22、石田三成・島左近の出自


(1)近江の石田
 前稿でなんとなく、石田三成というものが顔を出していました。〈信長公記〉では「石田」は三件
登場します。@「石田伊豫」、A「石田主計」、B「石田孫左衛門」です。なお一般向けの〈甫庵
信長記〉では@とBはありますがAはありません。

 @はテキスト脚注では「茨木(大阪府茨木市)の地侍」となっている人物で「渡辺勘大夫」とセット
  で出てきました。前稿再掲
    @天正6年11月24日
     『亥剋、雪降り、夜もすがら以っての外時雨(しぐれ)候キ。御敵城茨木、石田伊豫渡辺勘
      大夫・中川瀬兵衛両三人楯籠る。・・・・・・・、石田渡辺勘大夫両人・・・・・』〈信長公記〉
    A同日
     『夜半ばかりに御人数引き請け、石田渡辺勘大夫両人加勢の者を追(ヲイ)出し、中川瀬兵衛
     御身方仕候。調略の御使、古田左助・福富平左衛門・下石彦右衛門・野々村三十郎、四人
     の才覚なり。』〈信長公記〉
    B天正7年10月15日
     『きしの取出(とりで)、渡辺勘大夫楯籠り、同者(ドウシヤ)紛(マギレ)に多田の舘(タチ)迄
     罷り退き候を、兼ねて申し上ぐる儀もこれなく、曲事の旨御諚にて、生害させられ、・・・』〈信長公記〉
    C天正●8年10月15日
     『渡辺勘大夫の取出より多田の舘まで罷り退き候を生害させられ、・・・』〈同上〉
    D天正6年11月24日〈信長公記〉Aの記事に対応するもの。
     『翌日茨木(の=ルビ)城手痛く押詰め陣を取り・・・・茨木合力勢として、渡辺勘大夫
     石田伊予守両人、伊丹より入れ置き候を、・・・・。此の調略は・福富平左衛門、・・』〈甫庵信長記〉
    Eこのあとに先の「渡辺勘大夫」と「荒木志摩守」が出てきます。
      『廿一 渡辺四郎{荒木志摩守兄息子なり。渡辺勘大夫むすめに仕合わせ(脚注=妻合わせ)、
           則、養子とするなり。}』〈信長公記〉
  
    昔の一般の読者はDから、石田と渡辺は親しい、勘大夫は勘右衛門や勘兵衛もありうる、二人は荒木
    と関係がある、と読み取って、切り売りされたという太田和泉守の逸文によって、二人は、荒木と
    関係が深い、石田だけは、「渡辺勘大夫」と違って、苗字だけもあり伊予守も伊豫もある、石田は
    三成の石田もありそう、などということは読んだと思われます。「多田」もあり、太田和泉守がこの
    「石田」という人物に乗っかっている感じです。

 Aは、テキスト人名録で「奥州の侍。」とされている人物で、「前田」「薩摩」「遠野」に囲まれて出てきました。
  「遠野孫次郎」が誰かを示すためにこの「石田」が役に立っている、つまり引き立て役でもありますが
  逆に遠野から石田がわかるともいえる、そういう関係と思います。しかし
        「前田」「薩摩」「伊達」「石田」
  となると「関ケ原」というものが出てくるので、これは、あの「石田」かと一応は疑問が出ます。
   「前田」「薩摩」「伊達」だけでは「関ケ原」というものが出てこないともいえますが現代人の知って
  いないことがあるかもしれないわけです。まあボンヤリ加藤清正も意識される「主計」もあります。
   また「前田」「薩摩」は「前田薩摩」という一人の人物で「出羽千福」の住人ですから、これは「前
  田」を表わし、
        「前田」「伊達」と「石田」
  の対置を描き出したともいえます。またあとで「石田」という地名も出てくるので、
        「遠野」「薩摩」「石田」
  という地名も出したと思います。なお「前田出羽千福」というのはボンヤリと太田和泉守が出て
  きていると思われます。つまり意図のある記述がされた箇所で出てきた「石田」といえるものです。
  〈甫庵信長記〉では「石田伊予守」「石田孫左衛門尉」の二つで、この「主計」がない、というのは、
  「主計」を使って、いいたいことを述べようとした、操作性の高い表記が「主計」といえます。

  Bは本能寺での戦死者の羅列で出てきます。前に一回も出てきていないので、著者の知らない
  人であろう、石田孫左衛門という人が戦死したのであろう、と解釈されていてそれで済んでいます。
   ただ「孫左衛門」というのは「孫」は重要であり「太田孫左衛門」も出てくることですから作為的で、
   「石田□□」という意味もあり、名も数も漠然としたものになるのでしょう。@Aの「石田」を消す作用を
   したといえる側面もあるといってもよいと思います。

「石田」というものを印象づけるために出てきたのが@ABであるとすると「石田」は「石田三成」を意識
したものであろうといえますが、「石田三成」は後世の人だからそれはおかしい、といわれるとその
通りでしょう。著者もその疑問が、一般の人から出ないように、石田三成を意識したものでないと思
わせるためにAを省いたといえる、このAは 〈信長公記〉にしかなく、とくに意図的といえるところと
いえそうです。裏返すとすなわち「石田三成」が意識にあるわけです。
 石田の「伊予(豫)」「主計」「孫左衛門」という、この石田の属性を示すものも重要だとも思われ
ます。間接に語るという面がありますので、無視できません。

    ○@の石田の「伊予(豫)」は「渡辺勘大夫」と抱き合わせで出てきた、
    ○Aの石田の「主計」というのは「加藤主計頭清正〈甫庵太閤記〉」、の「主計」で〈信長公記〉には
     加藤姓は「賀藤兵庫頭」とか「賀藤弥三郎」などが出てくるので著者の一族の誰かを宛てていると
     いえる、また後に「木村主計」という表記が作られたりしている、
    ○Bの石田の「孫左衛門」は、太田和泉守そのものの表記である、

 ということだけから、この「石田」の元が「石田三成」だというのでは納得を得られないものですが、太田和泉
守を意識している表記であるというのは間違いなさそうで、太田和泉守は 「石田」というものに乗っかろうして
いる、そういう表記で他で出ようとしているということは推測されますので、確実にいえることは太田和泉
がらみで石田という表記がでてきているといえます。したがって太田牛一に占める石田三成のウエイトが
どうか、ということで、この「石田」が狭義の三成の「石田」になっているかが決まるといえます。
  石田三成の「石田」は近江の「石田村」に住み着いていたから付けられた苗字ということですが、
 「妻木村」も借りものくさいという例もありますし、重要人物なので、それは史家の付けた名前かも
しれないというのは考えられないことでもなさそうです。
 本稿の「石田三成」の出自というものの結論は

        石田三成=土岐源氏嫡流=明智光慶・ 

 ということになります。以下はこれを述べるための紆余曲折です。行く先に目印の火が灯っていると
まわり道をしても、もとの軌道に戻りやすい、聞き手、語り手双方が安心できるので、結論をさきに
いっておくというやり方をとってきました。ただ結論を先にいえば、すぐ「それはおかしい」ということに
なりやすい、また強引に自説を補強していると取られやすい、というのが気になりますが、まあわかり
やすいのが第一なので、また速さも要求されることなのでそれも仕方がないことです。
 ただこの場合も、この決論はやはり終わりでいわないとたいへん危険といえるものです。すなわち
明智光慶は死亡したとされているではないか、ということがあるからです。個人名で消息が出てくる
のは、〈明智軍記〉で、本能寺のあとの山崎の戦いで光秀が戦死した日の前日、丹波亀山で病気
亡くなったと書いてあります。
親子が重ねてあるということや、死の操作があることが非常にわかりにくいことですが、大敵がある場合
死亡したとするのが一番安全で確実な逃亡方法でもあります。現在でも自分を死亡させ、他人に
なりすまし、完全犯罪をもくろむというようなストーリの推理劇がありますが、頭の中で考えられること
の範囲内のことですから、昔の人も、いかにすれば正体がバレずにすむかよく考えた結果、死亡による操作
も出てきたのでしょう。そのためか一杯生存伝説を作り、そのうち10分の1くらいのものを生かそうと
したといえないこともなさそうです。
光慶の場合はとりあえず、筒井順慶に人質として出されたとすると、坂本も亀山も関係がないところ
にいたことになるので問題もなくなりそうです。はじめに根本的な疑念があるとどうしようもないので
そうとでもしておいて話をすすめます。〈甫庵太閤記〉本能寺のあとの記事

   『光秀が二男に、あこと云いて十二歳になりしを同道し、是を質心に順慶に出し置き・・・・・』

この「あこ」が光慶かどうかはまだわかません。もと筒井家にいた島左近も関ケ原で戦死したような、
そうでもないような、ことになっています。  

この結論からいえば、明智の嫡男が石田ということですから、太田和泉守の関心は、石田三成に向
けられている、石田の表記はあの石田を語るためのものといってよいことになります。すなわち
 ○@の石田の「伊予(豫)」は三成の石田で、「渡辺勘大夫」つまり「細川・明智」と関係があると
  いっている。
 ○Aの石田の「主計」というのは関ケ原が念頭にある「石田」で、三成の石田といえる。
 ○Bの石田の「孫左衛門」は、太田和泉守に近いといっている、また@Aの表記を消す働きを
  させていることは@Aは本来の筋にない将来のことも著者が入れたということになる、
あともう一つややこしい「石田」が出ますので、それもあの「石田」が念頭にあるとみるのがよいよう
です。

(2)石田の西光寺
 先の結論を示すのは〈甫庵信長記〉にある「越前国の余党併に一揆退治の事」という一節と、それ
に対応する〈信長公記〉の一節があるだけです。ここに(1)で述べた三つの「石田」とちがう、四つ目の
わからない「石田」が出てきたからそうだろうと見当がつきます。そういう大事なことを短い一節で表す
のですから、操作がかなりあります。ここで、わかりにくいところがあれば、根気よく精読する必要があり
ます。
 「石田」がもう一件、わかりにくい形で出てきます。名字か地名か何かよくわからない
       「石田の西光寺」〈信長公記〉と
       「石田西光寺」〈甫庵信長記〉です。
前稿で出てきたこの表記はよくわからないだけに、よくみる必要があるといえそうです。

  A、前稿のもの再掲〈信長公記〉

     『十四日敦賀に御泊。武藤宗右衛門所に御居陣。
    御敵相拘(かかえ)候城々
    一、虎杖(ルビ=イタドリ)の城丈夫に拵え、@下間和泉大将にて賀州・越州の一揆罷り出・・・
    一、木目峠、●A石田西光寺(さいこうじ)大将として一揆引率し在陣なり。
    一、鉢伏の城、▲B専修寺阿波賀三郎兄弟、越前衆・・・
    一、今城
    一、火燧が城、両城丈夫に構え・・・・C下間筑後守大将にて・・・・』
    一、だいらこへ・すい津の城、▼D大塩円強寺(えんこうじ)、加賀衆相加わり在城なり。
    一、・・・・E若林長門・息甚七郎父子大将にて・・・
    一、府中の中門寺拵え・・・・F三宅権丞(みやけごんのじょう) 』〈信長公記〉
 
  B、上記に対応する〈甫庵信長記〉の記事
     『当国虎杖の城には     @下間和泉守   
     木目峠の要害には、   ★A石田西光寺
     鉢伏城には、         B阿波賀三郎兄弟
     今条火燧両城には、    C下間筑後守
     すい津の城には、      D大塩円強寺(えんこうじ)
     河野の新城には       E若林長門守父子
     府中竜門寺には       F三宅権丞、 此くのごとく・・・』〈甫庵信長記〉

 ●のところ、★のところに「石田」があります。結論的にいえば、筆者はこの一節の「石田」があの石田
三成を打ち出そうとしたものだ、ということをいおうとしています。そのために以下の長い話をしようとして
ています。
 上の文をみて気づくことは

(@)石田にまつわる表記が、〈信長公記〉は「石田西光寺」
                  〈甫庵信長記〉は「石田西光寺」
  となっており表記が違うことです。

(A)〈信長公記〉の表現がとくにややこしく、
        『石田西光寺(さいこうじ)大将として・・・・・・・・・』〈信長公記〉
   となっています。これでは、「石田」は何を指すのか、西光寺は西園寺のような名字をいうのか、説明
   がいるのではないかと感ずるものです。例えば
        『下間和泉大将にて・・・・』〈信長公記〉
  はわかりやすい、「下間和泉という人が大将となって」ということになるでしょう。これと比べて
  わかりにくい表現であり、それが「石田」でなされているといえます。

(B)★の〈甫庵信長記〉の「石田西光寺」は一層わかりにくそうな表現です。これでは石田西光寺という
名前になるようだから、ほかとの比較で問題がないかという疑問が出てきます。例えば、
〈甫庵信長記〉Bでは
            @下間      和泉守
             ‖        ‖
           ★A石田     西光寺
 となっています。こういう図式になるかどうかです。@はわかりやすい、「下間」姓の人は多いからその
中の「和泉守」という人ということになります。それならば、石田を特定する「西光寺」といつているのか
というとそうかもしれないわけです。つまり、本願寺では、和泉守という肩書きに相当する地位を「西光
寺」としている、またそう呼んでいるのならばそれでよろしいが、一般にはそういう知識がないから合っ
ているのかどうかを考え出すとまったく手に負えないということになります。とにかく現在では「石田」と
いうのが苗字ではなさそう、「西光寺」というのは石田を特定するものではない、「石田西光寺」という
本願寺特有のものからくる表現とされているような感じです。いまでは、この場面に「石田」という人はいなか
ったというのが一致した見解です。〈甫庵信長記〉の読み方を〈信長公記〉が修正して
          「石田の西光寺」
 としていますからそれも妥当ということでしょう。「石田」はここで
          「ウンザリ石田」
 となり、簡単に説明できそうになさそうだという感じがするのは仕方がないことです。

 なお先にいって置きますが筆者は、ここではもうはじめに言った目的を達成しています。先に
      『この一節の「石田」があの石田三成を打ち出そうとしたものだ、ということをいおうとして
      います。』
 といいましたが、それは〈甫庵信長記〉の記事で済みました。〈甫庵信長記〉はひろく一般対象
に出されたもので大久保彦左衛門もこれをみているようですが、これはこれで一つ完結させられた
ものです。つまり〈信長公記〉は見ていないから余分な先入観がないわけです。そこに
    『当国虎杖の城には@下間和泉守、楯籠り、木目峠の要害には、★A石田西光寺、鉢伏城には、
    B阿波賀三郎兄弟今条火燧両城には、C下間筑後守、すい津の城には、D大塩円強
    寺(えんこうじ)
、河野の新城にはE若林長門守父子、府中竜門寺にはF三宅権丞、 
    此くのごとく・・・』〈甫庵信長記〉
 と書いてあるのですから、Dは少しわかりにくいとしても、姓名と、肩書きのような属性とが合成された
ものの羅列ととるのが普通です。まあ通常は本願寺はどういう言い方をしていたか本願寺にくわしい
人に聞いたらどうかということになりますが一般読者にはそんなことは期待できませんので、書いてある
通りで理解してしまいます。石田姓の西光寺を治めている人、というように取ってしまうでしょう。
 太田牛一は「村井長間寺」とある右傍に「長門か長間か」というような注記を入れているそう
です。それからいえば「寺」は「守」に替わりAは「西光(寺)守」、Dは「円強(寺)守」とも書く積りが
あったといわれると否定するのはむつかしくなります。まわりの読み方からの比較からいえば
     「石田西光寺の守」
というのは最も妥当な読み方といえます。
 また〈信長公記〉の「石田西光寺大将として」も読み方が納得できない場合は入れ替えてもよい
わけで
    「西光寺石田大将として」
として読めるはずです。「石田」という苗字の人が、大将ですから、それできまりとしてよいはずです。
 したがって実際でてこない石田という大将が、打ち出された、「石田」が意識されているといえます。
江戸期の読者は〈甫庵信長記〉の
      「石田西光寺」の表記について「西光寺(の)石田」
と理解して読んだかもしれないというのがいいたいことです。まず目的達成の読み方として特筆しておい
てよいものです。

それは別として、まず〈甫庵信長記〉の「石田西光寺」がいまでも混乱を与えていると思います。
 〈甫庵信長記〉の「石田西光寺」の表記について使用例をみるとやはり混乱しています。
ネットで「石田西光寺」ひきますと例えばつぎのようになっています。(www2・fctv ・・・saikoji)

   「西光寺 福井県鯖江市杉本町・・・・・昔は石田山 西光寺としていましたが、万延元年(1860)
    関白九条兼実から直筆の「石田殿」の額を下賜されてから寺院としては全国で唯一の殿号
    呼ばれる寺院となりました。本願寺七世存如が石田に道場を開くのは西光寺の建立される
    宝徳3年(1451)よりも10年程さかのぼる嘉吉年間(1441頃)であったと思われます。西光寺
    の一世には・・・長男永存を迎え・・・」

 つまり基本は「石田山」とか「石田」の「西光寺」です。いまこの寺の名前は「石田殿西光寺」という
ようですが、これは下線の話がありますからそうなっており「石田西光寺」とは違います。
「yahoo見出し」による「福井県史通史編2中世」によれば上の「永存」は
      「石田西光寺永存三男」
 という使い方がされていますが、これは寺院名ではなく他と区別のものでしょう。
      「一家衆の大町専修寺・丹生郡西光寺・・・・」
というのもありますから。また
      「蓮真は石田西光寺で生まれ・・・・」
 となると、ここの西光寺の院主の子ということになるのでしょう。
それにしてもこの下線の部分はおもしろい話です。万延元年といえば「桜田門外の変」があった年で、
このときに「西光寺」に石田殿という個人名を付けた、石田殿というのは院主の姓ではないでしょう。
 九条といえばあの鎌倉の慈円の家ですから、一筋縄ではいかないものが感じられますのでこれは
地名ではなく個人名でもありうるという古典の読み方のヒントを与えたともいえると思います。

 以上が一般向けの石田西光寺のことですが、専門筋に対して〈信長公記〉が語ったことについて
つまり「石田西光寺」の意味や、石田西光寺との食い違いを出してきた理由などのことを見ておか
なければなりません。
    「石田西光寺というのは個人名をいっているかもしれない、」
と、混乱させる積りとしか取り様がないものが出された、あと〈信長公記〉が、
    「石田西光寺大将として」
と書き直していますので、これはどう読むのか、何のためにこう書いたのか、〈信長公記〉記事固有の
解釈も必要となります。ことに「石田」は名字ではなくて地名とか「西光寺」を限定するものとして考
えたらよい、といっていると受け取れますので以下、その側面からみていきたいと思います。長々とした話に
なりますがこれをやっておかないと、あとに尾をひくことになり、石田もみえてきません。
 〈甫庵信長記〉の「石田西光寺」に、この「」と「大将」「として」が入ってきましたから、、単純に
名前だというわけには行かずまたそれなりに読み辛くなってきます。おまけに「として」という、「にて」
とは違う、つなぎがむつかしい語句があります。
 一見「石田」は地名をいっている、「西光寺大将として」は、「西光寺」を「大将として」となるので
しょう。
       「石田というところの西光寺という人を、大将として」

 西光寺という人が大将である、といっている、わかりにくいところがありますが、文脈からいえばそう
なります。  一見したところでは、「西光寺」は個人名で、ここの意味は、石田というところに本拠を
もつ「西光寺」姓の大将ということになるのでしょう。〈吾妻鏡〉では「西園寺」という人が、極めて重要
な人物(頼朝の親族)として出てくることなどが太田牛一の頭にあるのでしょう。それが普通の解釈と
いえます。〈甫庵信長記〉の「石田西光寺」のことはもうすみましたが個人名としてよませることには
役に立ったとも思われます。
〈信長公記〉テキスト人名禄にも「この西光寺」は、
      『越前西光寺の住持』
となっており、誰もがそう読む読み方といえます。
 Bも「専修寺」という意味と取れば個人名であると読めますので、「専修寺」と「阿波賀三郎」の
二人が兄弟と取れますし、Dも「円強寺」が「在城なり」の主語とも取れますから、この寺名は個人名
として書かれたといえます。
 AとDの「石田」「大塩」というのは地名か、荘園名か、あだ名かよくわかりませんが、まあ
キャッチフレーズ的なもので「西光寺」「円強寺」という個人名を補強したといえそうです。

 しかるに〈信長公記〉の脚注では、この「西光寺」は「寺院名」の索引のなかにも出ています。
わずらわしいことですが「西光寺」というのは、どうみても寺の名前ですから、あとで専修寺やら円強
寺が出てきますので、この方の読みの方も合理的なのは事実です。場合に応じてどちらを選ぶべき
なのか、ということはありますが、「寺」にも無縁でないのは事実でしよう。つまり、現在は〈信長公記〉
のここの寺名にはひっかけがある、寺名に何か意味も持たせている、と解釈されていることがわかり
ます。地名も関係がありそう、と取られているのでしょう、例えば「石田」の「西光寺」は
      「鯖江市の、石田にある、西光寺」
と考証されているようです。上のものの寺だけあげますと、Aの下線のところABDですが、テキスト
脚注では、
  
  ○Aの「石田の西光寺」は、「鯖江市石田上町・同中町・同下町。西光寺は浄土真宗」
  ○B「専修寺」は、「もと福井県足羽郡大町に開基。今は勝授寺。坂井郡三国町三国台
  ○D「大塩の円強寺(えんこうじ)」は、「大塩」は「武生市大塩町」「円強寺」は「円光寺(〈越登
    賀三州史〉)。いまの加賀市小塩町の円光寺。」

 となっています。たしかに、単に、個人の名前だけではない、出身地とか所属団体、バックを語って
いるような感じもありますが、なぜか個人名ととるように仕向けているような感じがします。まあそれに
乗っかれば、全体に下間傘下の「西光寺」、「専修寺」、「円光寺」衆の大将か大将クラスの一人という
ことをいっていそうです。 いいたいことは、この○の部分を額面どおり受け取ると、太田牛一の記録
がちょっと整合性に欠けることになります。太田牛一はなぜか、寺名を打ち出さず、個人名を強調し
ているかにみえます。
 まあいろいろぐずぐず言ってきましたが、「」が入り込んできたというものがあり、そんなのは、本願
寺の独特の呼び方である、とかいって読み流してしまうのがやはり一番いけないようです。本願寺系
の人のものだから分かりにくいというのは合っておらず、こういう表記自体がわかりにくい、表記に問題
があるわけです。
 ネットに拠れば、この「西光寺」は「西光寺五代」の人のようで、チャンと「真敬」という名前があります
(後述)。「西光寺」ではわかりにくいが「西光寺真敬」となるとわかりやすくなるので、まあわかりにくいこと
は、わかりにくいとして一応とりあげてみるのがよいようです。「真敬」という名を太田牛一が省いたと
すると表記の整合性は問題がなくなるといえそうです。

(3)人名の展開
 以下個別に〈甫庵信長記〉と〈信長公記〉をチェックして、その過程を明らかにして結論という順序
になりますが、導き出された結論だけを二つ取り上げます。(@)は下間を取り上げて明智を語る、また
その逆をやっているということです。(A)は抜けている語句を補強して完成させるということを含んでい
るということです。

 (3)−(@) 分解
 下の@Aから、またわかりにくい石田西光寺が出てきたことから、一連のものは敵方と味方側の合成
された名前を打ち出した、そうであれば分けて理解できるというように思います。

     再掲    〈甫庵信長記〉の記事
       『 当国虎杖の城には     @下間和泉守   
       木目峠の要害には、     A石田西光寺
       鉢伏城には、         B阿波賀三郎兄弟
       今条火燧両城には、    C下間筑後守
       すい津の城には、      D大塩円強寺(えんこうじ)
       河野の新城には       E若林長門守父子
       府中竜門寺には       F三宅権丞、 此くのごとく・・・』〈甫庵信長記〉

これは次の右二つの合成されたものと取れます。
    〈甫庵〉の記事           明智側                 下間側

    @下間和泉守          @和泉守               @下間
    A石田西光寺、         A石田(和泉守)           A西寺(1)
    B阿波賀三郎兄弟       B三郎兄弟(光秀と牛一)     B西寺(2)
    C下間筑後守          C筑後守(和泉守)        C下間
    D大塩円強寺(えんこうじ)   D大塩(大田)           D円
    E若林長門守父子       E長門守(太田)父子、      E円寺・父子
    F三宅権丞、           F権丞(権兵衛とか丞相)      F三宅

 
 @の左を分解すると中の「和泉守」と、右の下間に分解できます。Aの石田は太田和泉守を示す
ものです(匂いはすでに初めにでましたが後出)。以下同じですが、例えばBは、阿波賀というのが
西光寺の姉妹寺のある場所ですから(後出)こうなります。つまり下間と明智と両方にまたがる人物
がいるからこういうことをやったと思います。明智光慶などは両方に密接な関係があります。
全体が「三」(光)の洪水の中にあり「三兄弟」の「三」とともに「石田三成」の「三」も出ていると思います。

 (3)−(A) 補強
「石田西光寺」は〈信長公記〉では「石田の西光寺」となりますから、上の左のものは次のように
位置づけられます。(一番右は現実)

    『  @虎の        下 間     和泉守          下間 頼俊
       A石田の    西光寺、    A、□□□         西光寺 真敬
       B阿波賀の   B、□□□   三郎兄弟、        専修寺 大町氏
       C二つ川     下 間     筑後守、           下間 頼照
       D大塩の      円強寺、  C、□□□          円光寺 若林党
       Eすい津      若 林    長門守父子、        若林父子
       F 竜の       三 宅    権丞、            三宅備前など
       此くのごとく・・・』〈甫庵信長記〉

 すなわち、Aの□□□はその上の「和泉守」で埋めるしかない、
        Bの□□□はその上の西光寺しか埋めるものはない(西光寺Aというべきところ、後述。)
        Cの□□□はその上の筑後守で埋まる
ということになります。「筑後守」は「和泉守」のあぶり出しと取れます。
Bは〈信長公記〉では「専修寺・阿波賀三郎兄弟」となっています。したがって「専修寺」を埋める
べきということになりますが、専修寺はほかの目的に使われたとみてとりあえず上から下ろしてきて
西光寺Aとしておきます。
 Bについてはいいたいことがあることは前稿で触れました(三兄弟のこと)が、ここはまたそれとは
違った側面から付記します
 Bの「阿波賀三郎兄弟」は、あとで「阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟」が出てきます。従って〈甫庵
信長記〉の「阿波賀三郎兄弟」は「与三」が隠れており、実際は
      「阿波賀三郎・□□兄弟」
 となり□□が与三となるはずです。しかしこれでは二人と取られてしまうはずです。ここで〈信長
公記〉の専修寺をもってきますと、
      「専修寺・阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟」
となります。すなわち「専修寺」は「□□寺」ということで捉えますと、「千秋守」というような個人名に
なり、そうすれば「三兄弟」というものが出てくることになります。
 またこの専修寺(□□寺)が、上の「西光寺」も受ける役割を果たしたといえます。さらに前に出ました
脚注をもってきますと
   再掲
   ○B「専修寺」は、「もと福井県足羽郡大町に開基。今は勝授寺。坂井郡三国町三国台

となっていました。国の国ですから「三」がまた出てきました。またこの「与三」というのは既述
ですがネットでみていいただくとわかりますように、「森三左衛門」の別名(幼名)ですから、こうなれば
「太田和泉守」の登場になります。
 まあ三兄弟の「三」に加えて「西光寺の石田」か「石田の西光寺」かの「光」も、「三」であり、「石田」
も「三」の洪水に見舞われたといえます。
DとEは合体させて考えてよく、そのため
       「円強寺・若林長門父子人数を出し候。」〈信長公記〉
というのがあとで出てきます。まあ「円強寺」党の人といってよいのかもしれませんが、この若林は「長
門守」ですから、「太田和泉守」の登場です。
 「円強寺・若林長門父子」、これも計三人になるのが重要です。また「円強寺」は円教寺」でもあり
ますが、「えんこうじ」とも読ませていますから「□光寺」となるわけです。したがってこの「□」は前から
の継続で「西」が入り、「西光寺B」となりそうです。これが間違いでもなさそうであるというのはあとで
また触れますがこの円強寺も「専修寺」と同じく、「□□寺」となりうる、つまり妥当な語句で埋める
ことが出来るというものと思います。もちろん次の脚注のいわれている
再掲
  ○D「大塩の円強寺(えんこうじ)」は、「大塩」は「武生市大塩町」「円強寺」は「円光寺(〈越登
    賀三州史〉)。いまの加賀市小塩町の円光寺

「円光寺」ともなります。大塩を勝手に小塩にしてしまっているのは何かその根拠になる文献があって
のことでしょうから、これは無視できないと思いますが少しおかしいということもいえそうです。大塩、小
塩とある以上、どうも姓ではなさそうで、この「大塩円強寺」は、「大塩□□寺」であり、「大□円強守」で
これは「大塩長門守」となり、結果的に「大塩和泉守」となります。「庄屋」の大屋甚兵衛が「大田和
泉守」にかわるようなものです。
 Fの三宅権丞は三宅弥平次につながるものです。ここの「弥」「平次」が太田和泉守を匂わすもの
ですが、「三宅」についてはほかのところで「温井備前守・弟三宅備後守」(〈信長公記〉)という
表記があり、これは「備前、備中、備中」の三「備」で、「原田備中守」「原田備前守」「塙九郎左衛
門」が連想され、この線からも太田和泉守が出てきます。また、すぐこのあと「三宅権丞」から、次の
重要な一文が出てきます。

    『(八月)十六日、信長敦賀をお立ちなされ・・・木目峠打ち越し、府中竜門寺三宅権丞構え
    まで御陣を寄せられ、にて福田三河守仰せ付けられ路次御警固として今城に置かせられ
    下間(しもつま)筑後・下間和泉・専修寺山林に隠れ居候を引き出し頸を斬り・・を宮笥(みやげ)
    として・・・・朝倉孫三郎・・・・向(ムカイ)駿河・・・・、に希異の働きあり。・・・孫三郎家来金子
    新丞父子・山内源右衛門・・・・等・・・向駿河・・・』〈信長公記〉

 まずはじめ、に誘導され「福田三河守」が出てきました。これは「福大夫」「福富」「三宅」から
明智左馬助が登場したとみるべきですが、ここに対立軸が内蔵されています。つまり
       「福田・三河守
です。安土城のところで出てくる「布施・三河守」と同じです。駿河・三河は徳川領ですから、そのあと
の「駿河」がまた問題となってきますが、ここでは「三宅(みやけ=笥)」が「福田」ということで、明智
の「三」が出てきています。
 ここで下線の部分で、この三つの表記が消されています。つまり、前二つは和泉守牛一の存在を表し
て、消されたといえます。「専修寺」も「西光寺」「千秋寺」を表して消えたといえます。かくて次のよう
なことがいいたかったと思われます。脚注にあった
  再掲
  ○Aの「石田の西光寺」は、「鯖江市石田上町・同中町・同下町。西光寺は浄土真宗」

について、ここに太田牛一が「石田の」というものを入れたのは鯖江市に
     「石田上町・同中町・同下町。」
があったからではないのではないか、というのが考えられます。今はあっても当時ではどうだったかと
いうことも問題です。「石田の」の石田は地名という解釈はとれないのではないかと思います(後出)。
 石田はむしろ西光寺の光、和泉守などから「下間」との関連が出てきそうです。つまり明智光慶
の存在が浮かんできます。 
両方の「孫三郎」は一つは石田孫左衛門というものと関係が意識されている、「石田三成」であり、
もう一つは明智光慶が、三郎ではないか、というものを暗示していると思います。
(3)−(A) の右側にある現実というのも重要でEの河野新城はすこしはなれていて事実が付け加えら
れたという感じです。これには物語性はありません。逆のことでは@は物語だけがあるという感じです。

(4)地名・寺名から展開させる
人名をひとまず終えて今度は地名に移ります。ここでは、事実と物語の交錯があるのでそれを掴まない
といけないということをいおうとしています。つまり次ぎのAにある例の「西光寺」はここの木目峠には
ないのです。福井県の鯖江の石田上町、中町、下町にあるとしましてもここの@〜Eの地名の範囲外
にあります。したがって「西光寺」のことが根本的にウソになれば、そこから物語を生み出そうとしても、
信頼性に欠けることになり、ひいては語りを展開させる力がなくなることになります。

    再掲
   〈甫庵信長記〉地名        〈信長公記〉地名          〈信長公記〉人名、寺名  

  @当国虎杖の城には        一、虎杖(ルビ=イタドリ)の城         下間和泉     
  A木目峠の要害には        一、木目峠、                 石田の西光寺   
  B鉢伏城には、           一、鉢伏の城、           専修寺・阿波賀三郎兄弟  
  C今条火燧両城には       一、今城
                       一、火燧が城、両城         下間筑後守大将
  Dすい津の城には、        一、だいらこへ・すい津の城、    大塩円強寺(えんこうじ)
   ★河野の新城には        一、海手              若林長門・息甚七郎父子大将
  E府中竜門寺には、        一、府中の中門寺拵え     三宅権丞 
                         
 ★は〈信長公記〉では「海手に新城拵え」となっていますからはじめから、ハズレが予想されて
います。ただ「円強寺・若林長門守父子」というのが別のところにあり、Dとの関連は物語られていま
す。まあ円強寺党の若林父子というものでしょう。
 Dの「大塩円強寺」について、テキスト脚注では、
     『「大塩」は「武生市大塩町」「円強寺」は「円光寺(〈越登賀三州史〉)。いまの加賀市小塩
     町の円光寺。』
 となっていました。「大塩の円強寺(えんこうじ)」は、「円光寺」で、「いまの加賀市小塩町の円光寺。」
ということですが、「円強寺」は「円光寺」でよいのか、「円教寺」でもありうるではないか、また上の〈信
長公記〉の、@の板取からFの府中(福井)まで周辺の地域から離れすぎた、加賀にしかも「大塩」
ではない「小塩」になぜ宛てられるのかという基本的な問題があります。以下その疑問が頭にあっての
話です。  

 芭蕉の通ってきたコースを逆の敦賀側から書くと

        ●敦賀 木目峠 今庄 南条 武生  福井 加賀 三国 小松 金澤

 となると思います。三国は加賀へ来るまでに海岸の方に反れてコースからはずれます。●下線の
部分が太田牛一の述べている範囲@〜Eだと思われます。寺名が入ってきたために、この範囲から
はみ出している(必然の流れになっていない)ところが、太字部分の福井(西光寺)、加賀(円光寺)、
三国(専修寺)です。つまり、太田牛一は 下の下線の通りの順番で述べています。

     (1)@今庄(虎杖) 
     (2)A今庄あたり木目峠 
     (3)                 A(石田)福井の(西光寺) 
     (4)B今庄(鉢伏)
     (5)                 B(専修寺)三国と阿波賀兄弟  
     (6)C(今庄)今城
     (7)C今庄(火打)
     (8)D南条(大良越え)   
     (9)D敦賀(すい津城)
    (10)D武生(大塩)        
    (11)                 D加賀の(円強寺=円光寺)
    (12)E武生(府中) 

  しかるに太字のものが出てくる、これでは遠方のところが、入り込んできて地理的には乱れてし
まいます。つまり、(3)(5)(10)の寺の名のある場所ABDが、●下線のところの範囲内に適当に
入り込んできて、納まりにくくしています。

(5)西光寺二つ
寺の名のあるところは、地名としても必然性がない、まだ他に何かがあるのではないかと思われる
わけです。これは次のようになるのではないかと思います。つまり●下線の範囲内と範囲外です。
範囲外では自由に話を展開させることができるので、それをやるための布石です。

       (1)@今庄(虎杖)                             
       (2)A今庄あたり木目峠        
                         (3)A木の芽城西光寺丸城) 
       (4)B今庄(鉢伏)               
                         (5)B専修寺(大町氏専修寺党阿波賀氏砦)
       (6)C今庄(今城)                   
       (7)C今庄(火打)                  
       (8)D南条(大良越え)
       (9)D敦賀(すい津) 
      (10)D武生(大塩の円強寺)
                         (11)本当に大塩(武生)の□□寺(つまり小塩の前身の社寺)
      (12)E武生(府中竜門寺)                  
 
      (13)枠外その他遠方の  ■福井(西光寺)、▼三国(専修寺)▲加賀(加賀小塩の円光寺
             
まず(3)にあった石田の西光寺ですが、鯖江市に「石田上町・同中町・同下町。」というところがあって、
そこに「西光寺」があったとされていますから、それをこれ幸いともってきたということになりますが、ここは
ネット記事(biglobe/hokkokugun)
   『西光寺丸城(福井県南条郡今庄町)』
 にあるところの事実を念頭に入れてここを書いたと思われます。すなわちこの記事によれば

   「西光寺丸城木ノ芽城塞群の一つで、木ノ芽城から南東に300mほど行った山頂部に
   あり、木ノ芽城の出城の役割を果たしていたらしい。尾根づたいに木ノ芽に攻め込む軍勢
   に対して造られた。西光寺丸城の名称は鯖江の西光寺五代 真敬が一向一揆軍を率いて
   ここに籠ったためにそう呼ばれたという。現在は本丸跡に真敬の碑が建立されている。」

 となってます。つまり「鯖江」の西光寺五代が、「西光寺真敬」という大将ですが、城の一部、場所と
しての意味もあってAに入れたと考えられます。。
Cの専修寺も「鉢伏」に対応するものです。Cもネット記事「福井県通史編3近世一」によれば、本願
寺門徒は木ノ芽峠鉢伏城によって織田軍を迎撃した、大町専修寺の賢会という人が、ここで戦死して
います。拠点、根城となったのが鉢伏城で、ここを舞台に活動した、その事実を反映させたものと思わ
れます。ここで、専修寺賢会とその子息三郎兄弟が織田と戦ったのであろうと推察されます。
また(11)の「大塩円強寺」とされているものは勝手に「円光寺」にかえるわけにはいかない、現に大塩
は「武生」にあるのですから「武生大塩円強寺」でなくてはならないはずです。「円光寺」に変えて加賀
の小塩にもってきた(そのように考証した人がいる)のはなぜか、を考えなくてはならないと思います。
当面ここはネット「OSHIO」(google見出し)にある「大塩八幡神社」ではないかと思われます。

   『福井県 大塩八幡神社[復元図](復元というのは奉納額の復元のこと)
    ・・・・・(写真)・・・・判読不能(鶴二羽、うめ、たけ?・・・数式)
   DATA;武生国兼町 大塩八幡神社 元禄十四年(1701) 蜂屋氏頼哉 奉納
   69×118cm 県指定文化財
   参考文献:福井の算額 佐々木英治著〈数学史研究〉
          越前の算額 桑原秀夫著 日本数学史学会近畿支部
          越前算額撰 佐々木英治著 自家判 』

 数学の式が載った額と思われますが、
       @大塩にある、
       A蜂屋氏が奉納した、
       B「頼哉」というのは蜂屋頼隆の「頼」と、このあたり芭蕉に同行した「等栽」(洞ともいう)
         の「哉」の字になるので関連がないと決め付けることができない
 などあり、ここではこれが、小塩に移る前の「円教寺」か、「円光寺」か、「西光寺」か・・・という名前
で存在していた寺社とみておきたいと思います。

 このように「(八月)十六日、信長敦賀をお立ちなされ・・・木目峠打ち越し、府中竜門寺三宅権丞構え
 まで御陣を寄せられ」という、@〜Eの範囲内のことは、事実を踏まえて書かれていたといえますが
■▲▼のハズレの部分が何のために作られたかということになります。

(@)■のハズレの西光寺について太田牛一が意識した西光寺は、前稿では近江八幡の西光寺だとし
ましたが、このように拡張させるために、すなわち全国的にも拡大可能とするために、その位置が上
の欄外のものにしたと考えられます。この地の西光寺としては、次の西光寺が意識されたと思います。
 すなわちネット「innfoseek./me011.html」 『戦国大名朝倉氏(西光寺跡)』
 という記事にある「西光寺」です。
   
    『西光寺跡(福井市次郎丸町)
     真盛上人ゆかりの大寺跡
    福井市次郎丸の南の山麓に真盛上人ゆかりの西光寺跡(岡の西光寺といわれている)がある
    真盛は室町時代伊勢に生まれ比叡山で二十余年修業し伝灯法師の位に進んだ天台宗の
    僧で、念仏に専念、のち坂本に西教寺を復興して説戒念仏の道場とし、以後各地を教化
    した。真盛派の祖である。

     長亨二年(1488)年八月一乗谷当主朝倉貞景(義景祖父)に招かれ、滞在中の南条郡府中より一乗寺
    に入り、安養寺で説法を行った。朝倉氏自身は曹洞宗であったが、この時貞景も真盛に帰依
    したとされ、この結果、真盛は朝倉氏の家臣や一乗谷の住人に大きな影響を与えた。一乗谷
    の周辺には今も石塔・石仏が多数残されてるが、それらは上城戸や下城戸の外にあった、西
    山光照寺、
盛源寺、最勝寺、法蔵寺、極楽寺など天台真盛派の寺院のあったところに集中して
    いる。一乗谷の住人たちの間に強い支持を得ていたことがわかる。

     その越前の布教の中心となたのがこの西光寺である。・・・・・・・・
    西光寺は天正三(1575)年柴田勝家が北の庄(福井)に築城した際、柴田家の菩提寺として
    北の庄に移転させられるが、その際、真盛上人が池に姿を写して刻まれたという自作の木像
    のみが居坐って動かず、そのまま現在も「開山堂」に安置されている。
     現在でも、その寺跡には石仏などが多く残っている。』

 こここは次郎丸町にあり、福井の西光寺、鯖江の西光寺といってもよい位置にあるものです。この真盛
は芭蕉の〈奥の細道〉に出てくる「真盛」です。あの平家の「さねもり」は「実盛」です。まあ芭蕉〈奥の
細道〉を読む場合はこの二人が重なっていると読むべきものです。
 ここに西教寺が出ていますが、これは坂本明智の西教寺です。明智左馬助湖水渡りの伝説の一節

    『(光俊)火をかけて自害せり。二の谷の冑に羽織と黄金百両添えて坂本の西教寺(さいきょうじ)
    へ送りけり。』〈常山奇談〉

の「西教寺」です。この真盛上人は、伊勢に生まれ、ネット記事「春日井歴史散策、春日井密蔵院
その七」にあるように、春日井郡に足跡があり、伊賀の西蓮寺で亡くなった人ですから、太田牛一と
芭蕉に繋がる人です。
 ここの特徴は「」です。「石塔」「石仏」がたくさんあることが述べられています。
またこの記事の終わりの方にある柴田勝家は「柴田日向守」という表記もあるくらいですから、あの
志津嶽の勝家とするのは、早計です。勝家の属性として北国経営というものがあるのは確かですが
天正3年の時点ではちがうのではないかと思います。〈信長公記〉には

   『九月十四日、信長豊原より北庄迄御馬を納(い)れられ候。滝川左近原田備中惟住五郎
    衛門両三人として、北庄足羽山(アスカヤマ=実際はアスワヤマ)に御陣屋御普請申し付け
    られ・・・』〈信長公記〉

 とありますから、太字の人物の引き当てがすまないと何ともいえません。天正6年6月、雑賀等との海戦

   『勢州の九鬼右馬允に仰せ付けられ、大船六艘作り立て、併に滝川左近大船一艘は白
   船に拵(こしら)え、順風見計らい・・・・・・九鬼右馬允七艘の大船に小船を相添え山のごとく
   飾り立て、敵船を間近く寄せ付け、愛しらうように持てなし、大鉄砲一度に放し、敵舟あまた打ち
   崩し候・・・・・・』〈信長公記〉 

 ここで滝川の白船は旗艦と取れますから七艘になった段階では、滝川が指揮するはずで、織田の
戦いなので、そうなります。要は滝川左近がここで九鬼に乗ったことになります。滝川左近は太田和泉
です。同年11月、毛利と海戦

   『西国舟六百余艘木津表へ乗り出し候。九鬼右馬允乗り向かい・・・・十一月六日辰刻、南へ
   向って・・・・・。六艘の大船に大鉄砲余多(あまた)これあり。敵船を間近く寄せ付け、大将軍の
   舟と覚しきを大鉄砲で以って打ち崩し候えば、是に恐れて中々寄り付かず。数百艘を木津浦
   追い上(のぼ)せ、見物の者共、九鬼右馬允手柄なりと感ぜぬはなかりける。』〈信長公記〉

 ここは、文がごつごつしており入れ替えをして読むべきと思われますが、省略して、下線の部分、
時間と方角とが書いてあるのは太田牛一の戦いを表しており、この九鬼は、先の滝川の一艘のもの
の活躍を述べているはずです。滝川の名を借りて自己を顕している、そういうものが北庄でもあるという
ことです。
なおこれは甲鉄艦で大砲搭載の軍艦のようですが、太田牛一はそういうことは一言もいってません
ので注意する必要があると思います。   

(6)阿波賀の西山光照寺
 また★の寺が重要ではないかと思います。もう一つの「西光寺」といってよいともいえる、
          「西
です。これは、太田牛一がいう西光寺が、比較的ひろい範囲にわたっているということを証するもので
あると思います。このもう一つのミニ「西光寺」は住所が違うようです。ここの住所が重要です。

 ネット「西」見出し(yahoo)からの借用です。

  ○〈ロケハンNAVI西山光照寺跡〉では
          『西山光照寺跡・・・・福井市安波賀町・・・・・』

  ○〈西山光照寺跡ーJTB国内旅行〉
          『・・・朝倉時代最大の寺院跡。建物は現存しないが、ここでは旧参道沿いの石仏
         群
を見ておきたい。・・・この付近は石仏の里と呼ばれ、西山光照寺跡だけで
          1879点の石仏や石塔が発見されている。・・』

  ○〈見聞録西山光照寺跡CityDO〉
          『・・・・それらの石仏のほとんどは笏谷石が使われ・・』

  ○〈一乗谷朝倉氏遺跡(福井県・特別遺跡)を訪ねる〉
    『この一乗谷の遺跡の中でも西山光照寺跡はのすぐ入り口にありました。』

などがあります。ここの、住所は「福井市阿波賀町」ですから、阿波賀兄弟はここの出身といえます。
これは、西光寺の姉妹寺のような感じのところですが、ここは大町専修寺の母体となっているのかも
しれません。
 いま何を述べようとしているかにもどってみますと、 テキスト脚注では、
  
  ○Aの「石田の西光寺」は、「鯖江市石田上町・同中町・同下町。西光寺は浄土真宗」
  ○B「専修寺」は、「もと福井県足羽郡大町に開基。今は勝授寺。坂井郡三国町三国台
  ○D「大塩の円強寺(えんこうじ)」は、「大塩」は「武生市大塩町」「円強寺」は「円光寺(〈越登
    賀三州史〉)。いまの加賀市小塩町の円光寺。」

 になっているものについてのことです。Aについてこれはこういえない、鯖江の石田上町などを意識
したものでない、のかもしれないということをいってきました。そうかどうかはわからないがネットでみた
ところでは、西光寺には石田という住所が出てこない、太田牛一が「石田西光寺」を使ったから、使わ
れているのかもしれないわけです。はじめに感じた「うんざり石田」を追っかけているのが、いまやって
いることです。これでみても「西光寺」は「浄土真宗」だけでなく「天台宗」も付け加えた方がわかりやす
いのではないかと思います。
 いまは西光寺について終わったところですが、Bの「専修寺」も「大町に開基」というので「大町」
をネットで調べてみますとありました。
 阿波賀兄弟は西山光照寺(ミニ西光寺)の住所から出てきた、この辺までは「西光寺」の延長の話
といえるということで、すなわちBの前半の太字の部分までを述べてきたといえます。後半の下線部分
は、異動後のハズレの専修寺のものが書かれています。

(7)専修寺
 「西光寺」と「専修寺」は共同して織田に対抗した、これは「真盛派」が大同団結して戦ったのかもしれ
ないということが感じられます。つまり「西教寺」のこともあり太田牛一が「真盛」という人物を重視
しているのではないかといういうことです。ここの「開山堂」の「開山」はどこかで見たことがあります。
これは天王寺屋竜雲とか今井宗久などと出てきました。
 Bの後半「今は勝授寺」となっているのは、「専修寺」の後継の一人に「勝授寺」の称号を与え、吉崎
御坊の坊跡を継がせた、天正十七年に三国湊に移ったということのようです。〈奥の細道〉で「汐越の松」が
出てくるところで「吉崎の入江」が出てきますが、これは単なる地名ととるよりこの「吉崎御坊」の「吉
崎」を想起しているとみると、芭蕉が太田牛一のこのあたりの記事をみながら書いているということが
わかるはずです。
 次に(11)はみ出しの▲のところですが、一応地名という事実関係からはなれた専修寺が、論ぜら
れることが可能になってきました。「専修寺・阿波賀三郎兄弟」の「専修寺」のもう一つの面が現われ
てきます。まず「専修寺」党の「鉢伏城」での戦いというものが、地理的に重要であることは述べました
ここでも引っ掛かりがあるのではないかと思います。
「鉢伏」には専修寺が出てきますが、鉢伏は「鉢布施」「鉢□□」つまり「はち(蜂)」が隠れて
いないかということがあります。引っ掛けの凄さというのがわかるところですがあと重要な役割が「専
修寺」にあります。
「専修寺」(千秋寺)をいれたことは、「専修寺・阿波賀三郎兄弟」は「専修寺・阿波賀三郎・与三
兄弟」になって三兄弟を表すことになる役目があることは、すでに示していますが、かなり具体的に下の
ようになります。
これが「武井夕庵」「明智光秀」「太田和泉守」という具体名まで出てくるところにきます。

      「専修寺(守)・阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟」
         ‖         ‖       ‖
       「夕庵」       「光秀」    「牛一」

 です。光秀と牛一は「弥三郎」であり、「与三」は森三左衛門です。「千秋守」というのは桶狭間の
突撃隊長、「佐々隼人正・千秋四郎」の「千秋」に関連して「武井夕庵」ということになると思います。

 @千秋四郎は熱田神宮、宮司家の総領であり、桶狭間の戦いで願文を書いたのは武井夕庵
   です。
 A武井夕庵は佐々三兄弟の末弟「佐々孫助」が使われて直接的に三兄弟の一人と語られてい
   ます。小豆坂の戦い、
    「織田造酒丞、下方左近、其の時は弥三郎とて十六歳、岡田助右衛門、佐々隼人正、
    其の弟孫助十七歳、中野又兵衛十七歳、其の時は・・・そちとぞ申しける。」
  となっている孫助です。佐々三兄弟は、この孫助が次にみられるようにすこし不自然で、波多野
  の三兄弟と同じように二兄弟であったと思われます。
   
    『弘治弐年八月廿四日、・・・山田治部左衛門討ち死。・・・佐々孫介・・・うたれ、』〈信長公記〉

  で、早くから(首巻で)表記が消されています。これは〈武功夜話〉にも大きく出ていますから、こう
  いう事実はあった、佐々衆の一人が戦死をした事実を借りて、「孫介」というものを出したと思われ
  るものです。これで
        千秋四郎==佐々隼人正==佐々孫介==武井夕庵==願文==千秋
   となり一応「千秋」が出てきますので「専修寺」=「千秋寺」=「千秋守」です。
    佐々系図〈武功夜話〉によれば
                                   −−正次(比良城主)
      余語氏ー盛政(江州余語庄住人蔵人)−−|−−成政
                                   −−孫介
   となっており、佐々成政に太田和泉守が乗っており、孫介に夕庵が寄生し、佐々三兄弟=明智
   三兄弟を出したというわかりにくい部類の「三兄弟」の暗示が、佐々兄弟だと思われます。
   近江の「余語」はどちらの属性かはまだわかりません。余呉は琵琶湖の北にあり、まあ海北と
   いえるのかもしれません。
  B 「田島千秋」が〈甫庵信長記〉桶狭間のところで出てきます。「田島」は但馬、多島でもありま
   すが「千秋」「夕庵」が属性です(おそらく親族)。次の●は「熱田」関連です。

      『熱田大明神・・・・●田島千秋・・・熱田大明神・・・遊花(いうか)とて、風雅を事とする
      人の候いけるが、熱田大明神は・・・・仲哀天皇・・・江州千の松原・・』〈甫庵信長記〉

      『尾州熱田・・・・神官の■田島丹後守、惣検校千秋七郎・・・・丸毛兵庫頭、福田三河守
      ・・・・・』〈甫庵信長記〉

      『坂井・・・・北の方・・・熱田の★田島肥後守と云う者・・・・・佐々孫助・・・矢島と孫助・・・・
      矢島六人衆・・・』〈甫庵信長記〉

 ■田島は、丹後=明智・細川につながりますが、千秋丸毛福田関連です。ここの「喜七郎
が、若林父子の子の方の名が「甚七郎」に対応していると思います。
★は表記ですぐ「武井肥後守」が想起されます。
 「田島」は「島田」です、上の「福田」は「三宅弥平次秀満」ですが、「秀満」は名寄せのための名前
でしょう。次の島田(嶋田)所介(助)秀満を呼び出して、これが「村井長門守」とぺアになって出てきて
この「秀満」は、「日乗上人」も「朝山日乗」だけではない、ことを示しているのかもしれません。

      『村井長門守、島田所介』 『村井民部丞、島田所助』 『日乗上人、島田所介』
      『日乗上人、嶋田所助、村井長門守』 『嶋田所助・林佐渡守両人』
 
とにかくこの「田島」「島田」==武井夕庵は記憶しておく必要があると思います。とくにここの
     「島(嶋)田所助(介)」
 は「村井」と重要業務にたずさわっているので武井夕庵を表すものかと思いますが、ひょっとして
夕庵の長子(武井夕庵A)も含んだものの表記かとも考えられます。
      「遊花」の「遊」と「花」
 は芭蕉に利用されると思います。

 この「専修寺」は上にあったように、「坂井郡三国町三国台」にもあります。
この「三」と「三」は当然、利用されていますが、これは「坂井郡」も一応念頭に入れておく必要は
あると思います。問題はこの坂井郡三国の場所です。
 芭蕉の通ったコースにしては、ややハズレに位置し、福井の北方海岸寄りにあります。〈奥の細道〉
の〈曾良日記〉の記事にもこのあたり「ハズレ」という表現が二回もあり、また「吉崎へ不越」などあり、
筆者にとっては実際いったのかどうかという意味で読解がむつかしいところです。この〈奥の細道〉
三国のくだりは〈信長公記〉を踏まえた芭蕉が、ここで夕庵を出してきたという重要なところです。
  汐越の松・天龍寺・永平寺のくだりのはじめだけですが

   『越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして越のを尋ぬ。
     終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
       月をたれたる越の     西行
    此一首にて数景突きたり。もし一弁を加うるものは、無用の指を立つるがごとし
    丸岡天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又金澤の北枝といういうもの、かりそめに
    見送りて、此(この)処まで慕い来たる。所々の風景過(すぐ)さず思いつづけて、折節あわれ
    作意(さくい)など聞(きこ)ゆ。今既に別れに望(臨)みて
        物書いて扇引きさく余波(なごり)哉(かな)
     五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機(畿)千里を避けて、かかる山陰
     (やまかげ)に跡をのこし給うも、貴きゆえ有(あり)とかや。  』〈奥の細道〉

 となっていて、この「汐」から「夕庵」、武隈の松から「竹」「武」で「夕庵」ということは既述ですが、
ここの「吉崎」は先の「吉崎御坊」が想起されなければ、この句が「西行」が間違っていて蓮如の句
であるという意味がでてきません。〈奥の細道〉このあたりは〈信長公記〉のここの下間との戦いのもの
を踏まえているとみなければならないわけです。以下ここの一節は入れ替えなどしてみなければなら
ないところですがとりあえず、語句だけ拾ってみます。

   「越前の崎の入江(潟湖という入江)・・・・越の・・・・越の・・・西・・(無門)・
   丸岡(岡)天寺・・・・枝・・・波・・・・・・元禅師の御・・・里・・・」〈奥の細道〉

   「崎・・・半・・・崎・・・・塩()越・・・・半・・・潟・・・・三国・・・岡・・・岡・・・
   明寺・・・三国・・」〈曾良日記〉

 なんとなく夕庵を思わせるものがあるのがこの専修寺付近のものです。
松は竹と「武隈の松」で結びつき、「夕」は友閑、夕閑ともなります。道は「道家兄弟」の「道」、「千」
は「千秋」「専修」の「千」、「龍」も「三国」も「森」もあり「寺」が多く、「専修寺」を受けています。「北」
は「余語」とか「海」と結びつき、海北か北海かになる、こういうところで、この場にそぐわない挿話を
思い出すのも問題かもしれませんが、雲竜図や松竹梅図などがある有名な画家
         「海北友松」
 という人物がいて、光秀の重臣斎藤内蔵助の梟首された首を盗み出したという話です。
もし首を盗んだ人物は誰かということを真剣に考える人がいたら、まず、その息子か、夫人か、光秀
の身内の人か、ということで調べるはずです。どうせ他愛ない話と思っているから、ほってあるだけ
です。いうなればいまとなれば夕庵などはもっとも近い人物です。
ネット「春日局・・・エピソード高校日本史(yahoo見出し)」では春日局が、親が死んだときこの「海北
友松」を頼ったそうです。もちろん友松は(1533〜1615)とされており、夕庵とは七つほど違い、死の
時期も違いますから別人ではあるのかもしれませんが、「友」は「友閑」の「友」でもあり「夕」にもなり、
夕庵の身内かもしれない、というのが出てきます。
 〈奥の細道〉では、斎藤真盛(実)が出てくるので、この「斎藤内蔵助」は芭蕉の意識にあり、これは
明智の重鎮であり春日局の父とされていることは知られている、夕庵と春日局の関係如何が明智と
斎藤の深い結びを語るので、手をかえ品を変えて出してくる挿話の一つとなりうるとみるのは自然で
でもあります。

(8)円光寺
 ここに「円強寺」が出てきて「円光寺」だとされているのも重要です。テキスト脚注再掲

  ○D「大塩の円強寺(えんこうじ)」は、「大塩」は「武生市大塩町」「円強寺」は「円光寺(〈越登
    賀三州史〉)。いまの加賀市小塩町の円光寺。」

 まず、円強寺を「えんこうじ」と読ませたのは、円光寺、円強寺ともしたかった、ということだと思いま
す。つまり「「円□寺」ということが想定されている、また大塩町(村)を、小塩町(村)に引き宛てさせた
文献があることは、「□塩町」と前の字も替えるというも意思も感じられます。こういうのは理屈ですが
少なくとも二通り×2は考えてもよい、ということを示していると思います。つまり、読み方から後ろの
字を変えているのが「円光寺」ですが、これは「円□寺」を適用しもの、一方、大を小に変えるのは前の
方だから、「□光寺」ともなりうるものです。要はこれをベースに「□□寺」「□□村」「□□守」ということ
を考えてもよいではないか、ということになるのでしょう。

 一つはわかりにくい「石田」に、「西光」という「西」が付いて出てきていることです。〈奥の細道〉で
本願寺蓮如が詠んだという汐越の松の歌を、わざわざ西行の歌であったということにしています。つまり
            「西行」「西光」も「さいこう」
であり、「西」というのはキーワードとなっています。風はまず西風であり、季節では秋風ですから、
ここは「西」を入れて「西光寺B」も出てくると思います。
 またここに「福田三河守」というのが出てきたので「円福寺」も出てくる、両者変えて〈曾良日記〉に
る「西福寺」というものにもなります。
また「円強寺」は確実に「円教寺」となる、「西」と合して「西教寺」もあります。
 もとこの大塩にあった寺社は一応「円強寺」となっているから「円教寺」とせざるをえないと思います。
ネットでみても、円教寺は播磨の書写山の「円教寺」しか出ていないので勘違いがあるのではないか
真盛から「西寺」が出てきたように「教」はこの地では無視できないのではないかと思われます。
書写山の「円教寺」はこのとき著者の頭に確実に想起されていたと思います。すなわちこの地で、
天正七年「六月廿二日」に
     「竹中半兵衛」が「病死」(竹中久作が出てくるのでこれは事実)
     次の日(翌日ではない)「惟住五郎左衛門」が「周茶碗」と「長の刀」と「系図」で出てきて
     次の日(翌日ではない)、「武藤宗右衛門」が病死
となっており、(「武藤宗右衛門」の表記が三つほどあり「光秀」だけでなく「夕庵」にもあてられる)
これまで太田牛一が、竹中半兵衛の名前で喋っていたりしていたのが、出来なくなったことでも重要
ですが、その書写山の円教寺の姉妹寺がここにあったと考えられ、それが廃寺となって芭蕉の時代
には大塩の八幡神社だったというのが推測されるところです。
 「円福寺」というのは「一休」の寺で「一休」は「利休」を呼び起こし「宗純」という「宗」の系譜は
「宗休・宗久」にならないか、「周茶碗」も出てきたので、その系譜の人の作陶の名前には、「光」
が使われたのかもしれません。
ここにある「円強」を「えんこう」と読ませたのは、「光」を出すためですが、それと呼応するのがこの
「周光」「長光」の「光」です。ここの「系図」(親、兄弟、子が出てくる)も重要でしょう。
 「西教寺」は既述の通り、「坂本の西教寺」で、明智光春との関係するところですが、坂本には
「太田神社」もあり、坂本には「別所」もあります。これは本神宮に対する別所ということのようですが、
いろいろ史的考察が、洩れているようにが感じられます。
西福寺」は芭蕉が述べているので、無視できないのではないかと思います。

(9)夕庵と芭蕉
 まず次の対比を念頭において〈信長公記〉〈奥の細道〉を理解しなければならないと思います。
史書という観点からみるとき、お互いがお互いの価値を高めているといえるものです。
 (1)まず再掲〈信長公記〉本願寺戦記事(天正三年第七節)

     『八月十二日越州へ御進発。・・・・十三日大谷(おたに)羽柴筑前守所に御泊。・・・・・
    十四敦賀に御泊。武藤宗右衛門所に御居陣。
    御敵相拘(かかえ)候城々
    一、虎杖(ルビ=イタドリ)の城丈夫に拵え、下間和泉大将にて賀州・越州の一揆罷り出・・・
    一、木目峠、石田の西光寺(さいこうじ)大将として一揆引率し在陣なり。
    一、鉢伏の城、専修寺・阿波賀三郎兄弟、越前衆・・・
    一、今城
    一、火燧が城、両城丈夫に構え・・・・下間筑後守大将にて・・・・』
    一、だいらこへ・すい津の城、▼D大塩の円強寺(えんこうじ)、加賀衆相加わり在城なり。
    一、・・・・若林長門・息甚七郎父子大将にて・・・
    一、府中の中門寺拵え・・・三宅権丞(みやけごんのじょう) 
      かくのごとく・・・・・・
     八月十五日、以外(もってのほか)風候といえども・・・』〈信長公記〉

 (A)〈奥の細道〉敦賀周辺のくだり
     『鶯(うぐいす)の関(せき)を過ぎて・・・・燧(ひうち)が城(じょう)、かえるやまに初雁の
     声を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴れたり。あすの
     夜もかくあるべきにやといえば、越路の習い、なお明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒
     すすめられて、けいの明神をに夜参す。仲哀天皇の御廟也。・・・・おまえの白砂・・・・・・
     遊行(ゆぎょう)二世の上人、・・・・真砂・・・・往昔遊行の砂持(すなもち)・・・亭主のかたり
     ける。・・・・十五日亭主も詞(ことば)にたがわず、降る。・・・・・・・』〈奥の細道〉

 (B)〈曾良日記〉敦賀周辺のくだり
    『一、・・・・小雨す・・今庄に着。
     一、九日・・・・木ノメ峠に趣く、谷間に入る也。右は火ウチガ城、・・・・カエル山有。・・・・
         未の刻、ツルガに着。先、気比へ参詣して宿かる。・・・・カウノヘの船かりて色浜へ趣。
       十日 朝浜出。・・・・日蓮の御影堂を見る。・・・・帰りに西福寺に寄、見る。・・・ツルガへ
         帰る。申の中刻ツルガへ帰る。・・出船前、出雲や弥市郎へ尋。・・夕方より小雨・・
       十一日 ・・・・・ツルガ立。・・・申の中刻、木の本へ着く。
       十二日・・・・長浜に至る・・・・・彦根に至る。・・・・・』〈曾良日記〉

 となっていて、○〈奥の細道〉は〈信長公記〉に、日を合わしています。
          ○〈曾良日記〉と〈奥の細道〉はなぜか日が合っていません。
〈奥の細道〉における、この前の日付は「武井夕庵」が出てきた「卯の花山」のところまで飛びますが、そのときは

       『金澤は七月中(なか)の五日也。』〈奥の細道〉

となっていて、〈曾良日記〉と合っています。芭蕉は、あたりまえのことですが〈奥の細道〉と〈曾良日記〉
の日は合っていないとおかしいと考えていました。つるがのあたりで、そこで日が違ったわけです。
 この「卯の花山」が出てきた金澤のところから改めて武井夕庵というものの観点に立って(第二稿
と重複するところは避けて)読解してみたいと思います。
 まず金澤、は「卯の花山」が武井夕庵を呼び出しますが、源氏山、くりからが谷、一笑とその兄の
 ノ松、秋の風、ある草庵(斎藤一泉の松玄庵)「瓜」「夕日」「あきの風」
が夕庵をあらわしていたり、あとにつながるものが出されたといえます。
つぎがこれを受けて「小松」の一節です。

    『@小と云うところにて
   Aしお(を)らしき名や小松吹く萩すすき
   B此所(このところ)太田の神社に詣ず。C真盛(ルビ=さねもり、真は実もある)が甲(かぶと)
   ・錦(にしき)の切(きれ)あり。往昔源氏に属せし時、D義朝公より給はらせ給とかや。げにも
   E平士(ひらざむらい)のものにあらず。
   目庇(まびさし)より、吹返(ふきがえ)しまで菊から草のほりもの(こがね)をちりばめ
   竜頭(たつがしら)に、鍬形(くわがた)打ちたり
    F真(実)盛討死の後、G木曽義仲願状(がんじょう)をそえて此社にこめられ侍(はべる)よし、
   H樋口の次郎が使いせし事ども、まのあたり縁紀(記)にみえたり。
      むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす   』〈奥の細道〉

 この小松の松は〈曾良日記〉で特別な「枩」が出ること、「竹意同道」が小松に入る直前にあること
などは既述です。ほかに〈曾良日記〉では下の★のところのように、「汐越の松」(〈奥の細道〉本文)の
くだりで出た「金澤の北枝」(〈奥の細道〉本文〉などが出てくるのは当然ですが、「数景」とか「風景」
とかが〈奥の細道〉で出たのを受けたのか「画」も出てきています。上の本文と★のつながりは
       「多田」「真盛」「木曽願書」
があります。これは〈曾良日記〉と〈奥の細道〉関係だから、あるのは当たり前だといわれるかも知れ
ませんが、「太田神社」=「多田八幡」の、「神社」と「八幡」は変えてあり、「山王神主藤井」とある
のも「神社」が抜けている、などあり、逆に「真盛」は変えていないということも頑固なところもあります。
こうみていろいろやっていると、これは、その次の〈甫庵信長記〉記事に表記でつながってくることが
わかってきます。

  ★〈曾良日記〉表記抜粋
   『廿五日・・・小・・・枝・・・立寺・・・多田八幡・・・真盛が甲冑・木曽願書・・・・山王
   神主藤井伊豆・・・廿六日・・・・・庚申也。
   廿七日・・・・諏訪宮・・斧・・・伊豆画持・・・八幡・・・・真盛が句・・・・予・枝・・・・
   同晩山中・・・着。』〈曾良日記〉

 〈甫庵信長記〉で木曽が出てくるのは一応みておかなければならないと思います。

   『・・・廿五日・・津田小平次・・・小平次・・・廿七日・・・・真田伊豆守・・一益・・・真田・・・・
    滝川・・・廿七日・・・下の訪・・・・(はふり)・・・上下諏訪・・・・・神主・・・・木曽義政・
    廿七日・・・・下の諏訪・・・すねびたる・・・方・・・・馬上二人・・・木曽殿・・・廿八日に
    ゆるゆると諏訪を立つ・・・・・・(「六月廿七日」付けの手紙・・・・「木曽左馬頭義政」・・
    ・・・滝川左近将監殿・・・木曽殿・・・義政・・・一益・・・・・尾州長嶋』〈甫庵信長記〉

となっています。すなわち〈曾良日記〉と
  「廿五日」〜「廿七日」の「」、「伊豆」、「諏訪」、「」、「神主」、「木曽
が共通した語句として出てきます。〈奥の細道〉本文と〈甫庵信長記〉は
  「木曽の状」
 というものでつながっています。斎藤==祝==太田==滝川左近などの切り口ともなるものです。
本能寺の後の滝川の行動のうち、
   
   『人質五十三人出し置き、・・・・義政帰り給いて、長(おとな)共の子共を三人証人として送り
   申させたりしを・・・・・』〈甫庵信長記〉

 というのもありますから、〈吾妻鏡〉の五十六人を意識しているでしょう。太田牛一が木曽義政にも
なってひっかき回したようなことかと思いたくなる一節です。義政は「吉政」「良政」ともなり得ます。
 いいたいことは、これで〈奥の細道〉本文の解釈がかわり得るということです。

   『@小と云うところ・・・・・・隈の越の松で、武井夕庵の「武」と「夕」が出てくる
   Aしお(を)らしき名や・・・・・・・・・・・・・塩・汐で「夕」が出てくる、「白」も「秋風」と。
   B太田の神社に詣ず。・・・・・・・・・・・兄弟の太田牛一が出てくる
   C(ルビ=さねもり、実盛もある)・・・・・・

      A、これは第一義的には源平のころの斎藤実盛が出てくる。
       「往昔源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給(たまう)とかや。」とあるから、平士
       (ひらざむらい)は「平氏」のことでもあるから、ここは通説の斎藤別当実盛のこと。

      B、「真盛」とあるから、「石田の西光寺」の真盛上人が出てくる。これは否定することは
       無理である。つまり、石田から斎藤を呼び出す布石となる歴史的人物の「真盛」が想起
       されねばならない。

      C、美濃の斎藤(武井夕庵)が出てくる。
       〈吾妻鏡〉では「長井(ながいの)斎藤別当実盛」となっているで、斎藤道三の旧姓にか
       らみ美濃の斎藤利三の継子「夕庵」が出てくる。平士(ひらざむらい)は平氏を指すが
       どこに懸かるかが問題となる。
   
   D義朝公より給はらせ給(たまう)・・・・・・・・これは信秀公と入れ替えられる。一見、最大限の
    表敬がされている。武井夕庵を採用した人物はよほど偉いといいたいと思われる。信長とも考えられ
    るが「義朝」は先代になるので、ここは信秀(平氏)になる、太田牛一は

      『備後殿は取り分け器用(きよう)の仁にて、諸家中の能者(よきもの)御知音になされ、御
      手につけられ、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。●御台所賄山田弥右衛門なり。』〈信長公記〉
     
    と書いている。「器用の仁」というのは「器」を用いる人ということで、これも具体性のないこと
    はいっていないと思われる。「御手につけられ、」のあとに出てくる長い「・・・・・。」は必然の
    つながりになっておらず、もってくるとすれば、とって付けたような●の文が合う。つまり
        「山田弥右衛門御手につけられ、御台所賄なり。」
     というようになるはずである。これが夕庵のことだとここで(芭蕉で)確認ができると思われる。

    E平士(ひらざむらい)のものにあらず。・・・・・・・これは「甲(かぶと)・錦(にしき)の切(きれ)」
     が斎藤実盛なら平氏のものだが、夕庵だから源氏のものであるといっていると思われる。

    F真(実)盛討死の後・・・・・・・武井夕庵が亡くなった後といっている。

    G木曽義仲願状(がんじょう)をそえて此社にこめられ侍(はべる)よし、・・・・・太田和泉守が
     社(太田の神社)に夕庵を偲んで、込めたものといっている。本文はじめの所とに対応
     している。

    H樋口の次郎が使いせし事ども・・・・・木村又蔵A(伴正林の方)であろう。これは〈甫庵信長
     記〉の「津田」「」に対応するものである。

 すなわち、此社(このやしろ)に芭蕉が行ったときにあった「甲(かぶと)・錦(にしき)の切(きれ)」
は武井夕庵公の愛用の甲で、森(明智)重政公が奉納したものだと芭蕉がいっているわけです。
下線の部分
 再掲
   目庇(まびさし)より、吹返(ふきがえ)しまで菊から草のほりもの(こがね)をちりばめ
   竜頭(たつがしら)に、鍬形(くわがた)打ちたり

は、テキスト(旺文社文庫)では

    「目庇から吹き返しまで、菊唐草模様の彫り物がしてあって、それに黄金をはめこんであり、
     には竜の頭の金具を飾り、鍬形を取り付けてある。」

 という訳となっています。ここは一見、「(こがね)をちりばめ」が、どちらにかかるのか、わからないため
入れ替えの必要があると思われるのと、訳で使われた「鉢」(冑の頭部をおおう鉢形の部分)が抜いて
あるのでわかりにくいのではないかと思います。テキスト脚注では「目庇」という単語の説明にも「鉢」
が使われています。「兜のの前に庇(ひさし)のように出て顔をかくすもの。」というわけです。つまり
本文の前に「鉢」を入れるべきを抜いている、もしくは鉢のことであるのが自明、いま読む場合ははじめ
に入れるとわかりやすいのではないかと思われます。

   「目庇(まびさし)より、吹返(ふきがえ)しまで(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)
       菊から草のほりもの鍬形(くわがた)打ちたり

となるのではないか、これなら訳も無理にしなくてもよいものになるという感じです。蜂須賀の「鉢」は、
抜かれたと思います。これは「鉢伏」の「鉢」が三郎兄弟と出てきたことと無縁ではないようです。
竜は天龍寺がありましたし、頭は夕庵を示す「丸毛兵庫」の「頭」で他の人には使われていない
という表敬表記といえると思います。この一節は、普通に読めば、最後の

      むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 

  の句だけが芭蕉的なもので、あとはまあ誰でも書けそうな文章といえます。この句は
「実盛の甲の下で蟋蟀(こおろぎ)が鳴いている。いかにもさびしい声だ。白髪を染めて奮闘した実盛の
最期がいたいたしく思い出される意。」と解釈されていますが、「白髪」=九十九髪が出てこないので
は、「きりぎりす」も生きてこない、芭蕉の意に遠いのではないかと思います。記事が芭蕉に時代が
接近し夕庵という具体名が出てくるとここの一節の様相が一変してしまいます。夕庵の表記のない
夕庵の一節は前後の関連からもでてきます。前には
      「卯の花山と夕日」がありましたが、後ろは「那谷」「花山」
がありますのでその節もみたいと思います。なお
       ネット記事で「真盛」==「開山堂」、
       〈信長公記〉で「開山」と「天王寺屋竜雲」
       〈甫庵信長記〉で「開山上人」=「蓮如」
ですが〈奥の細道〉「汐越の松」で
         「西行」=「開山上人」=「夕庵」
 が重なりそうです。「夕庵」には例えば「西山」とかいう号が(みつかってはいないが)あるような
気がします。話を戻して
 芭蕉は小松から山中へ行く前に那谷にいっています。

     『山中の温泉に行くほど、白根が嶽、にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山
     の法皇三十三所の順礼をとげさせ給いて後、大慈大悲の像を安置し給いて、那谷(なた)
     と名付け給うとや。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松植え
     ならべて、萱ぶきの小堂の上に造りかけて、殊勝の土地也。
          石山の石より白し秋の風 』〈奥の細道〉

 この現代語訳
     『山中の温泉へ行く道すがら、白根が嶽を後方に仰ぎ見て歩いて行く。左手の山の麓に
     観音堂がある。この寺は、花山法皇が三十三個所の観音を参拝なさった後に、ここに大慈
     大悲の観世音菩薩の像を安置なされて、那谷(なた)寺と名付けられたとかいうことである。
     那谷というのは、那智と谷汲(たにぐみ)から二字を分け取って命名されたということである。
     形の珍しい岩石がいろいろあって、その間に老松が生え並んでおり、萱ぶきの小さな堂が、
     の上に造り懸けてあって、まことにありがたい景勝の地である。
          石山の石より白し秋の風 』〈旺文社文庫〉

 山中には松永貞徳が出てくる、播州(有明温泉)に話がとんで、和泉又兵衛が出てくる、その前の
一節となります。ここは〈曾良日記〉では、山中が先で、山中には「廿七日」に入って、那谷には翌月
五日に「那谷へ趣。」があるから逆だということになります。あとであり、さきでありややこしいので、
ここではこの那谷もハズレ、那谷(なや)が那谷(なた)の二つと解しても余り文句も出ないだろうと
いうことで進めます。
       福井・・・・なや・・・・・・山中・・・・・なた・・・・・小松
まあ、こんな感じです。

(10)笏谷石)
 この一節も最後の句が芭蕉らしいところであとは故事を書いています。核心が石山の白にあり、その
序が前の文です。
 下線の山は「白山」とされており、これをバックにした「那谷寺」に芭蕉は行ったのでしょう。情景が
書いてありますのでそう解釈するしかありません。
 一方この白山は句の石山の白につながっています。「」は訳文のように「後」とは限りません。
一見白山をバックにしているととれますが、本文の字は明らかに「遺跡」という場合の「跡」です。
 すなわち 「白根が嶽、にみなしてあゆむ」、というのは「白い山(石山)、遺跡にみなしてあゆむ」
という意味もあるように取れます。
  本文の始めの「白山の白」は最後の山のに連結されていません。すなわち
         白山・・・・・奇・・・・・・・・・・・・・石山の白
 です。形が重視された奇石、またとなれば白も黒も、その濃淡でいろいろあります。訳文でも
「奇石」は「形の珍しい岩石」と訳されており全体「山寺」といった感じの寺ですが、この場合白山
は石山という感じがなくあの白根が嶽という現実の白山です。句は前文とは少し違和感があります。
岩石」「」というように「」を入れられてはいますが、訳文の方の那谷寺は、岩、古松、茅葺きの堂、
観音堂、花山院の故事のある、景勝の地というところです。
 ここはもう一つの「なや」があって、句の白い石山につながるのではないかと思います。太田牛一の
描いた石山の西光寺です。先ほどのすばらしいネット記事「innfoseek./me011.html」の 
       『戦国大名朝倉氏(西光寺跡)』の再掲(語句だけ)です。

    『西光寺(福井市次郎丸町)  真盛上人ゆかりの大寺跡
    南の山麓に真盛上人ゆかりの西光寺跡(岡の西光寺・・・・・)・・・・・・天台宗の僧で・・・・
    坂本に西教寺を復興して・・・・・・真盛派の祖である。
    ・・・・・・一乗当主朝倉貞景(義景祖父)に招かれ、・・・・・滞在中の南条郡府中より一乗寺
    に入り、・・・・・一乗谷の周辺には今も▲石塔・石仏多数残されて、・・・・それらは上城戸や
    下城戸の外にあった、西山光照寺、盛源寺、最勝寺、法蔵寺、極楽寺など天台真盛派の
    寺院のあったところに集中している。・・・・・・・・越前の布教の中心となたのがこの西光寺である。
    ・・・・・・・・西光寺は天正三(1575)年柴田勝家が北の庄(福井)に築城した際、・・・・北の
    庄に移転・・・・・・真盛上人・・・・・・自作の木像・・・・「開山堂」に安置・・・・・現在でも、その
    寺跡には▼石仏などが多く残っている。』

ネット「西」見出し(yahoo)。

  ○『西山光照寺跡・・・・福井市安波賀町・・・・・』
  ○〈西山光照寺跡・・・・〉
          『・・・朝倉時代最大の寺院跡。建物は現存しないが、ここでは旧参道沿いの石仏
         群
を見ておきたい。・・・この付近は★石仏の里と呼ばれ、西山光照寺跡だけで
          1879点の石仏や石塔が発見されている。・・』
  ○〈・・・西山光照寺跡・・・・〉
          『・・・・それらの石仏のほとんどは●笏谷石が使われ・・』

  ○『この一乗谷の遺跡の中でも西山光照寺跡はのすぐ入り口にありました。』

 石の▲▼★から●「笏谷石」が重要です。この石仏、石塔、狛犬などの石は足羽山の笏谷石
使われているのです。まず●はおそらく「しゃくだにいし」と読むのでしょうから、そう読んで、納まって
しまいますが、芭蕉はこれを、第一感で
                「勿(ナ)谷石」
 と読んだと思われます。「竹」プラス「勿」に分解したというと理屈っぽくなりますが「草かんむり」
に「勿」という字もありますので、「竹かんむり」でなくとも、「勿」は「し」「かれ」の「」です。
またここは「一乗谷」といわれる「」ですから、「ナ谷寺」といわれるにふさわしい地形のところです。
先の訳文の「那谷寺」の「谷」は美濃の谷汲寺の名前からきているということですが、このあたり一乗
というのですから、寺の語源としては地形の谷が普通でしょう。要は二つあり、訳にあったような
那谷寺では、句も近江の石山を連想するようなものとなります。近江の石山だから紫式部に決まって
いるといわれるでしょう。それは間違いなくそうですが紫式部と何が共通かということをいわないと、
単に古典、故事を知っていてそれを踏まえたというしか出てきません。石の白、秋風の白も近江と
つながるものです。太田牛一は紫式部を〈信長公記〉で出しています。

    『又南は志賀・唐崎(坂本町)・石山寺(いしやまでら)・・・・紫式部・・・源氏・・・・』〈信長公記〉

 これで、太田牛一は石田の西光寺から、近江を意識して書いたというと、すぐ、そんなことはわから
ない、ということになりますが、芭蕉となると、北国から近江の紫式部に意識があった、というと、そうだ、
そうだ、となってすぐ通説になってしまいます。芭蕉はあきらかに近江を思い起こして、この句を作った
といえますが、芭蕉は同時に近江から明智の人々を想起していたというと、神聖な文学を汚すもの
だ、ということになりかねません。しかし芭蕉に
       『{湖水を望みて春を惜しむ}
      行く春や近江の人と惜しみける』
 という句がありますが、尚白という人が、「近江は丹波にも、行くは行く歳にも振るべし」といいまし
た。〈前著〉では近江は丹波だから丹波の明智が想起されている、としました、「春を惜しむ」という
のもあるわけです。小瀬甫庵は春日郡の人でそこからくる「春」が明智の象徴的な一語となってい
ます。なおこの「近江の人」というのは、「初案を伝える真蹟の前書によれば、・・・・・門弟・知をさし
たものおもわれる。」〈芭蕉全句=ちくま学芸文庫〉とあります。「友」は「夕」と確実に意識されていそ
うです。
 芭蕉にはこのように丹波と重なる近江が念頭にあったのは明らかですが、太田牛一にも西光寺を
書きながら、近江を思っていたというのは、前稿で触れた近江八幡の西光寺、坂本の西教寺が、
西光寺の真盛の草創であるというようなことからもいえますが、なにより芭蕉が太田和泉守が思っても
いないことは出さなかったと思われます。
 太田牛一が亡くなったあと30年くらいで芭蕉が生まれていますから、太田牛一の様子は生きている
人から聞けるというタイミングにあります。小瀬甫庵Aは芭蕉が6歳のときに亡くなっていますから、親
類といっても、じかに教えて貰ったというのは無理かもしれません。松永貞徳は芭蕉10歳くらいのとき
に亡くなったようで、これは先祖の名前くらいは聞くかもしれない年です。筆者も田舎にいたので
小学生のころには、盆の行事の場などでみなが話すのを聞いて知っていました。松永貞徳は太田
牛一が亡くなったときは18歳くらいですからかなりのことは記憶があったと思います。要はそういう
息ぶきが伝わる位置に芭蕉がいますから、芭蕉に聞くとわかりやすいし信頼度が高いから、ありがた
いことです。いいたかったことは太田和泉守は石田の西光寺を書いた時点で
           近江の石田三成・島左近
を想起していたということです。石庵が関ケ原の前哨戦で真田幸村に会いきたというのも北国の石
が関ケ原に飛んできたといえます。「なや寺」をわけますと

    なや寺@・・・・白根嶽、後ろにした・・・・・岩、松、萱などのある・・・・・・・石山の寺
             
 もう一つのものは、白山から句の「白」の石山につながるもので、途中の石田の西光寺は芭蕉が
ネット記事のような文を書くのを省略したような感じのものです。

    なや寺A(勿谷寺)・・・白山、跡・・・・・再掲ネット記事の世界・・・・・・・・石より白い

 とうものに行き着くものです。芭蕉はここにもきているのに隠したわけです。隠したのに句を入れて

          石山の石より白し秋の風
 という句だけで石の西光寺を暗示したといえます。夕庵の「卯の花」の句につけられた、この「秋の風」
は、信長公のものですが、「風」は西風のことをいい、季節では秋をさすものであるということが、偽書
全集(現代思潮社)に出ています。この句の解釈はテキストでは

    『那谷寺に来てみると石が白く曝されていて、石山寺の石よりも白い感じがする、今その石の上
    を秋の風が吹きわたっている。秋の風は白風といわれるように、いかにもしらじらとした感じで
    ある。万物粛々として秋の気配を示しているというのである。』

旧とはいってもやはり七月末ころの秋風は秋の気配の主役とはなりえないでしょう。那谷寺の石が
現実の石山の石よりも白いということは、石山の石の白さがわからないから無理で、風の白という白
だからこういえると思います。
またこの那谷寺の石は石の種類が多いので「白さ」が出てこないと思います。西光寺の白さは石が
豊富なため、強く出てくると思われます。
 なや寺Aのことから
     石の白の西光寺真盛ーーー白髪斎藤実盛・・・・・美濃斎藤夕庵
 となりますが、ここでいいたいことは
          なや寺@から「武井夕庵」が出てくる、それが重要
ということです。芭蕉のここの那谷寺のくだりは夕庵の一節といっても過言ではないところです。しかも
夕庵の表記がない夕庵の一節です。前にも「夕庵」の表記のない夕庵の一節がありました(例えば
義朝公が出てきたところ)が、それが合っていることの証明にもなるところです。
ここは
          花山法皇の「花山」と
          武井法印の「花山
が重なってきます。
   『源氏山、卯の花山也。くりからを見て』〈曾良日記〉、
   『卯の花山・くりからが谷をこえて・・・・』〈奥の細道〉
の「花山」が、木曽を経てここに流れこんできました。
   再掲
     『花山の法皇三十三所の順礼をとげさせ給いて後、大慈大悲の像を安置し給いて、那谷(な
     た)と名付け給うとや。』

 となっています。ここの下線の部分の表敬度合いは先ほどの義朝公の場合とは段ちがいですが、
義朝公より給はらせ給(たまう)」となっているのをよくみれば、前の「給」は義朝公のもので、あとの方が
夕庵公のものとなるかと思われますので、「義朝公より賜り給う。」でもよいのに義朝公に無理に敬語
をもっていったということかと思われます。やはりこの場合の「義朝」は具体性のある人物であり芭蕉
に尊敬された人物といえます。したがってこの敬語は「花山法皇」「義朝公」「夕庵公」を同じ程度に
扱っていることになりますが、現代21世紀の日本での感覚では、それはけしからん、ということになり
ます。それは明治政府が、吹き込んできた感覚で、昭和20年で、皇室が存続しましたからそのまま
続いているものです。江戸時代までは、「皇」というのが「白」プラス「王」ということからくる、今ではなく
なってしまった別次元のことの象徴的意味合いがあった、赤十字とか、日の丸に別のことを感じた時代
が長かったわけです。天皇は、今よりはるかに冷めた目でみられていました。何か述べたいことの、
ダシになったりもしています。
また人は故人になると現世時代の尊卑、上下は関係がなくなるのは当然のことですから尊敬度合いも同じ
でよく、例えば聖徳太子と空海は桶狭間で重ねられています。自分の親に「給い」といっている人も
あります。花山法皇と義朝公と武井夕庵は重ねられてもよいわけです。〈吾妻鏡〉では「花山法皇」
の「法皇」から「鳳凰城」が出てきたりしますが、「白」の世界で出てきた「法皇」ですから「鳳凰」と引
っ掛けられたとみて花山法皇を出してきたのかもしれません。もしくは「龍鳳」といいますから芭蕉は
〈吾妻鏡〉をみて、夕庵に「鳳凰」がふさわしいと思ったということもあったかもしれません。
 要は「かざん」というのは夕庵も指すわけです。

(11)霞山
 筆者が以前に読者から教えてもらったところでは

     「武井夕庵の戒名は霞山で、」
     「霞山という地名は全国に数箇所あり、戦国時代に多少なりとも関係ありそうなのが、霞が関
      の語源になった霞山です。」
     「霞山には太田道灌も深く崇敬した桜田神社があります。旧桜田通り(現在「テレ朝通り?)に
      ある桜田神社がそれで、これは桜田門の語源です。」
     「太田牛一の本名とも伝えられる資房は太田道灌の祖父の本名と同じです。これからいえば
       武井夕庵⇒霞山⇒桜田神社⇒太田道灌⇒祖父・資房⇒太田牛一=武井夕庵
     という循環になります。」

とありました。桜と霞の結びつきは万葉集からきていると思いますが、筆者はこの循環を、芭蕉によって

      夕庵 ⇒ 霞山 ⇒ 花山法皇 ⇒ 霞山法印⇒夕庵

と解釈できました。芭蕉が夕庵の名前を「霞山」と知っていたのかどうかわからないではないか、と
いわれるかも知れませんが、直接「知っている」と書かなかっただけで知っていたわけです。
テキスト脚注では、あの出雲屋の「弥一郎」という「あるじ」の出てくる「つるが」のくだり、今庄(城)
のあたり、「かえるやま=帰山」が出てきます。

   『●鶯の関を過ぎて、尾峠を越えれば、燧が城、かえるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれ
   つるがの津に宿をもとむ。』〈奥の細道〉

 「鶯(うぐいす)の関(せき)」の「せき」やら「湯(もある=テキスト脚注)尾峠」の「ゆう」やら、「夕ぐれ」
の「ゆう」やらの「夕庵」にからむ字が、連なる中で、テキスト脚注では、「かえるやま」の注として、定家の
歌を引用されています。「かえるやま」

   『今庄町の西、帰という部落の南方の山。「春深み越路に雁の帰山名こそにかくれざりけり」
   「拾遺文愚草、定家」』

 とあり、「」がここに出てきています。つまり夕庵の「霞山」を想って芭蕉はここを書いているわけで
す。そんなら、そんなことをいうた人がないというのはおかしいではないか、といわれるかも知れません
が、そういうことをいう人がいても寄ってたかって葬ってきただけの話です。すなわち
       ネット記事「63.鶯塚(うぐいすづか) ーー芭蕉への夢ーー」(yahoo見出し)
には「松尾霞山」という人が芭蕉の句碑を建てた、という話が載っています。筆者は●がありました
から、「鶯の関」で検索したらたまたま出てきたわけです。(今は出てこないから気がつかなかった
かもしれない。)

   『・・・・・この芭蕉にかかわる句碑や塚が、一般にいわれる「芭蕉塚」です。筑紫野市の武蔵寺
   にある「鶯塚」(うぐいすづか)は1889年(明治22年)9月、地元の、松尾霞山平島杯二
   筒井水が発起人となって建立したものです。台石の上の高さ1.5mの自然石には、真中に大
   きく「芭蕉翁の碑」とあり、その左右には二行に分けて「の笠おとしたる椿哉」の句が刻まれて
   います。1690年(元禄3)、芭蕉の故郷、伊賀上野(現三重県)の百歳亭で詠まれた句とみられ
   武蔵寺の山号「椿花山」にちなんで撰句されたものでしょう。
   松尾霞山は地元武蔵出身。本名は光昌で、のちの山弥と改名しました。号は霞山です。
   1897年(明治30)に死去しましたが、辞世の句「月落ちて野は志ら梅の明か哉」(現文=
   原文?)が墓石に刻まれています。井筒井水は、同地の井筒又三(1897年死去)と見られます
   が平島杯二不詳です。武蔵寺「地蔵会長」の1890年(明治23)の記録には、平島作蔵の名
   が記載されています。・・・・』

 よくみるとこの記事は、下線の部分があるから、九州の筑紫野の出来事であり、また明治になってからの
話ですから、福井の鶯の関とは関係がないということで無視されてしまいそうです。この武蔵寺という
のはネットによれば、九州で一番古い寺で、蘇我日向、藤原虎麻呂の建立で、伝説から椿花山武蔵寺
といわれ天台宗の寺で、その特徴を語る自然は天拝山、二日市温泉が出て来るようです。
 こういうたいへんな寺なので、武井夕庵や太田牛一、松尾芭蕉などの頭にあった寺とはいえますが
「鶯」というのは当記事にしか出てきません。昔から「鶯」というのか、明治になって「鶯塚」と名付けられたかは
今となればどうともいえませんが、「松尾霞山」という人が「鶯」を意識しているということであればどちら
でもよいことです。当地では「明治期には芭蕉への思いをはせる人々による句会が盛んに催されて
いました」とも書かれているように、芭蕉を意識していて、「鶯」と「椿」の句碑を建てたわけで、「椿花
山武蔵寺」いう寺ですから、「椿」を媒体に、つまり「鶯」と「椿」と「花山」ということで
     「松尾・鶯」・・・・(椿)・・・・「霞山・花山」
 とした、「」「」「椿花山」から北国の
     「鶯の関」「鶯の夕」「鶯の石」
から「武井夕庵」の存在を想起して松尾・霞山と名乗って、こういう行動に出たと思われます。
「松尾霞山」の「松尾」と「霞山」は多少無理をしていますので、かつ松尾と筒井は同じ年に亡くなっている
から、松尾霞山=井筒井水であろうと考えられます。井筒も又蔵とか、井戸水というのはどうもあやしい、
どちらも仮名で、不詳とされる平島杯二も天拝山と二日市温泉の「拝二」をとっており、これもあやしい、
ここの不詳がポイントとなるのでしょう。
 武蔵寺「地蔵会長」の平島作蔵が建立したということなのかもしれません。作蔵はこのとき40歳
くらいとすると江戸時代に生まれた人で、自分の名字と地位を利用してこういう大博打を打ったのでは
ないかと思います。まあ、せっかく、ここまで話したので
            「インチキ平島、井筒の井戸水」
 と頭にインプットしておきます。
 こういうこともあり、花山は夕庵とするとあとたいへんことをいっていることになります。武井夕庵が

      (1)(若いとき)、三十三所の順礼をとげさせ給い
      (2)大慈大悲の像を安置し給いて
      (3)那谷(なた)と名付け給う

といっていると思います。夕庵はやはり想像を超える大ものだったのではないかと思われます。太田
牛一は「夕庵」を「坊主」といっているようであり、二位法印であり、おそらく宮内卿法印でもあり、また
テキスト脚注では、夕庵は「武井爾云」ともいうようです。若くして叡山など各地寺々で修行を積み、諸国を
全国をあるきまわり、斎藤で重用され織田信秀に乞われて仕官したということになります。
 天台の真盛上人をもってきたのも、これが芭蕉のいいたいことだったのかもしれません。真盛上人
と夕庵は2〜3世代ほどの開きがありますが、朝倉家は、織田家の前には、本願寺勢力との争いがあり明智光
秀がこのあたり顔を出します。斎藤利三ー明智光秀が朝倉との関わりをいってきましたが、芭蕉から
みれば明智光秀という表記は、武井夕庵が主体として出てくるのではないかと思われます。まず

 (1)三十三ケ所の順礼の件ですが、テキスト脚注では、「西国三十三か所の巡拝は花山法皇に
 始まるという。」とされていますが、これは芭蕉の記事があるからかどうかがわかりませんが、この時代
 からはじまったということでしょうか、それならば芭蕉は事実を踏まえてものをいったのかもしれません
 が武井夕庵は全国三十三ケ国を廻っています。
  〈明智軍記〉では朝倉五代が重なっているようなので年代の確定は即断しかねますが、
    
   『光秀に太守(義景)宣(のたまい)けるは、軍法修行せし所々を遠慮なくつぶさに語るべしとぞ
   仰せける。明智承り、・・・・某(それがし)儀、弘治二年の秋、美濃国より当国へ罷り越し、長崎
   の称念寺は所縁の僧にて御座候故、彼の領内に妻子を預け置き、同三年の春のころ加賀・越
   中を過ぎ、
    越後春日山へ伺候いたし、上杉輝虎入道謙信の勇健の形勢を見聞き仕り、それより
   奥州会津の芦名平四郎盛高の城下を経て同国大崎の伊達兵部輝宗、・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・・南部・・・・・・・・宇都宮・・・・・・・・・結城・・・・・・・・佐竹・・・・・・・・・酒々井・・・・
   里見・・・・・・・北条・・・・・・・武田・・・・・・・・今川・・・・・・・・・織田・・・・・・・・・佐々木・・・・・・
   ・・・公方義輝将軍・・・・・・・・三好・・・・・・・別所・・・・・・・・宇喜多・・・・・・・三浦・・・・・・・尼子
   ・・・・毛利・・・・・・・大友・・・・・・・・竜造寺・・・・・・鍋嶋・・・・・・・諫早・・・・・・・神代・・・・・菊池
   ・・・・・・・・嶋津・・・・・・・・・・長宗我部・・・・・・・・北畠・・・・・・・・長野・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   同亀山の関安芸守盛信・・・御当地へ六年に及んで罷り帰り候・・・』〈明智軍記〉

 全部太字のような書きようで、長々と、上杉謙信から関盛信まで述べています。全部で32あります。
一つ合わないのは常套手段で貞永式目が五十ケ条と五十一ケ条あるようなもので、逆にいえばこの
ため数が問題となっているといえます。このため33をいいたかったということになりますが美濃から
朝倉(当家)へ出てきていますのでそれが入っていないとみてよいと思います。とにかくこの延々と
したものは適当に書き流したものではないということです。当然寺院も含まれているはずで、まあ
僧衣での諸国漫遊の姿などを思い浮かべると合っているのかもしれません。
 多くの社寺物語は、古代平安などの昔から江戸、明治まで飛んでしまっているのが多いので伝手と
いうものはないのですが、先ほどの「筑紫野」の「椿花山武蔵寺」などは当然入っているはずです。
 信長が、父信秀の葬儀の「焼香」に出たとき、「抹香」を「仏前へ」投げかけたという大事件が起こ
りましたが、このとき皆は「三郎信長公を例の大うつけよ」と「執々(とりどり)評判」しました。そのとき
   
   『中に筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よと申したるなり。』〈信長公記〉

となっています。筆者はこれは太田牛一の知った人かも知れないと思っていましたが、僧というもの
筑紫というものから武井夕庵に限定できると思います。「由」というのは、桶狭間で出てきました。
一つは今川義元の動作です。
      『鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからず、の候て、
      謡(うたい)を三番うたわせられたる候』

 これは明らかに伝聞の「由」と解せられます。上の文はこれで解読されていますから、太田牛一が
話を面白くさせるため、実際聞いた話をもってきた、また、なかったことかもしれないことを入れた、
というのがありえますが、今は、ウソを書いても仕方がないし、今川側近に知人がある、宣誓もしているから
前者であろう、ということになっていると思います。
 もう一つは合戦の山場、中島砦での信長の進退で出てきます。
      『無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。
      御勿体(ごもったい)なきの、家老の衆・・・ふり切って中嶋へ御移り候。此の時
      二千に足らざる御人数の申し候。』

 これはその渦中にいての話で、ここで結果から見れば信長の行動が合っていたのに、ピントはずれ
の行動をして信長に逆らったのが「池田勝三郎・毛利新介」です。これは自分を悪者に仕立て上げ
てる行動パターンの一つですが、そこにいて、覚られないようにする書き方です。そこにいたという
観点から上の文をみると、葬儀中にみなが評判したわけで、太田牛一の横にいるのは順番では夕庵
ですから、そのときに夕庵が呟いたのを太田牛一が聞いたというヴィヴィドな話に変わります。夕庵も
信長の資質を見抜いていたといえます。
 夕庵の戒名が「霞山」ならば太田牛一は知っている、あの寺が「椿花山武蔵寺」というのはもう確実
に知っている、夕庵は僧衣をしていたということがわかりますと、この「筑紫」が生きてくることになると
思います。太田牛一の行動範囲は東北から九州、朝鮮半島に及んでいるのは明らかですから、土地
の離れていることが結びつきを阻害するということはなく、現に惟任、惟住は九州の名族からもって
きたという話です。こういうと文句が出るかもしれません。椿花山武蔵寺という名前は戦国時代に
ついていたのか、霞山という名前も、亡くなった当時に付いた名前かよくわからないではないかとか
いうことになりますが、仮にそうかどうか疑問としても、芭蕉の時代にはそうであったわけですから、
調査範囲を江戸時代までを引き下げてくれたのが芭蕉の〈奥の細道〉です。だから調査範囲方法は
元禄くらいから遡って見ていけばよいことになります。
まあ「筑阿弥」などというのは重要表記だと思っておくことが必要です。
 
 (2)大慈大悲の像を安置し給いて
 これも夕庵の僧としての行動でしょう。「慈悲」というものは色をも表していますが、「慈」というのは
 「爾雲」「爾云」の「爾」も意識されたものでしょう。これは像が残っておればわかることです。

 (3)那谷(なた)と名付け給う
  那谷という名前の命名者は、花山法皇かもしれません。これは「勿谷石」の勿谷かもしれないこと
 はすでに触れました。「な」というのは、夕庵が名付けたといっていると思います。
     @那智と谷汲はやはり、谷組が美濃なので美濃を出してきたといえる
     A「なた」と名付けたが、読み方からいえば間違っている、どうみても「なや」と読める。
       「那谷」・「谷組」と結んだ、つまり越前と美濃を結んで名付けたと思われる。この
       @Aからいえば越前、美濃に関係が深い人物といえる。
     B智・汲、のはじめの字を組んで「那・谷」としたが、組み合わせからいうと、うしろの字も
      考慮されねばならない。つまり「ち」は不変であり、「くみ」は変わっている。
             「智」・・・・ 「汲」
             「智」・・・・・「組」
      であり、@Aに加えて明智色の有る人物といえる。

 最後は「殊勝の土地也」で締められていますが、「とくに景勝の地である、」と訳されます。これだけで
止めているのは少ないようで、テキストでは「ありがたい景勝の地である」とされています。筆者は、これ
はこの最後に位置しているのならば、「特別な地」であるということで「勝」は訳さなくてもよい、夕庵が
感じられるのでよいといっていると思います。あとさきになりましたが初めにいうとややこしくなるので
ここでいう次第ですがこの文並び替えないと筆者の読みになりにくいものです。
 原文
    『山中の温泉に行くほど、白根が嶽、跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山
     の法皇三十三所の順礼をとげさせ給いて後、大慈大悲の像を安置し給いて、那谷(なた)
     と名付け給うとや。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。@奇石さまざまに、古松植えなら
     べて、A萱ぶきの小堂の上に造りかけて、B殊勝の土地也
          石山の石より白し秋の風 』

 太字の部分のすわり具合がよくない、この観音堂の出現が唐突で、これはメインのところなのに説明
がありません。花山の法皇との関連がそのあとで出てきて、一応これは花山の法皇が造らせたものと
いっているようです。それはこの際どちらでもよいが、事実を踏まえてもいるという面はまずあるでしょう。
つまり、この観音堂を造り、像を安置させたのが法皇といっていると取れます。文章がすこしおかしい
ので@ABを移動させるとわかりやすくなります。
  並び替え文
    『山中の温泉に行くほど、白根が嶽、跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。@奇石
    さまざまに、古松植えならべて、B殊勝の土地也。花山の法皇三十三所の順礼をとげさせ
    給いて後、A萱ぶきの小堂の上に造りかけて大慈大悲の像を安置し給いて、那谷(なた)
    と名付け給うとや。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。
           石山の石より白し秋の風 』

 夕庵が、Aをして像を安置したわけで、観音堂にあるものとは違う小さい観音像だったわけです。
太字のBが前に出た場合は、景勝の地と訳せばよい、理解のためにはBをもう一つ後ろにおいても
よい、すなわち夕庵を思う特別な地であるということにもなります。
 ここが夕庵を述べているのが確実といえますから踏み込んでみるのもよいと思います。
      ○岩の上に像をつくる
      ○造りかける、という表現は建造とは違う
      ○小堂といっている
 などから、祠(ほこら)のようなもの造って、像を安置した、それが夕庵だといっていると思います。
後の方に置いてもよいという「殊勝」は、やはり「勝」の字が気になります。「勝」は勝三郎や剛三郎
勝光など出てきましたが、一番問題の
    「織田左衛門・織田造酒丞・森三左衛門」〈信長公記〉
の「勝」があります。これを「森牛一・織田造酒丞・森可成」と解してきましたが「夕庵・織田造酒丞・牛一」
とすると、やはり大きなことが派生して出てきます。〈明智軍記〉のはじまりは、「明智入道宗宿」ですから
ここから下ってこなくてはならないことですが、これをほったらかして読んできていますので、そのツケ
がきますが、流の末から遡って出きるだけストーリーを作っておいて、両方からドッキングできればよい
わけです。ただここで織田勝左衛門は唐突すぎるかもしれませんが別のところで、ほかのことをいうため
ここで出しておいたという程度のものです。とにかくこの祠(ほこら)のようなものが残っていれば、霞山
の存在が浮かび上がってくると思いますがどうでしょうか。ここに次のものも残っています。

 ネット記事、「那谷寺護摩堂・鐘楼・書院及び庫裏 石川県文化財」によれば

     『重要文化財 昭和25年8月29日指定
     那谷寺護摩堂(一棟)
      寛永19年(1642) 伝山上善右衛門造
      那谷寺 小松市那谷町 』

 というものがあります。この「山上」は加賀藩大工の棟梁のような感じですが、これは池上五郎右衛門
と関係があるとみるべきかと思われます。「山上宗二」は「山の上」から堺をみていて姓としたといのが
以前のネット記事にありました。こういうのは筆者の好きな挿話で、まずペンネームであるといっているのが
重要だと思います。ここも山寺という感じで高台でしょう。要はこの「山上」は山上宗二を意識して付けられた
といえます。「善右衛門」は安土城の池上右平(右兵衛)に行き着く名前です。すなわち〈信長公記〉
〈甫庵信長記〉の表記を辿っていくと、池上五郎右衛門⇒岡部又右衛門⇒「寺田又右衛門」⇒「寺田
善右衛門」というようになります。この護摩堂が本文の観音堂であれば、芭蕉がこれをみたということに
なりますが、こういうのは行ってみないとわからないことです。ただ観音堂と護摩堂は違っている、
そんな話はもともとおかしいというのでは、なにも出てきません。護摩堂より観音堂の表現がよいと
思えば変えられる可能性はあります。この場合あとの像が観音像であることが推測できるのははじめ
に観音堂が出てきたからです。

 一方この「那谷」は「笏谷石」の「笏谷」ではないか「笏谷石」という観点からみると、ネット記事
  「岡崎氏犬頭神社 慶長15年建立・作者不明、当時の岡崎城主、本多康重が奉納した狛犬」
というのが気になります。
   
   『高さ77cmと75cm、保存状態はよい。福井県産笏谷石で彫られており、岡崎市の文化財に
   指定されている。同年代の笏谷狛犬ではかなり大きな物、細部まで彫刻されている、当時の
   岡崎石工もこの狛犬を見ているはずなのだが、二百年以上経ってからでないと岡崎産の狛犬
   は出てこない。多分・・・。』

 まずここで、重要な疑問がでます。すなわちこの本多康重と加賀藩家老本多政重の関係がどうか、
ということです。
本多政重の名前から、太田和泉守の重と政が想起されます。それが反対になったものに過ぎないわけ
です。また本田(多)忠勝と太田和泉守は、近い親戚です。
このあとに続きがありました。このあと、もう一つの狛犬が出ますがなぜか政重が登場します。

   『岡崎氏 犬頭神社 慶長十年建立・市川猪兵衛正重 刻、当時の岡崎城主、本多康重が奉納
    した狛犬(唐猫)各さ21.5cm所々傷んでいるが原型を残している。吽型の背中に銘文が彫
    ってあり、笏谷石「鳥居」と同じ作者の作とある。』

 今、本多(本田)の系図を見ても物語になる本多と、住民票に載っている本多が混同していてこの
本多康重も譜代の本多で逃げられているだけです。あの、本田(多)忠勝の子女は森蘭丸の夫人で
あろうということは既述です。そういうところからくると、「重」とか「政」とかの名前をもつ物語化された本田
の一族があるわけです。忠勝夫妻にも子が一人ではないでしょうから他家に入っていることは十分
考えられることです。そういう面の縁戚関係は調べがついていないはずです。本多政重は、森蘭丸
夫人の実子といえると思いますが、狛犬を介せば、まず本多康重が姻戚の一人というのが出てくる
のではないかと思います。こういう名前の表記は案外重要で、ここに「鳥居」の話が出ていますが、日光
東照宮へ行くと筑前藩主、黒田長政が元和四年に寄進したという大鳥居があります。これは笏谷石
かどうかは知りませんが、黒田長政というのも「黒田」「長」「政」が太田和泉守につながっていきそうな
雰囲気があります。

 ここの〈奥の細道〉の「那谷」の項は「小松」のあとに続くものでもちろん一体のものです。

 〈前著大河〉で触れているごとく真田昌幸、幸村父子が関ケ原会戦の前、石田に付くべく下野から
信州へ電撃的帰還を敢行しましたがこのとき沼田で遮断したのが真田信之の妻女小松殿で本多
忠勝の娘です。ここで「石庵」という人物が、幸村に会いにきました。これが取り入れられたのがこの
〈奥の細道〉の情景です。これは森乱丸のもと夫人だから、太田和泉守の子ということになります。
したがってこの「石庵」は重政(正)のはずですが「石庵」とう表記にされたのが重要でしょう。要は
「石の夕庵」でもよく知られていたことがわかります。「関庵」でもあります。真田信幸は真田伊豆守で
知られていますが〈奥の細道〉で神主「伊豆」が小松で出てきました。
この「市川猪兵衛正重」は油断がならない名前です。要は太田和泉守は「笏谷石」に関係が濃厚
です。ネット「北の庄発掘」によれば

  『青光りしてとても420年前から目が覚めたとは思えない鮮やかな笏谷石による石垣と背水施設
  です。』

 「北庄足羽山に御陣屋御普請申し付けられ」のルビを「アスカヤマ」としているのは、「あすかやま」
というところに陣屋を造ったということで、石の産地「足羽山」を出して笏谷石との関係を示唆したもの
と思われます。これは九月十四日の記事ですがこの前九月二日の記事が重要かと思われます。

    『九月二日、豊原より北庄へ信長御越しなされ、城取(しろとり)御縄張りさせられ御要害仰せ
    付けらる。北庄御普請場にて、高嶋打下(うちおろし)林与次右衛門生害させられ候。』

 となっています。城取とは脚注では「城を築くため、図面によって縄をはること。」となっています。
この「」は「次右衛門」ですから、また高嶋うちおろしがありますので太田牛一の臨場を表すもの
です。この北庄の創建に立ち合い、実務をやったのは太田和泉守でしょう。こういう経緯もあるので、
この狛犬、唐猫は、なにがしか太田和泉守にからむものです。

(12)夕庵二題
夕庵が法印や僧衣、坊主仲間ということから察せられるように高僧というイメージを持つ人となると
今までの捉え方に巾が出てきて、つぎつぎとわかりにくかった挿話が明かされてきます。
まず「汐越の松・天龍寺・永平寺」のくだりです。
 再掲
    『越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして汐越の松を尋ぬ。★
     終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
       月をたれたる汐越の松     西行
    此一首にて数景尽きたり。●もし一弁を加うるものは、無用の指を立つるがごとし
    丸岡天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又金澤の北枝といういうもの、かりそめに
    見送りて、此(この)処まで慕い来たる。所々の風景過(すぐ)さず思いつづけて、折節あわれ
    作意(さくい)など聞(きこ)ゆ。
今既に別れに望(臨)みて
        物書いて扇引きさく余波(なごり)哉(かな)
     五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機(畿)千里を避けて、かかる山陰
     (やまかげ)に跡をのこし給うも、貴きゆえ有(あり)とかや。  』〈奥の細道〉』

まず「汐」「松」おそらく「越前」「吉」「西」「竜」「北」「余」「道」などが夕庵を表すものと直感的に感じ
ますが、とくにここはまだ増えていくところです。まず太字の部分は、★のところに移動すると、「この
句の作意などいろいろいわれるが」、この一首で語りつくされるということになるのでしょう。今の場所では
北枝が、説明してくれたことにされますが、もちろんそれも事実でしょうが、●は何らかの動機があって
その答えといえます。すなわち

    『越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして汐越の松を尋ぬ。★
    所々の風景過(すぐ)さず思いつづけて   
       終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
       月をたれたる汐越の松     西行
    此一首にて数景尽きたり。折節あわれなる作意(さくい)など聞(きこ)ゆ
    ●もし一弁を加うるものは、無用の指を立つるがごとし
    丸岡天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。又金澤の枝といういうもの、かりそめに
    見送りて、此(この)処まで慕い来たる。今既に別れに望(臨)みて
        物書いて扇引きさく余波(なごり)哉(かな)
     五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機(畿)千里を避けて、かかる山陰
     (やまかげ)に跡をのこし給うも、貴きゆえ有(あり)とかや。  』〈奥の細道〉

 ここで丸岡天龍寺が出てきました。脚注では
      『「丸岡」は「松岡」の誤り。曹洞宗の天龍寺がある。』
とされています。間違いというのに何故書かれたのかということが問われていません。ここへきて森家の
「丸岡城」のことに触れないことはあり得ません。丸岡城をネットでひきますとほとんどは
     「丸岡城」は一名「ケ城」
と書かれています。霞山に建造されたのでしょう。霞ケ城と天龍寺が重なり霞山という主が、天龍寺
の長老と重なったといえます。天龍は夕庵のことといえるのかどうか、芭蕉がいくら夕庵を尊敬していて
も太田牛一がそういってないと無理でしょう。テキスト脚注では「津田宗達の一族」に「王寺屋雲」
という大そうな名前を持った人物がでてきます。天・龍・雨・云ですが、これはあの雷神の絵とからんで
いました。「道元禅師」の「道」が「道家」の「道」、道明寺村の道も道家の道に重なるでしょう。そういう
尊い人と夕庵などの戦国の人が重なるのはおかしい、ありえないとというのはありません。故人ですから
尊卑の区分はないわけです。
 「北枝」も大事なときに顔を出しています、「北」は「海」と「天」にも結びつきそうです。
次の二つの天の字を持つ人は武井夕庵をいうものです。
 
 @天沢長老
 すでに桶狭間で触れていますのでいつか決着をつけねばならない人物ですが尾張、味鏡村、天永
寺に住む巨人です。芭蕉から遡ってこないと宗教に関する人ということがわかりにくいので、この人物
を夕庵といっても、なかなか信用が得られないので正体をさぐるのを保留していた人物です。〈信長公記〉
首巻でこの魅力ある人物が、多くを語っていました。

   『去る程に、天沢と申し候て、天台宗の能化(のうげ=師僧)あり。一切経を二度くりたる人にて候。
   或る時関東下りの折節、甲斐国にて
      武田信玄に一礼申し候て罷り通り候え
   と奉行人申すに付いて、御礼申し候の処、
      上かたはいづこぞ 
   と先ず国を御尋ねにて候。
      尾張国の者
   と申し上げ候。郡(こおり)を御尋ね候。
      上総介殿居城清洲より五十町東、春日原のはずれ、味鏡(アチマ)というと云う村天永寺
      申す寺中に居住
   の由申し候。
       信長の形儀(ぎょうぎ)を、ありのまま残らず物語候え
   と仰せられ候間、申し上げ候。
       ・・・馬・・鉄砲 ・・橋本一巴・・・市川大介・・弓 ・・・平田三位・・兵法・・・・御鷹野・・
   と申し候。
       その外数寄(すき)は何かあるか
   と御尋ね候。
       舞とこうた数寄にて候
   と申し上げ候えば
       幸若大夫来り候か
   と仰せられ候間
       ・・・・友閑・・・舞い・・小うた・・・
   と申し候えば
       いな物をすかれ候
   と信玄仰せられ候。
       それはいか様の歌ぞ
   と仰せられ候。
       死のうは一定・・・・・是にて御座候
   と申し候えば、
       ちと其のまねをせられ候へ
   と信玄仰せられ候。
       沙門の儀に候えば・・・・・まかりなり難し
   と申し上げ候えば
       是非々々
   と仰せられ候間、まねを仕候。
       鷹野の時は・・・・・又六人衆・・・山口太郎兵衛・・信長は達者・・承り及び候。
 
       信長の武者をしられ候事、道理にてにて候よ
   と候て、ふしおがみたる体にて候間、
       御いとまを
   と申し候えば、
       のぼりかならず
   と仰せられ、御立ち候つる、と天沢御雑談(ぞうだん)候つる。

 〈信長公記〉で会話というのがないので、これは会話になっているめずらしいので二人の語りを
別けてみました
 天沢が武田信玄に会いたくて行ったのではなく領国通過を申し出て奉行のすすめに依って会談
が、成立したのでこれは事実であろうと思われます。永禄三年のころ信長公の末子が武田信玄の養子
になったというほどですから夕庵の遠交策があったのかもしれません。龍、丹波の良、岸良
など出てきた、明智三兄弟の一人が夕庵とわかったいまでは、この天沢は夕庵です。「春日」「味鏡」
にいたことからも察せられます。〈奥の細道〉の「永平寺」は、行っていない感じで、天沢のいたこの
「天永寺」が意識にありそうです。「天」という字を使える人物が夕庵ですから次も夕庵になります。

 A天海僧正
明智光秀が天海僧正になったという話は有名ですが、どこか違和感があるのは明智光秀が武人で
あり、天海僧正が僧であることが少しかみ合わないからでしょう。
 これが夕庵ということになれば、「天」という字を使っていることと、僧ということ、僧ということによる全国
行脚の伝説と結ばれそうです。結局この伝説は明智光秀と夕庵が兄弟ということを暗に示しその
切り口になるものを提供した、夕庵という人物の知られざる活動を紹介する、天海は徳川の誰かという
ことを問いかけた、明智と徳川の関系を考えるように仕向けたというようなものであったと思われます。
 こういう挿話があるのは楽であり、二人の年齢差を無視してもよいのです。重なったのは同じ年齢か
重ねても良いというものですからやりやすいわけです。ただ二人は年令が合っていません。
 夕庵は桶狭間では34歳でしょうが、天海に比すべき家康@(〈前著戦国〉)は、桶狭間では24歳
で、10歳の差があります。徳川内部で起きた内乱は、19歳の家康Aを領主にすることで納まりました
が、石川数正、平岩親吉、本多忠勝など多くの有力武将は家康@のもとで働いていたので徳川内部
も、一枚岩とはいかなかったわけです。天海が精神的な支柱でいたから徳川はまとまったといえます。
家光からたいへん尊敬され、東照宮に葬られたということですが、本来ならこれはおかしい話です。
ここに説明がないので、神がかり的な高僧とされてしまっていると思われます。天海が夕庵と重なって
いるのでその諸国行脚修業伝説も、重なっているということになります。
家康公@は後期戦国時代の初めの段階では諸国漫遊は無理であり、天海伝説は武井夕庵のものが混ざ
っています。家康卿は国譲りしてからの修行期間も長かったはずで、その間のものは家康卿の話と
なるのでしょう。日光に明智色が多いことは知られており、例えば「明智平」というような地名となって
現われているものですが、天海が夕庵を尊敬していたであろうことは間違いなさそうです。黒田長政
の日光大鳥居も、長政が明智色を持ち込んだものかもしれません。芭蕉の〈奥の細道〉の旅はつるが
で終わりに近づきますがこの敦賀での記事は山場といってもよい内容になっています。

    『十四日の夕ぐれつるがの津に宿を求む。その夜、月殊に晴れたり。あすの夜もかくあるべきにや
    といえば、越路の習い、猶、明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すすめられて、★けいの
    明神に夜参す。▲仲哀天皇の御廟也。社頭(しゃとう)神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、
    おまえの白砂霜を敷けるがごとし。往昔(そのかみ)遊行(ゆぎょう)二世の上人、大願発起の
    事ありて、みづから草を刈り、土石を荷い、泥渟(でいてい)をか(ルビ=わ)かせて)、参詣
    の往来の煩なし。●古例今にたえず、神前に真砂を荷い給う。これを遊行の砂持(すなもち)と
    申し侍ると、亭主のかたりける。
       月清し遊行のもてる砂の上
    十五日亭主の詞(ことば)にたがわず、雨降る。
       名月や北国日和定めなき』

 〈曾良日記〉では九日に気比へ参詣しています。すこし気になるのは十日に西福寺に寄って、ツル
ガに帰っています。このあとで出雲屋弥市良を尋ねています。〈奥の細道〉は順番は余り気にしなくても
デジタル的に重点のところへ飛んでいっているようです。★は一般にいわれているのは敦賀の気比神社
のことですが、ここは徳川家康の子、結城秀康の全面再建で創建といってもよいほどで芭蕉がみた
のも比較的あたらしいといってもよいものです。祭神はイササワケ命を主神として日本武尊、仲哀天皇
など七人の合祀となっているようです。ここで下線の仲哀天皇だけが出てきたのは桶狭間の記事で
仲哀天皇が出てくるのが踏まえられている(〈甫庵信長記〉後出)ので、夕庵が引っ掛かっています。
亭主は「出雲(丹波亀山)や」の弥一郎ですので夕庵が出てきて芭蕉と会話しているかのようです。
 「大願発起の事」というのは毒が住んでいたということであり、全体に感じられる夕庵色から「遊行
二世の上人」の故事をみなければならないと思います。つまり●の主語がありませんので、弥一郎
が敬語を入れて語った「遊行」は夕庵ではないかと思います。「砂持」というのは、脚注に
       「代々の遊行上人は藤沢の遊行寺からきて、砂を運んで神前にまいたのである。」
ということが書かれていますから「」とか「藤」とかが絡んでくると思います。
 まあ余談に属することですが、ここの「白砂を敷けるがごとし」というのは「汐」つまり「塩」ではないか
と感じられ、大塩の円強寺というのが書かれているのを芭蕉が見ているのですから、大塩八幡神社
へ芭蕉が行ったのではないか、というのがはじめからある疑問です。ここの寺社名「□□寺」は三国
に移ったあとは「円光寺」かもしれないが、その前太田牛一が書いたころは円教寺であった、と思われ
ますが、「円光寺」読ませているので「西光寺B」としたかったとも考えられます。芭蕉が〈曾良日記〉に
「西寺」を出したのは、福田三河守と三宅が関係があるということをいうためだったとしても「西」を
使っているのでそういえるのかもしれません。土地の人はここの「けいの明神」を「けいさん」と呼ぶという
ようですから「算額」の大塩神社無視できないと思います。近くに中野神社もあるようです。
 武井夕庵、蜂屋頼隆、大谷吉隆などの菩提所が敦賀にないのが考えられない、必ず芭蕉はそこを
訪れていると思われます、気比神社のように祭神というのは大体、古代神話、古代天皇から、
明治の歴代天皇に飛ぶ、そのあたりのことだけが目に付くというような場合が多いわけです。結城秀康は
は阿国を招いたりしているし、多分本多作左衛門に養われているそういう関係があるので前領主の
ことはほったらかしにしていたとも考えられない、芭蕉はそのことを隠したとも考えられます。
  下線▲は夕庵公の祭ってあるところへ来たという感慨があると思います。
この敦賀のあと「種(いろ)の浜」の一節がありますが、「天屋何某(なにがし)」が出てきます。これが
五郎右衛門」ですから太田和泉守が登場しています。また

     『浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲み、酒をあたためて
      ぐれのさびしさ感に堪(たえ)たり。
          寂しさや須磨にかちたる浜の秋 』〈奥の細道〉

 とあるのは、「法花寺」がポイントです。ここは「本隆寺」といいますが「隆」「竜」はやはり夕庵に
関係があるでしょう。ネット記事によれば、ここは金寺といい、日上人という人が、応永年間(1426)
にやってきたそうですが、ここにも「開山堂」があり写真が出ていました。(asahiー net G14KーIWS)
このさびしさは特別なさびしさというもので、須磨に勝というのですから。やはり具体的に誰を思っていう
ものか、というのがあると思います。

(13)人名と地名の結び付きからの展開(明智表記)
この本願寺との対峙の一節は、明智の一族が顔を出している一節といえます。人名と、地名とから
展開されているのを見てきました。さらに人名と地名の結び付きからも見なくてはならず少しみて
おきたいと思います。芭蕉がこれを〈奥の細道〉で利用したことは明らかなので、教えてもらいなが
らやれるので助かります。
   再掲
   〈甫庵信長記〉地名      〈信長公記〉地名          〈信長公記〉人名、寺名  

  @当国虎杖の城には     一、虎杖(ルビ=イタドリ)の城         下間和泉     
  A木目峠の要害には     一、木目峠、                 石田の西光寺   
  B鉢伏城には、        一、鉢伏の城、           専修寺・阿波賀三郎兄弟     
  C今条火燧両城には    一、今城
                    一、火燧が城、両城・・新道川・・・    下間筑後守大将
  Dすい津の城には、      一、だいらこへ・すい津の城、    大塩円強寺(えんこうじ)
   ★河野の新城には      一、海手に新城拵え           若林長門・息甚七郎父子大将
  E府中竜門寺には、      一、府中の中門寺拵え     三宅権丞 

(@) @の「虎取(板取)」から、下間和泉守の「和泉守」が出てきたので虎が和泉守に結ばれます。

(A) Aの「木の芽峠」は「木目峠」と表記され「もくめ」という読み方も出てきます。これは石田の西光寺
  の石田との関わりがあとで出てきそうです。

(B) Bの「鉢伏の城の「鉢」」はすでに触れましたように、「鉢布施」=「蜂□」から「蜂屋」が出てきて、
   武井夕庵を絡めていることがわかります。専修寺と鉢との結び付きは、熱田神宮の「千秋(専
 修)氏」もあり、桶狭間で出てきた「白鷺二つ」の一人にむすびつくものです。またここの阿波賀三
 郎兄弟と蜂との結びつきは、この桶狭間のとき〈甫庵信長記〉で出てきた「日本武の尊」の二皇子、
 のちの「成務」「仲哀」天皇兄弟があり、それが夕庵・牛一兄弟をよび出してきます。
〈明智軍記〉では阿波賀兄弟は
       「阿波賀(ルビ=あか)三郎」と「阿波賀(ルビあか)但馬守」
   の二通りの読みがされています。
 「波」を「ば」と読むと「丹波」の「波(ば)」想起され、「波」を「は」と読むと「波多野三兄弟」の「波」
を意識したものにもあります。丹波の波多野三兄弟の長兄は「中務丞」ですが、弟二人は
     「舎弟次左衛門・同く弟五郎左衛門」〈明智軍記〉
となっています。まあ、三番目の五郎はおかしく、波多野の二兄弟が三兄弟に作りかえられています。
     「阿波賀(ルビあか)但馬守」
は「但馬守」が、「田島千秋」(〈甫庵信長記〉の「田島守」にもなりますので、ここの「鉢伏」の地名は
油断がなりません。

 (C)Cは「今城。」とあるだけですが、〈甫庵信長記〉では「今条」を使っています。これは「今庄」で「庄」
を「条(じょう)」と読むというヒントを与えたといえると思います。従って「今庄」は「今城」と懸かっている
、「今庄」といえば「城」を思い浮かべればよいのでしょう。「中条又兵衛」の「条」、庄屋甚兵衛の「庄」
が、付いてくる、太田和泉守の思い入れのある城といえるのかもしれません。

 (D)下間筑後守の出てくる「新道川」というのは脚注に「今は帰(かえる)川」と書かれています。この
あたり芭蕉〈奥の細道〉では「かえるやま」となっていてここで定家の霞の歌が出てきました。太田和泉
守は「かえるやま」というのは意識にあったと思われます。

 (E)この「だいらごえ」というのは〈明智軍記〉では「池の(の=ルビ)大良(だいら)」の「だいら」です。
脚注では「大良越。大良は福井県南条郡河野村のうち。」となっています。これは次の「すい津」の
手前にある河野村の「大良」です。
 
「すい津の城」は「杉津の城」(敦賀市杉津)なのに〈信長公記〉も〈甫庵信長記〉もひらかなで書い
ています。これは、「だいらごえ」をひらかなで書いたことの延長だから、「杉」を無理にひらかなに
した、「杉」は「木」の「三ツ」、「三ツ」の「木」だということを、太田牛一が意識していたと思えるもので
す。後年の芭蕉たちがそのことを知っていた、というのが、〈奥の細道〉の
    「杉風が別墅(べつしょ)に移る」で別所は三木
    「武隈の松」を読んだ「桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越シ」
になるのかと思います。この「だいら」に「池」を付けた〈明智軍記〉著者の真意いかん、〈奥の細道〉の
「越シ」はこの「大良越」を見ていないか、などが気になりますが、どうしてここで播州の三木の方へ
向ってしまいそうになるのかが問題です。

 (F)★ 海手にある新城は河野新城ですが、脚注では
       「海岸に新城を築き、新城は南条郡の河野村に所在した。」
 となっていますがこれは、その前に出てきた「河野村」ではなく海手の河野郡の城と思います。
つまりハズレの河野で枠内の河野とは区別しなければならないと思います。太田和泉守の頭が、
事態を二重に描こうと回転していると思えるところです。
 
 (G)最後のE府中(脚注武生市)ですが真盛上人がいたところ(前掲ネット記事西光寺)です。竜門寺
は「武生市」(枠の内)にあります。「三宅」「権丞」は「下間」「和泉守」式にわけますと、
       「三宅」は地元の反織田勢力の有力者
       「権丞」は「宮笥権丞」
をいっていると思われます。「権」はなんとなく「権威」「権力」が、想起される字であり、宮内卿法印
「丞相」を想起した、つまり武井夕庵を出してきた、「竜」が出てきたのもそういう感じを持たせるものです。
なお太田和泉守が「権兵衛」「権左(右)衛門」という表記で出てくるのがあるのかもしれません。

 この一節を概観すれば
  個人名「和泉守」「長門守」「虎」「三郎」「大塩」・・・など太田牛一を表すものの他に、「竜」、「鉢」、
 「せんしゅう」、三郎兄弟、大塩(汐)、「筑」、「権丞」・・・・・・・など夕庵を表すヒントもたくさん出て
きました。また初め十日四に「武藤宗右衛門」が登場し、三兄弟、父子、息「甚七郎」、「光」の洪水
などで光秀が出されたのは、明らかでしょう。
 また「寺」や地名の展開からも、明智が出てくることは否定できません。
 ただここの、重要性は、四つ目の石田というものの、わかりにくさから出てきました。はじめの「ウン
ザリ石田」で感じたとおりそこからここまで延々とした話となりました。
 ポイントの一つは石田が地名なら何も苦労することはなかった、石田に意味を持たそうという著者の
意向があるのかもしれないということでした。 結局脚注にあった

 「○Aの「石田の西光寺」は、「鯖江市石田上町・同中町・同下町。西光寺は浄土真宗」

というので石田の「西光寺」は「石田」という地名を反映した、太田牛一は石田とい地名があったので
それをとりいれたというのはなかったのではないか、むしろ石田という地名がない方がやりやすかった
のではないかと思います。つまり石田はあの石田三成を意識していた、またいいたかったのは
   「石」の「西光寺」
 ということもあったかと思います。一般の人に書いた書物で「石田西光寺」と書き、「石田の西光寺」
と注釈したこころは
  石田西光寺     ⇒@   西光寺石田
              ⇒A   石多西光寺
              ⇒B   石の西光寺(石野西光寺) 
となり、@で個人名の石田を出したかった、あとAで西光寺の特徴を出した、Bは白の世界をうち
出した、といえます。

 もう一つは、下間との戦いの中から双方の名前がでたことです。明智光慶が出てきたということで
すが先の石田三成が明智光慶が「光」「三」で二人が同一といっています。

   「石田」の「西光寺」は重要なのに〈奥の細道〉にセットで出てこないではないか、ということを
いわれるかもしれませんが、芭蕉が舟に乗ろうとして日和を待った場所が大石田です。ネット記事に
よれば大石田に西光寺がありますのでここを意識して立石寺のあとに大石田をもってきたと思います。
有名な立石寺での句、
    閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
 のあとに、「最上川のらんと、大石田と云う所に日和を待つ」が続きます。この「閑」は
    ときは今あめが下知る五月雨
の連歌の締めくくり、明智光慶の句に入ったものです。「光慶」と酒井領の「最上川」を挟んで「石田」が
出てきました。この大石田はもはや地名だけではない、石田三成でしょう。
 「下間」と「明智」と「石田」のドッキングがここで実現しました。
 そのほかネット「62070.html]では西会津町にも「西光寺」があり、92万石の太守、蒲生氏郷が立ち
寄った記事が出ています。こんな記事は氏郷フアンが喜ぶ、小説家が取り上げる逸話で歴史的には
つまらない記事だとつい思ってしまいますが、この氏郷もしくは夫妻の行動は西光寺が明智と関係が
深いことがわかる挿話となるものかもしれないものです。あるいはこれをを記した書物の著者はやはり
蒲生家が太田和泉守と深い関係があると知っていた、この〈信長公記〉の記事や石田が西光寺と深く
関わる話だということを知っていたということになる、そういう歴史的なものの語りの一つともなりうる
ものです。石田三成の側には島左近とともに蒲生郷舎が現にいたのですから、秀吉公の御恩を受けた
ことからくる秀頼公への忠誠心が挙兵の大きな要素を占めるというのは、やはり見直さなければならない
ものです。
  土岐明智の「石田」というのや、「夕庵」がどう関わるかを明らかにしなければなりませんが、
とにかく、ここ〈甫庵信長記〉『越前国の余党併一揆退治の事』とそれに対応する〈信長公記〉巻八
天正三年の(七)の部を、うまく説明できれば、題目の石田三成の出自はおわりです。
まああと若干の補足をせねばならないのは説明力の不足からくるものでしょう。

(14)〈信長公記〉の人名
ここのところは〈甫庵信長記〉の一節
    
        『越前国の余党併一揆退治の事』
 
のなかの部分です。ここを〈信長公記〉と対比してよく読めば、あいまいな石田が明かになる、石田
三成の出自のこともわかってくるということをいままでいってきました。
信長記両書間の表記の対比がとくに重要なところで、芭蕉の〈奥の細道〉敦賀の周辺の記述のもとに
なっていることもあり少し立ち入って見たいと思います。この一節の前半部分全部の人名が下記です。
左〈甫庵信長記〉、右〈信長公記〉です。いろんなことを引っ張り出せるにしても、とりあえず目的に
照らして使えばよいので読む必要はないものです。全部で(68)件です。
     
      〈甫庵信長記〉                〈信長公記〉

     『(1)「信長信忠卿御父子」          主語なし
                               「羽柴筑前守」「筑前守」
 この(1)の食い違いは〈信長公記〉が主語を省いているもの。この羽柴筑前守は太田和泉守を表す、
、武藤宗右衛門との関係を匂わせるため〈信長公記〉がとくべつに入れたと思われます。
                               
     (2)「武藤宗右衛門」           「武藤宗右衛門」
     (3)「下間(しもつま)和泉」        「下間(しもつま)和泉」
     (4)「石田西光寺」               「石田西光寺(さいこうじ)」
     (5)「阿波賀三郎兄弟」            「専修寺・阿波賀三郎兄弟」
     (6)「下間筑後守」    ・          「下間筑後守」
     (7)「大塩円強寺(えんこうじ)」       「大塩円強寺(えんこうじ)」
     (8)「若林長門父子」            「若林長門・息甚七郎父子」
     (9)「三宅権丞」                「三宅権丞(みやけごんのじょう)」

この(2)〜(9)の喰い違いは既述で省略。一つだけ(6)が両書同じなのが目につきます。これは
和泉守のあぶり出し的なもの、つまり本人がそう名乗ったものではないとみてよく、「筑前」が先に出て
きたのもこの意味を示すものといえます。和泉守と同じとみてよいが、物理的には同一人ではあり得ない
「原田備中守」「原田備前守」が同一人というような使い方で「筑前」「筑後」が対置され「夕庵」を暗
に出したといえるものです。信秀葬儀の「筑紫の客僧」の「筑」は念頭にあるでしょう。 

    (10)「前波九郎兵衛父子」         「前波(まえば)九郎兵衛父子」
    (11)「富田六」                 「富田六」
    (12)「毛屋猪」                 「毛屋(けや)猪
    (13)「佐久間右衛門」             「佐久間右衛門」
    (14)「子息甚九郎
    (15)「羽柴筑前守秀吉卿」           「羽柴筑前守(柴田修理亮)」
    (16)「柴田修理亮」                「柴田修理亮(滝川左近)」
    (17)「滝左近将監」              「滝川左近(羽柴筑前守)」
    (18)「惟住五郎左衛門」           「惟住(これずみ)五郎左衛門」(惟任日向守)
    (19)「惟任日向守」                「惟任(これとう)日向守」(惟住(これずみ)五郎左衛門)
    (20)「別右近」                  「別(べつき)右近」
    (21)「岡兵部大輔」               「岡兵部大輔」
    (22)「原田備中」                「原田備中」
    (23)「蜂屋兵庫」                 「蜂屋兵庫」
    (24)「荒木摂津守」                 「荒木摂津守」
    (25)「稲葉伊予守」                「稲葉伊
    (26)「子息彦六」                  「稲葉彦六」
    (27)「氏家左京助」                 「氏家(うぢえ)左京助」
                                 「伊賀伊賀守
    (28)「磯野丹波」                「磯野丹波」
    (29)「阿淡路守」                「阿閇(あつぢ)淡路守」
    (30)「子息孫五郎」                「阿閇孫五郎」   
    (31)「不破河内」                「不破河内」
    (32)「子息彦三」                 「不破彦三」
    (33)「武藤宗右衛門」              「武藤宗右衛門」
    (34)「織田七兵衛尉殿」            「津田七兵衛信澄」(神戸(かんべ)三七信孝)
    (35)「神戸三七殿」               「神戸(かんべ)三七信孝」(津田七兵衛信澄)
    (36)「織田上野殿」               「織田上野守」
    (37)「北畠中将信雄」            「北畠中納言」
                                「同伊勢衆

 (10)〜(37)は、従軍した人名の大羅列のあるところのものです。(14)と、(27)(37)のあとの太字
がハミダシです。(14)などは、〈甫庵信長記〉が
           「佐久間右衛門尉、子息甚九郎
と書いているのに〈信長公記〉は専門筋には
           「佐久間右衛門」一人だ
 といっています。「甚九郎」というボンヤリしたものだからわかるだろうというわけです。利久と平手政秀
の関係解明に迫れる表記の人物であり、「伊賀伊賀守」も重要です。
 最後の「伊勢衆」は「伊勢衆」を属性とする「北畠中納言」は「中将信雄卿」とどういう
関係にあるのか、よくみる必要があるといっているのかもしれません。(15)(16)の( )は順番が違って
いるという意味のもので、ほかにもあります。(24)は変わっていないので特に重要かも。(28)は「丹
波」が使われていますから、先の「筑後守」のような感じのもので、引っ掻き回し役の「丹波」がいるの
でしょう。以下省略しますが、本節で出てくる表記の意味合いの、もう一つの例として使えるものが
多いようです。
     
    (38)「信長卿」、「秀吉」
    (39)「若林」、 、                 「円強寺・若林長門父子
    (40)「明智日向守」
    (41)「山崎源太左衛門」「池田伊予守」  「惟任日向」
    (42)「秀吉」                   「羽柴筑前」
    (43)「三宅権丞」              「三宅権丞
    (44)「羽柴筑前守」               「羽柴筑前守」   
    (45)「惟任日向守」              「惟任日向守」
                               「阿波賀三郎・阿波賀与三兄弟
                               「原田備中」 「信長」
 
ここは初めが「信長卿」、終わりが「信長」で締められ、太字のところが、前のところ(2)〜(9)の部分
を思い出したように付け加えたものです。「父子」は、本節では父子という観点からみるのが必要と
いうことでしょう。左〈甫庵〉の(40)〜(41)は「三人」となり(45)の右の太字は「原田備中」を入れて
確実に「三人」になるでしょう。左の(38)(40)(42)の下線の部分は既述、「中入れ」が出てくる
ところ、はじめの「羽柴筑前守」を受けたもので、
     「秀吉」=「大田いずみ」
を語るもので、(40)が秀吉を染めるものです。(43)の「」は「ゆき」であり、「行き」の「行」から「光」、
「幸」というように拡大されていそうです。
                                  
    (46)「粟屋越中」               「粟屋越中」
    (47)「逸見駿河」               「逸見(へんみ)駿河」
                                「粟屋弥四郎」
    (48)「内藤筑前」                 「内藤筑前」
    (49)「熊谷伝左衛門」              「熊谷(くまがえ)伝左衛門」
    (50)「山県下野守」                「山県(やまがた)下野守」
    (51)「白井民部丞」                「白井」
    (52)「松宮玄蕃允」                「松宮」
    (53)「同左馬允」
    (54)「寺井源左衛門尉」             「寺井」
    (55)「香川右衛門大夫」             「香川」
    (56)「畑田修理亮」                「畑田」
    (57)「一色左京大夫殿」             「一色殿」
    (58)「矢野藤市」                  「矢野」
    (59)「大島対馬守」                「大嶋」
    (60)「桜井豊前守」                「桜井」

 この(46)から(60)までの対比は本題にとって、先の(2)〜(9)を受けてとくに重要です。
(47)や(52)(53)は兄弟かなにかよくわかりませんが、二人が含まれています。こういう感覚で
みなければならないということを暗示しているのかもしれません。しかしくくり方は、両書の間で
違います。
  〈甫庵信長記〉    粟屋越中、辺見駿河  
  〈信長公記〉     粟屋越中・辺見駿河・粟屋弥四郎
〈信長公記〉は一人多くしたのでしょうから、三兄弟をさりげなく出したともいえそうです。この「駿河」
はあとで「向駿河」が出るので、この「弥四郎」まで入れて三人としたとみるのが正解のようです。
元亀元年、信長公は「佐柿粟屋越中所」に着陣し翌日逗留してます。またこの前日(52)の松宮
玄蕃所(若州熊河)にも「御陣宿」しています。このとき「粟屋」のところが24日で、翌日、敦賀表で
すから、(2)〜(9)の範囲内に入ってきます。この「粟(あわ)」が、あの「阿波」に近づくとすると「千
秋(専修)」も意識にあったかも知れません。脚注ではこの「粟屋越中守」は
    「粟屋勝久・・・国吉(福井県三方郡美浜町佐柿)城を守る(〈福井県史〉)」
 となっています。「佐柿」というのは太田牛一が書いたものですから、粟屋氏があったと見るべき
ですが、ここに夕庵を呼び込んだ、といえます。松宮は脚注では
  「若州熊川地方の豪族(福井県史など)」
となっています。「松宮」は三兄弟の中で「松」と「宮」から一番夕庵に近い表記といえます。その他
(51)の「白井」とうのは秀次事件のときに「はちす」の歌を詠んで切腹した白江備後守(既述)があり
ます(〈甫庵太閤記〉)。それを想起させるものです。白井と白江は違うじゃないか、といいますが「備後
守」というのが、この一連の話の延長上にあるわけですから、同一とみてよいわけです。〈川角太閤
記〉では現に「白井備後守」と表記が変えられています。(56)の「畑田」は「波多田」かもしれません。
「波多田」兄弟は「波多」兄弟、「波多野」兄弟となるのでしょう。「寺井」の「源左衛門」も重要ですが、
川」「田」から「布施藤九郎」と出てきた「香津畑」の「菅六左衛門」が出てきます。この
「菅六左衛門」は、脚注では「菅秀政」といい近江の地侍ということですが偶然かどうか「堀秀政」
と同じ名前です。「菅六左衛門」は「菅屋九右衛門」の変形(菅や(の)九右衛門)でしょうから、
久太郎秀政も出てきて不思議でもないようです。このように多くが夕庵につながるものですが
 (60)の「桜井」は脚注では
    「丹後(京都府)野郡野神社神主家。」
 となっています。この「桜井豊前守」は大嶋対馬守や矢野藤市郎などと長岡藤孝に帰属して
いますが、この「竹」は著者の記憶にあったものか、よくわかりません。桜井は豊前守ですが、
別所友治という人は〈明智軍記〉では「豊後守」です。〈明智軍記〉では「桜井」には「桜井新五
左衛門」やら「桜井新左衛門」という表記があるので注意が必要です。「新左衛門」は「新右衛門」
で「新右衛門」となると「山中」の「新右衛門」、すなわち
   「清須道家処へ磯貝新右衛門参り候。」
の〈道家祖看記〉の「新右衛門」につながりますからこれも夕庵がらみとなります。天正六年二月
    磯野丹波守と磯貝新右衛門
は、表記が消されますが、太田牛一が二人に乗ったところがあるので自消したものといえます。
夕庵色のある中で出てきた(59)の
        「大嶋対馬守」
も何か出てくるような感じがします。とにかくここでは一応
       「小さい対馬が、大きい島とはこれいかに」
と頭にインプットしておきます。
    〇石田を大石田の表記で表した人がいた、
    〇大塩の円強(こう)寺を小塩の円光寺だといった人もいた、
ということも記憶に新しいことです。

    (61)「信長公」                   「信長」
                                「三宅権丞」
                                「福田三河守
    (62)「朝倉孫三郎」                 
    (63)「下妻筑後守」                「下間(しもつま)筑後」
    (64)「同和泉守」                 「下間和泉」
                                「専修寺」
                                「朝倉孫三郎」
    (65)「向井駿河守」               「(ムカイ)駿河」
    (66)「郎従金子新丞父子」           「孫三郎家来金子新丞父子」
    (67)「山田源左衛門尉」             「山内(やまのうち)源右衛門尉」
                                「向駿河」    
    (68)「信長公」                                         』

まだ両書とも、あと重要なことが続きますが、本題としてはこの辺で一区切りしておきます。

 (61)「三宅権丞」「福田三河守」は
一つは三宅弥平次=宮・福大夫=明智左馬助光春
もありますが、福田・三河守の合成語句が出てきたことが重要です。ここであの人物が登場しました。
       「三河守」=「向(ムカイ)駿河」=向駿河守」
 越前国の余党・一揆退治にサカイサエモンジョウが顔を出しました。陰に隠れ戦局をリードしていた
ようです。その強者の採ったテロ戦術といったものが戦国の様相を変えました。それまでの国風などと
ったものは飛んでしまったといってもよいものでしょう。
       「下間筑後」・「下間和泉」・「専修寺(せんしゅう)」「福田」
       「朝倉孫三郎」「金子新丞父子(孫三郎家来)」「山内源右衛門(孫三郎家来)」
 が総出で
       「向井駿河守」
に当たって行ったという構図がここに出てきています。ここの朝倉孫三郎が
       石田三成=明智光慶
 といえます。このうち「「山内源右衛門=山源右衛門」になっている人物は、山内一豊に蒲生
源左衛門郷舎を乗せたものかもしれません。
       「金子新丞父子」は
は島左近父子に宛てられるのでしょう。こうはいっても石田は土岐明智かどうかも問題です。

 (15)不可解な一節
  ネット記事「a04.html」「土岐氏●一日市場館跡 岐阜県瑞浪市土岐町」を再掲します。このネット
記事でみたところでは妻木氏というのは土岐明智の正嫡の家のような位置にあり、明智光慶はこの
筋にいます。この記事の「土岐明智氏系妻木氏系図」によれば
                                                   頼知
                             頼照ー(三代略)ー広美ー頼安ー|
  ◎頼貞ー頼基ー頼重ー(二代略)ー頼秋 |                      ●広忠
                            | 
                             頼秀ー(三代略)ー頼典ー光隆 ー 光秀
                                                    信教
                                                    康秀
 
となっています。土岐は「明智」といってもよいし「妻木」といってもよいような関係があります。この
一族は妻木城あたりを地盤にして勢力を長く保ってきた一族といえそうです。ここの●
      一日市場
というのは妻木郷のなかにあるようです。太田和泉守が石田という表記を使う、またあの石田三成は土岐氏
だというものが〈武功夜話〉に出ています。

   『永禄乙丑年(八年)、尾州丹羽郡稲木庄寄木郷今市立(いまいちだち)の事、今市場
   (いまいちば)村の覚え
   稲木庄寄木郷の内、犬山往還道市立(いちだち)あり。寛永の今の世、村名を今市場というなり。
   寄木郷在地の陰陽師(おんみょうじ)、石田武右衛門なる御仁あり。この者御奉行の御沙汰をもって
   開主なり。天正の頃は、賑々敷き繁盛仕る。市立日三の日武右衛門の家は、上方より
   尾州へ罷り来るというも、その年代は不祥。この家は元来陰陽師(おんみょうじ)司どるなり。
   は寛永の当今もなお盛んなり。』

 この短いものが、独立した一節となっています。この一節が〈武功夜話〉に書き込みされた意味ですが
        石田氏=土岐明智氏
 ということを瞬間的に気づかせようというものです。「(市)一日」「市場」と、「石田」というのがキーワード
です。一般の人には、「石田」は、誰でもあの石田三成のことを書いているかもしれないと思いますの
で、あと「一日市場」が引っ付けばよい、「一日市場」周辺の人は、すぐわかるだろうということで前後
脈絡なくこの記事を入れたものの思われます。
 筆者は、先ず一読してあの「石田」のことと思いながら、なんのことやらわからず、いすれわかるだろう
とほっておきましたが、明智夫人のところにきて、妻木のことに触れざるをえず、前出の次のネット記事
をインプツトしていてわかりました。

   再掲ネット記事、
   「a04.html」土岐氏一日市場館跡 岐阜県瑞浪市土岐町」
   土岐妻木氏の系図・・・

この「一日市場」というのは土岐明智妻木氏の発祥の地で今も碑が立っているそうで、土岐氏の
よりどころとなっている土地です。ここで石田という人物が奉行の沙汰で「市開主」とされた、という
ことをいっている、まあ表記を追って行くだけでよく、石田=土岐だといっていると思います。つまり
太田和泉守が石田武右衛門を名乗って永禄八年ここに顔を出したといえそうです。陰陽師という
のは太田和泉守の属性といってよく、その道に通暁していないと、著書はもちろん、兵法書
    「極秘兵術伝,遊佐河内守兵術の伝え」
 は読み書きもできないはずです。
 〈武功夜話〉にある要塞攻略戦の記録〈永禄州股記〉は、シーザーのガリア戦記の要塞攻略の道
具の図示説明を思い出しますが、たいへん詳しい勝れた記録が残されたものとびっくりします。
「天の巻」と「地の巻」があり、「人の巻」は全般に散らばっている墨俣記事を集めると出来上がるので
三巻として書かれたと思いますが、兵法書は「地の巻」にあるもので孫子をベースにしたものです。
これは孫子を踏まえた独自のものです。こういうのを加えると太田牛一の著書がさらに増えるのでは
ないかと思われます。
まあ脱線しましたのは、芭蕉は〈奥の細道〉、大谷吉隆の故地、敦賀のところで
     「遊行二世の上人」
を出してきて「遊行の砂持」などの説明を「あるじ」「亭主」に喋らせていることに関するものです。
この主(あるじ)は出雲屋の主人「弥一郎」です。ここの「出雲」は徒然草の、丹波に出雲というところ
がある、の「出雲」であり、「弥一郎」は既述のとおり「明智の一郎=夕庵」でしょう。〈甫庵信長記〉の
     「良琢とて丹波の者ありけるが・・・」
とある読み方を芭蕉が教えているといえますが、この丹波色、明智色が出てきたところの「遊行」の
「遊」は「遊佐河内守」の「」であり、「河内守」は桶狭間の「毛利()河内守」の「河内守」
であり、(夕庵に加えて)太田和泉守をも呼び出してきたと思われます。これは同時に「明智三兄弟」を
打ち出してきたものです。〈信長公記〉天正九年六月廿七日、遊佐がでます。

     『能州七尾の城にて、●遊佐美作同弟伊丹孫三郎家老三人、連々悪逆を相構うるに依り、
     菅屋九右衛門に仰せ付けられ、能州にて生害候。然れば★温井備前守・弟三宅備後守
     是等も身の上と存知候て、逐電致し候なり。』〈信長公記〉

 テキスト脚注では●の「遊佐美作」は「遊佐続光 能登(石川県)畠山氏の家臣」となっています。
 ●三人は三番目に「伊丹孫三郎」とあるから強いていえば他家に入った兄弟の三人目ということで
兄弟三人を表していると思います。ここは畠山家老の三人が自殺したことは事実でしょう。
 ★は「」の隠れた「備守」を入れて三人で、上の三人の感触から三兄弟です。
 「備前守」は「原田備前守」(塙九郎左衛門)の「備前守」、原田は「備中守」でもあります。「備後守」
で「備前」「備中」「備後」と対になるもので、まあこれは難しい方の三兄弟のあぶり出しといえます。
 「原田備中」などが出てくるところ太田牛一が連想されるものですが、下線の人物は「織田造酒丞」
の子とされる人で「小瀬清長」の弟ということですが、太田和泉守がその表記に乗っかっていると思
われますので、登場回数の多い「菅屋」は太田牛一の多くを語るものとなっているはずです。
 ★の弟に「三宅弥平次」の「三宅」が入れられたのは他の話に使えるのでしょう。
 温井氏と三宅氏の間には姻戚関係にあったということがわかりそうです。また、この三宅は、明智左
馬助の前姓とされています。左馬助はもとは斎藤氏と思われますが斎藤と石川県は芭蕉が斎藤実盛
を出してきているように関係が深く、光秀長女と結婚する以前は、三宅氏の夫人がいたといえるのかも
しれません。弥平次というのは二番目で婿入りもあり得たのではないかと思います。本能寺のあと、
京都所司代として地子銭を免除したのは「三宅式部太輔秀朝」であり、この人物と関係があるのかも
知れません。光春の妹婿が勝家の一族というのもあまり重視されていませんが、本能寺のあとの戦い方
などはそういうことも工作の一つとして使われているはずです。
         弟三宅備後守
という表記は、これだけで、明智左馬助夫人ということを表わすものと取れます。★は、明智の人物で
「備前守」が左馬助と解せられないこともないようです。これを二人として捉えようとすれば「弟」という
表記が問題となってきます。まあここ★のところは、うしろだけとり、
   「備前守」「備後守」「」で三人
ということにもなり、 太田牛一の入った「三人」のくり返しともなるのでしょう。
 とにかく明智と越前は〈奥の細道〉の最後をかざるところで、関ケ原の大垣に直結しています。ここで
〈信長公記〉が取り上げた三兄弟は芭蕉の推敲に大きな影響を与えたものです。 
 三兄第が出てくるところ三宅弥平次が出てくるようです。三木城にも三兄弟が出てきます。これも
波多(野)と同じく二兄弟か三兄弟わからないところがありますが、「三」がたくさん出てきますので、
「二」プラス「一」かもしれず紛らせています。〈信長公記〉

     〇「播州木表、別所彦進楯籠もる宮の上の構え」
     〇「羽柴与力別所孫右衛門」が、城内より「小左衛門」を呼び出す、
     〇「小郎・山城・彦進人の方へ状を遣わし、」
     〇「両人腹をきるべく候・・・」
     〇「某(それがし)両三人腹切るべしと相定め・・・・」
     〇「浅野弥兵衛殿」「孫右衛門殿」への手紙の発信者三人
          「別所彦進ともゆき 別所山城よしちか 別所小三郎長はる」
     〇「樽酒二・三荷」差し入れ
     〇「宅肥前入道・・・・腹十文字に切りて」
     〇「男子人女子人左右に並べ置き・・・・」
     〇「別所人の頸安土へ進上」
     〇「・・・小三郎・・・・小三郎・・・・小三郎・・・小三郎・・・・小三郎・・・・小三郎
        ・・・・・・・小三郎・・・・小三郎・・・・小三郎・・」

 ここに「三宅肥前入道」という「三宅」が出てきました。この人が「三宅弥平次」と関係が
あるのか、ないのかわかりませんが三木に「三宅弥平次」らしき人物が出てきます。まさに三兄弟と
三宅の組み合わせがここでも生まれたといえます。いま後藤又兵衛について、史書から綴られた確
かな書とされるのが
      「実録 後藤又兵衛 綿谷 雪著 中公文庫」
ですがこれによれば〈別所長治記〉に、後藤又兵衛の父らしき「後藤又右衛門」という人物が登場し
てきます。
この人物の名前が「三宅与平次」「三宅与五郎」と読めるようになっています。つまり「後藤又右衛門」
の異名が三宅らしい、後藤又右衛門が三宅に重ねられてしまいます。明智秀満(光春)が三宅弥平次
といったことは確かなので、その子、後藤又兵衛が三宅弥平次秀満だということになりかねません。
明智左馬助と後藤又兵衛は同一というわけではないが、意識的にそう理解されるように誘導されて
いるようです。つまり、いまは何もわかっていない、明智左馬助と後藤又兵衛が、親類だということすら
わかっていないのですから、切り口として、ある程度わかってきた場合は確認として、使えるという話が
撒き散らされているといえます。戦死した後藤又右衛門が本拠としたのが「春日山城」で兵庫県神崎
郡八千草、鍛冶屋村で、近くに山田村もあるようですが、後藤又兵衛はこの春日山城主の家系から
出たといえるようです。まあ「春日」という名前は太田和泉物語の生まれたあとと思われますので、播州
のどこかに本拠をもっていた、そこが春日山城とされたものと思いますが、とにかく三木に、後藤
又兵衛伝説があるのは、三兄弟や、明智と三木別所と関係があることを示していると思います。それが
何かが重要であると思います。この「別所長治記」を書いた人物はおそらく中尾源太郎という人物
ではないかと思われます。〈甫庵信長記〉にとくに
          「三木の城没落の事」
という一節があり、「天正武記」に詳しく書かれているので「之を記さず。」となっています。脚注で
これは「天正軍記と伝えられる本のことであろう。」とあります。大村由己の名前が中尾源太郎と
されたのかもしれません。中尾源太郎は本能寺で戦死する様子が書かれた人物でここで派手に
表記が消されたと思います。

(16)光慶と光成 
 とにかくここで石田は土岐明智というのが明らかにしようとする文献に出くわし、石田三成=明智光
慶は接近してきました。石田三成が名前を付ける場合、明智光慶と共通する名前としようとしたか
どうかは別として両者は同一とみてもよい名前の類似があると思われます。
 荒木又右衛門の剣術の師は柳生十兵衛三厳といわれますが、この人物の名前は「みつよし」と
読まれています。「厳」という字が名前で「よし」と読まれることは辞書にも書かれています。昔の
本には「明智十兵衛光厳」という表記が使われていておかしいなと思ったりしていましたが、いま
では確かめようがありませんので記憶違いとしても、柳生十兵衛の名前は「光厳」ともなりうることは
多くの人が誤記する可能性もあり、前提とされているといってもよいと思われます。すなわち
    十兵衛光厳は「十兵衛三厳」にも「十兵衛光慶」にもなりうる表記です。
石田三成の「成」は名前では「よし」とも読めることは辞書に出ています。「厳」を「よし」と読むのより
もこれの方がありうると感じられるものです。
 「石田三成」も「石田光成」「石田三慶」「石田光慶」が十分ありえるものです。
ここで光秀の子息のことが明らかにならないと、問題が出てきます。明智光慶は山崎の戦い当時
14歳とされています(〈明智軍記〉)。石田三成は1600年数え42歳の死とされていますから、このとき
24歳となりますので10歳の差となっています。10年は一昔とされてまあ〈明智軍記〉が何か操作を
したと考えられ、明智総領という重要人物のことだからこれでも通ると思います。しかし光慶は主要
文献二書には記載がなく、少し時代が離れているとみられる〈明智軍記〉にある年齢との比較です
から一応〈明智軍記〉の述べ方を調べておかないと説得性に欠けることになります。

 明智光秀には、坂本城落城時、子が六人(〈甫庵太閤記〉)で、これは〈甫庵〉だから、太田和泉守
自身が書いたもので、これは受けいれざるをえない、また「弥七」と書いたのも太田牛一で、6プラス1
の七人だから、理屈ぬきで七人であると思うということでこれはこれで終わりです。あとはよくみれば違う
かもしれないというものです。
 七人説もあって〈明智軍記〉では
    『此日向守は、子供七人ぞ持ちける。』
 となっています。同書解説では、
     「明智光秀の子供については、不明な点が多い。高柳光寿氏は、光秀の子供として確実なのは
     明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻の三人の女子と、十五郎という男子と、他に名の
     わかりにくい小児が一人あっただけであるとしている。」
 とされています。すると高柳氏は五人説ということになります。高柳氏が〈明智軍記〉の七人、つまり
  
     「明智秀満(光春)の妻」、「明智治右衛門光忠の妻」「細川忠興の妻」
     「織田信澄の妻」「惟任十兵衛光慶」「十次郎」「乙寿丸」、
 
 に合わせようとするつもりがないのかどうかがわかりませんが一般にいわれているのとでは「明智治右衛
門光忠」の妻が抜けています。
 これは談合を究めの一員であり、また先ほどの〈明智軍記〉の記事
 
      『一手は明智左馬助・並河掃部助・▲同息八助・・・・・・・・
      一手には、明智治右衛門・四王天但馬守・▼其の子又兵衛、』

の「四王天」は「但馬守」、「又兵衛」の重要表記で表わされているので、これは入るのではないかと
思います。
 また明智光慶のことが素通りになって宛てようともしておられません。〈明智軍記〉には上記のように
はっきり書かれているのでそこからスタートしなければならないと思います。十五郎という人物を光慶と
みていない、ということになると、もしこれをカウントすれば、次右衛門光忠を入れると七人といっている
ことにはなります。なぜ一般に知られた二人を省かれたのかが問題です。このままでは、文献がよ
ほど頼りないといわれて終わりとなります。
 〈明智軍記〉では十次郎という人物がいて、去年(天正7年の去年)七歳で筒井順慶の養子になった
とありますから、〈甫庵〉の六人(これは坂本城で亡くなったとされる数)と矛盾しません。
 
 先の七人の、光慶以後が「男」とされています。まあ、これは公的にこうしておくというものでしょう。
このうち「十次郎」という表記が「光慶」「乙寿丸」と違って少しおかしいので、これは

○12歳の子
○重次郎(重二郎)の当て字
○光慶を「十」として「十の次の子、」十一郎。「乙寿丸」が十二郎」。
○前後のつなぎ役で存在しない子、カウントしない子

とかが考えられます。
〈甫庵太閤記〉をベースに考えねばなりませんから、次の記事は無視できません。洞が峠に光秀が
行こうとした記事です。

   『光秀が二男に、あこと云いて十二歳になりしを同道し、』

 結局光秀は順慶に出会えなかったと書かれていますが、この状況下出会ったとすると完全に記事
自体がうそになりますから、甫庵が結果を付記したのは正解ですが、それがあるため光秀がまったく意味
の無い行動をしたということが付記されたことになります。結局そのわけを探ればよいわけですが、
天正6年に二男「十次郎」はすでに順慶の猶子として筒井家に入っています。すなわち、このことやら
過去の筒井・明智間の関係を想起させるためにこの文句をいれたといえます。
これを念頭にいれて「十次郎」をみますと「十二郎」ですから、上の「あこと云いて十二歳」というの
が、関係ありそうというのが出てきます。天正七年の記事でそれぞれの年齢が出てきます。

     『五番目は男子にて・・・惟任十兵衛光慶と申し、十一歳になりければ、・・・・・・六男十次郎
     は去年七歳にして、筒井順慶の養子・・・、七男乙寿丸は五歳の故坂本城・・・・』〈明智軍記〉

 となっています。これが天正10年本能寺の年では、
          光慶=14歳、十次郎=11歳、乙寿丸=8歳
となるので、あこがこの「十次郎」(重次郎)の幼名であったと思われます。
 「十次郎」が筒井の家に入っておれば「筒井家」で当然その名前が出てくるはずです。その観点
からみることが必要で、筒井の話は別だというのはおかしいはずです。

この三子の年齢というのがおかしいということもでてきます。

  『日向守妻室四十八、乙寿丸八歳なりしが・・・・』〈明智軍記〉

 とあるのも無理があります。これは瞬間的に孫と感じる工夫でしょうか。光慶、十次郎、乙寿丸の
年齢は何となく、3歳違いにされている感じがします。年齢を考慮しなければならないのではないか、
と思われます。光慶を10年上乗せすると・
      光慶=24歳、 十次郎=11歳、 乙寿丸=8歳(光慶の子)
 というところになるのかもしれません。「明知日向守光秀」という表記の光秀らしき人物も〈当代記〉
では10年上乗せされています。

    『同十三日に相果て、跡方なく成、{于時(ときにおいて?)明知六十七、}』〈当代記〉

 「五十七」は太田和泉守の年齢に近いかもしれませんが、こういうのがありますので一応修正して
おいて矛盾がでないか注意しておけばよいわけです。なぜ光慶の年齢を上乗せするかということ
ですが、
    ○〈明智軍記〉による子息の年齢によると(天正7年時点)
      (1)光春夫人          26歳
      (2)光忠夫人          24歳
      (3)忠興夫人(ガラシヤ)   16歳
      (4)信澄夫人          14歳
      (5)光慶             11歳
      (6)十次郎            8歳 (去年七歳という珍妙な表現がされている。)
      (7)乙寿丸            5歳
      となっていて年齢差は、
             2歳、歳、2歳、3歳、3歳、3歳、
      となり、(2)と(3)の差は8歳となっている。これは、おかしい、警告されているかもしれない
      と感ずる。
    ○末子相続というわけではないかもしれないが、明智光秀は三番目で総領となっている。
    ○光秀死後も「祝弥三郎」が、能舞台で出てきている〈甫庵太閤記〉。これはガラシヤ夫人に
     は引きあてにくい。
などあり、光慶の年齢を10年繰り上げると、総領にふさわしい位置を占めることになり、年齢差も
             2歳、3歳、5歳、2歳、歳、3歳
 ということで、まあそこそこのところに納まらないかということになりますが、これもまだ抜けていることが
あるのかもしれません。また数えでカウントされるので差をとると最大二歳近くになったりするのであまり差
は問題にできないかとも思われます。

 ここで十歳差について〈明智軍記〉独特の親切なところが出てきていると思います。高柳博士が
なぜ治右衛門光忠と明智光慶を無視されたかということです。
   〇治右衛門光忠夫人が入ってきたので光慶を10年繰り上げると光慶が三番目になり祝弥三
    郎、朝倉孫三郎の「三郎」になる。
   〇治右衛門光忠の年齢は山崎合戦のとき43歳であり、ここの光忠夫人の年齢27歳とかみ合わ
    ない。ほぼ一世代ちがう。第一感では、光忠の子で養子というのが出てくる。
つまり、年令が接近しているところから、3歳ちがいで同じではないが
          光慶=光忠
と取られればさいわい、明智光慶を上の方へもってくるとよい、というヒントを与えるものとして出した
というものがあると思われます。
 しかし養子にする理由がないといわれるとその通りで、別のこともあるのではないかと思います。
明智治右衛門は明智次右衛門もいるので一応二人と考えられますが、テキスト〈明智軍記〉所収
明智系図では
     「某・・・・・・・明智治右衛門光忠」
となっており、いわくありげです。信長公の近親かもしれないので、一つ「某」となっているとともに、若い
方の光忠も
     「某・・・・・・・明智治右衛門光忠」
とそういう近い関係があるから、受け入れているものといえると思います。つまり信長公は明智の人
ですからその子息は明智の棟梁であってもよいわけです。秀吉にもこれと似たような話があります。
  
 〈明智軍記〉注によれば、坂本城の最後で、同時代資料によってみれば、
      「明智子二人」「明智の二子が死んだ」「そのなかに光秀の子が二人おり」
 があり二人が強調されています。あくまで〈甫庵太閤記〉の六人がベースですが、二人がなぜ取り上げ
られるか、ということが重要ではないかと思います。手法には数字を転がしておいて適当に利用してくれという
ものがあります。この中で「光秀の子」とあるのは「光秀の実子」と読むべしというのがあると思います。親子

 光秀の子について高柳博士が五人説でしたが、筆者も、七人から、光忠の妻女と光慶の一人を
引きますから、五人になります。
つまりはじめの
     「明智秀満(光春)の妻」、「明智治右衛門光忠の妻」「細川忠興の妻」
     「織田信澄の妻」「惟任十兵衛光慶」「十次郎」「乙寿丸」、七人
は高柳説では
     「明智秀満(光春)の妻」、「−−−−−−−−−」、「細川忠興の妻」
     「織田信澄の妻」「十五郎という男子=光慶」、「名のわかりにくい小児が一人十次郎
     「ーーーーーーカウントなし=(乙寿丸)」

と取ったものと思われます。「十五郎=光慶」はもとでは五番目ですし「名のわかりにくい」のは「十次郎
か「乙寿丸」かわかりませんが「筒井」に出た人がいたのは確実ですからカウントされると思います。
「乙寿丸」の「寿」は「青地千代寿」というように孫をあらわす名なのかもしれません。
なおここでカウントされない男性の子が二人いたとするともとの7人になります。これはあるかも
しれない、それが2人というもののもう一つの意味ともいえます。
 もう一つ不自然な記事があり、「何れも一腹の兄弟也」〈明智軍記〉と書いています。七人全部の母
が妻室だけというのはやや不自然でこれはおかしいでしょうといっていると思われます。
これはその意をくみとればよいのでしょう。
 「弥七」があったので六人プラス一人で七人としてまあ一応決着をつけておきますと、乙寿丸が
三つの役割を果たしていると取ります。
  ○〈甫庵太閤記〉の六人は、総数をいったと思われるので初孫「乙寿丸」を除いて7マイナス1=六人
  〇筆者の我田引水の「越前の弥七」を重視して、「乙寿丸」をこれを宛てる。七人(明智軍記説変形)
  〇光忠は養子、「乙寿丸」は、「その他」と取り、名を表わさない人二人計七人(高柳説の変形)

 とでもしておきます。。こうしてみると結局高柳説になります。まあ〈明智軍記〉著者の言語能力、
操作能力には、及ばないのでこの辺のところで精一杯といったところですが、博士はもっと読めて
いて、文献を頼りないという方向へ話をもっていかれたものか、と思われます。
 とにもかくにも、本題のなかのポイントの一つ光慶ー三成年齢差の問題はここで克服されました。
  
(17)後見人
光慶には
    「隠岐五郎兵衛・妻木七右衛門・内藤三郎右衛門」
がついております(〈明智軍記〉)。これは「惟任十兵衛光慶」11歳のとき、丹波亀山に「指置(さしおき)」
したときに「添えた」という面々です。当然選り抜かれた三人といってよいものです。
○ 妻木七右衛門は「七」から津田七兵衛信澄の夫人もしくは信澄かもしれません。
○内藤三郎右衛門というのは「三郎右衛門」が特異ですので、まず川角三郎右衛門(太閤記著者)
が思い出されますが、その中に執筆に関わっているかもしれない「内藤徳庵」という人物が出ています。
 高山右近、長九郎左衛門、山崎長門守、内藤徳庵が寄りあって雑談をしているというような文言が
あり、気になるところですが、内藤如庵という人物や六条の合戦に参加している「内藤備中守」もいま
すので引っ掛かります。著者の一人かもしれませんが、それは別のこととして、この「三郎右衛門」は
丹波亀山の前城主、内藤五郎兵衛の「家臣」であって、主が死去してまとまりを欠いていたときに
光秀に帰服したとされています(明智軍記)。
 ○「隠岐五郎兵衛」が常識からいえば「島左近」となりそうです。〈甫庵信長記〉に一回だけ
     「島弥左衛門尉」
 という人物が出てきますが、これは今となれば太田和泉守が島左近を意識したものだといえてくる
ものです。〈甫庵信長記〉人名索引には、この前が「田所介」で、これは
      村井長門守とペアで、
      秀満という名前があり名寄せで「三宅」「宮」に、また「弥平次」に近づいてくる、
      島田は「島」があり、「田島」となれば「田島千秋」にもつながる、
というような人物です。著者は人名索引が作られることを前提に著述している、著者自身が人名索引を
作りながら書いているということが、抜けてしまっています。これは著者が〈記紀〉や〈源氏〉や〈吾妻鏡〉
を読むときに人名や、地名や、語句やらの索引を作って読んでいるのがそのまま生かされていること
だから当然です。筆者などは表記のことを書いていながら読みっぱなし、書きっぱなしということ
だから桁がちがうわけです。
この隠岐五郎兵衛というのは「五郎」合わせで「夕庵」にも近づくし、名前が「惟恒」(ルビ=よしつね)
というものですから「惟」で「惟任」「惟住」に近づく、「よし」という読みは字引にもあります。大谷吉隆の
「吉」にもつながりそうです。
またこういう話にならなくても、この「隠岐」が石田三成に関係する表記なのが気になります。
〈名将言行録〉によれば石田三成(かずなり)は

   『{隠岐守政成(まさなり)の子、・・・・初め宗成(むねなり)・・・・慶長五年十月朔日死年三十八。}
    ・・・近江石田村の民佐五右衛門政成の子なり。初め佐吉と称す。・・・父之を観音寺に託せり。
    ・・・・・・信長、丹波の波多野右衛門太夫秀治を攻められし時、●秀吉をもって先鋒の大将と
   定めらる、時に■三成は・・・金の吹貫(ふきぬき)・・・・金の吹貫・・・・』〈名将言行録〉

 となっています。伊勢長島領主雪斎候は木村兼葭堂の先祖を「後藤隠岐守基次」と書いており、
「隠岐」が使われています。石田も明智といわんばかりです。「観音寺」については、太田和泉守が
「江州観音寺」という人物と接近しているということは既述しています。
 また●は確実に明智光秀のことであり、■は「三成」ではどうしてもおかしい、「三」を「光」と宛てて、
「光成」から「光慶」に近づけた方がよいでしょう。年齢調整をしたので、年齢的には光慶でも問題は
ありません。
 このときの三成の派手な行装の財源が、宇治、淀の両岸に繁茂する「荻、葭」の運上益です。秀吉から
五百石の加増を受けたが返上して、宇治、淀の「荻、葭」の繁茂している土地を頂戴してそこから
利益を得ました。これは土民に「荻、葭」が盗み取られていたので需要ありと判断したということのよう
ですが、〈名将言行録〉では、この話が下線丹波の波多野「三兄弟」の前の記事です。ここまでは秀吉、
三成の話といえますが、突然変調しています。
波多野は「波多兵庫」という表記が戦国期の文献に出てくるように、ここから話が明智に急展開します、
そのあとに出てきた●■は、光秀・光慶となるのは、当然ですが、二つの時代を一つの話で語っている
ということですから、この話はやはり、三成と光慶をつなげようとしたものです。光慶は「白の吹貫」
ではなく「金の吹貫」を使ったのでしょう。戦死した道家兄弟は白だったようです。
 この「葭」の話も、よくできた話で、明智の話とさりげなく結びついています。太田和泉守の智慧の
話がいっぱい伝えられていますからそれを三成で借りた話である可能性もあります。
 「荻、葭」の「葭(あし)」は寛政の大学者、「木村兼(草カンムリあり)葭堂(けんかどう)」の「葭」が思い
出されます。この挿話が木村世粛の書斎名、兼葭堂の由来ではないかと思われます。一字だけの一致
だけではどうにもならないといえそうです。しかし、「兼(けん)」は「荻(おぎ)」ですから、「てきかどう」より
「けんかどう」の方がよいからそうしたのかもしれません。この挿話が出来たのは寛政ころかもしれない、
それが幕末〜明治初年の〈名将言行録〉に収録されたのではないかと思われます。いいたいことは
この話は前後考えて実話ではなさそうだと顧りみないというのは間違いで、兼葭堂が作った話とすれば
重要だし、そうでなくとも関心をもった話ということであれば重要です。江戸末から明治はじめに出来た
〈名将言行録〉などは戦国時代の話りには使えないと思ってしまいやすい、そうではないのです。
 次の三成伝説は太田和泉守伝説として出来たものかもしれません。 

  『一年霖雨にて河内堤切れ・・・水を防がんとすれども、俄かに土俵出きず。・・・・三成ただ一騎
  にて切所に行きしが、やがて乗り返し、京橋口の米倉の口を開かせ・・・此米一俵づつ切り口持ち
  行くべしと下知・・・・忽ち数千俵を持ち運ぶ・・・洪水を堰き留めたり。
   雨晴れて後、三成又、河内の百性及び近所の者に土俵を念入り拵え、堤の切り口に持ち行き、
  奉行に断わり、米俵と積み替えて取るべし、何程にても土俵拵え次第に積み替えよと下知せし故
  土民気を得て、一両日の間成る程念を入れたる土俵にて、堤の切り口築きし故、元の堤よりは、堅く
  出来たり。・・・・時人も無双の才覚と感嘆せり。』

 緊急対策をやった、応急に使った米俵を回収し、難民救済にそれを使った、土俵で無理なく堤を築いた、
米俵と土俵が交錯した俵の伝説は太田和泉守を想定した物語といえますが、太田和泉と石田三成
をつなぐのが主眼の挿話ともいえると思います

(18)慶の字
 「葭」の一字がおおきいというのは、「慶」の一字だけで話がわかってきそうだということもあります。
〈名将言行録〉松倉重政のところでこういう記事があります。

    『此の役(大坂の陣)大坂の兵、郡山を伐つ。是より先筒井定次無道にて国を除かれしが、家康
    旧家の断ゆるを哀れみ、定次の弟主殿助定慶(とのものすけさだよし)、紀伊守慶之(よしゆき)を
    して郡山を守らしめける。・・・』〈名将言行録〉

 この「定慶」の「慶」は「明智光慶」の「慶」だからやはり無視できません。つまり「定次の弟」というのは
二歳くらい下の人という意味にもとれますから、それに「慶」がついていると、また弟というと、光慶の
弟が、あの「十次郎」ですから、「重次郎」が「定次」と関係がありそうというのが出てきます、ここは
       筒井定次
         ‖ーーーーーーーー紀伊守慶之
       重次郎定慶
 という関係があったのではないか、という推測もされるところです。養子と猶子というのは同じともいえる、
し違うともいえる、定次と十次郎が同じというのは、やや無理があるとも思えますので、ここでこういう連れ
合いという関係と一応決めて待ってみると何か出てくるかもしれません。これも「慶」だけから出てくる話
です。この筒井家から出てきたのが
                「島左近友之」(〈名将言行録〉表記)
です。
  関ケ原の戦い日本史上最も有名な戦いですが、華は石田三成・島左近・大谷吉隆でしょう。光慶、
三成を追っかけるにしても、島左近のことが解けないとこれは完結しない話となると思います。 光慶には
隠岐五郎兵衛・妻木七右衛門・内藤三郎右衛門」が後見として付いています。いままで述べてきた
ところからいえば
「隠岐五郎兵衛」が「島左近」で、三成の父が「隠岐」ということから、夕庵、和泉に近い関係にある
人というのが出てきます。筒井家にいて転仕して三成の半分の知行を貰ったということで有名です。
貰った禄高がまちまちですが三成の半分というのは共通しているようです。浪人生活に入って再び
世に出てくるという、ことになったと思われます。これは誰か、それを示す例を拾い上げれば、かなり
あると思いますが決定打として一つあげればよいでしょう。あとは補強材料にすればよいわけです。

   『関ケ原の時、三成九日に出陣と究めしところ、福束(ふくつか)の城より、丸毛(まるも)三郎兵衛
   来て、明日は悪日なれば首途(かどで)然るべからざる由諌めける。・・・・・・』〈名将言行録〉

 太字は〈信長公記〉にある表記で、「丸毛兵庫頭」の子息とされている人物です。武井夕庵Aが
三成に接近してきたといえます。この二人の取り組みには必然的なところはなく、まったく予想をこえ
たものです。しかし「丸毛三郎兵衛」は〈甫庵信長記〉〈信長公記〉の表記です。これが
     島左近といわれる人物
であろうと思われます。〈信長公記〉初登場は巻二、永禄十二年、明智十兵衛初登場の年と同じです。
   
   『(勢州表)・・・・森三左衛門・山田三左衛門・・・・不破河内・丸毛兵庫(まるもひょうご)頭・
   ・・・・丸毛三郎兵衛、』〈信長公記〉

 です。このとき光秀は43歳くらいですから、まあ15を引いてみると28歳くらいの大将というところでしょう。
 「丸毛兵庫頭」という表記がされている人物は、「武井夕庵」ですが、テキスト〈信長公記〉脚注では

    「丸毛長照  実名長照(〈寛永諸家系図伝〉〈寛政重修諸家譜〉)。丸毛は丸茂に通じ「まるも」
    と訓じる。美濃多芸郡の住人。」

  とされています。これは美濃多芸郡の住人で「丸茂」という人(領主)がいて、その名を使ったという
 ことになりますが、次のような記事があるのは、その人物を物語の世界に引っぱり出すことにした
 ということです。まあ劇的な要素が加味された、注目の人物になったといえます。 
  
     『丸毛(まるも)兵庫(の)助軍配(ぐんぱい)の事
    丸毛兵庫助長住その子三郎兵衛長隆・・・・美濃の多芸郡大塚にあり。安藤伊賀守氏家常陸
    介・・・・大塚におし寄せる。・・・・百姓老若男女をいわずかり催し、手々に竹竿をもたせ大軍
    の体にもてなし、ついに氏家を撃ち破り・・・・・』〈常山奇談〉

 多芸は「たげい」「武井」になり、その他の布石で丸毛が夕庵になりますが、竹槍で敵の目くらましした
話は信長の実績があります。上の長照はここでは長住となっています
この弟が、関ケ原戦のときにしゃしゃりでます。

     『春日(かすが)九兵衛見積もりの事
     丸毛兵庫(まるもひょうご)が弟春日九兵衛、大坂より大垣に至り、諸将の内に二タ心有る
     人の候。陣所の有様必定味方敗北すべし。陣替えせられよ、と三成にすすむれども
     用いず。果たして破れたり。』〈常山奇談〉

 偉そうなことをいうな、といいたいところですが、これは丸毛兵庫の弟、つまり夕庵の弟なので文句
はいえません。太田和泉守の関ケ原臨場をも示す挿話でしょう。後日譚もあるようです。子の「三郎兵
衛」は〈信長公記〉もこの表記となっており、テキスト脚注では

     『丸毛三郎兵衛  兼利(〜1647)  実名兼利。(〈加賀藩資料〉)。また兼頼、職、親吉
      などと伝える(〈新撰美濃史〉。のち前田利常に仕えた。』

 となっています。もちろん〈信長公記〉の「三郎兵衛」は物語化された方の人物です。この名前も
使えるかもしれません。
 夕庵から延々と桜井豊前守、大島対馬守まで辿り着きました。桜井豊前守は
        「向(ムカイ)駿河=向井駿河」
というものからいうと「桜豊前守」とか「桜の豊前守」といってよく、また「大島対馬守」は「大石田」という
芭蕉の表現からいえば「島対馬守」となるのでしょう。また
      
          「インチキ平島、井筒の井戸水」

というのもありました。「島」には「平」がついて「平の島」となるのかも知れません。   

ネット記事「武家家伝ー島氏(m network)」を借用して物語化されているところとそうでないところを
掴んでみたいと思います。つまり筒井氏に島氏というものが関わりがあり、それはそれで生かしながら
歴史的事実はのべながら物語るというのは丸毛氏の場合と同じです。

     『島左近の生国については、大和説・近江説・●対馬説など諸説があるが、大和説がもっとも
      うなずける説である。
     島氏は鎌倉時代末期に大和国平群谷を本拠地として武士化し、奈良興福寺の一乗院坊
     人となった。〈平群町史〉によれば「嘉暦四年(1329)春日行幸の設備用竹の在所注文に
     「平群嶋春□(□は雨カンムリの下に鶴の文字)」とその名があると見えている。
     これが、嶋氏の史料上の初見であるり、島左近の祖先にあたる人物と考えられる。そして、
     はじめて見える島氏は「嶋」であったが、以下、島の表記で統一する。・・・・・
        島氏平群谷の有力勢力となる
     その後、島氏は至徳年間(1384〜86)の〈流鏑馬日記〉に名が見え、ついで、応永十一年
     (1404)には〈寺門事條々聞書〉記載の国民に、曾歩々々氏らとともに見えている。おそらく
     至徳年間ころまでに一乗院坊人となったようだ。そして、〈一乗院家御坊人名字依次有気之〉
     の康正三年(1457)の条に筒井井戸・越智・布施・箸尾氏らとともに氏もみえる。さらに、
     〈大和衆管領方引汲牢人〉の文明十四人(1482)に「島文明十四入滅」とみえ、延徳三年
     (1491)の条には「平群島、木津執行祖父入滅云々」などと島氏の名が散見する。
      しかし、島氏の系譜についてはほとんど不明というのが実状である。

 ここで中断しますが、はじめからすでに物語化されたものが出てきました。●のところ、突飛なこと
は否定できません。「小さい対馬、大きい島とはこれいかに。」を思い出してみる、つまり〈甫庵信長記〉
の「大嶋対馬守」からこの対馬説が来ています。まあ、はなから物語化されたものが出てきている
ということになります。ここの大和説も、近江説のことも、そのことを考慮しなければならないでしょう。
近江説は〈常山奇談〉の
 「左近が父もと室町将軍家に仕え、江州高宮の傍(かたはら)に、かいなきさまして隠れ居たりしを、
 三成招き出しけり。」
があります。この高宮は「高宮右京亮」の領地であり、河尻与兵衛と丹羽五郎左衛門が佐和山へ呼
び寄せてます(〈信長公記〉)。「宮」の松は「白井・松宮・畑田」で夕庵の洪水のなかで出てきました。
 また石田三成の父という人は近江国石田村の百姓佐五右衛門です(〈常山奇談〉)が、これは隠岐
守政成という人でもありますから親代わりの隠岐五郎兵衛の仮の姿といえそうです。近江は、物語で
は居住を示すものといえます。一方家康が、
    「柳生又右衛門は、石田が士大将嶋左近と同国のよしみにて懇(ねんご)ろ」〈常山〉
といっていますので物語では、大和が生国のようです。実際島氏はこの文にあるように筒井とともに
おそらく近い親類として大和に重きをなしていた存在といえそうです。
ここの井戸氏、布施氏は物語になっている(物語として採用されている)のが重要だと思います。
布施氏については「布施藤九郎」の名前として使用されたことは何回も既述ですが、人名録では
「布施公保」とされ
      「布施氏は伊氏。近江伊香郡布施の住人」
となっています。この「香」は布施藤九郎の初登場のところで 〈信長公記〉で

   『日野蒲生右兵衛大輔・布施藤九郎、津畑の菅六左衛門(秀政)馳走申し、千草越えにて・・・』

 とある、「香」に反映されて、これが両書の
   「白井・・・・松宮・・・・源左衛門・・・川・・・・畑田・・・・大嶋対馬守・★桜井豊前守・・」
という人名羅列に生かされています。このように実際を巧みに取り入れられています。「井戸水」
の井戸氏もその意味では特に重要で、これは「井戸才介」という人物が、「深尾和泉」と殺されます
ので目に付くもので〈戦国〉でも筒井の将がどうしたんだ、ということで取り上げています。〈甫庵信長記〉
で「井上才介」と変形されこれは戦死で表記が消えます。この人物の原型が「井戸良弘」というようで
次のような重要な話が伝わっています。〈織田信長家臣人名辞典=吉川弘文館〉

   「天文二年〜慶長十七年(1612) 一月五日? 若狭守、若狭入道。剃髪号は利菴、斎号
    は里夕斎と伝わる。覚弘の子で、兄小殿之助良弘の跡を継いで添上郡二万石を領し、井戸
    城主となるという。妻は筒井順昭の娘、即ち順慶の姉といい、・・・・二男治秀は、光秀の婿
    になったといい、その縁により本能寺で・・・・光秀に味方する。・・・」

となっています。すなわち順慶に子がない場合、後嗣となるべき人物は井戸家から選ばれる可能
性がたかく、現に〈明智軍記〉ではつぎの記事があります。

   『惟任日向守が次男十次郎とて七歳に成りけるを猶子に仕るべき由也しかば、順慶かたかた
   以って大悦斜めならず、先々祝儀として家臣井戸若狭守を日向守居城江州坂本へぞ
   遣わしける。』

 太田和泉はこういう関係もあり、筒井の幹部はよく知っている、それを物語にしているのです。
ここの家臣は普通の家臣ではないわけです。この人の二男が定次といえそうです。
 ここの「一乗院」というのも無視できない感じです。「日乗上人・島田所之助・村井長門守、三使」
などが出てくるので筒井と関係があるのか、とうような疑問です。テキスト脚注では「日乗上人」は
    
    『日乗朝山   〈法隆寺文書〉では日乗朝山と署名した文書があるから朝山日乗(あさやま
    にちじょう)というのは俗説。出雲朝山郷出身。』

となっています。「一乗」は越前西光寺、一乗谷というのもありますので、また「島田」「村井」も物語
的といえますから、ここは「武井夕庵@・武井夕庵A・太田和泉守」としたいところです。わからないと
いうより宛てておいた方がよいわけです。ネット文の続きです。

     〈和州諸将軍伝〉などの軍記物によれば、島氏は本姓が藤原で、筒井氏の七代の当主に
     仕えたとある。そして左近の祖父を友保、父を友之として興福寺の塔頭・持宝院を庇護した
     いっている。しかし史料として信頼できる〈多聞院日記〉などの記述によれば、左近の父の名
     豊前守となっている。おそらく左近の父は豊前守が正しいものであろう。豊前守は、平群郡
     椿井城、西宮城を領有し、一説に天文十八年(1549)に没したという。
      ところで、平群谷の椿井城は椿井氏が拠っていたことが知られ、島氏は椿井氏を追って
      勢力を平群谷に築いたものと思われる。〈姓氏家系大辞典〉の椿井氏の項を見ると、
       「平群谷椿井より起こる、文明年間(1469〜86)、椿井越前入道道懐あり、筒井と争い
     島左近に滅ぼされしが如し(後略)」とあり、島氏は左内の代に椿井氏を追って、椿井城を
     領有するようになったのであろう。その後、椿井氏は山城において活動していることから
     平群谷における所領、拠点を失ったようだ。

 本稿が使った〈名将言行録〉の島左近は「友之」ですからここでは左近の父になっています。これを
生かせば、島左近にも島左近@と島左近Aがあることを前提としてもよいということになるでしょう。
一代ではなかなかここまでの名声をあげるところまでいかないかもしれないというのもありますが二代
目も麒麟児でないとむつかしいことです。とくに武勇の島左近という面では島左近Aの存在が大き
かったともいえそうです。
 この友之が丸毛三郎兵衛であると一応しておきますが中身は三成の家臣としての左近の記事に親子
重なっているところがあり、分けにくいところが出るのは避けられないことでしょう。ここに豊前守が出
てきたので先の★の桜井豊前守の影響を受けた話となっています。すなわち「椿花山」「霞山」
「桜」−−「西」「宮」というように物語のなかの島が語られていると思います。

    永禄十年(1567)六月の〈多聞院日記〉によれば、平群島城へ「庄屋」が乱入、「親父
     方は立出」たが、一族九人が生害に追い込まれたと記されている。すなわち、左近の父
     と思われる豊前は脱出したが、一族は自殺に追い込まれたのである。島城とは西宮城と思
     われ、庄屋とは島左近のことかも知れない。島氏の家督をめぐって一族間に内訌があったの
     であろうか。
      ■左近が生まれたのは天文九年(1540)と考証され、そのころの筒井氏の当主は順昭で、
     天文十八年に順慶が生まれた。左近は順慶の九歳の年長であったことになる。
      筒井順昭は大和国のほとんどを制圧したが、天文二十年、二十八歳で急逝した。ときに
     順慶は三歳の幼児であった。幼い順慶を一族の筒井順政、福住宗職・順弘父子、箸尾高
     春、井戸良弘、その重臣の松倉右近と島左近は、筒井家の「右近・左近」と称される勇将
     であった。
      以後、島左近は筒井順慶に仕えて、大和進出に乗り出した松永久秀軍と十数年にわたっ
     合戦を繰り返した。永禄八年(1565)には、筒井城が攻略され順慶は布施城に奔り、左近
     は椿井城・西宮城に拠って松永軍と戦った。翌年順慶は筒井城を奪還し、松永軍と攻防を
     展開したが、元亀二年(1571)に至って、織田信長の部将明智光秀の仲介で和睦した。
     ・・・・・・・・・信長の天下統一への戦いは連続し・・・・・筒井順慶は、大和に十六万石を与え
     られ、郡山城を本拠とした。▲このとき島左近は筒井氏の家老として、一万石を与えられた
     という。・・・・・・・

ここに珍妙な「庄屋」が出てきてまぜかえしています。下線のところ「庄屋」に誰かを宛てようとする
のは必要なことではないかと思います。ここでは豊前が殺される話なので豊前の役目終了、その表記を
消したと思います。その役目を果たしたのは太田和泉で、この「庄屋」は「庄屋の甚兵衛」の「庄屋」
といえます。「井戸良弘」のことは触れましたが、ここの筒井の右近左近が重要ではないかと思いま
す。芭蕉が〈奥の細道〉の旅出発にあたり、「松嶋」のことを気にしていました。松島の地、松島の壺、
のこともありますが大石田、小松、大島につらなる松倉右近・島左近の松島です。丸毛三郎兵衛
夫人が松倉右近だったといえるのではないかというのは既述ですが兄弟といえるのかもしれない
ので調べねばならないところです。がそれは別として、〈名将言行録〉の「松倉重政」の項に、書かれ
ているのは松倉重政Aというべき人物のことです。

  『{右近大夫信重の子、九一郎と称す。後豊後守に任じ、島原六万石に封ぜらる。寛永七年
  十一月十六日卒、五十七。}』〈名将言行録〉

 寛永七年(1630)57歳では、筒井の右近左近といわれるには年数、キャリヤ不足です。デジタル的に
表記の一部を利用すればよく、このはじめに父のことが書かれており、
           {右近大夫信重。}
となっています。父の名前が「信重」だったわけです。島弥左衛門に引き当てされる人物として「島信重
という人物が用意されています。つまり「松倉右近」の父が島左近の夫人とかで「島信重」となります。
要は▲のあとの話にあるように平群谷、島氏の人が、物語り島氏にされたのが
    「島弥左衛門=島信重=松倉右近@」
といえます。
〈織田信長家臣人名辞典=吉川弘文館〉に「信重」というのがありますので、表記だけ借りてくれば
よいわけです。

   『島信重  生没年不詳。勘右衛門・又左衛門。・・・・・
   島一正(しまかずまさ) 信重弟 天文17年(1548〜寛永3年(1626)6月6日 弥左衛門』

となっており、兄弟というのは夫妻を表しているのかもしれません。いずれも簗田広正の家臣とされて
いますが、簗田は簗田出羽守、つまり太田和泉をいっています。後藤基次の場合でも、はじめに

   『{孫兵衛の子、又兵衛と称す。元和元年五月六日戦死、年五十六。}』〈名将言行録〉

 となっています。 という操作ありといっているもので、そこから「五十六」を見ることが必要でしょう。
「五十六」というのは〈吾妻鏡〉を引き継いでいるかもしれないとみれるからです。〈真説大坂の陣
ー学研M文庫〉によれば、
     「後藤又兵衛基次は五十五歳。ただ〈長沢聞書〉では六十余歳とある・・・」
とあり、「五十五歳」というのが〈名将言行録〉と同じといえます。ここでは、本当はどちらか、ということ
が知りたいところでしょうが、そういう観点からのみ読み急ぐと史料が頼りないということになります。
「六十余歳」となるとに「余」を読まねばなりませんが、米百俵ということは88×百=八千余表というと
110%ということになると66歳になる、端数を嫌う場合は「4」もありうる、また「一間余」は真ん中の
1.5間というのも正解でしょうから、まあ65歳前後にもなるのでしょう。1615大坂陣マイナス65=1550
桶狭間では10歳くらいとなり、太田和泉24くらいのときの子ということでまあ、あの後藤又兵衛に
合いそうです。長沢はそうだといっている、55歳というのは10年調整すればよい、という意味もある
と思います。また年齢が二つということは、もう一人、後藤又兵衛がいる、木村重成の応援をした
後藤又兵衛はどういう人物かというのも出てくるわけです。同書のように挿話をふんだんに盛ってある
ものは役に立つわけです。後藤又兵衛は入城する金がなかったが、
  「同郷の同姓同名、後藤又兵衛なる商人から武具を譲られ、おまけに家臣まで得たという。」
 などは、江戸時代に名前を変えて要所で出てくる太田和泉守が早い段階に登場したといえるの
かもしれません。ほかにも
  「彼にも幸村や秀頼同様、生存説がある。〈筆のすさび〉では豊後に隠れてから切腹しており、
  〈翁草〉では伊予に逃れている。他にもいくらかあるが、どれも信びょう性に乏しい。 
   その中で、又兵衛は戦死していない。じつは死んだことにして戦場を逃れ、・・・・・・大坂方に
  対して反忠していたのだ、という説が当時からあった。〈創業録〉では次のように記されている。」
  として以下の引用があります。

   『後に長宗我部盛親は生け捕られ二条(城)に来た時、「後藤は反忠であったに違いない。」と
   言った。傍にあった人が「後藤は討死したのだ」と言ったけれども、長宗我部はこれを信じなか
   と聞いている。』

 いまではこの話は、もう不思議でもないことで、創業録というのは、秀頼の年齢のことを取り上げた
書物であったかと記憶していますが、秀頼の今でいう父親のことが絡んだものとなります。
 又兵衛の裏切りなどは考えられないことですが、こういうのは本来そうありえない人に逆の振る舞い
をさせて、いいたいことをいうわけですが、本質的には反忠でしょう。
当時の社会の有り様をいまと同じとして表記だけで論じてもかなりところまで話を進めることはできます
が全部逆襲されていまいます。いまもいいかげんなところで妥協した線で通説が出来上がっています
がそれは棚上げにして新しい所論が出てくれば、無視したり攻撃する、支持は専門家と称する人
に寄せられますから、そうされると後退せざるをえない、前へ進まないわけです。
 後藤又兵衛に関していえば、その連れ合いは誰なのかということを示すことが必要であって、ほかの
ことはそれにつなげようとする挿話であるということが重要です。それは別として、年齢も、いろいろと
考慮された結果が反映され一筋縄でいかないようになっていると言わざるをえません。

 島左近を論ずる場合一番の問題は■の下線部分つまり年齢です。ここにあるのは〈名将言行録〉
に出ているのと同じです。つまり「島左近友之」のはじめは

      『{左近と称す。石田三成に仕えて謀臣となる。当時称して鬼左近と曰う。慶長五年九月
       十五日戦死、年六十一。}』〈名将言行録〉

 この年齢がいま信頼されていません。61から15くらいを引くと46くらいの子息がいる、ネット記事で
は友之は左近の父だということでした。いろいろ切り口はあるでしょうが、基本的に
       武井夕庵を島左近(勝猛・清興・昌仲などといわれる)
と結び付けてきたわけです。話の前段がいままでの知識と根本的に変わっています。「友之」という
のも「夕」「行」、「友」「光」・・・・でもあります。むつかしい作業をここでやっておかなければこのあとに
もつながりません。いままで太田和泉、明智光秀の子息については曲がりなりにも述べてきました
が武井夕庵の子息というのは全体をみていません。主要文献から拾うと概ねつぎのようにまとめ
られそうです。

     夕庵               A 道家清十郎   元亀元年戦死、「しろきはたをさしもの」
      │ ーーーーーーーーー B 道家助十郎        同 上
     安井氏東殿           丸毛三郎兵衛(友之@)  島左近 
     (友之@)             金松又四郎  小瀬甫庵A、関ケ原三十七歳、道家祖看
 
 大谷吉隆(四十二歳戦死)は主要文献二書に出ているのか未確認なので除きます。
丸毛三郎兵衛(島左近)の年齢61、島左近Aはわかりませんので、とりあえず大谷吉隆から推定
しておくと関ケ原45歳くらいとなるのでしょう。
「友之」の「年六十一。」というのはあの島左近の年齢を推定させる材料としての役割を果たしたから
それで役目はおわりました、ということでよいわけですが、あまり信用されていない様子なので一応
どこからもつてきたのか、というのは考えてみてもよいのかもしれません。何かの切口にもなりうる
期待もあったかもしれないということになると

     『東殿{六十一。濃州丸毛不心斎女房}』〈甫庵太閤記〉

 が無条件でそのまま流用されたのではないかというのがあると思います。一応夕庵関連をあたる
ことになるわけですから、まあ何もなければその辺に転がっている数字をもつてくればよいというのも
あるわけですから、ずばりの年齢があるのは無視できません。これは秀次事件のときの記事ですから
重視してもよいかもしれません。処刑された女房衆の詠んだ和歌のあとに例えば
    『お菊御方 {十六歳。摂津国伊丹兵庫頭息女}』
    『およめの御方{廿六歳。尾州堀田次郎左衛門尉息女』・・・・
などの名前がありますが、人名引き当てはどうかは別として孫世代に類が及んだかもしれないという
ような重要な記事のあるところに出てくる「六十一」です。夕庵に関係するというのがこれでわかれば
切り口になれば幸いとなるとある程度の役割は果たせるものといえます。
ただこれは年齢が合いませんので説得力には欠けます。関ケ原の年近辺で61歳くらいで亡くなった
武井夕庵・東殿に関係のありそうな優れた人物というのを探してみることが必要です。
 もう一人享年61くらいで不思議な人物がいます。信澄のところで触れた「前田玄以」という人物
です。〈織田信長家臣人名辞典〉か抜粋しますと、

     「天文八年(1539)〜慶長七年(1602)五月七日 ●孫十郎、民部郷法印僧正
      斎号半夢斎。諱は基勝。」
     「もともとは尾張小松寺の住職であるという。」
     「井戸将元を殺害した。」
     「三法師・・・・・その守役にされる。」
     「若年の頃より、知恵深くして私曲無し、と〈天正記〉にある。」
     「(天正)十三年七月秀吉より五万石を与えられ丹波亀山城主。」
     「東山大仏殿建立の奉行を務める。」
     「秀次事件の時、・・・・奉行を務めた。」
     「秀吉の晩年には五奉行の一人とされる。」
     「慶長五年(1600)の戦乱には西軍に属し大坂城の留守を勤める(真田文書)。」
     「西軍敗戦となったが所領は安堵された。」
     「妻は村井貞勝のという。」

などあります。最後の話、世代は夕庵・牛一の次世代といえます。政略面では三成に助言
できる識見と経験がある大人物といえます。一見しただけでも多く夕庵とつながるものがあり
ますが、前の稿ではこの人は「織田信行」の連れ合いではないかと言っています。そうなれば
子は「信澄」ということになります。信澄は信重だったと思いますので先ほどの右近の「信重」に
つながります(すると松倉右近Aは信澄の子、また信澄の夫人は明智光秀息女ですからその人
の子にもなります。)。また上の三法師も「信重」でしたので前田玄以とつながってきます。要は

   織田信行(信勝
     ‖・・・・・・・・・・・・・・  信澄(右近大夫信重
   前田玄以(島左近@)        ‖・・・・・・・・・・・・松倉右近A
                    明智光秀三女★★

のようになります。信澄は信行の実子なのでこれは玄以の義理の関係の方で、玄以の方は
     @秀以(系図では「右近将監」という追記がある。右近将監は上の右近大夫に同じ)
     A茂勝(丸毛=丸茂の「茂」が反映しているのかどうか)
     B政勝(この表記は既述、重要な名前)
の三人が伝えられているようです(ネット武家家伝前田玄以)。
しかしネットではさらに重要な人物が用意されていました。「丸茂三郎兵衛」はテキスト人名録
では「丸毛兼利」という実名で、前田家に仕えたとありました。要は前田玄以にあてるのですから
「前田」という根拠が出れば助かりますが、実在の本人の話なので乗れないところがあります。
 ネット「マイナー武将列伝」では「前田兼利」が出ていて
     前田五郎兵衛安勝
とう人物が出てきます。兼利から出てきたので現実の活動歴という面よりも表記が目につきます。
 ネット「人名事典ま行」でも、この表記がありましたので気になってました。「安職」というのも丸毛
兼利の名前ですから、「前田」−「兼利」−「丸毛」が、太田牛一や隠岐の「五郎」に近づいてきて
います。前田の「利久・利・五郎兵衛安勝」は兄弟のようですが「勝」も特異です。要は
    前田(玄)と丸毛(安)と夕庵(勝左衛門・五郎兵衛)
の関係を示唆するために入れられた人物といえるかもしれないということです。重要と思われるところ
にはヒントを与えるために孤立した表記が埋設されている場合があります。これがそうかはわかり
ませんが、テキストの人名録から出てきたのは事実です。

 ここではかなり先の関ケ原のところまでは行けませんが一応関ケ原で名の出る「島左近の子」は
「信勝」といえます。注目すべきはやはり「信勝」という表記です。つまり織田信行(信勝)の子に
あたる人物が「信勝」といえます。上の★★に当たる人は名前が隠されていると思います。
 石田の初戦で西軍を優勢に導いた島左近Aは、明智(津田)五郎兵衛信勝といえるのではないか、
これが先ほどの「前田五郎兵衛勝」の子にあたるのでしょう。この「安」は「丸毛三郎兵衛」の一字
ですから、これは変えられて「明智五郎兵衛勝」で正体を表したともいえます。
 そうかもしれないが突然そういう英雄が湧き出てきても困るということになりますが、他表記での登場
があるのを読みきれていないだけのことでしょう。たとえば「信澄」も「織田七兵衛」「津田七兵衛」
二通りあり、「矢部善七郎」もそうだろう、というような段階ですから、そういうのも出てくると思います。
 この五郎兵衛安勝から、有名な「前田次郎」が出てくるので、特別有名にされたことは太田牛一
関連からであるということはいえそうです。
 前田玄以の代々の地は美濃の安八郡(ネット参照)ですが、〈明智軍記〉では永禄9年に

    『(光秀三十九歳)光秀、従弟信長御台に宮笥を進覧
    信長、光秀に美濃安八郡四千二百貫を与える』

 という記事あり、これはこのとき越前朝倉からの転仕による給地です。光秀のものと違うわけです。
上の(  )内の年齢は「光秀三十九とかや。」と書いており、怪しいものです。「十兵衛」に与えたと
いうことで、要は
      「光秀A=夕庵A=丸毛三郎兵衛」
のことでしょう。「明智十兵衛」と「丸毛三郎兵衛」は永禄12年初登場になるので
      「明智十兵衛」=「夕庵A」=「前田玄以」
という重なりが感じられます。「明智十兵衛」という数すくない表記は「前田玄以」もありえます。
これは「明智十兵衛」の登場が不自然なところがあれば乗ればよいと思います。それは書いてある
ことに忠実でないのでおかしい、ということになるかと思いますが、国会答弁ではないので、話をすり
かえますと、「信長御台」を「従弟(いとこ)」と呼んでる、これはおかしい、これはもう一箇所あるので
転記ミスではなく、
       「信長、明智が滑稽な挙動を御覧じて」〈明智軍記〉
とあるのは「宮笥(みやげ)」が女物になっているといっていると取るしかなく、忠実に文を読むのは
おかしいこともあるわけです。ただ
       ○「美濃安八郡」は確かであり、「安」もあり「鉢」もある、
       ○「宮笥」は「石田の西光寺」が出てきた一節の「御宮笥(ルビ=みやげ)」を受けて
        いる。「こみやげ」は「小三宅」でもあり、竜門の、(小)三宅権丞にもなりうる
 などあり、ここは小夕庵といってもよい人の行動と取れます。
 
 さらに玄以の●の部分が、先のA・Bの「道家清十郎」「道家助十郎」につながるものです。
この二人は〈信長公記〉のつぎの記事で一回だけ出てきます。これは森三左衛門が戦死したあとの
記事です。

   『道家清十郎道家助十郎とて兄弟覚(おぼえ)の者あり。・・・武田信玄相働き候。其の時
    森三左衛門・肥田玄番先懸けにて、・・・相戦い候て、兄弟して頸三ツ取て参り信長公へ
    御目に懸け候えば、御褒美斜めならず。白きはたをさし物に仕候。其の旗をめしよせられ
    天下一の勇士なりと御自筆に遊ばし付けられ候て下さる。都鄙の面目これに過ぐべからず。
    名誉の陣にて候なり。・・・』

 これはなぜ「十郎」になっているかの考察が要りますが、物語専用の名前ということにして、ここでは
道家の兄弟を打ち出したと思われます。兄弟は夕庵と牛一でそれが天下一の勇士です。「森」も
道家の一員、肥田は明智光秀を指すとみるのが妥当です。「頸三ツ」三兄弟をいったもので、森は
単なる例示ではないといっていると思います。これから見れば先ほどの
      A 「道家清十郎」
      B 「道家助十郎」
        「丸毛三郎兵衛」
 は別の意味ではそれぞれ A「夕庵」、B「牛一」、丸毛「光秀」になります。実際いいたいことは
      一郎の「丸毛三郎兵衛」
ということだと思います。「丸毛三郎兵衛」は道家の長子、 
      A 「道家清十郎」
      B 「道家助十郎」
の「十郎」は先ほどの「孫十郎」につなげようとするものと思われます。池田本では、本能寺で
      「道家吉十郎」
という人物が戦死したことになっているようです〈織田信長家臣人名辞典〉。これは、このA、Bの
表記は消さるべきといっていると取れます。もちろん戦死したから消えますが、戦死は表記を消す
ためと、実態とがあるので、前者のための戦死だといったのが池田本でしょう。要は

     島左近友之=前田玄以=丸毛三郎兵衛=武井夕庵長子

 といえます。

ネット記事の続きです、

      天正十二年(本能寺は天正十年)、順慶が病死し、養子定次が筒井家を継承した。そして
     翌年筒井氏は大和から伊賀に国替えとなり、伊賀上野城へと移った。左近もこれに従い、
     十五年には秀吉の九州攻めに筒井定次に従って出陣した。ところがその翌年、島左近は
     父祖代々仕えてきた筒井氏を退転した。きっかけは島氏領の百姓と中坊秀祐領の農民
     争いで、定次が秀祐に有利な判決をしたことにあった
      その後、●左近は蒲生氏郷に仕えて、小田原攻めにも出陣した。小田原の役後、蒲生氏郷
     は奥州会津に転封となったため、左近は蒲生氏を去り、石田三成の誘いを受けて三成に
     仕えるようになったという。三成は島左近を招いたとき、自分の知行の半分を左近に与えると
     いう思い切った行動に出た。左近はこれに感激して、三成に仕えるようになったという。
     ・・・・・・左近には政勝、友勝の男子があったといい、政勝は関ケ原の戦いに★大谷吉継
     軍奉行をつとめて奮戦西軍の敗北とともに戦死した。友勝の最後は分からない。また
     左近の娘の一人は、柳生兵庫助利厳の側室となり、連也斎巖包を生んだことはよく知
     られている。・・・・』
      
 下線はいまでは、いいわけにすぎないのでしょうが、筒井に対する徳川の圧力はあった、結果的に
改易しているし、荒木又右衛門の話にも織り込まれているようです。●はありうると思います。本能寺
後、蒲生が受け皿になったかもしれないことは既述しました。しかしここは蒲生の蒲生郷成と島左近
を接近させるための挿話ではないかと思われます。★も同じことがいえそうで二人が親類であること
をいうのでしょう。「政勝」は正勝、佐久間甚九郎正勝、木村又蔵正勝など明智重要人物の名前です。
 明智光秀が光慶につけた後見人は「隠岐五郎兵衛」と「妻木七右衛門」という人でしたが、「隠岐」
は島左近@として、「七」は織田七兵衛信澄のことを指していると思います。その妻木姓というと、織田
信澄夫人(光秀息女)が該当すると思われます。すなわち島左近、信澄夫人は義理の親子ですので
政勝はこの人になるのではないかと思います。信勝と政勝が同じかどうか、ということは関ケ原の文献
の読みでわかるでしょう。玄以にも政勝という子息がいましたので、玄以=島左近@は合っていそうです。
連也斎巖包の父は兵庫助を使っていますので明智と関係がありそうです。

こういうところまで話が進んできたのは
              「大」「大
の役割が大きかったことがあります。つまり大石田は「石田」であり大島は「島」です。
 「大嶋」についてはテキスト脚注では『丹後の土豪』と書かれています。もう一つ「遠山」と出てくる
「大嶋」があり天正三年

     『遠州高天神の城、武田四郎相拘へ候。・・・・岩村の城、秋山・大嶋・座光寺(ざこうじ)大将
     として・・・・・・・に(かん)九郎御馬を寄せられ、・・・・』〈信長公記〉

 があります。遠山、西光寺や菅谷九右衛門や菅秀政などに関連があるという「大嶋」を出しています。
〈織田信長家臣人名辞典=吉川弘文館〉では「大島対馬守」について

    『生没年不詳  丹後の土豪。天正三年(1575)八月の越前一揆討伐戦に参加。一色義道ら
    とともに丹後より船で出陣、一揆勢を攻撃している(公記)。同七年七月、一色満信に応じて、
    由良城に籠るが、長岡(細川)藤孝に攻められ、人質を提出して降ったという(細川家記)。』

と書かれています。「生没年不詳」の大嶋対馬守です。しかるにそのあと「生没年不詳」ではない、
それどころか、日までわかった大島が出てきます。

   『大島光義(おおしまみつよし)美濃
   永正五年(1508)〜慶長九年(1604)八月二十三日。甚六、鵜八、初名「光吉」。
   美濃大島の人。幼少にして孤児となったが、十三歳の時、美濃国人との戦闘で敵を射殺したと
   いう(寛永伝)。射芸の腕が有名になり、「丹羽家伝」には「百発百中ノ妙ヲアラワス」とある。
   斎藤一族の長井隼人正に属し、後、信長に仕えて弓大将になる。信長より六百貫の地を与え
   られるという(重修譜)。
   元亀元年(1570)、姉川の戦い、坂本の戦いにて戦功。その後も江北、越前、長篠での戦い
   に功。安土城矢窓の切事の奉行をも務めたという(丹羽家譜伝・重修譜)。
   本能寺の変の時は安土にいたが、変報を得て、一揆と戦いつつ美濃へ帰る。その後、」丹羽長
   秀に属し、賎ケ岳の戦いに参陣。その功により、八千石に加増という(丹羽歴代年譜付録)。
   長秀の死後か、秀吉に転仕して弓大将(寛永伝)。天正十三年(1585)九月一日、近江の替地
   として摂津豊島(としま)郡太田郷三千五百三十五石の地を宛て行われている(古文書)。
   その後、秀次に付属される。秀次の命により、八坂の塔の五重の窓に矢十筋を射込んで見せた
   という(寛永伝)。
   小田原陣、その後、名護屋に参陣(太閤記)。慶長三年(1598)二月八日、摂津豊島・武庫(むこ)
   美濃席田(むしろだ)、尾張愛知・中島郡の内一万千二百石を加増される(重修譜)。
   同五年の戦役の時(関ケ原)は東軍に属し、戦後、家康より真壺・大鷹を賜る。その後、美濃加茂・
   武儀(むぎ)・各務(かがみ)・席田・池田・大野、摂津豊島、武庫郡にて一万八千石を領す(寛永
   伝)。
   同九年八月二十三日没。九十七歳。終身の間、戦いに臨むこと五十三度、得た感状は四十一通に
   のぼったという(重修譜)。』〈織田信長家臣人名辞典〉

 これはたいへんなものを含んでいるものと思われます。武井夕庵と太田牛一とその親も含むもの
かもしれません。「丹羽」というのはやはり無視してはならないでしょう。光吉という名前は明智の「光」、
三輪の「吉」の合成、そこからでてくるのは「三」と「義(よし)」=「成」もあるでしょう。本題にかぎって
えば「島三吉」という三成に近づくものでもあります。それは考えすぎだということになりますがそのあと
続きがあります。大島光義は当然「島光慶」にもなりえます。
この大島光義に子が二人るようです。つまり、
                          大島光成
           大島光義ーーーーー|
                          大島光政
となり二人のことも出ています。 

   『大島光成(おおしまみつなり)美濃
   永禄二年(1559)〜慶長13年(1608)十一月十六日。
  次右衛門。諱は「光安」とも。光義の長男。信長、次いで秀吉に仕える。関ケ原の戦いの時、家康
  に従う(重修譜)。慶長九年(1604)、父光義の遺領を継ぎ、七千五百石を知行。同十三年十一月
  十六日没。五十歳という(重修譜)。』〈織田信長家臣人名辞典〉

 これは表記でみれば「島三成」となります。中味を読まねばならないもので原型となった筒井の島
氏の人のことを語っていることもありえます。

   『大島光政(おおしまみつまさ)美濃
  永禄六年(1563)〜元和八年(1622)八月十二日。
  茂兵衛。諱は「光吉」とも。光義の二男。若年の時、栗山氏を継ぎ、美濃加茂郡に住すという。(重修
  譜)。斎藤新五郎に属して諸所での戦いに功。後、丹羽長秀に属す。天正十年(1582)六月五日
  長秀が大坂城内で、津田(織田)信澄を討った時、手柄を立てる。翌年賎ケ岳の戦いでも、長秀 
  に従い戦功をあげる(重修譜)。
  長秀の死後か、秀吉に転仕して馬廻。九州陣に従軍、使番となって、文禄の役には朝鮮に渡海
  した。重なる戦功によって金の切裂指物を許された。文禄四年(1595)八月三日、美濃池田郡の
  内千石を加増(重修譜)。関ケ原の戦いでは家康に従う。慶長九年(1604)、父の遺領の内、摂津
  豊島、美濃池田・加茂・武儀(むぎ)郡にて、四千七百石十石余を分かち与えられる。大坂両陣にも
  従軍(重修譜)。元和八(1622)年八月十二日没。六十歳という(重修譜)。』

これは「三成」の金の装いが先に出ましたので「光慶(吉)」の金の切裂が出てきたのかもしれません。
慶長九年(1604)が光義と子息をつなぐものとなっており、永正五年から元和8年に至る島左近家
の4代記になるのでしょうか。
おそらくこの「光成」「光政」は物語島氏の原型木となった筒井島氏の略歴が使われ、それに話が
肉付けされたものでしょう。筒井の島氏は筒井が東軍だったので関ケ原以降は東軍の行動となり、
それ以前は明智と同じ行動をしているようです。いずれにしても、筆者のしてきた読みでなければ、
この大島親子の話は空文となります。丹羽や佐久間の家伝等が全く無視されてしまっている今の
戦国の語りはどうなっているのか、〈武功夜話〉までも切り捨てているのだから、無理からぬことです
が、文献は遺物同様尊重されねばならないものです。

(19)〈名将言行録〉筒井の逸文
十次郎」が筒井の家に入っておれば「筒井家」で当然その名前が出てくるはずです。 もちろん
養子とされる、あとを次いだ
           「筒井定次」
 がこの人であるとするわけにはいかないと思われます。筒井順慶は幼くして家督を継ぎ一門の
人の後見によって戦国の世を生き抜いてきていますので養子は当然一門から立てるはずです。
猶子とかという語句もあるのでややこしく使用例など調べねばならないところですが、定次と十次郎
との間に縁組があったと取れます。定次は島左近と軋轢があった人です。

   『筒井伊賀守定次色に溺れ、酒に凶し、佞人を用い、政非義多し、友之(島左近)しばしば諌
   むれども聞かず、天正十六年二月、友之、筒井家を去り、・・・・秀吉の威風を慕い、石田三成
   に便り仕えんことを求む。』〈名将言行録〉

 左近は三成を知っていたわけです。筒井家の右近、松倉重政(右近太夫信重の子)も、

   『重政、初め筒井氏に仕う。伊賀守定次ぐ色を好み過失多し、重政之を憂い、しばしば諌めしか
   用いず、重政止むを得ず、天正十五年去りて秀吉に仕う。秀吉之を器重せり。』〈名将言行録〉

 となっています。定次の色好みが問題にされており、端(はな)からおかしい話になっています。
逆説といえるでしょう。
  次の記事などをみると石田三成に兄がいるではないか、明智光慶にそのような話があるのを聞いた
ことがない、そんな話はおかしい、それもそうだ、となってしまいます。

   『三成、田中の臣田中伝右衛門に捕らる。三成、石田木工は、(木工頭重成、三成の兄)如何体
   になりしやと問う。伝右衛門木工殿は、妻子を差し殺し、其の身も自害致されしと語りければ、
   ざつとすんだと申ししとぞ。・・・・』〈名将言行録〉

 これは、石田三成のことにしても兄の話は知られていません。光慶にとって「兄」というのはいままで
の感覚で言っても、光忠に嫁した姉がいるのですから光忠は兄になります。
「女子」にも「兄」という場合があることは〈吾妻鏡〉でも知られていることですから、この姉のことをいう
のかもしれません。この場合ひょっとして織田の旗のもとに徳川と戦おうとしたというのもありうると
すれば「ざつとすんだ」の意味がかわります。
しかし妻子のことが一番気になるとすれば、木工は連れ合いとなるのでしょう。三成を逮捕したのは
田中吉政であったこともよく知られています。この伝右衛門は何者かいまのところ不明ですが吉政
の外戚ということがありえます。伝右衛門が木工の身内であるとすると三成と吉政は親類であったも
のと考えられます。
 大島光義父子やら、こういうわけのわからないものが出てきても、無視してしまうのでなく、表記だけ
でも拾って置くことが要ると思います。こういうのは推測だけの話ですから書かなくてもよいことでしょう
が「木の芽峠」を「木目峠」としており、そこに石田が出てくると、
     「木目」=(もく)=「木工」
で何かこれを利用しようというものがあるかもしれないのです。つまりあの〈信長公記〉の越前、石田
の西光寺の記事に、この「木工頭重成」が伏せられていたのかもしれないわけです。田中伝右衛門
も、話をつくる場合に出てくる太田和泉守の分身である可能性もあり、石田木工頭重要といえます。

   
(20)歎きの三木城
 夕庵を追っかけてきましたが、はじめから播州三木への流れがありました。三木城で何があったのか
探ってみなけれならないようです。前の〈奥の細道〉の稿で、芭蕉が三木を意識していることは避け
て通れず余分なことまで入れた感じでしたがそれも合っていたようです。
 三木城落城直前からです。

  天正八年
     『正月朔日、終日雪降り候なり。・・・・・御出仕これなし。・・・・・
     
     (一)正月六日、播州三木表、別所彦進楯籠る宮の上の構え・・・・別所彦進・・・・
       別所小三郎と一手になるなり。
       正月十一日、羽柴筑前宮の上より見下墨(さげすみ)給い、別所山城が居城(いじょう)
       鷹の尾と云う山下へ人数を付けられ候。拘(かか?)え難く存知、山城も本丸へ取り 
       入り候。・・・・』〈信長公記〉
 
の上」が2回出てきますがこれは脚注では『播磨鑑などにも未見。』となっています。「の尾」
も同じです。要は「宮」とか「鷹」はキーワードとなっているものだと思います。
 「宮」は、あの越前での下間戦で出てきた竜門の「三宅」=「宮け」、三木城でてくる「三宅肥前入道」の
「三宅」を受けたものと思われます。「鷹」も「たか」「多賀」を受けたもの、実際は地名ではないと思い
ます。まあ著者はよくこの城のことを知っていて高低などの表現をこのように表したといえます。
「宮の上」は●「山下」に対置される語句で「山の上」という意味合いのもの「城山」の「山」ではない
かと思われます。芭蕉で「山」というのは城山というものがありました。
     『終宵(よもすがら)秋風聞くやうらの山』〈奥の細道〉
大聖持の城外、全昌寺に芭蕉が泊っているのですから城山という解釈になると思います。「拘え」
というのも越前下間との戦いでよく出てきました。
「みさげすみ」は「おしはかって」という意味もあると思いますが、「見下して図面にした」「隅から見お
ろしたというものもあるかもしれません。とにかくこれは太田和泉守の動作で、高台の構えから●を
「鷹の尾」と名付け、そこと本丸を見ている状態といえると思います。まあこの辺りの読みをこうしたのは
要は「宮」「たか」「三宅」「拘(かか?)え」という字、「羽柴筑前」など「西光寺」の出てきたあの
越前での下間和泉などと対峙した場面がここに繋がっているということがいいたいことです。
 このあと
 「別所孫左衛門」「小森与三左衛門」「荒木」「波多野」「三人」「三人」が出てきて、次の手紙に
至るので重要です。
再掲
    『・・・・・正月十五日                 (発信人)
       浅野弥兵衛殿                 ■別所彦進ともゆき
       ▲孫右衛門殿                   別所山城よしちか
                                 ★別所小三郎長はる』

 この別所友之についてはテキスト人名録では
            「別所吉親」とともに異説が多い。」
となっています。
■の「ともゆき」は〈名将言行録〉の「島左近友之」が意識されているものです。★は〈明智軍記〉の
「別所友治」が「豊前守」とされているのも参考になることです。桜井豊前守につなげています。
友治は時代からいうと夕庵が全国行脚したころの人物なので長はるの父か祖父になるのでしょう。
★を「長はる」と書いたのは「治」とともに「春」も宛てられるといっていそうです。▲は太田和泉守
と取ってよく、臨場は間違いないところです。要は、この別所彦進は夕庵夫妻の孫、つまり「丸毛
三郎兵衛(島左近)」の子です。太田和泉にとってこの三木城はもっとも近い身内のいるところで
すから、この城の人はよく知っており、土地や城内の様子などは先刻承知のことです。

ここの人名は異説が多いようで異説の内容がよくわかりませんので、また相当まわりを固めてからでないと
決められないので筆者の結論は避けますが、確実にぬけていそうだというところ二点に触れておき
たいと思います。

  『小三郎年廿六、彦進歳廿五、惜しむべし惜しむべし。に希代の名誉あり。山城が女房は
  ●畠山総州の娘なり。自害の覚悟を致し・・・・短冊・・・・是を取って見られければ辞世の歌なり。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・
  山城女房
   後の世の道もまよわじ・・・・・行くすえの空
  三宅肥前入道
   君なくばうき身の命何かせん・・・・・』〈信長公記〉

ここの●の人物を別人に見立てるのは学問的見地からはNO、論外となるでしょう。先の長い長い
人名対比表の最後に「畠山」があぶり出しとなっていました。「遊佐(続光)」の畠山もありました。
まあ物語的に見立てればよいわけです。
 「大橋長兵衛」の高畠を違乱したのは丸毛兵庫頭ですし、長い人名のなかの「畑」も「畠」です。
     畠山総州は武井夕庵
といえます。したがって山城の女房は夕庵の子というのが出てきます。
丸毛三郎兵衛の下に吉親という弟(大谷吉隆より上か)がいて若い彦進をサポートしていたといえ
そうです。テキストの丸毛三郎兵衛の注に「親吉」という名前がありました。

三宅肥前入道についても次のことがいえそうです。

        三宅(みやけ)        肥前入道
         ‖                ‖
    竜門の三宅=宮け=武井     肥後入道

と取れると思います。
 家老の三宅氏に乗ってここへ夕庵が応援にきたという形にして夕庵と三木の関係を述べた
のか、実際に太田和泉がここにいたので、自分を三宅肥前入道という名前に変えて、登場させ
多くを語ったのか、とにかく夕庵に悲劇が起こったのは間違いないところでしょう。
これも、織田信長が、もうはやくから、三木を固めていたことからきたことと無縁ではないと思います。
夕庵が子息と孫を同時に失ったのが三木城だったといえます。
 
石田三成がいかに優秀な人物といっても徒手空拳から、関ケ原の一方の大将となり、多くの大名
を動かしたというのは考えにくいことです。やはり明智光秀の築いた土台があつたことがそれを
可能にしたといえると思います。
 近くに支援者がいた、全国的に共感をよぶような考えがあってその推進者と自他ともに認めるもの
があったからだと思われます。それは本能寺の決起の真相が概ね知られていたことによるものと
いえるのでしょう。
 一方それは手段を選ばぬ強力な相手あってのことでしたから三成周辺はいつ爆破されてもおか
しくないという状態に置かれていたということにもなるでしょう。朝鮮の役という大災難も老耄した一
権力者の存在に帰属させている、ということと同じでこの大きな戦いも一般の人には十分な説明が
されていない感じです。
 なお「明智光慶」は〈甫庵信長記〉に出てきているのではないかと思います。本来は、これがそうか、
ということになってそこから話が展開するのが筋でしょう。次の文が明智光慶本能寺戦登場の
場面です。〈甫庵信長記〉

    『爰に尾州の住人梶原左衛門尉が続子(あとつぎの子)松千代丸、生年十三になりけるが
    其の折しも病に冒され、己が宿所に居たりけるが、御所中の様を聞き、未だ幼稚なりと云
    えどもさす弓取りの子なれば、如何にもして我をつれて御所え入れよ。働く事こそ叶わず
    とも、唯伏しながら敵の刃にかかり、君の御供申さんと、実におとなしやかに云いければ、
    同名の家の子、又右衛門と云う者、強いて諌めけるは、たとい御所中へは入れ奉るとも
    この有様にてはその詮なかるべし。君御父子こそ、今逆心の為に、おかされ給うとも、如何
    様にも御親族の人々、一度逆徒御追罰の儀あらんなれば、暫く先ず療治を加え給いて
    その折を得て忠節を尽くされ候え。さあらば(それがし)御所へ馳せ入り、この様を申し上げ
    御名代に恐れながら信忠卿の御供致し候はんと云い捨てて、居たる所をづんど立ち、馬
    引き寄せ打ち乗り、諸鐙(もろあぶみ)を合わせて二条に馳せ付き、寄せ手に打ち紛れ、
    御所中へわり入って、広縁に跪き、松千代体たらく、委細に言上し、主の代官に(それがし)
    御敵を防ぎ奉らんと申し上げければ、至忠なる旨御感に預かり、すなわち御長刀(なぎなた)
    下し給わりければ、屍は戦場にさらすとも、実に後世までの面目なりとて再三頂戴して庭上
    に踊り出で、蜻蛉(とんぼ)返り、水車、八方すかさず切って廻り、敵数十人なぎ伏せ撞き伏せ
    、しばらく防ぎけれども、寄せ手猛勢なれば事ともせず込み入りける間、終に討たれて失せに
    けり。・・・・・』 〈甫庵信長記〉

 詰まらないことをくどくど、とくとくと書いているのには、びっくりします。検閲官もあほらしくて
読まないでしょう。いかし文章は流暢でここまではなかなか書けません。
      松・千代は「小松」、「千(仙)千代」
など特別のものです。
この梶原左衛門尉が明智光秀で、「あとつぎ」となっているから、松千代丸が光慶です。
〈甫庵信長記〉では宇治川の先陣は梶川弥三郎ですが、。梶川平左衛門尉という表記が用意さ
れているから、梶川平左衛門尉=梶川弥三郎ですから梶原左衛門尉=「梶弥三郎」になります。
まあ実際は梶原景季ですから「梶弥三郎」となるのでしょう。人名の「川」は「原」にも変えられる、つまり
梶原左衛門尉
は「弥三郎」ですから「光秀」というわけです。
 又右衛門が、著者である太田牛一で後見人の積りです。下線のところの「病気」であることを
〈明智軍記〉が受けたわけです。しかし本当に13歳ならば、満11歳ですから病気といって断らなく
てもよいのですが、23歳だから説明が必要だったといえます。この松千代を明智光慶とすると
本能寺戦の明智の立場、位置がかわってしまいます。つまり長い文なのに読まれていなかったと
いえます。

一方、つぎのような人名の羅列があります。〈甫庵信長記〉

   『土橋五郎兵衛、福島本目助与田美濃守、同木工左衛門尉、同武兵衛尉川上三蔵、』

太字の三人は「与田能登守の内」(〈信長公記〉)ですが、〈信長公記〉では
  「与田美濃守、同木工左衛門、同部兵衛、・・・」のあと「川上三蔵」は「川三蔵」に変えて
あります。たて三、よこ三で三兄弟といいたいため「」を抜いたという操作の意図が明きらかな
ところです。これはややこしい部類の三兄弟ですが、形をかえていたるところで三兄弟が出されて
います。このことを無視していては〈信長公記〉以下戦国期の文献は、読めないのではないかと思い
ます。
 
                                以上                       
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