26、宮本武蔵・真田大介

 (64)須賀川の木下
    人名の最初に「奥」のある人物は「奥平九八郎」と「奥田三川」だけですが、これは大物を
    登場させてきそうな感じです。「奥平」は徳川家中で、「三川」は「三河」であり、徳川を見す
    えているものでしょう。両方「九」があり、「奥田九」も「九八」の「八」が意識されていると
    みてよいものです。また、     
                   「奥
                   「奥
    となると「奥」「おく」がでて「平田」三位の「平田」も出てきそうです。「平田」は「平田和泉」
    があるだけに、また「太田平左衛門」の「平」もあり、「平」は「松平」もあります。
     「松平」となると徳川だと思いこんでしまいやすいものですが、「松」が「金松」の「松」、
    「小松」の「松」であることも考慮したり、反対にして「平松」という読みもやってみてイメージを
     修正するのも必要です。しかし
   はじめにある字というのは、最初に目につく、索引を作る場合の基本的なもので、誰で
   も、注目するところですから、やはり、これはこれなりに語りの場合に、重要な役目を果たしう
   るものではあります。はじめにもってくると、見え見えというのもあるから、うしろに置くものと
    併用されるということになりそうです。
    「奥平」(考証では信昌)については、天正七年

    「七月十六日、家康公より、坂井左衛門尉御使いとして御馬進(まゐら)せられ候。
    奥平九八郎・坂井左衛門尉両人も御馬進上なり。」〈信長公記〉

   があり、奥平は坂井を呼び出してきます。一方 「奥田三川」は、
   テキスト人名注では
              「松永久秀の家来 133頁」
   とありますように「松永」関係者です。登場場面、元亀三年

      「松永弾正・息右衛門佐父子・・・畠山殿・・・安見新七郎・・・・松永弾正・・・
       其時の大将として山口六郎四郎、奥田三川両人・・・」〈信長公記〉

  があります。これは〈常山奇談〉に
      「山口六郎四郎奥田(おくだ)三河(の)守高屋城を落つる事」
   の一節で山口二人の例として既述です。またこれは奥田と山口二人の三角関係の例になる
   のかもしれません。
          山口六郎
          ‖ 奥田三河
          山口四郎
  ですが、それは別として、奥田は松永を出してきて、松永と山口を繋ぐ役目をもっ
   て出てきたといえます。それは七・八・九というようなものを伴う姻戚といった感じのものを
   出していそうです。
   
   一方、次の「金松又四郎」の記事がありました。 再掲 元亀四年(織田朝倉戦の朝倉の戦死者)

     @「・・・三段崎(さんだがさき)六郎・・・鳥居与七・・山崎七郎右衛門・・・伊藤九郎兵衛・
      中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・●中村新兵衛、{金松又四郎これを討取る。}長嶋大乗坊
      ・和田九郎右衛門・・・・・引壇六郎三郎・小泉四郎右衛門・印牧(かねまき)弥六左衛門
      ・・・・不破河内守・・・・原野賀左衛門・・・印牧弥六左衛門・・・印牧・・・朝倉・・・日比・・」
                                                  〈信長公記〉
  ここの「中村」三人は係累などない孤立表記で、一回限りの登場のものです。
  ここで「●中村新兵衛」が{金松又四郎}に討たれました。しかし中村新兵衛が誰かよくわからない
  からここの意味がわからないわけです。

  〈甫庵信長記〉でも@の戦死者名の羅列があり中村は
      「・・・・伊藤九郎兵衛、中村五郎右衛門、同三郎兵衛尉、同新兵衛・長崎大乗坊・・・」
 、で出てきます。一方「中村新兵衛」について物語があり

      「去(いん)じ永禄(元亀の前が永禄)年中に松永、・・・・・・・、三好日向守、下野守、岩成
      主税助、大将として大仏殿に陣取りて有りつるに、夜討して鑓中村を討ち捕って、大仏
      殿を焼きたりしも十月十日の夜にて有りけるとかや不思議なりし事どもなり。此の■中村
      新兵衛は隠れなき勇士にて・・・鑓中村とぞ申しける。終に三好が一党、大将に選び
      挙げし・・・義名を清めて討死せしは、誠に剛死とこそいうべけれ。」〈甫庵信長記〉

 となっています。この十月十日のことは、天正(元亀のあと)五年、松永が信貴山城にて滅んだ
 日が十月十日、藤原鎌足が亡くなった日、十月十日の一致をいっています。鎌足の死のことに
 就いて何かいいたいようです。要は中村新兵衛は「鑓中村」といわれる剛の者で、松永に討た
 れたということをいっています。〈甫庵信長記〉の人名索引では
            中村五郎右衛門
            同三郎兵衛尉
            同新兵衛
            中村式部少輔一氏           
            ■中村新兵衛
            中村木工丞
  となっていますから、「鑓の中村」は■の人物というのがわかります。〈信長公記〉の表記と違
  って、二人の新兵衛は、同一表記ではないから、「新兵衛」「■中村新兵衛」として併記でき
  るわけです。
 この■中村新兵衛は、鑓中村、四国勢の惣大将というほどの人物ですから、これは太田和泉守
 が乗っかっている存在です。●と■は表記は同じです。また●イコール「同新兵衛」です。両方朝倉
 の戦死者ですから当然です。しかし、世代が違うから同じとはいえない、それは〈甫庵信長記〉の
 索引が示しているといえます。同じようでオナジでない、まあ次のことはいえそうです。
   ◎「新兵衛」は、金松又四郎とは特別親しい関係にある。(殺し合いをしたから)
   ◎元亀四年の「新兵衛」の前に
        「三郎兵衛」
      があるので「丸毛三郎兵衛」(丸毛兵庫守子息)の例からいえば、次世代的でもある。
   ◎ここの{金松又四郎}も細字で書かれたものだから、あの「金松又四郎」とは同一でない
     かもしれない
   ◎太田和泉守は「鑓中村」の方だから「松永」に討たれている。二人の関係は只ならないもの
     がありそう。
 などです。
  一方「中村」で思い出すのは「木下藤吉郎」です。須賀川で、再掲
       「桑門可伸の主は栗の木の下に庵をむすべり」(雪丸げ)
       「桑門可伸   は栗の木のもとに庵をむすべり」(伊達衣)
  があり「木の下」が炙りだされて出てきます。「栗」と「木下」と「森」「又」が抱き合わせで出たという
  感じです。〈信長公記〉で「木下」は

   「木下嘉俊(雅楽助)」「木下小一郎」「木下祐久(木下助左衛門)」「木下藤吉郎」「木下平太輔」

  ですが〈甫庵信長記〉では、また中村の場合と同じで
       「木下小一」「木下小一郎」
  の二つを作っており、「木下小一郎」は
       「浅井新八郎、木下小一郎追払ふ」〈甫庵信長記〉
  のような出方をします。つまり「八郎」との組み合わせです。

   テキスト人名注では「木下小一郎」については「羽柴秀長」が出ており

       「羽柴秀長 実名秀長(西願寺文書)。初名長秀。●秀吉の弟。 木下小一郎」

 となっています。両書とも「木下小一郎」は「羽柴秀長」であると書いていませんが、一件
       「羽柴筑前守、■舎弟木下小一郎・・・」〈信長公記〉
 がありますので、●に援用されているわけです。これは重要で「丹羽長秀」の「長秀」が初名であった
 ということですから丹羽長秀と関係がありそうで、かつ■は連れ合いもあります。それも
 奥田とか金松に絡んだ連れ合いです。すなわち
        藤吉郎秀吉
          ‖★木下小一郎
        秀吉夫人
 というようなものです。まあいえば、木下小一郎は
      羽柴秀吉の弟の羽柴秀長、木下藤吉郎の舎弟としての木下小一郎
 があるということで、既述「太田垣」「小田垣」でちょっと動作が変わっていることは触れています。
 すると★の人の出身が問題になります。これが「松永氏」「赤松氏」では
 ないかと思われます。
                                 栗山備後
                      太田和泉守    ‖
                        ‖ーーーーー後藤又兵衛
        松永弾正@ーーー ▲松永小一郎(櫛橋左京亮)
                      (松永久秀A)

 というようなことにもなりそうで、これで、一応、後藤又兵衛の今でいう父と、今でいう連れ合い
 というものが出てきたということになり、須賀川の例えば「栗」とか、「西」から
    「西・行」ー「行基」−「基」次
 とか、可伸の「木の下」とか、が直接効いていますが、松が「木下」の木に懸かって来るというような
 準備もあります。〈奥の細道〉の画工加右衛門の嘉右衛門から
      木下藤吉郎ー松下嘉兵衛
  の有名な接触もありますし、加衛門は宮城野の「木の下」を通りますが須賀川の「西」を生か
  して「西行」「松」を結んでいそうです。ほかの句では

    「西行の草鞋(わらじ)もかかれの露」〈笈日記〉
   というようなものもあります。

  次の句のように須賀川の「軒の栗」に「松」を持ってくるのもあります。
    「風やをめぐって秋暮れぬ」〈笈日記〉
  こういうのは▲の表記を本当はやりたいができないということの補いでもあると思います。
  
   「草鞋」の句は「笈の日記」の「大部」にあるそうですが「大垣部」の句には
       「降らずとも植うる日は蓑(みの)と笠」〈笈日記〉
  があります。が、これが「 木因亭」と前書があるものです。「谷木因」が出てきますと、
    「田三反」→「田一枚」という連関からも、田植の「植」につなげますが、須賀川へ入る直前の
    「古人冠を正し、衣装を改めし〈奥の細道〉」
   の文から
        「田大夫国行」(脚注)
  が出てきますので、その「竹」と繋げてあるということです。従って谷木因が相馬の「水谷」など
  で暗示されるように須賀川に出て出てくるというのは合っていそうです。この「竹」が曲者では
 ないかと思います。

  後藤又兵衛は黒田の前は佐々木家の士と家庭を持っており、
         佐々木義弼ーーーー小次郎
          ‖後藤氏
         後藤(佐々木)又兵衛
  ではないかといってきています。黒田での身辺も明らかになってきたように後藤又兵衛につい
 て、その身辺がこのように明かされてきました。が、後藤又兵衛を語ることは、現在からみ
 ればオーソドックスな史学から外れる、学問の領域とはいえないということになるのでしょう。しか
 し古人は懸命に後藤又兵衛のことを述べている感じです。松尾芭蕉は学問的に研究が進め
 られて来ていますが、研究結果では「母」から生まれたとなっているだけです。
 〈常山奇談〉に次のような一節があります。家康が、大阪城にいる後藤又兵衛を味方につけよう
 と播磨国を与える条件で使者を出すクダリです。

     「後藤又兵衛が事
     ・・・・則(すなはち)大和口の先陣して平野に打ち出し処に、東照宮より相国寺の
     揺(王篇)西堂を使いにて・・・・・・是は物がたりにて候ほどによく聞かれよ。今日本国に
     弓取り多しといえども、▲政次にまされる者有りとは覚えず候。其の故は、
     ▼去年より政次を頼み思召候は、高麗まで攻められし豊国明神の嗣にて候。・・・・・」
                                                  〈常山奇談〉
 があります。この本人の発言である▲は、いうところの武勇ではない、名声ではない、というのは
 大体見当が付きますが、すると何かというのが

           「豊国明神(とよくにみょうじん)の嗣(し)にて候。」

 というのにあるのではないかと思います。政次が、「太田和泉守」の子であるから、といっている
 と思います。▼は、
      「去年より政次を頼み思召候(人)は」=「豊臣秀頼」
  として読んでしまっていると思いますが、これでは▲とは合いません。
  
  主語を補って
    「政次にまされる者有りとは覚えず候。(秀頼が)去年より政次を頼み思召候は、
    (政次が)高麗まで攻められし、豊国明神の嗣にて候。・・・」
  の意味が合っていそうです。

    「高麗まで攻められし豊国明神」

  も問題が懸けられていそうです。〈前著〉で、〈たいかうさまくんきのうち〉では
         太閤秀吉と徳川家康@
  が重なっていることをいっていますが、「豊国明神」も二つで考えないといけないようです。
        豊臣秀頼の今でいう父が高麗戦を強行させ、
        後藤又兵衛の父は高麗まで出陣した
 ということになりますが、江戸期の人は豊国明神を太田和泉守が祭ってあると思って尊崇して
 いたといえそうです。記者は後藤又兵衛を使って又兵衛に色々のことを語らせているのです。  

 ここに「大和口」を無理に出してきた感じですが、後藤又兵衛の出番なので、森が意識されて
 いるのと
    「大和国郡山の御太守」「羽柴大納言秀長公」(武功夜話)
  の「大和」が入っていると思われます。
  次の文のように秀長を引き立てた記事もあります。

     「一、付けたりの事
      御舎弟小一郎(羽柴秀長)様、朴訥(ぼくとつ)仁義に厚き御仁に候。蜂須賀彦右衛門、
      前野将右衛門、木下藤吉郎殿はさることながら、御舎弟小一郎様に心ひかれ候由、
      為に終生小一郎様と離れず諸陣を一緒候由。清助殿物語り聞かせ候なり。」〈武功夜話〉

 秀長には、木材の横領事件があり、こういうのには太田和泉守が乗っかって語りがされるので
 しょう。名前の「奥」から「坂井」「木下」の二人大物がでてきました。
  須賀川で「景」が出て古田の景安にもってこられたというのは既述ですが、隠れた人が出てくる
 のはやはり楽しいものです。

 (65) 塀
  「塀」は何に似ているかといえば「音(おん)」では「平」ですが「堀」に似ています。
      再掲
         「田一枚植(うゑ)て立ち去る柳かな」
         「風流の初(はじめ)やおくの田植うた」
 において、先ず、田植にからんで「植(うえ)」二つが目に付きます。また「田」が両方にあるのもすぐ
 気がつきます。つまり「上」「田」が両方にあるというのが気になります。
 「古植松」というのが「那智谷汲」、「石山の石」のところにあり、これは
         古ー上(植)−松
 ということになり、「上」が「古田」、「小松」と結びつくと思います。「小」「古」は「上田」「宗古」が
 古田織部の子息として芭蕉に意識されていて、奥(おく)(古久)の須賀川で登場した、というの
 はある程度必然ともいえそうです。ただここに、上田がダブっているので上田の強調はありそう
 ですが、もう一人いないかということで、やってみるのもよいのではないかと思います。〈信長公記〉に
          ●「遠江鹿毛」「小鹿毛」
 という表記があって、これは地名索引にはなく、脚注で解説がありますから、見失ったらなかなか
出てこないものです。脚注では
       「遠江(静岡県)の鹿毛か。」
 となっています。これは「遠近」という対照から「近江」を含んだものだといってきていますが、とにかく
          「遠州景」
 です。例の森銑三の索引で〈常山奇談〉の「平塚勘兵衛」を見たときに「塀」「つく」の連発があって
 城壁、見付の「付き」で既述ですが、実は「塀」が「堀」であったらいいのにな、と思いながら見て
 いました。
 飛躍しすぎ、とその時思っていましたが「遠江鹿毛」とか「小鹿毛」(須賀川の「木陰」)があると
 そうは行かないと思います。
        「小堀遠州」
 の登場となりそうです。

     「城・・・本丸の塀下・・・着(つく)・・・塀際・・・付・・・尾藤金・・・掛(かけ)付・・・・塀下へ付
      塀を乗(のる)・・・突(つく)・・・尾藤・・・突(つき)・・突(つき)・・・尾藤・・・突(つき)・・・
      塀・・・突(つき)・・・塀下・・・・」〈常山奇談〉
  
 ほかに 吹貫(ふきぬき)も出ますが、これは「芭蕉の秋風」がでて「坂小坂」がでて「西」「小」も
 出てくることになります。常山はここ(省いたところ)で
         「乃美庄右衛門」と「早川」の「浦兵部大夫勝」
 を出し「宗」も「小」も「毛利」「森」もだしています。
       「乃美庄右衛門」は「浦兵部大夫宗勝」の孫といって
 います。浦兵部宗勝=乃美宗勝だから、また太田和泉守が乗っていますから、「乃美庄右衛門」
 は太田和泉守の孫相当といっているのでしょう。要は孫を取り出せばよいといえます。
 〈信長公記〉で
            「乃美」と「(豊田郡の)浦」
   がでたのは、「能見宿禰」と「豊浦大臣」を繋いで日本
  から殉葬を無くした大臣を教えた太田和泉守のヒットですが、芭蕉は蘇我蝦夷を須賀川で呼び
 出したといえると思います。湯浅常山はここで駄目を押すかたちで「宗勝」をとりあげて、もう一人
  の次の「遠江守」をしらせようとしたのかもしれません。
         「浦上宗景」〈信長公記〉
  があり、脚注では
           「遠江守。備前天神山(岡山県和気郡和気町)城主。・・・」
  となっています。「和気郡」というのは「和気善兵衛」がでます。宗景は「遠江守」ですから
         「古田安」→「宗」→「遠江守」→「小堀」
  となりそうです。浦上の登場場面は
         「赤松・別所小三郎・別所孫左衛門・浦上遠江守・浦上小次郎・・・」〈信長公記〉
  で小次郎もいますから遠州は二番目かもしれません。「赤松」=後藤、三木=古田・大村と
  いうような暗示があるのかもしれません。別所が浦上に近づく、そで遠江守が出ているとも
  取れます。
   「小堀遠州」の属性は「近江」「遠江守」ですが、ネット記事によれば、父の正次が
 羽柴秀長の重臣のようで備中松山藩を預かっていたということです。この藩は「池田」「水谷
 (みずのや)」「安藤」「石川」「板倉」氏が領主だったようで、とくに常山は須賀川で
         「水谷(みずのや)三郎兵衛」
  を出してきてましたので小堀遠州を古田の属性として出してきたといえると思います。
  ●が出てくる「青地与右衛門」がらみの前後の語句も後世に利用されていそうです。「あし毛」
   「かはらげ」「奥州津軽日本(ひのもと)」「立烏帽子」「黄なる水干」「す足に草鞋(ワランジ)」
   などですが「草鞋」が「加右衛門」のところで出ました。須賀川で大物が続々出てきて、
   肝心の〈奥の細道〉のなかの謎の人物がわからない、ことはおかしいのかもしれません。
   有名なる俳人大淀三千風のことです。
  
  (66)大淀三千風
  〈曾良日記〉で「三千風尋ぬるに不知。」のあと芭蕉は「北野や加衛門」に会っています。
      「大淀三千風」の高弟が「加右衛門」
   とされていて、加右衛門に宮城野〜多賀城碑まで案内してもらっています。
   この画工加右衛門は大淀三千風の「高弟」なのかどうか、古田織部の高弟が
  上田宗古ということでしたが、子息ということになるとこれもひょっとして
         大淀三千風@、大淀三千風A
   があってAが(画工加右衛門)となるのかもしれません。大淀三千風は、たいへんな事績の
  ある人と見受けられますが、芭蕉など周辺人物との関わりがよくわかりません。芭蕉が尊敬
  した人のようですが、それにしても「不知」というのが引っ掛かります。〈奥の細道〉では「松島」
  や「三千里」がはじめから出てきますから、心にかけており、また「道風」でもありますから
  「風流」「風景」の須賀川の西風、秋風にも通ずるものもありそうです。

   「大淀」というのが問題で、なぜ「大淀」というのかがネット記事からも知ることができません。
  〈万葉集〉の「淀」もあるかもしれませんが、淀には淀川、淀城、淀殿もあります。
          「大淀」
  ともなれば、なかなか見当たりませんが「高松山(塚)」あたりの「大淀」があります。この近くには
  「栗原」もあります。北から「明日香」「高市郡」「高取」「大淀」となっており、明日香が阿須賀の
  ような感じで、須賀川で大淀も語るようになっていないかというのが、気になるところ
  です。〈奥の細道〉宮城野から壷の碑にかけて

      「ココに画工加右衛門・・・ココを木の下と云うとぞ・・・ココに至りて其実を顕す。・・・・・
       おく・・・・十符(とふ=草ガンムリもある)の有(すげあり)・・・・十符(とふ=草ガン
      ムリもある)の菰(すがこも)・・・・・」

  があり、この「おく」「付」「木の下」「実」「菅(すが=須賀)」などから須賀川に直結さそうとして
  います。「実」というのは、須賀川の
          「橡(とち)ひろふ太(み)山(やま)もかくや・・・」
                       ‖
                       実
 で橡の実が懸かっています。ここの「菅」というのが引っ掛かります。「大淀三千里」を検索しますと、
       伊勢の「射和」(いさわ)
   が属性で、同じ伊勢の関係からか「本居宣長」に行き当たりますがネット記事、
   「本居宣長記念館」によれば
      「荒木田久老(ひさおゆ)」
  という人物が出ています。荒木田氏というのは伊勢神宮の
      「内宮の禰宜は荒(あら)木田氏、外宮は度会(わたらい)氏也。」〈明智軍記〉
 とあるような「伊勢」の名家ですが、芭蕉が「三聖人」といっている
      「荒木田守武、山崎宗鑑、松永貞徳」
  とある荒木田守武の「荒木田」がでました。守武は(薗田家)の生まれ、〈守武千句〉という
 著書があります。
 久老はその後裔でしょうが、芭蕉よりかなりあとの時代の人で本居宣長と同世代のようです。
 その「久老」の記事に「菅」という字がでています。

      ●「(久老の)娘・射和川政信(宣長門人)に嫁ぎ斎を生む」

 となっています。「菅」という名前が必然でもなさそうで、
         「菅」(荒木田)=「射和」(「大淀」)
 というのを本居宣長、芭蕉で出そうとしたとも思われます。「竹斎」は芭蕉にあり、
     「狂句(きやうく)木枯らしの身は竹斎(ちくさい)に似たるかな」
  ですが、 「竹斎」は「磯田道治」作の仮名草子「竹斎」の主人公です。芭蕉の「竹」の句は
     「竹画賛   木枯(がらし)や竹に隠れてしづまりぬ」
 もあります。「木枯」は「木」+「木」+「古」ですが「竹」に隠れています。
 「木枯(がらし)」「竹」から「菅」が出ます。
     「沼(すがぬま)亭  京にあきて此の木枯らしや冬住まひ」
 の句があります。「木枯(がらし)」は句集もあり
     「秋風の吹けども青し栗のいが」〈木がらし〉
 では須賀川の栗、森、伊賀などが、「こがらし」の中から出てきます。
     「竹斎」→「木枯」→「菅」→「須賀」
 というようなことになりますが「荒木田久老」が〈奥の細道〉をみて
     三千里ー加衛門ー日影ー松の林ー木下ー猶松島ー草鞋ー風流のしれものー実ー菅
 などをみたとき、久老は自分と「菅」と「竹」さえつなげば
          荒木田ーー射和の三千風=加衛門
 が出てくるとおもったのではないかと思います。極端に言えば「菅」が娘の名前でなくてもよい、
 また「竹川氏」は武川であったかもしれないということです。これをそうかも知れないと思わせる
 のは幕末の頃に出た「竹川竹斎」で「竹」に埋まった名前をつけた、「斎」号をつけたことで
 、また芭蕉の「竹斎」を再現したということでもわかりそうです。又この人物は「射和文庫」で
  有名で、それも属性となるような動きをしたということでしょう。
   まあ加右衛門の属性は大淀三千風といってもよいほどの資料があるのですから、また明らか
 に宮城野ー絵図ー菅ー菅ー多賀碑、と案内しているのですから、また多賀碑に三千も出ている
 のですから「大淀」=「画工加右衛門」はまず問題なく、この二人の出生(でしょう)が芭蕉との接点を
 明かす第一のポイントとなってきます。つまり、荒木田守武との関係如何が大きな関心ごとと
 なります。
  芭蕉はここで
     「ココに・・画工・・ココに・・木の下・・・ココに・・・其実(太)を顕す」
  とココの三連発で、「太」を出してきました。加右衛門と太田和泉守(荒木山城守)を重ねたと
 いうことで、荒木田と加右衛門を結んだといってもよさそうです。荒木と荒木田は表記が似てい
 ますから、また「管」を経由すると荒木久左衛門=管屋九右衛門→加右衛門にもなります。
        大淀=太田=荒(あら)木田
 からも両者を繋いだと思います。松永貞徳と荒木田守武@かAは当然俳諧の先達で、接点は
 見つかると思われます。最低知り合いで親しいという線は出てくると思います。

  荒木田ー大淀の関係の決定打はやはり、大淀三千風の〈松島眺望集〉に芭蕉が寄稿した
 一句にあると思います。其の句は

     ▲「武蔵野の月の若ばえや(だね)」〈松島眺望集〉

  ですが、一見意味がよくわからないので名作とはいえないのかもしれません。句意は解説に
 よれば、武蔵野の月が若々しい、松島の名月の種から芽生えたものであろうか、ということの
 ようです〈芭蕉全句〉。
  「種」というのが目に入ったので、もう一つ芭蕉の句をあげますと、

     ▼「霜の葎(むぐら)を訪ひて  花皆れて哀れをこぼす草の」〈弧

 で句意は
    「・・・・・園のあたりを訪うてみると、秋草はすっかり枯れ果て、ただ草の種がしきりに
    こぼれている。・・・」
  ということです。この訳の内「園」が何故出てきたのか疑問ですが、「真蹟」には「園」と前書
 があるからと書かれています。そのほか
        『●「荒薗」と前書した真蹟短冊もある。』〈芭蕉全句〉
 とあります。▲のと、▼の弧松のが、つながっている上に、「枯」のある▼が真蹟で「古園」に
 変わってきています。さらに「古園」が●になっています。すなわち
 荒木田氏は「薗田家」で草冠の「薗」です。〈明智軍記〉では「荒(あら)木田」となっています。
       「荒(あら)」
  重視、「きだ」はつけたりといったところでしょう。
  ●は「荒田」「薗田」か「荒木田」「薗田」といっているようです。つまり
       ▲大淀松島眺望集ー種ー弧の古園ー弧松の●荒薗=荒木田の園田
  となって園田を意識した大淀からの流れを作られたといえます。大淀=荒木田です。

  大淀三千風は金松などの流れを受けた須賀川での登場人物といえると思います。
      松尾芭蕉
       ‖大淀三千風
      □□□□
  という感じの関係です。芭蕉のもう一人の連れ合いは今はわからないようです。
  芭蕉は「母」の子であり、芭蕉は芭蕉の配偶者の配偶者ということでそれでよいではないか
  みなそれで納得しているのだ、となっています。これでは芭蕉は他の人物、時代を俎上に載せ
  て論ずる資格はありません。
  自らが歴史の証言台に立っていないのですから。

  須賀川の二句目の
         「世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」
  というのは「世の人の見付けないものを論じたというので多くのものがでてきたといえます。
  この句の「花」は▼の「花」と意味は別として関連ありということをいっているのでしょう。すると
  「枯れて」の「枯」も押し寄せてこの句を意味づけたりします。芭蕉は「平尾」を「草尾」と間違った
  りしていますから「草の種」も「平」が入ったものが読まれるのかもしれないことになります。
  加衛門は「和風軒加之」といい「北野屋(や)」ですが、自分の「軒」がここで「大淀」を語るという
  役割を自覚していたのかもしれません。それでいえば俵屋宗達の「対青軒」の「軒」も
     「喜多(野屋)」
  に照らしてありうることです。〈信長公記〉の「喜多野下野守」の「喜多」は「木田」「貴田」であり、
  「貴田」は太田和泉守ですが、〈明智軍記〉が「荒(あら)木田」というルビを付したのは、下野守
  の「木田」を分けて利用するという含みと思われます。つまり「荒喜多」となり「荒喜田」「荒薗田」
  という感じの「荒薗」をだし「薗田家」を「森」に引き入れたといえそうです。「今朝の雪」を踏まえて
  森と園をつないでいます。

      「黒森   黒森をなにといふとも今朝の雪」〈五十四郡〉
      「今朝の雪根深(ねぎ)を園の枝折かな」〈坂東太郎〉

  高松山(塚)は「平田」にあり、その周辺は「越智」、「桧前」、「森」、「栗原」、「清水谷」、「丹生谷」、
 「稲淵」、「樋寺」、「壷坂寺」、「畑屋」などあり、大きいくくりでは「明日香村」「高市郡」「高取」「大淀」
  があります。太田和泉守がここへ塚を見に来たのは天正五年のことのようです。
       「越智玄番」
 という人物が登場します。

    「霜月十八日・・・・東山御鷹つかわされ、折節・・・御鷹・・・大和国内の郡迄飛び行く。・・
    次日大和国越智玄番と云ふ者、御鷹居ゑ上げ進上仕候。・・・御褒美・・・是又(本領)安堵
    の御朱印・・・忝き次第も申し足らず。・・・禍福ハ天ニアリとは此節なり。」〈信長公記〉
 
 があり、人名注では越智玄番は「大和高取城(奈良県高市郡鷹取町)主。もと筒井氏と大和国
 を両分した豪族。」となっています。もう一つ
             「越智小十郎」〈信長公記〉
 があり、本能寺で戦死していますので、この表記を消したことが考えられこの話は出来事を語る
 ために作られたようですが、越智氏の人が塚の存在と保護を申請したとも考えられます。高松と
 いえば毛利戦、高松城水攻めの攻防戦があり、名将清水宗治切腹開城の舞台として有名です。
    高松と清水(谷)
 の組み合わせは後年に利用されたのかもしれません。明治時代から戦後の時代の役所が
許可した発掘を学術調査といい、それまでの政権の行ったものは盗掘扱いになっているのでしょう
が、文物保護に関する考えかたはどちらが優れていたかは別のことでしょう。案外よく残ってきて
 いたのかもしれません。明治政府になってから、寺は壊し、城をつぶし、海外に文物が流出して
・・・などのことが起こっている、発掘しても非公開だからどうなったやらよくわからないというようなこと
でしょう。大戦によって壊滅的な文化財の滅失があったが戦後も同じ、壁画劣化事件があっても
政府は、当局を攻撃し処分を云うだけで人ごとのようです。公開をどうするかということに主眼が置
 かれているから、まあ専門家しかやれない聖域でのことだから、・・・距離を保つのが適切という
 ことになっていそうです。とにかく原爆のことでも米国の資料でしか語られない、学校で習った
 そのまま今日でも変えようがないのです。天皇の決断で戦争はおわった、原爆がおちたのでもう
勝ち目はないと判断した・・・・
 というようなことです。テレビによれば、終戦という言葉も天皇が言い出さなければ、閣僚からは
 出てこなかったようです。資料が非公開だから進展しないのか、もしくは燃やされてしまってない
からか、いつまでも見解は変えるところはない、というようです。緩衝地帯を作って、分かりにくくさ
れています。
 
 高松塚は鎌倉時代に盗掘があった記事が最近新聞に出ましたので記録があったということで
 しょうから太田和泉守や芭蕉が見にいったというのもありえることです。うそだろうといわれそうな
 線を辿ってみます。
    〈信長公記〉に「大和境春日山」という表記があり、大和国・高松ー高円地区、(大和)森・木下
 を想起しますが、春=木下の組み合わせの句があります。、

   @「苔清水 雨の木下(こした)につたふ清水かな」〈笈の小文〉

  です。木下は松下で高松山の下、清水谷がありました。「小したにかかる」もあり「小一郎」
  もでているでしょう。ここの「苔」を追っかけていきますと、次ぎの墓が出てきます。

   A「美濃の国朝長の墓にて  苔埋む蔦のうつつの念仏かな」〈花の市〉

    源義朝の次男朝長のことです。墓は不破郡の青墓村で伊勢物語「宇津の山辺」に出ている
   話で山辺の道もあるのでしょう。解説からはこの程度のことぐらいがいえることですが、実は
   この句が荒木田守武につながるものです。芭蕉の〈野ざらし紀行〉で

         『大和・・・・伊勢の守武がひける「よしとも殿に似たる秋風」とは・・・・我もまた、
          義朝の心に似たり秋の風・・・不破・・・秋風や籔も畠も不破の関・・・
          大垣・・・木因・・』〈野ざらし紀行〉

   があり、Aの義朝=朝長のドラマとつながっていますから「大和」や「荒木田守武」が意識され
  あわせて「秋風」「関」など須賀川へ行っているのも出ています。6通りくらいの着眼点の
  もとで句が作られたとみてよいので取り上げ方によって「守武」のような重要なものが抜ける
  場合があります。
   @の句と同じ「春雨」が織り込まれた次ぎ句でやりますと決定打が出てきます。

   B「旧里(ふるさと)兄(このかみ)が園中に三草の種をとりて
       春雨や二葉に萌ゆる茄子(なすびだね)」〈そばの古畑〉

  「古」「園」「里」「(松島種の)「種」などがあり、三と二は長くなるので省略しますが解説の中に
  「1千句」「芭蕉の兄」がでてきます。これは三千風と考えられます。
   実際に兄弟の兄が芭蕉にいます。これは松尾半左衛門といわれる人で、もう一つの「春の雨」
  で出てきます。

   C「(赤坂の庵にて)  不精さやかき起されし春の雨」〈猿蓑〉

   これは「春の雨」が終わりの五で出てくるので探し難いのですが出てきたら決定打です。
   「赤坂の庵にて」という前書きは〈芭蕉全句〉では、ここに出ておらず〈芭蕉翁全伝〉にあるので
   入れたものです。解説の
       「伊賀上野赤坂のの家での作」「「赤坂は伊賀上野の赤坂で、半左衛門のいた所」
    となっているのが重要で、これは本当のいまでいう兄弟姉妹の(きょうだい)です。
    初案は「抱き起こさるる」となっているそうですから、まあ同性のきょうだいでしょう。つまり

      Bは兄(このかみ)の松尾半左衛門でこちらはややこしい方の兄で、ペンネームを
        大淀三千風という大俳人であり、伊勢荒木田家の人、

      Cは、松尾半左衛門Aで本当の上の兄弟
    でしょう。
    一番複雑なところだけしましたのであとはすんなりといきそうです。Aの蔦からやってみますと
    
   D「蔦の葉は昔めきたる紅葉かな」〈信夫摺〉

     「昔めきたる」は「いかにも昔を感じさせるような」となっています。古代の紅葉が出ている
     のかもしれません。ついでに「蔦」のもう一句ですが

   C「蔦植えて竹四五本のあらしかな」〈野ざらし紀行〉

     があります。この「蔦「と「竹」はこれも「大和国」に飛び「葛下(かつげ)の郡竹の内」「竹
    のおく」「庭上の松」にいたります(野ざらし紀行)。またこれは「植え」で須賀川に行きます
    が、竹で「荒木田」です。これは
             「閑人の茅舎(ばうしや)を訪ひて」
    という前書のもので、この「閑人」は〈笈日記〉では「盧牧」です。盧牧は

      「伊勢の人なり。其姓氏を知らず」

    となっています(芭蕉全句)。これは一応、大淀
    三千風かもしれません。「其」=「薗}があり「薗姓で氏を知らず」とも読めます。荒木田は
    薗田と二つの氏姓があるのが、迷わされるところでもあり、解釈の広がりを促すものでも
    ありました。
     一応そのように確定したのは、次の、〈芭蕉全句における〉この後の句(同時期)D、同じ
    〈野ざらし紀行〉にある句E、には芭蕉の「兄」(母も)が出てきますので関連があるとみる
    のがよさそうといえるからです。

   D「手に取らば消えん泪ぞ熱き秋の霜」〈野ざらし紀行〉
     母は前年(天和三年)六月二十日、に亡くなっており、翌年故郷に帰ってきたときの句です。
       「兄(このかみ)」が「守袋をほどきて、母が白髪拝めよ、(といって)・・・暫く泣きて」
     というので兄が出ています。このCの句の前には、次の句が出ております。

   E「蘭の香や蝶の翅(つばさ)に薫物(たきもの)す」〈野ざらし紀行〉

     です。この解説に西山宗因だけが出てきますので、西山宗因がDの句の「植え」などと
    呼応して須賀川に出てきたというのは合っていそうです。この句は、蘭の芳香が蝶の羽に
    しみてゆくさまは、衣装に香を薫きしめているような感じ、というもので「濃艶な句」とされて
    います(芭蕉全句)。解説では宗因だけが出てくるのですが、そのところは

     「宗因にならって“てふ”の名(翅は名前?)を入れ、その女の感じを挨拶風に詠みあげた・・」

    というのがあり、またこの句の成立事情としては

     『茶店の先代の主人の妻「つる」に宗因が「葛の葉のおつるのうらみ夜の霜」という句を
      与えたというので、それを●前書にしてこの句を遣わしたものという。』〈芭蕉全句〉

    というのが出ています。この●前書は、Eの句の前書ではなくて、Eの句の前書は下の
    ものが解説のなかに出されています。前書はEの句の右肩に書いてあれば、わかりやすい
    のですが切り離してあって

      「ある茶店に立ち寄りけるに、てふといひける女、吾が名に発句せよと云ひて白き絹
       出だしけるに書付け侍る。」

    がEの前書です。これだけいえば簡単ですが名状し難い読みづらさで書かれているので、
    前書だけ抽出するのも一苦労です。少しの書き方のちがいが大きくて、負担がでます。
    三回ぐらい読んでまだ釈然としないのでつい飛ばしてしまいますが、それをやればおしまい
    です。この前書も次のように紹介されています。
      〈野ざらし紀行〉に
      「ある茶店に立ち寄りけるに、てふといひける女、吾が名に発句せよと云ひて白き絹
       出だしけるに書付け侍る。」
      とあって出ている。〈芭蕉翁真跡集〉にも同旨の前書を付して所出。

     という文章になっています。ちょっとおかしいのは「とあつて出ている」ですが
     「とあって〈野ざらし紀行〉に出ている」という意味だろうと思います。「所出」という日本語も
     あるのでしょうが、辞書には出ていません。わかりやすくて辞書では省かれているのかも
     しれません。
     つまり、この前書は一般にいう前書ではなくて〈野ざらし紀行〉本文に出ていて、次の
     左の文になっています。ひさしぶりにどっちでもいいやないか、となりそうなところを出して
     みますが右の方になるのではないかと思います。ここは価値があるところかもしれないの
     す。
           伊勢参宮                     伊勢参宮
        ・・・・・・・・                        ・・・・・・
        神前に入(いる)をゆるさず。           神前に入(いる)をゆるさず。
                                    ●其(その)日のかへさ
        西行谷のふもとに流(ながれ)あり。      西行谷のふもとに流(ながれ)あり。
        をんなどもの芋あらふをみるに         ▼をんなどもの芋あらふをみるに
        いもあらふ女西行ならば歌よまん       いもあらふ女西行ならば歌よまん
       ●其(その)日のかへさ(帰り道に)
        ある茶店に立ち寄りけるに、          ▲ある茶店に立ち寄りけるに
        てふといひける(を)おんな                  同左
        「あが名に発句せよ」と云ひて                同左
        白き絹出しけるに書付(かきつけ)侍る。          同左
       ★蘭の香や蝶のつばさにたきものす             同左
         閑人の茅舎(ばうしや)をとひて       △閑人の茅舎(ばうしや)をとひて
       蔦植えて竹四五本のあらしかな                 同左
           帰郷                            帰郷
       ・・北堂の萱草・・・霜枯果て・・・このかみの守り袋   以下左に同じ
       「母の白髪おがめよ・・・」・・・しばらくなきて
       手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜
     
  中心の句が★の句で、これは〈芭蕉全句〉の解説では

     「あなたはまさにその蝶にたとえるべき人だという気持ちをこめている。」

  という誉めるという句です。●の異動だけですが、左の方では●があるだけに、●から★まで
  の文言が★に懸かるという感じになっています。が理屈では、右があっていると思います。
  拝殿と谷との叙述があって「谷」はやや下りとか、ふもと、もしくはその途中というイメージがある
  と思われます。そうすれば、西行谷の谷の水の「ながれ」の中に、▲▼△が1,2,3という形で
  包摂されている、場所で言えば、谷川の流れの途中の、洗濯場、茶店、茅(萱)舎が芭蕉の
  帰途の足を止めたところとして描かれたものであろう思われます。
   ★は「西山宗因」が出て「西行」の「西」というものを背景にした流れがあるとするとやはり
                女西行=西山宗因
  という別の「女」の使い方がここに出ていると思います。左といえば右で、大といえば小ですから
 女といえば男ですから余り途中のこの表現は気にすることはないわけです。「其日のかへさ」と
 いうと「かえりさ」とする「帰りさと」もあるのかもしれませんが続きの「北堂の萱草」というのは
 テキスト脚注では

    『「北堂」は母の居所。転じて母のこと。「萱草」はわすれ草で、母の居所には「萱」を植える
    ことが〈詩経〉に出ている。』

  とありますから、母が続いて出ています。★の句の解説のわかりにくさから脱線してしまいまし
  たが解説としての文章は
        この句のことは〈野ざらし紀行〉にあり、〈芭蕉翁真跡集〉に、「ある茶店・・・書付けは
        べる」と前書を付して、句と「並出」されて出ている。
 というようであればわかりやすいところです。わかりにくくしたのは、一つはここで〈野ざらし紀行〉
 を確認してほしい、といわれていると思いますが、面倒になってやめてしまうというのと、やってみ
 て別のことが出てきたという境目の煩わしさがありました。

  煩わしくなったら表記だけとらえるのも一つのやりかたです。この句の解説では
   「西山宗因」「てふ」「茶店」の「先代」の「主人」の「妻」「つる」「宗因」「葛」「おつる」「蘭」
  などがでています。
   「西山宗因」=「てふ」=「蝶」「蘭」=「西」
   「茶店」=「先代」「主人」「妻」→「当代」「姻戚」
   「つる」「おつる」=「蘭」→「鶴」
 などで、「母」「このかみ(兄)」など組み合わせますと、
          「西山宗因」が芭蕉の母
 ではないかという
 ことがでてきそうです、これだときわめて重要なことがさりげなく述べられていたということになり
 ます。そこまできますと茶店のことも重要なことかもしれません。先代の主人か妻といえば宗因と
 同年代ということになります。したがって茶店の主は、「宗因」の知った人といえそうで盧牧という
 人が先代、つまり当代「大淀三千風」の母公というのもありえます。
      盧公=大淀三千風@と当代の盧公A=大淀三千風
 の荒木田氏というのがあれば宗因が、先代の主人の妻「つる」に
      「葛の葉のおつるのうらみ夜の霜」
 という句を与えたというのが「盧公」らしくなってきます。その答えの句が「蘭」の句で芭蕉がそれを
 「書付」たというのもありえます。「芋あらう女西行・・」の句は歌の贈答の故事によって作られて
 いますのでそれに照らして返歌というのがあっていそうです。
     「世の中をいとふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」西行
     「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ」遊女
 歌の贈答があって遊女が一旦断られた西行を招きいれたようです。この「世をいとふ」などが
 須賀川へ直行しています。「書付」も同じです。
  ここから又、「つる@」「つるA」というのも出てきます。西に「つる」という人の親
     「つる@」=「盧牧」@
 というのもあるかもしれません。

(67)蝉吟公
  芭蕉は大和で「平尾村」を「草尾村」に間違ったりしています。筆者の方はそれまで援用
 するような露骨なことはやっていません。控えめに、控えめにというのがモットーでやってきました。
 それは変わりませんが実態的に変わってくる場合は表記に手を加えたらどうかというのは出てきます
  いっぺんはやってみないと〈前著〉などでしたことが無駄になってきます。
  芭蕉のことで〈前著〉で述べた「言葉」とか「しぐさ」のこと、今述べてきた「大淀三千風」のこと
 とかを加味すると芭蕉の次の表記は訂正したほうがよいのでしょう。右の訂正後はまあ適当に
 やったものです。とりあえず幼名だけです。
   テキストによる芭蕉の表記(左)

                 金作    →→→→   甚作
                 甚七郎  →→→→   甚六郎
                 忠右衛門 →→→→  甚右衛門

  というようになると思います。「金」は「金松」の「金」です。須賀川の相楽伊右衛門は
      「乍単(憚)斎」
  を名乗りましたが、この「金作」の「乍」を取ってきて、「金イ」として「金作」を無力化したとも考え
 られます。伊右衛門は松永貞徳の孫弟子なので、芭蕉より年配でしょうから、芭蕉がこの表記
 のままにしているのが気になっていた
 のかもしれません。「甚七郎」は「六」に行くか「八」にいくかの問題があるので、「五郎」または
 「六郎」にしておけばよさそうです。惣領の人がおれば父が「与」だから「与四郎」になるはずです。
 すると芭蕉の家はさかさまになっているということになります。芭蕉の家族はテキストでは
        父、松尾与左衛門
        母
        兄 松尾半左衛門
  です。「兄」がいたということですから、それが「姉」になります。名前は「松尾□左衛門」で
 「このかみ」の兄は半左衛門でよいのでしょう。
        母、松尾与左衛門、 「母」は父となります。これでやってみると、
 芭蕉の家族は

      西山宗因ーーーーーーー井原西鶴
       ‖松寿貞尼        ‖|荒木田氏
      □□□□          松尾芭蕉
となることが考えられます。
□□□□は藤堂新七郎家の人となるのかもしれません。芭蕉と荒木田氏などとの関連は
    山口六郎四郎と奥田三川、(常山の山口六郎四郎と奥田三河守)
 のケースとなると見受けられます。こんなは話は聞いたことがないということになりますが
 もう結論が言われないだけです。これは生身の個人のことではない、構成した団体の動向に
 関する話で、しかも当時のリード層の人が公的活動とか、社会に関わる部分を経験から語って
 いる部分です。今日ではそれを受け止めればよいだけ。年表では次のようになっています。
 どの本でもほとんど同じです。

       年代           芭蕉の動静               四囲の事情

   1644、正保元年      伊賀の国上野の赤坂町に生まれ、  井原西鶴の生まれたのが
        (寛永21年)    幼名金作                  この前々年とされる

   1682、天和二年39歳   三千風撰〈松島眺望集〉         ●三月宗因没
                                            西鶴〈好色一代男〉刊

   1683、天和三年      六月二十日、郷里伊賀で       ●西鶴、亡師宗因の一周忌
                    ●実母が没した                追善俳諧を催し・・・

   1684 貞亨元年      伊賀上野に帰り、兄半左衛門      西鶴住吉社頭で・・・・
                    宅に滞在、守り袋の実母の白髪を拝む。        独吟興行     れた
  
 〈芭蕉全句〉によるものですが、●三つが関連しており、西鶴は惣領として追善をしたという
 ことになります。一年ちがいは合と同じです。また年表の次の記事が重要でしょう。

   1666寛文六年       四月二十五日主蝉吟二十五      ★西鶴の発句が鶴永の
                    で夭逝。その弟良重が家嫡       名で始めて〈遠近集〉
    23歳            となり、蝉吟の未亡人小鍋が       に見える。
                    その室となった。
                    ・・・(芭蕉)無断で主家を離れたと
                    伝えられる。
 
  芭蕉10歳のときに、藤堂家の侍大将藤堂新七郎家(当主良精)の嗣子良忠(蝉吟公)に
  出仕し、二人の間がうまくいっていたことは有名な話ですが、蝉吟は芭蕉より二歳上ですから
  井原西鶴の年齢と同じです。二人は同一人物と見ますと、この間の事情がく説明できそうです。
  蝉吟公はこの記事の前年1665年、11月13日に松永貞徳13回忌追善俳諧を主催していま
  す。活動力旺盛で、俳諧の道へ進みたいという気持ちがあったとみてもよさそうです。一方
  弟に良重がいて、おそらく良精の実子であったと思われますので主側に家督がいくのも自然
  だと思ったのかもしれません。死んだことにして身を引いたというのが真相です。
  こういう事情だから芭蕉が引き止められたのは事実でしょう。
  小鍋が良重の連れ合いとなるのは普通のことです。★のところ蝉吟の死と入れ替わりです。
  蝉吟は西鶴に乗って生還しました。
   〈甫庵信長記〉には「陶五郎隆房」が出てくるところで
       「味方には井原の樋爪(ひづめ)、渡辺源十郎討たれぬ。」
  という「井原」などは後世に利用されそうです。「爪」は「瓜」「菰」などに利用されるでしょうし
 「井原」と「渡辺」が近いかもしれません。藤堂玄虎という人はもと「渡辺」が「藤堂」になったという
 ことのようです(芭蕉全句)。次のものに井原西鶴の言葉を載せたのでしょう。

   『何事もむかしに替わりて、▲はらからの鬢(びん)白く、眉皺寄(しわより)て、只命有りてと
    のみ●云(いひ)て言葉はなきに、▼このかみの守り袋をほどきて、
      「母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、なんぢが眉もやや老いたり」
    と、しばらくなきて、
      手にとらば、消えんなみだぞあつき秋の霜  』〈野ざらし紀行〉

  この、文中「   」をするという形式が珍しいわけです。そのための伏線が敷かれていると思い
  ます。▲は兄弟と訳されています。テキストでは●は
        「こういったのは、兄とも芭蕉とも、いずれにもとれる。」
  とあります。
  ▼の前の部分は二人の様子を語っている、▼以後は一人の単独の言動とした、と思われます。
  平凡にして偉大なる人の情景ですが、これで、蝉吟公のことはわかりました。
   「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」というのがあり、「蝉吟」の「蝉」が詠み込まれて入るという
  人がありますが、この一節が「閑人の茅舎」の「閑」と「茅(萱)」を受けており
  「蝉吟」が出ているので、合っていると思われます。二人は希代の策士だから、大分わかって
  きたといっても、 まだ、西山宗因は西山宗因だということしか明かしていません。

  赤坂が芭蕉の兄の属性ですが、須賀川の「見付」にも飛ぶのでしょう。赤坂見附が芭蕉の念頭
 にあったと思われます。この「赤坂」は
    関ケ原における家康の陣地「赤坂」
    桶狭間で元康が通過した地点「赤坂」
    芭蕉の兄の居所、上野の「赤坂」
    岐阜県不破郡「虚空蔵」の「赤坂」
    江戸城赤坂見付の赤坂
 などがあります。関ケ原の赤坂は〈常山奇談〉で使われています。桶狭間の「赤坂」は〈三河物語〉
 の元康(家康)の進軍経路
      「御油(ごい)、赤坂・・・・・御油、赤坂・・」
  で二つも出ます。芭蕉は
      「夏の月五油(ごゆ)より出でて赤坂や」
  の句でこれを受けています。須賀川ー徳川家康公の線が出ていそうです。「御油」は「ごい」と
  読み「五油」から「五位」で当たると、「稲妻や闇の方行く五位の声」があり、この前の句が
     「尼寿貞が身まかりけると聞きて  数ならぬ身とな思ひそ魂(たま)祭り」
  で「松誉寿貞 中尾源左衛門殿」が出てきます。このまえには又「兄(このかみ)が載っており
  大物が続々と出てきますので須賀川は、「金+松」の「金松」が予定されているといえます。
  「江戸城赤坂見付」は(日比野→日比谷)とか「霞ヶ関」など「江戸城」建造における太田和泉
  守の痕跡も芭蕉によって出されていると思われます。

(68)宮脇又兵衛
 途中脱線しました。もとの人名羅列に戻ります。再掲、
  〈甫庵信長記〉の伊丹陣

     「中西新八郎、山脇勘左衛門尉、星野左衛門尉、宮脇又兵衛、隠岐土佐守・・・」   

  がありました。これを並べ替えて
     「隠岐土佐守」「星野左衛門」「山勘左衛門」「中西新八郎」「宮又兵衛」
  として                           
     「岩室長門守」「長谷川橋介」「山口飛弾守」  「佐脇藤八」 「賀藤弥三郎」
  を宛てました。
   中西新八郎、は八ですから、佐脇藤八に宛てますが、佐脇の脇と、山脇、宮脇の脇が利いて
  きて、これでよさそうです。隠岐土佐守の隠岐は「後藤又兵衛」にも使われますが、
    「大野木土佐守」
  があり、これは太田和泉守で岩室長門守にあててよいでしょう。この宮脇又兵衛の又兵衛が
  働いて、これは加藤弥三郎にあてることは先稿の通りですが、ここから重要な表記に気が
  付きます。
   〈信長公記〉の人名索引で
         「宮本兵大夫
          宮脇又兵衛」
   が出てきます。両方解説のない一匹狼ですが、それだけに誰かのことを指しているというの
   が強く感ぜられるものです。「又兵衛」である「宮脇」の「宮」は
       「宮本」
   の「宮」に繋がり 「宮」「本」が「又兵衛」色になります。
       
       「脇」で「藤八」−「賀藤弥三郎」
       「又兵衛」で「賀藤弥三郎」
    に繋がり何といっても「又兵衛」は後藤又兵衛ですから、ここの「宮本兵大夫」は後藤又
   兵衛の親戚、古田織部ー上田宗古のような関係にならないかというのがいいたいことです。
        「宮本兵大夫」
   は実態的には鈴木孫一など雑賀の侍七人の一人として出てきますが、表記が独りで動き出し
   そうな独特のものがあります。何といっても「兵」は「猪子兵介」の「兵」、中国の孫子・呉子
   など「兵家」の「兵」であり、「栗村二郎大夫」と出てくるので「栗山」の「栗」も勘定に入ってい
   そうです。〈明智軍記〉にも出ており、〈武功夜話〉では「宮本兵太夫」と「宮本平太夫」があり
   ます。侍七人のうちの〈信長公記〉の「土橋平次」には、〈武功夜話〉は
         「雑賀与四郎」「雑賀半次郎」
   を宛てています。土橋平次は二人協力してやっていたのかもしれません。
   「宮本」の「宮」は「久」「九」であり、波及するところ大きい字であり、「本」も今となれば、  
   安藤伊賀守の「本巣」の「本」であり加藤二十四将「森本儀太夫」の「本」であり、これは「森」
   と「加藤」「木村」「滝川」などを睨んだものといえそうです。

   「宮本」で有名なのは「宮本武蔵」しかなくなく、「兵大夫」の「兵」は「兵法」の「兵」が時代の
   雰囲気を反映していそうです。
   「大夫」はなぜ使ったかわかりませんので、芸事のような感じをだしたとすると、先程の「幸若
   八郎九郎」の「大夫」くらいの意味かもしれません。それなら、「幸若義重」の「義」も「重」も付
   いてきます。
   太田和泉守はあの「宮本武蔵」を〈信長公記〉に入れていたといえます。

    これを二書の中から炙り出すのは大変ですが、湯浅常山などの力を借りれば〈甫庵信長記〉
   などでも出ていることが確認できそうです。後藤又兵衛は九州、
         「嘉摩郡(かまごおり)大(くま)の城(しろ)」〈常山奇談〉 
   が属性の一つです。隣国が細川で、ここは細川・黒田間の挿話にもよく登場してきます。
   細川は肥後熊本ですが、熊本はここの隈・熊に通じますから、加藤の熊本ー弥三郎の熊本
   というような連鎖も後藤又兵衛にはあります。
   もう一つ
         「政次豊前の小熊(こぐま)の城に有りて・・実は小倉の防(ふせぎ)なり。」
                                             〈常山奇談〉
   もあり、「熊」「隈」のほかに、さらに「小隈」「小倉」の名前がでています。

      「(実は小倉の防ぎなり。)故有りて政次が子隠岐追い出されしを呼び返し給へ、と長政に
      申せども、聞き入れられず怨むるとき・・・・政次二男又市・・」〈常山奇談〉

   があります。小熊は小倉と同義に捉えられています。これからみると後藤又兵衛には
                  
       又兵衛ーーーー隠岐
                 又市
   
   の二人の子があり、ここにも隠岐が出てきましたので、隠岐は三代に渡って生きてきます
              隠岐@ー隠岐土佐守、
              隠岐Aー後藤又兵衛、
    のほかに元小倉城主である
              隠岐Bという行方不明の人物
  があるというものが出ています。
  又兵衛はこの二男の
       「又市」
  の鼓の問題があって黒田を退散しますが、この又市という人物はある程度わかっているのではないか
 と思われます。

       「政次が二男又市を長政寵せられしが、博多の祇園の宮にて猿楽のの有りし時、
       うてといはれしかば、小熊に行きてかくといふ。政次怒りて、父子ともに出奔しけるを・・」

  となっています。この話は有名であり、同じ常山に「又市」が出てくるから消息がわかるのかも
  知れません。関ケ原で、東照宮の陣営にいる記事があります。。
         「小栗又市谷々見廻(たにだにみまはり)の事」
   において、
    「谷々(たにだに)」「井伊兵部」「菅澤(すがさは)次郎右衛門」「山かげ谷々(たにだに)」
    「上方(かみがた)者」
  などを伴って出てきます。この菅澤次郎右衛門がよくわかりませんが〈信長公記〉に
                     菅沼次郎右衛門
  がでてきますので、菅沼を意識したものかもしれません。人名注では
            「菅沼久」「菅沼(長篠)満直」
  が出てきます。前者は常山では「菅沼新八郎」という人物で出ていると思われます。「忠」と「八」
  の対応というのでよいのでしょう。後者は「三河設楽郡の長篠に住したので」「長篠」という苗字
  になるようで、これは〈信長公記〉では「長篠」で出ているので、高松山の「長篠」が太田和泉守の
  もとでは「菅沼」が念頭にあっただろうという推測の成り立つものです。一応常山では「菅」は
       「菅沼新八郎」と「菅沼大膳」 「菅(くだ)正利」
  という名前を出しているということです。「管」は黒田の大将で、関ケ原で嶋左近を倒した人物と
 して描かれていますのでこれは太田和泉守が乗っかったものです。つまり「八」「大膳」「黒田」が
 小栗又一を取り巻く語句でヒントを提供しているといえそうです。もう一箇所では、「佐久間河内」
 「小栗又市吉忠」が大坂陣の検使になっています。ここで家康公と確執が生じます。又市が
 上杉景勝の家老直江の名前を出し上杉の戦振りを批判したので

     「家康公御聞きなされ、其まま御気色変り御きげん損じ、やあ又市、己れが分にて景勝武辺
     に誹りだては無用なり。推参なること申す大だはけめ、とさんざん御しかりなさる。又市
     赤面して罷り立ち候。」

  があります。家康公は景勝が非難されたと思って怒ったようです。
    
   又市は「小栗」ですから「栗山」関係の人といえそうですが、隠岐B(宮本兵太夫)は又兵衛
   の佐々木時代の人かもしれません。
   隠岐Bが、黒田長政に小倉を追い出されたというのは、小倉という重要地点を任されている
   そういう才能とか、名声とかが、気になる、黒田嫡子の存在ということも関係があることでしょう。
   
  太田和泉が「宮本兵大夫」で宮本武蔵を語りたかったというのは、その表記からいえるもので
  すが、宮本武蔵の才能に瞠目したというのもあるかもしれません。後藤又兵衛の武勇は知られ
  ており、その長子だとすると、軍の中心となっているはずです。
      「小倉」というのは後藤又兵衛Aの属性で
      「大隈」「小熊」は後藤又兵衛@の属性で「小倉」は防ぎの地
      〈武功夜話〉では小熊の在「重之右衛門」が出て「小坂」「毛利六左衛門」「木下藤吉郎」
      が出てきて太田和泉守を呼び出しています。この「小倉」が本能寺で出てきますので
      太田牛一の思い入れが察せられるところです。〈信長公記〉人名索引では
             「奥田三川
             小倉松寿
             小栗吉忠(小栗二右衛門)」
    で並んでいます。

        「湯浅甚介・小倉松寿、此両人は・・・敵の中に交(マジリ)入り、本能寺へ懸込(コミ)
         討死。」〈信長公記〉

   となっています。ルビのカタカナが入力のときは案外手間なものです。
            
 (69)一条下り松
  余り語られないところを記しますと
   @吉岡一門と決闘したというのは
        「一条寺下り松」「一乗寺下り松」「一乗下り松」「一条下り松」
    と四つありネットで検索してみればこのどれでも出てきます。「下りの松」までも入れると
    もっと増えます。ネット記事「諸侯屋敷一条下り松伊香佑遺構」によれば

       「その裏山に松があり下り松といわれそこで決闘がなされたと伝える・・・一乗寺下り松
       はこの一条下り松が誤り伝えられたものという説がある」

    とあります。住所は「上京区一条通堀川東入北側」です。
    「一条」は表記の面からいえば「一枝」「となり〈信長公記〉で「一条蔵人」「一条右衛門(信
   竜」がありました。つまり「中江」→「中枝」ー「中条又兵衛」→「森氏」です。
    宮本武蔵一条下り松吉岡一門決闘事件の物語というのは誰がつくった
   ものかわかりませんが、宮本武蔵と「松」「森」を繋いだ、武蔵の素性を表わす見事な物語と
   いえそうです。
    これは吉岡一門との決闘ですが、〈常山奇談〉では「慶長年中」の話で
        「吉岡建法狼藉太田忠兵衛手柄併太田武技を論ずる事」
   があり、「吉岡建法という染物屋、剣術の妙手」が禁裏で無礼を咎められたのを怒り、雑色を
  切り外に出て暴れまくりますが、手が付けられない、「板倉伊賀守勝重」が立ち向かおうとしたのを
  とどめ、太田忠兵衛が一太刀で切り殺したという話です。登場人物全部太田和泉守といってもよい
  属性を持っており、一人芝居のようなものですが、「太田」「吉岡」名前が15ほど出てくる目まぐるし
  話しです。まあ武蔵から見ると祖父ぐらいの遠い昔のなつかしい名前の登場といったところで
   しょう。
      「吉岡建法・・・太田忠兵衛・・・太田・・・・猿楽・・・吉岡健法・・・染物屋・・・建法・・・建法
      板倉伊賀守勝重・・・太田忠兵衛・・・太田吉岡・・・吉岡・・・太田・・吉岡・・・・太田・・・吉岡
      ・・・太田・・・吉岡・・・吉岡・・・・太田・・・吉岡・・・吉岡」〈常山奇談〉

   武蔵の世代は吉岡清十郎ですがこれは道家清十郎が考えられるところです。武蔵と太田が重な
  った物語といえます。染物屋を出すために吉岡憲法(剣法)が使われたといえそうです。
   この吉岡建法が暴れ出したのは
       「慶長年中禁裏に猿楽が有りし時」
   となっています。「猿楽」は「又市」のところで出ています。
       「政次が次男又市を長政寵せられしが、博多の祇園の宮にて猿楽の有りし時、鼓を
        うてといはれしかば、小熊に行きてかくといふ。政次怒りて・・・」〈常山奇談〉
  の「猿楽」です。つまり、これは政次の子としての又市ですが、それが太田吉岡の確執につなが
  るという暗示です。この吉岡建法太田忠兵衛の勝負の一節の前は、既述の〈常山奇談〉
     「亀田大隅江戸の石垣を築きし事」
  の一節があります。一節は六つぐらいは懸かる話しが詰まっていますので、これも例外でも
  ないのでしょう。これは題名だけからも「後藤又兵衛」登場といえるものです。つまり
    
    「亀田」は、後藤又兵衛が「亀甲(かめのかふ)」「亀(かめ)の甲(かふ)」という「進退自由に
           廻る様」な車を造って「石垣を崩して乗り入」れたというような話の「亀甲」に似て
           います。「甲」は「由」とともに「田」に似るのでしょう。
    「亀田」はまた「木田」→「貴田」→貴田孫兵衛Aもあります。
    「大隅」は→「小隈」→「小熊」→後藤又兵衛、で
    「江戸」は「後藤又兵衛、合渡川一番乗り」→「郷戸」→「江土」→「江戸」で
          江戸城太田道灌もあり、この太田Aが又兵衛です。
    「石垣」は「石垣原の戦い」→「黒田如水」で
          石垣原では「小栗治右衛門」「平田彦右衛門」などがでます。
    「築」は→→「筑前守」で羽柴と黒田の「筑前守」があります。

  後藤又兵衛が、吉岡太田に懸かってくるとともに、この亀田の江戸城の前は

      「黒田満徳丸袴著(はかまぎ)の時母里(もり)但馬舞(まひ)をまひし事」

  があり、これは後藤又兵衛の周辺物語りです。「黒田長政の嫡子満徳丸」の「四つの歳」」の
  祝ひに、黒田節で謡われた母里但馬(もりたじま)と、黒田長政のちょっとした確執のある話が
  でています。中味では母里但馬(もりたじま)は
       「ひき目親にて常にぢいとなつかれし」
  となっています。これは「森但馬」だから表記では太田和泉守を指していそうです。類書では
  毛利但馬という表記も使われます。

 (70)黒田節
 次ぎはほんの一部ですがある日の太田和泉守の情景です。
 黒田節の主人公が誰かと決まる一節でしょう。

     「長政も又盃に十分引き受けられし時、但馬、いざ肴よ、と田村をうたひ出し舞すましたり。
     鬼の如くなる男の稽古せしか、拍子も耳目を驚かせり。皆一同に、兵のまじはり、とうた
     ひて酒宴盛んになりければ、
      ●備後守高声に、若き人々能く聞かれよ。
           心がけの深きも殿、又思慮なきも殿なり。
           大たはけは▲但馬(たじま)、又たのもしきは▼但馬なり。
     黒田の家の武勇目出度き時ぞよ、とみなみな酒をくみかわし・・・・
      又長政或年の春歳初めの祝いに、●栗山備後守がもとに行われしに酒宴あり。四つ
     比に及んで、長政、我居たらば、若き者ども酒おもふほど得飲まじ。あとにて打とけて
     酒もりせよ、とて帰られしに、但馬(たじま)、今少し居て若きもの共に懇ろに詞(ことば)をかけ
     人々悦ぶようにこそ有たけれ。とかく我ままの直らぬ殿なり。頂きに大きなる灸をして
     こそよかりなめ、と大音にて云ひしを、長政聞かぬ体にて帰られけり。」〈常山奇談〉

 があります。●が又兵衛の連れ合いの人というのがポイントのところです。ルビ付きの▲が
 太田和泉守、ルビなしの▼が後藤又兵衛でしょう。「田村」を舞う、兵のまじわり、は太田和泉守
 です。「たはけ」は〈信長公記〉にあります。長政にいいたいことをいえるのは黒田官兵衛相当の
 人しかないようです。日本号の槍を福嶋正則から飲み取り、歌に謳われたのは
                母里太兵衛(太平)
 ですが、この母里太平こそ、やや時空を越えて登場した太田和泉守でしょう。この槍は講談では
 後藤又兵衛の手に移ったということですが、それは自然の流れでしょう。

  歌に暗喩あり、
         「これぞ、まことの黒田武士」
 の歌はいつできたのか、というのは筆者のしらないことで探るには荷が重過ぎることです。しかし
 この歌が、太田和泉守牛一=母里太平を証するものともなります。
     黒田武士=黒田節
 であることは偶然の一致のような不思議な感じがしていました。黒田の武士の方は、ここの栗山
 備後、後藤又兵衛など多士済々ですが、一方の
     「節」
 が〈信長公記〉のきわめて重要なところで出ていました。(下記、内容は〈戦国〉で既述)。

  ★「其比(ころ)は世間公道なる折(ふし)にて候間、大うつけとより外に申さず候。」〈信長公記〉k槍は後藤又

 この「折節」は今となれば「織節」=織田の節目というのもあるでしょう。「維時」というような意味
 ですがこれは別として、ここの「たはけ」は
          たはけ=うつけ
 の炙り出しがありました。ここの「世間」に注目した人がいて
         「世間太兵衛」〈常山奇談〉
 という人物の一節ができたのでしょう。

   「世間太兵衛伏兵を知る事
   越後・・・・三條・・・道に伏兵・・・溝口伯耆守宜勝・・・・三條・・・・世間太兵衛・・・・小川・・・
   脇・・・・糞・・・・伏置・・・・伏兵・・・・」〈常山奇談〉

 となっています。「又兵衛」といえば「後藤又兵衛」、「安兵衛」といえば「堀部安兵衛」、「たすけ」
 といえば「塩原多助」「一心太助」、「太兵衛」といえば「母里太兵衛」というようなものが常山の
 時代にはあったと思われます。
  「太兵衛」は糞のあるのを見て伏兵を知ったということですが、「世間」から「伏」せら
 れたものを知った、といえるのかもしれません。
     たはけ→「世間」→「織田信長」の複雑な語り
 というものです。井原西鶴に「世間胸算用」というものがあって、ここにも「世間」がありますといって
も、それが、これだという納得が得られないわけです。偶然の一致だ、でおわりです。生命損傷の
 事故がおきても、今回だけのことだ、たまたまだ、考えられんことだというのと同じです。黒田節の
 「太兵衛」をも投入してここを呼びだしたということでしょう。しかし西鶴の「世間」はここを踏まえて
 いっています。世胸算用には、ネットと記事に寄れば
     「大晦日は一日千金
 という副題があるようです。西鶴には武家物とか、町人物などがありますが、これは町人物に
 入るのでしょう。芭蕉に
    「実(げ)にや月間口千金の通り町」〈江戸通り町〉
 があります。「間」があって「千金」があるので二つは似ています。「日」でもあればいいのですが
 「月」ですから、微妙なところでケチがつきそうです。須賀川のクダリに
    「橡ひろふ太山もかくやと●閨iしづか)に覚えられて・・・」〈奥の細道〉
 というのがあって、「間」のなか「月」になっている●を「しづか」と読ませています。これが不自然
ですから、この解釈は、周り「栗」「西」「木」の洪水の中の「木」がありますから、西の「木」が入るの
 だろうということになり、「閑かさ」が出て・・・・・・・・・もつれて出てきます。須賀川に西鶴が出さ
 れた瞬間といえますが相楽伊右衛門も心得たもので
      「乍斎」
 という名前をつけて挨拶したといえるのでしょう。それはそれとして、一方「月間」となっていますから
「間」の「日」が「月」に及び、「実にや日間口千金」となって「日・・・千金」で、一歩胸算用に
近づきます。当然この「千金」というのは「価千金」がすぐ出てきてこれは解説があるように
  蘇東坡の「春宵一刻価千金・・・」でこれは謡曲「田村」が取り入れているものです。「田村」は
 蘇我蝦夷と同時代の田村皇子です。この
          「田村」
 を舞ったのが「但馬(たじま)」です。「舞」「兵の交はり」であの桶狭間の織田信長を出したのが
 この太田牛一、その太田和泉守を呼び出したのが井原西鶴と湯浅常山、黒田節であったといえ
 そうです。とにかく太田牛一の★の一文は今川を意識してたわけをよそおって、うつけを語る
 太田和泉守の慟哭が伝わるすごいところです。世の中なかなかうまくいかないわけです。

  この句の「り町」からも「井原西鶴」は出るのかもしれません。「井原樋爪」の出るところ「通る」
 の流れがありそうです。

     「渡辺太郎左衛門尉、(とおる)本城と渡し合せ、鑓下にて本城(ほんじやう)を打捕り
     たり。・・・・井原の樋爪、渡辺源十郎・・・」〈甫庵信長記〉

 謡曲、「田村」「融」「小町」「本口(根本の切り口)にと広がりがありそうです。ここに
 世間太兵衛に越後の溝口伯耆守宜勝が出ていますが、これは〈甫庵信長記〉の惟住五郎左衛
 門の臣「溝口竹」で出ています。岡部美濃守宜勝(常山奇談)があり、
      溝口伯耆守=宜勝=岡部美濃守
 で「岡部」は和泉の岸和田の人で石田三成Aが岡部家の人となるのではないかと思われます。
 溝口からは亀田大隅も出てきます。亀田大隅は溝口幽霊半之丞です。亀田からは後藤又兵衛が
 出てきますがこれは吉岡太田を出しました。新発田の溝口家というと後年堀部(中山)安兵衛も
 出てきます。世間太兵衛の一節の前は、
      「越後・・・・堀直寄武功の事附千利休が事」
  の一節ですが、

      「堀・・・小倉主繕・・堀・・直寄・・坂戸・・・・坂戸・・・直寄・・・下倉・・・堀・・・・下倉・・・
      下倉・・・小倉・・・直寄・・坂戸・・・平田・・直寄・・・山中数馬・・・速水織部・・・直寄・・
      直寄・・・三十郎・・・丹後守・・・」〈常山奇談〉

  があります。「小倉」「下倉」「平田」がでてきいます。この関ケ原のときは堀直寄は二十四歳で
  本能寺の5年くらい前に生まれています。堀秀政の長臣堀監物直政の次男となっています。
  直寄は三十郎という名前ですがこれは服部安休につなぐ名前でしょう。坂部三十郎の一節で
  安休が出ましたそれがここの「坂戸」の役割でしょう。「直寄」はもう一節設けてありそこでは
    「水野日向守勝成・・・大和口・・・大和口・・・堀丹後守直寄、松倉豊後守重政・・・・後藤又
     兵衛・・・」〈常山奇談〉
  となっており森蘭丸との関係が問題になりそうです。

  この直寄の武功があった越後の戦いが世間太兵衛の伏兵を知った戦いですが、「世間太兵衛」
 の「小川」が効いている感じです。「小川」からは「平田和泉」、や「水野下野守」が出てきますが、
 、「小川」は〈常山奇談〉の
    「黒田家岐井谷合戦の事併小川伝右衛門野村太郎兵衛岐井友房を斬る事」
  の一節の「小川」を見ていると思われます。ここで文中「後藤又兵衛、小河伝右衛門」の並記が
 出ますが、これは伝える役目の「伝右衛門」ですから、題記は「小川又兵衛」ではないかと考えられ
 ます。後藤又兵衛は、
      「後に岐井谷の軍物語に及べば俄かに病み出でしとぞ。」〈常山奇談〉
 となっており、
 皆が手を焼いた友房を討ち取ったのは後藤又兵衛のこととして知られていることなので、おそらく
 そのことだと思われます。これは後藤又兵衛A=宮本兵太夫がやれる仕事のような感じで、
 それが野村太郎兵衛の登場となっているのではないかとも思われます。つまり「太郎兵衛」が
 宮本の属性を表わすのかもしれません。
次のような文もあり、
 係累を明らかにしようとしていると思われます。負け戦のようですが

    「後藤はいかがしたりけん、猩々緋(しやうじゃうひ)の羽織を脱ぎ捨てたりしを長政とらせ
    帰られけり。」〈常山奇談〉

  これは太田和泉守(ここでは「黒田勘解由孝隆(くろだkげゆよしたか)」の羽織のようです。
  とにかく一条下り松の宮本武蔵の事件を後藤又兵衛とつなげようとすると、不在の小倉の主が気
  になるところです。

  この満徳丸が黒田忠之でしょう。将来、栗山大膳と確執があります。この満徳丸の話の前が
 小倉を挟んだ黒田の相手細川忠興がでてくるのでやはり後藤又兵衛の子息の話一筋に各節
 が連なっています。
 
(71)一乗の詩仙堂
この話に目をつけたのが「石川丈山」で京都上京の「詩仙堂」で名高い人物です。この人物が
  この話はよくできた話だと、一層広めようとして、引っ掻き回したのが、いまのややこしい、
   一条下り松で翻弄されるのを余儀なくされているのです。

 この吉岡建法が暴れ出し太田忠兵衛にやられたのは
       「慶長年中禁裏に猿楽が有りし時」
 となっています。「猿楽」は「又市」のところで出ています。
       「政次が次男又市を長政寵せられしが、博多の祇園の宮にて猿楽の有りし時、鼓を
        うてといはれしかば、小熊に行きてかくといふ。政次怒りて・・・」〈常山奇談〉
  の「猿楽」です。つまり、これは政次の子としての又市ですが、それが太田吉岡の確執につなが
  るという暗示です。

    芭蕉に「丈山(ぢやうざん)の像に謁(えつ)す」と前書きされた
        「風薫(かを)る羽織(はおり)は襟(えり)もつくろはず」
   の句があります。著述での芭蕉句集では人物で出てくる索引はほぼ皆無でしょうから、また
  前書きにかかれているものですから、この丈山を探すのはたいへん時間が掛ります。
   先ず芭蕉は石川丈山(嘉右衛門重之)が太田和泉守とゆかりがあったことは知っているので
  丈山の讃があるのは必然ですが、解説にはそれがありません。一乗寺村詩仙堂のことはでて
  います。解説にはありませんが、「薫る」が「南谷」で出て、染物屋の「図司左吉」などに
  触れてきた今では、「羽州里山」「羽州羽黒」「出羽三山」などの一節が、ここに懸かっていると
  みてもよいようです。叡山にも「南谷」(「北谷」)もあるかもしれません。
  「羽」「黒」「里」の太田和泉守(石川長門守)が、詩仙堂の石川重之の風貌が重なり、「謁」と
  いう表現になったといえそうです。
    この句の中心は「羽織」にあるといえますが、これは
        「羽黒」の「羽」+「織田」「織部」の「織」
  も懸かって来るのかもしれません。常山はこの句から何を感じ取ったのかわかりませんが「羽織」
  を語りに多用したのは湯浅常山です。長い石川丈山の一節を残していますので、この芭蕉の
  羽織にも触発されたとみてもよさそうです。常山は

     「本多安房守丈山とゆかり有ければ・・・・」〈常山奇談〉

  と書いています。関ケ原直前、真田安房守、上田城電撃帰還途次これを遮ったのが、本多の
 小松殿(信幸妻女)ですが、これは常山の連想の中になかったとしても、〈信長公記〉には、
 首巻に早くも、魅力ある「安房守」が出てきます。

  「織田三郎五郎殿(大隅守)と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄(しやけい)なり。其弟に
       ●安房守殿
  と申し候て利口なる人あり。上総介殿・・・佐久間右衛門・・・守山・・・安房殿・・・・角田新五
  ・坂井喜左衛門・・・守山・・・安房殿・・・守山殿・・・下飯田村屋斎軒・・・安房殿・・・佐久間
  右衛門」〈信長公記〉

   ●に脚注があり、出典不明のようで書かれていませんが
             「織田安房守秀俊
   となっています。この人物には
             「利口なる人」
  特別のコメントがあります。其弟の「其」が誰を指すかはわかりませんが二様に解せられるのはここ
  でも同じでしょう。表記で読めば安房殿は信長公の弟ともよめそうです。先の稿では登場回数の
  多い織田の大将、斎藤新五(本能寺で戦死)は信長公の弟かもしれないことはいっていますが、
  テキスト人名注では
       「斎藤新五   利次か。もと美濃斎藤氏の将(新撰美濃市)」
  となっています。「利口」というのは「利巧」ですが「口(くち)」が利くというのもありそうです。
 これからいえば使者のイメージですが、これは明智左馬助の属性でもあります。
  「利口」というのをみれば、当時の類書には伏字「□」があるので太田牛一はそれを知っています
  から、「利次」というのを「利口」としたということは一応は「四角屋敷」→「□□屋敷」かもしれない
  いってきていますのでありえないことではないと思います。
  まあ利口を「音(おん)」で読めば、「こう」だから「利光」の方がふさわしいのですが「次」になっ
  いるなという感じです。こういうことをいうのも「秀俊」が明智左馬介の名前だということを知ってい
  からです。テキスト人名注では
    「明智左馬助   明智秀満(〜1582)  弥平次。はじめ三宅弥平次。俗称の
          ★左馬助秀俊(光春)
     は間違いである。」
  となっています。★は、俗称は「光俊」「光春」と思っているので、「秀俊」などあるのか、知らなか
  った余計なお世話という感じです。秀満があるなら秀光がありそうです。この間違いと断定され
  た★を使って「羽織」を語ったのが湯浅常山です。常山はどこかで●を書いた文献を見知って
  いたといえます。
  
   常山は、「明智左馬助秀俊」が本能寺のとき湖水を渡り、「二の谷」(つまり「谷々」)の
  冑と「羽織」を坂本西教寺に送り、「冑」は「山中山城守長俊」の家に伝わったが、
      「羽織(はおり)は行方(ゆきかた)をしらず」
  と書いています。これは狩野永徳が「白練に雲龍」を描いた羽織ですからまさに宝物でそれが
 行方不明だから口惜しい始末を知りたいと多大の関心をもたせる書き方となっています。大鹿毛
 という無双の俊足の馬は秀吉が志津嶽に乗っています。これは無双の馬の行方を気にして、
 明智左馬助と柴田の姻戚も表わすというものでしょう。馬も行方が分かっている、羽織だけが
 行方がわからない!。しかるに秀吉は嶋左近が石田三成に仕えたときに、羽織を与えています。
 (常山奇談)。
  のち関ケ原の戦い
     「関ケ原(せきがはら)合戦嶋(しま)左近討死の事」
  の一節で、「嶋(しま)左近昌仲(まさなか)」が討死するわけですが、嶋左近の「其の日の有様」
  を黒田の生き残りの士が語った中に
      「冑の立物、朱の天衝、溜塗り桶かは胴の甲(よろひ)に、木綿浅黄(もめんあさぎ)の
       羽折(はおり)を著(き)たりし、と語る」〈常山奇談〉
   というのが出ています。「冑」であの明智左馬助の羽織などの一節と繋がりますが、
  「甲賀」の「甲」が出て来ています。ここで「羽織」も「羽折」と連続しており、 これで
   明智左馬助秀俊の永徳の羽織→秀吉の嶋左近に与えた羽織→嶋左近の討死の羽折(羽織)
  という連続性があることがわかりますから、常山は明智左馬助をここで嶋左近とつなげるという
  ことをしたといえます。一方「羽折」という形をかえた「羽織」がでてきていますが、この「羽」は
  「羽黒」、「一乗谷」の「羽」でしょう。「折」は「織」で使おうとする意思があることがわかります。

   ここで芭蕉はこの丈山を入れた句の「薫風」を「南谷」につないで図司左吉を出してきましたが
  これを常山が「羽織」を使って嶋左近昌仲を出した、こういう筋道も必然であったと思われます。
  つまり「宮本」に関わる「太田」「又市」を多く語っているのは常山で、それを石川丈山で語って
  いるのが常山です。「丈山」と「常山」は読みは同じだから「常山」のモトは「丈山」かもしれません。
   この句の解説で

     「前書の丈山は石川丈山(1583〜1672)家康に仕え大坂夏の陣に功を立てた。洛北
     一乗寺村に隠棲して詩仙堂を築いた有名な江戸期の漢詩人。」

  書かれています。ここで「一条」ではなく「一乗」が出ています。これでは少しわかりにくいので
  常山の書いている「丈山」のその辺りをみますと

     「、比叡山の麓一寺(いちじようじ)に隠遁の地を設け、詩仙堂を作りて・・閑居す。」
     「寛文十二年・・・一寺(いちじようじ)の閑居に終わりたり。」
     「一寺の閑居、今は尼持(もち)たる寺になりぬ。されども詩仙堂は残れり。」

  となっています。ここは比叡山の麓の一乗寺でそこに「詩仙堂」を築いたわけです。
  現在の詩仙堂の住所は
    「京都市左京区一寺門口町、市バス「一寺下り松町下車徒歩五分」(ネット記事による)
  です。石川丈山は一寺という地名のところに閑居を作って、「下り松町」と人に呼ばせたという
  ことになりそうです。「森」→「一条」だからどうしても「条」を出したいが「乗」を創って「条」を
  より強く出そうとしたといえますが、「一条寺下り松」というのが正式ではないか
    思われます。一乗寺に詩仙堂(しせんだう)を建てて隠居したという石川丈山は「一乗寺」に隠棲しそこで
    死去したとか書かれています。芭蕉の丈山の像を読んだ句の解説もそうです。
    つまり「一条の下り松」で森をだしたものでしょう。
    石川丈山のは
    「比叡山の麓一乗寺(いちじようじ)に・・・・・、詩仙堂を作りて・・・・・一乗寺(いちじようじ)
    の閑居・・・・に終わりたり。・・・・一乗寺の閑居、今は尼持ちたる寺・・・・されども詩仙堂は
    残れり。」
    となっています。「丈山(じやうざん)」は「条」「乗」で引っ掻き回し、焦点ボケにした、
    「森」「石川」を引っ付けた、それを宮本と関連づけたと思われます。
    
      常山の書いている「石川丈山」は

     「石川重之」「源氏」「八幡太郎」「石川義時」「日本第一悍悪」「母本多氏」「二条」
     「田上右京」「嘉右衛門」「岡山」「佐々十左衛門」「遠藤但馬守」「池田勝兵衛」「加賀」
     「利常」「本多安房守」「筑前守利常」「間宮権左衛門」「豊島主繕」「妙心寺」「板倉重昌」
     「浅野但馬守」「板倉重宗」「松平伊豆守信綱」「三州泉の郷」「小川」「高木伊勢守守久」
     「福醤集」「一乗寺」「一乗寺」「一乗寺「詩仙堂」「詩仙堂」「如意几」

  などあり90歳で亡くなったと書かれています。石川長門守と重ねられ太田和泉守が出ている
  感じで90歳というのも注目すべきところかもしれません。「母本多氏」とあり前田利常が出てくる
  ので森一門の人でしょう。本多氏は森乱丸、松平伊豆守信綱は古田織部の親類というような
  ことがあるかもしれません。大変有名な人物だったようですから詩仙堂に「下り松」くらいの愛
  称をつけるくらいのことはやれるでしょう。石川丈山の一節の前は古田織部と松平信綱(知恵
  伊豆)の話であり、この前が小倉の又市の話があります。健法の話は別のところにあり、その
  ため 「猿楽」でつないだわけです。なお「又市」のところ「祇園」がありましたが、これは吉岡
  清十郎の剣術の師としてこの話に必ず出てくる祇園藤次の祇園をとっているものです。ひょっと
  してこの話の成立に石川丈山は無縁だったかどうかが疑問です。吉岡建法の建は「建部」の
  「武」(たけるべ)の「武」につながるし当然「建」→「立」→「宗達」の「達」です。この吉岡建法の
  一節の前は、既述の
     「亀田大隅江戸の石垣を築きし事」
  の一節があり、「大隈」の城あり、「亀田」の「江戸城」の前は
      「黒田満徳丸袴著(はかまぎ)の時母里(もり)但馬舞(まひ)をまひし事」
  があり、太田ー毛利ー黒田のつながりがありました。江戸城といえば太田道灌です。

 (72)宮本伊織       
  一応「一条下り松」の宮本武蔵を述べましたが、「宮本武蔵」には宮本武蔵を語った
     「宮本伊織」
  の存在が大きいわけです。伊織は養子で小笠原家の家老になったというたいへんな能力をもった
  人物として伝わっています。しかし年代の面から矛盾のないように、このあたりで後藤又兵衛
  から、宮本兵大夫、宮本伊織まで、の確認をしておきたいと思います。
   後藤又兵衛は大坂陣のときは60余歳とすると、子息は45くらいとなりますが、これは佐々木
  と決闘をするという有名な宮本武蔵ではありえない感じです。したがってこの人物の子息辺り
  があの宮本武蔵といえそうです。つまり
    後藤又兵衛ー小倉城・●宮本兵大夫(宮本武蔵@)ー宮本武蔵A−宮本伊織
             |
             又市(小栗)
  ということになっていそうです。その上、●の人物は姿を現さない恰好で描かれていますので
  金松相当の人物と推察されます。後藤又兵衛軍団を支えている人物です。

   嶋左近の「折」が出ましたが、太田道灌の「折」もありこれは広がりを持った「折」で、織部を
  何となく出してくる役目があるといえます。伊織の「織」が織部の織とどうつながるのか、という
  ことがあります。

   常山はいわゆる太田道灌の歌を二つ出していてそこで「折」をだしています。二つのうち、
   一つは「太田左衛門(の)大夫持資」の歌として
     「七重八重花はさけどもやまぶきのみのひとつだになきぞ悲しき」
   を出しています。 もうひとつは「太田持資{後道灌}「で
     「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」
  もだしています。何故二つも出したかということは第一の問題といえます。主人公の表記が違っ
  ているのは、問題を解く鍵ですが、それにつれて両者の中味の表記の違いが目立ってきます。
   歌で違っているのは
            前者       後者
           「やまぶき」 − 「山吹」
           「悲しき」  −  「かなしき」
  この二点です。同じものを出してちょっと変えてあります。似て非なり、ということになるのでし
  ょう。これは太田道灌の表記が違うのに連動している感じもしますが、これはまだ序の口という
  ものです。別に、この歌の背景となる状況が短文で語られています。これは
   よく知られているように、道灌が雨に遇って、ある小屋に入り蓑を借りたいと頼みますが出て
  きた若い女性が何もいわず山吹の花を差し出すというもので、そのことが両方
  に書いてあります。その文章は似ていますが表記はほとんどが食い違っています。これは炙り
  出したといえるほどです。
           前者          後者
           「蓑」    −    「蓑(みの)」、
           「いふ」   −    「云」、
           「わかき」  −   「若(わかき)」、
           「女」     −   「女(おんな)」、
           「何」    −    「何(なに)」、
           「山ぶき」  −   「山吹(やまぶき)」、
           「花一枝折(をり)て」 ー 「花一枝(はなひとえだ)折(をり)て」
           「出(いだ)」 ー   「出し」
           「物をばいはずして」ー「物はいはずして」
  これはやっぱり問題にしないといけないと感じます。いはゆる「やまぶき」に一番大きい「似て
 非なり」が創られています。ここに
     「やまぶき」「山吹」「山ぶき」「山吹(やまぶき)」
  があります。「山吹」は芭蕉では「古池」と並べられて論じられた題目です。芭蕉が「蛙飛び込む
 水の音」という「七五」を得たが傍にいた「其角」が「山吹や」という五字を冠らせたらどうかと意見
 を述べたところ、芭蕉はただ「古池や」と決定したという話しがあると書かれています。子規は
   「歴史上最必要なるものに相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるものなり。」
 句集は「春の日」ですが
   「蛙ニ春季ノ感情ナシ」
 とかいっているようです。句集〈庵桜〉(いおざくら)では、中七、「蛙飛ンだる」となっているようです。
 代表作といわれるものも、いろいろダシになっているといえます。

   「其角」はこの有名な句に脇をつけ、それが
      「芦の若葉にかかる蜘(くも)の巣ー其角」
  というようですが「くも」は、其角が詠んでいるから合っているといっても、「蜘蛛」という二つが
  一体とされた、半分切捨てがあるのではないかと思われます。蜘蛛→蜘□としてルビを「くも」
  としたのは他もそうするのかもしれません。
  「蛙」「芦」の一方だけとって「土・土」、「戸」→「蜘巣」というものを出した
  かったと思います。「古(田)」{池(田)}ー「土(田)」「戸(田)」の「本巣」−−(戸田)「武蔵守」
  が付いて廻る、さらに(宮本)の武蔵がその先にあるのをみていそうです。「古池」は
      「深川芭蕉庵の、杉風(さんぷう)が魚を入れて置いた古簀(ふるす)であろうといわれ」
  とありますが、これと同時ぐらいの句が古池の句の次ぎに出ていて
     「隣庵の僧宗波旅におもむかれるを
        古巣ただあはれなるべき隣かな」(真蹟詠草)
  があります。これは「古簀(ふるす)」=古巣、隣庵=庵桜、という繋がりから、「古池」の句を
  述べているといえますが、結局、「古池」というのは、「古田」「池田」飛んで「巣」が意識されている
  といえます。「く」は宮本の「宮」、「苦」→「古」があり、巣は安東大将(伊賀守)の本巣が入り、
   この本が宮本の「本」
  といえます。宗波という人は「鹿島紀行」で曾良と一緒だった人で「桑門(そうもん)宗波」です。
  「古巣」は季語で春と書かれていますが「比喩的な使い方である」とされています。
     〈庵桜〉(いおざくら)=隣庵
  の繋がりで「いおり」と入力すると「伊織」がでます。其角の脇は古田織部を想起すると同時に
  宮本を思い出してしまうというものはやはりあります。

   読者側もここらで一つやってみますと
           前者        後者
      「みのひとつだになき」  「みのひとつだになき」
  が材料として提示されていそうなので、乗ってみますと、これは
      「美濃一つだになきぞ(悲しき)」
  が読めるところです。これはもう一つあり
      「美濃一つ谷なき」
  でしょう。
    常山の世界ですから常山で答えが一番見つかりやすいはずです。
       「冑の名様々有し事」〈常山奇談〉
    によれば
       「加藤嘉明(かとうよしあきら)の冑は形を富士山(ふじさん)に造りなして、名をも
        則(すなわち)富士山(ふじさん)といふ。具足の胸に天人の雲に乗りたるを蒔絵に
        したり。竹中重治(たけなかしげはる)が冑(かぶと)は 一(いち)の谷(たに)、
        明智秀俊(あけちひでとし)が冑は二の谷といふ。
        摂州一の谷二の谷、相並べり。・・・・・ ・・・・此余浦野(うらの)若狭(の)守が
        小水牛(こすゐぎゆう)、黒田長政(くろだながまさ)の大水牛(おほすゐぎゆう)
        ・日根野(ひねの)が唐冠(たうかぶり)の冑・原隠岐守が十王頭・・・蒲生氏郷の
        銀の鯰尾、・・・」〈常山奇談〉
    とあり、この記事で「一つ谷」は「竹中半兵衛」のものとわかります。これは太田和泉です
   から「美濃」一つだになきぞ悲しき(あやしき)、というのは太田和泉守を知る皆の気持ちで
    あったのでしょう。たしかに美濃に太田和泉守が蟠居しておれば関ケ原が変わり戦国も変
    わっていたといえます。常山は、このことで戦国時代の、悲しさ、あやしさを語ったとも
     いえそうです。
    これは一方で、大田道灌には太田牛一が乗っかったことも示されています。ここの
    「日根野」というのは人名索引で「日□野」→「日比野」とつなげられていることは既述です
    が「日比野(下野)」は「日比谷」です。東京の「霞ヶ関」「日比谷」「桜田門」などの地名に関わる
    ものの沿革を尋ねるとき、どうしても大田道灌の名が浮かび上がってきます。これは
    江戸城の創建が契機になっていそうですからそれは当然のことといえます。つまり太田和泉守
    が江戸城に深く関わっていることによるものです。要は亀田大隅が江戸城の普請の仕事を
    しているように、豊臣恩顧の大名などが増築や普請
    を割り当てられるわけです。豊臣恩顧の大名というのはみてきたとおり太田和泉守の係累
    ということです。その引き立て、育成をしたのは太田和泉守です。常山に
           郷戸→江土→江戸
    があり「江戸」の連発があったことは既述です。また
       「浦野右衛門・江戸右馬丞・・・・与田部兵衛・★大子原、川三蔵・江戸力助」〈信長公記〉
    において上の「小水牛」の「浦野」が、ここで「江戸力助」をひき出しています。
    「浦野」はテキスト人名注では「尾張春日井郡浦野村」の出身のようで「浦野源八父子」が
    出ますから、この「右衛門」は子の方かもしれません。(信長公記)人名索引が
         @「浦上小次郎」
         A「浦上宗景」(本文は「浦上遠江守」)
         B「浦野右衛門」
         C「浦野源八父子」
         D「浦兵部」→「乃美宗勝」
         E「上部貞永」(本文は「上部大夫」)
         F「海野信親」→「武田信親」(本文は「おせうどう」)
    となっていて、一見して @A「浦上」=「浦」+「上」ですから、これがDの「浦」とEの「上」
   に使われたと思わせます。するとBCの「浦野」は、@AとBCのつなぎ、橋渡しをしたといえ
   ると思いますがもう一つ海野を孤立させないようにしているといえそうです。
          BC浦野
          F  海野
   で全体が繋がった感じで「おせうどう」という武田信玄の二男が海野氏を継いだから、太田和泉
    守の頭の中でもこれが描かれていたと思いますが、Fが「おせうどう」だけしか本文に出てな
    本来はここにないものです。要は校注も、したがって索引も作品だいえる例ですが、問題は
         浦野=海野
    の繋がりがあるのかということです。孤立表記
         「春日源八郎」〈信長公記〉
   が本能寺で戦死していて、これは浦野の「源八」の表記が消されたといえそうです。浦野の冑
   を出したのは浦野が大物であるあかしであり、海野口の平賀源心の源が「武田」へも飛んだ、
   常山は、浦野=海野を意識していたとも言えそうです、つまり武田と織田はいま理解されている
   もっと接近が図られていたといえます。別面のことでいえばこの
        「上部大夫」
   は〈信長公記〉「武井夕庵」「森蘭丸」と交錯しているのは既述です〈前著〉が、常山では世間
   太兵衛から堀がでました。そこで先ほど「坂戸」「三十郎」がでていましたが、坂部三十郎、
   久世三四郎が出てきたところは「能見・・・・能見・・・能・・・」もあります。
     一方「世間」は「間世」ですから「かんぜ」が出ます。これは「久世」の「世」でもあり
        「観世左近・・・・剃髪して安休と号す」〈常山奇談〉
   で森蘭丸の孫がでます。Eが能見と武田にいくという大体皆同じ考えでここをみているといえます。
   つまり浦野源八の「八」の威力が感じられるところです。
       
    「江戸力助」は相撲の「力円」の「力」、「力丸」の「力」といえそうです。また江戸力助を呼び
    出したものが大物です。この「川三蔵」という表記は目立ちますが、脚注では
       「河上三蔵」
    というのもあるとのことで、これだと「川□三蔵」で、「上」が抜けているといっていそうで
   実際〈甫庵信長記〉では「川上三蔵」だからこれが本当の名前ということになりそうです。
   これは既述のものですが今となれば奥がありそうです。「奥田三川」が出てきた以上、浦野
   源八もあり、「川三蔵」となれば「男」の色がありえます。脚注ではもう一つあり
            「大子原川三蔵」を「奈良川三蔵」に作る
   というのも出ています。これは文中「★大子原、川三蔵」という中に「、」があり「・」でないと
   いう方に着目したであろうものです。つまり連続が前提とされたので「、」は繋がりを暗示する
   ものとされています。これは
        大子→太子→奈良
        原川→河原、  
   でやはり、「聖徳太子」、「奈良」が浮かぶところです。つまり、相撲の
     「百済寺ノ鹿、百済寺の小鹿、たいとう・・・宮居眼左衛門・河原寺大進・・・鯰江又一郎・・」
   という人名羅列の「はくさいじ」の鹿と通じます。ここに蘇我蝦夷の大きな姿がでてきていそうです。
   常山の冑の一節には浦野の唐冠、蒲生の鯰があり、たいとうの唐とか鯰に対応しています。、
   常山は浦野を大物とみており、常山は〈信長公記〉のここをみて、先程の冑の文を書いたと
   いえます。「江戸力助」は大物によって、出されてきたといえます。「河上三蔵」が
     「河上明神」「川上明神」
   ともなれば気比神社の祭神のうち少しわかりにくかった「豊姫命」のことをいっていることも
   考えられます。豊姫命は神功皇后の妹ということですが、ネット記事の
   「淀姫神社河上社」「「有明海の龍宮から佐賀平野を見る」などみれば「与止姫」「豊姫」「豊
   玉姫」など」淀」「豊」の組み合わせが出てきます。これはは戦国の著述に反映されていそう
   です。時空をこえて「鹿」に収斂されそうです。

     「川三蔵」としたのは「三三蔵」を創り、「三三三」と、三・六・九を出したとか、平蔵→平三
   三蔵→蔵三とかのヒントを与えるものかもしれません。冑の記事のはじめは
   加藤嘉明の富士山が出ていますが、名前も則富士山というのがよくわかりませんので、ここは
   援用を控えていたわけですが
           「富士山」=「ふじさん」=「藤三」
   ではないかと思います。平蔵=藤三が接近するというのもあるのではないかと思います。
   加藤嘉明は塙団右衛門の旧主で、団右衛門が喧嘩をして飛び出したという有名な話があるので
   で、注目すべき存在ともいえます。ただ富士山ですから「太田和泉守」が乗っていると思われ
   ます。「浦野」は「浦上」につながり、「浦」でもあるかもしれません。「浦兵部」なら「乃美宗勝」
   で、太田和泉守が乗っています。太田和泉守には、水牛の黒田長政も「牛」というので接近
   のサインともなるでしょう。色んな面から切り口が提供されているといえそうです。
   「冑の名様々有し事」の最後に細川忠興の冑がでています。これも細川忠興ではないようで
   一応太田和泉守としておけば判りやすいと思います。

     「細川忠興の山鳥の尾の冑といえるも名高し。関ケ原の軍に忠興かの山鳥の尾の冑
     を著(き)、銀の天衝の指物なりしに、遥かに見て唯舞鶴のように有りけるを、東照宮
     冑と指物と映(ひかり)あひて面白し、とて得させ給ひ、台徳院殿に参らせらる。」

   これは嶋左近の戦死の場面で出てきた、再掲

       「・・・三人呼び寄せて問いければ、左近、冑の立物、朱の天衝、溜塗り桶かは胴の甲
       (よろひ)に、木綿浅黄(もめんあさぎ)の羽折(はおり)を著(き)たりし、と語る。人々
       驚きて・・・・能くうろたへたるよ・・・」〈常山奇談〉

    において、うろたへの発言ですから「冑の立物」が未完成です。「山鳥の尾の冑」というのは
   「山+鳥」=「嶋」ですから嶋左近の冑の仕様というのが合っていそうです。また「銀の天衝
   (てんつき)も細川忠興のものではありません。関ヶ原での軍議の場面、藤堂高虎の発言で

       「高虎申され候は、あれに罷りある銀の天衝は、黒(くろ)田殿御内後藤(ごとう)又兵衛
        とみえたり。・・・・・・高虎・・・扇にて召され候えば・・・」

   があり、後藤又兵衛のものです。肝心の細川忠興のものは、吉岡建法、、亀田大隅、黒田満
   徳丸の前にあります。宮本武蔵のことを念頭に入れているのは明らかです。

       「細川忠興冑の立物の説
        ・・・・・・軍に臨むもの誰か生きて帰らんと思ふべき。二つなき命だにしかり。何条
       立物のの折るるを厭うべき。かろきこそよけれ。立物の折るばかりに働きたらば、何の
       見苦しきことあらん。ひと面目にてこそあれ、といはれけり。」

   となっていて立物のことは一向に気にしていません。これは太田和泉守の発言ですが、こういう
   ことで細川忠興の立物はわかりません。前の嶋左近、後藤又兵衛を受けたここの細川の話は
   どういうことかといいますと、やはり嶋左近の「羽折」、武蔵関連の後藤、武蔵関連の細川を
   つないだものといえるのでしょう。この細川忠興の記事において
     「・・・物・・・使(つかひ)・・・・使、立物・・・・折・・・・使・・・条・・・・立物・・・立物・・・折・・
     折・・・」
    があり「使」というのは明智左馬助、古田織部の属性で「折」も両者に懸かるものです。
    古田織部の登場は、伊織に影響はあるでしょう。一応宮本伊織の周辺には古田織部の
    子・孫などの人がいるのかもしれません。「物」はあとで出てきそうです。「立」は「たて」、
     宗達の達とか柳、龍になるのでしょう。

 (73)宮居眼左衛門
     この後細字で書かれた次ぎの部分も重要です。既述で一応再掲ですが

       {天正元癸酉年七月、信長淀の城を攻略されしに、岩成主税助を細川藤高の士下津
        権内打取し時、忠興八ッの年なりけるが、長岡監物が肩にのりて、監物が立物
        鹿の角に取りつき、見物して興に入りたりしを、人みて後年の生い先をおしはかり
        けるとなり。}

    があります。登場人物はおざっぱにいえば
              長岡ーーーー下津権内
               ‖
              藤高ーーーーー忠興
   といったところかもしれませんが、ここの淀の城と鹿の角ががなぜ出てきたかということです。
   鹿の角はおそらく細川忠興の本来の立物の仕様といえます。本文で太田和泉語録を出した
   ための補足ととれます。「鹿」「角」というのは「角鹿」が出てきます。やはりこの一節は
   河上三蔵から、〈信長公記〉「はくさいじ」の鹿の相撲の羅列のところにいきそうです。そこには
   「青地与右衛門」もあり、嶋左近、後藤又兵衛の武具が台徳院(徳川秀忠)に渡った、淀殿の
   妹は、「お江与」と記憶しているので「与」がつながるのかという感じもしますが、河上三蔵の
   河上で古典につながっていることをいいたいと思います。この相撲のところに
         「宮居眼左衛門」
   が出ていますが、宮本兵大夫を語る重要表記であろうと思われます。宮本の宮は「久」「九」
   「宮内少輔」などの「宮」ですが「宮福大夫」の「宮」「宮門」にもいきつく「宮」です。ほかに
      、「三宅」「宮部」「宮西」「宮脇」「宮崎」
   などの背景を持つものです。「宮崎」には「宮崎鹿目介」があり、これは「山田山中」「天神山」
   の「陶五郎」が出てきたところで「宮崎長尾」が出てくる、つまり、「尾藤」にも」接近する「宮崎」
   です。
    「陶五郎」「陶五郎隆房」(いずれも甫庵信長記)が接近する人物が多いことも重要で、これは
   高山右近引き当てで説明してきて、「古田左介」が「大枝」「大江」「元就」と接近して同場面に
   登場していますので古田にも引き当できました。古田は一応「麻生三五」で引き当てしていま
   すが一方の親からいえば「三」、片方からいえば「五」というのがありそうです。これは高山で
   も同じでしょう。とにかく「陶五郎」は付き合いが多く、例えば「三沢」ですが
       「三沢」「三沢三郎左衛門為幸」「三沢」「三沢高橋」
    があります。これは一匹狼でどうしょうもありません。「尼子家の武者司」と書いてありますから、
   それで終わるのですが、「三沢高橋」などもでていますからこれは本能寺の「高橋虎松」がいま
   すので一概に通り過ぎるわけにもいきません。〈辞典〉でみますと、

      「三沢秀次(みさわひでつぐ)  (?〜天正十年六月?) 少兵衛尉、諱の「秀次」は
       〈称名寺文書〉による。天正元年(1573)・・・・越前・・11月12日、津田元嘉、木下
       祐久とともに橋本三郎左衛門尉の年貢・諸公事の収納を認可している(橋本文書)。
        この時、北庄に置かれて越前の政務を担当したのは津田木下明智光秀であった
       という説があり(朝倉記・武家事記)、こに三沢少兵衛尉は、光秀の重臣三沢昌兵衛と
       同一人で、光秀の代官として越前に駐ったのではなかろうか。
       また本能寺の変の直前、光秀が謀反を打ち明けた重臣の一人として〈池田本〉に後筆
       で書かれている。
        〈天正記〉〈太閤記〉にあり、また〈宗及記〉に時々登場する“明智少(勝)兵衛”、
       〈甫庵〉〈川角〉にある“溝尾少兵衛”
       いずれもこの「三沢少兵衛」と同一人かもしれない。」〈辞典〉
   となっており、
          橋本=三郎左衛門=明智
   となっています。山鹿素行はひょっとして橋本文書を利用して「橋本一巴」を思い出して
          橋本一巴   平田三位   市川大介
             ‖      ‖      ‖
          明智光秀   津田(織田) 木下(藤吉)
   だといったのかもしれません。どうも橋本文書の書き方がおかしい、自分だけ橋本三郎左衛門
  とかいています。二字を書かないと前と斉合性がないわけです。〈甫庵信長記〉の見過ぎで
  「為幸」が頭にあったのかもしれません。すると明智というのが陶五郎の一節の背景として
  出て来る、そういう読みもできると教えられたかもしれません。少兵衛からも
               少兵衛
       三沢=    昌兵衛   =溝尾
               庄兵衛    =明智
               勝兵衛    =池田
  が出てきます。したがって「為幸」というのも利用されるといったことになるでしょう、「三好為三」
  とか「平塚為広」の「為」や真田昌幸の「幸」「昌」などあります。
   この「陶五郎」の一節に「宮川」という二字表記が出てきます。〈甫庵信長記〉の人名索引は
        蓑浦無右衛門
        美濃屋小四郎ーーー(平田和泉と登場)
        宮居眼左衛門
        宮川      ーー (陶五郎、宮崎長尾などと登場)(飯沼・西尾、桑原土佐守と登場)
        宮川但馬守 ーー (ト全の家中、種田信濃守、飯沼勘平、西尾小六と登場)
          宮河但馬 −−(氏家左京助家の子、不破河内守、原賀左衛門、印枚弥六関連)
        三宅権丞
          三宅権之丞
        宮崎鎌太夫
        (其の弟)鹿目助
        ・・・・・
  というようになっています。二字といっても、二ヶ所の登場で、「宮河」もあるといっています。
  「宮河」となれば、宮江、宮枝、宮条に変わるものもある「宮川」です。
       「宮居」
  という表記は特に重要なものであろうと思われます。「宮」は「久」で「久我」は「こが」ですから、
  「久居」→「古居」というのもある、「古田」の「古」+「すえ(陶)」も出てきます。「高口」と書く人
  が「こぐち」と読んだ例もあったと思いますが、それなら「高」+「陶」もすぐでてきます。とにかく
  「居」は「きよ」「こ」「すえ」「ゐ」で、さらに「古」を内蔵していますから活用範囲がひろくなります。

(74)宮松丸
   宮と松とのドッキングも図られます  
      「宮居」
      「宮川(河)」
   と並びますと「居川(河)」がでてきます。「いがわ」と読めば〈甫庵信長記〉
           「井河山城守」「飯合(い がう)山城守」(甫庵信長記)
   が目に付きます
   両者、周辺に「曽我兵庫頭」「牧島孫六郎」「二階堂駿河守」を伴っており、同一人と見るの
   も可能です。「居河」→「井河」→「飯合」ときたところで
           「飯合宮松丸」〈甫庵信長記〉、
           「飯合宮松」〈信長公記〉・・・・・・・(「丸」が付いていない)
   が登場してきます(場面は本能寺)。これは「井河」の周辺
      「曽我兵庫頭」(長曾我部が想起されていると思われる)
      「牧島孫六郎(真木嶋と孫六が念頭にあるとみられる)
      「二階堂駿河守」(青地駿河守、毛利関係で吉川駿河守元春がある)
  、などから必然的に出てきた表記である感じのものです。したがって
    「飯合宮松(丸)」は「宮居」「宮河」の表記が背景にあり
           「居合宮松」 「居河宮松」
   のような「居すえ」とか「河枝据え」といったものを含むものとして、本能寺が、陶五郎のところ、
  相撲の羅列のところに懸かるという前提となっていると思われます。
   この「飯合宮松丸」は本能寺の場面の小々性ですので、
        「森乱」「同力」「柏原鍋兄弟」「祖父江孫
   のように「丸」を付けた人物が出てきています。しかるに〈信長公記〉をみるとこの四人
   は
        「森乱・森力・森坊兄弟三人」「柏原鍋兄弟」「祖父江孫」
   というように「丸」はなく「飯合宮松」の「丸」ナシに合わせてあります。
           「飯合宮松」→「居河宮松」
   ということにする必然はこの辺にもあります。つまり「眼(がん)」=「丸(がん)」ですから
          宮居 眼       宮居 □
              ‖           ‖
              丸           丸ナシ
         柏原鍋丸        柏原鍋
  というようにもともとどこまで苗字かどこから名前かというのが、はっきりしない名前をつけて
  それを利用したわけです。
   本能寺の小姓、
         「飯合宮松丸」
  は多彩な活動をするのは一応約束されているようです。
         「飯合宮松」
         「高橋虎松」
  は一見関係がなさそうですが同じ場面における「松」を共有するわけで結果的には陶とは
  「三沢高橋」につながっていきます。同じ場面の「平尾平助」「平尾久助」は陶とは「宮崎長尾」
  と「尾宮」「を伴って繋がることになります。    
   「飯合宮松」は本能寺で「種田」を伴い、既述の「飯合宮」は「宮川」に繋がりますが、これは
   大田河のところで「宮川但馬守」「種田信濃守」「飯沼勘平」の羅列が作られますが、常山では
  この「信濃守」は「酒和田喜六」にいきましたが
             「赤田信濃守」(甫庵信長記)
  にもこれはすぐ行きます。「赤」は「明」ですが「朱」です。
     「赤座」「赤尾」「赤瀬」「赤林」「赤見」「赤川」「赤河」(甫庵信長記)
     「赤井」「赤松」「赤生」「赤沢」(信長公記)
  へと辿っていけます。「赤座」は「赤座(すえ)」となり、「赤河」は「赤絵」となり、「松」や「生」が
  赤味を帯びてきますが、
      「角鷹二連」、「長谷」、「内藤」、「丹波桑田」、「穴太村」
  などが属性の「赤沢加賀守」を語るときはここから入ってくると、高山が一層語りやすかったと
  いうことになります。この「穴太」の「太」は「太田」の「太」で本当はおそらく「穴田」だったと思わ
  れますが、脚注によれば「穴太」は
     「京都市亀岡市曽我部町穴太」
  ということですが、「(長)曾我部(土佐守)がここに出て来ています。高槻の「古曾部」「焼」から
  古田が登場しそうです。したがって「赤田信濃守」は「赤太信濃守」と内々読みかえて「太田和泉
  守」を語る表記として見たほうがよいようです。ここまでくると
      「長曾我部」=「土佐守」=「隠岐」「大野木」
  という「土佐」は土佐派というものが「土佐光起」などの名とともに知られています。したがって
     「山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・・・」〈信長公記〉
  というなかの「土佐掃部助」という完全孤立表記というのは解釈がいることになるはずです。
  「山崎」に挟まれて、身動きが取れない「土佐」が、ここまでやられると、著者は動かしては困る
  といっていそうです。この「土佐掃部助」は完全なる孤立表記で、太田和泉守を表わすと考えて
  その語りの狙いを探ったほうがよいようです。
   
    狩野派といわれるものについては二書で
        「狩野永徳」(ルビなし)〈甫庵信長記〉

        か□  の□  えいとく
         狩   野   永 徳  〈信長公記〉
  という二つ表記を創ったから、「狩野永徳」という名前が通っています。これはカムフラージュも
  ありますが、いうところの文化活動の担い手と武士とは区分されえないということをいっていると
  思わます。
   狩野永徳のルビの付け方は何かやはり気になるところです。例はいろいろあり、本能寺の前
      「(維任日向守)・・丹波亀山の居(ゐ□)城に至つて参着。」〈信長公記〉
  のように「きょじょう」というルビが合っていると思われるのに、こんな表記をしている、これは
  この文章がおかしいのと裏腹のものでしょう。この文は
     ■「丹波に至つて亀山の居城参着。」
  とするのが合っていそうなのを変えているのと同じ趣旨で、「ゐ」を使って、「陶冶」(善政)、とか
  「陶唐氏」(帝尭)、「陶窯」などをを出したかったともいえますが、 お菓子い、他にやりようが
  あるのは、わかっている、というのをあえて書いたというのがあるのでしょう。つまり
      「ゐ城」のほかにもう一つ「い城」をみているから
                ゐイ
                 居  城
  の意味で前方に「ゐ」を寄せたルビになるといえます。余談ですがこの文は
      「丹波の亀山に至つて居城参着。」
  というのではないのでしょう。「丹波国」の「国」をぬいており、邪馬台国の
    「邪馬タイ国に至る。女王の都する所なり。●水行十日陸行一月。」
   の「至る」は国に使っているというのがあるはずです。■の「丹波(国)の亀山の居城参着。」
   というように(国)が入るはずです。
     ●に二つ@Aがあり、
       誰にも判る、揉める必要がない、読んで字の如しという@と、
       よくわからいA
   があるからAについて太田牛一は「日」+「門」=間だから、日を間として読みなさいといった
  わけです。そこにもう門構えのもの「間」「閨vというような建物
  が現出している、それと亀山城を対比したと取れます。魏志倭人伝の著者と太田牛一の間は
  距離が余りない感じがします。自分の著書にすぐ折りこむことができるようです。ここも別の「い」
  を想定したようです。
        居城  と   倭城(いじょう)(わじょう)
  でしょう。倭というのは魏志倭人伝を想起しているからすぐ出てきますがこれは「イ+委」で「い」
  と読むのが普通のようです。金印の「委奴国」、です。要はこういうルビは皆が考えるのでおのず
  から面白いものが生まれ応用されるといえます。「陽関を出ずれば故人なからん」の王維の
  渭城、したがって維城も考えてみましたが、ネット記事「倭城近世城郭の源、倭城をたずねて」
  によれば、倭城というのは太田和泉守などの近世の城郭の前の城の総称のようで、朝鮮役の
  日本軍の城と二通りがあるようです。亀山の城の構造を推測させるので倭(わ)城で「倭(い)
  城」の読みが適当かと思います。

   狩野永徳の場合も同じで   「か 」 「 の 」 「えいとく」
                       狩      野    永徳
  の「カ ノ」の方はおそらく 「彼ノ」「永徳」、「あの永徳」もある、必ずしも狩野正解ではないと云う
  ものがあり、これは「松永永徳」
                     松永
                     永徳
  でしょう。松永貞徳はせっかく「松永」で呼ばれているのですから、其の父は松永も自然です。

   このあと本能寺の直前のつぎの文がこういうルビの仕方を出しています。
     「六月朔日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国皆(かい)道なり。
     左へ下(ク )れば、京へ出る道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越し、ようやく明方(あけがた)
     にまかりなり候。」
  となっています。「下」の「ク○」のルビがカタカナである上に、後ろが空いています。脚注では
     「“くだれば”と訓ませるために、“ク”と註したのであろう。」
   とあります。この通りだと思いますが、何のためか、ということも残ります。これは一義的には
  今述べたのと同じで
       左へ「ク(空白)」れば
           下
 で「左へ来れば」と思われます。著者太田牛一のいる位置が問題で、京都のほうに居るので
  「くれば」となるのでしょう。すなおに反応して「くれば」と読んでしまうというものがあります。
  もう一つの方は、あとのものを「前」へよせる
      左へ「くれ」ば
          下
  となるのではないかと思います。「飯合」が、今は「い□がう」ですが「いがう□」「いが□う」と
  いうようなものにしたいというのがでてきそうです。両方の場合「くだれば」と読ませたいという
  ことは感ずることで下(くだ)ればと読まれてもよいと著者はいっていると思います。

   「一条下り松」という「くだ」が著者に意識されていたのではないかと思います。
  「下り」は「下(くだ)り」が普通ですが、「下(く)り」があるということではないかと思います。
  もう「栗山」とは姻戚であって、後藤又兵衛A(宮本兵大夫)が生まれているわけです。「(く)り」
  を出したかったのではないかと思います。「下(くだ)り」は想像に任せるということですから
  「管(くだ)」があるのかもしれません。常山によれば「太田和泉守」は「菅政利」に乗っていて
  これが大変な大将として描かれています。すなわち
       「菅(すが)和泉守政利(まさとし)」
       「菅(くわん)六之助政利(まさとし)」
   があり、森銑三の人名索引では「ク行」に出ている人物です。嶋左近を関ケ原で撃ち倒した
   菅和泉守は太田和泉守が黒田の菅氏に乗って、この人物を倒せるのは自分だけという餞
   (はなむけ)の登場でしたが、つぎのものになると、もう孫の世代のようです。
   
      「★菅政利後藤基次虎を斬る附羅山先生南山の銘の事
      黒田長政(くろだながまさ)朝鮮・・・・虎馬屋に入りたる・・・・菅政利刀を提(ひつさ)げて
      走り向う・・・・虎咆みかかる・・・飛び違えて腰骨を深くきり斬る付けたり。・・・
      虎愈(いよいよ)猛りて危うかりし処に後藤基次かけ来り、肩先を乳のしたかけて切り
      つくれば、菅得たりやと虎の眉間を切り割って殺しぬ。●長政、汝等は先陣の士大将
      として下知する身なるに、獣と勇を争う事おとなげなし、とぞいはれける。政利が刀に
      林羅山銘を作りて、南山と名付く。・・・・・{虎一匹・・・・菅二尺三寸有ける刀を抜いて
      忽ち切り伏せたり。其の刀今に菅の家に持ち伝ふ。備前吉次が作なりき。・・・}」
                                                  〈常山奇談〉
      「菅和泉守政利・・・・長政・・・引き上て来れ、とて退かる。・・・」〈常山奇談〉

   ★が次のAにあたる表記でしょう。●はあの後藤又兵衛と思われます。宮本兵大夫が黒田
   にいた若いころの連れ合いが菅氏と思われます。栗山氏は宮本兵大夫・(武蔵@)のいまで
   いう父ですが、あの宮本武蔵は「後藤又兵衛A(兵大夫)」と「管六之助」の子息といえそう
   です。両親も虎の伝説を持つ大胆不敵な人物だったようです。

        あの後藤又兵衛     (宮本兵大夫・武蔵@)
          ‖ ーーーーーーーー後藤又兵衛A
        栗山備後(善助)     ★‖ーーーーーーーーーーーあの宮本武蔵(武蔵A))
                        菅和泉守政利A

  ここの「来れ」はルビなしで、「下(く)れ」です。「来(きた)れ」とルビがついているのもあります。
 「一条(乗・丈)」の「下り松」は、「森」の
           「栗(くり)」「松」
           「菅(くだ)」「松」
 ということをいったのでしょう。

 (75)居合術
  人名索引
          〈甫庵信長記〉      〈信長公記〉
          「宮居眼左衛門       宮居眼左衛門
           宮川
           宮川但馬守
           宮河但馬  
                           宮川八右衛門
                           ・・・・・
                           宮本兵大夫 」

  において、「宮居眼」は両方にあり、あと、両書間で違いが出されています。「八」「宮本」の
  〈信長公記〉だけにおける投入があります。
     @〈甫庵信長記〉    「宮居眼」−−「宮川但馬」
     A〈信長公記〉      「宮居眼」−−「宮川★八」−−「★宮本兵」

 ここで〈甫庵信長記〉に「飯河宮松丸」、〈信長公記〉に「飯河宮松 」があり、これは、それぞれ
                  ↓                  ↓
               「居川宮松丸」、         「居川宮松○」 であり、これはそれぞれ
                  ↓                  ↓
             「宮居丸」・「松」「川」       「宮居○」・「松」・「川」

 であるので、これをそれぞれ@Aに代入すると「松」だけが、プラスされて
     @が「宮居」(眼+・丸)ーー(「宮」+「川」+「河」+「但馬」)・「松」 
     Aが「宮居」(眼)+○)−ー(「宮」+「川」+「河」+「★八」)・「松」−−「★宮本兵」

 となります。もちろん、こういうのが著者の意識した説明の仕方であるというわけではありません
が、こうしておけば、あとがやりやすいという筆者なりのものです。しかし違いだけピックアップした
 だけのことで著者の意にそぐわないともいえないと思います。
 ここで「宮本」に「」が加わって、さきほどの「下り」が入って、「一乗」「一条」「三条」があると
 いうことなど「宮」を基点に表記の八艘飛びで走ってくると
         宮本武蔵の一条下り松
 というものが残像として残ったということです。「宮」の強化として
      「宮川」「宮居眼」「宮松丸」
 の「宮」がある、一方「宮」の説明の補助材料として
      「居」「眼」「丸」「八」「但馬」「松」
 などが索引で配備されている、その「松」を今使ったということです。「但馬」といえば弁慶に扮した
 「前野但馬守」がいるし、黒田の「森但馬」がいる、とすぐわかるものもありますが「松」を使うには
 過程があって長々とのべてきました。つまり
 「宮松丸」を投入するには「飯河宮松」(信長公記)、「飯河宮松丸」(甫庵信長記)の
           「飯河」
 が邪魔をして、索引の「ミ行」に「宮松丸」がいかないようにされているというのが一つありました。
  「飯河」は両書ともルビがありません。「飯田」という姓があるから「いい」と読むのだろうと一応
 見当はつきますが、これは著者においてルビを入れる積りはなかったといえます。校注する人も
 それはおかしいと感じます。〈信長公記〉天正8年の記事
       「ココに・・・・長九郎左衛門、飯(イイ)の山に陣取り・・・」〈信長公記〉
 があり、脚注に
       「石川県羽咋(はくい)市飯山(のやま)町」
 と書かれています。つまり「イイ」というカタカナルビがちょっと不自然だから、太田牛一は
       「いのやま」
 というのを知っていてこのルビを付したといえそうで、それが脚注になったといえるのでしょう。
 つまり「飯」(いい)は「い」と読めるというのが間接にわかったといえます。辞書をみても「飯(い)」
 は難読の例として「飯室(いむろ)」が一つあるだけです。これは援用すれば、そんなのは太田和
 守が知っていたかどうか分からないということで終りでしょう。〈甫庵信長記〉人名索引で
   「井河山城守」(ルビなし)
 がありますので、       
             井河
             飯河
 で「い」と読めそうなことは何となく分かりますが、それも「河」「合」を「ごう」と読んだときに成立
 しそうな話しです。何でそんなつまらないことにこだわっているのだ、といわれるでしょうがそこが
 一つのカギでもあります。まあその後ろに「宮」がありますから
             飯→河←宮  井→河←宮、
 という「宮川(河)」も出てくるのです。筆者は「飯」を「い」と読むことは知っていました。実は「井河」
 に(いかう)とルビが付いていると思ってみたわけですが、ないのです。記憶と云うのはまあええ
 かげんなもので、自信もなくなってここを述べずに通りすぎてしまいそうになります。この場合も
 索引に問題があったわけです。つまり〈甫庵信長記〉に
          「飯合(いかう)山城守」
 という表記があるのに索引に洩れてしまっているわけです。これは偶然ではないでしょう。これが
 あれば「飯合宮松丸」の横に載るはずだから
          「飯河宮松丸
           飯合山城守」
  と二つ並びますから、話の展開ががガラット変わってきます。あまりダイレクトに宮松が「宮居眼」
 とか「宮川」とか「宮本」に懸からないように「飯尾」のある横に位置を据えたというものがやはり
 効いてくるわけです。まずこの効果ですが「飯尾」の次の表記が目につきます。
         「飯尾近江守
          (舎弟)飯尾隠岐守
          飯尾隠岐守
          飯尾豊前守(今川の武将)
          飯尾茂助
          飯河宮松丸  」〈甫庵信長記〉人名索引
  において
          飯尾近江守
          ‖(舎弟)隠岐守
          飯尾隠岐守ーーーー飯尾茂助
  というような(舎弟)の意味を表わすものに突き当たったりしますので関係があるかどうかなどの
  ことが浮かんできます
   また「飯」を「い」と読むことがわかりますと「居」になります。「居」は宮居眼があるからすぐ働き
  ます。
          「居合」の「宮松丸」
  というのがすぐ出てきます。「居合」というのは剣道用語で一般の漢和辞典には出てきません
  が〈国語辞典〉では
     「片膝をついた姿勢のまますばやく刀を抜いて相手を切り倒し、すぐに刀をさやにもどす
     わざ」〈福武国語辞典〉
  となっています。「飯合山城守」は
     「和田伊賀守、同雅楽助、飯合山城守、同肥後守・・・」〈甫庵信長記〉
  という並びで出てきますが、和田といえば水戸黄門の家中の剣客和田平助がいてこれは
  田宮流の居合だそうです。ネット記事(beer770)の
         田宮平兵衛重正
  によれば
     「田宮平兵衛重正、生没年不明1600年頃・・・居合術田宮流の開祖・・・・田宮流は
     その門流から・・・和田平助正勝の新田宮流・・・など数々の名流を生み出したことで知ら
     れる。」
  となっています。重正(重政)・正勝の組み合わせだから、世におもしろい話が伝わっている
  ものです。
         「田宮」「宮田彦次郎」〈信長公記〉
  という表記があり、「宮田彦次郎」は人名索引では「宮本兵大夫」「宮脇又兵衛」などに近い
  ところにあります。いいたいことは「居合」という語句は
      宮本兵大夫、宮居眼左衛門、宮河但馬、宮松丸を繋ぐ「飯合」
  から生まれた、この辺りの解説をしようというものが居合であろうとも思われます。

 (76)正眼の構え
  再掲 次の@は〈甫庵信長記〉、Aは〈信長公記〉人名索引における「宮居眼」「宮川但馬」
「宮本」の並びにおいて
       A                  B                      C
 @が「宮居」(眼+・丸)ーーー(「宮」+「川」+「河」+「但馬」)・「松」 
 Aが「宮居」(眼)+○)−ーー(「宮」+「川」+「河」+「★八」)・「松」−ー−「★宮本兵」

 というようにしていました。つまり、Cの★「宮本兵大夫」、Bの宮川の「★八」を〈信長公記〉だけ
 採用し炙りだした形になっています。Aが問題で「がん」が
     @は「眼」を「丸」で消した、もしくは「眼」×2ともなる
     Aは「眼」を消すものがなかった、もしくは@の半分である
 ということではないかと思われます。つまり
      「眼」
 というものは★を付すべきものという感じのもので出してきたといえそうです。
  
  誓願寺といえば太田牛一の属性の寺ですが、正眼寺というのがあります。「宮居眼」という眼
 という字はなかなか見当たりませんので一応この「眼」はみておかねばならないものです。
 〈信長公記〉首巻

     「清洲の並び三十町隔ており津の郷に正眼寺とて会下(□ゑげ□)寺あり。」〈信長公記〉

  があり、この「おり津」というのは稲沢市下津町ですが、「会下寺」についてテキスト脚注では

   「もと下津にあった青松山正眼寺。曹洞宗。能登国総持寺末。春日井郡三淵村(小牧市三ツ
    淵)に移る。会下寺は会下僧(一寺を持たず、学寮にいる僧)のいる寺。」

  とされています。会下というの「下」は「おり津」という「下」があり「下津権内」=「★長岡兵部大輔
  臣下」の「下」、下り松の下などと呼応したものがあり、「上下」の「下」かどうかわかりませんが、
  社会的地位ということで考えると、戦前では男性しか政治家になれないというような、ことに
  なっていた、一寺をもてないことになっている僧もそういうものではないかと思われます。ここの
  ★も「三淵村」と懸けられ、細川の「三淵」が暗示されています。
      「三淵大和守、舎弟細川兵部大輔・・・・」〈甫庵信長記〉
  の「舎弟」の意味が、ここに出てきているものです。
       「眼」
  がそれを象徴したものといえそうです。ここの「青松山」はネット記事によれば「青松山円通寺」
  とか「青松山黄梅院」などがあり固有名詞でもなさそうで、「青山氏」も絡んでいそうな感じもあり
  ます。「せいがんじ」も「青巖(厳)寺」などあり、ネット記事
    「正眼寺(しょうがんじ)愛知県小牧市三ッ淵雉野」
  によれば
    「・・・青松山。応永元年(1394)尾張地方の領主であった青山直正が後小松天皇の勅許を
    て中島郡下津にあった伝法寺の廃跡を再興した・・・・青生山正眼寺と号する。」
  となっています。これだと太田牛一は「青山」を利用したことは十分に考えられます。「直正」は
  塙直政があるし、後小松の「小松」があります。
     青松山=せいしょうざん=青生山
  という炙り出しもありそうだから、「松」をいれたくて「青松山」となったのかもしれません。ただ
  このネット記事で元禄二年に小牧の三淵に移ったと書かれています。したがって太田牛一は
  三ッ淵を、この正眼寺では認識していなかったということがいえそうです。これは正眼寺の起用
  が主たることですから、それで自然なことといえます。簡単に言えば
         三淵大和守
         ‖佐渡守   ーーーーーーーー下津権内
         細川兵部大輔           ‖おり津権内
                             明智光秀
  というようになりますから、
      下津(権内)=細川=舎弟=三淵=大和守=森(青山)
                        三淵=山城守=飯河(井河)
  くらいのところは認識していてここを書いたと思われます。かならずしも正眼寺の住所が当時
  「三ッ淵」でなくとも「三ッ淵」は出てくると思います。これは後世の動き方もありそうです。
   当時の正眼寺の伝法寺のあったところも春日のようですし、太田牛一は小牧の春日の三淵
  は当時としても認識していたと思われるし、正眼寺の寺領が小牧、三淵にあったかもしれない
  などあるので太田和泉守が「三淵」を意識していたといってもよいと思いますが、それは別とし
  ても元禄二年の移動が、三淵を意識したやられたものであることが十分考えられます。
      宮本武蔵ーー細川ーー正眼寺ーー三淵ーー飯合山城守
                      ‖            ‖
      宮本武蔵−ーーーーー正眼の構えーーーー居合術
  というように物語が付加されたという感じがします。一方「青」も「正」なのでおかしいのです。
  前記国語辞典に寄れば

     『正眼(せいがん)  剣道で刀の切っ先を相手の目に向けて構えること。中段の構え。』

 となっています。なぜ、「しょうがん」のはずが、「せいがん」と「誓願寺」の読みになるのか疑問
 ですが、もう一つ使われないのがあります。

     『青眼(せいがん)  正眼。「ーーの構え」』 
               
 となって出ています。剣道独特の用語だといっても、「居合」にしても「正眼」にしても、ちょっと思い
 つかない用語です。「居合」なども腰を「居(すえる)」という「居」に過剰意識がないと生まれないし
 「青眼」ともなると何か根拠がないと思いつかないと思います。太田牛一が深く読まれて、その
 解説のために生まれる、用語もあったということのように思われます。宮本武蔵、佐々木小次郎
 が太田和泉守の孫なので、これは剣豪であり面白い話を作って引っかきまわしてやれ、という人
 が多く参加したのでしょう。これも太田和泉守とその時代の語りの一つでそれを受け止めれば
 時代人がわかり、読み方も分かろうというものです。現在ではやはり確定的な答えが専門筋から
 学問の殿堂から出てこないので、文献の頼りなさの認識の後押しをしていると言うことになって
 います。適当にやっているようだ、黙って眺めていよう、というのがいつまでも続いています。

 (77)古法眼
    この眼に関して芭蕉は
     か□の□  えいとく
     狩  野    永 徳
    の古法眼を出しています。
         「古法眼(こほうげん)出所(でどころ)あはれ年の暮」〈三(み)つの顔〉
   です。これは売りに出された「狩野古法眼」の作品の「出所」が問題となると思います。
    一つは持ち主の年の暮れの窮迫があり、どなたが売りに出されたのかいう関心が句に
   なった、ということで解釈されていますが、もう一つこの句は
      「〈三つの顔〉のほか所出をみない。」
   となっています。解説では

    「古法眼は狩野派を大成した狩野元信(1476〜1559)。元信は狩野正信の子、御用
   絵師として足利義政などに仕え、画名が高かった人で、剃髪して永仙と号し、法眼に叙せ
   られた。法眼はもと最高位の法印に次ぐ僧位。中世以後僧に画師・連歌師・医師などに
   授けられた位。出所は売りに出された書画骨董類のもとの所有者をここでは意味している。」

   と書かれています。つまり「元信」は桶狭間の戦いの前年に亡くなっているわけですから、
   太田和泉守の一世代か二世代くらい上となります。この句の次ぎは
       「分別(ふんべつ)の底たたきけり年の暮」〈翁草〉
   で年末の金策の話しですので「年の暮」は西鶴を受けているのでしょう。これは年末苦しん
   で思案の限りをつくして、分別の底もたたきつくしてしまったものだ、というヤケクソのようなもの
   ですが「軽い笑いがある」「分別を俳諧の分別というふうに限定する必要はないと思う。」
    とも書かれています。
   この元信は、テキストではどう反映されてしているか、ということですが〈信長公記〉人名索引は
       金松久左衛門 
       金松又四郎(正吉) ・・・・兼松正吉は「葉栗郡嶋村(一宮市島村)」の人
       狩野永徳       ・・・・  (1543〜90)信長の御用絵師
       狩野三郎兵衛
       狩野次郎左衛門  ・・〈江北記〉にも見え近江出身。伊豆(田方郡)の狩野氏の一族か
       狩野又九郎     ・・・  本能寺で戦死
       狩野光信      ・・・・ 右京助・永徳の子    
   であり、ここに出てきていません。ただ最後の光信は一般では元信の子とされています。した
   がってまあ永徳が元信を使っているといえるのかもしれません。補注があり、   
    松栄58歳ーーー永徳34歳ーー光信
                 |
                 宗秀(家督を継ぐ)
   ということになっています。桶狭間1560年での年齢は、永徳17、松栄31、古法眼は、この
   前年死亡ですが83となります。したがって
        古法眼ーーー古法眼A−−ー松栄ーーー永徳ーーー光信
       (元信@)−ー(元信A)−−(元信B)ーー元信C−−光信(息)
   ぐらいのことになりそうです。
   古法眼という人は伝説的な人ですが、いうなれば狩野永徳のことを古法眼の名前を使って
  いかに優れた人かを語るものだからますます神仙という感じにしてしまいます。
   永徳は「元信」でやりますよ、というのは例えば「岡部元信」がありります。索引で
        岡飛弾守
        岡辺         次郎右衛門正綱
        岡部帯刀
        岡部丹波守     岡部長保駿河の志太郡岡部から興る
        岡辺又右衛門
        岡部又右衛門
        岡部五郎兵衛    岡部元信
  
   岡部は「岡」と同じ意味のようであり、織部の部も入り、意味を広げていけそうです。後ろの
  名前も太田和泉守、高山右近などとつながります。最後の岡部「五郎」ともなると「木村源五」
  「藤五郎」などの「五」ですが「五郎兵衛」でいえば
      「隠岐五郎兵衛(惟恒)」〈明智軍記〉
  もあります。「惟」が入り「恒」は
         「津嶋恒川(河)久蔵」の「恒」
  で「日比野下野守」「足立六兵衛」と〈信長公記〉の「猿楽」を呼び出します。
    この〈信長公記〉の「猿楽」は常山にも利用され、常山の後藤又市の鼓の問題が起こった
    「猿楽」、染物屋の羽織を着た吉岡建法と太田忠兵衛の「散楽(さるがく)」の日の決闘
  などにいっています。岡部→五郎兵衛元信←狩野、で永徳=元信でよいのでしょう。

  したがって芭蕉の時代になると
     宮居眼
     古法眼
  と対置されて眼がいかされるということになります。また「古法眼」は「古・法・眼」として、
 「古」で「古田」、「法」で「建法」、「眼」で「正信」とかに分けられて利用されることにもなった
 と思われます。つまり、宮居眼、正眼寺の「眼」が本多佐渡守の「佐渡」と反応することが
 後世ではありえます。
  はじめにありましたように、「元信」は狩野の「正信」の子、ということでしたから、
       「正信」−「元信」
  の親子関係があります。正信といえば「本多正信」がありますから「眼」というのが出てくると
  いうことです。さきほど狩野で
     再掲
       古法眼ーーー古法眼A−−ー松栄ーーー永徳ーーー光信
       (元信@)−ー(元信A)−−(元信B)ーー元信C−−光信(息)
 と申しましたが、この
       (元信@)−(元信A)のあたりが(「正信」@)ー(「正信A)
 ということになって系図に出ない、元信の名前にしとこうということになったのではないかと
 とれます。

  この正信のことは元信を介して特別大物が出てくるのでわかります。大久保彦左衛門は、桶狭間
  の徳川軍の大将
       「次郎三郎元康(家康)」
       「岡部五郎兵衛(元信)」
   を出してきて、家康の父子三人で、一人が元信の父、一人が兄ということでしょう。父が
  「正信」というのが狩野からの推測可能ということです。岡部は元信が太田和泉守に近いことを
  示すとともに、徳川のところに狩野を持って来たという役目があります。〈三河後風土記〉では
  松平「竹千代」は
       「徳川治郎三郎元信卿と名乗給ふ。」
   となって「元信」の登場といえます。家康の若君は「竹千代殿と称し後」
       「岡崎三郎信康」
   となっており、大久保も
       「岡崎三郎信康」
   と書いています。したがって    元康=「竹千代」=信康
   ですから、「元信」がボンヤリと出てきます。とにかく「元信」に箔が付きますが
   「元康」は「森元就」の「元」であり「夕庵」の「安」であり、さらに「元信」ともなればこれに
   太田の「信定」の「信」が入りますから、森太田元信が出てきかねません。もちろん「徳川」
   も「徳川」「徳河」「徳枝」にもなりますが「日向玄徳斎」の「徳」でもあり「永徳」の「徳」です。

     なお「森九兵衛」「古江加兵衛」などがでてきたところに
         「狩野次郎左衛門尉、同次郎兵衛尉」〈甫庵信長記〉
   があり、野村郷、三田村郷で
         「狩野次郎左衛門、狩野三郎兵衛」・」〈信長公記〉
  炙り出しがあって、両方「次郎」があるから義理の兄弟というようなものでしょう。この「同次郎
  兵衛」では現実では三番目だから「三郎兵衛」にしてこの表記にしたのは「三郎」「三郎兵衛」
  から枝葉を広げていこうというものでしょう。丸毛三郎兵衛(前田玄以、嶋左近かもしれないと
  みてきた)、滝川三郎兵衛(婿殿)、山県三郎兵衛など表記と反応していくと思われますが、
  二人ということであると先程の図に当てはめねばならないと思います。テキスト補注では永徳が
  家督を譲ったと書いていますが、松永は前提とされていませんから、それは狩野の家督でしょう。
  二番目だから□□□が追加となるとしますと、
     、再掲          
                    □□□
                   |
            松栄ーーー永徳ーーーーー次郎左衛門
                   |
                   宗秀(家督)−三郎兵衛

 となります。
 松栄は一方で「松永」を語るのでしょう。永徳は狩野から学び、狩野の高弟でしょうが狩野は
 一旦引き継いだが、あとは宗秀が継いだということになるとすると
      狩野永徳が元信@、狩野宗秀が元信A
となりそうです。「松栄」が「正信A」となるのでしょう。 松永永徳も狩野だけとは限らない、
高山右近の等伯も長谷川だけとは限らない広く勉強して自分のものを出したと思いますが、太田
牛一が狩野とか長谷川を永徳とか等伯で打ち出したのはやはりそれによって今までの藝術の流れ
にも注目が集まるように仕向けたということもあると思います。
 
 甫庵の狩野永徳が出てくるところは「尾藤」「平尾」「西尾」・・とか「尾」が
 周囲にあり、「松尾」というのがひょっとして、創氏になるのかというのは既述ですが、飯田の
        松尾  掃部助
        小笠原掃部助
 で宮本伊織が小笠原の家老になったということもあり、小倉の小笠原は高杉晋作で御馴染みの城
 です。小倉城は武蔵の属性なのでもういちど戻って見たいと思います。

  (78)小倉城
  話は本能寺のときに遡ります。本能寺で戦死した
    「飯河宮松(丸)」の「丸」
    「宮居眼左衛門」の「眼」
  が対置されているということは先ほど既述ですが、こういうのはもう一件あります。
    〈甫庵信長記〉の「柏原鍋兄弟」
    〈信長公記〉の  「柏原鍋兄弟」
 
        「丸」と「眼」
   の対置もでてくるのではないかと思います。鍋丸の「鍋」が登場してきます。これは今まで
   蝉吟公の連れ合いの鍋で出てきました。これが重要人物として扱われているのは宮本武蔵
   を太田和泉守が生前に意識していたからでしょう。
    本能寺のときにスタンドプレーがあった3人がいます。

      「小倉松寿、湯浅甚助、中尾源太郎などは、町屋に在しが此の由を聞き付け敵に交り
     本能寺に懸け入り、忽ちに義死をぞ遂げける。志もっとも勝れてぞ覚えたる。・・・・高橋虎松
     は、御台所の口で・・・・・勢尽きて終には討たれぬ。」〈甫庵信長記〉

    同じようなものが〈信長公記〉にもありますが、こちらでは小倉松寿(丸はなし)、湯浅甚助が
   二回でています。これに反応せねばならないのかもしれません。

      「森乱・森力・森坊兄弟三人、・・高橋虎松・・・柏原鍋兄弟・・・・・湯浅甚助・小倉松寿・・・・・・
      討死候なり。
     湯浅甚介・小倉松寿、此両人は町の宿にて此由を承り、敵の中に交(マジリ)入り、本能寺
     懸け込(コミ)討死。御台所の口にては高橋虎松暫し支え合い、比類なき働きなり・・・・・」
                                                   〈信長公記〉

    〈甫庵信長記〉では、「小倉松寿丸、湯浅甚助、 中尾源太郎、 高橋虎松」
   でこれは戦死者の羅列代わりとして、戦死場所が違うことを紹介したもので、

    〈信長公記〉では戦死者の羅列に 「湯浅甚助」「小倉松寿」「高橋虎松」(中尾源太郎ナシ)、高橋虎松」

  になっている上に「湯浅甚介」「小倉松寿」「高橋虎松」について特別にもう一回述べている
  という形になっています。
  〈信長公記〉では「中尾源太郎」という表記は一回もありません。多分高橋虎松は森乱丸の一
  面を語るものかも知れないのでちょっと除外しますが、
           甫庵信長記      信長公記  
          「小倉松寿丸」 :  「小倉松寿」「小倉松寿」
          「湯浅甚助」  :   「湯浅甚助」「湯浅甚介」
          「中尾源太郎」 :   ナシ
  ということで、中尾源太郎は、既述〈甫庵信長記〉でも単独の一節があるので〈信長公記〉で省か
  れたとも思われますが、江戸時代、寛永の終わりごろなくなった小瀬甫庵がいますので、その
  人が、〈甫庵信長記〉だけに付け加えたともいえます。つまりひょっとして自分のことを入れた
  というのがありえます。とにかく〈甫庵信長記〉には中尾についてもう一節ありそこで
        「播州三木(の)城」と「天正武記」
   が出ています。これは〈天正記〉というものでしょうから、大村由己Aであろうと思われます。
  〈信長公記〉では無視されているとはいえないようです。
   これは別所彦進を甫庵が使っていないという面もあり、その補足がいるという面もあり
  「源太郎」という表記も、あるサインと考えますと、結局、大谷吉隆の股肱の臣、湯浅伍介から、
  外戚として湯浅甚助をとらえたというのと同じものがありそうです。小倉の場合もそれがいえる
  すなわち
         「小倉松寿丸」     「小倉松寿○」
                ‖
                眼
  という二人(兄弟)というのが出ている感じです。
 つまり、小倉兄弟
          小倉@宮本兵大夫と 小倉A後藤又市(鼓の又市=小栗又市)
 が出ているといえるのでしょう。佐々木の小次郎と同じように太田和泉守の生存中にかなり大きく
 なっている存在ですから、著述に出ていても不思議ではないわけです。これでいけば湯浅も
 同じ形の兄弟が出ているかもしれません。老湯浅甚助@が岩佐又兵衛を養子にしておれば、
 大谷吉隆の外戚湯浅甚助Aと岩佐又兵衛は兄弟になりますので、こういう共通があり得ること
 かもしれません。
 荒木又右衛門の小説では「岩佐作兵衛」がでてくるのは既述ですが、「作兵衛」といえば森蘭丸
 と本能寺で渡り合った「安田作兵衛」でしょう。これは本能寺が属性の人物で、「作兵衛」といえば
 「本能寺」ですから「作兵衛」(岩佐)の本能寺登場はあり得るかもしれません。岩佐の
 又兵衛は、著者から薫陶を受ける時間が十分にあった、継承のサインは山中の常盤物語でしょう。
 宮本又市と岩佐又兵衛の「又」は何となく対照されている感じですが、これによって
 宮本兵大夫と湯浅甚介の属性も浮かび上がるようになっているようです。もう一つ
      「柏原鍋丸兄弟」〈甫庵信長記〉、「柏原鍋兄弟」〈信長公記〉
 がありこれが語りを広げていくようです。
   小倉松寿丸(眼)@、小倉松寿A、について、これは「鍋」との連携になってきます。兄弟を
 考慮しないといけないからと思います。宮本武蔵に鍋の伝説がなかったか、もう記憶にありませ
 んが、それは別として、〈信長公記〉テキスト人名注では

       「小倉松千代    (〈小倉文書〉〈小倉氏来地折紙写〉
        松千代の母は。近江愛知郡高野城主小倉右京亮の夫人となり、甚五郎・松千代
       を生んだ。しかし右京亮は織田信長に内通したので六角承禎に殺された。は信長に
       身を寄せて・・・・・甚五郎・松千代は信長から本領を与えられた。・・」

   となっています。つまり表記で「甚助」=「甚五郎」、「松寿」=「松千代」という結びつきがあり、
    小倉右京亮は「右京亮」が大物表記で、佐々木六角との確執は親近でもあり、太田和泉守
    後藤又兵衛は佐々木の後藤但馬守父子を通じて縁戚でもあります。
      右京亮=(後藤基次)  | 小倉松寿眼@=宮本武蔵@−−−−宮本武蔵A、  
                      |  (宮本兵大夫、甚五郎)      
                      | 小倉松寿A=小栗又市
                      | (松千代)   
  という関係にならないかと思われます。鍋殿の信長の子息の母としての側面は、近江の
   佐々木との問題はないのではないかと思われます。出身地は合っているというようなものは
   ありえます。太田和泉守は宮本武蔵兄弟にも大きな拘りを示していると思われます。芭蕉も
   宮本ムサシは念頭にあった、鍋の利用がこれを示していると思われます。
       蝉吟公
       ‖|お鍋
       芭蕉
  と云う兄弟の表現に利用しました。

(78)堀秀政
   小倉松寿(丸)と湯浅甚介(助)の二人と高橋虎松は、このあと信長の最後のくだりに繋がれ
   ており重要場面での登場
   ですからよほど力の入っているところです。ここに出ている森乱丸なども乱丸2世の、姿をうつ
   し出したのかもしれません。桶狭間のあの連中も、あのときから22年経ちますから、太田和泉
   守の眼前には、もうその孫の姿がちらついているはずです。
    太田和泉守の世代のチビ公は当然要職にあるから、結果から見て畳の上で死ねなか
   った人が多かったのは仕方がないわけですが、チビ公といってる間に時は経ち、浜の真砂は
   盗人のつきることなきに似て、その子はいつの間にか大勢成育しています。縁戚の範囲が
   広いのでジャリ公は、数えにくいほど多くなりますが、災厄もやや遠くなったといっても、朝鮮役、関ケ原、
   大坂の陣などにより無傷では終わらなかったといえます。最後のところでこの方に著者の関心が
   向いているのではないかと思います。武蔵のように遅刻する人と同じように盗む人というのは
   今の理解を越える使い方があるのかもしれません。漢和辞典によれば「盗泉」という語句があり、
        「山東省泗水(しすい)県の北東にあった泉の名。」
        「孔子は盗という名を憎んで、その地に宿らず、その水を飲まなかったという。」
        「転じて不正の手段によって得られる利益にたとえる。〈晋、陸機、猛虎行〉渇不飲、
        盗泉水(●カツすれどもトウセンのみず(づ)をのまず。)」
   となっています。
    太田牛一の「泉」の命名の根拠がわかりにくいから何でも「泉」をみていたから習慣の産物
   でこの「泉」が気になっただけのことですが、孔子などは潔癖で「盗」の行為を憎んだので、
   語句まで避けてそれを行為に表わしたととるならば、世に盗人の種は尽きまじといって世に
   流布させた本邦の人は不真面目といえますが、●の書き方でカタカナの効用が出ています。
         「かつすれどもとうせんのみず(づ)をのまず。」
    と書くと何のことやらよけいわからなくなります。
   「水」も「スイ」とならないのは、和漢折衷の日本の文献のような感じです。ただ「みず(づ)」は
   「ミズ(ヅ)」と書いたほうが見やすくていいのですが「音」読みではないから「みず(づ)」になっ
   たと思われます。.

   これを見て「みず」「みづ」のあぶり出しが気になります。昔は「みず」の「ず」は、「づ」というの
   を使っていたから「づ」が入ったのか、このモトの文献にそうあったからか、よくわかりません。
   わからない以上これは二通りの表記があるのでこうなっていると取らざるをえません。つまり
   水の表記に二通りあるということで、全体の文も二つの意味があるということをいっているの
   でしょう。孔子が水を飲まなかったのは別の意味がある、炙り出しを写されているから両方の
   解釈がありえます。

   有名な両方解釈語句について辞典では
         『   「民可使由之不可使知之(返り点省略)」..
          (たみはこれによらしむべしこれをしらしむべからず)
     「人民は、君主の政策に従わせることはできるが、人民の一人一人にその理由を理解させる
      ことはできない。可は可能の意。命令の意にとり、由らしめよ、知らせるなと解釈するのは
      ★誤り」(論語、泰伯) 』
   と書かれています。習ったことでは、誤りといわれている方の解釈です。
  すると「よる」というのが近寄ると理由を知るの二つがありそうだというのが大分前から言われて
  いたということになりそうですから、二つの意味が込められていると云う説明が欲しいわけです。
  なんとでも解釈できますというのだったら著者にしわ寄せが行ってしまうわけです。要はこれは
  対になっていて
            民 可使由之
             不可使知之
   ですから、
            民□可使 由 之 
            □不可使 知 之 
    ということになりそうです。
   上の解釈では、この「不」を上へ移動させてるわけでしょう。すると
            民不可使由之(一人一人にその理由を理解させることはできない
            □△可使知之(君主の政策に従わせることはできる)
  となります。「知」というのを布告でも出して、という意味に取られているのでしょう。「不」というのを勝手に
  動かしたらケシカランということがすぐ出てきます。反語があるから本当はこうしたい場合もあり
  ますが、多くの例を出さないとこれも無理筋となるでしょう。
   解釈で問題なのは「君主」なる文字がどこにもないことにもあります。
  したがって先程の次の文の□の↑のところに 
            民□可使 由 之 
            □不可使 知 之
            ↑
            君
  というようになる、知と由はほぼ同義で「由」の方が理由付けて知るという「知る」になるいわば
  知由 知知という感じのものになると思います。これで孔子は、君主は民に知らさないものだ、
  民はもっと知らされねばならないものだ、ということになります。こういって孔子の立場は決まっ
  ていた、どの君主もだめだといいたいのをこういったと取れます。知りたいのは孔子の立場は
  どうなのか、どう考えていたのかを知りたいわけです。日本の昔の知識人もそうです
  が政権性悪説に立っています。いま民主主義の時代ですから対立的に考えず手を携えて
  いけばいいではないかという考えが出がちです立場が変わて権力を行使し出すとゴロット
  かわる、誰でもそうなりがちだから危惧を感じてそれできているわけです。まあ団体の透明度
  は優先的なことであり、首長の院政、続投、再登板、居座り、横滑りなどの廃絶必至などは
  経験則ですが、そうなっていかないようです。いいたいことは★のような一つに決めようというのが
  本来的なものでそれでよいわけですが、読み方がよかったからこういう結論になる、というの
  ではなく二つ意味があって、孔子のいいいたいことはこちらだというのでないといけないのでは
  ないかと思います。意味が二つあるということが知られることがまず必要と思います。たよりない
  ものを補足して読んだ、合っているはずだというのでは駄目でしょう。

  大田牛一のものから予想外の人物も出てくる、二つの取り様があって、よくわからないところに
 人物も隠されているからであって、まず二つに読めればそれを受け止めるところから出てくるわけ
 で、文法上で一つに無理に読むのは時代がはなれていて無理があります。
   
  宮本武蔵は本能寺のときはどのくらいかということですが幸い年表に死亡年月と年齢が載って
  います。1645芭蕉が生まれた翌年正保二年62歳で亡くなったとあり、細川忠興83と同年です。
  それでいけば本能寺の時にはマイナス1歳という感じで、本能寺の記事に載るはずがないとということに
  なりますが、それは太田牛一の死亡時にその本人を認知しておれば、又この人物のことを
  書きたいということであれば多少時空を無視しても載せるということは起こりうることです。
  通常は本人をAとして同じ名前で@を作るということもあります。15くらいの差だからラップが
  ありえるので@Aという同名が出て来るのが必然となりそうです。この場合は、あの宮本武蔵は
  大坂の陣ではもう30過ぎになっています。後藤又兵衛Aの子というのが、年齢的には正解
 といえそうですが、それは「宮本兵大夫」を語る必要があるから早くから確認できていたことと
  いえます。   
   どの世代かというのが頭の痛い話ですが、次のは堀久太郎秀政が亡くなったときの記事です
   
      『(北条戦) 五月廿七日には関白一方の大将たる堀左衛門督秀政、早川口の陣に
      ありしが、俄なる病にて忽ちに卒去しぬ。歳はやうやう三十八歳。いまだ壮なる歳の
      ほどにて殿下殊さら惜しみ歎かせ給ふ。・・・・世にもこの人をば名人左衛門と名付け
      殿下の指南させても落ち度あるまじき人なりと申しければ、此度たかきも賎しき人も
      皆おしまざるものなし。其子久太郎秀治父が家を継ぐ、時に年僅かに十五なり。越前
      北庄の城を領し二十九万八百五十石賜い、忽ちに、従四位下侍従左衛門督にぞ
      叙任せらる。』〈三河後風土記〉

  題も内容も堀久太郎秀政となっているのがまどわされるところです。
  大変誉められている人で別の文献では宰相の器というのもあるようです。この人は太田和泉
  守孫世代代表の一人かもしれません。
 先ほどの堀直寄(世間太兵衛と小倉主膳が出てきた)はこの人の子息のようです。
  天正18年38歳(36)ですから生まれは1554、桶狭間の6年前で、桶狭間の年前田犬千代生年
 18ですから、森乱丸は21くらいとすると15くらいということになり、森乱丸は堀久太郎と重ねられて
 いるから、森蘭丸Aの可能性もあります。秀治の15がそれを暗示しているのかもしれません。
  湯浅常山にもこれに関して、ほぼ同じ長さの記事がありますが、
          「小田原陣中にて卒せらる。」〈常山奇談〉
  というここにない文章が入っています。一つは「大田原」というので太田和泉守につなげようと
  いう魂胆でしょう。太田垣、小田垣の例もあります。ルビも
        「小(を□)田(だ□)原(はら)陣中(ぢんちう)」
 となっています。だからもう一つ
        「小(□お)田(□た)」つまり「□お□た原」となるか、詰めて「をだ」「田原」となるかと
 いうことになりますが、太田和泉につながればよいという工夫があるものでしょう。

(79)大田岳
 小田原ー 太田原のついでですが〈信長公記〉に「大ケ原」というのが諏訪の近くで出てきます。
 脚注では
    「山梨県北巨摩郡白州町台ヶ原」となっています。
              大ケ原
              台ケ原
  ですから、「台」を「大」に変えているといえます。〈甫庵信長記〉では「大が原」としています。

     「大ケ原御立ちなされ、五町ばかり御出で候へば、山あひより名山、是ぞと見えし富士の
      山、かうかうと雪つもり誠に殊勝面白き有様、・・・」〈信長公記〉

  のように富士を出すための「大」「原」かと思われます。この「大」+「田」は、「小田原」→「大田原」
  を待つまでもなく、「大田原」が出てくるでしょう。「大」「ケ」「原」は「大」「□」「原」ですが「□」は
  「田」が入るのが自然かと思われます。芭蕉は「日光」で「太田原」を出しています。

      「五左衛門・・・奈須・太田原・・・・・今市・・・大渡・・・五左衛門・・・・大渡・・・今市・・・・
      大渡・・・太田原・・・太田原・・・黒羽・・・」〈曾良日記〉

   など太田和泉守につながる地名がある上に、直接的な「太田原」を三つだしています。大渡の
 「大」にも意識がありそうです。
  今市は市場で賑わったところいうのありそうですが
      「今枝弥八」「伊賀に属せし令枝(いちえ)弥八」
  の「今令(いまいち)」+「枝」でもあるのでしょう。要は日光に、「太田原」「五左衛門」を持ち込んで
  きています。日光に
          「猶憚(はばかり)多くて筆をさし置きぬ。」〈奥の細道〉
   があるのと関係がありそうです。須賀川の「乍単(憚)」と絡む話です。天下は徳川が平定した。
  壮麗な建物を建造して藩祖への尊崇を要求するのはおかしいというのがあるようです。
   「太田」は名前も大きな影響を及ぼしますがこういう地名でも同じです。テキスト脚注では
  「奈賀良の川」の注として

     「長良川  大田岳に発源。濃尾平野を貫流。揖斐川と合し、木曽川に入る。156Km。
     鵜飼で有名。」

  となっています。つまり長良川・木曽川の源流が大田岳だといっているわけです。そんなこと
  聞いたことがないので調べて見ますとこれは「大日岳」となるのでしょう。日+日=田で
       大田岳=大日日岳=大日ケ岳=大日□岳
  というようなものでしょうか。とにかく、曾良が日記に太田原を入れたのも同じような意味ととれ
  ます。〈信長公記〉の
       「芥川(あくたがは)・糠塚(ヌカツカ)・●大田(ヲゝダ)村・猟師川(レウジカハ)辺に・・・
       ■大田の郷北の山に御取出・・・」
  ともなると、●は猟師川に影響を与えてしまいそうです。脚注では
       「茨木川を猟師川という」
  と書いてあります。「猟」というのが引っ掛かるのが「多賀城碑」の碑文の人名「あさかり」が
    「ケモノ篇に萬のような一字のもの」、「朝葛(けもの篇あり)」、「朝狩」、「朝猟」、
   もあるということになると、「猟」がカタカナで出てきているのはどうなるのかというのも出てき
  ます。逆にいえば
  「多賀碑」が太田和泉と関係ありというのを示すのかもしれません。後世の人は「猟師」「マタギ」
  に引っ掛ける人も出てきそうです。その前の「糠塚ヌカツカ」というのも脚注では
     「茨木市三島町の耳成に幣塚とか糠塚という古墳があった。」                              とされており、大和の耳成がこんなところに出てきています。「糠」というのが「額田」の「ぬか」
  に代表されるように古代の要人の名前に取り入れられていますから、耳成があるということは
  古代を踏まえて理解しないといけないというものがありそうです。そのヒントが大田村ということ
  といえます。
         「耳成」=三山=「糠塚」
                ‖
               大田ーーーーー豊国神社ーーーー耳塚
  ということであの耳塚伝説を解説しているというのもありえます。「耳塚」の前は「鼻塚」だった
  らしいのですが「かぐ」(香具)があるのかもしれません。要は「耳」は聖徳太子の「耳」ですから、
 一つの象徴的な意味が時空の広がりにおいてあるということです。こういう「耳塚」伝説の解明
 などはほったらかしになっています。わからないからそのまま、すき放題に説が出るのも仕方が
 ないというのだったらそれでもよいのですが、余分なほうへ波及したら大変だ、やめとこというの
  なら、後世が当時の人の気持ちを知り得ないことになります。戦勝の記念として耳塚があるのか、
  時の責任者を糾弾した碑なのか、歴史の解説のためのものか・・というようなことは知りたいこと
 です。
  ■の大田も「郷」やら「北」を巻き込んでしまいます。「北山」「北村」「高北」「海北」などを染めて
 しまうと文献の解釈に大きな影響がでてきます。
     「山口川」〈信長公記〉
  がありますが脚注では
     「岐阜県本巣郡本巣町山口を流れる糸貫川。山口で二つに分かれる。」
  これも本巣を語るものでしょう。また
     「東は高山伊吹山、麓はあれて残りし不破(□ふは□)の関・・・」〈信長公記〉
 となったものもありますがこの「不破の関」は〈信長公記〉テキスト脚注では
 「岐阜県不破郡関ケ原町松尾」となっており「松尾」が入っています。

(80)渡辺勘兵衛
芭蕉の
      「不破
       秋風や籔も畠も不破の関」〈野ざらし紀行〉
 についての〈芭蕉全句〉の解説には「松尾」がなかったわけですが、あるのとないのとでは天地
 の差が出ます。この前の句が
      「義朝の心に似たり秋の風」〈野ざらし紀行〉
 で、次の本文の引用と解説があり

    『「今須・山中を過ぎて、いにしへの常盤の塚あり。伊勢の守武(荒木田)が云いける“義朝
    殿に似たる秋風”とは、いづれの所か似たりけん。我も又、」とあって出ている。・・・・・・
     今須・山中は今の岐阜県関ケ原にある。常磐の塚というのは、義朝の妾常盤御前が
    山中で殺されたという伝説があるのによる。守武の句は〈守武千句〉に「月見てや常盤の
    里へかかるらんー義朝殿に似たる秋風」とあるのを指す。』〈芭蕉全句〉

 ちょっと気がめいるほど引用と解説が分かり難いのですが、これで「不破の関」に「松尾」が入り
 ますと、「籔」「畠」に松尾が懸かる、(荒木田)守武に松尾が近づく、それを芭蕉が意識している、
 ということになります。するとここの山中の常盤物語が効き目を発揮してきて、岩佐又兵衛が出て来ま
 す。これは荒木の人ですから、やはり荒木と荒木田は似ているということで、荒木で荒木田を語る
 ということが目論まれたということになりそうです。したがって〈信長公記〉の荒木を見直さない
 といけないのではないかということになります。やってみますと、やはり「大淀三千風」が出ている
 ようです。もちろんその名前が出ているとか、親戚の者とかが出ているのではありません。たいへん
 他愛ない話しでいいにくいことですが、三千風は〈信長公記〉をよく読んで自分のペンネームを
 それに依ってつけたのではないかという程度のことです。〈信長公記〉荒木織田戦の条
 
    「・あまりの物うさに
           ●たし、歌よみて荒木かたへつかはし候。
        ・・・・・
           荒木返歌
        ・・・・・・
           ▼あこゝかたより、たしかたへの歌、
        ふたり行きなにかくるしきのり(法)の道風はふくともねさへ(念仏の唱和)たへずは
           ▲お千代、荒木かたへの歌、
        ・・・・・・・
           荒木返歌、
        ・・・・・・・・
     かくのごとく読みかはし候なり。」〈信長公記〉

  ここに「道風」があり、「三千風」として汲み取った、というのがいたいことです。三千風は談林、
 貞風の時代の人で、おもしろい人物ではないかというのも背景にあります。●は脚注では
    『荒木村重の妻の名。「出(ダ)し」(甫庵「信長記」』
 となっています。〈甫庵信長記〉では
    「荒木が妻出(だ)し生年廿一」
 となっていて、〈信長公記〉脚注と、違っています。したがって「たし」「出(だ)し」のほかに
    「出(ダ)し」=(「ダシ」とする)
 もあるといわれていそうです。「太田和泉守」はペンネームで、戦場など活動のシーンには
 その名前は一切見当たらないので、影の人物として「太田イズミノカミ」の存在はないでしょう。
 戦場では「丹羽五郎左衛門」という織田の部隊長名簿にある名前を使いますが「丹羽ゴロウ
 サエモン」の存在は本来的にあるとみてよいのでしょう。
  「兄」と書いてあっても「姉」の場合があるように「妻」であっても、「夫」という場合が
  あります。それでいかなければ、この先話は進まないので、カタカナの「ダ」を借用します。
  「たし」×2=だし、なので「たし」「だし」「ダシ」で著者が二人余分でよいと示唆しているのかも
  しれせん。「出」というのも「日出」は「ひぢ」でこれは「日田」のことのようです。すると「田氏」
  「太氏」となるのかもしれません。また▼はわからないのですが、▲の人が二人の人に出した
  と取ればお千代という人であろうと取れます。荒木村重の娘(長女ぐらい人)と見受けられます。
  大淀三千風は「道風」として、「お千代」→「たし」の歌で出てきた、「道風」を「三千風」と変える
  と「たし」は「タシ」という解釈もありうるということを示唆したのかもしれません。
  次の記事から、「ダシ」が出てきそうです。

    「 {伊丹源内の事を云ふなり}
    卅五 宗祭娘、伊丹安大夫女房、此子八歳、」〈信長公記〉

 源内という名前でも「娘」を指す場合があることはここでわかりました。「ダシ」という連れ合
 いも考えられるということです。
  つまり、■ 
        伊丹源内といわれる宗祭娘(35歳)ーーーー子のお千代
        ‖ダシ
        伊丹安大夫女房(だし)(記載なしー28歳)−ーーーーー八歳の子(松千代)

  というようになりそうです。ただし
        「廿一  たし」 甫庵では「荒木が妻出(だ)し」が21
        「廿八 池田和泉女房」〈信長公記〉〈甫庵信長記〉
        「伊丹安大夫が●妻年三十五、同子松千代八歳」〈甫庵信長記〉

が補足事項です。●は宗祭のことでしょう。結論を急ぐため細部の矛盾は省略しますが、次ぎも
 まともに追っかければたいへんです。

    「廿一  渡辺四郎{荒木志摩守むすこなり。渡辺勘大夫むすめに仕合わせ、則、養子する
          なり。}」〈信長公記〉

  この「むすこ」も「養子」も細字のものであり、これからみれば
        養子=むすこ
  で{養子}のは範囲は広げてもよさそうです。
  この「仕合せ」は脚注では「妻合わせること。」「縁を結ぶこと」となっています。「娶わせる事」
  とか「結婚する」というようなことにはなっていません。ただしこれは感じの問題だけかもしれ
 ません。図示すると
          荒木志摩守ーーーーむすこ、渡辺四郎
                          ‖仕合せ(むりに引っ付ける)(とりあえずこうしとく)
          渡辺勘大夫ーーーーむすめ

  というような感じのものでしょう。補足参考事項は
        「荒木志摩守が嫡子渡辺四郎生年廿一」〈甫庵信長記〉
 があり、これからみれば、渡辺四郎は、荒木が妻「出し」と同じ歳であり、「嫡子」は「養子」で
 よく、また「渡辺四郎」は「渡辺勘大夫A」と無理に引っ付けられたので
    渡辺四郎=渡辺勘大夫
 とされたと思います、つまり、はじめのもの■図を訳せば

        荒木村重ーーーーーーーーーーーーー嫡子「渡辺四郎)」(21)、「お千代」
        ‖ダシ=(養子)渡辺勘兵衛・・・・・・・・(むすめ)
        伊丹安大夫(明智光秀長女)ーーーーーー岩佐又兵衛「松千代」8歳

 となります。つまり渡辺勘兵衛というのは勇猛で急速に身代を大きくし、主家をも凌いだころの
 荒木に迎えられた軍事に期待をかけられた若大将といえるのではないかというのがいいたい
 ことです。
 正体はもう一人の荒木志摩守の今でいう子息でしょうが、荒木志摩守は三人兄弟なので、すぐ
 にはわからないということでしょう。渡辺勘兵衛の話りは、勘兵衛が、物語上の存在か、実存在か
 決めかねて戸惑ってしまうところがあります。これは
     「勘」
 の齎すもので、その引っかきまわしがあるからと思われます。これは〈甫庵信長記〉人名索引に   
      「渡辺大夫
       渡辺大夫  」
 と並んでいるような面です。この面は全体的に無視されており、黒田にも、山内一豊にも、毛利
 勝永などにも「勘」の付く人が関係して出てきます。山本勘介も実在を疑われていたのですから
 話になりません。〈甲陽軍鑑〉など原典があって、〈武功夜話〉にも出ている、〈常山奇談〉にも出て
 いるのに、手紙が出てきたから、しかもそれが新聞でたしか「山本菅助」だったというのにそれが
 出てきたから信頼できるというのは本末転倒でしょう。要は
 「山本勘助」も「渡辺勘兵衛」も〈信長公記〉が出しているから皆が取り上げて有名になっていくと
 いう面があるのは「宮本」も同じです。とにかく「たし」殿が明智光秀の嫡子の人のことを語って
 いる、それはまた「ダシ」として、渡辺勘兵衛の前半生を語っているというのは、奇を衒っている
 ようですが、基本的に、荒木の記事の渦中に渡辺勘大夫が出たのですから、これが全てで
 取り上げない方がおかしいわけです。伊東夫兵衛〈信長公記〉に対するに「伊東夫大夫」〈武功
 夜話〉も早くから用意され、読者にはわかるだろうという計算がされています。
       「石田伊豫・渡辺勘大夫」〈信長公記〉
  の並びも、逆に言って、渡辺→明智→石田、をいうものともなります。その積りでみればまた
  出てくるものもあるかもしれません。関ケ原の住所に松尾が入っているだけでもハズミが出て
  くることですが、この松尾は小早川の陣した松尾山のことですからみな知っているはずです。
  不破の関と関ケ原の松尾山の松尾を結びつけるのが新たな広がりを生むものです。
   太田和泉守が「不破関」、「関ケ原」の「松尾(山)」を意識していたとすると、やはり「松尾三位」
   という二書にない言継卿の表記は
  〈信長公記〉の「信濃松尾(長野県飯田市)城主」
            「小笠原掃部大輔」
            「松尾掃部大輔」
  という表記につなげたくなります。
 これは自分のこと、太田=小笠原、太田=松尾和泉ということを表明したもの
 と取れます。小笠原も小田原・大ケ原と一字違いに過ぎず、松尾は「松山など+平尾」で本来的に
 太田としてもよいもよいほどのものです。
           飯田ー飯合ー小笠原(大田)ー松尾(太田)ー(飯合)宮松丸
 などの関連で、宮本武蔵に関ケ原挿話がある、武蔵も松尾がかたるのかもしれません。松尾芭蕉の父
 松尾与左衛門は太田のつもりで松尾を名乗ったのかもしれません。
  宮本武蔵で「伊織」というのが属性としてありますから「小笠原」が気になるところです。
     「小笠原与八郎」「惣領小笠原」〈甫庵信長記〉
 という表記も気になってきます。既述、テキスト人名注では
     「小笠原掃部大輔」
     「松尾掃部大夫」
 というのが同じ人物で「信濃松尾(長野県飯田市)城主」となっています。前回は「掃部」という
 ことで注目しましたが「飯沼勘平」やら「飯合宮松」の方からの「飯田」と小笠原の面もあるかも
 しれない。松尾城主は
     「森勝蔵・団平八・松尾の城主小笠原掃部大輔、是等は・・・」
     「松尾の城主小笠原掃部大輔案内者にて、夜の間に森勝蔵・団平八・河尻与兵衛・
      毛利河内、これ等」
 となっていて〈甫庵信長記〉でも似たり寄ったりです。ここで掃部大輔を案内者として「団平八」が
 出てきました。鬼武蔵といわれた森長可の強さの秘密はこの人物にあるのかも。〈甫庵信長記〉の
 人名索引では「掃部助」でみますと例えば
      「今井掃部
       今井宗久
       今枝弥八
       今川氏実」〈甫庵信長記〉人名索引
  などがでてきます。今井宗久と今枝弥八です。令枝弥八からは市川大介、市田鹿目助も出て
  きますが地名の「市田」は森勝蔵でてくるようで、これも「市太」ですから太田和泉が絡んで
  きます。鬼武蔵の武蔵と宮本武蔵の武蔵は昔の人は同じ感覚で見るでしょうから、太田和泉
  守は団平八にも注目しています。十回の登場があるのが「団平八」です。テキスト人名注では

       「団忠直(〜1582本能寺戦死) 天正8年11月27日には忠直〈近江日比野文書〉。
       団(だん)氏は美濃の名族、岩村城主の景春を祖とする。天正6年4月20日、京都妙
       覚寺での信忠の茶会に平八郎も侍している。信忠の側近であろうか(宗及他会記)。」

  となっています。信忠といえば渡辺勘兵衛のもとの主君です。
  このように飯田の松尾掃部を案内者として、団平八、弥八二人(佐脇藤八、彦進)が出てきました
  太田牛一は後藤又兵衛Aの強さにもびっくりして「宮本兵大夫」のような表記を作ったと思います
  が小笠原掃部を紹介者にしたことは
        「宮本兵大夫」
  が後藤軍団の戦闘大将であるのみならず、信州にもその活動の痕跡があるということが、いい
  たかったのもしれません。つまり信州に目を向けさせたといえます。

   テキスト人名注で「小笠原」という三字の表記にたいして
      「小笠原長時(1518〜82)  又二郎・右馬助・大膳大夫・信濃守、もと信濃深志(松本
      市)の城主」
   となっています。この表記を見ると太田和泉守が利用している感じのもので、「笠」は属性と
   いってもよいもので「笠原越前」などの表記もあります。「又二郎」「松本」もそうです。
   長・時というのも、「信濃守」もそういう性格を持っています。常山では人名索引「ゆ」では
      「結城秀康
       由井正雪」
    しかなく、ここから「秀康」「於国」「真田」→「油良信濃守」「油比可兵衛」が出てくるようなこと
    にされていそうな「信濃守」です。したがって
        惣領小笠原、小笠原与八、その親が小笠原(太田)長時
    というようにボンヤリと出したのは、案内者松尾掃部がくさいという感じです。太田掃部といって
   よいようです。ただ
    それも伊織が小笠原だから「小笠原」に気が付いたといえるものです。卵が先か、にわとりが
    先かということになりますが、小笠原と松尾を結んだのは、団平八と宮本兵大夫のことが
    あったからではないかと思われます。宮本伊織が小笠原の家老となったというのも事実としては
    あってほしことですが後藤と信州の小笠原を結ぶための解説としての語りかもしれないとも
    感ずるものです。次のようなものがあります。小笠原と真田の接近です。

       「大坂夏陣 井伊家士 小笠原伝兵衛手柄の事
      大坂夏陣・・・天王寺口・・・・真田左衛門佐先手・・・・関東方の大軍・・・崩れたる・・・
      井伊家士小笠原伝兵衛{三百石}嫡子と若党と以上三人にて・・・直孝・・赤根・・四半・・
      ・・・金・・・・掃部頭・・・終に御勝利・・・。小笠原後に加増・・・。・・尾返が合たる、・・・
      (上泉)義郷・・・・両御所・・・家康公・・・・大久保彦左衛門・・・」〈常山奇談〉
   
    内容は他のこともいっていると思いますが、伝える「小笠原」が出ており、「真田」「掃部」が
    あり、「飯=井伊」「赤」「半」「金」「尾」がでています。この前は「上杉謙信馬印の事」の
    一行だけの一節ですが「折」「折」があります。後ろが「信玄」の話で信州ということになる
    のでしょう。これは家康本陣が真田幸村に崩されて家康の命も危なかったと大久保がいっ
    ている戦いです。真田軍も日本一の兵といわれたほど強いので幸村を助ける戦闘大将が
    いるのでしょう。

 (81)佐々木小次郎。
   湯浅常山などが芭蕉を解説しているのが参考になるはずです。〈奥の細道〉で「黒塚」が
   「あさか」のくだりで出てきます。須賀川の
       「世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」
   の「栗」の余韻の残るすぐあとです。

      「等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿を離れて、あさか山有。路より近し。
      此のあたり多し。かつみ刈る比もやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ふ
      ぞと、人々に尋ね侍れども更に知る人なし。を尋ねて人にとひ、かつみかつみと尋ね
      ありくきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右に切れて黒塚の岩屋一見し、福嶋に
      宿る。」〈奥の細道〉

    となっています。「二本松」は丹羽の城下で、黒塚が何か意味がありそうでよくわかりません
   でしたが常山をみると蒲生、伊達が関係していることがわかります。脚注では
       「二本松市大平にある洞窟。謡曲「黒塚」には鬼がこもったとある。」
   と書かれています。黒田の「黒」がでているというのはこの周囲「里」が多いので見当はつく
   のですが思い切っていいにくいところがありました。「里」は、はじめに「五里」の「里」があります
   があと、
        「忍ぶのさと」の「里」、「小里」の「里」、「埋もれる」の「里」、「里の童」の「里」
        「童」の「里」
   その他に石が三つあり
      「黒岩」は「里」と「石」「山」に分解できそれが文に反映されているので黒岩重要である
   と思われます。黒岩の安積の一節は
      「等窮が宅を出て五里ばかり」
   ですから相楽の「伊」がまだ続いており「土」「伊達」が出て来る方が自然です。

      「氏郷佐々木が鐙を細川忠興に送らるる事附黒塚の歌の事
      氏郷・・・佐々木が鐙・・・・細川忠興・・・亘理某(わたりなにがし)・・・・氏郷・・・
      ・・・・
     ★{蒲生はもと江州の士にて、佐々木の臣なり。氏郷伊勢の松坂十二万石なりしが後
      会津を賜りける時は四十歳の頃なり。佐々木承禎が子四郎、太閤の時わずか二百石
      与え、太閤の咄の席に呼びだされしが、伏見にて太閤の前より退出する時、氏郷昔の
      故に四郎が刀をもちて従われしとなり。
       又安立郡に川あり、向こうに黒塚あり。安立は氏郷の領地なりしに、黒塚は伊達政宗の
       領地なりとて争いの有りしに、氏郷、平道盛の歌に
          ●みちのくの安立が原の黒塚におにこもれりといふはまことか
       とよめる事有り。いかに、と申されしに、聞く人、黒塚は安立が原に属したる事分明
       なり、とて政宗争いをやめてけり。}」常山奇談

   蒲生氏郷は入力すると「氏里」が出てきますように「里」ですからこの〈奥の細道〉の「黒塚」
   のあとの「里」の流れは、蒲生氏郷が出てこないと完成しないはずです。湯浅常山は、
    芭蕉が「黒塚」を〈奥の細道〉に取り入れたのは謡曲の「黒塚」のこと以外に、●の歌を知って
    いたこともある、伊達・蒲生の領地争いという戦国時代のことも著述の眼目であったはずと
    いうことなど、を付け加えたといえそうです。常山が芭蕉鑑賞の解説をしていると思いますが
   自分のいいたいことが入っています。
    題に「佐々木」が入ったのが最大の狙いといえそうです。
     登場人物が、蒲生氏郷 −  細川忠興
                     ー 伊達政宗
   であり、一つは考えが違うという対立の図式があるのは明らかですが、もう一つ細川、伊達で
   語るという面があります。後者の面は「佐々木承禎」の子「四郎」が入っているのが目立ちます。

    A、蒲生氏郷ー江州ー江州佐々木ー黒ー細川忠興(小倉・熊本)−後藤又兵衛ー宮本武蔵
     ー佐々木小次郎ー

    B、蒲生氏郷→俵藤太秀郷→安立原→「伊」「達」「政」「宗」→「惟」「政」「宗」「達」ー
     俵屋宗達

  などが出されています。こうなれば太田和泉守登場で「佐々木承禎が子四郎」は太田和泉守
  の子四郎が江州にいるという暗示にもなります。
    主眼は、A、で、常山のオリジナルも加わって
         黒田(黒塚)→後藤又兵衛→小笠原伝兵衛→信州真田
    という流れもあって宮本の一節につながる、これは常山の世界だから理屈ぬきで、登場人物
    を入れていくことでよいわけです。
     この●のある一節の前に
        「氏郷伊達家の刺客を免されし事」
    というものがあり、ここの眼目は、はっきりしているものです。すなわち

    「伊達政宗、蒲生氏郷・・・氏郷・・・・・清十郎・・・十六歳・・・田丸中務少輔・・・・・清十郎
     ・・・・清十郎・・・・伊達家・・・氏郷、清十郎・・・・伊達家・・・・
       (記せし書に清十郎が姓もらしぬ。をしき事なり。}」

   があり「清十郎」は「吉岡清十郎」と「道家清十郎」が懸かっているといえます。〈奥の細道〉で
   「塚」は土+家、土に埋もれるの「土」と「土」で、陶土つまり「高山」「古田」の出る一節で
   あることが匂わされているといえそうが、道家の「清十郎」の森の古田は、やはり宮本にかかり、
   俵屋宗達にもつながりがあるとも取れるようです。多くの人物を語るのに古田が使われて
   いるとするとここの「田丸中務少輔」も一応古田想起と言わざるを得ません。中務少輔という
   のは〈甫庵信長記〉にもなく「平手中務大輔」の小なるもととりますと、平田三位、平手三位の
   Aというようになるのかもしれません。田丸は太+宮松丸の丸とか「円城寺源七の円、
   力円の円にもいきそうです。田丸は「氏郷の親戚」と書かれています。この十六歳がひょっと
   して真田大介に懸かるとすれば宮本ー(古田)−真田を語るといえそうです。
    須賀川「枝折」「伊」に繋がる「宮本武蔵の養子「伊織」は織部も巻き込んで、芭蕉のすかが
   わのくだりは、宮本武蔵まで語ったといえそうです。上田宗古が出てくるのと同じような流れ
   があります。須賀川のくだりに「宿」が出てきますが、「黒塚」のでてきたあさか山のクダリ
   再掲
       「等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿を離れて、あさか山有。路より近し。
      此のあたり多し。かつみ刈る比もやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ふ
      ぞと、人々に尋ね侍れども更に知る人なし。を尋ねて人にとひ、かつみかつみと尋ね
      ありくきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右に切れて黒塚の岩屋一見し、福嶋に
      宿る。」〈奥の細道〉

    のはじめと終わりに、「宿」が出ています。ここの二つの宿は、等窮の「等」とからんで「等伯」
   を作るものでしょうが、 明智宗宿の宿が出されているといえるものです。能因の「因」が「宗因」
   「木因」などを出したように、「宗古」とか「宗因」の「宗」を下支えしていると思われます。この
   一節が常山によって解説され、主眼が宮本武蔵の佐々木にあるということをいってきましたが
   それが合っていそうだというのがここでも出てると思われます。
・     ○「檜皮」というのは脚注では「福島県安積郡日和田町」で「和田」が出る。
      ○「檜皮の宿」というのは古名「安積(あさか)の宿」となっている。
      ○「あさか山」というのは「安積山」である。脚注によれば「浅香山で安積山とも書く」と
       なっている。
      ○「かつみ」が四つもあってへんな話しとなっている。これは
           さか        浅香
           かつみ        (香安)積
        において「あさかかあつみ」(ASAKAKAATUMI)→「あさかつみ」→
        「あさかつみ」→「あさかつみ」 
        となるように、つまり「あつみ」と読むように仕向けた「かつみ」の連発である
      ○「沼」は二つあるのは「鏡沼」である。和田平太胤長の妻の入水伝説がある。
        水戸藩(中納言黄門光圀)和田平助→居合→宮松丸→宮本武蔵→佐々木小次郎
        越前黄門秀康→太田和泉守→和田惟政→井河山城→宮本武蔵→佐々木小次郎
        ということになる
      ○水戸黄門=太田和泉守。
        佐々木助三郎=後藤又兵衛。
        渥美角之丞=高山右近
        この話しは宮本武蔵の解説ともなるものである
   といえます。
   
   宮本武蔵の属性は佐々木小次郎ですが、これは〈信長公記〉で
       「佐々木次郎」
  という表記の人物がいますので「小次郎」というと一応、「次郎」の「小次郎」と考えるのが
  普通です。佐々木と太田和泉守の関係は、再掲

        佐々木義弼
        ‖(後藤氏)
        後藤基次

   ということにありそうというのは既述です。テキスト人名注では
    「佐々木次郎→六角次郎」
  と書かれていますので「六角次郎」をみますと
    「(佐々木)承禎の子義治に比定されているが、義治の弟、賢永(定)とする説もある。」
  とされています。「六角次郎」の兄
        「六角義治」
  はどうかというと
       「(佐々木)義賢の子、初名義弼、分国法〈義治式目〉の制定者。天正十八年五月二十九
        日小田原陣中で関白秀吉が津田宗及を招いて開いた茶会に“江州六角殿義治”も
        侍している(宗及茶湯日記)」
  と書かれています。堀久太郎が忽ち卒した二日後です。ここではじめて義弼が出てきました
  。テキストをまとめますと
          
      佐々木承禎(義賢)ーーー六角義治(義弼)
                      |
                       (両方、賢永とする説もある)
                     弟六角次郎(★佐々木次郎)

 ということになります。先程の再掲
                    佐々木義弼   
                   ‖(後藤氏)
                    後藤基次
 と似たり寄ったりで、後藤基次に「★佐々木次郎」を代入すればよいのでしょう。したがって
         佐々木義弼ーーーーー佐々木四郎・佐々木小次郎
          ‖
         後藤基次ーーーーーーー宮本兵大夫
                         又市(小栗氏)
  ということになり巌流島の決闘は此れを分かりやすくするためのものといえそうです。

    佐々木小次郎は富田勢源の系統で、これは
        〈信長公記〉  「富田弥六(長繁)」
        〈甫庵信長記〉「富田喜太郎」「富田才八」「富田孫六」
        〈辞典〉     「富田一白」「富田対馬守」
    など関係がありそうです。「富田弥六郎長繁」は〈辞典〉ではイミナ「長秀」というようです。
   
   常山では「富田與五郎{後越後守}、「冨田越後」{此時六左衛門といえり。」という人物が
   でてきます。(前田、奥村末森の戦いの武功のくだり。)

   「印牧(かねまき)弥六左衛門」は「鐘巻自念斎」の原型でしょうが、この門弟が伊藤一刀斎
   です。、これは伊藤一刀斎景久であったと思います。この「景久」は
         〈信長公記〉「梶原平次」
   の考証名のようです。梶原勝兵衛という人物が
        「羽柴藤吉郎・・・梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門」
   という登場となっており、これは越前衆という感じです。「佐々木」と「梶原」は宇治川の合戦
   を想起するようにされており、佐々木小次郎を意識したものでもあろうと思われます。
    「伊藤」というのが「伊藤弥三郎」「伊藤武兵衛」「伊藤長門守」
   という太田和泉を睨んだ名前ですので、佐々木義弼は、伊藤一刀斎景久から梶原→富田→
   佐々木小次郎と結べる、併せて太田にも繋げるというもので、大剣客の登場も太田和泉守
   の語りの一部ともなるものかと思います。

    兵法について
         「宮居眼左衛門」
   のという表記が果たす役割があったのではないかと思います。
       い、鬼一法眼(義経記)
       ろ、正法眼蔵
       は、古法眼
   などから、正眼寺や宮居眼が出てきたのかもしれませんが
       に、飯合宮松丸の「眼」=「丸」
   は意識的で、正眼の構え、居合い、居(すえ)もの切り、などが出てくるのは日本刀への関心
   泰平に近づく個人技への興味などの広がりがあるのでしょうが、太田和泉守の著述の解説
   に使われるというのも面白い話しが出てくるもとでもあったと思われます。俳諧の矢数という
   言葉が使われていますが何となく三十三間堂の矢数を競う話と似ています。太田和泉守が
   表向きは弓の名手としてだけ知られているわけで弓というのは那須与一などの利用などで
   関心をよんだことが考えられます。太田和泉守が起点ということが案外多いのではないかと
   思われます。先ほど「梶原平次」が出ましたが、古田の出身本巣山口城についてネット記事
   「古城探訪」(pappakum12)をみますと
         「山口城址と彫られた石碑が立っていて、よくみれば城主梶原景時という文字も
         彫られている」
   と書かれています。この辺は加藤次景廉というのはありますが、梶原景時は少し唐突という
   感じです。要はこの碑が太田牛一〈信長公記〉の出された後に建てられたというのが、ありえ
   ます。〈信長公記〉には
         「梶原景時」、「梶原平次」(考証では景久)、「梶原勝兵衛」
    がありますが「梶原平次(郎)」が五回も登場があり、何も解説がないという孤立表記で
   「勝兵衛」のように越前というものもないわけです。「山口」と関連づけて引き当てが可能では
   ないかといえそうです。森可成、山口飛弾守、古田織部などが候補として出てきます。古田景安
   の「景」もありますし、戦国の宇治川の合戦では「梶川(河)弥三郎」が先陣していますが、
   これが太田和泉守というのもわかりそうです。梶原は外には
      「馬廻りには梶原次右衛門、桑原吉蔵、・・・・」〈甫庵信長記〉
      「ココに尾州の住人梶原左衛門尉が続子(ぞくし)松千代丸」〈甫庵信長記〉
   があり、テキストでは「梶」→「加治」で宛てられているのもあって、それなら「鍛冶」ですから
   美濃の梶原も不自然でないのかもしれません。

 (81)二刀流
     宮本武蔵の属性として二刀流もあります。実際二刀は現在の剣道でも使っている人は
    いないので無理なんでしょう。大変な膂力がいる感じです。
    嶋左近の討死の場面、「関ケ原合戦嶋左近討死の事」で見れば、再掲、

      「石田が陣の前に柵あり。嶋左近昌仲左の手に鑓を取り、右の手に麾(ざい)を取り、
     百人ばかり引き具し、柵より出て過半柵際に残し、静に進み懸かりけり。・・・・管(うわん)
     六之介政利少し高き処に上がり五十挺の鉄砲を透隙(しきま)なく横合いにうたせけるに
     真っ先に進んだる敵手負ひて、左近も死生は知らず倒れしかばひるむ所を、長政どっと
     おしかかり切りくずされけり。左近は肩にかけてそこを退きぬ。管後に六千石の禄たまはり
     和泉(いづみ)と称す。・・・・
     ・・・其の中に取わき剛の者の云いけるは・・・左近が引き具したる皆すぐりたる物(もの)し
     にして、七十計(ばかり)は柵際に残し・三十計左右に立てて、麾(ざい)を取り下知したる
     有様、つくづくと案ずるに、三十人計の兵ども鑓の合うべき際にさっと引き取り、味方ばらばら
     と追つかけんを近く引き寄せ、七十余人の者どもえいえい声を揚げて突きかかり、手の下に
     追い崩して残りなく討ちとらんとの手だてなりき。・・・・・・若し其の時、横合いより鉄砲にて
     打ちすくめずば、われらが首は左近が鑓にさし貫れなん。・・・・」〈常山奇談〉

   ここの左近は左右の手を使っています。「左」は「鑓」、「右」は「麾(ざい)」です。こういう左手
  の認識があってこれが同じ黒田で出て来ます。

      「嫡子長政の使い来り・・・金吾中納言秀詮は、長政の謀によりて裏切りせられし由告げら
      、如水大に怒りうつけ果てたる甲斐守かな。天下分け目の軍はわざと月日を過ごして
      浪人の●すぎはひをあたふるものものなり。何事の忠義だてぞ。日本一のうつけは甲斐
      守なりとぞつぶやかれける。」〈常山奇談〉

   このことで、家康が感謝して右手を押し頂いたと長政が語った、そのときお前の左手はどうして
   いたのか、という趣旨のこと(前著)の皮肉を如水が言っています。こういう左手の意識があるのが
   この社会固有のものです。左手のための話しなどが作られる、それを打ち出してくるのです
   が同時に右の意識も働くわけです。この左手の活用をしたのが宮本武蔵で、武蔵は日本でも
   左手の法則があるのを印象付けたといえそうです。一方、この武蔵の二刀流は、別のことを
   語るのかもしれません。信長の狙撃事件の
   ときに出た善住坊の「二ツ玉」と「二玉(ふたつだま)」が、意味がよくわからないわけですが
   連発銃があったと解釈しますと、そんなものなかったということになれば、折角の着眼が
   無駄になってしまいます。腕力の強さから左手の活用があったということかもしれません。
        「杉谷善住坊」=太田又介A=森ゑびな=海老半兵衛」
   の腕力の語りが、二刀流と結び付けられたのではないかと思います。善住坊は現に
   二発撃つわけですから、その説明がいります。つまり二刀流として
        後藤又兵衛ーー■宮本兵大夫@(又兵衛A武蔵@)−−宮本兵大夫A(宮本武蔵)
                   |
                  又市(小栗)
  において二刀流は■の人物が「海老半兵衛」相当の人だったといっているの
  かもしれません。

  この●のある関ケ原のときの、黒田の九州での戦いは、大友家との戦いで、「石垣山」の合戦
  です。この石垣山の合戦では、小栗が出てきますから常山では、嶋左近の戦いぶりやら、黒田
   官兵衛の話やら、宮本の語りやらが一つの流れとなって繋がっています。
   この文●の語句がよくわかりません。常山は太宰春台などに著述をみてもらっていますが
  春台もわかりにくかったのは間違いないと思いますがGOサインを出したものです。一つは、
  浪人については生活費というものが気になるので
         すぎはい=「過ぎ」+「なりわい」
   が感じられます。この文は、浪人がこの戦いで全国的に雇われているので対峙が長引けば、浪人
  懐が暖かくなり、雇われる人も増えるという現象がおきるというという意味のものが根底にある
  と思います。このことを利用して戦に勝つ算段はどうか、ということをいわねばならないと思います。
  単に状況を語っているのだったら長政が納得しません。
  長びけば大名が弱ってくる、とくに人件費は頭の痛い問題となりますが、傭兵に「過配(すぎ
  はい)」をして、敵の軍隊を減らし、味方の軍を増やせばよいということではないかと思います。
  この根拠としては
  関ケ原地方版、大友と黒田の石垣山の合戦があります。九州では、黒田官兵衛が浪人
 を金で集めて軍隊を編成して、大友を破り余勢を駆って周辺を席捲してしまった話が有名です。
  大友軍は改易されてつぶれた家の有志の集合体、大将、吉弘加兵衛が勇名のある人で戦意
 は旺盛だったとしても、黒田は現領主、周辺の大名との共同作戦も可能で、金と現存の権力が
 あるから人集めも容易な立場にあります。〈前著〉で幽霊のような感じで出てきて意味不明
 の言葉だけを吐いて退場した黒田官兵衛を紹介していますが、なにもしていない官兵衛なのに
 大々的な英雄伝説になりました。
   墨俣のときに人員募集をしており、そのときの細部の記録が〈武功夜話〉にありますが、希に
 足弱の人がきています。これは砦の建設作業員ですが実質は戦闘員ですから女子は無理だと
 思いますが背に腹は変えられない、生活がかかっています。命がけのものだから競合すれば
 賃金の多い方へシフトするというのがありえます。現実にはこの層をうまく使えるかどうか、その
 数によって戦いの帰趨がきまるといってよいことです。これは黒田官兵衛のやったことだから
 そのことに関連していれば根拠のない話とはいえないと思います。
 一般に西国の大名が裕福で、朝鮮役では、細川玄旨斎は西国大名だけに負担が
 強いられているといっており〈武功夜話〉、それで戦も続けてきていますから本来的にそういうも
 があり、大阪城には黄金が一杯詰まっていることは太田和泉守は先刻承知ですから、
 石田方、宇喜多、小西、大谷などに戦闘人員を補う積りがあった、長引けば、戦の本音のところで
 差がついて 西軍が勝負出きるところまでいけそうだと踏んでいたと思われます。
  ●は何を狙うのかというのが、あって述べられた、それは実験的にもう述べられていることだ
 いうのがいいたところのことです。
  わからないところ何かが伏せられているので一応はみて
   書きなぐっただけというのではないのがわかるだけでも重要なことと思います。二通り
  ぐらいがあっても最後いいたいことの答えは一つですから、もっとも苦心の払われたところです。
  集約されたものなのでむつかしい、多くを知る近道はむつかしいところの読解にあると思います。
  合っているかどうかは別ですが、太宰春台はこれでわかるといったのでしょうから、客観性、
  一般性はあるようです。時代は違うといっても400年くらい前のことでなくて200年くらい前の
  人の見解です。

    余談ですがここの嶋左近の戦いぶりは桶狭間の戦いを再現しています。再掲

     「石田が陣の前に柵あり。嶋左近昌仲左の手に鑓を取り、右の手に麾(ざい)を取り、
     百人ばかり引き具し、柵より出て過半柵際に残し、静に進み懸かりけり。・・・・管(うわん)
     六之介政利少し高き処に上がり五十挺の鉄砲を透隙(しきま)なく横合いにうたせけるに
     真っ先に進んだる敵手負ひて、左近も死生は知らず倒れしかばひるむ所を、長政どっと
     おしかかり切りくずされけり。左近は肩にかけてそこを退きぬ。管後に六千石の禄たまはり
     和泉(いづみ)と称す。・・・・
     ・・・其の中に取わき剛の者の云いけるは・・・左近が引き具したる皆すぐりたる物(もの)し
     にして、七十計(ばかり)は柵際に残し・三十計左右に立てて、麾(ざい)を取り下知したる
     有様、つくづくと案ずるに、三十人計の兵ども鑓の合うべき際にさっと引き取り、味方ばらばら
     と追つかけんを近く引き寄せ、七十余人の者どもえいえい声を揚げて突きかかり、手の下に
     追い崩して残りなく討ちとらんとの手だてなりき。・

   つまり百人が柵より出て、過半は柵際に残し島左近は柵外に出て真っ先に進んだ、というのは
   桶狭間の佐々隼人正、千秋四郎と同じです。あとの方は割合を書いており、30計(ばかり)
    は鑓の合うべき際にさっと引き取る、敵が追いかけるのを引き寄せて、70余+30が突っ
   かかり追い崩して残りなく討ち取るというものです。おとりを出して、おびき寄せるというもので
   この場合はハズミで成功しなかったが、勝算があった戦いという感じです。
       柵前=100 これが30%で、(左右50:50)
       柵際=□□ これが70%
   ということで□□=230余となります。合計330人を働かすといえます。50丁の鉄砲という
   のは、桶狭間では人数、三百ばかり五十騎が突撃したという50ではないかと思います。太田
   和泉の桶狭間を再現した管和泉の出現というのでしょう。さりげなく関連を持たして語るという
   のがあります。例えば常山では桶狭間で、兼松が二歳違いの猪子内匠と出てきて、功があっ
   とか、兼松の「はだし」云々のこともいっています。

(82)平田・小栗・宮松
    この石垣山の戦い

    亀田大隅の石垣、北条戦一夜城の石垣山、伊達政宗遅参の石垣山などが背景にある
   石垣山です。両書に多い「鹿垣(ししがき)」という表記もからんで重要です。

      「黒田大友石垣原・・・・如水・・・立石・・・石垣原・・・黒田・・・久野治右衛門・・・
       曽我部五左衛門・・・久野・・・金の天衝・・・曾我部・・・・久野・・・荒巻軍兵衛・・・・豊前
       ・・・・宮松・・・・・五左衛門・・・・久野・・・平田彦右衛門・・・井上、野村・・大友・・・・荒巻
       ・・・平田・・・・豊前・…今井・…四兵衛{治右衛門が父}・・・・久野・・・久野・・・曾我部
       ・・平田・・・久野・・・荒巻・・・久野・・・黒田・・・井上九郎右衛門元房{後周防と云う}・・
       ・・・野村市右衛門{隼人}・・・井上・・・野村・・・井上・・・井上・・・井上、唐冠の冑・・・
       井上・・・井上・・・野村・・・大友・・・野村・・・・石垣原・・・原・・・石垣・・・井上・・・野村   
       ・・・石垣・・・石垣・・・・北(にぐ)る・・・井上・・・・野村・・・・大友・・・吉弘加兵衛・・・
       宗像掃部・・・井上、野村・・・折敷・・・・大友・・・大友・・・吉弘・・小栗治右衛門・・・・
       吉弘・・・小栗・・・吉弘・・・井上・・・井上・・・小栗・・・・吉弘・・・井上・・・吉弘・・・井上
       吉弘・・・井上・・・吉弘・・・吉弘・・吉弘・・・吉弘・・・吉弘・・石垣原・・・吉弘・・別府、   
       清田、浜田・・・吉弘・・・清正・・・細川忠興・・・別府・・・木刀・・・宗像・・・井上・・・
       大野勘右衛門・・・勘右衛門・・・弟休也・・・掃部・・・大友・・井上・・・野村・・・大友・・
       立石・・・吉統・・・・如水・・・」〈常山奇談〉

   「久野」の「久」は「宮本」の「宮」に通じ「平井久右衛門」「久六」の「久」ですが、
      「曽我部五左衛門、「宮松」(飯合宮松丸)」「平田彦右衛門」「平田」「小栗」
   が直接響きます。「長曾我部(宮内少輔)」となると、テキスト人名録の
      「長宗我部氏は蘇我臣(そがのおみ)の配下の宗我部の子孫。」
   がでてきます。配下というのは姻戚でしょう。「曽根」は「蘇根」で〈甫庵信長記〉では
      「楚根」
   と書いています。これは会稽の呉楚の「楚」といえます。橘→古曾部焼→高槻→高山、古田
   にいきます。〈信長公記〉では、富士裾野仇討ちの
        「曽我五郎」
   という表記があり、これは避けてとおれないものです。

    「平田」が問題で、宮本武蔵で必ず引き合いに出てくるのが、父というべき
        「平田武仁」
    です。これは再掲、〈甫庵信長記〉の人名索引で
        蓑浦無右衛門●
        美濃屋小四郎   (平田和泉と登場)
        宮居眼左衛門▲
        宮川         (陶五郎、宮崎長尾などと登場)(飯沼・西尾、桑原土佐守と登場)
        宮川但馬守     (ト全の家中、種田信濃守、飯沼勘平、西尾小六と登場)
          宮河但馬    (氏家左京助家の子、不破河内守、原賀左衛門、印枚弥六)
        三宅権丞
          三宅権之丞
        宮崎鎌太夫
        (其の弟)鹿目助
  があり二番目「美濃屋小四郎」と「平田和泉」が登場しています。平田和泉をとりまく人名群は
  
        平井越後         「越前」と同義
        平井久右衛門      これは「太田和泉守」の表記、馬揃えの先頭を行く(弓衆)
        平尾久介         「吉田平内」の「平」、尾藤の「尾」
        平田和泉         平井和泉、平山和泉、などに転換可。細川と接近
        平田三位         〈武功夜話〉平手三位
        平手五郎右衛門など「平手」五人    平田に転換可
        平野土佐など「平野」四人 隠岐土佐守の土佐、
        平松助十郎         道家助十郎、金松又四郎

  というものがあり、「平田」は特別の表記です。平尾久介→「尾久」→「古久」で、「古田」もでます。
  「平田三位」→「松尾三位」から松尾・平尾→松平→平松というのもあります。
  「武」は武井、武田の「武」で、「仁」は藤堂仁右衛門、増田仁右衛門、仁木伊賀守の「仁」です。
        「平田無二斎」
  ともいうようですが、この「無」は「武」からきており「武者」の「む」です。●明智三羽烏の「蓑浦」
  の「無」です。「二」は「仁」の変形で「斎」号がついており「斎藤」にいきそうです。

  なお▲の人物の〈信長公記〉の人名索引は
         宮居眼左衛門
         宮川八右衛門
  となっており、この「八右衛門」を辿っていくと又異色の人物にでくわします。

  「小栗」はここでは吉弘加兵衛を討ち取るという大功を立てましたが、特別脚光を浴びる形に
  してあります。これはやはり、宮本武蔵を語るというものがあったのでしょう。〈信長公記〉
  の人名索引では
        奥田三川
        小倉松寿(小倉松千代)
        小栗吉忠(小栗二右衛門)
  というように並んでいます。三川からは河上三蔵(三)もありますが「三川の国」に飛ぶような
  ことにもなりそうです。文中大友の士大将、吉弘加兵衛、宗像掃部が出ましたが次の文では
  宗像が討たれますが、宗像を討ったのが、よくみれば
  大野勘右衛門の弟の休也です。「従者」が誰の「従者」かわからないわけです。黒田の士大将が井上九郎右衛門で、それがここの「井上」
  です。つまりこれも三角関係かもしれません。従者は家之子でよいのでしょう。
  文章がなっておらずどう読むかです。
     「宗像井上従者大野勘右衛門と引き組みたる処に、勘右衛門が弟休也と云いし法師
      走りより掃部が脇腹に刀を突き立て・・・そこにて討たれけり。」
  はじめは「井上も」は「井上の」の間違いであるとみて
     「宗像も井上の従者大野勘右衛門と引き組み、勘右衛門の弟休也が宗像を討った」
  ということにしていました。はじめて
      「も」→「の」の書きミス、印刷ミス、転写ミスの例に
   突き当たったと思いました。つまり
           井上九郎
           ‖
           大野勘右衛門
   大野氏ーー|
           休也(宗像を討つ)
  ということです。この場合、「宗像」が孤立して関連がなくなります。また「宗像も、」と「、」を入れる
  のが筋であろうと思われます。大野を勘右衛門としたのは
            後藤又兵衛ーー勘右衛門
                      又市
  というものを出そうとしたと思われます。(もちろんこのように捉えなくてもよいが)

   これは原文が合っていると思います。
     「宗像も井上も大野勘右衛門とややこしい関係があった。大野勘右衛門の弟休也が
      宗像をうったというものです。
           宗像掃部
           ‖ 大野勘右衛門
           井上九郎   ‖
                    休也(宗像を討つ)
   というものではないかと思われます。収斂性のあるものでないと述べていないと思われます。
   こういう表現の仕方があるようです。
      「永岡(細川)舟の上乗(うはのり)松井甚介、維任(あけち)舟の上乗★申し付け、」
                                                 〈信長公記〉
   ★はテキスト脚注では「この下に惟任(明智)光秀の家臣で、上乗りとなった者の氏名が脱して
    いるのであろう。」とありますが三角関係かも。

   ここの野村は、「朝鮮にて漢南(かんなん)の軍に功名し膝に手負い、行歩(ぎやうぶ)心に任
   せざれば・・・・・」となっており、あの戦いで膝をやられて歩行困難となった中条小市と重なって
   いそうです。「野村」=「野々村」です。「野々村」は「宗達」で、「伊年」でもあり、
       「伊達出羽守」〈甫庵信長記〉
   という表記もあります。

(83)吉弘加兵衛
   吉弘加兵衛はフルネームが書かれていません。これは、立花道雪に話しが自然といく人物で
   す。立花道雪が大友の柱石で、吉弘加兵衛は道雪と親密な関係ですが常山では隠されており
   判るようになっているということでしょう。したがって大友の士大将となるのは当然の廻り合わせ
   です。立花道雪は

      「始め戸(へ□)次(つぎ)といふ。立花の跡を嗣(つぎ)し故立花と称す。始の名は鑑連(あき
       つら)、男子(なんし)なく■高橋紹運の子を養いて嗣とす。」〈常山奇談〉
   となっています。
    〈信長公記〉の「別喜右近」「別規右近」の「別」がどこから来たかというのを考えていて「別所」
   が第一候補かもしれませんが、この(へ□つぎ)もありそうです。「へつぎ」は「べつき」に
   自然といきます。「□」に「べ」を入れたいので空けてあると取るとそうなります。
     「戸(へ)」+「次(つぎ)」は、「戸(へ)」は「神戸」の「戸」ですし、「戸」は「戸田」「土田」
   でもあり、「次」は太田和泉守の「二」でもあります。はじめの名前がこうだったというのは、
   ほかのことを述べようとする伏線でもありえますので、何となく太田和泉守が始から意識されている
   ようでもあります。「橘」「立花」「道」「雪」も利用されそうです。■の紹運が島津戦で勇戦して
   戦死し、立花宗茂がその戦いで敢闘して秀吉に認められたという経過があります。
    「鑑連」の「連」と■「紹運」の「連」とが似てるから道雪は「高橋氏」かもしれません。
    「なんし」なく養子にした人物が有名な勇将、立花宗茂ということですが、前名は(高橋統虎)
    です。紹運は始の名前が「鎮種」(しげたね)といいますが、紹運に兄があり、これは鑑理
   (あきまさ)といいます。紹運は「斎藤鎮實」の妹を妻にしました。宗茂(統虎)の弟が島津に
    捕えられていますが、それが「統増」です。名前を変えたりしてややこしいから図示しますと
    次のようになります、常山では、世に云う吉弘加兵衛(統幸とされる)が見当たりません。
     ▲の人らしいということでしょうか。

               立花道雪ーーーーーー養子(立花宗茂=高橋統虎)
               (鑑連)

               兄★高橋鑑理
      高橋家ーーー|
              ■高橋紹運(鎮種)    立花宗茂(高橋統虎)
               ‖ーーーーーーーーー|
               斎藤鎮實の妹      ▲高橋統増(薩摩に捕らわれる)
      斎藤家ーーー|
               斎藤鎮實

    道雪と、★の人物とは「鑑」が同じだから、義兄弟という関係かも。
   勇猛にして廉潔な希に見る大将という立花宗茂のイメージは戦国の文献が崩しています。〈前著〉
   で既述。立花ムネシゲが本多平八のような存在であったといえますが、道雪のもう一人の
   子息ではなかったかというがいいたいところのことです。▲のような感じの人です。常山が
   いっていないのが高橋家の姻族ですがこれはネットで確認すると吉弘が出てきます。
   
       高橋家     ■高橋紹運ーーーーーーーー立花宗茂
        |ーーーー  ‖                ‖(▲高橋統増)
       吉弘家      斎藤家鎮實の妹       吉弘加兵衛宗幸

   一時、このような関係があったということになりそうです。▲の人物は捕らえられましたが、
  同じ体験をした特別な大物がいます。本能寺の直後、於関東

     「(滝川)一益鼓をうち、兵の交わり頼みある中の、とうたひければ・・・笛吹嶺(うすひたうげ)
     に至る時、国人の人質悉く帰し、木曽路より帰京す。滝川彦次郎は一益が長男三九郎、
     二男八丸を伴い木曽路にかかるとき、一揆起こり八丸を奪い取られしを、一益が士古市
     九兵衛一揆を追い払い、八丸を奪いとりて一益と同じく長嶋に帰る。{一説、神奈川の
     合戦に八丸生け捕られし、古市追い討ちて其の敵を切り伏せ、八丸を奪いとりて連れ帰る
     おいへり}」〈常山奇談〉

   「八丸」が捉まって難儀したと嘆いているのですが、八丸がいなければ無事帰ってこれなかった、
   「八丸」さまさまですがこういう言い方をするわけです。属性の一つになるのでしょう。すでに
   出た「古市播磨」の一人は太田和泉守といえます。はじめの謡いは桶狭間の宮福大夫の動作
   を受けています。滝川左近ー嶋左近ー木曽路というもう一つの表記の流れもありそうです。
  ▲の人物は立花の軍事を支える大将といえそうです 常山は吉弘の名前「宗幸」も出していま
  せんが、この「幸」が「雪」で、道雪の「雪」とかすかに繋がっており、「宗」によって「宗茂」の「宗」
  を示しているのでしょう。吉弘宗幸は道雪の意思を汲んで、大友家の再興に腐心していたと
  いえます。大友の取つぶしが不当なものであったことを知っていたこともあったはずです。
  常山における吉弘の横顔は「由井雪加」という人物で語られていると思いますが、表現が複雑
  なため、すぐには理解しにくいものです。とにかく陣没した道雪の
    「棺の供して立花へ引き取」ったのが「雪加」という表記の人です。「雪加」=「幸加」という
  もので、真田幸村=田真雪村というようなものではないかと思います。とにかく
      「斎藤」
   がここに出ましたから、「斎藤織部」というのは常山の創始の表記ですから、まあボンヤリと
   思い出しておくとよいのでしょう。この名将、吉弘を石垣原で討ったのは
          「小栗(をぐり)」
   です。
   たとえば「石垣山」で思い出すのは「秀・吉」の一夜城です、城造りの「秀・吉」に、ここへ
   奥州から、遅ればせにやってきてあしらわれしまったのが「伊達政宗」「伊政・宗達」です。
   「垣」というと「大垣」と「大柿」の炙り出しはもう前提となっているもので、「太田垣」=「小田垣」
   ですから「小田原」=「太田原」は「小俵」=「大俵」で、「石垣」の「石」は「石山の石より白し」
   の「白」です。 「石」=「石山」で「石井」→「石田」というように辿っていける、そういう「石垣」
   を背景としての「雪加」の吉弘加兵衛の宗幸で、加兵衛は
           「古田」の「可兵衛」〈信長公記〉と「油比可兵衛」〈信長公記〉
   しかないし、森銑三は、索引に「由井正雪」(丸橋忠弥の名とともに有名)を出して、「由井
   雪加(これは索引に出ていない)をだして、間接に「古田」(高山)を出すという作業をしています。
   由井正雪の真の敵は松平伊豆守信綱ですが、そこからでも古田を呼び出せそうです。
   長谷川等伯は白ですが「雪」の「白」、雪舟の系譜だということで「等雪」も「宗雪」もあると
   いうことになり、「宗幸」→「宗雪」は「長谷川宗雪」にもいってしまいます。
         
   「宗雪」+「道雪」で
             宗 雪
             道 雪
   「宗道」も出ますが、長谷川等伯の父は、「宗道」です。養父が「宗清」で「宗清」は「道浄」と
   いうようです。読みから「宗清」は「宗誓」も「等誉」の「誉」にもいきそうです。等伯がでてきた
   ので雪舟まで皆が遡ってみるようになっているといえます。
   道家(清十郎・助十郎)の雪が、立花道雪の棺をひきとったという接近になったといえます。
   さらに「立花道雪」では。
     「若かりし時雷に震(うた)れ、なえ歩行心に任せず、常に手輿に乗れり。累代大友家に
     属す。」
   となっています。前半、太田和泉守に似て、後半大谷吉隆の動作に同じです。大谷吉隆の
   父は大友家の人という設定がありましたが、(大谷吉隆@)は大友というのでしょう。それに
   「雷」と「地震」で、足をやられたというのはスケールの大きい話です。「立花」は「橘」をみて
   おり、「道家」の「雪」となると「雪」は「小牧」の「高山右近大夫幸任」の「幸」、「雪」は
       「法泉寺の雪岑」〈信長公記〉
   を呼び出し、この「雪岑」はテキスト脚注では
      「甲斐法和泉寺(甲府市和田町)住持。」
   となっており、「和泉」と「和田」が湯浅常山が参考にした文献の著者の興味をひいたのでしょう。
   「雪」は、真田にも・・という
   語りです。こういう地方で中央のことが引き合いに出されるとは考えにくいわけですが
   常山には用意が出来ています。

     「千石権兵衛九州に間者の事
     秀吉嶋津を討たんと思ふこと年久し。天正十三年千石権兵衛を商人の体にして九州
     に間者とし、山々浦々の地理悉く絵に書きて起き臥しに見、兵を分かち攻め入るべき
     道々を計られけり。」〈常山奇談〉

  この動作は高山右近を思い出しますが、「羽柴筑前宮の上より見下墨(みさげすみ)給ひ・・」
  という筆で描くというような感じのものがあります。千石は
     「土方彦三郎 討死、森三左衛門、千石又一に渡し合ひ・・・三左衛門ヒジの口きられ
      引き退く。」〈信長公記〉
   があり、膝も切られ、ヒジもやられ大変ですが、「千石又一」で「又市」が出ましたから、また
   「小栗」です。「栗の木」と「行基」の「基」が〈奥の細道〉「すか川」の等窮(相楽伊右衛門)の
   くだりにありますので、ここがやはり宮本武蔵まで入っているのか、ということになってきます。
    「すか川」の相楽伊右衛門、「等窮」という名前は、もう一つ「福井」で出してきている「福井
   等栽子」とちょっと勘違いをおこしそうで、これは
          「洞哉」「洞栽」
   というようです。「等栽」「等哉」「等載」もあるということにしたわけで、実際はこの字ではないかもしれない
   のに、無理に「等」使ったわけで、「福井」のくだりと「すか川」を
         「等」
   でつないでいるといえます。極端に言えば、「相楽郡」は山城だけにあり、須賀川には「伊達郡」
   相馬郡」があり、相馬と楽焼で「相楽」「伊右衛門」としたのかもしれません。それはどうかはわかり
   ませんが
       「相楽伊右衛門」
   という名はとにかく全国の関心を呼んでいたと思われます。ネット記事「Kyoto Shimbun」に
   よれば、今の、「伊右衛門」のお茶は
    「1790年、山城国上狛(京都府相楽郡山城町上狛)で福井伊右衛門が茶商として創業。」
   となっています。芭蕉は「福井等栽子」といっており、これはおそらく「福井の」という意味でしょ
   うが、ここでは「福井伊右衛門」としてしまっています。おそらく、「相楽郡」を踏まえて、
   福井、は直接出てこない、伊右衛門は出てくる、しかし山城は出てくる、「等」栽でやると
   福井も出てくる、「等」は須賀川の等窮につながるから、まあ「伊右衛門」と関係がある、
   福井伊右衛門、と名付けた人は芭蕉が好きで、たとえば、伊右衛門という名を無理に付けたと
   いうのがあるのかもしれません。たまたま「伊右衛門」だったから「福田」という姓だったかも
   しれないのにやってしまった、という可能性もありますが、その場合は親子で「伊右衛門」に
   拘ったのでしょうから「伊右衛門」を無理につけたというのが正解と思われます。「伊右衛門」
   には太田和泉守の響きがあります。湯浅常山は伊右衛門について語っています。

        「伊藤伊右衛門武田勝頼を討ちしを津田幸庵物語の事
      福嶋左衛門大夫正則の内伊藤伊右衛門、武田勝頼を討ち奉りし士なり。・・・伊右衛門
      ・・・滝川左近一益・・・一益が甥滝川義太夫・・・滝川義太夫・・・・義太夫・・・・義太夫・・
      義太夫・・・・伊藤伊右衛門・・・・伊右衛門・・・伊右衛門・・・栗毛粕毛の毛・・・栗毛の馬
      の毛付・・・・伊藤伊右衛門・・・伊右衛門・・・」常山奇談

  つまり「伊右衛門」へのコダワリがあることを常山はいっています。「栗」がここで出てきました。
  あの相楽伊右衛門、ここの伊藤伊右衛門、福寿園の相楽の福井伊右衛門、この二つの「等」を
  結ぶのは大きい意味があると思われていたということかもしれません。〈奥の細道〉福井の等栽
  のくだり
   
      「丸岡天龍寺・・・金澤・・・北枝・・・風景・・・折節・・・書・・・扇・・・余・・・哉・・・・永平寺を礼す。
      道元禅師の御寺なり。邦機(近畿)千里を避けてかかる山陰に・・・貴きゆへ有とかや。
      福井は三里・・・夕・・・たそかれ・・・・爰に等栽と云ふ古き隠士有。・・・夕・・道心・・・等栽・
       ●裾(すそ)お(を)かしうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立つ。」
  
    ここの等栽が、●の文の動作をしますので、ここが1つのポイントです。「裾」はネ+「居」で
   あり、人名表記の「い」で一番多いのが「伊」です。〈信長公記〉では
    「居」は「居初」の2件ですが、「伊」は「伊藤」「伊東」など26件もあります。登場回数も「伊賀
   氏」の伊が多いので群を抜いています。飯も10ありますが、「いい」と読み「い」と読むのは1件
   です。「井」は「井戸」の一件で「井上」も2件あります。「猪」が多く名前も併せるとたくさんありま
   す。「伊」のもとは、イザナギ、イザナミの「伊」ですから始から重要度を持って回数も多いと
   いえます。
    「伊」は「これ」とも読み「惟」とつながります。池田の伊居太神社もあり「居」は「伊」を道づれに
    「おかしう」も「おかしく」の意味をいっていると思いますが「裾を」「かしうからげる」ではないか
   と一応悩まされます。「伊兵衛」という人物は歌舞伎の町「小鹿野町」に「森伊兵衛」がいます。
   これは「小野」と「小鹿」の組み合わせの名前の町です。
    「路」は「大田(おほだ□)路次」(信長公記)があり、立は「建て」「達」「舘」「竜」「柳」です
   から、「天王寺屋竜雲」の「竜」ですし、この「雲」は先程「高橋紹運」の「運」につながりこれは
   「連れ」の「連」にも似ていました。奥州での「田一枚植えて立ち去る柳かな」の柳も立と
   いえそうです。
    こういう中で枝折が出てきて「森」の「織」登場へ導いてきているといえます。
   つまり、「等」は「等伯」の「等」で「高山」が出て、二つの「等」は「伊右衛門」の「伊」に
   繋がっているといえます。「伊」=「居(すえ)」で「折」「織」で古田もありそうです。
   脚注では、この一節、源氏物語の「夕顔」を踏まえているということで
   すから「枝折」というのは「紫折」もありうるかもしれないしれません。「紫」が出てくると
   二つ出てくる、あの「木瀬(黄瀬)春庵」の信楽の里はネット記事にのよっても
      「紫香楽宮」
   がでてきます。つまり「相楽」という「楽」が顔をだすということにもなります。こういう具合で
   見てきますとここの
      「爰に等栽という古き隠士あり。」
    というのは「ここに」があり、「等」「(斎)」があり、「隠」(印)(因)がある、また「古」もあり、
   「夕」「道元」もあるから、太田和泉守(武井夕庵)が登場している感じがします。これは
   「道元」についてテキスト脚注では、
       「久我通親の子、越前の守護、波多野義重に懇請されて寛元二年永平寺に移った。
        著書に〈正法眼蔵〉がある。」
   と書かれており「古河」「越前」「波多野兄弟」「重」「法眼」「正眼寺」(〈信長公記〉)なども呼び
   出してきており、「古法眼」「正法眼蔵」→「宮居眼左衛門」が出てくると一挙に相撲の連中、
   木瀬蔵春庵などが出てきます。

   ここの「邦機千里」が〈詩経〉の「邦畿千里、惟レ民所止」を踏んでおり、「惟」が出て来ています。
   この「千里」はスタートの「千じゆ」の「千」と繋がっていますが、「里」がもう一つ出ています。
   ここの「福井は三里」はどういうことかということですが、この「三里」について、脚注では

     「どこから三里なのか明らかでない。前文をうけると永平寺からということになるが、その
     距離は約四里で夕飯をしたためてからでは遠すぎる。あるいは永平寺から松岡の天龍寺
     に帰り、そこで夕飯をしたためたのかもしれない。」

   となっているので、永平寺に行ってないことをいいながら無理に三里を出したかったともいえる
   のでしょう。三□里と□千里で「三千里」をだしたかったのかもしれません。初めの千じゆで
   〈源氏物語〉の「・・霞・・・三千里・・」で出てきました、三千は「三千風」の三千を出そうとして
  いるというのは既述ですが、三里も意味があるようです。
        「三里に灸すゆ(う)るより松嶋の月先ず心にかかりて」
   がありました。脚注では
        「三里は灸点の名。膝頭(ひざがしら)の下のややくぼんだところ」
   とあります。「印牧(かねまき)弥六左衛門」も膝をやられるので、ここは「膝」が役割を果たし
   この松嶋は、あの松嶋や、壷の松嶋もありますがやはり、松倉右近重政・嶋左近勝猛の
   右近左近をだしているといえそうです。太田和泉守が里に絡んで出てくるのは「黒田」の「黒」
   多賀城の「里」、もありますが、「小里」「古里」もあります。「福井」はなにを出したかったのか
   わかりませんが福伊、福居があるのかも。
   
    本当は「松岡」が原文はここの「丸岡天龍寺」となっているのがまた問題です。
   脚注では、この一節にある■のことについて、脚注では
     「繁華の地に寺を建てると僧が堕落するので越前を選んだという説がある。」
   となっている一件です。これは、越前が、継体天皇の母の里のようで、天皇を養うために
   指定した土地が「越前」の「高向」で
      「高向(現丸岡町)は越前の国の邑の名」(日本書紀)
  と書かれています。
   〈日本書紀〉から芭蕉は「丸岡」にしたと考えられます。これはもう一つは鶴岡の「丸岡」と
   重ねる意味もあったと思われます。道元がこの地を選んだのは、前太守「波多野出雲守義重」
   が招いたことと、師の如浄禅師が「震旦越州」の降誕ということにあるようです(明智軍記)。
   前者の理由はうなずけるとしても、この「震旦越州」は日本の「越州」ではなく表記が同じという
   感じのものですから、「越州」にコダワリがありそうといっていると思います。道元の
   「久我(こが)」氏は「古我」→「蘇我」氏かもしれません。
    ほかに書いていないことを〈明智軍記〉が書いているのだから、いまとなればその見解に
   従わなければどうしようもないようです。〈明智軍記〉は、太田牛一が明智を語るために、「蘇我氏
   (入鹿)伝説」を取り入れたといっているといっているのでしょう。聖徳太子のころの国づくりの
   ことと結びつけようとしたのは、必然かもしれません。考えに共鳴したということはありますが、
   〈記紀〉を読まなければどうしようもないから解説部分がふくらんだとも考えられます。
   表記では
       「永平」「道元禅師」
   は利用できます。「永・平」は「長・兵衛」で「前野長兵衛」「大橋長兵衛=(中条又兵衛)」の
   ようにもなり、「道元」は「道化」「道家」の「道」、「元」は〈甫庵信長記〉の
        「元就・・・・・半月の立物(たてもの)打つたる五枚甲を猪首に著なし、栗毛の馬・・・」
    ともなると「安藤守就」の「就」を引っ付けて「青山」の「向城(むかいしろ)」に込み入る、
    ちょっと修飾のありすぎる「元」にも取れそうです。太田和泉守が「敦賀」の「気比神社」などの
    再興をしたことに関して、このあたりの故事来歴を調べて書き残したものが、〈明智軍記〉の
    記事となったのかもしれません。
    芭蕉の
    〈奥の細道〉の福井の次ぎは敦賀で、特に気比神社です。ここは「結城秀康」が再興したこと
    が由緒にも出ており、一般に語られていることですが由緒の結城秀康の炙り出しがあって
    表記が違っているので奇異に感じたことがあります。今となっては確認できませんから
    写し間違い、見間違いの水掛け論になりますが、それが契機になったということでもない
    から、それはさておいて、文献では結城秀康がもう一人いるわけです。
    
       「越前黄門秀康卿伏見御屋敷へ於国(お□くに)を召さるる事
       伏見にて越前黄門秀康卿御屋敷へ於国(お□くに)といふかぶき女を召して、かぶき
       をどらせて御見物あり。水精(すいしやうさん)の珠数をえりにかけ舞たるを御覧なされ、
       水精は見苦し、とて御具足の上に御かけ成され候。珊瑚珠の珠数を下され候。於国が
       舞うを御覧なされ、御落涙有之(これあり)。・・・・」〈常山奇談〉

  となっています。このタイトルの結城秀康がいわゆる結城秀康で家康の子でありながら秀吉の
  養子となった人物で、豊臣思いの優れた大将として、また梅毒で知られています。
  捨てられていたので、ワケを知っていた本多作左衛門が養ったという話しですが、乱行の越前
  忠直の父で、越前の領主、中納言でもあったと思われます。その奇縁もあり気比神社の再興を
  したというのは筋の通った話です。一方於国をみて落涙をした人物が役者の太田和泉という
  ことになるのでしょう。これは、黄門中納言として水戸光圀と重なっているのでよく出来た話と
  感ずるところです。〈武功夜話〉に信長公が大納言になったという話がありますが、大納言は
  徳川大納言、前田大納言は知られていますが信長がそうだという話は聞かないわけです。
  中納言だから次ぎに大納言というのは太田和泉に考えが及ぶとよく出来た話となります。
   ただ文献にあるので織田信長大納言というのは、ほっとくわけには行かないはずの大胆な
  記述です。

  (85)出雲於国
   問題は秀康が
            ○於国に接近したのはなぜか、
            ○水精(すいしやう)をやめさせて、珊瑚の珠数で舞わせたのはなぜか
  ということです。出雲の於国はさいわい前の稿でわからないままに書いていますので予備知識
  がありますから、それを生かすと、大阪天満宮→大村由己→(於国)の紹介者、亀山の出雲などの
  線から「大村由己@」=太田和泉守が出てきます。次の「水精」は「水の精」ですから、本来、
  あの「水晶」ではありませんが、ここでは宝珠としての「水晶」として訳されるのがルビから察せら
  れます。つまり「スイショウ」が二つありそうだということが暗に示されているといえそうです。
  ここの「すいしやう」が「水晶」となるのは、〈信長公記〉によります。天正三年

      『去(さんぬる)十日の夜、岩村の攻衆の陣取(じんどり)水精山(すいしやうさん)へ
      敵方より夜討ちを入れ候。則、河尻与兵衛・毛利河内・浅野左近・猿荻(サラウギ)甚太
      郎、爰かしこを支え水精山を追い払い、岩村の城に楯籠り、尺(さく)を引破り夜討の者と
      (十二)  一手になり候はんと・・・』

  の記事があり、この「水精山」についてテキスト脚注では
      「水晶山。岐阜県恵那郡岩村町所在。九九一米。」
  となっています。実際も水晶山というようですから、これで決まりとなってしまいます。ここで
  河尻与兵衛(枝と与を平を内包している)、毛利河内(森と枝を内包している)、浅野右近(又と
  と高を内包している)などによって太田和泉守臨場が予想されますから、常山の「水精」が
  ここからきており、太田和泉守のことをいっていると取れます。一応猿荻甚太郎があるので
  この三人1つにl括れるのかもしれません。
      猿荻は「荻は萩とにているので「萩」もありうるから、ルビ(サラウギ)となったと思われ
  ます。
            猿萩       SAR(U)H    AGI    さらぎ
            猿荻       SAR     (U)OGI    さるぎ
 のような感じで「猿」と「葭・葦」を出して代表させたと思われます。珊瑚に替えさせた、その心が
 どうかということですがこれは古典の読みの解説といえそうです。
    「此御時。皇后(神功皇后)とよら(豊浦)の宮にて如意寶珠を得たまえり海の中より
     出きた(ルビ=来)り。」〈愚管抄〉仲哀の条
  ネット検索してみてもわかりますようにこの「如意寶珠」は「水晶」として疑問のない意味とされて
  います。〈甫庵信長記〉でも如意寶珠が出てくるところがあり(作物の記)、既述ですが、難しい
  漢字が出てくるので転載できないのは残念です。が、「珊瑚」という言葉を出さずに「珊瑚」を長々
 と語った一節ではないかと思います。つまり物体も二つありということを語ったものです。さきほどの
 肉のようなもので、人名や地名だけではだけではなく、例えば年号も二つ使い分けるというのも
 あるのと同じです。〈甫庵信長記〉

   「如意珠、梵(ぼん)に在つては摩尼(ま□に□)と云う。・・席上に居(お□)くべき奇貨とす。
   ハイ(木+貝)樹に斎(ひと)しきを以つて御多羅枝(おんだらし)と曰う。・・・七宝の台・・」

 があり、「摩尼珠」も如意珠と同義とされていますから真珠になってしまいますが、
      「ま□に□」
  のルビは
      「□マ□ニ」
  も予想されるから二種がありそうです。また
    ○「居(お□)く」というルビはおかしい、「据える」で強いていえば「置く」という物になる
    ○「御多羅枝」などは「枝」の存在がある、
    ○「貝樹」は「珊瑚」のイメージがある
    ○海から出てきたもの
 などがあります。決定打としては
     「尺(ルビ=さく)」
  があります。これは「珊瑚」の「珊」が「柵」に似ているところからきています。伏線があり、
      「尺限廻番衆」(信長公記)
   があり脚注には
     「柵内を巡回する番衆。柵を尺と書くのは当時の通例(中垣文書)」
   となっています。〈甫庵信長記〉では「柵際の廻番」と書いており」  
         「尺限」
         「柵際」
   というのは、かならずしも同じではなく、「限」は「際限」という語句は使っており境目ぎりぎりの
   意味で兵士の役目のあだ名とか職制名とも考えられます。まあそれは当時「尺」を「柵」がわり
   使っていたとしても「柵」を「珊」と間違って使用しても似ているから問題ないはずです。
   また「摩尼」は珊瑚とすると
      「麻生三五」
   という重要な名前が
      「麻生三五(珊瑚)」
    として利用された可能性があります。「摩尼」の「摩」は
      「麻手」(麻も単独で「ま」と読む)
    ですから、「麻牛」に似ているわけです。「麻牛」+「一」こそ「麻生三五(珊瑚)」です。
    「摩尼→珊瑚」といいたい、これは「麻手二→三五」で、「麻手一一三五」で
        麻生一三五(珊瑚)
    という感じです。つまり「麻生三五」は1つはボンヤリと太田和泉を表わす、三で森可成、五で
    古田を暗示したものといえます。要は「太田牛一」は「生」をペンネームに折り込んだといえる
    のはここです。有名な「七枝刀」は珊瑚を形づくったもので御多羅枝というのは「白羅」「新羅」
    「加羅」の色が濃厚で「森羅」も入れたかもしれません。とにかく「摩尼」は「珊瑚」というと
    かなり読みが変わってきそうで慈円などの言いたいことを受けたといえます。いろいろあって
    そんなことないだろうということを努めてやってきていますが、水晶山の高さ、脚注では
      「九六一米」
    となっています。、これは961「黒井」にしたのではないかということの疑問です。明治の
   測量だったら963辺りだったら961にしてしまいそうです。本当はどうか知りたい、さいわい
   ネット記事(hayashi)があり958メートルでした。水晶山はあちこちにあり、例えば秋田のも
   のは「秋田県鹿角市尾去沢にありました。鹿角というと角鹿、つまり気比神社になり、尾去
   沢も尾花沢を思い出します。曾良の足跡も秋田にあり、水晶山になった時期がわからない
   というのであれば戦国時代以後の命名ということになります。こういうのは往々にしてあるよう
   です。テキスト脚注では

      「●奈賀良の川を越し、山県という山中へ引き退き・・・」〈信長公記〉
 
   の●の解説があり、
      「長良川。大田岳に発源。濃尾平野を貫流。揖斐川と合し、木曽川に入る。156粁。
       鵜飼で有名。」
  となっています。大田岳が木曽長良の源など聞いていない、また大田岳というのも余り聞かない
  ということで奇異な感じがします。かりにこれが出鱈目としても記事としては問題いないわけです。
  すなわち「長賀良」もおかしいから「大田岳」もおかしい、おかしいもの同士間に水が流れて一貫性
  があります。これは地元の人しか直ぐわからないことですが、これは大日岳であろうというのは
  既述です。これは
  岐阜県と福井県の境辺りに二つあるようです。どちらも視野にいれているでしょうが、
  「飛騨」「肥田」「日田」が背景にあって大分県の「日田」なども含んでの話です。その大日岳を
  大田岳と一緒にした、つまり
                大日岳
                大田岳
           −−−−−−−−
               大「日田」岳
  と並べてみると、一見、似ています。要は「日田」という一字をつくれば、大日も表わし
  大田も現せるということになります。
    「日田」マイナス「一」=「日出」(ひじ)
  は木下延俊の日出藩によって脚光を浴びるようなりました。
    「田」=「出」プラス「一」、
    「日」=「日出」マイナス「出」、「出」=「日出」マイナス「日」
    「田」=日出マイナス日+一
  ということになりますので、いまネット検索で「ひじ」で入力します「肘」「肱」「日出」が出てきます。
  それほど標準的な固有名詞といえます。辞書では難読の例として「日出」(ひじ)が出ています。
  
  この(ひじ)が太田牛一によって利用されたので、木下延俊は(ひじ)と呼ばれる場所を利用
  いたといえます。〈信長公記〉
      「森三左衛門、千石又一に渡し合ひ、馬上にて切り合い、三左衛門啓(口が月の字)の
      口きられ引き退く」
   がありこの「啓(月)」がルビがないのが問題となったはずで、本来なら「ひざ」のはずですが
   「ひじ」かもしれない、ということで「日出」が出て、日田→肥田→飛騨→大日(田)山となって
    いったのではないかと思います。それにしても「曾良」というのは
            木曽川
            長良川
   の「曾良」から取った名前だとネットにあった挿話は、大田岳が源流だから一層凄い命名で
  あると思います。「蘇良」も含むから一層、目的端的で、「奈加良」「奈賀良」(信長公記)の
  炙り出しは、「奈良」と「加賀」をまたいだもので「鹿々」にも想念が及ぶものです。長良は
  「長柄」もあり、織田信長の「長柄」の鑓にも及びそうですが、太田牛一は
      「三間柄・三間間中柄などにさせられ・・・」〈信長公記〉
  お書いており、「三間間中柄」の「間中柄」だけルビがついており、
         ま□ なか え□
         間   中  柄
  となっています。「マ」「エ」もルビとして入れたいというものがあるといえそうですが直感では
 「真ん中」の「真」がありこれは安土城で既述ですが、「エ」も「絵」で一応読んでいます。
      「(沢村)才八」の「皆朱の槍(金篇)の柄」〈常山奇談〉
  があり、一応これも表記は
        「朱柄(ルビ=しゆ□)」「槍の柄(え□)」
  となっています。「え」という物体に二つあるということをいっていそうです。つまり
  実体に合うのかどうかはわかりませんが「絵」の大きさも表わす三間、一間半などはないか、
  というのが疑問です。そうなれば、信長の16・7・8、のころの様子を述べたくだりでやや
  不自然な感じの次の挿入文があり、「水練の御達者なり。」と述べてる後は、次の★に飛んだ
  方が武勇の信長の若き日の行動の描写としてはまとまります。
  
      「其比の御形儀、明衣の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ
       御髪はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻き立てゆわせられ、大刀朱さやを
       ささせられ、悉く朱武者(あかむしや)に仰せ付けられ、★市川大介めしよせられ御弓
       御稽古、・・・・・・★★町を御通りの時・・・瓜をかぶりくい・・・」〈信長公記〉

  ★の前からは、★★に繋ぐほうがよいのは明らかです。★の前までの「行(形)儀」は「行動」
  の他に「形」があることを示しており
    「明=赤」「衣」「袖」「袴」「袋」「色々」「茶」「くれない」「もえぎ(脚注=黄と青の間色)」、
    「朱」「朱」「糸」「さや」「巻」「結ぶ」
   とかの、色とりどりの美術品を思わせるものが取り上げられ、信長の裏で自分の当時の熱中
   していた分野のこと、絵などを描いている動作などを述べたのではないかと思われます。
   自己を打ち出す、というのが、こういう自然のものに名前をかぶせる場合があり、それが今日
   及んでしまうというのもあります。
   テキスト地名索引に
         「大田口 114」
   というのがありますので見ますと、そこには見当たらず、124ページにありました。ここに
        「河内(かわうち)長嶋表」〈信長公記〉
   が出てきますが、これは脚注では
        「三重県桑名郡長嶋町あたりの旧名。木曽川・長良川の間の大洲。」
    となっており、「河内」、「桑」の「三又・木」、「長・嶋」が「木曽川・長良川」を背景として出てきた
    わけですがここに
       「■川西多芸山(た□ぎ□やま)の根へついて大田口へ働きの衆
       ・・・・・不破河内・丸毛兵庫守・飯沼勘平
       右手は大河なり、左は山の下道一騎打ちの節所の道なり。・・・・・・」
   がありますが■の脚注は
       「三重県桑名郡多度町から岐阜県海津郡南濃町太田あたりまでの左手の山」
    となっています。こういうのは大田口が効いてきてあたり一面太田で染めてしまう感じです。
    〈甫庵信長記〉では「大田河」を流れさせて「大田郷」「大田村」「大田村七屋敷」など出てきて
    現在こんな地名が残っていないはずで、作った地名を活用しているといえる、これがあちこち
    に出てくるので、ここのところは名前作りのもとになっているといえそうです。〈奥の細道〉で
    曾良が「長嶋」へ先に行ったのは、この大田の長嶋が頭にあつたと思います。
    多芸(たぎ)が「滝」「多喜」「武井」などに変化して太田和泉守の世界を広げています。ここの
        「飯沼勘平」
    がこの重要なところで出てきたので有名でないだけに、誰かというのが頭の痛いところです。
    
(86)飯沼勘平
  この人物が武蔵を語るに直接ではないのですが、重要な働きを示すのではないかと思います。
   人名索引     宮居眼左衛門
              宮川八右衛門
  の「宮居眼」は感じからも宮本武蔵に関係がありそうで、飯合宮松とでも取り合わせてみると
       宮居眼
       飯合宮
 居合も出てきそうです。間合い、とか正眼の構えなども派生しそうですが、それは別としてもここで
      「宮川八右衛門」
  が出てきました。〈信長公記〉の信長上洛時、暗殺のくだり

    『丹羽兵蔵・・・三川の国・・・・湯入(ゆいり)・・・三川の国・・・湯入・・・上総介の討手・・・・・ 
     ・・・・近松田面(たのも□)・宮川八右衛門・・・・京着・・・■二条たこ薬師・・・・室町通り
    上京うら辻・・・・・金盛か蜂屋・・・・丹羽兵蔵・・・・■二条たこ薬師辺・・・美濃衆金森・・・・ 
    丹羽兵蔵・・・・夕部(ゆうべ)・・・・・上総介殿・・・信長・・・・金森・・・小川表・・・小川表・・・』

  で近松田面(脚注=頼母)と並んで出ています。刺客五人の内の一人です。一応これを実在ら
  しい刺客と解して読み飛ばすのが、今までされてきた読みですが、こういう刺客の名前まで
  書いている太田牛一は几帳面な人だ、という印象を植え付けるものでもあります。近松という
  名前と珍妙な当て字がそれを破っているものといえます。「近松」にはもう一件
      「近松豊前」
  という孤立表記があり、これは「丹羽五郎左衛門攻口にて討死の衆」の中にいます。つまり
  「近松」がプラス1、マイナス1で消されたわけで、読者にその残像を残したといえるものです。
    金盛=金森
  の炙り出しがここにありますの
  で「盛」(もり)=「森」で今後みればよいという示唆もあり、佐久間信盛が信森となると多少
  印象が違ってくる、太田和泉が乗っていそうというのも出てきます。大谷吉隆の父とされる大谷
  盛治も「森治(春)」でもよいようです。金森で目に付くのが「金森五郎八」の表記ですが
      「五郎」「八郎」
  を含んでおり、「森」の五と八を暗示し、麻生三五、の三・五・八、円浄寺源七の七にも通じさせ
  ようというものがあります。金森はテキスト人名注では
      「金森長近  (1525〜1607)はじめ可近。金森氏は美濃土岐氏の庶流。美濃国から
      近江国野州郡金森に移り、金森を称した。定近が長近の父ともいう。長近は五郎八。
      信長の将。」
  となっています。「金森義入」(信長公記)もあって、本能寺で戦死しています。「金盛」を消した
  のか、子息の存在を思わせるものか、八郎というもう一人の存在も示すものか、「義入」に
  意味があるのか、など考えられどれか決めかねますが、そういう人物を背景にして
      「宮川八右衛門」
  の登場となりました。■が場所的な背景となっています。テキスト脚注では

      「円福寺の蛸薬師堂。浄土宗。はじめ叡山の北谷。三条室町に移る。のち四条へ移転。」

  となっています。余談ですがこの「北谷」はそのもの自体が響きをもつている感じで、芭蕉の
  羽黒山で「南谷」が出ましたから、それに類するものもあるのかもしれません。
      叡山→伝教大師→弘法大師→羽黒山の無辺→羽州黒山里山→南谷→左吉→武田
      左吉→叡山の佐久間信盛武井夕庵
  というような〈甫庵信長記〉の世界で比叡山を焼くな、と信長に進言したのはこの二人です。叡山
  「北谷」と「南谷」があってそれが移されたのが〈奥の細道〉の羽黒のくだり、芭蕉にこの「円福
  寺」が頭にあったのか、というのがありえます。とにかく後世、ひっかける人がありそうな感じの
  円福寺の、移転ですが、円福寺の属性が広がるというのもあると思います。
  この円福寺をネットで引くと
     「飯沼山」「飯沼観音」「観音駅」
  が出てきます。「記事」の「円福寺のお宝めぐり」によれば
    「水戸光圀公の直筆の“龍”の版木や葛飾北斎二世の絵馬“武者組打ちの図”などが特別
    公開されました。」
   というのが出ています。まあこれは代々寺の住職の趣味によって集められたものでしょうが、
   当日は無料の上、おしるこが振舞われたようです。ここに「観音駅」というのが出ていましたの
  引用させていただきました。太田牛一は全国の地名にコダワリがあり、こういう地名も見逃さな
  かったと思われます。つまり太田牛一は
            「飯沼」=「円福寺」
   というものを知っていて、全国の円福寺も知っているなかで「飯沼」を「飯沼勘平」に使った
  といえそうです。「勘平」は「勘兵衛」でもありますが、後者のほうが強そうです。
  〈信長公記〉では「八右衛門」で宮川は終わりですが〈甫庵信長記〉に宮川があります。(一部既述)
        「陶五郎(隆房)天神山へ陣を易(か)ふ」〈甫庵信長記〉
  のあと、「宮崎長尾」「元就」「三沢高橋」「陶」「尼子」「陶」「深野平左衛門尉」「宮川」と出てくる
  戦死した「宮川」があります。
   また「太田河」「太田の郷」における「ト全」戦死の場面、「ト全が先手の者どもに」ということで
      「種田信濃守、宮川但馬守、飯沼勘平、西尾小六」
  があって、そのあと、市橋、丸毛が出てきたあと
      「飯沼宮川、西尾、桑原土佐守など・・・」
  で出てきます。この大田河の流れに添って「飯沼」「宮川」が出ているというのが一つの着眼
  点になります。
   もう一件は朝倉との刀根山峠の一戦

    「(右兵衛大輔龍興を)氏家左京助家の子宮河但馬ぞ討捕りける。・・・不破河内守が郎等
    に、原賀左衛門と云ふ者、印枚弥六左衛門と云ふ兵を生け捕りて参る。・・・・金松又四郎」

   というように氏家の家之子、として出ています。「家之子」という雰囲気が重要でしょう。
  
  宮川(甫庵だけに登場)は戦死して消えますから太田和泉守が出てきて消えたということで
  いいはずです。宮本や飯沼や宮居眼の語りを補う役割を持って出てきたと思われます。
  宮川八右衛門は〈信長公記〉だけの登場で、宮居眼、飯沼などに「八」の意味づけをしたと
  思われます。出てきた場面は
     「小池吉内・平美作・近松田面・宮川右衛門・野木次左衛門」〈信長公記〉
  ですがこの五人は桶狭間の
     「岩室長門守・長谷川橋介・山口飛騨守・佐脇藤・賀藤弥三郎・・」〈信長公記〉
  の括りのポイント示す「八」を暗示したりする働きをさせたと思われます。要は「宮川八右衛門」
  はとくに宮本兵大夫を「八」という感じにさせた表記といえます。そういうのを感じさせるものが
  ほかにもあります。桶狭間のときに江州、佐々木から応援に来ています。四人きています。
  で、
    「・池田勝三郎信輝佐々木の加勢前田左馬介兼利・乾(いぬい)兵庫介定教・織田大
     (すみ)守信広・同四郎次郎信実殿を先として、・・・・」〈三河後風土記〉

   があります。この前田という人物は〈武功夜話〉で  
    「前田左馬介は尾州下の郡荒子邑の産なり。・・・犬山(信清)様の家来に佐脇藤左衛門
    なる人あり。この人男子相無きにより、上総介様御内前田又左衛門尉(利家)の舎弟、
    藤八(佐脇良之)なる者猶子となす。左馬介は藤八の舎兄なり。・・・」〈武功夜話〉
   となっていますから、あの桶狭間の「佐脇藤八」が絡む人、つまり「八」、男の色の人が応援
   に来ています。これは世代が跨ってそうな話で、後年の前田=藤八の関係は暗示して
    いると思いますが、昔の古い方は複雑な話しがあるようです。次の乾兵庫介は〈信長公記〉
   の「乾丹後守」という孤立表記を頼るしかないわけですが、人名索引で
      「い行」のうち     「犬   信長使者。383(ページ)
                    丹後守       31
                    犬飼内蔵       40
                    犬飼助三      252
                    犬飼孫三      420
                    犬山のお坊 →  織田勝長」〈信長公記〉人名索引
   となっていますから、どうやら前後から見て「犬井」くらいの苗字をもじったという印象を受け
   ます。「犬」という人物は関東管領の滝川を支えた人物で実質的な軍司令官です。こういう
   「八」の色がある人が「乾兵庫介」です。後の二人も「織田三郎五郎」「四郎次郎」という存在
   ですから「舎弟」「家之子」などを使って説明がいる、ややこしいことになるのは同じです。
   これが太田和泉守と後藤又兵衛と佐々木との関係を象徴するものだといっていそうです。
   ここの「助三」はわかりにくいところで出てきます。

     「九鬼右馬允召し寄せられ、黄金弐十枚、に・・・・菱喰(ひしくひ)の折二行拝領。其上、
    ●千人づつ御扶持仰せ付けられ、滝川左近大船白船上乗(うはのり)仕候、犬飼助三
     ・・・三人に黄金六枚・・・・忝く頂戴。」〈信長公記〉

   「ひしや」の「菱」が出ています。「併」は先ほどもありましたが本当は「并」でもっと強い意味が
  ありそうです。●は脚注で
     「九鬼嘉隆抱え人数に対して千人扶持、滝川一益抱え人数に対して千人扶持の意であろう。
     ただし、一益の分も九鬼が指揮したものと思われる。」
  これは重なっているということをいうのでしょう。
     「九鬼右馬允に仰せ付けられ大船六艘作立て、併に滝川左近大船一艘、白舟
     拵(こしら)へ、順風見計らい・・・」〈信長公記〉
 があり、
 要は旗艦が白舟でそこに滝川がいます。これは太田和泉守でしょう。この助さんが白船に上乗り      
 していて助三も黄金を貰っています。これは戦勝で貰ったわけでなく、観艦式があってよくここ
 まで仕上げたということにたいするものでしょう。一番下にある「犬山のお坊」も「織田勝長」を
 みれば
     「ごぼう殿」「織田源三郎」〈信長公記〉
 となっています。〈信長公記〉ではわからないはずが引き当てされているということが重要です。
 他の一匹狼もおなじことができるはずです。

 飯沼勘平は「勘兵衛」でもあり、宮川の八の影響をうけて、蛸薬師の「蛸」が属性の人ですから
 蛸の八ちゃんというイメージになるのではないかと思います。先ほどは「不破河内・丸毛兵庫守」
 のあとに出てきました。「伊賀伊賀守」「氏家左京助」の後にも出ています。ほとんどが従軍記録
 出の登場です。おそらく飯沼勘平二人で武井夕庵と太田和泉守を表わす、例えば「えびな」と
 いうものではないかと思われます。

   水晶と珊瑚から話しが飛んでしまいました。全国にある「水晶山」も、この太田牛一の〈信長公記〉
 の解説をするために、水晶が出たとかいう実体とは別に、水晶山と名付けられたところが多いので
 はないかというのが言いたいところの一つでした。出雲於国に、秀康が
            ○接近したのはなぜか、
            ○水精(すいしやう)をやめさせて、珊瑚の珠数で舞わせたのはなぜか
  ということで、珊瑚を神功皇后から見てきました。結城秀康は氣比神社の再興者とされて
  います。出雲の於国は「出雲」ですが、スサノオノミコトが新羅となると、新羅神社といわれ、    いうのが言い  神功皇后が祭神である気比神社も、一応は両者接近の手がかりでもあります。芭蕉の〈奥の細道〉
 の敦賀のくだりは「気比神社」の
    「遊行の砂持ち」
 が越前宰相結城秀康(太田和泉守)というのが、読めるところです。
 すなわち、再興したのは結城秀康とされているのですから起工式はあってそれに出席しても
    おかしくないはずです。

        「・・・往昔遊行二世の上人、大願発起のことありて、みずから草を刈り、土石を荷い
        泥テイをはかせて、参詣往来の煩いなし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。
         これを遊行の砂持ちと申し侍ると亭主のかたりける。」〈奥の細道〉

    亭主も曲者で出雲屋弥市郎で「出雲」との繋がりを語っています。この2世というのが再興
   で2回目という意味もありそうです。この「遊行の砂持ち」=太田和泉守です。戦国の遊行僧
   といえば山中鹿之助の親族山名禅高です。

     「山名禅高幣(巾のないもの)衣を著られし事
    ・・・・山名豊国入道禅高、古き羽織の所々幣(やぶれ)たるを著て、東照宮の御前に参られしに
    それはいかにと仰せ有りければ、●万松院殿より賜りたる物にて候と申を聞こし召し、旧き
    を忘れず本に背かぬ者かなと御感有けり。」〈常山奇談〉

   があります。●は織田信秀で、太田和泉守が信長(信秀A)から拝領したというのが妥当な
  解釈でしょう。「豊国」も古い羽織りも太田和泉守を示唆しています。

     「鹿の助は疵のため有馬湯治望み・・・天正の初め上方さして旅行し、明智日向守を
      頼み遊客の身と成りて有りしが、・・・・・其の後丹後に・・・立ち越え、遊客之身となり
     有ければ・・・・因幡之守護山名禅高(ぜんこう)を・・・・是も遊客と成り丹後におはし
     まししを、鹿の助も同じさましたるみ身なれば、親しく相語らい慰みにけり。・・・」
                                      〈甫庵太閤記〉
   この後二人は協力して取鳥之城を攻略しましたが、二人の属性は遊客です。山中鹿の助の
   方は山中温泉の一節に援用され、有明温泉が有馬温泉と間違って出されました。また

      「秀吉公有馬御湯治之事」〈甫庵太閤記〉

   があり、有馬→太田和泉は、温泉→山中温泉の線で芭蕉の〈奥の細道〉山中のくだりに取り
  入れられましたが、一方の
   禅高は遊行の僧として大田和泉守と重なり、砂持ち僧としても描かれたといえます。戦国時代
   気比神社再興の起工式にやって来た太田和泉守の姿を芭蕉が遠まわしに表現したものです。
   蜂屋兵庫守ー大谷吉隆の造営となるのでしょう。
    「鹿垣」というのも多く、鹿の助の鹿もやはり気比神社の「角鹿」の「鹿」につながるものと
   いえそうです。

    結城秀康の水晶の数珠が、妙なところで再び姿を見せるのが気になるところですが、
   新たな話を生みそうな感じです。さまざまな伝承を伝える結節材というのではないかと思い
   ます。乗ってみないと著者の真価もわからないままに終わってしまいます。

(87)水晶の珠数
   水晶の「晶」と入力しようとしましたが、出てこず「昌」がありました。「日」「昌」「晶」はやはり
  水面下ではつながったものとし昔の人は見ていたようです。真田幸村の子息、「大介」は
  「幸安」で記憶していますが、ネットで確認してみますと幸昌も信昌もあるようです。真田昌幸
  の孫ですから、また昌幸の長男は信幸ですから信昌もありえます。
   「水晶」を「水精」とした「精」も「米」と「青」で「米」が「八十八」とか「米俵」に関係するので
  重要な感じですが、幼稚園か、小学校一年のころ、「まねし漫才、米屋の坊主」といっていた
  ような記憶があり、「真似」も重要ではないかと思って、これで検索しても死語になっている
  ようで記憶違いかなと思っていました。が
       「米屋の小僧」
  で検索しましたら一件(michimasa1937)ありました。太田牛一はまねし、で「千秋萬歳珍重々々」い
  があり、「真似し、萬才」に相応しいようです。昔、谷間を挟んで丸太橋が一本あって牛が立ち
  往生している漫画があり牛と一で太田牛一の色が出されていた、とう感じはします。終戦後
  百貨店の本売り場にいけば講談本が山とつんでありました。紙は悪いのは印象に残っています
  が買って貰って、くり返し読んでいますからわりかし覚えています。要はいまでも真田大介が
  気になっているようです。

      「大介は城中に入り、秀頼に従いて、蘆田曲輪の矢倉にこもりて父の事を尋ねけるに
       討死せしと聞きてそれより物もいはず。母のかたみに賜わりける
           ●水晶(すゐしやう)の珠数(じゆず)
      を首にかけ秀頼の自害を待居(まちゐ□)しかば、速水甲斐(の)守大介に向かいて組打ち
      の武勇たくましきふるまい痛手負われしと聞こゆ。和平にて君も城を出させ給うべし。
      眞田(さなた□)河内(の)守信吉(のぶよし)の方へ人をそえて送るべし、といえどもちつとも
      動かず。寄せ手矢倉を取り巻きし時、速水戸口に立出て大介が有様をかたり
           武勇の血脈(けちみやく)おそろしき者なり、
      と云いしとなり。終に大介も矢倉の中に死して、父子同じく豊臣家の為に亡びたり。」

   となっています。父・母というのは別として●があり親の形見です。ここの水晶があの秀康・
  於国の一節と連続したものであるかということは、大坂陣、真田・伊達戦の記事で
       「越後の少将忠輝」(秀康弟)、「太田」
  が出ており、秀康、忠輝は捨て子伝説で重なっています。忠輝については
       「片倉小十郎忠輝」
  なども出てきますが、これは真田幸村の子女の嫁ぎ先という話があるので、大介の登場と
  絡んで来ると思います。芭蕉の〈奥の細道〉の白石にも繋がりますので「すか川」のくだりには
  繋げていそうです。●の記事の直前に、真田信仍(幸村)の
       「叔父」「隠岐守信尹(のぶたか)」
   が出てきます。「幸村」にとっては、この「隠岐守」が父代わりのような感じがしますので、
  仮にそうとすると
          昌幸
          ‖ーーーーーーーーーーー幸村
          隠岐守信尹(のぶたか)
  くらいのことになりますが、ひょっとして合っているかもしれません。「信尹(のぶたか)」は
  幸村の「信仍」、と読みが同じとなるということが前提とされています。つまり

     「昌幸が次男左衛門佐信仍(のぶより){★信仍或る本にノブタカと訓す。何れか是なるを
     知らず}つけ慕(した)はんとす。大返しにかへして軍すべき物色(ものいろ)を昌幸見て
     、信仍(のぶより)を制して追ざり(■ルビ=イ幸村下同)けり」

  となっています。★があり、「ノブタカ」→「信タカ」→「信尹」で読みは同じです。太田牛一は
  殷の宰相「伊尹」を出しており、「尹」は「伊」と似ているから「信伊」と書いても間違いではない
  といっていそうです。常山は「仍」を「タカ」と読めるなら、「伊賀」の「伊」を「たか」と読む方が
  ましだ、と思ったかもしれません。■は、「イ」は「作る」の左側だけを取った省略字で、「幸村」
  の「下」の字が「仍」と同じに作るというのでしょうか、大坂城で真田幸村が伊達政宗軍と戦った
  ときは全部「幸村」という表記になっています。問題が二つあって一つは「後藤又兵衛」も
  「後藤隠岐守基次」ですから、基次の親筋の人は「隠岐守@」となりますから、真田の隠岐守
  と無関係とはいえないかもしれません。光秀が光慶の後見にした人も「隠岐五郎兵衛」です。
   
  この叔父というのも問題でこの場合は、昌幸の兄弟を指すのが普通ですが常山は書いていな
  いようです。
       「真田安房守昌幸は、海野小太郎幸氏二十一代の末なり。父海野弾正幸隆信州真田
        に居て、真田氏と称す。武田家の臣となる。嫡子源太左衛門信綱は長篠にて討死
        す。二男武藤喜兵衛昌幸と云ふ。長篠の後高坂弾正五ケ条の諌め申しける。其の
        一条にて、昌幸に兄の家をつがせられけり。父の幸隆一徳斎と号す。」

  とあり、これからみると、叔父という人は、信綱の親族の人か、高坂が一族の人とすると其の
  関係の人ということになりますが、それは真田家の各論にあるのでしょう。父方の叔父という
  ことでしょうが、連れ合いが二人いる場合はややこしいことになりそうです。材料から集約されて
  書かれていると思われるので、一応やってみると
      海野幸隆          信綱
      ‖武藤氏ーーーーーーー|
      高坂氏            昌幸
  というのもありえます。「武藤」というのは
     「武藤五郎右衛門」「武藤宗左衛門」「武藤惣左衛門」「武藤助」・・・・
  があり、太田の代わりに使われるという感じの表記です。太田和泉守は真田昌幸、信幸、幸村
  と顔見知りで、「武藤助」という表記を活用しないといけないという観点から見ても
         「武藤助□」→「武藤半介」
  などがありえます。真田の語りのためのものともいえない、ということにもなりますが、とりあえず
  使っておけばよいわけです。太田和泉守は二つくらいの利用価値を見ていたとしても、後世の人
  は語りに使いますから、広がります。森伝兵衛可隆の語りにも武藤が出てきました。ここの
  高坂」も〈信長公記〉では
         「高坂」(高坂助宜と考証されている)、「高坂又八郎」
  が出てきて、「武田」の関連に使ってもよいような感触がえられるものです。次のような文が
  あり、「高坂」の「又八郎」の登場ですから、湯浅常山はそれを汲み取ったというものがありそう
  です。武田織田戦、長篠武田側の戦死者

     「討捕る頸、見知(みしりの)分
      山県三郎兵衛・西上野小幡・横田備中・川窪備後・さなだ源太左衛門・・・・高坂又八郎
      ・・・・和気善兵衛・馬場美濃守(全部で19人)」〈信長公記〉

  があり、「みしりの」が入っています。知ってる人というよりも目的がありそうな列挙ですが、
  信綱と連れ合いが戦死したのかもしれません。常山はこの「さなだ」と「高坂」をみてどう読んだか
  ということですが叔父というのはこういうものにヒントを与える表記かもしれません。叔父の
  真田隠岐守信尹は武藤氏か高坂の人といえそうです。外戚という示唆がるということです。 

(88)於国
   殷の「宰相」と越前の「宰相」がつながるのかもしれませんが、水晶に絡むのは
     「越前宰相中納言秀康(太田和泉守)、於国、」
   だけです。「おくに」は
          「於国」「阿国」「国」
 と三っあって、「国」というのは、一般の人には知られた、重要な表記で、信長公が誉めた

       ●「知人太郎清、才二郎綱、剛三郎勝光」〈信長公記〉

  の三人の二つに付いています。付随する「清」というのは「清正」に代表される一門の重要な
  表記であり、(水野)(中川)の「重清」もあります。「綱」は「簗田政綱」の「綱」、横田綱松の綱
  があります。横田綱松は備中守高松(たかとし)の養子とされますが、「横田備中」(信長公記)
  は、再掲
     「・・・横田備中・川窪備後・さなだ源太左衛門・・・・」〈信長公記〉
  などと出てきます。「横田備中」は「原田備中」と表記が似ています。横田は横山ですが地名では
  大谷(小谷)とペアで出て来るくらいの所です。また蒲生の「横山喜内」の出世名が
     「蒲生備中真令(さねのり)」〈常山奇談〉
  で常山はこの辺を見て「備中」から「真令」を出したと思われます。「真令」は
       「真田」+「令枝(今枝)弥八」
  であり、真田と蒲生・森を近づけようとしたともいえそうです。横田備中がそういうものを含むとし
  て、次の川窪の備後につながって「さなだ」にいきますがこの川窪がたいへんなエネルギーを
  を秘めており〈甫庵信長記〉では
      「信玄舎弟川窪兵庫頭」
  となっています。信玄の弟というと、川中島で戦死した武田信繁とか、あとで戦死する武田逍遥
  軒ですが、長篠で戦死したこの人は「詮秋」という名前ぐらいしか解説がないわけです。ただ
  小豆坂で「大窪半介」が出ましたので、「八」の人ではないかと思いますが兵庫頭が太田色な
  ので引っ掛かるところです。
            〈信長公記〉では 「さなだ源太左衛門」「高坂又八郎」
            〈甫庵信長記〉では「真田源太左衛門」「香坂又八郎」
  戦死していますので周囲の雰囲気から両者が外戚ではないかとよめるところです。

  国と綱の組み合わせではでは水戸光の後を継いだ兄の子の表記に「條」があり、また
      「国枝」〈信長公記〉
  という表記があって、「枝」が働きを示しましたが、「国」を「森」に近づけようとしているのかも
  しれません。
  「国枝」から「森勝蔵」や「飯山」「稲葉」がでてきます。「国」はやはり、特別の響きを持つ
  もので、もう一つ気になる人名の「国」が「阿国」「於国」「国」の出雲の「国」です。
   前の稿で既述ですからそれに沿っていえば、
       ○於国を集中的に取り上げ、くわしく記述したのは〈当代記〉である。
       ○於国を有名にしたのは大村由己梅庵である
  ということですから、〈当代記〉の著者は大村由己ということはさておいても、大村由己が森の
  人だということが分かれば、於国は、芸事に堪能な誰かを打ち出したということが考えられる
  ことです。●の三人は、信長公が天下国家にとって福の神だと誉めています。名前が伏せられ
  ていますが察せられるわけです。それと同じで芸事に秀でた人物で、同じようにやろうとした
  人物がいてそれを於国でやったと考えられます。世相を現すためにそうしたのは一つ明らかで
  すが、芸事が好きで巧みな人は太田和泉守と森蘭丸です。前の稿は森蘭丸の子息とかを頭に
   描いて、それを出さずに述べていますが、大村由己が二人を思い出させるというので書いた
  というのは概ね合っているとは思います。が証拠がないわけですが、ここでこの人物だと決め
  うる証拠が出てきました。真田大介が於国が持っていた水晶の数珠を持っていたわけです。
  あの結城秀康が於国を招いた常山の記事は、わずらわしいから一つしか挙げませんでしたが、
  二つあります、いつかどこかで使われそうな、要は炙り出しがキツイといえそうです。
    @再掲
       「越前黄門秀康卿伏見屋敷へ於国を召さるす事
       「伏見・・・越前黄門秀康卿御屋敷へ於国・・・・女・・・・水精(すゐしやう)の珠数(じゆず)
       ・・・・水精・・・珊瑚珠の珠数・・・・於国・・・・・天下・・・一人の女・・・此女・・・・・天下一
       人の男・・・・」
    A別のもの
       「秀康卿伏見にて妓女国が舞を見給ひし事
       越前の秀康卿伏見・・・国・・・妓女・・・・水晶(すゐしやう)の珠数(ずず)・・・・珊瑚の珠数(ずず)
       秀康卿・・・天下・・・・●天下一(いち)の女・・・・●吾天下第一(だいいち)の男・・・」
                                                   〈常山奇談〉
 もっと食い違いの箇所があり、ルビも省略していますが、パッと見たところ「秀康」「於国」も物体も
  違っていますが何より男と女が交錯してよくわらないというところがあります。これは時代の
  風潮を反映していると思いますが、とにかく真田大介が「母のかたみに賜りける」ものは
          「水晶(すゐしやう)の珠数(じゆず□)」
  で、
       @は「水精(すゐしやう)の珠数(じゆず□)」
       Aは「水晶(すゐしやう)の珠数(ず□ず□)」
  です。どちらの顔も立ててるといえますが、厳密に云うと同じではないわけです。が、ここに
  著者の神経が集中されているわけです。「ゐ」が同じかどうか確認するのも後で全部見直した
  という状態です。したがってこれは「国」が付けていてはずした物体とみなして下さいという
  意味を読むべきでしよう。これは
      宮本兵大夫
      ‖ーーーー真田大介
      真田信仍
  において「母」がわかりにくいので、まあ有名な方にしておいて、真田幸村の一組が出雲阿国と
  いう存在と大村が語ったといえそうです。おそらく関ケ原のあとは真田幸村は有名な存在に
  なっていたと思いますが、事実としても真田幸村が芸の集団の座長になって京都で情勢を窺っ
  ていたというのもありえます。〈当代記〉が大坂の陣が終わったあと完成されたとすると、後付で
  誰かに引き当てるとすると、真田幸村は「国」にふさわしい人物として、もう物語の主人公に取り
  上げられて自然です。。

(89)真田日本一の兵
   もう一つ「真田日本一の兵」といわれたのはもう皆知っていて湯浅常山も当然知っています。
  上の●二つは秀康卿が、於国は天下一の女といわれているのに、自分は天下一の男と誰も
  いう人はないと涙を流したという場面です。次の文で、日本一とかの文言が出ているのも、
  それに関係しそうです。ネット記事ウイキペディアによればこれは島津忠恒の
  手紙だそうです。

     「真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。・・・・早天に真田左衛門茶臼山に
     赤幟を立て備え赤一色にてつつじの咲きたるが如し真田左衛門。合戦場において討死
     古今これなき大手柄真田下知を守りたる者天下に是なし。」

   となっています。他のことも書こうとしている感じで、赤一色は〈信長公記〉織田信長のもの
   です。●では真田が出ていませんから、この文の日本一は於国と和泉守Aを真田につなげ
   ようとするものはありそうです。「鏡屋宗白」「村井長門守」が絡む天下一〈甫庵信長記〉
   もありますので太田和泉守が登場となるのでしょう。このAの前後もそうなっています。前は
       「黒田如水先見の事」
   があり、「石田三成」が出てきて「秀康」「妓女国」「天下一」
   が出てきて、そのあと
       「直江兼続が事」
   というのがあります。石田が出てきて、「伏見」も出ますから繋がりがあります。これが
   太田和泉守の準備がされて出てきますので、その積りで見ますと

      「直江山城守兼続・・・義仲の乳子、樋口次郎兼光・・・景勝・・・景勝・・・奥州にて百万石
       ・・・・五臣注の文選は此人板行・・・伏見の城・・・伊達政宗・・・金銭・・・・金銭・・・・扇
       ・・・金銭・・・・政宗・・・・扇・・・政宗・・・・ザイ・・・扇・・・政宗・・・山城守・・・僧・・還俗・」
                                                 〈常山奇談〉
   があります。いろいろどこかへ懸かるのが含まれており
    木曽義仲ー樋口次郎・・・・・・〈奥の細道〉の太田神社への奉納物
    景勝・・・・・・・・・・・いわゆる景勝のこと(兼松がらみ)
    直江兼続・・・・・・・・・・・・・・・・・直+枝・、兼光の「兼」と兼松の兼につながる
    奥州にて百万石・・・・・・・・・・・蒲生氏郷→俵
    文選、金銭、金銭、金銭・・・・・真田の六文銭
    伏見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・結城秀康・国
    伊達政宗、扇・・・・・・・・・・・・伊年・宗達
    山城守・・・・・・・・・・・・・・・・・飯河山城守
  などがあります。真田と上杉は確執があり、ここにも六文銭が顔を出しています。
  於国を大村由己が文献に取り入れたことにより論述の筋が広がり
       市川大介→真田大介
  に気付きました。真田、後藤の関係は

      「大坂城中軍(いくさ)評定の事
      大坂和平破れて、後秀頼軍評定の時、第一座に長曾我部、次に真田、其の次に毛利
      豊前守列座せり。秀頼、大野修理・・・真田・・・長曾我部・・・長曾我部・・・真田・・・・   
      真田・・・長曾我部・・・修理・・・秀頼公の御旗・・・修理・・・修理・・秀頼・・・長曾我部・
      ・・・真田・・・・真田・・・・(駿河大御所の軍)弥弥(いよいよ)疲れ候べし。明夜は軍兵いか
      に存るとも、冑を枕として
         一トねぶりせぬ事や候べき
         一ト夜討すべき図に中(あた)りたると存候。左衛門佐罷り向って一挙に勝負を決す
      べしと申しければ、後藤又兵衛
       いかにも此の謀然るべう存じ候。されども真田殿をもて夜討の大将とせんに、萬に
      ひとつも討死あらん時人々力を失ひ候なん。今度国々(くにぐに)の諸浪人馳せ集まる
      事、■偏に真田殿一人を目当てに仕候。夜討をばかく申す又兵衛罷り向い候はん、
      といへば、真田、とかくわれ罷りむかうべし、といふ。後藤は有無(う□む□)に、★後日の
      合戦(か□せん)大事なれば、真田殿残りとどまられよ、と争論して、終に一決せでやみ
      けるとなり。」〈常山奇談〉

  があります。この5倍ほどの長い文で、部分的な話となりますが、この一節、終わりの所ぐらいが
  援用され大坂方の小田原評定で、加藤清正ほどの大将がいなかった云々のリーダ不足の話を
  聞かされる程度です。■で、後藤又兵衛が真田幸村を大変持ち上げていることは一見してわか
  ります。戦国武士は我こそは、と武功争いするのが特徴ではありますがそうなっていないという
  のがあり、理由の説明はいるはずです。ここは相手に死んで欲しくない、といういうものは読み取
  れると思います。これは和平敗れた後の話でもう最後の段階であるということも考慮してみなけ
  ればなりませんが後藤又兵衛が妙なことをいっています。★ですが、後藤又兵衛が後日の合戦
  をしてもいいはずですが、後日の合戦は幸村でないといけないようです。島津忠恒がいった花を
  咲かせる戦いではないかと、思われます。島津忠恒もおかしいことをいっています。

     「古今これなき大手柄真田下知を守りたる者天下に是なし。」

  二つの意味があってこの場合はどういいたいのかというものがあるというのはいってきました。
     @素直に読めば、真田幸村の下知を守ったものは誰も居なかった となるのはのは明らか
     ですが、組織的戦闘はしなかった、赤一色を背景に、死の演舞をしたということでしょう。
     A「下」=「上」ですから「上」というのが聞こえがよいならば「上」を入れればよいのでしょう。
      「上知」を守った人こそ真田左衛門であろう
 といったと取れます。
 この最後の合戦が目論みどおりいった、忠恒のように読み取った人が居たことは成功だったの
でしょうが、後藤又兵衛は、このことが頭にあったと思われます。結局この控えめな後藤又兵衛は
誰かとうことです。

  後藤又兵衛が突然登場というのが、おかしい、どこにおったのかという問題があります。
    はじめに、
              「長曾我部」「真田」「毛利豊前守」
 が出ましたから後藤又兵衛はいません。毛利豊前守は毛利勝永のことで、
              「小倉の城主壱岐守が子なり。」
 となっています。「毛利勘八」の子と思われます。黒田が関ケ原のあと筑前太守になって後藤
 又兵衛が小倉を受け持つことになる、その前にここ小倉にいたのが毛利壱岐守勝信というの
 でしょう。後藤又兵衛は冬の陣で重傷を負ったという話しが権威ある書に出ている〈前著〉ので、
 いなっかったのもありえます。するとこれが大坂城の
 戦闘の三大将として妥当なところなので、これも納得してしまいそうです。
   再掲
      「大坂城中軍(いくさ)評定の事
      大坂和平破れて、後秀頼軍(いくさ)評定の時、第(だい)一座(ざ)に長曾我部、次に真田、
      其の次に毛利豊前守列座せり。・・・・」

  において「毛利豊前守」だけ前二者と表記が違います。家ではなくて個人が出ている感じです。
  入力を伴うので肝心なところを抜粋してやってしまうと気が付きませんが、手間を厭わなかったら
  出てくるものもあります。これは「豊前守」を切り離して
       「長曾我部・・・真田・・・毛利・・・・豊前守列座せり。」
  とみるのは無理でしょうが一応は四人というのも出ます。また
   秀頼の前に「」があり、「毛利豊前守」の前に「其の次」というのがあるのに気が付き
  ます。「後」は「鳥羽」「後鳥羽」、「白河」「後白河」という別人が想起されます。この
      「其の次」
 というのは〈奥の細道〉の山中のくだりで出ました。
     「温泉(いでゆ)の浴す。其功(そのこう)(効)有明に次(つぐ)と云(いふ)。」
 の「其」「次」です。
   したがって第一義的には

    後秀頼ーーーー第(だい)一座(ざ)「長曾我部」、次「真田」、(基次)に「毛利豊前守」

 というのがあるのでしょう。後藤は雰囲気だけ出ていることになります。しかし後藤が居ないのは
おかしいというのがあります。これはあとで発言します。

  またこれは「是」「其」という「ここぞ」というときの「其」ですから、「秀頼」に直結
 しそうです。そのために「後」を秀頼の前に用意してあるのかはわかりませんが、まあ後藤の「後」
 ですから、なにかあるかもしれないと思って置けばよいのかもしれません。一方
       「毛利豊前守」
 は「森・豊臣」でもありますが「小倉城主A」ということから「後藤又兵衛A」も表わすこともできる
と思いますので、それら加味しますと、

       秀頼ーーーーーーー第(だい)▼一座(ざ)「長曾我部」、次「真田」
       |                  ‖
        其の次・「毛利豊前守@小倉壱岐守A」

 と、後藤と真田の二人に還元もできそうです。 「長曾我部」が
        「真田殿・・・・先ず申され候へ。」
        「長曾我部・・・・同心しける・・・」
        「長曾我部また最前のごとく真田にゆずりければ・・・」
 
というように個性を殺した述べ方になっているところからみて、つまり第二義的には
(毛利の発言がないので)

   秀頼・・・・・第一座「後長曾我部(毛利豊前守小倉)」、其の「後長曾我部」、次「真田」・・

としておいていいのではないかと思います。▼「一」(ルビなし)が真田の発言の下の▲の「一」に
につながっていそうなので、つまりあとに続く▲が訳せないので第一座の「一」に拘(こだわ)った
わけです。
再掲
      「真田・・・・(駿河大御所の軍)弥弥(いよいよ)疲れ候べし。明夜は軍兵いかに存る
      とも、冑を枕として
         ▲一トねぶりせぬ事や候べき
          一ト夜討すべき図に中(あた)りたると存候。左衛門佐罷り向って一挙に勝負を決す
      べしと申しければ、後藤又兵衛
       いかにも此の謀然るべう存じ候。されども真田殿をもて夜討の大将とせんに、萬に
      ひとつも討死あらん時人々力を失ひ候なん。今度国々(くにぐに)の諸浪人馳せ集まる
      事、■偏に真田殿一人ンを目当てに仕候。夜討をばかく申す又兵衛罷り向い候はん、
      といへば、真田、とかくわれ罷りむかうべし、といふ。後藤は有無(う□む□)に、★後日の
      合戦(か□せん)大事なれば、真田殿残りとどまられよ、と争論して、終に一決せでやみ
      けるとなり。

  真田発言に▲「一ト」が二つ出ています。「ひとねぶり」が「ひとねむり」と読まれて通り過ぎるの
  でよいかもしれませんが、「ひと夜討」というのになるとちょっとおかしい、
  仮に「一」を「人」としますと、「誰とねぶる」と「誰と夜討」するとなるのでしょう。まあこの「▼一」と
  戦場で寝食を共にしたい、夜討をやりたいといったのが「左衛門尉」といえます。つまり、真田は
  後藤と一緒に行きたいといったのでしょう。こういうのが二人の関係だというのを暗示している
  のが一つあると思います。

  また戦争は戦略とともに戦闘をともないそれには「後藤又兵衛A」がいなければ勝負にもなり
  ません。この後藤の強さが東軍の悩みの種といえそうです。

     「長政の江戸に在るや、幕臣日向半兵衛、すずし(シ+秋)助左衛門等、長政の邸に遊ぶ、
     助左衛門長政に向ひ、近頃聞く、公の旧臣後藤又兵衛大坂に入ると、長政大阪にては
     良き人を得たり、●又兵衛善く兵を用ひ、二千三千の兵ならば手足を使う如くなるべし、
     顧(おも)ふに、大坂にては後藤に過ぐるものあるまじと言ひしとぞ。」〈名将言行録〉

 この●は「宮本兵太夫」の後藤でしょう。長政は半兵衛、助左衛門を背景に話しをしています。

     「家康、大坂城中には御宿勘兵衛、後藤又兵衛ならでは別に人なしと言われけり。」〈同上〉
 
 御宿勘兵衛が唐突で、御宿越前、御宿監物などの一方の勘兵衛とみればよく後藤又兵衛を修飾
 するものでこれは後藤又兵衛Aを指すものです。長政、家康とも本人の発言ではなく太田和泉
 守の語りの一部でしょうから計算がされているとみるべきものです。
               
 この「大坂城軍(いくさ)評定」の一節は「真田」「後藤」の一節といえますが
   「国」「国々(くにぐに)」、「数(かず)」「数(じゆ)」、「伏見」「伏見」「伏見」、などがあり、於国
越前中納言の一節に関連しています。「真田」が10個も出ていて、「真田」も何かいいたいことが
あるようです。ここに
   「■真田殿一人ンを・・・」の「ン」も、「秀頼公の御ン旗」の「ン」が文中にあり、
      「真田殿一人」=「秀頼公の御旗」
 と見ているほど重視しています。これは、
      「豊臣」=「太田」
 の積りが表面に出てきていると思われます。
       太田 
       真田
       太
       真
   −−−−−−−
       太真=太臣=太秦(うずまさ)=太政
 もあるかもしれません。嵯峨太秦(うずまさ)が〈甫庵信長記〉にあります。
  また氏真=氏実で、「真田」「実田」=「御田」=「太田」もあるかも。

  真田幸村の発言で、
     「今度は守り遂ぐべき道有るべしとも存ぜず。只打ち出て軍する程ならば、君御出馬候ひ
     て、伏見の城を攻め落とし、即ち御上洛候ひて洛外をば焼きはらひ宇治勢田の橋を引き
     落とし、所々の要害をかたく守り、まづ洛中の政(まつりごと)をご沙汰あるべし。その後
     勢いによりて合戦の謀候べし。★祝(いはひ)は申し納(をさ)めぬ。若し御運尽きさせおはし
     まし候とも、御上洛にて一度天下の主と号し奉り、洛中の御政務を執り行はれんにおいて
     後代の名聞是には過ぎ候まじといひしに、・・・みな・・同心しけるに・・・・」〈常山奇談〉
  があります。
  ★のところがわかりにくいだけで、あとはわかりやすい内容です。ここでは、もう太田和泉守が
  崩してはならないと思った社会は維持されることが目に見えている、それが秀頼すら救えない
  状態に来ていることで現れています。後半部分上洛して何をやるかということも明確で、明智がやっ
  たことを説明していう感じです。光秀が京都が手薄になったとみて信長を討とうとしたのなら
  同じことを考える勢力も居たはずで、同盟国であり、軍機に預かり、上洛している徳川もある
  はずで、それが逃げ帰ったのだから作戦成功のはずです。
   ここで幸村は「焼き払い」といっていますが、それは洛外で、洛外となると焦点を絞らざるを
  えず、例えば勢田の橋というようなものになるでしょう。洛中は対象外でという細かい表現に
  なっています。
   勝つための戦いのためにどんなことをしてもよいという考えが
  ないわけです。それが夜討を例えにして関ケ原からずっと語られていて、ここでもそれが出てきて
  います。暗殺とか焦土作戦もおなじで、後藤又兵衛も真田幸村も焼き討ち戦術をいっていますし
  嶋左近も長束正家にも家康暗殺の話しがあり、宇喜多秀家、島津豊久も夜襲を主張して退けられ
  たている、古田織部が内通して京都を焦土するような作戦をも
  っていたということで改易されたという珍妙な話までもあります。郡主馬、速水甲斐守までが

     「去年の冬●藤堂高虎天王寺におし入りし時、速水時之と謀を合わせ夜討すべきを、寵臣
      に妨げられぬ。住吉平野の陣所に忍びを入れ、火をかけて不意に一軍(ひといくさ)
      せんといひし謀も用いられず。運尽きぬると思えば口惜し・・・」〈常山奇談〉

  といっています。勝てると分かりながらやらない、という辛抱が現われています。徳川はそれを
  やったという非難は裏にあるのは仕方がないことです。郡主馬は和平の時に戦場を去れば
  よいのに子息の兵蔵と止まっています。

  戦国時代でサリンでも開発してやれば、毒薬でも使えば、また砲術技術を勝つために独占して
  しまい行使すれば、また政権不振を呼ぶためにテロ行為治安不安をよびおこしたりして
  救世主として現われるというようなことを臆面なく作戦としてやれば勝てるのですが
  やってはならないものがある、戦争はあるかもしれないが国際法とか、良識の制約があるはず
  だ、政権に関わる少数の卿士太夫という層同志の戦いだから一般を巻き込んではならないと
  いったものもあったと思われます。そういうのが崩れたのが戦国末期といえそうです。今日から
  いえば大坂の陣が無意味な感じがしますが、このままでいいのかというものがあったという,
  今日から見れば、考え難いことが、起きてしまったことの説明になるのかどうか。
   ここに郡主馬とともに速水甲斐守がでてきました。

(90)速水甲斐守
    真田大介と出てきたところ、再掲
      「大介は城中に入り、秀頼に従いて、蘆田曲輪の矢倉にこもりて父の事を尋ねけるに
       討死せしと聞きてそれより物もいはず。母のかたみに賜わりける
           ●水晶(すゐしやう)の珠数(じゆず)
      を首にかけ秀頼の自害を待居(まちゐ□)しかば、速水甲斐(の)守大介に向かいて組打ち
      の武勇たくましきふるまい痛手負われしと聞こゆ。和平にて君も城を出させ給うべし。
      眞田(さなた□)河内(の)守信吉(のぶよし)の方へ人をそえて送るべし、といえどもちつとも
      動かず。寄せ手矢倉を取り巻きし時、速水戸口に立出て大介が有様をかたり
           武勇の血脈(けちみやく)おそろしき者なり、
      と云いしとなり。終に大介も矢倉の中に死して、父子同じく豊臣家の為に亡びたり。」

   速水甲斐守守久は常山では時之ですが、大阪城の証言者としてここに大介と出ています。
   ちょっと内容が語られているものとそぐわないものがあります。それは前提が変わってしまって
   いるから当然のことでもあります。常山は碩学の点検を受けながら慎重に
   筆を進めているからその語りはおろそかにできないと思います。
    速水甲斐守は、秀頼を助け出すことができると思っていた、真田大介も助けよう、問題ない
   と思っていた、大変楽観的な見かたをしていたといえます。これは幸村が戦死したあとのことな
   山が過ぎたという感じのものでしょう。講和がどういうことで成立したかという疑問がでてきますが
   秀頼、淀殿などの生命は助ける、講和で大幅に人員を開放し、城方の被害、攻め方
   の被害を減らしたのは浪人衆も承知のことだった、といえると思います。後藤又兵衛は自分が
   戦死すると戦はやむから徳川にも貢献ができると、招かれたときに言っているのも同じような
   ことでしょう。しかし幸村は大介に秀頼の死を見とどけるようにいっていたような感じで、大介
   はそれを待っていた、と書いています。〈戦国〉ではこの辺りのことまで触れていますが、今も
   結論はおなじです。講和の件では、幸村は
       「おもひの外に和平に及んで惣堀(そうぼり)はうめられぬ。」
   という発言をしています。惣堀をめぐる挿話が有名ですがこれも太田牛一の「惣構」(信長公記)
  の解釈をめぐる
  話しの一つにすぎず、手切れは時間の問題にすぎなかったと思われます。

   ここに出てきた大坂城の「速水甲斐(の)守」も戦国時代の重要人物の一人ですがこれもどこ
  の出身の人かわからないわけです。 表記のことですが、「速水」が「時之」というのは
    「時」は○「維時」の「時」
        ○「速水勝太(守久)」の勝と田(森・久)→「勝時」(勝鬨をあげるの「かちどき」〈甫庵信
         長記〉が何回も使用)の「勝」とセットされた「時」
        ○「時頼禅門」(甫庵信長記)の「時」(下人禅門・菅谷長頼の頼の時)
    で「之」は
         「塙直之」・「熊谷直之」・「石川重之(丈山)」の「之」であり、〈甫庵信長記〉では
         「之反(しはん)」(中国春秋の人)が出てきて、武井夕庵が
              「此の(佐々)内蔵助」を「之反」に及べり。」
         と誉めている
  などで時之は太田和泉へいきます。そういうようなことを期待した表記といえます。〈武功夜話〉
  にある次の文がその一端を述べていると思われます。

   「安井屋敷の覚え・・・・この安井氏初め美濃土岐(とき)郡土岐氏の被官人。その源は、甲斐
   国武田流れと承るなり。逸見冠者の由緒の家柄。・・・」

 蜂須賀小六の母方の安井氏は武井夕庵の室の安井氏です。「逸見」の「逸」は「逸(はや)る」と
 いう字で「逸見」は「はやみ」です。
  「甲斐国」「武田の流れ」と丁寧に書いていますからここがポイントでしょう。武田姓の流れは
      甲斐と尾張と安芸
  にあります、この三つの武田は昔は1つで三つに分かれたような系図が武田氏にあります。
  尾張も武田(高木)佐吉があり、「武井」が自然に出てきます。安芸の武田・毛利戦も有名で、
  関ケ原の安国寺えけいの家が武田です。この「甲斐国」が速水守久(時之)の「甲斐(の)守」となり
  武田の流れというのが尾張に及ぶということになると思います。〈信長公記〉〈甫庵信長記〉に
  「はやみ」がありません。「速水」を知りたい、探そうと思っても、直ぐにあきらめてしまう原因の
  の一つがここにあります。「へんみ」(逸見)がありますから、この〈武功夜話〉の「安井」の「逸見」
  が重要となってきます。
       「逸見駿河守」「逸見駿河」〈甫庵信長記〉、「逸見駿河(三回登場)」〈信長公記〉
  ですがテキスト人名注によれば
     「逸見昌経  若狭高浜城将。逸見(へみ)氏は武田氏の一族。」
  となっています。若狭高浜は「福井県大飯高浜町」で考証材料は「花押籔」「福井県史」「若狭
  小誌」にあるそうです。つまり「逸見(へみ)」は若狭の武田氏の一族だということで松の丸など
  の武田氏で、太田牛一が面識があって、その人物の「へみ」を借りてきた、「昌」という名前が
  ちょうどよかったといえそうです。この「駿河」「駿河守」というのが「甲斐」からいえば少し不自然
  に感じますがこれは毛利の二川の
           「吉(橘)川(河)駿河守元春」
  などがあり、炙り出しがあるので表記で読むことが期待されています。太田和泉守登場という
  ような表記です。「吉」にしてからが、「日吉」は「ひえ」とも読みますから「日枝」とされると、「森」
  が出てきたり「元春」からは「元就」「春日」が出てきます。しかしこの
      「逸見駿河」
  という表記は消されてしまいます。〈甫庵信長記〉

      「同六日に若衆逸見駿河病死す。此の家の所領八千斛(ごく)なりしかども、相継ぐべき
       実子もなければ、三千石武田孫八郎、五千石溝口竹に下さる。此の溝口は受領して
      伯耆守とぞ申せし。惟住五郎左衛門、幼少より使い立てたる者なり。・・・・」

  同じようで少し違った記事が〈信長公記〉にもあり著者の思い入れのあるところですが、ここで
           逸見駿河→「武田」
                 →「溝口」
  に分解されて、「逸見」「武田」の残像だけが残り、何かの機会に「早見」「速水」ー「武井」に付着
  することが期待されているといえます。安井=逸見が出てくるとそれも契機となります。

   湯浅常山でさきほど速水が出て来たのは、「宮本武蔵」を述べているところでしたが、
  詩仙堂一乗寺の石川丈山のところで「高木伊勢守守久」が出てきました。〈武功夜話〉では
      「速水勝太(ルビ=守久)」
  となっているように、速水甲斐守は「守久」とされています。「森久」だから「森氏」と言ってしまえ
  ばそれまでですが、この高木は速水守久を念頭に入れた登場といえそうです。常山で「高木」は
      「高木筑後守」(これは筑前守と同義、丹羽左平太と登場)
      「高木某」(又蔵・五右衛門・森寺政右衛門と登場)
  があり、これが背景となってのフルネームの登場が「高木伊勢守守久」です。この「伊勢守」は
  「木村伊勢守秀俊」などの表記を作ったことへの受けがあるという別の意味があり、高木守久
  は高木左吉の「武井守久」といえます 高木伊勢守守久
  で検索しますと、中仙道の初代道中奉行というのが出ています。
    ネット記事「町田の社、箭幹八幡宮(やがらはちまんぐう)」
  によれば
    「箭幹八幡宮(やがらはちまんぐう)、矢部町2666、祭神応神天皇、当地の代官、簗田
    隠岐守が社殿を再建した。1665、当地の領主、高木伊勢守守久によって奉納されたもの
    があった戦時中の物資供出で失われた。・・」
  とあります。これは簗田、隠岐守で太田和泉で、高木守久、つまり速水守久とドッキングさせた
  した挿話です。
    「御神木は「片葉の松」という社殿東にあった松の大樹。火災で神主が御神体を避難させた
    ところ西側の松の枝が目にささって、松は恐縮して、以後西側の松は一本葉にすると誓った
  とのこと。また
    「眼病・・・・平癒・・・・牛の刻参り・・・雷雨・・・・眼病直り・・・長生き・・・」
   というようなものは、惟住五郎左衛門の物語でしょうこれが面白いのは松が恐縮するという
   物語です。「松葉」というのは〈信長公記〉の首巻に出てきて利用されやすい語句といえると
   思いますが、ここで1/2葉、一本葉、が出てきました。二葉、三葉というように使われる可能
   性を示唆していそうです。またウイキペディアによれば「守久」というのは室町時代の島津に
        「島津守久」
   もあり、後年八代後の久豊という人物に殺されたという故事もありました。これは「久・豊」が
   太田和泉を表す挿話といえそうです。豊臣の「豊」ですから特に重要ですが、真田大介にも
   関係あるかも。
   逸見駿河の登場は

    「別所小三郎・別所孫右衛門・三好笑岩・武田孫犬・逸見駿河・粟屋越中・熊谷伝左衛門・
     山県下野・内藤筑前・白井・松宮・畑田。・・塩河伯耆」〈信長公記〉

  などとの登場で、武井夕庵につながる表記と並んでいる上に、伯耆守、武田で二書の本文
  とつながっているので「守久」は全体から打ち出されていると思います。〈武功夜話〉の下の
  三輪氏系図の「越中守守久」は完全孤立表記ですが、上の「粟屋越中」の表記の使用が
  考えられます。また三好も上の三好笑岩と関係します。

      三輪氏ー|ーー   吉高・・・・・・・・・・蜂須賀小六室
            |ーー   一路(三好吉房)・・・・・・秀次
            |ーー   越中守守久

  粟屋越中は
      「粟屋勝久   越中守。国吉(佐柿)城を守る。」
 とあり「粟屋」は
      「粟屋大夫」「粟屋孫八郎」「粟屋弥四郎」
  があり、(西+米)もしくは、栗(西+木)類似であちこちに飛び火するのと、あわせて「孫八郎」
  「弥四郎」など暗示的な付属表記もあり(一部既述)ほかに活用が期待されているようです。
  この一路は辞典では「滝川」に使われているようで
                三好=一路=滝川
  でもあり太田牛一=三好笑岩にも根拠を与えるようです。速水甲斐守守久は三輪家の人で
  大谷吉隆と義兄弟ともいえる、秀次政権の宰相の家の出身で、徳川も豊臣も一目置く存在と
  といえそうです。
        武井
        ‖ーー(三輪)
        安井
  抜きでは戦国を語るのは無理のようです。

 
  (91)あの絵
  芭蕉に
      @「金屏(きんびやう)の松のさよ冬籠り」(炭俵)
      A「屏にはを画いて冬籠り」(芭蕉全伝)
  の句がありますが@の初案がAということのようです。Aは「平仲といふものの宅にて」と
  前書がありますが、「平仲は未詳」となっていますが「平仲」の宅は伊賀にあります。
  @について支考は
    「金屏はあたたかに、銀屏は涼し。是おのづから金屏、銀屏の本情なり。」
    「金屏、銀屏のうち出でたる本情は家の千畳敷とおもいよるべし。・・・」
  といっています。「千畳敷」があるので芭蕉はどこか広い場所で松の屏風絵を見ている、という
  情景が目に浮かびます。@は、あの「等伯」の「松林図」を見てその画讃というものではないかと
  みています。するとAが布石となりますが解説ではAの「山をゑがいて」は
     「山をえがく行為ではなく、山がえがかれてある状態をいつたものである。」
  と余計なことも書かれています。「等」=「とう」=「冬」であり「籠」は「竹」「武」+「龍」「隆」です。
  芭蕉に画賛が多く、この有名な絵は見に行っていないはずはないと思うものです。(〈芭蕉全句〉
  からの引用)。

  後藤隠岐守基次は、太田和泉守と松永氏(赤松)の無双の画才を引き継いでいるはずですが、
 戦塵にまみれて本分を発揮できなかったといっても、周囲の環境は藝術の気分横溢しており、
 自然の発露もあり、絵を一つも残さなかったとは考え難いわけです。
  宮本武蔵は多くの絵を残しているそうですが、有名な
      「枯木鵙図」
 があります。これは芭蕉の
      「枯枝(かれえだ)に烏(からす)のとまりたるや秋の暮」(東日記)
 の情景そのもののような感じのものです。もう一句あり
      「かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮」(向之岡)  
 があります。解説では
      「“枯枝”は葉のおちつくした木の枝であろう。」
  とされていますがこれは余計なお世話でしょう。
      「自然の実景に感合して成った句ではなく、秋の暮の情趣を水墨画ふうの“寒鴉枯木”
      という情景に見出したと興じているのである。」
  とされており、「水墨画」というのが出てきています。芭蕉は、宮本武蔵が後生大事に持っていた
  あの絵をみてこの句を読んだと思われます。芭蕉は「萩」を「柳」にかえるぐらいですから、
 「鵙(もず)」を「烏(からす)」に変えて読むるぐらいは平気です。解説では
      「中七を“烏(ルビのような細字挿入=イの)とまりたりや”と表記し・・・誤伝とみてよいで
       あろう。」
 とありますが「イ」は「異」「違」「作る」の「イ」かもしれません。
      「蕪村に“飛尽す烏一つづつ秋の暮”、一茶に「けろりくわんとして烏と柳哉」があって、
      いずれもこの句が心にあったものとおもわれる。」
 とありますが、こう思うには根拠があるはずです。蕪村の句は、意味を考える場合は、語句の
 配列が今ひとつでしょう。少し動かして
      「烏一つづつ飛び尽くす秋の暮」
      「一つづつ飛び尽くす烏秋の暮」
 前者が秋の暮の情景に重点があり、後者は、烏に重点がおかれるという違いがあるのかもしれ
 ませんが、意味は取りやすいと思います。蕪村の原句は一つづつ、に重点がある、のでここの
 芭蕉の句が心にあったというのはわからないことではありませんが、飛び尽くすという情景に
 烏というやや大型の鳥がフィットするかどうかは何ともいえません。
  一茶の方はがよくわかりません。まあ「けろっとしている、あっけらかん、」と言っていると思いま
  すが、「烏と柳をすり替えて、」というようになるのではないかと思います。〈奥の細道〉の柳が
  どうも気になります。
        「遊女もねたり萩と月」
        「小松吹く萩すすき」
        「たふれ伏すとも萩の原」
        「出(いで)ばや寺に散る柳」
        「須磨にかちたる浜の秋」
        「小貝にまじる萩の塵」
  となつていて「萩」で来きているのに、全昌寺のくだりだけは
    「曾良(前に萩の原の句を作っている)・・・・秋風・・・・秋風・・・折節庭中の柳散れば・・・
    出ばや寺に散る柳 とりあへぬさまして、・・書(かき)捨(すて)つ。」
  というように「柳」を入れています。テキスト旺文社版では、「折から庭の柳がはらはらと散って
  きた」と訳されてやや不自然ですから既述のものですが、ここの柳のことが一茶にあるのでは
  ないかと思います。
   
      「鵙(もず)」というのは「鴃(もず)」
  があり、両方「ゲキ」と読みますが後者の「もず」は「決」の右側の字で、「欠ける」「欠く」という意味
  があります。「訣」、「袂」などの字が字引にでています。「ゆがけ」という弓を引く場合の右手を
  保護する手袋のようなものも、完全な手袋ではなく問題のないところは欠けているという意味の
   ものと思われます。すなわち
        「鳥+夬」=鳥が欠ける=烏(からす)
  ということで、本来は「鴃(もず)」がいいたい「烏」が芭蕉の句といえます。
   なお烏のとまった「枝」は「朶(えだ)」と二通りありますが
        「朶石(えだいは)和泉守」〈甫庵信長記〉
        「朶石(もといし)和泉守」 〈信長公記〉
  がありますので、この烏も戦国の烏です。また解説では
      『真蹟懐紙にあり、「鍬かたげ行く霧の遠里ー素堂」の脇を伴うものがある。』
 とされており「遠里小野」で戦国が出ています。「鍬」=「桑」で「三」「又」「木」であり、脇を伴うもの
 は「宮脇又兵衛」があり、賀藤弥三郎の左の脇は「佐脇藤八」でした。解説に引用されている句
 に
      「夜窃(ひそ)かに虫は月下の栗を穿(うが)つ」(東日記)
  がありますが「栗」が出てきてこれは須賀川の「行基」の「栗」が想起されます。「基次」の「基」
  が〈奥の細道〉によく出ているというところから、あの国宝的文化財は後藤隠岐守基次の絵で
  あるといっていそうです。親子などが
  同一表記というのはまさしく絶対矛盾の自己同一というような雰囲気ですが全然こういうのは
  問題にしておらず、いい方の話は、自分ではなく子供にしておく、また親にしておくという公式の
  ようなもので動いていたのでしょう。煙に巻くという最大と武器の一つが年代の不確定というこ
  との利用だからしかたがないことです。宮本兵大夫の子息の
   宮本武蔵は古今の謀略家といえそうです。講談的人物でありながら、鳴鵙図にオーソドック
  な権威付けをさせてしまった、絵を利用して、それらしい文を残し、宮本武蔵がこの絵を描いた
  のだけは事実と誰もが認めるようにして、官の管理下にしてしまった、ということでしょう。
   後藤又兵衛がいなかったら大坂の陣はやはり、あれほど語り継がれるものとはならなかったの
  でしょう。太田和泉守が史書を書いたことを知っており、自分には進むも死、退くも死であった
  ことを知っていた、現に古田は大坂方でなくても殺されていますから、死しかないことを感じて
  いたといえます。それでいてどこか明るいのが又兵衛です。古田も言い訳は一切しなかった
  という潔いところがあり、大坂の陣の締めくくりはこの二人ですが、父祖の思いを受けついで、
  天文、弘治、永禄、元亀、天正の長い流れの、太古からの流れさえも受け止めた、永久に流れ
  る一断面をその行動が的確に表現したことになるのでしょう。

   物体も地名も人名も、日常用語も一体となって利用されるようになっています。例えば「鵙」と
  「烏」のすげかえの話などとんでもない
  ことだと思いますが、太田牛一はこういうのも手法の一つということを知らしめようとしているの
  で、早晩時期が来れば皆が理解出来るようにすべきだと思っていたといえます。そこが偉いとこ
  ろです。芭蕉より露骨なものがあります。たとえば
  
     「天正九年七月十日」「柴田修理亮」が「青鷹六連」
     「天正九年七月廿日」「秋田の屋形」が「青鷹五連」

    を上げています〈甫庵信長記〉。一方〈信長公記〉では

     「天正九年七月十一日」「柴田修理亮」が「黄鷹六連(もと)」
     「天正九年七月廿一日」「阿喜多の屋形」が「黄鷹五聯(もと)」

  となっています。「青鷹」「黄鷹」は辞書には出ていません。文献にあるから辞書にもあるべきか
  思いますがありません。世の中の実在だけで考えるのなら龍もない理屈ですが、とにかくない
  わけです。すなわち物体も二つ、実体のものと寓意のものとあるわけです。
   「青鷹」を利用しますと「青+高山@」ですから「青・森」がでてくる、高山Aでみると右近と青木
   氏の繋がりがいっぺんに出てきてしかるべき仮説を立てられます。
    「黄鷹」が「黄・高」となると「木瀬」「黄瀬」と「春庵」がセットになって、信楽の陶器がでます。
   また「黄瀬川」は頼朝、義経兄弟の初対面の場所となったとこで「頼朝」「義経」は〈信長公記〉
   に出てきます。しかるべきときに役に立つはずです。〈信長公記〉では「武衛」は「斯波氏」だけ
  で理解されていますが「頼朝」も「武衛」として〈吾妻鏡〉で知られています。したがって「頼」・{朝」
  で捉えると「太田和泉守」が出てくることにもなります。、
      「武衛様の内由宇(ゆ□う□)」
  は一応信長と解釈できますが、太田和泉守の内というのもあるのかもしれません。前者の場合
  と、後者の場合で由宇は違ってきそうです。

  はじめに言っていました桶狭間の分かり難い表記の九人について引き当てをやってみたいと
 思います。

  (92)森九兵衛
 桶狭間の9人を語る場合外の場所での伏線が敷かれているわけですが、桶狭間は首巻にあり
 したがって伏線があとで敷かれていくという語りの特徴があることになります。
 森九兵衛と森九郎兵衛という表記があるので、森の9人というのがでてきます。もう一人
  「毛利十郎、同藤九郎」というのがあって+1して語りの十郎もあるという感じがします。
 再掲、姉川合戦の部分

    『彼の三人が家の子、
     千石忠左衛門、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、■今枝弥森九兵衛
     稲葉刑部少輔、同土佐、古江加兵衛、豊瀬与十郎
     鑓を入合せ相戦ひて追い崩し・・・』〈甫庵信長記〉

 の9人の羅列が、森九兵衛というものとの符合を感じたというのが最初で、これは森一族では
 ないかと思ったので一応比定は早くからやっていましたが、説得、納得という面ではどうなるか
 ということでした。
 「今枝弥八」の「八」
 が佐脇藤八の八でこれが第一の着眼点です。「古江」の「古」も「古田」の「古」というのがすぐ
 出てきます。〈信長公記〉に「古田可兵衛」があります。
  
   @千石忠左衛門・・・・長谷川橋介      〈信長公記〉「森三左衛門」と「千石又一」の組み
                 (森乱丸)       合わせがありそれによる
      −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   A安藤右衛門佐・・・山口飛弾守       〈甫庵信長記〉「伊賀伊賀守が郎等安藤右衛門
                 (森坊丸)        尉、氏家ト全が郎等桑原平兵衛などいう兵」
   B桑原平兵衛・・・・・加藤弥三郎       がある。つまり
                                伊賀伊賀守
                                ‖ーーーーーー安藤右衛門、桑原平兵衛
                                氏家ト全
                              といっており、桑原は三又・又三郎である
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   C今枝弥八・・・・・・佐脇藤八

   D稲葉刑部少輔・・・森長(森勝蔵)
      
   森勝蔵と稲葉刑部は〈戦国〉で触れているように葛藤があります。

    ●「森勝蔵・・・・稲葉彦六、・・・稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝、・・・・
      団平八・・・森勝蔵・・・・森勝蔵・・・稲葉彦六・・・稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・
      国枝・・森勝蔵・・・」〈信長公記〉

    内容がよくわからない一文で「飯山」の「山中」が舞台です。稲葉には「稲葉又右衛門」
  「稲葉伊豫」「稲葉伊予守(子息)彦六」「稲葉土佐」というものなど15種類ほどの表記があり、
  これを上手く解きほぐさないと読めないほどのものですが、太田和泉が乗っているものがある
  のでこうなっているのは一つはっきりしています。坂井左衛門尉のように対立軸としての稲葉
  もありそうです。同一表記で敵も表わすというような絶対矛盾の自己同一というようなおかしい  
  ものも含まれていると思われます。従って稲葉の二面性と森勝蔵との親近という二つのことを
  語るものなので稲葉刑部少輔という完全孤立表記が森勝蔵に宛てられうることにもなります。
  
   E同土佐・・・・・・・・森伝兵衛隆(大村由己A)    稲葉勘右衛門       

   F古江兵衛(古田兵衛)・・・・古田織部

   G豊瀬与十郎・・・・・森成  「与」は「与三」の「与」、DEFの「可」を受ける
                       「九」は牛一が取ってしまったので、「八」にするわけには
                       いかず、ほんなら十にしとこという「十」。
                       「豊瀬」には大胆な挑戦があると思われる。
  「十与瀬与十」として遊んでいる面がありますが、人名索引では
        「富田孫六
        富野左京進
        豊瀬与十郎
        虎若  」  〈甫庵信長記〉索引
  となっていますが、「富豊」→「豊富」→「豊臣」を作ることができます。また「虎若」の「虎」は
  「瀬」と近づけると「中川瀬兵衛」と「古田織部」の関係に行き着きます。
  富野左京進は高畠三右衛門に討たれます。この「三右衛門」の記事のあとに森三左衛門が
  でてきますから、森→高畠→富野の接近がすでに企図されているといえます。この「進」が
  Eの「土佐」に及ぶといえそうですが「土佐」という名前を使った以上は「土佐派」の後継
  というのはあるでしょう。「トヨ」は「イヨ」と併せて、あの卑弥呼の後継という人がいますので
  この語感は特別の大物として「豊」を使う動機になったとも思われます。
      
   もっとも困ったのは「稲葉刑部少輔」で「森長可」に引き当てするために〈信長公記〉の
   「稲葉」連発の部分をもってきました。森勝蔵が出てくるからここしかないわけです。
   そのために〈信長公記〉●の「稲葉」の部分までも巻き込んだものを作らざるをえなくなり
   ややこしくなりますが 「稲葉伊豫」「稲葉伊予守(子息)彦六」があり
         「(子息)彦六」
  を和泉守子息とみて、稲葉四人いるので一応当てはめてみると、(国枝は別の目的がありそう)
  
  〈甫庵〉表記     稲葉刑部少輔   同土佐  古江加兵衛  豊瀬与十郎
                  ‖         ‖       ‖       ‖
  〈公記〉表記     稲葉刑部    稲葉勘右衛門 稲葉彦六   稲葉彦一
                         国枝
                  ‖         ‖       ‖        ‖
               森長可     同土佐    古田織部    森可成
                        ●令枝弥八
                        森可隆

  という恰好に整理したい感じです。
  稲葉彦六は六なので森兄弟6番目として古田にあてるのは尾藤源内・尾藤又八という順番
  からみれば。7番目の
         「同土佐」
  が最大の難問となってきます。「隠岐土佐守」があって再掲「彼等五人」
       隠岐土佐守、星野左衛門、山脇勘左衛門、中西新八郎、宮脇又兵衛
  で太田和泉側として並べ替えていますから
        土佐守の子息、土佐Aとしての「同土佐」
  と位置づけられようです。また「稲葉土佐」と言う表記があって
      「稲葉伊予守が家の子稲葉土佐、義景の首を請け取り・・・・・・」〈甫庵信長記〉
  となっていますから太田和泉守相当の人の子息相当ということになります。ついででいえば
  人名索引で
      「 稲葉土佐
        稲葉半介 」 〈甫庵信長記〉の人名索引
   があります。「半」という「大窪半介」でとりあげた「半」が「土佐」にかかりうるというヒントが
  あるのでしょう。ここの「稲葉勘右衛門」という両性的な表記があるのと符合しているといえそう
  です。中西新八郎で宛てられた今枝弥八という和泉守側の説明を、森可成側の方の話として
  「弥八」を説明したいところです。ここで●の表記が用意されているので渡りに舟という感じで、
  援用できそうです。「国枝」の役割はこの「枝」の繋がりに気付くようにというのがあります。
  ●の表記は
   
    『伊賀伊賀守・・・・伊賀に属せし令枝(いちえ□)弥八、福田左内・・・・・伊賀伊賀守・・・』
                                           〈甫庵信長記〉

 で別のところで出ています。「伊賀伊賀守」に関連づけられた「令枝弥八」ですが、これはなかなか
 気付きません。人名索引では■は「いまえだ」「いまえ」しか読みようがないから「い行」ですが
 「いちえ」は同じ「い行」でも、並んでは表示されません。
        今枝弥八
        令枝弥八
 となっていれば他のところで実効が出てくるかもしれないと感じますが
 離れていて気がつきません。しかし同じ「い行」ですから近くには置いてあります。これから
 見れば著者は「いま」「いち」の二番目によって人名索引の順序が決まるだろうということを
 予想していたといえます。それを利用した、それほどここは説得力のある人名の炙り出しと
 いえます。「同土佐」が「八」と性格付けられました。土佐A=大村梅庵由己A、早くに消息を
 絶った森伝兵衛可隆その人ということになります。「大村由己」は「三木」が属性で、もと三木城
 というのは「河原寺の大進」というのもそれを表わしています。ここの「稲葉土佐」と「義景」の
 「首」の記述のところで
      「鳥居兵庫頭、高橋甚三郎、義景を介錯し・・・・・」〈甫庵信長記〉
 があり、この兵庫頭の「息与七郎」が刀根山峠で討死ししました、兵庫頭が悲しんで一首書置き
 がありました。それは
     「先だちし小がもとの秋風や 残る小枝(さえだ)のつゆさそふらん」〈甫庵信長記〉
 という歌です。これどこかで見た感じがするわけですが、山中温泉のあと全昌寺の前
  「曾良」が「伊勢の国長嶋」にゆかりがあるので「先立(さきだち)て行(ゆく)」があり「萩」が
 出てきました。山中の前「那谷」で
         「石より白し秋の風」、
 があり山中で
         「書付消さん笠の露」
  があり山中のあと、全昌寺で
         「出(いで)ばや寺に散柳(ちるやなぎ)」
  がありました。「秋の風」「露」が揃いましたので、「小枝(さ□えだ)」というのを表わすために
  花のない「柳の小枝」としたと思われます。ここの「与七郎」という人物が「青山与三左衛門」
  の七番目ということであるのでしょう。つまり芭蕉はここを見ているから、「森」を意識して
  〈奥の細道〉が書かれたという証左でもあると思います。まあ大村由己も、芭蕉が意識して
  いる人物で本能寺の「中尾源太郎」が三木から帰っていますが、芭蕉の周辺に
  「中尾源左衛門」という人がいる〈芭蕉全句〉、ので勘違いしやすいように、似た表記がさりげ
  なくまぶされた感じです。
      「久住守景」
   の一人がこの人であろうと思われます。ネットでは狩野探幽としたしいようですが、蝉吟公
  の子息が「探丸」というので蝉吟公の子息も絵を描いたのかもしれません。

  (93)今枝と令枝
  「令枝」を「いちえ」と読ませたのは、人名索引に関係があると思います。「今枝」と比較して
  みますと
     令枝弥八近辺             今枝弥八近辺
      「 伊丹安大夫               「今井宗久
       ▼(同子)松千代             今枝弥八
       令枝弥八                  今川氏真
       ▲市川大介                今川孫次郎」
       一条右衛門大夫
       一条蔵人 」
  左の方は、令枝は市枝だから、▼と▲を「枝」で繋いだといえるかもしれません。「森」の暗示
  です。▼はおそらく、荒木村重子息、岩佐又兵衛(湯浅=岩佐)ではないかと思われますが、
  市川、一条につなぎ、本能寺で、「湯浅甚助A」・「小倉松寿」の「松千代」が出ることを示した
  と思われます。・「中尾源太郎」が「令枝」=大村もあわせて示したといえます。説明のできない
  三人のスタンプレーと引き当てを示唆したといえます。要は役に立ったということです。右の方は
   〈武功夜話〉に「織田上総介信長」の大納言任官に伺候した
        「堺町屋衆今井彦八郎(ルビ=宗久)、千与四郎(ルビ=千利休)」〈武功夜話〉
   の絶妙の併記を物語るものとなっていそうです。今川氏真も本来の氏真以外にも「今枝」
   で使われ氏も氏家の氏、真も真田の真を表わすというようなものにも使われうるという
   ものが表わされていそうです。第一今川義元の両親とか、夫人とかの筋から織田との関わり
   がないと聞いていないのです。
    「今令」という組み合わせもありますが
        「今令」=「今市」=尾州丹羽郡稲木庄寄木郷今市場村
   があり〈武功夜話〉では「石田武右衛門」が登場するところです。この「市」から次の「一条」
  へ繋ぎたいということは既述ですが「一条」の「条」は「え」と読み、辞書によっても「一條」の
  「條」は「枝」となっています。。したがって「令枝」は「今條」というよりも「一條」になるという
  理屈なのでしょう。一條からはさきほどの
        「一條右衛門太夫(太輔)」=信竜(武田信玄弟(甲斐国志)
  という重要表記らしいものが出てきます。この「信竜」というのは、大田牛一が知っていた名前
  と思われますが、〈信長公記〉にはそこまで載っていない考証された名前です。一條右衛門
  太夫なると森の右衛門ということになり、そのまま太田和泉守に適用可能で周囲の人名も
  もう一つの意味で考えねばならないと思わせますが、信竜も実体は、信玄の弟ですが、その
  名前は活用できるという意味がありそうです。名前の後ろの二字が効き目を発揮する場合が
  多々あります。
    〈明智軍記〉では「森蘭丸長康」という表記がありこの使い道にとまどうところです。これだと
        森蘭丸  長康
          ‖
        前野   長康
   ともなり、〈武功夜話〉の前野長康の行動が森蘭丸を表すということを〈明智軍記〉がいって
  るというにもとれそうです。〈武功夜話〉に小坂井久蔵など出てきて、現に参考にしています。
  しかしこれは、そうではないようです。太田牛一はこれを知っていたかどうかは、わかりませんが、
  〈信長公記〉で
           「前野但馬守」
  を打出した段階で誰かがこれくらいことは出しそうだということくらいは予想がついていたと思わ
  れます。つまり
  「前野但馬守」が太田和泉守の表記でもある、森蘭丸が太田和泉守Aであるという解説の意味
  があると取れます。森蘭丸が前野郷にいたということではなく、係累であった
  ということを直接いっているのではなく、前野の名前、地名などを利用して実態を語るということ
  と思われます。前野長康、蜂須賀小六は安土城の石垣造営奉行であり、もっとも機密の部分を
  引き受けています。太田和泉守の股肱の家中といえる存在ですから利用されるということになっ
  ていそうです。前野孫八郎と前野孫九郎の子が小坂井久蔵という感じですから、ボカサレてい
  ます。「森蘭丸長康」というものは〈明智軍記〉の著者が前野家に残る古文書をみたような表記と
  いえそうです。逆だったら、ちょっとした表記に飛びついて語りを繋いだということになり〈武功
  夜話〉の著者はよほど優れているといえるのでしょう。

  (94)桶狭間の9人
 桶狭間で次の人名の集団があります。桶狭間記事における人名の最多のもので、これがわから
 ないと〈信長公記〉がよくわからない、作意がなにかもつかみにくくなります。
 山際に人数を揃える直前のところ

      『・・・・分捕(ぶんどり)をなすべからず、打ち捨てたるべし。・・・只励むべしと御諚の
      処に
        前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・
        森小助・安食弥太郎・魚住隼人、
      右の衆手々に頸を取り持ち参らせ候。右の趣一々聞かさせられ、山際まで人数寄せられ・
      ・・・・』〈信長公記〉

   首を取って功名を競う、その数で功を評価するというようなことは時代遅れということでしょうが
  そのことを一々教えている信長の様子が窺えるところです。前田又左衛門を除いて無名の人
  ばかりで、「太郎」「小助」などがあるので若造の集まりのような感じです。
  人名比定をする場合一番むつかしいのが「前田又左衛門」でこれが最大の難問です。すなわち他
  の人が無名なので、有名なあの前田又左衛門と落差がありすぎ、共通項でくくりにくいものが
  ある、つまりとらえどころがなくなる感じです。これが無名の名前ならば、全体が誰かのことを
  いっている、仮名だというのも気がつきやすくなりますが、前田又左衛門があるだけに、隠す必要
  もないはずだということになって、これは信長側近の若手の面々であろうということで終わって
  しまいそうです。ここは姉川でやってきた今では
         ○9人ということ
         ○「森九兵衛」という表記の「九」が「九兵衛」個人と9人の「九」を表わしているかもし
          れない
         ○前田又左衛門A=佐脇藤八があれば、あの清洲城を飛び出した五人とラップ
          も予想される
   などで問題が解決しそうです。
   姉川における「森九兵衛」のを囲む9人の羅列(〈甫庵信長記〉)
   伊丹において池田勝三郎の与力になった5人、その前にコメントがある相撲4人で9人である
   などのことから、右の桶狭間の人名を比定しますと下の通りです。

        姉川合戦羅列     池田与力の羅列     桶狭間戦羅列
        〈甫庵信長記〉      〈信長公記〉        〈信長公記〉

       @千石忠左衛門      星野左衛門     木下雅楽助(長谷川橋介=森乱丸)
       A安藤右衛門佐      山脇勘左衛門    佐久間弥太郎(山口飛弾=木村又蔵)
       B桑原平兵衛        宮脇又兵衛     安食弥太郎(賀藤弥三郎=後藤又兵衛)
       C今枝弥八         中西新八郎     前田又左衛門(佐脇藤八=前田利家A)
       D森九兵衛         隠岐土佐守     毛利河内(岩室長門守=太田和泉守)

       E稲葉刑部少輔      小一            森小助(森勝蔵=森長可)
       F(同)土佐         円浄寺源七       魚住隼人(森可隆=大村由己A)
       G古江加兵衛        麻生三五        中川金右衛門(古田織部)
       H豊瀬与十郎        大野弥五郎       毛利十郎(森三左衛門可成)
  
  というようになるのではないかと思います。
  左の〈姉川〉の羅列の順番は原著どおりですが、あとは並べ替えています。年齢順ではなく
  作意にもとずく配列と思われます。

   @の木下は、「木下藤吉郎秀吉A」「和田雅楽助A」にふさわしい
     森蘭丸は木下長嘯子と義兄弟である。

   Aの佐久間は佐久間右衛門Aで佐久間に「正勝」がある、木村又蔵正勝もある
   
   Bの安食は高田五郷の安食郷、佐々内蔵介が登場する。佐々木関係の後藤又三郎。

   Cは「八」により引き当て。〈信長公記〉には、孤立表記「海老半兵衛」がある。「えびな」は
    人名索引では
         「海老名勝正」
    で考証されている。「細川家記」では「源八郎」となっていて、
      「〈松井家譜〉には実名は記してないが、この〈細川家記〉の記事は信用してよいであろう」
   と書かれている。

   Dの毛利は「河内」が「河内長嶋」「河内一郡」「河内二の江」「河内小木江郷」など「大田河」
    に接近する地名であり、「河内若江」は「長曾我部、井伊、木村」の戦場で知られる。
    古市澄胤の古市も含め古典をふまえたもの。遊佐河内守もある。

   Eの森は森の嫡子なので「森」の名が冠せられる。ただ〈武功夜話〉の桶狭間前夜の「森小助」
    (前著)は「森乱丸」でよいのかもしれない。

   Fの「土佐」は隠岐土佐守のAで大村由己A、「八」が一人あり使えないので「七」となってい
    る。「魚住勝七」という孤立表記があるので、不届の円浄寺源七に対応する。「土佐」から
    土佐派の絵が出てきて、久住守景の「住」が出てきて、河原寺の大進から「河原」が出てきて
    「納涼」にもつながる、武勇をはじめ、著述、絵画など多芸多彩の人物として、古田とも重ねて
    語られる超大物と扱われていると思われる。「森伝兵衛」だから歴史の語りがありそう。
    「魚」は「利久」の魚屋につながり、利久の高弟、古田を紹介し、なにより
       魚住竜文寺
    という表記は「文」を暗示していると思われる。

   G古江は「可兵衛」が〈信長公記〉の孤立表記となっている。「三五」というのが「森長可」系
    の三番目の「三」、陶五郎などと五郎合わせの「五」、「三+五」の「八」は中川金右衛門に
    繋げられると思われる。テキスト脚注の古田は
      「中川清秀の従弟。はじめ中川清秀の与力。」
   となっている関係がある。「麻生(サ□サウ)」というカタカナルビもこれに対応すると思われる。
   麻は「サ」とされているが、本当はこれは「ササ ウ」のはずなので、まず「左介」の「サ」を出
   そうとしたとすれば、本来の「ササ」に戻せる。「ササ」は「佐々」、可児才蔵の「笹」が出てくる
   「生」は金松又四郎の「生足(すあし)」に行き着く。太田和泉に変わって多面的な繋がりを生む
   結節点ともなるべき役割を担っていると思われる。
    「麻」は「ま」とも読み、「摩」「磨」「魔」「麿」「麾」などの一つを構成する字で、「麾」(ザイ)で
   嶋左近動作に繋り、「摩」で左手につながったりする。「麻生」は考えられた表記として利用
   する人が多いと思われる。

   H「豊島」は太田和泉につながる表記で、「与」が与三を表わす。「十郎」というのは語りの
    「十郎」というのがあるのでちょっと漠然とする感じがするだけで、「八」が「藤八」で優先的に
   使われ、「九」は「森九兵衛」が使ったので、しょことなしに「十郎」になったものと思われる。
   これが「九」+「一」というような煙幕にもなっている。

 森可成、太田和泉の家を中心とする七人の子息が表わされたというのが桶狭間中盤の人名
 です。しかし現実には後藤とか、森小とか、古田は出てきていないと思われますがそれでも
 構わないことです。そういう姓は確実にあり、それを反映してればよい、自分周辺の確実な
 ことに限られています。単なる人のピックアプは、そのほかの誰を持ってきても不公平なことは
 はっきりしており自分の好みで入れたりするのはとくに避けるべきでしょう。あの前田又左衛門も
 出てきているでしょうが、これはそれを暗示していないと思われます。それは簡単な一文が別に
 入っているから物語の進行で入れられたものと思われます。活躍しても直ぐには帰参が認め
 られなかったわけです。又左衛門Aは大殊勲をあげましたが、表には出てこないので、前田の
 ややこしい話を出してきて惑わした部分もあるのでしょう。

 このように九でくくるというのはまだあります。例えば次のものもこの九人の内の7人です。首巻

   「あしがる衆
   安孫子(あびこ)右京亮・藤江九蔵・太田又助・木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎、此等」

  の7人です。藤江九蔵=蒲生の布施藤九郎、木村源五は永徳、等伯と重ねて「五」の
  古田とすると

   安孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助・芝崎孫三・山田五郎・山田七郎・木村源五
       ‖     ‖     ‖     ‖     ‖      ‖     ‖
    森蘭丸  木村又蔵   藤八  弥三郎   森勝蔵  尾藤又八 古田織部

  と一応なりそうです。〈群書類従〉清須合戦記によればこれが9人になって
 
    「先手は、柴田権六郎勝家、足軽頭には
     安孫右京進忠頼、藤江藤蔵、太田又助、木村源五郎、芝崎孫三郎、山田七郎五郎、
     天野佐左衛門等・・・・・」〈清須合戦記〉

 となっていてより引き宛てがやりやすくなったものもあります。一方
     「太田又助」と「山田七郎五郎」
 以外は全部表記が違います。とくに
     「安孫子(あびこ)右京助」
     「安孫       右京進忠頼」
 は、別人のような感じになっています。「安孫」は「あびこ」とは読めません。
  「あびこ」は大坂南と千葉に「我孫子」があるのは知られています。近江に「安孫子」があり、
 これも「あびこ」と読まれています。「あびこ」のもとは大阪南の
     「吾彦観音寺」
  ではないかと思われますが太田牛一はなぜ「近江愛知郡秦荘町の安孫子」をもってきたか
  ということが問題です。これは
     「利根川」を「和根川」
  に間違ったと同じで、「吾孫子」「我孫子」にすべきだということを知っていたと思われます。
  「我」「吾」とすると、群書類従の著者の「安孫」が読めてきます。すなわち
      「吾(わが)孫」「我が孫」
  と読めます。「安孫」ではそれは無理です。

       「吾妹子」(わぎもこ)  と  「吾妹子」(わがいもこ)
       「吾孫子」(わがまごこ) と  「吾孫子」(あびこ)
            ‖               ‖
         普通名詞            固有名詞
 
  が頭に在って太田牛一が、小野妹子はよくみなさいといっている、と群書類従の著者が、ややこ
 しい名前を出して警告したといえます。この配列は結局

    柴田権六勝家 →   太田和泉守
    木村源五郎  →    森蘭丸
    藤江藤蔵   →    木村又蔵
    太田又助   →    海老半兵衛(藤八)
    芝崎孫三郎  →    後藤又三郎
    山田五郎    →    森勝蔵
    山田七郎    →    古田織部  大村との繋ぎを重視
    安孫右京進忠頼→   大村由己   姓が珍しい、「進」と「忠」
    天野佐左衛門 →    森可成   佐左衛門は三左衛門

 の9人となりそうです。大村を特別扱いにしたので、この文の著者は大村由己かもしれませんが
 9人の組み合わせで意識してみるとどこかでみつかるということになります。真田十勇士のベース
 となるのはこの森の「九人」、「九人+一=十(毛利十郎、豊島与十郎など十郎がある)」でしょう。子息の七人の組 「真田」というのは〈吾妻鏡〉の「佐奈田与一」の「さなだ」が一番宛てられる字でしょう。那須与一
 が〈奥の細道〉で出るのも、「真田」が意識されていて現に「伊豆守」というのが〈曾良日記〉に
 、出て来て〈甫庵信長記〉では笛吹峠のところで真田伊豆守が出てくるという繋がり
  があるはずです。

 (95)真田十勇士
   真田十勇士は他愛ない話しのようですが、語った人物は相当な大物で、苦心したのかもしれ
 ないというのが出てきます。皆がよろこんで飛びついたのですから。いまとなれば太田和泉守と
 真田父子との濃密な関係という語りの証左ともなってくれるものですが、これも探ろうとしていたら
 かなりのことが語られているわけです。探ろうとしないと次の〈辞典〉の一項目などは、ほったらかし
 になります。真田十勇士でわかりに難い筆頭は
       「望月六郎」
 でしょう。「海野六郎」と「六郎」が二人いるから、適当にやられたという印象を受けるから、また
 一族らしいから入れられたというのもありそうで、意図なしと思ってしまうわけです。〈辞典〉では
 「望月重元」で
          『近江 生没年不詳。源左衛門。法名道庵。諱は「宗元」とも。
          〈重修譜〉に信長に仕え、某年八十五歳で没とある。〈兼見〉元亀三年(1572)
          九月二十四日条に、甲賀郡の望月備後守重清という人物が載っている。望月
          氏は甲賀郡仙圧柑子を本拠として六角氏に仕えた豪族で、永禄年間には、
          望月吉棟が活躍している。』

 があります。真田十勇士の望月六郎のことが念頭にあるとどうしてもこれはメモしとこか、ということ
 になります。名前が凄くて「重元」は炙り出しの見事な「万見仙(千)千代(世)」の「重元」であり、
 天道、道家の「道」で、夕庵の「庵」、宗の系譜の「宗」、元就の「元」とかになり、これで「重清」が
 でてくるわけですから「中川重清」「水野重清」が出て来るのは必然でしょう。
 つまり、望月六郎は七になる方の「六」、「七」と書きたい「六」というのが出てきます。そうすると
 根津甚八が生きてきて   
                  望月六郎
                  根津甚八
 というならびになりそうだというのがわかります。こうなれば
       「望月六郎」=円浄寺源七
       「根津甚八」=佐脇藤八
  という対応になるのかもしれません。「海野六郎」は〈吾妻鏡〉の
            「海野左衛門尉幸氏」
            「海野小太郎幸氏」
 もってきています。何となく真田の
 先祖というのが「幸」で出てきていると思います。〈吾妻鏡〉の人名索引では
 「海野」の人名が「海野左近」など五つ出ていますが、そのあとが「海老名」で
     「海老名左衛門三郎」「海老名三郎」「海老名藤内左衛門尉(忠行)」
  など八つも並んでいます。「海野」のあとは「海老名」だから「望月」も妥当かなというのもありそう
 です。この海老があの蝦につながるのでしょう。また「海野」は「貝野」の「かい」でしょうが〈吾妻
 鏡〉の人名索引では「海老名」のあとは
      「堺兵衛太郎」
  となっています。要は「界隈」の「かい」ということで、つまり音読みでの索引ですからこうなりま
 す。いまの「堺市」という「堺」も「海野」から連想というのもありえたかもしれません。それは
    「三好清海入道」
 の「海」ですから、太田和泉守を「海野六郎」で語りを広げてみようというのもありえます。
 「海野口」の武田信玄初陣の戦いで、守将、平賀源心が負け役になりました。これは太田和泉の
 役者の下(もと)の戦いで、平賀源内を「海野六郎」に結び付けたといえないことでもなさそうです。
 平賀源内は杉田玄白との交流が伝えられていますが、フルへヘッド「うづ高し」の物語が昔の
  教科書には出ていました。湯浅常山は「鼻高山」を出しています。「うづ高く」というのも〈常山
  奇談〉にはります。年表では慶長二年1597
     「小瀬甫庵〈医家正伝〉を刊行」
  というのがあり、同年、「神龍院梵舜、石田三成の要請により〈源平盛衰記〉を模写」もありま
 すが、二足の草鞋も生半可のものではないようです。この甫庵はやはり〈甫庵信長記〉の著者
 でしょう。本居宣長も杉田玄白も医者ですからこういうのは読んでいないと考えられないです
  から杉田玄白と太田和泉守は接点はあるとみなければならないはずです。
  先ほどの〈辞典〉「望月重元」のあとに「森九兵衛」がありますのでちょっと寄ってみますと

      「生没年未詳。美濃三人衆のいずれかの臣。元亀三年(1570)六月二十八の姉川の戦い
      での活躍が〈甫庵〉〈浅井三代記〉に見える。
      ●三好康長の臣で、後、豊臣秀次、蒲生氏郷、その後石田三成に仕え、慶長五年(1600)
      八月二十三日、美濃合渡川で東軍と対陣した森九兵衛は同名異人であろう。〈武家事紀〉」

 と書かれています。山鹿素行のいう三好康長というのは〈信長公記〉文中の「三好笑岩(巖)」でも 
 よいでしょうが「三好日向守」ともいえます。太田和泉守ー秀次ー氏郷ー石田となれが木村常陸A
 が蒲生氏郷の子になり、石田旗下蒲生源左衛門でピッタリですから、森九兵衛は二人いる、
 九兵衛はボカシテあるから引き当てが必要である、ここまで書いたからわかるはずだ、九兵衛の
 九つの意味を考えたらどうか、というようなことを山鹿素行がいったと取れます。

  まあ真田十勇士もこの森の「九」をもとにして、プラマイ「1」の感覚で十勇士となったのでしょう。
  太田和泉守はすべてに該当し、もう一つは森の桶狭間の9人でしょう。一人はみ出すのは
  「筧十蔵」ですが関可平次、関与平次がからむ関十郎左衛門があるのかもしれません。これは
  森夫婦のヒントを与えることになりますが、常山で「筧平三郎」があるから「高山右近」が古田の
  暗示で出ているというのもあるかもしれません。また三好兄弟が出ているから武井夕庵を
  加えたら十人になるということも一応は思い浮かびます。案外三好兄弟の「兄弟」がポイント
  かも。
  山鹿素行が●で
          「森九兵衛」=▲「三好康長の臣」と出してきています。一方
          「三好清海入道」=「▼三好政康」とされています。しかるに
  ▲の「三好康長」と▼の人物との関係が分からないわけで、系図で従兄弟(いとこ)らしいという
  ぐらいのことです(親の主の方が兄弟)。例えば松永は三好の臣とされていますが、甫庵は
  家の子と書いています。こういうのを利用して
    ▲「三好康長の(家の子)」=三好政康としますと
         「森九兵衛」=「三好政康」となり「森九兵衛」=「三好笑岩」=秀次の養父
  となります。山鹿素行の頭の中に
          三好 政 康
          三好 康 長
              ‖ ‖
              政 康
              康 長
  というのがあって▲は「三好康・政の臣」という程度のことで書いたというのも考えられること
  です。とにかく武井夕庵、太田和泉守と豊臣秀次の関係を示すのが三好の一つ狙いで、
  ここの蒲生もそのために出てきたとは思いますが、
  ここではひょっとして真田十勇士の発端は山鹿素行の「森九兵衛」ー「三好康長の臣」という記事
  ではないかというのがいいたいことです。

 (96)太田和泉守のこと
  太田和泉守が〈信長公記〉に「宮本武蔵」のことを書いているということになると、宮本武蔵を
 認知していたということになります。ヴィヴィッドな武蔵が脳裏にあれば記述も生彩がでてきます。
 太田和泉守の没年をすでに前著には書いており、修正する必要はいまもありませんが、いろんな
 根拠が出てくればそれにこしたことはないわけです。
  湯浅常山で石川丈山が宮本武蔵に絡んで出てきましたが
      「三州泉の郷は其の故郷」「一乗寺の閑居に終わりたり。」「九十歳となり。」
 となっています。数え90歳、89歳くらいの死となっていますが、他をもって語ったことも考えられ
 ます。年表では
      「1604年、(慶長9年)この年小瀬甫庵〈信長記〉できる。  黒田如水(59)」
 とあり、黒田官兵衛が亡くなっています。これは一応いわゆる「黒田官兵衛」と思われます。太田
 和泉守を頼って織田に仕官して家を興した人物です。黒部勘兵衛という存在が徳川イエヤスに
 接近して家運を興したといえるのでしょう。
  一方慶長18年、黒田官兵衛が遺言をしています。

     「黒田如水遺言の事
     慶長十九年黒田孝隆入道如水、病重く子の甲斐守をよび・・・・今我死なば・・・・・・汝が
     士大将より士に至るまで悲しみなげくべし。汝死して我ながらえたらば・・・・如水おわします
     とて力を落とす士有るべからず。是れ人のなづき従いて吾に服すること、汝に勝る其の一つ
     なり。・・・・・関ケ原で石田今しばらく支えたれば・・・日本を掌の中に握らんと思いたりき。
     草履片足に木履片足取り出し・・・・・・・上天子より下百姓に至るまで、一日として食物なくて
      は世に長らふる者はなき事なり。・・・ 」〈常山奇談〉

  があり、太田和泉守ならではの遺言をしますので、これは間違いなく本人の死亡を語っている
  ものです。慶長十九年というのは大坂陣の前の年です。この前の一節は
   
     「前田利常戦死の士を弔はれし事
     前田利常大坂の軍に功有りて加賀に帰り、討死したる士の為にとて報恩寺という一宇を
     建立し戦死の人の追福にせられ・・・・自ら香をたき涙に沈みて深く悲しまれしを見る人
      聞く人・・・・・一同に哭し泣きけるとぞ。」〈常山奇談〉

  があり、戦死者を悼む利常の泣きをのべて間接に太田和泉守(祖父)の死のことを語っています。
  この前は飯田覚兵衛の、「声をあげて泣きけるとぞ。」があります。飯田角兵衛だったのを太閤
  が覚兵衛と書き替えさせたようです。つまり太閤は太田和泉守を指すという暗示でしょう。

   なお慶長九年には辞典では下記の人物が亡くなっています。
  
     「大島光義  甚六、鵜八、雲八、初名は光吉
        長井隼人正・・信長・・・・丹羽長秀・・・秀吉・・秀次・・・・家康に仕える。弓大将・・・・
        九十七歳、終身の間、戦いに臨むこと五十三度、得た感状は四十一通にのぼったという
        (重修譜)。」

 こ のような人物で太田和泉守の生き写しのような経歴の持ち主で、丹羽家譜伝では「百発百中
 の妙を表わす」とあり、「秀次の命により、八坂の塔の五重の窓に矢十筋射込んで見せたという
 寛永伝」もあり、大変な豪傑です。この人物が太田和泉守の弓伝説の片棒をかついでいるといえ
 そうです。この二男が栗山氏をついだそうです。とにかくこの人物の死が先ほどの黒田官兵衛の
 死を語っているのかもしれません。ちょっと長生きしすぎなので語りのための云うのもありそうで
 すがこれが後藤又兵衛の父という人の語りであると視界が広がってくるので無視できないのかも
 しれません。黒田の筆頭の家老栗山備後利安がこの人物なのか、姻戚関係がどうかと気になる
 ところです。
 常山には、他に
    「東照宮松倉市橋堀桑山別所五人へ御遺言の事」
  という一節があって、これが相手から見ると太田和泉守のものと思われるので内容をみますと
  大坂陣の大和口の武功のこと、別所孫三郎と「●尾藤」の話が出ています。大和守は森家で
   あり〈武功夜話〉、三木の別所、●が出てきました。おまけに「松倉豊後守重正」「堀丹後守
   直寄」までここに出ていますから、大村由己Aがバッチリ出てきます。
  
   これらを勘案しますと太田和泉守は、黒田如水が遺言した翌年、慶長20年大坂夏の陣の年の
  死亡が考えられるところです。道家祖看記では「祖看」は道家の末子といっていますので、

         「   森三左衛門・織田九郎・青地駿河守・尾藤源内・尾藤又八
          道家清十郎・道家助十郎・・・・・・」〈信長公記〉

  となっていますから又八(助十郎)は末子扱いでよいはずです。道家祖看は(尾藤又八)にあた
  るといえそうです。〈祖看記〉では

     「此の一巻は生国尾張国春日郡安井の住人道家尾張守の末子、八旬に及び、頽齢
     己に縮みて渋眼を拭い、老眼の通路といえども心の浮かむ所、禿筆を染めおわんぬ。
     曽て私に私語を作るにあらず。直に事あるを除かず。事なきを添えず、父申し置きしを
     此の如し。一笑々々。
        寛永二十天十二月十六
                                 祖看 判」〈道家祖看記〉

  〈前著〉で、この寛永は慶長ということで、太田和泉守の没年としていましたが、こういう例は
   あります。太安万侶は和銅が属性といえますが〈銅版墓誌〉では、養老と書いてあるという
  ようなことです。年号の炙り出しをやっているというに過ぎないものです。
         一書 「中野又兵衛」、一書「大橋長兵衛、併中条又兵衛」
   というようなものと余りかわりません。地名でも、物体でも同じです。「青鷹」と「黄鷹」のような
   気軽なものです。渋眼と老眼の「眼」が二つありますがいまとなれば、
       「宮居眼左衛門・河原寺の大進」
   の併記にも結べそうです。年表に、 寛永17年、8月
       「小瀬甫庵(77)」
   があり、三年後80になるので、八旬に及ぶというのと符合するということで、〈甫庵〉の先書き
  が、「天」になったという解釈が〈前著〉でしたが、この日付けが〈信長公記〉にでています。
  天正八年
       『やはた八幡宮御造営奉行・・・武田佐吉・林高兵衛・長坂助一両三人・・・・去年
    ●十二月十六日釿初(てをのはじめ)・・・・当春三月下遷宮・・・社頭・宝殿・・・築地・楼門
     ・・・金・・・みがき立・・・・神前光明を耀・・・神前収納の社壇、荘厳巍々堂々・・・七宝鏤め
     五月廿六日、上遷宮・・・誠に神は人の敬ひに依って威を増す・・・・・参詣の輩、貴賎
     郡集をなし弥尊み拝呈す。・・・』〈信長公記〉

 これは大変複雑な言い回しがあり〈戦国〉いらい悩まされてる「木戸井」の終わりの一節ですが
 「やはた」はヒライテあり、テキスト脚注では「郡集は群集の誤写。」となっているのは違う、
 群集と郡集の二つがあるという締めくくりになっている、という観点から見ると、八幡とキリスト教
 の施設の造営が懸けられいると思われるものです。安土城内の礼拝所の完成もあるのでしょう。
 それは別として、この十二月十六日をもって来たと思われます。大御所家康の死が十二月二十六
 日だったと思います。まあ七年ほど前に〈戦国〉でこうと決めてやってきました。つまり松永貞徳
 や真田大介を知っていた、眼にしていたというのを思いながら書いていくと文中に出ているか、
 という見方になってもれも減ってきます。書くほうの太田和泉守(太田牛一=小瀬甫庵@)は
       小瀬甫庵A=高山右近
       小瀬甫庵B=大村由己
  と引き継がれて行ったのではないかと思われます。
  太田和泉守は敗者というのは当たっておらず、結局は太古よりきたこの社会の存続を果たした
 という勝者であったといえます。明治維新のようなことにならなかったのですから。その間明智の人
 とその協力者に多大の負担が生じてしまったことはありますが、それもリード層に若くして位置づけ
 られたことにもより覚悟は皆あったようです。その被害は孫におよびましたが浜の真砂の如く
 大勢がみな育って生き抜いて行ったようです。
 
 (97)森の大介
真田大介は曾孫になりますので、一連の戦いの最も若い犠牲者といえます。
その観点からまとめてみますが、真田大介の記事は少なく次の3点ぐらいです。

      「和平に及びて、信仍、越前忠直に仕えし原隼人貞胤は、ふりしよしみ有て招きもてなし
      けり。{原はもと武田の士也。}酒盃数献の後、信仍鼓(つづみ)をうち子の大介に舞わせて
      興じけるが、信仍(のぶより)云いけるは吾必ず討死せん。・・・・あれに見ゆる鹿の角の立物
      の冑は真田家に伝えたる物として、父安房守譲り与えて候。重ねての軍には必ずきん
      ずる物なれば見置たまはり候へ。又命はをしからねども大介が思いでもなく、空しく戦場
      の土とならんは不便に候、と語りければ、貞胤も涙を流し・・・・信仍白河原毛なる馬に
      ・・・乗りて・・・」

 ここでは幸村の鼓で舞をまう姿と、幸村の大介への気持ちがでています。越前忠直は越前中
 納言秀康卿の子息ですから、ここの大介の背景には「於国」がいます。原は〈信長公記〉の
 孤立表記「原和泉守」の登場でもあります。鼓・舞は桶狭間のものでもあるし、小栗又市の鼓で
 もあるのでしょう。「信仍」「信仍(のぶより)」がありますから、又兵衛もここにいるのかもしれま
 せん。
  「鹿の角の立物」は「(秋田)城介信忠」の立物で、太田和泉守の登場といいたかったところ
  です。
     「奈良大仏・・・十月十日・・・松永・・因果・・・高山・・・城介信忠・・・鹿の角大立物・・・・
    日比・・・松永・・・焼死・・・鹿の角の御立物・・・春日明神・・・秋田城介信忠卿・・」〈信長公記〉
 
 の鹿の角です。秋田=阿喜多の信忠ですから太田和泉も出ています。安房守というのも〈信長
 公記〉では首巻で出てくる表記で「安房守秀俊」がいます。とにかく
     太田和泉守(信忠)ー安房守ー鹿の角の立物ー原
 という流れがあります。この「白河原毛」があとに繋がります。

     「信仍堤の上にあがり鉄砲を進めて伊達政宗の先陣片倉小十郎に向って討てかかる。
     ・・・・片倉が陣敗北す。・・・・・片倉もり返す。・・・政宗の軍兵大いに破れ、一支えのなく
     崩れけり。此を世に真田が天王寺口の軍とて大軍の騎馬鉄砲に打勝ったる有様をつたえて
     称しけり。大介今年十六歳、組打ちして取ったる首を鞍の四方手(しなで)に付け、手負いた
     るが、流るる血をもぬぐはず馳せ来るを毛利(もり=勝永)見て、あはれ父の子なり、と
     感じけり。・・・・・越後の少将忠輝・・・政宗の士大将片倉小十郎忠輝・・・」〈常山奇談〉

  ここでは「片倉小十郎」と「片倉小十郎忠輝」と「大介」が出ていますのでひょっとして
       片倉小十郎
       ‖片倉忠輝
       真田大介
  という関係かも知れません。三人が出てくると、よくわからないままに三角の関係としておくと
  まあ整理ができるというだけのことですが、片倉と真田は姻戚関係があることは知られている
  ことです。越後少将忠輝は「越後騒動」に関わる越後高田城を創建した人物。政宗婿。
        越後騒動の越後高田城主松平光長は越前宰相秀康の孫(忠直の子)
        越後騒動は小栗美作が主役
  ということで小栗がからんできます。
  「四方手」というのは「しなで」と読むようですが〈甫庵信長記〉明智日向守の馬験の
    「しでしなひ」(四手撓い)
  を思い出しますがこれは関係ないかもしれません。

    「あくる七日の軍(いくさ)に信仍兵を出だせしが、秀頼の出馬をすすめんため子の大介を
     城にかえしけり。大介今年十六に及ぶまで片時もかたへを離れ候はず。ただ今討ち死の
     きはに逃げたりと人のいはんも口惜しく候。去年母上にわかれ奉りし後文のたよりに、ながら
     らへて相見んはねがわしけれども、合戦の場にて必ず父うへと同じ枕に討死せよ。かり
    にも名こそおしけれと誡められし、といひければ信仍、城中へ帰れというも秀頼公の御ン
    ためなり。父子ともとてものがるべきや。やがて冥土に逢うべきを、しばしの別れを惜しむ
    こそ口惜しけれ。とく城にまいれ、とて取り付きたる手を引き放せば、大介名残をしげに
    父を見て、さらば冥土にてこそ、とて引き返す。信仍、大介を見おくりて落つる涙とをおさへ
    昨日誉田にて痛手負いしが、弱る躰の見えざるは、よも最後に人に笑われじ。心安し、と
    いひけるとかや。・・・・信仍討死しけるを、首をば越前忠直の士西尾仁左衛門取ったりしに、」

 大介をなぜ城へ帰したかは、戦国時代のポイントの一つで常山の断定的な物のいいかたは、
 現代の学者のそのことはもうきまっているという言い方とにています。ここはある程度読み込んで
 から戻ってくるべきところでしょう。「西尾」について」は「仁左衛門」が設定かもしれません。
  「西尾」は〈甫庵信長記〉「大田村」のところで出てきます。
       「ト全が先手の者共に種田信濃守、宮河但馬守、飯沼勘平、西尾小六と云う兵共」
       「飯沼、宮川、西尾、桑原土佐守など・・・」
  があります。「種田(おいだ)」は「亀」があり、その前後は「飯河宮松丸」、「柏原鍋丸兄弟」
  が出ています。人名索引で「宮川」の並びは「宮居眼左衛門」であり、「飯沼」は「勘兵衛」です。
  「桑原」は「桑」=「三×又」「原」ですから、あの宮本兵、宮脇又がボンヤリと出てきている
  感じです。「仁右衛門」は藤堂・増田があり、藤堂→勘兵衛←増田もあります。
   このあとは、再掲

      「大介は城中に入り、秀頼に従いて、蘆田曲輪の矢倉にこもりて父の事を尋ねけるに
       討死せしと聞きてそれより物もいはず。母のかたみに賜わりける
           ●水晶(すゐしやう)の珠数(じゆず)
      を首にかけ秀頼の自害を待居(まちゐ□)しかば、速水甲斐(の)守大介に向かいて組打ち
      の武勇たくましきふるまい痛手負われしと聞こゆ。和平にて君も城を出させ給うべし。
      眞田(さなた□)河内(の)守信吉(のぶよし)の方へ人をそえて送るべし、といえどもちつとも
      動かず。寄せ手矢倉を取り巻きし時、速水戸口に立出て大介が有様をかたり
           武勇の血脈(けちみやく)おそろしき者なり、
      と云いしとなり。終に大介も矢倉の中に死して、父子同じく豊臣家の為に亡びたり。」
       
大介は母の形見に数珠をもっていました。

              真田幸村ーーーー真田大介
              ‖
              於国(数珠)

  ということになりそうです。ただ前回の於国のときは、お国の性が断定できませんでした。
  戦国期には腕力というものが巾を利かしててきますので、稼ぎのすくなかった層も潤って
  きたし、自信も出てきた、ちょっと全体が猥雑になってきた
  来た時期でありこれが時代のエネルギーを生み出し世の中変わろうかということの期待も
  高まってきたといえそうです。したがって 「宮本兵大夫」の時代がやってきた、、その人物は
  時代を確実に映していくものです。ここでは
     宮本兵太夫
  の太夫を生かして一応あてておくとしますと
        真田幸村(於国)
        ‖ーーーー大介
        後藤基次A=(宮本兵太夫)=(阿国)
 という関係もありえます。有名な後藤又兵衛と真田幸村は一世代違いますから、義理の関係
 ではあるが親と子の関係というのも不自然ではないと思われます。
  大坂城で敢えて戦った将兵の思いを後世に語り伝えていくためにはスターがいりますので
 もう老兵というべき年齢に達した、後藤又兵衛は、其の役目を真田幸村に託したといえるのでは
  ないかと思います。長曾我部盛親も真田幸村に発言の機会をあたえています。
    「大介」というのは「市川大介」の「大介」であり、森の血脈を語っているものでしょう。
  「令枝(いちえ)弥八」の「いちえ」が利いており「市川」は「令枝」であり「森」です。
   
  真田大介は、ここで「矢倉の中で死して」いますが、一族はじめが多くが死んでしまった、せめて
  大介だけでも生き延びてくれてればよいのにと思う人があったのでしょう、ネットで見ますと
  生存伝説があるようです。島津の佐土原の領主として生存が認められるというのがあるのです
  が、この地は曰くがあって、「島津豊久」の土地ではないかと思われます。豊久は、関ケ原で
  戦死しましたが島津義弘を生還させた、島津のスターとして人気抜群の人物です。
        嶋左近 対 島津豊久
  の作戦会議でのやりとりがあり、事実ではない話しですが嶋左近とからみがあった人です。
   表記が「津嶋(対島)久豊」にもなるわけで「津嶋」といえば「堀田道空」「堀田武介」「大田河」
  の出てくるところです。「豊」は太田和泉守で「久」は「宮」「九」で、多分太田和泉守が嶋左近
  とやりあったということと思いますが、嶋津豊久二人で一方が太田和泉守です。嶋津義弘も
   「維新」「維新入道」でその表記とか言動とか武勇伝説には、太田和泉守が乗っているという
  のがあります。例えば、薩摩の勇将「新納武蔵守」は「武蔵守」が利用されます。

     「新納(にひろ)武蔵(の)守豪気の事
    新納武蔵守忠元(にひろむさしのかみただもと)は嶋津家の士大将なり。
    勇名をもて指を折る第一なりとて、大指(おほゆび)武蔵(む□さし)と称しけり。
    義久秀吉に降参の時、新納は肥後の堺和泉(さかひいづみ)の城にあり。{一説に大口と有}
    ・・・・・武蔵(の)守・・・・(以下細字)
    {・・・新納(にひろ)・・・・武蔵(の)守・・・・新納(にひろ)・・・・武蔵(の)守・・・・
     新納(にひろ)・・・・●新納は日向口・・・宮部善祥坊・・・・新納(にひろ)肥後口・・・・秀吉
     聞て新納(にいろ)は聞き及びたる勇将なり。・・・・}」〈常山奇談〉

 「武蔵守」の表記が違うし「武蔵」もあるので、あの「(織田)武蔵守」「戸田武蔵守」「鬼武蔵」
 などの「武蔵」が意識されています。「大指武蔵」は
 おかしい表現です。指を折って数えるのは親指からだから「親指武蔵」ならわかります。しかし
 〈広辞苑〉には「大指」というのがあり、
    「手足の指で一番太い指。おやゆび。」
 となっているではないかといわれると、一言も反論できませんが、いまはそのモトの話をいって
 ます。ここにも、大きいとは書いてなくて、太いから大指というとあり、理屈が合わないのは、同じ
 です。容認しがたいらしくてチョッと顔しかめて、アレのコレかとかいって小指を立てるというような
 動作は昔はあったような気がしますが、親指を立てるのと意味が同じではないような感じです。
 親指について字引には「親指を立てて、一家の主人、親方、親分など示すことがある。」とありま
 す。背が小さいという属性語句がありますから大きいという、小指と対比する大指ならば、男女
 の大指小指が考えられます。つまりこの大指武蔵は「宮本」の「武蔵」も考えられます。この「新
 納武蔵」の一節は、そのまえの「秋月種長降参の事」の一節を受けています。

     「秀吉嶋津を伐たるるとき・・・・秋月種長小熊の城を出て・・・秀吉の陣に至り降参・・・・
     (秋月家に伝わる)楢柴(ならしば)の茶入・・・秀吉見て、聞きしに優れる物なり。・・・・
     我に得させてんや、・・・・領地本のごとくなるべし。・・・・九州の敵多く戦わずして
     降参・・・」〈常山奇談〉

   この「小熊」の城が次の「武蔵」の一節の動機といえます。楢柴の茶入は太田和泉守が、
  聞きしに増さる物と認定して譲り受けたもので、あとの楢柴の茶入の伝説のスタートです。
  博多の商人「嶋(島)井宗室」がこの茶入の所持者として知られていますが、これをみると、
  太田和泉守の事績の欠落部分を宗室でもって語らせようとした人物がいるのかも知れませ
  ん。 商人だから、九州は離れているからそんなことはないというのはないようです。
   常山の頃になれば種長が日向国の高鍋藩之の藩主というのも使われていそうです。

    太田和泉守ー森武蔵
  が新納武蔵守につながりますが、「おおゆび」は
                       「おおゆみ」と
  〈広辞苑〉では偶然ならんでいます。ここでは「おほゆび」「おほゆみ」となりますが「美」は「び」
  でもあり「み」でもあります。太田和泉守は「大弓武蔵」と称してもらいたいと催促するだろうと
  湯浅常山はいっていると思います。つまり
       「堺和泉」の武蔵守と「大口」の武蔵守
  がいるのだから、前節からの「秀吉」がここにも顔を出しているから、指折りの一番は自分だと
  太田和泉守がいっているとみるのは自然です。もう一つこれは宮本武蔵、宮本兵大夫、つまり
  小倉に居なかった又市の兄がここに出されています。まず
      @大指の大の意味を持つ武蔵守
      A「忠元」という名前の武蔵守
      B●の新納が特別出演している。(ほかはルビつきの「新納(にひろ)」である。)
       これは明智=日向の口にいる、新納のムサシである
   Bは宮部善祥坊の「善」を伴っていますから、善住房の「善」、栗山善助の「善」の起用です。
   宮部善祥坊は
        武井夕庵ーー前田徳善院(玄以)
                 ‖                 小西行長、宮部善祥坊
                 安芸武田氏(安国寺)
   という子息の一人であろうと思われますが「善」が付くのでここで起用された、勇猛な人物でもあった
   と思われます。
   日本史においてこの「善」の読みが長く物議をかもしてきていますが、太田和泉守が
      「杉谷善住坊」〈信長公記〉〈甫庵信長記〉
   を起用することにより、解説をしていると思われます。改めてテキスト人名注をみますと

      三重県三重郡菰野町杉谷の善住坊(〜1573)か。〈近江興地志略〉では甲賀(滋賀県
      甲賀郡)五十三家のうちだとし、成願寺の峯で狙撃したとする。成願寺は甲津畑に所在
      し、千種越の基点。」

 「菰野」は「菅菰」でも出てきました「須賀菰」もあるのかもしれません。「杉谷」というのは「木」
 「三」「谷」で「杉原日向」というような表記にも繋がるものです。「甲津畑」の畑も
     「波多・・・・畠・・・・東田原・・・・西田原・・・・吉原次郎」〈信長公記〉
 がり吉原次郎を捉えますが、この「えびな」は実際は「次郎」でしょう。
 太田和泉守は次郎とも言えるし三郎ともいえますが、次郎が、二郎もあるから幅広い重要字
 です。ここの「五十三」は「次」を睨んで「五十三次」のモトかもしれません。東海道五十三次は
 五十五地点で起点と終点が入らないので五十三次ですが、次は「つなぎ」という意味もあるかも
  しれませんが、NEXTの意味があり、〈信長公記〉の
      「・西十二間・・・・次西八畳敷・・・・次十二間・・・・次八でう数・・・・・次御小座布敷・・・」
 という用法が反映されえいる感じがします。それはともかくこのように善住坊を取り巻くことは
 丁寧に語られています。暴力を振るって痛めつける人でも、往生できますので、いつも被害者とし
 泣いている人は往生できるのはあたりまえですということで、こういうことを語ることになっている
 ので述べられたものといっているのでしょう。宣教師が加藤清正を悪人というのも同じようなこと
 でしょう。もちろん善悪というのは「右」「左」と同じ相対的な意味のものというのはあると思いま
 す。
   このように嶋津でもって織田を語ることがありますので真田大介、砂土原・太田和泉ー宮本
 武蔵ー真田大介を間接に述べたものといえます。
  すなわち、真田大介が生き延びてくれてればよいとは思いますが、先ほどの常山の描く様子
  では、ひたむきなものがあり、入城する前にも十分議論があった結果だと思われ、第三者の
  介入の余地はなさそうです。大坂の二人の大立者、後藤又兵衛の、真田幸村の子孫、という
  ことを知っているのでその自覚も有ったと思われます。
     「速水戸口に立出て大介が有様をかたり
           武勇の血脈(けちみやく)おそろしき者なり、
      と云いしとなり。」
  とあるように、あの覇者、惟任日向守の血脈というのをしっているので、大坂城の戦いがちょっ
  と違うということも知っていることからくるものもあったのでしょう。

   あの宮本武蔵の養子、宮本伊織からいえば、慶長17年(1612)生まれということです。
  大坂冬の陣では2歳ぐらいです。あの宮本武蔵と真田大介は義兄弟といえますが、武蔵は子息
  がなくて伊織を養子にしたということが伝わっていることです。

   これに関して真田大介の側から言えば、このとき真田大介が十六歳ですから生まれたばかり
  の子息があったかもしれないわけです。
  その子を宮本武蔵が養育したと云うことかもしれません。そうなると宮本伊織には親の顔も知ら
  ないというスタートになってしまいますが、よく生き延びて、充実した人生が送れたようです。
  その伝承したものは、たいしたものではないかと思われます。
  そのころ30才を越えたくらいの宮本武蔵は、大後藤、父の又兵衛から、大坂では死んではなら
   ない、と厳命が
  下されたことは容易に察せられるところですが、やはり大坂で討死しなかったという心の傷も
  あり必死の修行もあったので、その強さもうなずけるものです。一方、文化的素養を身につけて、
  名実ともに日本一の武芸者となった、その存在自体が、先祖を思い出させるに十分のものが
  あった思われます。
                           以上
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