈信長公記〉における「彦」という字もどうかということがあります。
B問題は「左衛門尉」ですが、佐脇藤八と最も近い人物は、太田和泉守です。また佐脇藤八
は「左衛門尉」の属性を暗示したという面がありますので、(山田、坂井)左衛門尉は、あの二人
が重なっている存在といえそうです。山田は坂井を呼び出しているといえます。
Cの佐脇藤八の出番は
桶狭間登場 : 岩室長門守・長谷川橋介・山口飛弾守・
佐脇藤八・賀藤弥三郎
尺限廻り番衆 : 山田弥大郎・滝川彦右衛門・山田左衛門尉・
佐脇藤八
岩倉 :★(浅野村)林弥七郎・・・・・橋本一巴・・・・林弥七郎・・・・
佐脇藤八・・・・
佐脇藤八・・・・・林弥七郎
身方が原戦死: 長谷川橋介・
佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎
於久地で戦死: 岩室長門
で、桶狭間登場で脚光を浴びますが初めは★の文の登場です。この佐脇藤八は「岩室」同様、
戦死で表記が消えています。佐脇藤八の役割は大きくで兄弟、
親を紹介し、「左衛門尉」と「林弥七郎」の属性を導き出しているといえそうです。坂井左衛門尉
と「林」が表わしている「七郎」が佐脇の「八」と繋がります。そうとすれば★の文の一節の
「橋本一巴」
はどういう役割をになうのか、仕組まれているのかということになりますが、いまとなればその
姿もみえてきそうです。この人物は
「鉄砲の名仁(めいじん)」〈信長公記〉
とされており、「林弥七郎」は
「隠れなき弓達者の仁躰なり。」〈信長公記〉
となっています。弥七郎は、一巴に「詞(ことば)を懸け」、鉄砲と弓の決闘があって、結果が
はっきり書かれていないので、〈戦国〉では相打ちとみていたものですが、林は息があって
佐脇が討ち取ります。このとき林は一巴には弓で、藤八には「太刀」で刃向かってきたことに
なっています。これが“於ね” の今でいう父です。ここで一巴は
「二つ玉」〈信長公記〉
で撃ちましたが、脚注では「弾丸二個」と書かれています。この世には硬い玉が主ですが言葉
では柔らかい玉も作れます。これからいえば「一巴」の「一」は〈吾妻鏡〉の一番目「山田太郎」の
「太」が意識されているとも取れます。一般に「太郎」と「花子」があって、男性と女性だというのが
定着しています。また「一太郎」はあっても「一花子」はない、一花子がないのは語調の問題で、
本来ならあってもおかしくないというものでもないのでしょう。「山田弥大郎」に気付くのは注意
力ではなくて〈両書〉のはめ込みによるものです。(索引では「山田弥大郎」はなく「山田弥太郎」
のなかの該当頁、表示となっているから目立たなくされてる)永禄12年
「野々村主水正、山田弥太郎、滝川彦右衛門尉、彼等・・・・」〈甫庵信長記〉
「野々村主水・山田弥大郎・滝川彦右衛門・●山田左衛門尉・佐脇藤八」〈信長公記〉
で上下全部、少しづつ違っています。そのため違いに気がつきやすい、これを無視するのは転写の
の苦心を無にしてしまいます。(先ほどの「山田大兵衛」は索引に出ている。同じ永禄12年に
出てるから、この「大」は著者のミス、転写印刷ミスでないことは認識されている)
ここで●以下二つを入れたのは「八」と〈吾妻鏡〉の「山田太郎」を
語ろうというものがありそうです。次の文もあって●は一般の人は別の受け取り方をしていると
といっています。元亀元年、同じ場面
「滝河彦右衛門、山田三左衛門尉請取り、・・・」〈甫庵信長記〉
「滝川彦右衛門・▲山田左衛門尉両人・・・」〈信長公記〉
となっていて、甫庵は彼等というのは「山田三左衛門」という積りだったと、いっています。
●は索引に出ていますが▲は表記が同じなのに頁が表示されておらず無視されています。
要は▲は佐脇藤八を包含する表記という感じのものでやはり〈吾妻鏡〉から持ってきた特例
のものといえそうですが人名羅列では、特異な表記がある場合、うしろのもの抱き込むという
ものがあるという公式が出ているところかもしれません。つまり
▲はつなぎ、山田三左衛門ー(▲)ー佐脇藤八で、二人の極めて近い関係を示したといえそう
です。また太田=山田というものが出たところです。森三左衛門も「太田・山田」的「三左衛門」
があることも暗示しており、宇佐山での
「・・討死・・・森三左衛門・織田九郎(信秀四男とされる)・・・」〈信長公記〉
がある「森三左衛門」も 森可成だけともいえず、「織田九郎」の表記も特異すぎるということ
にもなります。
「太郎」と「一郎」はどうちがうのか
「山岡孫太郎」〈両書〉、■「孫太郎」〈甫庵信長記〉、
「小川孫一郎」〈両書〉、★「日吉孫一郎」〈信長公記〉
があり、これからいえば■★があるので「孫太郎」「孫一郎」を取り上げようとしている感じです。
「孫一郎」も、水野の本拠「小川(小河)」の「孫一郎」と違って、漠然とした★の「孫一郎」が出されて
いるから、同時に考えないといけないのでしょう。とにかく索引では武田信玄の嫡子と思われる、
「▼▼武田太郎信義」〈甫庵信長記〉、▼「武田太郎」〈両書〉
があり、雑賀表の「鈴木孫一」〈両書〉もあるので、わからないと目障りで全体読み泥むことに
なります。いま本当にわからないので答えがでませんが「弥太郎」、「弥大郎」は公式を
出そうとしている(「太」は特別とか狭義とかいう)ものかとも感じられます。ここの▼▼は本文
では、信玄の嫡子ではなく
「武田太郎信義より十一代の末葉、四郎勝頼は・・・」〈甫庵信長記〉
となっていますから先祖です。しかし廃嫡となった、あの太郎義信のことが索引で出された
ととってよいような効果が出ています荒唐無稽と思われる系図にも目的を持った挿入がまま
あります。
これを無視しては武田はわからないというのでしょう。信玄の子として「義信」、「信繁(川中島
で戦死)」、「勝頼」の兄弟が有名ですが、この後すぐに甫庵は「武田左馬助信豊」という人物をフル
ネームで出していますので「信豊@」が信繁になりますから、▼▼の目的はあの「太郎義信」で
あることは明らかで、煙幕を張った出され方、ストーリーを離れた表記の活用ということの例
となっています。従って▼は太郎義信とは限らない、テキストでは「武田太郎(信勝)」となって
いて「勝頼」の長子に宛てられています。日常生活では性はどちらであろうと、一番早く生まれた人
を「太郎」と呼んだのではないかと思いますが、いまいっているのは書き言葉の話です。
鎮西八郎為朝は、そう名乗ったという名前ではないのでしょう。
今の段階でいえば孫太郎でいえば
「孫一郎」ーーー|「孫太郎」
|「孫一郎」(孫大郎)
といっている、広義の「太郎」に「太郎」「一郎」の二つがあるといっているとも取れますが生まれた
順番の一郎はわかりやすく、それから「太郎」かどうかを見るということになりそうです。
「孫太郎」は、この「山岡」の一つくらいしかなく、「孫一郎」相当は、「又一郎」「与一郎」など、
かなりあります。
おかしいことに「一郎」だけのものは見当たらない、わずかに
「北村一郎」〈甫庵信長記〉
があるだけです。あとで、こういうのが威力を発揮してくると思いますが、ここでは「太郎」に
「大郎」 と狭義の「太郎」があり、「一郎」は原則は「大郎」ではないかと思いますが、北村一郎
はおそらく北村四郎(総領)もあるどいうことかもしれません。
一郎に 大郎(四郎もある)
太郎(一太郎)
市郎
ということになります。「弥大郎」「「弥太郎」は「大田」「太田」を利用した違いなので、重要なことを
いおうとしたと思われます。筆者はよくわからないままに、特記があれば別として「一郎」は総括的
で、太郎は大郎的なものもありますが
「太郎」「市郎」「七郎」「八郎」は男性的、その他は女性的、十郎は両方
ということで一応読み流しています。そんなもの権威に聞けばよいではないか、といわれるかも
しれませんが、こう教えろ、というものが共有されていたら、蒙る痛手は大きいので、まあこの
レベルというところです。
今でも
「一姫二太郎」
の意味がよくわかりません。子供の数をいうのか、順番をいうのか、両方を同時にいうのか、あい
まいのままです。
国土の広さ、食料生産量とか、現人口での暮らしぶりとかを考えると、国家には適正人口という
のがあるはずですが、聞いたことがないので、考えられていないのでしょう。昔からそうであ
ったのか、、
戦前は多い方がよいということで、結果粗末な扱いになってしまいました。、現在も多い方が
よいということで増やそうとしています。
ただこのままいったら共倒れになるから、国家としては責任がもてないということで、抑制を
やらないといけないのではないかと、一所帯当たりの子の数の目安などで意識付けてきて
いるところもあり、これは多い方がよいというよりも誠実ではないかと思います。日本は、小さい
国土面積で、資源、食料に乏しいなかで人口を養い豊かな生活を維持していくため、外貨を
稼いで行かねばならない、と公式のように語られてきています。食料は人口を養う基本のもの
だからこれはもう成り立たない公式です。
江戸時代までは海外から食料を得ようというものはなかったと思いますが、それでいながら
幕府など、過去の政権も人口については何も言わないできています。こういうなかで、ミクロ
の領域では、これが一応、基準になってきたかもしれないわけです。つまりこれを云った人物
は偉いのではないかというのがいいたいことです。まず順番の話、これを順番でいうと女の子
が一番目で、二番目が男の子という意味ならば、数に懸かると二人ぐらいでよい、と意味になり
ます。二人ぐらいがいいなと思っていたとしたら、その場合は女、男と一人づつがよいのは決ま
っているから、その意味のなかで順番だけのことをいったと取れますが、「姫」をはじめに言った
のは当時の社会を表わしていそうです。しかし、これは決められないという意味もある、
「姫」は女性、「太郎」は男性と決まっていればよいのですが、そうはいかない、つまり表記の話
にも懸かっていうとするとそれも怪しくなります。
次に数の話、これは数をいっているとすると合計、三人ということになります。この場合は、
三人ともどとらかというよりも、2:1、1:2がよいのは決まっているから、順番はどうでも大差
ないでしょうが、これも時の社会の制度的なものにより、決まるのかもしれません。大体でいえば
支配層の間では順番は「一姫二太郎」でよいのではないか、嫡子が先に生まれて安心ということです
が、適当な例があればよいのですがどうでしょうか。一方、大多数の庶民の
ほうでは働き手のほうが先に生まれて欲しいということになるのでしょう。数は
一般の家は男子が働き手ということから、力仕事の需要が多いところから稼いでもらえる、
つぶしが利くから二人は男子がありがたい、庶民の方は「二太郎」となり、、太田和泉守の属する
数少ない層の場合は、二姫というのが希望だったかもしれません。その場合でも、表記の問
題が出てきて
「一姫二太郎」
でよいわけです。つまり上層のヒネッタものがものが表面化して
きて、太郎というのは大郎もあり、場合によっては姫も女子とは限らないというものがあることが
入っていると思います。
「五郎八姫」(いろは姫)
はどっちやというようなものです。 古い時代における出産の危険、食料獲得の困難
性などで、2から3という少ない目になるのは女子本意の時代の長所といえます。この「一姫二
太郎というようなよく考えると、いい得て妙というものは、太田和泉以後の産物といえるので
ではないかと思われます。家族数がわかるというような文献があってのことなのでしょう。
〈日本書紀〉でしられるごとく、古来
日本の政治家の、二大眼目が、国民の食料の確保と、他集団との協和というものにありますが、
国全体としてこういうことを考えたのは、統一政権を作るべく立候補した太田和泉守で、その
著述による思想の浸透というものの産物といえそうです。太田和泉守一家、子息、7人、明智光秀も
子息7人というようなことがわかってくると、そこから出てくるものがある、標準的に
武士の一家の三人・三人(禰の系の人三人、根の系の人三人)というのを太田和泉守が著述で
関心を呼び起こしたといえます。両親が二人で、子供が二人だと、まあ余り人口が増えないことが
感じられるからそれが基礎になって、アンフアント、デス、レイトも高い時代だから三人というのも
基準になったも考えられますが、三人だったら子息の性別はどう考えるのか、という問いかけが
されているのは ありえます。社会の趨勢によって個人の意識も変わると思われます。
「一姫二太郎」というのは始めの三人がそうであとはどちらでもよいというようなものではなく
これでトータル、完結で、二・三人というもので、おそらく太田和泉守以後その考えが忖度されて
出されたものと思われます。強制というのでなく、将来むりに減らさざるを得ないというような
羽目に至らないようにうまく常識化したというのでしょう。治にいて乱を忘れずというのが
人口で重要ではないか、今雰囲気として、二人くらいが適当ではないかなどというと
具合わるくなってきているのでしょう。田んぼのタニシを取ってきて食べていたのはつい60余
年前のこと、豊饒さは繁殖力の源ですが、そちらを落とさないようにするのが先決でしょう。
人口は地球規模で考えねばならないことですが、国家単位でも余り考えられてもいない
ように見受けられます。
まあ、むつかしいことに立ち入ってしまいましたが、姫・太郎は昔も今も、一般的な話では
額面どおりでしょう。が、個々では両刀づかいにもなるのでしょう。姫もその気配はあります
が太郎も
八幡太郎・金太郎・浦島太郎 と 坂東太郎・桃太郎・武田太郎(勝頼の子)
のようにわかれそうです。坂東太郎は
「和根川(雅楽助)」〈信長公記〉(人名注では「利根川雅楽助」となっている)
が創られ、「和根川」の方が、坂東タロウかも知れず、「武田太郎」〈信長公記〉は、表現が
次に出てくる織田喜六郎に似ており、一番上を「太郎」という場合もあるというのを太田
牛一が挙げた例かもしれません。
。
(3)大野治長
3 芭蕉の〈野ざらし紀行〉では
「捨て子を悲しむ」
という一節があり、
「・・・唯是(ただこれ)天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ」
というのがありますが、性(さが)は脚注では「うまれつき。運命。」とされていて、運命のつたなき
なけ、と取ってしまっています。それもありますが「性」と書いてあるのだから、「性」がありえます。
この子の性はどちらであったということは、考慮外というわけには行かない、捨て子と性というの
はあちこちの物語にあるわけです。豊臣秀吉に鶴松が生まれ喜んだのもつかの間、死んでし
まい、すぐに秀頼が生まれてよかった、よかったとなっていますが、鶴松は亡くなっておらず、
性が合わずに、大野家に引き取られたということでしょう。どのネット記事をみても
大野佐渡守(道犬) 治長
‖ーーーーーーーーーーーー |治房
大蔵卿の局(淀君乳母) 治胤(道犬斎)
のようになっており、親の方の出自は別として「道犬」が二人います。「治胤」が鶴松といえると
思いますが、ここでも「佐渡守」−「道犬斎」が親子なっているのも治胤の出自が暗示されている
ようです。本人は、あの父親が関ケ原の前に死んでしまい、代替わりになって、大坂陣のころでは
忘れられてしまっています。ただ、大坂人に反感をもたれるという懸念もあり危険なので大坂城内
の人が逃しています。これは淀君の気持ちを考えて策したことでしょう。この人物は家族と違って
大坂陣後も生きながらえています。これは秀頼と順番が逆であればよかったわけですがそう思う
通りには いかなっかので苦心したという例です。大野治長は淀殿と特別な関係があったとする
語りが多く、そのため出世した、大坂陣の立役者となった根拠がそこに置かれています。
これは浅井の滅亡のとき
「浅井備前十歳の嫡男御座候を尋ね出し、関ケ原と云ふ所に張付(はりつけ)に懸
けさせられ・・・」〈信長公記〉
というのがありますが、この嫡男は今までの見方を固執する限り、お市殿の子でない淀殿
より上の、男性の人と解さざるをえず、結局、長政の妾腹の子であろうということにするしかない
のでそのままとなっています。信長天下布武の歩みの前には、浅井の嫡男の母というのに名前も
わからないのは仕方がないということになっているのでしょう。当然
浅井長政ーーーー備前A十歳
‖ーーーー大野氏?
お市ーーーーーー淀君など
子 ということがありえて、兄という人は大野治長ではないかというのが出てきます。大野氏という
のは大野城の城主というのか、大野木(小野木)というのかよくわからいにしても「治」というの
を多くの人と共有しており
「織田九郎」(「織田信治」と考証されている)〈信長公記〉
の「治」もあるわけです。索引で「織田九郎」をみれば、森三左衛門戦死の場面に出てきます。
●「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・・・」〈信長公記〉
があり、この三人は「朝倉・浅井備前三万」〈信長公記〉との戦いで討ち取られます。
「青地」は「千代寿」もありますが
「青地与右衛門」「青地孫二郎」「青地孫次」〈信長公記〉
があり、この三人は「相撲」で出てきます。「相撲」でいえば「能き相撲」に
「大野弥五郎」〈信長公記〉
があります。これは「治長」のことをいうのかわからないというのもありますが、地名の「大野」
の一つで、繋いで見ると、
「木下小一郎・浅井新八両人・・・丹羽五郎左衛門・・・■大野・・・」〈信長公記〉
のような「浅井」が出てきたりします。「小一」だけとれば「相撲」の「蒲生忠三郎の内小一」
というのもあり、「青地駿河守」は人名注では「茂綱」と考証されて、蒲生氏郷の叔父だという
ことです。「相撲」で
「山田与兵衛」〈信長公記〉
もおり「与」は「太田」が「森」を包摂する、とみてよいのが「山田」でしょう。
「山田」は「大野」をすぐ出してきます。
「安食村・・・・又左衛門・・・比良の大野木・・・・大野木村・・」〈信長公記〉
で「山田」の表記はありませんが、比良は「山田村比良」であり、「大野木」も「山田」ですが
浅井の「大野木土佐守」がでます。
「淀」からは
「淀・・・・・備前・・」「浅井下野・同備前父子・・・」「高嶋表・・・★彼大船・・・海手は大船
・・・高嶋浅井下野・同備前彼等・・・」「淀の城・・・・高嶋・・」(いずれも〈信長公記〉)
があります。もう一つ■「大野」から出てくるものがあって、同節に(「長嶋」のくだり)、天正二年
「七月十三日、河内長嶋・・・・・●一年、信長公御舎弟織田彦七殿・・・河内小木江の
郷の至って・・・御在城の処、先年、浅井朝倉・・攻め申し、
▲織田彦七御腹めさせ・・・
山田三左衛門・梶原平次・・・・・木下小一郎、浅井新八・・・・小木江村・・・・木下小
一郎・浅井新八両人・・・・丹羽五郎左衛門・・・九鬼右馬丞あたけ船、滝川左近・
伊藤三丞・水野監物是等もあたけ舟・・・・林佐渡守・・・囲舟・・浦々の舟・・・・
寺本・
大野・とこなべ・野間・・・お茶筅公・・・・大船・・・船中・・・浅井新八・水野下野守・・
大船・・・大鉄砲・・・」〈信長公記〉
があり、このこの節は多少長くても「浅井新八」、「小木江」などで連携は保たれているのが
見て取れます。「小木江」の「小木」は「木下小」を出していそうですが、この「(小)一郎」は
「新八」を伴なっていますので、単独ではどちらともいえないが、「太郎」的な「一郎」というの
かもしれません。「大船」「船」「舟」「囲舟」「あたけ舟」など各種の「船」がでてきて、「囲舟」は
明智光秀の属性ですが、この「大船」などが表題の支倉常長につながるところのものです。
ここでは、大野、浅井などには関係ないようですが、★に繋がり「淀、備前」が意識されてい
そうです。
「大船」は別のところで猛威を発揮してきますので目だ立たせるのには恰好の場面に「大野」
があるといえるでしょう。冒頭に出した「山田」と並ぶ「梶原平次」も問題ですが、この、
「▲織田彦七」
が誰のことかというのが最大のポイントになりそうです。つまり、先ほどの「織田九郎(信治)」
が浅井(備前)にやられて、ここでも浅井の話しが継続しています。▲についてテキスト人名
索引に
「織田信興」〈信長公記〉
があり、これが「織田彦七」で、人名注に
「(〜1570) 彦七郎。信長の弟。元亀元年・・・尾張小木城で自殺。120頁・171頁」 「sが、先ほど
と書かれています。171頁というのは上の▲の記事のことで天正二年の記事です。
120頁の記事というのは、その前の元亀元年で(元亀は四年まで、但し天正元年=元亀四年)
「信長公の御舎弟織田彦七尾州の内こきゑ村・・・・・御天主にへ御上がり候て、
霜月廿一日、▼織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり。」〈信長公記〉
となっていて、彦七殿は2度死んでいます。織田信興で索引をつくるとややこの矛盾が気付かれ
にくいことになります。当局から人が2回も死ぬような記事を書くのは人心を惑わす、てなこと
いわれたら困るので、「●一年」と書いてあるから、天正二年に元亀一年のことを回想して書い
ている、といえるようにしています。●の下の「先年」は去年という意味とすると全然話が通じ
ませんが、一年を、言い替えた、まあ、去年でない先年の一年という積りで書いたとかいうこと
になるのかもしれません。それでも元年が一年になるのはちょっとおかしい感じですが「織田
九郎」(信治)が元亀元年に戦死しているのと関連付けようとしているといえそうです。とに
かく太田牛一が自分の著書で一人を二回死なせたというのは事実でしょう。おかしいのを
救うのは、索引にある
「織田勘七」〈信長公記〉
という全く孤立した表記を作ったということで、これで「勘」=「彦」を表わすとともに過不足0
となって「信興」だけが浮遊しているということになりました。筆者の言いたいのは
織田彦七=信興=織田勘七=信治
で、(つまり織田九郎二人、一人が信治、もう一人は太田和泉守)
浅野長政ーーー大野治長
‖織田彦七
お市ーーーーー淀
という関係を示したものであろうということです。「信治」「信興」の「信」というのは織田の系
譜で、「治長」も織田であることを示し、「治」というのは「治長」「治房」「治胤」の「治」で、「興」
は織田内における出生のようなものを表わすのではないかと思われます。織田彦七は「信興」
というのは通説で、ネット記事でもこればかりです。「信興」など説明のないものが突然出て
くるからわかりにくくなっています。文献にあるからそうなっていると思いますが、例えば
「信長卿の舎弟彦七郎信興(オキ)」〈明智軍記〉
があります。〈明智軍記〉がどういうつもりでこれを云ったのかということが問題です。一方の
「信治」についても全く同じ形の表記で、(「信興(オキ)」「信治(ハル)」という、後ろの漢字
のみのルビで)
「ココに信長の舎弟織田九郎信治(ハル)」〈明智軍記〉
があります。この形式の表記には「信興」では彦の「七」をセットにしたので、信治でも「七」のセット
が可能です。織田九郎が出てきたのは対浅井備前戦での森左三衛門の戦死の場面です。
再掲
「 森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八
道家清十郎・道家助十郎・・・・・」〈信長公記〉
これは、次のように読めるというのが〈明智軍記〉の解説です。まず尾藤以下は
「尾藤道家(トウタウケ)なと云」
と書かれ、尾
藤道家は一本だということをいってるようです。つまり「清十郎」「助十郎」という
のは「源内」「又八」の追加説明という形となるということで、これはそのように読んできました。
ルビが尾藤と道家に分けたら駄目よ、という形にされて「藤道家」三字に振られています。また
「タウドウケ」
というルビの付け方もあることが暗示されています。現代だけが「トウドウケ」と発音通り書くとい
うのではないようです。次に、〈明智軍記〉では、前三人は、三例をもって読み方を示しています。
@「信長が舎弟九郎信治(ハル){并に}家臣森三左衛門・坂井右近・青地駿河守以下・・・」
A「信長が弟九郎信治(ハル){并に}家臣森三左衛門尉可(ヨシ)成・青地駿河守泰資
(ヤススケ)以下」
B「信治(ハル)・可(ヨシ)成・重康(ヤス)・泰資(ヤススケ)を始め」
という三つです。{并}は特別な字で合体、併合のような意味で、細字です。
それでいけば、本来三人のはずが、@は、三人で、Aは二人で、Bは四人です。つまり
@は森三左衛門信治(ハル)・太田和泉・青地駿河守の三人
Aは、「九郎(治成)または森三左衛門(ヨシハル)」、青地駿河泰資(ヤススケ)の二人
Bは、信(ハル)・(ヨシ)成、和泉守、駿河守の四人
で、これでは「織田九郎」という曖昧表記によって全体が崩壊することになります。
原本は人名間に点がなく「森三左衛門織田九郎青地駿河守」というようになっていて、その
ままにしておくのがよいということでもあるのでしょう。
普通に読める三人と、「森三左衛門織田九郎 ・青地駿河守」の二人と、もう一つ
「織田九郎次郎」〈信長公記〉
という孤立表記も用意されているので、
「森三左衛門・織田九郎・次郎・青地駿河守」
の四人となるのかもしれません。まあ簡単にいえば、今までは森三左衛門を、森可成とだけ
取ってきていますが、これは、太田和泉守が主で、そのもとに森可成がくっ付いていたと
いうこと(森三左衛門二人)で、これ以後太田和泉守を森三左衛門とすることは無くなった(表記を
を消した)ということになります。とにかくこれで「森可成」の戦死というのはなくなり、あと
どのような表記になるのか
ということになってきます。森三左衛門戦死のくだり元亀元年、第(十)節のはじめ、〈信長公記〉
の記事がおかしいことが脚注で指摘されています。
「(十)●辛未九月十六日、越前の朝倉・浅井備前三万ばかり★坂本口・・・森三左衛門
宇佐山・・・翌日、■九月十九日・・・討死、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・・・」
となっています。●の干支は元亀二年を指しますが、これは元亀元年の事件なので庚午で
ないといけないようです。★は下坂本であろうとされており、■も九月二十日の誤記とされて
います。筆者が、これを見る限り、■は九月十七日になると思いますが、そうならないのは別の
読みがあり、もうここは事件は別として人物などにおいては目的的記述がされたというのが読まれ
てしまっているようです。
「元亀元年{庚午}」
などという年干支は、太田牛一が各巻のはじめに書いており、各節は「(一) 三月三日に・・・・・・」
というような書き方となっており、●のような節のはじめに干支を入れる書き方は殆ど例があり
ません。手間なのは、これが日の干支を入れられたかもしれない、ということもありますので
いちおう調べないといけないということです。そうしますと、
■の干支は甲戌になり、
廿日の干支は乙亥になる、
実際に誰かの日記でも在って20日の干支が乙亥でもあったとすると廿日に
変えるというのが正解だというのがあります。これはそうではなくとも一応はみなければなら
ところで、ここでは太田和泉守が日の干支まで考慮して書いてるのは、〈吾妻鏡〉にもあるから
当然、意識されているのでややこしい話を出しました。まあ■はなぜ九月二十日になるのかを
問い合わせばよいことですが間違いだという前提で進めてもよいことです。日の干支は
〈吾妻鏡〉にも抜けているのが散見されますがこれは埋めなければいけない、これには別の
役割があるということでしょう。まあ「戌」ー「犬」というような。
これに関連しますが 天正六年の寅年(戊寅の年)だけ日に細字で干支が入っているのが
半分以上は確実にあります。これはどういう意味か、という説明がないのでこの干支のことではない
かと思います。天正六年の例
寅(細字)六月廿九日、信長公・・・・・・
寅(細字)七月十五日、夜に入り、
戊寅(細字)、四月十日、滝川・惟任・惟住・・・・
戊寅(細字)、五月朔日、三位中将・・・・・
のようなものです。下二つはこの年が戊寅の年だから付けただけですが、日に干支というの
は(こんなことを他の年ではしていないのだから、)考えていそうだというのは判ります。
天正六年で一件だけだと思いますが、■と同じように、普通の大きさの字で、干支が
入っているのがあります。(十二)節、
「(十二)□(あき)寅(●と同じ普通の字)十月四日、斎藤新五、越中国太田保の内本郷
・・今和泉・・・月岡野・・・参百六十・・・江州の相撲・・相撲・・・」〈信長公記〉
があり、寅の前の一字空(あき)のところ何を入れるかということですが、
@一応十月四日というのが、日の干支ではどうなっているかということを調べてみるというの
が一つです。
「壬寅」であれば「壬」を入れればよい、そうでなければ、そのまま「寅」にしておけばよい、ということ
で、やって見るところに価値ありでよいのでしょう。ネット記事に日の干支を出す公式があり、
「まえちゃんネットーyahoo知恵袋」でやってみると「和暦」「グレゴリオ暦」「ユリウス暦」があって
よくわからないままですが、とにかく太田牛一は「閏」などとともにこれらを語りに利用している
といえます。とにかく日の干支は、著者が書いていないだけで、全部(読者が)入れるというの
が前提とされていると思われます。
A日の干支はさておいて、この流れからいえば□に入るものは
戊辰戦争の「戊」で、「戊寅十月四日」となるのが普通で、これはそのままで使えますが「細字」
でない唯一の「戊寅」です。これはウィキぺデイアにもありますように、中国唐で採用された
太陰太陽暦法の一つである「戊寅元暦」を出したかったものと思われます。先ほどの□の一文
太田和泉守登場で、「参百六十」(甫庵は「五百六十」)も年365日を見た数字ではないかと思い
ます。ネット記事で「護国山曹操源禅寺碑銘」というのが出ており、これは池田輝政の四代の孫
、綱政が享保時代に建てたものですが、堂々とした文なのに
「戊寅」を「戌寅」
と間違っているのが指摘されています。
「戌」
を注目させたのでしょうか、そういえば池田信輝の小牧長久手戦における犬山城の短期奪取は
有名で、戦場、羽黒も犬山のようです。池田照政(池田勝三郎A)は護国公ですが、常山では
細字の{護国公}と普通の護国公があります。池田家の人は輝政の義理の親、太田和泉守を
護国公@とみていたようです。この「戊」の字、これは、筆者の場合も、この「戊」の打出しが、戊辰
戦争の「戊」を思い出して出てきました。多分「戌(いぬ)」年の「戌」と間違っているのもありそう
です。これは
〈信長公記〉のこの□の一節を意識して出されたものであろうと思われますが、戊辰戦争も1868年
(明治元年)が戊辰の年だったということからきてるということで終わっています。榎本武揚が降った
のは明治二年五月でこれで戊辰戦争が終わったというのだから年次がまたがっており、辰巳戦争
の方が勉強になる(年度を表わすもの同士だから)と思いますが「戊」にも執着があったと考えら
れます。こういうのを普段に利用しようとするのが日の干支で、〈吾妻鏡〉もちょいちょい抜けている
のは手間だから抜いたというのではなく埋められるはずだから抜いてあるというものでしょう。
要は〈信長公記〉では、「辰」もおかしいわけです。□のことで必然的に類似調査が要求される
わけですが、その一つ
▲「天正七卯年五月廿七日辰の刻、」〈信長公記〉
というのが翌年に用意されています。この時刻の「辰」について脚注があり
「〈因果居士記録〉〈安土問答実録〉(日淵の記録)によると巳刻から午刻にかかるとあり、
この方が正しい。」
となっています。すでに「辰」も問題視されていました。天正七年には
▼ 「天正七年己卯十二月十六日卯刻」〈信長公記〉
も用意されてあり、「天正七年」は「己卯」年であるから▲▼は同じだことだということでよいか
というとそうはいかない、▼の「己卯」が前に付くのか、うしろに付くのかはやはり調べなしょうが
ない、ということになります。これ等の話しは元亀元年の記述
「(元亀元年)辛未九月十六日」
が庚午(元亀元年)の間違いなので、おかしいということから始まり一応、日の干支もみない
といけない、太田牛一がそれも問題に取り上げたということで、してきた脱線ですが
ここではやはり「辛未」というのが元亀二年の干支であるので、やはり元亀二年の記事に、一度
は嵌めこんでみないといけないということになるのでしょう。元亀二年の〈信長公記〉では(五)節
「(元亀二年)九月十二日 ・・・・(比叡山を巡る「朝倉・浅井備前」の動向)・・・・・・
九月十二日・・・・・(「叡山」「八王子山」など焼打ちの様子)・・・・・
九月廿日、信長公濃州岐阜に至つて御帰陣。
九月廿一日、河尻与兵衛・丹羽五郎左衛門両人の仰せ付けられ・・佐和山・・・」
があり(五)節は、九月十二日が二つで、九月の三日間だけの記述があります。元亀元年
にあった記事をもってくると、(辛未は元亀二年だから照らし合わせるのは根拠がある)
「辛未九月十六日・・・・朝倉・浅井備前・・・森三左衛門・・・
。 翌日、九月十九日・・・・・討死、(改行)森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・・・」
が、照合する記事です。はめ込んでみると「翌日」は処理の仕様がないので
「辛未九月十六日・・・・朝倉・浅井備前・・・森三左衛門・・・
・ 九月十九日、翌日・・・・・・・討死 森三左衛門・織田九郎・・・・
九月廿日、信長公濃州・・・(討死、森三左衛門・織田九郎)
九月廿一日、河尻与兵衛・丹羽五郎左衛門」・
と
ということになるのでしょう。つまり、
森三左衛門・織田九郎
‖ ‖
河尻与兵衛・丹羽五郎左衛門
といおうとしているのか、というのが出てきます。これをいうと、けしからん、となるから、仮説
の材料として持っておいて、あとの登場の河尻与兵衛の検証を積み重ねどこかで出す、その
とき、早い段階でこれを言っていたということになると駄目押しの材料にもなりえます。河尻与兵衛は
のち甲斐一国を与えられ本能寺のとき一揆に殺されたということになっていますが、川尻という
人物については読者は細かいことを教えられておらず、そうか、とうことで済んでいます。これが
森可成となると、あの歴戦の大将が、一揆にむざむざやられるはずはないという感情も入って
くるので見直し気運も出てくるくることもありえる、とにかくあとの解釈に大きな影響をあたえそう
なことが、この「辛未」であったとなるのかどうかです。「辛未」の重さは古代で出ています。
九代 開化天皇 在位 60年 元年辛未
十二代 景行天皇 在位 60年 元年辛未
十三代 成務天皇 在位 61年 元年辛未
これやはり重要なのかもしれません。
〈明智軍記〉では三人を討ったのは )
」 「森三左衛門可(ヨシ)成」は、「北庄土佐守★景行」軍の「石田十蔵」
「織田九郎信治」は、「太陽寺右馬助景春」軍の「五十嵐小太郎」
「青地駿河守泰資」−−「浅井備前守長政」軍
となっていて、早速、★で先ほどの天皇名「景行」がでてきました。
「土佐守」は「大野木土佐守」(浅井岩見守とセット)があり、大野・浅井が出て、
、「北庄」は本名ではなく「朝倉土佐守景行」が正式の名前で、本文では二つの表記
が使われています。すなわち「朝倉」が出て、「景春」は「景治」に繋がり「治長」の「治」も
でますが、朝倉義景が有名なので、「景」−「朝倉」を想起する人も出るわけです。「景行」は
「景行天皇」というと、ふざけとる、ということになりますが、これぞ「的(いくは)」=浮羽、
「朝倉宮」の主です。
「朝倉式部大輔」〈信長公記〉
という表記がありますが、テキスト人名注では
「朝倉景鏡 越前朝倉氏の同族。式部大輔。土橋と改名。
朝倉式部大輔 159頁。」
となっており、一回かぎりの一匹狼の表記で、まあ著者がこの表記から何かを出そうとする
ものでしょうが、のち村上源氏の、紀州土橋氏と姻戚関係ができた朝倉氏の一族の人で
著者のよく知った人物というのはあるはずです。「鏡」もでますが古代の鏡でもあるのでしょう。
人名索引では、
「朝倉 → 朝倉義景
朝倉景鏡 ・・・・・朝倉式部大輔
朝倉景健 ・・孫三郎・・・姓を “安居” と改名。・・(本文では)朝倉孫三郎・・・」
という並びとなっています。前後に目が移るものなので「孫三郎」が飛び込んできます。これ
は別に
「朝倉孫三郎 → 朝倉景健 」
という索引項目があるので、「孫三郎」「朝倉孫三郎」の両方の表記が文中にあることが
わかります。すると「孫三郎」でも索引があるはずだということになりますが、確かにあり、
「孫三郎 → 織田信光」
となっています。これは織田信長の叔父(信秀の弟)ですが「孫三郎殿」で出てきます。二つ
ないとおかしいところで一応逸らし、となっています。もし別の「孫三郎」を索引に入れると
〈信長公記〉索引
「牧野管八郎(牧野正勝の一族)ー正勝は康成もある
牧村長兵衛(利貞)ーー稲葉重通の子、利休の高弟
孫三郎→織田信光 →孫三郎(正勝・真木村色の孫の三郎)
孫十郎→織田信次 −「又二郎」が利いて大田和泉守の孫の十郎と取れる
又二郎 」
となりますから木村又蔵(正勝)もぼんやり親類として出てきそう、ということにもなります。
要は「孫三郎」は「弥三郎」より1世代違うという感じですが「石田十蔵」を持って来たのは
この「孫十郎」の「十」を〈明智軍記〉の著者が援用したかもしれないというのも出てきます。
当然「橋本一巴」と並びの「橋本十蔵」の「十蔵」はありえます。★の人物は、朝倉に身を
寄せていた明智十兵衛の活躍の場で出てきます。「北庄」という姓も使ったのは「越前朝倉」
「越前柴田」で
「柴田修理亮」「柴田日向守」「柴田三左衛門尉」
ですから、明智光秀の「日向守」、「森三左衛門」、「明智十兵衛」の「十」を踏まえた
「石田十蔵」
を登場させた感じがあります。朝倉景鏡の後ろの「朝倉孫三郎」「孫三郎」からは「石田
孫左衛門」にも繋がる「孫」もでますが、景行天皇の「的」に直結した
「的孫」〈甫庵信長記〉
が出てきて猛威を発揮します。台風の目といったところでしょう。前にある「朝倉」の二字は
朝倉義景と限定するのは、どうかといっているのでしょう。地名など朝倉があり、朝倉宮も
そのひとつに過ぎません。またこの際、朝倉・浅井の表記を全部見たらどうかというのも
あるでしょう。
「朝倉■治部少輔」「朝倉土佐守」〈信長公記〉
がちゃんとあります。■は解説のないもので、これは石田三成がでている(意識されている)
のは確実で、その次は解説があって
「朝倉土佐守 〈朝倉始末記〉では景行。 157頁」
となってます。これが〈明智軍記〉の「北庄」「朝倉」の「景行」です。この文献(朝倉始末記)
は一般の人は読めませんが、頼りない文献とされるのでテキストでは引用がない〈明智軍記〉
ですが、それでもこの一冊だけでこと足りるほどの解説があったということをみてきました。
「十蔵」は「浅井備前十歳の嫡男の「十歳」を踏まえ、この嫡男の年齢は石田三成に近いの
かも。五十嵐小太郎の
「小太郎」は「太郎」に「(小)」が付いたので「孫太郎」も言う場合があるという感じです。
これは「浅井備前守長政」の「備前」に繋げていると思われます。位置が二つ考えられ
一般に「浅井父子」というのは
「浅井下野・同備前父子」〈信長公記〉
があって「浅井久政=下野守」「浅井長政=備前守」の父子とされています。それも合っていま
すが「下野守A」=「長政」もありえますから「下野守」だけ出てきたら注意が要るということで
す。同様に備前も備前Aが考えられます。この間のことは
● 「浅井備前守父子」〈甫庵信長記〉
という表記があり、これは「下野守」が入らないのは明らかで、長政とその子の意味となり、
甫庵は「張付」に遭ったチビ公
を勘定に入れているのははっきりしています。「五十嵐」は「いが」で〈明智軍記〉索引で
「伊賀範俊(「伊賀伊賀守」)
とくっ付いています。〈信長公記〉の
「伊賀伊賀守」−「河内小木江郷」「こきゑ村」ー「浅井新八」
と繋がります。
甫庵の人名索引では
浅井下野守父子
浅井新八
となっており、浅井下野守父子を出してきて●との対比をくっきり浮かび出させています。
「五十嵐」は「いそ」もあってこれは「磯伯耆守」が浅井織田の縁組を推進したと〈川角太閤記〉
がいっています。伊賀伊賀守は野間佐吉もを呼び出します。五十嵐の前の「太陽寺」は
「大道寺駿河守
太陽寺左平次」〈甫庵信長記〉索引
の並びも重要でしょう。「道家」の「駿河守」は「青地」で、「左平次」は「土橋平次」もあり
「小太郎」とからんで「太陽寺」がきまってくると思われ、甫庵の「太陽寺左平次」を解説した
と思われ「宗陽」の表記の内容を規定する役目が五十嵐かもしれません。
北庄はお市殿の属性といってもよい土地です。「足羽山」があってルビ「アスカヤマ」となり、
古代の世界に繋がりますが、こういうルビを入れることにより、大田牛一は当代史は古代
史や、他国史などとは無縁でないということで、それも解説しようとしています
朝倉宮というのは〈万葉集〉の巻1の第一の歌に
「泊瀬朝倉宮」「雄略天皇」
が出てきて、これは奈良桜井、明日香の地ですがこれは関係ないというわけにはいきま
せん。慈円によれば十二代、景行天皇は
在位「六十年」「元年辛未」、「四十四即位 或卅一」
井 死亡年「御年百六 或百卅三 或百廿」
などとなっており多元複数などは勘定に入れておかねばならないところです。
このように〈明智軍記〉は
いろいろ浅井につなげて「森三左衛門、織田九郎」の戦死を語っています。この二人は
どっちがどっちかわからない、とくに「織田九郎」は曖昧ですが甫庵は信長の弟
四男九郎殿
を出しています。一応森可成は織田の親類なので、
九郎殿@を森可成(大田和泉でもよい)としたーーーーーー坂本で戦死
九郎殿Aを織田信治(これは本来の引き当て)ーーーーー坂本で戦死▲
織田彦七@を織田信興として(これは本来の引き当て)ー長島で自殺
織田彦七Aを織田信治Aとして ーーーーーーーーーーー長島で自殺▼
というようになるとしますと、▲▼で「彦七ー九郎A」が出来上がります。
「九郎」という表記は、両用に使えるのでここで公式のようなものをだしています。(あとで
菅屋九右衛門が大事なところで変身する。)
○九郎殿Aは小太郎に討たれたので、織田彦七Aと繋がる、これは織田勘七を通し
てつなげばよい。〈信長公記〉索引では
織田勘七
織田九郎次郎
となっていて勘七−九郎はつなぐことでよい。
○また「九郎」というのも
「勘九郎」〈信長公記〉
という表記があって、広く使えることになっている。「勘」付きとなると「九郎」が変身する
○〈甫庵信長記〉索引では
織田金左衛門 金左衛門
織田九郎 九郎
という並びのものがある。
織田信秀の子息は、
「信長卿・・・・。別腹の舎兄に三郎五郎殿・・・・二男勘十殿・・・・・・・・三男上野介殿、
四男■九郎殿、五男安房守、六男彦七殿、喜六郎殿・・・・・・」〈信長公記〉
となっていて説明が挟まってややこしくされています。ここではとりあえず「四男」「六男」が
問題で、六男に二人いるので一応これをみなければなりませんが「喜六郎」というのは、もう
お市に決まっているのでしょう。触れんとこ、やめとこ、やめとけ、の類です。
「▲勘十郎殿御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り・・・・洲賀才蔵・・・弓を追取(おつとり)
矢を射懸け候へば、馬上より落ちさせ給ふ。・・・川よりあがりて是を御覧ずれば、
▼上総介殿御舎弟喜六郎殿
なり。御歳の齢十五・六にして御膚(ハダエ)は白粉のごとく、たんかのくちびる柔和の
すがた、容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方(おんかた)
様なり。」〈信長公記〉
があり、「喜」という「後藤喜三郎」「遠藤喜右衛門」で受ける印象もこの後半の方の叙述で一変
に消えてしまいます。馬一騎で通っていた人が突如変身したと取れます。またお市は▲から、
▼へ自分を修正して出てきたので、信秀の子(信長の妹)と言い替えたことになるのでしょう。
またここで勘十郎殿と喜六郎殿が接近していることも重要かもしれません。
これで、六番目二人は密接と言うサインも出たので、血縁が考えられるので
浅井備前長政ーーー備前A治長
‖織田彦七−九郎A信治
‖織田彦七ー「★信興」
喜六郎(お市)−−−淀
という関係が納得できそうです。したがって前の■「織田九郎」(明智軍記では「信治」) の
ところには「織田彦七」が入ってもよいが、その子、備前A「治長」が入ってもよいことになります。
これは大野弥五郎となると、舎兄「三郎五郎」の五と符合するかもしれません。小豆坂で戦死
した「清洲衆」の「那古屋弥五郎」ー「相撲」の「大野弥五郎」というような。
別腹というのは「土田氏」のことで今信長の母公として知られています。
「★信興」
という名前は、太田和泉守が乗った池田勝三郎がいてこれは
池田信輝
池田恒興
という二つの名前があり、斜めに読めば「信興」が出てきます。しかしここは
「大野佐治八郎」〈甫庵信長記〉、佐治八郎〈信長公記〉
の「佐治八郎」の考証名が「佐治為興」なので、まず、その「興」ではないかと思われます。
テキストでは
「佐治為興・・・・愛知県知多郡知多町の大野に住む。三河を本拠とする。信方は信長
の妹婿。■元亀二年五月伊勢長島で戦死(〈常滑話索引〉。 (文中)佐治八郎 118」
となっています。佐治氏はネット記事「武家家伝佐治氏」によれば「佐治氏は緒川城の水野
氏と知多半島を二分するほどの勢力・・・佐治水軍・・・伊勢湾全域の海上交通・・・」
となっているもので先ほどの「船」の記事と対応するものです。突然出てくる
「信方」
は「為興」のことであり、これは信長の妹婿だから、もう水野ー佐治の関係は安定した時代に
入っています。「武家家伝」などによれば、佐治為興は
信長の妹である於犬の方を正室に迎えた
となっています。つまり、為興は「於犬=於市」=「喜六郎」と連れ添ったということになります。
また一方で「佐治八郎」は元亀二年、長島で戦死したと書いてありますが、文を見れば
登場の紹介だけです。元亀一年
「・信長公其日は下坂本・・・・其次田中(脚注「下坂本のうち。」・・・・・・・唐崎拵、
佐治八郎・津田太郎左衛門をかせられ・・志賀の城宇佐山・・●織田彦七
御腹めされ・・・」(唐崎拵に脚注があり「大津市下坂本町の唐崎神社あたり」)
〈信長公記〉
があり「太郎」と出てきて紹介があります。このあと●第一回目の「彦七」の死が続いていて
佐治と対応しているといっても、そんなこと書いてないだろうで終わりです。このため〈明智軍
記〉など類書の解説があるわけですが、現代人の解読も重要です。■のことは〈両書〉に
出ていません。しかし書いた人物はいます。書いた人物は間違いかというとそうではなく
元亀元年(庚午)のなかに、元亀二年(辛未)の記事が「九月十六日」以後入りこんできたわけ
(「霜月」が11月で出てきているからこれは間違い)でそれに乗って入れただけのことです。
したがって
宙に浮いた元亀二年に「織田彦七」が自殺
元亀二年ではないが天正二年に「織田彦七」自殺(〈信長公記〉)
元亀二年ではないが天正二年に「「大野佐治八郎」戦死(〈甫庵信長記〉)
となっていて「佐治八郎」が消えて大野が残り注目という格好になっています。森の戦死との
関係についても、元亀元年(庚午)、〈信長公記〉の記事
「(十)辛未九月十六日(脚注では「辛未(元亀二年だから)は庚午の誤り」)・・・・・・
坂本口(脚注「下坂本であろう。大津市内(旧下坂本町」)・・森三左衛門宇佐山・」
と注があって、何かありそうな感じがします。ここの「下坂本」が●の文の「下坂本」を意識して
いるといえます。現代式の新たな符牒「下坂本」で森可成の戦死と●を佐治、大野でつないで
います。すなわち「犬」とか「市」とか「喜」などのイメージを払拭する場も設けられます。
s
この「喜六郎」がもう一回出てきます。「小木江村」で、再掲
「・・・寺本・大野・とこなべ(常滑)、野間(美浜町野間)・・高松・・お茶筅公・」〈信長公記〉
があり、寺本は、五箇所あり、テキストでは「半田市中島町あたり」となっています。寺本は
「駿河」「那古野」、「水野」「小川」などをともなって出てきますが「那古野」が四つもあり目立ち
ます。人名ではなさそうですが大野と同じように「寺」だから、それで捉えてみますと
寺崎喜六郎
寺崎民部左衛門
が出てきます。これは
「越中国寺崎民部左衛門・息喜六郎父子」〈信長公記〉
です。これがもう一つあり、
「越中の寺崎民部左衛門・子息喜六郎父子」〈信長公記〉
があります。このあと
「息喜六郎未だ若年十七歳、眉目(ミメ)・形尋常にうつくしく生立(ソたち)たる
若衆に候。」〈信長公記〉
があります。この文で「喜」が飛んでしまうわけです。
ことの成行き上、これが淀君とならざるをません。これは天正14年1581ですから
生まれは
1581ー(マイナス)15=1566(永禄9年)
くらいのところになります。ここの「お茶筅(ちやせん)」については織田信雄(北畠中納言)の
幼名とされていますが、テキストでは
「お茶筅」「お茶筅公」「国司お茶筅公」
の三つがあり、淀殿の呼び名は「茶々」が有名ですので一つは淀殿を指していそうです。
g 後藤又兵衛、真田幸村などは最後に大阪城で戦う機会を与えてくれたことを感謝しています
が、事を起こしたのは秀頼、淀殿であり、大野治長でもあるのでしょう。
挙兵したということは、死を覚悟してのことであった、といえますが、このことは真田大介
の言動などでもわかりそうです。
淀君の子が鶴松と秀頼ですが、鶴松と、秀頼の子は、浅井長政の嫡男の例もあり、生きで
しょう。浅井の滅亡のときに、鶴松が顔をだします。〈信長公記〉で
「ココにて●浅井福寿庵腹を仕候。去程に・・・鶴松大夫・・・・鶴松大夫も追腹・・」
り この●のような大物らしい表記の人物はやはり引き宛てないといけないところでしょう。
一応この浅井に関するものは〈甫庵信長記〉の信長卿の兄弟の羅列からきてます。
「・・四男九郎殿、五男安房守殿、六男彦七殿、喜六郎殿・・・」〈甫庵信長記〉
の六番目が二人いるという特殊な書き方が事の起こりです。「七」の人と「六」の人は別の
形の連れ合いだったということになるので並んでいたということになります。「喜」を付けたから
気を配った、「助」を付けて「助六郎」だっても気を配ったと思われます。「久六」、「弥六」などで
あればそのままでいいのかも。
「織田九郎次郎」〈信長公記〉
という表記もあって、これは、この「四男九郎殿」と、森三左衛門の戦死の場面
「討死、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・・・・・」〈信長公記〉
だけの説明に設けられたという感じです。つまり索引で
織田勘七
織田九郎次郎
という並びができ、
兄弟羅列の場合は「七」含みの「九郎」、
討ち死にの場合は次郎含みの「九郎」
とした、大野佐治含みの彦七、森の生存は譲れない重要なところです。
松尾芭蕉の捨て子の話は、秀頼の「お拾い」の話しなどを踏まえて「捨てる」を出したの
かもしれません。捨てて拾うと健やかに育つという迷信のようなものが秀頼の命名のとき語ら
れているようです。このときの句
「富士川の辺(ほとり)を行くに・・・此川の早瀬にかけて・・・浮世の波・・・・小萩がもとの秋の風
・・・・袂(たもと)より喰物投げて通るに
猿を聞く人捨子にあきのかぜいかに」
は「猿」が入っています。〈芭蕉全句〉によれば、〈俳林一字幽蘭集〉には、「山行」と前書して
「猿をきく世すて子に秋の風いかに」
としたり、別本の〈野ざらし紀行〉・〈芭蕉句選〉には、「猿をきて人」などがあるようですが
「すべて誤りであろう」
とされています。本文の猿は「猿の声」の意味のようですが、あとの誤りの方は、「聞く」がヒラ
かれていて「聞」が消え「声」も消えた感じです。「聞く」は「見る」とは違うので、この句の情景は
実景ではないという意味が「聞」にあったという解説かもしれません。「山行」が芭蕉の書いた文と
反対になっており芭蕉は「川」のほとりにいます。誤りの方の初めの「五」は「猿」「世」、「猿」「人」
で「猿」に重点を移したものとなっていて、「山中の猿」〈信長公記〉、「木下」の「猿」が出されて
いるというのでしょう。
〈俳林〉の「猿をき」、別本の「猿をき」の「をき」は、本文の「萩」に呼応させていて、「萩」は「荻」
に似ているところから、「猿をき」は「猿荻」をみて〈信長公記〉の
「猿荻甚太郎(ルビ=サラウギ)」、人名注のルビ(さらおぎ)
を想起していると思います。本文はカタカナルビで太郎とセットになっています。また
本文では「あきのかぜ」もヒラかれて
います。「秋」「詮」「空」などがありますが、例えば「空」でいえば、「空也」の「空」(喰う)があり
ます。ネット記事「空也ーwikiquote」の案内の部分に「空也」の
「山川の末に流るる橡殻も身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
が出ていて「山川」「捨て」「瀬」というのが本文に取り入れられています。一つの漢字を宛てま
すとはっきり、すっきりしますがそれに拘ってしまうというのがあります。芭蕉では空也から木下
(長嘯子)が出てきます。芭蕉に
「長嘯の墓もめぐるか鉢敲(はちたたき)」〈いつを昔〉
があり、鉢叩きは空也上人の忌日からはじまる48日間の行事です。空也の「橡殻」から
「木曽の橡浮世の人のみやけかな」〈更科紀行〉
も出てきてここで空也の歌にある「浮」と、「山行」にあった「世」が出ています。この句の訳文は
●「木曽の深山で拾った珍しい橡の実を・・・深山を知らぬ人々への土産にしよう」
となっています。「深山」というのがどこにもないのに、この短い句の説明に二度も使われて
います。これは〈更科紀行〉に「木曽路は深く道さがしく」とあるので木曾と「深い」が一体となって
いるからというのでしょう。一方「拾う」というのもありませんが、これは門人の句の前書きに
「木曾の月見てくる人の、みやげにとて橡の実ひとつおくらる。」
というのがあるので、「ひとつ」となると「拾う」になる、またどんぐりというのは拾うにふさわしい
ので入れられたと思われます。
「橡ひろふ太山(みやま)」〈奥の細道〉
もあります。またここで「太山(みやま)」−「深山(みやま)」が出てきます。「太山」=「大山」でも
もあります。また●の句の初案がされており
「よにありし人にとらせん木曾のとち」
というようですが、「よにおりし人」というのもあるようです。「あ」と「お」が変えられる場合もある
とすると先ほどのわけのわからない「猿をきて人」はどうかというのに思い至ります。
「猿あきて人」
となると「子に飽くと申す人には花もなし」のいいまわしが思い出され、「飽き」というのもありえ
ます。大久保彦左衛門の〈三河物語ーニュトンプレス訳本〉には、今川の原見石主水が、鷹を拾
いにきた、
徳川の竹千代に「三河の小せがれはもううんざり」となんどもいった、というのがあります。
これは「あきはてたり」の訳ですが、意味がわからいので〈前著〉でも取り上げたものです。が
今となれば、これは「飽き」ということで、子が多すぎるではないかといっていると取れます。
「性」のことはくせになるといいながら、権力者の場合は自粛するだろうとみられるのか、そう
取り上げられることもないのですが、抑止がないから被害は甚大となるはずです。知らぬ間に
兄弟同士が、孫同士が戦争したりしています。
「朝日姫」があって「旭姫」もあります。二人の旭があるのでしょう。家康と秀吉の妹の
婚儀の話の主人公ですが、夫、佐治氏が絡んで出てくるものがあります。これは朝日姫を
「おいちの方」と見ての話もはいっているようです。淀殿の身の上に起こった結果からの憶測
でしょうが〈武功夜話〉でもさる人が懸想していたらしいと、ひやかしています。
「捨子を悲しむ」の一節は「捨て」と「拾う」が、セットさせている、「猿」は秀吉の「猿」があり、
「性(さが)」は「性別」の問題が含まれていると思われます。「あき」は「秋」「詮」も名前に使わ
れます。「詮」は「全」を表すためによく使われわす。
捨て子に食いもの投げて通り過ぎても、犬の子だったら自力で喰えそう、人の赤ちゃんは
食えないではないか、江戸時代は、庄屋とか役所に届けるようになっていないのか、というよう
なことは当然出てきます。それは別の話で、いまは文学、国語の範囲の話だからというのか、
これはおかしい話だよ、というような解説をしてくれてる俳句の本はないのです。
「橋本一巴」の「一」というのが「一太郎」のようなものと思いますが、●の文の文中に「辰巳」とか
「仁躰」という語句がありますので、辿っていくと「明智十兵衛」、「祝弥三郎」が出てきます。
「鉄砲御稽古、橋本一巴」で辿ると「弓御稽古」の「市川大介」、「兵法」の「平田三位」
が出てきます。一応これで橋本一巴は限りなく明智光秀に近づいてきます。いままでの物語でも
明智光秀の鉄砲は一応知られていることです。「鷺」というのがツガイを表わしている、また、
「一」もあるから、「橋本一巴」二人、明智光秀が連れ合いと一緒に出てきたものが
橋本一巴
といえます。明智光秀、光秀夫人の間で、隠れている、細川の人のことは人は一応既述ですが、
これは一般にも鉄砲伝説で知らされている、
「稲富一夢斎@」
とも云うべき人ではないか、丹後一色家、細川家に関係がある人物として知られています。
「土岐八郎」(信長公記)
にフィットする人物ですが、鉄砲の名手という光秀の伝説があるので、それにふさわしい人物で
類書では稲富は信長の周辺に出没します、また一色、細川
ということから明智光秀夫人の出も暗示できていると思います。先ほどこの人物の鉄砲で
「二つ玉」がでましたから、信長暗殺事件の、「杉谷善住坊」と重なります。
織田信長は「きさじに見事を仕候」と「太田又助(太田和泉守)」の弓を誉めましたが、この話しは
太田又助(佐脇藤八)の鉄砲を誉めたということと重なると見た方がよいことは既述ですが
「二の丸」「二の丸」が二つあることでもいえそうです。「林弥七郎」に絡んで
「橋本一巴」「佐脇藤八=太田又助」
が出ましたが、橋本一巴の二つ玉が出ましたので、信長公暗殺事件において、佐々木承禎が
杉谷善住坊に暗殺を依頼したというのは
○ 坂井左衛門尉が杉谷善住坊に暗殺を命じた
○ 細川の佐渡守が橋本一巴に暗殺を命じた
○太田和泉守が佐脇藤八に暗殺を命じた
というのが重なっているといえそうです。織田信長暗殺意思を示し、併せて、太田和泉守が
佐脇藤八(太田又助)をクローズアップさせるための芝居というのが暗殺事件であったと
いえます。、徳川の家康公、三淵(細川)大和守の今でいう善の枢軸の信長公敵視意思は
出ていそうです。
(4)佐脇藤八
いま、佐脇藤八の周辺をちょっと洗うだけで重要なことが出てきました。再掲
桶狭間登場 : 岩室長門守・長谷川橋介・山口飛弾守・
佐脇藤八・賀藤弥三郎
尺限廻り番衆 : 山田弥大郎・滝川彦右衛門・山田左衛門尉・
佐脇藤八
岩倉 :★(浅野村)林弥七郎・・・・・橋本一巴・・・・林弥七郎・・・・
佐脇藤八・・・・
佐脇藤八・・・・・林弥七郎
身方が原戦死: 長谷川橋介・
佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎
於久地で戦死: 岩室長門守
が佐脇藤八の登場の全てですが、テキストでは佐脇藤八は前田利家の弟で「佐脇藤右衛門」
の養子になったと書かれています。従って前田藤八ともいうべき存在です。「佐脇藤八」は
戦死によって全表記が消されましたが、大きな役割を果たしました。
○桶狭間では、後年前田家に入る太田和泉守の二番目の子息を表わす、
○尺限番衆では、山田左衛門尉の意味づけをする
○岩倉では周囲の人物を「八」で染める
○佐脇と前田は親戚であったことを表わす
ことなどが出て来ました。
このほか「藤」は「藤五郎」、「藤九郎」などとの関係を示し「佐」「脇」も利用されます。「藤八」という
のは物語にふさわしい名前で、ほかの物語と結ばれている可能性があります。いまわからないこと
もそれでわかってくるのかもしれません。
佐脇藤八は生まれたすぐ前田を出て佐脇家(藤右衛門)の養子になったということが
〈武功夜話〉にあり〈前著〉で触れています、前田又左衛門が「又」が使われ、双子のいま
でいう兄弟であったとも取れる話しです。こうなると二人は初めから重なっている、非常に近い
存在ということになります。但しこれは直接には〈武功夜話〉をみればわかる、という話です
が佐脇藤八@、佐脇藤八Aという概念でやれば〈二書〉からも出てくることです。
前田又左衛門には
「此比(ころ)御勘気を蒙り、前田又左衛門出頭これなし。義元合戦にも・・・召し出され
候はず候つる。此度(桶狭間後の美濃斎藤戦)前田又左衛門御赦免なり。」〈信長公記〉
という話しがついてまわります。脚注にも
「前田利家は天文二十年(1551)正月から信長に仕え、永禄二年(1559)信長の
同朋拾阿弥(じゆあみ)を斬殺した。信長は利家の死罪を免じ出仕停止の処分にした。
がこの森辺の戦功で赦免した。出仕を止められてから二年の歳月を要している。」
と書かれています。
これが、誰を、なぜ殺したかというのがよくわからない、利家の将来に傷が付いたという
ほどでもないようです。〈甫庵信長記〉では、桶狭間で
「●前田又左衛門尉利家、其の時は未だ犬とて、生年十八歳になりしが首取て参りたり。
木下雅楽助、中川金右衛門尉、毛利河内守、同新助、佐久間弥五郎・・・」〈甫庵信長記〉
となっており、これは、
○ここまで詳しい紹介がある(犬と年齢)、
○周りの人も森、
ということですから、●は、同じ桶狭間「八」で登場の「佐脇藤八」で表わされた、著者の子息
(前稿では「前田又左衛門A」としている)という人物でしょう。桶狭間で生年満18歳です。一方
ウィキペデイアなどでは「前田利家」は1539生まれとなっており、桶狭間満、21歳です。
「まつ」と結婚したのが永禄元年、先ほどの同朋を斬ったのは永禄二年(桶狭間1年前)と
なっています。信長公が永禄十二年、領主の前田利久を前田利家に代えてしまったという
ことは有名な話です。戦国の厳しさということで納得させられていますが、理由がわかるまでは
これは無視できないほどのことです。したがって一応は、又左衛門に「犬」などが共用されて
いるから
前田利昌ー 前田利久
‖篠原氏
‖前田又左衛門利家(あの前田利家)
まつ殿
ということであったというしかないわけです。まあ事情としては、家康公が織田人事に介入
してきたといえるのでしょう。「まつ」はネット記事(sannet/gutoku2「芳春院」)
によれば
「松、昌、東御方、篠原主計の娘、母は利家の母の姉」
となっています。
上のテキストにある事件はこうみてくると、
暴れん坊森坊の若き日の紹介、派手なスタンドプレーかもしれないものとなってきます。
「拾阿弥」は「十阿弥」もあり、語りの「十」ということになるのかもしれません。「十阿弥」と
前田又左衛門は特に親しい間柄で刃傷で表現したということであれば相手は「佐脇藤八」
が考えられます。
佐脇 藤 八
‖ ‖
十 阿弥
となるのでしょう。また
「佐脇藤右衛門」〈信長公記〉(〈甫庵信長記〉にはない)
という一匹狼の表記があり、この人物は清洲城主「上総介殿別腹の御舎兄三郎五郎殿」が
「御出陣候へば・・・・必ず城に留守に置かれ候佐脇藤右衛門」
という清洲城の城代ともいうべき大物です。テキストでは
「佐脇良之の養父。」
となっていて「佐脇良之」は「佐脇藤八」とされていますから、考証では佐脇藤八の養父という
ことですが、〈両書〉にその説明はないので、表記だけから見れば「太田和泉守」の地位の語り
の一つと取ってもよいものです。つまり佐脇藤八の父ともいえる存在かも知れない人物というのが
「藤右衛門」です。
「
「拾阿弥」の「拾」は「重」であり、「十」は「とう」です。「阿弥」は
「安見新七郎」〈信長公記〉
という表記があり「阿弥」は一般的には「七」ー「八」と同じです。〈信長公記〉には「住阿弥」
が出てきて、天正六年
「{寅}十月朔日、住吉よい御帰洛。安見新七郎所に・・・・・翌日、住阿弥御留守
あしく御成敗。・・・さいと申す女、是又同罪・・」〈信長公記〉
があります。「じゅう(拾十)阿弥」は「住阿弥」もありそうです。「善住房」の「住」とか「矢部
善七郎」の「光住」の「住」などがあります。また
「何あみ」〈信長公記〉
もあります。〈首巻〉
「何あみと申す御同朋(どうぼう)、是は謡を能く仕候仁にて候。切て出で働く事比類
なし。又はざまの森刑部丞兄弟切てまはり・・・討死。」〈信長公記〉
があります。脚注には
「絵画や芸能の専門家で将軍・大名などの顧問格になっている同朋は、阿弥号を
もち某阿弥と称した。絵画では金阿弥が最初に知られている。」
があります。
「金」に太字を入れるか入れないかで大きく違ってきます。昔から金が好きな国です。
某=坊なのかということにもなります。また「はざま」は
「狭間。城の“やぐら”や“へい”などの意。ここを守備する任務の森刑部丞の意味か。」
とされていますが、問いかけに対しては桶狭間の森兄弟をみている、同朋も桶狭間に
出ていたということになるのでしょう。少し前に「河尻左馬丞」が出ており「左馬」は山口
の「左馬」があり、「森可成」の気配があります。
「刑部」は「刑部卿法印」があり「斎藤(永田)(大谷)刑部少輔」があります。この視点から
桶狭間を見る必要があるようです。義元側近くの、下方九郎左衛門の知り合いの同朋は
重要な人物であって、「義元前後の始末申し上げ」となっており、太田牛一の
「鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからず、由候て、謡を三番うたはせられ
たる由候。」〈信長公記〉
の情景を語った人物でしょう。太田牛一は、「由」という語を入れ、聞いたことだと書いていま
す。この人物が信頼できること、と太田牛一は確かな人の話を載せているのがわかります。
「下方」の名前が出たのは明智光秀の臨場をほのめかすものだと思いますが、この
義元の鞭・ゆがけ持ちたる同朋
という人物は
乱戦の中、予定どうり光秀に捕らわれ、今川の戦死者の名前を教え、信長から「のし付きの
太刀・わきざし」を貰って、織田に送ってもらって、義元の頸を持って帰りました。今川には
疑われるはずだが気にしていない、この桶狭間の義元を語った、豪胆な人物は誰かという
のが気になるところです。
このようにあちこちで桶狭間のくだりの語句を持っていって、桶狭間戦の語りを補強すると
いうのがあります。
〈両書〉に佐脇藤八と前田又左衛門を繋ぐ何ものもなく、前田又左衛門が変な事件を起こし
というのは一つの衝撃で、みな調べるはずでそこから出てくるものが期待されています。
「勘当」も又左衛門、佐脇両方にあてはまります。とにかく前田又左衛門と佐脇藤八が桶狭間
で重なるようにするための、前田又左衛門を「八」として理解されるために後世の人が考え出
した話しが拾阿弥刃傷事件と思われます。筆者の場合、これはもっと古い話のように思っていま
したので、桶狭間では前田又左衛門@は初めから不在、記録にも出ないと思ってやって
きましたので、又左衛門Aの方に先に関心が向いて返って助かりました。この事件が
〈両書〉に出てきているので重視してしまうとかなり迷うところです。ただ著者が前田利家に
余りよい感情を抱いていないという材料にこれを使いました。家康公の腰巾着という面が
それだったと思いますが、復帰ということで現れたというのは、前田利久の更迭の原因であ
ることと裏腹と思われます。
佐脇藤八もよく語っており、
○桶狭間登場 : 岩室長門守・長谷川橋介・山口飛弾守・
佐脇藤八・賀藤弥三郎
○尺限廻り番衆 : 山田弥大郎・滝川彦右衛門・山田左衛門尉・
佐脇藤八
○ 岩倉 :★(浅野村)林弥七郎・・・・・橋本一巴・・・・林弥七郎・・・・
佐脇藤八・・・・
佐脇藤八・・・・・林弥七郎
においては、★の文のが、「於ね」の父が出ており、時代が古い感じで「佐脇藤八@」「佐脇藤八A」
がありそうな感じがあります。〈常山奇談〉に
「金松又四郎一柳の陣・・・金松武功言上の事」
の一節があり、
「台徳院殿(秀忠?)御上京の時、熱田にて国士(くにざむらい)御目見得(おめみえ)に
出る時、金松も同じく出らる。(土井利勝から)今川義元合戦の時功名、刀根山にて信長より足半を
賜りし事、猪子内匠、金松と年はいづれましたるやと、と御尋ねあり。御覚えには猪子を
年ましと思しめすとの事なり。金松承り・・・
(桶狭間のときは朋輩七八人打ち立ち、馬に乗りそこね、鐙を逆に掛けたりして、不吉
だったので、その日勇みなく進み兼ね、首は取れず朋輩の取った首の血を甲に塗り、
草摺りに泥を塗ったりして、朋輩に交じって信長の前に出た)・・・
信長の前に出れば、義元の首を信長見て悦ばるる時に参り合いたりき。・・・
(刀根山の時は、前夜触れがあったのを怠って草鞋はく間がなく跣で出た別にさせる
ことなしと答えた)、・・・
利勝、猪子と年はいかにと問はるるに、それは御見ちがえなり、内匠はわれより二つ若し
と答ふ・・・大きに御感あって時服に黄金を添えて賜りけるとぞ。」〈常山奇談〉
が語られています。当たり前のことですが、まず桶狭間に
「金松又四郎」〈両書〉
が出陣しているということが重要です。テキストによると葉栗郡嶋村「金松正吉」として考証さ
れている人物で、太田和泉守の連れ合いとしてみてきました。佐脇藤八@というのに該当
しそうで
佐脇藤八@
‖
佐脇藤右衛門
という物語上の人物の組み合わせも考えられます。ここで「猪子内匠」が太田和泉守で
秀忠も利勝も太田和泉守の年齢、連れ合いとの年齢差を気にしています。佐脇藤八も@A
が考えられるので、前田又左衛門も@Aがあるとみるのがよいようです。この一節の前が
「南部越後」
で、金松の「八」で酒井の越後と、津軽の南部宮内少輔(信長公記)をみていると思われます。
金松の一節のあとに
「山田多門兵衛幼年功名の事」
があり、話は15歳で「一番首を取ったのは、従者の物なれたる故なりけり。」というような
ことですが題名が「山田」で
「河田・・・堀尾・・・池田・・・・池田・・・池田・・・池田・・・山田・・・山田・・・山田・・」
となっており、太田と関連付けたいのが、山田で代用されている感じです。また
「信濃守忠氏・・・伊木清兵衛忠次・・・・忠氏・・・忠氏・・・」
が出てきますから前節の話しが忠次のことに絡むといえそうです。また堀尾吉晴が
「梯(かけはし)権八」
の名前が軍功帳にないのがおかしい、といいますが果たして
「手負いて帳に記す事おそかりしと告げたりければ・・・」
となっています。吉晴の明察だという話ですが、前稿のことに関して
いえば、「金松」が、ここでは「忠」の字のもつ雰囲気の「権八」が、一番首を取れる類の
人だといっているのでしょう。「梯」は「木」+「弟」の意味で持ってきたのかもしれません。
「忠」は雰囲気は普通は「八」ですが、係累を表わす「忠」がありそうです。秀忠の場合は、
ここの池田の伊木の「忠」というのでしょう。「忠興(細川)」もあの今でいう父の子という
ものがありそうです。
る
いまとにかく山田のことをいっている途中でもありますが、佐脇藤八に関して、桶狭間で
「岩室長門守・長谷川橋介・山口飛弾守・
佐脇藤八・賀藤弥三郎、」
があり「岩室長門守」が出てきました。岩室長門守の戦死の記事
「上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門、かうかみをつかれて討死なり。隠れなき
器用の仁なり。」〈信長公記〉
があり、ここの 「かうかみ」は「こうがめ」もあるから「亀」が出てくることになります。本能寺の
「・・久々利亀・種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・・」〈信長公記〉
の亀がありここに山田弥太郎が出てきます。この山田は太田と入れ替えますと、
弥 前後に何となく影響を及ぼします。また岩室長門にも太田という感じで引き当ても、考えられる
ことにもなります。
尺限廻り番衆 : 「山田弥大郎・●滝川彦右衛門・山田左衛門尉・
佐脇藤八」
の並びで 「弥大郎」「に対する「弥太郎」が出てきて、「大」=「太」の炙り出しがあることは
〈甫庵信長記〉が「大田」、〈信長公記〉が「太田」だったので、「山田」において、太田を意識
していることが、「山田」の起用を示していることでもあります。太田=山田とするとここでも
別のことが出てきます。単なる羅列とみえるもの●の文が、関係による組み合わせとして捉えられ
ます。すなわち
●「滝川彦右衛門」
‖ーーーーー(子息)山田弥大郎(前田慶次郎)
山田左衛門尉ーーーー 「佐脇藤八」(森えびな)
ということも考えられます。
関東管領は滝川左近ですが●は現地派遣の若大将ということになるのでしょう。
「滝川左近」と「滝川左近将監」〈信長公記〉
の二つあるのは一応 「滝川左近@」「滝川左近A」の二つが想定されていると思われ、
@は「太田和泉守」、Aは「明智左馬助=島左近」
とみてきました。しかし「滝河」もあるので滝川左近@は「三兄弟」にも拡大されそうで、
多芸川、多喜川
にも拡がって利用されるのでしょう。丸毛三郎兵衛と同じく滝川に滝川三郎兵衛があり、子息の
世代といったものが「三郎兵衛」で、「丸毛三郎兵衛」は前田玄以かもしれないことは触れました。
滝川三郎兵衛は「明智左馬介」「羽柴下総守一路」などが考えられます。滝川に
「滝川」「滝川三郎兵衛」「滝川彦右衛門」「滝川儀太夫」〈信長公記〉
があり滝川をややこしくしています。これに
「滝川彦次郎」「滝川三九郎八丸{一益長子二男}」「(甥)滝川義大夫」
「(滝川)豊前守」〈甫庵信長記〉
が加わります。ここの●は、ほかに
「滝川彦右衛門・山田左衛門尉」〈信長公記〉
という並びもあり、また
「中野又兵衛・滝川彦右衛門・・・名比類なし。滝川彦右衛門事、日比御近衆に召し使
はるる者に候。此れ巳前、大谷表にて大さし物を仕り罷出で、させる働きもこれなく曲事と
仰せ出だされ此比(このごろ)御勘当を蒙り、虎後前山に居残り、今度目に見え候働きを仕り
・・・面目を播(ほどこす)なり。・・・・・・佐脇藤八・・・御勘当・・・・(味方ヶ原討死)」〈信長公記〉
もあります。ここの「勘当」が身方ヶ原で出て「佐脇藤八」の表記が消されますが「勘」が「家康公」
にバトンタッチされるのでしょう。また
「一、松枝の城・・・滝川に替らぬ者を居え置き候へと・・・・津田小平次(木村常陸介?)・・・
一、滝川彦次郎{後に豊前守と号す}・・・・
実に其の比彦次郎若年なりしかども・・・・男色の好み浅からずして・・・今此の大任
を課せても聊かいぶかしきこともさき・・・」〈甫庵信長記〉
があります。したがって先ほどの羅列は
山田左衛門尉ーーー●滝川彦右衛門(佐脇藤八)ーーー山田弥大郎(前田慶次郎)
というように三代になるのかもしれません。佐脇藤八が物語的表記だから●の説明になるといえそうで
す。これも「彦」だけでは決められないという意味があるのでしょう。
山田弥大郎の「大」が「太」でないのが重要でしょう。これからいえば「滝川義太夫」は三つ表記
があるのに気が付きます。
〈信長公記〉「滝川儀大夫」、〈甫庵信長記〉は「滝川儀太夫」「滝川義太夫」
です。「滝川儀大夫」はテキスト脚注では
「滝川一益の甥」
とされています。例えばウィキぺデイアでは滝川一益の「従兄弟」と「甥」の両方があるとされ
ています。〈湯浅常山〉は「前田慶次が事」の一節で
「前田慶次利大(おしおき)・・・加賀利長の従弟(いとこ)なり。{一説に、利大は滝川儀大夫
が妻懐胎ににて離別し利家の兄蔵人に嫁して前田家に生まれるといへり}」
となっています。前田慶次は滝川儀大夫の子息ですが、滝川ぎだゆう二人で
★滝川儀大夫=滝川彦次郎=滝川三郎兵衛Aーーーー前田慶次
‖ ■滝川義太夫=滝川彦右衛門(佐脇藤八)
前田利久
ということになるのでしょう。すなわち
滝川左近@(太田和泉守)からいえば★は弟の子となり従兄弟(いとこ)でよく、
滝川左近A(明智左馬助=滝川三郎兵衛@)からいえば■は兄の子で「甥」となるのではない
か、性が変わったので「甥」というものになったと思われます。「三郎兵衛」はもう一つ
「狩野三郎兵衛」〈信長公記〉
という孤立表記があって、これだけは「狩野次郎左衛門(尉)」が付いています。また狩野で
「(同)次郎兵衛尉」〈甫庵信長記〉が出ますので「丸毛」「滝川」にも適用されるかもしれません。
)
岩室長門守で「山田弥大郎」が出たのでここまできましたが、岩室から「器用の仁」が出ていまし
た。、これは、「山田」と「器用の仁」が〈信長公記〉第一節にでてきます。そこで
「器用の仁・・・・・御台所賄の平手中務・・御台所賄山田弥右衛門なり。」〈信長公記〉
があります。「平手」と「山田弥右衛門」の組み合わせに「山田」に「太田」の色が加わりますと、
信長の兵法の師匠、「平田三位」に「武井夕庵」というのが出てくると思われます。
ここで一応三人が揃った、つまり明智光秀=橋本一巴という線が合っていることになります。
岩室長門で出てきた「若衆」と、ここにある「御台所」が、これから「山田」を伴って出てきます。
両方とも信長弟、勘十郎信行について出てきます。信行は「勘」の人ですから■と同じで
大きな影響が出てきます。例えば「若衆」はお市殿で出てきましたが、そこに「織田勘十郎信
行」が出ていました。下のような文があり
っ 「御舎弟勘十郎公・・・・・山田以下御供なり。」〈信長公記〉
「御舎弟勘十郎殿・・・信長の御台所入り篠木三郷・・・・勘十郎殿御若衆に津々木
蔵人・・●弘治四年{戊午」霜月二日・・・河尻・青貝・・御生害なされ候。」〈信長公記〉
「舎弟勘十郎」ー「山田」ー「御台所」−「若衆」と出てきてます。甫庵では「武蔵守」「長
門守」も出てきて、各節繋げてみてはどうかというのが、示唆されていることです。ここの●
は永禄元年2月28日に改元があるから、存在しない年月日で脚注では前年のことだと書かれて
いますが、怪しいわけで、語りの十郎が池田勝三郎に殺されたので、これは
信行(信勝もある)
生きでしょう。信長に義理の兄(織田三郎五郎)がいてその人との決裂が表面化したというよう
なことが殺しとして反映されたと
思いますが、生きだから戦も目だったものがあり今後の影響の大きさが察せられます。子息が
「織田七兵衛信澄」、「津田七兵衛信澄」、
の二人ですから、その可能性は推察できることでもありました。舎弟というのが重要で厳密な
区別ではないが弟と舎弟があります。天照大神の弟でスサノオノミコトが知られていますが、これは
舎弟でもありえるとなるとまた物語が変わってきます。太田牛一はそういうものの総括的な
話をどこかで用意していると思いますがとにかくここは
織田信秀ーーーー織田信長・お市など
‖
土田氏(信秀夫人)ーーーー三郎五郎(信勝)・勘十郎信行(生き)
‖
(若衆都築蔵人)
となるのでしょう。 いままで、主に人名地名から手がかりを得て他所と繋げていましたが、
語句でも縦横に他所とつなぐことができます。明智光秀は、 明智家の
代表なので、隠されている面がおおく、織田ー明智という家の繋がりでもみなければ実体が
つかみにくなっていますので、この語句の面からの関連を追ていく必要があります。
太田と山田を咬み合わせると縦横斜めに「山田」が作れることになります。
山田→山田
太田
↓ \
山 山
太 田
本来的に、「太田」「大田」からは「山田」に移行しやすいものがあります。太田が田田でもあります
し、田と山の風景はもっとも馴染み深いもので、かつ山が三画という簡単な字であることなど
もあると思います。「山田」は「さん田」にもなりますが、それは又別のところを呼び出します。
「太田」に「山田」を付加したことにより「高山」「山岡」への道がひらけました。ここで二つの名前
付加され石田を呼び出すことになるのでしょう。
一つは、「太田」「山田」に「大石」が加わりますと「石田」が出てきます。
山
太
田 大
石
「石田」には両書に「石田孫左衛門」「太田孫左衛門」があり、
太田孫左衛門
石田孫左衛門
から「
大石」が出てくることは既述ですが、逆にすれば
石田孫左衛門尉
太田孫左衛門尉
石太(田)が出てきますから、太田からも石田を出そうとしていることはわかりそうです。念の
ため「大石」からも、「石田」を出そうと目論んだかもしれません。〈信長公記〉に「大石」という表記
が出てくれば、これは太田、山田から石田を出そうとする意思が感ぜられることになります。
逆に言えば
森 三左衛門
山田三左衛門
から、森→山田→(大石)→石田
が出てくるには、大石が必要となってきます。
もう一つ、この「太田」「山田」に「石山」が目に入ると、
山
太田山
石
となり、これも「石田」が出てきます。
太田、山田+(石山)=石田
‖
明智
このように「石山」と「明智」を接近させてあれば、「明智」→「石田」というのが表記からも出てきま
す。いいかえれば
太田、山田から石田を出そうとしたのが「大石」とすれば「大石」に特別な登場がないといけない
太田、山田から石田を出そうとしたのが「石山」とすれば「石山」に特別な登場がないとおかしい、
石山と明智を接近させてあれば「明智」→「石田」が一本につながる、
といえます、もしそうなっていれば「石田」という姓は、近江「石田村」から創氏された姓と
といえそうです。
基本的に・森や明智が石田になったというのには抵抗がありすぎる、考えられないということが
ついてきます。石田三成という秀吉の一官僚が、秀吉の遺児の権限縮小に怒って関ケ原で大軍
を動員して家康に対抗したという方が起こりえないと思うのに、森、明智から石田で出てくるという
ようにならないのが現状です。これはやはり、
「石田」
という姓がじゃまをしていることが考えられます。
「大石」と「石山」
この二つが用意されており、太田、山田を咬ませたから、そういう手間をかけたから明智を石田に
転換したよといったと感じられるということです。たしかに関ケ原軍記に明智という総大将が出てきた
らが一辺に全てが判ってしまいます。
明智・→→石田、
森 →→石田
というのが戦国史の重要な流れですが、これを表記面でサポートされねばならないわけでその
辺のことを述べたいための理屈といったところがこれからのことです。
森=太田は先稿で、太田和泉守の森との姻戚関係によるものから出ました、明智=森の
証明も太田を通じてその他で出てきます。石田という駄目押しというのが太田牛一がしているという
ことが感ぜられるということです。意表をついた人物が出てきます。これは織田勘十郎信行のこ
となどからみて、その説明としても出てくる、必然の登場でもあります。
(5)大石源三
〈信長公記〉に「大石」が出てきます。
「相州(北条)氏政の舎弟
大石源蔵
氏直、御鷹三足、京都迄上せ進上。」〈信長公記〉
の一件です。これ一回限りで大石を無理に出している感じです。「北条」としてもよいのに、「北条」と
すればよいのに、という場面です。テキスト人名索引では
「●大石源蔵→北条氏照」(信長公記)
となっており、北条氏照と同一人物である、ということです。これは「大石源蔵」は「北条氏照」とい
われているので、そちらが有名なのでそれを見てくださいということでしょう。「北条氏照」という似
ても似つかないものが出てきますので
「北条氏照」
をみますと、テキスト人名索引では次のものがあります。しかし、おかしいことに、
文中の表記は「北条氏照」はなく▼だけしかありません。
「北条氏照(〜1590) 北条氏政の弟。はじめ油比氏。のち武蔵守護代大石氏
の養子となり。▲大石源三氏照と称した(奥野高広〈由比源三郎と北条氏照〉〈府中市
史史料集〉五所収)。 (本文は)▼大石源蔵氏直(氏直は
誤り) 282頁」
) のようになっています。なんと▼が〈信長公記〉の文中の表記で、しかも間違っている
と断定されています。
こういうことになると●の人物は▼だということになり、「北条氏照」は蚊帳の外で、これは〈甫庵
信長記〉にも出ていないわけですから、類書で調べた結果の
北条氏照=大石源三
となる、二書間で転換の仕様がないものでも同一と認められているということになります。
また「北条氏照」は▲と▼が、同一人物で表記が違っているとして炙りだされ、▼の
誤り、というのは
本文の「
氏直」が間違いというのだから重要です。下の名前まで書くのは珍しく
「維任日向守光秀」〈信長公記〉
も一件だけです。
「朝倉左京大夫義景」「武田四郎勝頼」「羽柴筑前守秀吉」
など特別な人物しか〈信長公記〉にはありません。その無名の人で大石源三があるわけです。
太田牛一の細心さからは、この間違いはありえない、「誤り」と断定されるのは、辞書にもあって
も 押し付けで、意味は逆になりますから、氏直で合っているということでしょうから、
氏直と名乗っていたか、太田牛一が特別な理由でつけたということが考えられます。問題は、
なぜ太田牛一が氏照と知っていて氏直を使ったかということに帰着します。
テキスト人名注の北条関係はあと、
「北条氏政」と「北条氏直」
が出ており、北条が滅んだとき(1590)の当主は若い
「北条氏直」(1562ー92)
で、「北条氏政」は「氏直の父」と書かれています。つまり前大守が北条氏政です。
「北条氏照」の名前は〈甫庵太閤記〉の北条の最後の段階で北条氏政と切腹した人物として
出てきます。若い当主の北条氏直が助命されたのは徳川家康の婿という関係からというのが
今まで聞いていることです。つまり
○大石源蔵氏直が唐突すぎるので 太田牛一は「大石」を人名索引に入れたくて「大石」
姓の痕跡のある人物を出した、のではないか、
索 ○北条氏照=大石源三というのが認められるならば
「古田可兵衛」(信長公記)、「古田与兵衛」(甫庵信長記)=「古田織部」(類書)
という方が認められやすいのではないか
○大石源三氏直と太田牛一が書いたのは、現代からみれば、北条最後の当主という事績
の確定している北条氏直と大石源蔵との関係に気付きやすくしたのではないか
などが考えられることです。まあ重要性からこれをみればネット記事にはこの人物は赤穂浪士の
「大石内臓助」に関係があるというのが出てくることです。ちょっとだけ触れられていて、逃げるよう
に去るというたぐいのものです。
なおこの大石源蔵の「氏直」の登場は、確実なのは一回ですが、氏直はこれを含め合計三回で
す。
@天正七年、「相州氏政の●舎弟大石源蔵
氏直」〈信長公記〉
これは脚注では、「
氏直は氏照の誤記。北条氏照。」となっています。一応脚注によって
すんなりと読めば
北条氏康 北条氏政ーーーーー(当主)北条氏直
‖ ーーーーー|
武田氏 弟、北条氏照(はじめ油比氏、のち大石氏に養子)
となります。脚注が、断定的な言い方なので、●の意味としては、額面通りの弟、これ一つ
だけでよいのでしょう。誤記のこと
をいうならば、●の舎弟が間違っている、舎弟を子息とすると合っているいう間違いもあり
えます。ただ、この場合は、養子に行った先の姓、大石をいう必要がない、ので
これはありえないといえそうです。はじめの「由比氏」というのは、その説明は要ります。
人名注に
「由比可兵衛」〈信長公記〉
があります。はじめ「由比氏」に入り、のち大石氏に入ったので、跡継ぎになりそうな人物
とするとこれは子息ではおかしいので、氏直と舎弟の組み合わせはおかしい、太田和泉守が
また、ジャジャジャンを入れてビックリさせたといえそうです。「舎弟」とは何ぞやというのでしょう。
Aこれに関連し、天正八年で
「(三月十日)氏政よりの使者、笠原越前守。 ★舎弟
氏直の使者、間宮若狭守。
同下使、原和泉守。」〈信長公記〉
があります。これは脚注では
「舎弟
氏照の誤りか。あるいは子息氏直の誤りとも考えられる。」
となっています。@が断定的であったのに、ここでは、@について「舎弟」の方もかえることも
考えるのは合っていたということをいっていそうです。●は舎弟が合っている、★が「子息」も
考えられるというのは、トーンダウンです。おそらくここは、文面からは、「大石源蔵」の「氏直」
であるとはいっておらず、「北条」の「氏直」といっているので「氏照」の誤りであろう、というだけ
でよいはずですが、「舎弟」→「子息」という間違いもある、「舎弟」の流動性の問題に踏み込
まれているという感じです。要はいままで舎弟には、すんなりした舎弟とややこしい方の舎弟
があるということをいってきて、それで進めてきている、その面のことを太田和泉守はここでも一つ
原初的説明をしていたというものではないかと思われます。一回ポックリの大石は重要である
ことも併せていったといってるようです。
大石ー石山ー山田ー石田の面でも、
また
「可兵衛」(由比・古田)−武蔵守護ー「源三(大石)」−「源内」「古田」ー「森」
の面でも。
@の場合と違うのはAでは
「笠原越前守」、
「間宮若狭守」「同下使原和泉守」
の登場です。属性を付けて氏照、氏直の違いを出したいのかもしれません。
@により「舎弟」なら「氏照」に決まっていますが、使者に「上」「下」があり重みを持たせてある
ので★が「子息」の当主氏直が合っている、といえます。脚注の顔を立ててそれを押せば、
@の●は舎弟氏照で
すから、★も舎弟氏照となります。ちょっと合わないので「子息氏直の誤りとも考えられる」と
なっているのでしょう。「子息氏直の誤り」というのは、この場合は
舎弟が子息の誤り
ということになりますが、一般的には
氏照が氏直の誤り
もあります。ここではそれがないことが前提にされていますが、太閤秀吉が徳川家康を指
したりします。
ここで@Aから「舎弟」が一つ間違っていた、舎弟に「舎弟」と「子息」があった、ということに
なります。
「氏照」「氏直」については間違っていた、とは必ずしもいえないと思われます。氏照というのは
〈信長公記〉にはないからそういえそうです。つまり太田牛一が故意に間違ったというのは
まだ生きています。同じ三月十日、
B「(相模国北条氏政・・・氏政の御使衆御礼。御太刀・折紙御露、)・・・・・御太刀・折紙、笠原
越前御礼。
氏直の御礼、間宮若狭申し上ぐ。同じく重ねて、右両人自分御礼。原和泉
御礼。」〈信長公記〉
これで一応氏直は子息で合っているといえます。しかるに
C「三月廿一日、相模国北条
氏政へ遣はさるる御注文、
虎皮
廿枚 縮羅
参百端、但し三箱、 猩々皮
十五、
巳上、笠原越前守請取り申候なり。
氏直へ
段子
二箱、
巳上、間宮若狭守請取り申候なり。」〈信長公記〉
があり、 氏政と氏直に差があり過ぎる感じで、よく事情がわかりませんが、場所が別の氏直
がある感じです。
「段子」というのは二箱となっているので「箪笥(たんす)」ではなく「団子」でしょう。
「花より団子」の「ダン子」が氏直の属性となりました。つまり「大石源蔵氏直」は
「大石源蔵」と
「氏直」
に分解できるといえそうです。注で出ている大石源蔵と大石源三というヒントもあり、氏直と
名乗りではない氏直Aがあるといえそうです。
整合するに、結論はやはり舎弟が二つ(●★)あるという問題といえそうです。★の氏直を伴った
氏照が利いてくるのではないかと思います。ここだけの与件でいえば、二つ考えられます。
A、北条氏康(氏政父)−−北条氏政
‖★(大石源蔵氏直)ーーー★★北条氏直@(当主)
由比氏
この場合★の人物が、連れ合いで隠れるので、氏直と敢えて名を付け、当主氏直@との関係を
示したといえそうです。★の氏直は@とはならないということと思われます。〈信長公記〉では氏照が出てこない
ので使うわけにはいかず、こうなりそうです。一方で大石源蔵が氏政の実弟ならば北条氏照とせざるをえ
ません。また〈甫庵信長記〉では「北条安房守」が出ておりこれを北条(安房守)氏照とすると大石
源蔵と兄弟で氏政の義理の弟となりそうです。二つ目は
B、北条氏康ーーーーーー 北条氏政
‖★(大石源蔵氏直)ーーーー★★北条氏直A
由比氏 |
で、 ●北条(安房守)氏照(大石源蔵の弟、源三)
にもなります。★と●という他家から入った兄弟がいて、●の氏照が北条の柱石というので大石
源三という表記で表わした書があるということと思われます。この場合●が北条氏政の
義理の舎弟ということになるというのが前提ですが、ちょっと苦しいかともみえます。北条氏政
の兄弟との姻戚などがあるかどうかはここからでは読み取れませんのでこの程度のところです。
これらは後北条の盛衰の経過をみて決まることですが、後北条の滅亡時のことは〈甫庵太閤記〉に
出ているので、表記の連携がどうなっているかの問題も出てきそうです。ここでは舎弟の意味が
問題とされている、大石がそれと引っ掛けられて出されたと読み取れそうです。
北条氏照といえばネット記事などでも確認できますが軍事にも優れ氏政をよく補佐した人物とみて
よいようです。脚注では北条氏照を大石源蔵氏直として、いまでいう弟と決めていますが、そうする
と他家の後を継いだ人の子息が、養子でもなって北条のあとを継いだということになりますが、
ちょっと不自然です。★の舎弟は連れ合いとなりうるので太田牛一は北条氏
照という存在を知りながら、大石源蔵氏直を持ってきた、解説では大石源三氏照という表記もある
ようなので一応、ここだけでも★★の北条氏直に叔父と父と二人の北条氏照がいたということに
なります。
、
とにかくここで
○「大石」を出した
の ○「武蔵」を出した
○「由比」を出した
ということになりますので、大石源蔵氏直は太田和泉守と無関係とはいえない感じです。
北条氏政は早くから織田と誼を通じており先見のある人物と見受けられますので姻戚関係などを
含めた人材交流があったと思われます。〈信長公記〉では「氏直」に
「原和泉」「原和泉守」
が付いており、これは「原見石」の「和泉」も想起されます。また「笠原越前守」は脚注では
「笠原康明 〈川口市玉林院文書〉によると康明には藤左衛門と称した時代がある。康
明の父は、越前守信為〈相模雲松院文書〉。」
とあり、「越前守」というのは太田和泉守の裁量の領域であり、「藤左衛門」というのは援護射撃と
いえそうです。「玉林」というのが「山岡玉林」という人物(信長公記)が「石山」絡んで出ますので、
これも引っ掛かる点です。「間宮若狭守」は脚注では
「間宮綱信(1526〜1609) 間宮氏は佐々木氏の族。伊豆(静岡県)田方郡間宮村
から興ったという。」
とあり、「佐々木」つまり「佐々」が出されています。「若狭守」も
「松尾若狭守」〈甫庵信長記〉
があり、これは〈甫庵信長記〉では北条時政と同日に出てくる「松尾掃部助」と人名索引では並び
の人物で、氏政を睨んだ「若狭守」で、且つ「松尾」です。「武蔵」も出てきました。なんとなく太田
和泉守の近辺に全てが近づいてきました。
また、ここにある「源三」の「由比氏」というのもそれを表わしていそうです。
由比氏は〈信長公記〉では
「油比可兵衛」「油比藤太夫」
があります。「可兵衛」は「古田」があり、また「藤大夫」は「神吉」があります。「神吉藤大夫」は
テキスト人名注では
「神吉則実の同族。」
となっています。「神吉則実」はテキスト人名注では
「民部少輔。 神吉(かんき)氏は播磨神吉(加古川市東神吉町神吉)から興った赤松氏の
一族(三木文庫編〈図説三木戦記〉)」
となっています。「赤松氏」が出てきて「三木」「可」で「森」とも繋がります。「神吉」は「神」+「吉」
で「藤吉」の「吉」と、「神戸」の「神」との組み合わせですが、「神応但馬守」があって、これは
「神尾但馬守であろう。神尾氏は
駿河(静岡県)の名族。」
となっています。「但馬」と「駿河」というのは合いませんが、それだけに繋ごうという意思が感ぜら
れます。「但馬守」に独特の意味があるのでしょう。「但馬守」は古典の蜜柑の「たじまもり」で、
また「田島千秋」で熱田で出てきました。〈信長公記〉で島田は駿河のくだりで出てきます。
「神尾」「但馬」−−「駿河」
は大田和泉守が出した重要な予告で、「神穂」の「駿河」、「神田駿河台」という意味の「駿河」
です。
当面、「但馬守」には「前野但馬守」があり
「
神尾但馬守」
「
前野但馬守」
の「
神前」といえば、芭蕉の
「 神前
この松の実(み)ばえせし代や神の秋」〈鹿島紀行〉
があり「松」が「神」に近づき、「神尾」→「松尾」も出てきそうです。「実」というのは「松・毬(鞠)」
でもありますが「さね」で菅原道真の「さね」、蒲生真令(さねのり)の「さね」「真田」の「さね」で、
芭蕉では「太山」=「みやま」の「み」=「太」=「実」です。この句の解説に
「鹿島神宮の神前の森厳な感じをはるかな時間を遡る思いの中でつかみとろうと
した句である。」〈芭蕉全句〉
があり、「鹿」「神」「松」→「森」です、「森厳」というのは解説で使われていますが「森厳」(しんげん)
とか「森閑」(しんかん)とか、「森」を「しん」と読むことは、当然のことですが太田和泉守、
芭蕉は知っており、
「高山森々(かうざんしんしん)」〈奥の細道〉
があります。また解説では
「“実ばえせし代”は、実生えしたばかりの時代ということで、遠い神代の意でいったもの。」
とありますが、鹿島の「鹿」が利いており蘇我入鹿の時代というのでよいのでしょうが「実」と
いうのがあるので、もっと遠いボンヤリ
したものの方へ解釈を持って行くようにとの申し合わせがあるがごとく、「神原」へというものです。
神尾ー但馬守、図書ー神尾ー高山ー前田ー森
というような連繋がありますが、ここに
「神皇但馬守」−「神尾但馬守」−「駿河」
という線もでましたので「駿河」というのも加わってきそうです。駿河には
「青地駿河守」「「向井駿河守」「吉川駿河守」「逸見駿河守」「二階堂駿河守」〈甫庵信長記〉
がありますが、「青」「向」「吉」「速水」ここの「吉川駿河守」は人名索引では「吉川駿河守元春」
ですが「きっかわ」と読む
と思っていたところ、テキストでは「よしかわ」と読ませるべく「ヨ」行に入っています。ルビはない
ので現実では本人に聞いて決めることになるのでしょう。しかし
「橘川」
も用意され、これは〈甫庵太閤記〉にもあるので「きつかわ」が合っているのでしょう。秀吉の「吉」
とか、「神吉」、「大吉寺」、「吉田神主」(吉田兼和ーのち兼見)、「吉田平内」とかいうものとの
連携も企図した読み方の暗示もありそうです。
(6)石奉行、大西
「吉田平内」は〈信長公記〉の安土城の本体の叙述から離れた、作業風景の点描といった感じの
ところで出てきます。
「大石・・・石垣・・・・大石・・・石奉行・・・大石・・・小石・・・大石御山・・・蛇石・・・名石・・大石・・」
とある一節に、石奉行が組み込まれ
「石奉行、西尾小左衛門・●小沢三郎六郎・吉田平内・大西、」〈信長公記〉
が出てきて、「大西」に特徴付けられたようなことで出てきます。これは4人か5人、中途半端な
大西を入れると●を一人で勘定すれば5人で、大西は別の意味で入れたというと●二人という
のが見合いになっていそうですから4人というのが合っていそうです。太田牛一は、この4人の人名は、
何を思って書いたのか、というのが当然出てきます。いずれわかるにしても、当面、誰かという
のが知りたいわけです。〈甫庵信長記〉では、安土城は、ほんの二行くらいしか出ていないので
とりあえず〈武功夜話〉から引っ張ってこれます。これ城作りの機密の部分だから身内に近い人
と云えそうです。改行して引用しますと
「
石奉行、前野将右衛門(ルビ長康)、蜂須賀彦右衛門(ルビ正勝)両人の者、
安土山
石垣作事
奉行申し付けられ候。
観音寺山
石切場
奉行、
藤堂与右衛門(高虎)、尾藤甚右衛門(知宣)。湖上舟手奉行、浅野弥兵衛(長政)・・」
となっています。石奉行として四人先に書いて、「前二者は、安土山、あとの二人は観音寺・・・」
と書いてくれれば四人が鮮明に出て、〈信長公記〉の四人と照合してもよさそうと感じますが、
す 〈信長公記〉も四で、それも四とおぼしきという頼りなさがある上に、こちらは、安土山二人で、
片方の二人は従だから、ちょっとちゃうなあ、ということで、これはまあ関連を考えずに書いて
みたんだろうということになります。しかし
石奉行・・・・
安土山石ーーー奉行
観音寺山石ーー奉行
というようにチャンとした叙述体系は維持されて問題ない、一見不確かな印象を与える強固な
連携が計られたといえます。
煮詰められたものをもっているということを明かすことが必要で、ここもそのようです。まず
前野長康、蜂須賀正勝、藤堂高虎、■尾藤助宣
となりますと、藤堂高虎は今となると太田和泉守の義理の子息ではないか、ということでこういう
機会にわかってきたりしていいのですが、■の人物がわからないと、石奉行の重みとかいっても
話が進展しません。道家の「尾藤源内・尾藤又八」と同姓の人物です。
(7)川尻与兵衛
これも先稿にでた、森三左衛門戦死の場面の人名羅列、
★「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守、尾藤源内・尾藤又八」
における、「尾藤」だから、姻族筋の人物で、大物だということになれば、関連を〈武功夜話〉の
著者がもってきたといえそうです。この尾藤が手がかりになりそうで、さきほど、大石源三ー氏直、
という捕らえ方をしたのでそれでみると、後年
森三左衛門可成
‖(兼松正吉)(武藤助宣)ーーーーーーーーー青地駿河守、尾藤源内、尾藤又八
(太田和泉守)尾藤甚右衛門知宣
という関係が生じたということが考えられます。森長可が戦死する前に遺書を書いた、そのあ
て先が尾藤甚右衛門でこの人物は九州の島津
攻めの時の采配の不手際で改易されて、あと追っかけられて殺されたという秀吉が恨みでもあり
殺しかたをしている、そういう今でも謎が解けない死に方をしています。加藤清正は独立する
ときに武具一色を尾藤知宣から引き継いでいます。ストーリによっては、たとえば三人の子が
いて森三左衛門が尾藤甚右衛門の連れ合いになったときに、甚右衛門の連れ子という関係
になったというのもありえます。それで子の姓が違うというのがあるかもしれませんが、「尾藤」
というのが仮名かどうかがよくわからないわけです。とにかく
結論では★のときに
森可成は生存
というからには、タッチの差で誰かになった、それが明らかにならないと
これはいえないことになりますが、今となればやっといえる段階にきたといえそうです。「河尻
与兵衛」になったというのが結論で、甲斐の国主になったということです。 小豆坂
の人名で〈甫庵信長記〉に
「内藤勝介能き武者討(うつ)捕(と )りぬ。
河尻与四郎も、由原(ゆ はら)と引(ひつ)
組(く )んで、・・・・・遂に由原が首を取って・・・・其の比は十六歳、・・・後は肥前守・・」
というのがありました。年齢を書いてあるのは、このとき4人だけで、
この与四郎16、下方弥三郎16、佐々孫助17、又兵衛そち17
ということでした。したがって、河尻与四郎@としては兄弟の一人を表わしている、水野ではない
かと言って来ています。
同じ年配というならば、文献の初めの段階ですから、又兵衛そち、の配偶者がありえるわけで、
一応は念頭にうかぶことです。これは、結果、山口九郎(二郎)で入れ替えて年齢などを
説明できるようにしたと思われます。山口九郎二郎の話になりますと「天道」の怒り
があって桶狭間がでてきますが、前稿で桶狭間で9人の引き当てをしました。その内
「毛利(森)河内」→太田和泉守
「毛利(森)十郎」→森可成
ということでやっています。〈甫庵信長記〉では、桶狭間で、この「
河尻与兵衛」が準備がされて
います。 〈甫庵信長記〉では清洲城から駆け出した人物は
「織田造酒丞、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、▲
河尻与兵衛、
簗田出羽守、佐々内蔵助、唯十騎計りにて・・・・」〈甫庵信長記〉
となっており、▲森可成の「河尻与」=「森十郎」として用意されているととれます。人名引き当て
をして、著者の真意を探っていると行き詰って窮余のものも出てきますからそういうものかもしれ
ません。突然性からけしからんということになりますが、この「河尻」が一番難問の感じですから、一旦
そうしておくと繋がっていくかもしれないわけです。とにかくここは一騎合いません。十騎ばかり、
と書いていますが9人で数では
〈信長公記〉9人と同じです。ただここでも9か10というのが出ています。これは〈信長公記〉の
「毛利(森)十郎」
で匂わされているのと同じです。〈信長公記〉と違うのは「織田造酒丞」が入っているからちょっと
人名とりあげの考えがちがうというのもあるのでしょう。太田和泉守の
そのとき頭の中を去来した人物が、あったのだから一応理屈をつけておいた方だいいのかもしれ
ません。二つのことが考えられます。
@の体系は
織田造酒丞 ○岩室長門守、→長谷川、佐脇、山口、賀藤
○▲河尻与兵衛(16歳の川尻で、半介の方の人物)
○簗田出羽守(武井夕庵、こえは蜂屋出羽守から想起で)
○佐々内蔵助(明智光秀=小豆坂人名、佐々隼人正から、政次相当)
これで9人で、織田造酒丞の子息と孫が出ている。○の4人は、4人兄弟で、10人が匂わ
された一人は、内藤勝介で、織田造酒丞が「四郎次郎」というように入れ替えられれば入って
しまいます。
9人のうち、半介相当の人は織田造酒丞と佐脇藤八と河尻与兵衛(水野相当)の三人といえる
ということで小豆坂人名の内訳ができあがります。
Aの体系は▲が変わることになって9人を主体とする配置にこだわるもので
○岩室長門守、→長谷川、佐脇、山口、賀藤
○▲河尻与兵衛→簗田出羽守A、佐々内蔵助A、織田造酒丞A
〈信長公記〉が9人だったから9人にあわしとこ、というのはあると思います。森可成の子息と
して三人を入れてしまう。可成系の三人というのは見落としやすいのでこういう数合わせをした
というのはありえます。これで、プラス1の人物があるのか、ないのか、あるとすれば誰かという
ことになりますが一応念頭に入れるのも要るのかも。養子に近い、高山右近、織田信澄もある
かもしれませんが若すぎるといえそうです。
B実際ここにいたという面でやってみると、子息はそのままとして
織田造酒丞 ○岩室長門守(長谷川、佐脇、山口、賀藤)
○▲河尻与兵衛(森可成)
○簗田出羽守(蜂屋兵庫頭ーただし文中の発言は太田和泉守))
○佐々内蔵助(明智光秀=小豆坂人名、佐々隼人正から、政次相当)
に の9人になるのかも知れません。武井夕庵は別働隊の方にいた、森可成と蜂屋出羽守と
明智光秀は入れたいと思います。一応賀藤にかえて信長公もあるかも。加藤のあと、具足屋
玉越三十郎が出ていました。プラス1は内藤勝介か、次の□□□かもしれません。
□□□
‖織田造酒丞
内藤勝介
一応細かく考えておくとどこかで役に立ってきます。
ぐ ここで▲が森可成とみて、それは桶狭間の九人衆「毛利河内・毛利十郎」として、出ているのを
太田和泉守・森可成と解釈してきたことの結果、次のものが太田和泉守とセットになったという
ことです。毛利河内をみますと
「元亀元年・・・毛利河内・金松又四郎・・・毛利河内と金松又四郎両人・・・長末新七郎・・・
毛利河内、金松・・・・金松・・・河内・・・」〈信長公記〉
(このあとの一節で、森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八の戦死
の記事がでる。)
ここで毛利河内と金松又四郎の関係が浮かび上がります。「新七郎」というのでどういう関係か
というのがわかりそうです。毛利河内と毛利十郎が桶狭間で太田和泉、森可成と言っていま
すから、
毛利河内
‖金松又四郎(正吉)
毛利十郎
というのが出てきます。ここでまた
「下間丹後(しもつまたんご)」「長末新七郎」「野村越中」
天 も出てきましたからこれも
下間丹後
‖新七郎
野村越中
となるのでしょう。この次が重要です。
(8)甲信
天正三年
「・・・河尻与兵衛・毛利河内・浅野左近・猿荻甚太郎・・・・・・」〈信長公記〉
天正十年
「・・・滝川左近・河尻与兵衛・毛利河内守・水野監物・水野宗兵衛等・・・団平八・森勝蔵・・・」
「爰には河尻与兵衛・毛利河内・・・・森勝蔵・団平八・・・・・・」
「河尻与兵衛・毛利河内守・団平八・森勝蔵・・」
「森勝蔵・団平八・河尻与兵衛・毛利河内・・・」
「森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・・・・」以上〈信長公記〉
があります。二人が並んで出てきたのは天正三年ですが、「河内」と「与兵衛」は、本能寺の年
には集中的に「森勝蔵」「団平八」と並んで出てきます。
これはやはり、桶狭間9人衆の、「毛利河内・毛利十郎」の並びに繋がるものでしょう。つまり
毛利河内
‖
河尻与兵衛
水 という関係で、また森勝蔵との接近で森可成が出てくるでしょう。水野も出て来ており、
「(天正十年)織田源三郎・団平八・森勝蔵、」〈信長公記〉
もありわかりにくい「団平八」は「水野」に引き当てもありうるということになりそうです。団平八
の「八」は「織田源三郎」に及ぶのでしょう。この「川尻与兵衛」が森可成とすると、次ぎに効いて
きて、今後に大きな問題を投げかけます。またここで視界が広がることにもなります。すなわち、
天正十年、三月廿九日、本能寺の二ヶ月ほど前
「三月廿九日、御知行割仰せ出さるる次第、
覚
甲斐国、●
河尻与兵衛に下さる。{但、穴山本知分これを除く}
駿河国、
家康卿へ、
上野国、滝川左近に下さる。
信濃国、・・・・・・四郡、
森勝蔵に下さる。・・・・・
・ 同キソ谷、二郡、木曽本知・・二郡、・木曽新知・・
同伊奈、一郡、
毛利河内に下さる。
・・・・・★巳上十二郡
岩村、
団平八、今度粉骨に付いて下さる。
金山よなだ嶋、
森乱に下さる。是は勝蔵忝き次第なり。 」〈信長公記〉
この●が「森可成」と決まると、ここは「家康卿」を除いてほぼ森一族の知行割りを述べている
ことに気付きます。また徳川家康より先に森可成を書くのもどうかということもあります。
三番目「上野国、滝川左近に下さる。」
というのは
太田和泉守ー佐脇藤八
‖
明智左馬助ー滝川三郎兵衛
の滝川三郎である可能性が高く、★の十二郡は
信濃国、タカイ・ミノチ・サラシナ・ハジナ四郡
森勝蔵に下さる。・・・・・
・ 同キソ谷、二郡、木曽本知、同アツミ・ツカマ、二郡、木曽新知に下さる。・・
同伊奈、一郡、
毛利河内に下さる。
同諏訪、一郡、河尻・穴山替地に下さる。
同チイサカタ・サク、二郡、滝川左近に下さる。
巳上十二郡
と、なっており、12の内容がやや不透明ですが、郡数を足すと12になるので訳文の「点」の入れ
方の通り「同伊那一郡」は「伊那・一郡」ではなく、「伊那、一郡」=「伊那の一郡」になるのでしょう。
十二郡中八郡が森関係です。しかし「キソ谷」の「カタカナ」は「きそ谷」「キソ谷」の二つが予定
されていそうで、一般的な、いわゆる木曾谷でないことがいわれているとともに、サラシナ、サク
などとの連携がある、森色というのがありそうです。とくに次の「上松」が一つ絡んでいるようです。
この年、二月に、木曽義政(昌)が味方し
「(木曽)義政の舎弟上松(アゲマツ)蔵人人質として先ず進上候。御祝着なされ、菅屋九
衛門に預け置かれ候。」〈信長公記〉
があります。
この舎弟は、木曽義政の連れ合いの方の舎弟であり、一匹狼の人物で木曽に新知とあり
「松」の人絡みの新知ともいえそうです。ただ〈甫庵信長記〉にはこの木曽の本知、新知と穴山
のことについては記述は無く、甫庵では迷わさずに一層森氏に限定させたという感じです。
それだけにここの木曾、穴山、は重要で木曾に近い伊那、の毛利河内は桶狭間で出ました。
とくに知行割で二つある「穴山」の座りの悪さ、は気になるところです。
(9)穴山梅雪
この知行割は三月廿九日のことですが、少し前、〈信長公記〉
14節おわり
三月廿日、 「木曾義政出仕」、「御馬二つ進上。」
(登場人物は「菅屋九右衛門」「滝川左近」「後藤源四郎」)
15節
三月廿日晩、「穴山梅雪御礼。御馬進上。・・・御領中仰せられ候き。」
「松尾掃部太輔御礼。駮の御馬進上・・」(「矢部善七郎」「森乱」登場)
三月廿一日、「北条氏政より、端山という使者にて、御馬併(「イ」のないもの)に江川
の御酒・白鳥、色々進上。滝川左近御取次。」
16節はじめ
三月廿三日、「滝川左近召し寄せられ、上野国併に信州の内二郡下され候。・・・
関東八州御警固申し付け・・・」
の内示があって、発表されたものです。流れとしては、関東八州の統治にあたって、甲斐、
(織田川尻、旧武田穴山)、駿河(徳川)、木曾(木曾義政)、伊那(織田毛利河内)で固め、北条
を懐柔して、関東管領を任命し・・・という準備をしたというのはわかりますが、語りたいものは
表記の工夫がしてあって変わって来ています。「甲斐」が「川尻与兵衛」というのと「森可成」と
いうのでは、森勝蔵や森乱丸もあるので、知行割の意味が大きな違いとなって出てきます。
次のように左の表向きが右になってきています。ちょっと馴染みのない人物にも出番を与え
それで本能寺の変を東国からも語ろうというものでしょう。変わった表記の実力者登場もありの
まま出せないことによるもので引き当て必要のものと思われます。例
@織田川尻 → 森可成(ただし、この表記は使われていない)
A武田穴山 → 穴山梅雪、穴山玄蕃
B駿河家康卿 → 家康卿、家康公
C木曾 → 上松
D織田毛利 → 松尾掃部太輔
E北条氏政 → 使者「端山」
F関東管領 → 三九郎八丸ー「婿」と「犬」
@は「森可成」は意識されているだけのもので表記では出てきていませんが、森勝蔵、森乱丸
は森長可の子であるのは知られていて、その接近が、新知行割に出て、また、「川尻与兵衛」は
「河尻与兵衛」→「江尻与兵枝」にも変化し、「江尻(信長公記)」は
「足高山・・・吹上げの松・六本松・・・・三ほの松原・・・羽衣の松・・・江尻(シリ)の南山
・・・江尻・・・・江尻・・山中・・・藤枝・・・・肥前守・・・」〈信長公記〉
の流れで高山にも近づき、「河」→「江」「郷」「枝」は太田にも至り「森」は出てきそうです。
こうするだけで戦国前期では有名な、A今川・B武田・C北条三国の確執が、
A、徳川(駿・遠・三)、
B、森(甲斐・信州・木曽)、
C、北条(関東)、
の配置で再出発、B・Cが水面下で同盟という感じで、再現されようとしている、これに関東管領で
てこ入れもやるというのですから、時間さえ与えられれば徳川の地位低下は避けられない、
徳川への刺激も相当なものとなったと思われます。これに穴山が駿河に食い込んでいる、
これは勝頼を裏切ったという評判のわるさがあり、意味が小さいと取ってしまう、知行割に穴山が
あるのが、わからないだけに、問題だと思えてきます。Fは織田若手の起用で、戦闘力最強の
集団になりそうで、@Fは表記から見ると恐るべきものがあるといえるのでしょう。
つまり、背景の色が考慮されていなければならないということで、
背景が白で描いてあると赤色の人物が目だって大活躍し、舞台には小道具がたくさんあるから
それも、その人物を引き立てているわけですが、一方「上松」「端山」「三九郎八丸」など
白の人物が仮名などで描かれていてそれも活躍させています。背景の色を赤に変えた場合を、
想定して描いているから、そちらをクローズアップさせるとこうなるというのが要ります。わかりに
くい人物の配置、登場がそれです。最終的には背景を適当なものにして、両方が見えるよう
にして著者や、周囲の評価はどうかということになります。もう一方の見方からすればこれは
強力な布陣だというのがいいたいところで、松尾掃部助などは、わかりにくいから議論にならない
というのは駄目で、配置の評価をしようというものが要ります。以下は徳川家康を一人だけと解釈し
て読んでみると、どう読めるかということか、というためのものです。
@については「森」の知行割りのことをいっているのがわかりますと、Bの家康がここに入って
くるのは少し唐突で、家康の「駿河」の解釈にも影響が出ます。Bについては
「▲(天正三年)三・遠両国仰せ付けられ、家康・・・御存分を達せらる。」〈信長公記〉
「▼(天正十年知行割) 駿河国 家康卿へ 」〈信長公記〉
「(天正十年)徳川家康卿、今度駿河国御拝領の御礼として御上洛なされけるが、
穴山梅雪をも召し連れられけり。」〈甫庵信長記〉
となっていて「家康」が駿遠三の太守となったというのはここ▲▼で通説になったといえます。
まあ「家康」「家康卿」一字違いだから、尊敬語が入ったのだろうだろう、同一人といったところで
しょう。しかるに
「(天正十年)信長公・・・御本意を達せられ、駿河・遠江両国家康公へ進らせらる。
徳川家康公●併に穴山梅雪今度上洛候。」〈信長公記〉
となっており、「駿河」「遠州」が家康公に与えられています。ダブったというべきか、実質はこっち
だというのか、政令が二途より出たのかよくわかりませんが、とにかく家康2国、家康卿1国、家康公が
が2国となっています。まあ
家康 遠 三
家康卿 駿
家康公 駿 遠
と 書き直してみると、「三」への言及が足りない感じです。つまり家康公に「三」を入れたら、
二重支配と取られる前に、表記が違わせているということはないと取られてしまいます。
「家康公」に括弧付きの「(三)」を入れると、共同統治なら力関係は家康公3、家康2、家康卿1
というのが一応出て来ます。家康卿がどっちつかずなので家康の力を減少させている感じです。
う
ここでAの問題が出てきます。●の「併」は「人偏」のない字です。合体度が強いといえそうです。
佐脇藤八のように周りの説明に出てくるような表記の人物は、天正10年にもあります。
家康卿と穴山氏は近いようです。
「穴山玄蕃允、・・・江尻の城に居たりけるが、彼が方へ家康卿よりひそかに仰せ遣
はされけるは、今度味方に参じ忠節致すに於いては(と誘う)・・・」〈甫庵信長記〉
「家康卿は穴山玄蕃允を案内者として駿州河内口より、甲州の文殊堂の麓、市川口
へ乱入し給ふ。」〈甫庵信長記〉
があります。この甫庵の家康卿はどうか、ということですが、これは〈信長公記〉にもあり、天正十年
「信長公より聟・犬両人、信州御陣へ差し遣わされ・・・去程に、穴山玄蕃・・・遠州口
押さえ・・・江尻・・・今度御忠節仕候へと上意の処に、則御請け申し・・・穴山逆心・・」
「家康公、穴山玄蕃を案内者として召し列れ、駿河河内口より甲斐国文殊堂の麓
市川口へ御乱入。」〈信長公記〉
となっています。下段似たような場面でここでは「家康公」となっています。一応同行であろうと
すると、先ほどの「家康卿 駿」となっているのは家康(子息の方)の出世表記といえそうです。
上段の、この「犬」が藤八で、「上意」とあるから、ここでは太田和泉守が、穴山玄蕃に働き
かけて穴山梅雪が味方に付いたといっていそうです。穴山は
「穴山」「穴山梅雪」「穴山玄蕃」
がありますから、この二人の関係もみなければならないのかもしれません。「穴山梅雪」はテキスト
人名注では「信君」で
「武田信玄の姉婿」
とされています。すんなりした姉だったらよいのですが、ややこしい方もあるとすると「見性」すなはち
ち、性を見(あらわ)す問題としても出てきます。信君を「姉婿」といいながら「姉の子」というのも
あるようです。太田牛一は甫庵が「穴山玄蕃允」といっているのに「穴山玄蕃」にかえています。
また穴山梅雪は本能寺のあと徳川と退去する途中
で殺されますがこれは何を表わすのかの問題もあります。天正10年
「徳川家康公・穴山梅雪・長谷川竹・・・退(ノカセ)られ候処、一揆共さし合ひ、穴山梅雪
生害なり。徳川殿・長谷川竹、桑名より舟にめされ、熱田の湊へ船着なり。」〈信長公記〉
が〈信長公記〉の最後の一文に出ています。
五月に、一部再掲
「駿河・遠江両国家康公へ進せらる。其の御礼として徳川家康公并に穴山梅雪、
今度上国候。・・・江州の内ばんば迄家康公・穴山梅雪御出でなり。・・」〈信長公記〉
があり、ここでは家康公と穴山梅雪が極端に接近しています。これでは
徳川家康公
‖
穴山梅雪
にもなりかねません。がこんなことは聞いたことがないのです。穴山バイセツも出てきている
こともあるのでしょう。長篠で勝頼を見捨て
たとされるのは、家康公ーバイセツの関係によるものか、どうか、穴山梅雪は家康公に殺された
というのが〈前著〉の観測でした。そのあと
「五月十九日・・・・安土御山惣見寺・・・御桟敷の内、近衛殿・信長公・家康公・穴山
梅雪・長安・友閑・夕庵、・・・・五月廿日、・・・・徳川家康公御振舞の御仕立て・・・
家康公・穴山梅雪・石河伯耆・坂井左衛門尉、此外家老の衆・・」〈信長公記〉
。 で、穴山梅雪はNO2くらいの感じです。これは穴山、家康公二人の感じです。甫庵は特別に
一文を入れています。
「同十九日に安土山惣見寺・・・家康卿を御慰め・・・・穴山梅雪は遠人の事なれば、
幸若が舞を聞き、余りに興に入り、唯あきれたる計りなり。・・・・・今一番徳川殿へ
饗応のため舞わざるかと御使いありければ・・・和田酒もりをぞ舞うたりける。・・・・
家康卿・・・穴山梅雪、酒井左衛門尉、石川伯耆守・・・・徳川殿の手を引き、殿守に
上がらせ給ひ・・。かくて廿一日には家康卿御参内として御上洛あり。」〈甫庵信長記〉
この「遠人」は脚注では、「田舎の人」となっています。東国の人を予想しているのでしょうが
徳川家康公にとって遠い人かもしれません。まあ表記の一人歩きでいえば、「梅雪」という名前は、
「梅庵」の「梅」もあり、雪舟の雪で、雪=幸もあり、太田和泉守が乗りかねないものです。
「穴山」は、「穴太」「太田」「山田」「高山」の合成のような姓で、「穴山小助」があり、これは「穴山
大助」「穴山太助」にもなりそうです。すると家康公に殺された芝居をやったのは太田和泉守
で昔、清洲城守護代織田彦五郎の「小守護代」の
「領在の坂井大膳」(信長公記)
というのが二人重なっている感じで、何らかの近い関係があって、それが殺したというのに
表われて表記が消されたのも一面あるかもしれません。この「穴山」という二字の表記は知行
割の
「甲斐国、河尻与兵衛に下さる。{但し、穴山本知分これを除く}・・・・・・・
信濃国 同諏訪、一郡、河尻・穴山替地に下さる。・・・」〈信長公記〉
というもので出ており「河尻と太田」と書きたいものを、「穴山」を使ってややこしい書き方を
したものと思われます。とにかく、知行割の二字の穴山は
「穴山」=大田和泉守
でしょう。また「遠人」−田舎者ー幸若の舞を普段聞く位置にいない人、というのもありそうで
す。穴山にも大石源三のところで語られたものの応用が望まれるところです。河尻における
団平八というような。
(10)毛利秀頼
Cの「上松蔵人」はテキストでは「木曽義昌」の「弟」(義豊)ということですので同じような問題が
あります。Dの毛利河内守が桶狭間で太田和泉守に引き当てすることによって話しが進展しまし
た。したがってこの知行割の面にもそれが影響してきます。毛利河内守が木曽に近い伊那です。
毛利河内守はテキストでは
「毛利秀頼、尾張守護斯波氏の一族。のち秀吉に仕えた。9ページ(9回登場)」
漠然としているのに登場が多いということは誰かを指すわけで、「秀頼」という重要な名前を
河内守に宛てた人物がいるので、一つは太田和泉守の別表記といえそうです。
「頼」は勝頼の「頼」があり、秀頼プラス忠次ともしますと、「頼忠」もでてきます。
「時頼禅門」〈甫庵信長記〉ーーー「時」ーーーー「維時」
「頼」−−−−「頼房」「頼宣」
| |
頼忠 知宣・助宣
ともなります。「頼忠」などは「藤原頼忠」があって〈源氏物語〉の時代からきているので歴史
的なものだから使わざるを得ないということもありそうです。「尾藤」は「尾頭」もあるのでしょう。
これほどの「頼」だから「河内守(秀頼)A」があるとすると子息相当
にもなります。
「秀頼」の〈信長公記〉登場は桶狭間の
「・・・前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・・・」、以後
「毛利新介・毛利河内・生駒勝介」、
「毛利河内・金松又四郎」、
「河尻与兵衛・毛利河内」
「河尻与兵衛・毛利河内守」、
「河尻与兵衛・毛利河内・・・・森勝蔵・団平八・■小笠原掃部大輔」」、
「河尻与兵衛・毛利河内守・団平八・森勝蔵」
「★松尾の小笠原掃部大輔案内者にて・・・森勝蔵・団平八・河尻与兵衛・毛利河内」
「森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・●松尾掃部大輔」
「同伊那、一郡、毛利河内に下さる。」
があり、森勝蔵と登場し、毛利を森と入れ替えれば、河尻与兵衛の引き当ても森可成でよさそう
だと思うような併記がでています。〈甫庵信長記〉では、このあたり
「毛利河内守、河尻肥前守」
となっています。「肥前守」は、河尻与四郎(小豆坂で十六歳)の出世後の表記となっていました。
一人は、四兄弟の一人に宛てましたが、もう一人は「川尻与兵衛」が宛てられそうです。
一応「川尻与兵衛@」と「河尻与兵衛A」=「森可成」となるのではないかと思われます。
ここの■★●は同一人物で、テキスト人名注では
松尾掃部太輔→小笠原信嶺
となっており、小笠原信嶺については
「十郎三郎。信濃松尾(長野県飯田市)城主。(文中:小笠原掃部大輔。松尾掃部大夫」
とあります。〈甫庵信長記〉では■★●は「松尾掃部助」「小笠原掃部助」と簡単になっており
要は佐脇藤八や穴山梅雪的なものが加わった、はっきりいえない姓がこのややこしい言い回し
になっているようです。これは、かつ「伊那」であり、「毛利河内守」の説明のための
表記、すなわち属性を表わすものになっているものといえます。「松尾」「飯田」「小笠原」
「掃部助」は太田和泉守の属性とされたものという感じです。「松尾三位」という言継卿の使った
表記は太田和泉を指すものでしょう。実際には、伊那の地の領主となって、テキストにある
小笠原信嶺(十郎三郎)
に領主の実権を委ねたと思いますが、松尾と言ってもよい存在ということは、信嶺は縁戚の人物
といえそうです。「掃部太輔」「掃部助」など漠然として、よくわからないのでネット記事の語句を
追ってみると記事「須坂藩」「飯田藩」によれば「堀秀政」が飯田に関っているということですので、
「森乱丸」が外せません。
(11)団平八
小笠原信嶺は「松尾」で知行割の「森乱丸」「森勝蔵」「団平八」の筋の人といえるのかもしれ
しれません。「森勝蔵」が「森長可」で「森乱丸」の兄(年長)というのは定説ですが、主(あるじ)
の子息かどうかというのも絡むはずです。「森乱丸」(蘭丸)は
「成利」とか「長定」があり、「長康」
もあり、ということでした。「森乱丸@」「森乱丸A」がある、今語られているのは森乱丸A(子息)の
方だ、語りの補いは「小坂井久蔵」「堀久太郎秀政」「万見仙(千)千代(世)」などでされている
のではないかというのを述べてきました。そうなるとどちらが年長かというのは意味がなく、
知行割の森乱丸と勝蔵の叙述は、どっちがどっちか、よくわからないというのは既述です。
ウイキペデイアの「森長可」では「長康」もある〈名将言行録〉、ということですから〈明智軍記〉と
対立します。前野長康も迷惑なことですが
長定(乱丸)
‖
長可(勝蔵)=長康
のようになっています。寛永など当時の人も、ここは(或いは二人のことは)よくわからんはずだ
、といって引っ掻き回して
いると思います。一見して、という意味でここらが明快に読めれば手法の全体が解けるのでしょう。
「勝蔵」も、あの鬼武蔵の「長可」と同じとはいえないようです。
「団平八」はテキストでは「団平八郎」で「信忠」関連の人物です。「信忠」の「忠」
と「信嶺」の「信」がつながれていそうですが「平八郎」は「本多平八郎忠勝」がいます。団平八
平八郎忠勝Aならば、いままで森乱の姻戚は本多氏ではかといってきたことに合いますが
このあたりでは「森勝蔵・団平八」のペアが多く
森勝蔵
‖
団平八
の関係が推察されるところです。知行割の毛利河内守が、松尾掃部助という表記にかわり、
知行割に、団平八があるというわかりにくさも松尾掃部助、小笠原掃部助の「掃部助」関連と
なってくると、知行割の記事に、一層森色がでる、というのがいいたいところのことです。
こうみてくると再掲、知行割の変質
@織田川尻 → 森可成
A武田穴山 → 穴山梅雪、穴山玄蕃
B駿河家康卿 → 家康卿、家康公
C木曾 → 上松
D織田毛利 → 松尾掃部太輔
E北条氏政 → 使者「端山」
においてDの内訳のこととEの北条の動向のことが重要になってきます。とくにEの「端山」を
明らかにしないと変質のことがよくわからないことになります。すなわち、
15節
三月廿日晩、「穴山梅雪御礼。御馬進上。・・・御領中仰せられ候き。」
「▲松尾掃部太輔御礼。駮の御馬進上・・」(「矢部善七郎」「森乱」登場)
三月廿一日、「北条氏政より、▼端山という使者にて、御馬併(「イ」のないもの)に江川
の御酒・白鳥、色々進上。滝川左近御取次。
において▲のところ「矢部善七郎」と「森乱」が出ています。Cの木曽「上松」のところで「後藤」が
出た意味をみるためにもこのことが問題です。団平八は、本能寺の年、天正10年2月
「三位中将信忠・森勝蔵・団平八先陣として・・・・木曽口、岩村口・・・」〈信長公記〉
が初出で、それ以後はたくさん出てきますが、〈信長公記〉の終わりに集中して出てきます。
それまで出てこないのもおかしい、つまり、
「矢部善七郎」が前半、「団平八」が後半
の連続があるのではないかと思います。まあ矢部善七郎」は二人、テキストでも「光住」「家定」
があり、大村由己相当の光住、蘭丸長定対応の「家定」となるのではないかと思われます。すなわち
乱丸の舎弟が弟の意味と複雑なものが生ずる「舎弟」があるということになるのでしょう。
「団平八」も二人、もう一人は、子息かどうか、小笠原と松尾(森)(堀)を結びつけた「団平八A」
がありえます。
(12)使者「端山」
周り「森」となるとEの「北条」の動向が気になります。▼の文の滝川左近は関東管領の一節
に繋がるからとくに重要という感じです。ここの
「端山」
という使者が問題です。これは二字の一匹狼で、意味があるのかどうかもわかりません。これ
「大石源蔵氏直」
ではないかとみましたので、大石源三を長々と述べてきたところです。〈信長公記〉人名索引では
「橋本一巴
橋本十蔵
端山
長谷川宗仁」
という並びになっており「橋本一巴」を受けていると見てよさそうです。「長谷川宗仁」はその
面からは、どうかわかりませんが〈甫庵太閤記〉では
「長谷川宗仁法眼」
という表記があり、「眼」というのが「眼光」でみるごとく印象が強烈で、〈義経記〉の「鬼一法眼」
を引き継いでいたり、〈信長公記〉人名索引に
「宮居眼左衛門
宮川八右衛門」
の並びがあるので「眼」の意味を探った場合に残った「八」との一体感があればコジツケもできそう
です。こじつけ、でいえば「端」=「反」もあり、芭蕉の「田三反」があり、解説では〈蓼太著〉の
〈芭蕉句解〉は、一休禅師の詠として
「山居せば上田三反味噌八斗小者ひとりに水のよき所」
を引く、と書かれています。〈芭蕉全句〉解は
「もし山籠りの閉居をするなら、良い田三反に味噌八斗を用意し小者を一人使って
水の良いところでしたいとの意。この歌を直接踏まえていないまでもそれに類した気持
は、この表現の背後に感ぜられる。・・・」
となっています。解釈の方は、漢字に着目すると、「ひとり」→「一人」で「一太郎」の「一」が出て
きます。「閑居」でなく「閉居」になって、「良」が二つ出て来て、所も「ところ」です。「水のよき」
で「水野」もありそうです。
蓼太は、芭蕉の「反」を見て、一休の歌を持ち出してきた、その意味は考えねばなら
ないところで、この「一」と「水野」「八」はあるか、と思っていると「八」と
「良」が結びつくのは「佐脇藤八良之」の「良」「八」です。「小者」の「小」は「軽んずる」の意味も
あります。「塚本小大膳」は二世というのかもしれませんが、大膳です。
「端」「瑞」というのが似ています。
「瑞雲庵のおとゝ」〈信長公記〉
があり、これはテキストでは
「織田信益か。瑞雲庵は信益の兄、信清の法号であろうか。」
とされています。「信清」は犬山の信清です。これは
「足軽・・・瑞雲庵おとゝ・・・・かるみ・・・・かるみ・・・足軽・・・」〈信長公記〉
の「軽」が属性で、〈記紀〉〈万葉〉の軽皇子の「軽」です。瑞と端は意識されており
「小林端周軒」〈信長公記〉 「小林瑞周軒」〈甫庵信長記〉
があります。「軒」は宮本武蔵の決闘相手が「宍戸梅軒」です。俵屋宗達は「伊年」「対青軒」
ですが、「いね」と「対青軒」の組み合わせかもしれません。〈信長公記〉相撲の
「周永」
はこの「周」ですがここで「瑞端」と「軒」に挟まれました。「周」に意味はあるのかが問題ですが
はさみ、並びを考慮すればどうかというのもあるかもしれません。〈信長公記〉人名索引では
「し」行 舎弟氏直→北条氏直
住阿弥
周永
●春日与一左衛門(文中では「春一(しゅんいち)与左衛門」)
となっており、「阿弥」と「与一」に挟まれて、北条氏直(大石源三)からの流れをせき止めた
という感じのなかの「周」になっています。この意味では●に関する
「春一(しゅんいち)」「与左衛門」
という表記は珍妙なものですが、絶妙といってもよいものでもあります。●は「かすが」と読ん
でしまうと、別のところが
春日源八郎
春日丹後
●春日与一左衛門
和仁王=のち周仁(かねひと)王 (文中では「若宮様」)
というものに変わり、前後に影響が及びますが、こうしたいという時機がくるのかも。
「端」というのは「北条」でも出てきます。天正8年
「相模国北条氏政へ遣わさるる・・・・縮羅参百端、但し三箱・・・・・・巳上
・・・・氏直へ 段子 二箱・・・・。」〈信長公記〉
があります。この「端」も「反」になりそうです。一匹狼の表記
「朝倉掃部助・三段崎(さんだがさき)六郎・・・・」〈信長公記〉
の「段」も、「たん」であり「だん」でもあります
「端」「団(たん)ー「段」−「団」でぼんやりと「平八」の「八」に繋がりそうです。まあ
簡単に言えば「端山」は「たんざん」とよめば、索引で
「端山」「弾正忠」「団平八」
と並び、「弾正」は「八剣宮」「弾正山」「高松山」の「弾正」があり、「忠」も「団平八」につながります。
使者「端山」は、とくに●の流れから、「大石源三氏直」といってよさそうです。
これは「馬」だけでなく「江川の酒」などを進上しました。天正8年にも「江川酒」が北条氏政、舎弟
氏直から進上されています。江川は地名索引になく、二回とも脚注で説明されています。江川は幕末の
江川太郎左衛門のいた地のようです。舎弟氏直についても、脚注に説明があり
「舎弟氏照の誤りか。あるいは子息氏直の誤りとも考えられる。」
となっています。この舎弟が次のものに反映するのでしょうが、江川には人名もあり
「那須久右衛門・岡飛弾守・江川」〈信長公記〉
の三人の羅列があります。この「江川」は「河内国」出身の人と考証されているようですが、
「江川」は「江河」「江江」であり「枝」「条」から「森」で、「端山」と同じ二字で用をなしていますから
太郎扱いでよいのでしょう。
那須久右衛門
‖江川
岡飛弾守
と、括っておくと考えがでてるといえます。ここ「岡飛弾守・江川」の出る天正元年の一節には、
「金山駿河」
なる人物が出て来て、これはテキストでは「信貞。はじめ長信。」とされている人物で「信定」
なら太田和泉守です。「金」があるからほかに使い道があるのでしょう。
「金山駿河万端一人の覚悟」〈信長公記〉
「金山駿河を生害させ、佐久間右衛門を入れ」〈信長公記〉
もあり、「端一」となると「金山」に対応し、「生害」は穴山梅雪にもあり「駿河」に対応するのかも
しれません。「大石源三」の「端山」−「江川」により、ここが意味あるものとなるなら、「金山駿河」
の駿河は家康卿の駿河を暗示し、子の北条氏直は、家康の婿であり、大石源三の子でもあると
いう関係もあります。政略的なものとえばそれままでですが、当然渦中の生身の人間にとっては
そうとして切り捨てられない、そういう複雑なものも現しています。索引で「金森甚七郎」と「印牧
弥六左衛門」に挟まれている、この「金山駿河」は大石源三と駿河家康卿をつないでいそうな
感じです。
とにかくここで、戦に強いリーダが起用され、そのもとに力強い瞬発力のある強力な
軍団が用意されていたことを紹介しているととれます。この北条の後ろ楯のもと、知行割を受け
た面々は領国経営を進め一年くらい
立てば強力な軍団を編成し終わるでしょうから、それ自体としては織田の東国の強化になります。
しかし今は本能寺の三ヶ月くらい前ということですから、東国に森を持って来たのは、問題含み
とも考えられます。すなわち東国の準備不足と、京洛の手薄とかのことですが、これは結果から
見ての感じとか、書き方とかによるものかもしれないわけです。すなわちいざ戦いとなれば
関東管領下の前田又左衛門
北条に大石源三
信州の団平八
伊那の松尾カモン(団平八A)
木曽の上松蔵人
など戦いの出来る人物を紹介してきており、これは即戦力であり準備不足といえないものが
あります。これらが本能寺のあと甲斐の川尻が一揆に殺されたのをはじめほうほうの体で逃げ
帰ったようことになっています。書き方の面では、織田信長が画期的な戦い方をしたことで有名な
と 長篠の戦いも〈甫庵信長記〉では家康の戦いとして画かれているという例もあり、この場合もそれが
ないとはいえないものがあります。引き上げ命令が出されて帰った、徳川が本能寺後京洛で
もたもたしていればやられるので慌てて逃げ帰ったという逆の面もありうるわけです。長篠の
戦い人名だけでやれば以下の通りで、こうしてこそ出版が続けられたというところです。
「武田が先懸けの大将山県三郎兵衛・・・三千余・・・家康卿より出し置かれたる三百人の鉄砲
・・・馬上の鉄砲・・・敵大勢なりといえども一足も引き退かず・・・・三千余騎の者共、過半
打ち倒され、佐久間が手へ懸かりけるに又三千挺の鉄砲に射すくめられ・・・・・引きにける。
二番に・・・逍遥軒・・・是も家康卿の鉄砲に射たてられ・・・・右の手へ・・・彼の五人下知して
三千挺を打たせければ・・・引きたりける。三番に・・・小幡が一党・・・徳川殿先駆けの大将
・・・ひしひしと射倒し・・・・引きたりける。四番に武田左馬頭・・・・これも小幡が如く追い返し
けり。五番に馬場美濃守・・・・鉄砲奉行の面々、今度は惣鉄砲を一度に放しかけ、扨て
家康卿の備えより鬨(ときのこえ)・・・三千余挺の鉄砲・・・射倒され・・・家康卿の侍大将
・・・佐々内蔵助・・・・四郎が本陣・・・・湯浅甚介・・滝河方へ敵引き色・・・案の如く家康卿
の先陣に揉み立てられ・・・・」〈甫庵信長記〉
この前に織田方の大将の叙述もあり
先陣は家康卿・・・佐久間右衛門尉・・・秀吉卿、滝河左近・・・・信長公・・河尻与兵衛・・
信忠卿・・・河尻・・・・・・信長公・・・家康卿・・・佐々内蔵助・・・」〈甫庵信長記〉
と出ています。実質佐久間右衛門が先鋒となるのでしょう。「佐々内蔵助」が後ろでも出て
おり、とくに重要ですが、ここの「河尻与兵衛」「河尻」は次の文のものです。
「信長公、河尻与兵衛尉に御甲を下されつつ、●信忠卿の備へ、召し連れられ給うて、敵
懸かり来たらば、真円(まんまる)に成って突きかかるべし。若し吾ココに来る事を得ず
んば河尻を差し越すべし。彼が下知に随ひ軍すべし。惣軍中も此の旨存ずべしと、仰せ
触れらるるこそ面目なれ。」〈甫庵信長記〉
と「川尻」に特別の言及があります。この「真丸」は桶狭間に出ていましたので追っかけていけ
ば森が出てくるのかもしれません。(〈甫庵信長記〉桶狭間に河尻与兵衛が出てくる)。
ついでですが、これは長篠の戦いの記述の一部です。信長公がこの戦で、こうしたいという
ものが出ている一番はじめのものです。長篠の
戦いで疑問なのは、武田軍がどうして鉄砲で待ち構えている織田陣営に突っかかってきたか
ということです。
まず ●は先陣のことで家康卿を、信忠卿に変えないかんということでしょう。この文の続きが
長篠の戦いの記述ですが鉄砲で大勝したことで有名なところです。ちょっと文がわかりにくいの
でだしますと
「・・十五段に備え・・・まんまるになって突きかかる・・・惣軍中にもこの旨・・・
(当日)・・信長公先陣へ御出・・・鉄砲三千挺・・・五人(の大将)・・馬を入れ来たらば、
間一町までも鉄砲打たすな。
■間近く引請け、千挺づゝ放ち懸け、一段づつ立替わり立ち替わり打たすべし。
・ 猶敵強く馬を入れ来たらば、ちつと引き退き、敵引かば引付いて・・・(信長公)五人者
・・・柵際より十町計り乗り出し給ひて勝頼が軍中へ
大鉄砲
を打ち懸け・・色めき立ち・・・・敵勢・・懸かり来たれば・・信長公
大鉄砲
に構ふべからず、先ず足早に引き取れとて佐久間が手へ懸け入りて
鬨(ときのこえ)をドッと上げらる。・・・・・
家康卿・・・・★三百人の鉄砲足軽・・・馬上の鉄砲・・」〈甫庵信長記〉
・ となっていて■が有名な部分ですが★以外は鉄砲を撃っていません。信長公が前線に出て
きて、指示をして、大砲を撃ち込みますが、それでも攻めてくるので大砲ほったらかして
佐久間陣に懸け入ったというものです。■は指示の内容にすぎません。攻め込んでいって
白兵戦になり、鉄砲を打たなかったので敵が攻め込んできやすくなった、敵を引きつけた
ので鉄砲を使えることになるのでしょうが★だけが鉄砲実射の場面ということになっています。
15段の陣、鉄砲3000、五人の大将、300人の馬上の鉄砲
が与件で■に「段」があり、「千挺づつ」というのは「1000挺100」づつの意とすると
各陣の鉄砲 1500=15段×100
馬上の鉄砲 1500=300×5
計 3000
となり、5人の分は〈信長公記〉では千挺ばかりとなっていると取れるので馬上は1000=200×5で
余り500は徳川に500の鉄砲があるということを示していると思われます。
〈甫庵信長記〉の数字は正確で、〈信長公記〉のは差異を出して別のことをいうことにして
叙述の幅を広げようとしているということはいってきましたが、ここではそれが出ていないという
のなら、数字3000と1000〈信長公記〉の差異は説明しなければならないところです。両者を
つなぐ■の1000があるので、両書連結の意思ありと見て取れます。〈明智軍記〉は〈信長公記〉
を参考にして書かれたことは確実で、随所に対比がされています。しかるに〈明智軍記〉では
鉄砲総数が3000となっており、一般の人には、数字は正確なものを出しておこうというものが
〈甫庵信長記〉の路線で、このため頼りなさを感じさせる書き方がされているといえます。従って
鍵の■が実際のことで、これをうしろに持ってくるはずなのに、はじめの命令の内容にして、命中
確度の低そうな馬上鉄砲が決定打のようにして後ろにもってきた、家康が300の馬上鉄砲で
最終勝利に導いたという書き方になっています。■の決定的なところを命令内容にしたという
のが実際はこれとは別の事態になったかもしれないという曖昧さを残している例えば新井白石
は出版許可を出しやすいというものに出来上がっているといえます。従って■の「千」が 1000
ポイントであろうと思われますが、
「千挺づつ」
に二通りあると取れます。、弾込めの時間を考慮して1000挺を三段
に間断なくというのはもう普通の発想で、織田系で地場の家を継いだ山縣昌景、馬場信春など
の名将はもう乗ってこないものになっているはずです。
○「右」「佐久間」、「左」「秀吉卿」「滝河左近」、15段に分けられたという「15」
○五人の著名な部隊長の「5」
○馬上の鉄砲の「300」
を入れると出ている数字が一応全部生かせることになります。「15」というのは鉄砲配置の単位
と思われますから
一段200とすれば「15×200」=3000
となるのでこれをもとに、5と300を加味するということになうのでしょう。結論でいえば
○15は、三段一組で、基地五箇所、ということで、100が常時5箇所から出る、500発
○馬上鉄砲は三段、五箇所、ということで、100が常時5箇所から出る、500発
これで、固定性と遊撃性の1000発が常時発射されるということになっていそうです。これの
考案者は
「佐々(太田和泉守とみてよい)内の前野小兵衛・佐々平左衛門」〈武功夜話〉
り で浅井戦の三田村退き口で「一段、二段、三段の構え」「二段構えの続き打ち」「取り替え取り
替えつるべ打ち」「工夫の二段連打ち」「太田孫左衛門(ルビ=牛一)見届け」などの語句が
あります。太田和泉守の部下の人の考案のものです。
ほかに知りたいことがあるはずで、武田の鉄砲はいくらあったのか、大砲の射程距離はどう
か、武田織田の距離はどれくらいか、またなぜ大砲のウエイトが大きいのか、といようなことが
あります。数字も二つに利用できますから本質的な質問だと思ったら著者に聞けばよいわけ
です。〈信長公記〉の千挺ばかりというのは五人の側にありますが孤立しているわけで、これが
武田の鉄砲数となる、信長公は十町も出張って大砲を打っている、一町という語句もあるから
一キロほど離れていて、百メートルの射程の大砲で、十台で、十発打ち込んだ、ということに
なる、ということになると言っているかもしれないと取っておけばよいわけでしょう。現代人は
科学的合理的思考に慣れているから、相手の武田の鉄砲の数くらいは書く、古典はそんな
ことも書いていないというならば、頼りないと切り捨てるまえに一応聞いてみることが要ります。
大きな勝利となったのは武田が攻めてきた場合に対応できる体制をとっていたからという
ことで、織田は勝頼が後図をはかり、この際は引き上げることを望んでいたからと思われます。
多くの大将はこの戦いに反対で〈明智軍記〉もそれを述べています。信長公の子息、御坊も
桶狭間のころ武田信玄の子となり武田の人として活躍しており勝頼は将来織田の一翼として
重要な地位を約束されている、他国を刺激せずジッと国を守っているというのは普通はジリ貧
かもしれないが勝頼の場合はそれが最上という立場にいます。そうさせない勢力、問題を
引き起こす勢力、家康公が挑発するするので乗ってくる勢力と、まあいはば、二つの勢力の
せめぎあいがある、台所事情はわかっているので大砲で警告したといえます。通常強硬派
が勇気があるということになりますから、反対派がワリを食ったというのが長篠の戦いです。
戦国最強の騎馬軍団が消滅したということですが、馬で懸け散らすというイメージがありますが
これはありえず、ここで馬上鉄砲(弓、鑓を含む)として表現されているものの破壊力ではないかと
思われます。三番隊小幡の場合は
「三千余騎轡をならべて、馬上に鑓を持ち、多くは太刀を真っ向にかざし一面に進んで
懸りけるに・・・」〈甫庵信長記〉
となっていますが一番隊山県の場合は
「三千余騎にて、●太鼓を打て推来たりけるが、家康卿より出し置かれたる三百人の
鉄砲足軽渡し合わせ・・・ココを先途と込み替へ込み替へ放し懸けたるに・・」
となって祭りではないので●は「太鼓A」で「打つ」は鉄砲に使われています。さきの三番隊
は太鼓を打たないということではなく書いていないだけで、五番馬場隊では
「いかにも太鼓を押静め打つて懸かり来る其の景色・・・」
というやや文学的な表現になっていますが「太鼓」があります。
武田騎馬隊のこの攻撃には訓練では対抗できず、鉄砲の多さを利用する馬上三段打ちで
対抗した、それでもジリジリと後退したのが結果的に誘導になって、正確な陣地の射撃にやら
れたということではないかと思われます。武田戦を前にして川尻が信長公によって非常に買わ
れていることがわかりました。のち甲斐が川尻の領地になるということでもありますが、勝頼に
本来やって貰いたかったことが森勝蔵などの森ににかかってきたというのもあるのでしょう。
武田信玄の遺言、「勢田に旗を立てよ」というのは一つは、本能寺のときの勢田があり、織田
の天下制覇に協力せよというのがあったのかもしれません。〈三河後風土記〉の遺言では
「七歳の信勝・・・十六歳・・家督に立てよかし、扨また織田 徳川は強勇大敵一身の
力に及ぶまじ、よって輝虎を頼むべし。・・・・・又勝頼は分国を守りて他国へ出べからず」
となっています。徳川の前が二字空き、になっています。「強勇」というのは徳川だけに及び
そうです。分国守る一本やりでは普通滅びを待つだけのことになりますが、織田の一翼として
機会を窺うという、この場合は最高の選択といえそうです。「信勝」が「勝頼」の子であれば、
この遺言はいらないはずです。信玄は天沢と親しいという伏線のもとでみなければならないと
ころです。勝頼の「頼」はやはり大きいといえそうです。
(13)復活の森可成
知行割の「河尻与兵衛」について、これが「森可成」かどうかが大変重要なことといえますが
桶狭間の「毛利河内・毛利十郎」、信州での、天正10年3月
「河尻与兵衛・毛利河内守・団平八・森勝蔵」〈信長公記〉
「森勝蔵・団平八・河尻与兵衛・毛利河内」〈同上〉
「森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・松尾掃部大輔」〈同上〉
「森勝蔵、団平八、河尻肥前守、毛利河内守等」〈甫庵信長記〉
「毛利河内守、河尻肥前守・・・森勝蔵、団平八、小笠原掃部助等」〈同上〉
等が毛利河内守=太田和泉とみたときには、「森」と「毛利河内」に挟まれた「河尻与兵衛」を
桶狭間の「毛利十郎」ととることによる 「森可成」復活の可能性はあり、もとからボンヤリと出ていた
といえることでもあります。森勝蔵、森蘭丸など、森勢の信州のなかに川尻があったということも
河尻の「与」ということも、一応は復活を暗示しているといえるものです。家康卿に接近して影響
を及ぼすということも、河尻与兵衛を森(毛利)十郎とするというところまで広がりがありました。
森の生存は、どこに見間違いがあったのかということになりますが〈甫庵信長記〉に生存
を否定するような、その駄目押しがあるかのように取られそうなところがあります。天正10年、
テキスト人名索引では「三左衛門尉」で独立しているものの一文があります。
「濃州岩村城に五万石相添え森乱丸、是は●父
三左衛門尉、江州志賀に於いて討死し、」
〈甫庵信長記〉
があり、昔のことを語る一文で、戦死のときの記事を受けていると思われます。戦死の記事は
「森三左衛門尉・・・・
三左衛門尉・・・・遂に討死す。織田九郎殿、青地駿河守、森が郎等、
尾藤源内、舎弟又八、道家清十郎、其の弟助十郎等も枕を並べて討たれにけり。」〈甫庵信長記〉
であり、〈信長公記〉では
「森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八。」〈信長公記〉
となっていました。●で森三左衛門の死が確認されている感じです。しかし「是」ですから●は
太田和泉守を指す、ということを云っていると思います。太田和泉守ならば、何でもありですから
死んでも生き返る、森三左衛門という表記も、ここまでで役に立った、そろそろ消そうという
ことにした、と思われます。これなら「父」は主(あるじ)側の呼び方とは限らないことになりそうです。
つまり、戦死の「森」を可成とすると、織田九郎が何者だというのが特別気になる、筆者のように、
太田和泉守は生きているのだから、織田九郎で和泉守が討死したということにしたらどうか
というのが間違いだったとしても、出てくることです。織田九郎は四番目の信治と考証されて
いるからそれが間違いかも知れない、それときり離して「信春」と考えて漠然とした諸口の「九」
で大田和泉守が織田の親類だったらこれは太田和泉守と、ここだけで見て決めるのも、合っ
ていそうですが、太田和泉守を織田の親類と感ぜられるのは池田勝三郎の「勝」の字で
「剛三郎勝光」もありました。森可成を織田の親類とみれるのは
「与三」の「与」
です。信秀に「御舎弟与二郎殿(信長公記)」、「御舎弟与次郎殿(甫庵信長記)」があって、
犬山城にも「与次郎」が出てくるので、信秀の弟が犬山城城主としても出てきます。
これを曲線的に解すると
織田信秀
‖ 舎弟与二郎ーーーー青山与三右衛門(九郎に編入ー稲葉城下の戦いで戦死)
土田夫人 ‖ |
青山氏 森与三(九郎A)
‖ーーー山口勘兵衛(信長公記)相当
太田和泉守
もありうる、としてきているので、直感的に感ずる織田九郎も役にたたなかったということでも
なさそうです。
また父=母といいかえられるいうこともあると確認させている、太田和泉守が森三左衛門という
表記を使うというようなことは思いもよらないといった、初めの段階の切り口の提供もあると
思います。これでやればいわゆる森三左衛門可成は
織田九郎=毛利(森)十郎(豊瀬与十郎もヒント)
となる、十郎ー九郎=一郎のような余りを生じさせたといえるのかもしれません。織田九郎以下は
別名の死で生きということにしたと思われます。つまり簡単に言えば「森三左衛門」二人、「織田
九郎」二人でやるのですが、その場、その場でベストのものを選ぶとともう一つのものが暗示と
なってそれが補強されるということで、一表記二人というのはややこしいというほどのことでも
ないといえます。さきほど信長公が河尻与兵衛を重んじている様子が出ましたが来歴や信忠と
の関係などを調べたらどうかという催促があるのでしょう。もう一つ「川尻」が気になるところ
は地名があるようです。〈常山奇談〉には
「川北(かはぎた)九大夫肥後国川尻(かわじり)を守(まも)る事」
の一節があり、舞台は「熊本」(一回登場)と「天草」(五回登場)です。
「・・・川北九大夫・・・川尻・・・・・西国・・・・川尻は海辺、船・・米蔵・・海上七里・・・川北・
地鉄砲・・{地鉄砲}・・・川尻の海岸・・地鉄砲・・・川尻・・・米・・・船・・・川尻・・・鉄砲・・・
川尻・・・船・・・川北・・・川尻・・・米・・・川北・・・」
となっており、題からは
「肥後」→「(肥前)」→「川尻」→「森(守)」
で「肥前」ー「川尻」−「森」がでています。他に、「川北」「川尻」の両川があり、「尸(シ)」篇が
テーマとなっていると思われます。辞書によれば、「尸」だけで、「しり」を表わし、「屁」というのも
それから出てきたそうです。尻は、シ篇+「九」で、「北」ー「比」ー「化」は似ています。
「川」 + 「北」 「九」 の大夫とは
「川」 + 「屁」 「尻」 の大夫で
‖
「シ篇+化」
のイタズラがありそうです。とくに天王寺屋竜雲所持の
「化狄(クハテキ)」〈信長公記〉
は「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」の「北」の「えびす」で、外国を表わし、またこれは「貨狄」で
「舟形の茶入れ」で「船」「海」を想起させるものです。つまり両方の場面が「川尻」で結ばれて
います。一方、「川尻」に
「川尻与一」〈信長公記〉
という表記があって、一応係累のわからない孤立表記ですが、先ほどの「山口勘兵衛」相当、
その説明表記としておきますと、「山口勘兵衛」が、川尻与一を通して、「クハテキ」で出てくる
「天王寺屋竜雲」と通じます。これはすでに「兼松」で触れてきたことです。森銑三の漏れだらけの〈常山
奇談〉の人名索引にもこの重要と思われない「川北九大夫」は出ています。その出方は
兼松又四郎
金松弥五左衛門
川北九大夫
河村権七
ということで「金」付きの「兼松」と「七」付きの「河村」に挟まれて出てきて、「川喜多」「北」
の「川北」であり、織田九郎の九も含むとなるとこれは太田和泉守であるとみてよい、「河」と
つぎの「毛付け」があるので「河尻与兵衛」も含むかということになり
ます。「クハテキ」のところでは、「伊達」も出てきて「宗達」に照準が合わされていました。湯浅
常山は〈信長公記〉の「クハテキ」の場面の「川北」と、天草沖で米、鉄砲などが船積みされる
場面に出てくる「川北」「川尻」を使って、大きなスケールで「太田和泉守」「川尻与兵衛」の関係を
説明したといえます。
また「川尻」「河尻」は「江尻」を想起させ「穴山」(江尻の要害)につながるものです。川ー河は、
江ー郷ー合と変化します。
「シ篇+毛」=「尾」
で「尾」は「尾藤源内」「尾藤又八」の「尾藤」の「尾」です。、〈常山奇談〉に
「合渡川(がふとがは)合戦黒田(くろだ)三左衛門▲毛付(づけ)の功名の事」
の一節があり
「合渡・・・・侍大将黒田(くろだ)三左衛門可成(よしなり)・・・馬・・・・朱(しゆ)・・枝釣(えづる)
・・黒き馬・・・・▼可成(よしなり)・・・馬・・・・石田が物ぬし村山(むらやま)利介といへる
剛の者(を討ち取る)・・・★可成(よしなり)が此の功(こう)をむかしより
毛付(けづけ)の功名(こうみやう)
とてたぐひすくなき誉(ほま)れなり。」〈常山奇談〉
があります。★以降の文、「たぐいすくなき誉れ」というのに、殆どの人はこのことを知りません。
著者の自画自賛だと思いますので探ってみないといけないようです。
○「馬」が可成の功と一体で「毛」は馬の「毛」をいっている
○題字の「▲毛付」と★のあとの「毛付」は意味が違うようである。題字のを名とみる。
○題字の黒田三左衛門□□は本文では▼「可成」によって埋められている。つまり
「▲毛付」=「▼可成」で、□□に「可成」が入ることによって「黒田」「三左衛門」が
「可成」と同じ、または密接な相手が出てくる。これが「毛付」の功の第一となる。
○▲▼は同じではあるが表記が違うともいえる。黒田・三左衛門・可成・毛付という
「尻尾」の「毛」の部分を構成する「毛付」が第二の功となる。つまり
「川尻」「尾藤」=「可成」
くらいのことで見なければならない。ここまでくれば「森」がないのは不満となる。
○「岩津」=「岩洲」でスルガ=ツルガというわけではないが「つ」=「す」で
「 「毛付(つけ)」は「毛介(すけ)」
でこれは「利介」が出ているから、変換可能といえる。
毛介
利介
「毛利」が出てきて、「二介」も出ます。「伊藤二介(信長公記)」の「二介」で「伊東弥三
郎」の「伊東」にも繋がる。「毛付」の功第三は森を出し伊藤・石田にも繋いだ。
というように「川尻」「河尻与兵衛」の説明として空前絶後のものだといっている、それが「毛付」
の功というのでしょう。この文「長政」(三回)を省略しており、前節が合渡川合戦の勇名が
属性の「後藤又兵衛」が出てきて「藤堂高虎@」ともいうべき人物が引き立てますが、「川尻」
「可成」は長政、又兵衛とも関係があるといっていそうです。また落ち着き先が無くて浮遊して
いる「河尻与一」などの表記が、「肥前」「肥後」の「海」「船」「米」「川北」「川尻」などと反応
しそうな予感を抱かせているというような面もありそうです。 「尾藤」は
「平尾平助」〈甫庵信長記〉、「平尾久助」〈信長公記〉
があり索引は
「平尾平助」「平田」「平田和泉」「平田三位」「平手」・・・〈甫庵信長記〉
「平尾久助」「平田和泉」「平田三位」「平手甚左衛門・・「平手内膳」・・〈信長公記〉
となっていますが、まあ「平手」の「平」と「毛付」の「尾」を強調した人もいるので、尾藤は
平手出身の「左京助」という人かというようなことが出てきます。
「三位」は「三い」でもあります。
とにかく甲斐の領主が森可成となり、知られざる名将もいると、
なるとやはり雰囲気が一変します。知行割のことで
「●岩村、
団平八、今度粉骨に付いて下さる。
金山よなだ嶋、森乱に下さる。是は勝蔵忝き次第なり。 」〈信長公記〉
があり東美濃「団平八」ですが、「団平八」は本能寺の年の二月に突然出てきています。ここの
「団平八」が「森乱」に吸収された感じです。つまり、
〈信長公記〉の森乱=平八の岩村+よなだ嶋(米田嶋)
ということになりそうです。すると勝蔵は兄だから喜んだということになるのか、勝蔵@(森可成)
は親として喜んだということか、団平八が認められて勝蔵A森乱がよろこんだということもあるか
悩ましいことになります。がどれも違っていそうで、森勝蔵も吾がことのように喜んだというのが
合っているのでしょう。「団平八・森勝蔵」の逆の併記が多いから、ひょっとして
団平八
‖
森勝蔵
というのがあるのかもしれません。しかし団平八と森乱もここを見れば極めて近いことは確実の
ようです。近いといえば連れ合いと子息がありえます。「平八」は
「本田平八郎」「平八郎」「本田平八」〈甫庵信長記〉
「本田平八郎」〈信長公記〉
があり、「平八(郎)」というのは一見では「団」と「本田」しかないようです。甫庵の「平八郎」が
「本田」の磁気をかすかに帯びて、団に引き寄せられたという感じです。
団平八Aは、ひょっとして森乱の子と、いうのも考えられます。そうなれば、その子は間接的に
太田和泉守と本多忠勝の懸け合わせとなり、ものすごく強い大将が出てきそうでもあります。
●が甫庵によって修正されており、
「濃州岩村城に五万石相添へ森乱丸、」〈信長公記〉
があります。したがって「よなだ」は森勝蔵の連れ合いの団平八(米田助右衛門という表記が
ある)、団平八Aは信州伊那飯田松尾(小笠原)掃部助の家に入って毛利河内守の領地を
管理したということと思われます。索引で「尾藤源内」尾藤又八」の前は「肥田氏」で、これは、
「肥田玄番」(考証名「直勝」)「肥田彦左衛門」〈信長公記〉
が出ています。テキスト注では美濃の「上米田村福島」の人のようです。この「米田」がここ
の「よなだ嶋」の「米田」とつながっていて、この肥田の二人は「森可成」戦死の場面の
戦死の場面の説明として出てきます。尾藤の二人が道家の二人と取れるように、肥田氏
は「青地駿河守」に対応していると取れます。青地は「森勝蔵」とみられているようです。
次からは特別の大物が続々登場というのですが、わかりにくく、脇役の登場とされてい
そうです。
(14)青山与三右(左)衛門
一方小牧長久手の戦いで27歳くらいで戦死したという森長可は、この勝蔵とされていますが、
テキスト注では
森長可(1558〜1584)
森可成(1523〜1570)
となっており、桶狭間の戦いのころ生まれており、可成、35歳の時に長男が生まれたという理屈
になり当時としては遅すぎます。
またこの可成の1523の生まれが太田和泉守の4歳上の設定となっているのでそれがどうなって
いるかという問題があります。直感的には、吉法師の4人の後見人の一人戦死した青山与三右
衛門は青山与三右衛門Aがあり、これが森可成の間に入るのではないかというのが浮かんできます
まあ、
青山与三右衛門(戦死)ーーー|青山与三右衛門A
森可成
というような感じです。Aが「与三ウエモン」であれば省かれることもありえるものです。
与三と青山は「青山与三」という表記もあり、与三と森で「森与三」は森可成でもあります。
吉法師の後見人4人の一人、
桶狭間毛利十郎=森三左衛門可成
とすると別のところで青山与三左衛門というものに影響が出てきます。
織田信秀が信長を託した四人の人物が
林新五郎、平手中務丞、青山与三右衛門、内藤勝介
で、那古野の城を吉法師に譲り、自分は古渡の城へ移りました。一応この四人は同世代とみられ
ますが、青山が特に若かったというのもありうるので何ともいえません。このあと信秀の晩年
天文16年1547年斎藤道三に大敗し、この戦いで
「備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正(もんどのカミ)・青山与三左衛門尉・
千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎」〈信長公記〉
が戦死しました。この毛利十郎は一世代上くらいでしょう。これが〈甫庵信長記〉では
「御舎弟与次郎・・・織田因幡守、同主水正、毛利十郎、同藤九郎、青山与三左衛門尉、
千秋紀伊守」
となっています。ここでも、毛利十郎、青山与三が並記されています。まあ逆に言えば桶狭間で
毛利十郎=森可成にしたのは合っていそうというのも「青」の雰囲気で感じられます。
手間がかかりますが、二つの文が違うので念のため対比」してみないといけ
ないのでしょう。〈甫庵信長記〉が一般の人向けで、すんなりとしていますのでこれをもとにして
みるとよいはずです。〈信長公記〉がどう引っ掻き回しているか、左が甫庵、右が牛一のものです。
〈甫庵信長記〉 〈信長公記〉
@御舎弟与次郎 御舎弟織田与次郎
A織田因幡守 織田因幡守
B同主水正 織田主水正(もんどのカミ)
C 青山与三左衛門尉
D 千秋紀伊守
E毛利十郎 毛利十郎
F おとなの寺沢又八舎弟
G同藤九郎 毛利藤九郎
H 岩越喜三郎
I青山与三左衛門尉
J千秋紀伊守
@は織田信秀の兄弟の紹介で二番目に出てくる人物です。小豆坂の合戦でも2番目に
出てきてそのとき牛一は「織田与二郎殿」と書いています。これは両方に取れるところの
舎弟です。とにかくこの「与」が「与三」の「与」でしょう。
織田信秀
‖与二郎
土田氏
ともなりそうなものですが、土田氏の与二郎も入るのかもしれません。
Aは信秀と清須三奉行を構成する人物ですが取り敢えずそれだけの紹介です。
ただBを併せて本人と舎弟という関係を示している、その意味の併記と思われます。また
「野々村主水正」も「カミ」というのもあるかも。
CDは左が空白なので右のものを入れたらどうか、といっていそうです。本来は、〈信長公記〉
に、「青山与三左衛門尉」の「尉」が入らないはずで、人名に甫庵は尉を全部付け、牛一は
全部抜いています。例外は
「坂井左衛門尉」
一つくらいですがここで重要人物でもう一つ出たという感じのものです。左に入れるとすると
C青山与三左衛門 尉・尉
D千秋紀伊守
というものが入るのでIの人物とは別人のものとなり、IJの二人の別人がここに本来あるべ
きであった、どうやら親子の存在が考慮されなければならない、ということになりそうです。
まあ簡単にいえば
(イ)稲葉山城下で戦死した人物である、青山、千秋
(ロ)隠れていて挿入された人物の 青山、千秋
(ハ)桶狭間で出てきた 毛利十郎、同藤九郎
という森(毛利)(青山)の三人を出してきたといえます。桶狭間の千秋も出してきたといって
よいのでしょう。「同藤九郎」は一応千秋四郎とすると、これは千秋紀伊守Aとして(ロ)相当の人と
なり恰好はつきますが、この「同藤九郎」の意味は、十郎と組んで出てくると十=九プラス一という
意味のものが含まれていそうです。「一」郎が隠されているという感じがします。
(15)寺沢又八
他の説明もできないことはないのですが、例えば、左へ移行させると順番はロ、ハ、イとなって
いますから、
青山、千秋
毛利十郎
★青山、千秋
にこのあと、
桶狭間の毛利十郎
を加えると、★が毛利十郎といいたいというのもでてきますから@ABで見るというのもでてき
ます。毛利十郎は
語りのためのものだから青山に付着して青山を説明する材料ということでもよいともいえます。
骨子は、戦死した青山与三右衛門の次代の一人青山与三右衛門が隠されているという
のが、いいたいところで年齢の矛盾からそうなるということです。問題は藤九郎がわからないの
で続いて、そのあとの〈信長公記〉のひっかきまわしをみないといけないということです。
「おとな寺沢又八舎弟」
が難問です。「おとな」は再掲〈信長公記〉信長の家老
「一おとな林新五郎・二長(おとな)平手中務丞・三長青山与三右衛門・四長内藤勝介、」
の、初めの人物がひらかなの「おとな」ですのでこれしか該当がないわけです。
「林新五郎」
のヒントが「寺沢又八舎弟」となるのかもしれません。おそらく太田牛一原文に句点がないので
「寺沢又八舎弟」「寺沢又八、舎弟」
が考えられますが、「舎弟」に二つの意味があるということはいっていそうです。ここは寺沢又八と
いう舎弟、の意味でしょうが、寺沢又八だけでも意味は通じます。ただその場合は寺沢又八と
いう人物に重点が移りそうです。ここは寺沢又八の舎弟となるとどうなるのか一応考えねば
ならないので舎弟の意味は問われいるといえます
「林」で「八」相当という人物は「林弥七郎」「林佐渡守」しかないようです。これを同一とするのは
弓、太刀の名人弥七郎という際立ったものがあり属性が違い過ぎるから無理で、また舎弟
というのがいるのは「林佐渡守」の弟の美作が織田信長に討ち取られるという派手に登場します
ので、やはり、「林佐渡守」が寺沢又八に関わらせようというではないかと思われます。甫庵の
人名羅列@〜Jのあと「来鋭」という語句が出ており「来鋭」は桶狭間の林佐渡守の発言(実は
太田和泉守の発言)にありますからここで林佐渡守が出るのが用意されていると思われます。
林新五郎の名前が、林佐渡守に変わった、同一人物とみられていますが一応林新五郎二人
林新五郎
‖林佐渡守
□□□
つまり、新五郎の連れ合いと理解しておくのがよいのではないと思います。
先ほどのE以降においては
再掲
甫庵 牛一
E毛利十郎 毛利十郎
F おとなの寺沢又八舎弟
G同藤九郎 毛利藤九郎
H 岩越喜三郎
I青山与三右衛門
J千秋紀伊守
となっていて、FHを左に詰め、全体を過不足無く使うと八人になり(林佐渡守だけは説明用)
第一感では、
|ーーーーー▲毛利十郎
毛利十郎=I青山与三右衛門Aーーーーーーーーーー▼毛利藤九郎
‖●寺沢又八舎弟=(林の佐渡守)
‖■岩越喜三郎
同藤九郎=J千秋紀伊守
ということになるのではないかと思います。これは直感のようなものですが、Jの人物が太田和泉
守というのが眼目です。「紀伊守」は「佐藤紀伊守・子息右近右衛門」(信長公記)の「紀伊守」
があり、「池田紀伊守父子」(甫庵信長記)は池田勝三郎を指すものでもあり、類書には「和田
紀伊守」があります。「千秋」は甫庵に「田島千秋」「但馬丹後守」「田島肥後守」があり、「但馬守」
の「田島」がついています。「千秋」は〈甫庵信長記〉人名索引では「ち行」に入っており「ちあき」
と読ませています。「中条」は〈甫庵信長記〉では「ち行」なので「ちゅうじょう」と読むということ
ですが〈信長公記〉では「な行」で「なかじょう」と読むようにされていましたが、それと同じことが
ここでも出ています。学会の約束でしょう。「ちゅうじょう」では「中将」にも至りそうですから、
緩和するということでしょう。「千秋」は「専修」に至る読みを封殺されたら〈信長公記〉
「下間(しもつま)和泉大将」「石田の西光寺大将」「専修寺・阿波賀三郎兄弟」「阿波賀
三郎・与三兄弟」
などへの繋がりが絶たれます。第一〈信長公記〉では
「千秋」は「せ行」、「中条」は「な行」
で〈甫庵信長記〉では
「千秋」は「ち行」、「中条」も「ち行」
ではおかしい、両書間に繋がりがないと思わしめることになります。一方、人名索引の並びの
効用があると見られる場合は、索引の威力が拡大されることにもなります。索引が重要だという
ことが認識されている、二書をチェックしながら見る場合のみ索引の効用がより大きくなる、という
ことがわかりますが実際は索引のない原著の訳書が殆どであったということです。
なお、「千秋紀伊守」が戦死したときに持っていた太刀「あさ丸」
が丹羽長秀に伝わり、長秀が目を患い熱田大明神に奉納して眼病が治ったという〈信長公記〉の
話しは稲葉山での先ほどの「青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十郎、・・・毛利藤九郎・・」
など戦死者の記事のすぐあとにあります。
甫庵の「千秋」には「田島千秋」などもありますが、「ち行」として
「千秋紀伊守」「千秋喜七郎」「千秋四郎」
があり、「喜七郎」というのがこういう姻戚としての捉え方にゴーサインを出していると取れます。
これは「せんしゆう」と読む〈信長公記〉索引では
「千秋紀伊守」「千秋秀忠(四郎)」
で「千秋喜七郎」がないわけです。この場合「ちあき」であれば見落とす可能性が大です。
戦死した、信長の後見人、青山与三右衛門@の子息、▲毛利十郎相当が森与三可成、
戦死した青山与三右衛門の子息Iの子(つまり孫)が▼毛利藤九郎相当の人物となります。
これが次第によっては特別の大物といえるのではないか、と思われます。Jと同じ「藤九郎」と
いう表記だからそういえそうです。
つまり●■が引き当てられるのは誰かということがポイントになりそうです。●について
(@)「寺沢」というのは〈信長公記〉人名索引に二つ、
「寺沢弥九郎」「寺沢又八」
があり、この「弥九郎」と「藤九郎」と絡めようとして「寺沢又八」をここに持って来た
(A)「寺沢弥九郎」は丹羽五郎左衛門衆で出ており、太田和泉守と関係深い人物と
思われる。実際には、寺沢広政(子息は唐津城主広高)が意識にあると思われる。
「丹羽五郎左衛門」=千秋=藤九郎=「弥九郎」=「又八」というものがある。
(B)寺沢周辺は
「寺井(源左衛門)」「寺田善右衛門」「寺崎喜六郎」「寺崎民部左衛門(盛永)」
があり、「源」「善」「喜」などが出てきて、寺崎父子は「越中国」の人で
「佐和山にて惟住五郎左衛門にお預け」〈信長公記〉
となっており、「丹羽長秀」に近づけられている。「寺井」は若狭衆で、
逸見駿河ー溝口竹ー惟住五郎左衛門、
「寺田」も「惟住五郎左衛門」と「佐和山」に接近している。
(C)又八というのは「尾藤又八」の「又八」しかなく大物といえる
などがあり、林の「佐渡守」という説明が「又八」でつき、林佐渡守には太田和泉守が乗って
いる、青山与三右衛門尉という表記は坂井左衛門尉という表記と「尉」の働きが特別になって
いるということなどから先ほどの寺沢又八のところが「坂井左衛門尉」が入る
隠された青山与三左衛門Aーーーー▼毛利藤九郎
‖坂井忠次(寺沢又八)
‖岩越喜三郎(北方)
太田和泉守(同藤九郎)
ということになります。こうなると〈戦国〉で既述のとうり、▼が又八の子、家康卿となります。
こうなれば ▼は太田和泉守の義理の子となります。青山と
徳川の関係は、坂井忠次と似ていると秀吉から揶揄された二代将軍秀忠の側近で青山氏
が出てきます。青山、渋谷という「青山」です。ウイキペデイアを借用しますと
「・織田氏、のち前田氏の家臣の一族。青山信昌(与三右衛門)、青山忠次を輩出。
・豊臣氏の家臣の一族。青山宗勝を輩出。
・徳川氏の家臣の一族。・・・・・・・祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡
中之条町青山)の出身で、その後、三河国額田郡百々(どうどう)村に土着し
松平氏に仕えたとされる。記録上の初見は松平広忠とその子元康(家康)に
仕えた忠門であり、その子忠成は秀忠の側近として近侍。関ケ原の戦後加増
され大名に列した。・・・幕府要職・・・・・・・
) 安祥譜代7家
柳営秘鑑にある徳川(安祥松平)最古参の安祥譜代7家の一つであり、そこに
は次のようにある。
“一、三河安祥之七御譜代、酒井左衛門尉、元来御譜代上座、大久保。本多
●・・・阿部、石川、青山、植村、右七家を云” ・・・・・・」
となっています。徳川における青山の部分はやや後追いの感じで、青山という地名や「額田」
(糠田)などは全国的でもあります。太田牛一は「織田与次郎」を挙げ「青山与三右衛門」
をもってきましたから「与」を意識していて織田の一門の青山としてとして出してきたと思われま
す。これを徳川の織田との関わりの説明に利用したと思われます。青山信昌の「信昌」は「信政」
でもあり、「信定」もある太田和泉守が意識された名前でもあります。青山忠次という人物も、
信定と同じ例といえます。
「酒井左衛門尉」
が「譜代上座」ででていますが要はこれは別格で、というよりも徳川家康公というべき存在の
人物です。いままで織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と
いう絶対者の系譜ということで理解されていますが、この流れにおける徳川家康としてラストを
承るというというものではなく、両者と並行して走っている豪腕の持ち主、年齢も二人より上で
一歩先んじている、もう一つの絶対者の系譜にいるという人物です。
●のところ「本多」について説明が入っており、本来は
「本田」であるが、「中興に至って」「美濃守」之れ有る故「本多」に改める、
とあります。両書とも、馴染のある「本多」ではなくて「本田」を使っています。
「本田」は
甫庵信長記 「本田作左衛門尉」「本田庄左衛門尉」「本田彦次郎」「本田豊後守」
「本田平八郎」
信長公記 「本田作左衛門」「本田庄左衛門」「本田彦次郎」「本田平八郎」
があります。「本田豊後守」が重要人物なのでしょう。甫庵に4回くらい登場しますが〈信長
公記〉は抜いています。「本田庄右衛門」と「本田豊後守」は太田和泉守とかすかに繋がって
いそうです。この両書間の差異をどう整合するかということですが、既述〈吾妻鏡〉で北条時政
妻とされる「牧の方」は、役所勤務における名は「越後局」ではないかと、いうことをいっていま
すが、語りの名前と活動名があり、この場合もそれではないかと思われます。二組できて
実体を示すと共に語りの工夫を表わすと言うものがありそうです。
実体 本田豊後守(美濃守) 語り 本田庄左衛門
‖本田平八郎 ‖本田彦次郎
本田作左衛門 本田作左衛門
○通常いうところの徳川の名将、本多平八郎忠勝は外交、政治向きに優れた主の本多豊後
守、作左衛門と、武勇抜群の本多平八郎の合力した形となっている。
○語りの「庄」は太田和泉守の「庄」が生かされている。庄左衛門は「光俊」「信俊」
○語りの「本田彦次郎」はテキストでは
「本多彦八郎忠次(近江膳所藩の祖)のことか。」
と書かれている。ここでも先ほどの「青山忠次」とともに「忠次」が持ち出されている。酒井と
本多も姻戚である。
○「本田作左衛門」は考証では「重次」で「子は仙千代(成重)」(越前松岡城主)とされている。
本田を本多にしたのか、本多を本田にしたのか、
本田ー木田
|
太田
は、太田や木田と絡みやすいので、それを考慮して本多を本田にしたということかもしれ
ません。芭蕉の多田神社→太田神社の一節は「小松」が出てきましたので、太田ー本多ー
真田が念頭にあったのかとも思われます。〈曾良日記〉では
「小枩・・・・多田八幡・・・・真盛・・・木曾・・・藤井伊豆・・・伊豆・・」
があり、「真盛」は〈奥の細道〉本文では「実盛」もあり、「真」が使われ「伊豆」は
「真田安房守信幸」「安房守」「真田伊豆守」〈甫庵信長記〉
があります。〈信長公記〉では「さなだ源太左衛門」だけで、これは甫庵では「真田源太左
左衛門尉」となっています。ちょっと「安房守信幸」がおかしいようですが昌幸子息の信幸
が「小松」の連れ合いです。
(16)岩越喜三郎
岩越喜三郎は既述の通り、蒲生の地域、喜多方ラーメンの「北方」で安藤大将の本拠
「本巣」と直結する人物で「喜」で体を表すのでしょう。「喜三郎」は「後藤喜三郎」(両書)が
あり
「青地与右衛門・後藤喜三郎・布施藤九郎・蒲生忠三郎」〈信長公記〉
があり、「青・与」−「喜三郎」−「藤九郎」−「蒲生」のようなことでここに繋がっています。〈明智軍記〉
には、
「杉原讃岐(ルビ=ノ)守・同伊織・後藤喜三郎・・・・」〈明智軍記〉
があり、「伊織」が出て来ます。「同伊織」だから前の「杉原」を受ける面もありますが、単独で
「伊織」でもあります。後藤の男の色が出ているのが、後藤喜三郎で「伊織」はそれと密接な
関係があるのでしょう。杉原は浅野ー林と関係が深く、浅野の姻戚として知られており、讃岐
からは「尾藤源内」の「尾藤」も出てきます。
「岩越喜三郎」の岩は「石山」が内蔵されているのも重要でしょう。索引ではこの前が「岩」で
これは甫庵は「毛利岩丸」としています。〈甫庵信長記〉索引では「岩」の後ろは
「岩越藤蔵」「岩瀬清介」「岩手左馬助」・・・
ですが、〈信長公記〉では「岩」の後ろは
「岩越喜三郎」「岩崎丹羽源六者共」「岩瀬清介」「岩成(石成)」
となっています。「丹羽源六」は両書で登場回数がかなりある人物で〈信長公記〉人名注では
「丹羽右近」〈両書〉
と同一視されているものです。通常はここへ出てこないのですが、「者共」となっているから
「丹羽源六」本人ではなく、「岩崎」を生かそうかということでここに出てきたと思いますが
偶然かどうか、岩越と丹羽が接近してしまったわけです。筆者がこういう索引を作ると我田引水
としてやられますので、こんなことはできません。またこれだけでは、けしからんで終わりでしょう。
いいたかったところのことは、一つはこの「岩越藤蔵」と「岩越喜三郎」は一方が「岩崎」をもってこなけ
れば両方とも
「岩」と「岩瀬清介」に挟まれて表記が少し違う
ということになります。つまり、
岩越喜三郎
‖
岩越藤蔵
が一応想定されます。もう一つはこの「岩越藤蔵」の場面では、〈甫庵信長記〉は一頁を割いて語って
いるのです。表記からは、おそらく実在ではないかもしれない人物の登場で、前の東福寺での
実在の人物のあとなので、かなり違和感のあるところです。信長公の統治の自讃というものですが
「(永禄11年)菅屋九右衛門尉召して・・・・申し触れける。・・・民堂々の化に伐(ほこ)りけり。・・・・
斯かる処に御小人、聊かの利を商人と諍論しけるを、菅屋・・・是を見て、何者ぞ、仔細
問うて参れとありしに、岩越藤蔵と云ひし者つと参つて、双方具して参りける。・・渋谷
万左衛門・・・渋谷万左衛門尉・・・」〈甫庵信長記〉
諍いをした両人を連れてきただけの登場ですが、太田和泉守の役者としての登場です。東福寺
では
「紹巴、末広がりの扇二本・・・二本(日本の懸かる)手に入る今日の悦び
・・・・・・・・・・・・・・・信長卿 舞ひ遊ぶ千代万代の扇にて」
・・ で、紹巴、扇がでてきていますから俵屋の扇で太田和泉守の出番といえます。ここの「化」というのが、
天王寺屋竜雲の「化荻」の「化」でしょう。岩越藤蔵は太田和泉守をみています。丹羽も入れると
岩越喜三郎
‖
岩越藤蔵(丹羽右近)
という感じとなります。「岩越喜三郎」の存在が重要なものとなって、家康卿は
太田和泉守の義理の子(継子)というのは出てきそうです。まあ突然すぎる話しとなるので、遠く
から、ここに光を当ててみようと思います。
(17)與三右衛門
湯浅常山は
「村越與三右衛門」
が出してきます。森銑三は索引に出しています。これは「岩越+与三右衛門」に似ています。
〈常山奇談〉に
「高木
主水村越(たかぎもんどむらこし)
與三右衛門後殿(しんがり)の事」
の一節があり、ここで
「東照宮の御内に高木
主水清秀(もんどきよひで)、●村越(むらこし)
與三右衛門とて
聞こゆる兵二人、・・・(以下細字)・・水野下野守信元・・・三州刈谷・・・徳川家・・・石が瀬・・
三河・・・石川伯耆守十七歳・・・・内藤四郎左衛門・・・台徳院殿・・・・小笠原與八郎・・・
林平六郎・・・信玄・・・山縣・・・三河の浪人河村伝兵衛白四方に船の字の指物にて
敵を追いちらし、槍を合わせる事一日に六度といえり。」
があります。ここの●が重要人物と思われないのに〈常山奇談〉人名索引にでています。ただし
人名索引にはこの●の載っているページ、上巻83頁、という一件しか出ていません。
この話しでないことで「村越與三右衛門」が出ているのは知っており、それを出そうとして索引
を引きましたら、これが出てきました。一つだけなので、肝心の「村越」を出すために、また三時
間くらいかけて別の村越を探す羽目になりました。要は索引のページまで確認しておいて、
はじめて安心できるという
ことです。肝心の方は隠したということでしょう。ただこの●のある一節は、余り捉えどころのない
ものなので記憶に無かったのでこの索引のお蔭で助かったことはあります。とりあえず稲葉山
城下で戦死した
「御舎弟(織田)与次郎殿・・・織田因幡守、同
主水正、毛利十郎、同藤九郎、
青山
与三右衛門尉、千秋紀伊守以下・・・」〈甫庵信長記〉
の「主水」と「青山与三右衛門」の組み合わせはここに出ています。なお「主水」と村越の組み
あわせもあります。「三河」が属性の
「村越孫六郎」〈甫庵信長記〉
があり、「村越」は、通常は「村越三十郎」〈明智軍記〉です。
「主水正」−野々村主水正ー野々村三十郎ー村越三十郎ー村越孫六郎ー三河
という繋がりがあり稲葉山ー三河という線もありそうです。ここの
「石の瀬」、「石川」
の「白」もいいたいところでしょうが
同じ常山に「石川長松」という表記があり、ここの台徳院が一応、徳川秀忠で、秀忠は長松ということなどが
付属的に出て来ています。水野がでてきているのも「於大」(お大)の方から一応、松平広忠と
その子の家康というのが意識されていそうでもあります。「小笠原」の「與八」というのも「与」とか「八」の語りを
今やっているというのでしょう。酒井左衛門尉の子息は
「(子息)与四郎」〈甫庵信長記〉
で「与」がなぜか付いています。嫡子とは思われますが、もう一つの「与」がない面があるか考
えねばならないところでしょう。まあここで
主水正清秀(東照宮)
‖
村越與三右衛門
というようなことをいっていそうです。ここで肝心の方の「村越與三右衛門」ですが常山のタイトルは
「石田が党東照宮を謀り奉らんとせし事」
の一節にあり、
「・・・・太閤・・・台徳院殿・・・太閤・・・・東照宮・・・・徳川殿・・・・秀頼公・・・・東照宮・・
・・・・東照宮・・・大坂へ御ン出あり。片桐東市正且元が宅止宿あり。・・・井伊直政が
足軽・・・御ン船・・・・脇五右衛門・・・(以下細字)・・・・又此時御乗物には
★村越與三右衛門
を乗せさせ給ひ、東照宮には倍者(またもの)の騎馬の中に御まじり有りたりともいへり。
・・・・殊に御愛(おんめで)ありける弥八鹿毛を引き来りければ、そのまま打ち乗らせ
給ひて帰らせ給ふともいえり。・・・・」〈常山奇談〉
この「東照宮」が酒井忠次で片桐且元のところに止宿、また弥八鹿毛に乗ったりしています。
森家の七人の子息にちなんで、志津ケ嶽七本鑓がありますが、
「福島市松、加藤虎之助、加藤孫六郎、片桐助作、平野権平、脇坂甚内、糟谷助右衛門
七人なり。・・・片桐は銀の切り裂きえづる・・・糟谷は金の角取紙のえづる・・」〈常山奇談〉
となっています。「助」が二人おり、ここの東照宮にフィットすることになります。後藤又兵衛の友達
の「花房助兵衛」が、東照宮と接近させられています。
「東照宮花房助兵衛に起請文を書けと仰せられし事」で
「後藤(ごとう)又兵衛は花房助兵衛見切り暗合のこと・・・・後藤(ごとう)又兵衛・・・後藤・・
後藤(ごとう)・・・後藤(ごとう)・・・花房(はなふさ)助兵衛・・・{花房(はなくさ)}・・・・・
{花房(はなふさ)}・・・後藤(ごとう)・・・花房・・・花房助兵衛職之・・・東照宮御ン心を
付けられ・・・花房が子・・・助兵衛・・・・東照宮の仰せにて大坂の軍に従ひたり。・・・
東照宮御打ち廻りの事・・花房大事・・・・誠に大丈夫なりと仰せ・・」〈常山奇談〉
で東照宮と花房の接近、ひいては後藤との繋がりを示唆されています。後藤も宮本兵大夫の
後藤又兵衛Aも入っているようです。序ですが、この前に
「井伊直孝陣代の事」
があり、
「大坂の事起こりし時井伊掃部頭直孝を召して、兄右近大夫直勝の陣代をぞ仰せ出され
ける。{直孝は直政の二男にて母は松平周防守康親の従者の女なり。・・・・直政の長子
父の跡を嗣ぐといえども多病にて公事勤労しがたしといへり。}・・・・・{元和元年の春、直政
の領国直孝相嗣がるべき旨仰せ出さる。・・・十八万石を分かちて直勝に三万石、直孝に
十五万石賜りぬ。其の後五万石増し與えられ、台徳院殿、大猷院殿五万石づつ増し賜り
中将に任ぜられけり。」〈常山奇談〉
省いたところも重要ですが、とにかく井伊直政の嫡子は退けられ、大坂陣で誉れの高い井伊掃部
頭直孝(二男)に家督が譲られ、家康も、秀忠も、家光も増禄しています。このあと
「本多伊豆守出陣聯句の事」
があり本多正信が登場します。それが次の東照宮父子がテーマの
「東照宮御ン父子御陣替えの事」
の一節です。この題字の東照宮は、あの徳川興隆の基を築いた暴腕の人物です。
次の内容は大坂冬の陣のときのことですから、もう故人です。
「東照宮は茶臼山、台徳院殿は岡山に陣所をうつし替えらるる事あり。・・・・井伊直孝・・・
台徳院殿、(直孝のふるまい気に食わず)・・・・本多正信を東照宮の陣に使い・・・・
(東照宮は)直孝は父の子なり。・・と仰せられければ、正信承り、かくまで思召(おぼしめし)
の同じきと申すもあやしきほどに候。直孝のふるまい感じ思しめし、参りて其の由を申せ
と仰せ候ひき、・・・・・」〈常山奇談〉
このあとが花房助兵衛の話ですから全体、「半介」がテーマです。強権をもつ坂井左衛門尉と
いうものの好色があって、戦国の権力争いの模様がわかりにくくなっています。秀吉にすべてを
おっ被せた隠れ好色によって世は引っかき回されています。リーダという
もののやることは多少のことは見逃されるべきだ、また自制するはずだという信仰のようなもの
が、あるのでこういうことを暴くとすぐ反発が出てきますが、権力、金力を背景にした精子の拡散、
拡大というものの危機が訴えられているわけです。その子孫に梅毒の影響が及んだという記述が
戦国の史料に陰鬱さを与えているわけです。御三家の小さい子供にこれによる兆候が出てきた
というものがあります。幸いこういうのはなかったわけですが、偶然のなせる結果でしかないわけ
です。女性は出産は命に関わりました、男性は其の苦痛が無いわけで、条件的に赦される環境に
あれば暴走してしまいます。
権力、金力のありようによっては人口とか性病とかいうのは、幾何級数的増えてしまうというよう
になってしまうものです。
この人物は今川と織田に挟まれた三河の国というものの纏めにくさからくるのか、過酷な内部
抗争を経てのし上がってきたというものがあり、権謀術策に長け億面無く武力を行使しての勝者
というものがありそうです。
家康の祖父清康を暗殺したのは弥七で、広忠を殺ったのは弥八というから、そういう雰囲気の中
で、彼がどういう役割を果たしたのかまだよくわからないというものがある人物で、これが桶狭間
では3000以上の軍隊を動かせる、無視できない存在となっていて両方がこれに遠慮している
といったところでしょう。水野の御大の方の家康すら地位を追われて自分の子息の家康Aを据えた
という強引さがあり、それで通してしまったものです。その結果こ
こに出てくる家康卿、秀忠卿、本多正信、井伊直孝の地位に影響が及び、自分の子息で権力中枢を
独占してしまったといってよい結果となりました。結果としてこういうことや、姻戚による親族の拡大
ということからから織田明智斎藤などが幕府の中枢になかに入り込んできたということができそう
です。本多正信は家康の連れ合いですから、両書にないというのが解せないわけですが、先ほど
の坂井本田の姻戚が考えられるということから、
「本田彦次郎」(忠次もある)
がそれで匂わされていると思われます。徳川家康に三人が考えられ(死亡年、年齢は年表による)
@、広忠於大の徳川家康、寛永20(1643)108歳で死亡とされる人物(1536生まれとなる)
A、元和二年(1616)75歳で亡くなった人物(1542生まれになる)
B、徳川家康公(信長公記)、坂井左衛門尉と同じ。慶長1(1596)70歳でなくなった人物
(1527生まれになる)
な
@、は天海という名前になっていますが108歳は長すぎ、天海@、天海A(崇伝)があり、元の名前は、
それぞれ松平元康(家康)、松平信康ということでしょう。領内一向一揆で乱れ、これも坂井
の撹乱策と思われますが旧主の顔をたてて結果、宗教と政治の分離で収拾したものでしょう。
A、は1542・12月26日誕生(三河後風土記)とされるものですが、これは中味は於大の方の
家康の話しとなっています。誕生日はどれも出ないはずで天海@の死亡月日になるのでは
ないかとも思われます。連続のような、連続でないような感じです。
B、は身方ケ原の戦いの記事でも家康、家康公の使い分けがされ
「是は遠州表の事
霜月下旬、武田信玄・・・・武田信玄・・・・家康も浜松の城より御人数出され・・・武田信玄
一番合戦に・・・・●家康公の御内衆成瀬藤蔵、
十二月廿二日、身方が原にて数輩討死これあり。去程に・・・長谷川橋介・佐脇藤八、
山口飛弾・加藤弥三郎四人・・・信長公の御勘当・・・家康公を頼み・・・手前比類なき討死
なり。・・・具足屋玉越三十郎・・・四人衆討死ならば同心すべきと申し切り・・・討死なり。
家康公中筋切り立てられ・・・・・是ならず弓のお手柄・・・浜松の城堅固に御抱えなさる。
弓 信玄は勝利を得人数打ち入れ候なり。」〈信長公記〉
●以下三つの家康公が坂井忠次相当のものです。●の属性が成瀬藤蔵かどうか、
成瀬藤蔵ー岩越藤蔵(甫庵信長記)ー岩越喜三郎ー寺沢又八舎弟ー玉越三十郎ー
−織田主水正ー野々村主水正・・
とかの連携で、村越与三右衛門の家康公に行き着きそうです。またネット記事「徳川家臣団へ」
によれば
「成瀬藤蔵正義、講談湯水の行水で知られ、隣家の鳥居四郎左衛門忠広と喧嘩して、仲
直りし、三方原では忠広と戦陣争いをして討死した。」
というのがあり、成瀬藤蔵に「忠」の字がくっ付いているようです。湯浅常山も東照宮、成瀬、
鳥居が交錯する、
「箕形原(みかただはら)合戦の事」
の長い一節を設けていますが、このラスト細字の「坂井左衛門尉忠次」が登場します。またこの
あと
「箕形原合戦東照宮御退口の事」
で馬場信春の有名な話がでてきます。しかしその前の部分も重要でしょう。
「・・・東照宮幾たびとなく御ン馬を返し給ふ。大久保五郎右衛門忠次(ただつぐ)手負て
歩(かち)だちになりしが、菅沼藤蔵定吉に詞(ことば)をかくれば、忠次(ただつぐ)を馬の
前輪にのらせて退きたりけり。後に菅沼に長光の刀を賜りて賞せさせ給ふ。・・・・・・
・・・・終に浜松の城に入らせ給ふ。・・・・門を閉じずしてかがり火所々にたくべし、と
仰せらる。・・・・山縣城近く攻め寄せ、・・・・馬場美濃守・・・かがり火白日の如し。もし
謀あるべきか。かろがろしく攻むべからず。徳川殿は街道一の弓とりなり・・・・とて猶予
・・・」〈常山奇談〉
があります。前半「藤蔵」が大久保の忠次にサービスしたのに褒美を貰っています。東照宮
はよほど目が行き届き、家臣思いの人だった、これでないと天下は取れないというのでしょう。
省いたところで、同じように
小栗忠蔵久次が大久保相模守忠隣を助けて、後に信国の刀を賜りました。大久保と酒井が
姻戚でもあったようです。のち本多と大久保の確執がありますが、骨肉のものかもしれません。
後半は、〈信長公記〉の三方原のくだりの語句を採りいれており、身方が原のくだりは桶狭間
を取り入れてあります。「長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛弾・加藤弥三郎」ももう一回出てくること
などは既述です。 桶狭間の
「(深田の足入れ、)一騎打」〈信長公記〉
も身方が原、家康公の逃げる場面で出てきます。六人衆の
「御弓にて射倒し」「是ならず弓のお手柄」
などが、桶狭間の岩室長門守、六人衆の太田又助、堀田孫七などをここに呼び出しているの
でしょう。
ここで常山は「馬場美濃守」の
「信春」
を出してきました。これは「長谷川橋介」と反応し長谷川の「信春(等伯)」が想起されて
いそうです。桶狭間で出てきた「深田」は高山右近の属性で、伊丹表定番
「一、深田(ふかだ)、高山右近。」〈信長公記〉
があり、この「深田」は現在未詳となっているもので、惑わせるために出されたものです。
高山右近は、「大津」ー「馬場」ー「信春」ということ(後出)でも等伯の信春につながります。味方
が原では「具足屋」の
「玉越三十郎」〈信長公記〉
が出ていました。これは「村越三十郎」にも利用されるでしょうが、芸のイメージ摂津の「野々村
三十郎」も出てきます。
く 長谷川等伯には「利休」の肖像画があり、その工房は肖像画はお手のものです。
ここ〈信長公記〉の「家康公」は「家康」と区別されており「坂井左衛門尉(忠次)」であることは、
は確実で、浜松城、坂井の太鼓の伝承でも、その臨場が浮き彫りされています。
家康公身方が原敗北の肖像画は「長谷川等伯」の筆になるもので、オールマイティ家康公の
作戦の失敗を高山右近が強烈に揶揄ったものではないかと思われます。あの徳川家康とか、
もう一人の酒井忠次の画像は、円満な顔をして、丸顔で
すが、あの肖像画はガラッとイメージが違っています。身方が原の敗戦は、大勢の将兵を失い
織田の客将の意見も聞かず戦死させ、本来ならば信長の譴責があってしかるべきものです。
飛躍のための貴重な経験であった、これが家康の信頼を高めたなどというのは後付けのとんでも
ない解釈でしょう。家康公反省の弁もあるようです。腕力における優越感が潜在していて
それが出てしまったのかもしれません。
馬場信春は浜松城攻撃を猶予し策士、策に溺れるという評価がありますが、これは間違い
で、湯浅常山も調査をしたのでしょう。次の一文があります。
「箕形原合戦信玄遠謀の事
箕形原の軍終わりて、皆浜松の城を攻めんといいけるに、信玄、勝って冑の緒をしむる
ということ有、とて軍をかへされけり。此の時、信長は白須賀に毛利河内守、山中に
滝川伊豫守、吉田に稲葉伊豫守、其の兵三万あまりにておかれたり。もし
信玄勝ちに乗りて引きとらずば、信長二万五千をひきいておしよせ、毛利滝川等も
思いもよらぬ所に打ってかかるほどならば、必ず浜松よりも切て出、中にとりこめて
軍せん、と吉田より岐阜まで一里に一人のしのびの者をおいて待たれけるに信玄
引き返されしによりて、信長の謀空しくなりぬ。」〈常山奇談〉
ここで、桶狭間で引き宛てた「毛利河内守」の臨場があります。武田信玄は二度ほどの両家の
縁組などによって、武井夕庵、太田和泉守などの存在を知っており、無理を避けたのは案の中
でしょう。城の家康は、火を炊き、門を開放し、三国史の孔明のごとく振る舞い、攻めるは武田
の名将、馬場信春、猛将、酒井忠次は太鼓を打って志気を鼓舞、いずれも役者、太田和泉守の
登場で、特に酒井の破れ太鼓は「さかい」違い、家康の応援にやってきた坂井左衛門尉といえます。
徳川家康は。家康公、家康、東照宮、源君、大御所・・・・など表記が多く、この他に太田和
泉守が徳川家康に乗っかって語る場合があります。
(18)青山与三右衛門の調略
太田和泉守
‖
青山与三右衛門ーー森勝蔵
ということから話がややこしくなってきました。
桶狭間の毛利十郎が、森可成と取れたことから、河尻与兵衛が森可成となってくるので、
家康と可成の間がちょっと変わってきたことによる脱線でしたが、常山は★村越與三右衛門と
「助兵衛」の色合いをもった東照宮とを結びつけてだしてきました。
青山与三右衛門
が、徳川家康公、太田和泉守につながる重要な人物であることになると森可成と家康との関係は
どうなるのか、などの問題が出てきます。一応家康公は可成の義兄のようなことになる、義兄の
子が家康ということになりそうですが、こういう一家の図式でここまで来たので、いまのところそうしておく
しかありません。ここで付加えて置かねばならないのが既述の甫庵の桶狭間の一文です。
「中村鳴海の両城には■山口左馬助父子を入れ置かれたりけるが、恨みを含む
仔細あって謀叛を企て、駿河勢を引き入れ、剰へ大高沓懸二箇所の城をも●調略
を以って敵城となす。」〈甫庵信長記〉
があり、●が表記として一人歩きして調略二つ、「敵城となす」の「調略」があって、山口左馬助
父子が、織田方として、作戦で城を敵方に渡したというのがあり、それが「青山与三右衛門父子」
だったといっていると思います。誣告したのが家康公で、天道に悖(もと)るとして怒ったのが、
「因果歴然」「善悪二つの道理」の一節と取れます。森可成を山口九郎次郎と取ったのが利いて
きて、これをAとすると■は山口九郎二郎@となり、青山与三右衛門は隠されたということに
なります。
いま稲葉山城下で戦死した青山与三右衛門を、信長の四人の守役の「青山与三右衛門」と
解されています(表記が同じだから)。しかしこの重要人物が年齢もわからないというのは、考え
にくく守役の人は、ほかの表記で出てくるはずということで、別人格とみたほうがよいようです。
戦死した人の身元がわからないということはなく織田信秀の兄弟に織田与次(二)郎が出ている
から、この姻戚の青山姓の人という見当はつけられそうです。つまり織田一門に繋がった有力
人物といえそうです。内藤勝介と親しい守役の人を、この戦死した人の子息@とすると
その子
青山与三右衛門@ーーー青山与三右衛門A(太田和泉守の世代)(森可成の兄)
↓ ↓
■の山口左馬助父ーーー■の山口左馬助子
(山口九郎二郎@)
となり、
太田和泉守
‖
青山与三右衛門A
その弟森可成(山口九郎二郎A)
同じく弟家康卿
ということになるのかもしれません。森可成の父と兄が桶狭間の開戦まえに義元にむげむげと
成敗された人ではないかということです。こうなると知行割の、駿河 家康卿というのは「森」の
ような感じのものになりますが、家康卿の立場は微妙としても、一応は森で固めたといえます。
山口大将の行動で、砦を提供して、今川に帰順するという調略というのは理解され難いと思いますが、
両国間の長い軋轢の間においてはありうるのでしょう。今川で有名な軍師、義元の師僧
「雪斎」〈類書〉
は〈両書〉にはなさそう(実際はある)なのに、多くの伝説に彩られています。「雪」+「斎(藤)」
だから、周辺や後世の人は太田和泉守をこのキーマンに乗せて、両国関係を語るというのが
ありえて、いまそれ
を活用しようとはされていない段階で、即断はできないと思われます。太田牛一の怒り、嘆きがあまり
に大きいので今川義元にも矛先が向けられていることもあり得る、山口大将成敗は予想外だった
から、すなわち今川の忠臣だったから、怒ったと思われます。余談になりますが、関羽は曹操に
助けられて、曹操に一時仕えて、最後劉備のところに戻っても恩義が忘れないということか、
曹操を討てる場面に見逃すというのがあります。織田の都合で随身したとしても、其の後恩義
が発生してそれにも答えたいというものがあるでしょう。あのときに織田に恩義は返したとして忠勤
を励んでいたというのもありえます。どうしても、桶狭間で知りたいと思う一つに最後義元の周囲に
軍勢というべきものがいなかった、旗本側近だけで戦ったという印象をうけますが、太田和泉守
の戦略戦術を見抜ける人物ならば軍勢をここへ急派できた、と思われます。たいていこういう
場合は、誰かが駆けつけ、とにかく総大将は逃がして事もなし、ということになるのが普通です。
大阪陣で真田幸村の猛襲をうけ危なかった家康を救ったのは大久保彦左衛門、謙信の突撃
で危うかった信玄を助けた原大隈守などの挿話があり、ハズミの危機はいつでもありえるので、
総大将はとにかく守るべしという体制が取られていたのは容易に推察できるところです。それが
このときはなかった、短い〈両書〉の文で読めるようになっていないと知識欲のある読者の期待
裏切ることになります。太田和泉守などの著述は金の目当ての書下ろしではないので、とくに
それがあるはずです。たとえば〈前著〉で山口大将が生きておれば結果こういうことは起こら
なかったはずと書いていますが、こんなことは推測で取るに足らないというように取ることに
慣れているわけです。太田牛一はそうではなく、自分の見解を出してるのが特徴といえます。
まあ「因果歴然」と書いているから、なんでそういえるのか、書いておいてもらわないと困ると
問いかけたらよいわけです。
(19)山口の在所
著者太田和泉守が山口大将が生きてれば別の動きになったという鎮魂の記述をしておれ
ば、すなわち著者がそう思っていたら事実といえそうです。義元討ち死にの場面が〈両書〉に
ありますが、討ち死の場所(ピンポイントの場所)が違うわけです。これは討ち死に場所が二つ
あるのと対応しており、まあいえば二回死んだというのと繋がれている話になっています。
これにも意識があって例えば「岩室長門守」は桶狭間で佐々・千秋が突撃して戦死した
場面
「是を始めとして、岩室長門守、屈竟の者共、枕を並べて討たれぬ。」〈甫庵信長記〉
があり、多分一年後
「岩室長門、かうかみをつかれて討死なり。」〈信長公記〉
があり、頼りなさそうで、効かしたというものがあります。
義元討ち死の第一の場面(混戦になった戦場)@は
〈信長公記〉
「・・敵味方の死者色は相まぎれず。ココにて・・・歴々・・死人その員を知らず。●服部小平太、
義元にかかりあひ、膝の口きられ倒れ伏す。毛利(森)新介、義元を伐臥せ、頸をとる。」
があります。毛利新介か一応、森の若手という感じですから子息と取ってみるということで
、二人は太田和泉守と山口飛弾守になります。「山口」はここに出てくるべきだから(因縁がある
から山口飛弾守ということになります。余談ですが、今となれば前者●は膝をやられましたが、
「小平太」
だから(チビ公で、「太」付き)という暗示があるので、飛弾守のあとに続いた、あの「佐脇(前田)
藤八」がここにいたという感じがあります。表立っては出さないようになっているから「太」が
効かしてあると取れます。
「服部小藤太」〈信長公記〉
というものがあり、本能寺で戦死しました。一応「服部小平太」の消しと考えられますが、「平」
「藤」は残像がのこるということになるのでしょう。「服部小平太」が膝を痛めたことは、後年の
黒田官兵衛の歩行に反映しますが
「服部平左衛門」〈信長公記〉
があり「太田平左衛門」があるから、●は太田和泉守が主で、藤八がヒントいうことになるので
しょう。テキスト人名注では●について
「服部春安 のち伊勢松阪城主・・・文禄四年、関白秀次事件に連座して改易。
・・・・自殺。 服部小平太56頁」
となっていて、これは運が悪かったとか、生き方が不器用だからとか、になってるものです
が、伊勢松阪城主は蒲生氏郷と重なっているから
蒲生氏郷
‖
山口飛弾守(毛利新介)=服部春安(太田和泉守A)
ということにならないかというものが(秀次事件ー山口)からありそうです。
蒲生=飛弾守=山口
でも感ぜられるように二人が近いということがわかればそれだけでもよいわけです。中に
入るのが「水野」ではないかといってきていますが、山口飛弾守と近すぎるから佐々木・蒲生
系の木村氏が入って木村又蔵の登場ということを念頭に話を進めてきています。これは毛利
新介を特徴付けようとするものです。「服部」をなぜもってきたかという疑問は残りますが
戦場で討たれたもの今川義元、討ったもの服部小平太、毛利新介です。今となればここで
太郎の「太」が出てきましたのでその点からも修正がいるのでしょう。標準的解釈は
(T) 今川義元を太田和泉守と山口飛弾守(木村であることは別途説明)が討った。
↓ ↓
(服部小平太)(毛利新介)
ということです。
今川義元の最後の場面の、一つは以上で格闘して討たれたというものです。もう一つ、鉄砲
で打たれたというのがあって、二つあります。後者は通説でないというのは、まあ置いて
おいて、戦死地点も二つある、登場人物ももう一人考えられる(例えば「服部小平太」も歴史
ではマイナーに過ぎる)というならば、状況も二つ提示されるということはありえます。一旦、
出してみてあとは、そうした理由とかの説明がされればよいことです。二つあるというのは
文献や史家が頼りないからと取られているわけ
ですが、別のことを述べるための、より説得力を持たせるための、また考えた軌跡などを語る
とかいう伏線であるというのが主ということです。
戦国江戸時代の人はどうみたかというのが要ります。場面の違いのことですが〈両書〉で大きく
違っています。〈信長公記〉は先ほどの●のあった文です。
第二の場面A、〈甫庵信長記〉の語りは
「(義元の周囲が)あわて騒いで・・・・謀反人・・・・喧嘩・・・・同士討ち・・・斯かりしか
ども義元は、相静まるべき旨下知し給ひて、幕打廻し、鳴(なり)を鎮めて在々(ましまし)
ける処を、
@服部小平太差し懸り、かくぞと▲名乗りたれば、意得(こころえ)たりと云ふ儘に、さすが
最後ぞよかりける。■打物抜いて、A小平太が、膝の皿をぞ割ったりける。
爾(しかつ)し処に、B毛利新助と▼名乗り出で戦ひけるが、其のまま突き伏せ、遂に
頸を給ひてぞ出でたりける。」
のようになっており、●の〈信長公記〉の文では、野外で闘われたことになっているのに、こ
の文では義元は幕の中で静かに在々していました。■は「打物」Aで、「打」は長篠で出た
ように鉄砲と解釈できます。「小平太」はそのための表記で太田又助Aです。鉄砲を肩から
背中に掛けていてそれを抜き取るという動作が「抜いて」でしょうが義元の膝に命中したよう
です。「膝の皿」というのは、歴史的意味はマイナーですが、他で利用されますので、そのため
かとも思いますが、手法的意味は大きいと思います。一応「膝にあたった」ということであれば
▼の名乗りは、義元が聞くことはできたことになるのでしょう。ここで三人の人物が出ているのが
重要で「義元」は別として
@服部小平太、A小平太、B毛利新助
、 の三人です。その前に「義元」の名前だけのものがあるから「今川義元」も「今川義元」と「義元」
と別けたので、@を、@Aに分けて二人の行動主体としてもよいだろうという理屈もあるのでしょう。
ここで▲▼の動作が重要であると思います。登場人物が、名乗ったので因縁があるとみて
@は森三左衛門可成=山口左馬助@(山口九郎次郎
Aは森三左衛門A=太田又助(藤八)
Bは森三左門可成A=山口左馬助A=山口九郎二郎A=山口飛弾守A
ということになりそうです。まあ殺された「山口左馬介父子」の(子)が、この場にやってきて義
元に「やまぐち」と名乗ったことが重要であり、因果歴然と書いた強い調子があってその確認
をしたといえるものです。山口左馬助父子と山口九郎次郎(二郎)の間の繋がりが、はっきりと
しないままに関連付けてきましたが今となれば
「青山与三右衛門」と「森可成」
の関係が極めて近いということになりますと「山口九郎次郎」が森可成とみてきたことが合って
いるといえますが、森勝蔵が山口九郎次郎のAと取れるのではないかと思われます。世代が
ややこしくなるので
太田和泉世代
↓
山口左馬介(父)ーー★山口左馬介(子)@−−ー山口左馬介A(これは仮定)
山口九郎ーーーーー山口九郎二(次)郎@ーーーーー山口二郎A
青山与三(戦死)ーー★青山与三@−ーー−−ー青山与三A(これは仮定)
|
森可成(与三弟)
とでもしてみると@が中心世代で太田和泉守がはじめ「青山与三@」と連れ合いの関係に
あり、青山与三@も戦死をしたので、森可成を連れ合いとしたということで来ていましたが、
もし上のように取り、戦死ではないと仮定すると別の事情を探さねばなりません。
ここにきて山口左馬介父子が今川へ謀略で随身したと仮定すると、その別れが青山与三@
との縁組の終了となります。
こちらのほうが合理的なので、こうすると、同一人★に遺児があった(山口二郎Aで暗示)
ことが十分に考えられます。
この人物を、太田和泉守・森可成が一家の嫡子として受け入れたというのが考えられます。
これが〈両書〉の「森勝蔵」であろうと思われます。これはテキストでは「森長可」とされ
「1558〜84 可成の長男。・・・信濃海津城主・・。・・・長久手で戦死・・。」
となっているもので桶狭間2歳、小牧長久手の戦いでは羽黒で酒井忠次との闘いが語られて
います。これだと一世代くらい若い感じです。
、 森一家九人は、真田十(9+1)勇士の原型といってきましたが「毛利十郎」「豊瀬与十郎」
で10人目が何となく隠されている感じがありましたが、ここで真田十勇士
筧十蔵
に相当する、森勝蔵・家康卿二人がこれに相当するものとして出てくるのではないかと思われ
ます。「筧」は〈両書〉にないが、「竹」「武」「長」「高」+「見」「貝」「甲斐」のようなものです。
湯浅常山が「筧(かけひ)平三郎功名(こうみやう)の事」で表そうとしたのは何かが疑問です。
「織田(おだ)備後(の)守信秀(のぶひで)、松平(まつだいら)三左衛門忠倫(ただとも)
・・・岡崎・・・岡崎・・・応政公・・・・筧(かけひ)平三郎重忠(しげただ)・・・上和田・・・
三左衛門・・・筧・・・上和田・・・三左衛門、岡崎・・・・筧兄弟・・・三左衛門・・・平三郎
・・・弟助大夫正重・・・兄・・・上和田・・・岡崎・・・上和田・・・応政公・・・★羽栗・・・・
応政公は東照宮の御父・・・{三左衛門}・・・{平三郎}・・・{忠倫}・・■平安城長吉(へい
あんじやうながよし)・・・・忠倫・・・」〈常山奇談〉
があります。この前節が
「甲斐国韮崎合戦の事」で「武田晴信」「原加賀守」「甲府」
などが出て、後ろの節は
「佐伯惟常高崎城を乗取事」で「▲杉谷次郎太郎、▼同次郎三郎とて兄弟」
がでます。これは
はじめの織田信秀と松平(徳川)忠倫の二人が連合して岡崎城を攻めようとした
史実を題材にした「筧重忠」の物語です。二人のルビのつけ方が「備後」「三左衛門」を
もとにした別のことを話す積もりというのがわかります。舞台は上和田城(忠倫居城)と岡崎の
城ですが、この「上和田」の4つの「和田」は和田惟政想起(「惟常」が出ている)で太田和泉守
(和田和泉)が背景に出て、「三左衛門」が4つある、安食郷の山田重忠がでてくると
かのことでもそれは見て取れます。岡崎城は家康の城で「三」がたくさん出ているので、また
「平三郎」もあるので「岡崎三郎」がでてきますがこうなるとこれは家康とみてよいと思われ
ます。また、細字の{三左衛門}もあって
森三左衛門が主役というのがわかります。題の「功名」は「光明皇后」の「光明」というような
名も考えられますが「黒田三左衛門(可成)毛付の功名の事」〈常山奇談〉の「功名」を受け
ているので、森可成が主役といえます。決定打は★でウイキペデイアでは「森可成」の生ま
れは
「尾張国羽栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)」
となっています。これで森可成が出てきました。この「羽栗郡」はいまでは分解されてしまっ
て、どうなったのかは掴みにくいのですが、「北方村」とか「黒田村」「宮田村」とかの古い地
名が出てくるので、太田和泉守の故地という感じもあります。森可成はテキストでは
「美濃兼山(岐阜県可児郡兼山町)の住人」
となっています。城主と思っていましたが住人というのが何ともいえないトーンです。「羽栗郡」
で検索しても人は出てきませんが、記憶では一つだけ「兼松正吉」があります。テキストで
「(1542〜1627) 兼松氏は尾張羽栗郡嶋村(一宮市島村)に住した(〈兼松党之
系譜〉〈兼松軍功覚書〉) 金松 2回 金松又四郎 」
があり、ここでも「住した」となっており、羽栗郡は広いといっても同一性があり、一応
森可成の父とされてよくわからない「森可行」は、兼山の人なので、兼(松)正吉の父と
みるのがよいのかもしれません。森可成の親筋は織田氏と青山氏といえそうです。
森勝蔵と団平八@は連れ合いとしても、森勝蔵に団平八Aという舎弟がいたとすると、テキスト
北条氏照が
「(〜1590) 北条氏政の弟。はじめ由比氏、のち武蔵守護代大石氏の養子
大石源三氏照と称した。 大石源蔵氏直(氏直は間違い)」
となっている「武蔵」というのに説明がつきやすいといえます。森長可が「鬼武蔵」として有名
なのでどこかで武蔵がほしいところです。北条氏政が(1538〜1590)、その子北条氏直が
(1562〜1592)となっていて世代の問題と、色の問題が掛かってくるので一応それで
やってみますと次のようになります。とりあえずやっておかないとあと進めません。
北条氏政ーーーーーーーーー北条氏直
|
弟北条氏照ーーーーーーーー北条氏照(二代目)武蔵
‖ 大石源蔵氏照 ‖ 森氏・団平八(大石源三氏直)
大石氏(武蔵守護) 由比氏
ということにしておきます。★に続いて■が決定打で長吉が出てきました。これで「兄弟」が出て
可成・家康・勝蔵が筧十蔵というので匂わされていると思われます。湯浅常山はこれをどこから
採ったかということですが〈三河物語〉の大久保彦左衛門の語りから持ってきています。「上和田」
が大久保の城で何回も出てきます。ここで「長吉」の刀も出してきています。
「筧又蔵」〈三河物語〉
を出して、木村又蔵、後藤又兵衛、太田又介の兄弟を匂わせています。ここの「正重」は弟の
筧助太夫(正重)、本多三弥(正重)を出してきています。また彦左衛門は
「筧図書(重忠)」「「筧牛之助(重成)」〈三河物語〉
も出して、この重忠は常山が使っていました。太田和泉守の「重」に重点をお置いているようで
す。▼に関して徳川を予想させる
「次郎三郎(元康)」〈三河物語〉
をだしているのも、常山が目をつけたところです。筧十蔵は高山右近もあるのではないかと
いっていますが、高山の図書も出ており、「平三郎」、「十蔵」で「平蔵」が出て、「三郎」もそうでは
はないかと思われます。筧は高・竹で見は貝があり「貝吹」がありました。▲で
「杉谷太郎三郎」〈常山奇談〉
があり「杉」は「三木」でもありますが「吹(すい)」でもあります。一応高山が「三郎」となるのか
重要なところでもあります。ここで▲「太郎三郎」の「太郎」は悩むところですが先ほど
森勝蔵の舎弟、「団平八」
を入れて解釈をしました。真田十勇士、筧十蔵などは立川文庫が明治か、大正の時代に創った
ものだから取るに足らないということはできません.われわれよりもよく知っているんだから、
教えてもらったらよいわけです。〈三河物語〉や〈常山奇談〉をみて話を創り、これで
おおきなことをやらかしたというのが語りの十郎、筧十蔵でしょう。
桶狭間で山口左馬介が生きていたら、問題は起きなかったといえるかということですが
事実は〈甫庵信長記〉が一般向けのものだから真相といえるものであり、
今川義元が鉄砲で打たれたことがここで示されていました。これを示した「膝の皿」をやられた
貞光久左衛門の物語を用意したのも〈甫庵信長記〉です。すると〈信長公記〉の話は状況が
違うのだから〈甫庵信長記〉をみて引っ掻き回したわけです。〈信長公記〉は格闘があって
「義元」が「服部小平太」と「毛利新介」に討たれた
と書きましたが、このあと
「もと御出で候道を御帰陣候なり。」
という一文があって、すぐ
「一、山口左馬助・同九郎二郎父子・・・織田備後守累年▲御目を懸けられ、鳴海・・・鳴海
・・・・鳴海・・・子息九郎二郎・・・駿河・・・・左馬助・九郎二郎両人・・生害・・・。日月
未ダ地二堕チズ。
今川義元、山口左馬助が●在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも
御用に立たず。・・・迯死(のがれじに)に相果てられ・・・因果歴然・・・。
山田新右衛門・・本国駿河・・・義元別(べつし)て▼御目を懸けられ候。討死の由承り
候て、馬を乗帰し討死。・・・松井五八郎、松井一門・一党弐百人・・討死なり。・・・・
ココにて歴々・・討死候なり。」〈信長公記〉
があります。山口がたくさん出て、義元の死が出て、因果が出ています。●「在所」が
「鳴海中村大高沓懸」どの砦を含む桶狭間を箱庭かのように熟知往来していた山口の
かって居た場所、
というのが今理解されている意味かと思いますが、これはもっとピンポイントの「在所A」があって
(本陣から逃れて)義元の討死した場所=山口左馬助の●在所
という意味で、
山口が(生きてたら)ここで戦死したはずの場所、
山口(本来)の在り場所、
山口が太田和泉守が必ずここへ攻め込んでくるだろうみて布陣したはずの場所
(実際にそこに今川義元がやってきた)
という意味のものです。
太田和泉守は義元
は討てることは想定しておらず、最悪の場合でも誰かが身代わりになって義元は逃げて結果何も
起こらないということで終わるはずで、山口がおればそういう局面になる、ここで討ち死にして
そうなったとみたというのが在所Aです。「義元」という表記を山口左馬介(義元A)と理解する
ということです。すなわち、ルビを入れて
(山口) (今川義元)
「日月未ダ地ニ堕チズ、今川義元、山口左馬助が●在所へきたり・・迯死(のがれじに)に
相果てられ、浅猿敷仕合(あさましきしあはせ)、因果歴然・・・」〈信長公記〉
「山口」が(まあ有能な影武者、とみればわかりやすい)第二の戦死場所(〈信長公記〉の
戦死場所)で討ち死にしたところへ今川義元がやってきたといったところです。一表記が二つ
だから捉えようによって強度がでてくる、山口の意図を語るにはこうしたほうがよいということ
になるのでしょう。山口左馬介を、森重政と森の小せがれ(毛利新介)が討ったというのは親近
のサインです。〈信長公記〉文の解釈
(U)今川義元(山口左馬介)を服部小平太(森可成)と毛利新助(森勝蔵)が討った
となり、いまとなればの〈信長公記〉の解釈が
(V)今川ヨシモトを服部小平太(兼松正吉)と毛利新介(森えびな)が討った
となり、これが場外での出来事で中条小市が膝をやられた話があります。
〈甫庵信長記〉のものが幕内で
今川義元は、服部小平太(太田和泉守)と小平太(森可成)に討たれ山口飛弾守が首級
を挙げた
となり、最後の場所が二つあるというのは、そのまま受け入れればよいようです。
「山田新右衛門」が「駿河」の人で義元が討たれた場所へ「帰」ろうとしてやられています。
駿河・・・●在所・・・・駿河
というようになっています。「山田」は義元の死に場所を知っていた、といえそうです。が、この
「駿河」は、知行割の「駿河国」の「家康卿」(家康ではない)に絡んでいます。犯人を知っていた
といえる行動です。
「ココにて・・・歴々・死人員を知らず」・・●在所・・「ココにて・・・歴々・・・討死候なり。」
というように、場所の「爰」にも「●在所」が包み込まれています。
「山田新右衛門」というのは、義元に
「★別(べつし)て御目を懸けられ」
た人で、引き上げも可能だったのに義元の死を聞いて
「★★馬を乗り帰し討死。」
となっている人物ですが、テキスト人名注に解説がありません。これは本稿冒頭の「山田」です
から
「太田」−「山田」−「山口」となり、山口左馬助の一門
の人らしいというのが出ています。山口と同じ考えを行動に移したということでしょう。「山田」が
漠然としているだけに、事実の山田というよりも語りの「山田」という感じです。つまり「新右衛門」
だから山口左馬介父子の子の方が生きていたらこうしたという行動を頭に描いていたといえ
ます。
(20)松井五八郎
こういう例が二つだけというのが気になります。もう一つは「松井」の場合です。
「山口新右衛門と云ふ者・・・駿河・・・御目(★)・・・帰し討死(★★)。・・此節なり。
二俣の城主松井五八郎、松井一門・一党弐百人枕を並べて討死なり。ココにて歴々・・」
があり、これは例示ではなくこの二つでないといけないということでしょう。「松井」には
「駿河」とか、上の★と★★
が省いてあるわけです。山田が漠然としている
ので具体的な二俣の城主の形容詞が(山田に乗せて)述べられたものです。つまり★は姻戚、
を表し★★は無実の主張といえます。
山口大将父子が今川へ転仕したときは、いまの転勤ではないのだから、家族というのは
ご破算で、例えば山口(子)は勝蔵は置いていき、今川義元は新たに
山口左馬介ーーーー団平八A
‖(五)八郎
二俣城主、松井五郎
という関係を世話したということが考えられます。戸部新左衛門が今川義元の妹婿という伝説が
生きてきそうです。とにかく「山口」と「今川」が親戚だというのが出てきて今川義元が、桶狭間の
前に、成敗した親戚があるということだから、★が一門として遇したと解釈するしかなさそうだから
ほかの訳がでてくるまではこうしとくということです。もう一つ、義元の妹婿という人があって、
築山殿の父の関口刑部少輔(親永)は有名です。桶狭間二年後くらいに今川氏真によって殺さ
れたという人物です。今川義元@、今川義元Aによって処罰された、妹婿@、妹婿Aというのは
歴史は繰り返すという警告で、事件の真相をそれとなく語るという手法の壷に嵌るものかもしれ
ません。
松井五郎か八郎が義元の身内というのでしょう。「二俣」は「二×又」「双×又」であり
(二 股)
此またの城〈三河後風土記〉
というのもありました。「又」が意識される城ですが、〈信長公記〉人名索引では
又二郎(勝蔵の弟平八と取れる)
松井宗信(本文「松井五八郎」)ーー(〈三河後風土記〉で松井左近・松井左近忠次がある)
松井康之(本文「松井甚介」)−細川老臣
松井友閑
となってうまく「又」と「松井」と引っ付いています。松井佐渡(類書)もあり、明智と松井は近い
といっているようです。
●在所は同文▲▼の間にも挟まっています。
▲は、山口が信秀から受けたもの、
▼は、山田が義元から受けたもの、
で両者は「山(口)」で、つながれています。山田は義元の恩義に感じて戦死し、それは山口の
義元への気持ちでもある、山口は信秀の恩義に感じて●を作り、●で義元を助けるつもり
転仕したあのとき戦死したつもり、今回も戦死したはずというのでしょう。
それなら山口の転仕は、どういうことかということかということになりますが、軍師雪斎の
意向を察していた大田和泉守が今川の西進を抑えるための苦肉の戦略といえそうです。
あのとき(信秀が亡くなったころ)は今川に攻めてこられては織田が壊滅するので、信長もうつけを
装っていたほどのときです。国内の対応に追われていたので、今川寄りの砦はいずれ守りきれない、今川に
成果を与えて矛先を緩めるための転仕と考えられます。今川の西進は危険とみていた雪斎に
とっては、これで戦果をあげたということで強硬派を抑えることができ、今川の功労者山口の
織田対応の発言権の増大ということになるというのではないか、一時的に緩衝地帯ができた
結果となったと思われます。あの信長をもりたてるために皆が必死になっていて、悪評も問題
としなかったというものがあってわかりにくくなってると思われます。平手政秀の諫死という
説明がつきにくいものもある時期のことです。
ここで謎の人物が自己を語りはじめたようです。大胆不敵、記憶力抜群のあの人物のことです。
「翌日(於清洲)頸実検候なり。頸数三千余あり。然る処、義元のさされたる鞭、ゆがけ
持ちたる同朋@、下方(しもかた)九郎左衛門と申す者、生捕に仕り進上候。・・・御褒美・・
■義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申す名字を書付けさせられ、彼(かの)
同朋Aにはのし付の大刀・わきざし下され、其上十人の僧衆を御仕立(したて)候て、義元
の頸同朋Bに相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。・・・須賀・・・熱田・・・海道・・・義元塚
・千部経・・・・」〈信長公記〉
があり、ここに「同朋」があって■の主語はこれです。マイナーの人物が一躍主役に躍り出た
という感じです。これが「団平八A」すなわち「勝蔵」の、すんなりした方の今でいう「弟」であろ
うと思われます。すなわち「大石源蔵」その人を指すのでしょう。
「同朋」
というのが辞書でみてもよくわからいので兄弟を主体に見て、意味が
六義くらいあるのでしょう
同朋@は、「生捕」られましたが「生け捕られる」、というのが「八丸」「立花」にありました。
「同朋A」は、「のし付の・・・」と
いうのが「伴正林」で出て来たから その兄弟かもしれないとうのは検討項目にはなります。
山口九郎次郎ーーー次郎(山口飛弾守)@ーーー山口飛弾守A
牧(眞木)村正倫 伴正林ーーーー「正倫」
(秀次の木村常陸) (加藤の木村又蔵)
「山口左馬介父子」の「山口」がここにうまくつながってきて、勝蔵、団平八の兄弟がこの系譜
に入ってくるということになります。まあ義理の兄弟というようなものがこの同朋Aであろう
と思われます。
「塙団右衛門」は「伴団右衛門」と「塙弾右衛門」があります〈鎌倉〉。したがって
「伴」は「伴正林」の「伴」、「団」は団平八」の「団」、「弾」は「山口飛弾」の「弾」、
となり、講談の英雄、木村又蔵や塙団右衛門を生むもとはこの桶狭間の
「山口飛弾守」@
にあります。この子息が「伴正林」で、
「正林」の「林」は、「林阿弥」の「林」
で
山口飛弾守@(九郎)次郎ーーー伴正林 森勝蔵A
(森可成A) ↓ |
(山口九郎)二郎(森勝蔵@)ーーーー林阿弥(大石源三氏直)
(森可成A) ‖
北条氏直
というようなことにもなりそうです。
山口=木村
というのがわかりにくく、木村又蔵が後藤又兵衛とちがって事跡がはきりしないということ
がこのあたりを捉え難くしています。木村又蔵は加藤第一の大将なのに早期に加藤家を
退散しています。この事情が隠されているのがポイントの一つといえそうです。「木村」「大村」
は直感的には「森」の変形で、いろいろやってみてそうだと決まったら確認材料にもなります。
「大村」はペンネームですから、「木村」→「こむら」→「小村」→「大村」として「大田村」が
ありますから、三者「太田」でつなぐことはできます。
(21)関連を示す技術
「山口」に結ぶのは
「真木村牛介」〈信長公記〉 「牧村牛介(助)」〈甫庵信長記〉
が使われていますが、前者が人名索引から抜けているのでとりあえず補足しますと
「井口・・十四条・・洲俣御要害・・・足軽・・・御身方瑞雲庵おとと・・・かるみ・・かるみ村
…足軽・・●真木村牛介・・・・稲葉又右衛門・・・池田勝三郎・佐々内蔵佐両人・・・
洲俣へ御帰城・・・洲俣御引払ひなされ・・・・」〈信長公記〉
の一節の●で出ているものです。「十四条」と「かるみ」は脚注では
「岐阜県本巣郡真正町十四条」 「岐阜県本巣郡真正町軽海」
となっていて、「本巣」「真正」が一つの鍵となっています。●の「真」は「真正」の「真」、●の
「正」は「正倫」の「正」、子息「木村又蔵正勝」の「正」にもいくものです。もちろん
「木村次郎左衛門」−「木村長門守」−「森重正」
の「正」もあります。ここで「又」右衛門が出て「洲俣」がでています。この「俣」「又」が「木村」
を今川の「二俣の城主松井五八郎」に繋げてよいといっていると取れます。「今川」は
「今川氏真」「今川孫二郎」「今川義元」〈信長公記〉
「今川氏実」「今川孫次郎」「今川義元」「義元」〈甫庵信長記〉
となっており、氏真・氏実があるから「真正町」の「真」が意識されている感じですが、気がつきに
くいことに「氏」が使われているというのがあります。北条氏綱、氏康、氏政、氏直の「氏」です。
北条に絡めて見ないといけないというのがあるかもしれません。この「孫次(二)郎」は本能寺
で戦死しますので、今川氏真が次郎というのは表しているかもしれませんが、
勝蔵・林阿弥の兄弟
の存在を表して表記が消されたものともいえそうです。今川姓だからやはり義元の妹婿の子
といえる存在となるのでしょう。ここ●の文の一節では「洲俣」は▲三つ出ています。松井の
二俣の城につながる「俣」です。
この前節に「洲の俣」は、▼一つ、「森辺」と出てきて、その場所は
「岐阜県安八郡墨俣町」
と書いてあります。すなはち墨俣の城のあった場所が二つあるという問題が提起されたという
いわくつきのところです。しかし
前者は「洲俣@」(軽海)、後者は「洲の俣A」(森部)
となっており、なんとなく違います。
二つは場所が違うようですが●の文では「城」として出てきて、後者は
「にれまたの川」〈信長公記〉「岐阜県安八郡輪之内町楡俣を流れる楡俣川(長良川)」
が出てきますので、。これは、この川の流れが分かれるところに出来た中洲という感じは
します。要は
「俣@」と「俣A」で「二俣」
で、これは桶狭間の「二俣の城松井五八郎」の二俣だから、それと、ここの真木村、牛介、
と繋いでほしいといっているようです。そーらおかしい、けしからん、というのは
当たっているのですが珍妙な布石があるので、そっちの説明もやらんといかんということが
我田引水に至った理由です。桶狭間(永禄3年5月19日)後の補足の様なもののうち
「(35節)一、或時(永禄2年3月)岩倉・・・・・越・・・渡し・・・。
(36節)一、(永禄3年)五月十三日、▼木曽川・飛騨川の大河、舟渡し三つこさせられ
(脚注=越させられ)、
・・・翌日十四日西美濃へ御働き・・・洲の俣・・・・・・・にれまた・・百七十余人
討たせられ・・・・・一年・・・・二人・・・・一人・・一人・・・河村久五郎・・・・二人・・・・
頸二つ 前田又左衛門・・・二つの内一人は、・・・足立六兵衛・・是・・頸取足立・・・
一所・・・前田又左衛門・・・・義元合戦・・・頸一つ・・・・頸二つ・・・・前田又左衛門・・・・
(37節)一、永禄四年{辛酉}五月上旬 、▲木曽川・飛騨川の大河打越し、西美濃へ御乱入
・・・洲俣・・・・洲俣・・・真木村牛介・・又・・・洲俣・・・・洲俣・・・・
があり、桶狭間は 36節と37節の間に入るもので「義元合戦」でそのことが意識されています。
○3節ともに「越」が入っている。36節は脚注で「越」を入れることを催促している。
○▼▲はほぼ同文、36節、37節の相関を示している 36節の数字は37節に及ぶ
○36節の 1・2・1・1・2・2・2・1・1・1・2の数字が目立つ事がこの三節を何回もみる
関連付けてみることの発端となっている。
○もうここは藤吉郎の墨俣二つ問題で何回も見ており〈戦国〉でもかなりページを割いて
いる。つまり叙述がおかしいところ。
○洲俣の「俣」が2・1の数に関係すると思われる。
「俣」は36節は一つ、37節は四つ
「又」は36節は四つ、37節は一つ 「にれまたの川」の「また」を含む
○1・2に関連して「俣」を見直すと
@36節の「俣」は「股」の意味を持つ「股」、〈三河後風土記〉の「此またの城」の
ルビ(二 股)の「股」でどちらかというと「又」に繋げる意味をもっている。
したがって「俣」は1つ。
A37節の「洲俣」が二つに分かれる
「永禄四年・・・其の後
洲俣御要害丈夫に仰付けられ御居陣・・・・・
★井口より惣人数を出し十四条と云ふ村に御敵人数を備へ候。則
洲俣より
懸付け・・・
)
洲俣へ御帰城なり。・・・・・・
洲俣御引払ひなされ・・・・・・」〈信長公記〉
となっており初めと三つ目は、要害・城というべきもので、あと二つは洲俣と云う村
というような地名的なものとなっている。したがって、ここは洲俣2つ
洲俣の城×2=城2
洲俣×2 =洲俣
という感じで、桶狭間松井の「二俣の城」に掛かっている、木村とか牧村とか同朋
とかが松井に掛かる。
というようなことになります。地名の「洲俣」、城の「洲俣」などに分けるのは考えすぎというのは
どうしても現代人からは出てくる疑問です。そんなとこまで慮っているはずがない、それなら学校
で教えているはずだとなって・・・・。★の「井口」(稲葉山のふもとの地〈武功夜話〉)は
脚注では
「井口城(前出)」
となっています。いまでいえば「稲葉山城」とか「岐阜城」と書くものでしょうが、その前に★を
「城」と決め付けてあるのは珍妙です。なぜなら地名索引では「井口」は
「井の口」(五ヶ所) 「井口山」(一ヶ所)
となっていて「(前出)」となっているのに前に出ていません。「こさせられ」を「越させられ」と
いう脚注を付すのは親切すぎますが、ここでは不親切といってもよいものになっています。
したがって遡っていきますが「井の口」の初出のところ
「織田備後守殿後巻(うしろまき)として・・・・▼▼木曾川・飛弾川、大河舟渡しをこさせ
られ・・・・道三仰天を致し・・・井の口居城(いじやう)へ引入るなり。」〈信長公記〉
にでています。この▼▼は先程に出た▼と同文です。したがってここ▼▼の「こさせられ」と
いうのにも「越させられ」という脚注があってしかるべしといえます。前(初出)のものだから。
まあこれは手間だからやめとこ、となったとしても「井の口居城(いじやう)」の脚注は解せない
ものとなっています。すなわち
「井の口は岐阜の別名。稲葉山の上にあつたので稲葉山城ともいう。」
となっており日本語ではなくなっています。「井の口」というのはこの場合、皆がそう呼んで
いるところ、というものもあるので、地名とはっきりいえない、稲葉山とも稲葉山城ともいえない
というのがある、つまり太田牛一が暈かして書いたので付き合いきれないということではない
かと思われます。太田牛一としては、あとの巻と繋いだ話だといっているのは明らかで「後巻」
というものを書いています。これは脚注では
「味方を攻撃する敵の後方をさらに攻囲すること。」
となっていますが大体の意味は書いていただかなくてもわかる、もう一つの意味が込められて
いると取られては困るので、そういうことの逸らしとなっています。事柄にも二つあり例えば
「空白の四世紀」
などいうのも「四世紀」は「301〜400」もあるし、「1〜400」までもあるそれが空白だといって
いるかもしれず、これは書物に書いてあるのだから、どっちやというのは聞いてよいはずです。
紹介して現在ではわからないというのでもよい、わからないというコメントもないので困る、
わからないというのが判るだけでも意味があり、誰かわかっていた人が昔いた、ということに
なり、もっと前の人に教えて貰お、というのもでてきます。後ろの巻に出ていてそれとつなが
りがあります。
桶狭間の二俣の松井と、この35節、36節、37節との連関は、「俣」「又」などの共通から
木村ー倫ー林阿弥ー松井の関係が浮かび上がってきましたが、これはもう初めからそれで
押しに押せばよいというものがあり、つまり著者のお墨付きがあるから、この辺を援用したら
いけるだろうということで理屈を捏ねてきたといえるものです。
36節が数字がたくさん出て きたので足してみると、▼の文参照
5+13+3+14+170余+1+2+1+1+5+2+2+2+1+6+1+1+2=232
となります。一方松井のくだりは
「山田新右衛門と云ふ者・・・・・二俣の城主松井五八郎、松井一門・一党弐百人枕を
並べて討死なり。ココにて●歴々其数討死候なり。」〈信長公記〉
ですから
2+58+1+1+200(弐百)=262
で一応「合」となり関連が意識されています。
30違いますが、これは大田和泉守が170を使ったのが間違いで「余(30)」で修正されてい
ます。それは漢数字の弐百が示していそうです。漢数字がアバウトをいう意味があるのか、
数字の操作があるという暗示かどうかは、例が多いのでいずれわかってくるはずです。
浮野の戦いの例によれば〈信長公記〉「七百ばかり」「七百ばかり」「千ばかり」があり
〈甫庵信長記〉では
「千騎余」「一千余騎」「七百余騎」「二百余騎」
というようになっています。三間真中というと1,5間でしょうが「三間間中」というと3.5間で
しょう。これは甫庵が「三間半(まなか)柄(え)」としてますから合っていそうです。安土城では
「石くらの高さ十二間余なり。」
「石くらの上・・・・高さ十六間ま中あり。」〈信長公記〉
となっています。ここで「余」が出てきますが、これは「0,5」という意味でよいはずです。
すなわち脚注では「ま中」は「〈原本信長記〉“間中あり”に作り・・・」と書いていますから
「十六間間中」=16,5間
が出ますから、石くらの端数(余)「0,5」が生きてきます。12.5+16.5=29間と納まりま
す。「ま中」を真中とすると八間の高さの建物ですが、法隆寺の五重の塔の高さのものが石くら
の上にのっていたという技術的なものはクリアされますが、「余」という半端が意味なしで浮いて
しまいます。
(22)同朋
「1」「2」とかの話の中で「170余」というのが気になったということですが、とにかく、こういう
数字を仕掛けをみつけていたので思い切って松井の一文を広げて述べてきま
したが、ここに関する部分、これからいうことも、そらおかしい、というのが続きますが、
これを見つけた以上、ここは押していけばよい、著者のお墨付きが出たのかもしれない、
とみて、うそだろうといわれそうな、いわなくてよいことを少し続けたく。ここの●「数」がここ
だけの意味もありますが、元へ戻って、この少し前の
「ココにて・・・歴々・・・手負・死人員(かず)を知らず、★服部小平太、義元にかかりあひ
膝の口きられ倒れ伏す。毛利新介、義元を伐り臥せ頸をとる。」〈信長公記〉
の文の補足があると思われます。
この「員(かず)を知らず」というのはここではそれほど無我夢中の状態というのでよいのですが
冷静になった段階では、ちょっと無責任で、この「弐百」が、桶狭間戦闘叙述の一番後ろから
ここへ掛かってくる感じです。この文に忘れ物がある感じがするわけです。もう忘れかけて
いますが一つ同胞が残っています。一部再掲
「ゆがけ持ちたる同朋@・・・・彼同朋Aにはのし付の大刀・・・其の上十人の僧衆を御仕立て
候て、義元の頸同朋Bに相添へ、駿河へ送り遣わされ候なり。・・須賀・・熱田・・海道・・」
〈信長公記〉
において同朋Bはゆがけ持つ林阿弥と解釈されていますが、それでは
相添へ
がちょっとおかしい,と思われます。それなら「義元の頸に同朋相添へ」となりますがここでは
義元の頸同朋
となっており、これは「義元の頸ヨシモト」「義元同朋の頸」となるのではないかと思います。
すなわち、〈信長公記〉の「同朋」はこの連れ合いの意味もあるというのも出てきていそうです。
すなわち、いまでいう義元公夫妻がここで討たれたと大田牛一がいっていると取るしかない
ところです。そんなことはこれだけではいえない、と反論が出てくるところですが、押せ押せで
やってもここはよいわけです。36節「2・1・1・2・2・・・」などの数字がたくさん出てきたところ
一部再掲、( )内は前回省いている
「頸二つ 前田又左衛門(討とる。)・・二つの内一人は・・・●(日比野下野与力)
足立六兵衛・・・是(は)・・・・頸取足立・・・・。(下野と)一所(に討ち死に候なり。)」
がありました。前田又左衛門は「頸」二つを取ったことになっていますが一つは足立六兵衛の
取ったものです。「足立」=「安達(竜)」で
「安」は「(道足)安東」大将の「安」、「武井夕庵」「大関夕安」の「安」、
「達」「竜」は、「俵屋宗達」「天王寺屋竜雲」の「竜」
「六兵衛」は「日禰(根)野六郎左衛門」のようなモデルでも登場がある「六」
もあり「大田和泉守」の登場とみてよく、二人の仕事というわけでしょうが、頸は二つある、一つ
として取られそうだが、一つではない二つというのが「1・2・2・1・1・・」という数字のいたずらとなった
ものといえそうです。ここでこういうことになると思います。
〈甫庵信長記〉の世界の当事者(これが一般の読者に知らせたもの)、
義元@ 服部小平太 小平太 毛利新助 幔幕の中
〈信長公記〉の世界の当事者
義元A 服部小平太 毛利新介 戦場
@の場合が勝利の瞬間で、 「小平太」=「前田又左衛門」で鉄砲で「十二・三間」の距離で
撃ち、義元の膝を打ちくだいたのでしょう。「毛利新助」(山口飛弾守)首級をあげ、これを見届け
のが大田和泉守(「服部小平太」)といえます。この場合「服部小平太」の「小平太」は
右の二人の子を意識した小平太といえそうです。小さい「平左衛門」、「平太」というような。
名乗ったのは森可成だろうと細かいことを言いましたが一般的な理解はこれでされる、前田の
えびなの働きは伏線があるので無視できないと思われます
下段は上段を、いいたいことでいいかえたものととれます。
義元A=服部義元A を討ったのが(服部)小平太でこれは大田和泉守A兼松正吉
で、毛利新は義元Aの素性を明らかにする役目をおっているといえます。
つまり二俣松井のすぐ後に
「ココに、河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合わせ・・」〈信長公記〉
があり、服部が出てきますから根拠のないことでもないものです。
足立六兵衛の載ってた一節が、桶狭間の終わりの松井の一文と数字が合ってたわけです。
これを生かさないとここの話ができないのです。●により、足立六兵衛は日比野下野守与力
でした。与力という言葉はなんのことかわからないわけですが、二人とも討ち死にして表記は
消えました。足立六兵衛は足立清六と索引で並びになっていて、清六は登場が「赤林孫七」
の相棒だから「七」扱いになります。簡単に言えば
日比野下野守(太田和泉守)
‖
足立六兵衛(太田和泉A=金松正吉)=服部小平太
という構成にしたといえます。大田和泉守に服部を使ったのはこの服部義元とつなぐための
ものでしょう。ここ●の文の後、前田又左衛門が、二回出てきます。
一部再掲、もう少し詳しくやってみますと、
「 頸二つ 前田又左衛門討取る。二つの内一つ・・・足立六兵衛・・・頸取足立・・・・。
此比(ころ)御勘気を蒙り、前田又左衛門出頭これなし。義元合戦にも朝合戦に頸
一つ、惣崩れに頸二つ取り進上候へども、召し出され候はず候つる。此度前田又左
御赦免なり。」〈信長く記〉
となって36節が終わっています。この頸二つがポイントです。
@義元公の頸 と Aヨシモト公の頸
で、@は前田又左衛門(小平太)、Aは頸取足立(足立六兵衛)=服部小平太A兼松
となるのでしょう。
〈甫庵信長記〉のこの前田の勘気のことについての叙述は、あの有名な前田利家と、のち
前田家に入った、桶狭間、佐脇藤八相当の森えびな前田利家A
との区別がつかないように混同されています。ここで二つに分けたのが、ここで現れています。
桶狭間で頸二つの前者(前田利家A)と、1プラス2=3であった後者とあり、後者が前田利家@
です。前田利家@=勘気前田利家Aで同性ですが、「勘気」を蒙ったのは後者です。脚注では
「永禄二年(1559)信長の同朋拾阿弥を斬殺した。・・・信長は出仕停止の処分にした。」
となっています。誰を斬ったのか、とくにこの件に詳しい〈甫庵信長記〉に出てないと完結しません。 、
ここへきて「同朋」の意味が大きいことがわかってきましたが信長の同朋を斬ったのだから
出仕停止や赦免どころの話ではありません。矢島六人衆の筆頭は「佐々孫介(武井夕庵)」で
すが、さこほどの足立六兵衛は、猪子兵介ー金松又四郎相当の人物でしょうが、矢島で「六」
を出してきました。矢島六人衆の
「矢島四郎右衛門尉」〈甫庵信長記〉(索引では「矢代勝助」の前)
が、ただ一人で
「坂井孫八郎」〈甫庵信長記〉
を討つという、年代不詳の記事があります。これで皆が大喝采をしました。この「四郎」が
「前田」の「孫四郎(甫庵信長記)」の「四郎」に繋がり、また「矢島」の四郎は「前田」を呼び
だすようです。土蔵四郎兵衛(前田又左衛門A)は前田左馬充を討ちます。
〈信長公記〉の人名索引の「矢代勝介」の前は
「八板」
があり、これは尾張武衛斯波氏の興亡が書かれている〈清須合戦記〉(〈甫庵信長記〉現代
思潮社、所収)で
「八牧平四郎」
となっている人物で「四郎」「八+真木」が出てきています。兼松正吉相当とみてよい
「大島光義(鵜八、雲八、光吉)」〈辞典〉
は弓の名人で「安土城矢窓の切事奉行」「秀次の命により八坂の塔の五重の窓に矢十
筋を射込んでみせた」とありますが、索引で、左〈甫庵信長記〉、右〈信長公記〉
薬師寺九郎左衛門尉 薬師院
薬研藤四郎 薬師寺九郎左衛門
矢島四郎右衛門 八板
矢代勝助 矢代勝介
となっており、「矢代」が一応「関東」の人というので「大石源三」想定されるので、また「八」板
が「やいた」と読まれると「薬師」を包摂するので、「坂井孫八郎」を討った「矢島」は前田又左
衛門と取れます。想定してきている前田又左衛門@Aより世代の違う「又左衛門」です。つまり
「金松又四郎」で、討った相手は
信長(結婚する前に子息がいた)
‖●坂井孫八郎
信長夫人
でこれが願望の実現、実際は出来なかった、の例の最たるものといえます。一方で相手の●は
坂井右近
‖ーーーーーーーーーーー坂井孫八郎(又左衛門A)
又左衛門
のことでもあり、孫となるのは、いわゆる又左衛門@が二人と義理の関係となって間に入ると
いうことかも知れません。地名索引で
「あらこ」〈信長公記〉
がありますが、テキストでは「名古屋市中川区荒子町(荒子町大和ヶ池の城址は県史跡)」と
なって「前田利家の出生地も荒子」となっています。「ただし利家の生地は中川区冨田町大字
前田だとの説もある。」となっています。「あらこ」が取り上げられる元は、本文で
「・・林新五郎・其の弟美作守・・・林与力あらこの前田与十郎城へ罷り退き候。」〈信長公記〉
があり、「与力」を解釈しないいけないところでの登場です。とにかく「与十郎」の「与」は「森」の
「与」だと思いますが、「あら」は、テキスト索引では(右は注記の一部)
荒川市介 (「加賀の地侍」)
あら川喜右衛門 (「足軽」)
荒川新八 (「照戸部村」「荒川長右衛門」)
あら川又蔵 (「山口教吉」の「足軽」)ー山口教吉は山口九郎二郎とされる
あら川与十郎 (「足軽」)
となっていて「あら」=「荒」として反映されています。この三人の「あら」の中の「与十郎」が
「あらこ」ーあらの子ですから、したがって「又左衛門A」を語るのが「あらこ」
ではないかと思われます。外からきた「又左衛門@」がありそうです。この与力は「古田重然」
で出てきて「はじめ中川清秀の与力」と書かれていました。「はじめ」の、あとは誰なんか不詳
のようです。
●は信秀の「舎弟孫三郎殿」を殺したので「矢島」に討たれたわけですが信長は「孫三郎殿」
を「亦父と思ふべし」といっていますので信長夫人の連れ合いが「孫三郎殿A」というのが
考えられます。〈戦国〉では@Aに分けていませんでしたが孫三郎は二人に関わりがあるよう
に出てきています。もちろんこの人は殺されておらず、別の重要なところでところで出てくると
思いますが、こう見てくると●は「坂井左衛門尉」的なもの、子の前田又左衛門、信長夫人の
連れ合いのことなども述べたもので幅広く使われていると思いますが矢島六人衆の他愛ない
話で金松のことを語るというものをやったのがここだと思われます。索引で「矢島」は「薬」と
「や」で接近していました。文中では永禄12年
「(一)薬師寺九郎左衛門・・・薬師寺九郎左衛門・・・・・矢庭(やには)・・・・薬師寺九郎
左衛門・・」〈信長公記〉
は「矢庭に」という珍妙な当て字があります。薬は元亀元年
「(二)天王寺屋宗及・・・薬師院・・・油屋常祐・・・松永弾正・・・代物金銀・・」〈信長公記〉
があり、薬師院は「小松嶋」という茶壺を進上しています。また「薬師院」については
「ここでは竹田法印定快を指す。★武野紹鴎の門人。」
となっています。「薬師」を「くすし」と読むと索引では
「櫛田忠兵衛」「楠木庄左衛門」「楠木」「楠木長安」「九条兼孝」
があり索引では洩れてる「櫛橋」とか「楠木長安」の「河内守」につながります。楠木長安は
「河内守、入道して長諳、式部卿法印、はじめ大餐長左衛門・・・信長秀吉の右筆。
楠木正儀子、正平八代の孫だというが信用できない。」
・
となっていて「河内守」や「右筆」といったものが太田和泉守のイメージと重なっています。
さきほど出た「荒川長右衛門」を気にしていたらここで「長左衛門」がでました。楠木正成の
名誉回復をしたことで知られており「正成」を思い出す人です。「信用できない」ことをいってる
ようですが、とんでもないことで、「正儀」という人は「楠木正成」の弟であり、湯浅常山は
「兼松又四郎正儀(まさのり)」を創り、「正儀」十発の一節を書いています。戦国の正成には
「服部半蔵正成」「稲葉正成(関が原)」「野々村正成(主水入道?)」
があります。戦国の「正成」には桶狭間の「服部左京進(助)」「服部小平太」が甚大な影響を
及ぼしたのかも。「九条兼孝」は本文「関白」が考証されて、ここに載ってきているので意図ある
ところでしょう。「兼」というのが効いてきて「兼松」想起となるところです。一方★絡みでみると
「大黒あん」〈信長公記〉 → 武野紹鴎
があります。武野紹鴎をみると
「1502〜55 代表的な茶人。四畳半の侘び茶をさらに簡素化し、珠光についで宗
匠となり千利久に伝えた」
となっています。太田和泉守30才ころの没となるようです。登場は
「惟住五郎左衛門所御泊。信長公より御名物の御道具参らせられ候。御使、寺田
善右衛門。・・・・又次日参らせられ候。此時の御使、宮内卿法印。一、周徳さしやく
一、大黒あん所持のひょうたんの炭入、一、古市播州所持の高麗のはし」〈信長公記〉
であり、化荻の一節「天王寺屋竜雲所持」の「化荻」はこの「大黒あん所持」などとつながって
います。
「矢島四郎」−「矢庭」ー「薬師寺」ー「薬師院」ー「楠木河内」−「武野紹鴎」−「寺田善右衛門」
−「九条兼孝」−「兼松正吉」−「太田和泉守A」
という目に入るものの流れから、「金松又四郎」は「武野紹鴎」を名乗ったのではないか、と思われ
ます。「紹鴎」の「鴎」の左の「区」は「カコイ」+「口(くち)」三つの「区」です。先程の薬師寺に
「薬師寺九郎左衛門小口を甘(くつろげ)候。是は後巻かつら川表の事、・・・・」〈信長公記〉
という「口」がついてて脚注では「小口」は「虎口、攻め口」となっており、ちょっと攻めるのを緩め
たようですが(「後巻」がかつら川を見ないといけないのでしょうが是は省略して)、この「口」は
紹鴎の「口」−薬師寺の「寺」−寺田善右衛門の「寺」と「口」(田)
となり、兼松の属性を示しています。また
「小口」=「於久地(信長公記)」
で「岩室長門」戦死の一節に繋がっています。ここは別面からいえば
「上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門・・・」〈信長公記〉
となっており、桶狭間の「岩室長門守」に対応する、「若衆」、岩室ナガトになると思われます。
桶狭間で、信長・岩室長門守、長谷川以下4人 が城をでましたが、太田和泉守=岩室長門守
とすると一番すんなりといきますが、「岩室長門守(長門内包)」=信長夫人もありえます。さき
ほどの坂井孫八郎=信長夫妻の連れ合い=岩室長門といっていると取れます。ここで表記が
消されたのであとどうなったのかということになります。紹鴎の口から小口ー若衆ーで兼松の
属性もでました。あと「口」別のほうへ広がりをみせます。索引で
〈信長公記〉 櫛田忠兵衛 〈甫庵信長記〉 楠木長庵
九条兼孝 楠
楠木正虎 口中杉若
朽木元綱 朽木信濃守
宮内卿法印 久野→窪田
というようになっています。
紹鴎の口ー薬師寺の「口」−楠木(河内)−口中杉若の口ー朽木=口木
となって、寺田善ー宮内卿法印として使い出てきた「使い」の宮内卿法印にいたります。つまり
朽木谷を領した朽木信濃守は金松又四郎というのが出てきます。朽木が有名になったのは朝倉
との戦いで、今一歩で勝利という段階で浅井が謀叛して、挟み撃ちになるということで織田信
長が戦線を離脱した事件があります。このときに信長の危急を救ったのが松永久秀で朽木を
頼って京都へ帰還しています。なぜ松永は朽木を頼ったのか、朽木が離反したらどうなるのか、
説明がいまでもないわけです。朽木谷というような地形のところ、戦闘能力に秀でた、離反しない
大将のところへ入ったのだから安全です。この戦い信長が部下を見捨てていち早く脱出したので
それほど非情でないと天下は取れないと評されているところですが、いち早く戦を切り上げたのは、
必要があったからでしょう。浅井朝倉と織田戦で捉えてしまいますが浅井朝倉、徳川、織田の戦い
という面でもみないといけないのかもしれません。信長公暗殺未遂事件などもありました。関が原
で大谷吉隆の後ろ辺りにいた陣していた朽木氏ですが、口木から出てきました。森鴎外の
場合でも「口」三つの鴎が表示できませんが紹鴎の場合は、読みの幅を狭めています。昔の
人も両方使っていたということであれば、二つの表記があった、ひょっとして武井セキアンと
太田イズミが場合により重ねて語られていたということもありえます。
(23)毛利新介(助)
服部義元の存在を明らかにするために「毛利新介」を出したといいましたが、経緯は
「河内の服部左京助・・・・吉良・石橋・武衛(斯波氏)仰せ談らわれ御謀叛・・」〈信長公記〉
で発覚して、斯波氏も滅びますが信長は若君義銀とその「弟」義冬(津川氏)を助けます。
これが義元の最後の場面に生かされます。
「毛利新介・・・(義元の)頸を取る。是・・・武衛様を悉く攻め殺し候の時、●御舎弟を一人
生捕り助け申され候。其の冥加たちまち来たって義元の頸をとり給ふ。」〈信長公記〉
があります。これを見れば、毛利新介=弟(義冬)=●御舎弟ととれないこともないのですが
若君義銀=「武衛治部大輔義銀」〈清須合戦記〉
ということで「今川義元」の「治部大輔」(テキストの人名注)と同じであまりに作為的なので、
そうおも思わせるものでしょう。この書物、たいへんなことを語っていて
武衛の「治部大輔」 と その▼御舎弟(毛利シンスケ)
今川の「治部大輔」 と その▲御舎弟
s を出して、服部義元を▼が討ったということをいっています。▼でないと▲を討てないということで
で今までも「八丸」や「立花」の人が生け捕られています。服部小平太というのは「金松」と
いえますが毛利新介を「服部」に近づけています。服部ー斯波の同盟の関係もありますが
服部の「左京進」「左京助」を通じても「毛利」と接近します。服部は服部の項に納まっている
もの以外に、人名索引で
「上服部」「下服部」〈信長公記〉
があり、「か」とか「し」でも関係が生じていきますが「木村常陸介」にも繋がるものがあります。
「毛利新介」ははじめから森のせがれ、ということで出されたと思いますが、ちょっと他に
利用された(舎弟の人物を出すため)ので、本来のものにもどすと
山口飛弾守=木村常陸介=毛利新介
です。先ほどの〈清須合戦記〉に(森蘭丸)相当の「安孫右京進忠頼」など7人が出てきます。
「右京進」がでましたが、その流れのもとに、この7人は〈信長公記〉でも表記を若干かえて
出てきます。〈信長公記〉では「柴田権六」のもと
「安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助・■木村源五・芝崎孫三・●山田七郎五郎」
の7人で出ています。これは●を二人として7人となりますが、〈清須合戦記〉では文句が出る
たらかなわん、としてもう一人「天野佐左衛門」を追加して7人にしています。この人物が
入ってきてまた頭痛の種がふえます。〈明智軍記〉では早速これを利用して、
「・・北畠・・柘植・・・津川・・天野佐左右衛門・・・伊賀の地侍服部・・・多羅尾・・・柘植・・」
など出してきています。これは「津川」「服部」「柘植」など尾張武衛斯波氏にかかってきます、
湯浅常山は家康の奉行
「天野三郎兵衛康景」
を出してきて「太田某」「井戸某」「井上」「板倉勝重」ー「本多正信」「本多正純」の物語を作って
きます。●の文の一部で
「・・・太田又助・木村源五・・・・・・」〈信長公記〉
「・・・太田又助・木村源五郎・・・・」〈清須合戦記〉
の並びがあり、これを森兄弟と見るのであれば「佐脇藤八・山口飛弾守」という並びになりますが
一応「木村」が顔を出す、「木村」が出てくる、ことになります。
一応一家だから同姓となりますが「山田」が太田的なものですから、
山田=山口=太田、のなかの木村
です。〈信長公記〉索引では
木全(きまた)六郎三郎
★木村いこ助({木村源五内}「木村伊小介」もある)
木村重章(本文「木村源五」)
木村次郎左衛門
となっており、この「木全」が桶狭間、二俣城主、松井五八郎と木村を結ぶものでもあり、
脚注では
「木全氏は尾張中島郡木全(稲沢市木全)から興った木俣氏と同族か」
となっています。木俣=木全ですが太田牛一が木俣を木全という表記で表現したようです。
明石全登を意識して「全」を使ったということは既述ですが、
「氏家ト全」「入道ト全」「ト全」(甫庵信長記)
の「全」があり、さらに甫庵は「常陸介」をつけたものを用意して
「氏家常陸介」「常陸介入道ト全」「氏家常陸介入道ト全」
があります。★「木村」は「木全」からきて、「全」→「常陸介」を経て
木村常陸介
が浮かび上がってきます。「木全」は「木又」でもあり木村又への橋渡しもしてます。〈辞典〉では
「中島郡稲島村に「木全又右衛門」という人物がいる由です。また「木全六郎三郎」は
「山口又次郎」を討っています(信長公記)。
「木全」は上の索引で自然に「木村」に移行しますが、「又」と「山口」に、ひいては「常陸」にも
繋がっていきます。「山口飛弾守」は「木村又蔵」「木村常陸介」とみてきましたが、この7人に
「太田」ー「木村又(前田)」−「山田(山口)」
が流れています。
「山口」=「木村」、は覚えとこ、おぼえとこ。
ここの、安孫右京進忠頼〈清須合戦記〉
安孫子右京亮〈信長公記〉
がポイントの一つで、「矢島四郎」から続いていている話の途中のものです。
「右京進」「右京亮」が「服部」の「左京進」「左京助」に繋がっています。「左京」でいえば、
(佐久間)で出てきますが
「(弟)左京助」〈甫庵信長記〉 ●「舎弟左京助」〈信長公記〉
があります。これはいずれ服部の「左京助」「左京進」にくっ付けてみられるのは確実ですが
「安孫子」が「彦進」の「進」で出してきたのが重要です。●が人名索引で抜かれているのが
痛く、援用・確認などに
支障を来たします。入っておれば〈信長公記〉人名索引は
舎弟氏直 → 北条氏照
●舎弟左京助
住阿弥 信長の同朋衆
周永 相撲
春日与一左衛門
ということになりますから、「住阿弥」の解釈にも、桶狭間の「林阿弥」にも響くことにもなります。
「周永」は一見、三国志、呉「周瑜」のような二字大陸風のものなので、
○外国の人もいるか
○「周・永」にも分けて使おうとしているか
○ほかに関連をもたせようとするか
などのことが考えられますが、周永の出方が「相撲」で
「・・・宗永・木村いこ介・周永・・・・」〈信長公記〉
となっており、上の★と関連づけたことがわかります。宗永も周永もここだけ一回限りの登場
です。一応、桶狭間の山口ー木村と服部は関係あり、それは●が介入してくるからといってると
いえそうです。「★木村いこ助」の索引も字が間違っています。これは「相撲」で
「{木村源五内}木村伊小介」〈信長公記〉
という登場もあるので、三字の違いがあるのだから、★は漢字のものと、かなのもの2行に別け
るべきでページ数で2箇所指しておけばよいという問題ではなさそうです。
「ト全」「常陸」が出てきた氏家にも
「氏家左京亮」「氏家左京助」〈信長公記〉 「氏家左京助」〈甫庵信長記〉
があり、これも「又」「木村常陸」が、服部へ飛ぶことを示すものです。
「安孫子」は一応森蘭丸として「安孫」は「忠頼」と特別の解説がありますので、この〈清須
合戦記〉は森乱丸の縁者の著述と考えられますが、信用ができるものです。服部安休という会津
の学者が森乱丸の孫ということでも一応資料の信頼性というものは問題ないことです。
テキストでは「服部小平太」を「服部春安」に宛ててあります。ネット記事「服部(服織)氏の発祥
について」によれば「(服部)安休は初め春庵とて・・・」とされています。
「服部春安」「服部春庵」
は似ています。「服部春安」は人名注では
「・・・のち秀吉に仕え、伊勢松阪城主・・・関白秀次事件に連座して改易・・・」とあった
ので、その時代からみて春安=森蘭丸で、これが自分の先祖だと、安休が言っている感じで
です。つまり「服部小平太」は「小」と「太」があり「金松又四郎(太田和泉守)」とはいえない
「森ランマル(森蘭丸)」
だというのが服部安休の解説ではないかと思われます。膝をやられたというのは
どうなるのかということですが、これは一応そこに至る手段として、金松を出したといえます。
長谷川橋介、山口飛弾守、佐脇藤八が出揃ったのでこれが合っていそうで、そのための頼忠
のあぶり出しともいえるのでしょう。
この著述の内容は〈信長公記〉解説としてふさわしいことが備わっていることと相
まってそういえることです。この著述の内容あらためてみなおして表記抜粋すれば
「・清須城・・・{今川氏親}・・・・斯波治部大輔義達・・・其の子義統・・・・義統治部大輔・・・・
織田彦五郎信友 ・・・・・義統の家人▲梁田弥次右衛門某、名古屋弥五郎・・・・・・・
義統の若君・・堀江・・・・坂井大膳亮・・・森刑部少輔政武・・・・
・・・柘植宗花、同朋善阿弥・・・高家(斯波氏)滅亡・・・若君岩竜丸・・・信長・・・其の弟
・・生捕り・・・名古屋・・●安孫子右京進忠頼・・・太田又助、木村源五郎・・・山田七郎五
天野佐左衛門・・・・八牧平四郎・・■天野佐左衛門・・・森三左衛門・・・武衛治部大輔
義銀{或は右衛門佐}・・・河内城▼服部左京亮・・・武衛、吉良、石橋・・・義銀の弟義永
{或は義冬}・・津川玄番・・・」〈清須合戦記〉
・ などとなっています。▲太田和泉守はじめ▼も載っており清須城の前史で必要なことは皆でて
います。■は森三左衛門とセットで出ており、兼松正吉ではないかと思われます。芭蕉でも佐左
衛門が記憶では大津で出ていたと思います。●が「ランマル」の暗示かも。誰を指すのか問題
です。今川義元は治部大輔ですが斯波武衛家も同じ治部大輔で、斯波家を出た人も治部大
輔になっています。名前の中の部分は肩書きのようなものですが、これは史家の都合という
のが多いのです。「毛利陸奥守元就」〈甫庵信長記〉というような。
★の「木村いこ助」、追加の「木村伊小介@」はここの太田ー又ー木村で、一族というのが出
ますが、まあ、二字の違いは特異な例なので、また桶狭間九人に「森小介」があるので、
@の「伊」は特別の接頭字として、採用されたとみて
として、追加の漢字の「木村伊小介@」」は
「伊 小助」「伊 小介」「い 小助」「い 小介」
の四人とみて話を進めたいと思います。もちろん援用はするのでなく暗示として念頭に入れて
おく類のことです。「木村伊小介@」は{木村源五内}なので、「木村常陸」(又蔵)の子息を表
わすものと考えられます。「小助」は「伴正林」(塙小倫)で、1579、天正7年、18・9という
年齢でした(1560桶狭間頃の生まれ)から、もう一人ここでとりあげる兄弟がおり
「い小助」には「伊小助」という弟
がいたということになりそうです。このとき10才くらいかなと思われます。
(23)宗永・周永
、 「伊」は「周永」の「周」と合して何か働きがみられるのでしょうが重要なことの一つは★は
「宗永」と「周永」に挟まれているということです。この二つは漠然とした名前なので、流石の
ネット検索でも引っかかってこないようです。「伊」は「伊達」の「伊」ですが、「たて」は
「立」「建」「館」
ですが「たて」=「だて」でもあって、「(男)立て」「(隠し)立て」「(戸)建て」の例があり
「立(たて)」は「伊達」
であり、「伊・伊達」
‖
「達」
となり「伊」は「宗達」の「伊年」の「伊」ですから、それがダブって、「宗達」の「達」に懸かる
「宗永」の「宗」が「達」に掛かるというのになっていそうです。「伴正林」を軸に
「大刀」「太刀」〈信長公記〉
も出てきます。これも「達」で、「刀」では「北野藤四郎」ですが〈信長公記〉人名索引では
北方
喜多野下野守
北野藤四郎 → 粟田口吉光
の並びになっており「宗達」の「喜多」が出ています。「北方」は安東大将の本巣であり、山口
が出てきます。粟田口は野々村仁清の属性ですが、「野々村」は宗達の姓でもあります。
「野々村三十郎」はこれと関係のない登場というわけにはいきません。さきほどの
野々村正成=野々村三十郎C=野々村仁清
もありうるかも。「吉光」の「吉」は
「大刀」=「帯刀」「たいとう」は相撲の常連ですが「帯刀先生吉晴」の「吉」でもあります。
「藤四郎」といえばこれだけみれば森蘭丸もありうるので「堀」、「堀尾」「飯尾」も出てきそう
ですがこの「尾」が「屋」に似ています。これは
竹屋源七〈甫庵信長記〉=竹尾源七〈信長公記〉
が炙り出されます、ここから出てくるのが「狩野永徳」と子息の「右京助」です。
〈信長公記〉
「狩野永徳・息右京助、木村次郎左衛門、木村源五、岡部又右衛門・・・竹尾源七・・」
〈甫庵信長記〉
「木村次郎左衛門尉、●同源五、狩野永徳息右京助、岡部又右衛門尉・・竹屋源七・・」
があります、「木村いこ助」からここへ飛んできてもいいわけですが、「竹屋」から
「竹野屋左近」〈信長公記〉(索引では「竹中彦八郎」に続く)
が出てきますから回り道したほうがよいといえます。ここで
宗永
周永
の「永」は狩野永徳の「永」ではないかというのが出てきます。おまけに●の表現が微妙な
ものになります。
安土城天主御普請奉行「木村次郎左衛門」−「永徳(源五)」−「永徳子右京」
となりますから「永徳」は木村奉行の五人目の子や、ということになりかねません。つまり
「木村又介(海老勝正)」の連れ合いとなると、「五」番目で、「源」でも付けとこか、というもの
だったら大きいことを述べてることになります。索引で「周永」は先ほど既述ですが「宗永」は
宗永
宗易
となっています。利休・接近だから、やはり
永徳(宗永)
木村いこ助ーーー‖ 木村イコ介(周永)
利久(宗易)
り というのは、ありそうです。ここで役者が揃いましたので脱線しますが、「宗達」の「伊年」の「年」
は「松」であり、「伊年」というのは「伊松」「これ松」「惟松」でもあります。武田の
「横田備中」〈信長公記〉
が高天神城の戦いで戦死しましたが、人名注では
「横田綱松(つなとし) 備中守高松(たかとし)(天文15年に戦死)の養子。忠重。」
となっています。ここで「松」=「年」でみてもよいというのは、●の文のすぐあとに「因幡」の
「高山右近」が出てきて、「立ち別れ因幡の・・・まつとし聞かば・・」という在原行平の歌の
因幡を想起したというのがあります。この「とし」は年齢の年にも懸かるはずです。もう一つ
ネット記事でも確認できますがこのとき脱出した人物
「横田甚五郎伊松」「横田伊松」
の物語があります。これは、ずばり「宗達」の「伊年」を「是松」「惟松」にもっていったものです。
「備中守」は「塙直政=原田備中守」で大田和泉守を指します。人名索引では、この前との
連携が問題です。
与一郎
横江孫八
横井雅楽助(「横江」を「横井」に改めた。)
与語久兵衛
横田
横田備中(横田綱松)
与左衛門
という並びになっています。与語は余呉・余語もあり、これは佐々の出身地で「佐々」と同語
とみてよく一見、大田和泉守登場ではないかと思われる仮名表記です。人名注では
「与語勝久 ・・・・先祖長興が近江余語荘・・・に住し、子宗長の時から家号にした・・・
・・ ・・・勝久の子伊成は三河加茂郡高橋の地を与えられた。
信長の一周忌に画像を描かせて高橋の長興寺(挙母市)に寄進した久三郎正勝は
勝久の兄に当たる。」
となっています。これは〈寛永諸家系図伝〉〈寛政重修諸家譜〉によったもので、幕府が諸藩
に元資料を出させて出来ている文献でしょう。系図では
久三郎正勝(長興寺に信長画像を寄進)
・・・長興ー宗長・・・・|
与語勝久(与語久兵衛)ー伊成
となるのでしょうが、兄弟が出てきたというのが一つのポイントです。兄弟を持ってこなくても
出来上がる話だから。「長興」というのは「長興寺」と結ぼうとしているのはわかりますが、
領主とか寺の創建者か、宗長が建てない限りちょっと無理です。「天沢(信長公記)」という
名前があって、天沢の痕跡がなさそうなところに「天沢寺」があるのと似てるかもしれません。
「宗長」
は先ほど出てきました。「伊小介」と出てきた「宗永」で、「宗永」でネットで検索したら、
「宗長」ではありませんか
というのが出まして、よほどピントはずれの検索をしたようです。これではいかん、と改めて
「宗長」でやってみますとやはり待ってたものが出てきました。「宗永」「周永」から「永」を
媒体にして
「宗周」
が出てきます。これで検索しますと、二つ重要なことが出ています。
@「周公旦」という記事があって「周」の都が「宗周」と呼ばれてでいたことがわかりま
す。周公旦は武王の弟で「曲阜」(山東省南部)に魯国を建国しました。「呂望」(太公望)
(呂尚ともいう)が〈甫庵信長記〉にあるのに索引では省かれています。これも山東省
関連です。「曲」という字が地名などでよく出てきますが、大田牛一は「周公」の「曲阜」
を意識していそうです。ここで兄弟がでました。いうならば、
宗=しゅう=周
なので「宗永」「周永」は「しゅう永」「シュウ永」としたかったと思います。
A記事、「年譜的解説 2KNSS 008」によれば
「狩野宗周 SEE 狩野宗秀・・・兄狩野永徳(1596)安土城壁画制作の助手
をしたか、」があり
あと「父は狩野松栄」「兄は狩野永徳」「織田信長像(愛知県長興寺)を描く」
「法眼」「元秀印」「甥元信」「子息甚乃丞」
があります。表記が「宗周」「宗秀」二つに分かれて一つは「宗周」だというのがこの
記事の特別親切なところで太田牛一の表記に適うわけです。
要は二人は事績は重なっていますが別けられる、弟がすんなりしたものと、そうでないものが
あります。
松栄ーーー 狩野 永徳
| ‖宗周A(今井宗久A)=えびな勝正
宗秀 千利久
となりますが、「長興寺」の物語からいえば
○長興寺信長公の像は「大田和泉守」の像で、書き手は「狩野宗周A」=森えびな
である。
○もう一つ太田和泉守に織田信長を描いたものがある。「狩野宗周@」=宗永の作品
と考えられる、
といっていそうです。基本的に、大田和泉守に自画像がないのは、〈信長記〉の完度の高さに
とって画竜点晴を欠くことになります。
○永徳が「法眼」とされているのは、海老名の存在が後ろにあるからと考えられる。
「宗達」に「対青軒」などの「竜雲」の存在があるのと同じ。つまり、えびなは一流の
書き手とみてよい
○〈信長公記〉索引 宗永
宗易
となっている「宗易」は
「千の宗易利休居士」〈甫庵信長記〉の本文
であり、これは直感的に二人、理屈では「千」が両方に懸り
「千の宗易」「千の利休居士」
となるのでしょうが、これが〈甫庵信長記〉索引では手抜きがあり
千宗易利休
宗易
となって「居士」が抜けている、
「毛利陸奥守大江朝臣元就」〈甫庵信長記〉の索引
もありこれは本文相当のものがちゃんと書かれており、でこれと比較しても手抜き
となっている。「居士」を抜いて注意喚起されている。「宗易」は一応今で言う連れ
合いが含まれたもの、千宗易利休、はいまでいう父の利休も含む二人と取れる。
○発注者「与語久兵衛勝久」は太田和泉守、もう一人は勝久A木村常陸介と取れる。
勝久Aを導入すると
(兄)久三郎正勝(寄進者)
太田和泉守ーーー |
勝久Aー(子息)伊成(高橋領主)
ということになり、久三郎正勝は「堀久太郎」ということになって筋が通ってくる。
というようなことになります。
要はいいたいことは織田信長の肖像画などたくさんあってわけがわからない、頼りない話だという
ことで終わっているわけです。文献の解説が続けられてきた、その一環として捉えられるべき
ものです。、織田信長は二人であり織田信長に乗っている存在があるかもしれないわけです。
「永徳」「宗秀@」「利久」が〈信長記〉の趣旨を理解し一臂の力を添えたことは十分考えられ
ますが、現在の信長公のことは誰もみている、覇権の基礎を築いた昔の信長をしる人はその
子息や太田和泉守がわかるのかもしれません。信長公を動かしたのは太田和泉守もあります
が、家康公こそ
大きく揺さぶっています。とにかく肖像画で記録類を知りたいのにさっぱり出てこない、文字が
画面にあるのに知り得ない、とか今もって非公開もありそうで、これに踏み込むことは困難です。
とにかく一番よく知られた画像は、「太田和泉守」のものという感じです。信長のものが投影され
ているかもしれませんが。
織田信長については太田和泉守が手法を駆使して表現したので信長については全責任
を背負っている、微妙な表現が要求されますので、必ず自身で一つは書いている、つまり手を抜いていないとい いていないのではないかと思われます。
相撲で
「・・力円・草山・平蔵・宗永・木村いこ助・周永・・」〈信長公記〉
が出てきましたが、木村を除いて、これ一回限りの登場です。
「力円」は力丸だから、坊丸をえびなとすると「木村又蔵」(後藤又兵衛もある)になります。
「草山」は三草越えで杉谷善住坊が出てくるから「えびな」(蒲生の布施藤九郎の{木村」もある)
が出てきます。この調子でいって
「宗永」は「永徳」と「利久」、「木村いこ助」は「太田和泉守」、「周永」は「狩野えびな」と
と「狩野宗秀」」となるといえそうだということで進めてきました。
、「平蔵」は「長谷川平蔵」が〈甫庵太閤記〉がありますからこれは「高山右近」(森蘭丸もある)
でしょうが、絵の高山は信長の肖像画でどうでるかというのもあります。
織田信長の肖像画は、人名索引の「与一郎 → 細川忠興」から始まって
「横江(八)」「横井」「与語(長興寺)」「横田」「横田(高松)(忠重)」「与左衛門」
と来たなかの、与語の「長興」から出てきました。
○「与」が通しで働いており、「与語」の「与」はそのための当て字。「森」がだされた。
○最後の「与左衛門」は「春一」であり、「一」で始まり、「一」で締めている。同様に
「一」−「忠」ー「八」ー「忠」ー「一」の流れがある。
○この流れの中の「長興(寺)」は「八」の色合いを示している、
○「与左衛門」は、本文は「又二郎・与左衛門」〈信長公記〉で登場し、又二郎は又の
二番目(えびな)でよく、描く相手も太田和泉守で問題ない。
(24)蒲生郷舎(蒲生と木村)
横江→横川→横山という線でも「横山」が出てきます。「横山」は名前はないが地名で数え
難いほど出てきます。
「・・・小林端周軒・・・遠藤喜右衛門・・竹中久作・・・・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛
・堀江左馬助・早崎吉兵衛、・・・大谷・・・高山・・横山・・・横山・・・横山・・」〈信長公記〉
先ほどの人名索引では、「与語久兵衛」は「横井」「横田」に鋏まれていましたが、地名索引
では明智十兵衛が出てくる「与語の入海」の次に「横山」があります。つまり始めから「横山」
を使って繋いでいこう、語っていこうとしていたといえます。〈両書〉で、横山という人名がない
のは、一つの外し、で重要なので作らなかった、また地名は人名と同じ重さがあるということ
をいったと思われます。「横山ですぐ思い浮かぶのは前田利家の臣
「横山山城守長知」〈常山奇談〉
で「小瀬甫菴(以下「アン」とする)」と親しく、甫アンは「心やすく常にきて毎夜伽しけり。」
という関係の人です。注目すべきは「甫アン」という表記は題字と細字にあり普通のところ
にはありません。あの「甫庵」ともいいきれません。「長知」は「大膳」と云い、一万五千石を有し
、上意で太田但馬守を討ち果たし、その一万五千石を併せて三万石を領したという「大功
の人」です。栗山大膳、塚本小大膳(両書)と同じく「大膳」ですから強いはずで、まあ太田
但馬守も「小大膳」というべき人でしょう。つまり「八」の人として描かれています。「横」という
のがその補助となっていそうで「木+黄」と分解しておくのもよいかもしれません。
蒲生家の大将、蒲生郷舎(郷安などもある)の前身が
「横山喜内」
とされていて、これはよく知られた人物です。「横」に、先ほどの「遠藤」の「喜」がプラスされて
いるから、さもありなん、といったところです。蒲生氏郷は功臣に蒲生姓をつけるのを好んだと
いうことで結果もそうなっています。ややこしいことをやられて迷惑しているのが後世の人と
いえるのでしょうが皆面白がっていて、こういう英雄が登場してきます。まあ正直に、出自で蒲生の
功臣の名前を述べれば、その戦国最強の軍団の構成がバレテしまいます。桶狭間山口飛弾守、
村木砦攻略激闘の水野が出てきます。蒲生の中に、木村、水野が入っていて、氏郷は六角
佐々木の重臣ともいえる大名であり、先祖から引き継いだ子飼いの軍隊をもっておりこれが中核と
となっていて、新しい、戦場往来の大将で両翼を固めたというものになっている、鎌倉いらい、と
新興大名にないものがあるのが蒲生家でしょう。氏郷は関白の奥州征討戦で伊達正宗を告発
したというほどで、戦では真っ先にいるのがいつも氏郷といわれている、率先垂範という
人物ですから、模範をもっており軍規が厳しかったのではないかという感じがします.。
氏郷は九州名護屋まで病躯をおして出張ったようですが、叶わず加藤小西の先陣になりま
した。二人になるのはまずく、氏郷でないといけなかったところでしょう。秀次政権下だ
から、万一氏郷の健康不安があっても、政権の軍事都督は木村常陸介だから、問題ないはずです。
小西行長と加藤清正は同族だから問題ないとは思いますが、加藤では一の大将、木村又蔵
加藤退散伝説があり、これが引っかかってきます。要所でキーとなる予想外の人物が用意され
て説明に使われる、加藤のことは、木村又蔵が語るのでしょう。蒲生に横山一党ありというのが
「横山喜内」ですが、ウイキペデイアでは喜内改め蒲生郷舎は図示すれば
「坂氏」の「蒲生郷成」ーーー「蒲生郷喜」
|
「蒲生郷舎」
となっていて兄弟として二人をまとめられています。「坂」氏というのは、一応
「坂井(右近)(大膳)(喜左衛門)(七郎左衛門)(与左衛門)」
「小坂井(久蔵)」 以上〈信長公記〉
などがあり、坂井のことを指すとも考えられます。幸い
「坂小板」{・・・別して御感状有。後号●蒲生源左衛門尉。」〈甫庵太閤記〉
がありますから、まあこれは「坂小坂」でしょうから、「坂井」にも「小坂井」にも一歩近づくことに
なりそうです。もしそうであれば坂井も小坂井も「蒲生」関係なしとはいえないのでしょう。
テキスト人名索引では
「坂 坂氏は伊勢の豪族。 172頁」〈信長公記〉
があり、その続きで、上の「坂井」が並んでいますから、それだけでも、「坂」は「坂井」とみても
よいようですが、172頁を何回みても「坂」は見当たらず、よくよくみると
「・・鳥屋野尾・大東・小作・田丸・坂奈井、是等を武者大将として・・・綺羅星雲霞のごとく」
〈信長公記〉
の「坂奈井」だったわけです。これはどうみても全体が姓で「坂内」とかいう伊勢の豪族を信長
公が召し連れというようなことになります。これはおそらく
「坂名井」
としたいと思われます。つまり「坂」を強調して、「坂」=「坂井」を出したいというのでしょう。
、「坂」という「名」 というので一つです。坂を強調するもので、まあいえば、坂井の坂を太字に
した坂井を表記に加えるいうことになるのでしょう。
「坂名 井」
↓ ↓
坂 井
です。例えば、「星名」でみると〈信長公記〉索引では
牧庵
保科正直
(本文では「星名弾正」)
星野
星野左衛門
細江左馬助
「星名」は後会津藩主の「保科正之」(服部安休が仕えた)の「保科」と「星」とに分岐し、重い
意味を「星」に持たせたといえそうでもあります。「星野左衛門」は森蘭丸かと思いましたが
前に「牧」があり、「真木」もありうるのでしょう。俵星玄蕃、加藤清正家の赤星太郎兵衛に
「星名」というものが利かされてくるともいえそうです。「俵」は「俵屋宗達」があり、玄蕃は
穴山玄蕃からいえば金松又四郎も出てきます。「俵」は「田原藤太」もあり、蒲生も出てきます。
「赤星」の「太郎」は如何。
宮本武蔵正名は「正」「政」を打ち出したものかもしれません。ここで
「牧庵」というのは「ぼくあん」
と読まねばここの索引には出てきません。読み方で二つの役目を果たしているといえます。
〈甫庵信長記〉索引では
北条氏政
北条
木全六郎三郎
星名
星野左衛門尉
細江左馬助
となっています。これだと「木全」を「きまた」→木俣→木又と読んできた今までのものが崩れ
てしまいます。勝手に入れ替えては困るということになりますが、本文ではちゃんと「木全」
に「ぼくぜん」というルビが入っているからしょうがないわけです。〈両書〉でルビを変えている
のでこうなります。二つを連携させて読んでほしいというサインの一つです。
蒲生氏郷
という戦国期で異彩を放つ名前は、ちょっと腑に落ちないところがあります。「氏」「郷」という
名前がどこからきたか、ということです。名は体を現すというのは実社会ではほとんど意味を持
たず表記の世界のことですが、これは死後人が勝手に名前をつけたりするので、体を表して
しまいます。テキストでは蒲生氏郷(1556〜95)は
「天正18年頃までは賦秀と称した。賢秀の子。織田信長の女婿。蒲生忠三郎。」
となっており両書は本能寺天正10年で終わっていますから、そのころは氏郷ではなく、氏郷は
本人がつけたとしても、大器氏郷の成ったころともいえそうです。「氏郷」は多くの配慮がされ
た名前です。〈両書〉に「氏家」があり
「氏家源六」「氏家左京助」「氏家常陸介」「氏家ト全」〈甫庵信長記〉
「氏家源六」「氏家左京亮(助)」「氏家ト全」〈信長公記〉
などがあります。初めの「源六」は●の坂小板{蒲生源左衛門」の「源」で「木村源五」などの
「源」で一応「左京助」に対応する「源」、「八板」の「八」をみた「源左衛門」と思われます。
「教育社新書」の訳本では●を「郷成」とされています。これは「郷舎」の「父」とされている
人で「成」は佐々成政の「成」=(せい)「政」「正」とみて太田和泉守(このときは秀吉陣営に
いる)の方へ持っていったとみることができそうです。
家臣団の蒲生の代表が
「郷舎(さといえ)」(「郷喜」を含む)
といえそうです。というのは「郷舎」の「舎」は舎弟の「舎」、「いえ」ですから「氏家」の「家」を
みているととれます。つまり氏郷の「氏」の意味がわからないので「氏家」と繋ぐと
木全(ぼくぜん)→ト全→木全(きまた)→「木又」→「常陸介」→「木村」
という関連が出てきます。
氏 ー「郷」
| |
家 =(舎)
で、「氏郷」の「氏」という表記は、大きな意味をもっています。〈信長公記〉索引では
氏家ト全(考証では「氏家直元」)
氏直 → 北条氏直
となっており、これは北条、大石源三氏直にも繋がりそうです。つまり「舎」というのが「舎兄」
「舎弟」の「舎」もあります。字引では「舎兄」「舎弟」というのは夫々「家兄」「家弟」となって
なっています。ここの氏家左京助は桶狭間の「服部」「左京助」と関わりますが「狩野永徳」の
「左京助」も同じです。
「蒲生郷舎」の「郷」はどこからきたか、ということになると「蒲生氏郷」の「郷」を取ったという
と返す言葉はなく、それで終わってしまいますが、蒲生郷成のことも考慮にいれると一概にそれは
言えないと思います。蒲生氏郷が「郷」を使ったのは俵藤太秀郷の「郷」をつかったというと
これも反論の余地がないといえそうです。「賦秀」から「氏郷」ということは「秀郷」が織り込まれて
いるので頷けることですが、「賦秀」というのが同時代の「秀」を見ていて、「秀」を配賦するというの
うがあるのではないか、とも思われます。また「郷」というのは両書では地名でもないが重要
な場を与えられています。
越中太田保本郷 大田郷 赤塚郷 磯郷 市原の郷 倉橋郷 佐野の郷・・・
などあって、これが「氏郷」を構成しています。「常陸の・・・太田郷の西山」〈常山奇談〉は
水戸光圀の山荘ですが太田和泉守関連というのもあり、蒲生氏郷関連とみるのもよいのでしょう。
会津の神公、水戸の義公、備藩の芳烈公を三公といい、水戸光圀ー蒲生氏郷ー会津ー
保科正之も出てきます。〈常山奇談〉索引では「星名弾正」はなく
北条綱成
保科弾正
保科正之
と続けています。
徳川秀忠ー保科正之ー会津ー蒲生忠三郎・賦秀・氏郷ー大田郷西ー西郷ー徳川秀忠
、 といけそうなのも「郷」の働きでしょう。氏郷と秀忠は近い親類といえそうです。幕末で有名な
西郷はあの西郷だけとは限りません。会津の西郷家の悲劇の語りも有名です。
常山の「常陸の・・・」というのは水戸は常陸だから必然
的に載せられると思ってしまいますが〈信長公記〉地名索引では「常陸」は
飛弾川
常陸国
飛弾(肥田)の城 江州ーー
となっており、蒲生・山口の「飛弾」に挟まれています。江州にも
「飛弾」〈信長公記〉 (「柏原」と「守山」の間)
があり、脚注では
「肥田の城。彦根市稲枝(いなえ)町に肥田氏の城址がある。ここが蜂屋頼隆の
居城になる。」
と書かれています。「蜂屋兵庫頭」は人名注では「のち・・・越前敦賀城主」です。ここの「稲枝」
は稲江、稲川にも広がるものですが、「稲葉」に直結する「稲」で
「稲葉右京助」「稲葉又右衛門」「稲葉勘右衛門」「稲葉父子三人」〈信長公記〉
など多様なものをもつのが稲ですが
「稲田九蔵」〈両書〉
がありこれが要所で出てきます。まあ氏家があるから氏郷の氏も関係があるかもしれない
と見てきましたが、実際は逆で氏郷を核にして氏家におよぶというほどのものが蒲生氏郷に
用意されています。いまは見当たらないようですが以前のネット記事には大石田の西光寺
に参拝した記録があるというのがあったと思いますがこういうのがどうしてもここで欲しいところ
です。何しろ俵藤太秀郷の後裔ですが、こういうことも大田和泉守が乗ることに
よって有名になってきます。〈常山奇談〉の索引は森銑三によって手抜きになっていますが
西尾右兵衛(「讃州源(さんしうげん)英公の家士」「寺澤」登場の一節)
西郷伊豫
仁科信盛
というのもあり、保科の科が「郷」と絡んでいます。木村が蒲生を構成するというのは
蒲生氏郷ー郷舎ー氏家(舎)常陸
などでわかりますが〈信長公記〉人名索引が途中になっています。再掲
木全(きまた)六郎三郎(木俣氏)
木村いこ助(「木村伊古介」は索引になし)
●木村重章(本文「木村源五」)
木村次郎左衛門
があり●の人物の表記ががちょっと特異です。「重」は「重政」の「重」として、「章」は「明」が
宛てられる程度のことと思われます。人名注では
「木村氏は近江佐々木氏の一族。桜川(滋賀県蒲生郡蒲生町桜川)の住人。」
となっています。佐々木の木村氏がいたというのは確実でしょうが、桜川となると木村又蔵
の木村と蒲生との姻戚が語られているようです。「桜川」は利用されて全国的に挿話が残って
いますが一応、謡曲で常陸国桜川が出ているのが引っ掛けられた感じです。類書では
「木全(きまた)又蔵」があり、全体「又蔵」色でここは見られていると思いますが、ここの
「源五」と次の「木村次郎左衛門」は
「木村次郎左衛門尉、同源五、狩野永徳息右京助、岡部又右衛門・・」〈甫庵信長記〉
があり「永徳」を出してきます。したがって「絵」ということで、●の「章」というのは
「立」+「早」 → 「早」+「立」
で「宗達」が出てきます。「狩野」永徳から「早」が出てくるのは一応予想されています。
一部再掲
「・・・小林端周軒・魚住竜文寺・・・・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・
早崎吉兵衛・・・大谷・・・大谷・・高山・・横山・・・横山・・・水野下野守・・」〈信長公記〉
の「早崎」があり、実はよくわからない人物です。これを「そうき」とでも読むならば〈信長公記〉の
人名索引(下)の三番目にはいるということになります。
宗永
宗易 → 千宗易
■早崎吉兵衛
相州氏政の舎弟大石源蔵氏直→北条氏照
宗陽 紅屋
これで「早」は「宗立」の「宗」ではないかというヒントが得られたので先ほど書きました。ここで
また宗陽という引き当ての難しい人物が出てきました。今までも考察はして既述ですが、今で
ないと、引き当てがし難い、また説明も十分できないということです。つまり大石源蔵の影響を
受ける宗陽ということです。出方は信長公が大船をみたあと、
「それより今井宗久所へ御成。過分忝き次第。後代の面目なり。御茶まいり、御帰りに
宗陽・宗及・道叱三人の私宅へ忝くも御立寄なされ、住吉社家に至って御帰宅。」
〈信長公記〉
とある宗陽です。大石源蔵と並び、陰陽の陽で「太陽寺左平次」〈甫庵信長記〉と同じでしょう。
「紅屋」は感じが違いますが、本人の属性が「くれなゐ」と特記された人物がいます。
「金松又四郎武者一騎山中・・・生足(スアシ)・・・・足はくれなゐに染みて参り候。」
〈信長公記〉
があり信長公から「足半(あしなか)を貰った金松がいます。大田和泉守の連れ合いの方の
舎兄です。宗及は宗及@で津田七兵衛信澄でしょうが、「道叱」がまた問題です。これは
「道室」の変形で「叱」の右側の部分は化荻の化がありました。天王寺屋竜雲のところに
風神雷神図があり、竜雲を金松とみてきました。天王寺屋竜雲も二人で@が武井夕庵の舎兄
でこれが「道叱」、Aが大田和泉守の舎兄、金松正吉、「宗陽」ではないかと思われます。
「兼松正吉」は実際絵の制作もやるので、足を絵の具で汚した、二人の共同制作の傑作が
あの絵ではないかと思われます。「俵屋宗達」の「対青軒」という「対」もその意味ではないか
と思われます。「軒=兼」でしょう。みな茶人でもあり、「今井宗久」(ここは森えびな)も同様です。
天王寺屋竜雲@Aが上の小林端周軒、魚住竜文寺という一匹狼の表記に宛てられそうです。
俵屋宗達の「伊年」は、「伊松」、「伊念(然)」、「(俵)の稲」で、
自念(然)(ジネン)〈信長公記〉=俵屋宗達A=狩野内膳?
と一応宛ててみると
「荒木久左衛門のむすこ」「自念(ジネン)」(信長公記)
となっているので
荒木久左衛門ーーー金松又四郎A(子)=自念(ジネン)(天正7年「十四」才)
‖
兼松又四郎
となると荒木久左衛門は太田和泉守ではないとしても、子息はと無関係とはいえません。
太田和泉守が「荒木久左衛門」の子息の義理の親ということも考えられるます。
とにかく〈信長公記〉の人名索引で
金松久左衛門
兼松正吉(本文は「金松又四郎」「金松」)ー「尾張葉栗郡嶋(島)村に住した」
という並びとなっており、近い関係だけは浮きぼりにされていますまた
金松=久左衛門=荒木、ともなっているから、金松と大田和泉守の関係だけは一つ表されて
いますが、荒木久左衛門の捉え方が問題ですがもう一つの関係も出されていそうです。
この正吉の「吉」は
早崎吉兵衛の「吉」に通じているともいえます。「早」も唐突でなぜ出してきたか、ということも
気になります。文中では丹羽に「与(くみ)」した
「林志の島」〈甫庵信長記〉
という人物がいて人名索引にも出ています。これがどういう意味のかというのは解説はされて
いるとは思いますがいま接していないか、気がつかず見逃しているものでしょうが、思うに
「林(はや)志(し)」というルビがつけられるといっていそうです。つまり
「林」=はや=「早」
で「早崎吉兵衛」は「林崎吉兵衛」といえる、というのがあると思います。「早崎吉兵衛」の
索引での位置は
祝弥三郎
早崎吉兵衛
林 11件 林源太郎 林佐渡守 林新五郎 林美作 など
林志の島
隼人佐
「林志」はそれ自体としては「りんし」と読むのが合ってそうで、それでも見なくてはならず
念のためやっておきますと 「り行」
〈甫庵信長記〉の索引 〈信長公記〉の索引
竜雲院 力円
竜文寺 りんがく長老→大竜寺麟岳
良琢 隆宝→武田信親
林阿弥
輪阿弥
麟角和尚
となっており、甫庵の上二つは、天王寺屋竜雲が二つに分かれている感じです。「良琢」は
「岸良沢」〈信長公記〉
という孤立表記を「右近」「丹羽」との間で出てくるので
「武井夕庵」「夕庵」〈甫庵信長記〉 (〈信長公記〉では「武井夕庵」の表記はない)
と解釈してきましたので、この「良琢」は「良沢A」となるのかもしれません。〈信長公記〉の
「夕庵」はひょっとして「夕庵A=セキアン」かも。出方は〈信長公記〉
「長安・長雲・友閑・夕庵」「夕庵、山うば・・・・此外坊主衆長安・長雲・友閑御先に・・」
となっていて、前の「長雲」は脚注では「坊主。」となっており、後ろは「坊主衆」となっており
「夕庵」も例外ではないので「夕庵A」がでてきているといえます。「坊丸」の「坊」でもあり、
二番目の「森坊」(力円の前)の坊で、「森えびな」を指していそうです。
良琢=麟角和尚=りんがく長老
かもしれません。先ほど 林=「はや」と読むべきではないかといっていますが湯浅常山が
それを示唆しています。これは、また利用されて発展していきます。
タイトル
「林(はや)田(しだ)左(さ )文(もん)剣術妙手の事併▲馬(まづ)爪(め )源五
右衛門先見の事」
の一節です。要所だけピックアップします。要するにルビを間詰めする例示です。実際
のものをみているとなかなか気がつきません。
本文
「・・・林(はや)田(しだ)左(さ )文(もん)・・・足軽六人・・・・左文(さ 文)・・・・・
・・・・林(はや)田(しだ)・・・林(はや)田(しだ)・・・・・・林(はや)田(しだ)・・・・・
・・・・・ ▼馬(ま )爪(づめ)源五右衛門・・・●林田・・・・林(はや)田(しだ)・・
▼馬(ま )爪(づめ)・・・・・」〈常山奇談〉 。
要は●はどうルビを付す?という問いかけであり、▲は、前詰めしているが、▼と▼は本文中の
ルビのつけ方に適っているといっています。林は「はや」とルビをつけるような読み方に必ず
出くわすという警告をしたものです。筆者はこの「林田左文(門)」は知らないので、どうしてこう
いう人物を出してきたかということで、念のためネット検索してみますと小説などでよく利用され
有名のようです。記事「名家至妙鈔」によれば、この、林田左文が人を殺して出奔した足軽
6人を斬る、というこの常山の一節は〈明良洪範〉という書物にあるようです。6人の足軽というのは
筆者はこの〈甫庵信長記〉の「り行」の六人を指すのではないかと思いますが、それは「文」と
いう字の働き「左文ー竜文」が根拠ですが、一字ではなんともいえないといわれるだろうから
それを覆すものを用意したというのではないかと思います。
「井原の樋爪(ひ づめ)」〈甫庵信長記〉(人名索引には抜けている)
が中心で、これが出てくるのは「陶五郎隆房」の主役となっている一節です。ネット記事〈武家家伝
伝陶氏〉によれば(厳島の戦いの)陶氏の菩提寺は「竜文寺」です。
この「爪」が▲▼の「爪」に通じています。「詰め」にも懸かるし、「爪音高き」の「つま」でもあり
瓜二つの瓜にも似ています。一方常山は幕末の人ですから「井原」と聞けば「西鶴」です。西鶴
以降は、一般の人もそうなります。大田和泉守は井原西鶴は知らない、現在の「井原市」の積もり
で書いたものです。
井原西鶴→近松門左衛門→紀伊国屋文左衛門
| ↓ ↓
金松左門 左文
井原ー陶ー竜文寺
|
府中竜門寺ーー石田の西光寺ーー下間(しもつま)和泉
となりますが、もちろん
「近松田面(たのも)」(脚注「頼母」であろう) 「近松豊前」 〈信長公記〉
「近松豊後守」〈甫庵信長記〉
があるので、江戸期の井原西鶴を出さなくても
「■平(イノ)美作・近松田面」 「近松豊前・・・・・・金松久左衛門」〈信長公記〉
があるので「井原」の「井」と「近松」、「近松」と「金松」は接近して見れるようになっていそうです。
■は「平井ノ美作」(「平井」は「平井久右衛門」がある)ではないかと思われます。要はルビを
通しで読む場合もありそうです。
「御鷹(たか)居(すゑ)」があって「居(す )ゑ」
もあり、両方とも「居すゑ」と読んでしまうのも間違いともいえないと思います。ここの「林田」も
「はやしだ」
と読ませたい、それならば「林(はや)」「しだ」、と「田」はルビを読むのが正解ですが、それは
おかしいので書き方の正解は「林(はや)し田」となるのでしょう。「近松豊後守」は索引は
近松豊後守
竹阿弥
となっており、「竹阿弥」は「武阿弥」でもあり、「林美作」も加わり、「り行」の
林阿弥
輪阿弥
に及んできます。やはりこれは天王寺屋竜雲@Aとしてもよさそうです。林阿弥は桶狭間の
義元の同胞ですが、これは服部にからむ林阿弥Aともいえます。
武井夕庵(丸毛兵庫頭)
‖良琢(輪阿弥)
蜂屋兵庫頭
ということになりそうです。林田左門は常山の読みからいえば早田左門ですが早崎吉兵衛
が創られています。ここまでくれば記憶にある、居合の
「林崎甚助」
が出てきます。ウイキペデイアでは「はやしざき」という読みとなっていましたのでちょっと残念
、どうですか言った通りでしょう、という積りがいえなくなりました。とにかく〈両書〉にはルビがない
のでまだ望みはあります。林崎甚助の属性は
ウイキペデイアによれば「塚原ト伝の弟子」「門弟に田宮重正・・」「加藤清正」に関係と
というのがあります。「田宮」は安東大将の旗下に「田宮」〈信長公記〉がいました。記事
「林崎居合神社」「居合神社(村山市)」によれば
「林崎甚助源重信」「山形県村山市大字林崎」
が出ており、「重」「正」「信」「清正」「ト伝」などは大田和泉守関連です。「村山」は
大石田の西光寺
の所在が「山形県北村山郡大石田」ということで湯浅常山は「石田」「森」と繋いで「村山」と
いう人物を配置しています。徳島県鳴門市撫養町の「林崎」は「はやさき」があります。
〈常山奇談〉人名索引で林田左文は
林半介(これは「石田の家士)
林田左文
孕石備前
「石」に挟まれているのはありますが「孕石」は「朶石(えだいは)」に変形していた字です。
これはまた「しだ」とも読めるはずで「林(はや)田(しだ)」というのは見ようによってはなんとでも
なるというものではなく初めから予定されていたということができます。
石田と蒲生の関係は、関が原で濃密ですが、それ以前から相互に相手を語るというのがあり
大石田の西光寺もその一つです。「さいこう」というのは「さいごう」でもありますから、近松
田面(たのも)」の「頼母」を使って説明した人も出てきたといえます。
(25)水野ー蒲生
木村・山口と、蒲生の関係はわかりましたが「水野」が介在している、つまり蒲生郷舎は水野
の人だというのも、確認しておくのも名前の違いの克服ということで重要なことです。水野は今川
の村木砦攻略戦で、その武勇が特別に語られています。蒲生氏郷九州陣で
坂小板=蒲生源左衛門〈甫庵太閤記〉
というものが用意されていました。よく見るとこれは、うしろの字は「板」(いた)=(ばん)ですから
「坂小判」「「坂小塙」となって「伴正林」「判(塙)弾(弾)右衛門」が出てきます。
「水野帯刀・山口ゑびの丞・・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門、」〈信長公記〉
があって(このあとは「佐久間右衛門・●舎弟左京助」も続く)
、水野ー山口ー(真)木村ー判=蒲生源左衛門
となります。一方確実に読み間違いするのは「坂小坂」でこれは「坂小」=「小坂」をいっていそう
です。村木砦の戦いー美濃安東大将、軍を出し那古屋の留守を守った戦いー〈信長公記〉
「・・・小河の水野金吾・・村木と云ふ所・・小河・・・小川・・・小川・・・村木の城・・・水野金吾
・・・・水野金吾・・・・村木攻め・・・」
となっていて、水野ー村木ー木村ー小川ー小河、が出ています。小川・小河は「小江」ですから
地名索引では
「小河」「小川」「小川表」「小川村」「小木江村」
となっており「小川」+「木村」の「小木江村」が出来ています。これは「河内小木江の郷」あり、
場所は同じですが、索引の場所が変わってきます
「河内二の江の坊主」の桶狭間登場の「服部左京助」
を呼び出します。先ほどの●から「伴」−「真木村」ー「山口」ー「水野」へ遡ります。「服部」は
テキスト人名注で
「服部春安」(文中では「服部小平太」)は、「伊勢松阪城主」
となっていました。これははっきりいって蒲生飛弾守氏郷の属性であって服部小平太・毛利
新介は山口飛弾守@Aと考えられるところから、服部安休に話を締めくくってもらいました。
山口ー木村ー蒲生の関係は出されていますが、「水野」に繋げるのに、この
服部は生かされて本能寺では
「服部小藤太・小沢六郎三郎(「木全六郎三郎」連想)・服部六兵衛・水野九蔵・
山口半四郎・塙伝三郎・・・」〈信長公記〉
「服部六兵衛・水野九蔵、先年、安東伊賀守・・伊賀守内に松野平介・・」〈信長公記〉
があり、「水野九(久)蔵」が「木全」「服部」「山口」「伴」をつないでいます。「安東伊賀守」も
村木の城攻防戦に出ていました。水野の「久(九)蔵」でいえば
「小坂井久蔵」ー「水野久蔵」−「蒲生源左衛門」
もあります。「小坂井」は「小」は接頭字でもあり、常山では「水野庄次郎」と「蒲生備中」の
接近がありますが、源左衛門は「坂小坂(板)」だから「小坂久蔵」→水野となりえます。この
「水野庄次郎{★後号浅香左馬介}〈常山奇談〉
は美濃の庄屋の次郎ということで何となく太田和泉守の登場と思いますが、果たして名前を
★変えたというわけです。索引が充実しておれば「浅香」を当たればなにか出てくるでしょう
が、まあ森銑三は抜いているだろう思いながら見ますと、一件だけ
浅香庄次郎 中(卷)六七(頁)
がありました。一件だけだったら★の分でしょうから、なんだこら、といいたいところですが
永井荷風も褒めてるから付き合うと別のが出てきました。「浅香庄次郎働きの事」で
「浅香庄次郎{後左馬介}・・・奥州葛西大崎・・・木村・・・・関白秀次・・・蒲生氏郷・・・
木村・・・石田・・・羽織・・・三成・・・勘気・・三成・・・三成・・・・・加賀利常・・・」〈常山奇談〉
があり、期待していたことがズバリ出てきました。勘気をゆるして貰った水野庄次郎に絡んで
木村と蒲生氏郷と木村が出ています。庄次郎はのち前田利常に仕えました。奥州葛西氏は
伊達政宗と呼応した積りが、中央軍に制圧され、蒲生氏郷が伊達を糾弾したという経緯の渦中の
当事者であり、これが秀次事件への引き金であったといっているのかもしれません。とにかく
家康公がバックにいるから何でもOKで英雄の仕業でもなんでもない、善の枢軸の一部に
過ぎない伊達の動きです。これは島左近の属性といってもよい杭瀬川の戦いのときことで
「左馬介」−「羽織」が利かされています。木村が二つあるのは重要かも。テキスト
「木村重章」
のところで「木村氏は近江佐々木氏の一族。」となっていた蒲生(佐々木)一族の木村氏で
水野氏と山口飛弾の木村氏の血縁によるものでしょう。この浅香の索引には森銑三の仕掛
けがありそうです。 明智左馬介秀俊 明智光秀のあと
@浅井長政
A浅香庄次郎
B浅野長政
C朝日千介
の並びがあります。@Bは同一表記といってよいもので〈両書〉にはない表記です。どちら
も改名がありますが、一応、@は浅井備前、Aは浅野弥兵衛です。どこかで利用されるはず
のものでしょう。ここではAを挟んでいるので
浅井長政
‖水野庄次郎
浅野長政
あるかないかをいっているのでしょう。「朝日」でみると「浅井」の「朝日」、「浅野」の「朝日」が
あるのかも。Cは「西郷」と出てきます。表題「朝日千介西郷伊豫を討つ事」の一節で
「西郷・・・東照宮・・・西郷・・・菅沼大膳・・・菅沼・・・朝日・・・十八歳・・菅沼・・・西郷・・
末(すえ)頼母(たのも)しき・・西郷・・・菅沼・・・西郷・・・足軽・・東照宮・・・西郷・・東照宮
・・・」〈常山奇談〉
があります。こうなると前の二つの明智がどう絡むのか、ということにもなります。
「水野宗介・井上又蔵・松野平介・・」〈信長公記〉
もあり、まあ「水野」ー「又蔵」というのも出てきそうです。「井上」は「井土」−「井戸」にもなる
、井戸茶碗も出きそうです。テキストによれば「水野氏」というのは
「小河」を称した「重房」の子、「重清」が「尾張春日井郡山田荘」に移って「水野」と
改めた。
とされています。冒頭の「山田」は名前では「太田+山口」位だろういうことでその重さは
わかりますが、この山田荘で起こった事件が書かれています。ばけものが出てきて驚いた
又左衛門が報告し信長が事実を確かめようとする話です。これは溶鉱炉の話として既述です。
「佐々蔵人居城比良(山田村比良)・・あまが池(比良村の大蒲堤の下にある)・・葭原・
安食村・・・又左衛門・・・・黒き物・・・あまが池へ・・・・紅のごとく・・・比良・・大野木・・
又左衛門・・・大野木村・高田五郷・・・鵜左衛門・・・佐々蔵佐・・・家之子・郎党長に
井口太郎左衛門・・・・・井口・・」〈信長公記〉
ここの「又左衛門」の「又」と「井上又蔵」の「又」、 「井上」の「井」と、「井口」の「井」の共通と
井口太郎太郎左衛門が水野の属性、山田荘を背景に出てきたいうことで「井口」=「水野」と
いうことを、色んなことをことを動員して確認して貰おうとしたものと考えられます。「井口」が
沢山でてくるのに、索引では「井の口」に入っていますので「井口」は「井□(あき)」で見たら
どうかというのがあるかもしれません。
水野宗介 ・ 井上 又蔵 ・ (松野平介)
↓ ↓
★井口(上) 太郎左衛門
になりますが、一方「太郎左衛門」については
「伴太郎左衛門」〈両書〉
が用意されています。(さきほど「水野帯刀」と出たのは「伴(ばんの)十左衛門」)。
人名索引では
〈甫庵信長記〉 〈信長公記〉
▼番頭大炊助 ▲ばんざい(考証は「坂西織部」、飯田「伊那郡」)
●伴太郎左衛門尉 伴正林 → 伴(とも)正林
(同)正林 ●伴太郎左衛門
塙喜三郎 伴十左衛門尉
(同)小七郎 ▼番頭大炊頭
塙伝三郎 はんか→斎藤義竜
塙九郎右衛門
塙九郎左衛門尉
り 原田備前守
▲伴西
として出ています。●の周辺からいえば上の★「井□(上)」のところに「伴」(太郎左衛門)が入り
「水野国松」〈信長公記〉
も用意されているので
「水野宗介・井上又蔵・松野平介」〈信長公記〉が
「水野宗介・伴 又蔵・水野国(松)野平介」
となって「水野ー井口」ということにもなります。この「あまが池」のあるところ(山田)は重要地域で、
ここの代官として「水野氏」の記録はあり、「太郎」というのも打ち出されているので水野氏の性格
あわせて「木村」−山田ー「山口」(蒲生の蒲も出ている)との水野のかかわりも出ているという
大変な一節です。だからここにはまだ重要なことが隠れているというこです。索引が出ているつい
でですが、左の▼は●の上で、右の▼は●の下です。こういうところは、そらおかしい、といわねば
ならないところです。「番頭」は
「ばんがしら」「ばんどう」
の二つの読みがあり、左の甫庵の方は「ばんがしら」と読み、右が「ばんどう」でしょう。
●と「伴正林」は本能寺で戦死して表記が消えますが「伴十左衛門尉」は語りの「十(1+9)郎」
といったところで、〈信長公記〉だけにありやや付けたりのような感じですが「尉」があるので重要
な役割を持って出てきたのかもしれません。〈信長公記〉では、はじめに触れましたように
「坂井左衛門尉」「山田左衛門尉」などとこの「伴十左衛門尉」
くらいです。猶妙印入道武井肥後守を接頭字あり、というならば接尾字というべき使い方を
したのではないかと思われます。「太」の語りというような。
再掲
「水野帯刀・山口ゑびの丞・★柘植玄番頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉、」
で伴十は「水野」「山口」を見ていることは既述ですが、さらに広がりがあります。★は
「柘植宗十郎」〈信長公記〉
があり、これは「水野宗介」も想起されますが、★は「真木」の「宗十郎」と連携されこれで、
★以降は全部「十」で括れる、つまり
水野帯刀・山口ゑびの丞・木伴十左衛門」
に集約されようとしているといえそうです。
また★の「(玄)番頭」は、▼に通ずる、そのため「頭」は二つになっている、「玄番頭(げん
ばのかみ)」は、よく考えられた「頭」ですが通常「頭」は「とう」です。
ここでも「十左衛門尉」の次に「番頭」と「斎藤」があるので「十(じゅう)」ではなく「とう」が著者の
意識にあることです。要は「水野」の「刀(とう)に着目しています。
「水野帯刀」ー「水野大刀」−「水野太刀」−のし付太刀ー伴正林
であり、又
「水野帯刀」−「水野たいとう」−「水野大十」
となりますが〈甫庵信長記〉では、〈信長公記〉では一つしかない「水野帯刀」について
水野帯刀
水野帯刀左衛門(「山口海老丞」と登場する)
水野帯刀左衛門尉
の三種類も用意され、この「尉」付のものが「伴十」の「左衛門尉」と反応し
水野帯刀(たいとう)左衛門尉
水野大十(たいとう)左衛門尉
となってこれが「山口海老丞」につながることになる
水野・山口・木村・伴・板ー蒲生
というものが出てくる、ことになります。
(25)大竜和尚
まあ類書でも色んな語りがあって、
「水野宗介」 「水野宗兵衛」〈信長公記〉
「水野宗助」 「●水野監物、(同)宗兵衛」〈甫庵信長記〉
が出てきたら「宗」は「宗易」などという大物が多いので、漠然としたものになりますが、
蒲生の面の気も使わねばならないことにもなります。〈常山奇談〉登場人物「木村宗喜」は
「宗」と「木村」だから且つ「喜」だから「喜」で組み合わせると
横山喜内ー蒲生郷舎ー木村宗喜(大阪陣「古田」と登場)
だから木村ー蒲生をつなぐものでしょうがすが「宗喜」は大物という感じで「郷喜」「宗古」もある
から「水野」は出ているかもしれないと勘ぐられます。常山は大坂陣、「塙團右衛門重之、阿波
蜂須賀の陣所夜討」のくだりで
{團右衛門は遠江横須賀の人なり。・・・}
と書いています。この一節の登場人物は多様ですが「木村喜右衛門」「水野勝成」大野主馬」
も出てきます。が「横須賀」が出てくると〈信長公記〉の次の一節が気になります。
Y 天正九年
「正月四日、横須賀の城御番手として、水野監物・水野宗兵衛・大野衆、三首(かしら)
指遣はさる。」〈信長公記〉
があり、ここの●の組み合わせが「横須賀」を見て、水野ー横須賀ー塙のつながりが出てきます。
この「横須賀」は脚注があって
「静岡県小笠郡大須賀町横須賀に所在。高天神城の南部に位置する。」
となっています。
「大須賀五郎左衛門」〈信長公記〉
が出てきた感じですがこの人物のテキストの索引は
奥州伊達
大須賀五郎左衛門(考証:大須賀康高、三河幡豆郡掃部野村の住人。)
太田和泉(守)(太田牛一)
となって「大館伊豫守」も続きますので宗達も出そうです。
横須賀の地名索引は
与語
横須賀
与語の入海
横山
よこ山の城
となっており横山と佐々に繋がっています。「佐々」は「佐々蔵人佐」の城下、「あまが池」で
化け物が出て「又左衛門」が目撃して大騒ぎになった話につなげられていそうです。この「又
左衛門は信長から直接様子を聞かれたようですが大物といえそうです。前田としたいが前田
ではない「又左衛門」ということで金松又四郎を役者として出してきたといえそうです。「又左衛
門」は「紅」(蛇の舌)を語っています。同様に
水練の達者の「鵜左衛門」も「片岡」にしたい「鵜左衛門」ということで、「森ゑびな」を出したと
いえそうです。「森ゑびな」は人名索引には出ていませんが
「松永弾正一味として、片岡の城へ森のゑびなと云ふ者楯籠る。・・・・・・片岡の城へ・・
火花をちらし、つばをわり、ココをせんどと相戦ひ城主●森・ゑびなを初めとして百五十余
討死候。」〈信長公記〉
があります。脚注では●は「森氏や海老名氏を指すのであろう」とされています。このとき
森ゑびな、死んでいない、というよりも参加していない、松永との関連を出すためにここで
出てきたということでしょう。〈甫庵信長記〉索引では
片岡鵜左衛門尉
片桐半右衛門尉
があり、この鵜左衛門@が「森ゑびな」と見られらますが、これが「又左衛門」と一対になって
同じ一節にある「井口太郎左衛門」とフィットしていくものとなっています。片岡・片桐の「片」は
「半」を示すことになっていそうです。伊達藩白石の片倉小十郎の片倉も出自をみたりする場合
は要るのかもしれません。〈常山奇談〉の横須賀の塙團右衛門の一節で
「塙所々にて落ちぶれ、後には京の妙心寺大龍和尚の許に居て僧となり、名を鉄牛と
いふ。けさの上に刀を横たへ鉢を招く。・・」〈常山奇談〉
があります。大竜和尚というのは聞いたような名前だったので遡ってみると甫庵索引「り行」の
6人に「麟角和尚」がありこれは〈信長公記〉では「りんがく長老→大竜寺麟岳」となっていた
大竜寺です。テキストでは「大竜寺麟岳(本文「りんがく」)は
「甲斐国大竜寺の住持。武田晴信の弟(系図纂要)。」
となっています。常山は細字で{大龍寺和尚}と書いており、「りんがくA」。「武田左吉」の「武田」
を使った「武田晴(春)信A」の舎弟が出てきます。つまり金松又四郎(兼松正吉)であり、塙
團右衛門は祖父かどうかは不詳ですがそういう人のところに身を寄せていたということに
なりそうです。紀伊大納言頼宣の母君、「お萬(於萬)の方」からも多額の手当てを貰っており
落ちぶれたとはいえないのでしょう。〈信長公記〉人名索引では
大文字屋(注は「宗観」)
平景清(本文では「景清」「悪七兵衛景清」)
大竜寺麟岳(本文は「りんがく」)
となっており、「七兵衛」の「七」が持ってこられた感じです。こうなると「初花」という唐物の茶入
を献上した「大文字屋」がわかってきそうです。「屋」で共通の
大文字屋
天王寺屋
という対比がありそうです。あの6人を二つに分けて、
a、 良琢ーーー輪阿弥ーー竜文寺 → 夕庵(セキアン)
b、 麟角和尚ー林阿弥ーー竜雲院 → 正吉
ということになるとすれば、「大文」が「竜文」につながってくるということが出てきます。道叱が
a、宗陽がbということになります。〈明智軍記〉では
「信長より●瑞竜寺の和尚并に武(たけ)井夕菴(せきあん)を観音寺へ・・・」
があり「、菴」とか「并」(文中では細字)とかの、打ち出すには大変、手間のかかる字の入った文
ですが、この「ならびに」には両者併合合体の意味があり、「あん」も特異です。この●がa、相当
とみてもよさそうです。「菴」も
「壺菴」〈明智軍記〉
という表記もあり「せきあん」の「庵」も目先を変えるということでしょう。ここまでくれば
「瑞雲庵のおとと」〈信長公記〉
は表記だけの語りでは、b、のこととなると思います。瑞雲庵は「大田和泉守」相当。テキストでは
「天王寺屋竜雲」は「天王寺屋了雲」と考証されています。「雲」は、bといえます。「了」は渡辺勘兵
衛了の「了」でしょう。塙團右衛門が横須賀という記事に「中村右近」が出てきて大龍寺和尚の後
「蜂須賀・・・中村右近・・・木村喜右衛門・・・稲田修理・・・修理が子★九郎兵衛・{・・・中村
稲田修理・・・修理・・・・修理・・・修理・・・右近・・・七八・・・右近 ・・右近・・修理・・・右近・
・七八・・・右近・・・・右近・・・右近・・修理・・・・右近・・・七}」〈常山奇談〉
があり、この「右近」は高山で既述ですが、中村右近となると〈信長公記〉の
「中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛{金松又四郎これを討ち取る、}・・」
というのがあって、有名な中村新兵衛を出して、細字の金松に討たせています。これは大田和泉
を出して大龍和尚に繋げていると思われます。右近は〈信長公記〉表記で
桑原右近ー桑原九蔵ー水野九蔵ー稲田九蔵
で「水野」ー「稲田」に繋がりますが上の★は〈常山奇談〉索引では、
稲田九郎兵衛
稲次右近
とあって、「右近」を受けています。稲次右近高名の一節は「蒲生備中」が登場します。
@「嶋左近、蒲生備中大将にて」A「嶋左近、蒲生備中」B「明石掃部、蒲生備中」
ですが、蒲生に特別なものがあるのでしょう。ルビがおかしいことになっています。
@は「しまさこん、がまふびつ(中)(大)しやう」(中大)ルビなし
Aは「しまさこん、がまふびつちう」
Bは「あかしかもん、がまふびつ(中)」(中)ルビなし
稲次右近の出てくる一節は特に長く、多くのことに気をとられるところですが、蒲生備中にこれ
だけ違いを創ったということは、塙團右衛門ー横須賀ー大龍寺などのあった一節から蒲生備中
を取り出したことが合っていることにはなるのでしょう。また蒲生備中は三通りだったから父子
三人で、家を挙げて出てきた、備中に欠落が二つあった(半・片のたぐい)ので、蒲生の金松と
もいうべき人が出てきている、とくに総大将は往時の蒲生の武勇を支えたその人ではないのか
というようなことなどがみてとれます。水野も
「水野(みずの)庄次郎{後号浅香左馬介}、「水野庄(みずのしやう)次郎」「庄次郎」
で出てきてました。「横山監物」と「稲次右近」のわたり合いではまた「右近」の連発があり
この関が原前哨戦における相手は中村家でもあるので「右近」も出されて両節の関連が示され
たと思われますが、同一著者内の二節ですから関連はもともとあるもので「右近」というものが
また別のものとなるのかもしれません。「稲次右近は85歳で亡くなっており(常山奇談)、〈辞典〉
では「兼松正吉」は没年86歳となっていて「修理亮」ということですから、
稲次右近=稲田修理=兼松正吉
ということのなるような感じです。蜂須賀一の家老として有名な「稲田」氏は金松の一族に当たる
のかどうか、つまり、解説のない
〉 「稲田九蔵」〈信長公記〉
は金松又四郎を指すかどうか、ということですが、本文は
「使に祇候の稲田九蔵に御小袖下され、忝き次第なり。」〈信長公記〉
この使いは武田秘蔵のものの受け渡しがあったので、重要場面での登場ですが稲田九蔵@
としては大田和泉守が考えられます。ただ今井宗久に「過分忝き次第」、「宗陽」「道叱」など
にも「忝くも御立寄り」もあったので「金松又四郎」に代わって忝いといっているとも取れます。
同時二人ということではないかと思われます。兼松だけだったら「稲田十蔵」ぐらいになるの
のかも。もう一つの「金松」表記「金松久左衛門」は「水野久蔵」ぐらいの大物表記で金松又
四郎を意味づけるもので「太田和泉守」=「兼松久左衛門@」でもあると思われますか、
登場は丹羽の手の者として出てくるので、太田和泉守の下で働いていた「兼松家」の代表
する人物と考えられ、実体は又四郎の通常の弟(舎弟の匂いはあるにしても)であると思われ
ます。のち講談などで大久保彦左衛門の相棒役で登場する徳川旗本「兼松又四郎」の家でも
ありますが、蜂須賀の稲田も大泥棒の一の子分に過ぎないのに、この「稲田九蔵」の登場で、
太田和泉守が乗ったので特別に有名になったと思われます。〈常山奇談〉に
「稲田九郎兵衛武功を語らざりし事」
の一節があり、これは「金松又四郎」の属性といってもよいもので、この一節がさきほどの
「塙團右衛門阿波(蜂須賀)の陣へ夜討ちの事」(「横須賀」が登場)
の一節のあと
「木村・・・武功の事」(「木村喜左衛門」登場)
「木村重成感状を辞ぜし説」(「大野主馬」「大野兄弟」登場)は
が続いたあとにあり、水野ー木村ー稲葉の「稲」と続いてきています。この稲田九蔵が出てきた
一節の終わり
「信長公、飯田より大嶋を御通りなされ、飯嶋に至って御陣取。」〈信長公記〉
という一文は稲田と関係があるのかどうか、忘れてしまうのでここでいってもしょうがないことです
が。稲次と出てきた「横山将監」は「水野将監」と繋げていそうですが「水野(浅香)庄次郎」は
「水野藤次郎」〈信長公記〉(考証名「水野忠分」)
から持ってきたのかも。この「分」がわかりにくく「大分(おおいた)」というから「板」=坂小板
(いた)=蒲生源左衛門ともいいたいところですが、「脇」「和気」の「分」でしょう。「忠分」は
「信之の弟」とされており、信之が全くわからないので、もう読まれているものです。
(26)「水野」は「みの美濃」
「水野」で基本的に重要なことは三兄弟プラス一の四兄弟としたということです。これは
「水野」の重要さから割り出せるもので、後世の「水野藤十郎」などで語りが残るのは「塙」の
「團」「団」やら「団平八」の「団」などが語りで残っていくのも似たようなもので人気が高いわけ
です。ただ、それほど重要ならば〈両書〉でその発祥が載っているはずではないかといわれると
その通りでしょう。「井口太郎左衛門」〈信長公記〉だけ出されて「井口」=「水野」だろうという
だけのことです。小豆坂の人名表がスタートですが、甫庵では年齢が書いてあって
参考〈信長公記〉
「■河尻与四郎・・・其の比は十六歳・・肥前守・・」 → 記載なし
@「下方左近、其のときは弥三郎とて十六歳」 → 下方左近
A「●岡田助右衛門尉、佐々隼人正、(年齢なし) → 佐々隼人正
B「其の弟孫介十七歳」 → 佐々孫介
C「中野又兵衛十七歳・・そち・・」 → 中野又兵衛
で一応年齢接近し重要4人兄弟と見て取れるということでした。このときは「河尻与四郎」−
「水野」とはいえないということになります。与四郎で四番目がいる、(水野)太郎左衛門という
べき存在がいるというのは直感で、四人兄弟はとにかく出てきたわけです。ただ〈信長公記〉を
嵌め込んでみないといけないので、それでやると4人兄弟と
いうのはよりはっきりします。嵌め込んでみるとはみ出すのが●で、それは誰でも索引で調べる
から、且つ下方も調べるから
「佐々内蔵助、戸田半右衛門尉、★下方左近、岡田助右衛門尉、其の子助三郎、
赤座七郎左衛門・・」
〈甫庵信長記〉
が出てくるのでこれを●の一文に代入すればよいだけで●の一行は
「●岡田助右衛門尉、其の子助三郎(年齢なし)」
となります。●は「其の子」「其の弟」という「人」の「其」というのが効いてきてBCにも及ぶ
のは明らかで、助兵衛の「助」ですのでABCの今で言う父が●で「織田造酒丞」を隠す
と ための表記といえます。★も「半右衛門」と「助」に挟まれて、父を表しています。
したがって@ABCを順序を変えて書き直せば
B孫介ー武井夕庵(岡田助右衛門A)
C又兵衛ー太田和泉守(同上)
A助三郎ー(三の)(水野)太郎左衛門(同上)
@弥三郎ー明智光秀(下方左近A)
となります。■は今となれば「森可成」=(河尻与)がでましたから、これは太田和泉守より
一つ下の「青山与三右衛門」を指すとみてもよさそうです。下方左近は「滝川左近」「島左近」
の「左近」にも通ずるもので、明智宗宿再婚によって生じた関係が発生し
斎藤内蔵介
‖下方左近
明智宗宿(内藤勝介)
ということで話は進めてきています。
Aについて「井口太郎左衛門」は「水野太郎左衛門」で、水野=井口でしたが井口は岐阜で、
稲葉山がここにあります。井口城は岐阜城です。先ほど「弥三郎」が出ましたが甫庵の索引
では出ていません。「弥六」があるので出ていないのはおかしいといえます。よくみると
祝弥三郎
早崎吉兵衛
林源太郎(以下「林」11件、その終わりに「隼人佐」がある)
があって「弥三郎」は「祝弥三郎」に集約されています。つまり〈信長公記〉首巻、
「おどりを御張行」
「一、★祝(はふり)弥三郎 鷺になられ候。一段似相申すとなり。
一、上総介殿は天人の御仕立て・・・・女おどりをなされ候。」
となっている★は、もう「明智光秀」と読まれていたということになります。〈戦国〉ではじめて、
出しましたが、別に奇異なことでもなかったわけです。つまり誰でもそう読めそうなのを書いた
にすぎないことです。考証では「吉勝」「重正」となっており、桶狭間のすこし前なので、また白鷺
城も想起されるので状況では太田和泉でしょうが、ここは、最後が、明智光秀、本能寺で織田
信長を討つという場面に到る、桶狭間戦、明智光秀登場の含みがあるので、つまり明智の戦いという
ものがあるので光秀の登場が不可避で敬語は額面どおりでよいはずです。そういう「弥三郎」
の次に、索引では突然性でびっくりの
早崎吉兵衛〈両書〉
が出されています。これは「水野」の説明の一環として太田和泉守が埋設したものと察せられる
人名です。本文では「姉川」「あね川」のくだりで登場しますが、〈甫庵信長記〉では、はじめに
「ココに横山城には大野木土佐守、三田村左衛門尉、野村肥後守、同兵庫頭、彼等四人
を大将として・・・」
があって、続きをみればこの大将名は地名をおりこんだものだということがわかります。
以下、地名でいえば(ここは人名が多いので、人名は最後の三人だけにして)
「・・横山城・・・・横山の城・・・・横山の城・・・野村三田村・・・美濃国稲葉・・・美濃国・・
野村三田村・・・横山の城・・・・野村三田村・・・・三田村・・・早崎吉兵衛・・・・横山・・・
水野下野守・・・河尻与兵衛」〈甫庵信長記〉
ということになりますが〈信長公記〉は短くて人名が少なく、地名にあぶり出しがあります。
「よこ山の城・・■三田(みた)村、野村肥後・・・●野村の郷・三田村両郷・・・・三田村口
・・・野村の郷・・・美濃・・・・早崎吉兵衛・・横山・・・横山・・・水野下野・・・河尻与兵衛」
となりますが比較してみると 「野村三田村」と「野村」と「三田村」の関係がどうなるのかといって
いそうです。■では「野村」は人名だといっていて、●の表現がおかしい、どうかといっているの
はありそうです。また「よこ山」とか「あね川」とヒラいているのは〈信長公記〉で、ひらかなにした
りしてやってみるとどうかというのもありそうです。結論は●は
野村肥後の郷、三田村・野村三田村両郷
となるのではないかと思います。つまり
三田村 → み た
野村三田村の両郷 ‖
野 村三田村
のようなことになります。湯浅常山は、先ほどの「横山監物」「蒲生備中」の出てきた一節では
「石(いし)田三成(みつなり)「梅(うめ)田大蔵(おほくら)」「梅(うめ)田大蔵(おほくら)」
を出していて「田」のルビは抜いてあります。それでいえば「三田」の「田」も抜きたいときは
抜けばよい、のでここは「み野村」が出てきます。「み」となると、一つ代表的な「美」も宛てられ
られ、文中に「美濃」があり
「み野」→「美濃」
が出されたと見られます。
ここで「早崎吉兵衛」が出されているのが効いてきそうです。「林とのつなぎの面では
「早崎吉兵衛」−「林田左門(文)」−「林崎甚助」ー「蒲生」
もありましたが「早」が出てくると、「早水」・「速水」が出てきます。「水」を「み」と読むわかり
やすい例で、そのため「早」が持ってこられたと思われます。「泉水(いずみ)」「水戸(みと)」
の「み」ですが間接的に出せるのは「早」で、「早見」もあり、これは「逸見駿河」〈信長公記〉
にもつながるものです。「速水甲斐守」の「速」も「早」で出されていそうです。とにかく
「み野」→「美濃」
↓
「水野」
で、「井口(太郎左衛門)」は「岐阜(太郎左衛門)」で「岐阜=美濃」で「水野太郎左衛門」
となります。
「早水」というのは後世では赤穂浪士、早水(見)藤左衛門で思い出されたと思われます。
早水藤左衛門は浅野内匠頭刃傷事件の発生報告のため、江戸から赤穂まで早籠を走らせ
息も絶え絶えになって、大石屋敷へ転げこんで使命を達成して有名ですが、周辺の事情が
水野の説明にもなっています。ウイキペデイア「早見藤左衛門」の説明によれば
「山口弥右衛門の三男」 「弓の名人で星野勘左衛門の門下」
というのがあります。「山口弥右衛門」というのは大変な名前で
「山田弥右衛門」〈信長公記〉 「山田弥右衛門尉」〈甫庵信長記〉
があります。小川(緒川、小河)から尾張春日井郡山田に移った小川重清が水野と改姓したと
いうから「山田」は「水野」の属性ともいえ、ここ「山田」で「井口太郎左衛門」が登場してきました。
「星野」というのは、甫庵の人名索引では
北条
木全六郎三郎
星名
星野左衛門尉
細江左馬助(本文では〈両書〉とも、このあとが「早崎吉兵衛」となっている)
となって出ています。「木全」を「ぼくぜん」と読んだために出きた索引で、「氏家常陸介ト全」
にもつながり星野を引き出しています。したがって「早水藤左」の師匠
星野勘左衛門
は「早崎」と「北条」にも
つなげられています。「北条」は「大石源三氏直」の「北条」でもありますが、「北条早雲」の
「北条」でもあります。この「早」が「早崎」の「早」につながっています。一方「北条」というのは
芭蕉が〈奥の細道〉で言う「北枝」です。「喜多(北)枝」でもあり「木(ぼく)枝」「牧枝」でも
あり「木全」の「木」にも繋がります。現代でも「ぼく」と入力すれば選択漢字として「北」が出て
きますので「北枝」は「ぼくし」もあるようで使用例もありそうです。漢語辞典の前に「北」のある
ものでは見当たらず、この字には「逆」用例が六つ載っており(大修館版)
窮北・研北・隆北・逐北・敗北・漠北
がありますが、わずか「敗北」一件が納得の意味では使用に耐えるもので、これならわかりやす
い「ぼく」です。この「北」は逃げるという意味で〈両書〉にも〈常山奇談〉にもあったと思います。
「背く」と意味も辞書には書かれていますが「ヒ」が二つ背を合わせているからというのも納得で
きる説明ですが、同方向を向いている「比」があり、「其の比(ころ)」でよく使われます。ルビを
入れるのが手間なので引用文では敬遠しているものですが、「此れ」「惟」に繋がって気になる
ものです。いまとなれば「道叱」もでてきて、「匕首(あいくち)=短剣」という「匕」もみないと
いけないことになりました。この「匕」は、辞書では「化」の旧字ということで、「北」の前に
「化」が入れられています。
「化荻」(草冠なしー以下同じ)
というのは脚注にある「貨荻」(「舟形の名物茶入れ」)でもあるのでしょうが「荻」は「えびす」
ですから「北荻」は(喜多のえびす)です。「荻」は「犬」というのもあるようです。天王寺屋竜雲
が出るまでの流れは
「●杉の坊・■津田太郎左衛門・・・定番・・・若江・・・化荻(クハテキ)・・・天王寺屋竜雲
開山の蓋置(フタオキ)、今井宗久・・・・・
二銘のさしやく・・・・八幡・・・二条妙覚寺・・・奥州伊達・・」〈信長公記〉
となっています。いま「井口(水野)太郎左衛門」をみて来ている段階ではここの「津田太郎左
衛門」が引っかかってきています。おまけに、それは
「蛇(じや)」
(〈信長公記〉では「虫」+「也」で(ジヤ)というルビとなっている、筆者の機械では太字
=抹消されているので、以下、重要なので、こだわって「也」と表記する。)
の場面での「又左衛門」「鵜左衛門」が出てきたことは●を杉谷善住坊=今井宗久Aと解釈
できそうだというのが出てきます。■は「織田太郎左衛門と同一視されています(織田の先祖
が越前の津田のだったから)。
この「じゃ」の使い分けは〈古事記〉の「八俣の大蛇(虫也もある)」の一節に由来し、同じ一節に
「須佐の男の命」「速須佐の男の命」(ルビはないが要は「すさのおのみこと」)
の二つの表記があるという驚異的なところです。また天照らす大御神が「ミヅラを纏かして」という
文があり脚注では、(〈新訂古事記〉武田祐吉訳注=角川文庫ソフィア)
「“みづら”は髪を左右に分け束ねる結いかた。男装される。」
となっています。「ミヅラ」はどの辞典を見ても男性の髪形をいうようです。男装の手段になる
髪形と意味が違ってきます。男女のことの表現に気配りがされていますが「速須佐」のような
「速」は接頭字で「姉川(あね川)ー横山ー早崎」の一節でも
「猶妙印入道武井肥後守」〈甫庵信長記〉
が出てきます。これは武井夕庵の連れ合いの表記と思われます。武井夕庵が同時にいるの
ですが連れ合いを表に出した表記といえます。はじめに横山で出てきた再掲、甫庵の
「ココに横山城には大野木土佐守、三田村左衛門尉、野村肥後守、同兵庫頭、彼ら四人」
はストーリーでは浅井方の侍大将ですが
大野木は山田村で、これは隠岐土佐守もあって太田イズミノカミ
三田村はこれも三田=山田で「山田村」が出て、水野太郎左衛門
野村肥後守は惟任日向守の別表記と取ってきている、武井の肥後守を受けて惟任
ヒウガノカミ
同兵庫頭は肥後守の兵庫頭で武井セキアン
となり、こういう人物の登場を予告したものといえそうです。同時二人ということで遠くからは
区別がつきにくいが、近くの人はそれぞれの特徴を認識して付き合っている、というような
ことかと思いますが、この場合は表を連れ合い側において表示して其の存在を浮き彫りに
したと思われます。
(27)市振
〈奥の細道〉でも「全昌寺」で「猶(なほ)加賀の地なり。」というたいへん訳しにくい
ものがあり、次の越前「つるが」で主(あるじ)の肉声が出ており、著者の問いに答えて
「“あすの夜もかくあるべきにや” といえば “越路の習ひ、猶明夜(なほみやうや)
の陰晴はかりがたし“とあるじに酒すすめられて・・・」
となっています。この主が脚注では「出雲屋の主、弥市郎」で、「市」の人が出てきています。
重要箇所の「猶」で〈甫庵信長記〉と結ぶしかないわけですが、全昌寺の「猶」と、ここの「猶」
との間には繋ぎがあって、
「秋風」「秋風」「汐越の松・天竜寺・永平寺」「汐」「松」「汐」「松」「西行」■「丸岡天龍寺」
「金澤の北枝」「扇」「余□波(なごり)」「丁山」「道元」(「正法眼蔵」)「夕」「夕」
「侘(「宅」が「蛇」の右側の字)びし」「道心の御坊」「二夜(ふたよ)」「関」「夕」「湯」「湯」「遊」
「遊」「泥淳(でいてい)」「持」「持」
などで、とくに「夕」などで、切れないようにされてきています。■が驚愕の語句で、脚注にも松岡
と書かれています。しかし天龍寺をどこかでみた、輪阿弥ー大文字屋などが出たところで、塙団
右衛門が寄寓していたところと思ったわけです。しかしうろ覚えであれは大竜(龍)寺でした。
天竜寺は策彦和尚−南化和尚があって狩野又九郎ー二位法印がでました。■の前に西行の歌
(蓮如かもしれない)があって
「 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行
此一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは無用に指をた立つるがごとし。
■丸岡天龍寺の長老、古き因(ちなみあれば尋ぬ。・・・・」
と続いています。無用の指を立てるということは、ここでは無駄なことだというのと、無用の用を
果たす例がある、やってみようということでしょう。
この歌では無用の指を立てられなかったが、つまり「猶」という語は入る余地がなかったが
■では「二弁(丸岡)」を加えたものを出しています。これは「丸岡天龍寺」というものはなく
一見無用のものです。おまけに「天竜」と「天龍」があります。しかし「二弁」を立てて丸岡天龍
寺にしました。「猶」は歌には入れられなかったから、やってみようという、この際はここに入り、
ますので、「一弁」だったらどうなるか「大龍寺」となりそうです。すなわち、
「一」+「大龍寺」=「天龍寺」
で 、猶ー大龍寺ー輪阿弥ー竜文寺ー大文字屋宗観となります。一と二のことが、語られて
いるところが随所にあり、こういう一弁、二弁の遊びもないとはいえません。上の「扇」は
俵屋宗達で、〈信長公記〉の「天王寺屋竜雲所持」というの「天」「竜」「屋」が意識されている
ものです。要は■で間違ったという説明がどこかにないといけないわけでそれが早速出て
きたとみるべきと思われます。「丸岡(高向)」は「越前」が属性の継体天皇の「母」の「振姫」
の郷で「坂中井(さかない」〈日本書記〉、と同様に「振姫」の属性です。これらと
「丸岡民部少輔」「坂ない」「坂奈井(索引で洩れている)」〈信長公記〉
を芭蕉が(丸岡で)繋ごうとした、というのがみてとれます。「民部少輔」は「神吉」につながり
「神吉民部大輔」 → →「(神戸)四方助」「神部四方助」〈甫庵信長記索引〉
となって最後「四方」に至ります。「志方城」の「しほう」とも通じています。そらおかしい、民部
少輔は民部大輔と違う、という人があるから
「神吉民部少輔」〈信長公記〉
があって、そういわれるのは尤もですが・・・・と言い返せばよいわけです。しかし、ここで、
「村井民部丞」〈両書〉
もあるということで追い討ちをかければよい、文句が出たら「村井民部少輔」〈信長公記〉が
があります、ということになります。ただ、ここで
「白井民部丞」〈甫庵信長記〉、「白井」〈信長公記〉
が想起されるべきでしょう。テキスト「白井」の注では「民部少輔」となっています。索引では
・ 間宮綱信(文中「間宮若狭守」)
丸岡民部少輔
丸毛兼利(文中「丸毛三郎兵衛」)
丸毛長照(文中「丸毛兵庫頭」) 〈信長公記〉
となっていて「振姫」の「丸岡は「丸毛」に流れていきます。これは「武井夕庵」とみてきました
が「兼」=「金」というものが入っており、今となれば、これも連れ合いを通して「武井夕庵」を
出したといえます、瑞竜寺和尚の前は、美濃多芸郡の領主、丸毛氏の子息が連れ合いだった
といえそうです。何となく堀尾茂助の父はこの人のようです。
丸毛不心、白井備後守の秀次事件での死ということについてこの辺りで布石があるようです。
「間宮」の若狭守と「丸岡」の位置が重要であろうと思われます。地名索引では
「越中太田保本郷」〈信長公記〉(本文では「越中国中太田保の内本郷」)
となっているのは、表記が微妙に違います。
これはいまネット記事で検索される「大田本郷」(富山市)ではないのではないか、以前は
「太田本郷」で検索すると図がでてきてよくわかりましたが、今検索すらできなくなっています。
近くに「黒駒」があって「黒駒勝蔵」で記憶していたのでそれで手繰ってみると「福井県大飯郡おお
町」、若狭湾の本郷のあたり、要は継体天皇のときと同じ、港と近接した地帯として重要視されて
ていたはずです。太田和泉守によって意識されていたというのは
「本郷信富」(1531〜1605慶長10年) 〈辞典〉
が用意されています。
「若狭・・・与三郎、左衛門尉、治部少輔、美作守、初名・泰富・・・大飯郡本郷山城
に住す。・・・12年4月7日、信長より、武田義統の折紙に任せ、若狭本郷の地を
安堵されている・・・・信長より離れずに要害を守った。天正2年8月9日付で、信長
より音信と贈品に対して謝されている(本郷文書)。」
太田和泉守が丸岡民部少輔を出したのはこの人物にも関心があるのでしょう。丸岡の近く
に細呂木があり
「細呂木治部少輔」(本文「ほそろぎ治部少輔」)〈信長公記〉
も用意されています。
「越後路」の一節、
「酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲・・・・越中の国一(いち)ぶりの関に到る、
此間九日・・・神・・・文月・・(次ぎ「市振」の一節)・・・北国一・・・一間・・・女の声二人
・・汀・・遊女・・・只人・・行・・行・・・一家(ひとつや)に(遊女もねたり)萩と月・・書・・」
)
があり、「市振」に続いています。テキスト各節の見出し(「越後路」など)は訳注者が「仮に見出
しを付けた」と書かれています。しかし先ほどの「丸岡天龍寺」のでたところの見出しは
「天竜寺」となっており、ここにも「市振」という見出しが付いています。これは百人が百人
「市振」という見出しはつけないと思います。それを表すのは「一」という字だけです。前節の
一(いち)ぶりの関
を受けたものですが、言い残しがあるというよう感じで出た「市振」です。これは「いちふり」とも
読めます。つまりこれは
二ふりの関
でもあり、これは安土城でも出ました。いいかえると「一ぶりの関」というのは「一ふりの関」
を二つ内蔵しています。芭蕉のようなリーダを自覚している人は、わかりにくいところはこう考え
たらどうかというのを提示しているとみて、その心積もりでおればよいと思います。
▲「一(いち)ぶり」=「一ふり」
▼=「市ふり」
で最初に生まれた人が「一郎」で実際もそう呼ばれる、総括的なものでしょう。ただ記録では
「一」と「市」に分かれるということになっていそうです。さきほどの「弥市郎」は主でない方の
筋の今日で言う長兄といえそうです。〈甫庵信長記〉では「一郎」は「北村一郎」だけで、これは
キーマンで、登場場面では、“一般的に”というようなものでなくはっきりしていますが「市」を
意識した(ツレ合いとか、今で言う父を勘定に入れた)ものではないか、つまり
音声で聞くと、同じ「いち」がいわれるので、アレッと思わしめるものがあるから仕方がない、と
いえるのでしょう。通常は「四郎」(「渡辺四郎」の例がある)といわれるのに「一郎」だから
上の▼を内蔵する、▲というのが「一郎」という表記といえそうです。この「一郎」的表記
が威力を発揮するのが、「北村」=「喜多村」からも伺えるように「化荻」の一節ではないかと
みられます。ここの 「余波(なごり)」 というのが、その前に
「余 波(なごり」
がでました。あいた所に「ご」というルビが付いています。「佐々内蔵助」の「余呉の里」が
出てきたのは「丸岡天龍寺ー北枝(喜多枝)−扇ー余□波(なごり)」が「北村一郎」につな
がっているというこにもなり、この辺りで一郎が出てくる必然があるものです。〈甫庵信長記〉で
「佐々内蔵助・・・内蔵助・・・内臓助・・野々村主水正・・・内蔵助・・・内蔵助・・・内蔵助
・・内蔵助・・・内臓助・・・内蔵助・・・・北村一郎・・・佐々・・・内蔵助・・・佐々・・」
\
のような出方をするのが「北村一郎」です。遊女の「遊」は「遊行の僧」にも繋がって永徳周辺
の「遊左衛門」にも行きます。「須佐の男の命」が「速須佐の男」もあるということから脱線し
ましたが、太田和泉守は〈古事記〉に「八俣の大蛇」「八俣の大也(虫偏)(おろち)」があるの
で、佐々の比良郷のあまが池で出た化け物を
「也(虫偏)(ルビ=ジヤ)
としています。この「八俣の大也」は毎年「高志(こし)」からやって来ますが、これは脚注では
「島根県内の地名説もあるが、北越地方の義と解すべきである。」
とされています。出雲屋の弥市郎が越前にいましたが、肥後守の武井夕庵、陸奥守の毛利
元就、駿河守の吉川元春など距離は簡単に克服され、出雲から越前に瞬時に飛んでいます。
同時に二つの地域を描いたといえますが九州(北)、東北(北)が大陸との窓口として常識なので、
出雲、越前を付け加えて四つとしたのかもしれません。まあ「こし」が二つあったことは確実で
しょう。現在でも二つの説がありますから。太田和泉守はどういっているか
「飛志越後守」〈両書〉
があり、「越後」「越前」はほぼ同義ですから「志」を「越前」に飛ばしたという表記でしょう。まあ
「林志の島〈甫庵信長記〉」もあり、越後に越前を加えたともいえます。登場
は武田戦
「・・原隼人佐、春日河内守、渡辺金大夫、畑野源左衛門、飛志越後守、神林十兵衛・・」
〈甫庵信長記〉
というような場合です。「畑野」は「畠山」の「畠」で「幡多」「波多」「秦」もありますが「神林」で
みますと、神林の神は林の接頭字という感じがします。「畑野」の「野」も「田」に代わりえます。
甫庵の索引では 畑田修理亮
畑野源左衛門
となっています。「林越前守」〈信長公記〉が用意されていますから
神林十兵衛
□林十兵衛
□林越前守ーー飛志越の「越」につながる
・ というような位置に「こし」の「志」があるということです。ここからの「神」が〈甫庵信長記〉索引
では「神皇」「神吉」「神林」「神戸市左衛門」ときて
神戸伯耆守
(同)四方助
神部四方助
ということになっています。はじめの「ほうき」は伯耆大山の「伯耆」で山陰連想ですが、その
次の「四方」というのは何を指すかという問題が出てきます。一つは神吉氏の居城「志方城」が
考えられますが、「神部」もでていますので「神」の入来する4地域というものが四方ではない
かというのがあります。この八俣の大蛇の一節は「神」「八」「雲」がよく出てきて「須賀」という
のも要注意です。阿須賀の「須賀」ですから。「神」は
「天照らす大御神」「国つ神★大山津見の神」「足名椎手名椎の神」
などがあります。「速須佐の男の命」は「天照らす大御神の弟(いろせ)なり。」と名乗っていま
す。★の神の「子」が高志の八俣の大蛇(也の方)に、毎年、喫(く)われることを、命に嘆き
ますが、無力な人と対置される神ならば大蛇ぐらいは退治できそうですが、天より降りた命
が実行します。この場合の神は接頭字や接尾字の「神」に括られた「界」の中の人のような
感じです。神応但馬守も神部四方助も戦死で登場で、同四方助も用意され、語りの一部とし
の「神」という字があるようです。
「八」は一回数えて16くらいあります。文庫本2ページくらいで16でとにかく目立つわけです。
脚注で出ている住所が
「島根県仁多郡横田町大呂、斐伊川の上流船通山」
「島根県大原郡大東町須賀」
があり、「大原」「大東」「須賀」は〈信長公記〉に使われていそうです。「大原」は人名地名
索引にはないが「大原」(造酒丞下人禅門登場)−「かうべ平四郎」が出ていそうです。
「かうべ」の一つは「神戸」でしょう。「大東」は「おおひがし」と
読まれて、「お行」に出ており、人名索引で、「帯刀」と切断される反面、「藤」を呼び
大橋
大東 (北畠衆)
▲大藤左衛門尉 (▼大藤備前守)・・・この大藤の二人は文中では並記されている
大脇喜八
となっています。テキスト索引では▼は、▲の横に並記されずに、出てこないのは▲▼を
同一人物と解釈されているからで、そうしたのは、▲を「だいとう」と読む
かもしれないという余地を残すためです。これは
神藤左衛門〈信長公記〉
を文中にルビがないのに索引では(しんどう)とルビを付し「し行」に無理にいれてあるのを
▼の例にならって大藤(おおふじ)という読み、つまり
「★神(かみ)藤(とう)左衛門」
と読むように修正を促すものです。こう読むと
「神皇但馬守」「★神藤左衛門」「勘八」「神林十兵衛」「神戸市左衛門」
と索引では名前が続くことになります。「勘八」と「市左衛門」も利いてきます。さきほど
「神林十兵衛
□林越前守」
として「神」を越前に持っていきましたが、これは文中において
「(改行)▲大藤左衛門尉
▼大藤備前守
奉行衆 林越前守
■小河亀千代丸(改行)」〈信長公記〉
というような文があり▼の横並びで「林越前守」が出ており、まあいえば
「又左衛門」「鵜左衛門」
などが出た「也(じや)」(大蛇)の一節からここまで話を持ってきたのは合っていることになり
■は「蒲生ー蒲生郷舎ー山口」の話をしてこなければ宙に浮いた人名となってしまいます。
つまり■は水野ー井口の太郎左衛門の話の付加といえるものです
(28)安東大将軍倭国王
★が出てきた、又無理にでも出してきた理由ですが四方の神にかかわります。★の出方は
「(天正九年)・・阿喜多の屋形、下国方より御音信。御取次、神藤右衛門・・・巣鷹・・
下国方・・是・・小野木・・・森乱・・作正宗・・・北畠・・・作北野藤四郎。●織田三七信孝・・・
作しのぎ藤四郎・・・」〈信長公記〉
となっており、「神・藤」は
阿喜多(秋田)−下国ー「神」ー下国
で、「下国」は、テキストでは
「安東愛季」=「秋田(秋田市)城主」
となっています。「神」は秋田・安東(安藤)を呼び出したといえます。「藤」がたくさん出てい
ますから、「(本)巣」の安東(安藤)大将が出てきます。
先ほど〈清須合戦記〉で
「★★安孫右京進忠頼、藤江藤蔵、太田又助、木村源五郎、芝崎孫三郎・・・・」
があり、二番目に「藤」「藤」があり「佐脇藤八」「布施藤九郎」「後藤」「安藤」などとの繋がり
が意識された表記です。「蔵」も「又蔵」ができそうですが。
安東は
「安東(あんどう)伊賀守大将にて・・・」〈信長公記〉
として登場しますが「石田の西光寺大将として・・・」〈信長公記〉というのと一対でしょう。甫庵
では「石田西光寺」という人となっています。「大将」というのが石田の「西」と繋ぎたかった
とも考えられます。「石田の」という場合は地名に入れられて索引では「石田」「石部」と並んで
います。したがって神部は神田でもあるのでしょう。
「阿喜多」は「宗達」の「喜多」でもあり、「宗達」は「(伊達)正宗」「北(喜多)野」「屋形=
館」でも出てきます。「屋形」は「尾形」に変わりえます。
「小野木」は横山城の「大野木」が出て、「森乱」はとりあえず、本文で「良琢」に繋がり、
そこから(つまり「り行」)
「林阿弥」「輪阿弥」、「竜雲院」「竜文寺」
が出ました。この「阿弥」の「阿」は「喜多」の接頭字という感じで「阿喜多」を構成していると
いえそうです。この「森乱」という表記は欠けています。★★と連動したもので、この7人の
連記はあの7人を裏からみたもの、現在感覚からみれば表から見たものということができま
す。戦場で名を挙げ得る人物群像といえます。「山田七郎五郎」がいましたが「七」は大村と
しますと「山田大村」で「大山田村」−大田村・山田村で「太田」の係累としてバレテしまいそう
です。「芝崎孫三」の「芝崎」は福井県大飯郡おおい町の地名にあります。本郷、丸岡、細
呂木いずれも地名で「芝崎」も入ってくると一帯というのがでてきそうですが「芝崎」のみここで
係累がでます。七兄弟の一人の連れ合いとして。
本郷の「信富A」=芝崎孫三
ではないかと思われます。テキストでは
「矢部善七郎(考証=矢部家定)の養子は若狭の本郷信富の子定政」
とややこしいものとなっています。定政は大村の養子という意味か、ここでは判りませんが。
「北畠」というのは「北」と「畠」でどちらも「武井夕庵」が出ていそうです。テキストでは
「き行」 「北畠中将信雄卿→織田信雄」
「北畠中納言→織田信雄」
となっており信長の子、織田信雄のこととされています。さしずめ出世表記が「中将」だろう
と思いますが、信雄は北畠家に養子で入っており、「国司父子」〈信長公記〉もあり、「信雄@」
「信雄A」くらいは少なくも考えとかないといけないのでしょう。「北畠」は「喜多畠」かもしれ
ないというと、そんなことはない、ということになりそうですが索引からみれば
北方 (本巣の地名)
喜多野下野守
北野藤四郎→粟田口吉光
北畠中将信雄卿
北畠中納言
という流れがあり、「中納言」となると、巷では「大江中納言」もあり「越前宰相」の「中納言」もあり、
「中納言」の天下の副将軍もあり、太田和泉守、従って武井夕庵の乗りかねないもの、下野
守(下方・下国の下)で繋がるものでもあります。「藤四郎」も四人兄弟の総領という感じが
出ています。それだと何となく武井夕アンというのも出てくるのかも。●が神戸信孝として知られて
いますが、ここに「作」が三つ出ていて
「神戸次郎作」〈甫庵信長記〉 「神戸二郎作」〈信長公記〉
があり、この「作」からも「神戸三七」の「神」を使うというという暗示もありそうです。最後の
「しのぎ藤四郎」
の「しのぎ」は「篠木三郷」の「篠木」があると思われます。ここは脚注では春日井市内の「津」
というところのようで
「織田勘十郎(信行)」「津々木蔵人」「織田太郎左衛門」〈信長公記〉
に関与してきます。「織田太郎左衛門」は「津田太郎左衛門」と同一人物とされていますが、
これは「化荻」の一節に「杉の坊」と出てきました。「津々木@」は前田「玄以」の青年時代という
ことで宛てていますがそれだと武井夕庵にからむことになりそうです。「津々木」は
「津々木」「津々木蔵人」「津々木蔵人(くらんど)」「津々木蔵」〈信長公記〉
があり、一つは「坊」の人と取るべき場合があるようです。
神部の「四方」、神吉の「志方」は「しかた」とヒラかれて地名索引では
志賀 四角屋敷 志賀郡 しかた しかたの城 ▲志賀田幡両郷 志賀の城・・
などが、「しかた」の周辺です。「志賀」があるので、北九州、金印の志賀島の志賀も思い
出されるところです。太田牛一は「しかのしま」に神功皇后を登場させていてここにも「神」が
入り込んできました。秋田にも「神」が出て、「神部」−「神藤」−「阿喜多」ー「下国ー安東」を
補強したいところです。これは芭蕉に頼りますが
「 男鹿島(をがのしま)
ひれふりてめじか(牝鹿)もよるや男鹿島(をがのしま) 〈五十四郡〉」
「 鹿島神前にて
この松の実(み)ばえせし代(よ)や神(かみ)の秋 〈鹿島紀行〉」
があります。▲が水野の村木という城をめぐる戦いに出てくる地名です。水野が蒲生を支えた
ということはいってきましたが四兄弟の一人であるという「水野」の説明が抜けています。
「たんけ・・・水野帯刀・・・・善照寺・・・」〈信長公記〉
となっているからこれはいわゆる「水野信元」とも思われますが「水野信元」はテキストでは
「水野下野守」〈信長公記〉 (家康の外伯父・・・武田に内通・・・・信長に殺される)
に当てられています。「下野守」ですから太田和泉守が乗っかって関連やら事情が説明され
ていそうな感じです。要は水野は小豆坂人名表
河尻川与四郎「十六歳」
で表されて水野と森というのが、隠されていました。先ほどの■「小河亀千代丸」が、その一端を
表すものです。水野の属性は「小川」「小河」で村木の戦いは「水野金吾」が登場しました。
〈甫庵信長記〉「三好修理大夫が家の子に松永弾状少弼・・・」などが出る足利将軍義輝
が襲われて命を落とすという重要な場面の終わり
「北山・・・鹿苑寺殿・・・・平田和泉・・・平田・・・恵比須川・・・・小川の住人、●美濃屋
の小四郎生年十六・・・和泉・・・其の比の狂歌に、
くるぶしもぬれぬ小川のみの亀に、和泉は命取られぬる哉」〈甫庵信長記〉
があります。狂歌に先ほどの■の「小川・・・亀」が出ており同時に「みの」が「ひら」いて出ています。
ここの●がポイントで「早水」、「泉水」、の例から
水野=「みの」=美濃
と見たいというのは、感ぜられることで、「美濃の井口(岐阜)」、「水野の井口太郎左衛門」という
のも出てきました。ここで「美濃」が小川の住人と結びついたといえますが、あの4人かどうか
が問題だということになりますので「小四郎」を出してきたといえます。四郎に二つの役割があり
@水野の小倅(せがれ)が和泉を討った。(十六歳が効いてきている)
A美濃の稲葉の小倅4人
があり、「平田和泉(平手和泉)」、「和泉」が背景にありますからこう解釈してもよいのでしょう。
(29)森蘭丸の年齢
今まで●は一世代下げてみてきましたが、間違いではなく、それもあります。姉川の場面
元亀元年(1570)
「嫡子坂井久蔵いまだ十六歳、容顔美麗人に勝れ心も優にやさしかりつる・・・討たれ・・」
」 〈甫庵信長記〉
の「十六歳」があり、これは先ほどの二つの「十六歳」と「十六」だけの、連携があるといえそ
うです。坂井右近とその嫡子の特別扱いですから「和泉」とその嫡子というのが出てるはずです。
十六歳だけを見るというのは、もう一件納得できない年齢が出されているからです。
永禄十一年(1568)
「右近が嫡男坂井久蔵、生年未だ★十三歳なりしが・・久蔵が働き殊更・・将軍の御感状・・」
があり、これは二年前だから、1570のものは十五歳でないといけないので、二つの坂井久蔵
に連続性がないわけです。これで十六歳に無理に出したということがわかりますから「十六」を
生かしていくのはよいといっていそうです。一方、内容をよく見れば後者に「生年」という言葉が
入っていますから、「生年」というのは今で言う年齢のことで、もう少し実態に近づけるとこうなる
というもので、一歳引くことになるということをいっているものです。織田信長桶狭間27歳というのは
は26歳くらいというのでよいはずです。公式をどこかで出すというものがある、それがここで
出たものです。したがってこれは一歳違いだからまあ合っているといえます。
しかしながら、またおかしいところが出てきます。
「小坂井久蔵」〈信長公記〉
という表記がありますから、これは森蘭丸であろうということになりますが、森蘭丸ではこの
年齢は合いません。森蘭丸の元亀元年1570(桶狭間10年後)の年齢は、筆者は29だと思い
ますが当時の一般の人はどう理解したか、といえば二通りの読みを用意して
1 16+10=26(10年調整)または
16+★13=29
くらいで、後者が合っていると考えられます。それは論外、というのはありますが29くらい
というのが分っていたら(26+29)/2=28、でもよく確認の材料にとしてに使えばよいわけです。
与えられた数字を組み合わすというのは現にあり、A と Bとどちらが合っていそうかと言う場合
などに使えばあまり文句は出ないでしょう。重要なのはもし、16といいう数字が17ならば
29と思っている人にとっては簡便法で
17+10=27
は、29と二つ違いに過ぎないから、合い、これで森蘭丸の年齢も確認できた、と一件落着となって
しまうそれは問題だということです。17+★13で30になってしまうから三つ違いならば森蘭丸
の年齢のことは述べられていない
とみて他に誰かのことではないかと気になって見るのが期待されています。
16+10(10年調整)+3=29
の「3」がどこから出てくるかということですが、これが坂井久蔵とは違う「美濃屋小四郎」を
森蘭丸と取ることによって出てきます。甫庵は
十六歳=河尻与四郎=■坂井久蔵=美濃屋小四郎=中野又兵衛(佐々孫介)
と決めてしまっています。まあいえば固定で、さきほどの永禄11年、坂井久蔵16歳というのは
この■のところに仲間入りさせるためのものともいえます。ただ〈甫庵信長記〉のストーリーでは
永禄8年の出来事のあったとき、つまり平田和泉をきったとき十六歳
とチャンと書いています。〈信長公記〉は永禄11年の記事(巻一)に
「先公方・・・義照御生害・・・永禄八年五月十九日・・・美濃屋小四郎、未若年十五・六
討手の大将平田和泉を切殺し・・高名比類なく・・」〈信長公記〉
があり、で、永禄11年(1598)の三年前(15・6才)というのも入れられた感じです。
元亀元年というのは1570年で桶狭間10年後という節目の年ですがこのときの年齢は
16歳+2年=18歳+調整10年=28歳、と
19歳+10年調整=29歳
ということになり、結局転がっている数字16+13=29歳となりました。
桶狭間大田和泉守満34歳とすると34−16=18(森蘭丸桶狭間年齢)+10年後=28歳 としていま で生年では、29歳です。
つまり十六歳というのは、第一子誕生の親の年齢の平均的なものということができます。
合い合わせの数字は使えるというのはおかしいですが一応根拠が入れられているようです。
平家の名将知盛は知られていますが、末子に
「知正」〈甫庵信長記〉(テキスト索引では「知盛」「平相国」とともに抜かれている)
がいるのは知られていません。これが16歳という歳で出てきます。
「平相国・・・文治元年冬・・・六・・・三十歳・・一つ二つ・知盛卿末の子三歳・・・
建久七年、伊賀の大夫知忠十六歳・・・」〈甫庵信長記〉
があります。「16」が出ていますが余り知らない人だから意味がないような「十六」です。
「三」+「七」は先ほど出た十ですが、「三」が変数のような感じですが「三つ」違ったら別人
、また「十」が重要で文治元年から建久七年まで十年です。三十は森蘭丸の満年齢、という
ようなことをいっていると思います。「知忠」の「忠」という字は先ほどの「安孫子右京亮」(注
では「足軽」)の「忠頼」の「忠」にも行き着きそうです。年齢に関しては
十年の調整がある、配備された数字の利用、基準が設けられている、
などの公式が森蘭丸で出たようです。
いま森蘭丸をやってきましたが「坂井久蔵」「小坂井久蔵」は表記が違うこともあり、森蘭丸だけ
を見ていてよいかということが出てきます。森勝蔵も全然分らないわけです。森勝蔵をみますと
「十六歳」というのがこれにも該当することが分ります。
「十六歳、河尻与四郎」
があり三兄弟に近い年齢で水野にあてました。もう一つ森可成@とみれないか、太田和泉守の
もと連れ合いだからほぼ同じ年齢と推定されるものです。
河尻与兵衛=森可成@=青山与三
が考えられます。十六歳は
「青山与三A」=「森勝蔵@」
を出すためのものといえます。この〈信長公記〉の「森勝蔵A」の年齢が元亀元年では、おそらく
太田和泉守嫡子とほぼ同じと考えられます。二人はいま十六歳がわかっているので10年調整
10+16=26+α
くらいではないかと思われます。先ほど一年違いの数字が出ていました。美濃屋小四郎
「十五・六にして」〈信長公記〉
がありました。森蘭丸年齢プラマイ1ですが15歳のほうが森勝蔵といってもよいかと。
後年小牧長久手の戦いに池田紀伊守(輝政の兄)と出てくる(婿と思われる)、
森長可は今は、この森勝蔵と同一人物と見られていますから、テキストでは
「1558〜1584」 「可成の長男」「信濃海津城主」「尾張長久手で戦死」
となっています。1558は桶狭間2年前です。1568ー13歳という坂井久蔵の年齢は、この計算
でいけば10歳となりますから、三歳違いとなり、「坂井久蔵、十六歳」とは切り離れた数字です。
あの森長可のことは述べているのかということですが、のべていないのはおかしい、
坂井久蔵は二人のはずで、もし述べているとすれば1568ー13歳としてストレイトで出さ
れているはずのものです。とにかく本文中の
「森勝蔵」〈両書〉
は二人、森勝蔵(青山与三A)と森勝蔵(森長可=可成の子息)の二人で、ここまで言及しようとした
のが年齢の一つ違う生死で登場の甫庵の「坂井久蔵」の物語とみられます。なお「小坂井久蔵」
は、清洲の城で「簗田弥次右衛門」
「伊東弥三郎・小坂井久蔵・・・討死。」〈信長公記〉
で登場で、親世代の「久蔵」は「弥三郎」に近い、「坂井久蔵」の多様を示唆したものとも取れます。
なお(永禄11年、16歳)、(永禄8年、16歳)、と二つの「十六歳」がありましたが、八年十六歳
となると「三年」上もあります。「忠頼」という人が森蘭丸の三つ上というのもいっていると、取れ
そうです。
(30)武蔵
とにかく現在いうところの森長可は「鬼武蔵」として有名で逸話の多い人物ですが、〈両書〉では
森勝蔵の武勇は出ていますが「武蔵」が出てきません。「武蔵」は信長弟、「勘十郎(信行)」が
「武蔵守殿」〈甫庵信長記〉
であり、「武蔵守殿」方へ差し向けられた「討手」が
「山口飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝」「青貝」「池田勝三郎」〈甫庵信長記〉
ですから、山口は「山口九郎次(二)郎」で「森可成」であり、「橋介」は森蘭丸に宛てましたから
「森」が出ます。今となれば「河尻青貝」が効いてきます。「河尻与四郎」ー「河尻与兵衛」でこれ
は今話の途中ですから。
「青貝」は「青山」の「青」で表参道の「青山」の「青」ですが「貝」=「甲斐」
かもしれないというと、そらちゃう、といわれそうですが、この「斐」は
スサノオ、八俣の大蛇が出た舞台「斐伊川」の「斐」です。これはとにかく
「甲斐国、河尻与兵衛下さる。」〈信長公記〉
がありますから「河尻」ー「森」の属性でもあります。「青貝」の「貝」は
「化荻」(クワテキ)=「貨荻」(化+貝+荻)
ですからあの絵の構成要素でもあります。貝は貝野→見野→美濃でもあります。「池田勝三郎」
は森勝蔵の属性と「勝」の字を含んでいます。
「戸田武蔵守」〈信長公記〉
があり「土田」ですから信長の「御袋様」の実家の家といえます。テキスト〈信長公記〉索引では
織田信長
●織田信長の御袋様→土田(つちだ)氏
織田信実 四郎次郎、織田信秀の弟
ということで出ています。一方この少し後ろに「織田信康」が出ていて
「与次(二)郎。信秀の弟。・・・・美濃稲葉山井口城で戦死。
(本文では)織田与二郎、織田与二郎殿 18・19 与二郎殿 17・18頁」
となっています。これは織田備後守(信秀)「舎弟」とされている人物です。ここで
■「織田与次郎」
が19頁にあるのに索引から抜けています。〈甫庵信長記〉では「与次郎」で「次」の字になっており
索引では 織田大和守
(同)主水正
織田与次郎 上34(「上」は上巻のこと)
与次郎 上33・36
となっています。本文では
「御舎弟織田与次郎殿」「御舎弟与次郎殿」、上33は「二男与次郎殿」
となっているので、普通(舎弟)が入るのにここの織田与次郎に抜けているのは痛いことです。
「織田備後守」の横に持ってきてでも入れなければならないところです。というのは〈信長公記〉
では、首巻の初めに早くも
「舎弟(しやてい)与二郎殿」 「御舎弟衆(しゆ)与二郎殿」 「織田備後守・織田与二郎殿」
「御舎弟織田与二郎」
を出して舎弟の問題重要だといっているのでさりげなく通そうというのは困るというところです。
■を索引から抜いてあるのは、気が付いて入れようとするときに、●がこの代わりかな、と
気づくかもしれないということでしょう。まあ柿本人麻呂や太田牛一が政令を出したらおかしい、
そういう表記が●で、一般に公的な場で通用する名前が■で、次のようなことをいいたそうです。
織田備後守信秀ーーーーーーーー織田信長
‖土田弥平次@(〈武功夜話〉から借名)
‖織田与二郎(織田勘十郎@)
織田与次郎(信長の御袋様)(土田氏)ーーー勘十郎信行(信勝)
「 信秀と与二郎は兄弟だからこういうことになると思いますが、「織田勘十郎」の「勘」と「十郎」
という漠然としたものが語りを広げています。織田与二郎を勘十郎@とするのは、索引で
織田信安(文中では「織田伊勢守」)
織田信康(文中では「織田与二郎」)
織田信行(文中では「織田勘十郎」)
織田播磨守 未詳
となってい信康と信行の接近があって、「十郎」の曖昧さが、なにか巧まれていると思わせ
ているのでそれに乗ったもものです。勘十郎はネット記事でも「信勝」も一般的であるのが
わかりますが、それを採用すると位置が変わり又別の展開があるのでしょう。
(31)池田恒興
「信勝」という
名前だけでも、ここに勘十郎の討手と出てきた「池田勝三郎」や「森勝蔵」の「勝」を思い出す
人もあるでしょう。あの池田勝入斎(恒興)は森長可の義父です。織田信康の前に、織田
信安があるのは家康を家安で読んでみると感じが変わるといったことで、〈吾妻鏡〉と類書
の間でもありました。こうなると織田播磨守もわかってきます。この人物は、織田信秀が
「大柿(垣)の城へ織田播磨守入れ置かれ候キ。」〈信長公記〉
で一回だけ出てきます。これは「一郎」的表記ではないので織田信秀夫人(お袋様)(織田与
次郎)が表に出てきて、これに戦闘に長けた織田与二郎が付いていたという構図がでてき
ます。索引から実体としてはそうかもしれませんが織田播磨守も二人でしょうから、まして播磨
は、太田和泉守の本拠の一つで、「播磨」「播州」というのは26ページに渡って出てくる
(〈信長公記〉は全部で423頁)、波及するところ大きい地名なので、あれこれ検討していく過程で
浮かび上がってきた人物は無視できないと思われます。後世の人は太田牛一が変わったもの
を出してくると飛びついて挿話を創り出して太田牛一がいいたかったことを別のこ形で述べると
とをやります。それは別としてもう一つ「二男勘十郎」というのがでてきましたがこれも「勘十郎」
@Aを作ったほうがいいという材料にはなります。信秀の兄弟紹介の記事は
「嫡男備後殿、二男与次郎殿、三男孫三郎殿、四男、四郎次郎殿・・・・」〈甫庵信長記〉
となっていて、信長の兄弟紹介の記事は(嫡男という記載はなし)
「童名吉法師殿・・・別腹の舎兄に三郎五郎殿・・・ニ男勘十郎は武蔵守・・・三男上野
介殿、四男九郎殿・・・・」〈甫庵信長記〉
となっています。嫡男二人いるのに二男は動かしていません。二男ー二男の対置があって
〈信長公記〉が「与二郎」として「二」を出し、この二男の「二」とつなぎ、併せて
「次郎」と「二郎」
の違いを出しているといえます。「二」は「仁」に通じて何もなければ「勘」の扱いになると思われ
ます。野々村仁清というような。
織田与二郎を勘十郎@(信行)とすることによってここは
織田信秀ーーーーーー織田信長(吉法師)
‖
信秀夫人(土田氏)−−−織田三郎五郎 ・ 勘十郎A(信勝)
|
池田勝三郎恒興(信輝)
ということで収束されそうです。織田信長は三郎といわれていますが順序が三番目だから三郎
で主(あるじ)の子だから生まれたすぐ4人の補佐役をつけて、領主としての扱いをしたということ
でしょう。織田信長は織田三郎五郎が反抗をするのに悩まされますが結果的には殺していま
せん。殺害しようとする計画もあったがこういう関係があって、出来ないのでやめたという
のが一連の事件の叙述で、このためにこの社会の仕組みとかそこから出てくる問題やらのことが
分って来るということでしょう。ここで信長がなついたという池田の
「養徳院」が「土田夫人」と「内藤勝介」
「池田勝三郎」が池田恒興と太田和泉守
として重なった挿話が生まれています。とにかく池田の養徳院=信秀夫人ということになりますので
で信秀夫人の晩年がわからない場合は養徳院が語るということになるのでしょう。また養徳院
の挿話では明智宗宿が語られるということになりそうです。信長と大田和泉守が乳兄弟かも。
(32)私年号の追認
勘十郎が討たれたのは
「弘治四年{戊午}霜月二日」〈信長公記〉
となっていますが、「弘治」は三年まででこの日は存在せず、「霜」月表記もおかしいことは別件
で既述です。この「勘十郎」暗殺事件はなかった、また内容は「弘治年間(永禄前の3年間)」
のものではなかったとするしかないようです。そらおかしい、そんなことは聞いたことがない、
ということになりますが、弘治年間というのは太田和泉守年号(私年号)といってもよい年号
で、これが叙述に好便をもたらす結果となるという判断によるものでしょう。〈クロニック〉によって
も 天文23年 天皇後奈良 将軍 足利義輝
弘治元年 天皇後奈良 将軍 足利義輝
弘治2年 天皇後奈良 将軍 足利義輝
弘治3年 天皇後奈良(10月)正親町将軍足利義輝
永禄元年 正親町 将軍足利義輝
となっていて天皇、将軍の異動は関係していません。年表でもこれは読み取れます。年表では
「(永禄元年)6月 幕府に改元のこと通ぜず、弘治年号使用につき通告〈惟房〉」
というのがあり、一般化するように努力されている感じですがこの惟房という文献の「惟房」
という人は、〈道家祖看記〉に出てきて桶狭間戦後に信長に綸旨が降るように動いた
「万里小路大納言惟房」〈道家祖看記〉
であろうと取れます。「万里小路」は
「万里小路光房」〈信長公記〉(人名注では「充房(1562〜1626)の誤字か」となっている。)
があります。「充房」は桶狭間の年に生まれたばかりの赤ん坊ですから違うようです。
充房@が「光房=惟房」かもしれません。
文中で「光房」の横に座っているのが「庭田重通」でこれは索引で丹羽の後ろにあって
「庭田御方源宰相中将」「源宰相中将」「庭田源中納言」
で登場してきます。これの父が重保で
「庭田新大納言」「庭田大納言」「庭田殿」
があります。「万里小路」の解説では
「万里小路氏(までのこうじ)氏は藤原氏北家勧修寺家流」
があり、「勧修寺晴豊」とか「勧修寺大納言」とか十個ほどもこの公卿表記が出てきます。
こういうのが天正8年
「御勅使、近衛殿、勧修寺殿、庭田殿・・・御取次、宮内卿法印・佐久間右衛門尉。」
というような五人の動きがあったりして、親しいという程度の以上のことは出しています。この
メンバーに「矢部善七郎」「荒屋善左衛門」が加わったものもあります。「善七郎」は「祖看」の
最有力候補と思いますが、そういう繋がりが公卿との間にあるので、年号も必要というなら、
公のもとして入れといてもよいだろうというようなことが起こることもありえます。
実際、弘治を入れることによってがわかりやすくなることもあります。
元年に清洲城へ信長が入城してから、弘治が三年、永禄が三年で桶狭間、ということで、
覇業の開始六年間というものを区切ったということでしょう。実際天文が長すぎて23年間続いて
います。年号というのは、ここで区切りたいというのと別に動くからそうしたいというのがあるので
しょう。とくに弘治三年、信行誘殺、永禄三年桶狭間の関係を重視したとも取れます。操作も
あり,次の★については既述ですが、天文だから、つまり弘治が間に入って天文が昔々のような
年号になっていたから、びっくりしたといえます。弘治・永禄を
〈甫庵信長記〉 | 〈信長公記〉
弘治元年 1555 清洲城陥落、信長入城。| 年号 記載なし 月日のみ記載
弘治三年 1557 ▲信行誘殺 | 所定の場所に記載なし(桶狭間翌年に回想)
永禄三年 1560 桶狭間 |★天文廿一年 1552 桶狭間
永禄四年 1561 |(天文廿二年) 1561 ▼信行誘殺
というよう纏めましたが▼の記事のなかで、
「弘治四年{戊午}霜月二日」
という存在しない年号が出ています。{干支}は合っており、正確さを意識したなかでの「四年」
です。また、おかしいことを知った上での永禄四年の四年が頭にあります。本来なら弘治4年
は天文27年ですが、それではこの辺ちょっとメリハリがつかない感じです。この▼の一節は
「(廿五) 一、家康は岡崎の城へ楯籠り御居城なり。
一、●翌年四月、三州梅が坪へ御手遣(てづかい)・・・前野長兵衛・・・・
平井久右衛門・・・信長・・・・
一、上総介信長公の御舎弟勘十郎殿・・・篠木三郷・・・津々木蔵人・・・
・・・・弘治四年{戊午}霜月二日・・・・・。」〈信長公記〉
というものであり、「家康」の行動は桶狭間の年のものです。それは
@前節(廿四)は「天文廿一年・・・」から始まる桶狭間の長い一節で
、A前節の終わりが「去(さ)て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。・・・」の話で終わり
「岡部」の「楯籠」を受けている「家康」「楯籠」となっている
のでそういえそうです。つまり●の年は迷うかもしれないが、桶狭間の当年で、「家康」が繋い
でおり、前の節に持っていくべきものをここへ持ってきたといってるようです(これは直感的にもわかる)。
★の「廿一」プラス「三」が節の(廿四)で、★の下(廿二)プラス「三」が節の(廿五)ということ
になるので★の翌年は一応天文廿二年として捉えておくべきというのが、「家康」の一文で
しょう。脚注では●は「この年代は確定できない。」とされているとおり、実際は桶狭間当年
義元討ち死に後の8月、徳川が兵を出してきたので、それとの戦いです(武功夜話)が
それは太田牛一が、●を翌年にしようとしたこと、と四月にしようとしたことの意味を感得しない
といけないということでしょう。つまり
永禄四年ー●翌年四月ー弘治四年(●の文中)
というものを関連してみてもらえるように「四」の連携を持たせた、何かを語ろうとしたとみてよい
ようです。(天文廿二年)を年表で見ると織田家の関連は一件だけで
「1553 天文22 1月(陰暦に閏)、平手政秀、織田信長を諌めて自殺〔信〕」
があります。これと▼を繋げば、平手政秀が諫死したのは信長が織田勘十郎殿を誅殺しようと
していたのでこれを食い止めようとした死ではないかというのが出てきます。すなわち、はっきり
いえば織田三郎五郎殿=池田信輝を討とうとして、結果的に信長は思いとどまったわけですが
(義兄弟)という義理の関係が発生するのはこの社会の特徴なのでこれを重視しないとこの社会は
成り立たないということかと思われます。ここで問題なのは平手政秀の死は信長記でわかる
ということになっていますが書いていないはずです。〈甫庵信長記〉では
■「行年未だ廿(はたち)にも及ばせ給はねば・・・諫書の時より期年(満一年)余にして・・」
と なっているだけだから、これでは書いてあるとはいえないといってよさそうです。しかし〔信〕
が「天文廿二年閏一月」といっているということだから既述の部分でもあり、結論的なことでどう
なるかというのもいるでしょう。
■の記事を〈信長公記〉で理屈をいえば、「廿(はたち)にも及」ばない、というのは十九歳のことと
解釈しますと、次の文が気になります。
■■「(十一)天文弐十弐年{癸丑}四月十七日、織田上総介信長公十九の御年・・・・
廿(はたち)・・・織田備後守殿・・・御遷化・・・廿の年・・・」〈信長公記〉
\ この、年表の「天文廿二年」の変形表記は■の「廿(はたち)」を意識しています。また〈信長公記〉
では「弘治」という表記を使ったのは二件だけで
@「弘治弐年{丙辰}八月廿四日」 (この一節では「御舎弟勘十郎」「勘十郎殿」「津々木
蔵」などが出てくる。次節は「織田三郎五郎」5回登場)
A「弘治四年{戊午}霜月二日」 (弘治四年は存在しない。桶狭間翌年永禄四年で
表示され、桶狭間誤記翌年「天文二十二年」を示す)
となっており、「弘治」と「弐」が繋ぎの字になりえます。
年表の「天文二十二年」は@Aの「弘治」「弐」、「弐十弐」の「弐」を経て、桶狭間翌年の「天文
二十二」に繋がるということで太田牛一のいいたいことにも添っているといえます。
■の遺書を書いた1年後という、遺書を書いたのは、いつのことかわかりません。しかし
信秀の葬儀に出ている信長と勘十郎が同時に出ている記事(位牌に抹香の記事)があり、これは
「織田備後守」「御遷化」
が出ている一節です。これは「天文弐十弐年」の出た一節■■にもありました。これに着目し
てみますと(位牌に抹香)の記事の一節は
「(九) 一、(備後守・・御遷化、三月三日、焼香の場面、「信長」「御舎弟勘十郎」登場)
一、(末盛の城勘十郎公へ「柴田権六」「★★佐久間次右衛門」を相添御譲りの話)
一、(平手中務丞の一男が信長と馬のことで仲違い「●主従不和」となった話)
一、(去程に中務丞・・・「腹を切り相果て候。」の記事)
(十)(一、「四月下旬」、斎藤道三、信長正徳寺会見の話)
(十一)(■■の記事、冒頭に「天文弐十弐年」の字句がある)
のようなつなぎ具合になっています。箇条書きのような形にする「一・・・一・・・一・・」のような
ものが多用されています。(十)も「一」が四っあります。
〈甫庵信長記〉では「織田備後守病死の事」の一節があってこの末尾に信長卿と平手子息と
の間で名馬をめぐってトラブルがあったことが述べられており、次節が
「平手中務大輔清秀極諫を致し自害せしむる事」
であり、
「かくて主従不和・・・猶清秀・・・・・愚息五郎右衛門尉・・・駿馬・・・諫言」
のあと諫言文が出ています。ここの主従不和が●に対応して区切を跨っていますから、
諫言の動機内容はこのことと、当時の人は理解したと思われます。しかしこれは鞘当の話です
から、この話の意味はわかっていたと思いますがそれはともかく、平手は諫言の翌年に切腹した
わけですから、テキスト脚注のように
「(九) 一」の焼香
の備後守の死を「天文21年3月3日」としますと「(十)一」の「四月下旬」が桶狭間の時の
ようには「翌年」とはなっていないので両方の解釈が可能になります。ここは当年ということに
なって平手の死はその翌年(十一)のところになります。年表では、信秀の死は
「天文20年」(42歳)
とされています。これは、天文22年を平手政秀の死とされていたからそれとの連動が
重要でこれは(九)の「去程」を確定してそうなったわけですが●が利いてきて(十)の翌年と
なったものです。したがって勘十郎の誘殺のことを平手が食い止めたといえます。ここから
いろいろのことが派生します。
(33)道三と信長の会見
例えば、有名な道三と信長の会見はいつかという問題については
わからないというのが合っているようで脚注にも記入がありません。ネット記事などでは
「1553−天文22年」
となっていますが、これは、1550、天文19年のことではないかと思われます。二年前に道三
と信秀が和睦し、信長と胡蝶の結婚のことが決まっています。これは〈甫庵信長記〉では富田の
正徳寺の会見の記事の次節に
「尾張国海津合戦のの事」
の記事があり、これは「信長卿」清洲表出勢の戦いですが、ここに「天文廿年八月十六」の
日付が入っているので天文22年の両者の会見はありえないということです。つまり、いはゆる
織田信秀は天文18年に死亡しているというのが〈甫庵侵長記〉に出ていますが、それをベース
に〈侵長公記〉の解説があるということです。この「海津」というのは、後年本能寺直前、「森勝蔵」
が「信濃海津城主(テキスト人名注)」となったのと関係があるのかも。太田牛一は森勝蔵の
「海津」
は書いていません。有名な永禄4年川中島、武田上杉の戦い、山本勘助一世一代のキツツキ
戦法の舞台で明滅するのがこの海津城です。甫庵では、この天文20年の海津のあとは、
三年(天文21・22・23)飛んで
「信長清洲城に移り給ふ事」(文中「弘治元年」)
「尾張稲生合戦の事」(文中「翌年五月」)
「武蔵守殿生害の事」(文中★「弘治三年正月五日」)
「■尾張国浮野合戦の事」(文中「永禄元年七月十二日」)
が続いており、弘治に入っています。ここで〈両書〉間に使い分けがあるのがわかります。
〈信長公記〉では「弘治弐年」「弘治四年」のみがありました。脚注では天文24年に弘治の
元年の朱書があるなどのことで弘治の存在を間違いないものという強調が随所にされてい
ますが〈甫庵信長記〉に弘治が載っているのでもう全国的なものとなっています。
こうみてくると「道三信長の会見」「海津合戦」の挿入とかによってみれば、平手政秀、
の天文22年の自殺というのがありえないことになります。「武蔵守殿生害」の件も太田牛一
「弘治四年」「霜月」といっていますから宙に浮いています。嵌め込んで読んで確認すれば
よいのでしょう。とにかく衝撃的な「自殺」「誘殺」というものを出したことについては消去が
されたといえます。
天文22年は織田の宰相ともいうべき「平手政秀@」が死亡したということの記録がされた
年表の「文化・人物」欄の
「1553 天文22年 平手政秀没、」
というのを素直に受け入れればよいのでしょう。「天文弐十弐年」は弘治がらみで自殺の部分
を引き受ける形です。★の日付は「弘治四年霜月二日」に暈されたと思いますが
「武蔵守殿・・・・柴田権六・・・・弘治三年正月五日に諸士残らず美膳を給はり・・・山口
飛騨守、長谷川橋介、河尻青貝・・・池田勝三郎・・・撞き伏せける。」〈甫庵信長記〉
正月五日というのは武蔵守殿の城中のみならず織田信長の城中でもあった美膳を給わる日で
あったのではないかと思います。ここに集まった人が重要というのでしょう。ここで
「武蔵守殿」三回、「武蔵守」一回
が出ています。〈甫庵信長記〉索引では
(織田)勘十郎 5頁(5回)
武蔵守 3頁(3回)
となっています。これは二人ということを、はじめから示していそうです。ここでいう武蔵守は
いはゆる勘十郎殿を一応、次の二つに分けてみる場合のAに属する人物として扱っています。
@織田勘十郎ー信長舎弟ー大隈守ー津田七兵衛信澄親父
A織田三郎五郎ー信長舎兄ー池田信輝(恒興)ー武蔵守
がその内容ですが、まあ@は「織田勘十郎」の「織田勘」に、Aは「織田十郎」に、重点を置いた
分け方です。@とAが勘十郎殿の中の二つに入るのは、どこからくるかいう疑問があります。
「子息信長卿の連枝・・・信長卿の童名吉法師・・・別腹の舎兄に三郎五郎殿と申せしは
後に大隈守と申せし御事なり。二男勘十郎殿は武蔵守の御事、織田七兵衛信澄の親父
是なり。三男上野介殿、四男九郎殿・・・・・」〈甫庵信長記〉
があり、これが@Aを統合してみなければならないというところです。「別腹」の捉え方に今まで
と違うものがありえます。これは背景の色が違うことによります。どれも織田信秀、土田夫人の
子息ですが実の兄弟と区別しない取り扱いが前提となっている社会にあります。織田三郎五郎
殿が土田氏の優れた資質を引き継いでいて英雄的気質の持ち主であることが織田信長との
軋轢が生じたもの元と思われます。
「戸田武蔵守」〈甫庵信長記〉
があり、のち関が原で大谷吉隆の友軍の名将「戸田武蔵守重政」の@ともいうべき人物で
しょうが、索引では、(右は〈信長公記〉)
戸田三郎左衛門尉 戸田宗二郎
戸田十郎兵衛尉 戸田忠次(文中「戸田三郎左衛門尉」)
戸田半右衛門 戸田与次
戸田武蔵守 ●(土田氏)文中ー「信長の御袋様」「御袋様」
戸田与次郎 (土田の大原)
土橋五郎兵衛 (土橋五郎兵衛尉)
となっており、「土田」からは「武蔵守」が出て、「戸田武蔵守」があり、〈武功夜話〉でよく出て
生駒氏も「土田」です。この戸田の
「三郎」が「三郎五郎」の「三郎」、
「十郎」と「半」は、「勘十郎」の「十郎」と「勘」、
「与次郎」は織田の「与次郎」、
「宗二郎」は「二男勘十郎」の「二」、
「土橋」の「土」は「戸」であり、「五郎兵衛」の「五郎」は「三郎五郎」の「五郎」でこれは「那古屋
弥五郎(清洲)の「五郎」の意味があり、「池田勝三郎」の二人が三郎五郎に含まれていると
思われます。右の●( )は「つち」と読まれているため「戸田」の後ろに来ていません。
左の「土橋」は地名で
「土田(ドタ)」〈信長公記〉
が用意されているので、ドバシでよく、「戸」=「と}=「土」で戸田氏=土田氏でよいわけ
●を「つち」と読んだら、「つち」で索引ができますが、それでやると右の「土田氏」の前は18
もの「津田」氏の人物が出ています。「津田」は「織田」ほどありウンザリですが、一つ
「津田三郎五郎 → 織田信広」 「津田大隈守 → 織田信広」
というのがあり「織田信広」が池田恒興(信輝)としてでてきます。これは年表では「広信」として
として、出てきていると思われます(もしくは「広信」と逆にすれば「勘十郎」の方になるのかも知れ
ないが)。要は「織田信広」が三郎五郎として考証されているならば、「織田広信」を使う場合は
説明が要るところです。「土橋」を見ていただくとわかるように通常「尉」をつけうのが甫庵で
〈信長公記〉が抜いているのが逆になっています。躰阿弥永勝ー毛利勝永、海老名勝正ー
佐久間正勝というような意味があるのかも。
(34)勘十郎
先ほどの★の「武蔵守生害」の中に「池田勝三郎」がでて、その次の節の■の「尾張国浮野」
のところに
「永禄元年七月十二日」「犬山・・・織田十郎左衛門尉信清」
が出てきます。信長卿がこの日、岩倉攻めで「二千余騎」を率い浮野に出陣、この十郎信清が
「千騎計り」
で合流し計「三千余騎」となって、岩倉勢「三千余騎」と戦った(以上〈甫庵信長記〉)のが浮野
の合戦です。甫庵は信長がこの戦いで取った作戦をチャンと書いていますが、頼りない書の
ことだからとして無視されています。この翌々年が永禄三年桶狭間ですが、そこでの信長の
戦の構図なき、出会い頭の勝利というものに結び付くように現代でも語られません。この犬山
の十郎信清が作戦のキーとなった活躍をして信長が勝ち翌年岩倉城が陥落し、国内の統一が
桶狭間前年でやっとなったということです。この「十郎信清」が誰かということが問題で、語りの
十郎でもあり、「一+九」郎でもありいますが、これが
「池田勝三郎(武蔵守)」
といえそうです。★の弘治三年の、池田勝三郎が池田勝三郎を討ったというのは矛盾している
ということでしょう。この事件はなかった、何かを語って消えた一節といえます。
親近の回復、平手の信長への諫言の書を見せられて改めて信長に協力を約したと
いうのがこの殺し合いで語られたといえそうです。浮野の戦いの戦勝のスタートなった和解と
なったので浮野の前の一節に位置していると思われます。一件、テキストの索引で漏れて
いたのを思い出しました。「三郎五郎」という表記の操作の判り難さを、カバーしようとした親切
なところがある、と思いますが、これがなくてもそう取れる、というところがある、おが重要かと
思われます。すなわち、
「別腹の御舎兄三郎五郎殿」〈信長公記〉、「別腹の舎兄に三郎五郎殿」〈甫庵信長記〉
という表記があって、今の記事は次のAで、やや実体の面から不確かな表記を持つ@Bに
挟まれて連続しています。「元年」は〈甫庵侵長記〉「弘治元年」「信長清洲城に移り給ふ事」
があります。
@〈信長公記〉弘治弐年八月、「御舎弟勘十郎」のところにいた御袋様のとりなしで許され、
「勘十郎殿」が柴田、津々木、御袋様と清洲に御礼。
A〈甫庵信長記〉弘治三年四月、「武蔵守」誘殺。(「勘十郎殿」と「末盛」にいた「母公」「母上」
「柴田」「津々木」など関与)
B〈信長公記〉弘治四年霜月、「御舎弟勘十郎」末盛・・・「勘十郎殿」を誘殺。(「御袋様」ほか
登場人物は同じ)
において、
●「御舎兄勘十郎殿」〈信長公記〉
という表記が「守山」「末盛」に絡んで出てきます。これで
勘十郎殿=御舎兄=三郎五郎殿 「勘十郎殿」=誘殺=武蔵守殿
となり、三郎五郎=武蔵守、ということになります。この●の出た一節には
「勘十郎殿御舎弟喜六郎殿」
「上総介殿御舎弟喜六郎殿」
がありこれに●を加味するとすんなりと読めます。〈信長公記〉では「武蔵守」はないのでテキス
トでは見出し「織田信行」で文中は「勘十郎」一本ということにされています。甫庵索引は
「(織田)勘十郎」「武蔵守」
が並んでおり「武蔵守」は問題だが、後はすんなり読んだらどうですか、となっています。
今なぜ、この勘十郎が出てきたかというと、森乱丸の年齢をやっていて、兄弟の森長可(森
勝蔵とされる)が、鬼武蔵と池田信輝の娘婿、として有名で、とにかく「武蔵」はこれしかない
のでここへきたわけですが、逆に言えば「池田信輝」=「武蔵守」が合っているといえそうです。
名実ともに鬼武蔵守となると関東の武蔵国は北条氏照の統轄地でしょうから
北条氏照
‖北条源三氏直(氏照)=桶狭間の林阿弥
‖団平八
森勝蔵
くらいのことを考えないとなかなか出てきません。池田勝入斎信輝の子息は元助と輝政が有名
ですが「輝政」は「照政」でもあり、「信輝」は「信照」でしょう。「照」は「氏照」の「照」かも。この
★「武蔵守」が殺された年は弘治三年(1557)ですが、〈信長公記〉は弘治四年(1558)霜月
にしています。これは霜月の記事の
「信長の御台所入篠木三郷・・・是を押領」(弘治弐年にも「篠木三郷」「押領」あり)
の「篠木三郷」横領の記事にこだわっていると思われます。これは10年前に起こった事件で
すなわち10年前の事件が
弘治四年武蔵守誘殺ーー永禄元年(弘治四年と同じ)十郎信清、浮野の大功
に繋がった、誘殺はなかった、、ここまで持ってきたのは誰の功ぞといいたいところでしょう。
もし永禄二年、岩倉の統合が無かったら、三千余の敵を抱えたままということになり、永禄三年
桶狭間の戦勝は無かったところです。10年前の事件■「岩倉落去の始末(武功夜話)」の一節
「ここに天文己酉年(ルビ18年、1549年)・・・・末盛の御城主、織田備後守様、御城中
において御薨去(こうきょ)遊ばされ候。・・・犬山十郎左衛門信清様、備後様(ルビ=織田
信秀)御在世の頃より、万事不服これあり候ところ、不慮の御最期・・・・御台地柏井、
篠木三郷
へ隙入り横領の企てあり。・・・・」〈武功夜話〉
があり、織田信秀が天文18年の死(天文21年の死ではない)だったということも併せて、三郎
五郎殿の不穏の動きを伝えています。前野家にも、比良の佐々内蔵にも書状がきたようですが
信秀の死亡をキャッチした俊敏な動きです。このとき太田和泉守はまだ織田信長の下にはいま
せん。〈武功夜話〉のここは、このとき小坂孫九郎が御台地代官だったというきわどい話となって
います。ここにも「小坂井久蔵」「同源九郎」戦死に伴い前野孫九郎が小坂の名跡を継ぎ
「小坂孫九郎」
になったと書かれています。改名で感じがゴロッと違ってきます。「坂小板」もあり、
「小坂井久蔵」〈信長公記〉、「(「坂井右近」の嫡子)坂井久蔵」〈甫庵信長記〉
がありました。「前野村の森氏」、「(前野改め)小坂」、「九郎」などというのは企むところ垣
間見えていましたが、■の一節は3頁ほどの長文の一節ですが世界史文献にも無い空前絶後
の仕掛けがあるところで、たまたま「篠木三郷押領」〈信長公記〉の文言がここに出ていたから、
これを話題にしたのだろうというのは合っていない感じです。「いをら様(ルビ=十郎左衛門信清)」
などがあるのは、太田牛一が没にした記事のなかのものという感じはしますが、それでなくても
著者がこの信清前後のことを解説しているのは明らかだからそれに従えばよいわけです
この事件、あとで上総介信長から柏井衆が褒賞を受けています。「平手中務尉(ルビ=政秀)」
が使者としてやってきたようです。天文18年(1549)は覚えておいて、これが〈信長公記〉の
既述の★★の記事に繋がると思われます。
少し遡って、★★の部分が位置、内容とも特別に重要で、葬儀の後「佐久間次右衛門」が出てき
ます。これはテキスト人名注では「佐久間信盛」扱いとなっています。つまり
項目 文中表記 登場数
佐久間信盛 佐久間 5ページ
佐久間右衛門(尉) 40ページ
■右衛門 1ページ
★佐久間次右衛門(右衛門か) 1ページ(24頁)
ということになると★の人物が、大田和泉守ではないかという見方がされています。誰が任命
したかは書かれていませんが、末盛の勘十郎の葬儀のあと、佐久間次右衛門が相添えられたと
いうことになり、天文18年の反乱を考慮すると割を食らったのは太田和泉守で板挟みになって
しまう理屈です。このあと天文23年の年の
こととして(信長が信秀の位牌に抹香を投げつけた場面は今では天文二十一年とされている)
「七月十八日、柴田権六清洲へ出勢
あしがる衆、
安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎
・・・・乞食村・・・誓願寺・・・・敵の鑓は長く、こなたの鑓は短く・・・織田三位・・・由宇喜一」
〈信長公記〉
があります。この柴田は今は織田信長方の柴田勝家が清洲へ攻めてきたとなっていますが
この七・八人は、中にあの射撃日本一の太田又助がいますので、子息衆をモジったのが
出てきています。清洲城(城主の織田彦五郎は「信友」「広信」という)は、この翌年弘治元年
四月に陥落しますので太田和泉守はこのころは信長側に戻っていると思われますが長鑓に
やられていて
ますので清洲城側でもあります。板挟み、攻め手と守り手、一人ニ役をこなしていると思われま
す。この太田又助を太田和泉守と解して柴田勝家の手の者としているのは間違いで、
太田和泉守の織田における家格の高さが、織田造酒丞や■のことによって、明らかにされているのが
のがわかります。■は〈甫庵信長記〉では「右衛門尉」になっています。織田月巌の子息は5人で
信秀 与次郎 孫三郎 四郎次郎 右衛門尉
で最後の「右衛門尉」は
@「佐久間」の「右衛門尉」
Aテキストでは「織田信次」(文中では「孫十郎」)
Bもう一つテキストでは「織田達順」(文中では「織田右衛門尉」)
C平手の嫡子「五郎右衛門尉」
があり、@Cは筆者の追加ですがテキストでもABの二つあります。Aは〈辞典〉では中川の
筋といわれておりそうなると、「孫十郎」が漠然として重要のようなので夕庵・牛一が乗っている
可能性があります。文中「由宇喜一」に討ち取られた「織田三位」というのもBの一つと考えられま
す。なんとなく「達順」という人物は那古屋弥五郎(清洲衆)小豆坂戦死により、そのあとを次いだ
人と思われ清洲城が陥落したときの城主「織田彦五郎(信友・広信)」の親という感じがします。
○五番目で五郎だから「織田三郎五郎殿(信広)」の「五」を構成している、
○信広ー広信(年表の表記)偶然の一致にしては重要なところで出てくる
○「織田三郎五郎殿」・・・「其の弟」に「安房守と申し候て利口なる人あり。」がある
をみますと
織田三郎五郎
‖安房殿(脚注=秀俊)
織田彦五郎
が一応考えられます。「安房殿」は人名注では「喜蔵」「織田信時」となっています。秀俊は
湯浅常山が湖水渡り、の明智左馬助に使っており、どこか早い段階で
明智左馬助
‖
織田安房殿(の係累)
が成立したかも。先ほど出た「由宇喜一(彦一もある)」には「由宇貴一」もあります。
織田信行の絡むところいろいろ書いてきましたが、いま読まれていないという前提で一から
話すのが特にむつかしいところです。「勘」「十郎」であり漠然としている、信長舎弟というのは
織田の武勇の中心のはずなのに早くに撃たれてしまって、いなくても物語が成立して、有名
でないから、関心がないというところです。次のもそんなところのことです。英雄、織田信秀の
武勇を支えたのは小豆坂の七本鑓、今で言う弟の織田孫三郎でしょう。
、
織田三郎五郎の三郎は「孫三郎」の三郎かもしれない、元に戻って次の一文から逃げられない
ということです。
「備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段の武篇者なり。」〈信長公記〉
御舎弟かつ段違いの強さです。この人物が勘十郎殿の今でいう父ですからまあ武勇抜群と
いったところでそれは池田恒興にも表れています。これが生き残りますから大変化が起こります。
織田信秀 織田与次郎 織田孫三郎 織田四郎 (五郎)右衛門尉
‖土田氏 ‖青山氏 ‖
‖孫三郎 ‖四郎殿 (なし) (なし) ‖
土田御前 青山氏(与三右衛門) 岩倉織田?
となり
○「孫三郎」が「舎弟与二郎」となる。信長にとっても父となる。土田御前は「与二郎@」
という名乗りが可能。土田氏の子息は「三郎五郎」「舎弟勘十郎」「勘十郎(安房殿)」
○四郎殿は「四郎次郎」だから「次郎」が「織田与次郎」の「次郎」に対応する。「与次郎」
青山氏が稲葉山城下大敗のときに戦死、遺児があるはずで、青山氏は森勝蔵・林阿弥
が想定できたが、「与次郎」の遺児が不明で、これが、森与三可成(信長弟、織田九郎
に組み入れられた)と思われる。
○「孫三郎」、「四郎(次郎)」はそれ自体としては係累が表示されない。「右衛門尉」は
第一義的には織田右衛門(達順)であと水野を含む三兄弟が四郎(造酒丞)次郎(内藤
勝介)に引っかかっている
ということを念頭に話を進めてきています。したがって、連れ合いの「土田氏」が重要となってき
ます。
〈信長公記〉人名索引では「池田」の次に「生駒」があって
「池田」−「生田」−「生駒」
という感じですが「生駒」が「土田」に変わるのは人名注では
「大和の生駒氏家広が1500年ころ「尾張丹羽郡小折」に移った、その孫親重は尾張土田
(愛知県海部郡甚目寺町土田)に住んだ・・・信秀の室は「土田下総守政久の女ともいう」
となっています。池田ー生駒ー土田で小折が入ってきて古織もあるとすると
「中川八郎右衛門・木下雅楽介・・・生駒平左衛門・河尻与兵衛・・・・中川金右衛門・
佐久間弥太郎・毛利新介・毛利河内・生駒勝介・・・・野々村主水・・」〈信長公記〉
というような羅列は桶狭間九人もまぜったものですが、比定がむつかしい「生駒勝介」は
古田織部がその一人として出てきそうです。類書では「池田織部」という表記があり、
池田勝三郎領地の一色村左介ー古田左介ー海東郡織田造酒正ー(内藤)勝介
の一節で、池田ー古田が繋げられている感じもあります。池田と古田の関係は「古池田」と
いう地名によっても古池田陣の配列によっても関係が出されているようです。
「 一、倉橋郷、池田勝三郎・勝九郎・幸親。
一、原田郷、中川瀬兵衛・古田左介。 」〈信長公記〉
という並びがあり、「幸親」が輝政とされていて、輝政は「古新」もあります。「古田」も
「古田可兵衛」、「古田左介」〈信長公記〉
「古田与兵衛」、「古田左介(助)」「古江可兵衛」〈甫庵信長記〉
があります。前稿の森の古田と、考証の「古田重然」との関わりがありそうです。
池田信輝ーーー池田輝政
‖中川金右衛門(古田重然)
古田景安(織部)、
ということではないかと思われます。いまあの古田は「古田重然」とされていますが「然」は「膳」とか
「善」で「明石全登」の「全」もあり、「自念(然)」とかの「然」で「八」の表記で、「天王寺屋竜雲」
(考証「了雲」)という表記が「太田和泉守」が後退して表されているのと同じ感じのものです。
宗達の風神雷神図のことを指しているといってきている「化荻」の部分がそうなっています。
「仁和寺」が属性の「野々村仁清」はこの古田重然となるのでしょう。これは
「調略・・・古田左介・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎、四人・・」〈信長公記〉
「福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎。」 〈信長公記〉
「調略・・福富平左衛門尉、野々村三十郎、下石彦右衛門、古田左助、・・・」〈甫庵信長記〉
などから察せられることです。古田と野々村の位置が重要なのでしょう。
「野々村三十郎四人」
二行目三人の引き当ては別として
「福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎・古田左介(助)
↓ ↓ ↓ ↓
「十郎」 「十郎」 「十郎」 「三十郎」
ということで三人の先輩の業績を受け継いで、集大成したものを後世に伝えたのが「古田
重然」で、世の人がこれを「野々村仁清」と称したといえそうです。
「東善寺の延念と申すう徳なる坊主・・・・蜂屋の郷に八と申す者・・・・御代官野々村
三十郎・長谷川竹両人・・」〈信長公記〉
もあり「然」「仁」とか一応「八」が前面に出された表記となっています。
「重然」の「然」はこういうことでしょうが、
「重」はテキストの「小川(水野)重清」「中川重清」の「重」で、「重清」の「清」は 「仁清」の
「清」に反映しています。この「にんせい」は「じんせい」でもあります。野々村三十郎はテキスト
では「野々村正成」となっており、「成」は「成吉思汗(じんぎすかん)」以来「じん」とも読まれる
でしょうから「仁清」は「成清」→(しげきよ)→「重清」ともなりそうです。
どちらが本家か知りませんが昔の「河内国」にも「仁和寺」(寝屋川市)が
あります。京阪電車の香里園から仁和寺行きのバスがありますが終点手前
「成田山(不動尊)」「三井(団地)」「仁和寺」
がありますが「三井」は、「尾藤源内」のテキストの注に「三ツ井村」がありました。源内は「道家清
十郎」と言い換えられて古田織部で引き当てていたものです。「尾藤源内」は索引では
「肥田玄蕃允」「同彦右衛門尉」「尾藤源内」「尾藤又八」
となっており上の「(下石)彦右衛門」にも「尾藤」が及ぶようです。テキストでは「肥田玄蕃」は
「・・・・上米田村福島城将・・・・・斎藤新五の叔父。」
とあり、「福」も「明智左馬介」関連ということでも、上の「福富」にも関連しそうです。
「福富平左衛門」は〈両書〉に「明智左馬介」の登場回数が余りに少なく、それを補う表記と
みてきましたが、それはそうとしても、「太」「市」登場の今となっては、今で言う連れ合いと
みて両者の行動を知るということでよさそうです。この人物の素性がわからないというのでは
それが合っているのかもわからないわけで、これは誰かということが問題となってきます。
「仁和寺」と「三井」と接近させたので「古田」が出てきました。「成田」というのも「正成」が
があるので、一連のものという感じがします。人名索引では
「成田助四郎」「成田弥六」、甫庵は「成田下総守」
があり「助四郎」「弥六」は「山口九郎二郎(森)」の足軽で、下総守は「忍」の城主です。
「鯰江又一郎」「鯰江香竹」「楢崎太郎左衛門」「鳴海助右衛門」が索引で「成田」と
接近しますが「又一郎、香竹」は武井セキアンが出ている感じで杉谷善住坊がここに隠れて
いました。 鯰は「念」→「然」、「楢」は「猶」が出ている、「鳴海」は山口左馬介登場で
太田和泉守の野々村十郎があるかも。とにかく「野々村仁清」という特別の有名人がよく
わからない、というのは古人にとってはありえないことで解説があちこちに転がっているはず
のものです。御室の仁清のいまでいう父は、「宮本兵大夫」など七人の侍が出てくる化荻の
一節で出ていそうです。
(35)天竜と開山
「化荻(クハテキ)(草冠なし)」はあの風神雷神図の絵を表していることは述べてきましたが、
この絵の周辺に、馴染みのない4人(全5人)が出ています。判ってきた範囲内で注記すると、
「杉の坊」・・・・(杉谷善住坊=森えびな)、(蛇の一節「鵜左衛門」「又左衛門」から)
「津田太郎左衛門」・・・・(水野太郎左衛門)ーー(蛇の一節「井口太郎左衛門」暗示)
「天王寺屋竜雲」(了雲)・・(「金松又四郎」=兼松正吉=〈武功夜話〉では「兼松金右衛門」)
太田和泉守の連れ合い、上の津田とつながり「宗達」「宗及」
を示し、天王寺屋は、大文字屋、俵屋を暗示)
「開山」・・・・・・・・(●開山和尚=瑞龍寺の和尚=武井夕庵の連れ合い、大文字屋)
「今井宗久」・・・・(今井宗久@=松永久秀A(松栄)の連れ合い=狩野法眼)
ということになるのではないかと思われます。「開山」は脚注では、「宋代の高僧」「エン悟」とされ
ていて、「人」というのがわかります。それなら人名索引に入るはずで、入れれば「か行」の初め
「快川(かいせん)紹喜」(文中「快川長老」「妙心寺住持」「心頭滅却すれば・・・」で有名)
だけとの並びとなります。「喜」があります。要は、古田の重然のように一郎的表記で表したという
ことでしょう。それぞれも、一流の匠の腕前を持って時代をリードしている、現実的にも体力、腕力
が勝り、子供と同体的でないという身軽さから、社会的活動の主役であるのは古来より変わら
ないわけです。〈甫庵信長記〉に
「士農工商」
という語句が使われていますが、「工」というのは建築なども入るということになると、士農工、
力が重用されて、古来よりきているということでしょう。「士」のなかも、より遠く、より早く、より
強く、薬を飲んでも新記録というような、高低長短大小ー強弱の価値感で流れ勝ちですが、それ
を陰陽の陰で全体を包んでいこうという工夫がされてきたわけです。しかしこの体制が維持さ
れて来ているのは、強者の中の理解者、協力者の存在があります。
「天王寺・・・・毛利河内・金松又四郎、先を争ひ・・・毛利河内・金松又四郎両人して、
・・・長末新七郎をつき臥せ、毛利河内、金松に頸を取り候へと申されたり。其時金松
申す様に、
某(それがし)は手伝(てつだひ)にて候間、河内に頸を取り候へ
と申し、・・・あたら頸一つ取らずして罷退かれ・・・」〈信長公記〉
これは敬語が使われているから太田和泉守と兼松正吉の間のことですが、「手伝い」として
表には出てきません。織田造酒丞にも同じような発言が出ていました。具体的には表に出てこ
ないのですが、ここで一郎的表記で、そういう人を表に出してきてるといえます。
この絵は永禄11年
「周の武王・・・かくこそあらめ・・・惟みるに信長卿・・・万幸竜の雲・・・虎の風を得る
がごとく・・・松永弾正少弼・・・今井宗久・・・菅屋(すげのや)・・・・森三左衛門・・・・
■義経・・・制法正しければ・・罪を犯すもの一人もなし。・・・・上下安堵の思ひをなし・・・
此の君万歳々々万々歳と呼ばふ声洋々乎として耳に満てり。」〈甫庵信長記〉
の時期に描かれたと思いますが、「所持」していたのは「天王寺屋竜雲」で、これは「宗達の一族」
とされています。「化テキ」のところに「宗達」が出てきたので一応、風神雷神図を想定できる
ところですが〈書記〉や〈吾妻鏡〉にあれほど出てきた「雷」がまったく出てこないので決め手を
欠いています。ここは絵のことが出ているというのは金松又四郎がヒントを与えています。
(36)長谷川等伯
索引では金松は〈両書〉とも狩野永徳の前にあります。また
「丁野山・・若狭表・・・・風に木の葉の散るがごとくに・・・金松又四郎・・・生足(すあし)・・
・・血にまぶれたりし・・・・足半(あしなか)・・越前国・・・加賀国・・・・竜門・」〈甫庵信長記〉
「ようの山・・・金松又四郎・・・生足(スアシ)・・・足はくれないに染みて・・・足なか・・・
敦賀・・・府中竜門寺・・・」〈信長公記〉
〈奥の細道〉では
「天龍寺(天竜寺)・・・・物書いて扇・・・・・五十丁山・・・永平寺・・・道元禅師・・・・」
( があり、脚注では「正法眼蔵」がでています。すなわち金松又四郎は別の画号を持っていない
か、ということで気になってきます。これがそうかどうかは別にして、いま
「長谷河宗仁法眼」〈甫庵太閤記〉、「長谷川(河)入道宗仁」〈甫庵信長記〉
が誰だかもわかっていません。長谷川等伯は狩野永徳と並び称される有名な画家ですが
〈両書〉に出ておらず、実在ではあったが、太田和泉守の世界と関係有る実在(哲学でいう意味
はどうかは知らないがここではこれを「実存」と呼びたい)、つまり実存ではない
と、されているので「長谷川等伯」は高山右近の画号かもしれないといっても通じません。現に
年表では1610年=〈信長公記〉完成の年の死亡で(72)となっていて高山関係ないではない
となってしまいます。しかし一方で利休の肖像画が有名で、利休と親しかったはずだから、そうは
いえない、といっても七尾で絵を学んだんだから新幹線の無い時代遠すぎるといったことに
なります。等伯は染物屋奥村文治の世話で長谷川宗道(道浄)の養子となって絵を学んだ
ということですから、「長谷川」と、入道の「道」と宗仁の「宗」が共用されています。狩野永徳
と太田和泉守は時代を同じくして「実在」していたと明治の学者が説明してくれて、そのままで、
きています。狩野永徳は太田和泉守の「むこ」だったとなると、永徳は読者や大田和泉守にとって
生き生きとした実在となってきます。「実存」を使いたいところでしたが哲学用語で先取され、
ているので、筆者のはそれとは意味をすり合わせないままの、単純な意味のものです。
いわゆる長谷川等伯は太田和泉守のムコだった、高山右近に絵を教えた宗仁法眼であった
ので高山が「等伯A」のつもりで「等伯」と絵にサインする場合があるということです。
■も、〈信長公記〉では
「判官」であり、「ほうがん」=「法眼」
で道元の正法眼蔵にも繋がります。この一節のはじめには「宮本兵大夫」が出ますが「宮居
眼左衛門」「正眼寺」にも行くものです。芭蕉の「扇」は宗達、「丁」は先ほどの金松登場の文に
出ていました。この絵を
書くときの足の汚れの感じが〈信長公記〉に出ています。甫庵はこの金松の一節で
「風に木の葉の散るごとく」
を出し、永禄11年の五カ国制覇のときは
「竜の雲に乗じ、虎の風を得るがごとく(聊かも滞る事なし。)
9 で、「風」を出しています。竜・虎/雲・風が対置されていて、〈信長公記〉は
「風に草木の靡クガ如ク・・・」
「士力日々にあらたにして、戦フコト風ノ発スルガ如ク、攻ルコト河ノ決(さく)ルガ如シ」
し となっています。意味はとにかく「河」を「雲」と変えて「雷」に近づけたいところです。化荻の
はじめに「宮本兵大夫」など一郎的表記の7人が出ていて、繋がりがわかりにくいのは
「鈴木孫一」「嶋本左衛門大夫」「栗村二郎大夫」
があります。「嶋本」「栗村」は「金松又四郎」の人名注に
「兼松正吉(▲1542〜1627) 兼松氏は尾張葉栗郡嶋村(一宮市島村)に住した。」
とありますので、その「嶋村」の「嶋」と「葉栗」の「栗」を名前に取り入れて、著者がが本節で述べる
化荻の「天王寺屋竜雲A=了雲」は兼松又四郎だと暗示したというのがこの人名であると思い
ます。この年齢がどうなるか、ということですが、
この▲は寛永4年の没(85歳)ですから、大久保彦左衛門などとよく出てくる旗本の兼松
又四郎、つまり子息のものとなるのでしょう。したがって兼松正吉@の生年は15歳のとき子息
が生まれたとすると1542−15=1527年の生まれ大田和泉守の一つ下くらいとなります。
これを長谷川法眼との関係でみれば、さきほど長谷川等伯は1610年、72歳(満70)没でした
から1610−70=1540。くらいの生まれとなりますがこれは▲の子息の生まれと同じです
から▲は二世代が重なった@A共用とされているものということになります。長谷川法眼の
没年は1610−1527=83くらいとなり、72歳となっているものに10年プラスしたもの、と
いうことになりそうです。これでいけば長谷川等伯は実存していたことになり、高山右近は
叔父の家に寄宿して絵を学んだというのだから、ありうることではあります。高山右近のいまで
いう父相当の人が能登に関係の深い人であるということなどが明らかになってくれば、このとき
使われた信春の「春」が生きてきます。高山の
「長谷川藤五郎」「長谷川平蔵」「「長谷川橋介」「長谷川埃介」
などの表記が「長谷川法眼宗仁(等伯)」の長谷川につながっていそうです。
狩野永徳と対置される、いわゆる長谷川等伯は高山右近を指していってきた
と思われます。
「宗仁」の「仁」は「野々村仁清」の「仁」と同じで「法眼」に通ずるものですが、ここに。
「今井宗久」だけ出されているのも松永氏が隠されているといえそうです。天王寺屋竜雲に
対置されているのが意味のなさそうな開山ではないかと思われます。
(37)開山の蓋置
●の開山も開山エン悟とされていますが、
開山和尚
ととるべきで、ネット記事「開山和尚」でみれば寺を開いた人というのもありますが再興もたく
さんあって地元では固有名詞となっているといってもよいようです。記事「金禅寺由来」でみれは
大阪難波の
「瑞龍寺」(通称てつげん寺)
が出ており、これ一つだけでもここを解説するに十分なものです。ここの開山和尚は
「鉄眼道光禅師」
ですが、明治維新までは飯野藩保科氏の菩提寺で「保科弾正」の名も出ています。「八ヶ道場
の一つ」というのも出ており意味は不明にしても「道光」が出ており、「道場」は
「道場河原」(神戸市兵庫区)〈信長公記〉
があり、ここには「古池田」「古田」「池田」「中川」「高山」「野々村」「惟任」「筒井」「三木」「鉄砲」
「居城(ゐじやう)」「三田(さんだ)」などが出てきて、「瑞龍寺」の和尚に絡んでいそうですが
「てつげん寺」「鉄」「眼」
が気になるので、兵庫の「さんだ(三田)」から尾張の「山田」に戻ってみることにします。
その1、「鉄」溶鉱炉と「眼」が出ています。
「▲尾州国中清洲より五十町東・・・佐々・・居城(ゐじやう)比良・・・堤・・・あまが池・・・ジヤ
池・・堤・・・葭原・・・又左衛門・・・堤・・・同躰・・・堤・・・堤・・・つらは鹿のつら・・・眼・・・星
光・・・舌・・・紅・・・眼・・・舌・・・光・・・鵜左衛門・・・味鏡村・・家子・・・井口太郎左衛門・・」
〈信長公記〉
その2、「鉄」「天沢A」が出ています。
「天沢・・天台宗の能化(のうげ)・・武田信玄・・・上総介居城(ゐじやう)▼清洲より五十町東
、春日原のはずれ味鏡(アチマ)と云うふ村天永寺・・・鉄(砲)・・・平田三位・・・友閑・・・
人間五十年、下天・・・口付・・・信玄・・・しのび草・・・信玄」〈信長公記〉
その3、「眼」と宮本武蔵も利いています。
「清洲の並び三十町・・・おり津の郷・・・正眼寺(青松山正眼寺)・・・正眼寺・・」〈信長公記〉 てんたく
▲▼は芭蕉〈奥の細道〉の
「五十丁山に入て永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。」
の五十丁と対応し「天竜寺」に対応する「永平寺」を出して天沢の「天永寺」を生かしています。と
「能化」の「化」は「化荻」の「化」で、この絵の話に天沢A、瑞龍寺の和尚が出てくるといっていそう
です。この一節に「八幡」が出てきますが、これは近江八幡が考えられます。村雲御所瑞龍寺
を秀次の供養のあめ京都に建立した人物がいます。遺構は現在は近江八幡にあるようです。菩提を
「能化」の「能」は天正九年
「●菅屋九右衛門、能登国七尾城代として差し遣わされ候なり。」〈信長公記〉
という目に付かないようにされている「能登」の「能」をみているのでしょう。「菅屋」は永禄11年
「万幸竜の雲、虎の風」〈甫庵信長記〉
や松永弾正、今井宗久などが出た一節で、「すげのや」というルビで、二字で出ていました。
「化荻」の一節、冒頭に「宮本」など「七人」の侍あり、「七」の「七尾」には長谷川宗道がおり
「等伯」を養子にしました。類書の「長谷川宗道」は今となれば、漠然としていて引当が難しい
「長谷川宗兵衛尉」〈甫庵信長記〉
を受けたものではないかと思われます。「山田弥右衛門」と並びで出てきますので「山田」は
太田、武井かも。「狩野永徳」とでてきた「竹尾源七」は「竹屋彦七」で「七尾」=七「屋」
であり、「屋」が「化荻」の一節にあり、七尾の能登国の一節、にあるので、天沢の「能化」の
一節にも及びます。「城代」という「代」は、「能登」が介在していると、「能代」(檜山)の「代」と
いうのに繋げる人も出てくるかもしれません。「阿喜多の屋形(館)」ー「宗達」を想起する人には、
「代」というのか「化」にも似ており、化荻にも及ぶかもしれませんが、この「城代」の「代」は
「副」、すなわち「手伝ひ」というのも出てきます。
天王寺屋竜雲と、竜雲A「了雲」というのがありそうです。「了」は渡辺勘兵衛了の了と同じです。
俵屋の社長は「宗達」でしょうがほとんど仕切っているのは副社長宗達Aかも。つまりこの
●は大田和泉守相当の人でなく瑞龍寺の和尚を指すものと考えられます。
化荻の一節には、さきほどの「八幡」のほかに
「香庄」「佐野」「若江」〈信長公記〉
がありますが「香」というのは「高」に入れ替えられます。これは〈万葉集〉「三山の歌」に
「香具山(かぐやま)は畝傍(うねび)を惜しと耳成(みみなし)と相争ひき・・・」
があり、この「香具山(かぐやま)」は、万葉仮名では「高山波(ルビ=かぐやまは)・・・」となって
ます。
だからこの歌は「高山は」としてルビを「かぐやま」とするのが合っています。
もちろん、ショ明天皇に「香具山」に登って国見をする歌があるから、香具山が合っているので
しょうが、疑問が出てこない形に修正されてしまっているということはいえます。ここの
「惜し」も「雄男志」
で、語感が変わってしまっています。ここでテキスト(旺文社桜井氏訳注)では
「中大兄が後の天智天皇であるという注を付しながら中大兄皇子とも三山御歌ともしていない
・・・これは決して中大兄に好意的な題詞とはいえない・・・・“畝傍雄々し”と理解されたよう
に思われる。すなわち、女山である香具山は、男らしい畝傍山をとられまいと、女山である
耳成山と互いに争ったということになる。なお一人の男性を二人の女性が争うという疑問か
ら耳成山に男山説もある。しかし強力な女権の社会にあっては必ずしも一人の男性を二人の
女性が争うという形を不自然とすることは出来ないのであって、そうした時代以来の伝説であっ
たとも言えよう。」
とされています。強力な女権社会の存在があったことが示唆されています。もし当時では伝説
の領域のことであったというならば隠す必要は全くなく、いつなくなったのかを知ることが最重要
の課題となります。人間社会に半数ずつ居るのは男女でその腕力の劣るほうが社会をリード
すべきだというのは驚嘆すべき発想で、それを実行維持していたという痕跡があるのなら、
ユートピア的で、実際的だったというのだから、知るべき価値ある最大のことでしょう。
芭蕉に
「・・那須・・・猶・・殺生石・・・落ちくるや高久(たかく)の宿(しゅく)の★郭公(ほととぎす)」
(「高久の里」もある) というのがあって、この「高久」
は〈万葉〉にくわしい芭蕉が「高山(かぐやま)」というものに疑問をもち「香久(具)山」というの
は高久山でないとおかしい、といったのかもしれません。「宿」というのは「しゅく」と読まないと
いけないと釘をさされていますから高久として「かうぐ」とでも読まないと、高山(かぐやま)と
ならない理屈をいったともとれます。★は〈信長公記〉では
「卯花(うのはな)・郭公(ほととぎす)、五月雨(さみだれ)・・」
の連弾があります。この〈曾良日記〉で那須郡那須町、高久の庄屋、「高久
角左衛門」の出るところの〈奥の細道〉本文は
「石・・石・・(那須)館代・・・口付・・野・・・石・・・石・・・」
があり、ほかに「石」のあるのは「しのぶの里」でここは「シノブ郡」「福嶋」ですが
「しのぶ・・・石・・・忍ぶのさと・・里・・・石・・・・里・・・麦草・・・石・・石・・早苗・・しのぶ・・」
があり、〈信長公記〉の蛇池と天沢の一節(両者は山田、味鏡村などで繋がっている)の「口付」
や「しのぶ」が取り入れられています。
〈万葉集〉の「高山(かぐやま)」の「高山」も「高久」を通して、
「香庄」
にきました。もちろんこんな遠回りをしなくても「高」=「こう」=「香」であり〈古事記〉では
「香山」(ルビ=かぐやま)
なので「香(山)」=「高(山)」であり、高庄ー高山を化荻の一節に出そうとしたといってもよい
ところです。しかし芭蕉において付加しようとするものがあったかもしれないわけです。那須の
高久となると「那須久右衛門(信長公記)」が出てきますが、これが出てくるところには
「二条妙覚寺」〈信長公記〉
が出てきて、これは「化荻」の一節に出てきます。「(野間)佐吉」「(岡)飛弾守」「池田(筑後守)」
などが、「化荻」にもつながっていきそうです。「高久」の「角」というのはここの「覚」注目という
ことにもなりそうです。加藤二十四将「飯田覚兵衛」−「飯田角兵衛」の「かく」の問題があります。
「高久」の「角」は「隅」「隈」に掛かって行くことも大きいことです。索引では「那須久右衛門」の
あとは、先ほどの「鯰江香竹」「鯰江又一郎」「成田助四郎」・・・と続きますから、「仁清」のいま
でいう父が化荻の一節に出ているといっているのかもしれません。
(38)志立
「香庄」はもう一つ別の一節で
「八幡・・・・若江・・●和泉の内香庄・・・・貝塚・・舟・・貝塚・・・舟・・・●香庄・・・杉の坊・・・
佐野の郷・・・■志立・・・堀久太郎・・・(「雑賀」三つ)・・・堀久太郎・・・(「岸」三つ)・・・
堀久太郎・・・稲葉父子・・・飯沼勘平・・惟任日向・・筒井順慶・・神戸(かんべ)・」〈信長公記〉
があり、ここの●で出ています。脚注では
「岸和田市神於町」
となっていて「神皇但馬守」が「神尾」だろうとされているのと同じことが起きています。
芭蕉が神尾氏に会ったのは〈曾良日記〉の
「二本松・・・黒塚・・・福嶋・・・シノブ郡・・・福嶋・・・福嶋・・・神尾氏・・・福嶋・・・福嶋・・」
という土地のあたりです。「高山」が「神尾」となって「化荻」の一節へ流れていきます。「神戸」
も「かうべ」と読めるので「神」=「香」=「高」でよいようです。「雑賀」は「化荻」の一節にあり、
織田三位・修理を伴った首巻の「雑賀」を、ここの「雑賀」で思い出して、「化荻」が受けとめると
いうことにしてありそうです。「岸」は「岸良沢」「岸良琢」があって後者は森乱丸と出てきました。
■が問題で現在地名がありません。テキスト脚注では「大阪府泉南郡泉南町のうち」となっていて
てよくわかりません。これは、〈信長公記〉人名索引
立川(タチカワ)三左衛門(「たち川」もある、「★宇津の宮の貞林(テイリン)」の使い)
伊達(考証名「伊達輝宗」)
となっている「立」なので「達」「館」で「宗達」が出てきます。★は現在未詳のようですが、常山は
「大関夕安ー宇津宮」を出しています(大関氏は那須黒羽城主)。「宇津」は丹波宇津荘(明智)、
、「宮」は「宮内卿法印」の宮もあり、宇都宮弥三郎(吾妻鏡)」もあるから★はボンヤリと武井
セキアンが出てきた感じです。
■について、ウイキペデイアなどによりますと泉南町に統合されたところに
信達村
雄信達村
があってこれが「信達」=「したつ」=(志立)で宗達の達がでてきます。ルビが打たれていない
はずだから「しんたつ」と読むのが普通だ、ということになりますが、太田和泉守は地名索引で
志立 222
信楽(シタラ)口 362・363
志多羅郷 181 シ□タ□ラ
となるようしています。二箇所とも「シタラ」とルビが打ってあり、「 信 楽 」のようなルビの
打ち方なので、「信」を「シ」と読めないわけですが、下の「志・多・羅・郷」で「信」=「志」で宛てた
と云っています。接頭字の「雄」が何ともいえない効きがあり、天王寺屋の「了雲」というのが出て
きたではないかと思われます。地名だからそんなことはないというのが合っていそうですが
岡部藩の工夫があったのかもしれません。とにかく「化荻」の一節に上の「立川」と並んだ「奥州
伊達」があります。「志立」がここで出ていて宗達につながるのは案の内ですが、「神尾」も
「立」=「達」も出てきて風神・雷神図の
風・神、竜、虎、尾、などが出てきました、尾=屋であり後世では宗達の喜多をみた
「阿喜多の屋形(館)」は「阿喜多の尾形」にモジられかねません。ここまで出たら「雷」もほしい
ところです。
(39)自来也
芭蕉で「石」がたくさん出てきましたが〈万葉〉では、三成の「成」も「耳成(みみなし)」の「なし」で
おかしいからか「三也」を持ってきた人が現におります。この「也」が〈信長公記〉の「あまが池」
の「おろち」に使われて、
「虫+也」(ジヤ)
になっていて、「也」(ジヤ)では感じが出ずに困っているものです。この太田和泉守の珍妙な
ジヤは後世が利用しないのはありえないでしょう。「雷」を出したいと思って「也」が出てくると
「自雷也」(忍者)
を思い出しました。ネットでは「自来也」「児雷也」がありウイキペデイアでは「江戸時代後期の
読本に登場する架空の盗賊、忍者」となっています。文化3年(1806)ころの発生のようです。その
後「河竹黙阿弥」などによって歌舞伎で取り上げられて広まったようですが筆者はもう名前だけしか
覚えていません。同記事では 「肥後の豪族の子」
「三好家の浪士尾形周馬」
が自来也で、敵が「大蛇」から生まれた「大蛇丸」で越後の「妙高山」で修業、妻が「綱手」という
ことなどが属性です。「妙覚寺」が利いてきて
「肥後」というのは「猶妙印入道武井肥後守」の「肥後」
「三好」というのは「武井」が働いて「三好笑岩」の養子、「関白(三好)秀次」暗示
「尾形」は「光琳」で、住まいは「二条」、先祖は「伊春」、引立てた人は「関白二条綱平」、
「法橋」、「本阿弥光悦の親類」、「中村内蔵助」と特別親しい、風神雷神図
(ウイキペデイア借用)
などが武井肥後守(大田和泉守)ー二条妙覚寺に通じていそうです。「内蔵助」は大蛇の郷の
「佐々内蔵」、また花の「中村」を討ったのは細字の「金松又四郎」です。
「周馬」は「竜馬」というのがもう〈日本書紀〉でも出ており、調子で出てきたともみえます。
「周」は周永の「周」、「伊」と併せると「伊周」(これちか)が出てきて伊を「これ」と読めるという
のも藤原伊周のお陰です。
伊達政宗ーー惟達政宗ーー惟政宗達ーー和田宗達ーー和田和泉(甫庵信長記)
のようなところまで行きそうです。竜雲の竜は「虎」とか角成りの「馬」に引っ付き易いともいえ
ます。「自来也」では虫篇がよく
出てきます(「蝦蟇など」)。甫庵の「猶妙印入道武井肥後守」のところにも
「打蚫」(ルビ=うちあはび)」(右の字は「包」に同じ)
という変な「虫」があり、虫+包は、大田牛一の「虫+也」(ジヤ)もそういうものだといっていそう
です。蛇の俗字が「虫也」で「鮑」の俗字が「虫包」でしょう。後年、尾形光琳のあと
「酒井抱一」
という画家が、また「風神雷神図」に関わりましたが、「抱一」という名前が特殊で「牛一」
に似て、両刀使いの積もりで「一」を出した大田牛一、千石又一などを意識したものとも取れ
ます。それは別としても「抱」が、「虫包」の「虫」を「手」篇に変えた名前にして出したというところ
が〈甫庵信長記〉の「うちわらび」を踏まえていそうだといえるところです。
〈信長公記〉の「也(ジヤ)」ーー(虫)−ー〈甫庵信長記〉の「包(ホウ」=酒井の「包」
‖ ‖
「児雷也」の「也」 自雷也の「虫」
というので「雷」に関わるのではないかと思われます。ウイキぺデイアによれば「風神雷神図」の
発注者は
「打它公軌」(うつたきんのり)(「京都の豪商、歌人」)
となっており、「它」は「蛇」の右=「也」であり、「打包」をみて「打た」としたと取れます。この
打鮑」がでる姉川の一節は
「酒井左衛門尉」「家康卿」「猶妙印入道武井肥後守」「坂井右近」(「小坂井」に繋がる)
など揃っており、酒井抱一は芸名として本名と思われる「酒井」を名乗ったのだから不思議はな
というのでしょうが権門だから少し固苦しく、「坂井」=「酒井」という文献にあるの二つを兼ねて
酒井と付けたのではないかと思われます。いいたいところのことは、酒井抱一は戦国の風神
雷神の存在を意識して抱一ということにしたということです。これは抜いてもよかったことですが
ウイキペデイアに次の文があり、酒井抱一にこういうことは起こりえない、というためのものです。
「酒井抱一は光琳の模写をさらに模した画を描いたが、宗達の画を知らず、光琳の画が
模写でなく独自に描かれたものとして考えていたと見られている。」
まあ戦国の宗達の画をみて書いたのでしょう。自来也が生まれた時代の風潮もそれを証して
いるといえそうです。ただ、こういう記事がなかったら筆者は爾来也や蛇までの話もしなかった
といえるのでしょう。
芭蕉にも「蛇」の右の字 「佗」があり、〈両書〉の索引では武井の前は「蛇」の右の字
を意識したものがあります。
〈甫庵信長記〉 〈信長公記〉
佗美(たくみ)越後守 詫美(たくみ)越後
武井肥後入道夕庵 武井爾云(本文「夕庵」「二位法印」)
となっていて、こうなれば、自雷也の妻「綱手」、関白「綱平」の「綱」が効かされてきそうです。
(40)海北友松
テキストの索引から漏れている
「才二郎国綱」〈甫庵信長記〉
があり、
「国綱(こくかう)・・・・久・・・・寐・・・国・・・久・・・国綱(くにつな)・・」〈甫庵信長記〉
が続き〈奥の細道〉、越後路や越後の遊女のくだりには
「酒田・・・余波・・・国・・・寐・・・国・・あま・・云・・・寐・・慈・・・萩・・」
で「寐」が出て
「・・寐・・・臥・・・雷鳴(かみなり)、雨・・・隆・・・臥・・・蚤…蚊・・・持病・・・猶・・余波・・
・・・縦横・・・伊達の大木戸・・・摺・・・薄・・・」〈奥の細道〉
が出てきて雷が伊達で出てきました。臥竜・・・虫篇・・・も、「綱」に繋がっていそうです。「綱」
といえば芭蕉には「つな手」があります。
〈奥の細道〉には、「松山」〈信長公記〉を踏まえたのかどうか
「末の松山・・末松山・・・夕月・・・・塩がまの浦・・・つな手かなしも・・・」
があり、「がま」は「蝦蟇」かというと違うでしょう。また
「能因・・・干満・・・・・堤・・・秋田にかよふ道・・・・海北・・・汐ごし・・・松嶋・・・」
の「堤」を「包み」というとそれも駄目でしょう。ただ
「汐」=「しお」=「塩」
は、潮の干満もあるから、これは芭蕉はいっていそうです。芭蕉は化荻の一節に直接雷をもち
こんでいます。雑賀表に出陣してきた宮本など七人の侍の中に、雑賀孫一で有名な
「鈴木孫一」〈信長公記〉
が出てきます。索引は 鈴木重明(文中「鈴木孫一」)
鈴木主馬
薄田与五郎
と続いており、芭蕉はこの主馬と薄を利用して句作っています。「本間氏主馬宅に遊びて」
「扇」の句を作っています。本間主馬は大津在住の能太夫です。
「ひらひらとあぐる扇や雲の峰」
があり「ひらひら」に閃光の「閃」を宛てて「閃々と挙るあふきや」とするようです。「薄」を取り
入れたものは
「本間主馬・・宅・・・骸骨・・・・笛・鼓・・・能・・画・・・・舞台・・・・髑髏
稲妻や顔のところが薄(すすき)の穂」〈笈日記〉
がありこれは「竜の雲・・虎の風に」のあった永禄11年の記事、「戦ふこと風の発するが如く」
が出ていた〈信長公記〉の一節にが能の記事が出ていて「能」「鼓」「笛」「太鼓」が繰り返し出て
きます。そこに骨が二つあるのも芭蕉に取り入れられています。化荻の一節に雷を入れようとする
動きがあったとみてよいようです。
化荻の一節に地名の「佐野」があり、■の横にあった「佐野の郷」がここに繋がってきています。
人名の「佐野」がありますが索引では大阪府泉佐野市の国衆となっています。脚注には
「灰屋紹益(じょうえき)」
のことが出ており、これは隠された感じのするものです。「佐野」というのは「佐野紹益」という
のではなく
●「佐野伝右衛門」〈甫庵信長記〉
という表記に着目すべきではないかと思います。「佐野」については北条時頼との「鉢の木」の物
語りで有名な佐野源左衛門常世があり、それを思い出してもう一人出してきた「佐野」がある、
それが「伝」でありそうです。「佐野の渡り」という文言がある二つの有名な歌があり、
「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮れ」藤原定家
「苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに」長忌寸奥麻呂
ここから読み取れる本歌取りの物語性をとるべきであり、
「夕暮れ」「三輪」 → 武井夕庵
の周辺の人物「紹益」を出そうとした苦心の「佐野」でしょう。〈万葉〉「奥麻呂」の両サイドは人麻呂
でありこれも柿本人麻呂と読むべきではないかという疑問を提示したのが「佐野の渡り」の
連携でしょうが、●は「神吉民部少輔」「神吉藤太夫」と出てきており、神吉の城は
志方城
であり、「志立」にも繋がっています。「しかた」=四方=神戸でもあり「神」を出してきた部分
でもあり
「神(みわ)=(〈万葉集〉にこのルビが出ている)」「美和」「三輪」
で、〈万葉集〉「三輪山の歌」−「額田王」のセットからみれば「奥麻呂」の名前に疑問もでる、
ということでしょう。 とにかくあんまり問題にするなとなっているところです。
ネット記事によれば
「海北友松」=「紹益」(浅井重臣海北綱親の子息)
ですから、「綱」は一応「才二郎国綱」〈甫庵信長記〉が唯一のものですから、名前には「国」が付く
かもしれない、武井夕庵は次男でもありますから、「才次郎」でその別人「才二郎」も考えられ
「三輪が崎、夕暮れの、佐野の渡り」の「紹益」=灰屋ー染物屋「紹益」ー七尾奥村文治
も考えられ「化荻」の
「開山(和尚)」=「瑞龍寺和尚」=「海北友(夕)松」
であり〈明智軍記〉では
「瑞龍寺(ずいりうし)の和尚{并}に武(たけ)井夕菴(せきあん)を観音寺の城へ・・」
があり、この「併」の「イ無し」は合併度合いがきつく、草冠の方の「庵」は別人となります。
〈信長公記〉ではこの「アン」は使っておらず、「夕庵」二字の場合はこの人物を指していそう
です。
「海北友松」=「武井夕菴」
でこの画家は単に実在の偉大なる画家ではなく、大田和泉守の義兄としての実在、つまり
実存していた人物というのがいいたいところのことです。この風神雷神図はこのとき公収され
建仁寺へ入ったと思われますが、ここには友松の「天龍図」があるようで呼応したというもの
がありそうです。瑞龍寺の寺のルビは「し」になっており「子」もありそうです。「武井」のルビも
欠落があります。ネット記事によれば
父の海北綱親は「赤尾」「雨森」と並んで浅井の三将として有名で秀吉が兵法の師匠
であると絶賛したという話はどれにも書かれています。それにしては「海北」という画家の名前
と「善右衛門」しかわかっていないのでは淋しい限りです。一応ネット記事の表記を使えば
「赤尾」
‖ 海北綱親
s 雨森
となりそうです。これを〈信長公記〉の表記でやれば
「浅井福寿庵」〈両書〉
が「海北綱親」相当になり、これは夕庵の庵があり、〈信長公記〉に「雨森」がないので、ちょ
っと無理をして宛ててみて
赤生美作
‖浅井福寿庵ー(斎イツキ助)ー浅井半助
浅井雅楽助(雨森)
くらいのことになりますと、瑞龍寺の和尚の前身は浅井の係累というのも出てきます。浅井は
湖北町、もと近江、佐々木の被官です。「神吉」は三木の属城で「三木」別所では
「畠山総州」「三宅肥前入道」〈信長公記〉
があり、前者を武井夕庵、後者を大田和泉守として播州三木と姻戚関係の伝手としてとりあえず
話を進めてきました。「入道」はこの人物が意識されているのかも。「畠山」は索引では
「長谷川」「畠山」「畑田」「波多野(兄弟)」と出てきて
長谷川を語るために使いました。すなわち七尾の長谷川が、七尾の畠山と関係しました。三宅
は「三宅弥平次」=「明智左馬介」が有名ですが、「三宅(宮笥)」と「畠山」の縁戚を表すもの
として別所で出してきたのが「三宅肥前入道」かもしれません。「肥前」では「河尻」も「肥後」も
出してありそうです。
(41)神保綱親
河内の「畠山殿」もあって〈信長公記〉
「三好三人衆・・・河内・・・高屋に畠山殿、若江・・三好・・・右近・・塩河・・高槻・・佐々木」
があり、ほかのところでは「松永」に囲まれて出てきます。「高屋」は「高尾」−「神尾」であり
「若江」も畠山を化荻に持ち込むものでしょう。ネット記事「能登畠山家武将総覧2」によれば
「神保綱親、生没年不詳、伯耆守」
が出ていました。この「綱親」は綱親Aでしょう。ここで「神尾」と
「能登国七尾城代菅屋九右衛門」〈信長公記〉
が利いてきて、この人物のことではないかと思われます。奉行役でよく出てくる「菅屋九右衛
門」は大田和泉守ではないかといってきています。もう一人いるかもしれないというのは否定
できないだけでそれは合っていると思いますが、「九右衛門」という漠然としたものがここで
城代をつけて限定して援用された、つまり
「織田管九郎」「織田勘九郎」(これは「織田信忠」とされる)
の「九郎」というものではないかと考えられます。
「小瀬三郎次郎清長」〈甫庵信長記〉
はよくわからない人物で「小瀬甫庵」の身内だろうと思われる程度ですが
「此の三郎次郎と申すは、織田造酒丞に摘男、菅屋九右衛門には兄たりしかども・・」
〈甫庵信長記〉
があり、これは 織田造酒丞ーーーー此の三郎次郎(清長)
|
菅屋九右衛門
と書いてあります。「菅屋」は「長頼」「長行」がありますから「清長」は上に付けておくので
よいのでしょう。小瀬は「鑓武藤小瀬修理大夫」のように引っ付いても使われて、両方に懸かる
として、小瀬菅屋九右衛門もありえます。つまり菅屋は三郎の方、大田和泉守でよさそうで、
す。この「清長」は、九右衛門の兄だから一応武井夕庵が当てられ「清」という字が武井夕庵に
ついてまわります。〈奥の細道〉尾花澤で「清風」(鈴木道裕)が出てきて「志いやしからず」と
書いています。ここには「涼しさ」「(紅粉の)花」が出てきて
「海北・・・・汐ごし・・・花・・汐越や鶴はぎぬれて海涼し・・・蜑(あま)・・・海涼し・・」
に繋がって、蜑(あま)の「虫」が出てきています。この「尾花沢」「清風」(通称=島田屋八右
衛門)の一節には「也」が出て「蚕飼」が出て
「這出(はひいで)よ かひや が下のひきの声」
があり、蟇蛙の「虫」も出てきます。「かひや」は蚕室もありますが「紅」に灰が要る「灰屋紹益」
を見たのかも。〈万葉集〉に「かひや」二首あり
「朝霞香火屋(かひや)が下に鳴くかはず●しぬびつつありと告げむこもがも」
「朝霞鹿火屋(かひや)が下に鳴く河蝦(かはず)声だに聞かばわれ恋ひめやも」
ですが〈奥の細道〉テキストでは上だけ一首脚注に入っています。〈万葉集〉テキストでは
二首とも「鹿火屋」で「田畑を荒らす猪鹿などを追うために火を焚く小屋か」となっています。
〈芭蕉全句〉は芭蕉は「飼屋」の意味で使ったということですが●が「しのぶ(偲ぶ)」と読まれ
ていますから「しのぶもぢ摺(ずり)」で摺りこんで染めるの意でしょう。「紅」は〈信長公記〉
大蛇の描写で出ています。
「次郎」「清」「長」は一応「武井夕庵」で「清」というのは永禄11年甫庵の「竜の雲・・・虎の風」
の出てくるところ、表題が「・・・小清水、滝山の城・・・」で、〈信長公記〉でも永禄11年
「風ノ発スルが如ク・・」の出てくるところ
「清水・・・・・篠原右京亮居城(ゐじやう)越水(こしみず)・滝山・・・」〈信長公記〉
があり、「小清水」−「越水(小清水)」のあぶり出しがあります。この「清水」が夕庵の「清」
の一部を占めていると思いますが、このあとの「能」の場面とつないで清水の能の舞台を
出しています。「舞台」というのは芭蕉が稲妻で出していました。清水焼きとか長次郎とかいうの
が夕庵の周辺人物にかかわって来るのでしょう。ここの篠原(高山右近と同じ名前の「長房」と
されている)も同じで前田の外戚で、芭蕉では那須の篠原がありました。本能寺で戦死の大物
表記の
「篠川兵庫」〈信長公記〉、「篠川兵庫頭」〈甫庵信長記〉
の「篠」が「篠原」の「篠」を消すのかもしれません。
夕庵の「清」は索引に出ていない
「知人太郎国清」〈甫庵信長記〉
からも出てくるのでしょう。〈辞典〉では「中川清秀」は、「虎の助」で「佐渡守重清」の長男と
なっています。和田惟政を討ったのが中川清秀だという話も書いてあります。もう一人の
虎之助、加藤清正はどうでしょうか。
さきほどネット記事で畠山関連で
「神保綱親、伯耆守」
が出ましたがこれが重要だと思われます。つまり「海北」(浅井)と神保に綱親がある、ほうき
のかみ、が出てきたということです。ほうきに口付きの「伯嗜」(信長公記)もあります。(以下
手間の関係で「口」のないのを「キ」と表示する。機械的に「鰭」しかでてこないから。「嗜」は
「たしなむ」と打てば出てくる。)
足利幕府の斯波、細川、畠山の三官領の畠山は河内の高尾城が本拠で〈信長公記〉では
「 「畠山殿(考証では高尾城の「畠山昭高」)、
「畠山総州」(娘が三木、別所山城の女房)
の二つが出ています。後者は一応この面では
別所小三郎長治
‖別所彦進
別所山城
というストーリーではわかりやすいことになりますが、表記だけでは全国の畠山という感じで
受け止められます。ここに浅井の海北の綱親と越中の「神保」の「綱親」が出てきたということ
ですから前者は三好、松永、佐々木などと関わりのある畠山本拠の人、後者は七尾城などの
北国の畠山の綱親(浅井滅亡後の子の世代)ということではないかというのもでてきます。
神保には「神保安芸守」「神保越中守」がありますが
「神保越中守」は畠山旗下、現地の神保氏(長住)と富山城を拠点とした高山右近を現すという
ことでみてきました。現地の実在の神保氏は見直しが必要かも。
同記事によれば能登七尾の城主は畠山(重綱)氏で七人衆といわれた
有力者がいたようです。神保・長・三宅・温井・遊佐・飯川など〈信長公記〉に取り入れられて
いますが、実在の河内の畠山と北国の畠山をにらみながら、武井夕庵、太田和泉守を畠山総州
に乗せて語りを広げていったといえるかもしれません。武井セキアンという人が畠山の出で
あった、また七尾城の城主相当の人であったので、それを語るために畠山も出てきた、
そういう人の実存が畠山、七尾を語らしめた、親族畠山というのが語られたといえそうです。
浅井家が滅んだあと神保綱親A=神保国綱として北国で活動したのが生まれ付いての和尚
と取られがちな瑞龍寺の和尚かもしれません。しかもこの人物を重要人物として語らないとしょうが
がないという立場に太田和泉守がいるわけです。「金禅寺由来」で瑞龍寺の開山和尚が出て
きたとき「道場」があり「道場河原」に飛びました。ここに「古池田」の陣の人名が出ており、ここに
口付きの「伯キ」がでてきます。
「一、塚口郷・・・・高山右近・・・。・・・一、原田郷、中川瀬兵衛・古田左介。・・・・・・・
一、古池田、●塩川伯嗜。・・・・・・一、中嶋、中川瀬兵衛。一、ひとつ屋、高山右近・・・・
・・・・惟任(これたふ)・筒井順慶・・・さんだの城・・・道場河原・■三本松二ヶ所・・
別所居城三木・・・・」〈信長公記〉
があり、●がそれです。ここは高山、中川が二つ出ているから、おかしい、ということで既述の 「兵庫のさん のものですが、別の観点から見れば二人して●を挟み込んでいます。■は今「未詳」となって
いますが地名で「六本松」というのがあるので、そこへ飛べということでしょうが、七松をみますと
「「七松・・・二ヶ所・・・塩河伯キ・高山右近一与(くみ)に定番・・・中川瀬兵衛・福富・・・」
があり高山ー塩河は特別な関係があるかもしれないというのが出てきます。人名注では
「塩河伯キ」は「塩河国満」となっており「久安寺川」を「塩川」ともいうとされています。国満は
すなわち、「信長公」から「我党の福神」と呼ばれた「国清」「国綱」の「国」であり、もう一人の
「剛三郎勝光」の「みつ」です。「満」はまた「福富満蔵」(甫庵)の「満」で「満蔵」の出てくる
ところ、「清長」も「梶原平次」も出てきます。「梶原」は●のところの「惟任」「筒井」「三(さん)・
三・三」の(みつ)に関わるのでしょう。
「塩河伯嗜守へ銀子・・・・御使森乱・中西権兵衛・・・」〈信長公記〉
があり、中西権兵衛が子息のようですが、この武井夕庵の連れ合いという人物が出てきた以上
は、武井夕庵との間の子が〈両書〉に出てきていると思われます。高山右近などは別途出てくる
のでしょうが、前稿で触れたものが役にたってきます。天正8年
「中西新八郎、山脇勘左衛門尉、星野左衛門尉、宮脇又兵衛尉、隠岐土佐守、彼ら五人
池田勝三郎与力に召し加へられけり。」(甫庵信長記)
「中西新八郎・星野左衛門・宮脇又兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門、五人の者、★池田
勝三郎与力に仰せ付けられ候。」〈信長公記〉
があり、まあ〈信長公記〉に引っ掻き回して解説するという役目があるので、★が太田和泉守と
いうことでしょう。身柄を引き受けてOJTなどを通じて時代のリーダ−だーとして育て上げようと
したようです。「新八郎」、「又兵衛」、「土佐守」、佐脇の「脇」があるから太田和泉守とその4人
の子息ということのヒントにもなるものですが、ただ「勘」と「八」が同系なので一見すれば違い
そうで、まあ「管九郎」「勘九郎」もあるのでなんともいえないところです。★を太田和泉守ととれば、やや
五人がおかしくなってきます。高山右近の兄弟といっても親の再婚があったりするので範囲が
広がって数が増えるということがありますので、その辺のところもあるかもしれません。
ここの星野は、後年「星野勘左衛門」「和佐大八」の三十三間堂通し矢の美談
からみると
「山脇勘左衛門+星野左衛門」/2=星野勘左衛門
で「勘」が星野に及びそうです。また大八が宮脇にも「八」を与えそうです。これは「脇」の力
にもよりますが「和佐」の「佐」も「佐脇」を構成します。「和」というのは「輪」で、これは
丹和〈信長公記〉=「淡輪」「谷の輪」
として使われており、〈古事記〉三輪説話の話では「神(ルビ=みわ)」「美和」「三輪」が出てい
ます。三十三と目を移すと「三和」も出てきます。志方の赤松一族「神吉民部少輔(則実)」の
「神」やら「神戸伯キ」の「神」などは「みわ」の意味を含むのかもしれません。「神吉」の「吉」は
「塩河吉大夫」の「吉」と見れます。「神吉町」は「加古川市」ですが
「嘉子河」〈甫庵信長記〉「嘉古川」〈信長公記〉
があり、「子」は「揚子江」の「す」と読むと「春日」にもなりますが「嘉子河」の谷から来たものか
「別所与力」の「賀須屋内膳」〈信長公記〉(考証「賀須屋武則」)
が出ます。のち賤ヶ嶽の「七本槍」「福島正則、加藤清正・・・糟屋(谷)武則」の「武則」は
別所の姻戚ー「武井の武」−「正則」との接近
も感ぜられるところです。神吉則実に
「民部少輔」〈信長公記〉 「民部大輔」〈甫庵信長記〉
し 前者は「飯島民部少輔」だけがありますが、「飯島」−−「飯尾」→→「隠岐」があります。また
、 「飯島」−ー「飯河」
があって「飯河」から派生するものが大きいわけです。
○「飯河」は「飯河山城守」で登場するが「井河山城守」も作っている。
飯河=山城守=井河 として「山城」を注目させた。
「山城が女房は畠山相州の娘なり。」〈信長公記〉
がある。
○「飯河」ー「飯川」は畠山七人衆の代表格である。
○「飯河」に「飯河宮松丸〈甫庵信長記〉」がある。「宮」からは「宮本」「宮脇」に行く。
○「飯河」に「宮松丸」を出す苦心があって、現在〈甫庵信長記〉の索引は
@「飯河宮松丸」の「飯」は「いい」、A「井河山城守」の「井河」は「いかわ」、
B「飯河山城守」の「飯河」は「いこう」
と読んで出きており、たくさん間に入って飛んでいる状態にある。
というのが一見して感ずるところです。Bのルビは本文では「いかう」ですから「いこう」となっても
もよいのですがお互いここまで離す必要はなく、@は「いかう」と読まれさえすれば三者並び
そうです。
(42)惟高和尚
索引も作品として評価すれば今ある並びで重要なことが出てきます。Bは
惟高和尚
B飯河山城守
(同)肥後守
生駒市左衛門
という索引での繋ぎとなっています。Bの上は「相国寺」の惟高和尚ですが「相国寺」という
のは〈甫庵信長記〉の記述ですから、太田和泉守が「惟高和尚」の属性として強調したといえる
ものでしょう。「これたか」と読んでいましたがこれをみると「いこう」と読むようです。
「惟」だから明智で太田和泉守が乗っかった存在というのは合っていたにしても実存かどうか
が気になる存在です。この人物が相国寺のトップだった、太田和泉守の知り合いといえそうで
すが、仮名であるのも確実のようです。Yahooで検索しても、これは出ていない人物です。
「作物記(つくものき)の事」〈甫庵信長記〉
の一節の元となる文献を書いた人で、太田和泉守が
「千の宗易利休居士」「藤重」「惟任和尚」「松永」「松氏」
を付加して元文を紹介したという形になっています。いま「宗易」と入力したときに「総益」しか
出てこず昔の人もそうだったかも。〈甫庵信長記〉のこの一節は、難しい漢字が羅列されており
とても読めたものではありませんが、江戸時代の人には解読できたし、知りたいことを書いて
くれてると思うので、わからないなりにみると、たいへんな歴史の解説書ではないかと思えて
きました。そういえるなら、さきに紹介しなければいけないものですが、ここでは難しいところが
重要だということで、別の話になりますが、この一節の最後の甫庵の追記がそれを象徴してい
るといういいたいところのことです。この一節は「松永」が出てくるのが特徴でもあります。
最後に
「松氏予に此の一事を記せん事を需(もと)む。・・・・侍史頴に命じて、漫りに之を記せしむ。
・ 時永午夷則如意珠月 万年亀洋派下巣葉懶安痩(病だれ無し)」
があります。省いたところは、機械で表示できない漢字があるからですが、ここの「頴」という
人物もよくわかりません。これはわからないから何回も出していますがわからないのは今も同じ
です。ただ「化荻」の一節も煮詰まってきましたから、ここもそれが及ぶかもしれないということ
です。
「永」は永徳の「永」。「頴」かも
「夷」というのは「化(北)狄」の「狄」、「東夷」「南蛮」「西戎」の「えびす」
「万年」は、「相国寺」という面から見れば「万年山」の「万年」
「亀」は永禄11年、「松永」「今井宗久」登場の場面、能の場面に出てくる「亀競(ききやう)」
の「亀」。「亀鏡」−仁科五郎ー長谷川宗仁。永禄11年の「惟政」〈信長公記〉は「惟高」
の「惟」。「亀」は万年の「亀」
「洋」は永禄11年、「松永弾正」「今井宗久」登場の場面、「洋々乎として」。
「派」は〈両書〉に該当無し。狩野派・土佐派など流派があったはず。「爪」に似ている。
「下」は、「下方」、「下国」
「巣」は「本巣」
「葉」は「両葉」−武井夕庵、朽葉ー太田和泉守、葉栗郡ー兼松正吉
「瀬」は中川
などがでてきそうですがいいたいところのことは、この一節は松永の一節でここの惟高和尚
の文が絡んでいますから相国寺、惟高和尚と松永弾正の関係をここで
いっていると思われます。また永禄11年「竜の雲に乗じ、虎の風を得る」で「松永弾正、今井
宗久がでてきましたからこれに今井が関与し化荻の一節に繋ごうという意思があったことが
読み取れます。つまり狩野永徳の今で言う両親は
松永弾正少弼久秀ーーー松永右衛門久秀ーーーーーー狩野永徳
‖ ‖
惟高和尚(今井宗久@) 今井宗久A(森えびな)
ということかと思います。惟高和尚を商人の今井と重ねるのは合わないということになりますが
「今井」は「井真井」で「井」は「せい」=「成」ですから「井真成」になります。これは大変な
名前だから、太田和泉守がよく考えてこの「今井」という名前を付けたということになると歴史
の解釈に大きな影響を及ぼすことにもなります。とにかくここで「化荻」の一節の役者が揃い
ました。
表の人物 ー(隠れた人物) 表の人物の活動名、例
天王寺屋竜雲ー(太田和泉守) 金松(兼松)又四郎、長谷川等伯@(宗仁法眼)
俵屋宗達A
開山(和尚) ー(武井夕庵) 瑞龍寺和尚、南化和尚、海北友松紹益
、 能化天沢A
今井宗久 ー(松永久秀A) 惟高和尚、西笑承兌 狩野法眼@
あたりのことになるのでは。あの絵は、今井宗久進上(所持は天王寺屋)となっているので、
開山和尚が狩野家に発注、製作は俵屋社中で行われ、武井夕庵、太田和泉守の画賛と
いうものでしょう。ただ太田和泉守の意向があって、その陰の功労者二人を前面に打ち出す
というのがあったのではないかと思われます。テーマというものがよく示された、狩野家の総力
を結集した絵があの絵であろうというのが結論ですが、細部読み間違いをしていたらしょう
がないことですが、化荻の一節は、風神雷神図のことを述べている、戦国時代の隠れた優れ
たリーダーを表出しようとした一節であるというのは流れの中からも出てくることで確実な
ことです。他節や類書からキーワードを伝ってここに流れ込んできて解説をさせています。
ここはちょっとしか書いてないので想像でつなぐとしても検証しないといけないわけですが
地名、人名だけでなく語句の索引まではむつかしいから、気が付いたらやるといいのでしょう。
例えば「南化和尚」は天竜寺の妙智院策彦和尚の子息くらいの人ではないかと思われます。
策彦和尚は索引に出ていないと思ったら、「み」で出ています。もし「妙院入道武井肥後守」を
「武井」で括らずに解放すると、索引が
宮本、宮脇、三好(笑岩、為三、兵庫頭)のあと
妙印入道武井肥後守
妙智院策彦和尚
ということになります。武井夕庵が二人で姉川陣に出てきていたというのを表すのが武井肥後
守です。大津伝十郎が若いころ「天竜寺意足軒周悦」の世話に努めている(辞典)、というのが
ありましたが、高山右近(ウコンも含むか)が策彦と大接近しました。「悦」は「光悦」の「悦」。
信長公が安土記を策彦和尚にお願いしたら、策彦は南化和尚を推薦して、南化和尚が書いて
出来上がったものが〈甫庵信長記〉にでています。信長公は大変喜んで、両方にお礼をして、
南化和尚へは狩野又九郎使者
策彦和尚には二位法印が使者
になっています。この「南化和尚」の「南」は「高山南坊」に繋がるのでしょうが、「化」は「化荻」の
「化」につないだのではないかというのがありそうです。
南化ー化荻ー天竜寺→天王寺屋の竜雲→開山和尚
となります。同様のことですが天沢武田信玄に会うという一節があります。
一部再掲
「天沢・・・天台宗の●能化(のうげ)・・・武田信玄・・・上かた・・・味鏡(アチマ)・・村
天永寺・・・友閑・・・・★下天・・・信玄・・・・・信玄・・・・」〈信長公記〉
があり●の「能」が永禄11年の「能」、能登七尾城代の「菅屋」、永禄11年の「竜」「雲」、
「虎」「風」の菅屋を繋いでいますが、この「化」も「化荻」につなげられているとみてよいよう
です。★「下天」というのは、脚注では「化天」と書かれていますから、「下」が当て字です。
「化」はここに二つあることになります。通常「下天」があれば「上天」があるので、天も二つ
天沢も、もう一人いる、和尚と取れる人物がいるという書き方になっていると思いますが、武田
信玄も「武田信玄」と「信玄」がありそうです。ここをみて動き出した人物がいます。
(43)小倉の碑文
「化荻」の一節は七人の侍がでて「宮本兵大夫」が出ました。〈信長公記〉索引では
宮部善祥房(索引では「「房」が使われているが本文は「坊」、意図的間違い)
宮本兵大夫
宮脇又兵衛(「池田勝三郎」が「与力」として組み入れた五人の一人)
となっています。善祥坊は武井夕庵の孫(前田玄以の子)としてきていますが高山右近が
「友祥(ともなが)」〈辞典〉といわれるそうで「祥」で繋がりはみえます。玄以の生まれたころは
夕庵は瑞龍寺の和尚とは知り合っていなかったといえそうです。「坊」とか「脇」が、また
美濃一の、猪子兵助の「兵」も、宮脇の「又兵衛」も利かされて、宮本兵大夫とその強さが語られて
います。北九州の「小倉」「小熊」が属性です。宮脇又兵衛は兵大夫の前に小倉城にいたのではない
ではないかと思われます。小倉城には毛利勝信、勝永父子がおり、森勘八が記憶にあり、森
勘八が毛利勝永の父ではないか、勝信と同一人物と思っていたわけですがいまとなれば
毛利勝信ーーーー毛利勝永
‖森勘八
▲中国毛利一門の人?
となりそうです。「金森五郎八」〈両書〉がある一方で
■「森弥五八(郎)」〈両書〉 (甫庵は「郎」を付けている)
があります。「金森」は三人いて、「森」は一人多いという感じがしますが、森勘八=宮脇又兵衛
ならば■は毛利勝永・勝永弟を語るための表記となりえます。
「勝信」が「五郎」、「宮脇」が「八郎」、「五八郎」が毛利の一門(毛利秀元?)
「勝永」が「五」、「弟」が「八」と「五八」
「
〈信長公記〉の付加した「弥五八」という今で言う「弟」がいたということになるのかも。ソロバン
普及で有名な
毛利勘兵衛重能
は毛利勝永の弟ではないか、業績が大きい人物なので、森弥五八として太田牛一が記録に
残した、と思われますが、漠然としているので、皆が正体を知りたいということで探す過程で
出てくるものの布石もされていて、それも大きいと思われます。ウイキペデイアなどでは、
秀吉卿の気に入りの、挿話の多い
毛利秀元
の幼名が「宮松丸」と書いてあります。これは筆者は
「飯河宮松」「飯河宮松丸」
で何回入力したかわからないほどです。「本能寺」の前半の戦死者
「森乱・・・・金森義入・菅屋角蔵・・・・狩野又九郎・薄田与五郎・・・山田弥太郎・飯河
宮松・・・・小倉松寿・・・・小倉松寿・・・本能寺・・・」〈信長公記〉
があり、「宮松」−−「小倉」、「宮松丸」−−「小倉」の連携が〈両書〉にあるわけで、今、▲
がわからないのだから、宮松丸=毛利秀元=小倉城としておくしかないわけですが、直感では
毛利勝永は武井夕庵の今で言う子息の子、つまり孫、▲は毛利秀元というのは、感ぜられる
ところですが、今はネット記事でもその気配すらもでてきません。毛利勝信は常山が小倉の
城主「壱岐守」を勝永の父と言っていますので、〈甫庵信長記〉唯一の「(米田)壱岐守」から
森、細川の一門「米田氏」の人ではないかと思われます。そんな一つで決められん、というの
はありますが、本能寺で「小倉」が出ていて「勝信」「勝永」はわからないでは済まないもので
一つでも貴重です。小倉にこだわりのあるのは宮本伊織でしょう。
宮本伊織は小倉の碑文を建て、宮本武蔵の語りの基本的資料を後世に提供しました。
ウイキペデイア記載の碑文の一部ですが
「・・・兵法天下無双 播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑
・・播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。
・・・豊臣太閤の嬖臣、石田治部少輔謀叛の時、或ひは、摂州大坂に於いて、
秀頼公兵乱の時、
武蔵の勇功佳名は・・・之を記さず。・・・・」
となっています。伊織の書いたものだからこれ以上確かなものは望み得ないものです。
二天というのは二刀流だえとはいえないのでしょう。「天沢」「武田信玄」に会う、という実に
劇的な一節に伊織は目を付けたというのが目に付きやすい形で出ているのが、ここの
「二天」と「玄信」、
でしょう。「二+人」=「天」、で「天沢」は、「二人」の「竹」「武」「宅」といってるとも取れま
ますが、これは理屈で天沢にも天沢@、天沢Aがあるとみるのが普通です。信玄も二人、ここでは
「武田信玄」と「・・・信玄・・・信玄」の二つ「信玄」が出ています。もちろん太田牛一には
「因果歴然、善悪二つの道理、天道恐敷候なり。」
の「二」「道理」「天」「道」がありますから〈信長公記〉を踏まえた「二天」であるのは確実でしょう。
宮本武蔵がなぜ「玄信」を名乗ったかということは、〈信長公記〉のここの「信玄」をひっくり
返して、関連を出すためというのがありそうです。
武田にも甲斐の「武田」、若狭の「武田」、安芸の「武田」があり、それぞれと縁者ですが
尾張の「武田(左吉)」を作っています。「武田」=「武井」とみてよいものです。信玄が会った
という天沢はやはり「武井夕庵」だと伊織が言っているといえそうです。
この「天」は
「あまが池」の「あま」と、味鏡村などを通じていて、「雨」「尼」などの「あま」に至りますが
ジヤ池の「蛇」
の「ヒ」が効いてきて、索引で
〈信長公記〉 〈甫庵信長記〉
詫(詑の変形)美越後 佗美越後守
武井爾云 ●武井肥後入道夕庵
となっている「武井」に繋がっているのが伊織の意識しているところでしょう。さきほどの「宅」
も説明として出しておいたほうが、宅美の越後には繋げやすいといえます。類書の
「飯田某」「飯田宅重」(「弥兵衛」「慶庵」)
というような表記は
「飯田左橘(さきち)兵衛尉」〈甫庵信長記〉
という孤立表記の説明でしょうが、「武田左吉」は〈信長公記〉索引では
武田喜太郎
武田左吉
という並びになっており、「佐」ではない「左」、「宅」のような「武」はちょっとニュアンスが違う
のかも。●は「武井夕庵」と「肥後入道」でしょう。考証で「高山和尚」という表記がありますが
。 「武井爾云」というのが「高山和尚」というものを強調したのかもしれません。これはどうみても
爾雲のようですから。
こういう雰囲気の中で伊織は「玄信」を出したということになりそうです。
〈吾妻鏡〉「玄信(大法師)」〈前著〉→あの「信玄」→「玄信」
としたのだから、やはり、ひっくり返したというようなものはあるのでしょう。つまり「化荻」の一節に
宮本兵大夫がでているので、天沢ー信玄の一節に宮本を解く鍵がある、というので、自分の文
でそれを解説したというものでしょう。二天ー信玄、天沢の一節には、ほかに
「兵法」「(市川)大介」「平田(三位)」「幸若大夫(能)」「数寄」「数寄」「数寄」
などがありますが、「数寄(すき)」は脚注では
「辟愛(へキアイ)の意味とする(「下学集」)。風流をたしなむこと」
とされています。「ヘキ」は石田三成の「ヘキ」臣に反映されており、「数寄」も数学の「数」を反映
していそうです。「赤松」は後藤又兵衛の父の筋で「赤松」がここで出てくるのは当然です。
(44)新免
新顔の
「新免(武蔵)」
がなんのことやらわかりません。ここで「新免武蔵」と「新免の後裔」というのが、ありますから
先祖が「新免」といっていそうでもあります。まあいえば、異聞で「藤原玄信」もあるとなっている、
「藤原」のようなものといえないこともなさそうです。ただ本当のことは語れないので、日本の
文献が一人多表記にもなっていて、「(北条)時頼」は「相州」という漠然とした表記でも表され
ますが、ここで宮本武蔵が新免を追加した程度のこと、平田とか宮本とかに加えて一つ
増やしたというような多表記の一つとしてみるのもごまかしに過ぎないのでしょう。
宮本武蔵や伊織が「新免」と書いているから研究が進んで、大津に「新免」という地名
がある、美作に新免氏があるとか、黒田氏の家臣にも新免氏がいる、となっています。これは
実在の話だから文句のつけようがありません。新免家の出身だろうが、決め手がないから
今後の研究まちということで終わります。
ただ筆者がいいたいのは、新免村、新免家出身だとわかったとして、これは五輪書、絵画、挿話
が残っているからどういう人物か知りたいというなかでの「新免武蔵」という謎かけだったから、
意味が小さすぎるというものでしょう。「新免」で実存にしようというものがあるのではないかと
取れます。判りにくいものを出されたという感じです。
仮に宮本武蔵の夫人が「新免家」の人で、武蔵が
その家に入って、新免家が宇喜田や黒田に仕えたということになれば 宮本武蔵とか新免家
は実存的存在ということになり武蔵はわかいやすく身辺を語ったということになりますがそんな話
全然ないわけです。
同時代のことを語った書物に「免許」という言葉があり、免許皆伝が剣術の言葉ですから
「新免武蔵」は「新免許の武蔵」が考えられます。つまり、北条の
大石源三氏直
をみて語っているというのが一つあると思います。
「武蔵」というのは、「森長可(鬼武蔵)」「大石源三(武蔵守護代)」の関わる栄誉の武蔵守の
「武蔵」、と思われます。織田信長舎弟勘十郎信行(勝)」の武蔵(池田につながる)と思われます。
結論は「新免」は武蔵の周囲の人物とか出自を隠すためのもので「新」と「免」に役割がある
ようです。戦国の疑問をひとつ解いて、身元の一端を示したといえるものです。「新」は漠然と
していますから「免」からいきますと戦国文献で表記が特別な人物が出てきます。
柴田勝家の身代わりになって戦死した若手の大将
「毛受(めんじゆ)勝介」〈甫庵信長記〉 「面受勝助」〈川角太閤記〉
です。「内藤勝介」の勝介です。以下ウイキペデイアを借用しますが、表記が又違います。
『毛受勝照(めんじょうかつてる)(?〜天正11年)・・・・他に名乗りを、「家照」「吉親」
「照景」などとする資料もある。通称は「荘介」「勝介」「勝助」など。「毛受」の姓は
「めんじよ」「めんじゆ」「めんじよう」等、読み方が複数あるので、別の読み方であった
可能性もある。また〈佐久間軍記〉では「免受」と記されている。・・・・・十二歳で
柴田勝家小姓・・のち小姓頭・・一万石・・・・・
●元亀二年(1571)の伊勢長島に於いて、勝家軍の馬印が一揆勢に奪われると
いう事態に陥った事があった。(この戦いは・・・氏家直元や、織田信長の一門衆
が多く討ち死にした激戦である。)これを奪われたままでは武門の恥と、死を覚悟して
勝家は突入を試みたが、家臣に諌められた。その間に毛受荘介(当時)は敵陣に突入
し、見事馬印の奪還に成功した。勝家は大いに喜び、自身の名前の一字「勝」の字
を与え、勝介勝照とした。あるいは「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照と名乗
らせたとも伝わる。・・・毛受氏の子孫は三宅姓に名を改め、・・・・・』
があります。これでいきますと「免=毛」だから、「新免」というと「新毛」ー「新毛利」となるの
かもしれませんが、とにかく「免」といえば、このからくりのある免受を思い出し「しんめん」といえば
新=免=受
毛=受
面=受
ということで三つの若い「めんじょ庄助」が出てきます。要は●の戦いは〈両書〉にあり、長嶋
、大田口の戦いというのでしょう、大田村七屋敷など大田という地名が10発ほど出てくる場所
での戦いです。ここで氏家ト全は、
「遂にト全は討たれにけり。」〈甫庵信長記〉
がありますが、繰り返す場面、回想のような場面があり、また、
「孫呉も欺くべかりしト全も終に討たれば・・・」〈甫庵信長記〉
があり二回やられた感じのするところです。この戦いで
「大田の郷・・・小稲葉の城に居たる★大田甚兵衛・・・大田村」〈甫庵信長記〉
で★の人物が出てきて、なぜ出てきたか、意味がわかりかねますが、「大田の甚兵衛」と
とってほしいところです。もちろん索引では
大田和泉守牛一
■太田和泉守
大田五右衛門尉
大田甚兵衛
大田孫左衛門
となっているから、■もあるので「大田甚兵衛」の太田和泉守の臨場もいいたいというのはある
と思いますが、「稲葉」に接頭字があるので、子息あたりかもしれないというのはあるのでしょう。「甚」
は「仁」もあるので、字に幅がありそうです。■はここに入れるのはおかしいというのはあります。
「大」で始まる人名は30ほどあり、「太」は■一つだから、「大」のはじめか終りに入るはずです。
〈甫庵信長記〉索引 「大」のはじめ 「大」のおわり
正親町の院 大宮兵部少輔
■ 「大脇」3件のあと「大脇七兵衛」
大宇大和守 ■
大草治部少輔 岡崎三郎太夫
↓ 小笠原掃部助
大野木土佐守 小笠原与八郎
このように■は納まるべきものといえます。すると化荻の一節「宮本兵大夫」と出てきた七人
の侍の「岡崎三郎大夫」〈信長公記〉を大田牛一が指し示したといえます。「太夫」「大夫」は
違っていますから、「太田」が「太夫」の方を指したからそれでよいわけでしょう。すると、
「小笠原」というのも、この碑文の土地を提供してくれた小倉城主、小笠原忠真(忠政)に繋がり
ますが、一方でおれはこれは何回も出してる「信州の飯田領主」「小笠原掃部助(松尾掃部助)」
で「掃部助」というとこれは関が原の「明石掃部助全登」です。おかしいことにこの小笠原忠真は
信州松本城主8万石、播州明石の城主10万石、豊前小倉城主15万石(ウイキぺデイア)
という三つの領主を歴任しています。それも父の秀政や兄が大坂陣で討ち死にしたのでこうなっ
っというわけです。秀政は飯田城主でもあったようですが、言いたいことがいっぺんに出てきて
森の信州、高山の明石、伊織小笠原(松尾)の小倉、が出されました。
「大脇」は「佐脇」の「脇」、和気善兵衛の「和気」=「脇」があり、与八郎も出ているからなんとなく
今で言う男っぽくなってきます。そうなると一身に
「高山右近(明石掃部助)」
がありうるかもしれないわけです。「小沢六郎三郎」「木全(きまた)六郎三郎」の「三・六」、天沢
の「沢」ー「宅」ー「竹」「武」、小稲葉の「小」、全登の「全(また)」、「登」は〈信長公記〉で「土」
であり土田の「土」も・・・・・。〈信長公記〉索引では
小倉松寿(「寿」=「受」がありうる)
小栗二右衛門(西尾・大天竜・小天竜・俵・・・)
小沢六郎三郎(「西尾小左衛門」と並びで登場。「西尾小六」「西尾」は大田甚兵衛と)
おせうどう→武田(海野)信親
となっており、この流れ、宮本伊織の「新免」からのものでもあります。「武田」というのも
尾張の武田もあり、いまとなれば信州の森があります。「海野」は真田の先祖です。
■の左側についても
■の挿入は、物語を生んでいくようです。■の上は「正親町の院」というのはいわゆる「正親町
天皇」のことであり、「扇」も出てきています。■の下の人物は、ストーリーでは磯野丹波守の
手のものですが、これだけ見れば大きい表記で治部少輔につなげています。大野木土佐守
を例示しましたが「土佐」というのが多いので挙げました。大田(村)のところで「桑原土佐守」
、 池田勝三郎が宮脇又兵衛など五人の人物を、与力に加えた一人に「隠岐土佐守」があり、
、 ます。この五人が出てきた後にすぐに
「土佐国長曾我部より逸物の青鷹十六連(もと)、砂糖三千斤進上・・」〈甫庵信長記〉
がでてきます。のち大阪城で、長曾我部、後藤、毛利や真田がともに戦ったということを伊織
が思い浮かべているというと、新免とは遠すぎるとなりますが、毛利豊前守勝永が「森勝永」
とされずにきているという準備もあって、「新毛」で受けられます。「森免(面)」もあるでしょう。
とくに宮脇又兵衛と接近して出てきた「土佐国長曾我部」の青鷹の
「逸物」
というのに「免」が隠れて出ています。これは「別所」「粟屋」「熊谷」「内藤」「白井」「塩川伯キ」
「畑田」などとセットで出てくる、
「逸見駿河(守)」〈両書〉(考証では「福井県大飯郡高浜町、若狭高浜城将」)
の「免」をみているのと同じです。「速水甲斐守」の係累を語ろうとした表記です。「土佐国」
「桑原土佐守」「隠岐土佐守」などで大田和泉守が語りたかったことを伊織は知っていたよう
です。絵の土佐派の「土佐光起」などは、狩野永徳も同じで、
実在ですが今は太田和泉守が知り合いであったという証明すらむつかしいわけです。
実存といえる、そういうのがあるかというのは頭に入れておかないと、世界史の理解に
必要な叙述手法のいろいろを見逃してしまいそうです。結果関係なかったというのでもよい
のでもいいのですが過程で出てくるものが大きいはずです。
森鴎外が小倉におりましたので、この宮本伊織貞次の
大きな碑文は見てるはずです。この森鴎外に土佐の長曾我部元親の嫡男、花の若大将、
信親(島津戦で戦死)を謳った詩があります。これはこの碑との関連においてみている
と といえます。斎藤ー明智と長曾我部とはもっと古くからの付き合いがあるというのは挿話で
知られています。海北友松は斎藤内蔵介の首級が曝されたのを奪い取ったという話がありま
すが斎藤ー武井が切り離されているから武井・海北が繋がりにくい話です。この海北友松の
父は「綱親」ですから「親」が長曾我部の
「国親」−「元親」ー「信親」で、「国」も「才二郎国綱」がありましたから表記では何となく
関連は示されています。ネット記事によっても
信親が戦死したとき連れ合いの人がいたことは知られており、「石谷兵部少輔」という人ですが
さきほどの索引の右の■の二つ上に
大宮兵部少輔
があり、「兵部少輔」がでています。「大宮」というのはこれも大宇と同様、大きい表記です。
「神宮」「上宮太子」「宮門(みかど)」「宮殿」
などの「宮」ですが名前では
「宮内卿法印」「宮川八右衛門」「宮居眼左衛門」「宮部善祥坊」「宮脇又兵衛」「宮本兵大夫」
などあります。また「宮」は、
「宮崎鹿目介(かなめのすけ)」〈両書〉
は「鹿しか」がでて「谷(はざま)の宮門」〈日本書紀〉の蘇我入鹿が出ていそうですが「宮崎鎌
太(大)夫」の弟で、〈両書〉とも「かなめ」と読ませており、「金眼」というものに変形させた人物を
出したとも思われます。崎は埼玉の埼でもあります。
「大宮」は地名が〈両書〉にでています。ストーリーでは富士山の裾野の場面
「うば口・・・高山・・・谷合・・・高山・・・大木・・石・・もとす・・もとす・・・もとす・・・高山・・・
大宮・・・・頼朝かりくら・・・大宮・・手合・・北条氏政・・高国寺かちやうめん・・後走・・・
大宮・・・・もとす・・・・大宮・・・吉光・・・・一文字・・・黒・・・」。〈信長公記〉
「本巣・・・・大宮・・・頼朝・・・狩座・・・北条氏政・・・高国寺かちやうめん・・後れ馳(ばせ)
に馳せ来て・・・大宮・・・本巣・・・大宮・・・かちやうめん、天神河・・」〈甫庵信長記〉
となっており、「大宮」は富士宮市の大宮町が出てきています。この「大宮」が地名索引では
抜けており、これは抜いてあるのでしょう。大石源蔵の「北条」がでており、関八州の「大宮」
が意識にあります。上の「もとす」は脚注では「本栖湖」の「もとす」とされていますが、甫庵は
安東大将の「北方」(神部四方助の「北方」)の城のある本巣に拡大しています。東国の大宮
となると戦国の範囲から遠ざかるので抜かれたと思われます。しかしここで、頼朝のかりくら、
で「曾我五郎」〈信長公記〉想起となると長曾我部がでてきたりすので、太田牛一のは日本史
の流れの中での叙述というので、そこから目をそらせません。ここの「うば口」からは
「毛受(めんじよ)勝介(甫庵太閤記)」の主君「柴田修理助」が出てきます(〈甫庵信長記〉)。
したがってここは伊織の新免の影響下にあるものです。ここで
「かちやうめん」(脚注では「鐘突免か。」となっている)
という「免」が出てきて、大宮と結びつけられています。宮本武蔵が「新免」を名乗ったのは
一つは、自分の閲歴を語ったということがあります。この表記の多様な毛受勝介は宮本武蔵@
のことを語っていそうです。勝介が、あの柴田勝家の危急を救って褒められたというのは氏家ト
全が戦死した闘いで、大田村がたくさん出てきました。このときの柴田は大田和泉守である
とみてよいのでしょう。「柴田」は〈信長公記〉では
「柴田修理(亮)」「柴田権六」「柴田日向守」「柴田伊賀守」「柴田三左衛門」「柴田」
であり、「権六」はいまとなれば「兼松」もありえます。大田和泉守の下で働いていたというのが
語られたといえます。柴田の読みというのももう一つありえます。実在の柴田があって太田和泉
守や惟任日向守が乗っかつて宮本武蔵のことがわかったりしましたが、臨場だけわかって
出自も織田第一の実力者たる由縁もわからないわけです。いったい誰なのか、実存としての
柴田が出てこないと太田和泉守に影響が及ばないわけです。本能寺のとき柴田は作戦に
入っていたといっていますがこれがわからないそのことが出てきません。福富平左衛門と
いうだけでは実在で、福富郷にいたのかなという程度のことです。明智左馬介に重ねましたが
今となればこれが生きてきて、連れ合いとみるのでよく
「明智左馬介(福富平左衛門)」もしくは「福富平左衛門(明智左馬介)」
というような一心同体的な感じで、どちらかに重点がおかれた活動名で表示されたと思われます。
「尺限廻番衆・・・前田又左衛門・福富(ふくとみ)平左衛門・中川八郎右衛門・・」〈信長公記〉
というのが福富の最初の登場です。
信秀の子息(信長の兄弟)五番目の「五男、安房守殿」
は「織田三郎五郎」殿の「弟」となっているので
信長の御袋様(土田夫人)ーーー「織田三郎五郎」、「二男、勘十郎殿」、「安房守」
となるのでしょう。「守山」「屋斎軒」「下飯田村」「利口なる人」などが属性で脚注では
「織田安房守秀俊」
とされています。湯浅常山は、「秀俊」を、本能寺後の湖水渡りの情景で、明智左馬介の名と
して使っています。
池田恒興(信輝)勝入斎
‖荒屋善左衛門〈信長公記〉
‖織田安房守(秀俊)殿
明智左馬介(秀俊)
と、一応推定してみると、
「福富平左衛門」(考証名「福富秀勝」)=安房守殿
となります。こうなると、実在であるとはわかる「福富平左衛門(秀勝)」がよくわからなかった
が実存であったのを分断させたのでわかりにくくなったということになります。だから、いはゆる
「柴田修理(勝家)」という人物の表記は「福富平左衛門」的表記で、織田家五男安房秀俊的
表記ではないということで宮本武蔵の「新免」はこの辺までも効いてきていると思われます。
「利口」という人ですから賢い人ともいえますが、「口」も滑らかというのがあるのでしょうか、
使者というのが両者について回ったようです。「利巧」というのもあるから、懸かるというのは
あるのでしょう。まあここは結論だけとして、表記のことでは「福富」は
「福富満蔵」(甫庵信長)
が用意されています。テキストでは「明智左馬介」は「明智秀満」とされて、
「弥平次。はじめ三宅弥平次。俗称の●左馬介秀俊(光春)は誤りである。」
とされています。●は常山が使っており、安房守秀俊と関連付けるためだから間違いとはいえない
でしょう。ここで一応
福富=「満」=明智
となります。「秀満」は〈両書〉になく「満蔵」をみて創られた表記といえそうです。「福富秀勝」
が考証名ですが「秀」は「秀俊」の「秀」、「勝」は池田勝三郎の「勝」で、勝入斎+荒屋善は
「屋斎軒」を構成する、「斎」の前に「勝」を入れるのでしょう。索引では「あら鹿」「荒屋善左衛門」
という並びになっており、山口父子の足軽「あら川又蔵」や「あら川喜右衛門」「荒川市介」など
つなげられていそうです。大阪城の豪傑、加藤二十四将
「荒川熊蔵」
は熊本の出身、「熊本」は「隈本」で、隈=隅、〈甫庵信長記〉人名索引
「 「織田大隅守」「三郎五郎」「大隅守」 「津田大隅守」「(同舎弟)半左衛門尉」
の並びの引当にも影響が及びそうです。
「三宅角左衛門(加藤二十四将)」「柴田角内〈信長公記〉」
の「角」も「隅」に転じます。福富秀勝はテキストでは
「実名秀勝(〈大和薬師寺文書〉)福富氏は尾張の豪族。秀勝の家系は岩塚村(名古屋市
中村区岩塚町)の住人。(本文は)福富平左衛門(13ページに登場)」
となっています。この文書は客観性があるので「実名」とされているのでしょうが「秀」も「勝」
別に意味が読み取れました。「福・富」も桶狭間前夜登場の
「宮福大夫」、(首巻の)「富野左京進」
は関係ないとはいえないのでしょう。とにかくネット記事をみてもこの「岩塚町」には「福富」に
関する情報が皆無です。今痕跡がないところに「福富」をも持っていった人物がいたといえます。
まあ何もないでは話にならないので「岩塚小学校」のネット記事の由来をみると「岩塚」は
「七所社(にある)岩と延喜式の古墳(塚)・・・(岩は)日本武尊腰掛岩・・・・。・・・
〈尾張地名考〉(では)“いわつか”とは“殖付”・・・の転語・・・。・・・岩須賀・・・の転語
・・・須賀(砂地)・・・古墳用材の(岩と砂)・・・・」
のようなことが書かれてあります。岩塚も、岩須賀も、「岩」と 「塚」「須賀」は別個です。
〈尾張地名考〉の論者は自信たっぷりのようです。〈信長公記〉から二つの記事を出しますと、
「(天正9年)・・・羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路嶋・・・岩屋・・・池田勝九郎・・・岩屋
・・●姫地・・羽柴筑前守・・。池田勝九郎・・・是も同時・・・淡路嶋物主未・・・犬のお坊・」
があり、一つは池田の属性として「岩屋」が出ています。物主未定となっていますが脚注では
「のち千石久秀が知行する」となっています。書かなくてもいいようなものですが、今となれば
この人物は北方の「岩越喜三郎」、羽栗の「兼松正吉」的存在で、森鴎外も詩を寄せた、今でも
その戦死が、愛惜置くあたわざるものとなっ土佐の若大将を作戦ミスで戦死させた張本人と
ているものです。この島津戦、尾藤源内、又八と同姓の尾藤知宣も失敗し、追放はては殺され
しまう、羽柴秀長は木材を横領する、黒田官兵衛にいたっては高山に陣して糧道を立たれ、
命からがら助けられるというような、おかしいことが起こっています。●は脚注では「姫路の宛て
字」となっています。いわれなくてもわかっているわけで二つの意味がありそうです。「岩屋」は
「岩・塚」とか「岩・尾」とか「岩・菅(すが)」に変えうる、変えて考えたらどうかというのがあります。
「岩谷」=「石谷」になるし、「岩尾」にもなる、「荒屋善左衛門」は「荒尾」に変えたらどうかという
のもありそうです。「中村区岩尾町」というのがあるかもしれないと検索すると「住リフォーム
ねっと」言うタイトルのところにありました。昔この辺りにあったのかもしれません。どうしても
中村区に「岩尾」は欲しいところです。というのは作為があるからです。もう一つは
「(天正9年伊賀国侵攻)・・・★柘植(つげ)の福地御赦免なされ・・・」〈信長公記〉
があり、ここで「柘植」の「福地」がでてこの「地」が先ほどの「姫地」の「地」です。ここで
小学校の由来の
「いわつか」とは「殖付」
というのが効いてきます。「柘植(つげ)」の「植」は「殖」で、これが「殖付」の「殖」です。この「つげ」
が福富と現地、池田を結ぶものとなります。勝手に植を殖と変えるのはけしからん、となりますが
は「柘植」の「植」は太田和泉守がわざと間違った字です。ネット記事「柘殖」で検索できますが
例えば「地部/伊賀郡」によっても「伊賀阿拝郡柘殖郷」となっています。古典でそうなっているわけ
です。★のような表現ならば地名ですが地名索引からはもれています。脚注にも苗字だからと
いうことでしょう、住所は省かれています。索引をみますと〈甫庵信長記〉では@群〔つ行〕以下
@群 塚本小大膳 A群 織田大隅守 B群 宮地助三
柘植玄蕃允 三郎五郎 宮福大夫
柘植三郎左衛門尉 大隅守 宮部世上坊
津田東市佑(津田市関係六件) 織田勝左衛門 宮脇又兵衛
津田大隅守 勝左衛門
(同舎弟)半左衛門尉 (織田)勘十郎 C群 福富満蔵
(同)半左衛門尉 武蔵守 福田三河守
(織田)喜六郎 福富平左衛門尉
のような列記が出ています。小学校の由来「岩塚」は「岩尾」「岩屋」で池田をみて「塚本」(海
部郡=池田)の「塚」をみて「大隅守」に繋いだ、「お行」の織田大隅守は「勝」で受けられ、
これは池田を表すものでしょう。勘十郎殿は大隅守と兄弟ですが、表記が漠然として大隅守
Aもあるとしてみてきました。勘十郎殿は「信勝」「信行」があって「御舎弟」でもあるから
ややこしいものがあります。勘十郎殿は喜六殿にも接近しています。二人は兄弟ですが血縁
ともいえないはない兄弟でしょう。B群で「宮地」がでていますから〈前著〉で桶狭間前夜、謡った
「宮福大夫」は明智左馬介としたのは合っていたというのでいいのでしょう。ただ今となれば
「助三」あるので「福富平左衛門」ともいえそうです。このときの「廿両」も福富を示していそうです。
明智左馬介の場合は、単独行動がありえる、福富の場合は明智左馬介の臨場がある、という
自分流の読み方はしてきていますが、この山場のところでは、どうかということになります。
「信長卿、人間五十年下天・・・滅せぬもののあるべきかとて舞わせ給へば・・・酒宴数刻
・・・宮福大夫、兵の交わり・・と謡ひ立ちければ・・黄金廿両ひかれけり。・・未明・」〈甫庵信長記〉・人間できて
がその場面ですが、謡いと立ちが一人の所作か、ということが問題になります。甫庵の〈太閤記〉
では福富平左衛門と藤吉郎の語りがあって福富は黄金十両・十両、二口貰っててここの廿両に
繋がっています。同じ著者の語りで、〈太閤記〉の挿話では、福富平左衛門の登場がまったく
(筆者が見る限り)必然のないものだから、そういえそうです。信長卿は一人で舞ったと取ら
ざるをえません。これは絵になる情景で大方の想像が合致するでしょう。〈両書〉を嵌め込んで読
まないといけないわけですが〈信長公記〉には下天が二口あります。天沢信玄に語るのところ
と今川軍攻城開始の注進が入ったところです。
「人間五十年、下天の内を・・・夢幻のごとくなり。是を口付きて御舞ひ候。」
「人間五十年、下天の内を・・・滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ・・・」
があり、「是」「口付」があるから太田和泉守の「謡う」の伴奏があったのでしょう。ここの宮福大夫は
安房殿明智左馬介といえすです。ここの「未明」は(びめい)という珍妙なルビがあるので目立ち
ます。「未(いま)だ明けず」−「(淡路嶋物主)未だ仰せ付けられず候なり」という「未」が繋がる
のかも。つまり、先ほどの
「池田・・・淡路嶋・・・岩屋・・・池田・・・岩屋・・・姫地・・・池田・・・淡路島・・未・・」
の「池田」とか「岩屋」「淡路嶋」と繋げて池田を呼び出せるというのでしょうか。これはちゃう、と
いうのが合っていそうですが、変わった人間は池田、尾名を発見できるかもしれない、主張さえ
しなければ実害はないわけです。安房=阿波、なので、安房殿が踊ったから阿波踊りというと
これは、ふざけてる、ということでよいのでしょうが、
「平井阿波入道安斎」「真田安房守信幸」〈甫庵信長記〉
というような重要な阿波もあるので、どこかで使ってこまそ、というのが、その土地だけでは
なく全国でもあるわけです。安房殿は「利口」と書かれており、かなり主観的、感情の入った
表現です。当時としては親類が滅法多いので、小さいときからそれぞれを知るように仕向けられ
ていた、昔は法事などはみなまじめに集まってお互いよく知っていたと思われます。安房殿と
明智左馬介の関係などは、浅井氏と於市殿のような天下も動かそうというようなものが感じられ
ない、お互い知っていて岩塚あたりで同棲してしまったという関係かもしれません。土田御前が
吃驚して太田和泉守に相談して、無理矢理に土田と池田と明智の関係強化は織田の発展に
資するところ甚大とやって格好を付けた、あいつの利巧にしてやられたというのがあるのでは
ないかと思われます。
「守山の城主織田孫十郎」「坂井喜左衛門子息孫平次」〈信長公記〉
が突然でてきます。次のは、「孫平次」=「弥平次」、「守山の孫十郎」=「守山の安房殿」でしょう
「一、守山の城主織田孫十郎・・・・勘十郎・・●洲賀才蔵・・・孫十郎殿・・・孫十郎・・・・
守山の城へは御出でなく・・・逃げ去り・・・数ヶ年牢人・・・。
一、以上のことを「犬飼内臓」が報告)孫十郎は直に何く共知らず懸落(かけおち)候て
、城には誰も御座なく候。
・・・信長・・・・沙汰の限り比興なる仕立てなり・・・御許容なされ間敷と仰せられ・・」
〈信長公記〉
「 一、(織田三郎五郎)其弟に安房守殿と申して、利口なる人あり。(佐久間が推薦して)
上総介殿・・・守山の城安房殿へまいらせられ候。・・・」〈信長公記〉
一、是は守山城中の事。・・・孫平次を安房殿若衆にさせられ、孫平次双びなき出頭
にて候。・・・角田新五(守山の長)が謀叛・・・安房殿に御腹めさせ候て・・・
一、織田孫十郎・・・御赦免て、守山の城孫十郎殿へ下され候。後に河内長嶋にて
討死候なり。・・・」〈信長公記〉
ここで安房殿と孫十郎のことを述べ最後二人とも消滅させています。これは物語的表記を消
したといえます。福富平左衛門は本能寺で消されています。懸落が決定打でしょうがこれは
あとで、そのつもりで見てたから気がつきました。●は由来の「岩須賀」でしょう。勘十郎御舎弟
喜六郎殿を射て落馬させた人物です。
〈信長公記〉索引によっても「つ行」
塚本小大膳 つくで衆 柘植4件 柘植の福地 づかう 津田大隅守(織田信広)
となっており、「福地」は「福地某」でC群からみれば「福」は明智左馬介関係とみることができ
そうで、大隅守とつながっています。「つくで衆」は「愛知県南設楽郡作手村」の作手氏という
「シタラ」は「信楽」で信楽の釜は福富(明智左馬介)ではないかと思われます。「づかう」は図工の
ことかも。湯浅常山の描く「明智秀俊」「左馬助秀俊」は「白練に雲龍を狩野永徳にかかせたる
羽織」「なら柴の肩衝」「乙御前の釜」など出されておりこういう香りが漂っています。常山は
ここで「黄金百両」を出してきており、丹波猿楽「梅若大夫」「黄金百両」(これを〈戦国〉では明智
左馬介とみているが福富の黄金の方がよいのかもしれない)と通じていそうです。また索引で
由宇喜一 遊左衛門 (信長公記)
の並びがありますが、「遊左衛門」は「宮西遊左衛門〈信長公記〉」もあり「宮西」では
「宮西遊左衛門」「宮部善祥坊」「宮本兵大夫」「宮脇又兵衛」
の並びがあり、甫庵のB群とあわせてみるとき、
「由宇喜一」(類書では貴一もある)
を明智左馬介で引き当てたのは〈前著〉、合っていたようです。また宮本のところへ戻ってきまし
たが碑の「新免」に触発されてここまできました。「新免」の「新」は新発田の「新」もあるか
という面だけ述べてまだ鴎外などのことが残っている途中ですが前提があり、桶狭間も
出てきましたのでちょっと中断。ただ前稿の絡みでいえば伊織がこの碑文であの宮本武蔵が
大阪城に入城して(30才ぐらいだから後藤隊の大将となるのでしょう)戦ったということを証明し
たということで十分なのかもしれません。寛永まで生き残ったというのは、講和のときに重要な
位置にいながら、立ち退いたということを示しており、これは講和の意味を証明して余りあるもの
です。冬の陣で時代のはずみがつかなったので、無駄な命の損耗を避けようとしたと思われ
ます。
(45) 桶狭間の願望
桶狭間の記事は今川義元が織田信長に討たれたという事実を伝えているものですが、
〈甫庵信長記〉があの今川義元が討たれた場面、〈信長公記〉では今川ヨシモトという人が
討たれたと取れるようにもなっていると述べてきました。そのために最後の場所が二つ
語られてきているといえるということでした。出陣のときも〈両書〉でかなり違っていて、
〈信長公記〉では、舞って、注進がきて、それから「具足よこせ」となっています。慌てた
感じの信長ですが、これが具足屋玉越三十郎を呼び出すために出されたとしてもう一人
ノブナガがストーリイーとは別にいるという感じもあります。
もう一つ願望があらわれるというのがあります。これは対象をかえるものです。
「今川義元、山口左馬助が在所へ来たり・・・ノガレ死に相果てられ、アサマシキ・・
、因果歴然、・・・・天道恐敷・・」〈信長公記〉
となっています。敵に対してはこういう言葉は使わなくて家康公=今川義元で書かれ、
「ヨシモト」であろうという書き方がされています。
「服部小平太、義元にかかりあひ、・・・毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。・・・・
御舎弟・・・・●運の尽きたる験(しるし)にや。」〈信長公記〉
とある義元も同じです。●の意味がよくわからないのは二つに懸かるからでしょう。勝敗は
時の運と慰めるのと、お前のツキは落ちたという場合がありそうです。
こうなった、ありたいことが実現した、しかし残念ながら討っていない、というのがあってこの
場合は義元=家康公ですが今後心のうちを覗かせる、こういう事件が出てきます。
ここでもう一つの問題があって、服部小平太に討たれたので、服部ヨシモトという表現を
使いましたが、なぜ服部を使ったか、ということがあります。つまり実在かどうかです
松井のあと今川海軍として「武者舟千艘」を動員した「服部」が出てきます。
「ココに河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして・・」〈信長公記〉
があります。実戦では織田信長はこれに対応していて問題がなかったというのは〈前著〉で既述
ですが著述が短いものでこういう話題を提供しているのは、懸けがあると見れるものです。
一つは
一時 今川義元
‖
服部氏
という関係があったといっているというのがあります。世に
「服部半蔵」
というのが有名ですが、この「半」は、「伴侶」としての「半」、「大窪半介(はんかい)」の「半」
で「服部」といえば「半」とセットになるほど有名な人物です。今川義元の連れ合いの服部氏
がいたというのは自然な感じです。この太田牛一の「服部小平太」の「太」も生きてきて
これはあるのかな、という感じです。
二つ目は要は、
はじめに大田和泉守ありきというのが、ここにも出るのかなというのもありえます。服部は室町
時代から続く家
だといっても、太田和泉守のここの説明のために服部を作っとこ、というのもありそうです。
つまり、討手を「服部」
にした理由がある、例えば二人が親類か、とかいうのか、それが知りたいという要請があるの
でしょう。
服部が服部を討ったということですから〈信長公記〉の野外、退きながら
「義元を囲み退きけるが・・・・」〈信長公記〉
のような感じで討たれた人は、今川ヨシモトと取れるかもしれないというのが出てきます。
これは逃げても、捕らわれても、卑怯ではないわけで、これは一段下にみられてることから
くるものといえそうです。あらためて「服部」を見直すと
「服部小藤太」「服小平太」「●服部左京進(助)」「服部平左衛門」「服部六兵衛」〈信長公記〉
があり〈甫庵信長記〉で
「服部弥五八」「服部六左衛門尉」
が余分にあります。「松井」の「五八」の「八」に呼応するのが●です。桶狭間前、登場場面、
「・・河内の服部左京助、駿河衆を海上より引き入れ、吉良・石橋・武衛仰談(おおせかた)
らはれ、御謀叛半の刻、■家臣より漏れ聞こえ、則御両三人御国追い出し申され候なり。」
〈信長公記〉
で、武衛(斯波氏ーこのときは義統の子義銀とされる)が、服部と組んで信長を追い落とそう
としたようですが、この前、信長は清洲の城を武衛にあてがい、(「北矢蔵へ御隠居」)して
います。「吉良」とは「三河国吉良殿」で、「石橋殿」は人名注では
「この石橋氏は清和源足利流。 72 」
となっており、「御座所」が「尾張国国端海手」にあるということですから、「伊勢」が意識され
ています。「服部左京進(助)」の注は
「服部友定 荷之上(愛知県海部郡弥富町)の住人。長島の砦によって拠って北畠氏
と通じていた。」
となっており、「北畠」が突然出てきます。すなわち〈信長公記〉索引で
石田孫左衛門
石橋殿
伊勢国司北畠中将卿→北畠具教
伊勢国司北畠中将信雄卿
という中での石橋ですから、ご隠居の関連の石橋を借りてきた、石田意識の石橋でよいの
でしょう。すなわち「仮名」といえます。もう一つの仮名を出す伏線のようなものです。
■が問題でこれが「家之子」ということで具体性があるということで、これは武衛の舎弟を
さす、ということです。四人出ていてその家臣何百人中の誰かというような悠長なことは
いっていません。一般的にいえば、長い文から適当に抜いて我田引水のことを述べている、
サンプリングが問題だという疑問はあり、普通はそうかな、と思いますが
〈信長公記〉で表意文字といわれる漢字でいえば文庫で250頁くらいのもので、それが30年
間くらいのものですから、一年8ページくらいのもです。非常に短い、最小の字かずで最大の
叙述世界1という桁外れのものですから、中身も暢気なことはいっていません。とにかくここで
服部ーー武衛(の舎弟)
がつるんでいるというのがみえてきます。
義元の戦死の場面では、漢字を拾えば
「服部小平太、義元・・膝口・・・倒伏・・・。★毛利新介、義元・・伐臥・・頸・・。」
となりますが「服部・太」と結ぶ「義元」と、★と結ぶ「義元」があります。いま★の人物を
問題にしようとしていますが★は第一感では
森の若造
ということで山口飛弾守とみてきました。これは〈甫庵信長記〉の「毛利新助」で「済み」なので、
ここはもう一人いるよと引っ掛きまわしとみればよく、人名注では
「毛利良勝(〜1582) 実名良勝。尾張の住人。」
となっています。住人だから「八」の人のようですが属性が特別付加されるのではないのなら
(梅毒というような)、「良」が一般的にはそれを指すさすかもしれません。索引では
毛利敦元(文中「毛利十郎」ー桶狭間9人で森可成 引き当て)
毛利秀頼(文中「毛利河内」ー桶狭間9人で太田和泉引き当て)
毛利良勝(文中「毛利新介」ー本能寺戦死)
という並びとなっていて相関が暗示されています。文中の表記では、桶狭間の森として良勝
は前二者の子息の位置にあるということになりますが、考証の表記では、どうか、
毛利敦元は記載がなく、毛利秀頼は
「尾張守護斯波氏の一族。」
となっており、良勝は武衛の近い身内ということになりそうです。★の文の後に次の文があり
「毛利新介・・・・頸をとる。是偏(ひとへ)に先年清洲の城において、武衛様を悉く
攻め殺し候の時、御舎弟を一人生捕り、助け申され候、其の冥加忽ち来たって、義元
の頸をとり給ふと人々風聞候なり。・・・」〈信長公記〉
があり、「御舎弟」の「毛利新介(良勝)」は「生捕られ」たが信長は、助命した、その冥加が
来て信長の大勝利となった、毛利新介が討ったのが、その表れというのでしょう。
武衛の御舎弟
が出てきました。 義元
‖
服部氏
の服部は石橋と同じように仮名で仮名の服部の意味は★の文の前半の服部を受けるためで
斯波家は、義統が殺され、義銀が武衛に復活し、うぐゐら服部と組んだときに追い出された
ということです。斯波氏、義統の舎弟がヨシモトという人と思われます。
義達ーーー義統ーーー義銀(義統A)
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舎弟良勝
すると服部を討ったというが、雰囲気としては良勝たすかったというのが、周りに漂っており
兼松又四郎、討ち損じて逃がしてしまったのではないかというのも出てきますが、まあ抑え
て、抑えてといったところかも。いいたいところのことは、うぐゐらの二の江の坊主
「服部左京進」〈信長公記〉
は3回登場しますが前出、〈甫庵信長記〉索引にはありません。織田信長を悩ませるほどの
服部は心当たりがないわけです。忍者の服部党はこれほど政治的な動きというのはないはず
です。これは誰かというのが要求されています。勘十郎殿の父、土田御前の連れ合い
信秀の舎弟「織田孫三郎殿」
が実存の名前といえそうです。服部左京進の属性は
「尾張国半国」「河内一郡」「荷之上」「海部郡弥富町」「うぐゐら」「河内二の上」「押領」「国端」
などがあり地名索引「かわち」で見ますと「川内」など11個くらいあります。そのうち
「河内(かわうち)」「河内(かわち)」「河内長嶋」「河内一郡」「河内若江」「川内」・・・
などある、はじめのを念のため見ますと
河内(かわうち) 43・72
となっています。「72頁」では
「・・・国端・・・・河内の服部左京進・・・駿河衆・・・吉良・・・武衛・・謀叛半・・家臣・・・」
など既述のものが出ており、まあ流れからみれば「家臣」が「家之子」とみれるというような
ことを言った部分です。この「河内」は「服部」を出し、その属性を広げてるともいえます。
しかし、これがピックアップされることはありません。というのは43頁に「河内」はないのです。
こんな頼りないものみてもしゃーない、やめや、となるからです。この結論まで5・6回は見るで
しょうから疲れも蓄積します。これはここを5・6・回見たらどうや、というサインです。前頁の
終わりころから
「守山の孫十郎殿・・・河内長嶋にて討死・・・御兄弟・・・信長・・・篠木三郷押領・・・
●川東・・・於多井川・・・名塚・・・佐久間大学・・柴田権六・・・★弘治弐年・・柴田権六・・
柴田権六・・・柴田権六・・・手を負ひ候て・・・」〈信長公記〉
があり、1ページに「柴田権六」4回の登場で目立ちます。はじめの「守山」は
「舎弟孫三郎殿は、守山と云ふ所に、要害を構へ在々(ましまし)けり。」〈甫庵信長記〉
があり、これが孫十郎(秀俊)にきています。●は「孫三郎」の属性です。
「舎弟孫三郎殿・・・信長も又父と思ふ・・・■河東を相添へ、孫三郎殿へ・・・坂井孫八郎
(孫三郎を殺し、矢島坂井孫八郎を討つ)・・・したりや矢島六人衆・・」〈甫庵信長記〉
があり●と■は繋げられています。●の文は「押領」もあり河内の服部から来るものですが、
守山が混入してきて、■などで、二つが重ねられています。孫三郎殿は、信秀の覇業を軍事面
でサポートした大物ですが、「坂井孫八郎・・・殺し申しけり。」簡単に6字の表現で殺されてし
まいます(「同十一月廿六日」)。一方〈信長公記〉では「御遷化」(「其年の霜月廿六日」)とな
っています。甫庵の「同」は文脈で確実に「弘治元年」ですが、一方の「其年」は脚注では
「弘治元年」です。とにかく、このときは孫三郎殿は亡くなってはいないようです。桶狭間では
これほど織田内部に影響がある人物が、敵対勢力として織田信長の背後にいたのだから、
太田和泉守が特別に言及したと思われます。服部小平太は服部左京進ー織田孫三郎、
服部左京進ー吉良ー三河をみて付けられた名前といいたいところです。とにかく
弘治元年(霜月) 織田孫三郎死
弘治弐年 ★が柴田権六(兼六でもある)に挟まれている
弘治四年(霜月) 勘十郎殺される。「柴田」登場 弘治四年11月は改元でなし。
ということになり弘治は、勘十郎殿に関するのことを述べるために設けられた年号といえ
そうです。平手政秀の諫死のことも、その後のことも、これでよくわかったので公家衆も
★の前の「佐久間大学」も「御舎弟勘十郎公」「家臣、柴田権六」「佐久間次右衛門」
「長谷川」「山田」・・・などを出してきます。於多井川は名古屋市西区山田町小田井にある
ようです。こう見てくる「かめ割り柴田」として名高い豪勇の柴田勝家の出自がわからない
では話にならず、太田牛一描くところの勘十郎殿として実存した人物といえるのでしょう。
そら、ちゃんちゃらおかしい、というのはすぐ出るでしょう。そんなこというと桶狭間最前線
善照寺砦の大将〈前著〉であり、、武井夕庵と比叡山を焼くなと諫言した佐久間信盛もそう
なるでは
ないか、そんなこと考えられん、となるでしょう。この強くて、織田思いの、廉潔な大将の
出自はわかりません、というよりも説明がされていません。、このケースは、太田和泉守の出自
もわからない、そらしょうがない、というのと似ているのでは。
太田和泉守の出す個々のケースは、この場合だけというのではなく汎性があるのでは
ないか
社会や国家の在来に、日常現象が諫言しているが、「交通事故」のようなもの、とかいって
やりすごしていそうですが、広がる、広げるの「氾」と同義語の汎論の「汎」の字の人が平手
にいます。
「平手甚左衛門」〈信長公記〉(考証名「平手汎秀」、四回登場)
ですが、「平手中務丞」の「三男」、身方ヶ原で戦死しました。〈信長公記〉の
「佐久間右衛門尉・平手甚左衛門、水野下野守大将として・・浜松に至り参陣・・・・
一番合戦に平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の身内衆成瀬藤蔵、・・」
が最後の記事です。佐久間が生き残り、平手を捨て殺ししたというのが佐久間追放の理由に
挙げられた、その元の一文です。「、」とするのを「・」とするのか、むつかしいところですが、平手の
嫡男が「五郎右衛門」で「五郎」がおかしい上に、織田信秀兄弟の、4番目が「四郎次郎」、
5番目が「右衛門尉」で
佐久間=「右衛門尉」=織田兄弟の(五番目)(「末子」)
であり、その上
「織田右衛門尉」〈信長公記〉
が用意されています。、「織田三位」「平手三位」〈信長公記〉もあります。
」 桶狭間善照寺砦の佐久間信盛、弟左京助など佐久間氏も実存と見ねばならず、首巻主体
に登場している平手氏の出身とみるべきであろうと思われます。お茶で特筆されている
佐久間甚九郎は千利久と引き当ててきましたがこれは平手政秀の子息であろうということが
大体察せられうところですがあと甚九郎とか甚左衛門という表記をどう整合するかということが
残ります。要は「蒲生氏郷」が「賦秀」という名もあるということでしたが「平手甚左衛門」は
「汎秀」という名ですから「秀」を広めるというのがあると勘ぐられます。
また類書に松尾三位というのもあり「末子」が「松」、「尾」が尾藤というのもありえます。
「三位」というのも「三井」が考えられます。尾藤源内はテキストでは
「尾張春日井郡三ッ井村に尾藤城があり源内の居城」
となっており、この場所が掴めませんので技巧的な三井ではないかとも取れます。尾藤
は平手に近いのではないかと思われます。
織田信秀、孫三郎に使われた「遷化」の「化」は「化荻」の「化」に通ずるのか、というのも
興味があるところですが人名索引では「蜂須賀」「蜂屋」「服部」「馬場」という並びになって
います。これは、太田和泉守が服部を使ったことと関係がありそうです。「化荻」の一節の
主役の一人は開山和尚は、武井夕庵の関係者というならば蜂屋兵庫頭もでてきます。
馬場は「信春」「天神」「深志」など高山にもつながるものがあり、「服部」を介在させたとも
考えられます。とにかく 武井夕庵
‖三輪氏
安井氏
とみてきました。
(46)浅野左近
こういう夫婦の図式で色んなケースが出されているのではないかと思われます。天正三年
遠山の岩村で河尻与兵衛、毛利河内登場、
「・・・岩村の攻め衆の陣取りし水精山(すいしゃうざんへ、敵方より夜討を入れ候。則、
●河尻与兵衛・毛利河内・浅野左近・猿荻(サラウギ)甚太郎、ココかしこ・」〈信長公記〉
があり、●と「河内」が一組とすると、「猿」だから「浅野」と組み合わせとなるのかというよう
な感字もでています。人名索引で、浅野左近をみると次の並びが出来ていますので
浅野左近は、あの浅野を意識しているとみるしかありません。〈信長公記〉では
「浅野」「浅野久蔵」 ■「浅野左近」「浅野又右衛門」「浅野弥兵衛」
があります。おかしいことに〈甫庵信長記〉には「浅野」は一つもありません。専門筋のマル秘事項
が「浅野」となっていそうです。橋本一巴と果し合いをした林弥七郎(信長公記)は〈武功夜話〉では
秀吉夫人於ねの親(七なので父親)というのがわかりますが、両書では今の段階ではそれも
わかりません。ただ「浅野」に似ている「浅井」は両書にウンザリするほどあり、甫庵では20を
を越えます。あんまり同じものがたくさん並んでいると目がチカチカしてくるのは誰も同じのよう
で、人名索引には
・・・・・「浅井七郎」「(同名)七郎」「浅井下野守」「下野守」「浅井下野守父子」
「浅井新八」「新井新八郎」「浅井清蔵」「浅井半助」・・・・・・・・
のような並びになってしまっています。後ろから三つ目、「浅井」のはずが「新井」がそのなかに
入ってしまって、これはなかなか目につきません。まあ念のため、該当ページを開くと、これは
やはり「浅井」で「浅井新八郎」が三つも出ていました。木下順庵の弟子「新井白石」は何者かと
追っかけている身にはきつい冗談でした。
「・・丹羽五郎左衛門尉、浅井新八郎・・・・木下小一・・・・・浅井新八郎、木下小一郎追い払
ふ。・・・・浅井新八郎、水野下野守・・・・・」〈甫庵信長記〉
があるところです。新八郎が小一郎を追い払いましたが、「小一郎」はテキストでは
「羽柴秀長 実名秀長〈西願寺文書〉。初名長秀。秀吉の弟。」
となっています。秀吉の弟という場合「弟」の意味に二つあり、兄弟の弟、と今でいう連れ合い
ですが「秀吉」という秀吉も問題です。豊臣秀吉は年表では
1598慶長3年=関ケ原の二年前、「豊臣秀吉没(63)」
となっています。酒井忠次の死もこの頃で、年表では
1596慶長1年、「酒井忠次没(70)」
となっており、二年違いです。秀吉は秀頼のことを案じ、くりかえし、くりかえし有力大名に忠誠
を誓わせましたが、その気持ちは、家康公、徳川四天王随一の忠次のそれでもありそうです。
藤吉郎、秀吉、太閤秀吉には
秀吉夫人、徳川家康公、太田和泉守
が乗っかっていることは、既述ですが、もちろん秀吉夫人が一対のものですから第一義的とも
いえます。おね殿には林孫兵衛という実の兄弟がおり、連れ合いとしては長秀的秀長がいると
考えてよいとみてきました。夫人の(若い頃の)藤吉郎秀吉という夫が誰かということが最大の
課題の一つですが秀吉が中村の百姓の子、庄屋の子などという話は、これは太田和泉守の伝説を
作るための材料になっているものであり、語りの傑作の部類のものでしょう。現実の話しは、もっと
身近の人との結びつきから始まったのではないかと思います。於ねは浅野又右衛門・武井夕庵、の
夫人の実家、安井氏の縁戚なので、隠された部分があるので於ね殿の夫も荒唐無稽に作られ
たということになったと思われます。■の「浅野」しか太田牛一によって与えられていないのです
から公式に当てはめて素描を作っておくのがとりあえずやっておかねばならないことです。
ここで公式というのは、
「●河尻与兵衛・毛利河内・浅野左近・猿荻(サラウギ)甚太郎、爰かしこを支え、水精山・・」
によるものがあります。この水晶を語りに利用した人物の一人が常山で既述ですが、「毛利河内」
がここにいるので、於国に水精の起用は必然だったといえます。
ここでは別の話しで、この特製表記
「猿荻甚太郎」
というもののオカシミが感じさせるところの重要性というものがありそうです。平板に流すので
なく立体的に組み上げるとどうなるか、まあ4人の内、この人物だけは色で、黄色にでもマーク
しておいてもよいのでしょう。
太田牛一は猿荻に(サラウギ)とルビを付けています。
(さらおぎ)はテキスト人名注のルビです。「さるうぎ」「さるおぎ」という読みもありえます。
猿萩は物語表記で「太郎」、前三人は真中の「河内」を中心に二組出来ます。
お ●河尻与兵衛(森可成)
‖ 猿荻(サラウギ)甚太郎
‖ 猿荻(さるうぎ)甚太郎
太田和泉守 → 毛利河内(森河内)=(滝川)左近
‖ 猿荻(さらおぎ)甚太郎
‖ (猿荻さるおぎ甚太郎)
浅野左近(秀吉夫人)
というような人間模様で、姻族関係を示唆した公式のようなものといえそうです。猿荻(サラウギ)
甚太郎、一人では一人と血縁関係がある場合(例えば実の兄弟という場合など)は、三角関係が
四角の関係になりうるのでしょう。〈吾妻鏡〉の場合、嫁入りに、家之子が同行という場合があり
ました。さきほどの〈信長公記〉の浅野の表記を全部使って、「浅野」の場合をやってみると、
浅野久蔵(林孫兵衛@)
|
浅野又右衛門ーーーーーーーーーーー於ね(浅野左近)
‖(林弥七郎) ‖ 浅野久蔵A(林孫兵衛A)
浅野弥兵衛@−−−−−−ーーーーー浅野弥兵衛A
(安井弥兵衛)
(於ね、安井弥兵衛、林孫兵衛は〈武功夜話〉の表記)
一応、このようになりました。まあ「於ね」にも表記や年齢が錯綜しているので@Aもあるかも
しれませんが、それは別として、「於ね」は初めは、若い
浅野弥兵衛(浅野長政といわれる人物)
の連れ合いであったということになります。
15歳のときと、30、45、60のときでは環境なども違ってくるはずです。とくにこの
人物の人生に激変が生じたのは知られています。人生の初めの段階において
猿荻甚太郎に当たる人物が、隠されたが、実際いたので、いるような、いないような感じとなった
ということでしょう。於ねに唯一の兄弟、林孫兵衛がいますが、これは林弥七郎と対応する表記
で、舎弟ということで捉えた場合、この連れ合いは浅野幸長や長晟の父で浅野家で重きをなした
存在だから、於ねの歩む表舞台の視界から消えたというのでしょう。出鱈目だ、そんなこと聞いて
ないということになるでしょうが、〈武功夜話〉の系図でも概ねこのようになることが確認できます。
すなわち〈武功夜話〉では
浅野長詮ーーーー浅野又右衛門長勝ーーーーー北政所於ね
| |
ーー▲浅野長詮女 女子 ーー▼やや
‖ ‖ーーーーーーー浅野幸長
‖ーーーーーーーーーーー 浅野弥兵衛長政
‖
安井弥兵衛ーーーーー安井弥兵衛
となっていて▲▼のところ段違いになっているのを、そのまま合わせたら例えば
北政所於ね
|
▼やや
‖
浅野弥兵衛長政
ということになって「やや」が「弥弥」=別の意味の舎弟、ということになります。▲も同じで
女子と書いてあるのが、額面どおりでないということだけです。これで浅野長詮がよくわからない
ので「浅野長詮」=浅野弥七郎@、▲を浅野弥七郎Aとしたのが先ほどの図です。「詮(あき)」
にこの意味があり、〈信長公記〉の「林弥七郎」の表記を使ったということです。
これだと▲は長勝の弟、ということで、長勝の肉親ということになり、▼も於ねの血筋になるので
もう少し複雑になるのかもしれません。ウイキぺディアなどによれば「於ね」は
杉原助左衛門定利の次女
となっていますが、これだと、於ねの両親が揃うということで
林弥七郎
‖ーーーーー於ね
杉原助左衛門
とすると、「助左衛門」が邪魔になりそうで
「林弥七郎A」=「杉原助左衛門」
‖ーーーー於ね
□□□
の方が合っていそうです。▲の林弥七郎Aが消える、とともに「杉原」が姻族として出てきそう
です。浅野又右衛門の姻族は安井氏ではなく杉原氏で知られているのでそれでみると
「朝日・七曲」が連れ合いとして知られています。於ねは「朝日」の子というのもあります。これは
杉原家利ーーーーー朝日・七曲
‖(猿荻甚太郎 )ーーーーーーーーーーー於ね
浅野又右衛門
となるということですが、ただ浅野又右衛門に跡継ぎの子がなく「於ね」が又右衛門の養女となった
ということですから、この意味でも朝日の子は「於ね」といってもよいようです。ただこうであると
この場合の猿荻甚太郎は誰か、とかいう問題が出てきます。ただ於ねの普通の兄である林孫
兵衛の連れ合いも「朝日」です。これが家康と旭姫の結婚問題に繋がる話となるのでしょう。
〈甫庵信長記〉に「浅野」がなく「浅井」で語られる場合が想定されます。人名の内
「浅井七郎」「同名七郎」「浅井新八」「浅井新八郎」「浅井半助」
があり、とくに「同名七郎」は「木下藤吉郎秀吉」が登場するところで出てきます。「同名」というの
は浅井の大将「浅井備前守(長政)」と同名の意味のようです。「同名七郎」の「足軽大将」で
浅井備前守
‖
浅井(備前守)七郎
で足軽の「軽」が七郎に懸かっているということです。
この表記のうち「浅井新八」「浅井新八郎」は登場回数が多く、織田の人物です。
〈信長公記〉の「浅野」が「七」「八」がなかったので、ここの「浅井新八郎」などが杉原などに宛てら
られるのか問題です。
浅野ー浅井の線から「浅野七郎」が作れそうです。「同名七郎」という表記は単独では広く応用でき
そうで、「林七郎」にも作れますから
浅野又右衛門
‖ 林弥七郎→林七郎→浅野七郎
浅野弥兵衛
ということで、「林」と杉」がドッキングできれば、ここに「杉原」をもってこれます。「杉原」というのが
がどこからくるのかよくわからないので、また「林弥七郎」=「杉原助左衛門定利」が確実か
どうかもきになるところです。とにかく林弥七郎は弓の名人で、六人衆の弓三張は
「浅野又右衛門・太田又助・堀田孫七」
でしたから、ここで林弥七郎を浅野の語りに起用できます。「堀田孫七」は「堀田道空」+「孫七」
で「孫七」は〈戦国〉では味方が原の「弓の御手柄」から家康公に話しをもっていきました。
いまとなれば、これは
浅野弥兵衛ー安井弥兵衛ー堀田(武井)
のつなぎで武井夕庵、安井氏につながることにもなります。豊臣秀次の名には「孫七郎」があり
ますが、この家康公の名前が取り込まれていそうです。秀次の行為には家康公の行為とみるべきもの
があるということでしょう。この安井氏は秀次につがっていて、秀次は武井夕庵と近い親戚ですが
いわゆる秀吉卿の身内でなければ、関白職は継げないわけで、そういう意味では
浅野弥兵衛ー林孫兵衛・・・・(於ね)
の存在が、いまのところ重要で、この「孫兵衛」の「孫」は「秀次」の孫七郎とか堀田の孫七の
「孫」を見て取り入れられているということでもあるのではないかと思われます。
「林弥七郎」=「杉原助左衛門」
の線は勘ですが、〈信長公記〉で、「杉」を追うと
「ぐちう杉若」(注では杉左衛門)、「杉の坊」「杉谷善住房」「杉原日向」「黒田半兵衛」
があり、〈甫庵信長記〉では
「口中杉若」「黒田杉左衛門」「黒田半平」「杉次郎左衛門」「杉坊」「杉谷善住坊」「杉原
「兵庫頭」「「杉原兵部丞」
があり、「杉」が「杉原」と「黒田」と「半」に結びつけてあります。〈武功夜話〉では、次の系図が
あり、「ぐちう」と「林」がこれがこれと繋がることがわかるように書かれています。
■杉原家利ーーー 女子 朝日
‖□□□
尾州浅野村産 林孫兵衛
林愚仲ーーーーー林弥七郎ーーー|
於ね
これによると「林愚仲」が「ぐちう杉若」「口中杉若」ですから「林」=「杉原」が接近します。この
系図はまた別の語りをしているものです。於ねは
杉原助左衛門●定利の次女
ということでしたが、■と少し違います。家利と定利です。こう見てくる●は林弥七郎のところに
くっ付けるしかないようです。これは朝日Aのことを語っています。まあよくわからないのは
事実としても、いわゆる「浅野長政」の母は安井氏(安井弥兵衛A)で、蜂須賀小六の従兄弟
というのが出てきました。道家尾張守の安井の女房〈前著〉の出身の家です。
(47)安井道頓
「朝日孫八郎」〈信長公記〉という表記があり、ここの「朝日@」「朝日A」に影響があるのか、
わかりません。朝日の名前を使ったのは、朝日孫八郎というものをみて使われる場合もありえ
ます。浅野又右衛門の連れ合いの「朝日」「七曲」というのは
七曲
‖朝日
浅野又右衛門
となるのかも。浅野備前守長政(お市の夫)で「曲なく」というのが二つほどありますが、この「曲」
ではないか、浅野=長政=浅井で、浅野の於ねを語る場合は「長政」を忘れるなということかも
しれません。杉原では杉原七郎左衛門家次が有名ですが、どこに入るのかという問題もあります。
「杉原兵庫頭」「杉原日向守」という表記などから明智と言ってよいのが杉原ですが、両書に
登場がほとんどなく〈信長公記〉では「杉原」は「杉原日向」一つだけしかありません。類書にあるも
ので、一般性がなく浅野周辺を「明智」を使わずに語る場合に使われる表記かもしれません。
そういっても「杉原」は実在しており、要所に出て来ます。常山では大阪城で上杉の
「杉原常陸」
が出ています。「常陸」は木村常陸介があります。大坂城からは、浅野又右衛門ではもう一つ
の「安井」を見逃すなというのがありそうです。ウイキペデイア「安井氏」によれば、大阪の道頓堀
の開鑿で有名な安井道頓が大坂城で討死したというのが出ています。武井安井の筋から大坂城
が出てくるのでしょう。安井氏は河内国畠山氏一族で、河内渋川郡から播磨国安井郷に変わって
渋川が安井になりましたが、囲碁の安井算哲、安井道頓などが出ています。道頓堀は道頓
の死後、従兄弟の安井道ト、平野郷の坂上氏の平野藤次(安藤藤次)によって完成されました。
道朴、道頓は「道家」の「道」の感じです。「平野藤次」が「祇園藤次」を思い出しますが、
「安藤藤次」
が重要でしょう。テレビ、新聞でも「歌川広重」から「安藤」というコメントや注やが抜かれると不親切
になります。
道頓は「安井成安(なりやす)」が苗字だというのもあってこれは、通常は連れ合い
の苗字でしょうが、道頓はこれによって「安井氏」「成安氏」の二つの出自説があるそうです。
成安氏となると平野郷の隣の河内国出身となります。が、おかしいことに「成安」は子息の名前
というのもあるようです。成安の付加は
安井 安井 安
り 成安 → 安 成安
という面白さもがあります。歴代の名前が「満」「定」「次」「重」「正」などあって「重正」の「成(しげ)」と
「夕庵」の「安」を付け加えたというところでしょう。〈甫庵信長記〉に
「・・・寺田又右衛門、河内の杉原兵部丞・・・」
があり、「杉原」は「河内」だといっています。先ほどの河内国畠山の安井の前身畠山や、成合平野
の河内を意識したものでしょう。後身の安井の播州には、三木陣の「畠山総州」もでてきますので、
毛利河内ー河内ー畠山ー安井ー杉原ー又右衛門
ということで話が成り立っており
安井
‖杉原
浅野
で〈武功夜話〉の系図を読み取るのは、間違いでもなさそうというのも出てきます。志津嶽七本
鑓の一人、平野権平長泰は河内守の浅野氏系の縁者かも知れません。平野氏は〈信長公記〉
人名索引では
「平野」「平野勘右衛門」「平野新左衛門」「平野土佐(守)」
ですがこれは
平野土佐(守)
‖平野
‖平野勘右衛門
平野新左衛門
が意識されていそうです。二字「平野」は外からはよくみえないが、というようなものかも。
道頓は「市右衛門」とありますが、これと「頓」の組み合わせとなるのでしょう。細川に
「永岡与一郎・同弟(おとゝ)頓(トン)五郎」
がいます。とにかく大坂城戦死安井氏となると、武井安井の安井氏がでてきます。
想
於ねは聡明であり、林弥七郎は三兄弟と親しく、安井、浅野氏と縁戚であり、引き立てを受ける
立場にあり、出世していくものが備わった人物といえそうです。異例のスピード出世が秀吉と重
なっています。浅野長政
は長吉というのが本当のようです。「ねね殿」に「吉子」というのがあり秀吉の吉という注釈が一般的な
ようですが「長吉」の「吉」が合っていそうです。年表では,豊臣秀吉の生年は
1598没、63歳
ですから、秀吉は1535位の生まれです。太田和泉守より9歳ほど下ですが、テキスト人名注
「 浅野長吉(1548〜1611)、長勝の子。弥兵衛。・・・五奉行の一員。慶長四年(1599)
四月より長政(阿子田文書)。」
となっている浅野長政の生年とはかなり違います。於ね殿のこともええ加減なものだといわれる
くらいの矛盾だらけの話しが残されて来ています。13くらい違うと@Aというものをどこかで
入れないと解けません。ウイキぺディアのものを借用しますと、
表記は
「おね」「ねね」(漢字はいろいろ)、「高台院」「北政所」
など親しまれているものとともに、
「豊臣吉子」、「弥(ね)」、「寧(ね)」、「寧子」
などのサイン
もあるようで多様です。文言をいくつかピックアップしても、おかしいのが多々あります。
「(おねの)実母、朝日」「秀吉妹、朝日姫とは同名の別人」
は系図にもあり〈前著〉でも触れていますが、ちょっと手が付けられない感じです、こうなると
家康に嫁いだという旭姫がどうなるのかということにもなってきます。
「秀吉には石松丸秀勝という子がある。」
とも書かれています。秀吉には二人の子がいたという話もあります。子がいないという伝説
の人に子がいたというのが、ままあります。世界的に。
家と家との結婚となると、状況の変化によって離婚、再婚などもあり、婚外も、義理の関係も
あるから範囲は広がってきます。こういう話の目的がわかれば逐一解釈しなくても済むことが
多いのですが、挿話がヒントになったり、駄目押しになったり、決定打になったりします。
年齢にしても
生年 天文11年(1542)
天文17年(1548)
天文18年(1549)
享年 83歳、76歳、77歳
があり、6〜7歳の差がついています。また
「杉原助左衛門定利の次女」
「浅野長勝養女となる」
があります。すると〈武功夜話〉をみれば林弥七郎の子となっているからどうなるかということにも
なります。「林弥七郎」を討ち取ったのが橋本一巴と佐脇藤八ですから「弥七郎」は「弥八郎」でも
いいのですが「杉原七郎左衛門」と対応する「七郎」にしたと考えられます。「助左衛門」はその
「助」からで「弥八」と同義でしょう。
浅野長勝の養女というのが実子だというように思わせるのが「実母・朝日」という表現で、
〈武功夜話〉の「朝日」の登場が「朝日孫八郎」を踏まえているとみると、朝日が弥七郎=助左
衛門になり七曲が浅野弥兵衛(安井氏)になるという理屈になりますが、朝日とか七曲という
のは別の表記説明のためのものなので動かしてみるとよいのかもしれません。
(48)六人衆の 「浅野又右衛門」
〈信長公記〉に一回限りの「浅野又右衛門」があるので〈武功夜話〉の著者はおねの養父として浅野長勝
説明した、他の人もこれは紀州浅野家の租、浅野長勝と見たということで、これはそれで合っており
六人衆の弓三張
が 「浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七」〈信長公記〉
の浅野長勝は、そのとき織田信長の側にいたのは確実なことで実在ともいえるのでしょう。
。ただ太田又介がくっ付いて
おいこれは巻頭の著者、「太田和泉守」らしいから何かあるからというのもあるのでしょう。先ほど
浅野の残像が残った「又右衛門」が「杉原」に使われました。一部再掲
「寺田又右衛門、河内の杉原兵部丞、宮崎鎌太夫、其の弟鹿目(かなめ)助{何れも兵部の甥}
なり。」〈信長公記〉
桶狭間の毛利(森)河内が利いてきて「又右衛門」で弓三張の浅野を想起し、杉原を意味づける
ことになりますが、そうすると〈武功夜話〉の図式にも行きそうです。つまり
寺田又右衛門
‖杉原兵部丞 −−−−−|
宮崎氏 宮崎鎌太夫・(宮崎)かなめの助
となります。そら駄目だ、「宮崎氏」など書いていないもの出てくる、無視だということにされ
そうですが〈信長公記〉では「宮崎二郎七」という表記を用意してあり、この三人で検証すれば
よいのでしょう。又右衛門に子がなかったのは浅野と同じ、鹿目どのを養女にする発想が出て
くるところです。重要なのは兵部はこの二人を甥といっていることで、蘇我蝦夷の甥が山背
大兄王というのと似ています。兵部というのは古来、腕力行使に長けた方が就任したほうが
よいということで、宮本兵大夫の「兵」もそれに準拠しているようです。「猪子兵介(助)」も
「矢部善七郎・猪子兵介」〈両書〉
の並びがあります。
六人衆というのは天沢が武田信玄に話した織田信長の側近ですが、当時として浅野幸長と
いう具体的人物に結びつく「浅野」が一番に出ているのは気になっていました。六人衆は
「弓三張」が「浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七」
「鑓三本」は「伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田佐内」
であり、時々何かあったときの納得材料としてここへ戻ってきています。はじめに感じたのは、
馬鹿みたいな話しですが、アイウエオ順で浅野がトップというものですが、六人でやるとそうでは
ないのでいうほどのこともないわけです。ただどう読んでもこの順番が変わらないというのは
今となれば意味がありそうな感じがします。アイウエオ順とすれば並びを変えられるというもの
も言外に出てきます。現在は、弓・鑓の堪能ということですから、身辺護衛官に取られている
ケースが多いと思いますが、その場合は(「浅野」が具体的だから)
「伊藤・城戸・浅野」
の組み合わせが実際的な感じがします。こうすると、一方は(「田(太)」で括れるから)、意味が
出てきそうです。
「堀田・堀田・太田」
となれば、「三張」は「三春」で、三人の兄弟というのも出てきます。「堀」にも早くから着目され
ているといったこともいえそうです。兄弟といえば、「浅野」が「又」なので、実際と語りの両用に
使われるとすると、
「浅野・太田・堀田・堀田(七)」
の組み合わせで、実際は4兄弟ではなかったのか、というのも感じられるところです。こうなれ
ば信長の身辺護衛は二人で「伊藤(清蔵)」と「城戸(小左衛門)」は、よほどの鑓の使い手だった
ということにもなりますがこれも実存でよいのでしょう。また弓三張は、いまとなれば
浅野=豊臣、太田=明智、堀田=徳川
を表わしていないかというのも出ますが、当時では、これは(浅野ーおね)(堀田ー徳川大老)を想起できる
のに、太田は何も出てこない、ペンネームだからという程度のことでした。
六人衆の六人ともなると、三兄弟とその連れ合いで、3×2=六人でもあるのでしょう。
武井夕庵と太田牛一は、年が同じで「又」があるので、また二人とも明智ではないこと、武井夕庵
が特別に隠されていること等々で双子の兄弟ということがわかりますが、この六人衆に
(「左(右)衛門」があり)
「堀田又左衛門」
「堀田又左衛門」
の二つの同一表記「堀田又左衛門」が内包されているのでも感得できます。完全に同じでは
二人ではないので
「堀田又右衛門」
「堀田又左衛門」
の二つが内包されているといった方がよいかもしれませんが、これでいくと六人衆は、もとの
四字の4人は一応の組み合わせとするとして、
「浅野清蔵」「太田小介」「伊藤孫七」「城戸左内」「堀田又右衛門」「堀田又左衛門」
の六人になります。「堀田」は「又」も二人にあり、次第によっては同一表記にもなるから、
瓜二つの二人でよいのでしょう。 「浅野清蔵」としてみたのは
「浅井清蔵」〈両書〉
体 という表記があり、本能寺で戦死の一匹狼の表記ですが浅野ー浅井を繋げようとするものが
ありそうです。これは〈三河後風土記〉の
「木下藤吉郎秀吉の氏系を尋ぬるに秀吉の四代の祖藤原姓にして近江の国浅井郡
の産なり。」〈三河後風土記〉
があり、「木下藤吉郎秀吉」=太田和泉守の別表記としますと「浅井」はもとから属性ということ
にもなり「浅」は「朝」とともに太田和泉守の係累を匂わせる字でもあります。「伊藤」「城戸」は
原型保持させるとすると
「伊藤清蔵」「城戸小介」「浅野孫七」「太田左内」
「伊藤清蔵」「城戸小介」「太田孫七」「浅野左内」
などが出来上がりますが、
「浅野孫七」
‖
「太田孫七」
ですから、ここでは、「浅野」=「太田」として重ねて解してもよさそうです。以下この「孫七」と
いう伏線が敷かれたことからくる話です。
(49)支倉常長
「左内」は「福田」を呼び出します。
「福田佐内」「福田三河守」〈甫庵信長記〉
「福田与一」「福田三河(川)守」〈信長公記〉
という表記があって
「●丸毛兵庫頭・福田三河守・・・」〈両書〉
があります。福田は「宮福大夫」−「宮内卿法印」へ行き、ここで「三河守」ー「吉良」も出ました。
〈戦国〉では、ここの「孫七」は徳川家康を表わし、太田又介と対峙関係が出されて
いると書いていますが
「左内」「福田」「与一」ーー「森」「太田」ーー丸毛兵庫頭ーー武井夕庵
「左内」「福田」「孫七」−−−−−−−−−福田三河守ーー家康公
という関連が描かれており、直感的な引き宛てとも取られかねないものでしたが、やはり、合って
いたといえます。そのときはその時で、別の根拠でいっているので、まあ6通りくらいあるものの
2〜3を使えたということでしょう。細い線のようなものも、確認となったり、取っ掛かりとなったり
しますが、先ず間違いなさそうだといった段階のときに出てくる細い細い線は、たいへんな迫力を
をもっていて、多いだけに、はかなげなので捉えどころがなく、覆すのが困難なゆるぎない決定打
となってきます。つまり塵芥情報のようなものが付着してきたときは、
伝えたり作ったりしてきた昔の人の人生の価値判断から生まれた個々が総体をつくるから、
大河の流れとしてどうしようもなくなります。今日、これを、
他愛ないものとして否定するには、先人は意味のないことをいったり書いたりしたという根気の
よい反論が一つ一つに要ります。これはできないものだからトータル否認、近づけないということ
にされやすいものです。ここで「与一」から森の半介ともいうべきものをみて三河ー「孫七」への
流れを見ましたが、あの有名な支倉常長はネットによっても
「与市」
となっています。これは「森」の「市」です。で父は「山口常成」ということのようです。地元和田
家の史料でも
「山口与市」
で載っているとのことです。「与一」は上の「福田与一」があり「河尻与一」もありました。「市」
が出ましたので、より確実になるのでしょう。ネット記事記事「川崎特集ー宮城川崎com」では、
父は「山口飛騨守常成」とされています。桶狭間でいたのは「山口飛弾守」です。
「成」は「可成」の「成」、「常」は木村常陸介の「常」でしょう。
覚えとこ、おぼえとこ、「山口」は「木村」
というのがありました。
山口ー山口左馬助ー山口九郎二郎ー森ー森与三ー森与市ー山口飛弾守係累ー
木村常陸介A
というものが出て、加藤清正の侍大将木村又蔵=伴正林、の弟の一人が出てきます。
墓が三つあってウイキペディアでは伊達領の「光明寺」「西光寺」「円福寺」です。
「光明寺」は「日吉丸」の属性。西光寺は石田ー蒲生、円福寺は飯沼観音があり
ました。同記事、「支倉常長メモリアルパーク」によれば、「梅安清公」という名が出ています。
「支倉」は「はせくら」と読むようですが、字引では難読例として「はしくら」「はせくら」が出て
います。「くら」には「蔵・庫・倉」があり、「はし」は「橋」「端」、「はせ」は「長谷」があり
「支」
の読み方が難しいので誰も一応は読みに迷い漢字を宛てるというのはあります。常長・長経は
ひっくり返されたものに過ぎず
常長
長経
という遊びがありそうで、「六左衛門」の「六」は「丹羽源六」「佐藤」「印枚」「印牧」の「六」など
あり、弥六・助六、海野六郎、望月六郎の六です。
養父は「支倉時正」で、その名前も、丹羽五郎左衛門とセットで出で来る
「時頼禅門」〈甫庵信長記〉
の「時」+と太田和泉守の「政」「正」で出来上がっています。納得が得られ
にくいことですが、「支」が「支える」「分かれる」というのとともに「差し支える」「支障をきたす」と
いう「支」もあるので、単に支倉家に養子に入ったから「支倉」だ、「支倉」は単なる人名とか地名
とかに過ぎない、とはいいにくいところもあります。ただ確実なことは、字引にも出ていますが、この
「支」は
「えだ」=「枝」
と読んだり、解釈できることです。つまり、「支」は、「木+支」=「枝」の「支」です。
枝は森に通じます。すなわち、
「朶石(えだいは)和泉守」→「今枝重之右衛門」→「今枝弥八」→「令枝弥八」
「中条(なかじょう)」→「中枝」→「中江」
「綱條」(ルビ=「つなえだ」)
などです。
(50)伊達政宗の野望
支倉常長の壮挙の実際を見誤らせるものは表記だけのことです。
ウイキぺデイア「支倉常長」によれば、その欧州派遣には
「ウイリアム・アダムス」=「三浦按針」
が絡んでくるようです。
「慶長14年(1609)、前フィリッピン総督、ドン・ロドリゴの一行が、ヌエバ・エスパー二ャ
(現メキシコ)への帰途台風に遭い上総国の岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難波
した。地元民に救助された一行に徳川家康がウイリアム・アダムスが建造したガレオン船
を送り、ヌエバ・エスパー二ャに送還した。この事をきっかけに日本とエスパーにャ(スペイン)
との交流が始まった。」
とあります。「岩和田村」が支倉の語りのスタートとなったのなら「岩」は
「毛利岩」「岩」〈信長公記〉
があり、これが援用かされているかも。〈信長公記〉索引では
毛利十郎 伊豫父子
毛利岩 岩
毛利河内守 岩越喜三郎
となって係累も出ています。「岩」は本能寺で戦死しますが
「藤九郎・藤八・岩・新六・・・虎若・息小虎若初めとして廿四人、御厩にて討死。」〈信長公記〉
で出ており、もう一回「毛利岩」として出てくるので、これは森の「岩」といいたいようです。
つまり、森の廿四人を出してきています。どういう積もりかは別として、これが武田二十四将、
加藤二十四将、黒田二十四騎などの元でしょう。和田村は惟政があって、これは伊政で
伊達政宗は宗達を織り込んでいます。「御宿」は勘兵衛があり、与市を見ているともいえそう
です。
「三浦按針」は徳川家康に重用されました。その知識、技能が買われたのは事実でしょうが、
国策、外交などの部分についても、そうであったということは、わかりません。
ウイリアム・アダムス
‖
三浦按針
という連れ合いがついていたというのはないか、またアダムスに乗っかって大物が
外交、国防で家康の補佐をしていたというのはないか、というような疑問が出てきます。
ここへきて
徳川家康と太田和泉の関係が仄の見みえてきたときに、家康における森の影響が考慮され
てもよいのではないかとも思い至ります。三浦按針にしても、
按針は「按」=「安」で、「針」は「張」ー「春」で、藤吉郎の属性
でもあり、「三浦」は
「三浦右近」「(同)雅楽助」「三浦左馬助」(両書)
があります。この「三浦」の登場は、
「岡部丹後守、★三浦右近、同雅楽助、森河備後守、●朶石(えだいは)和泉守、朝比奈弥六、
進藤与兵衛、由比可兵衛、同藤太夫、岡部帯刀・・・神応但馬守・・・水島備中守、山上備後守
・・・倍臣溝口竹・・・若州逸見駿河・・・武田孫八郎・・・溝口竹・・・惟住五郎左衛門・・溝口竹・・」 〈甫庵信長記〉
の★の二人が見られます。〈信長公記〉では「同」は「三浦右近・・・・・・三浦雅楽助・・」という
形ででています。この記事が重要なことは●の人物が出ている点です。●を〈信長公記〉では
(もといし)と読ませて、索引の上で「毛利」−「森」を「枝」「和泉守」と繋げたというようなことがあり、
孕石和泉守ー原見石ー徳川家康
というような関連が後世で生ずる、その元を提供したというような苦心が見えるところです。
従って前の「森河」は「森」+「江」→「枝」となりますが〈信長公記〉では
「森川備前守」(人名注では「森川備中」に作る文献もある由)
となっていて、「山上備後守」「(浅井)備前守長政」にも向けようというようなことで、表記のエネルギー
を感じさせる一節です。そのため
「三浦右近」
が何となく「高山右近」を想起させるもので、「岡部」の「崗」が前にありますのでとくにそうなる
のでしょう。「岡部」が二つあって「丹後守」「帯刀」ですが、この「帯刀」が利いています。「岡部」は
「岡部又右衛門」があって、これは大船建造の記事があります。元亀4年
「御大工岡部又右衛門棟梁にて舟の長さ三十間・横七間、櫓を百挺、・・・矢蔵
・・・おびただしき大船上下耳目を驚かす。」〈信長公記〉
があります。この造船の経験と、ウイリアム・アダムスの船に関する博識が結びついたことが、
1600年に、アダムスが豊後に漂着して、1604年に早くも英国式帆船建造となった、という
もとと思われます。岡部又右衛門は、天正四年、安土城で
「御大工岡部又右衛門・・・御大工宮西遊左衛門・・木村二郎左衛門。」
でも出てきますから大変な技量の持ち主で「岡辺又右衛門」もあるから高山右近にも宛てられ
得るのでしょう。「八剣宮」の修繕もしていて「丸毛兵庫頭・福田三河守」を呼び出しました。
「岡部又右衛門」は「浅野又右衛門」の「又右衛門」を通して、六人衆の太田、堀田につながり
ますが、
「伊藤(伊東)清蔵」「城戸小左衛門」
にも引っ掛かるところがありそうです。造船で伊東が出てきて、小左衛門に
「高田小左衛門尉」〈甫庵太閤記〉 「高木小左衛門」〈辞典〉
があります。「城戸」は木樋という意味の
「木戸井」「大坂城戸(きど)口」〈信長公記〉
があり、後者からは
「・・舟・・・・江と川・・・西・・・滄海漫々・・・日本・・・・唐土・高麗・南蛮の舟海上・・」
とスケールの大きいものが出されています。〈奥の細道〉の「伊達の大木戸」に似て。
造船の「三浦按針」(ネット記事では「安針」「安人」もある)の属性は
「相模国三浦郡」、「伊東」、「太田一吉(重正)」(大分の臼杵の城主)、「寺沢志摩守」
「逸見(へみ)村」、「深田台」、「徳川家康」
などありますが、はじめに事情を聞いたのが「太田一吉」で、「逸見」というのは先ほど「逸見
駿河守ー「溝口竹」(長谷川竹に通ずる)がありました。
三浦あんじん二人、アダムスと三浦右近(三浦左馬助)が重ねられていると
と思われます。外国名の人に乗るというのはおかしいですが、高山などは現に外人名と両方の
名前を持っています。岩和田でスペイン船が座礁し、ここ三浦でで建造した船を提供したわけですが、
ネット記事「三浦按針の足跡」によれば、この船は「浦賀」から出航したということです。伊東で
建造したから
当然のことで提供者は徳川家康ということになります。しかるに「支倉常長」の場合は先ほど
あったように、伊達政宗が実行し、石巻で建造、月の浦で出航となっています。どうしたことか
と思いますが、いわゆる、あの奥州伊達政宗の大言壮語、雄図ばかりが目立つ支倉の遣欧使節
が紹介されます。年表によれ
ば、このころオランダ、スペイン、ポルトガル、イギリスなどとの通商の話が集中しており、その中
で、
1610(慶長15年) 太田牛一〈信長公記〉完成
1611(慶長16年) 小瀬甫庵〈信長記〉完成
1612(慶長17年) 幕府キリシタンを禁じ、京都の教会堂の破却を命ずる(禁教令)
1613(慶長18年) 九月伊達政宗の遣欧使節支倉常長陸奥月浦より出航
1614(慶長19年) 高山右近追放、大坂冬の陣
があり、禁教のなか、幕府の与党といってもよい伊達政宗の企画、実行というのはわかりにく
いことです。スタート時点で、一年前
三月の禁教令があり、帰ってきたら事情が変わってしまっていたというのも解せません。伊達政宗
に太田和泉守が乗っていて、色んな有名な挿話は太田和泉守を語るものであり、とくに「宗達」が
伊達政宗→伊政宗達→惟政宗達→太田和泉守の面があり、予想外の天王寺屋竜雲のところで
伊達がでてきたりしました。姻戚面があると一層ややこしくなります。伊達政宗と秀吉との間に
生じた
「香の前」
の物語などは、この両面を語ってしまうようなものです。「愛妾」を秀吉が政宗に譲るという話しですが
いまとなればこれは太田和泉守と伊達政宗のやりとりです。太田和泉守の人を食ったような面が
出ていますが一方の政宗にも同様の大気のようなものが感じられ両雄とかいって政宗のキャラクター
ーに巾が加わってしまいます。それらで政宗は実際より大きくなっているといえます。ここで香の前
が秀吉の身内とすると一辺に親戚になつてしまいます。政宗と香の前の間に、「亘理宗根」
「慶月院」の二人の子があり、この慶月院の子が伊達騒動の「原田甲斐」ということのようです。
要は、このとき日本の国主は徳川家康であり、遣欧使節というものは家康が出してこそ
使節となるものです。支倉常長の身元が隠されたことが、このことを、国としての行事ということを
を、いわないようにしたということの証左ともなるものです。
太田和泉守が遣欧使節を出したことの源ならば、徳川の打倒が目的という挿話などはそれを
示すもので荒唐無稽の話しでもなさそうなことですが、太田和泉守の考えを実現させようという
考えの勢力が徳川にも伊達にもあったのか、そういうものが出てくる根拠があるかというのが
気になるところです。徳川家康が賛意を表す可能性があることは少し触れましたが、伊達の話
しがどうかということもその後の語りに影響がありそうです。例えば伊達が前田に変われば、
その援助ももらって建造して、帰国
後も支倉が保護される、子息が切腹させられるようなこともない、想定が可能です。伊達ならそうは
はいかないということになりそうなので今、親類の話を持ち出してきたわけです。伊達をどうとら
えるか、ウイキペデイアでは、
「諱の政宗は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主、大膳大夫政宗にあやかっ
たもので、この大膳大夫と区別するために藤次郎政宗と呼ぶことが多い。」
となっています。つまり別名「藤次郎」と書いてあります。巧妙な言い回しで「大膳大夫」の「大膳」
は黒田で言えば「栗山大膳」の大膳で、栗山大膳@が栗山備後、先ほどの森川でいえば
森川備前守
‖森河備後守
森川備中
となり、徳川で言えば「孫七」の「家康公」相当人物が伊達の大膳でこれが家中で巾を利かせ、家康
公と組んで無茶苦茶やったとみな怒っているいるわけです。したがって徳川、伊達において二面
があり体外的には家康卿、藤次郎が代表者です。一方姻戚の面では、政宗に
「妻(側室):塙直之の娘」(ウイキペデイア)
があり、これが先ほどの香の前のことをいうようです。「塙直之」は「塙団右衛門」のことですが
「塙九郎左衛門直政」の一族でしょう。「塙直政」は「原田備前守」「「原田備中守」で、これは
「原田甲斐」
の「原田」につながります。「原田甲斐」の相手方「伊達安芸」は「亘理宗根」の関係者というこ
とで、伊達騒動は
伊達政宗・秀吉ー香の前ー塙直之娘ー塙直政ー原田備中ー森川ー太田和泉守
を知らせた物語といえそうです。また伊達家で、絶賛される大将、茂庭周防、片倉小十郎
がおり、また一門に伊達藤五郎もいますから、実力はあるにしても物語ができるというのは
臭う面があります。まあ実存の伊達政宗という見方が必要になりそうです。欧州諸国は、
関ケ原以後は徳川家康が最高の権力者だから、家康卿しか相手にしません。一方、家康卿は
統治の責任者だから前政権の行政実績のある官僚機構を利用せざるを得ない、太田和泉守
周辺の人物に頼ることになりますが、一方、国内に大きな矛盾を抱えており、昔の家康公の
勢力が強勢で
禁教圧力が強い、そんなことなどやると国交すらむつかしい、ということで、効果の大きい遣使
船派遣を、やったということでしょう。伊達、徳川は近い親戚で、家康公の勢力にも近いのが
伊達政宗で、対外発表、記録はその名でやったということでしょう。
しかし、こうはいってもとてつもない発想の事業だから、全てにおいて問題だらけで、挙行を進
め、段取りできる、対外信用力の在る、また熱意のある人物がいて家康、政宗、前田など動かせ
ないと不可能であったわけで大田和泉守の存在があった、と思われます。太田和泉守がそういう
ものをもっていたのかというのが、これからの話です。支倉の周辺すこし補足しますと
伊達藩にも、支倉保護したろ、という勢力があったことは、すこし触れましたが
〈類書〉からは
塙団右衛門ー伴弾右衛門ー伴正林ー山口飛弾ー森川備中ー森与市
ということで、支倉常長にも繋がってきそうですが、太田牛一が支倉六右衛門を〈両書〉で暗示
しているかというのも問題です。漢和辞典で「支」では「と」という読みは出ていませんが、「干支」
の「干」は国語辞典では
「干支」(えと)
があり、これからいえば「支」は「と」読めることがわかります。これが決め手になるのかもしれません。先ほどの
「森河備後守」などのあと
「・・・和根川雅楽助、大戸丹後守、浦野右衛門、江戸右馬頭、土橋五郎兵衛・・・
与田美濃守、同木工左衛門尉・・・江戸主税助。」〈信長公記〉
の「えと」=「江戸」が二つ出てきます。この心は「支倉」を「とくら」と読み、支倉常長を
「土倉(蔵)四郎兵衛」+「今枝弥八」
で表わそうとしたと考えられます。土倉は戸倉ですから、ここで「大戸」「江戸」「江戸」と「戸」=
「と」を連ね、「土橋」の「土」も出ています。「今枝弥八」は「令枝(いちえ)弥八」ですから
今市枝
で「市」が出て「与」とつないで「枝」=江戸の「江」となります。土倉(蔵)四郎兵衛の属性は
〈甫庵信長記〉では
「池田勝三郎の家の子」
「前田左馬允」を討ち取る(舞台は「犬山」「岩倉」)
「片桐半右衛門尉」「(稲葉)又右衛門」などと出てくる(舞台は「軽海」)
で、「土倉四郎兵衛」は一つは「前田又左衛門A」でしょう。前田左馬允(多分これは前田
又左衛門@を暗示している)を討ち取ったので明らかです。〈甫庵信長記〉の索引では、(え行)
「越前東郷侍従」→(長谷川竹の後号)
「朶石和泉守」 →(太田和泉守相当)
「江戸右馬頭」 (枝)(戸)(土)、〈信長公記〉では「江戸右馬丞」
「江戸主税助」 (枝)(戸)(土)、〈信長公記〉では「江戸力助」
「海老名」 →(〈信長公記〉「海老半兵衛」「えびな=海老名勝正」相当)
となっておりこの並びから見てもそういえます。もう一つAとして
「支倉(土倉)常長」がないかということです。本文中で「江戸」が「浦」に接近しています。
「浦野右衛門・江戸右馬頭・・・」〈甫庵信長記〉
があり、この並びは「浦賀」「三浦」「浦上(信長公記)」とつながり
「江戸右馬丞」ー「河尻右馬丞(信長公記)」−「河尻与ー(信長公記)」−「支倉与市」
となるのでしょう。
「大戸丹後守」−「浦野右衛門」−「岡部丹後守」ー「三浦右近、同雅楽助」ー大工棟梁
の「岡部又右衛門」ー「浅野又右衛門」−「孫七」−「赤林孫七・土蔵弥介」ー土倉四郎兵衛−六郷伊賀 などのような連携も読み取れます。
ここの「和根川雅楽助」は「三浦雅楽助」の「雅楽助」ですが〈甫庵信長記〉「ワ行」索引に
和田伊賀守
(同)雅楽助
和田和泉
の並びがあり、「和根川雅楽助」も少しこの後ろの方にでています。ここで「三浦」に太田の関与が
ありそうですが、強国スペインと付き合いが始まる契機となったという、先ほどの船座礁の地、
「岩和田」の「和田」がこの索引によって
雅楽助ー三浦ー三浦半島ー貸与大型船建造ースペイン本国の世論ー遣欧使節
という一連の流れと太田和泉守の存在を想起させるに足るものとなっています。事件の地名も
別の名前を付けてもよいのにそうなっていることが多々あり、これも現在の「御宿町」のようです
から「岩和田」もどうだったかわかりません。
「利根川雅楽助」は「和根川雅楽助」のもとですが、索引が「と行」にも生じています。ここでは
〈信長公記〉で
戸田忠次
戸田与次
利根川雅楽助
土肥但馬守
という並びが出来ています。よく見ていただくとわかるように雅楽助が、「土」と「戸」に挟まれて
います。土肥但馬守が出ていますから、先ほど人名羅列の「神応但馬守」に反応しそうですが
「神応」は「神尾」だろうといわれています。土肥但馬守はテキストでは
「土肥親真 新川郡弓庄(富山県新川郡上市町柿沢)の豪族。のち能登末森城主。」
で越中に話が飛んでいます。末森は前田、奥村の属性です。上の隣の「戸田与次」はその上の
「忠次」を呼び込むのでしょうが「戸田与次」には
「長谷川与次」〈両書〉
がついてきます。これは本稿はじめの「山田」につながり、
「柴田修理・森三左衛門・山田三左衛門・長谷川与次・佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎・・」
が出ていました。やはり「はせくら」は「長谷倉」ではないのかという疑問も出てきます。ネット記事
では、おかしいことに「長谷倉」で検索できることになっています。
「侍」
というのが少なからずあり、小説の紹介か
「長谷倉六右衛門(42歳)、マドリード国王フェリペ三世に謁見、長谷倉とに西が受洗」
「藩主の命によりローマ法王への親書を携えた侍は海を渡った・・脇役の武将、石田某、
白石某、長谷勘三郎・・・」
「神田外国語大学図書館便り 侍は本作品の中では長谷倉六右衛門として登場して
いるが作者はどうして長谷倉六右衛門という名があるのに侍という語で表現し続けたので
あろうか・・・・」
などがあります。これらは「侍」という著作を元にしているようですから、その作者が字を変えて
云ったのだろうということになりますがそれでも「はせくら」の読み方に詰まって「長谷」が出る
といえます。しかし、ネット記事
「三井寺 〉連載、新羅神社考 東北における新羅神社(3)」
において
「現在支倉の宛名がついているが古くは長谷倉とか馳倉(はせくら)と呼んだ。それ以前は
新羅であったという。柴田郡には・・・・“新羅の郷”がある。・・・・“新羅の郷”は宮城県柴田郡
支倉(はせくら)にある。」
となっています。最後に何か出てきたら儲け物というので「長谷倉」で検索しましたらこれが出てきま
した。これは知られた話のようですから、これであれば、太田牛一は「支倉」と「長谷倉」、伊達藩を
すぐ結び付けていたことがわかります。要は支倉常長が伊達藩と関係ないのに結びつけられ
たということがありうることがわかったわけです。
現地には、地名を採りいれた支倉という姓もあり山口与市はそれを姓に採用したもので、のち
支倉常頼という子息が家人のキリシタンという咎めで切腹したという話も支倉という表記が
消されたということになるのでしょう。支倉は、〈両書〉で山口与市を「支倉」としようとしたために
に細工した、つまり
○「支倉」は「とくら」で「土倉」だから、また
○「支」は「枝」の「支」で、また「枝」は「し」と読み、読みからも「支」で、朶石(えだいは)の
「枝」にも通ずるから、また
○「支」は「長谷川」の「長谷」だから
、 ということでしたが「前田」「森」「長谷川」の関わることだから、「伊達」ではなく「前田」で支倉
常長が保護されたといいたいところで痕跡があるのかどうかです。伊達でもはっきりはしませんが
加賀では全く伝承がないようです。
伊達政宗の関与はどこにもないのか、家康と太田和泉守を示しやすい表記というだけか
伊達家に痕跡があるのではないかといわれるとそのとおりこのまま進めるわけにはいきません。
豊臣秀吉時代から当今徳川家康のとき
においても政権はキリスト狂を弾圧しており、折角交流のチャンスが廻ってきても家康は使節
は出せない、太田和泉守に勧められても遣欧使節当事者とはなれない、前田は太田和泉守や
高山右近の影の保護者であるので表に出せない、というので伊達に語りの上で白羽の矢
が立ったと結論できていますが関係がまったくないかというと資料でうかがい知れないだけで
わかっている部分何もなしというスタートだから行間を想像で埋めるしかないわけです。これは
蒲生の子セガレだから、蒲生にいて蒲生家が傾いたときに仙台の伊達家に仕官した、遣欧が
決まっときにこの人物しかいないということで、徳川家康の依頼があり実現したといえますが、
家康、伊達に対する太田和泉守の影響力、伊達を徳川の欧州本国に認めさせる太田和泉守の信用力が要ります。前者については
伊達の中に親戚の勢力があります。
○香の前ー塙(伴)直政の線があり芭蕉の「雲居禅師」−「塙直之」の繋がりの挿話が
ある。〈曾良日記〉の「伊達大蔵」は「登米」で、「登米」は〈奥の細道〉で「戸伊广」が
あり、ここは「亘理宗根」(香の前の子)の地で芭蕉が関係を示している、
「原田甲斐」「伊達安芸」で脚光をあびる。香の前は茂庭氏にも関わる。
○伊達政宗の長子秀宗が秀吉の猶子で、石田方ともいうべき存在。「香の前」と同じ
ような立場にある「飯塚の局」の子。「飯塚の局」は「六郷伊賀守(政勝)」の筋の人物
で、〈曾良日記〉に「六郷庄之助」が出ているので芭蕉が飯塚の局の出身のこと
ことをいっていると思われる。〈奥の細道〉の
「飯塚にとまる。温泉あれば・・・」
となっているのは脚注では「今の飯塚温泉」となっており、〈曾良日記〉では「飯坂」で
芭蕉が注目させたと思われる。
○政宗子息「五郎八姫」は家康子の忠輝の連れ合い。忠輝は越後高田の城主で、秀吉
養子結城秀康と近いと思われる。
い などありますが、これらのことは別にしても伊達政宗は、徳川家康に忠実であり、太田和泉守、
とその周辺人物と懇意であり、対外的に「伊達」を使うことや、遣欧に協力したことは推察できる
ことで支倉常長が伊達に帰国報告を行うことはありうる、また片倉家も親類になったということ
で支倉を帰国後保護する勢力も伊達家にあることも事実でしょう.。が、この一挙は、
家康の実行、
太田和泉守の提言、フォロー、
で国内事情で伊達の起用ということにあると思われます。支倉常長は帰国後、徳川伊達に報告
したのは当然ということになります。その後、伊達にひどい待遇をうけ、田に保護された、とみな
ければ救われないような状況だったのか、とにかく無駄に終わったというのが大勢ですが、
「与市」という表記一つで評価変わってくるというのがいいたいところのことです。
この一挙には180人の人が参加しており幕臣、商人もいたということですから
一概にそうはいえない大変な壮挙だといわざるをえません。また伊達は一諸侯に過ぎないと
言うことも世界が知っていることも軽視できないといえます。太田和泉守は〈信長公記〉完成の頃
関ケ原で負けて気息奄々というわけではないわけで、数年後起こる大坂の陣は関東方、20万
大坂方10万(〈クロニック戦国史〉)という人数だから、時代のハズミが生じたらどうなるかわから
ないという状態で、太田和泉守の動向は重要で、キーマンでもあるのは確実なわけで、支倉の
出航(慶長18年9月)、後藤又兵衛の大坂入城、大坂冬の陣慶長(19年10月)のころは、さすが
に命脈は尽きたのでしょうが、支倉の出航の準備段階では家康も無視しきれない存在だったと
いえそうです。(湯浅常山は冬の陣、関東30万といっている、大坂方は書いていない)。
もう一つの問題、太田和泉守は宣教師たちの本国において遣欧使節の当事者ともなりえる信頼
があるのか、というのが出てきます。いま「支倉常長」が太田和泉守の子息筋の人であることを
いってきました。この人材を養成したのは太田和泉守ではないのか、というのが先ず出てくる
疑問です。この「支倉」の渡航の31年前に「天正十年」(1582)に遣欧使節が出ており、
これは、大事業だったから支倉始め当局者が参考にしなかったということは考えられません。
両者の関連は一応探って置かねばならないことです。関係ないはずだというのは、実務を
無視しすぎています。 支倉常長・太田和泉守は二度目の登場に過ぎないわけです。
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次稿(51)に続く