3、武井夕庵と奥の細道(曾良日記)

 〈奥の細道〉は戦国時代を写し出しており、前稿でも一部述べていますが、明智光秀・太田牛一が出てきているようです。もう一人隠された夕庵が出てくれば、明智三兄弟というものが芭蕉で証されることなります。夕庵について前著で述べていることをもう一度芭蕉と照らし合わせながら確かめておきたいと思います。

(1)竹と夕と庵
 イ、「夕」が出てきた
 前稿でも少し述べましたが、「汐ごし」が37象潟の文中で、「汐越」が46の汐越の松のところで、まず予告のようなものとして出てきました。「塩越」の「塩」もありますが、本文の「汐」は「シ」と「」の組み合わせということでした。また
     「月夜」「入り相(暮れ)のかね」
 を「末の松山」のところで触れました。(前稿(6)ニ)酒田
     「涼み」(あつみ山・吹浦の)
の句もありました。
 37の象潟には、まだ句の方で、漢字の『越』も出てくるし『涼み』も出てきます。本文では、あとでまだ出てきます。ここでは他の句集から、少し、「夕」で「夕庵」が意識されているという例を示したいと思います。芭蕉に
                   『顔や酔うて顔出す窓の穴』(続猿蓑)

 の句があります。酔って窓(せまい)から顔をだすと夕顔が花をつけていた、という句意のようですが、夕顔が外から覗いたような感じを詠んだともとれる句です。加藤芭蕉全句では、

         『元禄七年五月十四日付芭蕉宛の去来書簡は、「顔や酔うて顔出すすだれ」
         のかたちを伝えるが記憶誤りか、別案かであろう。「蕉句後拾遺」に上五「昼顔や」と
         あるが典拠不明』

 と書かれています。これは、がセットにされているのです。次の「昼顔」のことがこれを証明してくれるようです。同じ時期元禄七年五月

                   『子どもらよ昼顔咲きぬむかん』(藤の実)

 があり、白雪宛て真蹟書簡には前句(窓の穴の)に続けて、

                   『いざ子供昼咲かねばむかん』

 も載せていますが、太字「昼咲」には(ママ)というルビが入っています。これは昼顔の「顔」を抜いています。それがわかるのは、真蹟短冊にはチャンと、
                   「いざ子供ひるがお咲(さき)ぬ」
 とありますからわかります。これで初めの「句」の「夕顔」は「顔」をはずすことを意識している、「夕」を強調したもので「」と「」と「」を結びつけたものです。
 「瓜」は「瓜二つ」の「瓜」であり、あとで奥の細道で出てくる「」につながります。余談ですが、こういう「(ママ)」というルビが古典にはたびたび出てきます。著者が「原著者の誤りかもしれないが、そのまま書いておく、印刷ミスなどではない。」という意味のものを付記したものと思います。ただ、ここの例では、解説している加藤氏が入れたのか、真蹟書簡に入っていたのかわかりませんが、いずれにしろ誰か相当な人がおかしいと気づいたわけです。私も古典引用を随分しましたが(ママ)と注記する力量がないので、これを使ったことはありません。これはあぶり出しの注記にもなっていると思います。芭蕉に『苔清水』と前書された
                    『春雨の下(こした)につたふ清水かな』〈笈の小文〉

 という句がありますが、解説では、
 『〈一葉集〉には下五を、「雫かな」と誤り、〈真蹟拾遺〉には中七「(ママ)したにかかる」とある。』 と書かれています。こののルビに加藤氏が「(ママ)」と入れる必要が全くないので、〈真蹟拾遺〉にあったはずです。「木下」は「小下」でもあるという何かのヒントがあり、鑑賞するというならば、それも考えねばならないということでしょう。

 ロ、「松」が出てきた
 46の越ののところで明智光秀の歌があることを述べました。すなわち汐=松=光秀です。また松は武にもつながります。すなわち、19の武隈の松でも、
     「隈のにこそ」「は此のたび」「めでたきの」「隈のみせ」「桜よりは」
 とが集中して出てきました。これは「松」から「武」がからみ、さきほどの「汐」「光秀」というものへの一連の意味を持ってきます。またおなじ19では、
     「根が同じの二木」「三木」
という思わせぶりの木が二つ出ました。「三木」というのはもう一つ「森」でもあります。「森」は木の下に二つの木があります。「二木」は
     林(二木)=木村=大村=森
と発展していきそうです。「松」は曾良日記では「木」の下に「公」の字で表されており、小松の太田の出るところでこの「」が出ています。要は、松()から、光秀ー武ー夕ー森ー太田がつながってきます。、

 ハ、「武隈」は「竹駒」と同じ
 この武隈の松はどこにあるかというのが曾良によって書かれています。

         『岩沼入口の左の方に駒明神と云う有り。その別当の寺の後ろに隈の有り。
        がきをして有り。』〈曾良日記〉

 となっています。つまり竹駒がなまり、武隈になったということか、とにかく「武」「竹」が出てきました。武・竹は同じとみる(あぶり出しをする)ことをここでいったのでしょう。「武井」の「武」がここで集中して出てきました。また、あと「竹」がたくさん出てきますから、それは「武」と読んでもよいことになります。つぎに出てくるような「竹」をはじめから「武」と書き、マークでもしておけば、感じ方が違うということです。

 ニ、竹の洪水と「井」「庵」「松」「和泉」
 卯の花山(曽良では源氏山ともいう)が出てきた41の金沢は、42の小松の太田神社が出てくる前で重要なところです。〈曾良日記〉

        『十五日・・・金沢に着。・・・・雀・一笑へ通ず、即刻、雀・牧童同道にて来て談。
        一笑、去十二月六日死去の由。』
        『十六日・・・かごを遣わして雀より迎。川原町、宮や(屋)喜左衛門方へ移る。・・』
        『十七日・・・翁、源庵へ遊。予、病気故不随。・・・・・』
        『廿日・・・・・にて一泉饗。・・・・』
        『廿二日・・・此の日、一笑追善会。於口口寺興行。各朝飯後より集。予、病気故、未
        の刻より行く。暮れ過ぎ、各に先達て帰。亭主ノ松(ノ松はべっしょう)。』
        『廿四日・・・金沢を立つ。・・・・小松に着。竹意同道故、近江やと云うに宿す。・・・』

 この最後の竹意は十五日のと十七日のが合成されたものです。この十七日と廿日にが用意されているのが感じられるところです。十七日の源意庵というのは誰のところかわかりません。北枝のところというのが定説のようですが、廿日の一泉のものかもしれません。まあ源氏の「意庵」すなわち「井庵」といえます。これで「武・井・夕・庵」が、夕顔のように、ぼんやりと姿をみせました。

 ホ、斎藤の登場
 この〈曾良日記〉に出てくる一泉というのは「斉藤一泉」という人物で、玄庵という別名がある人です。泉というのは、一和泉で太田和泉と結び付けられているようですが、この一泉の斉藤も重要です。本文にも斉藤が出てきてこれに呼応します。
 〈前著〉で、明智は斉藤でもあるといってよいほど濃厚な関係にあることは述べました。明智光秀の大将に斉藤内蔵助利三という人がおり、この人物は、光秀や夕庵の義理の父ではないかということでした。本能寺のあとの山崎の合戦では明智光秀と斎藤利三の二人の首だけが梟首されおり、一連の事件について責任をとるという形になっています。芭蕉がそれを証明してくれるとありがたいと思っていますがどうでしょうか。
 小松のところで本文では斉藤真(実)盛が出てきます。ここで斎藤が出てきたことは、内蔵助利三が意識されているとともに、〈明智軍記〉に出てくる斉藤が、奥の細道に関係しているといってよいのではないかと思います。
 〈明智軍記〉では初めのほうに鎮守府将軍、「斎藤利仁」が出てきますが、この人物が越前に関係があります。この流れは加賀斎藤となり「富樫」や「林」を生み、別に「加藤」や「後藤」「新藤」を生み、河内斎藤の流れにもなります。この河内斎藤から斎藤妙椿(信長の祖父の時代)という人物がでてきて、美濃・近江・越前・尾張などに勢力を伸ばし、長井新九郎はこの流れに入り、斎藤利政(道三)を称し、別にこの流れに斎藤利三もいます。まあ斎藤利仁と斎藤利三は一字違いだからその流れを汲むということは明らかです。
 〈明智軍記〉の初めに出てくる諸国流浪の明智光秀はなんとなく時代が一世代合わない感じで、斎藤利仁も出てきたことは、明智光秀の継父が斎藤利三ということを念頭に入れると、斎藤利三・明智光秀の父子が重なった吾妻鏡式の語りがあるということができます。それを汲む話が奥の細道の斎藤と思われます。つまり明智光秀が中央の争乱から一時退避して朝倉に仕官したのではないかという推定がされているものですが、斎藤利三にあてはまる話ということができる、それは奥の細道から教えてもらわないと見えにくい話ということができます。つまり〈吾妻鏡〉では北条泰時とその子息時氏が重なっていましたが、そのようなことになっていないかということです。「女」を「むすめ」ととるのと「女房」とみるのとでは世代が異なってきたりします。
 今では、光秀の叔母と云う人が「小見の方」といわれています。これは明智入道宗宿(明智光安)の妹ということですから明智の人です。若くて斉藤道三の第三番目の正室になったという話がありますので、正室の権限は当主と対等というような時代であることを想定すると斉藤家=明智家でもあるのです。何よりこの人の子が信長夫人というのですから、光秀の織田家での地位ははじめから高かったはずです。こういう挿話が半信半疑で捕らえられているため、わかりにくくなっています。事実を語るための挿話ということで捉えられねばなりません。
 また光秀の母が小見の方であるという話もあり、こうなると「小見の方」は宗宿(明智光安)にも重ねられているわけで、この場合は、小見の方が
               「斎藤三に嫁した。」という話は     
               「斎藤三に嫁した。」
という語句遊びに変質している可能性があります。後者の場合では、光秀の父は斎藤利三であるという事実を語ることになります。若い方と年配の方の「小見の方、二人」という吾妻鏡式がその語り口となっているかもしれないということになります。つまり、光秀の父は斎藤利三、母は明智光安である、一方、光安には妹がいてその人が信長夫人の母である、というように、同時に二つの事実を述べているかもしれないわけです。吾妻鏡で「甥」という語が二つの意味があった例を述べました(比企の技法)。そうなれば、信長夫人は光秀のいとこ、ということは本当のことではないかということになってきます。
 とくに美濃は明智一族の前半生の主要舞台ですから、それを語る江戸期の著述は煮ても焼いても食えないものになるはずで、その手法によって縦横に語られているようです。まだ趣味人の私的な取り留めない話として読まれていないものもあるため現代掴まれていないだけです。斎藤利三について、大村由己はその死を悼んで一言入れています。
          「惜しい哉。利三平生嗜むところ、ただ武芸の業のみにあらず、外には五常を専とし、
          朋友と会し、内には花月を翫び詩歌を学び、いまこの難に逢う事、先業に感ずる所、
          愁嘆尤も深し。」〈総見院殿追善記〉
 といっていますのでたいした人物だった、明智軍記で明智光秀に重なって述べられても不自然ではないのです。
 要は斎藤一泉の「源庵」の「意庵」が活用されているのですが「意庵」の「源」は源氏の「源」なのでこれも土岐を呼び起こすために動員されていると思います。次に出てくる「卯の花山」は曾良日記によれば「源氏山」というようです。
 廿四日の小松着後、「近江ヤ」と云う宿に泊ったのは「竹意」が同道のためという珍妙な説明になっています。酒田で注があり{近江や三良兵へ}というのが出てくる、和泉三郎の「三郎」か「三」に掛かっているためと思われます。

 へ、卯の花山が鍵
 本文41の金沢もこのような準備がされているようです。まずこの金沢に着いたのは七月十五日ということが重要です。旧暦といっても秋はまだ遠いはずですがもう秋の風が吹きまくっています。「秋の風」
にしなくてはならない必然があったのです。

             『卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中(なか)の五日也。爰に大坂
             より通う上人何処(かしょ)と云う者有り。それが旅宿をともにす。一笑と云う者
             は此の道にすける名のほのぼの聞こえて、予に知人も侍りしに、去年の冬早世
             したりとて、其の兄追善を催すに
                  塚も動け我が泣く声は秋の風
                    ある草にいざなわれて
                  秋涼し手毎にむけや茄子(うりなすび)
                       途中吟
                 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風』〈本文〉

 となっています。あきの風は後のことにして、まずこの「」は「瓜二つ」ということで前著や(1)のイで触れました。また 「あかあかとつれない日」は日とすでにテキストでは訳されています。「」がここでも用意されていました。昼(顔)に対置される「夕」です。「赤い夕日(陽)が校舎を染めて・・・」という歌詩がありますように、夕日であかく酔った感じの顔が顔を見せたようです。

 ト、一笑は、あの「一笑」
 つぎにここ41金沢の「一笑」という人の問題ですが、操作があると思われます。「一笑」と云う人は一人ではなく保川一笑と云う人もいます。この人は、芭蕉の若い頃の知り合いで、芭蕉の主君といわれている藤堂蝉吟公がまだ存生であったころ句会で一緒に句を詠んでいます。もちろん、その人のことというわけではなく、そういう名前が芭蕉の頭の中にインプットされていたということです。
 この地の一笑のことは(1)のニにあるように、竹雀からその死を聞いています。一方、ここで大坂商人の何処(かしょ)からも「一笑」の死を聞いたといっています。しかもそういう「知人もあった」といっているので、まだ会ったことがない当地の一笑のことではない、と思われます。(芭蕉の早期の句集である「笈の小文」で「大坂」と「保川一笑」はすでに結び付けられている。)
 「一笑2人」の操作があり、そうしないとないと少しおかしいのです。芭蕉に会うのを楽しみにしてしていたのは「一松(いっしょう)」という人だと思われます。この人の兄・亭主とされている人は「ノ松」ということで「べつしょう」と読ませていますから、こういえると思います。すなわち「ノ松」「一松」の兄弟であったと思われます。「一松」と「一笑」と重ねたのは〈明智軍記〉における「一笑」が意識されていると思われます。
 その昔、朝倉義景と明智光秀の城の立地をめぐるやりとりがあり、義景の質問に対して光秀が・・・・・・・加賀では、小松寺、大坂では本願寺寺域・・・・・・というと、義景は

            『光秀は寺跡ばかり心に入りたる者なり、と一笑し給いけり。』〈明智軍記〉

 となっています。この一笑は、例えば、「義景随喜の涙を催されける。」とか「光秀涙を流しければ」というような言葉が散在することに対応するものであることは一ついえます。
 また、この一笑はさらに遡り、太田牛一の「一笑」に繋がります。前著で紹介した重要文

            『此の一巻、太田和泉守生国尾張国春日郡山田の庄安食の住人なり・・・・・・・・
            ・・・曾て私作・私語にあらず、直に有ることを除かず無きことを添えず、もし一点
            の虚を書するときんば天道如何ん、見る人は ただに一笑をして実を見せしめ
            玉へ』〈信長記奥書〉

一笑です。本文にある
            『塚も動け我が泣く声は秋の風
 という句に関しても芭蕉に会いたいと心待ちにしていた一笑(松)については、兄の編んだ「西の雲」という追悼集に「ノ松」の後書きがあり

              『行年三十六。元禄初辰     霜月六日に・・・・身は先立ちて消えぬ。
              ・・・・明けの秋、風羅の翁行脚の次手に訪ひ来ます。(亡くなったことを語ると)
              「泣く泣く墓に詣で追善の句をなし、回向の袖をしぼり給えり。』

 となっています。竹雀が教えてくれたのは去年の十二月六日死去〈曾良日記・(1)のニで前出〉ということになっていますので兄のこの話と、一ヶ月も違います。二人を思わせる操作がされていると言ってもよいと思います。一方解説によれば

              『一笑は小杉氏、茶屋新七と称し、貞門俳人。後に蕉門に近づき、・・・・・・・
              ・・・〈孤松〉には百九十四句も入集、加賀蕉門の重鎮。』

 とあります。このような人物の死ならば芭蕉に知らされていなかったとは考えられません。蕉門句集が〈孤松〉となっていることもあり、この兄の「ノ松」という人が小杉氏の「一笑」という人で「孤松」というのではないかと思われます。なくなったこの人の弟が「一松」という名前で、これを「一笑」としたと思われます。
 この人の死に衝撃が深かったということは間違いないことですが年月が経ち過ぎているのに句意が強すぎるような感じです。芭蕉は廿二日、追善会に、遅く来て、早めに帰っています。
 「塚も動け」の意味は、歴史を掘り起こすようなものも踏まえたものがあったのではないかと思われます。行年三十六というのは若くして逝った惜しいという人の年齢に使われます。本当の年齢と二年くらいは違っていてもよいようです。満や数えの年齢計算を取り入れたのもこの差を容認したというものがあるかもしれません。竹中半兵衛、堀久太郎秀政などもそうですが、一笑(松)氏もそれに劣らぬ人ということをいってその死を惜しんだと思われますが、ここではその仕草から、あの保川一笑と歌を詠んだ蝉吟公の時代、あの太田牛一の「一笑」にも思いを致し、故人とその時代を偲んだものと考えられます。加藤著「芭蕉の山河」によれば

          『一笑が芭蕉の来遊を待ち、芭蕉もそれを心に置いていたことは明らかであった。
          したがってこれらのことを心に置く以上、この句は慟哭のの詩であると考えるのは
          一応当然のことといえるわけである。しかし、私は今まで如上のように解しながら、
          それで自分を納得させることができたかというと、決してそうだとはいいきれないも
          のがある。どこか心の底にひっかかるものがあって、どうしてもそこから解き放たれる
          ことがなかった。読んで文字面で解するかぎりはそうした解が成り立つのだと考えな
          がら、さて、この句のことを考えると、果たしてそれでよいのであろうか、それ以外の
          思いが芭蕉の中になかったといいきることができるであろうかという思いである。』

 たしかに『塚も動け我が泣く声は秋の風』というのは大きすぎるなげきです。

          『私がこの句を通していいたいのは、これは単に故人を慟哭するというだけのもの
          ではないのではないかということだ。誤解を避けるためにいい添えてみると、金沢
          に着いてひとり一笑の死を哭するというのではなく、・・・・衆人の中で詠まれ献げ
          られたものだ・・・いいかえれば、・・・どこか華麗ともいうべき慟哭の形がかんじられ
          はしないかということだ。・・・』

 とされています。著者はここで謡曲「山姥」「藤」「実盛」などの例を出されながら
          『謡曲的なものの基盤にの上に発想されたものではないかという気がするのである。』
 とも述べられていますが、要は、形容が大きいので「泣く声」という言葉が大きくなっている、「一笑」の「笑」とドッキングされている、はっきりいえば謡曲の女形に結びつく句として捉えられるべきと思います。太田牛一の重要文で「天道」と「一笑」が出てきたことは「天道」というのは「太陽マークの道」というのが根底にあるのかも知れません。

 チ、涼しい
 筆者はさらに、これが朝倉義景の「一笑」、太田牛一の「一笑をして実を見せしめ玉へ」に結びつく、すなわち戦国の時代をも想起しながら書いた一文であろうと思っています。
 「一笑」の話は余計なもののようでしたが、それにつれて竹雀や太田牛一が出てきました。この段階では、秋の風は早すぎると、言ってきましたが、なんと

              『秋涼し手毎にむけや茄子(うりなすび)』〈本文〉

 ということで「涼しい」という言葉が出てきました。暑さの中に涼しさを求めたのだ、といわれるかもしれませんが詠われているのは「秋の涼しい」ですから全然季節感がありません。季語を必ず入れるというほど季節感のある俳句なのに旧暦七月十五日でこのありさまです。別の意味を求めなければこの句には納得できないものがあります。ここでは「瓜二つ」の「瓜」が一笑の太田牛一へと繋がっていく、一連の一字一句の配置はが夕庵を語る上での必然だったわけです。

 リ、 この「一笑」と「道」のセット
 芭蕉が「一笑」を夕庵にまつわる重要なところで出してきましたので、もう一つ思い出すことがありますので触れてみます。念の入った、ダブル「一笑」もあるのです。奥の細道に、道元の永平寺の話が入っていますが、とって付けたように入っています。〈曾良日記〉にはなく、実際行ったのか、行かなかったのかわからないのです。これは「道」という字が意識にあると思いますが、これは〈明智軍記〉の光秀の挿話のところにある
              『朝倉義景永平寺参詣の事 付 城地の事』
 と関係付けるための挿入と考えてよいかと思います。この項は

              『既に暮れなんとする春の景色、こずえに残る遅桜、折知り顔に藤波の
             
に懸かりて、色深く山吹のきよげに咲き乱れたるなど、取り々興ぜさせ給い
               て、一乗の谷へぞ帰城成りにける。』

 という俳文まがいの名文でこの章が締められて、この次が
              『北海舟路の事  根挙(ねあがりのまつ)の事』
 という光秀の歌のある章へ続いているのです。
  遅桜
は本文では「武隈のみせ申せ遅桜と、挙白・・・」がありました。〈明智軍記〉と〈奥の細道〉〉は繋がっています。要は〈明智軍記〉は芭蕉や其の周辺の俳人が協力しあって書いたものと云うことができ、光秀の訪問したところ、見聞したところは俳人の仲間の足跡をいっているものと思われます。〈明智軍記〉は連合艦隊の一翼といってよい、太田牛一の考えを受けついでいるものといわざるをえません。
 越前朝倉と明智光秀がなぜ接近するのかということですが斎藤の大立者、斎藤妙椿(土岐の家老)の勢力は越前にも及んだこと、その子孫は土岐家老として二つの有力な家を生み、その流れの人物が同時代でかち合いそれが斎藤道三と斎藤利三になります。利三は〈信長公記〉にあるような斎藤山城の行き方に反対だったことが予想されます。現にそういう勢力が無ければ斎藤山城は一代であっけなく滅びなかったわけです。したがってその争いの過程で斎藤利三の越前亡命があったことは予想されます。
 そうなれば明智光秀の母方の出もそのあたりかもしれないというのがあると思います。一方光秀には、東美濃、恵那郡の遠山の明知城にその足跡があり、そこには遠山景行(明智入道宗宿と同じという言い伝えが地元にある様子)という人が出ますが「景」の字の類似が気になるところです。
 遠山氏は〈吾妻鏡〉の加藤景廉のあとの「景」だと思いますが、それはすこし古すぎる話なので朝倉の「敏景」「孝景」「義景」などの「景」も関係するのか、ここでは事実関係は探りませんが、〈前著〉との継続でいえば、明智入道宗宿と云う人は越前から遠山に嫁し、光綱ともいわれる夫の死後その実子を遠山明智の当主として、自分は自分の実子の明智三兄弟と遠山を出て、斎藤利三の後添えとなったというようなことになりますが、いまははっきりわかりません。美濃のあたりはとくにたいへんな吾妻鏡式の宝庫のような語りがされています。かならずわかるようになっているはずです。
 余談ですが〈信長公記〉によく出てくる斉藤新五という人も越中へ接近しています。天正六年、

            『九月廿四日、斉藤新五越中へ仰せ付けられ出陣。太田保の内つけの城』
             〈信長公記〉
 を落としたようです。脚注によれば太田保というのは富山県新川郡太田村を中心とする地域です。また
            『十月四日、斉藤新五、越中国中太田保の内本郷に陣取り、』

 敵は「今和泉」に立て籠もりました。本郷というのは、

            『もと太田村に大字太田本郷があった。今和泉は富山市今泉。』

 と脚注があり、斉藤新五と太田の接近は意識されています。この人物は明智の身内ということでしょう。明智左馬助光春の活動名とも取れますが、太字の前日、九月廿三日 信長公の記事があり、このが十月四日のとつながるので、信長公の身内と考えられること、また斉藤新五は本能寺のとき信忠軍で戦死していることからみて、明智左馬助光春ではないかもしれない。光秀が本能寺の決起に際し、談合を相究めた人物として

          『明智左馬助明智次右衛門・藤田伝五・斉藤内蔵佐、是等・・・・・』〈信長公記〉

 と例示しているうちの、消息が知られていない明智次右衛門のことともおれます。この次右衛門は明智軍記系図で「治右衛門光忠」で出ており、その(父)は、光秀らの(父)である明智入道宗宿の(弟)ということになります。〈大河〉528頁の系図の「光久」というのは、明智系図では
                   という人物」
 になっており「某」こそ「不詳」ということと同じでもっとも重要な人物を表しています。すなわちこれが小見の方です。小見の方は明智光秀の叔母ということで既に知られており、うそではないかと疑いの目でみられたから本質がみえなかったようです。チャンと〈吾妻鏡〉式では読まれるようになっていたのです。
 この人が義竜に嫁ぎ、その間の子が、信長公と斉藤新吾だったわけです。したがって、明智左馬
助か治右衛門(斉藤新五)は必然的に、姉を討つ談合をしたわけで、斉藤内蔵助が宗宿の夫とすれば、また十兵衛となのる光継だとすれば、ひょっとして小見の方はその子かもしれず、利三は自分の孫といってもよいに人を討つという談合だったわけで、生かして討つという戦略の必然があったのでしよう。これが本能寺の明智戦略に複雑さが加わり、必勝につながる直線的力強さが欠けることとなった、万全を期して決起したものが、弾みがつかなかった最大のポイントではないかとも考えられます。
 「道元」の「道」の話に戻りますが、〈曾良日記〉では、〈奥の細道〉と〈明智軍記〉の道元の永平寺に行くまでに 「{道明が淵}」と「道明寺村」が出てきて「」が強調されます。〈前著〉でのべたように、武井夕庵についての最大のポイントは群書類従に載っている〈道家祖看記〉に出てくる主役の「道家尾張守」という人物を「武井夕庵」とみるかどうかに懸かっています。
 道家尾張守が武井夕庵と読めるかどうかは、まず、著者がどういう人物かということです。著者は尾張守を父といい、「道」という字に関係があるということでした。また祖看記の末尾が太田牛一の奥書を踏襲しているから、祖看が夕庵か牛一の子とみるしかないのです。

          『春日郡安井の住人・・・・渋眼を拭ひ・・・・・禿筆を染め・・・・曾て私に私語を作る
          に非ず。・・・・事なきを添えず。父申し置きしを此の如し。一笑々々。 祖看判』

 で奥書の太字の決め手となる部分が太田牛一から受け継がれています。一笑二つで夕庵も呼び出しているのでしょう。とくに〈奥の細道〉がこの「一笑」を受け継いでいるから、間接的に夕庵と太田牛一とを結びつけてよいわけです。芭蕉はこの道家祖看記をみて「二人一笑」を思いついたのかもしれません。
 祖看記は織田信長の事に及ぶ重要な話が載っている資料なので、とくに重視されるべきであり〈戦国〉で解題しましたが、この書の信長桶狭間出陣前夜における様子が〈吾妻鏡〉とセットされたとき、あの源義朝・上総介広常・あの織田信長・あの藤吉郎秀吉・あの徳川家康の退場の仕方が軌を一にしていることがわかったわけです。考えてみれば、いま誰でも手に入る唯一のものである「現代思潮社」の〈甫庵信長記〉に〈道家祖看記〉が付録として載っていること自体がたいへんなことでした。
 「道」と「一笑」のつながりが芭蕉の〈奥の細道〉で感得されたということが重要です。あの神聖な道元と、戦国の殺伐とした話とを、芭蕉がごちゃまでにするはずがないというのは、読みを間違うものです。全ての人間をダシにして継承を図るという方向が一致しているところですのでこういうことがありうるのです。

(2)松・卯の花・夕・秋風
 
(ア)推定による活動名
武井夕庵といえば有名ですが〈信長公記〉には、そんな名前で出てこず「夕庵」だけとなっています。ここが重要なところで「夕」となっていて、「庵」だから晩年の名前だろうということはわかります。天正三年「夕庵は二位法印、」になったと書かれているから「二位法印」は夕庵というのもわかりますが、この重要人物、夕庵が天正二年、名香、「蘭奢待」のことで東大寺に行ったというものが出ているのが〈信長公記〉の初出です。余りに登場が少ない、遅い、若い頃のはどうなっているのか、戦場に出ているのか、という疑問が当然出てきます。
 これは、この明智左馬助=斉藤新五のように、武井夕庵も活動名があるのではないか、それは
            丸毛兵庫守
ではないかということを前著戦国で述べました。あの時点では、道家尾張守はまだ確実性がありましたが、これはそこまでのものもなく、〈信長公記〉と〈甫庵信長記〉と〈武功夜話〉からのあぶり出しと片言隻語を組み合わせて結論しただけです。〈吾妻鏡〉式では、こういう照らし合わせをしたものからくる推定は合ってくる場合が多いのです。以下は芭蕉がその話(夕庵は活動名があるという)を知っていたということを話そうとしています。

 (イ)肥後守
 芭蕉が読んでいるのが確実な〈甫庵信長記〉では、どうなっているのか、ということですが、もう少し早くから出ています。桶狭間の戦いにおいて熱田神宮に奉呈する願文を書いた人物として、
        武井肥後入道夕庵
 という名前が出ていました。以下武井肥後守・妙印入道武井肥後守などが出てくるわけで、よく知られた武井夕庵というのも出てきます。宇治川の先陣のところで光秀の弥三郎と、牛一とみたてた弥三郎、忠綱とが出てきたことは前著で述べましたが、この場合や「蘭奢待」の使いの時に「武井夕庵」が使われています。
 この武井肥後守というのは、通常の歴史書とか歴史小説に表われてこない名前だから、一匹狼であろうという感じで当たらないと、いつまでも歴史の表面に出てくることはありません。夕庵を織田第一の重臣という筆者の表現も「そんことない、秀吉だ」という声に圧倒される、しかし秀吉は政庁内部におらず、あとそう有名でない人がいるだけだから信長が独裁で官僚と軍隊に指示する構図のみが面へ出ているのが現在の織田政権の理解になっています。
 武井肥後守は「美濃国諸旧記」という書物に出ているのがネット(mizoe33)斉藤道三の事績でも確認できます。これによれば道三とその子息義竜との間に争いがあったとき義竜側に味方した、義竜側支城主の中に出ています。
    「安藤伊賀守守就・不破河内守道定・山田兵庫守正康・武井肥後守直助・
    井戸才助頼重・・・・岩田民部丞光季・・・」
 など24名の名前が出ているなかにあります。これは土岐系図などと同じく、江戸時代の書だから信用できないということはないわけで、明智光秀は戦国の人で、美濃出身の人だから、特に戦国の美濃が取り上げられるわけで、芭蕉や世粛級の人物が戦国を説明するために散りばめた語りという理解で捉えねばならないものです。
 例えば武井肥後守の前に出ている義竜側支城主の中の山田兵庫守正康は太田牛一を表していると取れます。山田は太田牛一の代名詞のようなものです。この山田は住所から引き出されます。

              『春日郡山田の庄安食(これは本人の書き物に出てくる)』〈奥書〉
 の山田で、〈武功夜話〉では

              『一、中条小一郎同又兵衛  春日部郡小幡の住人
               一、太田孫左衛門      同郡志賀郷の住人、
                  東方の山田郡安食村の人
                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・春日部郡安食郷の住人に候。』

 となっており、終わりのほうに繰り返した太字の場所は山田が抜けており、「春日部郡口口安食郷」のことで注意喚起と思われます。
 ネットで成願寺(太田牛一伝説のある尾張の寺)を引くとこの成願寺のあるところは山田一族と安食一族がおり、両家の菩提寺が成願寺というようです。創建は山田次郎重忠という人だそうです。これは畠山と山田が重なっていそうです。織田信長が畠山重忠と、「覆車の戒め」で重なったように誰かの操作があったのでしょう。ネットにはこういう根拠のある話がいろいろ語られており、わけがわからない話ではないかと捨てて顧みないということになってしまいます。しかし基幹資料をしっかり読んでいればそういう部分的片言隻語といわれてしまいそうなものがつながってくるのです。吾妻鏡式で書かれていることさえわかれば主要文献がこういうものを糾合でき意味あらしめることになるはずのものです。
 また兵庫は明智光安(宗宿)から明智のトレードマークとなっています。また正については、明智系図をネットで引くと、群書類従では光秀・信教・秀、が三兄弟というように書かれているものがあり、この秀に結びつくものと思われます。康という「正」も木村又蔵正勝や後藤又兵衛政次の「まさ」にもつながります。
 もう少し付け加えると、まずこの「武井肥後守直助」に「美濃国諸旧記」では細字の注が入っているのです。〈吾妻鏡〉の著者のような人が書いたことがすぐわかります。
        『厚見郡岩戸の住人は   武井肥後守直助
         {此の人、後に法号して夕庵と号し織田信長に属しける}
        恵那郡山田の住人は    山田兵庫頭重正
        各務郡岩田の住人は    岩田民部丞光季
        方県郡郷渡の城主は    井戸斎助頼重 
        {始めは斎藤に属し、後に信長に随身す}
        本巣郡秋沢の住人は    近松新五左衛門正良
       厚見郡中鶉村の城主は  多芸大膳守定 {鶉村三千石を領せり}
        大野郡杉原の住人は    杉原六郎左衛門家盛・・・・・・・・・・・・
        可児郡兼山の城主は    森三左衛門尉可成(以下省略)』
 となっていて、夕庵のことを武井肥後守で説明する、という意図が読み取れるのです。信長の六人衆というのも、太田又助とか堀田孫七とかのひとくせありそうな人物が出てきましたが実際信長の側にいたのは伊藤・木戸・山口くらいで、あとは怪しい人物で舞台上に登場した説明用の有名俳優のようなものです。
 それと同じでこの美濃武将24人なども、本当のものと説明用のものとあると思います。従って信頼性のなさそうな資料となっています。これは吾妻鏡資料の典型で美濃資料もあの光秀を語るものとして吾妻鏡式の典型といってよい形とされているといってよいようです。・・・・・・・・のところ当面関係なさそうな杉原と秀吉夫人に関わる長い話が入っている、近松が出てくるなどのことから目的をもったものという推定ができます。なお井戸斎助頼重は注が入っているので重要人物とみられ、これは斎藤内蔵助かもしれない、光季は明智光秀を指すものと思われます。それを感じさせるのがこの書の注書きです。〈甫庵信長記〉に井上才介というものがでてくるのはこの「斎助」でしょう。各務郡とか方県郡は美濃南部の可児とか関とか伊勢に近いところでしょう。
 このようにみてくると、羽柴秀吉の弟の秀長も羽柴ということからいえば、三人は明智日向守光秀・明智兵庫頭直助、明智和泉守重正というのではないか、と思われますが、これは隠さるべきことです。
 このため「武井」を使ったと思われますが使ったにしても実体なきものは使えません。名付ける場合には、名は体を現すことにしているようです。

(ウ) 多芸郡
 まず、どこにいる人か領地がわからない。これを明らかにするために使ったものということが考えられます。美濃では多芸郡(たき・たけ郡)、で芸は「ぎ」「き」「げい」「けい」とも読むようです。現在は養老郡ですがこれと関係づけたことが考えられます。つまり
                「たげい」=「たけい」=武井
です。上の厚見郡岩戸の住人の厚見郡は、多芸大膳守定の厚見郡と重なり多芸と武井が繋がります。肥後守は「ょうのかみ」の「ひごのかみ」でしょう(これはあてずっぽうですが別の意味で肥後が使わているようです)。
 美濃国多芸郡の領主として戦国期に突然、丸毛氏が登場し、〈信長公記〉に「丸毛兵庫頭」と「三郎兵衛」の父子が登場します。江戸期の記録では、丸毛兵庫は「丸毛長照」が宛てられていますが「長照」は応仁のころの人というのもあるようではっきりしません。「光家」「長任」という名もあるようです。子の「三郎兵衛」も兼利といわれますが、親吉・安職・兼頼などの名も伝わっているようで、親吉で思い出すのは平岩親吉です。もちろん同一というわけではないが、三河後風土記の編者と同じ名前ということは一時思い出してすぐ消えます。このように何かと関わりを持たせているような多くの名前を二人は持っています。まあこのあたりは前著で述べている大橋長兵衛の違乱の話があり、大橋長兵衛は加藤光泰の有力家臣だったことがネットでわかります。この光泰は光安とは関係があるかもしれないというと実体的に考えてしまいますから、そんなことはない、となりますが「光」などの使用は一族遠縁であるかもしれないと疑わせるものでもあるようです。それは別として、光泰は美濃の土豪の出身で、のち二十四万石を領したほどの人物ですが、斎藤の系譜を追っていくと「富樫」「加藤」「後藤」というところが出てくるのでもとからかなりの有力者です。もと明智下の人だったようで大橋長兵衛の違乱のような工作者に宛てられることもないとはいえないと思います。
 ネットでみると江戸時代の戦国期に対する考証の凄さがわかる気がします(尾張志や武家伝)。教えてもらったところによると尾張の大橋氏は、
   @九州の守護、大橋肥後守貞能(平貞能)が平家滅亡後、肥後から尾張熱田に落ちてきて
    大橋氏の居城、奴野城に住みついたもの、
   A頼朝から筑後守・肥後守に任じられた貞能が尾張にも所領を与えられた、その場所が大橋
    である、
   B貞能の子貞経が肥後国に住み、肥後国にも大橋があって、肥後国山本郡大橋に住んだの
    で大橋氏になった、その子の大橋貞康が三河国額田郡に住んだのでその地が大橋と呼ば
    れる、
 など大橋=肥後守を結ぼうとするの片言隻語が一杯あることが、ある程度の事実も含み、武井夕庵をクローズアップさせようというものであったとみなければならないと思います。

 (エ) 兵庫守
 戦国下425に述べてあるので重複を避ますが「兵庫」は一族を表すキーワードであり、領主として注目させようとして多芸山というものがありました。北畠戦、〈信長公記〉に

                 『左は多芸山しげりたる高山なり。』

 という重要な文言が出てきます。これは「三重県桑名郡多度町から岐阜県海津郡南濃町太田あたりまでの左手の山」という脚注があります。元亀二年

                 『五月十二日 河内長嶋表へ三口より御手遣い。信長は津嶋まで
                 御参陣 中筋口働きの衆 ・・・・・・山田三左衛門・・・・
                   川西多芸山の根へ付いて大田口へ働きの衆
                 ・・・・・塚本小大膳・不破河内・丸毛兵庫・飯沼勘平(飯沼勘平は伊
                 賀氏と関係ある様子)、・・・・・』〈信長公記〉

 多芸では塚本小大膳ほか太字の人物、明智三兄弟がここで出てきて、違乱で注目させた大橋長兵衛(これは大橋文書に出てくる)は津嶋に関係が深いわけで、〈信長公記〉に
            「左は多芸山茂りたる高山なり」
 とあり、「多芸」は「高」でもあるようです。多芸は高(たか)ですから、多芸(たぎ)は多賀でもありえます。「多芸」は「武イ」で
                  多芸の丸毛=武井の丸毛
 ということになり、「丸毛」はつまり〈信長公記〉〈甫庵信長記〉にある、丸毛兵庫守であり、武井夕庵である、丸毛は武井夕庵の活動歴を示すものであるということで、〈前著〉では武井夕庵の最後まで話を進めてきました。
 これは〈甫庵太閤記〉の秀次事件のくだりに突如として出てきて、女房、東殿が罪に問われて、自身を葬った丸毛不心斎という人物が、「丸毛」の連鎖からでないと出てこないものでした。不心斎の最後の場面のしぐさは、夕庵にふさわしい、大谷吉隆のものに近いということでした。
 結局これが証明されなくても、今までの表記を追った推理でここまでのことがいえるのです。主要文献がある程度自己完結されているからです。ただ文献で武井夕庵が丸毛(茂)として証明されていないと「そんなこといえるか」となってしまいます。著者の自問自答によってこういう疑問に対処すべく準備が整えられているといってきているので、それは付記しなければなりませんが、これは蛇足といったようなものです。しかし、日本史文献の著者は頼りないと決め付けていることからいえば、次の、(オ)と(3)で「奇跡的な」といってよいほどのことを話そうとしています。

 (オ) 決定打 
 次が夕庵と丸毛がセットであることの決定打の一つです。同じ系統の書である〈三河後風土記〉に
                                       (丸毛早・京
             『(信長卿大嶽の)城を請とり、不破河内守・ 野村兵庫守・
             塚本小大膳を城番とせられける。』
 という一文があります。
 この野村兵庫守の上にある「 (丸毛早・京」というのは小さい字で書かれたルビです。つまり
          「野村」に(丸毛)というルビ
 が付されています。これは「野村兵庫守」は「丸毛兵庫守」の意味ですよ、と著者がつけたものです。校注者は歴代何人いるかは確認できませんが、校注者はこのルビは付けられません。強いて校注者がそうしたとすれば、これは享保年間に改定されたということから、寛永に書かれたという原本にそうなっていたので付けたということかもしれませんが、享保版は原本と大きく変わっていることが感得されますのでこれも考えられません。
 いずれにしても、「野村」を「丸毛」としておかなければならない、と誰かが思ったことは重要です。もう一つさらに重要なことは、この「野村」は前後の人間から、また兵庫守から「丸毛」の間違いと誰も思うであろうということです。
 こうはいっても夕庵と丸毛兵庫守は結びつきません。ここにまたルビ「」「」が付いており、それも重要な役割を果たします。戦国下の173頁のルビにも「東」というルビが付されていて、これが重要な意味をもっていたというような、ルビによる注意喚起がこの「早と京」です。これが次につながり、ひいては〈奥の細道〉解釈の決定打となります。

(3)夕庵の歌
 次のものは同じ〈三河後風土記〉の記事です。夕庵の歌が出てきて、その歌のルビにも「早」が付いています。武田勝頼との戦において、最終の段階に入ったとき、神君(徳川家康)が本陣に入ってきて、信長卿に必勝を報告し、信長卿が勇んで
             『百連歌あるべしとて、』
 と云ったので、選ばれた人が詠んだ歌が三河後風土記(享保版=正説)に出ています。(次の上  段の括弧内などは細字のルビ)

             『 (徳川)(高く) 京(武田四郎)           (家康公)
               松  たへて  たけたぐひなき五月哉。     御
              (しろうも)
              わかふも見へぬ卯の花かさね           夕庵
                  (山県昌景)
              入月かたうすく消はてて             紹巴
               (織田)
               おだのさかりと見ゆる秋風               信長卿 』

 芭蕉の奥の細道の小松の前(2)で述べました「」「」「卯の花」「夕月」「秋風」が全部そろっていますので確認して下さい。このルビは著者が付けたものです。上の注(ルビ)を加味して読み取ってゆくと
  「徳川は高く、武田 四郎の首がない五月、武田勝頼も早や、卯の花を重ねたように年をかさね若 くはみえない、夕月のように山県昌景も消え果て、今、織田が盛りとみえて秋風が吹いているのもそ れをしめしている。」
 というように読めますが、ここも五月に、はや秋風が吹いているのがおかしい、織田を誉めてるのか どうかわかりません。芭蕉の句も七月末の秋風は不自然でした。この信長卿の「秋風」があるため芭蕉は季節外れのたくさんの秋風を入れ続けたといえます。本文を読み取ってみると
  「徳川絶えて{武}が類なき五月、卯の花が分厚く咲き誇っている。夕月が消え果てて(消え果てれ   ば)、織田にも秋風が吹いてくる。」
 ともとれる歌です。
 この夕庵の歌にがルビとして付いています。「野村」(丸毛)に付いている「」を媒体としたものです。「野村」がなぜ出てきたか。これは全部証明しないと固執できないでしょうが、〈信長公記〉の首巻に、キーとなる姓・名が書かれており、(ここで特に必要ではないので省略しますが〈大河〉393頁にあり。)そこに姓だけ浮いた「野村」がありそれを持ってきたと思います。ここで「野村」について一生懸命説明しなくても、あとから出てくることで、「野村」というのは明智光秀の表記上の別姓であるので、夕庵に自然に結びつのです。「徳川家康」を間違って「松平家康」と書いても、二人は同じだからよいだろうというのに似ています。
 芭蕉のあの有名な句  
                『五月雨をあつめて早し最上川   奥の細道』 の元は
                『五月雨をあつめて涼し最上川   曾良の書留』
 だったようです。「涼し」というのも季節柄、また属性の入ったもので捨てがたいのですが細道では、こうなったというわけです。もしくは句案が二つあって「早し」にしたというのは、ここの夕庵歌の「早」というシルシが意識されていたから選択されたともいえると思います。加藤〈芭蕉の山河〉によれば、

                『正岡子規は、・・・・後に〈仰臥漫録〉な中で「あつめて」という語はたくみ
                があって甚だ面白くない●と批判している。これはもちろん「写生」の立
                場からの意見であって、芭蕉の発想構造そのものから見たものではない。』

 ということが述べられています。子規のいう意味がよくわかりませんが、「五月雨があつまって早し」でもなっておれば写生の句となるのでしょうか、加藤氏の省いた●のところ、一字空けて子規の文章があり、
    『それからみると「五月雨や大河を前に家二軒 蕪村」という句は遥かに進歩して居る』
 と書いています。これだとなるほど写生句としても読めます。
「あつめて」というのは誰かの意思が感ぜられますが、最上川が五月雨を「あつめた」ということでも、よく実景が出ていると思われます。ただ子規は
   「今日迄古今有数の句とばかり信じて居た口今日ふとこの句を思い出してつくづくと考えてみ
   ると」
 こうだった(面白くなかった)といっています。文中、口のところが句読点ではなく一字空けられているので話がここからコロッとかわるようです。裏を読んでみると「たくみ」があるといっているのでしょう。蕪村の句を「進歩」というのが曲者で芭蕉に比して「よし」といっているとは限りません。蕪村も「二」を入れてきているので「たくみ」がないともいえません。子規の意見による鑑賞ということではありませんが、この「五月雨」は余りあちこちから「あつめすぎ」と思われます。「あつめた」のは芭蕉という印象をもたれるかもしれません。光秀の愛宕山の五月雨、平泉の光堂の五月雨、大石田における曾良の書留の五月雨ほか細道本文の五月雨などです。〈芭蕉の山河〉では
         『「兼好歌集」の「最上川はやくもまさる雨雲の登れば下る五月雨の頃」などがひび
         いていたかもしれない、』
 とあるように古典からもきているようで、三河後風土記からも「五月」を持ち込んできています。芭蕉の方がむき出しの感じがあります。まあ衆目をあつめさせるためにけなしたのでしょうから、それにも口答えをするのが子規の読み方ではないかと思います。子規は同書で、もう一句あの

         『アラ海ヤ佐渡ニ横タフ天ノ川   はせを』

 を引用し、この句は「タクミモナク疵モナケレド」とわかりにくいことをいっています。「タクミ」ありの五月雨・最上川の句を、「タクミ」なしの佐渡の句で受けとめて芭蕉を締めていると思います。この間に明智・石田・徳川・伊達の流れが濃厚に出ていました。子規は

          『○芭蕉が奥羽行脚の時に、尾花沢という出羽の山奥に宿を乞ふて馬小屋の隣に
          やうよやう一夜の夢を結んだ事があるそうだ。ころしも夏であったので、 
                 蚤虱馬のしとする枕許
          といふ一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれ程臭気には辟易しなかつ(た)
         らう
と覚える。』

 と書いております。この句は29の尿前(しとまえ)の関の一節にありますが、たいへん陰鬱な調子になっています。この尿前のは28の平泉の次に出ており、ここを越えて最上の庄へ入るわけです。仙台藩(伊達領)の終わりで、出羽庄内藩(酒井領)の始まりですからこうなります。(最上家が改易されて、そのあと酒井家が入ったという経緯がある。)

      『尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやし
      められて、漸(ようよう)として関を越す。・・・・三日風雨あれて、よしなk山中に逗留す。
              蚤虱馬のしとする枕もと
      ・・・・・けふこそ必ずあやうきめにあふべき日なれと辛き思ひをなして後ろについて行く。・・
      ・・肌につめたき汗を流して最上の庄に出づ。かの案内せしお(を)のこの云うよう、此みち
      必ず不用の事有り。恙(つつが)なう、を(お)くりまえらせて仕合(しあわせ)したりと、よろ
      こびてわかれぬ。に聞きてさえ胸とどろくのみ也。』〈奥の細道〉

 時間的な「後」でなく、通ってきた「」が問題だったようです。こういう芭蕉の気持ちを子規が汲んでいたので臭気には辟易しなかつたということになるのでしょう。
 加藤〈芭蕉の山河〉では
         『芭蕉の発想は、古人の世界を契機として重層的に構築される性格をもつ。』
 と書かれています。ただ、今のすべての芭蕉論にはこの「古人」というものに戦国期の人が全く入っていないのが特徴です。子規にはこれが意識されていたと思います。余談ですが〈仰臥漫録〉には、〈奥の細道〉につながるものがあるようです。(1)の(イ)(へ)により、「夕」と「瓜」「秋の風」がドッキングしましたが、本文では「夕」だけで「夕顔」は出ておらず、本稿では「夕顔」を他の芭蕉の句からを説明用にもってきました。しかるに子規の〈仰臥漫録〉の出だしは「夕顔」と「瓜」の洪水です。表紙のような部分には
        『明治九月二日  雨   蒸暑(むしあつし)
        庭前の景は棚に取り付いてぶら下がりたるもの
        顔二、三本(ふくべ)二、三本糸(へちま)四、五本
        とも瓢ともつかぬ巾着形の者四ツ五ツ
        女郎花(おみなえし)真盛(まっさかり)鶏頭(けいとう)尺ヨリ尺四・五寸のもの二十本許』
 が載っており、絵があってそのあと次の句が続いています。
             顔ノ実ヲフクベトハ昔カナ
             皃(ゆうがお)モ糸瓜(へちま)モ同シ棚子同士(たなこどし)
             皃ノ棚ニ糸瓜モ下リケリ
             鄙(ひな)の宿皃汁を食ハサレシ
                右八月廿六日俳談会席上作
             皃ノ太リスギタリ秋の風
             棚一ツ皃フクベヘチマナンド
                病床のナガメ
             棚の糸(へちま)思フ処(ところ)へブラ下ル
 ここで一行あけて、また十二句続いています。その中にも「糸瓜ブラリ夕皃(ゆうがお)ダラリ秋の風」など夕顔とヘチマを入れた句が中心となっています。この「夕皃(ゆうがお)」は奥の細道にも出ている字です。「夕顔」と「へちま」は細道本文、47の越前(福井)で、ドッキングされています。
          『・・・・あやしの小家に、夕皃(ゆうがお)・へちまのはえかかりて、鶏頭(けいとう)・
          はは木ゞ(帚木)に戸ぼそをかくす。・・・・・・・・・・・』
鶏頭も出てきて、この本文の一節が、子規の表紙とその後の句の風景になっています。真盛(まつさかり)も「実盛」でしょう。女郎花は芭蕉に
          『見るに我もおれるばかりぞ(我を忘れてうっとりする)女郎花』
 の句があり、子規のこの書は奥の細道など芭蕉にことごとくつながっています。子規においてはそれは芭蕉のいいたいこと二つを理解した上での関係といえそうです。子規は明治になる一年前の生まれですから、平成の今日とくらべて背景の色が大きく違っていますので、芭蕉をみて「夕顔」と「瓜」はすぐ結びつくものでしょうが、もう一つ「夕」と「瓜二つ」も同時に想起しえたとみてよいと思います。
 やはり子規にも、その政治色が濃厚に出ています。新聞雑誌を見ての記に、

         『・・・・・・・・ソノ六    伊藤侯ノ薩摩下駄ガ桐ノ柾(まさ)デ十五円、落語家円遊ノ
         駒下駄ガ何トカノ鼻緒デ七円 』〈仰臥漫録〉

 これは売りに出されたのでしょうか、そんなことは常識では起こりえないようです。 坂本暗殺の現場に在った遺留物・下駄二足は一般に広く知られた話です。犯人は「薩摩」「土佐」「新撰組」、明治になって「見回り組」が名乗りをあげたので、この四者だと推定されて延々と議論が続いています。四者は皮肉にも敵・味方、五分五分に分けられて誠に公平なことですが子規などの鑑賞はこういう寸言も読むことも必要ではないかと思います。〈仰臥漫録〉〈墨汁一滴〉〈病床六尺〉は子規晩年の三著述ですが〈子規三大随筆=講談社学術文庫〉の解説によれば、「〈仰臥漫録〉は公表を予定しない日記だった」ということです。あとの二つは〈日本〉紙上で掲載されたものです。これからみると、日記の〈仰臥漫録〉と、それに対応する、随筆・歌論の〈墨汁一滴〉〈病床六尺〉というような関係を意図した、と見てよいと思います。例えば〈墨汁一滴〉では、

    『○伊藤圭助没す九十余歳。英国女皇崩ず八十余歳。李鴻章(りこうしょう)逝く七十余歳。
    ○亨訴えられ、鳩山和夫訴えられ、島田三郎訴えらる。
    ○朝汐負け、荒岩負け、源氏山負く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ○背痛み、臀痛み、横腹痛む。 』

 という記事があります。李鴻章は日清戦争の講和交渉の清国代表であり、英国女皇も政治上の大ものですから、且つ李鴻章の相手は伊藤博文ですから、ここの伊藤はどうみても伊藤博文のことを指すのであろう思うのが普通です。ところが、あの伊藤侯は、このとき存命(その死はこの七年後)ですからそれは明らかな間違いです。一方、伊藤圭助なる人物は実在していて、相当名が知られている人物です。このときより十五年ほど前に日本で最初の五十人の博士が誕生しましたが、その中に理学博士として名前があります(ネットの記事)。伊藤博士の没年はわかりませんが(調べなくてもよい)、ここの記事は伊藤博士のものであるのは明らかです。学問的に言えば、こういうべきであり、それが合っています。したがって、これと違った見解はおかしいことになるのはいうまでもありません。ただ前稿でも述べましたように、事実を踏まえた虚構があるというのは学者も認めておられます。上の伊藤圭介の下にある星亨(ほしとおる)については、その後〈墨汁一滴〉で記事があり

           『刺客は無くなるものであろうか無くならぬものであろうか。(六月二十三日)
           板垣伯岐阜遭難の際は・・・・・氏の最期〔星亨が三日前に暗殺されたこと
           =校注者注〕は一言もないので甚だ淋しい。願わくは「ブルータス、汝も亦」
           と云うような一句があると大いに振るう所があつたろう。(六月二十四日)』

 と書かれており、板垣・星・シーザーは刺客に絡む話でそれと伊藤圭助が結び付けられています。
前著で述べたとおり、伊藤侯は、蔵・本甚(スケ)と深い関係にあったので、伊藤圭助博士の名が利用されたのでしょう。伊藤博士は刺客と間違えられて怒るはずだと思いますが、そうではなく、暗殺者と匂わされようが、梅毒といわれようが、盗作者といわれようが、色情過多といわれようが、生活破綻者といわれようが、・・・・・怒ることはないようです。
 「無くなるものであろうか無くならぬものであろうか。」という言い回しは、言い回しの面からだけみるとハムレットの「to be or not to be・・・・・」に似ています。「to be」を「無くなる」とすれば、「not
to be」は「無くならぬ」ということになるのでしょう。有・無、正・負、陰・陽、明・暗、生・死、善・悪・・・・・・・などの両極端の対立構図の中から、答えをみつけ出してゆくという大きなエネルギーの要る思考方法をもっていたことがこの社会の特徴といえると思われます。今は「景気」と「構造」が対立的に捉えられていますが、いかにキャッチフレーズ時代とはいえこれでは何も出てきません。
 「余歳」・「訴え」・「負」・「痛」の繰り返しやら、相撲の話、最後の「月篇」などいいたいことがあるようで、「動悸を打つ」を「胴気を打つ」と書いたりするような意識が流れています。奥の細道に直接関連していそうだと思われるのは、相撲の朝汐のと源氏山の卯の花がいいたいことでもあったと思います。相撲の朝汐(初代)・荒岩・源氏山は実在の人物で、荒岩が入っているから、たまたま思い付いて相撲の話をしているように取られますが、それが反って、疑わせることになります。これらが書かれているのは芭蕉と子規との間にいいたいことの継承あり、とみなければならないと思います。
 「学問的に」ということであれば否定されねばなりませんが、著者の作意を探ってそこからみるのも必要なこと、ということが、どうしてもいわねばならないところです。事実ものべながら、それを構成して真実をのべる、正・反相反する、この難しさを、言葉・表記を中心とする手法を作り上げ、継承させることによって、克服してきたものです。子規〈仰臥漫録〉の終わりに

     『逆上スルカラ目ガアケラレヌ 目ガアケラレヌカラ新聞ガ読メヌ 新聞ガ読メヌカラ只(ただ)
     考エル 只考エルカラ死ノ近キヲ知ル 死ノ近キヲ知ルカラソレ迄ニ楽(たのし)ミヲシテ見タ
     クナル 楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛(とつぴ)ナ御馳走も食フテ見タクナル 突飛ナ御馳
     走も食フテ見タクナルカラ雑用(ぞうよ)ガホシクナル 雑用ガホシクナルカラ書物デモ売ラ
     ウカトイフコトニナル・・・・・・・・イヤイヤ書物ハ売リタクナイ サウナルト困ル 困ルトイヨイヨ
     逆上スル』

 というのがありますが、全体漢字とカタカナで書かれていますが、引用ではひらかなもあり、(ママ)というルビもあり、何事もよく数えられていて、癖はありますが、表記様式には乱れがありません。前段と後段に一般的な因果関係はなく、「逆上スルカラ」「雑用(ぞうよ)ガホシクナル」というような普通では理解できない因果系統図が出来上がっています。こういう非科学的なことを書いているから信頼できない、学問的ということからいえば結論は見送られてまうのです。しかし子規においては、これは「逆もまた真なり」ということになっていて、唯一のものとみてよく、前の逆上から後の逆上まで意識がつながっているのです。これを無視するのは学問的ではなくなります。解説にもこれは「死から生へと脱出してくる」思考方法と書かれています。「普通に考えれば奇妙なことのように見えるかもしれない。しかし子規にとってはこれが最も自然な思考のプロセスであり、彼の生活形式として唯一最後に残されたもの、すなわち美的生活形式の創造性のよつて来たるゆえんを示すものであった。」とされています。この子規の生活の中での真実をいっているという側面はもちろん重要ですが、これだけからみるのは不完全と思われます。もう一つ、子規には吾妻鏡式の、やや奇妙にみえる因果系統図が意識されています。すなわち、吾妻鏡方式の述べ方では、言葉とか、語句の使い方も因果を構成していくものです。柿本人麻呂や祝弥三郎は、こういう奇妙な思考方法によって本人に繋がっていきます。途中、「朝顔ヤ絵ニカクウチニ萎(しお)レケリ   コノ句既ニアルカ」というような注付きの句がありますが、こういうのは、前に同じ句があるかないかは調べる必要がなく、上の逆上のような繰り返しを意識しているわけでしょう。これは、邪馬台国でも「奴」と「奴」が前後に出てきてそれが意味をなしているように、子規が、人間社会の来しかた、行くすえことについて死の間際まで頭が回転していたともいえると思います。それは科学的、学問的にいえば奇妙なことのように見えるこういういいまわしをしているのでわかるといえます。子規の書物には、もう一面、専制政権への怯えや、母系社会維持などの芭蕉等の古人の思いを引継ぎをしておかねばならないというものが発露しているものです。アーネストサトウや勝海舟や伊藤侯・・・・・・・が子規の芸術のなかに織り込まれているのです。
 カントでも表現には特別な趣向が凝らされています。(「純粋理性批判・第一版序文」から)

     『人間の理性は、ある種の認識について特殊の運命を担っている、すなわち●理性が斥
     けることもできず、さりとて◆また答えることもできないような問題に悩まされるという運命で
     ある。●斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性
     に課せられているからである。◆また答えることができないというのは、かかる問題が人間
     理性の一切の能力を越えているからである。』

 説明に五つもの理性は要らず、とくに下線●と◆の繰り返しは余分で、ワザとこういう書き方にするのでしょう。この文意は要約という意味ではなく「人間の理性はどのような問題にも答えようとするが、答えられないものもある。」 ということと思います。訳の正解は全部読み終わって出てくるのでしょうが、本来五分の一にくらいのものを表現で引き伸ばしている感じです(対置と繰り返し)。
 
(4)戦国の中心人物夕庵
 〈三河後風土記〉に、武井肥後入道夕庵が桶狭間戦の熱田神宮での戦勝祈願で出てきます。表記を違わせるのが、普通なのに〈甫庵信長記〉に全く同じ場面で、「武井肥後入道夕庵」が一字の間違いもなく出ますから、継承されている、ほかにも同じ記事が載っているところがあります。つまり両者は一方がもう一方を継承している関係、つまり〈甫庵信長記〉と〈三河後風土記〉は同じ著者が絡んでいる、小瀬甫庵が両方を監修したのではないかといえるとも思います。
  芭蕉で出てくる一笑の兄の「ノ松」は「べっしょう」と読みますが、〈甫庵信長記〉で「ノ」を「へつ」と読ませていますから、これも継承でしょう。甫庵は寛永十七年まで生きていますから、寛永にこの〈三河後風土記〉という書の初版が出たというのにも符号します。
  この人物は筆者によれば、夕庵の末子、太田和泉の養子となり、〈甫庵信長記〉や〈甫庵太閤記〉〉の補充 と発行、道家祖看記や大坂の陣物語などを書き残したとされてよいと思っています。
 甫庵喜という名前の人が、道家尾張守で語ったというのが、「夕庵」を「道」に関係する人物ということを想起させたといえます。また関ケ原合戦で「逃げた」というような評判のある丸毛三郎兵衛兼利
(「道和」)という大名も一族ということがわかります。この「逃げた」というような表現は別の意味があります。
 すなわち夕庵の一匹狼として、「道家尾張守」を使ったということですが、こういうのは適当に名前を付けるわけにはいかない。夕庵をなんとなく写しているという名前にする必要があります。この場合の道家というのは鎌倉の摂政関白の家がイメージされ、尾張守は尾張にその庄があったとか権威をもって尾張全体を見るような地位にいたとかいうようなのイメージをもたせないといけないわけです。この命名は、内容とあわせてまず直感的に夕庵かもしれないというイメージがありました。 後世の人は、特に江戸期の文人は、この道家尾張守についても考証し文書を残しているはずで、九条道家(どうけ)は尾張海東郡津島のあたりに深い関係があったという研究もあるのは、そういうものが集約された結果であろうと思われます。「大橋家は堀田家と数百年わたる縁戚で、堀田家は尾張守を称していた」となるとたいへんなことがまだ出てきそうです。信長公記では堀田道空は津島にいました。
      「家」=「道喜」=「道空」=尾張守=「津島」=「堀田」=「津島奴の城」=「大橋」
      =「肥後守」=多芸=武井=丸毛=堀田佐内=堀田久右衛門=堀田道空=夕庵
のイメージが現実としてつながりかねない、江戸の人がヒントを撒き散らしているととれるものでしょう。現にそう感じている人もいるようです。私などは過去に読んだ小説やら史論やらの印象で堀田道空というのは斎藤道三の側近と思い込んでしまっていましたが、実際そういう記事はないようで、この道空も一匹狼のようです。すると道三・信長の舅と婿が会見したあの有名な場面に登場した堀田道空が何者かということにまで発展してきます。ただ主要文献からは、信長の結婚は織田方平手政秀と道三方春日丹後と堀田道空と談合によって成立したという印象を受けますので今までそのように読まれてきています。そこから、堀田左内(夫人のバックの人)=堀田孫七(弓の名人)=家康公というルートが推定できたことが重要です。
 一方、江戸などの周りの考証資料から、先に夕庵が堀田で道家という結論を出すと、堀田孫七につながるものを見落とすことになると思います。要はヒントが撒き散らされている後世の資料は主要の文献から結論されることの裏付けとして捉えることが必要と思われます。
 まあ堀田道空を夕庵とすると夕庵が道三と知り合いである、また、道三がその地位を認めているという必要がありますが、夕庵とセットで出てくる、上席のような印象を与える春日丹後守が道三と近かったということでは済まされません。春日丹後守が何者かということが捉えられているはずです。
  余談になりましたが、この 「父」というのは夕庵か牛一かわからないではないかというのは、安井の女房が出てきますから夕庵ということがいえます。
 甫庵太閤記に東殿が出てきて、丸毛不心斎の「女房」となっていますから、これは道家祖看記に出てきた安井の「女房」というものに繋がるものとして扱ってきましたが、これが合っていたようで「女房という人」という特定人を指す女房だったわけです。丸毛不心斎には「吉田文書」という実体資料があり
             「多芸 丸毛不心斎」
 と書かれてあり、丸毛不心と丸毛兵庫守の関連はあきらかなようです。予想外のことですが、甫庵太閤記で、夕庵の最後が明らかにされるのです。夕庵というのは最もわかりにくかった人ですが、たいへん多く語られたことがわかってきました。
 丸毛不心斎の女房、東殿というのは豊臣秀次政権の総理大臣のような人だったようで、この人の事跡もあきらかなようですので、これは次稿ですこし触れてみます。

(5)三兄弟の一人
 このように芭蕉は前稿で述べたように三と夕庵をクローズアップすることで明智三兄弟の存在を証明してくれました。元の証明は前著で述べた小豆坂の七本鑓の挿話〈甫庵信長記〉にありました。これをみると 夕庵は小豆坂のときは十七歳ですが織田にいなかったようです。

                『返し合わせたる人々には、織田造酒丞、下方左近、其の時は弥三郎
                 とて十六歳、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其の弟孫介十七歳、
                 中野又兵衛十七歳、其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。
                 この人々は一騎当千ともいうべき程の兵なれば・・・・』

 この戦いがあったときは「天文壬寅」と甫庵に書いていますから、天文十一年で西暦1542年です。太田牛一が生まれたとされる大永7年は1527年で、この間は15年となっています。満年齢では二歳プラスするのでこの記事の十七歳で合っています。その時期美濃では、斎藤道三が土岐頼芸を美濃から追っ払ったときです。
 なぜこの一文が注目されるべきであったのかということですが、〈武功夜話〉で小豆坂になにかありそうだというのが感じられます。
      『天文寅年小豆坂合戦、春日井衆、二百余騎参加、佐々成政、隼人正、同孫助、・・・・』
 となっており、丹羽、前野、生駒、坪内の面々も出陣しています。〈武功夜話〉に曰く

      『今は軍書等にも顕われ出で候ところの小豆坂七本鑓とて童の口ずさむ里歌にも、七本
      鑓とは何様なるや
、織田の輩七五十人ともてはやされまする。祖父物語、案ずるに七
       人分に難しとかや、備後殿仰せ出でこれ有るとの由。』

 七本鑓にイチャモンをつけています。要は太田牛一と小瀬甫庵の小豆坂の人名内容すら違っています。織田信秀が言ったからということにしていますが、信秀はそんな七人だけに功を帰させることはいわないでしょう。この部分を述べるための史家の創作といってもよいようです。太字が曰くありです。  〈武功夜話〉で平井久右衛門を遡って追っかけてゆくと小豆坂には至らないようですので、小豆坂の戦いにはは三兄弟は参加しておらず、実際は下方氏・佐々氏・中条氏であったと思われます。佐々氏は兄弟で参加していますから、これは表記上も他書からみても明らかです。 弥三郎について甫庵太閤記に中条氏の小伝があり、
            『「十六歳の春手柄なる太刀うちをし」とあり手柄話には
            「近所に下方左近と岡田助右衛門など御入候』
 となっていて、下方左近が参加したことがわかります。中野又兵衛については、前著戦国で述べているごとく中条又兵衛と中野又兵衛は炙り出されているので中野は中条に変えてもよく、中条氏が参加していることになります。七本鑓の中の不明人物についても誤解の無いように説明がされているようです。すなわち三兄弟を述べるために小豆坂が転用されたといえます。
武功夜話では佐々成政も載っていますが、武勇が有名で関係が深かった佐々兄弟をもちだすことで明智兄弟を連想させようとしたのかも知れません。明智には羽烏の挿話もあります。
 小豆坂の戦いは、あの織田信長九歳くらいのときで、六年後胡蝶と信長が結婚しましたが、このとき、まだ三兄弟は織田に仕官していなかったのではないかと思われますが、こういうことはその気で(吾妻鏡式で)読めばわかってくるはずのものです。今述べてきた、丸毛兵庫守が夕庵、ということが確定しましたから、そこからまた新たな話が派生することになります。
  
(6)夕庵のまとめ
 もっとも隠された人物の一人でしたので、多くの裏の挿話が残っているはずの人です。全部一度に
まとまったものにしようとすると混乱するかもしれません。〈前著〉も踏まえ主要文献から確定できることを挙げておきたいと思います。

 @三兄弟のこと
  〈甫庵信長記〉における小豆坂の記事、
            『返し合わせたる人々には、織田造酒丞、下方左近、其の時は
            弥三郎
とて十六歳、岡田助右衛門尉、佐々隼人正、其の弟
            孫介
十七歳、
             中野又兵衛十七歳、
             其の時は未だ童名にて、そちとぞ申しける。
             この人々は一騎当千ともいうべき程の兵なれば・・・・』 
  で明智光秀・武井夕庵・太田牛一が出てきて牛一の「兵衛」から、夕庵と、牛一が同年の兄
  弟であるということがわかります。

 A道家尾張守は夕庵のこと
  〈道家祖看記〉の主人公、道家尾張守が武井夕庵と読めるかどうかはたいへん重要なことです。  幸い著者の次の文があります。次の祖看記の末尾が太田牛一の奥書を踏襲しており、太田牛一の
  くせをそのまま出しています。
      『春日郡安井の住人・・・・渋眼を拭ひ・・・・・禿筆を染め・・・・曾て私に私語を作る
       に非ず。・・・・事なきを添えず。申し置きしを此の如し。一笑々々。 祖看判』
  祖看が夕庵か牛一の子とみるしかないのです。ただ、ここで著者は尾張守を父といっている、母   は「安井氏」ということなので、武井夕庵の子とみてよいと思われます。「道」という字は「道喜
  (甫庵の名前)」とつながっていると取れます。

 B丸毛兵庫守など活動名が他にあること
   次の人物は全部明智一族であり、この中の野村兵庫頭は丸毛兵庫頭に変えてよい(兵庫頭は
  三人共通に使用されている)ことがわかりましたので丸毛は夕庵と確定しました。しかし肝心なこ
  とはこれがなくても〈前著〉ではもう夕庵で話しを進めていました。                         
                                        (丸毛早・京(これはルビ)
             『(信長卿大嶽の)城を請とり、不破河内守・ 野村兵庫守・
             塚本小大膳を城番とせられける。』〈三河後風土記〉

 C武井夕庵の最後は秀次事件のときであること
   「吉田文書」という実体資料があり
             「多芸 丸毛不心斎」
   というのがあります。丸毛不心斎とその女房「東殿」が事件に連座していますが、これが夕庵夫
   妻であることは確実なようです。

 D〈奥の細道〉で夕庵は取り上げられていること
   芭蕉から、いろいろなヒントが得られるのでこのことは重要と思われます。例えば「松井友閑」と
   いう人物は、〈信長公記〉首巻に出て来たときから「松井夕閑」で、堺の代官になったほどの人
   物です。これが一体誰のことなのかよくわかりません。つまり終わりが尻切れトンボになってい
   ます。
    次の夕庵の句は、芭蕉の「小松」の前、「加賀金澤」に反映されています。

            『 (徳川)(高く) 京(武田四郎)           (家康公)
               松  たへて  たけたぐひなき五月哉。     御
              (しろうも)早
              わかふも見へぬ卯の花かさね           夕庵
                  (山県昌景)
              入月かたうすく消はてて             紹巴
               (織田)
               おだのさかりと見ゆる秋風               信長卿 』
   
   ここから出てくる語句は「」「たけ」「五月」「卯の花」「」「月」「山」「秋風」で、

   芭蕉の金澤あたりの本文、〈曾良日記〉の語句は次の通りです。
      「卯の花山」「一笑」「其の(一笑)の兄」「秋の風」「瓜茄子」「日」「あきの風
      「源氏山」「京や」「源意」「一泉」「雀」・・・・
   〈奥の細道〉によれば、武隈の松(竹駒の松)は、「武」と「松」が同根といっているような感じが
   あります。
   ここから「夕庵」は「夕庵」と置き換えられて「松井夕閑」「武井友庵」ともなりうる、
   表記からいえば
      「武井夕庵」=「松井夕閑」=「松井友閑」
   となりうると思われます。「夕庵・友閑」と併記されているところから、別人とされていますが、併
   記の意味を探れば同一人という可能性も出てきます。太田牛一の和泉守は夕庵にも適用され
   るはずで、堺代官は夕庵であるとしてまず調べてみる必要があります。それが駄目なら太田牛
   一がその名のとおり、堺の代官だったのか調べる、ということになり、取っ掛かりが出来ていきま    す。
    また、加賀には太田牛一の領地があるので「一笑」がここで出てきたのではないか、その兄と
   いうのは「夕庵」を指さないかという疑問が出てくるようなことになります。すなわち芭蕉から教
   わろうと思って見ているともっといろんなことがわかってくるはずです。
                                        以上

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